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千葉総合スレ
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0001名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/07(金) 11:10:26.34ID:csK7/k0g
千葉について、語り合いましょう。
0002名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/07(金) 11:32:23.65ID:HbwmjIBH
JR常磐線は、東京と千葉・茨城を結ぶ通勤・通学路線として首都圏には欠かせない鉄道だ。
開業以来、常磐線は常磐地方で採掘される石炭を輸送する役割を担った。
大正期に入ると、農村から東京へと野菜を売りに歩く行商人の利用が増加。
1930年ごろからは常磐線や、そこに乗り入れる成田線・我孫子支線の各駅で行商組合が設立されたほどだった。
戦後も常磐線は石炭輸送の貨物列車、そして農村からの行商人が多く利用した。
長い歴史の中で、常磐線はさまざまな変化を経てきた。沿線は農地から住宅地に大きく変貌。
人口も爆発的に増加し、常磐線を利用するのは、いわゆる千葉都民が多くを占めるようになっている。
高度経済成長とともにベッドタウン化した千葉県の常磐線沿線では、主に松戸市・柏市・我孫子市の3都市が形成された。
3市の主要駅は、それぞれ松戸駅・柏駅・我孫子駅になるが、その中でも柏駅の発展ぶりは目覚ましい。
現在、柏市の人口は約42万人。柏駅の1日の乗車人員は、常磐線と東武野田線を合わせて19万人超に及ぶ。
この柏駅の乗車人員は、柏よりも東京に近い松戸駅と比較するといっそう際立つ。
松戸市の人口は約50万。柏市よりも多いが、1日の乗車人員は常磐線と新京成線を合わせても約15万人。
柏駅には及ばない。その点を見ても、柏駅の集客力・求心力は非常に高いことが窺える。
柏駅の集客力や求心力の原動力は、駅東口に形成された繁華街にある。
東口の駅前には百貨店をはじめ大型商業施設が立ち並び、商店街も活気に溢れている。
地元民のみならず、近隣オフィスの社会人や学生、なにより若者の往来が目立つ。
柏はいつの頃からか“千葉の渋谷”“東の渋谷”などと呼ばれるようになった。
かつての柏駅前には、高島屋・マルイ・そごうなどが立地。
常磐線の拠点として発展してきた背景も、“千葉の渋谷”といった評判を後押しした。
しかし、“千葉の渋谷”といったネーミングは、柏を正しく表現しているとは言いがたい。
なぜなら、柏は渋谷ではなく“関東の宝塚”を目指して開発が進められた歴史があるからだ。
しかし「関東の宝塚」を諦め、柏はベッドタウン化の道を選択した。だが、その道のりも一筋縄ではいかなかった。
常磐線全体の傾向として東京に通勤・通学する千葉都民が増加する中、柏町の人口も増加し、1954年に周辺町村と合併。
いったんは、「東葛市」になる。しかし、2カ月後には中心部の柏を市名に採用して、柏市に再改称している。
千葉都民の増加を受け、常磐線は絶えず大混雑するようになった。そのため、常磐線は輸送力強化を迫られる。
対策として、昭和40年代から複々線化が進められた。
1971年に複々線化されたことに伴い、常磐線は快速電車の運転を開始。
しかし、柏駅には快速電車のホームを設置するスペースがなく、快速電車は柏駅を通過するダイヤが組まれた。
柏市民にとって屈辱的だった快速電車の通過という事態は、翌年には解消された。そして、ここから柏駅の反転攻勢が始まる。
1973年、駅東口に日本初となるペデストリアンデッキが完成。
ペデストリアンデッキは、歩車分離することで駅前の回遊性が増すことを意図していた。柏では、これをダブルデッキと呼ぶ。
駅からダブルデッキをつたってアクセスできる百貨店のそごうが、ダブルデッキの完成と同時にオープン。
柏駅前のそごうは、長らく柏駅の発展を象徴する商業施設として君臨した。
そごうは実質的に2000年に経営破綻。そんな状況にありながら、柏駅前のそごうは2016年まで柏の象徴として営業を続けている。
東口のダブルデッキ完成は、駅の西口も刺激した。ダブルデッキの完成と同年、西口に百貨店の高島屋がオープンする。
1979年には、高島屋が若者向けの専門店を核にしたローズタウンを開店させている。
その後も、柏駅前のにぎわいは衰えなかった。1999年には、念願だった南口改札を新設。
改札が2カ所に増えたことでJRと東武の乗り換えがスムーズになるとともに、利用者が分散。ラッシュ時の混雑も緩和した。
駅前のダブルデッキは、現在も休日にはミュージシャンが路上ライブの場としている。
そうしたパフォーマンスが、多くの若者を引き寄せる。これが「千葉の渋谷」と呼ばれるゆえんでもある。
2015年には、上野東京ラインが開業。常磐線は品川駅まで乗り入れを開始。
柏駅からも乗り換えなしで東京駅・品川駅へアクセスできるようになったわけだが、これで東京への通勤アクセスは向上。
柏駅のベッドタウン化はさらに拍車がかかっている。
懸念すべきは、東京へのアクセスが向上したことによってにぎわいを吸い取られる“ストロー現象”だが、
今のところストロー現象による柏駅が衰退する兆しは見られない。
0003名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/06/08(土) 00:44:30.48ID:1k5IOTKl
何それ
0004名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/09/15(日) 19:24:28.09ID:KacE1wa1
今回台風15号、名称は「千葉台風」でいいか?
0005名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/12/19(木) 03:11:19.91ID:ujpG3cBq
12月17日現在
交通事故死 全国ワーストおめでとうございます

ほんまにおめでとうございます
12月31日まであと2週間くらいですか
恐らく千葉が交通事故死全国一
確定ではありませんが

おめでとうございます
ほんまにおめでとうございます

https://www.pref.aichi.jp/police/koutsu/jiko/koutsu-s/jikonippou/documents/koutsuushibouzikonippou011217.pdf
0006名無しさん@お腹いっぱい。垢版2019/12/19(木) 03:12:39.74ID:arpRZgH6
おまいはんいけずどすねぇ〜
0008名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/06/25(木) 22:04:11.77ID:xFFEJMdL
柏市は柏餅とは何ら関係ないのか
0009名無しさん@お腹いっぱい。垢版2020/12/26(土) 05:36:15.37ID:eGYZ/20j
阿久留王(あくるおう)は、千葉県のアテルイです
ヤマトタケル(=朝鮮人)から祖国を守ろうとした英雄たちの名を忘れないようにしましょう


>千葉民話の『鬼泪山の悪郎塚 -君津市-』を読むと、「昔々のことだ。鹿野山の奥深く、鬼のように恐れられている大男の悪郎がいた。本当の名前は誰も知らないが、悪路王ともいった。人々は米や麦を奪われ、牛や馬までも盗まれたりしたから、心の底からこの大男を憎んで、ただ悪郎とだけ呼んでいた」といった書き出しで始まり、正義の味方の日本武尊がこの悪郎を退治する様子や地名の由来を紹介している。

>阿久留王との戦いは、日本武尊の勝利に終わるが、その戦いの跡が地名となって残っている。「鑓水川」は、日本武尊の軍が血に染まった鑓を洗い流した川であるというし、「鬼塚」は阿久留王軍の兵士を葬った場所であるという。「鬼泪山」は、阿久留王が涙を流し命乞いをした場所で、近くを流れる「染川」は、もとは「血染川」といい、阿久留王の血で真っ赤に染まったことから名づけられたという。「千種新田」の海辺は、もとは「血臭浦」といい、戦いの後に海辺から血の臭いが立ち上ったからだという。「皿引」は、もとは「血引」といい、傷ついた阿久留王が血を流しながら通ったことから名づけられたという。

>この戦で敗れた阿久留王は、再び蘇らないように首と胴体を別々にして葬られた。首が埋められたのが「お八つが塚」で、胴体は「阿久留王塚」と言われている。阿久留王塚は今も残っているが、お八つが塚は館山自動車道の建設とともに壊されてしまった。

>ヤマトタケルは日本神話の英雄とされている。古事記を読んだ方はご存知だろうが、実際には残虐な人物であり、父親の景行天皇からも疎んじられていた。それもあって、私は阿久留王に同情してしまうのである。

>阿久留王は、製鉄部族を束ねる首長だったのではないか、という説がある。鹿野山は、金属を生む山=金生(かのう)から来ているのではないかと言われ、古来より製鉄可能な山であり、日本を武力で統一しようとする中央政権にとって、どうしても手に入れたい場所だった。中央と地方の戦いは、平定の名の元に行われた侵略戦争にも思える。

>悪鬼にされた地方豪族は今でも民衆信仰により細々と語り継がれている。
0013名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/06/26(日) 15:00:11.54ID:3cA0jg84
最高標高が400mぐらいで、山の数は50個ぐらいあるらしいので
そんな房総半島より小さい伊豆半島は最高標高が1400mぐらいで
山の数は65個ぐらいあるらしい事から

房総半島は山々の影の範囲が伊豆半島より小さそうなので
夏は山々の影で高温を下げている範囲は伊豆半島より小さそうで
冬は山々の影で低温を更に低い温度へ下げている範囲は伊豆半島より小さそう
0014名無しさん@お腹いっぱい。垢版2022/12/07(水) 00:58:58.02ID:V3Ke0yyi
千葉ザイヌの産地
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