院政について語ろう
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。 「おりゐのみかどの門に車たつ様やはある」と豪語した師通だったが、見事に車が立って自身は40歳前に薨去。
院政も最初期は摂関家、太政官(天皇)と対抗勢力が多く決して順風ではなかった。創始者白河が師通同様短命であれば、
院政なる言葉が現代に伝わることも無かっただろう。やはり上皇として40年以上政柄を握った白河の功績は第一である。 天皇で院政期以降、名前に「仁」がつかないのは珍しい。
そして「仁」のつかない4人が悉く戦火を招いたのは偶然だろうか?
尊成(後鳥羽)
守成(順徳)
懐成(半帝)
尊治(後醍醐)
後鳥羽が決起しなくとも、院の力は殺がれて行ったのだろうか。
後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。 >>3
仁が天皇家の通字になったのは北朝からじゃなかった? >>4
後三条天皇(諱:尊仁)からでしょう。その後は白河(諱:貞仁)、堀河(善仁)と「仁」字が
続いていますし。
白河天皇の第一皇子は敦文と「仁」字でないけれど、この時点では父親の天皇自身が
一代限りの含みだったはずですね。 御宇多院までは「仁」をつけていたんでは?
後宇多天皇の子は「治」、孫は「良」としているようだけれど。 >>5
一代限りの天皇って条件で即位させても、大体失敗するよね。白河も後醍醐もそう。
崇徳も形の上でそうなって乱を起こした。
天皇位を自分の直系子孫に継がせることの意義はどこにあるのだろうね。
天皇になれても苦悩は続く。
婚姻形態の変遷が根本に有るのかもしれないが
(通い婚から同居婚へ)
・白河の強烈個性
・関白師通の早すぎる死
(後継忠実はまだ10代、皇室の外戚たる有力な叔父あり)
院政の成立はこの二点が大きいと思う
(通説の後三条の荘園整理は過大評価) >>9
白河が「一代限りの天子」だからこそ、形振り構わぬ権力維持に邁進したのだろう。
何しろ協調や妥協、譲歩は全て自身の命取りになるから。院政は副産物のようなもので、
摂関が置かれていても天皇家の家督であれば、天皇制度でも充分だったろう。 承久の乱で宮方が敗北を喫した時も、幕府は後高倉院を担いで院政を復活させた。
既にこの時期には、院(治天)無くして朝廷は動かない仕組になっていたようだ。
治天の必要性は南北朝期の北朝で顕在化するが、その嚆矢は後高倉院にあると言える。 上皇が複数いた時期はいつだろう。
崇徳即位後の鳥羽が最初の例か。
よく「天皇の直系尊属=治天」と言うが、
崇徳嫌いの鳥羽が勝手に作ったルールにも思える。
それ以前にはそういう皇位継承が存在していないから。
崇徳の怒りも分からないでもない。 複数の上皇がいた時期というだけであれば、もっと昔から例はいくらでも
あるとおもうが。平城・嵯峨、嵯峨・淳和とか。
それはともかく、両統迭立期だと、例えば円融院は一条天皇の時期に
あれこれと口を出したというけど、冷泉院・花山院にはそういう話がない。
まあ、冷泉は口の出しようがないのかもしれないけど、花山なぞ一条の
命令で院を検非違使に取り囲まれたりといった扱いを受けているね。 治天は天皇家の惣領という意味合いが強いから、上皇が複数いても治天は一人。上皇がいても治天が天皇であることもある。
だからイエ制度が確立していない平安後期以前の、譲位後も権力をふるった持統や聖武も治天ではない。 >>14
>上皇がいても治天が天皇
どの天皇のことだろう? 治天という言い方をするかどうかはともかく、天皇に対して親権を行使
できない上皇が政治に関与できなかったという例はいくらでもあるので
は?
後宇多院政停止後の後醍醐親政期にも、後伏見、花園といった持明院
統の上皇はいたわけだし。 ここでも後醍醐か。変則で皇位が回って来るとやたら執念深くなる奴が出るな。
だけどそいつが事を起こすたびに、朝廷の力が衰えていく皮肉。持明院上皇の
出した錦の御旗で尊氏も官軍になった。かつて天皇位にあった事実があれば、
実権云々は下々にはどうでもよかったんだな。 >>19
?
四条天皇崩御後に数日の空位を経て即位。即位後3年で譲位だったよ。
上皇なんていなかったはず。いたとしたら何て上皇? ああそうだったね。だから九条道家の推す順徳の子、忠成王ではなく、
幕府の推す土御門の子、邦仁が即位したんだった。ありがとう。在京の上皇に気を取られていた。 白河院政期のこと。鳥羽帝が即位した際に摂関家の忠実が若年(29歳)であることを侮り、
藤原閑院流の公実が幼帝の外舅(妹の子が鳥羽)の立場を利用して摂政位を望んだことがあった。
これを耳にした院別当源俊明が、「四代もの間、諸大夫として仕えた者が今摂関を望むとは」
と公実の要望を一蹴したため摂政位は忠実のものとなったが、このことがあって初めて、
摂関になる者の出自が摂関家に限定されたのである。貴族社会の前例が形成されていく一コマである。 諸大夫と書いている話をよく見るけど、実成以降も代々大中納言に上がっているのに、
>ひとえの凡夫にふるまいて代々をへて
を「諸大夫として仕えて」とするのは誤読じゃないのかな。 父師通の急逝により弱冠22歳で家督を継いだ忠実だったが、
摂政ではなく旧官に内覧を加えられたに留まった。内覧権大納言である。
最初から白河院の下風に立つ出だしであり、院に協調する政治を行うしかなかった。
時が過ぎ、院から忠実の一子忠通の正室として閑院流の公実の子璋子を斡旋されるが、
璋子の素行に難ありとしてこれを拒否。しかしその後璋子が鳥羽帝に入内し、諸々の
噂の元、延いては王朝時代の終焉に繋がる事変に繋がって行く。もしも忠実が院の
申し出を受け入れていれば、その後の歴史はどう変わっただろう? 上皇の規定は律令にも存在し、白河上皇以前にも「おりゐのみかど」は数多いが、
せいぜい花山院のように浮名を流す程度で政治力のない存在だった。あくまでも
律令制度の頂点は太政官を率いる天皇であり、天皇が上皇に抵抗することは可能である。
院政期にそれを試みたのが二条天皇で、勅命によって父後白河の人事を何度も覆した。
その結果22歳の若さで急死したが、これは偶然なのだろうか? 二十歳過ぎても天皇って、その当時としては異常じゃなかったの? >>27
後白河即位の経緯が中継ぎ棚ボタ方式だったから、
他の上皇のように容易に二条を降ろせなかったと思う。
二条は美福門院が推す本命で、保元の乱後に信西と美福門院の
「仏と仏の評定」で後白河を退位させ即位しているから。
当然二条自身にもその自負はあったろう。即位当時16歳で
分別があったからだ。美福門院の寿命が短いことが二条の悲劇と言える。
天皇の従兄弟にすぎない花山院はともかくとして、父親である
円融院は人事にも口を出していたという話ですね。 人事に口を出して天皇がそれを聞くのは問題ない。院と内裏で意見が相違した時、
院宣と勅命の応酬になり収拾不能になる。白河以前の上皇は藤原摂関家の圧力で
退位しているので、天皇に摂関家が味方している点から天皇優位。 西武グループ内での堤家の影響力は、もはや昔日の面影はない。 人気のないスレだな。律令という正規の法典に無い政治形態だから嫌われるのかもね。
公家社会は極端な前例踏襲社会だから、20年もやっていれば善悪にかかわらずそれが前例になる。
だから、平安末期には治天の存在が不可欠になり、神器無くして即位した尊成親王(後鳥羽)も、
その正統性に疑念を抱かれることは無かった。治天後白河による「伝国の宣命」があったからだ。 治天不在で即位した天皇なんて、後白河と後嵯峨くらいなものだろう。
さりとて伝国の宣命の無い即位がイレギュラーと言うことも無く、
この二人はともに短期間の在位で退位し、その後も治天として君臨した。
治天無き即位であっても、その後自らが伝国の宣命を発することは可能であった。 >>34
後白河のときには、父親の鳥羽院が健在でしょう? 鳥羽帝も待賢門院腹の皇子を皇位に即けるのは反対だったようだ。
八条院内親王を女帝に据える話が出たくらいだから。それでも
後白河の即位に踏み切ったのは、後白河は身に覚えのある皇子
だったからだろう。崇徳の皇子重仁だけは飲めない話だったようだ。 三種の神器無き即位をした後鳥羽だったが、後世「半帝」などの情けない名前はつかなかった。
これは神器無き即位であっても、治天後白河の伝国の宣命が下されたからであり、壇の浦に
神剣が沈んだこともあって、即位時の神器の存在は以後不問となっていく。
では、神器も無く治天も存在しない中で天皇は即位できるだろうか?実はこういう事例が現実にあった。
観応の擾乱の際南朝軍が都になだれこみ、北朝の3上皇と前の皇太子を拉致してしまった。
光厳上皇、光明上皇、崇光上皇(正平一統で在位を否定)、萩原前坊直仁親王の4名が都から消えたのである。
更にこの時南朝は北朝の神器をも接収して行ったので、南朝の狙いは明らかであった。
「治天を欠いた状態で朝廷が再興出来ようか」という心算である。神器接収はおまけに過ぎない。 だからこそ今の「皇室」は偽物。
万世一系の皇室は滅ぼされている。 さて、南軍に3上皇と前皇太子を拉致された北朝では、当然様々な支障が生ずる。
まず天皇をどうするか、次に治天をどうするか。神器の不在は前例があるので目を瞑ろう。
北朝内で必死に天皇の後継を探したところ、光厳上皇の第2子で出家するために寺にいた
弥仁(15歳)が見つかったのでこれを天皇にすることにした。出家寸前で取りやめ。
さて問題は伝国の宣命を発する治天の存在である。3上皇は拉致されそれ以前の上皇は
墓の下である。北朝はイタコでも呼んで来たのだろうか? 元々神器の引き渡し等々は践祚の付属儀式みたいなもので、重きは
置かれていなかったというからね。 >>40
懐成(仲恭)が「半帝」と呼ばれたのは、承久の乱のごたごたで幕府によって下ろされたから。
当然、治天(後鳥羽)の伝国の宣命を受けており、正統性については何の問題も無い。
因みに後鳥羽は次期治天に順徳を考えていたようだ。こうして見ると皇位継承と言うのもいい加減なもので、
幼児を玉座に座らせ「次期天皇はお前だ」と治天がささやけばそれで終わり。だからこそ治天の存在が
天皇の製造には不可欠である。 さて、南軍に皇位経験者を全て連れ去られた北朝では、
天皇の後継(弥仁)は確保したが治天の不在はどうしようも無かった。
しかし、幕府としても拱手できる話では無い。これより前に為された
正平一統によって北朝が否定された以上、北朝に任じられた幕府もまた
法的な存在根拠を失ったからだ。
そこで幕府は、光厳、光明2代の母である西園寺寧子(後伏見女御、当時落飾して広義門院)を
治天に担ぎあげて強引に朝廷を再興させたのであった。天皇家に出自せず、また女性の身で
治天になったのも空前絶後なら、弥仁の即位式に神器も欠くと言う異例のオンパレードであった。
これにより北朝の天皇の権威は地に堕ち、弥仁(即位して後光厳)の子緒仁(後円融)の時代に
足利義満が皇位簒奪の動きを見せるのである。そして300年に及ぶ院政もまた、後円融の時に
終焉を迎えるのであった。 院政の日本人読んだが、結論はこれといってないのか
双調平家物語の副読本としては読みやすかった >>41
仲恭天皇が半帝と呼ばれたのは即位の礼が行われてなかったからだよ。
幕府に降ろされたら半帝だなんて馬鹿なことはない。
>>42
広義門院は治天にはなっていない。
足利義詮から院政を請われたが、辞している。
後光厳帝が広義門院の院宣で即位したのは事実だが、だから権威が崩壊したというのは意味不明。
天皇家ではもとより天皇=皇后、上皇=女院であって、女性は治天になれないという不文律はない。
天皇と皇后が共に政治を執った時代は長く、女性の政治参加は当たり前だった。 女性権力者は家(家系)の継承については発言権があったから、広義門院の元での、血縁である後光厳天皇即位は、緊急事態として問題はないとおもうよ。
幕府や朝廷の政治自体に介入すると、女性の悪ととらえられて、後ろ暗いことにはなるだろけど。
崇光上皇のはらわたは煮えくりかえる思いだったろう。自身が南朝に拉致されている間に
甥っ子の後光厳が立ってしまったから。後光厳の後はその子後円融。結局崇光は死ぬまで
自身の子栄仁の即位を夢見ていた。足利氏は持明院天皇を道具としか見ていない証拠と言える。
崇光・後光厳の兄弟仲だけでなく、光厳・後光厳の父子の間柄も
悪くなったということじゃなかったかな。 >>47
というか北朝内で団結しないと幕府にまた南軍に走られる可能性があるからね。
皇位については南方の一存にゆだねるなんて言われたらどうしようも無い。 >>46
光厳上皇が後光厳天皇を正統と認めたことからの結果だよね。
天皇家の家父長が皇統を決めるので、兄系が正統とかいうことはないよ。 >48、49
光厳院は、後光厳を正統と認めていないよ。
長講堂領などの持明院統伝来の所領も、秘曲も文書も、全て
崇光院に渡されている。
このような「一代限り」という処置が、余計に父子の間柄を冷たく
したのではないか、というような話もあるね。 尊氏は北朝を担いだが
個人のシンバシーでは後醍醐系だったんだろうな
義詮は目先の物しか見えない愚か者で状況をさらに混乱させた
義満がよく事態を打開した >>51
尊氏は関東出陣の折後醍醐の勅勘に触れて、
朝敵になりたくないから出家すると騒動を起こしたことがある。
結局直義らのとりなしで未遂に終わったが。また新政破れて
後醍醐が京を脱出した際も、故意に警備を緩くしていた可能性もある。
尊氏が後醍醐を正統視していたことは、後醍醐没後に天竜寺を創建したことが雄弁に物語る。
おそらく持明院天皇を担いだのは直義あたりの入れ知恵で、尊氏は最後まで乗り気でなかったと思われる。
だから正平一統で「皇位のことは南方に委ねる」とあっさり明言出来てしまう。
結局尊氏が優柔不断だったことが、南北朝の争乱が長引いた最大の要因だし、
北朝天子の権威低下を招くことになった。幽閉して後醍醐を斬るべきだった。 >>50
都へ戻ってきた崇光上皇は、都で即位していた弟後光厳天皇に対し
退位とわが子栄仁親王即位を求めたが、光厳上皇は後光厳天皇の続投を認めた。
これは後光厳天皇を正統と認めたからでは?
後光厳天皇がわが子に違いはない崇光上皇の生活のために所領を与えたこととは別。
その与えた所領も崇光上皇没後は「皇室に戻すように」と条件を付け、
実際この通りになっていることからもわかる。 >>53
それもこれも結局は幕府の意向だろ
正平一統時の不手際が原因
いまさら混乱を招くような事を認めるはずもない >>54
50が主張するような光厳が後光厳を正統と認めなかった根拠があるとでも?
天皇家は兄弟相続はつきもので弟が正統とされたことはいくらでもある。
後光厳は崇光の系統であっても可としたことは事実なわけで。
崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは
光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)
光厳はそれすら必要なしと判断、栄仁親王に一代に限り与えた所領は
「天皇家に戻すよう」と遺言した。 >>55
> 崇光の彼岸通り崇光の子栄仁親王を後光厳の立太子とすることは
> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはずだが(幕府が拒絶したわけではない)
幕府の意向は、「聖断たるべきよし」、すなわち「後光厳の意思にまかせる」だよ。
当時の状況で、幕府の意思を押し切って
> 光厳の認可すらあれば十分可能だったはず
なんて話は到底不可能。後、
>栄仁親王に一代に限り与えた所領は
とはどこのことですか?崇光院の管理していた長講堂領等に関する光厳院の置文は、
・親王(栄仁)践祚あらば、ただちにご相続あるべし
・もししからずば、禁裏(後光厳)御管領あるべし
・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由
(横井清「室町時代の一皇族の生涯」)
であり、明確に崇光院の系統を「正統」としていますよ。 >>56
>幕府の意思
幕府が栄仁親王立太子を拒否したという史料を提示してください。
後光厳天皇即位こそ天皇家家父長不在の非常事態であったために
義詮が広義門院に願って実現させたことですが、
それ以外は家父長の判断に任されています。
「正統につきて」正統に返せ、ということですが?
栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。 >>57
正統につきて「伏見殿御子孫御管領」というのが光厳院の遺命ですよ。
後光厳の系統ではありません。
そもそも、長講堂領等が崇光院の系統から取り上げられたのは、あなたがいう「栄仁
親王没後」ではなく、「崇光院崩御後」であり、栄仁親王は取り上げられた当事者です。
で、史料は、>>56の文献に引かれている椿葉記や、諸書に引かれている光厳院の
置文そのものですが、あなたが主張する
>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
という話の根拠は何ですか? そもそも、光厳院の遺命自体、
・栄仁親王が即位したならば、崇光院管理下にある持明院統伝来の
所領は栄仁親王が直ちに相続せよ
・栄仁親王が即位しなかったなら、後光厳が管理せよ
という内容であり、明らかに光厳院に決定権がなかったという内容です。
もし家父長である光厳院に決定権があるなら、こんな場合分けなど
する必要はありません。 >>59
そもそも光厳は南朝に連行された際に出家し、帰京後はすぐに一介の僧侶として
修行の旅に出ており、政は後光厳天皇に任せていた。
光厳法皇が後継に口出ししなかった=幕府の裁定に任せたのではなく、
後光厳天皇に任せたということ。
現実に、後光厳天皇は栄仁親王を退けてわが子後円融天皇を即位させたが、
幕府にお伺いを立てた形跡はない
また、光厳法皇の原文に栄仁親王を指す文言や即位を期待する言葉はなく、
栄仁親王の即位があったならば、と意訳するのは間違い。
光厳が崇光の伝領に条件を付けたこと自体、南北朝動乱を避けるために
崇光以降は出家・断絶させる意味があったとしか取れない。 原文は、
・親王践祚あらば、ただちにご相続あるべし
・もししからずば、禁裏御管領あるべし
・ただし、末代両方御治天あらば、正統につきて伏見殿御しそん御管領あるべき由
だが、この文の「親王」「禁裏」は誰を指していると解釈しているのかな?
親王が栄仁親王を指しているという解釈は、先に上げた横井清氏や飯倉晴武氏を
はじめ、普通に言われている話だが、「間違い」だと解釈した例は>>60の私見以外に
ありますか?で、>>60は原文にある「親王」を誰だと解釈しているんですか?
後、崇光院がわが子栄仁親王を即位させようと運動したのを、幕府が退けて「後光厳
の意に任せる」と裁定したとか、後光厳流を立てるというのは武家の約束であるという
記事は満済准后日記や椿葉記などにある話ですが。
光厳・後光厳の父子の仲が悪かったというのも園大暦の記事にあるとのこと。
あなたの主張の根拠となる史料はなにですか?
それから、
>栄仁親王没後は、この遺命に従って皇室に返されています。
という与太話にある「所領」とやらが何を指しているのかもお願いします。 鎌倉時代の例をみて、天皇家の相続に武家が口を出すと泥沼に嵌まるのが分かったのだろう。
南軍が折角拉致した北朝皇族を解放したことも、幕府にとって誤算だと言える。 院政期の帝は何をしていたのだろう?すること無くて歌と蹴鞠? >>63
基本的に政務は天皇と関白がする。
重要案件については、関白が治天にご意見を伺いに行って、天皇と調整していた。 前期院政時代の院の財政基盤だけど、どう頑張っても摂関家には適わないのかな? 院の存在が不可欠になったのはいつからだろう?
平家による後白河院政停止が続いていれば、
形式上は天皇親政に戻っただろう。
それにしても院というものはあまり価値が無いんだな。
後白河は平治の乱の時、顧みられず捨て置かれた。 院はいようがいまいが構わない。
必要なのは天皇家の家長である治天。 鳥羽殿は発掘が進んでいて復元図なんか見た記憶がある 白河北殿の発掘調査も京大がやってるはず。
保元の乱で燃えちゃったからなぁ。勿体ないね。 NHKで今やってる平清盛で初めて院政とか摂政とかに興味を持った俺に
まず最初に何から勉強すればよいのか教えろください >>66
発生は後三条が白河に譲位した時でしょう。
院政は、愛した女の子供を東宮にしたい願望から発した父の呪縛から離れたい要素が決定的な事柄だと思う。 >>71
中公新書に「院政」っていう本が出ていたはず。
面白いし勉強になるから買って読め。 >>71
院政の特徴は、「俺は今日から院政をする」と明確な意思をもって開始されたのではないこと。
何となく複数の要素が噛み合って、白河上皇に有利な流れが出来て、それに上手に乗っかったというのが真相。
例えば摂関家の当主師通が30代で突然死し、後継の忠実が22歳でその地位を継いだこと。
例えば>>72で白河の東宮にされた「愛した女の子供」が15歳で夭逝し、東宮位が空いたこと。
例えば白河の溺愛していた妃、賢子が28歳で亡くなったこと。
身辺の人間が次々に亡くなって行ったことで宮廷内の力関係が急変し、そこに上手に白河が付け込んだ。
あれよあれよと言う間に絶対権力が「いつの間にか」出来上っていた。 院政の本質は「上皇個人に付与された権力」であり、上皇の力量如何で権力に強弱が出来ること。
上皇は天皇のように太政官という制度に組み込まれた存在ではないので、白河以前の上皇は
全く無力な存在でしかなかった。花山上皇や円融上皇を見れば分かる。
下手をすると白河上皇も、花山上皇のようになる可能性もあった。そうならなかったのは、
後三条天皇の荘園整理令が効いていると思われる。これで没収した荘園は、何故か天皇の
私有財産にされたから。本来の目的である「国衙領の回復」の観点からすると、天皇の
私有財産にするのは筋違いなのに。
白河にはこの後三条の獲得した荘園という財政的裏付けがあったのが大きい。
自身の治世にも荘園整理を実行しているし。それに対して鳥羽院の時代になると
荘園整理が行われなくなっている。つまり上皇の個人資産の頭打ちであり、
ここで院政は弱体化の兆しを見せる。 >>74
一般的に堀河天皇のときに白河上皇によるり院政が始まったとされているけれども
堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で(母賢子は藤原師実の養女だった)
関白藤原師通は退位した天皇(白河院)の政治介入を激しく批判、
堀河天皇本人も師通に同調したために白河院政は軌道に乗らなかった
実質的に白河院政が行われたのは続く鳥羽天皇即位時から
鳥羽天皇の外戚は閑院流で摂関を望んだにもかかわらず受け入れられず
摂関家は鳥羽天皇と血縁関係になかったために政治介入が妨げられた
幼帝の血縁者として政権を握ることになったのが白河法皇で
このときに実質的院政が始まっている >>76
院政は起点を明確にするのが非常に難しい。歴史は常に後から振り返って気付くものだけど。
白河天皇の東宮である実仁親王が15歳で夭逝した時、同じく「愛した女の子供」である
輔仁親王が生きていた。この親王は後三条帝の母陽明門院の庇護を受けていたので、
白河も無視できない存在だった。
そこで白河は摂関家と結んで賢子との子である善仁親王を太子に立て、
自分は同日退位してしまう。堀河天皇の誕生である。これによって
輔仁は「天皇の叔父」世代となり、皇位継承が極めて難しい立場になった。
摂関家は長い間外戚の地位を回復したがっていた。白河は自分の血を皇位に
送り込みたがっていた。ここに天皇家と摂関家の奇妙な利害の一致が成立し、
院政への途が開けた。院政とは偶発的に始まったもので、最初から摂関家の
圧倒を予定していたのではないことが分かる。
だから院政は一筋縄では理解できないし、天皇や摂関という「既存の公的な権力体制」
だけを見ていても意味不明なのだ。何故なら院政は「上皇の私的意思」に発端があるのだから。
「愛した女の子供」を帝位に即けたいという私的意思に。 円融院が無力だったとあるが、一条即位後は人事にも介入している。
ただ、当時は迭立状態だったから、冷泉系に絞る動きを兼家がみせ
れば、強く出にくい状況だったろうけど。 保元の乱を境にして、形式を重んじたややこしい院政から、後鳥羽上皇のなんでもありの時代になったことが、既存の体系を重んじる摂関家に致命的であった。 >>79
摂関家が5分裂したのも実質藤原信西に解体されたようなもの。
藤氏長者の決定権が院に変わったのが大きい。これで院に
逆らえなくなった。摂関家の荘園も代替わり時に院に召し上げになり
そののち氏の長者に交付するスタイルになったし。 白河院が鳥羽帝を退位させたときには、院はもう70歳になっていた。
それに引き換え鳥羽帝は20歳。どう考えても自分より長生きする。
院の没後に新帝(崇徳)がどういう扱いを受けるか、院は考えていなかったのだろうか?
それとも白河院の死が突然過ぎて、対策を講じる暇が無かったのだろうか。
院の荘園を帝に引き渡してしまえば、新院(鳥羽)は無力に出来た。
しかしそれをやると摂関家が復活してしまう。崇徳叔父子説を考えたとき、
白河の崇徳に対する無策ぶりが目に付く。 >>81
> それとも白河院の死が突然過ぎて、対策を講じる暇が無かったのだろうか。
これのような気がするな。
関係ないが、歴代天皇で急死・突然死した人はあまりいないんだよね。
しばらく病臥したあとで亡くなっている。 太上天皇の制度自体は律令にも規定されている。
律令で幼帝を禁じておけば、上皇は存在しても
院政は発生しなかっただろう。 >>83
最初の幼帝(元服前に即位した天皇)は9歳で即位した清和天皇だが、
これは父文徳天皇が急死したために皇太子が即位したという実態があった。
幼帝が駄目で叔父や伯父、異母兄が一時的に相続するとなれば
余計に皇位継承が混乱しただろう。
(奈良時代には皇位継承の混乱を避けるため、先帝の皇后が即位したりしていた)
当初は幼帝が即位してもその外祖父が摂政となって政治を代行していたので院政は起こらなかった。
むしろ、院政をおこらなくするには上皇の制限(簡単に退位できないようにする)
ことが肝要だったろう。 院政が発生しなければ
朝廷が権力を失う時期は先送りできたのだろうか?
どうだろうね? >>84
簡単に退位出来ないようになっていたら、天皇を立てるときに揉めるだろうね。
もしかしたら天皇暗殺が恒常的に行われたかも知れない。
>>85
白河院が武士を院の私的傭兵の立場に押し込めず、政治に参加させておけば
武士の時代にはならなかっただろうね。武士は令外官状態で宙ぶらりんな
状態だったから。 >>84
>天皇暗殺が恒常的に行われたかも知れない
古代には生前譲位がなく暗殺された天皇もいた。
しかし、近世にも暗殺の噂がたった天皇はいる。
ちなみに最初に生前譲位を行ったのは皇極天皇。
少なくとも天皇が大人になれば即退位させ幼帝をたてるという
摂関政治・院政は起こらなかったはず。
そもそも怨霊をおそれるあまり罪人に対する死刑すら中止されてしまっていた平安時代においては
天皇を暗殺するなんて恐ろしくてできなかっただろう。
天皇が政争に敗れてもせいぜい流罪。それでも現地で死んでしまった場合
都では怨霊が恐ろしくてあちこちに神社を建てまくった。 >>87
天皇が退位したくなければ、男の子が生まれない方がいい。
故意に中宮と交わらず、下女とだけ交わる天皇が居たかも知れない。
藤原氏はそのあたりもよく考えて、天皇の系統を二本持ってたんだな。
冷泉系と円融系で皇位をたらい回しにしておけば、一系統が不妊になっても
もう一系統で回せる。その後の歴史を見ると、三条天皇の系統を潰したのが失敗だった。
おそらく三条天皇の系統を切り捨てて、新たに後一条と後朱雀の二系統を使って
冷泉系・円融系と同じことをしようとしたのだろうけど。
ところでどうして一条天皇の在位が25年にも及び、三条天皇の即位が遅くなったのだろうね。 >>85
朝廷がズルズル1800年まで政権担当。
ペリーが大宰府にやってきて、植民地化されたかもしれない。
あるいはモンゴルの属国になったかもしれない。 >>88
天皇の兄弟相続の例は古代からあるよ。
藤原氏が摂関期に始めたことじゃない。 白河上皇は院政を始めたのは、元々自分の子孫に皇位を継承
させたいとの理由だから(先帝後三条天皇は弟に皇位を継承する
ように遺命している)、後三条天皇がいらん遺言を残していなければ
白河上皇は堀河天皇に譲位せず、そのまま天皇親政を貫いて
いただろう。
数百年後の徳川家康が自分の子孫に将軍職を継承させる目的で
3年で将軍職を辞職して、秀忠に譲ったのと同じ。
>>91
白河上皇は堀河天皇治世時にはほとんど院政を執ってないよ。
堀河天皇は摂関家を外戚とする天皇で、執政者は関白藤原師通。
師通は退位した天皇の政治関与を厳しく批判、堀河天皇もこれに同調し、
父白河上皇の政治関与を厳しく制限した。
白河院政が本格化したのは摂関家を外戚としない孫鳥羽天皇のときから。 >>88
>一条天皇の在位が25年にも及び、三条天皇の即位が遅くなった
ただ単に、藤原道長が娘彰子の腹に皇子が生まれるのを待ってたからでしょ。
1008年にようやく敦成親王(後の後一条天皇)が、1009年にも敦良親王(後の後朱雀天皇)が生まれ、
道長があれこれ根回ししているうちに1011年、一条天皇が没したというだけ。 >>93
一条帝が32歳で死ななければ、三条帝はまだまだ東宮のままだったわけか。
やっぱり三条に嫁した道長の娘が内親王を産んだのが不味かったか。
禎子内親王が男だったら、一条帝の退位もあり得ただろう。 >>92
白河天皇はまず、自分の子孫に皇位を継承させると言うのが
第1の目的であり、院政そのものを狙ったわけではないだろう。
自分の子孫が皇位を継承させることが確定していたのなら、
わざわざ幼少の堀河に譲位しなかっただろう→鳥羽の即位も
もっと遅い→院政はなかっただろうと言う話だよ。
結果として藤原氏を外戚としない鳥羽が幼少で即位しなければ
ならない事態に陥り、自ら政を見ることになったと言う話だよ。
白河天皇が死ぬまでとは言わないが50〜60歳ぐらいまで
天皇を続けていたのなら、原則として幼少の天皇が即位して
治天の君と言うものなんか誕生しなかったと思う。
別に君が早く死んだわけではなく、他の成人の皇位継承者が
いないわけでもないのに、幼少の君主が立て続けにいた日本は
世界的に見ても特殊な例だろうね。 >>95
自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。
後醍醐天皇と白河の必死さは理解に苦しむ。 >>96
別に天皇に限らず、自分の子供に後を継がせたいを言うのは
普通だと思うけどな。
世襲制の皇位はともかく、現代での政治家や大王製紙みたいな
オーナー一族の会社とかある。
おあお小泉でさえ息子に選挙地盤を譲ったし。
天皇も天智天皇が弘文天皇に、持統天皇は草壁皇子に、崇徳天皇
は重仁親王に、後深草天皇も亀山天皇も自分の子孫が皇位を継承
するように拘ったじゃない?
あの小泉でさえも何も、あいつこそ典型的な世襲政治屋一族だろうに。 自民党をぶっ壊す、既得権益の打破、議員定年制を導入し
中曽根と宮沢を引退とか言っていたくせに、自分だけは
聖域なのか?だからね。
時たま、「私より公」の君主や指導者が出るけど大半は
みんな、白河や後醍醐や小泉ってことなんだよ。 >>97
直系尊属でないと政治が執れないからでしょ
白河天皇の弟が即位したのでは政治が執れない
我が子に即位してほしいというだけならば白河上皇は何も政治を執る必要はない
愛する我が子堀河天皇にすべての権限を委譲して好きにせよというだけ
それでも政治を執ろうとして我が子堀河天皇とかなりの大喧嘩して不和になっている
>>97
崇徳や後深草、亀山も直系尊属即位で院政を目指しただけだよ
例えば崇徳は「養子」にすることを条件に弟近衛天皇の即位を認めた
崇徳が反乱を起こしたのは近衛天皇が実は養子になっておらず
崇徳が院政を執ることができなかったから
逆に近衛が崇徳の容姿で崇徳院政が実現していれば問題なかったんだよ
例え実子じゃなくてもね
明治以前にはそれほど実子相続にこだわっていない >>102
崇徳以降の天皇が、次期天皇の直系尊属になりたがったのは分かる。
何しろ天皇であってもちっとも政治が出来ないから。これこそが院政である。
でもこのルールを作ったのは僅か3代前の白河で、白河の時代までは天皇が
その気になれば政治が出来た。後三条帝の荘園整理のように。
白河は譲位などせずに、終生天皇でいれば好き勝手出来たことは間違いない。
そう考えると、子供に後を継がせたいためだけに譲位するのは危険が大きい。
即位した天皇が例え実子であっても、自分の言うことを聞かなければ単なる冷や飯食いになるからだ。 しかし1150年代には天皇は幼児だという認識が出来上がったのだから、白河・鳥羽院政の影響は大きい。
白河院亡きあと、鳥羽院が復位していれば院政は確立しなかっただろうし、後白河院政が清盛に停止されたままだったら
院政はそこで終わっていただろう。院政は白河の個人商店的性格だった。 >>103
白河天皇の場合、まだ先帝の母が生きていて弟に譲位するように圧力
かけていたから、早く堀河に譲位する必要があった。
堀河天皇の立太子の同日に践祚は異例で、周りが何もできないままに
突然、白河天皇が譲位した可能性が高い。
普通に白河天皇の子孫の皇位継承が保障されていたら、白河天皇の譲位は
なく、院政その物はなかっただろうな。 >>102
よく言われるけど子が天皇じゃなくと院政ができなかったと
言うのは本当だろうか?
単に、鳥羽がまだ生きていたから崇徳が院政ができなかったと
言うことではないか?
たかだか、数十年前に白河がやり始めたことなんだから、慣例化は
まだしていないだろうし。
>>106
院政は家父長権で天皇を従わせる制度だし。 >>105
そこが変じゃないか?面倒だから名前で書くが、後三条が白河に譲位するときに付けた条件が、
異母弟実仁を東宮にすること。この時実仁2歳。その後実仁が15歳であっけなく薨去。その同母弟の輔仁は12歳くらい。
後三条の母、陽明門院はもう70歳になっていたが、彼女は輔仁を太子に立てれば文句なかったのでは?
何故なら実仁が皇太子の地位のまま死んだから。いきなり年少の弟宮の即位を望むだろうか。
白河は輔仁を太子に立て、祖母陽明門院の死を在位のまま待つ手もあったはず。
天皇の地位を自ら降りることは、非常に大きな賭けだったと後世の我々は思うが、
白河自身は院政など意図していなかったと思う。院政が確立したのは、やはり師通の
夭死に依るところが大きい。院政とは時間をかけて段々と出来上がった政治形態である。 >>109
一度立てた東宮を下すのは、たやすいことではないよ。
小一条院の場合はもともと本人が東宮・天皇という志向がなかったから
そこそこすんなりと実現しているが、それ以外の場合にはほとんどが
政変を伴っているわけだし。 >>107
ちょっと違うと思う。
白河、鳥羽の時代はそうかもしれないが鎌倉以降は、制度化
された感じ。(後堀河天皇を鎌倉幕府が擁立した時、即位も
していない親父をむりやり上皇にして院政をとらしているし)
>>109
110が言っている通り、いっかい皇太子を立てると、よっぽどの
ことがない限り、廃太子にできないよ。
白河が院政を意図していないのは、その通りだと思う。 それと、白河が堀河が譲位したことは、自分の子孫が皇位を継承
すると宣言したのと同じだよ。
豊臣秀吉が秀次に関白を譲り、関白職の豊臣家世襲化と徳川家康の
将軍職を秀忠に譲って、徳川家が将軍職を世襲すると公にしたのと
同じ意味合いを持つ。 >>112
ということは、後三条帝の遺志が宮廷内に広く知られていたってことだよね。
初期の院政の法的根拠が家父長権だとすると、死んだ父帝の意向に従うことも求められる。
堀河と鳥羽帝は周囲から軽んじられていたかもね。
鳥羽が堀河の唯一の皇子だったせいもあるけど、この頃没した輔仁の子、有仁を白河が抱えていたのは、
世間の批判をかわす目的だったのだろう。こういう小細工を見ても、白河の政治手腕はかなりレベルが高いと言える。
若年の摂関家当主、師実では全く掣肘出来なかっただろう。しかし白河と後白河は
人の生き死にについては本当に運がいい。 >>113
師実じゃなくて忠実だった。訂正します。 堀川は希代の賢帝として当時からかなり評価が高かったから、軽んじられたということはないだろ。 >>115
笛の練習する帝が賢帝というのもどんなものだろう。
目立った事績が無いので善意に解釈されているのでは? >>113
後三条の意思、というか、天皇家では家長に皇位継承の決定権があって、
実は家父長だけではなく家母長というか、女性にも権限があったということ。
特に、摂関全盛期には女院政と呼ばれるような女院に強い権限があったことがわかっている。
後三条死後は最高齢の天皇直系尊属であった陽明門院(三条皇女・後三条母)に
強い決定権があった。
白河天皇は陽明門院が養女にして可愛がっていた妹の篤子内親王を
堀河天皇の中宮に立てることを陽明門院に約束して懐柔し、
どうにか陽明門院に堀河天皇即位を納得させている。
陽明門院懐柔に失敗していれば即位は難しかったということ。 >>117
そうすると、広義門院の院政も、その延長上の事態ともいえるのかな。 >>113
堀河天皇は摂関家を外戚とし(母が関白藤原師実の養女)、
中宮篤子内親王は陽明門院の養女であり、治世は非常に安定していた。
(父親の白河上皇とこそどちらが治天の君となるかで喧嘩してるが)
逆に、輔仁親王のほうこそ有力な外戚もなく地位が不安定だった。
むしろ、帝位をあきらめ隠居したことで子息の有仁は白河法皇に養子として取り立てられ、
むしろ好運だったと思われる。 善仁親王を太子に立てて即日譲位という離れ業を白河上皇は行っているけど、これは一種の宮廷クーデターともいえる事態。
堀河(善仁)の外戚師実の同意があったことは予想できるが、これに陽明門院も一枚噛んでいたのか。 >>117
実仁薨去から善仁(堀河)立太子までの間、ほぼ1年間東宮不在の状態が続いている。
この間白河が必死に陽明門院を説得していたのだろうね。
成年天皇の下での東宮不在は大変に異常なことで、後冷泉帝即位の時でさえ藤原氏は渋々尊仁を東宮に立てた。 堀河天皇か藤原師通のどちらかが50歳まで生きていたら、
院・摂関・帝が協調する三権分立的な緩やかな政治体系になっていただろう。
何故なら白河はとっくに成年に達した堀河を退位させるそぶりが無かったから。 >>122
堀河天皇自身、外戚である摂関家の後ろ盾があったため、白河法皇の好きにできなかったというのも大きい。
院政は堀河天皇即位と共に軌道に乗ったのではなく、、むしろ堀河天皇の御代は摂関政治が復活していた。
堀河天皇はなかなか子に恵まれず、死んだとき第一皇子の鳥羽天皇はまだ5歳だったという現実はある。
しかも鳥羽天皇の母親は摂関家出身ではなかったため、摂関家は難色を示していた。
白河天皇が死んだ母親の代わりに生後すぐ手許に引き取り育てた鳥羽天皇が即位した時初めて、
白河院政が軌道に乗る。
>>123
>摂関家は難色を示していた。
さりとてほかの候補者がいたかというと、これが全然ダメ。
35歳の輔仁親王も外戚が死んでいたし・・・。
堀河の若死にこそ、終わりの始まりだったということみたい。 >>96
> 自分の子供が天皇にならないと何が困るんだろうね。
まあそれはあるなあ。
本当の古代(雄略天皇の頃とか)なら皇族でも非主流派は粛清されるおそれがあったが
白河さんの頃はそういうおそれはないからなあ。
>>125
白河天皇の場合は型破りな父後三条天皇に対する強い反発があったからかもね
自分の母親は早く死に、後で迎えた身分の低い別の妃に入れあげて・・・みたいな 院政の恩人は美福門院得子。成年の後白河が帝のまま在位し続ければ、天皇親政の姿に戻っていたはず。 そもそも後白河に帝のまま代位し続けるなんて力はない。
権力も財力もないまさに中継ぎ天皇だった >>125
自分の子供でないと院政を執れない
弟や甥では駄目なんだよね。
崇徳上皇はコレで政界から干された だよね!
崇徳が近衛(崇徳にとっては異母弟だが中宮聖子の養子でもあった)に譲位したとき、譲位の儀式の宣命に皇太子ではなく
「皇太弟」とあったことから、崇徳が怒って保元の乱の原因となった。
皇太弟では将来、院政が行えないからね。 もっとも、弟を養子か猶子にすることで兄が院政を行うことが可能だった 白河院政(1086年ころ〜)から室町初期・朝廷の権限が形骸化するまで、
朝廷の政治形態は、院政が原則です。親政も稀にありますが、むしろ例外です。
なぜこの頃はこうなのだろう?素朴な疑問が生じます。 >>134
平安時代中期まで、皇族は母方で育ち、外戚が力を持つというのが一般的でした(摂関政治)。
しかし、白河法皇は、孫の鳥羽天皇の母が産で死んでしまったことをきっかけに、
赤子のうちに鳥羽天皇を自分の院御所に引き取り、手元で育てたことから強大な力を持つことになりました。
これ以降、幕末まで、皇族は母方で育つも儲君に定められた時点で父方に引き取られ、
それまで疎遠であった父と子の関係が密になったということが挙げられます。
もっとも、平安末期〜鎌倉時代初期の幼帝と中年の上皇という組み合わせならば院政は上手くいっていたのですが、
それ以降は成人天皇が増えたため、父である上皇とぶつかり、険悪なムードになっていた天皇&上皇の組み合わせもあります。 >>135
回答ありがとうございます。成人したら譲位を画策するなんてありましたね。 似たような例として、
鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍も成人したら交代した例が多い。 天皇は神事や年中行事で雁字搦めで自由がなかった
退位して上皇となるとそれらから解放され時間的に自由になる
行幸や遊びも思いのまま、そのため天皇は早く退位して上皇になりたがった
母と子の結びつきが強い摂関政治の時代には上皇は政治的に全く無力に置かれ
退位させられることは左遷に他ならなかったが
父と子の結びつきが強くなった院政期には天皇は父・祖父に逆らえない
上皇となり院政を執るのは憧れとなったのだ 摂関期には、父権を行使できるような院がいなかったということじゃないかな。
円融院は、一条即位後には父権を振りかざして人事にも介入していたというし。 >>139
一条天皇は年に一回正月に父円融法皇のもとへ行幸し院の官僚たちに叙位を行っていたが
円融法皇に後世の白河上皇のような権限はなかったし(一条の傍には老獪な外祖父摂政兼家がいたことも大きいが)
一条母東三条院詮子の「女院政」には遠く及ばなかった
東三条院の嘆願で藤原道長が執政者になったのは有名な話だし
他にも一条天皇は自身の母系が藤原氏であることに感謝して藤原氏の氏神春日大社に参拝している
彰子立后に同意したのも春日大社の神事を行うには仏門に入っていない藤氏出身の后が必要と
説き伏せられたため >>137
鎌倉幕府の摂家将軍・皇族将軍は完全なお飾りというわけでもなく、多少の影響力はあったから警戒されたのでは
なかったか? >>140
権限という意味では、白河院にも別に権限はなかったでしよう?
円融院は兼家の反対を押し切るかたちで、側近実資の参議昇任を
認めさせたりしているし、兼家も父院の意向は軽んじることが
できず渋々認めています。
母后の意向なんていうのは、院も外祖父も亡くなって唯一の親権者
になった後に反映され始めたもので、円融、兼家の生前には大して
重視されていないとおもいますが。
両者の死後でも、道長の関白就任を迫る詮子の意向を退けて内覧に
とどめたという話が伝わっているなど、女院の意向はあくまでも
参考という扱いでしかありませんし。 >>140
春日行幸に関しては、兼家と円融院の間で色々な駆け引きが行われているが、
そのときには、母后の意向云々は重視されていない。
摂関政治の要因の一つとして、父権を行使できる院が不在だったというのは
よく言われる話じゃないかな。 >>142
ん?
小野宮流に詮子立后を阻まれた兼家は、懐仁親王(後の一条)と詮子を里に引き取り
出仕を拒否して円融天皇を退位に追い込んだ。懐仁は円融唯一の子で、これを花山天皇の
皇太子にする以外、円融に道はなかった。
一条天皇の在世中、内裏に侍って政治を執っていたのは兼家です。
母后である詮子も一条とともに内裏に住んでいました。
一方、円融法皇が住んでいたのは内裏から離れた円融寺で、年に一回一条天皇が訪問するほかは
内裏に参入することもなく政治的な発言もしていません。
一条天皇は父上へのプレゼントとして年に一回、円融院官吏の叙位に応じていましたが、
兼家が実資の参議昇進に反対したが円融法皇が押し切ったという記事はありません。 >>143
一条天皇の春日行幸には詮子の意向があったことが記されているよ。
詮子は導子立后に際して懐仁親王(後の一条天皇)を連れて里へ帰り
父とともに円融天皇に退位を迫ったり、春日行幸に同行するなど
明らかに夫円融法皇とは別行動を執っている。 >>144
一条即位後の円融院の人事介入については、たとえば倉本一弘
「一条天皇」に記載があります。
兼家が実資の参議昇進に反対したが円融法皇が押し切った件についても、三日続けて実資の任参議を求めた結果、兼家が
「院の仰せ、已に重し。固辞し申すこと難し」と折れた由。
(典拠はいずれも「小右記」)
春日行幸も、兼家から円融院への奏上から始まり、あれこれと
両者の駆け引きが続いた末に詮子への託宣を言い立てた兼家
が押し切る形で決着する等、主導したのは兼家と円融院の二者。
遵子立后が皇子を生んだ詮子を差し置いてのものだったのだ
から、円融天皇と詮子が疎遠になるのは当然。というより兼家・
詮子と疎遠だったからの措置だったんでしょうが。
ただ、詮子にしても後の彰子にしても、天皇の外祖父である
自分の父親が生きている時には、ごく限られた政治力しか
持っていませんね。 >>146
小野宮流VS九条流の争いに過ぎない。
小野宮流は円融法皇と、九条流は一条天皇を表にだして昇進争いをしたため、
表向きは円融VS一条の争いであった。
それに、春日行幸は母后たる皇太后詮子の意向だとその名を出されれば
円融法皇さえ扱いが難しく遠慮せねばならなかったんです。
いかに母后の権限が強かったかです。 詳しくは上掲書を見てほしいが、春日行幸の決め手は詮子に下された北野の
「託宣」だよ。詮子自身の意向などは、問題にされていない。 >>149
どうなんだろうね?
中国文化の影響もあったと思うが。 >>149>>150
院政も中国文化もあるだろうが
武者の世になったのが大きいんじゃないかな。 >>149
平安時代中期頃まで母方が有力でなければ天皇になれなかったんだが
藤原頼通以降、摂関家出身の高貴な后から子が生まれなくなり
院近臣クラスの母方の身分が低い皇子が帝位につくようになった
母方に権力がないのでよるべきものは父方ということになる
身分の低い母から生まれた子でも父や祖父の寵愛の度合いによって
即位するようになったことで院政が可能になったと言える >>142
一条天皇の母系(外祖父兼家・伯父の道隆・道兼、叔父の道長)が摂政・関白・大臣と思うように出世していくのに
父の円融法皇が父権をふりかざしてできることといえば院吏を参議にする程度だったとは差がありすぎ。
円融法皇の義弟(中宮の弟)藤原公任は娘を天皇に入内させることもかなわず、
后がねの長女を道長の五男の妻にと道長に頼み込んで差し出す始末。 >>152
偶然ではあるけど、皇子の生母が比較的早死が続いて、
外祖父が実権を握る暇もなかったという一面もあるな。 >>154
後冷泉天皇の母藤原嬉子(藤原道長六女)は後冷泉を出産したとき死んでしまったんだが
後冷泉は伯父藤原頼通の後ろ盾によって成長して在位中はやはり関白頼通の世の中だった
生母が早世すれば必ずしも外戚が力を握れないというものでもない
やはり院政期に藤原摂関家を外戚とする天皇が出なかったことは痛い >>156
後三条自身は院政を執らずまた摂関勢力からの完全防衛にも成功しなかった
続く白河天皇は摂関家の養女中宮賢子を寵愛し
異母弟を退けて賢子の産んだ堀河天皇を帝位に付けた
実は摂関政治は堀河天皇のときに復活している
院政が本格化したのは堀河の子で摂関家を外戚としない鳥羽が5歳で即位
祖父の白河法皇が院政をとってから 摂関政治が続いてても武士の世は来たでしょ
保元の乱では朝廷だけでなく摂関家もまた武士の武力を頼りにして
争いを繰り広げてたし
平清盛は娘を天皇家ばかりでなく摂関家にも娘を送り込んで操ったから 日本の武士層が、白河院政の頃の源平と山法師みたいな状況のままで、
元寇になったら、日本はどうなってたんだろう。
「○○・ハーン」と皇女が結婚させられて、「○○・ハーン国」になってしまったんだろうか? >>160
元寇の時も朝廷は穏健外交を望んでいたので、戦闘は回避できたかも。 >>160
逆に、高麗みたく皇后を元から迎え
諡は忠○王(天皇ではなく王に格下げ)だろ >>161
いや、鎌倉幕府が反対したから送らなかったけど、
今のネトウヨ顔負けの返書案を送ろうとしたのだが。
実際のその案文(控)は『鎌倉遺文』に所収されている。 飾り物の社長の強硬論に、鎌倉支店長補佐がタジタジの展開 >>165
大宰府守護所は使節一行を対馬に留めさせ、
使節がもたらした牒状を鎌倉に送付し、鎌倉幕府側はこれを京都の朝廷へ転送した。
朝議では両書状について検討されたが、蒙古側の服属の要求を拒否する事に決し、
拒絶の返牒を出す事にし、文書博士・菅原長成に文案を起草させ、中書省牒に対して
返書「太政官牒案」草案を作った。草案には「蒙古という国はいままで知られず、
何ら因縁もないのに武力をもって臣従を迫ることは非常に無礼である。
日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」と自国の独立性を主張した内容だった[80]。
また、高麗国王にも返書案を作成しており、そこでは拘束されていた
弥二郎らの送還に便宜を図ってくれた高麗側に慰労と感謝を述べた内容であった。
(ウィキ) 1年くらい書き込みが無くても落ちないよ。
院政は人気がないみたいだね。荘園整理について語ればよかったかな? >>171
> 1年くらい書き込みが無くても落ちないよ。
とも言い切れない。
サーバーダウンするとなぜか書き込まれDAT落ちすることがある。 白河院が鳥羽院に院政の肝を教えておかなかったから、
鳥羽院がめちゃくちゃやって保元の乱になった。
院政の肝とは皇位の正統性を確保すること。
崇徳以外の子供は全員出家させるべきだった。 >>173
それだと、崇徳にぽっくり逝かれた場合には困るのよ。
だから、白河も基本的には後継者の同母兄弟の出家は見送ったりしている筈。
白河没後に鳥羽がその方針を崩した(妾腹の近衛の即位ばかりが注目されるが、崇徳の同母弟である覚性法親王の出家も白河の方針に反する行為だった)。 >>174
崇徳の予備に白河を残しておくぐらいは良かったが
近衛まで残したのがまずかったんだろ。
一人の天皇に対して皇位継承の可能性ありで残しておく男子は2人で十分だよ。
天皇家1500年の歴史においても、一般的に
一人の天皇の息子が2人以上即位する例はないから。
(5世紀に允恭天皇の息子が3人即位したのが唯一あるだけ)
覚性法親王の出家は妥当。 >>175
藤原4兄弟のケースでもわかるように
当時の医療レベルでは伝染病が流行すると王族貴族もバタバタ死ぬ可能性があったからなあ…。 躰仁親王を残しただけならまだいい。鳥羽は皇太子に立てた。
白河院が生きていたら泡を噴いてぶっ倒れるレベル。
ついでに幼帝安徳を連れて逃げれば政権が維持できると思った平家も
清盛が見たら馬鹿すぎて卒倒するレベル。後白河院を連れて行けば
天皇などいくらでも生産できるというのに。 >>177
平家は都落ちの時後白河法皇を連れて行こうとしたが
直前に後白河法皇に逃げられた。
ついでに後鳥羽天皇になった四宮も連れていくのに失敗した。 清盛の「朝廷を丸ごと人質にする」福原遷都が一番理に適っていたわけだね。
清盛が院政を停止した状態で後白河が死んでいたら、院政もそこで終ってしまい
天皇が頂点に立つ政治が復活していただろう。 >>179
清盛は後白河院政は停止したけど
代わりに「高倉院政」を開始させた。
傀儡とはいえ当時院政はやっぱり必要。
高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。
その直後仕方なしに後白河院政が復活している。 >>180
高倉死後、後白河まで死んでしまったら、院政する人いないでしょ?
ってことだろ。 >>181
後白河法皇の死後しばらく後鳥羽天皇親政だったが
土御門天皇が産まれて暫くしたら譲位して
後鳥羽院政が始まったぞ。 >>180
> 高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。
結果的に高倉院崩御が歴史を大きく変えたような気もする。 >>182
頼朝は朝廷がやることに口出しできなかったからね。
あの時点で高倉天皇も後白河法皇も死に院政がなかったら、
安徳天皇を擁した平氏政権はもっと続いていた可能性がある。 院が必要不可欠だという認識はいつ頃確立したのだろうね。
二条帝の時は親政派が一大勢力になっていたのにね。 >>182
あれは、院政がどうしても必要だったから、
まだ若い後鳥羽天皇が幼い土御門天皇にやむなく譲位して、
必要不可欠な院政という形態を無理矢理執ったわけではなく、
土御門天皇の外戚源通親が実権を握るべく、後鳥羽天皇を譲位させたんだよ。
源通親は後鳥羽天皇の乳母の再婚相手であり、幼少期から後鳥羽天皇を守り育てた恩義があり、
後鳥羽天皇も乳父の通親には逆らえず、後鳥羽院政とはいっても実態はあまりなかった。
しかし、通親が後鳥羽上皇妃で土御門天皇生母であった通親の養女源在子(妻の連れ子)と通じたことから
次第に後鳥羽上皇は通親と土御門天皇を疎んじ始め、距離ができる。
通親が死んだあとは、後鳥羽上皇が院として実権を握った。 >>186
あの時点で後白河上皇は中継ぎで院政する資格はない
と見なされてたからね。
鳥羽院領は美福門院が握ってたから後白河上皇には経済的な力もない。
美福門院が娘婿である二条天皇に領地を譲位の後の二条天皇に譲ったとしたら
二条上皇(になった場合)鳥羽院政並みの強力な院政を行った可能性もある。 >>187
後鳥羽上皇の話してるのに、なんで後白河上皇の話にすりかえてんの?
酷い勘違いしてない? >>186
それはその時期に譲位が行われた理由にはなるけど
親政推進の理由にはならない。
院政を支えるもうひとつの柱院領の存在を忘れてはならない。
天皇のままでは荘園を保有することはできないが
上皇ならば荘園を保有できる。
後鳥羽天皇は退位後、時期を開けるが八条院領を獲得する。
また後白河院領も後鳥羽上皇の支配下に入る。
莫大な経済力を背景に強大な後鳥羽院政を開始する意図があったのだろう。 >>190
>天皇のままでは荘園を保有することはできないが上皇ならば荘園を保有できる。
天皇も私的な荘園を持つことができるよ。
有名な長講堂領は、後白河法皇→宣陽門院を経て、鎌倉幕府の一時没収後、
現役の天皇である後深草天皇に譲られている。
八条院領も、八条院→昇子内親王を経て、現役の天皇である順徳天皇に譲られている。
(退位後の後鳥羽上皇が八条院領を所有したことはない)
さらに八条院領は時代を経て、現役の天皇である後醍醐天皇も所有している。 >>192
八条院領
八条院→春華門院→後鳥羽院→後高倉院→安嘉門院、式乾門院→亀山院
長講堂領
後白河法皇→宣陽門院→後深草院
じゃなかったっけ。 >>193
八条院領は、八条院の死後、八条院の養女であった春華門院(後鳥羽皇女・昇子内親王)が相続した。
春華門院も建暦元年(1211年)に没したため、春華門院の異母弟で養子であった(春華門院は順徳天皇の准母)
順徳天皇が相続した。
順徳天皇が八条院領を相続したのは建暦元年(1211年)で、在位時。
また、後深草天皇が長講堂領を所有したのは文永4年(1267年)。
こちらも後深草天皇が在位中のことで、現役の天皇時代。 >>192
後鳥羽天皇の頃は「保元新制」の宣言がまだ有効だったんじゃないかな?
国土は全て天皇のものという。 >>194
その順徳天皇が相続した件は何で確認できるかな? >>196
自分は「大日本史料」で見た。
君の言う、春華門院から八条院領を相続したのは後鳥羽上皇だというのは
一次史料は何に書いてあるの? >>197
回答ありがとう。
後鳥羽上皇が所有していなかったという点は納得した。
ついでに次の件についてあなたの意見も伺いたい。
承久の乱を起こすことのできた要因についつ後鳥羽院が皇族の領地に関して強い権限を持っていたからだ
と言われているが
実際の所はどうだったんだろうか?
もし、権限を持っていたとしたら、所有者をどう従えていたのだろうか? 建前上は公地公民の律令国家なのに、
その頂点の上皇が私有地をたくさん持っているのでは国も傾きますね。
女院というと男性の院より一段落ちる気がするが、お金持ち度では遥かに上だよね。 >>197
大日本史料じゃ範囲が広すぎるなあ。
該当部分実物見たいから、どのあたりを読めば原文読めるか可能なら教えて下さい。 >>192
基本的に前近代の日本の法に「後法優越の原理」がないから、
後法と矛盾しない前法は無効にならないし、極端な場合前法による決定が「先例」として確立された場合は後法の適用がされなかった。 ただね新しい例は理屈をこねれば作れるんだよね。
四后並立、一帝二后、
神器なし即位
など。 >>194
朝日が出している週刊「新発見日本の歴史」の第19号にのってる記事では
八条院領は後鳥羽上皇も順徳上皇も相続にはなっていない。
順徳天皇の皇子が七条院領を継承はしていたけど。
専門の人が書いた記事だからなんかの裏付けがあると思うんだけど
誰かソースになる一次史料知っている人いない? 白河院政期には荘園整理令が10年毎のペースで出ているけど、鳥羽院政期には全く出なくなった。
最後の荘園整理令が天永の荘園整理令で1111年(天永2)鳥羽天皇の時。
曲がりなりにも白河は、公地が減ると皇威も衰えることが分かっていたんだな。 荘園整理令って荘園を減らすのが目的じゃなくって
きちんと登録されてるかどうかの確認作業だよ。
事務手続きがきちんとされた荘園は荘園としてその後きちんと認められている。
ちなみに鳥羽院政時代に飛躍的に荘園は増加したけど
その後の鎌倉時代に入っても公領と荘園の比率は
公領7対荘園3だったらしい。
(国によってもばらつきがある)
それに荘園と認定されても年貢の納付先が100パーセント荘園領主だったわけでもなく、
一部は荘園領主に行くけど残りは国衙というケースもあったみたいだよ。 >>203
四辻宮家(順徳子孫)の七条院領継承は『東寺百合文書』 NHKラジオ第二放送 文化講演会 平成25年12月8日放送
「権門とは何か〜院政はなぜ続いたか〜」
を聴いた人いる?
http://www.nhk.or.jp/r2bunka/bunka/1312.html 武家の象徴である源義家と並び白河院は
中世の始まりを告げる象徴的な人物
法皇が源氏を牽制するべく平正盛を優遇したことが
後の源平の争乱に尾を引いていくのが興味深い >>3
> 後鳥羽が決起しなくとも、院の力は殺がれて行ったのだろうか。
> 後醍醐が欲張らなければ、両統迭立は続いていたのか。
↑
どう思う? 懐かしい。証明のし様が無いが俺の建てたスレがまだ生きてる。 持統天皇-文武天皇も譲位後も実権を握っているという意味では院政 そもそも、文武天皇の後見をするために、持統天皇が上皇が天皇と同じ権力を持つことにしたのが、ことの発端だっけ? >>217
太上天皇は天皇と同権であることが律令に規定されている
だから特定の法整備のなかった執権や、北条家嫡流を表す得宗とは全く違う
>>218
持統天皇は夫天武の側室たちが産んだあまたの皇子たちを退けて
若年15歳の自分の孫文武天皇を即位させて自分が政治を執った
持統は天皇在位中も自分で政治を執っていたため天皇が次の天皇を指名するための譲位だった
太上天皇が天皇と同権の共同統治者であることを定めた大宝律令は
持統太上天皇の死の2年前に発布されており持統太上天皇の考えである可能性は高い 上皇がたくさんいた平安時代は、元首ばかりでうるさくってたまらんな。 >>210
この録音をもらったので何度も聞き返している。
面白い見方。
岡野友彦著PHP新書「院政とは何だったか」も買ったがまだ全部読んでない。 上皇天皇のトップを競う天下一武道界なものがあったのかね。 >>222
上皇だからといって「治天の君」であるとは限らない。 「上皇はたくさんいるし、摂政はいるし、関白はいるし、どないせいっちゅうねん」
って気分だったのかね、当時の天皇。 >>225
それじゃ摂政と関白が同時に両方いるみたいだぞ 不思議なことに上皇は複数存在しても、天皇を同時に並立させる思考には最後まで到達しなかった。
もし院政の創始者白河が鳥羽帝を退位させなかったら、院も同時期に一人限定になっていた可能性は高い。
そう考えると鳥羽帝が泰子入内のためにした裏工作が後の世までの禍根となったともいえる。 >>228
上皇は複数いても院政を執れるのは一人
院政をとれない上皇などただの隠居の身で
東宮でもないのに出家もしていない親王みたいなもんだ 後冷泉帝に男子が生まれずに摂関政治が滅亡の危機となった時に、女帝即位の話題が出なかったのも面白いことだ。
例えば頼通の養女ゲン子は後朱雀帝との間に2内親王を儲けているのに。 女帝の次がないからね。元正・元明天皇は跡目がはっきりしてたから。 >>230
後三条がいたからだろ
宇多天皇以来藤原氏を外戚としない天皇などと解説されるが
後三条の母は藤原道長の孫娘で藤原頼通の世話で入内するなど
もともとはバリバリの藤原系の生まれだった
後三条の中宮は上東門院が後見する後一条天皇皇女・馨子内親王で
ここに皇子が誕生していれば頼通の天下は続く可能性が高かった 生存する上皇の最高記録は5人。
後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇が併存していたことがある。
こういう時どうやって各人を区別したのだろうか。
本院 中院 新院では数が足りない。 >>233
「増鏡」によれば後伏見が退位した直後
後伏見を新院、伏見を中院、後宇多を一院と呼んだらしい
後深草と亀山は前後の章段で法皇とだけ出て来る
2人の法皇を区別するために亀山を「万里小路の法皇(当時万里小路に住んでいた)」
と呼んだりしている >>232
「祖父が藤原氏」と「曾祖父が藤原氏」ではエライ違いがあると思うぞ。 >>235
後三条を立太子させたのは道長の息子である能信
後三条は道長の息子たちの倫子系VS明子系の争いを利用してのし上がった帝王で
藤原氏の支援を受けないことには即位は不可能だった
女帝じゃなくても当時は藤原道長の娘寛子が小一条院との間に儲けた
敦元親王などがいてそちらなら道長の孫親王即位が可能だったからね 敦元親王(あつもとしんのう、治安3年(1023年) - 長元5年7月14日(1032年8月22日))は平安時代中期の皇族。小一条院敦明親王の子。母は藤原道長の娘、寛子。
10歳で薨去しとる。これでは即位のしようが無い。 今にして思えば後朱雀天皇が崩御した時点で、尊仁親王を寛子の養子にしておけば良かったんだな。
頼通は一貫して尊仁を余所者として冷遇して来たが身内として幼時から接遇しておけば、
万一即位した時の保険になったものを。道長だったらある時点で後宮政策を改めただろう。 >>236
あの時点では、後三条以外に皆の合意を得られそうな皇子はいないだろ。
道長の血を受けていれば誰でもいいってもんじゃないし、頼通が望んでも
上東門院が認めなければごり押しは難しい。
元々禎子内親王との間柄は悪くなかったのに、より血縁の近い外戚にな
るための賭けをやって負けただけの話だね。 >>239
頼通は過去の成功体験にしがみ付いた愚か者。
外孫の誕生が無かった時の代替案を用意出来なかったのが悪い。
でもまあ前漢の呂太后のようにどこからか赤子を調達して来なかったのは幸いだった。 >>238
頼通が尊仁を余所者として冷遇していた事実はない
ただ摂関の地位を安泰にするために娘の入内は避けられず
養女のげん子を後朱雀天皇に入れ中宮に立てた
一帝二后は当時は珍しくもなかったんだが(一条・三条帝にも二后がいた)
皇后となった禎子内親王は頼通が自分を憚ることなく養女を入内させ
中宮として自分と対等な地位に置いたことに激怒
所生の尊仁と2内親王を連れて実家に帰ってしまい
これを許した夫の後朱雀にすら二度と会わなかった
>>240
道長もたまたま長女の彰子が立て続けに2親王を産んだから成功したけど
彰子が男子を産んでくれなければ自分を外戚としない
敦康親王や小一条院を即位させなければならず
万が一に備えて敦康親王を彰子の養子にしていたところで
摂関全盛期の頂点に立てなかっただろ 道長の場合、一条、三条といった、外戚としてはやや遠い間柄
の天皇の代にも大きな権力を持っているんだよね。
単に外戚として成功したというより、両統迭立の状況をも利用
して他の公卿と隔絶した地位を築いたのが大きいんじゃないかな。 >>241
歴代東宮が所持して来た桐壷剣を東宮尊仁には渡さなかった。 >>242
藤原道長は一条、三条の叔父
叔父甥の関係が遠いなら
頼通と後一条、後朱雀、後冷泉も遠い関係ということになる
>>243
壺切懐剣は醍醐天皇から始まったもので
この時代には藤原系皇太子が伝授していた
三種の神器ほどの重みはないよ >>244
それはいじめる側の論理と同じ。やられた側の尊仁東宮は深く傷ついたのではないか?
それが即位後の荘園整理令に発露していると考えられる。
東宮は辞退させるか薨去しない限り次期天皇になる。こんな簡単なことさえ見えなくなっていた頼通の未熟さが目立つ。
最も弟の教通との相続争いが起こって、外戚の地位と氏の長者の地位が同化してしまったのも痛い。
すなわち外戚になれなければあっという間に摂関家内でも冷飯喰らい。 頼通と教通の兄弟が入内合戦を展開すればするほど、
摂関家を母に持たない尊仁東宮は一つの思いを強くする。
「もし自分が即位したら好きなように政治が出来る。」
つまり頼通の失敗は自ら後世に対して、難度の高い勝利条件を確定してしまったこと。
尊仁が東宮位にいた25年という長い時間をかけて、徐々に尊仁を取り込んで行く手法を採った方が良かった。 >>245>>246
最終的には頼通流の勝利だったとは思う
なぜなら内親王を母とする天皇は後三条以降また出てこなかったからだ
後三条の次代白河天皇はまた藤原氏を外戚とする帝王だった
道長系ではなく道長の叔父の系統である閑院流ではあったが
白河天皇が藤原頼通の子師実の養女である中宮賢子を寵愛しここに堀河天皇が誕生していたため
政治はまた道長系に戻ってしまうことを意味した(実際に堀河天皇の治世では摂関政治が復活している)
摂関政治を終わらせたのは後三条ではなく白河院政によるもの
しかし一方で師実の曾孫忠通は天皇との血縁関係に関わらない摂関世襲に成功し
摂関家を確立させている >>244
道長の場合、幼時の一条に対しては母后詮子が後ろ盾になっていたけど、
それ以降は必ずしもしっくりいっていたわけではないね。
三条との関係は言わずもがなだし。
いずれにせよ、外戚の権原を母系の家父長権に求める立場からすれば、
道長は外戚としてはやや遠いと言わざるをえないのではないかな。
で、頼通も同じく遠い関係でしょ?そこで挙げられている天皇の時期には、
母/祖母である姉の上東門院の意向が無視できなかったわけだし。 >>247
院政はほとんど偶然の産物であると言ってもいい。
白河院には3つの追い風が吹いた。
1.皇太弟、実仁親王の夭逝
2.関白藤原師実の短命
3.白河存命中の堀河帝の崩御
自身の存命中に東宮と関白と帝が亡くなった院というのも珍しい。
道長の子息である頼通、教通、上東門院の長命遺伝子が
師実、師通に受け継がれていたら歴史は変わっていただろう。
院政確立の最大の功労者は関白藤原師通の早過ぎる死(37歳)だろう。
(師実-師通-忠実)
師通薨去後に弱冠20歳の忠実が関白位を継承し、
堀河帝は政治の相談相手として引退していた白河院を頼らざるを得なくなった。 > 天皇との血縁関係に関わらない摂関世襲
以前読んだ本では、この源流を道長・頼通期(特に道長)に求めていたね。
道長が内覧になって以降続けてきた、自分への権限集中や、自家を他の
公卿から隔絶させるための行動の果実だというようなことだった。 >>250
頼通の時代にはまだ無理だよ
弟の教通や頼宗が娘を入内させていてそちらに皇子が誕生していれば
頼通の系統は転落する可能性が十分あった
摂関家の確立というのは摂関が世襲になったことを言うからね
弟や甥の系統に取って代わられる可能性があるうちは
娘に天皇を産ませた弟が兄の家から摂関を奪ってきた道長以前と変わらない
鳥羽天皇が即位した時にその伯父藤原公実が
白河法皇に対して摂関の地位を要求している
これが退けられた時に初めて頼通流忠通の摂関世襲が確定した >>251
頼通の系統が摂関家嫡流から排除されるのと、
御堂流そのものが摂関家では無くなることを比較した場合、
どちらの損失が大きかったのだろうね。
頼通の娘だけで足りなければ、弟たちの娘を総動員して外戚の地位を御堂流で維持した方が良かった気がする。 結局、この時代にはまだ「家」という概念が無かったということだね。
その概念は直系相続の困難さをカバーするものとして生まれて来たのかも知れない。 >>252
頼通の弟たちは頼通に排除されて娘を入内させられなかったわけじゃない
頼通の弟たちも頼通流から摂関の座を奪うために娘を入内させたが
皇子を産むことはできなかった
これによって御堂流は天皇の外戚の座を失うことになった
藤原頼通(藤原道長長男)の娘
・藤原げん子(養女)…後朱雀天皇中宮。内親王2人を産んで24歳で死亡。
・藤原寛子…後冷泉天皇中宮。子はいなかった。
藤原教通(藤原道長五男。頼通同母弟)の娘
・藤原生子…後朱雀天皇女御。子はいなかった。
・藤原歓子…後冷泉天皇皇后。一度懐妊するも男子を死産。
藤原頼宗(藤原道長次男。頼通異母弟)の娘
・藤原延子…後朱雀天皇女御。内親王一人を産んだ。
・藤原昭子…後三条天皇女御。子はいなかった。 例えば禎子内親王の場合、後朱雀が東宮時代に尊仁を産んだが、後朱雀が即位して中宮となるも早々に皇后に移された。
これは頼通の養女ゲン子を入内させるためであったが、内実は皇后宮という独立した建物に禎子を押し込め、
後朱雀との接点を断ち物理的に懐妊させないことを目的としていた。
この事例からも分かるように、頼通が弟たちの姫が懐妊しないように様々な手を講じていたと思われる。
とても協調して御堂流天皇の誕生を目指したとは思えない。 ある時点で後冷泉を見限り、東宮尊仁に娘を入れまくれば良かったんだ。
老人世代を助けて団塊ジュニアを切り捨てた愚が歴史上にも見えている。
政策は時の経過に耐えるものでなければ一流とは言えない。 >>257
後三条には東宮時代に頼通の姉上東門院が後見する馨子内親王を入内させている
他に頼通の異母弟頼宗がやはり東宮時代に娘の昭子を入内させている
白河天皇を産んだ後三条の東宮妃は頼通の異母弟能信の養女
御堂流の息がかかっていないのは後三条が即位後寵愛した源基子ぐらいで
後三条を放置していたわけではない ミネルヴァ評伝の新刊「後白河天皇」を読んで、皆で議論しましょう。 時代によって違うだろうが、口分田と院領荘園の比率ってどのくらいまでいったんだろう? なぜ藤原氏が自分で王にならなかったのか教えてください
中国だったらなってる奴がいるのに 例えば、
次の天皇が幼少なんで、摂政のオレが天皇になるわ〜
くらいなら大して反対も起きなさそう >>261
摂関家生まれの慈円(関白九条兼実の弟)が書いた「愚管抄」に書いてあるよ
帝の地位はただ血統によって決まる
帝になるのに政治能力は問われないので政治は別の臣下に任せるべきである
その政治を任された臣下が摂関家なのである
平安時代末期にすでに天皇と政治は切り離されていて
摂関家が内部で熾烈な政権奪取争いをやって政治を執ると思われていた >>265
血統で決まる帝の地位だけど、帝の一族は権威を高める努力を行うのが仕事です。
帝に権威があるからこそ、帝の名代としての摂関家の地位も高くなる。
そう考えると鳥羽院が得子可愛さに体仁を皇位に就けたのは大失敗でした。
白河と鳥羽の行動を比較すると、鳥羽のバカさ加減がよく分かります。 >>266
慈円は摂関家に都合の良い言い分を言っているだけで
天皇には天皇の言い分があると思うぞ
鳥羽天皇は政治を手放したとは思ってなかっただろうし 天皇が政治を手放したのは、院政が崩壊した応仁の乱以降じゃないの? >>268
最後に残っていた洛中の警察権を足利義満に接収されて朝廷の政治は終わった。 えー、今まで使っていたアップロードサイトが使えなかったので、
ここを見つけて初めて使いましたが、いろいろ失敗したまま貼りました。
内容についておそらく間違いがあると思いますので見つけたら指摘してください。 まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>265
でも後三条天皇以降の史実を見ると、天皇(上皇)が本気出せば権力はあっさり回復出来たよね。 >>275
慈円の愚管抄は摂関家に都合の良いように書かれてあるからw
帝は血筋第一で政をやるべきではない
政は摂関が行うから、という主張を書いてるの >>276
摂関だって血筋で選ばれるのにね。
実力で関白になったのは豊臣秀吉だけ。 >>277
天皇は中宮腹の長子が最優先
この時代の摂関は流動的
摂関家に生まれることはもちろん重要だが
慈円が支援していた同母兄の九条兼実は兄弟順がだいぶ後の側室腹の子
兄には近衛家や松殿家があったが慈円が愚管抄を書いた当時は
九条家が摂関となり娘に皇子を産ませて他の家を凌駕していた
摂関家の中で能力がある者が摂関になるべきという考え方
(あくまでも九条家に味方する慈円の意見) 生前譲位は継承が不安定な場合に行われる
白河院の場合も本来は自己の系統の継承を確実にするため >>280
白河院政は堀河天皇早世で孫の鳥羽天皇が5歳で即位
当時の摂政も若年だったという非常事態で自発的に起こったものだからな
堀河天皇のときには成人関白とぶつかりまくって
院政はまだ始まってなかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 歴代の治天の君で最大の荘園領主は誰なんだろう?
鳥羽院か後鳥羽院なのかな、という気もする。
八条院てことはないよね。 昭和の頃は日本の中世は鎌倉幕府の成立からと教わったが、近年の歴史学界では
院政の始まりあたりを中世の起点とする傾向がある。現在の学校教科書もその方向で
書き換えられているようだ。
中世史としての「院政時代」を眺めれば、今までの歴史観も変わってくる。 ま、院政時代には荘園の割合が口分田を圧倒するようになってて
必然的に荘園を管理・防衛する武士が当たり前の存在になってたからね 荘園が国衙領を上回るのは室町以降とか、誰かが書いていたな そもそも日本の中世の定義って何?
朝廷=幕府の公武二重体制ということ? 国衙領も10世紀には口分田や人頭税方式が廃止されて税のおさめ先が国衙配下の名主ってこと以外は
荘園と変わらんがな >>289
口分田は藤原時平の時代に伊勢で行われたのが最後で院政時代には
影も形もないが 来年はちょうど光格天皇譲位から200年だな。
まあ来年は無いだろうが。 平成30年(2018)皇位継承→2019年元日改元→同年秋即位礼→2020年東京五輪と見た。 皇太子が即位した後、秋篠宮に譲位する。
事前の約束では、秋篠宮が養子になるはずだったが、何故か皇太弟だったため治天の君になれず、内乱となる。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>299
そりゃ京都御所だ
そこから院宣を発し院政が開かれます
京都府警は北面の武士、大阪府警は西面の武士となり、
京都府庁が院庁となります なるほど京都に南朝が開かれるのか。
愛子と悠人のガチンコの南北朝対立が見れそうだな 法皇って霊元法皇以来330年不在だからな
平成法皇とか胸熱 後花園院が足利義政を院執事にして本格的な院政をしようとする最中に
応仁の乱が起きて実質的に院政停止に追い込まれたのは残念至極! >>280
今上は皇太子に安定的に継承させたかったのか
最後の生前譲位として名前が報道されてる光格天皇も兄宮や中御門天皇の男系子孫がいたからなんだね >>307
>応仁の乱が起きて実質的に院政停止に追い込まれた
重要な点が抜けてるぞ!
応仁の乱が起きて院領荘園が崩壊消散し、院政停止に追い込まれた ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>308
生前譲位は継承が不安定な場合に生じやすい 最後に院政を行われたのは
光格上皇なのか後花園院なのか後小松院なのか >>321
明治時代に院政が否定されたから
最後の上皇である光格院まででしょう
明治以前は院庁の役人が付けられて
上皇が政治に口出しもしてたしね
光格天皇が実父に太上天皇号を贈ろうと幕府ともめた
尊号一件の際にも、後桜町上皇が出てきて
光格天皇をなだめてるし 平成上皇院政計画
仙洞御所 京都御所
院宣で院政
院庁 京都府庁
北面の武士 京都府警
比叡山の山法師たちが自警団となって京都をパトロール
京都府は院知行国 京都府内の国有地は院領荘園 >>323
京都御所は冷暖房もないし
主な建物以外は戦時中に取り壊されている
人が住める状態ではないからw
何も知らないと思うが仙洞御所って
今は庭しか残ってないよ 棟別銭を課して修繕費に充てよう
もちろん京都府内のみで 昭和天皇の御所だった吹上大宮御所が使われて無いんだからそこに
移ればいいのにね。
今上陛下は退位したいとか東宮御所に移りたいとか少しわがまま過ぎる。 吹上御所って昭和の建造でかなり老朽化してるんでは?
香淳皇后が亡くなってから長らく使われてないよね しばらくは東宮御所を院庁にしてお住まいになられるのだろうが、
出家して法皇になられたら、しかるべきお寺に移られるのだろうか? >>331
明治以降の天皇は神道だから出家できないんじゃないの
葬儀や陵墓も神道式で明治以前のように仏式じゃないし >>327
平成になってから現在の吹上御所が建造されたが、当時まことしやかに言われたことは
「美智子皇后が不仲の香醇皇后の「匂い」がする吹上御所(現吹上大宮御所)を嫌ったとのこと。
旧吹上御所が規模も小さい(個人の住宅としては大豪邸だがw)、今の吹上新御所は
美智子皇后の希望で公賓などが宿泊できる施設を備えた巨大なものとなった。
今上陛下の退位後の住まいとしては本来は御用邸が適当だと思うのだが、今上は現東宮御所を希望されたようだ。
東宮御所も徳仁さんご成婚後の新築で 昭和の旧東宮御所と比べて相当大規模である。 譲位に伴って、秋篠宮殿下が事実上の皇太子になるけど、秋篠宮家が内廷皇族になるということ?
予算を増やさないといけないし、お住まいも手狭ではないかな
いずれ皇位継承される悠仁様の帝王学なども待ったなしだし 今上陛下が退位後に、治天の君にならぬようには何板向け? 天皇在位中は、国事行為は臣下の輔弼によって制限されていたが、譲位されて上皇に
なれば、もはや誰の気兼ねもなく、院宣や院庁下文を出すことができる。
院近臣にはどんなメンバーを選ぶかが、院政を成功させるカギになる。 明治維新の折に華族にはなれなかった地下官人、子爵・男爵レベルの爵位に甘んじた
下位の堂上貴族にとって、天皇陛下が譲位後に始められる院政で院近臣になることは、
家格を向上させるラストチャンスとなるのではないか?
信西入道や鼓判官のような優れた近臣が出現することを期待する。 スレが変な方向に向かってるから、とりあえずアホは消えてくれるか 平成院は諡号なので、崩御された後にお呼びする称号だと思う。
赤坂御用地に院庁を置かれるようなので、赤坂の院などと
お呼びするのではないか? 法皇は出家者であるのに「遷化」ではなく「崩御」を使う理由がよくわからん。 今は赤坂御用地にお住まいになるそうだが、出家して法皇になられたら、
どこかの寺に移られるのだろう。近臣たちも出家していっしょに寺へ
入ってそばにお仕えになるのだろうな。 主上が落飾された際は近臣も後を追って出家するものなのかな 北面の武士の募集が始まったら、応募する人はかなりいるだろうな
倍率は高くなりそうだ 北面の武士は、一般公募ではなく、予備自衛官の召集や警察OBの
再雇用でまかなうのではないか? 院近臣も省庁の官僚が出向するのかも知れない
省庁であまり出世できなかった官僚は、上皇の近臣として抜擢されれば
出世のチャンスになりそうだ 大して面白くもねえバカ話をいつまで引っ張ってんだよ 中世は
治天の君=帝王
天皇=帝王見習い(帝王になれるとは限らない)
中世の天皇なんて5歳で即位とかが殆どだろ
まともに政務とれるわけない 若手官僚は先例や組織に押さえられて思ったように力を発揮できないから、
院庁へ出向してバリバリ働きたいと思うかもな 家格が名家・半家くらいで終わってしまった堂上家は、院近臣になることで、
何百年ぶりに家格を上昇させるチャンスがめぐってくる。
今から院政の開始を心待ちにしている堂上家はあるのではないか? 堂上平氏や大江氏あたりは院近臣になって家格向上をねらうだろう 今は宮内庁職員は公務員だよ
世襲ではない
料理人やら家政婦は個人的に内廷費で雇うこともあるけど
家格重視ではないし 従来は金丸信や小沢一郎のようなキングメーカーが実権を握っていたが
これからは治天の君の寵臣が実権を握る時代になるのではないか? >>362が何を言ってるのかよくわからんが
これまでの自民党政治は平安時代の摂関政治のような話し合いグダグダ政治だった
でももう内外の状況がそんな無能無責任政治を許さなくなってきていて強力な政治力が求められている
もしかしたら院政のような強力な政治家が出てくるかもしれない >>364
院政は強力な政治家じゃないだろ
天皇の父や祖父が権力握っただけの形態
今の自民党大物議員もほぼ世襲議員だし
院政といえなくもない
(息子の治世に親父が影響力を及ぼすのが院政) 現代の治天の君
昭和47〜60 田中角栄(親政含む)
昭和60〜平成12 竹下登
平成13〜18 小泉純一郎(親政のみ)
平成19以降 治天不在 院政の最大の基盤は王家荘園
原理的に天皇は荘園所有が出来ないため 会社組織に例えてみよう。
社長を退いて会長になっても大きな発言権を有する理由、
それは大株主だからだ。
株を手放してたら発言権はないし、そもそも会長にもなれない。
つまり、大株主→会長=大荘園主→治天の君 >>365
もの凄く浅薄というか表層的すぎる
院政は偶然の産物ではなく当時の政治課題が摂関政治では解決できなくなって
より強力な問題処理能力を持った政治が待望された結果、皇族主導による政治が
行われるようになったのである
ただ、後三条以降の治天上皇が無能で角栄の後半みたいなバカ政治になってしまったという 結果的に白河院に権力が集中してしまったのが先例になった感じだよな
その本格化はむしろ鳥羽時代になってからか >>369
もの凄く浅薄というか表層的なのはお前
院政が開始されたのは後鳥羽天皇の時
当時、天皇は5歳
関白は若年な上、天皇と外戚関係になく政治の主導権が取れなかった
結果、白河上皇が院政を執ることになった
そもそも摂関政治が衰退したのは摂関家が固定したことにより
幼年の摂関が出るようになったことと天皇との外戚関係が無関係になったこと
藤原道長時代には上皇に出番はなかった >>369
一理あると思うが、結局院政でも懸案を「解決」できず、
朝廷も院も武家に政権を奪われてしまった
藤原摂関政治で「解決」できないなら、
天皇大権で藤原摂関家を追放するなりすればよかったのだ
皇室と藤原氏の血縁が何重にも結び付いた馴れ合いのために、
強権的なことができず、中途半端に屋上屋を架した感がある >>373
藤原摂関家を追放しても別の姻戚がはびこるだけだろう
武家だって、源氏における北条氏、足利氏における日野氏のように
外戚が力を持ち政治介入した
徳川時代は正室腹の将軍が3代家光以外存在せず
他は旗本やら八百屋やら庶民に近い出身の側室にばかり産ませた
天皇も庶民の娘と結婚するならだが そもそも徳川15代のうち、父が将軍なのは、秀忠、家光、家綱、綱吉、家継、家重、家治、家慶、家定の9人だけ。
つまり、9人中1人しか正室(御台所)腹がいないという話。
それ以外の6人(家康、家宣、吉宗、家斉、家茂、慶喜)のうち、家康と慶喜は正室腹。
なので、御台所にこだわらないなら、15人中3人は正室腹。 >>374
藤原氏の場合はその姻戚関係が何代も何百年も皇室と結びつき、
まさに皇室に絡まった「藤」の蔓状態となって、ほどけなかったんだよ
だから院政という中途半端な形になった >>376
古代中世には母方の出自も重要だった
古い時代には両親ともに皇族でなければ天皇になれなかったし
奈良時代以降は母方が藤原氏であることが重視された
血統は父方のみ受け継ぐから
借り腹に過ぎない母方は滅ぼしてしまえばいい
という絶対的男系主義は戦後の考え方
天皇家が母方を否定したのは戦後
民間出身の美智子妃を迎えた時に初めて
母方の血筋は問わないということになった 皇室に血縁関係で絡まっていた蘇我氏を滅ぼしたではないか 訂正
滅ぼされたのは蘇我宗家であって、蘇我氏ではない。 >>378
中大兄皇子の母は王女。
当たり前だが母方を滅ぼしたわけではない。
それどころか蘇我傍系の蘇我山田石川麻呂の娘を娶り
蘇我氏系の補強すらしている。
(この間に生まれたのが持統天皇。男子は早世したが
生きていれば天皇になれていた) >中大兄皇子の母は王女。
王女どころか、皇極・斉明天皇だがな 後三条天皇は荘園整理令を出した時、
それが院政時代のブートストラップとなることを見越していたんだろうか、
それとも律令制を立て直しするつもりだったんだろうか。
俺は後者だと思っているのだが。
しかし荘園側がまた公田となって国司の好き勝手になることを好まず
摂関家・寺領から院領荘園となる道を選んだ、と。 経済基盤が荘園に移った事が最大の要因なんだよな
白河時代はまだそこまで決定的でなかったらしいが鳥羽時代に院領荘園の基盤が整備される 後三条天皇の荘園整理令による仕分けに貴族寺社は唯々諾々と従ったのだろうか。
だとすると藤原摂関家が天下を縦にしていたというのは本当なんだろうか。 >>385
当時も今も同じ
政治家の方々は、ちゃんと法令に従ってコンプライアンスを順守しているでしょ
度々寄付してくる支持者の「お友達」を贔屓して優遇することなく、
まして官僚に「忖度」するよう圧力をかけることもなく、
会計帳簿も明らかにして適切に納税しているよ >>371
物凄く浅薄な意見で乙というしかない
院政は突然始まったのではなく前史というべきものがある
関白の藤原頼通は無能で決断力のない人物だった
道長が生きてるうちは道長に相談し、道長の死後は実資に相談しないと何も決められなかった
当時、荘園整理問題と園城寺の戒壇設立問題という政治的に難しい問題があって
頼通は天皇にこの問題の決定を丸投げしてしまったのだ
天皇は困ったが摂関政治のグダグダ話し合い政治では決着がつけられないのも理解していた
そのため宮廷では強力な政策決定能力を持った皇族主導の政治が望まれた
そこで天皇は次の次の天皇には、皇太子の弟で英明な後三条を指名した
皇太子に娘を嫁がせていた頼通は将来、娘が生むであろう子供を次の次にしてほしいと抗議したが
関白のくせに政治問題を丸投げする無能無責任な頼通に公卿も天皇もムカついていたので無視され
後の即位した後三条は期待通りに延久の荘園整理令を出して荘園公領問題を裁き、園城寺には
時期尚早として慰撫策を施し戒壇設立を拒否した
後三条は上皇になってすぐに死んだのだが、とにかく院政は摂関政治に代わって、
皇族によるより強力な政策遂行能力を持った政治体制として発足したのだ >>387
物凄く浅薄な意見で乙というしかない
藤原頼道は無能ではない
実資は藤原道長のことも馬鹿だと言っており
(馬鹿酔いした道長が阿呆みたいに自画自賛した望月の歌を記録したのは実資)
年若い頼道が素直に実資に相談してくることを高く評価している
最初に荘園整理令を出したのは後三条天皇ではなく頼道が関白の時代である
後三条天皇が皇太弟に立ったのはわずか12歳の時であり
政治能力を期待してのものではない
母が三条天皇の内親王で血筋が良かったために頼道も無視できなかったからだ
後朱雀・後冷泉天皇は頼道の甥であり、天皇が叔父頼道にむかついていたという
事実はまったくない
院政が発生したのは摂関家が天皇との血縁を持たなくなったためだ
道長の息子たち(頼道、教道、頼宗)は娘を入内させたが
血筋が濃すぎたためか全く皇子が誕生しなかった
頼道以降も優秀な摂関はでているのに全く知らないようだ >院政が発生したのは摂関家が天皇との血縁を持たなくなったためだ
それ違うんでないの?
荘園整理令で口分田に仕分けされたが領主達は口分田となるのを拒み、
天皇家に寄進しようとしたけど、天皇のままでは律令制度化でそれを受け取れないので
退位して上皇となって寄進を受け取り始めた。
それが新たな権力の淵源となって院政の始まりになる。 >>388
2ちゃんによくある反論のための反論、という感じで下らないが、一応反論しておくと
>藤原頼道は無能ではない
有能だったという証拠を出せないので無能
>最初に荘園整理令を出したのは後三条天皇ではなく−
当時の荘園整理令は実施が地方の国衙で行われていたのであり、後三条の時のような
中央政府の記録荘園券契所による強力な権威を持っていなかったため、すぐグタグタになった
>後三条天皇が皇太弟に立ったのは−
血筋がよかったとしても必ずしも天皇にする必要性はない
摂関家の血筋でない皇子を敢えて立てたのは摂関政治では重要問題を解決できないから
もうお前のところには政治の実権を任せないぞ、という天皇の意思によるものである
>院政が発生したのは摂関家が天皇との血縁を持たなくなったためだ
全く意味が解らない、天皇親政でも、奈良時代のような官僚制でもよかっただろう
藤原氏の女性の生んだ天皇はそれ以降も出たのにどうして摂関政治に戻せなかったの? >藤原氏の女性の生んだ天皇はそれ以降も出たのにどうして摂関政治に戻せなかったの?
院領荘園が摂関家荘園を圧倒するまでに増大したからだろう 政治家が有能か無能か結論を出すのは難しい
俺は石原都政は無能だったと思うが、有能だという奴もいるし 中国の王朝政治だったら、
外戚の門閥が強大化しているなら、三族まとめて粛清して荘園(食邑)も没収し、
別の貴族を重用していただろう
あるいは大化の改新のように、藤原の氏長者を宮廷で成敗して、
公地公民制の詔勅を下して、一気にすべての土地と人民を一元的に朝廷
が支配する形にす方法もあったが、それは真似できなかった
結局、平安朝の朝廷はそこまで踏み込んだ荒療治はできなかった
だから藤原摂関家の摂関職はそのままにし、藤原氏の荘園も基本的にそのままにしたうえで、
院政を展開して朝廷の主導権を院が奪取し、院が藤原摂関家を越える荘園を手に入れることで、藤原摂関家をそのまま残しつつ、それを院が凌駕するという日本独自のやり方になった >>391
2ちゃんによくある反論のための反論、という感じで下らないが、一応反論しておくと
>有能だったという証拠を出せないので無能
無能だったという証拠を出せないので有能
最初の能荘園整理令を出したのは頼道だという文字がアスペなので読めませんか?
>当時の荘園整理令は実施が地方の国衙で行われていたのであり
無知すぎる
頼道は中央の命令で荘園整理令を出しているので勉強してください
>血筋がよかったとしても必ずしも天皇にする必要性はない
>摂関家の血筋でない皇子を敢えて立てたのは摂関政治では重要問題を解決できないから
>もうお前のところには政治の実権を任せないぞ、という天皇の意思によるものである
後三条天皇の母親は道長の外孫で入内に際しては頼道が入内準備をしている
藤原氏を母に持つ親王はこの時代もう他におらず次点として
藤原氏を外祖父に持つ親王である後三条が選ばれた
勉強しろ、マジで
>全く意味が解らない、天皇親政でも、奈良時代のような官僚制でもよかっただろう
>藤原氏の女性の生んだ天皇はそれ以降も出たのにどうして摂関政治に戻せなかったの?
院政は必ず行われなければならないわけではなく
天皇親政はそれ以降も普通にあっただろ
白河院政は後鳥羽天皇が5歳という幼年で即位した為発生したものだと書いたのに
また都合の悪いことは意図的に読み落とすw
堀河天皇は藤原摂関家の養女を母としていたので摂関政治に戻った
鎌倉以降は力を持つ者が摂関になるのではなく公家の家格が家系によって固定
天皇との血縁に関わらず摂関はそれなりに発言力を持った >無能だったという証拠を出せないので有能
無能だった証拠は出してる
頼通は当時の重要問題を解決できずに天皇に丸投げしているのだからどう見ても無能
都合の悪い部分を読み飛ばさないでね
>頼道は中央の命令で荘園整理令を出しているので勉強してください
荘園整理令を出したら全部一緒なのか?後三条の荘園整理令がなんで特筆されるのかも
わかっていないのはお粗末だ
頼通の時代の長久の荘園整理令は大荘園主だった摂関家などの荘園には手を一切触れなかったし
実施が地方で行われたため、地方の国衙とずぶずぶな有力武士にも効果が薄かった
荘園主でない天皇が主導し、中央に設けた記録荘園券契所で一括して行ったことが重要だった
>後三条天皇の母親は道長の外孫で入内に際しては頼道が入内準備をしている
頼通は後三条の後継者決定にははっきり抵抗を示している
頼通は皇太子(後の後冷泉)に嫁がせた娘に期待していたため(結果的には子は出来なかったが)
当時の頼通が自分の意思で次善の策として後三条を自分で選んだ事実はない
>白河院政は後鳥羽天皇が5歳という幼年で即位した為発生
後鳥羽でなくて鳥羽だろう
それはともかく、幼い天皇の即位はそれまでもいくらであったし、それは理由になってない
摂関政治の限界を感じて否定した後朱雀以降の天皇家の意思が天皇家の年輩の家長による政治となった
あなたの物言いはすごく表面的で下らない
>堀河天皇は藤原摂関家の養女を母としていたので摂関政治に戻った
戻っていません。あなたは摂関政治が何であるかもわかっていない。
もっと勉強してください
あと、頼通を頼道と書かないでね、2レス続けて書くと本当に馬鹿にしか見えないから 横レスだが、頼道とか表記してる奴に
勉強しろ、マジで
とか言われたくないwwww 政治的な評価って、評価者によって異なる多面的であるのが当然なので、「⚪⚪は無能だ。なぜならば××だからだ」「⚪⚪は有能だ、なぜならば△△だからだ」が同時に成り立ちうる。
こんなの大学で学ぶ政治学のイロハですらないと思うが。
上の二人、どっちもどっちだよ。汚い言葉遣いやらオウム返しやら。 藤原頼通が無能なら何十年もよく一の上やってたよね
頼通が関白引退してずーっと後に院政が始まっているのに
「頼道が関白をやってる頃から、院政をやろうやろうと天皇家内で話し合っていた」
って何をもって行ってるんだろう
だいたい天皇と上皇って仲が良かったわけでも何でもなく対立してたことが多いのに
院政は摂関家をぶっ潰すために天皇家が編み出した方法だったってw
後の時代のことを教科書で呼んだから知ったかぶって
次代をさかのぼってタイムマシーン上の話をする奴がいつも日本史板に現れるね >>399
頼通が有能とか無能とかスレ違いだし本筋に関係ないだろ
なんでそこに拘るのかわからない
摂関政治で問題が無ければ天皇も文句言わなかっただろう
でも実際に大きな問題が持ち上がった時に、合議制の摂関政治では何も決められず
関白頼通が(本来のトップである)天皇に問題を丸投げしてきたのを見て
天皇も公卿も決定力を持った天皇(家)の政治を待望したわけだ
その結果が後三条、白河の親政と、その後の院政となった
別に摂関家を潰そうという訳ではない(実際に潰してない)
強力な政治決定能力のある体制を朝廷全体が欲して、それが院政という形になった
なんで天皇親政の形でなく院政になったのかというと、自分にもよくわからない
おそらく最初に院政で強権をふるった白河上皇を見て後代の上皇が体制を模倣したのだと思う
やがて制度として治天上皇の指名が天皇即位に必須となって、院政は幕末まで続いた >なんで天皇親政の形でなく院政になったのかというと、自分にもよくわからない
上で頻繁に書かれているけど、
後三条天皇の荘園整理令により口分田に戻ったはずの土地の領主が
やはり荘園のままの方がいい、と、寄進先を探したら天皇家しかなかったが、
天皇が天皇位のままでは寄進を受けられないので、退位して自由の身に
なって受け取ったということ。
その結果上皇はとてつもなく巨大な荘園主となって権力も付いてきたわけで。 >>401
上皇が巨大な荘園主になったという事実は本当にあったのか
新しい権力者として院に荘園寄進が集中してもおかしくはないが、あまり聞いたことがない
また、本で調べたところ、上皇が次の天皇を決める制度にしたことで皇位の継承が安定化し
特に自分の直系子孫や気に入った皇子を天皇にできたことが大きかったらしい
少なくとも白河はそうであった 二大院領荘園群「八条院領」「長講堂領」で検索してみてください。 皇位継承が不安定だが故に、保元の乱、平治の乱、大覚寺統・持明院統の
分裂なんてのが起きたんだろうが >>403
だからその2つぐらいしか思いつかない、日本中の荘園を手に入れたようなものではないし
>>404
皇位継承が法的に安定化したわけではない、治天上皇の意向で決まるというだけ
だから治天上皇が死ぬと一気に不透明になり、保元の乱も鳥羽上皇の死によって起こった
平治の乱は清盛と義朝のただの私闘で皇位に関係がない
皇統分裂も、後嵯峨上皇が次の治天上皇を決めずに死んだためあのようになった 再来年には今上が上皇様になられて院政を開始される。
憲法は天皇の権限を制約したが、上皇についての規定はないからやりたい放題できそう。院宣を下してほしい。 森友の地下に本当にゴミがあるのかどうか、
公開で調べるように院宣下してください >>401
公領=口分田と思っている時点で根本的なことが理解できてないしお話にならない
ちなみに延久の荘園整理令のとき口分田は存在しない 土地を口分するには戸籍が必要となる
しかし租庸調の負担を逃れるために偽装申告が相次いで戸籍が使い物にならなくなったため藤原時平の時代に
伊勢で行われたのを最後に田地の口分は行われていない
天皇家は寄進を受けられないというのもいったい何を根拠にしているのか
皇室領荘園も知らんのか
職の体系の頂点が一体誰であるのか理解していれば出てこない言葉だ 平成上皇出家して平成法皇にグレードアップしてほしい 古本屋で、朝日選書「待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄」を見つけて買った。
¥500+税
https://bookmeter.com/books/436232」
これを源平合戦ファンを自称する友人に見せた。
友人「なにそれ?」
・・・ほんとにファンなのかよ!?w 法制上院政をやれたとして、体力が漲ってなければ無理。
そもそも体力の限界だから引退したい、というのが理由だったし。 >>419
上皇の正式名称は太上天皇であって
律令に太上天皇の規定はある 律令には、天皇、太上天皇の権限を制約する規定はなかったが、天皇は、関白、大臣、征夷大将軍以下の百官を任命しているので、その権限により天皇大権行使に制約が加わるが(一種の制限君主)、上皇には百官の任命責任がないから、絶対君主として振る舞える。
公家諸法度は天皇について、「天子諸芸能之事、第一御学問也」として制約を加えたが上皇についての規定はないから、上皇は制外の地位となる。 律令では天皇と太上天皇はともに政治に当たることとされていたんだよ
どちらにも統治権があった
これは「大宝律令」が編纂された時期に
祖母の持統太上天皇と孫の文武天皇が共同統治していたことによる 懐かしい。このスレまだ残っていたのか。完走するまで10年がかりだな。 >>423
輸入元の中国の律令に太上皇の規定があったかどうか。
唐の時代に太宗李世民が父の高祖を幽閉して帝位についた例があるけどね。
このケースでは共同統治なんてとんでもない話。いかに大宝律令が日本式にアレンジされたか分かる。 待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))
https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=2200
https://bookmeter.com/books/436232
この本を古本屋で見つけて半分ほど読み終えた。
が、しばしば戻りながら・・・
大河ドラマ「平清盛」の前にこれを読んでたらなー・・・ >>426
30年以上前の本で昔から日本史板ではなじみの本だが
崇徳天皇の出生日を基準に璋子の生理周期を計算し
璋子は生理が来ると宮中へ入り鳥羽天皇とのセックスを拒否
生理が終わってセックス可能になると里へ帰り白河法皇とセックスをしていた
(よって鳥羽天皇の種ではない)と断言している
男が書いただけあって生理周期には一日の狂いもない
出産予定日には一日の狂いもないという前提なので
信憑性に疑問符 >>425
日本史板で「律令」といえば日本の律令
中国の律令の話も
江戸時代の公家諸法度の話も
全部一緒くたにしてぐちゃぐちゃに書きすぎ >>427
すいませんねー
しがない田舎もんなんで 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
ZU97I 生前譲位はむしろ継承が不安定な場合に起こり易い
まさに目の黒い内にって >>431
ただ80過ぎてらっしゃるから、既に長命ではないかと。 上皇職だの上皇后だの退位の礼だの官邸の事務屋のネーミングセンスは最悪だな。
院庁、皇太后、譲国の儀のままでいいのに。
アベのオレ流ネーミングだとしたら最悪すぎる。 平成院が長男さん次男さんより長生きしたら、次男さんの子どもが若くして帝位に就いて院政をお敷きあそばすかも!? 院庁にして、別当、判官代、院蔵人を置くべき。
上皇后は、皇太后位がお気に召さないとかなんとか。 >>436
上皇は明治以前にはあった呼び方だから変だとは思わないが
上皇后は日本の歴史上なかった呼び方
昭和天皇の皇后(良子皇后)も昭和天皇がなくなった後は
皇太后と呼ばれていたし皇太后のほうが馴染みが深いのに 歴史上も、天皇が太上天皇となった場合は、皇后は太上皇后と呼ばれていたのである。 >>441
夫である天皇が退位して上皇になったら夫が生きていてもその正妃は皇太后
新しい天皇の正妃が皇后(中宮)となり前の天皇の正妃の称号は皇太后とされた
美智子妃は未亡人になったら上皇后から皇太后に改称するのか?
そういうわけじゃないだろ >>442
聖武太上天皇-光明皇太后だしそんな呼び名ないよ
皇太后という言葉ができる前は
天皇の生母を皇太夫人と呼んだが >>438
あまり言うことではないが今3人ともお亡くなりになると摂政は誰? >>447
清盛は孫の安徳天皇を即位させて
院政を行う治天の君は後白河法皇ではなく娘婿の高倉上皇に変えただけ >>445
内親王というだけでは女院にはならない
天皇の后、生母、准母になった場合のみ >>450
明治時代に上皇、摂政、関白が否定された
天皇は死ぬまで在位、摂政関白はおかず天皇親政のみ
天皇は大日本帝国軍の総帥権を握る軍人であるため女帝は禁止
はこの時に決定した なぜ今上帝は皇太子を摂政にして国事を任せなかったのだろうか。昭和帝は今上帝を摂政にしていたはずだが >>452
それについては天ちゃんが勅語で言及しているので熟読すべし
「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。
また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。
しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,
生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,
これまでにも見られたように,社会が停滞し,
国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。
更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,
重い殯もがりの行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,
その後喪儀そうぎに関連する行事が,1年間続きます。
その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,
行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に
置かれざるを得ません。
こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,
胸に去来することもあります。」
http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/12 院政史上唯一院政を停止したのは後醍醐天皇のみだな。その代償として朝廷は二つに割れ、天下は大乱となった >>455
皇統は後醍醐のずっと前から持明院統と大覚寺統に分かれていたよ
後醍醐は院政を停止し皇統を自分のもとに統一した
しかし娘婿の光厳上皇が足利尊氏のもとへ走り錦の御旗を渡して
後醍醐追討令を発令
足利尊氏は光厳上皇の院政、光厳上皇の弟光明天皇を即位させて征夷大将軍となり
南北朝に分裂 皇統は分かれてたけど両統迭立で何とか凌いでただろ。南北朝に分裂したのは後醍醐帝の時だ。院政廃止、天皇親政はブレなかった 停止も何も後醍醐天皇の時には院政を行うべき上皇がいなかったわけで。
んで後二条天皇の皇太子・邦良親王にいずれ皇位を譲るはずだったのを
自系統に固定させてしまったため、南朝自体がのちに分裂の危機に。 >>457
皇統が2つに分かれることを承認した北条時宗に責任がある
後醍醐は自分のほうが正統だといっただけ
同様に光厳が正統なのは自分だと言ったから南北朝に分断 >>459
後醍醐天皇が一方的に後宇多の権限を奪って院政停止させたわけではない
後宇多はこの前年に直系曾孫(二条天皇の皇孫王)が誕生したことに満足し
大覚寺統の跡取り問題は解消したことを機に引退した
すでに出家して大覚寺に籠っていたし >>460
承認したって、治天の君の遺言通りにどうぞってだけだろ。時宗が分断したようなミスリードするなよ。元寇の対応で忙殺されてたんだから 時宗としては蒙古襲来に集中したいので、
皇統を分断させて内紛起こさせて、
朝廷が団結して鎌倉に介入する事態を防ぎたかったのだろう 朝廷のほうから皇位継承どうしたらいいか幕府に尋ねる始末
原因をつくったのは後嵯峨だからね >>462
違うぞ
治天の君であった後嵯峨上皇が死んだあとで
後深草上皇と亀山上皇の2人の上皇のどちらが治天の君になるかをもめた
後嵯峨上皇の后・大宮院が後嵯峨上皇の希望は亀山上皇でした
と幕府に言ったので治天の君の希望通り亀山治天で行くかと思いきや
鎌倉申次・西園寺実兼は亀山に入内させた自分の妹と亀山の仲が悪かったので
亀山をさっさと辞めさせたく後深草の皇子と自分の娘を婚約させて
時宗にこっちを正統にしてくれと言った
じゃあ、両方が10年ずつ治天の君やればいいじゃんということにしたのは北条時宗
後嵯峨上皇が後深草と亀山に10年ずつ治天の君をやれと遺言して死んで
時宗が治天の君の言う通りにどうぞと承認を与えたわけじゃない >>464
承久の乱以降、天皇の即位には鎌倉幕府の承認が必要だった
後嵯峨天皇自身、23歳まで元服もせず童形で間もなく出家といわれていたのに
鎌倉幕府の指名で思いがけず即位した >>461
経過はともかく、後宇多が隠居して後醍醐が親政を始めたのは事実じゃん
院政は停止してる、これは厳然とした事実 後醍醐帝の時は院政をやる上皇がいなかったという理屈は通用しない
後醍醐は延喜・天暦の御代に還り天皇親政に戻すべしと宣言している >>467
高齢や出家により自主的に院政をやめた上皇は他にいくらでもいるし
後醍醐が院政を止めさせたというのは間違い >>468
天皇親政って、摂政・関白を置かないことだよ
そもそも醍醐・村上天皇の頃にはまだ院政は行われていない
政治は天皇や上皇ではなく摂政・関白が行うという時代 >>465
何度もお伺いたてるからじゃあこうしたらってニュアンスじゃないの?あと西園寺卿の政略 >>471
当時は鎌倉幕府に天皇の任命権があり
後嵯峨上皇も後のことは幕府に任せるとして死んだ
北条時宗がどちら一方の皇統を指名すればそうなっていた
両統迭立を命じたのは幕府 >当時は鎌倉幕府に天皇の任命権があり
な、なんだって?? >>473
承久の乱以降の天皇は幕府が決めていたんだが >>477
>>473
> 承久の乱以降の天皇は幕府が決めていたんだが
形式上は任命権はないが、実質的には任命権を持っているというやつだな。
「任命」ではなく「推挙」とか「奉じる」という建前になるんだろうが。 現代の総理大臣だって国会が指名してるけど、任命はしていない。
任命するのは天皇だ。 憲法よく読め
>>479が正しい
ただ天皇は国政に関する権能を有さない
と憲法で決められているので、
天皇の首相任命は、国会の首相指名に従うのみとなる 江戸時代も、上皇は公家諸法度の対象外。だから幕府は、院政を嫌がった。 何故、江戸幕府は禁中並公家諸法度で上皇法皇をフリーにしておいたのかね? 憲法に上皇の規定はないので、上皇は憲法から自由な存在となる
出家して法皇となれば、さらに俗世の習慣からも自由になり、
仏教界の上にも立つ御存在となられる >>484
うっかり忘れてたんだろうw
同法度を制定した時には上皇や法皇はいなかった 江戸幕府は最初は朝廷を法度によって雁字搦めにしてた割に
いつの間にか緩々になっていったな
天皇が勝手に譲位とか鎌倉や室町政権時代はなかったこと
まあ政権が安定し過ぎでわざわざ縛り付ける必要もなかったからではあるが >>490
それでも霊元天皇(いまのところ最後の法皇)の奔放ぶりには困ったようだが。 >>469
後宇多個人としてはもう後醍醐と争う気力もなかったんじゃないかな
どっちにしても自分の血統だし恒明に渡らなければそれでいいやってくらいに 後醍醐が院政を停めたのは史実
もうガタガタ反論するなよ、天皇親政なんだからな こないだ出た岩波新書の後醍醐本によると後宇多の院政停止には吉田定房から西園寺家を通して幕府の介入を取り付けた点も大きかった模様
後醍醐だって利用できる時は大いに幕府を利用していた印象 さんざん利用したのに討幕計画たててたから吉田定房卿は幕府に密告したのか 天皇在位中は格式に縛られるが、譲位すれば近臣も自分の気に入った人を
実力本位で集められる。院政とは優れた制度だ。
今上が譲位された後、院にどのような近臣をお集めになるのかに興味がある。 ホリエモン、田母神、羽生結弦、山本太郎あたりが平成院近臣になると面白い世になる >>498
上皇は独自の荘園を持ち私的な経済基盤があったから
好きな近臣を雇い入れることができたが
今は国民主権で平成上皇の近臣は全額国民の税金で雇われるわけだから
誰でも好きな者を集めることができるわけではない そういう環境の違いを知ってか知らずか(たぶん知らないのだろうけどw)
院政をやってほしいという幻〜を見ているんだろうな。
ちょっとでも考えてみりゃわかることだけど、体力的にきついからと退位を望んでるのだし
治天の君になったところでやるべき院領統治など任務は何も無い。 平成院政が始まったら、篤志家の皆さんは寄進して、長講堂領を復活するところから
初めてほしい。院政には独立した経済力が必要となる。
会計士か税理士の資格を持つ忠節の士を長講堂領別当に任じて、院政を輔弼しよう。
西田昌司先生あたりが適任ではないか? 表面的な院政停止後の後宇多も一番肝心な荘園の管理は最後までやってたんだよな >>456
後醍醐追討令ってw新田義貞追討令だぞw 無理して倒幕しなくても、そのうち幕府は自滅したと思うんだが。 ●●士なんて武士階級、士族オンリーだからだめだよ。 華族や、僧侶階級じゃないと話にならないわけ。
最高神官と 最高法官どちら?みたいな。 近代以前に家格が半家とか地下家で終わった公家や官人は、平成院政で近臣として
召されることで、家格を上げるチャンスになるかも知れない。
久しぶりの院政に期待したい。 そもそも、代表権と実権が同一人物にあると何が問題になるのやら。トップが実権のないお飾りなんて世界では通用しないというのに。 おまえのレス おもろない
自分ではおもろいと思ってるんやろうけど >>522
そもそも日本国憲法に上皇に関する定めはないから、上皇は日本国憲法を
超越した存在となり得る。
また、憲法に反する「詔勅」を排除する定めはあるが、「院宣」を排除する
定めもない。
平成院政の開始は、憲法を乗り越えて、戦後体制を終焉させる端緒となる。 >>524
そんなことしてる意思も体力も寿命も無し >>524
憲法に院宣の規定そのものがないのだから
院宣を出されても国民に実行義務がない
自主的に院宣に従うのはお前ぐらい 近代以前、律令には上皇に関する規定、院宣に関する規定はなかった。
だが、実際には院宣はその効果を発揮していた事実がある。
院宣に従う人もいれば、従わない人もいた。
だから、今の世の中において、院宣が出されたとしても、一定の効果があるかも
知れない。 >>528
法的には全く効力の無い筈の「おことば」で退位規定が一気に出来上がったけどな。 >>532
天皇の退位に関する条項は皇室典範の変更のみで対応できる
日本国憲法に何の影響もないし
上皇は日本国憲法を超越した存在にはなりえない 禁裏様と上皇様が並んでる姿を見たのは
後花園上皇と後土御門天皇が最後かな
あくまで禁裏様が一段高いところにいる >>534
> あくまで禁裏様が一段高いところにいる
やっぱりそうなのか >>533
まあそうなんだけど「上皇は天皇じゃねえ! これからは国政のこと,俺の言いたいこと全部喋ってやるぜ」なんて上皇が現れたらどうなるんだろうね。
>>536
だから国民に上皇の命令に従う義務がない
日本国憲法で国民主権が明記されている 従う義務はないが従う自由はある
そして上皇の政治的発言や行動を制約する規定が無いので「院宣」に基づいた決定を行う政党や内閣が現れても止めることはできない >>538
お前は平成上皇の院宣に従えばいいよw
従うも従わないも国民の自由 法的な話と社会学的な話は別でな。
たとえば国会議員は憲法上は全国民の代表だが,実際には地域代表としての役割を多分に期待されてる。
別に薄汚い利権の話でなくても,地域振興や災害復旧のような正当な利益に関しても国会議員は大きな役割を果たす。
それと同じで,上皇が国政に関する見解や希望を述べて,国政に全く反映しないかといえば,多分かなり反映する。 おまえらみたいな名もなきクズにいちいち院宣が下るわけないだろw >>540
それはお前が国会議員になってから
俺は平成上皇の意見に賛同する、と言おうな >>546
信長や秀吉は独裁者だったわけだが。
足利義満や足利義教もそうだろ。 天皇は憲法の規定や宮中祭祀、国事行為などに束縛される。
譲位して上皇になれば、それらの束縛から自由になり、近臣も自由にお選びに
なることができる。
治天の君として主上を超えるお力を発揮されるのではないか。 >>548
秀吉くらいじゃないのか独裁者は
その秀吉にしても外様大名には気を使いまくってるし
あえて言うなら徳川家斉くらいかな日本の独裁者は
まああまり政治に興味なかったみたいだから
そこまで独裁だったわけでもないが 天台座主の方がいい仕事じゃないの?関白摂政くらいより。増上寺別当とか。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
CLQ >>550
いくら自由な立場になっても近臣を選ぶため、自らの組織を運営するため、
政府を圧倒する発言権を保持するための財力がなければどうにもならぬ。
退位後の院政どうのこうのという議論で多くの人に欠落している視点、
それが上皇としての財力。
国家財政に匹敵する財力を与えられるのか? >>551
徳川家斉は独裁者じゃないよ
江戸幕府は家康の子孫による血統主義のため
将軍が幼児でも馬鹿でも将軍が務まるように官僚政治になっている
将軍といえども独裁はできない
というか家斉は歴代将軍の中でも政治にやる気なかったほう
吉宗とかは独裁できない制度の中でも老中たちと協力して改革しようとしたからな 上皇后だの上皇職だの皇嗣だのアベの俺流なのか官邸の事務屋が考えたのか知らんが、
平成上皇関連のネーミングにはやっぱり違和感あるな。
皇太后、院庁、皇太弟でいいのにな。 退位の礼というのも安直で味も素っ気もない
譲国の儀でいいのに 国の象徴であり主権者たる国民の統合の象徴なので問題なし
象徴している国を譲ると解釈すればよい >>567
歴史的に退位の礼も譲国の儀も行われたことはない
即位する側は即位の礼があるが
退位する側は三種の神器を引き渡すだけだからな
そもそもやる必要があるのか 践祚の礼が「退位の礼」なるものを兼ねるものだと思うが >>574
践祚って三種の神器が次の天皇のところへ運ばれるだけ
そもそも前の天皇が亡くなっていることも多いため
前の天皇が践祚の礼なるものを行うことはない >>573
その2冊、今日買ってきた。
どっち先に読むのがいいかな? 倉山さんは嫌いじゃないが
歴史に口挟むのはやめてもらいたい
史料読めないくせにいちゃもんつける井沢二世やんけ
戦後政治の話だけしてたらいいよ >>581
逆のパターンもあるね。
名前忘れたけど、戦国時代の室町幕府の本で、ケネス・ウォルツとか国際関係論の話をちょいちょい挟む人。
しかもその国際関係論の理解が、20年前の議論だったりする。 >>573 >>577
その2冊、2回ずつ読み終えた。
一言でいうと、倉山本は上皇史、本郷本は上皇論。
なるほど!という記載が多いのは本郷本。 妄想も大概にせいよ。
体力の限界を理由に引退するんだから、あり得ない話をするな。 平成上皇になって今の男系3人が急死したら、女系をたてて院政を? 病院 も院の一つぐらいのぽじょションだから 院政 上皇 の時代に陰りがない事を望みます。 額田王や中大兄王の先師の時代から歴史は進んでいません。後退をとっています。 新院が治天の君として、どのような院政をされるか、今から楽しみだ
院近臣にどんな人を選ばれるかがカギになると思う 院庁に文官を置くのは当然だが、北面の武士を配備するのも大切だな
忠勇無双の烈士は郎党を率いて北面に馳せ参じてほしい 田母神さんか一色さんを検非違使に任命して、北面の武士を統括させるべきだな 独自の税を創設。
憲法外の制度なので国会の議決は不要。 荘園を持っておけばいいんじゃないの?
上皇の直轄領に住める住民はうれしいだろうし、ふるさと納税も集中するだろう
長講堂領を復活するところから始めてほしい 院政期以前の上皇となればマンガなどで最近注目の平成上皇
相当な気分屋だったらしく悪女とされる薬子もむしろ振り回せた方だったりして >>598
ふるさと納税は、上皇の所領にしたいな
返礼品として、上皇から下賜品が届くとうれしい 荘園あっての院政
白河院の時代はまだ本格的ではなかったようだが >>604
堀河天皇はいい人、鳥羽天皇は幼児
自然、白河院に権力が集中
院政の話で欠落しがちなのが荘園の件。
後三條天皇は藤原摂関家の外戚がいなかったから権力を取り戻したと言われるが
それならその後の天皇家は再び摂関家の外戚がいるのになぜ権力の中核にいられたのか。 >>3
足利義満が南北朝を合体させた後でも、まだ蒸し返されてたからな 平成上皇が、私兵集団を雇ったら要注意だ
院政が始まる恐れがある >>465
両統迭立ってのは、「後深草と亀山のどっちが天皇になるか」でモメたんじゃなくて、「どっちが院政をやるか」でモメたんだな? 後嵯峨上皇には、後深草天皇の他にも皇子がいました。
その皇子は、後深草の弟に当たります。
上皇は、兄の後深草よりも弟の皇子を可愛がっていました。
そして、上皇は、弟の皇子があまりにも可愛かったため、後深草を17歳で退位させ、11歳の弟の皇子を帝位につけます。
これが、亀山天皇です。
兄の後深草は、おとなしい性格だったため、父の強引なやり方に反対することができず、言われるがまま弟に譲位したのでした。
その後、後嵯峨は、次の天皇になる皇太子を後深草の皇子ではなく、亀山の皇子にすることを決めました。
さすがにおとなしい後深草もこれには怒ったそうです。 後深草上皇が一番怒ったのは、亀山上皇が八條院領を確保したからじゃないの?
これで院領荘園が統合されると思ったのが水の泡に・・・ 後には亀山も晩年の末っ子に執着して大覚寺統を混乱させる 荘園を2つに分けたから、君主が2人になったわけだな
一種の領邦国家だ 院政といっても病院もその一つだぐらいに束ねてほしいけど。平成天皇美智子。 いや、いや、 皇室と上皇の関係?
株式会社の倫理でもなきゃ 会長残したら社長って、弱いだろ?
日本の場合? 平成以降なら、東亜に利用されないなら、無関係ではないのかな? >>614
白河・鳥羽・八条院と、後白河上皇が別途かき集めたのと初めから2系統あったのだが 白河と後白河という、2人の強力な実力天皇が、荘園に2つの系統を作ってしまったんだな 実力天皇は、後三條天皇のあとは後醍醐天皇になってしまうんだな 白河上皇−鳥羽上皇−後白河上皇の三代、約100年にわたって上皇が政治の実権を握っていた時期を「院政期」と呼んでいます。
この院政期には、武家が力をたくわえて都では保元の乱・平治の乱が起こり、やがて平家一門が武家政治への扉を開いてゆきます。
そのいきさつは、大河ドラマ『平清盛』で描かれたとおりですね 狭義の「院政期」とされるのは、白河−鳥羽−後白河の三代のみ 荘園整理を大々的に行ったのが、後三条天皇(在位1068〜72)という人でした。
後三条天皇の荘園整理令は、かなりの成果をあげましたが、わずか4年で息子に位を譲りました。 こうして、1072年(延久4)に即位したのが白河天皇でした。
白河天皇は、国庫収入が減って天皇家の力が衰えるという問題に、父の後三条とは間逆の解決策で挑みました。
天皇家が私有財産をもつための、法の抜け穴を見つけたのです。
天皇を引退して上皇になってしまえば、政治的にはフリーです。
そのフリーの立場を利用して、利権をかき集めることにしました。
方法はいくつかありますが、一番手っとり早いのは、寺を建てることです。
引退して政治的にフリーとなった上皇が、個人の信心で寺を建てるのは自由。
その寺に荘園を持たせればよいわけです。
早い話、宗教法人を隠れ蓑にした蓄財のようなものですね。
さらに、上皇が出家して法皇となれば、寺を建てても誰にも文句は言われません。 なんで天皇をさっさと引退しなきゃならんのかというと、「天皇は荘園を持てないから」というのが最大の理由
上皇になって寺を持ち、その寺に荘園を持たせるというのが院政システム >>621 >>622
その院政期には後鳥羽上皇も含まれるんじゃないの? >>627
んにゃ、1086年の院政開始から、1185年の平家滅亡まで
後鳥羽は入ってない 後鳥羽上皇の時代は、「院政期」じゃなくて「鎌倉時代」なんじゃないかな?
後鳥羽はその3人をも凌ぐ強烈な個性だけど、それとこれとは別問題 院政3人衆の中でも、印象が薄いのが鳥羽上皇
第72代白河天皇(白河上皇・白河法皇)から始まったこの系統は、次に第74代鳥羽上皇へと引き継がれました。
その前の第73代堀河天皇はお体が弱く、29才で在位中に崩御しており、一代飛んで院政が継承されたのです。 白河上皇はひ孫である崇徳天皇の即位を異様に急がせました。
崇徳天皇が4歳のとき、鳥羽天皇から譲位させてしまったのです。
息子である鳥羽上皇は、絶大な権力を持っていた白河法皇に逆らいきれません。
問題は、白河法皇が崩御してから表面化します。
この時点で崇徳天皇はまだ10歳なので、実父である鳥羽上皇が院政を引き継ぎました。
やっと好きに政治へ取り組めるようになった鳥羽上皇は、白河法皇の方針を否定するような動きを見せ始めます。
そして近衛天皇に皇位を継がせるため、鳥羽上皇は崇徳天皇を強引に譲位させています。
このとき、近衛天皇は2歳。とんでもない年齢で即位しておりますね。 そして近衛天皇が現職のまま16歳の若さで崩御すると、今度はその異母兄にあたる雅仁親王(後白河天皇)を皇位につけさせます。
一方、近衛天皇の前の天皇だった崇徳上皇は、我が子である重仁親王の立太子を夢見ていました。
病によって保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇の不満が噴出。
それが保元の乱の要因の一つとなり、歴史に大きな動きをもたらすのです。 院政期の百年は、日本史上でも屈指の激動の時代だった
白河−鳥羽−後白河の3大実力上皇のカゲに隠れた崇徳上皇の鬱憤がバクハツ
保元の乱こそ、武士の世の始まり この鳥羽−崇徳の争いこそ、そもそもの混乱原因と言えるだろう >>632
>崇徳上皇は、我が子である重仁親王の立太子を夢見ていました。
ちょっと違う。
重仁親王を天皇にして院政を敷き院領荘園主となることを夢見ていたのだ。 母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していく。
だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。
平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。
後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 もしも後三条天皇が早死にしなかったら、院政は白河ではなく、後三条から始まっていただろう 平成を終えると院政が久しぶりに始まるから楽しみだね。 昔は戦争しながら上皇になって政治してたみたいだよ。現代も上皇側に
誰かがついて、天皇側と対峙、騒げや飲めやでどんちゃん騒ぎもいいなあ。
病院程度より平成院のほうがよろしいように思いますが。 そもそも、院政ってのは、武士の力をバックにして貴族を抑える政治だからなあ 武士ももちろんだが、下級の公家も文官として院庁に出仕した
今回、平成院政が始まれば、官庁で出世できなくて早期退官した元官僚や、落選した
元議員などが出仕すればいいと思う
警察、自衛隊OBや元警備員が出仕して北面の武士になればいい 「俺たちゃ北面の武士だ! 怪しい奴め! 上皇様になんの用だ!?」
って、いかにも少年マンガに出てきそうな状況だな >>642
院政ってのは、院領荘園の経営に付随する政治 天皇は荘園を持てない
それが、譲位して上皇になる最大の理由 平安初期の嵯峨上皇は、譲位してからも絶大な権力を振るったが、院政とは言われない >>644
んで何の仕事やるの?
誰が給料出すの?
原資は?
法的根拠は?
どういう法人格? >>652
文書の発給とか院庁の警護とか、文官も武士もやることは多くあるよ
上皇の所領から上がる税収が財源となる
院政は律令にも憲法にも規定がないから、法的根拠がなくてもできるところがポイントだ
院宣は実定法以上に権威を持つ 院宣は従わない人もいて、反逆者に返り討ちにあうこともある
だが、院宣の威力が勝れば、政府の法令を上回ることもある >652は>644のいう「平成院政」に対しての疑問なのだが 左翼や朝鮮人は、平成院が安倍首相と対立していると信じている
彼らは、「憲法を変えるな」というような院宣が発せられることを期待している
これは冗談ではなく、真顔でそう言い出す奴がよくいる 天皇が「憲法を変えるな」と発言したら憲法違反だが、上皇なら違反とは言えまい
政治の実権はなくても、精神的な権威がある
左翼は勢いづき、右翼は意気消沈するだろう 左翼には、「君側の奸・アベを討て」という気運が盛り上がってくる
最近はちょっと下火になったが、ひところは左翼と朝鮮人がそれを大合唱しはじめて、危ない雰囲気になりかけた 最近の左翼は、「移民を入れるな」、「ロシアから北方領土を取り返せ」、「アベの弱腰外交」と騒がしい
もう、左翼なのか右翼なのか、わからなくなってきた わりとまじで讃岐典侍日記の藤原長子が堀河天皇亡き後、鳥羽天皇にも仕えたのって、白河上皇が彼女のこと狙ってたんだと思う。
孫の奥さんに手だす人なら、息子の愛妾にも目つけるでしょ。後年藤原長子が狂乱して白河上皇が参内を取りやめさせたのも闇深い。 孫の奥さんに手出すってより愛人を孫の嫁にしたんだよな。
その後も関係続いてるから同じことだけど。 孫と孫の嫁(愛人)と自分で5回熊野旅行にも行ってる。 >夫妻のことにおきては、この世のみならぬことなれば、力なし。
それも、髪をつけて好色の家に名を残しなどせむ事は、返す返す憂かるべし。
ただ世を捨てて後は、いかなるわざも苦しからぬ事なり”
後深草院二条の父の遺言だが、当時の公家社会の価値観では
出家後の方が好き勝手できる認識だったらしい。 補足 当時→鎌倉院政期当時
源氏なんかだと出家後は行い澄ましてみたいな感じだけどな。
やっぱり白河以降かな、出家してしまえば家名とは関係ない
家名に傷がつかないなら何でもあり的な価値観になって行ったのは。 後鳥羽もアレだけど、乱の時点では出家してなかったな。 >承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、
七月に出家して隠岐に配流された。
負けてすぐ保身で剃髪したがそれで済まずに配流だと思ってた。
配流決まったから都にいるうちに剃髪したのか。 仏教の影響が強かったから病気が重くなって出家して崩御までの
わずかな期間法皇という人は多いけど、土御門もそうだったんだな。
>寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。
「法皇になった天皇」なんてヒットしないからそれぞれググってみなきゃ分からんな。 色々と問題はあったけど、元寇の時はちゃんと祈ってくれた(たぶん)じゃないか!
亀山院 天皇たるもの、子孫を残すことが最大の務め
女好きは、仕事熱心と同義語 競馬の世界で良い種牡馬とされるサンデーサイレンスやディープインパクトは、種付けする日は朝から興奮してブヒーッと騒いで暴れるほどの絶倫 表に出せない子ども量産しても話にならん。
出家させたらその系統は父の後嵯峨みたいなのはレアケースで
跡取りになれないしね。 荘園からの年貢を戦乱の京都に運べなくなっては院政も何もあったもんじゃない その時期は上皇自体いないよね。
天皇の大嘗祭や葬式さえろくにでできず、貧乏に耐えて数十年在位
→崩御で新帝即位が繰り返された時代。
詳しくは「一番可哀想な天皇は誰?」など天皇スレを参照。 後奈良天皇は、御所の門が壊れても、おカネがなくて修繕できなかった
しかし、次の正親町天皇になると、織田信長と水面下で暗闘するほどの力を持つようになる 後土御門天皇のとき、応仁の乱が起きる
後柏原天皇のとき、戦国時代に突入
後土御門から後奈良までの3代が、天皇の歴史における大暗黒時代 織田信長は正親町天皇をミコシとして担ぎ上げ、豊臣秀吉は後陽成天皇を担いだため、皇室は一時的に復興した
しかし、次の後水尾天皇になると、徳川家康との暗闘で再び封じ込まれていく 生前退位によって天皇陛下は「上皇陛下」に、皇后陛下は「上皇后陛下」になられる。
皇室典範によって天皇の終身在位が定められた後、日本で「上皇」が誕生するのは初。
江戸時代の光格天皇(1771-1840、院政期間1817-1840)以来約200年ぶりとなる。 江戸時代の光格上皇だって、京都で院政をやっている
平安時代の白河上皇や鳥羽上皇と違って、全国規模での権力が無かっただけだ 後鳥羽や後嵯峨は「院政時代」とは言われないだけだな
院政であることに変わりはない 後鳥羽も宮中政治で満足してればよかったのにな。
学問もできて相撲など武道も強く歌も上手。
ついつい俺なら討幕で親政もできちゃうと思ったんだろうな。 もともと二条が険悪な父後白河への牽制として立太子即位させたようなものだから。
母の出自も低いし。
中宮腹や平家一門の妃腹なら話が違っただろうけど>六条 >>697
まあ、後鳥羽の頃の鎌倉幕府は、まだホントに始まったばかりだったからな
当の鎌倉武士たち自身が、後鳥羽上皇の権威に圧倒され、戦う前から負けかけていたくらいだ >>697
まあ、後鳥羽の頃の鎌倉幕府は、まだホントに始まったばかりだったからな
当の鎌倉武士たち自身が、後鳥羽上皇の権威に圧倒され、戦う前から負けかけていたくらいだ 後鳥羽は、白河・後白河をも凌ぐ強烈な個性
時代の巡り合わせが悪かった どっちにしろろくでもない。
権威のみで実権取り上げた徳川幕府の政策は正しい。 >>702
後鳥羽は歴代天皇でも個人的能力はトップクラスじゃねえの?
時代と相手が悪かった
北条義時、北条政子、北条泰時、大江広元、後出しじゃんけんだけど喧嘩売ったらいかん連中w
この4人が昭和の政治家だったら日本は敗戦国になってねえだろなあw 承久の乱の敗因は後鳥羽院が院宣の効果を過信してた、という事に尽きるが、現在の我々は結果を知っているから後鳥羽院の戦略ミス・甘さを指摘できるのである。
ちょいと妄想であの時代にタイムスリップしてみて、自分が後鳥羽院だったら、と考えてみる。
関東の武士たちみんなが北条側に付いたのは果たして至極当然のことだったんだろうか?
武士の大半は後鳥羽院と北条を瀬踏みして、北条に賭けたということだろう。
可能性としては京方が勝利する可能性もあったと思う。 あれ上皇が先頭で軍を率いていたら降参することになってたんだっけ。
もちろんそんなことはなく、院の御所に逃げてきた軍を門前払いするという
いかにもダメ公家典型のお粗末さなんだが。
少しは頼長を見習ってたら違ったんだろうな。
ほんと今もそうだが責任取ることを知らない奴に権力持たせちゃダメだよ。 仮に後鳥羽上皇が自ら出馬してきても、
「恐れ多くも上皇の御名を名乗る不届き者め!!討ち取れ!!!」と泰時が鎌倉軍に号令して終わりだよ 大内惟信とか藤原秀康とかそこそこ大物が後鳥羽院側に着いたけど、広がりが持てないのが残念だったな。大内惟義が生きていたら、全く違う展開になったかも知れない。 精神的な権威のパワーってのは大きいからな。
中世人にとってのそれは、現代人の想像を超えるものがある。
関東の武士にとって天皇は、遥か彼方におわします神聖なお方。
戦う前からヒレ伏してしまっても不思議はない。 神聖ローマ帝国の皇帝も、ローマ教皇に破門されたら、圧倒的な軍事力を持っているにもかかわらず敗れることがよくあった 後鳥羽って長講堂領は持ってたろうけど八条院領も持ってたの? 八条院→春華門院昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→
昭慶門院憙子内親王→後醍醐天皇
長講堂領
後白河→宣陽門院覲子内親王→後深草天皇(以降持明院統へ) >>706
>武士の大半は後鳥羽院と北条を瀬踏みして、北条に賭けたということだろう。
>可能性としては京方が勝利する可能性もあったと思う。
もちろんそうだよ
だから北条政子と大江広元は攻勢を主張した
それが大正解だった
箱根で迎え撃つとかのんきなことしてたら内側からの裏切り者が出かねないからね 所有権は娘息子だけど行使するのは親(治天の君)だからね。
愛人の白拍子に出身地の荘園ぽんとあげるぐらいだから
他にもいっぱいもってたんだろ。 治天の君は皇室の家長だからその気になったら皇室の誰かに所属の荘園取り上げて別の人間にあげるとかできるからね 大河ドラマの平清盛は藤原摂関家の兄弟争い、崇徳と後白河の兄弟争いが詳細に描かれて良かった。
視聴率は低かったが、個人的にはなかなか面白くて最後まで見た最後の大河ドラマ。
しかし、平忠盛(中井貴一)、白河法皇(伊東四朗)が退場してからは少しつまらなくなった気がする。
最初の2話しか出てないが、白河法皇のインパクトがすごかった。 >>719
平清盛は白河院のラスボス感が半端なかったな
その前の江というお花畑全開大河ドラマとの差 >>718
両統迭立になって、そうもいかなくなっちゃったってことだな >>720
死して尚この世を支配する白河院だったな
特に鳥羽院にとっては >>717-718
大宮院の言で治天になった亀山はなぜ後深草の長講堂領を没収して大覚寺統のものにしなかったのだろう。後嵯峨の処置を尊重したの?それとも幕府の意向が強かった?はたまた西園寺の陰謀? 後深草の抵抗と西園寺実兼の折衝の結果。
>時の関東申次で後深草上皇寄りの西園寺実兼が執権北条時宗と折衝し、
後深草上皇の皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。
その後、弘安3年(1280年)頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と
皇太子擁立の動きが強まり、ついに同10年(1287年)10月、伏見天皇即位に伴い
院政を開始した。また正応2年(1289年)10月には第六皇子・久明親王を
鎌倉将軍として下向させ、その後しばらく持明院統に有利な体勢が続いた。 亀山院の系統に王家領荘園群を統一しても子孫で分裂しそうだなw >>723
治天の君は、臣下である摂関家領や寺社領なら没収しようとおもえば出来ないことは無いけど、
同じ階級である皇族・王家領の没収は出来ない。 Q.北面の武士、西面の武士の「北」、「西」って何を意味してるの?
A.北面の武士、西面の武士ともそれぞれ院御所の北側、西側に詰め所があったことが名前の由来となったのです。 北面の武士とは、院御所の北面に詰め、上皇の身辺を警備した武士のことを言います。
なぜ「北面の武士」と呼ばれるのかというと、北面の武士の本拠地が上皇の住まいの北側に位置していたからです。
北面の武士は11世紀末に白河法皇が院の直轄軍として、寺社の強訴に対応するために創設したものです。 西面の武士とは鎌倉時代に院御所の西面に詰め、上皇の身辺警護を行った武士です。
北面の武士の名前の由来同様、こちらも院御所の西側に本拠地があったことから「西面の武士」と呼ばれるようになりました。
西面の武士は、1200年頃、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したものです まさか現代において院政が始まる様子を生でみられるとは感無量
とりあえず平成院の院宣第一号は安倍夫妻に見捨てられた籠池夫妻への恩赦令とみた 平成院の院御所はどこになるのかな?
まさかの京都だったら面白いんだが 現在の赤坂御所を仙洞御所としてお移りになるらしいね
敷地が広いから、北面の武士の詰所や番所も設営しやすい いずれは赤坂だけどとりあえずは高輪皇族邸(元高松宮邸)だよ。 >>738
院政にしても、江戸幕府の大御所・徳川家斉公にしても、「退位した元・君主のほうが偉い」という感覚は日本独特で、欧州でも中国でもそんなことはない。
どんな訳語を選ぼうとも、「上皇」の語感を外人に伝えるのは無理。 >>739
創業者のビルゲイツが社長を辞めても、会社の実権を握っているという状況なので、
同じく江戸幕府創業者の徳川家康の大御所政治は理解されやすい でもビルゲイツも家康も創業者だからなあ。
上皇はあくまで継承者の一人だから。
外国王室じゃ近年まで特殊な例は除いて生前退位自体なかったから
分からないだろうな。それも当然のように引退した父が権力ふるうなんて。 >>740
だから後醍醐って終身天皇で親政にこだわってたの?朱子学かぶれだったんだろ。 >>743
そう言われてるけどな
宋の皇帝専制を模範とし、征夷大将軍はもちろん、上皇や摂政関白を置くのも嫌がった 護良親王「あの…。」
建武新政では光厳院は太上天皇扱いじゃなかった? >>743
というより院政の方式では皇室全体どころか大覚寺統だけの家長にもなれないため 後伏見から花園、光厳から光明
兄から弟への院政行使って珍しいよね 後醍醐天皇が吉野に逃げたことで、大覚寺統=八条院領荘園は崩壊。
全国から京都への年貢輸送システムは確立してるけど、
吉野の山中への輸送システムなどありゃせんw そもそも、室町時代は乱世だから、地方に荘園があっても年貢をとるのが難しいよなあ 上皇行きは出世だよ。権力が取り上げられるぐらい女性に嫉妬をきたす。 今の時代でも摂関を置いたほうがいいと思う。
一般参賀・・・上皇
宮中祭祀・・・天皇陛下
国事行為・・・摂関
被災地への慰問・・・左大臣、右大臣、参議など公卿が分担
このようにすれば、ご公務をかなり軽減できる 総理大臣は右近衛大将・権大納言、閣僚は受領くらいの官位を授けるようにすればいいのでは?
一方、国事行為や外国使節の接遇は、左大臣・右大臣クラスの公卿や摂関がするようにすれば
権威を内外に示すこともできる >>752
>被災地への慰問・・・左大臣、右大臣、参議など公卿が分担
それじゃ現地は文句いうぞう それこそ慰問は上皇がされたら?
貞観地震で民を悼む詔を出された清和法皇は
譲位後被災地こそ行かれなかったが仏道修行で
畿内各地を巡幸されたし。
>元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。
翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。 南北朝時代でさえ、北朝では光厳上皇による院政がさっそく始まった むしろ、光明天皇の即位と、光厳上皇の院政開始をもって、北朝政権の発足と考えられている >>760
ほんの数年だったが、中国で院政が行われた例だな 崩御の3か月後に院政開始みたいね。
後伏見 1288年4月5日(弘安11年3月3日)- 1336年5月17日(延元元年4月6日)
院政開始は1336年8月とある。 光厳の実子をたてなかったのは幼かったからかな?兄から弟への院政って珍しいよね。後伏見花園の先例に倣ったのかな。 光明に正妃が入らず、少数いた子どもも皆出家してるところをみると
初めから中継ぎみたいな扱いだね。 両統迭立だと幼少の帝は立てられないみたいだね。何かあるとすぐ片方からいちゃもんつけられる >>766
幼少の帝だと、上皇の力が強くなりすぎるからか? 両統の時だけかな。後宇多も中継ぎとはいえ壮年の実子の後醍醐を就けて恒明系統にさへ皇位が渡らなければって感じだったのかな。帝にも自統を守る才覚が必要だったと 中国ではあまり院政は行われないんだね
共産国になってから、ケ小平が最も成功した院政の例だろうか >>769
乾隆帝の太上皇もそうだが、
あちらに院がいた例がないため、院政と言うのは不正確。
正しくは訓政。 欧州も中国もそうだな
君主というのは、現役でいてこそ君主
退位したら、ただの人 >>769
共産党の長老支配は、院政とは言えないな、さすがに 中国皇帝なのにオイラート遠征に乗り出した明の第8代正統帝は、あっさりと敗れて捕虜になり、帰ってこれなかった
しかたがないので、北京では、第9代景泰帝が即位した
しかし、その翌年、明とオイラートの間に、講和が成立し、元・正統帝は北京に送還されて、太上皇になったという例はある 上皇となった正統帝は、政治的影響力を失い、事実上の監禁状態に置かれた。
さらに景泰帝は、正統帝の子である朱見深を立太子することを約束しながら、後にそれを反故にしたことで不満を高めた。
景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に石亨や曹吉祥らによって政変が発生し、
于謙ら景泰帝派の重臣は粛清され、景泰帝も同年に崩御して正統帝は復辟した(天順帝) 院政は、平安四百年の天下泰平の世だから成り立つもの
大陸国家では、上皇と天皇のうち一方が消されて、権力が一元化されるまで闘争が続く 中国史上での太上皇としては、唐の高祖・李淵の例もあるな
・・・618年5月、隋の煬帝が殺されたことを知ると、李淵は、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。
その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。
これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために、高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。
しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。
高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。
その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。
対仏教政策
編集 中国だけでなく、大陸はだいたい、こんな感じだな
ムガール帝国のシャージャハーンみたいに、息子のクーデターで無理やり退位させられ、塔で幽閉されたとか、そういう感じ
逆に、明の正統太上皇みたいに、皇帝を打倒して復位したケースもある
このように、大陸では権力が一元化されるまで闘争が続くのが通常 玄宗皇帝も楊貴妃が殺されたあと何もかもやる気がなくなって
子供の粛宗が簒奪同然に即位したんで玉座から追い出されるように太上皇帝に。
当然実権は喪失、ぼぉーっとしたまま6年ほどで崩御。 鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになった。
時頼以後には執権職に就いた後にそれを一族の者に譲って出家し、実権を握り続けるケースが見られる。
このような執権職と得宗の関係は、同時代の朝廷における天皇と治天の君との関係に類似しているとも指摘されている。 天皇よりも、治天の君のほうが偉い
執権よりも、得宗のほうが偉い
結局のところ、日本では、公的な立場よりも家長が偉いってことだな 「将軍よりも源氏長者」って話もあるしなあ
源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、
自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。 得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも。
幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。
義時流、得宗家という呼び方もある。
史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。 >>781
自分でコピペしといてなんだけど、足利尊氏じゃなくて、北畠親房が源氏長者だったんだな? 源氏の起源は嵯峨帝なので源氏長者が嵯峨上皇と淳和上皇の所縁のものを管理する別当になるのは当然。公卿に登った義満までは清和源氏は最下級だから長者不適格。 京都の六波羅探題を亡ぼした足利尊氏だったが、仙台から北畠顕家軍が長征してきて、あっさりと敗れ、九州へと落ち延びた
北畠顕家は10代の少年で、大将といってもお飾りだったが、源氏長者の嫡男という権威は絶大で、足利尊氏の求心力を凌いでいた >>791
嵯峨源氏が上級で、清和源氏が下級だったのか
なんか、イメージと違うな? 清和源氏が台頭したころには、嵯峨源氏は中央では衰退して地方武士に過ぎなかった
ように思う
嵯峨源氏の渡辺(源)綱なども、清和源氏の棟梁・源満仲の郎等だった 源頼朝の時代においても、清和源氏の棟梁・源頼朝より村上源氏の土御門(源)通親
のほうが中央貴族としてはメジャーであったように思う
鎌倉時代は中央貴族の村上源氏が源氏長者で、足利義満のころから室町将軍も源氏長者
になるようになった
江戸時代になると、(自称)清和源氏の徳川将軍が源氏長者となった
最後の源氏長者は再び村上源氏の久我(源)建通になった なるほど
鎌倉の清和源氏より、京都の村上源氏の家格が上回っていたんだな
まあ仕方ない、清和源氏は武家だけど、村上源氏は公家だから >>791
院政も源氏も嵯峨天皇から始まったか
嵯峨天皇こそ、その後の日本史の原点だな 村上源氏が最上級というのは朝廷で一定の勢力があったから? >>800
村上源氏は中央貴族として残ったからだろう
幕末明治維新に至るまで一貫して中央貴族として、高い官位に就いていた
維新の元勲・岩倉具視も村上源氏だ
それに対して、清和源氏は初代の源経基の代ですでに地方官に過ぎなかった
清和源氏が村上源氏をしのぐ家格になったのは、室町将軍のころだろう
足利義満は摂関をもしのぐ権門になったから、村上源氏に代わって源氏長者になった >>800
一定の勢力というより、清華家として、摂関家に次ぐ家格を持つ公家だった
摂関家は藤原北家、清華家は村上源氏の系統
清和源氏は武家だから、もともと違う >>804
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 霞が関が官邸の家政機関になった今の時代はなんと呼ぶべきか 平成院政が始まったら、治天の君におかせられては、まず最初に眞子内親王殿下を
仙洞御所にお移しになった後、北面の武士を差し向けて、平成の道鏡とも称される
彼の逆賊をお召し取りになっていただきたい
御所の白洲に打ち据えて、院司が随身に命じて厳しく尋問せしめるであろう >>804
出家して法皇になれば、俗世だけでなく仏教界にも君臨することができるからね 南北朝時代って源氏長者や藤氏長者も南北に分裂してたの?一族の祭祀の時だけ京に集まるとかそんなことはないよね? どちらも分裂してないよね。はじめこそ日和ったけど一貫して北朝側。
天皇はどっちが正統だってやってるけど、それを支える公卿たちの
動きをみると北朝の方が正統のように思う。 >>812
源氏長者が北畠親房だったのは動かない
だからこそ、南朝側は北畠顕家を大将にして仙台からの長征を決行し、一時は足利尊氏を九州に追い落とすほどの求心力を持てた 北畠顕家は十代の公家の少年で、大将と言ってもお飾り
実質的に全軍を指揮していたのは結城宗広
「人間の生首が大好きで、日頃から人を捕まえては斬首していた」というほどの残虐な野人 コピペ
時は南北朝時代の幕開け時期―南朝(吉野朝)方の重臣・近衛経忠が、東国に拠点を置く藤原姓の小田・小山・結城氏らに呼び掛けて、
「藤氏一揆」、すなわち藤原氏連合を結成させ、小山朝郷を坂東管領とし、自ら藤氏を束ねる関白(&氏長者)として天下を掌握しよう―という動きを見せた。 後醍醐天皇が即位して以降、近衛経忠は関白&藤氏長者として重用されます。
近衛家の嫡流を争うライバルの近衛基嗣は、後醍醐天皇の皇女を妻としているのもかかわらず・・・。
建武の新政が成って以降も、経忠は再び左大臣&藤氏長者として重用され続けます。
その後、足利尊氏が入京し後醍醐天皇が吉野へ逃れた後に尊氏が擁した光明天皇が即位すると、経忠は関白に任じられます。
経忠は密かに京都を脱出し吉野へ走ります。激怒した光明天皇は経忠を解任し基嗣を関白にします。
南朝(吉野朝)での経忠は内覧・左大臣・藤氏長者を歴任し、後村上天皇の関白を務めています。
とは言っても、村上源氏系の北畠親房の政策面での対立などがあって、一度吉野を出て京都に舞い戻っています。
ところが、京都に舞い戻ったとしても、所領や権限は全て基嗣側が握っており、当たり前の事ですが、京都には経忠の安穏の地では無くなっていました。
そこで、才の溺れた経忠は「藤氏一揆」構想を画策したのかもしれません― >>819
まあ、そうだな
天皇家が南北朝に分かれて争ったのと平行するように、藤氏長者と源氏長者を巡る争いも激化した
これが情勢をさらに複雑化した それにしても、天皇よりも治天の君
将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
執権よりも得宗
現職よりも、そいつの属する氏の家長が偉いというのは日本独特 >>821
明治から昭和初期でもそうだな
次男三男が東京に出てどれだけ出世しようが
田舎に戻ってきたら当主の長男が一番偉い >>823
後村上は、圧倒的に優勢な北朝から京都を何度も奪回した英雄だぞ 後村上亡き後は長慶の院政?あんまり資料がないんだよね。長慶亡き後は後亀山の親政だろうけど 後付けの天皇っていったら、弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇だが、長慶天皇もそうなのか? >>827
1926年(大正15年)だって>認定
前の三人(明治三年)より50年も後。 大正生まれの祖父が持ってた「知識の宝庫」なる戦前発刊の本に
長慶天皇追尊の勅令があったっけな。
本は繰り返し読んでいるうちにボロボロになってどっかへ潜ってしまった。 長慶天皇登列の詔書
朕惟フニ、長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乘ノ記述審ナラサルモノアリ、
今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ、深究画Iセシメ、其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ、
乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス、茲ニ之ヲ宣示ス、
御名 御璽
攝政名
大正十五年十月二十一日
宮内大臣 一木喜コカ
内閣總理大臣 若槻禮次カ >譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、
元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で
高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、
翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に
史料の上から姿を消している。 >>821
将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
↑は違うんじゃねえの?
征夷大将軍と関白は令外官だし。長者の影響は受けないんじゃ。 >>833
源氏長者は公家で村上源氏、征夷大将軍は武家で清和源氏
単純な比較はできないが、家格としては村上源氏のほうが上だろう 藤原忠実は嫡男の忠通に関白・藤氏長者を譲った後に、その弟の頼長を寵愛して忠通と交代させようとした。
鳥羽法皇から、藤氏長者はともかく関白を勝手に交代させることは出来ないと命じられたため、
忠実・頼長は武士に命じて氏長者の印たる朱器台盤を剥奪して頼長が藤氏長者であることを宣言した。
これが保元の乱の一因となった。
保元の乱後、忠実・頼長父子は謀反人とされ、忠通が後白河天皇の宣旨をもって藤氏長者に任じられた。
これは天皇が藤氏長者の人事に干渉した最初のケースとみられる。
しかし、鎌倉時代に入って摂関家が分裂し、親子間での継承が行われなくなると、藤氏長者が天皇の宣旨によって任じられる地位になっていった。 朱器台盤
歴代天皇が継承する三種の神器、歴代東宮が継承する壺切御剣のように、代々の藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器がある。
長者の官の渡荘券 - 摂関家所領の証券
朱器 - 朱漆塗りの食器
台盤 - 朱器を乗せる机状の台
権衡 - 革製の秤
上記のうち朱器台盤を1つとして代わりに氏長者印を加えて4つとする場合がある。
また、勧学院の維持管理も藤氏長者の掌握するところであった。 wikiによると
>氏長者のなかでも特に権威と力を持っていたのが、藤氏長者と源氏長者である。
氏の解体とともに名目的地位と化したが、家系の高貴さを誇る称号として存続し、
前者は摂関家のなかで摂政・関白に任じた者が兼ね、
後者は鎌倉時代に村上源氏の独占となったあと、
やがて足利将軍家と村上源氏の久我家などが交代で務め、
江戸時代に徳川将軍家が独占して幕末に至った。 得宗専制(とくそうせんせい)は、鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期を指す。
鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治に続く第3の時期にあたる。 「執権より得宗」というのも、鎌倉時代でも終わり頃のことだな
将軍→執権→得宗と、最高権力者が変遷した その得宗専制も、最高権力者は得宗家当主個人ではなく、得宗家執事である内管領長崎氏へ移っていった >>841
てことは、将軍→執権→得宗→内官領
さらに、京都には天皇・上皇・摂政関白がいる
なんて、ややこしい国だ 長崎円喜・高資父子について少々。NHK大河ドラマ「太平記」では、フランキー堺さんが円喜を、西岡徳馬さんが高資を演じて、片岡鶴太郎・高時と3人、なかなかの好演じゃった。
長崎円喜は北条高時の乳母夫。
得宗家執事(内管領)として高時の父・貞時のおぼえめでたく、安達時顕とともに、高時の将来やら、幕府の行く末やらを託された男じゃ。
父・貞時の死後、9歳で家督をついだワシに代わって政務をとりしきり、ワシが14歳で執権につくと、円喜は内管領の職を息子の高資に譲り、政務を後見する。 「円喜」というのは出家後の法名なので、長崎円喜は出家して役職を退いた後、
家督を高資に譲って後見人になったということ
つまり、後見人の連鎖がさらにひとつ増えたことになる >>846
てことは、将軍→執権→得宗→内管領→円喜
もう意味不明じゃないか 当時の人々も、長崎円喜を見て、「なんで、このオッサンが日本の最高権力者なんだろな?」とさぞかし不思議だったことだろう
野中広務が最高権力者だったときも、「なぜアイツが?」と自民党の議員ですら首をひねってたが、そういうものか よほど制度がしっかりしてない限り、誰が実権を持つかは、役職より政権内部の人間関係で決まることになるという好例
現代の日本でさえ、ここ数十年で実力首相といったら小泉純一郎と安倍晋三、あとは中曽根康弘と橋本龍太郎くらいか 中国だと、遊蕩三昧の無能皇帝ですら、その気になれば大臣を罷免できるほど、明代には皇帝専制が確立された そもそも、当時は「将軍」ではなく、「鎌倉殿」とか「室町殿」と呼ばれてた
全国のヤクザ組織の親分みたいなもんだな 将軍職が機能するからこそ成熟すると地位を追われて幼児に挿げ替えられてたんじゃないの 専制君主の善政というものは、人間の政治意識にとってもっとも甘美な麻薬ではないだろうか、と、ヤンは思う。
参加もせず、発言もせず、思考することすらなく、政治が正しく運営され、人々が平和と繁栄を楽しめるとすれば、誰がめんどうな政治に参加するだろう。
しかし、なぜ人々はそこで想像力をはたらかせないのか。人々が政治をめんどうくさがるとすれば、専制君主もそうなのだ。
彼が政治にあき、無制限の権力を、エゴイズムを満足させるために濫用しはじめたらどうなるか。権力は制限され、批判され、監視されるべきである。
ゆえに専制政治より民主政治のほうが本質的に正しいのだ。 ・・・・・・ ナレーション 平安時代からは、幼少の頃に天皇を何年かやって、退位してから権力を握るというパターンが確立された
天智天皇だけは、この逆だった
若い頃から中大兄皇子として最高権力者だったが、天皇の座についたのは、なぜか晩年の3年から4年程度だけだった 鎌倉幕府の場合は、「得宗と執権」「長崎円喜と高資」の関係は院政の仕組みだが、
「将軍と執権」「得宗家と内管領」の関係は、主君に代わって臣下が実権を持つ
仕組みで摂関政治に似ている。
鎌倉幕府は、朝廷で起こった摂関政治と院政が入り組みながら権力構造が形成された
ように見えて興味深い。 平安時代の摂関政治は、摂政や関白になった者が藤氏長者を兼ねていたので、院政方式の分離は起きてない
江戸時代には、大御所・徳川家斉が、将軍職を退いてからも権勢を振るった 足利義満も、将軍職を義持に譲ってからも権力者だった
ただし、義満の場合は、その後で太政大臣に昇格し、さらに日本国王にも就任した 消費税増税停止の院宣を発してくれ
与党の強行採決で可決した悪法は、院宣で法律としての公布を停止すべき
院宣に逆らう者は朝敵とし、一切の叙勲を認めない
天皇は国政に関する権能を有さないと憲法で規定されているが、
上皇については明記されていないのだから 【新元号に、分合、が適すわけ】 フランス、失明22人、手の喪失5人、頭部p重傷者228人、天皇を打倒せよ
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1553910895/l50
君が代、日章旗、元号、の強制やめろ! テレビやメディアには本人は登場しないが皇国に生まれて皇民としての忠誠が
ちかえないのは不幸で、院政を体験できない国民は落ちこぼれてしまっている。
法皇まで続くのにな。 >>859
鎌倉幕府の場合は、源実朝が後鳥羽院の皇子を迎えた後、将軍職を譲り、自分は
右大臣の立場で後見人となる予定だった。
実現すれば、一種の院政になったものと思われる。
(実現する前に、公暁の凶刃に倒れてしまった) 世界の後鳥羽(世界に唯一認められてる世界ランキングにはいっている院) >>868
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>867
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>866
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>865
それが実現したとしても、引き続き「鎌倉殿」と呼ばれるのは源実朝だっただろうな 「室町殿」と呼ばれてた足利義満
隠居して「北山殿」になってからも、権勢は変わらなかった 鎌倉四代将軍九条頼経は隠居後は大殿と呼ばれていたな
前将軍を大御所とする呼称は、足利義満以降だと思う 九条頼経は継嗣の頼嗣に将軍職を譲って、その後見人となっていたから、「院政」と
言えるかも知れない
だが、頼経は京都へ送還されてしまい、頼嗣もその後送還されたから、将軍家の院政は
潰えてしまった 西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。
後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。
女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。 >>880
鎌倉で独自の勢力を築けばいいじゃないか >>881
惜しいなあ
平安時代だったらインパクトあったのに 令和天皇か
平成院の退位まで、いよいよ秒読みとなった 摂家将軍や宮将軍は嫡流から外れた庶流ばかりだぞ。殺されてもどうでもいい。 >>885
そういえば、メディアの報道も「退位」と「譲位」が混在しているな?
どっちが主流なんだろう? >>881
広義門院って治天の宣告はしたけどその後に院政をやった記録はないんでしょ。
ってことは後光厳帝の親政だったの?
崇光院が帰ってきても譲位しなかったし。 >>888
正式というか法的には退位
>天皇の退位等に関する皇室典範特例法
>退位の礼
ところがネットで生前退位をググると一番上に「譲位」が来る。
退位でググると退位が上に来るが。
譲位としたい勢力があるのだろう。印象が全く違うからね。 そう非常事態とはいえ、皇室に生まれていない人間による唯一の院政。 >>889
そもそも政務が停滞してた非常事態だから治天の君として院政をやってもらった。 義詮やっちまったな。未来永劫非難されるだろうな。
光厳くらいどこかに隠れてればよかったのにね。
そういう点から見ると、後白河って身体が軽いよなw 光明が先に南朝から返されてたけど
光明が治天の君はダメだったの?
一応後光厳の叔父だし 叔父→甥はダメとか、先例がないとか?
北畠親房はそこまで読んでいた!? >>898
そういえば、そうだな
院政時代にも、崇徳上皇は弟の近衛天皇に譲位するに当たって、天皇が弟では院政できないから、なんとか養子にしようと工作して失敗した
このときの遺恨が保元の乱の一因とさえ言われているから、天皇が弟とか甥だと院政ダメなんじゃないかな? >>890
少し誤解しているようだが、政府が「譲位」ではなく「退位」にこだわるのは憲法上の問題。
即ち、譲位だと皇位が天皇家の「家職」となり、国民主権に抵触する。 「位を譲った」という形式は
絶対にアウトなわけだ。 これは今上の譲位希望発表の時にマスコミでも取り上げられた。
それと言葉の問題として「謙位」 ⊆ 「退位」であるので「譲位」の方がより意義に適っているのだが、
上記の理由で「譲位を使いたくない勢力」の意向をマスコミも忖度しているということ。 >>899
兄弟間の院政といえば後伏見→花園の例があるとはいえこの二人は養子関係結んでるんだっけ
そもそも光明にやる気がなかった可能性もあるし
幕府側も認めなかった可能性もあるかな そとそも光厳が光明の院政敷いてた
兄弟間は良くておじおい間はないというのは
保元の乱もあって不例だったのかもしれない 兄弟間の院政が確認できるのは、
後伏見→花園、光厳→光明、長慶→後亀山だけか?
やっぱり一統じゃなくて分裂してると色々例外がでてくるんだね。 将来、令和帝が皇嗣殿下に譲位されたとき、院政を始める可能性があるな
だが、平成院がお元気であれば、二の院にとどまる >>902
叔父と甥だったら、甥の親である弟が院政するのが筋だろう
実際に、両統迭立の経緯を見ると、天皇の位を巡る争いというより、「誰が院政をやるか」という争いがメイン
そのために、自分の直系を天皇にできるかどうかが勝負 昔ならともかく現憲法下で譲位という言葉を使うこと自体おかしい。
>>906
後白河は息子が即位する以上親父が即位してなきゃ具合悪いと言うことで
一躍日陰者から即位したんだよね。それがあそこまで長きにわたって
絶対権力者として君臨した。 最初は中継ぎだったはずの人間が長く権力を行使したのは
白河もそうかな。後三条の本命後継者は弟だった。
悪運が強かったのか?邪魔な存在がどんどん死んでいった。 そう、息子を即位させるなら親父も一応その前に即位させとけって扱い。
同じ中継ぎなら一度案が出た八条院にしとけば平和だったと思うが
崇徳にダメ押ししたかったのだろう。つくづく白河は因業深い。 崇徳も重仁親王を近衛と同様中宮聖子との養子にと
頑張ればと思うけど忠通聖子親子が嫌がったのか
鳥羽がそれに反対だったのか 女房に第一皇子を産ませたこと自体不快だったらしいよ>忠通
それじゃ難しいだろうね。 >保延6年(1140年)9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、
聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『今鏡』第八、
腹々の御子)。 今上天皇は一貫して「譲位」と表現されているね。「譲位」と表現する報道機関もある。
そもそも、帝国憲法も現憲法も天皇の譲位や上皇の存在を想定していない。
したがって、憲法を何ら考慮する必要はなく、古例に従って譲位と呼べばよい。 そうだ
憲法に規定がないのは、退位も譲位も同じ
そろそろ憲法を改正すべき潮時だろう 天皇が立憲君主として政治に影響力を行使しても憲法違反には当たらない。 出家した後何年かして再出家で剃髪ってよほどつらかったんだろうな>皇嘉門院 >>920
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
そもそも天皇が政治を主導して、失政したら国民の天皇への支持を失うぞ
建武の親政でも明らか >>922
象徴天皇制下、日本国憲法体制下をであっても、天皇は国政に影響力を行使してもいい。
別に影響力というのは権限がなくても行使できる。その時点で日本国憲法の詐術に引っかかっている。
「国王が、ロボットであることを国民はだれも望まない。」
政治に関する権限は、例えば司法権は裁判所、立法権は議会、行政権は内閣、に移っていって、臣下の者に責任を負わせる形で、国王が口出しをして権限を振るうということはないが、でも言論の自由は国王にもある。
内奏という大臣との密室でのやりとりで、国王が「警告する権利」、「激励する権利」、「相談を受ける権利」、この3つの権利はいかなることがあっても国王に残されている、っていうのがある。
権限っていうのはイギリス憲法用語で言うとパワーオブコマンド、これが日本国憲法になると権能っていう日本国憲法4条の用語になる。
ただし、その3つの権利を行使して、政治的に影響力、この影響力っていうのはパワーオブインフルエンス、政治力と訳してもいい。
何故かというと、責任は臣下が負うから。
大臣こうしたほうがいいんじゃない?っていうふうに国王が言ったとして、それを聞くかはどうかは大臣の責任。大臣は王様なんか変なこと言ってるって聞かないこともできる。
世界の立憲君主国の常識からすれば何の問題もないこと。 そうだな
ウィンストン・チャーチルの映画を見れば分かる
誰が首相になるかを決める権限は、国王には無い。
でも、国王に支持されない人物が首相の座を維持するのは難しい。
国王は、ふだんの細かい政事には口出ししない。
でも、「ナチス・ドイツに降伏するかどうか」というような、
国の運命を左右する決断を迫られたときは、「最後は陛下に決めていただこう」となる。
「戦前の日本より遥かに民主主義が成熟していた」とされるイギリスは、そんな感じだった 平成院は、一切の国事行為からの引退が決まっている
皇太子が空席になるぶん、令和天皇と秋篠宮の負担が重くなる 上皇は天皇に比べればかなり自由に動けるし、治天の君としての権威もある
その政治的責任も補佐する院近臣や武士が負う
だが、失態が大き過ぎると、流罪くらいにはなる可能性もある 譲位後の陛下も大勲位菊花章頸飾を保持されるのだろうか? 個人的にご時世に上皇は如何なものかと思っている。明仁さんの敬称も「上皇」は反対。有識者会議で出てた「前天皇」(さきのてんのう)を支持してたんだけどね。
さて、「今のご時世」に「上皇」が合わない理由を述べると、それは「上皇は天皇より偉いから」つーことだな。
「譲位」が禁句なのと通底するがこれは「国民統合の象徴」の上に位置する印象を与える。
大宝令では儀礼上、上皇は天皇より上位の冷遇を受け、院政時代より前の持統上皇 孝謙上皇 平城上皇は形式的にも天皇の上に君臨した。
院政時代は天皇家の家督(家長)と位置づけられた。
こういう歴史的経緯というか「二重権威」臭がプンプンする称号は象徴天皇制と合わない。
ちなみに「前天皇」号が却下された理由の一つは「天皇が2人いるようで象徴天皇制に合わない」ということだった。
論理的思考を捨て去らないと理解できない世界が存在するわけだ。 >>924-925
でも日本では天皇や皇室の「お言葉」に逆らうことは許されないという空気がある
イギリスでは平気で君主批判男女スキャンダルが起きるが、
日本ではマスコミですら菊の御門タブー
あとイギリスは戦争直前に、「王冠をかけた恋」で国王エドワード八世が退位させられただろ サウジアラビアなんて皇太子が国の実権を握って、
ついには意に逆らう新聞記者を拷問して処刑するほどだ エドワード八世はナチスびいきだった
あのまま国王を続投していたら、国王がナチスと戦うイギリス政府の足を引っ張ることになってた >>930
>上皇は天皇より上位の冷遇を受け、
何を言うてんのw 今 院政やった上皇(後高倉院含む)を数えたら24人だった。 院政時代以前で
権力を握った上皇は持統天皇・孝謙上皇・平城上皇・宇多上皇かな。
これを多いとみるか少ないとみるか人それぞれ。
前にも書いたが大宝律令の儀制令(だったか?)では太上天皇は天皇より格上の待遇を受ける。 長文の奴は別スレでも同じことコピペしてんな。スルー推奨 円融は父院としての権力行使しようとしてたのが
認められるみたいだね
実資道兼辺りは円融の側近的側面もあったとか >>930>>936
勝手に俺のレス コピーすんな。 するなら変換ミスを修正しろ(次レスでちゃんと訂正してたやろがw) 冷遇 →礼遇
しかも、前段の書き込みも抜きに唐突にこのスレに投下するから初見の人は文脈も掴めんがなww
まあ、アホが言うようにこのスレではスルーしてくれていい。
元レス:もしも悠仁さまが・・・スレ
>>937
おまえ、ここにおったんかw おれにスルーされたんがそんなに悔しいんかw 霊元院は、大の幕府嫌い
幕府寄りな東山天皇と対立していた 霊元というのは孝霊孝元から取ったと言われてるけど
ほんとのところは祟りのもとになる因果なことをやったからだよね。
おかげでこれ以降明治まで本当に一代に二人以上皇子が生き残ることが
なかった。 その中じゃ霊元が一番後醍醐臭が強い。次が後水尾。
光格は傍系から入った上に母親が誰それな出身だから
まだ抑えられてたように思う。 身内の公家に顰蹙買うか買わないかがクソかそうでないかのポイントかな。
光格は崩御時に公家衆からその功績を称え漢風諡号復活されたぐらいだから
それなりの人物だったんだろう。 >>947
後水尾が末息子の高貴宮(霊元)を猫かわいがりして即位させるつもりだったから
その中継ぎ扱い。
ついでに霊元の第一皇子をその跡継ぎに決めて死んだが
親父そっくりの俺様な霊元が後にそれを反故にして
「七代祟ってやる」事件に発展。 後西は完全な中継ぎだけど、その兄の後光明は違うか。
たまたま皇子がいなかったから末弟を養子にしたようだ。 霊元院は日本史上最後の法皇なんだな
法皇が複数人存在した時ってあったか? 円融と花山は時期がかぶってるように思う。
一条も崩御直前に譲位して出家したからわずかだけ
花山とかぶってる。
院政時代は白河鳥羽後白河とそれぞれ時期はずれてるよね。 ごめん一条崩御は1011年で花山崩御がその3年前だからかぶってないわ。 後西天皇は後継になる皇子がたくさんいのに末弟に譲位。 >>955
崇光上皇もな。
3人みんなまとめて面倒な奴、と南朝に拉致される。 花山天皇といえば、騙されて無理やり出家させられたことに気づき、「我をば謀るなりけり」と言ったので有名
昔のロボットアニメ風にいえば、「シャア、謀ったな、シャア!」といったところか
大鏡に「あはれに悲しきことなりな」と書かれたくらいだから、院政で権力者になるどころじゃないな >花山天皇
京都人以外の10人中9人は「はなやまてんのう」と読む 今の天皇が譲位した後の御所は先例に倣って名前が仙洞御所となるけど
京都の方の仙洞御所はどうなるだろう? 仙洞御所も通年一般公開されてるよ。
急増した外国人観光客のためだろうけどずいぶん敷居下がったね。
http://www.kunaicho.go.jp/info/kyototsunen-sks-sankan.html
江戸城も再建してテーマパークにするって話を聞いたこともあるな。 先月 仙洞御所行ってきたよ。京都御所とはまた違う趣でいいとこだよ。
一般公開つーても、当日予約(1日3回)・人数制限(30〜50人ほど)があるし、
ガイドさんの指示に従っての集団行動ですう。 とはいえもはや一般観光地だよね。
東京に仙洞御所ができるとなると、京都の方は
京都仙洞御所か、旧仙洞御所とでも変わるかな。 >>964
東京に「観光の目玉を」ってんで、350億円かけて江戸城を再建
外国人観光客の人気は、大阪>京都>東京だからな 仙洞御所は皇族の京都でのやどりとして現役だと聞いていたが
天皇陛下の宿も公開しているのか あるいは迎賓館ができてからはまた変わっているのか
(迎賓館は自動警備装置がついていて、塀に近づいたら、寄るな下郎とスピーカーがわめいた) 京都での宿舎は大宮御所だけど仙洞御所のすぐそこだよね。
さすがに使用されるときは立ち入り規制されるんだろうけど。 >>968
公開はもちろん庭だけですう。 京都御所と同じ。 で、陛下が泊まられる旧大宮御所は建物の近くまで行けますう。ガイドさんも説明してくれる。
>>971
大宮御所は仙洞御所の中ですう。
>>970
京都迎賓館も一般公開してます。入館料1500円。ハッキリ言ってイマイチですう。
ていうか、おれ以外のレス書いてる奴、京都御所 京都御苑 仙洞御所 の区別・位置関係がごちゃごちゃになっとるなw >1867年(慶応3年)以降は仙洞御所との塀を取り払い、敷地と庭園を大宮御所に組み入れた。
もともとは別だったっぽい。 だから、仙洞御所の中に塀があってそれで分けられてたんだよ。
現在も京都御所内に女院御所がある。(塀も残ってる)
江戸城の中に本丸と西の丸があるのと同じ。(こっちは塀ではなく堀だが)
ちなみに京都御所のメインの庭と女院御所の庭は離れているので一体感が無いが
仙洞御所と大宮御所の庭は完全に一体化している。 上皇のお住まいになる部屋だけでなく、院司の執務室や北面の武士の詰め所も
設置しなければならない
承久の乱のような合戦になったとき、防衛しやすいかどうかもよく考慮した上で
どっちの仙洞御所を使うか決めてほしい >>974にある記載が悪いな。
「組み入れた」が1867年以降の大宮御所の住人、使用者視線だから。
もともとは後水尾が自分の仙洞御所の一角に東福門院の御所を
建てさせたのが始まり。 >>976
仙洞御所で防衛するようでは、もう敗色濃厚だよ
宇治・瀬田できれば美濃の墨俣で敵を撃退しておくべき
洛中まで敵に攻め込まれたら、配下の武士を落ち延びさせて、院宣を撤回して
出家するしかない
配流は免れないかも知れないけどね 京都はいまや、世界的な観光地
日本だけの問題ではすまない >>980
言われるとそうだなw
度忘れしていた
次は令和天皇になるわけだな 保守派は伝統ガーとうるさいけど、
天皇の号と元号が一致しているのって、前近代じゃありえんからな >>982
一皇帝、一元号
明と清では、それが当たり前だった スレッド一覧みてビックリ
邪馬台国関連スレで埋め尽くし
どんだけ邪馬台国を議論したいんだよww >>984
あれは単なるアゲ荒らし
昔の2chならあぼーんされるところだが、いまは管理者不在の無法地帯なので >>982-983
しかし大明・大清の皇帝の廟号・諡号は元号とは別。
康煕帝の場合、
廟号:聖祖
諡号:合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝
通称:康煕帝、仁皇帝 それにしても、このスレはここ数ヶ月で急激に延びたな
それまでは何年もかけて細々と続いてたのに 現代の治天の君・平成上皇の院政スタートまであと14時間 庶民救済のため、平成上皇には消費税増税停止の院宣を希望したい 平成上皇とお呼びしたら不敬だぞ
ご存命の間は上皇様だ 上皇后なんて奇妙奇天烈な造語を作る安倍総理が保守とは片腹痛し 増税しないと、潤って戦争起こせないから好景気の特需とかにならないじゃん。
領土が増えればまた、税金が割安になるのに。 上皇ができると、平家物語のような戦争が起こって、上皇方、天皇方にわかれていい意味で歴史が繰り返すと
盛り上がるな。 おい!自称学術!いい加減にしろ!
上皇領、院庁などを持たないで独立権力などできるわけない
なんべん指摘すりゃわかるんだよ! 弟の秋篠宮が皇嗣ってなんだよ
皇太弟でいいだろ
それから幕末の薩摩藩主・島津斉彬は死ぬ間際に、
娘を弟・久光の子の忠徳(後の島津忠義)に嫁がせて次期薩摩藩主にし、
久光を藩主の後見役にするよう遺言した
その例に倣えば、新天皇の次の天皇は悠仁様にして、悠仁様の妻を愛子様とし、
秋篠宮を後見役にすべきである このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2771日 0時間 5分 28秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。