>>494
ごめん、茶目っ気が過ぎたかなぁ。脱線ついでにお赦しあれ。
ちょっと遡る話なんだけど、綱吉治世の元禄末期〜宝永年間、
朝廷は、霊元上皇・敬法門院(東山天皇の母)・一条兼輝元関白と
東山天皇・新崇賢門院(中御門天皇の母)・近衛基熈前関白が
皇位継承を巡って争っていた。
やり手の近衛が幕府を懐柔して第5皇子の長宮(中御門)の対立候補だった
第3皇子の三宮(どうやら典侍の冷泉経子と皇弟京極宮との不倫の子らしい)
を早々に出家させ、円満院を経て寛永寺に飛ばした。
これがのちに寛永寺貫主・輪王寺門跡・天台座主となった公寛法親王。
そしてその附弟には東山天皇皇孫が就いている(公啓法親王)ので、
将軍の子弟が皇族の指定席に割り込む余地はなかったろうね。

長幼の序をひっくり返すと、お家騒動が起きる・・・当然でしょうけど、
ただ、綱吉と吉宗にはそれを諸侯・幕閣に有無を言わせず成就する権威と
権力が備わっていたと思うんですけどね。