うんにゃって言っちゃう奴
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>>1
それ、どこの地方の、いくつぐらいの人?
昭和50年ぐらいまでは佐世保ではその言葉、使ってた。
最近歌舞伎の「め組の喧嘩」(明治20年代の作)を見てたら、
江戸っ子が言ってたのを聞いて、
昔は江戸でも使ってたのかと勉強になった。 レス返すとき、主に否定する時に「うんにゃ」って書いちゃう奴は非人。 >>2
広く使われているから、こんなおふざけスレが立つのだ。 よく、愛を信じないという人がいますが、
信じるという言葉には2つの方向性があります。
それは、「認識」と「執着」です。
そして、大半の人が誤解していることですが、
およそ一般的に使われるのは「執着」の方です。
「執着」における、「信じる」という言葉の意義は、
単純に 「好き」「嫌い」 の 「好き」 を
言い変えたものに過ぎません。
皆さん、「嫌い」なものを「信じ」ますか?
大抵の場合、「信じる」対象は、「好き」なものです。
そして、人の好き嫌いは時と場合により変化し得ます。
つまり、「信じ」ない人は時と場合によっては「信じる」ものです。
だから、愛を信じないと言っちゃってる人のことを
字義通りに受け取るのはやめましょう。
そんなことを言ってる人は、単に寂しくてひねくれてるだけです。 そしてここからが本題です。
「信じる」のもう一つの方向性。
「認識」のほうは、先に述べた「執着」のほうとは
まったく性質が異なります。
この「認識」は、一度でも獲得すれば、
重篤な認知症に至ったりしない限り、生涯
失うことはありませんが、獲得できるかできないかは
その人の育った経緯、経験、思考過程、感性に
大きく委ねられており、獲得できない場合
その人が幼ければ、成長に期待するか、
もし年老いていれば奇跡にでもすがるしかありません。
愛を信じないという人の大半は、およそ「執着」タイプの
ほうですが、ごくごく稀に「認識」タイプの人もいます。
こちらの方は、通常、いちいち口にして「愛を信じない」
などと言うことはありません。簡単な話、
「分かってない」からです。 本当に興味がない、理解できない事がある場合、
それをもっともらしく口に出して、
人によっては蔑みと取られるような言いぶりで語るのは
やめましょう、ということです。
なぜなら、それができるということは、
「認識」までは至っているということを吐露することに等しいからです。
「認識」のレベルでさえも
本当に信じていないのだと言うのなら、うかつに口には出さないことです。
(書いてもだめですよ)
もちろん、本気で相談に乗って欲しい人に尋ねるように話すのなら
問題ありませんが、まるで自分が特殊な感性でも持っているかのように
赤の他人の前で、自己主張激しくが如く語り出すのは得策ではありません
ところで、 「うんにゃ」 って 何?
「いいえ」「違う」とは具体的に何が違うんにゃ? うんにゃくらいいいだろよ。
なぜそんなに嫌うんだ。
うんこよりましだろ。 確実にどんな人でも可能な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
時間がある方はみてもいいかもしれません
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