家族の群像劇である。嘘を吐いたり被害妄想を膨らませたりする大人たちと、自分勝手で意外に強かな子どもたち。父親や母親と息子、夫婦と隣人夫婦、夫と妻。それぞれが互いに不信感を募らせて、関係性が危うくなる。しかし中には常識を持つ大人たちもいて、崩壊しそうな関係を執り成そうとするが、一度でもヒビの入った関係は、二度と元には戻らない。
 被害妄想は恐ろしい。正常な判断ができなくなる。戦争を始める人間たちの動機の何割かは被害妄想に由来すると思う。他国が攻めてきたらどうするか。そう考えて軍事に金をかける。しかしいつ攻めてくるか分からない。ならば攻められる前に攻めてやろう。すでに冷静さを失っている。

 娘が被害を受けたかもしれない、あるいは父親からずっと被害を受けてきた。いずれも妄想である。しかしその妄想に支配されてしまった人間は、もはや歯止めが効かない。いつまでも相手を恨み、憎悪し続ける。人生は大幅に狭められるが、そんなことを理解できる精神状態にない。
 反論ができない正論を言い続ける父親は、人間の愚かしさを理解していない。裁判官は現実よりも想定の中で生きている。法は理性だ。理性から逸脱しないことが我々の道だと説かれても、息子には父親が自分を追い詰めているとしか感じられない。父親はそれを自覚しないままだ。
 夫の出張が本当に仕事だけだとは、妻は考えていない。性欲の強い夫が長期間の禁欲生活ができるはずがない。疑念が浮かんでも、否定するしかない。そうしないと生活が危うくなるからだ。騙されているかもしれないという被害妄想は、次第に妻の精神を蝕んでいく。

 本作品は愚かな人間たちを描いているが、決して他人事ではないと思う。同じような愚かさは誰もが持っている。かろうじて理性によって抑制しているが、少しでもタガが外れたら、何をしでかすか分からないのだ。被害妄想の恐ろしさはその不寛容にある。他人を許さない。そこに人間の不幸があるのだが、人類はいつまでもそれが理解できない。