古代出雲王朝は実在した
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「古代出雲」
日本の歴史において、まだ学術的に不確かな古代王朝。
西日本を中心に支配した大和王朝の以前に、西日本を支配していた最古の王朝である。
出雲が日本の古都のひとつである証拠に、日本神話の八百万の神々は、十月、神無月に出雲に集まり、出雲地方では、十月を神在月と呼ぶ。
歴史
出雲は、もともと、小さな国にすぎなかった。当時の西日本には、渡来した中国系盗賊団が住み着いており、先進的な武器を背景に、日本の先住民を支配し、搾取していた。
そこに、出身地不明の旅人スサノオがやってくる。スサノオが出雲に来た時、渡来系盗賊団ヤマタノオロチが、出雲の領主の娘を生贄に差し出すように要求していた。
それを聞いて、出雲の領主の娘クシナタ姫を救うために、スサノオは十握の剣を武器に旅に出る。
そして、なんと、スサノオは一人で渡来系盗賊団ヤマタノオロチを退治してしまったのだった。
なお、スサノオは、渡来系盗賊団ヤマタノオロチの跡地から、製鉄された剣天の叢雲の剣を手に入れている。
この偉業によって、スサノオは西日本先住民の英雄となる。出雲の領主の娘クシナタ姫と結婚したスサノオは、西日本の盟主として、出雲王朝の開祖となる。ここに、出雲王朝が始まる。
西日本は、出雲を盟主に六代、時代を重ねたが、スサノオから六代後の大国主の時代に、政変が起こる。
西日本の盟主である出雲の王、大国主に、属国で新興国である大和が盟主の座を明け渡すように要求したのである。出雲の王、大国主は、大和に服従することを誓い、降伏する。
出雲の王族、建御名方だけが反乱し、大和の軍と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃げのびた。
こうして、西日本の支配は、出雲から大和王朝へと移ったのである。俗にいう「国譲り」である。
大和王朝の王は、日本神話の最高神である太陽神天照の子孫を名のり、出雲の建国の王スサノオを天照の弟とした。
これにより、大和王朝の王家、いわゆる天皇家がスサノオの子孫(現代にも出雲千家として伝わる)よりも権威ある存在として認められ、君臨した。
なお、出雲王朝のスサノオは出身地不明の旅人だが、大和王朝の王家である天皇家は風聞ではY染色体が縄文系だといわれており、日本の先住民が、日本の支配権をとり戻したことになる。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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NE53X 山形明郷の動画を見たおれが今からネトウヨが小便ちびらすような大胆仮説を発表します
古代朝鮮の百済、新羅のそれぞれの王は異民族だったらしい
つまり被支配層と支配層とが別民族、王とはいわば行政官みたいな立場
これを日本列島に類推適用すると出雲国がこれにあたる
つまり、ソシモリから来た初代行政官がスサノオというわけ
そして国譲りされたときの行政官がナムヂ
だから半島から天皇御一行様(自称天孫族w)が来たときに大した武力衝突もなくすんなり国を明け渡したのは
天皇御一行様が次の行政官だっただけのこと
出雲大社の伝承にスサノオが新羅からきたと書かれてるのはこのことだったんだなぁw
https://www.youtube.com/watch?v=l4swAYIl7lc 弥生人が支配者層として渡来したのでしょう。
その代表が出雲ですね。
ただ、天孫族とは対立の結果として国譲りが成功しています。
渡来人同士であっても、敵は敵です。
破滅的決戦を回避できたのは、大国主の英断によるものです。 出雲の大国主の名前は日本中に残っているが、大国主は緩やかな
集落国家連合の長をしていたのではないか?
出雲の神在月も連合の各族長が出雲に集まっていた逸話だろ?
奈良に神武が攻めてきた時、奈良に饒速日と長髄彦がいたのも、
連合国家があった証拠の一つということになるのではないか? 神宮は天皇家を祀り、大社は土着の神を祀る。
もともと奈良に土着の神様出雲族が居て土地を治めていたんだね。
そこに今の天皇家が現れて退いてくれと。へで、出雲族は出雲に国移りしたわけや。 古代に巨大階段の建造物を造れた出雲族にはすごい文明があったと。 >>958
>神宮は天皇家を祀り、大社は土着の神を祀る。
後世の勝手な定義。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 出雲大社は大国主の怨霊鎮魂のために大和朝廷が建てたものだろ? そもそも中国の物語、
故事、逸話などから引用だと言っている人もいた 大国主は実は博多湾沿岸。
そうでないと、大国主を倒したので、天孫が倭国王となるために筑紫に降臨しました、という後日談が意味をなさなくなる。 >>962
出雲大社。元の名称は杵築大社。
キキ神話等では恰かも大和朝廷が建立したかの様にしています。
が、違います。
ヤマト朝廷側が元、出雲国の2つの王家が隠然と在ることに危機感を募り、その勢力や財力を削ぎ弱体化を狙って
祖先を慰霊する壮麗な神社を建てないか?と唆して、
出雲の元王家側(反発すれば要らぬ嫌疑や波風が立つ事は必至故に否応なしに)
が賛同して
莫大な財力を傾け元来建築には向かない軟弱な地盤に苦心して壮麗な摩天楼(伝説では100メートル超)の空中神殿を建立(「杵築」(地盤改良して建設した)大社の所以)したのが真実。
主に出雲の西の王家です有った神門臣が携わった事から、東の王家、富(向)家は杵築大社は神門臣さんの物と謙譲していたという。
因みに、熊野大社は東の王家、富/向家が大庭の神魂神社に有った宮殿を(物部/ヤマト軍に明け渡し)辞した後、居住した事によるとか?
いずれも憎っき大悪人、出雲の仇敵ホヒの末裔らに乗っ取られ現在に至るところ?
出雲大社の祭神が本当に出雲国の大国主命=オオナモチ(帝号)で在るならば、
憎んでも憎み足らぬ仇敵のホヒの末裔(出雲国造)に祭られているおかしな構図です >>970
神魂神社や出雲大社のあの様式は古代出雲の王宮(御殿)の様式そのものらしい。
神魂神社の本殿はマンマ富/向家の王宮の場所かつお姿だと言います。 >>970
>キキ神話等では恰かも大和朝廷が建立したかの様にしています。
どこをどう読んだらそうなるんだ?
出雲を倒して筑紫に新たな倭国政権が誕生したんだよ。 あと、本来の出雲大社の本殿は高さ96メートルだったはず。
発掘された遺構は推定48メートル。自然倒壊したので半分に縮めたんだね。
そして現在はさらに半分の高さ24メートルになっているが、神社建築としては最大級。 出雲大社は大国主の霊を慰めるものではなく
閉じ込めるためのものだろう。
諏訪大社も祭殿の四隅に柱を立てて結界を作り
タケミナカタを閉じ込めている。 諏訪は車山山頂でも小さな神社でも祠でも
だいたい4本柱で囲んでいる >>972
地元、出雲の賢き王家の末裔の密やかな語り継ぎ(口伝)
元々は出雲の元二王家の滅亡後も勢力、影響力共に隠然とある事への危機感から
天皇家、大和朝廷やその手先の出雲国造家の先祖らが弱体化を狙って画策、反対すれば反逆の下心ありとして一気に攻め滅ぼす口実となることは必定。
一応はいわゆる大国主、第8代オオナモチ、神門臣家当主の八千戈命(天皇家、実行犯のホヒ(出雲国造の始祖)らに謀殺された)を慰霊する建前故、
主に元、西の王家、神門臣家が巨万の財を傾けて造営したもの。
それが伝説の100メートル超や約50メートルの空中神殿だったのかと? 96メートルだな。
中世に半分の48メートルになり、現在ではさらにその半分の24メートル。 古代出雲王朝は存在した
同様に毛野王朝、越国王朝、丹波王朝、吉備王朝、筑紫王朝、豊国王朝、火国王朝といった各地の王朝もまた畿内王朝に併存したのだ 大和朝廷が出雲王朝だよ。
纒向の外来系土器で一番多いのは、尾張と出雲。
出雲と尾張は同祖。
飛騨の口碑そのまま。 >>979
で、徐福集団が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と瓦屋根に土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と
日常食の蒸し餃子とワンタンは?
で、徐福集団が渡来定着したとウソブいているサギサギ考古学者の氏名と所属団体は?
. >>981
出雲と尾張が大和に屈したからじゃないの? 出雲は前方後円墳体制の範囲外
四道将軍も山陰地方は丹波(当時は但馬・丹後を含む)までで留まった
長らく独自性を保持していた 出雲を下した筑紫が政権を取り、後に神武が大和に東征したんだよ。 纒向遺跡は出雲山陰系の土器は尾張に次いで多いからね。
出雲は大和朝廷の主体。
出雲オオナムチ系と尾張スサノオ系は同祖だな。
本当の国譲りは神功皇后、応神、仁徳の時代。 その出雲を下して、筑紫に天孫が王として君臨したことが記紀に書かれている。
また、考古学的にも弥生王墓は九州北部にだけ見つかる。 >>987
待ちな!
天孫降臨は日向だろ
それは初期の纏向型前方後円墳が西都原にもあることとも整合する
筑紫由来の勢力が畿内を乗っ取るのは神功・応神の御代だ >>988
それは分家の耳と耳垂の墓だよ。
神武は筑紫の倭王宗家の出自だ。
宮崎県が日向国となるのは景行天皇の御代からだからな。
それ以前の筑紫の日向は福岡県。 ニニギ降臨の地である筑紫の日向と、イザナギが禊をした筑紫の日向(博多住吉創建の地)は同じところだろ?
福岡県西部だな。
だったら神武が出立した筑紫の日向も福岡県西部だよ。 祓詞
掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す 筑紫は島の名前だろ
日向にしてもヒムカシで東側という意味であって九州島の北側、いわゆる律令国の筑前筑後ではない >>995
それでは筑紫の日向の橘の小戸が福岡市であることを説明できないよ。 >>996
福岡豚骨市じゃないに決まってるだろキチガイジ! >>995
その定義は景行天皇の時に定められたもの。 纒向遺跡の外来系土器の中心、尾張と出雲。
出雲王朝は初期の大和朝廷のこと。
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