上級公家は何故武家の棟梁になれなかったのか?
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鎌倉開幕以降、歴史の表から姿を消した公家。
しかし平安時代は源平を王家の犬として飼っていたのに何故か武家に自立されてしまった。
上級公家が武家を支配下に置き歴史を作ることも可能だったと思うが何故武家に領土を侵食されてしまったか
考察するスレです^^ >1
文官と武官に分かれたからだろう
上流貴族は文官になった
今の日本でも上位に所属する総理大臣や大臣は文官だろう
武士は本来防衛大臣の下に所属する国家公務員(中流貴族)である自衛隊が
反乱起こして武力で国を乗っ取ったに近いからな 網野善彦『歴史を考えるヒント』新潮社(2001年)
もともと列島東部では狩猟が非常に盛んであり、それを背景として東国には広大な「牧」が設定されていました。
ですから人々は家の厩のような身近なところで飼育された牛馬ではなく、牧場を飛び跳ねる野獣に近い馬と接していました。
東の王権、鎌倉幕府はその馬に乗って戦闘する武士の集団によって支えられていたのです。
それ故、東日本の人々は獣を殺し、その肉を食べることについて、
西日本の人々のように敏感ではなかったということが出来ると思います。
ケガレの問題については列島東部の社会が鈍感であると前に述べましたが、
その背景としてこのような社会の実態があったことが考えられるでしょう。 後醍醐天皇の皇子たちなんて人殺しまくりじゃねえか
忌避なんて全然してないよな >>2
上級貴族は近衛大将や衛門督など武官の役職就きまくりだがw
逆に軍事貴族は検非違使や鎮守府とか除けば受領でむしろ文官。 【明治19年における国別牛馬飼育頭数(第三次農商務統計表)】
▽馬50,000頭 牛1,000頭
北海道、宮城、福島、茨城、栃木、群馬、埼玉
▽馬50,000頭 牛10,000頭
青森、岩手、秋田、千葉、長野、新潟、岐阜、宮崎
▽馬10,000頭 牛1,000頭
山形、東京、神奈川、山梨、愛知、富山
▽馬50,000頭 牛50,000頭
熊本、鹿児島
▽馬10,000頭 牛10,000頭
静岡、石川、高知、福岡、佐賀
▼馬10,000頭 牛10,000頭
福井、徳島、愛媛、長崎
▼馬50,000頭 牛50,000頭
大分
▼馬1,000頭 牛10,000頭
滋賀、奈良、大阪、香川
▼馬10,000頭 牛50,000頭
三重、兵庫、岡山、広島、鳥取、島根、山口
▼馬1,000頭 牛50,000頭
京都、和歌山 理由は藤原摂関家を外戚に持たない後三条天皇の誕生による「院政」の開始。これに尽きる。
「武家」ってものが確立したのもこの院政期。
この時代(11世紀)には官司請負制といって、特定の技能を諸大夫(四位〜五位貴族)クラスの中下級貴族が世襲する家職制度というものが成立する。
軍事もその中の1つ。 武官職・軍事官僚職についた上級公卿ならいたかと思うが、武士になった家はそうはいないと思う。
家系図レベルだと、宇都宮氏とか首藤氏とかがそう主張してるけど。
>上級公家
って言ったって事実上力があったのは藤原摂関家だけだったからな。
それが院政によって暫時骨抜きにされていって彼らは政治の脇に追いやられ、その間に諸大夫層の貴族を多く登用して各要所に就けていったということだろう。
なぜ院が公武の頂点に立つ最高権力者にならなかったのか?
後鳥羽上皇が目指したのはそれだったろうが。 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 ( ) パンツ脱いで待ってる
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .| | | 藤原信頼
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ骨は拾ってやるよ . \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 負けたら絶交な
| |ヽ、二⌒) / .|後鳥羽| |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__. / /
藤原隆家 >>11
一応最高権力者だったろ
徳川将軍すら天皇の上座には座らなかったんだから
あくまでも天皇から武士が政権をお預かりしていたから
「大政奉還」(政治をお返しいたします)なわけで そういうのは「権力」ではなくて「権威」。
「形」だけってやつ。
明治以降もそれは続いたし、戦後の今だってそう。 海外だったら天皇家も公家もとっくに滅ぼされ武家が新たに天皇となって新王朝が作られていた
しかし日本の特殊さは権力を握った武士のトップも天皇の子孫なんだよな
源氏も足利も(徳川も)自身が天皇の子孫であることを権威として武士たちを従わせていたから
本家本元の天皇家を滅ぼせなかった そもそも公家の時代の藤原氏だって天皇を廃することをしなかった。
海外の日本研究学者たちが不思議がるところでもある。
>>16
海外だって、ある程度秩序が出来上がった時期には、王家を滅ぼして
自分が王になるなんてのは多くないと思うが。「王」と自称しても周囲に
認められなければ意味がないし。 >>16>>17
藤原氏のような天皇の外戚があえて自分は王にならず
自身の血を引く帝王を自由に操った例は海外にもある
藤原氏自身貴族化し、自力では天皇一族を攻め滅ぼす武力を有してなかったし
しかし、圧倒的な武力を持つ幕府将軍が非力な帝王を
あえて生きながらえさせていた例は少ない
日本みたいな例ね >>18
ん?たとえば欧州で
> 圧倒的な武力を持つ幕府将軍が非力な帝王を
滅ぼした例ってのはどんなのがあるんだろう? >>18
>藤原氏自身貴族化し、自力では天皇一族を攻め滅ぼす武力を有してなかった
この辺は微妙。
「諸氏兵家」といって権門の家はみな家司に軍事貴族を抱えていた。
またこの「諸氏兵家」は、後のいわゆる「武士の棟梁」に成長していった家でもあるので、武士の成立論者にとっては極めて重要な概念でもある。
ちなみに藤原摂関家に仕えていた「諸氏兵家」が清和源氏で、清和源氏が数ある軍事貴族の第一人者に成長したのも摂関家に仕えていたから。
だから藤原氏が武力を有していなかったというのは誤り。
日本は独特の権力文化だね
必ずお上をたててその権力を利用して権力を得る
世界的にもまれ
それを無視して己が頂点に立とうとする者は必ず亡ぼされる、平家や信長のように 武家と公家の最高峰近衛家なんかは、やはり婚姻関係にあるね
>>19
欧州の帝王はずっと軍人だよ(現在もイギリス王室男子は軍隊に入る)
日本の律令制度以降の天皇のように武装解除していない
また、武力による王朝交代が起こっている >>20
藤原氏が武力を有していたというのは誤り。
藤原氏自身は武装しておらず、官位を餌に雇い入れた
他氏(清和源氏)の武力に甘えてた時期があったってだけでしょ。
藤原氏は清和源氏を番犬とし、院は桓武平氏や秀郷系藤原氏を番犬としてたけど、
結局番犬たちはそれに満足せず、自分たちで政権取っちゃんたんだから。 それが一般的かどうかなのはしらないけど、
メロヴィング→カロリング→カペー、みたいなケースが、
欧米の例って言うのだろうな。
体制内乗っ取りパターン。 日本ほど長くない(数世代程度)けど、高麗とか、ベトナムにあったよ。
君主の下で権力を世襲する一族。
ネパール史の本でもそう言うの見たことあるな。
トンガも、王家の分家が実験を握り、更にそのまた分家がってきて、
しばらくそのまま続いて、最終的に分家の分家が権威権力の統合を果たすとか。
非西欧ではわりとあるんじゃないの。
西の方は、すぐ乗っ取りに乗り出す感じが。 番犬で収まっているうちは、それは飼い主が武力を握ってるってことじゃないのか?
餌をもらえなくなったらのたれ死に、少なくとも犬の方がそう思いこんでいる間は。
家康はともかく、頼朝だって自前の武力なんかほとんどないだろう。 頼朝は武装して馬と弓矢を持たせれば一人前に戦えるが、摂関家のヘタレは落馬して終わりだろう。 マロは一応弓矢を持て、異狄の攻撃に応戦したでおじゃる。 南朝は形式的には公家が武家を従えてたんじゃないの?
現職の関白・大臣が大将として戦闘に臨んでいたらしいし >>25
武力による王朝交代というけど、ごく古い時代を除けば、基本的には
王位継承権のある者が自分の権利を主張してというパターンでしょ? >>33
さすがに、突き目に悩む中納言の権帥に自ら弓矢で応戦させる
ようでは、名折れだろうね。 ちがうよ
ヨーロッパは王朝が変わるだろ
まったく王位継承権がない奴が力で新しい王朝を作って王位につくんだよ >>36
有名どころの王朝交代だと、フランスのカペー、ヴァロア、ブルボンは
全部ユーグ・カペーの男系子孫で王位継承権も保持していた家だし、
イギリスにせよスペインにせよ、全く王位継承権が無い奴が云々という
事例はあまり見当たらないが。
ナポレオンなんていう例もあることはあるにせよ、少なくとも、日本でいう
武家政権時代あたりまで下った時期に、完全な簒奪なんてのがそんな
にあるかな? >>37
そのカペー家祖のユグ・カペーはいち辺境伯(パリ伯)が権力を簒奪したもので、カロリング家の血を引いてはいないだろう。 中国は易姓革命のとおり、王朝の変革=別姓
世の乱れ→神様が別人を皇帝に指名
ヨーロッパは、血統というよりも王権というよりも領土=土地は相続の対象。
皇帝権を相続するのは誰かということ。権利や土地を相続する。
だから、相続で戦争が起きる。 >>37
日本も、源頼朝も足利尊氏も徳川家康も天皇の男系子孫だし
(家康は自称だろうが、ときの朝廷が徳川家は清和源氏だと認めちゃってるので)
カペー、ヴァロア、ブルボン同様に天皇家を乗っ取ることが可能だったわけだ
日本はそれがなかったのが特異だと言ってるの 西欧の場合は王族と臣下貴族の境目が曖昧だからじゃないの。
それと、本家が絶えたから分家が継いだと言うのは、
乗っ取りのは別物でしょ。
天皇だって、嫡流が絶えて分家が継いだなんて何度もあるし。
絶えて無くても継いだこともあるけど。
そんなに特異性を強調するところかな?
日本場合は皇統が遷っても特段なんとか朝とかって呼ばなかっただけで、
単に用語の問題のような気も。 天皇:祭司王
将軍:世俗王
武家政権誕生以後はこんな感じ。
ヨーロッパでいえば、ローマ教皇と神聖ローマ帝国皇帝とかのような関係だな。
実際よくこのように例えられるし。
>>42
ローマ教皇とローマ帝国皇帝に血縁関係はないが
日本の場合、将軍は皆天皇の子孫を称していたよ
>>37
西欧は王室の歴史が浅いだろ
皇帝の歴史が長い中国では王朝交代は何度も起こっている
西欧は日本や中国と違い女系継承も勿論認められるため
「王朝変わっても前王朝と血は繋がってる」といっても
女系で繋がってるだけの所も多いよ 易姓革命という中国の王権観で考えると、日本には王朝の交代はない。
血統のつながりのない別姓の人間が、神に指名されて新たな王朝を作るからである。
西欧的な王統と意う観点から言うと、日本には王朝の交代はある。
血のつながりのある親族に移行しているからである。 武官が武士、武人を意味しなくなったのっていつ頃から? 戦国時代までは伝統的権威による官軍認定(大義名分)が軍事的に大きな意味を持っており
敵となりうる他国が多数の時代においては天皇家は迂闊に手を出せない存在だった
というのはよっくわかるが
利用価値が無くなり反乱の温床にしかなりえなくなった江戸幕府成立以後に
天皇家が滅ぼされなかった理由が理解できない
それほど無害なフリをするのがうまかったのか?
>>46
逆。
「武士」(という用語)が武官を意味していた。 >>43
血縁関係の有無を言ってるんじゃない。
武家政権誕生以後の天皇は、その権威で世俗君主たる武士の棟梁(鎌倉殿、室町将軍、右近衛大将、江戸将軍、and so on)を任命するという形を取っていたということを言っている。
そしてこれは構図としてはヨーロッパと全く同じということをも言っている。
その意味では天皇は
Emperorよりも、King of priest
と訳した方が当てはまる
>>48
どっちでもいい。近衛や衛門の官を武士と言わなくなったのはどこらへん。 近衛や衛門の官を武士と言ったことはないんじゃないのか。
最初武士と呼ばれたのは武官より下のレベルだったらしい。
一応文士と対になってた表現らしいが、文士が五位クラスまで含まれたのに、
武士の方はかなり下級クラスだけがそう呼ばれたらしいとか。
その後武士が発生してから武士が武官に就任することはあっても、
武官=武士になったことは一度もないのでは? >>44
西洋の場合は男系女系を区分する意味があまりないような。
サリカ法とか言ってるフランス王家を別にして。
だいたい成立期の西欧貴族は入り婿的にのし上がった家が多いらしい。
平和的相続で、体制そのものや、支配層の構成が大きく変わらなければ、
女系相続だろうが、傍系相続だろうがさして関係ないのでは?
血縁が近くてもカスティーリャ王国のトラスタマラ家なんかは簒奪か。
イングランドでの所謂バラ戦争の王朝交代とかも。 >>51
対になってたのは「文人」と「武士」じゃなかったか? >>52
日本の天皇家も皇統が絶えそうになると直系女子に傍系男子が「入り婿」してるけどね
ただし日本は天皇家でも将軍家でも血縁が遠くても「養子縁組」で実子にできると信じられてた
徳川家宣は甲州松平家から入った別家ではなく綱吉との養子縁組で綱吉の実子として将軍になった
光格天皇は閑院宮家から入った別王朝ではなく後桃園天皇との養子縁組で後桃園天皇の実子として即位した 正月甲戌「又詔曰 文人武士国家所重 医卜方術古今斯崇 宣擢於百僚之内 遊優学業 堪為師範者」
『続日本紀』養老五(721)年正月
公家が武家の棟梁になれば、もはや公家とはいえなくならない? >>49
諸候の上に立つ諸王の王としての皇帝、統帥権の保持者としてのエンペラトル
どちらにせよ封建制国家における武家政権の首領である征夷大将軍の実状の方が
皇帝やEmperorの意味に近いんだよな
出家して法王を名乗った上皇もいたが、天皇という存在はそもそも法王や教皇に
近い物だよね >>57
法王や教皇は大勢の信徒たちの頂点に君臨してたけど(皇帝も信徒)
日本は多くが仏教徒で天皇や上皇までもが仏教徒
そして天皇は仏教界の頂点ではない(天皇が高僧に弟子入りしていた)
天皇が神道の頂点に位置付けられたのは明治時代になってからで
それまでは神社の大多数は日本神話関係なしに地主神やら豊作の神やら祀ってた なんて乱暴な意見w
それでは律令諸官庁で太政官と並ぶ最上位官庁に神祇官があったことをどう見るんだ?
天皇(大王)を中心に諸豪族が連合合従して成立したのが初期大和王権で、なんと言ってもその時代は祭政一致の時代でもあるのだから、神祇の面でもその天皇の祖神を中心に据えた神祇制度が確立していないわけがないじゃないか。
尚、神祇官は律令制発布以降の官庁だが、その原型はすでに大化改新以前から存在していたことが確実視されている。 治天の君が存在してても、玉体はキズをつけてはいけないと神聖視されていたしね。
実際、鍼治療を受けたいがために譲位したいと言い出す天皇もいたし。 武芸が得意じゃなかったとか。
軍事方面には関心がなかったとか。
山本こうじが大河でやってたお公家さん役の人なんてあきらかに軍事やるきないしなw
>>62
公家でも鎌倉時代の上杉氏(藤原北家勧修寺流)や
南北朝時代の北畠氏(村上源氏)みたいに武家になった家もあったけどね
でもまあ普通に考えて、もともと公家の家に生まれたのならば、血を流して戦うより、
朝廷へ出仕して家芸(琵琶とか和歌とか)で生計立てたほうが仕事内容が楽でしょ
武家=ブルーカラー(きつい仕事・成功すれば高収入)・
公家=ホワイトカラー(楽な仕事・最初から身分保障)みたいな感じ >>65
平清盛を軍事貴族とみるか武家とみるかは厳しいな
武家=幕府と主従関係を結んでいるってことだろ?
ついでにいえば幕府を開かなかった豊織政権も 藤原道長が弓比べして勝った逸話があったり、
藤原隆家が軍事面で活躍したり。
貴族の中枢も、それなりに軍事鍛錬はやっていたのでは? 軍事貴族といっても祖先は地下を経てる。堂上からそのままで武士になった例はない。 >>68
堂上はともかく、国司クラスの中流貴族の中には
公家になるものも武家になる者もいただろ? >>67
いたよ。藤原保昌とか。
だいたい軍事貴族ってのは公家から生まれたんだからそんなの当たり前の話なんだよね。
>>66
> 武家=幕府と主従関係を結んでいるってことだろ?
>ことだろ?
ってどの学者がそんなこと言ってんの?
清盛は承平・天慶の乱を鎮圧した功績で軍事面で諸大夫に取り立てられた平貞盛の子孫なんだから歴とした軍事貴族ですよ。
それとこの手のテーマに近世の
>織豊
なんてどうでもいいんですよ。 >>71
おたくは軍事貴族は武家だと思ってんの?それとも公家?
軍事面で活躍したなら藤原隆家も武家? >>72
先にこちらの>>71での質問に答えて下さい。
そうしてから貴方の質問に答えます。 鎌倉の摂家将軍、宮将軍は成人すれば追放された。関東の武士が皇族、摂関家子息の武士化を
嫌ったからではないか。 幕府があって武士がいたわけじゃなく、
既に存在していた武士を組織化したのが幕府じゃないの? 藤原隆家が活躍したとか本気で思ってるのか
あいつ何もしてないし 弓の上下を知らなかったというのは作り話だろうけどな。 武士は武芸の専門家で、上級公家は非専門家だ。専門家は非専門家の職に就けるが、
非専門家は専門職には就けない。 平安貴族は普通に馬にも乗っているし、弓もたしなみのうち。
>>76
指示や許可を出したり恩賞の申請をしたりといった、権帥が
やるべきことをやっていただろ? >>76
源頼朝も自分はずっと鎌倉にいて何もしてないよな
平家追討やったのは弟たち
大宰府にいた隆家より何もしてないだろ
それを言ったら >>71
>軍事面で諸大夫に取り立てられた
えっ?
軍事面で諸大夫に取り立てられたら武家だってどの学者が言ってるの? >>81=>>72=>>66
矛先反らしは良いから、
早く>>73で言ったように
>>71での質問に答えてね。
>>82
矛先そらしはそっちw
何で他人の質問に答えてやらんといかんw
で、>>81には答えられないの? >>69
国司を歴任して五位ぐらいになるのは下級貴族でしょ。
それより下の官人は貴族とはいえない。
「中級官人」の意味かな?
どのランクまでが貴族かは研究者によって考え方が違う。
10世紀以降の六位主典クラスまで貴族に含める人まで居る。
貴族のランクの定義の議論に踏み込むと混乱するだけだから、
やめておいた方が良いと思う。
貴族が日本において法的に定義されことがない以上しょうがないが。
一般論なら、庶民大衆より何らかの意味で卓越した階級ってだけだから、
極論だと、有位層、後世だと二本差しはみな貴族だと言っても、
一概に誤りだとは言えない。
仮に貴族自体を定義できたとしても、ランクわけがまた議論になる。
そもそも、上流貴族とか、中級貴族とか言わない方が良いけど。 平安貴族w
『御堂関白記』(長和元年十二月四日)
斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し
依りて的を打たしむと云々。
射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如し。
能射の者が伺候していないので的を射るものがいない。
それで的を打たせた。
弓で矢を的に射当てる事が出来ないので仕方なしに手で投げるようにして矢を的に打ち当てたの意。 >>85
>どのランクまでが貴族かは研究者によって考え方が違う。
>10世紀以降の六位主典クラスまで貴族に含める人まで居る。
>貴族のランクの定義の議論に踏み込むと混乱するだけだから、
>やめておいた方が良いと思う。
まあそうなんですよね。
一般には五位以上の官人を貴族と定義する学者が多いですが。
数年前のNHK日本語講座では、律令制度下に於いて官位を有する官人(従って一位〜少初位下までの全ての階級)は全て貴族と解説している学者もいました。
五位以上を貴族とすることが多いのは、この階級から位田や職田が支給される特権を帯びること及び、
一〜三位までの官人を「貴(またの名を公卿)」と呼び、
四〜五位の官人を「通貴(またの名を諸大夫)」と呼ぶことなどが根拠になっているんでしょうね。
>数年前のNHK日本語講座では→×
>数年前のNHK日本史講座では→○ >>83=>>81=>>72=>>66
経験上、貴方みたいに質問に質問で返して来る人間にマトモな人間がいた試しが無いんですよ。
問い詰めるとだいたい、話を反らしてくるか罵倒に走って来るかのどちらかです。
そしてやっぱり今回もそうでした。
>>>82
> 矛先そらしはそっちw
> 何で他人の質問に答えてやらんといかんw
> で、>>81には答えられないの?
↑については、>>73で述べました通りです。
もう一度述べましょうか?
>>>72
> 先にこちらの>>71での質問に答えて下さい。
> そうしてから貴方の質問に答えます。
です。
以上のことを踏まえた上で、私がどう
>矛先そらし
をしているのかの御説明を願います。
ちなみに>>72の貴方の質問なんて本来は無茶苦茶簡単なんですよ。
というか、武士発生論の本の1〜2冊も読んでいれば、本来なら出てこないような質問ですらあります。
従って、貴方が一切武士発生論の類いの本を読んでいないこともこちらには丸わかりになるんです。
>>89=>>65=>>73=>>82
「軍事貴族」=「公家」はお前の脳内学界の定説。
どこの「武士は正論の本の1,2冊」に書いてあることやら。
こういうと、本のタイトルも出さずに
また頭カッカで連投するんだろうな、なんかの病気だろ。お気の毒様。 >>91
仰る通り私は、>>89=>>65=>>73=>>82です。
しかし、同時に私は「=>>71」でもありますよ?
貴方との一連のやり取りの中で一番の鍵になっている「=>>71」だけ入れて来られないのはどうしてですか?
その>>71で私が述べました質問にまず貴方様が答えて下さりさえすれば、次は貴方様の思い通りに万事ことは進むのですよ?
それがどうして出来ないのですか?
>>66で貴方が述べられた
> 武家=幕府と主従関係を結んでいるってことだろ?
↑がそれこそ貴方様の「脳内学界定説」なのではなく、しかるべき学者・研究者によって唱えられている学説であるのならば、どうかその名前を一人でも挙げて下さい。
そうすれば今度は続く>>72での貴方の質問(既に述べましたようにそれは本来質問とも言えないような稚拙な質問なのですが)に対して私が瞬時にお答えできるんです。
貴方も自分の質問に早く答えてもらいたいのでしょ?
そして貴方も「武士発生論」についての議論を進めたいのでしょ?
だったら最初に質問したものに対してまずは自分が答えてから、というのが筋になってくるとは貴方も思われませんか?
それとも>>89で言いましたように、
「話を反らしたり」「罵倒・人格攻撃に走ったり」することが貴方様の目的になってしまっているのですか?
そうでないと言うのなら、どうぞすみやかに最初の質問にお答え下さい。
中国でも朝鮮でも武官は偉くないと聞いた
日本の公家達も卑しい武官にはなりたくなかったのだろう
>>15
そこなんだよな
実力主義の武士も結局、権威に弱かった >>93
近衛大将は大納言以上、ひょっとしたら内大臣よりも上の要職だけど? >>94
それはむしろ地位が高くない印象だが
結局、上に文官がいるではないか
それにその近衛大将を勤めた公家の皆さんは
武士のように武芸に秀でた人はいたのかな?
武官職を貰っただけの文官になっているんじゃないかな? 穢らわしい殺生をする武家=武官ではなかったのでは?
平家が近衛大将に任官するまで、戦とは縁のない高級公家が近衛大将に任官していたと思った
また少将からして高級公家の昇進コースの一つであって、強訴とか地方の反乱に出兵した例もなかったかと・・・
どちらかと言うと、上朝鮮のプリンスが大将に任官するのと同じようなものかと
TDN出世コース
文官、武官だからといって別段意味はない >>93
> 実力主義の武士も結局、権威に弱かった
その通りなんですよ。
承平天慶の乱も結局、思うような官位が得られないことに不満を募らせた地方留住軍事貴族やその子弟たちが、国衙や中央政府に対して反乱を起こしたものですからね。
武官と言っても、近衛府の官に任じられたとしても近衛府には指揮する軍勢はなかったし
単なる箔付けだしな・・・
人間ってさ、権威に弱い生き物ではないの?
ローマ教皇グレゴリウス7世に神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間、
教皇による破門の解除を願って謝り続けたしさ
>>1
(天皇を戴く)公家政治を否定するのが武家だから >>100
まあヘンリー8世みたいな例外もあるけどね。 >>100
カノッサの屈辱の話はよく誤解されているけど、皇帝は教皇の権威や破門されたこと
自体におそれをなした訳じゃない。
教皇廃位で対抗しようとしたけれど、破門皇帝追放を大義名分にした反対派諸侯との
戦いが不利になったため、ああいう行動に出た。
反対派を制圧した後再度破門されたときには、再び教皇廃位を言いたてつつ、軍を
率いてローマを包囲しているし、教皇は最後には亡命先で客死することになった。 >>103
へえ、そうなんだ、ありがとう、カノッサの屈辱位の知識しかなかったの
日本だけじゃないんだね、後鳥羽上皇も強気で迫ったはいいけれど
承久の変でやられちゃったしさ。やっぱ武力がすべてかな
こういうDQNは止めても無駄なんだよな
俺も遊泳禁止の場所で遊んでるDQNに向かって
危ないぞ、沖に流されたらどうするんだ!って注意したら
DQN「おきに流されるって、後鳥羽上皇かよwww」
DQN女「マジ受けるんだけど、超承久の乱〜」
とか言って聞き入れなかったわ
俺「ふざけるな!マジで帰って来れなくなるぞ!!」
つったら、
DQN「は?後醍醐さん普通に帰ってるしww」
DQN女「パねえ、パねえ建武の新政マジパねえww」
とか言うから、
勝手にしろ!!って呆れて帰ってきた・・・。 自民・公明じゃ何も変わらない
「民主」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「みんなの党」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「小沢」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「維新の会」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「石原」ならなんかやるだろ ←いまココ
そんな感じじゃね?
民主・自民じゃ何も変わらない
「第三極大連合」ならなんかやるだろ
そんな感じじゃね?
木の葉やフキの葉ではありませんか
ちなみにママコノシリヌイという雑草があります
とげのある草だそうで、憎い継子の尻をこの草でふくのだそうです
てか、この話をホントと思いますか?
ウソかホントか、さあ、どっち!
ママコノシリヌグイ○ ママコノシリヌイ×
ごめん、ちょっとまちがえた〜 なれなかったんじゃなくて、ならなかったんだろ。
なんで武士になる必要があるのか分からん。 >>114
天皇家も藤原氏も古代は血まみれの武力闘争やって
自力でその地位に上り詰めたんだけどな
上りつめてしまってからは血は穢れと言い出して武力を放棄したが 本格的に、仏教に帰依する前の覇者だもの
ジェネレーションギャップ >>117
仏教と穢れの観念は違う
延暦寺や興福寺が僧兵抱えてたことと矛盾するし
どちらかといえば血を忌み嫌うのは神道 武士信者って、みんなが武士になりたいに違いないって妄想抱いてて
気持ちが悪い。
血まみれ穢れ部落のくせに。 >>118
っていうか仏教ではそもそも殺生が禁止なので、武士は全員地獄行き。
武士が当初文盲だったからこそ、平然と殺生してた。 >>123
武士の源頼朝が平氏に焼かれた華厳宗(奈良仏教)の東大寺復興を援助し
落成記念式典にも堂々出席してるぞ 殺生を生業としていたからこその苦悩が平安後期の武士たちにはあったんだろうね。
だから浄土など仏教に帰依する。
五味文彦氏がそうした武士たちが抱えていたであろう内面の苦悩や、そこから彼らが仏教へ帰依していった内面の過程を深く考察している。 寺社仏閣も武家の庇護や寄付はありがたいから
あえて殺生厳禁なんて言ってないよね。
日本の仏教は動物の殺生を禁じたもので(僧侶の肉食は戒律で禁止されていた)
人間の殺生は禁じてなかった(比叡山の僧兵がどれだけ人殺したことか・・・) いくら日本の仏教ったって、殺生禁止条項までなしになってるわけじゃないw
>>122
悪いことをやってる意識があったからこそ金積んで無罪にしてもらおうとしたんだろ。 なぜ朝廷と幕府が並立したのか?日本人の根底を流れる穢れ思想
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=209129
おまけに日本人には神道でもこういう発想があるから武士というのはダブルパンチ。
武士崇拝してるのは物を知らない東日本の農民だけ。 >>127
武家が寺を建てる理由は自分と一門の極楽往生のためでしょ
これは天皇も公家も同じ
自分が殺した奴に報いるためではない 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」
『吉田定房奏状』
「戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんやwwwww」 武士を見て、穢れから逃れるため「えんがちょポーズ」をとる公家や町人の皆さん(鎌倉時代の絵)↓
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/1/10/Heiji.JPG/800px-Heiji.JPG
こんな時代から指をクロスさせるエンガチョポーズがあったとは。
武士は京都だとこういう扱い。血で汚れているから。
上級公卿が武士になるってどんな拷問なのよ?w >>131
御堂関白記のその記事は、儀式のための射手がいなかったという話だな。
普段の賭弓等では、上級貴族たちも普通に射て「当たった」「外れた」
というようなことをやっている。
道長の嫡子である「宇治殿」頼通が射礼で良く当てたといういうことで、弓
の師に賞を与えたりしているなど、射技は乗馬と同じく当時の貴族層にとっ
ては心得ていて当然という技術の一つだよ。 人相手に矢を射るのと、スポーツとしてバーツのように遊ぶのはぜんぜん違う。
人を相手にするのは卑しい。 『御堂関白記』(長和元年十二月四日・京都)
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。
依りて的を打たしむと云々。
射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如し。」
弓場始(歩射)
能射の者が伺候していないので的を射るものがいない。
それで的を打たせた。
弓で矢を的に射当てる事が出来ないので仕方なしに手で投げるようにして矢を的に打ち当てたの意。
弓射儀礼(歩射)の成績(『中右記』、『吾妻鏡』)
回数 命中 命中率 射手数
1096年(京都) 140 11 7.9(%) 14 最高成績:源明国(多田源氏) 40%
1260年(鎌倉) 240 181 75.4(%) 12 上級公家は武家の棟梁になれなかったんじゃなくて、武官の長だったのに武芸を忘れただけだろ…
要は、会社の二代目がバカで仕事ができなくってっていうのを、何代も繰り返してきた感じ。
その代わり、官位レースに集中。
鹿島神宮だって、あの藤原氏が信仰した武人なんだぜ… 藤原氏は武は苦手、文が得意な家柄だから、藤原氏が平和な時代に政争を
勝ち進んだので、武が軽蔑されるようになった。 >>140
中臣鎌足は一応、協力者とともに武力で蘇我宗家を滅ぼしたため出世した人物だろう
壬申の乱で処刑された人物に中臣金という人物がありこのころは武装していたと思われる 信西が保元の乱で武力制圧を進言しなかったら、だらだらとお公家の時代は続いたかもね なんだかんだ言って公家は幕末もしくは、第二次大戦まで生き残ったんじゃない? 高級公家は源平時代は生き残ったが、陶晴賢の謀反、秀次事件の連座で
相当数族滅されている。 あ、後本能寺の変→山崎の戦いも忘れてた。
これでも相当数の公家が光秀方についたため、族滅されている。 代表的な例は菊亭家ね。一時朝廷で力を伸ばしたが、秀次事件で
三族皆殺しにされ、二度と復活することはなかった。今でも菊亭という
姓は豊臣姓ど同様、日本には存在しない。 オイオイ、菊亭は姓じゃなく、家名だろ
豊臣と同じようにあつかうなヨ >>147
家名と言っても、実質姓みたいなもんだろ。源義昭とか、平信長とか、
源家康なんて普通使わないのと同じ。明治になって本姓が認められて、
藤原姓に戻った貴人もいないしね。まあ、安土桃山時代はまだ本姓の
概念はあったけどね。
ちなみに、藤原、橘、平は現在では帰化鮮人が最も好む姓と言われる。
(源は何故か余り人気はない)
この辺は本姓の意味が消滅した(むしろ家=姓を誇る)日本人と、本姓を
権威と感じ有難がる朝鮮人の違いとも言われる。 >>148
君の考える姓の定義って、どういうもの? 菊亭家が三族皆殺しにされたって、いったいどこの世界の
話だ?日本の話で無いことは確かだが。 >>141
あの大化の改新の時点では、天皇家のほうが武の家柄だろ。
聖徳太子の子孫を皆殺しにしたのも天皇家の主導臭いしな。
大化の改新のときに大規模な焚書、歴史抹消が行われたので
よくわからないよ。いずれにしても藤原氏は文官な家柄。 物理的に武士が貴族を駆除して、農民、貧民を力をもたせ、社会的に駆除したから、
事実上江戸になるまで、ぼん搾取階級は物理的に駆除淘汰されたから
13~16世紀間、武士??農民??自治府の概念が制定して制度としての税の概念すら薄く
その期間織田が京治世、インフラ改革、商業制作、をするまで多すぎる京難民をやってたのが京公家
大家以外は社会的に抹消して
税で生活でいるものと、公家の職能からの人口はあっても少なく10~20万とかしか少なければ5万もいなく、武士崩れも内包する少数完了だった。 今の日本でたとえると、官僚も自衛隊員も同じ公務員だが高級官僚が自衛隊のクーデター後に下級に落とされるようなもん 菊亭侯爵家って今も続いているのかね
菊亭に変えていない今出川家なら知っているけど >>155
1595年に秀次事件に連座し三族皆殺しにされ、族滅した。 その他、蒲生氏郷、木村重茲、大阪池田氏なども菊亭家とともに三族皆殺しに
なっている。ちなみに、木村重成は無理やり族滅した木村家の復興に養子入り
したもので、木村重茲の血縁は否定されている。 >>156
族滅なんてしてないじゃんw
菊亭家は豊臣秀次の妻一の台の実家であったために秀次事件で一の台が処刑されると
一の台の父菊亭晴季が連座し越後に配流になった。兄弟は咎めなし。
>>155
菊亭家は途中養子で継ぎながら現在まで存続。
現在の菊亭家当主は女性です。 わが鷹司家は吉井1万2000石の大名として大廊下上之御部屋席で御三家並の処遇を受けており、武家の棟梁に一番近いところにイタニダ 鎌倉幕府の摂家将軍や宮将軍は、「上級公家」の武家棟梁と言えるのでは?
だが、実権を持つことはできなかった。 北畠顕家って十分に「上級公家」でしょ?
武士の棟梁になってんじゃん? >>64が言うように、家芸や荘園収入で食っていけるうちは進んでブルーカラーになろうとは思わんよな
食っていけなくなる頃には、公家と武家の垣根はノウハウ的に相当高くなってて転職困難と
なかには北畠や土佐一条のように垣根を乗り越えていく猛者もいるけど でもまあ、北畠顕家を唯一の例外として、
武将として大活躍した人は、結局出なかったな。
別に理由があるわけでもなく、単に偶然、出なかっただけだろうけど。 仏教徒の自分から見ると、
>>121の
>仏教ではそもそも殺生が禁止なので、武士は全員地獄行き。
みたいなのは、仏教を知らない人の言だと思う。
仏教徒であろうとなかろうと、武士の家に生れたら人殺しはしなくてはならないわけで。
その中で、じゃあどうやってよりよく生きて行くか、ってのが仏教。 普通にスルーされてるが、>>106はもっと評価されていい >>163
上級といえるのは清華くらいまでだから上級では無いだろ? 『保暦間記』
「東国ノ武士、多ハ出羽・陸奥ヲ領シテ其力モアリ。是ヲ取放サント議シテ、当今ノ宮一所下シ奉ルベシトテ、
国司ニハ(中略)土御門ノ入道大納言親房息男顕家卿ヲナシテ、父子トモニ下サル。誠ニ関東ノ侍モ多付テゾ下リケル。
(中略)同十二月、主上ノ宮成良親王ト申ニ、尊氏舎弟左馬頭直義朝臣相副テ、関東八ヶ国守護トシテ下向アリ。
鎌倉ノ将軍トゾ申ケル。サレドモ、出羽・奥州ヲ取放サルル間、東国ノ武士、多ハ奥州ヘ下ル間、古ノ関東ノ面影モ無リケリ」 >>169
本来三位以上は最上級の貴族。
江戸時代には公家の数が増えた上に、公家全体の地位が下がったから
羽林家程度だと貧乏公家扱いだが、
鎌倉末期〜南北朝だと、正二位権大納言の家柄はまだ「上級」の公家と言っても良いのでは。
まして顕家の父親房は、顕家の生前時点で既に従一位准大臣まで昇っている。。 >北畠顕家
朝廷の重臣で相応に高い官位があるなら上級公家でいいな
スレタイについてだけど、やっぱり環境じゃないか
幼少時から九州武者に囲まれて育ち、九州に南朝王国を築き上げた懐良親王を見るとそう思うよ 公家でも維新後、軍人になった人って沢山いるものね。やっぱり環境かね。
・・・って書こうと思ったら、宮様の軍人は沢山いるけど、
公家はあまりいないんだね。
醍醐忠重海軍中将と、一条実孝海軍大佐くらい? 明治維新の時には西園寺公望とか、若手の公家が
全国諸方に鎮撫総督として派遣されてるけど、
実態としては飾り物であって、本当に指揮してたわけじゃないだろうね。 ある程度地位と名誉が保障されている家に生まれた奴が
あえて切った張ったとか遣ろうとは思いは無いだろ 北畠にしても、一条、西園寺にしても、
武家化して数代後には結局滅ぼされて、哀れな終末を遂げてるものね。
結局貧乏でも、公家として京都に残った人が正解だったわけ。 しかし逆に考えると五摂家の一条でさえ食い詰めれば武士化するという 実際には、
戦国が到来するまでの上級武家はほぼ全てが皇族や公家の出身で、
その中の最も著名な例が河内源氏や伊勢平氏だったわけだが。
それに、清和源氏や桓武平氏以外でも、
足利尊氏を震撼させた北畠氏(村上源氏)はもちろんのこと、
鎌倉幕府で中心的な役割を果たし、戦国時代には中国を制覇し、
幕末にはついに幕府を滅ぼすに至った大江氏や、
関東管領として東国を支配し、養子とはいえ織田氏と天下を争った上杉氏(藤原氏)など、
武士の棟梁として大活躍した公家は沢山あるんだが。
要は、「何故、公家は武士の棟梁になれなかったか」という問いは、
より正確には、
「史実では公家も武士の棟梁になったのに、何故>>1のように、なれなかったと思い込まれているのか?」
という風に問われるべきものだと思う。 てか公家の中に武門の公家(=軍事貴族)も存在していた。
清和(or陽成)源氏や国香流桓武平氏や秀郷流藤原氏や春実流大蔵氏がそれ。
それらの中で戦国以後まで残った面子は、
佐竹とか小笠原(ともに源氏)とか、岩城(繁盛流平氏)とか、立花(秀郷流藤原氏)とか、秋月(春実流大蔵氏)とか…
本当に数えるほど。
ちなみに島津や伊達のような鎌倉以来の大大名でも軍事貴族の出自ではない。 春実流大蔵氏って軍事貴族なのか
大蔵→大宰府だからむしろ文官寄りの氏族だと思ってた
大宰府で鍛えられた結果、武家化したのかなと >>184
純友討伐戦に軍功を挙げているから。
純友の乱後は春実自身は都で活躍しているよ。
源満仲とともに、京に入ったと噂のあった平将門の息子の捜索を命じられたりしている。 >>183
伊達は藤原の傍流
中央から遥か離れた地位から武功で台頭した訳だけど
一応は貴族の流れ >>181
源平を中心とした軍事貴族は祖が公家や皇族だというだけで元々受領層で「上級貴族」を出自に持たないだろ?
(武家の棟梁とは言いがたいが)四国の一条や西園寺のような例外はともかく上級貴族を出自に持つ武士は基本いないでしょ? 堂上公家以上の身分から直接(武家)(在地領主)になったのは北畠、一条、西園寺くらいじゃない?
あとは江戸期に武家分家を興した鷹司松平や高家押小路前田とか。 >>187
平安時代・鎌倉時代は上級公家>>中下級公家≒武士だったから
元々「上級貴族」だったものが、中下級に落ちた後に武士になった。
例は清和源氏、桓武平氏、宇多源氏、秀郷流藤原氏、大江氏、上杉氏など。
足利時代には武士が上級公家を凌ぐ力を持ったから、
上級公家がそのまま武士になった。
例は北畠、一条、西園寺、姉小路など。
江戸時代には幕藩体制が確立したから、
その中に取り込まれる形で武家化した。
例は鷹司松平など。
ってことで、どの時代でも一貫して
「公家が武士になって支配することは珍しくなく、普通にあった」
ってことだと思うけど?
江戸時代になると身分が確立したから、鷹司みたいなのは例外かもしらんけど。
とにかく、>>1は問題の設定の仕方がおかしいと思う。 要は鎌倉時代までは「上級公家は武家になれなかった」のではなく、
「武家にならなかった」のだ、ってこと。
例外として藤氏将軍もあって、
実際に最上級の公家が武家の棟梁になった。
「そんなの飾りでしょ。エロい人にはわからんのです」と>>1は言うのかも知れんが、
それはあくまでも結果論であって、
将軍本人の力量と、あと鎌倉御家人の動向次第では、
将軍が御家人を実効支配する可能性はもちろんあった。
九条頼経という人物本人に力量がなかったのと、あと
偶々北条氏が御家人の中で頭一つ抜けた存在になってしまったため、
ああいう結果になったってだけの話。
室町時代以降はもちろん、
「上級公家が武士になれたし、実際になった」というのが正しい。
これも、後醍醐帝がもう少し有能な人物で、建武新制がもう少し成功してたら
北畠のみでなく、多くの公家たちが大名として世の中を支配する時代がやってきたかもしれん。 竹御所が頼経の子を産んでいたら、
そのまま藤原氏が武家の棟梁として君臨してただろうね。 >>190
>「上級貴族」だったものが、中下級に落ちた後に武士になった
だから武家の棟梁は代数を重ねて零落した中下級貴族が出自で上級貴族じゃないだろ?
何自分の頭のなかを混乱させているんだか? >>192
絶対的カリスマだった源氏将軍をあのような葬り方した鎌倉御家人が
竹御所の子どもというだけで将軍として未来永劫担いだかどうか、甚だ疑問。
むしろ女系で頼朝の血を継いでいる分、摂家や皇族将軍よりも警戒されて廃位、殺害されていたかも知れん。 >>181
武家政権確立後、武家の棟梁が上級公家の官職を帯びた例は多々あるけど上級公家が武家の棟梁、
あるいは一国一円支配出来た例は皇族、摂家の鎌倉傀儡将軍以外は皆無だな。
君が列挙している河内源氏や伊勢平氏、大江(毛利)、上杉は全く上級公家ではないし、北畠も平公家
れっきとした上級公家を出自に持つ土佐一条、伊予西園寺は荘園管理のために土着しただけで一円支配
出来た有力武士団とは言い難い。 公家=位階で食う階層、武家、土地収入で食う階層。
初期の源平武士団は、その中間みたいな階層だから位階にも拘っていた。
武士が公家よりも美味しい身分になったのは南北朝以後。
この頃になると荘園も基本、武士が実効支配しており、上級公家が下向した所で殿様として君臨できない。
鎌倉以前は上級公家から武家に堕ちる旨味が全く無いからなれないよりならない。
今に例えたら上級公家=防衛省文官幹部、将軍=幕僚長、武家の棟梁=方面総監、有力大名=師団長といった感じか?
乱文ですまん。 伊勢平氏や河内源氏って本当に天皇の子孫なの?
伊勢平氏は正盛以前の系図の詳細わからないほど零落していたし、清和源氏にいたっては
実質初代の満仲の父親すら不詳。 北条氏でなく源氏将軍が仕切っていたら鎌倉幕府も、もう少しマシな終わり方したのかな? >>167
父親が不明なのは、満仲ではなく、満仲の父の経基の方だろう。不詳と言っても
清和源氏か、陽成源氏か、が問題なのであって、天皇の子孫なのはほほ不動
だろう。
平家だって、正盛以前はバッチリ残っているし(貞盛−維衡−正度−正衡−正盛)。
最も、いくつか有力な系譜があり、主導権争いはあったようで、清盛は忠正、家弘の
三族を根絶やしにしてやっと盤石な平家の長者となっている。 >>200
満仲の生年etc、本当に経基の子なのかどうか疑問視する学説がある。
経基も親王の子という高貴な出にも関わらず父親が確定できていないというのも本当に源氏なのかどうか
眉唾もの。
平氏に関しては系図は後からいくらでも繋げられる。 >>201
後世に不明であるからといって、当時から経歴が不明だったかどうかは
わからんだろ?
少なくとも、武蔵介という歴とした官人であり、貞信公記等の同時代の
一級史料にも「源経基」としてあらわれている話なんだから、
> 本当に源氏なのかどうか眉唾もの。
と疑う余地はないと思うが。 >>193
>>195
頭の中を混乱させているのはあなたの方に見えるが、
何度も言うが、「上級公家が武家の棟梁になれなかった」のは正しくなくて、
「上級公家は武家の棟梁にならなかった」という方が正しい。
もちろんこれは、
鎌倉時代までで、藤氏将軍を例外として、
あと「武家の棟梁」という意味を大名レベルくらいで使っている場合の話。
室町以後であれば、「上流公家は実際に武家の棟梁になった」。
あと、もし「武家の棟梁」という意味を、本当に全国の武士を支配する人、
という意味で使うのなら、
京都にいた政治家がいきなり何故か全国の武士を掌握するなんて
よほどの例外がない限り有り得ない話だから、
「なぜなれなかったのか?」なんて疑問自体がおかしい。
なぜ財務大臣は自衛隊を指揮できないのか?なんて言っても
指揮できないのが当然で、そんな疑問を持つ方がおかしい。それと同じ。
で、その「よほどの例外」は実際に起きていて、それが藤氏将軍なわけ。
で
>>194
何を根拠にそう言っているのかしらんけど、
そういうのは結果論から見た思い込みに過ぎないと思うよ。
歴史ってそう、素人が(専門家でも)簡単に断定できるほど単純なものじゃない。 すまん「断定」と言っている意味はね、
自分(>>191)は
「藤氏将軍が武家を本当に支配する可能性は十分にあった」
と言っているのだが、
>>193(=恐らく>>194)さんはそれに反対するだろうから、
つまり「藤氏将軍が武家を支配する可能性はほとんどなかった」
という主張だと想定し、それを「断定」だと言っている。
やや、わかりにくくてすまんね。
もし
「藤氏将軍が武家を支配する可能性はあったし、
そうである以上、もし竹御所が無事男子を産んだら、武家の棟梁として
続いていた可能性も十分にあったけど、でもまあ廃位されてた可能性もある」
という程度の主張なら、自分と同じなので、あえて反対はしない。 >>193-195さんの言うところでは、
「上級公家が武家の棟梁になる」ためには、
「上級公家」(三位以上とかじゃなくて、なぜか後世の清華家以上という定義らしい)に
属する人(=Aさんとする)が、一度地方に言って武力を持った後、
一代のうちに他の武士を全て倒して、天下統一をしなきゃならないらしい。
Aさん本人ではなく、その子孫が天下統一をした場合には、
Aさんの子孫は「上級公家」じゃないからダメ、ってことらしい。
そんなの無理に決まってるだろ。アホか。 >>205
上級公家と公家の子孫は違うぞ?
アホはおまえだろ?
こいつ少し頭おかしいんじゃないか? 豊臣秀吉は平家ないし藤原家の子孫だから上級公家が武家の棟梁にでもなったと思いたいのかな?
よく分からんw 摂家将軍は自分の兵力を持たなかったから所詮は傀儡で、棟梁になれたはずはない、
って思い込みたがる人が多いけど、そんな単純なものじゃないんだよね。
頼朝だって自分の兵力ゼロだったけど、立派に棟梁になっているわけで。
頼経が排斥されたのは、単純に頼経本人の問題。
頼朝並の力量と運があったら、藤原氏の将軍が永続した可能性は高い。 まとめると、
>>1さんが
「上級公家は何故武家の棟梁になれなかったのか?」
ってタイトルで問うていることに対して、
最も正確に答えを書くと、
「九条頼経に個人的力量がなかったから」
ってことになるわけ?
下らねw >頼朝並の力量と運があったら
それほぼ不可能だから。チートってレベルじゃないから
「為朝や義経くらい戦に強ければ〜」って言うのと変わらないから >>210
は?
「頼朝は人心掌握の天才だったから天下取れた。
頼経も頼朝並の天才だったら政権を維持できたはずだけど、
実際には凡庸だったからできなかった。
結果の差は、境遇の差というよりも、二人の力量の差の方が大きい」
って言ってるのだが、どこがどうチートなの?
論理的思考ができない人だねえ・・・・ 院政期における「イヘ」の母系から父系への、氏族から家族への変化、
それと連動した中下級貴族における個々の役職の固定化、更には家職化(決して武だけではないことに注意)
という前提を考慮に入れない意見が大杉。
そもそも
>上級公家
はこの家職化から無縁だったのだから武家社会のトップなんか育つ訳がない。
家職化してからの累代に渡る積み重ねも無しにどうやってトップになるんだ? >>211
流人と傀儡、一見境遇が似てないとは言えないけど時代背景が全く違う。
それに頼経が英明なら英明で粛清されたと思うけど?
あの状況で頼経が才能を発揮できたとでも思ってるのか?
君の論理が正しいとしたら後の親王将軍も全員凡庸だったという事になるね。
論理的思考以前に考え方そのものがチートでおかしいだろ? >>211
え?
そんな簡単に天才の真似ができたら誰だって苦労しないだろw
比べる基準がおかしいってことよ 頼朝のチートっぷりについては今更説明するまでもないと思うのだが…いちおう挙げておくと
・流人(家来はたった数人。20年間ニート)から挙兵、初戦で完敗したのに死ぬどころか3ヶ月で関東最大勢力に
・乳母が関東有数の豪族で頼朝大好き。つまりコネクション持ち
・弟が軍事的天才。むこうから味方に志願してくる
・明らかに自陣営よりも強大だった甲斐源氏を吸収、粛清。 ←ここまで政略と運のみ
・後白河法皇を相手に攻勢をかけ、守護地頭の設置と関東の自治権を勝ち取る(参考:平家一門、木曾義仲、源義経)
頼朝と頼経の境遇にもだいぶ差がある
頼朝のころは京の貴種>>>>関東の豪族、関東の武士は京に唯々諾々と従うだけだったのが、頼経のころには上皇・天皇すら島流しに出来るほど強くなっている
頼朝以前では考えられなかった幕府と言うシステムまで固まっていて、そこでは頭一つ抜けた北条氏の存在がある
粛清するには北条氏は強大になりすぎたし、味方を作ろうにも御家人との絆は弱い
関東に武士の政権を作り上げたのは頼朝であり、承久の乱で御家人を纏め上げたのは北条氏であって、頼経ではないからだ。上総介の時とは違う
そもそもトップが天才であることを前提にした政権など長持ちしない
頼家と実朝が世襲カリスマへの移行に失敗している時点で傀儡化は決定的
直系男子の彼らですらこの様なのに、薄っ〜い血縁しかない頼経にそれ以上を求めるのは酷ではないかね? 上級公家=後世の大臣家以上でしょ?
大臣家は数が少なくて特殊な家なので清華クラス以上と定義するのもあながち間違いではない。
従三位非参議も上級公家?
平堂上でも二位の中納言までは昇進しているから、純粋に下級公家だと思うけどね。 公家、朝廷は武士を配下とした大規模な軍事力を何故持たなかった(持てなかった?)のだろう。 >>205
土佐一条みたいな特殊な例を除けば源平を始めとして武士化した初代(経基、高望)から
既に<上級公家>ではなく受領層にまで落ちているね。
それとも何代も遡って天皇までたどり着く?
非論理的な思考回路もここまで来ると滑稽に見える。 理論がチグハグでよく分からないけど、ここで暴れている奴は武家の先祖をさかのぼれば
天皇もしくは藤原本家など有力皇族、貴族に繋がるから>>1は間違いだと言いたいわけ? 棟梁なんて無理だけど公家が武将化しなかったのが不思議。
山科言継やら菊亭晴季あたりは信長や秀吉の属僚みたいな仕事もこなしてたし
当人が望めば城主くらいにはなれたと思うんだけど。
室町後期から大名に寄生するんじゃなくて仕事をこなす公家ってのは結構いたわけで
それでも武家の家臣にはならんのだね。 黎明期の武士って源平の棟梁以外は京武者か在地豪族だよね。 >>220
実質万石級ではなく、所領として万石の土地を信長や秀吉から与えられた公家っていなかったんですかね?
信長や秀吉の陣中には参陣公家もいただろうに・・・ 無理だろうね。
山科家なり菊亭家なりの累代の所領があって、都落ちしてその所領に入る(つまり西園寺や一条型)というなら話は別だが。
それでも長続きはしないだろう。
武将としての人身掌握術、武家としての在地経営術といったものが家業として累代にわたって訓練されていない者に当人一代での武士化なんて無理。
商家に置き換えて考えてみればいい。
だから、先祖累代の土地に入ったとしても、しばらくすると土地生え抜きの豪族に出し抜かれて追放されたりするのがオチ。 官位では開きがありすぎて比較にならないけど武田信玄クラスの戦国大名と山科あたりの中堅上位の公家って実際は、どちらが偉かったの? >>224
個人の才覚で武将になった武家以外の出身者も多いし
武将と言っても実際にはほとんど戦場に立たない人も多いし。
有名どころでは前田玄以とかほとんど戦場に出てないんじゃ? まず武士になった場合、どこかの田舎にいかないといけないが、
公家にとって京都以外は非文明地域。
山猿みたいな野蛮な農民とか武士はいるが、文明的な知り合いも
友達もいない。
いわゆる都落ちじゃん。なりたくないよ。 ▽都人からみた吾妻男
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじと云ひて、君を一心に護るものぞ(聖武天皇/続日本紀)
あずまをのこは いでむかひ かへりみせずて 勇みたる 猛き軍卒(大伴家持/万葉集)
相模国鎌倉は、下界の鹿渋苑、天朝の築塩洲也。武将の林をなす、万栄の花よろづにひらけ、勇士の道にさかへたり(海道記)
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや(吉田定房/吉田定房奏状)
▽江戸っ子から見た京女
水 水菜 女 染物 みすや針 御寺 豆腐に 鰻鱧 松茸(大田蜀山人/一言一話)
京によきもの三つ 女子、加茂川の水、寺社(滝沢馬琴/羇旅漫録)
京は石地小砂利のみ多く、土気すくなし。故に人きれゐなり。女などはいにしへより美人多きぞ(二鐘亭半山/見た京物語)
京地は婦人よし(司馬江漢/西遊日記) 公卿たちは、いかに権力・財力があったとしても武家になりたいと思わなかったのではないか。
かなり価値観・ライフスタイルが異なるように感じる。
今で言えば、年収は800万円くらいだが、公職について知的な研究をしている人が
ベンチャーの土建業をやりたいと思わないような感じではないか。 >>232
武家が皇胤の子孫だったという説を採用したとしても意味不明 >>232
兵家貴族だよね。
官位は4、5位の中下級貴族(諸大夫貴族)。 >>234
だから彼らは上級公家じゃないでしょ?
昇殿も出来ず後世で言えば地下人だから公家とも言えない。 藤原保忠(890〜936) 上級貴族
近衛大将だったときの話。馬に不馴れなため落馬し冠を落とし恥をかいた。
(古事談)
清原元輔(908〜990) 中級貴族、三十六歌仙の一人
賀茂祭りの行列では落馬し、冠が飛んで禿頭をさらけ出した。
しかし泰然自若として、「笑ってはいけない」と説いてまわったので、見物人たちは爆笑した。
(今昔物語集、宇治拾遺物語)
藤原信頼(1133〜1160) 上級貴族
乗馬に不慣れで 落馬し、配下の義朝に「日本一の不覚人」と罵られた。
(愚管抄、平治物語) >>216
後世の「猫も杓子も中納言」時代ならともかく、少なくとも平安〜
鎌倉時代くらいであれば従三位非参議は立派な上級公家だろう。 >>237
平安末〜鎌倉初期には家格はほぼ確立しているが? >>238
で、その時期の公卿がのちの平堂上なみの扱いだったとかいう
電波を飛ばしている学者がいるのか? >>195
> 北畠も平公家
既出だが、南北朝期の大納言を「平公家」扱いするのは無理がありすぎるな。 >>239
家格成立後の南北朝なり鎌倉期に大中納言を極官としていた羽林名家が上級公家だとでも言いたいの?
当時から大納言平公家の頂点の役職で上級公家という概念は無い。
実際になったならないは別として当時から大中納言は堂上公家の大部分が昇進できる機会がある。
上級下級公家の概念は官位よりも家格。
後醍醐の信任があれほど厚かった北畠が何故、大納言止まりだったのか考えたら自明だろう。
おまえが羽林や名家まで上級公家と言いたいのなら永遠に話が噛み合わないから降りるけど? >>241
その時期には、後の羽林、名家でも大臣を出した家はいくつもあるだろ? >>241
> 後醍醐の信任があれほど厚かった北畠が何故、大納言止まりだったのか考えたら自明だろう。
北畠親房は早々に出家しているだろ?
例として持ち出すなら、四条隆資の方がまだしも適切なんじゃないかな。 中納言に上がれない家も多いし、大納言になるとさらに難しいんじゃ
ないだろうか。
たとえば山科家で大納言になったのは言継が初例だし。 >>239
その時期の摂関家が平公家として扱われている訳なかろう。
なぜ、恥ずかしげもなく、こういったレスが出来るのか理解不能。 >>244
中納言に上がれない家なんか半家位だろ? >>243
話の流れ読め。
大納言の北畠が平公家ではないという反証だろ?
>>244
山科家が上級公家だとでも言いたいの? >>245
> その時期の摂関家が平公家として扱われている訳なかろう。
平安末〜鎌倉初期の公卿が皆摂関家の出だったなら↑もわかるが、
実際には後世の平堂上の祖にあたる人も多数公卿になっている。
で、この時期にはまだ朝廷の政治や儀式もそれなりに動いていた
から、公卿にもそれなりの能力と役割が求められていたし、それな
りの重みも残っている。 >>248
公家が全部摂関家といった発想自体が意味不明、当時から摂関家を筆頭とする上級公家があり納言に
しかなれない中下級公家も当然存在しており、そうした人々によって朝廷が動いていたのは周知の事実。
話を元に戻すが君にとって上級公家とは、どのあたりの家格の公家を指すの?
一般的には清華家もしくは大臣家以上を指すと理解しておるが君の脳内では羽林、名家も上級公家? もしかして4-5位の地下を堂上公家の全てが上級公家として捉えてる? >>249
> 公家が全部摂関家というようなことを書いたのは>>245
だから、そいつに聞いてくれ。
流れを読まずに意味不明なことを書かれても困る。
> 一般的には清華家もしくは大臣家以上を指すと理解しておるが君の脳内では羽林、名家も上級公家?
江戸時代以降であれば妥当だろうし、ここで話題になっているような平安後期〜南北朝期
あたりであれば範囲が狭すぎるということになるだろうな。 >>251
> 公家が全部摂関家というようなことを書いたのは>>245
当時の公家が全て平公家というようなことを書いた>>239=おそらく君へのレスだろ。
アタリマエのことだが中世も近世も平公家が平と扱われていた、摂関家は摂関家として扱われていた。
煽り、釣りでなくて本気でやっているなら人との会話がかなり苦手な部類の人? よくわからんが山科や北畠クラスまで上級公家だと言いたいのかな? 中級公家を上級と思い込んでいる厨は少し前から深夜に粘着してるね。 >>252
中世に、摂家以外の公卿が皆後世の平堂上並みの扱いをされて
いた、と主張している電波学者がいるのか?
もしいるなら、名前を挙げてくれよ。 >>252
平安後期から鎌倉初期あたりの時期の話だぞ?
摂家とそれ以外の公卿と地下なんていう区分は、それよりはだいぶ後の
話だ。摂家は完全に別格という暗黙の話が、ようやく明確化されてきたと
いう時代の話だし、公卿になれずに終わる殿上人がふつうだった時期だ
から。 >>256
>>252
>中世に、摂家以外の公卿が皆後世の平堂上並みの扱いをされて
>いた、と主張している電波学者がいるのか?
>>239からの話の流れよく読め
質問の答え。
そんな学者いるわけないだろw
強いて言うなら公家全員が摂家とか摂家を含めて平公家扱いなどというとんでも
無い仮定を挙げた>>239=君かな?
普通に平安末期あたりから摂関になれた家が摂関家、大臣まで昇れた家が清華家(大臣家)、それ以外が平堂上じゃ? 公家の家格が成立したという書き込みに対して>>239や>>252みたいな頓珍漢なレスするような奴相手にしても無駄じゃない?(笑) >>257
平堂上公家の先祖の官歴見ると悪くて従三位非参議、普通で中納言
大納言はかなり良い部類。
半家の最下級までは調べていないけど早世を除いて四位で終わる家
はそもそも公家では無いのでは? 維新後子爵、典型的な平公家の持明院家、藤原基家から藤原基保の平安末期五人の官途
中納言、4人、非参議1人、江戸時代と殆ど変わらないかむしろ江戸期よりも高い官位を貰ってるね。
公卿のの定員が増えたのは新家の創設などで公家そのものの数が増えたからじゃないか? >>257
摂関家って摂関時代は別格じゃなかったの?
暗黙も何も公然と別格だからこそ藤原宗家の中心人物で奪い合ったと思っていた。 何に粘着しているのか知らないけど
相手が公家全員が平公家だったという妄言を吐いていると妄想して質問>>239し、
摂家を例に挙げて反論されたら、今度は公家全員が摂家だとでも思っているのかと反論>>251
具体的に指摘されても>>256のようなレス返しているし、思考回路がそもそも常人と違うな。 汚れ意識というか、特権意識が強かったんじゃないかな。
大河ドラマの清盛に出ていたような感じ。
江戸時代に貧乏御家人が商人にならなかったのと同じでさ。
武士になって汚れ役をやってその中で争うより、公家の中での出世争い
を選択したというか。 >>264
摂関時代は入内させた娘に天皇を産ませた者が政権を取った。
娘を入内させ立后させることができる家柄は藤原北家という限られた一族に限定されてはいたが
摂関の地位は世襲ではなく、天皇の外祖父になれるかにすべてがかかっていた。
平安時代末期によると、もはや摂関家は固定。
娘が入内しようがしまいが、天皇との外戚関係に関わらず世襲になった。
鳥羽天皇と外戚関係にない藤原忠実が鳥羽天皇の外戚を押しのけて摂関に就任したことで
その地位が確立したと言われている。 公実がぶちきれても摂関になれなかったもんな。
それでもこの頃の閑院流が摂関家より劣るとも思えんけど。 >>267
藤原北家ではなく、藤原摂関家家長の子息の中で正室腹の兄弟同士だけで競っていただろう。
時平の系統なんか早々に宗家候補から外れているし。
多少持ちこたえたのが実頼の系統かな。
これも速攻没落して堂上公家にすら残れていなかったっけ? >>269
それは違う。
一条天皇に娘を入内させていたのは藤原道隆・道兼・道長兄弟だけではなく
この兄弟の従兄に当たる顕光・この兄弟の叔父にあたる公季も参戦。
顕光や公季の娘が先に第一皇子を産めば道長ら兄弟は出し抜かれる可能性があった。
道長兄弟の父藤原兼家は娘2人入内させているがこの人だって摂関家家長の子息ではない。
藤原摂関家家長の正室腹兄弟のみで摂関の地位を競うようになったのは
摂関が固定された鳥羽天皇の代以降。
他の家では摂関になれないのだからライバルは兄弟のみ。
これは摂関家が固定してからしかありえない。 それで、何故朝廷ないし上級公家は武家を顎で使えなくなったの?
建武の新政では武家を公家の下に置こうとしただけで速攻潰れたしw
公家に武力が無いのは摂関時代も武家政権成立以後も同じと思うけど何故? >>270
それって北家内部の構想というより藤原北家嫡流内での叔父甥から兄弟に狭まっただけじゃない?
閑院流がブイブイ言わせていた時は摂関家から離れすぎていたから
摂関になれなかったと読んだが。 >>272
摂関期に藤原北家嫡流などという血統が決まっていたわけではない。
勿論、摂関期に娘を女御にできるのは大納言以上と決まっていたから
(娘が更衣などでは皇子が生まれても親王になれない)ある程度の家格は必要だ。
しかし、大納言以上であれば、藤原氏でなくとも、娘を入内させることは可能だったからだ。
たとえば、左大臣源雅信は宇多源氏だが、娘の倫子を天皇の女御にしようとしていた。
摂関期に書かれた「源氏物語」が源氏の繁栄を描いていたように、
藤原北家嫡流などというものが独占的な地位を確立していたわけではない。 >>271
清盛が実権握ったのが第一の原因。
承久の乱で負けたのが致命的。 >>271
摂関時代には父や叔父が摂関・姉は一条天皇の中宮という貴種である
藤原隆家(藤原道長の甥にあたる)が自ら出陣して刀伊の入冠を撃退しているし
一応まだ貴族が行使した時代ではあるんだよね。
(九州の土豪の力を借りてはいるが一応中央貴族が兵を率いて出陣し、勝利している)
それが1050年あたりからの末法思想に貴族たちがはまり、皆仏教をあつく信仰して
殺生はいけないことだ、そんなことしたら仏罰が当たり極楽浄土へ行けない、と思いはじめた。
保元・平治あたりになると貴族はもはや戦闘に当たって武装すらしていない。
保元・平治で働きのあった武士は、貴族ですら負ければ処刑した。
それで立場が逆転したっぽい。 上級公家の一門だからって必ずしも中央での地位は安泰ってわけでも無いんだよね。
藤原純友なんて関白太政大臣藤原基経の近親者でありながら、父良範の早世によって出世の道を絶たれて、伊予の地方官に任じられてる。
それも長官の伊予守ではなく、三等官にすぎない伊予掾にしか任官されていない。
その不満が、後に東の平将門とともに反朝廷の狼煙を上げる原因になるんだけど…
だから中央で生き残るかどうかにも運が結構作用する。
父が早死にしたり、権力闘争に敗れたりして後ろ楯が無くなるとすぐに国司クラスへ転落。
そういった観点から見れば、例えば宇都宮氏が関白藤原道兼の曾孫が氏祖であるというのもあながち荒唐無稽とも言えないんだよな。 鷹司信平を祖とする吉井藩鷹司松平家は、大広間、のち大廊下上ノ御部屋席という国主格、親藩格として処遇さる >>276
古代の貴族社会って天皇の皇子でも1−2代冷や飯食わされたら一気に受領層まで落ちるよな。
嵯峨源氏なんか孫世代で公卿になったのを探すほうが難しい。
大臣や摂関にまでなった藤原頼通の兄弟の家系もしかり・・・
しかし、閑院流や日野みたいな、かなり前に嫡流から外れた家がちゃっかり残ってたりで不可解w
それだけ古代の貴族は子沢山だったと言うことだが、これは古代貴族は裕福だったから側室を
たくさん持てたと言うことか?
同じく側室沢山いた江戸期の大名が何度も男系断絶、養子を繰り返しているのと対照的。 あっという間に没落するのは、上流貴族には「個人資産」がないからじゃないのか?
長者長者が財の基盤である土地を全部相続だし。
そのルートから外れると、地位はあっても資産がない。
朝廷に対しても、宇治長者に対しても、やとわれの事務員と変わらない。
当時は、給料をもらっても、貯蓄できるわけでもない。
コネで生き抜くしか方法がない。
地方に下って、地方豪族と結びついて、土地持ちになっても、今度は国司から因縁をつけられる。 >>279
平安時代は母系社会なので、母方で母方の一族と共に暮らし
土地や邸宅は母親から相続する
父親が身分ある人(天皇や摂関)でもその土地や邸宅を引き継ぐのは娘であり
男はせいぜい財政の豊かな貴種の娘に入り婿でもするしかなかった
鎌倉時代に入ると土地も邸も男系相続になるけどね
しかし大勢の男子に土地が分散してかえって弱小化しないように
嫡男以外は出家させて根絶やしにする例も少なくなかった 鎌倉時代以降の皇族や公家は跡継ぎと他家の養子以外の男子は
結婚せずに出家するのが慣例になっていたんだよな
新しく家をたてることは滅多になかった。 固定的な貴族制度がある国って大部分そんなもん。
長男は跡継ぎ、次男は聖職者、三男以降は軍人というのが欧州のデフォルト。 院政期以降は地方の首長層社会も男系化したからね。
ってことは招婿婚による在地豪族への婿入り先の確保というそれまでのルートもぐっと狭まったわけで。 >>279
平安時代は天皇の孫とか曾孫なんか全く無価値だったの?
源氏にせよ、賜姓降下した奴ら、一部の例外除いて1-3代で
歴史から抹消されてるべ? 源氏なんか藤原摂関家のおこぼれ預かったのが若干公家として残っただけで
あとは武士化したり、下級貴族にもなれないで御家断絶ばかりじゃん? 当時の日本の貴族のレール
@朝廷で官職をもらって給料をもらう
A個人資産(農地)でのうのうと暮らす(ただし権利関係が脆弱で取り上げられる恐れあり)
これから外れたら、
・江戸時代でいう部屋住み
・坊主(空きがあれば…)
・田舎で婿養子になる
・没落(給与所得も農地もないので、要するに路頭に迷う)
・盗賊になる
結構大変だな。
商業も発達していないから、商人にも職人にもなれん
土地がないので農家にもなれない。
貨幣経済も発達していないので、お金をためてのんびり暮らすこともできない。
伊勢物語には、歌のうまい売春婦が出て来る話がある。
「和歌がうまいから、きっとどこぞの貴族の娘だったんだろうね」とみんなで憐れんだ話。 臣籍降下後の行方
天皇の皇子 → 貴種ということで、朝廷社会での出世は有利。早世したり、政争に巻き込まれることが無いか、又はうまく逃れた場合は左大臣まで進む。
天皇の皇孫 → 皇子より昇進スピードはやや不利。政争に巻き込まれることが無いか、又はうまく逃れた場合は大納言まで進む。
それ以降の代 → 朝廷社会での出世は無理か?
臣籍降下した当人の代で権力者の家にゴマすって、気に入られれば子孫は朝廷社会での最低限の地位は保障されるか?(それ以外の要素もあるが)
元皇族達の行方は一部を除いてどうなったんだろうね。 臣籍降下した源氏は、摂家の家人になるのが通例じゃないのか。
あと、興世王は国主になったけど、地元セレブの居候になったり。
なんか、やりきれんな… 公家の家格固定化の後は臣籍降下で貴族にすらなれず、出家根絶やしコース
がデフォになったけど、当人にとっては2−3代で没落する貴族コースと後世の
一生童貞高僧コース、どちらが良かったのだろう? 嵯峨源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 それ以外は四位五位止まりか、僧侶になったか、路頭でのたれ死に?
仁明源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 それ以外は四位五位止まりか、僧侶になったか、路頭でのたれ死に?
文徳源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 それ以外は四位五位止まりか、僧侶になったか、路頭でのたれ死に?
清和源氏 → 朝廷社会に残って貴族なった系統(断絶)と地方に下って武士化した系統にわかれる。
光孝源氏 → 朝廷社会に残って貴族なった系統(断絶)と彫刻師の系統が明治まで残ったとか?
宇多源氏 → 一部が中・下級公家として残る。華族としては伯爵と子爵。 武家化した系統もあり。
醍醐源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 平安時代末期以降、朝廷社会から消え消息不明。
村上源氏 → 勝ち組。
冷泉源氏 → いたのかわからん。
花山源氏 → 白川家として細々と続き、江戸時代には分家品川氏が誕生。 嫡流の白川家は後継者不在で1961年断絶。(養子の話はあったらしいが、何故か白紙に…)
三条源氏 → いたのかわからん。
後三条源氏 → 有仁が左大臣まで進む。男子不在で一代で断絶。 武家に自称末裔がいた。
後白河源氏 → 断絶
順徳源氏 → いたのかわからん。
後嵯峨源氏 → 断絶
後深草源氏 → いたのかわからん。
亀山源氏 → いたのかわからん。
後二条源氏 → いたのかわからん。
後醍醐源氏 → いたのかわからん。 後醍醐天皇後裔を称する社家が明治になって華族の列に加えろと
正親町源氏 - 広幡家創立。清華家として明治まで、明治以降は侯爵。 興福寺に出家させられた藤原氏の次男、三男や傍流の男子たちが、
春日の神木で強訴すると思うと、なんか胸熱。 >>290
嵯峨源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 それ以外は四位五位止まりか、僧侶になったか、路頭でのたれ死に?
仁明源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 それ以外は四位五位止まりか、僧侶になったか、路頭でのたれ死に?
文徳源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 それ以外は四位五位止まりか、僧侶になったか、路頭でのたれ死に?
清和源氏 → 朝廷社会に残って貴族なった系統(貞純親王以外の系統は断絶)と、地方に下って武士化した系統(貞純親王の子・経基王流)にわかれる。
光孝源氏 → 朝廷社会に残って貴族なった系統(断絶)と彫刻師の系統が明治まで残ったとか?
宇多源氏 → 一部が中・下級公家として残る。華族としては伯爵と子爵。 武家化した系統もあり。
醍醐源氏 → 一部の元皇族らは大臣まで昇る。女は嫁ぎ先で余生を過ごす。 平安時代末期以降、朝廷社会から消え消息不明。
村上源氏 → 勝ち組。
冷泉源氏 → いたのかわからん。
花山源氏 → 白川家として細々と続き、江戸時代には分家品川氏が誕生。 嫡流の白川家は後継者不在で1961年断絶。(養子の話はあったらしいが、何故か白紙に…)
三条源氏 → いたのかわからん。
後三条源氏 → 有仁が左大臣まで進む。男子不在で一代で断絶。 武家に自称末裔がいた。
後白河源氏 → 断絶
順徳源氏 → いたのかわからん。
後嵯峨源氏 → 断絶
後深草源氏 → いたのかわからん。
亀山源氏 → いたのかわからん。
後二条源氏 → いたのかわからん。
後醍醐源氏 → いたのかわからん。 後醍醐天皇後裔を称する社家が明治になって華族の列に加えろとブーブー文句言ってきた。
正親町源氏 - 広幡家創立。清華家として明治まで、明治以降は侯爵。 都を離れ、田舎の豪族に婿入りしたとしてもだ…
豪族といえども、今でいえば大規模農家の跡取り息子みたいなもんだろ…
米はたくさん取れて食うに困らないかもしれないが…、なんか文化的生活は望めないような気がする。
退屈そうだな >>293
嵯峨源氏は武家で比較的有名。
花山源氏は白川伯王家で立派。 天皇の子孫と言っても全然特別扱いじゃないのがおもしろい。
・数が多すぎてみんなを特別扱い出来なかった。
・無能なやつまで面倒見切れない。
・各自が自身の才覚で生きていくのがこの時代のデフォ。天皇の子どもといえども
例外ではなかった。
・天皇ただひとりが聖なる存在で、天皇になれなかった天皇の子供はただの人
・貴族には貴族の出世争いがあり、数も限られていたから天皇の子孫が参入する
隙間はなかった。
そんなこんなで、地方に小さな領地をもらい都落ち。
そこで才覚のあるものだけが大きくなった。
近畿、西日本にはか未開拓の土地は残っていなくて、主に関東に行き、
そこで土地を開拓し、大きくする能力のある子孫だけが後に源氏として
知られるようになった。それ以外はただの庶民か死に絶えた。 鎌倉時代以降であれば未婚のまま出家しなければならないわけだしな。 >>270
>道長兄弟の父藤原兼家は娘2人入内させているがこの人だって摂関家家長の子息ではない・・・・・・
兼家の父師輔は、後代に摂関家流となる家系の家長「藤原氏長者」には就かな
かったが、娘の村上帝中宮安子所生の皇子が天皇位を継承したから安子の兄弟
兼通・兼家らが権力者になれた。
つまりは、「藤原氏長者」の地位より入内させた娘・姉妹が男子を産み
外戚になれるかが、嫡流になれるかだった。 鎌倉の摂家将軍⇒上級貴族が武家の棟梁になってんじゃん 摂家将軍、宮将軍のころは、飾りだし、かといって、執権は棟梁でもなし。
処世に、結構難しい時代だな あんまりスレには関係ないかもしれないけど
明治時代に時の政府が皇室の藩屏として華族達に軍人になることを推奨してたんだけど
本来武士である諸侯華族の方が軍務を嫌がって
公家華族の方が士官の道選ぼうと積極的だったらしい >>304
簡単に言ってしまえば経済力の違い。
華族は士官になりやすい。
仕事をしなけりゃ飯が食えない貧乏華族にとって外聞が良くて
比較的なりやすい職業が軍人だった。
武家華族は最低ラインでも中流華族と同レベルの資産持ってたんで
働かなくても食えるところが多かった。
あと武家華族は東京に集住させられたとはいえ地盤があったから
地方のインフラに出資する資本家になった例も多い。 仮に摂関などの公家が平安末期ごろ一念発起して重武装し、武家の棟梁を目指したとしても、
東国の武士たちの願いは「東国の自立」だから、結局利害が対立してしまい、
平家のように倒されてしまうのではないだろうか。
首尾よく行って、摂関重武装政権・東国政権・奥州藤原氏の分立になるだろう。 関東政権成立後も一方的に決着せず、源平の膠着状態が続けば
史実のタイミングでは平泉に手を出せなくなり、三勢力が拮抗
する展開になって面白かったんだが >>15
日本人は世界で最も祖先を敬う民族だからな。
源氏も平氏も元を辿れば天皇に辿り着く。承久の乱の北条なんて天皇家を滅ぼそうと思えば出来た筈だ。
それをやらなかったのは自分達の祖先が只ならぬ苦労の元王朝を打ち立てた事に対する誇りと敬意があったからだ。
だから祖先の作り上げた枠組みを破壊することは決してしなかった。
自分達の権威の為だけにありもしない祖先をでっち上げたり、武力に物を言わせてそれまでの王朝を完全にぶち壊した中華とかとは質が違う。 >>308
北条なんて系図捏造の最たるところじゃんw >>308
主君の作り上げた枠組み(の都合悪いところ)は破壊したけどな >>308
お、おおう……
ありもしない祖先をでっち上げた人たちなんて日本史に山ほどいるんですけど
というかほとんどじゃないのかね 摂関家の九条頼経が武家の棟梁(鎌倉殿)になってんじゃん >>318
それを言うなら頼朝だって自前の武力はほとんどなかったじゃん >>320
頼朝は自分自身で軍隊率いて出陣している
頼朝が号令をかければ武士が集まってくる
頼経が号令かければ武士が集まってくるの?
武人として戦ったの?
成人したら有無を言わせず都に返されちゃったんだが じゃ頼経や頼嗣が鎌倉将軍だった時の武家の棟梁って誰なんだよ?
まさか北条とか言わないよな >>322
執権もしくは得宗でしょ
実際に承久の乱のときの鎌倉方総大将は北条義時であり、
九条頼経は出陣していないどころか、義時に対して出陣命令も発していない。 執権だろうが得宗だろうが建前上は一御家人にすぎない
あくまでも建前上は武家の棟梁は鎌倉殿 >>323
頼経って何やってたの?
全くのお飾りかといえば、権力を危険視されて京都に追放されたわけで。 承久の乱の時は、「義時追討」の院宣が出ていたからね。
鎌倉方も「上皇御謀反」と認識していたから、「義時と上皇」の対決
だったのかも知れない。御家人たちの求心力となったのは北条政子だった
だろう。
だが、やはり武家の棟梁は鎌倉殿だろう。鎌倉殿と御家人の間に主従関係が
あった。得宗のと主従関係にあったのは、身内人だ。
執権職は鎌倉政権の役職に過ぎない。 >>325
危険視されたのは三浦氏と親密だったせいじゃないか 現代の政治家、ここ30年ほどの閣僚で大臣になってから子供を自衛官にした人いるのかな
元木さんらの武門貴族ってどうなりました? 公家出身の戦国大名といえば、
土佐一条、伊勢北畠、飛騨姉小路の3国司大名と伊予の西園寺か。
あと、豪族レベルなら、のちに高家になった遠州の大沢。
一条とか北畠は、まあ頑張ったほうだけど、姉小路はすぐ乗っ取られたな。
西園寺は国司ではなかったんだな。 >>314
先に仕掛けたのは天皇側だし殺してないだけマシ。
仮に中国なら東晋以降の例を見ても、皇室に連なる者を皆殺しにして、北条一族がそのまま入れ替わる、という形になるだろう。
日本人の祖先に対する敬意は生半可な物ではない。 >>3188-325
九条頼経が結果としてお飾りに過ぎなかったのは事実だが、
その史実の結果として、
「藤氏将軍=お飾り=権力なし」という歴史認識が生まれたのであって、
その認識のもとに、「頼経は権力のない将軍だったから武家の棟梁とは言えない」と言うのは、
原因と結果を混同しているというか、歴史認識のなさを暴露していると思うよ。
実際には、頼経は実際に武家の棟梁として迎えられたわけだし、
もし彼が有能で、かつ頼家の娘との間に嫡子を残せてたら、その子孫が
鎌倉幕府の支配者として継続する可能性は十分にあった。 >>1 「上級公家は何故武家の棟梁になれなかったのか?」
清和源氏や桓武平氏は武家の棟梁になったでしょ?
>>1「あの人らは一度受領層まで落ちぶれてますので、上級公家じゃなくて武家です。」
大伴氏や蘇我氏は日本を支配する武力も権力も持ってたけど、どうなの?
>>1「それは公家と武家が別れる前のことだから、対象外です。」
九条頼経は武家の棟梁になりましたが?
>>1「結果として北条氏に追放されたので、対象外です。」
上杉氏や大江氏等、武家となって歴史上活躍した家もありましたが?
>>1「上杉重房や大江広元の家は公卿ではないので、『上級公家』ではありません。」
北畠顕家は武家の棟梁として南北朝の動乱期に活躍しましたが?
>>1「確かに顕家は正二位大納言、准三后・親房の子ですが、
先祖は概ね大納言止まりで、大臣は久我通親まで遡るので、『上級公家』ではありません。」
一条家や西園寺家は土着して武家となりましたが?
>>1「彼らは伊予や土佐を支配しただけだし、何代か後には滅ぼされちゃったので、対象外です。
その他、姉小路は中級公家なので対象外です。」 鷹司信平は武家に転じ、その子孫は大名として残りましたが?
>>1「単なる一大名ですので、『武家の棟梁』ではありません」
西園寺公望は幕末に宮方の将軍として、軍を率いて各地を転戦し、
後には内閣総理大臣として、また元老として国政を支配しましたが?
>>1「ここでいう武家というのは江戸時代までのことですので、明治維新以降は対象外です。」
>>1
「結局、平安時代に公家と武家が別れてから、明治維新前までの間で、
先祖代々大臣を排出している『上級公家』が、
『武士の棟梁』となって、一地方のみならず国政全般を支配し、
しかもその子孫が永続的に権力を握るようなことはなかった。 なぜ?」
↑こんなところだろ。
そりゃ、それだけ条件つければ確率的に低くなるし、なぜも何もないのだが・・・
要は>>1が「公家は武家になれなかった」と思い込んでるからそう見えるだけの話であって、
実際には、公家が武力をもつことは、日本史上普通にたくさんあった。 上級公家とは?
>>1「摂政・関白まで昇進できる摂家のことです。それ以外は中級・下級公家です。」 結局、歴史を見る目の問題だと思うんだよね。
歴史を後付けでしか見られない人は、
「頼朝は源氏の嫡流に生まれたから幕府を創設できた」とか思うわけだけど、
実際には、逆に頼朝という個人に人望と才能と運があり、幕府を創設できたからこそ、
頼朝の家系が清和源氏の嫡流となったわけで。
同様に、頼経とその息子が失脚したのは、彼らの人望・才能・運と政治の偶然によるものなんだが、
歴史を教科書的にしか見られない人は、
「摂家将軍=お飾り」だから失脚する以外に道はなかった、としか見られないわけ。
じゃあそれはなぜ?ってのが>>1みたいな問いなわけだが、
当然、その問いに答えは有り得ないので、結果として「清和源氏だけが幕府を開設できた」だの、
「藤原氏は公家だから、武家になれなかった」だの、わけのわからん源平交代論だの、
といった俗説が出てくるようになる。
そんな俗説では全く説明にならないんだが、何か言えば説明できた気になっちゃうもんなんだね。 >>332
たとえ頼経が有能でもどうかな?
頼経幼少時に尼将軍北条政子が政治を執っていたのはそれはそれとして
すでに義時が執権の地位にあり、北条義時自ら兵を率いて承久の乱に勝利したことで
鎌倉幕府の地位と領地は格段に増え、北条氏は御家人たちの心をつかんでいた
それに対して九条頼経が更に鎌倉幕府の所領を増強させることができただろうか?
それは難しかっただろう
例え頼経が竹御所との間に男子を残せていたとしてもだ
その男子が邪魔になれば頼家とその息子たちのように消されるだろうしね >>338
断絶した後、皇室から降下したのが継いでるのが多いから事実上
天皇家の分家みたいなのが多い。公家。
一番多い公家は村上源氏だけど。源氏自体昔皇室から降下してる家だ。 >>338
公家を渡来系と言ってしまうなら武家も渡来系だね
そもそも支配階級なんてもとをたどっていくと限りなく同じ一族だよ
支配階級のほうが子孫が残しやすいから後世に残りやすいし >>340
戦国時代にちゃんぽんされてるから武家は違う。
戦国大名は土豪上がりが多いけど。もはや渡来系も糞もない。
徳川氏だって先祖さかのぼれば乞食の坊さんだったりする。 と言うより古代武士は明らかに浮囚でしょう。
それから戦国大名は土豪だと言うが、盗賊や海賊、
川賊をも土豪だと言うなら土豪だろうね >>341
江戸時代の大名も守護大名上りは清和源氏が結構いる
そもそも乞食の坊さんが純日本人である保障もないんだが
乞食なら純日本人って解釈なのか まあ家康の顔がみるかぎり蝦夷とか、土蜘蛛の血を引いてたのがコジキ坊主親氏君なんじゃないかな? >>342
盗賊はともかく海賊はれっきとした武士じゃないとできないだろうがw >>346
なぜ?
漁師がなぜできないのか?倭寇は武士がやってたのか? >>347
前期倭寇は御家人たちがやってた。
異国警護令は室町幕府にも引き継がれてたから
合法だったんだよ。 そうだね
だが中期以降は確実なまでに漁師層だ
室町も後期になれば惣社会が確立されていき、土地に定住してないものは雑多層が大半になっていく
戦国前後の海賊なんて漁師層以外あり得ない
因みによく話題になる川並衆の蜂須賀だが、
あれが土豪扱いされるなら、もう山賊も職人頭棟梁もみんな土豪という範疇になってしまう >>349
武士と農民の区別が無くなった時代だろw
足軽だって武士の端くれと言える時代だw >>350
イや違うよ
鎌倉関東武士段は事実上有力武装豪農集団、
だからこの時代こそ農民と武士の境なんて存在しないが、
応仁のラン以降は足軽という野盗が徘徊しはじめるわけだが、
これが少なくとも武士的扱い受けるのは江戸中期以降なはず
それまでは金で扱う雑多傭兵という存在
この足軽みたいな階層こそ土地に定住しない野盗だから足軽と呼ばれてたわけで。
蜂須賀の川並衆も根来や雑賀衆もみな実態は足軽傭兵と同じ階層
こんなのが土豪的立場な分けない
ただ単に武装しまくった地元集団が連合化していき、
警察機構が破綻した戦国の世ではそれらが旧勢力に代わり幅を聞かせるに到ってイッテんでしょう 今現代でも警察機構が破綻したら、町の若いグレた集団が武装し始め、数年後には町をしきる存在になるはず
これはどごうじゃない >>338-339以下
よく知らんが、なんかネタ同士で話しあうのが流行ってるのか?
>公家なんて渡来系が多いだろ
は?
>一番多い公家は村上源氏だけど
え??
どこの世界の「公家」の話してるの?日本でないことは確かだが >>337
北条家が専制体制をとるのは、宝治合戦と霜月騒動の後なわけで。
そういう大きな内乱があること自体からも、
頼経の将軍時にはまだ、北条氏の支配が確立してなかったことがわかるわけだが。
逆に言えば、頼経自身や安達氏・三浦氏等の、北条家以外の勢力が
権力を握る可能性も、勿論あった。 >>354
北条氏が独走態勢に入ったのは承久の乱以降。
宝治合戦と霜月騒動で粛清された安達氏・三浦氏はいずれも北条氏の外戚であり、
独走態勢に入った北条得宗の外戚として実権を握ろうとして滅ぼされたに過ぎない。
頼経に権力を握る可能性はなかったよ、 頼朝はただの御輿で要済みになったら一族もろとも消された、って意見は多いけど、
実際は違うだろう。実権を握っていたし、御輿なんかじゃなかった。
消されたのは天下を取った途端、天皇に娘を入内させようとしたり仲間だった関東武士団をそっちのけにして公家の仲間入りをしようとしたから。
共に頑張ってきた関東武士団は裏切られた気分だっただろう。 そら清和源氏という在りもしない出自をでっち上げ、その背景を利用したからな
勿論頼朝一人でできることじゃない。黒幕が存在した
というだけ。 頼朝に本当に実権あったのかな?
草創期、頼朝の名前で幕府のやったこと、全て頼朝が考えたわけでも無いし、
後の将軍の扱い見てると本当に神輿だったのか?と最近考えるようになった。 >>358
基本的な政治姿勢は平清盛のパクリが多いからね 平安末期〜鎌倉時代の坂東武者って主君に対する忠誠心無いだろw
平気で殺すし裏切るし後世語られる武士の忠義なんてものは微塵も感じられない。 そもそも戦国時代に到っても下克上だし、武士の忠義なんて、戦国時代に成り上がった大名が地元の荒くれどもを家臣として生活保証する代わりの忠誠心要求であるからな
それまでの武士は土地や財力をもていた上でそれを安堵してもらっていただけで生活の面倒まで見てもらってないからなあ
江戸時代の武士は完全に生活の全てを大名に寄生する寄生虫だから裏切れるはずがない 佐藤兄弟の忠誠をもってしても「微塵も感じられない」とは・・・
あの世でさぞ嘆いていることだろう >339
堂上家の公家は藤原氏が圧倒的に多いだろ。 公家は藤原氏支流でいっぱいで、武家は皇族支流がいっぱいだな。 武家はあくまで自称であって出自がはっきりしない家も多い。 >>366
戦国時代になるまでの武家はそれなりに血統良かったんじゃ? 藤原頼長とか藤原信頼とかが武家の棟梁になれた可能性について バリバリ武家の信長や家光もホモくせぇ棟梁だったけどな。 >>375
家康は、井伊以外には手を出さず女を戦に連れていってるから、あまり好きではなさそうだな。 369
反抗勢力に持ち上げられるパターンだな
いわゆる公家下がりの庶民の人気取りパターン
実権は持てない (・∀・)天皇からして建国の際以外は一貫して天皇親政だと戦に弱いだろ 徳田虎雄がアウトで池田大作がセーフというのは無理がありすぎる話 >>385
天皇としての建国が天武天皇のことなら、そのとおりだな。
やはり、天武のあと病弱な皇子や女帝が連続したのが痛かった。
桓武なんて偉そうにしてても、家来任せで親征やらなかったし、
それ以降の天皇は武から遠ざかる一方。 歴代天皇を含む皇族が畿内人であることは認めないの?
在日韓国人は日本生まれ日本育ちの5世、6世でもずっと在日になるんでしょ?
この理屈が通用するならば皇族もずっと畿内人であることを認めざるおえないはずだよな? >>390
ってことは俺は、最低でも九州人であり四国人であり畿内人であり
江戸っ子であり東北人であるわけか。
むっちゃ面倒なんですけどどうしてくれる?・・ >>390
その理屈が通るなら日本人など存在しない。 朝鮮人家族持世帯数(1939年) 典拠:内務省警保局『社会運動の状況』、『特高月報』
(1)大阪府87739
(2)兵庫県16872
(3)福岡県14219
(4)愛知県13946
(5)東京府13279
(6)京都府11741 >>390の理屈だと、全ての人類はアフリカ人という事になる訳だが 確かに世界は一家、人類皆兄弟だけど、
>>390は間違いだと思う。 >>396
一休さんの時間の日本船舶振興会のCM・・・
あれって、会長が元々右翼の大物だから「八紘一宇」の言い換えなんだろうな。 有栖川宮を5代将軍に迎えて、酒井忠清が執権になろうとしたというのは本当なんだろうか? 欧州貴族は上級貴族も含め封建領主であり、軍事集団指導者でも
あるが、日本の上級貴族は宮廷貴族であり、軍事面を卑しんだか
ら、軍事面は中下級貴族にまかせてしまったから。 欧州貴族の話なんかどうだっていいんだよ
親王なら日本各地にいた伝承あるけどな 貞保親王は上野国に高明親王は九州に
どっちが光源氏のモデルなん? ほれほれ平安前期のことだぞ
紫式部の書いた源氏物語にも時期的に合うぞ? 地方に親王や王がいたと言ってもやがて臣籍降下で源平姓だろ。
藤原の流れでも地方におれば中下級軍事貴族でいづれも上級貴族
ではなくなる。都に在住する上級貴族はいわば政府首班と閣僚で
武家の棟梁を使う側だ。 幻想っすな
ならなんで全国の源氏蜂起がおきたかって話 ヨーロッパでは貴族は軍事貴族のままだったが、日本の貴族は京都の公務員(事務職)になった。
この辺りは面白いわな。
中国の律令制をまねしたから、官僚制度が速く発達したのね。
地方では、中央であぶれた貴族王族が武装農業経営者になった。
でも、土地の権利関係は中央の貴族の保証が必要だった。 弱小戦国大名で四国の一条や西園寺は武力とか強かったの? 下克上まっただ中の戦国時代に、一条家はよく土佐の大名として定着できたよな。
南北朝の頃から戦いまくってた伊勢の北畠とちがって、応仁の乱で都落ちしてきた身の上なのに。 土佐一条とか伊予西園寺は武将としての器はどうだったんだろ。 >>410
下克上って言っても、誰もが上にあがろうとしてたわけじゃないんだよね。
今の人が想像するよりももっと遥かに、身分がはっきりと分れる社会だったし、
家柄とか、権威ってものが大きな力をもつ社会だった。 一条家宗家って土佐から継いでいるんだね。知らなかった。
まあその後すぐに断絶して、皇別摂家になってるわけだけど。 >>412
戦国大名と言っても半分以上が主語、守護代の出身だからね。
守護代の場合、守護が国に不在で代理で統治していたから、事実上の
統治者だった。
主語、守護代権力が健在で、統治継承権が皆無なのに、これらを倒して
大名に成り上がったのは、松永久秀、毛利元就、宇喜多直家で、いずれも
日本人では余りやらない暗殺、謀殺、讒言による政敵駆除を駆使して
成り上がっている。 土佐の守護って細川一門だったけど、自然消滅みたいな感じで、
全然存在感がない。 お前らのいう日本人のイメージって仏教僧のことか?
ちょっとおかしいぞ、生きるための常識が崩れれば誰でもやるけど? >日本人では余りやらない暗殺、謀殺、讒言による政敵駆除を駆使して
>成り上がっている。
暗殺、謀殺、讒言による政敵駆除は、公家藤原の間では日常茶飯事です。 藤原氏が暗殺・謀殺した例って、そんなに沢山あったっけ?
日常茶飯事は言いすぎだと思うが 細川政権を乗っ取った三好政権の版図も大阪湾を中心とした畿内と四国西部で、
土佐は含まれてないな。
土佐の国人たちは細川が衰退したら、一条に乗り換えたのか。 >>418
平安時代に入ってからは、初期の薬子の変以降は末期の保元・平治の乱までは、
宮廷内の権力闘争での讒言ばっかりだな。
>>419
武力闘争から離れて久しい文弱な長袖者が、武家化して土佐の国主になれたのは、
まさに奇跡としか言いようがないな。 三好政権は、なぜ中央政権としての覇権を維持できずに、
むざむざ尾張の田舎者に簒奪されてしまったんだろう? なんでって
三好政権て長慶や一門の力量に左右され依存してた
ユルイ政権だったじゃん >>421
松永久秀が三好政権の要人を讒言、暗殺で除き、内部から崩壊させたから。
しかし、松永久秀は破壊の腕前は戦国一二を競うプロ級でも、同じく破壊の名人の毛利元就と違い、
建設の才能に乏しかった。ゆえに、三好三人衆との主導権争いで勝ち切れず、信長の介入を
手をこまねいて見ているしかなかった(この点は三人衆も同じだが)。 あと、松永久秀と毛利元就の最大の違いは、松永久秀は組織の内部から崩壊させる
名人で、主家の後継者や要人を暗殺している。信長の足も再三引っ張っている。
一方、毛利元就は敵方の火種を的確に燃え上がらせる名人。江良房栄の除去や新宮党事件など。 北畠、一条はともかく、飛騨の姉小路なんて早々と三木に乗っ取られてるのに、
国司大名扱いで公家扱いされてるのは納得いかない。 >>426
でも三木に乗っ取られた後も姉小路って官位は三位や納言、参議など北畠並に高かったよね。 それが不思議なんだよな。
家康が三河守になるだけでも、松平のままでは叙任の先例がないと拒否され、
新田源氏の徳川(得川)の末裔を自称せざるをえなかった先例重視の時代に、
飛騨の山奥の国人ふぜいの三木が、まんまと公卿になりおおせたってのは、
どうにも納得しかねる。 土佐の一条、伊勢の北畠と飛騨の姉小路(三木)の三国司大名のうち、
三木だけ違和感がある。
国司でない伊予の西園寺や遠江の大沢の方が、三木よりずっとマシに思える。 受領や官途を自称するのは珍しくもないが納言を自称したのは三木ぐらいでは
ないだろうか? 三位を自称した人は結構いるみたいだね。
織田三位とか、守護代の家老ごときで三位のわけないだろうって気がするが・・・
当時は違和感なかったのかな。 自治会ぐらいの領地しか持たない極小土豪でも〇〇守を名乗りよるから
笑ける。 公卿になったのは、あくまでも古川姉小路家の者だという
建前でしょ? 伊予の西園寺って国司でもないのに、どういう資格、ポジションで伊予に君臨してたんだろう?
大沢もよくわからんのに、名門扱いされて高家第一号になってるし。 上野は上野守の上に上野太守ってのがいたからやっぱ特別だったんだろな
将門のときに上総介と常陸介は守号を名乗らせんが上野守は名乗らせているの
どういう意味があったんだろな? 太守名乗るのは親王だけだな見てると
守は上毛野氏、藤原氏ほか大勢名乗ってる
吉良上野介ってなんで介止まりなの? あとは経基と満仲の親子としては年齢あわないやでいろんな説がでてたーな
参考的に調べてみると面白いが経基の父と言われてる貞純親王と貞保親王は
ほとんと同年代、また源満仲と源高明もほとんど同年代
どういうこっちゃろな?なんでそんな記録を訂正もしないで残したんだろな? >>435
将門は上野は親王任国と知らなかったんかな >>437
満仲の生年が間違っているんだろ。930年頃だったら、全て話があう。
経基の914年、頼光の948年とも矛盾しない。 >>431
その家格で良いのなら、俺も三位を名乗るか 三位って江戸時代は貧乏な平公家でも普通に名乗ってるレベルだよな。
公卿の価値、暴落しすぎ。 極官が大納言の家は限られてた。しかも大納言になった先祖が多くないと明治になって伯爵をもらえなかったし、大納言はそれなりだったんじゃないか。 江戸期でも多くの平公家は従二位の非参議が多かったし大中納言が平安時代と比べて暴落したのは事実だけど、それなりではあったと思う。
官位のインフレが起きたのは院政期あたりかな? 朝倉義景ー花山院定凞室ー花山院定好ー定誠ー持実ー常雅ー橋本実誠室ー橋本実久ー橋本経子ー和宮親子内親王(徳川家茂御台所)
朝倉義景ー花山院定凞室ー花山院定好ー定誠ー持実ー常雅ー橋本実誠室ー姉小路(大奥上臈御年寄)
朝倉家も上級公家を経て、武家の棟梁の大奥の主になってた。
もちろん、同盟者の浅井家も大奥の主を輩出…。
浅井長政ー江(徳川秀忠室)ー徳川家光ー家綱 >>445
ほうほう、この系図のさかのぼりは初めて知ったわ。
橋本家に朝倉の血が入っていたとわな。 >>276-298
これらの点を考えると根拠が弱く仮冒と言われる系図も本当は案外繋がってるんじゃないかって気がしてくる。
家康の仮冒はよく言われるけども、少なくとも状況的に家康は自分の代で自称を始めたんじゃなく先祖がそう言っていたから従っただけだし、
それを言い出した先祖にしても女系での繋がりなり何なりにしてもそう言いだすくらいの何かがあったのかも知れない。 まあ、前近代は近代以降とちがって全くのド庶民が成り上がれるような社会じゃないから、
成り上がりと馬鹿にされがちの近世大名や武士でも、国人・地侍といった土豪層の出身だしな。
秀吉が目立つのは、逆に言うと大名級に秀吉みたいな地べた出身者が他にいないからだろうし。 >>444
位階のインフレだよね、非参議で従二位は。
お情けで公卿の列に加えるなら、せいぜい従三位止まりがいいところな気がしますね。
武家が四位、五位に叙されてるから、それより上というのもわからなくはないけれど。 >>448
というお前の勝手な解釈な
成り上がりが皆地侍国人階層なら成り上がりなんて言われるわけないだろ低脳
国人以上はもう守護大名しかいねえだろ
そもそもが国人 は荘園領主層 地侍は在地領主層
どちらも一定範疇の領主層だが、その領地階層ですらないのが大量に大名や武士になっていったから成り上がりといわれテンだよタコ
にわかが自己中解釈してんじゃなえよ粕 >>448
馬鹿の癖にこうさつしてんじゃねえよ粕
戦国時代以前までは武士という世界は地侍レベル以上の家系だけで競い愛、歪みあい、まか完結していた。
完全に地侍前後の家以上と以下で、武士という世界を構成する人間は解離していた
が、戦国時代になり、戦が長期化広域グローバル化すると、秀吉のような一般底辺階層まで大量に
傭兵武士として大量に動員されるようになった。
その中でたまたま秀吉が実力見せつけただけで、
成り上がりといわれる由縁は戦国時代以前のような地侍階層から明らかに下の、それまで武士社会を構成していなかった階層出身だから成り上がりといわれテンだよ粕
にわかは黙ってろよ >>456
上級ではないだろうけど、むしろ公家かどうかがあやしい。
前期中央軍事貴族と表現してもいいかも。 東漢氏てなんで
劉邦や光武帝の子孫て事を強調せず
暗君と名高い霊帝の末裔を称するんだろ? >>456
父親も本人も公卿に列してはいるが、それは本人たちの武功によるものだから、
むしろ足利とか徳川と同じく、武人が公卿になった部類と考えるべきだろう。
逆に、北畠顕家は勿論だが、代々公卿の家柄で将軍に任じられた大伴家持などは、
じゅうぶんに「上級公家が武家の棟梁になった」例だと言える。
スレタイの疑問は、単純に、>>1が日本の歴史を知らないということに尽きる。 >>459
その方がばれないとおもったんだろ
徳川か世良田みたいなマイナー新田自称したのと同じでばれないつもりなんだろ。たかが中華の一般市民なわけだから >>459
普通に、直接の先祖となる(と称する)最後の皇帝の名を取っているだけだと思うが。
桓武天皇の子孫は同時に天智天皇や継体天皇の子孫でもあるわけだが、
名乗る時には天智天皇何世の子孫、とは言わない。 秀吉みたいに養子に入れない人は、徳川みたいなマイナーの末裔、それもできない人は大内みたいに架空の外人をでっち上げて・・ 武家の棟梁ってみんなせいぜい5位階級の下賤から出ている。
織豊期以降なんか無位無官の下賤どころではない土豪クラスだし。 一見、家系の冒涜臭いけど
実は本物の貴種の子孫だってケースもあったのかな
劉備みたいに >>463
そのせいかわからないが、
西国大大名の渡来人率高いな
大内、長宗我部、島津、浮田 本当に自称秦氏族の末裔とかほざいてたホラ吹き大名多いよな ま、秦といっても島津はもともと都人だから
他の渡来大名とは違うが。 諸説もなにも自ら惟宗名乗りあげしてるだろ
そのご惟宗を隠すため血迷って頼朝烙印を自称しはじめただけで諸説なんてない >>465
> 一見、家系の冒涜臭いけど実は本物の貴種の子孫だってケース
平戸の松浦家とか 相馬氏とかか。一貫して名族扱いはされてたと思うけど。
本当に一度庶民に落ちて、それでも本物の貴種ってのは中々いないかなあ。。。
そもそも日本の歴史では、庶民まで落ちたら貴種であることを証明できなくなるのは
戦後の南朝皇胤騒動でもよくわかる 横井小楠こと、北条時存なんかはそれに近いか?
残念ながら暗殺されてしまったが、彼にはぜひ長生きして総理大臣にでもなってほしかった 今の時代名族も糞もあるかよ
その名族とやらで海老蔵より社会的地位は上なんかい?
見た目も稼ぎももて具合も財力も社会的地位も全部海老蔵以下どころか足下似も及ばない分際が名族も糞もあるかタコ いま華族制度が残ってたら、花田家、長嶋家、YAWARA家が授爵してるだろうな。 明石家家もな
間違いなく現代侯爵家は和田家だろうが 細川澄之も血統でいえば九条家で、管領になってるから、上級公家→武家の棟梁って感じだね。
まあ、足利義澄の母方のいとこでもあるんだけど。 童帝政元が公家から養子なんかもらったのが細川政権のgdgdの始まり。
あとから気が変わって阿波細川から養子をもらうから御家騒動になった。 平安時代に上級公卿が莫大な荘園の経済力をバックに武装化しなかったのは何故なんだろう?
天皇や摂関大臣等が軍に号令して武将クラスが源平の棟梁という図式、普通に思い浮かぶのだが
上級公家は武力に手を出さなかった。 武家でも主君が有力な家臣に取って代わられるのが横行しているのに直接武力を持たないどころか所領から吸い上げるだけで統治も在庁官人任せの公家なんか、即効地元の有力武家に軍事権取られるだろ。 そもそも武士化することはかっこいいなんていう価値観がまちがえてるからだろ
チンピラ化と同じいみあいなのに そもそも源経基が唯一無二の臣席降下した出自のチンピラ武士なだけで、そのごの満仲なんて実際経基の子かも不明
そんなの出生年月みれば一目瞭然
ようは源氏の名を勝手に使用してチンピラ家業わー正当化してきたのが武士の成り立ちと生い立ち その若頭自体がもう完全によそからきたチンピラに源氏を名乗らせて正当化させた流れ者 そもそも満仲は何回自宅を襲撃放火されてるんだよ?
さらには河内で大量の郎党を囲って完全にマフィア化してるし。 さらには盗賊には何度も襲撃され、さらにはそれら盗賊衆の捕縛に人生の大半を費やす人生とか、、
こんなのが武士の成り立ち
まともな公家どころか上層一般市民ですら敬遠する家業だろ
武士は選ばれし職業という認識がそもそもおお間違えなんだよ >>486
むしろ、私兵をたくさんもって好き勝手していたら、反逆されたでおじゃるって、感じじゃないのか。
公家と院の間で武力行使がで解決が便利なことがわかった。
その後主従逆転したって感じじゃないの。 上皇も摂関も武士を私兵として養っていたよね。
保元の乱では、その私兵を駆使して闘った。
承久の乱では、上皇自ら武士を集めて挙兵した。
でも、もし公家が本格的に自分たちも武士になっていたら、戦国時代までには、
滅ぼされていたのではないか。
畿内の武将・松永久秀とか、筒井順慶あたりに滅ぼされていたと思う。 公家や院が失敗したのは、自身の武装化ではなくて、主従関係じゃないの。
清盛は武家だけど、最後までついてきてくれる人がいなかった。
後鳥羽院は、武芸に優れたけど、だれもついてこなかったんだし。
鎌倉幕府はうちケバばかり。 >>497
清盛にはついてきたが、後継者がダメだったな。 後鳥羽院に誰もついてこないは言いすぎだろ。
藤原秀康とか三浦胤義とか大内惟信とか大江親広とかある程度の有力者が味方についてるよ。 確かに天皇家や摂関家が本格的に武装してたら、
土佐の一条や伊勢の北畠みたいに戦国時代に滅ぼされてたかもな。 >>497
お遊び武芸が得意でも根性無しだから
戦の役には立たず 本当に公家って根性腐った女の腐ったようなもやし雑魚の臆病もんの釜野郎みたいな奴等だよな
現代でいう本当の新人類だわ
こんなやつらが特権かいそうとか
信長に根絶やしにされてほしかったわ >>502
いまやってる朝ドラで柳原白蓮がモデルのキャラが出てるけど、
その兄貴なんて妹を修羅の国の成金炭鉱屋にカネで売った人間のクズだからな。 >>502 >>504
そのクズが信長の子孫という皮肉www
信長−信雄−高長−長頼−信武−信休−郁−柳原紀光−均光−隆光−光愛−前光−義光 幕末から明治初期に駆けては
国家に功績のある公家も多くいたろ
義光・白蓮兄弟の父親の前光なんかは外交官として明治政府に貢献したし たまたま重責についたのが公家だっただけで、べつに公家じゃなくてもやったろ
そもそも柳原なんていうどこにでもいる苗字程度で。
ギャル物真似の柳原加奈子とか回りにも結構ごろごろいる苗字 ただ苗字が珍しければいいのかよ?
言ってることが支離滅裂。
普通の日本人なら、比率はともかく天皇家も公家も武家も水飲み百姓も
絶対に先祖に混じってるよ。
あんたが、在日さんならそうじゃないかもしれないけど。 公家って一部の家は、近衛とか鷹司とか西園寺とか徳大寺とか醍醐とか、
いかにもな苗字だけど、大部分の平堂上は普通の苗字だよね。
柳原とか中山とか橋本とか入江とか沢とか大原とか。 んなこと言ったら大名だって
一部は徳川とか上杉とか伊達とか島津とか、いかにもだけど
大部分は森とか林とか戸田とか青山とか、ごく普通。 国主級の大大名からして、
前田、細川、黒田、浅野、池田、毛利・・・
譜代大名にいたっては、
酒井、本多、榊原、稲葉、堀田、阿部、安藤、内藤、井上・・・
どれも一般人にいくらでもゴロゴロしてる名前ばっかりだな。
徳川、松平、井伊くらいでないと、どこにでもある名前ばかりだな。 元はそこらの成り上がりだからな
守護家は
土岐、斯波、吉良、畠山、北畠、一色、赤松、六角、京極、
苗字からして格式がちごう
成り上がりだと苗字からしてわかるわな >>512
細川、毛利、酒井あたりは「ゴロゴロしてる」とは言えない。
>>513
成り上がりでない佐々木、千葉、武田、長岡、関口など
「普通」の名字もたくさんあるが?
要するに公家の家名や武家の名字は、基本的に地名から付けられているから、
一部は珍しい名字にもなるし、一部はよくある名字にもなるってだけの話。
それ以上でも以下でもない。 酒井なんてうじゃうじゃいるやろ
なにいってんだ酒井?自分の苗字を勝手に神格化すんなや酒井
お見通しやわ酒井 堂上公家全体で見ると、ナントカ小路とか○○寺って意外と少ないんだよな。 >>512
毛利ってかなり珍姓だけどな。あと、本「多」もそんなに多くはないと思うぞ。
ついでに言うと、六角は秀次事件で族滅し、今はないけどね。
(豊臣と同様、復活しなかった。豊臣は当然だが、六角が創氏改名で復活しなかったのは謎。) >>515
武田が多い理由は殆どが創氏改名によるものだけどね。
信長により宗家は族滅し、分家もそんなに多くはなかった。
藤原、武田の90%以上が半島系なのは有名な話。 その他、織田、上杉等も相当半島系の割合が高い。
創氏改名で、彼らは日本の名門性を名乗りたがったし、流石に徳川や姉小路などは拒否したが、
その他はある程度認めざるを得なかった。
それでも、拒否されてもいないのに豊臣を誰一人名乗らなかったのは、彼らの最後のプライドと言うべきだろう。 >>521
最後の一文糞ワロタ、&、すげー納得した。
以前からなんで豊臣を明治新姓した奴いないのか、藤原武田だけアホみたいに多いのか謎だったが、
なんか嘘か本当か知らないが、すげー爆笑とともに納得させられた 認定虫なんてほっておけよ。中山だなんだといった平安後期からあるような苗字
でも、「左右対称だから日本人ではあり得ない。在日だ。」とわめき散らすような
ゴミクズ集団なんだから。
「毛利」という漢字を支那風に発音すると、「マオリー」となる
>>523
正確には、北畠は守護でもあり国司でもある。 結局、公家が武士になって活躍した例はたくさんあったけど、
逆に武士が公家(豊臣秀吉みたいな、武家貴族じゃなくて、本当のいわゆるお公家さん)に
なった例はないよね。
・・・と思ったら、あった。
持明院基定(大沢基宿の子)がそれ。 525
事実、在日が多いんだから仕方がないだろ
弁護する気はないし 清和源氏唯一の公家竹内氏というのも、武士が本物の堂上家になった例だな。 >>528
持明院基定って持明院基久の娘婿になって基久と養子縁組しての公家化だからなあ
もとの大沢家を捨てて持明院家の一員として公家になっている
豊臣秀吉が五摂家筆頭近衛前久の養子になって関白になったみたいなもん?
純粋に大沢家が公家になったわけじゃないからなあ 忠臣蔵に出てくる、例の勅使饗応の際の
勅使が高野保春で、いかにもお公家さんの中のお公家さんて感じで描かれるんだが、
この人じつは持明院基定の子で、従って男系では2代前までは武士なんだよな >>533
さすがに高野保春までいくと公家生まれ公家育ちで
公家の中の公家でいいんじゃないか
武家出身の母親に育てられようが庶民に近い家女房の母親に育てられようが
公家の家で育てば公家になるように 江戸初期の持明院家は公家ながらゴリゴリの武闘派だったので
案外基定もすんなり持明院家に馴染めたかもしれん・・・。 公家はそれぞれの家に家業があり
伝統芸術文化の伝承につとめていた 大沢だの武内だの超庶民的苗字だな。公家だからなんやねん >>536
持明院基久とその子・持明院基征ってバリバリ公家でありながら
(基久は同じく公家である正親町家からの養子だったが)
大坂夏の陣に豊臣方として参戦して戦死してるんだよね
そのために持明院家が絶えてしまった
後に基定が基久の娘と結婚して持明院家復興を許された >>531
高家になった遠州堀江の大沢氏は、もとを正せば鎌倉時代に持明院家から別れた家だから、
大沢家から持明院家への養子入りは、先祖返りだとも言える。 >>541
大沢家は高家を名乗る際に藤原北家持明院流末裔を称したけど
家系図は不詳なんじゃなかったっけ?
堀江城主で今川家に仕えていた戦国時代の大沢基相より前が
はっきりしていない。 >>542
本当のところどうかどうかは別として、
少くとも養子縁組をする時点では、きっと大沢家は同族だからっていう
意識があったんだろうね。
通字の「基」が一緒っていうのも、いかにも同族っぽいし。 >>544
むしろ持明院家に養子を送り込んだことから以降、
持明院流を名乗ることになったんでは?
大沢家が持明院流を名乗るようになったのは
江戸時代以降しか確認できない。 高家の中でも大沢って圧倒的にうさん臭いよな。
他の家は、正真正銘の足利氏だったり佐々木氏だったりするんだが、
大沢は出自もうさんくさいし、末路も滑稽。 大沢家は男系だけ見ると遠州の一国人にすぎず、
なんで一番最初に高家に列せられたのか不可解だったが、
女系で木寺宮の血をひいてると知って納得した。
いや、女系が都落ちした没落皇族っていうんじゃ、やっぱり納得いかんな。 じゃあまさに光源氏の大沢の俺の子じゃない騒動はガチだったんか 大沢家は例の石高水増しがバレて爵位は貰えなかったが、持明印家は子爵になれたからよしとすべきだな。 結局、武家から公家に養子に入って後を継いだ例って持明院基定が唯一だろうか?
だとしたら、やはりものすごい例外だったんだね。
(一条房通が土佐一条から一条本家を嗣いでいるが、これは武士から公家っていうもんじゃなく
ごく近い親戚で後を継いだだけだろう)
逆に、公家から武家に養子に入った例は案外ある気がする。
細川澄之とか、佐竹義隣とか。
やっぱり血統の上では公家の方が格上だってことなんだろう。 逆に、公家の娘が武士に嫁ぐことは多かったが
武士の娘が公家に嫁ぐのは比較的少数だね >>552
そうでもない
江戸時代には実家からの援助が手厚い武家の娘が公家に嫁いだ例は結構ある
公家の娘が武家に嫁ぐのとどっちもどっち程度にあったはず
以下は武家の娘が五摂家に嫁いだ一例
・鶴姫(松平忠直女・九条道房正室)
・三千君(徳川吉通女・九条幸教正室)
・郁姫(島津斉宣女・近衛忠煕正室)
・利子(前田綱紀女・二条吉忠正室)
・竹姫(毛利秀就女・鷹司房輔正室)
・文子(毛利重就女・鷹司輔平正室)
・儀子(蜂須賀重喜女・鷹司政煕正室)
・清子(徳川治紀女・鷹司政通正室)
・静子(池田政純女・一条道香正室)
・懿姫(徳川重倫女・一条輝良正室)
・富子(細川斉茲女・一条忠良正室)
など(他にもある)
五摂家以外にも嫁いでいる 公家なんておもっきり成り上がりと混血してっからたいしたことねーだろ 千年以上前から先祖代々天皇のそばに仕えてきた
ということに大変おおきな価値がある
また日本の伝統文化芸術の継承や発展に大きく寄与してきた 遺伝子ハプロ、いまの韓国人てどうなってる?
東南アジアとチベット辺りの混血? あの人たちは、かなり近い時代まで内々では半島の言葉で会話してたらしいな。 >当時は半島渡来系が近習に多いだろ?
当時ってのが何世紀の事なのか知らんが、高麗人の書いた俗漢文が読めなくて往生したことが日本書紀に書かれているのは敏達元年(572)
近習に渡来系がいたのは五世紀ぐらいまでじゃねぃ あれはカラスの羽根に書いた手紙が読めなかったから云々ってトンチ話みたいな説話だろw 560が559に言っているなら、日本の朝廷が読めなかったのは、
高麗の国書だよ。 渡来系史官の王辰爾が、高句麗(書紀では「高麗(こま)」と表記)の国書が、
烏の羽根に書かれていて解読不能だったのを、蒸してから転写して解読したって、
まるで頓知話のような説話だろ。
そんなの史実じゃないよなあw 敏達はどうかしらんが、舒明は義慈元年に倭国に派遣された男らしいよ。 上級武士はもともとは武家の棟梁というか、雇用主だったんだけどね。
ガードマンの臨時雇い→事務員→部長→取締役社長と順調に出世されて、
ついに独立開業された感じ。 農民からの徴兵をやめたからだろ
徴兵による朝廷直轄軍を維持するべきだった 軍事貴族なのか武装農民なのか、土豪が武装したのか
武士の起源すら曖昧
鎌倉期に武家を名乗っている家は源平藤が主流で後は在地豪族系だが・・・・ 坂東平氏あたりでも家人がどういう階級出身なのかが分からんな。
源満仲あたりは在京してるから郎党は職業軍人なわけで、そういう連中の出身も謎。 >>575
雑兵は在所から次男三男をつれてくるんじゃないの?
あとは京にいる不良のあぶれ者。その手の奴はいくらでもいるだろ。
僧兵もその類いの連中だ。 そもそも当時、武家連中に棟梁という発想はあったのか? >>573
律令制は問題点多いでしょ。
農民を何年も防人にしたら誰が農地の面倒みるんだろう?
律令制は基本的に発想が貴族的なんだよな。 土地の法律がそもそも実情にそぐわず、人治主義的で、不安定であった。
そして、海外からの脅威もなく、国内も平安で、どんでもない軍縮をした。
それがそもそもの原因。
そして、出自もわからなくなるような、貴族の子孫はたくさんいたし、地方にも有力者(豪族)はたくさんいた。
そんな連中が資産(農園)をやりくりして中央とのコネをもって、
100年以上かけて、律令制の中での地位と権限とを確立していった。
その時に、武力と主従関係(御恩と奉公)という形で、地盤を気付いた。
その間、京都の有力の公家は、武家との主従関係を堅固に築くことができず、
新興の武家との武力闘争に敗れた。
武家のニーズ(農地の資産維持)を利用することはできても、
心情を汲み取ることができなかったことが敗因でしょう。 聖武天皇の頃が律令制の頂点で、天皇が絶対権力握った時期なのに、
東大寺大仏建立なんて余計なことにパワー使ったのが
その後の天皇家の不振に繋がったという指摘はある。
この時、いくらでも徴用できた労働力を使って開墾させて公分田広げとけば
墾田永年私財法に頼る必要なかったし、荘園もできなかったし武士の台頭もなかった。 後代に残る宝ができたんだし、いいじゃないか。朝廷が弱体化したから長期間存続したわけで、武力をもって強力だったら支那の王朝みたいになりかねなかった。 >580
開墾した人間に利益がいくようにしいないと
なかなか開墾はすすまないのでは
国家権力主導の開墾には限界があるだろう >>1
軍を動員できるのは地方の農村。
つまり、地方に深く結びついている貴族ほど大武士団を形成しやすい。
しかしながら、その貴族たちにとっての出世は、あくまでも
中央政界のある京都での出世。
上級公家は地方の農村の近くなんか行きたがらない。
このへんは、現代人の感覚でも同じ。
田舎よりも東京などの大都市圏で成功したいだろう?
これは、地方に下った武家の中でもそうだった。
たとえば、桓武平氏も清和源氏も、嫡流ほど京都で出世したがるので、
結果的に中途半端な中級公家にとどまって、武士団としては小規模なままだったりする。
大武士団として成功した河内源氏とか伊勢平氏とか坂東平氏とかは、
実は、清和源氏や桓武平氏の中でも庶流だった。 つうか平安時代のまともな都での武士って源氏軍にしろ平家軍にしろ
その数は2〜300人がいいとこだぞ
下手すりゃ100人いないなんて当たり前 >>583
ん?源平の嫡流ってどこだ?
源氏は三位頼政ところかもしれんが、
平家は正盛忠盛清盛のラインじゃないの? 桓武平氏の嫡流は直方のところだろう。
平家はそれで間違いないが。 >>548
大沢家が最初に高家になったというのは、やっぱり遠州の一国人ではなく、
確実な公家の末裔で、京都の持明院家とも同族として交流があったんじゃないのかな。
ただの田舎国人が最初の高家になるなんて、普通に考えてありえないだろう。 奈良時代には藤原広嗣や仲麻呂みたいに自ら反乱軍を率いて挙兵する上級貴族もいたのに、
いつから上級貴族は荒事をやらなくなったんだろう? 防人が廃止されて
自ら直接率いる軍隊がなくなったからじゃないかな 坂上田村麻呂とか文室綿麻呂みたいなのは上級貴族といっていいのだろうか? 中下級貴族で武官をやっただけで軍事貴族でも武家の棟梁でも無いだろう 『御堂関白記』(長和元年十二月四日)
斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し
依りて的を打たしむと云々。
射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如し。
能射の者が伺候していないので的を射るものがいない。
それで的を打たせた。
弓で矢を的に射当てる事が出来ないので仕方なしに手で投げるようにして矢を的に打ち当てたの意。 >>595
貴族がたまたま武官職につくのと武家の棟梁とでは全く違うだろ?
官位では坂上田村麻呂>源義家だけど義家は武門の棟梁だけど田村麻呂は単なる武官。
征夷大将軍になったけど武家の棟梁ではない。 >>597
平安時代初期にはまだ公地公民がある程度浸透していて
武家の棟梁はいなかったからね
平安時代末期になると代々自身に仕える私兵を持つ武家の棟梁が現れる
摂関家などの大貴族の身辺警護や荘園を守るという名目でお金を得て
どんどん私兵を増やす 源氏・平氏は天皇が渡来系氏族に賜った姓と公式で判明している
嵯峨源氏 - 泰忌寸
仁明源氏 - 高麗氏
文徳源氏 - 百済系三善氏
清和源氏 - 百済系三善氏
陽成源氏 - 百済系三善氏
光孝源氏 - 百済氏
宇多源氏 - 坂上忌寸
醍醐源氏 - 調宿禰
村上源氏 - 文宿禰
冷泉源氏 - 百済王氏
花山源氏 - 文宿禰
三条源氏 - 清川忌寸
後三条源氏 - 深根宿禰
後白河源氏 - 長国忌寸
順徳源氏 - 秦忌寸
後嵯峨源氏 - 大崗忌寸
後深草源氏 - 山代忌寸
亀山源氏 - 清宗宿禰
後二条源氏 - 浄村宿禰
後醍醐源氏 - 清海宿禰
正親町源氏 - 木津忌寸
桓武平氏 - 狛宿禰
仁明平氏 - 交野忌寸
文徳平氏 - 鳥井宿禰
光孝平氏 - 中科宿禰
平清盛 太政大臣
源頼朝 大納言
足利尊氏 大納言
織田信長 右大臣
豊臣秀吉 関白
徳川家康 太政大臣
武家の棟梁で政権を担ったものは皆、上級公家の官職に就いているが? >>602
武家が上級公家になった例はあるが
その逆がないってことだろ 603
上級公家ってのは従三位以上
武家の始まりはまあ国司レベルから出発してるから
まあ大将レベルになるなら従五位以上ってのが常識 つうか荘司は無任官だからそんなの関係ないんだけどな
荘司から地頭になったのもいるし惣村制になったらなお
ややこしくなってる
西日本は基本的に惣村制には移行しないで荘司の段階の
伝統がそのまま残っていないか? >>604
従三位は公家の極官の最下級だよ。
それより下は地下。
半家ですら従二位非参議が極官。 上級公家は摂関、百歩譲って清華までだろ?
普通に出世したら大臣にはなれる家じゃないと話にならんと思う。 公家=殿上人
上級は大臣家以上だね
羽林の最上位も含めていいけど 文武を問わず累代のってのがキーワードなんしょ
将門純友の際の源平藤の三家系以外は世間的にも認められない
ってものの本で読んだ
王朝鎮護の宗教的な理由も強そうだけど >>1
結論
兵力・食糧・金は所領(荘園)あってのもの
京都にいたのではどうにもなりません
土佐一条氏、伊勢北畠氏、飛騨姉小路氏のように、京を離れて荘園を守れば
大名化することは容易でした
>>573
そうだね。武力プロ集団を許してしまうと
結局、自分がその先頭に立って自分で戦わなければ現場トップに
全部もってかれてしまうからね
素人だけ集めて使ってればそれはないかもしれん・・・一揆になるかもしれんがw >>613
姉小路は、すぐ三木みたいな田舎者に乗っ取られてしまったけどね。
一条は腐っても摂関家。北畠は南北朝以来の武闘派だから、他の公家連中が同じようにできるか疑問。 >613
室町時代以前は武士に荘園の管理は任せて
京都に居座っていたのでは 公家に限らないよな
室町幕府も幕閣は幕政に従事するために京都定住であったために
守護代に任国管理を任せた結果、守護代に国を乗っ取られる守護大名続出w
足利一門管領家で越前・尾張の守護大名斯波氏
越前は守護代の朝倉に
尾張は守護代の織田に
それぞれ国を乗っ取られた >>617
北畠は三重県と青森県
一条は高知県
姉小路は岐阜県の一部
西園寺は愛媛県?
国司ダービーは北畠が最強か 公家は武士じゃないし
臣籍降下し天皇ではないが天皇と同じくらい血筋は優秀な、手の空いた人たちが武士となり軍事貴族となった
これは単なる公家からは排出できない人材だよ まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 公家は戦闘による才能のふるいに掛けられてはいない
勝ち残ったもしくは生き残った才能を持つ武家の信頼性には及ばず 藤原隆家はふくめてもらえないんですか、そうですか。 ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´Д`)(; ´J`) ∧_∧
/文室 \ 鎌倉 \ 上総 \ 三浦 ( ) パンツ脱いで待ってる
| 忠光 .| |悪源太| | 曹司 | | 胤義 / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ / .| | | 藤原信頼
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ骨は拾ってやるよ . \| ( )
| ヽ \/ ヽ. 負けたら絶交な
| |ヽ、二⌒) / .|後鳥羽| |
.| ヽ \∧_∧ (⌒\|__. / /
藤原隆家 金触るのも駄目で武器扱うのも駄目なのがエライんじゃしょうがない 歴史の教科書だと源平の武士団と並んで藤原氏の武士団も平安後期の一大勢力として載せられてるけどさ、結局藤原氏の武士団ってその後どうなったの?
その時に紹介されたきり二度と教科書に出てこないからよく分からない 今川義元とかバカ殿みたいな感じで時代劇でよくやってるだろ
あんな感じだとさすがに負けるわなww 海道一の弓取りと言われた武芸の達人を馬鹿殿とか・・・
チョンか? 佐藤、伊藤、工藤、江藤、後藤、尾藤、進藤、須藤、武藤、近藤・・ うまくいけば北畠親房とか春日顕国とかなれそうだったな 昇殿を許されるぐらいの公卿にとって、武士など穢れ多き賎民としか認識されていない >>629
今川家は足利の分家でバリバリの武の家なのにな
母親が公家の姫だからってあの描き方はないだろう 公家で武家になりたがったのほとんどいないで
武家に転身したのは公家でもほとんど落ちぶれた連中 まず武家になったら大将は自ら武威を示さにゃならん
そ〜じゃなきゃ下の家臣がついてこないからよ
自分から戦場に突っ込むくらいじゃなきゃ豪族連中が集まらん 家康も大坂の役では最後尾で観賞してただけだろ
殿様が自ら突っ込んでくなんて若い頃の信長ぐらいだわ 戦国初期は信濃や尾張、三河みたいに守護がイマイチ存在感なく、在地の国人もまとまらない状況で
地縁のある公家が下向すれば圧倒的な官位で求心力になる可能性はあった。
それでも守護の末路を見てれば京にいたほうがまだ安心だし。
下向するにしても独立するより大名に寄食したほうが安全だし。 調べりゃ分かるでしょ
下向するにも何らかのツテでもなきゃ無理
大名の庇護にはいるのがもっとも安全だし
簡単な方法
守護と対立する国司の基盤が強い西国なら
それもまた可能かね? 戦国時代ころまではまだ国司の権限の強い地域もあったらし〜からな 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>640
三方が原は信長が怖いから一応武田信玄を攻めたと言うパフォーマンスしただけでしょ
死を覚悟で信玄本陣に攻め込んだわけでもないし
ちょっと出かけて行って安全なうちに退散してるじゃん 公卿たる身が、何条もって武家ごときに
成り下がらねばならぬのぢや?
痴れ者めがーっ!!!!!! 松平信平は、中の丸殿の縁故によりてのこと。
摂関家の恥曝しぢゃて。 ある意味興味深い。
摂関家の庶子という貴種性は幕初では数千石に相当するということか。
これが綱吉だったりすると大盤振る舞いもありえたけど、強い政治的偏向がない家光のほうが
平均値に近いんだろう。 公家は中国史の六朝貴族のパクリ
文弱化して下級武官に政権を奪われるのは宿命 江戸に定府の大名だと
松平信平 真の磨呂
水戸黄門 一条三位zip磨呂になんとか勝利
吉良上野 エセ磨呂
こんな感じか? 輪王寺宮 皇族
江戸におわします朝廷関係ですと
ここがトップだな 足利将軍家は在京で調停も直接支配してたな。
義満あたりは形式的な地位だけじゃなく実質的にも上級公卿 何故将軍以外の武家は中々従三位以上になれないのか? >>659
秀吉、賜姓に従一位に関白太政大臣に藤原氏長者 >>659
織田信長(正二位右大臣)
前田利家(従二位権大納言) 結局、上級公家は武家に「なれた」ってことで
遥か昔に結論ついてるんだが、
そんなスレでも居着く人がいる限りだらだら残るんだな、
っていう見本ですねここは。 過去ログ読むと、北畠顕家も「上級」公家じゃないからダメ、
とか言ってる奴がいるくらいだからねえ・・・
この時代に15歳かそこいらで従二位に昇り、
「鎮守府将軍なんて職は自分みたいな高貴な者にはふさわしくない」とか言ってる少年が、
どうして上級じゃないんだよって Wikiみて初めて知ったんだが、顕家って史上最年少で任官された参議なのか・・・マジ? 上級公家って摂家か10歩譲って清華くらいじゃないの?
北畠なんか平公家じゃん >>666
まだこういうこと言う奴がいるのか・・・orz
この時代はまだ後代のように家格がきっちりと決まってるわけではなかったし、
その中で北畠家は村上源氏の名門として、「上流公家」以外の何ものでもなかったんだが。
いくら功臣の子とはいえ、「平公家」の子息が10代半ばのうちに二位まで昇りますかって。
(そもそも出自云々以前に、若いうちに従二位に任官されたら、それだけで並の公家とは違う「上級」なわけだが)
なんで俺はこんなことに力説してるんだww
>>665
摂家の次期当主は参議を経ずに昇進したからだろう。 >>665
参議としては当時までの最年少かも。
まあ中納言はもっと若いのが結構いるだろうが。 公卿でなくて武家任官でないの?
徳川の将軍とか御三家とかが参議やら中納言やらに任官されてるのと同じような。
参内する機会なんか全然無いのに >>670
ごめん言っている意味がわからない。
建武元年に16歳くらいの北畠顕家(もちろん親にも本人にも、まだ武功は全くない)が
従二位に昇叙したのが、「武家任官」だと言いたいの?
それか、全く別の誰かにレスしてるのかな >>667
>その中で北畠家は村上源氏の名門として、「上流公家」以外の何ものでもなかった
村上源氏庶流中院家の更に庶流の典型的な「普通の公家」だろう。
南朝最重臣だった父親も長命で出世したと言っても大臣になれない家柄の大納言を慰めるための准大臣。
君寵により昇進が異常に早かったとしても参議を経ているところからして扱いは清華以下だしね。
従三位や参議、中納言あたりで上級と感じるか、摂家清華の家格以上を上級と感じるか感性の違いだとは思うけど
大納言くらいまでは鎌倉時代でも「普通の公家」が就任できたよ。 Wikipediaの北畠親房の項目を見ると
「当時の北畠家は清華家」って書いてあるけど、この根拠は何? 上級公卿って大臣以上じゃない?
もしくは官職関係なく摂家清華大臣家の御曹司。
羽林、名家以下が平公家という括りだと認識していたが。 >>673
大臣家の庶流で清華
清華以上は任じられない准大臣や参議になっているのに清華
wikiの間違いじゃない?
准大臣に至っては単なる地方政権たる南朝での官職。 だから、この当時で後代の清華家と同じような家格が定まってたって考える方が
無理なんだって。
北畠親房は自分の家が一般的な「平公家」よりも高い家格だと認識してたってことでしょう そりゃ上級公家やらなれば戦争みたいなんは部下に任せりゃいいって話だからな
荘園制度が崩壊しなきゃ〜そもそも戦争だのなんだの関係ない話 >>672-676
例えば万里小路宣房は20歳の時点では従五位上で、30歳でもまだ正五位下、
従三位に昇ったのは50歳くらいになってからだね。
感性の違いはあるけど、一般的な「平公家」ってのはこんなものでしょう。 京都にあったのはそもそも学問所だろ
地方から勉学に通うなら京都に行くしかないって話なん
関東に学問所ができるのは足利学校が最古だからな のちには仏教の寺院なんかも領内に作ったりして学問てならほとんど中国あたりの故事文学しかないんだが教えていたりもしたからな いずれにせよ、10代で従二位に昇る人は
公家社会の中で上層部のひと握りだけだったのは間違いないんだから、
「上級」かそうでないか?って問いの答えは明らかだと思うんだが・・・orz
なんでこんなことで文句言われなくちゃならないのかな。 あとは光圀さん
この人の影響で関東あたりなら勉学が盛んになったのは江戸時代から
逆に太宰府だの九州にはあったが落ちぶれた〜な 太宰府があったんだから勉学関係盛んでなかった理由がないんだがさ >>679 >>680 >>682 >>683
何言ってるのこの人?
2chってたまに変な人が湧くよね >10代で従二位に昇る人
後醍醐朝の異常事態と君寵で昇進が異常に早かったことは認めるが摂家清華の「上級」とは意味合いが違うだろ? >>685
まだ固定した家格はなく、漠然と家格の上下があっただけの時代なので
摂家清華の「上級」とかを語っても意味がないって何度も申し上げているつもりですが。
そして、その漠然とした家格として、北畠家が並の公家よりも高かったことは
確かだと思うのですが。(別に摂家並みに高かったと言うつもりはない)
そして、仮に一万歩譲ってあなたの言う摂家清華の「上級」とやらを認めたとしても、
このスレのタイトルでいう「上級公家」が、その摂家清華の「上級」のことしか意味し得ないと
思っているとしたら、それはあなたの単なる独りよがりですが。
何度も同じこと言わせないで欲しいんだけど、
当時の公家社会にあって、16歳で従二位に叙せられている少年がいたら、
それはどう見ても「上級」だよ。
なんでそんなことに文句言ってくるの?意味わからない。
何か、同じことの繰り返しになってきたから、
いい加減この辺で打ち切っていいかな? 少なくても新家以外の摂家清華の上級公家になれる家は院政期から鎌倉期には完全に固定しているぞ? 価格形成の過渡期だというなら南北朝以降に清華や摂家に昇格した家、あったら教えて
少なくても北畠の本家筋の中院は鎌倉からずっと大臣家。
北畠は大臣就任実績無し。 従二位とか鎮守府大将軍なり、大納言で上級公卿とか若年にしても面白いな 北畠顕家は若くして平公家の極官まで昇進したけど結局、大臣になっていないしな。
大部分の平公家がなる可能性がある大納言が上級公卿とはとても言えないと思う。 鎌倉時代には摂家将軍・宮将軍だったし
南北朝時代も護良親王、成良親王が征夷大将軍になってるよな
懐良親王は南朝の征西将軍 >>673
太平記等で清華とされているからだろうね。親房が准后になるときの話だけど。 親房も昇進異常に速かったよね
途中で父親の官位を超えたし >>692
顕家は死んでいるし親房は大納言で出家。
南朝では顕統が大臣に上がっているね。 顕信・顕能・顕成とかもみんな大臣まで上っているね
まあこれは南朝だけの話だし、親房や顕家の功績によるとことが大きいのだろうけど 平公家だって稀に大臣になっている。
本格的に大臣になれなくなったのは江戸時代から。 しっかし自分が本当に普通の当時の公家だったとして、
官位はそこそこ昇進して従四位くらいで、
摂家でもないのに16歳で従二位の生意気なガキにアゴで使われたら
かなりむかつくだろうな。
身分社会だから仕方ないとはいえ。 平公家にとって二位っていうのは、かなり長生きして功績も上げて
ようやく人生の最後にたどりつくかどうか、っていう到達点だからなぁ・・・ 平公家で従一位まで上るひともいる
まあ比較的、稀な例だけど 日本史板名物射精エベンキさん
350 日本@名無史さん sage 2016/01/06(水) 08:58:33.87
狂人を見たければ、このスレに来るといい。
虚ろな目で鏡に向かって「チョンチョン」と吠え、自分を脅かす過酷な現実が去ると
勝利の美酒に酔いしれる会津の偏執狂の姿を、いつだって拝むことができることだろう。
――――――――――――――――― 完 ――――――――――――――――― 北畠顕家の話ばかりになっているけど、そもそも北畠顕家って武家の棟梁なの?
崩壊政権の鎮守府将軍就任して少し戦っただけで公家が武家の棟梁になれるという解釈? >>704
じゃあ九条頼経の方が真性な「武家の棟梁」か?
これは紛れもなく上級公家だが。
あんたの言う「武家の棟梁」の定義は何? >>706
質問に質問を返す時点で程度が知れるけど摂家将軍や皇族将軍は傀儡の武家の棟梁だろう
義務教育でも普通に教えられている問題 >>704
征夷大将軍は成良親王だったし
公家が武家の棟梁になろうとしても
朝廷では立場が上の宮将軍が持って行っちゃうでしょ >>707
質問されても答えない時点で、程度が知れてるねえ・・・
「あんたの言う武家の棟梁の定義は何? 」って聞いたのだが。
一応>>704に答えとくと、
> 北畠顕家って武家の棟梁なの?
早死したから期間は短かったけど、
もし長生きしてたら他の南朝方諸将と同じように、武士たちを率いて戦い続けたはずで、
普通の言語感覚では(期間の短い)武家の棟梁以外でないと自分は思うけど。 >>710
違うでしょ
だから尊氏は後醍醐天皇と決別して北朝・光明天皇を擁立してまで
何としてでも「征夷大将軍」に任じられることにこだわったのだし >>711
征夷大将軍に任じられないと「武家の棟梁」じゃないの?
そしたら、源義家はどう? >>712
武家源氏の棟梁ではあっても武家全体の棟梁ではないでしょ
武家平氏も秀郷流武家藤原氏もいたのだし
勢力の拮抗する武家は他にもいて源義家の命令になど従っていない >>713
そっか・・・
普通の用語法では、源義家はまさに「武家の棟梁」なんだけど、
あなたの言葉の使い方だと確かに、義家も義貞も武家の棟梁じゃなく、
せいぜいが河内源氏の棟梁とかに過ぎず、「武家の棟梁ではない」ってことになるね。
そういう特殊な言葉の使いかたをするのならば、
確かに北畠顕家も、「武家の棟梁ではない」ってことになるだろうね。 >>709
>質問されても答えない時点で、程度が知れてるねえ・・・
自己レス?
質問されても答えないで更に質問で返している>>706にたいするレスなのだけど国語力が致命的に欠落してるね。
今回は答えてくれているね。
ちなみに私も真性の武家の棟梁か否かは答えているけど答えていないと感じている時点で君の学歴の程度が推察できるね。
イイトコ地方国立かマーチでしょ? >>715
え、ごめん、質問に答えていただいたとは思わなかった。
「あなたの言う武家の棟梁の定義は何か」に対する答えは、どの部分?
すまんがもう一度書いて頂けると助かります。
あと一応答えとくと、
> イイトコ地方国立かマーチでしょ?
残念ながら違いますね。 >>715
え、ごめん、質問に答えていただいたとは思わなかった。
「あなたの言う武家の棟梁の定義は何か」に対する答えは、どの部分?
すまんがもう一度書いて頂けると助かります。
あと一応答えとくと、
> イイトコ地方国立かマーチでしょ?
残念ながら違いますね。 >>714
少なくとも鎌倉時代以降は武家の棟梁=征夷大将軍であって
あちこちに跋扈している中小の武装集団の棟梁を
いちいち武家の棟梁と称さないでしょうよ ごめん、何かレベル低い人の相手するのは疲れるね・・・
>>715さん:
ちゃんと定義書いといてね。後で見るから。 ちなみに私も>>707で「九条さんが」真性の武家の棟梁か否かは答えているけど。
括弧は付け足し。
見れば分かるけどあなたの言う武家の棟梁の定義は何かは答えていないよ
私は2つの質問のうち一個答えたけど君は全く答えないで100%質問返しをして更に50%答えた私に対して質問全く答えていないと非難している所からして普通に話デキる人では無いわw
まあ病的な粘着質みたいだけど全ての論敵が愛想つかすまでせいぜい頑張ってね
俺はテレビ見て寝るわ おっと返事きたか。
>>720
日本語読みにくいね・・・もう少しきちんと文章書く訓練したら?
で、自分は、あなたの質問にきちんと誠実に答えたつもりなんだけど、
あなたは相手の質問に答えないんだね・・・
まあ、答える能力がないから逃げてるだけなんだろうが・・・
そんな対応しかできない位なら、初めから人と対話なんかするのやめたらどう?
とだけ、老婆心で言っておく。 この北畠厨って護良親王や鎌倉摂皇将軍、北畠顕家を真性の武家の棟梁と認めているの?
認めているとしたらこいつ自体が真性のアレだと思う。 >>720みたいに「もうこないから!」と言って逃げた人が
本当にもうこなかった例はない、てのが2chの鉄則 >>721
2つの質問のうち一個は答えた私と一個も答えないで質問返しした己自身を対比させてもう一度考えなおしたらどう?
悔し涙で手を震わせてまともに文章読める状態じゃないでしょ?
後で一応質問には答えているけど、こういう受け答えしていたらまともな議論とか出来る資質の人じゃないよ。
まあ頑張って。 >>723
テレビ見て寝るとは言ったがもう来ないとは言ってないよw
こういう輩は邪魔な人間には来なくなってほしいんだろうね。 奈良時代から平安初期の価値観で公卿感を論じている中高生じゃない? >>722
自分は別に「北畠厨」じゃないつもりだけど、
護良親王や摂家将軍はともかく、
北畠顕家は、新田義貞がそうであったのと同じような意味で、
「武家の棟梁」と呼ばれるのが普通だと思っている。
>>724
もう寝たんじゃなかったの?
あのねえ・・、あなたは自分がこれだけ不誠実な対応しかできなかった
(相手の質問に答えることさえできなかった)っていう事実を、少しは認識した方がいい。
そういう逃げしかできない人生は惨めだよ。
まあ、また何か言い返すふりしたいだろうから、煽りたいなら煽ってもいいけど、
とりあえずそれで気が済んだら、
一度、胸に手を当てて考えてみるといいよ、悪いこと言わんから。とだけ言っておく。 会津厨、小麦、三河、北畠とこの板には変なのが色々湧くな。 >>727
護良親王や摂家将軍が武家の棟梁じゃなくて北畠がそれらよりは棟梁だと論じる理由は何? 少なくても名目上、武家の棟梁になった摂家将軍はともかく北畠顕家が武家の棟梁になったとは全く思えないな。
護良親王は何とも言えない。 >>714
いや、義家は武家の棟梁だけど義貞は武家の棟梁じゃないと思ってる。
武家の勃興期と武家政権完成後では時代が全く違うがそれでも義家に付いてきているのは義家の威光に、無位無官の下級御家人の義貞に付いてきているのは
朝廷や上級武家等の更に貴種のバックに付いてきている。
足利や鎌倉将軍家はともかく北畠そのものに臣従している武家はいないだろう。 >>729
親王は臣下ではなく、公家でも武家でもないので、
幾ら武士を統括しても、普通は「武家の棟梁」とは呼ばれないだろう、というのが護良親王を排除する理由。
天皇が武士を統括しても「武家の棟梁」じゃないよね、ってのと似た意味だね。
摂家将軍は実は武家の棟梁と呼ばれるのがふさわしいと思っている。
が、まあ「傀儡将軍」=「傀儡の武家の棟梁」だね。
武家の棟梁か否か?と言われたら、答えはYesになる。
で何度か含意したように、「新田義貞は武家の棟梁か?」っていう問いへの答えは、
「武家の棟梁」って用語の定義次第なわけで、
「全国全ての武士を統括する征夷大将軍」っていう意味だったらもちろん義貞もそうではない、ってことになる。
でも、このスレで>>1が言っているのは、たぶん
「なんで公家が武家にはならなかったのか?」っていう素朴な問いに近いもので、
別に中世以降の征夷大将軍が云々って話をしたいわけじゃないだろうと、自分は判断しているので、
その文脈では、武家の棟梁っていうのは、旧来のまさに大きな武士団を統括する人っていう意味で使うのが自然だと、
自分は思う。(まあ当然だと思うが)
その意味で新田義貞も「武家の棟梁」と良いし、もしそうであるのなら
北畠顕家がそう呼ばれてはならない理由は全くない、と思う。
・・・って感じだけど。これでいいかな?
自分もそろそろ寝るね。 おっと新しい人が出てきたのかな。。
一言だけ答えとくと、
>>731
> 北畠そのものに臣従している武家はいないだろう。
そう?そんなこと言ったら、源義家に臣従する人だって最初からそうであったわけではないよ。
はじめは任地にたまたまいて、部下だった人らがそのうち臣下になったわけでしょ。
そこは本質的な差ではない、というのが自分の理解だが、
まあもう寝るね。おやすみ。 >>732
新田義貞や北畠顕家は武家の棟梁(大きな武士団)の棟梁ではないと思う理由は先に言ったかも知れないが彼らは新田や北畠ではなく後醍醐ないし南朝に従っていたから。
徳川、豊臣、織田、足利は個々の名の下に大兵力を動員できた。
武家の棟梁の資質は大きな武家に従っているかだと思う。 >>734
南朝が勝っても後醍醐やその後継天皇政権は出来るけど出世は出来ても北畠政権や新田政権は出来ないよね。
足利が勝ったら足利政権出来たよね。 >>736
確かに東北で勝っても義家政権は出来なかったね。
でも足利や鎌倉は中央政権に勝ったから政権樹立できたよね。 >>736
そもそも義家と足利新田北畠じゃ時代が違うね 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>694
征夷大将軍なんて出世コースからはずれた落伍者だろw
現に、将軍を経て摂政とか太子とかになってないし この命題面白いね。(浅学でゴメン)
視点を世界に移すと、たとえばヨーロッパ中世。
大貴族が国家を構成。その大貴族は強大な軍事力を持っていた。
絶対王政時代になるにつれ、国家所属の軍隊となり、権威と軍事力は分離していった。
ハプスブルグ家を念頭に置いている。
日本は、古代(飛鳥時代まで)では大臣、大連、国造が強大な軍事力を持ち国家構成員と
なっていた。律令国家で国家所属の軍隊となり、権威と軍事力は分離。
しかし、平安時代に入り、武士が登場。地方武士団があちこちで発生。
権威と軍事力が再び合体し、武家となった。(将門、俵藤太、源義家等を念頭)
と理解した。
室町時代の足利家は武家の棟梁だが、官位では上級公家と同じだ。
不思議なことに、公家ではなく武家だとの意識は変わることない。
逆はないんだな。 >>741
南朝の親王将軍なんか統治機構もボロボロの実態のない虚官。
ある程度の武力が無ければ官職に就いていてもお飾りにもならない。 武威も最強は
四道将軍オオヒコノミコト
やはり会津か かなりスレチだけど平公家は大臣になっても所詮平公家だし、摂家は四位でも上級公家だよ。
実際摂家の四位が清華の大臣とすれ違っても道を譲るのは後者。
家格成立後は家格が官職よりもモノを言う。 このスレの感じが、宮中の席次の不毛な争いと同じ匂いがするなw
こんな感じで、宮中の時は流れていたんだろうw 宮中席次は、公家が自分で決められなかったので、幕府の手を借り公家諸法度によることになった。 >>742
> 逆はないんだな。
・鎌倉時代の摂家将軍
・南北朝初期に軍を率いて戦っていた公家たち
・戦国時代に大名家した公家たち
・幕末に官軍を率いて幕府軍と戦った公家たち
についてはどう思う? >>742
強いて言えば竹内家。
幕府御家人から堂上になった多分唯一の例。 >>742
軍事力を持って実質的な統治をしていても、権威は無くて、朝廷に頼み込んで参議だの将軍だの国の守だの介だの付けてもらわないと、
領民にナメられてしまう。 >>743
それなりの統治機構だったというふうに近年捏造の激しい鎌倉幕府の藤原将軍・親王将軍は? >>753
幼少時は傀儡のお飾り将軍くらいにはなってただろう。
成長したらお払い箱で追放。 >>750
伊勢北畠などの
>・戦国時代に大名家した公家たち
は保留しておくがその他は断じて武家ではない。
君は例に挙げた彼らは公家から武家になったと思っているの? 追記
大名化した公家たちも強いて武家か公家かに分類すると公家だろう。
存続期間が短いから長期に亘って領国支配したら武家化する可能性は皆無ではなかったと思うが。 >>755
いや、>>742さんは
「公家に匹敵する官位を持った武家はいたけど(そして彼らはそれによって「公家」とは呼ばれなかったけど)
その逆(武家に匹敵する武力を持った公家)はいなかった」って
言ってるようにみえたので、>>750みたいに書いてみたわけだけど。
> 君は例に挙げた彼らは公家から武家になったと思っているの?
摂家将軍については、それが「公家か武家か」を問うことは無意味だと思う。
(少なくとも、「武家と呼んじゃいかん」とも「公家と呼んじゃいかん」とも言えないとは自分は思うけど。)
南北朝については、その少なくとも一部が「武家化」したというのは、
その後の伊勢北畠氏を見れば、誰もほぼ誰も否定しないはず。
幕末は次期が短すぎるので、定着する間もなかったしなんとも言えない。 上にも書かれているが、摂家将軍は「武家の棟梁」か?っていう問いに対しては
そう、武家の棟梁でまちがいありません(但し傀儡ですけどね)、って答えでファイナルだな。
その意味で、>>1の疑問はそもそもが間違えている 摂家将軍が「もし」政治力ある人物だったら、
北条氏を廃して権力を握っていた可能性もあったはず、ってのは
否定しようがないとは思う。
(こういう局面で「歴史にifはない」とか無意味なことを言い出さない限り)
実際に頼経は北条氏を排斥しようとして失敗したわけだが、
それは彼の政治力がなかったというだけのことであって、
「公家であるが故に、アプリオリに排斥運動に失敗するしかなかった」とか
言えないのは、この場合明確。 でもみんな、九条頼経は「アプリオリに失敗した」=「そもそも傀儡が実権握れたはずがない」
って思っちゃってるんだよね。
傀儡ががんばって実権握ったことなんて、実は歴史上、結構あるんだけど。
歴史ってみんな後付けでしか見ないからね。 平安時代末期は、公家は武家の棟梁を犬のように使っていたんだから、それで勘弁してあげてくださいよ。 武家を人間だと思わないで広大な荘園も収入源としか見なかったから武家に全てを奪われた。
有能な公家なら有力な一族を荘園に下向させて荘園支配している武家を家臣化して大名化するはず。 初期の源平の棟梁は摂関や院、朝廷に仕えていただろう。 >>761
支配基盤も何もない傀儡が実権握った実例は? >>765
後白河法皇
二条天皇即位待ちのワンポイントリリーフで子の二条天皇存命中は実権がなかった。 >>760
九条頼経って最終的には追放されたけど結構良いところまで行ってなかったかな。 >>758
言葉の意味とすれば摂家将軍は「武家」そのものだね。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった >>765
全く支持基盤がないと権力も何も握り用がないけど、
でも九条頼経って結構、幕府内で支持基盤あったんだが・・・
何度もいわれてるが結構、いいところまで行ったんだが
結局いま一歩政治力が足りなかったってだけだよ。 >>768
当時の公家社会から見たら、当然のように
「公家出身で武家になった人」って思われてただろうね。
(逆に幕府御家人から見たら、「所詮はお公家さん出身」て思われてたかも知れないが)
俺らはその後の歴史を見ているから、「結局公家から脱することができなかった」って
思いがちだけど、そう単純な問題じゃないのは確か。 >>754
お払い箱で京に帰された後で、摂政だの大臣だの天皇だのになった藤原将軍・親王将軍無いよね 摂関家ないし皇室の庶子だから、一族断絶でもしないかぎり惣領が就く摂政だの大臣だの天皇だのになれるわけなかろう。
庶子の通例通り出家するくらいなら鎌倉行って傀儡とは言っても将軍になれるのだから悪い話では無いと思う。
でも、お払い箱になったら出家か不審死だから最終形態はあまり変わらないかw >>776
九条頼経は関白九条道家とその正室西園寺綸子の間の子
同母兄の九条教実と二条良実は摂関
同母弟の一条実経も摂関で
九条家、二条家、一条家はいずれも五摂家として存続
鎌倉に下っていなければ摂関になれていた可能性はあるんだよね 偶然なんだろうけど同血統の将軍は常に2代で終わってる。
何か世襲させるつもりがあったのか無かったのか微妙だね。 >>777
だから、その時点で、要らない子・出世の目のない子という扱いを受けて、東下りだろ 摂家の生れで京兆家を嗣いだ細川澄之もここで語られてもいいと思うんだが、
なにぶん早死しすぎたな 護良親王は、後醍醐帝と対立しなければいい線まで行ったんじゃないかな。征夷大将軍にはなってるし、支持勢力もあった。 論破されるとすぐに具体性がなくなる日本史板名物射精エベンキさん
350 日本@名無史さん sage 2016/01/06(水) 08:58:33.87
>え?誰もゼロだなんて言ってないんだけど??(>>330)
こう書いた直後に
>31億塩基多型の格ゲノムに対してYDNAとかまったく意味がわからないんだけど(>>335)
こう書いて見せる。
これが会津狂人クオリティ。 後醍醐天皇と対立しなくても足利とかにやられて没落するだろう
護良親王が征夷大将軍解任されるされないに関わらず建武の新政は数年で瓦解するのだから。 そういえば、清盛は武家の棟梁といわれないけど、何で。 鎌倉摂家皇族将軍など紙切れにすぎない名刺貰っただけで武家の棟梁ってのたまうアホが跋扈してるね
紙確かに切れの上では将軍とか棟梁なんだけどさ 源氏将軍だって頼朝以外、傀儡だし頼朝だって実権持っていたかどうか微妙。
足利将軍、徳川将軍も半分くらいは傀儡。
将軍を傀儡にしていた執権も得宗の傀儡だし、実質頂点の得宗も内管領の傀儡だったりする。
天皇も摂関や治天の傀儡だったりするし絶対権力を持っていた権力者って日本史上そんなにいない。
殊更傀儡呼ばわりされる鎌倉将軍が他の傀儡と違うのは臣下の都合で擁立、更迭、追放されたり政治的に
何らかの意思表示をしても絶対に反映されないであろうということだけ。 考えてみれば天皇も臣下の都合で擁立された例は非常に多いし
臣下によって退位を強制された天皇も結構いるな。 内管領や側用人や奥右筆って
表の人物より実務権限強そうだな 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった ・他国の者は胸の中がらりとしていて、我が庄内人のような決断のつかぬのと比べものにならない。
・岡山は東西に開け村々も多く、山にも海にも産物が豊かであるから、よろしい土地である。
・関東は剛強な気質で心正しく、人を憐れむ。関東に遊ぶものはあっさりとした心で楽しみ、ものを疑う必要がない。
・江戸は関東の中でも最も清潔な所だから安心してよい。
・京都は四方に山を負い綺麗な水が多い。中でも鴨川の水の清らかさは人の知るところである。
・大坂は江戸に比べると客が少ないので食物は万事よろしくない。中でも鰻は最もまずい。食わない方がよい。
・福島の町家は特に見事だという事もないが、近辺から人の集まる所で、何事につけても上品である。
・米沢は近辺の国々よりも優れて政治が行き届いているから、人は皆穏やかな気立てで、人情に厚い。
(『西遊草』清河八郎・出羽国庄内出身) そもそも、上級公家は、武家の棟梁を犬のように使っていたんだから、武家の棟梁以上の存在なんじゃないの。
副社長はなぜ支店長になれなかったのかっていう感じの疑問提議な気がする。 征西幕府
征西大将軍
懐良親王 が
実権と実力を持った武家の棟梁 武家の棟梁って源経基の時代から?
正四位上 鎮守府将軍
国司も複数やってたから従三位昇進予定でもあったか?
それなら公卿になりそうだったから、犬のように使っていたともいえない。 鎌倉時代限定だと
相模守 鎌倉太守 = 武家の棟梁 な感じだな
あとは、
源氏長者に武家の棟梁的ブランドあるならば、
武家以外が源氏長者の時が公家が武家の棟梁のようなものだな。
藤氏長者をゲットした秀吉は
武家が上級公家の棟梁になったので、
このスレの逆バージョンのようなもの。 あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか?
それともいくつですか? 今でいうと
チンピラやヤクザが
武士になったようなもんだろ。 >>803
恐らくその通りだよ。特に時代が立てばなおさら。
しかし、ここのモヤシの歴史オタクどもは、平安どころか鎌倉以降も、
血筋が完全証明された万世一系の武士たちが源氏たちだと妄想論を語り続けてる貧弱モヤシオタク笑 ここのやつらはモヤシ貧弱眼鏡オタクだから、世間知らずすぎて、源氏は完全なる皇統で、そんな夢あるものたちが繰り広げる、大河でイケメンタッキーみたいなんが義経演じてる世界をリアルだと考えてるモヤシ眼鏡貧弱雑魚オタク笑 そもそも朝廷による親政をすれば武家という独立した集団の存在を許さないだろう。
明治維新後の武士潰しを見りゃ明らか。 しかし、ヤクザチンピラだから無理矢理暴力集団化していったんだろ、源氏をなのって。 そもそも武家政権は中国の節度使や軍閥が全国支配したようもんで公家はなる能力も動機もなかったんだろね。 アンチ公家が武家の幕府だからな
公家の筆頭の藤原氏が弥生系渡来人の末裔だから、皇別の源氏武家が幕府を開いた 現実に、経基以降はどこぞの清原みたいなんが源氏化したのがリアルだけどな 武士は富裕層、ヤクザは社会の底辺
山口組のナンバー2である高山清司
「暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%」
山口組顧問弁護士・山之内幸夫『文藝春秋』昭和59年11月号
「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」
「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 武家は公認された自警団だが、公家はその名のとおり正真正銘の公の権力。
公人にとって公認とはいえ私的な武装集団になるのは格落ちだろう。 その公権力が、トップ決定ができなくなったり、自分達の席次も決められなくて、自警団に泣きついて決めてもらうようになったんだが。 清原みたいな地元の番長が源氏平氏なのってミッツマングローブみたいなカマ公家野郎をたぶらかしはじめ、次第に脅すようになって
やりたい放題化したのが平安後期以降だから。
源氏の血筋なんぞ、経基でとっくに途絶えてるわ
そして、街中の水商売の女に腹ごませた子孫たちが源氏の正統とかしたという そもそも役人が任地に行かないで荘官に下請けさせてる時点で武家に主導権奪われる下地を築いてしまっている。 しかも武家とはいわない。完全なる武装集団に過ぎない。
しかしその後正統なる武家すらその後武士を在地の有力者から下請けで召集してるんだよな 公家達が京の都に執着して任地に行かなくなった辺りから律令国家としての機能は喪失を始めていた。 それなりの武家の大部分は公家や皇族に先祖を求めていたけど本当なのか?
古代からずっといた国造等の地元の有力者は鎌倉有力御家人や織豊大名などの先祖としては存在しないけど
武家化しないで農民になったの? 紀氏とか大伴氏とか建部氏とかいるよな。
国造等は神社じゃないのか。
あと地下家。
そりゃ帰農したところもあるだろうけど。 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
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縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
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今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
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岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 武家の棟梁になれる家柄って、どの程度まで?
例えば源氏なら河内源氏の嫡流に近いところまで?
平氏は中央で断続的に5位の官位を得るくらい?
何故、足利は棟梁になれるのに北条や武田はダメなの? 武田は義家の系統じゃなくて義光の子孫だから足利や徳川といった義家系よりはランクが下
北条は時政までの系図があやふやで何代にも亘って叙爵していないから論外 武田は上洛に成功したら有り得る。しかし現実には失敗した。 武田は上洛に成功しても大内義興みたいに将軍の後ろ盾になるくらいで自分が将軍になろうとは思っていなかったよ。 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160131-00047582-gendaibiz-bus_all
絶好調!大河ドラマ『真田丸』真田・徳川家の子孫が明かす「謎と真実」
〔PHOTO〕NHKホームページより拡大写真
大河ドラマ『真田丸』がスタート、主人公は日本史でも屈指の人気者・真田信繁(幸村)とあって、滑り出しは上々だ。
真田の前に立ちふさがるのは後の将軍・徳川家康。そんな両家の子孫が語りつくした。
生き残るのに必死だった
司会・山本博文(東大史料編纂所教授、以下山本) 本日は、NHK大河ドラマ『真田丸』のスタートを記念して、信州松代・真田家ご当主の真田幸俊さん、徳川宗家(将軍家)19代の徳川家広さんに対談をお願いします。
お二人とも、昨年から今年にかけてご先祖関連の行事でお忙しいのではないですか。
徳川 私は'15年は「徳川家康公没後400年」ということで、日本全国の東照宮に呼ばれて忙しくしていました。
真田 私もこうした取材とかイベントですとかで家を空けることも多くなりました。
。
真田 上田(長野県)のあたりの真田庄ですね。徳川家はどちらです?
→→→ 徳川 三河(愛知県)の奥の奥のほう。じつはウチは「なんちゃって源氏」でして、後に(源氏の氏族だけがなれるといわれていた)征夷大将軍の座には就いたものの、どうも最初は源氏というか、由緒正しい武士ではなかったらしい
だからこそ武田滅亡後に源氏の名族だった武田家の家臣団を大勢抱えられたのは嬉しかったと思います。
武田軍学を入れ、山県昌景勢の着けていた赤備えを部下の井伊直政に着けさせたりもしました 戦国の井伊家
甲州・上州・信州の武田遺臣と、三州の強兵を合体させた徳川家最強の赤備え軍団。
幕末の井伊家
上方の華美な風土に染まり軟弱化、諸藩から弱兵と侮られてしまう。 >>834
なんちゃって源氏に文句言った正統源氏を見せしめに潰したよね 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
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縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
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今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
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今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 高い身分の公家は基本任地まで行かないで京にとどまっていた 帰ってきたら机が窓際に移動していたなんてこともあるからな
権力争いの現場から離れるリスクというのもあるだろう >>842
一条兼良はよく土佐まで行ったよな。
そのあたりの大胆な発想も、或いは五百年に一人の大学者の面目躍如か。 セブンイレブン本社の取締役が、土佐駅前支店に赴任して店長で働いているぐらいの感じだからなw でも本社の取締役(年収100万)が土佐駅前支店店長(年収1億)になったわけで。
一条家の成功に触発されて所領に下向する公家が増えなかったのが公家の限界だな。
守護家が没落したりして国人が秩序の根幹になる高官を欲していた国は多いと思うんだがな。 武家は実力主義だからだろ
下剋上も起きれば創業者が偉くても馬鹿な子孫が出てくれば
源→北条→足利→織田→豊臣→徳川→大政奉還(武家政治終了)
のような政権交代も起こる
実力があれば家系図は勝手に作れるのでそのあたりは重視されない
天皇家・公家は血統主義だもの
実力を問われない代わりに政権交代もない >>846
脱サラして大金持ちになった人は確かに存在するが、だからとサラリーマンが全員脱サラするわけではない。
一条兼良・教房親子は有能だから土佐で成功したんだろうが、下向さえすれば必ず大名になれる保証などどこにも無い。 公家の地方移住やて稼ぎは結構はやったけど、成功したのは彼だけってくらいじゃないのか。。 >>847
たまたま家光とかは優秀だったけれど、そうではない徳川将軍もいたわけで 家光は優秀じゃないと思う。
ほとんど老中や側近任せ。
家臣の人材に恵まれたのと、誰に任せるべきかの判断は良かった。
死後のことを保科正之に託したとか。 >>851
部下の能力や忠誠心を見定めて適切な人事を行える時点で、トップとしては十分に有能だからな。
自らアイデア出したり適切に仕切ったり出来れればなお良いが、そっちは必要不可欠とまでは言えない。 下手に賢いと色々問題が発生することもあるんだぜ。
綱吉公みたいに。
学識という点では江戸幕府の将軍では一番だと思う。 応仁の乱後に大防州山口に疎開した公家さんも多かったので、
もう従二位兵部卿大内卿が公家を従えれば一番早い部門風公家政権。
土佐の一条兼定とも政略で親戚のようですし。 徳川将軍で家光が1番優秀だろ
武家政権とおしても、2番目か3蕃目くらいに優秀。 不動のトップは家康、次が秀忠と吉宗、家光はその次のランクじゃないのか。 武家政権のトップ3は、頼朝、義満、家康の3人だろう。
尊氏と秀吉は問題大杉。 1番は、豊臣秀吉
2番目、徳川家光
僅差で3番は北条時宗 北条時宗は元を退けてるので
武門の棟梁として申し分ないな
明に朝貢足利より上
徳川も鎖国で外国にルール守らせてるので
幕末以外は武家の棟梁として格式高いな 徳川秀忠・家光は参内した時に上段で主上に接見しているが
家茂は主上はもちろん関白大臣以下の扱いを受けた
勅使を下座に置いた家綱〜家定を含めてこの辺りが歴代武家政権のトップとして
もっとも格式が高かったといえる 家光、ホモだしなあ。
伊達政宗とか立花宗茂とかを夜伽に召してるし >>862
若いのも好きよ
十代のころは年下の堀田正盛とか酒井重澄とかと掘ったり掘られたり。
酒井重澄は登城をサボって子供を四人も作っていたので嫉妬で領地没収 桓武平氏だの清和源氏だの藤原氏だの石川氏(物部氏)だの紀氏だの僭称しまくってたのは、それこそ、上級公家の縁故が武士たるに必要だったからではないんかい 当たり前だろ
そんな誰でも知ってることを今更とか、さすが2ch 清華どころか公卿ですらない得宗殿に皇位や所領の伝領についても裁定を
求める京の公家どもに何が出来るというのか… >>847 秀吉は、どっかから、持ってこれんかったのか? >>868
宮中席次も自分で決められずに公家諸法度だしな。 借金絡みで家司を殺したり父子で合戦したりした関白父子もいるな。 >>868
武家が武力でそうしろと命じたからだろ
もともと幕府の機構は摂関家の家内機構をまねたものだし
武家官位も公家官位をまねたもの
都から僧を学者を招いてそっくりそのまま
公家が作り上げたものを真似しただけ >>874
濡れ衣もいいところだ。
幕府としては口出ししたくもないのに、朝廷や権門貴族が身内の厄介ごとの裁定をしてくれと言ってきて
迷惑してたのが実情。 挙げ句の果てに、中継ぎのはずの後醍醐がゴネて倒幕運動とか。
幕府にとっては、迷惑な話。 そもそも承久の乱だって仕掛けられたのは幕府の方だからな。
応戦したら朝廷がぶち壊れてしまったので、再建まで手伝わされて面倒まで見させられる始末w
鎌倉期の幕府はあくまで受け身なんだよな。
朝廷を飲み込むよう積極的に動いたのは高師直あたりからだな。
その流れで義満の時に完全に押さえこんでしまった。 【アベノショック > リーマンショック】 マイト★レーヤは崩壊が起こり、それは日本から始まると言われました。 【ゲスウヨ、貢米ポチ、理研は命乞いしろ】
1ドル=90円台すぐそこ…止まらぬ円高に日銀打つ手なし 日刊ゲンダイWeb引用 山本太郎総理まであと一歩?
日本から始まる世界的株式市場の大暴落
日本がアメリカ国債の25%を引き出すと世界経済が破綻し、マイト★レーヤは出現するでしょう。彼は「匿名」で働いております。
非常に間もなくマイト★レーヤを、テレビで見るでしょう。マイト★レーヤは毎日テレビに現れ、質問に答えるでしょう。
彼は日本人ではありませんが、日本語で話すでしょう。彼は、非常に物静かなやり方で話します。彼の最初の控えめな態度に混乱してはなりません。
最初になくなるのは世界の株式市場でしょう。
差し迫る株式市場の暴落は、他の人々が飢えている間にお金を儲けることの結果です。かれらは自分の財産を隠し、犯罪的雰囲気さえも創出しています。
日本国民はどう対処すればいいのか。
「株式市場崩壊後に出現する新しい政権は国民の意志を反映し、国民の側に立つものであろう。」民衆の指導者は職業的政治家ではない人々から見つかるのです。
新しい政権は民意を反映し、先に食物と住宅、次に健康と教育、最後に防衛とするでしょう。今日の製薬産業によって「盗まれている」薬草も保護されるでしょう。
マイト★レーヤは次のように勧告される。
「国民の意志を裏切ることは危険な過程を始動させる。極端な場合、自殺や殺人にまでつながる。」
アメリカによる他国の虐待に反対の声を上げなければなりません。
世界平和の脅威は、イスラエル、イラン、アメリカです。イスラエルの役割は跪いて、パレスチナに許しを請うことです。
彼らは今世紀(21世紀)をこの帝国が出来上がるアメリカの世紀と呼ぶ。しかし、そうはならないでしょう。
彼らが世界中に‘民主的’制度を確立したいという衝動(1種類の政治形態が世界中を支配する)をコントロールするのは、マイト★レーヤの任務です。 >>875
だったら朝廷にお任せしますで良かっただろ
鎌倉幕府を開くまで朝廷が統治していたんだ
武家が頼んでもいないのに勝手に幕府を開いていおいて
公家の領地にまで手を出して
「口出ししたくてしてるんじゃないから好きにすればいいよ」も何もないだろ 黒い!潰れた広鼻!ぶ厚い唇!土人!南方ヅラ!マニラ顔!
赤の遺伝子afb1b3。 南方モンゴロイド。
それはマニラのスラムに漂う腐った屎尿の臭い。
この世で最も不浄な臭くて汚らしい穢れた遺伝子。
台湾人、中国人、朝鮮人にもたっぷりと入っている。
赤の遺伝子afb1b3が入ると南方人になり、日本人種が穢れる。
gm遺伝子
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/001Gmidensi_1/asiaandjp.gmidennshi.nobunnpu.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:64a812ccf8e4a0c33443d7cecf6a78f3) >>880
朝廷に任せとくと自分で決められなくて武力抗争を始めるだろうが。
保元平治の乱がどうして起こったか知らんのか。 >>874
システムは一から構築するよか、既に機能しているものを真似して作る方が、ずっと楽で確実だしな。
お公家さんの統治システムも隋やら唐やらに習いに行って真似したものだし。 >>798
清和源氏って割と格下だろ。
嵯峨源氏とか村上源氏とか宇多源氏とかのが毛並みは上だ なんで徳川家光は正妻の鷹司孝子と不仲なのに「姉ちゃん、亭主にたのんで侍の仕事を紹介してもらってくれ」と下向してきた鷹司信平は
むっちゃ厚遇してるの?
もしかして、ホモなん? >>868
汚れ仕事は人斬りも平気なヤクザにやらせる >>885
現代でもよくある話だろ。
「孝子がクソなんだよ、鷹司家には何の意趣もないからw」っての。
それを照明するために松平信平を一応形だけ歓迎したんだろう。
歓迎とはいってもせいぜい中級旗本レベルの待遇。
血筋から言えば最初から大名になっても不思議はない。 >>887
禄米4000俵って、1600石相当だよ。結構な大尽じゃん。
戦功も事務官的な役職の全うもなく、無禄から1600石とか厚遇され過ぎ。
しかも紀州徳川家との縁組で更に5000石追加とか。 江戸時代の鷹司家は1500石だから、本家より多い。 無役で知行7000石って、相当リッチだよね。時々都城するたの装束と刀と用意して、従者が1人か2人。
知行はあっても統治する必要はなくて、五公五民で半分、更にそのまた半分を統治徴租の手数料に差っ引かれて
1700石ばかり自動的に振り込まれてくるわけだから、ヒマ持て余しまくりで遊び放題だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています