「は」と「が」の違いについて語るスレ
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「は」は話者の頭の中にある話題(話したいテーマ)を表し、 「が」は述語にとっての主格・主語を表しています。 「が」の有効範囲は一つの節や一つの文の中までが普通ですが、 「は」の有効範囲はその話題全体に及ぶことが普通にあります。 「が」は動作や存在や状態の主(ぬし)を指しています。 日本語では述語や形容詞や形容動詞の主です。 「は」は話題になる対象を中立的に取り上げます。 「それに関して言えば何々だ、こういうことだ」という意味合いを示しています。 「が」は述部の主を限定しますが、「は」は話題の主を限定します。 「が」は格助詞ですが、「は」は超格助詞、超越的格助詞です。 「は」は節や文を超え、複数の述部をカバーするスコープを持っています。 「は」は格に支配されない話題を表す印だからです。 「は」と「が」の混乱が起こりやすいのは複合助詞の場合でしょう。 「(がは)」「がも」 「には」「にも」 「(をば)」「をも」 「では」「でも」 「とは」「とも」 「からは」「からも」 「よりは」「よりも」 といった複合助詞がありますが、 「はが」と「をば」は現代の日本語にはありません。 「をば」は少し古い日本語に見られます。 「はが」は存在せず、「はが」の場合は「は」だけになってしまいます。 この点に注意する必要があります。 「は」と「が」の混乱が起こりやすいのは複合助詞の場合でしょう。 「(がは)」「がも」 「には」「にも」 「(をば)」「をも」 「では」「でも」 「とは」「とも」 「からは」「からも」 「よりは」「よりも」 といった複合助詞がありますが、 「がは」と「をば」は現代の日本語にはありません。 「をば」は少し古い日本語に見られます。 「がは」は存在せず、「がは」の場合は「は」だけになってしまいます。 この点に注意する必要があります。 日本語は話題先行型の言語です。 日本語話者の頭の中には常に「...は...」というフレームがあります。 格の正確さは二の次で、「...は...」というフレームが第一なのです。 これを日本語の「はファースト」と呼びます。 格の現れ方が不正確(不安定)なんてことはない 個々人においては安定している 世代によって現れ方が違うだけ 社会的な規範意識が不徹底だと言ったほうがいい 「本が売っている」と言う人と「本を売っている」と言う人はそれぞれ譲らない 「本が売っている」と「本を売っている」は違う意味、 または同じ物事を別の側面から表現しているように直感的には思うね。 「本が売っている」の「売っている」は状態を表している広義の形容詞。 「本が」はその形容詞の主を指している。 「雨が降っている」「山がある」「花が咲いている」と同じような意味。 ※「ている」や「ある」が形容詞だなんて強引かな。 「本を売っている」の「売っている」のほうは誰かの行為を表している動詞。 「本を」はその行為が働きかけてその位置や状態を変化させる対象を指している。 ※行為と状態の意味を併せ持つ動詞は「状態動詞」と呼ぶのかな? 「本が売っている」と言う人はそれがあたかも自然現象であるかのように、 本が独りでにそうなるべきしてそうなっているかのような見方をしている。 アフォーダンスというか。 さもなければ、それを行っている動作主が話題の外に置かれている。 「だれによって」そうなっているのかはどうでもいい。 むしろ「どこで」を話題にしたい。 「本が売っている」と言う言い方をする人にとって、 助詞の「が」は主格ではなく、 とりあえず頭に浮かんだ新しい情報を提示するためのマーカーになっている 既知の事柄を提示する「主題」助詞の「は」に対して 未知の事柄を新たに提示する「焦点」の助詞として「が」を捉えている だからこの構文を使う人は様々な他動詞構文において 本来「を」を使うべきである目的語に「が」を使う傾向がある こういう構文を使わない人間が考えるに 「本を」ではなく(うっかり?)「本が」と発話してしまった時点で その後を「売られている」に変えれば良いだけだと思うのだが そうしないのは何故なんだろう There are books selling for $20. 20ドルで本が売っている。 その場合の動詞sellは他動詞「売る」ではなく「売られる」「売れる」と言う自動詞 This kind of book sells well. この手の本はよく売れる 「落とす/落ちる」や「閉める/閉まる」と同様に 「売る」の自動詞が欲しかったけど、「売っている」で代用しているっぽい。 「落ちる」の意味合いは「落とされる」では代用できない。 「本が売っている」は「本が売られている」とは意味が違う。 「車が人によって走らされている」と「車が走っている」の違い。 「売られている」ことがその対象がそうあるべくしてあるかのように まるで自然現象のように受け止められている。 現象文と同じ感覚で表現されている。 ネイティブスピーカーの自然な感覚が 文法教育のバイアスによって「誤用」だと 見なされてしまう危険は言語学的に要注意。 文法理論はあくまでも後付けによるモデルであって、 それが規範であってはならない。 モデルは現実によってテストされることでモデルの側が修正される。 それが科学。 確かに「売れる」だと、単なる「売る」の自動詞じゃなくて可能のニュアンスが入るんだよね 売り出し中のアイドルを「売れる」と言うと「ブレイクする」になる感じが真っ先に思い浮かんだ 「は」と「が」 「を」と「が」 「の」と「が」 など、外国人に教えるときに要注意な助詞の用法がいくつかあるね。 >>25 日本語の文法において自動詞は潜在的に可能の意味を含むんだよ この袋ならそれだけのりんごが十分に入る(入れることができる) 主語における「は」「が」の使い分けは単なる主題/主格の区別では十分説明できない 1) 私は太郎だ。 2) 私が太郎だ。 通常は1が用いられる。2は「私」の部分を強調した表現であり、1でも「は」を強く発音すれば2と同じ意味になる 3) 海が青い。 4) 海は青い。 単に情景を表す場合は3)が使われる。4)は「海とは青いものだ」という一般性を含意する 5) ドアが開かなかった。 6) ドアは開かなかった。 6)はドアがすでに話題となっている場合に用いられる。例えば、「部屋から出ようとしたが、ドアが開かなかった」という文では「が」が適切だが、「私はドアノブを回したが、ドアは開かなかった」というような文では「は」が使われる 英語の「a」「the」の区別とは同じではないが、「新情報/既知の情報」という分け方で共通している 私はバカだ I'm idiot. 私がバカだ I'm Baka. 「は」が格助詞でないことは>>12 >>13の「複合助詞」の例を見れば充分だろう ここで「は」と組み合わさったりその結果消されたりしている助詞こそが「格助詞」であり、 むしろそのことが「は」が格助詞とは違うレベルで存在していることを表している 同じ事は助詞「も」についても言える また目的語の主題化における「は」の使用もこの助詞が主格ではないことを示している ・パンは僕が食べる 「は」実は対比の機能もある ・パンは食べないが餅は食べる 「は」は単体で現れる時は主格の格助詞、他の格助詞と複合するときは主題の副助詞と考えるべき >>28 「海が青いのは海の水が青い波長の光だけを反射するからだ」 という場合の「海が青い」は、 「海というものが青いのは・・・」という一般論だと思われ。 >>28 定冠詞theには「いま話題にしているところの」「世間で話題の」という意味合いもあるもんね。 一つの集合の中から一つまたは一部の要素を話題にして他の要素を言外に置く効果がある。 ところが英語の堅い表現または英語以外のロマンス諸語では定冠詞が総称、 つまり一つの集合をひっくるめて一般論を述べるために使われることがある。 「は」と「が」は助詞だと誤解したから この問題が延々と続くんだよ。 「は」は「あり」と言う動詞、 「が」は「持つ」と言う動詞で どちら助詞じゃない。 主題と主格はどちらもsubjectを含意するという点でややこしい。 英和辞典でsubjectを引くと、主題と主格の意味が両方書かれてある。 英語では主題はtopic marker、 主格はsubjective case、ただし厳密にはnominative。 topicを辞書で調べると、話したり書いたりすることのsubject。 主格はおそらく動詞句や形容詞句が属している直接の当事者や当事物を指す名詞句。 トピックのほうは言説の塊に付けられる題名みたいなもの。 違いはスコープ。 格助詞「が」はたしかに「の」に近い。 「私が読んだ本」は「私の読んだ本」に置き換え可能。 考えてみると、この「私の読んだ本」は奇妙な言い方。 「私の読んだ」は読んだ行為が私に属すという意味なのだろうか? 一方、助詞「は」には 「項目:説明」「質問:答え」のときの:のような意味合いがある。 算数の「1+1=2(1足す1は2)」でも「は」が使われる。 これは「既知:未知」に一般化できるかもね。 敢えて英語に置き換えて考えるならこうなるだろうか AはBがC A be the one/thing that B be/do C. 私は太郎だ I am the one that is Taro. -> I am who Taro is. / I am Taro. 私が太郎だ It is the thing that I am Taro. -> (It is) that I am Taro. / The thing is I am Taro. 象は鼻が長い Elephants are the ones that their noses are long. -> Elephants are the ones who have long noses. / Elephants have long noses. 春(に於いて)は曙(が最も良い) Spring is the one that the dawn is the best. -> In spring, the dawn must be the best time in a day. 私はウナギ(を食べる) I am the one that is going to eat eel. -> I'm going to eat eel. 私はウナギ(そのものだ) I am the one that is an eel. -> I am an eel. ウナギは私(が頼んだ) Eel is the thing that I ordered. -> Eel is what I ordered. / Eel is mine. 「は」は「あり」、 「が」は「持つ」という動詞だ。 象は鼻が長い =「象 あり」+「鼻 持つ 長い(性質)」 こういう二文の連結文だ。 「象 あり」だから「は」は与件に感じられる。 前提条件に感じられる。 ・ご飯は僕が食べる ・僕は御飯を食べる 「は」主格にも目的格にも使われる、とかあったな。 でも「は」は「あり」という動詞なだけなんだ。 ご飯は僕が食べる =「ご飯 あり」+「僕 持つ 食べる(行為)」 僕は御飯を食べる =「僕 あり」+「ご飯を食べる」 「は」はどちらにも使われるのではなくて 「あり」という動詞なだけだ。 子供のころに作文でよくやらかした誤り、とされる文。 「私の夢はパティシエになりたいです。」 今でも長文でやらかしてしまうことが時々ある。 とはいえ、本当に間違っているんだろうかと思うこの頃。 これを誤りと見なすのは学校文法の色眼鏡の産物じゃないかって。 >>44 「パティシエになりたい」が鉤括弧で括られていれば問題ない文だし 文章ではなく会話だったら聞き手がそのように解釈するね >>43 また湧いて出たないつものやつ じゃあ「は」と「が」のそれぞれの否定文を言ってみな >>46 俺にも固定ファンがついたか。 ファンレターありがとうね。 >「は」と「が」のそれぞれの否定文 活用のことだろう。 動詞だったら活用があるはず… んで、例えば「は」の出自は「あり」という動詞だ。 しかし一見して「は」と「あり」は同じに感じられない。 それは「あり」が「は」に横訛りしてしまったからだ。 「は」は動詞と感じられなくなって、活用を失った。 ari → hari/wari/yari → ha/wa/ya こういう変遷をたどったと思う。 こういう一連のグループを親言素と娘言素と呼んでいる。 「あり」が親言素で「は(わ)」「や」が娘言素だ。 親言素と娘言素は、横訛りしても同じ意味だ。 入れ替えも可能だ、可換だ。 >>47 つづき 日本語の「持つ」がどこから来たかわからんが 「が」はアイヌ語由来で[kor(持つ)]から 横訛りして「君が代、誰が為」とかの古い用法で残っている。 現代なら「君の代、誰の為」が一般的だ。 これもそういう事情で活用しない。 助詞の意味論としてはそういう論法が可能かもしれないね。 ただし現代の日本語体系において品詞まで置き換えてしまうのは 大胆というか強引というか、そんな気はする。 >>43 つづき ・ご飯は僕食べる ・僕は御飯食べる この二つの文章で どっちが食う方で、どっちが食われるか、 だいたいわかる。 文法よりも、ご飯や僕という属性でわかる。 ・ご飯 (食い物、美味い、非生物、食事しない…) ・僕 (人間、普通は食べ物じゃない、生物、食事する…) 文法以外に、こういう属性があり、これを人間が共有している、 だから文法的に微妙でも、 どっちが食って、どっちが食われるか、わかるんだよ。 文法以外のことで、文の意味がわかる。 文法だけではわからない。 >>51 つづき ・ご飯僕食べる ・僕御飯食べる これでも、意味がなんとなくわかるね。 単語をならべるだけでも。 なぜかというと、単語にはいろいろな属性や 風景が付随しているからだろう。 正確に伝えようとすると いわゆる助詞があった方がよい。 英語で言えば前置詞、 日本語で言えば後置詞、つまり助詞で そのいくつかの出自は動詞だろう。 そういう目で見ると前置詞も動詞だね。 ただ動詞が前に来ているから、 次に来る語に焦点が移る。 日本語話者以外でも通ずる可能性が高いね。 英語話者でもその場合はSOVという順番になるらしいね。 >>47 否定文は活用じゃないし 活用は否定文ではない お前は人の話もろくに聞いていないし、 相変わらず言葉も意味もろくに理解していない 全くお話にならないよ 文法も言語学もお前は全く語れていない 何が固定ファンだ。のぼせるな >>48 アイヌ語から日本語への借用はほとんど存在しないし、助詞のような基本的な文法要素が借用されることは稀だ 「が」がアイヌ語からの借用というのはまず有り得ない >>55 >アイヌ語から日本語への借用はほとんど存在しないし ソース。 >>56 何が? 他人にものを尋ねるときにはちゃんとわかるように言えよ 日本語の助詞がアイヌ語の動詞に由来し、 その意味を助詞の機能に残存させたということはあり得るけど、 日本語の助詞が実は動詞だという論法はそれだけでは導けない。 日本語文法に関する品詞の概念を抜本的に見直す必要がありそう。 助詞は場所や位置関係などを表す名詞のように感じるけどな は~=端、転じて方向や個体 が~=中、転じて領域や属性 >>59 日本語では格助詞と言われている「が」は アイヌ語由来で「kor 持つ」の横訛りだ。 出自が「持つ」という動詞で、 古代から現代も「が」は「持つ」という 意味は変わっていない。 君が代、塞翁が馬、誰が為や 地名にイッパイ「が」残っている。 鬼ヶ島、○○ヶ崎とか… >>43 象は鼻が長い =「象 あり」+「鼻 持つ 長い(性質)」 「長い」をそのままよりも、「長い性質・形状」の方が 理解しやすい…名詞句の方がしっくり来る。 「長い」の名詞形は「なが」だろうね。 それに「し、い」が付いて形容詞になっている。 ご飯は僕が食べる =「ご飯 あり」+「僕 持つ 食べる(行為)」 これも「食べる」そのままよりも 「食べる行為・行動」の方がしっくり来るね。 「食べる」の名詞形は「たべ」だろうな。 「なが、たべ」を語幹とか言ってるはず。 語幹はもともとは名詞なんだろうね。 名詞にク活用とか四段活用とかが付いて 形容詞や動詞になるんだな。 名詞に形容詞化・動詞化の接尾辞が付いて、 形容詞・動詞になる。 >>60 おもしろいお考え。もう少し詳しく解説願えませんか? 「は」=「→」 「が」=「←」 「私は医者です」=「私→医者」です 「私が医者です」=「私←医者」です >>61 横訛りなんて言葉はない 現実を見ろ 働け >>63 まず、前提からして突拍子もないので、馬鹿馬鹿しいと思ったり前置きが長すぎると思ったりしたら即切ってもらって構わない 原始日本語は、音節の一つ一つが現代でいうところの手話の手形のようなものであり、その組み合わせで名詞や動詞などを構築しているかのような節がある これは、ただそれを独断と偏見でまとめてみたものにすぎないので悪しからず 具体的に説明していくとあまりにも長くなるため、申し訳ないがこれで勘弁してもらいたい ア手天 イ手己 ウ手地 エ手寄 オ手降 (自然体の手) カ爪天 キ爪己 ク爪地 ケ爪離/寄 コ爪翔/降(爪を立てる) サ刃天 シ刃己 ス刃地 セ刃離/寄 ソ刃翔/降(手刀を向ける) タ秤天 チ秤己 ツ秤地 テ秤離/寄 ト秤翔/降(雨を確かめる手) ナ拳天 ニ拳己 ヌ拳地 ネ拳離/寄 ノ拳翔/降(軽く握った拳) ハ掌天 ヒ掌己 フ掌地 ヘ掌離/寄 ホ掌翔/降(指を閉じた掌) マ叉天 ミ叉己 ム叉地 メ叉離/寄 モ叉翔/降(左右を挟んで物を掴む手) ヤ盃天 盃己 ユ盃地 盃離/寄 ヨ盃翔/降(物を捧げる手) ラ螺天 リ螺己 ル螺地 レ螺離/寄 ロ螺翔/降(手首を捻ったり曲げたりする補助動作) ワ腕天 ヰ腕己 ウ腕地 ヱ腕離/寄 ヲ腕跳/降(肘を中心とした腕) 爪を掲げる+揉み手を提げる=噛む 掲げた爪を引き寄せる+手首を払って提げる=蹴る などと巧く解釈してもらえると助かる 尚、エ段とオ段の甲乙は一応つけたが、イ段の乙は基本的に~する存在/生き物と考え省略した また、ヤ行とワ行は元々エとオの甲が独立した結果生まれたものと考え、現在のエとオは乙に相当するものとしている これに従うと、ハは指を閉じた掌を対象にかざす手形で端を匂わせるものとなり、普段使いではやんわりと諭すように「他所は他所、家は家」的な表現ができる また、これを強調してはっきりと突き付けると、「それに限って」的な強い対比の感覚を表現できる ガは多分に個人的な憶測に基づいているが、ナカの音便と考えると最も筋が通ると現状では考えている ナカは軽く握った拳を対象に見立て爪を立てながら開く手形で中を匂わせるものとなり、普段使いではゆっくりと紐解くように「果たしてその正体や如何に」的な表現ができる また、これを強調してはっきりと突き付けると、「なんとこれこそが」的な強い結論付けを表現できる >>62 「は」を「ある」と考えるのなら、以下のような文の「は」はどう解釈できるんだろう 「が」「を」以外の格助詞が「は」と組み合わさった例だ ・ここには待合室がある ・この停留所からは急行バスが出ている ・あの火事の様子はクレヨンではとても描けない(「は」が2つ) ・遅刻するよりは雨に濡れて行ったほうがマシだ ・結果を見るまではわからない >>68 「は」=「刄」だな。 ここに/刄/待合室がある。 >>68 ずいぶん例が多いですね。 日本語のユニークな点だけど… 「目的格、対格、与格、処格、奪格、経由格… といっぱい有る、フィンランド語だと、 もっとあった気がする、凄い数だったなw」 これらの主格・呼格以外も「は(あり)」と言える。 >・ここには待合室がある 「ここ+に」という到達格?作用格?目標格? それらが「あり」と言っている。 「ここに」という到達格、目標格が「あります」と言っている。 それが「ここに+は」=「ここに+あり」だ。 なぜ「に」が目標格?到達格?を表すのか? その理由があるはずだね、絶対に。 解明できるか、わからんが。 >・この停留所からは急行バスが出ている これも同じだ、「この停留所+から」で出発格とでもいうのかな。 それが「あり、あります」と言っている。 「この停留所から+は」=「この停留所から+あり」なんだな。 なぜ「から」が出発格?を表すのか? >>70 つづき >・あの火事の様子はクレヨンではとても描けない(「は」が2つ) これもそうだ、「クレヨン+で」で、これは手段格?材料格?共格? それが「あり、あります」と言っている。 「クレヨンでは」=「クレヨンで+あり」になる。 「あの火事の様子 あり クレヨンで あり とても描けない」 なぜ「で」が共格か? >・遅刻するよりは雨に濡れて行ったほうがマシだ これも同じだ、 「遅刻する」+「より(行為以上)」のものが 「あり」と言っている。 んで、なぜ「より」が基準格?比較格?起点格?なのか? ・結果を見るまではわからない 「結果を見る+まで」で限度格?到達格?が 「ございます」と言っている。 なぜ「まで」が 限度格?到達格?なのか? 例えば「私には」は英語では[to me, for me]だろうけど 日本語風の英語だと[me am, me is]となるのでしょう。 「は」=「あり」=「英語のbe動詞」だから。 「が(持つ)」も助詞との組み合わせ可能・不可能があるが 場合の数が多くて、やれていない。 >>69 お前の考えでは 「は」=「あり」、「が」=「持つ」 なんだから、 「ここには待合室がある」は ここに+あり+待合室+持つ+ある だろ? なんでそう答えないのかなあ じゃあ改めて >>70 お前の考えでは 「は」=「あり」、「が」=「持つ」 なんだから、 「ここには待合室がある」は ここに+あり+待合室+持つ+ある だろ? なんでそう答えないのかなあ >>74 わからないな、その理由は。 横訛りした理由はわからんよ。 便利だったんだろうな。 >>75 「横訛り」の話は関係ないよ 話をそらすなよ 逃げるな 発達って自分の中でしか通じない造語を他人も知ってると思い込んで言い出すよな 「横訛り」とか >>62 「ここに」の「に(i)」なんだけど 形容詞の「し、い」も「i」だよな。 古語辞典では「i」では 「やまとし(i)うるわし(i)」 「安眠し(i)寝さむ」 「寒くし(i)あれば」 「名にし(i)おわばいざこととわむ」 「今し(i)、羽根という所に来ぬ」 なんか共通点が有ると思わないか? ここでは書く気がないけどさ。 「し」は強意とか書いてる。 辞典編集者って、お気楽だね。 よこなまり【横訛り】 言葉や発音がくずれること。なまり。 「―の朴訥 (むくつけ) なるは」〈魯文・西洋道中膝栗毛〉 「が」がアイヌ語のkor由来wwwwwwwww 荒唐無稽すぎて笑い死ぬわ🤣 助詞の借用って時点でおかしいのに「が」と「kor」だよ?ww 一ミリも似てなくて草 辞書でさ「強意」、「語調」とかが出てきたら 「編集者にはわかりません」と言う意味だね。 考古学では「宗教祭祀に使われた」も 「このブツはわかりません」と言う意味だw 荒唐無稽なの大杉て無理www ただ41の英語にいったん直してってのは存外わかりやすかった 「は」がテーマやターゲットをいったん説明したいとき 「が」がストレートに核心に触れたいとき いろいろ文を入れてみたらそんなニュアンスがあったthx あともうひとつ追加 全然スレチで悪いけど67はもっと丁寧に教えてくれ 煽りとかじゃなくてちょっと感動したから頼みたい オレ今まで日本語の「着る」と「履く」をわざわざ使いわけるのが疑問だったんだ だけどそれ見ていろいろ格闘してたら唐突に理解した 「着る」と「履く」はジェスチャーが違うから言葉が違うんだって その表のとおりにやってったらいつもの動作とまるっきり一緒でビビった ただやってると「泣く」や「島」なんかやったときのジェスチャーがさっぱりなんだw オレのなかで軽くバズってるからよろしくお願いします >>83 ー84 他人の書き込みに言及したいときは番号の前に>>を付けろ いちいちログをたどって前の方を見に行くのがめんどくさいから >>78 日本語の母音は5つしかない それぞれの母音が特定の意味と結びついているのだとしたら、 一つ一つの拍(かな一字分の音の長さ)が 母音5種類のうちの1つの意味を内部に持ち、 すべての単語はその組み合わせで出来上がっていると言うことになる お前はこれから日本語のすべての単語をその理屈で説明しろ >>86 マジレスしてスマンが日本祖語は6母音やぞ あとアクセントの高低もあるからそれも含めて考えないかんぞ もちろん東京アクセントじゃなくて平安期京都ですらなくて日琉から復元した完全な祖型でな 8母音説、6母音説、5母音説のどれに準拠するのか 加えて、その母音の起源は単母音、重母音、連母音の脱落のどれに当たるのか 有力、非有力の差はあれど、言語学に絶対はない 見落としのないよう、さまざまな場合を想定する必要がある フィンランド語やトルコ語の文法を参考にして日本語文法を考えるとどうなるんだろうね。 以前、学習塾で国語を教えてた時、「が」と「は」の違いを説明するのに使ってた例文 ・彼は頭「が」いい ・彼は頭「は」いい 「は」=「刃」と書いたものだか、 「刃」は駄洒落だけど、 「は」は前後を切り、 「が」は前後を繋げるは、 日本語文法では根底的な概念だけどな。 「が」は句を作れるけど「は」は作れない。 「私が起きた時」は完結した句だが、 「私は起きた時」は続く述部が必要。 >>87-88 言うと思った >>78 のバカ説を否定するのに、 6母音説も8母音説も関係ないし、挙げる必要も全く無いよ 「母音/i/は常に特定の意味と結びつく」 という妄説を否定するに当たって何の違いもない ただの知ってるアピール乙 なんでおバカさんはこう、少しでも自分の意に沿わないようなレスがつくと 誰彼構わずに脊椎反射でくってかかるんだろ?生きてて恥ずかしくないのかな? >>84 確かに、着るや履くの手形は普段の動作と直結していてとてもわかりやすい さて、泣くと島の手形は端的に言うと、「拳の甲で涙を拭う仕草」と「指を閉じた掌を横倒しにしたような形の空間」を表している 具体的な説明もするが、以前>>67 でも言ったように必要がなければ、ここで切ってもらって構わない 泣くのナは軽く握った拳を掲げる手形、クは手形が昇華して抽象的な動作になったもので、何かに食い込ませたり擦り付けたりする動作である この時、拳ならナでなくともニで良いのではないかと思う人もいるとは思うが、拳を自身に向けるニでは甲で涙を拭うことはできず不自然な動作となる 尚、話が少々脱線するが、この「手形の昇華とそれに伴う抽象化」は、他の言葉でも多く見られる 例えば、叩くのクは脱力した手と手=タタを噛み合うくらいに打ち付ける動作を、 畳むのムは脱力した手と手で挟む動作を、祟るのルは脱力した手と手を手首からダラっと反して提げる動作を、それぞれ表す 島の手形を説明するにあたり、縞模様の縞についても説明したい シは指を閉じた手刀を「掌が上を向くように」胸元に差す手形、マは先の抽象化に似ていて、左右を「両手で」挟んで物を掴む手形である そして、これらの手形の解釈の違いが、島と縞の違いを生み出している 島のシはその手形全体から海に浮かぶ孤島の像を連想したものであり、縞のシは閉じた指の並びから縞模様のパターンを連想したものである そして島と縞、両方のマは眼前の風景を伸ばした手と手で擬似的に挟み込むことで、抽象的な空間=間を表す この時、先と同様、掌ならシでなくともチやヒで良いのではないかと思う人もいるとは思うが、チは指が閉じておらず、ヒは掌が横倒しでない上に指の並びが強調されないことから、使用に適さない >>84 >>98 スレ違いの上に検討外れ。以外にたった2行で正解を書く 「着る」は衣服全般、「履く」は足先、ただしこの動詞は下半身全体にも及ぶ。 下半身かつ衣服であるときは「穿く」と書く ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.4.6 2024/03/23 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる