卑弥呼の王宮が出土している
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
奈良県御所市の秋津遺跡から、特異な建物遺構が出土したことは皆さんご存知であろう。
調査主体の橿考研はその年代を四世紀前半とする。
しかし私は、そこから出土した多孔銅鏃やそれと同時代の東海系土器の年代から、方形区画と称される特異な建物遺構の年代は三世紀前半まで古くなると考える。
ここは秋津嶋宮の伝承地である。秋津島宮かその関連施設が出土しているのである。
私は「男弟ありてたすけて国を治む」とする男弟は孝安だと考えている。
したがって孝安の宮とされる秋津島宮こそ卑弥呼の王宮であり、今その一部が出土していると考える。
それを裏付けるようにここからは東海を初め中国地方に及ぶ広い範囲から持ち込まれた土器が出土している。
詳しくは次のブログを
http://yamatai.sblo.jp/
_______ __
// ̄~`i ゝ `l |
/ / ,______ ,_____ ________ | | ____ TM
| | ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄)) | | // ̄_>>
\ヽ、 |l | | | | | | | | ``( (. .| | | | ~~
`、二===-' ` ===' ' ` ===' ' // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
ヽヽ___// 日本
______________ __
|街宣車の正体 朝鮮人工作員 .| |検索|
この秋津島の遺跡は卑弥呼とはなんの関係もありません。
しかし、ここは孝安天皇
秋津宮跡であることが、証明された記念すべき遺跡なのです。
欠史八代といあれるが、この八代は実在していたことがこれで証明されました。
まさに記念すべき遺跡なのです。
八代実在証明記念日。平成二十四年三月十九日 秋津遺跡は、崇神・垂仁・景行の纒向の後の時代である。
成務近江、神功磐余、応神軽嶋の明宮。
応神明宮であり、半島の土器も多出する。
建物も壁づくりとなり、半島の影響を多大に受けている。
この秋津遺跡が3代分であり、次第に小さくなるのは、王宮が河内方面へ移動したことをあらわす。
けっして纒向に戻っているとの見解は得られない。
ラジオ氏が私の編年にクレームをつけていますね。
何故か?
日本書紀の記述のほとんどを認めているからでしょうね。
323年 神功49年 倭軍の再渡海と百済軍(不耐濊)を誘い、半島占拠と領土分与。
これで、領土を持たず、郡の下働きをしていた不耐濊は百済建国。
326年 神功52年 七支刀 東晉明帝太寧4年5月16日丙午。
夫餘は長城の北にあり、玄菟を去ること千里、南は高句麗と、東は[手邑]婁と、西は鮮卑と
接し、北に弱水(黒龍江か?)あり、方二千里ばかり。
殷正月(殷暦の正月で陰暦十二月)を以って天を祭り、国中大いに会し、連日飲食・歌舞す。
この民間暦であれば、官暦と時々1日狂うこともあったであろう、否定できる誤差ではない。
[シ歳]は南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と接し、東は大海に窮す、今朝鮮の東皆その地なり。
正始六年、楽浪太守劉茂・楽浪太守弓遵、領東の[シ歳]、句麗に属するを以って、師を興し
これを伐つ。不耐侯等、邑を挙げて降る。その八年、闕に詣り朝貢す。詔しさらに不耐[シ
歳]王を拝す。居所民間に雑在し、四時郡に詣り朝謁す。二郡軍征賦調あるに、役使を供給
す、これを遇すること民の如し。
郡に取り残された不耐濊にとっては、涙のちょちょぎれるほどうれしい出来事であった。
卑弥呼から80年後にはここに落ち着かなければ、書紀の記述と齟齬をきたす。
日蝕が日を経て数日間続くというオマエは、オマエの脳内で、よ〜く
そういうことを考えてごらん。ppp 王宮入口の石に王宮名でも刻まれていなかったのかな?
この人に頼んで調べて貰ったらどうだろ?
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/GAZO2.html >>1
纒向遺跡でも発掘発見報道。
1 :春デブリφ ★:2013/02/03(日) 07:26:44.04 ID:???0
・・・・邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、
女王・卑弥呼(ひみこ)が君臨した時期にあたる3世紀前半の小型建物の柱穴が
100個以上見つかり、市教委が1日、発表した。約60平方メートルの狭いエリアに
集中し、小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。遺跡の中心部で柱穴が
集中して確認されたのは初めてで、専門家は「年に数回、卑弥呼が特別に
執り行った祭祀(さいし)用の建物跡ではないか」とみて・・・・・・・・・
【社会】卑弥呼の祭祀用建物跡?奈良・纒向遺跡で柱穴100個超出土★2
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1359844004/ 東征も東遷もあり得ない。
これらはすでに考古学的に否定されてしまっており、覆る可能性は
ほぼ無い。
つまり言い換えると、記紀は神武東征という捏造をやったことが
明らかになってしまったと言うことだ。
そして容易に分かることだが、記紀がなぜ東征という捏造をわざわざ
やったかと言う疑問に、近畿説で答えることは事実上不可能だ。
無論、不自然な理屈ならなんとでもつけられる。しかし、多くが
納得する自然な説明は絶望的だ。
△=卑弥呼の鏡、箸墓=卑弥呼の墓、どちらもネタだった。
纒向も調査がすでに十分入っており、魏志倭人伝の記述と全く合わ
ないことが確認されている。
つまり、近畿説は現時点ですでに頓死している。
纒向は恐らくはニギハヤヒの祖先が作った都市であり、神武が九州を
捨てて憧れて向かった都市なのだから、壮麗な都市であるのは当た
り前でなのであって、そんなことは邪馬台国であることの証拠に
などなりはしない。
近畿説に可能性はほぼ無い。
近畿説はもう既に死んでいる。 「卑弥呼の子孫を自認する私たちは、同胞の多くが近畿に住んでいるので、
当然畿内説支持です。近畿地方は私たち固有の領土です。」 by 総連&民団 曲学サンの説が、ムー賞を受賞しましたね。
おめでとう!
しかし、これで曲学説はファンタジー度が大幅あっぷですねw 神武天皇についての記録はかなり詳しいが、
大和に到達するまでの戦争の記述が全くない。
ただ長脛彦にいったん敗れてから豪族たちと戦争をやってるが
こういう話を読んでると神武一行がやくざかならず者のように思えなくもない。
女賊二人を殺したと言われているが途中立ち寄った村の村長とトラブルを
起こしたという類の話なんじゃないの?
東征後も76年の長い在位年数にも拘わらず、行政の記録も全くない。
せいぜい身分の高い妻を迎えご先祖様を祀って後継者を決めたぐらい。
浮浪者の一群が吾田から大和まで長い旅して奈良盆地の一支配者に
落ち着いたという話か?ニギハヤヒを降伏させたというあたりが
信じられないが、そういう人が天皇のルーツみたいだ。 孝安天皇て実際にそんな人物がいたとして業績も何もないのではなあ。
都の名前が秋津洲という地名の由来になったということぐらいか?
綏靖天皇については兄殺しの記述がある。孝霊天皇から妃を多く
置くようになり、皇女の記述も現れる。
家系図を見ると、孝昭天皇の第二皇子。母は世襲足媛といって
尾張連と関わりのある家系らしい。兄の天足彦国押人命は和珥臣
の先祖だと。日本書紀の年代どおりなら、孝安は孝昭天皇の
四十九年、孝昭78、9歳のときの誕生で、六十八年18、9歳で皇太子になり、
八十三年34、5歳のとき孝昭が亡くなった。翌年が孝安の元年。
孝安もまた子宝には恵まれず、即位五十年目84、5歳のとき
姪の押媛との間に孝霊天皇一人だけ皇子を儲けたことになる。
在位百一年135、6歳という異常な長寿で亡くなったとされる。
欠史八代から何か読み取れることはありますか? 微妙に修正
八十三年34、5歳→八十三年33、4歳
在位百一年→孝安天皇百二年135、6歳(古事記では数え年123歳) >>11
神武東征の人数を知ってて書いてるのか?
ごくごく少人数で、大規模なん軍隊が動いたわけではない。
したがって、
神武東征は『畿内までの妻問婚を敢行した英雄の物語』と考えるべき。
判ったら勉強し直そう。 息長斎王家の宗主、耀姫(明姫)様談。
最近私の偽者がネット上をウロウロしているようですが、見分けるのは簡単です。
息長の宗主(神功皇后を輩出したとされる巫女神道を女系継承するお家)なら
当然知っているべきことを、偽者達は知り得ません。
たとえば、日の巫女の王が冬至に担当する、
新年が豊作か凶作かを占う神事があります(本当の元旦は冬至)。
日像鏡を用いたこの祭祀は、
冬至に霊山(生駒山など)の山頂から昇る朝日を、
奇日(クサカ 日下)の地に建てた宮内に設置された宝玉と凸面鏡で受けて、
白布に太陽を拡大投影し、
八咫烏(太陽に棲む鴉、実体は太陽黒点)の動向を観察するものです。
太陽の活動には周期があり、地球の気象に影響を与えています。
太陽黒点の数や大きさや位置から、経験に基づいて気象変化を予見できるのです。
この占いは、伝承されてきた知識をもとに勘を働かせて、
天照大神(太陽神・男神)の神意をはかる必要があるものなので、
私の偽者では詳細を解説することはまず不可能です。
また、裏面に様々な文様や文字が刻まれた、一般的な薄く作られた魔鏡では、
投影面に文様が浮かんでしまい、八咫烏の観察は出来ません。
この神事に使用する日像鏡と呼ばれる特殊な凸面鏡は、
相応の厚みを持っていて、しかも照度を適度に抑える材質のものです。
組成を知らない者が単純に踏み返した鏡(レプリカ)では、実用になりません。
日の巫女の王の偽者では、このようなことも解説することは望めないでしょう。 本当のことを言うと
皇族なんてものは関係無いんだよな
神でも神族でもない 皇室神道はヲホヒ(大日)信仰を基軸とする。
ここでいう大は大きい意味ではない。
於保などの字をあてられることもある、ヲホ信仰を指している。
アジア全域に分布する、塚や古墳や霊山を依り代として、
祖先の霊を崇拝し、口寄せ(神降ろし)による神託を得る信仰形態をもつ。
恐山のイタコなどもヲホ信仰の一種である。
日は言うまでもなく、皇祖神とされる日神を指している。
大日信仰の祭祀を行う日向の姫(日女)は、日の巫女の王(後の斎王)である。
その祭祀は、霊山から冬至の朝日が昇る姿を拝める日下の地に、
祭祀の都度、斎場を設営して行うのが基本であり、
日像鏡の神事を行う宮も、毎年建てられ、祭祀が終われば撤去される慣習がある。
これが、常設の宮へと推移していく時期があるわけだが、これを見誤ると、
卑弥呼の住まいや、鬼道(祖霊崇拝)の祭祀が行われた場所の特定は不可能。
また、
日の巫女の王=日向の日女神(生き神様)=天照大神(女神)のお住まいは、
標高4百〜5百メートルの高台に築かれた、
下界から隔絶した高山の城(高天原)と昔から決まっている。
これらの城は、葛城などの名として残っている。
神功皇后と葛城と伊都郡や伊都国の関係を調べれば分かることだが、
卑弥呼の住居も、平地ではなく神籠石山城などに求めるべきである。
息長斎王家・現宗主・耀姫様が、
六甲奥池住宅地内にある隠し城にお住まいなのだから、
下界の平地の建物を卑弥呼の住居跡と主張しても妥当性はない。
祭祀跡を探すなら、日下(奇日)の土地を当たるべきだが、基本常設の建物ではない。 日向の姫神が元旦(冬至)に行う、
日像鏡を用いた新年を占う祭祀の適地は『日下』(クサカ 奇日)と呼ばれる。
生駒山の麓の日下は、
ヒノモトの国(日本国)の国号の元になったことで知られる、
息長一族の祭祀上の最重要拠点だった時期があった。
では、秋津遺跡の立地条件は『日下』(奇日)に当てはまるだろうか?
この遺跡から見て、冬至の日の出の方角に神奈備山があれば、可能性はある。
なだらかな起伏を持ち、落雷が多いことが神名火山の条件となるが、
この山は簡単に目視できる。
祭祀の宮本体は、その都度設営される小ぶりのもの(仮の宮)だから、
その痕跡が残っていない可能性が高いとしても、
日下の地に日の巫女の王が毎年訪れて宿泊するための、
独特の建築様式の施設(とうぜん現人神が座る神坐が存在する)などが
周辺に残っている可能性は十分にある。
もしも探すのなら、祭祀施設本体ではなく、宿泊施設(斎宮)を狙うべきだろう。
息長斎王家には、祭祀用の宮や、日の巫女の王の宿泊施設を設営する
特別な宮大工の技術を受け継ぐ者がいる。
現在の頭領は耀姫様の実弟だそうである。
彼が秋津遺跡の痕跡を見れば、どのような建物が建っていたか分かるだろう。 息長一族が祭祀に用いる非公開神事の宮の現物は、撮影許可が下りないが、
まったく目にできないわけではない。
SecondLifeと呼ばれるメタバース(仮想世界)などには、
数多くのバーチャル神社が建てられている。
耀姫様が日像鏡を用いた祭祀を紹介する目的で、
日の巫女の王が祭祀を行う建物や、
日向の姫神(天照大神・女神)が宿泊に使う宮の建築様式が
一般に公開されていた時期があった。
参考までに、
耀姫様がアップしておられるバーチャル神社巡りのアルバムを紹介しておこう。
https://plus.google.com/photos/105395575899086027677/albums/5693205390204267889
3DCGによる再現であり、SecondLifeの仮想世界に行けば、
遺跡と違って、地面に残る柱の穴の痕跡だけでなく、
その上に建っているべき本来の建物を観察したり、内部に入って見学もできる。
場合によっては3DCGのデータを商品として購入して、
自分の土地にそっくり同じバーチャル祭祀施設を建てて、
じっくり観察したり、アバターを使ってお参りすることもできる。
巫女神道の姿を紹介するレクチャーが終わって、多くの資料は撤収されているが、
それを真似て建てられた、コピーのバーチャル神社や祭祀施設も存在する。
参考になるかなりの量の資料が今もメタバース上には残っている。
これらの資料を把握することなく、
卑弥呼(日の巫女の王)の祭祀施設がどうのこうのと言っても始まらない。 >>23
創作と現実を区別する判断基準を持たない乙組か・・・
もっと勉強して判断力を身に付けよう。 >>9で終わったスレがなんで今頃発掘されてるんだ? >>25
だったら、
神籠石城址遺跡の年代ぐらいまともに出してくれよWWW
天日槍の子孫を自称しておられる、息長斎王家・現宗主の耀姫様は、
以下のようにレクチャーなさっておられた。
▽▽▽
伊都国王族が有事の際に避難する山城として築かれた、
雷山神籠石城址が、高天原だった時代があります。
この種の大陸式山城(半島式ではない)は、
高句麗の都市国家にも数多く存在します。
高句麗の最初の王都があった桓仁の五女山城もその一つで、
普段は巫女(神女)が居住する宗教施設として機能していました。
五女山城の名は、五人の姫が軍隊に守られて住んでいて、
窮地に立たされた人々を救うため地上へと舞い降りた伝説に由来します。
このような城塞宗教都市国家が、高天原=邪馬台国の原型です。
人界から隔絶した神宮であり、避難用の隠し城ですから、
その所在を他国の者に知らせることはありませんでした。
だから卑弥呼(ピミヲ 日巫王)の邪馬台国を目指した中国側の使者は
伊都国までしか来ておらず、
邪馬台国へのルートが途方もない長大に引き延ばされたものになっているのです。
△△△
雷山神籠石城址の築城年代を誰か特定しろよW >>10
>約60平方メートルの狭いエリアに 集中し、
>小型建物を建てたり壊したりした跡とみられる。
>遺跡の中心部で柱穴が 集中して確認されたのは初めてで、
>専門家は「年に数回、卑弥呼が特別に 執り行った祭祀(さいし)用の建物跡ではないか」
>とみて・・・・・・・・・
ここが仮の宮を繰り返し建てた祭祀跡だったことは、ほぼ間違いない。
こういう痕跡が秋津遺跡からも発見されれば、
そこが小卑弥呼(ピミヲ=日巫王=斎王)の祭祀跡だった可能性が出てくるし、
見つからなければそれまでだろう。
纏向遺跡を見下ろす東の高台に、穴師坐兵主神社が残っている。
ここでは古い時代は天日槍が祀られていた痕跡が見つかっている。
男系の皇統が途絶えそうになったとき、必ず歴史の表舞台に顔を出して補完してきた、
日本の国姓の姫を女系継承する、息長斎王家の祖が天日槍なのだから、
纏向遺跡は、天日国系の皇室神道の祭祀施設だったと考えて間違いないだろう。
息長斎王家は中国大陸の銅を輸入して、
フイゴの神でもある天日槍(蚩尤)の秘術を持って銅鐸を作らせていた時代があるそうだ。
男系の皇室の祖が女神の天照大神で、
女系の息長斎王家の祖が男神の天日槍とされているのは、
記紀神話に伝わる誓約と深い関係がある。 天日槍なんて関係無いよ「人皇の時代に再び現れた」
これが馬の人だよ、
手に扇のようなものを持っている人
母親不明 津と山を守という 九州の高天原は雷山神籠石城址に始まると、息長斎王家では伝承されているらしい。
それに対して近畿の高天原は、現在の丹生都比売神社がある隠れ里にあった時代もあるそうだ。
京都に都が移った結果、六甲山中の標高五百m地帯の奥池へと移転したらしい。
六甲は元々武庫山と呼ばれ、高天原を守護する皇軍が駐留する山だったそうだ。
皇室が軍隊を持たなくなると、息長斎王家の男衆達が修験者に身を変えて
武庫山の高天原を守ってきたらしい。
卑弥呼の王宮の立地条件について、よく理解もしていない状態で、
あれがそうだ、これがそうかもしれないと言って回っても、意味がない。
標高四〜五百メートル地帯の、人界から隔絶した高い開けた場所で、
必ず水があることなど幾つもの条件が重ならないと、
高天原の適地とはみなされない。
とうぜん、日の巫女の王の卑弥呼も、条件が合わない場所に住むことはない。 条件に合う王宮なんて、いま現在まで遺跡が残ってるものだけでもいくらでもあるだろう
当然すでに壊されて跡形もなくなってた王宮だって過去にはあっただろうし、そんなものに何の意味もない
王宮の入り口に「卑弥呼」の文字が出てこない限り、そこが卑弥呼の王宮だったとは言えない だから、
平地の遺跡には、本物の日の巫女の王(斎王)は住まない、と言っている。
伊勢神宮の内宮は低地にあるが、これは天武天皇が用意したダミーの神宮だ。
その証拠に、内宮には日向の姫神(現人神)が座る神坐(高御座)が存在しない。
さらに、せん子女王が起こした斎王託宣事件(酒乱状態で託宣した)以外に、
伊勢の斎宮や内宮で、天照大神の神託が下された歴史的事実は存在しない。
事件の対応に苦慮した藤原実資が『小右記』に「斎王が託宣を告げるなどということは、前代未聞」
と記している事実からも、このことがはっきりと読み取れる。
また、歴代天皇が祖先を敬うために伊勢神宮に行幸したことがなく、
明治天皇が初めてだったことや、
皇位の継承に神託が絡んだ道鏡の宇佐八幡宮神託事件事件では、
伊勢神宮が終始蚊帳の外に置かれ、
九州の宇佐八幡の神託が重視されたことからも、窺い知れる。
何故伊勢神宮が皇祖神を祀るダミーとして用意されたかと言えば、
唐と新羅の連合軍に、倭と百済の連合軍が大敗して、倭国が事実上壊滅し、
大宰府が唐の軍隊の占領下に置かれる大事件が起こり、
真の国体の中枢にある日の巫女の王の存在が脅かされる危機を天武天皇は感じ取っていたからだ。
遁甲(兵法・忍術)に長けていた天武天皇は、替え玉を用意することで国体を守護する策を打った。
その結果が伊勢の内宮創建なのだ。(※替え玉と言っても、それなりの神格は備わっている。)
天照大神(天空に輝く男神)を奉斎する、日向の姫神(現人神)とされる巫女は、
高天原という、人界から隔絶した4〜5百mの高地の城塞宗教都市国家に住むのがお約束だから、
卑弥呼の宮殿を本気で探すなら、神籠石城址などの高地の城塞遺跡に目を向ける必要がある。
弟一人が世話をしていると魏志倭人伝にある以上、大勢の人が出入りする場所に建っていなかったことは明らかだ。 白村江の戦いで失った任那こそが、天照大神の土地だけどな。
それがあったから戦ったし、失ったから、南に海がある似たような土地、伊勢に
天照大神を祀ることになった。 古事記によると、天孫降臨に際して、天孫は高千穂峰に降臨されて、こう述べておられる
「是地者、向韓国真来通笠沙之御前而、朝日之直刺国、夕日之日照国也。故此地甚吉地。」
(この地は、韓国にまっすぐ通る笠沙の岬に向かい、朝日のただ刺す国、夕日の照る国なり。ゆえにこの地はいと良き地。)
笠沙の岬は韓国からは遠いが、韓国に近い対馬から韓国に向かうと、対馬海流に流されて到達できないわけで
対馬海流のずっと手前である笠沙の岬が、まっすぐ韓国に行くのに最も都合のいい場所となるわけだ
つまり天孫は、韓国に行くのに都合がいい場所だというのを決め手に、降臨場所を高千穂に決めたわけで
この言葉は同時に、それまで「高天原」と呼んでいた地を、天孫降臨と同時に「韓国」と呼び変えたことを暗示している ぐぐれば一番上に笠沙町のウィキペディア記事が出てくるんだが
> 町名の由来[編集]
> 「古事記」天孫降臨の段に登場する[3]「笠沙之御前」(笠沙の岬)に因む。町名になる以前には、
> この一帯に「笠沙」という地名は、字名としても広域地名としても存在しなかったが、多くの伝承や
> 逸話がこの当たり一帯を指し示しており、歴史的な研究の対象地名とも重なる地域である。
高千穂の位置については高千穂町と高千穂峰の2ヶ所が争われてるけど、
どっちの立場の人も笠沙の岬の位置は笠沙町に比定してるはずですよ 今現在確認されている韓国南部の前方後円墳が栄山江流域に集中していることから、木浦あたりが高天原だと仮定すると
笠沙町から木浦に行くには、下甑島、男女群島、済州島西側を通っていくことになる
このあたりまで手前を横切れば、対馬海流もそれほど強くないから、船で往復するのも十分可能だろう 高天原は韓国だろうね。
誰も、天照大神の墓を探さない。みんな、なんとなく分かってるんだろ。
邇邇芸は、雲をかき分けたのではなく、波をかきわけて来たことを。 天孫降臨の地は、朝鮮語で首都を表すクシフル。韓国に向かっているという、
その韓国は、朝鮮半島南部のカラ諸国。
笠沙の岬が南九州であるわけない。 朝鮮半島南部のカラ諸国に向かうには、対馬からだと海流が早くて無理なんだよ
南九州の笠沙の岬から出発しないと、海流に流されて朝鮮半島南部のカラ諸国には到達できない 参考までに
https://books.google.co.jp/books?id=p84BjgsnsTcC&pg=PA83
この野性号一世にはもうひとつのオチがある。狗邪韓国から対馬に向かった野性号一世は、今度は海流の関係で
自漕では対馬に行き着けなかったのである。狗邪韓国(金海あたり)から対馬国(対馬)への航海は注意を要する。
渡海の季節が夏だったことは定説となっているが、夏期には黒潮の流速が、時に10ノット(時速18.5キロ)に
達することがあるという。対馬海峡西水道の朝鮮半島側からの夏期の渡海は至難の技なのである。
従って、狗邪韓国から対馬への渡海は直航路ではなく、海流の影響を最小にするか、逆に海流を利用できる航路が
選ばれたはずである。朝鮮半島南岸から倭国へ渡る航路は、半島の南岸沿いに南西に下って済州島辺りまで南下し、
反転して、東北東に流れる黒潮の分流に乗り、対馬北端を目指す航路が選ばれたはずである。 27 名前:日本@名無史さん :2015/03/19(木) 18:56:29.55
邪馬台国は宮崎県にあった。
謎が解けたよ。
宮崎を日向と名付けたのは景行天皇で、神武東征の時には、宮崎は日向では
なかった。
つまり、天孫降臨の地は宮崎ではなく、後から宮崎を日向と偽称させた。
なぜか?
邪馬台国は大和朝廷に滅ぼされた土蜘蛛であったが、これを明らかにすることは
できなかった。
なぜなら、邪馬台国は魏の冊封国であり、これを滅ぼしたとしたら、中華帝国
への反乱ということになってしまうからだ。
そこで、大和朝廷は、卑弥呼と台与の事績を神功皇后一人の記とするなどの
混乱を見せつつ、これらが皇統であるかのような偽装を行った。
神功皇后は、日本が倭国であるかのような偽装を行うための架空の人物であり、
だこらそれは女性である必要があった。
そして、もう一つの偽装が、宮崎を日向の呼び、天孫降臨の地であるかのように
詐称したことだ。
なぜ宮崎だったのか。
それは、宮崎が邪馬台国だったからだ。
卑弥呼や台与が神功皇后であったかのように記述したのと同様、邪馬台国
を天孫降臨の地であるかのように詐称させることで、大和朝廷が邪馬台国
を滅ぼしておらず、むしろ正統な後継者であるかのようにする偽装が完成した。
このように、宮崎を天孫降臨の地であるかのように詐称したのは意味が
あり、そこが邪馬台国であったからだ。 邪馬台国は やまと国
卑弥呼は やまとととひももせひめのみこと 倭迹迹日百襲姫命
当時の倭国には文字を書き記す文化はまだ無く、話し言葉だけだった
話し言葉を聞き取って漢字に置き換えたものが後漢書や三国志などに記録されている
であるから当然後世の漢字表記とは異なることになる
大和=倭 国は 邪馬台国 (台はト)
やまとととひももせひめのみこと は長すぎて誰もその名では呼ばず「ひめのみこと」と呼んでおり聞き取った者が「ひみこ 卑弥呼」と記録した
女王で「媛命」と名付けられた者を「ひみこ」と呼ぶため歴史上複数の卑弥呼が存在する 小説・張政(神話編) < 高天原の神々 vs 倭人伝中の登場人物 >
タカミムスビ神 (帯方大守・王頎)−−−−|−−
|−−思兼神(張政)
アマテラス大神 (卑弥呼)・・(宗女)・・|−−トヨアキツシ姫(台与)
↓ | ↓
↓ | |−− ニニギの命 →→→ 神武天皇
↓ ↓ ↑
↓ 誓 約 (共立女王体制)−−−|−−アメノオシホミミ命(西都・投馬国の官彌彌)
↓ ↑ |−−
↓ | |−−
↓ スサノオ命 |−−ムナカタ三女神
↓
↓
アメノコヤネ命 (卑弥呼の男弟)−−−−−−−中臣連−−−藤原氏 →→→ 0025 1 ◆cmsiBNFbAs 2017/04/17(月) 17:32:00.65
なお、コテハンは変えました。
似非スレで解読されましたので変えました。
さあ勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
648 名前:日本@名無史さん 2017/04/24(月) 16:18:45.12
>>25
コテハンを解読した奴が似非スレを乱立させているということか?
2ちゃんねるの会社に訴えられるレベルの悪行だな。 似たようなスレを作りすぎ。
古いのから順番に、使用して、使い切れ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています