邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net

1日本@名無史さん2016/03/19(土) 21:14:14.21
今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。

707日本@名無史さん2018/10/30(火) 12:49:51.15
「倭迹迹日百襲姫命」は徳島市国府町(旧黒田村)の第七代孝霊天皇「黒田廬戸宮跡」で幼少期を過ごし、

阿波市市場町「箸供養」からほど近い「奈良坂」より阿讃山脈を越え、讃岐地方に移動した。

そして、その類い稀な能力を駆使して水を利用した農業の神として祭祀されている。

阿讃山脈を越えて留まった地域が「水主神社(香川県東かがわ市水主1418)」付近。

「水主神社」から北上すると倭迹迹日百襲姫命が海岸に舟を留めて休息したとき、

船人が舟の艪を海岸の松にたて掛けたとの伝承がある「鱸懸神社(東かがわ市馬篠440番443番)」。

「鱸懸神社」を少し北上すれば「袖掛神社(東かがわ市小磯)」。そして西へ移動して高松市内に鎮座する「船山神社(高松市仏生山町大字百相神宮寺)」。

船岡山は倭迹迹日百襲姫命が水主神社からこの周辺に移動して来て住んでいた地。

船岡山は古く百相(もまい)郷に属し船山と称し、地名の百相(ももそ)は倭迹迹日百襲姫命の名に由来すると伝わる。

当地は田村神社の別当寺であった神宮寺(百相廃寺)のあった場所である。

次は讃岐一宮の「田村神社(高松市一宮町286)」。倭迹迹日百襲姫命、五十狭芹彦命(別名 吉備津彦命)・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命を祭神とし、

これを「田村大神」と総称する。

708日本@名無史さん2018/10/30(火) 13:18:32.55
気になる材料を羅列してみると、


渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。

弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。

最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。


複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。

709日本@名無史さん2018/10/30(火) 16:27:40.23
「芝遺跡」
芝遺跡では3面の遺構面を確認した。
第1遺構面は中世にあたり、13世紀後半〜14世紀中頃にかけての屋敷境溝を持つと考えられる
掘立柱建物跡や土壙墓などを検出した。
このうち、土壙墓は屋敷墓と考えられ、海部刀短刀・土師器杯・皿が出土し、13世紀後半頃と推定できる。

第二遺構面では弥生時代後期〜古墳時代前期前半頃にかけての竪穴住居や溝、旧河道等を検出した。
旧河道からは外来系土器が多数出土している。
 
第3遺構面では弥生時代前期後半以降頃の遺構と遺物を検出した。
中期中頃〜後半にかけての円形周溝墓を4基検出し、
時期が確定できる円形周溝墓としては、県内初出となった。

この内、円形周溝墓1は直径約11メートル、溝幅が最大約2メートルを測り、陸橋を持つ。出土遺物は陸橋周辺に集中して出土しており、
結晶片岩を含む吉野川下流域産と考えられる土器がほとんどを占め、若干の在地土器が混じる。
この他、周溝墓の可能性のある溝も検出しており、この時期の集落内墓地であった可能性が考えられる。
また、弥生時代後期中頃と推定される竪穴住居では、炉跡内から鉄切片・小破片が出土し、炉跡底面に焼土面が広がっていた。
そのため、本炉跡は鍛冶炉跡と推定され、U類(村上1998)にあたると考えられる。
この他、サヌカイト片や特殊なものとして朱付着石杵も出土しており、この朱は水銀朱であることが確認されている。
したがって、竪穴住居では石器・鉄器・朱を扱う工房跡であった可能性が指摘でき、阿波南部地域に鉄・朱が伝わっていたことを実証できる好資料である。

710日本@名無史さん2018/10/30(火) 17:17:37.61
>>706
応神天皇が讃岐遷都した
都が阿波に戻ってくるのはいつ?何代天皇?

711日本@名無史さん2018/10/30(火) 18:49:12.82
>>710
>都が阿波に戻ってくるのはいつ?何代天皇?

『播磨風土記』の「志深里」の由来伝承で、履中天皇が「朕於阿波国和那散所食之貝哉」と仰せられたという話から、

17代履中天皇から。  @阿波

712日本@名無史さん2018/10/31(水) 11:51:42.63
弥生後期の予測人口で四国全部で7万人に足りない位だから邪馬台国(連合)=四国は問題ない
狗奴国も四国に含めるのは無理があるが、九州の半分くらいの甕棺地域が狗奴国ならきれいに成り立つ

713日本@名無史さん2018/10/31(水) 12:07:05.38
狗奴国も強大だよ。 その源泉が、「辰砂鉱山」と「黒潮の恵み」と「海洋航行技術」。

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・薬師遺跡・吉水遺跡・田上I遺跡・拝原東遺跡・椎ヶ丸〜芝生遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・天神山遺跡・金泉寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡・石井遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・加茂宮ノ前遺跡・深瀬遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

【海部川流域勢力 弥生時代集落】
芝遺跡・大里遺跡

こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波

714日本@名無史さん2018/10/31(水) 16:57:23.46
【飛鳥の地は小松島市一帯】

小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町は「あすか」と呼ばれていた。江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。

舒明天皇―飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

香具山―小松島市日峯山・籠山(かごやま)

斉明天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

天智天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原) →近江(飛鳥嶋の宮:小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)に遷都

天武天皇―飛鳥嶋の宮(小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)→飛鳥浄御原

持統天皇―飛鳥浄御原→藤原宮(麻植郡鴨島:奈良藤原京は文武天皇)に遷都  

715日本@名無史さん2018/10/31(水) 18:44:03.60
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。

その時代差、約6500年。

その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。

商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。

縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。

中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。

716日本@名無史さん2018/11/01(木) 07:11:38.69
方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型か?

蘇我氏の本拠地:徳島県石井町の曽我氏神社古墳群

先日のNHKでは、方墳は飛鳥時代蘇我稲目の都塚古墳から突然始まると放送されていたが

蘇我氏の本拠地とされる徳島県石井町の曽我氏神社古墳群にはそれに先立ち、古墳時代前期に既に10m×12mの方墳(2号墳)が確認されている。

このことから、方墳墓は蘇我氏一族専用の墓型であった可能性が高い。

また、同じ石井町には奈良の大和朝廷に先行すると思われる白鳳寺院跡および白鳳瓦窯跡が確認されている。

他にも吉野川中流域の美馬町・川島町にも白鳳寺院跡が存在する。

これらも阿波国内で頭角を現した有力豪族、蘇我氏に由来するものであろう。 

[石井町/曽我氏神社古墳群]
http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%C0%D0%B0%E6%C4%AE%2F%C1%BE%B2%E6%BB%E1%BF%C0%BC%D2%B8%C5%CA%AF%B7%B2

717日本@名無史さん2018/11/01(木) 08:18:45.87
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。



「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。

http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html


.

718日本@名無史さん2018/11/01(木) 12:41:11.32
>>711
17代履中天皇から41代持統天皇までずっと阿波に都?

719日本@名無史さん2018/11/01(木) 13:46:23.55
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析によると、ちょうど朝鮮人とオロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の
中間あたりの位置を示す。

オロチ、ギリヤーク(ニヴフ)の分布位置と朝鮮半島のちょうど中間あたりはウデヘ、ナナイの
住む沿海州南部あたりで、これは弥生開始土器の示す沿海州南部と整合している。


http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/1-thumb.jpg
http://f.hatena.ne.jp/nyankosensee/20110813183224

720日本@名無史さん2018/11/01(木) 17:26:52.08
>>718
>17代履中天皇から41代持統天皇までずっと阿波に都?

いや、卑弥呼以前から41代持統天皇までずっと阿波に都があった。
ただし、15代 応神天皇と16代 仁徳天皇だけ、香川県さぬき市津田に「前期難波大隈宮」を構えた。  @阿波

721日本@名無史さん2018/11/02(金) 21:59:06.21
武内宿禰の鎮守社に比定される「矢武八幡神社」は、徳島県板野郡矢武字鏡松に鎮座する。

当神社で注目すべきは、「往古、嵯峨御所から額(扁額か)が寄付された」とする伝承である。

「額は今存せざるも、ご寄付状は存在せり」(名勝案内)とみえ、その文書には「阿波国板野郡矢武村者上古武内大臣為縁由地云々」とあって、武内宿禰の由縁の地が寄付の理由であったと理解される。

また、名勝案内の「船の本」条(矢武村に西接する大山村西分)には「此地武内宿禰の旧領なればその遺址存せるならむ」とあり、船の本の聖地に斎田その他を設け、慶事や祭典の折には、村民挙げて奉祭したとされている。

つまり、現在の阿波国上板町大山から板野町矢武一帯は、武内宿禰の領地、または所縁の地であったとする伝承が存在している。

722日本@名無史さん2018/11/02(金) 23:28:09.36
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

723日本@名無史さん2018/11/03(土) 06:36:37.90
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、吉野川北岸阿波市の「建布都神社」で祀られている。

「建布都神」の陵墓は「阿波市 伊笠山」山頂。 

一方、長髄彦の本貫地は徳島県板野郡板野町川端で、周辺には、「東中富」「西中富」「富の谷」「富の谷口」「富の谷川」など中臣の地名が多く残る遺跡の密集地である。

長髄彦と神武軍との戦いの場は、この東隣の鳴門市萩原地域。長髄彦は、この地で神武軍との戦いに敗れたのである。

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   

724日本@名無史さん2018/11/03(土) 09:07:46.78
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

725日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:18:39.05
今日は文化の日。

親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の産物とは此れ如何に。  @阿波

726日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:31:49.66
橘も曲玉もJapanSeaじゃね?

727日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:35:16.64
>>726

出雲の勾玉は出雲忌部の製作。  @阿波

728日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:43:37.53
縄文に
堕胎ありせば
曲玉や

729日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:45:50.67
山口に
流れて来なむ
みかんかな

730日本@名無史さん2018/11/03(土) 19:47:48.84
トカラより
わかれてながる
文化かな?

731日本@名無史さん2018/11/03(土) 20:44:00.81
>>720
15と16代が讃岐進出したのは広い平野を求めて?

732日本@名無史さん2018/11/03(土) 21:07:37.86
>>731
>15と16代が讃岐進出したのは広い平野を求めて?

今でこそ、県が違っているから、遠そうに思うだろうが

讃岐の津田って鳴門の隣だから。  倭国(阿波)国内だよ。  @阿波

733日本@名無史さん2018/11/04(日) 22:23:25.73
稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。

斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域・吉備地域と西縁・伊予地域・豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。

蛇紋岩の製作遺跡 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡

原石産出地 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩

734日本@名無史さん2018/11/04(日) 22:54:50.98
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

735日本@名無史さん2018/11/05(月) 12:05:12.79
隣でも当時、阿讃山脈の峠を越えるのは命がけじゃないの >>732

736日本@名無史さん2018/11/05(月) 12:59:59.31
>>735
>隣でも当時、阿讃山脈の峠を越えるのは命がけじゃないの

う〜ん、現地を知らないからそう思うのも仕方がないが、
サヌカイト等、縄文時代から常に通っていた通常ルートだよ。
とにかく、奈良山(平たい山)と謂われるぐらい低い山並みなんだよ、阿讃山脈って。
「倭迹迹日百襲姫命」や仁徳天皇の大后「石之日売命」、新しくは源義経軍も峠を越えて讃岐に行っている。 @阿波

737日本@名無史さん2018/11/05(月) 14:09:14.49
阿波から見て山脈の向こうが讃岐なんだから
讃岐山脈という言い方は本来ならむしろ阿波側が付けたの名称のはず
それを後から不公平と阿波側が言い出すのはおかしな話だよねえ

738日本@名無史さん2018/11/05(月) 14:26:40.16
さかきばら事件のwikiを読んでみると


ネコが何やらと書いてあったり、

739日本@名無史さん2018/11/05(月) 14:28:10.94
738

このスレじゃなかったw

740日本@名無史さん2018/11/05(月) 15:37:09.04
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

741日本@名無史さん2018/11/05(月) 17:05:02.69
>>737
>阿波から見て山脈の向こうが讃岐なんだから

阿波から見て山脈のこちら側が阿波なんだから、阿波山脈だよ。

>讃岐山脈という言い方は本来ならむしろ阿波側が付けたの名称のはず

「阿波側が付けたの名称のはず」じゃないから、不公平と阿波側が言い出すのはおかしなことではない。  @阿波

742日本@名無史さん2018/11/05(月) 22:03:49.75
俺らは地図があるから山の標準名を決めた
しかし昔の人にとっては山は自分の集落から見える姿だけで反対側の人がどう考えているなんか知らない
当然複数の名前がある
川も同じで上流中流下流で全部名前が違うしひどい場合は右岸と左岸で名前が違う
そりゃそうだ
交流が無い別の民族なんだからな
山を越えるのが普通な街道や
川を船や矢倉で渡すなど
通行が盛んな場所はそれなりに名称が統一されてただろうが
そうじゃない田舎は山や川の名前は100m離れていればバラバラだ

743日本@名無史さん2018/11/05(月) 22:05:57.29
日本海は中国から見て海の向こうが日本だから中国側が名付けた名称なのは分かりますか?

744日本@名無史さん2018/11/05(月) 22:09:34.13
>>743
>日本海は中国から見て海の向こうが日本だから中国側が名付けた名称なのは分かりますか?

じゃ、東シナ海は?  どうでもいいんだけどw  @阿波

745日本@名無史さん2018/11/05(月) 23:37:34.15
中国側から見て名付けた名前ではないでしょうね

746日本@名無史さん2018/11/06(火) 12:31:15.33
>>711
え、海鮮を食べたくて阿波に帰ってきたの?我儘天皇だな

747日本@名無史さん2018/11/09(金) 20:44:43.59
>>504
>ただし壬申の乱迄阿波が舞台

大海人皇子って奈良や京都の名前とちゃうやん
四国の南っぽい感じ

748日本@名無史さん2018/11/09(金) 22:14:22.82
>>747
>大海人皇子って奈良や京都の名前とちゃうやん
>四国の南っぽい感じ

倭国(阿波)の小松島市周辺の海人の皇子ですね。  @阿波

749日本@名無史さん2018/11/09(金) 23:19:00.07
◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか


経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、

日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。

このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。

この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。

ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。

750日本@名無史さん2018/11/10(土) 00:06:54.69
>>741
香川県人は讃岐山脈、徳島県人は阿讃山脈という。

751日本@名無史さん2018/11/10(土) 02:31:02.16
徳島県人全体がいちゃもん付けてるわけじゃない
阿讃山脈なんて主張してるのは徳島でも極一部だよ

発想が日本海→東海と一緒

752日本@名無史さん2018/11/10(土) 08:36:43.73
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

753日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:36:25.49
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 

754日本@名無史さん2018/11/11(日) 23:58:28.57
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa



アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww


http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8

755日本@名無史さん2018/11/12(月) 10:06:12.08
日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。

そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。

ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。

石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。

それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。

オール木製で。

しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。

日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。

ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。

石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。

756日本@名無史さん2018/11/12(月) 21:57:06.50
>>748
>倭国(阿波)の小松島市周辺の海人の皇子ですね。  

【飛鳥の地は小松島市一帯】

小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町は「あすか」と呼ばれていた。江戸時代まで「飛鳥神社」が鎮座していた。

舒明天皇―飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

香具山―小松島市日峯山・籠山(かごやま)

斉明天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原)

天智天皇―後飛鳥岡本宮(小松島市千代ヶ原) →近江(飛鳥嶋の宮:小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)に遷都

天武天皇―飛鳥嶋の宮(小松島市嶋ノ宮神社南方の大林町)→飛鳥浄御原

持統天皇―飛鳥浄御原→藤原宮(麻植郡鴨島:奈良藤原京は文武天皇)に遷都  @阿波

757日本@名無史さん2018/11/13(火) 10:27:32.82
継体天皇も阿波?
徳島に越前という地名あるの

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