邪馬台国四国説 part1 [無断転載禁止]©2ch.net
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
今のところマイナー派ですが、神懸かりして語りましょう。 >>951
今、阿南市や海部などの県南が力を入れてるね。 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 徳島の長寿大クスノキ
>徳島県三好郡東みよし町には、1956年7月19日、文化財保護法により特別天然記念物に指定された大クスがある。
>これは樹齢数千余年と推定され、根回り19メートル、目通りの周囲約13メートル、枝張りは東西経45メートル、
>南北経40メートル、高さ約25メートルである。
樹齢数千年は驚きだなあ。阿波国より古い。 >樹齢数千年は驚きだなあ。阿波国より古い。
「阿波で千年、京で千年」 @阿波 >>954
徳島県三好郡東みよし町は「阿遲鉏高日子根神(別雷神)」の郷。
「阿遲鉏高日子根神」は「大国主神」と「多紀理比賣(須佐之男命の子)」の間に生まれた神で、「加茂の大御神」とも呼ばれている。 @阿波 三好郡東みよし町であれば、太古の昔から津波は来たことがなかったであろうな。
格式高き古宮が、多々あって当然のこと。
阿波で千年、京で千年もうなづける。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 矢野遺跡を吉野ケ里遺跡みたいに整備すれば
観光スポットになるんじゃないの? 他にもいっぱいあるよ。 例えば古事記巡りツアーとか。 実際、某古代研究会ではバス研修している。
若杉山遺跡観光もいいね。 @阿波 矢野遺跡の弥生層の上下には、
大津波に洗われた痕跡があったのではないかな。
そういうのを、展示・説明すれば、怖いもの見たさに、わんさと人は集まるぞ、ゾ、ゾ、ゾー 矢野遺跡なんて誰も知らないって
徳島は観光弱いのになんでプッシュしないの >>962
徳島県人自体が無知だからw まさか徳島にそんな大それたものが在る訳が無い、とね。 @阿波 大それたヒトが居て、大活躍してるのは確かだが・・、 佐賀だって同じような民度だろう
なぜ吉野ケ里遺跡と差がついたのか 吉野ヶ里は、戦闘用のむらであった。
しかし、やがて多くの人々は去り、打ち捨てられたが、平和がやってきたのだろう。
つまり、歴史の表の華やかなりし時代と、その裏側の両方をかいま見せた。
踊るあほうのにぎやかしばかりでは、人々は評価してくれない。 吉野ヶ里が一過性のブームに終わらず観光地として生き残れたのは
福岡と長崎の中間で、観光バスが立ち寄りやすかったから
という指摘を見たことがある 魏志倭人伝に記録された倭の地名のうち、
邪馬台国をはじめ、北部九州の國々などは全て倭の現地地名からの表音文字。
表意文字の地名はわずかに、朱儒國、黒歯國、裸國、のみ。
「朱」儒國の候補地って、考古学問的に、阿波一択じゃないのか?
当確おめでとう!阿波!
阿波踊りの起源が裸踊りじゃなくて本当によかったな! >>969
南環状線が完成すれば矢野遺跡までのアクセスが良くなるけど
グズグズしている
知事変えないとな なんでもかんでも阿波説があるが大丈夫なのか
キリストとかアークとか わかってるのは飛鳥時代は丸ごと四国阿波ってことぐらい
邪馬台国(以前)の世界は想像に過ぎない >>974
>アスカ時代の証拠は?え
状況証拠のひとつ
徳島市国府町府中の式内社 大御和神社は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されています。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの) @阿波
http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2015/02/03/231418 胡散臭い邪馬台国より確実な阿波飛鳥時代をプッシュして行った
方がいいと思うけどね
歴史の教科書はいまだに奈良
これだけは絶対変えないと ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証である。
阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
http://awakouko.info/modules/webphoto/index.php/photo/203/
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 泡も金印か銀印ぐらいないのかな
福岡の金印の博物館は、金印だけでお客いっぱいだぞ
何年間も経済効果半端ないよ
親魏倭王の印鑑でも探しますか >>980
>親魏倭王の印鑑でも探しますか
たぶん、ご神体気延山の円墳に奉納されてるよ。 だから、探しても無駄。 @阿波 金印が田圃から出てきたという話に如何ほどの価値があるのかね
価値ある金印が田圃の中で発見されたなどの戯言を信じるなど理解できないよ
裏があると推測するのが普通の人々だよ
徳島国府の大御和神社には「保管していた国璽を朝廷に返却した」との記録がありますね
この返却年次後、諸国に各々の国印を作るよう指令がでています
この大御和神社には奈良の大神神社の宮司さんが挨拶に来られるようです >さっきから、どこどこは低身長とかいうのがたくさんあるけど、侏儒は人長三,四尺だから
>10センチ低いとかではないんだよ
>魏晋尺は23センチだから、三、四尺なら69センチとか92センチとか、1メートル以下になる
>もっとも身長が低い短身種族のネグリロでも身長137〜159cm
・侏儒國は表意文字。(北部九州の説明は倭語に対応した表音文字)
・朱が其の山に有る、ではなく、侏儒國では朱を産出していた
・考古学的に朱を産出していたのは阿波のみ
侏儒國に阿波が含まれているのは考古学的に確定。
若杉山遺跡で見つかった朱を採取した坑道跡の大きさは、
奥行き約14メートル、高さは約70〜90センチ。
『高さは約70〜90センチ』 最古の論語木簡が阿波
儒教は最初、阿波に入ってきた
朱の取れる儒教の国=侏儒國 皇統の源聖地ともいうべき、高天原ってのは四国だと思う。
そこから天子の多くは中国地方に天下ったり、国譲りがあり、
特に天「子」か「孫」かわからんがニギハヤヒ系は畿内に定着し、天「孫」であるニニギ系は九州に天下って定着した。
その後の神武東征っていうのはお家騒動の話。
以降、ニニギ神武系は正統権を得て畿内の各地に勢力を広げた。
(この時点ではまだ大王レベルとはいえず将軍ランクだった) 前方後円墳を一番に卒業するのは阿波
オリジナルは終わりも早い 卑弥呼の時代は記紀的には崇神天皇御代前後あたりになる。
「旦那がおらず、男弟がいる」…らしい卑弥呼。
皇統系の姫なのか、豪族系の姫なのか、よくわからん。
皇統でも皇后の娘・内親王は嫁にいかず、
妃の娘・女王は嫁にいくみたいなので、前者とみるべきかもしれん。
崇神天皇の御代に天照大御神を外宮で祀るようになったのは何かを暗喩してるのかもしれん。 大物主神と倭大国魂神もそうだが、崇神天皇の御代に祀るようになったらしいが、
倭国大乱の原因は遠因として出雲の国譲りがあって、代を重ねるうちにまた
四国派(天津神派)と中国派(国津神派)の内乱(各々のお家騒動も含む)になったのではないかと思う。 >倭国大乱の原因は遠因として出雲の国譲りがあって、代を重ねるうちにまた
出雲の国譲りは狗奴国(長国)の征服譚なんだよ。
>四国派(天津神派)と中国派(国津神派)の内乱(各々のお家騒動も含む)になったのではないかと思う。
申し訳ないけど、倭国乱も倭国(阿波)国内でのお話なんだよ。 @阿波 >死去したのは畿内
さすがに卑弥呼女王は畿内には行っていない。 神山で隠棲していた。 @阿波 卑弥呼のことは謎も多いから
わからないけど
神夏磯姫や田油津姫から解明しようよ 鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 @阿波 二重カギ括弧使うのやめないか?
松傾老婆対策で『をNG指定してる人多いはず >>49
大伴家持は8世紀の人
さすがに8世紀には阿波の時代は終わってる このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 1033日 21時間 0分 39秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。