エンドレス・ポエトリー
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レスまったくないなんて・・・
これは傑作だったわ。
食わず嫌いはよくない。 >>3
その前作がイマイチだったせいで二の足を踏んでる人もいるんじゃないかと
(自伝的物語とは言え、主人公が親に翻弄されるだけの幼少期の話だけでは
物語が弾けないし、後半は主人公おいてけぼりでお父さんの話になっちゃってるし…)
それに較べれば今作「エンドレス・ポエトリー」は青春時代真っ只中の
主人公がはじけまくる物語だから、こっちの方が面白くなるのは必然なんだよね。 こっちの方が確かに面白いけど、両親や他の登場人物も出てくるし、いろんなアイテムがこっちにも出てくるから
前作を観ているほうが楽しめる。そもそも前作の最後の場面がそのまま今作の最初の場面になってるし。
といっても、前作は半分は親父の話だし、観ていないからとって今作が分かんなくなるなんてことはないね。 みんな今作の方が良いの?
リアリティのダンスに比べて、かなりイマイチだったんだけど。
勿論その他の旧作とは比べるまでもなく、
正直この程度のホドロフスキーを見る事になるとは。
期待が大きかっただけに落胆も大きい。
老いがそうさせているのか、期間が短過ぎるのかわからないけど、リアリティのダンスからの新しさは何も感じなかった。
撮影がクリストファー・ドイルに変わったのも影響が大きいと感じた。
全体的にリアルで綺麗過ぎて、ホドロフスキーワールドにいる感じがしないのも入り込めない要因に思う。
五部作の二作目らしいけど、どこまで撮れるかね?
頑張って欲しい反面、これが続いてしまうのは悲しい。 >>6
良いも悪いもまずは自伝という事もあってホドロフスキー独特の荒唐無稽さは
消えているという部分は確かに大きいと思う
ただ、それでもホドロフスキーの持つ類い稀なセンスは活かされてる
随所に表れる過激な表現は全く健在じゃないですか
監督の老いというより君がホドロフスキーに飽きた、固定観念で見ているって事もありうる
何でもいいけど書き込み少ないなw仕方がないけど シーン毎には確かにホドロフスキーらしさは出ているんだが、中南米独特のウェット感といか、湿度みたいものが画面全体から感じられなくなってしまった。
自分の中では小人症の女性とのシーンだけが、アウトサイダー・アートにも似た、心を揺さぶる唯一のシーンだったな。
リアリティのダンスの時はそういうシーンが、まだ所々に見られたんだけど。
poeta poetaうるさ過ぎだよ。
ホドロフスキーの映画は、これで見たのは5本目だから飽きてるなんて事はないよ。
エル・トポやホーリー・マウンテンを見た時の衝撃が忘れらないというのはあるけどね。
リアリティのダンスの時は200位には伸びてたように記憶があるけど、全然だよね、確かに。 まぁ感動しなかったものを感動しろというのは無理だよなw
言いたい事もわからんでもないし
ただホドロフスキーが常に同じ手法で映画を撮ってるわけでもない
「虹泥棒」だって立派なホドロフスキーの作品だった
ホドロフスキーを型にはめて観ていても仕方ないけど
私は今回も満足な出来だったね
「手に入れた自由も死や老いの恐怖に敵わないのかも」と思い悩むクライマックスもよかった
>200位には伸びてた
そういう尺度でしか見れないならホドロフスキーの映画は見なくていいよ あのー200はスレッドの数だぞ。君が書き込み少ない事への対応なんだが。
感動出来たならいいんじゃないかな?
それぞれ今迄見てきた映画体験の背景も違うし。
僕は虹泥棒は見ていないし。
ホドロフスキーの映像美って何とも言えない気持ち悪さとの同居だと思うが、それの対象として美しさが際立ってくる。
しかしカメラがよくなったからかはわからないが、やっぱり綺麗過ぎるんだよ。気持ち悪さが伝わってこない。
今迄と同じようなシーンは多いけど、一歩引いて見てしまうのはその気持ち悪さか伝わってこないからなんだよ。
この主因はやはり撮影が変わったからだと解釈してるけどね。 >>10
ごめんなさい
200って、それの事か
勘違いしたわ 綺麗すぎるっていうのはリアリティのダンスの魚が打ち上げられるシーンで俺も感じた
CGだったから「マジかよ、ホドロフスキーがCGかよ」って思った
デジタル技術ってホドロフスキーに限らずあらゆるジャンルの味わいを消してるな
アナログのザリザリした感じがなくなってツルッとしすぎてる
だからってフィルムで撮れとも言えないしなぁw そう、エルトポとか、ホーリー・マウンテンはフィルムならではの良さがあったんだよ。
テクノロジーの発達はそれはそれで良いんだけど、味わいみたいなものが薄れてる感じはするよね。
俺の中ではタルコフスキー、ベルイマンと並んでホドロフスキーは大切な監督なわけだよ。
だからこそ今回の映画は悲しいわけ。 映画作るには元手が要る、てところもあるしねぇ。
デヴィッド・リンチがビデオカメラ使って「インランド・エンパイア」を撮ったときも
いかがなもんかとは思った。 俺の場合はもうホドロフスキーが創る世界に自分を合わせていくスタイル
所詮は今アナログ的な工程で映画は作れないから無い物ねだり
ホドロフスキーの新作が観れるだけで死ぬほど幸せ、長生きしててよかった
アランカルなんかの漫画も凄い
ホドロフスキーに関していえば元手はクラウドファウンディングで集まってるから余り関係ない
作りたいものを作ってるんじゃないかな ホドロフスキーの新作見られただけで僕も幸せだったよ。
リアリティのダンスまでは。
自分の中ではホーリー・マウンテンからのサンタ・サングレだったので振れ幅が大き過ぎたから、それを期待してしまったのかもしれない。
代わり映えしない中での、映像の悪い意味での綺麗さが落胆の主因に思う。
このスレは皆んな肯定的だね。
それはそれで良いんだと思う。
もしかしたら次もあるだろうし。
でも配給会社の誰々の最高傑作とかいうコピーは安易に使って欲しくないな。 ここ二、三人ぐらいしかいないよ〜
まぁサンタサングレは少しウケ狙いの部分はあったから仕方ない
エルトポもそういう部分はあったんたけど露骨じゃない
俺の場合はアダンが気持ち悪いぐらい父親そっくりすぎるところもポイント高かった
自伝を読んでたから内容は想像できたにも拘わらず映像になったら全て吹っ飛んだ
映像に引き込まれていくとデジタルの綺麗さも気にならなくなっていくんだ
俺はホドロフスキーとのシンクロ率がかなり高いのかもしれない 青森の横浜町でイワシが大量に打ち上げられたの聞いてリアリティのダンス思い出したw youtubeにメイキング映像上がってるけど、ホドロフスキーは精神的に大分歳とったね。
昔の何だかわかんないけど、とんでもないエネルギッシュな感じがすっかり無くなってしまった。
これが作品に現れているのかな。
ルルーシュなんかはまだ70代っていうのもあるだろうけど、男としての欲求がまだバリバリあるエネルギーに満ち溢れてたのとは対照的だった。
語り尽くされてるけど、やっぱりDUNEはリンチなんかじゃ無くてホドロフスキーに撮って欲しかったね。 そりゃもう80も半ばだからな仕方ない
生きてるだけでも凄い
今回のポエトリーに映ってた監督も相当くたびれてた
まぁ、精神的に衰えてるとは思わないけどな >>19
あれ見て年取ったと思うのは貴殿の感覚が鈍くなった証でしょう
思い込みで肉体の老化を精神の老化と同一視してしまうぐらい >>22
思い込みねー。
逆に昔の映像と比較して、精神的にみなぎってるよね、88歳なのに、とあなたは感じたのかな?
とてもそうは見えないなー。
実際映画はリアイリティのダンスの続編という事もあるけど、新しさが殆ど無かった。
ホドロフスキーの持つ普段見ないようにしてる、人類の内部の美しさと汚さを、
気持ち悪いと感じる映像を通じて、感情を励起させることによって浮かび上がらせる映像美が無いんだよなー。
今迄見たホドロフスキー映画の中で一番残念だった。
その原因が何なのか答えがまだ出ていないけど、年齢的な要素は否定出来ないと感じるよ。 見飽きたんじゃないの
先入観もあって自分のイメージしたホドロフスキーじゃない、とかねー 年を取ると昔と同じようなエネルギーの使い方をしなくなるんだよ
そういうのを劣化と思ってるならまだ若いんだね 劣化とは一言も書いてないけどね。
単純化して言うと、攻めじゃなく守りを感じるんだよ。
ホドロフスキーは攻めて攻めて、そこに光る一筋の光が全てを氷解させ、根底に沈んでいる人間の言語化出来ない、深層心理の感情を浮かび上がらせる。
エゴでもなんでも良いけど、そこに魅了されて来た。
しかしそれが薄れてしまったと感じたわけ。 >>27
楽しめないのは残念だったね
そこは映画なんだし仕方ないです
創造作品なんて所詮は受け手次第で評価されるものだ
「これは芸術だ!」って俺が思っても世間では「エログロのカルト」と評価されてしまえば終わり
「まだまだ健在!」って俺が思っても「守りに入ってる」と評価されてしまえば終わり
同じようにハリウッド批判してる姿なんて嘲笑されてるんだろうなー悔しい! 芸術の定義は難しくて、内的必然から産まれる創作物と、狭義に定義すればホドロフスキーの作品は自分の為に撮った、エル・トボ、ホーリー・マウンテンしかなくなる。
しかし果たして商業作品として公開を前提で撮る作品に完全な内的必然などあるか?
それは無いと思う。
そういう意味で建築が芸術なのか?というテーゼと重なる。
で、ホドロフスキー映画は芸術なのか?
芸術的であるとは思うけど、僕もわかりません。
ホドロフスキーも影響を受けたアンダルシアの犬と比較してどっちが芸術的かな?
ハリウッド映画なんてクソだと思うが、商業的な興行としてのシステムを作ってくれたおかげで、ホドロフスキーのようなカルトな映画を全国津々浦々で見ることが出来ることに、感謝しなくてはいけない。
そういう映画も必要であるという事。 エルトポも「西部劇が流行ってるから」っていう理由で作ってる
自分のために作る映画って何だろうな〜
ロリコンやら欠損、フリークスを出すのが芸術ってわけじゃないし
世間ではセックスばんばん描くのが芸術みたいな部分はあるけど違う気もする
裸婦絵、裸婦像も見ようによってはポルノ
少なくてもホドロフスキー作品は上品じゃないのだけは確かだな
かなり客を選ぶ トリアーなんかは本当にポルノ映画撮っちゃったしね。監督自らそう言ってくれた方が潔い。
トリアーの代表作であるダンサーインザダークは名作だとは思うけど二度と見たく無い映画の一つだね。
この監督とは感性があわない。
裸婦像等が芸術だ云々の話しはただの言い訳に思えるね。エロスをただ表現したかっただけ。
しかしそのエロスの感情が作品を創作する人々の原動力になっている事は、洋の東西を問わず不変である事もまた事実だし。線引きが難しいね。
ダリ展の時に久しぶりにアンダルシアの犬を見たけど、勿論訳がわからないんだが、何だか凄いんだよね。同じ年に公開されてるカメラを持った男と含めて90年前に既にこんな作品が出来上がっているのを見ると、現代はただのコピペか、と思う時もある。
ホドロフスキーの下品というか下劣さが今回は足りないんだよなー。
だから感情が揺り動かない。
作品を見ながら客観視している自分が居たホドロフスキー作品は今回が初めて。 >>32
「洋の東西を問わず」なんて表現使うところみると相当文章を書きなれてる方のようねー
アバンギャルドなら何でもいいわけでもなくホドロフスキーの感覚だけが自分の感性に響いた
自分にとってホドロフスキー作品の下品さ、下劣さって絶対的に必要な要素でもない
エンドレス・ポエトリーは過去の作品で使った演出がなかったのも逆によかった
(リアリティのダンスにおける歯の治療シーン→サンタサングレの刺青彫るシーン) 嫌味だなー。
そういう痛い映像では無いんだよなー。
リアリティのダンスで言えば、オペラ歌手であるパメラ・フローレスの放尿シーンみたいな、日常で無さそうで、ありそうな日常と非日常の境界線をエグい表現で炙り出すのがホドロフスキーであると思う。
モラルとインモラル、健常者とフリークス、ヘテロセクシャルとホモセクシャルの対比も同じで、その境界線をエグさを用いた映像表現で炙り出している。そこがホドロフスキー監督の魅力かと。
今回のエンドレス・ポエトリーの時代のホドロフスキーは比較的幸せな幸せな時代だったのかもね。
パブロ・ピカソが青の時代からバラ色の時代に変遷したみたいに。
個人的にはピカソの傑作は青の時代の絵画だと思う。 嫌味でいったつもりなかったですよ
まぁエグい表現を使う時は、そういう必要がある時じゃないかしら
何でもかんでもエグい演出をぶっこめばホドロフスキーらしいっていうのは違う
そういう過激な表現だけがホドロフスキーってわけじゃないと思う
これの前に「虹泥棒」見たから、そう思えるのかもしれないが
確かに今回はホドロフスキーが覚醒したところだから幸せな時代なのは間違いない 虹泥棒は未見なので、今度ブルーレイでも買ったらそれについてもコメントします。
君の好きなホドロフスキーは、映像表現以外では何処が良いと感じているんだろう? ストーリーとか演技とか神に対するアプローチなのかな キリスト教(カトリック)については、結局我々日本人には真の意味での理解は不可能だと思う。
同じカトリックでも中南米諸国は、独自の死生観が融合して、独特な変化を遂げている点で非常に面白い。
その影響の元での独特な宗教表現がホドロフスキーにも見られるから、面白いのはわかる。
この辺は専門家がいれば教えて欲しいが、現地人が殺されまくって白人しかいないアルゼンチンや、様々な移民や強制的に連れてこられたアフリカンとの融合が進み過ぎてるブラジルにはあまり見られず、
メキシコやチリは良い意味での文化的融合が見られるのでは無いかと考えている。
ちょっと違うがホドロフスキーを見ると、フリーダ・カーロの絵画に通じていると感じる事が多い。 いろいろと役に立つパソコン一台でお金持ちになれるやり方
時間がある方はみてもいいかもしれません
ネットで検索するといいかも『蒲原のロロムムセ』
FRYZ7 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています