無文土器系壺形土器
 朝鮮無文土器に直接の系譜をもつ壺(2)である。菜畑遺跡や曲り田遺跡から出土した壺の中には、無文土器そのものと言ってもよいほど外見的によく似た壺がある(1)。
後藤直の分類〔後藤,1980〕で言うと丹塗磨研壺U・V類に相当することから考えても、水稲農耕の開始期に無文土器の壺そのものが持ち込まれていたことは十分に考えられる。
こういった現象は玄界灘沿岸地域だけではなかったようで、愛媛県松山市の大渕遺跡〔栗田,1989〕や兵庫県伊丹市の口酒井遺跡でも朝鮮半島とのつながりを想定できる壺が見つかり始めている。
今のところ、西部九州以外の地域で見つかっている無文土器系の壺は、器高が20〜50cmの中形壺や、25cm以下の副葬小壺に限られている。
西部九州にはまだ韓国で知られていない器高50cm以上の丹塗磨研を施した長胴壺を含めて、機能的に分化した壺がセットで存在する。
西部九州の縄文社会が、水稲農耕を営むうえで必要な壺を、既存の土器様式構造の中に組み込んだのてある。当初の壺は無文土器との外見的な共通性をみせていたが、すぐに独自の変化をみせ始める。
突帯文土器様式の壺である(7)。山ノ寺式や夜臼式の壺は、無文土器の影響を受けて成立し、板付T式の壺が成立するまでのあいだ、貯蔵用・埋葬用・副葬品・祭器などの機能を担っていた。
突帯文土器様式の壺の型式変遷については拙稿で詳しく検証したが、今のところ無文土器の影響を受けた壺が成立し、型式変化を続け発達していく状況は西部九州に限定されている。
西部九州以外の地域では、無文土器系の壺、すなわち西部九州の突帯文土器様式の壺に影響された動きが認められ、それは在来の深鉢・浅鉢が壺形へと変容するかたちをとる。