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【敵国】元寇について語るスレ part2【降伏】
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0002日本@名無史さん
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2014/02/17(月) 05:58:44.24
              ∧_∧  ジャムリンだ〜               アッー!
             (ヽ(    )ノ)    ∧_∧  ガチホモだ〜       ∧_∧
             ヽ ̄ l  ̄ ./  (ヽ(    )ノ)       ∧_∧  (ヽ(    )ノ)
     ∧_∧   | . .  |      ヽ ̄ l  ̄ ./      (ヽ(    )ノ) ヽ ̄ l  ̄ ./
   (ヽ(    )ノ)(___人__ )     | . .   |  /⌒ヽ  ヽ ̄ l  ̄ ./  | . .   |
    ヽ ̄ l  ̄ ./  ; 丿 し     ( _,;*;,__ (ヽ(    )ノ) | . .   |   (___人__ )
   ∧|_∧  |    ∪        ∪  ; 丿 ヽ ̄ ∧_∧ (___人__ )    ∧_∧
 (ヽ(    )ノ)      ∧_∧      ∪   (ヽ(    )ノ)丿 し  (ヽ(    )ノ)
  ヽ ̄ l  ̄ ./   (ヽ(::::::::::::::::)ノ)  ∧_∧  ヽ ̄ l  ̄ ./∪     ヽ ̄ l  ̄ ./
   | . .   |      ヽ:: ̄ー ̄./ (ヽ(    )ノ) | . .   |        ∧_∧ |
  (___人__ )  ∧_∧::::::|:::::::::|   ヽ ̄ l  ̄ / ( _,;*;,__ )  /⌒ヽヽ(::::::::::::::::)ノ)
   ; 丿 し (ヽ(    )ノ) ::::::::)   | . .   |  ∪  ; 丿(ヽ(    )ノ) ー ̄./
  ∪     ヽ ̄ l  ̄ ./ ; 丿   (___人__ )    ∪  ヽ ̄ l  ̄ ./::::::|:::::::::|  ∧_∧
          | . .  |   ∪     ; 丿 し         | . .   | (:::::人:::::::(ヽ(    )ノ)
   アッー!
                            アッー!     
               ジャムリン待て〜
0003日本@名無史さん
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2014/02/17(月) 05:59:28.76
     ヽ       j   .す ジ あ
  か.   ゙,      l.    ご ャ あ
  わ    !      ',     く .ム ッ
  い    ',        ',    :  リ
  い    ト-、,,_    l     ン
   :    !   `ヽ、 ヽ、    _ :  
   ;    /      ヽ、`゙γ'´
      /         \
      !   ト,       ヽ
ヽ__  ___ノ ,!   | | ト,       ゙、
  レ'゙ ,イ ./|!  .リ | リ ! .|! | ト|ト}
 ,イ ,/ ./〃/ / | / .リ/ //イ|.リ
// //ノノ  //゙ ノ'////|.リ/
´彡'゙,∠-‐一彡〃 ト.、,,,,,,,,,,,レ゙
二ニ-‐'''"´      /`二、゙゙7
,,ァ''7;伝 `        {.7ぎ゙`7゙
  ゞ‐゙''  ,. ,. ,.  l`'''゙" ,'
  〃〃"      !   |
              !  l
 !       (....、 ,ノ  !
 j        `'゙´  ,'
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  ` .、       /
   :ミ:ー.、._  /``'''ー-、
    `゙三厂´
0004日本@名無史さん
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2014/02/17(月) 06:00:13.78
           ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
        ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
     :::::::::::::::                        :::::::::::::::
   :::::::::::::::     あぁ・・・なんて愛らしいんだ       :::::::::::::::
  :::::::::::::::    ジャムリン、ジャムリン・・・       :::::::::::::::
   :::::::::::::::    ジャムリン・・・・あぁぁぁあああ       :::::::::::::::
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     リ,;;;;;;:: ;;;;;:: ;;;;; ::;;;;;; \       人 从
     (彡ノり/リノ" ミ;;;;;;,,,.. ゝ     ) あ (
     );;; ヾ、;;;;...__,,  );;;;;;;; ヾ    ) お (
     i:::) ` ;;ー--、` 〈;;;;;;;::;;; i   ) お (
    i i::/   ^:::::::.. i  ,ll/ニi ;; l   ) / (
    i l ヾヽ''    ゚   ))ノ;; /  ) っ (
  i |  | iにニ`i,     (_/i;;; |  ) !! (
  | |  ! `ー‐'"    /  ゞ:l  つ (⌒
  i l|  ! " ̄  ,,,. /,;    ミi      |l
  | |i  ヾ二--;‐' ,;; ,;   ミ ||i il   i|
  | ll  _|彡"  ,' ; /' ̄^ ̄''''\  ||
  l ,..-'"  〈    ; /        ヽ
 /  、, \)  ,,.-/           `i
     `  ミー,;;' ,l             l
    /   ;; /  .|             |
   ヾ/    ,i'  ト             |
   'i     '  /゙`       イ    !
   ,;;|o;   i|  /         ヲ    /
  ,;;人,,_   ハ /    ,     /  
0005日本@名無史さん
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2014/02/17(月) 06:00:59.23
                スッ
            i⌒i スッ
      ./ ̄\  | 〈|    @日本史板住民がジャムリンを攻撃する
      | ^o^ | / .ノ||
      ,\_//  ii|||| グチャーン!!
    / ̄    /  iii||||||  グチャーン!!
   / /\   / ̄\ii|||| ・;`.∴.'
 _| ̄ ̄ \ / 从,;,・从//`i⌒i スッ
 \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:;・,‘;`.∴:;・< | 〈| スッ
  ||\      ヽ、' ^q^  ノ.'/ .ノ||
  ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ \ l / / ii||||
    .||     / ̄   / iii||||||
         / /\   / ̄\ii||||      .'  , ..
       _| ̄ ̄ \ /  ヽ  ・;`.スカッ'     
       \ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \__)   スカッ   Aジャムリンはなぜか部外者を攻撃する
        ||\          \
        ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
        ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||   
           .||            ||
0006日本@名無史さん
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2014/02/18(火) 20:34:29.67
       {    !      _,, -ェェュ、   | 
ィ彡三ミヽ  `ヽ     ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ   `ー  /ililハi変態iliミliliミ|  
     ヾ、        /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミ| 
  _    `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.| このスレは
彡三ミミヽ        i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/ ∠| 
彡'   ヾ、    _ノ i!::: ̄二ー:: : :(◎) | ジャムリンに
      `ー '    {ヘラ'(◎)シ;テ ヽ''''" | 
 ,ィ彡三ニミヽ  __ノ ヽヘ彡 ( o -^ ノ   | 監視されて
彡'      ` ̄      `l ∴ )-=ェっ( ∵ |
      _  __ ノ ヽ    ⌒     | います
   ,ィ彡'   ̄        ヾ ヽ-- '    |
ミ三彡'        /⌒ / ヽ   : ::::::::::|
       ィニニ=- '   / i  `ー----(二つ
     ,ィ彡'      / ミ/        (二⊃  ジャムリンにより
   //        /  ミ/          ト、二)
 彡'       __,/ ミ/         :..`ト-'
        /    / ミ/         :.:.:..:| 監視だけじゃなく
          / ヾ\_       :.:.:.:.:|
      ィニ=-/    ミ/      :.:.:.:.::::| 投稿されても
    /    / ̄ ̄/         : .:.:.|
   ノ     _/   /       :. :.:.:.:.:.:.:| います
0007日本@名無史さん
垢版 |
2014/03/09(日) 09:09:04.52
定期保守
0008日本@名無史さん
垢版 |
2014/06/16(月) 12:35:30.22
弘安の役で日本軍も鷹島周辺に水軍を展開してたはずだけど
台風の被害をほとんど受けていない(ように見える)のはどうして?
台風の直前には鷹島周辺に集結した敵艦隊に攻勢をかけてたよね?
0009日本@名無史さん
垢版 |
2014/06/17(火) 19:45:47.46
八幡大菩薩の御加護
0010日本@名無史さん
垢版 |
2014/06/19(木) 16:20:16.88
>>8
元艦隊だって台風で大した損害受けてないだろ
それを口実に元軍の指揮官が逃亡しちゃっただけで
台風の後だって残された元艦隊と日本水軍が海戦やってるんだし
0011日本@名無史さん
垢版 |
2014/06/23(月) 04:11:34.66
日本の武士団は常に積極攻勢で
河野道有や松浦党の執拗な攻撃で元軍は劣勢で鷹島に上陸出来なかった
0013日本@名無史さん
垢版 |
2014/07/28(月) 01:13:00.24
歴史群像 No.126 2014年8月号
■ 第3特集
未曾有の国難を打破した鎌倉武士の実力
【軍事分析 蒙古襲来】
大海を渡り博多湾に押し寄せる超大国の軍勢――。元軍の集団戦法と火器の前に
敗退を重ねたとされる日本軍だが、それは創られたイメージに過ぎなかった? 
基本史料の再検証を通じて、中世日本が経験した対外戦争を徹底分析!
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0014日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/04(月) 01:04:26.29
日本の弓は世界最大級の長弓で射程距離や命中率、安定性など
性能が高かったんだよな
0015日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/07(木) 19:03:50.82
和弓は飛距離はそれほどでもないが当たれば威力は強いらしい
0016日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/07(木) 19:18:41.78
世界最大級の長弓っていったら昔のアフリカ人が大型動物狩ってたときのじゃないか?
0017日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/10(日) 18:19:06.33
日本にしろ、アフリカにしろ、実際の長さを出さずに世界最大級とか語っても、アホらしい
0018日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/10(日) 18:23:31.82
15
非力な人間じゃ弓を引けないシロモノだがな
0019日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/10(日) 18:26:27.64
そもそもあんな長弦は実用的というより儀礼的要素の方が強いわ
0020日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/22(金) 08:35:13.44
元軍は儀礼的要素が強い弓に副元帥を射倒されてしまったのか
まだ数的には日本勢は現地に集まりきってない段階だったというのに
0021日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/22(金) 08:54:29.54
自演○○○広 SE 39歳 ○城県出身 やめなさい 警察に出向いてもいいですか ここまで陰湿な人間はいないでしょう
0022日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/24(日) 21:51:02.41
蒙古から送られた国書を読んだら
島夷に対する見下しもなく朝貢ではなく通好という言葉を使い、かなり礼儀正しく感じたのですが
元がその他の国に宛てた国書と比較するとどうなんでしょうか
0023日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/25(月) 03:21:44.15
>>22
文末で対等な者に対する「不宣」と書かれていることから気を使った部分も見受けられるが、小国の君と呼称したり兵を用いるに至ってと書かれているあたり極めて尊大且つ無礼な内容で恫喝的なのは確か
0024日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/25(月) 17:43:05.98
>>22
武力行使を匂わせてる時点で礼儀もクソもないわな
0025日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/26(火) 00:08:07.39
武力行使を匂わせることそれ自体は当たり前だと思うけどなあ
小国の君っていうのも暗に例として匂わせている程度で日本とは明示していない
むしろ、中国の他の王朝に於いて日本を蛮夷と見下してない例があるんだろうか
0026日本@名無史さん
垢版 |
2014/08/27(水) 23:06:38.48
比較もろくにやってないんじゃないの?
日本中世史の学者には、元は難しすぎる。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/03(水) 22:28:29.45
>>22
国書の内容じゃなく送り主の蒙古が侵略国家だということが問題なんだよ。
五代帝王物語も蒙古が周辺国を征服しまくってる国だと書いてるし。
迷惑メールがどんな丁寧な文体で書かれていても返信したりしないだろ。
0028日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/04(木) 01:52:41.22
この時代は侵略戦争は違法という国際法はござらん
今の国際法と13世紀当時を比較すべからず
0029日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/04(木) 02:54:30.01
>>28
国際法とか無関係に古今東西共通で侵略国家は侵略国家だよ。
まともな為政者ならそんな国と友好的な外交関係結べるなんて考えないし、
現実に当時の他の国の蒙古への対応も鎌倉幕府とほぼ同様。
0030日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/05(金) 03:52:07.10
返諜するか否かで大いに揉めたからな
幕府は一貫して返諜してはならないで通していたが
0031日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/05(金) 07:14:08.54
>>22
昔は形式に目をつぶって実を取ればいいじゃないかという人も多かったけど、
>用兵夫孰所好
これはちょっと弁解しようがないと思う。

>>30
朝廷「テメエふざけてんのか!と言う返書を送ろう!」
幕府「いや、もうほっときましょう。スルーしましょう」こんなレベルの争いだけどね
幕府で正解だったと思う。返書送ったら相手をカウンターパートと認めることになるし
0032日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/06(土) 09:23:02.27
朝廷の返諜は、蒙古の国書のヘボさをネチネチ指摘してる感じがオタクっぽい
0033日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/06(土) 10:13:53.50
鎌倉幕府も三別抄を無視したみたいに言われてるけど、あれって嘘だよね。
元の使者とのやり取り見ると、朝廷の返諜握りつぶしたのは明らかに三別抄への
配慮からだし。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/06(土) 12:26:31.88
>>34
元側の史料にそう書いてあるんだよ。
博多では三別抄と南宋人に外交交渉を阻害されたとか、大宰府の役人から
三別抄が何度もモンゴルの意図は日本侵略だと言って来てると詰問されて
結局は返諜無しでただ日本側の使者を大都へ送ることになったとか。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/08(月) 05:22:32.20
言葉や漢字の使い方の違いから文書が意味不明で怪しげだったから
返事は出さなかったんだよ
0038日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/10(水) 13:01:37.67
最新の元寇学説が載ってる良い本ないかな?
探しても古いのばっかりや
0039日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/10(水) 20:24:46.60
福岡県庁前の公園に「敵国降伏」の大文字が入った天皇の銅像がある。何天皇かは忘れた。亀山だったかな
0040日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/11(木) 03:50:47.79
>>38
戦争の日本中世史オヌヌメ
0041日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/11(木) 04:18:38.72
佐藤鉄太郎の「竹崎季長の研究」や軍事史学の元寇特集買ったけど、初心者にはwikiが一番よくまとまってる
異様に詳しく書き換わった
0042日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/11(木) 18:21:10.85
>>40
ありがとう
やっぱ本で読みたかったからね

他にも新しい元寇の本知ってる人教えてくれ
図書館でも古いのしかない・・・
0043日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/15(月) 20:14:53.78
イスラム史料にあたれる日本史学者とかいるんだろうか?
0044日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/16(火) 11:23:05.34
元寇以前と以後で日本側の対大陸の振る舞い全然違うよな
0046日本@名無史さん
垢版 |
2014/09/25(木) 20:25:23.37
>>15
和弓はあまり曲射しないから、曲射を多様して、遠くまで飛ばすトルコ弓とは、用法の考え方が違う。
重くて長い矢を長大な弓で十分に加速した運動エネルギーで、鉄の鎧を撃ち抜く目的があった。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/16(木) 05:54:24.05
>>24
>武力行使を匂わせてる

東大寺に写本がのこってるあの国書の文面にそんな臭いがするのは、お前の鼻がまがってる。
鎌倉幕府の連中の鼻も曲がりきって、詰まりつくしてたな。

「匂わせてる」といえば、
二回目の国書とか、
南宋の将軍あての降伏勧告とか、
コデン発チベットのサキャパンディタ宛書簡だな。
0048日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/16(木) 22:20:57.76
>>47
鎌倉幕府の対応は妥当。
蒙古が国書送ってきた時点で侵略の意図ありと考えない方がおかしい。
実際に一回目の国書の時点でクビライは日本侵攻の準備開始を命じてたしね。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/16(木) 22:33:58.36
つうか、当時の日本に「戦う」「戦わずして屈する」以外の選択肢ってあったの?
0050日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/17(金) 16:20:55.98
チベットの場合は、諸侯と教団領主がいくつか抵抗してつぶされたのがいるけど、国全体としては平和裡に服属したといえる。
モンゴル軍は平和的に進駐してきて、9世紀に吐番王朝が崩壊して以来、国家崩壊状態で分裂していたチベットに、サキャ派という宗派の管長をトップとするサキャパ政権が誕生した。

>>48
>蒙古が国書送ってきた時点で侵略の意図ありと考えない方がおかしい。
>実際に一回目の国書の時点でクビライは日本侵攻の準備開始を命じてたしね。

必ずしも日本「侵攻」、「侵略」の準備ではない。

征服されて、または平和的に、モンゴル帝国の支配下に入った諸国に共通するフォーマットとして、
 ・人口調査と地図作製の実施
 ・ダルガチの配置
 ・駅伝網の整備
などがある。支配下に入る経緯がどうあれ、服属した地域には、大量の官吏や軍勢が駐在・駐屯することになる。

「日本国王」が「通好」を受け入れた場合には、とうぜん「侵略」「侵攻」ではなく、「平和裡の進駐」になっていただろう。
005150
垢版 |
2014/10/17(金) 16:24:20.90
朝鮮半島にあった高麗王国では、
モンゴルに服属すると、武家政権を支えていた軍事貴族が排除され、
高麗王家の王氏を中心とする政権が成立した。
武家政権に政治の実験を奪われていた王家が権力を取り戻したわけで、
モンゴルをバックにした「王制復古」が成立したとも評価できる。

>>49
>つうか、当時の日本に「戦う」「戦わずして屈する」以外の選択肢ってあったの?
「当時の日本」はともかく、鎌倉幕府には「戦う」以外の選択肢はなかったと思われ。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/17(金) 16:49:51.30
50
日本国王は宋や明との勘合貿易のときに使う名称
徳川家康も支那、朝鮮との通交するときに名乗ったんだっけ?
0053日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/17(金) 16:56:08.29
51
当時の日本というのと鎌倉幕府を分けて考えるのが意味不明
それにどんな意味があるのか説明ほしいなと
0054日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/17(金) 17:59:01.57
>>51
日本の意志決定機関が鎌倉幕府で良いなら、戦う以外の選択はないのですね。
その前提なら、一貫して徹底抗戦という判断は妥当であり、その結果として
日本防衛に成功したと考えて良いでしょうか?
0055日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/17(金) 22:54:38.59
>>46
武器としても、かなり優秀だったみたいだが、なにより弓をひいてる姿が美しいよね。
0056日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/18(土) 03:28:48.05
誰も好き好んで異民族の支配を受けたりしない。
鎌倉幕府の選択は当然だわな。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/19(日) 11:30:25.33
徳川が名乗ったのは
「日本国大君」
足利が名乗ったのは
「日本国王」
0058日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/19(日) 11:39:56.13
>>56
「絶対勝てない。選択肢は滅亡か異民族の支配を受けるかの二択」
というなら話は別でしょうが(これに該当して元に降った国もあるだろうし)
勝算あり、あるいは勝てないことに気づかないという場合は徹底抗戦ですよねぇ。
005950
垢版 |
2014/10/19(日) 22:03:54.45
>>52
>日本国王

フビライ・ハーンは、京の朝廷と鎌倉の幕府と、
日本にふたつの政府が並立しているのをロクにしらないまま、
だれでもいいから日本の親分を、こう呼称したのであろう。

>>53
 朝廷のほうはフビライの最初の国書に対し、いったんは返書を出すって決めてるんだぜ?

 鎌倉幕府は、高麗の武家政権の末路を知っていたなら、「戦う」以外の選択肢はあり得ない立場。
 実際の鎌倉幕府は、高麗の情報を把握することなく、「戦う」で突っ走ったが。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/19(日) 22:07:02.72
>>59
その返書の内容が
「ぐだぐだ言わずに懸かって来いや。相手してやるぜ」
だったりはしませんでしょうな?
006150
垢版 |
2014/10/19(日) 22:12:20.61
>>54
 >日本の意志決定機関が鎌倉幕府で良いなら、戦う以外の選択はないのですね。

この時期、「日本国の外交権」はまだ朝廷が持ってたでしょ?
鎌倉幕府のほうに「諮問」して、そのまま幕府に引きずられてったけど。

>一貫して徹底抗戦という判断は妥当であり、その結果として日本防衛に成功した

あのときの鎌倉幕府の判断は、国際情勢を慎重に分析したうえでの決断といえるものでは全くなく、むしろ逆に目を閉じ、耳を塞いだまま闇雲に刃物を振り回したようなもので、「妥当」などとはとてもいえない。

情報の収集と分析をわざとかと思えるほど意図的に避け、
連帯可能な勢力(三別抄)をつれなく追いはらってしまったんだから。

九州に上陸した元軍が、たまたま撃退可能な程度の規模・装備・根性しか持っていなかったのは、当時の日本にとって、まったく運がよかったとしか言いようがない。
0062日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/20(月) 12:07:48.62
>>61
あのときの鎌倉幕府の判断は、国際情勢を慎重に分析したうえでの決断だったよ。
情報の収集と分析をわざとかと思えるほど意図的に避けてるのは鎌倉幕府の対応を
批判してる戦後の研究者たちの方。

例えば三別抄と連帯しなかったと批判してるけど、三別抄なんて1271年5月に
珍島で大敗して戦力の大半を喪失し、幕府が三別抄からの牒状を朝廷に届けた
1271年9月の段階では既に朝鮮半島において軍事的連帯なんて夢物語でしかない
状態だった。

ただ三別抄のもたらす情報自体は日本にとって有益だったから、鎌倉幕府は
つれなく追いはらったりなんてしていない。
その証拠に元使趙良弼が来日した時、三別抄は普通に博多で活動してるし。

『元朝名臣事略』野斎季公撰墓碑
「既至、宋人与高麗・耼羅共沮撓其事。留公太宰府、専人守護。」

で、大宰府の少弐氏は三別抄からの情報を外交カードとして有効活用してる。
趙良弼は報告書で朝鮮半島へのモンゴル軍の配備状況が日本側に筒抜けに
なってることを問題視してるしね。

『元史』巻七 本紀第七 世祖四 至元九年三月乙丑の条
「安童言、良弼請移金州戍兵、勿使日本妄生疑懼、臣等以爲金州戍兵、彼國所知、
若復移戍、恐非所宜、但開諭來使、此戍乃爲耽羅暫設、爾等不須疑畏也、帝稱善。」

ちゃんと調べれば鎌倉幕府が勝つべくして勝ったことがわかるのに、まともに
史料すら読んでないから「たまたま撃退可能な程度の規模・装備・根性しか
持っていなかった」とか「運がよかった」としか言えないわけだ。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/29(水) 06:49:26.29
>>59
日本の君主は京都にいて、実務機関が鎌倉に有っただけで二つの政府が並立なんかしてない
将軍や執権は官の一でしかなく、国書を送る相手としてふさわしくない
0064日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/30(木) 18:31:36.13
>>62
交易も盛んだったし、
ある程度の情報を整理できる知識人ともいえる僧も来ているから、
元に対する知識はかなりあっただろう。
仮になかった、としても、
「征服者」が「被征服者」をどのように扱いか、
常識で考えれば理解できる。
戦後の平和呆けした学者の説ほど、噴飯なものはない。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/30(木) 20:23:43.47
でも別にモンゴルって言っても勝てない数じゃないんだけどな
中華支配のためだかのとき北京だかに常駐したのが5万人
基本的な戦略は20万人規模くらいの移動形式で各地を渡り歩く
というもの
20万人だったら頼朝の奥州攻めのときに集まったのがそれくらい
と言われてる
0066日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/30(木) 20:25:51.71
平家倒して西は四国、中国地方からも集まったからな
0067日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/30(木) 20:29:48.73
当時の中国だって最低でも5000万人以上いたはず
日本よりはるかに人口はおおかったからな
0068日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/30(木) 20:42:21.93
ただしこれだけ動けば恩賞がなければ一気に政権が転覆するけどな
0069日本@名無史さん
垢版 |
2014/10/31(金) 00:20:57.86
近未来の政権転覆より、面前の亡国を心配するしかない状況では?
0070日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/20(木) 15:01:43.65
ちょうど、日本は武士の軍事政権だったから兵の動員力はあったね
大和朝廷も、防人制度・大宰府・水城など、もともと大陸からの脅威は重視してた

ただ、貴族が力持ってた時代は相対的に弱かったな
外国の海賊に度々襲われ、刀伊の約50隻の約3000人相手にも被害が大きかった
0071日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/26(水) 18:11:43.76
武士団・水軍の登場と並ぶ、僧兵の武装化が国防と直結していれば・・・
0072日本@名無史さん
垢版 |
2014/11/28(金) 13:36:09.06
義経が武術を学んだのも鞍馬寺の僧兵だし、武蔵坊弁慶も僧兵
0073日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/30(火) 11:16:37.50
刀伊の略奪軍に対しては、壱岐の嶋分寺の僧侶達が抵抗して立派に戦ったとある
0074日本@名無史さん
垢版 |
2014/12/30(火) 15:24:31.44
>>71
それは結局国内の乱れにつながるか、僧兵が武士化だけじゃないでしょうか。
0075日本@名無史さん
垢版 |
2015/01/09(金) 16:15:19.08
文永の3万くらいだったら中央から大将軍を派遣すれば、
鎮西の武士団だけで普通に撃退できただろうな。天慶承平の乱よりは手間が省けるだろう
撃退までちょっと日数はかかるかも知れないが、鎌倉幕府でなくとも普通に
0076日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/12(木) 05:54:21.50
左派学者の角が立っていない
史実に沿ったオススメの本はない?
0077日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/14(土) 12:36:05.81
呉座勇一『戦争の日本中世史』とか?
元寇ちょろっとしかないけど
0078日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/14(土) 21:12:42.45
>>77
ありがとうございます。早速読んでみます。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/18(水) 23:42:05.89
「石清水の神威を顕彰する『八幡愚童訓』の史料批判を中心に、当時の気象条件、『蒙古襲来絵詞』の復原的研究、海中出土遺物などを総動員して通説の誤りを訂していった」
→今谷明「資源戦争として捉え直す元寇―服部英雄著『蒙古襲来』」 日本経済新聞 http://s.nikkei.com/1KZiCGN
0080日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/20(金) 19:02:15.71
例えば元寇は北条が磐石じゃなくても地理、天候幸い以外に恩賞目的や執権の指図だけじゃない蒙古が諦める程度の御家人らの纏まりオーラ?を感じさせたとかね。
それも先祖ヤマト王権の基盤、「皇統」のおかげの気がする訳よ。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/21(土) 07:54:09.22
>>75
逆に考えると、蒙古は何を考えてその程度の兵しか送ってこなかったのかとなるのか。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/24(火) 22:49:40.87
服部英雄著『蒙古襲来』も、元軍が志賀島をずっと維持していたとか、独断が多いな。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/25(水) 07:09:14.30
>>81
まだ南宋が滅んでなかったから
0084日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/25(水) 10:20:06.72
>>83
それは「何を考えて」の答えになってない
0085日本@名無史さん
垢版 |
2015/02/27(金) 23:41:10.77
志賀島には蒙古塚があるな
内モンゴル自治政府がどうのこうのと胡散臭かった覚えが
0086日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/01(日) 05:36:05.61
>>84
日本派遣軍は強兵。精鋭を3万も送れば大抵の国は負ける。

日本はそれを超える精鋭が10万もいるキチガイ軍事大国
0087日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/01(日) 10:27:55.65
仮にスパイや現地事情に詳しい人物が
「桁が一つ足りませんよ」
と進言しても、そんな軍団は編成不可能だし、攻めると明言した以上
「勝ち目が無いので攻めません」
という選択肢は無い……そして、博多で侵略軍司令官が地獄を見る。合掌
0088日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/01(日) 20:17:09.67
そもそも、元寇ぐらいしか大陸からの侵攻がないのは、日本の立地が攻めにくいんだろうね
0089日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/01(日) 20:23:41.93
・海を越えねば攻められません。
・越えるべき海は大嵐で知られる難所で、渡れる季節は限定されます。つまり、いつ来るか読まれます。
・九州以外の地形はよく分かりません。防諜体制が結構堅いです。つまり、上陸可能地点も限定されます。
・現地の防衛力はかなり堅固です。短期間で橋頭堡の確保⇒略奪のコンボが困難です。補給負担が厳しくなります。

……これに「敵国の動員力は10万を超えます。」が加わったら、ちょっと手が出ませんね。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/02(月) 23:28:07.03
少なくとも、近代以降で余程アメリカレベルの超大国が物量戦を仕掛けない限り、
日本を物理的に攻めるのはとても厳しい。
あとは、可能性があるとすれば、内応者を作ることだが、これは安土桃山〜江戸初期に
かけて、イエズス会やフランシスコ会が試みるも見破られ、失敗している。

流石に第2次大戦の降伏に失敗して本土決戦していたら、終わっていたと思うけどね。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/03(火) 17:32:31.12
>>89
それだけ難しいことがわかってるのに、中途半端な兵力で、しかもシーズン終了直前に、
攻めたのはなぜ?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/03(火) 19:12:24.69
>>91
解りません。
シーズン終了直前の方は準備が遅れただけで、本来はもう少し早く出発の予定だったのかな?
日本側の防諜体制が堅固で、日本の兵力を過小評価していたか…
0093日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/04(水) 21:55:22.78
>>91
きっとアレだよ。
実際に日本を征服できるだけの兵力は用意できなかったけど
偉い人が「日本を攻める」と言ってしまったから引っ込みが付かなくなった。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/07(土) 13:04:57.96
モンゴル帝国も完璧じゃないし、巨大組織ゆえの問題とかあるんだろうね
そういう視点で書かれた本は読んだことないけど
0095日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/07(土) 13:13:54.56
案1 次の渡海シーズンまで、数ヶ月待つ⇒100%兵が飢える⇒ほぼ確実に戦わずして負ける
案2 強行出撃して日本で略奪する⇒嵐のリスク大、海を越えた先には強敵が待ち構えているが、勝てる確率ゼロではない。

「遠征中止」の選択肢が許されていない場合、現場指揮官が選択するのはどちらの案か。ほぼ選択の余地は無いんじゃないか?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/07(土) 14:11:55.52
案3 渡海して日本軍と戦ったという実績だけ作ってすぐ帰ってくる。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/08(日) 13:04:01.67
元寇の捕虜の子孫とかいるのかな?
昔なら忌み嫌われただろうけど、今となってはレアリティがあってクールだよね
0098日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/11(水) 15:01:41.62
また新しい本が出るみたいだけど、どうなのかな。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/18(水) 10:38:57.75
>>92
最初は難しいと思ってなかったんだろ。
それまでは3万程度の兵力送ればほとんどの国に楽勝できたから。
0100日本@名無史さん
垢版 |
2015/03/18(水) 21:16:13.42
>>99
南宋は?
0101日本@名無史さん
垢版 |
2015/04/09(木) 13:42:24.79
大河板 清盛スレより

458
21世紀の現在、グローバリゼーションが大嫌いでも、デ・ファクトとしてその趨勢を拒否しようはない。
同じく、平安版グローバリゼーションの射程も意外と強固なものだったのかもしれない。
押し寄せる国際情勢を的確に捉え、広い視野からいかにこれへ対処するか。
為政者がこの難しい態度決定に向き合わなければならないのは、今も昔も同じだ。
宋との正式な交通を拒絶したことが良いことだったのか。洞察力溢れる頼朝の慧眼といえるのだろうか?
また、迫りくる「元寇」への備えとして、時宗政権は国際情勢の情報収集と吟味を適切に行っていたといえるのか?
「神風」が吹いて結果オーライだったとしても、政策決定を検証してみた場合に妥当といえるのか?
いろいろ考えさせられる。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2015/04/19(日) 21:36:13.67
朝鮮半島南部の先住民だった倭人を侵略と民族浄化によって滅ぼした挙げ句、
奪った土地に今も居座り続けている韓国に抗議し日本はその返還を請求しよう。
今の釜山とか特に半島南の沿岸部地域って、任那日本府の話し以前に
元々は100%間違いなく倭人の土地だったじゃん。
中国王朝の公文書にさえもその旨がハッキリと記載されてるし。
韓流の歴史解釈を日本が採用すれば、日本の各行為も侵略どころか中世のスペイン・イベリア半島同様に
単に失った土地を取り戻す為の国土回復運動=レコンキスタになる訳でさ。
嘘かホントか竹島(独島)は西暦500年代に新羅が保有、だから韓国領云々言ってるけど
ならば半島南部は倭人生粋の土地として、日本固有の領土として領有を強く主張出来るよ。
韓国は今の国土の大半を日本に返還しないといけないわな。
日本は韓国を見習ってマスコミ曰く "素晴らしい韓流" の歴史解釈を採用するべきだわ。
彼らが言うには対馬は歴史的に見て韓国領らしいから尚更にね。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/16(土) 22:52:13.18
やあやあ我こそは、ってのは、「決闘の作法」であって戦争の作法ではないよな
まず頼朝の挙兵が夜襲だし、義仲や義経が散々ゲリラ戦やってるのにねえ
0105日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/17(日) 00:39:29.66
>>104
「鎌倉武士が作法に則って、やあやあ我こそはってやってる間に
元軍がわっと集団で攻めてきて、鎌倉武士は苦戦した」ってのは、有名な都市伝説で、
いくら鎌倉武士だって、そんなにアホであるはずないし、
実際にそんなことがなかったのは明らか。


で、逆に「やあやあ遠からん者は 元寇」でググると
この都市伝説を鵜呑みにして、ドヤ顔で「これだから当時の日本人は・・・」と言っているサイトが
山のように出てきて、逆に面白い。

ひどいのになると、保険やさん?のブログでこの話を紹介し、

> 天国でいくら「卑怯だ」「やり方が汚い」
> と叫んでみたところで何も始まらない。
> これが、元寇で学んだことだ。

などとドヤ顔でお説教垂れてたりする。
少しは歴史から、何かを学んでくださいよ・・・って言いたい。
まあ素人相手にそんなこと言っても仕方ないけど
0106日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/17(日) 12:18:51.43
あの周辺で、新羅・高麗などの海賊が襲撃・略奪を数十回やってるし
刀伊の約50隻の約3000の略奪軍を相手にしたり、外国の武装集団とは戦い慣れてるよ
0107日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/17(日) 15:28:59.49
400年頃  広開土王碑参照(解釈いろいろ)
645年 大化の新羅の賊  丹後
663年 白村江の戦い 日本+百済●vs○唐+新羅
668年 遣新羅使派遣、持統天皇の代から新羅に朝貢を飲ませる(新羅の唐への対抗策でもある)
735年 新羅が力をつけて「王城国」と勝手に名乗るも日本認めず
753年 唐の祝賀会で日本と新羅の使者による席次争い 唐も新羅は日本の属国として扱う
759年 属国のくせに生意気だと新羅懲罰戦争(4万7千人)を計画するも内輪もめでお流れ
780年 遣新羅使廃止

811年 弘仁の新羅の賊    対馬 小規模 撃退
813年 弘仁の新羅の賊     五島列島 双方100人くらいの被害 防備強化始まる
869年 貞観の入寇        博多で年貢の絹をかっぱらわれる、追跡失敗 防人強化
893〜95年 寛平の韓寇    北九州西側広範囲 最大2500人 唆した唐が悪いニダとの弁
997年 長徳の入寇      高麗人襲来 九州全域 奄美大島も賊側参加なので南も被害
1019年 刀伊(女真族)の入寇  3000人規模の襲来、対馬壱岐をぼこって殺害365名拉致1289名 博多で撃退
     捕虜が高麗人だったため一時積極関与が疑われるも、高麗も刀伊に襲われこれを撃退
     そのときに対馬・壱岐で拉致された日本人の一部も取り返してくれた

1274年 文永の役 兵力4万
1281年 弘安の役 東路軍4万・江南軍14万 足並み揃わず 高麗は東路軍に参加
 
 元寇の報復で前期倭寇(日本人主体)が猛威を振るう、朝鮮半島も対象
 
1389年 高麗の対馬侵攻   3000隻で対馬焼き討ち 倭寇の捕虜など無し 留守狙い?
1396年 李成桂の壱岐対馬討伐 日本側記録無し 詳細不明
1419年 応永の外寇   227隻17285名で倭寇討伐 対馬で民家2000戸を焼くも軍事衝突では良いとこ無く敗退

 明の海禁(鎖国)に反抗して密貿易目的の中国武装商人が日本を拒点にして中国で暴れる(後期倭寇)
0108日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/20(水) 21:48:47.10
「蒙古襲来」服部英雄
「モンゴル襲来と国土防衛戦」北岡正敏
「異国合戦 蒙古襲来異聞」岩井三四二

最近出版された本ですが、史実的にはどういった評価なのでしょうか。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/23(土) 15:58:41.45
南無八幡大菩薩 鎌倉武士最強
0110日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/24(日) 09:59:58.89
「蒙古襲来」服部英雄
は、日本遠征の目的が「硫黄の入手」にあったというのが目新しい。
ただし資料の裏付けがないので思いつきのように見える。
あとは元軍一週間滞在説、短期作戦含み説など「冬の嵐」と同じ。

「モンゴル襲来と国土防衛戦」北岡正敏
は、某学者を上回る日本軍圧勝説だ。
その主たる根拠は兵力差にある。
日本軍は数千騎と言われるが一騎に数人の補助兵士がつくから総兵力は数万人。
対する元軍は総兵力2万人と少ない上に一度に上陸できる人数は限られる。

蒙古襲来絵詞の突撃場面に補助兵士が描かれていないが、これは「省略」だと言う。
0111日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/24(日) 13:19:39.50
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0112日本@名無史さん
垢版 |
2015/05/24(日) 13:20:13.62
まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0114日本@名無史さん
垢版 |
2015/06/10(水) 04:59:09.44
模試偏差値94をホームページに掲載する同志社のネットアイドル真知宇(まちう)先生が元寇を作成なさいました


                               ((´;;(:;::  ;;:∵;: ノ
           <──≪ 三             ((::;;  ;::;; ノノ
                                    __
               〜¶)                 ゝ __ノ
               Λ⌒Λ   |.\
              彡-@∀@ミ ||\\                      三 ≫──>
 <──≪ 三     (⌒⊃y  二二つ) )
               〉 __ 〈  ||//                  /| (0ノ         彡
        〜¶)    く く \ \ |./                   /.//ミ=ミヽ ,.,.-''""`'ヽ彡
≡≡     Λ⌒Λ   〈__フ 〈__フ    三 ≫──>     ミ∧ | | (゚Д゚ ;)´-→     )
≡    彡丶`∀´ミ                         /・  ''⊂= ヽ丑ヾ  :    ノ
   ━━(∩━━∩━━━>                   (ノ〉/~ヾ.   ヽ=ヽ丑ヾ ,..;ヽ\ \
≡    / __  〈                            :     Y -→ (**) ´   ヽ \ \
≡   / / / /   〜¶)                       ;    // / : (土)      ヽ_》 _》
   〈__フ 〈__フ   Λ⌒Λ  /\                     //::/    ;
             彡 `ハ´ / /\\                   ヽヽ_》   ;
            (⌒二二つ≫────>                    ‐ニ三ニ‐
            〈    〈 ヽヽ__//
             \ \ \ \./    <──≪ 三
              〈__フ_フ
0116日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/19(日) 22:08:15.18
白村江の戦い  〇唐 VS 日本●
文永弘安の役  ●元 VS 日本〇
文禄慶長の役  〇明 VS 日本●
日清戦争    ●清 VS 日本〇
日中戦争    〇中華民国 VS 大日本帝国●
0117日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/20(月) 13:54:10.45
>>115
ハルゼー艦隊が壊滅しとるやん。
八百万の神々はしっかり仕事したよね。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/23(木) 17:04:44.24
最終的には負けているだろう。
そもそも戦争に神頼みが間違っているんだがな。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2015/07/27(月) 17:25:05.04
元寇では、中国人・朝鮮人による侵略戦争で、日本人が大勢殺された。
謝罪と賠償がまだ済んでないぞ。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2015/08/02(日) 22:58:01.72
>>117
結構有名な話だね。
アメリカ艦隊は無敵で、一番打撃を与えたのが台風だと、半藤、保阪、秦、御厨、上念、倉山の
6人が大爆笑していたことを思い出す。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2015/09/18(金) 22:12:28.05
元寇における神風神話は武家政治に対する朝廷の抵抗だ
神道の宗教的リーダーにして支配権威の裏づけとして天皇を擁立する朝廷は
元寇の功績を武家の周到な準備によるものであることを全面的に認めると
武家政治による軍事行動の正当性を強調することになり、ますます貴族政治の非合理性を自ら認めてしまうことになる
よって、たしかに博多箱崎など、全国の神社では敵国降伏の祈祷が行われていたため
この民による祈祷によって神風が吹き元を追い払ったとすることが
朝廷によってもっとも都合がよかったのだ。

これが語られることのなかった真実だ。
とくに学校なる場所で教科書をおぼえさせる時代にはいった明治からこの神風物語が盛んになるのも
王政復古の時代背景と一致するのだ。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2015/09/22(火) 15:45:18.56
武家の功績を認めた方が国威啓発になると思んだが
朝廷なんて余計なことして足引っ張ろうとするし神頼みしか出来ない無能なのに
0123日本@名無史さん
垢版 |
2015/09/22(火) 17:58:35.47
集団戦の言葉の定義が曖昧だけど決闘の一つの形態として
一騎討ちはあれど平安時代から実質は集団戦だからな
対蒙古戦でも日本軍は得意の奇襲と夜襲で元軍を翻弄してるし
0124日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/06(火) 17:08:34.99
>>121
最も熱心に祈祷を勧奨したのは幕府なんですが。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/08(木) 22:02:35.89
自信がなかったらとっくに降伏してるよ。
自分を弱いと思ってたら、とてもじゃないが速攻使者処刑なんて強気な事はしない。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/16(金) 16:19:07.71
まして夜中に敵の船に乗り込んでいってドッキリ殺人やっちゃう神経

真夜中の海 おびただしい数の敵船
敵の船に忍び込むには重たいフル装備では不可能
当然味方にも犠牲者は出ることは想定内
狭い船内で乱闘 敵の首をかっきる

昔の人間のやることは大胆すぎて笑いすらでる
 
 
0128日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/16(金) 17:02:50.56
大胆も何も、やらなきゃ侵略されて家族や仲間が死ぬからそりゃ必死だろ
0129日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/22(木) 04:16:26.01
>アメリカ艦隊は無敵で、一番打撃を与えたのが台風だと、半藤、保阪、秦、御厨、上念、倉山の
6人が大爆笑していたことを思い出す。

クズのきわみだな、最近の「戦史家」らは
0131日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/23(金) 01:19:33.06
>>128
そうかな?
ほとんどの国は自分の命が惜しいから強力な軍をもてず、簡単に降伏する
それで大陸では大帝国が簡単に成立していた。
捕虜とか住民を虐殺ではなく、軍隊の総力戦で凄まじい死傷者を出して当たり前なのはヨーロッパと日本ぐらいなもの
やはり、その民族性によって世界をリードする位置づけに至るのが必然なんだよ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/23(金) 01:24:01.75
中国や朝鮮の大昔からの文献でもよくでてくるように
日本の兵は死を恐れずどんどん攻め込んでくるとある
そんなの兵隊なら当たり前のはずなら書き残すこともなかっただろう。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/23(金) 14:04:51.39
>>131
モンゴルの場合,捕虜の女子供がどうなったかは資料を見れば明らかじゃない?
鎌倉幕府もバカじゃないから,ちゃんと調べて作戦たててたと思うよけどな。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/24(土) 22:36:29.64
そりゃ一回目はともかく二回目はね。
一回目は情報不足だからヤアヤア我こそは・・・なんて言ってたらしいが。
だから二回目は情報収集して分析してちゃんと作戦立てたんだろ。
皮肉にも幕府の方が戦前の旧軍より優秀だったな。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/24(土) 23:27:12.30
やあやあ我こそはしてぼろ負けしたけど元軍が船に戻って休んでたら台風来て沈んだ
0136日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/25(日) 00:16:40.77
敵を迎え撃つ作戦を立てるのは当たり前だろ
ようは戦闘が始まってからが問題
簡単に兵が逃げ出す国のほうが多いよ
簡単に属国になって他国を攻めるようにそそのかすクズ国家もあるぐらいだしな
そこにつけてはドイツの騎士団もボロボロに惨敗したけど国を捨てたり命乞いして先に属国化しようなんてしてないからな
日本の武士団も大宰府あたりまでいったん引き上げたりしたが、結局軍勢整えて博多まで地上戦しに戻ってる
その後長崎あたりの沿岸部でも戦闘してるんだよ あまり知られてないけどね。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/25(日) 11:46:31.78
してねえよ<<やぁやぁ我こそは
鎌倉武士が一騎打ちやるなんて、乱戦の中でおいしそうな敵将見つけた時だけだ。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/25(日) 23:05:47.89
>>137
してるじゃないか、君の書き方だと。
あと薙刀なんかが主力なんだから、この後主流になるような集団戦法は無かったんだろう。
弓矢も基本的には直射だ。
狙って撃つ。
しかしこの後は皆の考えるような一斉射撃に変わっていく。
0141日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/26(月) 21:34:09.46
やあやあ我こそは大掛かりな演出ではなく、会釈のような形式的な作法として最初だけはあったと思います。
自分は福岡出身なんだけど、十数年以上前に元寇について読み漁ったことがあります。
元軍の先方隊が上陸して博多の街は騒然、街の横にある箱崎宮もさっそく炎上し神社警護の者は戦闘になっていた。
様子を見に来た郷土の武士はその状態を遠くから見てすぐさま駆けつけていったとありました。
元寇を受けた当時、日本全土がそれぞれ名乗ってから戦闘する決闘型を優先させていた社会とは限りませんが、
少なくともこのとき駆けつけた武士達はリーダー格の男が名乗ったのではないかと思います。
我はどこどこを治めるなになに家のだれそれであり、そなたらの乱暴狼藉を成敗す!!みたいな感じでしょか
すでに街が異人によって襲われ無差別な戦闘状態に陥っていることは知っているし目の前に見えているわけですから一対一をしにいったわけではないでしょう
土地の守護役として断罪名目を口頭で伝えるようなものでしょう
攻めかかる前か攻めかかるべく馬を駆っている最中に儀礼としてそのように名乗ったのではなでしょうか。
そして勇ましく敵に接近していくところを矢で容赦なく射殺されたと考えられます。
源平合戦のころも、各兵士が戦場でそこかしこで名乗りまくって太刀を交えていたわけではありません。それは間抜けすぎます。
聖徳太子のころから名乗りなしの急襲も普通にありました。
ただ、儀礼的に尊ばれていた正々堂々たる勝負を武将クラスは好み
例えば敦盛の歌などにもそういった美学が匂っています。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/26(月) 21:39:15.94
喧嘩なども50年ぐらい前までは世界的にもそうですが
一方が一発殴り、もう一方が一発殴り返す
そしてどちらかが倒れるまで繰り返す
そういったものでした。
一つの支配形態のもと、古き良き秩序が長いこと守られ残った国々では共通して見られたことでしたね。
荒んだ貧しい国は、作法無用の徹底した、まさに溺れる犬は叩けというやり口が横行していましたが
この点、いま全世界が溺れる犬は叩かなければ活きていけない環境に人間を押しやる情勢を作り出していますね
道徳は失われていく一方です
0143日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/27(火) 00:45:25.83
正々堂々と死んだら普通に馬鹿だろ。
鎌倉武士でもそう思って考え方を改めたんじゃないかな。
まぁそれが最大限発揮されたのは、皮肉な事にその後の大内乱だが。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/28(水) 09:53:19.92
世界的にもわりと昔の人達って正々堂々と死んでるよ
だからといっていつもいかなるときも正々堂々と死んでいたと解釈するのが馬鹿。
自分の本分を自覚、あるいは見出した思想や信念を全うして粛々と死ぬようなのが多い
最初につっこんだ武者も殺されることはわかってただろうが
名誉を最上の者とし、その結果は死だが、武人として生き武人として死んだというコテコテの武人っぷりを体現できたとも言える
ちょっとした傷や風邪で死ぬのが当たり前の時代だったから
生き方に対する考え方もだいぶ違う。
ただあまりにも荒廃した世界だとそういった精神土壌も育たないほど人間が腐れ果てるから
騎士道や武士を産んだ国々はまだラッキーだったとも言える
0146日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/28(水) 21:26:26.10
軍人というのは、最小限の損害で最大限の戦果を得ることが目的だ。
思想や信念で命を無駄使いしたら馬鹿の極みだな。
自分の役割を全く理解していない阿呆だ。
まぁ逆に言えばそんな馬鹿でも生きていけるヌルい環境だったというべきか。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/29(木) 16:44:30.55
>>146
それは武将の役目であって現場レベルの兵隊達はむしろ思想教育徹底された突撃マシンだろ
アホかこいつは・・・
今もアメリカの海兵隊なんてもろに思想教育で洗脳してるし
0148日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/29(木) 16:50:51.29
元寇の話になると必ず侍は弱かった日本は運が良かっただけと延々垂れ流すバカが湧くのは毎度のこと
元と戦わずジャンピング土下座して日本侵攻企てたチョンは日本史にいちゃもんつけることが生き甲斐なのよ
 
0149日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/29(木) 21:48:25.00
>>147
それは合理的な思想で洗脳されているからOKなだけだよ。
戦争に勝てない非合理的な思想で洗脳されてたら目も当てられん。
全員が間違った戦法で突進するんだからな。
元寇の時の幕府はそうだったというだけ。
ただ、鎌倉幕府はすぐに間違いを正したので大分マシな方と言えるだろう。
戦前の無敵皇軍はそれすら出来なかったからな。
0150日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/30(金) 14:44:57.63
こいつリアルで頭悪いだろ
元寇の時の幕府はそうだったって意味も根拠も分からないし
支離滅裂のまま今度は皇軍へと矛先を変えたのか?
0151日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/30(金) 14:52:32.58
鎌倉幕府のときに全員が間違った戦法で突進なんてしてないよ
自己正当化が酷すぎて妄想に転じちゃってるね。
武士団は筑紫野で合流して対処するための準備を整えた
その後地上戦してそれなりに成果はあげてるよ。もちろん1回目の元寇のときの話ね。
郷土の武士が華々しく突撃かけたとかそんなのはその武士個人の自由
1兵士がしたことをもって当時の幕府の指針であるように結論付けることはできない
比較ができていないんだよ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/31(土) 13:57:06.35
皇軍云々はマスコミや世論もあったし、
時代的に同列に語るのはありえないわw
0153日本@名無史さん
垢版 |
2015/10/31(土) 22:39:08.90
>>150
その時代にはそれぞれの最適な“正解”というものがある。
チンギスハンのモンゴル帝国はその“正解”を戦法に見出したからあそこまでの戦果を得た。
残念ながらモンゴル帝国の侵攻を受ける前の鎌倉幕府の戦法・思想は“正解”には遠かった。
しかし、その侵攻を受けた後はより正解に近い思想を得るに至った。
ベストでは無いがモンゴルよりベターにはなったという事だ。
何百年も持ち続けて来た自分たちの思想・戦法を数年で変えるというのは、中々難しい物だ。
残念ながら戦前の皇軍はその思想を変えるには至らなかった。
思想はたかだか数十年程度の物でしか無いがね。
その点、鎌倉幕府はかなり優秀だという事が言えるだろう。

>>151
武士が華々しく突撃を掛け、一騎打ちをしている時点で正解とは程遠い。
そして現地の指揮官に従うべき兵士が勝手な行動を行え、兵士に個人の自由を認めている時点でそれは軍隊とは言えまい。
ただの武装した暴徒だ。
その暴徒の集団が、数年後には軍隊にはなったのだから見上げたものだ。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/02(月) 00:39:30.72
ただのこじつけ
そんな意味不明な扱き下ろししてなにが目的なんだろうか
まともに聞いて納得する人間いるとも思えない。
釣り煽りとは異質の
元寇スレで必ず出てくる独特の粘着性と悪意のコンボ
在日チョンでほぼ間違いないだろう。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/02(月) 21:11:36.36
何も難しい事は言っていない。
世の中には優れている物と劣っている物があって、元寇の時の日本は劣った物を採用していた。
しかし優れている物を目の当たりにし、数百年使用していた劣った物を数年で新しいものに換えた。
こんな芸当はどんな国にも政府にも簡単に出来る事ではない。
故に鎌倉幕府は優秀だ、というだけだが。
それに在日朝鮮人など関係無いし、どうでもいい。
そもそもこの時代にはいないしな。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/04(水) 16:41:18.78
>>156
あっちの記録を見なくとも蒙古襲来絵詞を見れば白石勢の百騎ほど(季長による)の
騎兵が集団突撃している。

しかしその百騎は総司令官に直結していた。
百騎と云わず、季長の5騎も総司令官に直結していた。
つまり元軍のような階段状の軍隊組織がなかった。
このような組織では軍全体が有機的に連係して動くような真の意味の
「集団戦法」は取り得ない。

弘安の役になると志賀島の戦いで季長が郎党を供出したことが絵詞に記録されて
いるから、一部で軍隊組織が生じているいることが窺えるが、それがどの程度の
ものだったかは分からない。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/04(水) 23:41:47.04
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0159日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/04(水) 23:42:18.56
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0161日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/06(金) 02:32:17.42
モンゴル軍の戦法と日本軍の戦法のどちらが優れていたかははっきりしている。
勝ったんだから日本軍の戦法の方が優れていたんだよ。
その点はモンゴル軍自身も認めていて文永の役敗退の理由は「官軍整わず」だ。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/06(金) 10:49:12.93
勝ったというより、凌いだって感じかな。
当時の武士団に統一された戦法を取るようなピラミッド型の組織は無いよ。
しかし、莫大な犠牲を払ったが個々の奮戦でなんとかなった。
そしたら、撤退した敵が次をどうするか話し合っている間に全滅。
そんな感じ。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/06(金) 11:41:17.98
莫大な犠牲を払っのはモンゴル軍だけだよ。
日本軍の方は最前線で戦った菊池も白石も竹崎も生還してる。
日本軍に一方的に押しまくられて壊滅したモンゴル軍の「ピラミッド型の組織」なんて
単なる張りぼて。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/07(土) 09:10:14.89
そんなハリボテがユーラシアの大半を取れるほど、当時の世界はレベル低かったのか。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/07(土) 09:33:36.88
当時の日本とユーラシアを比較すればユーラシアのレベルが低かったことは
否定できないだろ
0167日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/08(日) 09:38:50.11
高麗史金方慶伝「倭兵大敗伏屍如麻」
元史日本伝「入其国敗之」
一代要記「宰府軍等背北了」
0168日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/08(日) 10:47:19.77
>>167
元史も高麗史も壱岐の記録じゃん。
元史の方は国境って限定してるし、高麗史に至っては壱岐と明記してる。
日本軍とモンゴル軍が組織的に戦った博多ではモンゴル軍は瞬殺。
そのことは信頼できる史料全てが一致してる。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/08(日) 13:35:20.86
一代要記
「十月五日、異國群勢襲來之由、自宰府申之、同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、
同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々、對馬以同前、同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡、
同二十日始合戰、 宰府軍等背北了、爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、
測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々、
十一月十七日己丑雖可行五節、依異国軍兵来朝被止之」

「太宰府自(よ)り之を申さく」だから「云々」までが太宰府の朝廷宛て報告書の内容。
だから「宰府軍等背北了」と言っているのは太宰府。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/08(日) 14:04:53.42
>>169
帝王編年記で大宰府は、モンゴル軍を合戦で追い返したと報告している。
帝王編年記の内容は同時代史料である勘仲記の内容とも近く、 確かな根拠を基に
書かれていることが明白だが、一代要記の記述は他の史料と一致しない。
したがって一代要記の記述は信用できない。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/08(日) 20:45:03.52
>>167
金方慶伝の「倭兵大敗伏屍如麻」は一連の戦いの中の高麗軍が活躍した一場面に過ぎないんだが
戦闘そのものは「諸軍與戰」して「及暮乃解」したとしか書いていない
で、その後にどう見ても元軍が劣勢に追い込まれているとしか読めない内容の軍議の場面となる
0172日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/08(日) 22:01:40.40
日本軍と戦って全滅するか悪天候の海に漕ぎ出すかの二者択一を迫られて
海に逃げ込んだんだからな
0173日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/09(月) 20:46:21.40
軍板の元寇スレは落ちたのか
0174日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/09(月) 23:25:45.91
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0175日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/09(月) 23:27:16.07
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0176日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/10(火) 13:57:58.01
一代要記は文永十一年に即位した後宇多天皇の時の成立とされ、まさに文永の役の
同時代史料である。その内容がその一代前の亀山天皇のところから格段に詳しくなるのも、
上記成立年代を裏付ける。(亀山天皇は元寇の時は上皇)

一方、帝王編年記は文永の役のほぼ100年後の1368~1380年の成立とされ、同時代史料ではない。
その内容は一代要記を含む各種年代記の集大成のようなものである。
帝王編年記の文永の役記事は下記:
「六日飛脚到来、是去月廿日、蒙古與武士合戦、賊船一艘取留之。於鹿嶋留押之、其外皆以追返云々。」

これを前に挙げた一代要記の文永の役記事と比較するならば、その要約であることがわかる。
「去月廿日蒙古与武士合戦」は「同二十日始合戦}に対応し、
「其外皆以追返」は一代要記の兵船二艘の奇跡による「即異国軍兵退散」に対応する。

このように見て来るならば一代要記、帝王編年記、勘仲記の三史料の文永の役記事は、元軍の撤退が
太宰府軍の戦勝によらず神威力によるという見方において一致する。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/11(水) 16:36:21.72
>>176
帝王編年記は太宰府軍の戦勝であると書いてるんだから一代要記と一致しないよ。
一代要記の成立年はあくまで推定値であり、史料の信憑性の根拠にはならない。

一代要記の文永の役に関する記述が嘘である決定的証拠がある。
高麗史によればモンゴル艦隊は日本からの撤退の夜に暴風雨によって多大な
損害を受けている。

「及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗」

モンゴル艦隊難破の事実は、元寇に関する最も信用度の高い史料の一つである
勘仲記にも書かれていて日本側が即座に把握していたことがわかる。

「或人曰、去比凶賊船數萬艘浮海上、而俄逆風吹來吹帰本國、少々船又馳上陸上」

更にその他の史書にもモンゴル艦隊難破の記述がある。

歴代皇紀
「廿日、大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂蕩、神威力云々」

皇年代略記
「卅大宰府言上賊船百余艘漂倒」

モンゴル艦隊が撤退の夜に暴風雨によって難破したことは日本高麗双方の史料
から裏付けられた事実なんだよね。
ところが一代要記のみモンゴル艦隊撤退の夜の記述が全く異なっている。

「爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散」

つまり一代要記の記述は他の史料とは異なり、モンゴル艦隊撤退の夜に何が
起こったのかを知らない著者による作り話ってこと。
一代要記の文永の役の記述に史料的価値は無いよ。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/12(木) 10:47:52.75
見た感じ文永の役は対馬での戦闘がメインだったのかもな。
対馬で元軍が思った以上に苦戦して、それでもなお本土に上陸するんだけど
守りが固くて撃退されてあ、やっぱ今回はもう止めとこってなったんじゃね?
0179日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/12(木) 23:05:14.02
騎兵が少ない、というのも要因かな。
船で馬なんかそうそう運べないし、運んでもグロッキー状態だ。
0180日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/13(金) 21:01:40.24
一代要記は勘仲記と互いに裏付け合っている。勘仲記には「之(五十余人の捕虜)を召し具して
上洛せしむべし」とあるが、一代要記には「五節を行うべしと雖も異国軍兵来朝に依り之を止む」
とあって、この捕虜たちが京都に到着したことを記述している。このような関係にある史料は他に
ないから貴重である。

一代要記の記事は元軍艦隊の遭難を記述していないから嘘だということだが、博多湾内での遭難と
外海での遭難を区別しないのは粗雑な議論である。博多湾の外、例えば壱岐で遭難が起こったので
あればすぐには本土の日本人にはわからないから、太宰府からの第一報に載らなくて当然である。

勘仲記も艦隊が湾内で遭難したとは言っていない。逆風すなわち北向きの風、帰国する元軍艦隊に
とっては順風が吹いたと言っているだけである。「少々船又馳上陸上」は志賀島の座礁船一隻の
ことを誇張している可能性が強い。勘仲記は太宰府からの第一報が11月6日に届いた証拠として貴重
であるが、「或人云」というように伝聞であるから誇張が入るのはやむを得ない。「賊船数万艘」
にも見える通りである。

歴代皇紀の「大宰府以三百餘艘之兵船發向、賊船二百餘艘漂蕩」は、日付を抜きにすれば元軍撤退
後の壱岐掃討戦のことを述べている可能性が強い。賊船の数も安国論私抄とほぼ一致する。これが
わかったのは元軍撤退から何日か後のことだから、太宰府からの第一報に載らなくて当然である。
0181日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/14(土) 20:17:58.52
韓国のwikiでは文永の役に台風の証拠は何一つないと書いていますが
0182日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/15(日) 10:11:17.12
嵐のために失敗しました」という主張もあるが、当時は季節的に台風や低気圧に伴う嵐がなかった時期であり、日本側からも、これを裏付ける証拠がない。 国を目指し、1次軍事的措置を通じた圧迫に目的があったのが、一般的な見解である
0183日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/16(月) 13:45:21.74
>>180
「爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散」

これって明らかにフィクションだよね。
フィクションが書かれてる時点でその史料の信用度なんて最低ランク。
一代要記の記述には何の価値も無いよ。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/16(月) 13:54:44.16
>>183
当時は台風シーズンじゃなかったというだけで海が時化ることは普通にあるし、
それを裏付ける史料なら>>177に挙げたように沢山ある。
モンゴル軍は日本軍に敗北して海に逃げ込んだから嵐に遭ったのであって
「嵐のために失敗した」わけじゃないけどね。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/17(火) 11:22:07.45
>>169参照:
「自宰府申之」から、「所乗之人數六十人許、云々」までが朝廷に届いた太宰府報告書の
引用である。
「爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰」が全くのフィクションであるかどうかは別と
して、それを言っているのは太宰府報告書であって一代要記ではない。したがって一代要記
の信憑性を云々する根拠にはならない。

暴風雨については、実際に暴風雨があって東征軍艦隊が遭難したことは高麗史の記述から
動かない。
しかしその遭難が博多湾内で起こったことを示す、日本側の記録は皆無である。
壱岐に130艘の漂着船があったという安国論私抄の記述から考えても、遭難は壱岐または
壱岐周辺で起こった可能性が最も高い。

金方慶伝の「会夜大風雨」の「会」は「たまたま」と訳される副詞だから、いつの夜であるか
を限定しない。撤退当日の夜と考える必要はない。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/17(火) 17:03:47.60
金方慶の欠陥船が長い航海で自然分解したので歴史に残らない台風をでっち上げたのかもしれませんね
0188日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/18(水) 10:43:45.54
南宋軍の船は大型で狭い湾内では衝突し箱型輸送艦の空洞部分に浸水して転覆した
と考えれば江南軍船壊滅の理由にならないでしょうか高麗船は前回の轍を踏まないようすこしじょうぶにした
0189日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/18(水) 14:19:59.66
江南軍は間隔を詰めて停泊していた艦隊が多くやられた。
江南軍の中でも意識的に間隔をあけて停泊していた艦隊は損害が少なかった。

間隔をつめて停泊していると、船の動きで押し出された水がガバガバと隣の
船に入る。これで浸水して沈んだ。

以前、NHKの番組でそのように説明していたが、説得力があった。
0190日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/18(水) 15:19:51.72
>>186
太宰府からの報告書にフィクションが書かれてるわけないじゃん。
大宰府からの報告でモンゴル艦隊の遭難が即座に本土の日本人に伝わったことも
はっきりしている。
つまり一代要記の記述は捏造ってこと。

「会」は『「たまたま」と読み、「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す』
って辞書に書いてあるんだが。
「たまたま」はこれ以上ないくらい厳密に「夜大風雨」が撤退当日の夜である
と限定してる言葉だよ。
0191日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/19(木) 11:09:19.38
太宰府からの報告書にフィクションが書かれてるわけない、となんできめつけられるのか
わからない。
幕府、朝廷、太宰府がいずれ劣らず「神威力」を信じて熱心に祈願したわけだが、「神威力」
そのものがすでにしてフィクションだ。

また、「兵船二艘出来暗天合戦」が完全なフィクションであると考える必要もない。
その元となったなんらかの事象が実際に起こった、ということもあり得るからだ。

たとえば太宰府軍が撤退し、元軍もまた撤退を始めたことによって生じた真空地帯に
戦場稼ぎにやって来た悪党団の一部が小舟二艘で撤退中のバートルを攻撃した、それが
あたかもたった二艘で全軍を追い立てているように見えた、ということだってあり得る。
0192日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/19(木) 11:10:11.86
「会」を『「たまたま」と読み、「おりしも」「ちょうどそのとき」と訳す』 と説明する
漢字源は、親切に例文を載せてくれている。
「居頃之、会燕太子丹質秦、亡帰燕」読み下し「(荊軻が燕に)居ること之を頃(しばら)
くして燕太子丹の秦に質(しち)たるが亡(のが)れて燕に帰る」(一部原文を修正)

「ちょうどそのとき」とは二つの時間が合致することだが、ある事件がたまたま起こった
「時点」に合致するべきもう一つの時間は、ある長さを有する「期間」でもいいのだ。

上記の例文では燕太子丹の脱出帰国という事件が起こった「時点」が、荊軻の滞在という
「期間」に合致したことで二人が遭遇した。

これを高麗史にあてはめれば、大風雨が起こった「時点」が「引兵還」という早良郡から
合浦までの航海の「期間」に合致したことで艦隊の遭難が起こったのだ。

かくして「会」は遭難時点を撤退当日の夜に限定しない。遭難場所は博多湾内でなく壱岐でも
よいし、遭難の日は20日の翌日でも翌々日でもよいのだ。
0193日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/19(木) 11:15:05.67
>>192
訂正;
読み下し文で「之を頃(しばら)くして」の後に「会(たまたま)」を補う
0195日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/26(木) 13:05:47.47
>>191
國分寺文書 薩藩奮記
「就中蒙古凶賊等來著于鎮西、雖令致合戦、神風荒吹異賊失命、乗船或沈海底、
或寄江浦、是則非霊神之征伐、観音之加護哉」

大宰少弐経資が薩摩国雑掌に伝えた正真正銘同時代史料。
大宰府が「神威力」を感謝してるのは、一代要記では一言も言及されてない
モンゴル艦隊を襲った暴風雨に対してで、その点は勘仲記も歴代皇紀も一致
してる。
現実に起こった気象現象に神の力を感じることは現代でも普通にあることで
フィクションでもなんでもない。
一方、「兵船二艘出来暗天合戦」は國分寺文書にも勘仲記にも歴代皇紀にも、
更には敵側史料の高麗史にも一切該当する記述がない。
一代要記に書かれた大宰府からの報告なるものが捏造なのは明らかだろ。

>>192
高麗史は、及暮乃解の「暮」と夜大風雨の「夜」が「ちょうどそのとき」で
一致すると書いてるんだから、翌日や翌々日じゃダメだよ。
遭難の日は撤退当日の夜だと全く異論を挟む余地なく完全に限定してる。
0197日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/26(木) 14:00:13.16
>>196
それは無い。
元軍が暴風雨に遭ったのは日本軍に戦闘で負けて海に逃走した後だから。
0198日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/26(木) 17:44:57.84
緒戦で勝って占領地に布陣できてれば暴風雨に遭うわけもなかったからな
0199日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/28(土) 10:35:51.65
<国分寺文書>
この文書の記事は別に遭難の場所や日時を特定していない。また同時代文書と言っても
この記事の日付は建治元年12月で、文永の役の一年後である。戦闘直後ではない。

したがって書いた人は戦後の調査でわかった元艦隊遭難の情報を十分に知っており、それを
踏まえて書いているはずである。「異賊失命、乗船或沈海底、或寄江浦」というのは安国論
私抄に見る壱岐の漂着船、漂着屍体の状況であろう。

要するにこの文書から「元軍撤退の当夜、博多湾内における遭難」を結論することはできない。

ついでに言えばこの記事が「合戦致さしむると雖も」と逆接になっているのは面白い。
これは「合戦したが残念ながら撃退できなかった、ところが幸いにも観音の加護によって・・」
という気持ちを言外に表したものであろう。太宰府軍敗退のショックがまだ生々しいこの時点
では、このような正直な書き方になるのだ。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/28(土) 10:53:31.35
<会の意味>
漢字の意味はそれを飜訳した「日本語の語感」によらず、本場の漢文の中での用例による
べきである。
>>192に史記の文例で示したように、日本語の翻訳が「ちょどそのとき」というのは、問題の
事件が起こった「時点」が、ある状況が持続した一定の「期間」に一致すればよいのである。

したがって「遂引兵還、会夜大風雨、戦艦触岩多敗」が言う暴風雨の「時点」は、兵を引いて
還る航海の「期間」に一致すればそれでよい。遭難は撤退当夜に博多湾内で起こってもよいが、
翌日以降に壱岐、対馬、あるいはその間の海上で起こってもよいのである。

そうであれば安国論私抄の記述から見て遭難現場は壱岐であった可能性が最も高い。
戦闘直後の史料に元艦隊遭難の記事がないのは、博多では誰もそれを見ていないからである。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2015/11/29(日) 10:08:11.46
>>200
訂正:
「日本語の翻訳が「ちょどそのとき」というのは、」
→「日本語の翻訳が「ちょうどそのとき」であっても、」
0202日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/01(火) 10:11:28.21
>>199
一代要記に書かれた大宰府からの報告なるものが捏造だって点には何の異論も
無いわけね。

>>200
高麗史の「会」は史記の文例の「居頃之」みたいにある長さを有する「期間」
と一致してると書いてるわけじゃないから。
及暮乃解の「暮」と夜大風雨の「夜」が一致すると厳密に時間を指定して
書いてるんだよ。
したがって暴風雨は撤退当日の夜以外にはありえない。
こんなの辞書読めば誰でもわかることなのに往生際が悪すぎる。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/02(水) 11:05:13.23
<先行詞は何か>
高麗史の文章中の「及暮乃解」を「会」の先行詞とするには無理がある。むしろ不可能である。

理由のその一は構文である。
前掲した史記の文章中で「会」(たまたま)の先行詞は「居頃之」(居ること之をしばらくす)である。
先行詞「居頃之}はこれに照応する「会」の直前に置かれ、かつ一定の期間を表している。
漢文は文法が単純だから、構文もまた単純を旨とする。先行詞は照応詞のなるべく直前に置かれて、
誤解を防ぐのである。

ひるがえって高麗史の文章を見れば「会」の直前に「遂引兵還」(遂に兵を引きて還る)があり、
帰国行程という一定の期間を表している。読む人は必然的にこれを「会」(たまたま)の先行詞と
受け取る。書いた人もまたそれを予期し、あるいは意図して、これを書いたのである。

何十字も前にあり、かつ「会」との間に軍議などの他の事件を夾む「及暮乃解」が「会」の先行詞
には到底なり得ない。

理由のその二は品詞である。
「会夜」を「ちょうどその夜」と解釈するならば、「会」は「夜」という体言を修飾する指示詞または
連体詞だということになるが、漢字源を見れば「会」にはそのような品詞はない。
あるのは「会う」という動詞、「集まり」という名詞、それに「たまたま」「かならず」という副詞
のみである。「会」は体言を修飾し得ないのである。

一方、「夜」には名詞の他に「夜遅く」という副詞がある。従って「会夜」は「たまたま、夜遅く」
と二つの副詞を重ねて用いたものである。

かくして「遂引兵還、会夜大風雨、戦艦触岩多敗」の読みは「遂に兵を引きて還る、たまたま夜に
大風雨し、戦艦岩に触れて多く敗る」となる。遭難の場所、日時は特定されない。そうであれば
安国論私抄の記述から壱岐遭難の可能性が最も高いのである。
0205日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/02(水) 15:51:15.78
>>204
いやいや、書いた人の意図は明らかに暴風雨=撤退当日の夜だから。

『高麗史』巻18、世家28、忠烈王1
「及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗」

ほら、「及暮乃解」から直接「會夜大風雨」につなげてるじゃん。
書いた人の意図については、一切誤解の入る余地がない。

そもそも「会」は「前後の事情がうまく合致した意」であって、それこそ
物事が起こった状況を限定する言葉だし。
「ちょうどそのとき」がいつでもいいなんて論理が滅茶苦茶だろ。
「遂に兵を引きて還る、「ちょうどそのとき」夜に大風雨し、戦艦岩に触れて多く敗る」
なんだから遭難の場所は撤退した場所、日時は撤退した夜に特定されてるんだよ。
遭難の場所が壱岐なら軍議の場所も壱岐しかないわけだ。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/02(水) 22:29:45.92
壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人
0207日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/03(木) 11:07:08.47
<引兵還は博多湾出航か>
「遂引兵還」は博多湾からの出航を意味する、だから「夜大風雨」との一致を表す「会」が
遭難の日時と場所を特定する、という論理だが、それは日本にいる日本人の立場からの読み方だ。

考えて見よう。東京に住むAさんが北海道苫小牧に住むBさんに会いに行って、フェリーで東京へ
帰った。そのBさんが「Aさんは昨日フェリーで帰ったよ」と言ったら、それはAさんの苫小牧
出航を意味するだろう。
さてAさんの友人で東京に住んでいるCさんが「Aさんは昨日フェリーで帰ったよ」と言ったら
それはAさんの東京帰着を意味するだろう。「昨日」の意味も一日ずれている。

このように同じ言葉でも用いる人の立場によってまったく意味が異なることがある。
同じように、我々日本人が「遂引兵還」を読めば「厄介者が出て行った」と博多湾出航に重点を
おいて読むが、高麗人がこれを読めば「そんなわけで軍を引き揚げて帰って来た」と帰途の航海
に重点を置いて読むだろう。そして大風雨による遭難は不運にも(会)その過程で起こった
副次的な出来事と受け取るのである。

かくして「会」は遭難の場所と日時を特定しない。そうであれば安国論私抄の記述から見て
壱岐で遭難が起こった可能性が最も高いのである。
高麗史は高麗人に読ませるために、高麗人によって書かれた記録であることを忘れてはいけない。

ちなみに「遂に」の訳は漢字源によれば「そのまま」と「かくして」。前者なら「それ以上頑張る
ことなく」、後者なら「軍議の決定によって」と解釈され、いずれも状況にふさわしい。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/03(木) 13:03:07.39
>>207
もう歴史とか関係なくなってるじゃん。

『高麗史』巻18、世家28、忠烈王1
「及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸岩崖多敗」

これには帰途の航海なんて要素が皆無だろ。
高麗人が読んでも日本人が読んでも暴風雨遭遇は撤退当日としか読めない。
「会」は撤退の日に暴風雨遭遇を特定してるんだよ。
0210日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/03(木) 21:27:22.90
徹底できるならトラック運送以前の陸軍は全部止められるな
徹底しきれないけど
0211日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/04(金) 13:24:36.71
金方慶伝と元宗世家の東征記事を比較すれば、後者が前者の要約文であることは
明らかである。
原文では成り立たない説が要約文なら成り立つから要約文に基づいて議論すると
言うのなら、それは原文から自説に都合の良いところだけをピックアップするというのに
等しい。議論としてまともではない。

ところで私は当日夜の遭難を否定しているのではない。金方慶伝の文章が遭難日を特定
していないと言っているだけである。特定しないからには当然、当日夜も含まれる。
当日夜の遭難であってもよいが、場所は博多湾内ではあり得ない。

理由は、戦闘直後の史料に博多湾内の遭難を示唆するものがないからである。
もし当日夜に博多湾内で艦隊が遭難したのならば、国分寺文書のような描写が、
たとえば一代要記の太宰府報告書に現れなければならない。

それがなくてただ志賀島座礁船一隻の話のみが複数の史料で語られるということは
他に座礁船も難破船もなかったということである。
艦隊の遭難は当日夜であってもよいが、その場所は博多湾外である。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/04(金) 15:39:37.88
>>211
金方慶伝では成立せず元宗世家では成立するなんてわけないじゃん。
同じ出来事について書いてるのに。
金方慶伝も元宗世家も同じく暴風雨遭遇を撤退当日の夜と特定してる、
ただそれだけのことだよ。

で、暴風雨遭遇が壱岐なら当然軍議が行われたのも壱岐ということになる。
これも高麗史的には何の問題もない。
何故なら高麗史の記述には、もともと高麗軍が壱岐までしか到達してないと
明記してあるんだから。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/04(金) 15:59:05.41
そりゃ日本から船を出せば半島まで行けるが半島から日本まで船を出そうとすりゃ

今だに朝鮮人のやつら死んでるもんな

密航しか渡航手段がないのはバレてるがな
0214日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/04(金) 16:41:50.67
「東征軍艦隊の遭難現場は壱岐」
それは私が何回となく言って来たことだ。

めでたく意見が一致した。
それなら私はなにも言うことはない。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/07(月) 10:32:08.89
>>i77は一代要記に撤退当日の(すなわち博多湾内における)モンゴル艦隊の遭難の
記述がないから、一代要記は嘘で作り話だと言っているが、
>>212はモンゴル艦隊の遭難現場が壱岐であることを認めている。

一代要記が嘘だと言う根拠が、逆にその信憑性の根拠になったわけだ。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/07(月) 21:48:24.45
上で、>>i77は>>177の間違いね。

177/212は言うであろう。
いや、撤退当日にモンゴル軍を追撃して壱岐に上陸した日本軍が、その夜のモンゴル艦隊遭難を
目撃したのだ、だからその記述がない史料は嘘だと。

ということは、177/212は壱岐軍議説というお伽噺を根拠にして一代要記をけなしていたわけだ。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/08(火) 01:08:53.56
それさあ
モンゴル側にはどういった資料が残ってるん
あるいは中国側の資料でもいいや
モンゴルの皇帝調子に乗りまくってある意味、中国の
皇帝の地位を上げちゃったからな
0218日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/08(火) 01:14:12.89
あくまでチンギスハーンがやったのはモンゴルの統一とあとは西夏を滅ぼしてそのあとは中東に殴り込み
中央アジアあたりにいた王族を追撃しまくってその一族皆殺し

あとの拡大策はその子孫の代になってから
元を作ったのは孫のフビライだしロシアあたりを征服したのはオゴタイ
0219日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/08(火) 01:32:09.55
チンギスハーンのときに中国方面の文化やら力やら得てそれを成し遂げたかって言えばこれはあり得ない話

フビライのときに中国に在留した兵数知ってるか?

たったの5万人
0220日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/08(火) 01:33:51.15
中国軍なにやってたんかな?

この時代の中国国内の兵数は300万人
0222日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/08(火) 10:28:35.00
フビライが中国で成功したのは中国人部隊をうまく使ったから。
逆に言えば自分が中国化した。

文永の役、弘安の役で日本にやってきたモンゴル軍も、その実体は中国人部隊
だった。
0224日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/10(木) 10:50:28.74
文永の役は総兵力約2万のうち、
高麗軍(高麗王国軍)約5千。これはすべて高麗人。
残り1万5千のなかに洪茶丘率いる「高麗軍」が含まれる。これは高麗系中国人部隊。
残りのほとんどが中国人部隊。
そのなかには北方中国人からなる「漢軍(漢児軍)」と、南宋の降軍からなる「生券軍」
が含まれる。その割合は不明。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/10(木) 11:17:40.71
あ〜それな

遠征軍はほとんど中朝混成だからな

今度は倭寇が嵐回ったら倭寇に転身するやつらが続出
倭寇の日本海賊は初期こそ日本人が多かったが中期こ
ろからは八割以上が向こうのやつら
0226日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/10(木) 11:36:54.26
下手すりゃ元寇メンバーから倭寇に転身したやつらもいたかもしれないくらい
0229日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/17(木) 14:38:15.22
元寇は江戸時代にできた呼称
鎌倉時代にはなかった
0230日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/17(木) 19:53:26.13
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0231日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/17(木) 19:53:59.58
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0232日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/20(日) 18:54:03.70

0234日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/28(月) 13:54:40.80
【敵国】元寇について語るスレ【降伏】

1 :日本@名無史さん:2012/12/09(日) 02:19:18.68
『蒙古国書』

上天眷命
大蒙古國皇帝奉書
 日本國王朕惟自古小國之君
 境土相接尚務講信修睦況我
祖宗受天明命奄有區夏遐方異
 域畏威懷コ者不可悉數朕即
 位之初以高麗无辜之民久瘁
 鋒鏑即令罷兵還其疆城反其
 旄倪高麗君臣感戴來朝義雖
 君臣而歡若父子計
 王之君臣亦已知之高麗朕之
 東藩也日本密邇高麗開國以
 來亦時通中國至於朕躬而無
 一乘之使以通和好尚恐
 王國知之未審故特遣使持書
 布告朕意冀自今以往通問結
 好以相親睦且聖人以四海為
 家不相通好豈一家之理哉至
 用兵夫孰所好
 王其圖之不宣
   至元三年 八月 日
0235日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/29(火) 11:18:14.62
第二の国書もよろしくね
0236日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/30(水) 01:05:30.99
至元六年( 高麗元宗十年、日本文永六年、一 二六九)六月
『 異国出契』巻一     拠奈良興福寺一 乗院所蔵本転鈔
 大蒙古國皇帝洪幅裏、中書省牒日本國王殿下。我國家以神武定天
 下、威徳所及、無思不( 能)[ 服] 。逮皇帝帥位、以四海爲家、兼
 愛生靈、同仁一 覗、南抵六詔・ ( 五) [ 安] 南、北至于海、西極崑
 崙、敷萬里之外、有國有土、莫不畏威懐徳、奉幤來朝、惟爾日
 本、國于海隅、漢唐以來、亦嘗通中國、其與高麗寔爲密邇。皇帚
 嚮者敕高麗國王、遣其臣潘阜持璽書通好、貴國稽留數月、殊不見
 答。皇帚以爲將命者不逹、尋遣中憲大夫・兵部侍郎・ 國信使紜
 徳、中順大夫・ 禮部侍郎・ 國信副使殷弘等、重持璽書、直詣貴
 國、不意纔至彼彊樹馬島、堅拒不納、至兵刄相加我信使、勢不獲
 已、聊用相應、生致塔二郎・ 彌二郎二人以歸。皇帚寛仁好生、以
 天下爲度、凡諸國内附者、義雖君臣、歡若父子、初不以遠近小大
 爲間。至于高麗、臣屬以來、唯歳致朝聘、官受方物、而其國官府
 土民、安堵如故、及其來朝、皇帚所以眷遇( 樹)[ 撫] 慰者、恩至
 渥也。貴國隣接、想亦周悉。且兵交使在其間、寔古今之通義、
 彼彊場之吏、赴敵舟中、俄害我信使、較之曲直、聲罪致討、義所
 當然。又慮貴國有所不知、而典封疆者、以愼守固禦爲常事耳。皇
 帚獪謂此將吏之過、二人何罪、今將塔二郎致貴國、俾奉牒書以
 往。其當詳體聖天子象容井包混同無外之意。忻然效順、特命重
 臣、期以來春、奉表闕下、盡畏天事大之禮。保如高麗國例處之、
 必無食言。若獪負固恃險、謂莫我何、杏無來、則天威赫怒、命將
 出師、戰舸萬艘、徑壓王城、則將有噬臍無及之悔矣。利害明甚、
敢布之殿下。唯殿下寔重圖之。
 
0237日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/30(水) 01:16:06.54
右牒日本國王殿下
 至元六年六月 日 牒
 資政大夫中書左丞
 資徳大夫中書右丞
 榮祿大夫罕章政事
 榮祿大夫罕章政事
 光碌大夫中書右丞相
0238日本@名無史さん
垢版 |
2015/12/30(水) 01:48:41.11
大蒙古國皇帝洪幅裏 中書省牒日本國王殿下
我國家以神武定天下 威徳所及 無思不能服
逮皇帝帥位 以四海爲家 兼愛生靈 同仁一覗
南抵六詔・五安南 北至于海 西極崑崙 敷萬里之外
有國有土 莫不畏威懐徳 奉幤來朝 惟爾日本 國于海隅
漢唐以來 亦嘗通中國 其與高麗寔爲密邇 皇帚嚮者敕高麗國王
遣其臣潘阜持璽書通好 貴國稽留數月 殊不見答
皇帚以爲將命者不逹 尋遣中憲大夫・兵部侍郎・ 國信使紜徳
中順大夫・ 禮部侍郎・ 國信副使殷弘等 重持璽書 直詣貴國
不意纔至彼彊樹馬島 堅拒不納 至兵刄相加我信使 勢不獲已
聊用相應、生致塔二郎・ 彌二郎二人以歸 皇帚寛仁好生 以天下爲度
凡諸國内附者 義雖君臣 歡若父子 初不以遠近小大爲間 至于高麗
臣屬以來 唯歳致朝聘 官受方物 而其國官府 土民 安堵如故 
及其來朝 皇帚所以眷遇樹撫 慰者 恩至渥也 貴國隣接 想亦周悉
且兵交使在其間 寔古今之通義 彼彊場之吏 赴敵舟中 俄害我信使
較之曲直 聲罪致討 義所當然 又慮貴國有所不知 而典封疆者 
以愼守固禦爲常事耳 皇帚獪謂此將吏之過 二人何罪 今將塔二郎致貴國 
俾奉牒書以往 其當詳體聖天子象容井包混同無外之意 忻然效順 
特命重臣 期以來春 奉表闕下 盡畏天事大之禮 保如高麗國例處之
必無食言 若獪負固恃險 謂莫我何 杏無來 則天威赫怒 命將出師 
戰舸萬艘 徑壓王城 則將有噬臍無及之悔矣 利害明甚 敢布之殿下 
唯殿下寔重圖之
右牒日本國王殿下
 至元六年六月 日 牒
 資政大夫中書左丞
 資徳大夫中書右丞
 榮祿大夫罕章政事
 榮祿大夫罕章政事
 光碌大夫中書右丞相
0239日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/08(金) 23:48:58.86
1万隻の艦隊を派遣して京都を制圧してくれよう。きっと後悔することになるぞ
中書省牒
0240日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/10(日) 13:11:31.05
「京都を制圧するぞ!」と脅しといて、いざ攻めてきたことを「実は威力偵察だったんだからね!」なんて
説を唱える人ってモンゴル帝国を馬鹿にしているのかな?
0241日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/10(日) 20:27:53.95
各国強さ格付け(16世紀後半) 

S スペイン、オスマン帝国、明、日本
A イングランド、フランス、ポーランド、サファヴィー朝、ムガール帝国
B スウェーデン、モスクワ大公国
C モンゴル
D イタリアの都市国家、李氏朝鮮
0242日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 10:49:46.23
京都を制圧するには1万隻が必要とわかっていたわけだ。
実際に来たのは300隻、しかもその実数はわずか126隻。
目標が京都でないのは数字に表れているな。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 14:53:55.23
京都を制圧するのに1万艘いるとわかっているほど、分析しているなら何を威力偵察するの?アホなの?

1万艘云々は脅し文句に過ぎないんだが、威力偵察厨って1万艘なんて数字にすらすがらないといけないのか。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 20:31:27.70
>1万艘云々は脅し文句に過ぎないんだが

その通り!
1万艘が脅し文句なら京都も脅し文句なのさ。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 20:43:22.39
ttps://www.youtube.com/watch?v=9x7Emsd5QmY&list=PL3P0lSYLLmoUf1UxugiEsthMsAFugqRSJ&index=7
0247日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 21:32:50.74
227
日本で作った武器でも輸送していたってか?
確かに神武以前に鍛治師の話でてくるしな
0248日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 21:34:37.57
ちょっといろいろ考え直してみるかな
0249日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/11(月) 21:38:34.21
>>245
言うこと聞かないと軍勢を派遣して京都を制圧するぞという脅迫を行いながら、軍勢を派遣して九州すら制圧できないとなると舐められるのと警戒心を煽るだけなんだなぁ。
威力偵察厨はそれすらわからないアホばかり。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/12(火) 01:23:45.14
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0251日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/12(火) 01:24:22.80
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0252日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/14(木) 13:55:19.00
なんで元寇の時に火薬使う武器でさんざんやられたのに以後日本でも広まらなかったの?
相当あとに種子島に鉄砲が伝来するまでは弓中心の戦い方だつたし
0253日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/14(木) 19:06:44.26
火薬使う武器でさんざんやられてないから。
種子島や仏狼機砲以前の火器なんて虚仮威し程度の効果しかない
0254日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/14(木) 20:09:45.60
やーやー我こそはの武士を火薬で蹴散らしたモンゴルが台風で沈んだ
0256日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/15(金) 19:10:13.63
>>255
だから虚仮威しと言ってる。
元軍のてつはうで日本側に死傷者が続出したとでも思ってるの?現代の榴弾じゃあるまいし。
虚仮威し程度じゃ火薬使う武器でさんざんやられたなどとは言えない
0257sage
垢版 |
2016/01/15(金) 19:19:26.22
鋳鉄は西欧でも14世紀日本は鉄を輸入していた技術も必要性もなかった
0259日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/15(金) 20:37:01.27
大阪冬の陣でも炸裂しない鉄の玉の砲弾でもそれにビビった大阪方が講和に応じたし
そういう最新兵器は絶大な威力があるんだよ
当時のてつはうをくらった日本の武士たちも驚愕して戦意落ちただろうな
0260日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 00:14:37.11
当時の馬は小型で戦うときは下馬して戦ったモンゴルと馬具が違う
0261日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 00:46:40.29
>>259
だからさ、そのてつはうでビビった馬が多少いたとして
「火薬使う武器でさんざんにやられた」と言えるのかって言ってんだよ。わからない?
0263日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 07:59:07.97
>>260
モンゴル馬も小型だよ。
日本史上で最も騎乗戦闘に特化していた鎌倉武士が戦闘時に下馬していたとか、頭がおかしいとしか思えない。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 10:15:36.74
てつはうが有効だったとしても、日本では火薬の作り方が解らなかったのでは?
製法を手に入れたとしても硝石の入手は困難だろうし。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 11:02:35.22
>>262
やっぱり話が通じないのね
まあ火薬の入った陶器を投げつけるだけの虚仮威しと
戦局に影響を与えた大坂の陣における大砲を一緒にしてる時点でお察しだけど
0266日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 16:24:38.88
てつはうなんて過大評価もいいところだな。

大陸と貿易もしていたし、元軍の捕虜もいながらてつはうを作らなかったのは、硝石が手に入りにくかったのと鉄砲と比べあまり効果が無かったからでしょ。
0267sage
垢版 |
2016/01/16(土) 18:02:46.22
鹿狩用の弓でモンゴル歩兵に突撃しても相手も弓や楯で反撃してくる結局降りて
予備の刀をつかわないと負ける最後は人力
0268日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 19:56:50.54
アメリカに屈した大長州より
元帝国に勝利した大北条のほうが

真の攘夷実行者
0270日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/16(土) 22:17:39.25
鹿狩用!
0272日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 00:50:13.04
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0273日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 00:50:40.95
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0274日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 02:19:57.79
面倒くさいからマジレスするけど
一応火薬を使った兵器らしきものは
南北朝時代〜室町時代の火攻めで使った記録はある。
てつはう自体はそもそも殆ど戦況に影響を与えてない。以上。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 14:27:55.78
鹿狩用とか言ってる人馬鹿なの?
いくら武士をこき下ろしたからってデタラメはいけない。

和弓は威力の実験でフライパンをも貫いている。
モンゴルの鎖帷子と薄い革製の鎧では、武士の騎射突撃に対して一たまりもないよ。

証拠に蒙古襲来絵詞では、武士の騎射で盾を投げ出して逃げ出している蒙古兵が描かれている。

そりゃあ、そうだろう、盾すら貫くんだから。
0279sage
垢版 |
2016/01/17(日) 15:33:36.61
元に勝つほう
金床戦術
騎兵隊の後ろに鎌やらくわで武装させた農民兵を横一列に並べる
騎兵は左右に別れ歩兵同士の衝突部を弓で挟撃する
モンゴルのやり方でもあります
0280日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 19:23:44.90
八幡愚童訓でさえ、てつはうは退却時の目くらまし用に使われたようにしか書いてないからな。
"さんざんやられた"なんて事実自体が無い。

火薬が真に有効な武器になったのは銃砲発明以後の事だ。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 21:43:33.64
>>262
>>269
>>281
そんなに悔しいなら、さっさとてつはうでさんざんにやられたとかいう自説を裏付ける文献でも提示すればいいじゃない
それが無理なら永遠に「馬鹿か?」とか「アスペか?」とかレスしてりゃいいんじゃね
0286日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 21:51:03.52
モンゴルの矢もすごいな。武士の首の骨を射通したんだから。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 21:56:39.35
280
火薬は道教導師の手によって三国史記の時代にはすでに実用化の目処が立っていた
0288日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 21:58:33.48
長らく宗教世界が長引いた時期に主に魔法呼ばわりされて
宗教世界から抹殺されてんの
0290日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 21:59:39.31
中国か?
0291日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 22:12:58.86
>>278
お説に従って考えると……
モンゴル得意の弓騎兵を敵が使ってきた。モンゴルより重装甲で、冗談みたいな破壊力の弓を使ってくる。
盾を構えても盾ごとぶち抜かれる。軽装歩兵の鎧など言うまでも無し。
……こんなのが万単位で待ち構えてる所に上陸させられた弘安の時の蒙古兵たちは、哀れの一言ですな。

>>287
三国史記ってことは朝鮮半島の話?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 23:01:36.80
なんだろ〜な?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 23:22:05.63
>>291
まあ実際、哀れとしか言いようが無い状況だったんだけどね。
てか、防塁に阻まれて上陸自体、殆どできてない。
僅かに志賀島に上陸して海ノ中道沿いに侵攻を試みた連中は挟撃されてボロクソにやられている。

弓ってのは人力で引くんだから威力は引く人間の筋力に依存するわけで、原理的にはモンゴルも日本も大差なかったろう。
その場合、軽い矢は射程は長いが威力に劣り、重い矢は射程は短いが威力に勝る。
モンゴル側の記録で日本の矢は「矢は長しと雖えども、遠くあたわず(威力は有るが射程が短い)」と書かれているから、日本側は威力重視の重い矢を使っていたんだろう。
重装弓騎兵同士の戦いで相手の鎧を撃ち抜けるように進化してき事を考えれば、これは頷ける。

この場合モンゴルの矢は日本武士の矢をアウトレンジ出来るが、対弓戦用に進化した鎧を着こんだ武士に致命傷を与えるのは容易ではあるまい。
武士に相手の射程までの接近を許せは、日本の矢はモンゴル兵の革製の鎧など容易にブチ抜く。
八幡愚童訓にはモンゴルが毒矢を使っていたかのような記述があるが、これは事実かどうか相当怪しい。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/17(日) 23:35:56.96
>>296
>別のとこから上陸すればいいし

だから史実として別のとこから上陸なんかしてないんだよ。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/18(月) 00:41:02.13
            ∩_ 
           〈〈〈 ヽ
          〈⊃  }
   ∩___∩  |   |
   | ノ      ヽ !   !
  /  ●   ● |  /
  |    ( _●_)  ミ/ こいつ完全にアホ
 彡、   |∪|  /
/ __  ヽノ /
(___)   /
0300日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/18(月) 01:43:20.27
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0301日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/18(月) 01:44:01.07
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0303日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/18(月) 07:28:16.21
>>296
防御施設っていうのは、敵が通ってくるだろう・敵に通られると困るルートに仕掛けるんだよ。
防御施設がない志賀島に上陸したわけだけど、その先に進めなかっただろ。
そこは上陸されても問題ないエリアなわけだ。
後はそのポケットからどこにも行けない敵兵を海に追い落とすだけ。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 10:29:51.05
重装弓騎兵というが、武士は真の重装騎兵ではない。
なぜなら馬は無防備だからだ。

武士同士の戦闘は「お互いに馬は射ない」という暗黙のルールのもとで戦った
からこれでも成り立ったが、元軍はそんなルールなど知ったこっちゃない。
まっさきに馬という大きくて柔らかな的を狙う。

馬を射られれば重装弓騎兵も単なる動きの悪い重装弓歩兵だ。
現に竹崎勢は5騎のうち3騎までその状態になって、竹崎は死を覚悟した。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 11:59:37.22
時代が下って、

倭寇が
そのまま任那日本府と満州都督府を建国し
海賊王朝になるべきだった

日本人が統治してこそ
平和主義
0312日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 13:48:15.41
>武士同士の戦闘は「お互いに馬は射ない」という暗黙のルールのもとで戦った

平治物語や平家物語の時代でも馬を射てるんだけどさあ
近藤好和氏のいう「真光故実」知らない?
ほんとに自分で文献を見ない人なんだね
0313日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 15:45:56.12
ラシード・ウッディーンの「集史」の挿絵には日本の騎馬武者並みに重武装して騎射を行う
蒙古の重騎兵の姿が見られるけどいずれも馬に鎧なんか着せてないぞ
>>310の子の説に従うならモンゴルも馬を射てはいけないという暗黙ルールで戦ってたみたいだな


https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2e/DiezAlbumsMountedArchers.jpg/800px-DiezAlbumsMountedArchers.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/7b/DiezAlbumsArmedRiders_I.jpg/800px-DiezAlbumsArmedRiders_I.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/48/DiezAlbumsArmedRiders_II.jpg/800px-DiezAlbumsArmedRiders_II.jpg
0314日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 18:15:11.87
そもそも平安時代の令義解や南北朝時代の記録には
馬鎧の記述があるわけで、日本に馬鎧が無かったという認識は大間違い
0315日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 18:15:35.78
>>310
>武士同士の戦闘は「お互いに馬は射ない」という暗黙のルールのもとで戦った

他の方も指摘しているが、元寇よりはるか以前の源平合戦の時点で既にそうした
「暗黙のルール」が時代遅れになっていたことは周知の事実だ。

>馬を射られれば重装弓騎兵も単なる動きの悪い重装弓歩兵だ。

馬さえ射れば武士を簡単に討ち取れるなどと思ったら大間違いだよ。
武士は弓箭だけでなく太刀や脇差を持ち、矢戦も組討ちもできる職業軍人だ。
それに薙刀を携え主人の戦闘補助を行う従者もいるし、身分の低い武士でなければ替え馬の用意もある。
またこれも他の方が既に指摘していることだが、元軍も馬鎧が十分普及していたとは言い難い。
現に「蒙古襲来絵詞」にも馬鎧を着た馬に乗った元軍騎兵など見当たらない。
つまり「まっさきに馬という大きくて柔らかな的を狙」われるという条件は両軍とも同じなのだ。
0316sage
垢版 |
2016/01/20(水) 18:46:08.94
個々の戦いでは善戦したが物量で負けたしかし自然現象でかった実は神が
ついていたから武士階級の神がついていたからという戦争観は後代の創作
日本から黄金は伝説としてもとるものはないはずで国書のいう臣下関係でも侵攻はなかった
琉球はそうした
0317日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 20:42:04.52
>>315
元軍は馬鎧をつけた本格的な重騎兵だったと私が言ったのか?
元軍の騎兵は基本的に軽騎兵だからもちろん馬は無防備だし人も軽装だ。
(ただしカルカ川の戦いにも見るように重騎兵もいた。つまり軽騎兵と重騎兵に
分化していた。)

問題は、武士は騎乗突撃が基本だから、馬をやられれば大いに戦力が低下する。
それに対して東征時の元軍は歩兵が基本だから馬はあまり戦力に関係ない。

歩兵は馬がこわいから騎兵が突撃してくればまず馬を射る。それによって重装騎兵が
重装歩兵と化せばあとは遠巻きにしてゆるゆると弓射すればよい。

竹崎はこのような立場になることを恐れて「死ぬべかりし身なり」と言ったのだ。
もっとも彼の場合は早々に馬が射られたことがもっけの幸いだった。
なぜならそのために敵中深く入らなかったから白石の救援が間に合った。
だから「もし馬が射られなかったら自分は死んでいた」と言ったのだ。

馬鎧のない「重装弓騎兵」が歩兵の大群の中に駆け入ることはそれほど危険だったと
いうことだな。
0318日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 21:18:49.06
>>316
「黄金の国」は誇張としても日本は当時としては有数の金の産出国だ。
火薬の原料の硫黄を欲していたなんて説もあるしな。

あと、当時モンゴルが世界中で何をやっていたか認識していないようだな。
「人間」それ自体が有力な物資であり兵器だ。
朝鮮だって取るものなどたいしてないだろうに服属の結果、民は酷使され侵略の先兵として矢面に立たされた。
服属した場合、まず間違いなく兵力の提供を要求されただろう。
拒否すれば攻め込んでくるだろうから同じことである。

「臣下関係でも侵攻はなかった」なんてのは根拠のない妄想に過ぎない。
というか、形式だけの臣従で満足するような国は仮に臣従を拒否したとしても海を渡ってまで攻め込んでなど来ない。
支那の歴代王朝というのはそうだった。
「元(モンゴル)」だけが異質なんだよ。
0319日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 21:35:16.60
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0320日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 21:35:47.76
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0321日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 22:20:02.38
>>317
>問題は、武士は騎乗突撃が基本だから、馬をやられれば大いに戦力が低下する。
>それに対して東征時の元軍は歩兵が基本だから馬はあまり戦力に関係ない。

元軍敗北の最大の要因は、渡洋作戦ゆえに十分な馬の用意出来ずに歩兵中心の構成にせざるを得ず、モンゴルの十八番である軽装弓騎兵の集中運用による戦法
が取れなかったことにあるというのが衆目の一致するところだと思っていたが、これはまた開いた口が塞がらないような倒錯したロジックを持ち出して来たな。
(そういえば軍板の元寇スレにずっと張り付いていた悪名高い詭弁使いがいたな・・・)

で、武士は馬を失うと弓も一緒にどっかにいっちまうわけか ?
重装弓歩兵と軽装弓歩兵なら重装弓歩兵の方に分があるわなあ。
まあ、ほんの数騎の先駆け程度なら数の力で優位に戦えるかもしれんが、百騎で突っかかってこられたら苦も無く蹴散らされる程度のものでしかなかったわけよ。

実際、文永の元軍は大宰府攻略どころか博多すら落とせず、上陸地点付近にほぼ張り付けのまま防戦一方。
わずか1日の戦闘で侵攻を諦め夜陰に乗じて逃走を図った挙句、難破して大損害を受けたというのが動かし難い史実。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/20(水) 23:14:28.44
>>317
まるで日本軍が騎馬突撃しか能がなかったかのような言い方だね。
前提として、まず日本軍は騎馬軍団ではないので、騎兵だけでなく歩兵も大勢いた。
そして当時の日本の合戦でも普通はいきなり騎馬突撃したりしない。楯を並べて矢戦を始め、
少しずつ距離を詰めていくのがセオリーだ。騎馬突撃はここぞという局面において行われる。

>馬鎧のない「重装弓騎兵」が歩兵の大群の中に駆け入ることはそれほど危険だったと
>いうことだな。

君は何かと竹崎季長の例を持ち出すが、竹崎の行動をどれほど一般化できるものなのか。
彼は財政的に逼迫し、普通ならいて当たり前の徒歩の従者もいなかった。恩賞を求めて必死に先駆けを目指した。
そして竹崎が突撃しようとしたとき、家来から味方の到着を待つよう説得されている。
要するに竹崎の突撃は当時の武士から見ても異常な行動だったということだ。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/21(木) 02:50:05.12
善なるものは和好のほかになく、悪なるものは戦争のほかにない。
果たしてこれを思慮して帰順すれば、
すなわち去使とともに来朝するべし。したがって彼者に諭し
、朕はその福禍の変、天命に任せる。ここに詔示し、わが意
をすべて汲み取ってくれ
蒙古国書 善隣国宝記  第9回使節団  如智禅僧
0325日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/21(木) 11:17:17.54
>>321
>それに対して東征時の元軍は歩兵が基本だから馬はあまり戦力に関係ない。 >317

>渡洋作戦ゆえに十分な馬の用意出来ずに歩兵中心の構成にせざるを得ず、>321

この二つの文章は全く同じ内容ではないか。どこが倒錯なのか。

>重装弓歩兵と軽装弓歩兵なら重装弓歩兵の方に分があるわなあ。

その通り。「分がある」程度の差に過ぎない。馬に乗っていたときの圧倒的有利が失われる
わけだ。いや、分があるかどうかも怪しい。重い鎧のぶんだけ動きが悪いからね。

>ほんの数騎の先駆け程度なら数の力で優位に戦えるかもしれんが、百騎で突っかかってこられたら
>苦も無く蹴散らされる程度のものでしかなかったわけよ。

その通り。戦争でものをいうのは最後は兵力だ。武士一騎が元軍の歩兵十人に値するとしたら、
このときの元軍部隊は5騎には勝てるが100騎には勝てない、恐らく数百人だったのだろうな。
0326日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/21(木) 21:52:06.93
>>325
どこが倒錯かって ?

モンゴル騎兵最大の強みを生かせず歩兵主体で戦わざるを得ないにもかかわらず、歩兵が騎兵に対し優位性が有るかのような
ロジックを使ってるからに決まってるだろ。
歩兵とはいえ大軍に対して数騎で突っ込むのが危険な事くらい小学生でも判るわ。
竹崎は武功の為それを承知でやったんだと誰もが認識している。

>>315に対するレスとしてそんな特殊例を、あたかも元軍歩兵の日本騎兵に対する優位性を示す証拠であるかのごとく持ち出す
から「倒錯した詭弁」だと言ってるんだ。

しかもこいつは詭弁を承知で言ってるからタチが悪い。
「武士一騎が元軍の歩兵十人に値」し、元軍歩兵数百はたかだか百騎の日本騎兵に苦も無く蹴散らされる程度の存在であること
を自分で認めてるんだから。

意図的に詭弁を弄する議論することほど不毛なものは無い。
0327sage
垢版 |
2016/01/22(金) 15:08:46.83
1223年倭寇が始まる壱岐の島民が元寇で荒さられたからはじまったは矛盾があり
隣の芝生が青く見えるのたぐい日本の金も日明貿易ではな
い朝貢を通じてあいてもわかってくれるそうでないと元からは黄金の軍隊にみえる
0328日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/22(金) 15:31:23.31
弘安って防塁がなくてまともに上陸されてても、多少手間取るだけでやっぱり勝ってる?
0329日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 04:51:14.59
九州の御家人には大打撃を与えた可能性はある。
でも、鎌倉からの指示の本州から増援の大部隊が到着すれば、兵力差から言って勝利は確実。
実力で大陸軍をひねりつぶしておけば、神風信仰は無かったかもね。
0330日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 13:14:28.49
武士というのは通常は自分の所領にいるのであって、動員には時間がかかる。
壱岐・対馬への侵攻で「元軍襲来近し」というのは事前にある程度判るが、最終的な九州襲来時期が何時かは元軍次第。
事前に動員して大宰府〜博多周辺に配置しておける兵力には限りがある。

弘安レベルの規模で侵攻された場合、防塁がなければ大宰府まで落とされていたかもね。
まあ幕府が全国規模の動員をかけて、最後には勝っていただろうけど。
0331日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 13:43:19.55
いや、「動員をかけて」というか、すでに動員はかかっていて九州に向けて進軍中だったんだよ。
だから、たとえ大宰府を落とされても一瞬で奪回できる。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 18:01:37.26
戦国期の外国との比較でもそうだけど、日本の武士というのは日本の土地に最適化された戦闘スタイルであって、その限りにおいては同時代の世界でも有数の強さがあったのかもしれないが、だからって大陸に出て行っても無双できるかというと、それはまた話は別だよな。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 18:54:14.54
補給にかかる思想が無いからな。
本拠地から輸送できなくて、略奪もできなくなった瞬間、飢える。
源平合戦で範頼が食糧不足大ピンチになってるし。
商業が未発達だから無理もないけど。
0334日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 19:15:56.35
思想があろうがなかろうが、補給なんてトラック時代になるまで陸上では不可能だよ
馬車の積載量と馬と御者の飯と水を真面目に計算したらわかる
船が使えないところは事前集積含めてその場にある飯を食うしか無い
行軍とは飯があるところを点々と伝っていく行程
飯が無いところに追い落とされたら負け
0335日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/23(土) 23:03:50.86
それこそモンゴルは食糧や替え馬をつれて移動するから補給が保てるじゃん。
だからこその世界帝国樹立だし。

海を渡るとか、東南アジアのジャングルを進む、とかだとその手が使えないから、
定住者側が力尽きるまで半年ごとに攻め寄せる、って手段が使えなくなるんだよね。

日本とかベトナムとかアイヌとかに勝てなかったのも当然って気がする。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/24(日) 21:58:16.86
アイヌは元に蹴散らされているし、ベトナムは首都を占領されたうえで
総力を挙げて撃退しているが、日本の場合はアイヌやベトナム以上の大軍を
向けられていながら、九州のほんの一部すら占領させずに、本州からの増援が
到着する前に勝利だからな。
勝てなかった理由は、単に武士団より元の戦闘力が低かったから。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/25(月) 14:55:28.87
>>16
二カウさんは40cm〜50cmくらいのオモチャみたいな弓を使ってたぞ
昆虫から作った強力な毒でキリン狩ってた
0340日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/26(火) 08:08:39.17
つうか元がいかにして大陸制覇したか
あの当時の諸国家ってまじで根性無しの能無しだらけで
有名無実の極悪暴君ですら成立しちゃうような国も多い
迫りくる元を前に無為無策のまま速攻陥落とかザラだからね
アホだらけだったってか、島国日本が外国と戦争しないまま鎌倉まできてたのに
外国からの攻撃にも即応戦できる組織を保ってたことが異常なんだよ
0341日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/26(火) 08:12:54.68
あと登山とか北海道の原野を歩いたことある人なら分かるだろうけど
あれを行軍なんて途方も無い苦難だし
さらに補給確保とか、当時そういう意識がなくても当然だよ
トランシーバーもGPSもない
山道や野を越えながら物資をどこかにいるはずの味方の軍団まで届けるとか
その間も味方の軍団は動き続けてるとか
元軍が大陸制覇できたのは、まさに補給を必要としない、村一つがそのまま全移動式のような
動く帝国だったからだよ
0343日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/26(火) 23:32:19.62
>>340
あれは源平合戦等の全国的な大規模な内戦を経て、武士による全国統一政権というものが出来ていたのが大きい。
これが源頼朝の最大の功績だろう。

平安中期以前の体制下で襲来を受けていたらどうなっていたか、考えただけでゾッとする。
0344日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/28(木) 22:13:25.29
九州は、外国の武装集団・海賊とは、さんざん戦い慣れてる >>107
ただ確かに
刀伊の入寇の約3000の略奪軍に苦戦した体制のまま、元の大軍相手したらやばかった

●モンゴル帝国の強さ
・商人を使う情報収集力 ・巧みに降伏させる政治力 ・遠征の得意な騎馬軍団

局地戦闘でモンゴル軍に勝ってた処も、最終的に周囲の圧力で味方が裏切るとか
政治的に負けた (豚飼い※イヴァイロ)

文句なしに最終的に圧勝と言える例は、日本以外、バイバルスのマムルーク朝くらい

●元寇の場合、戦略的にも、戦闘でも、日本が圧倒的有利だった

・まず周囲から落とし、政治的圧力を使おうにも ・・・日本は荒海の向こう側
・得意の情報収集でも ・・・半島・中国の人間経由したダメ情報

・荒海越えで騎馬軍団は送れないし、
船旅で疲れた歩兵を数万送ったら・・・騎馬の鎧武者が数万でお迎え、じゃあ無理

 ※イヴァイロ (豚飼い→第2次ブルガリア帝国皇帝)

モンゴル帝国・ビザンツ帝国、の両軍を相手に農民集団を率いて勝利し
そのままなら、VS・モンゴル帝国の最優秀賞候補だったが、クーデター起こされた
0345日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/28(木) 23:37:15.45
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww




縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、    小麦     などのプラント・オパールも見つかり
0346日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/28(木) 23:37:47.37
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか     小麦     とハトムギのプラントオパールも見つかった
0347日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/29(金) 22:37:02.26
・船に搭載した水はすぐに腐ってしまう
・仮に、毒を扱うにも、自らを毒から守る設備は必要

・武士の矢は、元軍の盾を貫いて被害与えていたが
あさま山荘みたく、盾を針金で二枚重ね、的な工夫も、拠点が船中では困難

拠点も確保できず船に寝泊りの元軍は、>>344の他も様々に不利過ぎるし
日本圧勝も当然
0349日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/30(土) 05:40:29.30
ぶっちゃけ、元寇までは日本の恐ろしさを大陸が理解してなかったからな。
古代に日本に支配されていた朝鮮半島も、白村江で新羅が日本に勝ったのを最後に大規模戦闘はなく、
時々入寇してくるぐらい日本をなめてたし。
朝貢国になったり、使いを出してこなくなったりする国、ぐらいのイメージしか中国にはないし。

日本を修羅の国扱いする記録が大陸で増えるのは、元寇の後に倭寇が暴れだしてから。

元寇時点では、適当に攻撃すれば辺境の蛮人ぐらい征服できると思ってたんだよ。
0350日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/30(土) 18:59:53.80
まあ警戒する方がおかしいわな
海がめんどうだが、そこはクリアして実際渡ることはできたわけだし軽く蹴散らして降伏すると思うわ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/31(日) 10:54:08.45
倭寇は元寇の前からあったよ。
東征以前に、高麗の高官が、「物が欲しいならくれてやるから、せめて人を殺さないでくれ」
と倭寇に訓示してはどうか、と建議して通らなかったことが高麗史に書いてある。

壱岐対馬での暴挙は倭寇に対する報復の意味もあったのでないか
0352日本@名無史さん
垢版 |
2016/01/31(日) 17:05:26.31
十字軍はまずアッカの港を占領し、馬や人やら穏やかな海路輸送した上で戦いはしたが
元寇は
「渡海・上陸作戦」だからケタ違いに困難だし、、荒海でさらに困難
0353日本@名無史さん
垢版 |
2016/02/01(月) 11:44:09.15
あなたは40代ロサンゼルス府警新聞作りですか?ドーハの悲劇「中国衝撃イヤフォン」「中国悪夢イヤフォン」ですか?

それともいくつですか?huluさん?

それともいくつですか?huluさん?

それともいくつですか?huluさん?
0354日本@名無史さん
垢版 |
2016/02/08(月) 19:54:55.14
>>349
白村江の戦いは唐軍しか居ないぞ
将軍も唐人と百済の降将(扶余隆)しか居ないし、三国史記の新羅本紀でも百済の支援部隊に陸上でちょっかい掛けました程度しか書いてない
0355日本@名無史さん
垢版 |
2016/02/09(火) 10:28:05.45
白村江は唐・新羅の連合軍だろ
0357日本@名無史さん
垢版 |
2016/02/10(水) 22:36:38.79
「仁師仁願及羅王金法敏帥陸軍進劉仁軌及別帥杜爽扶餘隆帥水軍及粮船……遇倭人白江口四戰皆克…」
だから新羅軍は陸軍しか居ないでしょ

新羅本紀文武王の記事でも「此時倭國船兵來助百濟倭船千艘停在白江百濟精騎岸上守船新羅驍騎爲漢前鋒先破岸陣周留失膽」
と触れてる程度。
「倭船千艘」を相手にするような大規模な戦闘に参加したならこんな微妙な書き方する訳ないじゃん。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2016/02/16(火) 10:08:50.90
陸上水上の戦闘を併せて「白村江の戦い」と言うんだよ
0359日本@名無史さん
垢版 |
2016/03/26(土) 11:54:34.98
>実力で大陸軍をひねりつぶしておけば、神風信仰は無かったかもね。

こんなもんは寺社側が散々祈祷のありがたみを自己申告して生まれたもんだわ
恩賞の奪い合いにおいては現地で活躍した武士は商売敵なんだから
貶めるのは当然だし
0360日本@名無史さん
垢版 |
2016/03/26(土) 19:18:07.22
武家の功績ってことにしたらしたで、九州の御家人にだけ手厚い恩賞を出すことになって、他の地方の御家人から不満が出ただろうな。
で、そのうち、なんとなく討伐される。
鎌倉幕府は力のある御家人はいちゃもんつけて攻めるのが方針だから。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2016/03/26(土) 23:40:09.51
そうやって天領を増やすのが一番合理的だからな。
そして一番得をしたのが、それを管理する官僚たち。
最後は官僚達と共に心中しましたとさ。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2016/03/27(日) 13:17:16.30
>>318
お前高麗史や元史に目通してるか?
モンゴル側は日本遠征に否定的だったけど高麗王とその取り巻きがごり押しして結局する羽目になったんだが
金方慶なんてモンゴル人が撤退しようとすると船焼くとか言い始める始末でどう見ても主犯は高麗人だよ
0365日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/02(土) 16:11:16.42
クビライ自身が日本侵攻に超積極的だったからな。
その結果、日本遠征を支持する連中だけが元朝内で出世することに。
0366日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/13(水) 17:12:12.80
「十月に大蒙古国よせて壱岐・対馬の二箇国を打ち取らるゝのみならず、大宰府もやぶられて
しょうに(少弐)の入道・大友等きゝにげににげ(聞き逃げに逃げ)、其の外の兵者(つわもの)ども
其の事ともなく大体打たれぬ。又今度よせる(寄せる)ならば、いかにも此の国よはよは(弱々)と
見ゆるなり」
(日蓮書簡「種々御振舞御書」より)
0367日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/13(水) 18:16:14.87
また宗教関係者は武士たちの活躍を貶めたという
話に戻したいのかな
0368日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/13(水) 21:28:13.52
「大宰府もやぶられて」の 「大宰府」は「太宰府軍」または「博多」の意味だな
0369日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/13(水) 21:32:27.83
博多や大宰府が文永の役で損害を受けた記録は皆無だぞ
0371日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/14(木) 11:36:34.43
「大宰府」が博多を意味する場合、「やぶられて」とは博多防衛線が破られたという意味になる
から都市の損害が皆無でも別にかまわない。
「大宰府」が「太宰府軍」を意味する場合は「やぶられて」とは太宰府軍が撃破されたという
意味になるからこれも同様。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/14(木) 21:35:31.39
>>366
訂正:
誤:又今度よせる(寄せる)ならば
正:又今度よせくる(寄せ来る)ならば
0373日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/15(金) 02:05:01.98
>>371
大宰府軍が合戦で勝ったことは史料上確定してる。

「鎌倉年代記裏書」
同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北

「帝王編年記」
六日。飛脚到来。是去月廿日蒙古与武士合戦。賊船一艘取留之。於鹿嶋留抑之。其外皆以追返云々。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/15(金) 16:44:24.88
相反する史料もあるのだから少なくとも「確定」とは言えないだろう。

まして「鎌倉年代記」は文永の役の63年後の成立であり、「帝王編年記」はさらに
遅い南北朝時代の成立である。
これらの史料は時の経過による不正確さに加えて弘安の役後の戦勝気分に影響されて
いる可能性がある。

文永の役のわずか1年半後に書かれた「種種御振舞御書」とは比べるべくもない。
0375日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/15(金) 20:19:12.44
>>374
確定だよ。
「鎌倉年代記」は武家の記録なんだから。
実際に戦ったのは武士なんだから真実を知りうる立場にいたのは武士だけ。
しかもちゃんと合戦で追い返したと報告した記録も残ってる。
現場にいたわけでもない坊さんの言ってることなんて関係ない。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/15(金) 21:05:09.11
「鎌倉年代記」は武士が書いたから真実なのか。
じゃあ鎌倉年代記の「廿四日」と帝王編年記の「廿日」はどちらが真実?

それと、鎌倉年代記の「於大宰府合戦」の「大宰府」ってどこのこと?
0378日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/15(金) 21:32:33.93
>>377
どっちも真実。
20日に合戦で負けた蒙古軍が24日に日本領内から一掃されたことが確認された。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/16(土) 09:54:55.63
もう一度聞く。
「鎌倉年代記」が「廿四日に少弐入道が大宰府で合戦して異賊が敗北した」と書いている、

その「大宰府」ってどこのこと?
0380日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/16(土) 10:09:34.32
>>379
大宰府は大宰府だよ。
文永の役は全部大宰府の合戦だろ。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/16(土) 17:30:39.31
なるほど、
20日に上陸した元軍が大宰府政庁のある内陸の大宰府(地名)に進撃し、
24日に少弐入道代がひきいる日本軍と合戦して、その結果として敗北した、
と言いたいわけだな?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/16(土) 18:36:06.31
>>381
違うよ。
20日に上陸した元軍は合戦に敗れて逃走し、24日には日本領内からも完全に駆逐された。
それによって大宰府に於ける合戦は異族の敗北が確定した。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/16(土) 22:40:19.09
>>381
大宰府ってのはこの場合、大宰府管轄のエリアって意味だろ。
「東京に敵が侵入した」って一文を「東京都庁に敵が侵入した」って考えるからおかしくなってる。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/16(土) 22:41:58.74
「蒙古軍に町を焼かれた」とか「蒙古に制圧された町が日本軍の反攻で焼かれた」とかの話があるけど、
実際に被害を受けた九州本土の町ってどこがあったんだろう。
博多や大宰府じゃないとすると、もっと小さな名前の残らないような町?
0385日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 10:30:19.43
>>383
>大宰府ってのはこの場合、大宰府管轄のエリアって意味だろ。

その通りだと思う。
鎌倉から見れば大宰府政庁も博多もいっしょくた。まさに大宰府エリアだ。
したがって鎌倉年代記裏書のいう大宰府とは具体的には博多のことだ。

こう見るならば鎌倉年代記裏書の記事は廿四日という日付が誤っているだけ。
廿日の合戦で日本軍は撤退したが元軍もまたその日のうちに撤退した。
このことを一言でまとめて「異賊敗北」と記したのだ。

どうということはない。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 11:08:48.94
>>385
鎌倉から見れば壱岐も対馬も大宰府エリアだよ。
大宰府の代官が防衛に当たってるんだから。
だから24日の日付は間違ってない。
24日には壱岐、対馬から一掃された報が大宰府に到着してるから。
24日こそ大宰府に於ける合戦の勝利の日。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 11:29:18.04
ひとつ忘れていた。
「大宰少弐入道覚恵代藤馬允」とは対馬の代官・宗助国(官名は右馬允)を指すと推定されている。
また文章の最後は「敗北」でなく「敗死」だ。

そうするとこの文章:
廿四日大宰少弐入道覚恵代藤馬允於大宰府合戦異賊敗死

は、「廿四日に大宰府少弐入道覚恵の代官である藤馬允(宗助国)が大宰府のために
異賊と合戦して敗死した」
と解釈され、五日の対馬防衛戦の話だということになる。
それなら廿四日はますますデタラメだ。
こんな史料をもとにして議論してはいけない。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 11:52:17.31
>>387
ほれ、10月24日に蒙古軍が大宰府エリアから一掃されたことを裏付ける史料がある。

『朝師御書見聞 安国論私抄』 第一 蒙古詞事
又或記云十月二十四日聞フル定、蒙古船ヤブレテ浦浦打挙、数、對嶋一艘、壹岐百三十艘、
ヲロ嶋二艘、鹿嶋二艘、ムナカタ二艘、カラチシマ三艘、アクノ郡七艘又壹岐三艘、
已上百二十四艘、是目見ユル分齊也、

鎌倉年代記の通り10月24日が異族敗北の日じゃん。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 15:08:45.51
ちゃんと指摘しているのに誤記した文章をまた使うとはどういうことか。

鎌倉年代記裏書なら「異賊敗北」ではなく「異賊敗死」だ。
「藤馬允・・合戦異賊、敗死」
(藤馬允・・異賊と合戦して敗死す)
異賊と合戦して敗死、すなわち討ち死にしたのは宗助国であって異賊ではない。

引用は正確にね。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 21:31:11.46
>>389
鎌倉年代記裏書は「異賊敗北」。
「敗死」としてるのは鎌倉年代記から後に派生した北条九代記。
つまりそっちが誤記。
0393日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 21:39:09.45
書いてるのはほとんど坊さんらだけどな

朝廷における女流文学やら抜かせば過去の文献を書いた連中はほとんど坊さん

足利尊氏が太平記の編纂にあたって集め書かせた連中も仏家の連中なんだけどね
0394日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 21:42:04.36
この時代における仏家の連中の存在意義はほとんど歴史書の編纂関係だからな
0395日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 21:45:41.76
過去におけるよ〜な力はすでになし

漢字の読み書きなんかもできたし雇われ軍師、武家の教育係、あとは文弼なんかの代業
0396日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/17(日) 21:48:37.09
武家が恐れたのは朝廷と仏家が結びついて過去のよ〜な院政時代なのよ

お前ら朝廷マンセーしてるだけじゃ歴史読み間違うぞ
0397日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/18(月) 13:04:58.40
それがほんとだとしてもどちらが正でどちらが誤か、わかったものではないが、
少なくとも「異賊、敗死」のほうが文意は通っているな。
なぜなら戦った数多の武士のなかでたった一人、宗助国の名を挙げて主語にして
いる以上、彼の討ち死にのことを言わなければすじが通らないからだ。

「異賊敗北」が欲しければ、そんなあやふやな史料を使わなくとも「関東評定伝」を
使えばいいではないか。

「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允、
同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」

なぜこれを使わないのか?
0399日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/18(月) 17:10:55.58
そのあと対馬に少弐だかなんだかが渡ったんだっけ?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/18(月) 18:17:02.90
確か〜宗家が滅んだかなんかで少弐氏が渡って宗家を継いだとかなんとか
0401日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/19(火) 08:09:20.81
>>397
いや、鎌倉年代記から北条九代記が派生したとされてる以上、「異賊敗北」が正。
同系統の史料がある場合、オリジナルにより近い物を用いるのは鉄則だろ。
「異賊敗北」が欲しいとかそういう問題じゃない。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/19(火) 10:27:30.97
なぜ「関東評定伝」を使わないのか、答えないな。まあいい。

話は飛ぶが、「北条九代記」という紛らわしい名前の、江戸時代初期の通俗史書を見たら、
面白い文章があった。

http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/880706
コマ番号182

「蒙古の使杜世忠等また日本に来朝す、高麗人もおなじく来れり、太宰府に舟をとどめ
船中にあるものことごとく注録し、あまたの人等をば太宰府に押留めただ三人を鎌倉へ
☐つかはしける」(句読点は引用者が追加)

内陸の、政庁のある太宰府に船を泊めたり、船員を宿泊させたりするわけはないから、
ここにいう「太宰府」は博多のことだろう。

ここに博多を意味する「太宰府」が使われているということは、江戸時代初期に至っても
「太宰府=博多」の概念が存在し、それが一般庶民の読者にも通用したことを意味する。

これは以前から私が主張している「太宰府=博多」説の、四個目か五個目の根拠となる
ものである。

「太宰府=壱岐対馬」を主張するのもいいが、それならばまずこのような具体的根拠を
示してほしいものだ。
0403日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/19(火) 14:08:58.72
この文体から察するにまーた、文永の役は元軍の勝利だった説唱えるパフォさんが来てるの?
0404日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/19(火) 15:36:28.93
>>402
残念ながら蒙古の使杜世忠等が来朝したのは長門で博多じゃないんだな。
つまり博多を意味する「太宰府」が使われている根拠になんてならないってこと。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/19(火) 20:52:04.12
江戸時代の誤記史料まで持ち出して、自説を強引に通そうとするのは逆効果だと思うな。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/19(火) 22:18:34.89
本当は長門着であったのを博多着と間違えたからこそ私の「太宰府=博多」説にとって
価値が生じたのだ。
いくらなんでも長門を太宰府とは書かないだろうから、博多のつもりで太宰府と書いている
ことは明らかだからね。

「廿四日、大宰府」を見て大喜びする「冬の嵐」などの学者たちはなんでこういうのに
気付かないのか不思議だ。
「太宰府=博多」をあてはめれば解ける謎はたくさんあるのに。

ところで「異賊敗北」の引用元として「なんで関東評定伝を使わないのか?」への答えは?
0407日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/20(水) 13:38:44.87
>>406
>本当は長門着であったのを博多着と間違えたからこそ

この部分が全く根拠なしだろ
間違えたのは対馬かもしれないし、壱岐かも知れない
長門を大宰府と認識していた可能性もある
0408日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/20(水) 20:54:07.00
実際は間違いとも言えないな。
杜世忠一行は長門に着いたが、捕えられていったん太宰府に身柄を移され、鎌倉に
送られるまでの数ヶ月間太宰府に留置された、という一説があるのだよ。
江戸時代の「北条九代記」の著者はこの一説を取り入れて、長門到着のところを
省いて太宰府留置のところから書いているのだな。

この一説の太宰府は太宰府政庁か、はたまた博多か、それだけではわからない。
しかし「北条九代記」の著者はそれを博多のこととして「太宰府に舟をとどめ」
などと書いたわけだ。
このことが「太宰府=博多」の概念が存在した証拠になるのだ。

まあ壱岐対馬は無理だな。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/20(水) 21:12:42.85
ところで、いずれは関東評定伝に移るだろうと思ったから見逃して来たが、
あくまで鎌倉年代記裏書に固執するようなので、質問しなければならない。

「鎌倉年代記裏書」
同廿四日、大宰少弐入道覚恵代藤馬允、於大宰府合戦、異賊敗北

終わりが敗北にせよ敗死にせよ、問題なのは五日に対馬で死んだはずの宗助国が
廿四日に大宰府で異賊と戦っていることだ。

宗助国は生き返ったのか? それとも討死せず逃げて来たのか?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/21(木) 09:36:38.68
>「北条九代記」の著者はそれを博多のこととして「太宰府に舟をとどめ」

だからそれには一切根拠がないだろ。
素直に読めば「北条九代記」の著者は長門のことを大宰府と言ってるんだから。

あと「鎌倉年代記裏書」と「関東評定伝」は正直どっちでもいい。
宗助国の死んだ日については、いろんな考え方があるだろ。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/21(木) 14:46:44.93
「太宰府=長門」を主張したいのならば用例を示さないとね。
ちなみに太宰府の管轄範囲は九国と三島で、長門は含まれない。

「鎌倉年代記裏書」と「関東評定伝」はどっちでもいいのか。
それならば「冬の嵐」が:
「『鎌倉年代記裏書』に類似の記事があるが、不完全な写しで文意が通じにくい」
とまで言っているような史料をわざわざ用いる必要はない。

さてその「関東評定伝」:
「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄来、着対馬島、討少弐入道覚恵代官藤馬允、
同廿四日、寄来大宰府、与官軍合戦、異賊敗北」

非常に明確だ。十月五日は「藤馬允」までかかるから、宗助国はこの日に「討」たれた。
廿四日は異賊が大宰府に「寄せ来た」日であり、「異賊敗北」までかかるから、異賊は
まさにこの日の合戦において敗北したのである。もちろん大宰府とは博多のことだ。
撤退中の遭難など入る余地はない。

全体の文意は明確だから、おかしいのは廿四日の日付だけ。
これだけを誤記とみればどうということはない。
0412日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/21(木) 20:08:46.14
>>411
いやいや宗助国が討たれたのは十月五日じゃないし。
つまり関東評定衆伝は蒙古異賊寄来で始まる最初の日と異賊敗北で終わる最後の日を
書いてるだけで、その内容自体は複数日にわたる出来事なわけ。
で、十月廿四日が日本領内から蒙古軍の一掃された異賊敗北の日だったことについては、
ちゃんと裏付ける史料がある。
誤記とみなす必要なんて無いじゃん。
0413日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/22(金) 15:48:47.31
文章を素直に読めば廿四日は異賊が「大宰府」という場所に「寄せ来た」つまり
攻め寄せた日だが、それはいいのか?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/22(金) 16:11:55.41
文章を素直に読めば廿四日は異賊敗北の確定した日だよ。
刀伊の入寇でも弘安の役でも博多湾から撃退しただけじゃ異賊敗北じゃない。
日本領内から駆逐してはじめて異賊敗北。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/23(土) 09:28:53.20
「太平洋戦争は1941年12月8日に始まり、日本の敗北で終わった」
と書いてある文章を見て、
「日本は1941年12月8日に降伏した」
と解釈するようなもんだな。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/23(土) 10:28:05.23
その例えは合ってないな。
関東評定衆伝はちゃんと始まりの日と終わりの日を書いてるんだから。
0417日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/23(土) 21:05:31.51
そうも言えるがそれだけではない。
関東評定伝の記事は前段と後段からなり、それぞれ第一次合戦(前哨戦)と第二次合戦(本戦)について
その「開始の日付」「場所」「帰結」を記している。

前哨戦の始まった日付は五日であり、場所は対馬であり、その帰結は宗助国の討死である。
本戦の始まった日付は廿四日であり、場所は大宰府であり、その帰結は異賊の敗北である。
整然とした文章構成だ。

以上を言った上で改めて聞こう。
本戦の行われた場所である「大宰府」とはどこか。往復を節約するために四択形式にしよう。

イ)今津などの外港を含む博多地域
ロ)水城などの防衛施設を含む内陸の大宰府城市
ハ)イとロを併せた広域大宰府
ニ)対馬、壱岐、九州全土を含む大宰府政庁の管轄領域

よろしくね。
0418日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/24(日) 12:10:03.54
>>417
質問の答えを先に書くと、イ)だろ。

>関東評定伝の記事は前段と後段からなり、それぞれ第一次合戦(前哨戦)と第二次合戦(本戦)について
その「開始の日付」「場所」「帰結」を記している。

この考えが間違い。
関東評定伝は戦い始まりとして対馬に寄せ来た日付を書き、戦いの終わりとして
大宰府に寄せ来た蒙古の敗北した日を書いている。
整然とした文章構成だろ。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/24(日) 20:24:56.64
ところで、日蓮が書いた方の武士団大敗北の話はどうなったん?
0421日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/24(日) 20:37:59.64
大宰府については私もイ)またはハ)が正解だと思う。ロ)ニ)は誤りだ。
見解が一致したのはめでたい。
ほとんどの学者たちがいまだにロ)にとどまっているのが日本の元寇学の大きな問題だ。

関東評定伝記事の読み方については、なるほどそう読めないこともないのに気付いた。
ポイントは廿四日の後に続く主語がないことだ。これを、重複を避けるために
「異賊」が省略されたと見るのが私の読み方で、読み下し文は
「同廿四日、(異賊)大宰府に寄せ来たりて官軍と合戦し、異賊敗北す」となる。

もともと主語がないのだとすれば、「寄来〜合戦」が「異賊」の連体修飾節と見なされて、
「同廿四日、大宰府に寄せ来たりて官軍と合戦したる異賊、敗北す」と読めないこともない。
この場合、廿四日は異賊敗北の日付であって大宰府合戦の日付ではない。
したがって大宰府合戦の日付は廿日であってもかまわないわけだ。

しかしこの場合は記事は廿日の大宰府合戦の状況についてはなにも語っていないことになる。
したがってこの記事が「小弐も大友も逃げた」という日蓮書簡を否定する材料にはなり得ない。
0423日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/27(水) 14:54:55.81
>>421
少弐入道と経資、大友は文永の役の戦闘に不参加だったろ。
そうでもなければ嫡男でもない少弐景資が「日の大将」として総指揮をとることなんて
できるはずないし。
大友の文永の役関連史料なんて偽文書の疑いのある物ばかりで、後から大友も戦場に
いたかの如く工作しようとしたんじゃないかと思えるほど。
少弐と大友は戦場にいなかったことを「逃げた」と非難されてるんであって、それこそ
廿日の大宰府合戦の状況とは無関係。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/27(水) 23:01:52.74
・橋頭堡確保に失敗
・軍事的にはメリットがない船への撤退

この時点で普通に戦って元軍が負けただけなのに
なんでこんな屁理屈捏ねたような、ややこしい話になってんのさ。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/28(木) 10:51:02.79
では「少弐の入道・大友等」は合戦のときどこにいたのか?
ソースも示してね
0426日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/28(木) 14:00:18.73
>>425
どこに居たかなんて知らんよ。
でも戦場に居なかったことはハッキリしてるだろ。
少弐氏の庶子にすぎない景資が「日の大将」なんだから。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/28(木) 21:08:43.34
「日の大将」は「総大将」なのか?
0428日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/29(金) 05:19:25.69
>>427
「総大将」以外のどういう解釈があるんだ?
少弐景資はさらに「大将軍」とも呼ばれてる。
蒙古襲来絵詞見れば少弐景資が戦場で総指揮とってたのは明らかだろ。
0429日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/29(金) 09:53:46.30
大将の上に立つから総大将と言う。
蒙古襲来絵詞に総大将と書いてない以上、景資は総大将ではない。
ただの大将だ。

景資が「大将軍」というのはなにかのウィキペディアを見ただろう?
資能(覚恵)のウィキペディアを見て見よ。「総大将」と書いてあるぞ。
0430日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/29(金) 14:23:06.37
>>429
wikiなんか根拠にしないよ。
「大将軍」ってのは蒙古襲来絵詞が書いてる。
将軍の上に立つから大将軍だろ。
少弐景資が戦場で総指揮とってたのは明白。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/30(土) 10:36:40.82
たしかに蒙古襲来絵詞の冒頭に「たいしやうくん・・・かけすけ」があるが、
これは筆の走りだろう。ここ一か所しかないし、もし本当に大将軍なら景資が
鎌倉将軍になってしまう。この時代、大将軍=征夷大将軍だからね。

ところで、最初の絵の朱書きに「豊後国守護大友頼泰之手軍兵」とある。
これは大友頼泰が現場にいた証拠だな。(手は配下の意味)

大ともは 子ともうちつれ 落行て 方々にこそ よりやす(頼泰)みけれ
(八幡蒙古記より)

ついでに、
臆病を いかゝはせうに 入道か はち(恥)をかくえ(覚恵)の名に落にけり

少弐入道覚恵はこの恥を晴らそうと無理をして、弘安の役では八十歳をはるかに
越えた身で壱岐に戦って戦傷し、それが元で死亡した。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/30(土) 12:23:29.02
>>431
その「豊後国守護大友頼泰之手軍兵」は後世の改ざんの疑惑がある。

http://ci.nii.ac.jp/els/110007042824.pdf?id=ART0008969834&;type=pdf&lang=jp&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1461985474&cp=

佐藤鉄太郎氏は大友頼泰が都甲惟親に与えた書下を根拠に「大友頼泰が文永の役に於いて
蒙古軍との合戦に参加していたことは事実である。」と書いてるけど、その都甲惟親に
与えた書下も偽文書の疑いがもたれてる。
つまり大友頼泰が文永の役に於いて蒙古軍との合戦に参加していたことを裏付ける史料は
無いってこと。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/30(土) 14:39:34.20
で、結局文永の役はどっちが勝ったのよ?
0434日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/30(土) 21:35:07.03
史料の真贋はともかく、例の学者が言っていることは、大友頼泰が都甲惟親に書下(引付=
戦功記録に載せたという証明文書)を与えたことが、頼泰が文永の役の合戦に参加していた
ことを証明する、ということである。

これを逆にいえば、合戦に参加した上官のみが部下の戦功を記録し、その証明として書下を
与え得る、ということである。

それに対して君の主張は如何。例によって選択形式で聞こう。

イ)頼泰は合戦に参加して、豊後など管轄地域の御家人に書下を与えた。(例の学者の主張と
同じ)
ロ)頼泰は合戦に参加しなかったにも拘らず、豊後など管轄地域の御家人に書下を与えた。
ハ)頼泰は合戦に参加しなかった。したがって豊後など頼泰の管轄地域の御家人に対しては
小弐経資が代わって書下を与えた。

よろしくね。
0435日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/30(土) 23:30:15.66
◆台湾人の顔面


淡褐色、広鼻、突顎、タラコ唇


ラオスっぽいような、ポリネシアっぽいような、

つか、ハノイですね〜

実にハノイ!

https://www.youtube.com/watch?v=5bE6lSX4yK0
http://www.gmjh.tc.edu.tw/mediafile/1040/active/288/2014-11%5C2014111413041_0.jpg
https://www.immigration.gov.tw/public/Attachment/3521157552.jpg
http://a.udn.com/focus/2015/10/02/12959/image/pic01.jpg
http://www.ksnews.com.tw/upload/2014-04-20_20b06004_.jpg
http://static.ettoday.net/images/793/d793043.jpg
http://img.chinatimes.com/newsphoto/2015-05-18/656/20150518003862.jpg
https://anntw-prod.s3.amazonaws.com/assets/images/000/001/732/big/HBL.JPG?1385383160
https://i.ytimg.com/vi/9YL_k_JZ_dI/hqdefault.jpg
http://www.on9g.com/cn/customavatars/66275.jpg
http://bibibi.info/w/wp-content/uploads/2012/01/20120108-00000521-san-000-0-view.jpg
http://news.xinhuanet.com/school/2010-03/04/xinsrc_222030704080396881592.jpg
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/95/0000035795/99/img6388079azikazj.jpeg
http://www.wsm.ks.edu.tw/images/20110407024518.jpg
0436日本@名無史さん
垢版 |
2016/04/30(土) 23:32:45.52
https://www.youtube.com/watch?v=5bE6lSX4yK0
http://www.gmjh.tc.edu.tw/mediafile/1040/active/288/2014-11%5C2014111413041_0.jpg
https://www.immigration.gov.tw/public/Attachment/3521157552.jpg
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http://news.xinhuanet.com/school/2010-03/04/xinsrc_222030704080396881592.jpg
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/95/0000035795/99/img6388079azikazj.jpeg
http://www.wsm.ks.edu.tw/images/20110407024518.jpg
0437日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/04(水) 10:44:18.06
蒙古襲来絵詞を見ていたら面白いことに気付いた。
冒頭、季長は江田秀家と兜を交換したことが書いてある。
このことは絵に反映されているか?

第七紙、箱崎神宮の前を通る季長の兜のしころは鎧と同じ緑色である。
第十三紙、住吉神社を過ぎる季長の兜のしころは赤色である。
第二十三紙、落馬寸前の季長の兜のしころは赤色である。

兜の交換は絵に反映されている。絵から見れば、兜の交換は箱崎の陣で行われた
のではなく、博多へ移動する途中か、博多に着いてから季長が先駆けに出発する
までの間に行われたということになる。

そうであれば冒頭の文章も博多に着いて待機しているときの描写かもしれない。
そのほうが「息の浜に軍兵その数を知らず・・」という書き出しと合うし、
経資が家来を介して指示を出した状況も理解しやすい。

では江田秀家は絵の中のどの武士か。探すと、第四紙右端に、損傷で色が薄れてはいるが
赤の鎧兜を着た髭を生やした武士がいる。秀家はこれである可能性が高い。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/04(水) 17:31:50.21
季長の文章は直情的で、必ずしも理路整然としていないから、世の学者、研究者も
我々素人なみに頭を悩ませるらしく、彼らの解釈も奇怪なものが散見する。

「本土防衛戦史・元寇」では、季長らが箱崎と息の浜で二度にわたって少弐経資と
面接し、その間に経資が素早く箱崎から息の浜に移動したことになっている。

「「蒙古襲来絵詞」を読む」では、息の浜にその数を知れず打ち立ったのは蒙古の
軍兵である。当然、冒頭の場面は箱崎ということになる。

前のコメントで書いたように、季長の長兜の色を観察することによって季長が息の浜
の場面から書き起こしていることを知るならば、このような奇怪な解釈から逃れられる
のである。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/04(水) 18:07:06.38
訂正:
長兜→兜

また、経資の使いが秀家と会って、赤坂に行かず待機して、敵が来たらいっしょに合戦
するように指示を与える場面があるが、これが箱崎の場面だとすればよくわからない。
使いの者は息の浜から馬を飛ばして来たのか?
待機せよとは箱崎に待機せよの意味か?箱崎でいっしょに合戦するとはどういう意味か?
箱崎の陣の数ある武士のなかからなぜ秀家を選んで指示を与えるのか?

これらの疑問も、文章が息の浜の場面から始まっているならば氷解する。
使者は同じ息の浜にあった経資の司令部から来たのである。
待機は箱崎ではなく息の浜で待機するのである。
いっしょに合戦とは息の浜に集結した他の武士たちといっしょに博多で戦うことである。
なぜ秀家に?も自明である。一門の人たちは息の浜には新着であったから、まだ
博多待機の指示を受けていなかった。だから一門の代表として秀家に指示を与えた
のである。

このように全ては自然かつ順当になる。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/04(水) 21:23:55.97
以上をまとめて時系列にすれば下記の通り。

1)季長が一門の人々とともに箱崎の陣に来着する。
2)敵が博多に攻めよせたとの情報(鎌倉陳情場面より)を得て、季長と一門の人々
  が博多へ移動する(絵はここから始まる)
3)季長と一門の人々が息の浜の陣に到着し、「その数を知らぬ」武士たちと合流する。
  (詞書はここから始まる)
4)恐らく大将の景資に到着の申告を行って、指示を待った。この間に季長と秀家が
  兜を交換する。
5)景資からの使いが秀家に面接して、「赤坂へ行かず現在地に待機し、敵が来たら
  一所に合戦せよ」という指示を伝える。
6)季長が「大将の指示を待っていてはいつまでたっても戦にならない」と言って
  一門の人々と別れて手勢五騎で先駆けに出発する。
7)季長が大将景資と面接し、馬上のまま先駆けの意思を表明して景資の了承を得る。
8)季長が住吉神社付近で菊池勢と出会って挨拶を交わす。
9)季長が鳥飼潟で赤坂を退却する敵部隊を発見して追撃する。
10)季長が新手の敵部隊に突撃して負傷する。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/12(木) 23:43:53.80
>>439
経資??
>>440
景資??

どちらも景資だと考えていいの?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/13(金) 14:17:11.91
パフォが相変わらず思い込み激しいうえにウザくてワロタ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/13(金) 21:55:02.59
>>441
ごめん、どちらも景資だ。
ご指摘ありがとう。

考え方がだんだんに固まりながら書いたから長くて読みにくい文章になったが、ポイントは二つ。

1)詞書の冒頭の「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ」は決して上陸した元軍のことではない。
  集結した太宰府軍の武士たちのことである。

2)蒙古襲来絵詞の詞書は季長たちが息の浜に到着したところから始まっている。
  (これに対して絵のほうは箱崎を出発するところから始まっている)
0444日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/15(日) 22:50:14.11
2ちゃんも人がいなくなって菅沼やパフォみたいなキチガイしか残らなくなったな
0445日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/19(木) 11:00:14.97
「・・冬の嵐」の著者の新著「蒙古襲来」を読んだら、なるほどと思う部分があったので
紹介する。それは詞書の冒頭の、景資の指示に関する部分である。
原文のその部分を読みやすいように漢字交じり・現代かな使い文にして示せば:

「異賊赤坂に陣を取るにつきて一門の人々相向かうに、大将軍太宰の小弐三郎左衛門景資が
野田の三郎二郎資重を以て江田の三郎二郎秀家のもとに見参に入り候いし時、一所にて合戦
候べきよし申し候いき。赤坂は馬の足立ち悪く候、これに控え候わば、定めて寄せ来たり
候わんずらん。一同に駆けて追物射に射るべき由、申さるるにつきて、兼日の約束を違えじ
とて各々控えし間・・」

>>439の書き込みでは、この指示を息の浜で景資の家来・資重を介して伝えられた一連の指示と
して書いたが、問題は前半が「候いし時・・候いき」と過去形になっていることだ。
地の文は現在形で過去を表わしているから、過去形の部分は時制が一つ遡るのだ。
そうであればこの部分は博多合戦以前に、景資の使いが秀家のもとに派遣されて、一門に
出兵を要請するとともに一般的に「抜け駆け禁止」の原則を伝えたものと解釈される。

「蒙古襲来」の著者が原文の「けんしちのやくそく」を「兼日の約束」としているのは
一つの見識である。他の学者たちはみな「言質の約束」としているがピンと来ない。
「兼日」は「かねての日、先日」の意味だから上記解釈に合う。日を「じち」と読むのか
という疑問があるが、調べると古文で「実の親」を「じちのおや」と書いている例がある
から「じち」と「じつ」は互換性がある。

そのことを踏まえて上記の文章を、意味を補いつつ現代文にすれば:
「元軍が赤坂に陣取ったというので一門の人々が赤坂に向かおうとしたが、(思い出せば)
太宰の小弐景資が(家来の)野田資重を遣わして江田秀家に面接したときに、抜け駆けは
せず集団で戦うようにと言っていた。(そして今、大将景資は)赤坂は馬の足場が悪いから
ここに待機していれば(敵は)きっと攻め寄せて来るだろう、(そうしたら)集団で騎射
しよう、と言っているので、先日の(抜け駆け禁止の)約束を違えないように、と言って
各々待機していたが・・」
0446日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/19(木) 11:27:43.43
上記を踏まえて>>440の時系列を書き直せば:

1)季長が一門の人々とともに箱崎の陣に来着する。
2)敵が博多に攻めよせたとの情報(鎌倉陳情場面より)を得て、季長と一門の人々
  が博多へ移動する(絵はここから始まる)
3)季長と一門の人々が息の浜の陣に到着し、「その数を知らぬ」武士たちと合流する。
  (詞書はここから始まる)
4)季長と秀家が兜を交換する。
5)敵が赤坂に陣取ったというので一門の人々が向かおうとしたが、景資が「赤坂へ
  行かず現在地に待機し、敵が来たら一所に合戦せよ」と指示していたので待機する。
6)季長が「大将の指示を待っていてはいつまでたっても戦にならない」と言って
  一門の人々と別れて手勢五騎で先駆けに出発する。
7)季長が大将景資と面接し、馬上のまま先駆けの意思を表明して景資の了承を得る。
8)季長が住吉神社付近で菊池勢と出会って挨拶を交わす。
9)季長が鳥飼潟で赤坂を退却する敵部隊を発見して追撃する。
10)季長が新手の敵部隊に突撃して負傷する。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2016/05/19(木) 21:22:46.49
ただし「蒙古襲来」の著者も全てにわたって妥当な解釈をしているかというと、そうでもない。
そうでもない、の一つは「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ」の解釈である。この著者も
また、これを蒙古軍のことだと解釈しているのだ。しかも蒙古軍がすでに息の浜に上陸したのか、
それとも船団が上陸の態勢を示しただけなのか、どちらとも取れるような書き方をしている。

蒙古襲来絵詞を貫くテーマは何なのか、考えて見るべきである。それは全体の戦闘経過など
ではない。ろくな兵力を持たない季長がいかにして戦功をあげ、しかもそれを認められて
恩賞につなげたか、ただこの一点である。

その立場からすれば詞書の書き出しに「息の浜に軍兵その数を知らず打ち立つ」と書いた
季長の気持はわかる。彼は箱崎から移動して息の浜に着いたとき、数知れず集結した大軍勢
を見て胸がつぶれた。いったいこの大軍のなかで、どうやって手柄を立て、かつそれを視認
されて引き付けに載せてもらえるのか。その思いが書き出しの文章にあらわれた。

また、その思いが秀家との兜の交換に走らせたのである。石築地の場面など見ればわかるが、
武士の兜と鎧の色・模様は完全にワンセットである。そのなかで兜のしころが赤で鎧は緑
(あるいはその逆)というのはかなり珍妙である。
季長と秀家は、武士として珍妙な姿をしてまで、戦闘中の視認性を重視したのだ。

このように考えてこそ、詞書を書いた季長の心の動きが生き生きと伝わるのである。
それに較べれば「軍兵という言葉を味方の軍勢に用いた例がない」などという学者たちの
理屈はくだらない。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2016/06/14(火) 15:28:10.32
>>347
刀伊の時の指揮官の末裔が、あさま山荘事件の指揮官だというのは内緒だよ。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2016/07/01(金) 14:51:59.07
威力偵察だった=これは敗北じゃないから!戦術的撤退だから!
0450日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/01(木) 15:11:45.73
>>434
ロ)頼泰は合戦に参加しなかったにも拘らず、豊後など管轄地域の御家人に書下を与えた。

[白井文書]
筑後国御家人守部彌次郎盛通、同四郎盛時、同六郎光盛等申す蒙古合戦の事、申し状此の如し。
実正に任せ、起請の詞を載せ、左右を申さしめ給うべし。仍って執達件の如し。
    建治三年七月五日        頼泰(花押)
  斑嶋右衛門三郎殿

頼泰は証人の証言をもとに書下を与えてる。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/04(日) 22:00:21.86
戦功の申請に証人が立つのは当たり前だから、頼泰が合戦に参加しなかった証拠
にはならない。

竹崎だって先駆けの戦功を経資に申請するのに白石を証人に立てたが、別に経資が
合戦に参加していなかったわけではない。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/05(月) 01:19:12.65
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/05(月) 11:28:09.63
>>451
訂正:
経資 → 景資

いつもまちがえてごめん。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/10(土) 10:00:11.27
文永の役の日本側損失
男 2800人
女 211人
計 3011人(内戦闘員195人)

モンゴル側損失
1万3500余人
0455日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/10(土) 22:14:42.05
日本側の戦闘員の損失195人は「その数を知らぬ」下郎すなわち郎党以下の
戦闘員の損失を含まない。

モンゴル側損失の1万3500余人は海上遭難による死者の割合が不明。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/11(日) 00:38:04.37
モンゴル軍は日本軍から逃げるために荒れた海へ飛び込んだんだから
海上遭難も戦闘による犠牲者だろ
0458日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/13(火) 12:19:09.01
>『蒙山和尚行道記』「偶文永之歳、元兵偵我西鄙、有万戸将軍、降于本朝」
「たまたま文永の歳、元兵我が西鄙(西のはずれ=筑紫)を偵(うかが)う、万戸将軍の本朝に降る有り」

>名もない坊さんの記録で信憑性はわからないし、孤立していて他の資料の裏付けがない。

一年以上前の軍事板の書き込みだけど、この史料孤立してないよ。
『太平記』自太元攻日本事がある。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/13(火) 22:05:52.98
http://www.j-texts.com/taihei/tk039.html

博多の津を守る九州の兵は、太元の大軍に抗するすべもなく、一兵残らず
四国中国まで逃げ延びた、となっているがそれでいいのか?

その後全国の祈祷の甲斐あって大風が起こって太元軍は全滅、万将軍一人が
生き残って太元に帰った、というのは弘安の役の話くさい。そもそもこの
物語は文永弘安両度の戦といいながら戦闘記述はいっしょくただ。

万将軍は万戸将軍と同じかどうかわからないし、弘安の役なら万戸がいても
当たり前。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/14(水) 07:05:09.92
文永の役だって蒙漢軍は2万5000人もいたんだから万戸クラスの将軍が
何人かいても当たり前。
戦闘自体はモンゴル軍のボロ負けだったんだんだからそのうちの1人が
捕虜になったということだろ。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/14(水) 07:55:41.37
>>460
問題なのは武家はクソの役にも立たず、自分たちの祈祷で神風が起こって蒙古軍が滅んだ、って記述の方だろ。
そこがでたらめなのに、他の記述だけ信じるの?
0462日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/14(水) 09:27:12.33
>>461
『太平記』は信用できない史料だよ。
でもここで問題になってるのは『太平記』じゃなく『蒙山和尚行道記』の信用度だから。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/14(水) 16:21:53.30
>>462
「太平記」が、「蒙山和尚行道記」に出てくる「万戸将軍」の裏付けになる
というから(>>458)、「太平記」の信憑性が問題になるのだよ。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/14(水) 19:30:50.76
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/14(水) 20:54:49.95
>>463
裏付けも何も、「蒙山和尚行道記」はもともと信用度の高い史料だろ。
しかも孤立した史料じゃない。
更にモンゴル軍ボロ負けだった文永の役に万戸クラスの将軍が参加していた記録もある。

「先忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海」
『心史』
0466日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/15(木) 11:57:00.28
『元史』失里伯伝では、シェリバ(失里伯)は文永の役に参加した記述は無く、バヤン(伯顏)に
従い、南宋侵攻に従軍している。『元史』巻一百三十三 列傳第二十 失里伯「十年、遷昭勇大將軍、
爲耽羅國招討使。奉旨入見上都、改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。從丞相伯顏等渡江、破獨松關、
下長興、取湖州、行安撫司事。」

失里伯(シェリバ、晢里伯)は文永の役に参加した記述はなく
0467日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/15(木) 12:52:20.79
『元史』は明代に編纂された史料。
『心史』は元代の同時代史料。
史料価値は『心史』>>>>『元史』なんだが。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/16(金) 11:15:25.91
いくら同時代資料でも書いたのが南宋の詩人ではねえ。

それに心史は、これを偽書とする見方が根強い。
清国の図書管理では偽書の扱いだったし、現在でもその内容の疑問から
偽書とする研究論文が出されている。

南宋の歴史ならいざ知らず、元の歴史に関して史料価値を云々できる
ようなものではない。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/16(金) 12:17:20.65
奉旨入見上都、改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。

この襄陽諸路新軍って文永の役に参加したこれじゃね?

元史/卷008 世祖五 十年九月
甲申,襄陽生券軍至大都,詔伯顏諭之,釋其械系,免死罪,聽自立部伍,俾征日本;
仍敕樞密院具鎧仗,人各賜鈔娶妻,於蒙古、漢人內選可為率領者。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/16(金) 12:21:48.06
>現在でもその内容の疑問から偽書とする研究論文が出されている。

具体的には誰がどういう論文を書いてるんだろうか?
0471日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/16(金) 20:59:36.13
>>469
その見方はかなり困難だ。
改管軍萬戸、領襄陽諸路新軍。從丞相伯顏等渡江、破獨松關・・

失里伯は「襄陽諸路新軍」を領した後、丞相バヤンに従って(長江を)渡江し、引き続き
南宋作戦に従事している。
このバヤンの長江渡江作戦が行われたのは至元11年12月だ。第一次東征軍が合浦に帰り
ついたのは至元11年11月(至元と文永の年数は同じ)だから、間は1ケ月しかない。
とても無理だろう。

それより注目すべきは「十年・・爲耽羅國招討使」だ。
耽羅國は済州島のことだから、失里伯は三別抄平定作戦に出征していたのだね。
恐らく心史の著者は失里伯が10年に(三別抄作戦のために)高麗に出征したことを漠然と
知っていて、それを11年のクドゥンの第一次東征と混同したのだろう。
0472日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/16(金) 21:35:21.49
>>470
https://www.zhihu.com/question/22511541

論文名は:
「「心史」是一部偽書(「心史」は偽書である)」南京師大学報社会科学版1984年01期

「再弁「心史」非鄭所南遺作−答陳福康同志(再論「心史」は鄭所南の遺作に非ず−
陳福康同志に答える)」学術月刊1987年04期

論文名の上に理由が略述してあるが、重要なのはタブーを犯して皇帝の忌み名の字を文章に
用いていることであり、その他に文辞の誤り、編年の誤りなどがある、と言っている。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/16(金) 23:25:45.15
>>472
1984年に偽書説が出たのに今でも普通に史料として使われてるっのって
結局その偽書説が定説化しなかったってことじゃん
0474日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/17(土) 13:47:53.86
いや、偽書説は1984年に初めて現れたのではなく、出土直後の明末にすでに現れ、
次の清国の時代を通じて心史は公的に偽書と断定されていた。

そして出土以後300年以上を経た現在、真偽の決着は未だについていない。
ただし、熱狂的な宋朝支持者であるはずの著者が、皇帝の忌み名のタブーを犯して
いるというのは、真書説にとって致命的だけどね。
0475日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/17(土) 14:08:22.58
偽書説がその前からあるのは知ってる。
でもその後有力な真書説が続々出て現在では偽書説が否定されてる。
そもそも十年に耽羅國招討使に任命されてるんだから『心史』の記述どおり
「先忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭」という状況だったわけだ。
文永の役に失里伯が参加してたってのは同時代人だからこそ書ける正確な情報だな。
0476日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/17(土) 16:18:26.96
>>471で言ったように、失里伯が第一次東征と長江渡江作戦の両方に参加するのは
物理的に不可能だ。

万歩ゆずって失里伯が両方の作戦に参加したのならば、失里伯は日本で降伏せず
本国に戻ったのだから、「万戸将軍」ではなかったわけだが、それでいいのか?
0477日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/17(土) 20:42:37.67
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/18(日) 14:21:38.69
>>476
>>471で言ったように、失里伯が第一次東征と長江渡江作戦の両方に参加するのは
物理的に不可能だ。

全然不可能じゃない。
失里伯が南宋戦に参加したのは至元十二年六月からだろ。
アリバイになってない。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/18(日) 15:09:18.65
>>478
>失里伯が南宋戦に参加したのは至元十二年六月から

ソースをどうぞ。
0480日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/20(火) 21:06:43.75
人様にソースを要求したので、こちらでもソースを出しておくとしよう。

失里伯は丞相伯顔(バヤン)に従った、と失里伯伝にあるのだから、作戦経過は
伯顔伝を見ればよい。
元史列伝第十四、伯顔
http://www.tcm100.com/user/YuanShi/YuanShiRead.aspx?id=127
もし簡体字で出たら右肩の「転換到繁体中文」を押せば繁体字で読める。

十一年十二月条を見れば、長い文章の中に、
「十二月丙午,軍次漢口(「次」は宿営するの意)・・・屯布蒙古、漢軍數十萬騎于江北
・・・南軍阻水,不得相薄,遂起浮橋,成列而渡・・・宋軍大潰,數十萬衆死傷幾盡・・・
大江南北,皆我軍也,諸将稱賀,伯顔辭謝之」

などの文字があり、十一年十二月に長江渡江作戦が成功したことは明らかである。
しかし、作戦が発起してすぐに渡江にとりかかったわけではない。どんな作戦にも前哨戦
の段階がある。

そこで伯顔伝を遡れば、十一年九月条は次の文章で始まる。
「九月甲戌朔,會師于襄陽,分軍爲三道并進」

つまり伯顔軍は九月のはじめに襄陽に集結し、軍を三道に分けて進発したのである。
伯顔軍に従った万戸・失里伯は九月はじめの時点で襄陽にいなければ軍に入れてもらえない。

かくして失里伯のアリバイは完全に成立している。
失里伯が十一年十月に博多にいたはずはない。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2016/09/28(水) 07:33:27.51
>>480
十一年十二月の長江渡江作戦に失里伯を投入するつもりなら、十年六月の時点で
耽羅國招討使に任命するわけないじゃん。
失里伯を耽羅國招討使に任命したってことは、長江渡江作戦じゃなく日本遠征に
投入するつもりだったってこと。

で、伯顔伝なんだけどアリバイとして成立してないよ。
根本的な間違いは、バヤンが長江渡江作戦を2回やってる点を見落としてること。
バヤンは1回目の長江渡江作戦の後、十二年に上都へ召還され、作戦を練り直した上で、
十二年十月に再び長江を渡り、軍3分して臨安へ侵攻してる。
もちろん作戦経過は伯顔伝見ればよい。

「十月庚戌,圍揚州。召諸將指授方略,留孛魯歡、阿裏伯守灣頭新堡,眾軍南行。
壬戌,至鎮江,罷行院,以阿塔海、董文炳同署事」

「十一月乙亥,伯顏分軍為三道,期會于臨安。
參政阿剌罕等為右軍,以步騎自建康出四安,趨獨松嶺;參政董文炳等為左軍,
以舟師自江陰循海趨澉浦、華亭;伯顏及右丞阿塔海由中道,節制諸軍,水陸並進」

『元史』失里伯には、バヤンに従って渡江して獨松關を破ったと書いてあるけど、
これって2回目の長江渡江作戦における右軍の攻撃目標。
失里伯が南宋戦に参加したのは十二年十月からってことで確定だね。

十一年十月に博多にいた失里伯が、九月はじめの時点で襄陽いたはずはない。
0482日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/01(土) 21:53:28.00
>>481
いずれにしても失里伯は十一年十月以降に中国で活躍しているのだから、
十一年十月に博多で降伏したという「万戸将軍」ではない。
それで終わり。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/04(火) 22:05:13.45
>>481
>十一年十二月の長江渡江作戦に失里伯を投入するつもりなら、十年六月の時点で
>耽羅國招討使に任命するわけないじゃん。

別におかしくない。
恐らく失里伯は昭勇大将軍として耽羅上陸作戦に参加していた。で、十年六月に平定して
耽羅國招討司が置かれたときに現地で任命されてその長官である耽羅國招討使になった。
招討司とは軍政府であるから、彼は鎮辺軍1700人の司令官でもあった。
上記は仮定をふくむが、この通りであったとすれば、東征軍には参加しないだろう。

で、半年ぐらい軍政の基礎づくりをやって、後任の軍政官と交替し、十一年はじめに
上都に赴いて管軍万戸を授かり、九月までに襄陽に着いて伯顔軍に参加したとすれば、
このぐらいの忙しさは元史の中で珍しくない。

あと、伯顔軍の十一年十二月渡江作戦から以降の戦いは長江の南北両岸と長江そのもの
(つまり水軍で)をひたすら下る戦争だ。
現に引用文の中の建康(南京)、江陰(無錫)、鎮江などは全て長江南岸の都市。
十二年の二回目の渡江作戦と言うのはなんのことかわからない。
0484日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/07(金) 02:18:11.71
>>483
>で、半年ぐらい軍政の基礎づくりをやって、後任の軍政官と交替し、

後任の軍政官が任命されたのは十二年六月だよ。

元史 卷八 本紀第八 世祖五 至元十二年六月条
「以遜攤為耽羅國達魯花赤。罷山東經略司」

失里伯が「襄陽諸路新軍」を領したのも十二年6月。

「敕失裏伯、史樞率襄陽熟券軍二千、獵戶丁壯二千,同範文虎招安豐軍,各賜馬十匹」

両方ともちょうどバヤンが上都へ召還されてた時期で、失裏伯は十二年六月に
耽羅を離れ南宋戦に投入されたわけ。

>現に引用文の中の建康(南京)、江陰(無錫)、鎮江などは全て長江南岸の都市。

十二年十月に二回目の長江渡江作戦やってるんだから、十一月条に出てくる都市が
全て長江南岸の都市なのは当たり前じゃん。
何言ってるの?
0485日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/07(金) 10:49:16.14
>>484
伯顔伝を読めば建康、鎮江は十二年三月に落ちている。
この時点で長江下流(というか長江が北に大きく屈曲しているあたり)では南岸が
元、北岸が南宋、という逆転現象が起きていたわけ。

そこで伯顔は四月に暑熱のため休戦したあと北方作戦に転じて、北から淮安、高郵、揚州
と片づけてきて十月の「衆軍南行」となった。二回目の渡江作戦と言っても南北両岸を
元軍が支配している中での軍移動に過ぎない。

で、答えていないが「失里伯は万戸将軍ではない」は認めたわけだな?
0486日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/09(日) 10:12:13.23
>>485
>元軍が支配している中での軍移動に過ぎない。

失里伯伝には丞相伯顏に従って江を渡ったとあるだけなんだから、軍移動でも
全く問題ないんだが。

そりゃ失里伯は万戸将軍じゃないだろ。
だが、元史高麗史に失里伯クラスの武将の参加が書き漏れてるんじゃ、そういう例は
他にも当然あるってことだろ。
元や高麗からしたら惨敗だった文永の役の詳細な記録なんか積極的に残したくは
ないだろうからな。
万戸将軍が投降したなんて不名誉な事実は特にね。
0487日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/10(月) 14:18:29.84
>元史高麗史に失里伯クラスの武将の参加が書き漏れてるんじゃ、そういう例は
>他にも当然あるってことだろ。

その言い方は失里伯が第一次東征に参加したことを前提にしているわけだが、
失里伯の参加は全く証明されていないよ。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/10(月) 14:25:09.94
史料、史料って,,,,,,
うるせーよ、テメーらはよ

史料に頼ってるのがテメーらの限界なんだよ
0489日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/10(月) 17:24:09.83
だったら何に頼るってんだ?
テメーはよお・・・
0490日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/11(火) 11:37:07.21
>>487
残念ながら失里伯の文永の役参加は確定事項。
ちゃんと史料が残ってるからね。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/11(火) 17:33:09.33
>>490
具体的にはどういった史料により確定したんだろうか?
0492PC
垢版 |
2016/10/11(火) 21:21:31.03
>>490
残念ながら失里伯が文永の役に参加したという史料は一切ない。

あると言うならまずその史料を紹介してくれ。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/12(水) 09:33:35.95
>>492
「先忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海」
『心史』
0494日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/12(水) 11:13:48.93
>>493
その記事は間違い。
出兵の記事を一人だけの名前で表わすときは必ず総司令官の名前で書く。
心史を書いた南宋の詩人はクドゥンという総司令官の名前を知らなかったのだ。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/12(水) 21:41:47.63
>>494
間違いじゃないよ。
ちゃんと失里伯が文永の役に参加したと書いてある史料。
総司令官とか全く関係ない。
0496日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/13(木) 08:22:35.95
1,四百余州を挙る 十万余騎の敵 国難ここに見る 弘安四年夏の頃
  何ぞ怖れん我に 鎌倉男子有り 正義武断の名 一喝して世に示す

2,多々良浜辺の戎夷 そは何蒙古勢 傲慢無礼者 倶に天を戴かず
  出や進みて忠義に 鍛えし我が腕 ここぞ國の為 日本刀を試し見ん

3,こころ筑紫の海に 浪押し分け往く ますら猛夫の身 仇を討ち還らずば
  死して護国の鬼と 誓いし箱崎の 神ぞ知ろし召す 大和魂潔し

4,天は怒りて海は 逆巻く大浪に 國に仇を為す 十万余の蒙古勢は
  底の藻屑と消えて 残るは唯三人 何時しか雲晴れて 玄海灘月清し
0497日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/13(木) 10:49:07.16
>>495
総司令官の名前なしで、部隊長クラスの一人の部将の名前で軍を代表させて
いる例を見つけて来たら信じて上げる。
0498日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/13(木) 12:48:04.57
>>497
失里伯にはアリバイがあるとか言い張ってたくせに完全に論破されたからね。
心史の信憑性は証明されたってこと。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/13(木) 16:40:04.24
>>498
至元12年に失里伯が中国にいたという証拠は、至元11年10月に彼が「博多にいた」ことを証明する
わけではない。
至元12年に彼が「博多にいなかった」ことを証明するのみである。
アリバイ(不在証明)の意味を間違えないように。
0500日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/13(木) 16:44:49.84
>>499
至元11年10月に失里伯が博多にいたことは心史によって証明されてるだろ。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/14(金) 18:06:48.70
心史は失里伯とクドゥンを取り違えている。
なんの証明にもならない。

失里伯はタンラ招討使であって、軍政官であると同時に1700人の鎮辺軍の長だから
タンラを離れるわけにはいかない。

タンラ鎮辺軍が東征軍に参加したという記録があれば別だが、東征軍の構成を
逐一述べている高麗史にもそんな記述はない。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/15(土) 15:10:28.35
>>501
失里伯が文永の役に参加したってことは、耽羅鎮辺軍も参加したってことだよ。
そもそも、耽羅鎮辺軍の東征軍参加は高麗史にちゃんと記述があるし。

高麗史29卷-世家29-忠烈王2 忠烈王六年 十一月己酉
「小國一千軍鎭戍耽羅者在昔東征時係本國五千三百軍額」

だから高麗は文永の役直後に東征参加で目減りした鎮辺軍を補充してる。

高麗史82卷-志36-兵2-鎭戍
「忠烈王元年三月以耽羅戍卒缺少募人授職以遣」
0503日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/17(月) 19:54:40.25
>>502
「小国」というのは我が国、すなわち高麗のことだ。
高麗軍の耽羅駐屯軍のことを忠烈王が述べているのだよ。

耽羅は元の直轄領になったから元軍の鎮辺軍が守るのが当然だが、
属国の悲しさ、高麗軍も補助軍として使われていたんだな。

ということで、高麗史は元の耽羅鎮辺軍二千七百のことはなにも
言っていない。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/18(火) 05:39:07.01
実はアイヌも樺太でモンゴル軍と戦っていた
0505日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/19(水) 10:19:20.05
>>503
訂正:
「耽羅鎮辺軍二千七百」は一千七百の間違いね。
0506日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/19(水) 16:18:25.26
>>496
ぉぉおお!
軍歌「元寇」ですな!
日本人が一般的に持つ元寇のイメージが、この歌に集約されています。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/19(水) 23:34:42.85
>>504
耽羅鎮辺軍千七百って元軍+高麗軍の兵数だよ。
つまり耽羅に駐屯する元軍と高麗軍の合計1700人は失里伯の指揮下で一体運用
されてたわけで、高麗軍が文永の役に参加したってことは同時に失里伯と元軍も
参加したってことを意味するんだが。
そもそも耽羅鎮辺軍は大船300艘の一部を建造するなど、最初からがっつり東征に
組み込まれていたわけで、文永の役に参加しないなんてことありえない。
0508日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 10:34:51.29
>>507
困ったね。
耽羅の高麗軍千人は第一次東征の高麗軍五千三百の一部だから金方慶の指揮下に
あるんだが。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 12:55:50.24
>>508
耽羅鎮辺軍が日本遠征に参加したことは史料で証明した。
そもそも日本侵攻のために耽羅へ駐屯してるモンゴル軍が日本遠征に参加しないとか
言いがかりが最初から滅茶苦茶だったね。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 13:37:14.96
>>509
耽羅鎮辺軍は日本遠征のための軍隊ではない。
文字通り辺境を鎮めるための軍隊だ。
直轄領となった耽羅を、三別抄の残党などから守るために置かれているのだよ。

「日本侵攻のために耽羅へ駐屯してるモンゴル軍」だなどと言うのは君の独断に
過ぎない。
0511日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 14:47:27.82
>>510
残念ながら「日本侵攻のために耽羅へ駐屯してるモンゴル軍」だというのは
史料によって完璧に証明されてる。

「先忽必烈遣晢里伯由高麗攻倭、人船倶陥於海」
『心史』
0512日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/20(木) 20:14:44.81
>>511
まあいい。
君がそれほど失里伯にこだわるのは、
「文永の役で日本に降伏した万戸がいた。これは元軍が、万戸が降伏するほど
潰乱した証拠である」
と言いたいからだろう。

違うか?
0513日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/21(金) 18:48:34.77
>>512
まあ、文永の役の元軍が潰乱したことは事実だからな。
「我が軍整わず」だったわけで。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/22(土) 10:03:49.10
>>513
元軍の潰乱を、捕虜・万戸将軍の伝説から推論することはできない。
なぜなら単なる座礁事故によって捕虜になった六十人がいるからだ。
この六十人が博多/太宰府で切られたのではなく、京都に連行された
ことは勘仲記と一代要記が一致して記している。

この六十人の捕虜の中に万戸将軍がいてもおかしくない。
なぜなら管軍万戸を賜りながら二千人しか指揮しなかった失里伯の例が
示すように、万戸のインフレはすでに始まっていたからだ。

いわんや「文永の役の元軍に万戸がいてもおかしくない」ことを言うために
必死になって失里伯東征説にしがみつくことは「意味がない」。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/22(土) 18:49:18.88
>>514
座礁船を救出せずに逃げ帰ったこと自体、潰乱してた証拠じゃん。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/22(土) 21:14:30.25
え? 元軍の潰乱は海上で起こったのか。

軍議を開く余裕があった元軍が、なんで乗船した後になって潰乱したの?
「日本水軍」でも現れたかな?
0517日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 08:51:18.84
>>516
元軍はずっと潰乱してただろ。
日本軍に丸一日一方的に攻め立てられてたんだし。
戦闘は日が暮れたから一旦止んだだけなわけで、翌朝再開されたら
確実に全滅するって状態だったんだし。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 10:54:52.26
>>517
話を広げてぼやかしてはいけない。
問題は志賀島の一隻・六十人が捕虜になるまでの経過だ。

この船が座礁した時、元軍は潰乱していたのか?
0519日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 11:19:11.27
>>518
潰乱してたからこそ130人もの兵士が乗った座礁船を見殺しにしたんじゃん。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 12:22:35.95
>>519
そりゃそうだ
0521日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 16:15:47.93
>>519
>潰乱してたからこそ130人もの兵士が乗った座礁船を見殺しにしたんじゃん。

それは君が>>517で言ったことと矛盾する。君はこう言っている。
>戦闘は日が暮れたから一旦止んだだけなわけで、翌朝再開されたら
>確実に全滅するって状態だったんだし。

つまり、日が暮れてからの休戦と、予想された翌朝の戦闘再開までの間は
戦闘は行われていなかったと言っているわけだ。

この休戦から翌朝の戦闘再開までの時間帯に、軍議、乗船、出航が行われた
と理解される。

それなら、座礁は出航中に起こったのだから、その時点で戦闘は行われていなかった
ことになる。

それとも出航中にすでに戦闘が再開されていたのか?
0522日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/23(日) 16:40:31.88
>>521
そりゃそうだ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/24(月) 11:08:25.82
>>519は答えないが、その前の>>517で面白いことを言っている。

>日本軍に丸一日一方的に攻め立てられてたんだし。
>戦闘は日が暮れたから一旦止んだだけなわけで、翌朝再開されたら
>確実に全滅するって状態だったんだし

これだと元軍は10月20日の深夜まで現場にいたことになる。
それを志賀島との関連で言っているのだから現場とは博多湾だ。

元軍は10月20日の深夜まで博多湾にいた。
この時系列で、「壱岐軍議説」は成り立つのか?
0524日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/24(月) 21:14:18.38
>>523
そりゃそうだ
0525日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 08:50:36.00
>>523
正直な話、10月20日の夜に元軍が博多湾内で海難事故に遭った史料見つけちゃった。
ここに貼るつもりはないけどね。
0526日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/25(火) 10:09:22.47
>>525
そりゃ知りたい
0527日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 16:39:51.30
>>525
そんなの別に珍しくない。いくらでもある。
一代要記とかね。
0528日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 22:00:04.21
>>517は「元寇の真実」とかいうブログで壱岐軍議説を唱えている本人だ。
それが:
>戦闘は日が暮れたから一旦止んだだけなわけで、翌朝再開されたら
>確実に全滅するって状態だったんだし

つまり20日の深夜まで元軍が博多湾にいたと書いているということは、
>>517が自分でも壱岐軍議説を信じていないということだ。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/26(水) 22:01:27.63
>>528
そりゃそうだ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 08:21:18.28
>>521
日が暮れてからも戦線に留まっていた少弐景資の手勢が劉復亨負傷させた戦闘が
あったけどね。

ただ、「潰乱」って組織がばらばらの状態のことだろ。
金侁が溺死したり、座礁船見殺しにしたりしながら逃げ帰った元軍はまさに
潰乱状態だったわけで、深夜に戦闘があったかとか関係ないじゃん。

>>528
史料に基づいて考察してるんだから新たな史料が発見されれば見解も変わるのが
当然だろ。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/29(土) 21:34:59.00
>>530
>金侁が溺死したり、座礁船見殺しにしたりしながら逃げ帰った元軍はまさに
>潰乱状態だったわけで、深夜に戦闘があったかとか関係ないじゃん。

深夜の戦闘による潰乱がなくても、大風雨で潰乱したと言いたいわけだな。
大風雨による遭難を「潰乱」と呼ぶかどうかは問題だが、いずれにしても
それは外海で起こったことであって、志賀島の座礁船とは関係ないではないか。

>史料に基づいて考察してるんだから新たな史料が発見されれば見解も変わるのが
>然だろ。

なるほど、壱岐軍議説はやめた、と宣言したわけだな。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/30(日) 10:10:38.44
>>531
10月20日の夜は雨が降ってた程度で大した悪天候じゃなかった。
それなのに元軍は博多湾内で遭難した。
だから元軍は敗戦によって潰乱状態だったとしか言いようがないんだよ。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/30(日) 21:08:24.34
博多湾内は暗礁が多いので有名なのだ。
そのなかで暗夜に撤退作戦を行って、126隻の大船のうちたった1隻の座礁、
率にして0.8パーセントの犠牲で済んだというのは潰乱どころか大成功と
言ってよい。

元軍は整然と撤退したのだ。大風雨に遭うまではね。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/31(月) 00:41:58.41
>>533
博多湾内の座礁船は100余艘だよ。

「卅大宰府言上賊船百餘艘漂倒」『皇年代略記』後宇多院

300艘の大船の3分の1。
元高麗の動員した3万9700人のうち1万3500余人が帰還できなかった
という記録とも計算が合う。
まさに潰乱状態だろ。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/31(月) 09:54:02.07
>>534
今度は博多湾内になったのか。

そんなのは最もリアルタイムな勘仲記、一代要記と合わない。
遭難船の数は聞き書きの勘仲記で「少々」、太宰府報告書の一代要記で一隻だが
捕虜の数は約六十人で共通するから一隻と断定できる。
0536日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/31(月) 12:14:29.64
>>535
皇年代略記の記述は事実だよ。
文永の役については、書かれたのが数年以内、著者もはっきりしてる史料が
存在するんだな。
このレベルの史料を考慮してないんじゃ話にならないから探してごらん。
読めば一代要記は太宰府報告書なんかじゃなく、単にデタラメ書いてるだけだと
わかるから。
そもそも一代要記と勘仲記は合ってないじゃん。

「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島」一代要記

「廿二日甲子、去十三日於對馬島、筑紫少卿代官凶賊等合戦云々」勘仲記
0537日本@名無史さん
垢版 |
2016/10/31(月) 20:33:15.00
皇年代略記は「博多湾内」とは一言も言っていないではないか。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/01(火) 17:21:25.23
元寇のスレは面白い。
これで鎌倉迄の竹崎季長の旅日記が有ったらな。
蒙古襲来絵詞を作ったのに、京都を通ったのか大坂を通ったのか
思い出して書いて残して欲しかったな。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/05(土) 22:40:30.68
>>537
だから元軍が博多湾内で遭難したことを裏付ける史料は、
ここで公表するつもり無いって言ってるじゃん。

ところで一代要記と勘仲記の記述が食い違ってることには
答えないね。
捕虜の数も勘仲記は50余人で共通じゃ無いんだけど。
0540日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/07(月) 21:34:00.95
>>539
>だから元軍が博多湾内で遭難したことを裏付ける史料は、
>ここで公表するつもり無いって言ってるじゃん。

そりゃ「公表」できないのは当たり前だな。
そんな「史料」は存在しないからだ。

>ところで一代要記と勘仲記の記述が食い違ってることには
>答えないね。

すでに答えている。
何度も書いたが勘仲記は「或人云」という聞き書きだ。
それに対して一代要記は原史料(太宰府報告書)からの要約だ。
こまかいところで食い違うのは当然。

>捕虜の数も勘仲記は50余人で共通じゃ無いんだけど。

「五十人余」と「六十人許」は同じ意味だな。
たとえば五十八人だったとしたらどちらも当てはまる。
六十人許というのは60人プラスマイナスαという意味だよ。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/08(火) 06:43:12.71
>>540
いや、一代要記は原史料なんか無くデタラメ書いてるだけだよ。
だから太宰府からの報告を根拠にしてる勘仲記と食い違う。
元軍の壱岐侵攻を13日なんて嘘書いてる史料は
一代要記だけ。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/08(火) 17:14:21.39
>>541
>元軍の壱岐侵攻を13日なんて嘘書いてる史料は 一代要記だけ。

では壱岐侵攻は何日が正しいのか? またその根拠はどの史料か?
ひょっとして八幡ノ蒙古記?

>10月20日の夜は雨が降ってた程度で大した悪天候じゃなかった。
>それなのに元軍は博多湾内で遭難した。 >>532
>博多湾内の座礁船は100余艘だよ。 >>534

ところで元軍が博多湾内で遭難、壊滅したのなら壱岐軍議説とは決定的に食い違うな。
軍議→撤退→遭難の時系列は動かないから、遭難が博多湾内なら軍議はどうしても
壱岐でなく博多になる。

以前の「元軍は20日深夜まで博多湾内にいた」は、壱岐での軍議、遭難の日時を
ずらせば、まだ壱岐軍議説は成り立ち得たが、博多湾内遭難ではどうしようもない。

君が自分で壱岐軍議説を信じていないことは、これで決定的になったな。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/10(木) 16:11:39.70
>>542
『八幡ノ蒙古記』は偽書じゃん。
壱岐侵攻は14日だよ。
ソースは『高麗史節要』、『安国論私抄』文永十一年蒙古責日本之地事、
要するにモンゴル軍自身が14日に壱岐へ侵攻したと言ってる。
俺が見つけた文永の役直後の記録でも14日になってるしな。

あと、正確には「元軍は20日深夜まで博多湾内にいた」ではなく、
「元軍は21日早朝まで博多湾内にいた」だ。
『八幡大菩薩愚童訓筑紫本』の「然ニ夜明ケレハ二十一日之朝、海ノ面ヲ見ルニ、
蒙古ノ舟共皆馳テ帰ケリ」は、「21日の朝に海面を見たら、蒙古の舟共が
皆逃げ帰っていった」と解釈するのが正しい。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/10(木) 21:02:57.27
>>543
>壱岐侵攻は14日だよ。 ソースは『高麗史節要』
>モンゴル軍自身が14日に壱岐へ侵攻したと言ってる。

高麗史節要は11日なんだが。
「戰艦五百餘艘。發合浦。越十一日。船至一岐島」

また安国論私抄は一兵士の個人的経験だし、壱岐戦は何日かに亘っている。
十四日に寄ると言ってもそれが軍の最初の上陸日であるとは限らない。
たまたまその兵士が十四日に上陸したのかもしれない。

>あと、正確には「元軍は20日深夜まで博多湾内にいた」ではなく、
>「元軍は21日早朝まで博多湾内にいた」だ。

21日朝まで博多湾にいたら、壱岐軍議説はますます成り立たないではないか。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/10(木) 23:32:05.05
>>544
「越十一日」は「11日を経て」って意味だろ。
合浦出発が10月3日だから11日を経て壱岐到着は10月14日。

前も書いたけど、新しい史料が見つかれば当然それに合わせて考えも変わる。
こんな史料が世に出たら服部英雄の蒙古襲来とかも木端微塵。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2016/11/12(土) 21:04:20.86
>>545
>合浦出発が10月3日だから11日を経て壱岐到着は10月14日。

出発日の3日を第一日とすれば第十一日は13日ではないか。

>新しい史料が見つかれば当然それに合わせて考えも変わる。

だったらブログでそう言わなきゃな。
言っとくが博多湾内遭難説は成り立たないよ。
捕虜の数が六十人では少な過ぎるし、漂着死体の話もない。
0547日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/05(木) 00:20:46.01
>>546
座礁船100余艘の記録がある以上、モンゴル軍が博多湾内で遭難したのは確実だよ。
それに志賀島の座礁船の乗組員の数は約130人。
「六十人許」とか嘘書いてる一代要記は信用できる史料じゃないってこと。

『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事
「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、
或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄」
0548日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/05(木) 06:52:58.77
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人虐殺
https://goo.gl/vX3ERl
https://youtu.be/Kgp4ZCK6sW4
https://youtu.be/1yjRBMVEKFs
https://youtu.be/XPywXIvckI8
https://www.youtube.com/watch?v=dCEJ7TUY06w
0549日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/10(火) 11:06:56.48
>>547
60人だろうと130人だろうと、いずれも志賀島の座礁船一隻の乗員として書いているのだから
同じことだ。
博多湾で遭難したのは志賀島の座礁船一隻だけだったのだ。

金綱集の漂着船百余艘は「在々処々」に「打寄」せられたのだから博多湾とは限らない。
これを全て戦闘翌朝の博多湾内のできごととするなら、それぞれ乗員がいて捕虜になった
はずだから、捕虜数は60人や130人ではきかないだろう。

金綱集の漂着船百余艘は、安国論私抄と一致する後日談だよ。
まあ君もその辺は十分わかっていて、ダメ元で書いているのだろうけどね
0550日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/10(火) 17:19:46.64
>>549
漂着船百余艘が発見されたのは10月21日と明記してある。
後日談とかありえない。
自分に都合悪いからって滅茶苦茶だろ。

「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、
或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄」

ほら、10月21日だ。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/11(水) 16:55:32.27
金綱集が「廿一日卯の刻(午前6時ごろ)」と時間まで指定して強調しているのは
蒙古人が「悉く退散し了る」すなわち翌朝には博多湾から一人残らず退散したことだ。

だからこそ次に只一つの例外として鹿島の座礁船一隻、百三十余人の話になる。
その例外の説明が捕虜の処理としての「或いは生け捕る」まで。

その次の「破損の船」からは別の話題になる。
「在在所所」なのだから場所も時間もばらばら。

その総数が百余艘というのは安国論私抄が壱岐など各地に漂着した難破船の総数が
百二十四艘と言っているのに対応する。

この一致は同じ時期に編集された日蓮宗資料同士だから信用できる。
百余艘の漂着は後日談だよ。
0552日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/11(水) 18:36:55.49
>>551
「破損の船」から別の話題になるなら、当然その時間と場所を書くだろ。
書いてないってことは別の話題じゃなく同じ21日、同じ博多湾内の話題ってこと。
現に別の話題である住吉第三神殿云々ではちゃんと書いてるじゃん。

「破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、一杜肺子・二白徳義・三遭Z郎・四劉保兒也、
同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑聲シテ西ヲ指シテ行、」

で、住吉第三神殿の話題は破損の船百余艘と同じ21日の出来事だと明記してるよな。
ちゃんと読んでごらん。
後日談なんかじゃなく「同じ21日」の出来事だってさ。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/12(木) 11:11:37.88
同廿一日という日付を重ねて書いていることそのことが、間に別の日のできごとが挟まっていることの
証左だ。別の日と言っても、以前に書いたように難破船の漂着は「在々処々」であって、場所も日付も
ばらばらだから書きようがない。読めば当時の常識に照らして後日談とわかるから日付、場所は省略
したのだ。

そして次に住吉宮の矢音の話になった時、いったん後日談になったのを元の廿一日の話に戻すために
あえて廿一日の日付を重ねて書いたのだ。そうでなければ、同じ廿一日の話の流れの中で日付を重ねて
書くことはあり得ない。

で、その廿一日に住吉宮から鏑矢の音がして西の方へ飛んで行った。
なぜこのような神がかった矢音の話を入れたかというと、著者が神風説であって、その神風たる暴風雨が
二十一日に、どこか西方の海上(すなわち博多湾外)で起こったことを示唆したかったからだ。
この話が、後日談である難破船漂着がなぜ起こったかという説明になっている。

というわけで、この資料は元軍の遭難が博多湾外であったことを証明しているな。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/12(木) 12:21:33.97
>>553
書いてることが滅茶苦茶。
住吉宮の矢音の話は破損之船百余艘と同じ日の出来事だから神の奇跡と認識されたのだ。
博多湾内でモンゴル軍が遭難してた動かぬ証拠出てきて残念だったね。

で、夜の間に遭難して21日に博多湾の処々に漂着してた破損之船百余艘と志賀島に
打ち上げられた130人乗りの1艘の違いな。
金綱集には「廿一日卯の刻」とモンゴル軍の撤退時刻が書いてある。
つまり日本側は21日の朝にモンゴル艦隊が博多湾から出ていくのを見ていたってこと。
その内の1艘が志賀島に座礁したのも当然見ていた。
モンゴル軍は日本側に見られていたから座礁船を救助する余裕がなく、130人もの兵を
見捨てて丸々日本軍の捕虜になるのを放置するしかなかったわけ。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/12(木) 16:37:20.95
>住吉宮の矢音の話は破損之船百余艘と同じ日の出来事だから神の奇跡と認識されたのだ。

それだとなんで鏑矢が西方へ飛んで行ったかが説明されないから有り難味がうすい。
元軍の船が朝の六時ごろまでに座礁船一隻を除いて博多湾から姿を消した。
その後、難破船が在々処々に漂着するので、大風にでも遭ったのだろうと思っていたところ、
果たして21日に住吉宮から蕪矢の音がして西の方へ飛んで行ったそうだ。
なるほどそれが神の奇跡で、矢が飛んで行った先の西方海上で神風を起こしたのだな、
有り難矢有り難矢。

こういう順序だ。
なんで西方かと言えば、当時の航路が博多湾からまっすぐ北上するのではなく、まず海岸伝いに
西へ行ってから改めて壱岐島を目指すからだ。
著者が「博多湾外」を念頭に置いて書いているのが分かるな。
さらに言えば、この時には著者はすでに安国論私抄に述べられた壱岐島中心の難破船分布を
知っていて、それを念頭に置いて書いている可能性が高い。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/12(木) 17:08:44.38
>つまり日本側は21日の朝にモンゴル艦隊が博多湾から出ていくのを見ていたってこと。

蒙古軍退散の時刻が書いてあるからと言って日本軍が見ていたとは限らない。
「酉の刻(午後5~7時)に及んで九国の軍(即ち太宰府軍)引き退きたる処」であって、
少なくとも太宰府軍はすでに博多から撤退しているから、見ていない。

上記に続いて「夜に入りて三百余騎の軍兵出で来て(中略)仍ち蒙古人同廿一日卯の刻
悉く退散し了る」だから、元軍退散の直接原因は太宰府軍ではなく三百騎の正体不明の
軍兵である。

この三百騎は博多軍議の事情を知らぬ日本人が考えた、これも奇跡の一種と考えられる。
一代要記の太宰府報告書の兵船二艘などと同じ性格のものだ。

つまり金綱集の著者は、太宰府軍の退却にも拘らず元軍が博多湾から退散し、その後壊滅
したのは、廿日夜の陸上での神軍三百騎と、廿一日の西方海上での神風と、二段階にわたる
天佑神助の故だと言っているわけ。

ということで、元軍の撤退時刻が書いていることは博多湾内遭難説の、なんの証拠にも
ならない。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/12(木) 17:29:19.88
>>556
三百余騎の軍兵は少弐景資だろ。
日が暮れてからモンゴル軍と交戦し、劉復亨を負傷させてるんだから。

あと、モンゴル軍が博多湾内で遭難したことは「金綱集」で裏付けられてる。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/13(金) 10:05:48.70
>>553
>>555
ああ、住吉第三神殿を博多の住吉神社と勘違いしてるのね。
住吉神社に第三神殿なんて無いじゃん。
これ、摂津の住吉大社のことだから。
住吉大社の第三神殿からは屋島の戦いの時も鏑矢が西方へ飛んで行ってる。
摂津から見れば博多湾は西方だろ。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/13(金) 10:42:43.38
少弐景資は「九国の軍」すなわち太宰府軍の長だから「酉の刻」すなわち午後5時ごろに
すでに「引き退いて」いる。三百余騎の軍勢は想像上の神軍だよ。そして恐らくその正体は
戦場稼ぎの悪党群だ。

さて、難破船漂着の日付を問題にしているが、必ずしも後日談ではなく廿一日であっても
よいことに気がついた。
この著者が言いたいのは、鏑矢の話から見て、元軍の遭難が廿一日に西方海上で起こった
ということだ。
すると、その時点で元軍の船団はまだ海岸伝いの航路にいるのだから、難破船の漂着は
早いものはすでに廿一日夜から始まっていたはずだ。そしてその後数日間、だらだらと
「在々処々」で続いた。

この日付をどうつけたらよいか。難破船漂着は廿一夜に始まっているのだから日付をつけず
廿一日の記事に含めてしまっても間違いにはならない。しかもその後数日間続いたのだから
廿一日と明記するわけにもいかない。結局なにも日付をつけないのがベストなのだ。

そしてその次の鏑矢の話は、元軍遭難の時点と一致していることを強調するために是非とも
廿一日と書かなくてはならない。
かくして金綱集の日付にはなんの問題もなくなった。
0560日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/13(金) 11:26:00.13
もう一つ、遭難者側から書かれた金方慶伝との関係だ。
金方慶伝には「会夜大風雨」とあって、この「会」が「ちょうどその夜」か、「たまたまある夜」
かが問題になる。前者であれば遭難は「廿日夜」になるし、後者であれば廿日以降何日でもよい、
というのが従来の議論だった。

しかし、考えて見ると「廿日夜」には無理がある。なぜなら日本軍が撤退した酉の刻、午後六時
ごろ以降に軍議をしてその後乗船、出航、遭難が全て20日夜に起こらなければならない。
乗船だけで一日では無理と言う軍事専門家もいるぐらいだから、これはいかにも辛い。

そこで気がついたが、「遂引兵還」に続いて「会夜大風雨」なのだから、「遂引兵還」を「撤退
と決まった」ではなく「最終的に撤退した」すなわち「乗船・出航が完了した」と解釈すれば、
「会夜大風雨」は廿日夜ではなく廿一日夜なのだ。

つまり「会」を「ちょうどその夜」と解釈したとしても、「撤退を決めたちょうどその夜」では
なく「出航したちょうどその夜」と解釈することができるわけだ。
事件の当事者の心理から言っても、その方が自然だろう。

かくして金方慶伝から見ても、元軍の遭難は廿一日夜となる。即ち博多湾外。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/15(日) 12:05:25.42
>>559
太宰府軍の長は金綱集の筆頭に書かれてる少弐資能だよ。
現実に劉復亨が日没後に日本軍と戦って負傷してるんだから想像上の神軍ではない。
戦場稼ぎの悪党群が文永の役に参加したなどとする史料は皆無。
一方、少弐景資は史料でも日没後にモンゴル軍と戦闘してる。
三百余騎の軍勢は少弐景資で確定じゃん。

あと、難破船百余艘が漂着した日付はちゃんと明記してある。
「廿一日」な。

「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、
或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄」
0562日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/15(日) 12:07:25.82
>>560
「たまたまある夜」の「たまたま」とは「おりしも」「ちょうどそのとき」という
意味なんだから、前者であっても後者であっても遭難は「廿日夜」しかない。

>しかし、考えて見ると「廿日夜」には無理がある。なぜなら日本軍が撤退した酉の刻、午後六時
ごろ以降に軍議をしてその後乗船、出航、遭難が全て20日夜に起こらなければならない。
乗船だけで一日では無理と言う軍事専門家もいるぐらいだから、これはいかにも辛い。

いやいや、無理な乗船、出航をしたから遭難したと考える方が、整然と一晩で撤退したと
考えるより遥かに自然だろ。
そもそも難破船の打ち寄せたのが廿一日なんだから、遭難はその前夜しかありえない。
金方慶伝から見ても、元軍の遭難は廿日夜であり、即ち博多湾内。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/16(月) 11:49:12.46
>>561
>一方、少弐景資は史料でも日没後にモンゴル軍と戦闘してる。

少弐景資が「日没後」にモンゴル軍と戦闘したという「史料」を是非見せてくれ。

>あと、難破船百余艘が漂着した日付はちゃんと明記してある。 「廿一日」な。

だから漂着は廿一日の夜からでいいと言っているのだよ。 >>559を読め。

>そもそも難破船の打ち寄せたのが廿一日なんだから、遭難はその前夜しかありえない。

その意味は、「その前夜」すなわち廿日夜から廿一日早朝にかけての時間に博多湾内で遭難
して、廿一日朝に博多湾内で漂着が発見された、という意味だな?

私が言うのは、廿一日の早朝に出航して廿一日の夜(例えば午後八時ごろ)から暴風雨
に遭ったとすれば、漂着は廿一日のうちに始まる(沿岸航路だから)ということだよ。

金方慶伝の「遂引兵還、会夜大風雨」は上記の時系列で解釈するのが最も自然だ。
文章から言って、大風雨に遭ったのはもう「還」り始めた後なのだからね。

>いやいや、無理な乗船、出航をしたから遭難したと考える方が、整然と一晩で撤退したと
>考えるより遥かに自然だろ。

撤退中に遭難したとしたら大混乱に陥って、乗船・出航はかえって遅れるではないか。
整然と一晩で出航したことこそ湾内で遭難などなかったことの証拠だ。

それに、廿一日の朝、博多湾内で百余艘の難破船が望見されたというのは、「蒙古人・・
悉く退散し畢る」の語感に合わない。難破船とは言え、人が乗っているのかいないのか、
遠くから見ただけではわからないのだからね。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/16(月) 16:52:40.76
「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島」(金綱集・文永十一年蒙古責日本之事)

この文章に時刻が書いてあるからと言って、廿一日の午前六時ごろに蒙古艦隊の最後の一隻が、
日本軍に見られながら、鹿島に座礁した僚船一隻を見捨てて博多湾口を出て行くところであった、
と映画の一場面のようなことを考える必要はない。

第一に、卯の刻というのは一つの時点ではなくて、午前六時ごろの二時間にわたる「時間帯」である。
「廿一日の夜が明けて見たら」というのとたいして変わらない。
第二に「悉く・・畢る」というのは完了を表わしているから、蒙古人の退散は卯の刻以前にすでに
終わっている。「悉く」だから、博多湾は鹿島の一隻を除いてもぬけの殻だったのである。
第三に、退散は終わった後なのであるから、廿一日朝に博多湾を見たのは日本軍でなくても誰でもよい。

以上を踏まえて、冒頭の和風漢文を和文に訳した名文があるので紹介しよう。

「夜も明ぬれば廿一日なり、あしたに松原を見れば、さばかり屯せし敵もをらず、海のおもてを
見わたせば、きのふの夕べまで所せきし賊船、一艘もなし、(中略)よくよく見れば、異賊の兵船
一艘、志賀嶋にかヽりて、逃のこれるも見えにけり」

他でもない、八幡の蒙古記の一節である。
この件に関して、金綱集に新しいことは何もない。ただし、金綱集の価値は別の所にある。
それについては改めて書こう。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/16(月) 17:01:57.71
>>564
誤解を招くので訂正する。6行目:

「廿一日の夜が明けて見たら」→「夜が明けて見たら」
0566日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/17(火) 11:23:06.41
金綱集の文永の役記事は二つの点で貴重である。
その一つは太宰府軍の撤退を明記していることだ。
太宰府軍の撤退は定説のようになっている割に、それを明記している資料は意外に少ない。
八幡愚童訓/蒙古記を除けば一代要記ぐらいしかない。そこが例の学者などが日本軍勝利説を唱える
つけめになっている。

ところが金綱集は「酉の刻(午後5~7時)に及んで九国の軍引き退きたる処」と述べて、太宰府軍が
夕方に撤退したことを明記している。
金綱集は日蓮が情報収集した記録を後世に編纂したものであるから、間接的な同時代史料である。
そのなかで太宰府軍の撤退が述べられている意味は重い。

もう一つは戦闘経過に時刻がつけられていることである。
文永の役の戦闘経過を述べた史料で、時刻が付されているものは、蒙古襲来絵詞を含め皆無である。
勝ち勝ち組の人たちは廿日の戦闘開始の時刻を正午ごろ、午後になってから、などと遅い時間に
持って行きたがるが、これは1~2時間分しかないと思われる蒙古襲来絵詞の記述で全ての戦闘経過
を説明するために、夕方までの戦闘時間をできるだけ短くしようとするからである。

ところが金綱集は太宰府軍の戦闘開始時刻を辰の刻(午前7~9時)と明記して、勝ち勝ち組の退路を
絶っている。両軍はほぼ10時間にわたって戦闘したのだ。

以上二つの点で、金綱集の記述は貴重である。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/17(火) 11:43:07.10
横からすまんが
当時の軍隊が日が暮れる前に引き上げるのは常識的な行動だし、
会戦の勝ち負けには関係ないよね
それと蒙古襲来絵詞の戦闘経過が1、2時間というのも説得力がない
当時の合戦に現代のような迅速さはないし
0568日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/17(火) 22:58:47.30
金剛集が貴重なのは、同時代史料には日本軍が劣勢であるかのような記述が
無かったってことだよ。
戦況は「両方死輩不知其数」だからな。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/18(水) 20:12:09.75
>>567
>当時の軍隊が日が暮れる前に引き上げるのは常識的な行動だし

その常識さえ受け入れない人がいるから書いている。
例の学者は日本軍が元軍を祖原山→百道原→姪浜と圧迫し、元軍は「そのまま撤退して
しまった」と言っている。これだと日本軍の「引き退く」はなかったことになる。
「引き退く」は相手あっての話だからね。

>それと蒙古襲来絵詞の戦闘経過が1、2時間というのも説得力がない

蒙古襲来絵詞の戦闘経過は菊池勢の赤坂攻撃で始まっている。
菊池勢は二百騎と多いから恐らく一回の突撃で敵を追い落としただろう。
菊池は沖の浜に向かい、竹崎と会って挨拶を交したが、その間も敵は逃げている。
その敵を竹崎が追って事故のため取り逃がしたが、祖原山を降りてきた新手の集団に
突撃して、瞬時にして潰えた。

そこへ白石勢が突撃して竹崎救出に間に合った、ということは敵は瞬時にして退却して、
その後祖原山に上った。

以上の経過に要する時間は、結局のところ元軍の歩兵が赤坂山から祖原山まで徒歩で
移動するのに要する時間だ。
赤坂山と祖原山の距離は約3kmだから徒歩で約45分。いろいろ入れても戦闘経過の時間は
1時間前後と言える。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/18(水) 23:28:29.38
>>569
ざっとまとめると
菊池武房が赤坂を襲撃→竹崎が赤坂戦後の菊池と遭遇→竹崎らが元軍を追うも取り逃がす→鳥飼潟で竹崎が突撃、白石らが救援→元軍敗退
蒙古襲来絵詞にはこれだけの経過が書かれてるわけだけど、
やはりこれら全部を1、2時間で終えようとするとかなり無理のあるスケジュールになると思うよ。

あなたは色々と無根拠な想像を言ってるけど、逆に言えば菊池勢が突撃一回でちゃっちゃと敵を追い落とし、かつ、
白石勢の突撃で敵が瞬時にトンズラするという風に都合よくスピード解決が続かなければ1、2時間説は成り立たないということでは?
0571日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/19(木) 21:29:59.20
>>570
それでは菊池勢の赤坂攻めははずそう。もともと、蒙古襲来絵詞に書かれている戦闘経過の所要時間、という問題だから、
書かれてないものははずすべきなのだ。時間的な基点は、竹崎勢が沖の浜を出発した時点としよう。

その後、竹崎は住吉神社の前で菊池勢と会って挨拶するが、住吉神社は沖の浜と赤坂山のほぼ中間にあるから、竹崎が
沖の浜を出発した時点は、ちょうど菊池が赤坂を出て沖の浜に向かった時点、すなわち赤坂の元軍部隊が祖原山に向かって
撤退を始めた時点にほぼ相当する。

その後、竹崎は鳥飼潟を通って撤退する元軍部隊を追撃するが、馬が泥に足を取られて倒れたために敵を取り逃がす。
「取り逃がす」の意味は、竹崎が事故処理に手間取っている間に元軍部隊が祖原山の麓の安全圏に達したということだろう。
この時点で、時間的基点から45分が経過している。45分は元軍部隊が赤坂山→祖原山の3kmを歩き切る時間である。

そこで竹崎は目標を変更、こんどは鳥飼潟沿岸のルートで祖原山の元軍本陣を目指す。さすがに無茶だから部下が文句を言うが、
構わず馬を走らせる。塩屋の松はかなり祖原山に近いというから、馬の駆け足(分速300mぐらい)で3km走ったとして10分だ。
ここで基点から55分になる。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/19(木) 21:31:22.57
<続き>
すると祖原山から邀撃部隊が下りて来たので、その敵との戦いとなる。接敵して矢戦となった途端に竹崎勢が潰えたのは絵詞から
明らかだからここは「瞬時」でもいいだろう。交戦時間は0分。

竹崎は矢戦の距離内で歩兵と化してしまって緊急事態となった。白石が来るまでどのくらいの時間しのいだかは判らないが、
5分ぐらいしのぐのがせいぜいだろう。幸いに最悪の事態となるまでに白石勢の到着が間に合った。追加の時間5分。

白石勢の姿を見た元軍の邀撃部隊はたちまち退却に転じた。これが「たちまち」すなわち「瞬時」であることは、絵詞の詞書きに
「白石の六郎通泰、後陣より大勢で懸けしに蒙古の戦引き退きて裾原に上がる」とあり、絵にも白石勢がまだ接敵する前に全員が
逃げ腰になっている構図から明らかである。もともとこの邀撃部隊は例えば100~200人の小部隊で、竹崎勢の5騎は圧倒したが、
白石勢の100騎には対抗できなかったのだろう。すなわち白石勢との交戦時間は0分。

その後白石がどのような戦い方をしたのかは書かれてないから、これもはずす。以上で所用時間はちょうど1時間となる。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/26(木) 17:41:43.70
>>563
>だから漂着は廿一日の夜からでいいと言っているのだよ。 >>559を読め。

いや廿一日の夜からじゃダメだろ。
金剛集には廿一日に百余艘が漂着していたとかいてあるんだから。
>>559に書いてあることは金剛集に書いてあることと全く違ってて論外。

>私が言うのは、廿一日の早朝に出航して廿一日の夜(例えば午後八時ごろ)から暴風雨
に遭ったとすれば、漂着は廿一日のうちに始まる(沿岸航路だから)ということだよ。

高麗史は、日が暮れてから軍議をして「ちょうどその夜」に遭難したと書いてるのに、
翌日の夜なわけないだろ。
これも話にならない。

>>564
「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島」(金綱集・文永十一年蒙古責日本之事)

>この文章に時刻が書いてあるからと言って、廿一日の午前六時ごろに蒙古艦隊の最後の一隻が、
日本軍に見られながら、鹿島に座礁した僚船一隻を見捨てて博多湾口を出て行くところであった、
と映画の一場面のようなことを考える必要はない。

これも支離滅裂。
史料に書いてある通りに考えないとダメじゃん。
あと「八幡の蒙古記」は偽書だよ。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/27(金) 06:10:05.54
>>563
>少弐景資が「日没後」にモンゴル軍と戦闘したという「史料」を是非見せてくれ。

『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本
軍ハ巳之時始テ日暮方ニ成シカハ、彼方此方ニサゝヤキ事コソシケレ、
何事ソト恠シム
力及ヒ難ニケレハ、水木之城ニ引篭支テ見ン卜逃支度ヲソ構ヘケル、
是ヲ聞テ我先ニト落シカハ、独モ留ル者無リケリ、

爰ニ三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、
蒙古大将軍ト思シキカ、長七尺計ノ大男、髮腮ノ邊マテ
生ヒ下リタルカ葦毛ノ馬ニ乗十四五騎、
カチ走七八十人カ程具シテ、ヲメキ呼テ追懸タリ、
0575日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/30(月) 17:08:25.91
>>573
>いや廿一日の夜からじゃダメだろ。
>金剛集には廿一日に百余艘が漂着していたとかいてあるんだから。

正確に言えば金綱集には漂着の日付は書いてない。「或生捕」と「破損之船」との間に
話題転換があり、転換した話題については日付は書いてないのだ。
日蓮宗関係の史料に突然の話題転換があることは、我々は安国論私抄で経験済みである。

>高麗史は、日が暮れてから軍議をして「ちょうどその夜」に遭難したと書いてるのに、
>翌日の夜なわけないだろ。

間を抜かしてごまかしてはいけない。軍議があり、「遂引兵還」があった後に「会夜大風雨」
が来るのだ。
「遂」の字はその後の動作が成就したことを表わす。ここでは「引兵」すなわち撤退・乗船と、
「還」すなわち帰途に着くこと、出航することが成就している。
その後に「会夜大風雨」だから「会夜」は「出航したちょうどその夜」なのだ。

出航は廿一日明け方だから、ちょうどその夜は廿一日夜(午後八時〜午後十二時)になる。
必然的に、難破船漂着は廿一日夜(午後八時〜午後十二時)以降に起こったことだ。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/30(月) 17:11:24.84
>>574
>『八幡大菩薩愚童訓』筑紫本

君が載せた引用文には「日暮方」とは書いてあるが「日没後」とか「夜中」とかは書いて
ないではないか。
なんでそれが、少弐景資が三百騎を率いて夜襲をかけたという証拠になるのか?

ついでに言えば、君が景資夜戦の証拠とするほど信頼している八幡大菩薩愚童訓・筑紫本は、
廿一日朝のこととして、空虚になった博多湾と志賀島の座礁船のことは述べているが、
百余隻の湾内漂着については全く言及していない。
これはどうするのか?
0577日本@名無史さん
垢版 |
2017/01/30(月) 17:54:59.60
【青戸6丁目住民一同の告発(住民代表・宇野壽倫)】

秋葉原通り魔事件で逮捕された加藤智大氏は、明らかに冤罪

http://youtu.be/gj0X2qLNbUg
0578日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/17(金) 10:09:53.78
別のスレで新史料を発見したとか喜んでる子がいたけどただの初歩的な読み間違いかよ
0579日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/19(日) 19:13:40.64
日本は元の集団戦術と鉄砲でボロ負けだったのに暴風雨で助かった。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/20(月) 09:59:58.83
>>579
一部の教科書や通俗歴史本にそのように書いてあるが、正しくない。
なぜなら元軍は暴風が来る前に撤退したから。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/21(火) 08:47:03.29
当時の戦は日没までに帰らなきゃいけないからな
0583日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/21(火) 09:15:01.50
>当時の戦は日没までに帰らなきゃいけないからな

清盛の時代すら夜襲やってますが
0584日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/21(火) 17:07:47.54
夜襲と大軍同士の夜戦は別だよ。

日本軍がそうであるように元軍も夜戦が出来なかったのは高麗史の「暮れに及びてすなわち解く」という記述からもわかる。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/21(火) 22:07:25.30
地理もわからんのに夜間に行軍する奴はいないよ。
土地勘のある日本軍に夜襲をかけられ放題だろうが。
橋頭保を確保できていない以上、船まで下がって防御するしかない。

まぁ、日本軍は船で夜襲かけるんだけどな。
0586日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/22(水) 21:25:57.31
一代要記によれば蒙古軍は十九日の亥の刻(午後10時ごろ)に早良郡に攻め寄せた、
となっているな。
0587日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/22(水) 21:59:11.76
ブログの人が公開した新史料の金鋼集にも19日に博多湾に元軍が現れたことが確認できるから、19日には上陸していたのだろうな。

合戦は翌朝には始まり、両軍多数の死者を出しながら日が暮れたので休戦といったところか。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/22(水) 23:58:25.01
元冠から日本を守った対馬の武人。

だいたい何で元が日本を攻める必要が有る。
ふざけた奴等だ。
日本に侍がいて良かった。
0589日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/23(木) 07:01:55.20
史学スレとは思えない低レベルなレス。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/23(木) 09:51:31.37
>>587
元軍は19日の深夜に上陸を開始し、翌20日の朝(史料によれば午前8時ないし10時)に
菊池勢が戦闘開始した時点で、すでに祖原山、赤坂山などの要衝に布陣していた。

つまり、元軍は夜間戦闘ができた。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/24(金) 02:54:22.06
上陸が一番危険だから、日本軍の邪魔の無い夜間に上陸する計画だったのだろうね。

そして翌日の日本軍の攻撃が止んだ隙の夜間に同じように撤退した。

すべて夜間では戦闘を避けることができるための元軍の行動だな。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/24(金) 09:17:13.73
>>591
その通りだと思う。
元軍は夜に上陸して夜に撤退したのだから「夜間行動ができた」というより、
どういうわけか「夜間行動を好んだ」。
そして恐らくそのための訓練を十分に積んで来た。

だから日本軍(の主力)は夜戦をやらないのに元軍が夜戦をやるという一方的な
関係にあった。
やすやすと上陸を許したばかりか、内陸の祖原山まで進出を許したのはそのためだ。

元軍が好んで夜間上陸を選んだのであれば、夜間撤退を選んだのも別に不思議ではない。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/24(金) 22:44:52.11
夜のうちにこっそりやってきて、夜のうちにこっそり逃げるのを、「夜戦」とは言わない。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/25(土) 11:00:54.67
>>593
少なくとも>>585 は否定されるな。

>地理もわからんのに夜間に行軍する奴はいないよ。

元軍は夜間に上陸地点から祖原山、赤坂山まで行軍している。

>土地勘のある日本軍に夜襲をかけられ放題だろうが。

日本軍主力すなわち太宰府軍は夜襲をかけなかったが、「土地勘のある」地元の
武士たちは抵抗しただろう。
しかし元軍が祖原山、赤坂山まで進出したことから見て、そのような抵抗は撃破された。
つまり元軍は「夜戦」を行った。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/25(土) 13:10:21.89
抵抗しただろうっていうのは想像し過ぎない。

その抵抗を避けるために夜に上陸したのだから、夜に夜戦があったというのも想像に過ぎない。

夜間に祖原山や赤坂山のような何の砦もない小山に武士が夜中にいるとは思えんが。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/25(土) 22:16:09.03
>>595
>その抵抗を避けるために夜に上陸したのだから、夜に夜戦があったというのも想像に過ぎない。

太宰府軍との夜間の衝突は結果的に避けられたではないか。それで十分、夜間上陸の意味はある。

>夜間に祖原山や赤坂山のような何の砦もない小山に武士が夜中にいるとは思えんが。

上陸地点や、祖原山、赤坂山への道中は全て武士の領地だ。
御家人でない武士もいるし、御家人であって太宰府軍に参加しなかった武士もいる。
これらの武士は領民の手前、戦わないわけにはいかない。

金方慶伝も「捨船三郎浦、分道而進、所殺過当」と書いて、上陸後、進撃途中に戦闘が
あったことを示唆している。
一代要記と併せて読めばこれは夜間の話だ。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/26(日) 00:55:17.63
やたらと夜戦に拘っているのがよくわからないが、一代要記には元軍が早良郡に押し寄せて来た(つまり上陸した)のが、夜の10時頃としか書いていない。

夜間の行軍も夜戦も想像にしか過ぎない。
上陸が完了し態勢を整えた翌朝に行軍を開始していてもおかしくない。

むしろ、その方が安全だ。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2017/02/26(日) 01:27:43.09
だいだい日本軍の目をかいくぐって上陸して夜戦も行軍もできるなら、夜間のうちに博多を攻め落としていただろう。
それをしていないのは、元軍も夜間の進撃などしていなかったということ。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/01(水) 22:35:26.16
要約すると

元軍は橋頭堡築けずに船で壱岐とか博多の手前の島で行ったり来たり留まったりで
負け続けて水の調達も満足にできなかったから疫病蔓延して逃げ帰った

ということ?
0601日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/02(木) 14:13:45.79
>>575
>正確に言えば金綱集には漂着の日付は書いてない。

いや、金綱集には漂着の日付が21日と書いてある。
ほら。

「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、
或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄生」

>間を抜かしてごまかしてはいけない。軍議があり、「遂引兵還」があった後に「会夜大風雨」
が来るのだ。

誤魔化してるそはそっちじゃん。
高麗史は日が暮れてから軍議をして「遂引兵還」した「ちょうどその夜」に遭難したと
書いてるんだから、「遂引兵還」も遭難も廿日夜だろ。
廿一日夜は翌日の夜だから「會夜大風雨」じゃない。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/05(日) 09:25:35.23
>>576
「日暮方」から水城撤退の囁きが聞こえ始め、博多筥崎に駐屯してた武士が
撤退した後に少弐景資がモンゴル軍と戦闘してるんだから、「日暮方」の後の
出来事じゃん。
少弐景資は水城に撤退しなかったわけで夜中も戦線に留まっていたの確実だしね。

あと、八幡大菩薩愚童訓・筑紫本は筥崎宮の内部出火がモンゴル軍を退散させた
という主張で書かれてるわけで、それに都合悪いモンゴル艦隊の博多湾内遭難には
触れてなくても不思議じゃないよ。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/05(日) 10:07:17.16
>>590
「十一月二十日、蒙古舟ヨリ下リ、馬ニ打乗リ、旗ヲ揚テソ責懸ル」だから
モンゴル軍の上陸は19日の深夜じゃない。
赤坂山に進出したのは上陸地点で松浦党や原田・日田・相屋と戦闘した後で、
菊池勢の戦闘開始なんて午後になってからだろ。
0604日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/11(土) 10:50:20.54
>>598
「元軍は夜間上陸したが夜戦も夜間行軍もしなかった」にやたら拘っているのがよく
わからないが、元軍が19日午後10時ごろに上陸したと金綱集が言う上陸地点、例えば
今津は、無人の海岸ではない。

博多の外港であり、れっきとした港町だ。今津すなわち「現在の港」と、地名が称する
通りである。そういう場所に上陸した元軍は、先ず港町を平定しなければならない。
それは住民の殺戮という、この遠征の一つの目的を達するためでもあり、また自らの
安全のためでもある。

住民の中には武士もいるし、民間人とてこの時代、刀狩りがあったわけでなし、武器を
持っていないとは限らない。平定作戦はすなわちプチ夜戦である。

また、当時の地図を見ればわかるが今津から博多までは遠いし、ルートは単純でない。
上陸と平定作戦のために時間を費やした元軍は、翌日の博多での戦闘に間に合うためには、
まだ暗いうちに今津を出発しなければならない。

というわけで、夜間上陸と夜戦、夜間行軍を分けて考えるのは難しい。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/11(土) 11:06:06.53
>>599
>夜戦も行軍もできるなら、夜間のうちに博多を攻め落としていただろう。

その見方は:
1)夜間上陸したのは元軍の主力であった。
2)合戦前夜の博多に日本軍は宿泊しておらず、無防備であった。

という二つの仮定に基づいているだろうが、それはいずれも正しくない。
まず夜間上陸したのは元軍の一部、すなわち先遣隊であった。
そのことは、蒙古襲来絵詞で竹崎が描写する元軍が大軍とは思えないことで裏付けされる。

次に合戦前夜の博多には恐らく日本軍主力が宿泊していた。
金綱集は、太宰府軍の主なメンバーが20日午前8時ごろには参戦していたと述べているが、
その太宰府軍は当日に太宰府または水城から博多に「通勤」したのか?ということである。

太宰府から18キロ、水城からでも13キロの道を早朝に行軍して博多に着き、ただちに戦闘
開始するというのは軍の作戦としてどんなものか。
それよりは前夜、十分な宿泊施設がある博多に泊って英気を養い、翌朝からの戦闘に具えた
方が軍の士気にとっても有利であろう。

上記の考え方にすこしでも妥当性があるならば、元軍の司令官もまたそのように考えて、
先遣隊を夜間に博多に突入させるような作戦はとらなかっただろう。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/11(土) 16:24:40.18
>>604
「元軍が19日午後10時ごろに上陸した」などという話の根拠は金綱集ではなく一代要記だな。
一代要記は嘘ばかり書いてる史料で信用できない。

一代要記
「同十三日、異國軍兵亂入壹岐島、同十四日、彼島守護代荘官以下被悉打取云々」

金綱集
「同十四日蒙古人壱岐国仁押寄テ守護代平内左衛門尉影高等構城郭雖合戦ト、蒙古人乱入之間影高等自害畢」


一代要記
「爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍兵退散、彼兵船一艘留之、所乗之人數六十人許、云々」

金綱集
「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島、乗人百三○余人也」
0607日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/11(土) 22:06:45.52
>>606
壱岐について金綱集と一代要記は、十四日を守護代死亡の日とすることで
一致しているな。

教えてくれて有難う。ますます一代要記の信用性が高まった。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/12(日) 10:55:11.26
>>601 >>606
>金綱集「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島、乗人百三○余人也」

金方慶伝「忽敦曰・・・不若回軍、復亨中流矢先登船、遂引兵還、会夜大風雨」 

金綱集の「悉退散畢」がすなわち金方慶伝の「遂引兵還」だ。
それが廿一日の朝六時ごろだというのだから、「会夜」は廿一日の夜だ。

簡単なことだ。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/12(日) 11:58:55.96
>>608
「悉退散畢」は卯尅だから、そもそも「ちょうどその夜」じゃないだろ。
何言ってるの?
モンゴル軍は撤退作業の最中に遭難してるんだから「会夜」は廿日の夜しかありえない。

簡単なことだ。
0610日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/12(日) 16:26:42.49
>>609
何を言っているのかわからない。

「悉退散畢」(=遂引兵還)が廿一日の卯の刻すなわち朝六時ごろなのだから、
それに続く「ちょうどその夜」は廿一日の夜に決まっているではないか。

金方慶伝は、「暗夜の中、困難な撤退・乗船をやっとのことでやり遂げて、本国を
目指して出航するところまで来たのに、出航したちょうどその夜に大風雨に遭った
ばかりに・・」

という残念な気持ちを「遂引兵還、会夜大風雨」の文章に込めたのだ。
「遂」の字と「会」の字が重い。

>モンゴル軍は撤退作業の最中に遭難してるんだから

それは君の思い込みに過ぎない。どこにもそんなことは書いてない。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/13(月) 01:03:35.53
>>604
>元軍が19日午後10時ごろに上陸したと金綱集が言う上陸地点、例えば 今津は、無人の海岸ではない。

金鋼集には今津に上陸したなど一言一句書いていないが。また、今津の話など一言も書いていない。
恐らく一代要記のことを言っているのだろうが、一代要記でも今津では無く早良郡だ。

>それは住民の殺戮という、この遠征の一つの目的を達するためでもあり、また自らの

夜間上陸して住民を虐殺することを夜戦などとは言わない。随分と夜戦の意味を後退させたな。
前までは「日本軍(の主力)は夜戦をやらないのに元軍が夜戦をやるという一方的な関係にあった」と随分元軍を過大評価していたが。

>住民の中には武士もいるし、民間人とてこの時代、刀狩りがあったわけでなし、武器を
持っていないとは限らない。平定作戦はすなわちプチ夜戦である。

博多に日本軍は集結していたので、元軍は博多を夜襲出来なかったのだろう?
なぜ、早良郡の在地武士だけは博多に集結しなくていいのだ?ご都合主義の解釈だな全く。
博多に武士が集結していたのならば、もちろん早良郡の武士も集結せねばなるまい。

>まず夜間上陸したのは元軍の一部、すなわち先遣隊であった。

どういう意味だ?主力も上陸していないのに日本軍主力に近い赤坂まで先遣隊だけで夜間行軍したというのか?
朝方から元軍主力が上陸したとした場合、先遣隊は自軍だけで日本軍主力にいつ襲われるかわからない孤立した非常に危険な状態を自ら招いたことになる。
ますます、夜間行軍などするメリットが無いな。

夜間上陸したとして、それは上陸時の不利な状況を夜間上陸することによって避けるための元軍の行動である。戦いを避けるための上陸作戦のはずが、先遣隊がそのリスクを増大させるような元軍の意図に反した夜間行軍など愚かなことはしなかったろう。
0612日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/13(月) 12:35:20.94
>>610
>>モンゴル軍は撤退作業の最中に遭難してるんだから

>それは君の思い込みに過ぎない。どこにもそんなことは書いてない。

いや書いてあるよ。

『高麗史』 巻一百四 列伝十七 金方慶
「及暮乃解、方慶謂忽敦茶丘曰、『兵法千里縣軍、其鋒不可當、我師雖少、已入敵境、
人自爲戰、即孟明焚船淮陰背水也、請復戰』、忽敦曰、『兵法小敵之堅、大敵之擒、
策疲乏之兵、敵日滋之衆、非完計也、不若回軍』復亨中流矢、先登舟、遂引兵還、
會夜大風雨、戰艦觸岩多敗、侁堕水死」

「會」は辞書に「ちょうどそのとき」と訳すと書いてある。
「遂引兵還」の「ちょうどその時」遭難したんだから廿日の夜に決まっているではないか。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/13(月) 19:21:20.09
突然ですまぬが、初心者向けの入門書にはなにがいいでしょうかのう。
お教えくだされ。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/14(火) 11:36:17.36
>>612
それについては軍事板にも書いたのでダブるが、こっちにも書く。

>「遂引兵還」の「ちょうどその時」遭難したんだから廿日の夜に決まっているではないか。

君は「遂引兵還」を軍議の結論と見て「遂に撤兵帰国と決まった」と解釈するからそういう
ことになるのだ。

「遂引兵還」は「遂に撤兵帰国が決まった」ではない。
「遂に撤兵が完了して帰途に就いた」だ。

理由は「「復亨中流矢先登船」だ。「遂引兵還」までが軍議の記事と見るならば、軍議の途中で
復亨が射られたことになり、 不自然である。

軍議はその前の「不如回軍」で終わっているのだ。この言葉はクドゥンの結論であり、 従って
命令である。 「復亨中流矢先登船」はその命令に従って全軍の乗船が開始され、先ず負傷した
副司令官の劉復亨が船にかつぎ込まれたことをまざまざと述べているのである。

こう見てくれば「遂引兵還」は「全軍の乗船もやっと終わって本国に向けて帰途に就くことが
できた」であり、それが「ところが運悪くちょうどその夜・・」の「会夜大風雨」に続くわけだ。

ということで、「帰途に就く」すなわち出航が21日の朝ならば、「ちょうどその夜」は21日の夜、
すなわち21日の日没から深夜までの間となる。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/14(火) 11:41:14.57
>>614
訂正:
不如回軍→不若回軍
先登船→先登舟
0616日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/14(火) 12:45:59.02
>>614
「全軍の乗船もやっと終わって本国に向けて帰途に就くことが できた」のは20日の夜じゃん。
「ちょうどその夜」は20日の夜以外ありえない。
21日の夜は「遂引兵還」の翌日の夜だから完全に違う。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/14(火) 17:17:25.07
>>616
>「全軍の乗船もやっと終わって本国に向けて帰途に就くことができた」のは20日の夜じゃん。

君は金綱集に基づいて「全軍の乗船もやっと終わって本国に向けて帰途に就くことができた」のが
21日の朝6時ごろであったと主張しているではないか。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/14(火) 22:12:29.89
>>611
>金鋼集には今津に上陸したなど一言一句書いていないが。

金綱集は十九日の上陸地点としてちゃんと今津を挙げている。よく読め。

>前までは「日本軍(の主力)は夜戦をやらないのに元軍が夜戦をやるという一方的な関係にあった」
>と随分元軍を過大評価していたが。

それでいいのだ。十九日の夜、日本軍主力が博多で安眠していたばかりに、元軍の先遣隊に夜間上陸を
許したばかりか、住民の殺戮、作戦要地の占領、陣地構築までやりたい放題にさせた。
これを一方的な関係と言わずして何という。

>なぜ、早良郡の在地武士だけは博多に集結しなくていいのだ?

君は全ての武士が博多に集結したと思っているのか?
文永の役では幕府の動員は原則として御家人に限られ、非御家人には及ばなかった。
その御家人でさえ、例えば松浦党は博多に馳参せず自分の領地で戦った。

>主力も上陸していないのに日本軍主力に近い赤坂まで先遣隊だけで夜間行軍したというのか?

その通りだ。まあ赤坂は菊池に追い落とされたが、祖原山は保持した。
この時点(朝8時ごろ)で主力はまだ上陸していない。主力はその後、百道原に徐々に上陸した。
祖原山はそれを側面援護するための絶好の要地だった。恐らく予め研究したのだろう。

>戦いを避けるための上陸作戦のはずが、先遣隊がそのリスクを増大させるような
>元軍の意図に反した夜間行軍など愚かなことはしなかったろう。

捨て駒である高麗軍にその危険な仕事をさせて、昼間に上陸する蒙漢軍の安全を図ったという
ことはあり得るだろう。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/15(水) 00:00:53.55
これ普通にショックでしょ?
本当なの?
https://goo.gl/oORYbN
0620日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/15(水) 08:43:52.64
>>618
>金綱集は十九日の上陸地点としてちゃんと今津を挙げている。よく読め。

君こそよく読むべきだ。
金鋼集の該当箇所を挙げると「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」
とある。
これを「上陸した」と解釈した場合、19日の時点で博多湾沿岸「すべてに」元軍が
上陸したことになる。
君の言うように、博多湾の日本軍主力との戦闘を避けるためにこっそりと「今津から上陸した」
などとは金鋼集にはどこにも書いていない。
19日の時点で「博多・箱ア・今津・佐原」の博多湾一帯に元軍が上陸したことを事実とすれば
翌日に博多と箱崎に日本軍主力が存在したことは説明できない。
以上のことを考慮すれば「博多・箱ア・今津・佐原賊来」とは、単に「同十九日、蒙古人筑前国
博多・箱ア・今津・佐原(の沖合に。つまり博多湾に)元軍が現れた」と言っているに過ぎない。

>それでいいのだ。十九日の夜、日本軍主力が博多で安眠していたばかりに、元軍の先遣隊に夜間上陸を
許したばかりか、住民の殺戮、作戦要地の占領、陣地構築までやりたい放題にさせた。

そもそもがそれらのことを「夜間に行った」などということからして君の妄想に過ぎない。
また、そのような史料は存在していない。
君の唯一の根拠が一代要記の「同十九日亥刻、攻來筑前國早良郡」つまり「19日の午後10時頃に元軍が
早良郡に攻めてきた」とあるだけである。
上陸後の君の言う「野戦」も「夜間行軍」とやらも無い。また、夜間行軍先の赤坂は早良郡ですら無い。
リスクを考えれば、夜間に行軍するメリットなど存在しない。
行軍するにしても上陸地点の目と鼻の先の祖原山までだ。元軍は上陸を終えて、体制を整えた
翌日に進軍したと考えるべきだ。
それに君は高麗兵をスーパーマンと勘違いしていないか?
19日の夜10時頃に高麗兵が上陸したとして、上陸準備をなどもあるから夜7時には準備にかかっていただろう。
その後、夜10時から上陸して、野戦と陣地構築も夜間のうちにこなし、翌日は日本軍と終日戦い、夜には乗船し
撤退という一連の流れを不眠不休でこなすなどというのはあまりにも高麗兵を過大評価し過ぎだ。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/15(水) 08:44:56.08
>>618
>その通りだ。まあ赤坂は菊池に追い落とされたが、祖原山は保持した。
この時点(朝8時ごろ)で主力はまだ上陸していない。主力はその後、百道原に徐々に上陸した。

これも君の勝手な妄想に過ぎない。
高麗史にはこうある。「捨舟三郎浦、分道而進、所殺過當」と。
高麗史の記述に従えば、殺戮のあったのは上陸を終えて「元軍が道を分けて進軍中」のことである。
その後の記述に数人ないし数十人の武士(非御家人か?)が高麗軍中軍に攻撃を仕掛けて返り討ちに
あっているが、その時の様を見た総司令官クドゥンは「忽敦曰、蒙人雖習戰、何以加此」と高麗軍の
一軍中軍を称えた。
言い換えれば「進軍中の高麗軍の戦果をクドゥンは見ていた」ということだ。
伝言だけではこうも称えようがない。
つまり、高麗軍のみ進軍して、元軍は翌朝に上陸して早良郡にへばりついて等いなかったということだ。
クドゥンもまた「上陸し進軍」していたのである。

翌朝に元軍主力が上陸したとした場合、赤坂から鳥飼、百道原と元軍の戦線は後退を重ねているのであるから
クドゥンの進軍というのは説明がつかない。
また、クドゥンの高麗軍への称賛は「諸軍ともに戦う」の前にあるから、「諸軍ともに戦う」より前の
出来事である。
赤坂から鳥飼、百道原と戦線を後退させている元軍にとっては、20日に元軍主力が上陸したとした場合
上陸した途端に「諸軍ともに戦う」という状況に追い込まれていたことになり、高麗軍への称賛やクドゥンの進軍
の隙など無い。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/15(水) 09:29:31.12
金鋼集などと照らし合わせながら考えれば、19日夜から20日にかけて元軍上陸。
夜間のうちに祖原山を占拠し翌朝の戦闘に備える。
20日朝に諸軍が分かれて行軍を開始、少数の武士団の襲撃を撃破しながら進軍。
後続でクドゥンの部隊も進軍開始し、高麗軍中軍の戦果を確認。
その後、先鋒部隊が赤坂山を占拠するも菊池勢に奪取される。
元軍、進軍を中止し祖原山を中心に防衛体制を敷く。
終日、激戦。日が暮れたので停戦。損害の大きい元軍は軍議で撤退することに。

文永の役の顛末は至って、わかりやすくシンプルだ。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/15(水) 10:04:18.11
>>617
金剛集に書いてあるのはモンゴル軍が博多湾から出た時間じゃん。
20日夜に兵の撤収作業を行って停泊していた今津沖から本国に向けて帰途に就いたから
21日の朝6時ごろに志賀島沖にいたんだろ。
「遂引兵還」は20日の夜しかないわけだ。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/15(水) 11:05:15.64
>>618
>その御家人でさえ、例えば松浦党は博多に馳参せず自分の領地で戦った。

松浦党は博多に馳参じて戦ってるが。

八幡大菩薩愚童訓筑紫本
「九国ニ馳セ集マル軍丘誰々ソ、 少弐・大友・菊池・原田・紀伊一類・臼木・戸次・松浦党・児玉党以下、
神社仏寺ノ司マデ及モ、我モゝゝ卜打チ立ケル、大将軍一万二千余騎、都合其勢十万騎卜云へドモ数ヲ知ラズ、」

そもそも同時代性の高い史料には、松浦党の領地がモンゴル軍に襲撃されたなんて一切書いてない。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 00:50:09.59
とりあえず大宰府まで日本軍を撤退させたのに
船に戻った元の軍隊はアホなのか?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 01:18:48.50
>>625
日本軍は日が暮れたから兵を引いただけで戦闘自体は元の軍隊を圧倒してたわけだし
0627日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 01:25:57.16
>>626
上陸作戦は今も昔も24時間が勝負だよ
ノルマンディーもそうだし沖縄もそう。
0628日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 01:47:43.82
>>627
文永の役も24時間以内に元軍撃退してるじゃん
0629日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 11:47:13.55
>>620 : 日本@名無史さん2017/03/15(水) 08:43:52.64

>金鋼集の該当箇所を挙げると「同十九日、蒙古人筑前国博多・箱ア・今津・佐原賊来」とある。
>単に「同十九日、蒙古人筑前国 博多・箱ア・今津・佐原(の沖合に。つまり博多湾に)元軍が
>現れた」と言っているに過ぎない。

「賊来」を「賊が来た」と解釈したのだろうが、それだと「蒙古人」とだぶって主語が二つに
なってしまう。「賊」は動詞でなければならない。
そこで辞書を見れば「賊」の第一の品詞は動詞であり、その第一義は「損なう、害する」、
第二義は「殺す」だ。要するに相手に損害を与えることが「賊」なのだ。

「賊来」はそれが「来」と複合したものだ。「襲来」などと同じだ。
ところで相手に損害を与えるには、この時代、艦砲射撃があるわけでなし、どうしても
人が上陸して手を下す必要がある。
要するに、今津等への上陸と襲撃はあったのだ。

ということで、「19日の今津等への上陸はなかった」に基づく君のストーリーは無意味になった。
はじめに戻ってやり直し。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 13:51:07.20
>>629
「賊来」が「襲来」としても同じことだ。

では、博多と箱崎に元軍が上陸していながら、なぜ翌朝に日本軍がそこにいるのだ?
博多湾に襲来した(襲うために)現れたというのを博多湾沿岸を総評して、沿岸部の地名を列挙したに過ぎない。

博多と箱崎に19日に元軍が上陸したならば、翌日の日本軍の存在は有り得なかった。

君のは単なる史料を自分のストーリーに合致する部分だけをつまみ食いしているに過ぎない。

君こそ妄想を捨て最初に戻ってストーリーの練り直しだな。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 14:00:24.86
629のいう新説によれば、19日の夜に博多・箱崎・早良郡・今津に元軍は奇襲上陸していたという。
つまり19日夜の時点で博多周辺は元軍に占領されていた(‼)?

さらに日本軍主力は19日の夜に博多周辺にはいたので、元軍は主力は海上に先遣隊の高麗軍だけが今津からこっそり上陸し、日本軍主力に気付かれないように僅かな手勢で松明もつけずに(‼)赤坂まで夜間進軍して孤立していたそうだ。

まとめると滅茶苦茶だな。全く阿呆らしい説だ。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 22:30:15.59
>>630
>博多と箱崎に19日に元軍が上陸したならば、翌日の日本軍の存在は有り得なかった。

君の考える日本軍はそんなに弱いのか。
私の言う少数の先遣隊が19日夜に上陸しただけで、日本軍は博多、箱崎から追い払われるのか?

まあ私も博多は疑問だと思う。金綱集が全て正確だとは限らない。
箱崎は箱崎半島の先端部に元軍の上陸があったことは発掘から推定されている。
日はわからないけどね。
金綱集はしょせん宗教書だ。しかし同時代史料だから大筋だけは正しいと考えられる。
場所は不正確でも、19日夜間の上陸が無かったのにあったと書く理由はないだろう。

19日夜の先遣隊上陸説の例は、例えば下記がある。この人の説は私と完全に同じではないが、
いろいろ面白い。
http://www.catv296.ne.jp/~sensyo/genkou1.htm
0633日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/16(木) 22:33:08.84
上記ページの人は19日の今津上陸は洪茶丘軍だと考えているのが面白い。
この考え方が有用なのは、博多周辺の戦闘記録に洪茶丘軍の影が薄いことだ。
博多軍議にも洪茶丘の名は出てこない。今津に上陸、占領した後、そのまま後方守備の
任務につき、帰りは今津から直接帰った、と考えることもできる。

この人は祖原山、赤坂の占領も洪茶丘軍と考えているが、そこが私と違う。
今津は遠すぎるからだ。私は祖原山、赤坂は金方慶軍だと思う。
金方慶軍の少なくとも一翼軍が最短距離の姪浜または百道原に上陸して祖原山、赤坂に
進出したと考える。

これを昼間にやったとしたら危険過ぎるだろう。博多から目と鼻の先に陣地構築する
のに、少数の先遣隊が昼間に堂々とやったら、それこそ日本軍の主力にひと揉みに
される危険がある。だからこそ夜間に上陸して、朝の八時ごろにはすでに陣地構築を
終わっていたのだ。

夜間行軍と言っても全ての部隊が今津〜赤坂間を行軍したと考える必要はない。
それこそ分道而進だ。今津〜百道原間の海岸の各要地に、洪茶丘軍と、金方慶の三翼軍
がそれぞれ夜間上陸し、ある部隊は最短距離に上陸して前線に陣地構築し、ある部隊は
後方の海岸で破壊活動を行った後、前線に追及し、ある部隊は最後方の要地に留まって
警戒任務についた、という風にそれぞれの活動を行ったと考える。

分道而進を、以前は赤坂、祖原山、その他一か所と考えていたが、それでは範囲が狭過ぎて、
分道と言うほどでもない。上陸地からすでに分かれていたと考えた方がしっくりする。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/17(金) 03:29:05.03
>>633
相変わらず史料的根拠のないことばかり書いてるね。

>金方慶軍の少なくとも一翼軍が最短距離の姪浜または百道原に上陸して祖原山、赤坂に
進出したと考える。
>だからこそ夜間に上陸して、朝の八時ごろにはすでに陣地構築を終わっていたのだ。

これがはっきり間違いとわかるのは、十月二十日に上陸地点の姪浜で日田弥三郎永基が
モンゴル軍と戦っているからね。

豊後国日田郡司職次第
「永基
号弥次郎
文永十一年
十月二十日蒙古人襲来之時於筑前国早良郡姪浜并百路原両所軍陳一日中二ケ度
抽抜群大功手負討死交名注文在別紙
為被忠賞拝領当国安岐郷弁分弘永以下五ケ名
御下文明白也」

で、日田弥三郎永基の戦闘については八幡大菩薩愚童訓筑紫本にも記述がある。
この時、山田之者共五人が赤坂に向かって逃げてるから元軍はまだ進出してない。

「肥田・相屋三百余騎ニテ彳ヘタリケルカ、乗タリケル馬ノロ強シテ、自然ニ敵陣へ被引入シカハ、
主人討セシト彼カ手之者共続テコソ懸タリケレ、取篭テヒシゝゝ卜残少ク討成ル、
主人引入シ馬ハ此方ニ走帰ケリ、
相屋カ手ニ山田之者共五人、蒙古ニ追ヒ立ラレテ、赤坂ヲ下ニ逃処ニ、異賊三人擽ニゝゝテ追懸タル、」

モンゴル軍が祖原山、赤坂に陣地構築したのはこの後ね。

「蒙古ハ次第ニツヨリ、勝ニ乗テ責来リ、赤坂ノ松原ノ中ニ陣ヲ取テソ居タリケル」
0635日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/19(日) 17:32:30.84
>>623
>20日夜に兵の撤収作業を行って停泊していた今津沖から本国に向けて帰途に就いたから
>21日の朝6時ごろに志賀島沖にいたんだろ。

20日夜というのは20日の午後8時ごろから午後12時まで、間を取って午後10時ごろとしよう。
すると21日の朝6時ごろまでは8時間。今津〜志賀島の距離はグーグルアースで見ると約7kmだ。
元軍の船団は時速1km/h以下の速度しか出せなかったのか?
おりしも順風である北向きの風が吹いていたというのに?

>>624
>松浦党は博多に馳参じて戦ってるが。
>「九国ニ馳セ集マル軍丘誰々ソ、 少弐・大友・菊池(中略)松浦党・・

「松浦党」と名前が挙がっていても、松浦党全員が博多に馳参したことにはならない。
松浦党は数が多いし、領地は広範にわたっている。

それに、そもそもこの文章は「博多」とは言っていない。「九国」すなわち「九州」と言っている。
戦場が博多だけではなかったことを考慮したのだろうね。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/19(日) 17:44:09.78
>>634
時系列を含む戦闘経過を議論するのであれば、基点を定めなければならない。
その基点を提供してくれるのは、最も信頼性の高い史料である蒙古襲来絵詞だ。

竹崎が塩屋の松で戦う以前に、菊池が赤坂で戦っていた。
竹崎が菊池の戦いを知りながら、なぜ自分の戦いを「先駆け」と考えたかは謎で、研究者に
よっていろいろに解釈されている。

それはさておき客観的に見て、20日に少弐景資が率いる太宰府軍のなかで最初に戦ったのは
菊池であり、二番目に戦ったのは竹崎であったと考えられる。
つまり蒙古襲来絵詞に述べられた菊池、竹崎の戦いが太宰府軍の戦闘開始である。
では、このことが起こったのは20日の何時頃か。
それについては幸いなことに金綱集が午前8時ごろと述べてくれている。

蒙古襲来絵詞によれば、菊池、竹崎が戦った時点で、鳥飼潟周辺で元軍がいたのは祖原山と赤坂
であった。赤坂はわからないが、祖原山には明らかに元軍の陣地があった。
つまり元軍は20日午前8時より早い時間にすでに祖原山に陣地構築し、さらに赤坂に進出していた。

君は以上について異論が無いか、確かめたい。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/24(金) 22:24:06.86
>>633の続き
19日の夜間に百道原または姪浜に上陸し、20日の午前8時ごろまでの間に
祖原山に陣地構築したのが、金方慶が率いる高麗軍中軍であると考えること
によって、高麗史金方慶伝に現れるクドゥンの行動を説明できる。

すなわち、クドゥンを含む蒙漢軍等の主力は高麗軍に遅れて20日の朝以降に
百道原に上陸開始したと考えるが、上陸した総司令官のくクドゥンは、まず
第一にこのあたり随一の制高点である祖原山におもむいて、そこから戦況を
観察したであろう。

祖原山はあらかじめこれを占領して陣地構築しておくように、金方慶に命じて
あったのである。そして金方慶はみごとに使命を果たし、祖原山を占領して
主力の上陸までこれを保持した。

祖原山に登ったクドゥンは眼下に広がる光景を見た。それは「倭軍大敗、伏屍如麻」
の光景であった。これを見たクドゥンは「蒙軍戦に習うと雖も何を以てか此に加えん」
と言って、金方慶の高麗軍中軍の功績を称えたのである。

逆に言えば、蒙古襲来絵詞に描写される、祖原山、赤坂を占領して菊池、竹崎、白石等の
相手となった「凶徒」は、高麗史金方慶伝の記述から言って、金方慶ひきいる高麗軍
中軍以外ではあり得ないのである。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/26(日) 13:22:53.39
>>635
>20日夜というのは20日の午後8時ごろから午後12時まで、間を取って午後10時ごろとしよう。

ここからおかしい。
【夜】の定義はどの辞書でも日没から日の出までの間。
モンゴル軍は夜間、悪天候、兵の疲労と悪条件の重なった中で上陸部隊の撤収作業を行ってるんだから
出発まで何時間かかっても不思議はない。

>「松浦党」と名前が挙がっていても、松浦党全員が博多に馳参したことにはならない。
>戦場が博多だけではなかったことを考慮したのだろうね。

九州で戦場になったのは博多だけだよ。
同時代性の高い史料で対馬、壱岐、博多以外の場所が戦場になったなんて書いてるモノは皆無。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/26(日) 13:25:53.78
>>636
八幡大菩薩愚童訓筑紫本には現地史料としての重みがある。
文永の役における10月20日のスケジュールは、モンゴル軍上陸 → 松浦党多く討たれる
→ 原田・日田・相屋敗退 → モンゴル軍赤坂進軍 → 菊池が赤坂でモンゴル軍撃破
→ 少弐景資祖原山攻撃 → 日没だろ。
午前8時頃に戦闘が始まってモンゴル軍が赤坂に布陣したのなんて午後になってからじゃん。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/26(日) 14:00:59.47
やって来たモンゴルの中身は高麗帰化人
やって来た半島の中身は高麗人

よって全部高麗人
0641日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/26(日) 14:00:59.64
やって来たモンゴルの中身は高麗帰化人
やって来た半島の中身は高麗人

よって全部高麗人
0642日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/27(月) 00:08:09.96
>>637
軍事的には考えにくいなあ
まず、高麗軍が上陸できるなら蒙漢軍も上陸できる
次に、高麗軍だけ上陸して突出した場合、有力な日本軍により高麗軍が危機に陥っても
蒙漢軍はすぐに救出に向かえない
元軍は日本軍の兵力が分からないから、これは怖いな
高麗軍が先行したとしても、蒙漢軍は後続するだろうな。
つまり、蒙漢軍は夜に一緒に上陸した可能性が高い。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 11:31:40.05
>>642
先遣隊が心配だから本隊も上陸するというのでは先遣隊の意味がない。
先遣隊と言うのは本隊の安全を図るために全滅覚悟で出すのだ。
そのためには高麗軍という植民地軍はまさに適役。

まあ、高麗王国軍だけではなく、元軍高麗人部隊である洪茶丘軍や、
蒙漢軍の一部も先遣隊に加わった可能性は否定しないよ。
しかし主力の上陸は翌20日の日中と考える。

そう考える理由の一つは竹崎が見た元軍の少なさだ。
赤坂には200騎の菊池勢に追われるような兵力しかいなかったし、
祖原山の元軍も100騎の白石勢に対向できる邀撃部隊を出さなかった。
その他には赤坂から見えたはずの百道原に元軍がいた様子がない。

戦闘が始まった朝8時ごろにはまだ主力は上陸していなかったのだ。
その後百道原に主力が上陸し、後方(西方)に上陸した先遣隊も追及して
「蒙古ますます強く」の戦況になったのだ。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 20:05:41.30
>>643
元軍が赤坂で菊池勢に追われたのは、「蒙古ますます強く」の戦況になった後なんだが・・・

蒙古ハ次第ニツヨリ、勝ニ乗テ責来リ、 ← 「蒙古ますます強く」の戦況
赤坂ノ松原ノ中ニ陣ヲ取テソ居タリケル、
軍安ク思ニ相違テ面ヲ向クベキ様モ無、
味方引キ退テ寄合スル者無リケリ、
爰ニ菊池次郎思切テ百騎斗ヲ二手ニ分ケ、 ← 赤坂で菊池勢に追われる
押寄テ散々懸ケ散シ、上ニ成リ下二成リ、取リ重ネテ勝負ヲス、
家子郎等多ク討レシニ、菊池次郎計ハ打漏サレテ、
死人ノ中ヨリ起上リ、頸共余多取リ、以テ城之内ニソ入ニケル
0645日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 20:09:56.06
元に帰化した元に住む高麗人と朝鮮半島に住む高麗人と
南宋がちょっと
これで全部、これが元寇
0646日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 21:29:45.34
>>644
私は蒙古襲来絵詞を信用しているだけだよ。
竹崎が描写する戦況では蒙古は次第に強くもないし、勝ちに乗って攻めてもいない。

菊池に追われて鳥飼潟を逃げる姿を竹崎が視認しているし、
その竹崎はなんの抵抗にも会わず自由に塩屋の松まで行けた。
祖原山を下りてきた元軍部隊は白石の百騎を見ただけで祖原山に逃げ帰った。
専守防衛の姿勢だ。

要するに竹崎が戦った時点では、戦場はすかすかだっのだ。

だから、八幡大菩薩愚童訓筑紫本を信用するとしても、>>644のような戦況は
蒙古襲来絵詞が述べる状況とは「異なる時点」の状況だと考えるしかない。

第一、>>644のような戦況において菊池の後に竹崎が戦ったのなら、
なんでそれが「先駆け」なのか。
竹崎の「先駆け」は少弐景資もいったんは認めて、戦功記録に載せたのだよ。
ただ先駆けが恩賞の対象ではないと知って鎌倉に上申しなかっただけだ。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 21:30:36.42
>>643
蒙漢軍も上陸して、それから先遣隊を繰り出したというだけの話。
だらだらと書くほどのことではない。
0648日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 21:34:26.87
>>646
訂正:
菊池に追われて→菊池に赤坂を追われて
0649日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 21:47:59.26
>>643
高麗軍って8千ぐらいなんだろ?
3万のうち8千といえば1/4ぐらい。
1/4が全滅してもいいとはならんだろ。

他に手が無ければともかく、先遣隊が夜上陸して危険が無ければ、続けて本隊も上陸すれば良い。
8千の兵力では危険であっても3万の兵力なら危険でないことは考えられる。
(3万で危なければ、撤退するしかない=史実の展開)

元軍が博多湾に上陸して日本軍と野戦をするつもりなら、高麗軍だけで前進してわざわざ夜明けに
本隊上陸なんて無意味な危険を冒す必要が無い。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 21:53:32.63
それと他の人もレスしてるけど、夜8時くらいから高麗軍上陸で夜戦しながら夜間行軍して翌朝から日没まで終日戦闘。高麗軍は超人部隊かよ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 22:12:24.07
属国の兵だからこき使われるんだろう
0652日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 22:16:41.65
>>623
>金剛集に書いてあるのはモンゴル軍が博多湾から出た時間じゃん。
>「遂引兵還」は20日の夜しかないわけだ。

ここから食い違っているな。君は「還」を縮小解釈して、あたかも「今津を出発した」
意味しかないように言っているが、「還」はあくまで「還」であってそれ以外ではない。
つまり博多湾を出発して合浦に着くまでの道中が全て「還」だ。

一方、「会」は最近君が言っている「ちょうどその時」が正しいと思う。
「ちょうどその夜」ではない。どうも「会」には当夜、今夜、昨夜の当、今、昨のように
体言を修飾したり限定したりする働きはないようだ。

あくまで「たまたま」「ちょうどその時」という副詞的な働きしかない。
「たまたま」も「ちょうどその時」も同じ意味で、何かの動作をしている時に別の事象が
起こる様を表わす副詞だ。だから文章中では先行するなにかの動作や状況がある。

金方慶伝の文章ではその動作が「還」なのだ。
「還る」という動作をしている「ちょうどその時」に、あるいは「たまたま」大風雨が
起こった。「夜」はここでは独立した副詞で、大風雨が夜だったことしか表わしてない。

だから大風雨は帰途のどこかで起こったとしか言いようがない。
たまたま、壱岐の難破船の状況などから、出発後一日目ないし二日目の夜と推定できる
だけだ。だから私の言っていた「出発したちょうどその夜」も取り消す。

ただし、あくまで湾内ではない。それは金綱集が志賀島の座礁船ただ一隻のことしか
言っていないことから明らかである。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 22:31:16.80
>>646
蒙古襲来絵詞を信用してないじゃん。
蒙古襲来絵詞は菊池に蹴散らされて逃げる蒙古の一方を「大勢」だったと書いてるし、
祖原山に布陣する蒙古軍も「乱鐘暇なくしてひしめきあふ」だったと書いてる。
全然「すかすか」じゃない。

あと、竹崎は実際に少弐景資よりも「先駆け」て合戦してるんだから、少弐景資が
認めるのは当然だろ。
0655日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/30(木) 23:54:06.38
>>652
三郎浦に上陸した蒙古が「還」だから場所は三郎浦しかないだろ。
そもそも「たまたま」「ちょうどその時」が「帰途のどこか」とか支離滅裂。

>ただし、あくまで湾内ではない。それは金綱集が志賀島の座礁船ただ一隻のことしか
言っていないことから明らかである。

残念、金綱集は博多湾内の座礁船を100余艘だったと書いてる。
蒙古が遭難したのは博多湾内で確定だね。

「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、
或切頸、或生取、破損之船百余艘在々処々被打寄」
0656日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 09:00:54.21
>>653
難しいところがあるが完全無欠の史料はないとして
どの史料も批判的視点をみながら分析する必要がある
この史料は全部間違い この史料は全部正しいはありえない

「大勢」を破ったほうが武勲になるし
そもそも「大勢」の表現があいまいだな 兵100人でも大勢といえば大勢になる場合もある
0657日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 09:09:52.30
>>649
規模は不明だが第一次川中島の戦いで
武田軍の先鋒が越後軍に敗れているが武田主力軍はそのままだったこともあった
0658日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 09:30:41.56
>>650
>夜8時くらいから高麗軍上陸で夜戦しながら夜間行軍して翌朝から日没まで終日戦闘。
>高麗軍は超人部隊かよ。

日中に上陸したのなら同じことを短い時間でやるのだから、その方が超人だ。
夜間上陸する意味はそこにもある。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 09:49:27.90
日中に上陸するなら夜間行軍も夜戦もしなくていいのだから同じことをするわけではないわけだが。

終日の戦闘に行軍を含めたら解決だ。
敵地に暗闇の中上陸し暗闇の中夜間行軍するのは、超人しか出来ない技だな。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 09:53:43.41
>>653
>蒙古襲来絵詞は菊池に蹴散らされて逃げる蒙古の一方を「大勢」だったと書いてるし、

一語だけ取り上げて印象操作してはいけない。もう一方は「小勢」と書いている。
これは二手に分かれて逃げる敵の多い方、少ない方と言う相対表現に過ぎない。
全数はあくまで二百騎に追い落とされる程度だ。

>祖原山に布陣する蒙古軍も「乱鐘暇なくしてひしめきあふ」だったと書いてる。
>全然「すかすか」じゃない。

絵にもある通り、狭い山頂に密集していることが「ひしめきあふ」だ。
その祖原山の麓まで、竹崎も白石も抵抗に会わずに自由に行けた。
鳥飼潟は「すかすか」だったのだ。

>あと、竹崎は実際に少弐景資よりも「先駆け」て合戦してるんだから、少弐景資が
>認めるのは当然だろ。

驚いたな。
「先駆け」というのは全軍でただ一人しかいない名誉なのだよ。
菊池が幾多の武士が戦ったあとの「午後になってから」赤坂を攻め、その後に竹崎が
戦ったのなら、なんで竹崎が「先駆け」なのか。

蒙古襲来絵詞と筑紫本と、両方とも信じるなら、菊池は赤坂で朝と午後の二回戦ったと
考えるしかないのだ。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 10:00:53.69
>>660
竹崎の先駆けに関しては、戦いが一区切りして収まった後の「再戦」で、
竹崎が先駆けたんじゃないか

本当に最初に日本軍が蒙古軍相手に戦ったのは、そもそも対馬の武士だろうから
0662日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 10:05:29.98
>>655
>三郎浦に上陸した蒙古が「還」だから場所は三郎浦しかないだろ。

それじゃちっとも「還」していないではないか。

>残念、金綱集は博多湾内の座礁船を100余艘だったと書いてる。

「博多湾内」などと余計な言葉を加えてはいけない。
百余艘が打ち寄せたのは「在々処々」だ。

だいたい、志賀島の一艘を例外として「悉く」退散したと言っておきながら
その他に百余艘も湾内にいたのでは、ちっとも「悉く」でない。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 10:10:49.57
第二次世界大戦中も
米軍の日系人部隊が、
ドイツ軍に包囲されて「救出不可能」とされたテキサス部隊の救出をしたり、
大変な仕事をさせられた

その一方でイタリア首都ローマへ一番に進軍できるはずが、
いきなり他の戦線へ回され、美味しい(栄えある)ローマ解放は後続の白人部隊がやった

蒙古襲来に当てはめるなら属国の高麗兵には大変な仕事をさせて、
博多・大宰府制圧という美味しい所は蒙古兵がやる予定だったんじゃないか
0664日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 11:04:49.13
祖原は「陣」で鳥飼潟はただの「通り道」なのだから、鳥飼潟がすかすかなのは当たり前の話。
鳥飼潟から祖原に逃げる蒙古兵しかいなかったのと上陸地点の目と鼻の先の祖原に「ひしめき合う」のは全く別の話。
鳥飼潟がすかすかだったから沿岸部もすかすかとはならない。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 11:06:49.07
元軍本隊は祖原にいて先遣隊が赤坂で破れたので本隊と合流したということ。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 11:34:53.81
>>660
>驚いたな。
「先駆け」というのは全軍でただ一人しかいない名誉なのだよ。

そんなルールはないぞ。
現実に竹崎は菊池の後に戦ってるのに「先駆け」を主張してるじゃん。

>蒙古襲来絵詞と筑紫本と、両方とも信じるなら、菊池は赤坂で朝と午後の二回戦ったと
考えるしかないのだ。

滅茶苦茶なこと言うな
蒙古襲来絵詞と筑紫本と、両方とも信じるなら、菊池が蒙古を蹴散らした赤坂の戦いは一度だけ。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 11:50:07.48
>>662
は?
三郎浦からの撤退は「還」そのものじゃん。

>「博多湾内」などと余計な言葉を加えてはいけない。
>百余艘が打ち寄せたのは「在々処々」だ。

蒙古の艦隊は同廿一日卯尅まで博多湾内にいたんだから、同廿一日卯尅時点で
座礁船が打ち上げられてる場所は博多湾内しかないじゃん。

あと、百余艘は破損した船だぞ。
悉退散した蒙古が破損した船を捨てていったのは当たり前だろ。
0668日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 21:53:13.28
>>659
>敵地に暗闇の中上陸し暗闇の中夜間行軍するのは、超人しか出来ない技だな。

日本軍がマレー半島のコタバルに敵前上陸したのは1941年12月8日の午前1時過ぎ
だったがな。

まあそれは別として、元軍は夜間水際撤退しているのだから夜間上陸だってできる。
夜間撤退は夜間上陸より大変だ。
上陸は母船からバートルに乗り移って、前方の海岸に上がればそれでよいが、
撤退だとバートルに乗っても、暗闇の舟混みの海上で母船を探さなければならない。
どうやってやったのか想像もつかない。訓練の成果だと考えるしかない。

ということで、君の基準を当てはめれば元軍はオール超人だった。
なにも高麗軍に限ったことではない。

あと、夜間行軍が可能なことはついこの間、大和君という子供が立証してくれたな。
まあそれは別として、地理不案内ということなら昼だって同じだ。
私は協力者がいたと思うよ。この辺は港々に中国人居留地があった。
そこに協力者を潜り込ませておくのは造作もないことだ。

その中国人たちは戦後、そのような目で見られたから肩身が狭くて「在日化」した
ので、中国人居留地は消えて行った。
0669日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/31(金) 23:07:09.12
夜間上陸して日本軍の目を掻い潜って、赤坂まで数キロも暗闇の中で行軍なんてことは地理感があるとか道案内などという次元の話ではなく人間の目では不可能だと言っているのだ。

夜間行軍と夜戦をするとなれば松明など明かりもいるが、それをすれば日本軍に存在がバレて夜間にこだわる意味などない。

つまり高麗兵が人間である以上、夜間にこだわる理由などない。
そういう意味の超人だと言っているのだ。
況してや、先遣隊だけで敵地の主力軍に近くの赤坂まで接近する意味など尚更無いことは言うまでも無い。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 03:34:38.06
>>668
やったと言っても100余艘の船を破損させながら無理やりやっただけじゃん。
夜明けまで陸地に留まれば確実に日本軍によって全滅させられるから
退却しか選択肢がないって理由でね。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 10:20:36.13
>>664
祖原は「陣」で鳥飼潟はただの「通り道」なのだから、鳥飼潟がすかすかなのは当たり前の話

その通り。竹崎、白石が戦った時、元軍は祖原山の「陣」にひしめき、「通り道」の鳥飼潟は
すかすかだった。しかしそれは「当り前」ではない。

福田兼重が戦った段階では、福田は鳥飼塩浜で会敵し、逃げる敵を追って百道浜に至って
大勢の敵に囲まれ、辛うじて脱出した。
すなわち、この段階では「通り道」の鳥飼潟にも百道原にも敵はいた。
「通り道」がすかすかなのは「当り前」ではないのだ。

恐らくこの後、元軍はさらに鳥飼潟に充満し、前線を作って東へひた押ししたのだろう。
そして菊池に追われた赤坂の陣地を奪還した。

このような戦闘経過だったと考える。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 10:44:43.68
>>667
>は? 三郎浦からの撤退は「還」そのものじゃん。

その後の、壱岐対馬を経て合浦にいたる航海は「還」ではないと言いたいのか?

>蒙古の艦隊は同廿一日卯尅まで博多湾内にいたんだから、同廿一日卯尅時点で
>座礁船が打ち上げられてる場所は博多湾内しかないじゃん。

それは「廿一日卯の刻」が「破損之船・・在々処々被打寄」までかかっていると
いう前提に基づいているが、その前の志賀島座礁船の乗員の「或切頸、或生取」
の話で、すでに時間が経過している。
日本軍の志賀島への移動、座礁船乗員との交渉と収容、捕虜の選別と処分が全て
終わったのは恐らく正午ごろだろう。

その後に来る新しい話題である破損船打ち寄せの時間がまた卯の刻に巻き戻る
という保証はない。文章の順序から言って、少なくとも卯の刻よりは後だろう。
したがって破損船打ち寄せは自動的に湾外の話になる。
元の船団は卯の刻までに悉く博多湾を退散したのだからね。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 10:45:25.69
鳥飼塩浜で会敵なら福田も竹崎白石も一緒じゃん。
その上で福田はより敵陣奥深くの百道原まで到達してるんだから明らかに
日本軍がより優勢になってる。
0674日本@名無史さん
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2017/04/01(土) 10:54:47.57
>>666
>そんなルールはないぞ。
>現実に竹崎は菊池の後に戦ってるのに「先駆け」を主張してるじゃん。

ルールがあるからこそ、菊池がなぜ先駆けでないかが研究者たちの論議になるのだ。
一つの答えは菊池が少弐景資の指揮系統に属していなかったか、あるいはそれに
違反して戦ったからだ、というものだな。

その証拠に菊池は先駆けばかりでなく、竹崎が確認している分捕り(首取り)に
対しても、なんらの恩賞をもらっていない。

>蒙古襲来絵詞と筑紫本と、両方とも信じるなら、菊池が蒙古を蹴散らした赤坂の戦いは一度だけ。

菊池はなぜ二回戦ってはいけないのか?
御家人の戦闘は一日に一回だけと言うルールでもあったのか?
0675日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 11:04:11.96
>>673
>鳥飼塩浜で会敵なら福田も竹崎白石も一緒じゃん。

同じではない。白石の敵は祖原山から下りて来て祖原山に逃げたが、
福田の敵は百道原の味方をあてにして、あるいはそれへ誘導して、百道原へ逃げた。

戦い方が陣地戦から野戦に変化している。
そのぶん、元軍の兵力が増えたことを示している。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 13:08:16.79
>>671
蒙古襲来絵詞を読んでから戦況云々を語ったらどうだ?

蒙古襲来絵詞には「けうとすそハらより、とりかいかたのしほやのまつのもとにむけあハせてかせんす。」とある。
つまり、竹崎が鳥飼近くまで追撃している時には「鳥飼に元軍充満」どころか、鳥飼潟にはまともに竹崎らと応戦する蒙古兵はおらず元軍は祖原から軍勢を繰り出さなければならなかったということだ。

あと、百道原に「元軍が充満」しているのは当たり前の話だよ。
百道原は上陸地点かつ祖原とを結ぶ元軍の生命線なのだから。鳥飼潟がすかすかだったのと百道原が充満していたのとは何ら関係が無い。

赤坂で破れた元軍は、祖原山本軍に向かって敗走し日本軍は追撃した。それを救うため祖原元軍本軍がそれを救うため鳥飼潟に進出するも武士団に撃退され、百道原まで後退し、武士団が百道原まで追撃。

このような戦闘経過だったと考える。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/01(土) 21:45:40.82
>>676
私の言いたいことは>>675に集約されている。

竹崎、白石が戦った段階では、元軍は祖原山に前進陣地を築いてこれを守り通す、
陣地防衛戦をやっていた。守っていたのは恐らく先遣隊だ。

その後、福田が戦った段階ではそれが「野戦」に変化していた。
野戦は陣地防衛線よりも兵力がものを言う。
福田の戦った段階で元軍が野戦をやったということは、それ自体、鳥飼潟周辺に
おける元軍の兵力が増強されたことを示している。
恐らくこの段階で蒙漢軍など元軍主力が戦線に加わりはじめた。

その後のことは記録が無い。しかし壱岐軍議くんご推奨の「筑紫本」など見れば、
元軍の兵力はさらに増強されて、鳥飼潟を横断する戦線を形成しての「ローラー作戦」
に至ったであろうことが推定される。

そしてその結末として赤坂が元軍に奪還され、このあたりで自然休戦となり、日本軍は
水城方向へ撤収した。
その後の元軍の撤収作戦は百道原海岸からだったろうと今では思っている。
そうだとすれば、元軍は短いながら鳥飼潟〜百道原海岸の「夜間行軍」も行った。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/02(日) 10:54:31.60
>>669
>夜間上陸して日本軍の目を掻い潜って、赤坂まで数キロも暗闇の中で行軍なんてことは地理感があるとか
>道案内などという次元の話ではなく人間の目では不可能だと言っているのだ。

あくまで夜怖い!夜見えない!見えたら超人!という話になってしまったが、夜はけっこう歩ける
ものだよ。私は小学生の時田舎だったが、深夜に一人で山深い田舎道を、親戚の家まで一里(4km)
歩いたこともある。だから大和君の話も想像できる。

晴れていて月が出ていれば全く問題はない。目がなれればほとんど昼と同じだ。むしろ行動秘匿
できなくて困るぐらいだろう。
月が出てなくても、晴れてさえいれば星明かりというものがある。昔は空気がきれいだったから、
星明かりでも道は結構見えたのだ。

昔のことを議論するのに現代人の感覚をあてはめてはいけない。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/02(日) 22:16:45.60
>>638
>20日夜というのは20日の午後8時ごろから午後12時まで>>635

>ここからおかしい。
>【夜】の定義はどの辞書でも日没から日の出までの間。

なるほど。21日未明(21日の午前零時から日の出まで)は20日夜であって
21日夜ではない、という意味だな。

それを敷衍すれば21日と言えば、それは21日の日の出から22日の日の出まで
を意味する、ということになる。

すると金綱集が述べる、廿一日に住吉神社から西に向かって飛んだ鏑矢は、
君が言う湾内の遭難に対応していないということになる。

この話を収録した金綱集の著者(あるいはその元の口述者)は、湾外の遭難
を意識していたのだな。

実は鏑矢の話は他の神社(忘れたけど)にもあって、それは廿日に飛んだ
ことになっている。
恐らく廿日の鏑矢は合戦の日の夜の神軍による撃退に対応し、
廿一日の鏑矢は元軍退散の後の湾外遭難に対応しているのだろう。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 10:56:11.92
>>677
>そしてその結末として赤坂が元軍に奪還され、このあたりで自然休戦となり、日本軍は
水城方向へ撤収した。

「筑紫本」にはそんなこと書いてないぞ。
日暮れ頃になると戦場から遠く離れた博多筥崎にいた武士たちが水城に退く。
一方その頃戦場となっていた百道原方面では少弐景資が蒙古の大将「流将公」の部隊を撃破。

そしてその結末として赤坂などは日本軍が征圧し、このあたりで自然休戦となり、 蒙古は
海上の母船へ撤収した。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 20:22:27.51
元軍に赤坂まで押し返す力があったら、軍議で小敵の堅、大敵の擒みたいな言葉は出ない。
このことから、20日の戦闘は元軍にとって芳しい結果ではなかったと推測される。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/05(水) 21:08:34.20
>>680
>そしてその結末として赤坂などは日本軍が征圧し、このあたりで自然休戦となり

筑紫本より:
「蒙古ハ次第ニツヨリ、勝ニ乗テ責来リ、赤坂ノ松原ノ中ニ陣ヲ取テソ居タリケル」
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、今津早良
百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

明らかに元軍は終盤戦において赤坂を占領している。

>日暮れ頃になると戦場から遠く離れた博多筥崎にいた武士たちが水城に退く。

水城に引き退いた武士たちは博多箱崎に限られた、と筑紫本に書いてある場所を
ぜひ教えてくれ。
0683日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/07(金) 05:01:01.79
>>682
「蒙古ハ次第ニツヨリ、勝ニ乗テ責来リ、赤坂ノ松原ノ中ニ陣ヲ取テソ居タリケル」

なら陣を構えてるんだから確かに赤坂を占領してる。
でもその後に菊池に蹴散らされてからは、ただ乱入しただけで占領できてないじゃん。
で、最終的には劉復亨が少弐景資に討たれたんだから日本軍が制圧して終わったってこと。

>水城に引き退いた武士たちは博多箱崎に限られた、と筑紫本に書いてある場所を
ぜひ教えてくれ。

「是ヲ聞テ我先ニト落シカハ、独モ留ル者無リケリ、

爰ニ三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、
蒙古大将軍ト思シキカ、長七尺計ノ大男、髮腮ノ邊マテ・・・」

博多筥崎から一人も武士がいなくなった後に、ちゃんと少弐景資は残って戦ってるんだから
水城に退いた武士たちと、百道原戦線で戦ってた武士たちは無関係。
三首之歌で逃げたと非難されてるのも、大友氏は親子だけど少弐氏は覚恵だけだしね。
0684日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/07(金) 20:12:23.08
とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
たとえ暇つぶしででも、
もし興味ある方は読まれて下さい。

『救済的真理の伝達・証明』
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm


  
0685日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/08(土) 08:41:47.13
>>677
>陣地防衛戦をやっていた。守っていたのは恐らく先遣隊だ。

君の妄想など訊いていない上に史料に基づかない妄想など興味もない。
『蒙古襲来絵詞』を読めば、鳥飼潟での戦闘は元軍による鳥飼潟への軍勢の出撃であり
「変化した」も何も元から立派な「野戦」である。
また、この祖原の軍勢が「先遣隊」だったなど一言も書かれていない。
史料から確認できることは「けうとハすそはらにちんをとりて、いろゝゝのはたをたて
ならへて、らんしやうひまなくして、ひしめきあふ。」である。
また、福田が百道原に追撃に出た際にも百道の元軍の様子は「大勢」とある。
上陸地点の百道から祖原にかけて元軍は充満していたことが推測できる。
上陸地点の目と鼻の先まで日本軍が進出している時点で主力軍が上陸していない等というのは
あまりにも呑気すぎる。
上陸地点まで日本軍に進出もしくは奪取されれば、元軍に不利な上陸戦を展開せねばならない。
先遣隊と主力軍に分けて呑気に上陸する意味など全くないことがわかる。

百道原まで日本軍が追撃したこと、『安国論私抄』にて百道から蒙漢軍が上陸した記載があること、
少弐系図でも「百道」にて劉復亨と思しき蒙古軍大将を射倒したことが記載されいること、
日田永基の『日田記』にも「姪ノ浜、百路原両処二於テ、一日二度ノ合戦二討勝テ、異賊ヲ斬ル事夥シ」
とあることからして、百道原での戦闘が文永の役でも最大の戦闘だったと考える。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/08(土) 08:42:47.56
>>678
>あくまで夜怖い!夜見えない!見えたら超人!という話になってしまったが

なってしまったも何も元からそういうことを言っているのだ。

>晴れていて月が出ていれば全く問題はない。目がなれればほとんど昼と同じだ。むしろ行動秘匿
できなくて困るぐらいだろう。

つまり、昼と同じならば日本軍から見ても丸見えであり、ますます夜間上陸し夜間行軍する意味等無いな。
夜間行軍の無意味さを長々と説明してくれてありがとう。

ましてや先遣隊の少数部隊だけで日本軍主力近くに接近する意味など益々無意味だ。
さらに君は竹崎らが百道原まで近づいた時点でもなお主力軍は上陸していなかったとする。
自分の都合の良い戦況に合わせて元軍を「主力軍」と「先遣隊」に分けるからその場凌ぎの反論になり
無理が出るのだ。
昔の元寇研究では、博多から上陸したのが蒙漢軍で早良郡から上陸したのが高麗軍であるという
強引な解釈が平然となされていたが、君の理屈も全く同じだ。
0687日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/08(土) 11:01:36.80
>>683
>「蒙古ハ次第ニツヨリ、勝ニ乗テ責来リ、赤坂ノ松原ノ中ニ陣ヲ取テソ居タリケル」
>なら陣を構えてるんだから確かに赤坂を占領してる。

その後菊池が戦って、部下はほとんどやられて菊池だけが首を下げて「城之内」に
入ったとある。つまり菊池は大損害を受けながら首を取って味方の陣地に戻っただけ
で、別に赤坂を占領してはいない。

それと、竹崎が見た菊池勢は100騎ではなく200騎で、しかも大損害を受けた様子も
なく「涼しげ」だった。絵詞と筑紫本の両方を信じるなら、両書の赤坂戦は菊池が
戦った別の戦闘だったということになる。

>ただ乱入しただけで占領できてないじゃん。

地名が前出と重なっていることから見て、改めて元軍の進出地域をまとめただけ。
その後の民家略奪の話にも「乱入」を使っている。支配しなければ略奪もできない。

>博多筥崎から一人も武士がいなくなった後に、ちゃんと少弐景資は残って戦ってる

小弐が残っていたということは、もちろん直属の数百名も残っていたということだな?
しかもその勢が元軍を撃退したと?

それだと、「武士が一人でも残っていたのなら武士が元軍を撃退したと主張することも
できようが、一人も残っていなかったのだから、元軍の撤退は神軍のおかげに間違い
ない」
という、八幡大菩薩愚童訓筑紫本の主張に反するではないか。
君は筑紫本を信じているのではなかったのか?
0688日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/10(月) 21:53:39.47
>>686
>昼と同じならば日本軍から見ても丸見えであり、ますます夜間上陸し夜間行軍する意味等無いな。

無意味とは思わなかった軍人もいる。
日露戦史に有名な弓張嶺の師団夜襲は満月の夜に行われた。銃剣が月光を反射しないように
兵士たちは高粱の葉を銃剣に巻いたという話がある。行動秘匿のための工夫をしてでも、満月の
夜の夜襲にはメリットがあったのだ。

>ましてや先遣隊の少数部隊だけで日本軍主力近くに接近する意味など益々無意味だ。
>さらに君は竹崎らが百道原まで近づいた時点でもなお主力軍は上陸していなかったとする。

竹崎が戦った時点で百道原に敵がいなかった証拠は蒙古襲来絵詞じしんにある。
それは竹崎が百道原へ行かなかった、ということだ。
竹崎の目的はとにかく先駆けの戦闘をすること、そしてその証拠となる首をとる
ことだ。それに必要なのはまず「敵兵」だ。

もともと祖原山などを取ることに興味はないし、5騎では手に負えない。
目の前の、手ごろな小勢の敵兵に逃げられたから仕方なく祖原山に向かったのだ。
その時点で百道原に敵兵がいれば当然そっちへ向かったはずだ。
向かわなかったということが、この時点で百道原にまだ元軍がいなかった証拠である。
0689日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/16(日) 21:16:11.50
竹崎、白石が戦った時点で祖原山を除いて鳥飼潟周辺がすかすかであったということから、
日田の姪浜戦闘を説明される。
日田は竹崎、白石に少し遅れて、まだ鳥飼潟周辺がすかすかであった時期に、彼の第一回の
戦闘を行ったのである。

彼は恐らく白石勢並みかそれ以上の有力な勢を率いて戦った。祖原山の元軍は100騎の白石勢に
手を出さなかったように、日田勢に手を出さなかった。かと言って祖原山の陣地を攻めるのは
荷が重い。そこで日田は祖原山を素通りして姪浜方面に敵を求めたのである。なぜなら百道原に
はまだ敵がいなかったから。

当時、百道原〜姪浜は今津〜博多街道のメインルートであった。だから姪浜湾(仮称)の湾口
には橋か、浅瀬か、なんらかの渡渉手段があったのである。日田勢はそれを渡って姪浜に行き、
そこにいた元軍先遣隊の別の支隊を襲ったのである。そして戦果を挙げて息の浜に戻った。

その後、元軍主力が百道原に上陸して鳥飼潟の情勢が変わった後、日田は第二回の戦闘を行い、
この時は福田と同様に百道原まで行って戦って、再び戦果を挙げて日本軍陣地に戻った。
このように考えれば、日田の記録でなぜ姪浜が百道原より先になっているかが説明されるので
ある。
0690日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/17(月) 10:29:43.17
お気づきかもしれないが、>>689で私はこれまで私が書いたすじがきを修正している。
数か所に分かれて夜間上陸した先遣隊のうち、祖原山に陣地を構えた支隊を除く
各支隊は夜間行軍して前線に参加することをせず、上陸地に留まった。

その目的は翌20日に予定される百道原への主力部隊の上陸に備えて、西部海岸地帯を
防備することである。恐らく、松浦党などの日本軍が西部海岸に現れて、上陸中の
主力部隊を横撃することを恐れたのであろう。

こうして西部海岸の各地点を防備した支隊は、百道原への主力部隊の上陸が成功した
時点で、はじめて東方へ移動して戦線に加わった。

このような筋書きの一つの利点は、20日の朝において祖原山、赤坂(その後撤退)を
除いて鳥飼潟周辺ががらがらであった状況に合致することである。
もうひとつの利点は、日田の姪浜戦闘を説明できることである。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/17(月) 10:55:53.37
上記の筋書きの第三の利点は、高麗史金方慶伝の「諸軍与戦」に合致することである。
ご承知のように「諸軍与戦」はクドゥンの訓示の後に来る。
従来私はクドゥンの訓示を自然休戦後の戦場視察であろうと考えていた。
だから「諸軍与戦」はフラッシュバックして高麗軍の各軍の戦闘に言及したのだろうと
考えていた。

しかし上記の筋書きならそのようなやや無理な読み方をせず、文章通りの時系列で読む
ことができる。
つまり、クドゥンは主力部隊の上陸後ただちに祖原山を訪れて金方慶に訓示したのであり、
高麗軍の各軍はその後に、西部海岸の防備任務を終えて前線に追及したのである。

「諸軍与戦」はこのような、主力軍上陸以降における高麗軍各軍の参戦を表したものである。
こう考えれば金方慶伝は実に素直に、時系列通りに書かれていることがわかるのである。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/21(金) 17:06:00.85
最近亡くなった仮想戦記作家(でウォーゲーマー)の佐藤大輔氏
の元寇についてのちょっとした考察があるけど、文永の役の時点で
幕府軍は神風に頼らず自力で勝利したって書いてあるね。
(主砲発射準備よし!って論考集)
この考察が90年代前半だからネット前としては神風勝利原因否定論で
一番早いのかな。
現代戦風に日本側と蒙古・高麗軍の戦闘序列が英語で書いてあるのが面白かったけど。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2017/04/21(金) 22:10:20.98
>>689の続き
菊池、竹崎、白石などが戦った時点で百道原に元軍がいなかった理由は、「冬の嵐」を
参照すれば極めて簡単である。

「冬の嵐」によれば20日の満潮は午前零時と正午。だからその前後1~2時間が上陸作戦の
チャンスである。満潮時には大船が陸地に近寄れるからバートルの行程が短くて済む。

これを利用して先遣隊は前夜午後10時ごろに上陸を開始したのであり、主力は当日午前
10時ごろまでは上陸を開始しなかったのである。
だから戦闘が開始された20日午前8時ごろは、先遣隊のみが祖原山、赤坂山および西部海岸
各地にいて、主力はどこにもいなかった。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/04(木) 08:55:05.04
>>672
>その後の、壱岐対馬を経て合浦にいたる航海は「還」ではないと言いたいのか?

壱岐対馬を経て合浦にいたる航海は「遂引兵還」ではない。
「遂引兵還」と「ちょうどその夜」と言えるのはは10月20日の夜だけしかない。

>その後に来る新しい話題である破損船打ち寄せの時間がまた卯の刻に巻き戻る
という保証はない。文章の順序から言って、少なくとも卯の刻よりは後だろう。
したがって破損船打ち寄せは自動的に湾外の話になる。
元の船団は卯の刻までに悉く博多湾を退散したのだからね。

博多湾外の可能性は100パーセントない。
何故なら高麗史にモンゴル艦隊が岩に触れて破損したのは夜の出来事だったと明記してあるから。
モンゴルの艦隊が卯の刻まで博多湾内にいた以上、遭難の場所は博多湾内しかありえない。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/04(木) 09:08:57.35
>>674
>ルールがあるからこそ、菊池がなぜ先駆けでないかが研究者たちの論議になるのだ。

現実に菊池の戦闘の後でも竹崎が「先駆け」という言葉を使っている以上、「先駆け」に
ただ一人だけなどというルールはない。
ルールがあると主張するなら、それを裏付ける史料を出すべき。

そもそも竹崎は博多の陣を後にした時点で、「肥後国の先駆け」としか言ってない。
松浦党など肥後国以外の御家人が既にモンゴル軍と戦闘した後だったことは蒙古襲来絵詞で
裏付けられてるわけだ。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/04(木) 12:20:58.05
>>679
>すると金綱集が述べる、廿一日に住吉神社から西に向かって飛んだ鏑矢は、
君が言う湾内の遭難に対応していないということになる。

金綱集は廿一日にある人が見た夢の話として住吉神社から西に向かって飛んだ鏑矢を書いてる。
つまり廿日の夜に博多湾内で起こった海難に対応してるわけだ。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/04(木) 12:42:19.93
>>687
>その後の民家略奪の話にも「乱入」を使っている。支配しなければ略奪もできない。

略奪と支配は関係ないよ。
占領したことについて「陣を取り」と書いている以上、赤坂で菊池に撃退された後は
「乱入」までで占領できなかったのは明白。
そして最終的には劉復亨が少弐景資に討たれて合戦が終わったんだから、この方面の戦闘は
日本軍の征圧によって終わったってこと。

>それだと、「武士が一人でも残っていたのなら武士が元軍を撃退したと主張することも
できようが、一人も残っていなかったのだから、元軍の撤退は神軍のおかげに間違い
ない」
という、八幡大菩薩愚童訓筑紫本の主張に反するではないか。

八幡大菩薩愚童訓筑紫は少弐景資をはじめとする文永の役でモンゴル軍を撃退した武士が
岩戸合戦で一人残らず滅ぼされた後に書かれた史料だからね。
つまり残った武士たちは誰も八幡大菩薩愚童訓筑紫本の主張に正面から反論できないという
弱みに付け込んでるんだよ。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/05(金) 20:54:15.57
>>694
>「遂引兵還」と「ちょうどその夜」と言えるのはは10月20日の夜だけしかない。

漢字源は「会」の語法3として「「たまたま」と読み、「ちょうどそのとき」と訳する」
と言っている。つまり「たまたま」と「ちょうどそのとき」は同じ意味なのだ。
逆に「たまたま」を広辞苑で引けば「偶然、ちょうどその折」と出てくることからも
同じ意味であることがわかる。

要するに漢文の「会」という副詞は事件が起こった時点を限定するような働きはない。
したがって高麗史は大風雨の起こった夜を特定して述べてはいない。
だから高麗史から大風雨が「引兵還」のどこかで起こったとしか言えない。
まあ、安国論私抄の記述から壱岐の可能性は高いけどね。

>高麗史にモンゴル艦隊が岩に触れて破損したのは夜の出来事だったと明記してあるから

壱岐の南方海上は暗礁が多いことで有名だし、「烏帽子岩」という「厳崖」もある。
上述したように、「夜」は何日の夜でもよい。
0699日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/05(金) 20:54:47.78
>>695
>そもそも竹崎は博多の陣を後にした時点で、「肥後国の先駆け」としか言ってない。

「としか言っていない」というのはウソだ。「肥後の国の先駆け」と言ったのは博多の
陣を出発するとき、一門の人々、すなわち肥後の国の武士たちに対して言った言葉で
あって、それもその一回のみ。

その後、「肥後の国」がつかない只の先駆けは景資への事前申告で1回または2回、実戦の
記述で1回、鎌倉での口上で13回言っている。

その竹崎の先駆けを景資が認めて戦功記録の筆頭に乗せ、鎌倉幕府もまた結局は認めて
それに対して恩賞を与えた。

それでも竹崎の先駆けは無かったと言うのか?
0700日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/05(金) 20:55:25.15
>>696
>金綱集は廿一日にある人が見た夢の話として住吉神社から西に向かって飛んだ鏑矢を書いてる。
>つまり廿日の夜に博多湾内で起こった海難に対応してるわけだ。

原文を載せよう。
「同廿一日、住吉第三神殿ヨリ鏑聲シテ西ヲ指シテ行、有人夢見、北野天神御歌
神風仁蒙古賀和散波多々底之花久津登成曾宇礼志幾」

「有人夢見」は鏑矢と御歌と、どちらにかかるのか判然としないが、たとえ鏑矢にかかると
しても鏑矢が二十日に飛んだとはどこにも書いてない以上、ある人が夢を見たのも鏑矢が
飛んだのも、どちらも二十一日と解釈するしかない。

ちなみに北野神宮の御歌は、「花」を「茂」の誤記とすれば「かみかぜに、もうこが・・・
・・はただ、そこのもくずとなるぞうれしき」と読めるな。万葉仮名で。
0701日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/05(金) 20:56:25.26
>>697
>赤坂で菊池に撃退された後は 「乱入」までで占領できなかったのは明白。

原文「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、
今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」

蒙古の圧倒的優勢のなかで「乱入したが占領はしてない」とは、いったいどんな状況を
言うのか?

>八幡大菩薩愚童訓筑紫は少弐景資をはじめとする文永の役でモンゴル軍を撃退した武士が
>岩戸合戦で一人残らず滅ぼされた後に書かれた史料だからね。

なるほど、都合のいいところは利用するが都合の悪いところは信じない、というわけだな。
ちなみにここで「都合が悪いところ」とは「武士が一人も残っていなかった」というところ
だ。神様の話を除外するのはともかく、これは神様とは関係ない。
0702日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/06(土) 16:35:33.25
>>697
忘れていた。君の説は、一人残らず撤退したのは博多、箱崎の日本軍であって、
鳥飼潟の日本軍、ないし少弐景資の手勢は戦場に踏みとどまった、ばかりか夜戦を
行って元軍を撤退に追い込んだ、というのだったね。

ではその少弐景資の手勢がどんな存在か、原文で見よう。
「爰(ここ)ニ三郎左衛門尉景資彳(ひか)ヘタル処ニ、蒙古大将軍ト思シキカ、
長七尺計ノ大男、髮腮ノ邊マテ生ヒ下リタルカ葦毛ノ馬ニ乗十四五騎、カチ走七八十人
カ程具シテ、ヲメキ呼テ追懸タリ、其時旗之上ニ鳩翔舞ケレハ、誠八幡大菩薩ノ御影向
トソ憑敷(たのもしく)テ、究竟ノ兵共成シカハ、一鞭打テ馳延テ踏留テ、吉引テ放ツ
矢ニ、一番ニ懸ケル大男之真中射テ馬ヨリ下へ逆ニ落ニケル、郎等共是ヲカゝケテヒシ
メキケル、粉(まぎれ)ニ景資此方へ引返ル」

敵将の手勢は歩騎合計で最大95人だ。少弐景資の手勢はこれに対抗できず逃げたのだから、
人数はこれ以下だったと見られる。
そして運よく矢が敵将に当たった、その紛れに「此方へ引返」った。此方とは味方側、
すなわちこの場合は水城方向である。
少弐景資もまた水城方向に撤退したことを、八幡愚童訓筑紫本は述べている。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/09(火) 07:31:58.83
>>702
現文にはどこにも少弐景資の手勢が逃げたとか水城方向に撤退したとか書いてないぞ。
モンゴル軍に遭遇した少弐景資は敵に向かって馳せて行き、見事敵将を射落としてから、
相手の混乱に乗じて「此方」つまり景資の手勢のもとへ引き返して来たわけだろ。
赤子の手をひねるように易々とモンゴル軍を返り討ちにしてるんだが。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/09(火) 12:09:25.11
今時八幡愚童訓が元寇の参考史料になるとか思ってる人がまだいるんだな
0705日本@名無史さん
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2017/05/10(水) 13:10:26.68
>>698
書いてることが意味不明。
「遂引兵還」と「夜大風雨」が同日でなければ、「偶然」とも「ちょうどその折」とも
言えないじゃん。
「偶然、ちょうどその折」と同じ意味ってことは限定する意味だってことだろ。
「会」が事件が起こった時点を限定してるってことの補強にしかなってない。

「遂引兵還」と「夜大風雨」が同日に限定されてる以上、モンゴル軍の遭難は軍議で
日本撤退を決定した夜に限定される。
軍議が博多なら「戰艦觸岩多敗」も博多だし、「戰艦觸岩多敗」が壱岐なら軍議も壱岐だ。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/10(水) 13:32:08.28
>>699
何がウソなんだよ。
蒙古襲来絵詞には、博多の陣を後にした時点で「肥後国の先駆け」を目指してたって
ちゃんと書いてあるじゃん。
同じ肥後の菊池が竹崎より先に戦ったことを知った後に「肥後国」がつかなくなるのは
当たり前だろ。
「一門の中にて季長、肥後国の先を駆け候はん」と言ってたのが、菊池に会った後は
「肥後国」が付かなくなるんだから、単に「一門の中」の先駆けになったってこと。

蒙古襲来絵詞の詞書七によれば、竹崎季長の10月20日の行動はまず筥崎の港へ向かい、
その後で博多の陣へ移動したことになってる。
モンゴル軍が赤坂へ進出したのは竹崎が博多へ着いた後。
夜の間にモンゴル軍が赤坂へ進出してたなんて説は、蒙古襲来絵詞でも完全に否定されてる。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/10(水) 16:57:45.25
>>702
>モンゴル軍に遭遇した少弐景資は敵に向かって馳せて行き、

「馳延て」に敵に向かって馳せて行くという意味はない。
「のぶ(伸ぶ、延ぶ)」を古語辞典で引けば、延びる、遅れる、のんびりするに続く第4義
として「逃げる」と出ており、「三町ばかり走りのびて(宇治拾遺・二十七)」と例文まで
挙げてある。

例文のケースは徒歩の人が警備の侍たちの追及から逃げる描写だ。景資の場合は騎馬だから
「走りのびる」でなく「馳せのびる」になるのだ。
この意味の「のぶ」は現代語でも「逃げ延びる」の形で生きている。

景資はなぜ逃げたか。その理由は「究境の兵共なりしかば」と原文にある。究境は屈強と
同じで、「(敵は)強そうな兵士たちだったので」の意味。景資は敵を見てとても敵わない
と思って逃げたのだ。恐らく、まわりにはほんの供回りぐらいしかいなかったのだろう。

さらに言えば景資は「控えたる処に」となってはいるものの、はじめから撤退中である。
なぜなら蒙古大将軍が「をめき呼て追懸け」た、とあるからだ。北方中国語で「待てええ」
と叫びながら追いかけたのだね。

このような状況において景資は敵将を射落とすことによって辛うじて敵の追撃を食い止めた。
「日の大将」たるものが自らしんがり軍の働きをしたわけだ。しかしそれが精いっぱいで
あって、夜襲をしかけて二万の敵軍を撤退に追い込むなど夢物語だ。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/10(水) 21:40:05.10
>>706
>同じ肥後の菊池が竹崎より先に戦ったことを知った後に「肥後国」がつかなくなるのは
>当たり前だろ。

残念ながら竹崎が景資に向かって事前申告している中ですでに肥後の国のつかない先駆けを
二回言っている。これは竹崎が菊池に会う前なんだがね。

>モンゴル軍が赤坂へ進出したのは竹崎が博多へ着いた後。

そうであっても別に構わない。赤坂の元軍は祖原山から分遣されたのだから祖原山の占領は
それ以前だ。
それは別として、私の説の骨子は以下の通りだ。
●元軍の先遣隊は19日の午後12時を中心とする満潮時に上陸した。
●元軍の本隊は20日の正午を中心とする満潮時に上陸した。
●したがって戦場全体に元軍の先遣隊のみがいて、本隊がいない時間帯があった。
●蒙古襲来絵詞に描写される菊池、竹崎、白石の戦闘はこの時間帯に行われた。
0709日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/10(水) 21:41:34.26
>>705
「たまたま」でもいいということなので、「たまたま」で説明しよう。

例えば「私の小学校の卒業式の日にたまたま交通事故にあってね」と言えば「たまたま」が
事件の時点を特定の一日に限定しているように見えるが、
「私が小学校6年生の時にたまたま交通事故に会ってね」と言えば事件の時点は一年間の中に
分散し、「たまたま」の限定的な感じは薄れる。

要するに「たまたま」が事件の時点を短い範囲に限定するかどうかは、その背景となる状態や
動作のタイムスパンしだいなのだ。

これと同じで、「遂引兵還」を「出航」という数時間のタイムスパンと受け取れば「会夜大風雨」
は20日の夜に限定されるが、
「遂引兵還」を「撤退作戦」という一週間ないし一か月のタイムスパンと受け取れば「会夜大風雨」
はその中の任意の夜としか言えなくなる。

そのどちらであるかは、情報量の少ない漢文のなかでは全くわからない。
したがって状況証拠で判断するしかない。
そして状況証拠で言うならば、安国論私抄の記事から、元軍の船隊が壱岐に到着する前後に大風雨に
会った可能性が最も高いのである。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/10(水) 23:24:43.79
>>708
その考えには大きな問題がある。
なぜ元軍がすぐに撤退したのか説明がつかない。

20日の戦闘に参加した元軍が少なければ、翌日には格段に大きい兵力で戦える。
小敵之堅、大敵之擒という言葉は出ない。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2017/05/11(木) 10:02:35.71
>>710
よく読め。20日の元軍が少なかったとは言っていない。
本隊も20日の正午前後に上陸したと言っている。
(具体的には午前10時ごろに上陸が始まったと思うけどね)
これ以降は元軍のフル戦力になるのだ。
この状態で夕方の自然休戦まで戦った。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/16(金) 15:09:42.69
>>707
>さらに言えば景資は「控えたる処に」となってはいるものの、はじめから撤退中である。

「控えたる処に」となっているんだから景資は撤退中じゃないだろ。
支離滅裂なことを書くなよ。
さらに劉復亨を討った後、控えていた自陣のもとに引き返して来てるんだから、水城に撤退せず
そのまま麁原百道原を征圧し続けたのも明白だ。
そもそも景資は敵の将軍を射倒してるわけで、戦闘は明らかに日本軍の勝ち。
勝った景資が水城に撤退するわけないじゃん。
景資と劉復亨の戦闘の後、麁原百道原を征圧したのが日本軍の方だったことについては、
八幡大菩薩愚童訓筑紫本に有無を言わせぬ証拠がある。
戦闘の後、戦場を走り回っていた劉復亨の馬を捕らえたのは日本軍の方だからね。

一方、高麗側の記録でも劉復亨は麁原百道原から逃げてる。
負傷した劉復亨は、忽敦・洪茶丘・ 金方慶が軍議を行っていた今津に担ぎ込まれた挙句、
真っ先に乗船してるんだからな。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/16(金) 16:03:14.13
>>709
>そのどちらであるかは、情報量の少ない漢文のなかでは全くわからない。

いやいや漢文の中では10月20日の夜以外の可能性なんて無いから。
「遂引兵還」の「遂」は、「長い時間ののちに、最終的にある結果に達するさま」という意味だ。
つまり、日本遠征が軍議で「兵を引いて還る」という結果に達した「ちょうどその夜」に遭難したんだよ。
軍議の行われた10月20日その日に限定してるの。
一週間ないし一か月のタイムスパンの「撤退作戦」の中で遭難したんじゃない。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/16(金) 18:53:33.83
>>711
元軍が調子良かったのなんて20日午前中に松浦党とか相手にしてた時くらいで、
午後になってからは日本軍のワンサイドゲームだろ。
元軍は赤坂で菊池に負け、麁原百道原でも少弐景資に負け、最終的に今津まで退いて
日本から撤退してるわけで。
フル戦力の元軍が日本軍に完敗したって認めてるわけだね。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/22(木) 11:00:34.76
>>712
>「控えたる処に」となっているんだから景資は撤退中じゃないだろ。

「ヘタル処ニ」と送り仮名されている漢字「彳」の原義は「道を行く」ことだ。
一般に用いられる意味は「少し歩く、歩いたり止まったりする」であり、訓読みは
「たたずむ」だ。「たたずむ」を全訳古語辞典で見れば「立ち止まる、ぶらつく」だ。

つまり、筑紫本のこの文章で漢字「彳」が表しているのは、景資が道を行く途中で小休止
していた、ということだ。それを裏付けるのが君がスルーしている、蒙古大将軍の
「ヲメキ呼テ追懸タリ」だ。「追い掛ける」は遠ざかる相手に対して言うのであって、
待ち構えていたり、近づいて来たりする相手には言わない。
そしてこの場合、追跡者から遠ざかるとはすなわち戦場から撤退することである。

まとめれば、景資が撤退中に小休止していたところに劉復亨が追い掛けて来たのである。
さらに言えば、景資が三百騎ほどでも指揮していたならば、歩騎百人に満たない敵軍など
ひっ包んで一揉みにしただろう。そうしなかったのは、ほんの供回りしかいなかったことを
示している。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/22(木) 11:02:43.29
>>713
>日本遠征が軍議で「兵を引いて還る」という結果に達した「ちょうどその夜」に遭難したんだよ。

また「たまたま」から「ちょうどその夜」に戻ったか。
前にも言ったと思うが、「会」には連体詞的に体言を修飾する働きはない。動詞に関連する副詞の
働きがあるのみである。
だから「会夜」は「ちょうどその夜」ではないし、
「会夜大風雨」は「たまたま、夜に、大風雨して」となるのみである。

また、これも前に言ったが「遂引兵還」は会議の結論ではない。会議の結論は「不若回軍」で
あり、会議の記事はここで終わっている。なぜならその後(遂引兵還の前)に劉復亨乗船の記事が
あって、乗船がすでに始まっているからだ。

まとめれば、文章の上では大風雨のあった「夜」は「二十日の夜」とは限らない。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/22(木) 11:03:52.39
>>714
>午後になってからは日本軍のワンサイドゲームだろ。

君の信奉する筑紫本は戦いの最終局面を:
「此外大名高家我モゝゝ卜責ケレ共、物トモセス、蒙古ヒタ破リニ責入テ、 今津早良百路原赤坂
ニ及ヒ乱入ケリ」 と書いている。
これのどこが「日本軍のワンサイドゲーム」か。念のためだが蒙古が「ヒタ破リ」にしたのは
日本軍だよ。

>負傷した劉復亨は、忽敦・洪茶丘・ 金方慶が軍議を行っていた今津に担ぎ込まれた挙句、
>真っ先に乗船してるんだからな。>>712
>元軍は赤坂で菊池に負け、麁原百道原でも少弐景資に負け、最終的に今津まで退いて
>日本から撤退してるわけで。

元軍がどこの浜から乗船して撤退したかは私も知りたいところだ。
今津からだったと書いてある資料を是非教えてくれ。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/22(木) 15:45:24.24
こいつらまだ宗教書の八幡愚童訓なんかに囚われてそこから有用な情報を探そうだなんて
不毛なことやろうとしてるのかよ
あんなもんは完全無視でいいんだよ
0719日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/23(金) 11:01:46.44
結局のところ元軍は敗退した、それだけ
あとは細かい経緯に不明なところがあるだけなんだよね
0720日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/23(金) 21:08:18.56
鎌倉幕府自体は御家人が戦闘で勝ったことにしたくなかったんだよ。
戦ったのが御家人と言っても、多くは朝廷の領地や寺社領にいた武士団を
元寇前に急遽組み入れた新参の西国御家人だし、恩賞なんて要求されると
応えることができずに内乱に発展するからな。
まあ、しばらくして内乱になって鎌倉が滅亡したけど。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/25(日) 11:44:04.91
寺社も武士並みに恩賞請求してたからな
幕府の意向ではなくその寺社が武士の活躍ではなく自分たちの祈祷の威力で
異国を退散させたというのが八幡愚童訓などの宗教書の主張だよ
その場合当然武士たちの戦いぶりは実態とはかけ離れた形で貶められることになる
なんらかの真実を探し当てる手がかりとして使おうとするだけ無駄
むしろ時を超えてそういった寺社の主張に利用されるだけだよ
0722日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/27(火) 20:19:33.64
>>720
江戸幕府もそうだったけど、軍事組織としての体裁すら整えられなくなると
幕府はもたなくなるね
0723日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/28(水) 10:55:09.66
元寇の50年後に討幕活動を行った後醍醐や足利や新田は元寇の恩賞問題に
ほぼ関係ない連中ばかり

元寇の恩賞問題が鎌倉幕府滅亡の原因ってのは無理だわ
0724日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/28(水) 15:22:28.66
元寇と幕府滅亡が無関係というのは史学者なら学者失格の烙印を押されて学者生命が断たれるくらい非常識な珍説だと思うよ。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/28(水) 15:31:30.45
>>724
わざわざ「元寇の恩賞問題」と書いてやってるのに元寇全般とか解釈しちゃうお前みたいなバカは
非常識で学者どころか人間失格だろうけどなww

中々いないレベルの低能だわwwww
0726日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/28(水) 16:10:50.54
赤っ恥かいてwwで逃亡か。
分かりやすい。
学力不足なのが文章から滲み出てる。
俺は他とは違うとを新しい説を唱えてみたかったんだろうが、とんだ珍説だったね。
それに元寇全般とはなにかね。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/28(水) 17:52:41.35
しかし元の戦略が平凡凡すぎる

例えば日本海や沿海州から日本を襲撃するという作戦を、
元の宮廷にいる文官武将は誰も立てなかったのか?
例えば沿海州から越前敦賀へ蒙古兵5万を上陸させて京を襲撃するとか
0728自民党議員の暴言!!
垢版 |
2017/06/28(水) 18:00:56.26
「自民党議員の暴言」!!

おまえがうけた痛みがなんだ!!
私がうけた痛みがどのくらいかわかるか!!コノヤロー!!
バカか!!おまえは!!
おまえ!!あたまがおかしいよ!!
(ミュージカル調のイヤミ)
そんなつもりはないんです〜〜〜〜そんなつもりはなかったんです〜〜
このハゲちがうだろ〜〜〜
おまえがわたしの心をたたいてる!!わかってないよ!!
おまえが行け!!おまえがいってこい!!
おまえが全部くばり終われよ!!
今日中に行くんだな!!バカか!!おまえは!!
これ以上!!私の評判を下げるな!!(パンチ×7発!)
(ハンガーでなぐる!)(つねる!!アザがのこる!)
このハゲ〜〜〜ちがうだろ!!
(6月23日 金曜 あさ8時 とくダネ  より)
0729日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/29(木) 23:17:03.43
>>727
長期間の航海はリスクが高いからねえ。
出した兵力が何もしないうちに嵐にあって壊滅の可能性もある。

対馬、壱岐と順番に攻略して行くのは、比較的安全で確実な進路という事になるだろうな。
0730日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/30(金) 10:06:34.23
鎌倉幕府は恩賞節約のために武士を貶めた。
寺社は恩賞に関する競争者の立場から武士を貶めた。
朝廷は鎌倉幕府との対立関係から武士を貶めた。
大宰府は朝廷の出先機関の立場から武士を貶めた。

全国挙げて武士たちを貶める中、武士たちはひっそりと大勝利を
おさめていたのであった・・・
0731日本@名無史さん
垢版 |
2017/06/30(金) 12:18:24.64
>>726
「元寇の恩賞問題」と書いてやったのに「元寇と無関係」とか読み間違えちゃったアホが
勝手にこっちを逃亡したことにして勝利宣言とは笑えるwww

読み違いの件に関して完全にほっかむりだけど基本レベルの知識以前に日本語読解がなってないってのを指摘されたのが
よっぽど痛かったみたいだなあwww

反論するなら「元寇の恩賞問題が鎌倉幕府滅亡の原因」とこっちが書いたことを
「元寇と幕府滅亡」にすり替えた事実からまず逃げないでもらいたいね

無理だろうけどね
0732日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/01(土) 23:04:06.21
>>718
京都の石清水八幡宮に伝わる八幡愚童訓なら宗教書として無視できるかも知れんが、
八幡大菩薩愚童訓筑紫本は筥崎八幡宮座主坊に伝来する現地史料だぞ。
元寇の戦場だった地に伝わる史料を完全無視とかありえねーよ。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/03(月) 13:30:46.71
そんなもん細部が異なるだけ。
日本軍の敗北・撤退というおおすじは同じ。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/14(金) 10:16:03.49
>>732
ねらーが何言おうが勝手だが専門の研究者が元寇に関して一切の史料的価値はないと
断じてしまっていますので
気に入らないなら論文でも書いて反論したらいいんじゃないかな?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/15(土) 17:29:46.64
>>734
専門の研究者って誰?
まさかあの人じゃないよね?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/15(土) 23:05:18.28
>>727 まず、条件を一通り

・ 元では、日本列島のおおまかな形すらも把握してない
・ 当時、まともな地図・海図も、GPS・無線もなく
味方と海路で集合も一苦労 (はぐれたら味方と連絡不能、知らん場所で行先不明)

だから確立した海路は重要だが
大嵐で知られる海は、渡れる季節は限定されて襲撃時期も読める

ちなみに「太平記」より、当時の国際港である敦賀も、武士で守備を固めてた

 > 此企兼てより吾朝に聞へしかば、其用意を致せとて、
 > 四国・九州の兵は筑紫の博多に馳集り、
 > 山陽・山陰の勢は帝都に馳参る。
 > 東山道・北陸道の兵は、越前敦賀の津をぞ堅めける。

ただ、当時の操船技術では、「偏西風と海流に逆らう復路」が非常に困難だし
敦賀は、海のプロの海賊ですらがあまり攻めない場所

まして大軍勢を、片道切符の長期航海で放り込む、なんてアホ作戦はしなかった
某記事
 > 越前国敦賀港も国際貿易港でしたが、
 > 敦賀への往路は対馬海流に乗って楽に行けるのですが、
 > 復路が逆流になるので陸沿いを進まねばならず大変でした。
0738日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/16(日) 21:11:14.88
当時、山陰はもとより能登〜若狹辺りにも緊張が生まれたって耳にした事あるけど
ソースが思い出せない
実際に上陸を想定してた史料とか存在すんのかな?
0739日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/18(火) 11:44:06.61
>>735
あの人って誰?
というか数年前に出た九州大学教授の手による元寇関係の専門書をまともにチェックしてないんだな
仮にも専門スレなのに随分レベルの低い話で正直言って驚くよ
0740日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/18(火) 14:25:50.75
>>739
その数年前に元寇関係の専門書を出した九州大学教授はこのスレに普通に出てくる
「朝師御書見聞 安国論私抄」や「金剛集」を知らないだろ。
同時代史料である「金剛集」に「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢」と書いてあるんだから
そいつの説は崩壊だ。
0741日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/19(水) 10:45:32.54
反論に何を持ってくるのかと思ったら宗教書しか検討材料持ってないんだな
しかもうち一つは室町時代の成立ってどれだけ弾不足なんだw
0742日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/20(木) 18:22:56.72
「蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢」

「蒙古人は二十一日の午前六時ごろまでに全て退散し終わっていた」
0743日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/20(木) 22:47:23.08
>>740
>そいつの説は崩壊だ。

確かに、その学者の一週間戦闘継続説の根拠は飛脚の日数しかないからね。
博多・大宰府が大混乱におちいれば飛脚システムを立て直すのだって
日数がかかるだろうに。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/21(金) 20:56:53.47
同時代の叡尊の伝記にも20日に撤退したと書いているよね。

権威主義はいいが、大学の教授だからって真に受けるのは良く無いよね。
0745日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/22(土) 16:55:16.56
>>742
「蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢」

廿一日の朝六時に、見ている人の目の前で、蒙古船の最後の一隻が博多湾を
出て行ったのではないよ。

二十一日の朝六時ごろに海を見たら、蒙古船は全ていなくなって、博多湾は
空虚になっていた。志賀島の座礁船一隻を除いてはね。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/23(日) 07:12:38.80
朝6時に悉く撤退と言っているということは
それより前まで蒙古軍がいた、つまり日本側は
蒙古軍の状況を把握していたということ。

745の言っているのはそのまま八幡愚童訓の内容であって金鋼集とは別物。

服部某の妄想を信奉する割に、服部某が否定する
八幡愚童訓を引用するとはダブスタも良いところだな。
0748日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/23(日) 10:26:17.87
>>747
廿日に蒙古軍がいたことはいやというほどわかっている。
で、二十一日の朝六時ごろ海を見たら蒙古船は一隻もいなかった。
(志賀島の座礁船を除いて)

二十一日朝六時ごろまでに蒙古軍は全軍撤退したと見える。
これが「蒙古人同廿一日卯尅、悉く退散し畢る」 だ。
別に日本側がその間の事情を「把握して」いる必要はない。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/24(月) 17:33:31.92
6時「までに」撤退ということはそれまでのモンゴル軍の状況知っていないと知り得ない状況だよね。

6時頃に海を見たらなんてストーリーは金鋼集には
一言もない。

そんなストーリーがあるのは八幡愚童訓だけ。
0750日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/24(月) 21:21:21.12
>>749
廿日の夕刻までは戦ったのだからモンゴル軍がいたのは確かだ。
で、二十一日の朝六時頃にモンゴル船は一隻もいなかった、すなわち悉く
退散し畢っていた。

これが漢文からわかるストーリーの全てだ。
モンゴル軍が廿日夕刻と二十一日の朝六時ごろ「の間に」全軍撤退したのは
明らかだ。
それを知るためにその間の蒙古軍の状況を把握する必要は毛頭ない。

ちなみに卯尅というのはきっかり朝六時ではないよ。
それを中心として二時間の幅がある「時間帯」だ。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/25(火) 04:36:55.80
おいおい、6時頃までに「悉く撤退」と時間帯を
指定して書いているという状況は、モンゴル軍の
撤退時間を正確に把握していないと無理だよ。

750の言う朝見たらモンゴル軍がいなくなっていたなら「朝6時頃に悉く」と言えない。
そんなストーリーなら八幡愚童訓のように朝見たら
突然いなくなっていたと書かないとね。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/25(火) 12:33:31.78
>>715
どんな屁理屈重ねようが少弐景資が撤退中じゃなかったことはハッキリしてる。
「控えたる処に」と明記してあるんだからね。
そもそも少弐景資は水城に撤退してないから、撤退中だったわけないの。

少弍入道覚恵ヲ
臆病ヲ 如何少弐之 入道カ 恥ヲ覚恵ノ 名ニソ落ケル
大友之頼康ヲ
大友ハ 子共打ツレ 落行テ 方々ニコソ 頼康ミケレ
筥崎之留守カ子紅葉ヲ縫タル直垂ヲ着落ケルヲ
直垂ニ 縫フ紅葉ハモ 落ニケリ ハケシキ方ヤ 木枯之風

大友は親子で逃げたと非難されてるのに少弐氏は覚恵のみ。

>さらに言えば、景資が三百騎ほどでも指揮していたならば、歩騎百人に満たない敵軍など
ひっ包んで一揉みにしただろう。

景資は手勢から離れて単騎で楽々と敵将を射倒して、その後悠々と百道原の自陣に引き返してるんだから
メチャ余裕があったってことじゃん。
実際、戦闘の後で戦場は日本軍に征圧されてるんだしね。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/25(火) 12:43:15.59
>>716
「遂」が結論って意味なのに「遂引兵還」が結論じゃないわけないだろ。
そして「遂引兵還」の「ちょうどその時、夜に、大風雨」に遭ってるんだからモンゴル軍の
遭難は10月20日の夜しかありえない。
モンゴル軍が10月20日の夜に博多湾内で遭難したことは日本側史料によっても裏付けられてる。

『金綱集』 第十二 雑録 異賊襲我国事
「仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島乗人百三○(十)余人也、或切頸、或生取、
破損之船百余艘在々処々被打寄生取四人、」
0754日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/25(火) 13:09:42.38
>>717
筑紫本で戦いの最終局面は、少弐景資が敵将を射倒して戦場を征圧した場面だろ。
キッチリ日本軍圧勝で戦闘が終わってるじゃん。

>元軍がどこの浜から乗船して撤退したかは私も知りたいところだ。
今津からだったと書いてある資料を是非教えてくれ。

新しい史料を見つけたから、その内ブログにまとめる。
時間があまり取れないから直ぐにというわけにはいかない。
ただ既出の史料からでもモンゴル軍の乗船が今津からだったと推測できたんだよな。

『元史』巻一百五十四 列傳第四十一 洪福源・附洪俊奇
「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島。」

「宜蠻」とは「今津」のこと。
舟師2万が今津に停泊してるんだから、モンゴル軍が乗船できる場所は今津しかない。
で、今津で遭難した。
今津には文永の役のモンゴル軍戦没者を埋めたとされる蒙古塚が残ってるからね。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 07:14:11.36
しかし、よく新しい史料をたくさん見つけれるものだ。
感心するわ。
屁理屈こねくり回すよりよっぽど有意義だ。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 14:24:08.58
>>754
>「八月,授東征右副都元帥,與都元帥忽敦等領舟師二萬,渡海征日本,拔對馬、一岐、宜蠻等島。」
>「宜蠻」とは「今津」のこと。
>舟師2万が今津に停泊してるんだから、モンゴル軍が乗船できる場所は今津しかない。

「與」(共に)は「二萬」までかかる。
「都元帥忽敦等」と共に舟師二萬を領したのだから、洪茶丘が領したのはその一部だ。
したがって舟師二萬の全部が今津に上陸・停泊したとは限らない。
(百道原から上陸したという蒙漢軍捕虜の尋問記録もあるしね。)

逆にこの文章によって、洪茶丘が十九日夜に上陸した先遣部隊のなかの今津攻略部隊で
あった可能性は高くなる。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 15:09:00.84
>>752
>「控えたる処に」と明記してあるんだからね。

原文の文字は「控」ではなくて「彳」だ。→「景資彳ヘタル処ニ」
「控」は待ち構える意味もあるが、「彳」は道の象形から来ていて、
基本的に「歩く」ことだ。
しかも普通に歩くのでなく「トボトボ歩く」意味が強い。
いかにも敗軍の将にふさわしい文字の選び方だな。

その敗軍の将を敵将が「ヲメキ呼テ追懸タリ」、一方は「一鞭打テ馳延テ」
つまり騎馬で逃げた。撤退と追撃の姿だ。
「逃げる」という「延ブ」の意味は現代語にも「生き延びる」「逃げ延びる」
の形で残っている。

>実際、戦闘の後で戦場は日本軍に征圧されてるんだしね。

景資は単騎で二万人の敵を制圧したのか。まさにファンタジーの世界だな。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 17:45:12.29
>>753
>「遂」が結論って意味なのに「遂引兵還」が結論じゃないわけないだろ。

「遂」に結論という意味はない。それを言うにはもっと文字が必要だろう。
「遂決引兵還」とかね。

会議の結論は「不若回軍」だ。その証拠に、その結論に従って「復亨・・先登舟」
で、すでに乗船が始まっている。その後にまた会議の結論が来るわけがない。

>モンゴル軍が10月20日の夜に博多湾内で遭難したことは日本側史料によっても裏付けられてる。

前にも書いたが、「(捕虜を)或切頸、或生取」の話は二十一日のお昼ごろに
亘っている。
「破損之船百余艘在々処々被打寄」はその後に来るのだから二十日夜ではなく
二十一日以降の話だ。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 17:54:15.27
忽敦と共に2万を領したんだから、普通に読めば
洪茶丘が領したのは一部隊では無いんだが。

仮にも副司令官なんだから、忽敦共に領したのは
全軍でしょう。
0760日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 18:18:46.73
>>751
>6時頃までに「悉く撤退」と時間帯を 指定して書いているという状況は、
>モンゴル軍の撤退時間を正確に把握していないと無理だよ。

原文を見直してみよう。
「及酉尅九国軍兵引退処入夜三百余騎ノ軍兵出来、白鉾梅鉾空ニアリ、
仍蒙古人同廿一日卯尅悉退散畢、船一艘被打上鹿島」

軍兵出来は神霊談だ。「白鉾梅鉾空ニアリ」と神秘めかしているし、
「出来」は二艘の兵船の話にも出て来る、神霊談のお約束だ。
その次の「仍(すなわち)」は、その後の事象が天佑神助の帰結であることを
示すための接続詞だ。

その事象とは二十一日の朝に蒙古軍が悉く消え失せたという事実である。
「卯の刻」とは単に「夜明け」を意味しているに過ぎない。夜が明けたから
事実は誰の目にも明らかになったのである。

こうして、博多湾沿岸で夜を徹して元軍の動向を見張り、朝の六時ごろに
最後の一船が博多湾を出て行くのを見届けたという、日本軍部隊の存在は無用だ。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 18:24:35.95
>>759
>忽敦と共に2万を領したんだから、普通に読めば洪茶丘が領したのは一部隊では無いんだが。

ごまかしてはいけない。「忽敦」ではなく「忽敦等」だ。

>仮にも副司令官なんだから、忽敦共に領したのは全軍でしょう。

副司令官は他にもいる。洪茶丘は副司令官の一人として元軍高麗人部隊を領したのである。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 19:22:21.63
「忽敦等」とは忽敦、洪茶丘、金方慶だよ。
軍議に参加したメンバー。
舟師2万とは洪茶丘率いる屯田軍5000+金方慶率いる高麗軍8000+梢工引海水手6700。
この部隊が水軍として港である今津征圧作戦を担当したのね。
軍議に参加してなかった劉復亨が残り2万の部隊を率いて百道原方面へ侵攻した。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 20:36:55.18
>>760
ん?
原文を読めば、ますます言っていることがおかしい。
原文を素直に読めば、夜に日本軍300余騎が夜襲を
かけたとしか見えないが。
その際に夜空に異変があったのだろう。
日本軍の夜襲と夜空の異変があり、結果として
6時頃に悉くモンゴル軍が撤退した、という
目出度し目出度し。
と勝利とその奇瑞を述べているだけだが。

同じような話は朝鮮出兵の泗川の戦いでもあるね。
白と赤の狐が現れて明朝鮮軍の方に走っていった。
それをみた日本軍が稲荷大明神の奇瑞として勝利した
とかね。
全く同じような話だよねぇ。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 20:41:18.61
>>761
誤魔化してるのはそっちだよ。
「等」があろうがなかろうが
忽敦と共に洪茶丘が2万領したと書いている以上は
どこにも洪茶丘がいち
0765日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/26(水) 20:41:52.09
>>761
誤魔化してるのはそっちだよ。
「等」があろうがなかろうが
忽敦と共に洪茶丘が2万領したと書いている以上は
どこにも洪茶丘が一部隊を率いたとか解釈てきないよ。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/28(金) 18:17:24.54
結局天下に鳴り響いた元の強さも
九州の武士の前では取るにとらないものだったというわけか、、、
拍子抜けしただろうな、弱すぎて。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/29(土) 14:20:58.27
>洪茶丘率いる屯田軍5000 >>762
>忽敦と共に洪茶丘が2万領したと書いている以上はどこにも洪茶丘が一部隊を率いた
とか解釈できないよ。>>765

一見矛盾したことを書いているようだが、間違いではない。それでいいのだ。
洪茶丘は右副元帥として都元帥のクドゥンを補佐する立場ではクドゥンと共に2万人
を領したが、
高麗人部隊を直接に指揮する指揮官としては5000人(君の数字による)を領した
のである。

このようなことは軍隊組織としてはむしろ普通だ。
例えば陸上自衛隊の第7師団(北海道)の副師団長は東千歳駐屯地の司令を兼ねて
いる。東千歳駐屯地とは普通科(歩兵)1個連隊を中心とする集団だから昔で言えば
旅団に当たる。
副師団長と旅団長を兼ねているのはちょうど洪茶丘と同じ立場だな。
0768日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/29(土) 14:48:20.35
>>763
>同じような話は朝鮮出兵の泗川の戦いでもあるね。
>白と赤の狐が現れて明朝鮮軍の方に走っていった。

なにも朝鮮征伐まで下らなくとも、筑紫本のなかに例がある。経資が矢を射る前に
鳩が飛んでいる。
この類の奇跡では、神が生身の人間に特別な力を与え、そのことを鳩や狐などの
メッセンジャーによって知らせるのだ。奇跡を実行するのはあくまで生身の人間だ。

もう一つの類型では、奇跡を実行するのは生身の人間ではなく、神の化身である。
二艘の兵船とか、三十人の白装束とか、三百騎の軍兵とかは、いずれも正体不明で
どこからともなく現れる。筑紫本ははっきりと「神軍」と書いている。

金綱集の三百騎の軍兵も、「酉尅に及んで九国の軍兵引き退きたる処、夜に入りて
三百余騎ノ軍兵出で来て」で、九州の軍兵すなわち大宰府軍が撤退した後にどこか
ともなく現れたのだから、少なくとも正規軍ではない。
正規軍でなければ私兵か、神軍かのいずれかであるが、文章は空の異常現象によって
後者であることをほのめかしているのである。
0769日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/29(土) 22:52:03.66
>>768
大宰府に撤退しなかった少弐景資だな
0770日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/30(日) 11:19:29.28
>>769
少弐景資もまた「九国の軍兵」の一員であるから、金綱集によれば酉の刻に及んで
引き退いた。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/30(日) 13:37:16.64
>>770
現地史料で少弐景資は撤退してないんだから引き退いてないよ。
第一、金綱集だって三百余騎ノ軍が戦場にいたことは認めてる。
少弐景資の名が身延山まで伝わらなかっただけじゃん。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/30(日) 14:03:40.27
「軍安ク思ニ相違テ面ヲ向クベキ様モ無、
味方引キ退テ寄合スル者無リケリ、
爰ニ菊池次郎思切テ百騎斗ヲ二手ニ分ケ、」

これは積極的に戦おうとしない博多筥崎の武士たちと、赤坂で孤軍奮闘する菊池次郎の
対比を示した文章ね。
この「○○者無リケリ、爰ニ○○」と全く同じ構造の文がある。

「力及ヒ難ニケレハ、水木之城ニ引篭支テ見ン卜逃支度ヲソ構ヘケル、
是ヲ聞テ我先ニト落シカハ、独モ留ル者無リケリ、
爰ニ三郎左衛門尉景資彳ヘタル処ニ、」

つまり、この文章は水城へ逃げて行った博多筥崎の武士たちと、逃げずに百路原で
孤軍奮闘する少弐景資との対比を示してるわけ。
少弐景資は博多筥崎の武士たちと正反対の行動をしてないと文章の構造として
おかしいわけよ。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/31(月) 15:05:41.69
>>771
>第一、金綱集だって三百余騎ノ軍が戦場にいたことは認めてる。
>少弐景資の名が身延山まで伝わらなかっただけじゃん。

金綱集は日蓮の説法や著作を弟子たちがまとめたものだ。
三百余騎が景資の手勢なら、蒙古軍の退散が100%大宰府軍の功績に帰する
ことになるが、それは日蓮の主張と合わないではないか。

註:大風雨が天佑神助だと言うだろうが、三百余騎出来と蒙古人退散が「仍わち」
でつないであるのだから、三百余騎のみが蒙古人退散の要因である。
大風雨は直接に言及せず、漂着船で暗示しているだけであり、時系列も退散の後。
したがって大風雨の位置づけは蒙古人退散の要因ではなく、せいぜい蒙古人に
加えられた「神罰」であろう。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2017/07/31(月) 16:40:14.81
>>772
>この文章は水城へ逃げて行った博多筥崎の武士たちと、逃げずに百路原で
>孤軍奮闘する少弐景資との対比を示してるわけ。
>少弐景資は博多筥崎の武士たちと正反対の行動をしてないと文章の構造として
>おかしいわけよ。

他と対比される行動だからと言って直ちに「正反対」の行動、すなわち攻撃行動
だとは限らない。
さっさと逃げて行った他の武士たちに遅れて、とつおいつ歩を進める景資一行の
姿も十分に対比的である。

それを見た敵将は「ヲメキ呼テ追懸」た。追い懸けるとは逃げるもの、遠ざかる
ものに対して言う言葉であって、待ち構えるるもの、向かって来るものに対しては
言わない。

「呼」ぶのもまた、背を向けているから呼んだのである。
北方中国語で、「等一下阿!」(ドンイイシアア!=待てえ!)とおめいたのだろう。

筑紫本の著者は景資が撤退中であったことを意識して書いているのである。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/01(火) 17:05:54.37
>>739が信奉しているらしい、某H教授の本をチェックしたら、間違いがあるのに気付いた。
147ページ:『二十日の深夜に日本側は、兵船二艘で出発し、合戦を行った。<中略>「兵船
一艘」には六十人が乗っていたとある(一四四頁「一代要記」)。このわずか二艘一二〇人に
よる攻撃で、何千人の蒙古軍にどれほどの打撃を与え得たのかはわからないけれど<以下略>』

一代要記の二艘の兵船の話は神の奇跡かと思っていたが、一艘当たり六十人、合計百二十人と
いやに具体的になっている。はて、そうなっていたかと上記144ページの引用文を見ると:
「爰同日亥刻許、兵船二艘出來、暗天合戰、非凡慮之所及、測知是神明之化儀也、即異國軍
兵退散、彼兵船一艘之所乗之人數六十人許云々」
となっていて、上記二行目「之」と「所」の間に「留」の字が抜けている。

たった一字だが「留」の字がないと読みがどう変わるかと言うと:
「留」あり:「即ち異国軍兵退散す、彼の兵船一艘之(これ)を留む、乗る所の人数六十人
許り」
「留」なし:「即ち異国軍兵退散す、彼の兵船一艘之(の)乗る所の人数六十人許り」

つまり「留」ありだと人数約六十人は留められた一艘の兵船、すなわち志賀島座礁船の乗員
であり、「彼兵船」の先行詞は「異国軍兵」だとわかるが、
「留」なしだと「之」が接続詞「の」になって人数約六十人が一艘あたりの乗員数のように
見え、「彼兵船」の先行詞は文頭の「兵船二艘」となる余地が生じる。そうなると兵船二艘
ががぜん現実的となり、某H氏が唱える戦闘継続説が補強されるのである。

まあ単なる引用ミスだとは思うけどね。
0776日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/01(火) 19:41:48.93
>>775
訂正:
接続詞「の」 → 助詞「の」
0777日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/02(水) 10:03:46.20
>>775
ごめん、もう一つ訂正
誤:上記二行目「之」と「所」の間に「留」の字が抜けている。
正:上記二行目「艘」と「之」の間に「留」の字が抜けている。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/16(水) 10:07:31.82
さすがに八幡愚童訓を日本軍の勝利の根拠にするのは無理があるなぁ。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/16(水) 14:33:38.20
文永の役を武士側の戦術的敗北もしくは引き分け或いは元側の予定通りの撤退
とするのは更に無理があるけどね
0781日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/16(水) 16:22:56.49
両方ともはっきりと勝利を主張する史料が少ないところをみると、金鋼集にある「両方死輩その数知らず」ってのが一番的を射てるんじゃないかな?


つまり両者とも損害が多く両者の痛みわけだった。
どちらか一方の勝利とすると色々と無理が出てしまう。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/16(水) 20:13:31.43
戦争の勝利とは目的を達成すること、だ
日本に攻め込んだのに撤退した元は目的を達成してないから負け、防衛に成功した日本は目的を達成したから勝ち
ノモンハンでいくらソ連軍の被害が大きかろうが、攻め込んで撃退された日本軍の負けなのと同じ理屈
0783日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/16(水) 20:59:26.26
>>781
アホか。元軍は一時的に橋頭堡を築く事すらできてないんだから
戦略的どころか戦術的にも明確に敗北しとるわ。何が痛みわけじゃバーカ
0784日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/17(木) 15:12:50.10
>>783
祖原山は立派な橋頭堡だ。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/18(金) 10:38:52.20
その橋頭堡からも追い散らされてるわけだから
どちらにしても元軍の敗北だね
0786日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/18(金) 11:17:20.85
元軍が祖原山から追い散らされたという根拠は?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/18(金) 13:18:04.16
結局、元軍は全て放棄してるわけだから橋頭堡もないでしょう。

それに逆に祖原山を元軍が日本軍から守りきったと断言できる史料も無い。
0788日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/18(金) 21:30:27.19
>>787
>結局、元軍は全て放棄してるわけだから橋頭堡もないでしょう。

上陸軍が撤退する時に橋頭保を放棄するのは当たり前。

>それに逆に祖原山を元軍が日本軍から守りきったと断言できる史料も無い。

日本軍が祖原山の元軍を追い落としたと断言できる史料も無い。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/18(金) 22:33:02.64
いや、最終的に撤退してても、上陸して橋頭保を確保できたということは、水際に全く守備兵がいなかったのでない限り、
水際の防衛隊には勝った、ということになる。
橋頭保も確保できなかった、だと水際で追い散らされて全く勝てなかった、ってことになる。

橋頭保が確保できたかどうかは、日本軍が緒戦で負けたかどうかにかかってくるよ
0790日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 06:57:33.04
日が暮れて終戦を迎えたのは両軍とも一致している。

それをもって、橋頭堡を確保したというのは別なような?

確保が無理と判断したから撤退したのだろう。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 17:36:59.30
>>789
>水際に全く守備兵がいなかったのでない限り、 水際の防衛隊には勝った、ということになる。
>橋頭保も確保できなかった、だと水際で追い散らされて全く勝てなかった、ってことになる

その通りだな。
しかし、実際は元軍の先遣隊(第一波)が19日の午後10時ごろ上陸を開始したとき、
水際防衛は事実上、無かったと思う。

上陸した先遣隊の一部は夜のうちに内陸の祖原山を占領し、これを確保した。
元軍の主力が第二波として20日の午前10時ごろ上陸を開始し、十分な兵力を上陸
させるまで、祖原山は橋頭堡(海岸堡)としての役割を果たした。

註:第一波の上陸時間は日本側にも記録がある。第一波、第二波の上陸時間が
なぜ上記のようになるかというと、博多湾の上陸作戦は満潮時にしかできないからだ。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 17:42:35.75
元軍の軍議からは、そこまで追い詰められている様子はないと思うな。
空元気かもしれないが、戦闘継続を主張する指揮官も居るし。
司令は、日本軍が日々増強される状態で戦闘継続してもいいことがないとして撤退決めた。
これは、元軍は戦闘のたびに兵力が失われ、日本軍は増援が来るから兵力は減らないことだろう。

これで分かるのは、元軍は一日目には全軍で対処してないんじゃないか?という説はありえないことになる。
半分で戦っていたら翌日には倍の兵力、2/3で戦っていたら五割増しの兵力で戦える。
日本軍も一気に増強されるわけではないだろうから、一日目多少苦しくても二日目の戦闘は避ける理由がない。
0793日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:37:13.45
>>792
軍議が行われたのは今津だ。
祖原山の戦闘では日本軍に敗北したが、今津まではまだ距離があるからな。
でも翌日になれば元軍は確実に全滅だろ。
0794日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/19(土) 23:43:28.10
あと、当然ながら軍議の場所が今津ってのは史料的根拠があって書いてる。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 06:28:20.56
史料的根拠とは?

今津で軍議をしたということは元軍の祖原山は
陥落していたことになる。
0796日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/20(日) 15:07:11.12
>>794が言う史料的根拠とは>>754のことだよ
0797日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 17:22:49.85
>>754
>舟師2万が今津に停泊してるんだから、モンゴル軍が乗船できる場所は今津しかない。

百歩譲って全軍が今津から上陸したとして、空船になった船団は、上陸軍が終日
鳥飼潟〜赤坂で戦っている間に、なんで最短距離の百道原沖に移動しなかったのか?

>今津には文永の役のモンゴル軍戦没者を埋めたとされる蒙古塚が残ってるからね。

今津の二つの蒙古塚は発掘の結果では元寇と無関係ということになっているが、
それは置いといても、
今津の蒙古塚に「文永の役の蒙古兵」を埋めたという伝承があるのか?
あると言うのならソースをどうぞ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/21(月) 18:16:23.66
蒙古塚は大正時代ではなくもう一度現代の目で確認してほしい気もするな
0799日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 09:31:23.30
>>797
誰も全軍が今津から上陸したなんて言ってないぞ。
上陸したのは三郎浦だろ。
そこから右副都元帥の洪茶丘が総兵力4万人の中の舟師2万人を率いて今津へ侵攻し、
左副都元帥の劉復亨が残りの2万人を率いて赤坂へ侵攻した。
右副都元帥が右方向へ進み、左副都元帥が左方向へ進んだわけだ。
八幡大菩薩愚童訓の「今津早良百路原赤坂ニ及ヒ乱入ケリ」という記述とも一致する。

>今津の二つの蒙古塚は発掘の結果では元寇と無関係ということになっているが、

今津の二つの蒙古塚は発掘の結果では元寇と無関係ということになんてなってないよ。
実際に人骨が発見されてるんだから、現在の科学技術で調査すればちゃんとした結果が出るだろ。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 16:50:01.57
>>799
>誰も全軍が今津から上陸したなんて言ってないぞ。 上陸したのは三郎浦だろ。

今度は全軍が三郎浦に上陸か。では聞こう。
1)都元帥のクドゥンは右と左、どっちの軍に同行したのか?
2)金方慶の高麗軍は右と左、どっちの軍に同行したのか?
3)全軍が三郎浦に上陸したのは何日の何時ごろか?

>今津の二つの蒙古塚は発掘の結果では元寇と無関係ということになんてなってないよ。

印象操作してはいけない。
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/item_id:101060
「今津には千人塚、万人塚と呼ばれる二つの蒙古塚もあるが、大正時代に行われた
発掘調査の結果では、元寇に関係した遺跡であることを示す資料は得られなかった。」
0801日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/22(火) 21:30:22.36
元史洪茶丘伝のどこにも今津で軍議を行なったことを
裏付ける文言無いが。

他にあるのなら提示して欲しい。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/23(水) 10:46:05.40
今津千人塚、万人塚について追加。

「福岡市今津元寇防塁発掘調査概報」というpdfがある。
昭和40年代の報告書だが、大正2年の東蒙古塚、西蒙古塚の発掘について言及している。
もともと古代の古墳であったものに「かまど」を付して、蒙古兵の死体を火葬にしたと
考えたものだそうだ。
この件はこれで終了だな。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 19:41:26.54
とりあえずパフォくんが橋頭堡というものを理解してない事はわかった。
さすが威力偵察というものを理解してなかったパフォくんだ。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 21:17:31.31
>>622
誰も突っ込んでないみたいだけど
これ普通に「元軍が武士団との戦闘に敗北した」状況じゃん。
上陸後武士団との戦闘前に取った拠点の一つを翌日の戦闘で菊池に奪われて
もう一つの拠点も「戦闘で受けた被害により」放棄してるやん。
そこまで明らかな大まかな流れを自分で言っといて
史料の記述をあれこれ捏ね繰り回して「元軍は負けてない」だの「武士団は勝ってない」だのと
主張するなんて、アンタ色々と史料には詳しいのかもしれんけど、なんていうか歴史とか関係なく
物事を思考したり状況を判断する能力には著しく欠けてるんじゃない?
0805日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/24(木) 21:55:08.74
議論からズレているけど、今津軍議説を提唱していながら
説明しないのはなぜ?

そこを言わないと脱線ばかりになるよ。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 10:29:13.15
>>804
>>622は私(PC)が書いたものではない。
一例として>>622は菊池勢が元軍の先鋒隊を赤坂から追った戦闘を、クドゥンの戦果確認の
後に持ってきているが、蒙古襲来絵詞からわかるようにこの戦闘は20日の朝の時間に起こった
ものである。
戦闘経過に関する私の説はまた改めてまとめる。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 13:00:37.59
>>800
1)都元帥のクドゥンは右と左、どっちの軍に同行したのか?
答え:右
2)金方慶の高麗軍は右と左、どっちの軍に同行したのか?
答え:右
3)全軍が三郎浦に上陸したのは何日の何時ごろか?
答え:10月20日午前9時頃
金綱集「同廿日辰尅少郷入道覚恵・子息三郎左衛門尉景次・大友出羽守頼泰并以読次郎左衛門尉重秀・難波次郎・菊池次郎、九国御家人等馳集令合戦之間」
八幡大菩薩愚童訓筑紫本「軍ハ巳之時始テ日暮方ニ成シカハ」

>>801
新しい史料はまずブログに書いてからね。
史料を探す手間を考えたら、いきなり匿名掲示板に上げる気がしない。

>>802
今津千人塚、万人塚については「もともと古代の古墳であったものに「かまど」を付して、
蒙古兵の死体を火葬にした」ってことで終了?
0808日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/25(金) 14:10:36.84
今津軍議説は自分には凄く興味がある。

参戦した武士の記録から西は姪浜から東は赤坂までの
範囲であり、赤坂から鳥飼潟、百道原へと武士らが押し返しているところまでは記録からはっきりしている。

日田記にある姪浜の戦闘は、上記の東から西への武士らの押し返しから考えれば、百道原の次の戦闘が西にある姪浜であった可能性が高い。

姪浜の浜で破れた元軍が次に退却する陣地は今津しかない。よって今津軍議説の信憑性が増す。

また、元史の洪茶丘伝の記載の「拔對馬、一岐、宜蠻等島」の「宜蠻」を今津と解釈した場合、元軍或いは洪茶丘軍は今津までしか抜けなかった(攻略できなかった)ということを表している。
対馬と壱岐と同列に日本側の拠点が無い今津を挙げているところから判断して、博多戦がいかに戦果が無かったかを証明している。

さらに軍議をした際の主要メンバーが、負傷した劉復亨を除く忽敦、金方慶、洪茶丘であった点。洪茶丘の名があることから考えれば、軍議の際には、金方慶と忽敦は終戦後には、今津にいたという解釈も可能だ。

以上の点から考えれば、今津軍議説は、蓋然性が高い。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/26(土) 21:38:50.21
>>807
なるほど、クドゥン、金方慶、洪茶丘は百道原に上陸して、二万の兵を率いて今津を
攻めたというのだな。そこでまた質問:

1)今津を攻めるのなら、今津は上陸適地なのだからまっすぐ今津に上陸すれば済む。
なんでまた、わざわざ百道原に上陸して、陸路十数キロの道のりを数時間かけて
テクテク歩いて今津へ行ったのか?

2)そもそも総司令官のクドゥンが、遠征の攻撃目標である博多には背を向けて、
総兵力の半分を割いてまで今津に進攻する、その作戦目的は何か?

>今津千人塚、万人塚については「もともと古代の古墳であったものに「かまど」を付して、
>蒙古兵の死体を火葬にした」ってことで終了?

結局、文永の役に特定するような発掘物も伝承も無い。一方、弘安の役なら大いにあり得る。
溺死者が海流に乗って鷹島方面から流れてきて、岬の鼻を一つ曲がればもう今津の浜だからね。
そして二つの古墳は海岸にある。
ということで残念ながら決め手にはならない。・・・終了。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/27(日) 11:07:48.96
>>807
質問の追加:
元軍の全軍が20日の午前9時頃に三郎浦(早良郡)に上陸したと言うのなら、
金綱集が蒙古人が十九日に今津、佐原などに賊来したと言い、
一代要記が同じく十九日午後十時ごろに早良郡に攻め来ったと言っているのを
どうするのか?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 11:29:34.19
>>808
>さらに軍議をした際の主要メンバーが、負傷した劉復亨を除く忽敦、金方慶、洪茶丘であった点。
>洪茶丘の名があることから考えれば、軍議の際には、金方慶と忽敦は終戦後には、今津にいたという
>解釈も可能だ。

金方慶伝の軍議の記事には洪茶丘の名は無い。

洪茶丘の名が無いことからすれば、クドゥン、劉復亨、金方慶が赤坂付近で軍議し、
金方慶は上陸した今津に留まっていて、直接に撤退したという解釈も可能だ。

もちろん、軍議に出ていたが発言しなかったという解釈もできる。
弘安の役の軍議にも洪茶丘は発言していないしね。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 13:00:57.23
>>811
軍議の記事の最初に「方慶、忽敦・茶丘に謂いて曰く」って書いてあるじゃん
0813日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/28(月) 16:01:51.53
>>812
本当だ! 私が間違っていた。
私の説にとってはそのほうがよい。

洪茶丘が19日夜に今津を制圧したとすれば、20日の夕方までに鳥飼潟戦線に
追及したのだな。
「諸軍与戦」は戦闘記事のかなり後の段階で出て来るし。
0814日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 20:38:19.10
矢が尽きたから撤退するとか言ってる時点でgdgdすぎる作戦
勝てるわけねーよ
0815日本@名無史さん
垢版 |
2017/08/31(木) 22:13:56.93
なぜ矢が尽きたか。貧乏国の高麗に矢の製造を依存しているからだ。
移動手段の船。船の動力の漕ぎ手。生命線の食料。弾薬に相当する矢。
これらを全部貧乏国に依存する、もともと貧乏な作戦。
征服など考えているわけがない。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 10:50:09.11
まーたまた膺懲パフォーマンス説をおっぱじめるのか
以前散々に論破されてなかったっけ?
0817日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 17:09:17.67
まーたまた征服説・越冬説をおっぱじめて散々に論破されるつもりか?
0818日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/01(金) 18:06:17.96
>>817
膺懲パフォーマンス説の完全崩壊を宣言されて何の反論もできなかったでしょ?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 14:27:39.22
越冬征服説の完全崩壊を宣言されて何の反論もできなかっただろ?
0820日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 17:27:49.33
つまり膺懲パフォーマンス説の完全崩壊は認めるのね
それに越冬征服説を否定できてもいなかったと思うが
0821日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 17:37:38.60
つまり越冬征服説の完全崩壊は認めるのね
それに膺懲・威力偵察説を否定できてもいなかったと思うが
0822日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/02(土) 19:37:04.36
話にならんw
0823日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/05(火) 15:10:46.74
矢が尽きてなんてただのボロ負け撤収の言い訳にすぎないのにね。
矢位腐る程用意してきてるでしょ。じゃなきゃわざわざ何しに来てるのよ。
クルージングに来てるの?石原慎太郎なの?
0824日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/07(木) 11:57:36.88
『高麗史』に「又於昔東征時、五千三百軍齎去衣甲弓箭、多有棄失、僅得収拾、頓於府庫不堪支用、」とあり、弓矢を失った(棄てた)のは暴風雨により浸水し、使い物にならなくなったからだよ。

このことから博多湾からの撤退時点では矢がまだ多くあったことがわかる。

博多湾からの撤退から帰還まで1ヶ月以上あったことを考えれば、これを撤退理由にすることはあり得る。

戦いたかったんだけど、矢が使えないので帰還しましたってね。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 22:21:48.62
>>824
>このことから博多湾からの撤退時点では矢がまだ多くあったことがわかる。

持って帰った矢がゼロ本ではなかったから「矢尽」ではない、ような言い方だが、
本当にゼロ本になったらそれこそ大変だ。安全な距離から射て来る敵に対して、
なんの対抗手段もないのだから、軍の全滅の危機だ。

2万の弓手を有する軍が120万本の矢を携行したとしよう。丸一日の会戦で一人が
50本射たとすれば全軍で100万本だ。
残り20万本で翌日も第一日と同じ規模の会戦を戦うことはできないのは明らか。
この状態を「矢尽」と称して、回軍の理由としてもおかしくはあるまい。

とは言え、20万本という絶対数はやはり多い。その大部分が海難で失われたら、
「多有棄失」と書いてもおかしくはないね。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/08(金) 23:48:26.19
蒙古軍の矢が足りないというなら、 日本に上陸する手前で、
蒙古の軍船めがけて放たれた日本軍の矢を集めて束にしとけばいいんじゃないか?

かつての三国志で諸葛孔明が「10万本の矢をすぐに集めます」と言って、
藁人形を満載した船で霧の夜に敵陣の前へ行き、
大量の矢を藁人形で受け止めて帰陣したという逸話があるが
0827日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/09(土) 11:32:12.39
日本の矢と大陸の矢は長さが違うから無理じゃないかな?
こちらは大弓、向こうは短弓だし
0828日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 01:24:02.24
結局負け戦の言い訳だってことだね。
ハナっから武士の鎧には効果がなかったんだな。
0829日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 09:10:45.88
矢が尽き、官軍整わずというのは定型表現の可能性はないかな
0830日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 09:59:54.04
>>828
日本の鎧は隙間が多い。白石勢の中で、首の骨を射通されて死んだ御家人がいたな。
また、人を射なくても馬という大きくて柔らかい的を射れば十分であることは
竹崎季長が実証している。

>>829
「不整」はよくわからないから色々に解釈されているが、現代中国語では
「整」は「全部の、まるごとの」が第一義だ。だからその否定は「揃っていない、
定数に満たない」という意味になる。
元の時代は俗語が一般化した時代だから、漢文が影響を受けている可能性がある。

女真軍の遅参による不参加などで兵数が予定に満たなかったことを口実にした
のではないか?と思う。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 21:12:05.69
>>830
>日本の鎧は隙間が多い。

半可通だなあ
大鎧は騎射戦に特化した鎧であり、これを着て馬に跨ればちょうど四角い箱にすっぽりと入ったようになるんだよ
大腿部は草摺に覆われるので後世の佩楯のような防具も必要ないし、
弓を射るときの腋まわりは鳩尾の板・栴檀の板でばっちりガードされる
両肩には盾代わりの大袖が付き、体をひねって大袖を敵に向けるだけで相当な防御効果がある
顔面ががら空きなのは、騎射戦をするために必要な視界を確保するため、やむを得ずだ
大鎧を見て隙間だらけだと感じるのは素人にありがちな錯覚だという風に藤本正行氏は言っているぞ

>人を射なくても馬という大きくて柔らかい的を射れば十分である

そんなこと言うなら元軍の騎兵にだって馬鎧のようなものは普及していなかったようだし、
歩兵が来ている鎧も日本軍の長大な矢を防げるようには見えないが?
0832日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/10(日) 21:14:50.41
しかし、武士の騎兵突撃は元軍の弓兵部隊で一方的に無力化できると言ってみたり、
武士の従者は馬に追いつけないから戦闘参加できないと言ってみたり、大鎧は隙間だらけだと言ってみたり
元軍圧勝説を頭から信じて疑わないパフォは
元軍に敗北した日本軍は戦術的に劣っていた、いや、劣っていなければならない、
という最初から結論ありきの思考に陥っているのだろう。ここにパフォの固定観念を見る。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/12(火) 18:10:42.07
ブログを見てみた。

元史だけでなく高麗の『益斎乱藁』なる史料にも対馬壱岐と並んで、
「今津攻略」を戦果として強調していることからして、博多戦の元軍の戦果が今津の確保のみだったということを表している。

また、「以糧尽還」という内容も注目に値する。
元軍は博多から撤退した後、壱岐もしくは対馬で1ヶ月ほど長期駐留していた。
元史の矢が尽きた要因は、博多湾から撤退後の暴風雨にあり、また長期駐留により糧食が尽きて撤退した。

元軍諸将は、敗戦の責任を恐れて引くに引けず、対馬や壱岐といった博多よりはるかに安全な島で無駄に日を過ごした。
そして糧食が減ってきたので撤退したのだ。

帰還した諸将は「矢が尽きた(浸水により使い物にならなくなった)」「糧食が尽きた」この好都合な事情を撤退の理由としてクビライに言い訳したとの見方もできる。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/12(火) 20:42:06.72
>>831
>顔面ががら空きなのは、騎射戦をするために必要な視界を確保するため、やむを得ずだ

顔面だけではなく、小袖の襟合わせから喉にかけて全く防御がない。光友又二郎が首の骨を
射通されたのも当然だ。
ここが弱点と認識された証拠に当世具足では首輪という部品がここに追加された。

>両肩には盾代わりの大袖が付き、体をひねって大袖を敵に向けるだけで相当な防御効果がある

弓を引き絞って敵に向かって突撃している時にそんな姿勢が取れるわけだな?

>元軍の騎兵にだって馬鎧のようなものは普及していなかったようだし

基本的に徒歩弓兵編成である元軍と、基本的に乗馬弓兵集団である日本軍の、馬の防御を
較べても仕方がない。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/12(火) 20:45:14.69
>>832
>武士の騎兵突撃は元軍の弓兵部隊で一方的に無力化できると言ってみたり

誰がそんなことを言ったのか。相手が言ってないことを攻撃するのをストローマン論法と言う。
現に、五騎の竹崎勢を一瞬にして無力化した元軍部隊は、百騎の白石勢には抵抗できなかった
ではないか。数のファクターを入れなければ何も言えないのだ。

>武士の従者は馬に追いつけないから戦闘参加できないと言ってみたり

これは確かに言ったが、ストロー君は従者が馬と同じ速度で走って戦闘に参加したと主張する
のかな?

>元軍圧勝説を頭から信じて疑わないパフォは元軍に敗北した日本軍は戦術的に劣っていた、
>いや、劣っていなければならない、 という最初から結論ありきの思考に陥っているのだろう。
>ここにパフォの固定観念を見る。

日本軍圧勝説を頭から信じて疑わないストローは日本軍に敗北した元軍は戦術的に劣っていた、
いや、劣っていなければならない、 という最初から結論ありきの思考に陥っているのだろう。
ここにストローの固定観念を見る。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 02:08:46.80
元の大軍が騎馬兵もろともボロ負けしてるのに必死に武士が苦戦したかのように
印象付けしてるのは在日だから?
矢に毒までぬってて大して被害が出てないのはどう考えるん?w
0838日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 19:06:39.73
>>835

>ここが弱点と認識された証拠に当世具足では首輪という部品がここに追加された。

首輪ではなく喉輪だ。それに喉輪は当世具足の時代に追加されたものではなく、それ以前からある。
そのうえ当世具足では頬当に喉を守る垂(たれ)が付くので基本的に喉輪の必要はない。
こんな短い文章の中で三つも間違いを書いてしまうくらいだから、やはり君は日本の甲冑について語れるレヴェルにない。
入門編として笹間良彦「すぐわかる日本の甲冑・武具」近藤好和「武具の日本史」あたりをおすすめしておく。

ちなみに喉輪の発生自体は鎌倉時代後期といわれているが、普及するのは室町時代に入ってからだそうだ。
思うに騎射戦が盛んな時代では喉輪は弓を引く動作の邪魔になるので好まれなかったのだろう。
当時の武士たちが喉まわりの防御よりも弓の扱いやすさを優先した証左ではないか。
籠手も矢を引き絞る動作の邪魔にならないよう左手にしか付けないわけだしね。

>光友又二郎が首の骨を射通されたのも当然だ。

やたらこれにこだわっているが、根拠がこの程度でよいなら
俺も劉復亨が射倒されたことをもって「元軍の鎧は隙間が多い」説を唱えよう。
もしくは「元軍の鎧は紙装甲」説か。
ともかく、君のような半可通が印象で語るほど大鎧の防御力は低くないよ。
0839日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 19:07:28.30
>誰がそんなことを言ったのか。

言っていないなら撤回する。

>従者が馬と同じ速度で走って戦闘に参加したと主張するのかな?

従者が騎兵と同じ速度を出せないから戦闘に参加できないというのは、
戦車の速度に追いつけないから随伴歩兵など戦闘に参加できず意味はないと言っているのと同じだ。
それに騎兵といっても競走馬のような全力疾走はできない。
フル装備の武士を乗せた馬の速度は人間とそれほど差がなかったともいわれている。
従者が追い付くまでそこまで時間がかかるわけでもないのではないか。
大体、戦闘参加できないなら薙刀を持った従者など連れてくる必要がないではないか。いるだけ無駄だ。

>弓を引き絞って敵に向かって突撃している時にそんな姿勢が取れるわけだな?
>日本軍圧勝説を頭から信じて疑わない

誰がそんなことを言ったのか。相手が言ってないことを攻撃するのをストローマン論法と言う。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/13(水) 19:39:47.32
そもそも和弓の威力に元の鎧が紙だったから逃げまくってたんじゃないの?
じゃなきゃ数は圧倒的なのに元が負けるわけ無いでしょ?w
普通結果に対してどうしてそうなったかの過程を考えるんだけど
全く結びつかない過程をいくら創作しても笑われるだけだよw
0841日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/14(木) 21:57:12.07
>>838 >>839
>当時の武士たちが喉まわりの防御よりも弓の扱いやすさを優先した証左ではないか。

なるほど、顔だけと言っていたのを「喉まわり」まで拡大したわけだな。
私と意見が一致したのは喜ばしい。光友又二郎の首の骨貫通を説明してくれて有難う。

>フル装備の武士を乗せた馬の速度は人間とそれほど差がなかったともいわれている。

ストロー君は従者が馬に追いつけるか心配で、馬の速度の引き下げにかかったか。
大鎧の重さに耐えかねて人間と差がない速度でヨタヨタと突撃する馬。
それじゃ鎌倉武士も形無しだな。

>従者が追い付くまでそこまで時間がかかるわけでもないのではないか。

その通り。従者は「追いつく」ものであり、それまでに「時間がかかる」ものだ。
当然、追いつくまでは戦闘に参加することはできないし、追いついて仕事をするか
どうかは戦闘の状況次第だ。
基本的に従者は「歩兵」ではなく、「馬の世話係」「主人の雑用係」なのだからね。
それが戦場にある手前、自衛のための武器を持っているに過ぎない。
もちろん、主人が倒した敵の首ぐらいちょん切るけどね。

>誰がそんなことを言ったのか。相手が言ってないことを攻撃するのをストローマン論法と言う。

なるほど、言っていないのだな。つまりストロー君が言う防御姿勢を取ったままでは弓を引いて
突撃することはできないということだ。裏返せば攻撃態勢を取れば大鎧の防御力は低下すると
言っているわけだ。光友又二郎もそれでやられたんだろうな。白石勢突撃の図のような態勢を
取っている時に。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 03:14:40.94
>>835
>弓を引き絞って敵に向かって突撃している時にそんな姿勢が取れるわけだな?

試しに弓を引き絞る姿勢してみろよ。
肩が相手方向向いて大袖が上半身をガードする状態になるから。
大鎧は攻撃姿勢の時に防御力が最大になるようにできてるんだよ。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 10:13:32.09
>>842
>肩が相手方向向いて大袖が上半身をガードする状態になるから。

白石勢突撃の図を見てみよ。
弓を引く武士の大袖は両方とも肩の後ろにまくれているではないか。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 10:29:05.82
>>843
白石勢突撃の図を見てみよ。
まさに鎧の塊で全く隙が無い。
だから万単位のモンゴル軍を蹴散らして、戦死1パーセントというほぼ完ぺきな防御力だろ。
忽敦が「いくら戦い慣れてるモンゴル兵でもこれが限界だ」って今津に逃げ込んだのも当然。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 11:14:32.24
>>844
で、大袖はどっちを向いてるの?
0846日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 21:41:32.89
>>841

>なるほど、顔だけと言っていたのを「喉まわり」まで拡大したわけだな。

顔面について特に言及しただけで、それ以外に隙間はないなどと言ったつもりはないが。

>ストロー君は従者が馬に追いつけるか心配で、馬の速度の引き下げにかかったか。
>大鎧の重さに耐えかねて人間と差がない速度でヨタヨタと突撃する馬。
>それじゃ鎌倉武士も形無しだな。

少しも形無しではない。そもそも映画のように騎兵が終始全力疾走しながら矢を射るようなことは少なく、
揺れが少なく狙いが付けやすい速歩や駈歩(小走り)で馬を走らせながら矢を射る方が多かったらしいからだ。
これは日本の武士もモンゴル騎兵も同じだ。それに全力疾走しなくとも、人馬合わせて450kgの騎兵が突っ込めば十分な衝力を生む。

>当然、追いつくまでは戦闘に参加することはできないし、追いついて仕事をするか
>どうかは戦闘の状況次第だ。

以前から思っていたのだが、武士は正面からの騎兵突撃しかできない特攻隊ではないので、
騎兵の機動力を生かして素早く有利な位置に機動できるし、弓射も正面の敵を射る追物射(白石勢突撃の図がこれだ)、
流鏑馬のように側面を射る弓手射、パルティアンショットとして有名な押し捩りなどを状況によって使い分ける。
こうした弓射を使い分けながら敵軍を掻き回せるのが弓騎兵の強みだろう。
従者が追い付けなかったらその間前進をやめて駆け回りつつ矢を射かけたり、押し捩りをしながら後退することもできるのである。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 21:44:15.28
>基本的に従者は「歩兵」ではなく、「馬の世話係」「主人の雑用係」なのだからね。
>それが戦場にある手前、自衛のための武器を持っているに過ぎない。

いい加減印象で語るのをやめて、資料を見てみよう。以下は平治物語絵巻の一部だ。
http://image.tnm.jp/image/1024/C0082227.jpg
http://tokyo-metanoia.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/17/b12041703.jpg
https://pbs.twimg.com/media/CTLMEGFUEAEGRdh.jpg
従者が何人も描かれているが、胴丸に大袖片方を着けて弓を携える者、
薙刀を持ち、胴丸でなく大鎧を着て兜を着用している者までいる。
どうも見ても単なる「主人の雑用係」ではなさそうだ。馬の口取りは別にいる。
特に三枚目のような弓射歩兵がこの頃(絵巻成立は13世紀中頃)すでにいたというのは興味深い。
こうした連中をわざわざ連れてくる以上、馬に乗る武士たちが彼らと連携して戦ったことは言うまでもない。
そもそも、君が言っている従者とは下郎や人夫のことではないのか?俺の言う従者とは家の子、郎党のことだ。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/15(金) 21:44:36.60
>つまりストロー君が言う防御姿勢を取ったままでは弓を引いて
>突撃することはできないということだ。

そんなことは当たり前だ。だから防御姿勢をとりながら接近し、機を見て矢を射かければよい。
そして危ういと見たら大袖を向けて攻撃を防ぐ。大鎧の左側の大袖はずばり「射向の袖」という。
太平記に、新田義貞が「甲突きを透き間なく揺り合はせ、或いは立つ矢を射向に受け留め」たとあり、
義貞は鎧を揺すって透き間をなくし、射向の袖で敵の矢を防いでいたことがわかる。
また平家物語に

...ただ、「射取れや。」とて、中に取りこめ、雨の降るやうに射けれども、鎧よければ裏かかず、あき間を射ねば手も負はず。

とあり、今井四郎はただ一騎で五十騎ばかりの敵に飛びみ雨のように矢を浴びたが、よい鎧は射通すことができず、
隙間を射ることもできなかったので負傷もさせられなかったという。結局今井四郎は討たれず、
最後には主君木曽義仲の討死を聞いて自害している。これは極端な例かもしれないが、
武士たちは大鎧の特性を上手に利用して矢から身を守る術を身につけていたのである。

武具の性能は用法や戦闘様式の違いにも左右されることがそろそろパフォ君にもわかってきたのではないだろうか。
透き間が多い(ように見える)から防御力が低い、と決めつけられるほど単純な話ではないのだ。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/16(土) 21:12:07.24
>>848
>君が言っている従者とは下郎や人夫のことではないのか?俺の言う従者とは家の子、郎党のことだ。

困ったね。家の子・郎党は馬に乗っているのだが。(そして家の子・郎党は「下郎」だ)
竹崎勢も季長と三井資長を除く三人は郎党だが馬に乗っているだろう?

それから私も使った「従者」は必ずしも適当ではない。「所従・下人」のほうが良い。
所従・下人は徒歩だ。もちろん戦場では鎧をつけて武器を持っている。

>>846
>速歩や駈歩(小走り)で馬を走らせながら矢を射る方が多かったらしい

今日、テレビで見た流鏑馬はなんと襲歩(ギャロップ)でやっていたが、まあ実戦は
駆け足(キャンター)だろうね。
ところで馬の駆け足の速度は分速340mと言われている。これをマラソンに換算したら
2時間7分と出た。男子のトップ選手の速度だ。
ストロー君は鎧をつけて武器を持った所従・下人がこんな速度で走れたと主張するのか?

>>847
>だから防御姿勢をとりながら接近し、機を見て矢を射かければよい。

その通りだ。そしてその瞬間に大鎧の防御力が低下する。
いや、必ずしも「瞬間」ではない。普通は二の矢、三の矢・・を続けて射るからだ。
光友の又二郎もその状況でやられたのだろうな。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 08:57:02.93
光友のような司令官でも何でもない武士が戦死したのと、上陸してたった1日で副総司令官が重傷負った元軍では、どちらが不利だったかは自明の理だわな。
0851日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 12:05:51.19
>困ったね。家の子・郎党は馬に乗っているのだが。(そして家の子・郎党は「下郎」だ) 
>竹崎勢も季長と三井資長を除く三人は郎党だが馬に乗っているだろう? 

家の子、郎党、下人、下郎、中間などの定義は曖昧で時代によっても変わるが
上の平治物語絵巻に出てくるような歩卒は
どう見ても非武士身分ではなさそうだ。武装も馬上の武士なみに立派だし、
明らかに戦闘員としての働きを期待されている。

参考までに近藤好和氏によれば、「源平時代の戦士は弓射騎兵と打物歩兵であり、
弓射騎兵が武士とよばれている」が、
「歩兵(打物歩兵)を武士とみるかどうかは研究者の間でも結論が出ていない」。
しかし「打物歩兵も戦士であることは間違いなく、 弓射騎兵と連携して
武士団という集団で活動しているのである」。

それと竹崎勢の主従全員が騎馬という編成は珍しい例だろう
(実際には馬の口取りくらいはいたと思うが)。
0852日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 12:07:36.79
>ストロー君は鎧をつけて武器を持った所従・下人がこんな速度で走れたと主張するのか? 

騎兵と従者が同じ速度で走れるなどと誰がいつ言ったのか。
君は騎兵と従者がよーいドンで徒競走でもすると思っているのか?
繰り返しになるが、武士は上記の従者たちと連携して戦うものだ。
連携できないほど離れてしまったら弓手射や馬静止射をしながら
待つこともできるし、一旦後退してもいい。
もちろん、ここぞというときには白石勢のように騎兵が密集陣形で突撃して
(恐らくは襲歩で)一気に勝負をつけることもあっただろう。
しかし武士たちがいつもそうした正面突撃をやっていたわけではない。

長々と書いたが、要するに
従者などはるか後方に置き去りにしてひたすら全力疾走し、
後退することも知らず特攻隊のように正面突撃一辺倒でたやすく討ち取れる、
そんなチョロい武士などパフォ君の頭の中にしか存在しないということだ。
0853日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/17(日) 16:01:08.66
てつはうって負けっぱなしの元軍が追いすがる武士団に退却用に苦し紛れに使った
武器でおkだよね?
あれで苦戦したとかまともな資料にはどこにも書いてないし。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/18(月) 10:31:07.77
>>851 >>852
>上の平治物語絵巻に出てくるような歩卒はどう見ても非武士身分ではなさそうだ。

そんな文永の役より百年以上前の絵巻を見なくとも、元寇の話をしているのだから
まず蒙古襲来絵詞を見よ。
蒙古襲来絵詞にも所従・下人はかなりの人数描かれているが、大鎧を着て長刀を
持って「はだし」で歩いているような異様な姿の歩卒は一人もいない。

いずれも腹巻などの簡単な鎧を着て兜は被らず、足元ははだしか草履である。
ストロー君はこれらの人たちが「家の子・郎党」だと主張するのではあるまいね?

>それと竹崎勢の主従全員が騎馬という編成は珍しい例だろう
>(実際には馬の口取りくらいはいたと思うが)。

>もちろん、ここぞというときには白石勢のように騎兵が密集陣形で突撃して
>(恐らくは襲歩で)一気に勝負をつけることもあっただろう。


竹崎勢、白石勢ともに「馬の口取り」を置き去りにして突撃したことを認めてくれて
有難う。ここは元寇の話をしているのだから、それで十分だよ。

しかも白石勢は「襲歩」だと言っている。
「フル装備の武士を乗せた馬の速度は人間とそれほど差がなかったともいわれている」
>>839
は撤回するのだな?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/18(月) 11:19:43.52
流石のパフォも文永の役が日本の圧勝だったことについては一切反論しなくなったな
0856日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/18(月) 22:31:36.59
>そんな文永の役より百年以上前の絵巻を見なくとも、元寇の話をしているのだから
>まず蒙古襲来絵詞を見よ。

上で平治物語絵巻が描かれたのは13世紀中頃だと言ったはずだ。
13世紀後半成立という説もあるのでほぼ同時代資料と言え、当時の軍装を知るために絶対に欠かせないものである。
成立年代から考えて平治の乱頃ではなく、絵巻が描かれた当時の軍装が反映されていると思われるからだ。

特に「絵詞」と平治物語絵巻どちらにも胴丸鎧が描かれていることは注目される。胴丸鎧は大鎧と胴丸の折衷様式の甲冑で、
あまり普及せずごく短期間で姿を消した。源義経奉納と伝わる遺品が一つだけ大山祇神社に伝わっているが、
実際には平安時代最末期〜鎌倉時代頃のもので義経死後の作品といわれている。
胴丸鎧が登場する絵画資料は鎌倉時代に描かれた「平治物語絵巻」と「蒙古襲来絵詞」、南北朝時代の「後三年合戦絵巻」だけであり、
このことも平治物語絵巻が鎌倉時代の軍装を反映していることの証左と言えるのではないか。

ちなみに、兜をかぶった重武装の従者は「前九年合戦絵巻」残欠本にも描かれている。
もっとも、重武装だろうが軽武装だろうが近藤好和氏のいう「打物歩兵」が多くいたことに変わりはないが。
「前九年合戦絵巻」には馬上の武士と従者が入り乱れる戦いが描かれている。近藤好和氏のいう弓射騎兵と打物歩兵の連携である。
また蒙古襲来絵詞については全体的に馬上の武士に対して徒歩の従者の数が少な過ぎ、
そのあたりかなり省略して描かれていると思われることも付言しておく。

>竹崎勢、白石勢ともに「馬の口取り」を置き去りにして突撃したことを認めてくれて
>有難う。ここは元寇の話をしているのだから、それで十分だよ。

ときにはそういうこともあるだろう、という意味で認める程度のことが、
君の説のどの部分に重なるのか具体的に教えてくれないか?

>「フル装備の武士を乗せた馬の速度は人間とそれほど差がなかったともいわれている」 >>839
>は撤回するのだな?

なぜ撤回する必要があるのか。
「人間とそれほど差がなかった」とは現代の競走馬と人間ほどには差がなかった、
つまり君のような無知な人が思い浮かべるほどには差がなかった、という意味なんだが。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/22(金) 22:34:14.80
>>856
>13世紀後半成立という説もあるのでほぼ同時代資料と言え、当時の軍装を知るために絶対に欠かせない

元寇の同時代に描かれた保元平治絵巻を見れば元寇の時代の武装がわかる、というのは、
現代に描かれた日露戦争の絵を見れば自衛隊の服装がわかる、というのと同じだな。

なんで、戦闘参加者その人が監修した蒙古襲来絵詞でいけないのか、さっぱりわからない。
その蒙古襲来絵詞を見れば、少弐景資本陣の場面に数人の所従が描かれている。
腹巻をつけ、頭は烏帽子、足ごしらえは裸足または草鞋、武器は一人が太刀を差しているだけ、
つまりほとんど武装していない。
一方、弘安の役の季長出陣場面では二人の所従が描かれ、腹巻、烏帽子、草鞋は上記と同様
だが、二人とも太刀、長刀、熊手などで武装している。

つまり、同じ所従身分の者たちが場合によって「馬の口取り」にもなれば「打物歩兵」にも
なったのだ。
これではストロー君のお気に召さないかな?
0858日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 22:05:55.65
>元寇の同時代に描かれた保元平治絵巻を見れば元寇の時代の武装がわかる、というのは、
>現代に描かれた日露戦争の絵を見れば自衛隊の服装がわかる、というのと同じだな。

当時は現代とは違って時代考証という概念もなかったし、
平治の乱の頃も元寇の頃も大鎧を着て騎射戦をするのが戦いの主流だったので武装、戦闘法ともに大きな違いはない。
一方日露戦争の頃と現代では兵器も軍装も戦闘法もまるで違うので、適切な例えとは言えないな。

それに、平治物語絵巻は上記のように平治の乱の後に発生したはずの胴丸鎧や、平安末期から鎌倉初期発生とされる半首、
同絵巻より前の史料で一切存在を確認できない佩楯や脇当が描かれていること等を勘案すると、
やはり平治の乱当時の軍装を描いているとは考え難いのである。
しかし絵巻が製作された鎌倉時代当時の軍装を描いているとすればそうした描写には何の不自然もないので、
そう考える方が自然だ。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 22:07:42.80
>なんで、戦闘参加者その人が監修した蒙古襲来絵詞でいけないのか、さっぱりわからない。

別にいけないなどとは言っていない。ただ史料の性質上描く必要のなかったものまでは描いていないだろうと言っているだけだ。
例えば大友頼泰の手勢などは十騎に対して徒歩の者が二人しかいないし、君の言う少弐景資本陣の場面にしても、やはり従者の数が少な過ぎる。
竹崎のような小身ならともかく、少弐や大友クラスであの人数の少なさはありえないだろう。
考えてみれば当たり前のことだが、絵詞としては主だった者たちを描いて読み手に理解させればそれでよいわけだから、
従者だの人夫だの乗り換え馬だのまで描く必要はないのである。しかし描かれていないからといってそれらが存在しなかったわけではない。
だから蒙古襲来絵詞と八幡愚童訓だか蒙古記だかだけではなく、もっと広い視野を持って同時代の様々な文献資料、絵画資料、
そして実際の遺品を多角的に調べなければいけないのである。でなければパフォ君のように間違いを犯してしまうことになる。

>つまり、同じ所従身分の者たちが場合によって「馬の口取り」にもなれば「打物歩兵」にも
>なったのだ。
>これではストロー君のお気に召さないかな?

馬の口取りを別に用意できないような小身の者ならそういうこともあっただろうとは思う。
しかし例えば少弐や大友クラスが徒歩の者を馬の口取りや雑用程度の人数しか連れてこないということはないだろう。
0860日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/24(日) 23:00:37.81
結局何が言いたいのか。
大鎧に兜をかぶり、長刀を持って足は裸足の異様な風体の歩卒が、元寇の時の大宰府軍
の中にいた、と言いたいのか?

参考までに言うが、季長の郎党(若党)たちは兜も被らず、腹巻姿だが、足にはちゃんと
沓を履いている。
沓は馬に乗るためだと言うなら、海戦場面の武士たちはもちろん徒歩だが沓を履いている。
そして熊手などで補助している所従たちは腹巻はつけても足は裸足か草鞋だ。
0861日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/25(月) 20:55:09.77
>>860
パフォ君が次から次へと間違った知識を披露するから話が度々脱線しているだけだ。
要点をまとめると当時の日本には弓箭騎兵と打物歩兵がおり、両者が連携して戦っていた。
打物歩兵は「自衛用の武具を持たされただけの雑用係」ではなく、れっきとした戦闘員だった。
大鎧は一見隙間が多そうでも実際には防御力が高い。騎兵はパフォ君が考えるほどチョロくない。
それだけだ。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/25(月) 21:31:37.94
ストロー君が、
1)「打物歩兵」と「武装した雑用係」は別の兵種ではなくどちらも
所従・下人が務めた。
2)家の子・郎党は基本的に弓射騎兵であった。

を認めるなら特に議論の必要はないよ。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2017/09/26(火) 18:31:45.46
>>862
どちらも、研究者の間でさえ見解が分かれることなので明言はできない。
言いたいことは既に言ったので、これ以上議論を蒸し返すことはしない。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/03(火) 09:48:55.20
面白いことに気付いた。
蒙古襲来絵詞の所従たちが履いている履物を「草履」とか「草鞋」とか書いたが、
正しくは「足半」(あしなか)だった。
足半は土踏まずのところまでしかない履物で、構造的には草鞋だが、草履のように
つっかけて履く。だから「足半草履」とも言う。鎌倉時代に出現して江戸時代まで
用いられた。

蒙古襲来絵詞の景資本陣場面や、季長出陣場面に描かれた所従の足元を拡大して
見れば、草履様の履物が見事に足の半分までしかない。足半を履いているのだ。
ひるがえって平治物語絵巻を見れば、裸足の徒卒はいても足半を履いている者は
一人もいない。

同じ時代に描かれたという蒙古襲来絵詞と平治物語絵巻は、「時代」を描き分けて
いるのだな。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/03(火) 14:23:52.26
>>864
蒙古(=元=源氏)襲来が源平の戦い
つじつま合わせるために前後の歴史捏造してる説あり
0866日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/03(火) 14:26:01.19
だから源義経がジンギスカンになった、のではなくて
襲来した蒙古伝説を源氏の猛攻として言い換え、
活躍したのは国祖であるジンギスカン(源義経)と書き換えたんだと考えればつじつまが合う

日本で戦乱起こった時=全部海外勢力が関係
0867日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/04(水) 00:31:40.12
法華ではなく念仏や真言や律や禅などの邪教がはびこるようになったので仏罰として外国(元)が攻めてきたという説もある
0868日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/04(水) 12:00:01.27
>>864
履き物の違いは単に町中(平治)と野外(蒙古)の違いでは?
0869日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/06(金) 09:58:05.28
>>868
町中で足半を履かない理由は?
0870日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/06(金) 12:03:49.66
>>869
野外ほど道が悪くなくて必要ないからじゃないの?
一遍上人絵伝や法然上人絵伝でも町中の裸足の人たちが大勢描かれてるよ
0871日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/07(土) 11:13:06.86
>>870
>一遍上人絵伝や法然上人絵伝でも町中の裸足の人たちが大勢描かれてるよ

これは私が「鎌倉時代には全ての人が履物を履いていた」と主張しているかの
ように見せかけたもので、ストローマン論法の典型的な手口だ。

私が主張しているのは、「蒙古襲来絵詞には足半を履いた徒卒が多数描かれて
いるが、平治物語絵巻には一人も描かれていない。これは後者を描いた絵師が
平治のころは足半が普及していなかったという時代性を表したのではないか」
ということだ。

「町中だから履いてない」と理由を考え付いたところで、「平治のころにも足半は
あった」と証明したことにはならない。
町中でも田舎でもいいから、足半を履いている平治のころの人の絵を、一人でも
見つけてくればそれでいいのだよ。
0872日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/07(土) 17:55:56.75
>>871
なんでそんなに攻撃的なんだ?
勝手な妄想でストローマンがどうとか騒ぎだして気持ち悪い奴だな。んなつもりねえっての
0873日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/07(土) 21:22:32.57
なんだ、ストローマンの名手ストロー君じゃなかったのか
0874日本@名無史さん
垢版 |
2017/10/26(木) 09:35:46.03
元寇イベントきたぞ

元寇ニュースはどんどん貼ってくれ

【水軍】元寇で奮戦した松浦党を称える祭り「松浦水軍まつり」10/28、10/29長崎県松浦市で開催
http://egg.5ch.net/test/read.cgi/ticketplus/1508157794/
松浦市は元寇(文永の役、弘安の役)終焉の地であり、この元寇に際して
勇んで戦い、郷土を守った松浦党を讃えるまつり。武者行列や山車パレードのほか、
多彩なステージイベントや物産展が催される。近年は「出張!まつうら食堂」と題し、
魚介を中心とする地域の新鮮な食材を活かした「松浦らしい食」を提供する
イベントを盛り込んでいる。

開催場所
松浦市役所周辺
開催期間
2017年10月28日(土)?2017年10月29日(日)
0876某研究者
垢版 |
2017/11/01(水) 23:45:22.52
>>830
>日本の鎧は隙間が多い。白石勢の中で、首の骨を射通されて死んだ御家人がいたな。

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562349982/
上は大鎧を装備して馬上で弓を射る直前の画像だが
弓をやや上に向けた場合は左方向からの射撃であれば
首では無く腕に矢が命中する可能性も高いのかだが
首後部はシコロで塞がっている様に見えるし
障子板でも幾らかは止まるかも知れぬが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562349986/
上の様に弓を水平に向けた場合は左方向でさえ
首を腕で完全に覆う状態では無いかも知れぬが
命中率は可成り低下するのかだが
0877日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 06:12:46.77
元寇の海域あさりまくって遺物を売ったらおいくらになるかな

元寇の遺物として売り出したら日本モンゴル中国韓国で国宝や重文になりそう
0878日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 07:28:35.89
海面から引き上げた時点でぼろぼろになるから、売るのは無理だね
近年見つかった船も引き上げるより、保存措置に手間取ってる
0879某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 12:06:15.66
>>876
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880871/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880871/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561159792/
元寇のモンゴル軍の主力である
宋の鎧にも首に装甲は無いと言う事なのかだが
胸上部には装甲は多いとは言えるだろうか
https://www.pinterest.jp/pin/322781498275110885/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350837/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350834/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561254587/
モンゴル軍の鎧には首に装甲が有る様に見える物と
無い様に見える物が有るが
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/DiezAlbumsMountedArchers.jpg
上の14世紀の絵では左に首装甲が有る様に見えるモンゴル系兵が書かれているが
常に装備される物では無いと言う事なのかだが
0880某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 12:07:07.51
>>831
>そんなこと言うなら元軍の騎兵にだって馬鎧のようなものは普及していなかったようだし、

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/DiezAlbumsMountedArchers.jpg
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562351286/
14世紀の絵にはモンゴルの馬鎧は
余り書かれていない様に見えるが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562351206/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350845/
上の様な物なのかだが
モンゴルの馬鎧が大量に書かれる例は16世紀等のペルシャの細密画には有るが
兵も含めペルシャ兵と全く同じ様な格好で書かれているから
リアルなのかだが
日本の馬の場合は
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/209294824?size=1024#content
上の様な厚総・小総で馬を防護する例も有るだろうが
装備率は絵ではそう高くは無い様にも見えるし
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562357612/
蒙古襲来絵詞では装備しているのは何故か上の兵だけだが
http://image.tnm.jp/image/1024/C0082227.jpg
平治物語絵巻では装備率はそれなりには有るだろうか

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561015436/
宋の重騎兵には馬鎧は完備されている可能性も有るだろうが
日本には余り来ていないと言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562357888/
金の重騎兵も馬に装甲は完備されているかも知れぬが
こうした騎兵もモンゴルの余り馬に装甲の無い様な騎兵に
敗北している訳だろうか
0881日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/02(木) 12:29:27.43
>>875
やっぱりガイジンに作らせると江戸時代の甲冑(ぱっと見たところ)に
江戸時代の剣術で戦うことになるんだな
0882某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 13:05:44.67
>>830
>日本の鎧は隙間が多い。

>半可通だなあ
>大鎧は騎射戦に特化した鎧であり、これを着て馬に跨ればちょうど四角い箱にすっぽりと入ったようになるんだよ
>大腿部は草摺に覆われるので後世の佩楯のような防具も必要ないし、

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562349982/
上を見る限り大腿部は覆われないだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561536083/
蒙古襲来絵詞とほぼ同時期の平治物語絵巻では
佩楯を装備する兵も一部居るが
現実の装備率はどうなのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E5%B0%9A#/media/File:Ashikaga_Yoshihisa.jpg
上の足利義尚の絵の様に袴内部に佩楯が仕込まれる例は
この時点では未だ無いと言う事なのかだが
0883某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 13:07:44.54
>>831
>弓を射るときの腋まわりは鳩尾の板・栴檀の板でばっちりガードされる

http://www.marvellouswings.com/Kattyuu/Review/Review.html
>鳩尾板、栴檀板は弓を引いた際、刀を振り上げた際に側面を向き鎧の隙間を守る、という説がりますが、実際に弓を引いてみてもそのような挙動は示さないため、
>杏葉と同じく単に高紐を守るためのものだったのではないか?と推測しています。
>押捩りの写真を見いて(2枚は別々の日に撮ったものです)、鳩尾板が胴の隙間をカバーしていること気が付きました。

鳩尾板が脇を防護するのは後方を射撃する際のみなのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562358154/
通常は上の様な動きは無いと言う事なのかだが
紐を守るだけなら下に長くする必要は有るのかだろうし
打物の防護も考慮した可能性は有るのかだが

https://pbs.twimg.com/media/CTLMEGFUEAEGRdh.jpg
平治物語絵巻に脇引の様な物を装備した歩兵が居るが
此れは騎馬武者は装備したのかだが


>顔面ががら空きなのは、騎射戦をするために必要な視界を確保するため、やむを得ずだ

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561536083/
半首なら騎馬武者にも装備される例も有るが
平治物語絵巻以外では見ないだろうか
0885某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 14:47:59.49
>>883
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/bugu/img/pic30_r.jpg
13世紀末の前九年合戦絵巻でも
半首装備の騎馬武者は居るだろうか

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562358694/
上の様な大袖の使い方では
正面限定では有るが目迄防護されているのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562358791/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562358815/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562358828/
余程の集中射撃或いは至近距離の射撃でも受けぬ限り
上の様に目或いは顔が出ている例の方が多いのかだが
0886某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 15:03:16.86
http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/228734457
大鎧の草摺の隙間も上の太平記に記述の有る兵の様に
胴丸を下に装備すれば塞がるだろうが
此処迄の装備をしている兵が元寇では居たのかだが
高威力の弩を止める為等に一部の者が装備した例は有るのかだが
腹当を大鎧の下に装備する例も有ったかも知れぬし
http://www.takatsuprops.com/catalog/images/g1-10.jpg
上の様な物なら草摺の上部の隙間なら埋まるかも知れぬが
http://photozou.jp/photo/show/2955921/174726362
http://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/bunkazai/summary.asp?mid=70097&;pid=
gs_ch&svalue=&bloop=&mloop=&floop=&shicyouson=&meisyou=&shitei=&kubun=&syurui=&jidai=&loopcnt=&m_mode=&m_value=&m_loopcnt=
腹当も草摺がほぼ無い様な物も有るだろうか


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%82%E7%94%B2
>馬上鎧である大鎧においても、その弦走の下に腹当といった軽装甲を着用する事例はあるが、この場合、種類が異なる甲での重ね着である。

>『日本書紀』の記述として、飛鳥時代、壬申の乱(7世紀末)時、「大分君稚臣(おおきだのきみ わかみ)という勇士が、矛を捨て、
鎧を重ね着して、刀を抜いて(以下略)、射られながらも敵陣に突入した」といった記述があり、挂甲によって鎧の重ね着が可能となった事が分かる最初の記事である
(重ね着をする事によって、余計なものを持たずに突入する戦法の先例でもある)。

7世紀に挂甲を重ね着した例が有るなら
鎌倉期でも強弓を使う者等に対する場合は
装甲が重ねられた可能性も有るのかだが
0887某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 15:55:53.27
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561159792/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880171/
https://www.pinterest.jp/pin/495607133963879999/
宋の鎧も草摺・佩楯後部は装甲は無い例も有る様に見えるし
https://www.pinterest.jp/pin/7881368074128369/
右の物は割に後部も塞がるが
塞がらぬ物は後方から射撃を受けると脆いのかだが
胴上部の装甲は二重であるなら簡単に貫通するのかだが
矢に重量の割に防御力の高い皮や漆は使用は無い訳だろうし
大鎧も鳩尾板・栴檀板部分は二重である訳だろうか
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561159792/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561015436/
宋の騎兵は胸部に板金の護身鏡が有る様に見えるし
この部分の打物に対する防御力は有るだろうが
歩兵用の歩人甲に此れは有る例を今の所見ないが


大鎧も刀で対した時正面と成る右脇の壺板部分や
胸上部は板金だろうし
袖の上部も板金で
板金の直下の鉄が混ざる小札は鋲で固定されているから
この部分の耐衝撃性は有ると言う事なのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562359330/
上の大鎧の赤い部分は板金
青い部分は板金に鋲で固定される小札だから
固定的かも知れぬが
緑の部分は恐らく皮札のみだろうし
紫の部分も皮かも知れぬが 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
0889某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 16:57:43.41
鎌倉期の小札は胴体正面部分以外は
恐らくほぼ皮だろうが
分厚く固めた計7mm等の二重の練皮は
宋の歩人甲の小型化したと言う小札と防御力は
差は有るのかどうかだが
弓に対しては同等重量なら
練皮札の方が防御力は高いと言う事なのかだが

https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/108574.jpg
蒙古襲来絵詞では大鎧の脇板は無いと言うし
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562359473/
上の平治物語絵巻でも同様だろうが
https://pbs.twimg.com/media/CTLMEGFUEAEGRdh.jpg
上の平治物語絵巻に有る
脇引の様な物が装備された例は無いのかどうかだが
蒙古襲来絵詞の歩兵の胴丸には脇板は数例は有ると言うが
装備率はどうなのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560871349/
鉄小札を仕込んだブーツもモンゴルには有るが
板金の日本の脛当より打物に対する防御力は無く
刀をまともに受ければやられる可能性も有るのかだが
こうした物は歩人甲にも有るのかだが
0890某研究者
垢版 |
2017/11/02(木) 21:50:18.21
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#/media/File:The_armor_of_a_Mongolian_army.JPG
上のモンゴルの12kgの鉄鎧は清の鎧に似ているし
清の鎧の可能性も有るのかだが
宋の歩人甲は30kg超も有ると言うから
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350834/
上の様なモンゴルの指揮官用鉄鎧はこの程度有る可能性も有るのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#/media/File:The_armor_of_a_Mongolian_army_(2).JPG
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350845/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350837/
主力の上の様な皮鎧は25kgの大鎧よりは軽い可能性が高いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562360099/
綿襖甲の鉄小札は7cm四方等と大型だが
この時点では一部の雑魚兵用と言う事なのかだが
大型の小札も日本の場合は8×9cm等の三目札も
平安後期には有る様だが
元寇時にも三目札は有る様だが小型化はしたのかだが
何れにせよ数は無いと言う事なのかだが
大鎧も分厚い三目札使用で下に腹巻や胴丸を重ね着し
佩楯を装備し半首を装備すれば
30kg超には成る例も有るのかだが


https://kotobank.jp/word/%E9%87%91%E8%83%B4-465137
>かな‐どう【金胴/▽鉄胴】
鎧(よろい)の胴の一。鉄板を蝶番(ちょうつがい)で合わせた胴。鉄板の表面を布帛(ふはく)で包んだ錦(にしき)包みや緞子(どんす)包みがあり、鎧の下に着用した。

>かなどう【金胴】
鎧よろいの胴の一。鉄板を矧はぎ合わせた四枚の板を蝶番ちようつがいでつないだ胴。後世の、最上胴もがみどう。

太平記に出て来るかも知れぬこうした最上胴・桶側胴的な鎧は
対打物用であるから未だ無いと言う事なのかだが
0891某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 13:21:20.71
https://www.pinterest.jp/pin/322781498275110885/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350837/
モンゴルの兜のシコロも強度は上の様な構造では
余り無いと言う事なのかだが


鎌倉期の兜の吹返部の場合は
2重で計6−7mm以上の練皮札が
二重の12mm等に成っているかも知れぬし
頭部とのスペースも有るから
この部分は弩でも貫通出来るのかだが
シコロの一段目は鋲止めであるから固定的であるかも知れぬが
鉄札はこの時点では入るのかだが
下部も首とのスペースはそれなりに有るだろうか

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562370329/
上の様な形で練皮札とは言え吹返が両断される事は
モンゴル等の片手剣では基本的に無いのかだが
メイスや斧の打撃にはどうなのかだが
片手剣相手なら顔部側面への攻撃や
肩や胸部への上方からの斬撃は一部防げると言う事なのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880871/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350837/
宋やモンゴルの兜も
顔側面に板金が仕込まれる物は有るが
肩や胸部への斬撃は防げないと言う事なのかだが
0892某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 14:40:17.41
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561015436/
宋の重騎兵も槍騎兵は弓は無いのかだが
弩騎兵も居るが
弓騎兵が多いと言う事なのかだが
日本には余り来ていないと言う事なのかだが

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%AF%87#.E9.A8.8E.E9.A6.AC.E5.85.B5
>『蒙古襲来絵詞』絵八の麁原に陣を布く元軍の騎乗率は約17%で『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥・劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」[181]とあり、騎乗率を約15〜17%ほどとしている。

>元軍の構成は軍船の総数が240艘で、1艘につき兵300人、水夫70人、軍馬5匹であったとしている

文永の役のモンゴル軍の兵は72000で
軍馬は1200であるなら
騎兵は1200以下なのかだが
集中運用は何処迄されたのかだが
騎兵の比率は17%等は無く
1.6%以下と言う事なのかだが
0893某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 14:52:05.53
>>892
文永の役で日本に来たモンゴル兵は
72000等は居ないだろうが

>『高麗史』金方慶伝によると、蒙漢・高麗連合軍39,700が女真軍の到着を待ったとあり、蒙漢・高麗連合軍39,700の他に女真軍が存在したとしている。

39700に加え女真兵を入れたら
72000程度には成ったのかだが
日本に来た39700の内騎兵は1.6%以下とすると
最大でも630程度であり
替え馬の存在を考えれば更に小数である訳だろうか
モンゴル騎兵の替え馬は2−6頭と言う意見も有るし
船1艘に馬は5匹と言うから
騎兵は1名しか居ない可能性も有るのかだが
此れが正しいなら文永の役では最大240名しか居ない事に成るだろうし
騎兵は指揮官級の100名程度しか日本に来なかった可能性も
有るのかどうかだが

>『八幡愚童訓』でも元軍の左副都元帥・劉復亨と思われる人物の共廻りの記述に「十四五騎うちつれ、徒人七八十人あひ具して…」

等と有るから高位の指揮官の船のみは
騎兵の比率が多い可能性も有るのかだが
0894某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 16:41:27.14
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561159792/
下の宋の騎兵には籠手は無いが上の騎兵には有るが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562179430/
上の兵にも籠手は有るが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350834/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562350845/
モンゴル騎兵の場合指揮官以外は籠手は無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562351121/
上の様な14世紀の絵だと籠手は無い様に見えるが
大鎧でも右腕には籠手は無いし
雑魚兵も両籠手は完備では無いだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562371670/
上の蒙古襲来絵詞の船上戦闘では
刀を通常とは異なり籠手の有る左手を前にして構えている者も居るし
此れは槍で腕を突かれる率を減らす為なのかだが
薙刀装備の騎馬武者も居るが此れも槍に対抗する為なのかだが
馬上ではこうした事は未だモンゴル軍槍騎兵が極度に少ない事も有り
無いと言う事なのかだが
0895某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 16:43:37.13
日本軍にはメイスや斧の様な重量武器は無いと言う意見も有るが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AA%E5%88%80
>治承・寿永の乱について書かれた軍記物語である『源平盛衰記』には、畠山重忠が用いた太刀として「身巾四寸(約12cm)長さ三尺九寸(約120cm)」の太刀である「秩父がかう平」や
武蔵国綴党の大将である太郎、五郎の兄弟が帯刀していたという「四尺六寸(約140cm)の太刀に熊の皮の尻鞘[2]入」が記述されており、当時既に三尺を超えるものがあったことが伺われる。

大太刀も恐らく元寇以前成立の源平盛衰記に
140cmの物等の記述が有るし
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562371864/
上の秩父かがう平の様な幅広の柳葉刀的な大太刀も少数は有るのかだが
平教経も大太刀・大薙刀を装備している記述も有るが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561536080/
平治物語絵巻の上の騎馬武者の抜こうとしている刀の鞘は
腰に固定されていない様に見えるし
腰に固定されない大太刀を抜こうとしている可能性も有るのかだが


大薙刀は最大でどの程度の物が有るのかだが
http://www.nihontou.site/iwatoushi
>刃の部分だけでも三尺五寸、つまり1メートル以上もあったと言われる岩融には、平安時代の名匠・三条小鍛冶宗近の銘があったそうです。

等と有るが此れは鎌倉期には記述は無いと言う事なのかだが


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%A0%95%E6%A3%92
金砕棒は南北朝期からの登場なのかだが
0896日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 16:58:59.02
大太刀みたいな巨大武器ブームは強者自慢も兼ねるだけじゃなくロマンがあっていい

デカイと威嚇にも使えるだろうな
バテやすいのは難点か
0897某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 18:35:54.67
>>896
>デカイと威嚇にも使えるだろうな
>バテやすいのは難点か

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561536068/
大太刀も上の様な形で馬の力を利用して何発か斬り込み
疲労したら軽い武器で戦うか
疲労回復迄他者と代わると言う様な方向も有るのかだが
下馬しての利用では馬の力は使えないだろうが
似た様な運用と成るのかだが
大太刀や大薙刀を振るい疲労した後
軽く長い小薙刀を使うと言う様な方向も有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562372380/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562372381/
恐らく元寇以前成立の平治物語絵巻に槍にも似た小薙刀的な物も有るが
何処迄使われたのかだが
疲労したらこうした物に持ち替えて戦う例も
元寇時点でも下馬してなら有るのかだが


http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/heike/5/359.html
>矢種が尽きると、黒塗の大太刀と、白柄の大長刀を左右に持ち、さんざんに源氏をなぎ倒して回りました。

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561147596/
平教経が用いたと言う上の様な大太刀と大薙刀の二刀流等も
平家物語成立(1221年)迄には有るのかだが
新田義貞の様な刀の二刀流は未だ無いと言う事なのかだが
0898某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 19:03:53.51
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561131576/
蒙古襲来絵詞では
歩兵の熊手も出て来るが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562372555/
春日権現験記絵では騎馬武者が此れを馬上使用しているが
鎌倉期でも下馬した騎馬武者が此れを使う例は有るのかだが
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_02035/ri05_02035_p0024.jpg
http://katycom.info/museum/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%81%A7%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%99/
上の14世紀成立の前九年合戦絵詞では下馬した騎馬武者
(袖が恐らく無いから下位の者か)が熊手を用いている様にも見えるし
下位の者等なら使う可能性は有るのかだが


https://www.pinterest.jp/pin/343610646561131339/
平治物語絵巻には薙鎌も出て来るが
此れは下馬した騎馬武者は果たして使うのかだが
0899某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 19:26:06.47
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562372804/
元寇時には上の赤い部分の脇板が基本的には無いだろうが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561536085/
上の様な脇引が装備される例は騎馬武者では有るのかだが
胴丸に脇板は装備される例ならこの時点でも有ると言うし
大鎧の下に脇板装備の胴丸が装備される例も有るのかだが
脇板装備の腹当が装備される例は有るのかどうかだが
0901日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 20:22:32.70
>>900
支那の鎧はキルティングに金属の鋲打ったのが主流で、
短弓の矢は防げても弩の直撃にはむりょくだから、
胸に円護という金属の円盤つけてたでしょ。
0902某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 20:55:38.64
>>901
唐の時代では鉄札+板金の護心鏡だろうし
護心鏡は恐らく打物対策だろうが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562373222/
宋の騎兵も此れは残るが
歩人甲に有る例を見ないが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562357888/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562359082/
金やモンゴルの鎧にも護身鏡は基本的に無いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562359077/
右上の金の物には有るのかだが
0903某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 21:27:57.96
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%90%BA%E3%83%8F
この種の三叉槍も宋の騎兵は装備している例は見ないが
明時代の登場なのかだが
http://arms.cybrary.jp/db/longhandle/polearms/goulianqiang.html
モンゴル兵が上の鉤鎌槍に似た武器を持つ現代のイラストも有るが
14世紀の絵では見ないが
宋の騎兵にも此れは有るのかだが
歩兵にも日本の歩兵の熊手や薙鎌よりは此れは多いのかだが
http://arms.cybrary.jp/db/longhandle/polearms/fangtianhuaji.html
上の方天画戟も余り使われていないと言う意見が多いが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248590/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248736/
上の様なフックの様な武器を大量に装備する兵が明代の絵に有るが
宋の時代ではどうなのかだが
0904某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 22:03:35.99
https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&;illust_id=7739881
>混天截
方天画戟を改造した様な此れも
http://flamboyant.jp/prcmini/prcbook/prcbook041/prcb041.html
元末ー明初の小説・残唐五代史演義のみの物なのかだが

http://arms.cybrary.jp/db/impact/flail/changshaozi.html
上の長梢子及び騎兵用の短梢子を兵が装備している絵を見ないが
果たして何処迄使われたのかだが
0905日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/03(金) 22:37:49.03
昔の大太刀と言えば橋合戦

五智院の但馬(矢切りの但馬)装備:大長刀(太刀・長刀→長い 大長刀→もっと長い)
『大長刀の鞘をはづいて、唯一人橋の上にぞ進んだる。
平家の方には、これを見て、「唯射取れや射取れ」とて、差攻め引攻めさんざんに射けれども、但馬少しも騒がず、揚がる矢をばつい潜り、
降る矢をば跳り越え、向つて来るをば長刀にて切つて落す。敵も御方も見物す。其れよりしてこそ、矢切の但馬とは云はれけれ。』←命懸けの矢切りをまさかの敵味方ともに見物

一人当千の兵者 浄妙明秀
(装備:黒皮威の鎧、五枚甲の兜、好む白柄の大長刀、黒漆鞘の太刀、塗籠藤の弓) ←黒い鎧に白くデカイ日本刀というド派手

「遠からん者は音にも聞け、近からん人は目にも見給へ。三井寺には隠れなし、堂衆の中に筒井浄妙明秀とて、一人当千の兵ぞや。我と恩はん人々は、寄り合へや、見参せん」
『弓で12人射抜き11人負傷させる。さらに長刀で向かってくる敵を5人なぎ倒し(薙ぎ倒す→切り伏せる)、6人目の敵に会って長刀は真ん中から折れた
そこから先は太刀を抜き四方八方切りつけさらに8人斬り倒し、9人目で折れた』
0906某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 22:49:00.14
https://www.pinterest.jp/pin/343610646560880871/
宋の兵も直剣装備が多いのかだが
柳葉刀は既に有るだろうが
明時代に有る様な細い腰刀は有るのかだが
https://www.flickr.com/photos/chinese-history-and-art-museum/3555500543
李公麟(1049年 - 1106年)が書いた絵に
細い曲刀も書かれているが
この時点では直剣も多いのかだが
https://www.flickr.com/photos/chinese-history-and-art-museum/3555500485/in/photostream/
方天画戟や二郎刀も有るが
現実に運用されたのは大半は槍と言う事は無いのかだが
0908某研究者
垢版 |
2017/11/03(金) 23:05:50.43
http://santalab.exblog.jp/19925995/
>ここに五智院ごちゐんの但馬たぢま、大おほ薙刀なぎなたの鞘を外はづいて、ただ一人いちにん橋の上うへにぞ進んだる。
平家の方にはこれを見て、「ただ射捕れや射捕れ」とて、差し詰め引き詰め、散々に射けれども、但馬少しも騒がず、上がる矢をばつい潜くぐり、
下がる矢をば踊をどり越え、向かつてくるをば薙刀にて切つて落とす。敵かたきも御方も見物す。それよりしてこそ矢切りの但馬とは言はれけれ。

等と有るが原点でも確実に
大薙刀と言う解釈はされているのかだが
0909某研究者
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2017/11/03(金) 23:13:10.57
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD
>弓の攻撃で敵軍が混乱すると、全身甲冑を着け刀剣(サーベル)、鎚矛(メイス)、戦斧、槍を手にした重装騎兵を先頭に突撃が行われ、敵軍を潰走させた。

と有るがモンゴル騎兵がメイスや斧を持つ例は
16世紀等のペルシャの絵画にしか無いかも知れぬが
宋の騎兵はこうした物を
装備している絵は見ないが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561239380/
明時代の騎兵なら有るだろうか
0910日本@名無史さん
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2017/11/04(土) 00:33:34.93
>>908
絶望したー!
原文どうだっけ?大長刀じゃなかったっけ?
戦場で鞘をはづく状況なら刀だと思ったのだけどな
面倒だけど図書館寄るか
0912某研究者
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2017/11/04(土) 12:00:13.06
>>911
>あと碓井貞光の大鎌も

https://www.pinterest.jp/pin/343610646561131339/
此れは上の様な薙鎌なのかだが
陣鎌の大型の物の可能性も有るだろうが
この時点で陣鎌等は有るのかだが
https://kotobank.jp/word/%E9%8E%8C-46504
上に有る様な草刈大鎌の可能性も有るのかだが
https://en.wikipedia.org/wiki/War_scythe
上の欧の戦闘用鎌の様な物は日本には無いと言う事なのかだが
0915某研究者
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2017/11/04(土) 14:06:58.08
雄山閣 日本甲冑の基礎知識に 
平治物語絵巻に座板が2枚の初期の筒籠手が有ると有るが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562376123/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562376129/
此れは上の物なのかだが 
見えない部分の腕の内側に3枚目の座板が有る可能性は無いのかどうかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562376130/
此れも平治物語絵巻だが 
座板が3枚の筒籠手が有る様にも見えるが 
横幅は余り無いから違う可能性も有るのかだが

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562383828/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562383835/
蒙古襲来絵詞にも筒籠手らしき物は有る様に見えるが
こうした物も元寇時点では余り数は無いのかだが

蒙古襲来絵詞には篠籠手も有ると居う意見も有るが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562383845/
此れは上の物なのかだが
袖の有る騎馬武者での装備は今の所見ないが
継ぎ目が多く矢を防ぎ難い安物と見られていたのかだが
0916某研究者
垢版 |
2017/11/04(土) 14:32:14.83
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562383954/
1347年成立の後三年合戦絵詞では上の様な籠手しか無い様に見えるが
此れはやや幅が広いし
筒篭手を表現している可能性も有るのかだが
この時点では打物戦に対応して
こうした物が標準と成ったのかだが
佩楯は絵の形式で書かれていないと言う事なのかだが
0917某研究者
垢版 |
2017/11/04(土) 15:03:32.81
13世紀成立の男衾三郎絵詞には
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562384228/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562384245/
上腕部に3枚の鉄板が有る様に見える篭手が有るが
此れは筒篭手なのかだが
篠篭手を簡略化して書いた物の可能性も有るのかだが
https://i.pinimg.com/originals/60/81/e9/6081e9fda6a1f7d9d5bdffe5d312f6c6.jpg
上の篭手は上腕部には2枚の鉄板が有るタイプなのかだが
前腕部は3枚有る可能性も有るのかどうかだが
0919某研究者
垢版 |
2017/11/04(土) 18:00:03.90
https://blogs.yahoo.co.jp/mokunosuke01/12659643.html
篭手で相手の刀を受けて攻撃と言う様な戦法は
平安期には果たして有るのかだが
こうした攻撃は宋の籠手の無い一部兵では無理と言う事だろうか
小薙刀や熊手・薙鎌を掴むと言う様な攻撃が有るなら
槍も掴め得るのかだが
袖を前に回しての打物等の防御と言うのは
大袖では果たして出来るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/421297740119992647/
上がそう言う事をしている場面と言う意見も有るが
此れは江戸期以降の絵だろうか

https://www.pinterest.jp/pin/343610646562385396/
頭を敵に対し横にして吹返で矢を止める例も有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562358694/
上がそうした事をしている場面なのかだが
とは言え下馬時は矢の防御には
盾を利用するのが基本と言う事なのかだが

元軍の槍の防御に盾が利用された例は有るのかだが
http://image.tnm.jp/image/1024/C0019138.jpg
後三年合戦絵詞だと騎馬武者が盾を持っている様に見えるが
攻城戦の至近距離から等の射撃には
雑魚兵では盾を支えられない故と言う可能性も有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562362330/
春日権現験記絵では歩兵も盾を持っているが
0920某研究者
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2017/11/04(土) 18:04:12.77
槍を盾の間にあえて突きこませ拘束している間に
刀等で槍を斬る等と言うのも漫画等で有ったかも知れぬが
現実に使われた手なのかだが
元軍槍兵が下がり大刀兵が出て来て
盾を割ろうと試みる可能性等も有るのかだが
そう成った場合は通常の白兵戦は必至と言う事なのかだが
薙刀と似た大刀には日本兵は慣れている訳だろうし
http://tokyo-metanoia.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/04/17/b12041703.jpg
上の日本の薙刀の様に柄をガードする蛭巻は大刀には有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248590/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248736/
明時代の絵の大刀は上の様な感じで巨大だが
https://twitter.com/Chinaswordbot/status/919400362791944192
実物は2m・6kg程度なのかだが
柄補強は無いと言う事なら
此処を切断されてやられた例も多いのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562385643/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562385642/
ソケット式では無く茎式では有る様だが
茎の長さは刀身の半分以下程度と言う事なのかだが
0921某研究者
垢版 |
2017/11/04(土) 18:39:37.37
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248590/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248736/
上の明時代の絵の歩兵用大刀には鈎は無いが
絵の簡略化で無い可能性も有るのかだが
歩兵用であるならコスト削減の為に無い可能性も有るのかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646561202330/
https://1.bp.blogspot.com/-sBxSEaCf5rI/V007kc0lHNI/AAAAAAAAC1E/7QEXgowmbP4kPui2p-qS_Xgp2NiWXqtnwCLcB/s1600/Ming_lamellar_coat_cavalry.jpg
騎兵用大刀には有る例と無い例が有るが
歩人甲を装備している精鋭歩兵なら
鈎付きの大刀を装備する例も有るのかだが
鈎は何処迄役に立ったのかだが
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%88%80_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%99%A8)#/media/File:%E5%AE%8B%E4%BB%A3%E5%88%80%E5%85%AB%E8%89%B2%E8%88%87%E6%98%8E%E4%BB%A3%E5%88%80%E5%99%A8.png
宋の時代に敵を掛けるタイプの鈎の有る鈎鎌刀も有るが
数は何処迄有るのかだが

大刀も南宋初期からの運用なら
元軍の旧宋の騎兵は此れを装備していない可能性も有るのかだが
https://www.flickr.com/photos/chinese-history-and-art-museum/3555500485/in/photostream/
宋時代の上の絵を絵を見る限り
二郎刀や方天画戟なら装備している可能性は有るのかだが
0922某研究者
垢版 |
2017/11/05(日) 12:53:18.08
革鎧を装備するモンゴル重騎兵も武器は刀+弓が大半で
槍は小数なのか
メイス・斧・鈎付き槍は使用せぬ可能性も有るのかだが
日本に来ていたのは鉄鎧を装備する指揮官だけと言う
可能性も有るのかだが
彼等は槍等は無いと言う事なのかだが

旧宋の歩兵装備は
槍・大刀が大半であり
明時代の絵に有る様なフックも使われるかも知れぬが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562190441/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248589/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562203326/
上の様な藤牌兵は居るのかだが
方天画戟や多節棍を使用する兵は居たとしても小数なのかだが


http://www.geocities.jp/fukura1234/rekisi/100/083.html
>金軍は黄天蕩(南京付近)から渡河しようと思うのですが、韓世忠は海上用軍艦の艦隊の大きさを利用して、兵士に鈎のついた鎖を使って、金軍の小船をひっかけて転覆させました。

こうした攻撃は江南軍等はしたのかだが
失われた戦術と成っていたのかだが
0923某研究者
垢版 |
2017/11/05(日) 15:53:06.00
蒙古・漢軍も漢軍は
旧北宋の歩兵が大半であり
彼等は南宋初期から配備されたと言う
大刀の装備は無いと言う事なのかだが
同種の二郎刀の大量装備は有るのかどうかだが
0924某研究者
垢版 |
2017/11/05(日) 15:55:44.48
旧北宋兵も金・モンゴル兵傘下と成り
南宋兵と戦闘した影響で
大刀を取り入れている可能性も有るだろうが
此れは基本的に対騎兵用の武器だろうから
対南宋では果たして使用されるのかだが
0925某研究者
垢版 |
2017/11/07(火) 20:52:30.16
>>887
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562359330/
>上の大鎧の赤い部分は板金
>青い部分は板金に鋲で固定される小札だから
>固定的かも知れぬが

袖の青い部分の鉄小札は雄山閣・日本甲冑の基礎知識には
平安後期から有ると言うから
元寇時にも装備されたと言う事だろうか
最上段より下・上から4段目迄中央部に鉄札が入る例も有ると言うが
元寇時には有ったのかどうかだが
兜のシコロも(吹返以外は)鎌倉期から鉄札が入ると言うが
元寇時に上から3段に迄鉄札は混ぜられたのかだが

胴の鉄小札も
http://www.toyota-rekihaku.com/bunka/02_kougei/win/01.html
上の平安期の大鎧でも
草摺上段や背面に迄鉄札が混ぜられていると言うが
鎌倉期では草摺に鉄札は基本的に無く
胴は正面及び左側面に使用される例が多いのかだが

http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-101040010.html
上の平安期の大鎧の場合は胴前部の立挙には
皮を挟まず鉄札のみが使用されると言うが
矢に対する防御力は低下している可能性は無いのかだが
打物に対する心臓部の防護を考慮したのかだが

鎌倉期の籠手の手甲も
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562412764/
上の平治物語絵巻を見ると妙に小さいが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562427849/
上の鎌倉期の籠手の実物を見るとそう小さくは無いだろうか
0927某研究者
垢版 |
2017/11/08(水) 17:00:01.77
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024015752.jpg
蒙古襲来絵詞では
兜の天辺から髷は出ていない様だし
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562439239/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562439247/
天辺の穴が小型化した下のタイプの物なのかだが
衝撃吸収の為布が当てられている例も無いが
後三年合戦絵詞には有るから
打物戦が激しく成った後に布が当てられたのかだが

古い鎧や兜鉢が使用される例も
有ったと言う事だっただろうし
蒙古襲来絵詞でも古い鎧を着用した兵が書かれていると言う事だっただろうか
0928某研究者
垢版 |
2017/11/08(水) 17:26:52.06
http://hatutori.akiba.coocan.jp/H400/k01_ja649.jpg
上の兜鉢は鎌倉期の物だっただろうが
この天辺の穴では可成り上からで無いと
仮に内部に矢を打ち込まれても頭の皮がやられる程度にしか
成らぬと言う事なのかだが

http://pds.exblog.jp/pds/1/200809/30/70/c0164670_20154259.jpg
とは言えこう言う形で遠方から山なりに来る矢が
天辺の穴に飛び込む危険は有ると言う事なのかだが 
とは言えこうした穴が無い場合熱でやられる兵の方が
弘安の役の7・8月等では多く成ると言う事なのかだが
0929某研究者
垢版 |
2017/11/09(木) 22:15:14.85
元軍艦艇には大型の弩は蒙古襲来絵詞には無いが
装備されていた可能性も有るのかどうかだが
0931某研究者
垢版 |
2017/11/10(金) 14:11:21.61
https://pbs.twimg.com/media/DOPjQQ_UMAAfko-.jpg
蒙古襲来絵詞では棍棒の様な物を持つモンゴル兵が居るが 
此れは何なのかだが 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E#/media/File:M%C5%8Dko_Sh%C5%ABrai_Ekotoba.jpg
上では槍が飛翔しているが
此れでピルムの様に垣盾の貫通を狙った可能性は有るのかだが 
宋や高麗の軍に此れは標準装備なのかだが 
槍では無く大型の弩の矢の可能性も有るのかだが

日本にも手突矢ならこの時点でも有るかも知れぬが 
最大70gでは盾は貫けるのかどうかだが 
太平記で因幡堅者全村が使用した高威力の物は槍の様に重い可能性も有るのかだが 
https://twitter.com/ikkaisai/status/581094381614211072
刃渡りは5寸有ると言う事だが 
通常の人間が盾を貫くのは出来るのかだが

image.tnm.jp/image/1024/C0019138.jpg
垣盾も上の後三年合戦絵詞等に有る様に基本的に両手持ちで運搬されるなら 
ピルムの様な物が刺さっても簡単に移動不能とは成らないと言う事なのかだが 
逆にモンゴル兵の盾に日本軍の小薙刀や手鉾の様な物が
投げられた例は有るのかだが

日本軍には盾を割る鏃も有るが 
蒙古襲来絵詞に有る様な恐らく藤の盾は割れぬと言う事なのかだが 
藤の盾の防御力は5人張り等の強弓を止められる程なのかだが
0932某研究者
垢版 |
2017/11/10(金) 14:13:28.63
http://santalab.exblog.jp/20788980/  
>面々に持楯を並べて、その面に板目皮([にかわ液を浸透させて 張り合わせ強固にした皮])を貼り、簡単に打ち破られないようにして、護りながら攻めました  

太平記の赤坂城攻城戦では練皮で補強した盾が出て来るが 
元寇時は投槍や弩対策でこうした物は使われたのかだが
練皮の厚さは皮小札同様に3mm程度なのかだが

youtube.com/watch?v=qvOmttn0bU8
ピルムの貫通力も可成り有るし
鎧はチェインメイルでは貫通し
ロリカ・セグメンタタでも無いと止まらないのかだが
小札鎧では貫通せず共衝撃を可成り受ける危険が有るのかだが
皮或いは練皮を貼った盾なら 
それなりに貫通力は低下する可能性も有るのかだが 
モンゴル軍の投槍は此処迄の貫通力は穂先の形状からして無いのかだが
0933某研究者
垢版 |
2017/11/10(金) 19:20:56.81
http://dic.nic ovideo.jp/b/a/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80/391-
>中国には"南船北馬"と言う交通の地域差を表現するの言葉がある。
軍隊も同じ、南の軍隊は水軍が強い、北の軍が騎兵が強い。
明代の戚継光は珍しい南の沿岸で倭寇と戦い、北の長城でモンゴルと戦い、両方のノウハウを持つの武将。彼が残した兵学書も南と北の軍制が違うと書いていた。
例えば、同じ歩兵部隊でも、南は狭い場所での徒歩戦と艦上戦が多い前衛としての刀盾手は必要だ。北の戦いは広い場所での対騎兵戦が多い刀盾手は不要で、変わりに長柄武器の比重が高い。

すまん、記憶が間違いだ。北の戦いで不要のは刀盾手の投げ槍だ、刀盾手自体は必要だ。南の徒歩戦で刀盾手は投げ槍使って敵の隙を作る。北の対騎兵戦なら馬の動くが早い、投げ槍は当たらないだから不要だ。

刀盾手の投槍で隙を作るってなんか外征やってた頃のローマみたいだな。

違いところは明軍使うのが圓形藤盾、藤盾は一般の木盾より軽い。あと明軍の投槍は小型であくまて敵の隙を作るが目的。ローマ軍の投槍は大型で敵の盾を無力化も目的だ。


こうした投槍が蒙古襲来絵詞では使用されたのかだが
可成り大型の槍にも見えなくは無いが
日本の騎馬武者に対しても放られている訳だろうか
モンゴル軍の旧北宋軍は槍が多く
旧南宋軍は刀+盾が多いのかだが
0934某研究者
垢版 |
2017/11/10(金) 19:25:04.84
>>933
>すまん、記憶が間違いだ。北の戦いで不要のは刀盾手の投げ槍だ、刀盾手自体は必要だ。

蒙古襲来絵詞では南宋兵が居ないかも知れぬ文永の役でも
投槍が使用されている様に見えるが
短弓が大鎧には余り有効では無いと見て
通常の槍を騎馬武者に投げた可能性も有るのかだが
0935某研究者
垢版 |
2017/11/10(金) 23:45:42.74
https://kakuyomu.jp/works/1177354054880992885/episodes/1177354054880995502
>弓・鉄砲の攻撃のあと、藤牌・狼筅などで装備した小隊で突撃する。基本は六人、先頭をゆく藤牌が小隊長だ。腰刀を帯び、投げ槍二本を小脇に、藤牌で敵の攻撃を防ぎながら指揮をとる。

戚継光の時代でも投槍は藤牌兵に残るが
銃兵が増えた影響で数は減っていたのかだが
0936某研究者
垢版 |
2017/11/11(土) 15:29:45.19
>刀盾手は投げ槍使って敵の隙を作る

盾+刀を持つ兵が投槍を装備している絵と言うのは
今の所見ないが
何処かに有るのかどうかだが
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562248589/
https://www.pinterest.jp/pin/343610646562203326/
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Sarhu
倭寇図巻やサルフの戦いの絵にも
投槍装備の盾兵は見ないが


https://twitter.com/take_nakanishi/status/688240829828173825
宋の弩には輪番射撃が有る様だが
遠距離で散開した騎兵に何処迄命中出来たのかだが
輪番射撃をしても通常の弓より弾幕が張れる訳では
無いと言う事だろうか
0938某研究者
垢版 |
2017/11/11(土) 17:23:45.88
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%9D%9F
対大筒用の幅120cmの竹束も有るが此れは移動式では無いだろうが
フランキ砲迄止まる物なのかだが
石を詰めても果たしてどうなのかだが

http://www.eniguma49.sa kura.ne.jp/gunnzi,heiki/sonota/senngokuheuki/senngokuheiki1.html
>大阪夏の陣に登場した鉄製の装甲板を全面に施した押車です、2名ないし3名の兵が後から車を押して2名程の兵が台車に登場し鉄砲、弓を撃ちかけながら前進する仕組みです、
全面の装甲板は厚さ五寸(16,5cm)の木製板の上に厚さ3寸(10,5cm)の鋼鉄製の板が張り付けれていました、更にその装甲板は鉄製の支柱で補強されています、
>、この大盾車も大筒の様な大口径の大砲の砲弾は無理としてもフランキ砲や大鉄砲などの比較的口径の小さい大砲の砲撃からは十分に身を守れたのでしょう。

幾らか移動出来る様な
10cm等の鉄板でフランキ砲も防ぐ様な盾も大阪の陣では有ったが
大阪の陣以前にこんな物は有ったのかだが


http://photozou.jp/photo/photo_only/1849954/187731504
大阪冬の陣図では土を詰めた米俵が防弾に使われているが
大筒を止める様な厚みの物は構築されたのかだが
竹束が置き難い地形のみの使用なのかだが
0939日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/14(火) 22:18:03.73
なぜいつもかだがで終わるのかだが。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/29(水) 04:54:07.83
これ良すぎ

長崎県立対馬高校 寮歌3番の歌詞

秋山峡に紅葉して
小茂田浜辺の荒磯に
文永の役とむらえば
恨みは長し七百年
若人の血は躍るかな
0942日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/29(水) 05:10:59.55
・百合若(百合若大臣。幸若舞。元寇を舞台にした復讐物語

アニメ化はやく
0943日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/29(水) 12:13:09.90
ユリシーズやん
0945日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/29(水) 17:06:01.08
放映してんの?
0947日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/30(木) 12:47:00.84
期待あげ
0948日本@名無史さん
垢版 |
2017/11/30(木) 16:07:45.70
>>946
ありがとう。
マンガ読もうかと思ってた所に
アニメ化の話を聞いたので。
楽しみですな。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/01(金) 02:47:29.18
pvじゃ、かなり気合入った作画だな
0950日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/01(金) 03:39:53.06
予算なくて作画は途中で雑になる可能性はあるね
でも元寇題材アニメは貴重すぎるから楽しみ
史実通りじゃないから創作として楽しむべき
0951日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/01(金) 10:45:27.59
ホンタグあたりがラスボス?
0952日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/06(水) 21:27:16.25
元寇無双ほしいわ
0953日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/07(木) 12:47:09.20
九州の御家人に感謝
09541 ◆rNf.uTpSEw
垢版 |
2017/12/07(木) 19:11:15.90
現行では元寇は原稿作成中
09551 ◆51JBbCj6bM
垢版 |
2017/12/07(木) 19:13:17.66
笑わせんな
09561 ◆CT.DMZiSxE
垢版 |
2017/12/07(木) 19:14:10.93
ぷっ
09571 ◆eJeBHH9iA2
垢版 |
2017/12/07(木) 19:15:19.61
?????????????????????????????
0958日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/15(金) 07:20:41.26
元寇の船は実は優れていたのは自慢になるよな

ショボい李氏朝鮮の数少ない自慢ポイントだろうに
韓国が自慢するニュースはまだか
0959日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/15(金) 17:13:50.61
沈没してては自慢にならんし
0960日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/16(土) 15:54:05.08
>>959
日本が強すぎるからしゃーない
0961日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/16(土) 16:00:36.33
昔の右翼「神風のおかげで蒙古に勝てた わが日本はすごい」

今のネトウヨ「日本の武士が強すぎるから蒙古に勝てた わが日本はすごい」

知能レベルが下がってきたのが如実に現れているな
0963日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/16(土) 20:27:16.19
>>958
元寇は李氏朝鮮の前の高麗
0964日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/16(土) 20:37:40.01
実際は勝ってもいない。
蒙古が勝手に帰っただけ。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/16(土) 21:41:20.14
>>964
戦闘で武士に完敗して逃げ帰ったのを「勝手に帰っただけ」なんていう理屈が通用するなら
朝鮮出兵の秀吉軍や太平洋戦争の日本軍も「勝手に帰っただけ」だろ。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/17(日) 10:26:50.32
>>965
真珠湾攻撃の日本軍は勝手に帰った。これと同じ。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/17(日) 10:45:58.24
>>966
同じじゃないだろ。
真珠湾攻撃の日本軍は戦闘には勝利したが、文永の役のモンゴル軍は戦闘で武士に惨敗し
1万3500余人も損害だしてるんだから。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/17(日) 17:33:08.57
>>967
>1万3500余人も損害だしてるんだから。

戦闘による損害と海上遭難による犠牲者の割合不明。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/17(日) 18:33:07.35
>>968
朝になったら日本軍に全滅させられる恐怖から無理やり悪天候の夜の海に漕ぎ出して
遭難したんだから全部戦闘による損害みたいなもんだろ。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/17(日) 20:09:37.65
>>968
日本にボコられて撤退する状況になった時点でお察し
しかも船は実はいい造りという
0971日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/17(日) 21:24:02.53
真夜中に乗船した理由は簡単、真夜中が満潮だったからさ。
次の満潮である翌日の正午ごろも選べるが、撤退すると決めたからには
12時間もぼんやり待っていることはない。昼間は少しでも不利だしね。
遭難したのは単なる偶然。だから「会」(たまたま)という。」
0972日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/18(月) 10:35:53.70
追加。出航した時にすでに悪天候だったかは分からない。しかし悪天候ならむしろ
出航しないだろう。あれほど海を恐れる人たちだからね。
ただし南風が吹いていたことは確かだが、これは帰国にとっては順風。
また当夜は満月だった。

満月、満潮、順風と条件が揃った。撤退を決めた軍にとって、これほどの好条件は
またとない。順風が大風雨に変わりさえしなければね。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/18(月) 14:42:09.57
夜の船出ができる時代だった?
リアス式海岸だぞ
0974日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/18(月) 16:48:11.89
ジャワ遠征にも失敗してるし、基本的にモンゴルは海が苦手
0975日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/18(月) 17:09:19.77
>>973
>夜の船出ができる時代だった?

19日の深夜に先遣隊が上陸している。深夜の上陸ができるのなら深夜の乗船
だってできる。逆にやればいいだけ。

>リアス式海岸だぞ

なにをおっしゃる。博多湾の湾岸一帯は川が運んだ花崗岩質の砂が堆積して
できた遠浅の砂浜。
海岸線に出入りがあるのは沖合の小島などをとっかかりにして砂嘴が伸びて
できたものだ。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/18(月) 22:09:26.83
追加。
遠浅の砂浜だからこそ満潮が上陸の条件になった。満潮時は大船が陸に近づけるから
バートルの行程が短くなって能率が上がるし、バートルから降りて浅瀬や干潟を歩く
距離も短くなる。

朝鮮戦争時の米軍(国連軍)の仁川上陸作戦と比較すると面白い。
仁川も遠浅で、潮汐は博多湾よりさらに大きい。やはり満潮が条件になった。
上陸作戦の日の満潮は午前6時と午後6時。
午前6時に海兵隊が先遣隊として月尾島に上陸、砲台を制圧した後、その日の
午後5時半に本隊の陸軍部隊(一部は海兵隊)が上陸した。

満潮が午前・午後6時だったから先遣隊と本隊の上陸がぎりぎり一日に納まった。
文永の役は午前・午後12時だったから、先遣隊と本隊がやむを得ず二日にわたった
のだ。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/19(火) 09:18:25.44
実は良い船で、デカイ船もあって、しかも大船団とか絵的な迫力は凄いな元

CGで再現した映像とかないかな?
0978日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/20(水) 22:59:19.74
>>972
出港した時悪天候だったと高麗史に書いてある。
もちろんモンゴル軍は海を恐れるが、それ以上に武士が恐かったんだろうね。
何しろ夜間航海の能力がないのに、無理やり出港してるんだから。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/21(木) 11:07:47.10
>>978
>出港した時悪天候だったと高麗史に書いてある。

結論だけ言って根拠を示さないのは印象操作だ。
「遂引兵還。会夜大風雨。戦艦触岩多敗。侁堕水死。」
読み下し:
遂に兵を引いて還る。会(たまたま)、夜に大風雨す。
戦艦岩に触れて敗るもの多し。(金)侁、水に堕ちて死す。

大風雨したのは「会夜」すなわち「たまたま、夜に」としか書いてない。
だから「出航した時」に特定されない。
普通に読めば「兵を引いて還る」の後に書いてあるから出港した後の
何日目か(一日目を含む)の夜だ。

「会夜」は「ちょうどその夜」だから出港した時だ、と言うだろうが、
「会」には体言を修飾する機能は無い。
だから「会夜」は「ちょうどその夜」には決してならない。
「たまたま、夜に」だけ。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 14:13:13.99
>>1関連スレ貼ってく

【福岡】「博多湾全体を囲むように元寇防塁が築かれたことを裏付けるもの」九大に石積み、元寇防塁か…長さ17メートル以上、文献裏付け
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1474666338/

 九州大は20日、福岡市東区箱崎の同大構内で、蒙古襲来に備えて鎌倉幕府が造らせた元寇防塁の一部とみられる長さ17メートル以上の石積みの遺構が見つかったと発表した。
文献から当時の薩摩国が箱崎地区に防塁を築いたとされており、それが裏付けられた形だ。
保存状態が良く、構築方法などを分析する上でも貴重な史料となりそうだ。

 遺構は地下約1・3メートルで見つかり、加工した形跡のある40〜70センチの石が、当時の博多湾の海岸線に並行して南北にほぼ直線に並んでいた。
一部は、石が3段ほど積み上がった約0・9メートルの高さで残っていた。海側に大きな石を積むなどの特徴があり、文永の役(1274年)の後、薩摩国が造ったとされる元寇防塁の可能性が高いという。

 同大埋蔵文化財調査室の宮本一夫室長(58)は「博多湾全体を囲むように元寇防塁が築かれたことを裏付けるものだ」と指摘。
さらに数段積み上げられ、高さが約2メートルに達した可能性があると分析している。

 元寇防塁は、九州各国が分担して博多湾岸の計約20キロに造られたとされ、これまで10地区が国史跡に指定されている。
0981日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 14:19:09.78
>>1>>980関連スレまとめ

【用日やめろ】元寇の沈没船について下村文科相「モンゴル、中国、韓国で一緒に共同研究したい」 4か国共同研究を提案
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1389852495/
 下村文部科学相は15日、日本記者クラブでの記者会見で、13世紀の元寇(げんこう)で沈んだ元軍の沈没船について、
「モンゴル、中国、韓国で一緒に共同研究したい」と述べ、4か国での共同研究を提案した。

【ネット】 韓国大統領の「1000年経とうと日本は加害者」演説に、「日韓基本条約は?」「元寇から千年経ってないぞ」の声★2
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1362473032/

新スレの時に貼る方がいいか
0982日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 14:27:18.74
>>1>>980-981関連スレまとめ

巨大な船+大船団とか迫力すげぇわな

【歴史・文化】発見の元寇船、映像公開 全長20メートル、釘の跡も
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1319425233/
長崎県松浦市の鷹島沖海底で原形をとどめた状態で見つかった元寇(げんこう)船
13世紀の元寇船の構造がわかるかたちで船体が確認されたのは初めて。

鷹島沖は、文永の役(1274年)に続く弘安の役(1281年)で、約4400隻の元寇船団の大半が暴風雨で沈没した海域とされる。
発見現場は島の南約150メートルの陸地近くだった。
水深20〜25メートルの海底で厚さ1メートルの泥を取り除いたところ、船の背骨にあたる
長さ12メートル、太さ約50センチの竜骨(キール)が現れた。キールには白灰色の塗料が塗られ、
両側に厚さ10センチ程度、幅15〜25センチ、長さ1〜6メートルの外板が並び、釘で留めた跡も確認できたという。全長20メートル超と推定される。
鷹島は潮流の穏やかな伊万里湾内にある。元寇船は沈没後、泥の層に覆われて保護されたため、
潮の流れによる解体や腐食、劣化を抑えられたと
みている。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 14:32:00.27
>>1>>980-982関連スレまとめ

【中国朝鮮等による大虐殺】伊万里湾で琉球大のグループが行っている鎌倉時代の「元寇の船」調査、2隻目の船を確認
http://daily.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1435829607/

長崎県の伊万里湾で続けられている鎌倉時代の「元寇の船」の調査で、2隻目となる船が確認されました。
1隻目よりも保存状態が良いということです。

長崎県松浦市の鷹島沖では先月、琉球大学の池田栄史教授のグループが「元寇の船」の調査を行いました。
調査は10年前から続けられていて、去年、木造の船の一部が見つかった場所で、今回、海底の泥を掘り進めました。

その結果、姿を現した船首部分。船の特徴や出土した陶磁器などから元寇の船であることが確認されました。
元寇の船の発見は今回で2隻目です。

「1隻目は魚でいうと“開き”の状態。今度は船体の下部構造がしっかりと残っている」

今後は、見つかった船の保存方法などについて検討が進められます。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 15:56:12.72
>>1>>980-983関連スレまとめ
次スレ立てるか

【元寇神社って知ってる?・中国朝鮮地域人】 日本人の赤ん坊を股裂き、子供を拉致、女性は手に穴開け数珠つなぎ… 蒙古・朝鮮人中国軍の残虐行為
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1402716108/

【元寇・朝鮮中国等による侵略】 モンゴル・朝鮮の日本侵略軍の軍船、粗製乱造ではなくダブルハル構造だった
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1349855901/
0985日本@名無史さん
垢版 |
2017/12/25(月) 15:56:43.47
>>1>>980-984関連スレまとめ

【歴史】蒙古がせめてきたぞっ!長崎鷹島沖「元寇船遺跡」が国史跡に。水中では全国初
http://fox.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1329493593/

【歴史】元寇・文永の役 モンゴル・朝鮮軍が日本で行った“殺戮”…それでも日本の武士「勇敢にして死をみること畏れず」★2
http://peace.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1402200107/

大体こんなとこかな
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/10(水) 15:17:57.26
いま元寇のWikipedia見てたんだが
日本に来た元の使者を、南宋と三別抄がたびたび妨害しててワロタ
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 12:56:48.02
衰退期の元なんだからそんなもんだ
ベトナムなんか、地上戦を3度やって3回とも撃退してる
元その他の小国に分裂する前の、最盛期のモンゴル帝国が日本に来てたらこんなもんでは済まない
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 13:11:26.94
最盛期のモンゴル帝国が日本を攻めることは不可能だからまさに歴史にifだな
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 15:42:15.92
高麗とモンゴルの関係の始まりは1218年。黒契丹が満洲から高麗に乱入し、江東城に籠城したとき、モンゴルと高麗が共同でこれを滅ぼしたのが最初だ。
その後の1220年から1223年にかけて高麗王国は連年モンゴルへ朝貢していたが、1225年にモンゴル使節が殺害される事件が起きためモンゴルの侵攻を招いた。
もし高麗が、当時、中央アジアの多くの国がそうだったように、モンゴル施設殺害などせず、モンゴルの手先となって、その先の国へ侵略の手伝いをしてたら、
モンゴルは、承久の乱で内乱中の日本を攻めていたことになる。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/11(木) 20:21:35.42
50年近く早まるとモンゴルの操船技術とか変わるのかな?
日本側は、その頃の武士の方が強そうな感じも。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:03:22.25
50年近く早まると、最盛期のモンゴル帝国を相手にすることになる。
そこから50年経ったからこそ、モンゴルは衰退して小国に分裂し、そのうちの1カ国にすぎない元王朝を相手にすることとなった。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 00:14:57.28
ジンギスカン相手に戦って、勝った国など世界中どこにも存在しないが
フビライ相手になら、ベトナムでさえ3度戦って三戦全勝してる
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 10:30:55.30
モンゴル軍の最盛期は弘安の役だろ。
チンギス時代のモンゴル軍なんて総兵力でも12万9000人しかいなかった。
征服した面積は広大でもその大半が人なんて住んでいない草原地帯。
オゴデイの時代になっても南宋に攻め込む度に瞬殺されてた。
クビライの時代になってモンゴル軍が強くなり、やっと南宋を征服。
そのモンゴル帝国史上最強のモンゴル軍に日本軍は圧勝。
弘安の役でモンゴル軍10万人が壊滅したせいでベトナムにも勝てないほど弱体化してしまった。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 10:43:24.86
モンゴル軍の最盛期は、ワールシュタットで神聖ローマ帝国軍を破ったころか、
もしくはその直後、アッバース朝イスラム帝国を破ってバグダッドを廃墟にした頃だよ。
どちらも、当時の世界の文明の中心を瞬殺してる。
人なんて住んでない草原地帯だと?寝言は寝て言え。
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 10:49:09.12
あとベトナムは3回も勝ってない。
南宋への侵攻ルート確保の目的で行われた1回目は、戦闘で大敗して首都もモンゴル軍が制圧。
翌年にはしっかりモンゴル軍がベトナム領内を通過して南宋へ攻め込んでる。
その後ベトナムはモンゴルの属国化し、国内にはモンゴルから派遣された役人が国王以上の
地位で駐屯する状態になってた。
ベトナムが勝てるようになったのは、弘安の役で日本軍がモンゴル軍10万人を全滅させてから。
そもそもベトナムがクビライに叛乱起こしたのだって、日本が属国状態のベトナムに使者を送って
説教したからだし。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 10:56:36.98
>>997
ワールシュタットはオゴデイ時代、バグダッドを廃墟にしたのはモンケ時代でどっちも
チンギスの時代じゃない。
モンゴル帝国は軍を二つに分けて欧州遠征や中東遠征と同時に南宋遠征もやってるけど、
いずれの場合も勝ったのは征西軍だけで東征軍は大敗。
当時の世界は東洋>>>>>西洋だったってこと。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/12(金) 11:01:42.45
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