高杉晋作の方が坂本龍馬より、ずっとすごい・2
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龍馬が、最近、やけに騒がれているけど、
別に龍馬がいなくても、明治維新はあったと思うが、
高杉がいなかったら、明治維新は、絶対、なかっただろ。
第二次大戦の勝利は、ルーズベルトやチャーチルの指導力でも、
実際に戦争を指揮した参謀の功績でもなく、連合国の間で調整役を果たした外交官のお陰。
名前は知らぬが。
関ヶ原の勝利は、徳川家康の戦略性によるものではなく、家康と各戦国大名の間に立ち、
東軍を取り纏めた家臣のお陰。
そんな偉い人物のはずなのにやはり名前は知らぬ。 大阪城を造ったのは豊臣秀吉ではなく大工さんという話に似てる。
こっちもやはり大工の名は知らぬ。 高杉って英雄視されてるけど、日本を分裂させ滅亡の危機を生んだ反乱勢力のまま死んだ人
分裂状態を収束させるため、いろんた人達が努力して日本の滅亡を回避したんだな
でも、高杉がいなかったら、明治維新がなかったのは事実 やらせA 就活中
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/3/1/31a6f8e6.jpg
やらせB 就職後
(p)http://livedoor.blogimg.jp/jin115/imgs/2/b/2b790359.jpg
世論調査もこんな感じで捏造してます
東京にある6つのキー局の内、製作から財務まで一貫して朝鮮人が行ってるテレビ局が1つ
中国共産党から毎年大量の反日工作費が流れているテレビ局が2つ
もろに北朝鮮と繋がっているテレビ局が1つ
年寄はまだまだテレビという外国人に騙され続ける
オレオレ詐欺なんて年寄がどれだけ騙されやすいかという社会実験でしかない
馬鹿はいつまでも騙される そうかなあ薩摩の兵力だけで??
まあ、それはともかく、徳川幕府が続いて士農工商のままでちんたら
やってたら、植民地になっちゃったのかねえ? 士農工商は学校で習ったような厳格な身分制度ではなかったけどな >>3
豊臣の力と大工たちの技術が揃ったからこそ大阪城が出来たんだよ。
大工のみの手柄とするみたいなのは一時代前の進歩的文化人とかいう、
サヨク趣味の言論人がよく言ってた理屈だ。
長州が幕府軍15万を完全撃破した事実がなければ、
あんなに短期間に徳川幕府は消滅しなかった。
四境戦争は長州にとって厳しすぎる条件戦。
4箇所のうち、一箇所でも幕府軍に突破されたら、
長州は、山口、萩を失った。
しかも、長州軍4千に対して幕府軍15万とか、
戦力差がすごすぎ。
高杉は、小倉口、大島口でよく戦ったよ。
ところで、四境戦争の時、桂は何してたの?
普通は、総司令官が桂、参謀長が大村と言う布陣だろ。 百姓が米作らんかったらこいつら全員何も出来なかったわ
高杉が長生きしても、明治新政府では役立たずだったはずとか
いうヤツいるけど、そんなことわからん。
ただの戦(いくさ)バカって、ほどでもないだろ。 吉田松蔭が久坂玄随と並べて人物評価していたんだから凡人ではないな。
松蔭が高杉の才能を見抜いて、勉強嫌いの高杉の尻をたたくため、
松蔭が、高杉の前で、敢えて、久坂ばかり褒めていたとかの話は
よく聞くけど。
高杉の戦闘力はすごいが、政治力もそれなりだったんじゃね。
やはり、武市もだけど、もう少し長生きさせたかった志士の
一人だな。 まあ、高杉が凄い事は分かるけと、絵どうの戦い近辺で
組織の統率や戦略においてはすでに山県の方が優ってるのな。
山県の戦闘能力は微妙だな。事例が少なくて何とも言えん。
日露戦争でも、飾りだけの参謀総長だったし。
政治的には、明治になってからの山県を見ていると、国家全体の
将来像を描けていたとは思えんけど。
かと言って、世間で言われているほど、藩閥政治の悪玉とも思えんけど。 軍人・指揮官としての能力は高杉の方が上だろうが、商人・組織力では竜馬が上だな。
でも、龍馬は、基本的には薩摩のパシリに過ぎないからね。
別に龍馬が嫌いなわけではないが、明治時代のバカな
新聞記者のお陰で、龍馬は過大評価されすぎ。
龍馬の代わりになるヤツは他にもいたと思うけど、
高杉の代わりになるヤツはいないだろ。 ヲタが龍馬を引き合いに出して踏み台にして持ち上げなければいけないほど
ければいけないほど高杉はしょぼいってことね 長州なんて自滅させとけばよかったのに
竜馬の罪は重い 長州が滅び、薩摩も沈黙し、幕藩体制のまま諸外国の侵略
に立ち向かうのであったw(もちろん、参勤交代とかやりつつw) 佐久間象山は欧米風の馬に乗って拳銃をぶら下げサングラスかけて西部劇のような格好で京都市内をうろついていたらしいな。
攘夷の志士に殺されたかったのか。
洋風の鞍じゃなかったか?
サングラスは松代でじゃないの?京で? >>30 どこでサングラスかけていたのか、読んだ本には書いてありませんでした。
鞍だけが洋風でウマはどうだったのかも知りません。
開港した途端に色々なものが怒涛のように入ってきたようですね。 そもそも坂本が維新に影響を及ぼしたというのはファンタジーでしかない。
薩長同盟も西郷と桂の仕事で、薩摩の倒幕方針に則って結ばれたものだし、坂本の説得力が功を奏してやっと同盟できたとか頭悪すぎ。
幕府サイドからみて志士たちに影響力のある中岡慎太郎のとばっちりでついでに暗殺されたと考える方が自然だし、土佐藩はともかく、幕府は坂本ごときに関心すらなかったはず。 ↑と坂本と永井が何回も会談したことを知らないアホが申しております あの時点で薩摩とは路線が違うんで龍馬矮小化したいなら土佐の犬では?
まあ、永井本人は後藤より上だとか日記で言ってるが。
∩___∩ 高知を愛する皆様へ朗報。
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http://土佐.biz 公武合体などじゃなく、倒幕が成されたゆえの明治維新、新政府。
その最も重要だった倒幕の原動力は、薩摩長州の藩が動いたこと。
だから維新三傑なんだが、藩を動かしたという事でいえば
明治維新のハイライト、功山寺決起の晋作を入れて維新四傑だ。
勝負どころで敢然と起った晋作はすごい。
竜馬は高杉から貰った拳銃を寺田屋でぶっ放して一人殺したんだったな。
四国艦隊の下関砲撃のとき、高杉が談判でいらんこと言わなければ、
彦島が英国の租借地になって、下関は今頃、東洋のホンコンになってたのにな。
惜しいことをした。 >>39
その話は伊藤の勘違い、もしくは吹かしの可能性がある
伊藤の回想以外、彦島の話が確認できる文献が無いらしい >>39
何いってんだ
当時の日本は列強との間に片務的最恵国待遇の不平等条約結んでるんだから
一箇所租借地認めてしまったら、他の土地、他の国との租借も断われなくなるわ
資金に困った無知な蝦夷共和国がプロシアと広大な土地の租借契約を結んだせいで
後に新政府が大金払って買い戻すはめになった 主権もなく、公用語として英語を押しつけられ、香港ドルを使わせられる
東洋の香港になんか別になりたくもない 東洋のホンコンになって、英語が公用語のバイリンガルになってた方がよかった。 高杉は上海の租借地でシナ人が奴隷扱いされているのを見学したからな。
あんなものを作るとろくなことにならんと認識していた。そこがシナ人と違うところだ。
われわれは時代劇で現代人が演じるドラマの中の江戸時代人や、
浮世絵とか錦絵の中の美化されて描かれている江戸時代の男女、
さらには勝海舟とか桂小五郎とか徳川慶喜みたいなイケメンの写真から、
江戸時代の日本人をイメージする。
しかし、大多数の庶民は戦後しばらくまで、現代人よりはるかにブサイクだった。
幕末明治の古写真に見る普通の武士や庶民は、時代劇のそれよりはるかに薄汚い。 高杉も龍馬も現代人から見ると、平均以下の顔だな。
幕末人でイケメンなのは、慶喜、海舟、小五郎、山内容堂、松平容保あたりか。 >>45 まるでアフリカの土人かと思うような朝鮮人に比べると戦前の日本人の方が近代人に見えるがな。
>>43
お前みたいな売国奴が目先の金に目がくらんで新潟や名古屋の土地を中国に売ろうとしてるんだろうよ
350億つまれても売らなかった尖閣諸島所有者の爪の垢でも煎じて飲みやがれ >>43は朝鮮人のような奴隷根性だな。
そんなに宗主国が欲しいか。 つーか東洋のホンコン()ってw
ホンコン自体元々東洋だろ 戊辰のとき徳川慶喜が内戦放棄した決断が一番でかいよ
これがなければ、高杉なんて日本を分裂させて植民地化に追い込んだ大戦犯として
1000年くらい罵倒され続けた筈だ 日本列島がなければただの太平洋である日本海を
東海と呼べなんていう馬鹿丸出しの主張をしてる民族だから
香港がどこにあるか知らないんじゃね? 部下見捨てて妾と側近だけ連れて夜中にこっそり敵前逃亡したチキン慶喜か >>46
豚一や容保がイケメンに見えるって、どんだけお前はブサイクなんだよ
幕末でイケメンといえるのは桂と土方くらいだろ
豚一なんてせいぜい中の下 まあ、慶喜の保身術はレベル高いと思うけどな、とくに明治では。
やたら切腹しすぎなのは江戸時代の悪弊。
どれだけ有為の人材が無駄に死んだ事やら。 >>54
天皇から節刀まで受けて大言壮語吐いておきながら
小倉城が落ちたと聞いた途端「やっぱ、やーめた」の情けない人ですからw >>55
小松と黒田もイケメン
ついでに明治初期だが東郷と桂太郎の若い時の写真は超美形
奇跡の一枚である可能性もあるがw 小松と黒田はフツー
東郷の若い頃は確かにイケメンだな
桂太郎は生え際の後退した小太りのおっさんになってからの画像しか出てこないんだが つか頭爆発してるみたいな黒田の画像が出てきて吹いたww
ザンギリというより連獅子みたいなんだが 薩長をまとめ西洋の最新兵器を供給し最強の倒幕軍を作ったのは坂本龍馬。更に船中九策で明治新政府の基礎を作った。暗殺されなかったら初代大統領だな。西郷、大久保、木戸より偉い。 三岡八郎なんかもそこそこやってるよ
名前は知られてないけど龍馬と同じ銭を知ってる男 日本を分裂させて滅亡させようとした人→ 高杉晋作、小栗忠順、松平容保、榎本武揚
日本の分裂・滅亡を回避しようとした人→ 坂本龍馬、島津斉彬、松平春嶽、勝海舟
高杉の腹の座り方は、尋常しゃ出来ない!
( ̄∀ ̄)
>>69
おいおい、日本はいつから大統領制になったんだ?w >>69
こう言うヤツって、小説家の大嘘本ばかり読んでるバカ。
日本史板って、本当に敷居が低くなった。 >>69 竜馬も晋作も政治家になる気は全然なかった。 >>69
天皇がいるのに大統領制はないわ。
龍馬は徳川慶喜の権力温存に好意的だったともいうし。
>>77
政治家になる気がないなら何をする気だったの?
>>78
高杉はずっと留学したがってた
龍馬は「これからは世界の海援隊でも、やりますかな」
要らなくなったピストルを高杉は龍馬に与えた!
龍馬はそれが一番嬉しかったみたいだ!
なんとなくだけど、高杉は歌とか趣味じゃない?
やりたい事とすべき事は分けてそうなイメージ。 多分、洋行させてくれって言って
海外にいってしばらく帰ってこないんじゃね
晋作の日記見ててもそんな感じがする
凄く洋行したがってるし、上海に行って外国人と話す事ができなくて
「次に会うときまでは英語を勉強して話したい」って日記に書いてるし 俺的維新四傑 西郷隆盛 大久保利通 吉田松陰 高杉晋作
このうち誰か一人が欠けてたら明治維新は無かったでしょう。
坂本龍馬 桂小五郎 岩倉具視 三条実美は結果として役に立ったが
居なかったとしても、少々遅れるかもしれないが維新は達成できていたろう。 >>84
「翼(よく)あらば千里の外も飛びめぐり よろづの国を見んとしぞ思ふ」の人だもんな 西郷大久保木戸岩倉は誰が欠けても維新は別の形になったろうが
高杉坂本は変わりになるのがいる
正直、高杉の決起より赤根の路線の方がうまくやれたんじゃないか 新撰組と密会し、幕府の大目付の随行員になってノコノコ帰って来たものの
誰にも相手にされなかった媚幕の赤根さんかw
怪しすぎだよな
その上、状況が落ち着くまで他藩にでも潜伏してればいいものを
よりによって生まれ故郷の島に隠れてたところを見つかってあっさり捕縛
馬鹿としかいいようがない
何でそんな真っ先に探されそうな場所に隠れてたんだろう
>>91
人望が無いので、かくまってくれる人がいなかった。 >>89
幕府の犬路線で、幕府延命させてどうするw
維新の妨げにしかならんだろ >>89
その代りにならない木戸は高杉が決起して藩の政権を取り返さなければ
出石から帰ってこられなかったのだが? >>79
世界の海援隊で国際貿易って夢が広がるね
でも龍馬って商才なかったんでしょ?
社中も赤字だったとか
ちょっと心配・・・ >>79
龍馬は日本の政治を動かすために自前の海軍を作ろうとしてたんだろ
物資の運搬で利益も得ていたがあくまでも政治目的であって
商売で儲けたかったわけではない
高杉は留学した後、どうする?
留学ではお金が出ていくばかりで収入がない。
彼も自前の陸軍を作りたかったのであってやりたかったのは政治家か軍人。 吉田松阴は馬鹿
留魂录を作
正气歌を唱
幕府の刑を受
あの龍馬は日本各地連絡の外交家
胜海舟の思想を继承
明治维新の基础を筑
高杉は日本のナポレオン
源氏出身の倒幕派军事统领、
军事、谋略 两全の雄才
奇兵隊を徵招 幕府兵を击敗 >>89
龍馬が造った新政府の役人名簿案に龍馬の名前がなく、不思議に
思った西郷隆盛が聞いたところ、「わしは役人にはならん。世界の海援隊
でもやりますかいのう。」 と答えた。 >>100
いいゃ
自分のタイピング,少部分はコピペ >>103
もしかして日本人じゃない?
翻訳ソフト使って書き込んでる?
よく見たら誤字じゃなくて、中国の簡体字なのかな、これ?? >>105
はい、私は支那人
誤字はコンピュータの字库の出错
吉田松阴
吉田松荫 ??
私は日本语苦手。
日本语勉强中。。。
>>106
そうだったんだ
日本語だと 吉田松陰 だけど、簡体字だと出ないのかもね
でも、そう思って読めば、>>99でも、だいたい意味わかったよ
日本語だけじゃなくて、日本の歴史も勉強してるの?偉いね
支那でも、松陰と龍馬と高杉は有名?
「海援隊」は「土佐藩」の下属機関であって、あれで日本の政治動かせるようなものじゃないだろ >>107
はい、はい、
私も日本史の苦手
支那に、龍馬と高杉は妇孺皆知の人物
维新以前、龍馬と晋作か千龍丸を乘、上海に到着しました
今に、大河剧《龍馬传》も多くの人々が見る
吉田松陰の知名度が相対的に低い
龍馬の知名度は最高 松陰いなければそもそも高杉や長州が立ち上がったか疑問だけどな
高杉が居なければ再び尊皇攘夷に世論転換するのは無理だな
高杉が明治まで生きていたら、どんなことをしたか見てみたかった。 その前に明治維新が日本にとってよかったかどうか判断すべきではない
だろうか。
明治新政府によって、日清、日露、第一次大戦と十年ごとに大戦争をやり
国民に大変な苦しみを強いた。
その後これらの大戦争がもとで太平洋戦争が起こり敗戦した。
薩摩や長州だけでも、負けたとはいえ英国とほぼ互角に戦えるほど戦力は
あったのだから、明治維新があったから植民地にならなかったわけではない。
また明治維新があったから文明開化したのではなく、たまたま産業革命が
あったからというだけではないだろうか。 高杉晋作と言う固有名詞を使わずに幕末維新史を説明することは可能だが、
さすがに薩長盟約の締結に尽力した(裏書した)人物の名前を抜くのは不自然だな。
抜かそうと思えば抜かせないことはないけど… >>116
鳥羽伏見で徳川方が勝ってても植民地にはならなかったよ。それはガチ >>118
植民地にならなかったのなら明治維新がなければ結局千島列島を取られずに
すんだ可能性が高い。
明治維新が日本にとってよかったと思い込まされているのではないだろうか。
吉田松陰って単なるちんぴらだったという人もいる。 >>114
高杉がいなくても諸隊温存交渉が成功すれば大して関係ない
高杉は功山寺決起の前には諸隊の決起を宥める立場だった
だから奇兵隊に決起を煽った時にその時宥められた奴が高杉に知らんふりしてる 高杉晋作日記読んでみた
最後、牢獄で書いた「自分がなぜこうなったのか」みたいなやつが面白かったな
禁門の変の辺りの動きがよくわかる
結果としてあそこで牢獄ぶち込められて命拾いしたよね >>117
高杉が決起して長州を倒幕路線に戻さなければ薩長同盟自体なかったんだが? >>118
根拠を示さない妄想だけなら誰でも言える。 明治維新が日本にとってよかったと 思い込まされている なんて言い方するのは
会津観光史学洗脳者の阿呆くらいだろ
異国の言うがままにホイホイ不平等条約を結ばされた弱腰外交しかできない徳川幕府が続いていたら
日本はあのまま列強によいように食い荒らされていただけだ
不平等条約改正は明治政府の悲願だった
日清日露の戦争の勝利によって、日本の国際的地位は引き上げられ
世界五大国入りを果たしてようやく不平等条約改正にこぎつけ、幕府の負の遺産のつけは払われた
また産業革命があっただけでは文明開化はおこらない
明治政府による殖産興業を始めとする政策の積極的な推進あってのこと
徳川がトップに立ち続けるために、諸藩の力を押さえつけ
開港しても自分達だけで貿易の利益を独占していた幕府では「開港」はできても、「開化」はできない
日本は一度も植民地になることなく近代化を成し遂げた世界でも稀な国。
維新の偉業は海外でも評価されていて、
トルコ共和国の初代大統領にして建国の父ケマル・アタチュルクは、
明治維新を手本にしてトルコ革命を推進した。
彼は明治天皇の写真をいつも机上に飾っていたそうだ。
オスマントルコといえばヨーロッパを震え上がらせた大帝国だったが、
弱体化が進み第一次世界大戦の敗戦をきっかけに
積年の恨みとばかりヨーロッパに分断されようとしていた。
失われようとする祖国を目前に、国民の心をまとめあげ、
猛然とトルコ革命を開始したのが、この青年将校だった。
瀕死の祖国を救った英雄は、スルタンの退位と共に樹立したトルコ共和国の
初代大統領に就任し、国民からトルコの父と呼ばれる存在になった。
今も彼の命日には全国民が動きを止めて黙祷を捧げる
ほとんど信仰の対象に近い偉大な存在。
その彼が、日本を尊敬し、手本としていたとなれば、
トルコ国民の多くが親日というのも頷ける。 徳川幕府が続くわけがない
そのためには幕府復権派が慶喜を暗殺なりなんなりする必要があるが、
慶喜の政治力無き徳川サイドがあの状況から蘇る姿は想像できん
幕府存続と新政府を争ってた訳じゃなくて、
新政府にどいつが据わるかを争ってただけ
まあ結果論薩長で良かったんだろうし、高杉の功績も評価するが 高杉晋作と久坂玄瑞は第三地獄というものすごい下層地獄に落ちてるよ
そのさらに下が内村鑑三とグラバー >>123
明治維新が起きなければ日本が植民地になっていた、これこそ「神話」なんだが。
ちなみに長州藩の起こした攘夷戦争では、和約によって
@長州藩は賠償義務を認め、A下関から砲台を撤去し、B異国船に薪水を給与するなどの条項を飲まされている
@を担保するために広沢真臣の依頼で長州藩使節が英国船に乗って江戸に向かい(幕府が万一支払を拒否したら長州の債務となる)、
Aは幕長戦争の際にも維持されたため木戸が苦境に陥っている
明らかに屈辱的な結果に終わったのは幕府の漸進主義ではなく長州的な攘夷主義だった >>126
江戸幕府から公儀政体、統一政体に移行する必要性は当の幕府が認めているわけだが何か?
そして結局「薩長論ではよくなかった」。
ちなみに薩摩の対外政策は長州より緻密。民間船無差別砲撃などと言う暴挙には出なかった。
薩英戦争の責任は英国にある。よって薩と長を同列に扱うのは不当。 >異国の言うがままにホイホイ不平等条約を結ばされた弱腰外交しかできない徳川幕府
和親条約の際、幕府は国内商業の保護を主眼としてタフな交渉を戦ったのは今日では認められている。
例えば箱館開港条件において幕府は米国使節団が無断で外出した事実を素早くキャッチし、交渉において譲歩を飲ませている
「言うがまま」ではない。慶応年間まで対外貿易は日本の輸出超過だった
ちなみに長州藩が締結した攘夷戦争の講和において、支払うべき金員の性格は「賠償」であったが、
幕府の交渉によって「友好関係維持のための補償」に変化している。これは償金より下関開港を望む英国と、深入りを避けたい他3国との姿勢の違いを衝いた幕府外交の成果
そのため明治に入ってアメリカは償金を受け取ったあと日本に返還している
賠償金であればこのような柔軟な処理は不可能
>明治政府による殖産興業を始めとする政策の積極的な推進あってのこと
ルーツは幕末の横須賀造船所、横浜鉄鋼所など幕府の施策にある
なお日本では19世紀半ばから工場制手工業が発達し、内的にも幕藩体制から統一政体への移行が要求されていた
>徳川がトップに立ち続けるために、諸藩の力を押さえつけ
幕末の民衆運動の高揚に対処して、諸藩は幕府との連携を模索していた。
>開港しても自分達だけで貿易の利益を独占していた幕府
完全な認識の誤り。幕府利益情報独占説はとっくに崩壊した説 ちなみに幕府と会津を同視しているバカがいるが、幕府と在京会津藩は敵対関係にあった時期のほうが長い
会津藩は尊皇攘夷主義だから、基本的に幕府官僚とは相いれない
小笠原長行の率兵上京を阻止したのは会津藩で、その会津藩が薩摩と文久政変を起こしたことで幕府は面目を失墜した
そのため会津藩は江戸の幕閣から敵視され、禁門の政変において幕府の協力を全く得られず窮地に陥っている
小栗忠順なども会津藩の僭越をこの時期強く批判している。ようやく和解が成るのは長州戦争の前夜。
しかしその後も奥羽諸藩と旧幕陸海軍は齟齬が目立ち、決して良好な関係ではない 高杉晋作もたいした傑人だったとは思うが、龍馬は別格じゃないか?
@剣客として超一流の腕前
A商人としても大財閥の礎を築いた
B政治家としても薩長同盟を導き、大政奉還を提言し、船中八策を考案するキーマン
C人間としても無類の人たらし
ここまで多方面ですごい人物はなかなかおらん気がする こんな話もういいと言われるかもしれないが、あえて書かせていただくと
明治維新期第一位の霊は五代友厚
死後直後は一位乃木大将
近代・現代日本を思えば、歴史上MVPは高杉東行だろう。
彼が立ち上がらなければ長州が滅び、長州が滅べば薩摩も同じ運命に陥り、
そうすると徳川の世が続いて日本はロシアの植民地になるところだった。
それを救った回天事業の主が高杉
政治家有能ランキング1位は大久保利通 >>131
同類だと思われてるのは幕府と会津ではなく
薩長土系のスレに乗り込んできては荒らしてる見境の無い幕府厨や会津厨じゃね?w >Aは幕長戦争の際にも維持されたため木戸が苦境に陥っている
維持されてないぞ
幕長戦争時、長州は下関にペグ算式銃砲やライフル砲
アームストロング砲を含む五十一門の大砲を据えつけて、ちゃっかり十七箇所も砲台築いてますよw
英国からの抗議に、高杉は、この要塞化された下関を
「木の間に少々そなえた程度だからw戦争終わったら片付けるしー」としれっと回答し
結局英国を黙認させてる
高杉晋作が最下層地獄に落ちてる理由は、
そのベアリング式機関銃一斉掃射の戦法でみかたを大量に殺してしまったから、
自分の良心の呵責のせいなんだとさ。 つまり味方<<<<<<戦術をとったんだね。
久坂玄瑞も、戦術戦略ばっかり頭の中で考えてたから、
修羅地獄だったかそんなところにいるらしい。 大変申し訳無いわ〜
機関銃掃射は秋山好古だった〜
高杉晋作は久坂玄瑞と同じ理由でしたー。
お詫びにランキング教える。
明治維新期霊界ランキング
6000位久坂玄瑞
8000位福沢諭吉
同8000位高杉晋作
20000位秋山好古
30000位内村鑑三
700000000位グラバー >>134
政治家ランキングそれ近い
順位は言いたくないが
政治関連では
勝海舟
木戸孝允
坂本龍馬
徳川慶喜
大久保利通
松平春嶽
大隈重信
などの順だそうだよ 幕末四賢候の中では松平春嶽がトップって
意外でしょう 高杉晋作ってとっちゃん坊やみたいな顔してるよね。
稲垣潤一をぶちゃいくにした感じww
歴史人物の批評は運営的にOKだろw
坂本龍馬7位
高杉晋作8000位 異国船に薪水を給与するのが屈辱なら、
異国船打払令を取り下げて薪水給与令を出した幕府は
1842年から屈辱外交をしてたわけだなw
> 慶応年間まで対外貿易は日本の輸出超過だった
そのせいで品不足・価格高騰が生じ、
さらに金銀交換比率の内外差のため大量の金が流出し、経済は混乱した。
> 幕末の民衆運動の高揚に対処して、諸藩は幕府との連携を模索していた。
諸藩じゃなくて、藩内の一部の佐幕派、の間違い。
>>142
地獄だの霊界だの言ってるデンパ君、触っちゃだめだって 霊うんぬん抜きにしても、
なんかぱっとしない印象を受けるんだが、
西日本とかだと人気あるのかな?
ちなみに日本史の偏差値67.5あったかんね。 しかも1,2年は英語と国語と数学に集中してて、
高校3年だけでそこまで持ってったぞw >>130
フランスからの借金まみれで未完成だった横須賀造船所を
引き継いで完成させてやったのは明治新政府だがな
幕府は種のまま腐らせようとしていたが、それに水をやり、世話をして
立派に育て上げたのは明治新政府だろう >>151
横からだが
幕府を全肯定するわけじゃないが、その言い方はフェアじゃないな
まず幕府というか、幕府後の徳川中心体制においてその種がどうなったか
結局大政奉還後に全てを掠め取られてしまって何も出来なくなった
それを「どうせ腐らせただけ」と決めつけるのはどうなのか
あと慶喜が鳥羽伏見後は徹底して恭順したからそれらが残った
官軍サイドはそれこそ死力戦で日本を焦土にする覚悟だった
幸いにも人材やら設備が残されて、それを足場に出来た
そこを「明治政府が完成させてやった」とは随分な言い様と思うが オレの父は、江戸死守の大事なときに咸臨丸で函館に逃げた
榎本武揚がだいっきらいと言ってた。
おれは土方歳三の顔とともに大好きだ
スレチすまん >>153
幕府が官軍を攻撃する武器購入ためのの担保にしていた造船所の借金を
その攻撃相手に肩代わりしてもらっておいて掠め取られたとはどっちがフェアじゃないんだか
ヘタレ慶喜が降参したからといって、明治政府が肩代わりしてやらなければ
フランスに差し押さえられてただけだし
人材や設備が残ったのも明治政府が敗軍連中にも寛大な処置をしたからだろ 情けかけすぎだよな
松平容保は切腹させるべきだった >>130
元々米国政府の公認もなしに法外にふっかけた不当な賠償金だからだろ。
米国の実際の損害額なんか合計1万ドルに過ぎない。
米国が返還したのは別に賠償金の名義うんぬんではなく、
明治になってから上記の実情を知った明治政府が粘り強く幾度も返還請求をしたから。
西瓜売り決死隊ググって吹いたwww
これは良い幕末コントwww 徳川が勝つには徹底抗戦しなければならないが
抗戦派の小栗の主張したように、フランスから資金、武器、軍隊までも
借りれるものはどんどん借りて徹底的に薩長と戦っていたら
もし仮に徳川が勝つようなことがあっても、借金の抵当に土地を担保に入れざるをえなくなり
日本はフランスの借金漬けになって、フランスの言うことを聞かざるを得ない半植民地になっていたであろう そういえば小栗上野介って北海道を担保にフランスから借金しようとしたんだよな うーん、つまり日本は常に最善手をうってきたってことか・・・
さすが高津見の国・・・ 豚も隠居した方が趣味の手芸や
雑誌に投稿しても落選しまくりだった下手糞な写真三昧の生活ができて幸せだろう 明治政府のおなさけで安泰な余生が送れたんだもんな
板倉勝静が「慶喜なんかと行動するんじゃなかった」と後悔するほどに >>128
アフォか
たかだか長州一藩の講和条件と
日本国の独立国家としての主権侵害に関わる不平等条約と
どちらが屈辱的で深刻かわからんほどお前は馬鹿なのか 韓国版JIN酷すぎワロタwwww
龍馬みたいな英雄がいないあの国でJINをリメイクするのは無理ありすぎ みなさんよく用語わかるね。最低限9帝大卒かね
むかしはゆとり世代なんて用語あったけど・・・ >>136
あの高杉晋作がおとなしくしてるわけないと思ってたw >>169
噂は聞いてるけど、色々めちゃくちゃらしいな
だいたい日本に併合されるまで糞や人間の内臓を薬として食ってた朝鮮で医療ドラマやってもなあ 歴史上の有名人との出会いがタイムスリップ物の醍醐味の一つなのに、
損得勘定でしか動かない朝鮮人の中に、
私欲を捨てて国事に奔走した維新の志士みたいな人物がいるはずないわな。 そのうちに、JINは韓国起源。日本がパクッたと言い出すのに一票w
>>125
維新の英雄達は日本ばかりか間接的にトルコも救ってたんだな
明治維新で出来た政府だから朝鮮にも同じことをしろと迫って日清戦争
が起きた。
のこのこよその国に行ったりしないでせいぜい朝鮮人に金を渡してロシア
南下のたてにしておけばよかったのだ。 防衛ライン、朝鮮→満州 そしてアメリカを怒らせ太平洋戦争へ >>177
併合して近代化したから朝鮮は人口が何倍にもなった。
もし朝鮮人をロシア南下の盾にして戦わせていたら戦死して人口が減少して
今ほど鬱陶しくなかったはず。
うまくするとこの世から消えてなくなっていたかもしれない。 半万年属国民族を舐めんな
奴らがロシアと戦うくらい独立心と誇りがあるなら日本は苦労せん
浪費王妃のせいで破産寸前だった朝鮮は鉱山だの森林だのロシアや売りまくった上に
ロシア南下に協力して半島にロシアの軍事施設を誘致してた
盾にしようとして清から独立させたら、その盾が腐ってボロボロで使い物にならないから
近代化させて使える盾にしようとしたのが韓国併合
>>175
金もらったからって朝鮮人が戦うわけなかろう。
こんな国に金なんか渡しても無駄。
列強に売国して得た外貨のように閔妃の遊興費になるだけ。
下関条約によって清国の冊封体制から朝鮮は独立。
独立後の朝鮮には、独立をして『防波堤』となることを期待した日本の願いとは裏腹に親ロシア派内閣が成立した。
しかも、その政権の下では腐敗はさらに進み、朝鮮半島のめぼしい利権のほとんどが欧米諸国に売り渡されることになった。
【閔妃が外国に売り払った利権(日韓併合後に日本政府が全て買い戻す)】↓↓
1896年
ロシアへ咸北・慶源・鐘城の金鉱採掘権
鐘城の石炭採掘権
豆満江・鴨緑江上流地域と鬱陵島の森林伐採権
アメリカには京仁鉄道敷設権
雲山金鉱(平北)採掘権
イギリスには財閥顧問の派遣と海関管理権
フランスには京義鉄道敷設権
1897年
ロシアへ財政顧問の派遣と海関管理権
軍隊の教育訓練権
ドイツに江原・金城、金鉱採掘権
1898年
アメリカにソウルの電車・電灯・水道経営権
日本へ京釜鉄道敷設権
イギリスに平南・殷山金鉱採掘権
1899年
ロシアへ東海岸における捕鯨権
1900年
ロシアへ慶南・馬山浦の栗九味租借忠北・稷山金鉱採掘権
日本に京畿道沿海の漁業権
1901年
フランスに平北・昌城金鉱採掘権 1903年5月
ついにロシアは朝鮮北部の龍岩浦に軍港を建設
シベリア鉄道の完成も近づき極東アジアの情勢は著しく悪化した
ロシアの極東南下
(既に満州の一部は侵略支配されロシア沿海州になっている)
結局、全てを売り払い破綻した無策な朝鮮は、日露戦争の直接的な原因を引き起こした後、
日本に外交権を没収され保護国となって出直すことになった。
しだいに朝鮮国内では併合賛成派の勢力が高まり朝鮮の指導者たちは日本に併合を
要請するに至った。
そして、朝鮮王室が欧米列強に売り渡した利権は日本が全て買い戻すハメに.. JINの龍馬良かったなあ
龍馬伝の龍馬よりも好きだ >>180-182
あのね、それは明治政府が李朝の権限を奪おうとしたから破れかぶれに
なってやった行動だろうが。 明治維新政府は天皇を担いでできたから保守だと勘違いしているがあれは
リベラルだよ。
自民党がだめだから民主党にしたらもっと悪くなったというようなもの。
その証拠にリベラルの専売特許である大戦争を次々にやって国民を苦しめた。
というか、全世界的に変換の時期で
アジアでは日本だけがそれを成し遂げたという奇跡
中韓アジア諸国なんてみすぼらしい体たらくだったんだから
しかし、日本が欧米と並ぶ変革を成し遂げたからこそ
過度に日本国が警戒されてしまった
アメリカや欧米にとって
「あの国(日本)だけは虚勢させてないと怖い」っていうのが本音だ >>188
明治維新政府は日清日露第一次大戦と勝ち続けたから評価は高いが日露では
かなり危なかったらしい。
ここで負けていればいまごろ売国奴扱いだっただろう。
幕府軍と官軍どちらも引かなかったら内戦で植民地にされていた可能性も
あった。しかし、徳川慶喜は幕府より日本のことを考え自制したのである。
彼は救世主であり神である。
そもそも、日本は火縄銃ではあったが何十万丁も国産化しており欧米が
それを攻撃する軍隊を連れてくることは不可能。
薩英戦争では負けたことになってはいるが死者が薩摩3人英国18人と
薩摩藩だけで英国と互角以上に戦っている。
このことからも薩長が幕府軍とともに戦えば日本はどの国にもまず負けな
かったと考えられる。
中国は日本と戦っていたにもかかわらず一部分植民地にされたにすぎな
かった。
これは日中がどのような政治形態であったにせよいっしょになって欧米と
戦っていればまず植民地にされなかったことを示している。
徳川時代の300年間キリスト教を布教できなかった時点で
植民地にはなり得ない。
また、就学率はヨーロッパの主要都市で20%程度だったのに対して
江戸は86%もあったのである。 >>189
第一次大戦第二次大戦共参戦国のほとんどはリベラル政権だった。
また、米国が一万人以上の戦死者をだした大戦争を始めた時の大統領もほぼ
リベラルの民主党だった。 >>186
ファンタジー朝鮮ドラマしか見てない在チョン乙
売国して得た外貨を殆どを取り巻きとの遊興費と贅沢品に使いまくっといて
何が日本のせいで破れかぶれニダだ
当時閔妃は夫高宗をないがしろにし
己が一族を重用し政治を壟断したばかりか
大院君を陥れ清に売り渡したり
ロシアと手を組んだり悪政の限りを尽くしていたではないか
しかも国民がトタンの苦しみにあえいでいるとき
宗教に狂い国庫の6倍の金を寄進したり、住居に高価なガス灯を設置し
怒った民衆にガス灯を全て破壊されたというエピソードまで残っている悪行三昧の奸婦
>>192
江戸時代から苗字帯刀を認められた家柄で私は由緒正しき日本人だ。
>>181で1896-1901年に「閔妃が外国に売り払った利権」が列挙されてるが
閔妃が殺害されたのは1895年だからもうとっくに死んどるわ。
閔妃に対しては当時の日本のメディアがこぞって誹謗したり事変と大院君を
権力抗争として面白おかしく書きたて悪のイメージが強調されたのだよ。
宗教に狂って国庫の6倍の金を寄進したというがそのお金はどこから借りて
きたのかね? 明治政府は白人に植民地にされないようにといいながら日清戦争では
中国と戦った。
本当は明治維新を朝鮮中国におしつけようとしたから戦争になったのだ。 当時中国なんてないだろ
日本の防衛生命線だった朝鮮を手放さなかった清があほだったな
ロシアの南下も防げないから満州まで出ざる得なくなったし >>196
そもそもロシアの政府資料によるとロシアは中国への侵略は考えていたが
日本には興味がなかったそうだ。
日露戦争は無意味だったのだよ。 >>196
>当時中国なんてないだろ
ウィキでは次のように書かれている。
「中国」という用語が主権国家の自称として広く用いられるようになり、
次第に固有名詞としての性格を濃くしていった。
現在ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称と
しても用いられる。また、その地域、文明、民族を広く指し、紀元前からの
文明の総体をも含めて用いられている。 日本が一体となって白人による植民地化に対処しなければならないときに
薩長は内乱をおこした。
アジアが一体となって白人による植民地化に対処しなければならないときに
明治維新政府はアジアの国を攻撃した。
アジアが一体となって白人による植民地化に対処しなければならないときに
明治維新政府は植民地がもっとも多い英国と同盟をむすんだ。 >>197
アホか、お前。中国全てがロシアの手に落ちた後で、ロシアが欲する海上交通を脅かす位置に有る国はどこだ? >>200
ロシアには太平洋岸以外にバルト海黒海があり当時は今以上にそちらが
重要でそれで十分だった。
当時のロシアからすると太平洋岸から日本を抜けると後は広大な太平洋
しかなかったのだよ。 >>200
しかも中国全てがロシアの手に落ちたとしたなら日本を通らなくても
フィリピンや東南アジアを抜ければいい。 >>201
黒海方面への進出にイギリスが介入してきたことで、東方への進出を進めたのが日露戦争の遠因なわけだが?
太平洋しか無い?アジア・オセアニアの各国植民地、アメリカとの貿易にどれだけ重要なのか理解できてないのか?
>>202
ロシアからシベリア鉄道でウラジオまで来た後でさらに中国大陸を陸路で縦断するのかよ。
どんだけ無駄だ?
確かにロシアが>>202みたいな奴ばっかりなら、
日本が戦う必要なんか無いな…
ほっといても滅びるだろうし。 中国がまともだったら中国がロシアと戦争していたろう
さらに朝鮮がまともなら日本は大陸に出る必要なく海洋国家としてもっと楽に発展できたろな >>199
つ
一体実現の内乱
話が通じずあほすぎた
利害上当然 今もアメリカと結んでるのそのため >>203-204
今の感覚で考えているからそうなる。
当時はまだアメリカの国力は小さくロシアがアメリカと事を構えるなどと
いうことは想像すら出来なかっただろう。アメリカ東海岸や太平洋諸島は
開発が遅れ貿易も重要ではなかった。しかも当然通常の貿易なら日本通過は
可能であった。
1867年ロシアはアラスカをアメリカに売却した。
アラスカの太平洋岸にはバルディーズという不凍港があるにもかかわらずだ。
1867年は明治維新とほぼ同じ時期にあたる。
そもそも当時ロシアが日本に関心がなかったというのはロシアの公文書に
書かれてあることなのだがw >>206
明治維新で日本が一体実現できたのは徳川慶喜のおかげ。
幕府が清朝や李朝と同じなら日本は内乱でアボーン。
アジアは最後まで一体実現できず。
イギリスと同盟しないでなぜ中国朝鮮と同盟を結ばなかったのかヘン。
>>192
閔妃はどっちにしろ朝鮮民衆に殺害されておかしくない状況
朝鮮の政治経済道徳あらゆる面を明らかに害する存在だった >>207
そもそも日本とロシアは幕末に対馬を占領しようとしたり、樺太や千島列島の領有権で揉めたりと常に領土トラブルを抱えていた。
この状況でロシアが日本に対して領土的欲望がないなどと信じられるわけがない(伊藤博文は交渉で何とか出来る思っていたが)。
日本はアメリカと太平洋を通じて貿易してるわけだが?
アメリカ西海岸は確かに現在ほど発展していなかったが、未開の荒野ってわけではない。
つーか、誰がアメリカとロシアが戦争するなんて話をしてるんだ?アメリカとロシアの海上通商路を扼す位置に日本が在るのが問題だ、っつってるだろ?
>>208
糞シナと糞キムチが日本が差し伸べた手を蹴飛ばして、ロシアの子分になろうとしやがったからだよ。
日本の思想家はアジア全体を開化して欧米列強に対抗することを考えてたのに、隣にクズしかいなかったので無理だった。 そう。
最初は中国朝鮮と共に欧米の脅威に応じようとしていたのに。
あまりにも糞すぎたから共に語るに値せず、みたいになっちゃった。 国が侵食されてもいやたぶん潰れても皇帝や王一族が贅沢できればいいや〜みたいなクズだったからな
清も朝も。
いや臣や民衆には全然そうでない立派なのもいたのだが為政者たる皇族王族が弾圧して潰した。
あまりにも身勝手、あまりにも近視眼、あまりにも自己中、あまりにもクズ。
西太后とか勝手に8ヶ国連合軍に宣戦布告して義和団にハイまかせたよみたいに押し付けて自分は逃亡してたろ。
こんな連中相手に何をやれと言うんだ・・・・ >>207
その時点で眼中になくても、
中国大陸や朝鮮半島を手に入れたら
次の目標が日本になる可能性は非常に高い。
国の危機を想定して事前に手を打つのは当然だろ?
公式には日本を支配するつもりがないって言ってるから安心って… >>210
墓穴を掘ったな。
樺太や千島列島の領有権問題はあいまいな国境の確認であり話し合いで解決
しており日本を侵略するかどうかとは無関係。
これに対して対馬は兵力をもって租借を求めようとした。
この理由は対馬とウラジオストク、日本、中国の位置関係を見れば明らか。
ロシアはロシアの拠点ウラジオストクから対馬を足がかりとして中国を
侵略しようと考えていたのである。
日本を植民地とする目的で日本の西の端対馬を奪おうとするはずはない。
この時イギリスも対馬を奪おうと考えていたようだが中国の租借地から
対馬を拠点とし日本を植民地にしようとしていたものと考えられる。
イギリスと同盟を結びロシアを仮想敵国としたのは間違いだったのだ。 >>210
当時アメリカロシア両国とも太平洋岸の経済規模は小さかった。
仮に日本に海上封鎖されたとしても大西洋経由でやればすむこと
だったのだよ。 >>210
明治維新政府は維新にこだわり諜報部員を含めた日本陸海軍の将校によって
糞シナと糞キムチの内乱を招いたんだろうが。 >>212
日本を含む八ヶ国が中国で好き勝手なことをしたから義憤に駆られて
義和団事件が起きたんだろう。
日本はこの時アジアから白人を追い出すという大義名分にしたがい
欧米側に付いてないで中国側に付かないとだめだろう。 >>213
論点は「当時」日本を植民地にしようとしていたかどうかなのだが。 段々スレ違いっぽくなって来たな。
>>215
ロシアにしてみれば明らかに格下の日本に海上封鎖されても、
大西洋があるからと見逃してくれる心の広い国だと?
>>214
>>218
当時ってのは、日露戦争の頃って事で良いのかな?
だとしたら、中国、朝鮮への侵攻自体が
日本の権益を脅かす事態なんだが。
実際、三国干渉とかあった訳だし。
まさか、中国・朝鮮を手に入れた後でも、
日本と対等に付き合ってくれるとでも思っているのか?
どんだけロシアを信じてるんだ? >>219
当時というのは日清戦争以前の事。
というのも、ロシアに日本への侵略の意志がないとわかっていたら
明治政府としてものこのこ中国、朝鮮に出て行くこともなかっただろうから。
よってロシア等の三国干渉もなく日露戦争もなく10万人を上回る
戦死者もでなかった。
歴史をみればロシアより英国のほうが植民地はずっと多くロシアをことさら
危険視することはなかったと気付いたはず。
「賢者は歴史から学ぶ」のだよ。
愚者であった明治維新政府が全て悪い。
当時の日本はロシアからみたら取るに足らない国家であり海上封鎖など出来る
はずがないと考えていたと思われる。 いいかげん、明治維新を持ち上げたのは、今と同じ馬鹿マスゴミであったことに
気付け。 ■仰天検索■
→オウム事件の真相
→123便墜落の真相
→マグナBSP
→創価警察
→産経統一教会
→読売CIA
→毎日創価新聞
→朝鮮総連、(政党名)
→携帯電話移動履歴監視
→田布施部落●●
世の中じたい、まるでオカルト。社会の最上層と裏勢力が組んで事件、流行、「社会常識」「世間」を捏造している。
宗教は政治と深く結びつく。大衆操作機能、集金機能、集票機能、スパイ機能があり、ショックドクトリンにも応用できるから。 >>220
日清戦争以前って事は、まだ日本が列強各国と不平等条約を結んでた頃だよな?
そりゃ、その時点でロシアが日本をどうこうしようとは思わんだろ。
他の列強の利害だって絡んでる訳だし。
そもそも日本にとってロシアが脅威なのは、
ただ単に強大な隣国だからでは?
イギリスがどれだけ植民地持ってるとか、
ロシアに日本支配の意図があるかなんて関係無い。
隣に圧倒的な軍事力を持った国がある。
それだけで警戒するのは当然。 >>223
ヨーロッパ列強は中国の植民地を足がかりとして日本を狙っていた。
アメリカも1898年ではあるがフィリピンを植民地としていた。
このような情勢のなかロシアだけ特別視して中国朝鮮にまで出かけていって
ロシアだけを待ち受けることに理があっただろうか。
ここは兵力を国内に温存し軍事力を蓄えどこの国が攻め込んできても耐えられる
ようにするのが正しい行動だったのではないだろうか。 日本海の対岸に大規模な拠点を作られれば、日本海沿岸全てに防衛施設、艦隊を準備しなければならない。
今と違って戦車などの機動力のある戦力を使って運動線ができるわけじゃないんだ。
遠方の拠点からえっちらやってくる英米仏なんかとは危機感がぜんぜん違う。
現に浦塩艦隊だけで大陸との補給船はかなりひどいことになってる。 ロシアの不凍港を確保するための南下政策あっただろ
幕末の文久元年2月3日(1861年3月14日)
無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。
ロシア軍艦の対馬占領事件、幕末にロシア帝国の軍艦が対馬芋崎
を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって
滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる
とかもあったし
これもイギリス東洋艦隊の軍艦2隻が対馬に来てロシア側に抗議での撤退だし
>ここで負けていれば
>可能性
>戦っていれば
>考えられる
長々書いてるわりに仮定と妄想ばかりで中身がない件
歴史を「たられば」で語りたがるのってたいてい負け組だよね >>225
ロシアのサハリンと北海道は宗谷海峡を挟んですぐの位置にある。
サハリンから北海道を南下すれば日本を占領できる。
またウラジオストクは日本海を挟んだ対岸にある。
仮に中国朝鮮がロシアの手に落ちたとして日本にとってロシアの脅威はあまり
変わらないと思うが。 つか坂本と高杉のスレでしつこく明治政府批判している馬鹿はなんなんだ?
スレチだろ
日清日露の頃なんて坂本や高杉が死んでから何年経ってると思ってるんだよ
明治政府批判がしたかったら、ふさわしいスレでやれ >>208
我が身可愛さに部下見捨てて自分だけ夜中にこっそり逃げ出したヘタレが
負けてやったんだから感謝しる、とは笑わせるww
まるで朝鮮人のようなメンタリティだな
どのみち幕府に戦を続けるだけの資金はなかった
それこそ売国奴小栗の主張したように蝦夷を担保にして
フランスから借金でもしなければな >>199
>アジアが一体となって白人による植民地化に対処しなければならないときに
なぜアジアが一体となって白人による植民地化に対処しなければならないの?
アジア人だ白人だなんていうのは人種差別じゃん
>>233
馬鹿だな
我が身が可愛いなら死刑覚悟で無血開城、謹慎なんかしないだろ
必死で抵抗するはずだろ
戦費なんかどうとでもなる ペリーすら裏ではアメリカ政府に沖縄とるよう言ってるし
ロシアは江戸時代から何度か接触あり、対馬占領や三国干渉何度もあるんだろ
伊藤博文自体ロシアと妥協しようとロシアに行ってるがそれも拒否してるし >>235
戦費なんてどうとでもなる、って適当過ぎるなw
お前の小遣いじゃないんだから。
上にも誰か書いたように、金無くて小栗とかがフランスから
借りようとしてたの知らんのか?
蝦夷を取られたらそれこそえらい事だぞ。 >>227-230
仮定の話をたられば無しにどのようにすれば語れるのかねw >>232
>日清日露の頃なんて坂本や高杉が死んでから何年経ってると思ってるんだよ
日清日露の頃の首相は薩長出身ですがなにか?
1〜18代(1885-1918年)の首相はほぼ薩長。 >>233
>売国奴小栗の主張したように蝦夷を担保にして
>フランスから借金でもしなければな
蝦夷説以外にも淡路島説、樺太説、四国説とかあるのだがw >>237
>金無くて小栗とかがフランスから
>借りようとしてたの知らんのか?
幕府から新政府に引き継がれた仏国への未払金は数万円と小額。 >>242
だ か ら 借りようとしたけど失敗したの。
ちゃんと勉強してから書き込もうな。 小栗が失脚したからじゃなくて、ナポレオン3世が極東に介入するどころじゃなくなったのが主原因だけどな。
だから、ブリュネ大尉に帰還命令が出て、脱走して旧幕軍に身を投じるって話につながる。 > 日清日露の頃の首相は薩長出身ですがなにか?
> 1〜18代(1885-1918年)の首相はほぼ薩長。
だから?ここは薩長スレではなく高杉と坂本のスレだが? >>239
そもそもお前の妄想をここで語る必要がないw
歴史板は、お前の妄想する「ぼくがもうそうするもしものせかい」の話じゃなく
歴史的事実前提で語る場所だ。
妄想垂れ流したかったら、自分のブログかチラシの裏にでも書いてろカス >>221
いいかげん、お前みたいな何の影響力も無い小者が、匿名掲示板の片隅で一生ネガキャンしようが
歴史認識は覆せないことに気付け。
つーか相手してやるから居着くんだよ
荒らしの自演じゃないならスルーしようよ 毎日が革命アニバーサリー
尊皇唱えながら御所に砲弾ぶちこむ幕末長州力(笑)
不敬を通り越してもはやお笑いの域 薩長人や維新で急に偉くなった人には面白くないけど、
それ以外の日本人は大爆笑してるから >>243-244
だから、いずれにしても結局は戦費を借り入れなかったんだろう。
小栗上野介が蝦夷を担保に戦費をフランスから借入れようとした話は
噂の域を出ないし、仮に小栗が進言していたとしても徳川慶喜は
内戦で植民地になることを恐れていたから却下していたと思われる。
現に無血開城したではないか。
それより実際にイギリスにそそのかされて借金までしてロシアと戦った
明治維新政府のほうがよっぽど非難されると思うがw
ロシアに負けていたらロシアとイギリス双方の植民地になっていたのでは
ないのかね。 >>253
「戦費なんかどうでもなるお!」って小学生みたいな事書いてる
から「フランスから借りようとするくらい金が無くて
厳しかったんだよ、ボクチン」って書いただけ。
慶喜の無条件降伏とか言及してない。
まあ、とりあえず公文とか逝って読解力を勉強しよう! >>245
高杉新作と同じ松下村塾で学んだ山県有朋は首相を二回やりその後も元老
つまり裏の大ボスを1921年まで務めた。
塾長の吉田松陰は西部進によればごろつきだったそうだ。
松陰は大塩平八郎に陶酔していたが、大塩は豪商の邸宅を次々と襲撃したり
火をつけて大阪の五分の一を焼け野原にした。
つまり松下村塾は過激派の巣窟であり、そこから明治政府を動かす人物が排出
されたのだ。
革マル派の枝野幸男、全共闘の仙谷由人ら過激派が民主党を作り政権を
取ったのと同じである。
維新政府は攘夷を掲げて政権をとったのに開国派になった。
これは民主党がマニフェストを守らず反対していた消費増税を命がけで
やろうとしているのと同じである。
なぜか日本より朝鮮に金をつぎ込もうとするのも同じw
高杉晋作と明治政府を牛耳った山県有朋が同じ過激派出身であるという意味で
スレ違いではないのだ。 >>254
政府紙幣とか日清戦争で使った軍票とか知らんのかw >>254
ちなみに「戦費なんかどうとでもなる」と書いた>>235は別人だが。
検索してみるとこの話題に丁度良いようなスレ無いけど、
ここまで議論のネタになるんなら新スレ立ててもいいかもね >>255
必死にこじつけようが山縣スレでやれ、で終了 >>253
豚一スレが過疎ってるからって出張してクンナ!
豚オタは豚小屋に篭ってろ てか毎回こいつの痛々しい口調が笑えてしかたないんだがw
誰かのなりきりか何かか?
今時リアルでそんな口調で喋ってるやついねーよwwww >スレ違いではないのだ(キリッ
自分はバカボンのパパ思い出したw
>>263
しっ。本人はかっこいいと思ってやってるんだから笑っちゃかわいそうww >>253
実際に勝った戦いをもし負けてたら?って悪い想像して想像を元に叩いても意味なくね?
お前のたられば妄想はもういいっての
ブログも借りられないの?
リアルで話聞いてくれる人いないの?
>>260
だな。スレ違い野郎の誘導と隔離にも使えるし。 このスレってどうしようもない民主党政権を作るのに一番貢献したのは
鳩山か菅か議論しているようなものwww ここの連中はマスゴミに誘導されるまま民主党に投票したんだろうな。
すこしは判断力というものを持とうよ。 全くだ。
少なくとも妄想で
>ここの連中はマスゴミに誘導されるまま民主党に投票したんだろうな。
なんて書かん程度の判断力は必要だろう。 ちゃんと幕末見ると開国と攘夷は別に矛盾しないだろ
当時そもそも日本全国ほぼ攘夷派だし
むしろ幕府や会津のがころころ変わってるわな
北海道質に入れてまで抗戦しようとしたり 松陰先生の思想は、武力に寄る恫喝での開国を一旦白紙に戻した上で、堂々と対等の立場で開国しよう、だからな。
その上で海外に雄飛し、植民地を得、欧米列強に対抗する。
富国強兵に努め、不平等条約を撤廃し、侵略者露西亜の野望を打ち砕く。
明治政府は全くブレることなく松陰先生の描いた日本を実現してるよ。 西南戦争までの内乱は幕府の開国が大きいからね
日本国内の金も一気に失った >>265
ワロタw
>>267
>リアルで話聞いてくれる人いないの?
友達がいるような人間だったら2ちゃんで荒らしなんてしてないと思われ。
しかし荒らしで、ネトウヨで、慶喜ヲタとは救われないなw
生きてて楽しいのかね。
>>276
あれ? >>253が慶喜擁護なのに、なんでそれと喧嘩してる>>267が慶喜ヲタなの? >>274
そうだな、海外に雄飛し、植民地を得て、アメリカに袋叩きにされたな。 >>277
>>267の
>リアルで話聞いてくれる人いないの?って疑問に対して
もし>>253に友達がいたら2ちゃんで孤独に荒らしなんてしてないだろうって
2行目以降は>>253の事を言ったつもりだったんだけど
今読み直したら、ちょっと分かり難かったかも。ごめん。 >>235
錦の御旗にビビッて尻尾巻いて逃げ出しただけだろw
江戸に逃げ帰るなり、恥も外聞もなく自分を嫌ってる天璋院や静寛院宮に
実家に執り成しの書簡書くよう泣きつくほど、保身に必死だったくせにw >>280
錦の御旗に、っていうか圧倒的な兵力でも勝てない自軍に絶望したんじゃないかね?
第2次長州征伐と違って、自慢の洋式歩兵を最初から突っ込んだ戦闘だったのにそれでもダメ。
諸藩は続々と朝廷に帰順。
そもそも政治的な勝利を目指していた慶喜にとって、薩摩藩邸焼き討ちからの流れは不本意極まりなかっただろうし。 慶喜事態は戦うつもりはなかった
薩摩も折れ慶喜を新政府に迎えるまで行ってたんだけど
まあ部下の押さえ利かない状態になってた
慶喜自体も水戸出身で不人気だったからね 薩摩のハル・ノート並の挑発を見ると、とてもじゃないが、慶喜を迎える気があるようには見えないが >>273
>むしろ幕府や会津のがころころ変わってるわな
会津じゃなくて水戸だろw
幕府はペリー来日以降開国阻止は無理と悟り一貫して開国の立場。
それに対して薩長はとろいというか外国と戦争してようやく攘夷は無理だと
悟る。悟ったものの開国派と表明すると慶喜との違いが無くなり権力が
取れなくなるので攘夷を言い続けた。
薩長が尊皇というのも怪しい。慶喜はほぼ尊皇を貫いたが長州は禁門の変で
天皇に大砲を向けたり、8月18日の変では倒幕という偽勅を出したり、
王政復古では天皇が若いのをいいことに勝手に幕府を朝敵にした。 >>274
>松陰先生の思想は、武力に寄る恫喝での開国を一旦白紙に戻した上で、
>堂々と対等の立場で開国しよう、だからな。
>明治政府は全くブレることなく松陰先生の描いた日本を実現してるよ。
ブレることなく?www
明治政府は政権を取った後もずっと不平等条約をそのままにして開国をして
いたではないか。
武力による恫喝での開国を一旦白紙に戻してなんかないぞ。
しかもそんなに嫌がっていた恫喝での開国を朝鮮に求めたのだw
>松陰先生の思想は海外に雄飛し、植民地を得、欧米列強に対抗する。
松蔭は豪、朝鮮、カムチャッカ、オホーツク、台湾、ルソンを植民地に
すると逝っている。
欧米が植民地にしたのはほとんど抵抗なく手に入れられるところであった。
ところが松蔭が植民地にしようとしたところはロシアやスペイン等
大国の領土であり日本側に多くの犠牲者が出ることが予想される。
松蔭は体力を消耗して逆に植民地にされることは考えなかったのだろうか。
松蔭の考えは連戦連勝しないと達成されないのだ。
一回でも負ければ植民地になるのである。
松蔭の書物は中国朝鮮でかなり読まれたという。
そのために日本に対して不信感を持たれ抵抗が強くなったと考えられる。
このように松蔭は日本に多くの災いをもたらしたのだ。
所詮吉田松陰は神社に祀られるようなタマではなかったのだよ。 >>275
日米修好通商条約で金銀交換比率が諸外国と違っていたので右から左に金銀
を移動するだけで米国は大儲けして日本から金がなくなったのだよ。
その金を南北戦争では北側が軍資金として使い勝利したと言われている。
一説にはアラスカの購入資金もこの金だったという。
>>276
どこにでも荒らしと叫ぶ荒らしがいるな。
少しは論理的な反論書けよ。 >>279
>今読み直したら、ちょっと分かり難かったかも。ごめん。
分かり難いんじゃなく、にわとり頭なので書いてる途中でだれに向けて
書いてるか分からなくなっただけだろうw >>280
>錦の御旗にビビッて尻尾巻いて逃げ出しただけだろw
その錦の御旗は前もって長州藩と薩摩藩邸で密造したものだという
じゃないかw
慶喜の回想記によれば鳥羽伏見の戦いは臣下が暴発した結果で慶喜の本意では
なかったと述べている。
その真偽はともかくとして慶喜は内戦がおきて日本が植民地になることを
なによりも恐れていた。それだけだ。
薩長側は一切そういうことは考えずただ己が権力を持ちたいために江戸で
暴れて幕府の暴発を誘い朝敵に仕向けようとしたのだ。
どつちが善で悪かは明らか。 >>280
>江戸に逃げ帰るなり、恥も外聞もなく自分を嫌ってる天璋院や静寛院宮に
>実家に執り成しの書簡書くよう泣きつくほど、保身に必死だったくせにw
内戦を防ぐために江戸に戻っていやな相手にも頭を下げて頼んだのだよ。
まさに神。
>>282
>三倍の兵力で負ければへこむわな
三倍の兵力を持ちながら日本のことを考え内戦を防ぐため江戸に戻ったのだよ。 高杉はいいときに死んだな
維新後はやることなさそう 伊藤は高杉を尊敬してたみたいだし、
もしかしたら初代首相は高杉だったかも。
まあ、逆に西郷と一緒にクーデターを
起こしてたかもしれんが。 慶喜の回想はあまりアテにできん
自分を美化しているからなあ
ただ鳥羽伏見で大敗した後は後腐れなく恭順を貫いて
戦争の拡大を防いだ功績は大 >>298
薩長が権力を持って以降は言論統制言論弾圧があったはずだからこれも
あまりアテにできん。
明治維新批判が全くないというのはどう考えてもおかしい。 松蔭思想を突き詰めて政策化すると絶対王政、統一国家、国民国家=明治維新になる。 >>301
高杉晋作坂本龍馬どっちもだめじゃんという立場から対極にある慶喜を
出したのだよ。 絶対王政を信条とするものが天皇に大砲を向けたり朝敵になったり
錦の御旗を密造したりするかねw 絶対王政じゃないよ、確実に。
神格化された国民統一の象徴としての天皇だよ。
天皇親政なんか考えてない。 西洋の場合
封建制→絶対王政→国民国家と時間かけて形成されてる
日本は維新で一挙にやっちゃえた
幕末から再統合の象徴として天皇が第一という観念はあるが、実際どういう位置にするかは明治憲法まで決まってない
尊王が統一国家形成で草莽が国民国家にいたる >>305
戊辰戦争でも会津は歯向かい、明治でも西郷とかいろいろ下野してる
天皇は絶対的だが天皇個人というより、天皇=日本全体という概念に近い
当時の権力はあくまで政府であり大政官であって 天皇の神格化は絶対王権とは全く別の話だからね。
在日はどうしてもそこが理解できないみたいだけど。 絶対王政
歴史的に、中世までの諸侯や貴族、教会の権力が地方に乱立し、分権的であった状態から王が強大な権力を持って中央集権化を図り、
中央官僚と常備軍(近衛兵)によって国家統一を成し遂げた時代に特徴的であった政治形態を指す。
絶対王政を通じた中央集権国家の形成は、後に続く国民国家の形成に大きく寄与した。 明治憲法に書いてある通りだ
天皇は神聖にして犯すべからず
天皇は神聖なものであって世俗の権力を行使する絶対王政の君主と違う
日本史で絶対王政の君主にやや近いのは徳川将軍だろう
これとて日本の1/4を支配してるだけで全土は掌握していないので絶対王政の君主ではない 近代日本を誕生させ、そして今日まで国を独立たらしめたという点で、
日本史MVPは高杉晋作。次いで、勝海舟、西郷隆盛の順。
高杉が立たなければ長州が滅び、すると幕府によって薩摩も消され、
幕府が残って日本が西洋列強に飲み込まれた。
勝が1864年9月の初対面で西郷を啓蒙していない場合も然り。 最初の松陰が一番でわ?一番情勢的に厳しく幕府権力も強固な時期だから
後の過激な弟子連中も危険だといさめてる位で やれやれ、盆休みもバカボンパパは荒らし三昧だったのか
他に楽しみないのかね
せっかくの盆休みに帰省も旅行も遊びにも行けず
2を荒らすしか能がないなんてホント哀れな人生
>>304
そこワロタw
芝居がかった口調でキャラ作っても、素の頭の悪さが露呈して台無しw
>>303
言い訳はいいから、関係無いスレに粘着してないで自分の巣を盛り上げろ
過疎りまくりじゃないかwwwww
徳川慶喜を語ろう
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1290102609/
そのスレ見てみたけど、数週間停まっててバロス
ヘタレを語りたい人なんか誰もいないんだな
だからって、こっちに来られても迷惑だが 留魂録読むと松陰の偉大さがよくわかる
だけどMVPって感じではないんだよなぁ
松陰の死が弟子達の原動力になったとは思うんだけど 松陰は思想的に明治維新まで行ってたが役割としては鉄砲玉だよな
鉄砲玉が役割だと認識もしてた
そういうの多く居て影響し身を投げて次に持ってった感じ
一人の傑出天才が何かやったってもんでない
坂本も王政復古の最終局面に関わり一役割担っただけで特に坂本の思想行動が進んでたわけでも無い
でも高杉は天才だなwww 松陰の偉大さ、高杉の天才性は明白だと思う。
坂本龍馬に関しては、谷干城や陸奥宗光らを始め、薩長に不満を持つ人間のアイドルになった部分はある。
それで隠然たる人気はあったが、業績や経歴はそれほど明確ではなかった。
そこに眼をつけて司馬遼太郎が創作した竜馬が独り歩きしたと思うよ。
本当のところはよくわからないが過大評価と思うし、司馬遼太郎も自分の小説が史実のように思われるとは、予想してなかっただろう。 龍馬の考えって先駆者の平野国臣と変わらないよね
尊王で統一国家作るしか外敵防ぐしか方法無い脱藩→公武合体では無理と倒幕論(朝廷と雄藩の連合で幕府に大政奉還させる)→その後開国し富国強兵すれば洋夷おそるるたらんと
平野は早すぎた為生野の変で散っちゃったけど >>321
司馬は自分が書いてるのは史実の竜馬ではなくあくまでフィクションの龍馬だから
あえて「坂本龍馬」ではなく「坂本竜馬」と表記したらしいよ
高杉がいなかったら下関は欧米の租借地になっていただけではなく、
四境戦争で熊本藩が小倉口を突破して萩を落としていた。
当然、明治維新など夢のまた夢であったはず。 >>326
幕府の終焉と言う意味なら維新は必然だっただろう
維新の主役は西郷、大久保の薩摩、公家の岩倉らで長州は脇役
幕府側じゃ慶喜自身が幕府に懐疑的
それに長州藩が過激攘夷に突っ走ったのは高杉らの煽動が大きい
高杉がいなかったら長州は攘夷に突っ走らなかったんじゃないか
そしたら攘夷戦争はないから下関租借なんてないし、四境戦争もない 坂本竜馬高杉新作伊藤博文はフリーメイソンだった。
当時、一介の脱藩浪人に過ぎなかった龍馬が、なぜ幕末期にあれほどの
大活躍ができたのか。探っていくと、一人のイギリス商人グラバーに行き
当たります。
*明治維新はカネのためだった
龍馬は亀山社中という日本初の商社を長崎に設立している。最初に買い
付けたのが7800挺のライフル銃。さらに軍艦ユニオン号を仕入れて
長州に売却している。これらの武器・軍艦を龍馬に扱わせたのが、グラバー
なのだ。
グラバーが後ろ盾にならない限り、龍馬は資金も武器も調達できるはずが
ない。龍馬が仲介して成立した薩長同盟の背後にもグラバーの影がある。
グラバーがいかに深く維新の志士らとかかわっていたかを示すものに、
志士の密航の手助けが挙げられます。長州の伊藤博文、井上馨などの
5人を密かに欧州に渡航させたのは、このグラバーです(1863年)。
また、その翌々年には薩摩の17人を密航させている。
その後、実は龍馬も秘密裏に渡欧していた可能性がある。
薩長同盟は龍馬の成果ということになっていますが、グラバーが龍馬を使って
新政府設立のシナリオを描いたのです。 当時、長崎に輸入された船の3割は、グラバーが扱ったと言われる。
彼が来日したのはわずか21歳のときだ。そんな「若造」が、
長崎でたちまち頭角を現し、23歳時点では、ジャーディン・マセソン
商会という巨大商社と代理店契約を結んでいる。なぜそんなことが
可能だったのか。
グラバーのバックグランドに、フリーメーソンの存在があったからです。
メーソンによる強力なサポートがなかったら、グラバーは成功できなか
ったでしょう。
長崎のグラバー邸から坂を下った所に廃墟があり、その入り口に
メーソンのマークが表示されています。グラバーがメーソンの一員
だったことを示すものです。当時のグラバー邸には、伊藤博文や坂本龍馬
など、明治維新の重要人物が出入りしていた。
尊王攘夷論が高まっていた時代、幕府の目をごまかすためにもグラバーは
表舞台に立てなかった。そんな中、薩長とは無関係に動ける龍馬は、
グラバーにとって使うに好都合の人物でした。
一方の龍馬も、カネは出してくれるし、プロデュースもしてくれるグラバー
は、得難い人物だった。まさに、両者の利害が合致したのです。
では、グラバーの狙いは何だったのか。それは日本支配ということになります。 いまだに陰謀論なんて信じてる無邪気なやつがいるんだなあw >>323
高杉って平野国臣が歌書いた短冊持ってたんだよな
どの時期に交流あったんだろ 近・現代日本誕生に関し、
優勝=高杉晋作
殊勲賞:勝海舟・西郷吉之助、敢闘賞:小松帯刀、技能賞:大久保利通 薩摩の動きが決めてなわけで薩長盟約を軽く考えすぎだな
海舟、西郷、坂本のラインが維新のポイントなんだよ 井上と伊藤が長崎で小松との接触を求めたのがポイント。
アル中馬鹿殿の酔鯨が土佐藩の実権を握らず、開明的な人物が土佐藩を
リードしていたら、武市、竜馬ももっといい仕事ができたのだがな。
その点、そうせい公のいた長州は実力次第で下級武士でも
大事な仕事を任された。
土佐と長州の違いはトップにある。
たった数人で起こした決起で、最終的に長州の反論を再び尊皇攘夷に変え、
15万の幕府軍を打ち破り、明治維新への道を作った。 村田先生が健在なら清國の全土を占領し、ペトログラードまで攻め込んでた。 長州に生まれたのもよかったよね。
あれが水戸とかに生まれてたら、悲惨でなにも成し遂げない最後だったろう。
人材ってのは大切だなあと、身にしみる。 いや、意外と天狗党で連戦連勝して歴史を変えちゃったりしてw 小松帯刀的な人が土佐にもいたら
トサキンの人材も活かせたのかな 功山寺挙兵は一か八か破れかぶれでやったら
思いがけず大成功してしまったんだろ
ちなみに
乃木大将とフリーメーソンの坂本龍馬って神霊ランク同8位なんだぜ。もうわけわかめ 倒幕に限ればな。
今の日本の礎を築いたって意味なら、
木戸と大久保の二傑。 真の維新三傑は維新のビジョン作った吉田松陰。
藩論を尊皇攘夷に変え原動力の長州藩と朝廷の基礎を作った久坂玄瑞。
藩論を再び尊皇攘夷に変え、 幕府軍を打ち破り成功まで持ってった高杉晋作。
この辺りだろう。こいつらいわば非常の士。
西郷、坂本、木戸、大久保は凄いが、この辺りはいつの時代も多く居る調整型の政治家だから。
規模の大小は違っても、当時も多く居た。 >>339
松陰いわく識見気魂他人及びなし。
事をなす時必ず高杉に謀ると言うほど人間離れした胆力と洞察力に優れていた。 「維新」の意味的には倒幕よりもそれ以降の再構築が重要
倒幕三傑なら西郷、高杉、勝(もしくは慶喜)だが
維新三傑なら従来通りの西郷、大久保、木戸
坂本は倒幕の流れの一端を担っているがそれ以降へ影響を及ぼした功績はナシ 坂本は薩長の講和の仲介者だから、高杉なんかよりはるかに重要。
高杉と言う固有名詞なしでも幕末政治史は語れるが、坂本龍馬を抜くのは不自然。
井伊直弼、徳川慶喜、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視らと比べると重要性ははるかに低い。
重要なのは「奇兵隊」に象徴される諸隊の動向であって、高杉個人ではない。
信者が良く挙げるのは功山寺決起と小倉口の戦いだが、
功山寺決起が成功したのは山県有朋ら諸隊司令官が挙兵側に付くことを決めたため。
彼らは挙兵に反対しており、決起後も参戦をしばらく決めていない。決まったのは藩政府が赤根らとの交渉を打ち切ってから。
小倉口に関してはもっと簡単で、単純に幕府海軍が出動要請に全く応じなかったこと、
小倉藩への援軍諸藩が来援要請に応えなかったこと、および外国公使が幕府側に関門海峡での戦闘の自制を求めたため。
高杉が戦果を得るのは、幕府艦隊がろくに出動しなくなり、小倉藩が完全に孤立化してから。 つまり高杉が殺されてても誰でも良かったんですよ。はい 薩長同盟は坂本以外にも企んでる人がおり、坂本が無くても成り立つが
功山寺は高杉しかいない
高杉は関門海峡を渡り、小倉近くに拠点を築いたが、部下の
進言を聞き入れず、一度、長州に撤退している。
現在の研究成果では、あのまま高杉軍が九州に居座ったら、
熊本藩との戦いで壊滅的な被害を出し、小倉城を落とすことは
できなかったかもしれないと言われている。
また、高杉は小倉口で防戦しながら、大島口に向かった
幕府艦隊に夜襲を決行し、幕府艦隊をびびらせ、以来、艦隊は
後方で温存されることになった。
小倉口の勝利は高杉の大胆かつ緻密な采配があったからこそ。
慶喜は、大討ち入りと称して、自ら幕府軍の前線に立って
戦う覚悟でいたが、小倉城陥落を知り、一変して朝廷に
幕府と長州の和議を打診した。
ちなみに、坂本、中岡を知る人の多くは薩長同盟に地道な
努力をしたのは中岡だと証言している。
その意味では坂本は、おいしい所をさらっただけ。 薩長同盟にしても高杉が承諾したのが大きいしな
水戸藩斉藤が高杉に同盟を説いた時、いずれ向こうから名のある者を送ってくるはずとして蹴ってる
薩摩に近い人物で、名のある者がいわば龍馬だったわけだよね
渋ってた桂にもとっとと行って来い、西郷が害すなら死んで来い言ってるよねw >>358
高杉が海軍分捕ったり成功見せ付けなければ
慎重山県の事だから交渉打ち切り後も挙兵しなかったかもしれないけどなw
挙兵しても失敗したかもしれない
山縣は伊藤に高杉の話を出されると生涯頭上がらなかったらしい >>360
功山寺がなくても、長州処分に減封が含まれるから長州藩は間違いなく拒否する。拒否したら自動的に長州へ進発
あとは史実通り
と言うか、赤根・時山の交渉が失敗に終わった場合は諸隊は蜂起するから、どちらにしても
「反幕的な長州藩」と「西南雄藩の反対で長州藩に手を出せない一会桑」と言う図式は残るよ。 あと元治内戦の最終段階では萩進撃を唱える山県ら諸隊の直接の統括者が勢いを増し、
高杉も頭を悩ませていたのは周知の通り。 >>361
・長州藩兵の撤退は、幕府海軍の存在がある以上当然の判断。逆に小倉藩領に滞留するほうがおかしい。
・幕府艦隊の出動拒否は、大島口の敗戦によるものではなく、外国公使の要請や艦の損耗への忌避など、
海軍が独自の行動を取ったため。怠戦の理由は、最高司令官が来ないから。
・小倉陥落は、熊本藩・久留米藩の解兵により戦線が崩壊して、小倉藩が孤軍になってから。
幕府海軍のサボタージュ姿勢は明白になっていたので、そこで落とさなきゃバカでしょ。
・慶喜は小笠原長行が諸藩の解兵に危機感を持ち、急きょ上洛・報告してからもまだ陣頭指揮に拘っていた。
なぜ変心したのか、彼はまったく根回しをしない人物なので周囲にもまったく分からない。 >>362
坂本だけの尽力ではないのは明らかだが、薩長盟約の内容は「桂小五郎が坂本龍馬に求めた裏書」
から知ることが出来るのであって、やはり坂本龍馬を抜いて語るのは不自然と言わざるを得ないよ。
裏書を求められた人物なんだから。 薩摩の西郷、小松と親しい両藩に中立的勤王の士は龍馬だった
心配性の桂はまた薩摩が裏切るやも知れんと裏書を頼んだ
一方中岡は長州と親しく西郷を説得する方に動いてる
ただ薩摩に居候してた坂本を引き入れたのは中岡で、内実の功は中岡が大きいというのは確かかもしれない
元々薩長和解は土佐勤王首領の武市も目的にしていたが藩内から動けない為
別働隊勤王党の坂本や中岡が引き継いだ >>365
>功山寺がなくても、長州処分に減封が含まれるから長州藩は間違いなく拒否する。拒否したら自動的に長州へ進発
>あとは史実通り
根拠もなく絶対と言われてもねー >>355
久坂とかマイナー過ぎてwwwww
そんな雑魚、長州オタしか知らんだろ 久坂さんをバカにスンナ!
久坂さんには坂本龍馬を脱藩させたという唯一にして最大の功績が 後の志士達の脱藩ブーム見るに
龍馬ほどの男なら、別に久坂と出会わなくとも
いずれかの時点で脱藩して国家の為に身を投じてたと思うがね 龍馬が久坂に会った頃、久坂は既に尊皇攘夷派中心人物で、龍馬は後進の志士。
龍馬が1流志士として出てくるのは、朝廷復権され高杉クーデターで長州一藩勤王取れた後。
久坂などが松陰死後公武合体の長州藩を尊皇攘夷に転換し、雄藩と連合して幕主朝従を改め朝廷復権し、朝廷幕府を動かし攘夷で長州に奇兵隊など生ませ原動力作り、王政復古のレール作った。
色々無理たたって当時の1流は多く死んじゃったけどレールは残ったんで。
龍馬はそのレール上の仕上げ部分に携わった志士の一人ってだけで。 >>370
だって減封だよ?10万石減らすなんて絶対に耐えられないよ。
>>374
久坂はもっと評価されていい。だって禁門の政変では孝明天皇が長州征討を慶喜に厳命するまで、
会津孤立化政策に成功しつつあったもの。誤算は、連合艦隊の来襲と、孝明天皇の意思だね。 >>372
つーか文久年間の政局では、先行する薩摩に追いついたのは普通に久坂の戦略の賜物だろう
なんで久坂って過小評価なのかね 薩長同盟に向けて大きく動いたのは坂本による武器の調達だよ
薩摩名義で武器購入は長州側から出た発想だが、
それを成し遂げられたのは龍馬のみ
その成果に対して毛利から島津にお礼の手紙を出した時点で実質的に薩長同盟成立
坂本は新しい考えや発想を自ら作り出すことは出来なかったけど、
実行力、交渉力に抜きん出ている >>375
彦根藩は耐えたし、俗論派は家名がが残ればいいという
論調だったから。わからんよ。 中岡慎太郎は凄い
内政外交と日露戦争その後の日米対立まで予言通り
全て書いてる通りに進むと >>374>>375>>376
お前が久坂を過大評価してるだけだろw
やっぱりいつもの奴かw
ちょっとつついたら早速久坂厨が馬脚現してワロスww
そんなことしなくても、十年一日の如く毎回同じ言い回し、同じ内容の書き込み見たら
こいつが例の木戸高杉アンチの久坂信者だってことは一目瞭然じゃない
何でもかんでも久坂の手柄にする盲目文や
>高杉と言う固有名詞なしでも幕末政治史は語れる
なんて何度見たことかw このスレ内だけでも既に2回も同じ事書いてるな。健忘症かw
普段は坂本も叩いてるくせに、高杉を叩く時だけ持ち上げて利用するのがまたいやらしい。
117 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2012/06/26(火) 04:38:35.01
高杉晋作と言う固有名詞を使わずに幕末維新史を説明することは可能だが、
さすがに薩長盟約の締結に尽力した(裏書した)人物の名前を抜くのは不自然だな。
抜かそうと思えば抜かせないことはないけど…
358 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2012/10/13(土) 17:22:44.98
坂本は薩長の講和の仲介者だから、高杉なんかよりはるかに重要。
高杉と言う固有名詞なしでも幕末政治史は語れるが、坂本龍馬を抜くのは不自然。
中年ニートだからボキャ貧なんだろうww
「ちなみに」「明らか」「明らかに」「言わざるを得ない」「間違いない」
をやたらに使う根拠なしの断定、連投が特徴だから
ウザかったら上のワードをNG推奨だけど
分かりやすいからあえてNGにしないで、見分けるポイントにするもよし 木戸スレも時々荒らしてるよね
どこでも脈絡もなく唐突に久坂持ち上げ始めるから判り易い
木戸スレ住人には即座に一蹴されてて笑ったけどw
>>378
長州の場合は諸隊の問題がある。あれは簡単に解散に応じない。
結局火種は残るよ >>380
お前はなぜ久坂が評価されるのが気に食わないんだよ。久坂に恨みでもあるのか?
坂本や久坂、木戸は中央政界で動いたのに、高杉はないんだから評価のしようがないだろ。
比べろと言うほうが無理だよ。 >>384
どこで???ちょっと荒らしたとか言うの挙げてみ。木戸スレなんて入ったことないよ。 禁門で失敗した久坂の構想継いで成功させたのは高杉でしょ。
久坂信者が高杉を評価しないなんてないでしょ。奇兵隊も久坂の構想を、高杉が機を見て成功させた。
松陰も久坂の構想を高杉の識見で行えばできない事はないと協力言ってる。
高杉も久坂生前時久坂を兄と頼りにしてる。 武器購入も直接薩摩が買って売る事もできた
木戸としても薩長間で再び軋轢出た場合、
第三勢力の土佐の士や在野の士を長州側に取り込みたかったのでないだろうか また評価評価言い始めたよ、このアホが
次はお得意の「位置づけ」が出るかなw
指摘されてる側からボロボロほんとヴァカ
気に食う食わないだの恨みとかの問題じゃなくて
お前以外には久坂なんてどうでもいいんだよ
木戸や高杉や龍馬のスレで、突然久坂マンセー始めたら
スレ違い、場違い、空気読めと言われて当たり前 評価のしようがないのか、評価しないなんてない、のかどっちよ?w 分裂病?
>>392
統失らしい
>>389
その妄想もう聞き飽きたw >>384
木戸スレの姐さん達の華麗なスルーっぷりには感心するわ。
木戸に取って久坂なんかただの迷惑な後輩でしかないっての。 坂本はたまたま立会人になった武器の運搬屋だから歴史に対して何も影響していない。
坂本の説得で薩長同盟が成ったとか本気で信じてたら余程馬鹿だわな。
ただペテン師の朝鮮禿には影響しているみたいだね。
同類なんだろうね。 2012年8月25日『たかじんNOマネー』
華麗なる!?鳩山家のスゴいい話
邦夫「鳩山一郎はもろにフリーメイソンなんですよ。」
邦夫「これ言ってもいいと思うけど、(一郎の)女房のお父さんもフリーメイソンだったんですよ。
それは、もう大っぴらにそういう活動してましたから。」
青山「それは偶然ですか?」
邦夫「まあ偶然ですね。」
フィフィ「え、日本に何人かしかいないんじゃないんですか?」
邦夫「いえ、当時、鳩山一郎内閣あたりは閣僚の半分以上はフリーメイソン。」
フィフィ「えー、そんなにいるの!」
邦夫「だって、フリーメイソンのサイズ?は坂本龍馬から始まるわけですから。」
岸「えっ!」
邦夫「坂本龍馬とか、伊藤博文とかは、全部フリーメイソンですよ、あれ。当時は。」
岸「えっ・・・そうなんですか・・・」
邦夫「だって、みんな向こうに留学して、フリーメイソンに面倒見てもらって、帰ってきた人間ですから。」
水道橋「フリーメイソンについて一回番組やらないとフリーメイソンが何かってのが・・・」
真鍋「これ、今、都市伝説みたいな・・・」
邦夫「いわゆるグラバー邸ってのが長崎にあるでしょう。あれが日本におけるフリーメイソンの拠点でしょ。
龍馬さんはそこに出入りをして、そこからグラバーさんの世話で留学生がいっぱい薩摩も長州も行くじゃないですか。
で、向こうでフリーメイソンと一緒に暮らして戻ってきて。
薩長連合ってのはフリーメイソンがやったわけですから。もちろん龍馬がその中心の役割。
で、坂本龍馬は私のイトコのイトコの曾祖母さんの弟なんですけども。」
岸「ややこしいね(笑)」
鳩山邦夫(衆議院議員)、青山繁晴(ジャーナリスト)、真鍋かをり(タレント)
水道橋博士(タレント)、フィフィ(タレント)、岸博幸(元経産相官僚)、 2012年8月25日『たかじんNOマネー』
華麗なる!?鳩山家のスゴいい話
水道橋「いや、でもフリーメイソンを歴史で教えないじゃないですか。」
邦夫「教えないねえ。」
水道橋「でも、具体的に閣僚経験のある方がそこまで・・・初めて・・・」
デーブ「東京タワーのすぐ下にあるじゃないですか。」
真鍋「ありますね基地が。」
鳩山邦夫「私は全然知らなくて、女房とつきあい始めたときにプールに行こうと言って、
マソニックのプールで泳いでいたんですよ。『空いてるね、このプールは』って。」
一同「(笑)www」
邦夫「考えてみたらフリーメイソンのプールだから空いてるわけだ。」
青山「すごいなその話は。」
真鍋「すごーい!」
邦夫「そのときはフリーメイソンだって知らないんだよ。後から知った。」
邦夫「そういう関係がありながら、私には全然誘いがない。」
水道橋「お兄さんにはあるっていうこと。」
邦夫「だから、私を全くコケにしてるってことは、兄貴は入ってるのかなって思うじゃないですか。」
一同「(笑)www」
水道橋「お兄さんは入れないってことにしてるんですね、じゃあ(笑)」
ゲスト 鳩山邦夫(衆議院議員)
司会 真鍋かをり(タレント)、青山繁晴(独立総合研究所代表)
コメンテーター 岸博幸(元経産相官僚)、大谷昭宏(ジャーナリスト)、水道橋博士(タレント)
フィフィ(タレント)、デーブ・スペクター(テレビプロデューサー) >>375
過激な攘夷テロのやり過ぎで孝明天皇に嫌われ、
無謀な外国船無差別砲撃で報復され、
自分が招いた誤算で大失敗して犬死にした久坂は救いようがない大馬鹿 坂本龍馬がフリーメイソンとかミステリー作家の書いたトンデモ本を本気で信じてたら余程馬鹿だわな。 久坂厨はトンデモ本大好きだからw
前に逆説の日本史()ソースに久坂を褒めちぎってたのには茶吹いたwww 逆説の日本史は
むしろ久坂を酷評していたはずなんだがな。
そもそも長州自体を酷評しているし。
幸福の科学の大川隆法によれば、坂本竜馬は生き神様だそうです >>403
久坂厨は久坂持ち上げる時でも、他の人物disる時でも
自分に都合のいい部分だけ拾い出して継ぎ接ぎするのが得意だからw ミステリー作家の戯言を史実だと信じてる久坂信者の頭がミステリー ×ミステリー作家の戯言を史実だと信じてる久坂信者の頭がミステリー
○ミステリー作家の戯言を何故か逆さまに理解する久坂信者の頭がミステリー 久坂が過小評価されるのは司馬のせい
司馬がやけに過小評価してたな
当時の維新の連中には評価高い 久坂信者が龍馬を逆恨みするのは司馬が龍馬ばかり評価して久坂をスルーしたからかw 司馬が久坂を主人公にした小説書いていたら久坂も今頃大人気に・・・!
ナイナイwwwwwwwww でも>>409の恨み言見るに、久坂信者はそう思ってそうw
久坂が大衆人気皆無なのはまだしも
研究者にまでスルーされてるのは小説のせいじゃないだろ 京近くに軍を近づけたら暴発する可能性を予見できなかったオッサン? 久坂なんて山口でも知られてないよ
久坂生誕地の碑に『龍馬に草莽崛起を説き、土佐脱藩を決意させた人物』って解説されてて吹いたw
龍馬を引き合いに出さないと説明できない久坂wwww >>403
でもあの作家の人のものを読むと
長州藩は結構贔屓な気がするな
特に吉田松陰〜高杉のライン 松陰〜高杉の中抜きラインは無理ある
松陰が最も評価したのは久坂、ついで高杉、高杉も久坂を兄としてる
松陰高杉の間に日本再統一の旗頭を作る朝廷復興運動がある
それで雄藩の兵力で朝廷を強め、将軍を京に呼びつけたりしている
八月の政変は実質勤王派の勝利でもある、政治が幕府から朝廷主導になった証明の政変
久坂は西郷と同型だ、最後暴発で情死している 歴史の分野では、何をしたかが大切。
例え久坂が優秀でも、業績では名を残す程ではない。 封建体制の日本を集権再統一する朝廷を復興したのが
長州の久坂、薩摩は西郷島流し、土佐の武市、草莽の真木、平野ら
坂本はこいつらが死んだ第三期に関わった一人ってだけ
明治維新はペリー来航から明治十年まである
松陰の頃はそもそも自藩の長州藩すら相手にしたのが間違いと嘆いた頃だ
その長州藩や雄藩を動かし朝廷を復興するまでが久坂らの担当 >>411
だって久坂の薄っぺらい人生なんて短編にもならないじゃないか
司馬以外の歴史小説家だって久坂総スルーだし
>>415
久坂って地元でもそんな扱いなのかww 信者が2ちゃんで何年も妄想撒き散らしても一向に知名度の上がらない久坂哀れw >>415
扱い酷過ぎワロタwww
もっと他に説明の仕方あるだろうにww 桂浜の龍馬記念館は、ロスチャイルド工作施設に過ぎません
その証拠がシェイクハンド龍馬像ですから
騙されてはいけません。 久坂も、坂本のおかげで存在意義ができてよかったなww >>422
哀れなのはむしろそんな事で何年も人生無駄にしてる久坂厨 まあ、国の為に一生懸命動いて亡くなった人の事を貶す資格ないだろ、お前らには。 >>423
ナイナイwwww
龍馬を知らない日本人はいないから、龍馬出して説明するのが一番判り易い
久坂単独で書いても、久坂ナニソレ?オイシイノ?って反応がせいぜい 国の為に一生懸命動いて亡くなった坂本や木戸や高杉を日頃貶してる久坂厨が言うとギャグだなw 龍馬は2回も大河の主人公になったからだろ
幕末の偉人では西郷隆盛に続く人気 竜馬より小松帯刀の方が明治維新への貢献は大きいと思う。
早死にしたから、小説、ドラマに出てこないだけだと思う。 >>424
坂本はロスチャイでないと思うけど
司馬は影響受けてるだろなw 龍馬の人気なんてマスコミの刷り込みだからな
多くの人物を知って龍馬を選んだんなら納得だが
大半の連中は他の人物の名前や簡単な功績も知らない連中だ
坂本龍馬こそ失敗した幕末の政商の象徴 スレはじめてきたが、久坂厨がどうだとか頭弱すぎ
坂本信者はチョンのレベルだな http://junko717.exblog.jp/
余談、介護実習で「坂本さん」おじいさん。
坂本さん、認知症のおじいさんがいたの。
ずっと、小刻みにリズムに乗っていたの。
何か、坂本さんに見えた。
その時に、坂本さんが心配になった。
本当は、認知症なのでは?
坂本さんは60歳、知り合いのおばあさんが63歳で認知症だったの。
今年の2月に死んでしまいました。
おばあさんには、凄くお世話になりました。
おばあさんと、2ヶ月くらい一緒に住んでいたの。
私が、おばあさんの家を出たら、認知症が進んでしまい入院してしまった。
日に日に衰弱していく姿を見れなく、お見舞いにも行けなくなりました。
最後は、可哀想でした。
でも、亡くなる2ヵ月前、認知症で何も分からないのに、私の名前を呼んでくれた。
そして「順子ちゃん、私は天国に行くの」泣いていた。
私は「天国には、まだまだ行かない」抱きしめた。 >>437
>スレはじめてきたが、
南鮮工作員の「日本人だけど」と同じくらい信憑性あるわwww あるあるあるw
どう見てもチョンの書き込みなのに「同じ日本人として恥ずかしい」とかなw 坂本さんに僻み丸出しで、同じ久坂厨として恥ずかしい 久坂のヘッポコ人生じゃ大河どころか二時間ドラマの主役も無理 松下村塾の直系同士で罵りあうとは、さすが内ゲバ長州の面目躍如だな 貧乏医者の分際でいっちょまえに京の女郎屋で遊んで
借金取りに追い回されてヒイヒイ言ってた久坂を助けてやったのはその逃げの小五郎なんだがな。 桂って能力的には高杉をはるかにしのいでるのに不当評価だね そりゃ、維新の三傑だからな。松陰も桂だけは別格扱い 同じ医者の家の生まれでも、桂のところは藩主の侍医で、久坂家と違って裕福だったそうだね。 久坂・伊藤・山県あたりこそ本当の下士と言えるだろうな
高杉() 武市が生きていれば維新の四天王と呼ばれていた。
板垣、後藤は政府を追い出された後、腹いせに
自由民権運動に走るが完全に腰砕け。
武市、久坂、宮部あたりには長生きしてほしかった。 高杉が長生きしてたら
間違いなくイギリスに渡ってただろうな
数年後ギターを抱えて帰国
「三味線入手困難にて、これで唄っておった」 >>457
武市は勿体ない事したなと思う
生きてれば確実に正解中心クラスのポジだし土佐藩閥が食い込んでた気がする
でも武市と龍馬は明治まで生きてたら政敵になりそうな気がせんでもない
武市は何だかんだで土佐大事だし、龍馬は反藩閥派に行くだろうし そう言えば、武市と久坂って友人としても
普通に仲がよかったらしいね。
(久坂の方がずっと年下だけど) 武市の三文字の切腹とか、もはや人間業ではない。
本物の侍はすごいわ。
意思の強靭な一般人が本気で切腹しようとしても、
硬くなった腹筋に刃を突き立てることさえできない。 >>449
桂の潜伏先に女郎屋から久坂が馬鹿丸出しで派手に籠で乗りつけて、
奉行所に桂までバレたこともあったそうな
久坂がバレたのは自業自得だが、桂はいい迷惑だよ >>456
本当の下士も何も高杉と木戸はれっきとした上士だろ 伊藤と山縣は下士だが久坂は武士の真似をしたただの医者 叢書・日本の思想家「高杉晋作・久坂玄瑞」は皆さん、購読されましたか? 長州人で西郷だの武市の様な大物になんかこいつすげーみたいに心服されたの久坂くらいだよね。
高杉も年齢上だけど兄とか言ってるし。
長井の様な大物も久坂に恐れをなし帰国工作したり。 土佐のアル中バカ殿が明治になってから、寝言で、
「すまぬ。半平太、すまぬ。」と言っていたそうだ。
土佐に、西郷、大久保、木戸と台頭に渡り合える人材が
武市の他にいたのか?
板垣、後藤あたりでは、識見・人格・武芸・学問など全ての点で、
武市の足元にも及んでいないだろ。
関係ないが、久坂と武市は仲が良かったらしい。 高杉・久坂・武市、それぞれの死に方に憧れる。
ああ、どのパターンでもいい、あんな最期を迎えたい。
(年齢は全部超えてしまったがw) >>471
高杉ならお前にもできるだろ
伝染病にかかって人を手こずらせながら 高杉の場合、死期を悟っても、最後まで、
「おもしろき こともなき世に おもしろく」の精神で
自分の戦い(=生きがい)を楽しんだ。
正岡子規とちょっと似ている。 久坂厨が久坂と関係無いスレで場違いスレ違いな久坂マンセーすればするほど
久坂がいかに世間からかえりみられてないかよくわかるな 西郷・木戸・小栗・近藤・土方のような死もええ。
大久保・大村・横井のような暗殺、斬首でも江藤は嫌や。 >>465
久坂の家は藩医で身分は武士階級の藩士だよ
町医者の出じゃないから /\
/ ⌒ \
/ (山口県) \
/ \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
___________
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/____/_____________________\ >>474
最晩年の高杉は凄まじい闘病生活で生きてるのがやっとの状態だし、
さらに諸隊への統制だの色んな意味で悩みながら往生ですよ
司馬の小説に書いてあるような気楽な最期じゃないよ 最近、高杉晋作の手紙っていう本を読んだけど
とても人間味があるし、臨場感があって凄く好きになった
20代の普通の青年
青年の青春が幕末に一気に燃え尽きたって感じ
手紙も最後の方は字も弱弱しくなっていくのが悲しい
最後は父へ宛てた手紙だった 高杉は手勢があって決起したわけじゃなくて義挙の延長だから、
元治内戦の後半戦あたりから諸隊の突出に苦悩していた
かりに新政府が誕生していたら真っ先に諸隊弾圧に転じただろうな 山縣が押さえてたのは奇兵隊だけだよ。
功山寺決起の後、諸隊が陸続と高すぎに合流する中、これで間違いないって見極めてから奇兵隊を合流させてる。
そもそも諸隊は設立動機も出身身分もばらばらなんだから、奇兵隊総督の肩書きしか無い山縣が全部を牛耳れるわけがない >>477
久坂がやっと士分を得られたのはくたばる一年前の文久三年だろ
それまでは町医者じゃないが、武士でもない >>483
見極めてからというより、山県は最後まで腰が引けてたんだけど
奇兵隊内でも高杉に合流しようって声が高くなって抑えきれなくなって渋々だよね
抑えきれなくなって高杉と合流する事が決まってから山県が詠んだ歌は
後で伊藤に「イミフwwwwww」って笑われたくらい、出家かよ!みたいな
およそこれから出陣するって歌とは程遠い内容だったというw
山県はこれで完全に俺の人生オワタ/(^o^)\と思ってたみたいだなw 山県、伊藤は松下村塾の出身でなかったら、
明治になっても下っ端役人のままだったと思う。
この二人が有能だったと言う話を未だに聞いた事がない。 いや、伊藤ほど使える人間はいないだろ
よく人は伊藤の事を大物にくっ付いて出世したなんて言う
高杉や桂や大久保と
それはそうかもしれないが
逆に考えれば、使えるから伊藤を手元に置いといたとも言える
人間としても、女好きが過ぎるけど
性格は陽性で社交的、体は頑丈で病気もしない
粘り強く物事に取り組む性格は
部下としては是非欲しい人材 >>486
有能でなかったら大久保利通が引き立ててくれるわけがないし、ライバルに蹴落とされてた。
つか、明治以降、日本の舵取りを立派に務めた人間が有能でないわけがない。 高杉はあれで義理堅く、弱いものいじめが大嫌いだったので、
坂本に親切に接してあげた、と言うお話。 高杉の人間くささは魅力だよね。
龍馬は持て囃されすぎと言うか、イイキャラしてるけど主人公じゃないっていうか
俺のイメージだとエヴァの加治さん的な感じなんだよね。 維新の志士はみんな、忍者。近代用語で言えば
特務機関の人間。
坂本も高杉も忍者です。 ほんと高杉は人間臭いよね
いい意味で青臭い
だから凄くリアルに感じられて
幕末の情景を追体験するには
高杉のドラマが一番いいと思うけど
どっかやらないかなー 初期の西郷さんなんかはそうとも言えるけど、それ以外は暴論でしょw 毛利公がそうせい侯だったので、長州は長州たりえた。
高杉も良い時代に良い藩に生まれたので力を発揮できた
と思う。
ただ、欲を言えば、高杉、大村、薩摩の伊地知(正治の方ね)には
長生きしてほしかった。 それだったら、肥後の宮部、土佐の武市も長生させてやりたかった。
早く死んでほしかったヤツは、土佐のアル中大殿、世渡りだけの勝安房守。 「八重の桜」で薩長同盟の話し合いの時、坂本が
背中しかTVに映らなかったが、実際、この程度の
扱いが妥当 「龍馬、竜馬とうるさい。竜馬のどこが偉人なんだ?」を公開します。
http://www.youtube.com/watch?v=Ot0xqaiidI0&list=PLPg7hSdi4rU7MbUXVU-MbLutj1m8AQI5j
★★★自民党と独立党が火花を散らしています!★★★
「安倍総理は嘘つき」ポスターに“貼り紙”で逮捕
http://5.tvasahi.jp/000004173?a=news&b=nss …
←もっと大々的に報道して下さい!特に「不正選挙」の部分!
「未来の党に投票したのに....」の思いを引きずってきた数千万の人たちが、
朝日馬鹿テレビのおかげで、開眼します。RK言説に触れます。
数週間で、驚愕の覚醒を経験することになります。覚醒者を一気に増やすには、
テレ朝さんにはもっともっとオウンゴールしていただきたい。
その美味しいニュースを徹底的に反復してください!
http://リチャードコシミズ.at.webry.info/201304/article_161.html
ネット選挙:検閲口封じは、安倍晋太郎の秘書だった輩が運営する団体がやるそうです。
http://リチャードコシミズ.at.webry.info/201304/article_147.html
統一CIA麻薬密輸教会が半狂乱で削除しまくる「安倍晋三の統一教会祝電」動画。
消せば消すほど、世界中のサイトに有志が嬉々としてUPLOADする。
【安倍晋三】統一教会と自民党清和会の関係【福田赳夫】
http://www.dailymotion.com/video/xyj6xp_yyyy-yyyyyyyyyyyyyy-yyyy_news#.UVuusWSChUE
ボストンマラソン爆破事件の容疑者はでっち上げ!真犯人は?
3人の警官はサンディフック小学校の銃乱射事件で有名になったスター警官です。
ではなぜ彼等はボストンマラソンの爆発が起きる直前に、
マラソンのゴール付近に勢ぞろいしていたのでしょうか。
なぜ、彼等は、爆発後、リュックサックを背負って現場から逃走していたのでしょうか。
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/lite/archives/51878918.html 高杉は猪突猛進の馬鹿ではない。
小倉口、大島口の戦では攻めるべきタイミングで
果敢に攻撃を指示し、引くべき時には奇兵隊から
不満が出ようとも即時撤退を指示。
高杉の大胆かつ慎重な作戦指導が四境戦争での勝利に
結びついた。 大島口で陸戦指揮をとってるのは世良修蔵なんだが。
高杉は軍艦の指揮してただけだろ。 >>501
それを言ったら高杉は背中さえ出ていない気がするぞ。
もしかしたら自分が見逃した週に出てたかもしれないが。 新撰組!の時なんか「よ、征夷大将軍」のシーンだけだったしな― >>506
長伐の幕軍の中で強かったの海軍や熊本軍だし >>509
芸州では紀州藩歩兵隊に押されがちだったんだが。
大島口でも高杉が帰っちゃってから戻ってきた幕府海軍の艦砲射撃に支援された幕府歩兵に苦戦している。 「八重の桜」で芸州口で井伊の赤備えが敗れたことに、
容保、定敬が驚いていたが。
彦根藩からすれば、直弼暗殺後、尊皇攘夷の勢いが増すと、
彦根藩は減封されたり、直弼警護の武士を切腹させたりしたから、
譜代筆頭と言え、大阪夏の陣ほどのやる気なかったんじゃないの。 小松、桂、大久保、勝、春嶽など錚々たる面々と面識のあった坂本が
騒擾事件以外に大した藩外活動してない高杉以下なんてこたぁない 久坂と高杉の役割が違うから
久坂→藩を超え、いや、藩もいらぬ、枠を超え各地の志士達と連携し討幕を目指す
高杉→あくまでも毛利長州藩を主体に、保守的に、現実的に、割拠待敵、場合によっては倒幕を目指す
この二人は松陰門下生の双璧だけど
実はあまり行動を共にしていない、どちらかが出る時は片方が引くって感じで >>511
単純に経験不足。彦根は緒戦の敗北から学んでその後は鎧兜を脱ぎ軽装で戦ってる。
長州も芸州口の第2次攻勢で、彦根と戦った際はかなり苦戦してる
ちなみに長州隊を1回幕軍が押し込んだ時に、彦根だけは戦闘継続を主張したが、
総大将出馬が予定されていたし、今日は夜道が危ないからと連れて帰っちゃった
幕府艦隊が艦砲撃って援護してたのにもったいない >>513
面識があったからwww
まあどこにでも図々しく顔を出す薩摩傘下の武器商人だったことは確かだなw 英国公使館焼き討ちが最重要イベントのテロリストよりはマシだろ ウヨクってなんで幕末維新史でも長州の有利に歴史修正するの?
結局、ウヨ=長州なの? 萩一番の美人と結婚したのが高杉
萩一番のブスと結婚したのが久坂 皇后陛下の夢枕事件が無かったら坂本龍馬は他の幕末志士と変わら無かったはず。 >>520
お前は功山寺以降の歴史も知らんのか。
一方で坂本は風聞のみの小説英雄だよ。
薩摩同盟にも大政奉還にも明治新政府にも全く影響を及ぼしていない。 >>528
ほんとに無知で馬鹿。恥ずかしい奴(wwwwwwwwwww >戦国炎舞
>
>招待ID:gR2tJ4fJ
>招待IDを入れてスタートすると特別なアイテムが貰えるから超お得!気軽に使ってください!
>
>レベル50までやっての感想、とりあえずガチャチケもらえまくるので、非課金でも十分楽しめる、定時の合戦は駆け引きがあって楽しい!トレードとかないので、非課金と課金の差があまりでないのがいい!
>ここの住人でチーム作ろうぜ!
>
>・ >>530
他人がやったことを全部竜馬がやりました!って頭悪すぎますよね。 >>528
>薩摩同盟
てなに? ほんとに恥ずかしい奴(wwwww >>528
月形洗蔵や、中岡慎太郎も、薩長の和解工作をしたが、結局失敗した。
慶応2年1月21日に、京都小松邸で、薩長の同盟が成立したのは、
仲介し、立ち会った坂本龍馬の力が大きい。
木戸の日記を信じれば、龍馬がいなければこの日には成立しなかった可能性もある。
大政奉還策は、幕府側で過去に何度も検討した政策だが、
当時、政局に乗り遅れていた土佐藩の藩論とするため、
また可能なら内戦をしないで政権を奪取するため、等
いろんな思惑があって、龍馬が後藤に提案し、容堂が了承した。
慶喜にも彼なりの思惑があり、その建白を受け入れた。
明治新政府は、龍馬が尾崎三良と相談して作った「新官制擬定書」をもとに、
大幅に人員を増加して組織された。
龍馬の紹介で、横井小楠と由利公正が政権に参加した。
明治新政府に大きな影響を及ぼしたといえる。 別に失敗したわけではないだろ、月形や中岡が途中までやって
最後の方で薩摩と親しく第三極の土佐浪士で割りと名の通ってたサカモートが立ち会ったって感じで
まあ結局一番は高杉だけどね禁門ずたぼろから功山寺なかったら変わってたろうし
木戸自体も長州に戻れなかった
高杉は元々土佐人の吉村、中岡、田中なんかと親しかったからサカモートも信用したんだろ 長州は諸隊が解散に猛反対しているから、かりに高杉が捕まって斬られていたとしても、
何らかの形で内戦が発生するか、または幕軍が征討姿勢を強めた場合に、
正義派が巻き返す可能性はあったと言える。 >>504
高杉なんてだいたい逐電してるか、逐電してない時には寝込んでるよ 逐電、篭居、発病ときどき活躍だなw
坂本がほぼフルタイムで活動してたのとは対照的。 >>538
タカスフキーがあの時点で挙兵したの、九州情勢と七卿落ち迫ったからだろ。
功山寺成功したの、タカスフキーが海軍手に入れたのが大きい。
あれで諸隊も挙兵したし。
萩政府側も海洋から攻撃させると、防衛の為半分しか兵力展開できなかった。 >>542
高杉は挙兵の1カ月前に冷泉たちの決起要請を阻止してる。
だから決起を説いても奇兵隊に相手にされなかった。だから下関行きが「脱走」と明記されてるし、白石も決起を「暴挙」と非難してる。
赤根の出自を貶したのも心証を悪くした。高杉の迷走で、一時的とはいえ赤根・時山の交渉路線が認められることになってんだよ。
しかし高杉が勝手に決起したことで交渉が自動的に破たんし、諸隊は身の保証がなくなった。
それでも諸隊はその後しばらく中立姿勢を保っている。
要するに諸隊は諸隊の都合でしか動かず、高杉は発火線になったに過ぎないと言うこと。
山口から萩への侵攻の際には、諸隊幹部を抑えるので苦労している。
高杉が山県のご機嫌を取るのに必死だったのがそれを物語る。 >>541
坂本は所詮、武器商人としてフルタイムな。
だらだらフルタイムより要所を突く方が効果的な場合もあるわけで。 年齢でも、龍馬がのほうが3つ上
坂本さん
高杉くん
と、呼び合う関係 そんな事いったら実家の金持ち度でも負けてるよ。
龍馬は金持ちだし。
でも身分は龍馬に買ってるな。
だけど龍馬の右腕の陸奥には身分も負けてる。
でも健康面は…と思ったら両方結核か。
よし。ここは健康優良児伊藤博文の出番だ。 頑丈で屈強で人あたりが良くて社交的
何かをする時、部下を数人連れて行かないといけない場合
どうしてもこうなる
とりあえず伊藤 高杉を知らない人結構いるよね。名前自体知らない人も。 確かに高杉は別に教えなくても文部科学省から怒られないな。少なくとも義務教育期間中は。
伊藤を教えなかった場合は文部科学省からめちゃくちゃ怒られるけどw 補足>>552
生徒へ高杉を教えない学校は問題視されないが
生徒へ伊藤を教えない学校は文部科学省から怒られるという意味です
指導のマニュアルで「伊藤博文を教えろ」って書いてあるから。 高杉は歴史に興味がない人から見ると英国公使館焼き討ち事件の犯人としてのほうがまだ知名度があるだろ。
あれは外交問題に影響する事件だから。 そう言うことは無いと思う
高杉は中高では教わるし。
ちゃんと長州の攘夷派主要人物として。
ただ大体の教科書は高杉より龍馬の方が扱い良い。 つーか、英国公使館焼き討ち事件なんて日本史で習った記憶ないんだがww
それこそ歴史オタクしか知らねえよ 高杉は、小攘夷主義テロリストだった時期があるが、
坂本は、一貫して、開国・貿易・海軍創設、そして外国の侵略を排除する
いわば、大攘夷主義。
これは脱藩前、河田小竜との会話以来一貫している。 互いに親友だけどな
龍馬のピストルが高杉から譲り受けたものだったり
寺田屋の時に護衛して助けてくれたのが三吉慎蔵だったり
奇兵隊の理念を参考に海援隊を作ったりと二人の関わりは深い 坂本は薩長盟約の仲介とか薩土仲介とかだぜ
それも功績高いのは確かだけど
高杉は四カ国艦隊と講和、功山寺決起、幕軍15万破り
ぼこぼこから実質幕府倒しちゃった天才やろ
当時尊攘派はどこも弾圧で、五卿落ちしたら諸隊の名分すらなくなるだろうし
まあ諸隊が挙兵しても潰されてたろう、赤根路線は可能性薄いね
そもそも幕府に対抗する為に融和論言って、その後幕府に転がり込んで挙兵成功後に幕府と融和説いたりあの情勢で複雑奇怪すぎた
まあ処刑されたのは山縣との個人的確執もあったらしいが 高杉より龍馬の方が日本史で重要人物扱い受けてるのは
龍馬の関わった事項(薩長同盟や大政奉還)は日本史の基礎にあたるからなんだよね。
高杉は天才的な難しいクーデターをなしとげてるんだけど
あのクーデター、文部科学省では「日本史」じゃなくて「長州史」と認識されてるらしく
ちゃんと高杉を教える学校少ないんだよな。結構な事成したのに切ないなと思う。
でも山縣有朋よりはマシだと思う。山縣なんて本来習うべき立場なのに教科書で
殆ど登場しないし。高杉や松陰は高校では学ぶ所多い分ずっと良い。 >>560
薩長同盟や大政奉還に関わったという龍馬の資格は、一土佐藩士として、だろう 高杉よりも龍馬が幕末最高英雄と成った理由
1、日露戦争開戦前夜の皇后陛下「夢枕事件」流布
2、司馬遼太郎著「竜馬が行く」の成果 あと、用心深い桂の性格も大きいよ
桂が龍馬に裏書をさせてなかったら
あの場での龍馬の存在は明るみにならなかったかもしれない >>563
幕府側が、薩長が同盟を結んだ事実、
その仲介をしたのは坂本龍馬と、しっかり調べ上げてる。 >>561
一応教科書に書かれてる事って文部科学省の査定をクリアしないと載せられないんだよ。
坂本龍馬と中岡慎太郎は「薩長同盟の仲介をした」でクリアするし坂本龍馬は「大政奉還を進言した」でクリアする。
だから>>561が「土佐の一員」と思っても、文部省では龍馬中岡はそういう扱いしてないって事かと。
余談だけど桂小五郎と大久保利通のクリア条件は似すぎててややこしい事で有名w
たしか桂が「長州出身で新政府の基礎を築いた」で大久保は「薩摩出身で新政府の基礎を築いた」とかそんな感じ。
お陰で学力調査では小学生が桂と大久保を混同する覚え間違い多発中。大久保と間違えたら桂に怒られそうw
高杉の場合は長州史扱いなのか小中だと教科書に載ってくる機会も少なめ。
のってる教科書でも「桂と共に長州攘夷派の中心人物として〜」とかいう感じで書かれてるから
クーデターについては書かれてる事少ない。 実際に幕府倒したのは高杉だろうけど
第二次長州征伐の敗北でその後大政奉還になった
鳥羽伏見が新政府が確定的なった戦いかな
竜馬が日本一の英雄なったのは
旧幕府にも薩長側にも受けよい土佐でその後の自由民権もあるからだろね
実際の竜馬は武市なんかの後の土佐有力浪士って感じだし 後輩の性質も有ると思う
龍馬の部下ってその後、自由民権運動派と、大正デモクラシー(原敬や加藤高明)という
国民大人気の団体に繋がるでしょ。
高杉に繋がる部下って、大久保についた伊藤を除くと、山縣って事になっちゃうし。 当時の国民のイメージを現代で例えたら
「鳩山とその嫁を育てた男、高杉」
「小泉親子を育てた男、龍馬」
ぐらいの差が有る気がする 薩摩の威を借りて紀州藩に因縁つけて金を巻き上げているクズっぷりから、坂本という人物はむしろ軽蔑対象でしかないよ。
頭のおかしい信者からしたら豪快な英雄みたいな評価になるらしいが、日本にはゴロツキを英雄視する文化ないから、支那朝鮮じゃあるまいし。 事実をまげて坂本を叩きたいだけのやつって感情的すぎてひくな
盲信的信者と同列というよりネガティブな時点でそれ以下だな >>573
そそ
無知の上に事実を捻じ曲げるから、頭が悪いのが強調される結果にwwwww まあ、紀州側に非はなかったみたいだけどね。
そこらへんがだらしないんだよ。 >>573
>>574
自演坂本信者はまるで朝鮮人 それを言うなら武器商人だろ
武士の誇りを捨てた人だ 互いに亡き友や師の姿を重ね合わせてたかもしれないね >>581
はあ?wwwww
朝鮮人並みの捏造だな坂本信者 土佐ですごいのは武市だけ。
三文字の切腹とは通常は有り得ない。 久坂のほうが先に大河になってしまいました
高杉信者に天罰が下ったねw 高杉と龍馬を同じ土俵に上げて論ずる事は、ベッキーに失礼仕りまんすーる 実際、ずっとすごいしな。久坂のほうが
高杉なんて公使館テロってトチくるって決起しただけの男
だからヲタは必死で久坂叩いてたわけで >>586
大河「花神(1977年)」で高杉晋作は3番手だったぞ。
「花燃ゆ」の主人公は久坂ではなく杉文だし、2番手は兄の吉田松陰だろう。
久坂は3番手より上ではないはずだし、前半退場。
下手したら文の姉や2度目の夫・楫取素彦よりもテロップ下かも。 12/16 ミス・インター2012優勝の吉松育美氏脅迫被害の実態を告発 大手プロ関与か
韓国で女優自殺もあったが、この領域は日本権力中枢のタブーの一つではないか
https://twitter.com/HSarabande/status/413198258899406849
12月20日(金)
14時頃「岩上安身による ミス・インターナショナルグランプリ受賞者 吉松育美氏インタビュー」を中継。
吉松さん側から延期の申し入れがありました。仕切り直します。
18時から「再稼働反対!首相官邸前抗議(首相官邸前/国会正門前)」を中継。http://ustre.am/usAQ
20時頃「岩上安身による山下幸夫氏インタビュー」を中継。特定秘密保護法共謀罪http://ustre.am/eOVh
株式市場崩壊後に出現する新しい政権は日本国民の意志を反映し、国民の側に立つものであろう。
マイトレーヤは、衛星中継によるテレビ網をとおして全世界に直接語りかけるでしょう。
テレパシーで私たちがパニックにならないよう、マイトレーヤがテレビに出演されるのです。
Q ラテン・アメリカ諸国で多くのUFO活動が行われているように思われます。
A 世界の多くの地域でUFO活動は増大しています。
これはマイトレーヤの出現が公になる中で増え続けるでしょう。
Q マイトレーヤが公に現れた後しばらくして、UFOの着陸は世界中で起こるのですか。
世界中でメディアの注目を集めるでしょうか。
A はい。
Q テレビに出るでしょうか。
A いいえ。人々が確信するためには何らかの大きな出来事が起こらなければなりません。
釈迦が予言、やがてシャンバラは地上に姿を現わす。恐らく我々が生きてるときに見られる事件です。
http://www.youtube.com/watch?v=lvaE4UqCPnc
シャンバラの住人とアメリカ軍の戦いがあるわけだよ。日本人はボーッとしてるだけなんだよ、知らんぞ。
http://www.youtube.com/watch?v=KnTCMXdDBTk 高杉も龍馬もあまり好きではないけれど
比較対象にされる龍馬の方がやっぱり凄いのかな どっちも凄いよ
次の土曜日BSプレミアム龍馬伝で馬関の奇跡は2人が力を合わせて戦う幕末最大の長州戦争が描かれる
15万もの幕府軍を相手に3千の長州はいかに立ち向かうのか。奇兵隊と亀山社中の関わりにも注目 日本史上に於いて、外国人から「魔王」呼ばわりされた日本人は
2人しかいない、それは織田信長と高杉晋作である。
織田はルイス・フロイスから
高杉はアーネスト・サトウから 司馬遼の創作受け売り乙
サトウ日記の当該部分は
「日本の使者の態度に次第に現われてきた変化を観察すると、なかなか面白い。
使者は、艦上に足を踏み入れた時には悪魔のように傲然としていたのだが、だんだん態度がやわらぎ、
すべての提案を何の反対もなく承認してしまった。それには大いに伊藤の影響があったようだ」
つまりもったいぶっている割に無能な使者だと馬鹿にされる文脈で魔王と言われてるんだけど 攘夷運動が激化すると、英米の本国世論が日本人に対する好意的評価から
軽蔑と、武力による恫喝方針に一変してしまったんだよね。 >>595
長州征伐は高杉信者には重要性が高いかも知れないが
(そこしか見せ場がないし)
坂本、薩摩、慶喜ら中央政局の人間にとっては決定的な重要性を持つものではないよ 高杉の奇兵隊の理念を参考にした
親友.龍馬が作ったのが海援隊
有名な話だぞ 亀山社中のような同志的集団はこの頃いっぱいできてるし共通性も認められないな
ソースプリーズ ソースは司馬のリョーマだろ。
世に棲む日々では高杉が坂本に無関心だったことになってるのに。 >文久2年(1862)、幕府が品川御殿山に建設中のイギリス公使館を、同志と共に焼き払ったにもかかわず、
>捕まらなかったのはなぜか。それは当時の幕府が、朝廷から建設中止を求められるという苦しい立場に立たされていたからだ。
>犯人不明で処理した方が、都合がよかったのである。皮肉にも晋作は命をかけ、幕府を救っていたことも分かった。 英国公使館焼き打ちは
江戸の庶民には大喝采だった
死者もでてない鮮やかな犯行
だから後々、明治政府ができた後
元勲となった伊藤や井上が自分達の武勇伝として
記者たちの耳にタコができるぐらい得意げに語った
それで初めて長州藩士の仕業だと明るみに出た あれは政局ができない高杉が焦って起こしたスタンドプレーだよ
政局的に薩摩に追いつこうとしてた久坂はそんなくだらない人気取りはやめろと言った >>601
ソースは汗血千里の駒、からの龍馬伝
はっきり言って司馬の竜馬なんてカスみたいなものだよ
視聴率もこっちのほうがずっと上 高杉:長州藩論を倒幕に固めるクーデターを起こした。
坂本:薩長同盟の立会人。商人としても活動。
って感じでOK? いやぜんぜん足りねーよ。小学生か
奇兵隊と海援隊の結成。給金の出元
船中八策と大政奉還の建白書くらい調べてからレスしてくれ 正直どっちも教科書に乗らなくてもいいレベルの人物だと思う 坂本某に関しては、なんつーか、今更「真実の」とか出来ないんだろう。
本を出せばそれなりに売れるしドラも視聴率取れるし。
学者の中にも疑問に思っている人は多いだろうけどなかなか表に出てこない。
腹立たしいのはNHKの歴史番組などでもその辺の疑問点を取り上げないことかな。
でも何年か前に坂本が西郷のお使いで桂のとこに行った時、ちゃんとお使いできたかどうか薩摩藩士が後
をつけて結果報告を西郷にしている手紙が見つかって薩長連合は坂本某が主体となって行なったんではないと疑問を
投げかけてた。
因みにこの時保険としてもう一人の何とかいう浪人にも書状を持たせて高杉の元に行かせているが、高杉はプライド
高いので「こんな下っ端よこしやがって」と相手にもしなかった。その後この話はあまり聞かなくなったな。
ところで高杉は浪人ごときを相手にしないのであれば坂本と親密であるというのも疑問だがどうなんだろう??
拳銃も直接高杉からもらったのか伊藤あたり経由したのか武器商人から貰ったのか良くわからん。
まぁ、龍馬という名前の人も現在いるでしょうし、自分の子供に龍馬と付けている人も多いだろうから今更夢を
壊すことは出来ないだろう。
これからも司馬竜馬が真実の姿として語り継がれるのでしょう。 >>613
大河ドラマでもそうされてしまうのかな
もったいない 龍馬は俺と同じタイプで相手の懐に入るのと、方便が立つ有言実行野朗だな(笑) 高杉なら鳥羽伏見で手代木直右衛門を取り逃がさなかったかな? 坂本龍馬は勝海舟のメッセンジャーだったから偉いさん達に相手して貰えたんでしょ? 幕末の獅子たちを坂本龍馬みたいなヤクザ武器商人と比較したらかわいそう 「坂本とか言う小者が」と某日記に書かれている点で、お察し なんせ、坂本以外の大政奉還派は手代木に始末されちまったからな。 高杉晋作という名前を使わなくても幕末史の説明はできるが、
坂本は逆に触れないほうが不自然
桂小五郎が裏書を龍馬に求めて龍馬が返答しているから薩長同盟の内容が今日でも確認できる
薩長同盟がなければ幕長戦争での長州の防衛態勢は大きく影響を受けたのだから
どう見ても同盟の立会人である龍馬のほうが、高杉より重要性は大きいよ >>626
そんなこと言ったら決起を煽った奇兵隊に無視されて
日記にも「谷梅之進脱走」としか書かれてない高杉のほうが悲惨だろ 高杉って西郷と会った事ないのかな?
薩長同盟の時、桂に西郷と会った方がいいと促してるよね
高杉の功山寺決起が12月14日だっけ?
西郷が下関に入って第一次長州征討の講和を結んでるのが12月11日
この時西郷は下関の大阪屋という宿に泊まっているが
12月12日には高杉の名前が同じ宿の宿泊帳にある
高杉と一緒にいた伊藤は晩年
この時西郷とは会っていないと言ってるがはたしてどうだか・・・ >>618
2ちゃんばかり見てたらそう思うかもしれないけど、
松浦玲や中村武生、磯田道史の龍馬関連本を読んでたら、
司馬の書いた小説よりずっと魅力のある人物だと思った。
どっちにしろ、人気は出てたと思う。 このスレ面白い!
俺は19の頃、坂本高杉論争で叔父貴に論破された。リベンジする勇気沸いた。 しかし、おまいらねらーで終わるのもったいないくらい知識あるなw 高杉って統合失調症と言えるくらいの危険人物だよね
一方、坂本は発達障害で夜尿症 二人ともこの時代に産まれたらひきこもりねらーで人生終わった いや、無駄に行動力はあるからひきこもりねらーよりたち悪い >>639ねらーとの差は行動力っての同意だけど
当時2chという危険人物収容所が無かったからこそエネルギーを
維新に向けられたとも言えるのではないか? 伊藤博文は西郷の征韓論を実現して立派に死んだが
山縣は糞 >>1
うん、絶対なかったね。だってその主体なんだからw
明治維新の80%は高杉といっていいでしょう。助力したのが薩州。
薩摩だけあっても、「何も起こらなかった」というだけ。 100円ライターがあるじゃん
着火する石と、着火する意思がある =それが高杉
下のケースの部分に燃料(ガス)が入ってる =それが薩摩
高杉だけなら一瞬しか燃えないが
高杉抜きなら、そもそもライターで何かを燃やすという行為自体が存在していない
それが明治維新 >>646
残念ながら、着火をあえて見逃してる時点で薩摩の勝ち(高杉の挙兵をよそ目に解兵が始まってる。
西郷隆盛は長州内部で決着を付けさせるという方針に転じ慶勝を説得している)
一方で慶喜は長州処分の受諾を迫る立場
長州が俗論派政権になっていても薩摩と慶喜は対立した。
高杉が斬首されてても何も変わらない。 >>637
高杉は諸隊から見捨てられてそのままでは自滅するから挙兵しただけ
諸隊は挙兵後もしばらく応じる気配を見せていない
藩政府との交渉が途絶したのと、征長軍が解兵したことにより主戦に転じたので、
参戦後は今度は萩進撃を主張する諸隊の統制に苦労する立場になっている
要するに諸隊は諸隊の論理で動いてたということ
坂本龍馬の過大評価もアレだが、少なくとも高杉の功山寺決起の過大評価よりは凄まじくない たった3か月程度の俗論派政権が幕府に恭順姿勢を示しつつ寛大な講和条件を引き出し、
なおかつ高杉以外の運の悪い要人を斬ったことで、
内戦後の正義派政権や高杉は相対的に地位が上昇してるんだぞw 諸隊の行動で言えば11月に山口に押しかけた時のほうが大きかった
まあ内戦後も藩政府を監視してる状態だったから、いずれにしても諸隊に牛耳られる政権になったのは確実 >>630
宿屋は重要な情報収集の場所だから、西郷らの「長州藩の内政には干渉しない」と言う方針を
西郷と会った誰かから伝えられて、感触を得た可能性はある
西郷的には禁門の変で同情藩も多かった長州を強攻して滅ぼすより、長州藩内部の抗争でしばらく力を削げる
という方針で、それは既に実現されてるから。この頃はまだ提携までは考えてないけど、西郷的には長州の政務役が高杉でも特に支障はないので
(処分は三家老の処刑と恭順、山口の破却=これは形式的なもの、で終了してるので、西郷側が会わない理由はないから。
むしろ高杉の挙兵は長州の内乱を意味するため、この時点での西郷的にはむしろ期待する所かも知れなかった) >>647
薩摩には「倒幕の意思」がそもそもなかったと思う
その底意があったとすれば、長州を滅ぼそうとしないだろうからね。
あったとしても、長州抜きでは事が進まないし
仮に薩摩単独の武威で明治維新が成ったとしても、久光の首かれないねw
「思想」がないからです。
幕府を倒して何をするか、というw それがあったのが長州だけ。 >>648
あのねぇ、物事の生起とはそういう過程をたどるものなのですよ。
ロシアやキューバの革命だって偶然が左右したといえるのだろうが
要は、歴史として捉えるべきは「意思」の所在なのであって
それが高杉には確実にあって、したがって偶然をも引き寄せた、
それが「歴史」ちゅうもんじゃないかな?w
結果論であり、運命論でもあり。、信長も家康もある意味「偶然」=「意思」の帰結でしょ >>648
「座して死を待つくらいなら」と自己の意思貫き通す
歴史の大きく転換した局面とは大体においてそれ。
そこに歴史のダイナミズムを見出さないで、一体どこのなにを見出すというのだ?w
個人性=人間存在が最も称揚される局面に、まさに高杉はいたのである。
桶狭間とこれくらい歴史を分割したドラマ=人間精神はないだろうさw 幕府を倒して何をするか、というw それがあったのが大久保だけ。 >>657
いや、実は違うんだねw
大久保に廃藩なんて構想もない、近代化にも後乗りだった。
吹き込んだのは伊藤だよ。あと井上馨、大隈とかの革新派。
世代が大久保・西郷は違っていて、当時の年齢でいえばジジイだったから
そもそも意味がわかっていない。 明治維新後の国家像=グランドデザインがあったのは長州だろう 桂(木戸)、伊藤
でも実際上のパワーがあったのは薩摩 大久保 西郷
伊藤が利用した感じもあるw
あと頭がよく先見もあったのが岩倉
一番先が見えていたのは伊藤と岩倉じゃないかと思うし、そのタッグの路線で
進んでいった。 前日に宿屋で西郷隆盛の許しを得てから挙兵した高杉晋作さん 坂本龍馬は出自が郷士だからな。
高杉晋作みたいに八家で、生まれつき世子の側近たることを約束されてたわけでもない。
海軍修行も高杉がすぐ放り出したのに対して、龍馬は海舟にしがみついて操練所で一通り習っている。
薩摩藩に雇われた時も、その航海技術を買われてるのだし、
薩長同盟や大政奉還にも関与してるわけで、やはり大物と言わざるを得ない。
>>658
残念ながら伊藤は大久保の下司の中の1人に過ぎない
大久保は佐賀の乱で対立することになる江藤新平や大隈重信ら諸藩の貢士にも頼っている
廃藩置県に関しては紀州藩の津田出のほうが影響が強いだろ
あと大久保は新政府初期には幕臣を排除してたが間もなく方針を転換し、
幕臣や佐幕諸藩のホープが側近についている。米沢の千坂高雅などは戊辰戦争後は大久保の側近だった >>654
薩摩は倒幕の意思は慶応3年5月以降は明確にあったよ
倒幕の意思がなければ密勅もない、密勅は薩摩藩内の反対を抑えて出兵をするために出したんだから
薩摩藩の討幕邁進がなければ、後藤が大政奉還を薦め慶喜が受諾する理由もない
むしろ失機改図で割拠にこだわって10月挙兵を潰したのは長州藩なんだが
何言ってんだお前は??? 井上馨に至っては、いわゆる使節団と留守政府との約定(新たな任官を行わない)
をわざわざ破って、当時国法(憲法)制定に携わってた江藤新平を大久保に推挙し、その黙認を得て司法卿に就任させてる。
ところが江藤は井上よりはるかに頭脳明敏な上にやり手で、推挙した張本人の井上の大蔵省のスキャンダルを契機に、
就任わずか1年で大蔵省の査察を三参議が主張する事態になり井上は辞職
さらに下野した井上に職務上の過失があったとして有罪判決を下し、9月以降の閣議では井上その人の拘引まで提議される予定だった
大久保が帰朝してみたら左院組に押しまくられて大蔵省がめちゃくちゃになってて激怒
そのくらい使えない野郎だよ 宗教、歴史、武士道から政治経済、国際問題、在日韓国人問題まで
あらゆる情報の宝庫!面白くて役に立つ講義を日々発信中!
本日の講義は『能生と所生』『新撰組の強さの秘密』です。
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/
http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi なんだかんだいって、伊藤博文って
あらゆる有能な人のパシリっていうか、舎弟みたいな位置にいたよな
誰かの本に書いてあったが、それは彼の生まれながらの資質であり才能だと
誰か一人連れて行くってなった時に、じゃあ伊藤って選ばれやすい気安さというか
伊藤は高杉桂大久保などタイプの違う人のいい面も駄目な面も見てきただろうし
実地で凄く学べたと思う 高杉も色々と限界があった
戦術家としては傑出していたが、政治家にはなれなかっただろう
身分問わずの奇兵隊を作っておきながら、赤根に身分どうこう言って暴言を吐いたり
長井と赤根が生き残っていれば、明治政府はもっとまともだったはず
山縣とか井上みたいなカスが贅沢な生活をしていて、
松蔭の友人だった白井が何度も彼らの邸宅へ嫌がらせに行ったらしいな
奥さんを酒樽に入れて、酒を飲んだりw
松蔭はこんな日本を目指して革命を起こしたのではない、と。 http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
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野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
野口英世と東郷平八郎
http://m2.upup.be/qH7YjpjAGW
日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
野口英世
学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
受賞歴
1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) http://hideyo-noguchi-mri.com/council
あの神の手、福島孝徳脳外科医も野口英世支持者だ
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野口英世と大隈重信
http://l2.upup.be/CfE8fOSdgr
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日本人最初のカラー写真、野口英世(大正3年アメリカで撮影)
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学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
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1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
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1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) 安倍晋三首相の施政方針演説のなかで、
安倍首相は、アフリカ各国への貢献実現と国会議員の姿勢を
示すために、野口博士を引き合いに出し、次のように述べました。
「アフリカの人々のため87年前、アフリカに渡った
一人の日本人がいました。 野口英世博士です。
「志を得ざれば再び此地を踏まず」
ふるさと・福島から世界に羽ばたき、黄熱病研究のため周囲の
反対を押し切ってガーナに渡り、そしてその地で黄熱病により殉死。
人生の最後の瞬間まで、医学に対する熱い初心を貫きました。」
(「第186通常国会 安倍首相の施政方針演説」より抜粋)
↑
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アフリカに上陸する野口英世 http://hideyo-noguchi-mri.com/council
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学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。
1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
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1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
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1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
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1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
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1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士
1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授
1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士
1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士
1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士
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1913年(大正2年) - 勲三等(スペイン)、勲三等(デンマーク)
1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデン)
1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章
1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(フィラデルフィア)
1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランス)
1925年(大正14年) - 正五位、コーベル賞牌
1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章、防疫功労金牌(フランス) 高杉の豪傑伝説とかけっこうあるが普通に麻の栽培とか許されてた
時代だからな 高杉晋作は西郷吉之助の黙認を得て挙兵したんだしなあ
それでも諸隊はしばらく動向を明らかにしなかったくらい 豪傑伝説のうち大島襲撃は藩命を受けて出撃したことが明らかになってる
高杉の事績は一貫して藩の官僚としてのもの
一方で坂本龍馬は亀山社中の代表者だった事実が怪しくなってるが、
これは逆に坂本が権力闘争のすえに亀山社中をものにしたことを意味するのでご褒美だなw 奇兵隊も周布派の間で共有されてたアイデアで、
たまたま言上したのが高杉というだけだからな。
屠勇取立に熱心だったのは吉田稔麿、士庶平等のほうは赤禰武人のほうが熱心
俗論派のほうも屠勇取立を勧めようとしていたが政権を取った高杉が延期させてる 周布さんはもう少し評価されてもいいよな
航海遠略策と共に朝廷に上げた陳情書って
かなり踏み込んでいてビックリした
高杉は松陰よりも周布の影響を強く受けてる印象 忠臣蔵46+1やってるけど高杉可愛い
なお坂本みたいな凡人は名前だけで出番なしww しかし豪快な男だなぁ。高杉晋作って。背は大きくないけど(それでも160cmはあった。今で言う170cm台)
明治維新起こして日本を近代化に導くし、彼がいなかったら日本の近代化はいつになってたやら・・
音楽の才能が豊かだし、女性にもモテモテで正妻の雅、愛人のうの以外に女性関係は豊富だったし
なんかこの豪快さが織田信長と被る。彼も怒涛の如く天下を取ったし。しかも2人共、早死に。ドラマティック・・ 高杉が長生きしていたら、明治維新政府は高杉が仕切っていただろうから、
日本のありようも大幅に違っただろうね。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 時代の変わり目に現れる風雲児 → 坂本竜馬 山本太郎 プーチン
長崎の平和祈念式典、各党の紹介時に山本太郎議員の時だけ物凄い拍手に!他の政党では極小数の拍手だけ
https://twitter.com/tokai amada/status/631215706692976640
太田光がラジオ番組『爆笑問題カーボーイ』のなかで「さすがにちょっと痛々しいよね」「やらされてるんだろうなあ、かわいそうだ」と発言
制服向上委員会の齋藤優里彩が「私からすると安倍さんにゴマをすってる太田光さんの方が痛々しく見えます」と
https://twitter.com/tokaia mada/status/637733787036573696
芸能界極右は石原慎太郎一家を筆頭に、上田晋也 草野仁 津川雅彦 向井理 松本人志 宇多田ヒカル マツコ 春日俊彰 田村淳 北村晴雄
https://twitter.com/tokaia mada/status/630627400552845312
ファッシズム政権の終わりは、いつでも残酷な結末しかない。安倍晋三はどんな殺され方をするんだろう?
https://twitter.com/tokaia mada/status/605899171313246209
マイトレーヤは次のように勧告される。
「国民の意志を裏切ることは危険な過程を始動させる−−誰かを裏切ると、精神的な過労や、極端な場合、自殺や殺人にまでつながる。」
magazines/si5n7k/04zpzf/bf1tqd
日本国民はどう対処すればいいのか「株式市場崩壊後に出現する新しい政権は国民の意志を反映し、国民の側に立つものであろう。」
maitreya/mai_03_02.html
民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。
maitreya/mai_03_01.html
マイトレーヤが公に世界に現れるにつれて、UFOがとてつもない数で姿を表すでしょう
magazines/si5n7k/kxz1kf/xchu67
プーチン
『世界は十分過ぎるほどに生産力を高め、最早生存の危機はない
戦争の理由はなくなったが、戦争の危機はいつも身近にある。何故か? 答は戦争を欲する者がいるという事だ』
メドヴェージェフ
『世界が地球外生命体の実在の真相を知る時がきた。アメリカが公式に認めないなら、クレムリンは独自に情報公開する予定だ』
https://www.youtube.com/watch?v=gAE5665i3lQ 高杉も龍馬も松陰も慎太郎も維新の志士はみな同じ仲間だよ あなたは40代ロサンゼルス新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? 明治維新は高杉晋作が起こし桂・大久保・西郷がその後を継いで完成させた。
龍馬はせいぜいそれら主役のお手伝いの一人で映画で言うなら代わりがいる脇役だし
仮にいなくても大きな問題にはならない >>1
同意する
不良と池沼なら不良のほうが若干マシだろうからな 長州の殿さまがあんなボンクラじゃなく、土佐藩の山内容堂みたいな凄みのある人だったら
功山寺決起なんか出来たでしょうかね。 高杉が一貫して挙兵を支持していたわけではなく、
諸隊やかつての同志が高杉晋作の決起にすぐ呼応したわけではない
高杉らも征長総督府との交渉の時点では責任者の処罰と恭順には賛同していたのだから
(世子進発を糊塗するためとは言え三家老に罪を着せようとしてたのは変わらない)
なぜ決起したのかもよく分からない部分がある
総管赤禰武人を罵倒したことは反発を招き脱走と言う結果を招いている
事態が動くのは正義派要人の前田孫左衛門らが処刑され、
諸隊側の政府員交代要求が退けられ、武装解除が命じられた元治2年正月になって合流
挙兵時には白石正一郎が日記に記した通り「暴挙」以外の何物でもなかった
藩の危機的状況での内戦を嫌う鎮静会の動向も大きい
また、長州藩は幕長戦争の停戦に応じ四候会議での赦免に期待をかけていたのは明らかなので、
その前に病没する高杉が「倒幕」を目指してたなんてのはとんでもない話 正直なところ武備恭順の方針で藩の内訌に終止符が打たれる過程で登場する藩の要人ではあっても、
それ以上の何かではないのよね。奇兵隊の結成も、四か国艦隊との講和も、元治内戦も、幕長戦争も全てそんな感じ。 どだい、高杉と坂本を比べるのは無理があるんだよな。
目指すとこは同じかもしれないが結果的には高杉は長州をどうにかしようとした人
坂本は日本をどうにかしようとした人 >>695
西郷吉之助は安政期から政治的活動を始めてた古株中の古株
高杉晋作は中央政界の要人との接触がほとんど見られない
坂本龍馬のほうがまだしも中央で直接に政治活動してる
どこをどう間違ったらどういう理解になるのか 坂本龍馬が過大評価だって、何をもって過大評価だと言ってるのかわからないし
誰がどう過大に評価したのかもわからない。
誰も見たわけじゃないし、ビデオに撮ってるわけでも録音してるわけでもない。
今残ってる資料を信じるしかないのでは。 話の流れ切ってすみません
高杉晋作でおすすめの本、教えてください。
できれば一坂太郎先生のご著書以外で
お願いします >>704
一坂の高杉への評価が不満ならあまり勧められる本はないな >>705
不満とかそうではないんです。
一坂太郎先生の本は何冊か読んでいます。沢山お書きになられてますね。
他の先生の著書も読んでみたいなと思ってお尋ねした次第です。 普通に高杉晋作で検索すれば本たくさんあるじゃん
ただし「好きな人」に受けるようなことは一切書いてないよ
人物自体に関心持ってるのは史料纏めてる人が一番詳しい >>707
ご助言ありがとうございます
格好いい高杉晋作でなく情けないところや失敗した事、挫折した事もが知りたいです
そういう所まで含めてドラマティックで時代の大きな出来事に何度も立ち会った人なんだと思います。
「高杉晋作の上海報告」宮永孝著
「高杉晋作−動けば雷電のごとく」ミネルヴァ日本評伝選 海原徹著
「高杉晋作と奇兵隊」青山忠正著
これから読んでみます。 高杉が挙兵しなくたって赤禰の交渉では諸隊の影響力は残してるから
諸隊が瀬戸内地方で影響力持ってる以上藩の方針は束縛される
長州藩と幕府との関係は同じように悪化していたはずなんだがな それを言ってしまえば、別に西郷隆盛や勝海舟や坂本龍馬や木戸考允が居なくても
明治維新はあったし、幕府は倒れてた。時代の流れ。 明治維新の功労者で漫画みたいに凄い奴一人上げろと言ったら高杉だな
数十人の挙兵で長州を掌握し、幕長戦争で勝って徳川幕府を事実上消滅させてる
西郷も影響力あって凄いけど明治になってからで、幕末は2度島流しにあって薩摩を掌握できない
龍馬の場合は相方の中岡でも代わりは務まるしね 高杉の場合は有能とかいうレベルじゃなくて奇跡的存在 第二次長州征討の指揮をとったのは村田蔵六やろ。
高杉が幕府を打と負かしたというのは言い過ぎ。 >>710
倒幕の密勅や王政復古クーデタ、さらに鳥羽伏見における薩摩藩兵の抗戦などは
西郷や大久保がいなければ実行されてなかったのは確実だが、
高杉の挙兵はその当時は単独行動に近くて
諸隊が藩政府から交渉断絶言い渡された後に合流対象になってるのだよ
そして挙兵当時も清末や長府などの支藩が調停を進めてたし、高杉の行動は何か意味があったのかと言うと
この調停を壊して萩の鎮静会主導での政府交代に繋がったという評価になる それに高杉自身には倒幕の意思はない
なぜなら高杉は武備恭順論だから
時期的に見ても長州が武力挙兵に賛同するのは慶応3年5月以降
つまり高杉の没後。 高杉の挙兵は下関にせよ三田尻の海軍局にせよ、
同情者の存在もあったしそれほど意外な効果ではない
直接的な影響は前田孫右衛門ら7人の処刑
これで藩政府と諸隊の交渉成立が極めて厳しくなった
政府再構成の交渉を進めていた赤禰総管すら「萩俗論家共たちまち約束にそむき」
と非難しているようにこの処刑が契機になった >>715
大村が指揮取ったのは、幕府側の旧式の兵の石州口
高杉が指揮取ったのは、幕府側最強の海軍や熊本軍が居る小倉口
大島口でも幕府海軍に夜襲上陸成功させてるし
幕長戦争は高杉が一番の功績だろう
>>716
西郷、大久保が居なくても小松や他が居れば変わらんと思うが
政局で負けてて慶喜寛大論に傾いてたところを、旧幕府側が無理やり京に攻めあがったのが交戦要因だし
高杉挙兵で大きかったのは長州海軍を奪えたこと、諸隊も挙兵に賛同し俗論派は海洋攻撃に備え分散せざる無くなって負けた 高杉が居なければそもそも倒幕や明治維新なんてものはなかったろうな
薩摩は時勢にのる動きしかしないので幕府と戦うこともなかったろう 坂本龍馬を暗殺したのは会津藩主の松平容保
京都見回り組はただ指示されてやっただけの下っ端 i|; ..|i ┃・・
j!ノハ i| ..|i ┣━
}__ノ、 i| ..|i .┃ ━━━
/|レ'/\ i| ..|i . ━ .┃
/ '// ヽ i| .|i ┃
/ | // .¶ / | i. i| .|i .i ━┛
イヾ┓_||{ | i. i| .|i .i
┃ ~^┣━皿━━卅 i. i| .|i .i . /
┗i━┛ ̄||∨ i. i| .・ .|i .i /
|人 /|| i. ゚ .i| ,.|i .i ./ ・
└ yヽ_/ || i. i|;⌒;;|i .. /i 。/ .゚ ./
〈 / |j \ . 。 i. ⌒ ^ ..;;).i⌒/ / ゚
/ ノヽ、 \ ( ⌒ i ;;^.i/i /: ./ / .
,、/ ./ ヽ、ゝ \\(.. ::゚ ⌒。( . ::: ∠_)/ .
ヽ ヽ{ ν' . \\( :: ;;゚ 。/ ⌒ 二=−
`´ -==ニ二( ⌒:;;; ;;);;; );;;ニ==- .
−=二二_三( ヾ|ii |i!i | i |゚!!i ! || |i //三二二=− >>723
龍馬伝の伊勢谷高杉は、戦場で三味線のキカイダーだったね
福山雅治は龍馬より桂小五郎が似合いそう >>719
だから幕長戦争は倒幕に直結しないし、高杉の中でも倒幕と言う意識は全くない
これは長州藩が四候会議での赦免に期待を繋いでたことでも分かる
(それ以前の問題として、小倉方面では肥後藩・久留米藩や幕府艦隊が参戦を事実上拒否しており
実質的に長州の標的にされた小倉藩兵一手での抗戦となってる)
それと小松帯刀と西郷・大久保は大政奉還後に態度の差が出ている
それに小松は10月に帰国したあと足痛の持病が出てるし、
幕長戦争のあと最強硬派の大久保が進めた朝廷工作が失敗すると
あっさり対幕府融和策に転じている
西郷・大久保のように後に引けなくなった立場ではない
いずれにせよ安政以来の志士である西郷を除外して
高杉が倒幕勢力の原動力とか全くあり得ないし、はっきり言って贔屓の引き倒し 小松は慶喜側近の原市之進とのパイプも重視してたから、西郷らと違ってそれなりに選択肢は確保してた
西郷・大久保はそれに比べて藩内反対派の標的となっており大政奉還で厳しくなったが… 高杉は天才と馬鹿の振り幅が凄いって言う人がいるけど色々、文献を見てると
天才と馬鹿の間にキチンと常識人がある事が分かった >>727
夜遊びせずにいたら結核にもなることなく長生きできたのかもしれないけど、それは高杉晋作ではないですね。長生きしてたらどうなっていたでしょう。
一押しの常識人エピソード、知りたいです。教えてください。 1番の常識人エピソードは目上の人間の言う事は素直に聞くかな。松陰しかり
小忠太しかりな。雅との結婚も小忠太がこの女性と結婚しろと言って結婚した相手で
高杉が好んで結婚した訳じゃない。豪傑に見えて実は繊細でコンプレックスの塊だった記述もある
古川薫の「高杉晋作 わが風雲の詩」(文春文庫)既に絶版だけど著者も山口人でこれが1番、高杉の事を掘り下げて書かれてる >>729
古書店か図書館でさがしてみます。
ありがとうございます。
やはりお父上小忠太には絶対服従だったのですか。
情けないエピソードは三田尻から松島剛蔵と船に乗って品川へやっとのことで着いて俺は船は無理だ海軍はダメだっていうのがありました。お坊ちゃま育ちらしいなと思います。
ダメなところも含めて格好いい、不思議な人物です。 完璧に見えてもそれは見えるだけでいくら偉人でもダメな部分は最低でも1つ、2つはあるよ
龍馬だっていい年になっても寝小便してたし。まぁ、ピンからキリまで完璧な人間なんて
古今東西1人もいないでしょ 川口雅昭も松陰と高杉を追っていて「松陰のほうが魅力が大きい」と思ったと言ってるけど、
高杉ってかなり保守的な官僚だからな。あの程度の尊攘論は藩官僚の中ではわんさかいて、
高杉は逆に御家大切思考が強くて振り落とされた側という印象が付きまとう
どうしても久坂に勝てんのだよね 高杉って長州藩以外の人とはあまり交流を持たなかったらしいけど。 >>731
おっしゃる通りです
ファンというか好きすぎると
みっともなくても情けなくても
あまり知られてない話を知る喜び、
もっとありのままの人物像を知りたいという気持ちがあります >>725
倒幕の意識無いって、尊王攘夷の志士はだいたい倒幕目指してたんとちゃうんかい。
高杉は一体何を目指しとったんじゃいや。
坂本龍馬も倒幕目指しとったんとちゃうんかい、高杉晋作は目指して無かったちゅんかい、オウ >>735
目指してない
長州藩が藩外での武力行使に傾くのすら四候会議以降のこと
在野の志士はそんな夢みたいなことも考えてたかも知れないが 四候会議以降でも長州藩は薩摩藩の外交に振り回されたので遅くまで共同出兵に警戒論が強い
長州藩は12月8日に復権を果たした成果を守るべく藩兵を京に送ってたら巻き込まれたというのが実情
慶応3年の政局を主導した薩摩藩強硬派ですらいわゆる「挙兵討幕」を考えていたかどうかは甚だ疑問
(武力行使は朝幕に迫って改革を実行させる目的で行われる)
元治元年の高杉は武備恭順論だし、列参が失敗して一橋慶喜が朝廷を掌握してることが明らかになり、
慶応3年になると薩摩藩の対幕姿勢が軟化して撤兵と言う情勢のころ病状悪化していた高杉が
何で対幕停戦状態を進んで破ろうと思うのか 倒幕を目指して何んっだったら、一体何を目指してたのか? 高杉は洋行が好きで外国好きでもあるから欧化政策の一環で
倒幕を目指してたんじゃないだろうか?まぁ、高杉が思ったような現実に
今なってるけど 長井雅樂と一緒に朝幕間の周旋をしてた頃の周布政之助とか
「徳川家と毛利家を同格に扱って欲しい」って朝廷に訴えてるけど
おそらく高杉の気持ちもそんな感じだったんじゃね
ほんと最終局面になるまで、倒幕まで考えてないと思うよ 高杉は確かに(高杉もか)倒幕運動を起こして倒幕を成功させたけど
俺なんかに倒幕が出来るのか・・?って思いもあったと思う
長州の名を全国に知らしめる為に東京のイギリス公私館を焼き討ちにしたり
彦島を租借されないようにイギリス人のクーパーには訳が分からない
古事記の文章を延々と述べて話し合いをグダグダにして相手を呆れさせてどうでもいいわ!ってさせたり
そういう小・中規模的な事には自信があったんだろうけど倒幕って大規模過ぎるし
日本の仕組みを1から変えるって事だからね 高杉晋作が田布施村出身の朝鮮人ということはないのか? 高杉さんが倒幕目指してなかったって言うんなら、坂本さんの方が上と言う事になりますが。 >>741
だから高杉が倒幕なんて考えたことは1回もないって。
小倉口の指揮を任せたのが8月、完全に病人生活になったのが10月だろ。これから後はもう政局に出てこない
その頃の長州藩は停戦交渉に入ってるし10月16日には慶喜が参内、17日には列参公卿に処罰
要するに幕長戦争を経てもまだ朝廷を慶喜が掌握して将軍職を継ぐことが明らかになってる
慶応3年に入ると1月17日に征長軍の解兵を申し出てるから戦争は終結したが、
同時に薩摩藩もかねてから考えてた撤兵を実行に移して対幕関係の好転に努めてるから
長州藩にとって赦免を待ち続けるしかない状況 >>742
彦島租借の件は英国側と完全に記録が食い違ってるから全くのフィクションなのは確定
少なくとも本交渉でそんな話題は出ていないし、
キューパー提督は長州攻撃実施の前から駐兵の余力がないとオールコック公使と対立している
つまり兵力を割かれる租借を要求するはずがない
それに「全ての提案を何の反対もなく承認」した長州側は砲台新設の禁止を承認してるから租借の必要もなくなった
と言うのが実態
日本の仕組みを1から変えるどころか慶応の軍制改革では文久期に肥大した諸隊に厳しい統制を加えて封建秩序の下に置こうとしてるんだから 四か国艦隊と長州との交渉1回目の会談内容は
・長州藩が敗北を認め講和を希望すること
・信任状を持参してなかったためキューパーが2日後まで猶予を与えたこと
・英国側が砲台の破壊を続けること、英国は申し入れに応じて戦闘は停止するが
長州側から一発でも応戦があれば全面的に戦争を再開すること
・オランダ兵の捕虜の引渡しと食料の補給の便宜を取り計らうこと
・次回交渉の期日の約束
大体こんな所。つまりまだ停戦条件の交渉にすら入ってない。
信任状持ってないから8月4日に渡し損ねた弁解の書状(内容は噴飯ものだが末尾で海峡航行の自由を約束した)を渡して帰ってきた
だから彦島問題なんて話題になる余地もない。英国側はこの後さっそく「執政宍戸備前の養子刑馬」なる人物を武鑑で調べた所、
宍戸備前が首席家老ではなく家老末席だということまで確認している。つまり詐称だと分かっている。 事前に高杉伊藤井上が打ち合わせして
首脳部はアタフタして優柔不断になってて
しょうがないから、元徳と井上が最終確認して
伊藤井上がサトウと下交渉してるんだよな
その後に直垂を着て魔王のようにやってくる
あと伊藤博文の回顧だから、割と話を盛ってるのはしょうがない
5万点の史料がある山口県文書館の元副館長の話によると
伊藤らの下交渉の時、もうすでに結構和やかなムードだったらしいね あと、文書館にはとにかくあるだけの史料を集めて保管してて
関係者の各地での講演会や伝聞風説に至るまでの記録が
宝の山のように埋まってるらしいが、ここは誰でも入れるから
一日中楽しめるよ
(磯田道史も老後はここで新史料探ししたい、みたいに言ってた)
伊藤が語ったところによると、世間話で
自分はイギリスでロンドン大学にお世話になった事を話したら
サトウも「私もロンドン大学に行ってたよ」って
打ち解けるのも早かったらしい 高杉が倒幕を考えてなかったってそんなバカな事があるかあ。
倒幕の準備段階で死んだだけで、倒幕は視野に入れてたよ。
坂本みたいに倒幕後政府をどうするかまでは考えてなかったかもしれんが。
幕府を倒さん事には新政府は作れないんだから。
じゃあアレか、徳川幕府の下で新しい国を作ろうと思ってたのか? >>749
知ってると思うが「魔王」の部分の正確な記述は以下の通りだからね
「長州藩の正使つまり宍戸刑馬の態度が次第に変化していくのを見るのはなかなか面白かった
艦上に足を踏み入れた時彼は悪魔のように傲然としていたが、やがて驚くほど態度を変え、
その後は何の反対も唱えず全ての提案に同意した。それには大いに伊藤の影響があったようだった」
つまりサトウは威張り腐ってた宍戸が事実上伊藤に交渉を任せて全面的に譲歩したと言ってるに過ぎない
>>750
他スレでも聞かれてるけどそれはいつの話で、
肝心の「打ち解けた」相手のサトウの日記のどこに出てくるんだよ?
伊藤の回顧談なんて一番信用ならない >>751
倒幕を視野に入れるも何も、長州藩は停戦に応じてまだ藩主父子の官位の復旧すら果たしてない
つまり赦免を待ってる状態なんだから藩外で武力行使なんてできるわけがない
長州藩が薩摩藩との共同出兵に応じるのは慶応3年後半でそれですら藩内に慎重論が強かった >幕府を倒さん事には新政府は作れないんだから。
>じゃあアレか、徳川幕府の下で新しい国を作ろうと思ってたのか?
幕府を倒すとか慶応2年8月から10月の時点では政治的にも軍事的にも完全に不可能だから。
そんなことを高杉が決意していたとしたら気が狂ってたということになる。
だが幸か不幸か高杉君がそんな妄想を抱いていたという事実は認められないな。 勘違いしてる人間が多いけど高杉が内戦の結果統一した藩論は武備恭順
その前の段階でも彼らは兵を率いた三家老の処分を決めて恭順は表明してるからな
(本来なら藩が決定した事項で実行者に罪押し付けるってどうなんだと思うが…)
それ以上の処分や征長は不当として抗戦するが藩領外に出て幕府組織を打倒することなど考えてない 別に慶応2年8月から10月の時点の話をしてるんじないんだよ。
いずれは幕府を倒して新し国を作るのを目指してたって事だ 幕府を実質一人で倒したのは高杉
幕府が実質崩壊し大政奉還したのは15万の兵で攻めながら幕長戦争に敗北したから
薩摩は倒幕にほとんど関係ない
戊辰戦争は活躍したけど 倒幕思想は真木和泉の時に既にあったんだから、高杉になかったとはいえんだろうな
実際に政策化する段階じゃないだけで >>752
山口文書館の副館長で毛利博物館の顧問の小山さんがそう言ってたよ
問い合わせてみたら気さくに答えてくれると思うよ 倒幕論が始めいつ出たか知らないが
坂本龍馬も伏見義挙に加わるため脱藩したんだから早くからあったんじゃないか >>758
倒幕は時期によって実現可能性や使われ方が異なるけど
まず慶応以降は藩外出兵を意味する武力討幕は慶応3年5月以降薩摩藩上層部で共有され始めた思想で、
高杉の存命中に採る余地がないし、しかも武力発動の目的は朝廷と幕府双方に改革を迫ること
そして安政期の松陰は川口先生流に言えば「諫幕」にとどまっている。
文久3年の尊攘激派の活動期においても幕府の否定は「幕府の相対化」を意味したので、
「倒幕」の意味を伸縮させて高杉が倒幕思想を持っていたと強弁してもしょうがないよ。
>>761
在野の志士は「挙兵・武力発動」「幕府の介在の否定=勅命の優位」と言う要素を含んだ思想を持ってるが、
武力行使の成功の現実性も含めて「倒幕思想」と言えないでしょ。極論家がその辺で暴れてても誰も本気にしないのと一緒。
大体高杉は在野の志士と異なり藩官僚。「幕府を倒して新しい国を作る」ではなく、
幕府の権威を相対化して朝廷や雄藩による合議制を目指してたというなら分かるがそれは幕府内にも存在する。
当時の長州藩の周布以下の藩官僚は幕府の相対化と言う以上の政策志向を持ち合わせていない。
武力討幕って鳥羽伏見の段階で初めて薩摩藩指導部に見られてくる発想。 真木和泉にしても文久3年10月に建議した三策を見る限り、武装上洛による大坂城奪取と
前年の政変に関与した会津藩・尹宮の排撃は主張しているがこれは全く現実性がない
(第一、この策で標的とされているのはあくまで会津藩・尹宮と言った「奸臣の排除」)
また、その他の二策は「武力威嚇による会津藩排除」「京洛でのテロ活動による政情不安の醸成」であって、
これにも倒幕の要素は含まれていない。 仮に文久年間に高杉がカブレて「倒幕思想」とやらを抱いたとしても、
慶応年間に藩政の主導的地位を握ってからはとっくに現実的な課題にすり替わってる
倒幕も何も、長州藩は薩摩の消極姿勢により藩外同盟が成立してるかどうかも怪しい状態で、
一橋慶喜が相変わらず朝廷を掌握してるのが明らかになったのだから、長州藩は赦免に期待をかけるほかなく、
「政策」「思想」としての倒幕なんて志向する暇もないし、赦免運動のほうがはるかに成功率が高いのだから高杉の発想はアタリマエ。 >>757
>薩摩は倒幕にほとんど関係ない
関係ないどころか、もし「武力討幕」を本気で志向した集団がいるとすれば、
それは間違いなく慶応3年末における薩摩藩指導者
長州藩の政策志向は幕薩間の対立の従属変数的なもの 晋作は都都逸(幕末に出来た流行歌。今で言うJ-POP)が創れて作品も残ってるけど
龍馬はそういうの出来ないから芸術面では晋作が上かな 龍馬は和歌や俳句や川柳をたくさん作ってるらしい。
相当巧いと評論家が言ってた。 朝敵になるぐらいまで
晋作から倒幕思想はあまり感じられないよね
なってからも割拠論とか言い出してるし
そこが久坂と一番違う部分だと思う
久坂はストレートに天皇担いで倒幕ってのが頭にあったと思うし
久坂と晋作ってある時期から同床異夢状態だったと思う ×朝敵になるくらいまで
○朝敵云々関係なく
×あまり感じない
○全く感じない 晋作って本当はスナフキン的な位置でいたかったのが理想だったのかなと思う
でも時代がそれを許してくれなかった 日本人って本当は300万ドル払いたくなかったのが理想だったのかなと思う
でも高杉がそれを許してくれなかった 倒幕論って平野國臣が尊攘英断録で薩摩に入説した時が最初じゃね
久坂も八月十八日の政変と攘夷の方優先してて倒幕どころじゃなかったと思うな
禁門の変の時も武力行使に反対したし、長州藩の復権目的で復権した後に攘夷優先だし >>766
薩摩藩の倒幕挙兵って国元の反対で何もできず、土佐の大政奉還に賛同しただけだからね
鳥羽伏見も徳川が上洛したから偶発的に起きただけだし 倒幕って誰が最初に言ったとかじゃなくて、ペリー来航で日本が激震して
このままでは日本がヤバイとなってどうするケーとなった時に
自然とそういう流れになったんじゃないの。 >>775
だから倒幕と言ってもいろんな意味があり、
諸藩合議体制への移行と言うだけなら多くの人間が考えてるし、
逆に、挙兵して徳川家と戦争状態に入るという意味の討幕が出てくるのは最終段階。
最終段階でもおそらく薩摩藩の国元は増派が戦争に繋がるとは思ってないだろうし、
西郷吉之助にしてからが戦争はもう少し先だと考えている。 そんなんわかっとるわ。
倒幕というより今の日本の苦境をどう乗り越えるかを
考えとったんよ。別に倒幕が目的じゃないわ。 物事を解決するには本体の根っこから抜かないといけない訳だから
本体の根っこを抜くが倒幕という事だったんだろうな だから高杉は武力討幕を考えてないと何度言えば分かるのか馬鹿が いったいこの高杉倒幕信仰はどこから出てきてるのだ
慶応2年8月にはもう寝込む人間が
戦争止めても朝廷握ってる奴ら相手に藩外に出て戦おうとするわけねえだろ もし長州藩が、勅勘を蒙って京から追放された文久3年8月から、
高杉晋作が病没する慶応3年4月までの間に「倒幕」を試みるとするなら、
兵士を大量に上方に輸送し、かつ薩摩藩の援護も見込めないなか、
幕軍や会津藩と交戦して御所に突入し玉を奪う必要がある
その結果どうなるか。元治元年7月19日に起きたことが再現されるだけ。
よって政務座にある者が赦免のアテもなしに軽軽に出兵などするわけがない
慶応3年12月のケースは薩摩藩がクーデタをおこした結果官位復旧と赦免が成ってるんだからな。 >>781
大政奉還は慶応3年10月に慶喜が土佐藩論を受けて自ら将軍職を辞したものだし、
鳥羽伏見の戦いは慶応4年正月に発生してる
幕長戦争と大政奉還に関連性はないし、高杉はとっくにこの世にいない
それとも大政奉還運動にあの世から高杉が尽力したのか? 純粋な疑問なんだけど高杉が倒幕じゃなかったら彼はなんの目的で戦ってたんだ
短期的には藩の存命だろうけど 高杉の戦った目的なんて藩防衛か自派(正義党)の勝利かどっちかでしかないだろ
しょせん藩の中の抗争 割り切った話をすれば討幕なんて鳥羽伏見の戦いが終わるまで誰も考えてないんだよ
鳥羽伏見の戦いが終わり徳川慶喜が大坂城から逃亡し京都防衛が成功した瞬間に討幕が現実的課題になった
なぜなら敵の本拠まで攻め込んで打ち破らないとならなくなったから 高杉も坂本も明治になってから特盛り競争が始まったが
高杉のほうが伊藤山県井上という根っからの嘘つきがついてたぶん
盛り方が酷かったな
特盛りしても坂本ほど人気ないのが悲しいところだが 一連の書き込みの結論。
高杉晋作は日本の将来ことなど全然考えて無く、ただ長州藩の為に戦った人。
これでOK? 倒幕と討幕で混ざってるな
>>776が言ってるようにそこらへんの認識の食い違いで噛み合ってないように見える
高杉は倒幕を意識しつつ目の前のこと片づけてたら死んじゃったってパターンで、倒幕に関しては具体的な構想はまだ考えてないだろ流石に。そんな余裕ない
彼が倒幕にどういうイメージを思い描いていたのかは途中で戦線離脱しちゃったから知る由もない(武力決戦を想定していたかもしれない)が病気なら仕方ない
流石に藩の防衛と政権の取返しが最終目標っていうのは短絡的すぎる >>789
日本の事は考えてたでしょ
特に上海に行った後からは
ただ、それが倒幕と直接結びついてないだけで
高杉の中では、対幕府でいえば
まずは長州藩、毛利家の名誉回復って部分が
かなり大きいと思うよ
それが叶わぬなら武備待敵基本の割拠論って流れじゃね >>789
まあそうなんだが、例えば元治の内戦は「藩のため」に戦ったというより、
党派抗争の色彩が強いから完全に藩のためと言うわけでもない
>790
だから高杉信者はどうして倒幕にこだわるかな
討幕が先進的な発想だったとでも思ってんだろうか
討幕と言うのは諸侯や朝廷の合議による運営と改革が失敗して出てきた発想であって
最初から取られる発想ではない。債権者はできる限り債務者に返済させようとするだろ。それと一緒。
戦費や事務引継ぎ一つでも考えてみろよ。損するのは「討幕側」なんだから
大混乱が生じるし藩財政も誰かから巻き上げないと到底持たない まだ藩や名誉にこだわっとるがかと坂本龍馬に言われそうだな。
恥という事を打ち捨てて世の事は成るべし。 >>788
司馬遼太郎とかの創作は論外として、
有名なところでは彦島割譲案を阻止しただとか、
数千の兵で幕軍何十万が攻めてくる中で決起したとか、
その辺は大概ウソだなw 四境戦争は実際にやってるしね。大島口と小倉口で戦ったのは 何十万とか盛ってなくね?
何々口3万 何々口2万 小倉口が3万とか
そういう感じで書かれてた気がするけど
まあ、花神しか読んでないが
ヒコットランドは伊藤の回想でしょ
伊藤はお調子ものだからなw 万としても長州勢より人数多くない?何十万は漫画過ぎて盛りすぎと思われても仕方無いわ 長州勢の方が少ないけど、軍制改革と
実戦経験が豊富だったからな・・・
禁門の変〜下関戦争〜内戦を経ての幕長戦争だから
負け戦からも学んだ事は大きかったと思う 松下村塾の生徒は松陰から兵学も学んでいたからね。萩市の明倫小の敷地内に
松陰が兵学を教えてた場所に石碑が立ってたよ >>794
本当だという証拠は無いかもしれんが、嘘だという証拠も無いだろ。
歴史家が自分の見解を言ってるだけ。
一番最初ひ言われてた事が本当のような気がする。
その場に居合わせた奴なんてもう死んで誰もいないんだから。 >>795
幕長戦争って長州側は「戦闘」しか叙述していないけど、
実際のところ幕府軍の内紛のほうが圧倒的に大きいから。
小倉口にせよ大島口にせよ、あるいは芸州口にせよ、連携するはずの幕府歩兵や幕府艦隊が来ない。
長州藩の軍制改革はやや過大評価で、小銃は確かに旧式銃持ってた彦根などには優位に立ってるが、
その後で投入された幕府歩兵や新宮藩兵(紀州藩銃隊)には撃退されてるし、
河瀬安四郎も不利を認めざるを得なくなっている(幕府歩兵は2年前には天狗党に負けてたくらいの腕前)
小倉口も主力の熊本藩兵が出動してきた日は長州藩兵は撃退されてるし、
正直なところ同時期の薩摩、佐賀、紀州、熊本あるいは幕府歩兵とか比べて見ても
戦前に小銃が一通りいきわたったくらいで、極端に優位にあったように見えない。
また幕長戦争は当然ながら倒幕に直結する事情でもない。
あと、なぜ「討幕信仰」が消えないのか不思議だが倒幕、
つまり徳川家との戦争なんてできれば避けたい戦略 まず財政的にとても持たない。
長州藩も戊辰戦争後に賞典たくさん貰っても財政破綻状態だし、
明らかに過剰な兵力を何年も抱えてたのが響いてる 幕府は金欠と思われがちだけど、改鋳益にくわえて関税収入が加わったし、
何より借款ができるから慶応2年には凄い数の新式銃や砲を買い付けてる。
艦船も慶応3年になると外国の大艦クラスになる
一方で長州藩は海軍が攘夷戦で壊滅してて、幕長戦争でも実質2隻うち1隻はレンタルで、
貸す前にも散々もめたから、大量の陸兵の運搬が単独でできない。
関門海峡では米仏英の巨艦が身動きが取れずに苦戦したり、流されて砲台の射程内に入ってしまったり、
と言うアクシデントも結構あったし、海軍力の差はそれほど決定的ではないが
それは外洋に出ると通用しなくなる
そんな台所事情を知ってる人間が討幕なんて構想としてもあり得ない。 >>800
明らかなウソだよ。第一次征長戦の時の軍配書あたりを見てるんだろう。
軍配書は紙の上で西国諸藩に兵員を割り当てるだけだから公称の数字だし、
第一次も第二次も変わらない。実際に動いてる兵数はずっと少なくなる
しかも第二次は薩摩、佐賀、宇和島、芸州など大藩が出兵を辞退してる
どう考えても数が合わない。 まあ倒幕論自体は既に文久にはあって盛り上がったと思うけど、長幕戦争が倒幕に直結しないって無理あり過ぎだろ
幕府が15万の兵を動員して5千に満たない長州に負けた事実がないと、その後の大政奉還や王政復古で幕府の廃止なんて絶対ない
大政奉還や王政復古が、単に政治工作だけで起きた何てありえない
長州が幕府に勝つまで佐幕派の春で、尊攘派なんてのは全国で弾圧と粛清の嵐 既に文久の時点で大政奉還は大久保一翁が唱えてるし、倒幕論は平野国臣が唱えてるし
後の高杉に倒幕思想があってもおかしくない
ただ朝敵の上、全国の兵に包囲されてる状態で倒幕なんてのは現実的に不可能で 高杉は生まれながらにしていい将来を約束されていた身分だろ。その決められたレールにずっと乗っていくのが嫌で
色々と行動を起こして最終的に結核で早死にしてしまう事になったろ。つまり破滅型人間だったんだよ
そんな高杉なら窮屈な状況下でも倒幕思想はもちろんそんな行動を取ってもおかしくないと思っちゃうんだよな 高杉は四境戦争の指揮も徹底的に情報収集し、勝っても調子乗らずヒット&アウェイですぐ兵を引くし
幕府の大軍相手に真っ向勝負せず、心理的自滅させてるから
ただの破滅人間の訳でもないと思うが
功山寺決起の時は一か八かだったかもしれないが 徳川幕府との戦闘を避けたいとか言ってるわりに、幕長戦争してるのは矛盾してないか
長州の処分は「減封と当主の退隠」であって受諾を拒否した場合に征伐としているが、長州は即決でこれを断ってるんだが?
幕長戦争そのものは防衛戦だが、“幕”長戦争って呼び方的に仮想敵は一会桑というより徳川なのは明白なわけで「幕府との戦闘は避けたい」という態度には見えない >>809だがなんか高圧的になってしまった
俺も高杉が(結果的に響いたかどうかは別として)倒幕に繋げようと思って幕長戦争やったとは思っていない
というのも元治元年後半以降の急務は破約攘夷論の尻拭い。具体的には藩主父子の政治的復権だからな
今後の国事がどうなるにせよこの時の長州は朝敵であって政治に参加する資格がないから話にならなないのでその打開
政治的に復帰させたあとで今後国をどう動かしていくかってのはまた先の話
高杉が現役でもあまり大きく変わるとは思えないが(薩摩主導の政変画策路線)、少なくとも幕長戦争時点で討幕はまだ出てこない
夢見ていたかどうかは立証のしようがないし、わりとどうでもいい部分
ただ一連の流れで幕長戦争って名称に違和感を覚えたのでちょっと指摘しただけだ、すまん 幕府自体の温度差も凄かったらしいね
京都詰めしてる一会桑は京都方呼ばれ
江戸方からは「京都方が好き放題やってる」って苦々しく思われていて
会津からの使者を露骨に無視したりとか
割と非協力的な人も多かったんだよな
幕府自体も瓦解しかけてた
それを先延ばしできたのは徳川慶喜がいたからだろうな
悪く言われる事が多いけど 高杉晋作は凄い人だった。
何が凄いのかわからんけど >>809
>長州の処分は「減封と当主の退隠」であって受諾を拒否した場合に征伐としているが、長州は即決でこれを断ってるんだが?
まず長州処分案の拒否は倒幕を意味しない。
長州の言い分は「三家老四参謀処罰」「藩主らの官位剥奪」「三都の藩邸没収」で処分は決着しているというもの
この長州の主張には出兵を嫌がる諸藩も同調し、
幕閣(板倉勝静、小笠原長行)や永井尚志も出兵に消極的だった
(だから幕閣は一会桑と離れて薩摩に接近する態度を見せ、慶応元年の広島での会談も永井は長州の主張をおおむね持ち帰っている)
元々戦争に反対だった幕閣は戦争開始後半月の6月25日に老中の宮津藩主本荘宗秀が独断で長州の二使を解放して停戦を模索するという独断に出ている
芸州口の戦闘が7月に止まってるのはこれに端を発する総督茂承の辞任騒動があったため
長州案に財政難の諸侯や幕閣も賛成しているから、多少強気に出てもおかしくないが、
停戦交渉に応じているように長州はまだ朝敵処分を解除されてないから、早期赦免を求める過程にとどまる
実際は勅命による休戦と言う形で、慶喜が朝廷を掌握し続けている事実をまざまざと見せつけられるが) 次に長州は公式には「藩主の処分」を予定した恭順の意を示している。
元治元年12月に毛利敬親父子は「私共は罪科逃れ難く、寺で蟄居して御沙汰を待つ」と言う御自判書を提出しているし、
周布政之助は敬親の退隠を必須と考えている(前述の三家老処分も麻田党=正義派が政権にある時に決めたもの)
この時に正義党の占める藩政府に対して強く反対し処分拒否を主張したのが諸隊
その諸隊の参戦により俗論政権が打倒され、諸隊の兵数も膨張して統制が難しくなる
その結果、慶応元年の木戸政権では諸隊の意向が強く取り込まれ、前年に正義党が下した決断を白紙撤回せざるを得なくなった
幕府より政権に睨みを効かせる諸隊の意向=強硬論のほうが怖いからな
だから、いったん出してしまった長州藩主の罪を認める自書との整合性に苦心し、
殿様はともかく、家臣領民つまり「長防臣民」が承知しないという苦しい理屈を持ち出した
だから宣戦布告書も「長防臣民」の名で渡されている
「長防士民」は別に民主的発想から出てきたのでなく、諸隊の圧力に苦悩した藩政府が
諸隊が反対していた藩主退隠や削封を回避し、追加処分を拒否するために編み出した理屈 >>810
>ただ一連の流れで幕長戦争って名称に違和感を覚えたのでちょっと指摘しただけだ、すまん
一番公平な呼び方を使っただけだが。今時「長州征伐」のほうがいいか?
おそらく今でも「征長」「長州征討」を使う人間のほうが多いくらいだろ
何といってもこの時点では長州は朝敵のままだし、それは決定的なハンデ
不当処分に対する抗戦ならまだしも、「朝敵」のままでは藩外出兵しても大義名分ゼロ
赦免のためには他藩の尽力に依存せざるを得ないから、倒幕はとても考えられない >>807
高杉は破滅型どころか秩序型の人間
・文久3年に攘夷運動が激化すると脱落して帰国してしまう
・奇兵隊創設も攘夷戦の敗北を受けての世子への献策(もともと高杉の独自案ではない)
・元治元年の進発の際には来島の説得に失敗すると上方で善後策を話し合っている
・同8月には下関戦争の講和交渉を引き受けている=当時の国是は攘夷だからこの使節に立つのは国賊も同然
・諸隊の拡大に好意的ではなく、干城隊を頂点とするピラミッド型軍隊を構想している
・第二次征長戦の際の独断と見られる行動は、全て藩からの命令か、もしくは藩の追認を得る予定
藩命を受けた場合は基本的に従っている
藩に逆らったのは後にも先にも元治元年12月の挙兵ただ1回だけ
この時もおそらく諸隊が俗論政権との間でほぼまとめた交渉が信じられずにやったが、
その時も正義党やそれに近い人間が差配する場所を説得しただけ 陪臣や農商中心の奇兵隊が萩の軍との交戦を何とも思わなかったのに比べて、
正義党の官僚たちは、藩主父子とくに元徳の権威に弱い
正義党(藩の世襲官僚) と 諸隊(それまで正規の軍制に入れなかった者) は発想が違う >>817
雅との結婚も父・小忠太が雅を晋作に紹介して半ば強引に結婚させたもんな 高杉は基本的に藩命聞くけど必ずしも藩命に従順でないだろ
長井雅楽や外国公使襲撃しようとしてダメだと大使館焼打ち、その後出家して、来島説得に失敗すると脱藩投獄、福岡に逃亡した後に舞い戻って挙兵までしてるし ◆在日中国人
在日中国人(ざいにちちゅうごくじん、日籍華人)は、日本に在住している中国人である。
中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は華僑であり、日本国籍を
取得したものは「華人」である。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれる。
広義には中華人民共和国(香港、マカオを含む)と中華民国(台湾)国籍者を指すが、
狭義には中華人民共和国国籍者のみを指し、中華民国(台湾)国籍者は在日台湾人と
呼ばれることが多い。
独立行政法人統計センターによると、2010年12月末時点では両地域合わせて687,156人が
外国人登録されており、これは565,989人の在日韓国・朝鮮人を超える規模である[1]。
既に2007年8月に人民網が、東京では100人に1人は在日中国人であると伝えている[2]。
2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 2010年12月末の在日中国人の国内分布は東京が最も多く164,201人、次いで横浜を擁する
神奈川が56,095人、以下、大阪府51,056人、埼玉48,419人、愛知47,454人、千葉県45,427人、
兵庫25,585人、福岡県21,936人、茨城15,726人、岐阜県15,340人と続く。
このように在日中国人の居住地は大都市圏に集中しているが、中でも関東南部への集中が
顕著である[3]。
なお、表に表れない非公式な数字を入れると東京には二倍の30万人以上が居住していると
いわれる、[要出典]それほどに中国人の東京への一極集中が顕著である。 坂本龍馬は高杉が長州藩以外の人物と交流を持った数少ない人。 >>820
公使館焼討は、同年7月の長州の藩論の転換に対する疑念を払拭する目的で行われたもの
遊撃隊の件は世子に命ぜられた鎮静に失敗し、上方の要人に説得を頼むために行ったもので、
要するに「合わせる顔がない」に近いんだよな イギリス公使館焼き討ち事件は綺麗な犯罪だったな(犯罪に綺麗も糞も無いかとは思うが)
夜中にやったので火災の被害を受けた人間は無し、別の建物に燃え移った訳でも無い 歳が若くてあまり力を発揮できなかったが、なかなか威勢のいい男だったよ。
(勝海舟談) 海舟といえば海舟が晩年に語っていた横井小楠の存在だな。肥後藩の人間で
日本の鎖国体制、幕藩体制に異議を唱えてた人物だ。海舟や西郷からは一目置かれていて
松陰、龍馬、高杉からは師匠扱いされていた。彼の思想があったから各藩の人間が攘夷から開国に目を向いた 海はこれまで天下で恐ろしいものを二人見た 横井小楠と西郷としてるな
龍馬はなかなかの奴だったなくらいで
横井は破約攘夷も唱えてるから、久坂なんからとあまり変わらないよう思える
高杉は上海見た後に過激活動してるから、上海によほど衝撃うけたんじゃないかな 「識見気魄他人及ぶなく、人の駕御を受けざる高等の人物なり」
(松陰の晋作談) 横井が勝や西郷に上から評価されるのもよくわかんねーな >横井は破約攘夷も唱えてるから、久坂なんからとあまり変わらないよう思える
久坂の破約攘夷は和親条約以前へ戻る=即今攘夷だが、横井のは通商条約の議論を再現し公武合体の際に国論を統一するための方便
文久元年に「薩州長州などは少々の馬鹿者どもにて」と言ってるのでも明らかなように、
安政年間には完全に水戸学を批判し開国姿勢に転じている
だから横井は文久3年の長州派公卿が跋扈する京に危機感を持ち、越前藩の全藩上洛を献言してる
長州(この時期は久坂)は越前藩を敵視し浪士が越前上洛の際の宿営地高台寺を焼き払うなどしている
この時彼とともに上洛活動を行った村田氏寿は米国商船砲撃について長州に同情的な龍馬に対して
「長州の行為は万国に対して不義無道である」と真っ向から反駁したり、横浜鎖港にも批判的なので分かる 戦争するにぽ〜んに逆戻り。
軍国にぽ〜んの夜明けぜよ 坂本直柔 久坂の破約攘夷は通商条約を破棄し和親条約まで戻せって考えだから、横井の必戦破約攘夷と変わらんだろ
横井が唱えたのは文久2年だし、春嶽も幕閣に破約攘夷受け入れられず辞任してる
全ての条約破棄と即今攘夷に決定したのは朝廷だし 「晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。」
by松陰 >>834
即今攘夷は朝廷が決めた(木戸の自叙ベース)というより朝廷の親征勅語から長州側が読み取った
周布や桂も即今攘夷に転じてるでしょ。7月6日の御前評議。
「今日叡旨を窺い定めたる上は、翻然前論を擲棄し、即今攘夷の聖旨を純粋精一に奉戴」
と京藩邸側が主張(「官武間周旋始末」兼重譲蔵)、周布が賛成。
周布の即今攘夷賛成は、開国に至る過程として攘夷が不可避なら直ちにそれを経ること
越前の「国内法上の瑕疵を理由にいったん廃棄を通告、必戦覚悟で諸侯と国是を定め改めて開国」と同じだから、
周布と越前は手続において共通項がある
しかし久坂に置いては即今攘夷はそのまま目的になって、
仮に海外雄飛的文脈が含まれてるとしても、開国和親と言う道はないと高橋先生などは読まれてたね。 >久坂の破約攘夷は通商条約を破棄し和親条約まで戻せって考え
和親条約まで戻す=和親条約まではOKなら、商船を砲撃する必要はない
鎖港が取られるべき手段 新スレは「本田圭佑の方が魁傑よりずっとすごい・3」で 類似スレ
「大久保博元の方が西郷輝彦よりずっとすごい」 久坂は早くから倒幕思想があったと思う
村塾の中でも一番ラジカルだよ >>829
人生で大切なのは知識力ではなく見識力と胆力とは言うよね。見識力とは
物事を深く見通し本質をとらえる事、胆力とは障害を乗り越えるほどの行動力を指す
確かに才(知識力)は久坂の方が高杉より上かも知れないが、久坂には高杉ほどの見識力は無い
ただ倒幕思想は久坂の方が断然あってので胆力は久坂は高杉と同等だったと思う 久坂ってそんなすげえ奴でもないけどな
進発に関しては完全に時機を見失ってるし
海軍動かして始めた攘夷戦についても他藩は長州藩に追随しなかった 久坂の能力で磯田道史が言ってて納得できたのは
官僚的なブリーフィング洗脳能力だろうな
官僚が政治家を自分の思想に染めてしまうっていう感じの
818で朝廷から半ば強引に長州藩、というか久坂達を追い出したのは
そうでもしないと正面から塗り替えられちゃうかもっていう危機感だろう
京都への進軍に参加したのは
自分が話せばわかってもらえる、暴発も防げるっていう
それまでの活動からの自信というか、過信があったとも思う
そんなにうまくはいかない
それが若さなんだろうね
良くも悪くも 久坂は周旋能力は高杉より上だろう
長州藩の藩論転換させて、朝廷や幕府に介入し中央政治動かしてるから、
志士としてトップクラスの影響力だと思う
禁門も武力で圧力かけ長州藩を復権させるのが狙いで、武力行使は勝機がないと反対してる
猛将の来島はともかく、なんで真木が武力行使に賛成したか知らんけど 久坂といえば京都の芸妓の辰路を思い出す。秀次郎は久坂と辰路の間の子供なのか?
生まれたのが久坂が禁門の変で死んだ2ヶ月後だからな。本当の隠し子なら未亡人だな
辰路は龍馬や晋作とも交流はあったはずだしなかなか気になる人物だな >>843-844
818政変はべつに久坂を意識して行われたわけではないし、
久坂の周旋能力ってしょせん処士横議に留まるもので、藩外交官としては無能だよ
禁門の変でも最終盤には来島が進発に慎重になったのに対して久坂はイケイケだったし
攘夷派の暴走に嫌気がさした慶永が帰国、挙藩上洛の計画を立てる
その際に薩摩と連絡を取りノイズを一掃して国是を定めようとする
だが薩摩藩は薩英戦争に突入し越前の上洛計画に消極的、越前藩内でも反対が起き見送られる
そこで7月になるとノイズ一掃同盟の組み換えが行われる
最初に噂になったのが越前・加賀・会津の連合(これは事実無根)
だが、これを聞きつけた薩摩は「在京兵力だけで参加する、計画に参加したい」
と一転、協力姿勢を示すようになる
そこに穏健攘夷派(徳島、備前、鳥取、米沢)の周旋が難航し、武力発動を視野に入れ、
会津藩を引き込もうとする(鳥取は会津藩の調練を天覧に入れようとしている)
会津藩が仲間に誘われたのはやっと7月下旬ごろから
こういう流れがあったから高崎左太郎が会津を訪問した時に一瞬で提携が成立している
久坂、桂、宍戸は上の四藩が見切りをつけだした頃になっても米沢を仲間に引き込もうと入説して困惑させたり、
越前がとっくに計画諦めたのも察知できず高台寺を焼討したりしてる
会津藩は完全にノーマークのまま、交代した藩兵を急きょ引き換えさせている
これに気づいた米沢藩は使者を走らせて会津にクーデタ計画があるのか探ろうとしている
(この時は、会津側の緘口令が厳しく、米沢は確実な情報は得られなかったが)
米沢ですら気づいた政変の兆候に長州はまったく気付いてない
在京の桂、久坂、宍戸あたりがいかに情報収集能力に乏しかったか如実に物語ってる 8・18政変の時に諸藩がスムーズに会津・薩摩・淀の指揮下に入ったのは、
要するに政変が起きそうだなと内々察してたから
だが長州はこの3藩に対して全く無警戒だった
どう考えても久坂、桂の責任は重い >>845
回天実記に書いてあるけど、
池田屋の報が伝えられた後に慶親は出兵を少し延期しろと指示してる
(逆にいえば、出兵スケジュールは「池田屋の前から」確定してる。むしろ池田屋は格好の口実)
これを聞いた来島が賛意を表したのに対して、久坂・入江は一蹴し進発が決まってる
来島=強硬論、久坂=慎重論と言う図式はこの頃になるともう崩れてる
また久坂は5月初めに天龍寺を本陣として圧力をかければ問題ないみたいな計画を披露してるが、
その天龍寺屯集の報告がもたらされたことで朝議は緊迫、守護職の容保が急きょ参内
朝議で一橋慶喜が長州兵のいったん退去を主張し、
それまで日和見を保っていた薩摩(西郷吉之助)も慶喜の説に同意して29日に撤兵の勅諚が出されてる
久坂は京で前年の政変に居合わせてるのに、またも読み間違えた所を見ると、到底有能とはいいがたい。 全くの無能だったら放置してたらいいのに
ある程度有能だから放置はヤバいと思ったんじゃないの 無能とまでは言わないが
まだまだ青いって感じ
高杉の方が現状がわかってる 8・18の政変一つ取って有能だとかどうかな
薩会も長州勢力にバレない様にやってるわけで
長州に負けた幕府側や公武合体派はどうなるのか
久坂は航海遠略策つぶし藩論を尊王攘夷に転換させてるし、三条らと組み朝廷で影響力を持ち公武合体派を退けてる
将軍を上洛させ攘夷の命令も引き出し、中央政治の主導権を長州派が握ることに成功させてるし
進発論も参預会議の失敗で公武合体派諸侯が去ったのを見た政治的狙いだから、武力行使に反対し最終的に撤退論唱えてる
>>850
久坂が生きてる間は久坂が兄で高杉が頼る関係だけどな
兄弟の盟を致したくって手紙に書いてるくらいだし
久坂の方が年下なんだけど 結論・龍馬より高杉の方が凄い
はいこのスレおしまい。さようなら。提供はサンガリアの提供でお送りしました 山口県人あるある
・吉田松陰は山口県内では知名度抜群だが具体的に何をした人かを分かってない人が多い
・明治維新=高杉晋作というイメージがある
・伊藤博文は全国的知名度がかなり高いが山口県ではあまりフィーチャーされていない
・大河ドラマになるまで山口県人ほぼ全員、松陰の妹、文の存在を知らなかった
・ご飯のふりかけはしそわかめが定番
・山口県の観光スポットを聞かれたら唐戸市場か秋吉台・秋芳洞と答えていたら無難と思っている
・山口県で食べる所を聞かれたら東部人はいろり山賊、北部人はどんどんと答える
・外郎(ういろう)は名古屋でも小田原でも無く山口が1番と思っている
・新山口駅を未だに小郡駅と言ってしまう
・お祭りやイベント事があったら餅まきをするのが当たり前と思っている
・道路が綺麗に舗装されているのは当たり前と思っている
・山口県人はフグの事を福にあやかってフクと呼んでると言われているが実は普通にフグと言っている
・フグの次に有名な山口県の食べ物で思いつくのは瓦そば
・呼ばれたら「え?」じゃなく「は?」と言う人が多い 高杉晋作がいなければ、功山寺決起はなく、
俗論派が長州を支配され、毛利氏は徳川氏によって東北の片田舎に減封されて
聴取犯は事実上解体されていただろう。そして、徳川がそのまま列島の
最強勢力として存続していれば、近代日本のありかたはどうなっていたか?
階級や地域差のはっきりと残る、徳川家や各藩一部の支配層が列強と
結託して搾取するタイプの、近隣でいえば、フィリピンのような
国になっていただろう。かんがえるだけでぞっとする。
あのとき、高杉が決起したからこそ、廃藩置県があり、
四民平等があり、いまの日本の姿がある。 まあ、藩として一貫して倒幕行動してたのは長州藩だけだったし、
倒幕がある程度実現できそうになってから薩摩は乗ってきて、最終的に倒幕できた。
その長州藩が挫折しかけた時に、藩の情勢を変えたのが高杉だよな。
そういう意味では高杉は良い仕事した。
高杉がいなかったら、どうなっていただろうな。
少なくとも長州の倒幕活動は縮小しただろうし、他の藩も萎えただろうね。 派手好き、酒好き、女好き
学問もできて、剣もできる文武両道
向こう見ずで直感が冴える天才肌 粋で芸術センスも流行センスも抜群
これだけキャラが立っててなんでこんな人気無いんだろうな・・・ 高杉関連の観光地は色んな世代の男女で賑わってまっせ(特に旧宅や近くにある広場とか) 坂本龍馬が死んでなかったら、のIF考察はよくあるけど、
高杉晋作が平均寿命まで生きてたら、の方が気になる。
軍人になってたか、政治家になってたか、政争に嫌気して悠々な隠居生活送ってたか、
どうなってたんだろうな 軍人 晋作が生きていた頃は武力で戦う事が当たり前の時代だったのでその時代の風潮に従って戦ってただけだろうし軍人は無い
政治家 松塾の四天王の1人と言われて昌平坂にも留学しているが癒着とか汚職を嫌うタイプと思うので政治家は無い
隠居生活 恩師の松陰の誕生地の上野(東京では無い)の見晴らしを凄く気に入り上野に自身の住まいを造って住む程だった(当然、お雅とは別居暮らし)
多分、隠居生活だろう 高杉家って、華族にはなれなかったのな。
伊藤博文も山縣有朋も、高杉のおかげで立身出世出来たのに、高杉の息子には冷たいのな。
高杉が明治まで生きていれば、高杉家は伯爵にはなれたんじゃないの? 確か東一(晋作の息子)に伊藤か山県かが君のお父さんには世話になったからと
勲章を上げてたと思う。総理大臣時の伊藤の本音としては高杉家とは距離を置きたい
こういう気持ちだったようだね。伊藤は貧乏な農家出身で家柄の良かった晋作にいい様に使われていた身分だから
苦い時代を消すが如く、晋作が亡くなったし高杉家なんて別にどうでもいいわってのが根底にあった 高杉は暴れ牛的キャラが立ってるけど
伊藤や井上と同じ考えで割とインテリ
実際、幕末の後半はこの3人は行動を共にするし
死ぬ寸前まで洋行したがっていた
もしイギリス辺りに行って明治になって帰ってきたら
井上馨みたいな極端な欧化政策に向かう可能性もあると思う
それがアダで国粋主義者に暗殺されるとか 高杉は井上と違って、上海を見て過激攘夷派になってるし
洋行したいとか言いながら藩から与えられた3000両の洋行費、下関、長崎で遊びで使い果たしてる
初代攘夷派の松陰なんかも、アメリカに密航しようとしてたし
井上が欧化主義取ったのは、不平等条約改正のためだし そりゃ当時の上海の現状を真近で見たら日本みたいな小さな島国はすぐ植民地にされてしまうって
思っても仕方無いだろうよ。そりゃ過剰な攘夷になるよ >>857
中央の政治にあまり関わってないからだろう。ほぼ長州みたいな。
龍馬は薩長同盟や大政奉還など中央で関わってるからな。
新政府要領八策とかで倒幕後の国作りの事まで言及してるし 攘夷といっても、不平等な形での日本の独立が侵される開国には反対であって
晋作は開国には賛成だからな
下関開港を開港して長州の富国強兵を目指してたし
それによって藩内の過激攘夷派に命を狙われるけど
晋作はある時点から「攘夷」という言葉を一切使わなくなる
手紙や日記に出てこなくなるんだよな
そしてそのイデオロギーを倒幕へ利用していく つまり晋作が目指していたのは洋文化が様々入った今のような日本の形か >>867
坂本龍馬はやっぱ一人過剰評価だと思うな
薩長同盟も単に薩摩の長州援助策だし、裏書したってだけで、大政奉還も後藤に言ったくらい
中岡慎太郎と功績に差がないと思う
>>868
高杉が攘夷を倒幕に利用したとかないだろ
高杉生前時に倒幕なんて考えられないし
松陰にしろ攘夷派にとっての外国は、敵を知り長を取るという考え まあ功山寺決起の影響力については最近の説はあまり評価しなくなってるがな。
本丸はあくまで諸隊と藩政府の間でいったん内決した交渉が7要人の殺害で途絶したことにあったのだし
(正直言うと高杉の挙兵って、挙兵というよりついてきた兵士にメシを食わせる目的だろうな…)
どっちかと言われたら龍馬だろ。 元治内戦では高杉は諸隊の合戦の後から合流して出遅れてしまったし
(挙兵という意味では最初だが)、その後も度重なる脱藩が響いて復職できてない
内戦を収拾したのは鎮静会だから正義党の政権を作るまでにも至ってない
同時代の人の記憶では単に幕長戦争の小倉口司令官だったのを
明治40年代に入ってから伊藤井上山県らが肝いりしてめちゃくちゃに盛り付けた 龍馬は凄いって言われるけど高杉みたいに根本をひっくり返して国を変えたとか
そういうイメージは無いよね。なんか枠内であれやこれややってたってイメージで
龍馬も相当、過大評価と思うけどな。高杉は日本史内では絶対に生まれてこないといけなかった人物なんだろうけど
龍馬は別に生まれてなくても他の人物が龍馬と同じ事をしてたような感じがするんだが 高杉の場合は功山寺決起で長州藩をひっくり返し、幕長戦争の海軍総督・小倉口司令官として幕府をひっくり返したのが分かってる
龍馬は薩長同盟にしても、どこまで影響したかよく分からない
龍馬が京に行けなくて、中岡が京に居たら中岡が薩長同盟に裏書してたと思う
この二人が大仕事で来たのは土佐藩だったからだろうし
福岡藩だったら月形洗蔵くらいの評価だったかも知れん >>873
坂本龍馬は薩長の提携過程の深化に関与してるし、
大政奉還運動でも後藤象二郎の意を汲んで永井尚志らと接触している
虚像を排除しても大物の志士だったのは明らかで、
藩外でまともな折衝をやってない高杉晋作とは比較の対象にならない >>874
功山寺挙兵は明治40年代からの顕彰運動の過程で過剰に美化されるようになったが、
同時代人には小倉戦争の指揮官としてしか認識されていない
高杉が襲撃した会所や三田尻も、正義党に近かった役人を説得して行われたもので
内戦の勃発はあくまで諸隊と藩政府側の関係の決裂による
高杉はこの内戦への参加に出遅れたうえに、度重なる脱藩歴があり罪科が解けず、
停戦は鎮静会が主導したてまえ、正義党の復権という結果にはなっていないのが政府員の構成で分かる さらに高杉は慶応元年ごろから健康を害していた可能性があり、
小倉戦争も最終段階に入ると自ら指揮を執れなくなる
正直なところ、いてもいなくてもまあスタッフさえいれば似たような作戦案になったはずで 高杉は後任は大村
それがダメなら山田に、と言ったとされてるが
山県になちゃたんだよな 高杉が好きな奴は色んな理屈をつけて高杉が凄いと書き込み
龍馬は好きな奴は色んな理屈をつけて龍馬が凄いと書き込む
どっちが凄いかの討論なんてそんなモンでしょ。要はその人がひいき目にしてる人物が=凄いだし
高杉は、龍馬は○○○○で凄いんだと説明しても、まず最初の考えは揺るがない。そんなモン >>879
学者どうしの討論だって同じだよ
ただ、元治内戦後に発足した政府は、鎮静会主導だから正義党政権の復活になってない
とりあえず各派から代表者を出した中立派主導の政権
高杉は自身の罪科もあって復権すらできていない
桂が帰藩してから影響力を拡大させる諸隊の幹部、旧麻田党、中立派を含めて何とか政府らしきものが出来ている
高杉の15日の挙兵がどこまで影響力があったかは分からないのだよ
諸隊の17日の伊佐転陣は萩の政府に上旬に内決した交渉の履行に圧力をかけるためだし
15日の挙兵が影響を与えたとすれば、萩の政府が警戒して7要人の首を斬ったことだろうけど、
これも高杉の挙兵によるものかどうか分からない
いずれにせよ7要人の処刑で上旬の内決が崩れ、諸隊と藩政府は関係が再び悪化していく
そして諸隊に対しても解散令が再び出され、ついに奇兵隊が内戦に蜂起する
高杉晋作の事績で、同時代からの確実な評価は、小倉口の指揮官として戦ったということだけ。
(どうやら慶応元年から健康を害していたらしいから、スタッフがかなり支えたと思われるが)
たぶん挙兵に参加した伊藤博文が自分の功績を強調するため高杉の顕彰を大々的に開始したのが始まりだろう
それに対して坂本龍馬は京や長崎で他藩士と交流してるし、慶応2年の薩摩藩邸にも出現したり、
慶応3年には大政奉還運動で後藤派として使者にも立ってるから、事績がはっきりしてるんだよ
面会した相手方にも何をしたか記録されるから
事績が確定しやすい。 >>878
高杉の思惑とかかわりなく山県になったと思われる
>>880で書き忘れたが高杉は干城隊を頂点として陪臣・百姓からなる諸隊をその下に置く、
という構想を持っていたが、結局その実現は不可能だった
やはり奇兵隊の実務を握っていた山県が後を引き継がざるを得ない
あと高杉は同じ八組で、挙兵に賛同した前原一誠を信頼して色々本音を漏らしており、
彼は高杉の構想で頂点に位置付けられた干城隊頭取や小倉口の参謀心得をつとめて高杉を支えているから、
意中の人は彼だったような気がする。 高杉は奇兵隊創設、四カ国艦隊と講和、功山寺挙兵、幕長戦争で大島口、小倉口の勝利に導いてるのは確実だが
龍馬は薩長盟約にしろ、主役は木戸と小松西郷らで龍馬は主役でないし
内容も長州が幕府に負けたらしらんって物で倒幕の密約でも何でもない
大政奉還も後藤の功績で、両者の関係も龍馬は後藤を先生とし、後藤は龍馬に君と呼んでる
龍馬の明治時代の評価は高山彦九郎と同じ扱いだったんで そもそも薩長同盟って龍馬にとったら不利でしか無かったんだよな。仲が悪かった薩摩と長州の仲介人だった訳だろ龍馬は
薩摩の高性能の武器を龍馬の仲介で長州が買っていたりしてた訳だろ。お互いが仲良くなったら薩摩と長州の代表者を立てればスムーズにやり取りが出来て
仲介人なんていらない訳だしな。亀山社中的にはお互いが仲良くなってくれたら商売にメリットがあるとでも思ってたんだろうか龍馬は 薩摩藩邸に木戸が入ったのが1月8日で、木戸は薩摩側の条件が飲めずに膠着
龍馬が到着してすぐの21日に締結に漕ぎつけてるわけだからそこは評価しても良さそう
薩長盟約そのものが倒幕を仮想敵としてなくても、結果的に薩長が公的に協定を結んだことに意味はあるだろうしな 薩長が協定を結ぶという事はディズニーリゾートとユニバーサルスタジオジャパンが
一緒に業務提携してやっていこう!よりも有り得ないレベルの事だったからな >>882
慶応2年1月に結ばれた薩長盟約の成立過程に坂本龍馬の入京が大きく影響してるのは事実だよ
薩摩藩邸は長州側の一方的な主張に困ってたが、龍馬の入京によって志士系への配慮も必要となり、
最終的に「有志の約束」という形で収拾したのだから
ただし薩長盟約の意義は赦免協力の約束にあるので軍事同盟という色彩は希薄
しかも薩摩藩側は一方的にこれこれのことをすると口頭で伝えただけ
だから長州側は薩摩藩から言質を取れず、木戸寛治はやむなく龍馬に裏書を頼んでいる
だから龍馬の事績については疑う余地がない
もっとも薩長盟約の内実については上の通りであいまいだし薩摩はその後、事実上これを破っている
それでも高杉晋作に比べたら客観的に評価できるぶん龍馬のほうが圧倒的に有利 >>885
あり得ないレベルのことでは全然ない
なぜなら薩長盟約の本質は赦免運動の約束だから
薩摩藩は第一次征長戦の時に停戦案をまとめてるから、
その後に一橋慶喜らが主導して進められた懲罰戦争に批判的
薩摩藩どころか当時は幕閣(小笠原長行、板倉勝静の二閣老)も進発に批判的で、
広島での永井尚志−山県半蔵の会談でも永井は長州側の言い分をそのまま持ち帰っている
だから西郷らは戦争が実行されず、「幕兵東帰」すらあり得ることを前提に慶応2年1月の交渉に臨んでいる
討幕攻守同盟などでは全然ないため、薩摩藩邸では重大な盟約を結んだと言う認識はあまり見られない 高杉は幕長戦争前から既に有名
坂本龍馬は天下の人物9人に長州では桂、高杉としてるし、中岡慎太郎も同様の評価してる
薩摩は高杉側にも薩長同盟の使者送ってるし
志士の格付けした明治9年の近世報国赤心士鑑でも、高杉も龍馬中岡も既にトップクラスの評価されてる 薩長提携自体は特にありえないことでなく
龍馬も薩長同盟をやったなんて書いてない
龍馬の先輩である武市瑞山も『曰く両雄(薩長)確執せば、天下の事為す可らず、勉めて薩、長の協和に力を致さん』と言ったらしいし
当時の志士の間で当たり前だった >>888
慶応元年から既に関係改善の動きは始まってたのでこの年に薩長同盟成立を認定する人もいるくらいだよ
ただ慶応2年1月の薩長提携に坂本龍馬がかなりの影響を与えてるのは確か
それに比べて高杉は藩外活動がそれほどなく、藩政府においても度重なる脱藩が響き結局一方面司令官で終わった
慶応2年にはもう政治活動中止してしまってるし顕彰運動も坂本龍馬よりかなり遅れて始まっている
近世報国赤心士鑑って270人からの志士の名前が挙がってるけど横綱が松陰と藤田東湖、大関も殉難者
「志士」としての評価と「政治活動」としての評価はまた別と思ったほうが良い 高杉は慶応元年9月まで政府に復帰してないし、
内戦後も心身共に停滞した状態にあった
評価が始まるのは明治40年代から大正にかけて
エポックとなったのは伝記出版ブームの大正5年頃
横山健堂が「青年の模範」としての高杉像を創作したため
酒飲んで突拍子もない高杉像が各媒体で定着していくが
ご子孫はあまり良く思っていなかった模様 高杉って単に暴れん坊キャラ演じてただけだろ。本当の暴れるだけの馬鹿に
知識が必要な事は理論的に出来ないぞ 戊辰で軍を率いた大村、板垣、伊地知、山縣の評価から
高杉が生きていたら賞典禄1000石の評価かそれ以上行った可能性もあると思うけど、
龍馬が生きてたらどの程度か分からんね
大政奉還の功績ある土佐の後藤と薩摩の小松が1000石の評価だから
>>891
高杉が司令官になったのは脱藩と関係ないと思うぞ、負ければ即滅亡のかかった重要な戦争だから任せられたんで
戦争なんて政治と違って指揮官の能力がすべてだから
しかも海軍総督も兼ねてるから大島口でも幕府海軍と戦ってるし >>893
「暴れん坊キャラを演じていた」のではなく、
大組士で世子側近としての将来が確定していたため非常にプライドが高く、
粗暴で取りつきづらい人だった模様
松下村塾に在籍した渡辺嵩蔵は「久坂と高杉の差は、久坂には誰にも付いていきたいが、
高杉はどうもならむと皆言う程に、高杉の乱暴なり易きには人望少なく、久坂の方人望多し」
後に高杉の顕彰に関わった山県有朋ですら「高杉という人は何人に向かっても自身が下り向きに座らなければ承知できない人で…」
とその気難しさを回想しているから、実際にも極めて自尊心が強くて扱いづらい人だったのは間違いない。 >>894
正確に言えば、高杉は「司令官」ではない。
4月に発令された小倉口の指揮役は奇兵隊総督の山内梅三郎。
5月27日に海軍御用掛を申し付けられ、開戦直前の7日には海軍総督を命ぜられる。
「馬関口海陸軍参謀」の肩書がついたのは7月30日になってから。
大島出撃も藩に命じられたため。
脱藩の罪科が響いたのは、慶応元年9月にようやく御手廻組に加えられ、御用所役御国政方の御用を命じられたことでも分かる。
内戦後の3月に高杉和介の預かりを免ずると言う沙汰が伝えられた程度で、
人事なんて以前の問題(さらに言えば、高杉が戦闘に参加したのは15日以降で、奇兵隊の主力決戦には居合わせていない)
桂の帰藩により、やっと政事堂の本格的な組織が始まり、前原一誠、広沢真臣らの人事が発令されるが、
高杉は当然この時に人事から漏れている。
4月には襲撃を恐れてまたまた脱藩してしまうから、帰藩後は半隠居状態。しかもこの時から健康を害していた可能性がある。
脱藩は犯罪だから、こんなにやらかしてたら政府復職なんて無理。
それが藩という組織のルール。
当時の高杉は役職的に見ても「小倉戦争の指揮官」というのが妥当な評価。 慶応元年4月あたりの桂小五郎の帰藩まで政事堂の組織ができず、
慶応3年になると実務や折衝に長けた広沢兵助が主導権を握り始めるように
高杉ではとても中間派、諸隊、正義党などを取りまとめる政府の組織は無理だよ 高杉って何度も脱藩してるけど、
桂にしても勝手に逃亡行方不明なって、保守派が政権握ってる間帰藩してないし 脱藩って死罪に当たるけど何度も脱藩してる高杉は殺されなかったのはそれはそれで凄いな
龍馬も脱藩してるけど高杉の非じゃないし >>898
桂は出張中に戦争に巻き込まれた事情が事情だし、鎮静会の支持が得られるのは桂くらいしかいない。
高杉の場合はそういうポジションにない
では龍馬はどうかと言えば彼は慶応3年に脱藩罪跡を差し免ぜられて復籍している
だから大政奉還運動の時には使者に立つことができた
脱藩なんて長い目で見たら良いことでは全然ない 龍馬は時代が自身を求めてる時に現れて時代が自身を求めなくなった時に暗殺されて時代から去った
同じく晋作も時代が自身を求めてる時に現れて時代が自身を求めなくなった時に病死で時代から去った 高杉は小倉戦争の指揮官やってなかったら無名で終わった
一方の坂本龍馬は比較的早い時期から顕彰運動が始まっていた
時期的に10年以上違う 高杉が無名とかないから
薩長同盟も坂本、木戸ルート以外に、齋藤、高杉ルートもあったし
高杉が有名じゃないと蹴ったけど
幕府のお尋ね者も木戸と高杉だし
浪士巨魁だった坂本は天下の人物として高杉を上げてるし、中岡も3人に人物上げてる内に高杉が入ってる
死後に何時顕彰運動なんて関係ないしね 小倉口の戦争の時に指揮官やってた高杉の為に龍馬は小倉口まで来て
一緒に戦争に参戦してるんだよね。無名で実力も無い奴の為に天下の坂本龍馬が
わざわざ今の山口県の下関市方面まで来るかね? >>903
あのさぁ脊髄反射で書き込む前にスレ見直してほしいんだけど
慶応2年の「薩長同盟」と言われるものって乙丑丸貸与問題での木戸寛治の上洛要請で、
薩摩側は有志の盟約という立場なんだよ
高杉は慶応元年以降、何回かにわたって藩外出張を仰せつけられて薩摩側との折衝機会を持っただけで、
翌年7月以降は病床についてしまうし、長府藩にいた坂本龍馬も特段見舞った形跡もない
この頃になると長州側の「人物」としては
幕府との停戦交渉で藩を代表した広沢兵助(真臣)が急激にクローズアップされる
外部の評価は慶応元年から2年にかけての藩の重臣の一人というに留まる >>904
…ごめん馬鹿なの?
坂本龍馬が来航したのは乙丑丸の引渡や操船指導のためで、
引渡の時にたまたま海戦に参加し、その後に藩主に拝謁して帰っちゃうんだけど
高杉晋作は5月27日に海軍御用掛を拝命してるんだから引渡の時に会わざるを得ないでしょ
艦船受取の担当者なんだからさ。 高杉のこの時期の政治的ウェイトは>>895-897に記してある通りで、
内戦に参加したにも関わらず鎮静会主導の政権下ではお預けが免ぜられたにすぎず、
政府参加は帰藩した木戸が政府を組織した9月にまでずれ込んでしまう
藩政復帰が思うようにいかず、海軍の総督まで昇進したのも戦争直前だったことからお察し
もっともこの頃になると既に健康を害していた可能性もあるがどっちにせよ微妙な地位 慶応2年1月の薩長同盟とか、龍馬が船を率いて下関に来て海戦に参加したとか、
それ当時の本人たちの意識では同盟でもないし高杉に呼応して義勇兵になったわけでもないからね
明治まで生き残った志士連中が回顧録でしょうもない出来事を大仰に盛りまくり、、
それ以降の顕彰運動で雪だるま式に適当な話がでっち上げられただけ。 NHKの地上波とかBSでたまに長州藩や高杉晋作の特集をやったりするけど
やっぱりピックアップされるのは奇兵隊なんだよね。それだけ奇兵隊は
今の思考から考えても画期的だった訳だから当時なら尚更だよね
剣の腕はいい秀才の龍馬でも晋作みたいな奇才の考えは出来なかったか 高杉も龍馬も明治政府から正四位の評価受けてるし、早い時期の近世報国赤心士鑑での評価も高い
評価的に昔から大して変わってない
現代で変わってる所は龍馬が他の正四位志士連と比べ突出して持ち上げられてる所かな BC3C末、徐福一行の故郷、華北では三足土器で炊飯していました。
粗製灰陶で出来ている鬲です。
灰陶を焼く穴窯も、炊飯器の鬲もさっぱり伝わっておりません。
秦王朝のシンボルでもあった鼎も土器にも青銅器にもさっぱり伝わっておりません。
中国青銅器の雷文や龍文はもちろん、龍信仰さえさっぱり伝わっておりません。
簫、磬、鐘、鐃、ロ于、鉦など、様々な古代中国の楽器もさっぱり伝わっておりません。
三足やラッパ型の様々な酒器もさっぱり伝わっておりません。
金銀細工や金銀メッキもさっぱり伝わっておりません。
龍などをモチーフにした様々な玉器もさっぱり伝わっておりません。
瓦や箸や傘もさっぱり伝わっておりません。
漢字の前身、篆書などを刻んだ遺物などもさっぱり出土しません。
瓦屋根の戸建てや木骨泥墻などの住居もさっぱり伝わっておりません。
帯の付いたローブ状の古代中国の服飾も靴もさっぱり伝わっておりません。
徐福どころか古代中国人なんて縄文から弥生を通して一切定着しておりません。
ただ、無知で、馬鹿で、低脳の、頭の弱い人間だけがダマされる創作デムパです。 >>906
1862年1月14日に龍馬は萩に来てるだろ。目当ては同じ土佐藩の武市半平太の手紙を
久坂玄瑞に届ける事だが、龍馬は萩の23日間の滞在期間で色んな松下村塾の塾生と接している
もちろん晋作とも接していただろう。ユニオン号の引渡等がメインでも龍馬と晋作は知らない仲では無いんだから
艦船受取の担当者の晋作に会わざるを得ないって問題では無い 872の一連の連投 高杉サゲはわからんでもないが 高杉下げたところで872の好きな坂本の評価が上がるわけでもなかろう。
薩長提携は坂本がいなくても成立していただろう。もともとそれが薩摩の戦略だったし、仲介役として
薩摩の眼鏡にかなったのが坂本や中岡だっただけだ。
一方 高杉がいなくても誰かが藩内クーデターが有り得たかもしれない。だが、それがあの時期であったのは
功山寺決起であったわけだし、その後も高杉は指導的立場にあったわけであるし、坂本と同列ではない。
薩長同盟の虚実を検証することがより重要ではないか? 結構フィクション多いし。 薩長同盟もどこまでが本当かは分からないが、亀山社中的には薩摩と長州の間に入れば
利益を得られた訳だし、なんでわざわざ薩摩と長州を仲良くさせたんだろうな。薩摩は当時、最新鋭の武器を持っていた
長州はその最新鋭の武器が欲しい。で、亀山社中というか龍馬が仲介役をすれば薩摩は龍馬経由で長州が支払った武器を買った金が入る
もちろん亀山社中にもいくらかマージンは入る。長州は龍馬経由で薩摩の武器が手に入る。でも薩摩と長州が仲良くなれば仲介人はいらなくなる
龍馬にしたらデメリットなんだが 第二次長州征伐時点では薩摩はまだ倒幕を決意していないが、来るべき日に備えて
長州を延命させた方が上策と考えたのは間違いない。 中国が北朝鮮を見放さないのと同じ。
ちょっと、これは極論で反発を皆から喰らいそうだが、明治維新というのは
薩長VS徳川 というより 薩英連合VS徳川という視点で歴史を見るべきではないかと考えている。
長州や海援隊は結局は薩摩の手駒という気がする。この視点がお気に召さない方には
第二次世界大戦後期のイギリス オーストラリアと言っておこうか。つまりメインプレーヤーではない。
高杉が生きていた頃までは長州はまだ薩摩と同じく歴史を動かす方だったが、大政奉還以降は
反徳川勢力の頭数のひとつでしかない。坂本の船中八策なども あんなものは
坂本個人の「ぼくがかんがえたあたらしいにっぽん」でしかない。 薩長同盟が長州の役に立ったのは確かだけど、軍事同盟ではないから長州が幕府に敗れていたら終わってた同盟
倒幕は長州が第二次長州征伐で幕府破ったのがでかい、これで大政奉還論や討幕論が薩摩や土佐から出て来た
大政奉還以降の戊辰戦争でも長州の大村益次郎が総司令官だし、長州が薩摩より劣ってたという事はないよ
坂本や中岡はただの浪士巨魁でなく、土佐勤王党という基盤があったから、間接的に土佐に影響力持ってた
戊辰戦争も中岡が結ばせた薩土密約に基づいて、土佐勤王党の残党が板垣担いで戦い、薩長の次の功績に滑り込んでる そういう一芸に秀でたパーツ達を使いこなしたのが薩摩藩だった、
ちゅう指摘でごわす。
駒と棋士は違うでごんす。 >>910
高杉晋作、坂本龍馬、武市瑞山らの贈位は明治24年。
坂本龍馬はもう明治10年代の民権運動(汗血千里駒)でかなり有名になってるし。
贈位の位階は歴史的重要性とは直結しない。
正四位は土佐では武市、坂本、中岡のビッグ3のほかに吉村虎太郎(天誅組の変)も貰ってるし、
横井小楠は正三位、同じ長州の時山直八、安政の大獄の殉難者の月性、安島帯刀や鵜飼幸吉だって正四位だよ。
要は高杉も追贈の段階ではこのメンツと同じ、一介の維新殉難者だったと言うこと。
性格上、水戸藩の志士が多いんだけど、あんた金子孫二郎や日下部伊三次ってどんな人だったか瞬間的に思い出せる?
歴史的重要性は判断材料の一部分にすぎない。
近世報国赤心士鑑については>>891への反論でスレ中で前に指摘したけど、
挙がってる名前を見たことある?学者も含めた尊攘系の殉難者中心だし今の基準とまったく違う。
藤田東湖、吉田松陰、平野国臣、真木和泉あたりはともかく、
桜東雄(水戸)、川瀬太宰(近江)、成就院忍向…と多分お前さんが聞いたこともない名前が続いて、
仙台の三好監物や天童の吉田大八が入ってるけど、吉田大八なんて
たまたま庄内討入の嚮導を仰せつけられて切腹してなければ絶対に入らなかったような人。
三好監物も似たようなものでしょ。 近世報国赤心士鑑とか何で繰り返してる人がいるかと言えば
たぶん高杉の列に来島久坂坂本高杉と長州系の殉難者が並んでるからだろうけど
その横を見てごらん。水戸や筑前の殉難者が並んでるから。これと同格ってことですよ。 >>912
>1862年1月14日に龍馬は萩に来てるだろ
長州尊攘派の頭目だった久坂玄瑞に土佐勤王党から手紙言付かった話でしょ?
慶応2年に乙丑丸届けに来た時にたまたま海軍御用掛だった高杉晋作となんにも関係ねえじゃん。
それに文久2年1月って高杉は上海使節団への随行のために3日に江戸から長崎に出発してるはずですが?
高杉は文久元年7月に江戸に転勤になり、遣欧使節応募に落選して翌年1月2日に清への貿易使節団の随員の内命が下り、
すぐに出発。文久2年初頭には国元にはいないはずだよ。来島又兵衛の子の亀之進となら同道してるけど。 >>909
奇兵隊は足軽・陪臣が4割、百姓が4割(庶民階級が半分)と考えていいけど
身分別の徴表を付けた軍隊ね。応募方式は徴募、志願などの混成。
こういう徴募形式の軍隊は特に珍しくなく、山田方谷が監督した備中松山藩の農兵隊、
幕府陸軍なども同じ方式だし、もっと言えば水戸藩の農兵はこれに先立つ20年前くらいに組織されている。
恐らく吉田松陰が水戸藩の庶民の有事動員体制などに感銘を受けたのがルーツ。
高杉晋作が着想したものではなく、以前から藩有司グループで創設が話し合われており、
たまたま世子側近だった高杉晋作が言上して設置が決まったものと思ってよい。
注意しなくてはならないのは、奇兵隊は藩の正規軍とは別途に設置されてること。
だから「奇兵」隊なのだし、高杉晋作も藩の上士だから、設置後は奇兵隊に対して警戒的な態度を取り続ける。 >>913
あんたこそ坂本を下げて高杉を上げようと必死じゃん。
てか高杉についての知識も不充分で、無知を衝かれて腹が立つのも分かるけど火病もいい加減にしなよ。
坂本の評価が確実なのは当たり前で、薩長盟約(慶応2年1月の薩長「有志間」の盟約)には坂本龍馬が同席してるうえに、
盟約の裏書まで一方当事者の木戸寛治に求められてるからだよ。第三者による評価が介在してるんだもの。
薩長盟約はおそらく小松帯刀、西郷吉之助らの好意によって成立してるけど、
坂本龍馬の入京が彼らの決断に影響を与えたと言う意味じゃ立派に貢献してるでしょ。
それに対して功山寺決起はその後の元治内戦との影響がよく分からない。
高杉晋作の挙兵はほぼ下関、三田尻の正義党の拠点を説得して明け渡してもらったもので、
研究者によっては「何らの危険も伴わなかった」という評価もある。
しかも諸隊は功山寺決起には呼応しておらず、挙兵したのは翌年になってから。
明らかに翌年元日に布告された解散命令で土着内決をひっくり返されて挙兵を決めたと考えてよいから、
諸隊の地位保証のほうがはるかに大きな動因だったことは疑う余地がないでしょ。
なぜ17日に土着を内決したはずの藩政府が諸隊追討に傾いたかと言えば、
直接的には総督府巡検使の長谷川惣藏(尾張)が五卿の動座を促したのに対して、
渡海説得に応じていたことを知らなかった筑前藩士らが周旋を拒否したため、
長谷川が藩政府に諸隊への実力行使を示唆したためと見られてるわけだが。
高杉は直接関係ないよ。そもそも征長軍はこの時期に正義党も加えた藩政府改造を支持してたわけだし。 功山寺決起については高杉自身の自己評価も参考になる。
高杉はこの内戦の主力決戦に遅れてしまったうえに
(皮肉にも藩政府軍との決戦を唱えて諸隊を罵り、その前に脱走していたために)
戦後は度重なる脱藩が響いてお預けを解かれたのがようやく3月。
しかも成立したのは萩の鎮静会主導の政権で、正義党はまだまだ復活できないうえに、
一方では戦勝者の諸隊は菩提所の東光寺に駐屯し、
監視にあたると言う何とも面白くない結果になった。
彼が「面白くない」というのは当然のことで、本来は麻田党、椋梨党ともに、
藩の参政階級を中心にした正規武士の争いだったのに、
軽輩や百姓兵が参加した諸隊に実権をもぎ取られる形になり、
それに対抗する政府を高杉自身の人望ではとても組織できない無力感を味わってるのだから
(高杉晋作は松下村塾の元塾生の証言を見ても、山県有朋らの証言を見ても、
傲慢で人の言うことを聞かず、久坂玄瑞などと比べて決して人望があるとは言えないタイプだった) なんか龍馬と高杉が接点無いみたいな書き込みをしてるのがいるが
晋作と龍馬の接触は、1863年1月1日。この日が初だろう。龍馬が久坂に手紙を届けたときは晋作とは会ってないだろう
この日、龍馬は朝廷からの勅使の警固役として江戸に来ていた武市半平太とともに、川崎宿の萬年屋で久坂、晋作と会飲している(実はこの日に会っていない説もあるが)
ただこの頃の龍馬は晋作というか長州の過激な攘夷思想に批判を示していた。
その次に(もしかしからこれが1回目?)晋作と龍馬が会ったのは、1865年10月前半。
1865年の10月前半の2週間ほど、長州に滞在していた龍馬は滞在中、長州藩内を奔走し色々な人物と面会していた。
恐らくここでは確実に高杉晋作にも会っている。そして1865年年10月14日には、木戸、晋作、井上馨、伊藤博文との
メンバーによる龍馬の送別会(宴会)のようなものが林八郎左衛門方で開かれた。
1866年年12月に薩長同盟締結へ向けた準備等のために再び下関入りした龍馬は、晋作と再会して晋作から龍馬はピストル(および漢詩)を贈った。
龍馬はこの後、薩長同盟締結後の1867年1月23日、京都・伏見の寺田屋事件に遭い、この時龍馬は晋作から貰ったピストルで応戦した。晋作のピストルが
龍馬の一命を救ったとも言える。で、間にユニオン号の引渡、小倉口の戦争が入る。その後の龍馬は、1867年年12月4日付の兄の坂本権平、坂本家一同宛の書簡で
小倉口戦争ときの海戦の様子を図入りで報告している。また、高杉晋作のことを天下の人物の一人として高く評価している。その後、高杉晋作が1867年4月14日に
肺結核の為に亡くなるまでに、1867年1月上旬、1867年2月〜3月の間に龍馬は下関に滞在してるので、晋作の閑居を訪れていた可能性は高い。 >>924
あのさあ、一応レスの流れくらい読もうよ。
高杉が無名だったら龍馬は下関まで来てない>>904
↓
いや慶応2年に龍馬が来たのは船届けるためで、役目で来たんですが>>906
↓
1862年1月14日に龍馬は萩に来てるだろ>>912
↓
それ下関の話と関係ないじゃん。てか高杉晋作は長崎行の途中でいませんけどねw>>920
↓
なんか龍馬と高杉が接点無いみたいな書き込みをしてるのがいるが>>924
…どこをどう読んだら「龍馬と高杉が接点ないみたいな書き込み」に見えるわけ?!
自分が言ってるのは
「慶応2年に龍馬が下関に来たのは高杉に会うためじゃなく船届けて操船指導するためだよ」
ってだけなんだけど。
認知症老人ばっかで日本語通じてねえのかよこのスレは。。。 >>924
>晋作と龍馬の接触は、1863年1月1日。この日が初だろう。
何で西暦で書いてるのか知らないけど、
久坂日記の文久2年12月12日条(公使襲撃発覚の直前)に
「暢夫同行勅使館に行く、武市を訪ね龍馬と万年屋一酌、品川に帰る」
とあるのは事実だけど、この公使襲撃計画は武市が密告して翌13日に発覚したじゃん。
坂本龍馬も「不可なることを弁舌してようやく鎮止」したとされる。
また慶応元年10月以降の逸話に関して言えば、高杉は同年に亡命中も薩長提携の打診を受けてるうえに
9月に政府に復帰して当事者となってる。
一方で薩長関係はこの頃坂本・中岡を仲介として閏5月に会談がいったんセッティングされ、
7月には井上らが薩摩を訪問。8月26日には銃器を積んだ薩摩船が三田尻に到着する。
長州再征の勅許は9月21日に下され、薩摩側は早い開戦をいったん予想して9月8日に
武器艦船などを運搬する坂本龍馬と何度も接触を持って当然でしょ。
乙丑丸は当時、艦船を攘夷戦争で全て喪失していた長州にとって貴重な海上戦力であり、
しかも引渡に際して木戸寛治が上洛を要請されるほどの難題になったわけだからね。
これ、どっちかと言えば「薩長提携に当たってた坂本龍馬が歓待を受けた」話であって、
坂本が高杉を慕ってブラブラ遊びに来たなんて話じゃないからね。 ×薩摩側は早い開戦をいったん予想して9月8日に
○薩摩側は早い開戦をいったん予想して支援を急いだのだから
>その後、高杉晋作が1867年4月14日に肺結核の為に亡くなるまでに、
>1867年1月上旬、1867年2月〜3月の間に龍馬は下関に滞在してるので、
>晋作の閑居を訪れていた可能性は高い。
それ憶測にすぎないよね。史料のうえでは何ら交流を示す形跡残ってないし。
自分は龍馬と高杉の志士的交流については本来何ら言及してないんだけど、
・文久期…土佐勤王党と文久2年の公使襲撃未遂の直前に会飲して、おそらく喧嘩。
・慶応期…高杉が政府に復帰した10月まで会った形跡なし。
坂本、中岡、土方ら土佐系との関係は、同年4月19日の長州再征令や木戸政権成立から薩長双方に生じていたから、
高杉が政府に復帰するまで会っていないと言うのは逆に言えば職務の色彩が強い。
・慶応3年…会った証拠が残ってない
かなりビジネスライクな関係のようですよw
である可能性が相当高いんじゃないの。 >なんか龍馬と高杉が接点無いみたいな書き込みをしてるのがいるが
これだけでよく自分だって分かるな。常時、張り付いてるのか? 龍馬の晋作のピストル絡みで命が助かったのと権平らに送った手紙で高杉を天下の人物の1人と評価してたのをスルーするのが龍馬ヲタ >>922
あのねキミ、長文してるけどね反論になってないのよ。知識自慢が空振りになってるよ。君の一連の書き込みがね、
>>1に対する反論になってないのよ全く。君のレスひとつじゃないでしょ。
君が反証すべきことは
「坂本が居なければ薩長盟約は出来なかったし、高杉が居なくても俗論派はパージされて第二次長州征伐にも勝てた。」
ではないのかね? 君の全投稿はどれもここに触れてないでしょ。一生懸命 高杉必死で下げてて、
そのくせ「坂本の評価は確定」とか書くから、
「高杉下げても坂本が上がるわけではない」と言ってるの。自分の過去レス全部読み返してみ。
別に俺は高杉ファンではないよ。ただ 坂本はマスコミに過大評価され過ぎとは思うけどね。
だから、スレ主も「坂本が居なくても維新は起きたが高杉がいなけければ維新は起きなかった」と云い、
おれも含めた何人かがその命題に賛成しているわけだ。
君の薀蓄連投 全部読んでますます>>1が正しいと確信できたよ。 訂正
>どれもここに触れてないでしょ。
まあ、「触れて」はいるが、全然>>1の反論になっていないトリビアの陳列に終始している
ということ。だな。 連投スマン 今気づいたww
>922
>無知を衝かれて腹が立つのも分かるけど火病もいい加減にしなよ
誰と間違えたのかしらんが、>>913が俺の初レスだよ。君と討論したことないよw
スレ覗いたのもこの日が初めて。 >>931
反論になってるよ。>>925の流れを読んでごらん。
「なぜか西暦」の人にも分かりやすく説明しようか?w
自分が反論を加えたのは、>>904の
「無名で実力も無い奴の為に天下の坂本龍馬がわざわざ今の山口県の下関市方面まで来るかね?」
という疑問に答えたもの。慶応2年の下関訪問は艦船引渡のお役目があったんだから来るのは当然でしょ>>906と反論しただけ。
ところが反論された人は何に傷ついたのか、
「1862年1月14日に龍馬は萩に来てるだろ。…もちろん晋作とも接していただろう」>>912
というものだから、「高杉はその時に江戸から長崎に向かってるから萩にいないじゃん」>>920と指摘した。 そしたらますますトンチンカンな西暦使用の人は
「なんか龍馬と高杉が接点無いみたいな書き込みをしてるのがいるが晋作と龍馬の接触は、1863年1月1日・・・」
とズラズラ会った年月日を並べ始めた。と言っても史料的根拠が多少ともあるのは3回ね。>>924
(文久2年12月の記述は確実に会ったとまでは言えず、慶応2年の長州藩折衝方との会合についても同じだが)
そこで自分は
「誰が龍馬と高杉に接点がないなんて言った?」とあきれたうえで、
「会った日付を分析すると最初の会飲の直後に長州側は土佐側にチクられてるから、
土佐側の顰蹙を買った可能性が高い。
慶応元年の日付は高杉が政府に復帰した10月以降12月までに固まっており、
既に薩長提携のキーマンで武器搬入の責任者だった坂本龍馬を歓待したもの。
慶応3年には会ったことを示す史料すらない」と指摘した>>925
これで事実関係はほぼ終了でしょ。あとはあなたの想像に過ぎない。 >誰と間違えたのかしらんが、>>913が俺の初レスだよ。君と討論したことないよw
>スレ覗いたのもこの日が初めて。
誰とも間違えてないし、あなたが誰であっても正確なレスを返してることに変わりはないから気にしてないけど、
たぶんそれはウソだね。
幕末史で出来事を西暦で呼称する人なんて、ややこしいから外国人の翻訳文献以外そうそう見たことないよ。
1862年1月14日なんて書いてる>>912と同じ人なんでしょうね。 西暦ぐらいでガタガタ書き込まれるようなスレなのココ?歴史にそんなに詳しくない人も見るだろうから
分かりやすくしただけなんだけど。こう書き込んだら気分害されるかもしれないけど >>931
>君が反証すべきことは
>「坂本が居なければ薩長盟約は出来なかったし、高杉が居なくても俗論派はパージされて第二次長州征伐にも勝てた。」
>ではないのかね?
その件も>>922-923でとっくに触れてるんだけどなぁ。。。
坂本龍馬は慶応2年1月の薩長有志盟約の席に実在して、裏書を求められてることは公知の事実であるわけ。
誰もそれを疑う人はいないでしょ?坂本がいなくても〜とか西郷がいなくても〜というのは「仮定の話」に過ぎない。
ところが長州の元治内戦は諸隊が元治2年の解散令に対して藩政府軍と決戦に及んだことから勃発してるうえに、
2月に成立したのはあくまで萩の鎮静会主導の停戦であって、椋梨党の領袖クラスは逃走したものの、
この段階では正義党主導の政権など成立していない。
ましてや高杉晋作の「挙兵」は諸隊から脱走してなされているから、反乱の本体とはみなしがたい。
これが近年の研究成果ね。 >>937
西暦まぎらわしいし逆に分かりづらいからちゃんと和暦で書いて。
自分で分かりやすいと思ってるなら相当変わった人だね。
幕末史でいきなり西暦使い出す人なんて見たことない。外国人ならともかく。 >>940
はい分かりました。すいません。すいません >>939
薩摩藩は浪士と認識してるから商人なんて認識はないだろうね
あのさあ今やってることは龍馬下げ高杉上げでもなく、高杉上げ龍馬下げでもなく、
単純に
「坂本龍馬は複数の観察者がいる所で活動してるから事績を確定しやすい」ということなのね。
分かります? >>942
だから一般的にって書き込んでるでしょ。あなたみたいなのは一般的の部類に入ってないの
龍馬=亀山社中(海援隊)ってイメージだから >>944
ごめん、亀山社中が商人って…あなたどこで勉強したの?相当なオッサン?
海援隊は商社ではなく、政治目的のために海軍教育から海外侵略の先兵まで務める
政治結社的な色彩が強いとか習わなかった? 高杉晋作の方が坂本龍馬より、ずっとすごいってスレタイだからムカついた龍馬ヲタが入れ食いで釣れるな
坂本龍馬の方が高杉晋作より、ずっとすごいだったら龍馬ヲタが更に高杉sageしまくってたろう いや、そういう話じゃないんだけどなぁ…w
坂本龍馬だって薩長盟約や大政奉還運動に果たした役割なんてそうそう決定的なものでもないさ。
ただ、坂本龍馬は確定しやすい事績が残ってるわけ。 >>946
そういやここ、数日前から急にレス増えたよな。2ヶ月レス付かなかったのに
それまでは割と穏やかな感じだったんだけどな なんかもう、批判に対して免疫が無く世間全てが敵に見えてしまっている人がいるねえ。折角の薀蓄連投長文が
ただのキチ外ヲタ認定されかねないよ。 俺のレスは>>913が最初で>>915と>>917も俺だよ。あとは知らん。
あと>>931-933 で次がこのレス。
それを「ウソだ」と言われても、「おまえ、クスリでもやってんのか?」としか答えようがない。
西暦がどうとかこうとか、その関連の話は本人に言ってくれ。このスレはざざっと目を通しているけどね。
俺に対する反論はこのレスだな。じゃあ返事をば。
>>938
君のレスのキモは要するに@ 坂本は盟約締結時に同席した A 高杉の挙兵はクーデターの主力ではない
つーことだろ。そんなこたあみんな理解した上でこのスレ読んでるんだよ。
@につては、坂本が同席しなかったら、坂本が裏書しなかったら、薩長盟約は出来ていなかったのか?
というIFを考えた場合、「そこまで坂本を買い被るのはいかかがなものか」という疑問が、
昨今の「坂本過大評価説」「坂本パシリ論」につながっているわけだ。史実として坂本が盟約に関与しているのは事実だし
IFに対して事実をもって反論する君の姿勢は偉いと思うよ。詳しいし俺も勉強になった。
だが、陪席や裏書したところでそれは「坂本がいなければ成立しなかった」の立証にはならない。
まあここを証明しろというのは悪魔の証明と同じく、証明しようがないけどね。
ほんでAの部分。前にも書いたが高杉の挙兵はきっかけなんだよ。物事は何でもそうだが、「最初の一撃」は
誰もやりたがらない。それが出来ずにより悪い方向に事態が進む。高杉の存在意義はここにあるんだよ。だから歴史評価もここに集約されるんだ。
高杉があそこであれをやったから 維新の回転が始まった。 コテハンでもない872氏(870もそうかな)の坂本評高杉評に違和感を感じたので
「高杉下げても坂本があがるわけではない」と書き込んだら、この一言がカチンと来て
件の西暦さんと混同されて「必死なのはあんた」「火病」とか返ってきた。
スレタイからして 坂本をdisっているわけだから頭に血が上るのも解るが、誤爆を指摘されても
「うそつけ、おまえだろ」と「他人と間違えてはいないぜ俺様は」という矛盾したレスを同時に書き込む人とは
冷静に歴史討論するのはもはや無理だろう。872氏は>>1に反論できているつもりのようだが、
彼のレス読んでも全く反証になっていない。これは俺の感想だけどね。
それはともかく、坂本だけではなく高杉も過大評価もあるとは思うね。872氏の功山寺決起の評価については
頓珍漢で全く同意しないが、リーダーとしての高杉は頂けない部分が多いのも事実。
もともと明治維新史は勝者が書いた歴史で、美化されすぎの部分がある。坂本がその最たるものであるが、
程度の差こそあれ、高杉もそうだ。そういう目で872氏の一連の書き込みを読んでいたので
彼の豊富な知識も俺には勉強になった。ただ分析力が(ry
>>913も>>915も従来の明治維新観に疑問符をつける意味で書いたのだが、
「なんだよ おれの坂本愛に文句あんのか!」と短絡的に受け止められてしまったようだ。 長文連投しなくても西暦呼びが同じだから>>912>>924バレバレだよ
自分の無知を棚に上げて何発狂してんだか 激昂した西暦オジサンの言いがかりに対する反論は>>925で尽きているし、
彼が無知なのも文久元年前半の長州国元に高杉が在国してなかったことを忘れてたり、
文久2年の会飲の直後に土佐側から公使襲撃計画が通報されてることを失念してると言う初歩的間違いで明らか。
あとは悔しいから粘ってるだけで論じるに値しない。
なお、西暦クンの言う「歴史のIF」は当然、坂本龍馬に有利なようにも援用できる。
つまり
・坂本龍馬がいなければ慶応2年1月の薩長有志盟約は実現していなかった可能性
・高杉晋作がいなくても元治内戦が発生し諸隊側が勝利していた可能性
であるが、慶応2年の薩長有志盟約においては
坂本龍馬の入京が西郷吉之助の判断に大きな影響を与えたのはほぼ確実と思われる
で、これ龍馬と高杉のどっちが偉いかとか言う論争ではなく、
単純に
「史料が豊富で史蹟が確定しやすい奴は有利」というに過ぎない。
ぶっちゃけて言えば地方の群発的な内乱より、
大藩の信任を得て京で活動したやつのほうが必然的に有利になるの。
坂本龍馬の場合は薩摩藩、長州藩の知遇を得て、慶応3年になると土佐藩に復籍するんだから有利に決まってる。
高杉晋作も政府に復帰した慶応元年9月以降は比較的事績を確定しやすくなるが、
それ以前の逃亡中の事績が圧倒的に確定しづらいのさ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルは稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 自分と意見が違う者は皆 同一人物に見えるんだな。それとも誤爆を認めると
プライドが許さないのか? 高杉は文久三年にクーデタ起こして坪井グループの粛清を行ってるから
決起しないと報復される可能性が結構あった人間だからなぁ
その点が征長軍の同意取り付けてた諸隊と利害必ずしも同一ではない
七要人を見殺しにして決起した趣旨もちょっとわかりませんね言われてるし
三家老の処分も麻田党の政府が決めたのになぜか椋梨党に責任転嫁してるし つまらんことに噛みついてスマンがここだけ。
>>957の
>なお、西暦クンの言う「歴史のIF」は
「西暦クン」(>>904>>912>>924>>937か)と俺は別人だと何回言うたらわかるねんw 薩長同盟は龍馬以外も大勢奔放してるんだから普通に結ばれてる
最後に龍馬が立ち会ったってだけで
高杉は長州の藩論覆し、実際に幕府軍を打ち破ってる
日露戦争の功績で言えば東郷でも児玉でも乃木でもなく、仲介したアメリカの外交官が最大の功労者と言うような物でしょう これ、NHKでも特集番組やってたけど、新史料によると、坂本龍馬は薩長同盟締結の席には
立ち会っていなかったらしい。
薩長同盟はあくまで薩摩側の意向で進んだ話という説だ。
記事 http://www.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20100809.html ところで正義派俗論派って語句の起源ってどこなんだ?
高杉が自称したって話は聞くけど、肝心の史料を見たことがない
東行先生遺文もあたってみたがそれらしい記述がない
見逃してるだけかもしれんが 高杉の評価を下げたいわけじゃない(むしろ上げたい)が、事実として
クーデタの主力かどうかじゃなくて、功山寺決起と元治の内乱はわりと別のものだぞ
その連動性は少なくとも一次史料の上では確認できない
元治の内乱の過程は
まず征長軍解兵の条件に五卿移転があって、諸隊は藩庁に、土着(隊の保証)を条件に五卿移転を約束してる
そんななか五卿移転の周旋を任されていた筑前藩が藩内部での対立でこれを延期。その原因を諸隊の抵抗と転嫁
この説明を受けて藩庁は正月に諸隊に解散命令+鎮圧出兵。諸隊はこれに抵抗して武力衝突が勃発という流れ
>>922が知識自慢と馬鹿にされてるが、看過できない重要な部分
功山寺決起は
12月16日に高杉は明確に俗論党打倒を狙って挙兵しているが、諸隊は挙兵に反対
これは躊躇や尻込みではなく土着を確約できた行動方針と根本的に違っているから
奇兵隊日記が12月18日付で「(高杉の出兵を受けて)遺憾」と書いている
高杉挙兵の意図はわりと不明だが、凡そ「土着を妥協的とした」「三家老切腹を俗論党によるものと勘違いした」「自分への処罰を恐れた」あたり
なんにせよ独断による暴発
元治の内乱と功山寺決起の両方に藩庁から鎮圧出兵がされているが、吉川監物がこの2つの出兵を明確に別の物として区別してる
諸隊も最終的には高杉が目指していた俗論党排斥が目標にしているが、たまたまそうならざるえない状況だっただけで、必ずしも高杉がそうしたからではない
諸隊は元治元年9月から翌年2月まで17回も藩庁に「隊の存立を保証しろ」と提出していて、俗論党排斥よりは一貫して自分たちの存続を重視し続けている
元治の内乱で高杉が諸隊側に加勢してるのが紛らわしいが、高杉の決起に諸隊が呼応してというほど単純じゃないってのが最近の見解
因みに慶應元年3月の「武備恭順」藩是も、回天なんかではなく内憂が済んで征長軍に対する防御方針を再確認しただけ
高杉自身同年2月に山縣ほかに「外患(征長軍)に対する防御を固めるべき」と手紙を書いている 長州オタの人って史料を読み込んでるのはいいけど異常に長州だけに偏ってるんだよね
だから大政奉還とか王政復古とか倒幕の要になるはずの事件をふっとばして
功山寺決起やら元治の内乱をしたから明治維新が起きたとか変な話になる ほんと新選組さえ無きゃ日本は負けなかったんだろうなぁ
核で負けたもんな日本は 王政復古の大号令は京都御所ではなく田布施の高松八幡宮である >>968
吹っ飛ばしてないよ
その辺は長州藩の動きって少ないだろ
だから長州藩を語る上でカットするのは普通
寧ろそうしてるのに
その辺の政争や朝廷工作ですら
長州が全て悪い!って人達が出てくるから困る >>971
その普通って感覚が長州オタ以外から見るとおかしいんだよな
このスレは高杉がいなかったら明治維新は絶対なかったって主張だけど
大政奉還や王政復古に長州がそう絡んでなくて高杉はもう死んでるなら
いや直接的には高杉の功績じゃないし…という反応にならなきゃ変じゃないか?
んで間接的にはこう繋がるって議論になればまだわかるんだけど
そこすっとばして自分の知ってることだけ細々と語りだすから何じゃこれと思う 高杉晋作は、田布施村関係者の朝鮮人の可能性も考えろ。
理由は日本人的ではなく、日本人を憎んでいたことだ。 >>972
>高杉がいなかったら明治維新は絶対なかったって主張だけど
自分はそういう主張じゃないよ
だけど、ある意味このスレはそういう人達が集まって隔離されてる場所なのに
そこに乗り込んできて文句を言うのもどうかと思う
高杉を好きな人達が、他の人たちに迷惑かけずに
オナニーするようなスレなんだから 大政奉還や王政復古も重要だけど、一番は長州が幕府に戦争で勝ったこと
太平洋戦争で日本がアメリカに勝っちゃった位の衝撃
この影響で幕府や雄藩が揺れ、大政奉還、王政復古があっという間に実現され1年で幕府崩壊
それに至る重要人物は高杉さんとなる 悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した
理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され
老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ
そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/1ntWvZ
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ >>4
分裂と言うけど、そのまま明治維新も無く中国化されてたら、現在の日本やアジアはアフリカ並だった可能性まで有る訳だし。 そもそもあの時代の日本自体が緩やかな連邦制みたいな分裂国家だったもんな
今のEU諸国のヨーロッパみたいな 高杉晋作って背が低いのがコンプレックスで、
座った写真しか残さなかったって聞いたがホント? このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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