三内丸山ファンクラブ
森浩一教授によると、「三内丸山遺跡の規模や構造が、佐賀の弥生時代の吉野ケ里遺跡と共通する点が多い。
同時代の中国の大遺跡、西安市郊外の半坡遺跡に匹敵する。
縄文文化を採集経済とする、従来の見すぼらしい考えは捨て去るべきだ。」
「縄文時代の日本海から、直径90センチ位の、奈良の大仏殿ぐらいの、栗の柱が大量に出る。
金沢のチカモリ遺跡では数百本出る。その柱が、円形や方形の、構築物の形に配置されている。
栗の木は枕木にするほど堅い。縄文時代の柱に目途穴があけられている。奈良の大仏殿や律令政府の建物など、
国家の関与する大きな建物を作るとき、遠方から木材を運ぶため、ロープを通すためのもの。
栗の木に穴をあけるのは難しく、鉄器の存在を否定できない。三重県松坂市の縄文早期の鴻の木遺跡から、
1000度に達し、赤く焼けた炉が発見された。鹿児島県上野原や栫ノ原遺跡でも、1000度に達し赤く焼けた、
縄文草創期の煙道付き炉(連穴式土坑)が多数発掘された。」これらは縄文時代の製鉄炉です。
三内丸山遺跡では、大麦、粟、ヒエ、豆類、キビ、ごぼう、瓢箪、エゴマ、麻が栽培され、酒も造っていた。
函館市臼尻B遺跡から、BC・6000年のヒエが発見された。中国のヒエ栽培はBC・700年。ヒエは日本から中国へ伝わった。
縄文時代の亀ヶ岡遺跡から稲籾が発見され、近くの石亀遺跡ではソバが栽培されていた。芋類も栽培されていただろう。
三内丸山遺跡を含む縄文時代の地層から、炭化層が見つかる。福井県鳥浜貝塚のBC・4500年ごろから、森林破壊後に
生えるカナムグラ、カジノキ、ヤマグワの花粉が増え、炭片が急増する。縄文晩期の岡山県北部の遺跡から、
焼き畑によく生えるキランソウ、カタバミ、イヌタデ、カラスザンショウなどの種子が大量に発見される。
山口県下松市宮原遺跡出土の炭化米をC14で測定したら、BC・3130年。岡山県総社市南溝手遺跡のBC・2500年の
縄文土器に稲籾の圧痕がある。トウボシと呼ばれる赤米には籾に芒がない。幕末、赤米は南九州、高知で多く作られた。
縄文土器の稲籾の圧痕には芒がないと言われる。赤米だろう。芒がある赤米もある。
鹿児島県上野原遺跡でBC・7500年の壺型土器が完形で出土。この土器は水田稲作に伴って見られるもので、
従来、BC・3000年からと考えられていた。稲のプラントオパールが出土。稲作していた。
森教授によると、縄文早期の壺型土器は他の遺跡からも出土したが、ある博物館では弥生土器にされていた。
縄文人は硬玉ヒスイ、メノウ、碧玉など宝飾品を持っていた。階層分化していた。