【新スレ】ルートビヒ・バン・ベートーベン【誕生】
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ルートビヒ・バン・ベートーベン
所詮はカタカナ。
とりあえず伝わればなんでもよろしい。
表記にこだわるのはつくづくアホらしい。
だからベートーベンという表記を貫きたいです。
このスレでは和やかにベートーベンを語っていきましょう。 さあ、そろそろみんな気がすんだかな?
スレ主は
語にこだわらず、ベートーヴェンを語りましょうなんだけど、、、つことで
ベートーベンの弟子 はチルニー
>>103
何をおっしゃる
ドビッシーは田園批判しながら
結局それに習って海つくったんだよ ドニー・ハサウェイ
パット・メスィーニー
セローニアス・マンク チャールズ・デュトイト
ガンサー・ハービック
ニック・ハーノンコート
昔アメリカ人がそう呼んでるの聞いたことがあるが誰のことやねんと思ったわ >>109
アメリカに移住したシェーンベルクも晩年にはショーンバーグとか名乗ってたんだっけ? ミヨー:アメリカでミルホード呼ばわりされたことあるやで
オネゲル:ワイなんてホーネッガーやで?旧東独の書記長みたいやろ
天の声:今話題の日大から名誉博士号もらわんといかんな
オネゲル:嫌やー、ブレジネフにベロチューされるー
H音恐るべし、アメリカ人恐るべし ところで一番カナ表記が難しいのはデンマーク人じゃないかな
ガーデとかゲーゼとかガーゼとか
どれが一番近いのとデンマーク人に聞いたらどれも違うと言われた
実は英語圏でもデンマーク人については統一感がない
例:ダウスゴー(BBCスコティッシュ)はそのままダウスゴー、
だけどセナゴー(BBCウェールズ)は読み下してソンダーガード オランダにはスケベニンゲンという地名があるのである。
チャーミングの極みだ。 オランダ語もカナ表記が難しい
「スケーベ人間」で十分通じるけど敢えて文字起こしすると
「シゥヒェーフェニングェン」(これを高速で読む)
昔ドイツ人スパイを見破る時「お前これ読んでみろ」とやってたらしい
そういえば王子ホールの近くにスケベニンゲンという名店があるんだが
なぜか南イタリア料理専門店
コンセルトヘボウも同様に「コンシエルトヒェブォウ」だが、
運ちゃんに言わせると「普通にコンサートホールでいいと言えよう」
さて、今日はハイティンクのベートーヴェンでも聴くか フルヴェンだかなんかのDVDを見てたら
字幕が「ホーネッガーの太平洋231」となってて吹いたことがある そういやベートーヴェンもといベートーベンもオランダ系の姓だっけ >>118
それ見たことないそこだけ見たいw
ググったら「奥乃格著名的火車音楽 太平洋231」
ってのが出てきた
「オネゲル」が日本酒の名前みたいになっちゃった
「火車音楽」の部分にえも言われぬ力強さを感じる ドレスデン・シュターツカペルレ
って書いてあるレコードを持っています レナード バーンステインと書いてある
叔父の遺品があります すごくおもしろい在宅ワーク儲かる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
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NJG ほるすと すたいん
おとまる すいとな
えるべると ぶろむすてと
ぼるふがんく さばりっす
NHK交響楽団のめいよしきしゃでまとめてみた ボルフガング・アマデウス・モーツァルト
とは書かないのは何故? >>133
のんのん
モーツァルトではなく
もーつあると
ですよ 一般人はベートーベン
カッコつけたいクラヲタはベートーヴェン
格調高く、見栄えのよさで恍惚に浸れるのなら、それでいいんではないのかい。
日本語の幅の広さ、気まぐれでもあるしね。 一般人はばよりん
カッコつけたいクラヲタはヴァイオリン
格調高く、見栄えのよさで恍惚に浸れるのなら、それでいいんではないのかい。
日本語の幅の広さ、気まぐれでもあるしね。 おれなんかは日本語で話す時も
vを使ってベートーヴェンとかヴァイオリンとか言ってるわ
普段からエレヴェイター、レヴェルという発音で言う
キザかなハハハ ちなみに「ギヨエテとは俺のことかとゲーテ言い」のオーウムラウトの発音だが
グーテの表記が近いかと思う
カール・ベームよりはカール・ブーム
エスターライヒよりはウスターライヒ 山本伸一は、二十七日、文部省を表敬訪問し、フレッド・ジノワツ副首相(文部相)と会談した。
彼は、後に首相となる。
ジノワツ副首相との語らいでも、ウィーン国立歌劇場が日本で公演したことが話題にのぼった。
伸一は、「これからも、文化・教育の交流を通して、世界の平和に貢献していきたい」と、平和への信念を語った。
その足で彼は、国立歌劇場から数分のところにある、ベルベデーレガッセ街にある永村嘉春のアパートを訪ねた。
会場として使われている部屋は、十数畳ほどの広さであり、ここがウィーンの活動の拠点でもあるという。
家族は、夫妻と七歳の長男、四歳の長女である。
質素な部屋であった。
しかし、この部屋こそが、オーストリア広布を担う人材の揺籃となり、幸と平和の新しき民衆史が織り成されていくことになるのである。
伸一は厳粛な気持ちで、永村の家族や居合わせたメンバーと勤行し、皆の健康と成長、オーストリア広布の伸展を祈った。
“幸福の凱歌を、声高らかに響かせてほしい”と。
それから近くの庭園で、皆と記念写真を撮ったあと、ハイリゲンシュタットにある楽聖ベートーベンの記念館を訪れた。
ここは、ベートーベンが住んだアパートで、難聴という絶望の淵に立った彼が、三十一歳の時、弟たちに宛てて遺書を書いたこ
とから、“ハイリゲンシュタットの遺書の家”と呼ばれている。
二階の二部屋だけの小さな記念館である。
この家を三十五年間にわたって守り続けてきたという老婦人の案内で見学した。
部屋には“遺書”の複製も展示されていた。
音楽家でありながら、聴力が失われていったベートーベンは、希望を失い、自ら命を絶とうとさえ考える。
彼は、この“遺書”に、「私を引き留めたものはただ『芸術』である。
自分が使命を自覚している仕事を仕遂げないでこの世を見捨ててはな
らないように想われたのだ」(注)と記している。
使命の自覚こそ、いかなる試練にも打ち勝つ力だ。使命に生きる時、無限の勇気が湧く。
小説『
注 ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』片山敏彦訳、岩 ベートーベンのアパートを、山本伸一は丹念に見て回った。
苦悩と戦いながら、優れた作品を生み出していった仕事部屋も見学した。彼の肖像画も飾られていた。
ベートーベンの作曲にかける執念は、すさまじいばかりであったといわれる。
一つの小節にも徹底してこだわり、納得のいくまで、修正に修正を重ね、十数回も書き改めたこともあった。
彼は、ピアノ奏者としても高く評価されていたが、その演奏は、流麗さを求めるものではなく、魂を叩きつけるような、激しく、力のこもったものであった。
部屋に置かれていたピアノも、木目の見える、頑丈そうなピアノであった。
ベートーベンは述べている。
「僕の芸術は貧しい人々の運命を改善するために捧げられねばならない」(注)
彼は、上流階級のための音楽ではなく、民衆のため、人間のための音楽をめざした。
このあふれ出る一念が、彼を楽聖たらしめていったのであろう。
崇高なる目的に生きる時、人間に内在する力が引き出される。
このあと、伸一は、丘の上にあるレストランで、メンバーと夕食を共にしながら懇談し、オーストリア本部の出発を祝った。
彼は、本部長になった永村嘉春に言った。
「滞在中は、本当にお世話になったね。広宣流布は、長い戦いだ。無理は長続きしないものだよ。
知恵を働かせて、よく睡眠をとるように心がけ、体に気をつけるんだよ」
伸一は、永村が昼間は一行に同行し、夜遅く職場に戻り、仕事をしていたことを知っていた。
しかし、永村は、そんなことはおくびにも出さなかった。中心者の彼に、この誠実さがある限り、オーストリアSGIは、やがて大きく発展していくだろうと思った。
仏法は、生命の因果の法則を説いている。長い目で見た時、勝利を収めるのは誠実の人である。
人生にあっても、広布にあっても。
暮れなずむ空の下を、ドナウ川が静かに流れていた。二十一世紀へ向かうかのように。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています