ブルーノ・ワルターPart9
特にモーツァルトの指揮が得意。 ベートーヴェンの田園は名盤。 マーラーの弟子。 大巨匠ブルーノ・ワルターについて語りましょう。 前スレ ブルーノ・ワルターPart8 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/classical/1588205234/ 210:名無し募集中。。。:2021/02/18(木) 16:04:32 スレ立て代行よろしくお願いします。 【板名】クラシック 【板URL】https://lavender.5ch.net/classical/ 【スレッドタイトル】ブルーノ・ワルターPart9 【名前(省略可)】 【メール欄(省略可)】 【本文】↓ ぼくとワルターの魂の文通は全世界のワルターファン垂涎の的といえよう >>4 で嫌がらせにでもなったと思ってるなんて哀れだな コロムビア響のレベルの低さにはガックリする 小編成の臨時オケだけにそれが明確にマイクに録音されている K MAYERの24bit Remaster De Kukkiri! Heboi CBS orch !!! ニューヨークの冬は寒いので、コロムビア響のレベルの低さが目立つのだろう。 モーツァルト未来永劫判らん証拠! > > ↓ > > > > 391 > > > > > > > > > > > あはは、ばかじゃねえかw > > > > > > 君はグールドの音は死んでも理解できないし > > > > > > とにかく必要ないからきかなくてよいよ。 > > > > > > グールドは作曲家ではないしあんなものはお遊び。 > > > > > > しかしグールドは作曲家の精神、曲の構造、何を表現しているか、人間の恥のようなものにも過剰に敏感であり、特にモーツァルトに関してはシアトリカルな部分が耐えられないと言っていた。俺にはよくわかるなあ、グールドの気持ちが。 > > > > > > 俺も魔笛のあの有名なメロディとか大袈裟でくだらないと思うし、恥ずかしい。 > > > > > > おそらくすぐ感情的になり逆上する人間だろモーツァルトは。 > > > > > > 俺はモーツァルトの曲は全オペラ含めほとんど聴いているが > > > > > > つまらない曲は大量にある。しかし > > > > > > モーツァルトはバッハの次に好きだし > > > > > > モーツァルトのかわいい曲は好きだけど、 > > > > > > グールドは幼稚な人間ではなかったからね。 > > > > > > ハイドンありきだろ、モーツァルトはあまりにも > > > > > > 過大評価だよ。 > > > > > > ただ他の作曲家ではありえないほど凄いメロディを持っているのは > > > > > > 凄いと思うよ。羊かいのアリアとかミサ。ピアノ協奏曲とか交響曲は飽きてしまったな、単純すぎて、あんなメロディにうっとりしてた20代前半の若き自分が懐かしいw > > > > > > メロディは所詮飽きる。 ワルターといえばコーホーなのだ コーホーのおかげで日本でワルターの名が知れ渡ったのだから 前スレより 12 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/01(金) 07:13:39.47 ID:2XdTT1w+ ワルターの名を日本に浸透させたコーホーの功績は大きい 14 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/01(金) 09:43:01.36 ID:Fmqq+aeW コーホーのおかげでワルターの良さを知った 144 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/06(水) 16:43:13.14 ID:C3gb4JNe ワルター支持者を増やしたのはコーホーの功績が大きい 159 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/07(木) 08:20:10.79 ID:9mvsVZ2H コーホーがいたからこそワルターのレコードが売れたんだ 254 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/12(火) 06:54:42.28 ID:5UamOHr1 ワルターにはコーホーがつきもの それほどクラオタにはコーホーの名が定着している 338 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/18(月) 09:07:48.30 ID:z37Z55gS 日本コロムビアはコーホーのおかげでワルターのレコードが売れた 575 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/06/12(金) 19:20:55.82 ID:su5lyAWp コーホーのおかげで日本ではワルターファンが増えた 649 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/06/22(月) 06:36:46.61 ID:bn68tF2f コーホーがいなければワルターはこれほど知られていなかった 663 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/06/23(火) 06:49:58.40 ID:729d6xWq 日本で人気があったのはトスカニーニとフルトヴェングラーだけ コーホーがワルターの人気をつくりあげたんだぞ 959 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/08/14(金) 17:46:05.12 ID:H5NJj/Dm コーホーなくしてワルターは語れない ワルターの本を書いた宇野功芳こそワルター評論の第一人者と言ってよい 米コロンビア初期のステレオ録音で定番を出したのがまず第一の理由。 コーホーの批評活動はそれに被さる形で勢いに乗ったといえよう。 それより前からワルターに目を付けてたというのは中二病の戯言。 コーホーはSP時代のVPOとの録音をいちばん高く評価していた もっとも、ワルター/ウィーンの復刻盤はあまりにも音が貧しく、 長い間、ステレオ盤を「田園」のベストに挙げてきた〜宇野功芳 2001年 大地の歌はSP、モノラル、ステレオと3回も録音している それぞれ持ち味があっていい ワルター/VPOの戦後ライブはこの他にある? 1948 マーラー復活 1950 マーラーNo.4&エグモント 1952 マーラー大地の歌、モーツァルトNo.40 1953 ブルックナーNo.9 1955 ウィーン国立歌劇場再建50周年:ブルックナー:テ・デウム、ベートーヴェン第九 モーツァルトNo.38&マーラーNo.4 1956 モ−ツァルト生誕200周年:モーツァルトNo.25&レクィエム 1960 マーラー生誕100周年:マーラーNo.4、シューベルト未完成 宇野先生のワルター本はこの他にある? 名指揮者ワルターの名盤駄盤 (講談社プラスアルファ文庫) 宇野功芳編集長の本 没後50年記念 ブルーノ・ワルター (ONTOMO MOOK) ワルターはニューヨークが気にいったんだと思う だからニューヨーク・フィルの録音が一番いい >>29 ステレオ録音の復活、未完成、大地の歌 このへんは有無をつけれない演奏ではなかろうか 第9の第四楽章、コリオラン序曲も実体はNYフィルだぞ >>31 過去スレ読んでないのか 読んだのに忘れちゃったのか コーホーも第九とコリオランはニューヨークだと言ってるじゃん このバカはそれが理解できないとみえるw ワルターの世界的権威である宇野先生がそう仰っているならファイナルアンサーでしょう 第九4楽章NY録音だったらソリストもう少し何とかならんかったのかと思うよ。 ステレオの「大地の歌」は他の評論家たちはボロクソに酷評したが コーホーだけは高く評価した コーホー コーホー うっせぇ うっせぇ うっせぇわ だっせぇ だっせぇ だっせぇわ 柴田南雄の大地の歌ベストは35年ライブ 戦後のワルターの演奏は一切認めなかった なくなったの1996年だし、現在の状況とは違うんじゃないかな。 GRシリーズとかセブンシーズとか同じくらいの音質だったし コーホーでさえ52年ライブを50年間夢に見ていたというくらいだし。 60代に入ってアメリカに移住してからのワルターの芸風を トスカニーニの真似事だとか言うのは何かが屈折している。 例えばオットー・ヴァイニンガーのような差別的な見解のなかで ユダヤ的=女性的ともいえる官能性から普遍的な美へと 脱却してく過程のなかにあるとみられるからだ。 この性倒錯的な人間像をシェーンベルクは表現主義時代に モノドラマ「期待」と「幸福の手」で探求したが これらの初演は1920年代、シェーンベルクが12音主義を標榜して その音楽に至る過程を見直すことから派生していた。 マーラーから薫陶を受けたワルターとシェーンベルクという2人の道筋の比較は 当時話題となったユダヤ=ゲルマン的な芸術性の融合をめざして歩む中継点で これに米国で映画音楽家となったコルンゴルトの復興などを交えると ワルターの米国での活動が商業主義だという意見はけして出ないと思う。 ワルターはステレオ録音を残せてよかった幸運な指揮者 オケが三流寄せ集めの編成でも不満はいえない ベト全では田園の評判がいいが2番もベストといえよう >>46 こういうオケ評価を書き添える人は音楽が分かっていない場合がほとんど(例外は200億分の1以下だ)。もちろんオケについても。 コーホーはステレオのブラ4はフルベンと肩を並べる名演と評価した >>47 2番はビーチャムで好きになって、ワルターで更にお気に入りになったなぁ。その後は全集買うと必ず聴く曲に仲間入り 映画「カーネギーホール」にも出演したワルター また見たいな 新世界のような不得手なスラヴ音楽を録音したのはなぜか 買い手をそそるためなのか コーホーは年度ごとに評価が変わるから信用できない SP時代のマーラー9番がいい例だ >>56 ドボ8いいよね むしろ得意な部類の作曲家なのでは シューベルトは3作品のみしか残さなかったのが惜しい 大地の歌と未完成はわざわざLSからNYに行きNYフィルと録音した 健康のためにNYからLSに移住したワルターだが 時分の最も愛す得意な曲だけはNYでという彼の気持ちが痛いほど伝わってくる by コーホー 「この間に体を壊し、肺結核で闘病生活を送った宇野は1952年、敬愛する指揮者ブルーノ・ワルターに手紙を出したところ、ブロマイド付きの返事を得た。 これがきっかけとなり、『ディスク』において「ブルーノ・ワルターの芸術」を執筆し評論家としてデビューすることになる。」 評論家としてデビューすることになったが、わたしは合唱指揮者だ。 >>62 なんで復活が抜けてるんだよw NY録音は、ワルターがニューヨークフィルで演奏した曲をそのついでに録音しただけで それ以上の意味はない 復活はロスに移住する前に録音されたものだろ 本当にお前はバカなんだな >>69 お前はひょっとすると、ワルターがニューヨークとかボストンあたりに住んでいたと思ってるのか バカはバカなりに少しは調べろ https://www.naxos.com/person/Bruno_Walter_31907/31907.htm >>62 by コーホー って本当に宇野はこんなこと言ってるのか? 出典は? 本当はウィーンフィルで録りたかったというのは公然の秘密 >>74 だから出典を示せと言っているんだよボケジジイ コーホーが言うんだから間違いないだろ 働いたこともない世間知らずの低能児め レコ芸やレコード会社の御用評論家のセールストークや与太話を 鵜呑みにして信じて疑わない老害 ああ言えばこう言いでオーム真理教の世捨てアホ信者と同じ もはやただの穀潰し >>77 ・コーホーは○○と言っている ↓ ・どこでそう言っているのか ↓ コーホーがそう言っている なんだか知らんが空前の馬鹿があらわれたな >>79 そのひと、クラ板の有名な荒らしの爺 バーンステインが口癖 低能児は自分の考えが正しいと思ってる世間知らずの引きこもり 社会の荒波にもまれたことのない糞ガキといえる 宇野先生はワルター研究の世界最高権威ですから ワルターに関する彼の記述はすべて真実なのです。 知らなかったとは言ってほしくありません。 ・コーホーは○○と言っている ↓ ・どこでそう言っているのか ↓ ・コーホーがそう言っている >>83 管見で恐縮だが、ワルター関連の英文資料にKoho Uno の文字を見たことがない。著作がReferenceにあげられたことも見たこと無い。 ただし、ワルーノ・ブルターについての研究書のいくつかに、UnoだったかUnkoだったかの記載があったように思うが、不確かである。 ワルター研究の世界最高権威の研究書 Unkoだったかの記載あり ワルーノ・ブルターについての研究書のいくつかに、 UnoだったかUnkoだったかの記載があった ・コーホーは○○と言っている ↓ ・どこでそう言っているのか ↓ ・コーホーがそう言っている これぞ低能児の理論 早速食いつく低能児 図星なもんで歯ぎしりしてる低能児w >>92 食いつく時間じゃなくて内容を問題にしなさい >>62 の「 by コーホー」って 本当に宇野はこんなこと言ってるのか? 出典は? すぐにキレる低能児 おまえが書籍に無関心な低能児であることは分かった すぐだって ゆっくりキレたらいいのか本も読めない低能くん 正論にビビって キレてるとか誤魔化す低能クッソワロタ >>94 講談社+α文庫版「名指揮者ワルターの名盤駄盤」320ページより 1958年からコロンビア交響楽団を指揮しステレオ録音を開始したワルターだが、 この「未完成」と「大地の歌」だけはニューヨーク・フィルを使用している。 自分の最も愛し、また得意とするこれら2曲だけはニューヨーク・フィルで、 という彼の気持が痛いほど伝わってくる。 おまえの>>62 の「 by コーホー 」と称する 大地の歌と未完成はわざわざLSからNYに行きNYフィルと録音した 健康のためにNYからLSに移住したワルターだが 時分の最も愛す得意な曲だけはNYでという彼の気持ちが痛いほど伝わってくる とは随分違うんだがこれはどこから引用したのか教えてくれよ 「健康のためにNYからLSに移住した」ってどこで宇野が言ってるんだよ コーホーの書籍も読まないでうそばかりつく低能児 ほんとうに知能が低い低能児らしいw >>101 >>100 の引用が「うそ」だと言うのか? ならば正確な引用をしてみろ 待ってるぞ 宇野のワルター本を読まずしてワルターを語るなかれ これ常識 クラシック音楽を愛する者はそのくらいは知らなくてはだめだ >>101 どうしたんだよ 人をうそつき呼ばわりして逃げるのか 早く引用し見せろよおい 「健康のためにNYからLSに移住した」ってどこで宇野が言ってるんだよ すぐに食いつく低能児 てめえの能なしぶりをさらけ出す低能児w >>110 だから「健康のためにNYからLSに移住した」ってどこで宇野が言ってるんだよ しつこい低能児だな、 昭和47年11月20日発売のコーホーの書籍を探して読み直せ この低能児め グーの根も出ないもんでくだらないことを貼りつける低能児 知能の低さをさらけだしてるなw >>112 http://imepic.jp/20210302/706340 昭和47年11月20日第一刷発行 ブルーノ・ワルター レコードによる演奏の歩み 192ページの画像だ どこにも「健康のためにNYからLSに移住した」などと書いてないようだが? 別のページに記載があるなら教えてくれ >>117 こいつ日本語の意味も理解できないチョン公だよ とにかくしつこさが異常だもの 日本人ならこんなにしつこく粘着しない >>119 単に「健康のためにNYからLSに移住した」ってどこで宇野が言ってるかを示せばいいだけじゃん おまえはなんでそんなに頭が悪いの? すみませんでした 功芳先生のご本を読んで 出直します >>119 しつこさが異常とは ↓ こういうものを言うんだ 前スレより 12 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/01(金) 07:13:39.47 ID:2XdTT1w+ ワルターの名を日本に浸透させたコーホーの功績は大きい 14 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/01(金) 09:43:01.36 ID:Fmqq+aeW コーホーのおかげでワルターの良さを知った 144 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/06(水) 16:43:13.14 ID:C3gb4JNe ワルター支持者を増やしたのはコーホーの功績が大きい 159 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/07(木) 08:20:10.79 ID:9mvsVZ2H コーホーがいたからこそワルターのレコードが売れたんだ 254 名無しの笛の踊り[] 投稿日:2020/05/12(火) 06:54:42.28 ID:5UamOHr1 ワルターにはコーホーがつきもの それほどクラオタにはコーホーの名が定着している コーホーはワルターのワーグナーをまったく評価しなかった コロムビア響という三流のオケが悪かったせいもあるが ワルター自身も残りの音楽人生すべてを 技術のしっかりとしたNYPOとステレオ録音したかっただろう それを思うと残念でならない コーホーのクナとシューリヒトへの愛着を結び付けるブルックナーの遡上には ワルターのモーツァルトがあるだけだ。 コーホーの好きな指揮者はフルベン、クナ、ワルター、シューリヒトだけ メンゲルベルク、アーベントロート、ムラヴィンスキー コーホーが嫌いな指揮者はなんたってトスカニーニとカラヤンなのだ みなさん、いろいろ仰っていますが、ワルター/コロンビア響の ブラームス第四交響曲は、私の宝です。 フリーメーソンのための葬送音楽はコーホーが絶賛した名盤 日本コロムビア時代の盤質はよかった ソニーに販売権が移ったときには音質も悪くなり買い手をがっかりさせた 米コロンビアCD全集へのお布施の準備は済んだのか? >>147 弦チュロ、ねぇ。そんな曲あったっけ。幻の曲を褒めるコーホーって。 いや、分かってますよ。 昨日のと違って、ウケ狙いの下心が見えて来たなぁ い、いまいち・・・だな。 残念www >>156 何が残念なんだろうね、この人の今現在。ここでは暴れられなくて残念の意味でしょうか? ーーーーーーー 何も楽器が演奏できないなら音楽を語る資格はない 2 963 :名無しの笛の踊り[]:2021/03/05(金) 09:43:21.87 ID:OMWyK6VB この挑戦クソじじい、完全にケツまくった感じあるなぁ。IDすら変えなくなった(笑) 滑稽かつ憐れ。 早く首つってあの世逝け!(笑) クラシックってキリスト教徒になった方が楽しめる? 669 :名無しの笛の踊り[]:2021/03/05(金) 09:50:26.06 ID:OMWyK6VB 相変わらずの愚か者(笑) そうやって『かーちょえぺーぺ』連呼すると、カーチョエペーペ狐狸庵爺 って名前が付くぜ。挑戦人はまったく・・・。 いま聴いている曲を書込んでみるスレ その142 900 :名無しの笛の踊り[]:2021/03/05(金) 12:03:56.88 ID:OMWyK6VB Dmitrij Kitajenko Tschaikowsky Symphonie Nr.2 Gürzenich-Orchester Kolnzenich-Orchester Koln 何も楽器が演奏できないなら音楽を語る資格はない 2 969 :名無しの笛の踊り[]:2021/03/05(金) 12:13:38.59 ID:OMWyK6VB 人の意見に罵倒を浴びせるだけ。いかに恨みつらみの卑しい環境で生きて来たか証明を自分でしているという、実に滑稽な、無教養なオッサン。 存在自体が不快の塊。 こいつ自身は、憐れにもそんな自覚は全然ないのだから(笑) 早くこの世から消えろ。善良な人達のために。 何も楽器が演奏できないなら音楽を語る資格はない 2 971 :名無しの笛の踊り[]:2021/03/05(金) 12:17:39.97 ID:OMWyK6VB ケッ!気まぐれにID変えたりよ。バッカじゃねえの。 何も楽器が演奏できないなら音楽を語る資格はない 2 972 :名無しの笛の踊り[]:2021/03/05(金) 12:19:15.78 ID:OMWyK6VB こうやっていると、 このカーチョ狐狸庵の思う壺。 あほくさい。あーばよ。 >>157 別人誤認で結果的にウソつきはお前ということだよ。千里眼もないくせに。あ、なんでも良いのか、嘘さえつければ、低能児と書き込めれば。可哀想すぎる。 図星をつかれたもんで発狂する低能児 少しは世間の荒波に揉まれてこいよ 世間知らずの引きこもりの低能児 これ以上、両親に心配かけるなよ低能児 >>160 認知認識機能にかなり問題抱えてるのか、わざと強がりしてるのか、どちらにしても、リアルではとてもおとなしい奴なんだろうな。いつもビクビクして暮らしてるって?しょうがないよ、たぶん前世が踏み潰された虫だからだよ。 >>158 ここまで言われているヤツの方に、むしろ興味がわくな(笑) バーンステインはワルターが大地の歌をNYで録音したときに会っている タバコを持ったままでな 俺は本を読んだり調べたりしていろいろ知ってんだぞ(チラッ あのへそ曲がりのチェリビダッケもバーンステインが亡くなったときには バーンステインの死を悼んだ おいおい後任のミトロプーロスのことを忘れていないかい 指揮者、ヘルムート・ビンシャーマンさん死去 100歳 2021/3/5 19:00 バロック演奏の大家で、バッハ演奏の数々の金字塔を残したドイツの指揮者、オーボエ奏者のヘルムート・ビンシャーマンさんが、ドイツ・ボンの自宅で亡くなっているのを4日、家族が確認した。100歳だった。 常に音楽とともに ビンシャーマン氏、百歳のメッセージ 1920年、独ミュールハイム生まれ。ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のオーボエ奏者を務め、60年に室内オーケストラ「ドイツ・バッハ・ゾリステン」を創設。芸術監督となり、バッハ演奏の権威へと育て上げた。音色の温かさ、人間味あふれる表現に定評があり、世界各地の楽団で指揮をする一方で、指導者としても宮本文昭ら世界中で数多くの後進を育てた。 初来日は62年。大阪フィルハーモニー交響楽団、東京都交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団などと共演。2010年に東京で90歳を祝して有志の音楽家と「マタイ受難曲」を、12年に東京、大阪で「ヨハネ受難曲」を率いた。100枚を超えるCDをリリースしている。 ワルターはマタイをワンシーズンだけ取り上げたが メンゲルベルクには到底かなわなかったといえよう コーホーはワルターの最高傑作は 戦前のVPOとのハイドンの軍隊 48年のベートーヴェンのミサソレムニスのライブを挙げている ウノ・コーホーとブルーノ・ワルターは 分離して語れないものでしょうか? ここで、宇野さんの話題はもう結構ですけど。 ワルターのマーラー演奏には弊害もあって クレンペラーが「ワルターは道徳主義者で、オレは不道徳主義者」 と言ったような、ヒューマニズムの面だけを強調するところがある。 特にワルターが録音しなかった3,6,7,8番の冷遇さは マーラーの時代の到来を半世紀以上遅らせたように思う。 >>174 賛成だね。「コーホー」ネタは 【文通】ワルターとコーホー【弟子】 でやってもらいたい。 ワルターとコーホーはきっても切れない間柄といえよう コーホーのおかげで日本にワルターファンが増えたことは事実 それと同時にクナファンも増やしたんだからすごい コーホーがクラオタから好かれる理由がわかる いいトシしてコーホーの影響を引きずったまま離れられない奴は低能児と言われても仕方がない プロパガンダ世代のデマゴーグの典型 個性的名演、最高傑作 マーラーの弟子(ワルター、クレンペラーなど)が ワーグナーよりブラームスの演奏に定評がある件について 誰か説明してくれ。 ワーグナー自体がユダヤ資本によるドイツ音楽界の支配を嫌って 反ユダヤ主義の音楽論をもっていたことは知られるが そもそもマーラー自身が、ウィーンでのワーグナー演奏の推進者だった。 例えば、ワルターがミュンヘン宮廷歌劇場の楽長だった時代は 第一次大戦を挟んでバイロイトが閉業していた時期だったが ワルターはワーグナー作品をよく演奏したと言われる。 マーラーの弟子のひとりのボダンツキーもワーグナー指揮者として知られ メトロポリタン歌劇場でのメルヒオール&フラグスタートの黄金時代を築いた。 どちらもウィーン宮廷歌劇場でのマーラーの助手からキャリアをスタートして やがてニューヨークに行き着いた人たちだ。 >>179 それは分かります。 しかし、川端康成の作品を読むサークルなのに、伊藤整の話しで盛り上がる様な ものなんでね。 ボダンツキーの貧しい実況録音から推察できるものは いわゆる重厚なワーグナー演奏ではなく、スマートで劇的な効果を狙ったもの。 似た演奏では、バイロイトに一度だけ出演したC.クラウスがあり ウィーン風の颯爽としたテンポのなかに、しっかり劇的な展開が盛り込まれている。 これとニューヨーク時代のワルターの演奏スタイルと照合すると トスカニーニ風というよりは、世紀の変わり目にマーラーから薫陶を受けたスタイル ということはできないだろうか? コーホーが嫌いな人はいないだろう あの熱のこもった批評には誰もが心を動かされた >>186 いちいち宇野好きカミングアウトしに来なくていい 当時の日本では無名だったクナを知らしめたのもコーホーだった それだけコーホーの残した功績は大きかった ワルターがウィーンに拠点をもってた戦前の数年間だけを 活動のピークとするのはあまりに酷すぎる。 アメリカ人の相手をしている内に音楽がわからなくなったんだろ。 バルトークもアメリカで暮らしている内に音楽がわからなくなったそうだ。 クレンペラーはアメリカでは狂人と言われていた。 自分の考えをアメリカ風に変えられなかったんだな。 ワルターとトスカニーニはアメリカに演奏活動の拠点を移して正解だった まったくひどい偏見だ。 アメリカも移民社会だからドイツ系移民もいただろうに。 でなければメトでのワーグナー演奏はあり得なかったし ニューヨークフィルにも亡命ユダヤ人が大勢いた。 ニューヨークフィルの楽員はワルターやマーラーを二流指揮者だと思っていた マーラーはカンカンになってヨーロッパに戻り、ワルターはアメリカ人に合わせてアメリカ人が喜ぶ演奏スタイルに変えたんだ アメリカ人が喜ぶ演奏スタイルって何? 例えば巨人の演奏を聴き比べても NBCやフィラデルフィアを振ったときならともかく NYPでのワルターの芸風はむしろ古典的な格調があるし アムステルダムでは失敗、バイエルンでは成功というふうに ヨーロッパのオケだからと巧くいくとは限らない。 遠山一行は 戦後のワルターは必死に無理をして音楽を作っているのがわかって痛々しかった、と書いている。 本来のワルターは超高速テンポのノンヴィブラート・ポルタメント奏法なんだよ。 アメリカに行ってから、極端に遅いテンポのヴィブラート・ノンポルタメント奏法に変えてしまった。 ワルターはウィーンフィルのワルキューレでも、メトロポリタンのフィガロの結婚・ドンジョバンニ・魔笛でもテンポが他の指揮者の倍は早いだろ。 得意なオペラでは本来のスタイルに戻っているんだ。それがマーラーから受け継いだスタイルなんだよ。 ライブでのワルターは、オケを強引に引っ張ってアッチェルランドを掛けて ところどころ転んでるところがあるな。案外、我の強い人だと思う。 アムステルダムの巨人(1947)、NYPの大地(1948)なんて フルベンもあわやと言わんばかりに荒れてる。 レブレヒトの「巨匠神話」(文藝春秋)によれば、ブルーノ・ワルターは大変な偽善者で、性格の悪さは天下一品だったらしいです。本から抜き書きいたしますと、驚くべきことに次のような言葉がでてきます。 「ワルターは、卑劣で意地悪な利己主義だった」(アンナ・マーラー) 「昔から貪欲な豚で、考えるだけで気分が悪くなる」(シェーンベルク) 「感傷的なばか」(トスカニーニ) 「ワルターは偽善者だった」(レブレヒト) 「ブルーノ・ワルターは、すばらしい指揮者がすばらしい人間でなくてもいいという、生きた証拠であった。」 あとNYPとのブラームス。これもスマートなレガート奏法を実践してる。 もともとノンビブラートのスタイルは、チェコやモラビアの四重奏団の伝統にもあって もしかすると根っ子はドボルザークが出入りしてたウィーンにも共通のものかも。 ちなみにマーラー時代のコンマスだったロゼ四重奏団のほうは アダージョだとヴィブラートをほどほどに掛けているように聞こえるんだが。 バッハとベートーヴェンで使い分けているし、良識派なんじゃないかと。 マーラー夫人とその娘たちとの確執は おそらくマーラー未亡人の恋多き人生に対する ワルターが死の床を見舞った事との美談との差について 大地の歌と第九の演奏のたびに話していたからだろうな。 他のベルクなどは、アルマの再婚についてむしろ歓迎してたし 娘の死を悼んで協奏曲まで書いているのとは大きな違いかと。 >>200 遠山のようなディレッタントの評を引用していることからもID:OiLsrf07の受け売りの底の浅いことが分かる。 あとアメリカに亡命した他のユダヤ人作曲家との距離も気になるところで シェーンベルクはおろか、初演したコルンゴルトに対してさえも 大した援助の手を差し伸べなかったようにみえる。 そもそも現代音楽には興味がなかったというべきか。 ワルターのアムステルダムでの巨人(1947)に微妙な食い違いに感じるのは 引退してまもないメンゲルベルクが託した奏法の書き込みを 必死に掻き消そうとあれこれテンポを動かそうとしてるとこだろうと思う。 というのも、マーラーは5〜8番について楽譜に書いていないアイディアを 手紙でメンゲルベルクに託すほど、緊密な仲にあったと言われ ACOのパート譜には、メンゲルベルクの独自の見解も含め 多くの書き込みがしてあり、団員がそれを血肉のように消化していたからだ。 2楽章も中間を過ぎる頃になって、ワルターも諦めがついたのか オケの自由に任せるようになって、歌い回しがこなれてきている。 最終楽章では、それが災いして統率を取らずに響きが乱れる。 (バイエルンではこうしたひねくれた態度を取らずキッチリ決めている) クレンペラーも1951年に復活のアムステルダム客演を果たしているが その堂々とした振舞いとは全く逆の態度のようにみえる。 アホの妄想独演会はもう終わったか? 出渋ってるウンチはこの際全部だしてしまって、スッキリしたら二度と来るなよ。 ttps://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/gustav-mahler-himself-in-amsterdam/ ttps://mahlerfoundation.org/wp-content/uploads/2015/01/mov1remarksmahlerandmengelberg500.jpg メンゲルベルクのコメントは、彼の作品への感謝と賞賛からだけでなく、 彼の音楽との完全な一体性から生じたものであるため、 彼が非常に真剣に受け止めたものでした。 マーラーの作曲方法を理解していたため、メンゲルベルクはわずかな欠落や 欠陥を指摘することができました。 多くの場合、いくつかの小さな調整で解決できる問題。 さらに、マーラーの作業方法には、実際に音に不満がある場合に スコアを変更することが含まれていました。彼はリハーサルのたびに変更を加え、 メンゲルベルクに直接渡しました。これらは偶発的な変更ではありません。 マーラーは、彼が指揮するスコアに何百もの音符と楽譜を書きました? 4番目には、1000以上ありました! メンゲルベルクは、新しい提案で各改訂に対応します。 彼はマーラーの友達以上のものになりました。 彼は信頼できる相談役に成長しました。 (その他、第7番の自筆譜の贈呈などの記事あり) ttps://mahlerfoundation.org/mahler/locations/netherlands/amsterdam/amsterdam-royal-concertgebouw-orchestra-rco-mahler-performances/ アムステルダムでのマーラー作品演奏記録 メンゲルベルクが第4番を録音した1930年代は驚く数の上演をしており 第8番や第7番のようなものでも定期的に演奏会に載せていた。 ワルターも1933〜38年に客演しており その中には3番の演奏も含まれている。 いつも同じこと言ってる低能児 おまえそれがウケると思ってるのかよ この低能児めが ワルターとコーホーのマーラー観は ベートーヴェンにおけるシンドラーのような役割をしたかったのかな? それだけ日本における影響が大きかったけど そこから抜け出してワルターを評価しないと本来の価値が見えない。 ワルターのモーツァルトは協奏曲の録音が意外に少なく 同じような持ち味のハスキルやゴールドベルクとは共演できていない。 唯一納得できそうなのがフランチェスカッティとのVn協奏曲で シゲティとならベートーヴェン、マイラ・ヘスとならブラームスを取るべきだろう。 ただフランチェスカッティのほうは、バックがパウムガルトナーでも良かったのでは? と思えるほど、フランチェスカッティの完成度が高い。 ttps://danielbarenboim.com/mahler-interview-for-universal-edition/ バレンボイムがインタビューでマーラーについて語るときに 質問者がワルターとクレンペラーを引き合いに出したがるのに対し アメリカでのバーンスタイン、ヨーロッパでのバルビローリという 現在に影響のあるマーラー伝道者について語りたがっているのは 案外、音楽家がみる実情を語っているような気がする。 あと、クーベリック、ホーレンシュタイン、クレツキの演奏にも言及し あえてシェルヘンやロスバウトは触れずにいるのも想定内か。 ちなみにブーレーズと共同で新しいマーラー像をというのは シカゴ響でのものを指しているようなのだが ブーレーズがウィーンで補完しながら全集を完成させた今となっては バレンボイムは少し乗り遅れたかなとも思う。 何となく感じるのは、ワルターがマーラーの悩みを癒そうとしたのに対し バーンスタインやバルビローリは、一緒に修羅の道を歩もうと考えたこと。 つまり救いようのない闇の部分にも共感しながら 私小説のような交響曲を演奏し続けたともいえる。 新しいマーラー像というのは、個人的に共感なんてなくても スコアの繊細な再現をすればマーラーの世界が自ずと表出されるという もっと普遍的な意味での演奏スタイルを目指していたように思う。 マーラーは指揮者で作曲は遊びでやっていただけだろ。フルトヴェングラーと同じだ。 名曲は第五のアダージェットだけだしね。 マーラーに執拗にこだわったワルター、バーンステイン、ショルティ みんなユダヤ人だった 「大地の歌」の初演者ワルターにとって屈辱だったろうことは 1917年にメンゲルベルクがウィーンフィルに客演した際 アルマ夫人が「告別」の自筆譜とピアノスケッチを贈呈したことだ。 謹製の箱には以下のように書かれていた。 「グスタフ・マーラーの友人/彼の作品の最も素晴らしい通訳者/ウィレム・メンゲルベルクへ 告別(大地の歌)のスコアとピアノの抜粋を1917年12月30日、アルママーラーより贈与」 コンマスのアルノルト・ロゼには「今日はじめて『大地の歌』を聴いた」と言わしめ ホーレンシュタインは、このときマーラー演奏のエッセンスを理解したと回想している。 自分こそがマーラーの最大の理解者ということを主張したいワルターにとって 意外と周囲の目は冷たかったという感じがする。 アルマ夫人のマーラー作品への思いはずっと未来を見据えていて あるいはワーグナーにおけるコジマのような役目を担っていたかもしれない。 例えばバルビローリとバーンスタインのような新進の指揮者に対し 作品への献身的な態度をちゃんと見抜いていた。 バルビローリが1959年にNYPに客演した際には祝電を打って感謝を表し バーンスタインがマーラー・チクルスを遂行する際にはリハーサルに立ち寄っている。 マーラーが生きていた時代と半世紀も経ていながらも 作品が生きて次の時代に進展していく様を見届けようといているようだ。 アルマ夫人はワルターの愛人で、ワルターの奥さんが死んだので結婚すると言われていたんだよ。 これに比べ、ワルターのマーラー演奏は「追憶」と「贖罪」に終始する。 クレンペラーがワルターを道徳主義者と揶揄したのは 死の床でマーラーの告解を聴いて、赦しを与えるような態度に現れていて 最終的にはフェリアーのような無垢な乙女の献身を待たなければ 告別は成就しなかったとでも言いたいかのようなのだ。 どうも実際には、永劫に続く人間の愚かな振舞いを受け容れたうえで 無理にあがくのはやめようということなのだと思うが それを罪悪感として抱く必要がどこにあったと言いたいのだろう? 個人的にはカフカの小説のようなバッドエンドと共通する ユダヤ・ジョークに似た自虐的な笑いが足りないのだと思う。 >227 ttps://www.alma-mahler.at/engl/almas_life/walter.html 彼女は実際、ブルーノ・ワルターが好きではなく 後にワルターがマーラーについての本を出版したとき 彼女は「単に私のことが出てないわね!」と怒鳴った。 アメリカの芸能記者がマーラー未亡人が 指揮者のブルーノワルターと結婚するつもりであるという噂を広め始めたとき 彼女は憤慨して「味気のないジョーク」と否定した。 アルマ夫人がワルターに嫉妬の目を向け始めたのは 第5交響曲の作曲のあたりからで それまで自分が一番先に聴かせてもらっていたマーラーの作曲過程を ワルターがいつの間にか家に上がって、マーラーが曲の感想を求める姿を 頻繁に目にするようなってからだという。 その後の作曲を避暑地として、別荘でするようになったのも アルマ夫人が取った策だったのかもしれない。 一方で、マーラーがアムステルダムに客演する際に メンゲルベルクの自宅に泊まって楽譜の推敲をすることには何の不快感もなかった。 違いはひとつ、ワルターは作曲活動に積極的には参加するようなことはしないが メンゲルベルクは演奏のより良い方法を提案する建設的な対話をしたからだ。 ワルターとの会話は、その点ではあまり有益とは捉えていなかったようなのだ。 このことはシェーンベルクらとの交流でも明らかであり アルマ夫人は創造的な活動をする人にいつも付き添うことを良しとしていた。 >219でバレンボイムが、こうした点を別の意味で言っていたが マーラー作品を語る人のほとんどは、音楽の効果ではなく 哲学や文学からの言葉をもって表現したがるという。 ところが、それ自体は音楽表現の何かに結びつくことはなく マーラー作品の核心をさらに判りにくくしていくと言っている。 コルトーの演奏にドビュッシーの娘が投げかけた疑問 「私の父はそんなふうにはピアノを弾かなかった」という 演奏者の欺瞞のようなものに結びつく可能性をもっているのだ。 (それでもコルトーの個人レッスンの録音は面白いのだが) これはベートーヴェンやモーツァルトのアナリーゼではあり得ないことで ブーレーズと取り組んだマーラー像の刷新の意味につながるのだろう。 あるいはブーレーズが多用したウィーンフィルの色香のある演奏スタイルを マーラー作品の肉体的な要素であるような感覚をもつ人も多いと思う。 ワルターのマーラーが、それほど長く活動してこなかったウィーンに結び付けるのは 第8番終盤のエロスの誕生という壮大なテーマの終結点でもあるように思えるのだ。 実際には、没後のウィーンにおけるマーラー演奏はそれほど頻繁ではなく もっと才能にあふれたR.シュトラウスをはじめとする大勢の作曲家がひしめいていた。 過激な行動でウィーンを去ったマーラーに対し、後任のR.シュトラウスの抜擢は サロメのような前衛音楽の覇者として見なされていただけに反対も多かったらしいが 今では押しも押されぬ管弦楽作品の大家と見なされてるし 1944年の80歳記念行事も政治的な理由だけではなかっただろう。 この点からも、ウィーンフィルの美質は、マーラーだけのものではないのだ。 この辺の勘違いもまた、ワルターのマーラー演奏に付きまとう偏見であり ワルター自身にも足枷となっているような気がする。 ウィーン的ではないワルターを批判する人々の欺瞞のように思えるのだ。 ▼低能児 215名無しの笛の踊り2021/03/08(月) 01:58:42.53ID:ft8QpgpF >>204 まさに、悪太ー 名は体を表す 233名無しの笛の踊り2021/03/09(火) 00:15:57.82ID:Gy57c17z >>216 おまえも、悪taじゃのぉ。 319名無しの笛の踊り2021/03/09(火) 00:18:50.51ID:Gy57c17z >>318 貴様のような輩には、第4波を喰らわしてやるぞ 死を覚悟せよ 353名無しの笛の踊り2021/03/09(火) 00:18:13.76ID:Gy57c17z 貴様のような輩には、第4波を喰らわしてやるぞ 死を覚悟せよ マーラーが練習魔だったとすれば、R.シュトラウスは放任主義で ウィーンフィルにとっては有難い、そして頼れる存在でもあった。 一番の問題点は、マーラー作品は些細なニュアンスの連続が その作品の性格を動機付けて進展していくのに対し R.シュトラウスは全体の構想とモチーフの関係が崩れない点にある。 なので、早くて難しいパッセージに困惑したオケ団員に対しても 比較的大らかな態度で接することができたのだ。 マーラーだったらネチネチと団員をいじめていたかもしれないし 実際に自分の意に沿わない団員はどんどん追い出していった。 実はマーラー作品の理解の遅れは、こうした性格が作品に溢れていて 神経を張り巡らさないと音形だけが無為に過ぎて次の進展を阻む感じがする。 ワルターのVPOでの「大地の歌」と第9の録音と NYPでの第5と巨人(モノラル)の録音の間に流れるのは ニュアンスの蓄積に溺れて、全体の構想がおぼろげなVPOと 細かなニュアンスは違うがマーラー作品の構造を押し出すNYPという マーラー演奏の転換点にあったのだという感じもする。 実はこの路線で巧いと感じるのはホーレンシュタインで まず大枠での構造をしっかり見据えたうえで、細部の動きに注視する 一番手っ取り早い方法が取られている。実はミスも多いにも関わらず 全体として演奏が成功しているのは、要点を得ているからだろう。 一方で、バルビローリのほうは、ニュアンスを事細かに積み重ねることで 全体の構想に結び付けることを、時間をかけて説得する方法を取る。 ベルリンフィルにマーラー作品の面白さに気付かせたのは その方法論が客観的な奏法として整理できていたことを意味している。 ホーレンシュタインはロンドン響との千人の交響曲 バルビローリはNYPとの巨人の演奏で、その視野の違いが判るが 巨視的な構想力と微視的な探求力のどちらもマーラー作品の魅力と判る。 共に1959年のライブで、発展途上にあるマーラー演奏の極意が詰め込まれている。 1960年のマーラー・イヤーにおいて一番人気は 実はミトロプーロスだったのではないかと思う節がある。 何となくワルターとバースタインの狭間にいた変態扱いされるのだが ワルターと兼任していたNYPで、ワルターに不足している構想力を 十二分に発揮していたのが、一気に花開いたというべきか。 NYP、VPO、ケルン響と、どのオケを振ってもコレストロールたっぷりの 響きの充実した演奏を繰り広げている。 1954年のワルターの巨人も、ミトロプーロスの演奏を聴けば そのお膳立てのあったことは、より一層理解が深まるかもしれない。 というのも、ミトロプーロスが整えた構成に対し ワルターが註釈を加えているようにも聴こえるからである。 翌1955年の第6のライブは、この交響曲の存在意義を確定したと言え この時代がコンサート中心で真相を明らかにしていた証言でもある。 ワルターの客演でのお膳立てが良かった例は 1950年のバイエルン国立管弦楽団との巨人で 既に各部の語法をしっかり確立したうえで思う存分振らせており どんなにリズムを動かしても、乱れの出ない鉄壁のアンサンブルだ。 当時の監督はショルティだが、後のカイルベルトでも同じ傾向があるので コンマスをはじめとする団員の結束力の賜物のように感じる。 この強みはC.クライバーとの演奏でも見せることになる。 ビチグソは続くよどこまでも。 なんか嫌なことでもあったんだろう。 可哀想な寂しがり屋だ、しばらく放置かな。 >>241 チェリストの名前かと思った あちらは Starker か ミトロプーロスが渡米したのは1936年だが 驚くことにバースタインは1938年から煩雑にミトロプーロスと文通しており 1957年にニューヨークフィルの首席の座を譲った後もずっと連絡を取り続けていた。 丁寧にもその手紙を大事に残して米国会図書館に寄贈している。 ttps://www.loc.gov/collections/leonard-bernstein/about-this-collection/ コレクションにはワルターからの手紙もあるが、こちらは簡単な返事程度。 アルマ夫人からは、亡き子のリハーサルに居られなかったことの断りの手紙もある。 ワルターが第5を吹き込んだ1947年は ミトロプーロスが同じニューヨークフィルで第6(悲劇的)のアメリカ初演を行った年だった。 当時は第6のスコアを購入しようにも、出版元が敗戦処理で動けなかったので 準備期間まで遡っても、どうやって入手したかは未だに不明らしいが おそらくイギリス経由だとされている。NYP元首席のバルビローリが この曲をレパートリーにしているので、国際的な友情もあったかもしれない。 1951年にアルマ夫人がマンハッタンに腰をおろしたときは一種のサロンも開いていて トーマス・マン、ブリテン、ストラヴィンスキーと並んでミトロプーロスも客人として招かれた。 ttps://www.alma-mahler.at/engl/almas_life/lebensorte/alma_und_newyork.html 一般には、アメリカのマーラー演奏の伝統はワルターが広めたように言われるが むしろバルビローリ、ミトロプーロス、バーンスタインというリレーで マーラーが去って後のトスカニーニ時代を埋め合わせるかのように展開している。 1960年のNYPのマーラー・イヤーでは、バースタインの懐の広さもあって 前年にバルビローリの巨人、ワルターの大地の歌など マーラー演奏の功労者をねぎらう感じがあったが ミトロプーロスもこの年だけで1,5,9,10を振っている。 このうちワルターだけ米コロンビアでステレオ・セッションが行われたのだ。 このお祭りのあと、バースタインは全集録音に向けて走り出した。 大地の歌だけデッカ収録なのは、カタログ上の問題もあるが ウィーンフィル、フィッシャー=ディスカウというキャストを どうにかして得たかったということも考えられるが やはりここでもワルターの1952年セッションという壁があった。 実際にはバースタインはチャレンジ精神というのが大好きなようで ロンドン響の採用もホーレンシュタインを意識したように思われる。 ワルターのアメリカでのマーラー演奏(といってもレコードでは8割方を占める)は 移民したての頃の生硬いNBC、フィラデルフィアなどでの演奏にはじまり モノラル期の構成力と覇気のある演奏、そして晩年のステレオ期へと移行する。 どうも1940年代から1955年にかけてのキャリアが評価されにくいのと 戦前のバイエルン〜ライプチヒ時代は不明なまま ウィーンでの録音ばかり持ち上げられてしまう傾向にあるのは おそらく名演=個性的演奏を溺愛する宇野功芳氏の影響だと思う。 ここでの「ワルターらしさ」の虚像が独り歩きしている感じもする。 この批評方法の限界は演奏行為を指揮者の個人的な努力のように語るあまり マーラー演奏に関する国際的なコミュニティーの輪から外れて 1911年から時計が止まったままのワルターのマーラー像が引き立てられ その後の進展に寄与した様々な動向が見えづらくなっている。 これはワルターのマーラー伝にアルマ夫人が出てこないことにも含め 自身が作曲過程に絡めなかった6〜8番を振ろうとはせずに 半世紀に渡るレパートリーの欠落を招いていたのだ。 実のところ功芳氏自身もワルターの論法に乗せられていたと思われる。 ただワルターのマーラー演奏に感じるのは そうした人間的な弱さがマーラー作品の一面を代弁しているようなのだ。 時計が止まったような喪失感が、大地の歌、第9の演奏には適しているし 1、2,4番における初々しい表情も、新世紀への希望に満ちた心情を表してかのようだ。 渡米したてのマッチョな英雄気取りが全く様になっていないのは ワルターのみた英雄に成りきれなかった晩年のマーラーの一端を画いているのだろう。 マーラー演奏の失敗した側面を見ることでも、作品は作品であり続けるとうべきか。 功芳氏の批評で有難かったのは、海賊盤を一通りレビューしていたことで それが一見すると演奏家の総合的な評価に結びついていたようにも思えた。 ところが結構選り好みが激しかったのだと思うのは 批評の根幹が名曲の個性的名演というテーマに固執したという点で 何が最高か、じっくり鑑賞するに値するかのフィルターを掛けていた。 それがレコード批評の本質なのだ、と言われればその通りだが こと作品理解という面からいうと、1950年代までのマーラー演奏史のように そのフィルターが強すぎて、史実から乖離しているような面もある。 単純には、レコード会社との専属契約というのが厳しく 演奏家の多くが契約書を盾にした情報統制の下にあったので その限界のなかでの批評活動ということになるのだが 結びつくところが正規のセッションから派生したアウトテイク集という 興味本意でしか紹介できなかったというのが実情だろう。 史実が逆転しているのは、コンサートでの成功→レコーディングなのが 名盤を残した演奏家→ライブでの実像という話題提供になっている。 この批評方法の大元が、フルトヴェングラーのバイロイトや指輪でもみるように レッグのようなプロデューサーの演奏家のライブ活動への冷たい態度だ。 功芳氏の海賊盤への批評活動はこうした課題に少し風穴を空けたという感じか。 >>175 >特にワルターが録音しなかった3,6,7,8番の冷遇さは >マーラーの時代の到来を半世紀以上遅らせたように思う ワルターが録音しなかったというのは結果論 荒れだけ大規模な録音をするには当時のレコード会社も慎重にならざるを得なかった筈 ワルターは録音したかったがレコード会社に拒否された可能性だってある 8番はたしか30年代のウィーンでやっている筈 ボケ老人大暴れ 介護施設で拘束・虐待くらう典型的なパターンだな マーラーは二流作曲家 まともな指揮者は相手にしていない >>259 お前さんも、くらった経験あるのかな。 単なる想像を書き込んだのなら幼稚なんだろう。可哀想に。 >>261 残念 介護現場の内情、裏事情には詳しいのでね 老婆心ながら高額、高級介護施設も過度の信用は禁物だよ >>264 バカからかっただけなのにね。 面白くないし。 門馬直美はステレオのモーツァルト後期交響曲集を高く評価した あのコーホーでさえ厳しい評価だったのに なぜだろう? 門馬直美は もっさりして鈍重な音楽や音が好きなんだよ。 タンノイのスピーカーも もっさりして鈍重な音だから日本のクラシックファンに人気が有るんだ。 昔のグッドマン , ワーフェデールや QUAD ESL は繊細で分解能が高い音だから日本では全然人気が出なかった マーラーやチャイコフスキー、ドボルザーク、ブラームス、ブルックナーも もっさりして鈍重な音楽だから日本人に受けるんだな ドビュッシーやシベリウス、バルトークみたいな繊細で鋭い音楽は日本人には受けない >>258 >>214 でのワルターの客演記録を参照 戦前のマーラー演奏の地勢がVPOでもNYPでもなかったことに注意 ワルターの戦中1936、38年のマーラー録音がライブというのが 当時としては不思議な感じがするが、ウィーンのナチス党員が 1934年頃から公演中に悪臭弾を投げ込んで妨害するような事件が時折あり マーラー演奏でのセッションは危険と判断されたかもしれない。 ワルター自身はフルトヴェングラーと違ってセッション録音でじっくりやるのが好きで 生前のディスコグラフィーでライブと称したものはほとんどない。 ワルターのセッション録音では、楽譜に比較的忠実なものがある一方で いざライブ録音となると、意外にヤンチャなことをしているときがある。 NBCやメトロポリタン、アムステルダムなどの客演のときにみられるのが 急激にテンポを切り詰めてアンサンブルの乱れをわざと誘うようなことで 自分の棒に注意を引くためなのかな? と感じたりする。 でも、その後にリズムの緩急が流れるように息づいてくるので 逆に言うとリハで事前に詰められなかったのかという感想を抱くことになる。 フルベンやクナでみられるアンサンブルの乱れと違うのは オケの響きがホールに充満するタイミングを見計らってテコ入れするのに対し ワルターのアゴーギグは、むしろ逆で、わざと団員に恥をかかせることで 自分の支配下に置くような感じがする。 NBCやACOだと、これが険悪な状況のまま終幕を迎える感じがするのは コワモテの音楽監督のもとで、パワハラに全く慣れてしまっているからだろう。 それでもワルターのライブが面白いのは、セッションと並行に行われた演目に明らかで マーラー演奏でも、ウィーンの大地、ニューヨークでの復活と大地など ここぞという山場で抑えずにきっちりドライブしていくところだと思う。 人によっては冗長と感じるだろうが、ミスを散発するだけのアウトテイクではない。 1957年のNYPとの復活のライブ収録は 一般にはワルターがアメリカで身に着けた強い造形性の結論のように言われるが 個人的には、そこに首席を務めていたミトロプーロスの鍛えたアンサンブル力が 大きく寄与しているように思える。ともかく底力が凄いのである。 実はミトロプーロスとNYPのマーラーは、ほとんどライブ録音でしか聴けないのだが スタジオ録音と違って、ライブはCBSラジオの録音クルーが担当しているので レーベルのサウンドポリシーがなく聴き比べやすいこともあるかもしれない。 同じオケでも、指揮者によってサウンドが変わることはザラなので、なおさらだ。 バーンスタイン以前のNYPのマーラー演奏をライブ録音で辿ると以下のようになる。 No.7がどうしても見当たらないのが残念だが、ワルターの得意曲の脇を埋めるかたちで レパートリーが進展していたことが判る。 No.1 バルビローリ(1959) No.2 ワルター(1957) No.3 ミトロプーロス(1956) No.4 ワルター(1953) No.5 ミトロプーロス(1960) No.6 ミトロプーロス(1955) No.7 No.8 ストコフスキー(1950) 大地 ワルター(1960) No.9 ミトロプーロス(1960) ↑ 何なんだよ、書籍で聞きかじった知識をひれくらかすナルシストのカス野郎は 誰にも認められないことに端を発して5ちゃんねるに妄想書きをぶつけてるだけだ。 許してやれよ、嫌なことを忘れるまで。世間でナイフ振り回すのと同じ状態だけど、 ここは飛ばせばいいだけだから。 >>251 >このうちワルターだけ米コロンビアでステレオ・セッションが行われたのだ。 コロムビアはマーラーなんか出したくなかったが、ワルターが懇願するので 渋々出した NYPによるマーラーの歴史的演奏が面白いのは 成長過程にある生きた演奏史が味わえることだと思う。 1950年代にアルマ夫人が終の棲家をNYに定めたことで 地域的に関心を呼んだということもあるかもしれないが 亡命してきた大量のユダヤ人団員の受入れとも大きく関係しているだろう。 生前のマーラーとはむしろ冷淡とも言える疎遠な地域で マーラー作品が誰しも演奏できる普遍性を帯びるようになった理由というのは なかなか分かりづらいが、一種のブームと呼んでも良いような状況だったと思う。 マーラーが世紀末的なメランコリーを代表する作曲家のひとりだとすれば 1950年代のNYPでのマーラー演奏は、世紀末風という縄目を一度解きほぐして より普遍的な美の探求へと向かう過程だと思う。 アメリカ時代のワルターの芸風の変化とも軌を一にしているのはもちろんだが 周囲のミトロプーロスをはじめとする新進の指揮者が骨太に鳴らして なおマーラーらしさを失わないという確証があったのだ。 おそらくそのことにお墨付きを与えていたのがアルマ夫人であり それを名誉に思う人々によって文化サークルが育っていったとも言える。 少なくともかつてのマーラー自身のようにどん詰まりの状態にならず バースタイン以降の未来につなげることに成功したのだ。 例えばクレンペラーは、マーラーがウィーン風で総括されるのを嫌って 例えばアムステルダムでのライブなど非常に彫りの深い演奏を残している。 1960年のマーラー祭でもベートーヴェン全曲演奏をウィーンで行い マーラーの音楽的遺産とは何かを根本的に問いただした。 マーラー演奏でも、ほとんどテンポを揺らさずとも、無味乾燥にはならない 交響曲としての古典的風格さえ与えることに成功している。 一方で、7番の演奏はあまりにやり過ぎで、バレンボイムも演奏会で退屈すぎて 最後まで聴いてられなかったと本人に言ったらしい。 皮肉まじりにかえってきた言葉は「シナゴーグにでも行ってればいいのに」とのこと。 デュ・プレとの結婚話のときにも「早速3人でシナゴーグへ行かねば」と冗談を言ったので そんなことならデートでもしてれば良かったのに、ということだったのかもしれない。 ユダヤ人同士の会話というのは、さても判りづらいのだろうか。 ワルターにはこうした自虐ネタというものが感じられず 心から素直で天真爛漫に振舞うことこそ周囲を幸せにすると信じているようだ。 それをマーラー作品に当てはめてみると、第4番のようなものが得意曲になり 戦後にウィーンでの3回の客演で取り上げている。 歌手がゼーフリート、ギューデン、シュバルツコップと、それぞれが個性的な歌い方で ウィーンにおけるリリコのキャラクターの豊富さも聴きどころのひとつである。 一方で、この作品がもつブラック・ユーモアともとれる歪んだ造形 例えばボッシュの名画「快楽の園」のような、どこか嘘めいた不老不死の世界でも どこまでリアルに音楽で表現しきれるか、というコダワリを露骨に感じるのだ。 ニューヨークも同じだが、ウィーンだってマーラーには冷たい態度だったと言えよう。 単純には、生前に自作の初演などできなかったし、音楽監督としても衝突しがちだった。 ところが、ウィーンが19世紀を通じて吸収してきた音楽的な語法の数々は マーラー作品を形作るのに、様々なヒントを与えているようにも思える。 しかし実際には、ドボルザークやチャイコフスキーにも同じことが言えて 逆にベートーヴェンは19世紀中頃まで不遇な扱いを受けた経緯がある。 そういう意味では、ワルターのマーラー演奏に求めるウィーン情緒というのは むしろ造られた神話のようなもので、ニューヨーク時代のときでさえ 新しいマーラー像に取り組むように行動していたようにみえる。 ちなみにウィーン的なジャケ絵はクリムトやシーレ NY風のジャケ絵はロダンやミケランジェロというのは それぞれの特徴をよく見ているような気がする。 一方で、ワルターがウィーン的な語法を好んでいたと感じるのはオペラ演奏で モーツァルトはもとより、ベートーヴェンのフィデリオさえ軽快に跳ねまわる。 おそらくNYPとのブラームスの交響曲も、洗練されたフレージングに満たされている点で ウィーンよりもさらに理想的なものを追い求めていたように思える。 ところが、マーラーに関しては、アメリカ風と言われる傾向が顕著であり この点をワルターらしくない、硬直した表情のように言われてきた。 もっともそう言ってたのは功芳氏だけだったかもしれない。 ここで提案するのは ワルターのマーラー演奏を指揮者の個性として見るのではなく ニューヨークで演奏されたマーラー作品の新しい取り組み全体で評価することで ワルターの果たした役割を歴史的に位置付けることだ。 そこにはバルビローリやミトロプーロス、あるいはストコフスキーまで含まれており NYP自身がプロフィールとしてまとめたマーラー作品の歴史的演奏のなかで 的確に紹介されていることでもある。 レコード批評で決定盤とか優劣を論じるのはもうやめたほうがいい。 よりアメリカらしい機能的なマーラー演奏として ライナーやセル、オーマンディのようなものも挙げられる。 しかし、バースタインのように血の通った感じを受けないのは バルビローリやミトロプーロスが振った演奏でも明らかで スコアをただ再現するだけではなく、観客を説得する信念が異なり そこにアルマ夫人が同席するというプレッシャーも大きかったと思える。 それだけにおいそれとマーラーを指揮することはできなかったし ラジオで実況したアーカイブのほうが情報を的確に伝えていたのだ。 ただライナーやセルがアメリカ的というのは一面的で ドレスデンやウィーンでキャリアを積んできたという点では より純粋にヨーロッパ的な伝統をもっているということもできる。 何よりもR.シュトラウスの管弦楽技術の推進者でもあったのだ。 一方でそこに漂うのは、専制君主のような振舞いであり それを長期に渡って赦すのがアメリカという土地だったと言える。 ところが、マーラーの語法には互いに対立する要素が乱立しており むしろ多様性が響き合ってテーマを進展させるところが魅力ともいえ R.シュトラウスのように一義的に事柄が進まない。 歴史的にはR.シュトラウスやトスカニーニの合理性に負けたマーラーだが 不条理のなかに真のハーモニーがあるという主張が受け容れられるまで マーラーの語法に演奏技術が追いついて安定する過程があった。 その一端がライナーやセルのマーラー演奏にみられるのだ。 ワルターの場合も一緒で、立場的にはマーラーと同じ轍を踏む可能性もあり そのプレッシャーのなかで、演奏スタイルの変化があったと見られている。 ただニューヨークでの演奏を聴く限り、トスカニーニとはライバルであったとしても ミトロプーロスやバースタインとは協調路線を敷いており むしろそこに乗っかって新しいマーラー演奏の可能性に同調していたと思える。 けして個人レベルの問題として考えないほうがいいのだ。 功芳氏の批評に現れる指揮者の思い入れや感情表現というのは 個々の演奏家のもつ個性を強調して、聴きどころを判りやすく説明する一方で 1950年代のマーラーのように、そもそもクラシック音楽としての位置づけも曖昧なときに 既に何か確定していたかのような論調で、演奏の良し悪しを語るところがあって 音楽文化が常に生きて成長するという側面をほとんど説明できていない。 それは発展という言葉ではなく、その時代に生きた人のドキュメントを レコード化するに値するかという切り口で批評することで まるで音楽文化そのものを購買できるかのように読者に勘違いさせることだ。 >>301 >音楽文化が常に生きて成長するという側面 擬人化(擬生物化)した情緒的な表現だか、よく考えると分かりやすいものではないな。 と言うか、ごまかす奴らのよく使うものとの臭いが強い。 ま、いやなことがあったらしくて認めてもらいたい欲求のはけ口に、匿名掲示板を使う弱虫の妄想だ、しばらく放置でいくしかない。かなり事実よりも感情・妄想に寄った内容が増えているから、吐き出すゲロもあと少しで、そのあと胃液か血を吐いて終わるんだろ。 アメリカでのマーラー受容、とくに1950年代のニューヨークでの進展について ワルターの演奏だけで判断するのは、視野が狭いということ。 その特徴は、概ねミトロプーロスやバルビローリにも現れており おそらくはアルマ夫人の肯定的な発言に裏打ちされている。 >>306 論文にしてどこかの楽理科宛に学位審査申請してみれば?強がって上から目線してるけど最初からオーディエンスの選択を間違ってるよ。 ワルタースレでワルターだけで判断するなと啓蒙活動(要するに知ったかぶり)するよりは、マーラースレでマーラー受容と実証的オーセンティシティーを丁寧に解説してあげれば良いんじゃないの? それともワルター愛好家になんか恨みでもあるの?喧嘩売ってるとは思わないけど、一方的に、ワルターけなしのために長々書いている変な奴との見方されただけじゃ、残念だろ。 論文が受理されてどこかの紀要に掲載されたら報告に来てくれよな、または、マーラースレに移動してご高説を垂れられるなら、喜ばれるでしょう。 ここも平常に戻りたいとみんな我慢してるんだから。それくらい分かる判断力は残ってるだろうと思うけど。 音楽文化が生きているというのは、こういうことだと思う。 ワルターのマーラー演奏がアメリカ風に変貌したのではなく アメリカでのマーラー受容に積極的に関与していた。 ただワルター自身の経験や理解を伝授するだけでなく 新しいマーラー像の創生にまで及んでいたと言うべきで ミトロプーロスとレパートリーの分担を行って推進していた。 結局は、1960年代のバースタインへと結実していくのだが そのオリジナルなアプローチとして1950年代のほうが面白い。 ワルタースレは一匹のキチガイのために滅茶苦茶にされた >>308 ちょっと何言ってるか分からない。 もうやめな。アルコールでおかしいのでなければ、文章がコントロールされてない状態になっている。 精神病院から逃げだしてきたジジイが荒らしてるんだろ コーホーが生きていた頃のレコ芸には活気があったという ワルタースレの一匹のキチガイが滅茶苦茶にした >>313 クラシックってキリスト教徒になった方が楽しめる? 810 :名無しの笛の踊り[sage]:2021/03/12(金) 18:58:28.36 ID:RurGrIy3 01.ひとつでも楽器ができない人はクラシック音楽を語るべからず 02.作曲ができない人はクラシック音楽を語るべからず 03.指揮をしたことがない人はクラシック音楽を語るべからず 04.楽器を作れない人はクラシック音楽を語るべからず 05.音楽理論の構築ができない人はクラシック音楽を語るべからず 06.音響理論の構築ができない人はクラシック音楽を語るべからず 07.オーディオ回路の構築ができない人はクラシック音楽を語るべからず 08.キリスト教哲学を理解できない人はクラシック音楽を語るべからず 09.ハイレゾオーディオ環境を構築できない人は、クラシック音楽を語るべからず 10.レコ芸で評論ができない人は、クラシック音楽を語るべからず 11.ひとつでも楽器ができない人はクラシック音楽を語るべからず 12.作曲ができない人はクラシック音楽を語るべからず 13.指揮をしたことがない人はクラシック音楽を語るべからず 14.楽器を作れない人はクラシック音楽を語るべからず 15.音楽理論の構築ができない人はクラシック音楽を語るべからず 16.音響理論の構築ができない人はクラシック音楽を語るべからず 17.オーディオ回路の構築ができない人はクラシック音楽を語るべからず 18.キリスト教哲学を理解できない人はクラシック音楽を語るべからず 19.ハイレゾオーディオ環境を構築できない人は、クラシック音楽を語るべからず 20.レコ芸で評論ができない人は、クラシック音楽を語るべからず (以下略) コーホーとジジイとキチガイはクラシック音楽を語るべからず ID:Er0bahc1 ↑ このキチガイ丸山圭介みたいな奴だな ワルターでこんなに語れるとは… 凄いな! 私が聴くのは戦前VPOだけだが。 >>315 こいつの様なメンタリティは挑戦人特有のもの ニューヨークフィルのデータベースをみると意外なことが判る。 ttps://archives.nyphil.org/index.php/search?search-type=singleFilter&search-text=bruno+walter+mahler&search-dates-from=01%2F01%2F1920&search-dates-to=12%2F31%2F1960 ワルターの演奏会は戦前1923〜44年と戦後1945〜60年でほぼ同数 特に1932〜34年の公演回数が89回、1941〜49年の115回より忙しい ミトロプーロスの1940〜60年のほうがワルターより公演回数が多い NYPのマーラー演奏は1シーズンで1〜2曲ずつが定番 ワルターのマーラーは戦前〜戦後で36公演のみ 36公演は1,2,大地の歌に集中し、5,9はそれぞれ2シーズンのみ演奏 1940年以降のマーラーはワルター26回、ミトロプーロス21回、ロジンスキー10回 バルビローリは音楽監督時代にアダージェットしか演奏していない ワルターのNYP定期公演は1941〜47年までは月1回だったのが 1948〜49年に2倍のノルマが課されたということ。 おそらく1947年にミトロプーロスの公演数が上回ったことによる。 (この辺は横綱の出場回数と同じような感覚だろうか?) ちなみにミトロプーロスの1950年以降は年50回程度が普通で 1955年は海外ツアーもあって70回の公演を行っていた。 団員のほうが過労でまいってしまうレベルだった。 ミトロプーロスが大好きなホモ野郎 キチガイ病院へ戻れよ コーホーとモーホーとジジイとキチガイはクラシック音楽を語るべからず ウィーンフィルでの公演記録 ttps://www.wienerphilharmoniker.at/ja/konzert-archiv ワルターの出演回数189回(1900〜1960通算3477回) ワインガルトナー433回、フルトヴェングラー367回、C.クラウス334回 ベーム217回、クナッパーツブッシュ191回、シャルク188回、R.シュトラウス108回 ワルターのマーラー演奏51回(1911〜60まで通算134回) 1945年以降13回(通算46回) 1,2,4,大地に集中、3,5,9を何度か振っている >>214 のリンクより ワルターはアムステルダムでの1923〜52年までの客演でマーラーを62回演奏。 VPOやNYPよりも環境が整っていたといえる。 ちなみにメンゲルベルクは1904〜40年にACOでマーラー作品を476回演奏 1920年のマーラー祭までに215回演奏していた。 >>324 早く終わらないかなぁ、とみんなが思ってる。下手な指揮者のマーラー演奏とおんなじ。読んでない聴いてない。迷惑描けてると思ってないらしいので、○○ニー。これでは楽理科に出せるレベルでもないし、自己中の自己満足だな。5ちゃんねるはこんなものだろう。あきらめて終わるのを待つだけ。 >>326 圧倒的な数のROMをさしてみんなというんだよ。自己中丸出しの書き込みしてるキミ。そういうことも分からないまま、いくら調べたり妄想したりしたことを綴っても、オーディエンスのことを一顧だにしない姿勢が見えるから、早く終わらないかなぁと思われるんだよ、ここに書き込んでいるのは三人のみ=みんな、等と言い返す幼稚さがキミの持ち味かもな。 >>319 >ワルターのマーラーは戦前〜戦後で36公演のみ >36公演は1,2,大地の歌に集中し、5,9はそれぞれ2シーズンのみ演奏 へー、4番はないのか >>328 そう、キミの脳裏に一度も現れなかった言葉。5ちゃんねるだろうかどこだろうがコミュニケーションの基本は一対一も含めてオーディエンスの把握から。それが身に付いていないキミは、突然自分の言いたいことを止めどもなく話し始める幼児、そのままということだよ。5ちゃんねるのオーディエンスがそんなに変に思うのは、なぜなんだ?考えたこともないだろう。しかしこれで長いのを書いているものの精神程度がよく測定できたので、オーディエンスのみんなも納得して安心したことだろう、子供のダダこねじゃ仕方ないって。 近々、シュトゥーディエン・アルタマン氏のご自宅が判りそうです。周囲の状況も把握したうえで、方法に付きましては考えたいと思います。 その時は、どうぞ笑顔でお迎えください。 『5CHのオーディエンスのみなさん』は「アッブシーツウォルト」をご用意くださいね。 ワルターが「マーラーの使徒」と呼ばれたい理由 ・1911〜60年のキャリアでマーラー作品の演奏は150回程度 これは年間50回公演できることを考えると6%の頻度 ・レパートリーは1,2,4,大地の歌の4曲が大半 3,5,7,8,9は数回程度、6は演奏した形跡がない ・少ないレパートリー&公演数をレコーディングに結び付け 唯一無二の録音=マーラー直伝の演奏として伝説化 ・自著「マーラーの肖像」からアルマ(不貞)と メンゲルベルク(戦犯)を排除することに成功 残りの使徒のクレンペラーとシェルヘンは変人扱いで放置 ワルターがマーラーの使徒なんて言ってるのは貴方だけなのでは・・・ 一般にはモーツァルトやシューベルトが得意な指揮者と見なされていると思います 戦前のVPOとの録音が一番! コロンビア交響楽団もどきとの合唱なんて… ブルーノ・ワルター 音楽に楽園を見た人 (日本語版を宇野功芳氏に捧ぐ)を買ってしまった。 副題は英語だとA World Elsewhereなのでずいぶんな変造だな。 宇野のことはまとまって4ページほどあるが、たぶん日本語で語る宇野を著者は知らないのだろうな、評論家とは書いてないからな。 たぶん、積ん読、固い枕になってしまうだろう。 >>340 すごい。 1日1ページで一年かかる。 なんかきっかけを見つけて、読んでみよう。 と、いつも思うが。積ん読本の山をみて、人生の残り時間が短いのにため息。 >>341 よくこれだけ調べたもんだと感心した。 1960年のマーラー生誕100年祭で『大地の歌』を振れなかった ワルターの無念さは心に刺さった。 『主題と変奏』は4回読んだよ。 ピアノを弾きながらトーマス・マンと『トリスタンとイゾルデ』を 語り合う場面は何度読んでも魅了される。 ステイン爺のうわごとを最近見ないけどとうとう死んだのかな? ワルターのステレオ録音を色々聴き直してるけど実にいいね 録音がいいのかな? オケが薄いのなんのと言われるけどそれすら魅力的に感じる ブルックナーもワーグナーも中々どうして悪くないじゃないか 凄いなこれ ワルターのブルックナー悪いなんて言ってる奴宇野の他にいるの? フルトヴェングラーに忠告できる数少ない人物。トスカニーニとは喧嘩別れしたのでワルターしか頼れなかった ブルックナーファンはワルターなんか評価しないよ 喜んで聞くのはブルックナー“も”聴く程度の人だけ ワルターがマーラーの家に行って部屋に飾ってある当時はジョルジォーネ作とされた絵(もちろん模写だろう)に感銘受けたはずだが、あれは誰の作か気になる。偉い人教えて。 >>353 のようなブルックナーーファンは誰を評価してるんだろう 心臓発作で晩年は静養してたがステレオの登場で再び録音を始め、終了後にお迎えが・・最後の約4年は神が猶予を与えてくれたのか。雲の上でモーツァルトと談笑してるかな 私の見たワルター 若林俊介 戦争が終わり、大学の工学部で音響学を学んだ私は卒業後文化放送に入社、 録音技師としての第一歩を踏みだした。だが、当時の日本の音響技術はまだまだ 貧弱であり、技師たちはみな手探りで録音や放送を行っていた。メディアの先進国 であるアメリカで学びたいと思った私は文化放送を休職、渡米することとなった。 英語に苦労しつつ、ハリウッドに近いコロンビア単科大学で音楽理論を学んでいた 私にある朝、親しかったロサンゼルス・フィル首席オーボエ奏者のバート・ガスマン 氏から電話が入った。ブルーノ・ワルターとコロンビア交響楽団の商業ステレオ録音 の収録が間もなく始まるので来ないかという。「あのブルーノ・ワルターが!」 私は急遽その日の予定を変更し、ハリウッド・ボウル横にあるリージョン・ホール へと急いだ。これは天井の高い、木で内装をほどこした音響抜群のホールである。 264名無しの笛の踊り2021/06/08(火) 23:50:32.49ID:477OkjxY 私の見たワルター 若林俊介 戦争が終わり、大学の工学部で音響学を学んだ私は卒業後文化放送に入社、 録音技師としての第一歩を踏みだした。だが、当時の日本の音響技術はまだまだ 貧弱であり、技師たちはみな手探りで録音や放送を行っていた。メディアの先進国 であるアメリカで学びたいと思った私は文化放送を休職、渡米することとなった。 英語に苦労しつつ、ハリウッドに近いコロンビア単科大学で音楽理論を学んでいた 私にある朝、親しかったロサンゼルス・フィル首席オーボエ奏者のバート・ガスマン 氏から電話が入った。ブルーノ・ワルターとコロンビア交響楽団の商業ステレオ録音 の収録が間もなく始まるので来ないかという。「あのブルーノ・ワルターが!」 私は急遽その日の予定を変更し、ハリウッド・ボウル横にあるリージョン・ホール へと急いだ。これは天井の高い、木で内装をほどこした音響抜群のホールである。 ステレオ録音にはソニーのマイクを使ったとの事、CD化へのデジタルリミックスには当時のスタッフのジョンマックルーアが手がけた。 カメラを抱えてホールに着くと、すでにガスマン氏が私を待っていた。 オーケストラのメンバーは全員集まっており、会場は調弦や試し吹きの音で にぎやかである。隣の控室に案内され、中に入るとワルターがスコアを前に プロデューサーと打ち合わせをしていた。狭い控室にはさまざまな 録音機材が運び込まれ、調整室に改造されていた。 ガスマン氏が私をワルターに紹介してくれた。 「はじめまして、私はシュンスケ・ワカバヤシと言います。日本から来ました」 「ブルーノ・ワルターです。ようこそ」 巨匠は笑顔で握手してくれた。心臓発作で一時期、すべての音楽活動を 休止していたと聞いていたので少し心配だったが、思いのほか元気そうであった。 続いてガスマン氏は、プロデューサーのジョン・マックルーアを紹介してくれた。 マックルーアは1929年生まれで私より一つ年上、はじめ録音エンジニアとして コロンビアに入社し、プロデューサーに昇格したという人物であった。私とほとんど 年の違わない人が巨匠ワルターのプロデュースを任されているのかと驚いた。 マックルーアはまるでハリウッドの俳優のように颯爽としていた。彼も私も ピアノをやっていたことがあり、音楽や録音の話でうちとけていった。 時間になり、録音のための練習がスタートした。 セッションはワルターの体調を考慮し一日3時間、さらに一日おきであった。 3時間のうち前半は練習にあてられ、ワルターは結構細かく指示を出すが、 リハーサルは非常に和やかな雰囲気であった。 娘を殺されたりナチに追われて亡命したり波乱の人生を送った。亡命した指揮者は後にヨーロッパでは冷遇されたがワルターはマーラーの式典で無理をおして戻ったら観客が起立して迎えたそうだ 1960年マーラー生誕100年祭での音源 その当時ならステレオ録音されていてもいいはずなのに ワルターはステレオで「大地の歌」を録音するためNYに行ったときに バーンステインと会っている マーラーはNYフィルの指揮者としても活躍したんだよ 千人の交響曲のアメリカ初演を行ったのはストコフスキーなんだよ 巨人はコーホーが唯一褒めたワルターのマーラー録音 あと残されたマーラーの交響曲録音はすべて酷評している どうや! ワシのはすごいやろ! おっきいやろ! ビンビンやろ! ワルター存命中はマーラーはアメリカではそれほど演奏されなかった バーンステイン時代になってから頻繁に取り上げられるようになったのだ ワルターが振る予定だったNYフィルのコンサートでワルターが病で倒れ 急遽代役を務めて成功させたのがバーンステイン これをきっかけに常任指揮者になった アメリカ人にとって初の自国の誇れる指揮者になったバーンステイン 圧倒的な支持が集まったのも当然だ それまでは他国の指揮者ばかりが有名オケの実権を握っていたからな >>376 ▼あいかわらずのパクリ朝鮮人 284 名前:名無しの笛の踊り 2021/07/06(火) 23:46:48.58 ID:txe2CEjw ここは低能児の落書き場になってしまったな ↓ 376名無しの笛の踊り2021/07/07(水) 07:25:08.64ID:Yb9r268t ここもステイン爺の落書き場になってしまったな 朝鮮人連呼の粘着ゴネジジイは古巣のワルタースレにもどったのか ここでもステイン爺と一心同体みたいなご活躍でw 先が見えていたワルターに次ぐ大物指揮者をさがしていたCBSにとって バーンステインの登場はまさに救世主であった これでCBSは大看板を確保できた バーンステインは青少年のためのコンサートを積極的に行ってきた これは若い世代を育てる重要な仕事であった ワルターもNYフィルの後継者ができたんで喜んでいたに違いない ワルターはNYフィルの常任ではなくミュージックアドバイザー。 アメリカで成功するにはゲイかユダヤでなければ難しいと言われていた。 1960年代初期のCBSの看板アーティストは長老のワルターは別格として オーマンディ、バーンステイン、セル、ゼルキン、ホロヴィッツ、スターンがいたな Columibia CD1-5いずれもアメリカ発という紛い物で 録音も悪かった 1作品につき録音セッションはどのくらいかかったんだろう? いずれもアメリカ発という紛い物で短時間 録音も悪かった おまえは人間の紛い物だよな、しつこい朝鮮ヒトモドキw マジで日本人の出待ちをしてやんのw しかも通名をいくつか使い分けていたと示唆しているし 粘着して日本人を追い出したことを今更も白状されても・・・ しかしまあ、恨の深さ罵倒語の豊富さと言い、本場の人には敵わないなと改めて思った 私怨をはらすためには他人の迷惑を全くかえりみないとは・・・・・性格なのか血のなせるわざなのか、生きづらい人だな ワルターの英雄は味わいがあっていい フルベンとは好対照だが NYフィルはバーンステインを首席指揮者としてよみがえった ワルターの英雄は、アメリカ発という紛い物 録音も悪い グレル・グルードも、CBSに行ってからダメになった。 その証拠に、最近出た'54 CBC録音のバッハを聴けば分かる。 録音は古いからね、音の良さは求めませんよ。 1番 2番も新鮮さあるね 嫌な奴だよなぁ。モートンとグレルを間違えただけだろうがよ。 ばか野郎、 最近出た'54 CBC録音のバッハ グールドベルグ・ヴァリエーション と言っているだろ。 ID:Fy0LPmCa 人間の紛い物の朝鮮ヒトモドキ >悪太 おまえ、それがウケると思ってるのか? いつもいつも同じこと書きこみやがって しつこいんだよ低能児 毎日1000越え びろぴろぴろ〜石川弘晃の一人芝居書き込み数 このスレも大半がびろの自作自演 facebook.com/profile.php?id=100008212245718 twitter.com/zusakkohiro お友達 https://yuki3.hatenablog.jp/ https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) コロムビア交響楽団はバーンステインとも録音をしている。 コロムビア交響楽団はOh! Mondayとも録音をしている。 >>422 それはね ニューヨークフィルのことなんだよ ワルターのオケじゃあーりません コロムビア交響楽団は、チャーリーとも録音している。 >>427 ////////, ''" ヽミ川川 |//////, '" ',川川 川/////, '",,,,,,,,,,,,,,,, r''"' || 川f 川f´ ,ィ::ラ',川 川ヘ | 弋て::>  ̄ ',リ 川 ヘ.__ ヽ /7! 川川 ヘ _,. '-‐''"´y' // 川川リヘ , '´ __,,,/ / / うわぁ、臭っせー… 川川川|/ '"´ , '´ /|| 川川川| /川 ゙'. '.;`i i、 ノ .、″ ゙'. ,ト `i、 `i、 .、″ | .,.:/"" ゙‐,. ` / ` .,-''ヽ"` ヽ,,,、 ! 、,、‐'゙l‐、 .丿 : ':、 、/ヽヽ‐ヽ、;,,,,,,,,,-.ッ:''` .,"-、 ,r"ツぃ丶 `````` ../ `i、 ,.イ:、ヽ/ー`-、-ヽヽヽ、−´ .l゙`-、 _,,l゙-:ヽ,;、、 、、丶 ゙i、,,、 ,<_ l_ヽ冫`'`-、;,,,、、、、.............,,,,、.-`": │ `i、 、、::|、、、ヽ,、、. ```: : : ``` 、.、'` .|丶、 .l","ヽ、,"、,"'、ぃ、、,、、、、.、、、.、、、_、.,,.ヽ´ l゙ ゙).._ ,、':゙l:、、`:ヽ、`:、 : `"```¬――'''"`゙^` : ..、丶 .l゙ `ヽ ,i´.、ヽ".、".、"'ヽヽ;,:、........、 、、...,,,、−‘` 、‐ |゙゙:‐, ,.-l,i´.、".`ヽ,,,.".` `゙゙'"`'-ー"``"``r-ー`'": _.‐′ 丿 ,! j".、'ヽ,".、".、"`''`ー、._、、、 、._,、..-‐:'''′ .、,:" 丿 コロムビア交響楽団は、ジャズ巨匠チャーリー・ハーマーとも録音している。 あの当時はよく覆面オーケストラの表示があった ただ 交響楽団 としか表示してないものや RCAビクター交響楽団、キャピトル交響楽団などがいい例だ >>432 クリーブランドの覆面ぐらい わかってよ 名古屋でスパイ活動のスーパースプレッダー・ウガンダ君は 集金野郎に 「日本で仕事がしたいと言えと」とそそのかされて、、、 おまえは人間の紛い物だよな、しつこい朝鮮ヒトモドキw ////////, ''" ヽミ川川 |//////, '" ',川川 川/////, '",,,,,,,,,,,,,,,, r''"' || 川f 川f´ ,ィ::ラ',川 川ヘ | 弋て::>  ̄ ',リ 川 ヘ.__ ヽ /7! 川川 ヘ _,. '-‐''"´y' // 川川リヘ , '´ __,,,/ / / うわぁ、臭っせー… 川川川|/ '"´ , '´ /|| 川川川| /川 ゙'. '.;`i i、 ノ .、″ ゙'. ,ト `i、 `i、 .、″ | .,.:/"" ゙‐,. ` / ` .,-''ヽ"` ヽ,,,、 ! 、,、‐'゙l‐、 .丿 : ':、 、/ヽヽ‐ヽ、;,,,,,,,,,-.ッ:''` .,"-、 ,r"ツぃ丶 `````` ../ `i、 ,.イ:、ヽ/ー`-、-ヽヽヽ、−´ .l゙`-、 _,,l゙-:ヽ,;、、 、、丶 ゙i、,,、 ,<_ l_ヽ冫`'`-、;,,,、、、、.............,,,,、.-`": │ `i、 、、::|、、、ヽ,、、. ```: : : ``` 、.、'` .|丶、 .l","ヽ、,"、,"'、ぃ、、,、、、、.、、、.、、、_、.,,.ヽ´ l゙ ゙).._ ,、':゙l:、、`:ヽ、`:、 : `"```¬――'''"`゙^` : ..、丶 .l゙ `ヽ ,i´.、ヽ".、".、"'ヽヽ;,:、........、 、、...,,,、−‘` 、‐ |゙゙:‐, カラヤンスレに書き込もうとも思ったんだがワルタースレに書き込みます 自分はどちらの指揮者も出てくる音がとにかく美しいと感じるんだが カラヤンは低弦をわずかに先に出すとか音響づくりのテクニックが少し紹介されているけど ワルターに何かそういうものがあるのをご存じの方いらっしゃいませんか 木管のバランスの取り方がうまいんだろうか、今ブラームス聴きながら書き込んでいるけど ピッチカートもいい音だな、何だろうどんなコツがあるんだろう >>433 RCAビクター響はほぼ、NYPとメトの混成臨時 Top 10 Bruckner recordings Gramophone Wednesday, April 21, 2021 Symphonies (Complete) Berlin Philharmonic Orchestra / Herbert von Karajan Symphony No 9 Lucerne Festival Orchestra / Claudio Abbado Symphony No 8 Berlin Philharmonic Orchestra / Günter Wand Symphony No 6 New Philharmonia / Otto Klemperer Symphony No 5 Lucerne Festival Orchestra / Claudio Abbado Symphony No 5 Bavarian Radio Symphony Orchestra / Bernard Haitink Symphony No 4 Columbia Symphony Orchestra / Bruno Walter Symphony No 2 National Symphony Orchestra of Ireland / George Tintner Motets Choir of St Mary's Cathedral, Edinburgh; RSAMD Brass / Duncan Ferguson Masses Nos 1-3 Sols; Bavarian Radio Chorus and Symphony Orchestra / Eugen Jochum 仕事が忙しくてしばらく音楽を聴いてなかったが、今日久しぶりにワルター晩年のマーラー巨人盤を聴いた これが老人の指揮とは! いやはや今更ながら恐れ入った! 人生後半戦のスタートの記念になったわい ワルターの「指揮者の指揮者」という肩書きはコーホー が考えたのかな? ワルターはニューヨークとの復活の録音でバーンステインと会っている 没後60年か、マーラーの弟子で友人、交響曲9番と大地の歌を初演した。フルトヴェングラーに忠告できる数少ない人物、モーツァルトの第一人者で彼の霊と交信しているのてはないかと言われたほど精通していた ブルーの悪太には 双子の弟、レッドの良太 がいたんだよな。 >>451 腹違いの兄弟イエロー、忠太がいるとのこと 同じく腹違いの グリーンの三太 ピンクの桃田 もいる。 5人合わせて 5レンター と呼ばれていた。 コロンビアとのモーツァルト41、35じっくり聴いて いろいろ考え込んでしまったわい 旦那もずいぶんの・・・ワルでございますねぇ へっ、へっ、へっ、へっ・・・・・・・ 魔笛メトロポリタンライヴ1956って 英語ですけど やはり聞いた方がいいでしょうか? ハイハイ、モーツァルトなど聞く方が悪いんですよねw >>462 そうか? ワルター/VPOのモーツァルト40番などは絶品だが? 因みに、知っていると思うけど、ワルターの本名は「ブルーノ・シュレジンガー」だからね。 「主題と変奏」読んだから知ってるが、 俺にとってその姓は方程式や猫の物理学者w 1960年のウィーン・フィルとのフェアウェルコンサートも素晴らしい。 なにしろマラ4が絶品だが、音質がそれを伝えるレベルに無い。 音質改善して、当時の聴衆が味わった感動を味わえるようにできないものか? レコードの音質が悪いからじゃないか? コロンビアレコード発売のを持ってるけど、あの音ではワルターの真価は伝わらない。 てか、CDは勿論音質が悪いんだけど、レコードでも演奏の良さが伝わりにくいのが結構沢山ある! 昨日、トスカニーニ追悼演奏会の「エロイカ」を聞いたよ。 凄かった。 ワルターらしい表現意欲に満ちた演奏。 思えば、普段は大人しいエロイカばかりを効いてきたんだと思った。 戦前のマーラー9番 マスタースタンパーが残っていたようだな。 ボクはワルターサマの曾孫弟子にあたりまーす♪ ボクの師匠はHしたい林オナ哉サマ、Hしたい林オナ哉サマの師匠が宇野サマでーーーす♪ ステレオ録音時代に間に合ったから名を残せただけ フルベンやトスカニーニと同様にモノラル録音のみに終わってたなら とっくに忘れられている それだけ幸運な指揮者だったよ ウィーンを去る直前のマーラー9番のライブ録音 あの録音の良さとテープの保存状態の良さだけでも モノラル時代からウィーンの人々から偉大な指揮者だと慕われていたのが分かる ワルターの田園は美しいが フルトヴェングラーの田園こそが偉大と言えよう コーホー先生は時にはワルターを見下してたw コーホーはSP録音のVPOのマーラー9番を糞味噌にけなしていた 悪ターの音楽はとても良かった 子供のころの素朴な感想 ステレオ録音はすべてNYフィルと録音してほしかったな 技術の低い薄っぺらなコロムビア響ではワルターの意図が発揮できなかった これはコーホーも指摘している じっさい復活、未完成、大地の歌の名盤を残してるんだから NYフィルって5大オケなのにどっちかというと録音が少ないと思うんだけどなんで? ギャラが高いのかプライド高くてレコード会社のいうこと聞かないのか バーンステイン勇退後のNYフィルの質が落ちたことは事実 メータもロスフィル時代はいい指揮者だったが NYに行って劣化した。 ドゥダメルも心配だ。 ワルター・コロンビア響のジュピターは絶品だ。ウィーンフィルやニューヨークフィルの録音よりいいと思う。 コロンビア響はほとんどフィラデルフィア管のメイン奏者だったらしいね ワルター大好きのコーホーもモーツァルト後期交響曲集は酷評していた すでに老境にさしかかったワルターの衰えを指摘していた とくにハフナー、ジュピターの痛々しさにはガックリきて これらの録音は残してほしくなったとコメントしている ワルターのモーツァルトは名演だ 宇野とかいう耳の悪い奴が何を言おうが関係ない コーホーはワルターのモーツァルトなら NYPセットとVPO復帰40番のほうを支持していたね って今もって俺らへの影響力の大きさよコーホー でもコーホーはワルターは大好きだけど天才ではない ムラヴィンスキーは好きではないけど天才である とわけのわからんことを言ってたがw ブルーノ・サンマルチノとは面識がないまま生涯を終えたらしいが 現在のモーツァルトの解釈を確立したのはワルターだよ。 フルトヴェングラーまでは、モーツァルトはベートーヴェンよりも軽い宮廷音楽のようなものだと考えられていた。 モーツァルトが重いドラマチックな音楽であることを発見したのはワルターですよ。 ワルターのモーツァルト後期交響曲は画期的なんだ。 ベームもカラヤンもワルターの影響を受けている。 >>506 > 現在のモーツァルトの解釈を確立したのはワルターだよ。 > フルトヴェングラーまでは、モーツァルトはベートーヴェンよりも軽い宮廷音楽のようなものだと考えられていた。 > モーツァルトが重いドラマチックな音楽であることを発見したのはワルターですよ。 あなたに、 モーツァルトが重いドラマチックな音楽であることを教えてくれたのがワルターだった、 というだけでは? う〜ん、そんなことないと思うけど。 実際、ワルター以前にモーツァルトをあんな風に演奏した人はいなんじゃないかな。 交響曲だけでなく、コロンビア響で演奏した「アイネクライネナハトムジーク」も本当に重いよね。あんな演奏は他にないよ。 カザルスのモーツァルトはワルターにちょっと似てるなあ。 個人的にはワルターの方がもっと重いと思うけど(最晩年のコロンビア響の録音)。 重いドラマチックな音楽風にも、演奏できるだけだよ〜。 重いドラマチックな音楽風にも、演奏できるだけだよ〜。 いんや。ワルター以前はモーツァルトが重い音楽だという発想自体がなかった。 ところで、最近、5ちゃんねるが重いな。重くてしょーがない。 いんや。ワルター以前はモーツァルトが重い音楽だという発想自体がなかった。 ところで、最近、5ちゃんねるが重いな。重くてしょーがない。 ドン・ジョバンニとか、誰でも重く演奏する曲はあったし ワルター以前も以後も無いだろ だからさ。今じゃ誰もがドンジョバンニを重いって思ってんだけど、昔からそう思われてたかどうかわからんじゃないか。 だからさ。ワルター以前はモーツァルトが軽い音楽だと思われてたかどうかわからんじゃないか。 モツレクや、PCON. No20など PSona No.17も軽くはない。 Sym No40も、元から暗く重い。 >>519 わかるよ。たとえば、フルトヴェングラーの名演と言えば、ベートーベンとかワーグナーだろ。フルトヴェングラーの名盤でモーツァルト挙げる奴いるか?ようするに、当時モーツァルトは(ベートーベンやワーグナーに比べれば)重要な演目にはなり得なかったってことだろ。 >>520 個々の曲の印象を言ってもしょうがない。ベートーベンやワーグナーに比べれば軽いと思われていたという話だから。 ワルターの師匠マーラーが自作を演奏する時に よくモーツァルトを前プロに置いたんだけれど 当時の批評家によると「まるでマーラー自身の曲のような演奏」だったらしい これ、軽くはないよね >>522 ワルターだってモーツァルトをベートーベンやワーグナーに比べれば軽く演奏してるだろ >>523 マーラーはモーツァルトを評価していたのかもしれない。しかし、世間全体の評価がどうだったかというのは、また別の話じゃないかな。 >>525 世間全体は関係無い モーツァルトを重く演奏するのはワルターが元祖というアホな意見に 他にもいると言っているだけだから コーホーがワルターをいちばん評価していたのはSP時代のVPOとの録音盤 音にうるさいくせにあんな最悪な録音を絶賛した ほんとうにエゴ丸出しのひねくれた批評家であったといえよう >>521 こいつばかだなあ フルトヴェングラーのヤニ臭い(人間臭い)芸風がモーツァルトの清澄さに合わないから フルヴェンにモーツァルトの名盤が少ないってだけだろ (Pf協20番のルフェビュールとのライブは記念碑的な名盤と言われてるけど) 芸風の相性適性をないがしろにして 「当時モーツァルトは(ベートーベンやワーグナーに比べれば)重要な演目にはなり得なかった」 と結論付けるとは、ちょっとオツムがお粗末では >>529 ましてやモーツァルトが得意中の得意のバレンボイムが モーツァルトが苦手なフルトヴェングラーの真似であるわけないよな 先入観でバレンボイムがフルヴェンの真似と決めつけてる馬鹿 モノラル時代のマタイ受難曲第1部の音源ははたしてワルター指揮のもであろうか そもそもワルターはバッハをいっさい録音していなかったんだから 最初に買ったCDは ブルーノ・ワルターコロンビア響の田園とブラ4 SONYの国内盤 ジャケットデザインは国内盤の方が好き >>528 >音にうるさいくせにあんな最悪な録音を絶賛した 宇野氏はあちこちでSPの音の美しさを書いている 状態の良いアイネクライネのSPをプリアンプでヒスノイズをカットして聴くと 筆舌に尽くしがたい美しさなのだとか LPに無造作に復刻されたGR盤は酷評している CD時代になってのオーパス蔵の復刻は絶賛 >>528 は何もわかってなさそうだ 実際SPはLPより一瞬あたりの情報量多いから、ちゃんと作られていたら良い音だよ 高級嗜好品として丁寧に録音されて、丁寧に作られていた一昔前のSPは 当時量産されていたLPよりも、良かったんでしょう レーザーディスクのCLVよりCAVのほうが画質が良かった理屈っすか いや、LPの内周より最外周のほうが音がいい理由っすね ただ針摩擦音のトレードオフも微レ存 某評論家がある音楽大学の学生たちににコロムビア響の運命を聞かせたところ 冒頭の間延びした開始にみんな吹き出してしまったという これには驚いたという ワルターは新世代の若者には受け入れられなかった ワルターは気候のいいロスに住まいを移したから長生きできたんだな 寒いNYだったら85才まで生きられなかったろう 一時期のロスはヨーロッパ中の一流芸術家が集まっていたね >>536 >一瞬あたりの情報量多い えっ? 何それ。 78回転/分(SP)は33_1/3回転(LP)よりも 演奏一秒あたりを記録できる距離が長いから 一瞬あたり刻まれてる情報量が多い、という理屈。 でもSPの素材の粗さだの、走行距離が長いゆえの針音だの、 そもそものマスターのレンジの狭さだの、 いろいろ不利な要素も多い。 嗚呼! 宇野先生!宇野先生! 宇野先生が懐かしくてたまりません! >>544 なるほどなー。 情報量じゃなくて針溝の長さだよな。 フルトヴェングラースレより >>528 と同一人物と思われる 0580名無しの笛の踊り 2023/10/27(金) 19:15:13.53ID:xIu8FL6+ フルベンはレコード録音を軽視していた 残された音源は真剣に仕事をしていない だから時代遅れの指揮者であったといえる 0585名無しの笛の踊り 2023/10/28(土) 01:12:07.64ID:bcKrvLTp フルトヴェングラーのチャイコフスキー悲愴交響曲は 多くのファンを感動させて泣かせた しかし、フルトヴェングラーは意外にも アンチチャイコフスキーだったのだ この間コンビニで買い物してお釣りを受け取る際、 コロコロ悪太った店員の女の子に 「お返しが○○円と、あとチャックが開いてます」と指摘されました。 宇野先生に一寸近付けたと思いましたね。 ワルターの田園は美しい しかし精神性においてはフルトヴェングラーが格段と上と言えよう 宇野功芳 ワルターは好きだけど天才ではない ムラヴィンスキーは好きではないけど天才である わけのわからんこと言ってたコーホー先生だったw ワルターの名盤駄盤みたいな本あったけど読みたい 宇野のやつ >>556 アマゾンでは特にプレミアもついていないようだな 古本で良ければ買ってみれば? ぼくはワルターの美しい田園が好きといえよう フルトヴェングラーの雷のような田園は好きではない でもワルターは天才ではない フルトヴェングラーは天才といえよう 宇野功芳w read.cgi ver 07.4.7 2024/03/31 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる