司馬遼太郎 Part8 [無断転載禁止]©2ch.net
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司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきつつ読み進めてまいります。
Part8からは「ひとびとの跫音」が始まります。
前スレ
司馬遼太郎 Part7 [無断転載禁止]©2ch.net
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/ 【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
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■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1365866256/
★司馬遼太郎の正体は大嘘つきの印税詐欺師★
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1366377163/
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1331922006/ 『ひとびとの跫音』は、月刊誌『中央公論』の昭和54年8月号から昭和56年2月号に連載された。
正岡子規の妹・律の養子で、阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員であった正岡忠三郎を主人公として、忠三郎の友人であったぬやま・ひろし(西沢隆二)らとの交友を描く。 書店に並んでいる『ひとびとの跫音』や『胡蝶の夢』を見て、司馬遼太郎の本を買わなくなった時期がありました。 おまいら、『ひとびとの跫音』を始めたことを、後悔していないか? 面白い歴史小説が出版されず、「窓ぎわのトットちゃん」がベストセラーになった。
あの暗黒時代を、みんなで懐かしもうよ。 「オレたちひょうきん族」が始まった時期だな。アホラシクテ観ていられなかった。
流行語が「軽薄短小」。バブルがはじまり、馬鹿が天狗になっていた暗黒時代だな。 しかし、作品を読まなきゃ、何も書けないぞ。
早く読めよ。 若い人でも、親しい人の死に接することはある。
しかし、若いだけに、〈死〉を自分自身の〈死〉と重ね合わせて考えることは難しいだろうな。
想像力が豊かな若い人であれば、それも可能だという意見もあるだろうが、そういう想像力は〈ホンモノ〉じゃない。
世の中には、年齢を重ねないと自分のこととして受け入れることのできない事もある。
その意味では、『ひとびとの跫音』は、若い人向けの作品ではないな。 第1章 電車
この手紙に、子規は「戯作二御坐候」として、出生を祝う句を書いている。
雀の子忠三郎も二代哉
というものである。 ▽司馬遼太郎
▽タクシー運転手
司馬宅付近に営業所がある。 ▽ミナミ
島之内・道頓堀・難波・千日前といった地域に広がる繁華街の総称で、これらの地域が大阪市の中心業務地区である船場の南側に位置することや、大半がかつて存在した南区の区域にあたることからミナミと呼ばれている。
http://blog.osakanight.com/img/dotonbori_glico_neon03.jpg おまいも、作品の中の司馬さんと同じで、迷っているなw
田舎者だろうwww ★伊丹
▽正岡忠三郎
正岡子規の従兄弟に当たり、子規の死後、子規の妹・律の養子になり、正岡家を継いだ。
昭和51年9月10日死去−脳出血による7年の闘病生活
享年75。
http://www.japannation.jp/masaoka/shiki/images/index_19.jpg
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/tyusaburo02.jpg ▽正岡あや子
あやは当時京大の心理学の教授であった野上俊夫の長女として明治の末年に京都の下鴨で生まれた。
祖父は佐渡の出身で、一高・東大を首席で卒業した努力家で立派な人物であったが、子供に対してとても厳しいところがあったせいか、
あやは少女の頃から祖父とは性格の違う男に嫁ぎ度いと願っていたらしい。
あやは若い頃は「京の三美人の一人」等と言われて週間朝日の表紙(写真)になったりしたこともあり、男女を問わず友達が多く華やかな存在であった。
※24歳 http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/aya.jpg
彼女は生来丈夫な質だったが、脳溢血で七年も家で寝ていた父の看病が余程応えた様で次第に食が細くなり、父の死の数年後に同じ病気で倒れて死ぬまでの丸三年間に六つの病院を転々とした。 ▽忠三郎さんの高校時代の友人の女房
西沢隆二(ぬやまひろし)の妻だった西沢あさ子(本名・渡辺芳子)のこと。
共産党員の妻なので特高に発覚することを怖れ、匿名で登場している。 ▽大阪カテドラル聖マリア大聖堂
カトリック玉造教会が運営する結婚式・葬儀会場
正岡忠三郎の葬儀は、ここで営まれた。司馬さんは葬儀委員長を務められたのだろう。
その8日後に、忠三郎の友人であるタカジ(西沢隆二)が死んだ。
http://www.tamatsukuri-catholic.com/img/_DSC0536.JPG
http://livedoor.blogimg.jp/taktag55/imgs/e/2/e22f187f-s.jpg ▽細川ガラシャ
大阪カテドラル前にある細川ガラシャ像
http://blog-imgs-92.fc2.com/b/b/a/bbagal/s-P4090162.jpg
大阪カテドラルの敷地付近に、細川越中守忠興の屋敷があったことから、以前は越中町という地名だったようだ。 ▽福田是定(しじょう)
司馬さんの父。司馬は、是定の長男なので定一(ていいち)。
大正後期〜昭和二年、生野区の鶴橋本通りで「福田薬局」(のちにダルマ薬局)を経営されており、司馬さんご自身については、昭和二年四月以前の一時期、この場所で近所の女の子と仲良く遊んでいたという。
西沢隆二死亡の2週間後に死亡。 ★東京
▽昭和2年 - 金融恐慌
1920年に長期的な不況に陥った日本は、1923年、関東大震災によって関東近県の産業が壊滅的な打撃を受け、いっそう日本経済は悪化していった。
政府は震災による不良手形(いわゆる震災手形)を処理しようとして、1927年に第一次若槻礼次郎内閣が、震災手形処理二法案を議会に提出した。
その審議の場で、野次に興奮した片岡直温大蔵大臣がうっかり、「ただいま渡辺銀行が破綻しました」と言ってしまったのである(実際は渡辺銀行は破綻していなかった)。
このため、銀行の経営状態に不安を覚えた国民は、貯金の引き出しに殺到し、取り付け騒ぎによって、1月から5月の間に37の銀行が休業に追い込まれ、そのうち28行が倒産した。
また、大手商社「鈴木商店」が倒産。鈴木商店に莫大な貸し付けをしていた台湾銀行が休業に追い込まれた。
こうして金融不安が日本全体に拡大していった。
若槻内閣に代わった田中義一内閣が支払猶予令(モラトリアム)を発して、この恐慌を沈静化させた。
結果として、国民の貯金は三井・三菱・住友などの財閥系大銀行に集中し、財閥を強大化させる結果となった。 ▽忠三郎の親戚の婦人
「阪急」が「半給」に聞こえる耳を持つ。 ▽不羈の人
「羈」はしばりつなぐ意。自由奔放で束縛しえないこと。 ★阪急本社
▽広報課のKさん
若い人。忠三郎さんの社員調書を見せてくれた。 ▽東京府立第一中学校
現在の東京都立日比谷高等学校。
1878年に現在の文京区本郷にて東京府第一中学(府立一中)として開校した。
現在の「日比谷」という名称は、戦後に校名が変更される際、1899年〜1929年の期間本校地であった旧麹町区西日比谷1番地(現・千代田区霞が関一丁目1番)に因んで命名されたものである。
http://blog-imgs-61.fc2.com/s/4/2/s42hibiya/20130805161814b1e.jpg ▽見習員
「株式会社の社員とは株主であって、一般に社員と呼ばれているのは、正しくは従業員なんですよ」
と正しいことを言うと白い眼で見られてしまうので、みんな正しい知識を有するのに、間違った用法をそのまま使う。
忠三郎さんが「相手の思いこみを修正するのが悪いと思った」のと同じ感覚ですね。
日本の農村が生んだ交際術です。 ▽監査役のMさん
細おもての役者顔。
忠三郎さんに遅れること1年、昭和3年に阪急電鉄に入社した。 ▽貯蓄銀行
東京渡辺銀行の姉妹行の「あかぢ貯蓄銀行」のこと。
東京渡辺銀行と同時に閉鎖し、経営破綻した。 ▽台湾銀行
第一次世界大戦中の戦争景気で投機的な取引を行い莫大な利益を上げた鈴木商店に資金を融通し、この頃から、台湾内の取引額より、日本での取引額が上回った。
1920年(大正9年)に始まった反動不況で鈴木商店が危機に陥ると、震災手形で一時凌ぐが、膨大な不良債権を抱え、1927年の昭和金融恐慌で休業に陥る。モラトリアムの実施と政府の支援措置によって再建した。
http://www.tabitabi-taipei.com/more/2005/1020/01.jpg ▽三十四銀行
戦前に大阪市の高麗橋に本店を置いていた銀行。三和銀行の母体の一つになった。現在の三菱東京UFJ銀行の前身の一つ。
※旧第三十四銀行姫路支店
http://pds.exblog.jp/pds/1/200904/19/79/f0116479_22224891.jpg ▽取付けさわぎ
https://www.komazawa-u.ac.jp/~kobamasa/lecture/japaneco/banking_finance/bank_runs/FinancialCrisis1927_foto2.jpg ▽浜寺海水浴場〔堺〕
浜寺海水浴場は大阪毎日新聞社と南海鉄道が開設したもので、阪堺線の駅前と言うこともあり、旧堺港南側の大浜公園および大浜海水浴場と並んで一大レジャースポットであった。
http://k-conny.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_a19/k-conny/nankai029.jpg ▽近鉄南大阪線
大阪市阿倍野区の大阪阿部野橋駅から奈良県橿原市の橿原神宮前駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。
※開業当初の阿倍野橋駅
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/photo/satake2.jpg ▽小林一三〈いちぞう〉
明治6年1月3日 - 昭和32年
日本の実業家、政治家。
阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループの創業者。
政界では、第2次近衛内閣の商工大臣を務めて革新官僚の商工次官・岸信介と対立、1941年(昭和16年)から貴族院勅選議員、幣原内閣で国務大臣、初代戦災復興院総裁を歴任したが、戦後、公職追放となった。
小林は「乗客は電車が創造する」との言葉を遺しており、沿線の地域開発により人口が増加し、その住民の需要を満たすことに商機を見出していた。
彼が起こした事業は多岐に及ぶがいずれもこの動線を捉えたものであり、これは日本の私鉄経営モデルの祖として後に他が倣うところとなった。
http://www.hankyu-bunka.or.jp/wp-content/themes/foundation/images/about/itsuo/img001.jpg ▽正岡常尚
子規の父……子規は、常尚(35歳)・八重(23歳)の長男
父親の正岡常尚は松山藩の下級武士で御馬廻りをつとめていたが、明治5年子規が満四歳のときに死んだ。
子規はこの父親については殆ど記憶らしいものを持っていなかった。
後に「筆まかせ」の中で回想している文章を読むと、大酒が災いして命を縮めたと評している通り、余り愛着を抱いていなかったようである。 ▽正岡八重
子規は母親の手で育てられた。母親の八重は松山藩の儒者大原観山の長女で、その係累には学問好きの人々が多かった。
子規はこうした人たちに囲まれながら、祖父観山の薫陶を受けて、幼少期からすぐれた才能を育んでいったと思われる。
http://shisly.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/12/10/photo_2.gif ▽加藤恒忠〈拓川〉
安政6年 - 大正12年
旧姓は大原。号は拓川。
衆議院議員、貴族院勅選議員、松山市長、錦鶏間祗候。
三男・忠三郎は阪急電鉄の車掌、阪急百貨店の職員で、俳人正岡子規の妹リツの養子となり正岡家の祭祀を嗣いだ。
https://www.matsuyama-u.ac.jp/wp-content/uploads/2017/01/1331.jpg ▽加藤ひさ
忠三郎の実母
ひさには男勝りというか、こわいもの知らずのところがあって、忠三郎が阪急の新入社員の頃に天理教のはっぴを来て社長室に乗り込んでいき、小林一三氏〔>>54〕を小僧っ子扱いにして大いに驚かしたというエピソードがある。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/hisa011.jpg 子規のくだりは、子規の没年、忠三郎の生年である明治35年の話である。
高浜虚子による子規宅の印象を書き忘れた。
病床に居士を見舞ふた時の感じをいふと、暗く鬱陶しかった。
ぢろりと人の顔を見たばかり黙ってものをいはない。
新着があってもレスしない。 阪急の監査役のMさんと司馬さんによる昔の電車の話が盛り上がりすぎて、焦点がぼけている第一章でした。 >>40
>「あかぢ貯蓄銀行」
社名ですでに破綻している。 監査役のMさんと司馬さんの会話のなかで、
「そのころの阪急というのはわざわざ大学を出て入るような会社だったのだろうか」
に続く部分の意味がよくわかりませんでした。 「ひとびとの跫音」には、ところどころに大正時代の話が出てくる。
珍しいので、好きだ。 第2章 律のこと
松山での静養後、ほどなく根岸にもどった子規は、律と母親の八重に看病されつつ、物を考え、書き、あるいは来客に対して肉声で自分の思想を伝えるという暮らしに入るのである。このことが七年つづく。
三十六歳で死んだ子規の生涯にとってこの期間がなければ後世への影響と評価がちがったものになったろうし、それ以上に、影響力としての子規など存在しえたかどうか。
そういう子規の活動という場のいっさいを律がととのえ、ささえた。
第一、律という看病者がいなければ、子規のいのちが七年ももったかどうかわからない。 名声を陰で支えた人もいる。
兄に名声を得させるために陰で支えたのではないところが、律の偉いところ。 ★リツ
▽カナ表記
Q:70歳以降の女性に多く見られるカタカナの名前というのは当時流行っていたのですか?
A:明治初期の戸籍作成の時、「字を書ける人」が少ない地方では、初等教育を終えた子供を臨時で雇って作成補助に充てたり、時間が無いということで、徴兵に関係ない女性の名前は「漢字を聞いたり考えさせずにカタカナだけで表記」したりしました。
いちいち漢字を聞いたり決めさせていては、短期間で大量の戸籍を作るのは不可能だったで、漢字を記入したものを持参しなかったり決めてきてなかったものはカタカナ表記で記入されたりしました。 ★キタ新地
▽昭和43年秋 - 蘆月
司馬遼太郎先生がこよなく愛した北新地の名店「紙なべ蘆月」さんです。
https://img.retty.me/img_repo/l/01/2199887.jpg ▽気甲斐性〈きがいしょ〉
大阪弁。気がしっかりしている、精神的にしっかりしていること。
「ここの会長はんは身体は弱いけど気がいしょやし大丈夫やろ」 ▽御寮人さん〈ごりょんさん〉
「御寮」は貴人あるいは貴人の子女を敬って言う語であり、名での呼びかけを避け方角や所属で呼びかける婉曲法。
大阪を中心に西日本の店(たな)において、主に「若奥さん」を意味する言葉。
伝統的な商家においては、女性が主人になることは通常あり得ない。
旦那が隠居する、もしくは死期が近づいている時、男子があればそれを後継者に指名するが、女子しかなければ外部か奉公人の中から婿を取って後継者にする。その場合、先代の娘は「前主人の娘」という意味で「御寮人」と呼ばれる。
先代の息子が後継者になる時は、その嫁を「御寮人」と呼ぶ場合もある。
※映画『悪霊島』の巴御寮人
http://kiyosegingateikoku.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_b3e/kiyosegingateikoku/12-866b5.gif
http://kiyosegingateikoku.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_b3e/kiyosegingateikoku/05-71e7d.gif
http://kiyosegingateikoku.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_b3e/kiyosegingateikoku/11-06bb7.gif 司馬遼太郎「法駕籠の御寮人さん」……短篇集『大坂侍』に集録 昭和43年の土居健子さんは、72歳のお婆ちゃんだろう。
ドラマの子役の画像は、まぎらわしいw ▽秋山次郎
秋山好古の次男(58歳)……好古が52歳の時の子
(当時)西宮在住 / 会社役員
※秋山好古が、退役後、学校の校長として単身赴任していた松山で妻と共に撮影された初めての写真
http://blog.sakanouenokumo.jp/wordpress/wp-content/uploads/2011/06/P1040822.jpg ▽秋山全〈やすし〉
秋山真之の四男(54歳)……大阪で鉄鋼関係の自営
父の真之と瓜二つな顔
https://the-liberty.com/itemimg/1084_l.jpg ▽刀自
日本古語では戸主(とぬし)の事をいう。
日本古代において、家(戸口)は女性が主で、男性はその女性のもとを訪れる妻問婚が一般的であった。
転じて、家事一般をとりしきる主婦のことを家刀自とも言った。 ▽つまみ細工
江戸時代から伝わる技法で、布を正方形に小さく切り、つまんで折りたたみ、組み合わせることによって花などの形をつくるものです。
和服に合う髪飾りなどが代表的で、 舞妓さんのかんざしなどに使われている技術です。
http://ko-bo-kazu.ocnk.net/data/ko-bo-kazu/image/20170104_f8d159.JPG ▽麻布高樹町
かつて東京都港区青山にあった町。青山高樹町が正しいのではなかろうか。
ただし、麻布から高樹町までは、すぐ近く。
青山高樹町は、江戸時代の河内丹南藩・高木邸とその他武家地を合併して1873年(明治6年)に成立した。
町の名称は、高木氏の「木」を「樹」に代えたものである。
https://image.homes.jp/data/1610008/sale/image/0000714-6.jpg このあたりは、『子規全集』月報に載せられた土居健子「叔父秋山真之と子規のご家族」から。 ▽松井勲
三重県出身で、東亜同文書院(この国が中国大陸に覇権を唱えていた時代、世界に通用する人材の育成を目指して上海に設立された私学校)に在籍、終戦により帰国後、東大に入学。
講談社では出版部に在籍、司馬遼太郎さんと親交が深く、週刊現代2代目編集長を務めた後、『正岡子規全集』をスタートしたが、志半ばで病に負けてしまった。
※左が松井勲氏
http://cdn.snsimg.carview.co.jp/carlife/storage/1135053/plus/558d279369.jpg?ct=ec39f95cdc16 ▽駒井皓二
「当時、子規全集の編集長をやった松井勲の急逝後、駒井皓二(東京教育大国文科卒)があとをつぎ、駒井は目下蕪村全集を準備中ですが、松井駒井編集室に集められた資料のうち羯南のを貸せ、とおっしゃれば(もしそんなものがあれば)駒井君は尽力してくれるはずです。
駒井は底抜けにいい男です。学者でもあります。母校(になるのかな)のためでもありますから、力を貸してくれると思います」
(週刊朝日 平成11年9月17日号「司馬遼太郎からの手紙『街道を行く』の友人たちへ」より)
※前列左端が駒井皓二氏
http://morimuraseiichi.com/wp-content/uploads/2011/01/1960-70-02-05.jpg ▽健子さんによる正岡八重の印象
「もの静かな優しいおばあさまであったという印象きり持っておりません」 ★正岡律
▽二度の離婚
忠三郎が実母・ひさ〔>>61〕から聞いた話。 最初の夫……いとこにあたる陸軍将校
二人目の夫……松山中学校の地理の教師 処刑された家老は居るが、処刑されてない家老の方が圧倒的大多数
処刑された旗本は居るが、処刑されてない旗本の方が圧倒的大多数
処刑された諸隊の首謀者達は居るが、処刑されてない諸隊の首謀者達の方が圧倒的大多数
そして主体的に動いた反官軍の大名達も誰一人処刑されてない。
司馬アンチの力説する死刑の原則とは一体どこにあるんでしょうかねえ?
司馬アンチさん論点をすり替えずに答えてください 内乱の謀主でも首謀者でも中心人物でもない奴が多く含まれてるな
大石鍬次郎なんて伊東甲子太郎殺害の罪で処刑だろw
さすが大嘘つき 藩主を処刑すると家臣が反発して収拾がつかなくなるから、藩主に責任はない、悪いのは家臣ってことにしたんだろ。
一方、単なる反乱軍の首領である新選組の近藤は普通に処刑されてる。
江藤はどっちの分類だと思う?
司馬のストーリーだと、江藤は自分を藩主並だと思ってたことになる、
痛すぎじゃね? 小栗なんて謀主でもないのに一族郎党処刑されている
忠順以外は一族なだけでもちろん中心人物ではない。てか彼も中心じゃない隠居の身 痛いのはアンチ司馬のバカさ加減
蝦夷共和国政権首脳陣は藩主じゃなくとも全員死刑になっていない。
アンチ司馬の断言できる史実()って嘘捏造曲解だらけだな
総裁 榎本武揚
副総裁 松平太郎
海軍奉行 荒井郁之助
陸軍奉行 大鳥圭介
陸海裁判官 竹中重固、今井信郎
箱館奉行 永井尚志
松前奉行 人見勝太郎
江差奉行 松岡四郎次郎 小杉雅之進
開拓奉行 澤太郎左衛門
会計奉行 榎本道章、川村録四郎
海軍頭 松岡磐吉
海軍頭並 根津勢吉、小笠原賢蔵、古川節蔵、
歩兵頭:本多幸七郎、
歩兵頭並:滝川充太郎、大川正次郎、星恂太郎、
砲兵頭並:関広右衛門、
工兵頭並:小菅辰之助
器械頭並:宮重一之助、渋沢成一郎 >>99
慶応4年1月23日以前の罪科は布告により不問だよ
だから近藤勇の斬奸状でも罪科は
「甲州並びに下総流山にて官軍に手向かひ致し」(抗敵)
「徳川の内命を承り候などと偽り唱え」(虚偽の申立)
しか挙げられてない
大石鍬次郎についても慶応4年布告以前の罪科を理由に
斬首することはあり得ず、同じく官軍への抗敵によるもの >>101
それ「隠居」じゃなくて「土着願い」な
小栗家は上総、下総、最大の所領として下野高橋村など知行地を持っていたから
その知行地に土着する許可を求める願い >>100
どちらにしても「首謀」が死刑になってることに変わりはないわけだが。
大名家に対する配慮により、「主を誤らせたる者」を首謀としたのが明治2年の処分。
そのような配慮が不要なので、普通に「謀主」を死罪としたのが明治の政府転覆事件。
つまり、どっちにしても首謀は死刑。
江藤が死刑になるのは当然。
そもそも国事犯の死刑回避はボアソナードが提議したものなんだから、
死刑にならないと思うほうがおかしい。
江藤が裁判所に抗議したのは、量刑が死刑だからではなく、
本省移送の手続が省略されたため。
こんなスレまで来てほんとにお前はよっぽど悔しかったんだのう… 雲井龍雄事件、外山愛宕事件を知らずに戊辰戦争のイメージだけで語って
あとで「この2事例をどう説明する?」と言われて発狂したのはお前の無知がなせる業
恨むならおのれを恨み、他人を恨むでないw >>98-106
幕末の話だな。『歳月』かな?
『ひとびとの跫音』の>>97の続きは、ここから。 ▽服部嘉陳
正岡子規の明治22年(1889)は、体が思わしくなかった。
「本郷の常盤会寄宿舎楼上にて初烏を聞きぬ。折々は俳句などものせんと試むるものなり。常盤会寄宿舎第二号室は坂の上にありて、家々の梅園を見下ろし、いと好きながめなり」
旧松山藩主久松家が新たに建てた十五室、二階に二室、子規は二階の八畳を占有。写真で見ると二階の部分がちょうど坂の上にあたっている。
梅の香をまとめてをくれ窓の風 5月に初めての喀血があったが気にも留めず、しかし...大喀血。
寄宿舎の初代監督服部嘉陳の帰郷の際に詠んで贈った。子規の号はこのときできた。
ほととぎすともに聞かんと契りけり 血に啼くわかれせんと知らねば
二代目監督が内藤素行(鳴雪)、旧藩きっての学才だが逆に子規に俳句を学び、後援者になり明治俳壇の興隆に力を尽くしてくれた。 ▽服部嘉香(1886−1975)
明治-昭和時代の詩人、国語学者。松山藩士服部嘉陳の子。
明治19年4月4日生まれ。口語自由詩運動をすすめる。「現代詩文」「詩世紀」を主宰。早大教授、のち梅光女学院大教授。
窪田空穂(うつぼ)門下の歌人としても知られる。昭和50年5月10日死去。89歳。
東京出身。早大卒。号は楠山。詩集に「幻影の花びら」、歌集に「夜鹿集」、評論に「口語詩小史」。 ▽大原恒徳
子規の母方の叔父。母八重の弟。
子規の父常尚は、明治五年に四十歳の若さで亡くなったため、叔父の恒徳が残された正岡家の後見人として、経済的援助をした。
子規は単身での東京上京後も、そして母と妹を呼び寄せてからも、終始恒徳に近況報告をしており、『子規全集』に掲載された恒徳宛子規書簡は百通近くと、その数においては虚子宛書簡に次ぐ多さである。
明治二十八年四月、子規が日清戦争の従軍記者としての帰国途中に喀血し、神戸病院に緊急入院した折も、恒徳は早々に松山から駆けつけている。
まさに、子規にとって恒徳は、父親に代わる存在であった。
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/sikigyouga/tenziimg/gyouga04-12.jpg
叔父・加藤拓川(左)、母・八重(中央)、叔父・大原恒徳(右) ▽松山中学校の地理の教師
律の二人目の夫。五尺足らずの平凡な小男。
子規の発病を契機として離婚。 ▽『一年有半』
中江兆民の評論随想集。
1901年刊。喉頭癌で余命1年半と宣告された著者が生前の遺稿としてまとめたもの。
広く政治、経済、社会、文化、芸術にわたって啓蒙的・辛辣な批評の目が配られている。
https://www.kochinews.co.jp/image/article/650x488/47/e86d31f137e82c9f5597c672223e53f6.jpg 中江兆民が「一年有半」という文章の中で余命一年半と宣告されたことのショックを連綿とつづっていることに対して、子規はそれを女々しい理屈だといって批判した。
兆民居士の「一年有半」といふ書物世に出候よし新聞の評にて材料も大方分り申候。
居士は咽喉に穴一つあき候由、われらは腹、背中、臀ともいはず蜂の巣の如く穴あき申候。
一年有半の期限も大概は似より候ことと可申候。
しかしながら居士はまだ美といふ事少しも分らず、それだけわれらに劣り可申候。
理が分ればあきらめつき可申、美が楽み出来分れば可申候。
杏を買ふて来て細君と共に食ふは楽みに相違なけれどもどこかに一点の理がひそみ居候。
焼くが如き昼の暑さ去りて夕顔の花の白きに夕風そよぐ処何の理屈か候べき。 ▽夏目漱石
明治33年(1900)8月26日、33歳の漱石は門弟の寺田寅彦と落ち合って、ともに東京・根岸の子規庵へと向かった。
熊本の第五高等学校の教授職にあった漱石は、文部省の給費留学生として2年間英国に派遣されることが決まっていた。
その準備のため、漱石はひと月ほど前に家財道具一切を処分して妻子ともども熊本を引き払い、鏡子の実家である東京・矢来の中根家に引き移っていた。
一方の寅彦は前年に五高を卒業し、この頃は東京帝国大学で物理学を学んでいた。
熊本で漱石から「課外授業」として俳句を学んでいた寅彦は、漱石の紹介で上京直後に子規を訪ね交流を始めていた。
この日、連れ立っての子規庵訪問は、漱石の別れの挨拶に他ならなかった。 ▽カリエス(骨結核)
脊椎を含む骨組織の結核菌による侵食などを指す医学用語であったが、今日では主として慢性の炎症が原因となって、骨や歯牙などが壊疽に陥った状態をいう。
以前は結核が原因になって脊椎、骨盤、肋骨などに病変の起ることが多かったが、最近はほとんどみられない。
歯のう蝕 (俗にいう虫歯) の場合も,これは歯牙硬組織に生じたカリエスであり,欧米ではデンタル・カリエス dental cariesといわれている。 406日本@名無史さん2017/05/17(水) 12:16:53.35>>408
全員助かったのって、榎本軍くらい?
408日本@名無史さん2017/05/17(水) 17:19:41.64
>>406
函館でも斬られてる隊長はいるけどね
工兵隊長に公選された吉沢勇四郎、石橋三郎とか
丸毛利恒「友成安良之伝」で
「函館矢不来の役に官軍の擒となり斬らる」
と注釈がついてるが、
同じく丸毛「感旧私史」を見てみたら
「工兵頭並吉沢勇四郎は路を失いやむをえず官軍に降りしに、
その将校たるをもって斬首せられたり」と明記されている
吉沢勇四郎は大鳥圭介の盟友的な幹部
3か国語に堪能で築城・工兵の操典も3冊も翻訳した典型的な開明派軍人 ▽『病牀六尺』
『墨汁一滴』に続き、新聞『日本』に連載 (明35.5.5‐9.17) し、死の2日前まで書き続けた随筆集。
不治の病にたおれた「病牀六尺」の世界で、果物や草花の写生を楽しむ一方、シッポク談議、子どもの教育論と話題は多岐にわたる。
https://i.ytimg.com/vi/wye_MB09XoA/hqdefault.jpg ▽黒田如水
黒田如水の死は、1604年ですから、関ヶ原の戦いから4年後のこと。
黒田如水の死因を、梅毒とする説もありますが、確かな資料はないと言えます。
つまり広い意味での病死としか言えないと、今のところ考えています。 ▽陸奥福堂(宗光)
陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議が行われたのは、既に兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。
※陸奥宗光の妻亮子
http://livedoor.blogimg.jp/igarashi_gri/imgs/9/b/9b4cba6d.jpg 病勢が段々進むに従って何とも言はれぬ苦痛を感ずる。
それは一度死んだ人かもしくは死際にある人でなければわからぬ。
しかもこの苦痛は誰も同じことと見えて黒田如水などという豪傑さえも、やはり死ぬる前にはひどく家来を叱りつけたということがある。
その家来を叱ることについて如水自身の言ひわけがあるが、その言ひわけはもとより当になったものではない。
畢竟は苦しまぎれの小言と見るが穏当であろう。
陸奥福堂も死際にはしきりに細君を叱ったそうだし、高橋自恃居士も同じことだったというし、してみると苦しい時の八つ当りに家族の者を叱りつけるなどは余一人ではないと見える。
(病牀六尺 明治三十五年五月二十八日) ▽『仰臥漫録』
正岡子規の日記(1901〜02)。子規の死去する前年の1901年(明治34)9月、10月の日記がおもな内容となっている。
05年『ホトトギス』の1月号に一部分を付録として発表、18年(大正7)岩波書店から全1巻木版本刊行。
日々三度の食事の献立、訪問者、見聞を記録するとともに、病床に釘づけにされた子規のもろもろの感想、病苦のさま、家族への批判、遺言めく文章など、公表を意図したものでないだけに、思うままを率直に記し、子規の赤裸々な人間性をうかがう絶好の資料となっている。
手控え帳として俳句、短歌、写生画も書きとどめ、新聞の切り抜きを貼るなど雑然としたところがまた魅力である。 どもども、初めまして。
今、翔ぶが如く読んでる(四巻目後半)のだけど、この本を読むにあたって特に注意するべきポイントあるかな?
アドバイスくださいまし >>124
文庫本で全巻揃える金額に少しだけ上乗せすれば単行本が全巻揃うので、
先に文庫本を全巻買った後に、「すみません。これ全部返品して単行本に換えられませんか」
という事態が起こらないように注意する必要があります。 >>124
司馬の幕末ものを全て読んでから読んだ方がいい
挫折しそうなら坂の上の雲まで読んで最後に読めばいい
坂の上の雲は成長した西郷従道など薩摩の将官が登場し
翔ぶが如くの人物と微妙にかぶる 酢酸ビニール・チューインガムで有名な菓子メーカーのハリス。
社名の由来は、幕末の初代駐日公使タウンゼント・ハリス(綴りはHarris)から採られた。
シンボルマークのリスは、ハ「リス」。 >>128
続きはそのうち再開いたしますが、筆者が頚椎間板ヘルニアのため、左腕が痛み、
寝転がって本を読むのがたいぎいのです。 >>20
司馬さんはホテルのフロントで「まずホテルを出よ」と言われている。
まあ、どこでもいいわ。
大阪なんて生まれて一度も行ったことがない。
いつも新幹線で通過するだけの街だ。 俺も、そうだ。
現在の大阪市の地理に関する知識は、大坂の陣の頃の大坂の地理に比べて格段に低い。 〈第1章 - 補遺〉
▽客気:物事にはやる心。血気。
※ 中国語で「客気」とは、@遠慮するA礼儀正しいという意味です。
▽中気=中風 「脳出血」後に残る半身の不随、腕又は足の麻痺する病気のこと >>49
阪急一型改造型の画像は、司馬さんの文章を基準にすると、間違っているぞ。
司馬さんは、一型改造型はポールではなくパンタグラフだと書いておられる。 >>112
〈補遺〉大原恒徳が大原観山の次男。加藤恒忠は大原観山の三男。ふたりとも律の弟。 ここからが「ひとびとの跫音」の>>123の続きです。 ▽『歌よみに与ふる書』
正岡子規が1898年(明治31年)2月から10回にわたって新聞「日本」紙上に発表した歌論。
それまで新聞「日本」や雑誌ホトトギスを中心に俳句の近代化に傾注していた子規が、短歌(和歌)の改革に軸足を移す決意表明とも言えるもので、それまでの伝統的な和歌から現在まで続く近代短歌への転機となった。
万葉集に極めて高い評価を与え、万葉への回帰と写生による短歌を提唱した。
同時に、平安中期に成立して以後は和歌の規範ともされていた古今集を「くだらぬ集にて有之候」と全否定し、古今集の選者であり三十六歌仙にも名を連ねる紀貫之を「下手な歌よみにて」と酷評している。
新古今和歌集については「ややすぐれたり」としつつも、選者の藤原定家については「自分の歌にはろくな者無之」と評した。
この平安期から綿々と続いた伝統的な価値観の全面否定に対しては、当時の桂園派を中心とした歌壇の強い反発を受けると共に、後世の文学者からも批判があいついだ。 ▽長町ノ店家
現在の松山市に長町は存在していません。
他に探す手がかりがございませんのであきらめます。 ▽義務的ニ病人ヲ介抱スルコトハスレトモ同情的ニ病人ヲ慰ムルコトナシ
看病人には病気による苦痛がないから、病人と同じ気持ちにはなれないのです。
看病は疲れる仕事なのですが、看病される側は苦痛に苛まれているために、看病人に同情する心の余裕がない。
病人と看病人の関係は、この章の子規と律のような関係にならざるを得ないのです。 ▽キャベージ
子規は『仰臥漫録』の中でキャベツを原語の発音に近いキャベージと書いている。
キャベツはラテン語の「caput」に由来し、アメリカへ伝わり英語の「caggage(キャベージ)」となった。
日本にはかなりむかしに入ってきましたが、当初「葉ボタン」として観賞用とされ、食用ではなかった。 ▽与平鮓〈すし〉
文政7年(1824年)に両国尾上町(東両国)回向院前に小泉与兵衛が華屋の屋号で創業して大繁盛した。
すしにワサビを使ったのはこの華屋与兵衛が最初なので、一般には与兵衛寿司が握り寿司の嚆矢とみなされている。
華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は維新後も明治から大正にかけて営業していたが、関東大震災以後没落し、昭和5年(1930年)に閉店している。
今日の和風レストランチェーン・華屋与兵衛とはまったく関係がない。
http://55drive.info/wp-content/uploads/2015/03/P1060996-728x546.jpg >>142
これは悩ましいな。
今日の基準で考えるとキャベージはキラキラ・ネームになるが、
明治30年代に正岡子規がキャベージと書いていたとなると、
キャベツこそDQN用語のような気もする。 「団子ガ食ヒタイナ」ト病人ハ連呼スレトモ彼ハソレヲ聞キナガラ何トモ感ゼヌ也
故ニ若シ食ヒタイト思フトキハ「団子買フテ来イ」ト直接ニ命令セザルベカラズ ▽オ三ドン
台所などで働く下女、または台所仕事のこと。
江戸時代、三とは「三女」の意を指し、女性に使われることの多い名だった。
そこから、接頭辞の「御」と人を呼ぶ際に使われる接尾辞の「どん」がくっつき、御三どんと呼ばれるようになった。
「どん」とは上方で殿と呼ばれていたものが音変化したものである。
ほかに、大奥の奥にある下女のいる「御三の間」にちなんでいるという説、
かまどを意味する「御爨」にかけたことばだとする説がある。 転じて食事そのものを指す意味で使われることが多かったと筆者は記憶している。 以上、『仰臥漫録』〔>>123〕からの抜き書き。
子規晩年の随筆は年代順に、
『松蘿玉液』明治29年4月から12月
『墨汁一滴』明治34年1月から7月
『仰臥漫録』明治34年9月、10月、翌35年3月ほか
『病床六尺』明治35年5月から9月17日(死の2日前)。 ▽田端の大竜寺
慶長年間(1596−1615)に不動院浄仙寺が荒廃していたのを、
天明年間(1781−1789)になって湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して、大龍寺と改称したと伝えられている。
正岡子規の墓がある。根岸の子規庵からも遠くない。
http://www.tesshow.jp/kita/images/tabata_dairyu3.jpg
http://www5b.biglobe.ne.jp/~fujigoro/gazou/shikinohaka.JPG ▽秋山真之
子規の妹、律は秋山真之に好意を寄せていたのではないか−真之の姪、土居健子(秋山好古の二女)はそう推測し、次のように述べている。
お律さんのそばにおりまして、ひょっとしたらお律さんは叔父真之のことを好きだったのではないのかしらん、と思ったことがございます。
司馬遼太郎はこの推測には否定的で、「想像するに、当時の律にすれば、子規没後の根岸の家に訪ねてきた少女が、亡兄の親友の姪であったために、いつになく華やぎ、真之の若いころの印象などを語り、つい健子さんの少女の感受性にそういう想像をさせてしまったのであろう」(『ひとびとの跫音』)と述べている。 第3章 丹毒
律は昭和十六年五月二十四日、東大の小石川分院で死んだ。七十二歳であった。
死因は丹毒による心臓衰弱であった。あや子さんが大阪から駈けつけたときはすでに頭のふくれはとれていたが、
それが衰弱で縮んだために顔に無数の赤いひびが入るという異常な相貌になっていた。
ついでながら忠三郎さんの学資は加藤家から出ておらず、仙台にしろ京都にしろ、すべて律が出していた。 正岡律や加藤ひさのことを、司馬さんはとびきり厳格な性格の婦人のように書かれている。
律の潔癖症の部分は別にしても、明治生まれの婦人なんて、昭和40年代までは、だいたい律やひさのような性格だったよ。 >これがあの司馬遼太郎なのだろうか。
>結婚も離婚も他人の言いなりで何一つ決められず、自分が傷つけた相手にまで平気で甘え続ける、無責任な「おぼっちゃん」の姿ではないか。
http://d.hatena.ne.jp/margherita/20041220
戸主制度が廃止されて5年経過していない時期の話だからね。
時代背景を考慮にいれないと。 ★正岡あや子
▽律を姑として仕えた
われわれ現代人にとって正岡律は歴史(文化史)の中の人物だけど、
その人の身内が身近にいると、歴史が掌中にあるような気分になる。 ★共立女子職業学校
▽共立女子大
東京都千代田区一ツ橋2-2-1に本部を置く日本の私立大学である。
都営新宿線神保町駅から南へ。
共立女子職業学校として本郷東竹町の渡辺辰五郎裁縫私塾の一隅からはじまった。
創立に携わったのは、宮川保全、鳩山春子、永井久一郎(永井荷風の父)、服部一三、手島精一、矢野二郎など34名で、「共立」の校名は共同設立されたことに由来する。
http://up-j.shigaku.go.jp/photo/00000000259901000/0_20140808163634.jpg
https://encrypted-tbn0.gstatic.com/images?q=tbn:ANd9GcQF68tz2DVJCnPNz0A7do0Ph4oYM_PYKnWtiicvhQFIVn4jyHDPLg 渡辺辰五郎私塾「和洋裁縫伝習所」が設立されたのが明治19年
神田一ツ橋通町に移ったのが明治20年 ▽東京女子師範学校
1873年(明治6年)11月、文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレーは申報のなかで日本も欧米諸国に倣って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することを建言し、文部少輔である田中不二麿もこれに同調して翌1874年(明治7年)1月、三条実美太政大臣に対し「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出した。
これが承認され、同年3月13日には木戸孝允文部卿によりお茶ノ水橋たもとに女子師範学校を設置する旨布達が発令、日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範学校の設立となった(11月に開校)。
戦後の学制改革により発足した新制お茶の水女子大学の構成母体である。 ▽跡見学園女子大学
東京都文京区大塚1-5-2に本部を置く日本の私立大学である。
大学の略称は「跡見」もしくは「跡見女子大」 『ごきげんよう』の挨拶を発祥した学校でもあり、跡見学園では、現在も「ごきげんよう」の挨拶がよく用いられる。
丸ノ内線茗荷谷駅……お茶の水大学と拓殖大学の間
http://jyoshipedia.com/wp-content/uploads/2016/11/atomi-zenntai.png ▽宮川保全〈やすのり〉
嘉永5年江戸に生まれる。明治5年の沼津兵学校廃止とともに教導団に編入されたが、翌年除隊。
7年には文部省に出仕し、長崎師範学校に勤務。その後東京女子師範学校東京師範学校で数学を教える。
明治19年共立女子職業学校 (現共立女子大学) を設立し、以後大正11年に亡くなるまで同校の教育に従事した。
その一方で、中央堂や大日本図書出版会社などを経営した。数学関係の著書も多数ある。
沼津兵学校資業生。
http://daigikan.daa.jp/si-miyagawa.gif ▽松平豊前守の屋敷地
上総国大多喜藩主。幕末の当主は大河内正質〈まさただ〉。正室は松平正和の娘。子は大河内正敏(長男)。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いでは総督として旧幕府軍を指揮するものの、敗北する。
曾孫に女優の河内桃子がいる。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201303/17/92/a0287992_1828795.jpg ゴジラは皇居を破壊しなかったのではなく、同じ方角にある河内桃子の先祖・松平豊前守の屋敷地を襲撃しなかったのである。 ★風俗画報
▽風俗画報
日本初のグラフィック雑誌である。1889年(明治22年)の創刊から1916年(大正5年)まで27年にわたり特別号を含む全518冊を刊行した。
風俗画報は東京日本橋葦屋町の東陽堂が発行し、江戸時代から大正時代を取上げて世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など当時の社会風俗を視覚的に解説している。
絵や写真などを多用し、師弟関係にあった小林永濯・富岡永洗、その子弟など、多くの日本画家を起用した。
原本は明治大学駿河台キャンパス図書館(4冊欠本)に所蔵されている。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/5c/4a72d936d316412fad3f061255088331.jpg
http://www.green.dti.ne.jp/ed-fuji/kokusho-40-00111.jpg ▽稟告〈ひんこく〉
申し上げること。
死語ではない。現在、動物病院において、飼い主からの訴えを稟告と呼ぶ。 ▽山本松谷〈昇雲〉
明治3年 - 昭和40年。明治時代から大正時代にかけての浮世絵師、日本画家、石版画家、報道画家。
名は茂三郎。昇雲、松谷、小斎と号す。高知県長岡郡後免町(現・南国市)に旧土佐藩の郷士で、古物商を営む家の次男として生まれた。
明治27年(1894年)、東陽堂のグラフ雑誌『風俗画報』に投稿した「土佐国早乙女図」が編集長の山下重民の目にとまり、『風俗画報』第73号に掲載され、東陽堂の絵画部員として入社。以降毎号のように、「山本松谷」の名義で、『風俗画報』に石版画の挿絵を描くようになった。
https://stat.ameba.jp/user_images/20120702/15/yojiro/d6/62/j/t02200220_0531053112058528542.jpg ▽唐人髷
江戸末期から明治末ごろまで行われた少女の髪形。
髷を左右にふっくらと結い、元結の代わりに毛で十文字に結び留めたもの。
桃割れと結い方がよく似るが、丸く形作った髷の上部のみくっついている桃割れとは違い、髷の上下が開いているのと、やや根が高い髷の中央部に髪を襷がけにするのが特徴。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/113048.jpg
http://kanoh.tokyo/images/nihon/kiroku/28hlwtoujin_01.jpg ▽桃割れ
江戸時代後期から昭和にかけて町人の娘に流行した女髷。
銀杏返しの派生の一つで、前髪を高くふっくらと上げると同時に、鬢は「前出し」といって顔側に心持膨らませて結う。
左右の輪の上部のみくっついて下部が割れて手絡が見える様子が桃の実に似ることからこの名があり、当時唐人髷とともに十代前半〜後半の少女に多く結われた。
時代劇などで町娘といえば大抵このかつらをかぶって出てくるため、少女の髷としては最も知名度が高い。
http://kanoh.tokyo/images/nihon/kiroku/06toshidori_01.jpg ▽おばこ結び〈姥子髷〉
江戸末期の婦人の髪形の一。
髪先を根の周囲に渦巻き状に巻いて,根に笄(こうがい)をさし,輪の上に出して留めるもの。
町家の婦人の略装中では正しい風とされ,丸髷についで多く結われた。 ▽イギリス巻
明治30年代にはやった女性の髪形。後ろから巻きあげて左右に輪を作る。
画像を探したが、よくわからなかった。
代わりにカリフォルニア巻の画像を掲げておく。
https://www.eatsmart.jp/image/food/00/00/07/219273.jpg ▽前掛は授業中必ずこれを着用すべきもの
腰から下に下がる前掛けだと思うが、画像がなかった。
下の画像は、現在の共立女子中学高等学校の書道の授業風景
https://www.kyoritsu-wu.ac.jp/chukou/img/message/message_figure5.png ★共立女子学園
▽事務局の長老らしいひと
▽私が作家になったころからの担当編集者 ▽実践女子大
1881年(明治14年)に下田歌子により開かれた家政関係の私塾・桃夭女塾をその源泉とする。
これが発展し、1899年(明治32年)実践女学校となった。学制改革で新制大学に移行し、実践女子大学となった。
1986年(昭和61年)に渋谷から日野へ全面移転するも、2014年(平成26年)には文学部・人間社会学部が渋谷へ逆戻移転した。
『ひとびとの跫音』執筆当時は渋谷キャンパスのみであった。青山学院大学の南。
https://www.jissen.ac.jp/school/about/idea/u92b6g0000008dms-img/shibuya2.jpg ▽本林勝夫〈もとばやし〉 / 「正岡子規と妹」
石川県生まれ。東北大学大学院博士課程中退。
1989年「斎藤茂吉の研究 -その生と表現」で文学博士。同著で第2回斎藤茂吉短歌文学賞を受賞する。
共立女子大学教授を務め、近代短歌を研究した。
2008年没。 ▽土屋文明〈ぶんめい〉
群馬県群馬郡上郊村(現・高崎市)の農家に生まれる。
幼少期に伯父に俳句を教わり、旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)在学中から蛇床子の筆名で俳句や短歌を『ホトトギス』に投稿。
卒業後に恩師・村上成之の紹介により伊藤左千夫を頼って上京し、短歌の指導を受け『アララギ』に参加。更に左千夫の好意により、第一高等学校文科を経て東京帝国大学(現・東京大学)に進学。
東大在学中には芥川龍之介・久米正雄らと第三次『新思潮』の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説・戯曲を書いた。
1990年(平成2年)没。
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/person_img/124bunmei.jpg ▽伊藤左千夫
上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)の農家出身。明治法律学校(現・明治大学)中退。
1898年(明治31年)に新聞『日本』に「非新自讃歌論」を発表。
『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、島木赤彦、斎藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などを育成した。
1913年(大正2年)に脳溢血のため死去。
http://chidoribooks.com/wp-content/uploads/2015/04/Sachio-con-una-de-sus-vacas.jpg ▽諏訪高等女学校
1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革により、長野県諏訪二葉高等学校となる。
大正年間、土屋文明は長野県諏訪市・松本市の高等女学校で教頭・校長を務める傍ら作歌活動を続ける。
http://www.suwafutaba.org/class_album/E010_KJ_09_T06.jpg ▽乙科に入学
明治36年……裁縫を学ぶ
明治39年……補習科を卒業
大正10年……本科教員を退職 ▽尋常小学校
明治維新から第二次世界大戦勃発前までの時代に存在した初等教育機関の名称。
1886年(明治19年)4月10日 - 文部大臣森有礼により小学校令(第1次)が公布される。
小学校が尋常小学校(修業年限:4年)と高等小学校の2段階となる。
尋常小学校の修業年限が義務教育期間となる。 ▽勝山学校
この地は、江戸時代に藩校明教館があり、明治以降は松山の近代教育の拠点となった場所である。
正岡子規や秋山真之が通った勝山学校や松山中学校は、いずれも明教館から生まれ、様々な変遷を経て現在の番町小学校、松山東高等学校にその歴史が引き継がれている。
司馬遼太郎著「坂の上の雲」(文藝春秋刊)には、小学校にあたる勝山学校で新しい教育が行われていることが評判になり、子規や真之もこの学校で学んだことが描かれている。
明治28(1895)年に夏目漱石が英語教師として赴任したことでも知られる。
「わかるゝや 一鳥啼て 雲に入る」の句は、漱石が松山を去る際に詠んだ句である。
http://yshisotricalplace.web.fc2.com/historical_place/matsuyamachugakko/images/dscn0259.jpg ▽大原観山〔>>58・>>137〕
大原観山は三津御舟手加藤重孝の三男、本名有恒。
姉艶枝が嫁いだ大原恒固との間に子がないため、観山が大原家の養嗣子となり、歌原家の長女重を妻に迎え、二人の間に四男三女をもうけた。
その長女八重が正岡家に嫁して子規を生んだ。大原観山は子規の外祖父に当たる。
観山は日下伯巌に漢学を学び、のち、江戸の昌平黌に学び舎長に補せられ、学業成って、帰藩して明教館教授となった。
慷慨、気節あり、清貧に甘んじた。
廃藩後、この地に家塾を開き、子弟を教育した。就学前の子規も、明治6年、七歳の頃、ここで漢籍の素読の講義を受けた。
松山市五代目の市長加藤拓川(観山の三男、本名恒忠)もここで生い育った。
http://www.haiku-matsuyama.jp/wp-content/uploads/jyouka6.jpg ★女子教育論
▽寒川鼠骨〈さむかわ〉
正岡子規門下の俳人。病床の子規に侍り、遺族を見守り、遺墨・遺構の保存に尽くした。
元伊予松山藩士寒川朝陽(ともあき)と八重(旧姓水野)との三男として、現・松山市三番町に生まれた。
碧梧桐が二つ、虚子が一つ年上である。3人して郷土松山の先輩正岡子規を敬い慕い、日本新聞の俳句欄へ投稿し、選者の子規の選を受けた。
子規を慕って上京したり大阪朝日新聞に勤めたりしたが、1898年、陸羯南社長の了承と、子規の勧めで日本新聞記者になった。
その時の『最も少ない報酬で最も多く最も真面目に働くのがエライ人なんだ』という子規の教えを座右の銘とした。
http://www.kyoshi.or.jp/j-huuten/sikigyouga/tenziimg/gyouga04-10.jpg
(右は正岡律) ★河東碧梧桐
▽河東秉五郎〈明治6年 - 昭和12年〉
愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山真之を「淳さん」と敬愛していた。
1888年(明治21年)、伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1889年(明治22年)、帰郷した子規に野球を教わったことがきっかけで、同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。
碧梧桐と虚子は「子規門下の双璧」と謳われ、青年期には厚い友誼を結んでいたが、芸術面では守旧派として伝統的な五七五調を擁護する虚子とは激しく対立していた。 プログレ俳人・河東碧梧桐
http://www.e-tmm.info/hekigotou2.jpg
http://www.morioka-times.com/pic/2011/1105/12/syun-kawa.jpg
俳句から五七五のリズムを取り除いて、いったい何が残るというのか。
字あまり・字足らずでも、奇跡的にリズミカルな俳句があるにはあるが、
碧梧桐の句に、そんなのはなかったような気がした。
小学生の頃、碧梧桐が大嫌いでした。
中学・高校に進学してからは、俳句のハの字も親しんでいないので、よくわかりません。 ▽河東静渓
河東静渓は、俳人河東碧梧桐の父です。
静渓は江戸時代に儒学者として昌平黌で学び、帰省後は藩校明教館の教授となりました。
また、明治13(1880)年、この地に私塾千舟学舎を開き、正岡子規ら明治の若者たちを教育しました。
碧梧桐は明治6(1873)年2月26日にこの地で生まれました。
http://www.haiku-matsuyama.jp/wp-content/uploads/jyoka_p5.jpg ▽京都の三高
京都市および岡山市に所在した旧制第三高等学校。 ▽青木月斗〈げっと〉
明治12年 - 昭和24年。正岡子規門の俳人。本名は青木新護。
大阪市東区(現、大阪市中央区)船場の生まれ。若くして神薬快通丸・天眼水本舖の薬種商「青木薬房」を継ぐも、後年、俳誌「同人」を主宰して各地句会の指導に当たり、家業を廃して俳句に専念する。
その雄渾流麗な独特の書風でも広く親しまれた。
http://www.geocities.jp/toushun7/getsei.jpg ▽大葉子
和名の由来は、葉が広く大きいことから「大葉子」と名付けられたと一般にいわれるが、当て字だとする説もある。
弱ったカエルをこの葉陰におくと元気になるという俗説からカエルバともいわれる。
「車前(しゃぜん)」は漢名で、牛車・馬車が多く通る轍(わだち)によく生えることからこの名がつく。
http://arakawasaitama.com/hanaindex/obako1.jpg たしかに、あぜ道の轍に生えているのをよく見かけた。
あぜ道が舗装されてからは、見かけなくなった。
歳を取ると、長い間見ていない植物が、みょうに懐かしく感じる。
上から踏みつけても、翌日には快復している強い植物だった。
http://www.zoezoe.biz/2010_syokubutu/gazou_l/l_2010/1005/l_100521_006.jpg >>162
>鳩山春子
ノ´⌒ヽ,,
γ⌒´ ヽ,
// ""⌒⌒\ )
i / ⌒ ⌒ ヽ )
!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (__人_) | 見落としていました。曾婆ちゃんです。
\ `ー' / 共立女子大の創設者のひとりなんです。
/ .\ ★律の教員時代
▽新井さん
「桜の友」〔>>188〕第23号に掲載された犬丸秀雄教授〔>>195〕の「律女覚書」を読まれた共立女子職業学校の卒業生 ▽志摩野裁縫塾
大正4年〜5年ころ。律40代後半。京都の志摩野裁縫塾で1年間研究する。 ▽大井をかし
大正5年に共立女子職業学校を卒業した正岡律の教え子。 ★ヒサと律の躾
▽東京府立第一中学校〔>>33〕
旧制中学の入学資格は尋常小学校を卒業していることであり、修業年限は5年間であった。 ▽加藤十九郎……忠三郎の長兄
▽加藤六十郎……忠三郎の次兄 ▽笈〈きゅう〉
「おひ」のこと。修験者や行脚僧などが仏具・衣類・食器などを入れて背負う脚つきの箱。
http://www.fuefuki-kanko.jp/db_img/cl_img/274/photo/103.jpg
「笈〈きゅう〉を負う」とは、遊学のため郷里を出ること。 >>210
>歳を取ると、長い間見ていない植物が、みょうに懐かしく感じる。
おまい、ジジイだろうw
そろそろ棺桶を注文しておけよ。 ▽京都大学は無試験
旧制高校から帝大に入学するのは、学部学科さえ選ばなければ基本的にどこかに入れたので、実際東大法学部に落ちた人が第二志望の東大文学部国文科に無試験で入るなどと言うのは当たり前でした。
太宰治はじめ戦前の作家は多くは無試験で東大文学部に進学したのです。
戦前の小説家は東大・京大があたりまえですが、当時の大学はその程度だったとも考えることが出来ます。
京大法学部は、試験ぐらいあったかと思いますが、東大法学部より競争率も低く、入学は楽だったと思います。 高島忠夫さんちの女中は、生後5ヶ月の長男を殺したけどな(昭和39年)。
高嶋政宏は、戸籍上は次男。 >>210
オオバコを見かけなくなったよな。
オオバコ見たい。 ノ´⌒ヽ,,
γ⌒´ ヽ,
// ""⌒⌒\ )
i / ⌒ ⌒ ヽ )
!゙ (・ )` ´( ・) i/
| (__人_) |
\ `ー' / オオバカでよければ……
/ .\ ▽正岡浩
1938年、愛媛県松山市で生まれ、兵庫県伊丹市で育ち、ユニチカ在勤17年、現在著述業。
父忠三郎は正岡子規の従兄弟にあたり、子規の妹「律」の養子になったので、浩氏は系図上の孫になる。
大阪府島本町在住。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/dsc0022.jpg ▽文楽
淡路国出身の初世植村文楽軒を始祖とする文楽座によって演じられた人形浄瑠璃。
2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っている。
http://ynt.yafjp.org/images/performing-arts_img2.jpg ★丹毒
▽律の死
昭和16年5月24日。享年72。
この年12月8日、日本軍のマレー半島上陸および真珠湾攻撃で太平洋戦争開戦。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201307/24/38/e0040938_1384527.jpg ▽陸羯南の娘
「家には萬亀、鶴代、幾子、巴、しま子、ますえ、五十子(いそこ)と七人の子供が居りまして、全部女の子です。
男の子も生れたのですが、明治三十三年二月に二歳で亡くなりました。
正岡の家に出入りしていたのは五女のしま子まででしょう」 白砂糖の変色は、メイラード反応ですから、心配ありません。 第4章 タカジという名
「ああ、私は、やはりずいぶん前からタカジと呼んでいたみたいだったように思う」
あや子さんは言った。
「でも、タカジが死んでからは、タカジという以外に呼びようがなくなったのよ」
タカジというのは、そういう人であったらしい。 この章を読み終わって思ったのだが、詩人とか小説家というのは、どこか浮世離れした変人だな。 ★タカジ
▽予防拘禁
予防拘禁とは、対象となる者(常習犯や触法精神障害者など)による犯罪その他の触法行為の予防(特別予防)のためにこれを拘禁する刑事司法上の処分をいう。保安処分の一種。
日本で予防拘禁とは一般的に治安維持法に規定されたものを指す。1941年の法改正で導入された。
治安維持法違反で刑期を満了した者のみならず、執行猶予判決を受けた者、刑期満了で既に出所した者、思想犯保護観察に付されている者、「罪ヲ犯スノ虞アルコト顕著ナル」と裁判所に認められた者も対象となった。
拘禁は2年間とされたが、刑罰ではないため、裁判を経ることなく期間は更新された。その結果、多くの思想犯は事実上の終身刑となっていた。
1945年10月5日、治安維持法廃止に伴って予防拘禁制度は廃止され、10月10日収容者は釈放された。 ▽府中予防拘禁所
豊多摩刑務所内に設置された東京予防拘禁所には、宗教家・朝鮮独立運動家などを含めて60名から70名が収容されていた。
1945年5月25日、東京大空襲によって東京予防拘禁所は焼夷弾の攻撃に晒される。
次第に空襲が激化するに従い6月になると、予防拘禁所は府中刑務所内に移転する。 ▽徳球
徳田球一のこと。
社会運動家、日本共産党書記長。第七高等学校を中退後、大正8年弁護士となり、日本社会主義同盟に加盟。
大正11年には、モスクワでの極東勤労者大会に出席、帰国後山川均、堺利彦らとともに日本共産党を結成し中央委員となった。
大正12年の第1次共産党事件で検挙されたが、翌年出獄。同年の組織方針をめぐる党内闘争では解党派を支持した。
大正15年コミンテルンの指令のもとに党の再建を指導したが、昭和3年3月 15日の共産党大弾圧事件で検挙され、以後、第2次世界大戦終了による釈放まで18年間にわたり獄中にあった。
昭和20年10月出獄、ただちに共産党を再建し書記長に就任。
その後、代議士になるなどしたが、昭和25年マッカーサー指令により追放され、昭和28年北京で客死した。
http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/5/5/55b8445c.jpg ▽志賀
志賀義雄のこと。
3・15事件で検挙・収監され、戦後に釈放され、昭和25年に公職追放されたあたりまでは、徳球と同じ。
1963年(昭和38年)に部分的核実験停止条約が調印され、1964年(昭和39年)に国会でその批准が問われると、
中国共産党と友好関係があった日本共産党は中国と歩調を合わせる形で条約批准反対を決めた。
しかし、ソ連共産党に近いとされる志賀はこの条約を支持し、その結果、5月21日に共産党中央委員会は志賀の除名を決定した。
http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/23007001557.jpg ▽袴田
袴田里見のこと。
大正、昭和期の社会運動家、日本共産党の元幹部。戦前の非合法政党時代以来の共産党活動家で、戦後は党副委員長となった。
昭和52年、党から規律違反により除名処分を受けた。 ▽西沢隆二
明治36年 - 昭和51年9月18日
詩人としての筆名はぬやま・ひろし。徳田球一の女婿。
在学中に共産主義に傾倒し、旧制第二高等学校を中退。日本プロレタリア作家同盟書記長をしたのち、日本共産党に入党。
治安維持法で逮捕され、11年投獄されたが転向しなかった。
戦後、GHQ指令によって釈放され共産党の復興に尽力。共産党党青対部長、党中央委員などを務めたが、昭和41年に除名された。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/siba03.jpg
〔後列中央、右は司馬〕 ▽西沢基一
隆二の2歳上の実兄。大阪商科大学で商品学を教える。 ▽実名敬避俗
漢字文化圏では、諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の人間が名で呼びかけることは極めて無礼であると考えられた。
これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。
穂積陳重は、このような名前に関するタブーが漢字文化圏のみならず、世界各地に存在することを突き止めた。
そして、日本でも中国の諱の礼制が導入される以前から、実名を避ける習慣が存在したと主張し、これを「実名敬避俗」と定義した。 ▽“わかもの”
「うたごえ運動」のことか?
第二次世界大戦後の日本における合唱団の演奏活動を中心とした大衆的な社会運動・政治運動である。
共産主義もしくは社会民主主義を思想的な基盤として、労働運動や学生運動と結びつきながら、全国各地の職場、学園、居住地に合唱サークルを組織し、1950年代 - 1960年代にその最盛期を迎えた。
声楽家の関鑑子が運動の創始者とされる。
革命歌、労働歌、平和のうた、ロシア民謡などをレパートリーとしつつ、歌の創作活動も行う。
うたごえ運動は、1960年代に職場や学生のサークル、当時流行した歌声喫茶などを拠点に、日本全国での普及をみた。
「歌ってマルクス、踊ってレーニン」というキャッチコピーが用いられた。
http://momo5515.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_221/momo5515/E38186E3819FE38194E38188E596ABE88CB6.jpg | \
|Д`) 特高がいない…
|⊂ 踊るなら今のうち
|
♪ Å
♪ / \ 歌ってマルクス、踊ってレーニン
ヽ(´Д`;)ノ ランタ タン
( へ) 歌ってマルクス、踊ってレーニン
く タン ★『編笠』
▽ぬやま・ひろし
戦前までの日本の刑務所では囚人を移動させる時には編笠をかぶせた。
『編笠』はそういう状況に置かれた人が獄中で詠んだ詩や歌を集めた詩集で、ひろし・ぬやまは囚人だった。
もう少し詳しく言えば、彼は昭和の初めに、当時は非合法の政治集団だった日本共産党に加わり、治安維持法違反で逮捕されたが、転向をすることなく、獄中で12年も頑張り続け、昭和20年の敗戦後にようやく解放された。『編笠』はそういう人の詩集なのである。
この『編笠』は広く読まれたとは言えないが、昭和20年代の後半から30年代にかけて「うたごえ」運動に参加した人にとって、次のようなひろし・ぬやまの詩は、青春時代を懐かしく思い出させてくれるだろう。
http://shoshitakou.com/upload/save_image/l12090.jpg 《若者に》
若者よ、からだを鍛えておけ
美しいこゝろが逞しいからだに
からくもさゝへられる日がいつかは来る
その日のために、若者よ
からだを鍛えておけ 《厠の歌》
ひと屋の厠はいとめでたし
畳三枚のひろさなり
土瓶がある、茶碗がある
藍染の小皿の上に
昨夜(ゆうべ)のめざしの頭(かうべ)が三つ
冬の黄昏(たそがれ)の中に
字引がある、夜具がある
金網をへだてた椎の梢
小窓のかげから
うるさくかみはようどの目がのぞく
ひと屋の厠はいとめでたし
畳三枚のひろさなり ▽壺井繁治〈しげじ〉
明治30年 - 昭和50年
日本の詩人。日本共産党員。
香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)出身、早稲田大学に学ぶ。
1920年代にはアナキズムの陣営に属し、『赤と黒』などに拠って詩作をはじめた。
その後、共産主義に接近、プロレタリア文学の詩の分野で活躍した。
1930年代には何度か投獄され、その後は小熊秀雄や村山知義たちと〈サンチョ・クラブ〉を結成し、風刺的な詩を作っていた。
http://chinchiko.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_1be/chinchiko/E5A3BAE4BA95E7B981E6B2BB1959-9b99a.jpg ▽「秋風の歌」
食ひたいものはお袋の手料理
こんにやくのしらあへ、ぜんまいの煮〆
おもかげ身に添ふ昔の臺所の鍋蓋の湯気
七輪のあかり、お袋の横顔
あかがれ(アカギレ)のしたその指先き
きこえるものは秋風なる はたはたと鳴る
破れ団扇(ウチワ)の風の音
食ひたいものはお袋の手料理 ▽セザンヌの画面にうかんでいるような暗い影
フランスの画家。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。
ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/a2/95/cb/a295cbd2bb3954a1eaaab2f206f9eeb7.jpg
ポール・セザンヌ「Pyramid of Skulls」1901 ▽Iさん
おそらく井野隆一のこと。農業経済学者、マルクス主義者、日本共産党員。
東京府豊多摩郡生まれ。父は井野碩哉。昭和17年東京帝国大学経済学部卒、農林省に入り応召。
昭和21年日本農業研究所勤務、日本共産党に入る。昭和33年東京経済大学専任講師、昭和40年教授。
昭和48年退職、日本農業研究所に戻る。
http://park.geocities.jp/kakashi_ryuuichi/kakashi/tayori/wakakisennsei.jpg ▽美空ひばり「リンゴ追分」
タカジに教えてもらうまで、司馬遼太郎は「リンゴ追分」を知らなかったことになる。
日本で暮らしていて「リンゴ追分」を知らずいるには、どういう生活をすればいいのだろう?
http://up.gc-img.net/post_img_web/2017/05/pxcyKWeJsBCcEzN_9776.jpeg 本作品にしばしば登場する忠三郎の妻・正岡あや子の昭和55年の写真があった。
24歳のときの写真〔>>23〕とともに貼っておく。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/fusai1.gif
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/aya.jpg ▽徳田耕作
画家。西澤摩耶子の実父。徳田球一の従弟。
出所した徳田と隆二は、徳田の従兄弟に当たる画家・徳田耕作の元に身を寄せるも、まもなく耕作が持病悪化で死去する。
徳田球一はその未亡人と再婚し、一方の隆二はその娘・摩耶子と結婚する。
手の届くところにいる女には必ず手を出すサヨクらしい結婚風景である。 ▽母である耕作夫人
徳田たつ。
静岡県出身。旧姓金原。はじめ徳田球一の従兄である徳田耕作と結婚したが、のちに徳田球一と再婚。
死後は球一と同じ墓所で眠る。
昭和28年10月14日、徳田球一は北京で客死したが、彼の死は昭和30年まで明かされなかったため、同年8月25日に志賀義雄とともに、遺骨受け取りに訪中。
昭和37年、毛沢東と中国共産党の招きにより昭和47年まで中国に滞在。宮本顕治を弾劾し、文化大革命を支持した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/f7/Tokuda_Kyuichi%27s_ashes.JPG/170px-Tokuda_Kyuichi%27s_ashes.JPG
〈左は志賀義雄〉 ▽前進座
西沢マヤ子は、かつて前進座の食堂の厨房で飯炊きをしていた。
前進座とは、昭和六年(1931年)に歌舞伎界の因襲的な制度に反発して松竹を脱退した中村翫右衛門、河原崎長十郎、市川荒次郎を中心に結成された劇団。
昭和24年、全員が日本共産党に入党。昭和42年、河原崎長十郎が思想上の相違により脱退。
※中村梅之助は中村翫右衛門の子。
http://4.bp.blogspot.com/-G0fwEFhHAXM/UDJH52og0KI/AAAAAAAAE7Y/9xdGGoFVs8U/s1600/20120820b.JPG ★タカジとの初対面
▽1971年11月2日
同月20日、日活ロマンポルノの第1作『団地妻 昼下がりの情事』が公開される。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/70/c24e14626e66d2928ecb1627b70e7bed.jpg
この映画は全国の青少年に、団地へ行くと、いつでもエッチな奥さんとセックスできるという先入観を植えつけた。 ▽仙台の旧制高校
タカジ:2年連続進級できず校則の規定により退学
忠三郎:3年を5年かかって卒業 ▽行蔵
進んで世に出て手腕を振るうことと、隠れて世に出ないこと。出処と進退。 ▽大八車
江戸時代から昭和初期にかけての日本で荷物の輸送に使われていた総木製の人力荷車。
名の由来は、諸説ある。
・一台で八人分の仕事(運搬)ができるところから(代八車)。
・車台の大きさが8尺(約2.4m)のものを大八と呼んだ。
・滋賀県大津の八町で使われていたことから、「大津八町の車」が略され「大八車」になった。
・芝高輪牛町の大工八五郎が発明した。
http://www.takepoint.net/naka/images/nagakubo/nagakubo7.jpg 第5章 からだについて
タカジの予想では、たとえ癒っても、自分はすでに老衰がきているはずだということであったろう。
もはや禁を解き、酒を飲むべきときがきている。その喜びをこの買い出しのイメージであらわしている。
むろん買い出しのあとは二人で大酒を飲む。
このことでいえば、タカジの最後の光明――詩的情景――の中に棲んでいるのは、もはや忠三郎さんしかいなかったことになる。 ▽院長のWさん
若月俊一のこと。1910年 - 2006年。
東京市神田区(現:千代田区)出身。神田の洋品店を営む若月幸作、あき夫婦の次男として誕生。
関東大震災による火災で家を焼失、無一文となる。
文学や哲学に興味を持ち、マルクス主義に傾倒して職業革命家を目指した時期もあり、共産党からの入党の勧誘があったが直前で転向した。
「農民とともに」の精神で地域住民の中に積極的に入り込み、無医村への出張診療など住民と一体となった運動としての医療実践に取り組む。
また外科医として先駆的な脊椎カリエスの手術などもおこない精力的に発表した。
http://www.sakuhp.or.jp/ja/dbps_data/_material_/_files/000/000/000/624/ph00.jpg 出てくる人物が、どいつもこいつもアカばっかりだな。 ▽昭和51年
タカジの没年。
ロッキード事件の国会証人喚問とアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦が話題を浚った年。
大和運輸が「クロネコヤマトの宅急便」を開始。
モントリオール五輪開催……コマネチ。
郵便料金値上げ、はがき20円・封書50円。
「ほっかほっか亭」の1号店オープン。
日清食品がどん兵衛とUFOを発売。
ヤマザキナビスコがチップスターを発売。
「およげ!たいやきくん」が大ヒット。 ★獄中のタカジ
▽昭和9年に逮捕
・巣鴨署:庁舎は現在の北大塚2丁目にあった。
・堀留署:日本橋堀留町 →新馬橋署、久松署、堀留署が統合され、日本橋警察署となる →現在は中央警察署
・早稲田署:神楽坂署および早稲田署が合併して牛込警察署開設。
※牛込:旧東京市牛込区の範囲を指す。地理的には新宿区北東部にあたる。主な地名としては神楽坂や市谷および早稲田。 ▽咀嚼筋
下顎骨の運動(主に咀嚼運動)に関わる筋の総称である。
咀嚼筋は一般に、咬筋、側頭筋、外側翼突筋、内側翼突筋の4種類が挙げられる。
http://oikomarenaika.up.seesaa.net/image/E59280E59ABCE7AD8B.jpg ▽豊多摩刑務所〔>>241〕
大正・昭和を通じて東京府豊多摩郡野方村(中野区新井3丁目)に存在した刑務所。
大正14年の治安維持法制定以後は思想犯が多数収監された。
四万坪に及ぶ跡地は現在、平和の森公園および法務省矯正研修所東京支所となっている。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200710/17/06/f0142606_930307.jpg ▽巣鴨拘置所
かつてこの地には巣鴨監獄・巣鴨刑務所(1922年改称)があった。
関東大震災(1923年)で被害を受けた巣鴨刑務所は東京府府中に移転することになり、1935年に移転。
その跡地に庁舎が新築され、1937年、未決囚を主に収容する市谷刑務所が移転し、普通刑務所と区別するため「東京拘置所」と改称された。
したがって、西沢隆二が収容されていたのは、正確には、東京拘置所である。
巣鴨拘置所という場合、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設を指すことが多い。
http://mainichi.jp/graph/2013/03/26/20130326org00m040043000c/image/001.jpg ★タカジの禁酒
▽友好商社
1958年5月2日長崎国旗事件によって日中貿易が中断した後、1960年12月に貿易を再開するに当たり、
中国側が取り引き相手としてふさわしいと指定した日本の貿易会社。
春と秋の2回、広東省広州で開かれる広州交易会に招待された貿易会社社員が広州に出張するか、貿易公司のある北京に出張して商談を行った。 ▽日大闘争
昭和43年から昭和44年にかけて続いた日本大学における大学紛争である。
理工学部教授が裏口入学斡旋で受領した謝礼を脱税していたことに加え、
国税局の調査で日大当局の莫大な使途不明金が明るみに出たことで、学生の怒りが爆発したことに端を発する。
http://www.z930.com/image2/tyuudai.jpg ▽秋田明大〈あけひろ〉
日大紛争時の日大全共闘議長。元・全国全共闘連合副議長。広島県安芸郡倉橋町(合併により呉市に編入)出身。
昭和40年、崇徳高等学校卒業後、日本大学経済学部に入学。
昭和41年、大学2年の時にサークル社会科学研究会(社研)に所属、最初は水泳サークルであり、マルクスもレーニンもかじっただけだったという。日本大学4年生の時の昭和43年、20億円を越える大学側の経理不正問題の表面化をきっかけに教職員組合、父兄会をも巻き込み、全国一の動員を誇った日大闘争を指揮する全学共闘会議議長となり、やがて全共闘は日大を超えて全国に広まることになる。
昭和43年9月、両国講堂で3万人の学生と共に日大トップの古田重二良(日大帝王と呼ばれて理事長や会頭を歴任していた)を糾弾後、潜伏した。
その後、郷里の広島県呉市音戸町に帰り、自動車修理工場を経営。
1985年に13歳下の女性と見合い結婚したが、離婚後は生活が荒れ、数年前に結婚紹介所を通じて知り合った20歳年下の中国人妻と再婚し、4歳の息子と3人暮らし。
https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/97/0000725697/03/img6e89c02czik0zj.jpeg
http://toshoshimbun.com/kiji_images/week_one_side_images/2877_804_112055.jpg ▽けれん
・義太夫で、法式を破って語ること。また、芝居で、俗受けをねらって演出すること。早替り・宙乗りなど。
・ごまかし。はったり。
ゴーヤさんは、「けれん」たっぷり。 ▽粗笨
大まかでぞんざいなこと。細かいところまで行き届いていないこと。
まるでゴーヤさんみたいw ▽高杉晋作
幕府の調査団に随行して上海へ渡航することになった高杉ですが、
出航前に藩から渡された出張経費を女遊びと飲酒代に使い果たしてしまいました。
まぐれ当たりが運よく続いた人という印象しかないが。
どこかで藩内の保守勢力に殺されていればよかったのに。
あまり好きじゃない。 ★拙宅
▽そこび
タカジの「そこびが悪くなって」とあるが、意味不明。
▽高知県出身の娘
マサミのことである〔>>245〕。タカジと比べると身長が20cm低い。 ▽文学座
昭和12年、:岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の発起にて結成された。
昭和38年、芥川比呂志、高橋昌也、加藤和夫、仲谷昇、小池朝雄、名古屋章、神山繁、三谷昇、岸田今日子、文野朋子、加藤治子ら座員29名が脱退、福田恆存と現代演劇協会・劇団雲を創立した。
同年12月、『喜びの琴』上演中止をめぐり、三島由紀夫、矢代静一、松浦竹夫、中村伸郎、北見治一、賀原夏子、丹阿弥谷津子、南美江、村松英子ら14名が脱退(のちに劇団NLT創立)。
現在の代表は、江守徹。 ★佐久
▽欷歔
すすり泣くこと。むせび泣き。
タカジの死因は、食道癌であった。 ▽ミノル
30代のフリーカメラマン。タカジの甥。
使用するカメラはミノルタ。 第6章 手紙のことなど
シベリア出兵中の大正9年(1920年)に日本は樺太を保障占領したが、吉治の案の時期にはまだこの占領はない。
西沢基一家にはこのころの吉治の立案書などが遺されているが、そのなかに樺太島の地図があり、その南半分は当然ながら日本領とある。
が、旧帝政ロシア領の北半分には、墨くろぐろと、「西沢領」と書かれている。 ★富永太郎
▽来翰
送られてきた手紙。「翰」の本来の意味は筆。そこから筆でかいたもの=手紙。
▽久松家からの拝領羽織
久松氏は本姓菅原氏とされ、遠祖は菅原道真と伝える。
斯波氏の没落とともに、久松氏は織田信秀に属した。
佐渡守俊勝のとき、松平広忠の元室で、広忠の嫡子・竹千代(後の徳川家康)を生んだ於大の方(水野忠政の娘)を妻に迎えた。
桶狭間の戦いの際、松平元康は密かに織田方の阿久居に赴いて、母於大の方と、俊勝と於大の間に生まれた異父弟にあたる三男子と対面を果たした。この時、元康は松平氏と葵紋を授け、松平家一門に准じたと伝える。これを久松松平家と呼ぶ。
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/8f/15/b5/8f15b5b65bbc3441ad74be7b43e9bd70--family-crest.jpg ▽正岡隼太常尚〔>>57〕
▽曝涼
夏または秋の天気のよい乾燥した日を選んで衣類・書籍などを日にさらし風を通して、かびや虫のわくのを防ぐこと。虫干し。
俳句では夏の季語とされている。
http://image.space.rakuten.co.jp/lg01/99/0000544099/08/imgb8e22043zikdzj.jpeg ▽富永太郎 〈明治34年 - 大正14年〉
東京市本郷区湯島新花町(現在の東京都文京区)に、愛知県士族で鉄道省勤務の父・富永謙治 (後に青梅鉄道社長)、 母・園子の長男として生まれる。母は国語教師。
大正8年、第二高等学校理科乙類(理系ドイツ語クラス)に入学。正岡忠三郎や冨倉徳次郎と同学年となる。
大正13年、喀血したため、病院での診察の結果、肺結核を宣告される。
翌年11月12日、酸素吸入器のゴム管を「きたない」といって自ら取り去り逝去。享年24。
http://achikor.cocolog-nifty.com/blog/images/save0010small.jpg 《大脳は厨房である》
眼球は日光を厭ふ故に
瞼の鎧戸をひたとおろし
頭蓋の中へ引き退く。
大腦の小區畫を填める者は
困憊したさまざまの食品である。
青かびに被はれたパンの缺け、
切り口の饐えたソオセエジ......
オリーヴ油はまださらさらと透明らしいが
瓶一面の埃のために
よくは見えない。
眼球は醜い料理女である。
廚房の中はうす暗い。
彼女は床のまん中で
少しばかりの獣脂を焚く。
背の低い焔が立つて
油煙がそつと 頭蓋の天井に附く。
彼女は大腦の棚の下をそゝくさとゆきゝして
幾品かの食品をとりおろす。
さて 片隅の大鍋をとつて
もの倦げに黄いろな焔の上にかける......
彼女はこの退屈な文火(とろび)の上で
誰のためにあやしげな煮込みをつくらうといふのか。
彼女は知らない。
けれども、それが彼女の退屈な
しかし唯一の仕事である。
大腦はうす暗い。
頭蓋は燻(くすぶ)つてゐる。
彼女は----眼球は愚かなのである。 富永太郎と西沢吉治の登場で、この章は日本史とコミットする部分が多いな。
司馬作品に大正時代を真正面から扱ったものがないから、この章は貴重だ。 ▽フランス象徴派
サンボリスム。言葉の客観的・具象的・知的内容にこだわらず、言葉の音調・連想・心象・隠喩・象徴などを利用して、
最も内面的な観念・情趣を暗示しようとする芸術上の運動。
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ文学において、自然主義やリアリズムに反抗して起ったもの。
すべての具象的事物が溶解して目に見えぬ精神的世界の神秘的な統一と化した「象徴の森」を歌ったボードレールをはじめ、
ランボー、ベルレーヌ、マラルメからバレリーにいたるフランス象徴派に代表される。 ▽上田敏 〈明治7年 - 大正5年〉
詩人、評論家、英文学者。父絅二 (けいじ) は幕末の儒者乙骨耐軒 (おつこつたいけん) の次男。
明治22年、第一高等学校に入学、『文学界』同人に参加。
明治27年、東京大学英文科に進み、『帝国文学』の創刊に参画、創刊号からフランス象徴詩などの海外文学の紹介を精力的に続けた。
明治30年、東大卒業。東京高等師範教授、東大講師などを歴任、かたわら『明星』や『芸文』 (のち『万年艸』) 、『芸苑』などの雑誌に西洋文学の翻訳や芸術のあらゆる分野にわたる評論を発表、親交のあった森鴎外とともに耽美主義思潮の有力な指導理論家と目された。
特にフランスの高踏詩、象徴詩の翻訳をまとめた『海潮音』は詩壇に大きな影響を与えた。
http://livedoor.blogimg.jp/dorci/imgs/c/3/c3a514df.jpg ▽大岡昇平 〈明治42年 - 昭和63年〉
小説家・評論家・フランス文学の翻訳家・研究者。
「ケンカ大岡」と呼ばれるほどの文壇有数の論争家であり、言動が物議を醸すことも少なくなかった。
井上靖の『蒼き狼』を史実を改変するものとして批判し、歴史小説をめぐって論争となった。
同じく史実を改変するものとして、海音寺潮五郎の『二本の銀杏』や『悪人列伝』等を批判し、これに反論する海音寺と『群像』1962年(昭和37年)8月号上で論争した。
河上徹太郎、小林秀雄らの愛人だった坂本睦子を8年あまり自らも愛人とし、妻の自殺未遂騒ぎを何度か経たのちに睦子と別れたが、その翌年、睦子が自殺。その後、彼女をモデルに『花影』を書き、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞した。
https://www.jiji.com/news/handmade/topic/d4_mm/kyo789-jpp01048179.jpg
坂本睦子は、孤児同然に育った不幸な生い立ちで、1930年、銀座のバー「はせ川」へ女給として出て、直木三十五に口説かれて処女を奪われたという。昭和7年から昭和11年まで坂口安吾の愛人だったとされるが、菊池寛にも庇護され、小林秀雄に求婚されて、いったんは受け入れたが睦子が破棄し、オリンピックの選手と京都へ駆け落ちしたという。 ▽大岡昇平『富永太郎 ー書簡を通して見た生涯と作品ー』(昭和49年)
著者の大岡昇平は、生前の面識こそなかったものの詩人・富永太郎の弟と同級生になったのを皮切りに、
かの中原中也、小林秀雄、河上徹太郎などなど、フランス象徴詩の受容史に関係する友人とは悉く深いい交友を結び、仲間内では最も年少の筈ですが誰とも互角に渡りあった豪胆な気性の持ち主。
殊に不遇のうちに夭折した中原中也と富永太郎にとっては、世に送り出すに与って力のあった謂はばスポークスマン的存在でもあります。
http://cogito.jp.net/topics/20140202A.jpg >>310
知らなかったのか?
直木賞の副賞は、銀座のホステスの処女を奪えることなんだぞ。 ▽フリードリヒ・ニーチェ 〈1844年 - 1900年〉
ドイツの哲学者。1869年バーゼル大学古典文献学教授となり、1870年普仏戦争に志願従軍、1879年健康すぐれず同大学の教授を辞任し、以後著述に専念したが、1889年精神病が昂じ、1900年に没した。
アルツール・ショーペンハウアー、リヒアルト・ワーグナーの影響を受け、芸術の哲学的考察から出発し、ディオニュソス的精神からの文化の創造を主張したが、
しだいに時代批判、ヨーロッパ文明批判に向かい、特に最高価値を保証する権威とされてきたキリスト教や近代の所産としての民主主義を弱者の道徳として批判し、
強者の道徳として生の立場からの新しい価値創造の哲学を、超人・永遠回帰・権力への意志・運命の愛 (アモール・ファティ ) などの独特の概念を用いて主張した。
ニーチェの哲学はナチスに利用されたこともあったが、今日ではセーレン・A.キルケゴールと並んで、実存哲学の先駆者、新しい価値論の提示者として新たに照明があてられている。
http://inucherry.com/images/nieche.jpg ▽アルトゥル・ショーペンハウアー 〈1788年 - 1860年〉
ドイツの哲学者。厭世思想の代表者。
1820年、ベルリン大学講師となったが、ベルリンの哲学界はヘーゲルの支配下にあり、まもなく辞任した。
彼はカントの思想から多くをくみ、みずからカントの後継者をもって任じたが、生前は不遇であった。
しかし、19世紀末のヨーロッパにおいて、彼の主意説と、東洋ことにインドの仏教思想と相通じる独特の厭世観とは広く顧みられるにいたり、ニーチェ、ワーグナーらに大きな影響を与えた。
http://www.emersonkent.com/images/schopenhauer_arthur.jpg ▽シャルル・ボードレール 〈1821年 - 1867年〉
フランスの詩人。5歳で父を失い、翌年母が再婚、義父とは不和であった。
早くから文学青年たちと交遊し奔放な生活をおくったが、1845年頃から美術評論家としての地位を確立。
唯一の定型詩集『悪の華』 Les Fleurs du mal (1857) で近代文明に対する鋭い批判と、そこに生きる自己の苦悩と絶望を明確に意識化し、それを音楽性と喚起力に富む言語で表現することによりフランス近代詩を確立した。
その影響は象徴派をはじめとするフランス詩のみでなく世界各地に及んでいる。
しかし出版当時はほとんど認められず、そればかりか風俗壊乱のかどで起訴され、罰金と詩6編の削除を命じられた。
http://poesie.hix05.com/Baudelaire/Baudelaire_image/001nadar.jpg 太郎の母親だけS夫婦と面会。H・Sは「私はただお友達のつもりで、お付き合いしていました」言う。
太郎にH・Sの言葉を伝えると、「ほんとかなあ」と一言呟き、隣室に去る。 八歳年上の人妻に恋してしまった仙台時代、こういう詩を書いている。
ありがたい静かなこの夕べ、
何とて我が心は波うつ。
いざ今宵一夜は
われととり出でたこの心の臓を
窓ぎはの白き皿に載せ、
心静かに眺めあかさう。
月も間もなく出るだらう。 (「無題」) ▽水彩画「上海の思ひ出」
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/s0922-08-g01.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) ▽中原中也 〈明治40年 - 昭和12年〉
代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟がかぜにより病死したことで文学に目覚めた。
中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。
その一部は、結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、および、中也の死の翌年出版された第二詩集『在りし日の歌』に収録されている。
訳詩では『ランボオ詩集』や数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人作家の翻訳もしている。
大正13年7月から11月まで、京都に滞在した6歳年上の詩人・富永太郎と親交を結ぶ。富永は連日中原の下宿を訪ねて語り合った。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102822.jpg
※長谷川泰子:日本の女優。戦前の芸名は、陸礼子。複数の著名な文化人・文学者との恋愛や交遊関係があり、文学史に名を残す。
中原中也、小林秀雄との三角関係で知られる。
http://shiina2001ryou.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/01/23/sinobukai4.jpg 女性との交際の風景は、この国の最底辺の若者と、たいして違いがないな。 汗を流して働くドカタの方が、文学者より偉い人に思えてきた。 体液の悪臭が漂う話は、さっさと終らせろよ。
タカジの父親の冒険譚の方が、はるかに面白い。
早くそっちをやれよ。 ▽私に七つ年下の友人がいて
さっさと終らせたいので、割愛します(;^ω^) ▽アルチュール・ランボー 〈1854年 - 1891年〉
19世紀のフランスの詩人、貿易商人。象徴主義の代表的な詩人である。
1871年、パリで詩人のポール・ヴェルレーヌと出会い愛人関係となり、以後、妻子を捨てたヴェルレーヌと共にブリュッセル、ロンドンなどを旅行する。
http://www.litterature.jp/poefra/wp-content/uploads/2016/01/arthur_rimbaud.png ▽ボヘミアン
芸術家や作家、世間に背を向けた者などで、伝統や習慣にこだわらない自由奔放な生活をしている者。
ジプシーの多くがフランスにおいてボヘミアからやってきたことから「ボヘミア人」=流浪の人と考えられた。
ボヘミアは、チェコ西部から中部に位置する。
http://www.sandiegotown.com/images/sandiegotown/uploads/images/column/kusak01_02.jpeg ▽タクラマカン砂漠
中央アジアのタリム盆地の大部分を占める砂漠である。
一帯は現在中国の新疆ウイグル自治区に属している。
http://likeshare-world.com/wp-content/uploads/041.jpg ▽アンリ・ルッソー 〈1844年 - 1910年〉
19世紀〜20世紀フランスの素朴派の画家。
20数年間、パリ市の税関の職員を務め、仕事の余暇に絵を描いていた「日曜画家」であったことから「ル・ドゥアニエ」(税関吏)の通称で知られる。
ただし、ルソーの代表作の大部分はルソーが税関を退職した後の50歳代に描かれている。
ルソーの画風をひとことで言うと「遠近法なんて糞くらえ!」
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/80/49/3a/80493a07d54b3488d174f9a318a4934f--henri-rousseau-self-portraits.jpg
※童画風の川
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/710/90/1/116592619415527422.jpg ▽露草
ツユクサ科ツユクサ属の一年生植物。
畑の隅や道端で見かけることの多い雑草である.
朝咲いた花が昼しぼむことが朝露を連想させることから「露草」と名付けられたという説がある。
http://www.forest-akita.jp/data/sanya-hana/56-cosumosu/IMG_8559.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/image/tuyukusa05.jpg (こんな切手の時代に生まれたのか)
と、自分のことを思い、首をすくめるような思いがしないでもなかった。
私は大正12年に生まれたために、大正も知らぬままにその年号を半生背負ってきた。
いま、タカジや富永太郎や忠三郎さんのことを考えねばならない必要から、その時代の青春の匂いをむりやりに嗅ごうとしている。 我が国の淳風美俗たる衆道は、
必ず肛門性交だったのでしょうか?
それとも現代のゲイ社会と等しく、
口腔性交や相互自慰その他を含めた
様々な性交渉があったのでしょうか? 直木三十五は睦子の処女の匂いをむりやりに嗅ごうとしている。 坂本睦子は、直木三十五に口説かれて処女を奪われたという。
坂本睦子は、直木三十五に口説かれて処女を奪われたという。
この顔でwww
http://blog-imgs-30.fc2.com/c/o/m/comu358/naoki_20120214124344.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) ★西沢吉治−プラタス島
▽西沢吉治 〈明治5年 - 昭和8年〉
鯖江藩の蔵役を務めた為治の二男として鯖江町(現福井県鯖江市)に生まれた。
1905年、香港と台湾の間にある無人島(東沙島、プラタス島)がどこの国にも属さず誰の所有地でもないと知って、これを自分の島とすることに決め「西沢島」と命名、リン鉱石・硫黄・真珠・海藻を採取するなど一大事業を展開した。
南大東島を開拓した玉置半右衛門にならって、貨幣の発行、「西沢島憲章」10か条の制定、インフラストラクチャー整備などをおこなった。
1907年8月12日、内務省に日本領台湾への編入を願い出たが、2年後に清への帰属がとりきめられた。
第一次世界大戦では、ドイツ領アンガウル島でのリン鉱石採掘を軍に命じられた。
次男は詩人で政治活動家の西沢隆二。
※画像はあったがNGワードで転写できないのが残念。隆二の顔とは異なり、脂っぽい事業家の風貌だ。 ▽東沙諸島〈プラタス諸島〉
南シナ海の香港の南東約340kmに位置する東沙島、北衛灘、南衛灘および周辺の環礁により構成される環礁群である。
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/img/143_zu01.jpg
中華民国(台湾)が実効支配しており、台湾では東沙環礁国家公園に指定されている。
1730年、清は東沙諸島を版図に編入し、広東省恵州の管轄とした。
しかしその後は、わずかな漁民を除き長く無人であった。
1907年になると、日本人が入植し事業を創め、日本政府に日本領台湾への編入を申請するに至った。
このような動きに対し、1909年には広東省水師提督の李準が東沙諸島を訪れ、日本政府への抗議を行った。
清との関係悪化を恐れた日本政府は、同年に清による東沙諸島の領有を確認し、李準は領有を示す建築物、碑、廟などをこの島に建設した。 1901年:玉置半右衛門が外務省に無人島(プラタス島)の所属伺い。
1907年8月12日:西沢吉治他2名が事業を開始し、内務省に無人島(プラタス島)を台湾に編入願い。
1909年10月11日:日本は清と「プラタス島引渡ニ関スル取極(交還東沙島條款)」を交わし、日本はプラタス島の施設等を38万円で清に売却、プラタス島に対する清の領有権を確認する。 西沢吉治の英雄譚を際立たせるために、玉置半右衛門がスルーされている。
玉置半右衛門〈天保9年 - 明治43年〉は、明治時代の八丈島出身の実業家。
「ひとびとの跫音」における西沢吉治関連の叙述の中に八丈島がしばしば登場するのは玉置との関連だと思うのだが、
そのあたりはまったく触れられていない。
http://www.mishimaga.com/files/2010/0927-4.jpg 司馬さんが玉置半右衛門と西沢吉治の関係を知らないのではなく、
その点に関する文献が皆無なんじゃないかな? おっ、やっと冒険譚の始まりだな。
秋田書店の月刊『冒険王』で「冒険」という言葉を覚えた。
「冒険」という字を見ると、胸の高鳴りを感じる。
ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』や、そのオマージュ作品『冒険ガボテン島』が大好きでした。 ▽基隆市 〈キールン〉
台湾で2番目の貨物取扱量を誇る基隆港を抱え、台湾の貿易・物流の重要拠点である。
明治28年に日本が馬関条約により台湾を接収、澳底に上陸ののち基隆に入った。
基隆は日本統治時代以前から対外貿易の拠点となっていたが港湾の水深が浅く岩礁も多かったため大型船の停泊には適さず、近代的な港としての発展には限界があった。
日本政府は台湾統治を開始した4年後の1899年より港湾周囲の浚渫工事と防波堤の建設などを進め、1万トン級の船舶が停泊可能な近代港湾として整備した。
基隆は台湾北部に位置し日本に最も近い立地より日本内地との貿易港としても繁栄した。
http://taiwaning.zening.info/map/taiwan_map.gif ときに、吉治は台湾の基隆にいた。
二児が生まれ、長男を基一〔>>247〕と名づけ、次男を隆二とした。
▽妻みつ
実家は兵庫県明石。
三男の島三〈志摩三〉を出産する。 ▽「実業之世界」
実業之世界社社長の野依秀一という人は、今でいう炎上マーケティングの元祖だと思われますが、この後もあれこれあって、日本の近代史で抹殺された存在のようです。
http://seichoshoten.ocnk.net/data/seichoshoten/product/img/20170829005.jpg ▽菜花野人 〈さいか・やじん〉
雑誌『実業之世界』に掲載された「プラタス島事件及び其の経営者」の執筆者。 ▽山下太郎
雑誌『臺灣時報別冊』に掲載された「プラタス島の西沢氏後日譚」の執筆者。 ▽福井県鯖江
福井県嶺北地方の中央部に位置する市である。
鎌倉時代に誠照寺の門前町として発展し、江戸時代には間部氏鯖江藩5万石(のち4万石)の鯖江陣屋を中心とした陣屋町となった。
※間部詮勝
安政5年(1858年)6月に大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務する。
同年9月には上洛し、朝廷から日米修好通商条約調印の勅許を得るとともに、京都所司代酒井忠義とともに一橋派や尊皇攘夷派を弾圧する安政の大獄に奔走する。こうした動きに対し、吉田松陰は間部詮勝の暗殺を企てた。
しかし、安政6年(1859年)3月、江戸に戻ると井伊直弼と対立するようになる。
条約の勅許を得るといった成果をあげたことで、幕政の主導権を握ろうとしたようである。その結果、同年12月に免職となる。
http://www.teamupstudio.com/wp-content/uploads/2015/04/a-manabe.jpg ▽西沢為次
西沢隆二の祖父。
筆者が調べたところによると「鯖江藩の蔵役を務めた西沢為治」となっている〔>>341〕。 ▽農商務省地質調査所
西沢吉治は同所の給仕であった。
1878年 日本政府の近代的な地質調査機関は、内務省地理局地質課の設置に始まる。
1882年 地質課が農商務省地質調査所に改編された。
現在は、独立行政法人産業技術総合研究所内の地質調査総合センター。本部は茨城県つくば市に所在。 ∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄
( ´・ω・) < 冒険が始まらない
( つ旦と) \____
と_)_) ▽日清戦争 〈明治27年7月 - 明治28年3月〉
吉治は酒保商人として従軍。子規は新聞「日本」の記者として従軍。
▽酒保
軍隊の駐屯地(兵営)・施設・艦船内等に設けられ、主に軍人軍属たる下士官兵や同相当官を対象に主に日用品・嗜好品を安価で提供していた売店。
http://ohoshisama.info/syowakarano/07guntai/07photo/G007syuho.jpg ▽大連
魏晋の時代には三山と呼ばれ、唐代には三山浦、明清時代には三山海口、青泥窪口と称した。
1880年代に清朝が大連湾北岸に砲台を築き、都市が形成され始めた。
日清戦争後の1898年、三国干渉の代償として、清から関東州(大連、旅順など)を租借したロシアが、東清鉄道の終着駅を設け「ダルニー」( 「遠い」)と名づけた。
旅順にある艦隊と要塞の物資をまとめるため、また貿易の拠点として、港の整備とパリをモデルにした都市づくりが始まった。
しかし、1904年に勃発した日露戦争により、同年5月末には日本軍が無血入城を果たし、戦後の1905年ポーツマス条約により日本に租借権が譲渡された。
日本は古地図に見られる中国語の地名「大連湾」からとった「大連」を都市名として採用した。
これはロシア名のダルニーと発音が似ていることにもよる。
http://livedoor.blogimg.jp/polio0/imgs/8/f/8f2ccfe2.gif ▽台湾の土匪討伐
乙未〈いつび〉事変のこと。名称は戦闘の起こった1895年の干支が「乙未」であったことに由来する。
下関条約によって日本への台湾割譲が決まり、上陸した日本軍に対して清国の残兵や一部の台湾住民が抵抗し戦闘となったものである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Captain_Awata.jpg ▽浅野セメント代理店
浅野セメントは、現在は太平洋セメント。秩父小野田と日本セメント(旧称浅野セメント)が合併。
なお、基隆築港は西沢吉治が主唱したわけではない。
浅野セメントの工場は高雄にあり、吉治が台湾における浅野セメントの事業を拡大したわけではない。 ▽西沢島
明治40年8月 西島吉次は、台湾の南西海上にある無人島に上陸するや、西沢島という標柱を立てた。
300人ほどを住まわせ10箇条の西沢憲章をつくり、
電話線を引き、水道管も敷設し、紙幣も発行して一つの国家を夢見たのかもしれない。
燐が豊富でこれを売って利益をあげた。清国政府がこれに気づいて抗議してきた。
交渉の結果、すでに活動実態が日本側にあることから、清国が買収して正式に清国領土とした。
買収金額は38万円(今の金額にして10数億円)で、西沢の手元に渡ったのは10万6千円で投資した金額に遠く及ばなかった。 ▽鈴木貫太郎 〈慶応3年 - 昭和23年〉
海軍士官として海軍次官、連合艦隊司令長官、海軍軍令部長(第8代)などの顕職を歴任した。
小磯國昭の後任として内閣総理大臣(第42代)に就任した。一時、外務大臣(第70代)、大東亜大臣(第3代)も兼任した。
陸軍の反対を押し切って、第二次世界大戦を終戦に導いた。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/b/suzuki1.jpg ▽秋山真之
司馬は、音羽艦長時代の秋山真之を中佐としているが、大佐の誤り。
真之は、明治41年(1908年)9月25日に海軍大佐に昇任し、同年12月1日に巡洋艦「音羽」艦長に異動している。 昭和54〜55年にかけて執筆された『ひとびとの跫音』でも、まだ間違えているんだな。 かつての大東亜共栄圏に属する国々の主権は認めてやってもよいが、
日本の経済的支配が緩むような事態になってはならない。 ★タカジ
▽天理教
加藤拓川の妻ひさは、加藤家の全財産を天理教本部に寄進した。
天理教の教会は(場所により差はありますが)、毎年、何十〜何百万というお金を本部にお供えするノルマがあります。
このためおしえに関係なく信者のかたに何百万もお供えしろ、という教会はあります。
天理教のお供えを支えるのが「貧に落ち切れ」という天理教の教科書に出てくる言葉です。
教祖が、人をたすけるために自分の家の全財産をなげうって人にものをあげたり、おたすけをしたという行為から「全財産をなげだせば助かるんだ」という考えがお供えの根底にあります。 軍政に戻そうよ。
こういう基地外宗教もなくせるよ。 ★西沢吉治−アンガウル島
▽日独戦争
第一次世界大戦に於ける大日本帝国とドイツ帝国の戦争。
日本は日英同盟に基づき連合国の一員として参戦した。大正13年(1914年)8月23日大日本帝国はドイツ帝国へ宣戦布告。
陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島のドイツ要塞を次々に攻略し、第一次世界大戦終結とともに日本が勝った形で終結した。
http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20110926/001ec94a25c50fea71a83d.jpg × 大正13年(1914年)
○ 大正3年(1914年) ▽ドイツ領南洋諸島
17世紀初頭よりスペインはこの地一帯を植民地化し、フィリピンと共に「スペイン領東インド」を形成していた。
同地のマリアナ諸島やカロリン諸島という地名は、それぞれマリアナ王妃やカルロス2世国王に由来する。
19世紀末になりドイツも植民地経営に乗り出し、1885年にドイツはマーシャル諸島を占領した。
そして、米西戦争で負けたスペインにスペイン領東インド(フィリピン、グアムを除く)の売却を持ちかけ、2500万ペセタで買い取った。
ドイツはカイザー・ヴィルヘルムスラント(現在のパプアニューギニア北部)と合わせて、「ドイツ領ニューギニア」を成立させた。
やがて第一次世界大戦が始まると、日本が日英同盟に基づいて連合国の一員として参戦し、赤道以北のドイツ領ニューギニアの各諸島を占領した。
1918年(大正7年)にドイツは降伏し、第一次世界大戦は終結した。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/f8/3e60eebafd6ac14fd5f5b7e9447da700.png ▽パラオ諸島
第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオはドイツの植民地支配を脱し日本の委任統治領になった。
コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった。
http://abyssny.fc2web.com/picture/palaumap.JPG
http://abyssny.fc2web.com/picture/palau.GIF ▽アンガウル島
パラオ南部の島。パラオ諸島南端、コロール島の南西約60キロメートルに位置する。
東西約3キロメートル、南北約4キロメートルの隆起サンゴ礁の島で、かつてリン鉱石を産した。
太平洋戦争の激戦地として知られ、戦跡や慰霊碑がある。
https://www.youtube.com/watch?v=Ss3xokSCzL8 ▽鈴木貫太郎−海軍省次官
▽秋山真之ー軍務局長
▽内田信也 〈のぶや〉
山下亀三郎、勝田銀次郎と並ぶ三大船成金の一人。
船舶事業で財を成した後、政界にも進出し宮城県知事、鉄道大臣、農商務大臣、農林大臣等を歴任した。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/utida/graph/a2.jpg ▽ドイツ南洋協会
調べたがヒットしなかった。
日本の南洋協会は、1915年(大正4年)、南洋諸島の調査研究、東南アジア地域の研究・開発を目的に結成された。
大日本帝国の植民地政策下における国策財団であり、いわゆる南進論の拠点的な存在だった。 ▽極貧の境涯
海軍によって「この島の開発と採掘」を命じられたのが、民間人の西沢吉治であった。
しかし、今度も「わが国の新領土の開発を一私人の手にゆだねていいのか」ということが帝国議会で問題となり、結局、一年で海軍省直営となった。 ▽南洋庁
ヴェルサイユ条約によって日本の委任統治領となった南洋群島(内南洋)に設置された施政機関。
所在地はパラオ諸島のコロール。その下に支庁が置かれた。
1922年に開設され、1945年の太平洋戦争敗戦時に事実上消滅した。 ▽八丈島
八丈島は、伊豆諸島の島。行政区分は東京都八丈町。
隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。
日本の気象庁による火山活動度ランクCの活火山である。1964年、富士箱根伊豆国立公園に指定された。
http://earth-d.com/images/Izu_islands.png ゾルゲル島なんて「ひとびとの跫音」には出てきません。
筆者になりすまして▽を使うのは、やめてもらえませんか。 ▽青ヶ島
伊豆諸島に属する火山島で、本諸島の有人島としては最も南に位置する。
西沢吉治は漁場の開発に乗り出したが、結局は失敗した。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201009/15/43/b0130243_14184373.jpg ▽吉治の東京での住まい
・芝区白金猿町
現在の港区の前身となった3つの区(芝区・赤坂区・麻布区)のひとつである。
その範囲は、現在の港区の範囲のうち、赤坂・青山・麻布・六本木を除くすべての地域にほぼ一致する。
・白金台町日吉坂
・芝高輪南町
・京橋八丁堀
・麻布
・西荻窪 ★西沢吉治−樺太
▽シベリア出兵
1918年から1922年までの間に、連合国(大日本帝国・イギリス帝国・アメリカ合衆国・フランス・イタリアなど)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分でシベリアに出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ。
アメリカは1918年の夏に出兵を決定した。アメリカと共同歩調を取ることを明言していた日本もこれにあわせて出兵を決定し、連合軍はウラジヴォストークに上陸した。
連合軍の中核であるイギリスやフランスは西部戦線に兵力を割かれていたのでそれ程兵力は多くなく、兵力の大半は日本やアメリカの軍隊であった。 1918年11月にドイツ帝国で革命が起こって停戦すると、連合国はシベリア介入の目的を失い、1920年には相次いで撤兵したが、日本軍は単独で駐留を続行した。
日本陸軍は当初のウラジヴォストークより先に進軍しないという規約を無視し、ボリシェヴィキが組織した赤軍や労働者・農民から組織された非正規軍たるパルチザンと戦闘を繰り返しながら、北樺太、沿海州や満州を鉄道沿いに侵攻した。
シベリア奥地のバイカル湖東部までを占領し、最終的にバイカル湖西部のイルクーツクにまで占領地を拡大した。
各国よりも数十倍多い兵士を派遣し、各国が撤退した後もシベリア駐留を続けたうえ、占領地に傀儡国家の建設を画策。日本はロシアのみならず、イギリスやアメリカ、フランスなどの連合国からも領土的野心を疑われた。
http://www.a-saida.jp/images/img/japon_interventy.jpg
https://miepvonsydow.files.wordpress.com/2014/12/bveizeu.jpg 大正7年8月2日 日本政府は出兵を決定、ウラジオ派遣の連合軍の編成は、大谷喜久蔵大将を浦塩派遣軍司令官として日本の第12師団(大井成元中将)、米軍2個聯隊(スタイア大佐)、英軍1個大隊(ジョン・ワード中佐)、仏軍1個大隊半(ピション中佐)からなり、こののち支那は2個大隊、伊軍は1個大隊を編成し連合軍に加わった。
また我が軍はこれとは別に満州方面から関東都督中村雄次郎中将指揮下の第7師団(藤井幸槌中将)ついで第3師団(大庭二郎中将)が編成されていた。
連合軍及びチェコ軍団は、果敢な進撃によってわずか2ヶ月たらずの間にバイカル湖以東、黒龍鉄道全線を占領した。
この勢いに支援されて、シベリアの政権はオムスクの反革命勢力であるコルチャーク政権に帰し、チェコ軍の背後の安全は確保された。
http://holywar1941.web.fc2.com/siberia.jpg ▽パルチザン
イタリア語の partigianoからきたフランス語で、占領軍への抵抗運動や内戦・革命戦争といった非正規の軍事活動を行なう遊撃隊およびその構成員を指す単語である。ゲリラの類義語である。
本章では、ロシア革命後のロシア内戦における赤軍の別働隊。 ▽世論をあげての出兵反対
1918 (大正7) 年、寺内正毅内閣はシベリア出兵を決定した。
シベリア出兵に対しては、国内世論を形成する新聞・雑誌、政党の大半は出兵に反対の立場をとっていた。
寺内内閣、陸軍の軍事行動は、当初より、「自主出兵」という、植民地獲得の侵略戦争を企図した作戦計画によるものであった。
チェコスロヴァキア軍を救出するための米国との「共同出兵」の形はとったが、派遣兵力数からみて「自主出兵」であった。 ▽沿黒開発株式会社
西沢吉治が設立しようとしたシベリア開発会社。
詳細は不明。 ▽樺太
1.1854年(安政元年):日露和親条約により、日露国境を樺太島上で定めず是までの仕来りによることを決定した。
2.1875年(明治8年)5月7日:樺太・千島交換条約締結により、日本は樺太島の領有権を完全に放棄し、全島がロシア領となる。
3.1905年(明治38年)9月5日:日露戦争勝利後のポーツマス条約締結により、北緯50度以南の樺太島(南樺太)がロシアより日本領に復帰。
4.1920年(大正9年):シベリア出兵の際、尼港事件の発生を受け、7月、日本はサガレン州派遣軍を派兵し北樺太を保障占領する。
5.1925年(大正14年)5月15日:日ソ基本条約締結にともない北樺太から撤兵する。条約により北樺太の天然資源の利権を獲得。 6.1945年:対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦を開始した。
その目的は南樺太の獲得と、次に予定された北海道侵攻の拠点確保だった。
戦闘後の南樺太はソ連(後にロシア連邦)によって実効支配されているが、日本政府は帰属未確定の地域であると主張している。 当時、南樺太には40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われた。
自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功した。
http://nanyo.club/wp-content/uploads/2016/05/kokuboufujinkai.png 南樺太は露助に侵略されたのだから、自衛戦争を起こして奪い返せるな。
戦争しようぜ。 ▽昭和8年8月
伊豆半島の東岸の村で西沢吉治没。享年62。
タカジはすでに非合法活動に入っていた。 ▽大正13年
タカジは大正11年に二高を中退して仙台を去る。
東京でニート暮らし。京都大学に入学した忠三郎にしばしば手紙を書く。
http://ds22.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~soumuka/50kinen/1_soritsu/1_img/fuzoku/a12.jpg >>159
Vaterはまだ居ます。
(司馬註:明治人間を家父長としてもった大正の青年の気分がよくあらわれている) 小説家・音楽家・役者……等々……そんな物がなんになるんだとVaterは目をむいて怒ります。 ▽犀利
文章の勢いや頭の働きが鋭いこと。また、真実を鋭くついているさま。
「犀」は動物のサイでもある。サイが鈍そうな動物なので、「犀利」の意味に一瞬違和感がある。
本章では、富永太郎の書簡文学が「犀利」であるといわれている。
http://free-images.gatag.net/images/201202031000.jpg しかし、富永太郎は上海旅行や京都滞留をするだけのカネがあった。
タカジとの違いは、父親が失敗した実業家か、公務員か、という点に存することはいうまでもない。 ▽しけた
カ行下一段活用の動詞「時化る」の連用形。
暴風雨で海が荒れるという意味の「しけ」を動詞化したもので、もともとは風雨で海が荒れること、更に海があれて不漁であることを意味した。
そして、この不漁という意味が転じ、不景気であることや金回りが悪いこと、
更にそこから気分が盛り上がらないこと、格好や雰囲気がぱっとしないことをしけるというようになる。
本章では、タカジの西沢家の家計を形容している。
※「なに時化た顔してんだよ」
http://d13n9ry8xcpemi.cloudfront.net/photo/odai/400/ffa6c72897dac8412a6a7b5bcf537b81_400.jpg ▽忠三郎さんの次男
大会社をやめ植木職の見習になった。 第7章 伊丹の家
ふたりで外出中、号外で戦争の勃発を知った。
宣戦布告という形式こそとられていないが、北京南郊の盧溝橋で日華両軍が衝突し、交戦がつづいているということは、このあとの段階をどのようにも深刻に予想することができた。
「こういうことがもし春におこっていたら、自分は結婚しなかったろう」
という意味のことを暗い表情とともに言われたときばかりは、あや子さんは驚くゆとりさえなく、足もとの土が暗い有漏のようなものに化って体が墜ちてゆくような感じがした。 ★伊丹
▽伊丹
摂津国川辺郡(尼崎市から川西市、猪名川町にまたがる猪名川沿いの地域)の郡衙がおかれていて、伊丹は古代より北摂猪名川地域の中心地だったようです。
伊丹氏を称する武士団が歴史資料に現われるのは南北朝の時代です。
平安中期以降、猪名川流域の新田開発が進み、京の貴族や大社寺の荘園が営まれ、その管理にあたっていた武士団の中から台頭したのが伊丹氏でした。
伊丹氏は、その後のおよそ300年にわたって伊丹を支配し、猪名川左岸に築いた伊丹城に居住しました。 元亀元年 (1570)、池田氏を下克上で追い落とし、その後、織田信長の家臣になった荒木村重が、伊丹氏を破り摂津の国の守護となった際、伊丹氏の居城伊丹城を有岡城と改名し、伊丹の町全体を軍事拠点として大改修しました。
天正6年 (1578)、荒木村重は信長に反旗を翻し、およそ10ヶ月にわたる攻防の末に有岡城は落城し、町も壊滅状態となったといいます。
江戸時代初め、伊丹は幕府の直轄領として代官の支配を受けていましたが、寛文元年 (1661)、伊丹の町の一部が摂関家の筆頭である近衛家の所領となり、幕末まで続くことになります。 ▽洪積台地
更新世(洪積世)において形成された平坦面が、その後隆起したことで形成された扇状地や三角州、台地の総称。
一般に小規模であり、牧之原台地には標高が200mに達する部分があるなど例外もあるが、標高も低い。
基本的に水はけがよく、比較的平坦かつ地盤特性が良好で洪水の心配もないため、建築基礎地盤として好条件にあることが多い。
水田には適さないため、畑作や果樹園、茶畑などに利用されることが多い。
http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/25397009397.jpg ▽西国街道
近世山陽道の別名。
京都(東寺口)から大山崎、高槻など、淀川右岸を通り、大阪市内を経ないで西国(下関、九州まで)へ至る江戸時代の重要な幹線道路。
http://livedoor.blogimg.jp/shihobe505/imgs/d/1/d1f81447.jpg ▽伊丹酒
兵庫県伊丹市で産した日本酒の一つで、将軍の御膳酒にも用達された。雅号ふうに丹醸(たんじょう)とも呼ばれる。
慶長5年(1600年)に伊丹の鴻池善右衛門が、室町時代からあった段仕込みを改良し、麹米・蒸米・水を3回に分ける三段仕込みとして効率的に清酒を大量生産する製法を開発した。
これはやがて日本国内において、清酒が本格的に一般大衆にも流通するきっかけとなった。
また、これを以て日本の清酒の発祥とみなす立場もあり、伊丹市鴻池には「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑「鴻池稲荷祠碑」(こうのいけいなりしひ)が残っている。
しかし、江戸末期から明治時代にかけ、大きく衰滅していき、天下に名をとどろかせた『剣菱』『男山』『松竹梅』などの伊丹発祥の酒銘の多くは、灘や北海道などの蔵元に移転・買収されていった。
https://jp.sake-times.com/sake_system_jp/wp-content/uploads/2017/04/sake_g_itamizake_innovation_00.png ▽灘五郷
「灘の生一本」で知られる日本酒の生産地。
兵庫県神戸市の東灘区・灘区と同県西宮市を合わせた阪神間の地域を指す。
かつては伊丹・池田が摂津の代表的な酒どころであった。しかし幕府が江戸に移って以降、当時の技術で品質を落とさずに江戸まで酒を輸送するのには困難がつきまとった。
そこで、伊丹・池田よりも輸送所要日数にして2・3日は短縮可能な灘地区が、江戸時代中期以降の上方酒の主流となっていった。
http://www.sawanotsuru.co.jp/guide/gogoh/gogoh_map2.gif ★加藤ひさ
▽正岡律
忠三郎とあや子の結婚式〔>>223〕の十日ほど前に、伊丹の新居を訪れる。 ▽玲瓏
美しく照り輝くさま。
本章では、忠三郎の実母ひさの顔・声・言葉を形容している。 ▽『大阪日報』
「大阪毎日新聞」の前身。
司馬さんは、勘違いをされている。
調べてみると、加藤恒忠が社長兼主筆となったのは、『大阪新報』である。
加藤拓川は、明治39年にジュネーヴで万国赤十字改正会議の全権代表になるが、伊藤博文と対立し、翌年に退職した。
その後、大阪新報社長兼主筆、大阪北浜銀行(現UFJ銀行)取締役となる。
『大阪新報』は改進党の機関紙になったが、政府の弾圧に備えて身代わり用に発刊されたのは、『大阪毎朝新聞』である。 >>408
名前は正岡明。
ついでに長男は正岡浩。
このスレの加藤ひさや正岡あや子に関する叙述は、その多くを正岡浩のネットの記述に負っている。 ★忠三郎とあや子の縁談
▽あや子の父方の叔母
京都帝国大学名誉教授・野上俊夫の妹ということになる。
姓名は不明。
お茶の水大学の同窓会で土居健子〔>>80〕に会い、忠三郎とあや子の縁談が始まった。 ▽竹馬の友
忠三郎の実父・加藤恒忠と土居健子の父・秋山好古は、ともに安政6年(1859)の生まれで竹馬の友。
※安政6年
安政の通商条約締結の翌年で、6月2日に神奈川・長崎・箱館を開港した。
初代英国公使オールコックが品川に到着。グラバー来日、長崎にグラバー商会設立。
10月27日に吉田松陰、死刑。安政の大獄の最後の処分者。 他藩にも同名の藩校がある。明教館は松山だけではないので注意。
1.松江藩の藩校(1784年-1863年)。
2.紀州藩が江戸藩邸に設立した藩校(1793年-)。
3.梶野良材が奈良奉行所に開いた学問所(1832年-)。またその後身の私学校(1872年-1874年)。 ▽鮒屋町
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時は、温泉郡松山鮒屋町(ふなやまち)であった。
加藤恒忠の生家である大原家があった。
いうまでもないが、姉の八重〔正岡子規の生母〕の実家でもある。
明治 21年 ( 1888 ) 年に、正岡子規の母八重と妹律は実家の大原家敷地内に移った。
つまり、加藤恒忠の生家は同一敷地内にある。
http://hw001.spaaqs.ne.jp/masami-usuki/img201.jpg
http://hw001.spaaqs.ne.jp/masami-usuki/img202.jpg もともと大原姓であった拓川が明治12年、ながく廃家になっていた加藤氏を継いだのは、一家の当主や長男は鎮台兵にとられずにすむという徴兵のがれのためで、こういう忌避法はこの時代の常識になっていた。
手近の例でいえば、この藩の剣術監の子にうまれた高浜虚子も、明治15年、祖母の生家の名跡だけを継いで池内姓から高浜姓にかわっている。 徴兵制が復活すれば、長く廃家になっている本家・分家の名跡の売買が行われることになるな。 死後も相続できる観念的な家督概念を復活させないと、現行の養子縁組制度の下では無理。 , '´  ̄ ̄ ` 、
i r-ー-┬-‐、i
| |,,_ _,{|
N| "゚'` {"゚`lリ
ト.i ,__''_ ! 戦争 やらないか?
/i/ l\ ー .イ|、
,.、-  ̄/ | l  ̄ / | |` ┬-、
/ ヽ. / ト-` 、ノ- | l l ヽ.
/ ∨ l |! | `> | i
/ |`二^> l. | | <__,| |
_| |.|-< \ i / ,イ____!/ \
.| {.| ` - 、 ,.---ァ^! | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
__{ ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
}/ -= ヽ__ - 'ヽ -‐ ,r'゙ l |
__f゙// ̄ ̄ _ -' |_____ ,. -  ̄ \____|
| | -  ̄ / | _ | ̄ ̄ ̄ ̄ / \  ̄|
___`\ __ / _l - ̄ l___ / , / ヽi___.|
 ̄ ̄ ̄ | _ 二 =〒  ̄ } ̄ / l | ! ̄ ̄|
_______l -ヾ ̄ l/ l| |___| ▽司法省法学校
司法省明法寮を起源にもち、現在の東京大学法学部の前身の一つである。
時の司法卿江藤新平の主導により設立された。
法学教育を担当したのは、フランス人御雇い外国人のボアソナードとジョルジュ・ブスケである。
1886年(明治19年)の帝国大学成立以前に「学士」の称号を与えることが出来た高等教育機関は、東京大学(旧制)のほか、司法省法学校、工部省工部大学校、開拓使札幌農学校、農商務省駒場農学校のみであった。
第四期生が司法省法学校としては最後の生徒で、文部省に移管された後、開成学校を前身とする東京大学法学部(旧制)と統合され、東京大学法学部仏法科となる。
加藤拓川は明治9年に司法省法学校に入学した。 ▽大阪府師範学校
教員伝習所は,1874年(明治7年)8月東本願寺難波別院(南御堂)掛所内に設置され,翌年8月に「大阪府師範学校」と改称されました。
1877年(明治10年)2月に西南の役が起き,難波別院が総督府に充てられたため,興正寺別院に移転しました。
秋山好古の入学は明治8年であるから、開校早々の時期である。
https://osaka-kyoiku.ac.jp/_img/kikaku/university/enkaku/img_1.jpg 加藤拓川のフランス留学……明治17年……大正12年(1923年)没
秋山好古のフランス留学……明治20年……昭和5年(1930年)没 ▽加藤たへ
ひさの手許で育てられていた末娘
ひさが天理教に入信したため奈良県丹波市の天理教本部に居を移し、天理教女学校に入学させられる。
※丹波市町
1954年まで、奈良県山辺郡にあった町。現在の天理市中心部から東の山間部にかけての一帯にあたる。
山辺郡の中心として郡役所の所在地でもあった。 ▽ひさの入信
大正9年〜10年頃〔>>369〕。
忠三郎は、当時、仙台の二高に在校していた〔>>34・>>221・>>302・>>401〕。
次兄六十郎〔>>218〕が結核で死亡したことが、ひさが天理教に入信した動機といわれている。 ▽みそっかす
味噌を漉した時に生じる滓のことで、価値がないものの喩えとして使われたり、
物の数に入らない者、仲間に入れてもらえない子供などを指して使われる言葉である。
まあ、おまいらのことと思っていれば間違いない。 ▽加藤家に奉公していた婦人〔>>217〕
執筆当時は、六甲に住んでいた老女。
加藤家が白金猿町にあったころ、当時小学生だった忠三郎さんの身のまわりの世話をした。
当時は小学校高等科を出たばかりの少女だった。
※白金猿町
西沢隆二も白金猿町に住んでいたことがある〔>>384〕。 ひさ「よく世間では子供への愛に軽重はないと云ひますが、事実はさうでないと思います」
_,..-――-:..、 ^^
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::::::::: ( ::;;;;;;;;:) そうやって六十郎だけ愛してりゃいいさ
_.. /⌒:::;;;;;ヽ
-― ―'ー'-''―-''/ / ::;;;;;;;;:| |―'''ー'-''―
,, '''' . ''''' と./ゝ_;_;_ノヽつ 、、,
,,, '' ,,, ::;;;;;;;;;::: ,, ''''' , ▽聖園たへ
次女たへ〔>>443〕は天理女学校を自主退学し、単身東京に出て、カトリック系の聖心女学校に入学した。
彼女は洗礼をうけてユスティチアという名になり、聖園テレジアの養女となる。 ▽聖園テレジア 〈1890−1965〉
ドイツ生まれ。大正2年に来日し、同9年、秋田市に聖心愛子会を創立。
のち聖園天使園、聖園病院などをひらく。昭和2年、日本に帰化。
戦後、神奈川県に聖霊会本部を設立した。昭和40年9月14日死去。74歳。 ▽野上あや子〔>>23〕
京都府立第一女学校
同志社女専英文科 ▽樫村清徳 〈きよのり〉
嘉永元年 (1848) - 明治35年 (1902) 。
米沢藩医樫村清秀の嫡子として生まれ、通称貞軒、葦舟と号した。
藩校興譲舘に学び、慶応元年(1865)17歳のとき江戸に出て西洋医学所に入り、ポンペの愛弟子松本良順の勲等を受けた。
樫村の娘ひさは、正岡子規の叔父でベルギー公使加藤恒忠に嫁し、その三男忠三郎は、子規の妹リツの養子となり正岡家を継いだ。
※左から4番目が樫村清徳教授
http://www.k2.dion.ne.jp/~drkimura/n.files/image006.jpg 忠三郎が阪急入社の挨拶をするために訪れた「阪急」が「半給」に聞こえる耳を持つ親戚の婦人とは〔>>30〕、
樫村家の婦人だろうな。 ▽韜晦
自分の本心や才能・地位などをつつみ隠すこと。
「韜」はつつみかくす、「晦」はくらます意。 ▽盧溝橋事件
昭和12 (1937) 年7月7日夜、北京南西郊の盧溝橋付近で、演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃がなされたことを契機に、日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第29軍との衝突に発展した事件。
日華事変の発端となった。中国では「七七事件」として知られる。
最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。
11日未明には一応現地で停戦が成立した。
しかし、当初不拡大方針を声明していたにもかかわらず、第1次近衛内閣は11日、内地3個師団の動員を決定。
軍部内でも、拡大派と不拡大派が激しく対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は次第に拡大し、同28日の北京・天津総攻撃の開始をもって全面的な戦争に突入した。
中国側ではこれを契機に第2次国共合作がなり、抗日の機運が高まった。
http://himg2.huanqiu.com/attachment2010/2013/0707/20130707112448124.jpg
http://hakkou-ichiu.com/wp-content/uploads/2016/11/232668_medium.jpg
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/j/jjtaro_maru/20120706/20120706224255.jpg ▽有漏
「漏」は、さまざまな心の汚れを総称して表す言葉で、広い意味で煩悩と同義と考えられる。
仏教では「流れ出る」「漏出」の意味に解し、汚れ・煩悩は六根 (視覚・聴覚など五官と心) から流れ出て、心を散乱させるものと説明した。
そのような汚れのある状態を有漏といい、煩悩に関わらない汚れが滅し尽された状態を無漏という。 ▽箴言
戒めの言葉。教訓の意味をもつ短い言葉。格言。
「箴言集」旧約聖書の中の一書。
道徳上の格言や実践的教訓を主な内容とし、英知による格言・金言・勧告が集められたもの。ソロモンその他の賢人の言葉と伝えられる。 第8章 子規旧居
それはともかく、獄中のタカジにとってこの全集で得た痛烈な発見は、
――あの上根岸の家が、子規の家だったのか。
ということであった。この滑稽なほどにあたりまえの事実の発見を、タカジは生涯おかしがった。 ▽子規庵の近所のそばや
そば屋の数が多くて特定不可能。
入道顔のあるじは、近所で商売をしていながら、子規庵をそば屋と勘違いした低学歴。 ▽かつて小さな借家だったこの家
子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋。
明治27年、子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進した。
大正12年の関東大震災の影響により、昭和元年に解体、旧材による重修工事を行った。
昭和2年、母八重 (83歳) 没。
昭和16年、妹律 (71歳) 没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。
現在の子規庵は、昭和25年高弟・寒川鼠骨等の努力で再建されたものである。
http://shikian.sub.jp/wp-content/uploads/2015/08/toji_siki.jpg
http://shikian.sub.jp/wp-content/uploads/2015/08/taisho_siki.jpg ▽極堂
柳原極堂のこと。慶応3年 - 昭和32年。
愛媛県出身の俳人である。
伊予国温泉郡北京町(現在の松山市二番町)に父・柳原権之助、母・トシの長男として出生。本名は正之、幼名を喜久馬。
明治28年(1895年)、日清戦争から帰還療養中の正岡を夏目漱石の愚陀仏庵に訪ね、松風会員とともに俳句の指導を受けた。
明治29年(1896年)には正岡に勧められ号を「極堂」に変え、明治30年(1897年)に月刊俳誌「ほとゝぎす」を創刊。
21号以降高浜虚子に有償譲渡した。
http://iyokannet.jp/ginkou/img/great_detail/pic_idai_syousai38.jpg
http://www.haisi.com/hototogisu/b.jpg ▽陸羯南の屋敷
下の画像の子規旧居と子規庵(本章サブタイトルの子規旧居はこちら)の間の屋敷。
子規は明治25年2月に陸羯南宅の西隣から東隣に移ります(下谷区上根岸82番地)。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/shiki/shiki-tokyo-map5.gif ▽芳雨
木村芳雨のこと。明治-大正時代の歌人。
明治10年生まれ。31年に発足した正岡子規の根岸短歌会に当初から参加、子規没後の歌誌「アララギ」にも関係。
鋳物工を本業とし、銅印の篆刻 (てんこく) にすぐれた。
大正6年5月22日死去。41歳。福島県出身。
※木村芳雨作になる夏目漱石の落款
http://myrp.maruzen.co.jp/press/souseki/1c_03.jpg ▽最上巴
陸羯南の四女。
「子規が亡くなるころは私は八つ九つでした、いちばん悪戯ざかりでした。女ばかりの姉妹の中でもいたずらで悪かったようです。
子規の家へは隣りですから、よく遊びに行きましたが、お医者さんからご注意があって、子規さんの病気が病気ですから両親も心配してあまりあがるんじゃないと言ってました」 ▽羯南の夫人
陸てつ子。
羯南は明治17年2月18日、28歳の時に結婚している。相手は、元敦賀藩の藩医、海軍軍医の今井元吉の長女てつ(16歳)である。
てつは、羯南との間に、一男七女をもうけた。
五人の娘が生まれたあとに明治32年4月に長男乾一が生まれ羯南を大いに喜ばせたが、乾一は翌年2月に早逝している。
結局てつの兄今井真吉の四男・四郎を、明治36年に養子として陸家の跡取りとした。 ▽葉山の一色の丘の家
神奈川県三浦郡葉山町一色
http://art9.photozou.jp/pub/641/1517641/photo/210206184_624.jpg
葉山の御用邸前のバス停を左にゆるやかな坂を上がったところに<パッパニーニョ>という名前の喫茶店がある。
この店のHPの右側に小さく写っている昔の板塀が、実は羯南の娘たちが暮らした家だった。
http://www.pappanino.com/images/shop_top.jpg この家に住んでおられたのは、四女の最上巴、五女のオシマサン、七女の五十子さん(執筆当時80歳)。 ▽芙蓉
アオイ科フヨウ属の落葉低木。種小名 mutabilisは「変化しやすい」(英語のmutable)の意。
「芙蓉」はハスの美称でもあることから、とくに区別する際には「木芙蓉」(もくふよう)とも呼ばれる。
http://www.hanakotoba.name/archives/images/fuyo.jpg
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/saijiki/image/huyou01.jpg ▽伊藤左千夫〔>>192〕
また出てきた。牛を飼っている俳人。 ▽鶯横丁
上根岸の子規庵に通じる小路のことではないか?
寺田寅彦が「夏目漱石先生の追憶」のなかで、
“高等学校を出て大学へはいる時に、先生の紹介をもらって上根岸鶯横町に病床の正岡子規子をたずねた”
と書いている。 鶯横丁というのは弓なりにまがっている。
板塀がつづき、そのむこうに楢や欅の大木が風のなかで梢をさわがしている。
横丁の道幅は一間ほどで、相変らずこの界隈は排水がわるく、黒っぽい道が気味わるいほど湿っていた。
子規の家の前までくると、真之の身動きが急ににぶった。
この一間幅の道からすぐ玄関の格子戸がみえる。
家のなかに人の気配がした。母親の八重か、妹の律か、どちらかであろう。
(『坂の上の雲』最終章「雨の坂」より) ▽河豚提灯
http://img02.hamazo.tv/usr/s/h/l/shlakers/1002tora3.jpg
『病牀六尺』の子規の文章を引用しながら、子規が豚の膀胱と見間違えた河豚提灯を、
八歳の巴さんが駝鳥の卵と見間違えるのは無理もないと、司馬氏は推理しておられる。
司馬遼太郎は推理小説を2作品残している(『豚と薔薇』と『古寺炎上』)。
卓抜した推理作家である司馬氏の見事なまでにばかばかしい推理であるといわねばならない。 最上巴「それへ子規さんがしっかり掴まったりなさいますと、なんといっても卵でございますから、アア、潰れちゃいますね」 ▽銀化ガラス
ローマングラスのキラキラの部分、つまり銀化した部分についてですが、これはガラスが土や砂の中に長い間埋もれていた場合に発生します。
ガラスの成分が周りの土に含まれる鉄や銅やマグネシウムの成分と化学変化を起こすのです。
埋もれている時間が長いほど、銀化した層が多く重なって光の反射も複雑になり、綺麗になっていきます。
http://ashibee.net/beach/ginka3brother.jpg
http://www.takasago.com/en/museum/west/images/c00003_640.jpg ▽葉山日影茶屋
葉山の地で創業三百余年日本料理の伝統向き合っている老舗。
歴史を感じられる日本家屋。庭園を眺めながら旬の食材を使った伝統的な日本料理や創作料理を堪能できる。
http://www.matsuya.gr.jp/images/paragraph/pg3201_1422511499.jpg 司馬さんは「日陰茶屋」としているが、「日影茶屋」が正しい。
※サザンオールスターズの「鎌倉物語」
日影茶屋では お互いに声をひそめてた ♪ 「鎌倉物語」の歌詞の真意は、日影茶屋のランチ・メニューである“ひかげ弁当”(3,800円)を注文した学生カップルが、
消費税が外税であることに気づかず、持ち合わせた金では400円ばかり不足することに気づいたんだ。
そこで、日影茶屋では お互いに声をひそめてた ♪ ▽陸四郎〔>>471〕
陸てつの兄今井真吉の四男。明治36年に陸家の養子となる。細菌学者。
阪大医学部細菌学教授谷口腆二は、助手陸四郎らと協力して、天然痘病原菌を素材として研究をつづけるうち
昨年末に至り漸く難染性病菌の染色に成功し動物実験では相当信念を得るようになっていたところ、
今回大阪府下の天然痘流行の機会を掴み、患者十三名と種痘二十類の実験において百発百中動物実験との一致を見、
膿疱中に無数の病菌を証明することができた〔大阪朝日新聞 昭和7.4.23〕。 ▽F名誉教授
おそらく藤野恒三郎氏のこと。
日本の医学者、細菌学者、医学史研究者。大阪大学名誉教授。神戸学院大学名誉教授。
1950年に集団食中毒の原因として腸炎ビブリオを発見した。
適塾を主とした近代医学史の研究でも知られる。魯迅の恩師として知られる藤野厳九郎の甥。
祖父藤野升八郎から三代続けての医家。
http://www.osaka-bunka.jp/pic_img/bunka/b1986_1.jpg ▽司法省法学校連袂退学〔>>439〕
「連袂」はレンベイと読む。
若い頃から漢字の読みを間違えるなんてことはほとんどなかった筆者であるが、
年老いて最近読み誤りが多い。レンペイと読んでしまった。
司馬は「連袂退学した」と書いており、自主退学のように読めるが、学校側が放校処分にした。
学業途中で寄宿舎の待遇改善行動(賄征伐事件)に関係したという理由である。
処分を受けたのは、原敬・国分青香E福本日南・加藤拓川・陸羯南。 ▽品格
「たけ」というルビが振ってある。
「たけたかさ」を調べてみたが、辞書にも載っていない。 旧制高等学校の学生寮などの食事は、発足時から賄〈まかない〉業者によって運営されていた。
しかし当時の寮食の内容は、学生の要求を満たすものではなかった。
そのことによる学生の不満が態度となって現れたのが賄征伐である。
賄征伐の動機は、食生活に対する不満だけではないとも言われている。
当時の寄宿寮は細かな決まりごとによって寮生の行動を規制していた。
それに対する寮生の不満やうっぷんが賄征伐という形で現れた。
明治学生生活の側面史をなすとも言われている。
本章の賄征伐事件は、明治12年 (1879年) 4月、原敬と陸羯南が中心となって寄宿生の「賄征伐事件」の処罰について抗議し、退校処分となった事件である。 司法省法学校の寄宿舎の食事は、朝食がパン・スープ・鶏卵、昼食が洋食1品、夕食が魚付きの日本食というメニューだった。
政府はこの食事を提供するため、一人当たり毎月4円50銭を負担していたが、実際には賄方による着服があり、金額に見合った食事内容にはなっていなかった。
1879年(明治12年)のある日曜日、法学校正則科の2期生は夕食をとろうとしたが、ご飯の量が少なかった。
それに納得しない学生たちは、もっと飯を寄こせと賄方に激しく要求し、食堂内は大騒動となった。
後日、学校側は賄征伐を行った学生約20人に対して、2週間の禁足(外出禁止)処分を下した。
ところが福本日南ら学生4人は、校長と論争になり、最終的に4人は身元保証人預かりとなった。
この処罰を受けて立ちあがった学生が原敬であった。
原は征伐には参加していなかったが、参加者から事情を聴くことによって、処罰反対の思いを強く抱いた。
そして陸羯南とともに学生代表として校長に抗議し、さらに、原は、同級生2人を連れ、当時の司法卿の大木喬任に直談判を行った。
事が司法卿にまで及んだことで自らの面目が保てなくなると感じた校長は、関係する学生16人に放校処分を下した。
この時放校された学生には、原のほか、陸羯南、福本日南、加藤恒忠、国分青崖がいる。 ▽原敬 〈安政3年 - 大正10年〉
父は南部藩士。苦学の末、明治9年 (1876) 司法省法学校に入学。12年に退学後、『郵便報知新聞』、『大東日報』の記者をつとめる。
外務省入省を契機に官界へ転進。外務次官などを歴任。
明治30年9月、官界から引退するが、伊藤博文を中心に結成された立憲政友会に参加。明治35年衆議院議員に初当選。
以後連続当選8回。政友会の実力者として西園寺公望総裁を補佐し、桂園内閣時代の立役者となる。
大正3年 (1914) 第3代立憲政友会総裁。大正7年首相となり、初の本格的政党内閣を結成するが、大正10年東京駅で暗殺された。
http://www.ndl.go.jp/portrait/260_260/427-53/001/0016_r.jpg ▽福本日南
新聞記者・政治家・史論家。筑前生。本名は誠。司法省法学校中退。
新聞「日本」の記者として活躍、のち「九州日報」の社長兼主筆となる。
また衆議院議員となり、犬養毅を助けた。
著書に『元禄快挙録』『豊太閤』等。大正10年(1921)歿、64才。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024001646.jpg ▽国分青崖 〈安政4年 - 昭和19年〉
明治・大正・昭和期の漢詩人。
陸奥国仙台出身。仙台藩士の国分盛久の子。名は高胤。
明治11年上京して、司法省法学校に入学するも、賄征伐事件に関連して、原敬、福本日南、加藤拓川、陸羯南と共に退学。
高知新聞を経て、明治22年新聞「日本」入社。 漢詩で時事を諷し、雄大な格調等により評価をうける。 ★タカジ - 同人雑誌「驢馬」
▽「驢馬」
詩雑誌。1926年(大正15)4月〜28年(昭和3)5月。全12冊。編集兼発行人窪川鶴次郎、11号以後宮木喜久雄。
室生犀星のもとに集まっていた中野重治、堀辰雄、窪川、西沢隆二、宮木、平木二六 (じろう) らが創刊した同人雑誌。
誌名は堀の提案により、表紙題字は芥川龍之介の主治医で俳人の下島空谷の揮毫。
伝統文学の良質部分を受け継ぎつつも、やがて革命文学を担う中野と20世紀文学を担う堀との同居が、大正末から昭和初期への同人雑誌群のなかでも重要な史的位置を占めた。
中野の詩「歌」、評論「詩に関する二三の断片」や、堀のコクトー、アポリネール、フランシス・ジャムなどの翻訳詩や詩論のほか、
犀星を介して芥川、萩原朔太郎、佐藤春夫ほかも寄稿。また準同人格で田島(佐多)いね子も詩を発表している。
中野を筆頭に、堀を除く他の同人たちはのちに革命文学・運動に参加していった。復刻版(1960・日本近代文学研究所)がある。 ▽中野重治 〈明治35年 - 昭和54年〉
福井県坂井市出身。東京帝国大学文学部独文科卒。
四高時代に窪川鶴次郎らを知り、短歌や詩や小説を発表するようになる。
東大入学後、窪川、堀辰雄らと『驢馬』を創刊、一方でマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、「ナップ」や「コップ」を結成。
この間に多くの作品を発表した。昭和6年に日本共産党に入ったが、検挙され昭和9年に転向する。
戦後再び日本共産党に入り、また『新日本文学』の創刊に加わった。
年には日本共産党と政治理論で対立をして除名された。神山茂夫とともに『日本共産党批判』を出版している。
代表作に小説『歌のわかれ』『むらぎも』『梨の花』『甲乙丙丁』、評論『斎藤茂吉ノオト』、詩集『中野重治詩集』などがある。
http://livedoor.blogimg.jp/pipponpippon/imgs/3/f/3f4ce78c.jpg 共産党関係者の年譜に出てくる西暦を、日本の元号に書き換えるときの快感( ^ω^ ) ▽窪川鶴次郎 〈明治36年 - 昭和49年〉
日本の文芸評論家。
静岡県菊川市出身。掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)から金沢の第四高等学校に進学し、中野重治と知り合う。
そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。
大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。
そのころ、田島いね子〈佐多稲子〉と知り合い、結婚する。
しかし昭和13年には、19歳年上の田村俊子との情事が発覚、夫婦仲が悪化し、昭和20年に二人は離婚、稲子は筆名を佐多稲子と改める。
http://www1a.biglobe.ne.jp/uchida/100senhp/100-023.jpg ▽堀辰雄 〈明治37年 - 昭和28年〉
東京府東京市麹町区麹町平河町五丁目2番地(現東京都千代田区平河町二丁目13番)にて出生。
実父・堀浜之助は広島藩の士族で、維新後上京、東京地方裁判所の監督書記を務めていた。
私小説ばかりになっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としてのロマン(西洋流の小説)という文学形式を確立しようとした。
フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、日本の古典や王朝女流文学にも新しい生命を見出し、それらを融合させることによって独自の文学世界を創造した。
肺結核を病み、軽井沢に療養することも度々あり、そこを舞台にした作品を多く残した。
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20170112002534_commL.jpg ▽田端の犀星宅
明治時代末期から昭和初期頃までの間、東京府北豊島郡滝野川町字田端(現在の東京都北区田端)近辺に多くの文士や芸術家達が集まり、いわゆる文士村が形成されていた。
大正3年に田端文士村の中心人物となる芥川龍之介が田端に引っ越してくる。
昭和2年7月24日、田端の街に衝撃が走った。芥川龍之介が自殺したのである。享年35であった。
室生犀星は心の整理がつかず、追悼文を誌上に発表したのは死後半年たってからである。
※室生犀星旧居跡地 (東京都北区田端5丁目)
http://burari2161.fc2web.com/PICT54591.jpg
http://www.designroomrune.com/magome/k/kondou/book3.jpg 司馬作品とまったく関係のない画像を貼ってる椰子って何なの?
そんなことして楽しいの? ▽佐藤春夫 〈明治25年 - 昭和39年〉
艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。
和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男として生まれる。
母・政代は旧紀州藩士で御庭奉行を務めた竹田家の娘。
佐藤家の家系は代々紀州の下里町で医を業とし、父の豊太郎に至って九代を数えている。
父の豊太郎は正岡子規に私淑した文人でもある。
本章では、西沢隆二と室生犀星を結びつける人物として登場する。
https://www.city.shingu.lg.jp/div/bunka-1/img/bungakusanpo/satou-haruo.jpg ▽『殉情詩集』
佐藤春夫の第1詩集。1921年 (大正10) 刊行当時までの詩約100編の中から23編が選ばれている。
少年期から青年期にかけての浪漫的な恋情を歌った〈少年の日〉〈ためいき〉、
谷崎潤一郎夫人の千代子との悲恋を歌った〈水辺月夜の歌〉〈或るとき人に与へて〉など、
今なお愛誦されている珠玉のような抒情小曲を収める。
ほとんどが今様や《梁塵秘抄》など伝統歌謡の技法を意識的にとり入れた古風な文語定型詩で、作者自身〈昨日の思ひ出に僕は詩人であり、今日の生活によって僕は散文を書く〉とも語っており、ことさら古風な体裁がとられているが、歌われている人間心理はまさしく現代人のものである。
http://shoshitakou.com/upload/save_image/l19008.jpg ▽松丸志摩三〔>>350〕
タカジの弟。昭和時代の農業評論家。
明治40年8月19日生まれ。朝鮮総督府畜産技師、同畜産課長をつとめ、
戦後は評論活動のかたわら千葉・静岡・宮崎の各県で酪農事業と「新しい村づくり運動」の指導をおこなった。
昭和48年11月7日死去。66歳。兵庫県出身。東京帝大卒。著作に「農民教育の焦点」など。
http://img06.shop-pro.jp/PA01022/973/product/19722265.jpg ▽大岡信〈まこと〉
昭和6年 - 平成29年4月5日
静岡県田方郡三島町(現・三島市)生まれ。父は歌人の大岡博。旧制静岡県立沼津中学校(現・静岡県立沼津東高等学校)を経て第一高等学校 (旧制)、東京大学文学部国文科卒業。
学生時代から詩人として注目され、読売新聞社外報部記者を経て明治大学教授となる。
1979年(昭和54年)より2007年(平成19年)まで『朝日新聞』で『折々のうた』を連載。菊池寛賞、読売文学賞など受賞多数。日本ペンクラブ11代会長も歴任。
九条の会に賛同する「マスコミ九条の会」呼びかけ人を務めている。
https://www.city.mishima.shizuoka.jp/media/05060040_jpg_20061024_radA4065.jpg ▽立教中学校
立教学院は1874 (明治7) 年、築地の外国人居留地に開かれた「立教学校」という名の私塾がルーツ。
その後「立教大学校」「立教専修学校」「立教中学校」などの名称を経る。
1907 (明治40) 年には「立教大学」を開設し、1918 (大正7) 年に現在地 (豊島区池袋) に移転した。
営団地下鉄日比谷線築地駅から200m南東。聖路加看護大学の構内にドーナツを半分に割った ユニークな形の立教学院発祥の地の石碑が建っている。
http://hamadayori.com/hass-col/school/rikkyo019.jpg 立教大学は日本聖公会系のキリスト教主義学校(ミッションスクール)である。
もともとは米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が設立した聖書教育と洋学教育の私塾である立教学校が母体。 ▽子規の上京……明治16年6月
▽浜町の旧藩主の邸
久松松平家15代・松平定昭が、明治5年に三田久松邸を売り払い、浜町の旧水野忠啓邸を求めている。
子規が寄宿したのは、この邸内のお長屋だと思われる。 ▽大学予備門
第一高等中学校、のちの第一高等学校の前身〔>>23 / >>191 / >>308 / >>512〕。
東京大学の予備機関として、東京開成学校普通科・官立東京英語学校を併せて、明治10年(1877)成立。
明治19年(1886)分離独立し、第一高等中学校となった。 ▽共立学校
現在の開成中学校・高等学校。
関東大震災前は神田淡路町にあり,1871年の設立時から1895年まで共立学校と称した。
神田淡路町は、現在の小川町駅(都営地下鉄新宿線)の近くにある。
1878年には高橋是清が校長に就任し、大学予備門進学者のための受験予備校として勇名を馳せた。
大学予備門の定員約450名に対して、共立からの進学者は50名〜100名を占めた。
http://www.trancewave.tv/~iyosaiken/siki/2001/2001_04/image03.jpg ▽高橋是清
嘉永7年、幕府御用絵師・川村庄右衛門(47歳)ときん(16歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に生まれた。
是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になる。
明治6年、サンフランシスコで知遇を得た森有礼に薦められて文部省に入省し、十等出仕となる。
英語の教師もこなし、大学予備門で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ち、そのうち廃校寸前にあった共立学校(現・開成中学校・高等学校)の初代校長をも一時務めた。
教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之がいる。 ▽パーレーの万国史
Peter Parley’s Universal History, on the basis of geography
これは、ピーターおじさんが世界の歴史を語るという形式で書かれた本で、福澤諭吉が日本に持ち込み、福澤塾で使ったことからその教え子たちを通して全国的に広がり、文明開化期の日本では英語力を推し量る指標となりました。
http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/img/TUKB/TUKB-00730/TUKB-00730-02.jpg ▽隈本有尚〈ありたか〉
万延元年 - 昭和18年。久留米藩士の子として後の久留米市螢川町に生まれる。
幼名は井上木六郎。生後まもなく隈本家の養子となる。
日本で初めてマトリックス代数を紹介した数学者。福岡県立中学修猷館初代館長、長崎高等商業学校初代校長、朝鮮総督府中学校初代校長。
東大予備門教諭の教え子には夏目漱石、正岡子規らがおり、夏目漱石の『坊っちゃん』に出てくる数学教師・山嵐のモデルともいわれている。
http://shuyu.fku.ed.jp/html/siki/photo/H19_1_9/kumamotoM27-M34.JPG ▽卑陋
品性・言動などがいやしいこと。見識などが浅はかであること。 司馬遼太郎は大阪から遠く離れた旧制弘前高等学校の受験に失敗している。
その後、昭和16年 (1941) 大阪外国語学校に入学する。
彼がこの大学を選んだ理由は明快だ。国立大学で数学入試のないのはここだけだったからである。
司馬遼太郎の正岡子規に対する強いシンパシーの秘密は、ここから簡単に推測できる。
正岡子規も司馬遼太郎も、受験弱者かつ数学嫌いだったのである。 頭の良い人の共通項を探すのは困難であるが、
頭の悪い人の共通項を見つけ出すのは簡単である。
頭の悪い人は、数学ができない。 >>520
『坊っちゃん』に登場する山嵐のモデルが判明したのには感動しました。
これからも、このスレッドを応援しています。 ▼須く〈すべから‐く〉
[副]《動詞「す」に推量の助動詞「べし」の付いた「すべし」のク語法から。漢文訓読による語》
多くは下に「べし」を伴って、ある事をぜひともしなければならないという気持ちを表す。当然。ぜひとも。
「学生は須く学問を本分とすべきである」
[補説]
文化庁が発表した平成22年度「国語に関する世論調査」では、「学生はすべからく勉学に励むべきだ」を、本来の意味とされる「当然、ぜひとも」で使う人が41.2パーセント、本来の意味ではない「すべて、皆」で使う人が38.5パーセントという結果が出ている。 第9章 子規の家計
子規は鼠骨の就職希望が「朝日新聞」にあるらしいことに気づいていてひどく不快がり、極めて沈着な調子で、以下のように諄々と説示した、というのである。
人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどヱライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりヱライのぞな。
収入の多寡は人の尊卑でない事ぐらゐ分つとろがな。
人は友で択ばんといかん。「日本」には正しくて学問の出来た人が多い、他の新聞社には碌な人間は居ないぞな。 子規の主張内容に全面的に賛同はできないが、子規の文章には魅力があるな。 ★伊丹の正岡家
▽驥尾に付す
小さな蝿が、一日に飛ぶ距離は、せいぜい知れていますが、驥という 馬は、一日に千里も走るとても優れた馬のことで、この馬のしっぽに、蝿が、 くっついていけば、とても飛べそうにない遠い所まで行くことができる、ということから生まれたことわざのようです。
すぐれた人に従って行けば、何かはなしとげられる。
先達を見習って行動することを、へりくだった気持ちでいう言葉。
http://www.m-gakusei.com/swfu/d/auto_3HLNsa.jpg >>529
卒中で倒れた忠三郎さんの治療費を稼ぎ出すためのステマだよ。 ▽エボナイト(英語:ebonite)
ゴムの一形態である。硬く光沢をもったゴムで、外観が黒檀(ebony)に似ていることからエボナイトと呼ばれる。
開発者はチャールズ・グッドイヤーであり、生ゴムを長時間加硫して硬化させたものである。
https://www.pen-house.net/contents/html/images/longproducts/ebonite/top.jpg
※加硫
架橋反応の一種で、ゴム系の原材料を加工する際に、弾性限界を大きくするために、硫黄などを加える工程のこと ▽垂死 〈すいし〉
今にも死にそうな状態。瀕死。
※「垂んとす」〈なんなんと・す〉
《「なりなんとす」の音変化》
その状態になろうとしている。もう少しでそれに及ぼうとする。
→死なりなんとす →垂死 >>527
正しい日本語を勉強しよう。
「言葉は生き物。変化するのが当然」という屁理屈で誤用・誤読をすべて肯定することは、不勉強の助長になりかねない。
その分野の研究も不要ということになれば、文明の衰退である。 ▽落第児帰来
大正9年:六十郎の死〔>>444〕
大正12年:忠三郎は前年に二高〔>>34・>>221・>>246・>>302・>>401〕で落第している。 ▽ニコライ・ハルトマン 〈1882年 - 1950年〉
ドイツの哲学者。ハイデガーに先行するドイツ存在論哲学の巨匠。
新カント派を継承しつつフッサールの影響下に現象学的美学を立ち上げ、20世紀初頭の思想界に絶大な影響を与える。
https://www.gerhard-richter.com/datadir/images_new/xxlarge/5837.jpg
▽『美学』
芸術美ばかりでなく自然美をも視野に収め、日常生活者の実感に符節する待望の名著。
本章では、明治23年9月に、在仏の拓川が子規に贈った書物として登場する。
http://www.koshokaitori.com/wp/wp-content/uploads/2017/07/0a4830f6e391e1963b6a3fa8b967954c.jpg ★子規の家計
▽藤田杉番 〈さんばん〉
松山の俳人。詳細は不明。 ▽茂野冬篝
「子規居士研究」という著作があるということ以外、詳細は不明。 ▽没落士族
明治2年:居宅が火事で焼失する(子規3歳)。
明治5年:父隼太が死亡(子規6歳)。〔>>57〕
明治8年:外祖父・大原観山病歿。〔>>199〕
それ以来、正岡家は大原家の家督を継いだ大原恒徳の後見をうける。〔>>112〕 ▽秩禄処分
明治政府が1876年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策である。
秩禄処分は、かつての華士族の特権であった禄を強制的に取り上げ、期限付きでわずかな利子しか受け取れない公債に替える急進的な改革であった。
華士族と言ってもそのほとんどは士族であり、家族を含み人口のわずか5%程度であった士族が、何の官職につかなくても国家財政の4割弱を受け取ることには批判があった。
江戸時代を通じ、士族の土地所有権は次第に否定され、主君への忠誠および武力の提供と引き換えに禄を受け取るという概念が形成された。
維新後は、地租改正により農民の土地所有権が国家によって承認される一方で、士族の土地所有権は否定された。
士族による武力の独占的提供義務は徴兵令で失われ、廃刀令によって士族の特権と誇りも失われつつあった。
士族自身も近代国家建設のため旧特権を廃止することの必要性は理解していた。
一方で、旧藩主階級は公債額の算出根拠となる家禄が旧藩収入の一割とされるなど優遇され、華族となることで様々な恩恵を与えられ、また東京居住を強制されることで旧家臣団からは切り離された。
これらが、秩禄処分が極めて小さい抵抗の下で実行された理由である。 ▽第五十二国立銀行
明治10年12月8日、旧松山藩士族を中心とした6名が国立銀行設置を大蔵省に請願した。
大蔵省は明治11年2月7日付でこれを認可している。開業は同年9月25日である。
初代頭取の小林信近は伊豫鉄道の初代社長ほか、松山市議会議長、愛媛県議会議長も務めている。
http://www.iyobank.co.jp/library/new/main/about_iyo/enkaku_ayumi/M11_52main.jpg ▽常盤会〔>>108〕
常盤会とは、明治16年に創設された旧伊予国松山藩主久松家による在京の旧藩士子弟たちの学資援助組織である。
久松家は、明治維新後浜町2丁目に屋敷を構えており、常盤会はこの屋敷内に設置されていた。
明治17年の初代給費生10人の中に俳人正岡子規がいた。
子規は明治16年6月、故郷松山から単身上京し久松邸の書生部屋に寄寓しており〔>>515〕、翌年給費生に選ばれたことを半生の喜びの一つだと述べている。
常盤会は、明治20年に本郷真砂町の坪内逍遥邸跡に寄宿舎を創設、子規も明治21年9月から24年暮れまで書生として過ごしたとある。 ▽『日本』〔>>495〕
『日本』は、明治22年2月11日から、大正3年12月31日まであった日刊新聞。
明治21年創刊の日刊紙『東京電報』の後身として、『日本新聞社』から発行された。
社長兼主筆としては陸羯南が就任し、編集長は先ず古島一雄、そして浅水南八・五百木瓢亭・古島と代わった。
子規の入社は、明治25年11月中旬である。 ▽柳原極堂〔>>465〕
「友人子規」(昭和18年)
子規の幼馴染である柳原極堂が執筆した子規の評伝。「俳人子規」を描いている「子規・漱石」(高浜虚子)、「子規を語る」(河東碧梧桐)と違い、こちらは「学生子規」のエピソードが中心となっています。
文学的な難しい話はどうも苦手だという方にはこの「友人子規」がお勧めです。
内容としては子規の生家、家族、小中学校時代、そして帰省時など、松山における子規の逸話を集めた「郷里松山編」と、上京後に下宿先を転々とした子規の足跡をたどっていく「東京編」の2編構成。
柳原一人の記憶だけで綴るのではなく、多くの同郷・同窓の関係者に取材して得た情報を元に構成されているので、学友達が語る様々なエピソードから子規の学生時代をより身近に感じることができます。
子規と秋山兄弟が同居していたかもしれないという興味深い推論もあります。 ▽「小日本」
子規は明治25年、陸羯南が社長兼主筆を務める新聞「日本」に入社。
27年2月から編集主任として同年7月まで家庭向きの日刊紙「小日本」を計130号制作した。
http://www.ozorasha.co.jp/shonihon.jpg ▽「ホトヽギス」
合資会社ホトトギス社が発行する俳句雑誌。
1897年(明治30年)に正岡子規の友人である柳原極堂が創刊した〔>>465〕。
夏目漱石が小説『吾輩は猫である』『坊っちゃん』を発表したことでも知られる。
明治期には総合文芸誌として、大正・昭和初期には保守俳壇の最有力誌として隆盛を誇った。 ★写生
▽内藤鳴雪〔>>109〕
名は素行。文部省参事官を経て藩の常盤会宿舎の監督となり、舎生の正岡子規の影響で、句作を始める。
豊かな学識と古典的格調を持つ俳人として知られる。大正15年 (1926) 歿、80才。
http://www.i-unic.com/contents/kuhi/image/kuhi_36i.jpg
▽「正岡子規論」(明治40年)
〔子規は〕文学上の理想も強がち哲学的の考を有して居る訳でなく、只日常眼前の美的趣味を歌ふと云ふ丈で、人生観も人間観以上はなかった。 ★加藤拓川
▽当時、医者代は半年ごとの支払いであった
民法170条1号の意味が、やっと理解できました。
民法170条
左ニ掲ケタル債権ハ三年間之ヲ行ハサルニ因リテ消滅ス
一 医師、産婆及ヒ薬剤師ノ治術、勤労及ヒ調剤ニ関スル債権 ▽恬淡
あっさりとしていて、名誉・利益などに執着しないさま。
意味はかねてより知っておりましたが、好きな言葉なので乗せました。
筆者の理想の生き方です。 ▽石手川
重信川水系の支流で、愛媛県松山市を流れる河川。上流には石手川ダムがあり、松山市の上水の約半分を供給している。
本章では、拓川の号の由来として述べられている。
云うまでもないが、石に手偏に川。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/2e/770488bdae048b2da4af000f1a81df05.jpg >>537
井上ひさしについて書かれた司馬遼太郎の評論に次のうな文章があったと記憶している。
井上ひさしが中学生留学生の身元保証人になったときの話。
彼はその留学生に日本語辞書をプレゼントした。
1年後その辞書を見た井上が驚いたのは、中国人留学生は辞書がボロボロになるまで勉強していたということ。
若者の憧れの職業が歌手・芸人というどこかの国は、後進国に負けてしまうぞ。 そんなに歌手や芸人になりたいのなら、四条河原で乞食をやってろ。 第10章 拓川居士
馬というものは睾丸を抜き取るとおとなしくなり、強くもなる、
自分はそのことを知っていますからお話は実によく腑に落ちました、
が、抜き取った後のことまで考えなかったのは失敗でした、
(自分の)睾丸は取り出せたが痛くてたまらず、しかし人を呼ぶにも言葉がわからず、
たまりかねて窓から上半身を出して、日本語で「助けてくれ」と叫んだんです、と言った。 ★子規
▽上京ー明治16年6月〔>>515・>>545〕
大学予備門〔>>516〕受験準備のため上京 ▽布引の滝
布引の滝は、神戸の市街地からすぐの所にあります。
新幹線『新神戸駅』から2分ほど歩けば、木々に覆われた自然を楽しむことができます。
http://www.city.kobe.lg.jp/life/town/waterworks/water/arakaruto/img/002_04.jpg
本章では、上京のための船旅で神戸に寄航した子規が、布引の滝を見物した。 ★拓川
▽明治9年−司法省法学校入学〔>>439〕
▽明治12年−連袂退学〔>>488・>>490-491〕 ▽秩禄公債
明治6年(1873年)12月27日に出された太政官布告第425号に基づき、家禄・賞典禄を自主的に奉還した者に対して起業資金を与える目的で起こされた公債のこと。
奉還に応じなかった残りの華族・士族に対して数年後に強制的に配布された金禄公債〔>>543〕とは異なる。
司馬氏は秩禄処分の際(明治9年)に交付された金禄公債をも含めてアバウトに秩禄公債と言われている。
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/contents/dzi/k/do/chitsuroku_bond/0000000701/0000000701_L.jpg ▽池内信嘉 〈安政5年 - 昭和9年〉
能楽研究家。
伊予国松山出身。高浜虚子〔>>201〕の兄。号は如水・如翠。
愛媛師範学校卒業後、教職に就く。のち養蚕事業を興し、愛媛県会議員を務めた。
明治35年上京、能楽館を設立して「能楽」を発行。
大正12年、東京音楽学校に能楽囃子科が設置され、同校の嘱託教師となり、のち教授。能楽会理事。
http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/23007006632.jpg
本章では、加藤拓川の幼な友達として登場する。 ▽浜町の書生小屋〔>>515・>>545〕
▽正岡子規『筆まか勢』
▽澹泊=淡白 ▽府県会
廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸長会などの名目で地域代表による諮問機関が設置されるようになっていたが、
1878年(明治11年)に府県会規則が制定されると、翌年より同法に基づいた府県会が各地に設置された。
府県会規則の選挙権は年間地租5円以上納付の満20歳以上男子、被選挙権は同10円以上納付の25歳以上の男子に限定され、
権限も地方税に基づく経費の予算とその徴収方法の審議に限定され、
更に地方長官あるいは内務卿が国家の安寧を害し、法律規則を犯すと認めた場合には会議の中止・解散・閉会を命じることが可能であった。 ★フランス語
▽村上英俊
文化8年(1811年)- 明治23年(1890年)。日本で初めてフランス語を習得したことで知られる。
下野国那須郡佐久山の医師村上松園の長子として生まれる。文政7年(1824年)に父とともに江戸に移り、宇田川榕菴に蘭学を学ぶ。
天保12年(1841年)信濃国松代藩主真田幸民に藩医として仕官し、佐久間象山の下でベルセリウスの『化学提要』フランス語版を和訳し、
安政5年(1857年)には蕃書調所で日仏間の条約を翻訳し、多くの弟子にフランス語を教授した。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ykawa/2nen2005/groupeD/image015.jpg ▽猿江
東京都江東区の地名で、旧深川区にあたる深川地域内である。
都営新宿線の住吉駅周辺。筆者は降りたことがない。森下の次の次の駅。
本章では、村上英俊が明治元年(1869年)に仏語塾「達理堂」を開いた町として登場する。
http://tokyo-skytree-navi.com/images/photo/15100/001.jpg ▽中江兆民
弘化4年(1847年) - 明治34年。
高知城下の山田町(現・高知市はりまや町三丁目)に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。
明治7年(1874年)6月にフランスから帰国し、東京麹町に住み、8月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開く。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視された。
また、18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約訳解』の校訂に携わっている。
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102823.jpg ▽パリ・コンミューン
普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言した。
このパリ・コンミューンは約2ヶ月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。
マルセイユ(1870年9月5日宣言)、リヨン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ、ナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブル、リモージュなどの、7つの地方都市でも同様のコンミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/k/kawaguchi-yukihiro/20070207/20070207101528.jpg ▽幸徳秋水 〈明治4年 - 明治44年〉
高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。
幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。
なお、妻・師岡千代子の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。
明治20年に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。
明治35年、前年に死去した中江兆民を追悼する『兆民先生』を発表。
明治43年6月、大逆事件において逮捕され、翌年、有罪・死刑判決を受け、1月24日処刑された。
http://hal1.net/wp-content/uploads/2015/08/p1910.jpg ▽『エミール』
1762年に刊行されたジャン=ジャック・ルソーの小説風教育論。正式名称は『エミール、または教育について』(仏: Emile, ou De l’education)。
近代教育学の古典であり、ルソーが教会と政府の追及を受け、スイスへと逃亡・放浪生活を送ることになる契機となった著作でもある。
エミールの物語を通し、当時のフランス特権階級の教育のゆがみと、児童の本性を尊重して自由で自然な成長を促すことが教育の根本であることを説いている。 ▽岡松甕谷〈おうこく〉
文政3年(1820年) - 明治28年。幕末・明治時代の漢学者。
豊後国大分郡高田手永上徳丸村(大分県大分市丸亀)に、岡松数右衛門真友の次男として生まれた。
明治9年(1876年)2月東京の旧友の誘いで上京し、紹成書院を設立し、中江兆民等を教えた。
https://stat.ameba.jp/user_images/96/43/10039098066_s.jpg ▽仏学塾
後藤象二郎は中江を評して、彼は三国志に出てくる禰衡だと言っていたという。
禰衡は酒興に名をかり、全裸体となって宴席上に踊り出て、権勢並ぶものない曹操を罵倒した人物である。
この後藤の批評は中江を知る者の共感を集めたらしく、中江=禰衡論は広く人口に膾炙するところとなっている。
兆民は自分が開設した「仏学塾」の学生達と近くの飲屋に行って談論風発するのが常だった。
学生達は、師匠の兆民を平気で、「中江君」と呼び棄てにし、兆民の方も淡白にこれに応じていた。 ▽山口守太郎
司馬氏は「山口守太」としているが、誤り。守太郎が正しい。
福島県三春町出身の河野広中は、多くの同志たちと民権運動に参加し、三春に政治結社「三師社」、青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設し、数多くの運動家を育てた。
山口守太郎は、その中の一人。山口は「加波山事件」で逮捕され、獄死した。
本章では、中江兆民の仏学塾の様子を語る人物として登場する。
加波山事件(明治17年)では、他に琴田岩松を含む7名が死刑、河野広体ら5名が無期徒刑となった。 ▽「政理叢談」
中江兆民主宰の仏学塾から出版された欧米思想を紹介する雑誌。明治15年2月20日創刊。
7号から「欧米政理叢談」と改題。ルソーの「社会契約論」を訳した兆民の「民約訳解」が連載された。翌年12月、55号で休刊。 ★子規
▽明治16年6月14日
新橋駅 →旧藩主邸 →本郷弓町
▽本郷弓町
柳原極堂正之の下宿があった。そこに三並良がいた。
本郷弓町は東京ドームの東。文京区本郷1丁目。 ▽久松定昭
弘化2年(1845年)- 明治5年(1872年)は、幕末の大名・老中。伊予松山藩第14代藩主、知藩事。
伊勢津藩主・藤堂高猷の五男。母は側室橋本氏の娘。兄に藤堂高潔、黒田長知、脇坂安斐がいる。
鳥羽・伏見の戦いでは前将軍徳川慶喜に従ったとして朝敵の汚名を受け、蟄居謹慎を命ぜられる。
http://www.matsuyama-guide.jp/member/06/Matudairasadaaki.jpg ▽久松定謨〈さだこと〉
歩兵第1旅団長・歩兵第5旅団長を歴任し、階級は陸軍中将。
慶応3年(1867年)静岡の旗本・松平勝実の三男として生まれる。
明治5年(1872年)伊予松山藩主松平定昭が逝去し、その遺言によって家督を相続する。
明治16年(1883年)11月、フランスに留学する。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/sumai01/20160107/20160107200836.jpg ▽西原義任
明治24年8月23日(日)
午後一時、三番町写真館にて河東静渓を囲み千舟学舎同窓諸生の記念撮影。
集まる者、静渓、子規、西原義任、清水政則、五島武雄、柳原正之、太田正躬、安長知之。
その後、汽車で三津に行き溌々園で会食。 本章で西原義任は、加藤拓川から生まれて初めてビールという飲み物を振舞われた人物として登場する。 ▽松平勝善
司馬さんは「静岡で窮迫していた親戚の旧幕臣松平勝善」と述べられて久松定謨の実父としているが、大ウソです。
松平勝善は、伊予松山藩12代藩主。つまり、久松定昭の先々代。
薩摩藩主・島津斉宣の十一男。天保3年(1832年)、松平定通の養嗣子となる。
天保6年(1835年)、養父の卒去により松山藩15万石を継承する。 そろそろ司馬さん、怪しくなってきたなw
定謨の実父は、松平勝実〔>>586〕。 ▽久松家の家祖
松平定勝。徳川家康の異父弟。定勝系久松松平家宗家初代。
永禄3年(1560年)正月、久松俊勝の四男として尾張国阿久居城で誕生する。
久松松平家の分家旗本の子孫に、元NHKのアナウンサーで泥酔してタクシー運転手を殴った松平定知がいる。
http://masudai-0813.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_998/masudai-0813/9744c4fc.jpg 幸さん(三並良)は、忠さん(拓川)に小便をかけたがな。 ▽石井菊次郎
慶応2年 - 昭和20年。日本の外交官、政治家。
第2次大隈内閣で外務大臣を務め(大正4年)、国際連盟設立期には日本代表を務めた(大正9年)。
特使としてアメリカで締結した石井・ランシング協定にその名を残すことでも知られる(大正6年)。
http://100nenmae-shimbun.jp/archives/001/201601/95e4d989e179170f4f228b6e58e42102.jpg
本章では、加藤拓川の外務省時代の同僚として登場する。 ∧_∧
( ´Д`) あしがどうもせんのに、幸さんが小便をかけたがな
/ \
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|| |。:゚:゚:。
\\_ 。゚/ ゚。:。:。
/\_ン∩ソ\ :。:゚:。
/ /`ーー\ \::゚。:。
| | / /.:゚:::
\ \ / /:゚::゚::。
> ) ( 旦旦旦旦旦
(_/  ̄旦旦旦旦旦 ▽料亭「東屋」
現存しない。
東屋は木母寺の境内にあった。
木母寺に不思議な石塔がふたつあります。何れも料理屋のそれであります。八百松〔東屋〕は焼き鳥、植半は芋・蜆・卵焼きが有名でした。
創業は徳川家光が隅田川御殿を足がかりにして、鷹狩りをした頃までさかのぼれる。当初は木母寺境内で腰掛茶屋程度であったのが、
四代植木屋半右衛門になって小料理屋になり、一人娘のお鉄は七代目団十郎などと深く付き合うことにより、江戸でも有数の料理屋になった。 ▽岩村高俊
宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。
司馬作品では『花神』に登場する。
北越戦争で山道軍を率いて越後国の長岡に迫り、小千谷の慈眼寺にて長岡藩家老河井継之助と会談する。
だが、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を「時間稼ぎであろう」と全く聞く耳を持たず交渉は決裂、結果として長岡藩は新政府軍の敵に回って激戦が行なわれた。
また、佐賀の乱を描いた『歳月』では、佐賀県権令として登場する。
本章では、愛媛県令時代の「民権家」岩村高俊が登場する。
http://www.city.sukumo.kochi.jp/sbc/history/sisi/img08/p0839.jpg ▽松山中学校の初代校長
草間時福〈ときよし〉のこと。
京都の士族・下田好文の子として生まれ、のち草間列五郎の養子となった。
安井息軒、中村敬宇に学び、1874年(明治7年)4月2日に慶應義塾に入塾した。
愛媛県権令岩村高俊の求めに応じて仲介役を務めた末広重恭の推薦により、藩校明教館校舎内に新設された愛媛県英学所(現・愛媛県立松山東高等学校)の初代校長兼教頭として四国松山に赴任することになった。
夏目漱石や正岡子規に影響を与えたことでよく知られている。
http://www.tsushin.keio.ac.jp/assets_c/2017/02/5f281e93c3108539926e678beafefe0d28e01908-thumb-300xauto-225.jpg ▽海南新聞
1944年「愛媛新聞」と改題。
1970 - 1980年代前半は坪内グループの日刊新愛媛と熾烈な部数競争を展開し、一時は日刊新愛媛の後塵を拝した。
1986年の日刊新愛媛の廃刊により県内一紙体制となった。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/84/2f659582d9b9ba1fad439aa9e8af8ab5.jpg
本章では、草間時福が一時「海南新聞」の主筆として論説を執筆していたことが触れられている。 ▽嵌合
ぴったりと合うように入れ込む。はめ合わせる。 ▽イギリス風の経験論
人間の全ての知識は我々の経験に由来するとする哲学上の立場。
例:ジョン・ロックの「タブラ・ラサ」=人間は生まれたときは白紙である。
大陸合理論では真理への探求法として、数学に代表されるように論理的な考察による演繹法〔三段論法〕を重視したが、一方のイギリス経験論は経験の積み重ねから真理を見つけ出す帰納法を重視する。
歴史上の人間はみんな死んでいる。だから人間はみな死ぬんだろうという考え方です。 ★フランス留学
▽明治17年1月−パリ到着
▽サンシール士官学校
1802年5月1日創立。創立者はナポレオン・ボナパルト。
軍民の大学で優秀な成績を修め、学士号を既に持つ者だけが入学することができる。
http://www.bordeauxpalaisbourse.com/wp-content/uploads/2015/06/Photo-promo-2.jpg
本章では、加藤拓川の旧藩主である久松定謨〔>>586〕が入学した。 ▽久松家の執事
「忠さんも勉強をおし」と言ってくれた人。 ▽加藤拓川「愛国論」
世間に瀰漫している愛国主義を嫌悪した拓川がフランスで書いた論文
▽瀰漫
(ある気分・風潮などが)広がりはびこること。 ▽取締条例
ここでは明治16年(1883年)4月16日に改正された新聞紙条例を指している。
新聞紙条例は数回改正されたが、明治16年改正は俗に「新聞撲滅法」とも称され、1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減した。
讒謗律は、新聞紙条例と同じく明治8年に布告されたが、明治13年(1880年)の旧刑法制定に伴い消滅した。 ▽清仏戦争
1884年(明治17年)に起きたベトナム支配権をめぐる清とフランスの戦争。天津条約で講和し、清朝がベトナムの宗主権を放棄した。
フランスはナポレオン3世時代の1856年にインドシナ出兵を開始し、1862年のサイゴン条約でベトナム南部を割譲させ、
さらに第三共和政時代にユエ条約(1883年)などでベトナムを保護国化した。
ベトナム(阮朝)の宗主国であることを主張する清はこれを認めず、ベトナム北部トンキン地方に出兵し、劉永福の指揮する黒旗軍と協力してフランス軍に対抗し、1884年6月、清仏戦争となった。
http://www.d3.dion.ne.jp/~ironclad/wardroom/Foochow/torpedo2.jpg ▽ハーバード・スペンサー(1820-1903)
「適者生存 (survival of the fittest) 」という言葉はダーウィンではなく、社会進化論のスペンサーの造語である。 ▽忠恕
孔子の唱えた人間の最も本能的で基本的な徳。
「忠」は人間が自然に持っている真心。「恕」は人間が自然に持っている思いやりの心。
忠恕をひとつの漢字「仁」で表す。 孔子は春秋時代の「ムラ社会」の人で、「本能的な徳」に基づく道徳律だけで国政が上手くゆくと考えた。
しかし、戦国時代になると都市化社会の時代となった。
元は同族であった支配階級は、一族という意識が薄れていって他人同然になっていった。また社会の流動性が増して外様の家来も増えていった。
この都会化した時代の思想家が孟子である。
孟子は、他人があつまった都市社会では、孔子のとなえたような「ただ本能に従えば世の中がうまくいく」というのは能天気過ぎると考えた。
そこで孟子は、「本来は赤の他人である主人を実の親と見なして、親と同じように仕えなさい」というのである。
自然物に似せて作った人工の代替物を表す文字が「義」である(義肢、義歯、義眼など)。
孟子は「都市社会においては、『仁』に加えて『義』が重要である」と述べた。 ▽ジミ・ヘンドリックス
愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな!
↑本章に書かれているモンテスキューの箴言の原典を探すことはできなかった。
ジミヘンの上記の箴言が似ていたので掲げた。 ……なことを言いながら、ジミヘンは、結局、ヘロインの過剰摂取で命を落とした。
アーメン。 ▽国分青崖〔>>494〕
▽陸羯南
▽福本日南〔>>493〕
▽原敬〔>>492〕 >>600
>末広重恭(しげやす)
末広鉄腸のこと。嘉永2年(1849年)- 明治29年(1896年)。
宇和島藩の勘定役『禎介』の次男として、城下の笹町(現、愛媛県宇和島市笹町)に生まれた。
反政府側の政論家・新聞記者・衆議院議員・政治小説家。
1875年(明治8年)6月、讒謗律と新聞紙条例が公布され、8月、それらを非難する投書を掲載して、自宅禁錮2ヶ月・罰金二千円となり、最初の違反者として名を広めた。
https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/cul/cul03/minkenka.images/suehiro_shigeyasu.jpg ★フランス代理公使
▽明治19年11月
任外交官試補 ▽古島一雄
慶応元年、但馬国豊岡(現在の兵庫県豊岡市)に生まれる。古島家は、旧豊岡藩士であり勘定奉行を務める家柄であった。
明治21年(1888年)に、三宅雪嶺が主宰する雑誌「日本人」(のちに「日本及日本人」に改題)の記者となり、ジャーナリズムに身を置く。
さらに、やはり杉浦の紹介で新聞「日本」の記者となり、日清戦争では、同僚であった正岡子規と従軍し戦況を報道した。
のちに衆議院議員、貴族院議員。
戦後、幣原内閣が組閣された際、入閣を要請されたが固辞する。
また、昭和21年(1946年)5月に日本自由党総裁の鳩山一郎が公職追放となった際に、後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳に就任を懇請されるも、これも老齢を理由に固辞し、幣原内閣の外相だった吉田茂を強く推薦した。
以後、占領期の吉田の相談役となり「政界の指南番」と称された。
昭和27年(1952年)5月26日、死去。享年81。
http://seadog.gifu.shotoku.ac.jp/users/jit/06jinbutu/18gazo/18thumb/102-v240.jpg ▽東洋自由新聞
明治14年に東京で創刊。山城屋の稲田政吉を社主とする。
明治14年10月に結党される自由党の準備会において機関紙発行が否決されたため、フランス留学経験のある西園寺公望や仏学塾を経営する中江兆民、光妙寺三郎らフランス派知識人と、地方で活躍した民権派が合流して独自に創刊された。
http://www.ndl.go.jp/france/common/img/part1/image_s1_2_03.jpg ▽南弘 〈明治2年 - 昭和21年〉
富山県氷見市仏生寺の豪農岩間覚平の次男・鉄郎として生まれる。
官僚としては、内閣書記官を皮切りに主として内務省畑の諸職を歴任した。
昭和7年には第15代台湾総督に任ぜられた。
http://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/23007003821.jpg ▽全国水平社
大正11年3月に結成された日本の部落解放運動団体である。
西園寺公望は本気で穢多と結婚しようと考えていた時期がある。
以下は、『明治という国家/司馬遼太郎』からの引用である。
「東京へゆけば、いままで差別されていたひとびとのなかから、いい娘さんをさがしておいてくれ。その人と結婚する。
私は、公家である。日本でもっとも高貴な血とされている。
私がそういう人と結婚すれば、千万言の言論を費やさずして、維新とはなにかをということが、世間の人にわかるだろう」
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000961.jpg ▽曾我祐邦 〈明治3年 - 昭和27年〉
陸軍中将曾我祐準〈すけのり〉の長男。のちに貴族院議員。
曾我家は家禄120石の柳河藩士。
※父・曾我祐準の写真
http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/d2cac17778e8a734545f45dc2e551df43c5757d7.98.2.9.2.jpeg
本章では、拓川の外務省時代の同僚として登場する。 ▽曾禰荒助〈あらすけ〉
嘉永2年(1849年)- 明治43年。
長州閥の一員として歴代内閣で大臣を歴任。第2代韓国統監として韓国併合を進めた。
長門国萩藩の家老の宍戸家の出身で、宍戸潤平の三男として生まれた。
明治5年(1872年)、フランス留学を命じられて5年後に帰国。
明治12年(1879年)、陸軍省勤務。翌年から士官学校勤務を兼ねた。
明治26年(1893年)に駐フランス全権公使に任じられた。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201508/26/92/a0287992_0173620.jpg ▽厳島
日清戦争及び日露戦争で活躍した旧日本海軍の防護巡洋艦。
日露戦争では第三艦隊旗艦として活躍し、日本海海戦においてバルチック艦隊発見を受電して急行、その後バルチック艦隊と並走して東郷平八郎司令長官に向け、正確な位置、隊形、針路などを詳細に通報し、海戦の前座を見事に務めた。
http://livedoor.blogimg.jp/irootoko_jr/imgs/c/9/c9cf46c3.jpg ▽松島
日清戦争及び日露戦争で活躍した日本海軍の防護巡洋艦。
清国が保有していた戦艦「鎮遠」と「定遠」の2隻に対抗する軍艦として建造された。
同型艦は厳島、橋立。
http://www.geocities.jp/shibamataoyaji/04.jpg
明治21年(1888年)2月17日 フランス地中海鉄工造船所で起工
明治23年(1890年)1月22日 進水式
明治25年(1892年)4月5日 竣工、回航 ▽長田秋濤〈おさだ しゅうとう〉
明治4年(1871年)- 大正4年(1915年)。劇作家・翻訳家。
静岡県静岡市西草深町に徳川家直参・長田_太郎の長男として生まれる。
1890年(明治23年)法律研究のため渡仏するが演劇にも関心をもち、1894年(明治27年)帰国した。
演劇改良やフランス文学の紹介に努めた。ユゴー「椿姫」の訳や、「図南録」などの著書がある。
http://kagurazaka.yamamogura.com/wp-content/uploads/2446ad3c0c6bf5b6d490f96624ef332b.jpg ▽黒田清輝〈せいき〉
慶応2年 - 大正13年。
薩摩国鹿児島城下出身。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、のちに伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子となる。
1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000515.jpg
※湖畔 http://www.japantimes.co.jp/wp-content/uploads/2014/06/z6-larking-kuroda-a-20140626.jpg ▽ラファエル・コラン〈Raphael Collin〉
フランスの画家。日本から留学した黒田清輝らを指導した。
アカデミーの古典的な骨格を備えながら、印象派や象徴主義の影響を受けた優美な画風の作品を制作し、裸婦像も多い。
印象主義の影響を受けた折衷的な作風は外光派(Pleinairisme)と呼ばれる。
https://image.invaluable.com/housePhotos/RachelDavisFineArts/12/293812/H2201-L18971103.jpg ★剣術使い
▽明治23年
年のころ三十くらい。羽織・袴といういでたち。
「剣術使いです」と、男はいった。本職は博労。 むかし富山の薬売りが背負っていたヾ( ゚∀゚)ノ゙ __, ┴{il>‐ 、 /i
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;ミi´ ⌒ji| /i. ′
.. iミ} 、、__ 、__,ノ__,,,ヾ} // /
/ミ{ _≧=。ァ、 ,ィ'。ァ゛.i^i // /
ヽ(|、 `.`´r_ ', 、 /レ′ // /
_{⌒{、ヽ ./__`´-.j ;/ // /
/:.:.:., ---\ ' ` /`ヽ-、 _,.ィ⌒// / 女が恋しゅうございます。
./:.:/: ; ---->ュ イj_}:.:.:.:.:レ '´ ; { {>' |. 女ならたれでもよろしゅうございます。
//: /: :/: : : : : /ー┴‐'´ 、ヽ、ヽ--ノ
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::|: : :_____,ノ/:.:.|:// ||.|:.:.:j--、{ ▽桜井一久〈いっきゅう〉
明治時代の弁護士。
安政5年4月生まれ。明治17年司法省にはいり、神戸・松江の始審裁判所判事をつとめ、のち弁護士。
明治41年衆議院議員(国民党)。明治43年6月18日死去。53歳。兵庫県出身。司法省法学校卒。
本章では、拓川の同郷の友人として登場する。 ▽田島某
加藤拓川と桜井一久の共通の友人で「田島」といえば、鹿児島県出水市出身の田島彦四郎のこと。
三人は司法省法学校のクラスメートであった。
であるので、田島彦四郎は原敬関連の文献にも名前が登場する。
フランス留学中、女郎を買う金がなかったので、「謹直ナ君子顔ヲ粧ヒ」マスターベーションをしていた。 ▽野村靖
天保13年(1842年)、長州藩の足軽入江嘉伝次の次男として生まれる。兄に入江九一、妹にすみ子(伊藤博文の最初の妻)がいる。
兄・九一が入江氏を継承したため、親戚の野村氏を継承した。
吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒、老中間部詮勝の暗殺計画が露見して兄と共に投獄される。
文久2年(1862年)にはイギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征討でも活躍している。
明治24年(1891年)に駐仏公使を歴任した。
http://www.junk-word.com/img-kiji/wasaku.jpg
http://blog-imgs-38.fc2.com/s/b/l/sblog410/20091119213410af1.jpg >>632
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,'::::::::l',. 〃____ ', ,' いっそのこと睾丸を取ればよいかもしれない。
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▽ベルギー公使
三男の忠三郎が生まれた明治35年にベルギー公使となる。
ジュネーヴで万国赤十字改正会議の全権代表になったのは明治39年。
翌明治40年に外務省を退官。49歳。 明治40年9月2日に陸羯南歿す。
明治41年 大阪新報社長兼主筆となる。
本章では、正しく『大阪新報』と書かれている〔>>426〕。
なお、「大阪毎日新聞」の社長になったのは、友人の原敬。 ▽村上霽月〈せいげつ〉
俳人・実業家。愛媛県松山生。名は半太郎。
一高に学び、のち郷里で銀行頭取、信用組合連合会長などを務める。
正岡子規・内藤鳴雪に師事し、子規の「日本」、柳原極堂の「ホトトギス」に投句。
のち古今和漢の漢詩に唱和した転和吟を創始し、独自の俳句道を歩んだ。
昭和21年 (1946) 歿、76才。
http://www.i-unic.com/contents/kuhi/image/kuhi_44i.gif ▽森知之
明治13年(1880) 子規13歳
松山中学に入学。竹村鍛、三並良、太田正躬、森知之らと漢詩のグループ「同親会」を結成し、漢学者河東静溪(竹村鍛、河東碧梧桐の父)の指導を受ける。 三並良が、一冊の古ぼけた洋書を風呂敷のなかから取り出し、拓川に見せた。
「これは、何だったかな」
拓川はしばらく本をめくっていて、突如思い出した。ハルトマンの『美学』の第二巻であった。 この章は、まとまりのある秀逸な文章で埋められている。
話の落としどころが巧い。 第11章 阿佐ヶ谷
私はこの稿で文学史的側面を書いているのでもなく、詩人とか革命家とかという肩書のある人物の評伝を書いているのでもない。
人間が生まれて死んでゆくということの情趣のようなものをそこはかとなく書きつらねている。 ★タカジ - 驢馬物語
▽大正15年〜昭和2年
タカジの青春
驢馬〔>>496〕 ▽田端村の宮木喜久雄が間借りしていた家
ポプラ坂にある。ポプラ倶楽部から赤紙仁王通りに伸びるポプラ坂。
右側手前、版画家の山本鼎が住んでいたところから始まり板谷波山、作家窪川鶴次郎〔>>501〕、同じく宮木喜久雄〔>>500〕と続き、左側はポプラ倶楽部、作家の針重慶喜、画家の倉田白羊、鋳金家内藤春治らが住んでいた。
当時は「美しい薄緑色の敷石が二列になって坂の中央に敷かれていた」ようだが、今は写真の通りアスファルトの坂道となっている。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-c0-2d/happy_go_lucky_neo/folder/468697/01/10212001/img_6?1364632661 《窓》
一寸の空さ青なり三尺のみ空仰がんと窓によりふす
くれなゐのころも着る日は遠くあれな 其の日ケンジはくびられてありな ▽佐多稲子〔>>501〕
明治37年 - 平成10年。
長崎市に生まれる。出生当時、両親はいずれも学生で十代だったため、戸籍上は複雑な経過をたどっていた。
母親を結核で亡くし、小学校修了前に一家で上京、稲子は神田のキャラメル工場に勤務する。
このときの経験がのちに『キャラメル工場から』という作品にまとめられ、彼女の出世作となる。
最初の結婚に失敗したあと、東京本郷のカフェーにつとめ、雑誌『驢馬』同人の中野重治・堀辰雄たちと知り合い、創作活動をはじめる。
1926年、『驢馬』同人の1人で貯金局に勤めていた窪川鶴次郎と結婚する。そのため、最初は窪川稲子の名で作品を発表した。
戦後、窪川と離婚し、筆名を佐多稲子とする。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/3ee/32906/20130604_571728.jpg
https://i2.wp.com/kagurazaka.yamamogura.com/wp-content/uploads/2016/03/befbcbf6247398be3356b55c68e92985.jpg ▽筆耕
報酬を得て筆写をすること
▽浅草清島町
正確には「浅草北清島町」。現在の東京都台東区東上野の一部。
JR上野駅近辺。
本章では、窪川夫妻が借りていた下駄職人の家の二階があった町名として登場する。 ★日本共産党
▽昭和6年−タカジの入党
▽警察のスパイ村松
変名は松村昇。本名は飯塚盈延〈みつのぶ〉。
明治35年に愛媛県周桑郡小松町に生まれ、明治42年尋常小学校に入学。成績が良く天才と呼ばれた。
米騒動などをきっかけに日本共産党最初の労働者党員になり、労働運動にかかわっていった。
その後、モスクワの東方勤労者共産大学(クートヴェ)に留学した。しかし留学中共産党に幻滅し、帰国後に検挙され転向したうえで警察のスパイになったとされる。
そして松村はスパイとして党に潜入、非常時共産党時代の共産党で家屋資金局の責任者となり、「赤色ギャング」に代表されるさまざまな権力挑発的方針を指示した。その後熱海事件で共産党の代表者達を一斉検挙に追いやった。
※「スパイM」こと村松昇の写真は、どれだかよくわからなかった。
※替わりに村松英子の写真
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/5d/19/19/5d19197873f4a492c42d185238757084.jpg
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/c3/20/1e/c3201e1f7e18202153eb082018d77636.jpg ▽治安維持法
大正デモクラシーが進展した結果、1925(大正14)年、加藤高明内閣で普通選挙法が成立したが、それと同時に治安維持法も制定された。
国体(天皇制)の変革や、私有財産制の否定を目的とした結社とその運動を禁止することを法律として可能とした。
具体的には、はじめは共産党(1922年結成)などの社会革命をめざす運動を取り締まるものであったが、次第に政府の政策を批判する自由な発言も取り締まりの対象となり、穏健な自由主義者や労働運動なども取り締まりの対象となっていった。
また1928年の田中義一内閣は、勅令で最高刑に死刑を加え、軍部に対する反対運動や反戦活動を厳しく弾圧する手段とされた。
日本の天皇制軍国主義体制を支える立法であったので、1945年、日本の終戦とともに撤廃された。 ▽巣鴨署
逮捕直後に入れられた留置場
▽堀留署〔>>279〕
巣鴨署からすぐに堀留署の留置場に移された。 ▽大沢武男
昭和8年、日本共産党中央委員会は特高警察による捜査によって壊滅的打撃を受けていたが、検挙をまぬがれた幹部で党中央を再建した。
当時、共産党はスパイを摘発する目的で、波多然・大沢武男といった党員に対して「査問」と称するリンチを行っていた。
本章では、大沢武男はタカジと同日付けで除名された共産党員として登場する。 ▽日本プロレタリア作家同盟
略称はナルプ。昭和4年2月に結成された。
作家同盟は、『戦旗』に登場する作家たちを中心に、新進の小林多喜二や徳永直も加え、プロレタリア文学の中心的存在となった。
ソビエトロシアから帰国した中條百合子も、作家同盟に加わった。
しかし、それだけに弾圧も厳しく、昭和5年には共産党に資金を提供したという容疑で小林多喜二たちが収監された。
昭和7年3月から4月にかけて、文化連盟に弾圧がくだった。今回の弾圧は、文化運動そのものを治安維持法違反として問うものであった。
中野重治〔>>497〕・蔵原惟人・中條百合子たちが検挙され、小林多喜二や宮本顕治は非公然の立場においこまれた。 ▽小林多喜二
明治36年、秋田県北秋田郡下川沿村(現大館市)に、小作農家の次男として生まれる。
昭和3年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。
作品中の特別高等警察(特高警察)による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。
昭和4年『蟹工船』を『戦旗』に発表し、一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集める。
昭和8年に逮捕され、拘禁中に死亡。
警察当局は「心臓麻痺」による死と発表したが、翌日遺族に返された小林の遺体は、全身が拷問によって異常に腫れ上がり、特に下半身は内出血によりどす黒く腫れ上がっていた。
しかし、どこの病院も特高警察を恐れて遺体の解剖を断った。
http://www.lib.city.minato.tokyo.jp/yukari/person_img/117takiji.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/42/fd018f6273c60b51266e63fa33b1cc9b.jpg 特高でなくとも、殴りたくなるようなふてぶてしい顔だな。
腐ったゴーヤみたいな顔だ。 ▽コップ・フラク財政係
コップとは日本プロレタリア文化連盟のこと。Federacio de Proletaj Kultur Organizoj Japanajの頭文字からKOPF。
フラクとはフラクションfraction活動の略。
政党が労働組合などの大衆団体の中にフラクションと呼ばれる党員の小グループを組織し、フラクションの組織的活動によって、大衆団体の活動方向を政党の政策や方針に合致させようとする活動。
産別会議内における日本共産党のフラク活動がよく知られている。
タカジは、その財政係になった。 ▽アジ・プロ部所属
アジプロ〈agitprop〉は旧ロシア共産党の扇動宣伝局の名称(otdel agitatsii i propagandy)を短くしたもの。
agitpropは英単語であるが、元来が略語であるから、日本語で表記するときは「アジ・プロ」とするのが由緒正しい。 ▽スパイ古川
通称古川。本名小畑達夫。
※日本共産党スパイ査問事件
治安維持法下の昭和8年に発生した日本共産党中央委員であった小畑達夫が死亡し、同じく中央委員であった大泉兼蔵らが負傷した事件。
両者は「日本共産党にもぐりこんだ特別高等警察のスパイ」として査問とよばれるリンチにかけられたものだと裁判では認定されたが、
戦前の治安維持法の下で行われた裁判であったためGHQから司法省に対し指示があり、判決は無効となり資格回復の措置がとられた。
日本共産党側はリンチの存在を否定しているが、一貫してスパイであったとしている。 ▽冒険主義者
極左冒険主義者のこと。
共産主義者内部の批判用語で、客観的な情勢を無視して目的を実現しようとする急進主義や過激主義を批判する用語。 ▽ビューロー〈bureau〉
官庁などの局・部。事務所。
※ビューロクラシー [bureaucracy]官僚主義
※ビューロクラット [bureaucrat]官僚、役人、官僚主義的な人。 ▽宮本顕治〔>>267・>>660〕
明治41年 - 平成19年。
山口県現在の光市上島田出身。
旧制徳山中学校から松山高等学校に進学、社会科学研究会を創立し、文芸誌『白亜紀』を発行するなどの活動をおこなった。
昭和6年5月、日本共産党に入党し、日本プロレタリア作家同盟に加盟。その後、党の中央アジテーション・プロパガンダ部員に就任。
昭和8年12月26日、街頭連絡中に逮捕されるが、警察・予審の取調べには黙秘を貫いた。
その間に、逮捕されたほかの人間への取調べから警察が突き止めたアジトが捜索され、床下より小畑達夫の死体が発見された。
宮本らに「査問」の最中に暴行を受けた末に外傷性ショックで死亡したと、裁判で認定された。これがいわゆる日本共産党スパイ査問事件である〔>>665〕。
戦後、昭和33年に党の書記長に就任してから40年間、日本共産党を指導した。参議院議員(2期)を務め、日本共産党書記長、同委員長、同議長を歴任。
※これは殴りそうな顔をしとる。http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/75/009a80bce565eed2a15aa0d7772d685a.jpg ▽東洋大学学長の中島
中島徳蔵のこと。文久4年(1864年)- 昭和15年。
明治35年(1902年)、徳蔵担当の倫理学の試験に関して哲学館事件が起る。読売新聞に「余が哲学館事件を世に問う理由」を投稿し、哲学館事件を世に知らしめる。
なお、1月29日付けの読売新聞には、文部省による反論「当事者たる隈本視学官の談」が掲載されている。この隈本視学官とは隈本有尚のことである〔>>520〕。
その後、東京工業学校、正則中学校、跡見女学校〔>>166〕、共立女子職業学校〔>>162〕にて教鞭をとる。
http://www.city.isesaki.lg.jp/www/contents/1000000563000/simple/121211133153_0.jpg
https://www.toyo.ac.jp/img/images/gakuho/fig_5_8_01.jpg タカジに資金を渡していたのは、中島徳蔵の息子だけどな。
当時、東大の物理科の学生。 ▽土方与志〈よし〉
明治31年 - 昭和34年。築地小劇場を拠点に新劇運動を興した〔>>288〕。東京生まれ。
祖父土方久元(1833-1918年)は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣・宮中顧問官・枢密顧問官・國學院大學学長などを務めて伯爵を授けられた。父土方久明は陸軍大尉だったが、与志が生まれて間もない1898年に拳銃で自殺している。
http://d.hatena.ne.jp/images/diary/p/pract/2005-04-16.jpg
本章では、タカジに活動経費の大部分を負担していたシンパとして紹介されている。 ▽土方の年とったお母さん
土方久明の妻加藤愛子のこと。
加藤愛子は、大洲藩主であった加藤泰秋の娘。 土方与志のお爺ちゃんが、土方久元 Σ('゚д゚'il!)マジッスヵ? ▽大泉兼蔵
新潟県西蒲原郡燕町(現燕市)仙木の貧農の長男に生まれた。
昭和3年、三・一五事件で検挙されたが党員であることが発覚せず約1か月で釈放された。
昭和8年、警察に内通したスパイであるとして、小畑達夫〔>>665〕とともに東京府東京市渋谷区幡ヶ谷の党アジトで査問を受け、スパイであることを自白したが、12月24日小畑が急死、査問は中止された(日本共産党スパイ査問事件〔>>665〕)。
昭和58年秋、叙勲を受けた(勲五等双光旭日章)。 日本共産党スパイ査問事件において共産党員から拷問を受けた小畑達夫(死亡)および大泉兼蔵(負傷)の自白によって、タカジはスパイの嫌疑を受けた。 ▽羊皮紙
動物の皮を加工して筆写の材料としたもの。
紙の普及以前にパピルスの入手困難な土地ではパピルスの代わりに羊皮紙を使った。
英語ではパーチメント (parchment) とヴェラム (vellum) という2通りの呼称がある。
パーチメント (parchment) は、高品質な羊皮紙を生産していたという伝承の残るペルガモン王国 (the city of Pergamon) の名に由来する。
ヴェラム (vellum) は、古いフランス語の「仔牛」から来ている。
中世以降、材料にかかわらず高級な皮紙をイギリスではヴェラム、フランスではヴェラン (velin) と呼び、一般の羊皮紙から区別するようになった。
http://4.bp.blogspot.com/-9Cm1-6A1Qqk/UmNdX6uEopI/AAAAAAAADPI/QVjH6yzpQ_g/s1600/DSC_0064-3.jpg
http://www.youhishi.com/image/orientcollection.JPG >>671
この繋がりで、タカジは一度、築地小劇場の舞台に出たことがある。 >>675
党中央とは別に集金組織を作っていたことが誤解された。
実際は印刷経費の赤字を埋めるための集金であった。 ▽転向
最後まで主義を貫いたのは日本共産党でも徳田球一・宮本顕治・袴田里見などごく少数であり、ほとんどの者が共産主義を放棄し転向した。
江田三郎も転向組である。
第二次世界大戦終結後まで生き残り、法廃止で釈放された者は “人民戦士” と称えられ、党幹部になった。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10071012&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=null&AID=6 ★市ヶ谷刑務所〔>>280〕
▽昭和9年−タカジ逮捕の年
『編笠』巻頭の《窓》は市ヶ谷刑務所の監房の窓である〔>>651〕。 [JR]中央・総武線
東中野 - 大久保 - 《新宿》 - 代々木 - 千駄ヶ谷 - 信濃町 - 四ツ谷 - 市ヶ谷 - 飯田橋 - 水道橋 - 《御茶ノ水》 - 秋葉原 - 浅草橋 ▽昭和8年
兄・基一〔>>247〕と青山を歩く。
「父は、死んだよ〔>>341〕」(8月31日)
伊豆の下加茂郡河津村の寓居にて病臥していた〔>>399〕。
司馬さんは下加茂郡としているが、賀茂郡が正しい。
現在は静岡県河津町。 ▽谷中の墓地
谷中霊園は、東京都台東区谷中7丁目にある都立霊園。旧称の谷中墓地と呼ばれることも多い。
面積は約10万平方メートル、およそ7,000基の墓がある。徳川家15代目将軍慶喜や鳩山一郎・横山大観・渋沢栄一などが眠る。
http://yanesenlife.typepad.jp/.a/6a0120a66ab0ca970c01347f9ad7ff970c-pi
http://www.ohnoya-cemetery.com/search/resource/tomb/pic/1_0000000218.jpg
本章では、西沢吉治の骨を埋めた叙述で登場する。
最寄の駅は、山手線の日暮里駅。
[JR]山手線……上半分
新宿 - 新大久保 - 高田馬場 - 目白 - 池袋 - 大塚 - 巣鴨 - 駒込 - 田端 - 西日暮里 - 日暮里 - 鶯谷 - 上野 - 御徒町 - 秋葉原 - 神田 - 東京 ▽青山
東京都港区北青山一丁目から三丁目および南青山一丁目から七丁目。
この一帯は古くから「青山」と呼ばれるが、単に「青山」という公称地名は存在せず、過去にも存在しなかった。
渋谷駅から青山通り〔国道246号線〕を歩いてゆくんだ。
http://www.touyoko-ensen.com/syasen/sibuyaku/ht-image/pic-sibuyaku07/s-sibu-s12miyamasu.jpg
青山を過ぎると、赤坂、永田町と続く。
六本木は首都高3号線沿いだ。麻布は六本木の南東だ。 ____
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| |r┬-| | この一帯は古くから「青山」と呼ばれるが、
\ `ー'´ / 単に「青山」という公称地名は存在せず、過去にも存在しなかった。
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ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) ★豊多摩刑務所〔>>282〕
▽予防拘禁所〔>>241〕
昭和20年5月までは、予防拘禁所は豊多摩刑務所内に設置されていた。
タカジはここで『編笠』〔>>253〕を一週間で書き上げる。 ▽久留米絣
福岡県久留米市および周辺の旧久留米藩地域で製造されている絣。綿織物で、藍染めが主体。
あらかじめ藍と白に染め分けた絣糸を用いて製織し、文様を表す。
伊予絣、備後絣とともに日本三大絣の一つともされる。
http://kinoshitakimono.com/wp-content/uploads/2015/11/20151101_kino7.jpg ★阿佐ヶ谷
▽府中予防拘禁所〔>>241〕
終戦後の昭和20年10月5日、治安維持法廃止に伴って予防拘禁制度は廃止され、10月10日収容者は釈放された。
▽阿佐ヶ谷
[JR]中央・総武線
新宿 - 大久保 - 東中野 - 中野 - 高円寺 - 阿佐ヶ谷 - 荻窪 - 西荻窪 - 吉祥寺 - 三鷹 - 武蔵境 - 東小金井 - 武蔵小金井 - 国分寺 - 西国分寺 - 国立 - 立川 ▽徳田球一の祖父
わたしの祖父は鹿兒島で舊 (旧) 藩時代に船乗りからだんだん立身してきた廻船問屋だつた。
琉球に船をもつてきて、外國からのいろいろな物資を非常に安く買い、それを鹿兒島や門司や大阪に賣りさばく商賣をしていた。
そういう船問屋は、みんな琉球で女をもつていた。私の父はそういふ鹿兒島人と、その妾の琉球の女とのあいだにうまれたのである。
弥太郎 − 耕作〔>>266〕
佐平 − 球一 ▽東京高等工芸学校
大正10年に設立された旧制専門学校。
第二次世界大戦中に東京工業専門学校(略称:東京工専)と改称されたが空襲で校舎を失い、千葉県松戸市に移転した。
戦後、学制改革で新制千葉大学工芸学部(現・工学部の前身)となった。
http://www.titech.ac.jp/about/stories/img/modern_design_history_06.jpg
本章では、徳田耕作が卒業した学校として登場する。 ▽井伏鱒二
明治31年 - 平成5年
広島県安那郡加茂村(現・福山市)生まれ。筆名は釣り好きだったことによる。
明治45年に旧制広島県立福山中学校(現広島県立福山誠之館高等学校)に進学した。
同校の庭には池があり、二匹の山椒魚が飼われていて、これがのちに処女作として発表され、世に知られることとなる「山椒魚」に結びついた。
大正12年、同人誌『世紀』に参加し「幽閉」を発表。
翌年、聚芳社に入社するが、退社と再入社をくりかえしたのち、佐藤春夫〔>>506〕に師事するようになる。
昭和2年、「歪なる図案」を『不同調』誌に発表、初めて小説で原稿料を得たが、なかなか芽が出ず、文藝春秋の女性誌『婦人サロン』に、同人誌仲間の中村正常(中村メイコの父)と組んで、「ペソコ」と「ユマ吉」というモガとモボを主人公にしたナンセンス読み物を書き始める。
http://aa01.com/ibusemasuji/img/200px-masuji_ibuse.jpg
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/ibuse-masuji/ibuse-masuji012721.jpg
本章では、徳田耕作が営んでいた飲屋の常連客として登場する。 ▽十銭ストア
現在の100円ショップに近い業態を営んだ戦前の例として、高島屋が全国に展開したいわゆる『十銭ストア』が挙げられる。
大正15年に大阪・長堀店に「なんでも十銭均一売場」を設置したのを皮切りに、昭和5年には難波南海店に「高島屋十銭ストア」を開設。
その後昭和7年にかけて独立型の店舗50店を大阪・京都・名古屋・東京周辺に展開し、大好評を博したという。
http://zatugakuunun.com/wp-content/uploads/takasimaya10sensutoa.png
本章の徳田耕作が営んでいた飲屋は、高島屋十銭ストアを真似て、つまみを十銭均一にしていた。 ▽耕作夫人たつ〔>>267〕
徳田たつ。
阿佐ヶ谷四丁目384番地の自宅を下宿屋にした。
※杉並区阿佐谷北四丁目付近からいなくなった犬
https://pbs.twimg.com/media/DIHtvJ1VoAAue2Y.jpg ▽摩耶子〔>>264〕
下宿人たちの食事をつくってから学校へ行っていた。
▽志賀義雄〔>>243〕
▽袴田里見〔>>244〕 ▽志賀高原
長野県下高井郡山ノ内町にある上信越高原国立公園の中心部を占める高原。
本章では、退職金をもらった摩耶子が昭和20年10月に志賀高原を旅行した。
https://snow.gnavi.co.jp/real_img/r0294/ski_pic_r0294.jpg ▽信州追分村
現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。
北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。
旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。
本章では、タカジが旧友の堀辰雄を訪ねたときのエピソードが書かれている。
http://img01.naganoblog.jp/usr/s/i/o/sionn/%E8%BF%BD%E5%88%86%E5%AE%BF.JPG ▽新日本放送
昭和25年「新日本放送株式会社」設立。初代社長に杉道助が就任。大阪市北区天神橋7丁目に仮スタジオと研修センターを置いた。
その後、大阪市北区角田町にある梅田阪急ビル(阪急百貨店本店)屋上に本社及び演奏所を建設。試験放送開始と同時に業務機能を完全に移転。
昭和33年に新日本放送の社名を「株式会社毎日放送」に改称した。
http://blog-imgs-41.fc2.com/a/t/a/atamatote/hankyu_07.jpg
https://pbs.twimg.com/media/C-vvinEWAAADbMr.jpg
「東亜バルブ」と「新日本放送」は、阪急を辞めた忠三郎さんの再就職先として登場する。 当時、まだ日本は占領下にあった。
タカジが忠三郎さんと再会した昭和25年の6月、総司令部命令で、日本共産党書記長徳田球一以下二十四名の公職追放が、日本政府に対して指示された。
彼らはすぐさま非公然活動に入り、地下にもぐった。タカジはふたたび忠三郎さんの視野から消えることになる。
http://showa.mainichi.jp/photos/uncategorized/2008/08/14/1946042.jpg 第12章 服装、住居、あるいは金銭について
タカジの別れ方は、いつもいさぎよかった。
「さいならァ」
と、大声で言い、六十八、九歳にしては青年のように軽々とした身動きで車のなかにもぐりこんだ。
「ぬやま先生は、どこへいらっしゃたんですか」
「ロイヤル・ホテルよ」
天満の古アパートに帰って銭湯に入らねばならない摩耶子は、飛んで行った鳥の習性でも語るように明るく答えた。
ホテルの場合、シングルの部屋はどこか独房に似ているのである。 ▽山辺健太郎
昭和4年、四・一六事件で検挙される。昭和15年、治安維持法違反で検挙され、獄中で敗戦を迎える。
昭和22年、日本共産党統制委員。昭和33年、離党し、著述に専念する。
http://www.koubunken.co.jp/files/2yamabekentaro.jpg
本章では、府中予防拘禁所でタカジを獄中細胞としてオルグしようとしたエピソードが出てくる。 ▽ベアストック大尉
GHQの民間情報教育局。
府中刑務所に予防拘禁されていた徳田球一、志賀義雄たち獄中の共産党細胞は、集団討議の上で「人民に訴ふ」を出獄の声明として発表した。
そこには結党以来のスローガンであった「天皇制の打倒」が掲げられていた。
日本共産党のもう一つの組織が、延安にあった野坂参三が率いる日本人民解放連盟内の共産党組織であった。
野坂は一貫して天皇制に融和的であり、天皇制打倒を掲げた党の方針とは異なる立場を表明することが多かった。
徳田はベアストック大尉から野坂の延安における第7回党大会の演説の速記録を提供され、野坂の戦後日本革命の見解を知り、彼の動向に目を離さなかった。 ▽ジェームス・小田
アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。1921年から1932年まで日本で過ごし、旧制姫路高等学校に進学し中退した。
第二次世界大戦中、アメリカ軍情報部日本語学校の教官を務め、戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に勤務した。
ジェームス・小田は、天皇制に融和的な野坂参三は、日本政府によってスパイとして養成され、国際共産主義運動の中へ意識的に配置されたとの説を唱えた。
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51c%2BVhs9oPL._SX333_BO1,204,203,200_.jpg
これに対して、日本共産党は、ジェームス・小田は、野坂をスパイとして陥れる陰謀を袴田里見とともにすすめてきた元アメリカ軍情報部員であると述べた。 ▼GHQとコミュニスト
GHQ内左派だった民政局 (トニー・ホィットニー局長) のなかには、ドイツのフランクフルト大学に起源を持つ「フランクフルト学派」と呼ばれる隠れマルクス主義者が多く潜り込んでおり、1946年に公布された日本国憲法の草案には日本人学者も含めた多くのフランクフルト学流がかかわったことは、現在、広く知られるようになった。
ベアストック大尉とジェームス・小田は、GHQ内にいたコミュニストの例として挙げられている。 ▽解放軍
日本共産党を「獄中」から「解放」したのはマッカーサー元帥に他ならなかった。
十月四日、GHQは「政治的、民事的及び宗教的自由に対する制限の撤廃」という覚書を発して、日本政府に治安維持法・国家保安法の廃止、政治犯の即時釈放、特高警察の廃止、天皇制批判の自由を要求する。
十月五日から予防拘禁所の政治犯は外出が自由となった。しかし、徳田等は政府の決定を待った。
十月六日、政府は徳田球一をはじめとした日本共産党員十六名の釈放を許可。
十月十日、府中刑務所内の予防拘禁所から徳田球一を始め、志賀義雄、金天海、黒木重徳、西沢隆二、山辺健太郎、椎野悦朗、松本一三など十六名が晴れて釈放された。
「ファシズムおよび軍国主義からの、世界解放のための連合国軍隊の日本進駐によって、日本における民主主義革命の端緒がひらかれたことにたいして、われわれは深甚の感謝の意を表する」「米英及連合諸国の平和政策に対しては我々は積極的に之を支持する」
徳田、志賀の「浦島太郎」コンビは進駐軍を「占領軍」ではなくして「解放軍」と位置付けてしまうのである。 ▽ずた袋
今日では一般的に「ずた袋」と濁らずにいわれる場合も多いが、漢字で“頭陀”と表記されることから、本来は「ずだ袋」と濁るのが正しい。
“頭陀”とは、梵語のDhuta(ドゥータ、意味:払い落とす、棄捨)の漢訳音写であり、仏教の僧侶が行う修行(頭陀行、乞食の行)のことである。
したがって、頭陀袋とは、本来この頭陀行を行う僧侶が、携行用に用いた袋のことであった。
しかし、時代を経ると、これらの衣だけでなく、行乞で供養してもらった物などや仏具なども入れるようになった。
したがって、今日、運搬用で雑多な物を入れる袋を“ズタ袋”などというのはここに由来する。 ▽三菱美唄炭鉱争議
昭和20年9月、北海道の三菱美唄炭鉱で中国人捕虜、強制連行された朝鮮人が決起し、近隣炭鉱の同国人とも連帯しつつ自治の承認、食料確保などの要求を実現した。
この動きに大きな影響を受けた日本人労働者は、11月に組合を結成。請負制全廃、諸手当の基本賃金化等を要求し、翌昭和21年2月8日には生産管理闘争に突入した。
経営側の拒否にあった組合は、所長・副所長らを囲み33時間に及ぶ大衆団交を行い、要求を受諾させ争議は終結した。
この大衆団交は人民裁判事件とよばれ、敗戦後の労働運動の激しさを象徴するものとして有名となった。
http://fine.ap.teacup.com/maruki-g/img/1319642369.jpg
http://www.gendaishicho.co.jp/files/mokuroku/seisankanri.jpg
本章では、タカジがオルグとして出かけて行ったことに関連して述べられている。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:87f20c3c9ee883ab649a4d7f8b996d63) ▽手綯い
手で綯うこと。
「綯う」とは、よりを掛けて縄などを作ること。あざなう。
昭和30年代までの百姓は、自家で藁で縄を綯っていたから、「綯う」は日常用語だった。
最近は死語に近い。 ▽西沢隆二
昭和20年代には党青対部長として青年運動・文化運動に熱中し、徳田球一の女婿であったこともあって、共産党の文化問題に関しての権威とされた。
歌と踊りを活動に結びつける独自な運動を展開。「ダンス至上主義」「踊る共産党」と呼ばれた。
また、第22回衆議院議員総選挙や第1回参議院議員通常選挙に立候補している。
その後、党中央委員なども務め、レッドパージ後に徳田ら所感派が中華人民共和国に渡って北京機関を組織したときには西沢もその一員となった。
しかし、西沢は宮本顕治らの国際派への妥協を唱えて徳田と対立し、徳田からは義絶を宣言された。
西沢は野坂参三と接近し、徳田が病気で昏睡状態になったあとに野坂とともに伊藤律を除名・幽閉した。
徳田が余命幾ばくもないことを知った西沢は後継者について「宮本顕治は組織活動が全くわからず、志田重男は文化問題がわからない」として二人の協力による体制作りをすることを考えたと後に記している。この路線は1955年の日本共産党第6回全国協議会(六全協)で実現することになる。
その後、日中共産党の路線対立の際に、党の組織方針に従わずに昭和41年10月に中国派として安斎庫治らとともに除名され、福田正義ら率いる日本共産党(左派)に参加。毛沢東思想研究会を設立し、同会の機関誌毛沢東思想研究編集人となった。 ▼レッドパージ
昭和25年6月、連合国軍占領下の日本において、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官ダグラス・マッカーサーの指令により、日本共産党員とシンパ(同調者)が公職追放された。
その動きに関連して、その前後の期間に、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」とした人々を解雇した動きを指す。1万を超える人々が失職した。「赤狩り」とも呼ばれた。
第二次世界大戦終結後、日本の占領政策を担ったGHQは民政局(GS)を中心に、治安維持法などの廃止、特別高等警察の廃止、内務省と司法省の解体・廃止などの日本の民主化を推進し、主要幹部が刑務所から釈放された日本共産党も、初めて合法的に活動を始めた。
その結果、労働運動は過激化し、大規模なデモやストライキが発生するようになっていた。
中国大陸では国共内戦で毛沢東率いる中国共産党が優勢になると、アジア・太平洋地域の共産化を恐れるジャパン・ロビーの動きが活発化し、日本では、GHQの主導権がGSから参謀第2部(G2)に移り、共産主義勢力を弾圧する方針に転じた。
冷戦の勃発に伴う、いわゆる「逆コース」である。 ▽平松
芝区台町尋常小学校からのタカジの友人。
美術学校の建築科を卒業した建築家。
本章では、>>718の古家を建て替えた建築家として登場する。 ▽英ちゃんの原
タカジが通った小学校の近くにあった原っぱ。芝区白金猿町にあった。
癇癪もちで有名な小学校教員が「英ちゃん」で、その母が「英ちゃん」と呼んでいた。
原っぱは「英ちゃん」の家の裏にあった。
英ちゃんの原には、木苺が黄色く熟れていた。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/be/3c517605a846b18eb22a9f77b2cdff89.jpg ▽昭和25年の暮
タカジ(48歳)が中国へ亡命する直前であった。摩耶子(25歳)。
▽三菱二十一号館
丸の内地区において多数の地所・建物を保有していた三菱合資会社により第21番目の洋風貸事務所として計画されたもの。
当時の東京府東京市麹町区有楽町1-1(東京都千代田区丸の内三丁目3番1号)の地所において大正3年6月25日竣功となった。
昭和21年3月22日、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) はこれを接収し、ソ連軍宿舎とした。
http://www.pocketbooks-japan.com/images/products/xs0001-5000/xs4847.jpg ▽新中国誕生
1930年代から中華民国・南京国民政府と内戦(国共内戦)を繰り広げてきた中国共産党は、第二次世界大戦終結後に再燃した内戦で相次いで国民政府軍に勝利をおさめ、1949年(昭和24)4月には共産党軍が南京国民政府の首都・南京を制圧した。
この過程で南京国民政府は崩壊状態に陥り、中国国民党と袂を分かって共産党と行動を共にしたり、国外へと避難したりする国民政府関係者が多数出た。
その為、共産党は南京国民政府が崩壊・消滅したと判断し、同年10月に毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言した。
http://images.china.cn/attachement/jpg/site1004/20080115/000d87ad601308f6c5a102.jpg
なお、崩壊状態に陥った南京国民政府は蒋介石の指導の下で台湾に撤退し、引き続き現在にいたるまで中華民国と名乗っている。 ▽O
丸の内三丁目の歩道で、「タカジは、ちょっと帰らないよ」と、小声で摩耶子に言った男。
戦前の日本プロレタリア映画同盟(略称「プロキノ」)に、岡田桑三という映画プロデューサーがいた。
俳優としての芸名は「山内光(やまのうち ひかる)」。
この岡田が昭和4年、右翼に刺殺された労働農民党代議士、山本宣治の東京での葬儀の撮影を担当している。
この岡田がOではないかと思ったりしたが、昭和19年、満映理事長・甘粕正彦に請われ満州に赴き、天然色フィルム開発を指揮している。
戦時中は転向していたのであろう。
本章に登場する昭和25年には、岡正雄らと月刊コミック雑誌『スーパーマン』(コミックス社)を刊行している。
昭和29年に東京シネマを創業する。
う〜む、別人かもしれない。しかし、イニシャルで登場するところが、実に怪しい。
https://archive.fo/k1Cf/4292d2fa6cf03fdba76672e5f1321d175870c491.jpg ▽西荻窪〔>>691〕
タカジが中国へ亡命した後に、摩耶子が住んだ町。
▽小西六の組立工場
コニカカメラのこと。
明治6年に杉浦六三郎が東京麹町で小西屋六兵衛店を立ち上げ、写真関係商品および石版印刷材料の販売を開始したのが、コニカの始まりである。
https://www.konicaminolta.com/jp-ja/corporate/img/history_timeline_pict001.jpg
平成15年、コニカ株式会社はミノルタ株式会社を完全子会社化し、コニカミノルタホールディングス株式会社となる。
本章では、摩耶子の勤務先として登場するが、西荻窪に移転した後の勤務先ではなさそうである。
なお、司馬氏が本作品を執筆した当時は、小西六写真工業株式会社が正式名称であった。 ▽前進座〔>>268〕
昭和12年、劇団前進座は集団住宅を東京都武蔵野市・吉祥寺に建設する。
創造(稽古)と生活(住居と田畑・養鶏)を統合した理想の場を得る。
西沢摩耶子は、この前進座の食堂の厨房で飯炊きをしていた。
摩耶子の住んでいた西荻窪は、吉祥寺の隣駅である〔>>691〕。 30年ほど前に、吉祥寺を自転車で通行していた名古屋章を見たというおばちゃんの話を聞いたことがある。
ふーん、名古屋章は前進座なのかと漠然と思っていたが、今日調べたら文学座だった。
※いろは食堂主人役の名古屋章さん
http://www.komatomo.com/tv/oretachi/hajime1/hajime_r11_c6.jpg ▽なぽり
昭和25年5月26日誕生
http://www.ryacademy.com/country/italy/img/napori_map.jpg
▽新宿日赤産院
大東亜戦争末期の昭和20年、医学博士篠田義市の経営していた篠田病院を日本赤十字社が買収したのが始まりである。
新宿赤十字病院は1996年3月31日をもって廃院、武蔵野赤十字病院と統合された。
建物は解体され駐車場となっている。 ★タカジ − 金銭
▽昭和30年−密入国により帰国
昭和28年には徳田球一が北京病院で客死〔>>242〕。
タカジは帰国後も常任幹部会会員・中央委員であった。 ▽吉祥寺駅北口の「近鉄」
近鉄百貨店の東京店のこと。かつて東京都武蔵野市吉祥寺本町にあった〈1974年 - 2001年〉。
http://livedoor.blogimg.jp/kinbus/imgs/9/0/9007ac17.JPG
閉鎖後三越とIDC大塚家具に貸していたが建物売却により閉店した。
2007年6月に外観も改装の上ヨドバシカメラマルチメディア吉祥寺が出店し営業している。
本章では、吉祥寺の近鉄から司馬良太郎に古書市の案内書が届いたことが叙述されている。 ▽長島又男
明治37年武州熊谷生まれ。昭和2年早稲田大学政治経済学部中退。聯合通信社入社。
電通と聯合が合併した同盟通信社で政治部長、論説委員など務める。元共産党員。
なお、同盟通信社は、昭和20年、役員会にて解散を決議する。
一般報道部門などは共同通信社、経済報道部門などは時事通信社となる。
本章では、党本部でタカジと大山郁夫のエピソードについて語る『政治記者の手帖から』(1953年) の著者として登場する。
他に『ぬやま・ひろしとその時代』(1985年)という著書もある。
https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61i75R3SA5L._SL500_.jpg ▽大山郁夫
明治13年 - 昭和30年。日本の政治家、政治学者。
兵庫県赤穂郡若狭野村(現相生市)に福本郁夫として生まれる。17歳の時に養子縁組により大山姓となる。
東京専門学校に入学し、在学中に早稲田大学政治経済学部に改組され、1905年に同学部を首席で卒業した。
左派無産政党である労働農民党の委員長となり、昭和5年の総選挙で新労農党より立候補し当選するが、2年後にアメリカに亡命。
昭和25年の参院選に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援を得て立候補し、当選する。
昭和26年12月にスターリン国際平和賞受賞。
※左は周恩来 http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/photo/opinion/gover-eco_120326_02.jpg
本章では、長島又男が大山郁夫の死後に共産党名誉党員に推す話の件でタカジが登場する。 ▽昭和41年10月13日−除名
反党分子大塚有章〔>>740〕らや「わかもの社」関係の党員〔>>250〕と共謀し、
反党分派をおこない、明白な党破壊の重大な規律違反を犯した。
たいへん失礼いたしました。>>727のOとは大塚有章でありました。 ▽大塚有章〈ゆうしょう〉
明治30年 - 昭和51年。姉に河上秀(河上肇夫人)、妹に末川八重(末川博夫人)がいる。
http://www.cfs-cn.com/UploadFiles/zydt/2017/7/201707191038037632.png
戦前、日本共産党に入党して日本最初の銀行強盗事件である赤色ギャング事件の実行犯となるも、出獄後は満州国に渡り、満洲映画協会〔>>727
〕で巡映課長となる。
当時、日本共産党はスパイMこと飯塚盈延〔>>654〕が組織の中心になっており、「非常時共産党」と呼ばれており、戦前期最大の党組織をつくり上げた。
しかし、昭和7年3月に党の外郭団体の1つであった日本プロレタリア文化連盟(コップ)が手入れを受け、400名にのぼる検挙者を出した〔>>663〕。
資金網をやられた党財政の困窮を救うための第1の手段は、金持ちの子弟のシンパに家の金を拐帯逃走させるというものであった。
本章でも、タカジの幼馴染である平松などは、タカジに資金援助をしているし〔>>719〕、中島徳蔵の息子や土方与志も資金援助をしている〔>>669-671〕。
さらに、昭和7年7月から、大塚有章を中心に、非合法活動のため、強盗、恐喝、詐欺、つつもたせ、エロ写真など考えられるかぎりの計画を立てた。
実際に女子党員の色仕掛けに引っかかった農園経営者から600円を脅し取っている。 ▼赤色ギャング事件
そして昭和7年10月6日、大塚有章は、西代義治、中村隆一らを指揮し、東京大森の川崎第百銀行を襲撃、ピストルで行員を脅して3万円を強奪することに成功する。
モーニングを着て、盛装した河上芳子、井上礼子を連れて、車に乗り強奪した金を運んだ大塚は、非常線に2回引っかかったにもかかわらず、無事通過することができた。
河上芳子は、河上肇の次女で大塚のハウスキーパーであり、井上礼子は京都市長であった井上密の次女で、実行犯の西代義治の恋人であった。
しかし、ピストル密売のルートから糸をたぐった警察が、彼らの上にいた今泉善一を逮捕し、大塚をはじめ家屋資金局のメンバーを次々と逮捕していった。
大塚は逮捕されてから、スパイの手で党の秘密が警察に完全に握られていたことを知り、もはやこれ以上苦労をしても無意味であると思い、義兄である河上肇のアジトを教えて逮捕させた。 ▽わかもの社
「グラフわかもの」を発行していた会社。
『グラフわかもの』は、昭和33年に創刊され昭和46年まで発行されていた日本の雑誌。
当初の主幹はぬやま・ひろし。ぬやまが日本共産党を除名されて以降は、島一平が就任した。
昭和41年10月に日本共産党がぬやまを除名したとき〔>>739〕、わかもの社はぬやまの著作をすべて絶版にし、わかもの社分局にあるぬやまの著作もすべて裁断・焼却処分された。
https://pbs.twimg.com/media/Cv81DARVMAE3Al8.jpg
https://pbs.twimg.com/media/Cv81ENcUkAAr9vT.jpg
https://pbs.twimg.com/media/Cv81DlHUIAA4Cz4.jpg ▽岩林虎之助
大須事件において火炎ビン武装デモを命令した党中央軍事委員。
本章では、西沢隆二の除名処分の承認について提案をおこなった中央委員会書記局員として登場する。
▼大須事件
昭和27年7月に愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件。
中華人民共和国の北京で日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、名古屋駅に到着した。
両代議士の歓迎のために約1000人の群集(日本共産党員や在日朝鮮人)が駅前に集合し無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。
その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。
https://www.npa.go.jp/hakusyo/h16/hakusho/h16/image/ph200004.png ▽李卓吾 〈1527年 - 1602年〉
16世紀後半、明末の嘉慶帝・万暦帝の頃の儒教思想家で、王陽明の陽明学の系譜に属する。
福建省の泉州出身で、イスラーム教徒の家系に生まれたという。
科挙の第一段階の郷試に合格し挙人となったが、第二段階の受験を放棄して、下級官吏となった。
54歳で辞職して自由な思索に入り、「童心」を理想として権威にしがみつく学者を痛切に批判、周囲と妥協することのない過激な議論は次第に危険視され、1602年に逮捕され、獄中で自殺した。
その男女平等の論など、時代に先んじた思想は、近代中国で高く評価されるようになった。
朱子学では「心」を「性」と「情」に分かち「性」こそ理とする「性即理」をテーゼとするが、「性」を発露するために読書などによって研鑽を積まねばならないとする。
しかるに李卓吾はそのような研鑽そのものが「童心」を失わせるとして排し、否定的に捉えるのである。
彼が生きた明代は『金瓶梅』が書かれたり、著名な詩人がひいきの妓女のくつをお猪口にして持ち歩くなどの行動に見られるように文化爛熟あるいは退廃の時代である。
その支配イデオロギーは儒教の中でも特にリゴリズムの傾向が強い朱子学であった。
すなわち士大夫は口を開けば「仁義」といった立派なことをいうが、実際の行動はそれに伴っていないことがままあったのである。
こうしたダブルスタンダードに対し李卓吾は激しく反発し、士大夫やその価値観を激しく痛罵したのである。
日本でも吉田松陰が獄中に於いて李卓吾の『焚書』を読んで非常に感激するなど、一定の読者を持った。
本章では、李卓吾は山下清とともに、タカジの性格・体質に似た人物の譬えとして叙述されている。 ▽志賀義雄の除名〔>>243〕
昭和39年5月21日、日本共産党は第8回中央委員会総会で、志賀義雄衆院議員を除名した。
志賀氏の除名理由は、衆院本会議で党の決定に反して、部分的核実験停止条約に賛成票を投じたため。
志賀氏は中央委幹部会員だったため、党内外に大きな波紋を巻き起こした。
志賀は、ソ連共産党から資金援助を受けていた。
http://showa.mainichi.jp/photos/uncategorized/2008/05/28/1964049.jpg ▼日中共産党の関係
日本共産党と中国共産党とは発足当時ともにコミンテルン支部であり、日本共産党は日本の中国侵略戦争に反対し、中国共産党と連帯してきた。
1943年のコミンテルン解散後も日本共産党と中国共産党は友好関係を維持した。
部分的核実験停止条約問題などで日本共産党は中国共産党を支持し、党内の親ソ派を除名した。
しかし、1966年に中国で文化大革命(文革)が開始されると、日本共産党は中国共産党と距離を置くようになる。
対立は深まり、1967年3月に発生した善隣学生会館事件や同年8月に発生した北京空港事件によって完全に敵対関係になった。
現在も和解はされていない。
http://empires-research.com/wp-content/uploads/2016/12/20160515-102918_U720_M156733_4d48.jpg 大阪へ来るときは、党の命令であるために旅費は出たが、除名された以上、帰りの電車賃を出すほど党は親切ではなかった。
このときの摩耶子の家計では、文字どおり帰りの切符を買う金がなかった。 ▽昭和42年正月
「摩耶子、中国貿易の会社をやらないか」
新宿の古いビルの二階にある会社
▽南青山のアパート ▽大阪キタの松茸飯店
▽天満の木造アパート
▽御堂筋
大阪市の中心部を南北に縦断する街路。
国道25号および国道176号の各一部に指定されている。
現代の大阪市における南北幹線の基軸である。 第13章 ぼたん鍋
あや子さんが後日、この骨折の一件を聞き、
「なぜ、だまっていたの」
と、このときばかりは、生涯でただ一度、忠三郎さんをなじった。
が、忠三郎さんには理由があった。かれの骨を折った療法士というのは女の子で、しかも忠三郎さんの基準に適いすぎるほどに可愛い子だったし、つねづね気に入っていたのである。
「だから、我慢したんだ」 ★昭和49年−伊丹
▽忠三郎さんが亡くなる二年前の正月
忠三郎が死んだのは、昭和51年9月10日であるから〔>>22〕、昭和49年正月の話をしている。
▽伊丹市主基町の正岡忠三郎家
主基は「すき」と読む〔>>420〕。 ▽上方歌舞伎の和事
上方歌舞伎は江戸歌舞伎とともに歌舞伎の両輪をなし、江戸歌舞伎が荒事と言う勇壮な芸を作り出したのに対し、和事とよばれる柔らか味のある芸を形成している。
廻り舞台やセリ上げなどの舞台機構も上方で生まれるなど18世紀ころは上方歌舞伎の方が進んでいた。
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/uploads/kabuki_dic/1257/pict_257.jpg ▽上島鬼貫 〈うえじま おにつら〉
万治4年(1661年) - 元文3年(1738年)。江戸時代中期の俳諧師。
摂津国川辺郡伊丹郷(兵庫県伊丹市)でも有数の酒造業者である上島宗次(屋号・油谷)の三男として生まれた。
25歳で医学を志し大坂に出る。やがて仕官を求めて、筑後国三池藩や大和国郡山藩、越前国大野藩などに出仕し勘定職や京都留守居役を担当した。蕉門の広瀬惟然や八十村路通などとも親交があり、彼らを通じ松尾芭蕉とも親交を持つようになる。作風に芭蕉の影響を少なからず受けた。
http://www.city.itami.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/image/group/7/onitura.jpg ▽夢返せ烏の覚ます霧の月
病との闘いの苦痛からやっと解放され、何やら気持ちのいい極楽の夢でもみていて今度は成仏できると思っていたら、突如カラスの声で叩き起こされた生理的心理的不快感を訴えている。
こう何羽も鳴かれてはたまらない。月もなにやら恨めしい。 ▽阪急伊丹駅(震災前)
http://travelstation.tokyo/station/kinki/hankyu/itami/pict/itami03_19890625.jpg
▽酒類小売店の店主
盛りあがった肩と太い腕をしきりに動かす薄着をした精力的な四十男。
道に迷った司馬さんに、忠さん宅までの道順を教える。 ▽昭和12年 - 阪急百貨店陶器売場主任
ぼたん鍋は、もともとは猪肉を煮るための鍋であった。
「獅子に牡丹」……堂々たる獅子の姿に華麗な牡丹の花を配した図柄。取り合わせのよいもののたとえ。
獅子は百獣に君臨する王といわれます。その無敵の獅子でさえ、ただ一つだけ恐れるものがある。それは、獅子身中の虫です。
我身の体毛の中に発生し、やがて皮を破り肉に食らいつく害虫です。
しかし、この害虫は、牡丹の花から滴り落ちる夜露にあたると死んでしまいます。
そこで獅子は夜に、牡丹の花の下で休みます。
http://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000125638.jpg
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61wR763hSWL._SY445_.jpg ▽広田弘毅内閣
広田内閣は、岡田内閣で外務大臣を務めていた広田弘毅が、二・二六事件の後に組閣した実質的挙国一致内閣である。
軍部の抵抗により組閣は難航した。昭和11年3月9日から昭和12年2月2日まで続いた。
積極財政主義を掲げる馬場^一蔵相が増税と公債の増発による超大型の昭和12年度予算案を組むと、軍需資材の需要増を見込んだ商社が一斉に輸入注文を出したため輸入為替が殺到して円が下落し、これが輸入物資の高騰を招いて市場は混乱した。
その最中に浜田国松議員と寺内寿一陸相との間に「割腹問答」が起きる。
これに憤慨した寺内が単独辞任をちらつかせながら衆議院を懲罰解散することを広田に要求、議会は2日間の停会となり政局が混迷した。
これを見た広田はあっさりと閣内不一致を理由に総辞職を選び、その道連れとして12年度予算案を廃案に持ち込んだのである。
http://mainichi.jp/graph/2012/04/28/20120428org00m010003000c/image/021.jpg ▽林銑十郎内閣
軍事参議官で予備役陸軍大将の林銑十郎が第33代内閣総理大臣に任命され、昭和12年2月2日から同年6月4日まで続いた。
陸相時代に大規模な軍縮を断行した宇垣一成を煙たがる風潮がこの頃の陸軍では大勢を占めたため、陸軍は軍部大臣現役武官制を盾に現役将官から陸軍大臣を推薦せず、宇垣は組閣に失敗して大命を拝辞するに至った。
このため、あらたに予備役陸軍大将の林銑十郎に大命が降下し、組閣したのが林内閣である。
しかし、在任123日。林内閣は短命で特に大きな実績も残せなかったことから、林銑十郎の名をもじって「何もせんじゅうろう内閣」とまで皮肉られるに至った。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/c/c15.jpg ▽エスペラント
万国共通語をめざす人造語。ポーランドのルドヴィコ・ザメンホフとその弟子(協力者)が1887年に考案・整備し発表した人工言語。
多国籍メンバーから成るイギリスのプログレッシヴ・ロック・グループの名前でもある。
http://enjoy.pial.jp/~chipmunk/ESPERANTO2.jpg ▽富士正晴
大正2年 - 昭和62年。徳島県三好郡山城谷村(現三好市)出身の小説家・詩人。
旧制第三高等学校に進み(のち中退)、野間宏(野間の妻は富士の妹なので義弟)らと出会い、竹内勝太郎に師事する。
晩年まで大阪府茨木市内の竹林に住していた。
http://www.miyoshi.ed.jp/docs/2016072100140/files/fuji.jpg ▽コーカサス
黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域。
北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国。
南コーカサスは旧ソ連から独立したアゼルバイジャン共和国・アルメニア共和国・グルジア。
http://kcpo.jp/resource/38th/Caucas2.gif
http://kcpo.jp/resource/38th/Caucas1.gif
本章では、渡辺産婦人科病院の当時副院長であった嶋津富子先生の美貌の譬えとしてコーカサス美人が引用されている。 ▽女子医専
昭和3年に大阪女子高等医学専門学校として大阪府枚方市牧野地区に創立された。当時西日本で唯一の女子医育機関であった。
ゴジラが銀幕デビューした昭和29年に、関西医科大学と改称され、男女共学制が実施された。
http://kmu-prs.adiva.jp/images/top_img_1.jpg
本章では、渡辺産婦人科病院の当時副院長であった嶋津富子先生の卒業された学校として紹介されている。
また、嶋津富子先生はテニス美女でもあられた。
https://www.18karatreggae.com/wp-content/uploads/2016/03/maria-sharapova-1.jpg 作者が作品に登場する実在人物をわざわざ匿名にしたのに、おまえが勝手にネットに晒していいのか? ▽正岡雀子
子規書簡の忠三郎誕生祝いの句「雀の子忠三郎も二代哉」〔>>13〕に因んでいることは言うまでもない。 ▽「会の忠」
郷土史の会
俳句の会……忠三郎は「五十八(いそはち)」という号を用いている。 ▽京極杞陽〈きよう〉
明治41年 - 昭和56年。東京都出身の俳人。高浜虚子に師事。
豊岡京極氏14代当主で、華族令が廃止される前までは子爵の爵位を持つ華族であった。
靖国神社元宮司の京極高晴は次男に当たる。
豊岡移住以降も虚子の忠実な門人として師や同門の俳人達と行動を共にすることが多く、虚子が没するまでほぼ毎年、ともに国内各地へ旅して句作を行った。
http://tanshin-kikin.jp/wp-content/uploads/2011/06/kao44.jpg
本章では、忠三郎が作った素人俳句の会の添削者として登場する。 ▽次男
正岡明〔>>428・>>408〕
本章では、ぼたん鍋を分けてもらうために、嶋津家まで使いにいった。 ★発病
▽昭和44年4月13日
朝から蒸暑い日曜日であった。
忠三郎68歳。
この年の10月、フジテレビ系で『サザエさん』の放送が開始される。
わが国に初めてホームセンターが開店し、住友銀行が新宿などにATMを初めて設置した年でもある。
そして、7月21日、アポロ11号は「静かの海」と呼ばれる月面に着陸した。
くそ暑い夏休みの初日であった。
http://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/bc1ecd8b6c6348115270d00bcbec3c72dea71660.96.2.9.2.jpeg ▽はじめての男の児
正岡浩〔>>231〕
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丁 |
| | ▽西宮北口駅
御影から宝塚へ花見に行くには、阪急神戸線を西宮北口駅まで引き返し、今津線に乗り換えなければならない。
宝塚での花見を諦めて自宅に帰るには、二駅先の塚口で伊丹線に乗り換える。
本章では、西宮北口駅で乗り換えのため、猛々しいほどの勢いで走った。
脳卒中の一因かもしれない。
https://pbs.twimg.com/media/C89VUMmVoAAP52A.jpg
https://i.ytimg.com/vi/gcW-rTUMT0A/maxresdefault.jpg にわか雨に遭って走りだすというのは中間や小者のすることであり、武士のすることではない。 ▽宝塚南口駅
宝塚南口駅周辺のお花見スポットとしては「花のみち」が有名である。
宝塚歌劇生が宝塚駅から宝塚大劇場に行き交う美しい散策道。道沿いには歌劇ファンが楽しめるレストランやグッズショップが並ぶ。
https://image.walkerplus.com/wpimg/walkertouch/wtd/images/n/104959.jpg?x=635 ▽産婦人科医S夫妻……ともども学会のために金沢。留守。
▽内科K医師……寄合酒の仲間。留守。
▽Y医師……在宅。ただし歯医者。
▽近所の友人Aさん……尿瓶を持ってかけつけた人生の達人。 ▽翌14日
「帰るんだ」
桜を庭木にもつYという懇意の家に寄る。
花見という主題を完結させる。 ▽翌15日
左半身が完全に麻痺。
▽K医師が勤務する私立病院へ入院
杖をつきながらも歩いて退院できた。 ★兵庫県立総合リハビリテーションセンター
▽昭和45年2月
自宅で左腕を骨折したまま兵庫県立総合リハビリテーションセンターに入院した。
病者という天刑を受けた者に教育刑をほどこす場所。
人権は極度に制限された絶対主義社会を体験する。
https://kango-oshigoto.jp/img_la/hospital/images/90225/6870.jpg ▽作業療法士
入浴や食事など日常生活の動作や、手工芸、園芸及びレクリエーションまであらゆる作業活動を通して、身体と心のリハビリテーションを行う専門家です。
理学療法士と異なる点として、作業療法士はそううつ病及び摂食障害などの精神障害の患者さんも対象としており、幅広くリハビリテーションの医療現場で活躍しています。 ★自宅療養
▽昭和45年8月30日
兵庫県立総合リハビリテーションセンターを退院する。
最寄の駅は国鉄西明石駅。
その後、6年間の闘病生活を自宅でおこなう。 昭和45年、大阪万博が開幕(入場者6,421万 8,770人)。
3月31日、よど号ハイジャック事件。
ケンタッキー・フライド・チキンの1号店が名古屋にオープン。
マクドナルド日本第1号店が銀座にオープン。
FM東京・大阪音楽FM・福岡FM音楽放送が本放送開始。
日本初の歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施される。
「ちり紙交換」開始。
広島ホームテレビ開局。 先祖と友人に著名人がいるというだけで、自身は平凡な人生を送った忠三郎。
小説の主人公にはなりにくい人物だけど、この章はジ〜ンとくるものがあったな。 話の落としどころが「患者」として死んだのではなく「人間」として死ねただからね。
陳腐といえば陳腐。
「人間」として死ねたことを強調するために、兵庫県立総合リハビリテーションセンターが必要以上に悪者にされているんじゃないかな? 第14章 尼僧
修道女と慰安婦の徴用が同時におこなわれたというのは、なにやら侵略という深刻な用語すら使いかねるほどに粗末な発想であったかと思える。
彼女らは、大阪に集合させられたらしい。ここから列車輸送され、下関から一ツ船でもって、フィリピンに送られるのである。
忠三郎さんとあや子さんは、その渦中にいた。
「何の用事だったのかは知らないけど、ともかく忠三郎はフォームを走り回っていましたよ」 >>796
忠三郎は自分で歩行できたから、家族の負担はいくぶん楽だったろうな。
重症の病者であれば、介護する家族が大変よ。
介護者側からの視点は欠けているね。 それは子規と律の関係を述べたところに、散々書いてあった。 >>797
にわか雨に遭って走りだすというのは中間や小者のすることであり、武士のすることではない。
その点、明治以前から続いてきた士族の躾をうけた最後の世代に忠三郎さんは属していた、といわれつつ忠三郎はフォームを走り回っていたのか? ★伊丹−遺物
▽加藤ひさ〔>>61〕
松山で教会関係の人を養子にした。
忠三郎という天理教に無縁の実子など、彼女の配慮の埒外に属した。 ▽加藤拓川の収集癖−盃と硯
▽重松清行
明治17年 - 昭和28年 地方政治家。
元蔵相勝田主計の随員として欧米を一巡したのがきっかけで市会議員になり、5代目松山市長に加藤恒忠の引っぱり出した。
加藤は当時病弱で、これを補佐する助役となって敏腕を振った。
加藤市長没後、助役を辞して上京し、加藤恒忠の伝記『拓川集』の編集刊行をやったり、帝室博物館の復興をやってのけた。
本章では、拓川の収集癖を語る人物として登場する。 ▽高浜
愛媛県松山市高浜町。
東京芝に自宅のあった加藤は郷党から松山市長就任の要請をうけて郷里に帰り、高浜に新居を構えた。
海を眺めることのできるその新居を加藤は「浪の家」と命名した。
※高浜の海岸からの風景(興居島・四十島)
https://blog-imgs-58-origin.fc2.com/y/o/m/yomodado/DSCF1558_convert_20130425152444.jpg ▽丹波市町〈たんばいち〉〔>>443〕
▽天理教
江戸時代末に成立した新宗教の一つ。中山みきを教祖とする宗教団体である。
一般教会は、主に中山みきの生前に信者により結成された講社をその端緒とするものであり、布教の系統にしたがって設置され、その規模に応じ大教会及び分教会と呼称される。 ▽天理教松山分教会
愛媛県松山市平和通4丁目2?2
https://geo1.ggpht.com/cbk?panoid=Bn9nF2-GAD8dBV7mHEZdDQ&output=thumbnail&cb_client=search.TACTILE.gps&thumb=2&w=408&h=200&yaw=351.0005&pitch=0&thumbfov=100 ▽子規庵
「昭和16年の律の死後、ひと手にわたった」と書かれてあるが、律の生前に律が所有していたわけではない。
子規の自宅は借家で、土地・建物の所有者は加賀前田家。
内藤鳴雪、中村不折、伊藤左千夫、河東碧梧桐 高浜虚子、寒川鼠骨等が設立した子規庵保存会が、大正14年7月に前田家より子規庵土地建物及び隣地土地建物を購入している。
正岡律は財団法人子規庵保存会の理事ではあるが、子規庵土地建物の所有者ではない。 養母律が、子規の死後、ながく守ってきた根岸の子規庵も相続しなかった。
なぜそういうぐあいになったかについては、法律に昏い私には幾度きいてもわからない。
「えっ、先生、ほんとうにお分かりになりませんか?」
「えっ、あなたは分かるのですか?」
「え、……ええ、……まあ」 忠三郎さんそのひとに、子規庵の所有権をめぐって他人と争うという気がなかった。
それもそのはずである。
子規庵所在の土地取得、家屋建築費を捻出のため、寄附を募ったのは保存会なのである。 ▽伊丹の自宅
戦後、宅地地主や家主が、財産税、あるいは家賃統制に関する法令などとの関係から、住んでいる借り手にそのまま買い取ってほしいという交渉が、あちこちで行われた。
伊丹の正岡家の場合、忠三郎に金がなかったので、あや子の実家の野上家〔>>23〕が出した。 ▽夏目漱石が子規に送ったクリスマス・カード
1882年に建てられたネオゴシック様式の王立裁判所を描いたクイントンの水彩画。
漱石の絵葉書と同一のものかどうかは知らない。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/d7/f605cf5739fdb93c0525cc4b55477bea.jpg ▽ハトロン紙
オランダ語のpatroonpapier。薬莢用の丈夫な紙。
薄茶色の丈夫な西洋紙。包装紙や封筒用紙に使う。
http://blog-imgs-11.fc2.com/t/o/r/torahanko/060926hanko2.jpg ▽富永太郎の髪
大正14年、代々木富ヶ谷の両親の家で永眠〔>>302〕。
※大岡昇平〔>>309〕『富永太郎 ー書簡を通して見た生涯と作品ー』〔>>312〕 >>818
>とらげられていた。
意味がわかりません? 広島弁講座 【とらげる】=しまう、納める、片付ける。
「本を とらげんさい」 ▽ユスティチア(ユースティティア)
ローマ神話に登場する女神。 ギリシア神話では女神テミス。
名前はラテン語で「正義」を意味し、英語形ジャスティス (Lady Justice) でも知られる。
正義の女神であることから、裁判所などでは、天秤と剣を手にし目隠しをしたユースティティア(あるいはテミス)の像 (Statue of Lady Justice または Statue of Jusctice) を飾る習慣がある。
法学部の学生におなじみの女神である。
http://livedoor.blogimg.jp/cookpine-maestrocollection/imgs/e/6/e62e3292.jpg ▽天理女学校〔>>449〕
大正9年、4年制の天理女学校が開設された。
これが大正12年に5年制の天理高等女学校となった。
昭和23年の学制改革に伴い、天理中学校及び天理高等女学校が統合され天理高等学校(男女共学)となる。
本章では、加藤たへが母ひさによって無理やり入学させた学校として登場する。
http://www.pocketbooks-japan.com/images/products/xe5001-9999/xe8222.jpg
http://uub.jp/47/nara/nara_map1.png ▽加藤あや
拓川の長女。結核を患い、高浜の家〔>>803〕で死んでいる。
忠三郎より2歳下。たへより4歳上。 ▽司馬の先輩の夫人
加藤あやの小学校の同級生。
聖心女学校に在学中、あやの妹たへと再会する。 ▽たへの学資
ひさの実家である樫村家〔>>453〕で面倒をみていたのではないかと司馬は推測している。 ▽聖心女子専門学校
東京都港区にある専修学校。
平成27年度より英語科を募集しない、平成29年度より保育科も募集はしない。おそらく廃校する。
安倍晋三総理大臣婦人の昭恵は、加藤たへと同じ聖心女子専門学校卒。
https://www.senmon-navi.com/sc_img/268459/pr_main.jpg ▽聖園テレジア〔>>450〕
たへを養女にした。
加藤家の祭祀を嗣ぐ者がいなくなったので、ひさは養子をとった〔>>801〕。 ▽母子寮
働く母親と婦人の休息所として、このほど全国でも珍しく《母子福祉センター》が神奈川県藤沢市の社会福祉法人聖心愛子会(会長:聖園テレジア)の手でつくられた。
ここは山あり谷ありの絶好の地で、聖園子供の家(養護施設)、聖園ベビーホーム(乳児院)、聖園母子ホーム(母子寮)などの施設がある。
……『助産婦雑誌』1964/3/1号の記事から
※聖園女学院附属聖園幼稚園
http://c.rakuraku.or.jp/img/upload/img_fac_505.png ▽フィリピン進攻作戦
フィリピンは1899年以降アメリカの植民地となっていた。
対米戦の基本構想としては、開戦後速やかにフィリピン主要部を占領し、極東におけるアメリカ軍の根拠地を奪う作戦が検討されていた。 アメリカも想定される日本による攻撃からフィリピンを守るため、1924年にオレンジ計画を具体化していた。
だが計画には根本的な限界があった。マニラ湾の港には大艦隊を支援できる能力はないので、海軍基地は5,000マイル離れた真珠湾を使うしかない。
日本の基地はフィリピンから1,500マイルしかなく、日本は短期間に大兵力を送り込むことができる。
このような実情に合わせて、1936年に改定されたオレンジ計画(WPO-3)では、フィリピン全土の防衛は断念して兵力をマニラ湾周辺に集中する案が採用された。 だが、ダグラス・マッカーサー司令官はこの案に不満であった。
マッカーサーは1937年にアメリカ陸軍を退役していたが、1941年7月にフランクリン・ルーズベルト大統領の要請を受け、現役に復帰してフィリピン駐屯のアメリカ極東陸軍の司令官となっていた。
マッカーサーは、10個師団にまで育て上げたフィリピン軍と、アメリカ軍の最新鋭機の戦力をもってすれば、フィリピンの防衛が可能であると考えていた。
マッカーサーは、フィリピン全土の要所に兵力を配置する積極的な防衛策に転換した。 日本では1941年11月5日、御前会議で対英米蘭戦争が決定され、6日に南方作戦部隊の戦闘序列が下令された。
シンガポール攻略を重視する陸軍はマレーに重点を向け、アメリカ主力艦隊の迎撃を重視する海軍はフィリピンに重点を向けることになった。
シンガポール攻略に開戦後100日を要すると考えられたのに対して、フィリピンは45日で主要部を攻略できると判断された。
フィリピン作戦を担当する部隊として第14軍が編成され、司令官に本間雅晴中将が任命された。
http://burari2161.fc2web.com/DSC022521.jpg
http://www.matsuyomi.co.jp/img/6813_1.jpg 本間雅晴中将の指揮する第14軍主力は12月22日にルソン島に上陸し、1月2日には首都マニラを占領した。
しかし、アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官はバターン半島に立てこもる作戦を取り粘り強く抵抗した。
45日間でフィリピン主要部を占領するという日本軍の予定は大幅に狂わされ、コレヒドール島の攻略までに150日もかかるという結果になった。 しかし、1942年5月7日にアメリカ極東陸軍(ユサフェ)の全軍が降伏を宣言した。
既にダグラス・マッカーサーと共にオーストラリアに逃亡していたマヌエル・ケソン大統領は、その後アメリカ合衆国に渡ってワシントンにて亡命政府を建てた。
日本軍は従来までの統治機構を出来る限り活用しようとしたが、政治的決定の多くは日本軍に委ねられていた。
このような背景において、修道女と慰安婦の徴用が同時におこなわれ、フィリピンに送られることになった〔>>797〕。 東南アジア島嶼部地域の最も北に位置し、オーストロネシア語系のタガログ語をはじめ、多数の現を使用する部族に分かれ、漁労中心の生活を送っていた。
南部のミンダナオなどにはイスラーム教が伝えられ、またムスリム商人や中国商人なども交易のために来航していた。
1521年、マゼランの率いるスペイン艦隊の渡来以来、スペインの植民地とされ、19世紀末までその支配を受け、カトリックが浸透する。
19世紀後半にホセ=リサールによる独立運動が開始され、1898年の米西戦争の時に独立を達成するが、独立を認めないアメリカとの間の戦争を経て、アメリカ領となる。
第二次世界大戦後の1946年に独立を回復したが、アメリカへの軍事的従属を強め、国内ではマルコス大統領による開発独裁が続く。
1986年、「ピープルパワー」といわれた民主化運動が激化し、マルコスは失脚、民主化が実現した。
現在は東南アジア諸国連合の重要な一員となっている。 第15章 洗礼
廊下の天井には電灯が一つついているきりで、暗かった。
その電灯の下で鳥打帽をかぶったまま立っているタカジの姿が、大きな鳥の影のようにも見えた。
ただ一声、忠三郎さんの意識の底にとどかせようとするのか、
「忠三郎が死んでたまるか。――」
と、大きく叫び、そのまま姿を消してしまった。鳥のような唐突さだった。
タカジが、松井勲に対し、やかましくせきたてはじめたのは、このときからであった。 娯楽小説の範疇から大きく外れてしまった『ひとびとの跫音』は、強面な感じがして、はじめはとっつきにくかった。
しかし最終章の前まで読みすすめてみると、登場人物に対する愛着がふくらみ、離れがたい気分になってきた。
筆者の気持ちをそのように変えたのは、ユスティチア・たへがスーパーで買い物をする描写だったように思う。
修道女の暮らしというものを想像したことがなかったので新鮮だったというのもあるが、
世間離れしている修道女の存在がかわいらしく思えた。 〔命日が続く〕
昭和51年7月2日 松井勲
昭和51年9月10日 正岡忠三郎
昭和51年9月18日 西沢隆二
昭和51年10月2日 福田是定(しじょう)〔>>28〕 ★子規全集
▽タカジ
「子規全集を出したいんだ」
「忠三郎の生きているうちに最初の一冊でも手にとらせてやりたいんだ」 ▽陸羯南全集全10巻(みすず書房 / 昭和43年)
http://www.tengyusakai-shoten.co.jp/wp-content/uploads/2016/03/26fe0ab2d61c2e3b57bbbd9bcc0f345d.jpg
▽丘浅次郎著作集全5巻(有精堂出版 / 昭和43年)
丘 浅次郎〈あさじろう〉 明治元年 - 昭和19年。動物学者。
遠江国掛塚(現・静岡県磐田市掛塚)生まれ。父親が大阪造幣局勤務であったため、少年期は大阪市内で暮らす。
明治37年に日本の大衆向けに書かれた初の進化論の解説書である「進化論講話」を著す。
http://www.biol.tsukuba.ac.jp/tjb/Vol2No1/TJB200301II2fig4.jpg ▽Tさん
昭和39年に三菱銀行の頭取となる田実渉〈たじつ-わたる〉のこと。
旧制二高時代の同級生で忠三郎の生涯の友となった。
http://www.eonet.ne.jp/~kumonoue/tajitu02.gif ▽聖公会
イングランド国教会 (Church of England) の系統に属するキリスト教の教派。
日本聖公会によると「聖公会はローマ教皇の教権と統治に逆らった点でプロテスタントであるが、使徒継承の信仰と伝統を護持する点でカトリック教会である」としているが、カトリック側からはカトリック教会とは見做していない。
本章では、田実渉が「三人の友」のなかで、ある聖公会の牧師を三人の親友の一人として挙げている。 ▽忠三郎の見合い
田実渉が「正岡忠三郎のこと」のなかで忠三郎の見合いについて述べている。
忠三郎は見合いの席でげろを吐き、「見掛けだけで他人を信用してはならないということを相手に教えてやった」と嘯いた。
相当な変人である。 ▽忠三郎の年始挨拶
陸四郎〔>>486〕
土居健子〔>>80〕 ▽高浜年尾
明治33年 - 昭和54年。俳人。高浜虚子〔>>201〕の長男。
東京都神田猿楽町に生まれる。「年尾」の名は正岡子規の命名。
小樽商業高等学校(現・小樽商科大学)時代は、同期に小林多喜二〔>>661〕、1期下に伊藤整がおり、全員でフランス語劇に出演したこともある。
卒業後、旭シルクに入社。のち転勤により兵庫県芦屋に転居。
※左端が年尾(右から二人目が虚子)http://www.kyoshi.or.jp/images/sekai2.gif ▽佐藤紅緑〈こうろく〉
明治7年 - 昭和24年。作家、俳人。
本人の意に反して執筆する事となった「少年小説」の分野で昭和初期に圧倒的な支持を受け、「少年小説の第一人者」として知られる。
https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/a/abcd1603/20170308/20170308102604.jpg
作詞家のサトウハチロー、作家の佐藤愛子、劇作家の大垣肇の父。
3人とも母は異なり、大垣肇は愛人の子供であり、同居はしていない。
紅緑は少年たちに理想を説く小説を書き続けたが、皮肉にも長男ハチローをはじめとする4人の息子たちは、すべて道楽者の不良少年・不良青年となった。
ハチローは詩人として成功したが、他の3人は、乱脈な生活を続けた生活無能力者で破滅的な死に方をした。
http://www.bs-asahi.co.jp/kodomonokuni/images/prg_002.jpg
紅緑は生涯、彼らの借金の尻拭いをし続けた。その有様は、娘・佐藤愛子の小説『血脈』に描かれている。
http://img01.noramba.net/usr/hayaoki1951/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%84%9B%E5%AD%90.jpg
佐藤紅緑が住んでいた家を買い取った阪神タイガースの初代合宿所は、協和寮と名づけられました。
本章では、高浜年尾と佐藤紅緑とは、忠三郎さんが年始の挨拶に出向く相手として記されている。 ▽Establishment
「社会的に確立した体制・制度」やそれを代表する「支配階級」をいう。
政治学では、政治を「エスタブリッシュメント間の抗争」と捉える。 ▽久保田正文
明治45年 - 平成13年。小説家、評論家。
長野県飯田生まれ。日本大学藝術学部教授を経て、大正大学文学部教授。
石川啄木、芥川龍之介、石川達三についての論、正岡子規評伝や短歌論がある。
また文庫解説を数多く執筆した。 ▽和田茂樹
明治44年 - 平成20年。
愛媛県松山市出身の国文学者。愛媛大学名誉教授。
正岡子規に関する研究だけでなく、郷土文学研究に功績を残した。 ▽蒲池文雄
愛媛大学教授。歌手の松田聖子は親類である。 ▽監修者−4名
正岡忠三郎
大岡昇平〔>>309・>>312〕……富永太郎の書簡は、忠三郎が所有していたものを閲覧した。
ぬやま・ひろし
司馬遼太郎 ▽明石市大久保
大岡昇平は昭和20年1月、レイテで米軍の捕虜になります。
そして昭和20年12月、妻子が疎開していた兵庫県明石市大久保に復員します。
『俘虜記』もここで書き始められたのである。
http://p-ookubo.com/img/tmp-aboutphoto01.jpg ▽「俘虜記」
大岡昇平が昭和23年、文芸誌「文学界」に発表した小説。
太平洋戦争中フィリピンの山中でアメリカ兵を目前にしながら「射たなかった」私の心の動きを中心に、自分が何者であったかを精緻なまでに自己検証した。
冒頭いきなり〈米軍の俘虜となった〉と記した。それは〈生きて虜囚の辱めを受けず〉という戦中の「戦陣訓」に対抗する端的な戦後の宣言だった。 ▽神戸三宮の闇市
終戦の年である昭和20年8月の終わりごろ、三宮高架下に中国人が揚げ饅頭を1個5円で売りだしたのが、神戸におけるヤミ屋の一号とされています。
その後、食べ物の立ち売り人の数が増え、握り飯、蒸かし芋などが売られるようになり、天候に左右されない高架下に群集が満ち溢れ、やがて、三宮高架下から神戸駅までの約2キロに及ぶ日本一長い闇市が出現しました。
http://livedoor.blogimg.jp/mukashi_no/imgs/4/0/40e979bc.jpg
http://img.yaplog.jp/img/07/pc/o/s/u/osuman3/3/3272.jpg
本章では、大岡昇平が正岡家を訪ねたとき、あや子が闇市見物に出かけていたと叙されている。 ▽勝光院
世田谷区桜にある曹洞宗寺院。
旧世田ヶ谷村の字桜木と呼ばれた地域に位置し、現在の桜の区域全体はこの寺の寺領であった。
http://www.tesshow.jp/setagaya/images/sakura_shokoin2.jpg
松井勲の葬儀は学生時代に下宿していた勝光院で行われた。 ▽駒井皓二〔>>94〕
松井勲から子規全集の仕事を引き継いだ講談社の従業員。 ▽郵便貯金会館
松山市道後姫塚123−2に所在する格安ホテル。
現在は、「メルパルク松山」と呼ばれている。
「道後温泉本館」から約5分。
http://www.jalan.net/jalan/images/pictM/00324172.jpg
本章では、松井勲が編集委員の和田茂樹〔>>862〕に仕事の督促をするために松山を訪れた際に宿泊した旅館として登場する。 ▽共立学校〔>>517-519〕
秋山真之の書簡から「共立」の読みが、キョウリュウではなくキョウリツであることを、松井勲が発見した。
国文学者の和田茂樹は、傍で「ほほう、そうかね」と言ったきりであった。 ▽ある日の来訪者
句会の句のなかから自分の亡父の句だけを削ってほしいと慇懃に要求した。
しかし、その来訪者の真意は金欲しさであった(忠三郎談)。 来訪者の名前が伏せられているということは、公務員か在日だな。 ▽著作権
著作権の原則的保護期間は、著作者が著作物を創作した時点から著作者の死後50年までである。
しかし、自筆稿を閲覧する場合、その保有者が閲覧を許可しなければそれまでである。
「法的には何も根拠がないと思います」と司馬も松井勲も述べている。
しかし、これは誤りである。
著作権法ないし文化財保護関係の法令に特別の規定がなければ、所有者は所有物を自由に使用・収益・処分できる(民法206条)。
子規の自筆稿の所有者は、それを他人に見せたくなければ断れるし、金をとって見せることもできる。 ★ユスティチア・たへ
▽チェラタ
ユスティチアの妹弟子。壮齢の活発な修道女。
関西医科大学〔>>773〕を中途退学している。 ▽浮世ばなれ
修道女にとってスーパーマーケットやレジスターは物珍しいものであった。
サンダルを購買するときは、子供が玩具売場で迷うように容易に決まらない。
※サンダル履きの修道女
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/da/692603d25e300d341919b64e0a5e7a52.jpg ▽浮世ばなれU
兄の友人が訪ねてくると、修道女である妹は、入浴を勧める。 ▽兵庫県立総合リハビリテーションセンター
昭和45年3月20日、忠三郎は洗礼をうけヨゼフとなる。
※ヨゼフ
ヘブライ語起源の人名。初出は旧約聖書の創世記。
ヤコブの妻ラケルが初めてみごもって男の子を産み、神が彼女の恥をすすいでくださったこと(yosep)にあやかってヨセフ(Yosep)と名づけたとされる。 ▽阪急沿線の教会の若い司祭
忠三郎に洗礼を授けた神父。
※洗礼
キリスト教で、信者となる時の儀式。
12世紀頃までは全身を水に浸したが,今日では頭部への灌水が一般的。 ▽兵庫県立総合リハビリテーションセンターの婦長
「親族に面会をさせないというのが規則ですから」とアウシュヴィッツの看守のような口調で洗礼を拒否する。 ▽兵庫県立総合リハビリテーションセンターの所長
「公共の施設のなかで宗教行事をおこなうことは建前としていいとは思いません」と政教分離(憲法第20条1項後段、3項、第89条)に配慮はするものの、「洗礼ならばかまわないでしょう」と『大脱走』のフォン・ルーゲル大佐のような甘さで許してしまう。
https://pbs.twimg.com/media/CzeCI5sVIAEzP8x.jpg ▽終油の秘蹟
古代から行われていた病者への塗油は、時が経つにつれて臨終にある者に対してのみ行われるようになったため「終油の秘蹟」と呼ばれるようになっていた。
しかし、第二バチカン公会議後の1972年に秘跡の由来と本来的な意味の見直しが行われ、対象を臨終のものに限らず行われる「病者の塗油」という名前に改められた。
https://veneremurcernui.files.wordpress.com/2012/05/extreme20unction-001.jpeg
本章では、入院中の忠三郎に「終油の秘蹟」が授けられた。 「終油の秘蹟」のときに、タカジの>>845の叫び。 第16章 誄詩
誄詩はやや長かった。その冒頭だけを、私は記憶している。
記憶しているまま、句読点は不明ながら、掲げておく。
死ぬということは
もう会えないということだ
それから上でもなければ下でもない
だから悲しいんだ ▽ぬやま・ひろし
「野山」を「ぬやま」と読んだのは、獄中で精読した『万葉集』の影響。
『万葉集』に出てくる東国なまり。 ▽明治34年
「瓶にさす 藤の花ぶさ みじかければ たゝみの上に とゞかざりけり」(子規)
意味的には、まことに他愛のない歌であり、あらためて考えてみると、この歌がなぜこれほどまでに人口に膾炙しているのか、よくわからない。
この一首がしばしば引用されるのは、斎藤茂吉、島赤彦をはじめとする「アララギ」同人たちにより、「写生」を標榜するために繰り返し引用されてきたことによるのだろう…
本章では、タカジが好んだ子規の一首として紹介されている。
https://t.pimg.jp/015/797/896/1/15797896.jpg ▽伊勢へ一泊旅行
昭和50年暮。幹事は須田剋太。
タカジはNHK紅白歌合戦を観るために29日に東京に帰る。 ▽数寄
古くは「すきもの」とは和歌を作ることに執心な人物を指したようであるが、室町時代には連歌が流行し、特に「数寄」が連歌を指すようになったとされる。
さらに桃山時代には富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も連歌から茶の湯へと意味を変えている。
このため江戸時代には、数寄のための家「数寄屋」も茶室の別称として定着する。 「数寄」とは本来「好き」の意味であり、特殊な当て字として流布している。
専門業とはせずに何らかの芸事に打ち込む様を、特に「すき」と称している。
現代の俗語としては「あんたもすきね」「ものずき」などに通じる。 以上は、林屋辰三郎の説である。
室町時代「好き」は身を滅ぼす怖いものと恐れられつつ、「好き」をする者を周囲はうらやんだ。
江戸時代になると、その「好き」という心は「道楽」という言い方になり戒められたという。
…… 司馬遼太郎 / ドナルド・キーン『世界のなかの日本 / 十六世紀まで遡って見る』 「リズムは人間を解放する」(タカジ)
「音楽は世界と人間をその抑圧から解放する力だ!」(ミルフォード・グレイヴス)
……『ジャズ・マガジン』77年8月号 タカジは共産党を除名されてからは、旋律に傾斜した。
タカジがリズム論を説き続けていた時期に、「自分は演歌が好きである」という人に何人も出くわしたからである。 『街道をゆく』「豊後・日田街道」に、このイベントが登場するよね。
1 名前:ばーど ★[sage] 投稿日:2017/10/09(月) 18:00:55.34 ID:CAP_USER9
「牛喰い絶叫大会」で叫ぶ女性=9日午後、大分県由布市湯布院町
http://www.chunichi.co.jp/s/article/images/2017100901001458.jpg
「結婚4年目、うちは旦那ファーストから子どもファースト」。大分県産の高級牛肉を食べた後、日ごろの思いを叫んで声の大きさと内容のユニークさを競う恒例イベント「牛喰い絶叫大会」が9日、同県由布市湯布院町の牧草地で開かれた。県内外から約700人が集まり、会場は終始笑いに包まれた。
秋晴れの下、参加者は「豊後ゆふいん牛」のバーベキューを堪能し、うち100人がススキで飾り付けられた特設ステージに次々と登壇。「お母さん、もうちょっと優しくして」「パートの時給上げて」などとマイクに向かって声を張り上げ、会場を沸かせた。 ▽バラモン聖者
古代インドに限らず、現代インドにもサドゥーと呼ばれているヒンドゥーのバラモン聖者は掃いて捨てるほどいます。
バラモン聖者の中には、日々苦行を続けておられる方もいます。
無言の行は軽いほうで、
立ったままで死ぬまで過ごす、
頭を土の中に埋める、
片手を頭上に差し上げて死ぬまでその手を下ろさない、
おチンチンに銀串を貫通させている、などなど、思いもよらない苦行を続け、
そのテージャス(パワーの根源)が神々に届いて、魔族がこの世で暗躍しないようになっているのです。
http://1kara.tulip-k.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/12/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3.jpg ▽梵(ブラフマン)
ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根本原理。
もしくは、その原理を神格化した創造神。
ブラフマンは宇宙の源である。外界に存在する全ての物と全ての活動の背後にあって、究極で不変の現実である。
※梵我一如:自己の中心であるアートマンは、ブラフマンと等価であるとされる。 多くの無償の行為者にしばしば見出せるのは屈折したナルシシズムでる。
画像君のことだねw ▽ウパニシャッド
サンスクリットで書かれたヴェーダの関連書物。「奥義書」と訳される。
後期ヴェーダ時代時代(前1,000〜前500年)の文献の一つである『ウパニシャッド』にもとづく哲学をウパニシャッド哲学という。
ウパニシャッドとは「傍らに座る」という意味であり、バラモンの師から弟子に伝承された奥義を意味する。 バラモン教が形式的になり、バラモンが単に祭祀を司る役割だけになっていることを批判し、内面的な思索を重視し真理の探究をすすめる動きが出てきた。
それがウパニシャッド哲学であり、ヴェーダの本来の姿である宇宙の根元について思惟し、普遍的な真実、不滅なものを追求した。
ウパニシャッド哲学によると、宇宙の根源であるブラフマン(梵)と人間の本質であるアートマン(我)とを考え、この両者が究極的に同一であることを認識すること(梵我一如)が真理の把握であるとする。
その真理を知覚することによって輪廻の業(ごう)、すなわち一切の苦悩を逃れて解脱に達することができると考えている。
後期ヴェーダ時代に現れたこの内面的思索の重視と、業・輪廻の死生観は、次の時代にバラモン教に対する二つの宗教 −仏教とジャイナ教− を誕生させる。 ▽普遍性と民族文化−文化相対主義(Cultural Relativism)
世界にはたくさんの「文化」があって、それぞれが価値観を異にし、習慣・生き方を異にする。
どれが優れていてどれが劣っているかを決めるような絶対的な基準は存在しない。
だからすべての「文化」は等価であり対等である。
だから、私たちは、ほかの人たちの「文化」を尊重すべきであり、安易に「変だ、間違っている・・」などと判定すべきではない。
仮にある「文化」が「変で間違っている」ように思われたとしたら、その「文化」を理解するように努力すべきである。
また仮に努力しても理解できなかったとしても、その「文化」の存在を認めなくてはならない。
こういう考え方を文化相対主義と呼びます。 ▽マルクス主義における民族の問題
〈エンゲルスの「「歴史なき民族」理論〉
民族自決権を認められるのは、あくまでもヨーロッパの歴史的大国民のみであり、「歴史なき民族」や「諸民族の残片」は、これらの生命力ある大国民の中に吸収されてしまうのが歴史の必然である。
マルクス、エンゲルスが民族自決権を唱えていたとは言いがたい。
マルクス主義は国際主義の立場にたち、階級闘争を中心に歴史の動きを見てきたため、国際主義と民族主義が両立するのは難しく、民族的利害の強調がプロレタリアートによる階級利害のさまたげになると考えていた。 〈 レーニンにおける民族自決権〉
民族自決権とは「各民族が自分の運命を自分で決定する権利」であり、抑圧民族は被抑圧民族に対して無条件に民族自決権を認めなければならない。
かつ、被抑圧民族内部でのプロレタリアートの自決を促進しなければならない。 〈 スターリンにおける民族自決権〉
自決権とは、民族の運命を決める権利を持つものは民族自身だけであるということ、
民族の生活に強制的に干渉し、民族の学校その他の施設を破壊し、その風習や慣習をうちやぶり、その言語を圧迫し、その諸権利を制限する権利を持つものはだれひとりいないということである。
だが、民族の問題とプロレタリアートの利益が敵対しあった場合は、プロレタリアートの利害を優先する。 レーニンもスターリンも、辺境の非ロシア諸民族がロシアに見習ってそれぞれの民族内部での革命を遂行すること、また分離の権利を与えたのちも社会主義諸国の自由連合のメンバーとして自発的にもう一度ロシアと結びつくことを期待していた。
しかし、現実にはそのように展開しなかった。 ▽美空ひばり
美空ひばりがうたう歌が世界中の民族に通用するわけではないという特殊性。
日本人という民族の感性がもつ際立った感受性。
ただし、その感受性は司馬遼太郎にはない〔>>262〕。
http://prt.iza.ne.jp/kiji/entertainments/images/170327/ent17032708010006-m1.jpg ▽日本の演歌の源流は韓国であるという説
1970年代に韓国の李成愛(イ・ソンエ)が日本で「カスマプゲ」という演歌を出して、大ヒットしたことがありました。
この時に発売されていたレコードには「演歌の源流」というタイトルが付けられていたのです。
http://www.fanfan1.com/upload/save_image/11051441_5097519cc375a.jpg
これを機に、演歌の源流は韓国だと主張する在日が多くなりました。
その一人の梁泰昊さんに、何故なのかとお聞きしましたら、演歌の始祖である古賀政男は朝鮮で育っており、朝鮮の影響を受けているから、という答えでした。
古賀は朝鮮で育ちましたが、朝鮮人との付き合いは特にはなく、本格的な音楽活動は東京の明治大学に入学してからのことです。
したがって、古賀が朝鮮から影響を受けたというのは、かなり無理がある説だと思います。 ▽中山晋平
明治20年 - 昭和27年。日本の作曲家。
長調の曲はほとんどが日本固有のヨナ抜き音階で書かれている。
長野県下高井郡新野村(現・中野市)に生まれる。
童謡:『シャボン玉』『てるてる坊主』
流行歌:『カチューシャの唄』『ゴンドラの唄』
新民謡:『東京音頭』『大島おけさ』
https://movie.walkerplus.com/movie/title/image_contents/l/mv43628-l.jpg ラッキョの皮を剥いても剥いても皮ばかり
芯がないから 新民謡 へえ〜〜ッ。 ▽古賀政男
明治37年福岡県田口村(現在の大川市)に生まれる。
明治大学在学中にマンドリン倶楽部創設の一翼を担う。在学中に音楽家を目指す。
明治大学マンドリン倶楽部演奏会にて『影を慕いて』を発表。
丘を越えて(1931年) 歌:藤山一郎
酒は涙か溜息か(1931年) 歌:藤山一郎
影を慕いて(1932年) 歌:藤山一郎
悲しい酒(1966年) 歌:美空ひばり
https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/cfc-co/cabinet/shohin01/iditem/d6160-02.jpg ▽森彰英
大正元年〜大正11年:古賀政男、7歳の時に母親と一緒に朝鮮へ。善隣商業を卒業し、18歳で大阪へ。まもなく上京、明治大学予科に入学。
京城にいたころ、日本から艶歌師がやって来て、「金色夜叉の唄」や「千葉心中」や「さすらいの唄」をうたって聞かせた。
なけなしの小遣いをはたいて楽譜を買い、自分で演奏してみたそうだ。
大正初期には、ソウルの市街は日本人街と外国人街に分かれていたという。
現在の市街図でいえば、静渓路を境界線として、それよりも南山寄りが日本人街。
北寄りの鐘路を中心としていた地域が朝鮮人の街になっていた。
……「日本の演歌の元祖は韓国のトロット」ではないということを論証しようとしている。 ▽矢沢保
この方も、「日本の演歌の元祖は韓国のトロット」ではないということを論証しようとされているが、詳細不明。
矢沢さんの人生は、うたごえを中心とした音楽文化活動にその情熱を注ぎ込んだ壮絶なものでした。
http://www.utagoekissa.com/image/yazawa001.jpg >>910
>>911
マルクスは民族自決を否定し、反対にレーニンは民族自決を肯定していた。
にもかかわらず、司馬さんは「マルクス・レーニニズムの普遍性」なんている問題の立て方をするものだから、
この章の叙述が理解しにくいものになっている。
読者の皆様も、タカジが何について悩んでいるのか、さっぱり理解できなかったでしょう? 「この家には、テレビもない」
いわれてみてそれを買ったが、私も家内も見ることはほとんどなかった。 ▼テレビ放送開始
テレビ放送開始(昭和28年)の数年後に生まれた筆者は、いわゆる“テレビっ子”世代であるが、
ここ10数年ばかり、ほとんどテレビを観なくなった。
あまりにも面白くないからだ。
いまでも観る人の方が多数なのだろうが、あんなつまらないものをよく観るなと不思議に思う。
変人にしか思えない。 ▽大阪のホテルのマッサージの女性
三十すぎの全盲の女性 カセット・デッキについては、司馬遼太郎は名前を聞くことさえ初めてだった。
……こいつも変人よ。 ▽手伝いの娘〔>>245〕
カセット・デッキを保有していた。
マサミは、まともだ。 司馬遼太郎は、音楽を話題にすべきではないと思う。
自宅にステレオもテレコもないなんて原始人か? ★佐久
▽食道癌〔>>295〕
ちなみに、福田是定氏の死因も、食道や気管にできた癌であった〔>>847〕。 ▽となりの病室の農村のボス
村の女房たちが13人も看病にきて、夜は廊下で寝ていた。 ▽9月12日
忠三郎の葬儀。大阪カテドラル聖マリア大聖堂〔>>26〕。
第1章に葬儀の話が出ていたが、このときはユスティチア・たへが登場していなかったので、
なぜに教会で葬儀?と不思議に思ったものだ。 ▽玉造口
大阪城搦手口の一つで玉造方面に向かって口を開いていることからこの名がある。
https://osaka-castle.net/wp-content/uploads/2016/12/osakajokoen-bairin-map.png
本章では大阪カテドラル聖マリア大聖堂の敷地になっている細川越中守忠興の屋敷の位置を示すために記されている。 ▽細川越中守忠興の屋敷跡
細川忠興の屋敷の台所があったと伝わる場所で、細川ガラシャ〔>>27〕最後の地とされています。
石造りの井戸や地蔵堂と石碑があり、石碑の側面にガラシャの辞世の句「散りぬべき 時し知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が刻まれています。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/97/64dc8f5fe06babb621213b74b46db67e.jpg
小笠原少斎の最期に地であるとは誰も言ってくれないので、俺が言っておきます。
ここが小笠原少斎最期の地と言ったのは、おそらく俺が世界で最初で最後です。 ▽誄詩〈るいし〉
死者の生前の功徳をたたえ、その死を弔う詩。
「誄」は訓読みだと、「しのびごと」。故人を偲ぶことである。
ちなみに、筆者はこの漢字が読めなかった。 ▽黒いスーツを着た娘
教会の職員かもしれない。長く細い腕をもつ。
タカジの誄詩を朗誦した。 筆者はスケ兵衛ではございません。
筆者になりすまさないでください。 ▽土方与志
命日は昭和34年6月4日〔>>671〕。
非合法時代のタカジのシンパである〔>>740〕。 谷沢永一『清冽で温柔な感情移入の極致』(全集第50巻)
【一】忠三郎
正岡忠三郎さんが「自分の存在をひと迷惑だと感ずる感覚のおかしみは、この人の器量と哲学そのものといっていい」と喝破する司馬遼太郎の胸奥には、人間社会の角突き合う雑踏への練りあげられた感慨が底流している。 谷沢永一の文章は、読みづらい。
形容句と副詞句がやたらと長く、かつ見慣れない漢字熟語がたくさん出てくる。 ▽磊塊
〔多くの石が積み重なっている意〕 胸中に積み重なった不平。 ▽二宮敬作
文化元年(1804年) - 文久2年(1862年)。江戸時代の蘭学者・医学者。
日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる。
伊予国宇和郡磯崎浦(現・愛媛県八幡浜市保内町磯崎)に生まれる。
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本章では、村田蔵六に禁酒を勧められたエピソードが出てくる。 ※シーボルト・イネ
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「銀河鉄道999」などで有名な漫画家の松本零士さんがシーボルト・イネについて述懐されています。
理想の女性としてメーテルやスターシアなど切れ長の目で顎の細い女性を描き続けたが、自分でもイメージがはっきりとは分からなかったそうです。
ところが、楠本高子(シーボルト・イネ)の写真を見て「この女性だ」と思い当たったそうです。
なお、イネは宇和島藩主伊達宗城により改名を指示され「高子」と名乗るようになった。 【二】子規
「子規の文章は、維新でいったんこわれた文章日本語がふたたび共有のものとして再構成されるための見本の一つになったかと思われる」と、司馬遼太郎は例によって極く控え目に余談として記すが、この評価は蓋し鉄案として特記せねばならぬであろう。 ▽鉄案
動かしがたい決定案。確固とした意見。断案。 「鉄案」なんて初めて見る熟語だ。
こういう言葉を使うから、谷沢永一の文章は、頭に入らず、心に沁みない。 ▽断案
ある事柄について最終的に決定された考え・方法・態度。
▽截然〈せつぜん〉
サイゼンの慣用読みがセツゼン。
物事の区別がはっきりしているさま。 ▽偏僻〈へんぺき〉
かたよること。心がひねくれていること。
▽犀利〔>>404〕 ▽貨幣経済史観
司馬遼太郎/講演『司馬遼太郎が語る 第五集 日本人と合理主義』(新潮社)
思想・宗教・イデオロギーなど特定のドグマにとらわれない日本人の合理主義的な気質はどのような経緯で形成されたか。
室町以降の貨幣経済の発達と、論理より実証を重んじてきた思想史を背景に、独自の文化風土を醸成してきた日本型リアリズムの特長を語る。(1977年静岡公会堂にて収録) ▽高橋亀吉
明治24年 - 昭和52年。経済評論家・経済史研究者。
石橋湛山と並ぶ日本の民間エコノミストの草分け的存在である。新平価解禁派。文化功労者。
山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として生まれる。
家業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出るが、1年で辞めて朝鮮へ渡航。
日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事した。
http://corp.toyokeizai.net/wp-content/themes/toyokeizai2014/press-room/award/index/images/takahashi_image.jpg 【三】タカジ
タカジは、司馬遼太郎の総体的評価によれば、「この人の思想の本質は、個人の解放ということにあったのではないか」と見通される。 ▽『恋愛論』(昭和24年/日本出版株式会社)
詳細不明 ▽マックス・ウェーバー『社会主義』(講談社学術文庫)
1918年6月に行われたウェーバーの講演。
当時は第一次大戦末期であり、前年ロシア革命が勃発、東部戦線ではブレスト・リトフスク条約で休戦が成立、ドイツ軍は西部戦線で最後の攻勢に出るが、この半年後に敗北する。
官僚制化という近代社会の趨勢は社会主義革命によっても変えることはできないし、革命後はかえって国家官僚への国民の隷属が一層酷くなるであろう、というのが論旨。
他に、教条的マルクス主義の資本主義崩壊論の誤りを指摘したりしてますが、はっきり言ってあんまり面白くないです。 ▽ノーメンクラツーラ(ロシア語)
ソビエト連邦における指導者選出のための人事制度を指す言葉。
転じて社会主義国におけるエリート層・支配的階級や、それを構成する人々を指す言葉としても用いられた。
後者の場合は「赤い貴族」とも呼ばれる。 【四】モラリスト
近い将来にもし日本人の知性の歴史が謙虚に素描される時、そのなかに司馬遼太郎は比肩する者のない傑出した存在として、知性の代表者として特記されるに違いない。
我が国びとは司馬遼太郎の抑制された構想と筆致により、まず日本人とは何であるか、さらには人間とその社会とは何であるかを熟考するための、限りなく幅広く温柔で安らかな深い示唆を与えられたのである。 「深い示唆を与えられたのである」でわかると思うけどね。
示唆を形容するに「限りなく幅広く温柔で安らかな」と書くから、わけがわからなくなる。
書き直せ、へたくそ。 ▽『イソップ寓話集』
ヘロドトスの『歴史』によると、紀元前6世紀にアイソーポスという奴隷がいて寓話を使いその名声をえたとされている。
現在のイソップ寓話集と呼ばれるものには、アイソーポスのものだけではなく、それ以前から伝承されてきた古代メソポタミアのもの、後世の寓話、アイソーポスの出身地とされる小アジアの民話を基にしたものも含まれている。
考古学的には、彼の歴史的な存在を確認するものはなく、ホメロスと同じような過程で、ギリシャにおいて、いつの頃からか、この名が多くの寓話を語る者たちや寓話そのものの総称となっていったと考えられている。 目から鱗。イソップは紀元前6世紀の人でしたか。
幼児の頃「イソップ童話」の大ファンでした。
アンデルセン童話・グリム童話なんて、イソップに比べたら実につまんなかった。 ▽「北風と太陽」
あるとき、北風と太陽が力比べをしようとする。そこで、旅人の上着を脱がせることができるか、という勝負をする。
まず、北風が力いっぱい吹いて上着を吹き飛ばそうとする。しかし寒さを嫌った旅人が上着をしっかり押さえてしまい、北風は旅人の服を脱がせることができなかった。
次に、太陽が燦燦と照りつけた。すると旅人は暑さに耐え切れず、今度は自分から上着を脱いでしまった。
これで、勝負は太陽の勝ちとなった。 〔北風と太陽から学ぶ教訓〕
手っ取り早く乱暴に物事を片付けてしまおうとするよりも、ゆっくり着実に行う方が、最終的に大きな効果を得ることができる。
また、冷たく厳しい態度で人を動かそうとしても、かえって人は頑なになるが、暖かく優しい言葉を掛けたり、態度を示すことによって初めて人は自分から行動してくれるという組織行動学的な視点もうかがえる。 ∧_∧
<ヽ`∀´> しかし太陽政策は役に立たなかった二ダー
( )
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〈_フ__フ ▽ラ・ロシュフコー
1613年 - 1680年。フランスの貴族、モラリスト文学者。
名門貴族の生まれであり、多くの戦いに参加した後、いわゆる『箴言集』を執筆した。
彼の作品に見られる辛辣な人間観察には、リシュリューと対立して2年間の謹慎処分を受けたことや、フロンドの乱でジュール・マザランと対立したことなどで味わった苦難が反映されているともいわれる。
http://kakugen.biz/wp-content/uploads/2015/08/Fran%C3%A7ois.png
http://ec2.images-amazon.com/images/I/41RDl0p0hcL.jpg われわれは人生のどの年齢にも、まったくの新人として到達する。
だからいくら年を取っても、その年齢においては、とかく経験不足ということになってしまう。
〔吉川弘:訳〕 ▽ポール・ヴァレリー
1871年 - 1945年。フランスの作家、詩人、小説家、評論家。
多岐に渡る旺盛な著作活動によってフランス第三共和政を代表する知性と称される。
1895年に評論『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説』を発表。
http://meigen.keiziban-jp.com/wp-content/uploads/2016/10/va.jpg ▽ミシェル・ド・モンテーニュ
1533年 - 1592年。16世紀ルネサンス期のフランスを代表する哲学者。モラリスト、懐疑論者、人文主義者。
現実の人間を洞察し人間の生き方を探求して綴り続けた主著『エセー』は、フランスのみならず、各国に影響を与えた。
http://wp.production.patheos.com/blogs/imortal/files/2014/08/Montaigne1.jpg ▽丸山真男
大正3年 - 平成8年。日本の政治学者、思想史家。
大阪の生まれ。東大教授。昭和21年、「超国家主義の論理と心理」を発表し、日本の超国家主義を分析。
その後も日本型ファシズムと天皇制国家などを論じ、第二次大戦後の民主主義思想を主導した。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/c/cangael/20140805/20140805082443.jpg ▽温柔
漢字熟語なので意味は即座に理解できる。
しかし、肌で感じられる言葉ではない。
「温かくて柔らかい」と言えばよいではないか? 司馬遼太郎全集の〔第一期〕は、代表作がズラリの文句なしの編集。
〔第三期〕は晩年の作品ばかりだが、司馬さんの死後に編集されたため、司馬さんの余計な口出しがなく、編集者が思う存分能力を発揮できている。各巻のページ数も多かったので買って損をした気はしない。
面白くないのが〔第二期〕。各巻のページ数が少なく、内容を見ても娯楽小説が皆無の時期の編集。
しかも、解説が谷沢の糞解説。 まあまあ、この時期、谷沢永一も体調を崩していたようだし。
谷沢の他の文章は、司馬全集の第二期ほどには酷くないよ。 『ひとびとの跫音』は終了されたようですね。
先生、お次の作品は何になさいますか? 了解いたしました。
その次は、「歴史と視点―私の雑記帖―」と続くわけですね? 「歴史と視点―私の雑記帖―」は単行本化され、いまでも書店で文庫本が買えます。
ところが、全集50巻の残りの評論随筆集は、単行本がなく、全集だけの特別な編集ですよね。
それでも、このスレでやるのですか? 文庫本しか持っていない貧乏な読者には、興味がわかないスレッドになってしまうのではないですか? もともと興味をもっている方が非常に少ないスレッドなので気になりません。 会話中に割り込んでスマン。
スレ立てできなかった( ´Д⊂ヽウェェェン
誰か頼む。 『古往今来』『歴史の舞台』等に分載されているから、それで読め。 初出は記そうと思っておりますから、『司馬遼太郎が考えたこと』で探すのが早いと思いますよ。 しかし、全集の全巻を終了させるには、何年かかるのだろうな? 画像君はかなりの年配者らしいが、死ぬまでに完結するのかな。 このスレッドは1000を超えました。
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