国号を「日本」から「ヤマト」に戻そう
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大倭国から8世紀に大和(ヤマト)に国名変更されている事実 倭というのは、7世紀まであった、筑紫を都とした国のこと。 天皇と呼ぶようになったのは、だいぶ後の事だろ。
それにまでは「オオキミ」と呼んでいた。 日本天皇>日本大君>日本国王>>ウンチ>>高句麗王、新羅王、百済王の滅亡三馬鹿 何
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倭国も百済とそれほど変わらない年代に滅亡したよ。
白村江で敗戦して、日本国は傀儡政権だった。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨は朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、ギリヤークなどの沿海州の
北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>959
つまり日本の新国名は「パクリ稲作」国だと… >>958
唐朝は日本國の改名建国事情を知らないのでちがいま〜す〜。傀儡属国じゃありませーん せっせと土下座朝貢外交(遣唐使)をしていたけどね。 毎年朝貢しなくていいって優遇されたからね
古代漢魏に認められた金印王朝だもん 日本誕生秘話 「倭国」「邪馬台国」は、中国にバカにされた表現だった!
https://biz-journal.jp/2015/10/post_12085.html
新旧の『唐書』で正反対の描写
(4)そして、「日本は舊小国にして倭国の地を併せたりと」と書かれている。日本国が倭国を吸収合併したのだから、
日本国と名乗ろうというのである。小国日本が大国倭国を併合したため、国号が日本国になったということだ。
(5)しかし、702年の遣唐使がその経過について皇帝に説明できなかったため、皇帝は疑って信用しなかったというわけだ。
この『旧唐書』が完成、奏上された945年の翌年には後晋が滅亡してしまったため、北宋になって改めて
『新唐書』が編纂されることになった。この時から、それまでの『唐書』は『旧唐書』と呼ばれ、『新唐書』の編纂に当たって、
当然ながら編纂者も交代する。
そして、『新唐書』でも、ほぼ同様の記事が書かれている。
ただ、『旧唐書』では「小国の日本国が大国の倭国を征服した」と書いているが、『新唐書』では「倭国が日本国を併合し、
日本国と名乗った」と書かれている。
正反対の状況になっているわけだが、いずれにしろ、倭国と日本国に分かれて
対立していた2国が統一され、ひとつの国になったという流れは、歴史的事実だった可能性が高い。
しかし、なぜ国号が倭国から日本国になったのだろうか。そのあたりの事情については、次稿で明らかにしたい。 2015年10月25日
日本建国の新事実? 大和朝廷に併合されたもうひとつの国「日高見国」
http://news.livedoor.com/article/detail/10748099/
日本は、「倭国」と「日高見国」の2つの国に分かれていたという説がある
721年に成立した「常陸国風土記」には、「日高見国」の記述があるという
「大和朝廷とは別の国が東日本にあったと考えられる」と筆者は推測している
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まずは古代日本の正史『日本書紀』だ。景行天皇27年2月27日条に、北陸および東方諸国の視察旅行を終えて帰国した
大臣・武内宿禰の報告というかたちで、驚くべきことが記されている。
「東(あづま)の夷(ひな)中に日高見国(ひだかみのくに)有り。其の国の人男(おのこ)女(めのこ)並に椎(かみ)結(わ)け身(み)を
文(もどろ)けて為人(ひととなり)勇み悍(こわ)し。是を総て蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えてひろし。撃ちて取りつべし」
大意は、次の通りである。
「東国の田舎に日高見国がある。その国の人は髪を結い分け、体に入れ墨を施し、勇敢で強い。これをすべて蝦夷という。
また、土地は肥沃で広大である。ぜひ、攻撃し奪い取るべきである」
この報告に基づいて決行されたのが、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東国遠征であり、その結果を伝える記事が、
景行天皇40年是歳条だ。
「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より還り、西南のかた、常陸を経て、甲斐国に至る」
「上総国から海路で日高見国入りした日本武尊が、国境近くで蝦夷の首領たちの降伏を受け入れ、日高見国から帰還した」
と書かれているが、その意味するところはなんだろうか。
単純明快。武内宿禰が視察旅行を報告した景行天皇27年時には、完全な独立国だった日高見国が、
その13年後には日本武尊によって征服され、大和朝廷の支配下に入ったということである。 ●日高見国は東日本に広がっていた?
713年に編纂され、721年に成立した『常陸国風土記』である。これを、日高見国の謎を解く第3の文献として
『旧唐書・新唐書』『日本書紀』の後に挙げておかなければいけない。
『常陸国風土記』には、常陸国信太郡(稲敷郡の一部)について、「此の地は本の日高見国なり」と書いてある。
また、蝦夷征伐に向かった黒坂命(くろさかのみこと)という人物が同国多賀郡で病没し、その柩が信太郡に送られて来たことを
「日高見国に到る」と表記している。
日本武尊は、東国平定戦の際に銚子沖から鹿島神宮と香取神宮の間を通過して内陸湖に入り、筑波山の麓にある港から上陸した
という言い伝えもある。その場所を選んだのは、日高見国の本拠地だったからではないだろうか。
やはり、大和朝廷とは別の国が東日本にあったと考えられる。特に対立していたわけではなかったが、大和朝廷は国勢拡大
のために「土地沃壌えてひろし。撃ちて取りつべし」と侵略宣言を発したのだろう。その国を平定・併合した後、倭国と呼ばれてきた
国名を日本国に改めたのではないだろうか。そして、その語源は日高見国である。日高見国が日本国となったのである。
このことは、別の機会に詳しく述べることにしよう。
日高見国とは「ヒナ神を氏神とする国」の総称
https://blogs.yahoo.co.jp/bebz2006/12107040.html >>964
>旧唐書「日本は舊小国にして倭国の地を併せたり」
>新唐書「倭国が日本国を併合し日本国と名乗った」
この二つの相反する話が飛騨の口碑を読めば矛盾なく理解できる。
旧唐書「倭国はいにしえの委奴国」も同様に解かる。
天照大御神は九州ではなく飛騨に住んでいた。
当時九州では異民族が侵入してきており、九州を平定するためニニギノミコトを
築紫に使わせた。
築紫は飛騨からみれば平地であり、山の麓(ヤマノフモト)縮めてヤマトと言った。
当時は寒冷化が進み飛騨は雪が多くなり、都を移す準備のため、近畿にニギハヤヒを
使わせた。
近畿も飛騨からみればやまのふもとでありヤマトと呼ばれた。
古代日本は飛騨を中心としてアイヌ国(委奴国)と言われていた。
近畿の開拓が進んだところで委奴国を日本国と改名し中心を飛騨から近畿に移した。
近畿の人からみれば日本(飛騨)は小国であるが親の国であり、親の国と子の国が
一緒になったので日本が倭国を併合したと考える。
九州の人からみれば九州のヤマトが近畿のヤマト(日本)を力で奪ったので
倭が日本を併合し日本と名乗ったとなる。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ、
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 ____
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/´ ̄ ̄ノ ゙=ニ二" \rニ | 日高見とは“陽を生み出す"の意味に解釈できる。
しかし現実にはその陽が無い状態だった。黒&白→青
そこに日本武尊が現われて、国を治める日本国となつた。
これで文字通り日高見となった。地元の人は歓迎した。青&赤→紫
「迦賀那倍弖用邇波許許能用比邇波登袁加袁」
現在は白&赤、来年ニ千二十は黒&白につきバランスを失う。
赤を失うのは良くないので「日」は是非必要。 武士と東国政権の起源は日高見国だったのか
坂東武士団の気性の荒さは日高見国ゆずりというわけか 倭大國魂神社
日本で唯一「倭」の国名を冠した「大国魂神社」(式内社)
倭は四国のこと
奈良は大倭 >>1
ヤマトは一地方(奈良盆地)を指すにすぎない。
オオヤシマとかアキツシマにすべし ヤシマもアキツも元は狭い地域を指していたと思われる >>985
もともとは八つの先進地域を指していた言葉だよ >>984
本州、四国、九州、淡路、隠岐、佐渡、対馬、壱岐…
これらが狭い地域か。 >>988
瑞穂は絶対にオコトワリ!
福島瑞穂がいるだろ 日本文化は海外文化に影響を受けながらも和魂漢才など大和魂を込めるので独自の文化に発展する。
チョンコには魂がないので文化盗用になるのだ。 大八洲を小さな地名と言い張るだけあって火病ってるね このスレッドは1000を超えました。
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