皇位継承問題に関して [無断転載禁止]©2ch.net
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今日、テレ朝の番組で竹田恒泰と小林よしのりが討論していたんだが↓、
https://youtu.be/kQULlUVeNJ8
小林よしのりが天皇の男系による世襲システムを「シナの儒教の影響」とかいって批判していた
さらに卑弥呼は女だとか、推古天皇が最古の天皇だとかそれらしい材料を集めて、
女系天皇容認論を展開していたんだが(司会の田原総一朗は皇祖神の天照大御神は女だとかいいだしている)
こういった批判とか天皇論は全部間違いだと思う
これ書くと保守派は起こるかもしれないが、
やっぱりそろそろ天皇への騎馬民族の影響を真剣に論じるべきだと思う
天皇は明らかに騎馬民族の影響がある
これは疑いようがない事実だと思う
だってこれほど似ている君主は他にいないわけだから なぜ天皇の皇位継承権が皇祖神の男系の子孫に限られるのか
小林が指摘するように中国の儒教の影響なのか?
そんなわけはない
儒教の本家本元の中国の皇帝に(騎馬民族による征服王朝を除く)そんな世襲システムはないし、
それを尊重する伝統もない
ところが北方の騎馬民族においては天皇のような君主は普遍的に見られ、
またそれを支える伝統もある
なぜ騎馬民族は天皇のような君主をつくり、それをありがたがったのか
それは騎馬民族の社会が平等社会で実力主義が横行し、
無統制に陥りやすかったからに他ならない
これは騎馬民族の知恵といっていいと思う
騎馬民族は己の実力主義が暴走するのを防ぐために天皇のような君主をつくりあげた
こういう騎馬民族を利用した女系天皇論者への反論を
保守派はやっていくべきではないのか? >>3
まずチンギス統原理について
https://ja.wikipedia.org/wiki/チンギス統原理
「チンギス統原理(チンギスとうげんり、Chingisid principle)とは、
主に14世紀以降の中央ユーラシアのモンゴル・テュルク系遊牧民の社会において
広くみられた王権の正統性に関する思想で、民衆の支配者たるカアン(ハーン)の地位は、
ボルジギン氏であるチンギス・カンとその男系子孫であるアルタン・ウルク(黄金の氏族の意、
モンゴル語: Алтан ураг, Altan urag)によってのみ継承されるべきとする血統原理のことである。
そもそも中央ユーラシアの遊牧国家では、同一の男系に属する氏族のみしか
君主になることができないとする血統原理を有することが古代の匈奴の頃から一般的であって、
チンギス・カンの建てたモンゴル帝国もその例外ではなかった。
ところが、モンゴル帝国が元、チャガタイ・ハン国、ジョチ・ウルス、イルハン朝など、
いくつかの地域的なまとまりにゆるやかに解体・再編し、さらにそれぞれの地域で
チンギス・カンの血を引かない有力者が実力を持つようになった14世紀後半以降に至っても、
モンゴル帝国の支配した地域では、チンギス・カンの血を引くものでなければ
カアン(ハーン)になることはできない、という観念が長く残ることになった。」 そのボルジギン氏について
https://ja.wikipedia.org/wiki/ボルジギン氏
「ボルジギン氏の始祖説話は、チンギス・カンの一代記である『元朝秘史』の
冒頭に掲げられたチンギスの系譜伝承に詳しい。
これによれば、その根源は天の命令を受けて生まれ、大湖(バイカル湖)を渡って
オノン川上流のブルカン岳にやってきた「ボルテ・チノ」(「蒼き狼、すなわち灰色斑模様の狼」の意)と
その妻なる「コアイ・マラル」(「青白き鹿」の意)であった。
そしてボルテ・チノの11代後の子孫ドブン・メルゲンは早くに亡くなるが、
その未亡人アラン・ゴアは天から届いた光に感じて、夫を持たないまま3人の息子を儲けた。
チンギス・カンの所属するボルジギン氏の祖となるボドンチャルはその末子である、という。
この説話は、ボルジギン氏は天の子孫であって、ボルテ・チノを始祖とする他のモンゴル部族とは
やや出自が異なり、高貴な家柄であることを語ろうとするものと解される。」 ボルジギン氏の伝承はスキタイの影響と思われる
スキタイの建国神話
「荒漠無人の境であったスキティアの地にはじめて生をうけたのは、タルギタオスという人物であったが、
彼の両親は天の最高神(パパイオス)とドニエプル河(の河神)の娘であったという。
彼には三人の男の子があり、リポクサイス、アルポクサイス、コラクサイスといったが、
彼らの治世に、天から黄金づくりの鋤、軛、斧および椀がスキティアに落下してきたので、
長子が最初にこれを見て手にとろうとして近よったが、彼が近づくや、それらの黄金製品が燃えだした。
そこで長子が去って次子が歩みよったところ、またもやおなじことがくりかえされ、
黄金は火を発して彼らをしりぞけたのである。ところが、三番目の末子が近づいたところ、
火は消え、彼はそれらを自分の住居へ運びこみ、長年の兄たちもそれがために納得して、
全王国を末弟に引渡したという。
さて、スキタイ王国の、アウカタイとよばれる部族はリポクサイスの子孫であり、
カティアロイおよびトラスピエスといわれるものは、アルポクサイスから出自した部族であり、
彼らの王族であってパララタイと称される部族は、末子コラクサイスの後裔である、
そうして全体は王の名によってスコロトイという総称をもっているが、
ギリシア人はこれをスキタイと呼ぶ、というのである。」 このようなスキタイの伝承は、その有力な三部族が王族のそれと同源に出たという血縁意識をもっていたこと、
その共同の遠祖として、天の最高神と河神の娘から生まれた神話的人物をもっていたこと、
スキタイ王国の建国者は、天神を父系の祖にもったその子孫、日本流に言えば天孫で、
しかも天から王権を親授されたものであるという観念があったこと、さらに、スキタイのあいだでは
末子相続が行われていたこと、などを示唆している
このようなスキタイ民族の遠祖や建国者の系譜、王となる者の資格についての伝承や、
スキタイの社会的慣習についての所伝にまったく共通した、あるいはすこぶる類似したものは、
中央アジアや東アジアの騎馬民族のあいだでも、かなり普遍的に見いだされる
モンゴル人の蒼き狼(男)と青白き鹿(女)の伝承はこれに草原の民、
あるいはゲルマンまで繋がるユーラシア北方の狼神話が混ざったものだろう さらに江上波夫の『騎馬民族国家』から匈奴の単于について
「まず、政治・軍事的統制、すなわち支配関係の頂点として単于があったが、
単于は天(天神)によってその資格があたえられた特別な人格、
いわば神格の持ち主として、他の人間と区別される偉大な存在として認識された。
そのことは、単于の称号によくあらわれている、単于の完称は「撐犁孤塗単于」といい、
「天の子の大いなるもの」の意味で、冒頓が漢の文帝に送った書翰には、
自分のことを「天の立つるところの匈奴大単于」とか、「天地生むところ、日月おくところの匈奴大単于」
とか称している。
要するに、匈奴の首長たる単于は、「天地生むところ」、「天の子」、「天の立つるところ」と自任し、
人々もそう信じこまされていたのにちがいなく、このような匈奴の国家首長観は、
彼らに固有な、シャマニズム的観念に根ざしたものであろうが、これが統制強化という。
政治的要請に即応したものであったことは疑いない。騎馬民族のような実力主義のところでは、
なにか特別な条件をつけなければ、多くの実力者が出て、首長権を争うことになり、
無統制におちいりやすい。それで国家の首長は、「神格」あるものに限定するという条件を、
まずつけたわけである。
そうしてさらに、その「神格」ある首長たる単于の位は、冒頓の男系の子孫にのみ継承される、
すなわち、冒頓の出身氏族たる攣鞮氏のものに限定されるという、血統上の条件をつけて、
単于適格者の範囲をいっそうせばめるとともに、攣鞮氏の位置を、他の氏族から卓越させるうえに役立てた。
これも単于の支配権、統制力の強化に貢献したことはいうまでもない。しかし単于の支配権、
統制力の基盤としては、攣鞮一氏族だけでは不十分として呼衍、須卜、蘭、丘林などという、
特定の異姓氏族を単于の姻族として、その基盤を分担させた。
すなわち単于の后妃である閼氏は、原則的にはそれらのいわゆる貴種・名族から出たが、
そのことは単于の氏族たる攣鞮氏と、その姻族たる異姓氏族とを、血縁関係で結合したばかりでなく、
両者が単于のもとで匈奴国家の支配関係に合作・協力して、国家の基礎を強固にさせるように役立てた。」 単于の称号にも用いられるテングリ
https://ja.wikipedia.org/wiki/テングリ
「天神(匈奴語: 撐犂(とうり)、突: Orkhon.svg、回語: Täŋri、
現代モンゴル語: Тэнгэрээ(『元朝秘史』の蒙古語: 騰格里、拼音: Ténggélǐ)、
土: Tanrı、チャガタイ語: تنكري、Tangrī)とは、アジア北方の遊牧民族に共通な、
「天上世界」もしくは「天上神」、「運命神」、「創造神」を意味する概念。
中国史の史料上は、屡々「天」と訳されている。」 もう一度、江上波夫の著書『騎馬民族国家』から
「遊牧騎馬民族国家では、その国家の君主(王)の継承権が特定の支配・中核氏族である
「王の氏族」の独占とされ、他の氏族がこれを侵犯とすることが、原則的になかったという事情については、
遊牧騎馬民族特有のシャマニズム的神観にもとづいた君主制が、その根底にあったように解される。
北アジア・中央アジアの遊牧民族の神観念と、君主制の関係を明快に解明したのは、
護雅氏の近著『遊牧騎馬民族国家―“蒼き狼”の子孫たち』であった。
護氏の見解の大要は、北アジアや中央アジアの遊牧民は、天上界、地上界、地下界に住む
もろもろの神・精霊に、かぎりない尊崇と畏敬とをいだくシャマニズムの信奉者であった。
そうして、そのような民族社会の原始君長は、上天からうけた霊威のゆえに、人間にして神、神にして人間なるものとして、
「聖」的な権威をもち、尊敬をかちえたシャマンにほかならなかった。
しかし社会の発展にともなっておこってきた、はげしい遊牧戦争を戦いぬくために要求されたのは、
「聖」的支配者シャマンとしての天賦であるよりは、むしろ「俗」的権力者、すぐれた遊牧騎馬英雄、
軍司令としての資質であった。
こうして、あらたに成立した遊牧騎馬民族の部族国家の首長、ないし部族連合国家(帝国)の君主としての性格は、
すでにかつてのシャマンのそれではなかった。しかしその遊牧国家の人々は、その首長、君主を含めて、
いぜんとしてシャマニズムの信奉者であったので、その君主は、国家の支配を確実にするためには、
おのれがたんに「俗」的権力者、遊牧騎馬英雄であるにとどまらず、同時にまた「聖」的権威者・シャマン
―人間にして神なるもの―であることを、一般遊牧民のまえに明確にする必要があって、
「俗」に死んで「聖」に復活する特殊な即位の儀礼をおこない、上天の霊威をわが身にうけたのである。
こうして、単于やカガンになったものは、もはやたんなる人間ではなくて、「天の立てたところの」、
「天によって生まれた」「天の子」―日本流にいえば現御神、天皇―であって、
国家最高の権威者―君主たる資格を完全にそなえたものとして、
われひとともに、かたく信じてうたがわなかったのである。 護氏が展開された、北アジア、中央アジアの遊牧民族の神観念と、君主制の関係についての見解は、
おおよそ以上のようなものであるが、私は護氏の見解に全面的に賛成であり、さらに一、二の点を補足すれば、
内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族の君主制の本質がいっそう明瞭になってくると考えている。」 「 その一は、単于やカガンなどの遊牧騎馬民族国家の君主が、即位するためには、まず第一に、
その国家に所属する、氏・部族や部族連合体の首長たちから、彼らの君主として推戴され、
承認をうける必要がある、ということである。この制度はときに、まったく形式化したばあいもあるが、
匈奴の単于時代から連綿として、二千年以上後の徳王の、内蒙古主席就任のときまでつづいた。
この点は、君主の位が一定の法律―もちろん慣習法をもふくめて―にしたがって、自動的に決定・継承される
―たとえば男系嫡長子制とか、現代の法治国の各種の王位継承制などのようなものとひじょうに
違ったところである。
このような君主の推戴・承認制は、その源流が原始社会にまでさかのぼるであろうが、
内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族国家で、それが普遍的、かつ原則的におこなわれたのは、
その国家の存続・発展に、決定的な関係をもった、軍事的・外交的活動の最高指導者としての適格性が、
君主の資格として、つねにひじょうに重視されたことによるのである。
したがって、幼年者、病弱者、怯懦者や、氏・部族長間に人望のない者などは、
君主不適格者としてその候補者からのぞかれ、智勇あるもの、才幹あるもの、大人の風格あるもの、
声望あるものなどが候補者にあげられて、君主に推戴・承認されるのを原則とした。
内陸アジアの遊牧騎馬民族国家の君主に「勇猛(バガトル)な」、「賢明(ビルゲ)な」などという
資質にもとづく名を負ったものの少なくないのは、そこに由来する。
そうして、このような軍事・外交の最高指導者適格者を、氏・部族の長たちが合議して決定し、
君主に推戴・承認するという制度は、遊牧騎馬民族の動的社会にふかく根ざした現実主義、
合理主義、一種の民主主義の、おのずからな結実であったろう。しかしこの制度は、
その現実主義的、合理主義的、一種の民主主義的制度のゆえに、実際問題となると、
会議に参加した氏・部族長たちの、それぞれの立場による意見の相違、利害の不一致などがありえて、
その制度の円滑な運営は容易なことではなかったにちがいない。 とくに、君主候補者の選定範囲が無制限であるばあいには、混乱はまさに必至といってよかったろう。
そこで第二に、遊牧騎馬民族国家の君主候補者は、最初の君主の出自した支配・中核氏族員に
限定されるという原則ができ、さらにじっさいには、君主の男系近親者にその選定範囲が狭められる、
という現象がみられた。いわゆる血統による君主位継承制の成立である。そうして、こうなってくると、
実際問題として次の君主候補者の選定に、現君主や后妃などの意向や遺言などが大きな影響力をもってくるのは、
きわめて自然なりゆきであろう。
ここに、第一の氏・部族長らによる君主推戴・承認の制度と、第二の、血統による君主位継承の制度とが、
両者のあいだに原則的な矛盾をはらみつつ併存的におこなわれることになり、このきわめてすっきりしない、
問題をおこしがちな君主位継承制が、内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族国家では、匈奴の時代から、
チンギス・ハーン蒙古の時代以後まで、ほとんど改変されることなくつづいたのである。
そうしてそれは、しばしば王族その他の、支配氏族間の内訌の原因となり、また国家の分裂、
衰亡の誘因ともなった。
ただ、このような君主位継承問題に端を発した混乱を、比較的強力に制御する歯どめの役をなしたのが、
さきにのべた第二の、“いったん即位の儀礼をおこなって君主になったものは、人にして神、
神にして人で、もはや他の追随、競争を許さない絶対的権威の持主である”という、内陸ユーラシアの
遊牧騎馬民族国家に特徴的な君主のありかたであった。
また、そのような、君主のありかたと、第二の、血統による君主位継承制が結びついて生じたのが、
「天立つるところ」、「天生むところの」、人にして神、神にして人たる天子には、
その男系の子孫以外のものはなりえないという観念である。そこから一つの遊牧騎馬民族国家では、
王朝は一系であるという通則が生じた。
内陸ユーラシアにはずいぶん多くの国家が興亡したが、その一つ一つについてみると、
すでにみた匈奴、突厥はじめ、拓跋(鮮卑)、契丹、蒙古などの多くの王朝は―ウイグルなどの
特殊な例外もないではないが―一系で、国家の存続と王朝の存続とが終始しており、
中国におけるような禅譲方伐による王朝の交替はない。」 この北方騎馬民族が中原へ進出して征服王朝を築き、北魏、唐などの帝国をつくったのが鮮卑で、
彼らは北方騎馬民族の例にもれず、外来の仏教をとりこんで、仏教をたくみに政治利用した
まず江上波夫による鮮卑の仏教観
「 当時拓跋魏でおこなわれた仏教が、どのような性格のものであったかは、
当時の人々が仏像や仏寺を造営したさいの願文と、当時もっともさかんに信仰された、
北涼の曇無讖訳の、「金光明経」の、四天王品第六などを見ると、ひじょうによくわかる。
すなわち、帝室の祥福を願い、国家の安泰を祈る、国家意識にみちあふれたもので、
当時の拓跋魏仏教が、何よりも国家鎮護の仏教であったことが理解されるのである。
そうして、このような仏教の隆盛が、民族の差異を超えて、一つの国家意識に国民を統一するうえに、
ひじょうに大きな役割をもったであろうことも、推測にかたくない。」
つまり彼らは仏教を利用して、当時中原に多数流入していた様々な北方民族や中国人の間を密接にし、
仏教を保護する皇帝を敬えと、皇帝の下に国民の統一を図った
すなわち北方民族系、中国系を問わず、王侯貴族、庶民奴隷を問わず、
人にして神、神にして人の中国を治める皇帝にして霊界至上の仏ともなった君主の下に、
功徳を積んで、現在・未来の二世にわたってその応報を祈願する祭政一致の国家体制をつくりあげた
このような騎馬民族の君主のありようは日本の天皇にすこぶる類似しているばかりでなく、
これはどうしても日本の天皇そのものが騎馬民族であったとしなければ、
理解のしようがないのではないかということを示しているように思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています