漢委奴国王印 いわゆる金印
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天明年間、筑前国那珂郡志賀島志賀島に於いて甚兵衛なる百姓が田圃仕事中に偶然発見したとされる。
・「漢委奴國王」を何と読むのか?
→かんのわのなのこくおう
→かんのいとのこくおう
文化庁編「新増補改訂版 国宝事典」(便利堂、1976年)
「その訓みについてはなお定説をみない」
・後漢書の印綬と同一か?
後漢書「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」より
建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」
・そもそも真物か?
出土地も確定できない問題がある 171 :日本@名無史さん:2012/06/03(日) 09:23:26.07
「漢委奴国王」の金印ストラップ人気 福岡市博物館
福岡市・志賀島で出土し、市博物館が所蔵する国宝「金印」をデザインした携帯ストラップが人気だ。
亜鉛合金製だが、黄金の輝きは本物そっくり。
1個千円。4月から販売し、約300個売れた。「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた
印面も蛇型のつまみも細かく再現されている。
市博物館には同じ大きさのレプリカ金印(3675円)もあり、「もっと手ごろなものを」と企画した。
約7割の大きさだが、弥生時代に贈られたとされる本物と同じ中国製だ
http://www.asahi.com/national/update/0602/SEB201206020010.html
http://www.asahi.com/national/update/0602/images/SEB201206020011.jpg
写真:福岡市博物館が作った金印ストラップ拡大福岡市博物館が作った金印ストラップ
>本物と同じ中国製だ
コーヒー噴いちまったじゃねぇか! 「親魏倭王」の金印が何処に埋納されているのか興味があるけど、
いつの日かこの金印が発掘されるようなことがあったら日本中が大変なことになるだろうな。 >>4 親魏倭王の金印は日本にあるとすれば、大和が九州邪馬台国を制圧したときに手に入れて、現在は宮内庁がもっているということになります。 俗に言う「魏志倭人伝」の内容自体がデタラメだし w 気まぐれの記念ホルダーみたいなものだったらイヤだな。 盗品・売買品・質流れ品の可能性やあと偽造の疑いも完全に晴らすことはできてない
出土状況も明らかでないただ日記のような記述があるだけ
参考史料程度にとどめるのが正しい姿 偽造たって、金製なんだろ?
無茶高価なのに、何のメリットあるの? 学問が盛んな時代に現れた愉快犯
藩主の徳を称えるため
だったはず、小説では 出土物を調べ、忽ち後漢書を引用して由来を論説した亀井南冥の博学ぶりも
贋作説者の手にかかると偽造の張本人にされちゃう気の毒さだ
仮に贋作だとすると、何を手本として作ったのだ
寸法重量字体それに蛇鈕、参考にできる品がどこにあったのだ 奴国にせよ委奴国にせよ、志賀島はどう関わるの?
首都があったの? >>19
風土記に記載があるとかいうんでなかったっけか たとえば、糸島や博多の古墳から盗掘した本物を元に、レプリカを創って志賀島で出土したかのように自演したとか
明石散人はそんな推理をしてたような 偽造たって、無茶金かかるぞ。
金印って内部は別の金属で、金メッキでもしているんか? 漢の倭の奴の国王と三段に呼ぶのは、奴国に対して
失礼な印の造り方でありえない。
倭の人偏を省略するなんて、正式な印の造り方ではありえない。
ここは、漢の委奴国(伊都国)王印と呼ぶのが正解。 かんのわのなのこくおう
と呼ぶと発表した人は志賀島が、奴国の領域という先入観念からの発想にある。
石井好氏は調査で、志賀島は「天御中主」を祭る密度が最も濃い地域
海人ー天ー伊都国の領域と発表している。 国家の印にしても地方の印にしても大事なものだから受け継ぐ者がいなかったのかな。
どういう経緯で土の中に埋まったのかの方が気になる 越青邑君 瓦鈕
越貿陽君 瓦鈕
※宣帝時期贈給少數民族的官印首字始署“漢”,
下為民族名。東漢印沿襲宣帝以來傳統,首字也多署“漢”。
新越餘壇君 瓦鈕
新難兜騎君 瓦鈕 志賀島、能古島、室見川を堺に西の日向川や、吉武、金武などの遺跡は
伊都国の遺跡だろう。
イザナギが生の松原付近の小戸で禊したとしても、伊都国の王ならば
伊都国に出雲から戻ってきたのだから、不思議では無い。
糸島から日向峠に登ると、
日向峠の出口には飯盛神社があり、
そこにはイザナミが祀られている。
そこから海に向かうと小戸港である。
立花山はかなり離れた東区の方だから、
別の山か地名を指しているのかもしれない。 室見川という名も、イザナギがイザナミの室を見てしまった、禊の
由縁を記録したのかもしれない。 いまぐぐってみたが、見事に、室見川の名前の由来に関する情報が
見当たらない。 イザナミを祭るとかイザナミのお話を見て後から作ったに決まってんだろ・・・
俺の田舎の三重にも日向はある東京にも日向和田とかあるがそこが邪馬台国かああん?
水行十日陸行一月で東京かあ・・・九州よりは可能性あるな
邪馬台国東京青梅説始めていい? 同じ地名がある場合、その地名の根源地がある場合があるようだ。
石井好は「伊都国日向の宮」の書で、丸地名の根源が伊都国で
その拡散密度の勾配がー1乗で良く合致していると報告している。
日向は知らんけど。 ・「漢委奴國王」を何と読むのか?
→かんのわのなのこくおう
→かんのいとのこくおう
中国人学者間での有力説は
→漢委なこくおう。「委」を使ったのは
他の冊封国と違い中国の風下ではあるが中華秩序の外に位置する独立した地域という認識の為だろうと 漢が奴国王に委ねるという解釈は、肯定するにも否定するにも、
決定打がなく難問だね。
国王印をもらったようならば、王の名前が残っていてもよいのだけど。 官印というのは官職名や爵号を刻んだものだから、
漢が奴国王に委ねるという解釈は、除外していいと思う。
「漢委奴國王」をどう読むのかを考えるには、当時の印章について
深く知る必要があるので・・・
羅福頤主編《秦漢魏晉南北朝官印徴存》檢索表
ttp://bbs.sssc.cn/viewthread.php?tid=148379&extra=page%3D1 対等関係だった時期の匈奴の単于にも玉印を贈っているから
中華秩序の内と見做さず、漢委〜と刻んだ可能性も除外できないでしょ。 匈奴の単于の場合は「匈奴単于璽」だけど、史書を読めばその特殊性は容易に理解で
きる。
多くの修飾辞は、「帰義」、「率善」、「率衆」といった2字での構成。
1字の「親」の場合は「親+国号」の形式。
「委」が修飾辞なら「委漢」の方が自然だと思う。
他に「漢委」が修飾辞であることを証明、またはその可能性を見い出すような文献や
印章などの遺物がないかぎり除外したほうがいい。
「漢委」が修飾辞である可能性はゼロではないけど、推測を根拠にする行為はかなり
危険なので・・・
無い無いそれは絶対に無い。
委漢だと委の前に省略された目上の存在が漢に委ねる意味になる。
例えば委漢奴国王だと、(任命するにも拘らず主語を省略した誰か)が
漢に属する奴国の王へ委ねる、となり意味不明な印章になってしまう。
同時代の漢書にも(偉い人)委任〜 (偉い人)委政〜 という表現はよくあるし
諸葛恪伝に「大行皇帝委弃万国 群下大小莫不傷悼」の一文が
東夷伝に「而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子為其絶域 委以海外之事遂隔断東夷」が
宋記に「漢委蕭何以関中 唐委劉晏以東南」の一文が
貞観政要に「秦任趙高卒致傾敗 漢委王莽遂成簒逆」の一文がある 委漢だと委の前に省略された目上の存在が・・・・>>とりあえず、「委」を「親」に
「漢」を「魏」に置き換えて考えてみたが・・・・43がそのように考えるのかよくわからん。
なんどでもいうが、官印というのは官職名や爵号を刻んだもの。
印文を普通の文章のように解釈することの方がおかしい。
例えば、「漢委奴國王」を「漢が奴国王に委ねる」と解釈をした手法を用いて
「晉高句驪率善邑長」、「晉率善韓佰長」を解釈することは不可能。
とりあえず、当時の官印の印文を用いないのは何故?
40で提示したリンク先ににたくさん載っているだけど・・・ そもそも、漢の委の奴の国王と最初に読んだの誰?
やっぱ亀井南冥が最初なの?
金印発見の報はすぐに京、大坂、江戸の学者達にも伝わったらしいが、委奴(イト)と読んだ人はいたのかな?
蛮夷の国や民族は基本二文字が中華思想的にデフォなんで、委奴でも不思議じゃない気がする >>44
所詮仮定の話だから何とも言えないけど
例の2つは晋の官職や冊封を受けての称号なのに対し
仮に漢「委」奴国王だった場合は、中華秩序の外のその辺をおまえに委ねる
という感じの意味になるから、晋の(に属する)高句麗の善く率いる邑長や
晋の(に属する)韓の善く率いる佰長と違って、漢は委ねる奴国王に、みたいな意味になる。
漢の皇帝が中国の秩序下に無い相手へ印章を贈った例が他に無いから
まあその辺はアレだけど、当の中国人が冊封体制の外だという仮説を唱えてるし
無碍にも出来ない思うけどなあ 「漢委奴國王」印の文字改行が
漢
委奴
國王
となっている。漢が奴国王に委ねるならば
漢委
奴国
王
とかにならないだろうか。 「漢の委の奴国の王」だろ。
「国王」という称号は漢代において一般的ではない。
「漢匈奴悪適尸逐王」「漢匈奴悪適姑夕且渠」「漢匈奴栗借温禺鞮」印からすると
王朝名を先頭に以下、民族名・部族名・官爵名になる。
委奴をイトと読めば、それはイト族であって倭族(倭人)ではない。
それだったら倭伝には記載されない。 >>1
残念ながらその解釈は成立しない。
1 その解釈でわ、あくまで大和がちいさかったころの小和しかハンズにならない
2 その後、事実上シナ、半島、大和はモンゴル属国になったため
(大和700〜900年) (半島700〜1900年) (シナ 700〜1900年)
もはやシナ主権性ならず、シナが属国となり、
日本はほげん、へいじ、へいけ、承久と大和をやぶったため、別解釈になる。
そしてそんなことより、中元に覇をとなえた日本のほうがすごいんだが。
中原に覇をとなえたことが、もっともおそろしいから、ってうそ虐殺 つくるのやめようよ。
そして、シナは常にモンゴル属国なため、朝貢の主権性がないんだよ そもそも
柵、朝貢とかふざけすぎだろ。
1 シナが常に柵される属国。 完全に
『シナがモンゴル属国だっただけ』
2 朝貢とかいうけど、シナが常に朝貢してたろ。なんで清前からシナが貿易下位で属国なんだよ。
3 そもそも柵、朝貢というなさけない制度はシナがしてもらったため、条約上正規の性質がない。
4 また、下調べ、事前協議ない状態で、しかも政治者じゃないものとも結ぶため
(非政府間条約) すでに政治条約として機能しない。
5 明なんかは完全に。
元属国で主権国家でわない、盗賊国家の明が死ぬほど、元の再来をおそれ、主権国家と独立するため、
単于を撃破して、いわば、周辺の 覇=@で独立国の日本国に
独立承認を拝受願いに来て
しかも
アホの盗賊だから、日本にびびりまくって 海賊なる偽か遺族をつくって恫喝←一蹴
すでに日本の行政でもない天皇の独断専行でむすばされそうになった条約で
しかもその天皇流され、足利が独断専行
しかも足利は行政でも、主権でもない。 ぶっちゃけ権限内、個人間という条約つまり条約じゃない。
そして明が独立を拝受して、そして、
『ヲマ、状況が状況だから承認してやるけど、ヲマ、海賊とかなめたことぬかしたら、惨殺だからな、中原とか燃やすからw』
とかいわれて、けん制され、犬のごとくびびりまくったんだろ。
アッホだろ。そして底面だからその条約10年で破棄されんだぜ。詐欺だし、シナ勝手なこと抜かすし。
そしてやはりこの条約、正規条約でもなく、
ただの1日本有力者承認でしかないんだよな。
まぁ歴史的に見れは、日本が柵し、日本が覇で、日本が中原に覇をとなえたと。
そもそも歴史的に
1 首都を制圧して覇をとなえるだけで、毎回毎回完全にシナ支配者になれる。盗賊上がりだろうと、
2 外国人でも
という歴史で
上都 北京 成都 南京 というほぼ全都をおさえるとう前代みもんの快挙をした。
でうそ虐殺作成と、そりゃおそろしいよな。政治の正当性がないから歪曲と >>49-51
リアチョンかw
捏造工作はまず本国でやれよw
日本での工作は在日韓人団体に頼めw 委奴(イト)と読む場合は福岡県糸島市を比定している
ここは、いわゆる魏志倭人伝にある伊都国と同じ
金印を授かって50年後に倭国王帥升が朝貢しているが、この帥升をイト国の王と推定する人は多い
誰に下された印にせよ、何故に流れ流れて志賀島なんかに埋まっていたのだろう
これこそ最大の謎ではないか 西戸崎って江戸時代はどんなとこだったの?ただの農地?
蛇の形をした紐通しは何の意味があるのさ
あんまり蛇にも見えないけど >>58
> 蛇の形をした紐通しは何の意味があるのさ
『漢旧儀』の規定によれば、・・・
皇帝・皇后は螭虎鈕、皇太子・丞相・大将軍・列候などは亀鈕、諸候王は橐駝(駱駝)鈕、そして千石以下の役人は鼻鈕とされている。
その適用の厳しさは、出土印を網羅した『秦漢南北朝官徴存』(羅福頥編1987)で検証できる。
・・・駝鈕は漢代を通じて匈奴などの北方諸民族(韓族を含む)に61例と集中しており、諸候王が漢朝廷のそれでないことがわかる。
つまり、明記はされていないが、『漢旧儀』の諸候王が正確には外臣である北方民族の諸候王をさすことを示している。
東夷の得た官印の最古の遺存例は、‥‥平壌市出土の「夫祖ワイ君」駝鈕銀印である。
紀元前後のころのものだが、以後、晋印に韓・濊・夫餘・高句麗の例がある。
韓が駝鈕であるのをはじめ、馬鈕をまじえるものの駝鈕が多い。
したがって、駝鈕を東夷を含めた北方民族(北狄)用とする印制が確立していることを理解できよう。
(「漢委奴国王」金印は)蛇鈕という特異な鈕の形態を理由のひとつとして偽物説がつきまとう段階があったが、
雲南省晋寧県石寨山6号墓からの「滇王之印」蛇鈕金印の発見と、
岡崎敬による綿密な論証によって、現在は真印と認められている。
・・・すなわち後漢において北狄に駝鈕、西南夷に蛇鈕を与えるという印制が確立したと推定できるのである。(高倉洋彰) 漢舊儀補遺卷上
諸侯王印,黄金橐駝紐,文曰璽,赤地綬。列侯黄金印,龜紐,文曰印。謂刻曰某侯之印。丞相、大將軍案:初學記引無「大」字黄金印,龜紐,文曰章。謂刻曰某官之章。御史大夫章。匈奴單于黄金印,橐駝紐,文曰章。
漢舊儀補遺卷下
冊皇子為諸侯王,皆於上東門中,以東門在卯故也。
諸侯王薨,天子遣使者往,使者皆素服。
ttp://www.chinapage.com/big5/history/hk6.htm
ttp://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wa04/wa04_06647/index.html
夫租ワイ君 銀印駝鈕
ttp://www.whj.dl.gov.cn/info/158883_179845.vm
晉率善韓佰長 駝鈕
晉率善韓佰長 駝鈕
晉率善[*佰]佰長 駝鈕
(晉率善貊佰長)
晉夫餘率善佰長 馬鈕
晉高句驪率善邑長 馬鈕
晉高句驪率善邑長 馬鈕
晉高句驪率善仟長 馬鈕
晉高句驪率善仟長 馬鈕
晉高句驪率善佰長 馬鈕
晉率善穢佰長 馬鈕
(ttp://gsm.nricp.go.kr/_third/user/frame.jsp?View=search&No=4&ksmno=7381)
魏烏丸 11個中-駝鈕11個
魏鮮卑 3個中-駝鈕3個
晉烏丸 12個中-馬鈕12個
晉鮮卑 16個中-馬鈕15個、亀鈕1個 誤>62 諸侯王印,黄金橐駝紐,文曰璽,赤地綬。列侯黄金印,龜紐,文曰印。謂刻曰某侯之印。丞相、大將軍案:初學記引無「大」字黄金印,龜紐,文曰章。謂刻曰某官之章。御史大夫章。匈奴單于黄金印,橐駝紐,文曰章。
正>諸侯王印,黄金橐駝紐,文曰璽,赤地綬。列侯黄金印,龜紐,文曰印。丞相、大將軍黄金印,龜紐,文曰章。御史大夫章。匈奴單于黄金印,橐駝紐,文曰章。
金印は江戸のゴッドハンドかもしれん。
伊都国は重要なキーポイントで畿内説にとっては伊都国はどうしても九州の北岸に持ってこなきゃならない。
糸島と伊都国に目を付けた。
倭人伝ではどうやっても伊都国を糸島に持ってこれない。
だが奴国を福岡平野に持って来れば、伊都国を糸島にできそうだと。 >>67
それはわかるがこないだ科学鑑定の途中経過みたいな
本が出てて、大陸で発見された印と同一工房説は否定されてね?
つまり専門家の説とか意見も怪しい、という意味なんだけど。 金印は本物やもしれぬが
本当は福岡平野の真中で見つかったことにしたかったのだが人目が多いでな・・・
志賀島でも意の大半を叶えてくれるよって
現地民に銭を握らせ畑を耕していたら出たと、な
弥生後期の層は数十センチで出ることもあるが1m50から2mくらい下にあることが多いのよな
畑を耕していたら出る、ほぼありえんのよな
記憶や口承にあったものはどうにもならぬので誤魔化しずらししたものが記紀と思うくらいに考えるべし
外国のものは焚書も改変もできなかったのでおかしなことになっとる 福岡奴国の税関のような機関が置かれていたんだと思う 志賀海神社は小さな神社だが、代々阿曇氏が祭祀を司る
鹿角堂があり鹿の角一万本以上が奉納されている
筑前国風土記に神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったとの記述がある
志賀島は古代は神聖な場所であったのだろう >>65
正論が主流になることはまずないのが、日本の学界 蛇鈕というが、あんまり蛇に見えないのが難点だ
製造に失敗して意図したのと違っちゃったんだろと、贋作説の三浦さんが言っているが
そこのところは同意したくなる 漢(皇帝)は奴国王(師升王・・・スサノオ)に印を委ねる。 ぬ、な、や、ま、ら・・・国、領土、領域、領地、土地(場所)などを表す古語。
奴国・・・「なら」 >>77の説はまさしくそうだね。日朝同祖論で必ず出てくる。 >>75
そうそう。
しかもすぐに説明書作った人が「ヘビ」と言い切っちゃってるのが
一番笑える。
お前知ってた犯人の一味だな、って告白してるようなもんだ。 疑い出すと、廣陵王璽も ぁ ゃ ι ぃ ということになる >>81
古墳から出土したんじゃなくて、発掘現場から出た土を捨てた山から出てきた
・・・のだってな 石器はちょい心得がある人ならあちこちで掘り出すことができるけど、
金印を偽造するとなると、無茶金がかかるから偽造説は怪しいな。 古代○○の金細工のニセモノ(素材は金)なんてのは今でも普通にやってるが 志賀島が神聖な場所だったとすれば、金印がそこにあっても全然不思議ではない
おそらく奴国王は後の阿曇氏だったのだろう
阿曇氏は志賀島を聖地とし、綿津見三神を祀った
金印があっても不思議ではない 阿曇族は全国に散らばっている。
倭乱の敗者側だろう。 >>88
そんなモン、金メッキだろ?
金印は全部金だからな。無茶高価。 小判数十両分を無茶高価と呼ぶのは評価の分かれるところだな >>92
金メッキって、パチモンと贋作を一緒にするなよ >>91
>阿曇族は全国に散らばっている。
>倭乱の敗者側だろう。
うんにゃ。神武天皇の祖母と母は阿曇氏だよ。
全国に領土があるのは、天皇家譜代の重臣として日本を山分けにした結果。
明らかに勝ち組の方。だから邪馬台国との関係はよかった筈だ。
つまり奴国の覇権を倒したのは邪馬台国ではなく、須佐之男を奉じるどこかの国で、
邪馬台国がその国を倒す事で奴国は邪馬台国の臣下になったのだろう。 弥生時代末期、
漢委奴国王(スサノオ)が建国し、帥升(大国主)と続いた倭(和)国も、跡継ぎを巡る「大乱」で卑弥呼(アマテラス)に国を譲る。
奴国(長崎/佐賀)邪馬台国(福岡/大分)
狗奴国(熊本)─┼─投馬国(宮崎)日向→神武東征≡瀬戸内海⊇≡大和
....................隼人(鹿児島)
筑紫邪馬台国♀女王「台与」は日向投馬国王♂を婿として迎えた後、薩摩隼人との三つ巴で肥後狗奴国(後の熊襲)を滅ぼす。
その男系末裔であることを示すため、神武は本拠地・投馬国(日向)から大和へ東征(東遷)。大王に即位し、大和朝廷を樹立。
※記紀が投馬国王の祖であるイザナギ・イザナミを漢委奴国王(スサノオ)の両親、台与の叔母・卑弥呼(アマテラス)をその姉としたのは、
(台与の子孫である)大王家の時間軸操作。
-大和朝廷における、♂投馬国(日向)系大王と♀邪馬台国(筑紫)系大王の(それぞれの男系が途絶えたことによる)政権交代
【前期古墳】…イリ三輪(銅鏡)王朝(神武〜仲哀)=投馬(日向)系大王
【中期古墳】…ワケ河内(鉄剣騎馬)王朝(応神〜武烈)=邪馬台(筑紫)系大王(朝鮮半島支配強化で王権強大化)
【後期古墳】…近江王朝(※継体〜天智〜桓武〜現在)=投馬(日向)系大王
※
-継体・安閑・宣化=日向系大王→継体の大王即位が筑紫系皇族の抵抗で大幅遅延→「筑紫君磐井の乱」を誘発
-欽明〜皇極(斉明)=筑紫系大王(筑紫系大臣蘇我氏による日向系皇族大弾圧)→「乙巳の変」へ
-天智〜弘文=日向系大王、「白村江の戦い」惨敗で朝鮮半島権益を完全喪失→「壬申の乱」へ
-天武〜考謙(称徳)=筑紫系「天皇」、両系和解の記紀編纂(イリ三輪王朝の活躍>>>ワケ河内王朝の活躍)
-光仁・桓武〜現代=日向系天皇、筑紫系天皇の平城京から本拠地・琵琶湖近くの平安京に遷都
一白
大王 >>100
かなり高いんだな
慶長小判が84%くらいのはず なんだ、全部金ってのはウソなのか。純金じゃないのね。 >純金じゃないのね。
クルーガーランド金貨じゃないのだから 金の抽出技術の問題なんじゃないの
灰吹法かアマルガム法でしょ 昔はざっと22金といわれてたよね、確か。
最近の測定では95%もあったんか。
混ぜものしないと道具として使えないだろ。
95%は混ぜものが少なすぎないか?
本当なら偽物説の傍証の一つになる。 紙に押す印象じゃなくて、
封泥に押す封印なので、
かなり自由度は高そうだが。 そもそも、飛鳥時代以前
豪族、皇族、貴族などみても渡来人の系譜。天皇家にも朝鮮族の血が混じってる。
半島から嫁もらってるし。逆に朝鮮族も、自分たちの血が混じってる民族に攻撃されて
いたのだから、グタグタ言わない。
持統天皇は女帝として君臨し、自らを天照皇大神として日本の大神の神話に組み、
古事記、日本書紀もこういった渡来系の大王家にとって都合よく編纂されている。
根の部分は一緒でアジアとして一家族。
今の朝鮮族は道理としておかしいと感じるところがあるから、例えば、裁判にでて互いに言いたいことと証拠を出して
潔く決定すれば、大和もそれで納得するところにいらだつわけで。
現大和政権も、ちゃんとけじめをつけさせるべき。できないならそうさせるべくように仕向ける。
なーなーで、曖昧にして、事なかれ主義だと、結局いつまでも反目することになる。
アジアを一国として、族で呼べばいいよ。
正しい歴史認識とは、誰かにとって都合良い認識にならないこと。 >>108
対象が泥でも純金じゃ印刻がすぐにボロボロになっちゃうだろ。 95%って技術的にそこまで純度が上がらなかったからではなく、意図して混ぜものをしたの? 小学校の教科書に載っている写真でドキドキ度ナンバーワンなのがこの逸品 江戸時代の篆刻家が、親魏倭王印も作っていたとかいう話があるが
漢委奴国王印もその類ということになるのか?
倭王国・琉球王国・朝鮮王国・滇王国・晉帰義叟王国・廣陵王璽
以外で金印等の印章を中華王朝から貰った国ってあるの? >>124
墳墓でないところから出土したってところが珍しい
というか怪しい 大きな石の下で、支石墓みたいなところから出てきたという話も
聞いたことはあるが、信頼出来るソースが見つからなかった。 小学生の頃は写真だけ見て 10cm × 10cm くらいの大きな物だと思ってた
実物は結構小さいのね 金印紫綬って、
鳥居強右衛門的働きをして死んだ一兵卒2名が同時にもらってる例が見える。
これは特例らしいけど、通例でも中隊長クラスらしい下級武官は、
戦死しただけでもらえるものだったらしい。
蛮族ごときにはその程度で十分ってことか。 >>124
本物?偽物?もそうだが、本物だとしても、そこから出てきたの?と経緯も問題に。
>>127
梶原景熙の『金印考文』かな
ttp://museum.city.fukuoka.jp/jb/jb_fr3_04.html
ただし、昭和に入ってからの調査では
金印の発見場所は後漢時代波打ち際であっただろうこと、
発見された溝(おかしなことにその場所も特定されていない)付近に
それらしき人の手の加わったものはなかったと。
七世紀のものですが中津宮古墳というのが。
発見されたのは本当に最近なのだけど、もともとお社があったところなので、
他の多くの古墳と同じで、伝承は途切れたものの、祀られていたのでしょうね。
金印の出たのは南端、古墳の場所はほぼ北端、といっても南北4km弱の小さな土地
贈られたのは西暦57年。かなりの年代差があるけれど関係はどうなんでしょ。 土に埋もれていたわけではなくもともと誰かが保管していて
お宝鑑定した学者が
「なんでオマエごときがこんなもの持ってるんだ!?」
「じつは・・・・・・・・・・」
「それはまずい、誰かが偶然見つけたことにしよう」
・・・の部分は想像すらできない 後漢の光武帝が冊封の証として、奴国に金印を授けた時期は西暦57年であり、このことが
奴国が博多近辺であることの証明とされている。そして金印が発見された地、志賀島には
綿津見神を祀った志賀海神社がある。綿津見神の勢力が、当時の奴国である
ことを示しているとされている。そしてその奴国は金印を賜る程度の
高い文化、文明を持っていたと推察される。
仮に、金印が発見されてなくても奴国の博多近辺比定に矛盾は出てこない。
博多(福岡市)って今は人口多いけど日本の歴史の中では以外に大勢力あったためしないよね
そんな悪い土地には見えないけど 江戸時代福岡藩士「青柳種信]は、「宣化紀」「斉明紀」にある【那の津】を
現在の河口から二・三里遡った三宅村から仲村地区と思い、その海岸線が、
時代とともに、現在の住吉神社付近になったと考えた。
ここには、【現人神社】 福岡県筑紫郡那珂川町仲3-7-8 がある。
この社が住吉神社の元宮であり、奴国発祥の地である。
博多湾の河口は年々堆積物で浅くなる。 反対に船は大型化していく。
漢委奴国王時代、最も適していた外国交易の港は「今津」と思われる。
その権利を求めて戦いが起こった。 早良・志摩・唐津は制圧された。
107年倭国王帥升による「伊都国」の建設である。
金印消しゴムは売れる
全国の小学生に人気を博すこと請け合い。 「第六回金印シンポジウムin志賀島」
http://shikanoshima.blog.fc2.com/
10月20日(土)に開催されます。
会場 福岡市役所本庁舎15階講堂
入場料無料、但し、資料代1000円
講師 西谷正氏、九州歴史資料館館長
安曇野 (長野県)穂高神社宮司 小平弘起氏
米子(鳥取県)米子の古代を考え会 黒田一正氏他
興味のある方、是非御参加下さい。
、 金印とか印綬って磨耗したり紛失したら申請すれば再交付してもらえるのかな 消耗するほと使うもんじゃないし、紛失なんかしたら罪に問われるから
申請なんか出来んわな 元々は粘土に押しつけるもの(封印・封泥用)だから、
あまり摩耗しないと思う。
本来は死んだり、昇進で不要になったら返還すべきもので、
戦死者のが戦場跡から発掘されたりするのはともかく、
墓から出るのはおかしいとかって読んだことがある。
遺族ないし生前の本人が副葬品用に複製したものでないかとか。
倭国みたいに、塞外異民族君主にくれてやるやつは、
返還前提とも思えない節もあるけど。 >>143
>戦死者のが戦場跡から発掘されたりするのはともかく、
墓から出るのはおかしいとかって読んだことがある。
死後、印綬が追贈される場合があるので、墓から出てもおかしくない。
諸侯王、列侯、始封貴人、公主薨,皆令贈印璽、玉〈木+甲〉銀縷;大貴人、長公主銅縷。
(後漢書 志 第六 禮儀下)
「金印研究論文集成」にも追贈した例が、いくつか載っている。
>遺族ないし生前の本人が副葬品用に複製したものでないかとか。
殉葬印の材質が「石、木、瓦など」、印文が「官職名+姓名」等、
漢代の印章制度と異なる特徴がある場合は、私印とみなすことができる。
(例外 淮陽王璽 玉質)
羅福頤氏は、官印を私刻したという嫌疑を避けるために「官職名+姓名」という
形式にしたと考えている。
「図説 中国古印研究史-近代の古璽印研究の発展-」がわかり易く、お薦め。
自分の見た本だと、材質が規定と違うとか、
篆刻がやや雑だとかで副葬品用の複製品じゃないって、
そんなことが書いてあったな。 邪馬台国関係で、瀬戸内海は空白域になってて寂しいですね
1975年にNONブックから出版された「古代出雲帝国の謎」って知ってます
この本の著者 武智鉄二さんの考え方っていいと今でも思っています
特に金印は 漢−委奴国王の2段読みにすごく感銘受けました
演劇研究者らしい「ナンバ」行動への注目も当時としては斬新です
武智さんの意見はいろいろと面白かったのですが その後取り上げられてないようです
邪馬台(壱)の読みもヤマト 華北系統の魏国が呉音の「マ」はおかしい漢音の「バ」
ならば「ジャバイ」だよ たとえば三国志の登場人物 五虎将軍 馬超は バ・チョウですよね 謎の出雲帝国―天孫一族に虐殺された出雲神族の怒り 怨念の日本原住民史
ISBN 978-4-19-551964-6
日本で言う「呉音」てのは、江南地方の発音でも何でもないんだよ。
漢和辞典の解説くらい読めよ。
つーか、こういう勘違いバカだらけになっちまう用語を変えるべきかもしらんが。 あの〜 素人なのでお手柔らかに
呉音って 日本の方言 だった の線でよろしいですか?
武智さんの論点は、魏志に書かれているから 漢音で発音ですが この点は? >>150
「 新稿 邪馬台国の言語 」 弥生語復元 長田夏樹著
言語学者・中国文学者で神戸市外国語大学名誉教授」をお勧めします。
>>151 ありがとうございます とりあえず学研の漢和辞典は購入しました
武智さんの本業は知らなかったけど、あの有名な映画に関係していたんですね
武智説 専門家からみたら問題多く受け売りだらけなのかもしれませんが
本の前半、土笛からの推理 出雲への商王朝の影響や出雲圏の広さなど75年当時としては冴えてる 金印は実はサンカが持ってきた物で・・・・という裏話とかないのかな。 >>150
隋唐期にそれまであった大量の鼻音が濁音に変化している。
馬のm→bはその典型。
だから馬がマというのは、隋以前の正当な中国での読みだ。
武智というやつはただのトンデモとしか考えられない。 >>143
>墓から出るのはおかしいとかって読んだことがある。
漢王朝は「後漢」と復活している。
黄巾の乱で衰退したが、三度の復活を期して隠されたが正解かもね?
墓ではない。 金印だけが埋められていた。 好古都が古代の中国の発音でハカタと聞こえるみたいなことを随分昔にテレビでやっていたのを見たことがあるのです
ですが日本語で昔はハ行はパピプペポと発音してたとも聞きます。
となると、ハカタはパカタと発音していたということになるし、
好古都=博多は成り立たないのかなあ。ファカタならなんとかそう聞こえるんだけど。
トンデモ説なのかなあ 金印が本物か贋物か まだわからないってもの不思議だね
宇宙線の被爆量とかで わかりそうなもんだ 作られてからの年数が10倍も違うんだから ○総重量
漢委奴国王印 109グラム
滇王之印 約90グラム
○金の純度
漢委奴国王印 95.1%
滇王之印 95%前後
○印台と鈕の部分が全重量に占める割合
漢委奴国王印 印台86.5% 鈕13.5%
滇王之印 印台86.5% 鈕13.5% あららw
滇王之印=テン王之印 何が言いたいのか今1つ不明だけど
もう1つ同じ偽造の可能性はないの? >>125
畑>>138でなく田の畔から発見され、墳墓からでなかったのは当然だよ。
後漢から東夷の王に公認された証で、王個人の持ち物でなくその王家
代々の王が継承するものだから、一個人の墓に死蔵するわけがない。 そんな物が田んぼの畦にあった時点で、一緒に骨でも出てればともかく 「漢委奴國王」印は亀井南冥による贋作、
と三浦佑之によって結論が出ている。 伊都国王と読ませたかったのか
倭奴国王と読ませたかったのか
後者の贋作だとすれば人偏を意図的に省くと
かえって贋作っぽい印象を与えてしまうんだよね >>157
漢、魏、晋時代の発音だと、好古都=フカタ
発音は如何にも博多っぽいと思いますけど 上古音と中古音ノイズエ化と言うと、後漢初の金印は、上古音系だろうが、
「好古都」國の倭人語からの音写が、何時行なわれたかが問題だろう。
森博達説のように、前漢時代で上古音で、上代日本語(これは6〜7世紀だが)の
オ列ではなく、「ア」に近い音で、倭人語自体の特徴は、上代日本語と河っていないと
仮定すれば、「博多」に繋がると考えても良いのでは?
まあ、旁国が北部九州内に収まったとしてだが。
金印自体は、少し削って材質を調査すれば、真偽の判定は決着がつくような気がする。
個人的には真印だろうとは思うが、何しろ出土状況が?だからなあ。 邪馬台国って未だにどこにあるかわからないんでしょ。
金印が見つかった場所とは関係ないのかな?どちらにせよ
当時ありがたがっていたという事は倭の国は政府と
呼ばれるほどの勢力はなかったのかな。 出所不明で怪しい物だから
九州から出てくる遺物ってそんなんばっかだけど 捏造盗賊団・支那共産党に関係する「文化財」で贋造でないものなどないはず 金印についてそれに記された文字。倭王 などとは製作に
どれぐらいかかるのか。卑弥呼が使いを送る前から 倭 は
認証され用意された印なのかそれとも倭の使いが来てから
打刻されたものなのか、のみ。 何に押すってそもそも文字を使ってたのかね?
押す文書とかあんのかね 傍にひかえた家来が口上と共にハンコをかざすと、暴れてた連中がへへーと平伏したんだよ 献上する品物に判子を押したんだろ。
つまり、生口の額に印があったんだよ。 中国のページだが
ttp://page.renren.com/600038844/note/886655729
を見ると、倭奴=委奴は秦の時代は「ol-na」漢の時代は「oi-na」と読んだそうだ。
アイヌのカムイにオイナ族というのがいるそうだがこれは関係ないだろうな。
俺は委奴国の位置は志賀島に近い大きな神社宗像大社付近だとにらんでいるのだが。
この辺の人たちが北東方面から攻撃されて志賀島に逃げ込んでそこで滅びたんじゃないかと。
神武天皇東征のとき岡水門で一時都を置いてるでしょ。このときやられたのかなと。
この辺だと近い音だと稲元と言う地名があるがどう言う謂われがあるんだろう?
とか、いろいろ推理妄想するのは面白いね。 つまり漢の属国待遇な訳でしょ。それでありがたがると
いう事は邪馬台国は日本列島を統一していなかったという
事ですね。つまり、 平安時代でいうなら一部の豪族。
戦国時代ならキリシタン大名ぐらいって事かな 実際、狗奴国と戦争中だったしね。まあ海を渡った東には弱小蛮族のクニしか無かったし
倭国を代表する二大勢力って程度だろう。 その頃の畿内なんて小国の乱立で邪馬台国と狗奴国程度のまとまりもなかったじゃん。 そのころの奈良って、唐古鍵遺跡くらいだろ。
ほとんどが、奈良湖が干上がりきれていない湿地帯なので。 亀井静香が、天皇陛下に「京都か広島にお住まいに」と進言!
亀井静香金融担当相(当時)は天皇陛下との昼食会の際に
「江戸城(跡地)にお住まいになるのは立場上ふさわしくないのではないか。
京都か広島にお住まいになってはどうかと、陛下に一方的に申し上げた」と述べた。
陛下は「京都は好きです」と応じた。 真の日本とは東北・関東縄文文明のこと
西日本のチョンの酋長なんてどうでもいいw >>185
はいはい、在チョンの願望は解ったから
妄想してないでさっさと死ねよ >>173
その考えはなかった
倭人の国に公文書ってあったのかな というか当時の日本人は中国の地図を持ってたのか?ならば
敬う必要ないのじゃないのか。兵士数や領土など把握して
いないならありがたがる必要ないじゃん。 これを貰えたクニは、実際のところ百戸くらいの集落でしかなかった
とかいうことはない? 細石神社は、いまでこそ寂れた消えそうな神社だが、
戦火で何度も焼き討ちに合う前は、かなりの大社だったそうで、
当時は海のほとりにある、鴻臚館や貿易港の一部だったのではなかろうか。
近くに周船寺、高来寺という地名もある。
近くの高祖山怡土城にある高祖神社と深い関係もある。 土の中にあれば傷だらけになるだろうからそっちだろうな 説で終わるのは噂の域を出ないから。
江戸時代とはいえ発見当時調査が行われたはずだ。
そんなに大事なものなら藩に盗難届は出てたはずだが。 まぁ要らないもんだったんだろうな
あるいは盗難品か そりゃ作った人の所から
人には言えず泣き寝入りだわな ゴッドハンドF氏のことを思い出した。
今どうしていらっしゃるのだろう。 この金印と同時期、朝鮮で金印を貰った者はおらず銅印どまり。
すなわち倭より朝鮮半島の方が重要度の低い後進地域だった。
という説は正しいの? 当時は玉印のみが価値のあるものとされており
材質が金であろうが泥であろうが
差は無いものと考えて良い 金と泥には価値の差があるのに印にした瞬間に価値の差が無くなるのか
すごいね! >>210
すると、材質の差は気まぐれであって意味無し、と? >>212
全ての印材と装飾は格式によって厳格に定められてたよ
金印は銀印より格上の政権に与えられる 匈奴国、玉。奴国、金。ワイ族、銀。三韓地方、無印良品。 金印紫綬を授かった卑弥呼の正使・次使も銀印青綬を貰ってるんだよな 金であろうが銅であろうが大差ないよ
着眼すべき点は玉ではなかったという一点のみでいい >>210
材質が泥って…おまえバカだろ
どうせ封泥のことを泥製の印だと勘違いしてんだろうけどw 日本語が不自由なんてレベルじゃ無いな、小学校からやり直せw>221 ほんとうに自分で埋めたかどうかは別として福岡藩の意思が入ったのは間違いないでしょ。史料とか史跡ってたいてい曲筆されてるか作られたか。実際は埋められもせず元から藩の手元にあったとか。一応掘り出したと大声で叫ばせて。 まあ、日本の考古学者や歴史学者は古代日本を過小評価しているから。
なぜ、そうなるかというと、江戸時代のバリバリ国学者だった本居宣長が
邪馬台国=大和朝廷を否定したことが、彼の思惑とは裏目に出て
日本の国家統一時期が大幅に遅れた説が出回るきっかけになった。
少なくとも、魏国側は倭国をかなりの大国と認識している。
異民族国家としては、大月氏国(パキスタン)と倭国は別格待遇。
満州にあった高句麗や半島にあった三韓は格下扱い。 >>226
大国認定はいかがかとは思うが、これは侮れないぞ、
一目をおくべきだとは考えていたと思う。
人間性はわりと高く評価していて、
倭の字には、人偏が含まれているのだからな
これが、他の東夷の民族だと、人間性からしてケダモノ扱いだからな 倭は矮に通じる
大中華はジャップの人間性などは全く評価しておらず
その矮小性のみをジャップの特徴としたに過ぎない >>224
馬鹿チョンは泥印があると思ってたのかwww
漢字読めない民族は辛いなww 「第七回 金印シンポジウムin志賀島」
http://www.shikanoshima-hsg.com/
記念公演 「 金印の謎を追って60年」
二松学舎大学名誉教授 大谷光男氏
大御所の登場です コストかけて偽物を作るんなら、よりインパクトがありそうな卑弥呼の親魏倭王のほうにするんじゃね? >>232
そうだな。
それに偽物なら
漢委奴国王と解釈の分かれる解釈の難しい字ではなく
漢倭奴国王ともっともらしい字を使いそうなものだ。 >>232
親魏倭王のほうも畑に埋めたんだけど百姓が発見してくれなかったんだよw
>>233
倭の字が古くは委だったことは当時の学者でも予想つくだろ >>234
「委」が昔は「倭」と書いた記録などないだろ。 >>234
これが南チョンか、流石全ての歴史が妄想で出来てる国は違うな 系図とかの偽造も本流はヤバイから傍流からってのが基本だろ >>235
おまえは白痴なの? 自分で自分の言ってることがおかしいって気づかないのか? >>238
反論があるなら具体的にな。
具体的な反論ができないから悔しいのはわかるが、罵詈雑言を浴びせるだけでは答えようがない。 贋物説を検証した三浦説も説得力があって面白いが、
「漢」の字体を検証して本物説を打ち出した誰かさん(名前忘れた)の
説の方が感心したわ だよな。人偏のような画数の少ない部首を省略する必然性がない。 金印は本物か?という議論は、明石原人は旧石器人の骨か?
というのと同じくらい面白い。 明石散人が、国宝金印と江戸時代に作られた模造品、どっちが本物か分からなくなっているのでないか?
と書いてた。
その根拠は、黒田侯爵家の歴史編纂掛だった中島ナントカさんが取り違えていたから、だというのだが。 >>238の発言は>>235と>>233が同一人物だという前提での発言。
もし別人なら>>238の発言は撤回する。 >>246
>>235は俺が書いたが、>>233は俺のレスじゃない。 金印を亀井南冥の偽造とは言わないが、模刻だろうという説は発見直後からあった。
それというのも中国にも日本にも印影コレクターが昔から居て、中国の歴史書に
登場する印綬を想像で拵え、印影を集めていた。
志賀島の金印は、そういう模刻の一つが出て来たのだろう、というわけだ。
こういう説が根強いのも、出土地点も出土状況もはっきり分からない弱さがあるためだ。 >>235
日本書紀引用の百済三書は「倭」とかくべきところ「委」と書いてる
つまり後漢までじゃなくて南北朝の頃まで委だった可能性もある
委に人偏ついたのは則天文字の頃からじゃないかと憶測するが それは文字の改訂があったから唐代以降の書写生が
「当時の認識で正しく」書いたってこと
倭の字は後世の写本にしか出てこない。木簡・竹簡で隋以前に倭の字はない >>252
それ文字学の人にも同じこと言える(AA略 >>254
いや、これぐらいは当然しってるようなやつじゃないと
そもそも捏造しようとはしないだろ
だからこの事自体は真作が偽作かの決め手にはならない 遺跡から切り離された遺物は無価値同然というが、国宝金印はまさにそれだ。
なにせ出土地点すらも分からない。よって真贋自体が疑われる。
それでも国宝になってしまったのは、後漢書に記載されている印綬だと定説化した為だ。
国宝指定自体が早計だったのでないのか? 金印は非常に価値が高く、それ自体が遺跡其の物に匹敵或は凌駕する
貴重な文化遺産であり、当に国宝に相応しい遺物。
金属組成の各種分析結果や刻印された文面の内容等から
偽造と言い張る愚か者は最早学者の中には数匹の馬鹿しか残っていない
三国志、後漢書は元より同時代のその他印綬とも作りが合致している
稀少性、最古の日中関係という時代背景、将に国宝に相応しい遺物と云える。 「漢委奴國王」の金印が本物であることは
中国で発見された印との比較から間違いない
江戸時代に得られた情報だけでは
偽の「漢委奴國王」の金印を製作することは不可能
多くの文献は有っても文字の堀方とかは実物が無いと真似できないからな。 金印を本物と断定することは無理があるやろ
豪商のスノビズムによるものの可能性が高いな 贋物だという方の証拠が出しやすかろう
一向に出て来る気配はないが 贋物説は「漢委奴國王」の金印が邪魔な人達の願望にすぎないからな
前原の細石神社には「漢委奴國王」の金印は昔、細石神社の宝物だったが
江戸時代に売られるか何かで流失したとの伝承があるそうだ。 安本美典の古代史論争最前線に金印の真贋考証が論じられていた。面白い。
ちなみにこの人は本物説。 金の含有率95%というのは随分高いらしい。
印は柔らかいから純金で印を作ると薄ぼんやりした陰影になってしまうという。
実用になる印を作るなら銀などを混ぜて硬度を上げるのだそう。
装身具なら18k、75%の含有率のものが金の輝きもあり傷も付き難く、主流になっている この時代は紙に印を押すのではなく
書簡の封印にろうを垂らして柔らかいうちに押して使ていたそうだから
硬度必要無かったんじゃないの >>264
誤:印は柔らかいから
正:金は柔らかいから
>>256
戦後の国宝指定の審査では、審議員の一人が金印を贋物だと主張して国宝指定が遅れたそうな。
昭和20年代後半に金印は偽物だとする説が複数流布したんだってさ。
と、「金印偽造事件」に書いてあった >>265
封泥で粘土でした
ロウはヨーロッパかな >>266
結局、その後の調査で本物であることは間違いないことは分かったが
出土場所や発見の経緯については疑問が残っているだな >>265
第一に身に付けて身分の証として人に見せるもの、とかいう説もある 修猷館の学者らが、金印は安徳帝が入水したときに海に落ちたのが志賀島に流れ着いたのだとか
鑑定書に書いちゃったものだから後世の物笑いの種になった。
・・・のだが、亀井南冥の説を見ると、漢の皇帝から金印をもらったのは垂仁天皇で、臣下扱いされた
のに腹を立てて志賀島に捨てさせたのではないか、と述べている。
金印鑑定で名を上げた亀井南冥も、この点では五十歩百歩。 現在の知識・思想で過去の人々の行動を断罪するのはどうなのかねぇ >>270
どちらも、なんで志賀島なんかから出土したのか?という疑問に答える仮説なんだよね
両者とも、他所から持ち込まれたものだと考えている
現代に至っても、金印と結び付けられるような遺跡は何も出ていない 「漢委奴國王」は漢から王に冊封されてた委奴國の国璽だよな
漢王朝が存続している間は国璽として使われてたけど
漢王朝が滅亡し魏王朝が興ると卑弥呼は「親魏倭王」の新しい金印を貰った
「漢委奴國王」の最後の使用者は卑弥呼だろうな 漢委奴國王
何と読むのか分かんないというのも凄いな
ナ国なのかイド国なのか、どっちなのよ 後漢書では
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀」
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
倭奴國と倭國王
文献上は倭(委)奴國王の記載は見当たらない
委奴國王とは倭國王のことか? 奴國王とかもどの文献にも存在しないだよな
「漢の倭の奴國王」とか文献上は存在しない奴國王を創り出していいのかよ? 倭は民族名、例えば東穢の銀印には穢王印とある
漢(宗主)倭(民族名)奴国(国名)王(職名)、文献通り http://www11.ocn.ne.jp/~jin/KIN.html
コンピューター画像解析により、
金印に書かれてた文字が判明したという記事。
これって本当?
なぜもっと大きなニュースにならないのですか? 嘘に決まってんだろw
未開地方の近畿には漢字なんて伝わって無いw 鉄剣の金石文では、字体そのものは隷書体に、
楷書か行書(どっちか忘れた)が混ざったもの。
ただし、払いや止めが意識されていない彫り方なので、
彫師は下書きを真似ただけで、文字は書けない人、
と分析されてたな。 >>278
「民族名+国名+官職」式表記の古代中国の印章は例が無い、
という指摘があるが、どうなのよ シ真国も夫余国も夫租国も漢の領内藩故に何も入ってないけど
奴国はあくまで漢に従順な外蕃だから、漢の秩序に従う事を表す
大字の「漢」は絶対外せないっしょ 「委な」だろう「な」は後に「那」の字があてられる語彙 「悲劇の好字」なる最近出た本を読んだ。
この著者の説は「かん の わぬこくおう」だそうな。
奴をぬと読む新説を主張するのは面白い。
ただ、委の字を倭の略字とする通説を検討無に受け入れているのはツマラナイ。 なんで志賀島なんかで見つかったのかなあ。いまでも解せん。
こんな金印がある場所のようにはとてもおもえないが。 >>285
あたまについてる「漢」は漢に属するという意味ではないよ。
中華皇帝は全世界に君臨する建前なんだからいちいちそんな文字はつけない。
不臣の朝貢国なのであくまで「漢からみて」という化外の国の意味
例えば匈奴も漢ってついてるけどテン王之印はついてない。 区切りは「漢の委の『奴国』の王」
「漢の委の奴の『国王』」というのは明らかにおかしい たぶん、本物を持っていた金持ちが、うれしくなって、
レプリカを何個も作らせ、いろんな人に、自慢しながら
配った中の一つが、その辺に放り出されていて、出土した。
歴史上の出来事とは、そういう、いい加減なもの。 千年を越えても複製の作れない印を量産した古代中国の超技術スゲー 複製かどうかは、真っ先に調べられてると思うけどね。 糸島から志賀島へは、
船で行けば意外と近いもんだ。 志賀島へ行くフェリーの名前は”きんいん”号
これまめちしきな
季刊「邪馬台国」2014年1月号に金印の「古代史真贋の森 金印・銀印」という特集が載っていた。
この記事での結論は、国宝金印=本物説。 ちなみに朝鮮半島は銅印だw
ここまで明らかに区別する古代中国人のセンスわろたw 日本、金印
朝鮮、銀印(笑)
南韓、銅印(失笑)
>>296
千年も経ったら複製は作れんよ、そんな超技術は未だ人類は持って無い。 奴国と伊都国は隣の国。
どちらでも北九州なのは変わりないから 「委」が「倭」の略字という説はどうなのだ
略するほど画数が多くないではないか
それとも土民など人間扱いしないから人偏を省略したのかね 歴史読本の最新号に、三国志の帝紀には卑弥呼の「卑」の字に人偏が付いているが
東夷伝では人偏を省略した「卑」の字で表記してある、と指摘されている。
これが本当だとすると、なぜに省略するのだ?
文章を書き進めるうちに省略したくなる中国人の習性なの? 漢のときが委、魏のときが倭
魏で表される鬼は鬼道だったら陰陽道 >>308
そもそも人偏つきの卑なんて卑弥呼の名前ぐらいしか使われない字じゃん
要するに本紀はサービスで人偏つけてあげただけだろ。
>>310
南北朝あたりまで委だよ。人偏ついたのはたぶん唐初かな?
あるいはもしかしたら則天文字の名残かもな 安本なんか有り難がってるのは
ニワカと信者しかいないだろ >>305
だったら金印をあげないんじゃない?
何処かの国みたいに泥印で十分w >>315
物知らずは黙ってろ
封泥は印章を押した跡が残った粘土のことだぞ
泥で作ったハンコのことだとでも思ったかw 金印は日本に送ったのを含めて2個しかないから特別なのだろう 日本、金印もらった
↓
歴史的に日本は中国の属国
↓
日本は中国の一部、日本人は中国人
↓
なのに中国の言うことを聞かない日本政府けしからん
↓
悪い政府の支配から日本人民を解放しなければならない
金印の代償は高くつく ∩___∩
| ノ ヽ-'''''';、 宗主国面をして威張り続けるには、貢ぎ物を大きく上回るお移りを
,,.....-| ● ● | ) 下賜し続ける義務があるので、正直、皇帝も楽じゃないわけよ…。
”” ; | ( _●_) ミ §
;; 彡、 |∪| 、`\__===・
; / __ ヽノ /´ ――┴;;
; (___) | ―――'"
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) ,,..-'''⌒;, /
 ̄ ̄ ̄ ̄ / ,,..-.';;-' |
( ,,...-''";;., ";,..-'"
中華皇帝 |"”” _,.-|; ;|
|_,,...--''" "'-''"
―――――'"
王朝の景気が良い間は気前よく下賜してやれたけど、落ち目で景気が悪くなって
たびたび来られるとたまらないから、朝貢してくる間隔を広くしろとか言わざるを
得なくなったことも実際にある。
ずっと昔にチンケな金印一個程度じゃ、有効期間はとっくの昔に切れてるからね。
希土類元素各種何トンとか大盤振る舞いしないかぎり、昔の威勢は取り返せないと。
ま、世の中はそう甘くはないと。 弘安の役で元・高麗軍が志賀島に上陸して我が武士たちと一戦したんだよな。
実は金印は、この時の元・高麗軍の落し物なんだよ。
という仮説をいま考えた。
これをもっともらしく説明できる理屈を皆で考えてもらいたい。 江戸時代に金印が見つかって邪馬台国論がしきりに唱えられるようになった
文学的にはかなり貢献したことだろう
はい、おしまい >>321
高麗人は大元帝国の臣民であるから元・高麗軍などという軍は存在しない
元軍と呼ぶのが正しい >>321
金印を戦地へ持って行くかいな、、、
それと、朝鮮は金印をもらったことありません。 >>321
もっと言うと、その金印になんて、かかれてます? 分析すれば江戸期の小判とほとんど一緒とか分かったりするんじゃねーの?
知らんけど。 倭人→金印
鮮族→銀印
韓賊→銅印
史実を否定したいものだなw まあ、日本が属国どうしのランク争いに必死だった史実は否定したいものだ >>328
倭の金印、韓の銅印はわかるが「鮮族」ってなんだ?
銀印なら穢族の不耐穢王之印のことか?朝鮮人じゃないよなこれ。 >>330
箕氏朝鮮の被支配民が濊貊
朝鮮地方に広く住んでいたから朝鮮族と呼べなくもない。
勿論、李朝以降のなんちゃって鮮人とは別物 >>329
そんな史実なんかあるわけないだろ?
お前は
朝鮮人か? その朝鮮人というのは満州辺かなんかの騎馬民族のことか? >>323
その書き方はだな、志賀島にはモンゴル兵の他に朝鮮半島から動員された兵が上陸した、
という情報を読者に与えているのさ。
南宋の降兵らは別働隊として動員され平戸島に上陸し、志賀島には来なかった。 それは大間違い、敢えて書きたいなら
モンゴル人士官と旧高麗領出身兵から成る元軍、と書かなければ駄目 >>312
>人偏つきの卑なんて卑弥呼の名前ぐらいしか使われない字
使役の助動詞の一種としてもつかわれるよ
「[イ卑]〜○○」「〜ヲシテ○○セしム」(ひらがなの「し」はフリガナ) 元軍のハンコなら、パスパ文字でかかれてなきゃ♪
海中からはパスパ文字で書かれた「管軍総把之印」が引き上げられている。 最近出た金印関係の本
(1)「悲劇の好字」黄黨時
内容:「奴」の字は卑字でなく「大」を意味する好字だ。
「委奴」は「大倭」という意味
感想:斬新な説ながらよくわからんので判断保留
(2)「金印再考」大谷光男
内容:黄氏の主張を踏まえ、「委奴」は「大倭」で大和と読む
感想:あんまり感心しない。中世の志賀島の領主を掘り下げたところは面白い。
(3)「季刊邪馬台国2014年1月号」安岡美典
内容:江戸時代に流布した印影集から漢委奴国王印を作れるかどうかを検証
偽造は不可能と結論
感想:「漢」の字体に着目したところが見事
続巻に一部訂正論文掲載 三国史記で丹波国が多婆那国になってるように、倭人が国の前に「の」をつけるのをそのまま音写して、
委奴國(わの国)になってる、って説はあるの? 漢委奴国 かん の わ の な こく
葦原中国 あしはら の な こく
狗奴国 = 巨奴国 = 大奴国
倭 → 大倭(自尊) → 大和(好字) >>2
発見された金印も中国産じゃないのか?
学者は裏をきちんと確認したんだろうか Made in Chinaと書いてあるかもしれない >>341
「奴」が「大」の意味だなんてサッパリわからんなー。誰か解説してくれ そもそも国名を表した印なのに「大倭」が「倭大」とひっくり返って
いること自体がおかしい。
風泥は被朝貢国が渡してくる公式印なので、そんな間違いをする筈も
ない。ましてや、同等の立場を意味する「大」を、朝貢国の、しかも
東夷に過ぎない小国の名につける(許す)わけがない。 >>346
黄さんの説をものすごく簡単に要約すると
(1)「委奴」(または「倭奴」)は、日本人の発音に中国人が文字を当てたものだ
(2)「奴」は「ヌ」音を表す字として当てられたものである。表音であって表意でない
(3)「ヌ」は古い日本語の「nui」で、「大きい」という意味
(4)「委」の字の後ろに「nui」が置かれているのは後置修飾表現だから
(3)は、記紀の中に古代ポリネシア語が多く混じっている、とする説(茂在寅男)に基づいている。
万葉集と古事記から「大きい」を意味する「nui」に「乃」「野」「奴」「怒」の字を当てている例を挙げている。 >>348
>万葉集と古事記から「大きい」を意味する「nui」に「乃」「野」「奴」「怒」の字を当てている例を挙げている。
万葉集にも古事記にも「乃」「野」「奴」「怒」が「大きい」の意味で使われた例など無い。
それをあると言い張るのはひねくれた独自解釈にすぎないだろ。
あと形容詞の後置なんてベトナム語ならともかく古代日本語にありえんよ 元居宣長だのなんだのどうあがいても江戸時代に考察がされてる時点で学問の領域はでない
つまり伝承が途切れているのか記録がないだけなのかは知らんがどう足掻いても証拠なんか
でるわけないわな 九州古代史の会
10月5日(日) 13:30〜
ももち文化センター 視聴覚室
福岡市早良区百道2-3-15 092-851-4511
(1)倭人(越人=安曇族)の渡来 講師 北村 泰一氏
(2)日本書紀を読む 司会・進行:高柴 昭氏
会費:会員 無料 会員外 500円
阿曇族ファンの方いかがですか ___ _
ヽo,´-'─ 、 ♪
r, "~~~~"ヽ
i. ,'ノレノレ!レ〉 ☆ 日本のカクブソウは絶対に必須です ☆
__ '!从.゚ ヮ゚ノル 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLです。
ゝン〈(つY_i(つ http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/index.html
`,.く,§_,_,ゝ,
~i_ンイノ 元居宣長先生に決まっておろうが、誰だか知らんけど。 ゲンイセンチョウ先生でしょ。誰か知らんけど、ともかく本居宣長とは別人らしい。 >>347
「大」の字に同等の立場なんて意味はないよ… >>348
ハワイ語で大首長をarii nuiというのと同じ感じなのかな?
ワカミケヌのヌを大と捉えているのか
斬新すぎてわからない イースター島はポリネシア語でRapa nui(広い大地)という
これが関係あるんか?w >捏造
金って、不純物の割合とかで産地とか判ったりしないのか?
銅とかはよくそうやって産地を特定しているじゃん。
やっているなら、江戸時代の日本産か、漢時代の印かなんてすぐわかるだろ。
さすがに金印ぐらい貴重なものだと、削ったり出来ないのかな。 蛍光X線分析なら非破壊で微量元素の含有率が出せるんだけどな・・ しらんけど
すでに何らかの分析やって、
特に贋作という結果は出なかったんじゃないかな。 中国と共同研究かなんかしたけど、確か非公開になったはず やはり贋作だったんだな
本物なら問題なく堂々と公開したはず
日中の利害の一致w 「贋造」の時点に近い小判か何かとそっくりだったとかかね。 本物だという確信が得られたなら、中国が「返還」を要求してきそうな気もしますしねぇ。 贈った物を返還要求?そんな恥知らずは南チョン族だけ ”委奴國”って、まともに読むと、イヌ国。
ソフバンCMの甲斐クンを連想しちゃった。(笑) >>370
はるかに後世の訛りまくった出鱈目な読み方を基準にする馬鹿丸出しの発想を捨てることが先決だ。 >>371-372
先祖が銅印しか貰え無かったから
肥大した虚栄心全開で何時もの様に日本を恨んでるんだよw >>373
それはひょっとして、昨年に中央アルプスで悪天候に見舞われたときに、
動けなくなった年長者をゴミのように道端に捨てたままで我先に逃げた、
大変ご立派な紳士淑女が満ちあふれているとかいう川向こうの国のことか? 中国文献に毒された唐ゴコロを捨てるべきである。
大和心で読めば、オトコヤマトノ国王、となる。 >>375
支那人が漢文で書いたのに?
むしろ唐ゴコロに熟達してなけりゃ解読できんじゃんよ。あほかw
>>376
そんならむしろ「邪馬台=ヤマト」のほうがストレートで手っ取り早いんじゃネーノ >>377
大倭(ダイワ)→大和(ダイワ)
邪馬壹(ジャマイェツ)もしくは邪馬台(ジャマティ)→大和(ヤマティ)
って意味 基本的には自称の聞き書きで、ある程度交流があったのだから、国名を聞かれたときに
意味を取り違えて別の何かの名前を称するということもなかったはず。
壹は臺の誤植というか誤刻で確定ということで良いんじゃない。
ただし、当時は上古音なのか中古音なのかいくら厳密に調べても不明というのが定説だから、
そういう上古音系統の読み方かどうか確定的には分からんのだよね。 倭の字から「和」は出てこない。何か別系統の名前だよ 和「ワ」
倭「ワ」
中国での表記な大倭(ダイワ)→大和(ダイワ)音読み
漢語での表音な邪馬台(ジャマティ)→大和(ヤマティ)訓読み >>360-361
縄文人とポリネシア人は同祖というのが通説。
そして言語にもその名残がある。・・・という説なのだな。
遅レスで失礼 >>341
4)「漢委奴国王 金印・誕生時空論」鈴木勉
「漢委奴国王」印と「廣陵王璽」印を比較して、二つが全く異なる技法(「線彫り」と「浚い彫り」)
で製作されていることを指摘し、工具も製作者も同一ではないと結論した。
つまり、この二つが同時期に同じ工房で制作された兄弟印であるとする、今や通説となりかけている説を否定。
さらに「廣陵王璽」印が遺跡からの出土品でなく、「漢委奴国王」印と同程度の出所の不明瞭な新発見資料であることを指摘している。
感想:「漢委奴国王」印と「廣陵王璽」印が、互いの存在を真印である証拠として利用しあう様子を
循環論法として一刀両断にしたところが痛快。かなり面白い本 377
日本史って支那人が書いたんだっけ?
唐ごころとかそんなものは知らないけど 上野でやってる日本国宝展で期間限定で金印が展示されるね >>387
無い人は行かなければ良い
それだけのお話 >>387
だから見に行くんじゃねーの? 2つだか3つだかあるとかいううちのどれが出るのか知らんけど。 金印は成り上がり者の卑弥呼が自分の地位を保証するため
偽造したものだ。「漢委奴国王」とはそこそこの歴史センス
からの自作自演的ネーミングである。深く追求しても無意味だ。
卑弥呼が共立されたのは197年頃でまだ漢代であった。 そうあって欲しいニダ(虚栄)→そうに違いないニダ(妄想)→これが真実ニダ(捏造) >>395
三段読みはないな
漢・委奴・国王
「ウェイヌ」
匈奴 「フンヌ」かな? 奴は上古音nag、中古音ndo
上古音は秦漢、中古音は五胡十六国〜隋唐時代の発音で、漢末魏晋は移行期にあたる
後漢初期なら奴はまだ「nag」と読まれただろう
中古音で読むなら、奴国はド国、卑奴母離はピドボリ、奴佳提はドカテイ、狗奴はコウドとなる 委と奴をくっつけて匈奴とならべる発想は古田電波
ここは「奴国」の存在を前提として考えるのが当たり前の発想だろう
漢・委の「奴国」王 だろ
漢[委《【奴国】王》] >>384
黄トウジ先生キター!
行って斬新な説を楽しめた人、レポートして頂戴 奴には土地とか国て云う意味があるらしい
なら漢・委奴で漢の倭国とか倭地とも読める
倭面土國王師升にも通じるものがある >>403
>奴には土地とか国て云う意味があるらしい
>なら漢・委奴で漢の倭国とか倭地とも読める
じゃ三十余国のうち
「奴」がついてる国と「奴」の字が無い国があるのはなぜなんだ?
全部ついてるか全部ついてないかじゃないとおかしくね? テンプレ見て思い出したけど、
金印発見したのは、甚兵衛じゃないと聞いた。
見つけた百姓が住んでる土地の地主が甚兵衛だったとか。 >>406
甚兵衛が所有する土地で小作人の秀治・喜平が発見した、という説 補足すると、甚兵衛なる名が寺の過去帳に載っておらず、実在しない人物でないかという指摘があった。
金印偽造説の傍証の一つでもある。
それに対し、甚兵衛は別の場所に住んでいた地主だからその集落の過去帳に名がなく、
実際の発見者は小作人だったのだ、とするいわば辻褄合わせの説だな。
これは>>341で名が挙がった大谷光男説。 蛍光X線を測れば、微量元素の含有率が分かり、材料の産地が特定できるというのに・・・
非破壊だし、測定自体は難しくもなくすぐ終わる
なぜやらないのか、不可解だな >>409
そもそも宗門帳が完全に残って無いのに意味不明だな 今時、金印が偽造だなんて主張してる日本人や中国人の学者は居ないよ 何処にあったものかじゃね?
少なくとも、当時は文字通り島だったこの場所にあったとは思いにくい >>411
わかりきってるだろ。偽物だって判明するのが困るからあえてやらせてないんだよ
>>413
ムラ社会の中で「みんながこう言ってる」っていわれましてもねぇw >>415
ニダ社会の妄言には史料の裏付けが無いよな >>413
日本や韓国にはいるだろ、少数派ってだけで。中国には確かにいなさそうだがなw >>411
そんなことをしたら偽造派の夢が壊れちゃうよ 国東破れて吉野が里
香春にして 甘木市
この辺りだろうか? >>417
ちゃんとよく読めよ、日本人や中国人の学者には居ない。
日本に居る朝鮮族や韓族は含んで無い >>420
ちゃんと読め? 元レスって>>413だろ。
ちゃんと読めも糞も2行しかなくて無内容じゃん
金印偽造説を唱える日本人がいないなんて
オマエはどこのパラレルワールドから来たんだ?W >>405
だから「わこく国」という意味、大和言葉と漢語が組み合わさっている、日本語でユナイテッドステーツオブアメリカ国と呼ぶようなもの 志賀島の金印は中国製の粗悪品ではなく、小倉の殿様毛利氏あたりが多々良の名工に頼んで作らせた逸品。
九州王再興を企てて関が原に望んだものの夢敗れて志賀島で自決。
こんな筋書きが目に浮かぶようだ。 ×こんな筋書きが目に浮かぶようだ。
○そうであって欲しいニダ。 金印の「委」を「ゆだねる」なんて意訳してるアホは学界にはいませんよ 割と有力視されてる読み方の1つじゃん、中国でも日本でも >>427
印にそういう書き方をする通例とかがあったという話? >>427
おまえはよくそんなしらじらしいことを堂々といえるなw
息をするようにナントカを(以下ryの民族かよw
…それとも真性の既知なのかな >>431
同胞の祖先が銅印で倭人の王が金印
その上委任だったら民族の虚栄心が目も当てられ無いしなw 金印上野で見てきた。
すれ違う人々の多くの囁きは「小さい!」とか「こんなのよく見つけられたな」とかいうかんじ。
実際、あれが土の中にあって泥とかが付いてた状態だったと考えると発見したこと自体が
奇跡に近いとかんじた。
が、同時に同時代の展覧物をみると土偶とか銅鏡の類ばかりで金印のみが敢然と輝いてることが
逆に不自然にすら思えてきたからまた不思議。
もう少し歴史の物証が出てこないと流れが全然見えてこない。 1)遺跡から切り離された遺物は考古学的に無価値である。
「コレクターが所蔵していた品」とか「墓泥棒が古道具屋に持ってきた品」とか称する品が
世に出ることを思い浮かべると良い。それらは遺跡から切り離された品であり、値打ちを
議論する前に、真物であることを証明する必要がある品だ。
志賀島金印はそれらの同類である。現状、
a)出土地が分からない
b)なぜ志賀島から出たのか説明できない
以上二点から、疑いの余地のない品、とは認められない。
2)「漢委奴国王」の訓みは確定していない。
「かんのわのなのこくおう」はもっとも流布する説だが、有力な反論があり、
数ある説の内の一つ以上の存在とは認められない。
この品が真物であることも、「かんのわのなのこくおう」と読むことも、
議論なしに真実と受け入れるのは間違っている。 要するに日本は中国のおまけ。
日本人にも中国のようなもの
の一部もある。という侮辱的
な贈り物。 ブログ 「ひもろぎ逍遥」 http://lunabura.exblog.jp/
「安曇磯良と神功皇后」
安曇磯良は各地で神人として祀られ、神楽でも舞われていますが、正史からはその名が消えています。
磯良は仲哀天皇と神功皇后の時代に安曇族の長として天皇家を支えた人物です。神功皇后は志賀島(元宮)で祭祀をして
磯良を招きますが、磯良はなかなか現れませんでした。が、皇后の誠意に触れて、その龍船の舵取りをしました。
三韓から凱旋後は風浪宮、大善寺玉垂宮、高良玉垂宮に足跡を残し、その名を変えながら今なお祀られ続けています。
和布刈神事もまた磯良の遺風を伝えるものです。のちに安曇族の一部は漂泊の民となって傀儡舞でこの物語を伝えました。
歴史講座では安曇磯良の半生を二回に分けて紹介します。
1月11日(日) 13:30〜15:00
場所 志賀公民館 福岡市東区志賀島736−60
駐車場 志賀公民館裏 漁協広場
久留米地名研究会講演で、綾杉るなさんと少話しが出来た。
講演参加を約束した。中年の暦女で、とても詳しい人だ。 そういや、太宰府付近出土と推測される金メッキ製の王冠があるが、
好事家が保存していたもので、どこから出たかはわからないそうな。 金印を贈られているということは、超大国の証なんだよね
ナ国の奴、すごいな。 超大国→漢
大国→金印
滇が大国なのか疑問はあるけど、アレは楚の軍団が建ててた国だからか? >>270
現代の学者たちは、なぜ金印が志賀島から出土したのか?を説明する努力をしていないのでないか。
江戸時代の学者は>>270のように、なんとか説明をつけようと試みたのに。
現状だと、金印とはそこにあるはずのない品、いわゆるオーパーツじゃないか。
そこで皆に説明してもらいたい。なぜ金印は志賀島から出土したのか?
考古学的知見からでも、あるいは思いっきり想像でもOK。すっきり説明して下さい。 志賀島周辺をくまなく調査しても金印が出土したとされる遺跡の跡が見つからず
金印自体も損傷が少なく埋められていた形跡がない
糸島の細石神社には金印は細石神社の宝物であったが江戸時代に市中に流失したとの
言い伝えがあるそうで
金印は伊都国(委奴国)から伝わるものではないのかな。 金印に含まれる微量元素の分析はよっ
これで金の産地が特定できますわ 仮に近所であっても船を使ってまで志賀島に運ぶ理由が無いって話だろ 糸島には周船寺って地名も残っていて(正確には福岡市だが)
いわゆる202号線沿いは海だったと言われている。
実際九大の南側は堤防壊せばいまでも海水が入ってきそうなくらい、
標高が低い。
また、糸島の高祖山は元寇の時の望楼が作られるくらい、
博多湾がよく見える場所。
つまり糸島は博多湾の入り口にある海上防衛の重要拠点である。
ここをつなぐ志賀島までのラインは、日常的に海上交通が
行われている可能性が高い。 >>435
なるほど。碩学の御意見と拝察いたします。邪馬台国論争なるものが、
実にあやふやな物によって右往左往させられているのだなと思います。 「漢委奴国王」
倭じゃなくて委だな
委は倭の減筆だとされてるが
音が同じである事が前提だから
「かんのいのなのこくおう」や「かんのいとこくおう」だな というか、奴国王に与える印でわざわざ「倭」の文字を入れる物だろうか?
「漢奴国王」じゃ駄目なんだろうか。 「かんのわのなのこくおう」って読ませる問題が小学校か中学校のテストでてきた覚えがある。
大した根拠がなくても、そうやって広めてるんだろうな。 こういうのを試験問題に出すのは非科学的だから止めるべきだね。
ついでに考古学に関する問題はほぼ全廃すべきだね。藤村某事件もあったし w 中国の史書に日本は金印、韓国は銅印と書いてあるんだよね?
漢委奴国王印も金印
親魏倭王の印も金印 百均の三文判みたいなものだよ。要するに象牙とかいって単なるプラみたいな。 滇王の印も金だったし、委奴国王の印も金
当時最高の技術を使って作られた物
銅印だからって馬鹿にしてはいけない、勿論金印の保持者より格下だが >>457
いくら銅印だからって百均の三文判ってことはない
オークションに出したら5万ぐらいにはなる 志賀島金印の兄弟印だと主張する人がいる「廣陵王璽」印も、実は遺跡から出た品でない。
色々な資料に「甘泉2号墳から出土した」などと粗雑に記述されているが、実は古墳から
100mくらい離れた煉瓦工場のゴミ捨て場から”発見”された品だ。
一体なんでそんなところから見つかったのかというと、
・墓泥棒が盗掘した際に出た土を捨てた場所だった
・発掘調査が行われた際に出た土を捨てた場所だった
などと、いかにも後付けの説明がなされているが、聞くからに疑わしい。
・・・という話が鈴木勉「漢委奴国王 金印・誕生時空論」に載っている。
この本には、「廣陵王璽」印発見者に取材した人の記事が紹介されていて興味深い。 >>38
>中国人学者間での有力説は
→漢委なこくおう。「委」を使ったのは
他の冊封国と違い中国の風下ではあるが中華秩序の外に位置する独立した地域という認識の為だろうと
ふつうに考えたらそうだよね。
「かんのわのなこくおう」と読んでしまった日本の学者が超馬鹿だっただけっぽいね。
中国の学者は「かんいなこくおう」と読むわけね。 中国人学者間での有力説は
漢(漢から)委(中華秩序の外に位置する独立した地域のため漢から委ねられた)奴国王
これが正解だろうね。 漢委(中華秩序の外に位置する独立した地域のため漢から委ねられた)奴国王
親魏(中華秩序の外に位置する独立した地域にある魏の友好国の)倭王
「委」や「親」をつけて中華との関係をあらわしたのだろう 委奴国→イヌ国説の方が好きだな
後の奴国と同じ国と考えなくてもいいんでないの >>465
チョンってやっぱり悔しいのか
倭国が金印をもらってたってことは倭国は朝鮮の兄だったってことだからな 日本人にも中国人にも偽造を主張してる人間は居ない
低レベルな戦後の老害やチョンだけ >>468
馬鹿って羨ましいなあ、「自分が知らない」と「存在しない」をイコールで結んで
心の平静を保てるのだから。 遺物それ自体だけでなく、
発見日、発見場所も大事なのは、標本と同じだね 求菩提山縁起には犬ヶ岳の表記を「威奴(イヌ)岳」て書いてるんだよな。
これ委奴国の名残りじゃないのかな。
求菩提山って昔はサノダケって言われてて神武の伝承が多いんだよな。
さらに縁起にはイヌの邪神を滅ぼしたのは神武だって書いてるんだよな。
委奴国滅ぼしたのが神武ならおもしろいねw 金印の「奴」は、魏志倭人伝に登場する奴国と同じ国である
Yes?
or
No?
皆の考えはどっちだ? >>474
君は自分自身に人並みの知能があると思っているかね?
それとも、足りないことは自覚しているかね? 基地外にレスはしたくないんだが、イヌ国説は橋川時雄の説だって知ってるかい。
あとは自分で調べなさい。 >>476
無知な自称専門家もいるだけのことだな。 これ同一人物だろ >>466 >>475
まさかとは思うがこいつ、イヌ=犬だと思い込んでいるとか、
そんなことはないよな?w 「委」の字を「倭」の減筆と看做すか否かは、江戸時代以来諸説分かれるところじゃないの
あと、前に話の出た(>>348 >>404)黄當時先生の論文がネットで読めるようになってた
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/CB/0011/CB00110L001.pdf
この人は、「委」の字を「倭」の減筆と看做す派、だな >>478
音韻の変化のような最低限の常識さえも欠損してるようなのに限ってよく言うという実例。 イヌ国の方がアイヌとかにも通じそうでいいかんじだけどなー 鈴木勉ってやつ、別に歴史の専門家でもなんでもなく自称金属工芸研究家(笑)なんだな
昔話題になったグラハムコックとかもそうだが、定説から大きく外れたトンデモ説ぶちかます奴ってほぼ例外なく専門外の自称~なんだよな
こういう奴の特徴としては、著書の中でトンデモ説を裏付ける怪しげな証拠をこれまた怪しげな自称~の研究者やらに証言させ、その説を否定する数々の証拠から目をそらし意図的に著書への記述を避ける
こうなると素人はあたかも学界ではそのトンデモ説が定説として扱われてるんだとコロッと騙されてしまう
この鈴木勉も小遣い稼ぎ&売名程度にやってるだけだから素人相手の歴史本は出しても、ガチの専門家から小突かれないために正式な場での論文発表はしない 1)最後に「之印」も「章」も「璽」もつかずに「國王」で終わってる。こんな例はない
2)「漢」が頭についてる。属国ならつかないのが定例
3)「委」がもし「倭」の意味だとしてこの王が倭国全体の代表だすると「奴委王」というのが当時の定法
結論:これは偽造だなw 完全じゃないな 「填王之印」はなぜ漢がつかないのか? 「ない」と断定した事柄や「定例」だと断定した事柄を論拠にしてるのだから
「ない」としたものが一例でも存在したり「定例」でないものが存在していた時点で
論拠が崩壊する=論破されたことになるよ 漢××だと風下でわあるけど格下でわ無いんじゃない?
悪適が部族名で尸逐王が官職 「漢」が頭についてるのはあくまで「漢からみて」とか「漢との関係では」とか
の意味だから、むしろ完全なる属国にはつかない。
匈奴のように対等の相手に贈った印。 東京都知事や田中首相や天皇も金印や石印もらってたらしいな トンでも説といわれるのを承知で書く。
『漢委奴国王』は、かんのくまこくおう、と読む。
証拠の1つは、後漢地理志の『注』にある。
証拠の2つ目は韓国と、九州の地名にある。
興味を持ってくれる方があるなら、あとで少し詳しく書き込む意思はあります。 トンでも説といわれるのを承知で書く。
『漢委奴国王』は、かんのくまこくおう、と読む。
証拠の1つは、後漢地理志の『注』にある。
証拠の2つ目は韓国と、九州の地名にある。
興味を持ってくれる方があるなら、あとで少し詳しく書き込む意思はあります。 なぜ世の連中は「奴」を「ナ」と読みたがるのか?
かつて江戸時代の国学者たちが金印の印影を見て「奴」と書いてあるのに気分を害した。
奴隷のド、奴婢のヌ。神国日本を奴隷奴婢扱いとはケシカラン、というわけだ。
本居宣長、賀茂真淵の「ワヌ」国説が主流になれなかったのは奴婢のヌ、奴僕のヌだったからだ。
亀井南冥の「ヤマト」国説、上田秋成、藤貞幹の「イト」国説というこじつけ臭い説も奴隷奴婢から離れたい意図の表れだ。
なにせ南冥は、金印を貰った垂仁天皇が印文に腹を立てて志賀島に捨てさせたのだと言っている。
江戸時代人のものの考えが分かる説だ。
その点、現代の定番・三宅米吉「ワノナ」国説は見事にヌでもドでもない読みが、富国強兵明治人の気運に合致して成功したのである。
・・・などと考えちゃう昨今さ。 委は倭の略字、という先生が居られますが、逆です。
倭人の倭、に引きずられて、金印の正しい「委奴国」を記録する時に
「倭奴国」、としてしまい、そのまま代々書き写されて今に至ります。 今は故人になられましたが、
インターネットの世界では尊敬されていた『伊作氏』のブログに、
ー何故九州に熊の付く地名とが多いのだろう?熊ばかりでなく、
球磨も、隈も,隅もクマとするとこうなる。ーという地図付きの1文があり、
当時はそのまま読み流していました。
後に朴柄植氏の本を呼んでいるとき、百済がまだ正式に立国する前、
勢力下に治めた土地に熊の地名をつけながら南下してきて、
いわゆる朝鮮半島の西半分を席巻し、二つに分かれて一方はウガヤ・
アラカヤに至り、一方は、光州を経て済州島にいたる、おそらくは、
それはA・D100年ごろか?という、半島内だけの記録を見つけました。
朴氏の記録と伊作氏の研究をつなげるとどうなるか? まず「委奴」の音価がどうやったら「クマ」になるのか説明してもらわないとw 委奴をクマと読む理由;
1、 国生みの頃、及び、天孫降臨の頃、
熊襲と名乗る強大な国が既に南九州にあった。
その国は57年以降漢に朝貢して居たと思われる。
倭国の極南界にあり、狗奴国といい、呉の太白の後裔、
と自称している。
2、 後漢書地理志を見てください。
本文は紹介してくれる方が沢山いるが、
『注』まで説明してくれる人は少ない。
前漢地理志の29ページ、後ろから4行目。
如淳曰 如墨委面在帯方東南万里
臣讃(王偏)曰 倭是国名不謂用墨故謂之委奴
顔師古曰 如淳云如墨委面 蓋音倭字耳此音非也
倭音一戈反今猶有倭国魏略云倭在帯方東南大海中
依山鳥為国度海千里複有国皆倭種
説明は 次稿にて。 499です、もういいです、「委」字に「ク」音、「奴」字に「マ」音があるというのことを、説明してもらえそうにないのでw
てかそんな音ないしw 中途半端だからここだけは説明させてください。
要するに、後代の人もよく読めなくなっていたために
後漢書の文中に細かい字で解説を入れています。
如淳氏は、まっ黒い委面の国が帯方東南万里にある。といい、
臣讃氏は、国の名前にマッ黒はつけないよ、これを委奴という。といい、
顔師古氏は、如淳氏の言う如墨委面の委の音はイ(ウエイ)には聞こえない。
倭音では、カ行です。(一戈反)
魏略で言う倭国は帯方の東南大海中・・・・・云々
以上どう解釈しますか。奴については他にもありますが、
嫌われたようなのでいずれ又。 つhttp://ci.nii.ac.jp/els/110004671454.pdf?id=ART0007403908&type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1425649182&cp= ≫503 さま ≫504さま
増村 宏氏の論文のご紹介、と、文のご注意、ありがとうございます。
以前、少し読ませていただいたことがあったのですが、、
自説と違うからまあいいや、とスルーしていました。
読み直してもう一度、検討いたします。
クマをシンボルとする委奴国のイメージを、如墨と言ったろう、という確信は持っているのですが。
ただし、臣讃の文の最後、故不謂之委也 は少なくとも也ではありません。
私は奴、と判読して論を立てましたが、これも検討させていただきます。 妄想をどう膨らませるのも勝手だが
一戈反はk子音じゃないし
奴の子音はmじゃない
バカなの? 『一戈反」というのが『カ行』という意味の言葉です。 『AKIRA』という作品観たことないの?
研究?施設に隔離されいた人たち「夢を見た 夢を見た」
それとも日本の話ではなく「欧米(西洋)」の陰謀かな
ロシア ドイツ 英 米…まさかユダヤではないはず 古代日本なら、ありそうだよ
中華に植えつけられた嘘の記憶や話(記録して残されている事しか信じない)
こういう神がいるんだよ、これは何々という神だよ
さかきばら事件?の犯人:僕の考えた何々神
なぎ・なみ夫妻神みたいな話でしょ、スサとか 『エンジェルウォーズ』→『セーラームーン』
かぐや姫なんかもそう、どちかが模倣、中身がなにもない
大国主と兎、藤原氏?の話 繰り返しになりますが、
『漢委奴国王』という金印があって、
皆、なかなか読めなくて、
カンノワノナノコクオウと読むのが今主流といわれていて、
ーーそこまではいいですか。
それは変だと思うものがいても良いでしょう。
古代の日本の国名に関わる、委という字はカ行で読むのだ、と、
解説する中国の学者がいて、(一戈反はカ行、という意味だから)
それを根拠にするのがどうして馬鹿ですか。 バカにつける薬は無いとはよく言ったもの
「一戈反はカ行」なんてこと言ってるのは中国の学者じゃなくておまえだけなんだよw
反切下字は韻母を表すものなのに声母に使ったらダメだろ
そんな反切の解釈をしている人が他にどこにいる
戈がkだというなら一はitなんだからキツにしかならない
で、奴がmになる根拠は無いのか?
自分でトンデモというくらいだからレス乞食なのかもしれないけど
あまりにもお粗末すぎる 『モモタロウ』という漫画も同じ、
主人公に負ける勢力、あれが本来の主人公側なんだよ
そのまま、盗まれた神話を表現したもの
というわけだよ まず相手を馬鹿にすることから始める2chの慣例は良くないよな。
それが当たり前になってるから、すぐ感情論に走りまともな議論ができなくなる。
学術系板ではそう言うのやめようぜ。 途中送信失礼。
【カンノ】は異論はないのと思う。
続いて【イトコクノオウ】が1番しっくり来るんだよね。
やはり【倭】の略字が【委】とかありえないよ。 >>516
なんでバカにされるかといえば、2chだからではなくて、バカにされてしかるべきレスだから。
感情論に走って議論にならないのは、双方の程度が知れてるから。
そしてここは学問板。 >>518
しっくりとかありえないとかいう感覚でしか話を進められないなら学問板にふさわしくない。 先生方。
例がどうこう以前に、最も正式な記名が求められるはずの国璽(で良いのかな?)に
略字を使うのって変じゃないんですか? >>521
金石文での「倭」の用例自体がとても少ないのだから、他に例が無いことを以て省文でないとは決められないと思うが。
>>522
生徒諸君。
倭国とされる領域で委という印文を持つ出土品が現地前する以上は、省文かもしれないと考えるのがそれほど変なことか。
変っていう感覚はどこから導き出されるのか。 倭に限らず、省略形の印章があれば、
論の補強にはなるんじゃないかな?
自分はそっちには詳しくないけど。 逆に、
知られている同時代の印章で、
省略した文字はなかった、ならば、
したがって、委は省略形ではない
可能性が高い。
とも言えるかも。 >>523
印に刻まれる国号は、漢が「お前の国の名前はこれね」と認めた物です。
つまり、これ以上正式な表記はあり得ないレベルで公式な国号を刻むべきものではないでしょうか。
そこに略字を刻むとしたら「お前ら倭国と名乗ってるみたいだけど、委国にするから」という中華の意思表示です。
ならば、その後は委国を名乗ることが求められるのではないでしょうか。ですが、ご指摘の通り倭国とされる領域です。
故に、この金印は偽物かあるいは「倭≠委」と推測する次第です。 >>526
発見当時において知り得ない漢印の規格を満たしていることなどから、偽作説は成り立たないとする見解も多く、それを支持します。
「委」が「倭」の省文であったかどうかは、決め手が無いので今のところは何ともいえないとするのが穏当だと思われます。
現時点で「倭≠委」と安易に決められないと思います。 以下、思いつきの類で、論拠と言えるようなものはありませんが、こういうことも考えられるかなというのを呈示してみます。
一は、貶記の可能性です。
光武帝のすぐ前、新の王莽の代に、高句麗王を下句麗侯と貶めた例は良く知られています。
同様に、「倭」も人偏を取り除かれて「委」と表記されるようになった。
「下句麗」や「降奴」に比べて悪字の印象は薄いので、光武の末年まで遺制として残ってしまったが、後には「倭」に復した。
二は、古文や表記ゆれの可能性です。
伝世の文字資料では、江南、或は日本列島の民族集団を指して「倭」と表記していますが、
実際には当初「委」と表記されていたものが、後に人偏を付して「倭」と表記するようになったのではないか。
説文解字が「倭」字について、詩経の「周道倭遅」しか引いていないのは、当時まだ後の「日本」を意味していなかった。
尤も、説文解字の解説は素っ気なさすぎで、これは「委」や他の民族を表す字にもいえることなので、あまり参考にはなりませんが。 >金石文での「倭」の用例自体がとても少ないのだから、
とても少ないということならリストとかあるのかな? >>528
>>526です。
お説のうち一は、「金印に貶記」という組み合わせが、外交的に矛盾しているかと存じます。
二の方はなるほどと感服しました。日本あるいは古代日本にあった国に対して「委」を用いた
用例がそれなりの数あるかが問題になりそうですが。 >>529
いわゆる倭人字磚(後漢末期)以外には知らないですね、他にあるのかしら。
>>530
まあどちらも単なる思いつきなので検討するほどの話ではないのですが…
一については確かに、王に封ずる金印に貶記というのはおかしいので、「悪字の印象は薄い」という言い訳を添えましたが、苦しいのは変わりません。
二についても、金印の「委」を「倭」と解釈するとしても、「倭」を意味する「委」というのが孤例なことには変わりないので、他の例が無いと弱すぎます。
倭人字磚という出土品があるので、漢末魏初には人偏を付けるようになったと強弁できるかもしれませんが、
この考え方は、伝世の文字資料が、後漢以前に「委」字のみだったか、「委」「倭」の両用だったものを、「倭」字に悉く改めているという、
すっきりしない仮定を含むので、強引の謗りは免れません。
省文というのはなかなか論証が難しいので、説としてはトレンドでなくなりましたね。
和同開珎も、和銅開寳の省文だと思ってる者には辛い… >>532
「倭」は、従順とか、曲がりくねるという意味なので、好字とはいえないかもしれないが、卑字というほどでもない。
「魏」は、たかい、という意味があるので、むしろ好字。 >>533
>「倭」は、従順とか、曲がりくねるという意味
こういう説明はよく見るけど、そういう意味で使われている用例はあるの? 『委』と『倭』の違いを調べてみました。(中国語の辞書)
委は、ウェイ。
倭は鳥禾切で、ワ。
たぶん、委、の方は、音だけで選ばれているのではないか、と思いつつ、
同音のウェイとして載っている字を見て一寸驚きました。
『隈』でした。『隈』だけでしたが。
そういえば、熊本地方に隈府(ワイフ)というところがありますね。
トンでも、として笑われたけれども、私は委奴=クマ説なので
何か、因縁を感じてしまったわけです。
御反論ください。覚悟していますので。
そもそも漢委奴國王の文字列に、音を求めようとすること自体がナンセンス。
あれは文字列を見て判断するもの。 >>536
>>513を無視しておきながら、何が御反論だよ。
「鳥禾切」じゃなくて「烏禾切」だ。
上字の声母と下字の韻母で「ワ」なら、
どうして「一戈反」でカ行になるんだ? >>537
文字は言語を表記したもの。言語は音声で表現するもの。
音声と関係しない文字などありえない。
自分に理解する力量が無いからといって他人の議論をナンセンス呼ばわりとは、それこそナンセンス。 >>540
漢字は、表語文字。
意味だけを表して、音価が特定できないような漢字って、あったかしら? >>494
たとえば英語のBとVが区別できなくて同じバ行の音だと思い込んでいる者が英語について云々したらどういう馬鹿げたことになるか分かるか? 》538さま。
烏禾切のご指摘、ありがとうございます。
ただ、一戈反については、私一人の独断ではありません。
・七海半太郎氏は、(師古は、委は一戈反で、カ音である、と言っている。)
・ 森明氏は、(師古は、委は一戈反でクヮだと言うが、自分には信じられない。)
と論文の中で言っています。
もうひとり、どこかで『カ行』を主張している人を見た覚えがありますが、
誰だったか、今、見つかりません。
上字の声母と、下字の韻母、と言うルールからするとおかしい。確かにおかしいが、
上記の諸氏は、貴兄からすると、ぜんぶ、トンでもですか。
なにせ私は、自説の隈に引っ張りたいものだから、焦ったかもしれぬ…
もう少し、検討します。 ここは、金印の掲示板と思うから、一寸遠慮してましたが、
奴をマと読みたいわけについて;
私はバリバリの邪馬台国九州派で、
九州派の目線で倭人伝を読むと、奴の字をマ、と読めば説明できること、
(たとえば21カ国の旁国名等、)が、沢山あることに気が付きました。
それで、各国の位置を比定出来るのです。
金印の文字は、動かせないと思います。どうしても委の字を使うのが正しい。
そこから出発して、委と倭の兼ね合いとか、どう読めば解釈が成り立つか、とか考えた挙句、
時代は違うが倭人伝を説明するときの奴の読み方を、ここに持ち込んでみたわけです。
>>544
七海半太郎? 論文というからCiNiiで検索してみたが、論文なぞ一つも出てこない。
国会図書館サーチで出てきたのは著書が一冊だけ。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010300078-00
Googleで検索してみたところ、このブログの人のようだ。http://blog.goo.ne.jp/nanamihantaro
要するに、下手の横好き古代史マニアが、好き放題に書き散らしているだけではないか。
こういうのをトンデモというのに、何を躊躇しなければならないのか。
森明という人は、同姓同名の人物が多いので、検索しにくい。
CiNiiでヒットするのも理系の関係ないものばかりだし、国会図書館サーチでは1500件も出てきたので一々確認する気もしない。
おそらく、これhttp://f-kowbow.com/ron/lekishi02/lekishi02.htmや、これhttp://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/1115989.htmlの人と思われる。
そもそも森明は、このバカげた説に与してはいないようだが、顔師古がそういう主張をしていると考えてしまっている時点で、程度が知れる。
もう一人というのも、おそらく似たようなものでしょう。ええ、わざわざ見つけ出してもらわなくて構いません。 >>544-545
>論文の中で言っています
論文と駄文の区別もつかないような認識だから、このような間違いを犯すのだ。
>自説の隈に引っ張りたいものだから、焦ったかもしれぬ
焦りとかいう次元の話ではないと思われる。根本的に何かを論じるという土台が形成されていないようだ。
>もう少し、検討します。
時間の無駄だと思いますが、何をするのも各人の自由です。
>九州派の目線で倭人伝を読むと、奴の字をマ、と読めば説明できること、
何かを説明しているようで、何も説明していない。
「奴」字にm子音があるかどうかというのは、おまえさんの牽強付会からではなく、音韻学的な論拠を挙げてくれないと。
何の根拠もない偏見や贔屓の引き倒しで、俺がmと読むからおまえもそう読め、と言ってるだけでいいと思うなら、好きにすれば宜しいが。
いやはや、自分からトンデモと言うだけのことはある。
小中学生くらいならまだしも、壮年に達してこの体たらくなのだとすれば、もはや救いようはないな。 いやはや、恐れ入りました。ありがとうございます。
覚悟してはいましたが、コテンパンですね。
浅学菲才、恥じ入ります。またご教授のほどお願い致します。 >>548
おや、案外と素直なところもあるねw
古田もどきの九州論者に碌な奴は居ないと思うけど、真面目に取り組むつもりもあるのかしら。
貶すだけでは大人気ないので、ヒントを少しあげよう。
実は「委奴」を「クマ」と読むことが可能になる、かもしれない手法というのも、学問的に全くないとは言い切れない。
但し、仮定と推定を重ねるので、素人では論証も無理だろうし、説得力も無いだろうけど。
「委」について、説文解字の説明には「从女从禾」「从女禾聲」の二系統がある。
中文版維基文庫は小除本だと思うが前者の会意。段注は後者の形声。後者を採用するとして、
「禾」の声母は「戸」で、めぼしい学者の推定音は殆ど一致していて、上古音では有声軟口蓋破裂音、中古音では有声軟口蓋摩擦音。
日本語の近似では「ガ行」に相当するが、元来の日本語では濁音が語頭に立たないから、「カ行」の音写と見てよいだろう。
つまり、「委」はカ行音の音写だった。
「奴」については、この字が「マ行」音だった可能性はないだろうが、日本の方で鼻音が転訛したと考える余地はあるかもしれない。
歯茎鼻音、或は口蓋鼻音の「ナ行」と、両唇鼻音、或は唇歯鼻音の「マ行」は、同じ鼻音ということで、転訛や推移はしやすいと思われる。
漢人が音写した古い時点では「ナ行」音だったものが、倭人が自ら記録できるようになった時点では「マ行」音に変わった、のかもしれない。
要するに、漢代や魏代には「ナ行」音だったけど、音韻の変化を経て、上代以降には「マ行」音で発音されるようになった。
当方も言語学について論じることができるほどの知見は持ち合わせてないので、はっきりいって牽強付会の域を脱してはいないが。
反切の大原則を平気でぶち壊すような謬説から始めるよりはいいかもね。 >>551
電波に思われたくないのであれば、アンカーの付け方くらい覚えて、意味不明なインデントも止めた方がいいだろうなw >>539
>文字は言語を表記したもの。言語は音声で表現するもの
音声言語は音によって意思を伝達する手段(聴覚)
文字は音を使わずに伝達伝承する手段。(視覚・触覚)
音声言語と文字は全く別なもの >>553
せっかく九州厨を一人やっつけたと思っていたら、何だこいつw
>音声言語は音によって意思を伝達する手段(聴覚)
「音」じゃなくて「声」「音声」だよ。笛や太鼓で言語を伝達できるの?
昔、お〜ま〜え〜は〜あ〜ほ〜かってのはあったけどさw
>文字は音を使わずに伝達伝承する手段。(視覚・触覚)
言語はまず音声言語として生まれた。文字は音声言語を記録する手段として開発された。
文字が言語とは別の存在なら記号との違いって何?絵は?図は?
プログラミングとかの人工言語やら宗教がらみの特殊な表記とかを除いて、
自然言語の文字(書記言語)で音声言語に還元できないということはありえない。
音声言語に還元できないならそれは文字とは呼べないし、文字と称する以上は音声言語と切り離せない。
>>537で「文字列」と言ってるのに、それを言語として扱わないというなら、それは文字列ではなくて記号や絵図なんだけど、
そもそもあれをどう解釈したくてこんな屁理屈をこねくっているんだろう。
触覚を含めてるのが点字とかに配慮してるのかどうかしらんけど、まあいいや。 >>555
絵の要素が強いなら言語として解釈しなくてもいいの?
なんだそりゃw 文字は音声言語を記録する手段じゃなく、耳の不自由な人に意思を伝達する手段として用いれられたものが
記録、伝承の手段としても利用されるようになった。
これが自然な流れ。
ま、この時の文字はほとんど絵的なものだろうが >>557
ほう。
音声言語というものが既に開発されていて、健常者間で使われていたにもかかわらず、
聾者に意思を伝達するにあたっては、言語を媒介とせず、言語とは別の表現手段を用いた、と。
なんでそんな迂遠なことをしなければならいの?
バカなの? まあそんなわけわかめでとんちんかんな起源説はどうでもいいよ。
ここで問題にしているのは金印だからね。
>>537
音声言語に還元しないものをなぜ「文字列」と言ってるのか、この時点で全く意味不明。
言語でないなら文字ではなくて、記号とか絵画とか図表とか紋様とかって表記するべきなんだけど、
あの刻印が漢字であることを疑う人は居ないわけで、漢字も文字である以上、使用者の音声言語に変換できるわけだ。
そんな当然すぎることを下手な屁理屈こねてまでなんで否定したいのかわからないけど、
結局あんたはあれをどう解釈するんだね。 ちょっと勘違いしたかも。
本筋とは関係ないけど追記しておく。
要するに、中国大陸で言えば、甲骨文字よりも古い段階の、原文字というようなもの。
文字やら記号やら紋様やらが未分別であったころのごく原始的な視覚表現についてならば、
確かに音声言語の表記体系として文字が生み出されたという可能性よりも、
既存の視覚表現を用いて音声言語を開発したと見る方が自然かもしれない。
ただ、聾者への伝達手段として視覚表現が開発されたという見方は、何ら根拠のない希望的観測だろうね。
なにがどう自然なのか説明もなく言い切られても万人を納得させるだけの説得力が無い。
しかし、漢代のあれが、文字として解釈しないで済む、要するに音声言語に還元しなくてよいものだということにはならないねw >>558
>バカなの?
このスレはそういう態度OKなすれなんだな。
さー、クズのお許しが出たぞ
祭りだ祭りだワッショイワッショイ。
金印祭りだ金印祭りだワッショイワッショイ。
クズから許可が下りたぞワッショイワッショイ
戦争だ戦争だ
クズが宣戦布告してきたぞワッショイワッショイ
さー、さー、コピペ祭りだ金印祭りだワッショイワッショイ
俺はバカだよワッショイワッショイ >>558のクズ。
腹減ったからパンとコーラ買って来いや!
金印パン買って来いや!
シール剥がすなよ。春の金印祭り中なん
だからよ。 オーイ!俺様はバカだぞー!
>>558のカス。遊ぼうよ。
いいから早くくわえてしゃぶれよ。音たててしゃぶれよカス。音声言語を文字にしてるんだからさ
早くパンとコーラ買って来いや! >>558のカス。
腹減ったから早くパンとコーラ買って来いよ。
文字を使った音声言語で意思を伝達してるんだぞ。 >>558のクズ
さっさと昼飯買ってこいよ。
俺は金印弁当な。 >>554
>文字は音声言語を記録する手段として開発された。
おまえ馬鹿じゃないの。
文字は表意文字として作られたんだよ。音声と結びつくのはずっと後。 事実かどうかは知らないが、
中国各地で、漢字で筆談は出来ても、言葉が通じないということがあるらしい。 >>566
コトバンクの引くブリタニカ国際大百科事典にはこうある。
https://kotobank.jp/word/%E8%A1%A8%E6%84%8F%E6%96%87%E5%AD%97-121199
広い意味では,事物の概念を表わす文字をいう。
厳密な意味では文字は言語単位に対応するものであるから,絵文字などは含まれない。
この場合の言語単位とはほとんどの場合単語なので,その観点から表語文字ともいう。
わたしのいう文字は狭義で、あなたのいう文字は広義、それだけのこと。
文字の起源にまで遡るのならば、後に文字に進化する線刻や文様が始めから表意文字を指向していたかどうかは確かめられないので、
>文字は表意文字として作られたんだよ。
はミスリード。
金印の漢字を言語として解釈するかしないかの話なので、これ以上文字の起源について語りたいならば言語学板へどうぞ。
文字総合
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/gengo/1340995399/ 日本語の原点は、太古に大陸で使われていた言語を。
その言語を使う民族は、西からやって来た異文化に東へ東へと追い詰められ、今の日本でひっそりと定住し始めた。
日本語の単純な5母音は、太古の言語が余り変化することなく時間だけが過ぎた証。
太古の昔には、大陸でも今の日本語と大差ない言葉があった。 大陸で日本語に近い言語を話していた民族の一部が、西からやって来た異文化を持つ民族から
影響を受けたのが文字。これが漢字の原点だよ。
そう、漢字の原点は
日本語に近い言葉を話す民族が西からくる民族の影響を受けて作ったものだよ。
だから後に、島国日本人は漢字を文字として受け入れアレンジする事ができたんだろう。 大陸で漢字に音を持たせるときに、その根本を構成するのは
今の日本語と同じような言語だったんだろうな? 倭は日本じゃないよ。
朝鮮半島にあった倭国が反乱軍によって陥落した時に、日本に逃げ出した倭王の残党が志賀島に埋めただけ。 >>574
半島に倭があったなんて言ってるのは、古田ぐらいなもんだよ。 >>575
星野恒, 喜田貞吉,金沢庄三郎,豊田有恒などたくさんいるなじゃいか。 倭国という統一国家があったわけじゃなく、「倭」という地域、そこに住む「倭人」がいたってことでは?
統一国家なら金印の文面だって「倭王」だろうし。
で、地域としての倭が朝鮮半島の一部を含んでいたと考えるのは、それほどおかしいことだろうか? 倭人が紀元前から半島南部に入植してたのはもう判明してるし
狗邪韓国も邪馬台国の一部だしねえ >>580
それこそ夢物語だよ。そんなこと何処にも書いていないし、考古学的にも倭人の入植を証明するものは
なにもない。
第一、倭人だと特定する特徴がない。 >>581
あんたは余程自分が無知だとさとられるのが嫌なんだね。
他人の嫌がる事を言う奴って、大概は自己防衛的な手段で、本人は意識せずにやっちゃうんたわよね。
普通は自分に自信がある奴は、とるに足りない言動はスルーするもんだよ。
あんた身体が震えてるよ。気が付かないだろ? 倭人在帶方東南大海之中と書いてあり、倭人在韓之南なんて何処にも書いてないんだよ。 >>582
縄文人や倭人の巴型銅器とか半島南部で出土してるし
前方後円墳も半島南部に在る
新羅伝にも倭から来た人が新羅王となった話が載ってる。 >>585
文化の交流と倭人の駐留はまったく別物だし、土器類は動産だから誰でも移動させられるよ。
前方後円噴が何か語ったのかい?後世の人が勝手に台詞付けただけじゃないのか?
文化の交流が有れば、自ずと同じようなものは両方に派生するよ。
ほら、韓伝に
トクロ国與倭接界と史実が証明しているように、両者に文化の交流があったことだけはたしかだよ。 >>585
倭の東北にあった国から来た人が新羅王になったと書いてあるだけで、倭から来たとは書いてない。 「漢委奴國王」印が志賀島で発見されたとされてるから
委奴國(倭国)は博多湾岸に在った
博多湾から東北に千里で
海を渡って来たんだからやっぱり日本だろ 半島南部の倭国の首都が反乱軍によって占領された時に、倭王が日本に逃げ延びて金印を志賀島に埋めたかも。
日本の歴史とは関係ない可能性がある。 漢代から隋代までの正史によれば、倭・俀は「山島」と明記されているので、倭・俀とは、明確に島であると認識されていた九州の他にはない。
『後漢書』「卷八十五 東夷列傳第七十五 倭人」 「倭在韓東南大 海中依山島為居 凡百餘國」
三国志『魏書』巻三〇「烏丸鮮卑東夷伝 倭人の条」 「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
『晋書』四夷傳(東夷条) 「倭人在帶方東南大海中 依山島爲國」
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」[11] 「倭國在百濟新羅東南 水陸三千里 於大海之中依山島而居」 >>7
>>>4 親魏倭王の金印は日本にあるとすれば、大和が九州邪馬台国を制圧したときに手に入れて、現在は宮内庁がもっているということになります。
俺もそうだと思う。
志賀島のは、収奪させまいとして捨てたんだろう。
邪馬台国でも、同じように捨てていてくれるといいんだが。 又叱られに来ました。金印から一寸離れますし・・・。
邪馬台国を勉強してると、日本神話とのかかわりが気になって
しかたがありません。例えば、伊都国の官のニキとは、天孫ニニギのことではないか、
そうなら副官は、オモイカネでなくてはならぬ、と。
あの、小難しい漢字を、オモイカネの神と読む方法はないか奮闘中です。
邪馬台国の官伊支目は、イクメイリビコ(11代垂仁)、副官のうちヌカべは、
額田部氏かと。 そういえば難升米(ナンショウマイ)と読まれている人も、中臣氏と読めませんか。
アメノコヤネのことです。
皆、天孫降臨のとき、お供してきた名門の人たちです。
ついでにいえば、時代がぜんぜん違って申し訳ないが、
小野妹子は蘇我馬子の事だと思います。
小、はサ行で読めますし(小夜ふけて、とか)、なんせ中国では蘇因高と
いわれていたのですから。 収奪させまいとしたなら海に遺棄するわな
バカなんだろうな九州説のジジは いつか一族の誰かに引き継ぐことがあると思ったら、海に捨てずに隠すよな。 九州説の爺はバカしかいないからな。
さらにボケが加わりもはや凶器、人間ああなってはいけない見本だ。 委奴国の金印は、
スサノオが来たから隠したのか、
ニニギが来たから隠したのか、
倭の大乱の時に隠したのか、悩むところです。
いずれにしても九州説の私は、
委奴国を、クマコクと読むことをまだ諦めていないのでして。
(その節は、ヒントを有難うございました)
志賀島は、そのクマコクの、とばくち、というか、玄関みたいなところだと。 宣長「大和は、中国様からハンコもらって喜んでるような国ではありません!あれは九州の熊襲あたりのことでしょう」 いつものように、あまり学術的な裏付けはないが、
長い間心にわだかまっていた直感のままに書きます。
邪馬台国のものがたりは、そのまま、天孫降臨の時代を写しているのでは、と。
「倭の大乱」とは、出雲の国譲り、などと、さも、平和な譲渡のように
ごまかされていた実態を遠国の歴史が暴いたもの。
しかも出雲ではなく、金印の国・筑紫・九州の事だった。
違うなら、なぜニニギは、出雲に降臨しなかったのか。
ニニギは、後に名門となるお供を連れてきている。
その名は、倭人伝に散見できる。
卑弥呼は、アメノウズメである。またの名をタギリビメノミコトと言う。
スサノヲのむすめであり、アマテラスの養女でもある。。
抵抗続く筑紫の地に無事天孫降臨を行うには、
戦の他に、オオクニをなだめ、籠絡することが必要だとして、
そのために美しいアメノウズメは、派遣された。
一書に曰く、 妖しき麗人。
。(宗像大社縁起・ツガル外三郡史による)
スサノヲの娘、と言う事が、女王の地位を、旁国の王達に納得させた。
オオクニとのあいだに2子をもうける。
アジスキタカヒコネ・シタテルヒメ
このシタテルヒメこそが、神功皇后である。仲哀天皇は、アメのワカヒコ。
天命にそむいたとして、(天意として)殺される。
アジスキタカヒコネは、タケノウチスクネである。
妄想と笑わば笑え。まだ続きます。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) ヤマトは耶馬台と書き、近畿にあった。
ヤマトヒコを初代とするナガスネヒコの国です。
ニギハヤヒを天孫として崇めていた。
邪馬台国は九州にあり、オフムタと読む。
オフムタは、牟田国連合を纏めた名称である。
「上宮記注」に曰く、ホムタワケ(応神天皇)は、凡牟都和気と書き表す、と。
すなわち、彼は邪馬台国の国王である、とう名である。
――まだ続きます。 日本人の起源 〜遺伝学電子博物館
http://www.nig.ac.jp/museum/evolution/02_e.html
図25に、八集団(アフリカ人、ヨーロッパ人、アメリカ先住民、アイヌ、中国人、琉球人、
韓国人、本土日本人)において総当たりで計算したDAの値の分布を調べた。
アフリカ人は、他のどの集団と比較しても大きな遺伝距離をもっている。これとは対
照的に、東アジアの五集団は、それぞれの集団間の遺伝距離が非常に小さい。
特に、韓国人と本土日本人の二集団間の遺伝距離はゼロであった。やはりこの分析で
も、韓国人と本土日本人は遺伝的にきわめて近縁な関係にあることが明らかとなった
のである。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_26_02.gif
つぎに、集団間で求めた遺伝距離をもとに集団の系統樹を作成した(図26)。この系
統樹では、アフリカ人が他の人類集団に先がけて分岐し、続いてヨーロッパ人が分か
れ、さらにアメリカ先住民が分岐している。最後に、東アジアの五集団が単一系統
のクラスターを形成して枝分かれしてくる。東アジア人のクラスターでは、アイヌ
が最初に分岐し、続いて中国人が枝分かれしてきたことが読み取れる。続いて琉球人
が枝分かれし、最後に韓国人と日本人が緊密なグループとして分岐してくる。 ■■■悪の化身『台湾人工作部隊』による二段構造の江南改竄詐欺の手口A■■■
@バカを確実にダマし落とすために、まず朝鮮人のふりをしながら日本人が
朝鮮人と同じ人種かのようなコピペを貼りまくって嫌がらせをしまくる。
(台湾人の自家発電に、おのれ、朝鮮人め!と、この時点でバカ落ちる)
Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、ホワイトナイトがごとく何十年も
かけて作り上げてきた、それはそれは高度な改竄用の捏造創作を使って
勝手に自分たちの祖先、長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(朝鮮人を叩く正義のおぢちゃんだ!と、バカ、ダマサれ信じ込む)
Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。
Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南ブタ土人」が日本人の祖先になりました。 >>601
そっち系を話したいなら、下記スレの住人、片手鍋と話せばいいよ。
【Y-DNA】ハプロタイプで語るスレ10【mtDNA】
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1422100995/ 後漢書が五世紀の編纂で後漢滅亡から二百年後の書物であることは注意する必要がある。
魏書と比べると百五十年新しく、後漢書倭伝の記述も魏志倭人伝を参考文献の一つとしていると考えられている。
印綬下賜の項目は、恐らくは後漢書以前の後漢史を記述した書物から引いたのだろうが、
現存していないので出典不明。その記述の正確さは今となっては検証不可能だ。 繰り返し、繰り返し考えております。
直感だけでものを云う人間と笑われるでしょうが、
日本神話と邪馬台国は、絶対リンクしています。
そのころの国名はムタコクです。107年の、師升の名乗る面土、
日本書紀にいうチクシのメタは、ムタです。その国名から、
連合国としてオフムタを名乗り、卑弥呼を共立しました。
だから邪馬台国は、ヤマタイと読んではいけないのです。
オフムタ、と読むべきなのです。
証の一つが、ホムダワケ・応神天皇が、凡牟都和気と書かれていること。
伊都国が、ニニギの国なら、副官は、参謀として送り込まれたオモヒカネ
ではないか、と前回書きました。
原文の字がP・Cで出てこないのですが、訳文はたいてい、6字の真ん中に「・」をおいて、
セモコ・エキョコなどと読み、2人分にしています。
それは違うでしょう。2人分なら、次に、という言葉が入るはずです。
なんとなく、読めそうな気もするのです。どなたか、オモヒカネノカミと
読むすべを教えてください。
『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) 彦なぎさ(私のつたないP・C技術では、彦なぎさの、なぎさという字が
出てこないので打てません)
彼は近畿の大和の国を征服した後も、北九州の筑紫の国に時々帰っていた、
ということです。それで領地が大きくなって、倭、といわれるのも、ムタコク
と呼ばれるのも気に入らず、ヤマトを国名にしたのです。
その領地の説明は、中国の朝廷には信じられないものだったので、
――うぬぼれが強く、不実な対応、と記録されてしまいました。
だから、新唐書では、倭国と日本国の二本立てになっているようです。
どこかの小国――近畿のヤマト(耶馬台)国。
彦なぎさ――ニニギであり、神武であり、もしかしたら崇神。更には
もしかしたら景行。 彦なぎさ(私のつたないP・C技術では、彦なぎさの、なぎさという字が
出てこないので打てません)
彼は近畿の大和の国を征服した後も、北九州の筑紫の国に時々帰っていた、
ということです。それで領地が大きくなって、倭、といわれるのも、ムタコク
と呼ばれるのも気に入らず、ヤマトを国名にしたのです。
その領地の説明は、中国の朝廷には信じられないものだったので、
――うぬぼれが強く、不実な対応、と記録されてしまいました。
だから、新唐書では、倭国と日本国の二本立てになっているようです。
どこかの小国――近畿のヤマト(耶馬台)国。
彦なぎさ――ニニギであり、神武であり、もしかしたら崇神。更には
もしかしたら景行。 論拠を明示できない妄想はチラシの裏にでも書いておけ 近年、志賀島出土の金印には「常根津日子命」の名が発見されている。
http://www11.ocn.ne.jp/~jin/KIN.html
常根津日子命(とこねつひこのみこと)は、第3代安寧天皇の皇子で西暦20年〜60年頃に生存していた。
常根津日子命の墓は佐賀一貴山銚子塚古墳であることが墓碑から判明している。
兄は師木津日子命で墓は奈良桜井纏向勝山古墳、父安寧天皇の墓は奈良櫃原畝傍山西南御陰井上陵とされている。
これらから、当時すでに倭国が西日本を支配しており、地方の首長として天皇の皇子を遣わしていたこと。
後漢の光武帝もそれらの事情を知ったうえで常根津日子命の使者に「漢委奴国王」を与えたものと認められる。
なお、金印の授与は西暦57年とされており、この頃にはすでに中央集権体制が成立していたことになる。 >>611
その時代、日本の固有名詞を漢字で表記する方法は確立していないぞ。 >>611
それ悪質な捏造
印刷物からスキャンしたデータに書き加えているだけ 「ちはやぶる 金のみ崎を すぎぬとも われは忘れじ 志賀の皇神」
と書かれて、金印出土の志賀海神社に歌碑がある。
しかし、原文は「千磐破 金之三埼乎 過鞆 吾者不忘 壮鹿之須賣神」
壮鹿を「ヲカ」と読み、日本書紀「岡縣主祖熊鰐」とする説もある。 福岡県 遠賀郡岡垣町付近には、まだ数軒の熊鰐氏が住んでおられる。 金印の映像、本物とおぼしきものを色々探しましたが、
横に文字が入っている気配は見当たりません。
615さん、のおっしゃるように捏造ですかね。 捏造だよ
あんな文字が隠れていたら気づかないはずが無い 5月末、仕事で九州へ行きます。
中日、暇をもらって、実地検分してきます。
どこへ?
邪馬台国コースですが、それこそ、わが仮説のままに。 質問です。ぜひ、教えてください。
「彌」という字です。
普通ミ、ビ、またはヤ、と発音しますが、古代漢字でduAとかなんとか
発音する、と見たことがあるのです。
そのときは深く考えることもなく流してしまったのですが、
今、とても大事な発見だと気がついたのです。
どこで見たか中国辞書を漁ってみましたがいくら探しても判りません。
何かご存知であれば、ぜひぜひ、お教えいただきたく、
よろしくお願い致します。 当時九州豪族と機内豪族が争っていて、九州豪族が権威付けの為に手に入れたものでしょう。
それ以上の意味も以下の意味もない。 『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、
改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、
故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有
大山為限、山外即毛人之國。
日本国は、倭国の別種なり。
その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は
自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だっ
たが倭国の地を併せたという。
そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれ
を疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、
東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。
『新唐書』日本伝
其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、
皆が「尊」を号として、筑紫城に居住した。
※「筑紫」=北九州
(まとめ)
日本と倭国は別種。
日本はどこかの小国だったが倭国を併合した。(旧唐書)
日本の王が自ら言うに、日本の最初の王は北九州にいた。(新唐書) >>591
>親魏倭王の金印は日本にあるとすれば、大和が九州邪馬台国を制圧したときに手に入れて、現在は宮内庁がもっているということになります。
台与が晋と通交して、倭王に冊封されたときに、親晋倭王の称号・印章と引き換えに
卑弥呼が魏からもらった「親魏倭王」印は晋に返還しているので、
「親魏倭王」印は日本にはなく、さらにはもはやこの世に存在しない可能性が高い。 福岡市博物館開館25周年記念 特別展 新・奴国展 プレイベント
「弥生青銅器の世界」講師 柳田康雄氏
日時:5月23日(土) 14:00〜16:00
場所: 福岡市博物館 1階 講堂
定員: 当日先着順 240名(13:30から受付) 無料
柳田康雄氏(元國學院大学教授)は、福岡県教育委員会出身の考古学者。
平原王墓や三雲王墓の発掘に携わった伊都国研究の第一人者。
http://f-museum.city.fukuoka.lg.jp/museumweek/even.. まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり ちなみに縄文人は南米人の祖先となった可能性もある。
土器も出るしアマゾンの墓制とか古墳と似てるし。
あと、ギリヤークって元と交易してたみたいだけど高麗
みたく元から金印貰ったのかね? ・漢委奴国王印
・日本国王印(豊臣&徳川)
と
・親魏倭王印
・日本国王印(良懐親王)
・日本国王印(足利義満)
日本って行方不明の金印がまだ3つもあるのか・・・凄いなw
アイヌも唐に朝貢したっぽいけど銅印か銀印貰ったのかな? @小野妹子みたいに帰る途中で捨てた。
A志賀島に後の時代の対馬みたいな(国書の「王」という文字を「皇帝」に書き換えるための)対外的な体面を保つための役所があった。
いくら古代だからといっても土人の国になるわけじゃないし、それ以後に比べて国力が弱いわけじゃないんだから、(むしろ南朝鮮を支配するなど強い。)実際に攻めてこられない位置にある日本が華夷秩序を受け入れて中国の臣下を自称するとは考えにくい。
日本に文字が無かったから中国に近い九州しか記録に残ってないだけで、古代でも九州よりも畿内のほうが栄えてただろう 縄文・弥生古墳時代と人口が集中していたのは、今の北関東と長野県でしょう。
それに比べれば、九州には人がほとんどいなかったでしょう。 半島を席捲し熊の地名をつけてきた民族が、
九州をも凌駕し、隈の地名をつけまくった。
隈の字は隈府(わいふのようにウエイと読んだ。
そして同じ音を持つ(委)で表すこともできた。
どうしても「漢委奴国王印」を、クマ国王と読みたい
しつこいやからでございます。九州に、隈の字の多いことの
説明になりませんか?又コテンパンにのされる予感あり。
>>634
>半島を席捲し熊の地名をつけてきた民族
具体的に、どの民族?
>九州をも凌駕し
大辞泉だと「凌駕」は「他をしのいでその上に出ること。」
文意が不明瞭。歴史を語る前に国語を勉強せよ。
>隈の字は隈府(わいふのようにウエイと読んだ。
音価は資料から推定すること。
論者が好き勝手に音価を設定できるなら、キラキラ☆ネームと何も変わらない。
>隈の地名をつけまくった。
>九州に、隈の字の多いこと
ただの印象でしかない。
九州の地名に「隈」の使われる事例が定量的に多いことを、先に証明せよ。
>どうしても「漢委奴国王印」を、クマ国王と読みたい
結論を先に決めているから、論拠も理路も恣意的で何の価値も無い。
無知蒙昧の輩が、自分勝手に妄想した、拙い結論を、なぜ優先する必要があるのか。
学問したいなら、手法を根本的に改めよ。
学問したくないなら、パズルごっこでいい気になって一生を終えればいい。
どうぞお好きなように。 話したい事、主張したいことはほんとはもっとあるのですが、トーシロガ
参加したことでこの板がつまらなくなり、敬遠されたような気がします。
皆様、申し訳ありませんでした。遠慮します。 >>636
他のスレにも投稿してたのかどうかは知らないが、
自分一人の投稿で板全体がつまらなくなったとか、勘違いも甚だしい、臍で茶が沸く。
こんな掲示板で、素人も玄人も無い。
古代史関連は特に奇人変人ばっかりなので、あんた一人居ようが居まいが、どうってことない。
根本的に狂ってる方法論を、批判されても一向に改めたくないなら、どうぞ我が道をお行きなさい。
アマチュアの斬新で画期的な手法により、古代日本の真実を解き明かして、楽しく暮らしてください。 1)最後に「之印」も「章」も「璽」もつかずに「國王」で終わってる。こんな例はない
2)「漢」が頭についてる。属国ならつかないのが定例
倭國王師升等をクニオシヒトと読む説があるが
金印をもらった王の名前もクニオシで駄洒落的に国王にしたのでは 金印は江戸時代にシャレで作られたもの、でFA
蛍光X線分析したら金印の原料の産地が特定できるんだけど、まだやらんの? 匈奴かどこかに与えられた印とデザイン、字体が同じで、漢代のものと決着がついていたはず。
つまり本物。
江戸時代まで、かつての倭国の都であった伊都国の細石神社にあった。 >>640
細石神社に伝来していたっていうのは本当なのかね? >>642
神社関係者はフカシが多いから、正直信用できない
だが、伊都だろうが志賀島だろうが、大して変わりはしない 志賀島で見つかったときに神社は何も言わなかったのか? >>643
律令期の官社なら銅印くらいは持ってただろうけど、
金印なんて珍しい物が在ったなら、誰かしら何かしら言及してると思うんだけどなあ。
>>644
今みたいに報道されたわけもなく、一般にはどういう風に知られたんだろう。
神社に箔を付けるために、後から言い出したくさいんだけど。 >>645
江戸時代の知識層ネットワークのつながりはすごかったらしい
志賀島の金印の話もかなり早い段階で上方や江戸まで伝わっている
だいたい盗まれたなら藩に届け出るはず
細石神社の主張なんて戦後になってからじゃないのか? >>646
ほう、現代人が思っている以上に情報は早く伝達したらしい。
戦後の主張だとしたら、全く信憑性無いなあ。
そもそも神職だかの証言(伝承?)以外に、何か根拠ってあるのかしら。 盗まれたならに届け出るはずだから
細石神社の誰かが売り飛ばしたんだろうな
江戸時代には社田がなくなり困窮してたらしいからな。 そもそも細石神社にあったという話の根拠がないのだが 「漢(後漢)は体力ないから倭国にどんどん朝貢に来られても困るんで
お前らの代表に印を渡すから整理して」という委託の印なんだな >>650
概ねその通りだと思うが、前提として博多湾岸勢力が他より圧倒的に豊かで軍事力があったということだよ。 >>652
むしろ軍事力で負けそうだから、漢に朝貢して後ろ盾を求めたのでは? 朝貢は東アジア国家としては当然だよ。
むしろ他を征服して意気揚々と参上しただろうね。 漢にまで朝貢に行ったてことは
その前から漢と往来があったってことだよな。 >>654
朝貢してる奴らばかりじゃないと思うが、当然とは何から知れるの?
他を征服したなんて書いていないけど、何か論拠はあるの? 100カ国あったのが30に減り、しかも代表が倭奴国に絞られるわけですよ。
後の倭王も何十カ国も征服したと自慢しています。
戦乱の跡もたくさんあります。 >>658
減って30になったのか、領域が広がったのか、漢の把握が増えたのか、
なぜ減ったと断言できるの?
代表だったとは、どこに書いてあるの?
諸国の中で朝貢を思いついたのが一国だけだったのかもよ。
自慢じゃなくて自称にすぎなかったのかもね。
その戦乱の跡からどの国が勝ったというのは何から知れるの? 倭人は大昔から年を間違えずに朝貢していました。
実質的に倭王に冊封された倭奴国王に逆らえば、漢に逆らうのと同じです。
周辺国は容易なことでは逆らえなくなります。 >>660
え?
金印のときと帥升のときくらいしか、卑弥呼以前には書かれていないけど、
50年ごとに朝貢してたってこと? 随分開くね。
周辺国を征服して自慢気に朝貢したんじゃなかったっけ?
漢虎の威を借りる倭狐なの?
後代の魏ですら援軍なんて寄越してくれてないよね。
もらった印綬が戦いで何してくれるん? 金印は一度だけですよ。
でも年毎の挨拶は欠かさなかったとも書かれています。
貿易を兼ねていたからです。
金印を送ったときのことだけ、後の記録として重要なので記録したんです。 >>661
>後代の魏ですら援軍なんて寄越してくれてないよね。
ここは期待はずれだったでしょう。
でも、漢は西方には長距離の遠征をしたので、その調子で東へ向かえばやってくることもありえなくはない。
少なくともそう考えたでしょう。 >>662
年ごとの記録が無いから、かかさず朝貢していたかどうか、わからない。
金印のときだけだったから、記録に残ったと見ることは、不自然でない。
>>663
そう考えたことが史書から立証できていないので、
そう考えている、というよりそう思い込んでいるのは、あなた。
史板なんだから、想像じゃなくて史料からわかることを書いてよね。
創作は創作文芸板でどうぞ。 >>664
漢書に欠かさず朝貢したことが書かれている。
あなたが史書を読んでいないだけ。 >>664
冊封体制なんて、義務教育レベルなんだが。
もしかして、これがゆとり世代というものか? >>665
「歳時」だけでは、よくあったことなのか、まれにあったことなのか、まれによくあったことなのか、わからない。
現実に記録が無いのだから、「云」とあるから事実なのか潤色なのか判然としない。
>>666
ゆとりと云いたいだけの人乙 >>667
少なくともあらかじめ決められていた年にきちんと来ていたということだよ。
デンとか読むなよw >>667
「歳時」とは、定期的に年間のある決まった季節になると来るという意味、普通に考えれば年一回のことと考えていいだろう。 倭人はマメに朝貢するので、漢にウケがよかったんだよ。
そのマメマメさの頂点に立ったのが倭奴国。 >>668-669
大昔から毎年来ていたかどうか、いつごろからだったのか、わからないけど?
>>670
奴の他に来ていたかどうか、何も書いていないけどね。 >>671
前108年の楽浪郡設置の頃からと考えていいよ >>671
漢書を少し読めば出ていることを、くどくど聞くなよ。
史書を読む習慣を身につけような、ゆとり乙 >>672
思い込み乙
>>673
ゆとりと云いたいだけの人乙 植民地の判子を与えよう 日本人第一主義が追い込まれて・・・ ローマ帝国やクシャーナ朝(インド)ももらってたのが金印で
倭国はそれと同じ扱いだぞ。 贈った方はともかく受け取った方が大きく違うからなあ、
方や異国の珍奇な贈り物
方や属国に加えていただいた大切な証 朝貢してたということは、元々日本は中国の一部ということ いや楽浪郡にいつでも対抗できる
という自信の表明だろう 金、銀、銅が序列
日本は金印
半島は万年属国なのに銅印しか貰ってない これって「漢が委任した奴国王に送る印」って意味なのか? アレは発掘されてないから偽造疑惑をいまだに否定できない 金印をもらった別の国はないの? 同じようなの、別の国で出たりしてないの? 漢委奴國王 ←偽造w
奴委王之印 ←本物(ただし出土したら >>689
漢委奴國王の印が発見された時点では参考にする印がまだ発見されてない
その後発見された印との比較で本物と確認された。 その後発見された印は全て漢委奴國王の印を本物に見せかける為に
日本人が偽造して各地に埋めたニダとか言ってた奴がいたな。 >>697
印だなんて見りゃわかるのに、 之印 なんて書く馬鹿いるかい? >>684
「漢が委任した奴国王に送る印」って解釈するのが自然だし
中国の学者もそう解釈してるのだが
何故か日本の学者だけアホみたいに「漢の倭の奴国王」と解釈してそれが定説化してしまったw 明朝の没落期において台湾を密貿易の拠点として長崎港に出入りしていた鄭芝龍と日本の田川マツとの間に2児が設けるがその一人の父の影響を強く受けた鄭成功は台湾に戻り清軍と戦う前
に、没落していく漢民族王朝を憂い日本国内の大判小判などから偽造された金印を造り自ら埋め後漢の時代西暦57年の物であると日本に住むことになった弟の七左衛門と示し合わせ少し後に
開発される予定だった立地に埋めさせたが皮肉な事にその土地の開発予定は無くなってしまい見つかる事になったのは明朝没落後の1784年であり、清朝に時代は遷り100年以上が経過していた。
当人も既に亡くなっている。明軍の残党とともに戦う九州のサムライを募る為に後漢の時代、卑弥呼を遡る100年以上前に既に漢が影響を誇っていた国があると詐称していたという説が近年出てき
ている。現代科学の炭素測定の結果では1600年代のものである事も既に示されておりそれが完全な証拠となっている。魏志倭人伝の東夷伝に始めて日本についての記述として邪馬台国及び卑
弥呼が現れるがそれは100年以上後の事柄であり、西暦57年から邪馬台国までの百数十年の間に九州の一部と国交があったと証明しうる古代の資料も存在していない。
出典:上田 正昭(京都大学名誉教授)学術レポートによる。 >>698
ということで、金印は本物で決着している。 >>700
填王之印とか穢王之印とか他にもいろいろあるんだが。
もまえの説では漢代の中国政府は馬鹿ばっかりだったようだな >>704
>>699に書いてるある主張をして偽物とか言い張る輩がまだ居るんだよな
発見の経緯に不自然なところはあるものの江戸時代に黒田藩内で見つかったことは確実なんだけど。 金印って要するに印鑑でしょ
それって、なんらかの文書に押す印鑑だよね
何世紀?どんな文字を使ってたの? 木や竹を薄く削って綴じた文章に、改竄されないように封泥をして、そこに印を刻んだとのこと。
中国皇帝に対して、倭王からの国書であることを証明するためなので、中身は漢文。 >>702
でも、それってなんの証拠にもならないよね。
金印とは直接関係のない中国の史書に出てくる漢字と字が似ているってだけだもん。 漢委奴国王は「漢が委任した奴国王に送る印」と解釈するのが自然だし
倭奴国は「倭にある奴国」と解釈するのが自然。
中国の学者はみんなこう読むよ。
日本の学者は「漢が倭の奴国王」と読みますと
中国でも紹介されているが、日本のこの定説が中国の学者から支持されたことは一度もない。 金印をもらった国がどんな国だったかというと
5000年前の気温は現代よりも低くかった。
5000年前の朝鮮半島はシベリアみたいな寒さで
朝鮮半島周辺の海は凍りつき
朝鮮半島には森林がなかった。
ソウル大学の調査でも朝鮮半島には大きな集落がなかったことが判明している。
人の住んでなかった朝鮮半島北部に初めて国を作ったのは中国人で
人の住んでなかった朝鮮半島南部に初めて国を作ったのは九州人
そのため朝鮮半島南部から九州北部までが
金印「漢委奴国王」をもらった倭国の領土であると中国の歴史書には書いてあるわけ。 倭にある奴国王と倭の奴国王と、何が違うんだ。
倭奴国王だろ。
でも考古学的にはもう奴国の時代ではなく、伊都国の時代なんだよ。
つまり倭奴国=伊都国。 >>716
委任したよ。
金印をもらってたのは
倭国の他には、ローマ帝国やクシャーナ朝(インド)だから
少なくとも中国側は冊封体制に倭国を入れてなかったことがわかるな。
倭国は冊封体制の外にある大国扱い。 >>718
何を委任したの?
言いっぱなしじゃなくて、ちゃんと根拠を説明してね >>719
「委」は中国だと全てを委ねるというニュアンス
倭国の政治すべてを奴国王に委ねるというニュアンス >>720
倭国はローマ帝国やクシャーナ朝と同じ身分だから。
そもそも金印は実質的に独立国と認めた国に送るもの >>721
ニュアンスって何だよ
何で中国に自国の政治を委任されなきゃならんの?
他に例はあるのか
根拠あって言ってんのか >>722
>実質的に独立国と認めた国に送るもの
根拠は?
適当な脳内妄想ならべるだけか?
研究者は誰か言ってんの? >>723
そりゃ中国だもの
偉そうにはするよ
今上天皇にも印鑑わたそうとしたことあるし >>723
偉そうにする、とはニュアンスチガウダロ >>726
周辺諸国に印綬を与えるのは、中国王朝の臣下とするため
独立国と認めるためじゃない >>727
印綬は、外臣で王号を持つ者には金印紫綬
朝鮮は数段低い扱いだっただけ 漢は倭国の国体、全体像を認識せず朝貢した自称倭王に印綬した。
つまり、この時期には九州奴国自体が倭国の全体を把握していない。
半島人も本州人も同等に、中国外交を持たない未開の外国と認識していたと考える。 倭人のいるところは倭地。
倭奴国の支配するところが倭国だよ。 >>729
つまりローマ帝国にも金印を与えてたから
ローマ帝国も中国の王朝の臣下だったの? >>735
じゃあ、クシャーナ朝は中国王朝の臣下だったの? 「親魏倭王」印に関してはクシャーナ朝に送らた金印と同じく
実質的に魏の同盟国に送られたもので
金印が与えられたら臣下というのは明らかに違うな 臣下だろ、王にしてもらったんだよ、
部下も官名もらってへこらしてるじゃん
これぞ冊封体制 クシャナ朝の末期だったからな
数年後にササン朝ペルシャに負けちまう クシャーナ朝は金印をもらいましたが
魏の臣下ではありませんし
臣下だったと指摘する馬鹿な歴史学者もいません。 糸島市三雲の細石神社に奉納されていた金印を何らかの理由で持ち出して志賀島の
志賀海神社に奉納するつもりだったのは間違いない。持ち出したのは江戸時代以前
だと細石神社が戦火に遭いそうになったから志賀海神社に持って行く途中だったと
思うね。志賀海神社の山誉め祭では「さざれ石のいわおとなりて」と言う君が代の
一節が歌われているから志賀海神社と細石神社は繋がりがあるんだよ。 江戸時代なら、戦火ということはないだろう。
没取を恐れたとか、いろいろ言われている。
志賀島から見つかったことにするのが一番妥当だったんだろう。 漢委奴国王
この「委奴国」を「倭の奴の国」と読むのは間違いだというのはもう広まってきてるけど
同じ理屈で
「漢の委奴国」と読むのも間違いだよな
「漢委奴国」でカンイヌ国
つまり「カミノクニ」でしょ
「委」が「倭」の略字だとするなら
「神倭奴国」つまり「カムヤマトのクニ」
もちろんカムヤマトイワレヒコ=神武の「カムヤマト」だよな ようするに「漢」まで含めて日本の国名なんだろう
「カムイの国」または「カムヤマトの国」
それが日本の国名だった 冊封の宗主国の名前が先頭にくるのは他の国でも類例があるので、漢は漢王朝のこと。 あと、漢字を現代語読みで読んでいる点もおかしいし、古代の助詞は「の」ではなく「つ」などであるべき。
いろいろとナンセンス。 >>749
ないよ
「親魏」とかなんか一文字つくんだよ
「晉帰」とか だとするなら「漢委」で「漢に委任されてる」という意味で国名は単に「奴国」なんじゃないの 今週朝日新聞でこれ特集してたけど。
なんか進展か裏の狙いでもあった? >>55
帥升について
当時は銅矛圏九州vs銅鐸圏近畿の構図だから
金印をもらった九州に対抗するために銅鐸圏の王が朝貢したんだと思うけどな
帥升が九州の王だと仮定すると、
すでに金印をもらってるのに50年後にさらに奴隷160人も献上する大型朝貢をする理由がない
奴隷って主に侵略で獲得するものだから
奴隷を160人も確保できること自体、倭国内で大規模の内乱があった証拠だしな 朝貢は定期的にするんだよ。
貿易でもあるんだし。
少なくとも世代ごとに大掛かりにやったろう。 帥升の国は倭面土国って書かれてる
倭奴国なら倭奴国って書くだろ 【日本の歴史】
1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)
3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解) 3世紀後半
吉備と畿内が和睦、前方後円墳体制スタート
南九州も参加(ゴホウラ貝の全国輸出)
(記紀「神武東征」では北部九州王の仲介で畿内入り)
(上位王権=北部九州王からの委任状兼威信財である「天の羽羽矢」を神武、ナガスネヒコ両者が持つ) 神武の出発地も九州北部の筑紫の日向、伊都の高祖宮こと高千穂宮ですよ。
九州北部の王家、天神が支え合って西日本全域を支配したんですね。 >>756
帥升は人名では無い
人名に帥が付く例が中国史に無いから
王も帥も升も役職、
それぞれ別人だから等が付き複数形になっている 帥一文字では不十分で、もう一文字つけて役職名だろう。
一大率が例外で、本来なら徳率とか率善なんとか色々な率があるべきところを、一つの役職しかなかったから一大率と表現した。
倭国ではこの伝統が太宰の帥にも継承される。
なお、率と帥は意味も発音も同じ。 >>764
中国語に3文字熟語は無いだろ
「一、大率」若しくは「一大の率」
王の帥(丞相か?)の升(名前)の可能性なら有るな 上海博物館に展示している晋時代の金印の印影。駱駝紐。個人さんのブログで上海博物館 金印で検索すると写真が出てきます。
https://i.imgur.com/cvNligN.jpg >>764
逆だろ
「大率」は何人もいた
ただ、その北九州を管轄してるのはその中の一人。
「一」ってのは英語の不定冠詞「a」みたいなもの
文中もし二回目に出てくる場合は「一」がつかなかったろう
通典はただ「大率」とだけある 一大率は女王国の北側に置かれ
女王国の北側の諸国を監察していた
卑弥呼は伊都国で一大率を使い女王国の北側の諸国を治めていた 女王国以北は女王国を含むことに注意。
実際には、一大率は伊都に置かれて、対馬海峡を支配していた。 一大率は女王国以北に置かれていたと明記されてる
伊都国も女王国以北に含まれるけど伊都国には女王卑弥呼が居るから
伊都国以外の女王国以北の諸国に一大率は居た。 一大率は諸国を観察するのが仕事で女王国以北の諸国に置かれてると明記されてるから
常に伊都国に居て観察とは別の業務の治めるなんて出来ない。 糸に本拠地を置き、対馬海峡を担当する直属部隊だったんだろ。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 >>786
論破っていつ?
別の解釈の可能性は示されていたが、この読み方を否定できる内容ではなかったが? >>785
認める、認めないは個人の自由ですからね
私は可能性としておおいにあり得ると思いますよ
文献解釈は正解がわからないので、可能性で考えます >>790
テンプレは>>1の個人的意見ではなく
これまでに誰かしらの研究者が主張したもの あれが畿内説の総意なら、相当キモいカルト集団であることを自覚するべきだね。 >>787
他の解釈の可能性を述べるだけで確かに論破はされてませんでしたね
「特置一大率 檢察諸國」と一大率の業務が檢察と明記されてるのに
「常治伊都國」も一大率の事だと言ってましたが
一大率が諸國を治めてるならその一大率を一大率が檢察することになり矛盾してますね。 >>791
金印に付いて分かってることは
@物は本物
A読み方は諸説あり
B発見の経緯は怪しい、志賀島で出土した? >>794
ボコボコにされてたのに虚勢はっちゃって >>796
>>793に反論してから言えよ
負け犬君 >>793
>「常治伊都國」も一大率の事だと言ってましたが
>一大率が諸國を治めてるならその一大率を一大率が檢察することになり矛盾してますね。
これは真っ赤なウソ
「治めてる」なんて読むのはアホの岡上だけ 治には「治める」か「(病が)治る、す」しか意味ないよ。 >>800
思い込みではなく、他の人にわかるように反論しませんか?
このままでは、むしろ>>793が正しいのではという印象しか与えないですよ。 >>804
この人はいくら論破されても学習効果がない >>802
だから、世界であなた以外の誰が「治める」なんて読んでるの? ここに岡上さんはいませんよ。
そして、治めると理解している人がたくさんいますよ。 >>806
必死に誤魔化そうとしても無駄
主語は誰だ? 一大率は諸國を検察していると明記されてる
治の主語が一大率だと一大率を一大率が検察することになり矛盾するので
「常治伊都國」の主語が一大率でないことだけは確か
では治の主語は誰だ? >>815
訳してみろ矛盾して意味が通じないだろ。 >>817
>>784
>「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
>(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。 確かに、治める、ならば主語は女王であるべきかもしれませんね。 >>821
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
の訳をお願いします。 刺史の如く、の主語も一大率なんですかねえ。
句読点のない漢文は、解釈に幅ができてしまいますね。 >>823
女王国から北の地には、特に一人の統率者をおいて諸国をとりしまらせていて、諸国もこれを恐れはばかっている。その統率者は、つねに伊都国に駐屯して統治の任にあたり、中国の刺史のようなものである。 >>827
この反論は不完全で曖昧
誤魔化してますね。
w >>829
女王国から北の地の諸国の統治の任にあたり
女王国から北の地の諸国のとりしまりをしている
とりしまる相手は諸国の統治者ですよね。 とりしまり(観察)と統治(治)は別の行為ですよね
一大率の諸国はとりしまり(観察)で恐れはばかっている
一大率は諸国を常に統治(治)している
常に自分が統治してるのに何をとりしまり(観察)するんだ? >>832
一大率が統治者だから諸国の官は統治者じゃないんですよね
諸国の官は統治者でもないのにとりしまり(観察)されてたんだ
諸国の官は何をしていて何をとりしまり(観察)されてたんだ? >>836
たとえば軍隊でも、本来は将軍とMPのボスである監軍・督軍は別のものだった
だが漢末には合体して、裨将軍を都督が率いるようになった
軍政官も同じで刺史が郡太守を率いる
実際の統治は下の者がやって、統治者である上の者はそれらを監督している
だから刺史のようだと言われた 一大率が諸国の統治者なら諸国を検察するとは言わないだろう。 >>825
目がとどかないから検察するのであって
常に統治してるなら検察する必要はないな
中国の刺史も監察官から長官になったとあるが
監察官と長官なんて矛盾してるからな。 古代の漢文読むのに現代日本の漢字の意味で解釈するひとって歴史研究のセンスがないとつくづく思うわ >>825
目がとどかないから検察するのであって
常に統治してるなら検察する必要はないな
中国の刺史も監察官から長官になったとあるが
監察官が同時に長官じゃないですね
監察官=長官は矛盾してる。 >>846
情緒的なこと言ってもな
根拠を示してくれないと。 >>848
情緒的とか言っちゃう時点でアウトだね
歴史学ってのは過去の出来事を研究する学問だよ?
その時点における思想や社会通念を考慮しないで良いと思ってるの?
逆にいえば、当時の思想なり社会通念が現代にも生きていると思ってるの?
よーく考えてみることだよ 伊都は統治、対馬海峡は監察したんだろう。
一大率が定期的に対馬海峡を行ったり来たりして目を光らせていたんだな。 >>846
現代と昔でどれだけ漢字の意味が変わったかを述べないと、批判ではなく空論になるよ。 >>859
>>825にあるように
一大率は女王国から北の地にいたのか
つねに伊都国に駐屯していたのか
分からん
一大率は諸国のとりしまをしていたのか
諸国の統治の任にあたっていたのか
分からん
意味が通じませんね。 >>880
一大率という職は女王国から北の地に置かれて
つねに伊都国に駐屯していた
普通の人なら分かる
一大率は担当の諸国を検察することで
それらの国の統治の任にあたっていた
これも分かる >>825のように訳した学者は当時の刺史や都督の制度を知っているから
検察という言葉をとりしまり・統治と現代語訳したわけで
それを現代人である自分個人の感覚で矛盾だーとかぶーたれても
所詮ど素人のダダコネだってこと 一大率は女王国の北側に居て諸国を検察している
一方は伊都国に常に居て女王国の北側の諸国を治めている
これを同一の人物だとするには無理がある
畿内説の学者がいい加減に訳したのを
その後誰も気が付かずに見過ごしていただけだな。 >>863
「一大率は女王国の北側に居て諸国を検察している 」
「一方は伊都国に常に居て女王国の北側の諸国を治めている」
って言ってるのは岡上なんだから
いい加減で矛盾してるのは岡上の脳一個だけだ >>866
まさか>>864を反論とか言ってるのか?
>>864は単なる悪口だけで論とか無いけど???
不思議な奴だな >>868
いや、痛烈すぎる反論だろう
「一大率は女王国の北側に居て諸国を検察している 」
「一方は伊都国に常に居て女王国の北側の諸国を治めている」
が>>863 の歪曲捏造だって事実を指摘したんだから >>801
>治には「治める」か「(病が)治る、す」しか意味ないよ。
@「おさめる」、「おさまる」
ア:「河川をおさめ導く(整備して、河川の氾濫を防ぐ)」(例:治水)
イ:「国を治める」、「統治する」(例:治国)
ウ:「整える」、「整頓する」
エ:「司る(支配する)」、「取り仕切る」、「営む」、「経営する」
オ「取り調べる」、
カ:「裁く(善悪を判断する)」
キ:「正す」
ク:「なおす」、「治療する」(例:根治)
ケ:「なおる」
A「まつりごと(政治)」
B「いさお(功績、手柄)」
C「みやこ(都)」
D「州・郡・県などの政庁(政治上の事務などを行う役所)の所在地」
E「盛ん」、「盛んになる」
F「比べる」
G「匹敵する」
H「助ける」
https://okjiten.jp/kanji585.html そもそも、明らかな誤字な上に。
それまで、ヒナモリをはじめ倭語でまとまってたのに
いきなり漢単語が出てくるのは不自然だ。
http://up2.cache.kouploader.jp/koups22680.jpg
魏の使者は、倭語の固有名詞の説明をしない。
(本来、説明しなきゃいけない事なのに。
おそらく、訳者の能力じたいが不十分で。
ちょっと面倒な用語になると意味が把握できなくなる。
手間がかかるんで、いちいち聞き返したりした様子もない)
ようは、倭人に聞かされたままを
メモしてるだけで、細かい単語の意味は興味すら示してない。 「治」は治所とする、の意味でしょう
一大率は複数?単数?
一・大率なのか、一大・率なのか?
この文は色んな意味が考えられるね 半島では徳率とか大率とかいろいろあったが、邪馬台国には一つしかなかったわけだよ。 >>877
というか、倭人がそのまま「治める」だか
それに近い表現をしたんじゃないかと
「おさめる」からして「収める」「納める」「修める」と
意味はまばらにある。
「あそばされる」とか「おめしになる」とか言っても
外国人からしたら「遊んだ」とか「飯をくった」のかと
カン違いしても不思議はない。
で、そもそも使者は倭人が説明してる事に
そもそも興味が無い様に見える。
ぼんやり聞いて、大雑把に「こんな意味かな?」と書いてる印象。
たとえば、「ひなもり」と言う単語は倭人なら意味が分かるけど
当時の中国人には意味が全然わからなかったはずだ。
(何度も出てくるから、さすがに人名では無いとは思うだろうけど)
で、もっと問題なのがひなもり以外の単語が、
日本人にもあまりピンとこない点。
つまり、魏の使者の通訳のヒアリング能力そのものが怪しい。
ひなもりは何度も聞かされたから比較的、原音に近くなったが
それ以外の単語は、そもそもかなり音が崩れてるし。
音が崩れた上で会話してたのだから、意味のカン違いも少なくないはずだ。 また、この話をしているの?
『遅れてやって来た倭種』 あーあ こんな文字も無い頃の日本史とか全然おもしろくねぇ
中国には2000年遅れやからな さっき朝日で江戸に偽造されたのではないか?みたいなニュースやってたけど初耳だわ >>885
成分分析で金属の産地や時代がだいたい特定さてるからなあ
いわゆる左翼がよくやってる「歴史修正主義」とかいうやつじゃね? でも実際歴史書き換えてるのは
どっちかつーと左翼だよな、特に近代史は酷いのが多い
後は学者の売名も 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
54A94 X線蛍光分析なら非破壊で微量成分が検出できる
不純物の存在割合で産地が推定できるんだが、なぜか金印を分析しないね 137名無しのひみつ2017/11/20(月) 21:30:46.06ID:tIdxnd4R
中国の博物館には万を数える古銅印が収蔵されているが(日本にも流れて来たのがある)、半分は明から作られた贋骨董
だろうと言われている。木竹製品、陶磁器は制作年代を物理的に調べる方法があるが、金属には方法が無いので、真贋判
定はされずほったらかされている。
この漢倭の金印も判定に物理的方法は無いので状況証拠を検証するしかない。http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171020002376_comm.jpg
しかし偽派の言い分は随分お粗末なもので全く証拠にならない
1、ハネを彫る字体は漢代に無い・・・これは間違い。むしろこれは漢印に特徴的にある。https://i.imgur.com/JPF6avZ.jpg
2、出土状況があいまい・・・もし亀井南冥が計画して芝居打ったのなら正確に記録しているだろう。あいまいなのは亀井南冥も
知らなかったからだ。
3、字の彫り方が広陵王璽と異なる・・・印彫り職人は大勢居る、人により彫り方が異なるのは当たり前。
真派の言い分も積極的に真だとする証拠にはならないが、その他の状況、幕府公認に限られる格式高い金細工師に、内緒で贋作
依頼できないなど亀井南冥には贋作できないだろうから、偽が作られた可能性は非常に低い 132名無しのひみつ2018/02/24(土) 22:59:59.88ID:6F1b13sj>>137
偽と言う奴は、”後漢時代の金印がポロと田んぼで見つかるはずがない、
亀井南冥が売名の為に偽造して仕組んだ芝居だ”と言うんだな。
なら亀井南冥がそんなことをする可能性があるのか検証しないといけない。
1、まずこの言い方が矛盾している。確かに金印が出たのは奇跡的なことだ。
ならば、亀井南冥が売名の為にそんなありそうもないことを仕組むだろうか、
それはない、やるのならありそうな誰もが納得することを考えるだろう。
2、亀井南冥は既に福岡藩随一の碩学と言われ、藩の御典医で藩主の信頼
厚く、新設の藩塾の塾長を任された。既に学者として成功しており、今更
売名の企てをする必要などない人物だ。
3、もう一つの藩塾が金印の解釈でバカ言って恥をかいた、それで奴らは
印は偽だ、漢の属国扱いの印など潰せとわめいたが、藩主は亀井南冥を
信頼して、金印は黒田家の家宝として保管し、金印の件はそれで終わった。
4、その後に亀井南冥が塾長を辞め蟄居を命ぜられたのは、松平定信の
寛政異学の禁で、それを批判して、”ま 気持ちは分かるが、幕政を批判
するのはマズいよ”ということで、金印の件とは全く関係ない。
これでまず亀井南冥が売名の為に偽造した可能性は100%無いね
もう一つ調べた事を書く。 日本と中国に現存する南北時代以前の金印は
41個しかなく、その30個は現代になって発掘したものだ。銅印が万個ある
のにこれは驚くほど少ない。 これは中国で偽の銅印は何千個もあるが、
金印の贋作は無かったということだ。何故なら、あまりに少なくて贋作者
も金印は見たことがないからだろう、モデルが無いのでは贋作できない。
”漢委奴国王”は完全な後漢時代のデザインにできている。江戸時代に
あった銅印しか載っていない印譜からはこのデザインの贋作はできない。 金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。 この金印とヤマタイは150年以上の差だから なにも関係ないな
倭国大乱ヤマタイの頃は既にあそこに隠されていて誰も存在を知らなかっただろう ニセモノだろ
本物のわけないじゃん、
そんな都合よすぎる話、普通真に受けるか? おめでてー連中だなw え?
ギリギリで糸島水道も陸地が繋がっていたと思ったが? ああ、そっち。
まあ、それでも目と鼻の先だから、運ぶのは簡単。 細石神社て由緒もなんも無い村社
http://www.komainu.org/fukuoka/itoshimasi/sazareishi/sazareishi.html
こんな所にあったわけない
もし大昔から金印が地上にあったのなら、宝物として天皇の御所か正倉院に保管されとる
神社にあったてのは、倭人伝邪馬台論争の時に委奴国はイト国だと言う奴らのでっちあげ 細石神社は天正15年(1587)豊臣秀吉に神田没収される前は大きな神社だったらしいよ。 おそらくは天孫ニニギの王宮だろうね。
つまりは、弥生時代の御所だよ。
もともと神社は王宮なんだよ。 細石神社が建てられている三雲南小路遺跡は、伊都国最初の王墓であり、筑紫の日向に降臨した邇邇芸と木花咲耶姫の王墓と言われる。
年代的には漢委奴国王印をもらった時代の倭国王墓である。 実際に遺跡があるわけだから。
そうでないなら、三雲南小路の主は誰だ? まぁ 出雲大社や宇佐八幡なんかは大昔からの縁起があるが、後世に村の鎮守で作られた普通の神社はその場所の歴史に何の関わりも無いわな 九州の神社はかなり古いものが多く大和王権成立以前からのものが在る
ただ戦国時代とかに縁起が失われてしまっている。 縁起が失われているのに何故か創建時期がわかるという不思議 記紀に書かれているからだよ。
住吉とか香椎とか筥崎とか。 山中にある古墓から、宋徽宗帝が作らせた印譜が出たと称して印刷した贋の印譜にある”親魏倭王”
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku12/senwa51.jpg
中国では明の頃、文人の骨董収集ブームで、古銅印から印譜まで贋作が出回った。
印は魏の頃日本へ行ったのに、宋で印譜に出せるわけねえだろ。
実際問題として、卑弥呼が受けた”親魏倭王”は、後に魏から晋になって壱与が晋に使者を
送って慣例により返却し溶かされ、新たに”親晋倭王”が授与されたと思われる。 >>924
銅印獣鈕とか、公孫氏倭女王とか、やりたい放題だなw 魏書には金印と書いてあるのになんで銅印だ、中国の贋作屋もええ加減なやつらだな。
>>898 のように、当時は古代の金印現物は地上に無くて、贋作屋もどんな物か分からず、
贋作できなかった。
本家中国でそうだから、日本で贋作できるわけない 今以汝為親魏倭王假金印紫綬 ・・・今以難升米為率善中郎將牛利為率善校尉假銀印綬
魏書では金印とか銀印と書いてあるが、
後漢書では印としか書いてない、これじゃ銅印と思うな
建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 魏書で金印とか銀印と書いてあるんなら、
金印か銀印と思うんじゃないの?
なんで半島の最高栄誉の銀印よりも下の銅印とわざわざ思うの? 半島は王でも銀印だったから、倭國は使いでも銀印ってのは認めがたいんだろうな なんで朝鮮は銀で倭国は金だったか
朝鮮は陸続きで歩いて行けるし、シナ人と鮮人が混ざって住んどるし、朝鮮王言うても
シナの代官みたいなもんやから銀でええと。
倭国は海を越えてシナから遙かに遠い、シナ人もおいそれと行ける所でない、シナの
支配が及ばない事実上独立国だから金を授けるよ。 調べてみると逆のことばかり言ってる人がいるでしょ?
これは正解:倭人は入れ墨をしていた
他の国のことは置いといて、
倭人、入れ墨=奴隷の意味 朝鮮半島の倭人が志賀島まで落ち延びて捨てた物がいわゆる金印でしょう? >>930
金印をもらってたのはクシャーナ朝(インド)などなので
遠すぎて実質的に魏の支配権がおよばない大国には「金印」ってことだよね。
クシャーナ朝や倭には支配権がおよんでないので楽しんで朝見をしてた感じだけど
朝鮮は魏の奴隷的ポジションなので全然違う 金銀銅のランクの分かれ目、つか正確には「王・侯・邑君」だが
第一に中国にとって珍しい相手であること
第二に遠方であること
第三に大国であること 金印の発行も後漢始め頃までは秩序があったが、終わりの混乱から三国以後は
北方民族向けに乱発されて、金メッキもあった。 昔は勲章てのは無かったから
・・侯やら・・将軍は実質は無くて勲章がわりに授与された なお朝鮮は銅印しか貰ったことがない
中国の歴代王朝からも日本の格下扱い
何故兄の国というのか意味不明 漢時代の地方統治体制は、自治である王侯分国と朝廷が役人を派遣する郡県制が混在した。
当時半島は楽浪郡で分国ではなく、長である郡令は漢朝からおそらく銀印を下賜された。
海を越える倭国は朝廷支配が届かない分国と見なされたから国王の金印を受けた。
国の格がどうのということではない。
こうした地方体制は、北方諸民族が南下して個々に支配権を持った南北時代以降は消滅した。
だから半島でも高句麗とか新羅百済なぞが起こって、国王印も自分で作った。
日本でも銅で”天皇御璽”が作られた。 中国で金印拾ったオバハン オッサンの話がオモロイ
前半は広陵王璽(後漢) 12分30秒から偏将軍印章(魏晋)
https://www.youtube.com/watch?v=P6MpA-L44Fs >>943
ビデオのコメントに政府がたった350元で引き取ったと非難が集まっとる
今の中国で自由にオークション出すなら千万元かもしれんからな。
委奴國金印は藩から拾った村に50両渡されたとか。
もし親魏倭王或いは親晋倭王を発掘調査じゃなく、個人が拾って、国宝ですと届け出たら
政府はなんぼ出すかな 皇居の火災で賢所の八咫鏡が焼損したときに、「又、玉金のごとき物、数粒を得」という記録が
藤原資房の春記にある
長久元年(1040年) 九月九日
http://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/list.phpで訓読文が読める
八咫鏡が金象嵌された物だったのか、あるいは金印のごとき物と一緒に奉祭されていたのか
まあ、想像以上のことはできないけれど 日本では奈良時代から天皇御璽も銅印で、明治になるまで金印というものは作ったことがない。
明朝から渡された(懐良親王、足利義満、秀吉の三顆)日本国王之印は紛失と鋳潰しで残ってない。
明治になって作られた現行の天皇御璽は強度を出すため18金だが、それでも百年以上使われて
縁が磨り減って切れている。 これは朱の辰砂が硬い砥粒のため、拭き取ると磨り減るのだ。
朱は拭かずシンナーで洗い落とすべきなのだ。
もし漢委奴國王や親魏倭王が昔から地上にあれば、平安時代の貴族学者はそれが後漢書や
魏書の印とすぐ分かるから、その旨記録し、宝物として大事に保管しただろう。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
FLD 1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。 滇王は前漢だから蛇そのものだが、
後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない 蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。 贋作だという奴らは悪ふざけだが、歴史学考古学では重要な1級資料、骨董業界では千億円て
くらいのお値打ち品やからね、 歴史考古学界からはっきり本物だと宣言出しとくべきね。
贋作業界としては、闇から宣言するわけにいかんですわ ユネスコ 世界の記憶Memory of the World に登録しようてことだが
そりゃ当然 考古学会 歴史学会 博物館協会が公式に本物だと保証せんといかん >>950
当時、そういう資料があって
今は消失しただけかもしれんし >>953
そういう資料があり得なかったという話をしているんだろ?
コミュ障? >>954
それは何とも言えないな
言えない事分かってるから、誹謗中傷路線なんだろうけどwwwwww >>955
だったら、そういう資料があったと証明しなきゃ。
あったかも、なら何でも言えるから、そんなことには意味がない。
つまり君の発言はナンセンス。 あのな ルーブル展示のモナリザは模写なんだ 本物は消失したんだ
千年 何百年前の骨董なんか全部偽だ 本物は消失した >>957
厳島神社の平家納経は本物だよ
興福寺の阿修羅像も本物
法隆寺の玉虫厨子も本物 論破されると消えるからなぁ
このスレももう少しで終わりなんだから、頑張れよ スレ終わりになるが、初心者が見るかもしれないので、結論を再掲しとく
137名無しのひみつ2017/11/20(月) 21:30:46.06ID:tIdxnd4R
中国の博物館には万を数える古銅印が収蔵されているが(日本にも流れて来たのがある)、半分は明から作られた贋骨董
だろうと言われている。木竹製品、陶磁器は制作年代を物理的に調べる方法があるが、金属には方法が無いので、真贋判
定はされずほったらかされている。
この漢倭の金印も判定に物理的方法は無いので状況証拠を検証するしかない。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171020002376_comm.jpg
しかし偽派の言い分は随分お粗末なもので全く証拠にならない
1、ハネを彫る字体は漢代に無い・・・これは間違い。むしろこれは漢印に特徴的にある。https://i.imgur.com/JPF6avZ.jpg
2、出土状況があいまい・・・もし亀井南冥が計画して芝居打ったのなら正確に記録しているだろう。あいまいなのは亀井南冥も
知らなかったからだ。
3、字の彫り方が広陵王璽と異なる・・・印彫り職人は大勢居る、人により彫り方が異なるのは当たり前。
真派の言い分も積極的に真だとする証拠にはならないが、その他の状況、幕府公認に限られる格式高い金細工師に、内緒で贋作
依頼できないなど亀井南冥には贋作できないだろうから、偽が作られた可能性は無い 132名無しのひみつ2018/02/24(土) 22:59:59.88ID:6F1b13sj
偽と言う奴は、”後漢時代の金印がポロと田んぼで見つかるはずがない、
亀井南冥が売名の為に偽造して仕組んだ芝居だ”と言うんだな。
なら亀井南冥がそんなことをする可能性があるのか検証しないといけない。
1、まずこの言い方が矛盾している。確かに金印が出たのは奇跡的なことだ。
ならば、亀井南冥が売名の為にそんなありそうもないことを仕組むだろうか、
それはない、やるのならありそうな誰もが納得することを考えるだろう。
2、亀井南冥は既に福岡藩随一の碩学と言われ、藩の御典医で藩主の信頼
厚く、新設の藩塾の塾長を任された。既に学者として成功しており、今更
売名の企てをする必要などない人物だ。
3、もう一つの藩塾が金印の解釈でバカ言って恥をかいた、それで奴らは
印は偽だ、漢の属国扱いの印など潰せとわめいたが、藩主は亀井南冥を
信頼して、金印は黒田家の家宝として保管し、金印の件はそれで終わった。
4、その後に亀井南冥が塾長を辞め蟄居を命ぜられたのは、松平定信の
寛政異学の禁で、それを批判して、”ま 気持ちは分かるが、幕政を批判
するのはマズいよ”ということで、金印の件とは全く関係ない。
これでまず亀井南冥が売名の為に偽造した可能性は100%無いね
もう一つ調べた事を書く。 日本と中国に現存する南北時代以前の金印は
41個しかなく、その30個は現代になって発掘したものだ。銅印が万個ある
のにこれは驚くほど少ない。 これは中国で偽の銅印は何千個もあるが、
金印の贋作は無かったということだ。何故なら、あまりに少なくて贋作者
も金印は見たことがないからだろう、モデルが無いのでは贋作できない。
”漢委奴国王”は完全な後漢時代のデザインにできている。江戸時代に
あった銅印しか載っていない印譜からはこのデザインの贋作はできない。 899日本@名無史さん2018/05/08(火) 14:42:33.01
金印が何故そこにあったのか推察すると、おそらく奇跡の呂皇后と同じだろう。
西安の陝西歴史博物館にある呂皇后の玉印は、今中国にある歴史的印章で一番の
お値打ち品だ。
これは小学生が学校から帰り道で、道端の空き地で見つけた。省博物館に持って
行くとみんなびっくり仰天、拾った場所は劉邦と呂皇后の長陵から1kmの所、
呂皇后の玉印が出た。 なぜそこにあったか推察すると、これは呂皇后の墓内
でなく周囲の建物に調度品と共に安置してあった。それが前漢末の反乱で
焼き討ち略奪の時、誰かが守って持ち出し、落としたか埋めて隠した。
それから2000年、今は家や道の並木があったりするが、埋まった所は奇跡的に
何の変化も無く、表土が雨で徐々に流れて、2000年後に現れた。動かなかったから
傷一つなく綺麗な原形のまゝだった。正に奇跡の呂皇后だ。
で 金印は、魏書に倭国大乱とあるように、その頃は喧嘩ばかりやっておった。
喧嘩の時、金印はどっかに隠す、奴国が負ける隠した奴が死ぬとどこに隠したか
分からなくなる。
中国の何千個もの古銅印はほとんどが何故そこに落ちとったか推察しようもない。
そこに昔は持ち主の家や役所の建物があったとしても、千数百年過ぎると全く
跡形無くなってしまう。小さい銅印なんて丈夫な物だからそれだけが残る。
949日本@名無史さん2018/07/15(日) 09:45:01.71
1958年発掘 蛇鈕金印”晋蛮夷帰義侯”
http://www.whmuseum.com.cn/WB_collectionl_connect.aspx?id=20
この蛇鈕、造りは雑だが、形式は漢委の金印と同じ。 滇王は前漢だから蛇そのものだが、
後漢からの蛇鈕はこういう形式になった。
江戸時代ではこういう印形のデータが無いんだから、あの漢委の蛇鈕を贋作はできない
950日本@名無史さん2018/07/16(月) 08:55:10.33
蛇鈕はこれが江戸時代の贋作ではないことの決定的証拠だな。
中国に現存する蛇鈕金印は、現代で発掘された三個しかない。
中国でも明から作られた贋作印に蛇鈕は無い、どんなものか分からなかった
からだ。 日本で江戸時代に作れるわけが無い。 倭の人偏が省略されているからこそ、本物だっていう辺りも信憑性の高いところだよな 金印シンポジューム
https://www.youtube.com/watch?v=NFkFYohFcnA
考古学者とか彫金のおっさんは、字線彫り方、金属組成とか見当はずれ言うとるから結論出ない。
わしら贋作もやればできるハンコ屋篆刻家は、まずこのデザインができるかを調べる。
今なら現代の発掘物から作れるが、昔は全くこれの資料になる物が無い、だから本家中国でも
金印の贋作が無い、蛇鈕の贋作も無い、江戸時代日本で作れるわけが無い、と結論できる。
今中国では事故に備えて、貴重な発掘物は必ずレプリカを作って、本物とは離れた場所に保管する。
これは絶対真贋判定できんから、部外者にはまず見付からない所に目印つけとく ほお、参考になるわ
ありがとう
>部外者にはまず見付からない所に目印つけとく
国宝の金印も目印ついてないか、探したくなるね "状況証拠"と言うが、文字どうり清の頃古代金印はどういう状況だったかを見ると
まずあの漢委の金印以前は地上に一つも無かった。 金石学が盛んになって古文字
資料の印章も収集されたが、最大の収集家乾隆帝のコレクションも銅印ばかりで金印
は無い。現物が無いのでは印譜にも金印は無い。 あの漢委の金印は初の出土品だった
のだ。その後山東で亀鈕の漢印が出土した。これは珍しい貴重だということでレプリカ
を作った、かなり雑で、今みたいな精巧な物ではないが。あと清末に重慶で一つ出た。
清代での出土はこの三顆だけのようだ。 勿論モデルが無いのだから金印の贋作は無い。 追記 漢から長い歴史で、墓の盗掘で持ち出された金印銀印は結構あったかと思われるが、
盗掘の金銀製品は、溶かして地金にされてしまうので、原形で後世に残ることが無い。 江戸時代に作られた物なら材料となるのは小判しかないから
小判と同じような成分で作られてるはずだが
金の純度が高くて小判とは全く違うのも金印が贋作は無い証拠だな
成分的にも漢代の金製品。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ここんところずっと漢委奴国王印について頭から離れず検証してきたんだが
結論としてあれはやっぱりレプリカだと思う、本物は別にあるはず
模倣だからあまりにも嘘くさい出来栄えになった
つまみの部分の形が蛇で魚子模様が入ってる、まるっきりの偽物とするなら
これはかなり手の混んで骨のいる仕事をしてるなという結論に達した
そして文献探しても蛇鈕ってのが出てこない 「漢」の字形や倭を「委」と表記したことは文献(※)で江戸時代でもおそらく知ることができる
(後漢金印論 江戸期の人間がそうとう研究してることがわかる)
ただ蛇の形や魚子文様が文献からは見つからない
※「漢」の字形については明代発行の漢晋印章図譜 王厚之編に載っている、鈕に関してもある程度の記載あり、
鈕形に関しては1781年装剣奇賞下巻にも同様の記載あり
※漢書: 顏師古註 如淳が「委」と「倭」古代において同じといっている(しかし顔師古は違うと反論)
建武中元二年「倭奴国」奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬 (後漢書より) 鈕の部分は想像で作るには至難の技に思える
だからお手本となる本物があって模倣してる 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 状況証拠と言えば江戸時代はどういう状況だったか。 金印発見について、藩主から村へ
褒美50両が渡され、印は黒田家の家法として収蔵された。勿論亀井南冥の進言によることだ。
もしそれが偽物となったら、当然主君を騙した亀井南冥は切腹だ。 偽とばれないように金細工師
に頼むなぞできない。 偽と言う奴は今の感覚で言うとるが、江戸時代は悪ふざけでは済まん
のだよ。 そういう時代では亀井南冥は贋作など全く思い付きもせんだろう。勿論そんなこと
考えもしない人物だろうが。 >>971
>※漢書: 顏師古註 如淳が「委」と「倭」古代において同じといっている
如淳じゃなくて王贊だな そもそも 偽という奴らの思い付きがナンセンスだからな
田んぼでポロと出る筈が無い ・・・ 発掘考古学を全然知らない 中国の何千個の古代印がどこで拾われたか調べてみろ
亀井南冥が売名のため作った ・・・ まずそんなことする人物かどうか。 絶対バレないよう誰に作ってもらうんだ
バレたら切腹人生終わりだぜ 大体2000年前の金印が出ました、そんな突飛なこと
常識的に誰も考えんだろ 南冥の贋作は有り得ない
m
俺、このスレを見るまで、偽物説ってのがあること自体しらなかった(´・ω・`)
面白かった。 金印の文字部分を拡大して分析すると
古代の金属加工技術で製造された工具では絶対に掘れない
精巧な掘られ方らしいよ
最近BSの番組で観たんだけど >>979
誰かが江戸時代に紙に押してみたらしいから
その時に不鮮明なところを修正したのでは? 紙に押すのは現代でもやっているだろ。
教科書に朱で押した印影の写真が載っていた。 修正なんてしたら印鑑としての用をなさなくなるから、それはあり得ない。
古代の加工で云々も与太話。 金印の使いみちは封泥
紙に印字することじゃないぞ馬鹿ども 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 工芸文化研究所の鈴木勉理事長によると
志賀島の金印の「さらい彫り」(中心線を彫ったあと、
別の角度からもたがねを打ち込んで輪郭を整える)
は江戸時代の印によく見られる技法らしいな >>988
印その物は本物であることが確定してます。 >>987
技法なんて、中国では漢の頃から確立されていたということだよ。 「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める
「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されているらしいね 技術なんて何度も失われ、何度も再発明されるし。
そろそろスレ終わりそうだから書いとくか。
親魏倭王の印貰ったから漢委奴国王の印は埋めたんかもね。
邪馬台国のあった時代は戦乱続いたから親魏倭王の印は
奪い合う中、燃えて溶けたりして消滅。
漢委奴国王は「かんわのこくおう」だね。奴の発音は
「な、ぬ、の」どれなのか知らんけど、連体格の格助詞を
当てたもの。匈奴国も同じ。あっちの言語の格助詞もナ行
(格変化が複雑なので不正確かもしれんが)。
漢委奴をアイヌって言う説もそういうのもありかなと思った。
アイヌ語が語源じゃなくて、中古音(han iwe nu)がアイヌ語に
入った。 >>978
金印発掘の1年前に糸島市で王墓である井原鑓溝遺跡が発見されている
地元の百姓達が珍しい遺品を拾い集めていたらしく
藩はそれらを必死に回収していたらしい
甚兵衛さんの金印はそんな中の一つだったと思われる
本物かレプリカかは別として王のいた伊都国に贈られたものだろう 倭奴国と伊都国は同じものなんだろう。
だから、伊都国にあったのなら、それが本来の場所。
もっとも、細石神社に保管されていたものを世に出したという口伝もあるけどね。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 木竹簡に押印は無い 漢代皇帝の宣旨などは絹布に書いたから、それには押したかもしれない。
6年過ぎて>>1はまだ居るのかな。 この金印は後漢書に書かれた印で歴史考古学の重要な現物資料お値打ち品
だから、日本史に一つスレを置いとかないといかんな。
史書に書かれた印が出土するのは奇跡的なことだ。史記に書かれた印が出たのは滇王一つしかない。
書かれた人物の持ち印は酷吏列伝の張湯、二代目南越王、この二つは建設現場で墓が見付かった、
も一つは小学生が拾った呂皇后の玉印、この三つしかない このスレッドは1000を超えました。
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