【東夷】倭人在帯方東南大海之中.......... [無断転載禁止]©2ch.net
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さ〜、老若男女を問わず紐解けや!
ここは以前あった『倭人伝等を読む』スレを継承するために立てたスレです。 もし末盧国の港から南東の方角に五百里進んだところに伊都国が有るのなら
東南陸行五百里到伊都國じゃなく
南東陸行五百里到伊都國。
これなら万人が認める伊都国南東物語だよ
東南陸行五百里は、末盧国の港を基点に東南に陸続きで広がるエリアでその範囲は五百里。
そのエリア先に伊都国のエリアが
伊都国は末盧国と同じように九州島の島内でしかも末盧国の隣国、末盧国同様北に海がある地。
つまり、伊都国は末盧国の東隣。 末盧国の港は呼子あたりに一つはあると思うんだが、末盧国の中心部は松浦川を少し登った千々賀あたり。四千戸ならこのあたりじゃないとダメだな。ここから伊都国に歩きなら北東になる。魏使の報告書は適当。 >>92
意味わからん
もう一度原文読んでミソ
女王国、現在の大分から宮崎。そこから東へ千里渡海すると現在で言うと四国があってその四国は倭種の住む地域
後漢時代には不属女王な地域だったが、魏時になると「復」と有るように、倭種では有るけど女王国と同じ政治状況に >>94
>末盧国の港は呼子あたりに一つはあると思うんだが、末盧国の中心部は松浦川を少し登った千々賀あたり。
対馬海流に流されて、末盧国=呼子・松浦川は有り得ない。 >>95
裸国 黒歯国も復だよ。船で一年かかるけど、ここも女王国と同じ政治状況なの? >>94
思う必要もないし想像する必要もない、ましてや末盧国の中心部なんて探る必要もない。
末盧国に必要なのは最初に上陸した基点となる
港だけ。
伊都国は末盧国の東隣。北東でも南東でもない
北に海を持つ末盧国の東隣の地域。 >>96
往路は流されることはあり得る。しかし復路もあるからね。壱岐から呼子までの間にも島がある。壱岐の南端西側から呼子に向けて出航するとたぶん大丈夫。 >>97
その「復」は先の「復」とは掛かる文が違うだろ >>99
旅行雑誌じゃないんだから往路復路なんてどうでもいいこと 潮の流れがあるから、往路復路で出発点も到着点も違ってただろうな 秀吉がどうして肥前名護屋に名護屋城を建てたんだろうなあ。 >>106
サンスクです。
訪れる人がこんなレベルならこちらから隔離スレを望みたいくらいです。
お心遣いかんしゃします。 >>97
先の「復有國」の(復)は政治的に女王国と同じ倭種
ここの「復在」の(復)は倭種で、女王国とは関係ない
裸国や黒歯国はもとより、この先船で一年の範囲も倭種の住む地域だということ
当然政治的に女王国と繋がりはない。 >>108
復(また)国ありて。って読んでた。違和感は感じない。 >>109
流石に「復有(国)」はないし、違和感は覚えるものだから感じない。 >>73
文章の切り方が違う
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺
去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
だな、女王國東渡海千餘里 と 去女王四千餘里
復有國 皆倭種 と 又有裸國 黒齒國
又有侏儒國在其南 人長三四尺 と 復在其東南 船行一年可至
が対になってる。 >>111
対になんてなっていませんよ
だいたい対にする必要性がない >>111
違うぞ、以下の3とおり
「女王國東渡海千餘里 復有國皆倭種」
「又有侏儒國在其(復有國皆倭種)南 人長三四尺 去女王四千餘里」
「又有裸國・黒齒國 復在其(有侏儒國)東南 船行一年可至」 【女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里】
女王国の東の海を渡ること千餘里に、(復)とする地域がありこの地域はみな倭種。
(復)とは政治的に女王国と同じ魏と通じる地域
(又)侏儒國あり。
ここで又とあるので、前文の(復)とする倭種の地域も侏儒國だということ
位置的に女王国の東には海があり、その東には(復)とする侏儒國A地域が、
そしてその東には海を隔てて侏儒國B地域があるということ
『又有侏儒國在其南』
そして侏儒國Aは、その侏儒國Bの緯度的に南に在るということ
皆倭種で女王国と同じ魏と外交関係にある侏儒國Aと侏儒國Bは、海を挟んで東西そして南北
つまり、侏儒國Bは侏儒國Aからみて北東、侏儒國Aは侏儒國Bから見て南西に位置する。
『去女王四千餘里』とは
その侏儒國Bから女王までは四千餘里。
ここで面白いのが「去」と女王国じゃない「女王」。これが読めないとここはまったくチンプンカンに 【又有裸國・黒齒國 復在其東南 船行一年可至】
(又=侏儒國Bの海を隔てた所)に裸國や黒歯國がある。
(復=さらに)(其=侏儒國B)を起点に東南に舟で一年ほどのエリアがある
侏儒國A=四国
侏儒國B=淡路島
裸國・黒齒國・船行一年可至=本州 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 さぁー、昨日の>>114の続き「去」と「女王」
を
【去女王四千餘里】
『去』→それまで女王国を基点に東へ東へと移動し侏儒國Bへと
それを今度は侏儒國Bを起点に西へと視線を戻すという意味
この「去」は後に范曄も後漢書倭伝の中で【樂浪郡徼、去其國萬二千里、去其西北界拘邪韓國七千餘里】
そして「女王」
これは『自女王国』と同じ意味で、女王国という範囲ではなく、女王国の中にある都(女王の住む都=京師)
つまり、視線を戻し侏儒國B(淡路島)から西にある女王の都までは四千餘里
この事から海を渡った距離千里を引くと、侏儒國A(四国)は、西から東までざっと三千里。
そして女王の都と侏儒國B(淡路島)は緯度的にほぼ同じということもわかるわけです。 【國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史】
『國國有市』→民間レベルの交流
『大倭』→倭に対する大倭。大陸の王朝と正式に繋がりの有る「倭」に対し、規模が遥かに大きくても正式に政治レベルでの付き合いのない「大倭」
『交易有無使大倭監之』→ここは切らないで一気に。
大倭が大陸の王朝への政治的な朝貢が行われているかいないかを監視する。
『自女王国以北特置一大率』
(自女王国)→女王の都=京師
(自女王国以北)→斯馬國〜烏奴國の諸国二十国
(特置一大率)→特殊部隊を特別に置く
つまり、
大倭の大陸への動きを監視するために、響灘に
面する諸国に特殊部隊を配置する ここにもシヨウマッセツ妖怪が出ている。恐ろしいことだ。 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
辰州、奉国軍、節度。本高麗蓋牟城。唐太宗會李世勣攻破蓋牟城、即此。
渤海改為蓋州、又改辰州、以辰韓得名。
高句麗の蓋牟城は遼寧省撫順市に比定されており、その位置は鞍山市の北東である
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg
http://i.imgur.com/jgCdJPf.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
劉仁軌自ら「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾(遼東湾)のことだ
公州の西の海を遼海と呼ぶのならインド洋も遼海だ
なお言うまでもないが、劉仁軌の役職は檢校「帶方州」刺史だった
扶餘隆率水軍及糧船。自熊津江往白江、會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口
熊津江(熊岳河)と白江(浮渡河)とは開口部が違う川である
熊津江を出て白江に向かったところ白江の口で倭兵と遭遇したのだ
通説の錦江説は合っていますか?白江の上流に熊津江があるのではありません
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
劉仁軌と扶余隆が共同し遼東湾を平定(残党狩り)していることは注目に値するだろう
(蘇)定方自城山濟海、至熊津江口=蘇定方が平定した百済もまた遼東半島である
通説が正しいならばこの箇所は「至白江口」となる。白江=錦江説、アウト
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
白村江への旅程については何も書かず、いきなりワープしているではないか!
宇宙船艦ヤマトのようにワープしている時点で作文確定!
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/9eYBu4V.jpg 倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
檢校帶方州刺史、劉仁軌は遼海を削平(平定)する、遼海とは遼河が注ぎ込む海、遼東湾のことである
この遼海を拡大解釈しなければならない帯方郡=ソウル説、アウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい 「アイヌ人と渡来人の混血は7世紀が始まり」…遺伝学研究所
2015年08月24日 16時52分
http://www.hazardlab.jp/know/topics/detail/1/0/10761.html
国立遺伝学研究所と東京大学の共同チームは、アイヌ人や日本列島本土人の遺伝情報を解析した結果、
遺伝子配列の違いから、縄文人の子孫と見られるアイヌ人と、弥生人の子孫とされる渡来人の混血は、7世紀に始まったと推定する研究結果を8月24日までに発表した。
日本列島には、おもに北海道に住むアイヌ人、琉球諸島のオキナワ人、日本各地に分布して生息する本土人の3種類の人類集団が居住している。
国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは、性染色体以外の遺伝情報を調べて、60万カ所で見られる遺伝子配列の違いを解析した。
その結果、毛髪と歯、顔の造形に関係する2つの遺伝子の近くに存在する塩基配列が異なる部分の解析から、アイヌ人と日本列島本土人には大きな違いがあることが判明した。
研究チームは、アイヌ人を縄文人(採集狩猟民)の子孫、中国大陸から渡来した漢民族や朝鮮民族を、弥生人(農耕民)の子孫と仮定した場合、
日本列島本土人における縄文人の遺伝的割合は約20%に達し、これら二つの民族の混血は、少なくとも55世代前、すなわち7世紀ごろに始まったものと突き止めた。
斎藤教授は「遺伝子解析の結果、アイヌ人が東アジアのなかで独自の系統的位置を占めていることが明確に示された」と話している。
なおこの論文は日本人類遺伝学会が発行する「Journal of Human Genetics」電子版に掲載された。
国立遺伝学研究所と東大の共同チームが日本列島本土人の混血モデルを解析した図(国立遺伝学研究所の論文より作成)
http://www.hazardlab.jp/contents/post_info/1/0/7/10761/%E6%B7%B7%E8%A1%80.jpg 「小学生より学力が足りないで賞」受賞
↓
「テンプレの誤字も直した方が良いで賞」受賞
↓
「まだわからないで賞」受賞
↓
俺は悔しくて泣いた。
↓
だが、ボキャ貧キウスの知らない単語な線もある。
↓
「無教養露見で賞」受賞
↓
❓❓❓
. /テンプレ\ 誤字ったってキウスやサイキバみたいは
/ \ 単なるタッチミスもある
. / (゚) (゚) \ ❓❓❓
| )●( | キウスが笑い者なだけ❓
. \ 廿 / 誤字って何❓
. ノ \ ❓❓❓
👆「自分で発見しないと笑いもので賞」 本居宣長も新井白石もこの件については十分調べた
つまり、江戸時代から考察しているわけだ
結論は、明確にはわからない
ならば、もはやそれを追うのは馬鹿げている
たとえ卑弥呼の墓を掘り当てたとしても、そこに表札は無い
そのような、日本史に登場しない人物は存在しないというのが実は、真にただしい
解釈だ
目を覚ませ >>129
江戸時代に吉野ケ里遺跡が発見されていれば二人とも筑紫平野だと考えただろうナ 魏志倭人伝の里、歩の単位が実際は1/5程度であることがあきらかなので
径100歩は30mほど、あとは時代が3世紀中葉の墳丘を考えればいい。
九州中西部には候補だらけだ。 >>129
江戸時代に鉄器も銅器も無い驚異の巨大3世紀遺跡が発見されていれば二人とも筑紫平野だと考えただろうナ 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です
↑
この衝撃的な失言を落とすために
スレ乱立して板操作しておりますですよ 1 ◆q8leUXpsw. こいつが邪馬台国スレを乱立させているのか?
日本史板になんの恨みが???
日本の歴史が嫌い?? 似たようなスレを作りすぎ。
古いのから順番に、使用して、使い切れ。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
2IJ 倭が日本列島を指してるなんて記述は古代文献に一つもない >>142
うるせぇよ無能チョンコ
百済スレでイビリ倒されとけって ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています