南北朝時代を語れ
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新田義貞が倒幕に加わったのは
名前を間違えられたから >>6
尊氏・義詮・基氏は近親婚は関係ないだろ
鎌倉時代の足利家は多くの場合代々北条氏から正室を娶っていたが
尊氏は父の正室北条氏の子ではなく側室上杉氏の子だから
義詮・基氏の母は北条氏だが尊氏が北条の血が薄いため
やはりそれほど近親婚ではない で、なんで南朝が正当なの?
意味が良く分からないんだけど… >>13
表向き南北朝合一まで三種の神器は南朝にあり
後亀山天皇が後小松天皇に返還しているからな
水戸学あたりで南朝正統論が出た 完全な神学だがこれのせいで20世紀になってバッシングされた人間がいるんだよな。 後醍醐→光厳→後醍醐(重)→光明→崇光→後村上→長慶→後村上→後小松
が正当とか大学の講師が昔言ってたがどう? >>16
後村上が長慶の前と後に2回出てきてるが、
長慶即位前に後村上は死んでるぞ?
後醍醐→光厳→後醍醐(重)→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松
おそらくこうだろう。後醍醐が吉野に持っていった神器が本物かどうかが焦点。
それが偽物なら、北朝が本物を持ってたことになるが、正平一統でその神器も
後村上が回収してるから、以降は南朝が正統だ、ということではないかと思う。 >>17
間違えた。
尊氏と後醍醐のいい加減が遠因言ってたから後光厳認めてないんだろな >>16-18
おおよそそれでいいと思うけど後醍醐は実際問題として重祚してないよ。 >>20
重祚してないというのは後醍醐側の主張
後醍醐は隠岐にいる間三種の神器を奪われ正当な手続きのもと都で光厳天皇が即位
しかし、入京した後醍醐は三種の神器を奪い返し光厳の即位を否定(院号だけを授与)
隠岐にいる間もずっと天皇は後醍醐だったとして重祚を否定した
もっとも三種の神器は後醍醐→光厳→後醍醐と渡っていてこれに従えば重祚ということになる >>21
後醍醐側の主張だっていうけどさ、光厳在位期間を除きその前後は
後醍醐が作った形式がリアルタイムでの現実じゃん。
最後の1行は単なる事実じゃなくて「解釈」(〜に従えば〜となる)。
重祚というからには践祚の儀を執行しなければならないのに
後醍醐は重祚じゃないという形式をとり年号も最初から継続させた。
念のためにいっておくけど、
これは「俺が」光厳の在位を認めないってことではないよ。
光厳の在位は、これはこれとして厳然たる事実、消せないと思ってるよ。
即位の手続きも正当だし、おそらく保持していた神器も本物だろうね。
ただ、だからって後醍醐を重祚扱いにするのは
事実に背いた北朝側の後付け(後醍醐が吉野遷幸した後で)の解釈だってこと。 >>22
「三種の神器」という基準で考えれば後醍醐の重祚だといえるということ。
北朝側はこの主張だ。
で、後醍醐は重祚ではないというのは南朝方の意見であり、
こちらが正しいというのはおたくの個人的意見でしかない。
定説であるはずもないということ。 >>23
定説じゃなくて事実だっつの。
北朝側の歴史書でも後醍醐を重祚とするものとそうでないものがある、
つまり見解は定まってない。北朝の主張は〜〜だ、なんて言えないね。 >>25
北朝の歴史書で光厳天皇の在位を否定したものなんてあるの?
隠岐に行っている間も後醍醐が天皇であり続けたって?
まずはその史料を挙げてから。 >>26
違う、違う、光厳天皇の在位を否定してはいないっていってるでしょうが。
隠岐にいってる間は後醍醐は天皇ではなかったけど、だからって重祚でもない。
重祚ってのは「践祚の儀」を二度することなんだよ厳密には。
同じ北朝を正統とする歴史書であっても後醍醐天皇を
重祚として二代に数えるものと重祚ではなく一代と数えるものとがある。
『続神皇正統記』は重祚したとみなし二代と数えるのに対し、
『本朝皇胤紹運録』は重祚したとは認めず
光厳天皇在位期間の前後を通じて後醍醐天皇を一代と数えている。
後醍醐天皇は実際に重祚してないのだからこれは本朝皇胤紹運録が正しい。
このことは光厳天皇の在位を否定するものではなく
本朝皇胤紹運録は北朝を正統としている歴史書。 重祚したとする『続神皇正統記』は北畠親房の『神皇正統記』に
反論・抗弁するための書であるから、勢い理屈に走ったにすぎない。
『本朝皇胤紹運録』は重祚とはせず、
後醍醐天皇の治世年数は「前と後」で分けて数えているが
これは客観的事実に即したものでなんら矛盾ではない。
代数の入っていない年代記として『皇代記』や『皇年代略記』があるが
これらもまた「後醍醐−光厳−後醍醐−光明」という順番で並べているが
重祚したとはいってない。事実してないのだから当然。 後醍醐天皇は歴史的「事実」として「重祚していない」。
重祚したというのは、概念上、そういう扱いにしてるってだけ。
これは歴史の捏造の一種。 >>28>>30
三種の神器が後醍醐→光厳→後醍醐と渡っている
後醍醐が「三種の神器などなくても隠岐時代の天皇は私だ!
光厳は三種の神器を持っていても天皇ではない!」と言ってるから
天皇号を変えなかったというだけ(通常重祚すれば天皇号が変わる) 後醍醐天皇が「重祚ではない」と強弁しただけで、実態としては重祚だよな。
後醍醐帝が隠岐に流されていた間は光厳帝が天皇として職務を行って、その状態で政治が動いていたってのが実態だ。
それでも、後醍醐帝が樹立した政権が勝ち残って光厳帝の系譜が敗北・消滅したならば、
後醍醐帝による強弁が公式化してもいいんだが、現実には後醍醐帝は敗北して光厳帝の系譜が生き残った。
となると、光厳系による公式の立場こそが正式採用されるべきであって、
勝ち残ったはずの光厳系による主張を廃棄するなんて正気の沙汰じゃない。
少なくとも「当時の建前」「当時の公式記録」として、光厳系の主張の方を優先的に採用しなければ、イデオロギー汚染された歴史認識に成り下がってしまうだろ。 >>27
「践祚の儀」って何か儀式があるわけじゃなくて
内侍司の女官たちが賢所にしまってある三種の神器を出してきて
新帝のもとへ運ぶだけなんだよ
後醍醐は三種の神器を二度受け取っているわけで践祚といえるんだけどね 太平記は面白いが、中国の故事がうざいな。現代語訳だけでなく中身の整理が必要だろ。
でないとなかなか手を出そうという読者は現れない。 >>34
だからこそこのスレで語られてきたように
正平の一統までは北朝が正統でいいんじゃないの。
その後の後光厳天皇以下はそもそも光厳天皇とはアンチな関係なんだし
正平の一統からは南朝正統ですべてがうまく説明つくじゃん。
もめてるのは後醍醐が重祚かどうかだけで、これは
光厳天皇の在位を認めたからこそ発生する議論だし。 >>42
このスレでそんなこと語られてないw
通史レベルでは後醍醐から後小松までが南北朝時代で
どちらが正統だという結論は出てないから。
正平の一統以降も後村上天皇は都に入れぬまま。
正当なはずの後亀山天皇が正統ではない後小松天皇に神器引き渡し。 >>42
いや、南北合一時に、後に残った北朝側は
「合一以前からずっと、こちらが正統だった」と言った、
勝ち残った側で南朝の皇位を僭称と言い切ったんだから、
南朝正統説は成立しない。
正平一統の期間に関しては、南朝側と北朝側のどちらもが正統性を不完全にしか保ってないから、
この時期は空位時代と考えるしかない。
(あえていえば南朝後村上は在京する以外の要件を満たしているが北朝側は適合者がいないから、
この期間だけを後村上の時代と考えてもいい)
>>43
うん。
スレで多くの人の支持を取り付けた意見じゃなくて、オレが言って一人か二人ぐらいが(たぶん、部分的に)賛同しただけで、
反対意見が主流だったんだよな。 >>43
通史レベルのことなんて、そこらで売ってる本でも読めばいいことで
わざわざここで主張することかよw
都に入ったかどうかは正統云々は関係ないし。
在京云々は事実上の政権ってことだろうがそんな価値基準なら
正統論自体が観念的で虚しいだろう。
そもそも近代史学以前にそれを根拠として名分論なりたつの? >>44
いや、「北朝側がその当時はそう宣言した」ってのは
単なる事実としては最初から理解してるよ?
おまえは北朝がいえば何でも正しいの?
おまえがなにをいいたいいのかよくわからないよ。
正平一統についてはあれは神器が北から南に移ったって点
北朝に正統性について擁護可能な天皇が存在しなくなったってこと。
京都を制してるかどうかは正統性と関係ない。 >>45
じゃあ聞くが、
>正平の一統までは北朝が正統
>正平の一統からは南朝正統
ってお前以外のこのスレの誰が同意しているの?
「だからこそこのスレで語られてきた」
とこのスレ住人の総意のようなふりして虚言を振りまいてるのお前じゃんw
「俺の個人的見解では」に訂正しろよ。 >>46
勝者が歴史を作るという原則に従うなら、南朝の主張は掛け声だけ、威勢だけと考えるしかない。
原理原則を追究していくなら、幕府が勝手に擁立した後嵯峨帝以後の皇統そのものが正統性を欠いているなんて主張だってできてしまう。
そもそもだ、世間からの広範な支持を受けたから勝った、支持されなかったから負けたって側面がある。
南朝が主張した自己の正統性は、世間からの支持がほとんど無かったんだよ。 >>46
南朝の主張では正平の一統以前から神器は南朝にあったといってるんだよ。
後醍醐天皇が尊氏に偽物を渡して正式なものを吉野へ持ち込んだことになってるから。
だから、神器のありかのみで正統かどうかを判断するならずっと南朝が正統だったことになる。
でもそんな単純な話じゃないだろ。 南北朝どっちが正統かなんて個人の信仰の問題だろ
論ずる意味がない >>52
こんどは後醍醐天皇を主人公にして、貴台の怪物っぽい雰囲気をうまく作って欲しいもんだよなあ。
尊氏は、たしかに勝利者側だけど、主人公としてはイマイチ面白くない人物像だから難しかったんだろう、大滑りしたよなあ。
聖人君子的な要素を持ち合わせない後醍醐天皇の方がよほど主人公向きだ。 後醍醐の母親が祖父の亀山とヤってるとかそんな話無理すぎるw 敗れて消滅し、それを継承する者がいなくなった時点で正統性が失われる。
三国時代の例なら、魏から禅譲された西晋が存在するからこそ、漢から禅譲を受けた魏が正統とされた
東晋から禅譲を受ける形で続いたであろう南朝は北朝により征服され消滅したわけで、放伐により消えた形だから、
こちらの北朝系である隋唐は晋や魏を正統と認定する必然性はなかったが、とりあえず蜀を正統とするわけでもなく、魏晋正統説を踏襲したんじゃなかったかな。
帯するに、日本の南北朝に関しては、北朝側が南朝の正統性を否定し、正統は自分たち北朝側だと主張したから、
幕府は南朝と北朝の両方を正統と見なしたけど、幕府が消えて北朝だけが残った時点で南朝の正統性は完全に消え去った。
ただ---
明治維新で倒幕を主導した人たちの多くが南朝正統説を信じていて、
南北合一以前の北朝を正統と考えていなかった上、それを明治天皇に公認させて今に至っているだけ。 なぜ後小松帝は後崇光院を猶子に迎えようとしたのですか?
年齢的に称光帝よりずっと年上じゃないですか 鎌倉末期に間に幕府が入って仲裁しなかったら実力でさっさと
ケリが付いてたってだけじゃねえの? >>60
北条時宗が朝廷を二分させてお互い争わせ双方とも共倒れで権力を失わせようとして
あえて両統迭立を指示したと言われているね
結局そのおかげで朝廷二分には成功したものの
肝心の鎌倉幕府が滅んだんだが 幕府は朝廷内の揉め事に深入りしない方針で、勝手にしろ状態だぞ
まあ、元軍の侵攻が起こりうる時期には敗者に復活の余地を残す方針があったかもしれんけど。
幕府が強く干渉したのって、承久の再現を恐れた一件だけだったろ >>62
いや、後嵯峨上皇が没したとき、鎌倉幕府はその妃・大宮院に
後深草上皇と亀山天皇のどちらを治天の君にすべきか聞いた。
大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ、すでに亀山の皇子が皇太子になっていたため、
朝廷の意思に従えば亀山の系統(大覚寺統)で統一されるはずだった。
しかし、亀山と不仲だった西園寺実兼(亀山妃だった妹が亀山に寵愛されず不仲になったという)
が関東申次の立場を利用して北条時宗に後深草皇子の立太子を提案し、
これに北条時宗が乗ったことが両統迭立の始まり。
西園寺実兼は西園寺家興隆のため、時宗は朝廷二分のため、両者の利害が一致した。 そもそも承久の乱後の朝廷には既に自分たちの運命を決断する力も
なかったんじゃ? >>63
四辻宮だね、正統な子孫は
>>64
朝廷二分のためっていうか単に後深草に同情しただけじゃ?
むろん御公儀の御政道に私情は禁物だが
五摂家のトップにたらしこまれたら田舎っぺの時宗なんか
「やっぱそうだよな」と簡単に納得するだろ >>66
五摂家はこの当時鎌倉幕府に対する発言権はない
この時代、関東申次を世襲し天皇の外戚として力を持っていたのは公家の西園寺家
時宗に皇位継承の相談をしたのは西園寺家当主の実兼
時宗は後深草と面識ないし別に同情する必要もないんだがなあ
時宗自身、庶兄の時輔を殺して得宗の地位を安泰にしているし
後深草の皇子を立太子させれば朝廷が二分することなどわかってたはず どうせ長崎高資あたりが双方から賄賂でももらってたんだろ 亀山方は出る芽がないで、世を儚んで出家するって騒いで世間の
同情買ってたんでなかったかな?
黒田俊雄って骨のある人だな〜
昔はこういう御仁が沢山いたんだな。 壇ノ浦まで平家
鎌倉実朝まで源家
鎌倉北条は平家
室町足利は源家 北条、足利は平氏、源氏ではあるが平家、源家ではないだろ 北条の本姓が平氏と言うのは、松平家が清和源氏新田氏流を仮冒したのと同じようなもん。
なんせ頼朝決起以前は坂東武者の中では雑魚中の雑魚だったから、時政以前の系図がはっきりしないし、単なる自称の域を出ないもん。
頼朝没後の徹底した他氏排斥ぶりは、権力闘争に加えて元の出自の低さに対するコンプレックスもあったと思う。
一方で同じく出自の低かった安達家を優遇したのは、こいつなら俺らを馬鹿にしないと言う安心感からだろう。 武家世界では平家源家平家と来たからには、次は源家足利だと
いう声があったんだと。 >>69
息子が即位できないなら出家するといって同情買おうとしたのは
後深草上皇だよ
亀山天皇のほうは後嵯峨在世中に息子が皇太子にたって
鎌倉幕府介入までは圧倒的優位にいた 亀山と折が合わなかった西園寺が幕府に通じてひっくり返したんだったな。
どっちにしろ幕府の陰謀という雰囲気は薄いんじゃ? で、源平二大党派制の政権交代論が背景にあって、それが朝廷の
皇位継承問題にも影を落とした可能性もありそうだと。 >>77
天皇家の内紛に北条時宗が乗じたというのはある
西園寺実兼の言い分を認めて後深草皇子を立太子させながら必ずしも実兼に迎合するわけでなく
一方で亀山上皇を治天の君と定めて院政を認めるなど朝廷の「ねじれ」を行っている 幕府は内紛にうんざりして花園天皇の頃に朝廷に調停を図ってるだろ? >>80
幕府が10年ごとに天皇を交代しろという両統迭立を定めたのは
後二条天皇のときだよ
そのときの得宗は北条貞時(時宗の息子)
このときも皇統をどちらか一系統に統一しろとは言ってない >>64,66-67
かつての
>大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ
の遺志が、でっち上げだったという説が朝廷内に広まったから後深草に肩入れせざるを得なくなった、
という情勢判断を(事実だか勘違いだか誤情報だかは別にして)受け取ってしまった結果じゃないのかなあ
>>75
それはデマ >>82
デマもクソも自称平家の北条得宗の専制体制が元寇後に、頼朝
以来の御家人一同を締め付けてた状況で、御家人筆頭の足利が
期待されんのは当たり前だろ〜 北条の平家由来が仮冒というのは決定的な問題じゃない。北条が
平家の旗を掲げて、壇ノ浦に批判的で平家への同情的な空気を
北条が上手に利用したという状況が重要だろ。 暴露主義では歴史は読み取れない。小林秀雄なんかは時々、
この点を強調したな。その時代の、生きた人間的条件を無視
して歴史は語れない。 自分が歴史空間の中で呼吸してないせいか知らん?
進歩主義の科学的世界に安住してるだけじゃ歴史感覚なんて
もんはゼロだからなw >>82
後嵯峨の遺志が亀山にあったことに対するでっち上げ説は出てないよ
だいたい、後嵯峨は院政をとっていた生前に亀山天皇の皇子を皇太子に立てている
加えて後深草・亀山両天皇の実母である大宮院がそう証言しているのだから
覆しようがない >>83
足利が期待されたことじゃなくて、
>平家源家平家と来たからには、次は源家足利
という事情の方がデマ 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
乃至、議論の経緯くらい示してから何か言えよ。 資料、典拠を示せ。
大威張りで「デマ」と決めつけるからにはそれなりに有名な
問題だろう。 高氏(尊氏)はハーメルンの笛吹だな。
鎌倉で冷遇→離反して皆が後を追って鎌倉を潰す
建武の新政で冷遇→離反して皆が後を追って潰す 実力もプライドもある。ダシにされるのは御免。別に信用に値
しないという程でもなかろう。
俺はごく若い頃は当たり前に合理主義の子で根無し草的現代人
だったから、普通の奴らってのは手に取るように分かるよ。 世に背を向けて生きるようになってからは、幽暗の世界が居心地が
良くなったよ。
現代人てな自分がサルの子孫なことを鼻にかけて昔の人より
立派そうな顔をするな。 一休さんも南北朝の頃か?
「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と
詠んでるが、黒田俊雄がこの時代の宗教世界の分析で面白そうな
話を展開してんな。 南北朝の末期から室町中期の人だよな
南北合一の時の後小松帝の次子だから、合一の頃には未成年かな?
記憶がはっきりしないが、ちょっとググって調べたらすぐ分かることだよな > 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
源平交代論が当時あった、という説の根拠を出す方が先じゃないのかな。 なかったことを証明するって、典型的な悪魔の証明だよなあ >>98
黒田がそんな話してたぞ。
俺たちの世代が子供時代にアニメで一休さん見せられたのは
この人のお陰かな? 世の中も薄ぺらくなったな。 デマって言うのは風説に対する物言いだろ?
東西王権独立論からすると源平交代論はあんまり歓迎されない
わけだな。 東西王権独立論は割と古い学説だな。戦後になって、東大閥が
邪馬台国九州学説を公言し始めたのと同じ流れではないか? 団塊よりも、今の主力世代の四〜五十代がポパイ君オリーブちゃんで
アタマふやけてて始末に負えんw
俺の同世代だけどな。 源平交代論があったと確実に言えるのは江戸時代以後ではなかったか >>102
え?
>東大閥が邪馬台国九州学説を公言
東大閥が邪馬台国九州説を推したのは戦前からと言うか、江戸時代後半以後の学統の延長だろ
明治維新で中心的だった一部武士もその学統に属してたから、明治政府の公式見解の延長のはずだが
戦後になってからなんてことはありえないだろ 源平交代論はどんなに古くても信長が台頭してきてからじゃないの?
べつに「東大(関東独立王国)vs京大(権門体制論)」の話は関係ないと思う 鎌倉末から言われてるんだって。もともと源平合い並びて天下を
収める云々とか。
足利尊氏ってやる気なさそうで好きだな。 一族の天下取りの予言を背負わされて、宿命は呪いに似たりで
性格は複雑になるし、信心も自ずと深くなる。
上宮太子に倣って十七条の式目を立てる。頭の中では常に祇園精舎の
鐘が鳴り響いてるタイプかな? 上宮太子(格好付けて聖徳太子とは呼ばない)は院政の元祖だからな。
後醍醐帝の目指した親政とは対照的だとも言える。 世阿弥も能の起源を上宮太子に帰させてるようだし、この時代は
それが当たり前だな。
交代論は黒田でなかったわ。今の歴史学会で最長老やってる人? >>105
万世一系の皇統の始祖が九州国にいただと? 貴様は足利尊氏かあ!
というのが戦前の雰囲気だろ。 尊氏が悪者扱いされ始めたのも明治末頃かららしいが。 明治の末に南北朝の正閏問題が持ち上がって、明治天皇の勅裁で
南朝を吉野朝と呼び換えてこれを正統と定めたわけだな。ここから
尊氏の評価が悪化した。昭和ファシズム時期の建武朝600年を機会に
尊氏バッシングがあって悪者の代名詞に使う流行りが起きたらしいな。
明治も今も皇室は北朝だろ。矛盾しまくりな世界。 昭和戦後に書かれた日本通史にはこういう話は当たり前に書かれ
てる。
元はと言えば家永三郎の『太平洋戦争』読んだら、戦時中の小学生の
思い出話に、日本神話のことを歴史として教えられたから「先生、
そんなの嘘だっぺ?」と子供らしい正直な感想をぶつけたら、教師に
「貴様は足利尊氏か!」と怒鳴られてゲンコツを食ったという
今にしてみたら笑い話みたいな逸話があった。この話を俺が単に
面白がって持ち出したのは90年代終わり頃で、そんな戦前のいかれた
風景はまだ遠い世界だった。つくる会のキチガイどもは既にうるさ
かったけど。 既に江戸初期の「太平記秘伝理尽鈔」では尊氏は無能な俗物扱いだからな 東洋文庫の「太平記秘伝理尽鈔」、続きはいつ出るの? >>118
日蓮宗の書いたものかよ…
土着御家人で地道だが兄弟揃って御歳暮嫌いで実直な高潔漢だろ。
尊氏は戦場では穏やかな自信に満ちた笑みを絶やすことがなかった。
夢窓国師と弟直義の禅問答集「夢中問答」は併せて読みたい。 直義は最初に朝廷一の儒学者を幕府に取り立ててるな。
家康もこの例に倣ったのか知らん。 >>117
明治維新で耶蘇解禁になって徳川期には暴君扱いだった信長が
忠君として持ち上げられ始めた時期だからな。
それでも維新以前の世界観というのは急激に何もかも変わるもの
でもない。 >>123
明治維新の中心的な立場を占めていた志士たちの大半は、国学系の新興思想を奉じていた
その関係で、志士たちの頭の中では「尊氏=逆賊」だったんだ
庶民はそういう人が多数派になったわけではないが、志士たちの間に限っては、尊氏逆俗説が主流だった
まあ、幕末に限って言うなら、尊氏の木造を徳川幕府に見立てたとみなす余地もあるが。
民間まで尊氏逆俗説が普及したのは明治以後の教育の結果だろ
本格的に広まったのはたぶん大正期 幕末の志士にも農民階級から開明派になった方は足利と縁組みしたり
してたらしいな。 これは死んだ婆さんの思い出話。
伊藤博文も農民出でリベラル穏健派だろ。 反動派の志士しかいなかったら首都が京都になってた。
その農民出の志士氏が大久保に東京を首都にするように進言した。 林羅山を中核にした徳川初期の儒学導入と足利一門の取り立ては
同時進行だな。
信長→秀吉→家康という継承関係ばかり注目されて、家康が
室町幕府を体制の雛型としたという観点は言われないな。 信長も秀吉も覇道ばかりな暴君で王道文治に欠けるから続かなかった。 家康の関東支配も鎌倉公方の正統的後継者の位置づけという面倒な作業があってのものだしな >>131
守護? 守護代だろ
武蔵の守護は上杉じゃんか そうそう、守護代理。家康の成功は室町体制を継承したことに
あったのでは? 乱世が好きな支配者なんてのは民衆からすりゃ単なる糞野郎だ。 後醍醐の失敗は、対外侵略を国内統一の手段にしなかったことだな。 >>135
皇統が実子に継がれたから満足、満足。てな感じだろう 後醍醐帝て建武の元号つかうあたり
光武帝の治世に憧れてたんだろうけど
結果的は王莽みたいになっちゃたな 神武にも天武にも被せてあるんではないか?
しかし、朝廷の繁栄の礎となったのは上宮太子にございます。
(-人-) >>137
王莽よりは、どっちかって言うと劉備のほうが少し近い気がする 出自血統の面で言えば、
後醍醐>尊氏>劉備 なんだよなあ。どっちになぞらえても、劉備よりは高貴の生まれ。
成果という面で言うなら、
尊氏>劉備>後醍醐 と言った方がいいんじゃないかな
劉備と後醍醐は逆か
尊氏は帝位に就いたわけじゃないけど(幕府の長であって、人臣たる征夷大将軍にすぎない)
それなりの期間にわたって安定する政権を打ち立てた。
後醍醐も政権は取ったけど、自分の一代の間すら保持しきれなかった。
劉備は帝位には就いたけど、天下を統一できなかったし、二代目のなかばで早くも消滅した
期間は短くとも数代にわたって存続できた点を重く見たら劉備より後醍醐の業績(出世度じゃなく、残した遺産の規模)の方が勝るとも言えるな >>141
室町幕府が「それなりの期間にわたって安定」?
もまえは何をいってるんだ >>100
あー、一休さんいいな。『少年徳川家康』とか歴史に題材とったもの
もっとたくさん作って欲しいわ この時代はピクニック気分で戦争してるよな
補給線なんてマジで考えてなさそう
北畠顕家なんて奥州から上洛して畿内で転戦してて草
しかも万単位の兵で >>145
顕家はかなり短期間で奥州から京にまで進撃しているから補給が苦しいのは
無理もない話だが、それ以上に問題化したのは守護による乱坊、横領など
戦争を理由にした組織的な行為が幕府内部の権力抗争につながった点で
特異と言えるだろう。 調べたけど、なんか後醍醐天皇って昭和天皇とは丸っきり正反対だな
あくまでの立憲君主に徹し、現実主義だった昭和天皇と比べて
自分が権力を握った政治を行うとして徹底抗戦した後醍醐天皇
そりゃ近代以降の天皇と
中世の天皇を比べれば違うのは当たり前なんだろうけど
仮にこの二人が親子関係で
第2次大戦を迎えていたら相当険悪な仲に成りそうなんだよな・・・
と言うか性格合わなさそう >>147
立憲君主に徹していたことが確認できるのは戦後の現憲法下だけだぞ
戦前戦中は立憲君主に徹していたってわけではない。まあ、政治権限自体は法律上はゼロに近いんだけど。 >>143
建武政権にくらぶれば、「それなり所でない期間にわたって安定」したと言える >>147
歌舞伎界の後醍醐天皇と昭和天皇は親子だな >>146
南朝だけで幾つ
【幕府】があったのやら そうでもないはず
北畠顕家が滞在した短期間を除けば、さほど差はない
顕家が西上したあと、こんどは幕府がわの斯波氏が勢力を伸ばしただろ
斯波氏の子孫は出羽の最上氏と陸奥の大崎氏。
もう少し経つと、こんどは鎌倉公方家の分かれの稲村公方・篠川公方が東北で勢力を伸ばし始めたことや、
この両公方家が滅んだ後、戦国時代には伊達氏などと争って大崎氏は滅亡してしまったが、それまではけっこう強い勢力だったしな。 鎌倉の奥州探題葛西氏といい
室町柵の上大崎氏といい
広すぎて守護がいない陸奥の国 >>153
そもそも「幕府」は左右近衛などの大将の家政機関の名称にすぎん。
統治機構なら幕府ではなく「公儀」と呼ぶべき。 >>156
出羽や陸奥の探題って他の地方だと守護を束ねる地方統率機関だよな
鎮西探題あらため九州探題と中国探題ってさ。
陸奥に関しては、室町時代末頃に伊達種宗だったか、陸奥守護職就任の例はある。
戦国時代ゆえの例外措置で間違いないな 他スレで聞いた内容なのですが、専門板があったのでこちらでもお願いします
南北朝に関して疑問があるのでお願いします
北朝第1代の光厳天皇がなぜ北朝第1代になるのか分かりません
南北朝とは同じ時代に天皇が二人存在した特異性を表すのだと思います
後醍醐天皇が存在するのに足利尊氏が光明天皇を擁立した、
あるいは光明天皇が擁立されたにも拘らず、後醍醐天皇が三種の神器を奉じて
自身の正統性を示した、つまり北朝第1代が光明天皇、南朝第1代が後醍醐天皇に
なるのではないでしょうか?
光厳天皇は後醍醐天皇が隠岐に流された後に鎌倉幕府の推戴によって即位、
この時は当時の慣習であった「両統迭立」によって、後醍醐天皇の次に
後醍醐天皇と違う系統の持明院統から光厳天皇が即位したわけで、
同時代に正統(だと主張する)天皇が並立したわけじゃないですよね
誰か解説を願います 南朝の創始者たる後醍醐帝が光厳の即位を無効としたのが契機かな?
南朝正統論によって歴代からはじき出されたという意味での最初が光厳だから。
南北朝時代が始まったのは明らかに光明からなんだけど、そうすると光厳の立場が宙に浮いてしまうって理屈じゃないかなあ。
それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、退位したことはないと強弁してるから、
光厳天皇在位時代も二人の天皇がいたことになってるしな。
ただ、隠岐配流時代に後醍醐帝が光厳は偽帝で正統な天皇は自分だと言い続けていたと認定するのは困難だと思うんだけどなあ。
(少なくとも、後醍醐帝が隠岐にいたときにも大覚寺統系の指揮系統が崩壊したわけではない……んだが、少なくとも後醍醐帝の手からは離れてるはず……) >>160
ありがとうございます
>>それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、
退位したことはないと強弁してるから、
他スレで質問した時もそのような返答を頂き、「なるほど」と思いましたが、
幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
という解釈の方が合点が行くような気がします
ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
後醍醐天皇としては即位以降一度も廃位も譲位もしていないという意識
だったのでしょうね
南北朝の名前の発端は北朝(京都)と南朝(吉野)に同時に天皇が並立した
ことを指しているので北朝(京都:光厳天皇)と南朝(隠岐:後醍醐天皇)
の時代を含むとおかしいと思いますが、そうなると仰るように光厳天皇
だけが浮いてしまうので難しい問題ですね
ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
三種の神器の他に何か根拠があったんでしょうか? 幕府とは、征夷大将軍の現地軍政を司る政庁を指す名称のことだから家政機関ではない。
たとえてみれば、GHQみたいなもの。 明治天皇は北朝なのになぜか南朝が正統になっているのが最大の謎 >>163南朝正当論なんて、太閤秀吉や家康の頃から言われてることだぞ
それで足利や近衛や細川が罰せられた試しはないし
翻って永享の乱の時 南朝はどっち派だったか言うと 喜連川藩主足利古河公方家祖 鎌倉公方足利持氏の傘下だしな >>161
>幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
>あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
>という解釈の方が合点が行くような気がします
幕府からの強圧で島流しになったんじゃなく、
先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
>ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
このあと何度も繰り返した、「明け渡した神器は偽物だ。オレは退位してなどいない!」の初回だっただけでしょ。
公的には退位してたのを、退位してないと強弁しただけと思う。
生涯で五回ぐらい? 退位してない詐欺を繰り返した人だからね。
>ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
討幕運動の精神的支柱となってた学派の共通理解が南朝正統論だっただけで、論拠というよりかむしろ信仰に近いと思う
そもそも室町時代後半から江戸時代初期までは南朝正統論なんて誰も信じてなかったぐらいだから、物証とか論拠とかは実在しないだろうと思うよ。 >>165
ありがとうございます
>>先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
形はそうでも、実際は幕府の圧力の影響は大きいと思います
>>ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
後醍醐天皇は何度か三種の神器のやり取りをしてますが、その時は現物3つを
やり取りしてたのですか?本物かどうかは別にして
仮に南朝が正統としても、北朝系の歴代天皇は神武以来の男系で繋がってるんですよね? >>166
>承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
責任者である後鳥羽上皇だけじゃなく、天皇も退位した。三上皇配流だぞ >>163
明治天皇にとっては
ご先祖様たる北朝 < 偉大な先輩の後醍醐南朝 だったんだろう。
尊敬できない自分の親 < 尊敬する先輩 は現代社会の一般人においてもよくある事。 少なくとも明治時代前段の頃の明治天皇は純粋な傀儡で、自分の意思を通す余地はゼロに等しい状態だったんだぞ
つまり、南朝正統説を受け入れたのも天皇の意思とは無関係ってこと。
倒幕派たちによる押し付けに過ぎないのさ。 日本史をおさらいで読んでるんだが新田を破ったまで読破した
この後足利はどうなるんだ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>163,>>169-170
明治天皇の裁定で南朝が正統に決まったっていわれれるけど
あれは別に正式に詔勅がでたわけではなく単なる閣議決定だぞ
そういえば最近も小泉だったか現職の総理大臣が
「女系天皇が今上陛下のご意志」だとかデマふかしたろ。
あれと大差ないと思われ。 >>171
太平記が岩波文庫から出てるぞ
新田義貞を破ったのが三巻の終わり間際
続き四巻は今月の発売だ 南朝って歴代天皇に数えるやつだろ
そんなこといったら神功皇后だって昔は神功天皇って呼んでたんだぞ 岩波太平記は期待したより注釈が薄くてがっかり
未完に終わった角川太平記の続編が欲しいわ 未完に終わった〜っても原本は
当時の足利将軍家が僧侶らを集め太平記を編纂させたもんだけどな これに対抗するものとしては北畠親房が関わった南朝正当記がある 神皇正統記?あれ後村上が即位したところで終わりやで 小学館「新編日本古典文学全集54〜58」の全4巻は一応全編現代語訳されている。
ハードカバーで一巻2.5センチぐらいの厚さなので通勤で読むというわけにはいかんが
本文が中段、訳文が下段で対訳は見やすくなっている。
ただし下段の1行文字数が本文に比べて著しく少ないので訳文だけ読み通すには
人によってはかなりストレスたまるかもしらん。
あと河出書房新社「日本文学全集8」が尾崎士郎の訳で出ている。
絶版だが日本の古本屋なんかで比較的手に入りやすいと思う。
ただし巻二十六の「妙吉侍者、進言のこと」の次の段で師直兄弟や直義がいきなり死んで
義詮が征夷大将軍に任ぜられたところで完結している。
田楽桟敷崩落以降の件はまったく出てこないので注意が必要。 小学館は天正本を底本としているので、いまいち扱いづらい。
流布本と区別して「天正本太平記」をタイトルとすべきだった。 神皇正統記、岩波文庫に入ってたような。
岩波文庫の太平記も長い絶版から立ち直って刊行途上だったっけ なに、南北朝時代が不人気の理由 2年目の後継スレってここなの? あのスレ最後に次スレ誘導張ったヤツはここに統合させたかったみたいだな
それがいやなら3スレ目たてて、ここに誘導貼ったらいいんじゃない?
そしたら、あの誘導は次スレ捜しのための仮の誘導だったことにできるかもよ あるいは「なぜ鎌倉時代、室町時代は地味で人気がないのか」というスレもある。
ここは南北朝時代について真面目に語り合う場だが、人気が出ない理由を語るのもいいんではないかな。 もうひとつ
南北朝時代を研究するスレ
ttp://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1305978417/ まあスレが乱立するのもあれだし、取り敢えずここを有効活用して、埋まってから建てるとかでもいいんじゃないかな ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>191
同趣旨でも、南北朝時代が2スレ目まで埋まりきったのと比べると、なお一層の不人気ぶりが泣けるな。さすが室町 室町、個人的には江戸なんかより面白いと思うんだけどなぁ… 戦国時代に突入してからは太田道灌→北条早雲→毛利元就→武田信玄→織田信長のコースで、
将軍家内の抗争なんかほとんど知られてないもんね。
足利義稙の本が出たのをちょっと読んだけど意外と面白そうなんだよな。 足利義稙の本ってあれかな、出版社はど忘れしたけどいろんな歴史上の人物(マイナーなのが多い)の伝記を刊行してるシリーズかな 戦国時代を、
斎藤妙椿→細川政元→木沢長政→三好長慶→明智光秀のコースで
語るのが本当の戦国通 と言える.
. >>198
中世武士選書、戎光祥出版だね。
南北朝時代では菊池武光、北畠顕家、新田三兄弟、高一族などがあって、どれもなかなか面白い。 >>200
あれ上杉定実とかあるからなw
貴重な出版社だよ、でも採算が心配 戦国しかも信長以降ばかりが売れてる中、鎌倉から戦国前期の武将を扱うのはすごいよな。
菊池武光はありがたかった。 てか鎌倉、室町が不人気の理由とかいうスレが立って範囲が拡大してるな
ぶっちゃけ俺は南北朝時代の話がしたいんだけどね 全国的にマイナーと言われる歴史上の人物の紀伝体って
複数出版されてても著者がほぼ同じってケースが多いのが難点
切り口とかスタンスが当然ながら同じになっちゃうんだよなあ >>199
戦国時代は地方史ごとの同時異空間をすべて網羅しないと真の戦国通とは言えんよ
甘い >>205
わかった。
尚円→蠣埼義広→種子島時堯→安東愛季→山田長政のコースで
語るのが、本当の戦国通と言える。 みなさんは南北朝・太平記関連の本を何冊持ってますか?
またお薦めの本があれば教えてください。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 >>207
「鎌倉・南北朝・室町」を知る本
日外アソシエーツ編集・発行 後南朝研究はもっと進んで欲しいな
あまり面白くないだろうけども >>211
でも資料はこれ以上出てこないのでないの?
後南朝関係の資料が今後出てくるとしたら、どういったところからなの?
熊沢天皇の子孫の家かネェww 母体は鎌倉御家人なのになんで京都に幕府を建てたのかが不思議 鎌倉時代の平頼綱や長崎円喜・高資への怨みが鎌倉幕府打倒の原動力になったのに
結局足利も外戚(上杉)vs御内人(高)となるのがなんとも >>214
名目上は、京都を敵対勢力におさえられたら敗北破滅だから
まあ、南朝との戦いの間に近畿在来勢力を配下におさめすぎて京都を離れるわけにいかなくなったとかだろ >>607
こいつは自演爺でしょ
具体的なこと聞かれると耳が遠くなる ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 だいたいどんな通史本でも観応の擾乱がはしょられすぎてて
建武の新政がはじまり失敗しました。
南北朝に分かれて尊氏が室町幕府を建てました。
直義と師直が争いました。
以下色々ありました。
話は義満まで飛びます。 >>220
古いものほど取り扱わない、新しいものは多少はベージを割いてる
という印象 太平記と名のついた本はほとんどが義満登場まで待たないよw
日本の歴史シリーズでようやく尊氏死後の南北朝争乱もある程度書いてるかな。 後光厳系が皇位をかっさらって長講堂領を接収した
よっぽど南朝や崇光系に大してコンプレックスがあったと見え
4代に渡って情緒不安定のキチガイが多いように感じるのだが >>213
後南朝は戦国時代にも活動しているんだから、その時代の文献があるだろ。 BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
縦笛の簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>215
今それ買って帰って来た。俺も読み始める。 なんか最近勢いがないから話題投下
後醍醐天皇って色々あれだけど非常に面白い天皇だよね
一人だけ生きてる時代が違うような 性格的には後鳥羽上皇も似てると思うんだが、後鳥羽上皇って負けたこと以外はほとんど知られてないのが難点だ 應永五年(一三九八)、崇光院の崩後、持明院統嫡流が傳領した長講堂領は
後小松院に沒收され、榮仁親王自身も足利義滿によって出家を強いられた。
皇位への望みを絶たれた親王は、一時、經濟的にも苦境に立たされたが
直仁親王[萩原殿]の遺領(室町院領)の一部を與えられ、また、舊領の
一部を還付され、主に伏見御所を居所とした。應永二十三年(一四一六)
には、室町院領・播磨國衙領を永代安堵すべしとの後小松院の院宣を賜わり
ここに、世襲宮家としての伏見宮の經濟的基盤が固められた。
いつしか御領の事どもさたありて、御百个日すぐれば、やがて
長講堂領・法金剛院領・熱田社領播磨国衙以下、ことごとく禁裏へ
めされぬ。あまりになさけなき次第、申せばさらなり。
しかれば忽に御牢篭のあひだ、親王やがて御出家あり。おほよそ長講堂
法金剛院領の事は、光厳院御置文に、親王践祚あらば直に御相続あるべし。
もし然ずば禁裏御管領あるべし。但末代両方御治天あらば、正統につきて
伏見殿の御子孫御管領あるべしよし申をかる。しかれども親王登極の
御せんどを遂られねば、力なき次第なり。
うーんこのクズ禁裏 >>227
後醍醐天皇って歴代天皇でも断トツの武闘派だね 自分で体鍛えて戦闘力付けたって点じゃ後鳥羽上皇も武闘派
安徳天皇が都落ちしたのと入れ替わりに即位した、もと幼少の天皇だっただけに、いろいろと思うところは多かったんだろうさ >>232
本人の戦闘力なら確実に後鳥羽だと思う
精神力なら後醍醐かな? 延喜の世を理想にとか言ってるけど実は中華王朝の統一者目指してるよね
諡号は後・醍醐より後・雄略がよかった >>236
まあ後宇多天皇の後に後醍醐天皇が来てたり、後村上天皇が続いてたりしてるのとか見るに、あそこら辺のは自分の正当性を主張する為にしてたんだろうな 天皇の諡号は通常は死後に追贈される。後宇多という名前を付けたのは後醍醐帝だろうさ
で、後醍醐という名前は後醍醐帝が生前から、自ら選んでいた諡号
そのあたり、後醍醐帝の思想というか意思が形になって残されてるんだろうな 宇多-醍醐-朱雀-村上と続くけど、後朱雀は既に存在していたから使えない
そう見ると後宇多-後醍醐-後村上と綺麗に繋がってる 庶家の白河結城は南朝方として大出世したけど
下総の本家結城はどうやって戦国時代まで生き抜いたんやろか >>241
下総の結城家は結城合戦で義教に滅ぼされたのでは? 義政の代になって鎌倉公方を再興したときごろか、
鎌倉公方が結城氏の遺児を取り立てて結城氏を再興した いやまあ戦国までと書いたのは悪かった謝るが
それより下総の本家は北朝側だったとか直義方だったとか終始鎌倉出張勢力に付いてたとかそういう動静を知りたかった というのも南北朝時代は混沌な印象はあれど
戦国時代とは違いまだ一族内で勢力を隔てるような動きはあんま見られない血縁観念が強かったように思えるが
結城は片方がゴリゴリの南朝方で片方なんか知らんけどは生き残った とはいえ、一族の中で惣領の座を巡って争うとかの分裂は広く見られるようになってきてるんだよな
相手が北朝側についてるからしかたなく南朝側につくとかいう形で(またはその逆)騒乱を深化させてた フルタテが新説に基づく忠臣蔵の実況て番組やってたけどなかなか面白かった
高師直と塩冶判官が一瞬だけ出てきたが南北朝の知名度が限りなくゼロに近いから話を広げられないんだろう 赤穂浪士たちが討入した季節って、12月半ばではあるけど立春の直前だよ
西暦換算で1月末だった 隠れキーマンの恒明親王について触れる向きが少ないのが惜しい 足利義詮が遺言で楠木正行の墓の傍らで眠らせ給えってかなり感動的な話なのに
ぜんぜん話題にならないね 集英社新書3月 神田千里『宣教師と『太平記』 シリーズ〈本と日本史〉4』
「戦国時代、訪日宣教師はみな『太平記』を読んでいた。
それは、この書物が当時の日本人の百科事典であり、絶大な人気を誇っていたためだった。
『太平記』受容を通して時代を分析した、革新的一冊。」
南北朝時代を描く本ではなく、南北朝時代を『太平記』を通じて知った戦国時代人の「歴史認識」から戦国時代を描き出す本。 ネトウヨのリアル知人の元英語教員が南北朝時代の意味すら知らないことにびっくりした
便乗ネトウヨはこんなのばっかりなのかな そもそもネトウヨは日本人じゃないからw
んでそいつらに南北朝の知識がある奴が稀にいると、
歴史の話よりも今の硬質に話題を持っていくという特徴もある。 >>257
>そもそもネトウヨは日本人じゃないからw
老婆も言っていたような なぜ老婆は詳しいんだろう
右翼だったか、ネット右翼のことだと思う
・朝鮮人みたいな奴だな
このような事を言っていたよ ネトウヨは北朝鮮系。祖国ではキムジョンイルに忠誠を誓うのが愛国だったから、
日本に来てもそのつもりで安倍晋三(つーか誰でもいいが総理大臣)に忠誠を誓うのが愛国だと思ってる。
老婆が見てきたのは戦時中の自称愛国者で戦争強硬派だけど自分は何もしなかったジジイたちを指していると思われ。 「右翼 朝鮮人」
検索してみると、そのようになっているでしょ?
老婆は、なんで知っているんだろう なんでもいいわ
スレ違いだから右翼の話は該当するスレでやれ 蘇我が物部を滅ぼし
天智天皇に蘇我が滅ぼされ
天武天皇が兄天智天皇を滅ぼし
藤原一族に天武天皇が滅ぼされ
院政が藤原を滅ぼし
平氏に天皇が滅ぼされ
源氏が平氏を滅ぼし
北条に源氏が滅ぼされ
足利が北条を滅ぼし
後醍醐に足利が滅ぼされ
南北朝 52年か53年しかなかった時代だよね
南朝が勝ってたら 日本の歴史はもっと良くなっていたかも
少なくとも雅子ゃ愛子はいなかったw 建武国家を標榜する連中が勝って良くなるわけないじゃん
戦前国家懐古のネトウヨかよ
愛子はいなかったかもしれんが雅子はいたかもしらん
あんたはいなかったかも >>264
スレチながらレスすると、蘇我氏は物部氏自体を滅ぼしたわけではない。
物部守屋とその関係者を倒して物部氏を蘇我氏の陣営に組み込んだだけだ
乙巳の変でも(天智天皇じゃなく孝徳天皇が主体だが)蘇我氏は滅んでない。
蝦夷・入鹿親子らは滅ぼされたが、蘇我氏そのものは存続していて、壬申の乱の頃にも大臣を出している。
蘇我氏にしろ物部氏にしろ、壬申の乱が起きるまでは相応の勢力を維持し続け、生き延びてるんだよ。
同様に。
院政が始まっても藤原氏はずっと生き続けてるし、平氏が天皇家を滅ぼしたなんてデタラメの極み。
まあ、全部デタラメってことだ
西園寺寧子をはじめて知った
大河ドラマに 出番がおばあちゃんでは無理か あー、ドラマティックだし半期もの大河とかで取り上げてくれると楽しいかもしれない
ほら、前に一回あったじゃん。半年ものと9ヶ月もの2期で2年3作のとき。
宮内庁が天皇を大河ドラマに使ってほしくないのかもなあ
南北朝時代をはじめ皇族の地位低下とかの時代を知らせ広めたら
崇敬が薄まるとか考えてるのかも 質問なんですが、足利尊氏の逆賊評価って著しく不当だと思うんですが、戦前や右翼はなぜ足利尊氏
についてそういう評価をしなければならなかったのでしょうか 尊氏は南北ともに手のひら反ししたけど、どの面さげてってどちらの朝廷も言わなかったの? >>272
後醍醐天皇を裏切ったのは尊氏としては仕方なかったことだと思う
でも後醍醐天皇に対抗するために「錦の御旗」として自分が擁立した光厳上皇や光明上皇たち(北朝)を
正平6年(1351年)に南朝に降伏したときに南朝に引き渡したのは逆賊扱いされても文句言えないんじゃないかな
光厳上皇・光明上皇・崇光上皇と直仁親王は南朝のもとで何年も軟禁されていたんだし
一般的には後醍醐天皇に対する逆賊として見ているんだろうけどね そんな昔の話を今の皇族が問題にするとも思えないけど、
いずれにしても南朝正統論で騒ぐ奴のせいで南北朝時代が語りにくいのは事実。 だよな
騒ぐのは皇族じゃなく一部の南朝正統論者だけだ
現皇族の祖先を皇位から遠ざけようと(詳しく言えば廃位しようと)頑張っていた、祖先たち(北朝の天皇たち)から見て逆賊である人々を尊崇するという、
むしろ敵対的な人々なんだよな。
なぜか宮内庁にも、その手の逆賊信奉者が紛れ込んでるらしいのが気になるが。 昭和十二年文部省の国体の本義も、いわゆる皇国史観の平泉澄も、
戦後国体護持の為に神社本庁作った葦津珍彦も南朝正当の立場だが もちろんそうだよ
皇統を絶やしたいんだ、とかアホなことを言う奴が居るからね 水戸学や国学の系統の宗教家たち以外で南朝正統論者っているのかね? うん、江戸時代以後のことはすべてスレチだよな
とうぜん、近世・近現代に展開された正閏論もスレチとなり 正平一統が破れ第二次八幡合戦が終わった後の流れを詳しく読める本があるといいな。
建武の新政から新田義貞戦死までが詳しく紹介されてるのに、
いくらワンサイドとはいえ九州以外の南朝の戦いもあるだろうに。 南朝全史でもそれなりには扱ってるけど、詳しくというほど詳しくはないな
現状、他にもっと詳しい本とかは、あるかどうかすら不明? 正平のあとに三度の京都侵攻があったから、それを掘り下げた書籍読みたいな。 >>271
関係ないけどWikipedia日本語版の日本三大悪妖怪は流石にアレだと思ったわ
酒呑童子と玉藻前のページに「日本三大悪妖怪である(出典元なし)」と書かれる→いつの間にか崇徳上皇を加えて日本三大悪妖怪のページが出来る
→Wikipediaをコピペして本に載る→それを読んで一般に広まる→ゲームや漫画を通じて海外にまで拡散
史実を元にドラマにするのはそこまで問題ないとは思うけど
こうやって悪妖怪とか捏造されて拡散されるのは嫌がりそう >>291
「北畠親房は顕家の父」と言ってるのと同じくらい説得力がありすぎ 何か、南北朝関連の読本が何冊か出され始めたな
応仁の乱の次は南北朝を推していくつもりか?
いずれも後南朝は見事にスルーされてたけど 俺が足利尊氏なら、後醍醐天皇が崩御したら、
天龍寺なんぞ建立せずに、大軍で吉野を攻め落とし、
後村上天皇を何が何でも捕える
あの時点なら南朝の畿内における確かな軍事力なんて北畠親房ぐらいだ
絶好の機会だった 北畠親房も宗良親王も吉野から東国を平然と往復してたりして、
沿道の幕府軍は何をしてたんだといつも思うわ 中国の南北朝は領土の地図があって
わかりやすいが
日本の南北朝で領土の地図を見たことがない 領土地図を描けるほど勢力が安定してないし面積的に圧倒的な差があるからなあ
南朝の領土が少なすぎることを明白にしてしまうと反発するやつが出るんじゃないの? 日本のどのあたりに誰がいて南か北か、くらいの地図はあるが。
勢力圏は線引きが難しいだろうな。 国単位じゃなく荘園単位、領地単位で南北に別れてるから図示するのも難しいよな
しかも寝返りも多く、特定の時期を区切らないと図示の意味をなさないし。(つか勢力地図の多くは何年時点の勢力分布で書いてるから普通だけど) 日本の南北朝は、天皇が2人いたっていうだけ
欧州でいえば、ローマとアヴィニョンに教皇がいたような状況だ
中国の南北朝は、国全体が南と北に分かれてたわけで、意味が違いすぎる 天皇が2人いたのは、両統迭立の話がまとまらなくなったのが原因 鎌倉幕府の終わりごろには「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という出来事がありました。
後嵯峨上皇は後継者を指名せずに亡くなったため、後深草上皇の流れを汲む「持明院統」と、亀山上皇の流れを汲む「大覚寺統」の二つに皇統が分裂してしまいます。
両者は皇位をめぐって争いましたが、その最終決定は幕府に委ねられました。
このとき幕府は、両党からほぼ交互に天皇を出す、両統迭立という妥協案を取りました。
しかし、この案に不満を持ったのが、天皇中心の政治を取り戻そうとした後醍醐天皇でした。
幕府の決定によれば、後醍醐天皇の皇子は皇太子に選ばれないということになります。
これを一つのきっかけにして、後醍醐天皇の討幕への動きが始まりました。 13世紀半ばには、京都・朝廷でも皇位継承権を巡る大きな問題が起こっていましたが、
その原因を作ったのは兄弟間で皇位相続をさせた第88代・後嵯峨天皇(在位1242-1246)でした。
後嵯峨天皇(邦仁親王)は、承久の乱(1221)に関係していた順徳天皇の系統を嫌った
3代執権・北条泰時によって天皇に擁立されたのですが、
在位4年で第89代・後深草天皇(在位1246-1259)に譲位して院政を行います。 このまま後深草天皇の子どもへと直系男子の系譜によって皇位が継承されていれば内部対立の問題は起きなかったのですが、
1259年に後嵯峨上皇は後深草天皇に『同母弟・亀山天皇(恒仁親王)への譲位』を強く迫りました。
この時には朝廷の政治(院政)は鎌倉幕府の強い影響下にありましたが、
第89代・後深草天皇と第90代・亀山天皇(在位1259-1274)は同じ母親から生まれた兄弟であり、
亀山天皇以降に皇位継承権を巡る対立が深まりこれが南北朝の遠因となります。
後嵯峨天皇(上皇)は、1252年に第三皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に皇族将軍として送っており、
崩御する間際には皇位と上皇位(治天の君)の決定権を幕府に委託していました。 東海林直人のゴロテマ日本史
持明院統と大覚寺統の覚え方◇
ゴロ]ボクは幸福かつ長寿命が/課題なんや
(北朝・後深草天皇・長講堂領・持明院統)(亀山天皇・大覚寺統・南朝・八条院領)
[句意]不幸で長生きしてもつまらない。ボクには幸福でしかも長生きが、課題なんや、という句。紛らわしい正誤問題では、一方だけ完璧で良いので、まず「課題なんや」を覚えることがオススメ。 解決済の質問
後深草天皇→持明院統
亀山天皇→大覚寺統
これのいい覚え方、または覚えやすいエピソードを教えてください。 ベストアンサーに選ばれた回答
後深草寿命がながい、亀山大不覚、とか。ちょっと古くてごめんなさい。 皇室御領の双璧は八条院領(鳥羽天皇の皇女八条院ワ子内親王)と長講堂領(後白河天皇皇女の宣陽門院覲子内親王)です。
前者は約230か所、後者は約180か所あります。
持明院統は長講堂領を、大覚寺統は八条院領を継承しました。
その他の所領を合わせると、両統の所領は拮抗しますが、やや大覚寺統が多かったようです。 もともと、皇室の荘園が2系統に分かれていたのがよくなかった。
荘園を兄弟で別々に相続したおかげで、深刻化相続争いが起きてしまった。
弟には、金銭で相続させればよかったのに。 >>302
キリスト教は確立期に五本山というの?5つの教会が並立する体制ができていて、ローマ教会はそのうちのひとつに過ぎなかっただろ
まあ、5つのうち3つは早期にキリスト教圏から離脱したが。
そんな中で総本山を自称したローマ教会は唯一性の面で多少の問題があったんだよ
まあ、残るひとつが正教会として、なかば別宗派のごとくになってたし、
カトリックの本山としては唯一ではあったのだが。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
KPVN9 >>306
その上さらに後には亀山がゴリ押しして自統の内部を更に分裂させてしまう 一休さんの活動全盛期って義満時代じゃなく義政時代じゃないの? >>315
>>316
一休宗純(1394−1481)
安国寺に入門したのが6歳で金閣寺の創建が1397年だから義満の時代が子供で正しい
変わり者ではあったが将軍相手にトンチ問答などありえない話 1481年って応仁の乱が終わったあとだよね、長生きだなあ 作家の海音寺潮五郎氏は著書「悪人列伝」の足利義満の章において、
後小松天皇は実は義満の子ではないか、と推測しておられる。
そして一休は後小松天皇の御落胤とされている(宮内庁公認)わけだから、
もしかしたら義満と一休は血の繋がった実の祖父と孫だった・・かも 架空の人物だね、wikipediaにも簡略な紹介がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/越前局
の中段、フィクション の項 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
UME 後醍醐とかいう時代錯誤の基地外がいなければ、鎌倉幕府滅亡後はどうなってたんだろうか 後醍醐がいなければ鎌倉幕府がもう何十年かは長続きしてるだろ 南北朝の熱い男の叫び!
それがバンデットだ!!
「勇んで三振 後醍醐天皇」(1334年 建武の新政)
子供ながらに失礼だと思ったわ・・・
https://pbs.twimg.com/media/DKWn7wPVoAAVPy5.jpg >>323
少なくとも室町幕府は成立しなかっただろうな
第二の鎌倉幕府が成立してた可能性ならある K | 2019年2月 3日 22:12 | 返信
それを言うなら、皇位継承の「空白の一日」も問題ですよ。
かつて神社新報は、「天皇退位の翌日に新天皇が即位する」との観測記事が
マスコミに流れた際にその一日の時間差を問題視し、『その間に皇位の空白(空位)
を生ずることになるから、それは断じて避けなければならない』と紙面で指摘しました。
記事ではさらに『御譲位と御践祚(即位)は、同日「直ちに」一連のものとして
おこなはれるのが当然であらう。』と強調しています。(平成29年11月13日・5面)
昭和天皇崩御の時は間髪を入れず、即日三種の神器の継承にあたる
「剣璽等継承の儀」が行われています。そしてそれは宮内庁のHPでも
「皇位を継承されたあかし」とか「ご即位直後の剣璽等継承の儀」と表現されていて、
1日の空白もなく瞬時に即位したことがうかがえます。
今回は悠々と翌日に継承の儀ですよね。誰がそんなこと決めたんですかね。
そしてその間、三種の神器は誰のものなんですか?
神社新報もその後この件に関しては沈黙してるみたいだし、不思議ですね。
江川の時みたいに、国民があっと驚く何かが起きるんですかね。
http://my.shadowcity.jp/2019/02/post-14714.html#comment-153895
空白の一日に秋篠宮が即位を宣言して、京阪奈京に脱出し、二人の天皇が
並立するのかも。秋篠宮は京阪奈京で政府を樹立、米軍基地による脅迫が無い
ことから、反米政策・反新自由主義政策を遂行可能で、国民の拍手喝采を
浴びて東京の政府が崩壊するというシナリオを考えた。 >>323
そもそも鎌倉幕府が滅亡してない
後醍醐は鎌倉幕府の寿命を五十年以上は縮めたはず 英政府と野党の協議決裂=EU離脱、首相早期退陣も:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051701133&g=int
英国のEU離脱、全裸で抗議=女性学者らの訴えが物議:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021800157&g=int
Brexit
http://vnbateman.com/brexit.html
前英外相の妹、生放送でセミヌードに ブレグジットで【動画】 - Sputnik 日本
https://jp.sputniknews.com/life/201902175931129/
EU離脱で合意が出来ると、英国海外領土のタックスヘイブンに隠匿された欧州王族などの
簿外資産に課税されることになる。それで国際金融資本の金融覇権が終わる。
その時点で、愛子内親王を女帝にして欧州王族の婿取りをさせて日本を彼らが乗っ取り、
米国の次の寄生先にするというシナリオに従ったふりをする必要もなくなり、今上天皇退位
で秋篠宮が奈良で即位となるだろう。一時的に二人の天皇が並立するとしても、そのような
例は過去に多数ある。南北朝時代が有名だが、安徳天皇と後鳥羽天皇が最初の例だ。
弘文天皇もあてはまるかもしれない。安徳天皇は三種の神器とともに壇ノ浦で女官に
抱かれて入水したことで有名だが、そのため後鳥羽天皇は三種の神器なしに即位している。
また、即位期間が2年間重複している。
「波の下にも都がございます」という祖母の言葉とともに海に沈んだ安徳天皇。
「徳」の文字は間違いなく悲劇的な最期を遂げた天皇や有力皇族(聖徳太子)の鎮魂と
悪霊封じが目的であろう。今上天皇は徳仁親王として「徳」の字を名に持っている。 >>1
南北朝鮮のことなんて語りたくねーよ
糞チョンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 北朝鮮と南朝鮮で南北朝(鮮)ってか
しょーもないネタではあるな 図書館で「南北朝」を検索ワードにしたら、確かに「南北朝鮮」がひっかかった。 世界的に言って、南北朝みたいな南北の争いってだいたい北が勝って統一されると言うが、
さすがに朝鮮半島は例外だろうと以前は思っていた
が、最近はまた微妙になってきたなあ そりゃ検索では引っかかるだろうけど
「南北朝」なんて小学生でも知ってるワードだろうと 中朝事実について語ってると「シナチョンがどーしたって?」とネトウヨがw >>335
ネトウヨは知らないだろう。
半島の歴史には異様に詳しいけどな、アイツらw 天皇、将軍、管領、守護大名の家督騒動(南北朝戦国)に巻き込まれたらひ弱なチョンコなんて生きていけない。 チョンに拘りを持つ馬鹿ネトウヨw
早く祖国の北チョンに帰れやw http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=333930
さて、話を戻せば、学者の世界では「初めて天皇と称した者」は40代天武天皇と言われるが、天武天皇は
新羅の文武王である金法敏。その息子の金霜林が百済を滅ぼし、九州に攻めて来て日本を支配し、彼の
息子の金良琳が初めて天皇と名のる!まずは、これを何度も言う。しかし新羅という国が内紛・崩壊し、
日本に逃亡していた百済の王族が、クーデターを起こし、天皇になる。初めての百済系天皇が50代の
桓武天皇である。
天皇は南と北の南北朝に分かれるが、
北朝天皇は新羅系
南朝天皇は百済系
北朝系天皇は侵略者が起源
南朝系天皇は亡命者が起源
である。 敵国新羅と属国百済しねよw
天皇はその二国の王位継いでねーよw価値がないからw >>344
父の後村上は後亀山に譲位したがってた節があるのよな しかも、その度に必ず揉めてるし。
それでいて、後宇多末弟への継承が阻止されるなど、必ず弟筋に行ってるわけでもない 後醍醐が仲の悪い息子護良親王を足利に殺させたのか
理由がいまいちわからん 護良親王を殺して後醍醐はこけた気がする
足利直冬を敵に回して尊氏はこけた それはあるかもしれん
しかし、反乱軍である北条時行らが万が一にも皇子を手中に収めて勢力を伸ばしてたら足利とて存亡の危機、あの段階では殺す以外にどうしようもなかったからなあ
後醍醐帝にとっては、足利の手の中にあるのと北条に擁立されるのと、どちらがましだったのかわからんなあ 北条自体が少数勢力の反乱だから護良が加勢すれば
大義名分がたってむしろ討ちやすかったはず 中先代の乱の規模、精強さを知らんのか
一時は関東を制圧して東海道も半分ぐらい抑えてただろ、もとの地盤の甲信あたりも含めて、相当な規模
北条家遺児以外に旗頭がなくてなお、足利(それも叛乱状態じゃなかった頃、体制側の)を圧倒した 南北戦えば北が大体勝つ
○ワシントンリー
○隋後梁&陳
○宋十国
○清順&後明(鄭氏台湾ふくむ)
○ベトコン南ベトナム 佐々木導誉は絶対的な存在だったのに
佐々木氏はなぜ管領に選ばれなかったんですか? 南朝=大覚寺統ではなくて、南朝=大覚寺統後醍醐流。
大覚寺統の傍系にすぎず、期間限定で中継ぎの皇位についた後醍醐帝が、
自分の子孫に皇位を継承させようと暴れていたというのが実態。
南北朝時代でも、後醍醐流以外の大覚寺統皇族のほとんどは北朝(持明院統)と共に京都にいた。 >>358
明王朝
国民党の北伐
明治維新の際の奥州征伐から五稜郭攻め 直冬の勢力範囲がいまいち分かりません
南部九州と山口県あたりと考えていいんですか? 九州直冬派は少弐と畠山だから、福岡と宮崎は確実だね。
大分の大友は日和見だから不明。
鹿児島の島津は畠山と仲が悪いので尊氏派だったり南朝についたり。
佐賀長崎の一色は明らかに尊氏派。 といっても、この時期の勢力図は国単位じゃなくて荘園単位で見なきゃならないからねえ…… あまりにあちこち勢力が分散してるから
九州は放棄気味にして関東を平定するとか
いや、尊氏の後期はそうなってたのかもしれないけど
なんか戦略がいまいち見えない >>342でほぼ正解だよ
俺的には第40・41代は実在する人物だが天皇ではなかった説をとる
つまり第42代文武天皇が初代
ま、そんなことどうでもいいやな
南北朝時代というのは南朝天皇と北朝天皇の争いだが
南朝は奈良の百済人天皇で、北朝は京都の新羅人天皇だ
「朝廷」は朝鮮の宮廷の意味らしいな
それが二つ、日本に誕生したということだ
実は、この2グループは宿命のライバルであり
日本列島上では1300年前から戦っている
それをなんで南北朝時代だけしか戦ってないように思わせているか分からないが
半島時代にも戦っていたし、半島に入る前からも戦っている
モンゴル→新羅→京都の北朝
ツングース→高句麗・百済→奈良の南朝
これは何千年にも渡る争いだ
争いながら日本列島にもつれ込んだ形だ
そして今はどうなっているかと言うと
南北朝の両方の天皇の系統は既に終わっているようだ
じゃあ皇居にいる奴は何者かという話になるが、あれは天皇じゃない
李氏朝鮮の李家が天皇家を名乗っている
系統的には南朝の親戚ぽい これだけ京都を攻められて落とされてるし
防御をしっかりと考えてほしい
まじでこの時代の建築技術は低いんじゃないかと思ってしまう >>372
地形が悪いのはよく聞くけど
京の外郭に城とか作れないのかな >373
簡易の城壁とも言える木柵で町をぐるっと囲んではあったと思うけど(少なくとも治承寿永、源平合戦の頃にはあったようだし、六波羅攻めのときにも柵があったようには見える)
守るべき城壁の長さに比して防衛に携わる軍兵が足りないので、城壁があっても防御力を発揮できないんだろう >>376
二条城は足利義輝からで南北朝の後
伏見城は秀吉 >>375
中国の史家が皇居の塀を見て
こんな低いので防御できるのかと驚いてたし
当時の日本の防御機構は弱かったんだろう 朗報 南朝が身近になった
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愛知・三重版 おとな 1,500円、小児 750円
愛知県・三重県内(赤目口駅以東)の近鉄電車が1日乗り放題 たけし「歌を歌ったり映画やる気力もねえや、馬鹿やろう」 昭和の思想、言論を総評で語る時に南北朝抜きにしたらダメだね
2.26事件とか亡霊・後醍醐天皇対昭和天皇みたいなもんだろ
後醍醐天皇は頭は悪いけど死んでもしつこいわ 圧倒的物質量で負けても思想戦で負けないのが後醍醐
後醍醐「やめへんでーやめへんでーやめへんでーーーー!」 尊氏が必死になって最大限の譲歩で和睦を呼び掛けていたのに
でもとばっちりで一方的に朝敵呼ばわりされそうな新田義貞にとってはそれがありがたかったのかも
新田はもともと尊氏相手に喧嘩する気もその兵力もないんだから尊氏に敵視される理由がなかった いそじん「早よ宣言解除して大阪いらっしゃい再開や
アベコロナで強盗ヘヴンやで
よっしゃ、よっしゃあ」 >>354
中先代の乱の時点では、北条泰家が旧関東も申次の西園寺氏と接触して光厳か花園上皇を擁立しようと画策していた時期だ
護良を将軍として擁立する構想はなかったと思う >>264
実は滅びてないというのがすべての始まりかもな 蘇我氏も物部氏も壬申の乱まではそれなりの権力を持った大豪族として朝廷の中心付近に残ってて、
天武が勝ったときに豪族としては滅亡してるんだよな
完全に族滅された訳じゃないけど、ここでほぼ滅んでる
天智の男系子孫は奈良時代末に光仁天皇が即位して、その子の桓武天皇が平安時代の安定期を作り出してるし
だいたいの政変で、全滅はさせられてないんだよなあ 伊勢の遷宮もなぜ行うかわからないままやっているらしい
実は20年に一度天皇を入れ替える約束だったとかなら
いまそのシステムはないも同然 日本の歴史で南北正閏論を超えるイデオロギー聞いたことない
なんか他にある?
南北朝時代だけの問題じゃなくて昭和まであるし
今も深く眠っているだけとも言える
あんま話すとスレチになるが 高校の時に日本史選択して受験勉強で氏っている程度の知識しかなく特に興味がなかった鎌倉幕府滅亡から足利義満による南北朝の争いの終焉
リアルタイムでは見ていなかったけどNHK大河ドラマ太平記が面白いという噂を見て最近観終わった
当時の権力者にしろ被支配層にしろそこまで南北の正閏に拘りがあったのか?というのがとても疑問なんやけど
後白河で頼朝を取り込めず後鳥羽では朝廷から仕掛けて北条に敗れ北条の求心力が弱ったタイミングで後醍醐天皇が現れ天皇親政を目指して決起
紆余曲折あって尊氏が担がれる状況になり北条討伐に向けた動きが生まれ後醍醐天皇と武家から東国支配の実行力を奪い権力権威の回復しようとする公家
尊氏を担いだ武家は元寇での恩賞なしを根に持っての反北条で朝廷がどうとか基本的にそんな視野からは動いてないような気がした
あくまでドラマを見て個々の来歴などをwikiで調べた程度なんやけどね
イデオロギーの面を真剣に最優先事項にしていたのは後醍醐天皇と北畠親房ぐらいで他の人は自分の利権の為に南朝側だとか北朝側だとか言っていたに過ぎないように思うんやけどどうなんや?
高師直の評価もこの30年ぐらいで大きく変わったようやしこの辺りの話を門外漢にも理解しやすい本てないんやろうか? 太平記の再放送終わっちゃったな。
面白かったし、南北朝の泥沼感もよく出てたよね。 >>395
足利尊氏を賛美する発言をして辞任した大臣もいたな
南北朝正閏論は完全にポリコレになっていた
湊川神社の前を市電が通るときは、いったん停止して乗客は最敬礼していた 500年後に明治天皇を屈服させる後醍醐天皇、南朝方
ただ別に今の皇室は北朝のままなので・・・まだ終わってないなw
十字軍よりしつこいです 鎌倉の鎌倉宮、大塔宮(祭神:護良親王)を建てさしたのは明治天皇なんだよなー 【 『暴君獨裁者』の『後醍醐帝王』に付いて 】
:
※『帥宮尊治親王』は、
『大覚寺統』の『分家』の『皇族』で、『醍醐天皇陛下を尊敬』して行て、
『邦良親王殿下』の『代理で即位』したら『後醍醐だと名乗った人物』です。
※『帥宮尊治親王』は、
『大覚寺統』の『邦良親王殿下』の『代理』で『即位』したら、
『日本帝邦に戰亂を勃発』させて『鎌倉幕府執権を打倒した後』は、
『建武の新政』をして『暴君獨裁者』に成りました。
※『帥宮尊治親王』は、
『光嚴天皇陛下』と『足利又太郎高氏公』に『敗北』して、
『逃亡先』で『南朝』を『建國した皇族』ですので、
『歴代天皇の地位』から『追放』して『叛逆賊徒だと認定スルベキ人物』です。
:
【 令和四年(2022年)三月十八日 】
【 羽床ゲオルギコフ 】 【 『九州探題・今川了俊貞世殿』に付いて 】
:
※『三河國幡豆郡今川郷』の『今川了俊貞世殿』は、
『九州探題』に『補任』された後は『松浦水軍の協力を得る事に成功』して、
『佐賀縣小城郡牛津町大字乙柳』を『本拠地』に、
『南朝の征西府』を『討伐』して『九州地方を統一された手柄』に拠り、
『遠江今川氏』の『初代』に成られました。
:
【 令和四年(2022年)三月十八日 】
【 羽床ゲオルギコフ 】 932 本当にあった怖い名無し (ワッチョイ fd92-EOzK [106.73.34.192]) [sage] 2023/02/07(火) 22:35:15.95 ID:0JX6MBPF0
日本の南北朝動乱は、九州まで持ち込まれたやろ。
南北朝合一の明徳の和約は1392年、李氏朝鮮の始まりも同年。
海外を回っては現地を調べ上げてきた耶蘇会から見れば、
誰と組むと今の強固な現地秩序を覆してコントロール下におけるかと考えて当然。
信長と秀吉は平朝臣を名乗った。家康はどうしたか。 後醍醐天皇は、正統なる天皇が所持しているからこそ三種の神器の正当性が確立される旨のことを言って、明け渡した神器は偽物で自分が持つ方のが本物だのした
その一方では、自分の正統性の根拠の1つに、三種の神器を保持している点をおいた
ならば、南朝の保持する神器の真贋の根拠は循環論法でしか保証されておらず、要するに本物ではない
正平一統の時に本物を回収したから本物を保持するようになっただけだよな、それまでは、つまり後醍醐帝の後半から後村上帝の前半までは本物の神器など保持していない
南朝の正統性だって、光厳の正統性を否定するほどには強くない
しかも首都を失陥した亡命政権で、官僚もろくに揃ってない 来年の逃げ上手の若君のアニメ化でこの時代の注目度があがりそう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています