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日本の古代史 Part39
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0001出土地不明2019/11/20(水) 06:13:10.09ID:IQFG77vs
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日本の古代史 Part38
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1529143679/
0002出土地不明2019/11/20(水) 06:14:54.37ID:IQFG77vs
37 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1509015813/
36 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/archeology/1493122707/
35 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1481406180/
34 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1474297521/
33 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1462029294/
32 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1457268910/
31 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1452954528/
30 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1445988474/
29 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1442303876/
28 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1439983797/
27 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1434110288/
26 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1434110057/
25 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1433683259/
24 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1430847640/
23 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1429021623/
22 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1428599844/
21 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1427985257/
20 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1424866404/
19 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1417385717/
18 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1413072295/
17 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1406386055/
16 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1402574882/
15 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1397363076/
14 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1392644788/
13 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1389132682/
12 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1384439145/
11 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1380413988/
10 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1373813063/
09 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1366978781/
08 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1360813287/
07 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1354929366/
06 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1347882803/
05 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1342128651/
04 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1337614411/
03 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1331915371/
02 http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1320944183/
01 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/archeology/1318369685/
0003出土地不明2019/11/20(水) 12:32:59.81ID:E7ZxJ6yd
  祝 新元号 『 令和 』 改元おめでとうございます
0004出土地不明2019/11/20(水) 12:41:49.41ID:XPq+ZZ6n
陸稲が自生してたのは事実だろうな
0005出土地不明2019/11/20(水) 16:15:16.40ID:9C2gNOkk
●浙南石棚墓群.(浙江省温州地市瑞安)(日本では支石墓)
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
 1993年に浙江省温州地市30を超える石棚墓が発掘され、春秋時代の器物が
多数出土した。石棚墓とは日本でいう支石墓のことである。
これは、紀元前1700年〜紀元前256年頃にかけて江南地方で営まれた墓制で、
石棚墓の下には甕棺も埋葬されている。
その形状や葬送様式などから、九州北部や朝鮮半島南部に展開する
支石墓のルーツかとも考えられる。 

http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
 紀元前1500年頃になると遼東半島から吉林省南部地域にも出現するが、
これは、支石を箱形に並べた上に高くびえる形で天井石を載せたもので、
テーブル式と呼ばれる。
 一方、朝鮮半島南部に支石墓が出現するのは紀元前500年頃からで、
数個の支石の上に長方形に近い天井石を載せたもので、 碁盤式と呼ばれている。
韓国では、高くそびえるテーブル式を北方式、低い碁盤式を南方式と
分類しており、 両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。

 浙南の石棚墓は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。
日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の九州北部に
出現している。 唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、
縄文時代晩期末(弥生時代前期)〜弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。
0006出土地不明2019/11/20(水) 16:16:11.96ID:9C2gNOkk
●周代.の土とん墓

 墓制(墓づくり様式)において、大陸と共通するのは横穴式古墳や支石墓のほかにも、
円墳、方墳など、 土を盛った高塚式古墳のルーツも
中国の江南にあったことが明らかになりつつある。

 2005年、南京博物院考古研究所は、江蘇省の句容市と金壇市で、
土を盛った墓である土とん墓群の大規模な発掘を行なった。 (とんは土+敦)。
総数で40の土とん墓を発掘し、233の墓葬と14の墓葬建築遺跡を整理したところ、

 幾何学模様の陶器、 原始的な青磁器を主とした、 江南地方の特色がある各種の
文物3800件余りが出土した。発掘後の整理によって、 船形棺の葬具、 石の寝台、
墓の上に建てられた木造の山形をした掘っ立て小屋の存在が明らかになった。
(人民中国「江蘇省句容市と金壇市にまたがる周代の土とん墓」)
0007出土地不明2019/11/20(水) 16:16:52.61ID:9C2gNOkk
●墳丘墓.の源流

 日本では、弥生時代の墳丘墓も、前方後円墳などの古墳も、遺体を地面より高いところに
埋葬する。 一方、中国の華北では遺体を地面の下の深いところに埋め、その上に土を盛る。

 ところが、呉や越の国があった長江河口域の土とん墓は、地面よりも高いところに
遺体を埋葬する。 土とん墓は、中国のきわめて限られた地域(春秋戦国時代の呉越の地域)
で行なわれた埋葬形態であった。 越が楚に滅ぼされ、江南一帯が楚の領土となってからは
土とん墓は消滅し、楚の木槨墓が行なわれるようになった。

 吉野ヶ里などの弥生時代の墳丘墓が、中国江南地方で呉・越の限られた時代に
行なわれた土とん墓の影響を受けた可能性を示しており、 この時代の人々が、
日本列島に渡来したことと整合する。 (邪馬台国の会「中国古伝承のなかの倭」)
0008出土地不明2019/11/20(水) 16:17:46.57ID:9C2gNOkk
●舟型木棺.の源流

 江蘇省の土とん墓群からは船形棺の葬具が出土しているが、実は、四川省の成都市で
約2500年前(春秋晩期〜戦国早期) のものと思われる舟型木棺群が発見されている。

 舟型木棺とは丸木を船形に彫って作った棺のことで、舟棺で埋蔵することには
「舟に乗って他界に行く」意味がある。 大きいものは長さ18mを超えるものもあり、
直径1・6〜2mの楠の木をくり貫いたもので蓋もついていたという。

 ほかには、大小併せて17の丸太彫りの舟型木棺が確認されたが、
当初はこの他にも多数あったものと推察されている。
規模の大きさから、王の家族もしくは一族の墓であると考えられている。(「考古用語辞典」)

 舟型木棺は四川省の巴蜀文化の特色とされるが、
わが国の古墳にも舟型木棺が多数使われている。  構造はくりぬきの舟型木棺が多く、
鏡、鉄剣、鉄刀、良質の勾玉などの副葬品を伴う。舟型木棺の思想もかなり早くから、
長江流域の四川省から江蘇省まで展開していたようである。
0009出土地不明2019/11/20(水) 16:19:21.33ID:9C2gNOkk
●銅鐸祭祀.の源流

 先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。

 大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、 湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
 さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、

 これまで中国各地で出土した鐸と異なり、 日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。 肌色で表面に蛇のような
小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
 馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、
宙に吊られているのが鐸である。 それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って
鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。
0010出土地不明2019/11/20(水) 16:25:48.23ID:9C2gNOkk
「家屋文鏡」(上記画像・奈良県佐味田古墳から出土)
http://img-cdn.jg.jugem.jp/72e/1453281/20100316_1751045.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/72e/1453281/20100316_1751046.jpg
伝讃岐国出土銅鐸の表面に描かれた高床建築
http://img-cdn.jg.jugem.jp/c91/2722688/20161009_1070666.jpg
中国前漢時代に雲南省にあったテン王国の高床式住居
http://livedoor.4.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/1/3/13f71938.gif
■倭人の家
「干欄式建物(かんらんしきけんちく)」とよばれる高床式建物(たかゆかしきたてもの)の
形式がある。  屋根の一番上の、棟(むね)の長さが長く、下の、軒(のき)の長さが短い。

そのため、屋根を真横から見るとき、逆さの台形に見える。このような「干欄式建築」は、
日本から遠くはなれた中国の雲南省の石寨山(せきさいざん)古墳出土の青銅製の容器の
蓋(ふた)の上の飾りなどに造形されている。 また、中国の江西省清江県営盤里出土の
家形土製品に見られる。 いずれも、長江流域およびそれ以南の地である。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-08.gif
いっぽう、わが国でも、「干欄式建物」は、弥生時代の銅鐸に描かれた絵画、
古墳時代の鏡の上に描かれた絵画に見られる。
また、「干欄式建物」の家形埴輪が出土している。
なぜ、遠くはなれた中国雲南省と日本の地で、同じ形式の建物が見られるのか。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif
日本では香川県出土銅鐸の絵画や奈良県左味田宝塚古墳出土の家屋文鏡に
描かれている絵画、池上曽根遺跡の大形建物の復元、登呂遺跡復元高倉など
日本の弥生時代の家は「干欄式建物」である。

第359回 邪馬台国の会  稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm
0011出土地不明2019/11/20(水) 16:29:01.24ID:9C2gNOkk
■倭人の鵜飼(うかい)
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-13.gif
地図をみると、「倭人の家」でのべた「干欄式建物」の青銅器の出土した雲南省昆明
の近くの滇池(てんち)の付近も、鵜飼の分布域のなかにはいっていることがわかる。

かりに、「鵜飼」と「干欄式建物」「稲作」の3点セットが、可児弘明氏のいう
「ある稲作民族の文化複合」 につながるものである。
すると、石寨山古墓は、前漢の初期から後漢の初期、
つまり、紀元前202年ごろから紀元後100年ごろには、その文化複合が、
蜀の地の石寨山ふきんまで、およんでいたことを示していることになる。

『古事記』の「神武天皇記」には、
神武天皇軍が「鵜飼で漁をする人々よ、助けに来てほしい」という歌もみえる。
さらに、『隋書』の「倭国伝」に、わが国の七世紀ごろの鵜飼のことを記した記事がみえる。
八世紀成立の『万葉集』では、鵜飼のことが、かなり多く歌われている。
『万葉集』の4011番の歌で、越中の国(現在の富山県)の鵜飼たちのことが歌われている。
4156番にも、富山県の辟田(さきた)の川で、「鵜飼をする歌」がのっている。
0012出土地不明2019/11/20(水) 16:31:25.57ID:9C2gNOkk
 なお、可児弘明氏は、さきの著書『鵜飼』のなかで、
「朝鮮半島に鵜飼がひろまった痕跡はみつからない」と記している。


照葉樹林文化は、共通の文化的要素によって特徴づけられる。
イモ類、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀類の栽培、稲作、絹の製造などを大きな特徴とする。
モチやナットウ、スシを食べ、絹や、漆(うるし)を利用する。麹(こうじ)で酒をつくり、
高床の家にすむ。歌垣(うたがき)や鵜飼の習俗がある。

照葉樹林文化は、ヒマラヤ山麓から東南アジア北部山地、南中国、
日本西部にかけての東アジアの温暖帯に分布する。
0013出土地不明2019/11/20(水) 16:33:08.34ID:9C2gNOkk
倭人(わじん)とは、
1.狭義には中国の人々が名付けた、日本人(当時、日本列島に住んでいた
民族または住民)の古い呼称。

2.広義には中国の歴史書に記述された、春秋戦国時代(紀元前770年)、
呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の
主に海上において活動していた民族集団。支石墓制、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/06/1269.html
0025出土地不明2019/11/20(水) 19:16:15.82ID:qWZE7x/G
中国南部.から大量に出土する古百越人たちが使って縄文土器
https://www.thenewslens.com/article/74113
馬橋遺址出土文物
https://www.itsfun.com.tw/cacheimg/57/41/ee1ec1283cf04a6257a073c4f3f3.jpg
中ほどの青銅提桶是「越式」青銅器に掘られた羽飾り人物
https://www.thenewslens.com/article/66840
雲南省テン王国と鳥取県淀江角田の羽飾り人物
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-0a-2d/kawakatu_1205/folder/1585292/58/50747458/img_0
https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/2/313f3e5f9acdd2d6c71aa99e10a9b64ddfb32bac.20.2.2.2.jpg
0026出土地不明2019/11/20(水) 19:17:04.84ID:qWZE7x/G
銅鐸で.良く使われる紋様
http://www.kunakoku.info/sub-04/img/img4-5.jpg
http://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggnds8jiXbQYPZQ0_406IyuA---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/ans-247320330

>弥生時代の銅鐸の文様の源流について 末房由美子(論文)
>37ページ、図18紡織貯貝器は銅鐸文様にそっくり(雲南省出土)
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8214692_po_BUNGA76Y-02_15162.pdf?contentNo=1&;alternativeNo=&itemId=info:ndljp/pid/8214692&__lang=ja
0028出土地不明2019/11/20(水) 19:19:48.86ID:qWZE7x/G
 銅鐸祭祀の源流
 先にも紹介したが、湖南省寧郷市老糧倉で出土した殷代の鐃(にょう)に関しては、
日本の銅鐸のルーツではないかとの見解が出されている。
「長江中流域などの鐃は概して大ぶりで、高さが1メートルに迫るものもある。
大型の鐃(にょう)は山の斜面や頂上の穴に埋めた状態で発見されることが多い」。
(考古用語辞典) 祭器としての青銅器を土に埋めて保存する習俗としては、
苗族や白ラ人の銅鼓がそうである。
そして、湖南省でみられた青銅製の鐃と弥生の日本の銅鐸がある。

雲南紡織貯貝器 「銅鐸紋様」
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/f/c/fcf0ff7d.jpg
中国江蘇省の陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
さらに今度は、明らかに銅鐸の原型と思われる形をした陶磁器の鐸が発見された。
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる
墓から、 原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、
これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。
鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。
肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、
鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/ec/51019b8376d63c6cd73caa4bf148cf45.jpg
馬王堆漢墓の帛画をもう一度みてみよう。図左の天上界の中央で、宙に吊られているのが鐸である。
それを、馬か鹿に乗った人物がひもで引っ張って鳴らしている。玉璧は天との交信に使われたりしたが、
この帛画では死者を天上界へ導くための器だった。一方の鐸は天上界の器であり、
「天上界の音」を奏でた楽器であることが分かる。………まさに驚きの事実である。
0035出土地不明2019/11/20(水) 19:58:24.55ID:qWZE7x/G
 日本人特有の変異種[O1b2a1a1]snp(CTS713)(旧47z)が
発生したのはBC6000年頃で日本列島内に集中してる
これ弥生時代の始まり3000年以前すでに列島内でD系縄文人と一緒に
O系弥生人と云われた人達が暮らしていたと言う事になる。


 それで納得した事がある、中国沿岸部でよく出土する
鉄とともに古代(殷・商)中国から日本海に伝わってきた
楽器がある土笛・陶損がそれで穴の数と位置がソックリ。
綾羅木郷遺跡-下関市立考古博物館
http://www.fuwaiin.com/jyoumon-iseki/yamaguti/8.ayaragigou-iseki-saisi/saisi.html

国分は「弥生陶損」を発表し、弥生時代前期末の土笛の特徴に吹口が大 .....
周代の陶損. ような形をとっており、この器形は、商代晩期に確立したものだと考えられる。
一方、江南地方を含む揚子江流域においては5点しかなく、I型のものは河姆渡 ...
https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3169/KOJ000401.pdf
0036出土地不明2019/11/20(水) 20:01:31.88ID:qWZE7x/G
>鋤先骨耜「骨製の鋤,骨耜」
日本にも時代は下るが全国に有ったと思われるが西日本、関東では火山灰ローム層の
酸性土壌の為、骨製の物は大部分消滅したのだろう、
一部東北,北海道の貝塚等で出土する、地方なので土器同様時代がかなり下る。

北海道根室(弁天貝塚) 骨鍬,骨耜
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/c/2/c2796116.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/7/f/7ffd5053.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/9/7/9786e79b.jpg
「骨製の鋤,骨耜」 7000〜5000年前 長江,河姆渡遺跡出土 浙江省博物館蔵
http://inoues.net/museum/kaboto_n03.jpg
http://www.cpcjapan.com/china/culture/techno/photo1/kokki_sukisaki001.jpg
0037出土地不明2019/11/20(水) 20:03:42.30ID:qWZE7x/G
●日本列島にもある「三足の」土器
青森県今津遺跡、虚空蔵遺跡出土、三足土器
http://asuka.mukade.jp/kitanokodaisi/kitanokodaisi1/D/dd/31.jpg
http://www.fuwaiin.com/jyoumon-iseki/aomori/aomori-kyoudo-siryiukan-kamegaoka/kamegaoka-15.jpg
実は、三足の土器も多くはないが日本列島にある。
青森県虚空蔵(こくうぞう)遺跡出土の土器がその代表的なものだろう。
中国の三足土器は、取っ手のついた小型の水差しのような「キ」と、
足の部分に溜めた水を沸騰させて蒸し器として使う「鬲(れき)」に分かれる。
その点、日本列島で出土する三足土器はキとも鬲ともつかない。
足がボッテリと太く短く、しかも口吻は狭くなっており、いわば三足の壺である。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/90/36c0ef5faf05dc82fc6b4a08d5cd21ec.jpg
※上段左の写真は良渚文化遺跡出土の「紅陶キ」。
(上海市金山県亭林遺跡出土・上海博物館収蔵。写真提供:考古用語辞典)。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/4e/0f5f24aafe1fcec67fb78bdf026f8329.jpg
※下段写真の右端は、江西省で出土した青銅器時代・呉城文化の鬲(れき)。
呉城文化は長江支流の贛江に登場した文化で、紀元前3000年〜紀元前1000年の
三星堆遺跡と同時代に該当し、長江流域にも三足キ・三足鬲が入っていた証拠である。

古墳時代出土の三足壺[さんそくこ]は中国の青銅器を真似たものとも言われ、
国内に20数個ほど見つかっています。
http://livedoor.blogimg.jp/shizuokak/imgs/2/a/2ac41b41-s.JPG
13.伊川古墳三足壺(飯塚市教委蔵) 40ページ
http://www.city.kama.lg.jp/file/temp/6708751.pdf
0038出土地不明2019/11/20(水) 20:07:07.88ID:18qeH9bT
農学者の佐藤洋一郎先生も気付いてないが、稲は人間が運んだんじゃなく
カモなど渡り鳥、特にワシ、タカなどの猛禽類が運んだと思う
長江河口から長崎五島列島間は何十万羽と云った鳥類渡りルートで有名な場所
http://www10.plala.or.jp/ayac/yazu/fa1/b129wa.jpg
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/030/450/05/N000/000/002/150042933570931044177.jpg
長江河口近辺で、羽を休めてた猛禽類が穀物を食べる小鳥、ねずみなどをエサにし、
種や毛、小骨など未消化の餌をペリットと云う固まりで吐き出す。
その中に稲、麦などの穀物類が混ざってる可能性がある
そして、日本のエサなどが多い湿地帯に吐出し芽吹き定着した。
日本列島には何万年か前から既に稲は沼地などでヒッソリ繁茂してて
それを誰かが気付き、畑で栽培した、陸稲おかぼの始まりかもな。
0039出土地不明2019/11/20(水) 20:08:48.58ID:18qeH9bT
台湾、沖縄ルートも猛禽類のサシバ,ノスリなど少し小形の鷹類が渡るルートです。

宮古の野鳥 サシバ飛来数調査 2007年10月9日(寒露)から同22日までの2週間、
県自然保護課が宮古島市の協力を得て伊良部総合庁舎屋上で、
宮古野鳥の会が宮古本島の夕陽が丘(松原墓地団地上)でそれぞれサシバの
飛来数調査を行います、 今年は伊良部島で13473羽、宮古本島で2045羽の合計15518羽 ...

(海上を移動中の鷹柱たかばしら,上下も)
http://www10.plala.or.jp/ayac/taka/f0002.jpg
http://pds.exblog.jp/pds/1/200609/22/42/b0093742_18512550.jpg
0040出土地不明2019/11/20(水) 20:28:31.73ID:18qeH9bT
滋賀県守山市の服部遺跡 > 縄文晩期〜弥生初期
弥生時代前期の遺物としては、水田北側の微高地から、打製の石斧・石鏃・用途不明の
石器のほか土器が多量に出ています。
田の耕作に使ったと思われる打製石器の農具も出ています。
http://hattori-iseki.yayoiken.jp/photo/tutihori.jpg
http://hattori-iseki.yayoiken.jp/h-zenki.html
遠賀川式の土器と縄文系の土器が一緒に見つかっていることや打製石器が
使われていることを考え合わせると、
服部遺跡には稲作技術を受け入れた縄文人が住んでいたと思われます。
出土したのは土器・石器のみで、残念ながら稲作に使った木製農具などは
見つかりませんでした。
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/seigyo/jomon15.jpg
http://www.mitaka-iseki.jp/kouza7/s6_1.gif
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcRWMDcdQViayZgeCobZvBJvmRXe0LTOvMC_Nm11q5JbpwDCeusc&;s
http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri/parts/sekki2.gif
http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri/parts/isiguwa3.gif
0043出土地不明2019/11/20(水) 20:42:57.48ID:18qeH9bT




0049出土地不明2019/11/20(水) 20:51:10.13ID:Fb96ldpZ
>.皇室は縄文系Y-DNAだった事が、オクスフォード大学・遺伝学研究チームの解析で確定。

N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized

https://wiki3.jp/famousdna/page/23
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)。
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。

東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である(注1)(注2)(注3)。
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による(注7)(注8)。

南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した(注1)(注2)。

近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である(注1)。

2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)

オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)及び、
カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。
0050出土地不明2019/11/20(水) 20:51:52.25ID:Fb96ldpZ
なお奥州藤原氏ハプログループO1b2a1a系統で
日本では、もっとも多く子孫を残した系統にあたります。

藤原氏は、弥生系(O1b2a1a O-CTS10145)藤原氏と
皇別摂家、藤原氏といるらしいです。
藤原氏については後世の摂関政治の影響で複雑混乱中です。
0051出土地不明2019/11/20(水) 20:53:24.99ID:Fb96ldpZ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
ハプログループD1a2(D-M55)は、日本列島で観察される。
日本人の約32%[4]~39%[5]にみられ、沖縄や奄美大島では過半数を占める。
アイヌの80%以上[6]もこれに属する。
ハプログループD1a2は、日本で誕生してから3.8-3.7万年ほど経過していると考えられている[7]。

東アジアの他地域ではD1a2の姉妹型D1a1がチベット人の最大49%、ヤオ族の30%観察され、
もう一つの姉妹型D1a3はアンダマン諸島南部(オンゲ族、ジャラワ族)で
サンプル数は少ないものの100%[8][9]を占める。
0052出土地不明2019/11/20(水) 20:54:28.94ID:Fb96ldpZ
>>50  の意は下記の事情により。

皇別摂家(こうべつせっけ)とは、日本の五摂家のうち江戸時代に男性皇族が
養子に入って相続した後の3家(近衛家・一条家・鷹司家)およびその男系子孫を指す。

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った
5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て
摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、
執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。

実はこの清華家の徳大寺家は江戸時代に東山天皇の皇胤が養子に入っており、
15代目吉左衛門友純をもって住友男爵家は、
男系でたどれば近世の天皇の皇胤系に 入れ替わった。
(男系系図:東山天皇━閑院宮直仁親王━鷹司輔平━鷹司政煕━鷹司政通
━徳大寺公純━住友友純)
0053出土地不明2019/11/20(水) 20:55:17.36ID:Fb96ldpZ
O-M176のサブクレードのひとつで現代の日本人や満州民族、朝鮮民族の
男性に多いO-K27のY-DNAの最も近い共通祖先は約8,200 (95% CI 6,300〜10,200)
年前に誕生したと考えられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97O1b2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)

O1b2a1a 1 (CTS713)(旧47z) - 日本人(大和民族、琉球民族)で高頻度にみられる。
  朝鮮民族、満州族で低頻度。
O1b2a1a 1a (CTS1875) - 日本列島
O1b2a1a 1a1 (CTS10682) - 日本列島
O1b2a1a 1b (Z24598) - 日本列島
O1b2a1a 1c (CTS203) - 日本列島
O1b2a1a 2 (F2868)  - 日本列島


O1b2a1a 2a (L682) - 朝鮮半島に高頻度に見られる。[10] 日本人、満州族、
  ウデゲ族、ナナイ族[要出典]などにもみられる。
O1b2a1a 2a1 (CTS723) - 朝鮮半島
O1b2a1a 2a1a (CTS7620) - 日本列島、ナナイ族
O1b2a1a 2a1b (A12446) O1b2a1a 2a1b1 (PH40)
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
  満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。
O1b2a1a 3 (CTS10687) - 最大頻度地域は韓国の江原道(カンウォンド)で4%みられ、
  主に北方民族から発見される。 満州族と朝鮮族、西モンゴルのZakhchin族、
  シベ族、ブリヤート人、ウズベキスタン、キルギス、北部アフガニスタンの
  バダフシャーンと南部のバロチ族でも発見される。
O1b2a1a 2b (F940) - 遼寧省の満州族に高頻度でみられる。
  満州系漢族および満州系モンゴル人から度々発見されている。

O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
  東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる。
0054出土地不明2019/11/20(水) 20:56:00.60ID:Fb96ldpZ
ハプログループD1a2 (Y染色体)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97D1a2_(Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93)
「M55」[2]の子孫の系統である。3万年ほど前に日本列島で誕生したと考えられ、
現在日本人の3割ないし4割[3]がこのハプログループに属している。
かつてはハプログループD2と系統名称で呼ばれていたが、
2014年5月にISOGGの系統樹が更新されたことにより、ハプログループD1bと改訂され、
さらに2019年6月には系統名称はハプログループD1a2と改訂された。

日本到達以降[編集]
当時無人の日本列島に到達したハプログループD1a系統は、
海洋資源に恵まれ、温暖であったため日本で繁栄した。
中国大陸から弥生人が日本列島にやってくるまでの約3万5,000年間に、
日本列島においてハプログループD1aの中からハプログループD1a2が誕生したと考えられる。
彼らは縄文人として、彫りの深い顔、濃い髭、二重まぶたの特徴を持ち、
主に浅瀬で漁をして生活をし、のちにはO系統などの弥生人と融合し、
陸稲を栽培していたと考えられる。

縄文人の古代DNA[編集]
北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800-3,500 年前))から
出土した人骨・船泊5号のY染色体は、ハプログループD1a2b1(D-CTS220)であった[19][20]。
これにより「ハプログループD1a2系統は縄文系である」という従来からの仮説が立証された。

遺伝子から続々解明される縄文人の起源−高精度縄文人ゲノムの取得に成功
− 国立科学博物館 平成31年5月13日
https://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf
0055出土地不明2019/11/20(水) 20:56:40.90ID:Fb96ldpZ
日本人のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」[77]
で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルート[78]で到達したとする説がある。
D1a2系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。
他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA

日本人全体で見ると
D1a2系統が約35%、(縄文系)
O1b2系統が約30%、(弥生系)
O2系統が約20%、(華夏系)の順となっている。

ハプログループD1a1は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである[79]。
ハプログループD1a2は、日本列島に固有に見られるタイプで、
アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。
縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ[80]や一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で
高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、

ハプログループD1a2は縄文人に特徴的なY染色体だとされる。
0056出土地不明2019/11/20(水) 20:57:10.84ID:Fb96ldpZ
O1b2(旧O2b) (P49, M176) - 日本列島、朝鮮半島、満州に多い。
東南アジアやインドネシアでも低頻度に見られる事から長江文明の担い手と思われる。

M176------>O1b2a1a1 (CTS713)(旧47z) =日本列島
M176------>O1b2a1a2a (L682=xO-47z) =韓国朝鮮・満州地域・沿海州
日本人→「O-47z=25%」 「xO-47z=8%」くらいです。
朝鮮民族・満州→「O-47z=4%」 「xO-47z=33%」くらいです。

ハプログループO-M176(O1b2)は
日本人及び朝鮮民族に30%程度みられ、満州族では34〜4%で見られる。
ただし、北方に移動した朝鮮半島や満州地域に多いO1b2a2と
東方に移動した日本人に多いO1b2a1とでは、5000年以上の開きがあるため注意が必要。

弥生時代から現代までの朝鮮半島と日本列島との人的交流の痕跡は、
日本人→「xO-47z=8%」である。
日本のO1b2保有者の約8割で見られるO1b2a-47zというサブグループは、
おおよそ8000年前に発生したと推定されているので、他の満州や朝鮮、インドネシアで
多く見られるO1b2-M176(x47z)というサブグループとはそれ以上昔に
血筋がわかれているということになる。
0058出土地不明2019/11/20(水) 21:01:21.14ID:Fb96ldpZ
>銅鐸の紋様、ノコギリ状三角模様、渦巻き、額縁の様な帯状など類似が多い

中国江蘇省の陶器鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/0/8/082faf06.jpg
日本銅鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/d/3/d3818c98.jpg
島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/a/a/aa46cc9b.jpg
雲南紡織貯貝器
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/f/c/fcf0ff7d.jpg
0069出土地不明2019/11/20(水) 21:25:39.34ID:4AzvKrow
韓国サイドの研究者が炭化米DNAの「RM1-b 遺伝子」を探しだしてほしいね。

それが出来なければRM1-bは西日本中心に多い米DNAであることから、
日本の水稲は「RM1-b」が存在しない朝鮮半島を経由せずに中国から直接にとなる。


干欄式高床式建物と云った台形の逆さまの様な特徴ある屋根の線刻画か
文献、家屋土器などが朝鮮半島か沿海州に存在した証明をお願いします。
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-08.gif
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif

> 中国の鵜飼いは日本から伝わったものだろう。
この憶測を証明する文献なり遺物の提示をお願いします。

> 儀式用、鼎、土器陶器類、などは一部の技能集団が製造し、
外部には技術が漏れない様にしてたのでは、後の官窯のように

ロケット、バンバン打ち上げてるアメリカや日本には韓国人が何万人も居るのに
韓国では未だに自力でロケットを上げれないのと同じ
庶民では図面写真見ただけでは作れない。  まして戦乱動乱の兵士や難民では。
>>60~>>64にも九谷焼や有田焼は作れないはず。

O1b2はO系東アジア人の先祖系だが、
Y-DNAのO1b2a1a(1)はおもに日本人特有に変化したDNA。

韓国朝鮮・満州地域・沿海州のは O1b2a1a(2a) (L682=xO-47z) で
日本にも8%有るから来てるのは間違いないが90%の日本人は関係ないよ。
0070出土地不明2019/11/20(水) 22:34:42.90ID:+1V7nA0Q
>>69
普通にデフォルメやん?
0071出土地不明2019/11/20(水) 23:51:05.35ID:5sp4ujxe
>>69
高床式倉庫が中国から伝わったものなら、何で住居利用せんのだ?って話だろがカス

弥生の高床式倉庫は松菊里型住居とセットで江辻遺跡に伝わってるんだぞ

中国では住居であるはずの高床式倉庫を住居利用せず、何を血迷ったのか中国から
遠く離れた朝鮮半島の松菊里型住居を同時に伝えるとか、おかしすぎだろパッパラパー!
0072出土地不明2019/11/21(木) 00:09:48.97ID:WJwlYJ6R
感慨農法が伝わるまでは漢民族は北方人にボロ負けだったと思う
0073出土地不明2019/11/21(木) 13:38:05.39ID:vMN98dr6
>>69
壺、甕、高坏は作って、鼎や鬲や耳付き土器は作らねえとか、
そんな馬鹿な話ねえだろがスットボケ

この詭弁中卒パッパラパー
0074出土地不明2019/11/21(木) 13:41:25.56ID:vMN98dr6
それでは、これらの渡来者たちは、そもそもどこを出発点としたのだろうか。
朝鮮半島はアジア大陸の一角だから、この土地で、一つの集団が孤立していた
とは考えられない。そこで、さらに視野を広げ、シベリア、東アジアの集団を
含めて、分析してみることにしよう。次ページの図は、朝鮮半島やシベリアの
集団、およびアイヌを含め、さらに新石器時代から現代にいたるまでのさまざま
な集団を処理、Qモード相関係数行列を二次元的に表現したものである。
この図を見て驚くのは、土井ヶ浜および三津の弥生人が、シベリアのいわゆる
寒冷地民族に酷似していることである。金関氏は弥生時代の渡来者が北部朝鮮
から来たことを示唆したが、今回の分析結果により、さらに北の中国東北地方や
シベリアと、強い類縁性のあることが示された。もっと具体的にいえば、
北九州型の弥生人は、北アジアの蒙古人や、アムール川流域に住むツングース系
民族、あるいは沿海州の諸民族などにきわめてよく似ているのである。

日本人の起源〈増補〉 埴原和郎編 朝日新聞社 より抜粋
0075出土地不明2019/11/21(木) 16:02:45.11ID:XwJNvAYM
日本人と韓国人のY染色体は大きく異なる

Y染色体は男性の系統を表します。
日本人の大多数は、韓国からやって来たのなら、
今の日本人と韓国人のY染色体構成は類似しているはずです。

縄文時代から、今の韓国人の祖先が半島に住んでいて、彼らが弥生時代に日本にやって来て、あるいは特異的に人口を増やして、私達の祖先になっていたなら、
今の日本人のY染色体は韓国人に似ているべきです。
しかし、日本人と韓国人のY染色体構成は大きく異なっていて、
今の韓国人は、私達日本人の祖先ではないということです。


韓国人女性のルーツを探る
DNAのmtDNAは、母親から娘に受け継がれるDNAで、
女性の系統をたどることができます。で、韓国人と日本人の母系mtDNAは、
縄文時代から近い関係(縄文人)にあった。
0076出土地不明2019/11/21(木) 16:03:52.34ID:XwJNvAYM
朝鮮半島には5千年の長きにわたって、誰も住んでいなかった。

1993年に韓国国立中央博物館発行の書籍によると
▶半島の歴史は旧石器時代から始まるとある
しかし、発見された遺跡数は50カ所程度にすぎない
(この時代、日本からは1万もの遺跡が発見されている)1/1000の密度差である

▶その後、紀元前1万年から5千年まで半島から遺跡が亡くなります。
つまり、考古学上では半島の人々は絶滅した、
5千年の長きに渡って誰も住んでいなかったということになります。

▶再び人の痕跡が現れるのが紀元前5千年頃で、
「新石器時代櫛文土器文化」となる。

▶では、朝鮮半島にどこから人がやって来たのか?
韓国の歴史では、「旧石器時代は韓民族の直接の先祖ではなく、
直接の先祖は約4千年前の新石器時代から」とあり
では紀元前2千年頃、韓民族の祖先がどこから半島にやってきたのか?となる。

▶では、7千年前、すなわち紀元前5千年頃にやって来て
「新石器時代櫛文土器文化」を築き、4千年前、すなわち紀元前2千年頃、
先住民が住む半島に侵入し、やがて「韓国人の直接の祖先」になった人々は
どこから来たのでしょう?
0077出土地不明2019/11/21(木) 16:13:07.65ID:XwJNvAYM
朝鮮半島の歴史は縄文時代から始まる

▲ 最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が
見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。
そこに出土する縄文土器は縄文人がやって来た事が確かな証拠品といえる。
東三洞貝塚は三層になっており、二期と三期層から日本の縄文時代の中・後期の
土器が発見された。

▲ 韓国での考古学調査の結果は、
韓国人の遠い祖先は、日本の縄文文化をもって無人の朝鮮半島に移り住み
3千年の間に北部にまで広がった縄文人だった。
つまり、朝鮮半島の文化は、日本から渡来した縄文人が伝えた縄文文化から始まった。

▲ また、沖縄の祖先も縄文時代前期に九州から移り住んだ人々である

▲ なのでこの紀元前2千年頃の時代のDNAは、縄文人と同じとなるそうです。
0078出土地不明2019/11/21(木) 16:16:57.59ID:XwJNvAYM
古人骨は現韓国人に似ていなかった

人類学者の小片丘彦氏は
朝鮮半島南部の煙台島で発見された前4千年紀の古人骨、
半島南部の勒島で見つかった弥生時代中期の古人骨、
釜山市郊外の金海礼安里古墳群から発掘された4〜7世紀の古人骨の調査結果を発表し、

現韓国人と大きく異なっており、形態人類学の考え方に従えば、
彼らは韓国人の祖先ではないとなり、
この古人骨は多くの点で同時代の日本人すなわち縄文人に一致していた。

このことから最初に半島に住み始めた人々は日本からやって来た縄文人だったという
考古学上の推論は形態人類学によっても裏付けされたことになる。
0079出土地不明2019/11/21(木) 16:23:12.17ID:XwJNvAYM
縄文人の消滅から混血民族への誕生

日本列島内の戦は、異民族の戦争ではないが
大陸の戦いは異民族の戦いであり、征服された民族の男は皆殺しも稀でなく、
女性は、勝利者により凌辱された。

つまり、北方から侵入して来た者達により縄文人の男性はは皆殺し、
縄文人の女性は勝利者により凌辱され、
日本人と近かったはずの男性Y染色体は、世代を重ねる毎に入れ替わり、
現在の韓国人のY染色体のようになったと考えられる。

男性Y染色体は、北方民族に置換されていった。
つまり、現在の韓国人は「縄文人を母」に「北方民族を父」にもつ、
ごく最近に誕生した混血民族ということが最新の科学で明らかになった。
0080出土地不明2019/11/21(木) 16:37:44.13ID:XwJNvAYM
中国・浙南の石棚墓(支石墓)は後者の南方式と呼ばれる碁盤式である。
日本では、碁盤式と呼ばれる南方式の支石墓が縄文時代晩期末の九州北部に出現している。
唐津市の葉山尻支石墓群が最古とされ、
縄文時代晩期末(弥生時代前期)〜弥生時代中期の支石墓と甕棺墓がある。

 これまで支石墓は朝鮮半島南の影響が強いとされてきたが、
九州北部の碁盤式支石墓が朝鮮半島南部に展開し始める紀元前500年よりも遡るとすれば、
支石墓の渡来も朝鮮半島より日本の方が早かったことになる。

 そうなると、稲作や「半島倭人」の流れと同じようにこの支石墓もまた、
温州人たちが九州を経由地として朝鮮半島にもたらした場合と、稀に五島列島をすり抜けて
朝鮮半島へ到着した場合とが考えられる、朝鮮半島の支配勢力が目まぐるしく入れ替わる中で、

半島南部の倭人たちは常にその棲息領域を保っていたようである。
0081出土地不明2019/11/21(木) 16:43:04.69ID:XwJNvAYM
ともあれ、『三国志』韓伝の 記録から、朝鮮半島に倭人の居住する「倭」と呼ばれた
領域があったことから確認していこう。

「韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す」。

「東西は海が韓の地の境界となり、南は倭と接している」というのだから、
南は海が韓の境界になっているのではなく、倭の尽きたところが海になる。

つまり、「南は倭と接す」という表現でもって、半島の南部に倭があったことを告げている。
0082出土地不明2019/11/21(木) 16:52:11.35ID:nZJ6Ar2q
「従来の仮説」
先ず、日本列島や朝鮮半島での水稲の開始が、
これまでどのように考えられてきたか、簡単にまとめておこう。

ソウルから南へ約130kmの所に、松菊里遺跡というのがある。
ここでは大量の炭化米が見つかっている。松菊里遺跡では水田が見つかっていないが、
近くの麻田里遺跡では、水田の跡とされるものが見つかっている。
日本ではあまり有名でないが、松菊里遺跡は、青銅器を独占的に製造していたようであり、勾玉の半製品なども出土してる。

かつては、松菊里遺跡が発展するのは、
北部九州に水稲が伝わる時期より早いと考えられていた。

水稲も、松菊里遺跡のある朝鮮中西部→朝鮮東南部→北部九州→日本各地のルートで
伝わったと信じる人が大勢いた。
そして、朝鮮中西部まで、華北・遼東半島と陸地を経由したのか、
山東省周辺から海を渡ったのかが、その当時の争点だった。
0083出土地不明2019/11/21(木) 16:58:59.41ID:nZJ6Ar2q
 ところが、C14法が注目を浴びるようになった2003年頃から、状況が大きく変わった。
C14法によって、日本でも朝鮮でも全体的に実年代が繰り上げられたが、
日本と朝鮮東南部の繰り上げ幅が他より大きかった。

その結果、以下のように、水稲開始は朝鮮東南部(対馬海峡沿い)や北部九州の方が
朝鮮中西部より早いというのが、多数意見となってしまった。

現在、日本と朝鮮あわせて最古の水田は、朝鮮東南部(対馬海峡沿い)のオクキョン遺跡
のものであり、その年代は紀元前11世紀とされている。
これに次ぐのが、北部九州の菜畑遺跡の水田で、前10世紀後半。

他にも、北部九州では弥生早期の水田が複数見つかっている。
それに対して、朝鮮中西部では、オクキョン遺跡や菜畑遺跡より古い水稲の証拠は
見つかっていない。

新しい年代観では、朝鮮中西部→朝鮮東南部→北部九州というルートで
水稲が伝わったと主張するのが難しくなったのである。
0084出土地不明2019/11/21(木) 17:03:29.95ID:nZJ6Ar2q
松菊里遺跡では、水田が未発見であるが、まだ見ぬオクキョン遺跡より古い水田が、
地下に隠れている可能性がない訳ではない。
朝鮮中西部での水稲開始が、朝鮮東南部や北部九州より、古いという証拠もないが、
新しいと断定出来る証拠もないようである。

いずれにしろ、水稲が松菊里遺跡から伝わったという仮説は、
C14法の登場により、簡単に信じる事ができなくなっている。

水稲の日本への伝播ルートは、従来の有力な仮説を捨て、
1から考え直さざるを得なくなったのである。
0085出土地不明2019/11/21(木) 17:07:08.59ID:nZJ6Ar2q
「温帯ジャポニカのRM1」
朝鮮中西部経由説に疑問が持たれるようになると、入れ違うかのように、
水稲は中国から直接伝わったという説が台頭してきた。

この説の最大の根拠とされているのが、水稲と一緒に日本に持ち込まれたとされる
温帯ジャポニカのDNAの型である。

温帯ジャポニカのDNAのRM1という部分には、a〜hの8種類の型がある。
中国には、a〜hの8種類全てがあるが、朝鮮半島の在来種には、bが存在しない。

一方、日本の在来種はa・bがほとんどで、cがごく少量混ざる。
朝鮮半島にはbがなく、日本にはd〜hがない。
これが、水稲が朝鮮経由で伝わった事を否定する最大の根拠とされている。
0086出土地不明2019/11/21(木) 17:16:24.48ID:nZJ6Ar2q
この他にも、水稲が朝鮮半島を経由せずに江南から直接もたらされた証拠として、
次のような理由が挙げられる事がある。

朝鮮の蚕は、三眠蚕(3回脱皮する蚕)だけだが、
日本には三眠蚕(華北に多い)と四眠蚕(華中・華南に多い)の両方がある。

鵜飼(うかい)の風習は、中国南部と日本にはあるが、朝鮮半島・台湾・沖縄にはない。
四眠蚕や鵜飼、干欄屋根式高床建物の3点が、中国南部から直接日本に伝わった
可能性が高いのだから、水稲も同様である、という理屈である。

こうした説明を聞くと、水稲が中国から直接伝わったのは間違いないと感じるが、
半島経由否定の論理にも結論を出すには?を感じる。
0087出土地不明2019/11/21(木) 18:46:44.02ID:EwNAl4VA
>弥生土器は韓国無文土器からが定説のように云われるが
>西日本の縄文中期末(今から約4千年前)以降、文様なしの意識が変化し
>無文の縄文土器が好まれ弥生土器へのはしりと成ったのかも知れない。

無文土器(縄文土器)  平生町岩田遺跡
文様のない縄文土器です。西日本では縄文時代中期末(今から約4千年前)以降、
次第に文様のない縄文土器が増加していきました。
これらは弥生時代に向けた、土器に対する意識変化を象徴する現象として注目されます。
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=443

東日本では縄文時代晩期まで土器に縄文が付けられたが、
西日本では後期後葉から次第に縄文が使われなくなり、
晩期には無文となる。その原因はまだはっきり分かっていない。
https://enkieden.exblog.jp/27602931/
0088出土地不明2019/11/21(木) 20:35:33.94ID:BKwfRhS7
>やっぱり支石墓文化と弥生の始まりはリンクしてるな
>支石墓に埋葬されてる人達は出戻り縄文人と云われてるからね

原山支石墓群(はらやましせきぼぐん)は、
長崎県南島原市(旧南高来郡北有馬町)に所在する縄文時代終末期の遺跡。
一般に原山ドルメンとも呼ばれている。日本国内の支石墓遺跡としては
最古最大級のものと言われる。1972年(昭和47年)11月6日国の史跡に指定された。

東アジアの支石墓は朝鮮半島に多く、一般にテーブル式(卓子式、北方式)と
碁盤式(南方式)に分類されるが、本遺跡では碁盤式が見られる。
支石の下には土壙を持つものと箱式石棺を持つものがあり、

更に内部に甕棺を持つものも見られる。
箱式石棺には極端に短くて深いものが少なくなく、それらに埋葬された遺体は
横たわる姿勢ではなく蹲踞の姿勢で屈葬されたものと考えられている。
甕棺には刻目突帯や籾圧痕が認められた。なお副葬品など遺物は乏しいが、
縄文時代晩期の土器や石包丁が発見された。縄文文化と稲作の関係を探る上でも
注目される遺跡である。

稲作伝来の時期が縄文時代晩期に溯ると推定され、
日本における稲作の伝来と開始を示す遺跡として史跡に指定された。
0089出土地不明2019/11/21(木) 20:54:55.10ID:BKwfRhS7
松菊里型住居の分布図(半島南部と西日本)
http://blogthumb2.naver.net/20130527_85/marich77_1369622460147lzR3N_JPEG/1254.jpg?type=w2
「 倭人」 春秋戦国時代(紀元前770年)、 呉越戦争(紀元前450年頃)の戦乱期に
中国大陸から朝鮮半島、日本列島の範囲の、主に海上において活動していた民族集団。
支石墓制、水生民族、海人族といわれることもある。
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/bsisekia-thumb.jpg
朝鮮半島、支石墓分布図
http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/asiseki2-thumb.JPG
朝鮮半島での勾玉出土分布図
http://yamatai.cside.com/katudou/image/241-5.gif
朝鮮半島南部の前方後円墳分布図
http://livedoor.blogimg.jp/bungchanblog-kodaishi/imgs/7/3/73b57fed.jpg
「南から見た縄文」11 〜弥生期までの朝鮮半島と北九州の関係は?
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/06/1269.html
0090出土地不明2019/11/21(木) 21:04:56.05ID:lgzC7dXU
もし松菊里型住居が満州や沿海州からの文化ならば、
朝鮮北部にも当然遺跡が有るはずが、いまの所発見されてない

と云うことは松菊里型住居なるものも列島系の人物たちの文化の可能性もある
だから遺物には勾玉も存在し、朝鮮北部からは勾玉、松菊里型も出土しない。
0091出土地不明2019/11/21(木) 21:16:28.91ID:PQOrGnhy
>>75
日本人の祖先の日本列島最古の人類の足跡である35000年ほど前に出現した旧石器人は朝鮮半島から入ってきてるぞ。

彼らは石刃技法というアルタイ系の石器を遺した。

樺太、北海道は20000年ほど前まで無人島だから、入ってきたのは朝鮮半島以外あり得ないね。


>>76
朝鮮半島に再び人の痕跡が現れるのは紀元前5500年頃で、 済州島系隆起文土器文化だぞ。

新石器時代 櫛文土器文化は紀元前4000年前からだパッパラパー


>>77
東三洞貝塚は済州島系隆起文土器だろ。

朝鮮南部に最近に伝わった隆起文土器は九州系ではなく済州島系。


>>78
現代日本人も古人骨に似てないね。

縄文人とも弥生人とも。


>>79
日本人もそうだが、縄文人系男性は無精子症になりやすく、そうではない弥生人系に3000年間のうちに
勢力をひっくり返されたんだそうな。
0092出土地不明2019/11/21(木) 21:43:10.98ID:PQOrGnhy
>>80
その温州人の生活痕遺構がどこにもないね。

九州にも朝鮮南部にも。

従来説が正しい。


>>81
在地産の弥生土器遺構が半島にないね。

ステイばかりで定着まではないという事。


>>82-84
朝鮮南東部はオクキョン遺跡がBC11Cで最古だが、朝鮮中西部の漢江下流域の金浦(キムポ)と
一山(イルサン)からはBC20C頃の稲籾が出てきてしまっている。

やはり朝鮮中西部→朝鮮東南部→北部九州が一番可能性が高い事には変わらない。


>>85
佐藤は朝鮮半島最古の稲を調べたのか?

調べてないだろ。

ゴミ調査結果乙


>>86
かつて朝鮮半島に四眠蚕がいなかったという証拠は?

鵜飼いの文献登場は日本の方が古い。

中国の鵜飼いは遣唐使を通じて日本から伝わっている。

高床式倉庫は松菊里型住居とセットで伝わっている。

朝鮮南部から入ったとしか考えられないね。
0093出土地不明2019/11/21(木) 21:48:48.52ID:5LsNdjAC
「屁理屈と膏薬は何処にでも付く」

屁理屈を付ける者は、言い方一つでどちらの意見にも味方できるが、
結局のところ、確固とした意見を持っている訳ではないということ。
0094出土地不明2019/11/21(木) 21:59:56.79ID:PQOrGnhy
>>87
最古の弥生土器はの登場は島根で、当時の沿海州系土器と特徴が一致している土器だが。

その後、朝鮮土器から色々パクらせてもらっただけだ。

基本的!朝鮮土器作ってねえし。


>>88
甕棺には刻目突帯とあるから、弥生人が朝鮮南部からパクってきただけだな。


>>89
朝鮮にも日本にも中国大陸から渡来定着した生活痕遺構がありません。

朝鮮にも日本にも呉越から渡来定着した生活痕遺構がありません。

遼東郡から定着した楽浪郡遺跡なら朝鮮半島にあるがな。


>>90
松菊里型住居が最初に登場した江辻遺跡が松菊里型住居の起源とは考えられないね。

開発過程なく、完成形で登場しているのだから。

それにセットで現れた高床式倉庫から見ても、こちらも完成形で現れてるし、朝鮮南部から
導入したものだとしか考えられないね。
0095出土地不明2019/11/21(木) 22:40:15.60ID:RvaXJ2h6
広島)家形埴輪、80%復元 安芸高田の甲立古墳で出土
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150420003021_comm.jpg
杉山古墳出土家形埴輪 - 奈良市
http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1261101193068/simple/131210114719_0.jpg
宮崎県西都市 西都原古墳群出土 古墳時代・5世紀
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f8/HaniwaHouse.JPG/500px-HaniwaHouse.JPG
大阪高槻市、今城塚古墳
https://stat.ameba.jp/user_images/20190215/12/koubou-chisetu/54/73/j/o1080080914356508535.jpg?caw=800
大日山35号墳
https://pds.exblog.jp/pds/1/201201/29/12/b0189212_145121.jpg
家形埴輪 ( 人類学と考古学 )
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4b-43/hopi519/folder/1799281/96/65382696/img_6?1560578771
中国・雲南省 干欄式屋根の高床建物
http://yamatai.cside.com/katudou/image2/359-10.gif
中国前漢時代に雲南省にあったテン王国の干欄屋根.高床式住居
http://livedoor.4.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/1/3/13f71938.gif
0096出土地不明2019/11/21(木) 23:26:17.05ID:GShwwUBW
だいたい中国から伝わるなら、雲南の高床式住居が伝わる前に、
ふつうは当時の中国のメイン住居だった戸建ての土壁住居の方が先に伝わるはずだろ。

地理的にはるかに近いんだから。

中卒のパッパラパー
0098出土地不明2019/11/22(金) 01:23:14.28ID:+f7VkTxk
>>96  堀江貴文氏「こいつ頭にウジ湧いてんな笑笑」

中国前漢時代の雲南省にある高床式建物と
日本の弥生から古墳時代の高床式建物の屋根が干欄式屋根で似てるんだから
文化的な関係があるんじゃないの〜って話。

中国の民衆がどんな建物に住んでたか、近いか遠いか、なんて関係ありましぇ〜ん。
0099出土地不明2019/11/22(金) 08:52:28.21ID:lTGej7td
>>98
おまえの出す詐欺材料って一切読む価値ないよな。

ただ中卒高卒レヴェルの知的底辺層がまんまと騙されてくれる事を期待した、とっくに破綻した詐欺材料の投稿ばーっかりで。

さっさと日本の掲示板から消えろよブタとニグロのクッサイ汚らしい醜悪極まる中間種。
0100出土地不明2019/11/22(金) 08:55:18.88ID:lTGej7td
弥生前期末の甕棺墓時代になると、北方モンゴロイド形質を帯びた夥しい数の
渡来系弥生人骨が甕棺墓から出土してくるのである。

ところが、この渡来形質の人骨の人々の故郷を知る手がかりが何もないのである。

甕棺墓は文字通り甕であり、甕は土器の器種の一つである。

その甕棺墓の甕に朝鮮系土器などは一切見られないのである。

そうなると、それ以前にその手がかりを求めるしかない。

ところが、弥生開始から甕棺墓時代に至るまでの間に、半島の無文土器文化人が
集団で渡来入植した痕跡、すなわちセットをなす無文土器が集中して出土する
集落遺跡などがないのである。

この時期の列島では、無文土器の影響を受けて出現した器種・技法・要素は
あるものの、無文土器そのものは、ほとんど出土していない。

これらの渡来形質の人骨の人々が朝鮮半島から入植したとは考えにくいのである。

日本最古の北方モンゴロイド形質を帯びた混血人骨が出土した新町遺跡でさえ
朝鮮無文土器の遺構ではない。

彼らが遺したのは最古の弥生土器である刻目突帯文土器である。

刻目突帯文土器はそれよりも前の縄文晩期に山陰の島根あたりに
登場してくる土器である。

しかし肝心の朝鮮半島からは刻目突帯文土器の出土例は10例もないのである。

さすがに、そのルーツを朝鮮半島に求めるには無理がある。

この土器と一致する文様の土器文化があったのは朝鮮半島ではなく、
それよりはるか北方の沿海州南西部なのであった。
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