0001ハニィみるく(17歳) ★2018/10/08(月) 10:42:54.22ID:CAP_USER
(写真)
http://www.cctimes.kr/news/photo/201810/546113_204407_1116.jpg
随筆家リュ・チュンオク(清州・聖化初等学校行政室長)
私は誰でどこから来たのか?私が住む大韓民国はどのような国なのか?10月3日は開天節(ケチョンチョルである。 小学校の頃は開天節記念式を行い、開天節の歌も覚えた。「我らが水なら泉があり、我らが木なら根っこがある、この国の祖父様は檀君ですから〜〜(意訳)」
開天節は『空が開かれた事』を記念する日である。開天(ケチョン)は桓雄(ファンウン)が桓因天帝(ファンインチョンジェ)に天符(チュンブ)と印(イン)とともに弘益人間(ホンイクインガン)、在世理化(チェセイファ)の国家統治理念を伝授され、文明開拓団3,000人を率いて白頭山(ペクトゥサン)に神市(シンシ)を築き、国の名前を倍達(ペダル)と定めた出来事を指す。この出来事を記念しているが、檀君が国を築いたと伝わる紀元前2333年10月3日を定めて開天節と名付けた。 我が民族は古くから陰暦10月を上月(サンダル)と呼び、1年の農業を終えて収穫した穀物に感謝する祭天儀式(チェチョンウィシク)を行ってきた。(これは高句麗(コグリョ)の同盟・夫余(ぷよ)の迎鼓(ヨンゴ)、ワイ貊(エメク)の舞天(ムチョン)などで確認できる歴史的事実である)
祭天儀式は国家単位だけで行われた事ではない。家庭でもオモニ(母親)たちは早朝、甕(かめ)の上に井華水(チョンファス=早朝一番に汲んだ井戸水)を浮かべ、家族の安寧と健康を祈って空と北斗七星(プクトゥチルソン)に向かって願いを祈った。そして現在も受け継がれている祭祀(チェサ)や茶礼(チャレ)も同じ次元である。祈祷とは強力な願いであり、天地の気運を集中させる事である。天は自ら助くる者を助くというが、切に願う事で天地気運がなぜ感応しないのだろうか。
しかし、空を仰いで皆が平和でより良い生活を願う祭天儀式は一斉に、文化抹殺政策の影響で迷信として片付けられた。その結果、西洋宗教を受け入れた多くの者は祭祀を偶像崇拝という名目の下で拒否している。太陽(テヤン)をウリ語(我らの言葉)では『ヘ』と呼び、英語では『SUN』と呼ぶ。 太陽を『ヘ』と呼ぶ時と『SUN』と呼ぶ時に変わるのだろうか?
古朝鮮時代の領土は(青銅器の遺物と支石墓(ドルメン)の分布を見ても)満洲(マンジュ)・遼寧(リャオニン)一帯まで広がっていた。しかし、残念ながら現在は多くの部分を奪われ、しかも南北に分断されて、大韓民国は38線より南だけを占めている。現在、中国は(間島(カンド)を奪っただけでは物足りず)国境の中で起きた全ての歴史は中国の歴史でアルから、高句麗と渤海(パルヘ)の歴史も中国の歴史でアルと主張する東北工程(トンブクゴンジョン)を行っている。間島地域は高句麗と渤海の古い土地だが、1905年に日露戦争に勝利した日本は大韓帝国政府に『乙巳条約(第二次日韓協約)』を強制締結して主権を奪い、1909年9月4日に南満洲の鉄道敷設権などを得る対価として間島地域を清国側に譲渡した。それが外ではない間島協約である。これだけではなく、沿海州はロシアに、対馬島(テマド)は日本に奪われた地になってしまった。そして日本は独島を占めようと教科書歪曲を行い、最近アジアを侵略する時に使った旭日旗に固執して、最終的に済州(チェジュ)国際観艦式に参加しない事となった。
自分の物だけに固執するナショナリズムは息苦しい。しかし、自分の事が何なのかは知っていて、自分と他人を併せて一緒に暮す方法を模索するのが弘益人間、在世理化の精神だろう。最近のドラマ『ミスト・ションサイン(ミスター・サンシャイン)』で、国のために命を懸けて戦って倒れた義兵を思い浮かべる。「奪われたら取り戻す事はできるが、渡せば戻す事ができない。奪われても渡さないでください!」
ソース:忠清タイムズ(韓国語)
http://www.cctimes.kr/news/articleView.html?idxno=546113#08W8
http://www.cctimes.kr/news/photo/201810/546113_204407_1116.jpg
随筆家リュ・チュンオク(清州・聖化初等学校行政室長)
私は誰でどこから来たのか?私が住む大韓民国はどのような国なのか?10月3日は開天節(ケチョンチョルである。 小学校の頃は開天節記念式を行い、開天節の歌も覚えた。「我らが水なら泉があり、我らが木なら根っこがある、この国の祖父様は檀君ですから〜〜(意訳)」
開天節は『空が開かれた事』を記念する日である。開天(ケチョン)は桓雄(ファンウン)が桓因天帝(ファンインチョンジェ)に天符(チュンブ)と印(イン)とともに弘益人間(ホンイクインガン)、在世理化(チェセイファ)の国家統治理念を伝授され、文明開拓団3,000人を率いて白頭山(ペクトゥサン)に神市(シンシ)を築き、国の名前を倍達(ペダル)と定めた出来事を指す。この出来事を記念しているが、檀君が国を築いたと伝わる紀元前2333年10月3日を定めて開天節と名付けた。 我が民族は古くから陰暦10月を上月(サンダル)と呼び、1年の農業を終えて収穫した穀物に感謝する祭天儀式(チェチョンウィシク)を行ってきた。(これは高句麗(コグリョ)の同盟・夫余(ぷよ)の迎鼓(ヨンゴ)、ワイ貊(エメク)の舞天(ムチョン)などで確認できる歴史的事実である)
祭天儀式は国家単位だけで行われた事ではない。家庭でもオモニ(母親)たちは早朝、甕(かめ)の上に井華水(チョンファス=早朝一番に汲んだ井戸水)を浮かべ、家族の安寧と健康を祈って空と北斗七星(プクトゥチルソン)に向かって願いを祈った。そして現在も受け継がれている祭祀(チェサ)や茶礼(チャレ)も同じ次元である。祈祷とは強力な願いであり、天地の気運を集中させる事である。天は自ら助くる者を助くというが、切に願う事で天地気運がなぜ感応しないのだろうか。
しかし、空を仰いで皆が平和でより良い生活を願う祭天儀式は一斉に、文化抹殺政策の影響で迷信として片付けられた。その結果、西洋宗教を受け入れた多くの者は祭祀を偶像崇拝という名目の下で拒否している。太陽(テヤン)をウリ語(我らの言葉)では『ヘ』と呼び、英語では『SUN』と呼ぶ。 太陽を『ヘ』と呼ぶ時と『SUN』と呼ぶ時に変わるのだろうか?
古朝鮮時代の領土は(青銅器の遺物と支石墓(ドルメン)の分布を見ても)満洲(マンジュ)・遼寧(リャオニン)一帯まで広がっていた。しかし、残念ながら現在は多くの部分を奪われ、しかも南北に分断されて、大韓民国は38線より南だけを占めている。現在、中国は(間島(カンド)を奪っただけでは物足りず)国境の中で起きた全ての歴史は中国の歴史でアルから、高句麗と渤海(パルヘ)の歴史も中国の歴史でアルと主張する東北工程(トンブクゴンジョン)を行っている。間島地域は高句麗と渤海の古い土地だが、1905年に日露戦争に勝利した日本は大韓帝国政府に『乙巳条約(第二次日韓協約)』を強制締結して主権を奪い、1909年9月4日に南満洲の鉄道敷設権などを得る対価として間島地域を清国側に譲渡した。それが外ではない間島協約である。これだけではなく、沿海州はロシアに、対馬島(テマド)は日本に奪われた地になってしまった。そして日本は独島を占めようと教科書歪曲を行い、最近アジアを侵略する時に使った旭日旗に固執して、最終的に済州(チェジュ)国際観艦式に参加しない事となった。
自分の物だけに固執するナショナリズムは息苦しい。しかし、自分の事が何なのかは知っていて、自分と他人を併せて一緒に暮す方法を模索するのが弘益人間、在世理化の精神だろう。最近のドラマ『ミスト・ションサイン(ミスター・サンシャイン)』で、国のために命を懸けて戦って倒れた義兵を思い浮かべる。「奪われたら取り戻す事はできるが、渡せば戻す事ができない。奪われても渡さないでください!」
ソース:忠清タイムズ(韓国語)
http://www.cctimes.kr/news/articleView.html?idxno=546113#08W8