宮本武蔵 北条早雲 岡山出身
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同市、戸山城、旧指定史跡にも関らず地元の人に聞いても、誰一人知らん、との事、さすがに寺の住職は知ってた。当然登山道もないが、石垣、土橋など山城の形態をよく残す。常山合戦の折、落城とか 中世城は町が発展するに、大きく関る物で現代の町々の礎なのに、ろくな調査もされず、毎年無残に破壊されつずけてる、城から時代背景を考察できなくなる。保護するにも戦国の城を皆知らない、嘆かわしい 歴史語るのは、本に頼るのもいいが、自分で現場を歩いて自分の見識を織り交ぜて語らなきゃいかんよ >>70
犬養毅は桃太郎の犬の末裔なんだよなw
正確には桃太郎のモデルだとされている大吉備津彦に仕えた
犬飼部、犬飼武が桃太郎の犬のモデルとされ、
犬養毅はその末裔だそうだが。 奈良で活躍した吉備真備の銅像が今も皇居の堀の脇に立ってるけどなぜ? 本で得た知識を偉そうに開けかすのはよいが、実際に現場を歩いて自分の見解を持たにゃいかんよ、本が真実を語っとるとは限らんのじゃから >>74
現場の捏造意見よりは論文ひいては古文書の方が正しいよ。 情報は生のままでは役にたたないものなあ。
分析、評価する人間がいないと。 学がない人間は学者に学説を聞いても理解できないから、都合のいいものを選ぼうとする。 本に頼るのもよいが、現場を歩きゼロベースから自分の考えを構築していかにゃならんよ、机上の議論じゃいかんよ。素直さをもたにゃいかんよ 瀬戸内市の智間城、確かに人口的な削平はあるが、よく見えてこない。山裾を昔は川が流れてて、智間氏が監視をしていたとか,冬の山城シーズンが終わり山城報告が困難なため少々控えます、ご了承ください。 早雲が縄張りした言われる井原市の米持城、切岸は見事だが少し崩落しかけてる、まあ切岸だけでも削るのも当時は大変な労力じゃな 早雲が縄張りした米持城、単郭だと思えば、採掘で破壊されたらしい、早雲が現代に残した貴重なものを簡単に壊すなんて、、悲しいのう 出来る奴はみんな出て行った・・・・
結論、今の岡山にはカスしかいない。 大平首相の有名な言葉
「東京に三代住むと白痴になる」 宮本武蔵は兵庫出身だろう?
たぶん、太子町か高砂市のどっちか。
岡山出身説が出回ったのは、吉川栄治の小説の中だけ。 宮本武蔵の五輪の書って白いノートの事じゃないのか? 広島で被爆後に患者の治療を続け、著書「ヒロシマ日記」を通じて原爆の悲惨さを国内外に伝えた岡山市出身の医師、蜂谷道彦さん(1980年に76歳で死去)の足跡を伝える特別展「Dr.ハチヤの功績とその意義」が、生家に近い北区の津高公民館で開かれている。 吉川英治が小説にする前の宮本武蔵はどんなイメージだったんだろう
もしかして誰も知らない無名の存在だったんだろうか >>102
違うわw
江戸時代から剣豪として大有名。
勝海舟の氷川清話にも出てくる。
吉川英治が無学なのがわかるのは武蔵は幼少から「たけぞう」と呼ばれていたという大嘘。
幼名が権兵衛だか田子作だろうと有り得るが、「たけぞう」だけはあり得ない。
あれは〜〜武蔵守、〜〜武蔵介の「武蔵」。武蔵=「武蔵の国」を現しているんだから。
もうアホ丸出しとしか言えんわw >>102
真田幸村と同じく講談で語られるスーパーマン
実在の人物というより、伝説の人物って感じだろう
だから、いろいろ話に尾ひれがついた
しかし、現実には一生浪人で終わったショボイ人物
だから、どこの馬の骨ともわからんってことでも何も不思議ではない
ただ、大名がスポンサーになってくれたりするんでただ者ではないとは思うが、
そも作庭とか町割りとか絵画の才能の方を買ってるようなんで、一種の山師だったんじゃないかな? 岡山のスレで武蔵の話をするのは無粋だが…。
>>103
吉川英治は当時としては武蔵についての資料を結構集めてたのは、随筆宮本武蔵を読めば解る。
ただ、あんまり史実を反映した、あるいはそのままのことを書こうって気はなかったらしい。
あくまで武蔵を題材にした小説を書いたってこと。
随筆宮本武蔵には武蔵についてあちこちの資料から話を引いてるので、武蔵=たけぞうはわざとだろう。
>>104
武蔵が浪人だったのは確かだが、養子が本多家、小笠原家に仕えて大成しているという時点で武士としては勝ち組だと思う。
というか、養子を三人共本多家、小笠原家の殿さまの近習…将来の幹部候補にできるのだから、どんだけ武蔵は殿様たちに信頼されてたのだ…。
伊織は近習として使えてた者を武蔵の養子となったという説もあるが、いずれ武蔵はただものではない。
そんな武蔵なら仕官することも容易かったろうけど、していない。できなかったのではなくて、あえてしなかったのだろう。
仕官運動をしてできなかったというのは、ああいうのは基本、後世の創作だし。
最終的に姫路の宮本家は三百石、小倉宮本家は二千石となったのだから、相当なものだ。 宮本武蔵は名前で得をしている。
宮本河内とか
宮本長門とか
宮本尾張だったら
ここまで人気者になってない。 もちろん講談のスターであっても吉川英治がブーストかけて人気ものにしたのは、事実、読み物として大変面白い。
歴史小説家なんて、知っててサービスで色々やってるだけだから嘘っぱちって言っちゃうのは、恥ずかしいですよ。
文学と歴史を混同してる。 >>106
吉川英治も最初に兵庫の宮本村訪ねたんだが、地元の神社の氏子総代が武蔵にはなんの興味もなく
けんもほろろに追い返されたんだそうだ。
よもやそのせいではあるまいが、ちょうどその頃に村おこしみたいに岡山の宮本村があれこれやってたので
そっちにのっかったらしい。 敵の名は宮本武蔵、という小説が面白かったんだけど
ネットで感想をあさっていたら
「吉川英治の宮本武蔵は作られた英雄像でしかない。
本書で真実の宮本武蔵を知ることができた」
みたいなのがけっこう多くて草生える。
いや、ベクトルが違うだけで、どっちも創作だし。
むしろ、敵の名は宮本武蔵、の方が伝奇色濃いめだし。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
EN44T 武蔵は端境期の人だな
武蔵以前の世代は実戦で活躍して
以後の世代は武術を教えることを仕事にした 五輪書と播磨鑑を信じて、太子町の宮本村説がいいなぁ
美作説の東作誌は、作者が胡散臭い感じがする。
高砂説はもはや根拠すらないんじゃない? 高砂説の根拠は宮本家の家系図から、
武蔵が伊織の伯父であると書かれているのくらいしか資料ないんじゃないかな。
あれはどうも後世に適当に作られたものっぽい。
播磨鑑を信じるのなら、少なくとも播磨鑑が書かれた当時には武蔵と伊織に親戚関係があった
という伝承は田原家にはなかったみたいね。
東作誌はアレだな、世間的には知られてない伝承を聞いて舞い上がってる素人郷土史家みたいな感じ。
資料をまとめているうちに幾分か冷静になって伝承に整合性がないと疑義を述べているのが微笑ましい。
そういえば美作説だけど、あそこに宮本村ができたのは確かに武蔵の死後だけど、
武蔵の生前にもすでに宮本とついてたと主張している記事があった。
確かになんかあるみたいだけど、その資料にも美作と書かれていて、
どうして武蔵はここを播磨国と書いたのかという疑問は深まるばかり。
確かに播磨にほど近くはあるんだが。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
OND 597 人間七七四年[] 2018/11/17(土) 00:55:03.77 ID:12BHW4Sj
宮本武蔵、は存在していない
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