やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
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これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
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一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
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肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
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松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
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3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
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何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
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と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
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となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
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まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
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球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
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何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
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楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
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肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
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やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
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一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
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でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
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肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
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松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
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となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
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しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
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どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
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マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
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と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
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でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
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やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
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結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
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でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
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松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
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となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
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しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
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それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
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肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
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3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
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でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
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肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
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まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。
やっと、やっとという感じでしたね。肩を痛めてから、多くの病院を訪れたんですが、痛みの原因がわからなかった。
となると、治療法もわからない。それが昨年の夏過ぎに、千葉・船橋にある病院で診察したら、痛みの原因がわかったんです。
それから治療、リハビリを続けたら痛みがなくなった。昨年10月にはブルペンに入って投球練習をしましたが、翌日にリバウンドがなかった。
ようやく、痛みを怖がらずに投げられるようになったんです。
2018年、中日にテスト入団した松坂大輔は、当時のことを笑顔で振り返った。
しかしそこに至るまでは、まさに身を削る思いで、痛みの原因を模索していた。
肩の治療の権威との噂を聞けば、それこそ全国の病院を行脚した。
それでも、訪れた病院のほとんどが「肩の肉離れ」と言うだけで、原因が究明されることはなかった。
結局、昨季は一軍で一度も登板することができず、3年総額12億円で契約した最終年が終わった。
昨年の夏場に、状態が一時上がってきたんです。でも、突然痛みが再発することがたびたびあった。
どの病院に行っても診断の結果は同じ。さすがに心が折れかけ、『やめたら楽になれるかな』と、考えたこともありました。
まさに「藁にもすがる思いで」訪れた船橋の病院。それまでに訪ねた病院の数は、優に40カ所を超えていた。
これまでの病院とは違い、肩の角度といろいろと変え、何十回もMRIを撮ってくれたんです。それでついに原因を突き止めたんです。
肩の痛みから解放された2017年終盤は、新シーズンに向けて光明が見えはじめ、手ごたえを感じていた時期でもあった。
ところが、ソフトバンクが新たな契約を結ぶことはなかった。
一部報道で、球団側は現役復帰の道を残したうえで、来季からリハビリ部門のコーチ就任を打診したと報じられたが、実情は違っていた。
球団からの呼び出しがあったとき、場の雰囲気が重かったので、これは再契約の意思はないんだなとわかったんです。
それで自分から、『わかっています。覚悟はしていますから』と言ったわけです。
3年間で、一軍登板はわずか1試合1イニングのみ。壮絶なリハビリや治療を知らないファンは、大型契約だったことを受けて、「給料泥棒」と非難した。
マスコミも、多くの一流選手を輩出した1980年生まれ、いわゆる“松坂世代”の終焉と報じた。
松坂世代とよくいわれますが、僕自身はあまり思うところはないですね。
それよりも1986年のダルビッシュ有、1988年の田中将大、1994年の大谷翔平の世代のほうが、素晴らしい選手が多く出ているんじゃないですかね。
と、本人は意に介さない。オフの戦力外通告も、プライドをかなぐり捨ててまで現役にこだわったのは、「このままでは終われない」の一心だった。
そんなとき、中日の森繁和監督から電話があった。内容はいたって単純。「ウチでやってみないか」。嬉しかった。
だが、日本球界に復帰してからの3年間は何も成し遂げておらず、「お世話になります」のひと言が言えなかった。
そこで、西武時代に公私ともにお世話になり、現在は中日編成部の国際渉外担当を務めているデニー友利氏に相談した。
何度も会食を繰り返し、聞き役に徹していた友利氏が、最後に「来いよ!」と言ってくれたことで、覚悟が決まった。
そして臨んだ今キャンプ。中日は若い選手が多く、松坂にはリーダー的役割も期待されている。
楽しそうに練習している?いやいや、そう見えるかもしれませんが、新しいチームなので気遣いが半端じゃないですよ。
と笑うが、動きは軽快そのものだった。とくにバッティング練習では、もともとセンスがあっただけに快打を連発。
大谷翔平ばりの二刀流の期待も高まっている。
西武でもメジャーでも打席に立つことが少なかったですからね。バッティングはほんと難しいですよ。
でも、二刀流をテーマに頑張っていきたいですね。
初登板で名前をコールされて、観客の拍手がいちばん嬉しかった。一軍の公式戦でも拍手がもらえるように、しっかり調整していきたい。
肩の痛み?短いイニングなのでなんともいえませんが、痛みはなく今のところは大丈夫ですよ。
なによりも例年になく笑顔が多かったことが、順調にきている証拠だ。
松坂は入団1年め、イチローを3連続三振に打ち取ったことで、「自信が確信に変わった」と名言を残している。
日米通算164勝の“平成の怪物”は、プロ20年めを迎えた。復活を確信できるようになる日は近い。