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邪馬台国は伊都と平原遺跡だったらしいぜPart6 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:53:40.12
国≠クニ クニ=市町村
例:日本国の中に、山城のクニや、筑前のクニ、吉備のクニ

<里程編(魏・東夷尺)>
帯方郡
↓海岸水行七千里
狗邪韓クニ(倭人投馬国へ入国)
↓海渡千里
對馬クニ(島の大きさ分の1辺四百余里×2を迂回)
↓海渡千里
一大クニ(島の大きさ分の1辺三百里×2を迂回)
↓海渡千里
末盧クニ(邪馬台国九州本土へ入国)
↓陸行五百里
伊都クニ(女王所在地・首都ワシントン)魏使の到達はここまで
↓(東南)百里
奴クニ(邪馬台国中心・ニューヨーク)
↓(東)百里
不彌クニ

<日程編(倭尺)>
帯方郡
↓(南)水行20日
投馬国(朝鮮半島南部に到着)
↓(南)水行10日・陸行1「日」
邪馬台国(中心都市の奴クニへ到着)

イギリスへ行く旅程=ロンドンへ行く旅程、フランスへ行く旅程=パリへ行く旅程
邪馬台国へ行く旅程=奴クニへ行く旅程

<総距離(総計)>
奴クニまで、〆て一万二千里でした
0002ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:54:49.58
【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の奴国が商工業都市として膨張したのとは対象的であり、世俗都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀中旬の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、鳥居とおもわれる痕跡がある。
特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていることから、強大な女王がいたことがわかっている。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。

伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
平原遺跡の目の前には高祖宮があり、後世には東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
これが筑紫の日向の高千穂宮の実体であり、高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
0003日本@名無史さん垢版2017/05/12(金) 17:55:08.30
Eテレ邪馬台国・古代史ミステリー
ユーチューブに上がってるな
(後編)
http://www.dailymotion.com/video/x5llel7
「「倭人伝に狗奴国は邪馬台国の東にあるとと書かれている」 と断言

倭人では「其南有狗奴國」で南

ど素人の番組制作・・・丸投げ?????
0004ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:55:38.01
ニニギは高千穂のクジフル岳に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などがまさにニニギ王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石神社、高祖神社の目の前の平原遺跡から出土した八咫の鏡などが証拠である。
魏志には、卑弥呼の宮城は楼閣高しと書かれているが、単に高い建物があっただけでなく、高祖山やクジフル山の山頂にまで楼閣が配置されていた可能性がある。

伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には三種の神器が副葬されていた他、鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあったこともわかっている。
王宮である高祖宮(高千穂宮)は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していたことになる。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言している。
太陽信仰が伊都国における神道(倭人伝における鬼道)の基本形であり、後の伊勢や宮中における祭祀に継承されている。
伊都国は魏志と記紀の貴重な接点であり、記紀の伝承に絶対年代を与えることができる。
0005ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:56:10.60
【筑紫の日向】
福岡県西部にある高祖山の第二峰はクシフル岳といい、麓には室見川の支流である日向(ひなた)川が流れ、この山を越えて福岡市と糸島市を結ぶ峠は日向峠と呼ばれている。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&;base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0

ニニギが降臨した地である高千穂としては今日では宮崎県が比定されることが多いが、古事記において天孫降臨の地は「筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峰のクシフル岳」とあり、先入観なしに素直に読むならば、筑紫(福岡県)のクシフル岳とするのが合理的である。
日向三代の伝承を南九州に比定するのは記紀の誤読であり、何の根拠もない。
考古学的には、三種の神器を伴う古代墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。

クシフル岳から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
とあるように、韓国の正面に位置することができる立地条件は宮崎県では矛盾があるが、福岡県の高祖山ならまさに朝鮮半島への玄関口であり、笠沙岬は博多湾の出口に横たわる半島である志賀島のことであると考えられる。
高祖山からは東に倭の奴国に比定される福岡平野、西に伊都国に比定される糸島平野が開けており、どちらも倭国を代表する新旧の王都である。
山麓の高祖神社はその一部であっただろう。
神武もここから東に向かったのである。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、拝殿である細石神社の祭神は磐長姫と木花開耶姫の姉妹であることから被葬者はニニギと、その妃でありヤマツミの娘であるサクヤヒメ(木花開耶姫)という説がある。
また、この細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
平原遺跡の1号墓からは直径が漢代の二尺(直径46.5センチメートル)であり、円周はちょうど八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土している。
八咫の鏡(やたのかがみ)はアマテラスが自分の形代として孫のニニギに託した王権の象徴であり、現在は伊勢神宮と皇居に祭られている三種の神器の一つである。
0006ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:58:15.11
【魏志東夷伝韓条】
<三韓>
韓在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
韓は帯方郡の南にある。東西は海であり、南は倭と接す。およそ四千里である。
(四千里四方の四角形の南に倭) (短里で現代地図と合致)

<辰韓>
國出鐵 韓濊倭皆従取之
国には鉄が出る。韓、濊、倭の人々が皆これを採掘している。
(倭人が出入りして鉄を採掘している)

<弁辰>
其瀆盧国 與倭接界
弁辰の瀆盧国は倭と境界を接している。(倭の投馬国と陸境を接している)

魏志東夷伝韓条=韓人の支配領域を記載
魏志東夷伝倭人条=倭人の支配領域を記載(通称魏志倭人伝)

帯方郡より南の韓のうち、
西半分が馬韓=10余万戸(50余クニ)
東半分が辰韓・弁辰=4,5万戸(24クニ)
その南に倭
投馬国=5万戸(24クニ)

一.今使譯所通三十國
(現在交流のできる倭人のクニは30クニ)
二.自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
(女王国より北は戸数や里距離を記載できるが、それより遠くのクニは詳しくわからない)
列挙された九州内陸の20クニとは交流できていない

30-6(對海一大末盧伊都奴不彌)=24
投馬国=狗邪韓クニなど24クニ
0007ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:59:01.14
<邪馬台国の中央集権体制>

地方行政
對馬クニ 主:卑狗  副:卑奴母離  千戸
一大クニ 主:卑狗  副:卑奴母離  三千戸
奴クニ  主:兕馬觚 副:卑奴母離 (ニューヨーク) 二万戸
不彌クニ 主:多模  副:卑奴母離  千戸
他20クニ 合計七万戸


伊都(ワシントン)
 <政府>(内閣大臣)
  女王:卑弥呼
  大臣:伊支馬(壱岐関係)彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮(奴関係)

 <首都知事>(伊都知事・副知事)
  主:爾支 副:泄謨觚 副々:柄渠觚
  
 <一大率>軍事・外交・貿易担当省
  ↓監視
 投馬国(半島南部・任那)  主:弥弥 副:弥弥那利
 狗邪韓クニ(加羅=伽耶) 投馬国内の宿場港
0008ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 17:59:24.92
手漕ぎの古代船の場合、平均1.7ノット、最大速で3ノット
天候にも影響されるので、2ノット=時速3.7kmとします

魏の使節が6月頃に来たとして、
朝8時に出航して、交代制かつ途中休憩計1時間で夕方5時まで漕いだとして
8時間×3.7=29.6km(1日に約30km)

地図で帯方郡から半島南岸まで(ソウルから釜山)が、だいたい500km
500÷30=16.7


速度と漕ぎ手労働を多めに考えて約17日ですから、
天候その他のアクシデントも考えると
帆を張って進んだ分を入れて
水行20日は妥当ですね
0009ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 18:00:17.98
東南陸行五百里到伊都國・・・
・・・世有王 皆統屬女王國
(伊都国には)王がいる
(邪馬台国の)皆は、(現在の王である)女王が統べる国に服属している

『隋書』流求国伝
>流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至
「流求国(台湾)は海島の中に居す。建安郡の東に当り、水行五日にして至る」

台湾へ水行


<魏志東夷伝における誤字例>
古代の文書管理は木簡竹簡に墨書で転写していく

『倭人条』>景初二年六月 三→二
『韓条』>不請句麗 匃→句
『高句麗条』 騊→騶
『夫餘条』>抑有似也 以→似
『挹婁条』>善射射人皆入因 目→因

『倭人条』>水行二十日水行十日陸行一月 月→日

<同一行程の説明文における方可の扱い>
韓在帯方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
(方可(正方形)の部分は南行+東行)

至対海国 方可四百余里
至一大国 方可三百里

方可(正方形)なのだから、南行+東行で2倍
0010ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 18:01:08.28
平原遺跡について

・1号墓(女王墓)と2号墓(陪塚)が周溝を共有しており、
方形周溝墓と円形周溝墓が共通の周溝で囲まれた一体の墓域だった
・出土品は一括して国宝指定
・周溝の一部を発掘しただけで合計10基の土壙墓(殉葬墓)

<1号墓(方形周溝墓、18×14m)>
・水銀朱丹(大量の中国朱が、外に流れ出したことで墓が発見された)
・割竹形木棺(下半身を東南の日向峠へ向ける)
・ガラス製耳璫 3(女性用高級装飾品、国内唯一の出土)
・メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900 (ヒスイ無し)
・鉄製素環頭大刀 1、鉄鏃多数(倭人伝記載と同じ五尺刀)
・大型内行花文鏡5面(日本製、直径46.5センチメートル=八咫、世界最大)
・方格規矩鏡 32面、内行花文鏡 2面、四螭文鏡 1面
(9割以上が仿製鏡で、舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)

<2号墓(円形〜隅丸方形周溝墓、周溝を含んで径10m)>
・丸太木棺
・土器片
・前漢鏡3

<18本の柱穴>
・うち2本は東南の日向峠へ向いている鳥居か
0011日本@名無史さん垢版2017/05/12(金) 19:07:46.73
糸島博物館のトランプけ
NHKのいうこつにゃ、
邪馬台国はなかったとよ
つうことは、そんかとこに伊都国もなかとよ
0012日本@名無史さん垢版2017/05/12(金) 21:54:40.99
伊都国は直方たい
0013日本@名無史さん垢版2017/05/12(金) 22:09:55.96
0014ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:18:46.94
以上を要約すると

平原遺跡は「女王墓」である。

平原遺跡の1号墓と2号墓ならびに柱群は「周溝を共有する複合墓域」である。

その周溝のうち、発掘された部分からは殉葬墓と考えられる土壙墓が10弱見つかっている。
周溝の残り9割を全て発掘すると相当数の土壙墓が見つかる可能性が高い。

また魏志倭人伝に記載された大量の中国朱(魏から真珠五十斤を贈られている)や
五尺刀が副葬されている点も見逃せない。


年代を決めるのは
・1号墓の装飾品と銅鏡
・2号墓の土器
などが決め手となる。

2号墓の土器は西新式つまり庄内期のものであり、210-250年と考えられる。

銅鏡については国内に類を見ない多数の仿製鏡、並びに世界最大の銅鏡を製作していることから、明らかに三角縁神獣鏡の直前期。

そして装飾品については、考古学専門家の鑑定によって、200-220年と推定されている。
0015ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:20:18.25
内行花文鏡の時系列

後漢前期=焼溝漢墓・第四期(40-75) 長宜子孫銘の四葉内行花文鏡は未登場
後漢中期=焼溝漢墓・第五期(76-146)前半 四葉の雲雷文帯内行花文鏡が出現
後漢中期=焼溝漢墓・第五期(76-146)後半 長宜子孫銘の雲雷文帯内行花文鏡が出現
後漢後期=焼溝漢墓・第六期(146-190) 蝙蝠鈕座の内行花文鏡が出現

<供給源>
黄巾の乱(184)
董卓による洛陽炎上(190)
<供給ルート>
公孫氏の楽浪郡支配開始(189)
公孫氏の帯方郡支配開始(204)
<供給先>
倭国大乱(146-189)

魏建国(220)
公孫氏滅亡(238)

平原遺跡1号墓出土の大量の銅鏡のほとんどは仿製鏡であり、
舶載鏡と判明しているのは、キ龍文鏡と長宜子孫銘内行花文鏡の2鏡のみである。

☆前漢鏡であるキ龍文鏡は、縁がすり減っており、長期間伝世されたものである。
直径16.5センチメートルあり、キ龍文鏡として、国内では最大、中国でも最上位であることから、金印や金銅製四葉飾金具、璧と同じく、漢から倭国王へ贈られたものが伝世した。

☆舶載内行花文鏡については、平原遺跡と籠神社に同型のものが存在する。
平原遺跡1号墓 18.8 長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡・四葉
籠神社・息津鏡 17.5 長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡・四葉

2世紀半ばの東アジア動乱直前にギリギリ日本へもたらされたのが
これらの長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡である。
仿製内行花文鏡の原型であろう。
0016ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:20:47.85
仿製内行花文鏡の系列

平原(方形1号+円形2号) 27.1 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
大和天神山(前方後円墳) 23.7 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
椿井大塚山(前方後円墳) 27.7 雲雷文帯内行花文鏡・四葉(+三角縁神獣鏡)

柳本大塚(前方後円墳) 39.8 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
下池山(前方後方墳) 37.6 雲雷文帯内行花文鏡・四葉
平原(方形1号+円形2号) 46.5 雲雷文帯内行花文鏡・八葉


☆前方後円墳は3世紀4世紀以降=蝙蝠鈕座内行花文鏡以降の時代
にも関わらず、平原に続く四葉・雲雷文帯内行花文鏡を副葬している。
→最初期の前方後方墳(3世紀後半)と平原遺跡1号墓の時代は極めて近接。

☆初期四葉の内行花文鏡〜蝙蝠鈕座内行花文鏡〜(魏代)位至三公鏡に至るまで
舶載鏡は全て北部九州に集中。
☆四葉雲雷文帯の仿製内行花文鏡のみ東方倭種へ。
0017ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:21:17.62
『魏志東夷伝・序文』
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域 委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
景初中大興師旅誅淵又濳軍浮海 收樂浪帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服。

公孫氏が遼東に進出してからは(189)、東夷世界と漢や魏は遮断されていたが、
陸海の大軍で公孫氏を滅ぼして(238)、東夷は朝貢してくるようになった。


長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡の来日を最後に、舶載鏡の来日が途絶えて、
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡をオリジナルとした仿製鏡がガラパゴス発展した。

平原遺跡1号墓出土の大量の中国朱は、189年以前もしくは239年以後。
長宜子孫銘雲雷文帯内行花文鏡をオリジナルとした八葉鏡が開発されている以上、
後者(239年以後)であって、魏から贈られた中国朱以外にありえない。
0018ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:21:37.32
徳川将軍家康から家慶までの生母一覧
(西洋医学の入る明治維新前に死去)

於大の方(1528-1602)74歳
西郷局(1552-1589) 37歳
江(1573-1626)   53歳
宝樹院(1621-1653)32歳
桂昌院(1627-1705)78歳
長昌院(1637-1664)27歳
月光院(1685-1752)67歳
浄円院(1655-1726)71歳
深徳院(1688-1713)25歳

25歳で出産として推定
至心院(不詳-1737家治出産-1748)35歳±?
お富の方(不詳-1773家斉出産-1817)44歳±?
香琳院(不詳-1793家慶出産-1810)43歳±?

江戸将軍の生母の平均年齢が
確実な9人で「52歳」
推定の3人も含めると「49歳」

50歳と仮定できる。
0019ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:21:58.96
一方で、卑弥呼の年齢について考えてみる。
卑弥呼が女王になったのが180-190年と言われているので、
計算しやすいように、即位187年死去247年(在位60年)と仮定してみる。

複数の文献に
卑弥呼はある程度年長となってから女王になったとある。

187年に20歳で即位したと仮定すると
247年に20+60=80歳で亡くなったことになる。

187年に30歳で即位したと仮定すると
247年に30+60=90歳で亡くなったことになる。


弥生時代の女性の平均年齢は20歳を切るとの報告もあるが、
弥生女性の平均年齢29歳、江戸時代女性の平均年齢41歳との説を採って(12歳差)。
江戸時代の王母で平均50歳だから
弥生時代だと平均40歳に設定できる。

考古学の成果を尊重すると
平均40歳で亡くなっていた弥生王母の副葬品と考えた時に、
平原遺跡の被葬者の副葬品は200-220年のものと推定される。

だったら
被葬者が80歳で亡くなった
しかも鬼道を得意とするシャーマンだった場合
(副葬品は呪術用具であり、生涯にわたり大事に使い続ける)

同世代の女性が死亡した平均年代の
約40年後に卑弥呼は死亡したことになる。
0020ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:22:22.57
考古学の専門家:200-220年

考古学の無視する魏志倭人伝によると 、卑弥呼は長寿なので+40してみる。

「240-260年」
0021ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:22:53.95
高祖山から三雲などの王墓を日々見下ろしていた卑弥呼であれば、
当時の王女の平均年齢である40歳を超えた時点で
自らの墓について考えることになる。(我々現代人と同じ)

卑弥呼の墓である平原遺跡の建築順序は以下の通り。

@ 周溝ならびに墳丘墓の基礎を建設(200年代)
A 鳥居など祭祀遺跡を建設
B 2号墓を仕上げる
C 土壙墓に殉葬
D 1号墓を仕上げる


周溝から出土する古い土器などは、過去に放棄された土器の混入と考えられるため、
遺跡の年代遡上には使えない。(逆に新しいものであれば、年代更新には使える)

卑弥呼政権誕生時から仕える重臣は、長寿の卑弥呼より先に亡くなる。
そうでなくても卑弥呼死亡時に殉死。
よって、2号墓出土の西新式土器の年代よりも、1号墓は新しい。

殉葬の土壙墓は確実に周溝より後に作成される。
0022ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:23:13.78
出真珠青玉 其山有丹其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味有獮猴黒雉

@出真珠青玉丹と書くのではなく、わざわざ出るモノと有るだけのモノを区別してある。

Aその山に丹がある、としか書かれていない。

B同じく有るモノである薑橘椒襄荷も、有るだけで、使っていない、とある。

輸入した中国丹を使っており、わざわざ自領の丹を採掘していない様を表している。
0023ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:23:46.19
魏志東夷伝における「出」と「有」の使い分け

魏志東夷伝韓条
>國出鐵韓濊倭皆従取之
鉄が「産出」して、倭人を含めた皆がこれを採取する。

魏志東夷伝倭人条
>出細紵縑緜
綿絹等を「産出」している

>有薑橘椒蘘荷 不知以爲滋味
しょうがや山椒や胡椒は「有る」だけで、食べられることを知らない

魏志東夷伝において
「出」とは自国で産出して使っているもの
「有」とは自国に有るけれど使っていないか、輸入品で賄っているもの
魏使は各地の情報収集も仕事の一つなので、この2つは厳格に使い分けている。


>出真珠青玉 其山有丹
真珠と翡翠は「産出」するが
丹は山に「有る」だけ

倭国が丹を採っているのなら

出真珠青玉丹
あるいは
出真珠青玉 其山有丹亦取之
出真珠青玉 其國有丹山

などの記載になるはず。
0024ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:24:04.20
「豊後国風土記」
「丹生郷、都の西にあり。昔時の人、この山の沙をとりて朱沙に該てき。
 因りて丹生郷という」」

「伊勢物語集」
「奈良の大仏にも使われた宇陀の水銀の産出が衰えると
 豊後丹生水銀や伊勢水銀の生産も増大し」

「続日本紀」
文武二年(698年) 九月乙酉(廿八)○乙酉。
伊勢国朱沙・雄黄。
常陸国。備前。伊予。日向四国朱沙。
安芸・長門二国金青・緑青。
豊後国真朱。

常陸(茨城)備前(岡山)伊予(愛媛)日向(宮崎)から朱沙
豊後(大分)から真朱(辰砂)
がそれぞれ献上されている。

以上の資料からわかることは
・採掘記録が残っているのに、採掘跡については見つかってない所の方が多い。
・弥生時代と奈良時代で鉱山探索の科学技術が飛躍したわけではないので、
 豊後や日向などには昔から丹鉱山露頭が知られていたことがわかる。


また、3世紀前半の阿波の萩原2号墳に中国朱が副葬されていることから、
遅くとも2世紀後半には、
北部九州邪馬台国が九州東海岸(宇佐)〜瀬戸内海航路を制圧していたことが
考古学的に確定している。
0025ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:24:41.30
対馬海流
以下の点から、末盧國側の到着地点は呼子だと確定する。

・壱岐〜呼子は23kmと短距離な上に、間に馬渡島や加唐島があって安全性が高い。
・壱岐〜呼子の潮流は、日によって方向が変わる。(下記参照)
・楽浪土器など海外土器は伊都(沿岸〜三雲)に、日本国内各地からの土器は奴国に集中。
(国内船で混雑する博多湾と、朝鮮半島からの国際線を別々に管理)

☆潮流の向きは変化する。
対馬海峡:朝鮮半島〜対馬〜壱岐〜九州北岸 は以下の部分に分けられる。

対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)

潮流の向きは、海底地形や気象、潮の干満によって影響されて日々変化する。

壱岐〜呼子の表層流(海洋レーダーシステム)
<2011年6月> 北東・東:3 南西・南・南東11 北8 西3 乱流4 (日)
<2012年6月> 北東・東:3 南西・南・南東10 北7 西9 乱流1 (日)
<2013年6月> 北東・東:4 南西・南・南東6 北8 西10 乱流2 (日)
<2014年6月> 北東・東:2 南西・南・南東7 北9 西10 乱流2 (日)
<2015年6月> 北東・東:1 南西・南・南東6 北19 西3 乱流1 (日)

極端に北向きの流れが多い2015年を除いて、2011年から2014年までを平均すると、
南向き34(壱岐→呼子:28.6%) 東向き12(10.1%) 
北向き32(呼子→壱岐:26.9%) 西向き32(26.9%) 乱流9(7.6%)
0026ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:26:04.88
邪馬台国の中枢(伊都・奴国)

奴国の北は博多湾
平野部の、西に室見川、東に那珂川と御笠川牛頸川

吉武高木(西の室見川上流:高天原)
 日本最古の絹出土
 唐津(宇木汲田)と副葬品が共通(燕と交流、山海経)

須玖遺跡群〜比恵那珂遺跡群〜博多遺跡群(東の那珂川御笠川流域:葦原那珂津国)
全て連続した巨大な弥生工業地域
 青銅器工房、ガラス製品工房、鉄器工房

三雲南小路(邇邇芸)〜井原鑓溝〜平原〜(糸島市)
日向峠を挟んで、奴国室見川と伊都国長野川に絹出土
長野川の最下流に玉造り工房
唐津(桜馬場)と副葬品が共通


奴国(葦原那珂津国)
男性労働者主体の工業地帯
生活排液と産業排液 →織物生産とは水系を分けた
(重要工業地帯なのに倭人伝記載なし)

伊都国(含む高天原早良区):
女工主体の弥生版富岡製糸場(以婢千人自侍)
衣服や玉製装飾品を生産する、女王の都(女王之所都)
高祖山の麓の王墓域に衛兵を配置。墓守と王宮警護の一石二鳥。
(常有人持兵守衛)
0027ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:26:34.68
九州倭国の東征経路

博多湾→宗像→出雲など東方倭種→丹後若狭湾直轄→越
 ↓                    ↓
 宇佐           淀川水系←琵琶湖→前方後方墳王国(朱儒国)
 ↓ 
瀬戸内四国→淡路島→阿波吉備紀伊→摂津住吉


倭種=支石墓 倭人=甕棺墓

吉武高木(原伊都・高天原)が東方へ倭種拡散
博多湾東部(奴国オオクニヌシ・銅鐸容認)が縁組を駆使して倭種を統一 
博多湾西部(伊都国アマテラス・銅鐸禁止)が上書きして中央集権国家樹立


国家経営
現代の燃料:石油
古代の燃料:木材

スサノオ
ニニギ
 オオヤマツミ(林業の神)
オオクニヌシ
 スクナヒコナ(木の国)

紀伊 木「伊」
和歌山県伊都郡 丹生都比売神社や小田神社に宗像女神祭祀
邪馬台国の風習である三社参りが、飛び地の和歌山に分布
0028ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:26:58.97
<骨太の方針・土器>

紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
続けて高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内を含む全国から布留式土器が博多湾へ流入


縄文時代から弥生時代への移行期における遠賀式土器移動は、未開墾地域への入植

稲作が普及して、各地の首長が労働力を要求する、弥生中期以降における土器移動は、
生口奴婢年貢(租庸調)
0029ドナルド・トランプ垢版2017/05/12(金) 22:27:19.54
<骨太の方針・鉄器>

紀元前1世紀に丹後扇谷遺跡(環濠で防御された大規模鉄工房遺跡)
→北部九州に翡翠勾玉入りの三種の神器
→日本海沿岸に四隅突出型墳丘墓が分布する頃には扇谷遺跡消失

1世紀中旬に淡路島に垣内遺跡・舟木遺跡(畿内と海で隔絶された大規模鉄工房遺跡)
→同時期に「鉄器」高地性集落が瀬戸内「東進」
→内行花文鏡の古墳が畿内制圧する3世紀後半には淡路島鉄工遺跡消失

2世紀に琵琶湖北部に稲部遺跡(河内や奈良と遠く離れて大規模鉄工房遺跡)
→内行花文鏡が畿内制圧する3世紀後半には鉄工房終了して大型倉庫群となる


当時の鉄原料は全て、朝鮮半島で鉄延べ板に精鉄した状態で海上輸送し、
伊都の一大率が一括管理。
それを各地の倭国運営鉄工房へ分配して、現地では加工していただけ。

<倭人以外の原住民がいる地域への遠征パターン>
@まず少し離れた安全地帯に鉄工遺跡を建設。
A鉄延べ板を持ち込んで現地加工し、周囲を征服していく。
B征服し終わったら、倭国から支配官を派遣。
C支配体制が整ったら、鉄器生産を前進させる。

日本海沿岸に分布する四隅突出型墳丘墓は、丹後若狭湾を越えて富山まで分布する。
なのに、最重要の要衝である丹後若狭湾にだけ四隅突出型墳丘墓が存在せず、
大量の鉄剣(鉄製武器)を保有する支配者が鎮座している。

四隅突出分布域のど真ん中の、農耕に不適な山間部に、鉄工房遺跡や鉄製武器支配者が存在することから、
丹後の王とは、北部九州邪馬台国(倭国)直属の派遣将軍で、
四隅突出型墳丘墓とは、丹後監視下に置かれた倭国派遣の地方行政官であることがわかる。
0030日本@名無史さん垢版2017/05/13(土) 14:34:03.01
復活ですか。
乙です。
0031日本@名無史さん垢版2017/05/13(土) 14:50:56.77
応援したいが、テンプレはもう張り終わったの?? 微妙な始まりかただなぁ
0032日本@名無史さん垢版2017/05/13(土) 15:26:40.33
安定した鉄壁の説ですから。
魏志にも記紀にも矛盾なく、弥生時代からの九州の発展の連続性と後の畿内政権への橋渡しとなる。
ちゃんと前スレの後の鏡の編年までまとめてあって、いいテンプレですね。
0033日本@名無史さん垢版2017/05/13(土) 15:43:19.90
クニ、が見ずらい
0034日本@名無史さん垢版2017/05/13(土) 15:49:51.09
日本から韓国が見えるわけがないんだが
0035日本@名無史さん垢版2017/05/13(土) 19:19:09.58
ちょっと反論ないの?
ほんと畿内説の論者が減ったなぁ。
0036日本@名無史さん垢版2017/05/14(日) 00:20:49.36
とりあえず、34が反論なんだが
0037日本@名無史さん垢版2017/05/14(日) 02:01:09.16
対馬と壱岐ならそれぞれ隣の島が見えて、韓国も見えるんじゃなかったっけ?
0038日本@名無史さん垢版2017/05/14(日) 02:08:17.55
>>34
もしかして、
>>5
>クシフル岳から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に
>「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故に、 此地は甚吉き地かな」
>とあるように、韓国の正面に位置することができる立地条件は宮崎県では矛盾があるが、福岡県の高祖山ならまさに朝鮮半島への玄関口であり、笠沙岬は博多湾の出口に横たわる半島である志賀島のことであると考えられる。

へのツッコミ?
韓国が見えると言っているのではなく、韓国への道(ここでは海路)が開けていると言っているだけだよ。
宮崎からだと、陸路と水路をつなげてややこしいルトになるから(関門海峡はまだ通過できない)。
0039日本@名無史さん垢版2017/05/15(月) 11:51:41.06
当時の韓国は加羅の奥だろ
0040日本@名無史さん垢版2017/05/15(月) 18:41:51.79
まぁ異国と取るのがいいよね
唐も「から」と読むし
0041日本@名無史さん垢版2017/05/15(月) 19:04:35.17
そこで韓国岳説ですよ
0042日本@名無史さん垢版2017/05/15(月) 19:11:27.20
>>40
天孫降臨は漢の時代だろう。
0043日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 06:14:58.05
>>42
記紀が書かれた頃の話をするべき
第一天孫降臨自体現実にありえないし
0044日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 07:17:18.97
>>43
8世紀の話をしてどうするんだ。
卑弥呼は3世紀だぞ。
天孫降臨は、要するに筑紫の支配者に指名された邇邇芸が伊都国に船で赴任する話なんだよ。
すごく現実的な話だよ。
0045日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 12:17:54.84
当時の韓国は帯方郡のすぐ南だよね
0046日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 15:57:01.33
笠沙と韓国のサイズの違いも不自然だよなあ
0047日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 16:19:52.60
どう不自然?
笠沙は志賀島のことだけど?
0048日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 18:03:17.51
>>44
シェークスピアのジュリアス・シーザーは当時のイギリスの格好そのままで上演され古代ローマの衣装など着ていない
劇中には古代ローマには存在しなかった柱時計が出てくる
記紀が書かれた時やれ当時はどうだったとか時代考証を考えるわけがないだろう

船で赴任とか雇われ店長の人か
書かれていることを自分の考えに無理やり当てはめるのはやめてくれないかな
賛同者がほしいのならそれなりの根拠がいるよ
0049日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 18:34:31.22
>>47
それは何か証拠でもあるの?
0050日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 20:48:47.13
>>49
邇邇芸が宗像を経由して博多湾の西の高祖山に陣取ったのなら、上陸した笠沙の岬は志賀島、天橋立は海ノ中道だろう。
博多湾の陸と海を支配していたという猿田彦が恭順して案内を勤めたので、無事に日向峠を越えて糸島平野に入り、筑紫倭国の王となりました、というのが天孫降臨伝説だよ。
猿田彦を祭る神社は福岡市に、邇邇芸を祭る神社は糸島市にある。
その邇邇芸を祭る細石神社が漢委奴国王印を保管しており、南小路遺跡の祭殿となっている。
南小路遺跡は璧や鏡が副葬された、糸島平野で一番古い倭国王墓。
0051日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 20:55:21.23
少なくとも1〜3世紀の倭国の都は考古学的に伊都国な訳だよ。
しかも邇邇芸に与えられたはずの八咫の鏡も伊都国で出土している。
さらに踏み込んで言えば、帥升はアマテラスから筑紫の祭り事を任されて赴任した帥である邇邇芸かもしれない。
倭国女王である卑弥呼も、倭国の都である伊都国にいて当然だし、卑弥呼の下に一大卒、つまり帥がいたことがわかっている。
すべて合理的に当てはまる。
0052日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 20:59:45.48
>>50
邇邇芸を祭る神社は四国の霊峰剣山の麓

ニニギノ命神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ)
http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/
0053日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 21:13:21.85
>>51
それで、邇邇芸の墓は糸島村のどこにあるのけー
0054日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 21:48:33.17
伊都国は邪馬台国の支店なんだよ
0055日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 21:51:12.56
奴国まで10600里なんだよ、残りの1400里はどうするんだ
0056日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 21:52:06.14
奴国は蛇信仰の苗族である
0057日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:10:55.88
>>54
この間の番組でも邪馬台国は無かったという事だし

邪馬台国=連合国でいいんじゃね?
その中の京の宮がある場所が伊都国で中心地は奴国

畿内説じゃ宮が巻向だろうがな
0058日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:20:45.67
>>57
もう、やけくそ?
0059日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:41:26.46
>>53
邇邇芸の墓は三雲南小路遺跡。
2号墓は木花咲耶姫。
0060日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:42:06.45
>>57
いいだろうね。
邪馬台国連合イコール倭国連合だ。
0061日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:42:29.32
おまえらは佐賀のもんが歩いたあとにはぺんぺん草もはえんとか馬鹿にしとるやろ
0062日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:44:37.49
そりゃ田んぼだらけの邪馬台国よりハイカラな奴国のほうがよかかもしれん
0063日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:45:17.09
佐賀も邪馬台国連合の重要な一員だよ。
壹與は肥前一宮河上神社の祭神だ。
0064日本@名無史さん垢版2017/05/16(火) 22:51:35.16
邪馬台国の嬉野茶、小城羊羹は定番やろ
0065日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 06:39:07.34
八女茶のチャチャチャ
0066日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 07:12:54.49
女王国と呼ばれる邪馬台国連合が
肥前と肥後、久留米以南の筑後

そのうちの邪馬台国本国が肥後
二万戸の奴国が佐賀市周辺の佐賀平野。
五万戸の投馬国が、旧妻国の筑後。
0067日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 08:44:58.36
邪馬台国連合は、筑紫、肥国、豊国だと思う。
その下に九州の投馬国、本州の出雲、越、丹波、吉備、阿波。
0068日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 08:45:50.99
肥後熊本が狗奴国は揺るがないと思う。
菊池彦がいたからね。
0069日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 08:53:30.50
>>59
そりゃめでたいことだ
で、ついでに卑弥呼の墓と、台与の墓と、一大率の墓はどこだい???
0070日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 10:22:35.13
>>63
それ生贄になった女だよ
0071日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 10:23:38.11
人柱だな
0072日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 12:40:42.40
>>70
なんの生贄?
0073日本@名無史さん垢版2017/05/17(水) 12:41:48.48
>>69
卑弥呼は平原、壹與は祇園山、一大卒は知らない。れ
0074日本@名無史さん垢版2017/05/19(金) 19:05:20.13
住吉
0075日本@名無史さん垢版2017/05/19(金) 19:42:56.58
住吉はイザナギとアマテラスにゆかりの神社。
0076日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 15:54:37.03
>>25
>対馬海峡西水道(朝鮮海峡):朝鮮半島〜対馬、60km
>対馬海峡東水道(狭義の対馬海峡):対馬〜壱岐、55km
>(壱岐から九州までは近距離にて水道外:壱岐〜呼子、23km)

1里=70mだとすると、
1000里=70km

港から港までの距離だと、島沿いにある程度は迂回することになるから、
朝鮮半島〜対馬や、対馬〜壱岐については、
1000里=70kmでちょうど合ってるね。

で、思うのだけど、倭人伝を否定したい人が、渡海距離をもって、
全部千里だから倭人伝は信用できないと主張するけど、そうじゃなくって、
壱岐の港〜末盧國の港も、1000里=70kmということじゃないのかな。

原の辻遺跡〜呼子着〜東松浦半島から唐津湾をぐるり沿岸航海
〜伊都にかなり近い地点で上陸(例えば筑前深江駅の辺り)

せっかく船で来たんだから、できるだけ伊都に近づいて上陸した方が楽でしょうし。
0077日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 16:06:55.57
>>76
対馬海流に流されて、「壱岐〜呼子」は有り得ない。
0078日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 16:16:20.15
>>25
たしかに対馬海流に流されると東西南北の全方向に流されうるな。

ということは、最短距離である呼子へ渡るのが一番安全。
0079日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 17:59:03.26
>>77
古代船野生号で試したぞ
0080日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 18:43:39.54
流れ着くわけじゃないぞ、
はっきりした目的があって、その目的の港へ入るわけだからな
0081日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 19:02:56.55
南北に自由に行き来していることがちゃんと魏志に記されている。
伊都になるべく近くというのはアリかも。
0082日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 19:19:59.27
名護屋城もそうだし、
合理的判断で生き抜いてきた戦国武将達も皆、
東松浦半島の「東北端」を出征陣地にしている。

だから、
壱岐・原の辻
→壱岐の南端(8〜10km)
→加部島の西を通過(30km)
→名護屋城の北
(ここまでは最大速度で渡海、以下は沿岸航海なのでスピードを落とす)

→東松浦半島を沿岸航海、東行して南行
→唐津湾西端(43km)
→安全を期して唐津湾内を沿岸航海
→唐津湾東端・串崎(58km)
→沿岸航海で東行
→筑前深江駅の辺りまでで66.8km
0083日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 19:23:09.75
朝鮮半島〜対馬や、対馬〜壱岐、壱岐〜呼子といった
渡海部分は、全力で漕いで最大速度で渡り切るけど、

呼子から末盧國の停泊港までは、
沿岸航海だから、ゆっくりでいい。

魏使の体感としては、全て同じ航海時間となって、全て千里。
0084日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 21:54:20.68
逆もまた真なり。

1里=70m
100里=7km

魏使の駐する所である伊都
楽浪土器の集中する三雲遺跡

三雲遺跡から逆算すると、
伊都の船越湾に出るまでが、7km
筑前深江駅までが、9km

ピンポイントで三雲に至る必要はないのだから、
筑前深江駅のそばの海岸に上陸したとすれば、
壱岐〜末盧國上陸地点は千里だし、
末盧國上陸地点〜伊都は百里
0085日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 23:38:12.52
『三国志東夷伝濊伝』
>作矛長三丈或數人共持之能歩戦
長さ三丈(約7.2m)の矛を作って、数人の歩兵でこれを持って戦う。

>戦国時代研究会の実践報告
長槍はしなるため、目標に突き刺すのは困難であり、
振り下ろして、しなりの遠心力を利用して敵をぶっ叩いて
甲冑を割ったり、脳震盪を起こさせたりして倒していた。


弥生時代の銅矛も、その巨大な質量を利用して、
遠心力でぶっ叩いて敵を倒していた可能性が高い。
0086日本@名無史さん垢版2017/05/20(土) 23:42:24.38
『三国志東夷伝倭人条』
>兵用矛盾木弓

青銅器は鋳造直後は黄金色に光り輝き、
その荘厳さは鉄器の比ではない。

ロンドンの儀仗兵と同じく、
伊都高祖宮の守衛兵は、
黄金色の銅矛を掲げて日夜誇り高く警備に当たっていたのであろう。
0087日本@名無史さん垢版2017/06/01(木) 19:04:11.94
>>249
>東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。

魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。

漢の時代には倭奴国に王がいた事を意識したのかもしれないが、
漢委奴国王印は伊都国に伝えられて来たとの伝承もあるので(細石神社)、倭奴国と伊都国は本質的に同じものだったかもしれない。
それなら、魏がすんなりと卑弥呼を倭奴国の後継と承認したのも理解できる。
0088日本@名無史さん垢版2017/06/01(木) 19:27:30.57
>>87
いいね 乙です
0090岡上 ◆JN/67qb8kM 垢版2017/06/03(土) 00:13:03.70
金印を調べた亀井南冥、その一家はどうも三雲の百姓の出らしいですね。
どうも出世欲が非常に強そうな人物ですし、細石神社の伝承も鑑みると、金印の出所というのは、
やっぱり伊都(委奴)国である可能性はありそうな気がします。

金印発見のタイミングも藩校の開設と時期的にばっちりですし、
その後の展開もどうも南冥の事前研究あってのことじゃないかとかなり疑わしいです。
0091日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 19:02:06.74
>>6
>倭人在帯方東南大海之中 旧百余国 漢時有朝見者 今使譯所通三十国

「倭人(倭国より広い範囲)」は昔は100余クニの行政区分であった。
漢の時代に朝貢してくる倭人がいた。(博多湾金印出土)
魏の現在は、交流できるのは(旧100余国の中の)30クニである。(滅亡したともなんとも書いていない)

>倭国乱相攻伐歴年
倭人領のうちの、「北部九州倭国」が乱れて、
「お互いに」攻め合うことが長年に及んだ。
「倭国(大)乱」であって、倭国大戦、倭人大乱などではない。

倭人の領域の行政区分がもともと100余クニ。
魏と交流があるのが30クニ。

投馬国:30-6=24クニ 5万戸

北部九州倭国が、邪馬台国と狗奴国に分かれて倭国王の座を争っている。

邪馬台国:交流できる6+詳細の分からない20=26クニ 7万戸
狗奴国:100-24-26=50余クニ  おそらく10余万戸→熊本を含むであろう
0092日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 19:37:15.82
鉄器の分布や甕棺墓の分布から、
2世紀倭国の支配域が福岡県〜熊本県北部(佐賀長崎大分含む)だとすると、
邪馬台国と狗奴国の比率が、26対50余=1対2だから、
領域についても南北方向で1対2で考えると、
邪馬台国は福岡県北半分で、狗奴国が福岡県南半分と熊本北半分

つまり神籠石が境界線上の山城だったわけだ。

鉄器輸入ルートを保有している邪馬台国の方が領域としては劣勢であることで、
倭国大乱が長期化したことを説明できる。

吉野ヶ里は滅ぼされているが、鉄器が多数残っているため、
本来は邪馬台国側のクニだったのだが、倭国大乱直後に狗奴国に急襲されて滅亡した。

平塚川添は鉄器が無いことから、狗奴国側のクニとして長らく戦い、
鉄材輸入ルートを邪馬台国に押さえられて、
領内の鉄器を全て武器に転用しつくして滅ぼされたのだろう。
0093日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 19:53:52.09
吉野ヶ里の最期は攻め滅ぼされたのではなく、退去だったはず。
戦いのあとはむしろ鉄鏃とか散らばっていそう。
0094日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 20:55:31.58
鉄鏃は大事です。
軍隊が組織されて、軍事演習をする。
当然のことながら、一方的に敵に損害を与えることのできる
飛び道具というのは戦闘の基本となります。

「軍隊を教練する際には、必ず鉄鏃の矢での一斉射撃訓練が行われます。」

鉄器は貴重だから、厳密に管理して全部回収する。
という屁理屈をこねる説がありますが、
鉄鏃には通用しません。

世界史上もっとも束縛されている自衛隊でさえも、
薬莢は管理しても、弾丸は打ちっぱなし。

鉄鏃が大量にある=鉄鏃軍隊を保有して教練していた

鉄鏃が少量ある=鉄鏃軍隊と交戦した

鉄鏃の出土分布が示す通り、
邪馬台国(福岡平野)と、狗奴国(筑紫平野熊本平野)が
鉄鏃部隊を保有して、各地へ派遣していたのですね。
0095日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 21:43:52.48
吉野ヶ里そのものは9世紀まで続いている。
政権交代とかで中の人が
入れ替わってる可能性はあるけどね
0096日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 21:57:06.49
高天ヶ原(記紀・神代)

宮殿がある
神々が出仕している
機織場がある


福岡県早良区・吉武高木遺跡

・日本最古の宮殿跡
・日本最古の三種の神器
・日本最古の絹
0097日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 22:08:26.12
>>96
ニニギが船で福岡に到着するんですけど。
笠沙の岬こと志賀島に上陸し、天の架け橋こと海の中道を渡り、クシフル山の高千穂宮こと伊都高祖宮に陣取ったと読める。
0098日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 22:28:35.37
>>97
高天ヶ原(日向峠の東側・早良区)から高祖山(日向峠の西・糸島)へ派遣されたわけで、根っこは同意見ですよ。

吉武高木に先行する菜畑遺跡で既に、水路の木板が全て鉄器で作成されていたことがわかっている。

菜畑遺跡の頃の鉄器は、打製石器と同じような、鉄材を打ち欠いて作る鉄片を用いる原始的鉄器。
だが、吉武高木の頃には鍛造鉄器が主流となる。

その製造拠点はどこか?

<神話>高天ヶ原から派遣されたスサノオが戦った相手が八岐大蛇。
<考古学・文献>当時の鉄器は全て朝鮮半島から供給

吉武高木遺跡
・木棺墓に三種の神器
・取り囲む甕棺墓に武器
・甕棺墓の遺体に石剣破片

九頭竜川流域(若狭湾東岸)
・石剣分布

扇谷遺跡(若狭湾西岸・丹後半島)
・環濠で囲まれた大規模鉄器工房集落

吉武高木の木棺墓王が、甕棺墓族の力を借りて、石剣九頭竜川一族に勝利して、
丹後半島に、大規模鉄工房<扇谷遺跡>を建設した。

そのまま進軍して糸魚川まで占領して得たのが、三種の神器の翡翠勾玉
扇谷遺跡(九頭竜川ヤマタノオロチを滅ぼして)で作った至上の逸品が、草薙剣

共に、日本海沿岸を制圧した証です。
0099日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:04:07.17
舶載鏡にこだわって混乱している説があるが、なんで舶載にこだわっているのか?
本質を何もわかっていない。

卑弥呼以前の倭国王における権威の象徴
・漢委奴国王印 漢の下の伊都国王
・漢鏡     漢が下賜した漢鏡を崇めて祭祀

卑弥呼
・親魏倭王 魏と親しい倭国の王様
・仿製鏡  滅亡した漢とは関係ない、邪馬台国独自の八葉権威鏡
・鬼道   榊でお祓い、鳥居を建立

つまり
聖徳太子が隋の煬帝に喧嘩を売る300年前に
卑弥呼様が日本独立の権威を宣言していた。

その象徴が、平原遺跡の5面の超巨大内行花文鏡。
△が追随。
0100日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:10:10.20
高祖山に先行する王族が早良王家であることも、スサノオが日本海沿岸を制圧したことも、全くそのままなのだろうが、高天原が早良区というのは早計ではないだろうか?
高天原が最終的に覇権を掌握するのはアマテラスの最期の頃で、それまでは他にも強い勢力がいて、それが早良王家や出雲王家(本当に別のものか心配)である可能性はないだろうか。
高天原のアマテラスと糸島の邇邇芸は直系だが、早良王家と糸島王家は必ずしも直系ではないのではないか?
0101岡上 ◆JN/67qb8kM 垢版2017/06/06(火) 23:10:33.92
>>98
伊都国と日本海ルートは、相性抜群のようですね。
どうやら年初に書いた小論文は多少の加筆がいるようです。
論文では瀬戸内海ルートにおける内向花文鏡の東漸を考えていましたが、
どうもこれは「神武東征」という物語に引っ張られてしまった感がありますね。

やはり、伊都国の銅鏡による太陽信仰の東漸現象も、魏志の読みと同じく、
日本海ルートで見るのがより有力なのかもしれません。

瀬戸内海交通が逼塞していたので、回り込んで畿内に到達したのでしょうか。
0102日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:14:31.90
>>99
魏に対しては媚びていた、または魏志としてはその立場で書かれていたが、国内的にはもう魏に頼らない王権になりつつあったかもしれない。
何しろ、長らく続いた漢が倒れ、魏も信頼できない。
だから漢鏡を超える大きさの超大型内行花文鏡が倭国統合の象徴として必要だったのだろう。
0103日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:18:29.63
>>101
少なくとも3世紀までは日本海ルートでしょう。
3世紀頃に神武が瀬戸内海ルートをなぞりますが、主力航路になるのは4世紀の関門海峡の開削を待つ必要があるのでしょう。
0104岡上 ◆JN/67qb8kM 垢版2017/06/06(火) 23:19:43.80
>>102
それはそうでしょうね。
一旦、超大型内行花文鏡に太陽を象徴させた以上、(記紀に言うヒガタの鏡ですね)
魏から下賜された▲など、配布用ぐらいにしか意味を持たない2流以下の乱造品ですから。
0105日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:26:27.77
>>102
あなたは素晴らしい!
完全に現代に当てはめてみます。

金属器を扱う工房では
・木材を大量に消費する
・重金属排液を垂れ流しする(弥生時代だからしょうがない)

つまり、
吉武高木(福岡平野西の室見川)のアマテラスを支持した、甕棺墓の渡来倭人たちは、
福岡平野東の那珂川に金属工房を増設していったのだが、

数年で周囲の木材を伐採しつくした(奈良から北へ遷都し続けたのと同じ)
環境汚染(重金属汚染、森林破壊による洪水多発=考古学的に証明)によって、

鉄器工房などという、青銅器より遥かに木材を消費する利材の工房を
自国領内に建設して、環境問題を起こすことを回避する必要があった。

考え方の設定が必要です。

鉄器工房を自国領内に作ると、森林が破壊されて、環境破壊で滅亡する。

鉄器工房は、むしろ遠方の未開民族領内に作って、
鉄材料を運んで、未開民族領の木材燃料で鍛造してから、自国領内へ運び込む。

リスクを本国から遠ざける。
現代の日本企業と、全く同じ経営方針です。
0106岡上 ◆JN/67qb8kM 垢版2017/06/06(火) 23:38:16.61
パスポート見るたびに想像しますが、16弁の菊(十六八重表菊)は、
もとは八弧文八葉座の金色に輝く超大型内行花文鏡の象徴だったのでしょうね。
周りが赤地というのも、水銀朱で彩られた割竹型木簡の状況の象徴するのでしょうか。

そう考えてみると、日本ってすごい国ですね。
0107日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:43:35.05
>>105
なるほど。
初期はともかくとして、ある程度の規模になると、王都の中で鉄工業をするわけにもいかず、植民地的な倭地に工房を立てる必要があると。
それが日本海沿岸の各地になるわけですね。
合理的な解釈です。
0108日本@名無史さん垢版2017/06/06(火) 23:58:54.34
>>106
理性的なあなたが、日本を想ってくれているのがわかって、頼もしいです。

>>107
その通りです。

紀元前の吉武高木のアマテラスは、
自国の環境保全と、自国の鉄器発展を両立するべく、
丹後扇谷遺跡に大規模鉄器工房を建設した。

大国主は、アマテラス(皇族祖先)の姫達を娶って藤原氏のごとく権力を伸ばし、
紀伊と同盟して、淡路島に五斗長垣内遺跡を建設した。

朱儒国=朱(阿波丹が採れて)儒(人長三四尺、背が低い)=スクナヒコナ(小さい人種)

淡路島の五斗長垣内遺跡に、阿波紀伊などから木材を運び込んで
鉄器やガラス製品を大量生産した=考古学的に一致、現代の日本企業と同じ

それを引き継いだのが、淡路島の舟木遺跡。
舟木遺跡に燃料の木材を供給したのが、紀伊(木の伊都の国)
和歌山県伊都郡や、宗像三女神祭祀に、名残りがあります。
0110日本@名無史さん垢版2017/06/07(水) 00:19:43.23
青銅器工房=威信材を作る工房
であれば、自国領内に占有して、威信材を各地に配布することはありうる。

しかし、
鉄器工房=消費材を作る工房
であれば、量産工房であるから、
むしろ自国外に建設して、森林を乱伐して好きなだけ鉄器を大量生産すればいい。

オオクニヌシは、春日市(須玖遺跡群)で工房を増やしすぎて失敗した。

そこから遷都する際に発言力があるのが、
高天ヶ原(早良区〜糸島)の木棺墓部族と、
朝倉市吉野ヶ里甕棺墓銅鐸〜出雲銅鐸のオオクニヌシ部族

この二強が争った結果として、
アマテラスが勝利して、
筑紫の日向の西にニニギが降臨した。
0111日本@名無史さん垢版2017/06/07(水) 06:44:45.64
燃料の全てが木材
工具の材料、建材、なんでも木材

日常生活にも木材が必要なのに、
工房で大量に燃やしたら、あっという間に森が禿げ上がり、
木材は不足するわ洪水は頻発するわで国が亡びる。

絶海の孤島であるイースター島では、
高度な文明社会を築いておきながら、
各部族がモアイ建設を争って木を乱伐した結果、回復不可能な程度まで森林が破壊され、
西洋人がイースター島を発見した時には、石器時代まで退行して洞窟で着のみ着のまま暮らしていた。

逆に江戸幕府は、
戦国時代が終わって、各地が復興のために森林を乱伐することを予見して危惧し、
木材の切り出しを厳しく国家管理して、
日本列島の国土保全を成し遂げた。

弥生時代の倭国も同じで、
王都の環境保全のために、東方遠征して、東方に鉄器工房群を建設したのだろう。

その直接的動機は生活環境保全であり、
なによりも大きい間接的動機が、主力交易品である絹生産のための清流保持。
0112日本@名無史さん垢版2017/06/07(水) 20:57:16.72
>>100
早良区の吉武高木王は、日本最古の王です。

にもかかわらず、
遠隔地である扇谷遺跡に鉄器工房を建設して、王都のある福岡平野の森林を守るという
大局観を備えた国家運営を見せている。

つまり・・・鉄器を持つ国家を運営した経験を既に持っていたわけです。

吉武高木王族そのものが持っていたのか、
それともそういう経験を持っている王族や官僚が渡来してきて配下にいたのか。
0113日本@名無史さん垢版2017/06/07(水) 22:13:14.17
>>101
多紐細文鏡が畿内まで伝播(北部九州でも鋳型が見つかっているので、北部九州製の可能性もあります)
銅矛も瀬戸内に分布
高地性集落が分布する布石段階が必要
などがありますから、
瀬戸内海交通も紀元前から開けてはいたでしょうね。

海水面の高かった弥生時代は、瀬戸内海沿岸には広い平野があまりなかったので、
まずは日本海側からひらけていったのでしょう。

紀元前2世紀から扇谷遺跡を運営していたわけですが、
日本海沿岸を最初はアウェーの植民地として森林を乱伐していても、
倭国系支配者が赴任して100年もすると、日本海沿岸の各倭系領主も発言力が高まり、
彼らにとってのホームとなった日本海沿岸の環境保全を要求するようになる。

その時代背景をくんで、オオクニヌシが日本海沿岸を結婚戦略でまとめあげて、
倭国の主導権を握ったのでしょう。
0114日本@名無史さん垢版2017/06/07(水) 23:02:14.35
・鉄原料は全て朝鮮半島産
・鉄原料は全て北部九州経由でしか入手できない

・鉄器は圧倒的に北部九州に普及している
・北部九州にのみ王墓が存在

・淡路「島」に大規模鉄工房遺跡

北部九州の王が淡路島鉄工房遺跡を運営していたことが明らかです。

木材をはるばる北部九州へ運ぶよりも、

鉄原料を船に乗せて淡路島へ運び、
淡路島に吉備や阿波や紀伊の木材を集めて鉄器を製作し、
そして鉄器を船に乗せて北部九州へ運ぶ、
このほうが運送しやすい。

オオクニヌシは、扇谷遺跡を終了して、
日本海沿岸の領主たちと力を合わせて、瀬戸内海経路を東征し、
淡路島に新しい鉄工遺跡を建設したわけですね。
0115日本@名無史さん垢版2017/06/07(水) 23:36:50.52
須玖遺跡群〜比恵那珂遺跡群〜博多遺跡群と連続する、弥生の巨大な集落工房密集地帯の、
一番上流に、須玖岡本遺跡がある。

つまり、オオクニヌシの居館は一番上流の汚染されていない場所にあるのだが、
その下流は工場廃液や生活排液で凄まじい汚染度合いだったことは確実。

木材の伐採によって、当然の帰結として洪水が起き、遷都の必要が生じる。
これも古代の都にはよくある話。

遷都先の候補としては、
@さらに上流の大宰府や朝倉市平塚川添遺跡 (南)
A本州日本海世界の中心に位置する出雲 (東)
B日向峠を越えた伊都 (西)

オオクニヌシ派はAを強行したのだが、
アマテラス派はBを主張し、戦いとなった。
0116日本@名無史さん垢版2017/06/08(木) 00:11:35.15
福岡平野の弥生銀座の環境悪化による遷都。
アマテラス派が勝利して、ニニギが伊都で王座に就いてから。

一見無関係に見えるニニギとニギハヤヒの動きだが、
環境問題を視点に据えると、共通の目的を持った国家事業であることが分かる。

ニニギの使命は、伊都に清らかな都を建設すること。

@金属工房やガラス工房の建設を禁止し、
 絹その他の機織場ならびに宝石加工場など、水を汚さない産業のみ招聘。
A民の流入を厳しく制限し、千戸を超えないよう人口調節。

本拠が「栄えすぎて」失敗した奴国の轍を踏まないよう、最初からしっかりした都市計画を立てて臨んだわけだ。

ニギハヤヒの使命は、倭国外への生産移転を強化すること。

@銅戈部隊を組織し、淡路島舟木遺跡を拠点に吉備阿波紀伊、そして畿内への東征を本格化。
 (オオクニヌシは侵略ではなく、銅鐸などと木材を交易していた)
 (オオヤマツミが瀬戸内海沿岸に高地性集落を建設して狼煙連絡や航路警備を強化)
A南にも進軍し、熊本にも鉄工房を設置。
・熊本にも鉄器が多いのだが、鉄器作成の前段階の鉄材料のものが多い
・熊本に王墓が出来る(=倭国のホームになる)のは4世紀以降
・熊本の主だった遺跡は全て、菊池川白川緑川の「上流」で鉄加工を行っている
(環境汚染に無頓着=アウェー)

>其南有狗奴国 男子為王 其官有狗古智卑狗
狗古智卑狗とは、熊本の木材を管理する官職のことであろう。
0117日本@名無史さん垢版2017/06/08(木) 07:21:31.22
工業商業の俗なる旧都である博多と、政治外交祭祀の聖なる新都である伊都の違いですね。
環境面からそれ内容を解き明かし、西日本全体の倭国の体制をうまく説明できます。
0118日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 19:45:45.46
那珂川流域を発展させて権勢をほしいままにし
那珂川流域の環境破壊からの洪水によって失脚した
オオクニヌシが出雲で討たれ、
被災した倭国をニニギとニギハヤヒが再建した。

ニニギは三雲に居を構えて、新首都・伊都の建設に尽力し
ニギハヤヒは銅戈を奉じて、瀬戸内高地性集落〜淡路島舟木遺跡〜畿内攻略に尽力した。

次代の山幸彦と海幸彦も同じ。

山幸彦は、父王ニニギから、おおむね完成した伊都を引き継ぎ、高祖「山」に宮を建設した。
海幸彦は、ニギハヤヒと同じく、これは広型銅矛を奉じて東征へと向かった。

だが、ここで問題が生じる。

海幸彦の場合、瀬戸内ルートは、ニギハヤヒ一族によって既に東征されて利権化されている。

となると、必然的に、広型銅矛海幸彦は、
もう一段階南の、宮崎〜高知の太平洋ルートを攻略するしかなくなる。

ニギハヤヒ一族と競合することになるし、
あまり旨味のないルートを担当することになって、
海幸彦と山幸彦の仲はギクシャクすることになる。

そして引き潮と上げ潮、つまり数十年おきに押し寄せる〇海ト〇フの〇地〇からの大津〇によって
海幸彦は大打撃をうけ、宮崎に撤退する。
当時の人から見ると、高祖山の王に刃向かった海幸彦の受けた神罰に見えたことだろう。
0119日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 19:59:29.70
>>118
>山幸彦は、父王ニニギから、おおむね完成した伊都を引き継ぎ、高祖「山」に宮を建設した。

高祖山の高千穂宮は父王ニニギの時にはすでにあったと記録されている。

>海幸彦の場合、瀬戸内ルートは、ニギハヤヒ一族によって既に東征されて利権化されている。

ニニギは籠神社などに足跡を残しており、日本海ルートを用いていたと考えられる。
その時代、まだ関門海峡を航行することができず、瀬戸内ルートは確立されていない。
0120日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 20:19:53.42
>>119
高千穂宮を最初に建設したのがどちらにせよ、高祖神社の祭神が山幸彦なのですから、
ニニギは伊都そのものの建設を指導するのに忙しく、
高祖山に鎮座して高千穂宮を主に使用したのは山幸彦からなのでしょう。

ニニギが籠神社に足跡を残すのは当然です。
吉武高木の頃にはスサノオが日本海統一しているのですから。

淡路島に大規模鉄工房遺跡がある時点で、
鉄材料を朝鮮半島から淡路島まで輸送していたわけですから、
瀬戸内ルートが確立されていたことが考古学的に立証されます。
0121日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 20:37:25.45
>>120
>高千穂宮を最初に建設したのがどちらにせよ、高祖神社の祭神が山幸彦なのですから、

なるほど

>鉄材料を朝鮮半島から淡路島まで輸送していたわけですから、

ニギハヤヒが担ったという証拠はありますか?
0122日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 20:51:35.83
ニニギの父、天忍穂耳命に天孫降臨の依頼が下ったのも意味がある。

天忍穂耳命の領地は遠賀川流域。

岡田宮や一宮神社に、神武の祖先として天忍穂耳命が共に祀られている。
(ニニギや天照ではなく、天忍穂耳命が選ばれていることに意味がある)
英彦山神宮までのライン=遠賀川流域が、
神武の祖・天忍穂耳命の領地であったからである。

オオクニヌシが那珂川流域の制御に失敗し、
生活排液と工房排液からの環境汚染に続いて、
森林乱伐からの洪水(弥生後期初頭)を引き起こした。

那珂川流域は2本の川に挟まれているにも関わらず、多数の井戸が掘られていたことが判明しており、
川の汚染がそれだけ深刻で飲み水になどとても使えなかったのだろう。

人口密集地において洪水が起きて、汚水によって水浸しになれば、
大規模な伝染病が発生して、
繁栄していた弥生銀座が、ものの数か月で阿鼻叫喚の惨状をきたしたことは確実。

反オオクニヌシ系の倭国王族一同から天忍穂耳命への天孫降臨依頼を、
政治用語に翻訳すると
「栄光ある倭国王に任命してあげるから、
 あなたの領地の遠賀川流域の財をもって、奴国を復興させなさい」
0123日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 21:24:41.70
天忍穂耳命も慈善家ではない。

繁栄中の奴国を中心とする倭国の王様であれば、誰でも食指が動くだろうが、
大洪水と伝染病で壊滅状態の奴国を
なんでわざわざ自領の財を投げうって復興しなくてはならないのか。

当然断る。

だが、オオクニヌシ(中広形銅矛)とコトシロヌシが出雲で新首都宣言をして、
博多湾残留派が軍を発動して、なんとか勝利はしたものの、
タケミナカタなどがいつ何時反旗を翻して、それに同調する豪族が集結しないとも限らない。

「自分が良ければそれでいいのか!?」
という、親戚一同からの大合唱に押されて、

天忍穂耳命はしぶしぶ重い腰を上げたのだが、
かといって、
遠賀川でのんびり暮らしていた自らには、とても難事業に着手する若さは残っていないとして、
若い息子のニニギを倭国王にさせたのだろう。

政治的には、遠賀川流域の領主である天忍穂耳命一族が引き受けるなら、
吉武高木以来の有力者である、オオヤマツミ一族も全面的に支援することを確約して、
実際に、物資の運搬や木材の供給、森林管理、高地性集落の建設維持、などなどを支援した。
0124日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 22:37:33.51
>>121
銅戈、円形周溝墓、翡翠の分布、神籠石、といった遺物からの逆算
特に、銅戈や高地性集落〜神籠石は、記紀から無視されているので、
勝者=邪馬台国と敵対した勢力で、しかも北部九州の有力勢力、
つまり狗奴国でありニギハヤヒであることになります。


倭国が木材を求めて各地へ進軍したことは、
熊本や高地に鉄斧が多いことからもわかります。

ちなみに、木を切り倒すのに、
石斧だと50分
鉄斧だと20分だそうですから、
石器に比べて鉄器は2.5倍の効果があるわけですね。

鉄器が普及していると圧倒的なわけです。
0125日本@名無史さん垢版2017/06/11(日) 23:36:08.07
狗奴国とニギハヤヒは関係ない。
邪馬台国の敵は、九州内には狗奴国だけだが、本州はまだ直轄地ではなく、多くの独立勢力がいたはず。

邪馬台国そのものも、常に勝者であったわけではなく、後に天孫族に滅ぼされたと考えている。
0126日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 13:49:34.83
邪馬台国の最後は筑紫の君磐井の乱である

継体率いる8万の騎馬民族によって邪馬台国は終わった
磐井は新羅と通じてるとか、そもそも邪馬台国と新羅は同盟国なんだから当然である
0127日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 14:13:59.86
継体の率いる騎馬民族は幾内に沸いて出てきたのか
それとも朝鮮から北陸に直行したのか
0128日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 14:33:29.39
>>126
継体の乱の後も、岩井の息子が筑紫の君を継いでいるので、それは間違い。
0129日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 14:35:22.22
継体は越にいた。
畿内勢力による共立後も、畿内にはなかなか入れなかった。
これを天皇とするのは後世のでっち上げである。
0130日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 18:02:33.99
邪馬台国はエジプト
文明を発明したのは縄文人
古代エジプト王国(邪馬台国)を作ったのはシュメール人(縄文人)
0131日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 20:16:08.71
>>129
その可能性はある。当時の大和がどうなっていたのか正確には知る由もない。
即位も、一体いつしたのか不明だし、禅譲か放伐かも不明。
完全に途切れていることを自覚していたからこその「継体」諡号ではないか。
0132日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 20:19:46.95
>>131
よく読むと割と日本書紀は正直に書いてある。
みんなで遠縁の王を共立した。
多分、それが波風立たないと思ったんだろうな。
でもやっぱり完全な支持を受けるには時間がかかった。
しかもその権限は畿内に限定だった。
0133日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 21:50:17.78
>>131
自覚してるかどうかは関係ないだろ。淡海三船が認識してさえいれば
0134日本@名無史さん垢版2017/06/12(月) 23:48:21.38
なんとか繋ぎ止めた、くらいの意味なんじゃないかな。
継体。
直前の王があまりにもアホだと国が滅ぶことも珍しくないからな。
0135日本@名無史さん垢版2017/06/13(火) 06:27:14.44
二中歴の逸年号が九州王朝年号と言われるが、
この最初が継体なんだな。
0136日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 14:20:20.43
スレタイの話に戻すと魏志倭人伝ではどう読んでも伊都国の南に邪馬台国があるので
伊都国の平原遺跡が卑弥呼の墓ってのは無理がある
円墳でもないし
0137日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 15:05:18.37
卑弥呼は伊都国王家出身なんだ
故郷に墓を建てただけ
墓域は円形だろ
0140日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 15:24:36.77
じゃあ前方後円墳は前方後円墳じゃなくなるなw
都合のいいように捻じ曲げるのはよくないよ君
0141日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 16:04:12.17
「大作冢,徑百餘?,?葬者奴婢百餘人。」
卑弥呼の墓の情報はこれだけ
脳内変換して幻想を見てるのはそっち
0144日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 17:28:43.78
>>143
横レスだが、墓域と思うよ

「大作冢」の「大」は「冢」ではなくて「作」を修飾している。
「大いに作る」であって、「大冢」ではない。
0145日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 19:27:16.66
>>144
漢文を正しく訳せばその通りですな。
しかも円墳の縛りなど全くもって根拠なし。

(薄葬令で曹操など地下墓が主流の魏使から見れば)(平原1号2号は)大いに塚を作って、
(周溝を含む墓域の長径は東夷尺で)百余歩
(土壙墓=単に穴を掘っただけの最も簡素な普通の墓穴に)殉葬者の奴婢が百余人
0146日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 20:03:46.73
平原は1号、2号とそれ以外は築造時期が違うんだが
しかも奴婢100人は出てこないし
0147日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 20:05:50.65
そもそも墓域というがそれ何らかの考古学界のコンセンサス得てるのかな?
あればソース貼ってほしいんだが
中国の歴史書で墓の大きさを墓域という概念で記述してる部分でもいいよ
0152日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 21:53:30.20
中国人が卑弥呼の冢を見てどう思ったかが重要だね
現代人の分類定義なんか何の意味もない
0153日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 22:28:12.14
「冢」は「墳」にあらず
0154日本@名無史さん垢版2017/06/14(水) 22:44:12.14
「九州説」は「糞」なり
0155日本@名無史さん垢版2017/06/15(木) 23:29:59.76
☆俺様専用メモ☆
九州説(伊都説)の絶対年代(仮)

0〜57 須玖岡本王(中広形銅矛)
57  漢委奴国王金印

58〜69
那珂川洪水→疫病→須玖岡本王一族が出雲へ緊急避難
博多湾残留派が出雲へ侵攻

70頃
三雲南小路王が伊都にて倭国王就任
ニギハヤヒ東征開始(銅戈)

・淡路島に大規模鉄工房遺跡
・高地性集落が本格化
・吉備阿波紀伊占領

・銅戈が唐古鍵と婚姻同盟
・銅戈が大阪湾上陸
・銅戈が柳沢遺跡(+富山新潟)を占領
・銅戈が翡翠を唐古鍵へプレゼント

107  三雲南小路王が遣使

110〜140 三雲南小路王の次代(広形銅矛)
140〜 狗奴国勢力が神籠石建築開始

146   倭国大乱開始
180頃  卑弥呼即位

248-249 平原遺跡の墓域全域が完成
0156日本@名無史さん垢版2017/06/15(木) 23:33:44.71
>其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐歴年 乃共立一女子為王
倭国大乱が146年からで
その前の70〜80年間に、伊都に男王が住んでいたのだから、
伊都建設は一番古くても146-80=66年

ということは、57年に遣使した委奴国王とは、須玖岡本王

須玖岡本王は、息子たちが一人前になるまで活動していたのだから、長寿


那珂川洪水→疫病発生→須玖岡本王一族が出雲へ緊急避難
この3つは、半年以内に連続する確定事項

本拠地が壊滅して、出雲へ緊急避難した須玖岡本王は、まともな兵力を有しておらず、
北部九州の那珂川以外の有力勢力が攻めてきたら勝てない。

須玖岡本王は、自らの祭祀をしてくれる=本拠地須玖岡本に墓所を建設してくれる、ことを条件に投降


那珂川流域の弥生銀座の遺跡のうち、
洪水前に出土する土器など遺物遺跡=AD70年以前が確定
洪水後に出土する土器など遺物遺跡=AD58年以降が確定

洪水に巻き込まれた遺物遺跡は、AD58〜69
0157日本@名無史さん垢版2017/06/15(木) 23:39:52.12
洪水が58〜69のいつ起きたか、
北部九州からの軍勢がいつやってきたか、によって幅が生じるが、
146から70〜80を引いて、AD66〜76年に三雲南小路王が伊都へ遷都した

仮にAD70とする。

AD70に伊都建設開始
AD70前後に須玖岡本の王墓建設(須玖岡本王との約束)
AD70にニギハヤヒの銅戈が東征開始

須玖岡本王(中広形銅矛)も瀬戸内に展開していたので、
高地性集落の開始は1世紀前半まで遡る可能性はある

高地性集落の全盛期は、銅戈が東征を始めて間もなくの、
AD80から始まり、淡路島の鉄工所遺跡とリンクして、倭国大乱まで続く。
0158日本@名無史さん垢版2017/06/15(木) 23:53:07.39
中広形銅矛(須玖岡本王) 0〜58(〜69)
銅戈(ニギハヤヒ) 70〜110(ニギハヤヒの没年まで)もしくは〜146(ニギハヤヒの子孫が継続)
広形銅矛(三雲南小路王の次代) 三雲南小路王の没年(110〜120くらいか)〜146(倭国大乱まで)

三雲南小路王の次代と次々代は同じ外戚を頼っているため、広形銅矛は連続


璧や金銅製四葉飾金具などの極めて高位な海外交流副葬品があることから、
107年の倭国王帥升は三雲南小路王

三雲南小路王は、父王が倭国王就任をためらっている間に生まれた=男として元服した意
よって、三雲南小路王の伊都遷都時の年齢は、古代元服と同じ12-16歳くらいの10代
107-70=37をたしても、107年の三雲南小路王はまだ50代半ば


井原鑓溝が、三雲南小路王の次代なのか次々代なのかは議論の余地があるものの、
三雲南小路王の次々王の治世に倭国大乱開始なので、
戦況によっては、次々王の王墓は無いか、あっても、王墓と思えないほど簡素な可能性あり
0159日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 00:09:01.05
でもって卑弥呼が長寿なのだから、
井原鑓溝の次が平原であることは、史実と良く相関している。

100年ほどの間隔
100年ほどの中国との没交渉

井原鑓溝から平原国産鏡への内行花文鏡開発期間として矛盾しない。
0160日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 02:09:10.33
ミミ
ミミタリ
ハナタリ

北部九州倭国の範囲は甕棺墓の範囲
中央集権体制に組み込まれていた>>7

その周辺の有力者=令外を許された特別な有力者

耳や鼻が垂れ下がるほどのピアスをぶら下げた特権階級豪族
0161日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 04:06:05.08
三雲南小路王はどこから来たの?
0162日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 07:37:10.14
弥生時代発祥の地である遠賀川流域を領有する豪族のおぼっちゃん
0164日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 08:08:02.29
立地に超優れた博多の須玖岡本本宅から、
なんであんな辺鄙な糸島三雲南小路へ移転するものか、単に、人口増加で糸島に三雲妾宅ができただけのことよ

ま、九大率にも、
ここにきて須玖岡本の本家本宅を持ち出さざるを得なくなったわけでもあるのだろうな
0165日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 08:30:56.47
>>164
イミフ
0166日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 11:15:01.39
【朝鮮2000年の属国史】

1  檀君朝鮮はまったくの神話、中国のどの歴史書にも登場しない
2  箕子朝鮮は伝説上の国、中国人の箕子が建国した中国人の国家。『史記』巻38宋微子世家「武王既克殷、
訪問箕子、於是武王乃封箕子於朝鮮」
3  衛氏朝鮮は考古学的に証明できる朝鮮の最初の国家で、
燕王盧綰の部将であった、衛満が朝鮮に亡命し建てた亡命政権

4  もちろん衛氏朝鮮の王も朝鮮人ではない『史記』朝鮮列伝「朝鮮王滿者、故燕人也(朝鮮王、満は燕国人である)」
5  衛氏朝鮮もBC108年に前漢の武帝に滅ぼされ、故地に楽浪郡・真番郡
・臨屯郡・玄菟郡の漢四郡が設置され朝鮮半島中北部は400年間中国の植民地

6  『後漢書』に「初、朝鮮王準為衛滿所破、乃將其餘衆數千人走入海、攻馬韓、破之、自立為韓王。」とあり、
箕子朝鮮の最後の王、準王が馬韓で韓王となり馬韓を支配し、その馬韓が百済になった
7  百済は扶余系民族だから言語的にも民族的にも今の韓国人は殆ど関係ない
8  高句麗と渤海はツングース民族で、同じツングース民族の満州族系 「高句麗→金国→後金国=清国(女真族のご先祖)」
0167日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 18:39:10.66
江戸時代の各地の大名の子弟は、江戸に住まわされていただろ。
幕府に対する人質の意味もあるが、
大名の子弟にとっても、首都で礼節や勉学を学んだり、
大名同士の人脈を深めたりする大きな利点があったわけだ。

現代の国会議員とかもそうだろ。
地方の地元に住んで、毎日国会まで通っている国会議員なんていない。

それと同じことで、
遠賀川流域を治める豪族も、首都である奴国「にも」館があって、
子弟を住まわせて、
勉強させたり、大王家や他の豪族達との社交界にデビューさせたりしていたはず。

吉野ヶ里もそうだし、筑紫周囲に王墓が全く無いのは、
近すぎるがゆえに、領主たちは皆、筑紫の首都在住で政治活動をしていたのだろう。
0168日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 18:55:31.01
つまり倭国の都は伊都でいいのだな。
0169日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:17:45.70
ド田舎の糸島たんぼが首都だったなんてあるわけなかろ

委国の首都は博多奴国よ、
これは、昔も今も、昼も夜も、変わりなき真理・・・
0170日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:22:55.64
>>168
紀元前は、早良区吉武高木宮殿・高天原

紀元後の
那珂川洪水以前は、委奴国の首都・奴国
那珂川洪水後、70年以降は、倭国の首都・伊都


北部九州一帯〜日本海沿岸(新潟まで)の領主は、
基本的には首都(中央政治)と地元(地元政治)を行ったり来たり
0171日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:29:24.72
伊都といっても、後世の高祖城にあたるものを高千穂宮と呼んだなら、それは博多湾を望む山城だよ。
実際には糸島平野から福岡平野まで含めて一つの都として機能したんだろう。
0172日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:32:07.78
>>170
>北部九州一帯〜日本海沿岸(新潟まで)の領主は、
>基本的には首都(中央政治)と地元(地元政治)を行ったり来たり

秋の稲の収穫が終わると議会みたいに招集されたんだな。
神奈月の秋祭り、新嘗祭だ。
祭り事は政だからね。
地方にも伊勢遺跡のような集会場があったのだろう。
0173日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:38:10.49
>>169
今も昔も博多が首都だったことはない
倭国の首都は伊都国
0174日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:42:27.15
 [筑前國風土記曰]

怡土郡.
怡土縣主等祖-五十跡手,聞天皇幸,拔取五百枝賢木,立于船舳艫.上枝挂八尺瓊,中枝挂白銅鏡,下枝挂十握劍,參迎穴門引嶋,獻之
天皇敕問:「阿,誰人?」
五十跡手奏曰:「高麗國意呂山,自天降來,日桙之苗裔-五十跡手是也.」

五十途手自らが、我は高麗からの渡来人の末裔、と称している、
糸島は高麗人の巣窟だったそうだ。
0175日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:44:54.60
>>174
天孫降臨だな
0176日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 19:58:58.56
伊都の範囲を、日向峠を中心としたエリア=早良区+糸島平野と考えるなら、
紀元前から一貫して、首都は伊都であった、と考えることもできる。

那珂川流域はむしろ首都でないからこそ工房や一般民衆が密集して
工業地帯として栄えた。

狗奴国と係争中の卑弥呼は、防御に適した高祖宮におわしただろうが、
魏使が宿泊したのは、早良区だったのかもしれんな。
0177日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:04:57.87
いや、郡使のいた伊都国から奴国へは日向峠の方に東南に移動する。
つまり、郡使が滞在したのは前原あたりであろう。
0178日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:08:47.00
郡使の館からも、朝日を背にして山上まで連なる卑弥呼の高祖宮の楼閣が見えたのであろう。
早良区からではその光景は無理になる。
魏志の里程から言っても、伊都国は日向峠の西側だろう。
0179日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:21:20.72
糸島伊都国こそは、

高麗國,天の日桙の降臨の地也,
0180日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 20:32:31.94
>那珂川洪水以前は、委奴国の首都・奴国
>那珂川洪水後、70年以降は、倭国の首都・伊都

これで、伊都説の矛盾である、
伊都が首都にもかかわらず、
壱岐対馬を方可で2倍して、奴国が基準点
というのが解消されるね。

須玖岡本=漢委奴国王なのだから
魏使の現実的な目的地が魏代「世有」の伊都であっても、
北部九州倭国の中で漢魏にとって最もポピュラーな地点は
伊都遷都直前に栄えていた奴国ということになる。
0181日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 21:12:09.50
魏志倭人伝の基準点は
遥か千数百年の時空を超えて
卑弥呼様に示していただいただろ。

博多駅前の陥没地点。

奇跡の負傷者ゼロ。

あの陥没地点こそが、魏志倭人伝で示された
倭国の基準点だ。

卑弥呼様に感謝。
0182日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 21:17:48.54
女王の都するところは奴国と認識されていたが、実際の王宮は糸島平野側の高祖宮だったのかな?
0183日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 22:01:55.64
女王の都するところは伊都と認識されていたし、実際の王宮は糸島平野側の高祖宮だった。

金印を授けた漢委奴国王が都していたところが奴国だったはずだけどどうなってるのかなあと認識されていた。
0184日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 22:33:43.35
2ちゃんねらー、見てきたようなことを云い、、、
0185日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 22:58:01.33
鉄器が無い地域=鉄器普及地域を従えるどころかはるか後塵を拝する未開地域=3世紀に魏と交渉した邪馬台国とは無関係

考古学、見れば明らか、、、
0186日本@名無史さん垢版2017/06/16(金) 23:07:04.10
伊都=委奴
0187日本@名無史さん垢版2017/06/17(土) 07:04:37.38
日向峠周辺という意味ならそれでも成り立ちそうだ。
高祖宮は弥生時代全体を通じて倭国の都であり、まさに筑紫の日向の高千穂宮だ。
0188日本@名無史さん垢版2017/06/17(土) 08:17:50.51
面白いのは、神武以後の人代は天孫なのに、饒速日は天神に分類されてること。
天下った後も、大阪奈良と九州とのパイプとして権威をふるっていたという事になる。
ヒッピー旅の最後に三人兄弟の兄二人死亡、軍団も半壊のみじめな神武とは明らかに
違うよな。それでも初代だから嘘は書けなかった。
0189日本@名無史さん垢版2017/06/17(土) 08:23:08.86
単に天孫とは邇邇芸を指すからでょう。
饒速日は別の家系になる。
それだけのこと。
イミフ
0191日本@名無史さん垢版2017/06/17(土) 16:56:00.04
ニニギの家系だけが天孫と呼ばれるんですよ。
0192日本@名無史さん垢版2017/06/17(土) 18:48:11.85
>面白いのは、神武以後の人代は天孫なのに、饒速日は天神に分類されてること。
>天下った後も、大阪奈良と九州とのパイプとして権威をふるっていたという事になる。

大阪奈良と九州、そしてパイプ部分の瀬戸内海を牛耳っていた饒速日(の多数の子孫の中の狗奴国側についた勢力)の広大な領土を
筑紫日向から着々と東征していったんだろ。

そりゃ畿内に上陸する頃には疲弊してしまうさ。

紀伊が神武側に寝返ったのと、
東方の前方後方墳勢力が同盟に応じてくれたのとで
神武が勝ち切った。

記紀に詳しく記録されている。
0193日本@名無史さん垢版2017/06/17(土) 21:02:03.16
瀬戸内海の各地には長期間逗留しているから、明らかにニギハヤヒとは別。
大阪で初めてニギハヤヒの軍に接触して敗走する。
最後は同じ天神の末裔であることを確認して和睦し、大和に居候させてもらった。

これが記紀の概要だろ。
0194日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 07:21:52.82
その後も八代は磯城の御子=物部に降嫁していただいたんだよな。
磯城=志紀で、どちらも大和側の平地部への出口を扼していた。軍事的にも
農業的にも商業的にも一等地。
このステージでは、まだ物部王の天下だった。
0195日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 20:47:27.19
物部の凋落は、もっと後世の物部戦争の頃で、それまでは物部の天下。
九州でも武内宿禰が覇権を握り、その末裔の筑後物部が高良玉垂の宮で倭国王となった。
東西がすべて物部の国になるのが4世紀。
0196日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 20:52:15.71
天孫族は江南の出身である
0197日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 20:52:59.49
物部は天神族である
0198日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 21:00:27.19
江南から来たのは肥国の王家じゃないかねえ?
0199日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 21:03:58.97
筑後の邪馬台国女王の系譜を滅ぼして、筑後の物部が覇権を握る。
最後の女王は田油津姫、滅ぼしたのは神功皇后。
物部と蘇我の祖である武内宿禰の息子である応神天皇から新たな王朝。
0200日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 21:04:14.00
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔であり、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であるとされ、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0201日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 21:48:35.02
神橿日姫、五十迹手、熊鰐はいずれも景行を親しく出迎えており、
最初から景行の配下であったか、
もしくはもともと景行の味方で、この時点で正式に景行の権力を認めた、とも取れる。

神橿日姫と田油津姫はそもそも領地が全く違うし、
八咫の鏡を保有していた神橿日姫と、単に討たれただけの田油津姫との共通点は、
九州の女指導者という点のみである。

九州の女指導者という点だけで、神橿日姫と田油津姫を一括りにするのならば、
息長帯姫もまた、その伝承の主たる地は九州に多く、九州の女指導者とも考えられる。

例えば息長帯姫には夫の仲哀がいるのだが、
田油津姫にも夏羽という兄有力者がいたわけで、
男と女が協力して統治する体制だったという共通項もあるわけだ。

息長帯姫と応神が、それまでの九州の神社を上書きしていったのは確かだが、
いずれも滅ぼしてはいないことから、
完全な外部勢力ではなく、結局は北部九州内での勢力争いであった可能性が高い。

また、宇佐神宮の主祭神は、順次では、応神、宗像三女神、神功皇后の順、
古い順には、宗像三女神、神功皇后、応神、の順である。

息長足比売命を語るのに神社を持ち出すのであれば、
息長足比売命を主祭神とする宮地嶽神社を外すことはできず、
これは卑弥呼の高祖宮と同じく、日の昇る東を背にして西向きに君臨している。
0202日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 21:55:11.03
>>196
>>198




で、江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡とその生活痕たる証拠土器・石器は?



で、江南から渡来定着したと狂った事を言ってる頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?




.
0203日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 22:04:38.98
倭人の淵源に関しては、やはり、
「大きくなった燕の南にいて、燕に属してした」
という記録は無視できないよ。

その頃の列島は、やはり南方系の東テイ人や侏儒國人やアイヌや蝦夷などの縄文系が先住していて、それに、
出雲などのズーズー弁族や、アソベや、ツボケや、越のオロチ族や、秋田美人の碧眼紅毛部族などが大陸から渡来して来て、
先住縄文系と混じって、各地に部族国家を作っていたが、
その中の出雲が、「国引き」をして列島の盟主的になっていて、
その上に、燕の南の弥生倭人(天孫族を含む)が海峡に渡来して来て、
一旦出雲の臣下のNo.2になっていたが、国譲り戦争に勝って、
筑紫にも(在地縄文系の?猿田彦を従えて)降臨して来て、
またそれとは別の「呉王夫差の遺民の姫氏」が火の国山門に渡来して来て、倭に合流した、
という事でしょう。
0204日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 22:23:16.92
呉の王族がやって来ておいて、「呉」という漢字一つ伝えねえとか、














バ カ 杉 だ ろ お ま え 
0205日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 22:42:12.33
考古学的には三種の神器そのものは各王墓に副葬されており、大王から臣下に贈られた権威セットであろう。
よって、特別な意味があるのは「八咫の鏡」を保有していた神橿日姫のみ。

景行が神橿日姫から「八咫の鏡」入りの三種の神器を譲渡された時点で、
景行は倭国王確定したわけだ。

景行は、北部九州邪馬台国説の唱える邪馬台国領の神橿日姫から出迎えられてから
九州征伐へ出発し、
そして景行が行った九州征伐地域とは、北部九州邪馬台国説の唱える狗奴国領域。

神橿日姫=台与と考えれば、
台与から権威譲渡された景行が、狗奴国勢力を掃討していった、とも考えられ、
その場合は、橿日宮などが台与の都であったと比定され、台与が伊都に張政を出迎えるのも容易であったことになるし、
後の息長帯姫が橿日宮を「継いで」使用していたことになる。

景行から受け継いだ「八咫の鏡」入りの三種の神器を持つ仲哀を、
五十迹手や熊鰐が出迎えるのもごく自然なこと。
五十迹手や熊鰐は、仲哀から授かった三種の神器を権威として、
北部九州邪馬台国領土の中枢である伊都や岡縣を任されていた配下だから。

田油津姫や羽白熊鷲の本拠は、筑後の南部。
旧狗奴国領で反抗的な態度をとっていたのだろう。
0206日本@名無史さん垢版2017/06/19(月) 23:17:50.30
神武東征に出てくるのは饒速日であって、物部ではない。
たとえ子孫であっても時代的には別物。

饒速日は天磐船に乗って九州から先に畿内(河内到着→大和)へ侵入していたし、
九州と畿内の双方に家族がいるのだから、
辺境へ行ったっきりの島流しでもない限りは、
九州から畿内へのルートは先行の饒速日が押さえていたと考えるのが自然。

武内宿禰の子孫は蘇我氏などであり、物部氏とは熾烈な争いを展開したわけであり、
武内宿禰を九州物部の祖とするのは初めて聞いた。
0207日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 00:13:28.19
>>205
神功皇后が卑弥呼より120年後の人物なんですよ。
だから2代前の景行天皇は4世紀の初めくらい。
神橿日姫は壹與の次か次くらいでしょうか?
明記されていないけれども、景行の時に三種の神器が景行の手に渡ったと考えるのは自然なことです。

ところで田油津姫については、地元では神橿日姫の末裔であると伝えられているのです。
つまりは卑弥呼、壹與、神橿日姫の後継者です。
ただし三種の神器は景行、仲哀側が保持しています。
田油津姫が滅ぼされたのは筑後でしたが、その宮は銅山として知られる香春宮でした。
つまりは神功皇后vs田油津姫の戦いは、筑紫の中での内乱なんです。
負けた方が逆賊として記録されるだけ。
0208日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 00:24:24.97
武内宿禰は気比神宮(福井県敦賀市、越前国一宮)、宇倍神社(鳥取県鳥取市、因幡国一宮)、高良大社(福岡県久留米市、筑後国一宮)を始めとする各地の神社で祀られている。

特に高良大社では、祭神の「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。
その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる。

以上、Wikiより

つまり、筑後高良に遷都した倭国の王が武内宿禰。
武内宿禰を祭るのは倭国の日本海ルートの神社。
その息子が応神天皇で、次の王朝の始祖にして、天皇家の直系の祖、宇佐八幡宮の八幡大菩薩。
0209日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 06:25:41.14
天皇家の直系の祖は継体天皇。
応神系とも血縁はあるだろうが。

継体の大和征服の過程が不明なため、よくわからないとしか言えないが、
天皇家が仏教に帰依して以後、平安時代からは、最多行幸数を誇るのが
男山八幡というところからしても、その精神的始祖を応神に求めるのは
間違ってはいないとは思うが。
0210日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 06:35:20.91
「末裔」と「後継者」は全然ちがう。

八咫の鏡:卑弥呼→壹與→神橿日姫→景行→仲哀→神功皇后

末裔だけなら、大王(女王)の子孫というだけで、いくらでもいるわけだ。

田油津姫が滅ぼされたから卑弥呼の系譜が滅ぼされたと主張するのは
ニギハヤヒが滅ぼされたからアマテラスの系譜が滅ぼされたと主張するのと
同じで的外れ。

十種神宝を保有するニギハヤヒは天神族であり、まだ格上だが、
田油津姫は三種の神器も持たないし、筑後南部だし、まったく倭国の主流ではない。
0211日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 06:58:53.42
>>210
>「末裔」と「後継者」は全然ちがう。

神橿日姫や田油津姫は卑弥呼の末裔だが、景行や仲哀は卑弥呼とは別の王統なのではないかということ。
0212日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 07:07:24.62
田油津姫は三種の神器を持たなかったが、羽白熊鷲らと実質的に筑紫を支配していたので、まだ倭国王に準じる立場であったはず。
息長垂姫らと権力を分かち合う連合国家であったものが瓦解して、応神天皇による統一国家に変貌して行ったのだろう。
0213日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 07:57:25.92
羽白熊鷲の熊は肥国王家、鷲は天津神のトーテム。白は天下しろしめすの意味。
筑紫岡田宮にいた熊鰐の鰐は豊国王家とトーテム。

景行天皇の和風諡号は忍代別大垂らし彦。オシロは天下しろしめすの意味。ワケは筑紫からの分家の意味。垂らし彦は天下を取る意味。
隋に日出処の国書を送ったのも垂らし彦。歴代天皇で垂らし彦は少なくとも七人くらいいるらしい。

筑紫には多くの宮と多くの王がいた。
これが倭国連合。
そもそも筑紫の別名がシラヒワケ。天下を治める国。
0214日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 19:07:23.21
>>212
用語が混乱している。

田油津姫と羽白熊鷲は筑後に小規模の領土を持っていたが、
筑紫を支配していたわけではない。
ましてや倭国王などではない。

同じ時代に倭国の要衝を治めていたのは、五十迹手や熊鰐。

おそらくは、景行から倭国王を引き継いだ仲哀を頂点として、
その配下の五十迹手や熊鰐(普通の三種の神器を所持)らが各地を治めていた。
0215日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 20:16:50.39
面白いな

>景行・神橿日姫・仲哀・息長帯姫・五十迹手・熊鰐
彼らは皆、伊都説の言う、北部九州邪馬台国の領土内で、
彼らは皆、北部九州王墓から出土する、三種の神器を奉じていて、八咫の鏡も扱っている。

田油津姫と羽白熊鷲など、
土蜘蛛と呼ばれて景行や息長帯姫に征伐されたのは皆、
南の狗奴国?
0216日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 20:54:55.76
>>215
違う。
狗奴国はおそらく熊本だが、羽白熊鷲も田油津姫も福岡県の人間。
前者は甘木、後者は香春。

ttp://lunabura.exblog.jp/17227057/
0218日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 21:20:22.75
だよな
ごちゃごちゃしょーもない議論をし杉
鉄器が普及していない=鉄器地域を従えていない=邪馬台国じゃない
とっくに議論終了してることさえ知らないと倭奴
0219日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 22:03:25.88
神カシ姫と田油津姫、息長垂らし姫の関係はこちら。

ttp://lunabura.exblog.jp/16637306/

田油津姫は、筑後山門を本貫地とする女王であり、卑弥呼と同様に男兄弟が補佐していました。
そして、八咫の鏡を卑弥呼から受け継いだ筑紫女王であった神夏磯姫の末裔でもあった。
三種の神器は景行天皇に取られても、国産の銅の大半を産出する香春岳という要所を支配していました。
香春から筑後までだと、福岡県の半分以上は田油津姫の領土であったことになります。

一方の神功皇后も香椎宮を拠点としており、伊都高祖宮の支持も取り付けているので、筑紫を二分する内乱があり、敗者が賊軍扱いにされただけのようです。
0220日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 23:01:12.38
もう無茶苦茶だなあ。

田油津姫が八咫の鏡どころか三種の神器を保有していた証拠がないし、
香春岳という要所を支配していた証拠も全くない。

筑後山門と香春岳がどれだけ離れているかわかっていますか?


香椎宮の神橿日姫の末裔が、筑後山門にいて、
その敵である神功皇后が、香椎宮にいる。

香椎宮の神橿日姫の末裔が、三種の神器を保有していなくて、
その敵である神功皇后が、五十迹手や熊鰐に三種の神器で歓迎されている。

神橿日姫を後継したのが神功皇后でしょう。
0221日本@名無史さん垢版2017/06/20(火) 23:18:38.14
後継というより、武力による強奪でしょう。
神橿日姫が周防まで景行天皇を出迎えたくらいだから、田油津姫が香春くらいは驚くに値しませんよ。
田油津姫の兄、夏羽がいたのが田川なのは確定みたいだし。
0222日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:32:19.90
神夏磯姫と田油津姫の関係。
神功皇后は古賀市で田油津姫を襲撃していた。
田油津姫の行動範囲は広い。

ttp://lunabura.exblog.jp/16643803/
0223日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:35:10.88
奴隷なら奴隷らしくするんだな
と言っている人がいなかった?

そのナニヤラ皇后のことを言っているんだよ
0224日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:35:49.58
実在しないと書いてあるでしょ
0225日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:38:28.02
他スレにも書いたけど、
ハッタリ(創作 英雄譚)なんてものは通用しないぞ
0226日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:50:44.30
神と人間は違うんだよ
と言っている人がいたり
0227日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:54:50.79
かなり前の話になるけど
『津々浦々』と言っている人もいた
0228日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 06:57:04.27
海神(海人)が〜と言っている人もいた
0229日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 07:11:03.15
日本の歴史観も変わるよね。女性大活躍の筑紫時代。
未だに女帝禁止とか言ってるキチガイ男性社会で、中国よりも
下の日本だもんねw
0230日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 07:54:12.37
筑紫を都とする倭国という国が数百年に渡って存在していて、複数の王家が併存していたわけで、日本の歴史観が大きく変わります。
九州は風土記も合わせると多数の女性首長がいたことが知られていて、さながら女王だらけの国でした。
そのような文化的背景の上に、卑弥呼が頂点として君臨したわけです。
それから120年後に、天津神と国津神の流れをくむ神功皇后と田油津姫という二人の女王の対決がありました。
その後は卑弥呼らを輩出した国津神である肥国王家が没落して、応神朝が成立するわけです。
0231日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 07:55:26.30
それで
0232日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 08:03:51.05
ラノベで世界は変わらない
0233日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 08:17:28.53
平原遺跡が伊都だろ? 邪馬台国は概ね久留米より南で九州北部連合の南限って書いてある。
邪馬台国が大和朝廷の統一前の地方都市で敵地との国境なら古戦場であるはずで
遺跡が残る可能性は少ないし、倭人伝の話なんだから、考古学を優先するのはマヌケ。
0234日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 08:18:36.56
ああそうか。
一大卒が伊都より北を監視しているのは、伊都より南の筑後山門や肥前は、もとから卑弥呼の本家である肥国王家の領土なので、監視する必要がないからか。
すぐ南に狗奴国があるからかと思っていたが、傍国のリストには筑後と肥前の地名が含まれているからね。
それらは監視が要らない国なんだ。
それだけに、同じ肥国王家から出た狗奴国の対応に苦慮するわけだ。
0235日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 08:20:42.51
やはり魏志の邪馬台国とは、前線にも近い筑後山門を想定していたのかな?
0236日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 08:25:54.80
一大卒が監視していたのは、対立していた天津神の対馬海峡や玄界灘沿岸の勢力かな。
すると、倭国大乱で伊都の天孫族が東奔して、その後の倭国の権威は金印とともに卑弥呼が継承したという仮説が成り立つ。
肥前河上の壹與、筑紫の神夏磯姫、筑後筑豊の田油津姫らを同じ肥国王家の末裔として括ることも可能。
0237日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 19:04:04.83
>>233
>考古学を優先するのはマヌケ

あーあ。畿無説とおんなじこと言ってるよ。

筑後説は伊都説に寄生してラノベ騙ってないで
自説のテンプレまとめてスレ立ち上げるように。
0238日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 19:22:49.13
>>237
そんな能力ないから寄生してるのに何て酷いこと言っちゃうんだ
無能な弱者は死ねと言うのか
0239日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 19:31:24.49
>>238
ワラタ
0240日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 19:56:47.94
奈良を知るものは分かると思うが、どこでも掘り放題など田舎なのである。
その点、古くから重層的に各時代が積み重なってきた九州特に北部は、そんな
ことはできないのである。する気もないし。
行政も研究者も、なんで邪馬台国九州説を利用しまくって、発掘予算ゲットしようと
しないのか?畿内説はえげつないぞw こんなとこでつつましくても無意味なのに。
なんで行政が率先して平原は〇国なんて勝手に言っちゃうんだよ。
0241日本@名無史さん垢版2017/06/21(水) 23:43:24.91
>>237
卑弥呼の出身が筑後で、都である伊都に君臨して埋葬されたんだろ。
両立できる。
0242日本@名無史さん垢版2017/06/22(木) 06:37:08.18
>>241
ほらねブレたw

卑弥呼壹與神夏磯姫> 八咫の鏡を含む三種の神器:邪馬台国

田油津姫八女津姫> 三種の神器を持たない、旧狗奴国側の末裔

八女津姫の領地は田油津姫と夏羽の間だから同族だろう
0243日本@名無史さん垢版2017/06/22(木) 07:56:10.47
田油津姫は神夏磯姫の孫だけどね。
その頃に誰が八咫の鏡を保持していたのかはどこにも史料がない。
0244日本@名無史さん垢版2017/06/22(木) 08:02:31.06
>>242
>田油津姫八女津姫> 三種の神器を持たない、旧狗奴国側の末裔

狗奴国は有明海沿岸の肥国王家姫氏だよ。
肥前河上の壹與も筑後大和の卑弥呼も同族。
0245日本@名無史さん垢版2017/06/22(木) 10:08:54.53
なんで三種の神器だよ? 神話は歴史の証明には使えんよ?
記紀が語る歴史はせいぜい数代前までの歴史だよ。
前史、消しちゃってるしw
0246日本@名無史さん垢版2017/06/22(木) 11:50:37.31
三種の神器は実際に出土するので、神話ではない。
畿内政権の前史は、筑紫における倭国の歴史のこと。
三種の神器を王権の象徴とした博多湾沿岸国家が倭国であり、卑弥呼は倭国女王。
0248日本@名無史さん垢版2017/06/27(火) 21:34:39.54
>>27
糸厨やったジャン

>青龍三年銘(235)方格規矩四神鏡
>・大田南5号墳 京都府京丹後市 丹後半島の中央
>・安満宮山古墳 大阪府高槻市安満御所 淀川沿い

九州倭国の東征経路

博多湾→宗像→出雲など東方倭種→丹後若狭湾直轄→越
 ↓                    ↓
 宇佐           淀川水系←琵琶湖→前方後方墳王国
 ↓ 
瀬戸内四国→淡路島→阿波吉備紀伊→摂津住吉
0249日本@名無史さん垢版2017/06/27(火) 23:07:54.10
鏡をたどれば筑紫を起点とした倭国の拡大も判明するのか。
0250日本@名無史さん垢版2017/06/28(水) 01:23:45.79
千数百年の時空を超えて
卑弥呼様がわざわざ示してくださっただろ

博多駅前の陥没地点

あれこそが邪馬台国の基準点
>一万二千余里

鬼道=原始神道の神通力で死者はおろか負傷者ゼロで示してくださったんだ

記紀にも倭人伝にも示された我々全ての基準点

いい加減に目を覚ませ
0251日本@名無史さん垢版2017/06/28(水) 07:21:30.45
>>250
>いい加減に目を覚ませ

いい加減に目を覚ませ @阿波
0252日本@名無史さん垢版2017/06/30(金) 05:49:09.05
鬼道と原始神道は別だろ
0253日本@名無史さん垢版2017/06/30(金) 08:18:30.49
根拠は?
0255日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 18:39:36.93
福岡の水害には深い哀悼の意を表するが、
不謹慎だが洪水というのは凄まじいものだな。

現代の治水水準をもってしても、集中豪雨に曝されると大災害となる。

弥生時代の那珂川水系に数多くの人々と数多くの工房が
上流から下流までびっしりと密集して(考古学的に証明)
木材を乱伐しまくった場合・・・。

禿げ上がった那珂川水系では、
今回ほどでなくても、通常規模の豪雨でも大規模な土石流が発生したことでしょう。

現代社会なら、日本全国が救援して復興に手を貸してくれます。

しかし・・・豪族が主導権を争う(記紀によるとはるか数百年後まで続きますね)
弥生時代では・・・。

那珂川水系を根拠に倭国を牛耳っていた須久岡本王は一夜にしてすべてを失い、
自らの権力の源泉であった那珂川水系から
逃げるように避難せざるを得なかった。
0256日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 19:02:30.21
昔から治水は統治者の課題だったな。
0257日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 19:33:24.59
卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。

筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。

肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。

考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。

九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。

邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。

その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。

邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。
0258日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 20:12:46.06
倭国(大)乱についても共通認識が必要である。

※卑弥呼は邪馬台国女王として狗奴国と戦っている。

もし狗奴国が倭国外の国、あるいは倭国の辺縁の国であれば、
倭国王がそのまま倭国王として、堂々と狗奴国を討伐すればいいだけの話である。

狗奴国が倭国王の系列にある国であるからこそ、
倭国を分割して狗奴国を立ち上げられると、
倭国王をうかつに称することができなくなり、
邪馬台国を樹立して、遠回りで倭国王の地位を手に入れなければならなくなるわけである。

※卑弥呼は結局、倭国王の称号を得ている。

例えば、狗奴国が倭国外の強大な敵であり(考古学的に存在しないが)
その狗奴国と戦うために、倭国が国内改革をして邪馬台国として生まれ変わった、
ということであれば、
新生した邪馬台国のままで続けるはずである。

それなのに卑弥呼が倭国王となる、ということは、
倭国大乱とは、邪馬台国と狗奴国による、倭国王争奪戦だった、ということである。


かように、邪馬台国女王卑弥呼のみならず、狗奴国王もまた、
筑紫王権の血をひくものであり、
すなわち吉武高木〜須久岡本〜三雲南小路→井原鑓溝
のいずれかの血を引いているわけである。
0259日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 20:14:31.19
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓は甕棺墓、
倭国大乱をはさんで方形周溝墓の平原女王墓となる
連続どころか断絶しているとしかみえないんだが
0260日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 20:43:07.81
三雲南小路も井原鑓溝も甕棺墓
平原遺跡は割竹形木棺墓である。

井原鑓溝は不明だが、三雲南小路は方形周溝墓
平原遺跡も方形周溝墓である。

陳寿は各地の墓制にこだわった。
これは日本のみならず、3世紀東アジア全域において
墓制というものが、部族風習を代表するものだったからであろう。

では、平原遺跡=方墳+木棺墓の被葬者である卑弥呼とは、
どこの出身だったのか?

当然のことながら、甕棺墓分布地域=奴国〜筑後〜肥前は消える。
南の狗奴国と戦ったのだから、その更に南の肥後も消える。

瀬戸内〜畿内へ進出した饒速日領土は明らかに邪馬台国と敵対している。
鉄欠乏症で、
砂鉄からの製鉄を試みたり(失敗)
領内の鉄器を全てかき集めて武器に転用したり(3世紀に鉄器皆無)
考古学的に明らかである。

同じ筑紫王家出身の狗奴国と対峙した邪馬台国。

倭国大乱初期に討ち取られた伊都国甕棺墓王の代わりに共立された
木棺墓女王の出自とは?
0261日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 21:12:04.25
須久岡本王が洪水で失脚して、
大災害に見舞われた奴国倭国を復興するために、
遠賀川流域を領有する豪族が倭国王を輩出した。(>>122-123

その子孫が三雲南小路など甕棺墓なのだから、遠賀川流域を領有していた豪族は甕棺墓族。
卑弥呼は豊国出身でもない。


倭国大乱の火種はいくつかある。
伊都建設ニニギと東方開拓ニギハヤヒは共通の倭国危機を前にして、
史上稀にみる仲の良い兄弟だったであろうが(>>116
その次の世代、いとこ同士となると、特に鉄材入手ルートを巡って係争が生じる。

さらにその次の世代となると、旨味の少ない宮崎〜高知ルートを開拓することとなり、
ただでさえ不満が生じる。(>>118

そして倭国大乱の一番の要因は、行政改革であろう。(>>7

時代は進んでいく。
朝鮮半島でも、東方のニギハヤヒや、はるか前方後方墳国も、次第には強大になっていく。

時代の流れに取り残されないために、
それまでの豪族の合議制から、倭国王を中心とした任官制へ、
中国の制度を取り入れようとしたところ、
特にこれまで利権を有していた甕棺墓族の反発を呼んだのだろう。
0262日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 21:41:46.85
>三雲南小路も井原鑓溝も甕棺墓
>平原遺跡は割竹形木棺墓である。

>井原鑓溝は不明だが、三雲南小路は方形周溝墓
>平原遺跡も方形周溝墓である。


何を言ってんのw
0263日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 21:43:29.03
結論から言うと、丹後の太田南古墳群が卑弥呼の実家である。

吉武高木:方墳、木棺墓
太田南古墳群1号墳:方墳、木棺墓
平原遺跡1号墓:方墳、木棺墓

木棺墓の吉武高木王が、甕棺墓族を従えて、日本海沿岸を制圧して、三種の神器を確立した。
>>96>>98>>105

水軍を保有するには、湾が必要。湾がなければ嵐のたびに水軍が全滅してしまう。

丹後若狭湾は、現代の海上自衛隊まで続く、日本海沿岸の要衝。
富山湾は能登半島を迂回しなければならないため不便。

北部九州倭国は、博多湾と若狭湾を領有することによって、日本海沿岸を制圧したわけである。
丹後若狭湾は、紀元前の吉武高木王からずっと、倭国の要衝。
その丹後に、一大率若狭湾基地の丹後司令官として赴任していたのが、卑弥呼の父。

太田南古墳群1号墳の被葬者に他ならない。


那珂川洪水の危機に、伊都甕棺墓ニニギを救ったのは、実家遠賀川流域の経済力。
倭国大乱の危機に、伊都木棺墓卑弥呼を救ったのは、実家丹後若狭湾の海軍力。
0264日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 22:06:05.96
太田南古墳群1号墳の被葬者は、一大率若狭湾基地の水軍を統率する丹後司令官。
由緒正しい方墳+木棺墓=吉武高木王の系譜である。

>>29
邪馬台国卑弥呼が設置した四隅突出(方墳亜型)は富山までしか分布しない。
なぜなら、上越市関川から遡上して柳沢遺跡タケミナカタへ攻め込んだ
ニギハヤヒ銅戈軍が、上越市より北に駐屯して反邪馬台国だったからである。
(だから越後は金属欠乏症で、土製銅戈で祭祀を行ったりしている)

よって、卑弥呼平原遺跡には翡翠が無い。

卑弥呼の父であり、卑弥呼より先に亡くなった太田南古墳群1号墳にも
同じく翡翠が無い。
日本海要衝の丹後若狭湾の長官であるにも関わらずである。

逆に、中国由来のガラス製装飾品や、朝鮮半島経由でしか入手できない鉄剣は大量にある。

以上は私説ではない。
考古学がはっきりと示している結果である。
0265日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 22:21:32.91
>>259
甕棺ありの方形周溝墓
0266日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 22:24:45.57
>>261
妄想が多過ぎる。
0267日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 22:25:48.52
>>262
間違いがあると思うなら訂正しろよ。
0268日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 22:39:57.53
卑弥呼の実家は太田南古墳群。
卑弥呼の父親は、太田南古墳群1号墳の被葬者であり、
吉武高木王の系譜にある木棺墓族。

邪馬台国女王に共立された卑弥呼であるから、父親が木棺墓王であれば、
せめて母親は甕棺墓族でなければ甕棺墓族の支持を得られないわけで、
卑弥呼の母親は、三雲南小路〜井原鑓溝の王統の女性であろう。

倭国の豪族貴族は、子弟を伊都に住まわせて、高度な学問や、上流社交界に触れさせた。
そして邪馬台国女王に共立されたからには、
卑弥呼はその血統と共に、その能力を認められていたわけであり、
つまりは伊都国王=井原鑓溝王の王宮で働いていた婢=未婚のキャリアウーマンなわけである。

ということは、丹後には申し訳ないが、
卑弥呼は伊都生まれで、伊都から一歩も外に出たことが無かった可能性の方が高い。

甕棺墓族に馬鹿にされないよう一生懸命勉強し、
丹後からたまに伊都へやってくる父親と会うのを楽しみにする女の子だったのだろう。


卑弥呼とは、
井原鑓溝王の下で、中国の文献を解読しながら、
行政改革(>>7)の草案作成を主導していた
カリスマのあるキャリアウーマン。

古代において、祭祀と政治は表裏一体。
卑弥呼が鬼道=原始神道祭祀を司っていたということからも、
井原鑓溝王に全面的に信頼された有能な女性官吏であったことがわかる。

それが卑弥呼の前半生であり、
そんな卑弥呼の人生を大きく狂わせたのが倭国大乱。
0269日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:15:37.93
井原鑓溝王に信頼され、行政機構を刷新する準備に邁進する。若き卑弥呼の充実した日々。
この改革が成功すれば、倭国は世界に冠たる先進国の仲間入りだ。

そんなある日。
政治行事のために、伊都から奴国へ出張した井原鑓溝王とその長男。
いつもと変わらないお見送りをしたキャリアウーマンの卑弥呼。

その翌日。急報が届き、井原鑓溝王とその長男が遭難したことが判明する。

行政改革に反対する甕棺墓族の王族が、狗奴国王を名乗り、奴国を制圧。
海沿いに伊都国へと攻め込んでくる。
地の利のある堅牢な伊都国。
ではあるが、準備万端で攻め込んできた狗奴国勢に押されて、高祖宮へと追いつめられる。
いずれもエリート揃いの精悍な伊都国近衛兵達は、矛で、あるいは鉄鏃の弓で、必死に防戦するが、
一人、また一人と命を失っていく。

高祖宮の一番奥で、井原鑓溝王と共に作り上げた木簡竹簡と共に息をひそめる卑弥呼とその部下の女性、護衛兵たち。
狗奴国兵の怒声が近づき、覚悟を決めたその時。東から軍船の集団が。

不意を突かれた狗奴国の軍船を悠々と沈めると、
ちょっと田舎臭いが屈強な兵達が続々と上陸し、素早く陣形を整える。
大地が震えるほどの鬨の声を上げて矛を並べて狗奴国軍へと突撃を開始した。

突如現れた大軍に乱れる狗奴国軍。
それを見て、乾坤一擲のチャンスとばかりに、高祖宮から突撃する伊都近衛兵達。
挟撃された狗奴国軍は壊滅し、高祖宮からその様子を見届けた卑弥呼は感謝の祈りを捧げる。

高祖宮の前に整列する援軍兵。その奥から現れた将軍は。
卑弥呼の父。若狭湾水軍の丹後司令官であった。

あくまでも援軍将軍として、留守居役の卑弥呼に倭国王遭難のお悔やみを申し上げる父。
留守居役として返礼を返す卑弥呼だが、さすがに涙をこらえることはできなかった。
0270日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:20:38.65
妄想はいい。
0271日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:27:15.55
>>264
妄想が多過ぎる。
0272日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:44:37.94
>>264
まず、妄想を削って考古学的事実を整理してほしいね
面白い内容だとは思うのだが、今一つわかりづらい
0273日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:47:21.10
191年 董卓による洛陽炎上
220年 曹丕が洛陽へ遷都

内行花文鏡は、日本で独自発達して、大型内行花文鏡となり、
日本独自の権威の象徴となった。

井原鑓溝までの王は、漢の威光を利用していたが、
平原女王は、滅亡した漢や新参の魏には頼らず、自ら権威を発揚した。

だから、大型内行花文鏡というのは「公の鏡」

倭国王の権威を示す鏡だから、
女王卑弥呼といえどもみだりに知人に配ることはできないし、
副葬する時は、盗掘されて悪用されないように破鏡にする必要がある。

盗掘されて、数十年後に、「ほら、この鏡を見て。僕は卑弥呼様の5世孫」
とか詐称されたら困るから。


一方の方格規矩四神鏡は、復興した洛陽で生産再開された復古鏡。
ブランクが長いから造りが雑。
卑弥呼に送られた銅鏡百枚はこれ。他には無かった。

魏のほうも一応記録はしたけど、どうにでもしてくれと贈っただけ。

卑弥呼の方も、新参の魏、しかも三国争乱中(現実に265滅亡)だから、
魏に何かを期待しているわけではなく、
九州説の誰かが言ってたように、銅鏡の何枚かは鋳潰して大型内行花文鏡の原料にしたかもしれない。

要するに、魏から贈られた百枚の方格規矩四神鏡というのは、「私の鏡」であって、
なにをどうしようが誰も気にとめない。
0274日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:55:16.22
【方墳+木棺墓】
吉武高木
太田南古墳群(1号墳、5号墳など多数)
平原遺跡

【方墳+石棺墓】
祇園山古墳
安満宮山古墳


これらは全て同族の墓。

青龍三年銘の方格規矩四神鏡は2枚とも「方墳」に副葬されている。

青龍三年銘の方格規矩四神鏡とは
卑弥呼が身内に贈った「私の鏡」が副葬されたもの。
0275日本@名無史さん垢版2017/07/18(火) 23:58:32.03
円形周溝墓・銅戈=ニギハヤヒ
唐古鍵の翡翠・銅戈兵絵画=ニギハヤヒとナガスネヒコが婚姻同盟
柳沢遺跡銅戈=ニギハヤヒ兵が越後侵攻

その結果、越後と畿内=ニギハヤヒ

ニギハヤヒ(畿内越後瀬戸内海)は邪馬台国(博多湾鉄器)と敵対してしまった

畿内越後阿波は鉄器欠乏
邪馬台国は翡翠欠乏
0276日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:06:29.85
卑弥呼は狗奴国王と敵対
次の男王も狗奴国王と敵対

台与で狗奴国と和解

卑弥呼と次の男王=父親が木棺墓族

台与=父親が甕棺墓族

だから平原は台与ではない。
台与は木棺墓以外。
倭国大乱時の行政改革(>>7)に伴って、甕棺墓は消滅したから、
木棺墓以外なら甕棺墓だろうが石棺墓だろうがなんでもいい。
0277日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:07:56.35
日本海と瀬戸内海は別ですよ。
ニギハヤヒの一族の墓が前方後円墳だという話もありますね。
邪馬台国卑弥呼は、国内の翡翠よりも、中国のガラスの方が気に入っていただけですよ。
博多から越までは一つの文化圏だし。
0278日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:11:40.04
卑弥呼の死去に伴い、かねてから王を自称していた狗奴国王が倭国の実権を握ったけれど、それに従わない者も多く、また戦となった。
それを収めることができたのは、狗奴国と邪馬台国の両方の縁者である壹與の共立しかなかっただろう。
0279日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:13:54.64
>>277
考古学データを直視しましょうね。

北部九州と大阪湾に局在するはずの銅戈が
長野の柳沢遺跡に出土しています。

私はそれを説明することに成功しました。

あなたは何もしていませんね。
0280日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:14:18.78
卑弥呼の実家は太田南古墳群。
籠神社の伝世鏡や、系図、稲部遺跡、継体天皇の謎などもリンクしている。

ぜーんぶ、紀元前からの、「女王国東 渡海千余里 復有国皆倭種」
博多湾→日本海沿岸→丹後若狭湾→琵琶湖→淀川水系
0281日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:18:46.96
ニギハヤヒが越に信仰なんて、どっからそんな話が湧いて出るんだ。
0283日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:23:22.04
魏志倭人伝なのだから、登場する国は全て、陳寿の断りが無ければ倭人倭種の国。

>女王国東 渡海千余里 復有国皆倭種
関門海峡を渡って東の、日本海沿岸
<吉武高木王の功績>

>又有 朱儒国 在其南 人長三四尺 去女王四千余里
紀伊スクナヒコナあるいは紀伊+淡路島+阿波
<須久岡本王の功績>

>黒歯国
考古学的に、お歯黒が出土した大阪湾
<饒速日の功績>

>裸国
田村遺跡など土佐
<海幸彦の功績>

全部筑紫王家=倭国王家との関わりで説明できますね。
0284日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:27:17.17
>>274
青龍三年銘の方格規矩四神鏡

卑弥呼:平原遺跡1号墓:方墳+木棺墓

実家の甥っ子:太田南古墳5号墳:方墳+木棺墓
(お父さん:太田南古墳1号墳:方墳+木棺墓 の存命中には間に合わなかった!)

墓制改革後の親類:安満宮山古墳:方墳+石棺墓
0285日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 00:56:10.24
【公の鏡=内行花文鏡】

内行花文鏡、特に大型内行花文鏡の流れは、
卑弥呼邪馬台国の国命を受けたことを示す。
破鏡

【私の鏡=方格規矩四神鏡】
方格規矩四神鏡、特に青龍三年銘の方格規矩四神鏡の流れは、
卑弥呼個人の血縁関係にあることを示す。
完鏡


数十年に渡って女王を務めた卑弥呼だから、
公私の区別はきっちりつけていたわけですな。

公私混同するような上司には部下がついていかないでしょう。
0286日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 08:21:58.12
鏡の種類別に最新の出土数の棒グラフ日本地図がほしい所だね

糸島の副葬を見ると、内行花文鏡と方格規矩鏡にこだわりが感じられる
そのうち、内行花文鏡は独自発展をしており、古墳時代も大型内行花文鏡はかなり丁重に副葬されている
大事なのは蝙蝠鈕座は大型発展において受け入れられていない
0287日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 11:35:20.65
糸クズか絡まって、ほどけそうもない糸厨
0288日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 12:40:48.95
このスレって糸クズ以外誰かいるの?
0289日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 13:10:32.11
畿内厨はバカだから罵倒しかできない
0290日本@名無史さん垢版2017/07/19(水) 15:11:12.09
糸くずはバカだから魏志倭人伝が読めない
0291日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 00:09:40.92
>>289
ブーメラン?
0292日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 00:10:57.91
大型発展は平原遺跡のこと?
蝙蝠鈕座じゃないの?
0293日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 00:14:05.48
>>283
吉武高木と須玖岡本を入れ替えても成り立ってしまうけどなあ〜。
あと、ニギハヤヒは日本海ルートだから、大阪に行くかどうかは微妙。
0294日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 00:14:40.27
>>290
これがブーメラン。
0295日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 01:00:20.20
>>292
大型鏡の平原も柳本も下池山も蝙蝠ではない

平原周辺では、近くの井原や潤地頭給では普通大の蝙蝠鈕座内行花文鏡(輪がある)が出土してるけどね
0296日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 01:41:33.87
吉武高木から平原まで判明している王墓は全て方墳だろ
三種の神器がずっと受け継がれてるわけだろ
王墓の基本的形式はずっと一つの系譜が受け継がれている

須玖岡本から三雲南小路へ遷都したのに甕棺墓が受け継がれただろ
同じ伊都なのに井原鑓溝から平原へは甕棺から木棺に変化している
でもって、甕棺墓が消失して、おおむね石棺墓へと移行していく

おそらく、王統としてはずっと維持されていて、
社会制度の変革時にちょっとずつマイナーチェンジがなされたのだろうな
0297日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 01:46:22.21
>>7のような制度改革を主導したわけだから、
女王卑弥呼や王統の父親は率先して甕棺墓から木棺墓へと
変革を主導する必要があるよな

そして次の男王が石棺墓へと移行し、

狗奴国と共に共立された台与がようやく倭国大乱を収束させ、
各地の墓制を取り入れて、
台与が最終的には前方後円墳を完成させた

こんなところか?
0298日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 01:56:17.78
前方後円墳も後には作られなくなるからなあ

万世一系ですかそうですか
0299日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 08:27:45.38
>>296
イザナギの末裔のうち、大山祇から天孫系へというような、王統の変遷はあっただろうね。
卑弥呼の末裔が現在まで連続しているとは思えず、どこかで消滅して記紀に名前が載らなかったのだろう。
0300日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 18:28:29.73
>>293
大規模鉄器工房を100年単位で維持したということは、
北部九州経由で鉄原料を安定供給したということを示しており、
北部九州から大規模鉄器工房までのエリアは全て同一政権によって治安が保たれていたということであり、
それを仕切っていたのは考古学的には北部九州の王であった、ということになります。

丹後扇谷が紀元前で、淡路島が紀元後の順番ですから、
丹後扇谷を経営→日本海沿岸を統一したのは吉武高木王
淡路島を経営→須久岡本王かそれ以降の筑紫王
ということになります。
0301日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 18:39:02.72
>>300
了解しました。
瀬戸内海もすでに筑紫倭国の支配下にあったのですね。
0302日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 20:06:16.73
>>301
この点について了解していただけると、銅戈についても説明しやすいです。

鉄器倭国は木材を求めて東方へと侵攻を続けたわけですよね。
鉄器を作るには青銅器よりも遥かに大量の木材が必要ですから。
倭人の住む領域より東に侵攻して、森林を奪って鉄器生産します。

ここで大事なのが、東方は完全に未開なのではなく、
考古学的に、弥生開始後またたく間に稲作が普及していたことが確定している点です。

つまり、倭人が東方へ侵攻した場合、
これは自ら開拓しに行くわけではなく、
鉄器は無いけれども稲作は行っている地域を新支配者として治めに行くことになります。

だから北部九州倭人は土器を持って行く必要などなく、
征服地からの献上品を入れた土器が博多湾へ流入する、という流れになるわけですね。

征服当初は奪うだけでいいのですが、時間が経つとどうでしょうか。

倭人支配者が東方新領土へ赴任する。
→木材伐採もするが、自分の貴重な属領なのだから開発もする
→東方新領土へ鉄器が普及する
→倭人支配者にとっては北部九州と同じく重要な領土となる
→木材供出をするどころか、逆に鉄器の割り当てを要求する場合すら生じるようになる

扇谷遺跡が100年ほどで終了しているのは、
日本海沿岸に散らばった倭人領主たちが、日本海沿岸の領地を、
木材乱伐、年貢徴収で搾り取ってボロボロにするのではなく、
むしろ森林管理、治水や開墾を奨励して、重要な自領として維持し始めたからでしょう。
0303日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 20:12:33.27
吉武高木王が日本海沿岸を統一した

ということは、須久岡本王が王位に就いたときには、
北部九州〜日本海沿岸は倭人のホームであって、森林乱伐はできない地域となっています。

よって、須久岡本王(中広形銅矛)は、新たな木材供給源を求めて、
瀬戸内海沿岸へと進出せざるを得なくなります。
中広形銅矛が北部九州から行きやすい日本海沿岸に広がらず、
瀬戸内海沿岸へと分布しているのはこのためですね。

そして次の時代である銅戈将軍が登場した時には、
北部九州〜日本海沿岸〜淡路島までの瀬戸内海
が倭人のホームとなっています。

となると、銅戈将軍は、更なる木材供給地を求めて、
淡路島より先
つまり、鉄器が普及しておらず、森林が豊富に存在する畿内を制圧せざるを得なくなります。
0304日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 20:24:32.41
>>96>>98のように、
吉武高木が高天ヶ原
木棺墓王が高御産巣日神や神産巣日神
甕棺墓戦士群がスサノヲ
と考えられます。

となると、須久岡本王をオオクニヌシに比定してみます。

須久岡本王がオオクニヌシで、洪水で失脚したとしたら、
越後にタケミナカタが残ります。
諏訪神社の分布や、考古学的な土器の流れから、
富山〜上越〜長野〜新潟辺りがタケミナカタの領地でしょう。

となると、銅戈将軍が登場した時の、
倭国の支配域は、
北部九州〜日本海沿岸は福井まで〜瀬戸内海は淡路島(とたぶん紀伊)まで
ということになります。
0305日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 20:33:05.07
>>116のように、銅戈将軍の最優先課題、
というより、倭国にとっての最重要課題が、木材の新たな供給源の確保であり、
鉄器が普及してなくて森林が豊かな当時の畿内を征服することは
北部九州倭国にとっても死活問題だったわけです。

よって、銅戈将軍の登場後は当分のあいだ、大阪湾上陸作戦を続けます。

ここで面白いのは、銅戈が北部九州と大阪湾の両端でしか出土していないことです。
これはつまり、銅戈将軍は北部九州で軍勢を整えて出陣し、
途中の吉備や淡路島、阿波は、単なる前線の補給基地に過ぎなかった、ということですね。

倭国の命運がかかった戦いですから、
銅戈将軍はなりふり構わず、非倭人である、内陸銅鐸集落の唐古鍵の首長と婚姻を結び、
沿岸銅鐸集落を挟撃して、ついに大阪湾住吉上陸を果たします。

白肩津に要塞を建設し、大阪湾沿岸に高地性集落を設置し、
畿内侵入の橋頭保を築いてから、
漸く銅戈将軍のタケミナカタ制圧が始まるわけです。
0306日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 20:40:16.65
銅戈将軍登場時の倭国の最重要課題は、畿内征服でしたから、
日本海のタケミナカタに対しては、当初は必要最小限の兵力しか投入されなかった。

その名残りが福井県鯖江市の弁財天の環濠であり、
タケミナカタと対峙する倭国側の防衛山城でしょう。

銅戈将軍が倭国の総力を挙げて畿内攻略をしている間、
弁財天古墳群の隊長たちはタケミナカタ相手に必死に防戦していた。

そして大阪湾上陸を果たした銅戈将軍が、
ようやく日本海側にやってくるわけです。

倭国主力の銅戈部隊ですから、特に鉄器の差によって、
タケミナカタをあっけなく打ち破り、柳沢遺跡で降伏させた。

以後は上越などの土器は西からの影響が濃くなりますね。
0307日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 20:42:13.20
長くなりましたが、
銅戈将軍が登場した時には、
北部九州〜日本海沿岸〜瀬戸内海は、倭国の支配下にあり、
銅戈将軍にとっては自在に行き来できる自国領だったわけです。

畿内攻略の前半は、瀬戸内海を行き来。
タケミナカタ攻略の後半は、日本海沿岸を行き来。

銅戈将軍の名残りが広範に残っているのはこういうわけですね。
0308日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 21:12:21.77
高地性集落の用途については
@宇佐基地と大阪湾前線を狼煙で結ぶ中継所
A倭国水軍の征服によって内陸へ追われた先住民に対する防衛施設
B瀬戸内海航路を保安する警備所、灯台
などが考えられるが、

高地性集落の正式な役割は、森林管理員の駐在所である。

現代日本にとって石油を安定入手することが最重要課題であるのと同様に、
大量の木材を安定入手することが倭国の至上命題であり、
そのために山の中に住んで、植林や伐採など森林管理をしていたのが
高地性集落の駐在員たちである。

つまりはオオヤマツミ一族。
0309日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 21:15:53.08
日本海沿岸では森林管理に一度失敗したのだろう。
その教訓から生み出されたのが、森林に直接住んで管理する高地性集落。

須久岡本王や銅戈の東征に伴って、高地性集落は瀬戸内海沿岸を東進していく。

銅戈が大阪湾上陸すると、高地性集落も畿内上陸。

注目すべきは越後で、
タケミナカタが頑張っている間はもちろん、
倭国大乱で取り残された銅戈部隊が邪馬台国と戦っている間も
高地性集落は登場しない。

倭国大乱が収まり、
邪馬台国系の倭国が越後を接収した途端に、
越後に高地性集落が作られて木材供出地にされてしまう。
0310日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 21:18:37.33
本国である北部九州倭国の森林は
もう絶対に乱伐しないから、専門家集団の高地性集落は必要ない。
基本は東方からの木材搬入で賄ったのだろう。

北部九州倭国本国の森林は国が普通に管理して、
生活燃料や住居建設、道具作成に必要最小限の伐採しかしなかったのだろう。
0311日本@名無史さん垢版2017/07/20(木) 21:33:45.16
倭国直営の大規模鉄器工房であった、
丹後扇谷遺跡(吉武高木王、紀元前2〜1世紀)
淡路島五斗長垣内遺跡(須久岡本王、紀元1世紀)
淡路島舟木遺跡(銅戈将軍、紀元1〜2世紀)
だが、
扇谷→五斗長垣内の間が微妙にあいている。

鉄器国家が鉄器工房を持たない期間はありえないことから、
紀元0年前後に数十年から百年ほど存在した
もう一つの大規模鉄器工房がどこかに必ず存在するはずである。

それはおそらく、扇谷→五斗長垣内の中間地点であり、
それはおそらく、オオヤマツミ本部のあった大三島から見つかるのだろう。
0312日本@名無史さん垢版2017/07/21(金) 19:49:13.77
安満宮山古墳は平原1号墓と同じ、方墳+割竹形木棺。
木棺形式まで一緒なのだから、
被葬者は卑弥呼の弟か甥で、青龍三年鏡は卑弥呼から直接貰ったのだろう。

鉄剣が出土していることから、
彼もまた、卑弥呼父(太田南古墳1号墳)と同じく邪馬台国若狭湾水軍に所属し、
大隊長クラスだったのだろう。

同時に鉄斧や鉄鑿、鉄鎌が出土している。
安満宮山古墳の被葬者も高地性集落=森林管理=木材の安定調達と関連していたわけだ。

3世紀を生きた彼の任務とは、
@越後で孤立しながらも抵抗する旧銅戈勢の平定
A琵琶湖〜淀川水系の支配強化
B上記@Aに設置した高地性集落からの木材を稲部遺跡へ搬入して、鉄器工房を稼働させる

狗奴国との争いによって淡路島舟木遺跡が使えなくなったため、
邪馬台国にとっては、邪馬台国専用の鉄器工房の建設が急務だったわけである。

鉄器+木材の運用という観点から分析すれば、
各地がバラバラに県や市単位で動いていたのではなく、
伊都女王を中心として、
広域国家を長期的視点で運営していたことが明らかである。
0313日本@名無史さん垢版2017/07/22(土) 11:31:30.08
古代糸魚川住民(能登半島より東北の沿岸部)の視点

縄文時代:翡翠で交易して裕福に暮らしていた

弥生時代早期:西方から石剣の稲作集団がやってきて要所を奪われた
(九頭竜川ヤマタノオロチ勢力の支配下)

紀元前3世紀:西方から鉄剣を持つ軍勢が攻めてきて征服された
(吉武高木王の支配下)

紀元前1世紀:ヌナカワヒメが須玖岡本王に嫁いで、タケミナカタが領主となった
(須玖岡本王の支配下)

紀元1世紀:須玖岡本王が失脚して伊都国王の時代になり、タケミナカタが逆らった
(須玖岡本王系タケミナカタの支配下、倭国と敵対)

紀元2世紀前半:倭国銅戈兵が攻めてきて征服された
(銅戈将軍の支配下)

紀元2世紀後半:銅戈将軍末裔が狗奴国側についた
(銅戈将軍末裔の支配下、邪馬台国と敵対)

紀元3世紀前半:邪馬台国若狭湾水軍が攻めてきて征服された
(邪馬台国の支配下)

高地性集落をたくさん建設されて、しばらくは木材供給地にされた
0314日本@名無史さん垢版2017/07/26(水) 19:34:59.36
倭人が支配した新羅『新羅本紀』
紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵
紀元前20年
瓠公という倭人、瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
諸王に仕えた重臣で。金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。
新羅の3王統の始祖の全てに関わり新羅を建国した倭人である。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠で同一人物。 
後に倭人の四代目新羅王、脱解尼師今が新羅に着いた時に瓠公の家を継いだ。
この瓠公の屋敷が歴代新羅王の王城である月城。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)のうちの昔氏始祖。
朴氏初代の朴赫居世朴氏=瓠公は倭人であり。
金氏始祖の金閼智(第13代味鄒尼師今の7世祖)説話では、
鶏の鳴き声を聞いたので瓠公が調べると、金色の小箱なかから小さな男の子が現れた。
金の小箱に入っていたので「金」を姓とした。
新羅の王族3姓(朴・昔・金)の起源は倭人であり倭人が支配した。
0315日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 20:32:24.16
>>76
狗邪韓國→対馬、対馬→壱岐、壱岐→末盧國が全て千里なのだから、
末盧國の上陸地点とは、呼子そのものではなく、
「壱岐→呼子→東松浦半島→唐津湾入港」のルートを、
「狗邪韓國→対馬」や「対馬→壱岐」と同じくらいの(航海時間的)距離だけ進んだ地点。

大陸人で船旅に慣れていない魏使は
半島の沿岸南行はなんとか耐えれたが
外海である対馬海峡の渡海ではひどい船酔いに悩まされ、
伊都より手前の唐津湾に上陸。
(唐津が伊都に通じる道の最西端で、そこより先の東松浦半島には船便しかなかったのだろう)

船酔いでグロッキーの魏使は輿に載せられて、末盧國(唐津)から伊都(三雲南小路)まで運ばれた。

以上を支持する唐津の遺跡として、
漢と交流が活発だった時代に、宇木汲田や桜馬場などの高官が存在した証拠遺跡が見つかっており、

漢使達も同じく対馬海峡で船酔いして、唐津で転げ落ちるように砂浜に上陸し、
宇木汲田や桜馬場で休息してから、
あるいはそのまま輿に載せられて、大使館のある伊都三雲南小路(楽浪土器)へと向かった。

後漢が滅亡し、倭国大乱が勃発し、中国との交渉が疎遠になると、
唐津には桜馬場を後継する存在がいなくなることからも、
唐津が漢使の上陸地点として栄えたことが分かる。

船に慣れた倭人は当然唐津〜伊都は船で行き来していた。

魏使は100年ぶりの大陸からの使者来訪だったので、
唐津→伊都の漢使用だった道は100年ほど誰も使っておらず、藪ぼうぼうに荒れていたわけだ。
0316日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 20:41:22.29
桜馬場遺跡に近い、同じく唐津で
紀元前に鉄器を使っていた菜畑遺跡なども同様に海外からの玄関口であったわけだ。

三雲南小路遺跡〜桜馬場遺跡を道なりに測定してみると、
約35km。

倭人伝には上陸してからの末盧國→伊都が五百里と示されている。
70m×500=35000m=35km

文献と考古学が見事に一致している。
0317日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 20:50:12.49
魏志には伊都国は郡使の常駐するところとあり、
魏使は初めて来倭したわけだから、公孫氏の使節のことだろう
0318日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 20:59:11.88
>>317
魏志倭人伝は後から書いているから、初回以降の帯方郡からの使いも伊都に滞在したということ。
公孫氏の頃は、倭人の方から出かけていたのだろう。
0319日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 21:16:07.61
金印が確かに委奴国王に渡されたか確認報告しなければならないので
贈物と一緒に来日した魏使と同じく
金印と一緒に漢使も来日したことは確定事項。
0321日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 22:28:52.99
>>320
何説かは知らないけど、嘘つきはやめてほしいな。
常駐などどこにも記されていない。

倭人伝に記されているのは『郡使往来 常所駐』
所常駐=常駐する場所ではなく、
往来常所駐=来日した際には必ず滞在する場所
である。
0322日本@名無史さん垢版2017/08/21(月) 22:36:53.11
文章構成の基本も知らないのか?

魏志倭人伝は、魏使が博多湾邪馬台国を訪れた時の記録書。
魏代以外の情報を記す時には必ず断りが入る。

>旧百余國 漢時有朝見者(旧や漢時と繰り返し断りを入れている
>其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國乱相攻伐歴年
(本や年数や歴年と繰り返し断りを入れている

よって、何の断りもない『郡使往来 常所駐』 とは魏代のことである。

また、仮に前時代のことだとしても、
倭人伝に記載された時代軸は、漢代(漢時)→魏代のみであるのだから、
漢使のことを示すことになる。

公孫氏などは倭人伝の文脈において一度も登場しておらず、
そのようなものを持ち出すのは
結果ありきのトンデモ訳に過ぎない。
0323日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 09:44:02.43
微妙なんだよね
滅亡と倭の遣使が同年ってところが

流れとしては、公孫氏独立後極東諸国の対中国交流の断絶は、
それら諸国にとって困ったことだったことは伺える
しかも公孫は呉と結び、呉は琉球へ奴隷狩りに来ていた
勿論領土拡大も意図されていただろうから、倭や韓も想定していたはず
だから、滅亡後速攻で遣使する必要性はわかるが、それにしても早いw
0324九州王垢版2017/08/22(火) 13:41:42.40
「郡使往來常所駐」
この郡とは帯方郡のこと
郡使とは帯方郡からの使者
帯方郡は公孫康が建安9年(204年)に創設
景初二年(238年)に魏が占領
同年に卑弥呼が難升米を帯方郡に派遣し魏に服属
正始元年(240年)に郡から梯儁を倭に派遣
正始八年(248年)に郡から張政を倭に派遣

郡使の派遣は魏からは梯儁と張政の2回
それ以前の派遣は公孫氏からだけですね
後漢末に東夷を支配していたのは公孫氏ですから。

 
0325日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 18:58:17.55
今さら議論する問題じゃなくって、
固定座標が決まっているから、結果も最初から決まっているでしょ。

対馬・壱岐は固定
伊都の三雲南小路遺跡も考古学的に固定

壱岐から千里という条件と
三雲南小路から五百里という条件
これも固定

地図を見たら、唐津を直角点とした、
壱岐・三雲・唐津を頂点とする、辺が2対1の直角三角形なわけで、
その固定条件を満たす場所は、唐津になる。

なんのことはない、単純明快な解答だよ。


漢と伊都の交流が密だったことは三雲の楽浪土器や硯が証明しているのだから、
三雲南小路や井原鑓溝の縮小版王墓である
宇木汲田や桜馬場の被葬者は、
漢代における唐津国際港の長官だったわけだ。

東アジアが動乱期に入ると唐津長官がいなくなるということは、
公孫氏との交流も
魏との交流も
晋との交流も
「漢代に比べると」疎だったことも考古学的にわかる。
0326日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:08:31.90
唐津湾で一旦陸揚げする意味も、北部九州説ならわかるよね。

海外からの船をそのまま首都の喉元に横付けさせるのは危険。
大量の兵員や武器を隠し持ってそのまま伊都に上陸する危険性がある。

もちろん壱岐でもチェックしただろうけど、
まずは唐津でストップして上陸させて、脅威が無いか確認して陸行させたのだろうね。
陸行なら重装備の武器は持ち込めないから。

>>315
>漢使達も同じく対馬海峡で船酔いして、唐津で転げ落ちるように砂浜に上陸し、

砂浜ではないだろうね。
壱岐に船着き場跡が出土しているから、船着き場がちゃんとあっただろう。
海岸線が海側へ大きく移動したから見つかっていないだけで。
0327日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:18:33.49
>>326
>唐津湾で一旦陸揚げする意味も、北部九州説ならわかるよね。


対馬海流に流されて、末羅國(唐津)は有り得ない。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波
0328日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:24:24.85
>>25
対馬海流に流されることを想定するなら、壱岐⇔呼子が最も安全であり、
末羅國は通説通りの唐津という結論に至る。

日本側からの視点では
>名護屋城もそうだし、
>合理的判断で生き抜いてきた戦国武将達も皆、
>東松浦半島の「東北端」を出征陣地にしている。

そもそも自説テンプレすら作れない泡沫説はお呼びではない。
0329日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:31:05.92
邪馬台国は九州にあったと支持します。

しかし、伊都は難しいと思います。
(倭人伝でいけば、伊都国は倭国の一員ですが、邪馬台国に至るまでの経由国だと思います)

卑弥呼の墓が平原は頷けますが。
0330日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:32:39.43
>>328
>東松浦半島の「東北端」を出征陣地にしている。

当然、対馬海流を利用して、東松浦半島の「東北端」を出征陣地にしている。

帰還地は対馬海流を利用して、相島経由の福津近辺上陸。  @阿波
0331日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:35:28.50
>>328

名護屋城はわかりますが、
考古学では意味が有りません。他説に揚げ足を取られます。

ちなみに私は九州説です。
0332日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:36:19.86
>>328

対馬海流に流されて、末羅國(唐津)は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波
0333日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:38:47.93
>>328

対馬海流に流されて、「九州説」は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波
0334日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:42:24.89
>>331
考古学的には楽浪土器の分布でいいんじゃないの?
壱岐と糸島がほとんどで、奴国にすらあまり入り込んでいないし。

漢鏡を擁する王墓も三雲〜平原は伊都だし、奴国より東には無い。

逆に、考古学的にそれに反論できるような根拠ってあるかな?
あったら検討したいから、教えてほしい。

対馬海流については
>>25
で明示されているわけだから、
それに対する説明ができない泡説は意味なし。

ていうか、荒らしに入ったね最悪最低だな阿波説。
0335岡上 ◆JN/67qb8kM 垢版2017/08/22(火) 19:51:00.82
このスレは静かに育って欲しいものですね。

伊都国は君が代の故郷でも有りそうです。
偶然の一致として捨て置くのも非科学的な思考と思います。
0336日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 19:54:35.40
>>334

対馬海流に流されて、「九州説」は有り得ない。

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  @阿波

反論できない相手を「荒らし」という敗北者。   @阿波
0337日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:08:31.28
>>336

阿波さん

まず捏造の畿内説を追い払いましょうよ。

阿波説のほうが畿内説より有利なのですから

其の後 九州説と対峙しましょう
0338日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:10:21.78
九州説もイカンです
まず、畿内退治です
0339日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:15:15.28
>>337
>其の後 九州説と対峙しましょう

申し訳ないが、九州も畿内同様、倭国(阿波)の拓殖地です。

従って、相手になりません。  悪しからず。  @阿波
0340日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:15:47.35
失礼、、、九州説、阿波説でまず退治するのは畿内説

退治後

阿波説VS九州説

畿内説より、まだ発掘が阿波は遅れてますが

そのうち(私が生きてるかどうかは分かりませんが)
阿波説が畿内に台頭し強敵になるかもしれません。

まず、捏造畿内説を退治しましょう
0341日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:19:18.30
阿波さん

阿波はロマンが有るのですから
所かまわず非難するのは??????阿波説の恥になります
まずターゲットは畿内です。
0342日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:19:40.22
>>340
>其の後 九州説と対峙しましょう

申し訳ないが、九州も畿内同様、倭国(阿波)の拓殖地です。

従って、相手になりません。  悪しからず。  @阿波
0343日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:19:53.49
阿波も畿内の一部だよん
0344日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:22:42.96
>>341
>所かまわず非難するのは??????阿波説の恥になります


非難というより、間違いを糺しているのです。  @阿波
0345日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:23:54.72
>>342

ドアホ

阿波説≠畿内説

畿内説はどこまで範囲を広げるんだ

ドアホ
0346日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:25:21.96
間違い  阿波ゴメン

>>343
ドアホ

阿波説≠畿内説

畿内説はどこまで範囲を広げるんだ

ドアホ
0347日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:25:39.83
>>344

魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし  

反論してみてください。  @阿波
0348日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:28:50.12
本スレでかかっておいで
阿波も九州も
木っ端みじんだろ、今まで
0349日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:35:07.61
>>343
>阿波も畿内の一部だよん

厚かましいにもほどがある。
0350日本@名無史さん垢版2017/08/22(火) 20:36:47.87
ヒロユキ
0351日本@名無史さん垢版2017/08/23(水) 01:18:34.43
>>347

唐津に限定ですか?
それは無理です。
北部九州に上陸です
0352日本@名無史さん垢版2017/08/23(水) 06:46:52.33
>>351

だから、対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。  @阿波
0353日本@名無史さん垢版2017/08/23(水) 07:54:19.66
>>351

よって、対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は伊都と平原遺跡」は有り得ない。  @阿波
0354日本@名無史さん垢版2017/08/23(水) 19:57:12.23
海流とか非考古学的だなあ。
楽浪土器が伊都までしか来ていないのだから、
郡使は伊都までしか来ていなかった。
というのは畿〇説の人たちが悩んでる問題だけどね。ベニバナ花粉とか言ってるけどどど。
0355日本@名無史さん垢版2017/08/23(水) 22:42:21.34
>>354

対馬海流に流されて、スレタイ「邪馬台国は伊都と平原遺跡」は有り得ない。  @阿波
0356日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 19:11:12.36
>>98
ヤマタノオロチ伝説とは、
吉武高木の木棺墓王(高天原のアマテラス)が
九頭竜川若狭湾(オロチの頭部と胴体)の石剣部族を征服して
丹後扇谷遺跡(オロチの尾部)にて鉄器生産(至高の逸品が天叢雲剣)した史実を反映している。

吉武高木木棺墓と同時期の、宗像の田熊石畑木棺墓から同一墓域最多の青銅器武器が出土しており、
これが初代スサノオ=東方征服将軍の墓である。

つまり、大和朝廷天皇が任命する征夷大将軍と同様の制度が、
紀元前の委奴国アマテラスが任命するスサノオだったわけだ。

スサノオの剣から宗像三女神が産まれる。
これを明白に裏付ける考古学資料なのである。
0357日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 19:28:26.67
オオクニヌシはスサノオの娘を娶り、スサノオの試練をくぐり抜けてその兵権を譲り受ける。

回廊付き王宮が何代も維持されていた吉武高木こそがアマテラスのおわす高天原であり、
オオクニヌシといえどもアマテラスの地位を手に入れることはできなかった。

だから、オオクニヌシはスサノオという将軍職に目をつけて、
スサノオに就任して、 日本史上初の「幕府」を開いた。
コトシロヌシやタケミナカタなどは、オオクニヌシ幕府における官職の名前であろう。

また当然のことながら、オオクニヌシは甕棺墓文化の部族達のエリート。

あの有名な氏族と同様に、アマテラスの外戚になって甕棺墓文化を注入したにも関わらず、
アマテラスにはなれなかったわけだ。

古代において、国家=王家の血統。(現代日本もそうなのだが)
那珂川流域を治めて圧倒的先進工業力を支配していたオオクニヌシでさえ覆せなかった。
血統はかくも厳格に維持されていたわけである。
0358日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 20:25:57.12
出雲 宗像
宇佐=神官=ウサギ(ニギ、ニニギ、ニギハヤヒ)
隠岐の島 沖ノ島

1)隠岐の島のウサギがワニと喧嘩してオオクニヌシが仲裁
沖ノ島所有の釣川宗像部族神官が遠賀川熊鰐部族と喧嘩して那珂川大国主部族が仲裁

宗像+大国主 ⇔ 熊鰐

2)神武東征の際に、神武は岡田宮で軍備調達

神武 熊鰐部族

3)仲哀の熊襲征伐の際に、岡県主の熊鰐が三種の神器を献上

同族の歓待
0359日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 20:27:29.01
オオクニヌシ(那珂川工房群を治める須玖岡本王)
→治水に失敗して洪水で失脚

那珂川オオクニヌシを武甕槌命あるいは経津主命といった軍神が平定
その後のニニギ降臨時に天児屋根命が随伴
(全て春日大社の祭神)

邪馬台国支配時の那珂川流域支配官=奴佳鞮
中臣

ニニギ+中臣
0360日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 20:37:55.15
考古学から記紀を引いてみる

<あるもの>
吉武高木のヤマタノオロチ退治(>>98>>356)
大国主の業績(中広形銅矛の活躍、少彦名との共同事業:間接的に)
大国主の失脚
ニニギの天孫降臨

<ないもの>
銅戈将軍の功績
卑弥呼邪馬台国
台与
神籠石
0361日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 20:39:23.25
つまり、無いものとは全て、饒速日とその子孫の功績。

いや、正確には、

饒速日ならびに、饒速日が「北部九州倭国本国の妻」との間に残した子孫の功績なのである。
0362日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 20:52:45.10
>>275
>>301-313
銅戈将軍=饒速日が、倭国史上初めて大阪湾住吉に上陸した。
そして次に、若狭湾基地を足場に越後のタケミナカタを制圧した。
本来は、弟であるニニギに倭王を任せての重大使命を果たしたわけだ。(>>116

饒速日の後半生は若狭湾基地を足場にしており、
一大率若狭湾基地の丹後司令官であった卑弥呼の父(>>263)とは、
紛れもなく饒速日と「北部九州倭国本国の妻」との間の息子あるいは孫であろう。

瀬戸内海と日本海の双方で業績を上げた饒速日の子孫は権勢をふるい、
倭国王たる日向三代に対して準備をしていた。

それが神籠石。
0363日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 21:03:23.00
危機へんさん次点の7せいきに、まだライバルになりうるちからをもっていたから蹴落とす必要がアッタわけだ。
すでにおちぶれていたら眼中にないわけだ。

7せいきにけおとすべきライバルとはつまりは包茎=日美子の子孫

否め 都塚
ウマ子 石舞台
毛人 小山田

であるから、決死八大はつまり。

日美子が人前に姿を現さなかった。
倭国では文身で生まれも身分もわかるシステム。
→本来は倭国王になれる身分では無かった

ハヤヒは本来は臣籍降下していたが緊急事態で復活当選
0364日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 21:08:38.54
先代籤本気は危機を踏襲している。
本来なら先祖の業績を伝えるはずなのに<ないもの>がほとんどないまんま。

日美子やら包茎の連中は九州倭国本国の妻の子孫。

それが失脚して、その巻き添えを食わないために、
自分たちは畿内流す根彦のほうで関係ないですよとはっきりと協調するために
一族の安全を守るために書かれたのが籤本気。
0365日本@名無史さん垢版2017/09/07(木) 21:18:50.63
考古学的に出土し、倭人伝にもある通り、
幼い頃に文身まで入れて血統を守っていたのだから、吉武高木からずっと続いている。

王家の血統=国家

委奴国→倭国 五男から天之〇穂耳系のみが王家に就けるようにした

倭国→二本 〇〇ギと〇ギ〇〇〇の九州系の子孫のうち〇〇ギ系のみが王家に就けるようにした

以上、厳格なる万世一系
2677年間男系のみ
0366日本@名無史さん垢版2017/09/08(金) 03:09:49.21
実は兄弟相続の結果を見ているだけな気がする。
あと、2600年は盛りすぎ。
考古学と合わない。
0367日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 13:04:42.53
>>358
鐘崎の地が本来の稲羽だろうね。

九州から東方へ進出する際の海上交通の難所であり、
宗像が管理していたのだろうが、
稲羽はあまりにも重要な海上関所地点のため、
東隣りの遠賀川流域のワニと喧嘩になったこともあるのだろう。

鐘崎には宗像、住吉、志賀安曇、天照、八幡、壱岐、など
北部九州の主要海人族がオールスターキャストで入っており、
万葉集など後世に至っても数々の歌や文献に記録が残っていることからも、
長期にわたって重要な土地であったことがわかる。

因幡国風土記に、武内宿禰は「因幡」国で双履を残して行方知らずとなったとあるが、
鐘崎に、武内宿禰が昇天の際に残した沓を埋めた「沓塚」がある。
本来は鐘崎が元祖の稲羽であり、
因幡国はそれを東に投影して後でつけられたのだろう。
0368日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 13:17:37.39
興味深い。
0369日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 16:37:01.86
>>28
庄内式土器の分布や移動から、当時の権力の所在が分かる。

・畿内には河内と大和に局在
・九州は広範囲に分布、南限は熊本
・河内式は西方との交流が強く、九州にも分布
・大和式は東方との交流が強く、大和に局在

>>116-118
銅戈将軍は唐古鍵首長と結婚同盟して大阪湾上陸を果たした。
大阪湾に高地性集落が上陸=大阪湾の森林を伐採して
淡路島鉄工房へ燃料供給。

完成した鉄器ならびに、畿内からの租庸調=河内式の動きは、
北部九州内で同じように動いている。

瀬戸内海の輸送船で一緒に運ばれたのだから、
それを献上する地域も似てくるわけだ。

ここで注意が必要なのは、
北部九州で河内式が行き渡る地域とは、倭国権力者のいた地域。
よって、倭国そのものの領域はもっと広く、
それ以外の九州地域については、倭国に編入はされていたものの、
河内式を受け取る側ではなく、倭国権力者に納税する側だった、ということになる。
0370日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 16:38:37.81
一方の大和式は動いていない。

>>28の原則を当てはめるなら、
大和には銅戈将軍とは「別の権力者」がいたことになる。

銅戈将軍が、唐古鍵と同盟して大阪湾上陸を果たしたのとおあいこに、
唐古鍵の首長も、銅戈将軍の援軍を利用して、周辺集落を従えたことになる。

銅戈将軍は、倭国のために、
>>283
黒歯国(河内式)や朱儒国(淡路島阿波紀伊)を運営した。
倭人なので、倭人伝に記載される。

唐古鍵の首長は内陸を支配し、周囲から徴税したのが大和式。
大型倉庫を作り、占領民を動員して古墳を作り、
つまりは大物主として一定期間君臨した。
0371日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 16:47:44.58
銅矛将軍が神武みたいな人物で、唐古・鍵首長が饒速日みたいな人物かなあと思いながら読んでいた。
0372日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 23:02:57.93
>>114
丹後を押さえたのは大国主ではないよ。

天香具山と叢雲である。


それと丹後から淡路は
近畿V様式の土器様式の折衷具合からいって
東播磨か西摂津
要するに淡路島の北からという線はない?

瀬戸内を東漸だろうか?
0373日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 23:16:12.18
木材に注目している説は初めて目にするが
天皇家は炭焼きで財を成した可能性である。

民俗学的な傍証がある。炭焼き小五郎伝説である。
炭焼き小五郎はのちに真野長者と言われるが
真野氏は天足彦の後裔であるし

小五郎は欽明天皇と同い年だという別の伝承もある。
0374日本@名無史さん垢版2017/10/15(日) 23:21:50.12
今日初めてこのスレに遭遇したので
系譜伝承と突合してみたい。
0375日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 07:35:02.85
>>374
ポイントは、魏志倭人伝における倭国大乱前の男王70〜80年が日向三代に相当することだと思う。
0376日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 09:37:53.65
>>28
この場合の遠賀川式土器の移動はいつ頃?

>>101

紀元前の人の移動は瀬戸内より日本海ルートの方が優勢。

石見の五十猛海岸が渡来勢力の拠点で
そこから丹後半島に入植したという伝承が残る。
五十猛=天香具山
紀元前2世紀から前1世紀にかけて丹後半島が拠点だったようだ。

一方で、瀬戸内東漸としては、西播磨に伊和大神族が現れる。出雲からと見られるが詳細不明。

1世紀には但馬円山川に第一次日矛族の到来と定着という。豊岡盆地の開発は日矛族の手によるという。年代が確認できる考古遺跡があるかしら?
0377日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 09:49:07.56
>>101
播磨
揖保の郡に、「伊都」の名の村があるという

和歌山にも伊都の地名が残る

「伊都」イツ?が何か固有の意味を持って呼ばれた可能性大

天尾羽張 又の名 伊都之尾羽張
稜威 これも イツ
0378日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 10:54:02.12
>>120
瀬戸内にニギハヤヒの痕跡があるかな?疑問
0379日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 11:18:03.59
>>122

武内宿禰末裔の睦泰氏による帝王日嗣によると
押穂耳の妻がアマテラスで
押骨として祀られるのはスサノオとの戦にやぶれてなくなったからだという。

遠賀川の東西で甕棺墓と支石墓?で墓制が違うのは何故か?甕棺墓はなくなっていく。

>>124

ニギハヤヒは筑後川に上陸し吉野ヶ里が拠点としたという。
0380日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 12:55:37.60
天香具山、五十猛は越後新潟でも稲作の伝道者だね。
天津神が日本海に沿って稲作を広めたのだろう。

遠賀川は豊国王家の領域だが、徐々に筑紫に侵食される。
支石墓はもともと九州北部に広域にあったが、そこに楔のように博多湾を中心に甕棺墓が入り込んだように見える。
甕棺墓=天孫族なのだろう。
そして木棺墓の平原遺跡はさらに別の勢力、多分肥国王家の侵入なんだろう。
0381日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 13:20:13.45
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0382日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 13:33:08.35
>>207

豊という字。トヨと読んでいるがそれが適当かどうか。

淀姫のヨドヒメはユタヒメともいうという。
ユタというと現代でも沖縄の巫女の呼び名として知られる。

上古九州に女性の首長の名が見られるが
巫女一般をユタと言っていた可能性があるのではないか。

フ、ホウ、ユタかと読むが、、、?トヨという読みはない。当て字?

ユタと呼ぶ言語と
ヒメと呼ぶ言語 人が 異なる可能性。
0383日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 14:41:32.12
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0384日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 14:43:14.97
【豊国】

考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸の勢力を筑紫、遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
ただしその起源は博多湾の志賀島であると言われており、筑紫の天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、もともとは博多湾の志賀島まで勢力範囲だったが、次第に筑紫に取り込まれていく。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。

後に仲哀が筑紫入りしたときは、筑紫日向の伊都高千穂宮(怡土の県主、現在の糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、現在の北九州市)がそろって出迎え、仲哀は筑紫香椎宮に迎えられた。
仲哀自身も穴門豊浦宮(門司)の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能とした豊国の外戚である。
現在では北九州市も筑紫すなわち福岡県に組み込まれ、豊前は大分県として東に圧迫されている。
0385日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 14:56:59.26
>>208
武内宿禰は末裔の睦泰氏によると
世襲名であるという。
初代の武内宿禰は波留2代目は波知が本名だとか。

系譜所伝によると
孝元天皇の子
彦太忍信
屋主忍雄武猪心
屋主武雄
武内宿禰一世となる。紀国造 宇遅彦の妹の子という。

一世は景行朝
二世と角ツヌ宿禰が兄弟、成務朝
三世と葛城襲津彦が兄弟、仲哀朝
四世と甘内宿禰が兄弟、応神朝
五世と木兎、波田八代が兄弟、仁徳朝
六世と巨勢が兄弟、履中反正允恭朝

木兎の子が真鳥、シビ、、、、と続くのが平群氏
平群子首からは紀姓。
真鳥の兄弟に早良、馬御織。馬御織以降は「香椎大宮司」を世襲

韓地遠征で昔于老を殺害したのは三世と見られる。

葛城、平群、波多、巨勢いずれも佐賀平野に起源地あり。倭国の王族であった可能性が高い。
0386日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 15:34:33.50
>>220
これは同意。

田油津姫のこの所伝は真逆でしょう。

>>275
この場合はニギハヤヒでなく
香具山か叢雲とおもわれる。

>>358
宇佐族は地祇。オオクニヌシの出雲族と同様。

安曇族とワニ族は同族。
安曇族が母系で出雲族が父系がワニ族。
江南起源の海民。安曇は葦積の転化。
今で言うタイ族と見られる。
>>367

因幡の白うさぎの話は
「因幡」の地にはもともとなかった、とは
出雲も伝承です。

筑紫と出雲関係を見ると、なるほど稲羽は九州にあったとした方が整合的です。
0387日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 15:36:32.42
>>369
唐古鍵は銅鐸部族ですよね?長髄彦とニギハヤヒの婚姻に仮託されている気がします。
0388日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 15:47:31.26
>>375
系譜伝承によると
神武天皇の東征時期は175、6年頃

その前の日向三代があるなら2世紀初頭くらいか

帝王日嗣によると神武即位は紀元前後に近いらしい。系譜伝承とはその年代感が合わない。

ただし、丹後開発や淡路のことを考えると
畿内ほか奈良葛城に入植し始めたのは
紀元前後とした方が、帝王日嗣や出雲口承と考古遺跡が整合するように思われる。

と言うことは、神武から数代の事績が
複数の人間の事績のまとめの可能性がある。
0389日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 15:53:04.86
>>380
甕棺墓が天孫族の墓制というのは同意。

沖縄の現代の墓は支石墓のうちにはいるだろうか?ユタのことを合わせると九州在地の墓制とするには納得です。
0390日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 17:42:06.32
>>388
>ただし、丹後開発や淡路のことを考えると
>畿内ほか奈良葛城に入植し始めたのは
>紀元前後とした方が、帝王日嗣や出雲口承と考古遺跡が整合するように思われる。

神武が2世紀中頃なら、紀元前後に畿内に入植したのは饒速日になろう。
その後、饒速日の称号は数代にわたり用いられ、神武が畿内に到達した時もその名を用いていたと考えられる。
饒速日や邇邇芸の降臨のきっかけとなった出雲の国譲りも紀元前後になるだろう。

そうすると、考古学的に伊都国として知られ、後漢書に倭奴国と書かれた国が、邇邇芸に始まる日向三代となる。
記紀と魏志倭人伝の擦り合わせが完璧に行えることになる。
0391日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 17:47:26.90
>>386
>宇佐族は地祇。オオクニヌシの出雲族と同様。
>安曇族とワニ族は同族。
>安曇族が母系で出雲族が父系がワニ族。

これが豊国王家ですね。
はじめは志賀島にいたものが、次第に門司付近に(天孫族により)押し出され、豊前は大分にまで押し込められます。
宇佐は、当時は船で通行できなかった関門海峡の迂回路として栄えたが、当時の場所は今より北だったという説があるらしいです。

倭国は筑紫、豊国、肥国などの連合王国であり、共立されたのが卑弥呼です。
九州北部の勢力争いが2世紀の倭国大乱であり、神武が筑紫わ出るきっかけとなりました。
0392日本@名無史さん垢版2017/10/16(月) 20:36:10.48
>>380
豊国にも飯塚の立岩遺跡に甕棺墓の地域王がいるよ。
遠賀川上流の東岸で、河川交通と陸上交通の要所。
10号甕棺からは前漢鏡6枚が出土していて、絹に包まれた鉄剣も副葬されていたから
相当な権力者。
ということは紀元前後には遠賀川流域の支配者も甕棺になっていたわけですね。

破鏡じゃなくて見事な完鏡なので、筑紫王家(倭国王)ではない。

これをオシホミミ(倭国王ではない)と考えるなら、甕棺や銅鏡の編年から
そのまま伊都甕棺王墓の系譜と直列することも可能。
>>122
>>123
0393日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 12:30:22.92
>>391

和邇氏安曇氏は系譜伝承によると
奴国王家とみられる。
那珂川流域を中心としたスク岡本の王か。奉斎神は綿津見および豊玉彦。

和邇氏の父系は出雲オオナムチであるし、葦原中国と国譲りの舞台が、奴国王統の交替と見られる向きもある。

ニニギ等の天孫族と初期に通婚したものの
並立状態は続いたであろう。
0394日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 15:18:38.94
>>393
つまり出雲の国譲りの舞台が、実は福岡だったということですね。
豊葦原中国が福岡平野のことで、ここを抑えるために天孫族が日向峠あたりから西、筑紫の日向に新たに宮城を設けて、後漢書では倭奴国、魏志倭人伝では伊都国と呼ばれることになりました。
天孫族が倭国大乱で筑紫を追い出されて、かわりに共立されたのが卑弥呼なので、卑弥呼の女王国は筑紫、宮は日向の高祖宮、陵墓は平原遺跡となります。
0395日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 16:53:52.70
かなりずれた理解になってるな
甕棺墓人は陸棲の渡来人がコア
石棺墓人は水棲の渡来人がコア
アマ系は水棲の渡来人がコアで記紀に取り込まれて天孫族として出てくる
甕棺墓人の委奴國王は天孫族ではないということだ
0396日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 19:08:55.66
筑紫はある。
豊国もありうる。

だが、肥国はない。
吉野ヶ里など当時の海岸線に分布する甕棺墓集落に王はいない。
熊本の集落も同じ。完全なる筑紫甕棺王家の衛星都市。

甕棺が廃れた頃にようやく佐賀や熊本の開発が進んでくるが、
それも筑紫の海人族などが手掛けただけのこと。
畿内説と同じで、支配者のかすかな足跡を後世から逆に拡大解釈しているだけ。

何度も指摘しているのに、反証を示さずに
肥国があることを前提にした妄想を垂れ流すだけ。
0397日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 19:20:15.61
関門海峡も同じ。

>当時は船で通行できなかった関門海峡の迂回路として

これを思いついた頃は見つかっていなかったのだろうけれども、
現在は、淡路島に五斗長垣内遺跡と舟木遺跡が見つかっている。

1世紀から淡路島に大規模鉄工房が300年ほども継続運営されていたわけだ。
鉄原料を朝鮮半島から大量輸送するのだから、海上輸送されていたことは確実。
でなければ、輸送コストと成果の収支が取れない。


根拠としている関門海峡開通の伝承にしても、
現実ではなく、比喩表現である可能性もある。

関門海峡が閉じていたという珍説を唱える方が、
科学的あるいは考古学的な強力な証明を必要とする。
だが、毎回証拠なしに当たり前の前提条件として妄想を垂れ流すだけ。
0398日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 20:25:28.35
批判はもっともな部分もあるのだが、史書に記載されている内容を安易にバッサリ切り捨てるのもためらわれる。
頭から信じなくても、それで説明できる部分があるなら、可能性は考慮しなくては。

例えば、肥国が筑紫より貧しい国であった、少なくとも大陸の文物が入りにくいけれど、農業と漁業はそこそこの国としてなら成り立ちうるのではないか。

エーテルのようなものと言われてしまえばそれまでだけどね。
0399日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 21:00:35.37
>>398
なるほど。
科学的考察ができない人物であるということが良く分かった。

>可能性は考慮しなくては
肯定材料が1あって、それを膨らませればいいという話ではない。
否定材料が100あるのだから、それに反証しなければならない。
でなければ、否定される。

例えば、肥国王家については、王墓がない、という強力な否定材料があるのだから、
肥国の王墓でも示さない限りは、
可能性はゼロ、である。
0400日本@名無史さん垢版2017/10/17(火) 23:39:24.65
貧乏国だから、伊都に出て一旗あげて、平原遺跡に入るくらいに立身出世したんだよ。
0401日本@名無史さん垢版2017/10/18(水) 01:03:35.50
>>395
陸棲の渡来人
水棲の渡来人とは具体的に何族を想定すれば良いの?

肥国はたしかに王権と呼ばれるほどの実体は
ないかもしれないな。吉備や関東と同じような。
0402日本@名無史さん垢版2017/10/18(水) 01:32:53.22
陸棲の渡来人 水棲の渡来人とかテイルズ オブ レジェンディアみたいだな
0403名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2017/10/22(日) 13:26:22.76
おいおい。ファンタジーは古代史がモデルだぞ。
0404名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote!垢版2017/10/22(日) 16:22:20.33
>>399
熊本県からは金冠や金の耳飾りとか福岡県に次いで多く出土してるから王が居たかもな。
0406日本@名無史さん垢版2017/10/23(月) 10:40:01.59
古墳から出てくる時代は5世紀くらいが多いね。
その頃はまだ独立した王がいたわけだ。
0408日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 07:58:43.39
金冠が出るんだから、肥国王がいたんだろう。
多分、卑弥弓呼という名前だろう。
0409日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 12:00:43.45
奈良県当たりの4〜5世紀の古墳から金冠とか出てるの?
0410日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 12:01:22.20
奈良県辺りの4〜5世紀の古墳から金冠とか出てるの?
0411日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 14:50:57.76
記憶にないなあ
0412日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 14:52:13.40
記憶にないなあ
0413日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 16:44:43.52
王様や天皇はいなかったのかな?
0414日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 17:59:20.89
いなかったんだろうねえ。
天皇なんて、8世紀の創作だからね。
0415日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 18:25:50.55
>>408
5世紀の古墳から金冠が出てるから何?
なに奈良県を出して誤魔化してるの?

3世紀まで肥国王は存在しない。
つまり、考古学的には卑弥弓呼とは福岡県北部の出自でしかありえない。
0416日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 18:35:03.44
いくら先方で不要になったからといって
天皇の號をおさがりで頂戴できたということは奇跡的イベント
0417日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 18:37:27.36
もはや九州説同士の争いのみだな。
平原女王墓=卑弥呼墓
伊都=邪馬台国の首都
で確定して、あと残っているのは狗奴国論争のみ。
0418日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:13:44.61
3世紀の卑弥呼即位で肥国が台頭するんでしょ。
その王位を巡って、伊都に進出した卑弥呼と熊本に残った卑弥弓呼が対立したんだろう。
0419日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:16:24.10
肥国王家の出自の問題から言えば、松野家の系図とやらでは、卑弥呼の家系は呉の末裔として、また筑紫の天孫族とも血縁のあるように書いてあるので、どちらも間違いではないのだろう。
0420日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:29:32.42
>>418
結論ありきだね。

>伊都に進出した卑弥呼と熊本に残った卑弥弓呼
熊本のどの遺跡を背景として進出するのかな?

>>419
>筑紫の天孫族とも血縁
であれば、考古学的には筑紫王墓が紀元前から先行しているのだから、
3世紀までは熊本は開拓中で
4世紀になってようやく熊本にも豪族が登場したことになる。
0421日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:33:01.61
邪馬台国が福岡県なら、自動的に狗奴国は熊本だし、魏志倭人伝にそこに王がいたことが明記されているんだけどな。
0422日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:34:22.23
邪馬台国側の前線基地を基肄城、大野城、狗奴国側の前線基地を菊池城でいいじゃないか。
0423日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:40:55.66
>>421
あらら。根拠はそれだけ?

福岡県も広いからね。
平原伊都に卑弥呼がいるのなら、
南の狗奴国は久留米など筑後平野でも十分に成り立つ。

基肄城、大野城、菊池城の3世紀の遺構はあるのかな?
そもそも熊本肥国の根拠となる遺跡を呈示してくれないと、
話の全てが妄想にすぎないんですけど。
0424日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 19:43:22.11
神籠石なら銅矛の時代だから、
邪馬台国と狗奴国の戦いにおける前線基地として説明ができる。

木棺墓と甕棺墓についても、
吉武高木の木棺墓王が甕棺墓戦士群を従えていたのが最初で、
その後に甕棺墓王の時代が続き、
平原でまたまた木棺墓になっただけで、
筑紫の中だけで完結している上に、

肥国領域に木棺墓王はいない。
0425日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:02:26.40
国津神から天津神、そしてまた国津神に政権交代したんだね。
でもその国津神の支配域が問題で、天孫族が伊都にいた時代にどんどん国津神が拡散して有明海沿岸にたどり着くのは難しいことではない。
何より、魏志倭人伝には狗奴国の官として菊池彦の名前が残っているわけで、狗奴国が熊本と考えるのに十分な根拠だよ。
0426日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:07:34.16
>>425
だから「考古学的根拠」を示してよ。

空想ばっかじゃん。

>魏志倭人伝には狗奴国の官として菊池彦の名前が残っているわけで
菊池彦である証拠もないし
熊本の菊池彦だったとしても、
久留米卑弥弓呼の支配下の官だったわけでしょ。
0427日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:15:18.51
弥生王墓は筑紫を中心にしか存在しない。

だから王権の発露は筑紫しかありえず、
倭国大乱は筑紫での倭国王座争い。

半島南部〜北部九州沿岸に強い邪馬台国と
筑後平野〜熊本に強い狗奴国との争い。
初期の境界線が神籠石。

源平合戦や戦国時代などなどと同じく、領土は取って取られてで
年代と共に変化するわけで、

最初は奴国伊都の奪い合いから始まり、
邪馬台国側が次第に押して、
倭人伝の頃には狗奴国は熊本+αくらいだったかもしれん。

なんにせよ狗奴国王の出自も筑紫王家しか存在しない。

他に「3世紀まで」の考古学的証拠があるなら是非教えてほしいくらいだ。
0428日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:16:41.99
なんでそこまで倭国を小さくしたがるかな?
博多から熊本まで歩いたって何日かの範囲だろうに。
0429日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:19:56.69
>>428
考古学的にそうとしか考えられないから。

倭国を小さくしたいのではない。
卑弥呼の出自の肥国王家というのが考古学的に存在しないと言いたいだけ。

それに、上に書いたとおり、
魏使が来た頃には狗奴国はほぼ熊本くらいだっただろうとは思っている。
だから7万戸問題などでは貴方と同じ考えであろう。
0430日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:22:32.10
平塚川添遺跡が「初期の」狗奴国王都。

回廊付き宮殿や区画された倉庫群などがあり、
筑紫平野にも拘らず多重の環濠で防御されている。

また、これだけ立派な福岡県内の遺跡であるのに鉄器が無い。

これはつまり、邪馬台国と敵対していたがために
鉄器の入手を断たれ、そのまま平定されたことを意味する。
0431日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:36:09.93
平塚川添遺跡なら、筑後川流域だから、本来はそこも肥国であるべきだよ。
むしろ卑弥呼が即位前にいた王宮かもしれない。
倭国女王ではなく、肥国女王に過ぎなかった頃にね。
肥国と筑紫の境界線は難しいよ。
少なくとも、今の福岡県の県境はあからさまに不自然だよ。
肥国を筑後川流域と有明海沿岸とすれば、言っていることはあまりかわらないかも。
卑弥弓呼の所在地の違いくらいかな。
筑後川流域や弥生時代の激戦区だったから、狗奴国の王は随分と危ないところにいたことになる。
0432日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 20:40:35.35
筑後川流域は完全なる甕棺墓のベッドタウンです。
王墓もありません。
よって筑紫王族の領地だったことは明らかですね。
0433日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:03:51.70
>筑後川流域や弥生時代の激戦区だったから、狗奴国の王は随分と危ないところにいたことになる。

一つは、狗奴国が劣勢になるとおそらく孤立して鉄器が枯渇したのでしょうが、
狗奴国が攻める側だとすると、筑紫平野の東に位置して守りやすい。

もう一つは、朝倉であれば、日田を経由して「宇佐」に抜けることができます。
ということは、湾岸国家の邪馬台国に干渉されることなく
瀬戸内海と交通することができます。

事実、神籠石は瀬戸内海にも建築されており、
関門海峡から邪馬台国水軍が侵入してくるのに備えた防衛施設でしょう。

そして、瀬戸内海沿岸やその奥の鉄器がありそうなのに無い遺跡も
狗奴国と一緒に戦った地域でしょうね。

つまり平塚川添遺跡は、筑後平野〜熊本平野〜瀬戸内海沿岸を繋ぐ、
狗奴国にとっては絶対重要地点だったわけですね。

邪馬台国の首都が伊都であるとわかったおかげで、
このように、戦略的にも説明がつきます。
0434日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:22:09.94
>>432
じゃあ狗奴国はもっと南の熊本じゃん。
0435日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:28:06.11
狗奴国が熊本なら免田式土器の土地であり、阿蘇山を挟んで宮崎県まで伸びているから、瀬戸内海へのアクセスは可能だよ。
0436日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:30:00.12
>>434
あらあら。
議論放棄するなら、貴方の負けということでよろしいですね?

倭国が2つに分裂して倭国王を争ったのが
伊都を中心とする福岡北部の邪馬台国と
筑後を中心とする福岡南部の狗奴国です。

魏志東夷伝「倭人条」に書かれている(女)王ですから、
卑弥呼も卑弥弓呼も
もとは同じ筑紫倭国王家。

分裂して争っているから、倭国条とは書けず、
倭人条として邪馬台国狗奴国それぞれを記録し、
終盤にようやく親魏倭国王印が発効されるわけです。


邪馬台国は、九州北部沿岸〜壱岐対馬で、日本海沿岸が属国
狗奴国は、筑後平野〜熊本で、瀬戸内海沿岸が属国
0437日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:33:16.88
>>435
3世紀までに熊本に王が出現しえた証拠がなければ
何を言おうが妄想にすぎませんね。

特に平原女王に関しては肥国王家出身とする根拠はゼロです。
0438日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:35:17.04
>>436
>邪馬台国は、九州北部沿岸〜壱岐対馬で、日本海沿岸が属国
>狗奴国は、筑後平野〜熊本で、瀬戸内海沿岸が属国

想定している範囲は限りなく同じなんだけどね。
狗奴国王の居場所と出自の違いだ。
0439日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 21:47:07.22
>狗奴国王の居場所
最初は伊都もしくは奴国で、
劣勢になって領土縮小するにつれ、
高良(久留米)平塚川添(朝倉)熊本と南下していった。

>出自の違い
考古学的に筑紫王家しかない。
0440日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 23:22:45.17
>>439
系譜所伝によると

阿蘇
筑紫
大分
宇佐
は同祖。

個人的には、火国≠肥国だと思うが、、、

宗像氏の祀る市杵島姫は
筑後水沼君の奉斎する神という。
筑後川から筑紫野を抜けられず山を越えて
遠賀川を降った痕跡がある。

実に九州の歴史上
博多沿岸勢が南に進出できたことはない。
0441日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 23:29:56.66
>>440
同祖なんでしょ?
じゃあ考古学的には筑紫から全部出たんでしょ。

>実に九州の歴史上
>博多沿岸勢が南に進出できたことはない。
甕棺墓が南へ進出しているね。

そもそも系譜図がどの時代のものかもわからないし
信頼性もわからない。
そして系譜図と言っているだけで、どの系譜図を持ち出しているのかも示せない。

なんにも示さずに妄想を語っているだけで、説得力が皆無。

肥国王家の根拠ゼロ。
0442日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 23:38:15.08
根拠にならないものを持ち出して根拠と言う。

根拠にならないものを持ち出して根拠と言って恥じない程度の思考力なので
根拠にならないということがそもそも理解できていない。

根拠にならないということが理解できないから
議論が成立せず
とにかく根拠を示せと注意されても
阿呆のように根拠にならないものを持ち出して根拠と言い続ける。

肥国王家クオリティ。
0443日本@名無史さん垢版2017/10/24(火) 23:41:49.31
>>441
いや
私は肥国王家はなかったよ派なのだが。

この場合の系譜所伝は主に国造本紀と新撰姓氏録による。

筑紫王家が南九州を除く地域を
初めて影響を及ぼすくらい力を持ったのであろう
ということは系譜所伝からも蓋然性が高いと思います。
0444日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 00:19:51.73
宗像で不思議なのは、田熊石畑など紀元前から遺跡があるのに
甕棺墓が入ってこなかったことだな。

筑後水沼君の領地である筑後川河口付近も同じく甕棺墓が入っていない。

ただ佐賀平野や筑後平野は弥生時代後期に一気に干拓された可能性が高くて
単に甕棺墓のラインが干拓前の海岸線だっただけかもしれない。

遺跡の時代順なども考えると
宗像と筑後水沼君が関係あるとしても
宗像から筑後川河口へ入って干拓した可能性のが高いのではなかろうか。
0445日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 01:39:44.45
海洋民族が一種類だけじゃないって事だよ
0446日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 07:29:43.25
それらの氏族が分かれた時期も問題だと思う。
記紀でも、天孫族とそれ以外の天津神の分家の差は1〜2親等しかないし、3親等くらいで国津神が出てくる。

あと、卑弥呼が関わる肥国の系図といえば、松野家姫氏系図とやらでは。
それも肥国王家が天津神と非常に近い親戚であることを示しているらしいけどね。
現代から見て、全て筑紫の勢力じゃないかと言えばそうなのだろうが、当時の人にしてみれば、あっちの家、こっちの家、という感じだったのだろう。
筑紫を追い出された天孫族の家からしてみたら、あっちの親戚の卑弥呼が倭国王を襲名した上、その家がお家騒動まで起こして海外にまで恥を晒して、何やってんだ、という感じかな?
0447日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 07:39:03.04
あえて記紀を丸呑みしてしまえば、邇邇芸を天孫すなわち天照の孫とするけれども、その兄の饒速日は天孫ではなく天神の子と書かれ、天津神どけれども天孫ではない。
天照の弟の家系の大国主や、従兄弟の豊国王家の大山積らは国津神になっている。
現代人から見たら皆同じ氏族なんだよ。
0448日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 07:47:59.14
景行天皇が久留米の高良山に仮宮を築く。
筑後の中心を握ることで、
筑紫の支配が決定した。

筑紫が宝満川、筑後川を下って
大善寺を占領、大善寺玉垂宮を築いて
拠点を作る。

上津荒木川を遡って、高良台に
上津天満宮を築き、高良山ふもとに侵攻。

ついに高良山を奪取し、高良玉垂宮を築き
筑後の支配権を確立する。

多大な被害を受けた肥国は
これ以上の侵攻をしないことを条件に
従属する。

筑紫勢も広大な肥後に侵攻するほどの
力はない。
肥国は完全降伏ではないが、ある程度の
独立性を保ったまま従属したものと思われる。

熊襲を退治したあと、肥国内で戦闘には
ならなかったが、念入りに巡幸しているからである。
0449日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 08:01:02.40
景行天皇の頃までは、筑紫の女王として神夏磯姫が八咫の鏡を保有していたことが日本書紀に書かれていて、景行天皇とともに共闘して耳垂などを退治している。
耳垂は土蜘蛛であるが、魏志倭人伝では邪馬台国の官だった。
これは九州北部邪馬台国の内紛なんだよ。
4世紀のはじめ、卑弥呼の没後、約80年ほど後の事。

あと、景行天皇は九州北部を制圧するけれど、その影響力は3代で絶える。
孫の仲哀天皇とその皇子が神功皇后と武内宿禰に倒されてしまう。
武内宿禰とその子の応神天皇は、筑前筑後肥前豊前の一宮に祭られており、武内宿禰が実質的に九州北部倭国の王となったと考えられる。
一般的には高良玉垂命は武内宿禰を当てることが多い。
つまり景行天皇ではない。
これが4世紀の末。

九州北部は支配者が激しく入れ替わるので、年代を誤ると間違える。
0450日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:05:25.77
>>444
宇佐古伝によると
宗像のイチキシマヒメは安芸の厳島からの勧請というから
宗像から筑後川下流というのは流れが真逆。

おそらく襲名された何代目かのイチキシマヒメだと思うけれども。

紀元前2世紀頃から
沖ノ島祭祀の最盛期までには相当な時間間隔だから
筑後川下流の海岸線がどの時代にどの程度までだったのかは解明しておく必要はありそう。

遺跡の分布を時代別に抽出して
標高でみてみればいいのかな。
0451日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:19:02.69
>>450
>宗像のイチキシマヒメは安芸の厳島からの勧請というから

むちゃくちゃな伝承ですな。
0452日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:19:59.06
>>446
系譜史料だけの考察は単なる妄想だよ
考古資料と突き合わせない論は無意味。

系譜所伝では南から北へ王族関係者
(のちの天皇家につながる)は移動しているが
弥生時代の例えば庄内式土器なんかは
熊本平野まで北から南まで行き渡っているわけだし。

福岡の製鉄遺跡はもちろん注目に値するが
弥生時代にすでに熊本菊池川や
内陸の阿蘇でも製鉄遺跡があるわけで。

肥国という言葉は少し気をつけてつかわないと
同じ肥後でも人吉盆地と熊本平野では
様相が全然違う。
肥前と肥後も全然違う。
ひとくくりに肥国というのは乱暴すぎる。
0453日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:23:21.41
>>447
現代人からじゃなくて
もちょっと学問板らしい厳密さで話をしようよ。
0454日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:35:42.73
>>451
イチキシマヒメの正体は
記紀に書き残してあるものが決定版ではないということ。

社伝にイチキシマヒメが降臨したという神社が飯塚?にあったり。

要するによくわかってないのが実情。
0455日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:54:23.86
>>452
>同じ肥後でも人吉盆地と熊本平野では
>様相が全然違う。
>肥前と肥後も全然違う。
>ひとくくりに肥国というのは乱暴すぎる。

なるほど。
しかしながら、筑紫の影響下であるからこそ、分家としての勢力がそこにもいたということにはならないだろうか。
少なくとも八代以南や本州四国に対しては、王家という言葉は用いられないわけだし。
0456日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 14:58:35.95
>>454
市杵島姫は島にいるというのが共通認識である以上、飯塚や水沼には足を伸ばしただけで、本拠地が宗像であることに変わりはないだろう。
倭国の成立過程として対馬や壱岐から伊都への天孫族の進出を想定するならば、宗像がその守護としての役割を果たすというのは合点が行く。
0457日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 21:05:24.55
【淀・江・初】
父:近江国の戦国大名・浅井長政
母:織田信長の妹・市

父浅井長政は伯父信長に滅ぼされ、
母市の再婚相手の柴田勝家も秀吉に滅ぼされた。

【淀】
義父勝家を滅ぼした秀吉の側室となり、豊臣秀頼を生む。
秀吉死後の関ヶ原の戦い、大阪の陣にて敗戦し、豊臣家滅亡。

【江】
初婚:佐治一成(信長の甥)
再婚:豊臣秀勝(秀吉の甥)
再々婚:徳川秀忠(江戸幕府第二代将軍)第三代将軍・徳川家光を出産

【初】
京極高次(浅井家の元主筋)と結婚
東軍に参加して若狭小浜藩となった
0458日本@名無史さん垢版2017/10/25(水) 21:06:30.39
【宗像三女神】
父:スサノオ(天神族王家男系)

【タキリビメ】(沖津宮)
大国主命に嫁ぎ、味耜高彦根神と下照姫を生む。
【タキツヒメ】(中津宮)
大国主(大己貴神)に嫁ぎ、事代主神と高照光姫命を生む。

【イチキシマヒメ】(辺津宮)
ニニギの養育係
ニギハヤヒと夫婦(元伊勢・籠神社)

>>362
0459日本@名無史さん垢版2017/10/26(木) 01:23:31.92
伊都国王卑弥呼は百済系
0460日本@名無史さん垢版2017/10/26(木) 23:38:27.39
銅戈将軍の戦役は3つある。

一)大阪湾上陸作戦
二)安芸攻略作戦
三)越後信州攻略作戦

一)
那珂川オオクニヌシ幕府が洪水によって滅亡して、
遠賀川を領有する天神族アメノオシホミミの息子たちに倭国再建が託される。>>392

伊都倭国王アマテラスにニニギが
東征将軍スサノオにニギハヤヒが就任した。

オオクニヌシ銅矛部隊に代わり、ニギハヤヒは銅戈部隊を新設。
淡路島に大規模鉄工房を建設して、
木材を求めて大阪湾沿岸の攻略を開始した。
経済中心の那珂川流域が壊滅した倭国復活の命運を賭けた大規模上陸戦だ。

内陸唐古鍵のナガスネヒコの妹と結婚同盟して、
大阪湾岸集落を挟撃して攻め落とした。>>369

義兄ナガスネヒコは内陸集落を従えてオオモノヌシとして君臨。>>370
0461日本@名無史さん垢版2017/10/26(木) 23:40:30.84
倭国が鉄器工房の設置に必死になっているあいだ、
オオクニヌシ幕府における軍事職であったタケミナカタの部隊が各地で反抗していた。

西は長崎(海路で遥か迂回せねばならない・諏訪神社
東は広島(当時は切り立った島ばかりで上陸しにくい・周防すわの国
北は越後(能登半島が盾になる・信州に諏訪神社

大阪湾に高地性集落を設置して、淡路島への木材供給源を確保した。
これで北部九州倭国の鉄器生産が安定回復。

二)次いでニギハヤヒは、タケミナカタ平定作戦へシフトして、
まずは瀬戸内海航路を整備するべく安芸上陸作戦を開始。
宇佐から猛攻を加え、
木の宗山や鉾ヶ峰などにてタケミナカタ勢の山城を攻め落とした。
0462日本@名無史さん垢版2017/10/26(木) 23:42:50.60
戦いに明け暮れるニギハヤヒは、主に宇佐で補給していたが、
たまに足を延ばして
伊都にいる可愛い弟ニニギ夫婦に会いに行っていた。

そして密かなもう一つの楽しみが
ニニギの教育係をしていたイチキシマヒメとの邂逅。

倭国東方将軍として活躍するニギハヤヒにとって、
政治にも文化にも軍事にも精通したイチキシマヒメは
かけがえのない相談相手となっていた。

安芸を平定したのを機に、二人は結ばれる。

安芸に高地性集落を設置する、
ニギハヤヒにとって束の間の休息の日々。

二人は安芸で新婚生活を送った。

イチキシマ=伊都岐島神社=厳島神社
0463日本@名無史さん垢版2017/10/26(木) 23:45:51.87
三)淡路島に建設した大規模鉄器工房に
瀬戸内海〜大阪湾沿岸の高地性集落から木材=燃料を安定大量供給することで
北部九州倭国の発展は揺るぎないものとなった。

最後の仕上げが、能登半島を盾に、
越後〜信州に立てこもる、最後のタケミナカタ勢力の平定。

頼れる伴侶であるイチキシマヒメを伴い、
関門海峡を廻って日本海側に出て、
古来スサノオ軍の重要拠点である若狭湾丹後半島基地へ赴任する。

福井県鯖江市「弁財天」でタケミナカタと対峙していた倭国軍に合流する。

倭国本軍であるニギハヤヒが、
自らが築いた鉄器製造ルートをフル稼働して大量の鉄製武器と共に到着した以上、
勝敗は決した。

しかもイチキシマヒメ(弁財天)が的確な助言をして、
最小被害であっという間に越後、そして信州を平定する立役者となった。

こうして倭国に平和と繁栄がおとずれ、
倭国王ニニギは頼れる兄ニギハヤヒと、その妻であり養母であるイチキシマヒメに
「息津鏡」「辺津鏡」など数々の贈物を贈ったのだった。

めでたしめでたし。
0464日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 07:28:18.43
市杵島姫が宗像沖ノ島にいることは、倭国の故地が対馬壱岐であり、新都が倭奴国伊都であることと結びついている。
九州北部伊都説の根拠の一つだよ。

勝手に各地の弁財天と結びつけてはいけない。
他は全て後世の分社だ。
関東で最大の弁財天は神奈川県の江ノ島だが、市杵島姫本人が来たとは思わないだろう?
厳島だって江田島だったそうだ。
0465日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 07:31:54.65
古代は兄弟相続があったらしい。
饒速日と邇邇芸が東西で並び立ったのか、それとも兄弟相続が8世紀には消滅していたので今ある形で伝承されたのか。
中央アジアや西アジアでは今でも兄弟相続が残っているらしい。
0466日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 16:15:56.87
>古代は兄弟相続があったらしい。

あったらしいではなく、
古代は兄弟相続があった。
4世紀の倭王に兄弟相続が書かれている。
0467日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 17:47:20.59
ここ意外とまともなスレ進行だな
機内のはなんであんなんなってんの?
0468日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 17:55:22.76
畿内説のスレは、スレ主やその取り巻きが周りに喧嘩を売りまくったため荒れている。
0469日本@名無史さん垢版2017/10/27(金) 18:11:18.21
殺伐としてるもんな

それと正直あの前書きが長すぎて意味わからん
俺も大和にあるんじゃないかと思ってるがあれ読んでたら腹立ってくるよ
0470岡上 ◆JN/67qb8kM 垢版2017/10/27(金) 20:59:15.15
ちょっと仕事が忙しいので、最近はずっと様子見ですが、畿内説スレはちょっと参加しようとしようとおもえない状況ですね。
8割方が罵詈雑言では。。。
0471日本@名無史さん垢版2017/10/28(土) 08:55:42.57
>>470
毎日罵詈雑言で参戦してないか?
0472日本@名無史さん垢版2017/10/28(土) 10:37:48.51
>>471
全岡上病患者は巣に帰れよ
0473日本@名無史さん垢版2017/10/28(土) 12:47:36.25
【日本の歴史】

1世紀
倭奴国 漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」

2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
近畿銅鐸圏の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」

2世紀後半
銅矛圏の一部勢力(安曇氏)が大阪侵略(大阪湾型銅戈)→倭国大乱
→卑弥呼即位により銅矛圏と銅鐸圏が和睦し同盟
出雲、吉備は従わず(狗奴国)
銅矛圏の王も廃されず伊都国に残る
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」

旧宗主国倭奴国王族の住吉氏、領地の朝鮮半島南部に亡命、新羅王として即位
(住吉神 中筒男=新羅王2代目 南解次次雄)

3世紀前半
邪馬台国連合=北部九州、近畿
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)

丹波地方にいた住吉王族残党が新羅合流(丹波〜若狭湾は四隅突出墓の空白地帯)
(住吉神 底筒男=新羅王4代目 昔脱解)
0474日本@名無史さん垢版2017/10/28(土) 14:34:41.37
【倭と日本の歴史】

1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
海洋民(天津神)による海洋国家
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
近畿に饒速日が基盤を築く

2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」

2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結
肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」

3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
出雲、吉備は銅輸入ルートから締め出され、銅器を使わない独自の祭祀を開始
(出雲=四隅突出墓、吉備=特殊器台)
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候

3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
0476日本@名無史さん垢版2017/10/28(土) 16:23:22.41
対案をどうぞ。
0477日本@名無史さん垢版2017/11/04(土) 18:56:09.11
倭えに言い負かされたあともスレ立てしてたんやな^^
伊都は伊都
卑弥呼さんのお城あったとしてもジャマイカちゃうわ
0478日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 09:52:13.10
>>369
銅戈将軍が大阪湾上陸して、畿内からの租庸調=庄内式土器が九州へ。
で、庄内式は熊本平野まで行き渡っている。
倭国はこの時点で伊都を中心として熊本平野まで統一していた。<確定>

魏志倭国伝ではなく、魏志倭人伝。
倭人伝に記載された国や王は倭人のこと。
>>427
倭国乱とは、筑紫王家内での倭国王争い。
邪馬台国卑弥呼:伊都〜壱岐対馬(〜半島南部〜日本海沿岸)
狗奴国卑弥弓呼:筑後〜熊本(〜瀬戸内海沿岸)

邪馬台国と狗奴国の境界線や、狗奴国の主要施設などに
狗奴国側が築いた防衛ラインが『神籠石』

狗奴国内の流通を表すのが『免田式土器』:筑後〜熊本(〜瀬戸内海沿岸)
0479日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 09:58:38.04
>>430
狗奴国王は伊都王家出身で、主領土が筑後以南。

壱岐対馬鉄器ルートを持つ邪馬台国に次第に押されて、
平塚川添→筑後高良神籠石→日田→熊本のように撤退していった。
0480日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 10:05:45.55
238年に難升米が帯方郡へ遣わされ、
243年までは平和外交をしている。
245年と247年に難升米へ黄幢が贈られていることから、
難升米は軍事権を任される実力者であることがわかる。

実力者の難升米が外遊できるということは、238年時点で狗奴国の脅威が低下していることを意味する。
つまり、筑後高良神籠石が陥落したのが237年以前。

魏と外交を開始した238年以降は、狗奴国は筑後領土を喪失しており、
よって、狗奴国の官は、熊本の菊池彦を思わせる狗古智卑狗のみとなっている。
0481日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 10:10:52.89
247年には難升米は九州から動けず、倭は載斯烏越を派遣している。
>説相攻撃状
お互いに攻撃する状態=戦争となっていることを報告する。

難升米が熊本、あるいは瀬戸内海神籠石、の攻略戦に入ったのだろう。


とにかく、庄内式が熊本平野に行き渡った時点で、
伊都王墓を中心とする倭国は熊本平野まで統一している。

免田式土器が筑後以南〜瀬戸内沿岸に分布するのは、
倭国が邪馬台国と南の狗奴国に分裂して倭国王争いをしたからである。
0482日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 10:41:52.83
筑後を中心に分布する小形仿製鏡U型が狗奴国王家の鏡と思われる。
鉄と同じく青銅原料の入手も制限されたため、小形にせざるを得なかったのだろう。

小形仿製鏡U型で注目すべきは、奴国にも分布している。
つまり、初期の狗奴国は奴国まで領有していた。

倭人伝の描写が伊都まで(奴国弥生銀座の記載なし)
=魏使が伊都までしか来ていない
なのは、
奴国もまた、邪馬台国と狗奴国の争いの対象となった地域のため、
治安が保たれていない、あるいは都市整備が回復していない、
などの理由だったと思われる。
0483日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 11:18:56.00
>>480
ということは、魏志倭人伝の時代=238年以降において、
邪馬台国の構成国の中に、八女(邪馬国か)などが含まれてもよい、ということになる。

だが、あくまでも狗奴国は熊本のみが反抗したのではなく、
筑後を中心にもとは平塚川添に宮殿を構えていた伊都王族である。
0484日本@名無史さん垢版2017/11/05(日) 23:31:44.89
>>480
>実力者の難升米が外遊できるということは、238年時点で狗奴国の脅威が低下していることを意味する。
>つまり、筑後高良神籠石が陥落したのが237年以前。

ここは証拠が少なすぎやしませんかねえ。

>>483
>邪馬台国の構成国の中に、八女(邪馬国か)などが含まれてもよい、ということになる。
>だが、あくまでも狗奴国は熊本のみが反抗したのではなく、
>筑後を中心にもとは平塚川添に宮殿を構えていた伊都王族である。

なるほど。
もっとも、肥国王家を唱える場合も、筑紫王家との血縁を否定しているわけではないので、その分家に名前を与えるかどうかの違いに過ぎないので、そこは理解していただきたい。
0485日本@名無史さん垢版2017/12/03(日) 16:45:04.21
狗奴国について考察した直後に硯が再発見されて驚いた。
今後も鉄器分布域の各地で硯がどんどん見つかるかもしれないな。

現時点では、硯は伊都と筑前町とに見つかっている。

楽浪土器を伴う伊都は、楽浪郡からの漢の外交官が滞在する首都。
王墓もある。
一方の筑前町は、当時の倭国にとっての南部地域、
つまりは筑後平野や佐賀熊本など南方を管轄する府庁があったのだろう。

博多湾志賀島を主体に、壱岐対馬など海外展開するアズミ
(鉄材料を管轄)
瀬戸内海など東方倭種を主体に、森林管理に長けるオオヤマツミ
(木材や生口を管轄)

原料と完成品を受け持つ部族が、倭国王の外戚をめぐって争い、
それが倭国乱にまで発展したわけだ。
0486日本@名無史さん垢版2017/12/03(日) 16:48:08.63
>>430
筑後平野を主体に、南は熊本、
東は大分宮崎から瀬戸内海へ展開する狗奴国にとって、
久留米〜日田〜大分を結ぶ線上にある
平塚川添遺跡は、まさに国家の心臓部ともいえる要衝。

狗奴国にとっては、瀬戸内海からの物資を大分から日田経由で筑後へ運び込み、
その物量をもって奴国から一気に伊都を制圧する、
という戦略だったのだろう。

倭国の鉄工所は淡路島にあったのだから、
開戦初期の数年〜十数年に関しては、伊都と敵対して鉄材料が入って来なくなったとしても、
ストックの鉄材にて狗奴国が優勢に戦えた。

伊都側には鉄材料はあっても鉄工所が無いから困ったことだろう。
だが、伊都はまずは半島に鉄工所を緊急設置(発見済み
次いで自国領である日本海側から入ってすぐの稲部遺跡に鉄工所を本格稼働した。
0487日本@名無史さん垢版2017/12/03(日) 16:49:17.91
前置きが長くなったが、ここからが本題。
平塚川添遺跡はなぜ鉄器が無いのか。

狗奴国にとって、平塚川添は自国と瀬戸内海を結ぶ最重要拠点。
硯の出土が示すように行政機構も整備され、
幾重の環濠で守られ、
神籠石も平塚川添を守るように設置されている。

その最重要拠点の平塚川添に鉄器が無い。
つまり、狗奴国側が鉄器を全回収して撤退したわけだ。

・邪馬台国軍と交戦したのであれば、鉄鏃や戦死遺体などが出土するはず
吉野ヶ里と比べればよくわかる
・邪馬台国に素直に降伏したのなら、邪馬台国進駐軍によって鉄器が残されたはず

だが、これだけ壮大な平塚川添に鉄器が無い
銅器も、出土するのは、回収するには憚られたと思われる祭祀用のものが中心で、
基本的には狗奴国側が撤収時に回収したと思われる。
0488日本@名無史さん垢版2017/12/03(日) 16:52:17.75
狗奴国側の立場に立って、平塚川添から撤収する状況とは
どのようなものか考察してみると、
「東を落とされた」という結論に至る。

北の奴国方面から攻められた場合、
久留米の神籠石と連携して、当然のことながら普通に平塚川添で迎え撃つ。
戦闘の跡=鉄鏃が残るはず

西から攻められて、久留米を先に落とされた場合でも、
平塚川添の生命線は東の瀬戸内からの補給なので、
久留米が落ちても徹底抗戦できる。

平塚川添の価値とは、筑後と瀬戸内を連絡することで、
平塚川添の地形とは、東の日田から西の筑後へと流れる筑後川の途中にある。

倭国乱のある時期において、大分の神籠石が先に落とされた。
海洋民族アズミであるから、
陸兵でのゴリ押しではなく、水軍でスマートに攻略したのだろう。

@大分が落とされて、瀬戸内海との連携が断たれれば、
平塚川添の価値が無くなる。

A大分から日田を経て攻められると、
日田のほうが川上であり、高所であるから、
戦術的にも平塚川添は丸裸も同然。

水軍が瀬戸内海へと攻め込む。
記紀に書いてある。
0489日本@名無史さん垢版2017/12/03(日) 16:58:07.68
>>488
そこで
日田の小迫辻原遺跡ですよ
0492日本@名無史さん垢版2017/12/04(月) 08:18:02.60
それでも考古学的証拠に基づいて想定できるだけ、畿内説より九州説の方がマシ。
0493日本@名無史さん垢版2017/12/04(月) 08:26:31.04
考古学的証拠に基づいて想定してると自称する割に
考古学者が誰も賛成してないのは何故?
0494日本@名無史さん垢版2017/12/04(月) 21:56:09.32
反対している考古学者がいるなら連れて来なよw
0496日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 16:57:18.12
死ぬ前に畿内論者から九州説に変えた門脇禎二氏の本で
距離や方角はかなり適当なのでいっさい気にしないでいいくらいだと
そして『翰苑』引用された『広志』に「伊都国のすぐ南に邪馬台国がある」と

伊都国説というより伊都国のすぐ南説の方がいいのでは
0498日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 17:29:12.10
>>496
伊都国が前原付近なら、邪馬台国は高祖宮や平原遺跡の付近になるね。
0500日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 17:34:45.15
初めてスレ読んでるので消化出来てない
伊都国に代々王がいたというのと、筑紫王家というのは同じもの? 別?
筑紫王家というのは奴国?
伊都国のすぐ南の邪馬台というのが筑紫?
王家が筑紫で、行政の中心が伊都?
都庁が伊都にあるので代々筑紫王家から都庁の公邸に移住してるみたいな? もしくはそこにいつてそこで子供産む?
0501日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 17:39:19.08
>>500
筑紫と「竺紫(とくし)」は別物。   @阿波
0502日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 17:46:11.09
>>500
>伊都国に代々王がいたというのと、筑紫王家というのは同じもの? 別?

同じもの。
ただし時代によって王統が入れ替わることがある。

>筑紫王家というのは奴国?

紀元前は奴国。
紀元前後に王統が天孫族に入れ替わり伊都国が王都になる。
記紀に男王70〜80年とあるのがこれ。

>伊都国のすぐ南の邪馬台というのが筑紫?

伊都国と奴国を合わせたのが筑紫。
伊都国と奴国の間の高祖山が邪馬台国。
王宮は山麓の高祖宮。
高祖山の最高峰がクジフル山、奴国から伊都国に向かう峠が日向峠。
古事記での表記が筑紫の日向のクジフル岳の高千穂宮。
0503日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 17:48:26.05
>>502
>記紀に男王70〜80年とあるのがこれ。

間違えた。
魏志倭人伝に男王70〜80年とあるのが、記紀の日向三代(ニニギからウガヤフキアエズまで)。
宮が伊都国の筑紫日向高祖宮(高千穂宮)にあったので。
0504日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 17:48:49.95
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)

しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。   @阿波
0505日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:03:03.67
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
0506日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:03:46.02
【筑紫】

筑紫とは博多湾沿岸を中心とする、倭国で最も古い勢力である。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、
井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある(年代は暫定的なもの)。
これらの遺跡からは、全国に先駆けてすでに三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
漢により冊封された王権の象徴としてはガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作の成立と同様にこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

筑紫とは、そもそも博多湾を抑える要所である高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。
0507日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:04:51.42
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)

しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。   @阿波
0508日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:06:43.35
倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。
0509日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:07:45.18
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。
0510日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:23:29.05
>>509
>>500
筑紫と「竺紫(とくし)」は別物。   @阿波
0511日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:36:44.34
>>510
だんだん力がなくなってきたな。
0512日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 18:55:34.90
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)

しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。   @阿波
0513日本@名無史さん垢版2017/12/23(土) 20:55:54.83
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」とは、徳島県阿南市橘町周辺を指している。
その証拠に、その沖合に浮かぶ伊島には「当所神社」が鎮座しており、御祭神に奥津三神(下記)が祀られている。
・奧疎神(おきざかる)
・奧津那藝佐毘古神(おきつなぎさびこ)
・奧津甲斐辨羅神(おきつかいひべら)

面白い事に、この奥津三神は、伊邪那岐が黄泉の国から帰還した際、
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊祓をした時に、最後に産まれた神々である。
しかも、この奥津三神は、日本で唯一、伊島にのみ見られる神で、
日本の他の神社で、他に奥津三神を祀る神社は、何処にもない。
「奥津三神」 なぜ、このようなマイナーな神までを阿波のみで祀る必要があろうか?   @阿波
0514日本@名無史さん垢版2018/01/24(水) 13:57:29.40
>>513
田舎者は何でも作り出すからな。
まずは徳島の場所を覚えてもらえ。
0515日本@名無史さん垢版2018/01/24(水) 17:45:05.17
>>514
それを「負け犬の遠吠え」と言うらしいよ。  @阿波
0516日本@名無史さん垢版2018/01/25(木) 21:45:26.32
筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、墨江三前神も祭神になっています。
立花−橘、尾東−小戸、青柳−阿波岐と対応しており、青柳川から海に出るのに遠くない所。
0517日本@名無史さん垢版2018/01/25(木) 22:08:23.37
>>516
>筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、

筑紫じゃなくて、倭国(阿波)の竺紫(とくし)ね。  @阿波
0518日本@名無史さん垢版2018/01/26(金) 09:31:42.03
>>517
日向は?
0519日本@名無史さん垢版2018/01/26(金) 10:07:51.13
>>518
日向は地名じゃなくて、太陽が出る方向(阿波の東海岸)のこと。 
決して、和銅6年以降の好字地名ではないのである。  @阿波
0520日本@名無史さん垢版2018/01/26(金) 15:25:02.00
>>519
「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」の日向だけが地名じゃなくて、太陽が出る方向w
0521日本@名無史さん垢版2018/01/26(金) 17:57:13.44
徳川家康が関ヶ原の戦いにて天下に名を上げるや
我が名を松平元康から徳川に改名し
阿波藩も急遽、徳島藩とするよう命じた。(「道は阿波より始まる」岩利大閑)

この「徳川」や「徳島」という名称由来は、
仏教史書である「佛祖統紀」の彦子神武が、竺紫(とくし)城にて即位という部分や
竺紫(とくし)の日向(徳島県) の橘(阿南市)の小門の阿波岐原を由来とする可能性が高い。   @阿波
0522日本@名無史さん垢版2018/01/26(金) 19:11:57.98
>>521 出典は民明書房だな。
「関ヶ原の戦いにて天下に名を上げるや
我が名を松平元康から徳川に改名し」
もうここまででアウト。信じる人は皆無。アルツハイマーか
0523日本@名無史さん垢版2018/01/26(金) 19:27:26.68
>>522
まぁ、それはどうでもいいけど、「筑紫」と「竺紫(とくし)」を取り違えないように!  @阿波
0524日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 14:29:28.18
輸苑(魏略&廣志)
太宰府天満宮にあり最終巻の蕃夷部のみ残存している。(国宝指定)

【倭在帯方 東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種】
 倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
 海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
【従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千余里】
 帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して
 拘邪韓国に到る。七千余里
【始度一海 千余里 至對馬国 其大官卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴】
 始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、
 副いわく卑奴。良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
【南度海 至一支国 置官 至對(馬)同 地方三百里】
 南また海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
 地は三百里四方
【又度海 千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水 取之】
 また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、
 水に浮き沈みすることができるので、これを取る。
【東南五百里 到伊都国 戸万余】
 東南五百里で、伊都国に到る。万余りの戸数がある。
【置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女】
(官を)置く。いわく爾支で、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。
 その国王はみな女王に属す。
【到伊都國 又南至邪馬嘉國】※廣志から
 伊都国に到る。又、南、邪馬台国に至る。
【自帯方 至女国 万二千余里】
 帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
【自女国以北 其戸數道里 可得略載】※廣志から
 女王国より以北は、その戸数・里(距離)を略載することができる。
【女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王】
 女王国の南にまた有って狗奴国。男子を以て王と為す。
 その官いわくコウチヒコといい、女王には属さない。
0525日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 18:42:26.97
>>524
前にも言ったと思うけど、
余計な物がまざってるし、足りない物もあるしw
いいかげんな性格なのかな
0526日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 19:56:35.96
>>525は知識不十分。はったり。
わかっているならそんなことは言わずに
即座に箇所を指摘するものだ。
実際は知らないくせに。
すべて原文から引用したものだよ。それがわからない
>>525は噓つき
0527日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 19:59:13.40
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼がいたとは書いてない。女王も伊都国にはいない。
わざと誤訳して居るように主張する阿呆はいるが。
たぶん根拠を示さずに個人攻撃で黙らせる手法に出てくることだろう。
0528日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:03:34.53
【邪届伊都 傍連斯馬】※廣志から
 ななめに伊都にいたり、かたわら斯馬(糸島半島の元の島)に連なる
【到伊都國 又南至邪馬嘉國】
 伊都国に到る。又、南は邪馬嘉(邪馬台国または山鹿)に至る。
0529日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:09:42.42
輸苑(魏略&廣志)※廣志の記述を行程順に並び替えて追記
【倭在帯方 東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種】
 倭は帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
 海千里を渡るとまた国があり、みな倭種である。
【従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国 到拘邪韓国 七千余里】
 帯方より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して
 拘邪韓国に到る。七千余里
【始度一海 千余里 至對馬国 其大官卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴】
 始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、
 副いわく卑奴。良田なく、南北で交易して穀物を買い入れている。
【南度海 至一支国 置官 至對(馬)同 地方三百里】
 南また海を渡り、一支国に至る。官を置く、対馬と同じ。
 地は三百里四方
【又度海 千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水 取之】
 また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、
 水に浮き沈みすることができるので、これを取る。
【邪届伊都 傍連斯馬】※廣志から
 ななめに伊都にいたり、かたわら斯馬(糸島半島の元の島)に連なる
【東南五百里 到伊都国 戸万余】
 東南五百里で、伊都国に到着する。万余りの戸数がある。
【置 曰 爾支 副曰 洩渓觚 柄渠觚 其国王皆属王女】
(官を)置く。いわく爾支で、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。 その国王はみな女王に属す。
【到伊都國 又南至邪馬嘉國】
 伊都国に到る。又、南は邪馬嘉(邪馬台国または山鹿)に至る。
【自帯方 至女国 万二千余里】
 帯方から女王国に至るには、一万二千余里である。
【自女国以北 其戸數道里 可得略載】
 女王国より以北は、その戸数・里(距離)を略載することができる。
【女王之南 又有狗奴国 以男子為王 其官曰 拘右智卑狗 不属女王】
 女王国の南にまた有って狗奴国。男子を以て王と為す。
 その官いわくコウチヒコといい、女王には属さない。
0531日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:15:42.08
メンドクセーナー
お前みたいな半可通に教えてやってもいいことないんだよな
0532日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:18:02.32
女王国より以北は、方角や里(距離)をおおまかには述べることができる
という文を、1以上2以下は1は含むが2は含まない=女王国より以北は女王国を
含む=女王国は伊都国
というくだらない馬鹿話はカットな。言った本人は何度も繰り返して認知症みたい
0533日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:19:36.98
>>531 ほらな。根拠なし。
実際は何も文献もなく、妄想で言ってるだけで
気にいらない意見には悪口で対応。
0534日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:36:07.07
>>532
1以上2以下は1も2も含むよ。
0535日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:40:58.74
悪口言ったつもりはないぞ
ただな、ちゃんと見直せ、恥ずかしいからw
0536日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:44:01.13
>>535 またかよ。結局自分では訳ひとつも示せないわけね。
俺は全文の訳を示したというのに、おまえときたら0。
0539日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:51:22.56
魏や帯方郡の使節は、往来のたびに伊都国に必ず駐在するのに
あと2、3日で着くと思われる筑後平野の邪馬台国には行っている様子が希薄なので、
実際には伊都国を中心にして外交や内政もやっていたのではないかと思うけどね。
0540日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:52:38.91
>>538 また文句。代案をひとつも示せてない。
さっきからこの調子だな。性格なんだろう。いいかげんな性格だねまさに。
0541日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:53:11.68
>>529
> 女王国より以北は、その戸数・里(距離)を略載することができる。

つまり女王国まで魏の使いが来たから、そこまでの里程はわかるんだよ。
女王国は伊都国〜不弥国の範囲内だ。
0542日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:55:13.51
>>539
うん、そうすると卑弥呼の方から伊都まできたのかもしれない。
引きこもりに卑弥呼が来れたのだから、福岡県内が限界だよ。
畿内なんてありえない。
0543日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 20:57:00.64
>>540
あのね訳の話でなくてね
翰苑から引っ張ってきている魏略の部分に後漢書だの魏志だのがまざってるのと
引っ張り漏れてるところがあるよというだけ
0545日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 21:52:17.15
>>542 邪馬台国へは「至」を使っている。
到着の「到」を使っているのは伊都国と狗邪韓國だけ。
邪馬台国の本国は大したことがないのだろう。
0546日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 21:57:49.96
狗邪韓国は、そこから女王の領域に入るから。
伊都国は、そこが駐留するべき女王国の中心地だから。
0550日本@名無史さん垢版2018/01/27(土) 22:24:05.67
>>546 江戸幕府ができたとき、江戸が首都?には
なったが、実際には駿府(の家康)が
主導を握っていたようなものかと。

魏の後援や下賜品を使って、その威光を利用して
倭の諸国をまとめるようなこともしていたから(具体的には下賜品の配布)
奴国に隣接している伊都国が中心地としていいだろうよ
0551日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 07:32:42.99
>550
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。

倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。

延々と無意味な論争は時間の無駄。   こういう痕跡を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0552日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 07:35:52.88
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

※大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
※大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0554日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 09:57:29.72
互角ではない

2世紀末
奴国は国産鏡の配布中心
伊都国は自分だけで溜め込んだ国
0555日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 10:07:27.69
>>554
>奴国は国産鏡の配布中心

うむ。銅は全て輸入品。しかも銅って溶かす時に
半分ぐらいも「蒸発」してしまうのだという。
銅の気体を吸うと有害。

だから鏡を国産するとしても、その製造の土地は海岸近くにある方が望ましい。
原石はそれこそ何トンにもなる。
0556日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 10:48:42.67
>>554
>奴国は国産鏡の配布中心
>伊都国は自分だけで溜め込んだ国

奴国と伊都国は合わせて女王国として、強大な権力を持つ倭国の中枢だった。
0557日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:00:09.98
>>556
>奴国と伊都国は合わせて女王国として、強大な権力を持つ倭国の中枢だった。

銅鏡もいいけど、では、その女王国の「其山有丹」に該当する丹山はなんという山なのかな?  @阿波 
0558日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:10:08.04
>>556 奴国と伊都国は一緒だろう。
千戸とか戸万余とか2万戸とか
記述はあやふやだが奴国とほぼ一緒と考えた方がいい
0559日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:14:11.87
海に潜る倭の住人は、赤い入れ墨をしまくっていたんだから
ベンガラなんか一杯あったんだろ。墓内部や鳥居もこの赤色で塗る。
阿蘇で大量に産出。
0560日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:15:56.48
一応別の名前が付いているので
国としては別の国だろう。

ただし、糸島は博多湾の入り口に位置し
船での交易を支配できる場所なので
友好的関係だった事は推測できる。

というか敵対的な関係だったら
糸島の国は滅亡してただろうし。
0561日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:16:28.87
その昔「阿蘇黄土(リモナイト)」の魅力に魅せられた女性がいたといわれています。
邪馬台国の女王「卑弥呼」です。その倭王卑弥呼から、魏へ贈られた献上品に「丹」が
名を連ねている記憶が今も残っています。「丹」とは、倭国の人々に「献上品」や「呪
術の儀式」「日常の装飾」幅広く用いられていた鉄丹「ベンガラ」を意味しています。
また、中国では「不老不死の秘薬」として「丹」を珍重し活用していたと言われていま
す。
月日は流れ昭和54年ごろから、阿蘇町一帯の弥生時代の古墳で石室や石棺から大量の
ベンガラ「鉄丹」が発見されました。この膨大な量のベンガラを、古代の人々はどこで
手に入れたのでしょうか。それこそが、阿蘇の大自然の恵み「阿蘇黄土(リモナイト)
でした。リモナイトを加熱すると主成分の鉄分が、たちまちふかみのある赤褐色へと色
を変えます。阿蘇一帯では防腐効果、殺菌効果として館や鳥居などに用いられていました。
「邪馬台国の九州説と魏志倭伝」「弥生時代の古墳から発見されたベンガラ」「阿蘇
黄土・リモナイト」は深く関わっているという説も唱えられています。そして現在、長い
時を経た今でも、阿蘇黄土「リモナイト」は「自然の恵み」「命の土」として愛されています。
http://www.limonic.co.jp/what/rekisi.html
0562日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:18:52.83
記紀を読むと、奴国の王である猿田彦から伊都に降臨したニニギに禅譲したようにも読めるし、奴国の王が大山祇だとしても、ニニギと婚姻している。
奴国と伊都国は敵対していない。
ワシントンとニューヨークのようなもの。
伊都国が政治、軍事、外交の王都、奴国が商都博多。
0563日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:18:52.94
北部九州が一番朱丹を利用してた。
輸入丹もベンガラも利用してたし、
各地から買い入れたこともあっただろうね。
0565日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:20:46.62
北部九州は出土品における丹の量が抜きん出ている。
平原遺跡も、棺の中の丹が流れ出て発見された。
0567日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:21:30.62
>>564
別だが、あわせて首都圏だね。
0568日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:21:35.67
>>562 なるほど
伊都国が政治、軍事、外交の王都、奴国が商都博多。
ワシントンとニューヨークのようなもの。
0569日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:22:51.60
>>565
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。   @阿波
0570日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:26:12.19
奴国の伊都国をあわせて筑紫の日向。
これが記紀にある神代の王都。
中心にあるのはクジフル山(高祖山の最高峰)と高祖宮、そして平原遺跡。
またの名を高千穂宮。
0571日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:30:28.32
倭人伝によると
倭国内で丹が出るのに
下賜品に真朱をもらっているわけで

国内産は品質が低いか、生産量が少ないと思われ、
また、倭国内の需要が大きく、
いくらあっても足りない状況
であったと思われます。

この状況は丹が多く使用されている
北部九州が当てはまるでしょうね。
0572日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:33:36.42
>>571
丹山が無くて、その地産の丹を使っていないところは邪馬台国論争の資格無し。   @阿波
0573日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:38:11.16
>>572
どこか九州の遺跡で九州産水銀朱使ってるとこないの?

どこかあればまた、九州説の可能性も考えられるだろうに・・・  @阿波 
0574日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 11:54:32.05
>>571
真朱って、それ真珠だから。淡水真珠。
倭国内で真珠が出るのに
下賜品に真珠をもらっているわけで変。
たぶん魏の皇帝は、倭の特産品がまだよくわかっていなかったのだろう。
0575日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 13:19:14.63
真朱50斤ならともかく
真珠50斤は無理ではないでしょうか?
0576日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 13:24:02.97
古代の斤で226グラムだそうですから
50斤だと10kg強ですね。
0577日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 14:07:05.89
真珠は無理だな。
真朱だ。
平原遺跡などに使われていた。
0578日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 14:07:23.57
>>575
そう、だから真珠は真朱と解釈される事が多いね
倭人伝には「丹」は山に有る、という意味だけだし、「丹」の解釈は、水銀朱にかぎらないからね
0579日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 15:02:27.18
「丹」の種類

鉄丹・・・・身体塗付は健康に有効 健康増進作用有
鉛丹・・・・身体塗付に毒性有 鉛中毒
水銀丹・・・身体塗付に猛毒性有 水銀中毒
0581日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 15:28:02.10
死者に使うものだから。

というのは冗談で、始皇帝以来の神仙思想によるものだろうね。
0582日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 15:29:57.37
赤は「彩る」という行為の原初から、必須の色だったようです。日本でも、鳥居や
寺院の柱や戸、町屋の格子や壁、仏像、また、縄文時代の土器や土偶の多くは、元
来赤く塗られていたと考えられています。
最古の顔料のひとつと言われる赤の着色原料「ベンガラ」は、地球上の物質のなか
で最も多い「鉄」の酸化物を主成分とし、色落ちしにくく、防腐・防虫効果もある
ことから、江戸から昭和初期には日本各地で木造建築の建具や軒先、壁などに塗ら
れていました。
http://newsrelease.lixil.co.jp/news/2015/100_culture_0320_01.html

ベンガラの欠点は彩度が低いこと。彩度の低い赤褐色のものも多い。
山鹿市2009年の出土例23点のうちでは、ベンガラ21点、水銀朱2点。
魏志倭人伝には、山から丹が出ることが明記されており、
阿蘇のカルデラ内には多量のベンガラが出土する弥生遺跡が確認されている。
0584日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 15:43:30.43
丹生都比売は 九州の伊都の国(現在の福岡県糸島郡や前原市)で誕生したという。
これらの伝えをつき合わせると 日本列島における水銀鉱業は九州の博多湾近郊で始まり 中央構造線にそって東進開発し 紀伊で最も盛んになったということになる。
この博多湾周辺と紀伊の丹生都比売神社周辺の地名を拾ってみると 九州には伊都の国と博多の那珂 それに安曇族の根拠地志賀島があるが 
一方 丹生都比売神社は 和歌山県の伊都郡かつらぎ町にあり 同町に志賀があり また 伊都郡の隣に那賀郡があるように 
伊都・那珂・志賀の地名が 丹生都比売の誕生地ともいわれる博多周辺と 丹生都比売神社総本社周辺とに共通して在る。

ttps://ameblo.jp/314416tg/entry-11931526120.html
0585日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 16:53:46.38
>>582
>阿蘇のカルデラ内には多量のベンガラが出土する弥生遺跡が確認されている。

「阿蘇黄土・リモナイト・沼鉄鉱」はベンガラの原材料で、現在も阿蘇で採掘されています。
>>http://www.limonic.co.jp/what/rekisi.html

太平洋戦争末期には、リモナイトは製鉄の原材料として鉄鉱石の代替えとしても使われました。
0586日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 17:16:34.56
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國
次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國
次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國

上記のうち、佐賀県人からの指摘として、上記3行目のところは佐賀県内の地名が
連続して出ていると指摘があった。

次に対蘇国有り、次に蘇奴国有り、次に呼邑国有り
  ↓
対蘇国=とす(現在、鳥栖市=とす市) 蘇奴国(サガ?) 呼邑国=オギ=小城(現在も おぎ と読む)

遠方で不詳の国名を言うときは、近いところから順番に言うだろうから
これは有力。
0587日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 17:32:52.84
吉野ヶ里って、もろに筑後平野にある。
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/type_tomoe_yarimizo.htm
このサイトの地図に、吉野ヶ里遺跡の位置がある。
対蘇国(鳥栖市?とす)呼邑国(小城市?おぎ)のすぐ近く。遠方でわからないというのだから、
巳百支國も杷木町(はき まち)とすると、
邪馬台国はこれら3国よりは太宰府に近いあたりということになる。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tsukushi_Plain_Relief_Map,_SRTM-1.jpg
筑後平野の右上あたり。
0588日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 17:32:54.92
>>584
どこか九州の遺跡で九州産水銀朱使ってるとこないの?

どこかあればまた、九州説の可能性も考えられるだろうに・・・  @阿波 
0589日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 17:46:06.54
>>579
倭人伝に出てくる倭人が身体に塗っていた朱丹は鉄丹(ベンガラ)ですね
水銀の朱や丹とか体に塗ってたら病気になって死んでしまう
>>582
鳥居や寺院の柱や戸、町屋の格子や壁、仏像なら人が余り触れないですね
しかも一部にしか使われていないようですね
殆どはベンガラですね。
>>578
真珠50斤は真朱50斤の誤記との解釈が定説ですね。
0590日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 18:06:38.86
>>589
水銀の朱の方が鮮明な赤さじゃないかな?
それは人が余り触れない道具に塗ればいい。
食器に塗ったら病気になってしまう。
0594日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 18:43:27.72
九州北部に多い装飾古墳ですね。
これこそ倭王の墓です。
0596日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 18:50:47.80
>>595
>茨城県にある虎塚古墳だよ。

関東へ進出した関東忌部の古墳ですね。  @阿波
0597日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 19:08:07.08
まじか!
茨城に何があったんだ!
0598日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 19:14:56.21
茨城県新治(にいはり)郡新治村の 鷲神社 は社殿が平成7年に焼失したが氏子の寄付により平成11年に社殿を復興。ご神体に徳島の忌部神社から分祀を依頼。鷲神社再建竣工記念碑には「本宮四国徳島市忌部神社」とある。

茨城県結城(ゆうき)市小森の 大桑神社 の社伝には「古代,東国に養蚕・織物を伝えたとされる阿波斎部が,稚産霊尊(ワカムスビノミコト)を祭神として,北方の大水河原に創建,この辺り一帯を大桑郷と名付けた」とある。

◇栃木県小山市栗宮の式内社 安房神社 の祭神は天太玉命。
◇栃木県小山市萓橋の 日鷲神社 の祭神は天日鷲命。
◇栃木県下都賀郡石橋町橋本の 鷲宮神社 は天日鷲命。
◇栃木県佐野市「鷲神社」
東京都浅草「鷲神社」
茨城県那珂市静「静神社」  @阿波
0599日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 21:52:54.17
ざっと読ませてもらったが、日向について
おまえらにイイことを教えてやろう
卑弥呼の本当の読みは、ヒムカだ
松本清張と言語学者長田の説だ
0600日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 22:45:24.09
ナイスな説だ。
筑紫の日向にいる日向様か。
まさに平原遺跡に眠る女王にふさわしいな。
0602日本@名無史さん垢版2018/01/28(日) 22:54:04.47
お花畑はキナイセツだろ。
瀬戸内海賊の娘をお花畑で共立したって。
違うか?
0603日本@名無史さん垢版2018/01/29(月) 19:16:37.57
東京都伊豆諸島 神津島に阿波命が祀られている。  これも、黒潮に乗って阿波から進出した関東忌部が残した痕跡である。

千葉県成田市台方の式内社「麻賀多神社」は麻が社紋。

千葉県印旛(いんば)郡栄町の 大鷲神社 天乃日鷲尊を祀り、社殿天井に「金の鷲」が取り付けられている。社伝によると「天乃日鷲尊はその子孫代々麻植の神として神功があり,麻に係りのある当地においても祭神となっております」という。  @阿波
0604日本@名無史さん垢版2018/01/29(月) 19:21:51.85
阿波忌部が上陸した地・千葉県館山市布良の 布良崎神社 (祭神:天富命)周辺に「神余」(かなまる)という地名があり,これは安房神社に奉仕する忌部神戸が増えてあふれた人達が新しく開拓したことに由来する。「安房神戸(あわかんべ)」という地名もある。
千葉県勝浦市浜勝浦の 遠見岬神社 の宮司歴代の墓碑には「勝占忌部」と書かれている。 阿波忌部の後裔である。

千葉県館山市大神宮の式内大社 安房神社 は天富命が祖父・天太玉命を祀った神社。
宮司の安房忌部系図には,天富命の娘の飯長媛(イイナガヒメ)と天日鷲命の孫である由布津主命(ユフツヌシノミコト)とが結婚して,堅田主命(訶多多主命)を生んで安房忌部の祖としている。
神社境内には「忌部塚」と呼ばれる弥生以前の洞窟遺跡もあり,阿波忌部の先遣隊の塚であろう。  @阿波
0605日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 14:52:55.37
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

CGR0A
0606日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 18:25:08.45
たしかにニニギは日向に天下ってからコノハナサクヤヒメに出会っているから、
オオヤマツミは日向にいたことになるね。

だがそもそもオオクニヌシに国を譲ってもらってニニギが日向に天下ったのだから
ニニギの直前に日向(を含む北部九州)を治めていたのはオオクニヌシということになる。

となると、オオヤマツミはオオクニヌシの配下になっていたということなのだろうか。
0607日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 18:39:45.95
痕跡のない妄想はそれくらいにして、
高天原(剣山系山岳集落)から降臨したところに鎮座する邇邇芸命(ニニギノ命)神陵跡
磐境神明神社(いわさかしんめいじんじゃ) http://sueyasumas.exblog.jp/7300075/

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0608日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 19:15:23.27
>>606
大山祇は陸上の神の意味だが、綿津見の神すなわち海の神でもある。
他にも同時期に猿田彦が海と陸にまたがり支配する神として登場する。
そして陸上を支配する神である大国主と海上を支配する神であるアマテラス。
性格が被りまくっている。
0609日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 19:16:38.68
大山祇もイザナギの直系とされているので、大国主と比べて下というはずはない。
だが、大国主がどこにいたのかを含めて、謎が多い。
0610日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 20:00:27.90
@阿波は痕跡のない妄想ばっかり言うから嫌。知ったかする割りは間違いが多い。
0611日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 21:07:09.97
阿波では古来より、県西部の剣山系山岳集落を指して「空・ソラ」と呼ぶ。 まさに、高天原「空・ソラ」の地である。

倭国(阿波)には、一宇村に「天磐戸神社」  神山町に「天岩戸立岩神社」 2社が鎮座している。

いずれも、いかにも高天原然とした山深い処である。  @阿波

一宇村 「天磐戸神社」 http://ohara98jp.exblog.jp/23714547/

神山町 「天岩戸立岩神社」 http://yukitukihana.jimdo.com/%E3%81%94%E8%BF%91%E6%89%80%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E5%A4%A9%E5%B2%A9%E6%88%B8%E7%AB%8B%E5%B2%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE/
0612日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 22:19:58.04
>>608
大山祇は稲作ベースで結果的には瀬戸内海に納まっている
対する綿津見は志賀島を根源とする海龍神

どちらも全国展開しているが、明らかに性格は異なる

猿田彦は大国主配下の忍者の印象
0613日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 22:48:27.89
北部九州に倭国があって
邪馬台国と狗奴国に分裂して倭国主導権を争った

女王卑弥呼は平原遺跡女王墓に埋葬されて
邪馬台国は女王台与の時に狗奴国を滅ぼした
0614日本@名無史さん垢版2018/01/30(火) 23:21:26.62
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0615日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 00:03:08.34
大山祇はなにげにすごいよな

スサノオが出雲に行ったら
大山祇の孫夫婦が先に植民していて
その娘がスサノオの嫁になる

ニニギが日向に行ったら
大山祇の娘がそこにいて
ニニギの嫁になる

どんだけ広い範囲に
どんだけ長い期間
存在していたんだよと小一時間問い詰めたい
0616日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 01:38:43.33
>>615
海洋民族(スサノオやニニギ、天皇家の祖先)に対しての「山の民」だろ

海洋民族が海外の技術や金属器を持って山を開拓していき
現地の王族と政略結婚しながら服属させていった

その各地の山の民の王を「大山ツミ」って総称して呼んだだけ
0617日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 06:27:44.10
>>616
なるほど各地に山の民の王がいたわけだな
大国主はどちらかというと山の民の出身なわけかな?
0618日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 07:15:31.56
>>617
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社のタケミナトミ神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。

平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社やタケミナトミ神社等の神社は、阿波にしかない。   @阿波
0619日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 07:21:12.82
>>612
>猿田彦は大国主配下の忍者の印象

なんだよ忍者ってw
0620日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 07:22:53.52
>>613
狗奴国を滅ぼしたというか、卑弥呼が死んで家督相続問題が再燃して、壹與に収まったんだろ。
13歳では当事者能力は甚だ疑問。
0621日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 07:24:49.38
>>615
陸上の主という点で大国主と性格がかぶるよね。
実は大国主は代々の女系相続の称号で、スサノヲもニニギも婿入りしたのでは?
0622日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 07:31:38.81
>>617
国とつくから、大国主は陸上の王、国津神だね。
奇稲田姫の母親の名前(テナヅチ)も伝わっているくらいだし。

倭国は海上と陸上のそれぞれに王がいたんだよ。
アマテラスに対する大国主、海幸に対する山幸。

あと、今気がついたが、ヤマタノオロチは山田の大蛇かな?
九州の地名が入っていることになる。
0624日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 07:55:03.90
徳島県美馬市美馬町にある「玉振神社」。

主祭神は、玉振姫命・大己貴命で、美馬市美馬町宗重部落のほぼ中央にある。
すぐ東には四国最大級の巨石墳(円墳)の「段の塚穴古墳」があり、西には白鳳時代の寺院跡の「郡里廃寺跡」がある。
この社はもと正部神社の祭神、清姫霊神の侍女、玉振姫霊神を祀っていたといわれている。
延宝五年(1677)に大己貴命を宗重部落の氏神として合祀し、鎮座したものだそうだ。
この美馬町は、吉野川中流域にあり「倭地」なのである。
美万岐に入り込んで美万岐に居を定め、師木水垣宮を宮殿にしたと伝えられている。
この「所知初国之御真木天皇(はつくにしらすみまきのすめらみこと)」は「崇神天皇」のことなのである。
この師木水垣宮の御宇に疫病がはやり、多くの人民が死ぬという大変な出来事が起こっている。
大国主命に近い埴夜須比賣命の一族を討亡した祟りと考えて恐れられたとも考えられ、後世の贈名でも祟神(たたりがみ)の天皇となっている。
また、大国主命の長男「阿遅志貴高日子根神」(加茂の丹田古墳が神陵)の真系であり、美万郡美農郷に居をかまえ、xx
大田村や種穂山一帯を支配する大人大田々根子(うしおおたたねこ)をわざわざ呼び出し、大田々根子を神主として大御倭の大神(大国主命)を拝祀させ、
伊加々志男命をして「倭大国魂、倭大国敷両神宮」を建立させた。

崇神天皇の謚号のとおり、崇神紀には天照大御神や倭大国魂神社の祭祀、天神地神、神地・神戸を定め、
供物の定義等のほか「玉振」として大田田根子や市磯長尾市が求められるなど、神祇制度の起源説話ととれる記事が集中している。

この「玉振神社」は「玉振り」として求められた淳名城入姫命が祀られていたものと思われる。  @阿波
0625日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 08:49:32.06
八幡はもう少し後の地名に思えるな。
0626日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 11:39:42.80
記紀には崇神紀七年、「大田田根子」を大物主大神の祭主とし、翌八年には高橋邑の「活日」を大神(オオミワ)の掌酒(サカビト)にすると記されている。

その大神とは「大物主大神」を指し、祭主となった大田田根子の「祭祀場」と掌酒を分担した活日の「高橋邑」は近接していたことになる。

阿波国旧美馬郡にある「段の塚穴型石室」といわれる特異な石室構造をもつ古墳は、分布範囲がほぼ旧美馬郡に限られており、段の塚穴の2基のみでなく、旧美馬郡の範囲の古墳に共通してみられる特徴である。

その吉野川北岸美馬郡美馬町「段の塚穴」の南対岸 貞光町に「太田」と「高橋」の地名が並んで残っている。 尚且つ、日本唯一社「倭大国魂神社」が旧美馬郡美馬町に存在している。

「大田田根子」は「大国主命」の五世孫とされ、崇神天皇は河内の美努村(ミノノムラ)から「大田田根子」を探し求めたとされる。

この「河内の美努村」とは「三好郡美野郷」のことで、現在の三野町にあたる。

また日本書紀では「陶邑(スエムラ)から大田田根子を得た」とあるが、これは「三好郡美野郷」三野町の吉野川対岸に位置する三加茂町、その下流の半田町が「陶邑」と考えられる。

半田(ハンダ)は植田(ハニタ)が変化したもの。 これは陶器や埴輪、瓦をつくる邑の意味になる。

このように「太田田根子」にまつわる伝承は、阿波の地名や伝承、そして「倭大国魂神社」が、現に美馬郡に鎮座していることから裏付けられるのである。   @阿波
0627日本@名無史さん垢版2018/01/31(水) 20:45:57.12
八幡は応神期だからずっと後
0628日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 00:03:48.08
【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。

その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。

この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになる。

いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。
0629日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 02:59:39.34
アマテラスとスサノオが、九州生まれなのだから、機内=高天腹はムリ過ぎw
0630日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:02:48.45
九州の朝鮮人は黙ってろ
と言われた事がない?
0631日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:07:28.98
なぜか数年前のkpopのスレ

チェッカーズが何やらとか、
その後・・・チェーンソーのゲーム

似ている感じの曲があるのかな?
0632日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:09:20.20
ラルクというバンド?

どういう事になっているんだと思う、
同じような曲があるのかな、雰囲気の似ている曲とか
0633日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:17:37.62
よく九州とか博多が何やらと言っている人がいるけど

どこの雑魚なんだ?
0634日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:21:01.75
他のスレにも書いているんだけど
珍走団か、何かなのか?

自分たちの出番がないので、
いちいち絡んで来ようとする雑魚がいるでしょ

そういう存在
0635日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:36:35.35
それと戦国時代?
大名などがいるけど、
ほとんど自称のような事が書いてあったり

出自なども、
某氏の家から出た・・・と勝手に名乗っているだけとか
0636日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 03:45:32.07
他のスレにも書いている事なんだけど

頭の病院か、
刑務所にでも行ったほうが良いんじゃないのか?
0637日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 11:35:16.29
やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci

この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです

掻い摘んで説明すると

・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
 90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた

・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
 防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった

・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
 創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
 防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった

・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
 不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった

・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
 私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
 防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
 ※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る

・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った

つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕

詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/
0638日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 18:46:52.06
末蘆国から不弥国まで東に進んでいますね。文献報告は博多湾東岸まで至っている。

しかし魏使は伊都に滞在し、
考古学的にわかっている奴国の弥生銀座の描写は無いのだから
伊都より東には行っていないわけです。

つまり、奴国から先は全て伝聞。
不弥国から反時計回りに記載されたのは全て伝聞情報。

斯馬國:不弥国から糸島の「島」=旧怡土郡と志摩郡の志摩
巳百支國:伊万里
伊邪國:伊佐早=諫早
ここまでは海路から確定される部分でしょう。

次いで確定されるのが、阿蘇山=熊本に面する地名。
狗奴国とは筑後久留米を本拠とする国ですから、(>>478-482
久留米を含むのであれば、当時でも「狗」のつく国が入っている筈。

傍国に「狗」が入っていないのですから、久留米の北辺をなぞることになり、
阿蘇への陸路から確定されるのは、
對蘇、有蘇奴、有呼邑、華奴蘇奴=鳥栖〜朝倉の遺跡群

消去法で、吉野ヶ里は、都支〜姐奴のどこか後ろのほう

不弥国に近接する支惟國=香椎は、異論を唱える方がむしろ説明すべき

女王国から海を渡って東の倭種に到達するから、
宗像など豊前地域を入れなければならず、
そうなると鬼國〜巴利國をそこに充てることになる。
0639日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 18:51:52.47
数年前の九州スレ

お前は王族か何かなのか?
と言っている人がいたけど

モンスターハンターの宣伝(CM)の話なのかな、
CMに出演していた芸能人、九州の人と書いてない?
0640日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 18:54:57.97
久留米を落としていれば、
当時の久留米の呼称である「狗」〇國が記載されたでしょうね。
あるいは久留米=狗奴国だった可能性もありますが。
0641日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 18:55:21.23
下の名前

モレ(仮)と同じ名前なんだけど
「弟だよ」(二男)と言っていたり

あと浅野(セメント)と関係しているとか?
0642日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:08:47.46
それにしても、おかしいんだよな

モンハンというゲームに、
ピカチュウのようなモンスターが出てきたり

雷獣のようなモンスター、
何かの・・・・・・・・系統が違うのかな?
0643日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:11:44.18
「サトシ」
このような名前の人物がCM(宣伝)をしていたり
0644日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:14:22.48
ポケモンという作品があるでしょ、
サトシのパートナー(相棒)

雷獣?
0645日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:16:23.30
>>628
つまり東征は幾度も何波にもわたって行われたわけですな
方形周溝墓や環濠集落、青銅器製作などを伴うのは全て北部九州倭人の東征

逆に考えると、
それらを伴わない集落遺跡があるのかというと、
非常に乏しいわけです
0646日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:17:11.93
『モンスターハンター  雷獣』

 退治したりする作品
0647日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:28:10.09
『アマツ マガツ』『天津 マガツヒ』

このようなモンスターも出てくる
0649日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 19:39:42.77
>>645
土壙墓も甕棺墓も木棺墓も石棺墓も配石墓も方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳もあるのは倭国(阿波)だけ。   @阿波
0650日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 20:20:47.81
『越中国』?

『広瀬座』
ここに保存されいる家があるでしょ?
同じ家なのかな
0652日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 21:33:41.76
>>651
そうだね。 ごめんよ。 だけど、仕方ないんだよ。 事実はどうしようもないから。  @阿波
0653日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 22:00:36.31
北部九州との共通点を伴わない
つまりは
縄文から真っすぐ成長したと思われる遺跡ってあるかな?

縄文人が稲作を学んで大きくなりましたよ、って遺跡
0654日本@名無史さん垢版2018/02/01(木) 22:11:19.55
>>653
倭国(阿波)には、縄文遺跡は他にもあるけど、取り合えず
徳島県阿南市長生町宮ノ本
宮ノ本遺跡:縄文時代晩期から弥生時代前期の集落遺跡  @阿波
0655日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 00:54:46.66
稲作自体が九州北部から広まったからね。
北海道のアイヌならあるだろうよ。
0656日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 18:30:10.75
米はストックできるから農耕民が入植してくると
土着の狩猟採集民は数で圧倒されて消えていくか農耕民に吸収されるか
だから弥生時代は最初から九州から全てが波及したということになる
0657日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 18:31:35.99
弥生時代そのものが、九州北部の稲作文化が伝播して倭国王権が確立された時代のことだと思うよ。
0658日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 18:32:26.80
鉄もそうだが
銅鐸だってあんな大きな青銅器を作る時点で
北部九州と懇意にしていないと原料が手に入らないわけだ
銅鐸を使っていたのもまた北部九州系のいわゆる倭種
成分分析でも共通してることだし
0659日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 18:43:47.52
>>658
>北部九州と懇意にしていないと原料が手に入らないわけだ

筑紫忌部が倭国(阿波)へ段取り付けてたんですよ。 伊都国(直方)の一大率を使ってね。  @阿波
0660日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 21:22:03.80
灌漑とかも一気に拡散するし
新技術が北部九州に登場するたびに
それを持った人たちが波状的に全国に植民していく感じかね
0661日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 21:31:22.11
今日まで、各地に伝承・痕跡を数多く残した阿波の「忌部一族」のように、

畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波
0662日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 21:33:10.61
>>660
そうだね。
波状的に九州から誰かが東征したんだね。
0663日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 21:49:05.12
北部九州から各地に散っていった同胞を
少しずつ回収して版図に加えながら領土拡大していった感じかね
0664日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 22:13:47.81
第一波の北部九州人が東へ植民する

第二波の北部九州人が東へ植民する時には
第一波の人たちとうまくいっただろうか

第二波の北部九州人と第一波の北部九州人がなんとか和解したころに
第三波の北部九州人がやってくる

新技術でもって湿地を灌漑して土地を切り開くのはいいが
それまでにいた第一波や第二波の人たちは
それを見ながらどう思っただろうか

第二波ニギハヤヒと第三波ジンムは手打ちしたが
第一波ナガスネヒコは・・・
0665日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 22:17:22.03
>>664
残念ながら、畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波
0666日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 23:14:09.98
各地に植民した北部九州人は集落を形成していく

故郷である北部九州倭国の倭国王の支配下に入れば
鉄器が分布する

とってもわかりやすい考古学だね
0667日本@名無史さん垢版2018/02/02(金) 23:21:39.94
北部九州から植民した集落にとって
脅威になるのは
同じく北部九州から植民した勢力のみ
0668日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 00:18:31.41
ナガスネヒコの実家の葛城登美の鴨王家も、後々まで栄えている。
ナガスネヒコの姪が神武の妃となる。
0669日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 07:01:14.39
>>666-668

残念ながら、畿内や九州から全国へ進出した「忌部一族」に代わるような部族は認められない。  @阿波
0670日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 07:58:32.75
>>668
第何波かはわからんがオオクニヌシが北部九州で敗北して
その眷属が畿内に落ち延びて頼った親族がナガスネヒコなど鴨家だろうね
この頃は畿内はまだ北部九州倭国の支配下になく
記紀にあるように中小の邑があっただけ

その次の波がニギハヤヒ天磐舟でこれがナガスネヒコと手を組んで
「大阪湾など沿岸部」を倭国支配下に入れていった
逆にナガスネヒコは内陸を制圧してオオモノヌシとして君臨する
元はオオクニヌシの子孫だから従う邑も多かったのだろう
対するニギハヤヒの畿内子孫がモノノベ

さらにその3代くらい後に波があって
倭国乱によって倭国が邪馬台国側と狗奴国側に分かれて戦い、
オオモノヌシとモノノベは狗奴国側について戦ったが、
九州倭国本国で狗奴国が敗戦して熊本まで撤退し、
邪馬台国軍が畿内まで到達したのを見て、モノノベが寝返り、
「畿内内陸」も倭国配下となった

モノノベはそのまま畿内での倭国支配官や主要施設を警護する役に納まって、
その後の北部九州倭国による畿内開発にうまく乗って繁栄したのだろう
0673日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 08:12:10.62
北部九州の王だったオオクニヌシの子孫が畿内へ落ち延びたのなら
銅鐸の同笵関係も説明がつくが敗者なら原料をどうしたのか
北部九州に残る知り合いが流してくれたとでも言うのか
0674日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 08:25:59.64
>オオモノヌシとモノノベは狗奴国側について戦ったが、

つまり瀬戸内〜畿内は狗奴国側

一方の日本海沿岸は紀元前から北部九州倭国の支配下にあり、
その主要中枢である丹後半島には
ニギハヤヒの九州子孫がいて女王を輩出したのだろう
3世紀のしかも倭国だからオシホミミで男系条件を満たしていた
0675日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 08:31:18.37
>>674
邪馬台国はどこなんだよ。
0676日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 08:33:17.03
大阪湾の開拓者は三島の神だよ。
長髄彦の祖父にあたる。
0677日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 08:33:39.41
>>675
筑前豊前肥前+壱岐対馬
0679日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 08:46:26.98
>>677
賛成!
0680日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 12:11:09.59
筑前・豊前・豊後は大陸から倭国(阿波)への往路で発展し、

肥前・筑後は倭国(阿波)から大陸への復路で発展したんだろう。  @阿波
0681日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 12:47:33.24
肥前が泡とつながるわけない。
そもそも泡にその時代の遺跡が乏しい。
四国全体が、九州北部と比較して遺跡に乏しい。
0682日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 12:53:43.15
>>681
>そもそも泡にその時代の遺跡が乏しい。
>四国全体が、九州北部と比較して遺跡に乏しい。

無知・無学  井の中の蛙大海を知らず  @阿波
0683日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:26:33.79
甕棺が鍵だなあ

方形周溝墓など
さんざん文化を輸出した北部九州から、
なんで甕棺墓だけは出ていかなかったのか?
0684日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:30:07.17
>>683
【甕棺墓】も土壙墓も木棺墓も石棺墓も配石墓も方形周溝墓も円形周溝墓も円墳も前方後方墳も前方後円墳もあるのは倭国(阿波)だけ。   @阿波
0685日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:32:40.00
甕棺墓も方形周溝墓も、数は少ないけど
ほぼ全国から出てくるよ。

多い少ないは各地の習慣と好みだろうけど。
0686日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:34:02.07
>>684
数はともかく種類は北部九州並だね。
0687日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:36:23.77
>>685
甕棺墓が出てくるのは縄文時代でしょ?

方形周溝墓は全国から出てくるけど、
出土品から考えると北部九州からの植民

と考えると、
甕棺墓は実は
縄文人の名残り?
0688日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:41:40.09
>>687
基本的に九州は暖かいので、冬に葉を
落とす樹木が少なく、冬に
乾燥しないので森林を利用しにくい。

狩猟採集を主とする縄文人は
九州はあまり多くないね。

九州の縄文遺跡は海に近いところに多い。
とは言え、福岡県では110遺跡くらいあるようだけどね。
0689日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:52:03.55
>>687
甕棺も弥生人の一種だろ。
主要部族ではなかっただけで。
0690日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 19:59:50.33
うーん

九州にも縄文人はいたよ。

縄文時代は4mくらい海が高くて、
今の海岸線よりずっと内陸側に貝塚が出土している

縄文時代の女シャーマンの遺物も出土しているから、
卑弥呼に繋がる九州の女酋長は、縄文期から続いている可能性も高い

九州に縄文人が少ないとする理由としては、
やはり阿蘇などの破局噴火を理由にすればいいんだけど
たぶんそうじゃない

甕棺を自生とするか伝来とするかで話は全く違ってくるけど

それでもなんで出ていかなかったのか
0692日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 20:16:32.45
弥生甕棺墓は北部九州にしかないし
北部九州から出ていかなかったのに
倭国乱を契機に一気に消滅したから
それが何を意味するのかを考えている
0693日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 20:34:55.48
>>692
>弥生甕棺墓は北部九州にしかないし

倭国(阿波)の庄・蔵本遺跡(弥生集落遺跡)のもあるよ  @阿波
甕棺墓        
石蓋木棺墓
箱式石棺墓           
配石木棺墓      
木棺直葬墓        
土壙墓 


     
0695日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 20:42:05.08
佐賀にも4世紀くらいの
鏡が副葬された甕棺墓があったね。
0697日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 20:59:12.12
平原女王墓が240年前後ということで、
明かな基準点ができたな
0698日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 21:42:23.67
そういや畿内説が
平原遺跡に向けて王墓が収束して衰退していくと言っていたのが
懐かしいw

そりゃそうだ

倭国乱で王墓を作る余裕なんてなくなって
しかも長期政権の卑弥呼だから
その間は王墓なんて作られなくって
数十年間溜まりに溜まったのが集積したのが
平原卑弥呼女王墓の財宝の数々

そりゃそうだわなw
0699日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:21:05.85
昭和の初めでも九州には地域によっては甕棺を使っていたところがあるとかないとか。
0700日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:22:01.20
平原遺跡1号墓
0701日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:22:27.65
>>699
ま、まじ?
0702日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:24:14.17
>>699
ねーよw
0704日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:49:21.94
甕棺は縄文時代からあったのなら、
数少ない縄文からの継承の名残りなのか?
0705日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:50:38.30
弥生人だとは思うけど、別種なんだろ。
0706日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 22:55:27.68
北部九州だと女巫女祭祀は縄文時代から続いているんだよね
渡来人によって最新技術がインストールされたのは確実だけど
母体は縄文と共通する部分があることは否定できない
0707日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 23:35:30.75
卑弥呼台与もそうだし
国宝宗像三女神
神夏磯姫や田油津姫、八女津姫
神功皇后
までくれば
北部九州に女首長文化があったことは確実だな

畿内説の孝霊だったかが
「畿内にはモモソヒメがいるけど九州には女性首長の文化はありませんから」
と断言して、
リアルで噴いたのが懐かしい
0708日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 23:35:37.75
磐座における巫女祭祀と、中国から来た銅鏡文化が伊都で合流して、伊勢につながる初期の神道を形成したのだな。
0709日本@名無史さん垢版2018/02/03(土) 23:47:30.28
神代の天神族が縄文以来の人々で、
大国主が燕から秦に押されて来た亡命集団
と考えれば、
まあそれまでも自力で海外文化を摂取して発展していたけど、
突如としてブーストしたのが説明着くんだけどね

その場合、やっぱり甕棺墓が渡来人になるけど
0710日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 00:26:18.88
天神族は有無の向こうから来るし、出雲より後に政権を取った一族だよ。
0711日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 00:36:56.62
島根は青銅器の大量出土はあったけど、
肝心の集落遺跡や王墓が無いんだよね
現代では過疎県だから、まだ見つかってない可能性はあるけど
現時点では島根には弥生時代に政権は無かったと考えるしかない

文献史学から出雲に意味を持たせるとしたら、
出雲が本来は島根じゃなかったか、
もしくは島根にまだ見つかっていない大規模集落遺跡や王墓が眠っているか
0712日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 00:46:34.59
西谷墳墓群あるじゃん
0713日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 07:14:07.39
>>707
>北部九州に女首長文化があったことは確実だな

倭国(阿波)に女首長文化があったことは確実だな。  九州にあるものは大抵倭国(阿波)にもある。  丹山もね。

徳島県埋蔵文化財センターは、徳島市八万町の犬山天神山古墳から新たに4基の箱式石棺と、
うち1基から残り具合が良好な身長150cm程度の50代後半以上とみられる女性の埋葬人骨(5世紀後半)を発見したと発表した。
この女性の顔面から胸にかけてと、石棺の床面には赤色顔料の水銀朱が塗られていた。 祭祀を執り行ったシャーマンや女性家長とみられるとしている。
石棺はいずれも全長約1・9m、幅約0・4mで阿波の青石を使った「阿波式石棺」。
既に発見された石棺1基を含めて、5体の人骨が出土した。
[参考:産経新聞、読売新聞、毎日新聞、徳島新聞、徳島県埋蔵文化財センターHP]  @阿波
0714日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 08:26:04.24
共産革命の“役に立つ白痴”津田左右吉の大害毒
http://nakagawayatsuhiro.hatenablog.com/entry/2018/02/02/153406

筑波大学名誉教授   中 川 八 洋

「神武天皇から開化天皇までの記紀は嘘八百の歴史創作である」との津田史学を錦の御旗にする井上光貞/直木孝次郎らの共産党系学者のプロパガンダ言説は、
「邪馬台国・九州説」と手に手に取り合って、荒唐無稽な歴史偽造を画策している。
いうまでもなく、大和朝廷は、紀元後250年の三世紀半ばまで、畿内の大和盆地には存在していなかったという、
これこそトンデモ“嘘八百の歴史創作”をするためである。

魏志倭人伝にある「邪馬台国」という漢字表記は、紀元後230年代、
「奈良県/大阪府/兵庫県/岡山県/香川県/愛媛県」等をすでに武力統合した大和朝廷が、まだ「日本国」と言う国号はできていないが、
自国名を我流の“宛て漢字”で作った初の“日本製の漢字表記国名”である(注2)。
楽浪郡の支那が、「奴 な」国からの遣使に「国名は?」と問うて、「わがくに」と答えたこの「わ」を表音漢字として「倭」を宛てたが、
それから二百年、日本はついに国名表記変更を願い出た。
が、魏はこれを一蹴し、「親魏倭王」として「倭」を変えなかった。こんなトリヴィアなことは、どうでもいい。
問題は、「邪馬台国・九州説」が、紀元後すぐの頃にはすでに畿内大和に歴史事実として君臨した神武天皇と、その後の八代の天皇を実在しないとする詭弁やトリックになっている問題。

 「邪馬台国・九州説」の根拠に真っ当なものは一つもない。例えば、人口わずか六千人規模の吉野ケ里遺跡(佐賀県)をもって、
人口35万人以上の「邪馬台国」だと騒ぐのは、「六千人」と「35万人以上」の区別がつかない幼児と変わらない。
『魏志倭人伝』には「邪馬台国は7万余戸」とある。鬼頭宏は、「一戸は10名で換算せよ」とするから(注3)、この場合は邪馬台国の人口は「70万人以上」となる。
多くの研究論文では「一戸5人」で計算しているので、これに従えば「7万戸以上×5人=35万人以上」となる。
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。
0715日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 08:44:47.64
>>712
新しすぎ
0716日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 08:50:25.42
>>714
>人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、九州のどこにも煙すらない。

九州で無理なら、畿内には絶望的なまでに無理。
0717日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 09:19:53.21
>>716
人口「35万人以上」を擁する「くに 国」は、恐らくどこにもないだろう。

人口「35万人以上」の真偽はさて置き、倭人伝時代に於ける最大人口国は弥生集落遺跡数からも倭国(阿波)。  @阿波
0718日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 10:35:58.17
伊都説者のいう、筑紫日向が三雲南小路から始まるという条件下では
大国主はとうぜん三雲南小路より前の時代になるわけで
その時代に相当する遺跡や王墓は島根にないですね、ってお話です。
0719日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 10:40:53.65
>>718
伊都説者なんだが、その点も考慮すると、出雲は福岡のどこかだったんじゃないかと。
奴国ならそれ以前の王墓もあるわけだし。
そもそも大国主が降伏したから、じゃあ邇邇芸を筑紫に降臨させましょうというのは、どういう理屈なんだよという話ですよ。
0721日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 10:48:49.48
>>719
たしかにそうですね。
通説だと、大国主が出雲で降伏して、なんで邇邇芸が宮崎に降臨するのかますます意味不明でしたね。

そうなると、伊都説を前提条件にすると、
考古学的には須久岡本や吉武高木あたりが大国主出雲の候補地でしょうか。
0723日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 11:04:36.40
>>721
仮説としてはもしかしてそうなんじゃないかと。
そうすると、倭国の都は一貫して博多湾沿岸という、大変すっきりとした話になる。
ただ、島根も弥生時代の日本海沿岸交易の中では需要はあったはず。
あとは巨大柱が出雲で出土したことで、神話の現実味が出てきましたね。
0725日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 11:22:21.82
伝承では出雲の社は高さ96メートルだった。
見つかった社は推定48メートル。
現在の社は24メートル。

建築として無理があったので、半分ずつに切り詰めてきたんだね。
0727日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 12:53:55.42
島根でも硯が出土してるからね
それなりの文化レベルはあったのだろう
0728日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 14:01:23.02
>>725
高さについては諸説あるよね。
建築学的にはその半分ずつだったという説もある。

硯で田和山遺跡思い出したが、
山頂に9本柱建築物があったそうだから、最初のはこれじゃないか?
45メートルほどの山体まで含めたから古代のが高かったんだろう。
その後平地へ移築したから見かけ上は低くなった。
0729日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 15:47:12.36
北部九州とは別に、中国地方に銅剣を奉じる勢力はいたっぽいよね
0730日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 15:49:42.06
>>729
倭種の国ですかね。
0731日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 15:53:47.29
>>728
なるほど。
40メートル以上の建物を山頂に建てれば、合計90m級になるね。
0732日本@名無史さん垢版2018/02/04(日) 15:59:52.78
>>9
>東南陸行五百里到伊都國・・・
> ・・・世有王 皆統屬女王國
> (伊都国には)王がいる
>(邪馬台国の)皆は、(現在の王である)女王が統べる国に服属している

邪馬台国はこの後に書かれてるから「(邪馬台国の)皆は、」は変だ
「倭の国々(今使譯所通三十國の)皆は」ですよ。
0733日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 06:23:08.94
カラカミ遺跡で文字

硯、鉄製刀子、金印、などに新たな資料が加わって、
3世紀北部九州で文字が使われていたことが「補強」された

・外交官難升米は「魏皇帝宛て」の国書を携えていた
→現地判断で相手変更などない

・壱岐にも役所があった
・卜占も同遺跡から出土、同じく壱岐・原の辻には船着き場+卜占が出土
→倭人伝の卜占記載は壱岐に寄港したことで決着
0734日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 07:25:57.25
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)の吉野ヶ里遺跡
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/hgGoTIM.jpg
0735日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 07:27:23.58
修正点
吉野ヶ里遺跡を華奴蘇奴国に変更
小城市を追加
0736日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 07:35:31.20
>>735
いくら頑張っても無駄ですよ。
「其山有丹」は倭国(阿波)だけ。 もうとっくに決着しています。  @阿波
0738日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 08:41:32.33
>>737
一つだけ関西が入るわけがない。
0739日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 10:18:39.69
>>738
全部瀬戸内海沿岸だよ

「遠絶のため不可得詳」って書いてあるのになんで九州になるんだよバカw
0740日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 10:21:19.81
邪馬台国=北部九州+山陰+瀬戸内海沿岸
都がある北部九州から見て「遠絶のため不可得詳」なんだから山陰と瀬戸内海沿岸に決まってるだろ

なんで福岡や佐賀長崎が「遠絶」になるんだよ頭悪いなw
0741日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 10:25:29.42
そして狗奴国は(二回目に出てくる遠絶のほうの)奴国の南だからな
普通に読めば奴国の南ってわかるだろ

二回目の奴国は遠絶の国の最後に出てくる
最後に出てくるってことは最も遠絶にあるって推量もできるだろ
で、その南にあるのが狗奴国なわけだから
候補地はあげられるわな

熊本なんか北部九州と同じ文化圏で敵国とは考え難いだろ
0742日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 11:24:04.45
>>739
伊都や奴国にしかいなかったら、長崎や佐賀は遠く感じるだろ。
古代人と我々はスケール感が違うんだよ。
0743日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 11:25:00.74
>>741
>熊本なんか北部九州と同じ文化圏で敵国とは考え難いだろ

だからこそ、ただの蛮夷ではなく、強敵なんだよ。
0745日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 20:35:49.53
『遠絶』
魏使が伊都に滞在して、伊都から遠くへは行ってないから、
詳しい訪問記録は絶えますよってことだろ。
遠絶に意味を持たせすぎ。夢を見すぎ。

最大地域の奴国は漢代から有名だし、不弥国も何らかの重要地点だったから
行ってはいないけど道里や人口くらいは記せた。

「此女王境界所盡」
旁国を列挙したところで境界が尽きるのだから、
旁国は全て女王支配下で女王国に含まれる。

「女王國東 渡海千餘里 復有國 皆倭種」
その女王国から東に渡海して、倭種の国があるのだから、
女王国は全て海のこちら側にあることになる。
つまり九州島の中だ。
0746日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 20:41:04.29
>>745
>女王国は全て海のこちら側にあることになる。
>つまり九州島の中だ。

つまり四国島の中だ。  @阿波
0748日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:06:44.16
>>735 見事な修正だ。
華奴蘇奴国は、佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡。
うむ、いいね。
地図の国名は縦書きで頼む。左から右に並ぶはずだから。
0749日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:12:16.87
>>734
伊万里は入れるべき
伊の名を継ぐし
弥生遺跡遺物も多いし
伊都(船越湾)→末蘆(唐津湾)→己百支(伊万里湾)
と、弥生海路のそれぞれ要衝をたどれる。
0750日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:12:56.26
>>745
概ね同意する。
不弥国には行ったんじゃないかな。
何らかの重要なところだったので。
だから里程がわかった。
0751日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:16:44.51
>>744 なるほど痛いところを突くね。
日帰りか一泊二日ぐらいで着く距離だからね。

女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず

女王国より以北は、その戸数や距離のだいたいのところを記載出来るが、その他のかたわらの国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。

遠絶という文字があるとはいえ、かたわらの国であるため、近くの国である。
よって、>>734の説は成り立つ。むしろ最有力
0752日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:16:50.27
不弥国は出陣した台与の本陣。
台与は不弥国から伊都へ行ったり来たりして張政と交流していた。
0753日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:17:51.12
基肄城趾と大野城趾は絶対に違うね。
7世紀の対朝鮮半島からの侵攻用の山城だし。

それ以前の遺構は出てないっしょ。
0754日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:23:13.20
>>749
己百支のよみがなが、伊万里市の地名にあれば
いいのだが、それすらもないんだよな。
ネット上では、大字(おおあざ)までの地名は出て来ないので
ひょっとしたらあるかもしれないが。
0755日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:24:45.50
>>753 城は単に有名な地名として掲載しただけだろ・・・
そのあたりの地名のことを言っているんだよ。
0756日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:27:52.53
>>752 それ妄想。
台与の本陣だのそんな情報はない。
戦争に関わったことは確かであるが。
0757日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:33:35.27
>>756
関わるも何も檄告喩されてるじゃん。
女将軍として出陣したんだよ。神功皇后みたく。

出陣したら伊都にはいない。
出陣先に張政も連れて行かない。

伊都で檄告喩されて、
不弥国に陣をしいて、
勝利して、伊都に戻って張政に再会し、
戦争が終わったから、掖邪拘等二十人に行きと同じく倭船で送らせた。
張政は倭船で来たから戦争勃発で伊都に足止めを喰らったわけだ。
0758日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:36:36.06
>>734
別にあちこち飛んでもいいけど、
普通は反時計回りと考える人が多いでしょ。
だったら支惟国は奴国の東にある可能性が高く、
香椎だよ。
4世紀神功皇后が宮を構えるくらいだから、3世紀には既にある程度重要な地点だったわけでしょ。
0759日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:38:18.30
>>752
というか、不弥国つまり香椎宮が卑弥呼の宮の可能性もあり。
博多から見て東にあり、太陽信仰の宮になる。
なにかと卑弥呼とかぶる神功皇后も宮とした。
魏の使いが行ったのはなぜ?
0761日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:38:57.90
>>753
半島からの侵攻に対してなら、もう少し海側にあるべき。
0762日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:42:04.49
>>749
伊万里も入れたいが、己百支国を長崎県の方にするのは、割と定番みたいだ。
伊万里を己百支国にする根拠はあるかな?
他の国ではダメ?
0763日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 21:50:59.09
>>758 それ「かしい」だろ。
一支と書いて「いき」なんだから、
支惟国の支は「き」と読む。
香椎の土地は、和名抄では
粕屋郡 香椎郷 にあたる。当時から
かしい だな。
0765日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:11:47.46
平戸は要所だろうから、己百支国はここではないかと
思って「○○き」の地名を探したが、志々伎村(しじきむら)しか見つからなかった。
己百支と書いて、しじきと読むのは・・無理がある。
0766日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:13:54.61
九州なら陸行1月がネックなんやなー(1日ってのはどーなんやろか?(南=東と同レベル^^
0767日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:16:30.67
呼子から1月南に歩くと狗奴国なくなってまう?(反論せー
0768日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:19:14.44
わえは山陰か山陽か四国か北近畿だと思ってるが7マンコがよーわからん?
0769日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:19:43.73
>>766 魏略には陸行1月とかないから。

邪馬台国まで水行十日陸行一月なら、帯方郡から
半島陸行でちょうどそのくらいになる。中国本土と倭の直接の交流なら
ともかく、帯方郡を介在するときは使節はたいてい
半島を陸行する。江戸時代になってもソウル(京城?)を出発した使節は
歩いて釜山まで行って船に乗る。帰路も対馬から釜山に
着いて上陸すると、再び船に乗らずに歩いてソウルに行く。往復ともに
半島陸行だよ。
0770日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:20:14.62
ちぇすとー!
0771日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:23:27.55
>>765
いわき、と読ませる人もいるね。
0772日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:24:40.40
>>762
伊万里は縄文時代から黒曜石を海外輸出していたし、
弥生時代も銅鏡や朝鮮土器など海外遺物が多い。

壱岐から東松浦半島へ渡って
東の寄港地が末蘆唐津や伊都。
西の寄港地が伊万里だからね。

鉄器が多数出土しているし、甕棺墓や銅戈なども出ているから
北部九州倭国の国邑として栄えていたことは確実。
外せないでしょうね。
0774日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:30:35.53
>>771 別資料には、巴百支國とあるから
「えわき」かもしれないが「いわき」と大差ないな。

次斯馬國次巴百支國次伊那國安倭西南海行一日有伊那分國無布帛以草為衣盖伊耶國也

斯馬國と伊邪国の間にあるのだろう。伊邪国は幸いなことに上記のごとく
ちょっと詳しく解説されてる。
0775日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:33:27.17
支を「き」と呼んでいますが、
魏志倭人伝の原文では壱岐は一大国です。

北方を監視する一大率も存在するのですから、
一大が一支の間違いと断定することを急がない方がよいかと。
0776日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:46:09.71
>>759
だから魏使は伊都までしか行っていない。
奴国不弥国まで陸行記事なのに奴国の描写が無いから明らか。

奴国と不弥国は伝聞だけ。

奴国は漢代から有名な倭国を代表する都会。
不弥国は張政と外交した台与が陣を敷いた。
それぞれ魏使にとって道里や人口を聴く理由がある。

>>757のように考えるとスッキリするよ。
0777日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:46:14.10
あ、斯馬國も伊邪国も海岸沿いにある国だ。
ということは己百支国も海沿いにある国だろうね。たぶん
0778日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:48:28.99
>>776 陣なんか敷いてないよ。
戦いは南方なのに、なんで東へ行かなくちゃならないんだよ。
0779日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:50:38.63
狗奴国の卑弥弓呼と戦っていることを載斯烏越が知らせに行ったら、
張政が派遣されて、難升米に檄告喩したわけだ。

つまり檄告喩は、戦争中の同盟国(の将軍)に対して行う行為。
ということになる。

そうでなければ、一介の外交官に過ぎない張政が、
倭女王台与に対して、何を檄告喩するというのか?
もっと政務に励め?
もっと民から搾り取れ?

そんなわけはなくて、
戦争中の台与に対して、檄告喩したわけだ。
0780日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:51:54.72
逆に考えると、
倭女王である台与に対して行う行為である檄告喩、
その同じ檄告喩を受けた難升米とは、
同等の立場にあるわけなので、倭男王になった可能性が高い。

しかも難升米は黄幢までもらっているわけだし。

さらに、
男王になったか確定ではない難升米が檄告喩+黄幢をもらったのに、
女王であることが確実な台与は檄告喩のみなので、
張政は載斯烏越らに連れられて倭船でやって来て、
掖邪拘らに送られて倭船で帰っていった。
0781日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 22:53:00.07
>>778
邪馬台国は海洋国家。
不弥国で軍を準備して、遠賀川から南下する。

あるいは東征した将軍が返ってくるのを出迎える。
0782日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 23:00:19.99
>>775

「支」と「大」は字体によっては殆ど同じ文字である。

「壱支」を「一大」と読み間違えた。

「一大國」の「大」は「支」の読み間違い。
「一大國」の「一」は「壱岐」の「壱」と同じ意味発音の文字。

錯誤の原因はシナの役職「大率」の存在。
0783日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 23:08:23.16
>>779>>780 うむ、見事だ。
卑弥呼はそのとき危篤どころか死亡してたから
死んでしまったとあってはさすがに難升米に渡すしかない。
代理とはいえ臨時の王だな。卑弥呼の弟ではない。
台与は黄幢をもらってないが(女王就任がやや遅かったせいもあるが。)
いよはまだ13歳・・・。
>>781 遠賀川を南下といっても
総延長61 kmということは浅い川舟使っても
せいぜい2日か、15キロもすすめば
浅瀬につっかえて進めないわ。
0784日本@名無史さん垢版2018/02/05(月) 23:24:31.66
>>780

難升米は、外交実務を担当しているので、弟王(倭男王)である。
壹與は、兄王(倭女王)である。
0785日本@名無史さん垢版2018/02/06(火) 00:03:49.22
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県伊万里市)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0786日本@名無史さん垢版2018/02/06(火) 07:11:29.37
自衛隊の戦闘ヘリが墜落した佐賀県神埼市は、
元は加無佐岐。華奴蘇奴国(かなそな国)。
と考えられる。
櫛田宮という神社は弥生時代からつづくというが、くしだ という地名は
傍国の中には見当たらないようだ。
0788日本@名無史さん垢版2018/02/06(火) 07:37:32.93
遠賀川といえばヒラタ船
鉄道敷設以前は筑豊の石炭は
遠賀川の平田船で河口まで運ばれていた。
0789日本@名無史さん垢版2018/02/06(火) 07:40:06.27
神崎の櫛田神社は吉野ヶ里の近所だからね。
吉野ヶ里の勢力の、後世の集落地だろうね。
0790日本@名無史さん垢版2018/02/06(火) 08:48:37.99
景行天皇の実年代は4世紀初頭だと思う。
筑紫の梟帥(女王)である神夏磯姫の時だからね。
神夏磯姫が壹與の次の女王だろう。
0792日本@名無史さん垢版2018/02/07(水) 07:31:31.29
>>790 卑弥呼亡きあとは台与などが登場したけれど九州内では紛争がつづいて、
そのうち小勢力の一派が近畿に東征に出発して、畿内の大勢力に加担して
うまく大きな勢力になることができた。
そのあとは西に東に征服戦争を起こして、九州方面には
神夏磯姫のエピソードが残った、ということでいいんじゃね?
0793日本@名無史さん垢版2018/02/08(木) 07:30:49.64
倭は、対馬から朝鮮半島沿岸を水行して、中国本土にやってくる
というのが、中国における古来からの伝統的な認識で、
史書にもそう書いてあるが、
帯方郡から届けられた文書には、そういう内容ではなかった。
帯方郡にやってきた女王国の使者は、水行十日陸行一月かかったという。

江戸時代の朝鮮通信使と同じく、半島陸行が伝統的なコース。
遣隋使なら船で中国本土まで直行だが。
0794日本@名無史さん垢版2018/02/15(木) 15:35:00.41
卑弥呼がヤマトトトヒモモソヒメで
男弟が崇神天皇で
筆頭官伊支馬が「イクメ」イリヒコ垂仁天皇で崇神の皇太子だろ?

邪馬台国=大和朝廷で何も問題ないじゃん?
0795日本@名無史さん垢版2018/02/15(木) 15:46:18.23
>>751
女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國「遠絶」 不可得詳
その余の旁國については「遠絶」にして詳らかに得べからず

の「遠絶」は、女王国(邪馬台国)から「遠絶」じゃないよ
次有斯馬國の斯馬國は、邪馬台国の次=隣の国なんだし

「遠絶」なのは、大陸王朝からの「遠絶」だよ
三国志を編纂している陳寿が調べようと思っても「遠絶」だから調べにも行けない
0796日本@名無史さん垢版2018/02/15(木) 17:14:22.73
伊都にいた魏の使いが、面倒くさがって行かなかったんだろう。
いずれにしても、邪馬台国は九州北部だな。
0798日本@名無史さん垢版2018/02/17(土) 21:44:15.59
記紀(日本)にも
三国志東夷伝(中国)にも書かれている
「日向三代が70-80年伊都日向にいた」
考古学的には甕棺墓

後ろは卑弥呼で木棺墓
その末裔が7世紀に失脚したが
ある程度の敵対権勢を持っていたので記紀から抹殺する必要があった

逆に前は大国主で???
その末裔は7世紀に存在していて
畿内権力中枢に入っていたので記紀に記載されることとなった
鴨しかおらん

以上は誰でも至る結論
0799日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 11:54:50.76
鴨王が大国主の末裔という伝承もあることはあるが、やや懐疑的になってきた。
というのは、鴨王の玉依姫の夫が事代主らしいのだが、他の伝記も多いため、要するに鴨王の父親は不明ということらしい。

賀茂建角身命が 丹波の国の神野の神伊可古夜日女を娶って生んだ子の名を玉依日子と玉依日売がいた。
川遊びしていた玉依日売は川上より流れ下る丹塗矢を持ち帰って床の辺に置いておくと遂に孕んで、男子を生んだ。
そして、この子(可茂別雷命)が成人したとき、 外祖父の建角身命は、
八尋屋を造り、
八戸の扉を竪て、
八腹の酒を醸(か)みて、
大きな家を建て、その家にこもって酒を醸し、人々をつどい集めて、七日七夜の宴を行った。
「汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよ。(お前の父と思う者にこの酒を差し上げよ。)」=[誓酒(ウケヒザケ)の儀礼]、
そして子神は杯を捧げ持って父に奉ろうと、屋根の甍を衝き抜けて天へ昇っていってしまいました。
それによって、父の正体("丹塗矢")は、火雷命(ほいかづちのみこと)であることが分かります。そして子神は、外祖父の名にちなみ、可茂別雷命と號(なづ)けられています。

この賀茂別が鴨王なのだが、正体不明の父親がここでは天津神であるということになるらしい。
事代主は国津神なので、全く違う伝承が存在することになる。
ちなみによくわからない夫が実は事代主だったという話は、百襲姫などにも見られるので、一つの類型というか、よくある話だったのだろう。
縁起を担いで事代主ということにしただけかもしれない。
0800日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 11:58:57.80
>>799
>川遊びしていた玉依日売は川上より流れ下る丹塗矢を持ち帰って床の辺に置いておくと遂に孕んで、男子を生んだ。

その「川」は阿波の吉野川。  丹塗矢の「丹」は阿波の若杉山。  @阿波
0801日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:02:42.63
>>799
「延喜式式内社 阿波國美馬郡 十二座 鴨神社」
鎮座地 徳島県三好郡東みよし(旧三加茂)町加茂字山ノ上3650  
御祭神 別雷命(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神
「阿波志」に「鴨祠延喜式小祀と為す。加茂村に在り旧事記にいわゆる事代主の神孫、鴨王是也」と。
また、「寛保改神社社帳」には「加茂村式加茂大明神神主加茂村 白川信濃同長太夫、同助大夫、同権之進」とあり、
更に「阿府志」には、「鴨神社小社三好郡加茂村に在り祭神一座別雷神、神主白河信濃社侍宮川某堂河原某」とある。
鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。 「徳島県神社誌」

京都、上賀茂神社の創立が、天武天皇7年(678年)と伝えられているので、「鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。」を信じれば
「京都、上賀茂神社」より「阿波國 鴨神社」の創立が古いということになる。  @阿波
「郷社 下加茂神社」
鎮座地 徳島県三好市三野町加茂野宮492−2
御祭神 玉依姫命

※玉依姫は、鴨神社の御祭神「 別雷神 」の母にあたる。
0802日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:04:55.00
>>799
式内社「事代主神社」 式内社 「建布都神社」は、同じ阿波市にあり、『ともに日本唯一 阿波にだけ在る式内社』です。

式内社「事代主神社」が全国で阿波にだけ(八百万の島根にさえ無い)あるように、事代主命は阿波の人物でしょう。

同じく、建布都神(武甕槌神)も全国で阿波にだけ(これも島根にも無い)あるように阿波の人物でしょう。  @阿波
0803日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:06:22.28
>>799
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社のタケミナトミ神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社やタケミナトミ神社等の神社は、阿波にしかない。   @阿波
0804日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:08:58.99
>>801
>京都、上賀茂神社の創立が、天武天皇7年(678年)と伝えられているので、「鴨神社の鎮座は白河氏らとともに六世紀ごろとみてよかろう。」を信じれば

西日本のほとんどの神社が、白村江の敗戦後の伝記しか残されていないので、どこもそうなってしまう。
ただ、記紀の編纂よりかなり古い話であることから考えると、その年代は明らかに間違いだ。
何しろ、鴨王の次に生まれるのが神武の妻となるイスケヨリ姫で、鴨王の叔父は神武と戦った登美の長髄彦だからだ。
0805日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:20:51.57
ついでに言うと、鴨王の母親が長髄彦の妹なら、他の伝記では天孫饒速日がその夫であるが、その子はウマシマジになってしまう。
伝記に混乱がある。
0806日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:22:40.42
>>804
>ただ、記紀の編纂よりかなり古い話であることから考えると、その年代は明らかに間違いだ。
>何しろ、鴨王の次に生まれるのが神武の妻となるイスケヨリ姫で、鴨王の叔父は神武と戦った登美の長髄彦だからだ。

「明らかに間違い」とは言い切れない。
「阿波三加茂の鴨神社」の創建が、「京都、上賀茂神社」より古いということを言っている。
「阿波三加茂の鴨神社」の創建が、「神武天皇や長髄彦の時代」と言ってるわけではない。  @阿波
0807日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:32:22.95
>>806
もともと神社というより賀茂王家の宮なら、畿内の方は神武の時代まで遡るだろう。
まあ、それでも2〜3世紀だとは思う。
あと、鴨王の末裔が阿波、土佐の開祖になっているだろ?
だから阿波にも祭っているわけだよ。
0808日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:34:07.49
>>803
八千矛命。、、、出雲帝国第8代オオナモチ(帝王の称号)で出雲の西の王家、神門臣家の当主。
正后は宗像家の多岐津媛命。亦云、神屋楯媛命。高津媛命。
(多岐都媛を多宜都媛と表記すると大宜都媛(創作キキ神話)と字儀は同じ)。
父親の宗像のアタカタス命は神門臣家の出身で八千矛命の実の叔父にあたり、イトコ同士の婚姻だった。

、、、天照大神=市杵島媛命(徐福(ホアカリ/ニギハヤヒ(=ニニギ))の2度目の嫁)が寡婦となり(原因は徐福(スサノオ/実行犯は忠良な部下のホヒ)が八千矛を殺害したため)陰鬱にお暮らしの姉の多岐都媛を心配して、
様子見舞いをスサノオ(息子のホホデミ)に頼んだ話だったのでは?
0809日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:40:17.59
>>807
出雲人の伝承に依れば、
出雲の東西の王家の王族らが葛城に移住、開発したのは紀元前2世紀〜1世紀ころ。
0810日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:41:58.29
>>808
天神地祇がごちゃ混ぜどこまで正しいのかわからん。
0811日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:49:43.56
>807
>もともと神社というより賀茂王家の宮なら、畿内の方は神武の時代まで遡るだろう。

だから、その根拠を出さなきゃ。 妄想を楽しむのもいいけど。  @阿波
0812日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 12:52:46.07
>>807
>あと、鴨王の末裔が阿波、土佐の開祖になっているだろ?

当然そうなる。 だって、倭国(阿波)の人なんだから。  


>だから阿波にも祭っているわけだよ。

当然そうなる。 だって、倭国(阿波)の人なんだから。  @阿波  
0813日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 13:22:40.71
>>811
なんの根拠を求めているのかわからんな。
年代は不明と言っているし。
0814日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 14:53:38.51
>>810
天神地祇で思い出したけど、
国津神って少なすぎないか?
普通は家臣というか征服された側が各地に大量にいて、
少数の支配者が勝者として特別扱いされるものだと思うが。
0815日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 15:03:34.25
>>813
>畿内の方は神武の時代まで遡るだろう。

この根拠は?  @阿波
0816日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 15:22:02.15
>>803
狗奴国=長国(県南)
狗奴国=長国の男王卑弥弓呼=建速須佐之男命
狗奴国=長国の男王卑弥弓呼=建速須佐之男命の子=大国主神

その「大国主神」を祀るのが、全国唯一の式内社「八鉾神社」  

因みに、北の邪馬台国=粟国(県北)    @阿波
0817日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 16:09:41.22
紀元前には扇谷遺跡までの日本海沿岸が統一されていたのだから
その経路上にある豊国もまた早くから倭国の支配下に入っていたわけだ。
豊国には王墓がずうっと存在しないのだから単なる米倉みたいなもんで
刃向かうこともなくその時々の権力者に従ってたんだろ。
0818日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 16:17:45.08
カミムスビが既に東方拡散してたっぽいし
スサノオより先にオオヤマツミなんてのも東方進出してるし
何波にもわたってそうだね。本格的に国家として東征したのはまた別だけど。
0819日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 16:32:37.33
>>814
>普通は家臣というか征服された側が各地に大量にいて、
>少数の支配者が勝者として特別扱いされるものだと思うが。

その通りだけど、いちいち記録しなかっただけじゃないか?
出雲とかは流石に別格として、あとは土蜘蛛とか熊襲とか蝦夷とか、全部そうだろ。
0820日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 17:16:14.60
狗奴国=長国(県南)は海人(アマ)族。

朝鮮半島だろうが出雲だろうが若狭だろうが越後だろうが、お手の物なんですよ。

もちろん、関東もね。  @阿波
0821日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:37:22.57
>>803
@阿波はアホだから何も考えずに馬鹿羅列してるけど
考古学的には銅矛が分布しない阿波に八鉾神社があるわけだ。
0822日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:02:10.12
>>821
>考古学的には銅矛が分布しない阿波に八鉾神社があるわけだ。

「弥生時代の青銅器の分布」
http://www.geocities.jp/yasuko8787/bb-0.JPG

「銅剣・銅矛・銅戈」も「平形銅剣」も「銅鐸」も全て倭国(阿波)が中心に在る。

これらすべての青銅器分布が含まれているのは倭国(阿波)だけである。

まさに、阿波に「八鉾神社」があるわけだ。

これは、倭の王権が「倭国(阿波)」にあった証拠である。 

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。   @阿波
0823日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:21:42.00
>考古学的には銅矛が分布しない阿波に八鉾神社があるわけだ。

で、徳島から出土した銅矛を呈示して?
0824日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:51:32.36
いまのところ銅矛は出土していない。 銅剣の出土のみ。
銅矛じゃないといけないの?  @阿波
0825日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:18:42.37
やはり阿波に銅矛ないわけか。
これは面白いな。

阿波が所属していた祭祀型銅剣の
阿波での年代は何世紀から何世紀なの?
0826日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:17:54.84
徳島県で現在までに発見されている銅剣数は細形,平形を合わせて源田遺跡の細形銅剣1本,神山町左右山の平形銅剣2本,同じく東寺で平形銅剣3本と美馬郡西祖谷山五社大明神の平形銅剣1本で合計7本となっている。

因みに源田遺跡では袈裟祥文銅鐸 3個も銅剣と一緒に出土している。  @阿波
0827日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:23:41.49
>>825
>やはり阿波に銅矛ないわけか。
>これは面白いな。

ほんとに面白いね。 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 があるなんて。  

で、九州に「大国主神を祀る式内社」ってあるの?  @阿波
0828日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:07:28.96
>>825
>やはり阿波に銅矛ないわけか。
>これは面白いな。

ほんとに面白いね。 【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】 があるなんて。  

で、九州に「大国主神を祀る式内社」ってあるの?  @阿波
0829日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:51:18.46
>>826
阿波の銅剣は鮎喰川沿いに出土しているわけだけど、
阿波と言えば吉野川が最大河川でしょ?
弥生時代の吉野川流域は誰が支配してたの?考古学的に何か見つかってる?
0830日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:29:52.29
>>829
阿波の銅剣は鮎喰川沿いばかりではなく、美馬郡西祖谷山(高天原?)でも出土しているから、
おそらく阿波国中に分布していた可能性が高い。

卑弥呼統治時代の王都は鮎喰川下流域集落群だろう。

>弥生時代の吉野川流域は誰が支配してたの?考古学的に何か見つかってる?

(旧)吉野川流域では、神武天皇が攻めた「長髄彦」の本貫地は徳島県板野郡板野町川端なので、

(旧)吉野川北岸下流域の鳴門・板野古墳群一帯を「長髄彦」が支配していたのだろう。  @阿波
0831日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:39:48.60
>>830
阿波説を主張していながら疑問に思わないの?
瀬戸内に分布する銅剣が阿波では吉野川の南で細い鮎喰川流域のみに
集中してるわけで、
じゃあ最大河川の吉野川流域には銅剣よりも強い、あるいは先に住んでいたような
人たちがいたはず。
まさか無人じゃないだろうから、思い当たる弥生遺跡はないの?
0832日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:44:29.66
>>831
※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡

※南の狗奴国(卑弥弓呼勢力)
【勝浦川流域勢力 弥生時代集落】
勢合銅鐸出土地・田浦遺跡・新居見遺跡

【那賀川流域勢力 弥生時代集落】
若杉山遺跡・福寺山遺跡・宮ノ本遺跡          

こういう「邪馬台国勢力」と「狗奴国勢力」を「弥生集落遺跡」で提示できるのは倭国(阿波)だけ。  @阿波
0833日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:49:16.03
>>832
阿波で見つかった銅鐸って、出土地がはっきりしているのはいくつあるの?
0834日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:02:32.96
>>833
阿波では41遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域ですが、

銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる、思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」

が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土しています。  @阿波
0835日本@名無史さん垢版2018/03/01(木) 17:54:19.40
102 本当にあった怖い名無し[sage] 2018/02/27(火) 19:15:49.42 ID:
>>101
いや、すべての証拠物がもう既に出土してる
1万%、邪馬台国の場所は確定されてる
いまさら言うまでもなく、奈良だ

徳川の埋蔵金場所も1万%確定しているが完全に無視されとる
何でもかんでも暴けばいいってもんじゃねえ

聖徳太子についても
いまさら教科書に載せないとか片腹痛いわ!w

ホント学者は使えねえ
0836日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:33:39.91
平原は伊都国で
0837日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:34:22.02
伊都国を邪馬台国と
0838日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:34:39.51
書いている文書はない
0839日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:34:58.42
大体伊都国は後の時代では
0840日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:35:47.79
怡土県主がせいぜいの小豪族
0841日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:36:07.71
怡土国造はいない
0842日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:36:22.14
この辺りを見ると
0843日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:36:45.80
魏略の戸万余よりも
0844日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:37:03.60
魏志倭人伝の千余戸の方が
0845日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:38:24.67
正しかったのだろう
0846日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:38:56.57
どうやったら
0847日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:39:16.15
七万余戸と書かれた
0848日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:39:30.72
邪馬台国と伊都国を
0849日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:39:50.45
同一視できるのかが不思議
0850日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:40:11.19
頭沸いてるとしか思えない
0851日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:41:06.29
末慮国も伊都国も奴国も不彌国も
0852日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:41:25.53
全部集めて邪馬台国だと言いたいのは
0853日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:41:40.73
知っているが
0854日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:41:55.15
邪馬台国=伊都国説でも
0855日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:42:16.33
投馬国は離れたところにあるんだろ?
0856日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:42:31.79
投馬国を抜きにしたら
0857日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:42:48.39
どうやっても
0858日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:43:08.66
七万余戸にはならないぞ
0859日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:43:42.13
結局、伊都国=邪馬台国説にしても
0860日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:44:19.48
九州説は、誤読・曲解が多すぎる
0861日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:45:16.73
というよりも
0862日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:45:36.94
結論先にありきで
0863日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:46:11.23
誤読・曲解で、自らの結論に
0864日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:46:25.97
無理やり合わせているのが
0865日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:53:36.57
本当のところ
0866日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:54:25.69
島巡り仮説などは
0867日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:54:49.87
その最たるもの
0868日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:55:05.42
魏志倭人伝では
0869日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:55:19.46
というか大陸の史書の
0870日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:55:36.73
地理・旅程記事で
0871日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:56:01.02
国や地方の内部での移動が
0872日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:56:16.21
暗黙の形で書かれて
0873日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:56:31.97
いるところなど
0874日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:58:25.12
一切ないのに
0875日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:58:55.78
対馬の方可四百餘里と
0876日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:59:24.33
壱岐の方可三百里を
0877日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:59:41.18
それぞれ二辺分足せば
0878日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 09:59:56.88
ちょうどよいとか
0879日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:00:12.97
よくもまあ、そんな
0880日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:00:33.41
こじ付けを考え出したものだ
0881日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:00:47.41
感心してるのではなくて
0882日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:01:26.76
呆れてるんだけどな
0883日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:02:22.20
平原1号墓の編年を確認する
0884日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:02:42.55
考えなければならないのが、
0885日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:03:01.15
周溝の土坑墓である
0886日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:03:25.42
原田大六氏は
0887日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:03:44.66
この土壙墓を
0888日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:04:04.91
殉死者の墓と
0889日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:04:31.53
考えておられたそうだ
0890日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:05:09.66
これに乗って
0891日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:05:32.61
殉葬が見られる卑弥呼の時代の墓だから
0892日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:06:04.58
卑弥呼の墓に決まってると
0893日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:06:23.13
言い張る九州説の人がいる
0894日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:07:19.31
しかし
0895日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:07:59.30
土坑内外の土は区別をつけることができるので
0896日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:08:17.64
現在では土壙墓は
0897日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:08:37.06
周溝が埋没した後に
0898日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:08:59.36
造られたものと
0899日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:09:24.16
考えられている
0900日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:09:52.10
つまり平原1号墓本体と
0901日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:10:14.50
土坑墓の埋葬年代の間には
0902日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:10:33.73
周溝が埋まるほどの時間差が
0903日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:10:56.94
あることになる
0904日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:11:26.14
それほどの時間差のある埋葬を
0905日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:11:48.20
殉葬と考えることはできない
0906日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:12:13.29
周溝の土壙墓からは
0907日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:12:31.61
鉄鏃・鉄鉇(ヤリガンナ)・
0908日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:12:49.28
鉄刀子・ノミ状鉄器が
0909日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:13:16.83
出土している
0910日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:13:33.80
現在のところ、
0911日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:13:50.47
平原1号墓の編年は
0912日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:14:08.01
周溝から出た土器の
0913日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:14:23.88
編年に頼っている
0914日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:15:00.54
1号墓の周溝からは
0915日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:15:25.93
弥生後期前半と
0916日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:15:42.59
終末期の土器片が出土、
0917日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:15:59.21
2号墓南側から
0918日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:16:17.74
庄内併行期と思われる
0919日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:16:33.43
土器の破片が出土しており、
0920日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:16:49.09
1号墓と2号墓が
0921日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:17:05.73
周溝を共有しているため、
0922日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:17:22.15
同時代の築造と考えられている
0923日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:17:43.41
現在は、この庄内平行期の
0924日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:18:00.23
土器の破片が
0925日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:18:21.28
平原1号墓の編年の
0926日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:18:56.85
理由になっている
0927日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:19:41.50
つまり平原1号墓は
0928日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:20:01.25
庄内並行期直前頃と
0929日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:20:26.12
されているだが、
0930日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:20:44.75
そうすると土坑墓の
0931日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:21:02.00
遺物の年代との
0932日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:21:25.16
整合性が取れなくなる
0933日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:21:41.63
土坑墓遺物の
0934日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:22:01.18
鉄器類の編年は、
0935日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:22:21.14
弥生時代終末(200年〜250年前後)で
0936日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:22:37.20
問題ないので、
0937日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:22:53.57
先の2号墓周溝からの
0938日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:23:08.54
庄内併行期の土器片と
0939日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:23:28.87
時代が一致する
0940日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:23:55.23
ということは
0941日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:24:35.57
平原1号墓の編年の根拠と
0942日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:24:55.34
されてきた庄内併行期の土器片は
0943日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:25:22.70
平原1号墓及び2号墓の
0944日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:25:47.38
主体部の年代を示すものではなく
0945日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:26:12.05
土坑墓を作るときに
0946日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:26:36.24
周溝に混入したものと
0947日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:26:48.94
見なければならない
0948日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:27:21.18
本体である1号墓と
0949日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:27:37.08
土坑墓では
0950日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:27:55.38
「周溝が埋没」するほどの
0951日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:28:23.53
時間差があるので、
0952日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:28:40.52
1号墓の編年は
0953日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:28:55.66
弥生時代終末よりも
0954日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:29:12.15
かなり古くしなければならない
0955日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:29:42.53
そうなると
0956日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:30:10.33
1号墓の周溝から
0957日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:30:26.35
出土した
0958日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:30:50.44
弥生後期前半の土器片で
0959日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:31:15.15
平原1号墓の年代を
0960日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:31:35.33
見積もることが適切であろう
0961日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:32:43.97
という結論になる
0962日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:33:14.37
弥生後期前半は1世紀に
0963日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:33:30.65
あたるので
0964日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:34:16.98
平原1号墓を
0965日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:34:37.96
卑弥呼の墓に当てるのは
0966日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:35:06.10
やはり無理だと言わざるを得ない
0967日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:35:27.30
そして、平原1号墓が
0968日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:35:44.64
卑弥呼の墓ではないとなると
0969日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:36:02.11
邪馬台国・伊都国説は
0970日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:36:21.53
一気に根拠を失う
0971日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:36:42.05
残るのは
0972日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:37:09.25
島巡り仮説などの
0973日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:37:53.37
無理やりな行程論と
0974日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:38:09.06
誤読・曲解にもとづく
0975日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:38:30.78
短里と萬二千里の解釈
0976日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:39:02.47
それと「都」の字が
0977日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:39:19.76
あるから
0978日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:39:42.59
卑弥呼の都である
0979日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:40:09.73
という強弁くらいしか残らない
0980日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:40:24.53
そもそも
0981日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:40:38.78
平原1号墓は
0982日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:40:54.58
墳丘サイズが
0983日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:41:23.55
14×12しかない小さなもので
0984日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:42:09.53
吉備楯築墳丘墓の二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
0985日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:42:35.12
出雲西谷9号墓の四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
0986日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:42:59.72
丹波赤坂今井墳丘墓の東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
0987日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:43:27.22
などと比べても、非常に小さい
0988日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:43:39.43
畿内説を追い詰め過ぎたのかな。。。
犯罪者キナイコシの、スレッドを荒らすやり方が、ますます悪質になってきているよ、、、
0989日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:43:46.23
同じ地域の過去の王墓と比べても
0990日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:44:19.58
伊都国の三雲南小路遺跡の墳丘が30メートル四方程度
0991日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:45:06.05
奴国の須玖岡本遺跡D地点甕棺墓に伴う墳丘も30メートル四方程度と推定されており
0992日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:45:43.18
明らかに平原1号墓は見劣りがする
0993日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:46:08.78
これを王墓、ひいては卑弥呼の墓だと主張するのは
0994日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:46:35.39
他に、卑弥呼の墓の候補として
0995日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:46:51.61
挙げられる弥生終末期の
0996日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:47:32.06
王墓・厚葬墓すら見当たらないという
0997日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:48:34.92
三世紀頃の北部九州の退潮を
0998日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:48:56.23
如実に示している
0999日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:49:30.63
つまり、九州説はありえない
1000日本@名無史さん垢版2018/03/12(月) 10:49:51.30
邪馬台国は伊都と平原遺跡じゃなかったのは明らかだぜ
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