足利義昭/幻の上洛計画 発見「尾張守参陣」
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〜上洛を果たす1568年の2年前、幻の上洛計画があった〜
http://www.yomiuri.co.jp/kyushu/news/20141003-OYS1T50074.html?from=sycont_top_txt
■熊本県立美術館の調査で個人宅から14通発見
■1566年8月28日の書面
■連署は三淵藤英と一色藤長
■「織田尾張守(信長)参陣候」の文面
■南近江の六角氏が離反したことで頓挫 この2年後、信長は六角氏を殲滅し南近江を占領、上洛を強行した。
それが歴史の事実。 信長が武田討伐時にまで六角残党のことで一悶着起こしたぐらいに
六角に恨み真髄だったのはこれが原因なのかもなあ
この一悶着で時の帝自ら国師号を下賜した快川国師を火定させて
しまったりするしこのあたりの信長はぶっちゃけアホ 快川つうか恵林寺焼き討ちはきっかけこそ六角残党の差出し拒否だろうが
そこまでに至った経緯は多分これ
・一方的に同盟を破ったムカツク信玄の墓がそこにある
・快川が自分を振って信玄の所に行ってしまったかつての遺恨
実際恵林寺は燃やされても目と鼻の先にある武田家菩提所の向嶽寺は
禁制が出されたいたのかと思うぐらいに全く無傷で無事だった
雲水達が織田軍に抵抗したにも関わらず 近江は避けて通れないにしても、美濃を無視して伊勢方面から上洛を考えてたのか
六角が最初から頑なに信長上洛を断ってなかったことが証明されたんだね >>5
あなたの言っていることが反対に思えるのは俺だけだろうか? 信長が後々まで執拗に六角勢を憎んだ理由は不明だったが
天下構想の初期に上洛を阻害されたことが原因だったのか(笑) >>4
信忠:「俺のマッピーがいるから手出ししちゃ駄目よん」
信房:「人質の頃世話になった人達がいるからスルーでヨロ」
信長:「城介や源三郎もあー言ってるし嫁と孫の懸念も一気に
解消できることに貢献したから一切の手出し無用」
って感じで実は禁制下されていたんだよw >>7
2年って大きいからそりゃ恨むだろう
>>8
朝廷と懇意な寺だったからという推測より説得力あってワロス 2年前に上洛してたら、なにか変わっていたこと、ある?
信長の政権になにか影響あったかな?
たとえば朝倉攻めとか、すべて2年前倒しになったかな?
たとえばその場合、浅井が背かなかった、とか
劇的効果ありそうなとこある? というより66年に信長が上洛していたらで考えた方がいいような…
>>9
国師がいる寺を攻撃している段階で朝廷もへったくれもねーよ >>7
違うだろ
六角氏配下の甲賀、伊賀の忍者に度々命を狙われて
危なかったからだろ とりあえず信長包囲網には影響与えたんじゃなかろうか
2年繰り上げとなると朝倉にしても信玄にしても本願寺にしても
史実どおりに動いたかは微妙 『新熊本市史』の段階でこの文書群が見逃されてたってわけか
紙背文書だから? >>15
『新熊本市史』に収録されている米田文書とは別の系譜ですか? うろ覚えだが、 美濃攻めの時点の勢力図だと
織田浅井同盟斉藤 六角連合だっけ? 1566年時の信長には六角を滅ぼす戦力がなかったの?
それとも決意が欠けていたのだろうか。
この時期の信長は南北近江と同盟して
上洛しようとしていたわけだよね?
そうするとやっぱり信長は元々、畿内全体を制圧する計画など
もっていなかったようだな。
後の畿内統一戦や北陸、中国などへの出兵とかは
極めて場当たり的というか、成り行きから出た
リアクションな感じがする。 信長が畿内全域を征服するとかの着想を得たのは
遥かな後年であって、もともとは
東海道の軍勢を京都に上洛させて、大内義興的なことを
したかっただけではないのか?
余談だが信長が平氏に氏姓を変えたのは
北条「執権」的な地位を欲しがったからではないのか? >>19
単純に官位の任官で主導権が握れないからだろう?
藤氏長者は五摂家が握っているし、
源氏長者は久我氏と足利氏が握っていたから、
平氏長者みたいなの作りたかったとか? 秀吉が一時、平氏にした理由はどうなの?
その理由が氏長者にあるとしたら
確かに信長の場合も、そうである可能性が高いよね。
秀吉は途中まで信長の模倣者だし。 源氏は足利将軍家と三管 四職 七頭 八官か それらを下克上した武将たちで予約一杯だったろうから 平家か藤原の方が
名乗る際は安上がりだったろうね 信長の時代の人たちは、そんなに計画的じゃないよ。
後世から見るとそんなふうに見えるだけで。
もっと場当たり的に動いてたんだと思う。 読んだ
足利義昭様と呼ばせてくれ
つーか信長と六角さんは元は味方で何をしとんねん 義昭って麿のイメージで描かれたり、バカ殿扱いで戯画化されてるけど、
実際には何度も修羅場かいくぐって秀吉の世まで生きながらえたわけだし、
なかなか強かな人物で、ただのヘタレじゃないよな。
今川義元ともども、ヘタレ麿キャラを払拭して正当な評価を与えるべき。 織田包囲網っつても実際は堺公方足利義維と近衛前久による足利義昭包囲網だしな
序盤戦は 政治的姿勢は兄貴の義輝とさほど変わりないのに
義昭は、死に方がハデな義輝と違って、生きてるうちに追放されたせいか
イメージ的に軟弱にとらえられちゃってるよねー 兄 義輝は義輝で従兄で関白の近衛前久を越後にやって上杉謙信に関東に攻め込ましたと言うが、こいつも相当だな
要はみんな暴れん坊将軍の見過ぎなんだよ >>33将軍が刀を手に暴れん坊だと あちこち流浪して政治活動してる地味な弟は軟弱扱いになるんだよ 近衛前久の下向は対北条対策の下向な
古賀城での関東公方的な役割りが期待されたが
本人が出奔してしまったからこの計画はパー
流れ関白、度歩き関白、伊達ではないですわ 古賀公方家自体が北条家と縁戚を結んでたから
どっちかって言えば北条家よりだったんだよな
事実、このあとは上杉が手を引いたあとは佐竹
を中心に対北条戦線で結集し始めてるからな 足利義昭が主に西国を中心に旅歩きしてたなら
東国中心に旅歩きしてたのが近衛前久だからな
この後だろ
三河に寄っただの尾張の信長やらと関連しただの 2年早まったとしても、まだまだ足場固めが弱いんじゃないかな
三好みたいになりそう 武田晴信が二年長生きしていたら徳川家も織田家も壊滅だっただろうね。
管領代として室町幕府が継続されてたんじゃないの。
武田の嫡流は近畿の若狭武田だけれども、晴信の実力から足利将軍家は
晴信を嫡流とみとめて大膳大夫(武田嫡流の官位)に任じた。
若狭の武田は管領細川京兆家の副官の家柄だから晴信もその家格を継承して副
管領として政治を行ったんじゃないかなあ。
足利義昭は武田晴信と上洛すべきだった。 若狭武田は足利義昭の姻戚だし(義昭の妹が嫁いでいる)
義昭が滞在していたこともある
でも甲府武田なんて義昭と接点ないんじゃないの 義昭が信長や上杉謙信に出した書状は山ほどあるが、武田信玄に当てた書状は
後の三河侵攻のしかないな >>41
そうだね武田晴信と上洛すべきだったね
>>43
甲斐の武田は武田の庶流だし、若狭の武田ほど畿内では有名では無かったから
義昭は最初、そんなに有力だって知らなかったじゃないの >>21
信長が平氏を自称したからそれに倣っただけだろ
あとは秀勝を養子にもらったから 三年前の書き込みにレスしても見てないと思うぞw
と二月前のレスにレスする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています