後白河法皇を追憶するスレッド
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
大天狗=マキャベリスト、という解釈でいいのだろうか? 後白河に政治手腕があったかどうか謎である。そもそも登極自体が中継ぎであり、
在位2年で退位させられた後は、二条帝親政派との軋轢に懊悩し、二条夭逝の
幸運の後は清盛の政治壟断、院政停止の憂き目に二度も遭っている。
むしろ政治面よりも天皇家の荘園を集中し、経済的に生き残ることに成功した
手腕を評価すべきである。お手本は保元の乱後の藤原忠通による摂関家領の防衛行動だろう。 >>3
> むしろ政治面よりも天皇家の荘園を集中し、経済的に生き残ることに成功した
> 手腕を評価すべきである。お手本は保元の乱後の藤原忠通による摂関家領の防衛行動だろう。
なるほど。 >>3
> 後白河に政治手腕があったかどうか謎である。
中途半端にあったように思うな。 何か最近の日本史リブレットではアスペルガー疑惑まで出てた 権力闘争をくぐり抜けたのだから相応の政治力は持ってただろうが
結局は美福門院、平清盛、源頼朝などに翻弄された印象だな >>17 だけど、深夜にどんちゃん騒ぎして崇徳帝に迷惑かけるのイクナイ >>19
ネタだろうが
あれは毎日丹念に頭をそってる賜物 >>20
「梁塵秘抄」で後白河法皇は自分が今様好きになったのは
晩年不遇であった母待賢門院が寂しさを紛らわせるために好んだ影響
だと言ってるんだよね
晩年の待賢門院、帝位につけない四男坊の後白河、
この2人の境遇には共通点があったのかもしれない
>>22 鳥羽上皇は待賢門院が死んだ時号泣したらしいじゃん。不遇だったの?
>>18
> 結局は美福門院、平清盛、源頼朝などに翻弄された
それなりにうまく対抗していたと思うが。 >>23
待賢門院は鳥羽上皇から美福門院と近衛天皇を呪詛した疑いをかけられて
強引に出家に追い込まれているよ
鳥羽上皇は晩年美福門院と一緒に離宮の鳥羽殿に住んでいたが
待賢門院は実兄の三条高倉殿に住み鳥羽上皇と別居していた
待賢門院の死後普段は住んでいない三条高倉殿に駆け付けたんじゃなかったっけ 鳥羽天皇の皇子って萎宮とか目宮など障害がある子いるね。
近衛天皇もナントカっていう目の小児がんが原因で死んだと言われてるし、遺伝的欠陥でもあったのかな? >>26
近親結婚の弊害じゃないかい?四の宮だけまともだったのが良かったのか悪かったのか。
まあ重仁親王も23歳で死んでいるし、どの道争乱は不可避ったと思う。 >>27
鳥羽天皇と待賢門院は従姉弟だが、鳥羽天皇と美福門院とは血縁はかなり離れている
しかし鳥羽と美福の間に生まれた4人の子のうち2人が10代で死んでいる
昔は子供が半分しか成人しなかったというからそんなもんじゃないかな
>>27
待賢門院は後白河の下にも弟を産んでいるよ。
仁和寺に入って出家した五宮覚性法親王で、こちらも壮健。
保元の乱で後白河に敗れた崇徳はあわてて同母弟の覚性法親王のもとへ逃げ
仁和寺にかばってもらおうとしたが、覚性法親王によって後白河に差し出された。
覚性法親王は五宮だから幼少期に出家になったみたいだけど、
もし万が一四宮が壮健じゃなかったらスペアとして俗世にあったんじゃないか。 Wikiの重仁親王の所に足の病で死んだとありますけど、何の病気でしょうか? 足の病で死んだというと、糖尿病で足が壊死したとか? 日本史上での後白河の功績ってなに?
頼朝が武家政権で高評価を受け
後白河は保守反動扱いにされがちだが >>32
後白河がいなければもっと天皇家の地位低下は早かったと思うけどな
・天皇家に代わり政治を牛耳った摂関家から天皇家家長(上皇)の手に
政治を取り戻し新たなパートナーとして平氏を選んだ
・平氏も台頭しすぎて第二の摂関家になろうとすると
源氏に上洛を命じて平氏を追討した
・源氏にも追随せず頼朝の征夷大将軍就任を阻止した
武士の台頭が顕著だったから朝廷の政治が失速したように見えるけど
逆に朝政の主導権は摂関家や平氏ではなく天皇家家長である自分にあることを結論付け
頼朝を関東にとどめて朝廷の政治には一切口出しさせなかったことから
都における天皇家の地位は摂関全盛期などよりずっと高かった >>30ー>>31
当時の史料には「足の病」としかなくてはっきりしたことは分からないが
しかしおそらく「脚気」か何か
平安時代以降、上流階級で白米を食べる習慣ができて玄米に含まれるビタミンB1が欠乏、
足などを中心に下半身麻痺などが起こって死に至る病気
糖尿病だと目を患ったり(藤原道長)飲水病と呼ばれて異常に水を欲しがる(藤原伊周)
症状が一般的で足の壊死はないんじゃないかな
>>34 でも脚気で死ぬ人って徳川家定・家茂みたいに衝心(心不全)じゃない?
>>35
徳川家定・家茂も下半身麻痺があったんじゃなかったか。
家茂は手足の痛みを訴えてリウマチだという判断があったくらいだから。
麻痺がやがて心臓に至った場合、衛心が起こる。
重仁親王も長年脚気による足の痛みを患った挙句、
衛心を起こしたことにより死亡した可能性がある。 >>33
> 後白河がいなければもっと天皇家の地位低下は早かったと思うけどな
それは同感 崇徳が白河の実子というのはもはや定説みたいだけど
当時でも知っているのは母のみということだろうな
待賢門院は若手の貴族との密通の前歴もあるし・・・ >>39
崇徳が仮に密通によって生まれた子であったとしても
鳥羽と崇徳は甥と伯父に当たるわけで似ていても不思議ではないが >>38
崇徳が白河の子という話が最初に出てくるのは鎌倉時代の「古事談」で
崇徳誕生から100年余りがたってから成立した説話集
同時代の公家の日記には崇徳が密通してできた子であるという話は出てこない
(待賢門院の結婚前の密通事件については同時代の藤原忠実の日記に出ている)
現実に、白河法皇が没した後も鳥羽上皇は崇徳を退位させることなく
その後11年間崇徳を帝位に留め置いたまま鳥羽上皇が院政を行っている
鳥羽が崇徳を退位させたのは寵妃美福門院に男子が誕生したためで
仮に崇徳が実子でない証拠や記憶があるならもっと早くに
別の皇子に天皇を代えることも可能だったはず >>41 そうだよなあ。
崇徳天皇が自分の子かどうか疑っているのなら、後白河や本仁親王が生まれたら即、譲位させるだろうしね。 If話であれだが、八条院が女帝として即位して、
後白河が即位せずに二条天皇へ譲位されていたら、
その後の歴史は大きく変わってただろうな。 >>43
全く同意
美福門院の意向は(八条院に関しては不明だが・・・)
即二条への継承だった
関白忠通の意見で
さすがに存命中の父をさし措いての即位は(?)という事で
中継ぎとして後白河の即位が実現した
(息子のおかげで皇位を拾った、早晩退位は必然だった)
当時の関係者が死没後思わぬ政治力が前面に出てきた もし二条が後白河を飛び越えて即位したら、後白河は院政敷けるの? >>45
承久の乱の後、鎌倉幕府によって後堀河天皇(後鳥羽上皇の孫王)が立てられた際、
後堀河天皇の父守貞親王(後鳥羽上皇の皇子)は即位したことがないにもかかわらず
後高倉院の院号を受けて院政を取っている。 重仁親王は親王宣下を受けたのに崇徳天皇第五皇子の覚恵は何で出家させられたの? >>47
重仁親王は美福門院の養子だったから親王宣下を受けたんだろ
崇徳天皇が退位させられ美福門院が産んだ異母弟近衛天皇即位を実現する緩衝材が
卑母の重仁親王を美福門院の養子にすることだった 待賢門院のおかげで閑院流(三条・西園寺・徳大寺)の地位が確立したな
二人の天皇の国母になったし・・・ そもそも閑院流から即位した白河天皇のお陰だろ
待賢門院が摂家出身でないにもかかわらず立后できたのも
白河法皇が従兄弟の娘である待賢門院を養女にしたからだし
お蔭で「摂家でなくても立后・女院になれる」という先例を作り
摂家から「諸大夫の娘」と馬鹿にされていた
美福門院女院号宣下につながったりしたが >>41
逆に崇徳を天皇位に押し込めることで自由な活動をさせなかったとも取れる。
崇徳の在位が19年の長きに及んだのは、不倫女の子ではなく別の妃の生んだ
男子を待っていたからだろう。事実そうなった。 >>51
よく分からんが。
崇徳が帝位についたまま鳥羽上皇が死ねば、崇徳が院政を取る。
崇徳が実子でないなら鳥羽上皇は一刻も早く崇徳を帝位から追いたいはず。
待賢門院の子は白河も本仁も白河法皇の子である可能性があるため
待賢門院以外の女との間の男子を待っていたからだというのならば、
鳥羽上皇は美福門院に近衛天皇を産ませる前に美濃局との間に法親王となった2人を産ませているし、
それ以外にも親王宣下を受けず僧籍に入った皇子が2,3人おり、これに帝位を譲ればよい。
鳥羽上皇は近衛天皇の前にも待賢門院以外の女との間に男子を設けていたということ
母親の身分の問題がある。
美濃局は石清水の坊官の娘で、ほかの皇子を産んだ母親も身分が卑しすぎ。天皇の母親にはなれんでしょう。
>>53
重仁親王の母親も相当な卑母だろう。
崇徳天皇が熱心に近衛天皇の次代の帝位を期待したらしいが
卑母が駄目なら重仁親王も駄目だろう。
美濃局の皇子2人は法親王宣下を受けており、少なくとも
親王と認められるだけの身分はあった。 母親の身分が高くなかったが、結果オーライで即位できた帝は誰がいるの?弘文除く。 >>52
崇徳は4歳かそこらで即位しているので、即位後10年は子供だから何もできない。
だから焦って下ろす必要はなかったと思う。天皇を下ろすにも口実が必要で、
幼帝から幼帝にバトンタッチでしかも正室腹から卑母腹に皇位を伝えるのは
流石の鳥羽でも強行出来なかったのではないか?
重仁親王は譲位させられる崇徳を宥めるための捨て駒で、鳥羽は即位させる気は
全く無かったと思う。美福門院の養子にしたのも目くらまし。 >>57
「鳥羽上皇は崇徳天皇がわが子でないことを知っていたが、
正室の皇子を退位させて卑母の皇子は即位させられないので、
高貴な正室である美福門院から男子が生まれるのを待っていた」
というのは誤り。
美福門院は摂家から「諸大夫の娘」と呼ばれ本来妃に立てる身分ではなかったし
しかも父親が死んでから鳥羽上皇にこっそり召し出され侍女扱いであったため。
近衛天皇は崇徳天皇中宮藤原聖子の養子になって初めて帝位につけただけ。
(近衛天皇の嫡母は藤原聖子ということになっており、近衛天皇在位中は
藤原聖子が近衛天皇の後見人として宮中に住んでいた)
つまり、高貴な女性を養母として迎えれば、実母が卑母であっても即位できるということ。 >>51
鳥羽上皇は、崇徳天皇の正妃に摂関家出身の藤原聖子(関白藤原忠通の正室腹の長女)を迎えている。
万が一、聖子に男子が誕生すれば、いくら崇徳を皇統から外したくても
聖子の皇子を即位させないわけにはいかず、不可能だっただろう。
近衛天皇が即位できたのは聖子に子が生まれなかったというただの偶然の産物。
崇徳を皇統から外したいならば聖子との結婚前、幼帝であるうちに外すはず。 >>59
しかし退位させられたのは23の時だ。
要するにそれまでに男子が生まれなかったのが悪いということか。
女性の側も大変だな。崇徳と聖子の年齢がいくつ違うか分からないが。 平安末期は幼帝のオンパレードだけど(堀河・鳥羽・崇徳・近衛・二条・
六条・安徳・後鳥羽)宮中行事はどうしていたんだろうか?
特に四方拝や新嘗祭は上皇や摂政が代理でやるわけにはいかないだろうに。 >>62
略式と言うか幼帝用の簡略版があったと思う。 >>61
仮に聖子が自分で男子を産まなくとも、聖子と崇徳天皇が仲が良く、妾に産ませた重仁親王を
正妃聖子に頼んでその養子にできれば、近衛天皇即位は十分に阻めた。
近衛天皇即位の背景には崇徳天皇と中宮聖子の深刻な不仲があったということだ。
「今鏡」には崇徳は摂関家出身のこの高貴な正妃をないがしろにし
妾ばかりにかまけていたことが書かれてある(ちなみに聖子は崇徳よりも3歳年下)。
聖子が崇徳の異母弟を養子としたのはある意味摂関家による崇徳に対する反乱だ。
関白忠通が娘をないがしろにされたことで崇徳と不和になり、
崇徳の皇統を見捨てて近衛の皇統を打ち立てたわけで、むしろクーデターを起こしたに近い。
鳥羽上皇は崇徳天皇が招いたこの不和に上手に乗っかった。
崇徳天皇と摂関家の仲が上手く行っていれば近衛即位はなかった可能性が高いということだ。
>>64
よくわかったよ。摂関家が最後に崇徳を見限ったんだね。
そう考えると院政期の摂関家にも力はあったということだね。
天皇がいるから当然だけど、ステレオタイプの「院政で権力喪失」
という教え方は良くないね。
崇徳はあまり頭が良くなかったことは分かったよ。いくら16歳の時の
子とはいえ、鳥羽より長生きできるのだから何としてでも治天になるべきなのに
聖子を怒らせるなんて。 >>66
>院政期の摂関家にも力はあったということだね。
全盛期ほどではないが、それなりの力はあった。
保元の乱で半壊、治承三年の政変でとどめを刺された感じだな、摂関家。 松殿家なんてすぐに没落したもんね。近衛基通が24で死んだ時点で終わってる。 関白藤原忠通の息子たちは皆晩年にできた子なので
(男子がない忠通のために異母弟頼長を養子にしていたのに40過ぎてから
実の男子が生まれた忠通が実子相続しようとしたことが保元の乱の一因)
忠通が死んだときに息子たちはまだ皆若かった
その上、長兄系の近衛家は平清盛の娘と2代にわたって政略結婚
完全に平氏政権に取り込まれた形に
木曽義仲は平氏を姻戚とする近衛家を嫌って弟を松殿家として関白にしたが
当の木曽義仲がすぐに没落したために松殿家も没落
源頼朝は近衛も松殿も嫌って更にその弟を九条家として関白にした
九条家は後鳥羽天皇・順徳天皇の中宮を出すなどそれなりに勢力を持ったが
承久の乱後の西園寺家の台頭により天皇の外戚としての地位から転落した >>71
>実の男子が生まれた忠通が実子相続しようとしたことが保元の乱の一因
これいつも思うのだけど、頼長が左大臣の高位に上ったのは貴族社会全体の総意であり、
忠通の後継者として早くから貴族社会で育成されて来た結果だと思う。もし忠通に
男子出生の見込みがあるなら、頼長を左大臣にまで出世させず卑位に据え置いて
待てばいいだけ。故に保元の乱で頼長が敗死しなければ、摂関家の世継は頼長だったろう。
どうにも後付けの理屈に聞こえる。 >>72
頼長が近衛天皇に后候補として養女の多子を入内させたが、
わずかその2か月後忠通が養女の呈子を入内させている。
そしてなんと後から入内した呈子が先に立后。
頼長は実父の忠実に泣き付いて強引に多子立后をしている。
貴族社会が摂関家家長は頼長が継ぐことで納得していたのならば、
多子立后で貴族社会は一致団結したはず。
しかしその後、逆に多子は宮中を追い出されてしまい、
保元の乱以前から頼長の今後に暗雲が立ち込めていた。
頼長は切れ者だが執政としては余りにも偏狭すぎる
忠通の政治性とは比べものにならない
早く男子をあげてれば忠実もこれほどまで頼長に肩入れしなかったかも・・・
(忠通の後継として元服してる) 後白河法皇の花押が見当たらない。
「花押かがみ」に掲載がないから、
現代に伝わらないということか。 後白河帝の今様狂いって、
今で言えば陛下がロックに夢中になるようなもの? >>76
「今様」という言葉自体は「今はやりの歌」ぐらいでジャンルは問わないが、
当時の今様の第一人者は白拍子と呼ばれる遊女集団だった。
今でいうならキャバ嬢たちを自宅に招いて
毎日一緒にカラオケやってるみたいなもんか。 >>75
どうやら、今のところ未見のようですね。
どこかにないでしょうかね?
>>80
76さんよりも80のほうが例えとしては
わかりやすくて良いと思いますね。
院の師匠は、老婆の白拍子だったとか。 寵姫は頭がいいので寵臣はアホなのがお好みだったのんだろうか wikiの後白河の項目充実しすぎwww
まあ主に政治面だが 結構速いのでは?
第1話で崇徳天皇即位だから、もうそろそろ生まれているだろうし。 >>85
後白河の登場は3月から(ノベライズ参照)。
後白河は子役が出ずに本役が12歳の元服シーンから登場。
後白河は清盛より9歳年下なので、後白河元服のときにすでに清盛21歳。
ところで鳥羽院は雅仁親王を
「帝位の器にあらず」と思ってたみたいだが
その姉にあたる上西門院統子内親王を
どう思っていたんだろう
祟徳程は忌み嫌ってはいないだろうが
八条院ほど気に入りではなかったということでいいのかな
誰か知ってたら教えて
でもウィキだと後白河とは
結構仲良しみたいで
頼朝助命にも一役買ったみたいだが
大河ではどの辺まで出番有りなんだろう
>>89
> ところで鳥羽院は雅仁親王を
> 「帝位の器にあらず」と思ってたみたいだが
帝王学を習得していないんだから当然そう思うでしょ。
ただし中継ぎのショートリリーフとしてなら登板OKという感じだったのではないか。 あの大天狗=後白河法王も、NHK捏造大河ドラマに掛かると、たった二話の
儚い存在だったね‥。 タフマンのイメージダウンだったね‥捏造大河ドラマのおかげ 何で白河法皇と後白河法皇を間違えてるんだ?
ははん。これが歴史を知らないくせ声だけは大きいネトウヨってやつか! 俺はむしろ伊藤四郎って髪の毛なくて顔だけアップで写すと天狗っぽいと思った
後白河院でなかったのが残念 まあ40年前の滝田版 白河・後白河を知る世代は
言いたいこともいっぱいあるように思われ
第一義朝は新平家では木村功だしね
玉木じゃいまいち線が細い
そんなこと言い出したらきりないが >>95
あの時はあの時で今見ると変だけどね・・・
目の周りのオーバーメイクとかw
そもそも清盛の晩年を中心に描いてたから
主役級も皆40代とかだし 横溝正史の獄門島にでてくるヒヒジジイみたいだな>白河天皇 >>94
そうかなーあの白河院は余裕が無さすぎで微妙だった
白河院にしては小物過ぎる 白河と後白河は時代的に近い。醍醐と後醍醐は400年くらい、陽成と後陽成も700年ほど離れているのに、問題なかったんだろうか。
誰がどういう理由で決めたんだろう。 一条と後一条
光厳と後光厳
桜町と後桜町
桃園と後桃園
何も問題ないだろ? >>93 どちらも極悪人という意味では間違えやすいなw >>103
どういう理由で決めたか
白河・後白河←どちらも院御所として白河院に住んでいたことがある
醍醐・後醍醐←醍醐寺を創建した醍醐天皇は聖帝とされたために後醍醐が生前からこの天皇号を名乗った
陽成・後陽成←後水尾天皇が不仲だった父に悪帝とされる陽成からとった号を贈ったらしい >陽成・後陽成←後水尾天皇が不仲だった父に悪帝とされる陽成からとった号を贈ったらしい
後鳥羽も同じ理由か? 姉の上西門院とは素で仲良かったようだが、異母妹の八条院とはどうだったんだろう?
後白河も八条院もあんまり細かいこと気にしなさそうだから案外気があったりして
後鳥羽は即位時に幼少だったところから来てる。
それなら「後六条」とか「後崇徳」でもよさそうだが、
治天の君を張ったことも考慮されていると思われる。
後柏原とか後奈良とかは、えらい古いところから
持ってきたなって感じだが。 >113
このあたりの名前の理由はなんだろう。
普通に父子相続だし、なんか悪さしたとか人でもないから桓武とか平城の別名を追号にする
理由がないきがする。しかも平城ってあんまいいイメージがある人でもない気がする。 >>109
後鳥羽が死ぬと、当初は配所などで不遇のうちに死んだ天皇につけられる「徳」の字を入れた
顕徳院の名が贈られた(崇徳、安徳、順徳などに例がある)。
皇統も後鳥羽の兄系に代えられていたのだが、この系統が絶えてしまい、
再び後鳥羽の曽孫後嵯峨天皇が即位することになった。
天皇の直系尊属は不遇な天皇に当たらないとして急遽顕徳院が改められ後鳥羽院の院号が贈られた >>116
明正天皇は長らくぶりの女帝だったので
奈良時代の女帝元明天皇と元正天皇から一字ずつ取ったらしいぞ 明正は女帝二人っていうなんとなく納得できる理由だけど
霊元の孝霊・孝元というチョイスがわからない。とくに何かをした2人とは考えられないし、
なぜ古代?しかもこの二人? 「霊元院」ってのは本人の希望だったらしいね。
あと、このタイプの追号で不採用だったものに、
「中正院(履中+反正)」「淳陽院(淳和+陽成)」があったってのを、
何かで読んだ。 不採用っつえば、桃園天皇の時だったか誰の時だったか、
「後称光院」てのが候補に挙がったことがあったような。
「称徳」+「光仁」の上にさらに「後」って、どんだけだよw >>124
称光天皇っているよ。101代目で後小松の子。
称光の直系がおらず、伏見宮から後花園が来た。
多分この状況からすると、後桃園天皇の時じゃないか?
直系が断絶し閑院宮から光格天皇が来たから。 後文徳院も没ネタにあったような…
後花園の時だっけか?
あと、配流先からの帝位返り咲きで破棄された
後醍醐=元徳院ってのもあるな 後醍醐は天皇親政の聖代といわれた(実際は違うが)延喜天暦の治に因んで
後醍醐自身が生前のうちに定めた院号(北朝側も認めた)
後村上も同様に自称 あ〜悪い。勘違いだわ。
元徳院は北朝側での案のひとつだった。
しかし元徳院追号が実現してれば在位中の元号を追号にするという
明治以降の慣例のさきがけになったのにな。 後醍醐の場合、元号を追号にするなら「建武」が相応しいな。
後醍醐の場合、下手すると重祚どころか三祚の見方も出来るから、
1318-1331 元徳院(元徳天皇)
1333-1336 建武院(建武天皇)
1336-1339 後醍醐院(後醍醐天皇)
っていうのもアリかな。 >>127
後文徳院は、謚号に加後号した例はないと
いうことで不採用になったんじゃないかな。 北朝側(幕府)から見た南帝
・後醍醐 分裂以前から帝なので正当性は否定出来ない
・後村上 僭称だが正平擾乱時には一時的に認めた
・長慶 存在外
・後亀山 合一後の北朝による追号(恩恵) >>130
明治以前に元号が天皇号になった例はないよ
ちなみに同じ天皇の在位中に年号は何度も変わる
現実に後醍醐天皇自身、在位中に
元応、元亨、正中、嘉暦、元徳、元弘、建武、延元
と何度も改元している >>133
お寺の名前を年号から採ることは多かったのにね。
やはり勅願寺=寺の建立を発願した帝の治めていた時間
つまり年号という発想なのかな。建ててる途中に改元したら
どうするんだろうね。 >>134
年号がつく寺の発願者が天皇とは限らない
天皇関係なしに大学名でも年号を大学名にしているところはある
慶応義塾大学=慶応3年慶応義塾となる(前身塾は10年前からあったが、この年に慶応義塾と改めた)
明治大学=明治14年創業
昭和大学=昭和3年創業 >>89
八条院は美福門院の皇女たちの中でも別格
特に鳥羽院から愛され「朝に夕に」可愛がられていたらしい
鳥羽院と美福門院の荘園はほぼこの八条院一人が相続したことからも
その寵愛の深さが伺える
上西門院は鳥羽院存命中に准三后に叙せられて賀茂斎院も勤め、
鳥羽院から冷遇はされてなかったが特別な寵愛を受けていたわけでもない感じ。
同母弟の後白河とは賀茂斎院になっていた時期を除けばほとんど生涯を通して同居
(後白河が即位したときにも准母として皇后となり一緒に内裏に住んでいる)
特に仲が良かったけど >>>111
でも八条院は以仁王を養子にしてたから、そこで結構もめている。
以仁王が反乱で死んだ後も、やっぱり養女にしていた以仁王の娘を内親王に
してくれとか無理言ってるし。(結局九条兼実に却下されたらしいが)
ちなみに上西門院とその姉の禧子内親王は、どちらも待賢門院の娘だけに
大変な美人姉妹だったとか。
特に長女の禧子内親王は鳥羽天皇も溺愛していたが、12歳で病死した。
美福門院が鳥羽院後宮に入ったのはその後のことらしい。 >>144
12歳で大変な美人、ってのもなあ……。
現代の感覚で考えるから違和感あるだけかな? >>145
> >>144
> 12歳で大変な美人
まいんちゃんみたいなものと考えればいいのではないか? 宗教から歴史、哲学、超常現象、政治経済まで
あらゆる情報の宝庫「中杉弘のブログ」です。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/ >>>144
以仁王は八条院の養子ではなく「猶子(遺産相続権のない義親子関係)」
上西門院と禧子内親王が美人って何の史料にあった?
待賢門院も男好きな感じのする色っぽい女性だったとは思うが
同時代史料に美人だとは書いてないような。 >>148
幼少時の上西門院を見た貴族の日記に書いてある。 >>149
『長秋記』で前斎院(上西門院8歳)について「端正美麗非所眼及」と書いてるね。
さらに一品宮(禧子内親王12歳)はそれ以上の美形だそうな。
ただし気の毒に、一品宮はそれからすぐ病気で亡くなってしまった。 御簾越しにしか見れないのに、何で美人で有名になれるんだ…
家族ぐらいしか、かおみたことないんだろ。 >>144
>>148
まだ、平安時代は猶子と養子の相違はかなりいい加減。
むしろ、以仁王以上に忘れてはならないのは、八条院は二条天皇の准母として女院になった事実。
最近出た栗山圭子女史の本だと、
後白河が上西門院を自分の准母&未婚の皇后にして更に女院にしたのは、美福門院―ワ子内親王―二条天皇を正統化しようとする動きに反発したことによるもので、
二条がワ子内親王を女院にしたのは美福門院没後に准母である彼女を盛り立てて自己の後ろ盾にすることで後白河と対抗しようとしたからだと解説している。 >>151
漢文日記でわかりにくいんだが、待賢門院が筆者(源師時)をわざわざ
御簾の内に招き入れて姉妹を見せたということみたい。
禧子内親王は既にかなり病が重く、病状を見てほしかったらしい。
>>152
上西門院の場合、1歳しか違わない上にとっくに成人済の弟の准母って
さすがにちょっと強引だからなあ。
まあそれを言えば、そもそも最初の郁芳門院の例自体が相当無茶なんだが。
院政期の准母立后や不婚内親王は、最近色んな論文があって面白い。 >>152
上西門院は後白河と大変仲の良い姉弟だったから
(賀茂斎院に任じられていた時期を除いてほぼ生涯同居している)
皇后や女院にすることによって御封も増えるし天皇の准母となれば格も上がる
後白河が大好きな姉のためにやった面が大きかったと思うよ
二条天皇の母親は後白河の親王時代の妃で死後贈皇后されたとはいえ
正式な中宮でなければ女院でもない(後白河の中宮は藤原欣子)
二条天皇自身、帝位を安泰なものとするには女院である八条院を准母とする必要があったと言える
一方、後白河は中宮腹の皇子で母親は待賢門院、特に准母をたてなくても身分血筋に問題は何もなく
特にワ子内親王に張り合う必要は何もない
それに八条院准母の件は美福門院の入れ知恵もあっただろう
二条天皇自身は八条院の実妹いも子内親王を中宮に立てていたにもかかわらず
近衛天皇后藤原多子を後宮に入れて后2人とし美福門院といも子内親王を怒らせいも子内親王は出家
当然八条院もこの処置に怒ったとみられ二条天皇はそこまで美福門院一派を大事にしてなかったからね 梁塵秘抄は後白河。白河ではない。
ここが入試のポイントだよ 後白河を「暗愚である」と痛烈に批判していた上級公家は九条兼実」だっけ?
で、「後白河には美点が2つだけある。記憶力が非常にすぐれていることである」
と言っているが、もうひとつの美点はなんだっけ? ぶつぶつ、つぶやきながら、きれいに拾い終わって、定家らにローソクと線香を立てて、
藤原頼長の墓を掃除しました。
頼長様が話してきました。
「ありがとう。面白いことを教えてやろう。後白河天皇は隠し子だ。」
え?そうなんですか?
「けっこう、隠し子ですげかえる。」
書物にはいいことしか、書きませんからね。
そうだとしたら……。 >>160
仏教への傾倒を梁の武帝に擬えて皮肉ってたような
まあ色々軋轢あったからな 保守も兼ねて
>>154
>二条天皇自身は八条院の実妹いも子内親王を中宮に立てていたにもかかわらず
>近衛天皇后藤原多子を後宮に入れて后2人とし美福門院といも子内親王を怒らせいも子内親王は出家
>当然八条院もこの処置に怒ったとみられ二条天皇はそこまで美福門院一派を大事にしてなかったからね
近衛天皇(母親は言わずもがなの美福門院)の皇后だった多子を後宮に入れたのは、
「鳥羽院-近衛天皇ラインこそ正嫡」とい二条天皇の意識の反映でもあっただろうから、
決して美福門院一派を軽視している訳ではないかなぁと個人的には思う。 >>163
自分の娘が中宮に立ってる二条天皇のところへ
皇太后が入内してきて二后並立になったら普通に怒るでしょw
それに美福門院が近衛天皇の後宮で支援していたのは
関白藤原忠通の養女中宮呈子
内覧藤原頼長の養女皇后多子は当時から美福門院と
対立関係にあった
(多子は途中で里に帰り、養父藤原頼長は保元の乱で敗れて
流れ矢に当たって死んでいる) >>165
確かにそうだねぇ。
ということは、二条天皇は鳥羽院−近衛天皇の正嫡ラインをアピールしつつ、
それと同時に美福門院一派からの自立も画策していたってことかね? >>166
平治の乱に勝利した二条天皇は自信を深め
後白河院政や美福門院による女院政を否定して天皇親政を行おうとした。
これを後押ししていたのが二条天皇の伯父の大炊御門経宗や側近の葉室惟方らだった。
しかし姝子内親王が出家して二条天皇の後宮を去り、美福門院も死去すると周辺が心もとなくなり
后の座に藤原多子がいるにもかかわらず関白藤原忠通の娘育子を入内・立后させている(再び二后並立)。
二条天皇は平清盛の正室平時子を従三位典侍に任じて側近女官とし清盛の武力を自分につなぎとめようとしていたが
二条天皇の存命中に平清盛は後白河法皇に蓮華王院を献上するなど次第に二条天皇から離れ始め
二条天皇の死をもって後白河が復権する温床になっている。 平治の乱の後に、権大納言の徳大寺公能が藤原重通・藤原宗能(両名とも中御門流)を超えて
いきなり右大臣になってるのがよく分からない。公能は忻子(後白河中宮)と多子の父だけど
美福門院に近い中御門流が割を食ってるから、後白河による引き立てと見るのが妥当かな?
左大臣の藤原伊通(中御門流)も、同時期に名誉職の太政大臣に棚上げされてる。 >>168
平治の乱の翌月に二条天皇は多子を後宮に入れているから
その実父徳大寺公能を右大臣登用したのは二条天皇だろう
(多子の二条入内が1160年正月、公能右大臣昇進が1160年7月)
伊通の代わりに左大臣となった関白近衛基実は二条天皇の中宮となる育子の兄だし
二条天皇に近い立場にあったとみられる >>169
うーん、藤原経宗・惟方が配流されて親政派が弱体化してる時期なんだよね。
二条天皇が政治の主導権を握るのは、この翌年に院近臣を解官してからだから
この時期の人事は、後白河の意向を二条が受け入れたような感じがする。
閑院流は待賢門院の実家で、後白河にとっては身内だし。 >>170
徳大寺公能は後白河のいとこの一人とはいえあまり後白河に近くない
後白河が公能に近いなら後白河は中宮忻子をもっと珍重しただろうが
忻子は里にあることが多くずっと後白河と不和だった
もともと後白河は二条天皇を推す美福門院にわずか2年で退位させられたこともあり
二条天皇とはあまり仲が良くない
後白河排斥と二条天皇親政を狙う経宗・惟方が配流されていた時期ではあるが
二条天皇が後白河院政下に組み敷かれていたわけでもない
後白河が不和な皇后忻子の父を優遇したというよりも
二条が二代の后の批判を恐れずに再入内させた多子の父を優遇したとみるべきだろう
もともと二条天皇が公能を味方に引き入れるための政略結婚だったともいわれている 多子の再入内と共に姝子内親王が遠ざけられ、中御門流が冷遇されてるのを
見ると、平治の乱で権威が傷つけられた二条天皇は美福門院の影響下から
抜け出して、新しい支持勢力を構築しようという思惑でもあったのかな。
最初は閑院流だったけど公能が急逝してしまい、育子を入内させて
摂関家を頼ることにした。
でも、後白河と閑院流って疎遠かな?後白河の妃って成子(季成の娘)、
忻子(公能の娘)、j子(公教の子)と閑院流ばかりじゃん。
惇子内親王の母(忻子・多子の姉妹)もいるし、公能にしてみれば
後白河の皇子誕生も期待してたんじゃないかと思う。 >>172
この時代は母系相続で親王は母方一族が養育するから
幼少期から後白河の傍に侍る女房達も多くは母方一門の女で
その中から後白河のお手付きになった者もいるのだろう
しかし後白河は外戚の思惑をよそに中宮忻子、女御j子とは別居状態
外戚一門ではない平滋子を寵愛しその子を即位させる横暴ぶり
晩年の寵妃丹後局も高階氏であって外戚一門ではない
成子は閑院流出身で唯一後白河の男子を産んだ女だったが
後白河は成子の2人の男子をいずれも寺に入れて出家させ成子を女御にもしなかった
(成子の2人の男子のうちの一人が勝手に還俗し令旨をばらまいた以仁王。
木曽義仲が以仁王の王子の即位を後白河に要求したが後白河は却下した) >>172
そういえば女朱子って上西門院に近かったという説があるね。
もう一つ気になるのが美福門院薨去の後
出家済なのに八条院が「天皇の母代り」という立場で立后を経ずに女院号宣下を受けている。
このあたりはどういう事情があるんだろうか? >>174
172ではないが…
女朱子内親王は後鳥羽院存命中に上西門院の猶子になっている
美福門院唯一の男子近衛天皇の早世で待賢門院系に皇統が移ることが避けられない中
美福門院系と待賢門院系の融合のためであるらしい
八条院は後鳥羽院と美福門院から莫大な荘園を受け継いだ大富豪であり
また本人は生涯未婚であるためにその荘園の行方は当時の人たちの関心事で
後白河なども親しくこの異母妹の御所に出かけて親交している
即位の可能性すらあったあき子内親王を准母として味方に取り込むことは
うまくいけば八条女院領を二条系の相続とすることもでき
二条天皇にとって大きな意義があったとみられる >八条院は後鳥羽院と美福門院から莫大な荘園を受け継いだ
鳥忠@でない? 姝子内親王が上西門院の猶子になったのは、待賢門院の所領を姝子が相続し
いずれは夫である二条天皇に引き継がせるという計算もあったのかな。
八条院領も二条天皇に譲られたら、待賢門院と美福門院に分割されていた
荘園を一つにまとめることができる。
でも二条天皇の早逝で予定通りに事は進まず、待賢門院系(長講堂領)と
美福門院系(八条院領)の分裂が固定化し、持明院統と大覚寺統の対立に
つながっていった。 >>178
鳥羽院が亡くなった時、遺領は鳥羽殿で同居していた美福門院や八条院には分配され
鳥羽院領と美福門領の双方を八条院が相続して八条女院領となったが
別居の身だった待賢門院には分配されなかったので待賢門院領というのは規模が小さい
しかも待賢門院が晩年に創建した法金剛院に寄進していたはず
長講堂領は待賢門院領が前身になっているのではなく
後白河法皇領が前身になっている
これは後白河法皇自身が保元の乱に勝利した時に
藤原頼長の没官領を手に入れて形成されたもの
後白河法皇の死後はその皇女・宣陽門院に譲られている 待賢門院領荘園は白河院政期から形成されているから、
相当な規模だったんじゃないかな?法金剛院領はその中でも
最大のもので、娘の上西門院が引き継いだ。
建長4年(1252年)に宣陽門院領が後深草天皇に伝領された際に
宣陽門領の一部である旧上西門院領が鷹司院に譲られているけど
これが、かつての待賢門院領だろう。
昇子内親王(春華門院)は八条院の猶子となって八条院領を
譲られているから、猶子関係は所領の伝領を目的に設定された面が
強いと思う。長講堂領は待賢門院が設定したものではないけど
後白河院は待賢門院の所生で、上西門院領とセットで宣陽門院に
伝領されているから、ルーツを辿れば待賢門院系に分類できると思う。 >>180
待賢門院は白河天皇の即位を見ることなく没しているため
白河院政期に待賢門院領が形成されたというのは誤り
待賢門院の幾ばくかの荘園は法金剛院に寄進され
法金剛院を相続した娘の上西門院領の一部となった
上西門院没後はその同母弟後白河法皇が相続
後白河の広大な荘園群・長講堂領と共に宣陽門院に譲られた
ただ上西門院領と長講堂領は明確に区別されている
関白近衛家実は未婚の宣陽門院が所有する広大な長講堂領に目をつけ
これを摂関家が相続しようと娘の近衛長子を宣陽門院の猶子とした
宣陽門院が没するとき猶子の近衛長子が相続しようとしたところ
もともと後白河法皇が形成したものであるから皇室に返上するよう後嵯峨上皇から横やりが入った
結局、長講堂領は宣陽門院死後、後深草上皇が相続し、
近衛長子は上西門院領を相続できたのみだった >>181
内容の妥当性はわからんけど、180にあるのは「後白河」
ではなく「白河院政」だよね? >>182
そう。荘園公領制の確立は鳥羽院政期からと言われているけど、
大治3年(1128年)に円勝寺領質侶牧の立券を待賢門院が命じた
文書があり(『平安遺文』2122)、その前の白河院政末期から
待賢門院領が成立していた。
女院別当・源師時の『長秋記』大治4年3月24日条には、
「最近は諸国の荘園領地を待賢門院の女房や侍が
何かにつけて押領している」とあり、待賢門院領が
女房・侍を通じて急速に膨張していた模様。
法金剛院も広さ十町を超える超巨大寺院だったそうだから
(普通の寝殿造は一町)、荘園が幾ばくかなんてことは
考えられない。 >>183
>待賢門院系(長講堂領)と美福門院系(八条院領)
これはどの研究者が言っているの?
後白河法皇領が形成した長講堂領は主に待賢門院のものであるという説 長講堂領は待賢門院が亡くなった後に形成されたものだから
待賢門院没後に起こったことは、待賢門院とは何の関わりもないと
言われれば確かにその通りだけど。
後白河は母を強く思慕していたし(『梁塵秘抄口伝集』には
待賢門院の死去を悲嘆する記述あり)、待賢門院の所領を相続した
上西門院と同居するなど親密だったから、美福門院の系譜を継ぐ
八条院に対して、待賢門院の系譜を継ぐと表現したけど不適切だったかな? >>185
八条女院領は鳥羽法皇と美福門院領がもとになっているから
それはつまり鳥羽法皇の父である堀河天皇領である
と言っているようなものでは?
>長講堂領(後白河法皇が形成した)=待賢門院領 そもそも堀河天皇期(白河院政前期)には大規模な荘園郡というもの自体
形成されてないからね。鳥羽院政期から荘園が爆発的に増加して
(それでも荘園と公領の割合は半々)、莫大な財力を持つ女院が出現する。
待賢門院はその嚆矢となった女院で、その所領は上西門院が継承した。
当初の後白河院は経済力が皆無で、上西門院の御所に居候していたことも
あり(建春門院と会ったのは多分この時)、上西門院と後白河院の院司は
かなり重複していたから、同グループと捉えても良さそうだけど。
これに対して八条院は、以仁王や平頼盛など主流から外れた面子が集まる
駆け込み寺のような印象で、完全な別勢力。 白河法皇が院政を始めたのは、荘園整理令によって宙に浮いた荘園を
天皇家が受け取るためだという岡野友彦説は如何? >189
東大史料に落ちた腹いせかどうか、
石井進門下で有名な大先生を批判したいだけの本に書いてある本のことですか? 全く自分が生き残ることしか考えていない御方だ。
皇位につかず、今様狂いの御生涯が自他共に幸せであったろうに。
頼朝と互角にやり合おうとしたかもしれぬが、一途なバカな若者を犠牲にしただけではないか。
丹後や土御門にコントロールされ、電池切れで御万歳!って感じ。 >>193
> 頼朝と互角にやり合おうとしたかもしれぬが、
いちおう互角にやりあったのではないか? 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 白河上皇(鳥羽上皇の祖父のほう)って化物?俺だってひいおじいさんともなると、
写真でしか見たことないというのに、そのひいおじいさんと母ちゃんが関係もって、
生まれたのが崇徳上皇とか…どんだけの性欲だよ?? >>197
昔は一世代が短い
白河法皇(鳥羽天皇の祖父)と藤原璋子(鳥羽天皇の妃)は27歳差
崇徳天皇が生まれたとき、白河法皇は50歳、藤原璋子は23歳
(ちなみに白河法皇の孫で璋子の夫である鳥羽天皇はこのとき21歳)
年齢差があると言っても今はもっと年離れてる親子多いでしょ >>187
堀河天皇は短命で在位のまま死んでるから
院の私領である荘園はもてなかったでしょ
待賢門院領は規模としては大きなものではない
皇女の女院は父院から大量の荘園を相続できるのに対して
待賢門院は父藤原公実からの相続分などほとんどないし
夫鳥羽院とは晩年不和で鳥羽院より先に死んでいるため夫からの伝領もない
養父白河院の荘園は基本的には鳥羽天皇に行ってしまっている
上西門院領はその父鳥羽上皇からもらったものが大きいから
待賢門院領が広大でそれが上西門院領の中心になっていたと言うのは間違い
晩年の待賢門院はかなり寂しく暮らしていたらしい 後白河が寵愛した男色相手というのは
知られているだけで、何人ぐらい居たのですか?
名前も教えて下さい。
よろしく ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています