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【謎の世紀】古墳時代についてマタ〜リと語ろう 2
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0832日本@名無史さん
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2021/04/09(金) 19:19:10.43
>>729
確かにそうだわ
諏訪の方に行くと、小社の四隅には必ず高い竹笹が一本ずつ付けられてるのも気になる
0833日本@名無史さん
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2021/04/10(土) 11:16:13.15
年度末に道路工事するけどあれと一緒で
まあ予算とか消費してたんなら
昔から道路工事は毎年やるように決めてただろうな
たしか中国とは月日が違った記憶
墳墓は法律あんのかね
0834日本@名無史さん
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2021/04/10(土) 11:20:32.67
現代の感覚で何をおっしゃるやら
0835日本@名無史さん
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2021/04/30(金) 01:16:27.08
歴史探偵で飛鳥の八角形古墳やってたから来た
話題になってるかと思ったけど観た人いないか
0836日本@名無史さん
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2021/04/30(金) 07:05:15.24
>>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★

邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html

伊都国(福岡県糸島市)

↓百里

奴国(福岡県博多湾付近)

↓百里

不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)

↓水行二十日

投馬国(不明、戦前は鞆の浦が有力だった?)

↓水行十日、陸行一月

邪馬台国

まともな地図を作れなかった古代では方角や距離を正しく測れなかった可能性が高いが、
水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、この時点で不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめろ
0837日本@名無史さん
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2021/05/01(土) 16:51:34.37
菟道稚郎子って絶対弟の仁徳天皇に殺されてるよな。
弟のために自殺ってなんだよw
0838日本@名無史さん
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2021/05/01(土) 16:53:57.89
失礼。弟で、兄に譲るためか。
0839日本@名無史さん
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2021/05/01(土) 20:08:31.09
>>835
あれは古墳時代よりもずっと後の話だからな
前方後円墳は皇室以前の畿内の豪族の墓だな
古墳時代に現代日本人が日本列島へ広がっている。
0840日本@名無史さん
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2021/05/02(日) 16:25:08.44
当たり前のことと
何言ってんだ的なことと
0841日本@名無史さん
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2021/05/19(水) 17:21:16.15
池田次郎『日本人のきた道』より

大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。

古墳人骨がほとんど出ていない東海・中部地方・東北北部を除く日本列島を九地域に分けると、古墳人集団は三群に分けられる。
第一群は畿内集団だけで、これには畿内現代人が入る。
第二群は南九州・西九州・北陸の三集団で構成され、これには津雲縄文人、西北九州弥生人が属す。
第三群は第一群と第二群の中間に入るが、第一群により近いグループである。これには北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部の五集団が北九州・山口弥生人とともに含まれる。
第一群と第三群を渡来系古墳人、第二群を在来系古墳人とよんでおく。
0842日本@名無史さん
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2021/05/19(水) 17:21:33.84
第一群の畿内古墳人は、高顔と鼻根部の平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている集団である。
また、短頭性がもっとも強いが、この頭形は現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性である。
古墳時代・奈良時代の人口密度がもっとも高く、大和王権の拠点であった畿内は、古墳時代になっても朝鮮半島からの移住者を大量にうけ入れた地域だった。
畿内古墳人が、韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人からもっとも離れているのもそのためである。

資料の約半数が筑前・筑後・豊前から出ている北東九州・西中国古墳人の中心は福岡の平野部にあり、そこから南へむかっては南九州古墳人の、西へむかっては西九州古墳人の縄文人的特徴への傾斜を示すが、
豊後の山間部だけは特別で、そこには古い体質を保持しつづけた古墳人が居住していたのである。

資料の約八割が関東地方から出ている関東・東北南部古墳人は、顔面平坦度や頭蓋小変異の出現頻度で縄文人と大きく異なる。
身長は畿内古墳人とともに古墳人のなかでも高身長の部類に入り、頭蓋・四肢骨のすべての特徴に大陸的・農耕民的要素が認められる。

頭蓋計測値で第二群に入る北陸古墳人は、鼻根部の平坦度がやや弱く、低身長で、四肢骨の特徴にも縄文人的要素がみられる。
しかし、縄文人との距離は畿内現代人と同じくらい遠く、むしろ第三群の関東・東北南部古墳人に近いので、同じ在来系古墳人でも南九州・西九州の古墳人と同列に扱うことはできない。


頭蓋計測値(11項目)の形態距離に基づく古墳人集団の関係(男性)〔池田次郎〕
渡来…畿内
縄文…南九州・西九州・北陸
中間…北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部
0843日本@名無史さん
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2021/05/19(水) 17:22:12.47
古墳時代から奈良・平安時代にかけて、政治・文化の中心部と辺境部の住民のあいだに明瞭な違いがあることは、各地の古墳人の特徴からも明らかである。
奈良時代、大和人にとって言語や風俗習慣の異なる異様な存在は、『古事記』、『日本書紀』など古典にあらわれる隼人・熊襲・肥人・土蜘蛛・国栖・蝦夷など古代の異族であった。

『古事記』、『日本書紀』、『風土記』によれば、土蜘蛛の分布は九州から東北地方までの十〇ヵ国にわたり、そのなかには大和も入っている。
水野祐によれば、『風土記』に記載されている北部九州の土蜘蛛の半数は肥前国西北部の沿岸に居住し、アワビなどをとっていた潜水漁労民で、『魏志倭人伝』にいう倭の水人とはこれらの土蜘蛛だったという。
西北九州弥生人が漁労を主生業とし、縄文人的な形質をもつ在来系弥生人であることを考えると、肥前の土蜘蛛はこれら弥生人の体質を守り通した漁労民だったかもしれない。
残り半数の北部九州の土蜘蛛は、豊後の山間部に住んでいたと伝えられているが、この一族は古い体質を残している豊後古墳人となんらかの関わりがあるのかもしれない。

隼人・熊襲・蝦夷・土蜘蛛は、いずれも辺境の地に割拠していた異族であるが、大和にも国栖とよばれる異族が住んでいた。
吉野川上流域の山岳地帯で狩猟民として独自の文化伝統と体質を守りつづけていた国栖は、大和人と接触する機会が多かったために、その異様な習俗と風貌がとくに目をひき、異族として扱われたのだろう。

池田の説明では弥生から古墳時代にかけての渡来集団は連続的に捉えられています。また、縄文人の形質を残す集団もいます。
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。
0844日本@名無史さん
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2021/05/19(水) 17:22:47.84
「大ざっぱにいうと、大半の古墳人は、渡来系弥生人と古墳時代以後の日本人に類似する特徴を多かれ少なかれ持っている。
たとえば、古墳人の頭蓋・四肢骨の計測値は、ほとんどすべて縄文人と現代人の中間に入るが、鼻根湾曲示数・歯槽側面角・大腿骨の中央横断示数・身長などでは縄文人より現代人、さらにはそれ以上に渡来系弥生人に類似する。
また古墳人の顔面平坦度示数は縄文人・現代日本人より小さく、北方モンゴロイド(ナナイ・ニヴフなど)や渡来系弥生人に近い。」
池田次郎『日本人のきた道』(朝日新聞社、1998)278頁から)

さらに池田は、頭蓋計測値を基に列島を9地域に分けて、その地域性を述べる。
その際、古墳人の集団を三群にわけている。

第一群…畿内
第二群…南九州、西九州、北陸
第三群…南近畿、四国、東中国・西近畿、西中国・北東九州、関東・南東北

第一群は畿内古墳人で「高顔と平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている」
また「短頭性がもっとも強いが、この頭形は弥生時代に出現し、古墳時代をへて現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性」としている。

第三群のうち「北東九州・西中国古墳人」は「頭蓋・四肢骨すべての特徴で、北部九州・山口の渡来系弥生人にもっとも近い。」
また、南九州・西九州古墳人は「縄文人的特徴への傾斜を示す」などなど


各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側
0845日本@名無史さん
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2021/05/19(水) 17:25:45.46
中央政権による地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg

 中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
 九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。
その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、
その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。
第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。

 東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。
若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。
陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。
そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。
 このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。
焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。
このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。
0846日本@名無史さん
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2021/05/19(水) 17:25:58.82
四道将軍の地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21595221.jpg

 北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。
『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。
翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。

 山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。
『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。
中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。

地下式横穴墓(隼人)・横穴墓(大和)
https://livedoor.blogimg.jp/warabite/imgs/c/9/c97e0728.jpg
0847日本@名無史さん
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2021/05/20(木) 05:18:10.02
記紀では、初期のヤマト王権が戦った敵勢力は、必ず男女ペアか兄弟ペアで統治されている。
そしてなぜか不思議なことに、初期のヤマト王権だけは、その中でまるでオーパーツのように、
時代を超越して中国の皇帝そっくりの、男系直系の天皇1人によって統治されている。

これは、白村江での敗戦後、唐に対抗して、
(倭国にも、中国の皇帝のような存在が大昔からいた)
というストーリーをメイキングしたから。

なので実際には初期のヤマト王権も、男女ペアや兄弟ペアで統治されていたと考えるのが妥当。
当時はそれが統治の正当性を担保するために必要だった。

たとえば神武は、軍事指導者と、呪術師との2面性を持った存在だが、
これは本来、軍事指導者である男王と、シャーマンである巫女王が男王1人にされたもの。

また崇神とモモソも、おそらくは姉弟か兄妹関係にある男王と巫女王。

推古天皇と厩戸王は、そう言う体制への先祖帰り。
0848日本@名無史さん
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2021/06/13(日) 03:11:04.85
古墳を調査すれば記紀とは全く別の大王の存在が浮かび上がる
0851日本@名無史さん
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2021/08/15(日) 01:33:15.90
>>850
多分、大阪府羽曳野市にあった蔵塚古墳
南阪奈道路建設で調査後消滅

報告書PDF
file:///C:/Users/noboru/AppData/Local/Temp/17490_1_%E8%94%B5%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3.pdf
0853日本@名無史さん
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2021/09/11(土) 23:14:13.27
弥生時代から古墳時代の国産青銅器の原料は大陸産、つまり国産とはいえ大陸産青銅器のリサイクルにすぎないって本当?
0854日本@名無史さん
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2021/10/03(日) 07:06:14.37
今朝の茨城新聞

「考古学発祥」古墳に脚光
栃木・大田原 徳川光圀が発掘支持
江戸時代に水戸藩主の命で発掘が行われた栃木県大田原市の侍塚古墳が「日本考古学発祥の地」として注目されている。
来年で発掘から330年で、県は本年度から初の調査を始める。
地元では記念碑が設置されるなど観光資源としての期待も高まる。

という記事があったのだが、気になったのは「県は」。
通常、茨城県で「県は」と言った場合は茨城県を指す。しかしこの古墳は栃木県内。
茨城県だとしたら、勝手に他県内を調査していいものだろうか。
0856日本@名無史さん
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2021/10/03(日) 13:00:54.49
>>854
この場合、県って栃木県でしょ。
別に茨城新聞だからって、
必ず茨城県を主語にするとは限らないわけで。
0857日本@名無史さん
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2021/10/03(日) 15:57:51.27
卑弥呼の古墳を探せ
0858日本@名無史さん
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2021/10/03(日) 19:21:52.51
>>856
だったら一ヶ所でも「栃木県」と入れれば要らぬ誤解をしなくて済むのに。
0859日本@名無史さん
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2022/01/25(火) 10:23:43.65
>>666
20世紀も終わりにならんとするときに、洞穴にすんでたりしてたじゃん。
yao-dong(窰洞) って。

北京にもあった。
最近はトッ崩されてビルになってるけど、小高くなってるところに盛り土をして穴を掘って、住んでたじゃん。
0860日本@名無史さん
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2022/02/14(月) 15:44:33.08
「仁徳陵ってデカいなぁ」
「ふん(笑)始皇帝陵やピラミッドに比べたらゴミみたいな規模。偉大さが違う!」
「それなら、造成は大した悪行では無いね」
「‥‥…大きさだけならクフ王よりも始皇帝よりもデカいの造りやがった昔の皇室の罪は量りしれない!」
「それなら、世界的な偉業じゃん」
「………」

「ところで仁徳陵にしろ応神陵にしろ、その主は今の皇室の先祖ではないらしいけど」
「そうだ、皇室の歴史なんて浅い!」
「だったら、巨大古墳造成で人民をこき使った罪は皇室には無いね」
「いや!あんなデカい古墳作らせたのは太古から人民を虐げてきた天皇家に決まってる!」
「それじゃ、あの古墳の主はやっぱり皇室の先祖なんだな」
「ぐぬう……」
0861日本@名無史さん
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2022/02/14(月) 20:07:53.05
俺は福岡の人間だけど奴国(福岡市)や伊都国(糸島市)が
邪馬台国(福岡南部〜熊本)より大和朝廷を選んだ理由がよくわかる。
気質がまったく違う。はっきり言って合わない。
だから竹田恒泰さんの大和朝廷の成立の解説がリアルにわかる。
0862日本@名無史さん
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2022/02/17(木) 21:14:29.59
>>832
地鎮祭のときにめぐらす四方の竹笹と同じじゃないの。
0863日本@名無史さん
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2022/02/17(木) 21:24:46.40
>>861
九州各地の気質の違いは知らんが、そもそもの倭国乱は玄界灘側と筑紫平野側の戦いやと思うわ。
双方の気質が違ってるのは、外海気質と内海気質の違いやろな。
0864日本@名無史さん
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2022/02/18(金) 13:26:52.95
諏訪は、京都から関東行田へ行く街道の拠点の一つ。
秦氏が開いたところで、諏訪大社の神事をみてもそれが分かる。
秦氏が、ユダヤ教徒であったことの証拠。
諏訪は、水があるところの意味な。
0865日本@名無史さん
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2022/02/18(金) 13:33:55.34
行田の最初の前方後円墳の後円部には、のちに小さな稲荷社が置かれた。
その稲荷社の総本社は京都深草の秦氏の伏見稲荷。
一本の線でつながってるのよ。
稲荷は神が降りたという意味。
伏見稲荷の稲荷は、シナイ山に擬して秦氏が名付けたものが訛ったものだ。
0866日本@名無史さん
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2022/02/19(土) 10:57:50.27
京都に3世紀や4世紀の古墳は無かったのかな、
鴨川の綺麗な水が流れていて住みやすかったと思うけど
0867日本@名無史さん
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2022/02/19(土) 13:39:42.34
京都の向日市に古い古墳がある。
五塚原古墳。
3世紀中葉〜後半の築造とされる。
秦氏の先祖が深草に入植する前に、すでにこの辺りに有力な勢力がいたということだ。
北河内あたりから日本海に抜ける街道の要衝にある亀岡と連携する勢力だろうな。

この五塚原古墳の勢力が邪魔で、そのために秦氏は嵐山から亀岡へ抜けるルートを開拓したのだろう。
その亀岡と結ぶルートの京都側の拠点が太秦だった。
0868日本@名無史さん
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2022/02/20(日) 17:04:32.86
まあ、古墳時代の産業、経済について、秦氏は欠かせない氏族だよ。
0869日本@名無史さん
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2022/02/23(水) 02:14:05.11
>>861
まあ元々奴国伊都国の方が先進国だったしな
その頃は畿内よりずっと進んでたわけだが
0871日本@名無史さん
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2022/04/23(土) 01:57:18.45
山梨県にある銚子塚古墳や丸山塚古墳て誰が埋葬されていると予想しますか?
0872日本@名無史さん
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2023/04/03(月) 01:32:32.41
中国と日韓が異なる点は、日本人と韓国人はツングース成分を多分に含むこと
黄河流域から東へ、アムール川から西への流れは少なからずあったが、
西遼河流域の日琉語族=濊人=扶余=満州=紅山文化人は何故か朝鮮半島へ南下して行った
https://i.imgur.com/n3W1iao.jpg

古代朝鮮半島に居た紅山文化人と縄文人の混血種は主に黄河流域漢民族の流入によって、現代韓国人は縄文成分が少なくなり本土日本人と北京漢民族の中間に位置している
0873日本@名無史さん
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2023/04/03(月) 01:36:48.46
Admixtre遺伝的構造解析

(アムール川)黒竜江流域古人 (朝鮮北部)西遼河流域古人 (北京)黄河流域古人 縄文人
https://i.imgur.com/ikGl0nv.jpg
日本人 11.3 65.0 _0.8 14.8
韓国人 12.0 27.9 50.5 _3.4
北京人 _2.0 _8.2 65.9 _0.4
ホジェン48.8 15.7 _0.0 _4.6

ホジェン族(ナナイ)はアムール川流域のツングース系民族、アイヌとも交易をしていた
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Nanai_children.jpg
0874日本@名無史さん
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2023/04/04(火) 00:36:22.87
>>872
アドバイスしとくと、韓国の大規模な調査じゃ現代韓国人には縄文人遺伝子はほぼゼロらしいな
日本では何故かこのことが知られてないみたいなので
0875日本@名無史さん
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2023/04/07(金) 17:02:30.63
ハニワを置くのは兵馬俑の影響を感じるが
前方後円墳は日本で独自に発展した形だろうけど
その前身の円墳や方墳は何かしら中国の影響があると思うんだがなぁ
でも中国の墓って始皇帝陵以外は
エジプトの墓みたいに地下を掘って部屋を作る形が多いから
とこの影響なんだろな
0876ネトウヨ撲滅隊
垢版 |
2023/06/09(金) 16:20:06.92
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ

遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い

夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ

遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる

春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した

三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる

ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ
0877日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/09(金) 19:55:35.87
>>876
宮本一夫の日琉語説なんかとっくに破綻してるよピピンミョンくん(嘲笑

まず縄文人の祖先の旧石器人の大半は朝鮮半島から入った集団だよ

残りの旧石器人は樺太から入って来ている

両旧石器人の融合人種が縄文人だよ

残念ながら縄文末から弥生開始時にかけて朝鮮半島から入植した考古痕跡はないよ

沿海州南部から入植した考古痕跡ならあるが

沿海州南部と同じ刻目突帯文土器土器を作る集団が縄文末に出雲地方に現れるが、
土器を同じくするその子孫たちによって稲作は朝鮮半島から取り入れられている

そこに朝鮮半島から入植した考古痕跡はない

弥生土器は沿海州南部の刻目突帯文土器が元になっていて松菊里文化の土器が
元ではないよ

それが事実なら、その当時の朝鮮土器である欣岩里式か先松菊里式土器を
もっぱら作っている生活痕遺構があるはずだろ

ない



よろしいですかな?よろしいですかな?

短絡的な思考回路のピピンミョンくん(嘲笑
0878日本@名無史さん
垢版 |
2023/06/12(月) 19:52:21.31
巨大古墳って何のために造られたの?権力見せつける狙いなら、その費用で軍隊増強した方が遥かに効果あるよね?
0880日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/17(木) 14:24:49.53
古墳文化が波及しなかった北海道と南西諸島、古墳人骨がほとんど出土していない北東北などを除く日本列島9地域の古墳人集団に
縄文人、弥生人、現代人の4集団を加え、頭蓋計測値の形態距離で集団関係を分析すると、男性の場合、古墳人集団は大きく2群に分かれる。

第1群は畿内、北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国瀬戸内、関東・東北南部、南近畿(磯間人骨を含む)の6集団で、
第2群は南九州、西九州、北陸の3集団である。
近畿、四国瀬戸内、中国、北部九州、関東、東北南部には渡来形質が強く渡来系古墳人とよべる人々が広がっていたが、渡来系古墳人の最たるものが畿内古墳人である。
また、畿内古墳人は畿内現代人とほぼ同程度の頭蓋長幅示数をもち、上顔示数もかなり大きいが、バジオン・ブレグマ高は畿内現代人よりはるかに低いので、
短頭・高顔という畿内現代人の地域性は古墳時代すでに出現していたが、この地方における頭高の増大は古墳時代以降に起きた現象である。
0881日本@名無史さん
垢版 |
2023/08/26(土) 03:01:47.82
まあ、古墳時代というのは、前方後円墳を政治的連携の核心に置いた大和王権史なのよ。
なので、大和以外の地方は、その大和王権との関りの枠内でしか捉えられて来ていない。
これは、日本史としてはかなりな欠陥だと言える。
卑弥呼が都を置いた邪馬台国は大和にあったとしつこく説く論説は、卑弥呼の邪馬台国を大和王権史の中に取り込む下心によるものであるので、大和王権しか認めないきわめていびつな史観だといえる。
卑弥呼の邪馬台国を大和王権から切り離して、はじめて真の地方史が可能になるのよ。
各地の人骨の形質の違いという論も、真の地方史の確立によってよりリアルなものとなってくる。
大和王権史の枠組みでみる古墳時代というのはいびつなものであって、まず、卑弥呼の倭国を大和王権とは別なものとして切り離す努力をするべきだと思うね。
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