日本国号の由来 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
日本国号の由来
日本国号の由来を考える。日本国号は東夷を表すつもりではなかったか。
「日本」の文字が見える最も古い記録は禰軍墓誌の「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」。
風谷遺氓を福信とする説を取ると、于時は碑文の「顯慶五年(660)」になる。
日本餘噍は660年に扶桑にいた。旧唐書の「扶餘勇者,・・・,是時走在倭國」は、日本餘噍は扶餘勇(百済王子)と思わせる。
白村江で多くの百済貴族が倭国に着き、扶餘勇と合一したはず。
旧唐書の「麟コ二年(665),封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」は倭国が唐配下になったことを示し、倭国には新しい政権が生まれる素地がある。
天智天皇(中大兄皇子)が百済将軍を使って朝鮮山城を作る。
その範囲は北九州から滋賀県。即位したのは大津に遷都後で、近江朝は、百済政権。
旧唐書の「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は
倭国を従えた近江朝のことではないか。
新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。・・・」は
壬申の乱で近江朝が旧倭国に滅ぼされたことが対応し、倭の名を冒したから近江朝は、「日本」を自称していたに違いない。
注意すべきは高句麗が倒れた後に国号を日本にしていることである。
昔、朝鮮半島あたりを日の出の地域として中国は「日本」と呼んだ。
禰軍墓誌の「日本」もそのような意味。
唐によって潰された百済・倭・高句麗を受け継ぐ国名として、天智天皇は「日本」が相応しいと考えたのではないか。
百済にとって、倭も高句麗も同盟国である。志は百済だけではなく、東夷であると。 高句麗に逃げた百済王扶余豊は高句麗が平定される(668)と、捕らえられ、
その冬には嶺南に流刑になる(資治通鑑)。
捕らえられた月日は明確でないが、高句麗扶余城がおとされたのが、668年2月。
勇が天智天皇になったのはWikipediaによると668年2月20日。
つまり、豊が扶余城にいたとすると、2月に捕縛され、百済王として機能しなり、
勇が正統に百済王統を嗣ぎ、天智になったと解釈される。
百済の同盟国である高句麗を平らげたことを祝賀する使いを唐に送らねば
ならなかった天智の気持ちを推し量ると、大変つらい気持ちであったでしょう。
その後、日本と国号変更して、東夷の中国への思いをこめたと察するのだが・・・ 近江朝は日本を名乗っていた。壬申の乱のあと倭は国号を日本に変えた。年次は不明。
禰軍墓誌の「于時」(660,663)の時点では、日本国号はなかった。
禰軍墓誌が作られた時点(678)時点は近江朝の後で日本国号は存在していた。
禰軍墓誌には国号が使われていないので、678時点で日本国号はなかったと
結論付けるのは間違っているのではないか。
「據扶桑以逋誅」倭と書かずに扶桑としたのは、国名を使わないためではなく、
日本餘噍というのは独立組織で、倭国に頼っているのでない。
「扶桑の地に根拠を持って」という妥当な表現。
婉曲にいっているわけではない。
「風谷遺氓」も婉曲に高句麗を指すとするのは話が飛んでしまう。
やはり、峻険な城に立て篭もる福信や扶余豊の事を指すとするのが正しいと思う。
これも、独立組織であるから、国名を書けず、風谷と書いたのであろう。 ヤマトの漢字表記を外国が名づけた「倭」として平気でいるのなら、
ヤマトの漢字表記を外国が名づける「日本」としても、かまわないだろう。
国内的には、ヤマトに変わりないし、国体も替わっていない。
と百済人は考える。
国際的には、国号を変えたと写るので、何故かということになり、
唐の官吏も問いただすことになる。
日本国号の真意は、百済あるいは東夷を表すなどといえたものでないので、
倭の名を憎みてということにすれば角が立たない。
こんな簡単なことだろうか・・・といぶかしむ。 闇に葬られた歴史(副島隆彦)のなかに、
岡田教授の「近江令のなかにはじめて日本が出てくる」を全面的に支持する
という意味の文章があるけれど、近江令の木簡でもあったのかね。 日本という呼び名を発明したんは百済人でしょ
朝鮮半島から見て南の九州の倭は少しも日の出づる方角すなわち「日本」ではないのだが
畿内の大和だとそれはまさしく東方の「日本」そのものにあたる
大和朝廷を近接する九州の倭ではなく朝鮮半島から見て東(日本)の遠方から日本列島を統べる大倭とみれば非常に自然 「日本」はもともと日の出の地を意味していて、中国では朝鮮半島を指していたらしい。
百済人が、失った故国から見て近畿を日本と名づけた可能性はありますね。
倭人が倭国号を変更するなら、ヤマトと発音できるものにするでしょう。
日本国号に変えたのは百済人です。
沢山百済貴族が白村江の敗戦で倭国に到着していますから。 >>9
どの点についての根拠を求めているのかや?>>1を読みなされ
蒸し返しは議論の妨げになります 京畿道と近畿や京のネーミングセンスは近い気がするね >>11
和歌山県の牟婁郡。昔からムロオという地名があってと思う。
書紀の孝徳紀で「牟婁」と記されたのが始めてなのでしょう。
「牟婁」は百済本紀に出てきてもおかしくないネーミング。 >>9 典拠。
新唐書の「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。
使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」
は日本小国は倭の併せるところとなり、ゆえに国号を冒したといっている。
倭に併合されたのは近江朝です。日本=近江朝です。この文の主語は近江朝です。
日本国号は670年以降、壬申の乱(672)以前にネーミングされた。
こんなにはっきりした「日本」の起源をなぜ曖昧にしているか疑問。
近江朝を探ると、百済王朝にたどり着く。
旧唐書・新唐書・三国史記・禰軍墓誌・書紀は完全に同じことを言っている。
書紀は扶余勇の名前を出さないので、同定する必要があります。
中大兄皇子=扶余勇とします。
Wikipediaの扶余勇=善光説は、なんで百済人同士で名前をかえる必要があるか疑問です。 本当の古代史
辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
帯方郡(4900戸)=営口市、半径5km
あとは魏書韓伝にそってならべる
多婆那國=倭国(大連)東北1千里=中朝国境の卒本地方
好太王の碑文にある倭、百残、新羅の位置=遼寧省から鴨緑江の下流域
倭の五王が南朝に派遣した倭国使は靴をはいていない
通説(痛説)では裸足の集団に広域大戦争をさせてしまった
「西暦391 - 412年」中に、「倭」は「高句麗」と「鴨緑江」にて職貢図によれば「裸足」で戦わなければならない
のちに坂上田村麻呂の東北遠征が西暦800年に行われ、異民族風のアテルイが捕まえられる
何なんですかこの古代史!順序が逆ならまだしもなぜこうなるの
西暦400年に鴨緑江を攻め、その400年後に東北地方を攻めるのは不自然だ
この時点で倭=日本列島説はアウト
そもそも日本列島は韓と界接していないので最初からアウト
2重の意味で倭=日本列島説はアウト
http://i.imgur.com/9GXhZ3N.jpg
http://i.imgur.com/zVOyZ0J.jpg 西暦400年代、倭、百済、新羅は好太王に故郷を追われ朝鮮半島に逃げ込み拡散分布する
東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五國=海北とは遼寧省南岸
東、西、海北には領土があるが南の領土はなぜ主張しない=南進中を意味する
ここで博多中心説を採ると博多の南には領土があるはずなのでアウト
ここで奈良中心説を採ると西側の国が少なすぎるのでアウト
つまり倭王武にとって帰る国などなかった
道遥百済(省略)句驪無道=倭国、百済、句驪は陸続き、句驪はひどいと南朝に泣きついた
故郷を奪ったので句驪無道なのです、倭王武の悲痛な叫びを曲解せずまじめに聞きましょう
半島各地で任那ができる、倭国本体南下する
最後の遣使記事は502年=引越し中を意味する
西暦500年代初頭、倭国本体は九州に上陸し、先住民を土蜘蛛あつかいする
天孫降臨記念日を太古の昔に設定した日本書紀はこの時点でアウト、証拠能力ゼロ
志賀島の金印=先住民にとられないように埋めて隠すも、埋めた場所を忘れる
前方後円墳は堤防の概念がない先住民が積み上げた塚を倭国人がこれ幸いと墓に転用したものだ
塚の作成年代≠墓になった年代、これ重要
ため池あるとこ古墳あり、ため池なければ古墳なし
倭国人は堤防の概念、その他中国文明を知っており最初から巨大古墳を作っていない
6世紀の終わりには日本各地で、ほぼ時を同じくして前方後円墳が築造されなくなった(wikipedia参照)
上の理由は残土を堤防に使う
塚を墓であると主張するには副葬品などの提示が必要だ
塚はあっても墓はない、いわゆる空墓がかなりあるのはなんででしょう? 百済の熊津城=熊岳城
白江の口=熊岳城の南西、白沙湾
「百済辰朝人」であるところの「扶余隆」は百済五方「北方」の城「熊津城」で暮らしていた
熊岳城の南西に「白沙湾」という地名がグーグルマップでも発見できる
これはいったいどういうことだ!
熊津道行軍總管、右威衞將軍孫仁師等破百濟餘衆及倭兵於白江,拔其周留城
韓国西部の公州に行くには高句麗の中を通らなければいけない
つまり熊津道は高句麗の手前側(唐に近い側)にあったはずだ
詔發淄、青、萊、海之兵七千人=山東省の北側から出撃した
人怪其故,答曰:擬削平遼海,頒示國家正朔
「遼海」と明示しており、どうみても渤海湾のことだ
百済平定物語は渤海の東側にある遼東半島のお話しであり、公州を攻撃したのではなかった
大連の北側にある白沙湾を日本列島から攻撃するのは西暦660年では不可能なはずだ
かの有名な白村江の戦いに作文疑惑が浮上した!
日本書紀には資治通鑑や三国史記を見ながら作文した箇所がちらほらある
特に天智紀は作文だらけ、白村江のくだりは全部作文
倭=日本列島を主張する日本書紀のおかげで重要な比定位置はことごとく南東に平行移動した
日本で見つかっている古い木簡は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
日本で見つかっている古い石碑は7世紀、韓国の場合は6世紀=楽浪郡ピョンヤン説、アウト
楽浪郡は紀元前108年にできたはずで、いくらなんでも漢字の伝来が遅すぎる、はいアウト
仮説の検証2項目
武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた(ビンゴ)
いまだに奈良公園ではシカを放し飼いにしている
坂上田村麻呂の東北遠征800年=この仮説で無理なく説明可能、大和朝廷史観では遅すぎる(ビンゴ)
邪馬台国=近畿説九州説、大和朝廷史観全部まとめてアウト
500年上陸説が正しい
http://i.imgur.com/5buzTh0.jpg
http://i.imgur.com/6Q0x678.jpg 資治通鑑は1084年作。
日本書紀のすべての写本が、1084年以降に白村江のことについて統一されたとは思えないが。
三国史記は1145年作。他の史書を参考にしている可能性はある。
旧唐書は信頼できると思っている。劉仁軌の条の「白江」の場所の特定が出来ていない
あるいは間違っているという指摘から、扶余勇がいた倭が「倭人雖遠」というのだから
半島の倭人ではなく、日本列島をさすことに狂いはないと思う。朝鮮山城をどう説明する?
倭の五王にまで遡って660年の解釈をするのははたして妥当か。後日考えては見ますが。 蘇定方が660に滅ぼした百済は公州。義慈王は、熊津に逃げ捕らわれた。
熊津が公州の南か北か。遼寧省の百済の話は聞いたことがある。
白村江を錦江の入り口と比定する通説には必ずしも賛同していない。
白江の場所が遼寧省付近である可能性はある。
公州を逃れた勇がいた倭が陸続きの倭かjapanか。
白江の戦いは事実。ここに参戦した倭が何処の倭かの問題。
距離が離れているから、japanの倭ではないとは限らない。中継手段もある。
封禅の儀に参加する4国の順序で、耽羅の次に倭国がでるのは、
済州島より遠い倭が、660-663の間にどこかで参戦した意味。
古墳は転用されたにしては、幾何学的。
河内の巨大古墳に副葬品はないらしいが、主墳を中心に対称的に位置する
陪塚が副葬品を多数納めている。鉄のものが中心。
倭の五王が502で渡ってきたのなら、河内和泉の古墳はjapanの倭になる。
それでも矛盾はないから、否定も肯定もしない。 >>16の武藝啓(省略)有扶餘之遺俗=渤海人は奈良の支配者の出自が遼寧省にあることを知っていた
渤海が唐に反抗するために、日本に使者を使わし、挨拶した。
われわれは、高句麗の系統を引くものだと言う意味。日本にはもと高句麗の盟友
百済の者達が居る。倭国も一緒に戦った仲ではないかという意味合いと解釈。
必ずしも、遼寧省の百済に限定していない。
奥羽のことは、多賀城のアザマロの方がアテルイより早い。
多賀城は遺跡もあり、発掘され、4期のそれぞれの時期も特定されている。
多賀城は建設記録がなく、北方民のものを奈良が奪った。
東北の支配部族は豆満江からやってくるマッカツ系と思われる。
平泉の時代まで東北は彼らのもの。
泰衡が逃げた先は秋田から津軽方面。頼る先が大陸にあった。
唐にとっては、滅ぼした高句麗が日本海経由で倭国に転がり込んだ百済などと、
合一することを面倒に感じた。百済王氏が出羽守をよくやっている。
征夷大将軍や按察使をおいて、敗戦国の義務として日本政府に監視させた。
東北の件は何の矛盾もない。 遼東には熊津がありそう。宋書や魏書によれば、百済は遼河のあたりにいた。
半島に熊津があるがコマナルと発音する。
漢城が落ちて、南にいた王子が熊津を都にする。さらに、南の泗沘に都を移す。
遼東の百済は元伊勢のようなものではないか。
白村江が作文だとはいえない。
百済が南に下りてくるまで、韓半島はどうだったかは興味あるところ。
広開土王の碑の頃の各国の場所は660年とは大違いであろう。
そこに出て来る倭が列島の倭とも思いにくい。 http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html
一読に値する研究
>>20でも言ったが、古い史書では百済は遼東遼西にいた。
それが、半島に逃げ、南へ南へ倭国にまで逃げたと解釈できる。
この研究は、あっとおどろく。
楽浪郡や帯方郡は朝鮮半島というのは作り事だと史書をもと証明する。
この二郡は遼東内にあるという。朝鮮半島は漢以来支配が及ばないところであるのは、
有名だが、長白山脈が兵站を邪魔するからである。
帯方が遼東のうちにあるなら、邪馬台国も、倭の五王も、
朝鮮半島での出来事ではないかとまず考えるべきなのだ。
この考察抜きに、マキムクが卑弥呼の可能性などというのは、
歴史改竄の実力行使。救われないね。
このスレタイの日本国号の由来は、遼東地域を指していたかもしれなくなった。
>>14>>15ありがとう。 近畿から見て東関東・東東北こそ日出処=日本
梅原猛
「日出処天子致書日没処天子」、「日出づる国」という発想が「日本」だ。
高橋富雄さんの説などは、蝦夷がやはり「日出づる国」と言っている。「日本」という名称は蝦夷が名乗っていた。
上田正昭
「日高見国」ですね。
梅原猛
その蝦夷の国の国号を逆にとって、それを「日本」という国号にしたという説です。
これはたいへん面白い説だと思うんですが、やはり「日本」が一つの国家として成立するときに、東の国という形で「日本」という国号をとったんだとおもいます。 取るに足らない。出版社にとりいるのが上手いのだろう。
好きなことを言わせてもらえてるだけ。素人をだますのが上手い。
両名とも京大文学部じゃないか。 >>25
「日下(ひのもと)の草香(くさか)」は谷川健一氏のオリジナルでなく、
西宮一民という人の説で、谷川氏はそれを引用しただけで、
しかも、「日下のクサカ」なる「枕詞的な修辞句」は見つからないそうです。
http://szmkodai.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html 東(ひがし)の語源は「ひむかし」で、「ひむかし」→「ひむがし」」→「ひんがし」」→「ひがし」と変化。
「ひむかし」は「日向処」または「日向嵐」の意。
http://gogen-allguide.com/hi/higashi.html
「日向国」は現在の宮城県で、天孫降臨の高千穂峰や、神武天皇の出身地、邪馬台国説などなど。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD
宮城県は、熊本県から見れば東に位置するが、福岡県から見ると南。
元来(弥生時代頃)「ひむかし」は方角ではなく、国を指した言葉で、
神武東征で「ひむか国」が畿内に移ったため、東を指す言葉に変わったのではないだろうか?
ちなみに、関東地方は「あづま(吾妻)」と呼ばれていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%9B%BD
昔は、方角を指す言葉として「東西南北」ではなく、国のある方を指したのかも。
今でも、他人に道を尋ねられたとき、「富士山の方に歩いて10分」とか言ったりするよね。
九州北部の人々は自分達の国を「わがくに」と呼び、畿内を「ひむかし」と呼んでいた。
畿内の人々は自分達の国を「やまと」と呼び、関東を「あづま」と読んでいた。
後に畿内が九州から関東までを統一、国号を日本とした。
日本統一に伴って言葉が入り混じり、倭や日本をヤマトと読んだり、東をヒガシやアズマと読むようになった。 神武東征というけれど、「東へ行こう」と言いながらも一行は北へ向かって出発したんだよな。
以前宮崎県の人に聞いたことあるけど「宮崎県から見て東には何がある?」
で、全員が「太平洋」「日向灘」という答えで、誰も奈良県とは思わない、とw >>28
<東野炎立所見而反見爲月西渡> 万葉集卷一・48番歌
ひむがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ ←江戸時代以降の読み方
あづまのに けぶりのたてる ところみて かへりみすれば つきかたぶきぬ ←平安〜江戸初期までの読み方 >>29
後から振り返って考えて東征って事じゃないの? 禰軍墓誌によると、遅くとも西暦678年には日本という国号が使われていたことになる。
そこで、九州王朝説ですよ。
九州王朝(倭国)と大和王朝(日本)があったと考えれば、スッキリ解決。
白村江の戦いで九州王朝(倭国)が敗れ、倭の王族が大和王朝(日本)に逃げ込む。
その後、大和王朝が九州を併合。大和朝廷(日本)が成立。 >>32
別に九州なんちゃらを持ち出す必要も無いのだが。 >>28
宮城じゃねー、宮崎の間違い(ノ∀`) アチャー
って、みんなわかってると思うけどwww 俺が思う神武東征経路の解釈。
そのころ筑紫の岡田宮が九州王朝の都で、神武天皇は仕官のため日向から上京。
そこから赴任先か駐屯先かの阿岐国多祁理宮、吉備国高島宮と転勤。
大和国に反乱が発生したか、武力征伐が企てられたか、があって
「東へ行かむ」と志願して紆余曲折の末に大和盆地を征服し、太守に。
この一連の行動が「神武東征伝説」として語り継がれ、話が膨らみ削られ
やがて古事記に記載の物語となる。 日本って単に東の方という意味で使ってる場合もあるんじゃないの?
全部が全部国号とは限らないのでは >>14
>辰韓の鉄=遼寧省鞍山市の鉱山地帯
辰韓でなく弁辰のことをいいたかった?
>公諱隆字隆百済辰朝人也=隆は遼寧省の百済人であり公州の百済人ではない
遼寧省の百済は最早なかった。そこは百済の故地。
>この文は辰韓の位置を間違えていたり遼寧省の百済を知らない人には理解不能
すでに弁辰を辰韓と勘違いしている時点でアウト
>「辰王がいた方の百済人」とかっこよく書いたら未来人には意味不明となった
渤海の国号、震=大氏発祥の地が過去の辰韓だった
震が辰に通じるのは自明だが、辰韓を韓国東部と解釈して思考停止するのは踏み込み不足
すべて思い込みと、踏み込み不足、思考停止 状態ですね。混乱させるだけ。 1 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です 韓国の歴史小説家が
・・・韓国食を食べ韓国語を使っていた時代だったので日本の歴史はBC20年-300年までは韓民族移
住開拓時代-AD400年からは百済直営時代(倭時代)AD670年からは日本国-AD786年からは現
在の日本時代と見ればよいだろう。日本は百済が滅びるとすぐに義慈王の三番目の息子、扶余
勇が日本の天地天皇として670年に即位し、明治を経て125代アキヒト天皇に至る。・・・
と述べているそうだが、「扶余勇が日本の天地天皇として670年に即位し」について、
年号の違いがあるが、このスレは証明したことになる。ほかの部分はこのスレノ範囲でない。 こんな記事がある
・・・・
『「弥生時代以後の日本建国の祖となった支配者たちは
牧畜制度、父権制、高度に発達した軍事組織を持ち、黒竜江の
こちら側(西方、南方)及び朝鮮半島経由で日本列島(北九州、山陰、北陸)に
組織的に侵攻し、農民を征服した人々である。」
「歴史と現代」(1980/8)の朴蒼岩氏の論文「日本国民に
告ぐ!歴史の掠奪者は誰か?」を挙げることができよう。
「そもそも韓民族の歴史を抹殺することが、日本の国策であったらしい
……ということは久しく主張されていた。例えば高句麗の英主広開土王は、
倭王(天皇のことである)を伐った功績のために、遥か後世の明治時代に、日本の
憲兵、酒匂大尉によって碑文を破壊されてしまった。
この破壊の理由は、日本の天皇が百済人であったからで、そのことは既に、
心ある韓国史家の間では通説になっていたのだが、日本の偽史活動の内容とか
目的は必ずしも明瞭ではなかった。
文定昌氏は1970年、その著『日本上古史』に於いて、大和の国号は新羅真徳
女王の年号の太和であることを指摘し、……紀元661年、白村江の決戦で敗北
した扶余勇が、天智(天皇)となったことを主張した。
天智王朝が百済の亡命王国であることについては議論に価しない程自明の理で
ある……
明治政府の基本的国策は、偽史の確立であり、真相の抹殺であった。 」』
・・・・
こういう説は以前からあるのだな。しかし、証明ができていない。誰が見ても明らかだ
程度の主張なのだ。このスレで、証明してやったことになる。
主張のほかの部分も証明抜きなのだろう。真剣には考えないが・・・ 663年 白村江の戦いで<倭国&百済>が<唐&新羅>に負けた
倭国というのがそもそも先行の渡来人の国だった
667年 新羅は日本列島を侵略・支配し、国号を倭国から日本に変えた
新羅はボルネオ語のシラヒースから来るもので「日が出る処」という意味
同じく、日本も「日の出る処」という意味
新羅も日本も、その西からやってきた連中によって命名されたと考えるのが自然で
土着民にはそんな発想は無いだろう 663年 白村江の戦いは九州倭国、出雲、新羅VS畿内ヤマト、百済
である >>45
倭国人は先行渡来人でしょうけれど、何処から来たのでしょう。
新羅が来た経緯は、歴史書のどの部分が当てはまりますか。
「日本」は西からやってきた人がつけた名前であることは事実です。
新羅がボルネオ語で日の出るところという意味なら、ボルネオ語が何故朝鮮半島で
使われているのでしょう 禰軍は百済の佐平であったわけだから、義慈王を支える一の貴族だったわけだ。
唐に敗れて、禰軍は、義慈王とともに連行され、まぁ寝返ったというか唐の将軍に抜擢された。
こういう人物が、白村江の戦後処理のためにjapanに来たなんてことはありえない。
倭国は白村江の敗戦で、倭国王が唐の言うことを聴かねばならない状態で、
戦後処理は郭務ソウなど、唐の組織で十分対応できたはずだ。
何故、禰軍がjapanにきたか。それは、倭国の埒外にある、扶余勇(義慈王の子供)政府と
折衝するためだろう。倭国の誰と話をしても、扶余勇政府をコントロールすることは出来ないから。
それで、もと佐平の禰軍が選ばれたと考えられるのだ。
どんな話がなされたのか。唐が倭国を攻めていない歴史の成り行きをみると、
扶余勇政府は禰軍のもと主君の子供の政府であることへの温情があり、
海を隔てているので、戦争するのは唐にとって不利であることは唐政府への説明理由になる、
などが理由で、特に唐に反抗しなければ、お構いなしということだったのだろうか。
扶余勇=天智の死を禰軍(678年死亡)は知っていることになる。お構いなしだった近江政府も
天智の死によって、禰軍の判断もあり、郭務ソウは潰してもよしと倭国に許したのかもしれない。 >>49
>扶余勇=天智の死を禰軍(678年死亡)は知っていることになる。お構いなしだった近江政府も
天智の死によって、禰軍の判断もあり、郭務ソウは潰してもよしと倭国に許したのかもしれない。
郭務ソウはそんな権限を持っていないだろう。近江政府=扶余勇の監視役人だ。
天智が死んだとき三度挙哀して拝んでるくらいだ。天智が死んだら、帰国しているではないか。
お役目が終わったのだろう。単なる、事務方の長だろう。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国の1000隻余りの水軍のうち400隻余りが炎上し、陸上戦でも敗北した。
記紀を編纂した近畿大和朝廷から見れば、これこそが政権奪取の好機だった。
中大兄皇子らが実権を握る近畿政権はもともと新羅と親交があり、積極的には朝鮮半島に援軍を送らず、百済と親しかった筑紫倭国を意図的に敗北に追い込んだ可能性がある。
中大兄皇子が唐や新羅ともとより通じていたのであれば、敗戦処理においてむしろ唐の信任を得て勢力を拡大したことも合理的に説明できる。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻(当時の大君と考えられる)が捕虜となり8年にわたり唐に抑留される。
筑紫には唐から郭務悰ら唐人六百人を含む2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の駐留軍は撤退し敗戦処理が終わり、中大兄皇子は天智天皇として西は九州、東は東北南部までの統一政権を樹立した。
この敗戦処理が中大兄皇子がなかなか天皇に即位せず大兄(おおえ、皇太子)でありつづけた理由だろう。
その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に、唐の皇帝が任命する官の行政府として機能したと考えられる。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度であり、倭国は独立国としての権限を喪失した。
こうして栄華を極めていた倭国王朝は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
実質的な権力移行により官僚は畿内に移動し、地震により倒壊した建物や仏教芸術を含む白鳳時代の文化財も畿内に移築され、主権を失っていた筑紫は震災からの復興もままならなず政治的には没落したと考えられる。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内には国号の変更については記録がない。 参考 https://blogs.yahoo.co.jp/longhistoryjapan/55796499.html
大宝政権が列島を統一する遠因には、百済の崩壊がある。
5世紀の統一も外因である。弥生時代には、各地の墳墓には地域特性があって、
出雲・北陸、中部・関東、近畿・瀬戸内に区分される。
それぞれ、大王がいたと考えられる。近畿・瀬戸内は、大和がその大王と考えられる。
4世紀後半から、5世紀にかけて、河内・和泉に政権が出来ているが、その文化・産業・土木は外来のもの。
大和は存続したまま、外来の河内・和泉政権が列島を統一した。
河内・和泉政権の全国制覇を大和は後世自分のものにした。
河内・和泉政権は6世紀に入って衰える。
各地に、地方豪族が再び、芽をもたげ始める。
北陸の継体が南下し、大和に入るという現象が起きる(継体の陵墓は大和ではないが…)。
継体は、復活した筑紫の磐井を制した。
その後、白村江までの権力の流れの詳細は今後の課題。
仏教文化は大和にもたらされた。孝徳は難波宮を造っている。
権力が小さくなると、列島の地勢による権力の分立が起きる。
これを統一するには、文化・文明・手段が必要になる。
策略やペテンでは権力を握れない。
660年の頃、倭国が分立していたかどうか。中心は何処にあったか。 筑紫の最盛期は考古学的には5〜6世紀になる。
畿内政権の歴史には記されない別の王朝が列島を代表していた。
仏教は畿内より早く九州に流入している。
白村江の戦いに際しては畿内からも斉明天皇が出陣しているので、この時点では筑紫が列島を指揮する立場だった。 九州説は九州説の中で批判を仰げばよい。
筑紫は考古学的に5-6世紀が最盛期といわれても、意味が分らない。
斉明天皇が九州に行ったので、筑紫が指揮したといっても、
そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
河内政権が終わってから660年までの列島の権力の状態は、
今のところ決定的なことがないのでわからない。
この板は扶余勇=天智天皇説への批判を仰いでいる。
扶余勇=天智天皇説を否定するのに九州説を出されても、答えようがない。 むしろ天智天皇は百済から遠い人物に見えるんだよ。
天智天皇が百済系であるならば、戦勝国である唐から日本の経営を任されただろうか?
天武天皇の方がむしろ百済系だったのではないか。 >>52
>5世紀の統一も外因である。弥生時代には、各地の墳墓には地域特性があって、
>出雲・北陸、中部・関東、近畿・瀬戸内に区分される。
なんでわざわざ九州を外した?
5世紀においては彩色古墳や沖ノ島の祭祀など、独自の文化的繁栄を謳歌していたことは間違いない。
政治的立場は議論の余地がある。
まあ、各地に王権を認めるのは古田氏の多元王朝論なのだろうけれども。 >>55
天智天皇は唐から日本を任されたわけじゃないぞ >>49 >>50
百済王族の生き残りが居て日本を実効支配、その事を唐新羅が知っていたならそう書くだろド戯け。隠す理由がない 史書はすべてを詳細に書くわけではない。特に他国については。天智は全土を支配していない。
扶余豊も、高句麗での所在は明らかでない。捕らえられたことは刑に処せられたことで分るのみ。
扶余勇も、倭国に居たことを記述しているだけで、その後のことは記述がない。
扶余隆は唐の官職に就いたので、そのことが記載されている。唐での墓誌もある。 >>56
書き漏らしです。
前方後円墳グループは近畿・瀬戸内・北九州です。
文脈的には、5世紀に統一する前の状態をスケッチしているだけで、正確なことはわかりません。
五世紀に統一されるまでは、古墳の形式によって、グループ分けされ、
それぞれに大王がいたことは、九州説と関係なく述べられています。 関東だって前方後円墳だよ。
都道府県別では一番前方後円墳が多いのは千葉県だったはず。 >>57
記紀は明らかには書かないだけで、実際には任されたはず。
何しろ敗戦国だったから、唐の承認が必要だった。
しかも、戦後は遣唐使を送ったりして、唐にべったりとなった。
太平洋戦争後と同じ。 >>61
関東・中部は古墳前期に前方後方墳が、後に前方後円墳ができたようです。 >>60
書き洩らしというか、説明不足が多すぎる。 由来?バカですか?
そこじゃないでしょ
重要なことは
倭国も日本国も(これは二つ同時あったわけです、異論ありますか?)
やまとと言っていたことです
自分たちのことをですよ >>66
日本国と倭国は同時に有ったと解釈しています。
記紀では倭国も日本も発音はヤマトです。
古事記では倭が使われ、日本の文字はありません。
書紀では国を意識するときに日本が使われ、倭は地方名に使われ、区別しています。
外国からすれば、文字が変わりましたので、国号変更です。 >>66
多分、畿内はもとはヤマトではなかった。
おそらく日本。
白村江の後に畿内が筑紫倭国を併合して、大倭となり、読みはそのままヤマトとして、表記を大和に書き換えた。
そして国号は日本として、大和は畿内の一地域の名称に落ち着いた。 >>55
天智紀を読めば天智は百済から遠い人物?
戦犯でも歯向かわなければ、政治する例もあります。 >>70
倭と百済が同盟して唐と戦い負けた。
倭国内で百済から距離を置いていた天智天皇が戦後処理に指名された可能性はある。 >>69
史記の用例からすると、ある国が他の国を合併して大きくなると大◯と呼ばれる。
畿内日本と筑紫倭国が合併して大倭国となったのかもしれない。
ただし実際には畿内日本が主導権を握ったため、国号は日本として知られるようになったのかも。 唐が中大兄を信頼して政治を任せたなら、
抑留している倭国王(?)を帰国させる唐の行為は、矛盾をはらむ。 >>74
政治的実権を失っていれば返しても問題はない。 政治的実権を失うね〜、そんなものですか。
どんな疑問にでも、すぐお答えできそうだから自信持ってください。 >むしろ天智天皇は百済から遠い人物に見えるんだよ。
天智天皇が百済系であるならば、戦勝国である唐から日本の経営を任されただろうか?
天武天皇の方がむしろ百済系だったのではないか。
百済派とか新羅派とか、政党政治じゃないんですね。
支配は、現実問題、できるかどうかです。力、権威、組織・・・。
負けた高句麗には、もとの王が再び利用された。
百済は扶余隆が任じられたが、隣国が出てきて、赴任すらしなかった。
王の正統性は大きい力です。
唐は倭国についても、正統性の観点で選んだに違いない。
天智は正統な王ですよ。何処の王かは考えるべきですがね。 >>77
天智天皇が正統でないとは言っていません。
中国が正統性にこだわるのはご指摘の通りです。
しかし倭国内にも様々な立場や思惑があったのではないかということです。 倭国内の人の立場や思惑を史書から窺えるのですか?
唐が筑紫に居るから、倭国の王は唐に負けた百済系でないのではとの疑問のようですが、
それだけで、百済系の王の可能性を排除できますか?
663年は日本書紀はまだありません。天武以前の天皇は日本書紀で確定したのです。
そういう状態での倭国の王の正統性を考えるべきではないでしょうか。 >>79
そうじゃなくて、唐が筑紫にいるから、負けた時の筑紫の倭国王は百済系だっただろうと。
そして、中大兄は皇族の中でも百済からやや遠かったから唐から指名されたのだろうと。
それは別に正統でないというわけではない。
皇位継承権は皇族なら皆持っていたわけだから。
はっきり言えば、中大兄はもとから唐と通じていて援軍を送らなかったのではないか、との疑惑もある。
天皇制が確立するのは天武の時なのはその通りだが、説明しにくいので天皇や皇位などの言葉も使わせてもらった。 倭国の盟主は白村江の戦いまでは筑紫であった立場なので。 様々な説があるし、九州王朝説に反対する人もいる。
白村江の後に政権交代を想定するのは主に九州王朝説だろう。 白村江後に政権交代を想定している?
この板は、政権交代を論証している。
科学の板に錬金術師。
科学者にとって錬金術師の話はとても退屈なものだろう。 >歴史は科学じゃないから
九州王朝説は科学的でないことを認めたね。 >>87
畿内説に毒された歴史学会のことじゃないか? >畿内説に毒された歴史学会のことじゃないか?
九州説の科学性から畿内説の誹謗にすり替わっている。
脳みそが汚染している? ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 扶余勇=天智天皇だとします。
旧唐書の封禅の儀に行くことになった倭国王は
書紀上天智称制でみつからないようになっていますが、
この元倭国王=大海人皇子とすると壬申の乱の経緯が腑に落ちます。
筑紫都督府から支配権を得た扶余勇は元倭国王を利用して倭国を支配します。
元倭国王は耐え忍んで扶余勇に協力し、復讐の機会を狙います。
大海人皇子は暗殺を恐れていますね。扶余勇がなくなったのを機に近江政府を討伐する。
人心を結集するのは容易なことではありません。
大海人皇子が元倭国王だからこそ、新参者の扶余勇を快く思わない国民が支持してくれたのです。
王位を簒奪され、臥薪嘗胆し、復讐して返り咲く。天武天皇はドラマチックですね。
それも、半島の動きと連動しているのです。日本にこんなダイナミックな歴史がありうるのです。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm 童話のようなストーリーだけれど、隠された倭国王が実在する限り、無視できない説。
史実であるとの証明は時間がかかるから、それまでコミックのねたにでもどうぞ。
一応、学問のカテゴリーでやってますから、史書の上では整合性が取れています。
血縁でつづる史書は権威主義で統一されています。
挫折・忍従・復讐・勝利の王の人生は、世界中にあります。こちらが現実。
国民に不屈の精神を教えるので、まずいとでも思いましたかね?
日本の史書は儒教思想の枠からは出ていませんよ。 >>94
>扶余勇=天智天皇だとします。
ここに無理がある。
単に唐と通じた裏切り者がいただけ。 >>97
「扶余勇=天智天皇」はこの板で証明しています。
まだ証明されていないとされる方にも、大海人皇子=元倭国王の合理性を説明するには、
「扶余勇=天智天皇とする」と断りをいれなければならないと感じたまでのこと。
ところで扶余勇=天智天皇であるならば、大海人皇子=元倭国王を認めるという意味ですか?
>単に唐と通じた裏切り者がいただけ。
天智天皇が唐と通じたのですか?過去において唐とどのような繋がりが有ったのですか?
扶余勇はどうなりました? 鮮卑の唐は邪馬台国、倭の五王記した民族じゃないから無知なだけで、日本は倭のヤマトと同種に決まってんだろシネ 旧唐書では倭と日本は分けて書いてあり、同族だけれども違う政権のように読めますね。 >>100
日本と倭を分けて書くのは、別政権を現している。なるほど。
もし同一政権で国名を変えただけなら、日本は倭の別種とは言わない。ですネ。 旧唐書に出てくる倭国酋長は倭国王です。
日本書紀上で書かれていないなんてことは歴史をおかしくしますからありえません。
とすれば誰ですか? 日本国と倭国とは違う国なんだからおかしくはないだろ 倭国と日本(近江政府)は異なる国ですから、倭国王は日本の王ではありません。
日本は壬申の乱でつぶされましたけれども、日本書紀は、倭国の歴史の中に日本を混ぜました。
倭国のみ+天智紀(=日本が主、倭国が従)+倭国のみと繋いで書いてあるのです。
ですから倭国王が復活できるのは天智紀(=近江政府)の後ということになります。 旧唐書「或云:日本舊小國,併倭國之地」の
日本舊小國とは扶余勇政権が大宰府を拠点とした国から始まり、
併倭國之地は西日本に進出し、近江に首都を置いたことを現しています。
元倭国王(大海人皇子)を配下にしているので全倭国を併せたともいえますが、
近江政府は壬申紀で鈴鹿山系の関を封鎖していますので、東国の実効支配はまだだったと考えられます。 唐には阿倍仲麻呂がいるんだから他の時代よりもずっと日本については知識がある 阿倍仲麻呂が唐にわたったのは717年。
旧唐書の「日本旧小国云々」のくだりは長安3年(703)の使い以前の模様を記しています。
阿倍仲麻呂がいくら優秀でも、唐が717年以降に彼の意見を聞いて、
すでに把握している703年以前の日本の歴史を修正することはしないと思います。
そんなことをし出したら史書の整合性がくずれます。ひいては唐の見解が揺らぐことになります。
ですから、過去について、阿倍仲麻呂は関係できないでしょう。 阿倍仲麻呂、死亡770年
旧唐書、成立945年
新唐書、成立1060年
残念! 新唐書は旧唐書をのこしたまま書いております。
過去の史書は事実の記録ですから、手をつけない基本的な考え方があります。
倭についても魏志倭人伝の部分をいつまでもコピーしてきます。こういう考え方です。
事実の収集はそのときそのとき官によって行われ記録されているのです。
編纂のとき収集した事実を覆すようなことは整合性の観点からしないと思われます。
記録の意味がありません。阿倍仲麻呂が過去の事実に関与する余地はないのです。
成立年次より前だからといって仲麻呂を持ち出してくるのは話をややこしくするだけです。 雄略以降、持統までのスメラミコトの墓所はすべて、
大和川水系の河内と大和にあります。
例外は継体と天智です。
継体の墓所は摂津です。継体を担いだのは淀川水系勢力です。
王を担いだ豪族が、その王を自分の本貫地に葬る考え方があります。
天智が中大兄皇子(舒明の子)であるならば、大和に葬られなければなりません。
しかし、天智は山科に葬られました。
考古学的にも、天智は中大兄皇子ではありえないことが示されました。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm >>108
実際に修正されたから旧唐書がそれまでの史書と違う事を書いているんじゃないの? >>109
旧唐書が参考にした文書がいつかかれたかは不明でしょうに 旧唐書が間違っているから、新唐書を編纂したというのですか。
では、旧唐書のどこが間違っているか、教えてください。
多数の出来事が毎日あろうから、一年も前のことを初めて記録するということはありえません。
そのときそのとき記録され、積み重なって行くのですよ。組織の文書とはそういうものです。
歴史書を決め付けて取捨選択するのは科学的ではありません。
焦点は「倭国酋長が封禅の儀に行く予定」なのでしょ? ウィキによる解説では
旧唐書
完成と奏上は945年(開値は『新唐書』よりも高運2年)6月[1]だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、
編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。
そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。
しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価いと言われる。
新唐書
『旧唐書』は、唐末五代の戦乱の影響で、武宗以後の皇帝は実録に欠落があるなど史料不足による不備が大きかった。
宋代になって、新出の豊富な史料によって、その欠を補ったのが、本書である。
資料としての価値は旧唐書の方が高いが、新唐書の方が内容が豊富ってことでしょうね。 つまり、本来は原資料では倭国と日本国が別々だったのに、新唐書では編纂された時代の政情に流されて一つに綺麗にまとめてしまった。 綺麗にでしょうか?
新唐書は「咸亨元年,遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,
以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」によって、
別々のものが一つになったことを匂わせていますね。
時代の政情って何のことでしょうか、解りませんので教えてください。 新唐書が書かれた頃はすでに倭国は滅亡していたからだよ。
日本は日本書紀で倭国の併合を隠してしまったから、その主張が通ってしまったんだよ。 新唐書
「其王姓阿毎氏 自言初主號天御中主 至彦瀲 凡三十二世 皆以「尊」為號 居筑紫城」
その王の姓は阿毎氏、自ら言うのには、初めの主は天御中主で彦瀲に至るまで32世、皆『尊』を号として筑紫城に居む。 >>120
この板では倭=白村江以前のjapan=天武、日本=近江朝=扶余勇=天智と考えています。
新唐書の「或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。」は
倭が日本を滅ぼし(壬申の乱)、倭号を冒す(「日本」に変える)と読んでいますが・・・。
倭国は滅びておらず、滅びたのは日本で、滅ぼされた日本の国号が移ったのです。 >>121
新唐書は、日本書紀をもとに神武東征を採用している。
ヒコナギサウガヤフキアエズは神武の父親。 冒すは自分のものにすることなので、日本が倭国の名を取ったと読めますよ。 日本(ヒノモト)は元々は葛城の倭国が権力闘争に敗れ、大和を追い出され北や東、、、中部地方、、、関東、、、東北と追いやられた勢力が日高見国、、、日ノ本と言っていたのを大和朝廷がパクったらしい。
また、同時にそれら大和を放遂されて逃避した勢力、民を蝦夷(エミシ。カイ(漢文読み)、エゾ)と言って蔑んだ。
伊達政宗を日ノ本一のナンチャラと称えますが、東北地方が日本(ヒノモト)王国だった事を念頭(奥州=日ノ本)のモノ?との説も。 >>124
「冒」は字義的には第一に「覆う」という意味です。
冒国号は、国号を覆ったすなわち変えたという意味です。
負けた国の国号が残ったから、記事になっているのではないですか。 >>123
当時は東征が史実だと考えれられてたんだね。 >>123
当時は東征が史実だと考えられてたんだね。 扶桑略記「一云。天皇駕馬。幸山階郷。更無還御。永交山林。不知崩所。」
手口は百済の辰斯王の場合に酷似します。
記述内容が事実なら、天智天皇=扶余勇は大海人皇子一派によって暗殺された可能性はあります。
元倭国王である大海人皇子は倭国全域が扶余勇の支配下になれば、用済みです。
そのときは処分されると感じていますから。
日本書記と間逆のことが書かれるのは、それが受け入れられる背景ありということでしょうか。 北極(天)で皆既日蝕→樺太千島→北海道(北海道に天子降臨)→東北(黄泉)→関東(根国)→四国(高天原)
→南九州(九州(筑紫)の南側(日向)に天孫降臨)→沖縄(天孫ニニギの子である山幸彦がワタツミ神(龍神)の宮殿(竜宮=琉球)へ)
→南九州からニニギの血統の神武が東征→北九州→中国(スサノオの葦原中国へ国譲り)→畿内(ニギハヤヒを取り込む)→日本完成 (これまでの結論・・・)
「日本」の文字は禰軍墓誌(678年)「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅、風谷遺氓、負盤桃而阻固」に見える。
風谷遺氓を高句麗とすると、于時は白村江の戦い。「日本」は日の出の地域の意味で、中国は朝鮮半島あ
たりを「日本」と呼んだ。日本餘噍は朝鮮半島の白村江残党という意味で扶桑にいた。旧唐書「扶餘勇者,
・・・,是時走在倭國」から日本餘噍は扶餘勇を指している。白村江で多くの百済貴族が倭国に逃れ、扶
餘勇をたてる。筑紫野市HPの大宰府の防衛システムは百済の首都泗沘に類似するので、扶餘勇が造った。
書紀では天智天皇が百済将軍を使って朝鮮山城を作るとあり、天智=扶余勇は濃厚。旧唐書「麟コ二年(665),
封泰山・・・倭四國酋長赴會,・・・」から、倭国は白村江の敗戦で唐の支配下になっていた。筑紫都督
府下で倭国には新しい政権が生まれる素地がある。扶余勇は倭国の支配を唐から委嘱され、北九州から滋
賀県に分布する朝鮮山城は、扶余勇の版図。近江朝=扶余勇政権。天智が就位したのは668年。高句麗に
逃げた百済王扶余豊が捕らえられ、668年中に流刑 (資治通鑑)。天智(=扶余勇)が就く王位は百済王家
の王位。旧唐書「日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改
爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。」の日本は 倭国を従えた近江朝のこと。新唐書「咸亨元年(670),
遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭
所并,故冒其號。」は 壬申の乱で近江朝が旧倭国に滅ぼされたことが対応し、倭の號を冒したから近江朝
は、「日本」を自称していた。咸亨元年(670)から壬申の乱(672)までに「日本」を称した。高句麗が倒れ
た後に国号を日本にしているのは、唐に下った東夷全体を象徴する文字として「日本」を選んだ可能性が
ある。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/fuyoyuu.htm (132のつづき・・・)
旧唐書に出る倭国酋長(=元倭国王=大海人皇子)は扶余勇の配下に置かれ、統一に利用された。扶余勇は全土支配の半ばで崩れ、
大友皇子が継承したところで、大海人皇子は壬申の乱を起こし、近江政府を倒し、倭国を復活させ、復位した。日本国号が東夷を
表す壮大な名前であるとすると、敗者の国号であっても利用する価値はあった。 @韓国人の作家が扶余勇=天地と言っているようだが、どれほどの論拠があるのか知らない。
ここで述べた説は日本、中国、半島の史書と金石文と考古学的資料から独自に帰結された。
扶余勇=天智であることは>>132で概略を述べたように自然な帰結。
A日本国号の始まりも唐書から年次が絞り込める。なぜ、これまでしてこなかったのか疑問。
B大海人皇子=元倭国王説は、封禅の儀の倭国酋長が存在する限りありうる。
大海人皇子が暗殺を警戒していたこと、東国の協力を得ることができたこと、
吉備などは近江政府に反旗を翻して大海人皇子に付いたこと、
また大海人皇子は壬申の乱の主役になれたことなど、大海人皇子を元倭国王と考えれば
すべて納得できることばかりである。新羅人説があったが、大海人皇子の書記に於ける
これらの行動は説明できない。 >>135
天武紀が二巻あるのは
別人を1人にしたから各人の行動に辻褄の合わないところが出ている説。 別人とは誰と誰?。もちろん、国王クラスの人物であるはずだが。 >>121
>>123
新唐書は、日本書紀が元なんだね
既に改変済みなんだね >>101
同時期、同じような記述に、
渤海国は高句麗の別種なり云々
高句麗の最後の帝王の娘婿の将軍が建て(高句麗を再興した)たのが渤海国。
東海の盛国と称えられ、日本国とも正式な国交と交易が有った。
、、、今般、渤海国の使節が来朝しているから、かねてより取り決めている通りに拝礼作法はひざまづいて拍手する旧来のものではなく中国式の立礼を持って行う様に(キリ)、、、云々 まあ唐(中国)だっけ?
やつらが東征したとき大陸東側にいた海辺あたりにいたやつらをまとめて倭人て呼んだんだっけ?
そんで倭人らを奴隷みたいにした説も聞いたことある
なら倭王はその倭人らの王って話にもなるからな 倭は越にもなるし呉にもなるわな
内陸部にいたやつらが東側沿岸にいたまあ漁業系で生業立ててた連中を総称でそ〜呼んだならな
事実、中国史にでてくる倭人
ありゃ日本にはいないわ
無理矢理くっつけたがな 越なんて国はないです
古代は古志(こし)と呼んでいてのちに越(こし)になってまいした
北陸道ほとんど含めての呼称
ムキになるやつらの相手はいまさらせんわ
お前らダメだからな
文句があるなら自分らの幼稚さを恨め
気にいらないならお前らを片付ける
幼稚なお前らに身を守るすべあるか?w 揚子江以南に華北文明とはことなる民族がいた。何かで読んだだけだが、その民族を地域に
よって文字を変えたが、すべてウォチとかオチとか呼んだ。越もそのひとつということらしい。
四国に多いオチさんはその系統だと言う説。なるほどと思わせるがほんとかな? >>139
旧唐書巻119上下に出てくる別種。
高麗者,出自扶餘之別種也。・・・
百濟國,本亦扶餘之別種,嘗爲馬韓故地・・・
日本國者,倭國之別種也。・・・
鐵勒,本匈奴別種。・・・
奚國,蓋匈奴之別種也,・・・
渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。・・・
霫,匈奴之別種也,居於潢水北,亦鮮卑之故地,・・・ >>138
新唐書「自言初主號天御中主,至彥瀲,・・・。欽明之十一年,直梁承聖元年。・・・
次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。次崇峻。・・・、次舒明,次皇極。」
最初に「自言(日本国が自ら申すには)」と断わりがある。「次用明,亦曰目多利思比孤」は
「次用明,亦曰自多利思比孤」の誤りだとすると、これも、「用明があの多利思比孤だ」と
自ら言っているという意味に解せる。編纂者としては「事実を確認していないが、そう申し
立てるので、記録しておく」というスタンスを史書編纂者の責任として残している。 コシノヤマタノオロチは
越=北陸に渡来したオロチ族のことやぞ
オロチ族の本拠地は満州〜黒竜川(アムール川)
鉄剣を装備したオロチ族が越に渡来して侵略してきて
それを出雲のスサノオが征伐して鉄剣をゲットしたんやで >>147
つまり、実はウソなんだよ。
それを編者も疑っている。 >>148
皇統?というのも、
北陸、東北のほうに本系(最古クラス)がいた・・・という話があったり
ネットなどでも、よく見かける話 初耳のミコトの名前ばかり連ねられても、わからないというわけで、
直近の多利思比孤に当たるのは誰かとたずねると、用明と答えたということでしょう。
用明は、587年に亡くなっており、遣隋使の600年と607年、ハイセイセイが来た608年
には存在しえない。史実認識のいい加減さを海外の史書に残してしてしまった。 王朝が変わってるんだよね明らかに
国号を日本に変えたのもそうだし
それまでの王号や尊称とまったく語感の違う「スメラミコト」をいきなり名乗りだしてる
スメラミコトなんてどこから出てきた言葉なのか
王統が変わったというよりは、人種そのものが変わったんじゃないのか
前方後円墳の廃止も近い時期だし
明らかに文化が塗り変わってる 前方後円墳が廃止された、という解釈では足りないと思う
アンチ前方後円墳勢力が前方後円墳勢力を駆逐した
そのくらいの解釈をしちゃっていいと思う 古墳の分布から、倭の五王以前に、大和には勢力があった。倭の五王の時(5世紀頃)は
河内勢力が倭国の中心になった。しかし、大和は廃れなかった。古墳の規模や副葬品から
わかる。河内・大和両勢力は大和川水系。6世紀の継体は唯一の淀川水系。継体の後は
再び大和川水系にもどる。河内系と大和系が並存するが、河内系の上宮法皇(=多利思比孤)
一家死亡事件(法隆寺釈迦三尊像光背銘文)以降、大和勢力が倭国全土を押さえ始めた。
百済崩壊の影響を受け乱れたが、壬申の乱で再び統一した大和勢力は、大和が発祥のように
歴史を綴った。ミコトは大和の言葉ではないか。多利思比孤は倭国王であったが、
スメラミコトから除外された。歴史を修正するから、多利思比孤=用明などと答える羽目に
なった。女帝と男性王の違いも修正の結果。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/amatarisihiko.htm
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/shinou.htm 邪馬台国が畿内なら、河内の前にあった大和勢力はその後裔と思われ。 たとえば3世紀の遺跡から「すずり」が出てくる
古代の倭国に文字があったのは明らか
日本書紀の編集者は、その編集の際に過去のすべての文書を読み、参考にしつつ
そのすべてを燃やしたんだ
日本書紀で書かれた歴史のみを唯一の歴史とするため、それ以外の歴史を封印した
その中で、「燃やされず残った文献」がある
法隆寺の仏像の裏側に彫られた文字がそれだ
さすがの日本書紀の編集者も、法隆寺の仏像は燃やすことができなかった
この仏像がキーだよ その仏像は2つあり
その2つともに驚くべきフレーズが書かれている
1つは「大王天皇」という称号
もう1つは「法皇」という称号 大王 と 天皇 は並列可能な称号であった
そして 法皇 という称号が別にあった
国家の統治者が大王なら、天皇とはどういう意味を表すのだろう 急に使用されるようになった「皇」の字に注目する
聖徳太子は、大王になったことがない
しかし法皇と呼ばれた
「皇」という字の導入は、仏教の導入と密接に結び付いている 法皇=仏教の王
天皇=極楽浄土にいる(死んだ)大王
もともとはこういう意味だったんじゃないか
だから大王天皇という称号がありうる もとは聖徳太子が死んだ父の用明のことを「天皇」と呼んだのだろう
そして、当時の人はこう考えたはずだ
「用明が極楽浄土にいるなら、死んだ過去の大王だって極楽浄土にいるはずだ」
こうして大王家の祖先がすべて「天皇」と呼ばれるようになった 日本書紀では過去の大王の歴史を記述する
したがって、過去の大王はすべて「天皇」として記される
これを読んだ人間はみな勘違いするだろう
「天皇というのが日本の王号なのだ」と
こうして現役の生きている大王も「天皇」と呼ばれるようになった スメラミコトおよびスメロギという言葉
日本語の響きとはまったく違う
これも「仏教用語」とすれば理解できる
もともと外来語なのだ 天皇の祖は大趙天王石虎様と大秦天王苻堅様に決まってるだろ。儒教中華思想の皇帝に対抗できる仏教君主最高の称号。 「旧唐書」
日本は倭の別種・・・近江王朝のこと
天智天皇は、白村江の戦いでボロボロになった大倭国政権(河内)の混乱に乗じて
百済残党将軍を集めて北部九州から近江までの広範囲を支配し
近江で大王に即位した
このとき、白村江の敗戦により倭国は唐の属国となっていたため
属国としての地位をリセットするために「日本」を名乗り、
「俺たちは倭国ではなく日本だから白村江は関係ないよ」ということにした
壬申の乱で近江王朝は滅びるが、対外的には日本を名乗ったほうが都合がいいのでそれの政権も日本を名乗り続けることにした >>168つづき
ここで謎が生じる
「なぜ百済将軍は天智天皇に従ったのか?」という
大化の改新のとき、ある皇子がこんなセリフを残している
「韓人が蘇我を殺した!胸が張り裂けそうだ!」
天智天皇は百済王家の血を引いていた
天智天皇の父か母は百済王家の人間だろう
だから奈良や河内の大王家主流派には認められず、近江で即位せざるを得なかった >>169つづき
その後大王となる天武は
記紀では天智天皇の同母弟とされているが捏造だろう
天武は天智派と旧倭王家派のバランスを取るように、
都の位置や皇后の出自をうまく選択している 発音「スメラミコト」が先にあり、文字「天皇」は後から使った。その語源は知らない。
大和系で「大王」、「大大王」を固有名詞として使う場合、推古を指す。
「大王」がアマタリシヒコオオキミを指し示す時代に、法隆寺薬師像の「大王天皇」は
存在し得ない。元興寺資財帳の文意から言っても、法隆寺薬師像の「大王天皇」は
推古のことであり、タリシヒコ死亡以降の作と思う。 >>165
スメロギはパパラギ(サモアの言葉「白い人」)に通じ、ほかに、イザナギ、
オコノギ、ミゾロギ、ハハラギ、など日本語にある音韻の列。
スメロギは「スメルの人」の意味。スメラギともいい、スメルが音韻変化している。
スメラミコトは、スメルがミコトに繋がるために音韻変化した。 >>168
日本国号は、670年以降に使われた。リセットするためではない。
属国をリセットするためには戦うか、まったく別政府が起きて、過去を清算
するしかない。国号を変えて済むなんて浅はか過ぎる。
>>169
中大兄皇子が韓人で百済王家の血を引いていてもいいが、
旧唐書の「扶餘勇者,・・,是時走在倭國」や
禰軍墓誌の「于時日本餘噍、據扶桑以逋誅」を無視できない。 扶餘勇者の直系男系男子は俺だから天智天皇ではないです >>177
「日本・倭・百済連合」と車体に書いてあるのはどういう意味。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 「ハイセイと推古は会ったが国書を掠め取られているので証拠が残っていないだけ。
だから会った事実はないとは言わせない」と
「筑紫倭国はあったが、禁書例により文物は失われ、地震で遺跡は失われたので
証拠が残っていないだけ。だから九州王朝はなかったとは言わせない」
は同じ心理。でも真実ならどこかにかけらが残っている。それを探すことではないか。 福永先生が言ってた。 筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年>1年で帰国だって。
天智天皇が死亡>豊国の支配者天智は帰国した薩夜麻に殺されたんだって。
大友皇子を殺した大海人皇子が実権を握った>大海人は薩夜麻だって。
筑紫倭国は滅亡>大海人(薩夜麻)が大友を殺して筑紫倭国(倭国本朝)が豊国倭国(倭国東朝)を統合したんだって。
筑紫大地震で没落>この時倭国が近畿に移ったんだってさ。
倭国の歴史を抹消>日本書紀は大部分が豊国の歴史を書いた書物だって。
神武東征>筑紫から豊国に東征だってさ。 3世紀ならともかく、7世紀の倭国を九州北部に押し込めるのは無理がないだろうか。
白村江から半世紀あまりで平城京の建設が始まるので、畿内にもある程度の基盤がなくてはいけない。 記紀はむしろ筑紫倭国本家ではなく畿内の地方政権の歴史をあたも全国政権であったかのように見せかけているという説明の方がしっくりくる。
奈良盆地の中での出来事は細かく書いてあるからだ。 畿内「なんか北九州が勝手に調子乗って滅んだから棚ボタで列島統一できたわラッキー」 そうも見えるが、その裏には戦勝国である唐の意向が強く影響していたに違いない。
天智政権は一種の傀儡政権だったのではないか。 >>187
それだったら旧唐書に「倭の別種である日本は唐の傀儡」と書いただろう >>187
このスレの要旨は>>132にまとめがある。
天智=扶余勇説の批判を仰いでいる。
傀儡について、都督府下の王は唐に承認されたものである。 倭国を支配した唐が百済王族に倭国支配を委嘱したというのがどうもね 扶余勇は倭国にいる。元百済佐平の唐将軍禰軍もきている。
禰軍墓誌からは扶桑にわたった百済人のことは重要な任務だったようである。
百済王族への委嘱について、>>190と同様、元倭国王は承服できない。
それが壬申の乱の原因と考えられ。 いや唐側の考えがよく分からんね
向こうの史書にも載ってないし >>194
封禅の儀に倭国酋長が行くことが決まっていることは向こうの史書に載っている。
この倭国王、書紀では天智称制で存在しないことになっている。これが発端である。
「天智=扶余勇の直接の証拠がないから」というより、
史書上の違いは事実であるから、なぜ違うことになったのか、その回答を請う。 >>195
基本的には、支配できる実力があり、唐に歯向かう姿勢がないことを重視する。 倭国支配を任せちゃったら、力を蓄えて唐に反乱を起こす可能性あるわな >>>ここでいう豊国とは
天智の最後の地>福岡県宗像市鐘崎織畑神社
吉野宮>大分県下毛郡山田町吉野若宮神社
飛鳥浄御原宮>福岡県田川郡赤村大原貴船神社
飛鳥岡本宮>福岡県田川郡赤村字岡本
泌泉漏刻跡>福岡県田川郡糸田町
近江大津宮>福岡県田川郡糸田町下糸田字宮山大宮神社
記紀にある各天皇宮はほぼ全て倭三山(香春岳)が見える所にあるんだってさ。 日本の属国だった百済の王族ごときが天皇になれるわけないやろ
そんな奴が天皇になろうとしたら我が先祖が殺してるわ
日本の暗部を舐めすぎやろ >>191
百済と畿内ヤマト、筑紫倭國と新羅
畿内ヤマトは倭國ではない 天武政権は唐、新羅、筑紫倭国の連合政権であった(何回もいわせるな!!! >>204
倭国は唐・新羅の連合軍に負けたからありえんよ >>178
白村江の戦いは
倭・百済・高句麗の連合軍 VS 唐・新羅の連合軍で
倭・百済・高句麗の連合軍が負けた 旧唐書に倭国酋長がおり、日本書紀に倭国王がいない事、扶余勇が扶桑におり、
元佐平の禰軍が使わされている事、朝鮮山城がにわかに多く作られ、
大宰府には羅城があり、百済の首都に類似する事、これらから得られる結論は
扶余勇=天智しかない。この推論に対するご指摘を受けたいが一向にない。
結果を受け入れがたいという批判しかないようなので、それにたいして答えておく。
>倭国支配を任せちゃったら、力を蓄えて唐に反乱を起こす可能性あるわな
だから止めておくということはない。高句麗をご参考に。
>刃向かう姿勢なんかどうとでもなるし
ひとつ火がつくと、他でも火がつきやすくなる。
帝国崩壊につながる芽は潰しておかねばと考えるのが、安全保障の一ページ目。
>まあ無駄なリスクを抱えるだけだな
最善の策と考えたのだろう。
>日本の属国だった百済の王族ごときが天皇になれるわけないやろ
いろんないみをこめて称制という手を書紀は考えた。 >>210
当時の文献を読みきれてないので、説得力はないかもしれない。
ただ、>>132と付属のHPを論破してほしい。骨格が崩れたら、やり直しは考える。 >>201
詳しく知りたいので
福永さん?なにか著作でしょうか?
ホームページ?でも構いません教えてもらえませんか? >>>福永さん?
福永晋三で検索すれば色々出てくるよ。 >>209
日本書紀は日本国の正史だから倭国王が出てくるわけないやん
根本的に間違えてる >>209
お前の論は天皇=百済王だと主張したいがために根本を捻じ曲げて論じているに過ぎない
根本的に間違えてるって自分でも分かってるだろ
だから学会で通用しないと理解してネットで憂さ晴らししてるだけ 大王(後の天皇)は王ではない
諸王を統括するもの
倭国、豊国、火国、日向国、出雲国、吉備国、毛野国、日高見国、百済国、新羅国、高句麗国・・・等々
全ての国に王がいて、それら全ての王を統括するものが大王(後の天皇)
民族も言語も文化も風土もそれぞれ違う国を含めた、現代でいう連邦制のような体制
大王家が代々住んでいたのが日本国(現在の奈良) >>215
倭国王でも天皇でも大王でも、称制は正式な王がいない状態。
なぜかの説明を請う。 >>217
法隆寺薬師像で推古天皇を「大王天皇」と呼んでいるのは何故。 >>209
>帝国崩壊につながる芽は潰しておかねばと考えるのが、安全保障の一ページ目。
だからこそ、百済の王族をわざわざ登用するはずがない。 >>218
唐が承認しなかったのさ。
日本書紀は唐に提出するために漢文で書いたから、唐が承認していない期間について王は記載できない。
戦後の日本は唐の冊封国に戻ったので、そのような記載になった。 >>220
高句麗の地でも、百済の地でも敗戦国の王族を使っている。倭国ではよその敗戦国
の王族を使っただけ。いろんな政治的理由があったのだろう。
この件は推論の結果であって、推論を否定する材料とはならない。
推論を否定する決定的なものを請う。 政情を安定させるためには、その国の王族を登用するんだろ。
なら、百済の王族を連れてきたらおかしいだろ。 >>221
唐は王であろうが、皇太子であろうが、実力があって、唐に従う支配者であればよい。
王とか皇太子は、官職名ではないから唐の承認など不要。
その国、または、その王家で決めることがら。 >>219
大王=天皇だということを示すために大王天皇と書いた
ちょうど称号を切り替えようとしていた時だからね
意味するところは同じ >>225
回答になっていない。
土台部分が空虚な推論であるその論は最初から成立していない。 >>224
繰り返すよ。
政情を安定させるためには、その国の王族を登用するんだろ。
なら、百済の王族を連れてきたらおかしいだろ。 >>225
いやいや倭国の王族を使うなら同じ手法だろうが、百済王族を使う理由にならない >>224
>王とか皇太子は、官職名ではないから唐の承認など不要。
王や太子の承認で唐が周辺諸国の政治に介入したんだよ。
魏の頃も、卑弥呼が倭王の承認を得て狗奴国と対抗しただろ?
王は中国が冊封しなければ王ではなく蛮夷の豪族になる。 >大王=天皇だということを示すために大王天皇と書いた
特定の天皇を指さなかったことになると、銘文の意味が通じない。
>冊封体制って知っている?
中国王朝が周辺国を支配する方法はいろいろある。
扶余勇のケースでは冊封かまだ決定できない。
>政情を安定させるためには、その国の王族を登用するんだろ。
なら、百済の王族を連れてきたらおかしいだろ。
何度もいうように、結果がそうなっている。
他国の王を連れてきたわけではない。扶余勇は扶桑にすでにいたる。
>いやいや倭国の王族を使うなら同じ手法だろうが、百済王族を使う理由にならない
倭国に逃げ込んだ王族がその配下の貴族たちとともに根を張ってしまっていた。
好んで百済王族を使ったわけではない。それが、政治的最適解だったのだろう。
>王や太子の承認で唐が周辺諸国の政治に介入したんだよ。
魏の頃も、卑弥呼が倭王の承認を得て狗奴国と対抗しただろ?
王は中国が冊封しなければ王ではなく蛮夷の豪族になる。
朝貢する前から、王であり、女王である。
中国によって承認されなければならないというルールは寡聞にして聞かず。
卑弥呼は(倭王の承認を得て???)魏の応援を得て、狗奴国と戦った。そのまえから、女王である。 >倭国に逃げ込んだ王族がその配下の貴族たちとともに根を張ってしまっていた。
>好んで百済王族を使ったわけではない。それが、政治的最適解だったのだろう。
だろう、じゃ妄想だ、 >>233
>>大王=天皇だということを示すために大王天皇と書いた
>特定の天皇を指さなかったことになると、銘文の意味が通じない。
当時の大王を指して大王天皇と書くことで大王=天皇だと示している
それぐらい読めば誰でも分かるから騒ぐことじゃないのに
お前は根本的に「百済王が天皇になった」という前提で論を建てようとしているから分からないのだよ >>234
百済崩壊から白村江(を含め)の間に、扶余勇は倭国に走在している。
白村江で多くの貴族が倭国にわたった。そして、勇は根を張った。一方で倭国は
王が封禅儀に出るほど唐の管理下にある。扶桑統治を任せる唐の選択肢としては、
倭国王か扶余勇があった。扶余勇を選んだのは政治的理由であろう。この件に関しては
来訪した禰軍が深く関与していると思う。選ばれなかった倭国王はどうする?(壬申の乱)
称制によって、倭国王が統治からはずされたことと、勇がまだ正統な王位に付いていない
ことを書紀は示したかった。 >>235
文意からいって、大王天皇は個人をあらわす。
大王とは推古のこと。「当時の天皇」ではなく、大王、大大王といえば
推古を指す「固有名詞」。「大王=天皇」をいうためではない。
あらゆる金石文を読んでから、発言を!答えるのが面倒になってきた。 >>233
>朝貢する前から、王であり、女王である。
>中国によって承認されなければならないというルールは寡聞にして聞かず。
冊封体制を理解していない馬鹿。
中国が承認しなければただの蛮族。
卑弥呼は伊都国にあった漢委奴国王印などを用いて、倭王としての正統性を主張して、倭王に承認された。
だから承認されたことを国内に示すために鏡などを要求した。 >>236
倭国王は統治から外されただろうが、扶余を連れてくるかどうかは別の話だ。
倭国の王族の中で従順なのを選んだほうがいい。 >>237
だから当時の大王である推古のことを大王天皇だと書くことで大王=天皇を示してると言っている
それぐらい読めば誰でも分かるから騒ぐことじゃないのに何を騒いでいるのか
お前は根本的に「百済王が天皇になった」という前提で論を建てようとしているから分からないのだよ 扶余族である高句麗王と百済王は日本に亡命後それぞれ天皇から王氏を与えられてるからな。
百済王族も高句麗王族も日本の天皇の下なんだわ。 天武は南九州にいた(大化の改新の混乱から逃れるため?)
一時沖縄にも訪問
「天武天主」の碑が残ってる
https://www.google.co.jp/amp/mintun.exblog.jp/amp/20352889/
南九州から東征して奈良入り
兄天智の近江王朝を滅ぼし天皇に即位 『旧唐書』
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本
或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉
中学生でもわかるくらいわかりやすく訳す
日本からの使者は3つの異なる説明をした。
「日本と倭国は別の国である。(日が昇る場所にあるから日本とした。)」
「日本と倭国は同じ国である。(倭って漢字が格好悪いから日本に改名した。)」
「小国だった日本が倭国を併合した。」
日本からの使者の話は、真実とは思えないので中国はこの話を疑った。 『旧唐書』にははっきりと日本の使者の話しは信用できないと書いてあるのに
何故か「小国だった日本が倭国を併合した。」 など一部分だけ抜き出して語る
アホがこのスレにも多いね 天智は百済、天武は新羅
卑弥呼の時代の畿内は倭國じゃねーーーーんだよ これは個人的な想像だけど
「倭」って漢字は中国様が考えてくれた漢字なので
その漢字が格好悪いから国名を日本に変更したという真実を伝えると
中国が怒って日本の使者が殺されるかもしれないので
日本の使者の説明が二転三転したと考えられるな。 中国と対等になりたくて、外国の代から中国の魏に改名した北魏の前例の真似
そもそも日本書紀自体が北魏書(紀)のパクリ >>248
「以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本
或云、日本舊小國、併倭國之地。」と日本の使者が言った。
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」は日本の使者は上記のように
いったが、史書編纂者は事実を確定できない。その理由は、
使者が実(事実による整然とした説明)を以って対応しないので、と述べている。 >>243
>>244
>>247
日本の使者が
「以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本
或云、日本舊小國、併倭國之地。」
といったのは事実。
中国はその中のどれが真の理由かは決定できないというだけの話。 >>252
どれも真実なんだよ
日本国(倭国親百済派=天智天皇派)はもともと倭国王統の分家なんだから
「一つの国が内輪で争って国号が変わった」とも言えるし
「別々の国が争って倭国が滅ぼされて国号が変わった」とも言える
「小国である日本が倭国を支配した」も事実だし 「分家」を「同じ国」とするか「違う国」とするかの認識の違いなだけ 過去の歴史を捨てるいいチャンスだと天武は考えて、
天智が名乗った日本国を壬申の乱で天智派を滅ぼした後も使い続けたってことだろ >>258
戦争や内紛や権力闘争は、日本より中国のほうが多いし
そういう話しだったら中国は理解したはず。
中国の歴史書が書いている通り
日本の使者は異なる3つの説明をしたと素直にとらえたほうがよい。 なんでみんな珍説に流れるの?
「日本と倭国はまったく別の国である。」
「日本と倭国は同じ国である。」
「小国だった日本が倭国を併合した。」
この3つの中だと日本人から圧倒的に支持されるのは「日本と倭国は同じ国である。」 だろ。
じゃあ、なんで日本の使者は、事実と異なる説明をしたのかって話になる。
その理由は「倭」っていう漢字は中国様が考えてくれた漢字なので
その漢字が格好悪いから国名を日本に変更したという真実を伝えると
中国が怒って日本の使者が殺されるかもしれないからっていう
理由は常識的に考えられる理由である。 >>261
>日本の使者は異なる3つの説明をしたと素直にとらえたほうがよい。
1人の使者が三つも説明するわけない。
使者の説明と異なる事情を別のルートで耳にしたため、日本の使者の説明は信用できないという話になった。
そして、別の書では倭国の使者と日本国の使者が朝廷で鉢合わせして言い争いをしたことが記録されている。
つまり、日本国と倭国は別の国だったが、どこかで日本国が倭国を併合してしまった。 「倭」は別に卑字として付けられたわけではないよ
音韻辞書の最初に出てくる漢字を充てたにすぎない 倭=人に委ねる
魏=鬼に委ねる
魏が勝ったのは倭がついていたから 旧唐書巻119上下に出てくる別種は、
高麗者,出自扶餘之別種也。・・・
百濟國,本亦扶餘之別種,嘗爲馬韓故地・・・
日本國者,倭國之別種也。・・・
鐵勒,本匈奴別種。・・・
奚國,蓋匈奴之別種也,・・・
渤海靺鞨大祚榮者,本高麗別種也。・・・
霫,匈奴之別種也,居於潢水北,亦鮮卑之故地,・・・
「日本國者、倭國之別種也。」を日本は倭国と別の国と訳すのはどうか。
日本国の出所は倭国くらいの意味で、別の民族が流入して出来た国ではない
と言っているのではないか。すなわち、日本は倭国の中で湧き上がった国だと。 >>262
>その理由は「倭」っていう漢字は中国様が考えてくれた漢字なので
その漢字が格好悪いから国名を日本に変更したという真実を伝えると
中国が怒って日本の使者が殺されるかもしれないからっていう
理由は常識的に考えられる理由である。
倭国は貰った名前ではない。中国が勝手にそう呼んでいるだけ。
変えて殺されることはない。おびえるのはおかしい。卑屈になることはない。
>>264
「倭國自悪其名不雅、改爲日本」は
倭國名自体が悪い、雅でないと当時受け取っている事実がある。
>>265
「委」が漢字の一部になった時、「ゆだねる」という意味はない。
漢字の成り立ちを勉強してから発言するよう願う。 >>267
>「倭國自悪其名不雅、改爲日本」は
>倭國名自体が悪い、雅でないと当時受け取っている事実がある。
日本側が後にそう思っただけですよ
「卑」も「倭」も辞書の筆頭字なので、中国側に卑下する意図はなかったんですよね >>269
「なよなよしている」意味は「倭」にあると思う。劣勢文字である。
人にゆだねるとか鬼にゆだねる意味はない。漢字はそのようには出来上がっていない
ことを言いたかった。 >>268
>日本側が後にそう思っただけですよ
「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。」
は夏音(中国語)を学び倭の名を憎んだの意味で、670年当時(672年壬申の乱まで)に
そう思っているということ。後の使者の思い付きではない。
>「卑」も「倭」も辞書の筆頭字なので、中国側に卑下する意図はなかったんですよね
どの辞書なのか教えてもらいたい。何の順序で筆頭なのか。 >>271
>「咸亨元年(670),遣使賀平高麗。後稍習夏音,惡倭名,更號日本。」
>は夏音(中国語)を学び倭の名を憎んだの意味で、670年当時(672年壬申の乱まで)に
>そう思っているということ。後の使者の思い付きではない。
いや中国側の意図のお話なので
>どの辞書なのか教えてもらいたい。何の順序で筆頭なのか。
音韻順ですよ
魏当時のものが見つからないので、宋代のものですが確認してみてください
宋本広韻データの第一〜第五まで
http://kanji-database.sourceforge.net/dict/sbgy/v1.html >いや中国側の意図のお話なので
意味を解せず申し訳ない。
>音韻順ですよ
論衡で「倭人」がでてくる。すでに同じ音韻辞書があった?。音韻は変わるが。
現代中国では外国人名を統一的に表記するためにルールがある。
(どこかの新聞社が最初に漢字命名するような・・・)
大昔も何かルールがあったことは想像できる。それが音韻辞書?
音韻順筆頭のルールがあるならば、南蠻、西戎、東夷、北狄に出る固有名詞の
発音は決定されたも同然と思うが、それでよいか? 広韻は中古音だから、上古音がはっきり分かる辞書類は残ってないよね
魏晋時代は中古音なのか上古音なのか微妙らしいが 韻書の筆頭漢字を拾っただけというのは、尾崎雄二郎説です。
「中国語音韻史の研究」で、邪馬臺国についての漢字使用についても論じておられます。 倭面土は顔に刺青があったから字を当てたという説もある。 >>275
上古音には学研漢和大辞典
藤堂明保先生の労作による上古音(藤堂説)を確認できます 魏晋時代なら仏典の翻訳が始まってるから漢語の還梵作業で原音がわかる
唐代だと陀羅尼が多いからもっと正確だけど ありがとう。
音韻の観点からも裏づけがあったほうがよいが、
音韻変化のルールを確定するのは難しいと思う。
AIに学習させれば、どうですかね。案外答えがでるかも。
これは東洋人の問題ですから東洋人の仕事ですよ。 筑紫倭国600年の歴史(1世紀 倭王帥升〜7世紀 白村江敗戦まで)と
畿内倭国400年の歴史(3世紀 邪馬台国〜7世紀 壬申の乱まで)の
その両方の歴史を「倭国の歴史」として足し算してひとつにしちゃったから
600年+400年=1000年の歴史になっちゃって
初代大王(神武と仮定)の即位がBCにまでずれてしまったわけだよね 岡上は自分の妄想が現実だと思い込んでいる
非常に危険な兆候だ >>277
碌な文化文明も発展してない時代に顔に刺青とか、まさに土人だよなwwww 鯨面(顔の刺青)、文身(体の刺青)は長江流域に広く見られる。
周の太伯は文身断髪して荊版の地に下り、呉の祖となった。
黄河流域の文明からみれば、野蛮だった。
倭はその文明帯に属していた。 知能、思考形態、言語、文明、人口は大いに関係あるとすれば、
辺境に追いやられた民族が、再び文明の中心になることはありうるか。 ってか入れ墨いれる技術は文化として評価されるべきだろ 頭を絶壁にする、首を長くする、纏足にする、刺青のように傷をつける等、
体の一部に制限を加えるのは奇習です。 呉の祖となった周の太伯が文身断髪して荊蛮の地に下ったのは、殺されないため。
体の一部を元に戻れないようにするのは、共同体のメンバーかどうかを見分ける印。
逆に、よそには出ていけないためでもある。疑い深いのだろう。 倭国から鯨面文身の風習がなくなったのは何時のことか?
鯨面文身は魏志倭人伝にあるが、宋書では夷蛮全体で書かれていない。
これは、宋の時代には倭に鯨面文身がなくなったということなのか、
宋が華南を拠点としているので、鯨面文身は珍しいことではないからなのか。 刺青を入れる技術、人体変成の技術、文化として評価されるべきだろ >>300
そもそも倭国が7世紀末に滅亡するからね。
その頃かな。 >>302
南朝の宋です。倭の五王の頃です。卑弥呼から150年くらいですが。
>>303
>そもそも倭国が7世紀末に滅亡するからね。
書紀とか遺跡に根拠は見つかるのかい? >>300
東晋の時から既に鯨面分身の記録はないが。 晋書は倭人の過去の記録として鯨面文身のことを書いている。
倭人と晋の付き合いがないので、新たに書かないだけ。
あるいは、東晋は江南であるから、鯨面文身は珍しいことではなかった。 書紀の履中紀に「免死科墨即日黥之」がある。罪として刺青を使った。
倭の五王の時代には罪をあらわすために用いられたのだから、
一般的には鯨面はなくなっていたか、強制的に禁止されたか。
どうやら、倭の五王の時代に鯨面はなくなった可能性が高い。
倭の五王は倭国出身ではないから。
(参考)
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/shinou.htm >>308
半島からの渡来人が多数きて、先進技術で急激に発展したのはこの時期。
半島(倭人でない人々)は黥面ではないから、倭国で混在した。
けっか、黥面はなくなったと推測する。為政者が関与するのではないか。
少なくとも、罪の罰として黥面を使うだけでも、黥面風習を否定することになる。 >>309
半島から渡来人が多数来たことを示す考古学的文物は?
考古学的に半島から渡来人が多数来たことは証明されてませんが? 無いことを有った言い出すならいくらでも話を作れますね(笑) >>310
>半島から渡来人が多数来たことを示す考古学的文物は?
>考古学的に半島から渡来人が多数来たことは証明されてませんが?
証明されている。
韓式系土器の分布。轆轤。高温焼成が必要な須恵器。
織物などの工業的生産。馬匹。鉄製品の急激な増産。鉄鍬。馬具の出現。
甲冑の革綴から鋲留への技術の変化。茨田堤や堀江開削の大土木工事。
この時期のこれらはすべて、渡来人によるもの。
http://www.geocities.jp/jhistoryverification/shinou.htm
に挙げてある参考文献(考古学上の)を読めばわかる。 >>312
それは証拠にならない。
日本人が半島を占領して持ち帰った技術によるもの。ということも言えるからね。 遺伝学の最新の成果では、航海技術を持つ日本人が船で直接、黄海から渤海まで至り、南下していた燕と交易していたことが明らかになっている。
馬具などの大陸文化は、航海技術を持つ日本人集団が大陸から交易を行い導入した。
半島人は大陸人が南下した集団であることも遺伝学で明らかであり、彼らに航海技術は無い。
航海技術をもつ日本人の手で大陸文化は導入されている。 >>314の一行目は
『山海経』海内北経「倭属燕。」が遺伝学的に証明されたということ。
倭が船で直接燕と交易を行っていたということ。 >>313
>それは証拠にならない。
考古学的研究結果を認めないなら、科学的とはいえない。
>日本人が半島を占領して持ち帰った技術によるもの。ということも言えるからね。
提示した研究論文によれば、半島と列島で分業した可能性を指摘している。
倭の五王は都督支配権を得ているが、半島での争いの跡がないと研究されている。
支配権を占領と考えるのは安直で、力づくで抑えても、経済発展するまで大変だろう。
近代の植民地経営でも、兵を置かねばならないとか、採算というのがある。
書紀応神紀は渡来した弓月君や縫衣工女や阿直岐(馬)や王仁について触れている。
招聘したように読める。こんなことは証拠にはならないが軍事的占領はなかったでしょう。
都督支配の実態を研究するにはいい材料じゃないかと思うが・・・。 >>316
根拠無し
>>317
根拠無し
>>318
根拠無し >>313
根拠無し
>>314
根拠無し
>>315
根拠無し >>323
>弥生人はどこから来たの?
313で言っているのは古墳時代の4世紀末から5世紀中葉のことで、弥生文化は
それよりはずいぶん前。稲の栽培をはじめた人々を弥生人(弥生時代)というと
おもいますが、稲作の栽培の始まりは揚子江河口の河姆渡遺跡(BC5000)です。
そこからどのようなルートで伝わったかですが、海流に乗って直に倭国に来た、
いや、一旦遼東半島に渡って朝鮮半島経由できたというのがあります。
稲作は陸続きで華北に行き、そこから東に向かったと解釈できます。
倭人(弥生人)は中国から夷といわれます。山海経によれば、揚子江から山東半島
にかけてすべて、夷です。中国の人種判断が正しければ、弥生人は揚子江河口から
北上し、山東半島あたりから来たんですかね。鯨面文身の風習もあることですから。
やっぱり、稲とともにですかね。 >>324の訂正
×山海経によれば、揚子江から山東半島 にかけてすべて、夷です。
○江蘇省から山東省にかけて畎夷,于夷,方夷,黄夷,白夷,赤夷,
玄夷,風夷,陽夷,嵎夷,藍夷,徐夷,淮夷,泗夷,すべて、夷です。 >>324
弥生人が渡来した考古学的文物は?
弥生期に集団が渡来したことを示す考古学的文物は存在しないが? 弥生人の骨は明らかに縄文人と違うけどな。
今更弥生人の到来を否定するなんて、畿内説のレベルも下がったな。 >>326
324の文章表現でわかるように、なにも断定していません。概略を述べただけです。
>弥生人が渡来した考古学的文物は?
知りません。常識的に農耕具なんか探せばどうですか。
>弥生期に集団が渡来したことを示す考古学的文物は存在しないが?
民族学的にも当時は個人では生きていけないと思いますけれど。
集団が渡来したことの証拠探しなどに興味ありません。 遺物としては大陸系磨製石器と呼ばれる一群のものがある
あと、土器の作り方も変わるし器種にも新たに増えるものがあるな >>329
大陸から奪ってきたんだよ。
>>330
大陸から奪ってパクったんだよ。 日本が大陸に進出していたということが都合が悪いからってひた隠しにしてきたけど、もうそういうのいいから。 履中紀では黥は罪をあらわしていたのに、
隋書「男女多黥臂點面文身」とあります。
魏書「男子無大小皆黥面文身」とは正確には一致しませんが。
風習としては、7世紀にまだあった。女子にも広がった。 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) >>336
そうだよ
だから縄文来の日本固有の遺伝子が、交易地だった中国沿岸に繁殖してる場所がある >>335
悔しかったら、弥生期に集団が渡来したことを示す考古学的文物を提示してみろよ
無いからw 日本海の対岸、現在のロシア領の先住民であるウデヘも日本から渡った縄文人と混血してることは既に明らかだからな
考古学的にも日本産の黒曜石が出土してる 日本は渡来人が作ったことにしないと都合が悪いのか?w大陸人どもw 弥生時代の幕開けには、ひょっとしたら(多分)徐福
(天御中主、イザナギ、天照皇大神、スサノオ、
ホアカリ(初回渡来時に号した。出雲簒奪の夢破れ、大罪人(正副二人の王を殺害、国家転覆の主犯)として逐わる身となり逃げ帰る)
/ニギハヤヒ(再渡来(トライ/リベンジ。宗像の末娘と婚姻。物部、天皇家の祖となる))、、、出雲の伝承。ニニギはニギハヤヒ(徐福)を隠すためのカモフラージュ)の
渡来が最大級のインパクト〜転機と成った有ったのではないか?
(再渡来時には)三千人の青少年(男女)、あらゆる職能の工人、もちろん密かに身内や親戚縁者
(二度と帰らない決意/始皇帝を2度も騙した〜には(9族誅滅の大罪)帰れません)を引率した。
(佐賀に至り、有明海に入港して上陸。後の吉野ヶ里は彼らの都だったのかも)とありますから
当時の世界最先端技術が日本列島に移入された可能性は否定できないのでは? 半島に渡って稲作を伝えた説もある。倭は何度も半島を侵した。
倭の五王武は百済を経て高句麗と戦おうとした。白村江で倭は援軍を送った。
秀吉は朝鮮に侵攻した。秀吉は南海を制した。明治政府は朝鮮を開国させた。
満州の権益を手に入れた・・・。
あとで手を引くはめになるから、出た人々は陸の孤島に取り残される。
手を引かざるを得ない現象は、文明の圧力というか、民族移動の圧力なんだぁ。 記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。 >>342
>>343
>>344
中国人が日本侵略するための口実としてそういうこと言いふらしてるんだよねw
死ねよ >>345
中国から文化を輸入したことは間違いないんだから。
政治思想で歴史を歪めるなよ。 明治政府は立ち上がりから知らぬ間に英国に篭絡されたなぁ。
中国は中国を狙った明治政府の血を引く日本を篭絡しようと考えているかもなぁ。
相手国の国民の議論を誘導する手段ってあるだろうなぁ。マスコミ、教育など。
それができてるとしたら、日本政府も相手国にやってるだろうし、やらなくちゃ。 >>346
文化だけなのに政治思想で中国人が日本を作ったと歴史を歪めるなよ >>348
そこまで言ってないけどね。
ただ、天津神ってどこから到来したんだろうね。 >>349
>>342-344が言ってるからレスしたんだよ
天津神は高天原から来たって書いてて、高天原は奈良県御所市の高天の原というのが一番有力でしょ
さらに遡るなら東日本に根拠を求められる >>350
>さらに遡るなら東日本に根拠を求められる
こりゃまた珍説。
天津神は海人の神であり、渡来人のことだよ。
弥生時代とは、彼らが稲作とそれを支える暦、灌漑技術などを持ち込んだ時代だよ。 そもそも渡来人が来なかったら、誰が稲を日本に持ち込んだのか。
渡来人の存在抜きに古代史は語れないだろう。 >>351
天津神は渡来人じゃないぞ。
渡来人は諸藩。常識。 >>354
>渡来人は諸藩。常識。
それはもっと後の渡来人だよ。 もういいや
ネタバレすると、高天原は北海道だよ
高天原から降臨した皇統とアイヌのY染色体が同系統な時点で気付く人は気付くだろ
黄泉国は東北、黄色い泉があるだろ
根国は関東、スサノオがいるだろ
神話時代の話は東日本の話が元ネタ、
東日本人が西日本を支配するために編纂されたのが記紀神話な
だから「倭書記」じゃなく「日本書紀」なんだよ
奈良の鹿は鹿島から持って来た鹿な
鹿島の剣が日本建国で神武が使った剣な
東征神話は征西を隠すためな >>359
これはたぶん冗談でしょ。
畿内説が成り立つなら、全国どこでも同じような論理が成り立つという皮肉。 >>342
徐福が幕開けなら、日本でも中国語を使っていないとおかしいような・・・ 常陸を中心とした勢力が「日本」だったと考えてる。
常陸の元は宮崎県日向かな。 大和=やまと
日本=やまと
大和をやまととは読めない
つまり大和言葉の当て字だとわかる
日本はニホンでもニッポンでも通じる
国名がそんないい加減なわけないでしょ
実際になんと呼んでいたのか、「やまと」 『日本書紀』を見てみましょう
国生みのところで、我が国土を「大日本豊秋津島(おおやまととよあきつしま)」と表記し、
「日本、これを耶麻騰(やまと)という」と明確に書かれてますよ つまりね、「日本」は古事記にも日本書紀にも「やまと」と読むと
明確に定められているのに、全然違う読み方をするから
わけわからなくなるのですよ。
国会で明確にするべきでしょ。 >>367
古事記には「倭」のみが使われていて「日本」の文字はどこにも見つからない。
推古天皇まで書いているのだから、そもそも「古事記」という名前がおかしい。
漢字の音訓についての注意書きが序にあるなど、文章慣れしすぎている。
「日本」という名称をはずしたいという意図がありそうに見える。
「日本」は外国人がつけた名称だから、倭で統一して書いた。
ある一部の人々ならやりそうなことではないか?偽書説をすてきれないがなぁ。 古事記は日本書紀よりやや古く、倭と書いている。
それを日本書紀から日本に書き改めるようになった。 倭という名前は外国人がつけた名前だから、それを外そうとしたんだよ。
倭は邪馬台国より前から使われていたくらい古い、中国における名前だからね。 日本書紀で古事記が書く倭を日本に書き改めた。
最初そう思ったが、古事記の真贋を疑えば、逆で、日本を倭に替えた。
古事記と日本書紀は大筋は完全一致の不思議。
成立年を少しずらしてあるように見える。
倭は外国がつけた名だが、日本も外国人がつけた名前。
古い倭の人々のなかには日本と名づけられて気に入らない人々がいることも確か。
こういう人々が、とる行動は、書き物によって、事実を作ることなんだろう。
科学的に体制を組んでに作られていないものの真贋など疑うに十分である。
人間とは本質的に歴史修正主義者と思ってかからねばならない? 太安麻呂(オオノヤスマロ)
古事記の編者。奈良時代の文官で、父は壬申の乱で功績のあった
多品治(おおのほんち)とされる。1979年1月、奈良市此瀬町の茶畑で
墓が見つかり、埋葬されていた墓誌から平城京左京四条四坊に住み、
官位は従四位下勲五等、命日は7月6日とわかった。 墓に太安萬侶の功績として古事記を作ったという碑文は無い
ただ単に太安萬侶の墓として、太安萬侶の実在だけが保証されてるもの
平安時代に太安萬侶の子孫が、古事記は祖先の太安萬侶が書いて元明天皇に献上したと主張したが、続日本紀にその業績は記載無し
古事記は日本書紀の本文及び一書曰くを一繋ぎにして物語化したもので、平安時代に作られて、日本書紀より先に作られたと捏造されたもの 太安萬侶が実在したことと、太安萬侶が古事記を編纂したことは、繋がらない。
太安萬侶の墓は、太安萬侶の実在を保証するものであり、太安萬侶が古事記を編纂したことを保証するものではない。 >>379
そう、違うんだよ
日本書紀が現存する日本最古の歴史書
古事記はそれを元にして平安時代に書かれた物語
日本書紀と古事記の系図の量を比較しても分かるが
奈良時代の有力者が日本書紀の系図に連なり、平安時代からの有力者が古事記で追加されてる形 >>381
岡田英弘の「倭国の時代」や「日本史の誕生」に具体的に書かれてるから読め。 呼んだはずだが覚えてないな、たぶんたいした話じゃないだろうな、
岡田は東洋史学で専門じゃないしな 372のモレは古事記の真贋判定の経緯なんぞはしらなかったが、
古事記を読んでしばらくして偽作のにおいがしだした。
現代でも、古事記や日本書紀を大衆に広める動きがあるからだ。
>奈良時代の有力者が日本書紀の系図に連なり、
平安時代からの有力者が古事記で追加されてる形<
が本当なら、歴史(系図)をつくっている証拠だ。
いまも脈々とホツマツタエなるものを歴史書にする動きがある。
昔から修正主義者がいる。この国の歴史は科学的でないに違いない。 >>385
>奈良時代の有力者が日本書紀の系図に連なり、
>平安時代からの有力者が古事記で追加されてる形
は載ってないな >>372
同じ国の歴史なんだから、一致しない方がおかしいけど、実際には一致しない部分も多いんだよな。
ソースが違うんだよ。
明らかに別々に編纂されている。 >>386
系図もググれば出てくるだろw
自分で比較してみろよw
マジだからw >>385
そんな古くさい偽書説は見飽きてるんだがな 奈良時代の有力者の系図を日本書紀に組み込んだのでは? >>366
その通り
ヤマト=邪馬台=本州
奈良盆地を表しているわけではない 奈良時代に日本書紀を編纂、日本(東日本)が倭(西日本)を支配
平安時代に古事記を編纂、西日本が倭だと主張、出雲を持ち上げて日本に対抗 >>392
>奈良時代の有力者が日本書紀の系図に連なり、
>平安時代からの有力者が古事記で追加されてる形
これはどうしたんだよ 山陰と山陽、日本海側と太平洋側、関西と関東、倭と日本、出雲と大和 論破できなかったら、古事記は平安期に作られたってことで話を進めるね >>386
>>385のurlの中に
815年に完成した『新撰姓氏録』は、多くの氏族の由来について『日本書記』から丹念に記事を拾い集めているが、『古事記』からの引用は1つもない。
これは平安朝の初めになっても『古事記』が世間に知られていなかったことを意味する。
とるけれど >>387
双方が正しい歴史書なら一致するが、日本書紀は倭の五王などを明示的に書いていないから、
潤色があるわけだが、潤色部分まで一致しているのは、独自に書かれたものではない証である。 >>398
後からできた日本書紀が正式版とされたからねえ。 >後からできた日本書紀が正式版とされたからねえ。
古事記の古の字もないのに、正式版とされるとはどういう意味? トピヌシより、古事記に「日本」が出てこないことの意見を求める。 >>403
大宝元年あたりには「日本」国号を名乗っていたという相場だけれど? >>401
古事記の出来に満足できなくて日本書紀を書いたんだよ。
だから正史は日本書紀。 『三国史記』(12世紀に編纂)「新羅本紀」の文武王10年12月(671年1月)条に、
「倭国、号を日本に更む。自ら言う、日出づるに近きを以て名を為す」とあるので
これより前だろうね。 天武天皇の時代
689年に飛鳥浄御原令によって
「日本」という国号を欽定されている
つまり「日本」という国号の由来はこれよりもずっと前 制定した年でなければ意味がない。
今のところ、古い方である三国史記の671年でよいのではないか。
では、それは国内では何があった年なのか。 【白村江の戦いと倭国滅亡】
663年に白村江において行われた倭・百済と唐・新羅の決戦で倭国軍は大敗した。
自ら前線に赴いていた筑紫君薩夜麻が捕虜となり8年にわたり唐に抑留された。
筑紫には唐から郭務悰ら2000人の使節団が駐留したが、畿内大和ではなく筑紫を占領したのは、そこが倭国の首都だったからである。
668年、筑紫の使節団は帰国し、中大兄皇子は天智天皇として即位したが、その翌年には筑紫都督府が置かれ、同じ敗戦国の百済に置かれた熊津都督府と同様に唐の統治制度として機能し、倭国は独立国としての権限を喪失した。
旧唐書には倭国と日本国が分けて記載され、「日本は旧小国、倭国の地を併せたり」とある。
三国史記の新羅本紀には「670年、倭国が国号を日本と改めた」、新唐書にも670年に「日本と號す」とあるが、国内にはその記録がない。
671年に天智天皇が死亡、翌年にはその王子である大友皇子を殺した大海人皇子(天武天皇)が実権を握った(壬申の乱)。
天武天皇は対外的な国史としての日本書紀(漢文)を編纂させ、歴史上の天皇への漢風諡号の制定などを行った。
日本書紀の最大のトリックは、神武東征より後の筑紫倭国の歴史を抹消することであった。
日本書紀の編纂と並行して禁書令が出され、8世紀初頭に記紀以外の多くの古代の記録が失われた。
倭国の政治および文化を継承するために、筑紫から多くの文物、人物、建物、地名が平城京に移動された。
筑紫が679年に水縄断層系によるM7.1の筑紫大地震、畿内が684年に南海トラフ地震と推定されているM8.4の白鳳大地震により被災している。
筑紫は震災からの復興もままならなず没落したと考えられる。
701年の大宝律令で行政単位が評から国・郡に改称され、九州から関東までの中央集権国家としての畿内政権が誕生する。
この大倭の表記が大和とあらためられ、以前から筑紫倭国に対して近畿を示すために用いていた日本国が列島全体の統一王朝の国号となり、ヤマトは畿内の地名に変化した。
こうして筑紫倭国は滅亡し、その権益は唐に朝貢(遣唐使)を再開する畿内大和政権が継承した。 ヤマトとはそもそも日の下(もと)という意味らしいから
日本がその意味に倭よりもふさわしいだろう
ただ、それは表記上の話であってどちらもヤマトと自国を呼んでいたのには
変わりは無い
むしろ、これをニッポンと呼んでいる現代こそが問題、そこには何の意味もない ヤマト言葉の意味がわからないと
「ヤマト」の意味は永久に謎となり
「日本(ヤマト)」の由来はそれが正式に発布された年で終わりですね >>405
和銅5年正月28日と書いてる。
>>406
>古事記の出来に満足できなくて日本書紀を書いたんだよ。だから正史は日本書紀。
根拠があっての発言?
>>407
>それより前に書き始めていたからだよ。
完成は和銅5年。修正する暇はある。
>>408 >>409
日本という名前は670から672の間に近江朝作られた。>>132参照のこと
そもそも、歴史を個人には頼まない。序文は書紀より余程文芸に秀でている。
陛下に頼まれたいきさつや、超人的な人物が吐く言葉を記したなどと、文学的すぎ。 なんで古事記を偽書扱いしたいの?
都合が悪いことが書いてあるの? 古事記は大和言葉の発音と当て字のオンパレード
日本書紀はほとんど同じ内容で、漢文で書かれている
前者は国内向け、後者は対外向けじゃなかったのか 411に尋ねる。
扶余勇はどうなった。封禅の儀にいったのは誰。
>>132を論破してから、発言してほしい。蒙昧とはいわないから・・・。 >>417
偽書扱いではなく、真贋結果が正しいかどうかを疑っているだけ。
証明されれば、納得する。ここでの議論は証明されたとは言えないようだ。
偽書扱いしたいからではない。自分の意思で歴史を歪めようなどという考えはない。 むしろ、日本書紀が隠したかった歴史の真実の短編が古事記に残されているんじゃないかな。 雲=スサノオ
日=アマテラス
7300年前の鬼界カルデラ大噴火で日本列島が火山雲で何か月も覆われた事件
天の岩戸(火山雲)に隠れた太陽(アマテラス)
太陽が無いとまじでヤベェってことで太陽信仰が成立 イザナギの鼻からスサノオが生まれるのは、火山を鼻にあてているため。 https://ja.wikipedia.org/wiki/鬼界アカホヤ火山灰
7300年前の鬼界カルデラ大噴火は宮城以南まで覆った。
青森の三内丸山遺跡が縄文前期から中期(6000年前〜4000年前)に発展しているのはそのため。
東北北部に避難した者もいれば、海外に避難したものもいる。
火山雲(スサノオ)により空いた西日本に起こったのが出雲。
東北北部に逃げた集団が南下して東日本から西日本の出雲に国譲りを迫った。
そこはアマテラスが治める地ぞ。
元々治めていた集団だからそう迫った。 東北北部までではなく、万全を期して北海道まで逃げたのが、元々治めていた皇統の先祖。
高天原は北海道。 なぜヤマトが太陽信仰の日本なのかと言うと
ヤマトの語源は
リグ・ヴェーダにおける太陽神ヴィヴァスヴァットの子ヤマにある
ヤマは後の閻魔大王
仏教以前に伝来していたヒンドゥー文化により、太陽信仰をしている太陽神の大王を戴く自らの集団をヤマト(ヤマの人)と言っていた >>416と>>420は同一人物か?
>>132に書かれていることは電波説で問題外 電波説の意味を知らない。
132を論破してほしい。
弱点を突くだけでもいい。 >>415
ヤマト。
概ね、国都の意味。
また、後々のナラも国都の意味(言語のルーツは朝鮮半島)。
葛城(大和)に移住した出雲の王族(王族(登美家、高賀茂家)を神(カモ)族とよび、鴨の文字が充てられ鴨族と呼ばれた(出自の異なる二家がひとからげにされたためルーツの出雲の神話?がぐちゃぐちゃに))
そこに丹波勢力が加わって大倭国(葛城丹波連合王国)が成立。
初代大王に丹波勢の天村雲命が即位(神武天皇の1人目のモデル)。その大后には葛城の登美家(出雲の東王家、富家の分家。いわゆる事代主家)から三輪山の初代祭主で天日方奇日方(葛城の登美家の初代。父親は八重波津身命。母親は摂津三島の生玉依姫)
の妹君の媛タタラ五十鈴姫(初代ヒミコ)が嫁ぐ事で連合王国が成立。
中の国、長の国(那賀、那珂、名賀、長、永、久、寿、中)と呼ばれた(号した)か?(広範囲な各地にナカ、ナガの地名他が残る)
後々、九州から攻め込んだ物部王家(同祖(渡来人)の遠い縁戚)に逐われ北に、東に逃避行。
更に逐われて都を関東、東北と移して、、、
彼らが号したのが日高見国、日之本国、アラハバキ国。
大和朝廷側は彼らを蝦夷(エミシ。エゾ、カイ)と呼んで蔑んだ。
彼らを平定(関東〜東北地方)して後、日高見国や日之本国の名称を(カッケーとして)横領して自ら号したらしい。
(蝦夷には三種あり、大和に近い地方は熟蝦夷(大和朝廷に馴染み従順(中部地方〜関東?)。中蝦夷はやや遠く反抗的、ツガルは絶遠の地?云々)) インドの東にnagaland州があるが、ナガ族が多数を占める。
ナガ族はミャンマーにもいる。ナガともナカとも言うらしい。タイの原住民より古く、
その源流は北モンゴル域か東南アジアか、南西中国かも わかっていない。
nagalandの古い呼び名はNaga語でナガンチとかナカンチという。(Wiki)
そこの人が倭国に移り住んでナカ、ナガといわれてるんじゃないかと考えやすいが、
別のところ(ムー大陸?)からそれぞれに渡っていったと考えている人もいる。
有史以前は近隣諸国だけを考えていては・・・。遺伝子を調査することです。 日本人には朝鮮系でもツングース系でもないと思われる人がいるが、
GoogleのNagaland indiaの部族写真を眺めると、なるほどと思うような顔が・・・。 秦王国と筑紫国の境界が北九州にあったんだよ
宗像は秦王国、筑紫国は博多湾っていう住み分けがあった 秦王国は新羅の渡来人中心の国で
アメノヒボコが始祖で蘇我氏がその筆頭
アメノヒボコ(天日矛)→アマタリシホコ(天足矛)
新羅系の蘇我氏を百済系の天智・鎌足が滅ぼして
旧秦王国を天智が占拠
それが近江王朝だよね >>441
筑紫国は博多湾までで、今の北九州市のあたりは含まないってことだな
北九州市〜山口〜出雲〜北部近畿の広い地域が秦王国で
そこがまさに天智配下の百済将軍が朝鮮式山城を築いた領域とも一致する >>440
仲哀の頃、伊都の主が天の日矛の末裔を名乗っているから、秦王国は違うだろうね。
蘇我氏の祖は武内宿禰だが、その仲哀を殺して伊都を服属させていたから、もっと事情は複雑だろう。 >>442
せいぜい山口県の一部までじゃないかな。
それが記紀の豊国だから。
筑紫が小倉付近まで進出した結果、豊国は大分まで後退するけれど、本州に進出した形跡はない。
九州から畿内は遥か遠いよ。 >>443
伊都の主は山口のイツツヒコの系統だろう
糸島を伊都と呼ぶのは中国側からの呼称で
日本で伊都といえば山口のこと
イツツヒコもそうだし伊都のオハバリ(出雲国譲りの将軍の父の名)もそう >>446
いや筑紫の伊都県主だぞ
仲哀の部分良く読め >北九州市〜山口〜出雲〜北部近畿の広い地域が秦王国で
>そこがまさに天智配下の百済将軍が朝鮮式山城を築いた領域とも一致する
大宰府の大野城キイ城は含まれていないが。 まぁ新羅王家の祖は神武天皇の兄なんですけどね、初見さん >>448
大城山の大野城はまさに
筑紫国=唐に占領された唐の属国
を監視・偵察するための場所だよ
白村江で敗戦・占領されたのは筑紫・大和連合であって秦王国は敗戦国ではない その「倭国内にあって敗戦国ではない新羅系の秦王国」を滅ぼし占領したのが百済系の天智・鎌足
複雑な構図だが、天智は「我々は倭ではなく日本であって、白村江で敗戦した国とは違う国だ(だから唐や新羅とは対等だ)」と言い張ったんだろう 百済系の鎌足の子孫である藤原氏が編纂したのが日本書紀だから
新羅系の秦王国の事項は徹底的に無視され、その筆頭である蘇我氏も徹底的に功績を無視され「悪者」「敗者」として書かれてる なになに、秦王国を通り越して、筑紫を占領?
筑紫より東はみな秦王国に就いているのに、筑紫が占領された?
>複雑な構図だが、天智は「我々は倭ではなく日本であって、白村江で敗戦した国とは
違う国だ(だから唐や新羅とは対等だ)」と言い張ったんだろう
やっぱり、「違う国」が出てこざるを得ない。そんな甘いものではない。 >>450
>白村江で敗戦・占領されたのは筑紫・大和連合であって秦王国は敗戦国ではない
そんな屁理屈が唐に通用するはずがない。
全て倭と見なされる。 >>451
>その「倭国内にあって敗戦国ではない新羅系の秦王国」を滅ぼし占領したのが百済系の天智・鎌足
天智なんて、完全に唐の傀儡だろう。
白村江のときの工作を認められて、占領下の倭国の代表を任されたのだろう。 >白村江のときの工作を認められて、占領下の倭国の代表を任されたのだろう。
天智は白村江のときどんな工作をしたのか、教えてほしい。出典とともに。 期待しても何も出てこないよ
個人の妄想が土台の論だからね 日本書紀において、中大兄が援軍を送るのを渋ったと読める記事があるという話だな。
どこの部分かは知らん。 中大兄は扶余豊璋を百済王にして送り出している。いいかげんな! 九州に秦王国があって筑紫倭国連合が住み分けていたとか、
秦王国が北九州から山口どうたら説は消え去ったと考える。
以降、発言する場合は、根拠を示してもらいたい。 このスレ、日鮮一体工作が酷いな
そんなにもう一回併合したいのか?
大日本帝国成立時の工作の延長でしかない UMA UFO
本当は(UMA)ウマヤド、カミなどの話だという説。
当時の人々?では、見たことも、会ったこともない存在。 やっとこのスレの主張を認めたな。よろしい。
政治的利用には感知しない。 うーま、UFOなど、
メディアの普及した近現代では・・・みたいな話だと思う
当時は、見たこともなかった? むかーし筧というシノビがいたでしょ、
役者もいるけど
『旧筧家宿店』
ニンジャのほうに関係する家かもしれないよ、
旧会津街道と旧米沢街道にあったと書いてあるし、あの忍者は、どの辺りの出身? 真田十勇士にいなかった?
筧という忍者、どの辺りの人物? >>470
天智紀にそう書いてある。斉明紀にもあるが、どうしよう。 日本と朝鮮を一体化しようとしている大日本帝国主義者の捏造工作スレッドとして報告した 扶余勇≠善光なら、扶余勇は誰?
英語版Wikipediaは義慈王の項で扶余勇≠善光。
日本語版Wikipediaの「勇(百済王善光)」は、それについている注釈が否定。
扶余勇は旧唐書に名を残す善光より偉大な人物。 扶余勇=善光で進めてきた人たちは、扶余勇≠善光となったいま、扶余勇が余るがのう。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
OEM61 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています