邪馬台国畿内説 Part242 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
すなはち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
すなはち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
すなはち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
すなはち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
すなはち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確なかたちで、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
すなはち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
2世紀末の大乱期、中国製威信財の入手ルートが途絶して列島における旧世界の秩序が崩壊した後、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避する目的で、この地に新たな秩序の中枢が構築された
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
(この項続く) ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が近畿産であることは鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡が邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、すなはち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀には目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(3世紀末葉)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例しかなく、品質的にも低い
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された(馬淵WL領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
同様の状況が荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
いづれも古墳時代の倭鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)であるが、諸本とも治と冶の混用が多い
「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしい
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)が、これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と素手の消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆1を修文 【追加・変更点】部分は
具体的に記述してほしい。それ以外は再読しないから 頭の良い人は気づいているんだよ
国でも建物でもそう、
ここまで完成したので、もう、おまえは用無しだ
みたいな話
いまの世の中、現実の世界では通用しない 日本語読めない人にまで対応する必要ないのに
四等爺なんか「直したということは間違いを認めたこと」って大ボラ吹きっまくってたし 創作などの元ネタ?
これも同じ話
ネタにして、お金を稼がせて貰った、お前は、もう用済みだ
みたいな話 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている 日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 タイヤキくん?なんかもそう、
言いたいことは同じだと思う
私に入ってくるはずの印税(給料でも良い)で・・・建てた 人の家の、お金(給料)で生活している、
衣服や食べ物もそうだと思う >>62
なんの根拠があって畿内説のアラシだなんて言うの?
畿内説のもんが畿内説スレ荒らしてなんのメリットがある? 筑紫で弥生時代の硯が見つかって、
文字があったのなら、
2世紀前半から3世紀後半まで続く王朝、
または卑弥呼らしき人物が、
当然記録されてるはずだが、いないよね。
例え後の大和朝廷に滅ぼされたとしても、
民間信仰や伝承として残ってるはずだ。
まったくいないよね。
畿内にはいます。
大物主、事代主、鴨王。
「主」「王」など、一豪族とはとても思えない血統が記録されてます。
邪馬台国は大和です。
もう福岡のカッペは消えてほしい。 平原や祇園山を卑弥呼の墓だ台与の墓だするのは結構。
しかしそこには全く民間伝承が伴っていないではないか。
2世紀前半から3世紀後半まで続いた王朝だからね。
今でも強く信仰や伝承が残ってないとおかしいのだ。
恵比寿さん、大国さん、
これが2世紀前半から3世紀後半まで続いた王朝の神々。
つまり畿内で決まり。
あきらめろ、福岡のカッペ。 >>64
>畿内にはいます。
大物主、事代主、鴨王。
「主」「王」など、一豪族とはとても思えない血統が記録されてます。
これが余計なんですよ。 @阿波 恵比寿さん、大国さんは規模が違うんだよ
大陸のほうまで行ってしまう
ローカルの存在ではないんだよ 纏向説でも一応、伝承、信仰は残っている。
ニギハヤヒだ。
しかし、ニギハヤヒの系統がいつ「王」や「主」という称号で呼ばれた?
葛城との決定的な差がそこだ。
「王」や「主」は葛城にいた。
邪馬台国は葛城だ。 それと国譲りというのは、
大陸のほうまで行ったという話なの?
戦争か何かの話? 242の>>844
>>つまり、古代では、(三種の神器は)国王から小国王までの王権のシンボルであったが、
大和が、そのシンボルを持てるようになったのは、
ようやく古代末期になってからだった、 という事だね。<
>どうして? ヤマトに降参して献上したんじゃないの?<
大和が母国の倭国を併合吸収継承したのは、白村江の後。 >>70
国譲りというのは崇神による血生臭いクーデターを、
子供にも聞かせれる柔らかいお伽話に置き換えたものだ。 41の>>853
>>お前はアホか?。<
>「南≠東」先生は相変わらず容赦ないなー(ビール吹きました^^ その人の話は面白いから<
史料事実に対して「嘘ダマシ」をする奴は、犯罪者的なサギシであり、世間のためにもならず、面白くもない。
>少し手加減してあげなはれ(てきとー つかお友達でしょ?<
犯罪者とはお友達になりたくないし、
隔離すべきだから、さっさと隔離病院なり刑務所なり棺桶なりに入って欲しい。 ちなみに「wwwwwwwwwww」というのは
「笑い」という意味らしいけど 三種の神器が王権の象徴って、神話同様の後付けだし
金印時代から、文字有ったのに、全部消してる神話の歴史を信じろって、無理。
日本人は神話をもう理解してんのに、神話と考古学混同してる馬鹿って何なの?
漢四郡の古墳から、戸籍の木簡出てんだろ? 卑弥呼を産んだ2世紀前半から3世紀後半まで続いた王朝は、
今も強く民間伝承に残ってるはずだから、
80歳のお婆ちゃんを納得させれる話でないといけない。
「お婆ちゃん。ヒミコはエベっさんの娘さんだよ」
「あぁそうかいな」
これで済むのだ。 241の>>854
>>(「南→東」の嘘つき騙しの)大和説は、始めから✖だ。<
>これはもはや議論ではない。 怨念だ。 早く消えろ孫頃しzarakoku.<
これはもはや議論ではない。
議論に負けた大和説者らやssnらの怨念だ。
早く消えろ孫頃しの大和説者やssn。 241の>>858
これ(おそらくssnの投稿)も、「南→東」と同じように、「曲解捏造でっち上げ」の酷い嘘つきダマシだね。
安倍らのウソダマシと同じであり、書き出す気もしない。 三種の神器が王権の象徴なら今も天皇の居場所に保管してないといけない。
それをそれぞれ神社に任せてる。
なぜかわかるかい。
今の天皇の祖は崇神だ。
そして崇神は自分の存在理由として神武を持ち上げた。
今の天皇家はクーデターを起こした崇神の末裔だ。
三種の神器とはクーデターの証拠なのだ。 241の>>860
>九州から弥生時代の硯が出た。
もし九州に卑弥呼を輩出した「2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権」があれば、
当然、その王統譜を書き残してるはずだよね。
例え、後の大和朝廷に遠慮したとしても、 例えば「××主」とか「〇〇王」とかいるはずなのだが。
誰ですか? 全くいないのだが。<
倭奴国王も帥升も卑弥呼も壹與も倭王旨も倭の五王も、
松野氏姫氏系図に書き残されている。 卑弥呼や、卑弥呼を産んだ王たちの民間伝承が残っていない。
これが九州説の負けた理由。
考古学云々の話ではない。 241の>>861
>(subo)竹島は日本の領土だよな、でも日本はアメリカの植民地ではあるが <
ダメだよ。
ポツダム宣言の領土範囲を明確にしたSACPIN677号訓令に拠って、
「竹島は日本領にはしない」事がはっきり規定され、
その規定は、サンフランシスコ講和条約にも全く変更がなかったのであるから、
SACPIN677号訓令の規定のまま(連合国側のもの)になっているんだよ。 例えるなら某氏(名字など)
いまでこそ、日本人らしい名前だけど、実際は大陸由来の人間
だったとか、名前だけは日本風、日本的みたいな話
そういう話だよ >>83
>倭奴国王も帥升も卑弥呼も壹與も倭王旨も倭の五王も、
松野氏姫氏系図に書き残されている。
どこが誰でも知ってる民間伝承なのだ。
九州の地元民も全く知らないだろが。
お ま え は ア ホ か。 なんで知っているんだよ?
と思うかもしれないけど
老婆の言う泥棒のようなものに入られた話 お金なども
盗まれたような事を言っていたよ
それと『もののけ姫』という作品・・・神殺し? 『エビス 渡来』
どのような話なのか、知らないけど、渡来系だよ 241の>>874
>寺澤先生は、纏向学であり纒向の研究者です。
それに、纏向学に便乗し寺澤先生が邪馬台国の都は纏向とか箸墓は卑弥呼の墓と断定したように言うのは良くない。
お遊び程度で、寺澤先生は邪馬台国や卑弥呼を出す程度です。
安本先生との対談も、決して畿内説を強く主張しません。
纏向遺跡の研究者です。・・先生も確定した、邪馬台国は主張しません。 <
弁護してもダメです。
寺澤も、
「南」や「大和は倭国や倭奴国の別種の旧小国」という明確な史料事実の存在を隠して、
「纏向が列島の中心的権力であった」かのような言い方での、
「結論先にありき」の詭弁を弄していますから、l
犯罪者的なサギシです。 三種の神器を与える側が王権であって、受けた側は臣下だろ? 調べてみると秦氏の話が出てきたり
それとツーチャンネルのaa
「もう用済みだ」と崖から突き落とすようなもの
利用させてもらった、
金品を盗んだので必要ないみたいな話 241の>>882
>トヨが卑弥呼の宗女と書いある。
孝昭天皇か孝安天皇あたりの世代が卑弥呼で、開化あたりがトヨってことになる。<
この投稿子も、
「南→東」や「壹與→トヨ」などの嘘つきダマシの詐欺をした事になるから、
その他の旧小国の大和の発展史を幾ら書いたって、
何の信頼性もない、という事になる。 >>93
三種の神器を奪う側が王権であって、奪われた受けた側は服属して臣下になる 某徳永氏のムーンという曲も、
実際は、そういう曲でしょ
お金や服なども盗まれ・・・寒い、寒い
みたいな話 畿内説のスレの乗り込んできてずっと居座って
畿内説を唱える者は全員詐欺師だ犯罪者だってわめき続けてる異常者は何者? 241の>>891
>各地の現役の発掘担当者が参加するシンポジウムなんかだと、「九州説」なんて影も形もないのに
>九州説論者は、基本、議論ではなく布教にくる <
発掘担当者は、基本、大和説を承諾しなければ、発掘担当に選ばれないし、
大和説論者は、始めから、「都合の悪い史料事実を否定曲解」する「結論先にありきの詐欺」をするしか、
生きていけないアホだから。 老婆談
「傘や靴を盗まれたこともあるんだよ」
氷の世界?関連の曲でしょ 邪馬台国以前、例えば0〜100年に瀬戸内海航路が成立していたか?
この時代、畿内に有った銅鐸祭祀は九州に普及していない。
倭人伝で判るのは、邪馬台国が女王卑弥呼に依存した地域連合国であり、その前後は、動乱。
これが、大和朝廷のような持続可能な王権とは考えられない。
倭人伝を読むなら、一時期の九州北部しか説明していない。
畿内説って、なんなんだよ? このような文字まで出てきたでしょ
『針首刀』
グーグルで検索してみて、画像だよ >>99みたいな人が国の指導者になったら怖いね
TVや街頭スピーカーが一日中政府のスローガンをがんがん流し続け
思想統制と言論弾圧の嵐が吹き荒れるんだろうな 783 :天之御名無主:2008/01/08(火) 03:58:19
陸奥・出羽にとどまった俘囚は、同じ地域の朝廷派の人々と異なり、
租税を免除されていたと考えられている。彼らは陸奥・出羽の国衙か
ら食糧と布を与えられる代わりに、服従を誓い、特産物を貢いでいた。
俘囚という地位は、辺境の人を下位に置こうとする朝廷の態度が作った
ものであるが、俘囚たちは無税の条件を基盤に、前記の事実上の交易を
も利用して、大きな力を得るようになった。
↑在日みたいなものだな。 安倍宗任と安倍晋三
古沢 襄
◆ 安倍晋三官房長官の父・晋太郎と話をしたことがある。私が岩手県の出身だといったら「安倍家のルーツも岩手県」と応じてきた。
山口県と岩手県が、どう結びつくのか、晋太郎は「安倍宗任の末裔なんだよ」と言っていた。
◆ それは、そのまま忘れていたが、宮守村の村会議長だった阿部文右衛門さんと四方山話をしていたら「安倍晋太郎は東北の王者だった
安倍一族の末裔だ」という。そして、ほどなくして裏付けとなる資料を送っていただいた。石至下史談会の「原姓安倍氏 豊間根家の栞」がそれだ。
◆ そこには「前九年役の敗北」の項に次の記述がある。
安倍宗任、正任は朝廷軍に降り、肥前国松浦(まつら)また伊予国桑村に流罪、宗任は後、宗像郡大島で生涯を閉じ、地元安昌院に眠る。
(天仁元年 1108)。七十七歳であったという。
宗任の末裔は今は亡き自由民主党幹事長の要職にあった安倍晋太郎氏で又、子息の晋三氏は父の跡を継ぎて、衆院議員の要職に奔走されている、
とあった。平成十一年の記述である。
◆ 裏付けをとるために「姓氏家系大辞典」三巻で陸奥の安倍氏を調べてみた。そこには「肥筑の安倍氏」の項目に、
鎮西要略に「奥州夷安倍貞任の弟宗任、則任俘となり、宗任は松浦に配され、則任は筑後に配せらる。宗任の子孫松浦党を称す」と載せたり。
宗任の配所は小鹿嶋なりと伝ふるも詳かならず、とあった。
◆ さらに「筑前の安倍氏」の項目には、筑前国宗像郡大嶋に安倍宗任の墓と称するものあり。伝えて云う。「宗任伊予国に配流せられ、後本嶋に流され、
終に此の地にて死せり。その子三人、長子は松浦に行き、松浦党の祖となり、次男は薩摩に行き、三男此の嶋に留り嶋三郎季任と云い、
その子孫今に此の嶋に残れり」旧志略に見ゆ、とあった。旧志略の方が鎮西要略よりも詳しい。しかしいずれも配流された蝦夷の頭目という扱いになっている。
う。 >>50
>ちゃんと読まないと理解出来ないだろ <
スレ主が、「南→東」などの「史料事実や史料実態を否定曲解する嘘吐きダマシ」である事が判れば、
幾ら貼り付けたって何の信頼性もなく、
「ちゃんと読む」気も起きないだろ?。 >>65
>畿内にはいます。
大物主、事代主、鴨王。 「主」「王」など、一豪族とはとても思えない血統が記録されてます。<
記紀は、「倭国の存在も歴史も抹殺」しようとした半分偽書ですから、何の信頼性もなく、
根拠になりません。
>邪馬台国は大和です。<
「邪馬台国」なんてないし、邪馬壹國なら筑紫にありました。
>もう福岡のカッペは消えてほしい。<
もう、「南→東」など大和説のウソ付きダマシのサギシは、人間ではないから、消えて欲しい。 >>65
>平原や祇園山を卑弥呼の墓だ台与の墓だするのは結構。
しかしそこには全く民間伝承が伴っていないではないか。ら<
細石神社に金印伝承があるし、能古島にも天孫降臨伝承があるし、
甕依姫伝承や與止姫伝承や「こうやの宮」伝承や、
高良大社の磐井や隆慶上人伝承や「三種の神宝」伝承もあるし、
東海姫氏國伝承もあるし、
何よりも「松野氏姫氏系図」伝承がある。
>2世紀前半から3世紀後半まで続いた王朝だからね。<
違うね。紀元前から白村江の後まで続いた王朝。
>今でも強く信仰や伝承が残ってないとおかしいのだ。 恵比寿さん、大国さん、
これが2世紀前半から3世紀後半まで続いた王朝の神々。<
それ、どちらかと言えば、(大和ではなく)、出雲や筑紫の伝承だよ。
>つまり畿内で決まり。<
つまり、大和説は、・・・・アホで決まり。
あきらめろ、福岡のカッペ。 >>68
>邪馬台国は葛城だ。<
ssnらは、「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」などの史料事実の否定曲解の嘘つきダマシのサギシだ。 >>73
>国譲りというのは崇神による血生臭いクーデターを、
子供にも聞かせれる柔らかいお伽話に置き換えたものだ。<
国譲りは紀元前で、崇神は紀元後で、時代が全く合わないから、
この投稿子も嘘つきダマシのサギシだね。 >細石神社に金印伝承があるし、能古島にも天孫降臨伝承があるし、
甕依姫伝承や與止姫伝承や「こうやの宮」伝承や、
高良大社の磐井や隆慶上人伝承や「三種の神宝」伝承もあるし、
東海姫氏國伝承もあるし、
何よりも「松野氏姫氏系図」伝承がある。
松野というのが大和朝廷以前の2世紀前半〜3世紀後半の王権という事だな。
松野の誰が王や主などと呼ばれて、九州の何神社で祀られてるのかな?
>>今でも強く信仰や伝承が残ってないとおかしいのだ。 恵比寿さん、大国さん、
これが2世紀前半から3世紀後半まで続いた王朝の神々。<
>それ、どちらかと言えば、(大和ではなく)、出雲や筑紫の伝承だよ。
神武と結婚した一族に事代主や大物主がいるのだが。
したがって葛城だね。
おまえは何を言ってるんだ、糞75歳。 えびす神社の総本社は西宮だ。
>どちらかと言えば、(大和ではなく)、出雲や筑紫の伝承だよ。
大国主の出雲はいいとして筑紫なんて関係ないから。
どこまであつかましいのだ乞食カッペは。 卑弥呼や、卑弥呼を生んだ王たちの民間伝承が残っていない。
これが九州説の負けた理由。
考古学云々の話ではない。 >>103
面白いね。
忍者(伊賀、甲賀)のクナイと似ている。 >>116
>卑弥呼や、卑弥呼を生んだ王たちの民間伝承が残っていない。 <
そうなんだなー
文字時代まで高々500年間数十万数百万ルートの口伝の可能性があったのになあ
九州にも関西にものこっとらん
言い伝えが残ったのは我が一族だけやし(てきとー >>118
>九州にも関西にものこっとらん
言い伝えが残ったのは我が一族だけやし(てきとー
言い伝えが残ったその一族とは、すべて忌部一族なんですよ。 @阿波 >>85
>卑弥呼や、卑弥呼を産んだ王たちの民間伝承が残っていない。
天孫族との争いに負けたので、歴史から抹殺された。 >>96
>>>93
>三種の神器を奪う側が王権であって、奪われた受けた側は服属して臣下になる
それは先代の王から王権を奪った時の話だな。
景行天皇のように。 >>114
>松野というのが大和朝廷以前の2世紀前半〜3世紀後半の王権という事だな。
>松野の誰が王や主などと呼ばれて、九州の何神社で祀られてるのかな?
もっと長い政権じゃないかな。
卑弥呼だけでなく、例えば高良大社の高良玉垂命、川上神社の淀姫など。 >>120
>天孫族との争いに負けたので、歴史から抹殺された。
抹殺なんて実際は無理。
民間伝承として残る。
イザナギイザナミが最初に生んだ子、ヒルコに例えられている。 >>122
>例えば高良大社の高良玉垂命、川上神社の淀姫など
ショボいwwww
九州説、人材不足を露呈wwwwww >>123
それはただの障害児。
今でも未開の地では子供を船で捨てたり草に包んで捨てる。 >>124
筑後国一宮と肥前国一宮の祭神なんだけどね。
全国統一をなした大和政権の側ではないから、全国的には有名ではないが、地元の信仰は厚い。 扇谷遺跡ってやつがある。
弥生前期の鉄斧や鍛冶滓が見つかっている。
俺が不思議なのは、学者がいう「鉄は全部朝鮮から取ってきた」ってやつ。
根拠らしきのは東夷伝の「弁辰の鉄」。
弥生時代を通じて日本列島と半島南半に鉄を供給し続けていたなら、さぞかしすごい
遺跡がわんさかあるだろう。韓国はそれを誇って観光名所にしているのか?と思うが、そんな
遺跡があるとは見たことがない。
日本では製鉄遺跡が出てこないから輸入していたに違いないと主張する。
だけど、弁辰からも製鉄遺跡は出ていない。
なんかおかしいんだよ。
「朝鮮半島から輸入するしかないから、ルートを握った九州が先進地だった(はず)」
これの根拠が遺跡ではなく、東夷伝だけ。
なにか、根本的なところで間違ってるように思える。 >>126
古い一族のようだが大王とまではいかないだろ。
せいぜい一地域の首長であり、中国と通交したとは思えない。
そしてヒミコらしき名前も見当たらない。
ただ蒲池という姓は面白い。
松田聖子も蒲池だよね。
カモ系でカモチ、神地であったのかもしれない。
アナウンサーの大神いずみも鴨系だしな。 肥前国は唐津市加部島の田島坐神社(宗像三女神)のほうが名神大社だな
遣唐使の廃止以降は国衙に近い與止日女神社が一宮になった 畿内は三輪山が御神体
どうあがいても、天孫族は土着の者ではない。 >>127
製鉄、鉄器工房の遺跡、、、あるよ。淡路島に3ヶ所も。それも古代最大規模。
稼働期間は1世紀〜3世紀(4世紀)にわたるかなりの長期間。
淡路島から鉄器(武器)や資材が供給されていた模様です。
更に、完全、完璧な形の銅鐸も数点まとまって発見されていますが、先日、付着していた植物の痕跡から正確な年代測定が弾き出され、
大方の定説や予測を大幅に覆す紀元前(中国の前漢)に埋納された逸品と言う事が判明して学会は騒然? 「淡路島」と「阿波」は、言わば同義語なんですよ。 @阿波 >>130
三輪山の信仰は出雲帝国の東西2王家の分家らによる物。
葛城地域に移住した登美(富、外山、鵄、飛、、、)と高鴨家。
更にやや遅れて大和入りして強勢を誇った丹波の天村雲命(母方は出雲王家筋。父方は渡来人系(徐福の孫))らのトロイカ体制が最初の大倭国。
その初代大王が天村雲命(一人目の神武)。
この王権からいわゆる複数のヒミコ=歴代の大倭媛命がでています。
丹波風土記(残欠)や勘中系図、尾張氏系図等や問題の倭人伝、日本書記等から遣使を送ったのは天村雲命の子孫で出雲神族の末裔の歴代の大倭媛命(ヒミコ)に間違いなさそうです。
この媛命(ヒミコ)らが出雲の祖先、いわゆる事代主神(出雲第八代少彦(副王)の八重波津身命(東王家、富/向家当主))を
大物主神として三輪山に祀り、併せて出雲古来の信仰で有った太陽の女神(大日靈女神)を併祀って人気を得て人心と政局の安定を得ていたそうです。
三輪山の祭神に関する日本書記等の記述(大物主=事代主)が正しかった事になりました。 >>131
出土量が九州と比べたら全然話にならないくらい少ない
当時は九州が先進地域であったことは間違いない。 >>133
>その初代大王が天村雲命(一人目の神武)。
>この王権からいわゆる複数のヒミコ=歴代の大倭媛命がでています。
妄想は疲れるからほどほどにしてくれ。 >>130
>どうあがいても、天孫族は土着の者ではない。
天孫の定義を鏡祭祀・前方後円墳、後方墳とすると土着の者ではない。
天孫を高天原の神々の子孫とすると、最有力地は葛城の高天になるので、天孫は土着である。、 鉄製品の製作には、
製鉄:鉄鉱石、砂鉄を還元して銑鉄にする
精錬:銑鉄から炭素を適度に抜いて鋼鉄にする
鍛冶:鋼鉄を加工して必要な鉄製品にする
このうち製鉄が一番難しく、1250度以上で酸素が少なく、
一酸化炭素が多い状態をつくり、長時間維持しなければならない。
そのためには温度と酸素を調整できる閉炉が必要。
一般的には製鉄は5世紀以降と言われる。
それ以前は朝鮮半島から鉄素材を輸入していた。
鉄関連遺跡では、製鉄、精錬、鍛冶の遺跡がごっちゃで
全部、製鉄遺跡と表現されていることがあるので注意。
輸入鉄素材からの精錬や鍛冶は弥生中期から日本各地で見られる。 ■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
天才のHP
https://o-yan216.wixsite.com/mysite 成分で判定できる青銅に関しては輸入だろうけど
淡路島の製鉄遺跡が1世紀なら砂鉄は淡路島でも中国地方でも取れるだろ?
弁辰の鉄の話も九州倭人限定の話じゃないのか?
中国史が九州が倭国だと思ってて
600年以前の畿内や淡路島知らないのはデフォだよ。
未開の1世紀の半島で出来ることは国内でもできる。
300年程度で馬育てるのに高句麗人連れて来てんだよ。 崇神を4世紀初頭とすると、
2世紀前半から3世紀後半まで存在した(卑弥呼を生んだ)王権は、
プレ大和王権ともいうべき王朝です。
今でもしっかりその王たちの伝承は記憶されてるはずです。
そして民間信仰として今も息づいてるはずです。
それは「主」や「王」など、一豪族ではありえない表記をされてる、
出雲系葛城王朝以外にありません。
大物主、事代主、鴨王に代表される血族が卑弥呼を生んだ王権でした。
彼らがいた場所は高天原(御所市高天)でした。 >>84
>九州説にはなぜ変質者が多いのか <
大和説者には、なぜ「南→東」のウソを付く、
どこかの政府と同じようなダマシの変質者が多いのか。 >>144
そういう中傷をする人は
さすがの九州説でも一人か二人だよね >>128
>せいぜい一地域の首長であり、中国と通交したとは思えない。
筑紫を手に入れれば、列島を代表して倭国王を名乗ることはできる。
代々の倭国王は博多湾沿岸の支配者であり、その主役は度々交代していた。
その中の有明海沿岸の勢力も含まれていた。 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 新唐書に、
「日本、古倭奴也。去京師萬四千里・・・
其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
と書かれ、
「王年代紀」を引用した宋史に、
「初主號天御中主、次曰天村雲尊、其後皆以尊為號、
次天八重雲尊、次天彌聞尊、次天忍勝尊、次贍波尊、次萬魂尊、次利利魂尊、次國狭槌尊、次角龔魂尊、次汲津丹尊、次面垂見尊、
次國常立尊、次天鑑尊、次天萬尊、次沫名杵尊、
次伊奘諾尊、次素戔烏尊、次天照大神尊、次正哉吾勝速日天押穂耳尊、次天彦尊、次炎尊、次彦瀲尊、
凡二十三世、並都於筑紫日向宮。
彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅、當周僖王時也。」
と書かれた。 >>133
>その初代大王が天村雲命(一人目の神武)。
>この王権からいわゆる複数のヒミコ=歴代の大倭媛命がでています。
天村雲命も筑紫日向宮に都したと書いてあるではないか。 >>129
田島(但馬)の神の方が古くて、分布や伝承から考えると天孫降臨より前の博多湾沿岸の倭国王。
淀姫は神功皇后の妹と混同されたり、神功皇后と同じ干珠満珠を使ったとされており、それと遠くない時代の人物であったのだろう。 >>137
>天孫を高天原の神々の子孫とすると、最有力地は葛城の高天になるので、天孫は土着である。、
高天原を確定的に扱われても困るな。
天孫が船で降臨したのはそもそも筑紫日向である。
葛城からどうやって船で福岡に行くというのか。
それに高天原が葛城なら、神武がヤマト入り知るときに、どうして激しく戦うことになるのか。 >>150
天牟久怒命、日本唯一(またまた)の式内社 阿波國麻殖郡「天村雲神伊自波夜比賣神社」が、吉野川市山川町「村雲」に鎮座します。
全国3132座ある式内社で、「天村雲」を冠する唯一の神社です。 @阿波 神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
※神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 >>85
>卑弥呼や、卑弥呼を産んだ王たちの民間伝承が残っていない。 これが九州説の負けた理由。
考古学云々の話ではない。<
白村江に大敗して亡国の運命になった倭国を併合吸収継承した大和は、
倭国の存在やその歴史を徹底的に抹殺し、
全てにおいて、大和が列島盟主であった事にする命令を出した。
それが、「卑弥呼や卑弥呼を産んだ王たちの民間伝承が残っていない」原因。
しかし、歴代中国史書群や、卑弥呼の末裔の松野氏姫氏系図や、甕依姫伝承や、
弥生銀座や安徳台や祇園山の考古などに、
卑弥呼の記録などが残っている。 >>88
>>(九州の王の存在証拠)倭奴国王も帥升も卑弥呼も壹與も倭王旨も倭の五王も、
松野氏姫氏系図に書き残されている。<
>どこが誰でも知ってる民間伝承なのだ。 九州の地元民も全く知らないだろが。
お ま え は ア ホ か。<
九州の地元民なら、糸島付近の「天照〜神武」頃の阿毎氏王の伝承や、
大野付近〜久留米の甕依姫の姫氏女王伝承や、
薩摩の大宮姫伝承などが残っている。 白村江に大敗して歴史をデリートして、代わりに記紀を作った
記紀をもっと分析すれば邪馬台国の場所はわかるだろうな >>96
>三種の神器を奪う側が王権であって、奪われた受けた側は服属して臣下になる<
小部族国であれば、王が亡くなれば副葬したり、次の王が継承したりしたんだろうが、
大国で、三種の神器がその王の地位の象徴であれば、継承しようとするもの。 >>155
九州説を成り立たせるためには、沼地でド田舎の畿内を持ち上げなければならない九州説のジレンマ。 @阿波 >>157
倭国は滅んでしまったので、その歴史も断片的なものとなってしまっている。
残念なことだ。 >>162
>倭国は滅んでしまったので
倭国(阿波)は、脈々と日本の皇室として存続しています。 @阿波 >>98
>畿内説のスレの乗り込んできてずっと居座って
畿内説を唱える者は全員詐欺師だ犯罪者だってわめき続けてる異常者は何者?<
2chという公共性の非常に高い掲示板の場に乗り込んで来てずっと居座って、
「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」や「大和説→畿内説」などの、
史料事実や実態を曲解否定捏造する嘘吐きダマシの、犯罪的な言動をわめき続けて、
世間の人々を騙そうとしている異常者は、何者?。 >>159
あのね
いま三種の神器を持っている者が
かつて三種の神器を持っていた者の正しい後継者であるって保証
なんにもないんだよ!
簒奪者である可能性の方がずっとずっと高いの >>156
>大野付近〜久留米の甕依姫の姫氏女王伝承や、
薩摩の大宮姫伝承などが残っている。
甕依姫を祀ってる神社なんてどこにあるの。
創ったらだめだよ。 >天孫が船で降臨したのはそもそも筑紫日向である。
その天孫って何だ。 >>152
>葛城からどうやって船で福岡に行くというのか
なんで福岡に行く事が前提になるんだよ。
福岡ってエタの土地だね? 現代になって言われ始めた与太話を論拠にしてる時点で歴史学的には問題外 >>165
>簒奪者である可能性の方がずっとずっと高いの
そうだね。
景行天皇と神夏磯姫のエピソードからは、筑紫倭国の梟師女王から武力をちらつかせて三種の神器を奪い取った可能性がある。 >>167
天孫とは、アマテラスの孫のニニギのこと。
筑紫の日向に降臨した。
陵墓は伊都の最も古い王墓である三雲南小路遺跡と伝えられる。
ニニギの三世孫が神武天皇と呼ばれる。 >>114
>>細石神社に金印伝承があるし、能古島にも天孫降臨伝承があるし、
甕依姫伝承や與止姫伝承や「こうやの宮」伝承や、
高良大社の磐井や隆慶上人伝承や「三種の神宝」伝承もあるし、
東海姫氏國伝承もあるし、 何よりも「松野氏姫氏系図」伝承がある。<
>松野というのが大和朝廷以前の2世紀前半〜3世紀後半の王権という事だな。<
何をウソダマシをしゃべってんだい?。
姫氏は、周王家や太伯や呉王の姓であり 、
夫差の遺民が列島の火の国山門に逃れて来て倭人となり、
その分家が天孫族の阿毎氏と合流して、列島の主たるの王家になって、
卑弥呼や倭の五王の「東海姫氏國」の王と呼ばれ、
6世紀に磐井に王位を奪われて下野して、評督の地位になり、松野氏に呼称を変えたんだよ。
>松野の誰が王や主などと呼ばれて、九州の何神社で祀られてるのかな?<
卑弥呼は祇園山に葬られ、倭の五王らは高良大社を祖廟にした。
>>(恵比寿さん、大国さん)それ、どちらかと言えば、(大和ではなく)、出雲や筑紫の伝承だよ。<
>神武と結婚した一族に事代主や大物主がいるのだが。したがって葛城だね。 おまえは何を言ってるんだ、糞75歳。<
事代は、天照の軍に追われて、美保関から海に投じて、蛭子になった、という伝承があるんだから、
神武とは年代が全く違い、
だから、 事代主や大物主の話は、はるか後代の大和での捏造伝承になる。
おまえは一体何を言ってんだい?、ssnサギシ。 >>168
>>>152
>>葛城からどうやって船で福岡に行くというのか
>
>なんで福岡に行く事が前提になるんだよ。
>福岡ってエタの土地だね?
歴史板に出入りするなら、最小限の知識は身につけようぜ。
天孫ニニギが八咫の鏡とともに筑紫の日向に派遣されるのが記紀の神代の巻のクライマックスだろ。
で、実際に昭和になって筑紫の女王墓から八咫の鏡が出土してみんなびっくり。
しかもその墓の年代が倭国大乱の後の卑弥呼の時代に作られたものだとされている。
ニニギ王から筑紫倭国の王権の象徴として卑弥呼が八咫の鏡を受け継ぎ、埋葬された可能性が高い。 >>175
なんでそんなことの可能性が高いの?
計算根拠は? >>174
>事代は、天照の軍に追われて、美保関から海に投じて、蛭子になった、という伝承があるんだから、
>神武とは年代が全く違い、
>だから、 事代主や大物主の話は、はるか後代の大和での捏造伝承になる。
出雲で負けた事代主が大和に偶然流れ着くとは思えず、はるか古代の王の名を騙っただけだな。
ただ、大和の大物主は、出雲の大国主とは別に存在していて、後世に習合されたように思われる。 >>115
>>(事代は)どちらかと言えば、(大和ではなく)、出雲や筑紫の伝承だよ。<
>えびす神社の総本社は西宮だ。 大国主の出雲はいいとして筑紫なんて関係ないから。
どこまであつかましいのだ乞食カッペは。<
事代の「蛭子」伝承は、
伊弉諾と伊弉冉の第1子も「蛭子」とされた話があり、
他にも、筑紫や関門付近から、「蛭子にされて半島へ流れついた」伝承もある。 >>175
>天孫ニニギが八咫の鏡とともに筑紫の日向に派遣されるのが記紀の神代の巻のクライマックスだろ。
筑紫の日向っていつ決まったんだよ、カッペ。
勝手に決めるな、田舎者。 >>176
平原遺跡が2世紀末以降と考えられている。
それはつまり卑弥呼の治世もしくは卑弥呼の死後直後に作られたということ。 >>116
>卑弥呼や、卑弥呼を生んだ王たちの民間伝承が残っていない。
これが九州説の負けた理由。 考古学云々の話ではない。<
卑弥呼や、卑弥呼を生んだ王たちの民間伝承が、筑紫に残っている。
これが大和説の負けた理由。
考古学云々以前の話。 >>179
記紀を読めよ。
筑紫の日向の高千穂のクシフル岳に降臨したんだよ。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳 >>177
>出雲で負けた事代主が大和に偶然流れ着くとは思えず、はるか古代の王の名を騙っただけだな。
出雲の銅鐸が近畿に来ている。出雲から人が来たからだ。
「思えず」も糞もない、おまえの主観なんてどうでもいいんだよ、カッペ。 >>118
>>卑弥呼や、卑弥呼を生んだ王たちの民間伝承が残っていない。 <
>そうなんだなー 文字時代まで高々500年間数十万数百万ルートの口伝の可能性があったのになあ
九州にも関西にものこっとらん
言い伝えが残ったのは我が一族だけやし(てきとー <
九州に残っているから、この投稿子は二人とも、
例の「南→東」などの嘘つきダマシの、大和説サギシの・・・・。 >>183
宮崎ならわかるけどなんで高祖山 なんだよ、糞カッペ。 >>125
>それはただの障害児。 今でも未開の地では子供を船で捨てたり草に包んで捨てる。<
蛭子は、海に逃れて他の地域の王になった伝承の人であり、
事代も恵比寿も蛭子伝承の主。 >>127
>扇谷遺跡ってやつがある。 弥生前期の鉄斧や鍛冶滓が見つかっている。
俺が不思議なのは、学者がいう「鉄は全部朝鮮から取ってきた」ってやつ。 根拠らしきのは東夷伝の「弁辰の鉄」。
弥生時代を通じて日本列島と半島南半に鉄を供給し続けていたなら、さぞかしすごい
遺跡がわんさかあるだろう。韓国はそれを誇って観光名所にしているのか?と思うが、そんな
遺跡があるとは見たことがない。
日本では製鉄遺跡が出てこないから輸入していたに違いないと主張する。
だけど、弁辰からも製鉄遺跡は出ていない。
なんかおかしいんだよ。
「朝鮮半島から輸入するしかないから、ルートを握った九州が先進地だった(はず)」
これの根拠が遺跡ではなく、東夷伝だけ。 なにか、根本的なところで間違ってるように思える。<
列島の「鉄」利用は「木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」の「鐵鏃」であり、
それは、殆ど全て北部九州からの出土であり、
この投稿子は、その考古事実をこっそり隠した話を匂わせていて、何かおかしい。
おそらく、この投稿子も、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者の仲間。 邪馬台国論叢はいつまで続くのだろうか。
汚い世界もある。
されど汚い世界から個人の資質により誠は見つかる。
政治家もしかり。
されど、根幹たる基本を各説大事にしないといけない。
基本
倭人伝無ければ、邪馬台国も卑弥呼も存在しない。 >>128
>(姫氏の卑弥呼一族)古い一族のようだが大王とまではいかないだろ。
せいぜい一地域の首長であり、中国と通交したとは思えない。<
親魏倭王。
>そしてヒミコらしき名前も見当たらない。<
歴代中国史書群や三国史記や松野氏姫氏系図に載っている。
>ただ蒲池という姓は面白い。 松田聖子も蒲池だよね。 カモ系でカモチ、神地であったのかもしれない。
アナウンサーの大神いずみも鴨系だしな。<
安倍夫婦は、毛人蝦夷出の安東の系列であり、
和田喜八郎家とも親交があり、喜八郎さんの葬儀には安部家から花も添えられたらしいな。
代議士の熊本の松野は、松野氏姫氏一族の後裔であるんだろうなあ。 >>191
あんたは歴史という物がわかってない
倭人伝なんか無くたって、中国人が見て邪馬台国と読んだ国や彼らに卑弥呼を呼ばれた人物も存在たんだよ >>194
>親魏倭王。
金印出せ馬鹿。
>歴代中国史書群や三国史記や松野氏姫氏系図に載っている。
後世に入れただけ。
アホか糞じじい。 >>191
分かるよ。
いろんな邪馬台国関連のスレ、ブログ等立ってる(2ちゃんに限らず)
倭人伝の記載に謝りも知れない有ると思う
しかし、その誤りを容認しつつ、いかに倭人伝に近づけるかが「誠」
それから、導かれるのは
九州>阿波>出雲>畿内の順だと思う。・・・・今のところです。新たな出土物等でるまでですが?
南≠東と、カキコム方もいますが、倭人伝の誤りも容認(真偽は不明)しつつ、論議を進めませんか・
折角、よい意見を述べてるのに最後南≠東 は止めましょう。・・・別人だったらスイマセン
ずいぶん勉強させていただきました。私は理解しててますが、ククリの南≠東は???? >>197
>南≠東と、カキコム方もいますが
それzarakoku.
孫殺しの鬼畜。 >>195
史書がなければ、その歴史は存在しないものと一緒なわけだがな >>188
筑紫って書いてあるだろ。
筑紫を九州だと言い張るのは、土地勘のないかっぺ。
日向は倭奴国と伊都国を含むエリア。
当時は福岡平野から糸島平野に抜ける唯一の道が日向峠。
ちなみにイザナギが禊した筑紫の日向の小戸の橘というのが、福岡市西区の小戸公園。
博多住吉神社の発祥の地。 >>201
じゃあ史書にスミを塗って歴史を消してみろ >>191
>倭人伝無ければ、邪馬台国も卑弥呼も存在しない。
いいこと言うなあ。
畿内説はここがなっていない。 >>204
降臨場所は筑紫か日向か議論があるのに勝手にきめるな。
だいたいここは畿内説スレだ、荒すなカッペ。 >>191
>邪馬台国論叢はいつまで続くのだろうか。
平原遺跡が発見されたところで決着がついていたはずなんだよ。
卑弥呼の治世の倭国女王墓なんだから。 >>129
>肥前国は唐津市加部島の田島坐神社(宗像三女神)のほうが名神大社だな
遣唐使の廃止以降は国衙に近い與止日女神社が一宮になった <
與止姫は、当然「與」が名前であり、
「壹與」は、当然「壹」が姓で「與」が名前なんだろうな。
難升米の「難」も、河南省と半島に本貫がある氏族があるから、当然苗字であり、
升米が名前なんだろうなあ。
都市牛利も、「都市」は福岡市や東松浦半島の北西沖の鷹島や黒島の松浦水軍家らしいから姓であり、
牛利が名前なんだろう。
と言う事は、卑弥呼も、魏の帝紀に書かれた「俾(卑)」が苗字であり、「彌呼(弥呼)」が名前なんだろうな。
確かに、中国には「卑」の名字の一族もある。
そして、松野氏姫氏系図には、卑弥呼も壹與も難升米も掖邪狗も載っているから、
そうすると、呉王夫差の遺民らは、元々夫差の後裔のいろんな姓の氏族の集まりであって、
その中で、(完全な直系と言うよりは)、最も位が高くなった人物を、系図に載せていた、という事であったらしい。 >>203
おまえんちの先祖は史書に出てくるか?
誰も名前も知らないだろ、いたのは間違いないのにな >>200
私キススに昇格?
どうでもいいけど。
畿内説は希望説だと思う。
九州説は大和王権、朝廷は九州が発祥説だと思う。
邪馬台国は大和王権、朝廷との繫がりは論外でいい。どちらに転ぼうが・
間違ってるかなぁああ >>131
>製鉄、鉄器工房の遺跡、、あるよ。淡路島に3ヶ所も。
それも古代最大規模。 稼働期間は1世紀〜3世紀(4世紀)にわたるかなりの長期間。
淡路島から鉄器(武器)や資材が供給されていた模様です。<
それだけでは、倭人伝に記載の「鐵鏃」の説明が付かないよ。
何せ、鐵鏃は、北部九州全域に圧倒的に大量出土するんだから。
>更に、完全、完璧な形の銅鐸も数点まとまって発見されていますが、
先日、付着していた植物の痕跡から正確な年代測定が弾き出され、
大方の定説や予測を大幅に覆す紀元前(中国の前漢)に埋納された逸品と言う事が判明して
学会は騒然?<
「付着していた植物の痕跡」では、微量過ぎるからAMS末@を使うしかなbュ、
だかb逞痰フ「プラズャ}化」をしなけb黷ホならないかb轣A
その滑ヤに放射性崩壊bェ亢進されて、bQ〜3割古い年荘繧ェ計測されてbオまうから、
発表通りには受け止められないよ。 >>213
>私キススに昇格?
おめでとう。
スレ主のカンに触るとみんなその称号をもらえるらしいよ。 >>133
>ヒミコ=歴代の大倭媛命<
というウソダマシを書いた瞬間に、
この投稿子の話は、分裂幻覚妄想のアホのウソダマシであった事になる。 >>197
結論はそれでいいでしょう。
しかし、楽しみを奪うのは良くない。
2ちゃんはそういうところです。
スレ主も2ちゃんで遊んでる一人でしょう。
ふつうは、ブログ等立てれば良いのですが。
そこまで知識がおぼつかない。 >>201
魏志倭人伝がなかったら九州説は消滅
畿内のヤマト国が3世紀に列島統一を始めたという定説だけが残る >>137
>高天原の神々の子孫とすると、最有力地は葛城の高天になるので<
高天原は、「燕の南」付近やそれからの列島への渡来ルートにある事になるから、
葛城は✖であり、おそらく後代の「伝承の造作」の産物。 >>223
そりゃそうだろ、何を当たり前のことをw >>138
>鉄製品の製作には、
製鉄:鉄鉱石、砂鉄を還元して銑鉄にする
精錬:銑鉄から炭素を適度に抜いて鋼鉄にする
鍛冶:鋼鉄を加工して必要な鉄製品にする
このうち製鉄が一番難しく、1250度以上で酸素が少なく、
一酸化炭素が多い状態をつくり、長時間維持しなければならない。
そのためには温度と酸素を調整できる閉炉が必要。
一般的には製鉄は5世紀以降と言われる。
それ以前は朝鮮半島から鉄素材を輸入していた。
鉄関連遺跡では、製鉄、精錬、鍛冶の遺跡がごっちゃで
全部、製鉄遺跡と表現されていることがあるので注意。<
成程。
輸入鉄素材からの精錬や鍛冶は弥生中期から日本各地で見られる。 途中からスマン
三輪山はご神体でない
記紀からご神体は蛇だ
神主は三輪山と言わざるを得ないのか、先祖の言い付け >>229
記紀何てどうでも良いよ。邪馬台国と関係無い。
畿内説・・・記紀と結び付けたがる
九州・阿波説・・・記紀を引用しヤマト朝廷の出どころははここだという
(一部の学者に洗脳されたのかな・・江戸期の学者は偉いよ、純粋だから説替えもあった。尊王攘夷からおかしくなった
関係ないよ
各説
邪馬台国=天孫族は論ずるのは良くない
なぞの150年を語るのはいいが。 天皇家の系図は神話まではあってるが
それ以降、ずいぶん改変されてます。
異論があれば「根拠は?」とか「証拠は?と言わず
確たる自論を書きこめばよいの良いのですが
無理でしょうか >>233
異論として、「天皇家の系図は神話まではあってるが 」
神話を正当化するのですか? キウスは日本語の意味を理解せずに書き込んでることが多い >>225
ご指摘ありがとうございます。
神話は神話です。しかし現天皇否定憲法・・国民の象徴)につながると思い敢えて、お許しください。 >>237
天皇は国家元首にすべしという考えなのか 「人のせいにしない!」
「き□がいは相手にされない」
という謎の書き込みがあったでしょ、どのスレだったかな >>240
私の言いたいのは、邪馬台国と天孫族とは関係ない。
外交的には「天皇は国家元首」と海外が誤解してもいいですが
日本国民が真実を知った上で、国民が天皇制を活用すれば良いと思います。
今ある政治だと思ってます。
しかし、今ある政治と学問は別物との認識は必用です。学者・研究者に本音を聞いてみたいですね・ >>242
邪馬台国は天神族である
学者・研究者は心では万世一系の男系継承だと思ってないだろ 日本史最大のタブーは天皇
日本史学者も泣いてるが、命取られるか(言い過ぎゴメン)、収入源無くすよ
笑っちゃいけないど、マスコミもマスコミ、
眞子さま、婚約内定したら国民にとって何が喜ばしいのか、さっぱりわかりません。 邪馬台国のスレなのに
眞子様婚約とどういう関係あるのかね。
ご自由に。 >>245
拘らるなよ。結婚したら日本国民になるのだから。めでたい事だ。 >>231
以前は私もそう思ってましたが、伊都国と比定される糸島の楽浪土器の出土状況、クシフル山の存在、伊勢神宮の鏡の伝承と平原大鏡の一致や、諏訪神社の大柱と平原の大柱の類似性等があり、記紀を無視できなくなってしまいました。 >>245
自民党がボコボコ状態だから皇室絡みは話題そらしだろ
最近のメディアは政治の話はしたくないから藤井の話題が多いな
でもレポーターが将棋知らなさすぎ、打つじゃなくて指すだろ
片上は胸にでっかく名前書いてるにもかかわらず片山、片岡とか失礼である 2ちゃんの全盛期は良かったが、いまはあの手この手。
スレ立てる能力があるスレだと思う。
テンプレが長いのと加筆があるのもスレ主の能力
名無しで盛り上げるのもスレ主の能力
最近はエロチックな広告が目立つな。 >>223
魏志倭人伝がなかったら、邪馬台国も卑弥呼もなかったことになるぞ。 文献がなかったら、あったことに気が付かないだけで、なかったことにはならない >>235
記紀と中国の書でも少しずつ神代の説明が違う。
混乱が生じている。
だが、伊都国の状況などを見ると、神代とは筑紫倭国のことに他ならないわけで、貴重な史料であることは間違いない。
それがないと、ほとんどの墓は主が名無しのままになってしまう。
彼らにも名があったはずであり、その断片が記紀には記録されているのだろう。 >>257
少し前まではそう思っていたよ。
でも、八咫の鏡が出ているから、創作とばかりは言えないだろ。 平原の鏡を八咫鏡と同一視すること自体、検証不能の妄説 周が八咫ある鏡だからいいのでは?
否定する理由が何もない。
しかも特徴的な八葉座が一致している。 八は古来、陽の数字の最大数であり、縁起がよいものとされ、数が多い、大きい、という意味で使われている
八咫を実数とする考えも根拠が足りない
伊勢の神鏡が八葉座であるとする説も根拠に欠ける
循環論法に陥っているきらいがある 周代の尺度を円周の尺度だと誤読していた恥ずかしい人がいるらしい >>263
>伊勢の神鏡が八葉座であるとする説も根拠に欠ける
それは過去の記録にあるわけだから。
そして平原遺跡から実際にそれが見つかった。 大事なのは、平原遺跡の主が倭国女王であったということ。
そして、その時代の倭国女王は、魏志では卑弥呼という名前で記録されていること。 >>263
>八は古来、陽の数字の最大数であり、縁起がよいものとされ、数が多い、大きい、という意味で使われている
>八咫を実数とする考えも根拠が足りない
このようなぼんやりした意見も、実際にその大きさの鏡が出土したことで空虚なものとなってしまった。
事実を直視できないなんてカワイソス >>265
八葉座であると記された史料など存在しない
勝手に捏造しないように 神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。 >>263
伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記には「八咫鏡は八頭花崎八葉形也」とあるので、可能性は十分にある
八葉座の鏡が平原しか出土していないのも興味深い ほら、史料には八葉座などとは書かれていない
八葉形を八葉座と勝手に解釈しているだけ
そういう峻別がつかない人に歴史研究は無理 いかなる文献も無視するぞという凄まじい怨念を感じるよ。
日本語が通じないなんて、情けない。 「八頭は連弧文」だと得意満面で提示した史料には
「八咫は八頭」と注釈されているんだったよな
ほんとイトクズって恥ずかしいやつ 文献を無視するのではなくて
批判的に検証して依拠可能か判断しているだけ
それをしないから妄説の上に
与太話を基にした幻想を積み上げることになる 纒向から超大型内行花文鏡が出たら王都と認めようじゃないか。 お前さんらよ
いい加減にせーーー
記紀で邪馬台国の真実が分かるなか。
記紀を持ち出す奴は、推理,妄想だろ
倭人伝が書かれた時代以前に記紀は無い 超大型内行花文鏡が王権の象徴だという根拠がないので却下だな 考古学者が誰も支持していない説を持ち出して
「考古学的に確定している」とか言っちゃう時点で
学問の研究ではなく信仰の布教 倭人伝以降の文献で邪馬台国や卑弥呼が記述されてない現実逃避するな 半世紀以上前の発見を持ち出して
「この発見で畿内説は破綻した」とか
現実をまるで無視した発言をしちゃうのも
信仰の布教だな >.281
いい事言った。
倭人伝無視の畿内説にアンタ賛同する >>271
今は八葉座と説明されるが、伝承が書かれた当時の説明で八葉座と記すわけがなかろう >>284
だから現代人が文面を解釈してるんじゃん
その解釈が正解だと誰が決めたんだ?
イタコにでも頼んで聞いたのか? >>287
何でも否定してどうする?
可能性は十分にあるよ?
類似性は無視して、可能性は全く無い、とする根拠でもあるのか?
その方が無理があると思うがな 畿内は30国を束ねるには遠すぎだと思う・
30国の所在地が比定すべき・
倭人伝で各説で比定でオーソライズきてる国は何処? >>288
可能性はある と 確定 は全く次元が異なる
可能性はある は根拠にはならない 可能性があるという事象はほかの事象の可能性を否定できるものではない
ところが、可能性があるという程度の事象でほかの事象を全否定している人がいるわけ >>290
確定なんて考古学や歴史学の世界じゃ皆無だろうが 古代日本史はクチャクチャだな
何が事実で何が創作なのか >>291
平原の鏡がヤアタノカガミだから〜と主張している人ですね
分かりますw >>292
確かにそうですね
だから現状では、たくさんの賛同者を得られた説が定説として、
ほかの説の根拠などにも使用することが許容されています >>295
俺サマの考えが正しいんだ!学者どもはバカなんだ!
というこのスレにもいる主張のなんてみじめなことかw >>293
賛同
倭人伝により近い、物証で邪馬台国を比定するしかない。
もしくは、倭人伝そのものを否定するしかないでしょう
日本史を馬鹿にしたらいけない、倭人伝は日本では認知されていない。
北部九州まで国交は金印(漢委奴国王)を事実として、邪馬台国や卑弥呼は其の後no魏国の創作いいかも >>298
邪馬台国や卑弥呼の存在を認めたくないのか 倭人伝を否定するやつって、古代史に興味があるんじゃないんだろな 咫はアタと読み、ヤアタの音便がヤタなんで、どっちもOKだよ 邪馬台国論叢なんて、国益に寄与するのか
畿内説は税金の無駄遣いじゃないか。
他説も税金でかたる奴は許せん。
すまんが圧倒的に畿内に税金を使うのは良くない。
纒向研究を、桜井市に丸投げして補助金だけ出す政府も政府・・・・なにも進展しないなら補助金削除す時期
意地を示し、論より証拠の曲がり角に来てうのが畿内説
寺澤すごいと揉もう。
吉野ケ里へ行くよ良く分かる。山や異国や卑弥呼の里のノボリは」ない。・・謙虚であう・
観光会社がそうであろうはいいのです・・・パンフレット見ると決定と記載だれてません・。
纒向、正直な現況で集客すべき。長谷寺もあるし、パワースポットの、三輪山もあるし
教委と観光とのコラボが今以上に必要です
邪馬台国の所都にこだわるより、長谷寺と古墳の旅の企画も良いと思います 三輪山内部に参拝すのには、料金もかかりますが、感動します。
邪馬台国論叢なんてくだらん境地にないます。 馬の骨から誕生したという神話なんだよ、
日本の神話? このスレだったような気がする
ウジ、ハエが何やら〜、
と言っている人もいたでしょ
牛の骨とか 馬の骨
中国(視点、目線)のコトバだと書いてあったり >>306
>邪馬台国論叢なんて、国益に寄与するのか
国益と言うか日本の国体を顕にするという意味では必要と思う。
記紀には100歳とか150歳とかとんでもない年齢の天皇がいる。
かつて古田という知恵遅れが倍歴といったが当時の平均寿命から大きく逸脱するので論外。
卑弥呼が判明するとなると約100年前の帥升も判明してしまう。
国王自ら渡海して朝貢(土下座)という日本国史の最大の恥部、
中華に隷属していたという史実を封印するために時代を大きくずらした。
帥升が誰なのか、卑弥呼が誰なのか、実際には判明してたから、
帥升も卑弥呼も時代をおおきくずらしたのだ。
朝貢年
266年 台与 アマトヨツ
・
238年 卑弥呼 ヒメタタラ
・
・
・
・
・
107年 倭国王・帥升 スサノオ
倭国王帥升とはスサノオである。 祇園山を連呼してウザいから調べてみた。
祇園山は方墳だよね。
http://kurumenmon.com/koura_miimati/gionyamakofun/gionyamakofunsokuryouzu.gif
そっくりなのが伯耆・後口谷1・2号
https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=8324248486.png
あんたらが言う殉葬(大笑い)らしきものもあるだろ。
つまり祇園山の主は出雲系で蒲池という姓も出雲・鴨系だろう。
カモチ→カマチ
祇園山程度で卑弥呼の墓になるなら出雲にはいくらでもあるということになる。
残念でしたwww 本当の卑弥呼の墓はこれだよん♪
https://goo.gl/LzPG5i
高天原にあるのだよん♪ >>141
>成分で判定できる青銅に関しては輸入だろうけど
淡路島の製鉄遺跡が1世紀なら砂鉄は淡路島でも中国地方でも取れるだろ?<
その「1世紀」という判断根拠が不明だな。
>弁辰の鉄の話も九州倭人限定の話じゃないのか? 中国史が九州が倭国だと思ってて
600年以前の畿内や淡路島知らないのはデフォだよ。<
ハッチで鉄が始まったとしても、
列島人が製鉄技法を知って作れるには、やはり(独自発明ではなく)伝来や学習が必要であり、
Y-N人の渡来などではない限り、半島人からの学習や伝来が不可欠だろう。 >>142
>崇神を4世紀初頭とすると、
2世紀前半から3世紀後半まで存在した(卑弥呼を生んだ)王権は、
プレ大和王権ともいうべき王朝です。
今でもしっかりその王たちの伝承は記憶されてるはずです。
そして民間信仰として今も息づいてるはずです。
それは「主」や「王」など、一豪族ではありえない表記をされてる、
出雲系葛城王朝以外にありません。<
「南≠東」ですから、卑弥呼は出雲や葛城にはならず、✖です。 >>145
>>大和説者には、なぜ「南→東」のウソを付く、 どこかの政府と同じようなダマシの変質者が多いのか。
>そういう中傷をする人は さすがの九州説でも一人か二人だよね <
そういうまともな批判が出来る人は、
嘘つきダマシの大和説者には、当然皆無だよね。 >>157
>怪しげな野史と素人の妄想が九州説ってことね <
大和説者は、
盗用妄想造作の半分✖書の記紀伝承は全面的に信頼するが、
客観性や信頼性の高い歴代中国史書群の記録や、記紀に書かれていない国内民間伝承や、
考古発掘を、
「怪しげな野史と素人の妄想」だとして、全て抹殺する・・・・サギシ集団だ、という事だね?。 >>160
>邪馬台国は大和国。 卑弥呼がいたのは纒向。<
こんな「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」などの嘘ダマシを、
未だに連呼している・・・・大和説者がいる!。
まるで、どこかの政府の「嘘ダマシでの国民の洗脳」と、
全くそっくり。 >>165
>あのね いま三種の神器を持っている者が
かつて三種の神器を持っていた者の正しい後継者である
って保証 なんにもないんだよ!
簒奪者である可能性の方がずっとずっと高いの <
賛成。
大和は、筑紫倭国の簒奪者です。 >>166
>>大野付近〜久留米の甕依姫の姫氏女王伝承や、 薩摩の大宮姫伝承などが残っている。<
>甕依姫を祀ってる神社なんてどこにあるの。 創ったらだめだよ。<
誰が「甕依姫を祀ってる神社」なんて言ったんだい?。
「伝承」の存在する話であり、
神社なら壹與の與止姫の神社がある。
どこかの政府のように、嘘つきデマを創ったらダメだよ。 >>168
>>葛城からどうやって船で福岡に行くというのか <
>なんで福岡に行く事が前提になるんだよ。<
韓国にまっすぐ向かう場所であり、日向やクシフルがあるから。
>福岡ってエタの土地だね?<
成程。
ssnは、人種差別戦争だけではなく、「エタ」差別を叫ぶ・・・・」であったのか。 >>170
>現代になって言われ始めた与太話を論拠にしてる時点で歴史学的には問題外<
「現代人の説は全て与太話だ」と断定して、
「史料事実を根拠にした推論」までも否定抹殺した時点で、
大和説者は、歴史学的には問題外。 >>170
>現代になって言われ始めた与太話を論拠にしてる時点で歴史学的には問題外<
「現代人の説は全て与太話だ」と断定して、
「史料事実を根拠にした推論」までも否定抹殺した時点で、
大和説者は、歴史学的には問題外。
まるで、どこかの政府の答弁と全く同じ。 >>171
>なかったら作ればよい(●田) <
史料事実になかった文言は、みだりに作るべきではない。(古田)。
どこかの政府の真似をしてはいけない。 >>324
>誰が「甕依姫を祀ってる神社」なんて言ったんだい?。
「伝承」の存在する話であり、
神社なら壹與の與止姫の神社がある。
「伝承」程度でいいならいくらでもある。
祀られてない女王などいるものか。 >>325
差別ではない、史実。
https://www.fastpic.jp/viewer.php?file=2194292136.jpg
北部九州が弥生時代から防人の地であったことは変わらない。
こんな危険な所に「王」はいない。 >>177
>>事代は、天照の軍に追われて、美保関から海に投じて、蛭子になった、という伝承があるんだから、
神武とは年代が全く違い、 だから、 事代主や大物主の話は、はるか後代の大和での捏造伝承になる。<
>出雲で負けた事代主が大和に偶然流れ着くとは思えず、はるか古代の王の名を騙っただけだな。
ただ、大和の大物主は、出雲の大国主とは別に存在していて、後世に習合されたように思われる。<
成程。
出雲は越や新羅〜沿海州からも「国引き」をしていたし、
子供の一人は諏訪にまで逃げたし、
子供の一人の大歳は播磨の少彦名に頼ったらしい。 >>188
>宮崎ならわかるけどなんで高祖山 なんだよ、糞カッペ。<
宮崎でjは、
韓国に真っ直ぐに向かっていないし、
天上から降りて来るのに「九州で一番高い山ではない」ところに下りる理由がないし、
その西ほとりに「王家の谷」もないし、
高祖山ならわかるけど、なんで宮崎 なんだよ、糞カッペ。 >>332
天孫降臨の高千穂は 九州南部の霧島山地の一山である高千穂峰(宮崎県と鹿児島県の県境)と、
宮崎県西臼杵郡高千穂町のそれぞれに伝承がある。
高祖山など北九州の出る幕ではない。
エタは引っ込んでろ。 >>331
事代主は神武の奥さんのお父さん。
なにを捏造してるんだ、ハゲ。 >>317
持統一人で創作などできない。
それ以前に高天原と言う概念・認識があったのだ。
日本各地に円錐状の山・神奈備信仰があるのもその証拠。 倭人伝は倭国に馬はいなかったと証言している
しかし記紀の高天原には馬がいた 安本さんの31代・用明天皇からの平均在位10.88年という数値は、20代の平均値だったと記憶してます。
でも平均を採るのに20代は少な過ぎ。
というわけで30代で平均値を採ってみました。
31代・用明天皇587年〜60代・醍醐天皇没930年 平均在位11.433
ほらね。
安本さんの10.88年という数値がたまたま低く出たのが分かります。
では平均在位11年で用明天皇から神武まで計算してみます。
ただし神功皇后は確実な1代ですから32代遡ります。
11×32=352
用明元年587-352=235
235年。
やはり神武は卑弥呼の頃です。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴姫です。 >>333
宮崎と福岡でどっちが田舎だって?
バカも休み休み言え。
新幹線もないくせに。 >>327
>「現代人の説は全て与太話だ」と断定して、
>「史料事実を根拠にした推論」までも否定抹殺した時点で、
>大和説者は、歴史学的には問題外。
>まるで、どこかの政府の答弁と全く同じ。
全くだ。
口先三寸で黒を白と言いくるめる詐欺師が畿内説の集団だ。
史料が出ても、信じられないの一点張り。 >>323
>賛成。
>大和は、筑紫倭国の簒奪者です。
同意する。
大和はその名と権威、三種の神器を筑紫倭国邪馬台国から簒奪した。 >>338
こいつダッサw
古代史の話なのに新幹線で比較してやんのwww >>315
>つまり祇園山の主は出雲系で蒲池という姓も出雲・鴨系だろう。
>カモチ→カマチ
近畿の鴨が出雲だと言うのは勝手だが、蒲池まで巻き込むな。
阿波と同じレベルの発想だぞ。
蒲池姫の氏族の古さは出雲にも劣らない。 >>315
>祇園山を連呼してウザいから調べてみた。
>祇園山は方墳だよね。
祇園山は平原遺跡と同じ方形周溝墓。
平原遺跡が卑弥呼で祇園山が壹與と言う人もいれば、その逆だとする意見もある。
どっちにしても、魏志倭人伝と食い違いが多すぎる畿内はお呼びではない。 祇園山は平原遺跡と同じ方形周溝墓。
平原遺跡が卑弥呼で祇園山が壹與と言う人もいれば、その逆だとする意見もある。
どっちにしても、魏志倭人伝と食い違いが多すぎる九州はお呼びではない。 >>342
弥生時代の墳墓最貧弱地の分際で生意気だよ。 >>303
>倭人伝を否定するやつって、古代史に興味があるんじゃないんだろな
そうだな。
歴史的真実よりも、創作された都合のいい論を展開して利用するだけの寄生虫であろう。
その点では畿内説も阿波説と大差ない。 崇神が宮崎神宮の社殿を建造している。
ということは崇神は神武が宮崎だという事を強く認識していた。
つまり日向とは宮崎。
宮崎神宮ほど古く格式のある神社がない防人の地・福岡は以後の発言を慎むように。 >>284
伝承というか、記紀では大きさが八咫としか書いてない。
八咫の鏡を扱う後世の伊勢の人たちが、鏡の文様を八葉座と記載した。
そして大きさが八咫で文様が八葉座の鏡は、他には平原遺跡の鏡しかない。 >>347を訂正
×崇神が宮崎神宮
〇崇神の時代に宮崎神宮 >>196
>>親魏倭王。<
>金印出せ馬鹿。<
「王」がいたのか?の問題であったから、いた事を書いた。
>>(卑弥呼の名)歴代中国史書群や三国史記や松野氏姫氏系図に載っている。<
>後世に入れただけ。 アホか糞じじい。<
魏志の「卑弥呼」は、
魏の役人らの実際に実地に確認した記録であるから、
「後世」のものにはならないよ。 石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 >>347
>宮崎神宮ほど古く格式のある神社がない防人の地・福岡は以後の発言を慎むように。
イザナギの禊の地に建てられた博多住吉があろうが。
宮崎ナントカは500年は遅いのではないか? 岩永省三「弥生時代における首長層の成長と墳丘墓の発達」
A.北部九州
中期後半には福岡県前原市三雲南小路、春日市須玖岡本D地点、飯塚市立岩堀田、
夜須町東小田峯、佐賀県神 埼町二塚山、大分県日田市吹上などに
特定クラン有力層抽出型の厚葬墓があり、一部は墳丘墓の可能性もあるが、
後 期前半に入ると、周知のように墓地・集落ともに数が減り、
特定クラン有力層抽出型は、前半から中葉にかけての
佐賀県 唐津市桜馬場、福岡県前原市井原鑓溝に可能性があるものの、
他は知られていない。
「他は知られていない。」
・筑前
(長いので略)
「中国・四国地方以東と異なり墳丘墓は少なく、形態もばらつき優勢なタイプがない」
・筑 後・肥 前
(略)
「…はいずれも古墳時代に下る。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
結論
北部九州など糞であるwww >>354
平原遺跡がない時点で、役に立たない史料だな。
作為的な詐欺。 >>346
>歴史的真実よりも、創作された都合のいい論を展開して利用するだけの寄生虫であろう。
その点では畿内説も阿波説と大差ない。
「阿波」が気になる様子。 阿波には「歴史的真実」があちこち、どこにでも、ゴロゴロしていますよ。 >>350
>魏志の「卑弥呼」は、
魏の役人らの実際に実地に確認した記録であるから、
「後世」のものにはならないよ。
「後世」のものは松野の話だ。ごまかすな変態ジジイ。 あとイザナギイザナミの話は、最初に生んだのが淡路島。
つまり夫婦の契りはオノコロ島こと沼島なのだ。
昔あった紳助の番組「沼島の花嫁」でおなじみの島だ。
もうなんでもかんでも福岡に持って行こうとする乞食には困ったものだ。
さすがはエタの宝庫だな。 >>356
1が好きそうな用語が列挙してある論文論文か。
平原を抜くとは糞にも程があるな >>356
後期前半や中葉という言葉が理解できない無学が歴史を語ることの無意味さ >>362
長いので端折っただけだ、ほれ。
筑 前 後期後葉に入ると、絞り込み顕在型が出現し、複数同格型の前原市三雲寺口U−17区画墓、
福岡市飯氏U区方形区画墓、複数格差型の前原市平原1号方形墳丘墓(方格規矩四神鏡・内行花文鏡・虺龍文鏡・超大型内行花文鏡計40
枚)、終末期前半に複数格差型の福岡市宮の前C地点突出付方形墳丘墓、終末期後半に型不明の福岡市比恵36次
SD01方形(前方後方形説有り)墳丘墓がある。後期後半から終末期の可能性があるものとして、複数同格型の福岡県粕
屋町酒殿墳墓(墳形不明、獣首鏡)、複数格差型の福岡県粕屋町平塚円形墳丘墓(舶載内行花文鏡)、志免町亀山方形
(推定)墳丘墓、単数型の福岡市名子道2号隅丸方形墳丘墓がある。
中国・四国地方以東と異なり墳丘墓は少なく、形態もばらつき優勢なタイプがない。中国鏡、鉄製武器・工具の副葬は
続くが、1ヶ所の多量副葬は平原1号に限られ、しかも後期前半以前と比して遠賀川流域以東への流出が目立つ。 ●中国・四国地方以東と異なり墳丘墓は少なく、形態もばらつき優勢なタイプがない。
ぶざまwwww
九州ぶざまwwww >>364
じゃあ、そうはしょって、九州北部が糞というコメントを着けたお前が糞だな >>197
>分かるよ。 いろんな邪馬台国関連のスレ、ブログ等立ってる(2ちゃんに限らず)
倭人伝の記載に謝りも知れない有ると思う
しかし、その誤りを容認しつつ、いかに倭人伝に近づけるかが「誠」<
要は、自然や歴史における学問的な 「確率の高さ」に関する良心的な問題。
倭人伝は、魏の役人たちの実際に実地に見聞計測した記録の報告であり、
客観性も信頼性も極めて高く、誤りは殆どない(0,5%以下)。
そして、確率の全くない論を「絶対正しい」と主張する大和説人種は、「誠」はない。
>それから、導かれるのは
九州>阿波>出雲>畿内の順だと思う。・・・・今のところです。新たな出土物等でるまでですが?<
いや、九州がほぼ100%であり、その他はほぼ0%です。
>南≠東と、カキコム方もいますが、倭人伝の誤りも容認(真偽は不明)しつつ、論議を進めませんか・<
「南→東」の確率はほぼ0%であり、
「倭人伝の誤りも容認(真偽は不明)」する事自体が、既にインチキダマシです。
>折角、よい意見を述べてるのに最後南≠東 は止めましょう。・・・別人だったらスイマセン
ずいぶん勉強させていただきました。私は理解しててますが、ククリの南≠東は????<
「南→東」は、ほぼ100%明白で決定的な「大和説者のウソダマシ」であり、
国民のためにも人類のためにも、黙過し難いものです。 >>363
>>>356
>後期前半や中葉という言葉が理解できない無学が歴史を語ることの無意味さ
邪馬台国と関係ない時代を持ち出すなよw >>361
>さすがはエタの宝庫だな。
畿内説は差別主義者が多いと言うのは、本当であったか。 「長すぎます」が出るのだから仕方ないだろ。
ほれ整理してやった。
筑 前
後期後葉に入ると、絞り込み顕在型が出現し、
複数同格型の前原市三雲寺口U−17区画墓、
福岡市飯氏U区方形区画墓、
複数格差型の前原市平原1号方形墳丘墓(方格規矩四神鏡・内行花文鏡・虺龍文鏡・超大型内行花文鏡計40枚)、
終末期前半に複数格差型の福岡市宮の前C地点突出付方形墳丘墓、
終末期後半に型不明の福岡市比恵36次 SD01方形(前方後方形説有り)墳丘墓がある。
後期後半から終末期の可能性があるものとして、
複数同格型の福岡県粕屋町酒殿墳墓(墳形不明、獣首鏡)、
複数格差型の福岡県粕屋町平塚円形墳丘墓(舶載内行花文鏡)、
志免町亀山方形 (推定)墳丘墓、単数型の福岡市名子道2号隅丸方形墳丘墓がある。
中国・四国地方以東と異なり墳丘墓は少なく、形態もばらつき優勢なタイプがない。
中国鏡、鉄製武器・工具の副葬は続くが、1ヶ所の多量副葬は平原1号に限られ、
しかも後期前半以前と比して遠賀川流域以東への流出が目立つ。
【THE貧弱】wwwwww >>361
>あとイザナギイザナミの話は、最初に生んだのが淡路島。
>つまり夫婦の契りはオノコロ島こと沼島なのだ。
おのころ島は能古島。
考古学的に弥生時代の王権は博多湾沿岸にしかない。 >>367
いくら頑張っても九州は伊都と奴国以外の選択肢はないから無駄ですよ。
それより瀬田遺跡から卑弥呼の生まれた頃の年代と推測された
籠とその台の出土が発表されてますよ。
瀬田遺跡と言えば前回も箸墓以前で前方後円墳の祖とも
言える古墳跡が見つかってますが、
これらがどう繋がってゆくか見ものですね。 >>367
>国民のためにも人類のためにも、黙過し難いものです。
国民のためにも人類のためにも、梅雨明けまでに氏ね。
蝉が鳴く前に氏ねよ、分かったな。
蝉が鳴く頃の葬式はウザいだろ。
少しは周りの皆さんの迷惑を考えて氏ね。 >>364
>中国・四国地方以東と異なり墳丘墓は少なく、形態もばらつき優勢なタイプがない。中国鏡、鉄製武器・工具の副葬は
>続くが、1ヶ所の多量副葬は平原1号に限られ、しかも後期前半以前と比して遠賀川流域以東への流出が目立つ。
全ての墳丘墓の原型が筑紫にあると言うことだな。
全ての財は筑紫のもの。
そして平原遺跡の主がその中でも傑出した比類なき権力を持つ女王であったということ。
そして筑紫倭国は豊国を取り込んで東に拡大していったのだな。
偏見に満ちた表現を取り除くと、そういうことになる。 >>370
空前絶後の平原に集中したんだろ。
貧弱なのは、お前の脳ミソだ。 >>215が、ミスが多かったので、書き直し。
「付着していた植物の痕跡」では、微量過ぎるからAMS法を使うしかなく、
だから「プラズマ化」をしなけばならないので、
そのために放射性崩壊が亢進されて、2〜3割古い年代を計測されてしまうから、
発表通りには受け止められないよ。 >>370
>【THE貧弱】wwwwww
畿内に比べればずっと豊かだけどねw
同時代の畿内と比べたか??? >>372
>いくら頑張っても九州は伊都と奴国以外の選択肢はないから無駄ですよ。
ああ、新旧の倭国の王都。
畿内がどう頑張っても追いつけない膨大な遺跡に囲まれた弥生の宝庫。 瀬田遺跡と言えば場所的に藤原宮と重なるというのが
今後の鍵になるでしょう。元々あの場所に何があったのかが
気になるところですね。 >>375
>>>370
>空前絶後の平原に集中したんだろ。
>貧弱なのは、お前の脳ミソだ。
まさに卑弥呼の墓だな。 >>371
>おのころ島は能古島。
>考古学的に弥生時代の王権は博多湾沿岸にしかない。
九州勢が大和王権で本当に実権を握ったならそう書かれてたかもしれない。
しかし最初に淡路島が出てくるという事は、瀬戸内が主力で九州勢力は三下。
ニギハヤヒの畿内入りがまさにそうだろ。
筑紫の〇〇物部などが出てきて、決して主体ではない。
この場合の主体とは吉備だ。 >>379
>瀬田遺跡と言えば場所的に藤原宮と重なるというのが
>今後の鍵になるでしょう。元々あの場所に何があったのかが
>気になるところですね。
時代を数百年取り違えたアホ発見 >>222
>しかし、楽しみを奪うのは良くない。<
しかし、確率が全くない「南→東」の大和説の、嘘つきダマシの思想宗教的宣伝に 、
国民が騙されれて、将来をまた危うくする事は、黙過し難い。 >>377
畿内と言ってもピンキリ。
和泉などは纏向石塚より早い前方後円形周溝墓もある。
早い話をしようか。
弥生中期以降、出雲と瀬戸内以外に目立った墳丘墓はない。 >>223
>魏志倭人伝がなかったら九州説は消滅
畿内のヤマト国が3世紀に列島統一を始めたという定説だけが残る<
魏志倭人伝があったから、大和説は消滅 。
「畿内のヤマト国が3世紀に列島統一を始めた」、
という嘘つきダマシの通説定説も✖になる。 >>382
全く意味不明なんですが。瀬田遺跡を何年の物だと思ってますか?
それに藤原宮の下にあるのも紛れもない事実ですよ。
二世紀後半と見解が公表されてますが。 瀬田遺跡の出現時期と倭国大乱が重なる。
前方後円形周溝墓=瀬戸内勢力の大和入りが倭国大乱になった。
では2世紀前半からいた先住者は誰だ。
魏志によるとその王権が卑弥呼を擁立した。
大物「主」、事代「主」、鴨「王」
その王権とはこの連中だ。
ヒミコとは鴨王ことクシヒガタが立てたヒメ踏鞴五十鈴媛だ。 まぁずっと暴れてる人は藤原宮が突如奈良盆地に現れた、
九州から移転してきた勢力の王朝だという妄想を
描いていたみたいですが、そんな話は勿論あり得ませんからね。 >>387
>前方後円形周溝墓=瀬戸内勢力の大和入りが倭国大乱になった。
やはり畿内説は東征説か。
瀬戸内海で力を蓄えて畿内入りしたのが神武天皇だからな。 テンプレートは、論破されても、論破されても、しつこく貼り付けられるのだね。。。 >>374
>全ての墳丘墓の原型が筑紫にあると言うことだな。
全ての財は筑紫のもの。
そして平原遺跡の主がその中でも傑出した比類なき権力を持つ女王であったということ。
そして筑紫倭国は豊国を取り込んで東に拡大していったのだな。
偏見に満ちた表現を取り除くと、そういうことになる。
全ての墳丘墓の原型は出雲。
残念wwww >>388
何故?その下にも遺跡がある可能性が高い事が
確実になってきた以上は無視出来ませんよ。 >>257
>福岡のクシフルとか現代に生まれた妄想なんだが <
地図にも載っていた筈だよ。 大物「主」、事代「主」、鴨「王」
いいねぇ、この響き。
九州には「主」も「王」もいません、さようなら。
防人の地で余生を好きに過ごしなさい。 >>374
>そして平原遺跡の主がその中でも傑出した比類なき権力を持つ女王であったということ。
それ、根拠ないよね >>274
>文献を無視するのではなくて 批判的に検証して依拠可能か判断しているだけ
それをしないから妄説の上に 与太話を基にした幻想を積み上げることになる <
大和説者は、
文献記載の信頼性の史料批判をせずに、
大和説にとっては都合の悪い「南」などの記載は「何でも間違いだ、と決め付けた批判をして、
文献を曲解捏造の嘘つきダマシ、をして世間の人々を騙そうとしている。
信頼性の史料批判をしないから、妄説の上に 与太話を基にした幻想を積み上げることになる。 >>374
>全ての墳丘墓の原型が筑紫にあると言うことだな。
>全ての財は筑紫のもの。
おまえはアルメニア人か。 >>277
>超大型内行花文鏡が王権の象徴だという根拠がないので却下だな <
中国にも見えず、一般の人では全く造れないような超大型内行花文鏡が、
幾つも副葬されていた、という事が、王権の存在証明根拠であり、
それが存在しない大和説者からの「根拠がないので却下」宣伝は、
根拠がないので却下だな。 >>280
「南→東」の嘘つきダマシの国家権力考古学者の意向に全く逆らえない考古学者が、
一般の人が殆ど支持していない説を持ち出して、
「考古学的に確定している」とか言っちゃう時点で 、
学問の研究ではなく信仰の布教だな。 >>400
>中国にも見えず、一般の人では全く造れないような超大型内行花文鏡が、
幾つも副葬されていた、という事が、王権の存在証明根拠であり
たかだか20Mほどの方形墳丘墓でしかないのは、
筑紫では「主」かもしれないが、西日本全体では王には程遠い証明であり根拠である。 倭国大乱が倭人伝の記述なら九州の話だぞ。
大和朝廷が九州と接触するのは平定の250年以降だ。
出雲と淡路島は九州を外国としての交易が有ったかもしれない。
朝廷の平定後も筑紫の君であって、500年辺りまで九州は半島同様外国扱いだよ。
九州が日本列島として歴史的に日本固有の領土となったのは古事記以降だ。 >>282
>半世紀以上前の発見を持ち出して 「この発見で畿内説は破綻した」とか
現実をまるで無視した発言をしちゃうのも 信仰の布教だな <
これは、
「平原発掘」の結果を批判したつもりなんだろうが、
それだけではなく、古田さんに拠って「南≠東」での「大和説破綻」の指摘があった、
という事などの、
現実をまるで無視した発言をしちゃうのも 、
信仰の布教だな 。 >>395
その用語からして、弥生時代より新しい古墳時代の文化だよ。 >>396
遺跡を根拠としないなら、歴史を語る資格なし >>400
>中国にも見えず、一般の人では全く造れないような超大型内行花文鏡が、
>幾つも副葬されていた、という事が、王権の存在証明根拠であり、
>それが存在しない大和説者からの「根拠がないので却下」宣伝は、
>根拠がないので却下だな。
同意する。
遺跡からの出土品を根拠としないなら、どうやって歴史を語るのか。
だから畿内説は妄想と言われるのだ。
筑紫の歴史は、文献と考古学が一致している。 >>402
>たかだか20Mほどの方形墳丘墓でしかないのは、
>筑紫では「主」かもしれないが、西日本全体では王には程遠い証明であり根拠である。
列島全体で、中国王朝から正式に王として冊封されたのは筑紫の倭国王のみ。 >>290
>可能性はある と 確定 は全く次元が異なる 可能性はある は根拠にはならない<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得た事実からの確率や可能性の高い帰納的推論をする事が、学問的で科学的であり、
「100%確定」など有り得ないもの。
そして、「南→東」の嘘つきダマシの大和説者や考古学者は、
反対者や九州説者には、「絶対断定論証」を要求して「断定不能」で弾劾し、、
自分らは、「史料事実の殆ど100%正しい「南」にイチャモンを付けて、
全く可能性のない「東」が肯定可能であるかのような詭弁を使う。 >>403
>倭国大乱が倭人伝の記述なら九州の話だぞ。
>九州が日本列島として歴史的に日本固有の領土となったのは古事記以降だ。
それは九州の歴史を古事記編纂時に取り込んだということかな?
日本国号の成立が680年頃だからな。
それ以前の邪馬台国を含む倭国は九州ということで良いな。 >>291
>可能性があるという事象はほかの事象の可能性を否定できるものではない
ところが、可能性があるという程度の事象でほかの事象を全否定している人がいるわけ<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
確率や可能性の高低が問題なのであり、
事実確認や信頼性の史料批判に拠って得られた、確率が極めて高い論は、
事実確認や信頼性の史料批判に拠って確率が殆どない論を、
確率的に否定する事が出来る。 畿内説が破綻し、大量の狂人が発生した原因はやはり、あの2013年。。。。 >>408
中国王朝ってのは高句麗にも侵略される数十年しかもたない
持続性が担保されない共立シャーマンに依存した邪馬台国みたいな王権の事か?
冊封されたら馬鹿だろwww >>293
>古代日本史はクチャクチャだな 何が事実で何が創作なのか <
「事実」とか「創作」とかの、断定そのものが存在しない。
得られた史料の史料批判を通して、確率の高さを推定して、それからの帰納的推論をした論が、確率が高い。
得られた史料を「結論先にありき」で「南→東」だどのように否定曲解した論は、
確率が極めて低い。 福岡県の高祖山の最高峰は高地(たかち)山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。 >>413
スレでも間違えたか?
卑弥呼は魏から親魏倭王に冊封されたんだぞ?
畿内説はついに狂ったか?
邪馬台国はお前の頭の中の妄想とは違うんだぞ? >>295
>確かにそうですね
だから現状では、たくさんの賛同者を得られた説が定説として、
ほかの説の根拠などにも使用することが許容されています <
嘘を付くな。
国民の過半数は九州説であり、
大和説者は3分の1位しかなく、
だから、国民は、大和説を、
「定説として、ほかの説の根拠などにも使用すること」
を許容などしていない。
という事は、大和説学者や大和説考古学者らの説は、国民の常識から否定されている、という事だ。 >>296
>俺サマの考えが正しいんだ!学者どもはバカなんだ!
というこのスレにもいる主張のなんてみじめなことかw <
俺サマの大和説の考えが正しいんだ!、
九州説者どもはバカなんだ!、
というとうな、
このスレにもいる主張の、なんてみじめなことかw。 >>298
>賛同 倭人伝により近い、物証で邪馬台国を比定するしかない。 もしくは、倭人伝そのものを否定するしかないでしょう <
反対。
邪馬壹國の比定は、
魏使らの直接的見聞計測記録である倭人伝の記載が、最も確率の高い「物証」であり、
それに対抗否定出来るものは、親魏倭王印そのものでしかなく、
他の状況証拠では確率が低くて✖。
>日本史を馬鹿にしたらいけない、<
はるか後代の記紀は、
歴代中国史書群が記録した信頼性の非常に高い倭国の記録や存在を、
抹殺しようとしている半分×書であり、倭国の根拠にはならない。
>倭人伝は日本では認知されていない。<
そのような大和「日本国の認知」など、海外では認知されていない。
>北部九州まで国交は金印(漢委奴国王)を事実として、邪馬台国や卑弥呼は其の後no魏国の創作いいかも<
魏使や陳寿が創作した、と言ったような「史料事実の形跡」が全くないし、
中国は、
「大和日本国は、倭国の中の倭奴国から別れた別種の旧小国であり、
白村江の後で倭国を併合吸収継承した」
という実態を記載している。 このように九州説は全国の支離滅裂なお爺ちゃん達から熱烈に支持されています >福岡県の高祖山の最高峰は高地(たかち)山。
高祖山(たかすやま416m)の南側は高地山(こうちやま419.4m)
糸島平野の南に見える雷山(らいざん954.5m)の半分の高さもない >>418
畿内説は、何一つ邪馬台国らしいものを提示できない妄想説でしょ? >>313
>卑弥呼が判明するとなると約100年前の帥升も判明してしまう。
国王自ら渡海して朝貢(土下座)という日本国史の最大の恥部、
中華に隷属していたという史実を封印するために時代を大きくずらした。 <
何だ?、
ssnの判断基準は、やっぱり、
日本国家優越主義のキョクウの戦争狂、であったのか?。 >>314
大和説者のカッペ度には反吐が出る。
ほとんど妄想、お国自慢=自分自慢、
演歌歌手の世界だw。 >>424
畿内説論者という、日本国家優越主義のキョクウの戦争狂が闊歩しているのを諌めているのであろう。 >>315
大和説の・・・・らが「祇園山否定を連呼してウザい」から調べてみた。
祇園山は「四隅円弧の不定形」だよね。
つまり「方〜歩」では表現困難な不定形。 あぼーんが並んで壮観だなぁ
妄想ボケ老人と無学バカニートのお目覚めかな? >>422
高祖山連峰などという呼称は記紀には書かれていない >>106
安倍晋三官房長官の父・晋太郎はしきりに自分は朝鮮人だといってたそうな(背乗りか >>372
孝霊厨は瀬田遺跡の年代捏造に関係してたのか? 畿内厨が鴨厨の大野に冷たいから怒りの連投してるぞ
同じ畿内説同士なんだから仲間に加えてやれ >>432
私は発掘現場に関与することは無いですよ。
でも冗談でもそういう証拠もなしに捏造とか言わない方がいいですね。 >>433
鍵穴型でも丸と言い張る畿内説よりマシ。
後から前方部を付けた?
定型化していたという話はどこへ消えたの? >>435
証拠もないのに畿内説を言い張るのは捏造ではないのか? >>435
前にも同じこと言ったような、誰かが言ってから、孝霊厨は捏造に加担してないと思う >>436
だから糸島から見える山はどれも記紀には登場しない 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>437
当然定型化している
丸だとは誰も言ってないし後から前方部を付けたというのも有力説だよ
作る順序としてね >>438
お前の日本語が下手で言ってる意味がわからない 畿内説が論破され、テンプレートが論破され、いつもの流れか、、、、 九州説が畿内説に抵抗する手段は
今やデマと中傷だけになってしまった >>438
根拠なら散々過去に書かれてますよ。
単純に他説の人達が自分達の思っている畿内説と事なるため
納得出来ていないというだけの話でしょう。
まぁ私も他の九州説等に根拠があるとは全く思ってませんが。 >>448
っていうか、実際の畿内説を知らないんだよね 畿内説をまともに知らない人は巻向=邪馬台国と
している場合が多いですからね。そんなの
倭人伝の戸数を根拠にするならあり得ませんから。
同じく北部九州説も戸数を根拠にするなら
七万はおろか奴国投馬国をもプラスして成立する訳がありません。
倭人伝を無視するなら別ですが。 いたいけな耄碌じいさんダマクラかして小銭巻き上げようとしてる詐欺師まがいにウソ八百の「こう言えば畿内説は撃破できる」ハウツー本売りつけられて騙されてるのも気づかない哀れな連中だろうよ >>415
であろう。
とも言ったとのこと。
だそうだ。
あったようである。
wwwwwwwwwwww 畿内説は纏向遺跡と言う物証があるので、纏向遺跡が卑弥呼の住んだ都かどうかは別として、
畿内説を唱えることは分かる。
九州説者を見てると、基本邪馬台国などどっちでもいいという態度とは思えない。
もはや宗教である。
九州には原田大六の銅像が立っている。
田舎者である。
zarakokuに代表されるようにキチガイである。
そして屁が臭い。 >>416
>国民の過半数は九州説であり、
>大和説者は3分の1位しかなく、
根拠は?
そーすを出せ。
>だから、国民は、大和説を、
>「定説として、ほかの説の根拠などにも使用すること」
>を許容などしていない。
うわぁ、さすが自国民3千万殺害毛沢東支持者だけあるね。
おまえも毛沢東センセイみたいに大和説者を虐殺したいのだろう?w 箸墓のような前方後円墳が、
魏代の薄葬令に準拠して作られた卑弥呼の冢であるわけはない、冢は墳にあらず 魏の墳墓の大きさ
曹操墓
2号墓(曹操墓)は西から東に向き、方向は約110°である。
墓坑平面は前が広い台形で、東側の最も幅の広い部分で22m、
西面で19.5m、東西長18m、墓坑総面積は400平方mに達し、
墓道を含めた墓葬全体の面積は736平方mにおよぶ。墓葬は、
以下のように、墓道・墓門・甬道・墓室・側室などから構成される。
曹叡墓
高平陵
高平陵中国三國時代魏明帝曹叡陵園,
[1] 位於河南省汝陽県内埠郷茹店村東南。
面?660平方米,墓為覆斗形,高16米,
周長200米。頂部平坦,封土?築。 纒向でも畿内説支持者は増えないな
畿内を掘って掘って掘りまくるしか手はない。
何も出ないだろうけど
注意
子供の通学路は掘るなよ >>455
邪馬台国 アンケートでググると出てるよ 内閣支持率が新聞でさえバラバラなのに
アンケートなんてそれこそいくらでも捏造出来ますよ。
邪馬台国の会の雑誌等でとる場合と、大学や
考古学従事者でも恐らく全然違いますよ。
またアンケートの内容でもしかりですね。 >>481
悔しかったら、自分なりのアンケートとったら 孝霊厨 狂ったか?
よくいるんだよな、アンケート結果にいちゃもん付ける奴
対抗するには、別のアンケート結果示せばいいけど、示せないから捨て台詞 MIXIでの邪馬台国アンケート
卑弥呼のいた邪馬台国はどこなのか。
どっちが支持者が多いのか知りたくて作りました。
コメント
集計結果
九州
24(42%)
畿内
11(19%)
東遷(九州から畿内)
12(21%)
その他の地域
6(10%)
邪馬台国自体が存在しない
4(7%) >>485
畿内説が36%もあるのか、マスコミが畿内説と言ってるから
自分でろくに調べもせずに畿内説なんだろうと思ってるんだな
いかに古代史が人気ないのかよーくわかる 東遷を入れると九州も畿内も変わらない。
なのに、なんで九州ってそんなに偉そうなん? >>467
>465だった、畿内説はほとんど郷土愛だろ >>465
その他というのは山陰説らしい。
島根と鳥取でだけメジャーなのだとか。
東遷説なんてのはたぶん選択肢にないし、実際何を意味しているのかわからない。
ここの畿内説は東遷東遷とうるさいけど、正直イミフ。 >>468
なんだ、東遷説って畿内説のことなのか。 九州から大勢力が畿内に流入しない限り、畿内に文明なんて発生しない。 一般人の投票にはキウスやザラコクみたいなのも入ってるんだろw 畿内説の票にはスレ主、孝霊厨、岡上、大野、ジョーカー、根拠厨とか
あとインチキ考古学者もいるかも
>>464
まず邪馬台国問題とは関係なく私も仕事上で出版にも携わりますから、
アンケートの結果は質問の設定次第で全く違った結果になるので
あくまで参考程度にしかならないと思ってます。
まぁそれ以前に邪馬台国論なんてアンケートで
決めるべき物ではない、という意見ですね。
世論誘導なんて一番やってはダメですよ。
私が大半の九州説がダメだと思う理由はそこですね。 安本さんの31代・用明天皇からの平均在位10.88年という数値は、20代の平均値だったと記憶してます。
でも平均を採るのに20代は少な過ぎ。
というわけで30代で平均値を採ってみました。
31代・用明天皇587年〜60代・醍醐天皇没930年 平均在位11.433
ほらね。
安本さんの10.88年という数値がたまたま低く出たのが分かります。
では平均在位11年で用明天皇から神武まで計算してみます。
ただし神功皇后は確実な1代ですから32代遡ります。
11年×32代=352年
用明元年587-352=235年
神武は235年。
やはり神武は卑弥呼の頃です。
卑弥呼とはヒメ踏鞴五十鈴姫です。
葛城の高天原(御所市高天)こそが卑弥呼の都でしょう。 【エリザベス女王】「エジンバラ公」
これが今のイギリス。
これに「天皇・皇后」の称号を加えるとこう変化する。
【エジンバラ天皇】【エリザベス皇后】
そしてエジンバラ天皇の武勲をこれでもかと強調、
エジンバラ天皇の記述を9、
エリザベス皇后の記述を1にする。
いつしかエジンバラ天皇だけが記憶され、エリザベス皇后が忘れ去られる。
これと同じなのだ。
普通の日本人で初代天皇の名は答えられても初代皇后の名は答えれる人はいない。
卑弥呼は忘れ去られた。 >>481
人権屋の畿内厨がエッタとか言っていいのか >>478
メディア使って誘導してるのは畿内説の方だよ。
あの番組の南を東とする嘘の放送にはびっくりした >>478
扶桑社、自由社といった右翼系の出版社かな? >>484
それは認める。
九州説にまともな卑弥呼候補が一人もいないのは事実だ。 あれ?、邪馬台国畿内説Part242が、継続している。 >>488
今まで九州説の本に3万円は突っ込んだ。
今更後には引けない。
金がもったいないだろ。 >>490
まぁ、おまえのような人間のクズが九州説なのがよく分った。 >>487
ついに成りすましが現れたか、知名度がアップした証かな >>492
ついに成りすましが現れたか、知名度がアップした証かな suboのなりすましなんて糞。
suboが糞なんだからw
そういう俺もsuboだw >>490
九州説より他説のほうが妄想全開で面白いぞ >>499
いや私は成りすましではない。
私のレスは
>>492-495だ。 >私のレスは
>>>492-495だ。
じゃ成りすましじゃないか、ハゲ。 >>501
ハゲとは失礼だろ。
頭皮の一級障害者と言え! このスレで一番役に立つレスをするのは誰ですか?
@スレ主
A孝霊厨
B岡上
C大野(鴨厨)
Dぱよちん(卑弥呼は九州、邪馬台国は畿内)
Eザラコク
F糸厨
Gsubo
Hその他 邪馬台国畿内説Part242は復活したが、
古田史学の方は、まだ復活していない。 このハゲと言って許されるのは自民党のピンクモンスターこと豊田代議士
だけである >>503
>C大野(鴨厨)<
ふーん?、ssnが「大野」と言う可能性があったのか?。 >>510
気になって仕方ないのかいw
ダサwww @スレ主 畿内説
A孝霊厨 畿内説
B岡上 畿内説
C大野(鴨厨) 畿内説
Dぱよちん(卑弥呼は九州、邪馬台国は畿内)
Eザラコク 地獄説
F糸厨 畿内説
Gsubo 畿内説
畿内説が圧倒的ではないか! >>514
>考古学的にも邪馬台国は畿内だろうね。<
ダメだよ。
「南≠東だから、文献的にも大和は✖だし、
考古的にも筑紫には、何本もの2kmの大道や堀がある弥生銀座や、祇園山や平原がある。 >>516
「考古学的にも」
と言ってるのに
「文献的にも大和は✖」
とは何言ってるんだハゲ。 >>517
ハゲと言うな!
頭皮の一級障害者と言え! >>487
>>>484
>それは認める。
>九州説にまともな卑弥呼候補が一人もいないのは事実だ。
卑弥呼は天孫族ではないから、記紀に載っていない、という立場なのです。 >>498
>>>490
>九州説より他説のほうが妄想全開で面白いぞ
他人の妄想って、つまらないんだよ。 >>519
>卑弥呼は天孫族ではないから、記紀に載っていない、という立場なのです。
記紀に載っていないのではない。
載っていても君たちが見つけることが出来ないだけ。
君たちは発想の転換ができないから見つけられない。
見つけられない多数の人間が「卑弥呼は記紀に載っていない」という固定観念を植え付ける。 【天動説】卑弥呼は記紀に載っていない
【地動説】卑弥呼は記紀のイの一番に載っている >>478
だから狂ったと言われるのだよ。
そう思うならアンケートに口を挟まない方が利口だよ それよりも山王なんだけど、あれは家の話ではないの?
『山王宮 山王院』
探偵eyeというドラマとか?
かなり前の話になるけど、信onというゲーム内に作成したキャラ名 兄弟で、
なぜか高層タワーのようなところに住んでいるような設定 まあ、大学とかで論理的思考の訓練を受けた経験があれば
アンケートそのものが有効なものであるかどうかの検証をするけどな 『猫稲荷』?
伊達郡の川俣町でしょ、
確か東だったか西福沢
伊達郡川俣町という謎の掲示板とか キュウリの葉、葱の華・・・家の先祖の写真
「川崎に住んでいるみたいだよ」と言っている人がいたり、
一般人なんだけど、有名人なのかな その探偵ドラマの主人公?
りん りん と言っていたり
妹の子供の名前と同じ 「本人だよ」「本物です」
と言っている人がいたり、何の話だと思う なぜ埼玉なのか知らないけど、
謎の名字辞典
『胡』?の話とか コーエー?
ブラック企業だと言っている人がいたけど よくわからないけど、勝手に話を進めていたり?
「本当に許可取ってるの?」と言っている人もいた >>526
私は冷静に見てますけどね。畿内スレまできて自説の披露大会をする
九州説の異常性を指摘してるつもりです。
結論を言ってしまえば九州説の人達は邪馬台国に関するアンケートの数字を
上げる事が目標と化してるのですよ。
私に言わせればそれは既に学問でも歴史研究でもありません。
それは単なる工作活動だと思いますね。 人工地震でも爆撃でも何でも良いから、
犯罪者の巣窟は破壊したほうがいいぞ
そういう地域は、
破壊しても良いことになっているんだよ
捏造、偽造・・・おかしな起源を主張したり 「現在、どこそに住んでいるみたいだよ」という話(書き込み)があるでしょ
実際、そこに住んでいるし、
何か知っている人がいるという意味なんだよ 邪馬台国から見ると、最近の話になるけど、
その戦国時代?関係者などの子孫や末裔がいたとして、
なんで、そんな所に住んでいるの?
となるはず
住んでいるものは、住んでいるんだよ
としか言えないでしょ 『胡』
キュウリ(胡瓜)の事だとしても、
かなり昔の話でしょ
そういう由来が正確なものだとしても、
外見、容姿、見た感じは普通の日本人
知っている人は知っているよ、
近所に住んでいる人とか 家の先祖の写真
□□力夫氏のように、
髪も髭も伸ばしていない
どうなっているんだと思う? 馬に乗り、謎の刀・・・城に通っていて、
庭殿、庭殿様なんて言われていた
老婆が言うには、
あのキュウリの葉の写真の人の話だよ 言っていた・・・
と言っても、家の話なんだけど、どうなっているんだと思う 結婚した家では、
落雁のようなものを作ったりしていたんだよ、供えるやつだよ。
と言っていたり
この話が正解じゃない? 調べてみると、
寺院の話が出てきたりしない?
寺だか、どこかににいて 謎の震災後、北斗の拳【再】を観ていたり、
一度だけ観ていた 家には力夫という名前の親戚はいないし、
どうなっているんだろう
信仰宗教の関係者? 大震災おめでとう^^^^^^^と言っている人達がいなかった? 同じような名前の人物
『真道 寺』
ググると、それらしきものが出てきたり、
+上の名前(氏、姓?)も一緒に検索するとわかる キュウリの葉などの写っている写真でしょ、
同じような名字だったような >>539
>(孝霊)私は冷静に見てますけどね。<
孝霊は、「南→東」の嘘吐きサギシであり、
「大和日本国は、筑紫の倭國の中の倭奴國から別れた別種の旧小国」
という歴代中国史書群の客観性のある信頼性の高い証言を否定する・・・・です。
>畿内スレまできて自説の披露大会をする九州説の異常性を指摘してるつもりです。<
孝霊は、名前からして(半分✖史書である)記紀の記載を、
「結論先にありき」で信仰する一種の・・・・です。
>結論を言ってしまえば九州説の人達は邪馬台国に関するアンケートの数字を
上げる事が目標と化してるのですよ。<
結論を言ってしまえば、
九州説の人達は、文献史料や考古などの事実に沿った古代史像を推定しているのであり、
九州説以外の人たちは、「日本は天地開闢以来大和天皇家が支配してこられた国だ」、
という思想宗教的な分裂幻覚妄想人種であった、という事です。
>邪馬台国に関するアンケートの数字を 上げる事が目標と化してるのですよ。<
アンケート結果も、事実の一つです。
>私に言わせればそれは既に学問でも歴史研究でもありません。
それは単なる工作活動だと思いますね。<
こんな「工作活動」なんて実態に反する妄想を書いている孝霊という人間も、やはり、
キョクウの人種差別的な「天皇支配戦争国家主義」思想家であったらしい、
という事でしょうね。 それよりも真道という人物だよ、
何者なんだと思う、本当の神だと言っている人がいたり 捏造、偽造している家が、あるんじゃないの?
系図なんかもそう あっちの畿内説スレを本スレにしよう。
こっちはダメだ。
50近いテンプレを用意しながら、
纏向には2世紀前半からの男王の墓がないという1点で論破される間抜け。
考古学も文献史も両方見て判断するのが日本史なのに、
同時代史料ではないという理由で記紀を無視して考古学一本。
ならば考古学板があるのであっちでやって欲しい、誰も行かないだろうが。 あと記紀は同時代史料ではないという理由は通用しなくなった。
硯の相次ぐ発見で弥生時代から文字があったのが確実になったから。
つまり記紀の王統譜は基本正しい。
スサノオ、大物主、事代主、神武、ニギハヤヒことごとく実在した。 □■□■□■□■□■□■□■本スレ誘導□■□■□■□■□■□■□■
ここは>>1が論破されてるアホスレです。
本スレはこちら
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498116251/l50
□■□■□■□■□■□■□■本スレ誘導□■□■□■□■□■□■□■ >>558
>捏造、偽造している家が、あるんじゃないの? 系図なんかもそう<
自家の過去の系図を「捏造偽造」するのなら、
例えば大和天皇家の記紀のように、原則として、
「(その時の)自家にとっては都合がよくなる」ように捏造改竄する事はあっても、
「自家にとっては都合が悪くなる」ような捏造改竄はしないもの。
そして、
記紀は、先在した倭国の記録や歴史を抹殺するような捏造改竄をした事がはっきりしており、
松野氏姫氏系図は、中国での敗残呉王の遺民であった、という不名誉な出目を書き、
大和政府の記紀の意図に反する、
「倭奴国王」や「帥升」や「卑弥呼」や「難升米」や「壹與」や「倭の五王」らの名前を記載し、
まして、大和王権に敵対した、とされた「熊襲」の王や姫の名前まで記載するという、
大和王権にバレれば即座に処罰され兼ねないような記載もしているし、
倭国王から陥落した後は、
欽明朝や推古朝の下での「評督」の地位を得た、というような、
書紀がウソダマシを書いた事になって書紀を否定するような記載までしているから、
その事が逆に、松野氏姫氏系図に対する「肯定的史料批判」である事になっている。 >>559
>同時代史料ではないという理由で記紀を無視して考古学一本。
>ならば考古学板があるのであっちでやって欲しい、誰も行かないだろうが。
このスレのテンプレでは考古学としても史学としても落第は免れないので、ここでテンプレの貼り逃げをするしかないのでしょう。 >>561
これは「成りすまし犯」のssnの投稿だろうなあ。
>あと記紀は同時代史料ではないという理由は通用しなくなった。<
始めから、大和政権の意向の下での、
「先在の倭国の記録や歴史を抹殺」しようとしている半分✖書の、
後代史書であるから、信頼性が殆どない。
>硯の相次ぐ発見で弥生時代から文字があったのが確実になったから。
つまり記紀の王統譜は基本正しい。<
硯の発見は筑紫であったから、筑紫での漢字使用の根拠であったし、
大和政権が弥生から文字を十分使えたんなら、「稗田阿禮所誦之舊辭」なんて採用せずに、
始めから自家の系図を書いて記録しておけば済んだ事であるんだから、
別種分家の旧小国の大和では、文字での記録する能力も習慣も、殆どなかったんだろう、
という事になる。
>スサノオ、大物主、事代主、神武、ニギハヤヒことごとく実在した。<
スサノオと事代主は、神武東征よりもはるかに古い神話時代(紀元前3世紀以前)の出雲の人物。 成り済まし、成り上がり、馬の骨・・・その他
色々いると思う >>555
今の九州説の本質の指摘がかなり応えたようだな。
学問、特に歴史はアンケートではないよ。これは昔は圧倒的多数だった
天動説が事実ではなかったのが証明してます。
仮にあの手のアンケートで畿内説が数パーセントの結果となっても
畿内説の主張を変える事はないですね。それ位の自信を持ってます。 >>565
筑紫にも弥生時代から文字があった。
良かったね。
ならばさぞかし「王」や「主」と呼ばれる人も筑紫にいたはずだよね?
誰? 誰にとは言わないけど、
そろそろ自殺したほうが良いんじゃないのか 崇神 布留1期
(その間約120年)
神武 庄内0期 >>567
>(孝霊)今の九州説の本質の指摘がかなり応えたようだな。<
孝霊は、相変わらず、
「南≠東」や「大和は倭奴国の別種の旧小国」などの本質的な指摘が、
全く理解出来ない、思想宗教的な分裂幻覚妄想のアホなようですなあ。
>学問、特に歴史はアンケートではないよ。これは昔は圧倒的多数だった
天動説が事実ではなかったのが証明してます。<
アンケートは、キミの仲間の誰かが、
「九州説が一般にも支持されていない」
というちうな、アホな宣伝発言をしたから、提示したものなんだよ。
>仮にあの手のアンケートで畿内説が数パーセントの結果となっても
畿内説の主張を変える事はないですね。それ位の自信を持ってます。<
そりゃ、・・・・人種は、常に自分の分裂幻覚妄想に自信を持っています。
だから彼らは、
秋葉原やオームのような大殺戮事件を起こすのであり、
それに国家思想が絡めば、直ぐに人種差別的殺戮戦争を引き起こすのです。 お前を殺したとしても逮捕されないし、
そういう事になっているんだよ そんな職(職業)あるのかよw
と言っている人がいたような気がするけど
職を降ろされない、解かれない その聖化の話でもないけど、書いてあるはず
・天帝より授かり。任命された。
・生死を決める
北斗の拳? 冤罪事件もそう
誰々が、このような事件を起こしたと、
嘘の話を広め、辞職(いろいろと取り上げる)させるという手法 天帝より授かり。
任命された。
と書いてあるでしょ、
なぜかカッパ(河伯??)のwikiにも書いてある
『任免』 自分が何々、誰々になる方法というスレッドもあったはず >>568
>筑紫にも弥生時代から文字があった。 良かったね。
ならばさぞかし「王」や「主」と呼ばれる人も筑紫にいたはずだよね? 誰?<
もう、倭奴國王などの「王」名を、ssnには何度書いて上げた事やら。 >>572
>崇神 布留1期 (その間約120年) 神武 庄内0期 <
ssnの貼り付けは、いつも、何の史料事実根拠も論理もない分裂幻覚妄想。 >>573
まぁ畿内スレでそういう書き込みを延々としてる時点で応えは出てますよね。
私はアンケートの結果=事実や正解ではないよと指摘してるだけです。
仮に畿内説の回答が多くても、巻向=邪馬台国だというような
話が前提ならそれは間違いだと思いますね。
まぁ九州説は既に完全に論外だと思ってますが。 何度も書き込みしてますが、個人的邪馬台国の見解だと
弥生末期七万戸の国がそうだとするなら、位置的には
畿内河内湖周辺が一番相応しいとみています。
方角間違い説は、これも何度も説明済みで
倭人伝にある東治の東には陸はありません。
なので方角は意図的か誤報かまではわかりませんが、
間違いなのは事実ですよ。私は神仙思想を理由の一つにしています。 >>585
>(孝霊)まぁ畿内スレでそういう書き込みを延々としてる時点で応えは出てますよね。<
まぁ畿内スレで、
「南→東」や「大和は倭国の別種の旧小国」を否定する、というような書き込みを、
延々としてる時点で、孝霊の人間性に関する答えは出てますよね。
>私はアンケートの結果=事実や正解ではないよと指摘してるだけです。<
何事においても、事実を否定曲解の詐欺をする人間は、分裂幻覚妄想の犯罪者です。
>仮に畿内説の回答が多くても、巻向=邪馬台国だというような
話が前提ならそれは間違いだと思いますね。<
実態は、孝霊は、「南→東」の嘘つきダマシで九州説を否定し、
「大和説→畿内説」の摩り替えダマシをする分裂幻覚妄想人種です。
>まぁ九州説は既に完全に論外だと思ってますが。<
ほら、孝霊は、「南→東」の嘘つきダマシで九州説を否定している!。 何度も書き込みしてますが、個人的邪馬台国の見解だと
>>568
>(孝霊)弥生末期七万戸の国がそうだとするなら、位置的には
畿内河内湖周辺が一番相応しいとみています。<
馬韓の「凡五十餘國。大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」とほぼ近い数字である事と、
「魏朝の1戸は原則、兵役納税単位の成人男性を数える」という事で、
無理に狭い河内付近にしなくても、北部九州で十分です。
>方角間違い説は、これも何度も説明済みで
倭人伝にある東治の東には陸はありません。<
孝霊はここでも、
何故「陸は有りません」になるのか?を、全く説明しないで、
同じ事を繰り返すだけの分裂幻覚妄想人種。
>なので方角は意図的か誤報かまではわかりませんが、<
これも、周髀算経を読まなくては(周制への復古の方針の)魏の役人が勤まらない、
という事も、孝霊には判らないらしい。
>間違いなのは事実ですよ。<
孝霊が史料事実を否定曲解する嘘つきダマシである事は事実ですよ。
>私は神仙思想を理由の一つにしています。<
魏の役人らが、(皇帝への忠誠よりも)神仙思想にかぶれていちゃ、
そりゃ直ぐに首が飛びますよ。 >>586
河内湖周辺に七万戸はどうやろ、扶桑国はそんなにいたのか
徐福の神仙思想を言い出したら徐福伝承のあるところは全部邪馬台国
になるじゃないか 倭人伝は中国で既に滅亡した国の見解を後日編纂しているだけですよ。
当時の役人が罰せられるなんて有りえませんよw
また倭人は海人で海辺周辺部に住む連中だとありますよ。
北部九州に奴国の他、投馬国も治めるつもりですかね?
そういう人はもはや相手にする必要性もないと思ってます。
丹山もあって海辺にあり七万戸の集落を求めると
紀伊半島周辺部に求める以外選択肢はありません。 >>592
>丹山もあって海辺にあり七万戸の集落を求めると
紀伊半島周辺部に求める以外選択肢はありません。
紀伊半島周辺部なんて曖昧な表現は不要です。
ずばり、「阿波」です。 @阿波 >>592
末蘆国、伊都国は海辺周辺部だけど邪馬台国は農耕民族である
あたり一面黄金色の稲穂を想像するといい
投馬国は宮崎南部、鹿児島である
丹山は九州にいっぱいある 畿内説って、魏志倭人伝に書かれている九州の史実を
記紀の日本九州起源説の神話のデタラメに合わそうとしてるだけだろ?
考古学で証明なんて、無理筋だよ。
瀬戸内海航路で島々や寄港地の説明無しとか有り得ない。
淡路島、鉄器文化2世紀以前だろ。
出雲航路として魏志が現実として行ってない
併合以前の畿内や纏向で卑弥呼の墓見てたらファンタジーだよ。
倭の五王に平定されて、
6世紀まで半島同然の統治体制だった九州には
畿内に魏使を案内できる勢力が存在してないね。
何が東遷だよ? 神功皇后が九州平定でも良いけど
魏使は馬の移入以前の250年だよ。時系列どうすんだ? 阿波ではとても七万戸には足らないと思ってます。
また後の歴史上の経過や遺跡的にも不十分ですね。
また私は保都の地名を重視してますので必然的に
ど真ん中にある奈良盆地を重視します。
そこを中心にしてシキの地名も河内から桜井まで広がってますので
そこに統一された国を想定します。 >>596
弥生中期の時点で貨泉や多紐細文鏡の出土している流れがあり、
それで大陸から河内まで証明済みですから。 >>596みたいな理由のない決めつけが九州説信者の特徴だなー いつも、テンプレートの嘘も、畿内説も論破されて、無残だね。。。 >>597
>阿波ではとても七万戸には足らないと思ってます。
また後の歴史上の経過や遺跡的にも不十分ですね。
畿内や北部九州に矢野遺跡、名東遺跡、庄・蔵本遺跡、萩原遺跡、黒谷川郡頭遺跡等々に匹敵する遺跡があるのだろうか?
那賀川流域、鮎喰川流域、大河吉野川流域に拡がる徳島平野はまさに倭国の首都に相応しいと言える。 >>598
>弥生中期の時点で貨泉や多紐細文鏡の出土している流れがあり、
それらは、阿波から進出した、忌部一族がもたらしたものなんですよ。 @阿波 >>597
2世紀末までの話ではないか?
2世紀末以前は、
クナ→河内、大和
2世紀末以降
クナ→河内
2世紀末に大和の地は、卑弥呼を共立する国々に制圧されたんだな。
3世紀後半
クナ滅亡。女王国に吸収される。 >>595
で、徐福が渡来定着した事を証明する証拠遺跡とその生活文物たる証拠土器・石器は?
で、徐福が渡来定着したと言っている頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?
さっさと言えよ台湾ブタチックニグロピーデ。 だいだい畿内説は、東遷がー、とか言っている時点で議論から脱落している。 >>603
クナ→河内、大和
なんでクナ→河内なんだよ。
そんな地名は残ってない。
クノ、クヌだらけの静岡が怒ってくるぞ。 わしは生まれも育ちも河内平野だが、
クノ、クヌなんて地名、語感は全くピンとこない。
クノ、クヌは静岡さんにお任せしよう。 狗奴国にはククチヒコ、コウチにカワチという
繋がりがありますよ。またクド=九度山に久度遺跡等
竈から火を想定させる部分もありますね。
私が台与を狗奴国擁立説をとる理由でもあります。 >>601
葛城地方のように古代から文献的にも重視されていたり
天皇陵が集中している場所を無視出来ませんね。
しかも鏡と銅鐸が弥生時代中期に一緒に埋められていたような特殊性もあります。 >>592
>(孝霊<倭人伝は中国で既に滅亡した国の見解を後日編纂しているだけですよ。
当時の役人が罰せられるなんて有りえませんよw <
陳寿は神仙思想に拠った記載など、全くしていません。
魏使らは、「皇帝支配」思想に沿わなければならないのであり、
神仙思想にかぶれた記録をすれば、そりゃ罰せられますよ
>また倭人は海人で海辺周辺部に住む連中だとありますよ。<
その「山島」とは、
当然半島南岸から対馬壱岐などと九州島付近を指しているのであり、
九州北岸から内陸部の平野部なども含まれます。
>北部九州に奴国の他、投馬国も治めるつもりですかね?<
投馬國は、当然不彌國からの側副傍線行程記載であり、
魏使らは通っておらず、南九州です。
>そういう人はもはや相手にする必要性もないと思ってます。<
勿論、私も「南→東」や「大和日本国は倭国の別種の旧小国」否定の、
嘘吐きダマシの・・・・サギシなど、相手にする気は全くありません。
この投稿も、世間の皆様の中の何人か?が、
孝霊のウソダマシに騙されてはいけない、と思うので、
黙過し難いだけです。
>丹山もあって海辺にあり七万戸の集落を求めると
紀伊半島周辺部に求める以外選択肢はありません。<
北部九州には、丹山も海浜も7万戸集落も、全て可能です。 >>611
そういうレスしか出来ないようじゃ話になりませんよ。
また江戸以前から徳島の人達が信貴山近くの
天照大神の名を持つヒルメ山(明神山)を
元伊勢として訪れていた事実もありますね。
なぜ阿波にそういう山が無いのですかね? >>593
>>(孝霊)丹山もあって海辺にあり七万戸の集落を求めると
紀伊半島周辺部に求める以外選択肢はありません。<
>紀伊半島周辺部なんて曖昧な表現は不要です。 ずばり「阿波」です。@阿波<
「阿波」も「南→東」の嘘吐きダマシであり、アホです。 >>595
>阿波も徐福の国である <
魏使らの記録にも、陳寿の説明にも、徐福の記載も説明もありません。 >>615
>また江戸以前から・・・
レベルの低い話ですね。 @阿波 >>613
記述の中には鬼道とありますが、これは初期道教を指す文言ですよ。
鉛丹を始め丹に関する話題は鉄なんかよりずっと多いし
黄色い旗なんて話題がある以上は間違いなく
話の背景に神仙思想の影響はありますね。 >>619
私の話で根拠がないのなら、多くの邪馬台国論も
空想物語に過ぎませんよ。 >>598
>(孝霊)弥生中期の時点で貨泉や多紐細文鏡の出土している流れがあり、
それで大陸から河内まで証明済みですから。<
神武東征後、大和や河内は、倭国の別種分家の旧小国の、
倭国の地方の市を監督する「大倭」職の地域国であったようですから、、
貨泉や多紐細文鏡も、市を通して流通して来た事になり、
貨泉や多紐細文鏡が出土しても何らおかしくのないし、矛盾にもなりません。 >>599
これみたいな、
史料事実を基にした反論をするんではなく、
口先での言葉尻に対する「理由のない否認の」匂わせが、
大和説信者の特徴だなー。 >>601
>畿内や北部九州に
矢野遺跡、名東遺跡、庄・蔵本遺跡、萩原遺跡、黒谷川郡頭遺跡等々に匹敵する遺跡があるのだろうか?<
この人、未だに九州や筑紫の弥生銀座などの、巨大遺跡群の事を知らないアホのようだね?。
>那賀川流域、鮎喰川流域、大河吉野川流域に拡がる徳島平野は
まさに倭国の首都に相応しいと言える。<
「倭国」と言ってしまっちゃ、そりゃ、
始めから「南→東」などの嘘吐きダマシになっており、
分裂幻覚妄想の・・・・サギシにしかならないよ。 >>624
>この人、未だに九州や筑紫の弥生銀座などの、巨大遺跡群の事を知らないアホのようだね?。
巨大遺跡群? なに遺跡? @阿波 >>603
>2世紀末までの話ではないか? 2世紀末以前は、クナ→河内、大和 2世紀末以降
クナ→河内 2世紀末に大和の地は、卑弥呼を共立する国々に制圧されたんだな。<
「南→東」の嘘ダマシの上に立っただけではなく、
「大和の地は、卑弥呼を共立する国々に制圧」された、なんて魏志に全くも書かれていない事をしゃべるこの投稿子は、
全くの分裂幻覚妄想の・・・・大和説者なんだろうなあ。
>3世紀後半 クナ滅亡。女王国に吸収される。<
史料事実根拠の全くない分裂幻覚妄想の・・・・サギシ。 >>606
>クナ→河内、大和 なんでクナ→河内なんだよ。 そんな地名は残ってない。
クノ、クヌだらけの静岡が怒ってくるぞ。<
地名や音の、(一致ではなく)類似だけでは、
そんなものは無限に近くありますから、
それだけでは何の根拠にもならず、
分裂幻覚の妄想になるだけです。 >>607
>素晴らしいスレも立っている。・・・
【久野】狗奴国は「クノ国」の事である【久能】<
「南→東」の嘘吐きダマシになるから、✖です。。 >>609
>(孝霊)狗奴国にはククチヒコ、コウチにカワチという
繋がりがありますよ。またクド=九度山に久度遺跡等
竈から火を想定させる部分もありますね。
私が台与を狗奴国擁立説をとる理由でもあります。<
「南≠東」ですし、
地名や音韻の一致ではなく類似だけでは、そんなものは無限に近くありますから、
史料事実根拠も提示せずでは、それだけでは何の根拠にもならず、
これも、孝霊の分裂幻覚の妄想になるだけです。 >>612
>葛城地方のように古代から文献的にも重視されていたり
天皇陵が集中している場所を無視出来ませんね。
しかも鏡と銅鐸が弥生時代中期に一緒に埋められていたような特殊性もあります<
殺人鬼神武の後の欠史八代の頃の、
「奈良盆地内の残存出雲系銅鐸祭祀部族を婚姻などで、勢力下にした」
という事の事例として、既に説明し終わっています。
しかも鏡と銅鐸が弥生時代中期に一緒に埋められていたような特殊性もあります。 >>615
>(孝霊)そういうレスしか出来ないようじゃ話になりませんよ。
また江戸以前から徳島の人達が信貴山近くの 天照大神の名を持つヒルメ山(明神山)を
元伊勢として訪れていた事実もありますね。
なぜ阿波にそういう山が無いのですかね?<
江戸時代以前の話であっても、阿波も信貴山も、
「南≠東」に違反しているから、
卑弥呼や邪馬壹國とは、何の関係もありません。 >>627
そう思うでしょ。
俺もそう思ってました。
ところが、「クノ」という地名って日本に数えるほどしかないんですよ。
「久野」「久能」という地名のほとんどが神奈川と静岡に集中しているんです。
しかも、そのエリアが広いんです。
あとは千葉と栃木にチョロッとあるくらい。
「久野」「久能」でヤフー地図で検索してみてください。
引っかかってくる検索結果の95%以上が神奈川と静岡のはずです。 >>620
>(孝霊)記述の中には鬼道とありますが、これは初期道教を指す文言ですよ。<
鬼道は、どちらかと言えば「不可思議な道」と言っているに過ぎず、
「神仙思想」のような尊崇思考は有りません。
>鉛丹を始め丹に関する話題は鉄なんかよりずっと多いし 黄色い旗なんて話題がある以上は間違いなく
話の背景に神仙思想の影響はありますね。<
それをどうしたら神仙思想に繋ぐのか?の理由が、全くありません。 >>621
>(孝霊)私の話で根拠がないのなら、多くの邪馬台国論も 空想物に過ぎませんよ。<
史料事実を直接論拠にした説明ではなく、
史料事実を否定したり、曲解捏造したりした説は、
分裂幻覚妄想の空想にしかなりませんよ。 卑弥呼の鬼道は霊媒師の巫女さんがよくやる「降霊」の事だと思いますよ。
衆を惑わすんですよ。
大勢の人がパニックになる事ですよ。
やはり降霊の事ですよ。
中国道教とか神仙思想とか、その片鱗も日本神道には見られませんね。
全然関係ないと思います。 >>636
大麻(麻)の繊維は、日本では古くからしめ縄、祓い具(おはらい)としての神事の大麻などに用いられてきた。
また、麻から作った大麻(マリファナ)は薬理作用があり、紀元前から古代人が嗜好品、また医薬品として用いてきた。
大麻(マリファナ)は喫煙、気化、飲食により成分を摂取する。
麻といえば、阿波忌部
『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』 『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。 @阿波 >>624
>未だに九州や筑紫の弥生銀座などの、巨大遺跡群の事を知らないアホのようだね?
巨大遺跡群www
勝手に遺跡を作るな下人w
北部九州なんて出雲の三下w >>632
三遠式銅鐸の最終集積地。
卑弥呼と対立したのは、
卑弥呼も同じ銅鐸族であったのに、
仕方なく、鏡という北部九州の下賤な祭器、
穢れた祭器を受容したからだろう。
北部九州と言う下人が持ち込んだ蕃神の器、それが鏡。 モモソ姫も神功皇后も神憑りして神の声を伝えた。
卑弥呼の鬼道も同じだろうね。 弥生時代の四隅陸橋墓という珍しい周溝墓が名古屋から横須賀にかけて出ている。
やはり出雲系だろう。
そして三河は銅鐸の日本最密集地。
蒲郡の語源は滋賀の蒲生と同じ鴨であろう。
鴨とはカミだ。 >>639
おい糞ジジイ。
その佐々木さんは大和説なのだがw
まぁ一般常識人としては当たり前なのだがw >>632
>そう思うでしょ。 俺もそう思ってました。
ところが、「クノ」という地名って日本に数えるほどしかないんですよ。
「久野」「久能」という地名のほとんどが神奈川と静岡に集中しているんです。
しかも、そのエリアが広いんです。 あとは千葉と栃木にチョロッとあるくらい。
「久野」「久能」でヤフー地図で検索してみてください。
引っかかってくる検索結果の95%以上が神奈川と静岡のはずです。<
ダメです。
「狗奴」を古代に何と読んだのか?という事の断定が困難であるし、
古代と現代地名との照合なんて、途中での音韻や文字の変遷がいくらでも有り得るし、
何よりも、史料事実に拠って、狗奴國は、不彌國の南の女王国地域の南にあるんですから、九州の中北部地域である事が確定的だすから、
静岡なんて、始めから何の確率もありません。 伊都国や邪馬台国と関係ある地名は波多、波多江、波多津なんかだ >>645
そうですか。
じゃあ、イイ事を教えてあげましょう。
3世紀の熊本の狗「馬」国の最大古墳よりも、静岡の狗「奴」国の高尾山古墳の方が
大きいんですよ。
チンケですねえ。
狗「馬」国って。 >>637
>麻といえば、阿波忌部 『名曰卑彌呼事鬼道能惑衆』『名を「卑弥呼」といい、「鬼道」に仕えて人心を惑わしている』
卑弥呼は大麻(マリファナ)を利用して「鬼道」を操ったのだろう。@阿波 <
麻を使ったとは書かれていないから、これもアホの分裂幻覚の妄想。 >>638
>>未だに九州や筑紫の弥生銀座などの、
巨大遺跡群の事を知らないアホのようだね?<
>巨大遺跡群www 勝手に遺跡を作るな下人w <
また、
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
でも読みな。
>北部九州なんて出雲の三下w<
出雲も、河内や大和などと同じく、筑紫に土器などの搬入上納する側だったんだよ。
どちらが「三下」なのかね?。 >>640
>三遠式銅鐸の最終集積地。<
出雲系の銅鐸部族が、筑紫倭国からの「東征」に押されて、
とうとう東海まで追いやられた事を示す。
>卑弥呼と対立したのは、<
卑弥呼には、直接的に「東征」した、という記録がない。
>卑弥呼も同じ銅鐸族であったのに<
卑弥呼は、銅鐸祭祀族ではなく、銅鐸族を東征する事を命令した側。、
>仕方なく、鏡という北部九州の下賤な祭器、穢れた祭器を受容したからだろう。
北部九州と言う下人が持ち込んだ蕃神の器、それが鏡。<
鏡祭祀は、半島から伝えられたらしいよ。 >>641
>巨大?纏向はもっと巨大だよん♪ <
纏向が何kmあるのか?は知らんが、
「大道のある博多付近」から那珂を通って大野までなら、8km位ある筈だよ。 >>642
>モモソ姫も神功皇后も神憑りして神の声を伝えた。卑弥呼の鬼道も同じだろうね。<
大和は、
始めから「南≠東」や「倭国の倭奴国から別れた別種の旧小国」であるから、
卑弥呼の真似をする事はあっても、
卑弥呼とは別だよ。 纏向遺跡の航空写真を、吉野ケ里と一緒に、張り付けていた者がいたな。
纏向遺跡がスカスカ、カスカスで気の毒だった。。。 >>644
>おい糞ジジイ。 その佐々木さんは大和説なのだがw
まぁ一般常識人としては当たり前なのだがw <
おい、ssnの糞ガキー。
佐々木氏も「南→東」の嘘つきダマシのアホだから、
「史料事実や史料実態をついうっかり紹介する」事は出来ても、
それに対する解釈や説明は、「嘘ダマシの大和説、先にありき」であったから、
一杯間違えていて、
「河内や大和からの筑紫への搬入上納になるから筑紫が西日本の中心になる」
などの事で、
世間に恥を晒してしまったんだよ。 >>648
>そうですか。じゃあ、イイ事を教えてあげましょう。
3世紀の熊本の狗「馬」国の最大古墳よりも、静岡の狗「奴」国の高尾山古墳の方が
大きいんですよ。 チンケですねえ。 狗「馬」国って。<
この男、脳がおかしいんでないの?。
九州の方が「狗奴国」であり、静岡には「狗奴国であるのか?が不明」であった筈。
そして、九州の狗奴国の墓の大きさと、
倭国の東征に圧迫されて静岡まで逃避した銅鐸祭祀部族の墓の大きさとの比較など、
何の関係もない。
日本の仁徳とピラミッドを比べても何の意味がないのと同じ。 >>656
>世間に恥を晒してしまったんだよ。
それはおまえだw
まぁ恥を恥とも思ってない様だ。
早くあの世に行けw >>636
まず倭人伝は中国人の物です。その記述での鬼道ですから
勿論当時の中国人視点ですよ。
当時はまだ道教という物は存在してませんが、神仙思想や
初期段階の道教は拡散真っ最中ですからね。
当時鬼道と呼ばれたものは中国土着の雑多な宗教の
総称で、
それらが系統だてて集約されて道教となります。
まず卑弥呼は丹と鏡をやりとりしてる以上は
間違いなく初期段階の道教ですよ。
卑弥呼が鉛丹(これ仙薬ですよ)や鏡を貰うなら否定出来ません。 土木だか何だか知らないけど、
社員、従業?作業員ではないと言ってるんだ 気づいていると思うけど
そういう企業を作った人物、
悪く言うと馬の骨じゃない?
そもそも、どこから資金が出ていたんだよ >>657
>九州の方が「狗奴国」であり、静岡には「狗奴国であるのか?が不明」であった筈。
あった筈ってどこで誰によって?
なんで勝手に定説を決めてるんだよ、糞ハゲ。
梅雨明けまでにシねよ、分かったな。 >>660
伊都国では鳥居や八咫の鏡が出土するので、すでに倭国は神道が成立していたのですよ。
根拠のない妄想って何の得にもなりませんよ。 市やら朝廷が何やら〜と言っている人がいたり、
本当なのかな
時代劇のスレじゃなくて、どこだったかな >>666
倭人伝に鳥居の記述が無いから何の証拠にもならんわ。 >>669
発掘されても信じないくらいに目が濁っているのかな。 神道? 鳥居? 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部でしょう。
忌部の郷 忌部山黒岩 忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg ※神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 >>670
倭人伝の内容まで捏造するようじゃ重症だぞ。 >>659
>>(佐々木氏は)世間に恥を晒してしまったんだよ。<
>それはおまえだw まぁ恥を恥とも思ってない様だ。 早くあの世に行けw<
それはおまえもだw。
まぁ恥を恥とも思ってない様だ。
早く佐々木氏と一緒に、病院か留置場に行って隔離して貰えw。 >>674
実際に3世紀までに倭国は神道に教化されたんだよ。
神功皇后の記事にも崇神天皇の記事にも景行天皇の記事にも、様々な神道の要素が出てくる。
そして考古学的にも確認できる。
倭人伝にある鬼道は神道のことなんだよ。 上部構造が不明な柱穴2個を鳥居と決めつけ、
さらに神道がどうとか言っちゃうのが糸クズクオリティ 中国人には何だかよくわからず、鬼道としか表現できなかったんだよ。 >>660
>(孝霊)まず倭人伝は中国人の物です。その記述での鬼道ですから
勿論当時の中国人視点ですよ。
当時はまだ道教という物は存在してませんが、神仙思想や
初期段階の道教は拡散真っ最中ですからね。<
道教が老子に始まるんなら、周代からあったのであり、
漢代には太平道などがあったんだから、魏使らも陳寿も銅道を知っており、
だから、魏使らや陳寿は、道教と鬼道を違うものだとして書き分けた事になる。
>当時鬼道と呼ばれたものは中国土着の雑多な宗教の総称で、
それらが系統だてて集約されて道教となります。<
道教と鬼道とは、書き分けられた別のもの。
>まず卑弥呼は丹と鏡をやりとりしてる以上は 間違いなく初期段階の道教ですよ。<
周代からあるものが、魏代に初期段階にはならない。
>卑弥呼が鉛丹(これ仙薬ですよ)や鏡を貰うなら否定出来ません。<
三角縁神獣鏡の「神」は、古田さんは否定されて(神獣鏡ではなく)「人獣鏡だ」とされる。
また、卑弥呼が「鉛丹」を使った鬼道をしたのか?の記載もない。 道教の始祖とされている老子の教えが「道」だな
高句麗伝、韓伝では「祭鬼神」と表現されている >>687
>道教と鬼道とは、書き分けられた別のもの。
どう書き分けてる? >>664
>>九州の方が「狗奴国」であり、静岡には「狗奴国であるのか?が不明」であった筈。<
>あった筈ってどこで誰によって?<
魏志倭人伝の記載事実が決める。
>なんで勝手に定説を決めてるんだよ、糞ハゲ。 梅雨明けまでにシねよ、分かったな。<
「定説」が、倭人伝の記載と違うものに決めたら、
そりゃ、定説が悪いから、
定説が梅雨明けまでにシね。 >>687
古田信仰してない人に古田の名前出しても平伏してもらえないよ >>673
>・・・何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。<
「南≠東」だから、何がどう転んでも、四国の阿波は始めから✖。 数多ある可能性の中から
自説に都合がよいものだけを
確定した事項と脳内変換して
妄想を積み上げて悦に入る
それが糸クズ >>666
>伊都国では鳥居や八咫の鏡が出土するので、
すでに倭国は神道が成立していたのですよ。
根拠のない妄想って何の得にもなりませんよ。<
成程。
しかし、卑弥呼にははっきり「鬼道」と書き分けていますね。
姫氏系の卑弥呼が江南方面の鬼道の伝統を持っていたのかも知れません。
しかし(大和と同じ)阿毎氏系の壹與なら、
鏡や破鏡や鳥居の「神道」で埋葬されてもおかしくない。 東夷伝の高句麗条と韓条にも鬼神を祀る描写が出てくるけど、中国本土の道教よりそちらの方が近いと思う >>694
>しかし、卑弥呼にははっきり「鬼道」と書き分けていますね。
何とどう書き分けた?
言葉足らず
???????? 3世紀には中国本土にもまだ道教は完成してない
張魯の五斗米道母は鬼道と呼ばれた >>697の「母」は消し漏れ
張魯の五斗米道は鬼道と呼ばれた ○ あの山王の主計というのも
むかーしのモノと、
近代のモノがあるのかな
軍の人ではないと言っていたり、親戚なのかな? むかーし伊達郡というところに住んでいたんだよ。
お爺さんのほうの生まれたところ、伊達郡のほうに疎開した。
と言っていたり あのキュウリなどの写っている写真の家だと言っている、
おそらく軍の服ではないでしょ? >>694
卑弥呼も壹與も姫氏系だと思いますが、国家としての倭国においては、鏡を用いた神道祭祀はおそらくそのずっと前から定着していたので、卑弥呼らも鏡を祭ったのでしょう。 漢書に成帝が鬼神を好み、「衆を惑わし、・・・」との記事もあるね 確か伊達郡で・・・、
米が何俵、綿花・・・このような資料が出てきた、
親戚の名前も書いてあったり □□ 市??
家のような気がするんだけど、
国会議事堂に行ったりもしたでしょ、見学?
なぜか小泉純一郎を応援していたり、
親は純也と言って・・・・そのような事も言っていた 川俣町『猫稲荷』
八雲神社が何やらと書いていない? 主計
昔のことなのでわからないけど、
職のような意味でしょ
畿内説スレに嫌がらせに来る危地骸は24時間営業だな
気づいていると思うけど、
人工地震だと言っていたよ
叶雅道?
誰かを、もじった名前とか 問題は、なぜ、あのような作品を作ったりしたのか?なんだよ 主計
調べていくと
渡来系の家が・・・
という説明が出てこない? 『山王院 山王宮』
川崎に来る前は、
その周辺に住んでいたと言っている 以前書いたけど、
力夫という名前の親戚はいない
家にはいない 【中世の拡大すら知らない・・・】
このようなスレッドが建てられていたり 何か知っている人がいるんだと思う
妹:5月15日生まれ
上に兄がいるとか、二人いるの 探偵eyeというドラマでしょ、
信onというゲーム内に作成したキャラクター名 それと家は鈴木ではないよ
かなり前の信on掲示板
「そいつは鈴木だぞ」と言っている人がいたけど 『山王院 山王宮』
この辺りに住んでいたんだよ、
広瀬川という川、たしか『広瀬座』というのがあって 「よく芝居などを観に行っていた」
調べてみると、そのような職があったり 『大膳』の家なのかな?
家が『天王』という事になってしまうような気がする むかーしの親戚なのかな?何かの親戚、
農家や一般人になった家とか
田や畑、凄い土地を持っていたとも言っていた 日本全国 いろんな国、邑があった。その一つが畿内
別に強引に畿内を邪馬台国にしなくてもいいよ。
大和朝廷発祥の地は認めるけど、邪馬台国迄無理して広げるなよ。
無理するから、倭人伝とかけ離れたトンデモ たまーに偉そうに語っている人がいるけど、
どこで何を習っているの?どこで勉強したの 畿内説・・・・・九州を無視したら論は成り立たない
九州説・・・・・畿内を無視しても論は成り立つ なぜ話を進めたり、創作しているんだ?
と言っている人がいなかった? 『サカキバラ事件』と『伊達の桃太郎』同じような話じゃない? サカキバラ事件は
冤罪事件という話があったり
ちなみに家は『伊達の桃太郎』の門人と書いてある人と同じ家だと思う
むかーし住んでいたところ。
機織り。
謎の刀。 『サカキバラ事件』wiki
【脚注】
この辺りも読んでみたほうが良い、冤罪だとわかるから、
wikiの一番下のほうだよ モレ(仮)も、
そうだったような気がするんだけど、違ったかな
それと『サイバーパンクspecial』
謎のロトちゃんの登場する作品、川崎区の南部のほうの話 むかーし住んでいた事があるんだよという所、
その周辺に小手子の像というものが建てられている
ほとんど偶然のような気が 書いてあるでしょ?
>征隼人将軍、征夷大将軍、征東将軍
この人物の話だと思うんだけど
『聖化 日神 日霊 津』百済の王? 老婆と言っても嫁だから詳しいのかな
家に飾ってあった、謎の凄い刀
泥棒に盗まれたとか
相当なモノだったのか、ただ危険なモノだったのか あの松の木(モミの木?)の写真もそう、
七支刀のように見えたり
そんな刀あったの?
と思うかもしれないけど、そうなっていない?
当時から知っていたのかな 昔、住んでいた家に飾ってあったという謎の刀、
どのような刀だったのかは、わからないけど
普通の刀(日本刀??)ではなかったのかもしれない >>669
>倭人伝に鳥居の記述が無いから何の証拠にもならんわ。<
倭人伝の魏使らは、壹與の朝貢までしか見ておらず、
壹與の墓は知らないので、鳥居があっても書かれない事になる。 >>677
>実際に3世紀までに倭国は神道に教化されたんだよ。
神功皇后の記事にも崇神天皇の記事にも景行天皇の記事にも、様々な神道の要素が出てくる。
そして考古学的にも確認できる。
倭人伝にある鬼道は神道のことなんだよ。<
Yahooの掲示板でも、mutouhaというお人が、鳥居や注連縄(蛇?)や狛犬に付いて、
高句麗方面の風習ではないか?と言っておられた。
倭人の「燕の南」出身の記録と少しマッチしていた。
だから鳥居は、(姫氏系ではなく)天孫族や阿毎氏系が持っていた風習であった可能性がある。 >>680
>あーあーあー 聞こえない見えない 子供かよ <
あーあーあー 「南→東」の嘘吐きダマシの大和説にクルった人種は、
何も聞こえない見えない 。
子供かよ。
mutouha氏は、知能指数が200であったと言っておられたし、おそらく東大工学部出身の技術者のようで、九州説者であった。 つぶやき荒らしが朝まで狂態呟いて呪詛ざらこくに交代か…
お前らどんだけ畿内説が憎いの?
その人生無駄遣いエネルギーに呆れるわ >>689
>>道教と鬼道とは、書き分けられた別のもの。<
>どう書き分けてる?<
魏使らは、道教も太平道も五斗米道も知っている筈であるのに、
魏使らは「鬼道」と書き分けた。 >>693
>数多ある可能性の中から 自説に都合がよいものだけを 確定した事項と脳内変換して
妄想を積み上げて悦に入る それが糸クズ <
数多ある可能性の中から
自説に都合がよいものだけを 確定した事項と脳内変換して
妄想を積み上げて悦に入る
それが「南→東」の嘘吐きダマシの通説大和説者。 >>697
>3世紀には中国本土にもまだ道教は完成してない
張魯の五斗米道は鬼道と呼ばれた<
魏使らが、五斗米道を鬼道と呼んでいたのか?が判らない。 魔界塔士sagaのドラゴンレース?
ジョジョの『SBR』だという説 >>699
>しかり 無知はトンデモ説の母<
「南→東」や「鬼道→五斗米道」などの勝手な解釈の断定は、トンデモ説の母。 アポロン 鳳凰 奥方・・・大御所・・・など
ちち:ポケモンのような台詞
グーグル?ネット検索というのは、どうなっているんだと思う? >>751
>魏使らは「鬼道」と書き分けた。
何を何と書き分けたの?
舌足らず 気づいていると思うけど
日本の戦国時代など、
当時は自分の家の事とか知らなかったんじゃないの?
〜の末裔というのも後付け 『七支刀』
ググると、なぜか上杉謙信の画像が出てきたり
あの大膳の話も、この周辺の話じゃなかった? 畿内説に逆らう連中って決まって判で押したように
ちゃんとした日本語が書けてないな
思考をまとめる能力が欠けてるってことだ ぜんぶ、何やら〜なんだけど
と言っている人もいたけど
大膳?その人物の話なのかな つぶやきの方がzarakokuよりよっぽどまし
zarakokuなんてお題目だから 相変わらずくだらないな畿内説は。
こんなやり取りしかないのか。
まあ根本が「あー無理無理、考えても無駄、とにかく全て畿内だけ、
はい終わり」というトンデモだしな。
集まってくるのもアホばっかだよなw >>767
どうして畿内説スレしつこく荒らすつぶやき野郎が畿内説なんだ
おまえ自分の罪を他人にナスリ付けようとする犯人本人か?、な 箸墓が卑弥呼の墓?
アホか、そんな瀬戸内海洋下人の土地に墓があるわけないだろ。
卑弥呼の墓は高天原(御所市高天)だ。
はい、今日も見ていただきましょう、卑弥呼のお墓。
https://goo.gl/xAWiP6 >>775
それが何だ?
邪馬台国となんの関係がある? >>775
だから何?
だれが卑弥呼の墓と決めたの?
何も決まってないが。 >>703
>卑弥呼も壹與も姫氏系だと思いますが、<
卑弥呼も壹與も、確かに松野氏姫氏系図に載っているんですが
倭奴國王は、姫氏系図にも載っているし、新唐書の筑紫城の阿毎氏でもあったので、
倭奴国王の前に、委奴の地で、
阿毎氏系と、姫氏の分家が、婚姻などで「合同した事があった」、
と推定しているんですよ。
そして、卑弥呼は、松野氏姫氏系図では、その「合同」の後で、
また分家して「大野」の地に移った第1系図の方に名前が載っているので、
卑弥呼ら一族は、その「合同」王朝から独立分離して元の姫氏に戻ったんだろう、
と思われるのであり、
だから久留米の祇園山に葬られ、
(玉の女王であった)壹與は、その名前の「姓が一文字の壹で、名前が與」であるから、
倭奴国の阿毎氏の「委、伊、一、井、五など」部族出身であった事が強く疑われ、
だから、平原に葬られた、と思われるのです。
>国家としての倭国においては、鏡を用いた神道祭祀は
おそらくそのずっと前から定着していたので、卑弥呼らも鏡を祭ったのでしょう。<
これは了解です。
半島からも鏡が流入していますし、
何よりも吉武高木に三種の神器が副葬されていますから。 >>778
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l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | / l_j_j_j と) | | | aa >>704
>漢書に成帝が鬼神を好み、「衆を惑わし、・・・」との記事もあるね <
情報提供、有難う御座います。
問題はやはり、馬韓伝での、
「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。
又諸國各有別邑、名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。
諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異」
の「鬼神」と同じものなのか?、という事と、
卑弥呼の「鬼道」とこの「鬼神」とが書き分けられている、という事なんでしょうね。
「立大木、縣鈴鼓」というのは、鳥居や諏訪の大木などと似ていますね。 >これまでみんな、記紀から卑弥呼を探そうとしてきた。
見つけられなかっただけ。
【崇神がいつ頃の人物か】
これ一点で卑弥呼も決まる。
崇神が今有力の4世紀初〜前半の人物なら台与の即位まであと約60年。
崇神のほんの少し前の女性になる。
おまえ探したことあるか?ないだろ。
最初からいないと思って探してないだろ。
台与の条件は2つ
@崇神の少し前のトヨまたはイヨという最高位の女性である事。
A3世代ほど前にヒミ、ヒム、ヒメという最高位の女性がいる事
ならば一人しかいない。
4代懿徳天皇の皇后・天トヨ津媛だ。
そして卑弥呼はヒメ踏鞴五十鈴媛という事になる。
もう一度聞く。おまえ探してなかっただろ。
そんなやつが偉そうに言うな。
【天動説】記紀に卑弥呼はいない
【地動説】記紀のイの一番に卑弥呼がいる
お二人が住んだのは葛城だ。
わかったかアホwww イスケヨリ姫は葛城山ではなく三輪山の方だから、間違いだな。 >>786
>イスケヨリ姫は葛城山ではなく三輪山の方だから、間違いだな。
それは若い頃。
お父さんと一緒に葛城に移った。
だから婿さんである神武の宮も葛城。 しっかし、奈良盆地は九州北部以上に細かい勢力がちまちまと同居しているのな。
何が九州北部は統一されてないだよ。
奈良の方がもっと弱小勢力が小競り合いしているじゃないか。
それを皇后だなんだと、弥生時代なのにわけのわからんことを言うアホがいる。
神武とイスケヨリ姫なんて川べりの粗末な小屋で藁をひいて過ごしていたんだぞ。 >>787
>お父さんと一緒に葛城に移った。
そんな記事あったか?
基本的に妻問婚だから、女性は動かないぞ。
根本的に当時の制度を理解していない。 >>784
>「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。
>又諸國各有別邑、名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。
>諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異」
これは興味深いですね。
倭国も同じようなものだったでしょうね。 >>788
弥生時代に拠点集落を囲み後世でいう郡クラスの地域のまとまりがあった
それがぞろっと消えて纒向遺跡が生まれた
これってモロ統一でしょ >>789
>そんな記事あったか?
記事はないが伝承だ。
大神神社で分かるように、どっちみち三輪山も鴨族の土地。
たいして違わない。 >>788
>それを皇后だなんだと、弥生時代なのにわけのわからんことを言うアホがいる。
天皇・皇后は7世紀にできた称号。
なんで創ったか分かるか。
女王であったヒメ踏鞴を皇后に格下げ、大王ではなかった神武を格上げするためだ。 >>711
>畿内説スレに嫌がらせに来る危地骸は24時間営業だな<
大和説が、世間の人々にどんなに嫌われているのか?を示しているんだろうなあ。 >>721
>また徹夜で荒らすのか そんなに畿内説が怖いの?<
「南→東」などの嘘つきダマシで、世間の人々を騙そうとしている、
という事が黙過し難いの。
今日の朝日にも、前川氏が、
「NHKが一番早くインタビューに来たからその時に官邸関与があった事を話たが、、
放送されるのかな?と見ていたら、NHKは、放送しなかった」
という記事があった。
NHKは、官邸や菅に通報して、官邸が前川氏のスキャンダル探しの時間稼ぎをしたんだろうか?。
NHKも、読売や産経やYahooや2chと同じように、政権にべったりの怖いマスコミ組織だねえ?。 >>796
>NHKも、読売や産経やYahooや2chと同じように、政権にべったりの怖いマスコミ組織だねえ?。
そうだよ、日本は怖いよ。
だから早く北朝鮮に亡命しなさい、誰も止めないから。 >>791
畿内の情勢は纏まりつつあった、で良さそう
巻向も始めは小さくだんだん大きくなる遺跡だし
ただ、巻向には倭人伝との整合性が無い
北部九州と関連するものが無いのが致命的
鏡文化もホケノ(布留0)より前は皆無だし、鉄も絹も矛も無い
後、桃核のC14の結果ははどうなった? >>731
>たまーに偉そうに語っている人がいるけど、
どこで何を習っているの?どこで勉強したの <
誰の事を言ってるのか?は知らんけど、
普通は、皆、
文献史料や考古史料での史料事実を、(有名学者の解釈や説明に頼らないで)、
史料批判をして信頼性を確認して、その意味を読んでいるの。 ザラコクのような非常の民は歴史が残されてないから荒らすしかないからね
鳥居は元々ザラコクのような穢れが集落に侵入しないための結界だね >>798
>鏡文化もホケノ(布留0)より前は皆無だし、
あるのだよ。
日本で唯一、鏡と銅鐸が一緒に出た御所市名柄遺跡。
そのすぐ近くの長柄神社は別名「姫の宮」
あれ…誰が住んだのだろうね、不思議だ(ニヤニヤ) 朝鮮半島式小銅鐸(銅鈴)は北部九州で出る
本州のような鰭がある銅鐸は祭祀に使用された銅鎛が起源だね だいたい祇園山と平原ってどんだけ離れてるんだよw
そんな墳墓程度しか候補がない九州w
無理矢理、卑弥呼と台与にひっつけただけやねw >>803
巻向の話をしてるし
そにらの方も気になるのは、鏡文化が継続していると推測されるぐらい出土してるの?
一時期、他地域から流れてきた物の可能性があるのでは? >>798
何故君はいつも多紐細文鏡を無視してるの?
それだから九州説の人は信用されないんだが。 >>806
この間、同じ久留米市で連玉が出土したね
希少な物だから、平原(糸島地区)との何かしら関連があるかもね >>809
鏡文化の継続が必須と思ってるから
単発、一時期のみに出土しただけでは話にならない
だから、継続性はあるのか?と聞いているが >>808
>巻向の話をしてるし
確かに纏向にはないね。彼らは新参者だから。 >>811
多紐細文鏡は畿内では葛城と河内から出土。
中でも最大級は信貴山周辺から出土です。
それにあれは構造上太陽信仰の物とされてるからね。
つまり延々と継続されつる事になる。 >>750
>つぶやき荒らしが朝まで狂態呟いて呪詛ざらこくに交代か… <
70歳を超えて体の弱い妻が、朝早くから起きて仕事を始めたから、
目が覚めてしまっただけ。
>お前らどんだけ畿内説が憎いの? その人生無駄遣いエネルギーに呆れるわ<
お前らどんだけ、
「南→東」の嘘つきダマシの大和説が可愛くて、
史料事実を読んだだけの九州説が憎いの? 。
その人生無駄遣いエネルギーに呆れるわ。 >>813
2箇所ですね?
では、まだ検討が必要と感じます
その後の時代の鏡の出土の継続は?
卑弥呼時代までの継続性が重要となると思いますが? >>762
>畿内説に逆らう連中って決まって判で押したように
ちゃんとした日本語が書けてないな 思考をまとめる能力が欠けてるってことだ<
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説を信仰する連中って、
決まって判で押したように、思考をまとめる能力が欠けていて、
日本語も漢文もちゃんと読まないし読めないのに、威張って相手を見下すような言い方をして、
議論に勝っているかのような宣伝ばかりする連中だな。 >>816
つまり今後も鏡の出土も期待出来る訳でしょ?
また現時点でも弥生中期には葛城地方に有力豪族が存在して
北部九州に大陸への拠点を設けたという話は成立してますよ。
少なくとも記紀では葛城地方秋津島で国生みが成立した話ですから。 で、ここの畿内説はちゃんと魏志との突合はやったのですか?
畿内には二世紀前半の男王の墓がないのではないですか?
説明も反論もあきらめて、もはや居直り強盗の類ですか(笑) >>772
>畿内説に反論ができないと そういうことですな<
大和説説者らは、「南≠東」に反論出来ず、口先で誹謗して誤魔化す、とそういう事ですな?。 1のテンプレに間違いあるので、かっこを足して訂正しておきましょう
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら(畿内説に都合のよい)考古的諸事実(だけ)を突合すると、
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である(笑) >これまでみんな、記紀から卑弥呼を探そうとしてきた。
見つけられなかっただけ。
【崇神がいつ頃の人物か】
これ一点で卑弥呼も決まる。
崇神が今有力の4世紀初〜前半の人物なら台与の即位まであと約60年。
崇神のほんの少し前の女性になる。
おまえ探したことあるか?ないだろ。
最初からいないと思って探してないだろ。
台与の条件は2つ
@崇神の少し前のトヨまたはイヨという最高位の女性である事。
A3世代ほど前にヒミ、ヒム、ヒメという最高位の女性がいる事
ならば一人しかいない。
4代懿徳天皇の皇后・天トヨ津媛だ。
そして卑弥呼はヒメ踏鞴五十鈴媛という事になる。
もう一度聞く。おまえ探してなかっただろ。
そんなやつが偉そうに言うな。
【天動説】記紀に卑弥呼はいない
【地動説】記紀のイの一番に卑弥呼がいる
お二人が住んだのは葛城だ。 >>823
肝心の崇神を3世紀前半とする根拠が不明ですね。 >>820
方向間違いの実例なら散々既出ですよ?
また当時は計測手段も地図も無いですし、
大体地球が球体という概念ですらないです。
方角を間違えない説なんて既に破綻してますよ。 >818
>つまり今後も鏡の出土も期待出来る訳でしょ?
単なる期待で立論するのもどうなんでしょうかね。 >>824
4世紀前半ね。
10 代崇神天皇の時代を 4 世紀初頭とする根拠は、
古事記に「山邉道勾岡上」と記される1 0 代崇神天皇有力墓である西殿塚古墳、
または行燈山古墳が、考古学的に広義の布留式前半(4 世紀初頭)の蓋然性が高くなっ
ていること、
また、吉備津彦の墓としか考えられない中山茶臼山古墳、
崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓の可能性が極めて高い椿井大塚山古墳、
先代旧事本紀に交野連と記されてるタベノスクネの墓である可能性が高い雷塚古墳(森
古墳群)、四道将軍ゆかりとしか考えられない会津・一簣古墳群など、
崇神時代の人物の墓もことごとくこの時期である。
また日本書紀と古事記では初期天皇の没年干支が違うが、
例えば崇神前後の開化天皇や垂仁天皇の没年干支を記載していない古事記は、
すべて記載している日本書紀と比べ、むしろ伝承しきれなかった事を正直に伝えており、
逆に記載されている崇神の没年干支は、それ自体が強く伝承されてきたと判断し、
その没年干支は充分信用できると考える。
崇神の没年は、考古学とも照合し、西暦 318 年が妥当であり、
崇神天皇の在位を西暦 300 年頃からとみる。 >>785
>【崇神がいつ頃の人物か】 これ一点で卑弥呼も決まる。
崇神が今有力の4世紀初〜前半の人物なら台与の即位まであと約60年。
崇神のほんの少し前の女性になる。
>【天動説】記紀に卑弥呼はいない 【地動説】記紀のイの一番に卑弥呼がいる<
「南≠東」だから、大和には卑弥呼はいないので、
この投稿も始めから✖。 >>828
クズ爺さんのお経
「南≠東」「南≠東」「南≠東」「南≠東」
「南≠東」「南≠東」「南≠東」「南≠東」
「南≠東経」のお題目だな。
ハゲてるしそのまま坊さんになれよwww >>827
全部確定というには個人的には心もとない感じですが、特にこれってどうなんですか?
>崇神に反乱を起こした武埴安彦の墓の可能性が極めて高い椿井大塚山古墳、
反乱を起こした武埴安彦を豪華に葬る意味が分かりませんね。
なんか決定的な証拠があるのですか? 偶然なのかな、陰謀スレの話
このような曲があったでしょ
・時が止まって・・・再び動き出す
『たまごっち!』の話じゃないの?
妹と同じ名前の女の子が登場する話 >>830
>反乱を起こした武埴安彦を豪華に葬る意味が分かりませんね。
なんか決定的な証拠があるのですか?
ならば磐井の墓・岩戸山古墳は何故あんなに立派なのだ?
たとえ反乱を起こそうが、生前墓(寿陵)なので関係ないのだ。 畿内古墳が生前墓の慣習であったのなら
箸墓も被葬者の生前墓として完成していたことであろうな
巨大でさぞかし目立ったことであろう >>833
質問を質問で返すようではだめですよ。
椿井大塚山古墳と武埴安彦を結びつける決定的な証拠はあるのですか?
ないのですか? 簡単な質問ですよ。
もし彼の生前墓(寿陵)があるとしたら、北河内のクスハの地が妥当と思いますが。 >>835
そうだよ、多分生前墓。
被葬者は孝霊、オオヘソキ(外威)
女性ならウツシコメ(皇后)
何度でも言おう、前方後円墳は元々が瀬戸内物部集団の墓制。
物部が3世紀後半に外威になった事で天皇家の墓制になった。
明治、大、正昭和の各天皇も天円地方墳だから意味は同じ。 >>837
あの大きさの墓は皇族としか考えられない。
そして精華町と縁のあるのは楯埴安彦だろう。
わしが出した複数の古墳のうち椿井大塚山古墳しか反論できないのに偉そうに言うな。 どのスレの話なんだろう
謎の伊達郡川俣町という掲示板
まらd−な?
兄:10月30日生まれ >>836
15代応神が4世紀末〜5世紀。
これは文献と須恵器の編年で決まり。
崇神は応神から実質3世代から4世代さかのぼるだけ。
したがって258年になるわけはない。
一世代間が40年から50年になる。
崇神は318年が有力。
ならば卑弥呼は決定。
文句ないな? 精華町は楯埴安彦が斬首された場所だろw
楯埴安彦があの世で卒倒するぞw
楯埴安彦の外戚後援は北河内だし
楯埴安彦が軍を発したのは山背 >>842
>楯埴安彦の外戚後援は北河内だし
何古墳が妥当なのだ?
>楯埴安彦が軍を発したのは山背
武埴安彦が軍を発するほど山背に地縁があったという事を君が証明してくれたw ほとんど同じような話じゃない?
モモタロウという作品も
人権侵害? >>843
嫁は大坂から攻めて来てるでしょ。本体は山城から大和へと二手に分かれている。
これは史書から読み解ける確定事項でしょう。
>>839
怪しいことを「決定」「確定」と言い切るのは、明確な間違いです。 >>790
>「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。
又諸國各有別邑、名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。
諸亡逃至其中、皆不還之、好作賊。其立蘇塗之義有似浮屠、而所行善惡有異」
これは興味深いですね。
倭国も同じようなものだったでしょうね。<
しかし、やはり陳寿は、「鬼神」と「鬼道」を書き分けている事が実態であり、
卑弥呼は共立女王である事や、
「其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火土斥占兆」などと、
「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君」とは、
ちょっと違うようですから、
やはり「鬼神」と「鬼道」とは少し違うんでしょうね。 オニのようなキャラクターが出てきたり、
カッパ、龍宮、それと熊
キュウリの写真に山王? >>845
だから椿井大塚山が武埴安彦の「可能性が極めて高い」と言ったのだが?
そして他にも複数の古墳を出した。
「としか考えられない」と書いた。
何かおかしいのか?
どちらにしても崇神が4世紀初頭〜前半は確定だろう。
その理由は>>841に書いた。 ライバルというか、
敵のような設定ばかりのような気がするし
なんだろう?カルト系? >楯埴安彦の外戚後援は北河内だし
>何古墳が妥当なのだ?
楯埴安彦の古墳は無いのが妥当 >>428
他の論拠も同様に怪しいですよ。吉備津彦とか。
キビツヒコ神社行ったことあるのですか。複数人いますよね? キビツヒコ。
中山茶臼山の「キビツヒコ」が崇神と同世代の「キビツヒコ」とは限りません。
>どちらにしても崇神が4世紀初頭〜前半は確定だろう。
論拠が怪しいのに確定を言い張る。
テンプレのやり口と完全に合致。 >>798
>>それを皇后だなんだと、
弥生時代なのにわけのわからんことを言うアホがいる。<
>天皇・皇后は7世紀にできた称号。 なんで創ったか分かるか。
女王であったヒメ踏鞴を皇后に格下げ、大王ではなかった神武を格上げするためだ<
「女王であったヒメ踏鞴を皇后に格下げ」では、
書紀が「卑弥呼と壹與の二人に事績を、一人の神功に挿入した」
という書紀の意図を否定する事になるから、
やはり、分裂幻覚の妄想になる。 >>850
>楯埴安彦の古墳は無いのが妥当
生前墓だろうからあるはず。
死んでから何年もかかって古墳を造るのは無理だろう。
造ってる間にご遺体がえらい事になる。 上レスは>>848 への回答の誤り。
>>850
私もどちらかというと賛成です。
史書ではそれは酷い扱いですからね。クソバカマとか。
豪華な副葬品は似つかわしくありません。 >生前墓だろうからあるはず。
願望や妄想の類であって、根拠なし >>851
>論拠が怪しいのに確定を言い張る。
「15代応神が4世紀末〜5世紀。
これは文献と須恵器の編年で決まり。
崇神は応神から実質3世代から4世代さかのぼるだけ。
したがって258年になるわけはない。
一世代間が40年から50年になる。
崇神は318年が有力。」
崇神没が318年かどうかは別として、4世紀前半で間違いないだろう。
これを「確定」と言って何がおかしい?
反論してみろ。 >>854
>生前墓だろうからあるはず。
どうして楯埴安彦が生前墓であると推論したのですか??
何かのお告げですか(笑) >>859
造ってる間にご遺体がえらい事になるから。 >>802
>いまどきのアンチ畿内説って異常者しかいないのね <
いまどきのアンチ九州説って、
「南→東」などの嘘つきダマシの異常者しかいないのね。 楯埴安彦は皇子だし、まだ子供もいない
生前墓はありえませんな >>857
>>崇神は応神から実質3世代から4世代さかのぼるだけ
どっかに書きましたが、天皇陵級の古墳よりも、記紀の天皇の数が少ないのですから、
記紀に残る応神から崇神への世代数が少ないと予想できますね。
■記紀の書き漏れがありそうな天皇陵級古墳
桜井メスリ山、桜井茶臼山、西殿塚、佐紀陵山 など つまり箸墓が卑弥呼墓であってほしいから、
「卑弥呼が死んでから墓を作り始めた」ということにしたいのだね。
したがって前方後円墳はことごとく死後墓だと?
そっちこそ根拠がないのだがw 一般人なんだけど、有名人なのかな?
むかーし住んでいたという所も、
その周辺
ず〜〜〜っと住んでいたのか、どうなのかは、わからないけど >>864
>記紀に残る応神から崇神への世代数が少ないと予想できますね。
弥生時代から文字があったのに書き忘れるはずがありません。
あと各豪族との対比でも証明できます。
三輪 氏 物部氏 忌部氏 大伴氏 中臣氏 天皇
大 田々根子 伊香色男 玉久志古 豊日, 神耳勝 10崇神
大御 食持 十市根 多良斯富 武日, 大鹿島 11垂仁12景行
大友 主 胆咋 麻豆奴美足尼 武以 臣狭山 13成務14仲哀
志多 留 五十琴 佐岐大人足尼 佐彦 雷大臣 15応神, あ〜ずれた。
まぁ応神から崇神まで遡ること3世代ですわ。
>天皇陵級の古墳よりも、記紀の天皇の数が少ないのですから
それは君の恣意的判断なので意味はない。 >>867
>弥生時代から文字があったのに書き忘れるはずがありません。
またお告げですか?? キュウリの葉、葱の華・・・先祖の写真
胡瓜 胡=エビス? >>868
「天皇陵級の古墳よりも、記紀の天皇の数が少ない」のは、
私の判断ではなくて、考古学的な事実です。
むしろ「記紀の世代数が正しいはず」というが、怪しむべき前提です。
欠史八代もありますからね。 >>864
>桜井メスリ山、桜井茶臼山、西殿塚、佐紀陵山
皇族、および外威の物部。
森古墳群の雷塚古墳は4世紀前後の墳墓。
森古墳群の被葬者は当地を開拓した肩野物部集団以外に全くいない。
雷塚古墳はタベノスクネと言える。
崇神時代に物部が巨大古墳を造ってた証拠だ。 飛ばし記事です。
ソースは「有名人のハプログループ」です。
遺伝解析の結果、弥生人は、中国の呉からではなく、朝鮮半島の北部から来たことが判明しました。
弥生人とされるY染色体ハプロO1b2は、日本と朝鮮半島とその北部の中国北東部にしかほとんどおらず、
呉から弥生人が来たとか、徐福が弥生人を連れてきたとかいう説は否定されています。
弥生人が渡来したとすれば、2800年前頃、朝鮮北部からやってきたということになる。
弥生人は、中国の春秋戦国時代にはまったく関係ない朝鮮北部から日本へ来た。
O1b2の流入と稲の流入に因果関係はないというのが結論だろう。
あれは、みかんみたいに誰かが中国奥地へ取りに行ったんだろう?
縄文人を中心に考えれば、朝鮮半島から弥生人がやってきたので、
中国大陸の存在を知ったということがあるかもしれない。
新大陸発見だね。そして、稲を取りに行ったと。
土師器、鉄製農具、養蚕は、卑弥呼の朝貢でやってきた秦氏たちが三世紀に伝えて、古墳時代が始まった。 >>869
弥生時代の硯は九州、出雲で見つかってる。
三重の大城遺跡でも土器に文字。
地方まで文字が広がってた証拠。
>「天皇陵級の古墳よりも、記紀の天皇の数が少ない」のは、
私の判断ではなくて、考古学的な事実です。
そんな考古学的事実はない。
何を天皇級とするかが恣意的。
吉備の造山は仁徳の妃・クロヒメ
西都原のオサホ・メサホは仁徳の妃・髪長媛か親父の牛諸井。
何も問題がない。 テンプレが嫌いな脱糞物部厨は自分が立てたニセスレで好きなだけやれよ そもそもどこの誰がコメントしたのか分からない古事記崩年干支を紀年の前提にしている時点で信頼性は低い 探偵eyeというドラマの主人公
「りん、りん」と言っていたり、
確か信onというゲーム内に作成したキャラクター名と同じじゃない?
偶然かもしれないけど、何かの本物だったとか?何かの家? あの白い服の裏にも「市」と書いてあったでしょ?
確か伊達郡の川俣町・・・
埼玉の生まれ、出身ではないよ >>876
貴方自身が、>>827 にあるとおり、西殿塚を崇神に当てる可能性を示唆しているじゃないですか。
その場合には、やはり、「記紀より天皇陵古墳が多い」ことになりますよね?
自己撞着に気づきませんか??
>10 代崇神天皇の時代を 4 世紀初頭とする根拠は、
>古事記に「山邉道勾岡上」と記される1 0 代崇神天皇有力墓である西殿塚古墳、
>または行燈山古墳が、考古学的に広義の布留式前半(4 世紀初頭)の蓋然性が高くなっ
>ていること、 >>803
>>鏡文化もホケノ(布留0)より前は皆無だし<、
>あるのだよ。 日本で唯一、鏡と銅鐸が一緒に出た御所市名柄遺跡。そのすぐ近くの長柄神社は別名「姫の宮」
あれ…誰が住んだのだろうね、不思議だ(ニヤニヤ)<
御所は、出雲系在地の銅鐸部族であり、
纏向付近の「鏡祭祀の倭国の別種の旧小国」の侵略銅鐸破壊部族とは全く違う部族であり、
だからおそらく(欠史八代の頃に)両者の和平のために婚姻があったんだろう、という事になるだけ。 >>806
>だいたい祇園山と平原ってどんだけ離れてるんだよw そんな墳墓程度しか候補がない九州w
無理矢理、卑弥呼と台与にひっつけただけやねw <
那珂八幡付近〜太宰府付近の「都域」からなら、祇園山も平原も、同じ位であり、そんなに遠くないもの。
また、墓は、故人の故郷や出世地がよく選ばれるもの。 >>883
>貴方自身が、>>827 にあるとおり、西殿塚を崇神に当てる可能性を示唆しているじゃないですか。
その場合には、やはり、「記紀より天皇陵古墳が多い」ことになりますよね?
自己撞着に気づきませんか??
いいや、全然。
俺は上にも書いた通り、
4世紀前後の大古墳は天皇家か外威の物部だと思ってる。
崇神を行燈山、イカガノシコオを西殿塚でもいいと思ってる。
櫻井茶臼山はオオヒコの可能性が大。
で君は崇神を何年頃だと思ってるのかな。
多分大笑いの答えしか出てこないだろうが、一応聞こう。 >>884
>御所は、出雲系在地の銅鐸部族であり、
>纏向付近の「鏡祭祀の倭国の別種の旧小国」の侵略銅鐸破壊部族とは全く違う部族であり、
>だからおそらく(欠史八代の頃に)両者の和平のために婚姻があったんだろう、という事になるだけ。
おぉ、ズラ酷使!
失礼、ザラコク氏。
はじめて意見が合ったw
奇跡だwww 老婆「亀戸天神に遊びに行ったりもした」
謎の伊達郡川俣町という掲示板参照 老婆の話ではなく、家の話だと言っていた
老婆が生れていない頃の話、何の話なんだろう 「天皇陵級の古墳よりも、記紀の天皇の数が少ない」
というのは、三王朝交代説の水野あたりが言ってた古臭〜〜い説ですわwww
岡上は70歳近いと断定www >>887
いや、だから同じ「行燈山」が、貴方の勝手な理屈で崇神になったり、外戚のものになったりするんでしょ。
それ自体、記紀の書き漏れという事態を示唆していることが分からないですかね?
「行燈山」が天皇陵かどうかは、「行燈山」古墳事態をみて判断するべきことですよ。
>で君は崇神を何年頃だと思ってるのかな。
>多分大笑いの答えしか出てこないだろうが、一応聞こう。
決して確定的な事実として主張するわけではないですけど、
貴方の考える干支の一巡り前です。 >>891
古い説だから間違いとは言えませんし、それを唱えるからと言って、老人とも限りません。
>岡上は70歳近いと断定www
単なる「可能性としての推論」なのに早合点して「断定する」のは間違いという好例ですね。 かぐや姫か何かの話?
たまごっつ?ウサギのようなキャラクター >>877
ここはスレ主のためのスレではなく、畿内説のためのスレ。
畿内説を追い出してどうする。
結局、畿内説においても確定でないマイナーな意見をスレ主が確定的に書くから荒れるんだろう。 >>897
その通りですね!
それでは、落ちます。 そうなると兄も、モレ(仮)も、カグヤ姫ということになるし、おかしな話だな たまごっつ・・・?
どこかへ帰って行ったかのような話だしな〜
なぜか妹と同じ名前の女の子 山王なのか何なのか知らないけど、
たしか伊達郡の山のほうに住んでいた >>893
>いや、だから同じ「行燈山」が、貴方の勝手な理屈で崇神になったり、外戚のものになったりするんでしょ。
当たり前ではないか、確定なんてしてないのだから。
可能性が高いと言ってるんだ。
>それ自体、記紀の書き漏れという事態を示唆していることが分からないですかね?
それも当たり前。
孝霊以降、妃が増えて、その妃が誰を産んだかまで詳しくは書けない。
しかしながら王統譜の書き忘れなどあるはずはない。
また各豪族の系譜とも整合している。
>貴方の考える干支の一巡り前です。
258年だね、
あり得ないw
応神が考古学的にも文献史的にも4世紀末。
崇神が258年なら一世代間40〜50年になるw
そして四道将軍が3世紀前半になるがそんな痕跡は皆無。
そして大王譜の書き忘れなんてないぞ。
やっぱり予想通り大笑いだw
モモソというおばはんを卑弥呼にしたいからと言って時代をいじくったらいけませんwww 各豪族系図との対比。
応神は4世紀末で390年元年だろう。
これでも崇神が258年などと言えるのか。
当時の平均寿命は40歳に満たない。
三輪 氏 安曇氏 物部氏 三上氏 忌部氏 紀国造家 久米氏 大伴氏 中臣氏 皇室
櫛御 方 穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都 天富 天道根 大久米 道臣 天種子 1神武
健飯 勝 摩幣区利 彦湯支 天夷沙比止 彌麻爾支 伊麻枳利 布理祢 味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻 意伎布根 意冨祢 川枯彦 和謌富奴 比古麻 味耳 稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主 小栲梨 出石心大臣 . 坂戸毘古 佐久耳 知名曽 五十真手 大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵 大綜麻杵 . 国忍富 阿加佐古 .久志多麻 久米大人 角日 梨津臣 7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男. .大加賀美 玉久志古 大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝 10崇神
大御 食持 百足足尼 十市根 鳥鳴海 多良斯富 .宇遅比古 七拳脛 武日 大鹿島 11垂仁12景行
大友 主 勝海足尼 胆咋 八倉田 麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支 武以 臣狭山 13成務14仲哀
志多 留 大浜 .五十琴 室毘古 佐岐大人足尼 豊布流 伊与足尼 佐彦 雷大臣 15応神
石床 浜子 .伊呂弗 比賀多 多比古足尼 塩籠 加志古 山前 大小橋 16仁徳 記紀の系譜を鵜呑みにしているのも信頼性を高めないな はーた氏の関係の話なのかな
「真似なんてしているから、こんな事になってしまった」
と言っている人がいたり、数年前の陰謀スレ wiki かぐや姫のモデル
>イラン史研究者の孫崎紀子は、
>百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、
>行方のわからないトカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女とダラ女とする説を出している
どうなっているんだろう それにしても老婆だよ、
ウサギの話をしていた事もあった
普通の白いウサギだと言っていたり >>914
百済の善光王が本家の畿内ヤマトを乗っ取ったのか ほんとのところは
古事記のおかげでヤマトを騙れるようになったのが
所謂畿内ヤマト
畿内ヤマトを遡る元祖ヤマトは阿那のほうの夜麻登 >>909
それみんな、元を辿れば阿波に居た「忌部一族」なんですよ。 @阿波 >>818
>(孝霊)つまり今後も鏡の出土も期待出来る訳でしょ?
また現時点でも弥生中期には葛城地方に有力豪族が存在して
北部九州に大陸への拠点を設けたという話は成立してますよ。
少なくとも記紀では葛城地方秋津島で国生みが成立した話ですから。<
孝霊も、「南≠東」や「漢委奴国王」印や、
「大和は倭国の中の倭奴國から別れた別種の旧小国」という史料事実を、
全て抹殺する分裂幻覚の妄想患者のようだね。 >>825
>(孝霊)方向間違いの実例なら散々既出ですよ?<
四方向区分程度で、皆合っているし、周髀算経を知っている魏使らは間違えないよ。
>また当時は計測手段も地図も無いですし、<
日の出日の入りで印して東西を決めれば、計測出来る。
>大体地球が球体という概念ですらないです。 方角を間違えない説なんて既に破綻してますよ。<
地球が球体であっても、日の出日の入りでの8尺豪の影端同士を結べば、東西は決められるよ。 もれ(仮)の妹がホンモノだった・・・みたいな話なのかな
ウサギか何かの正体、または中の人・・・関係者 ウィキペディアから削除された「百済王善光」
削除して、偽の系図を作成とか? >>927
ヤマト(天孫)の万世一系は藤原氏の捏造である 猿がセンズリ覚えたらシヌまでやってるらしい。
ザラコクの南≠東も同じ。
猿のセンズリ。 >>922
>ワンパターンで新鮮味無し。<
史料事実は始めから現在まで変りがなく、ワンパターンで新鮮味が無くて当たり前。 >>924
>もうお経だな <
「史料事実や史料実態を否定曲解」のインチキをするのは、思想宗教的な・・・・だな。 >>931
>猿がセンズリ覚えたらシヌまでやってるらしい。 ザラコクの南≠東も同じ。
猿のセンズリ。<
「南→東」などの思想宗教的な・・・・大和説者は、嘘吐きダマシを覚えたら、
死ぬまでやっているらしい。
狂人のセンズリと同じらしい。 気づいている人は気づいてる
アニメ、たまごっつ
あの女の子の登場する話は、
天孫降臨とか、そういう系の話
天の下ナニヤラとか、天(宇宙)に上がり・・・降りて
そういう話じゃなかった? 偶然かもしれないけど、妹と同じ名前
宇宙へ上がり・・・戻って来た・・・そういう話だったような 家は伊達郡のほうに
住んでいたと言っているし
修道、山王、力夫氏?のほうの家だと思う 砂漠、砂丘のほうに出かけて行く話もあったような
まさか鳥取砂丘ではないだろうし 倭人伝
下層階級の者が貴人に道で出逢ったときは、後ずさりし草に入る。
言葉を伝えたり、物事を説明する時には、蹲り、跪いたりし、両手を地に付け、謹み敬いを表す。
日本巡察記(ヴァリニャーノ)
人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。
一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、
あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我等ヨーロッパ人よりも優れている。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>943
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>888
>>御所は、出雲系在地の銅鐸部族であり、
纏向付近の「鏡祭祀の倭国の別種の旧小国」の侵略銅鐸破壊部族とは全く違う部族であり、
だからおそらく(欠史八代の頃に)両者の和平のために婚姻があったんだろう、
という事になるだけ。<
>おぉ、ズラ酷使! 失礼、ザラコク氏。 はじめて意見が合ったw
奇跡だwww <
何喜んでんだい?。
欠史八代の頃の、奈良盆地内での、
出雲系銅鐸祭祀部族と侵略して来た神武らの鏡祭祀族との「婚姻での融和や勢力拡大」動きは、
もう35〜40年位前に、古田派内での議論で書かれていた事だよ。
「南→東」などの嘘吐きサギシである事がはっきりssnの提示情報など、
当然半分×情報であるから、
提示情報を全面的に信用する訳もないんだよ。 >>947
>出雲系銅鐸祭祀部族と侵略して来た神武らの鏡祭祀族との「婚姻での融和や勢力拡大」動きは、
もう35〜40年位前に、古田派内での議論で書かれていた事だよ。
へぇ、なのに卑弥呼が誰か分からなかったのは、よほどの馬鹿揃いなわけだw
さすがは「古代史界のパラリンピック」、
「古代史界のわかば学級」との異名をとる古田史学だけの事はあるwww >>948
卑弥呼は御所のニコイチに住んでいたのか? まだ続いているの?
そのアニメの話ではないけど、気づいている人もいると思う
遠い親戚か何かなのかな?
先祖などの家とか 『天の下』
天下一家ではないけど、天子と出てくるでしょ、天子神璽? ・モレ(仮)の妹は5月15日生まれ、偶然かのかな〜?
こういうものアニメ?放送から、
かなり経ってから、書いたんじゃなかった? □□力夫氏の写真、ラクダ、砂漠・・・。
名前の読み方など、家も同じだと言っているし 吉凶はコメの生産の良しあしを占うのが主流だと思うが、
農機具が畿内で殆ど見つかって無い。住居跡も無い。
卑弥呼はイタコみたいな存在?何を占っていたのだろう? たまごっつ
ポケモソというアニメの前後に、やっていなかった?
あのニンジャアニメとか 山王というのは何なんだろう、
むかーし伊達郡というところの、山の上のほうに住んでいたと言っていたけど 『サイバーパンク SPECIAL』
ほとんど同じ話、宇宙・・・雷・・・。
四神。
偶然なのか、何なのか知らないけど、
現在、ここに住んでいるというだけの話なのかな 書いてあるでしょ
・牛魔王 ラビリンス 迷宮の王 主
・西遊記
・四天王 四神
・その他 「寒い・・・寒いな〜・・・」
このような事を言っているキャラクター:ロト
ポケモソの主人公と同じようなキャラ(ロト)が出てくる作品 それにしても、
あの白い服を着て仕事をしていたのかな、暴力団でもなかったし
何なんだろう
裏に「・・・市」と書いてあったでしょ お前が荒らしなんじゃないのか?
と言っている人もいなかった? むかーし伊達郡というところの、
山の上のほうに住んでいたと言っている あの松の木(モミ?)、シダ類・・・オジギソウ?・・・
の写真もそう
かなり詳しくない? こいつだけは本当に何がしたいのかわからん。
こんなことに人生を費やして無駄だと思わないのか? 『白い服 暴力団』
ググると岡山県の話が出てきたりするでしょ?
『ザ・モモタロウ』サングラス
あの日本昔話みたいな話だよ ・実在していたのか?
・本当の話だったのかw
と言っている人がいたり
天子神璽?何の話なんだろう 『七支刀』
のような形をしていなかった、あの松の木(モミの木)? 天叢雲剣 wiki
>長さは2尺78寸(およそ85センチ)ほどで、
>刃先は菖蒲の葉に似ており、
>剣の中ほどは盛り上がっていて
>元から六寸(およそ18センチ)ほどは節立って魚の脊骨のようであり
『魚の背骨』に似ていない?
『菖蒲の葉』 魚の背骨を立ててみるとわかる
松の木、七支刀のような感じがするから >>948
>>出雲系銅鐸祭祀部族と侵略して来た神武らの鏡祭祀族との「婚姻での融和や勢力拡大」動きは、
もう35〜40年位前に、古田派内での議論で書かれていた事だよ。<
>へぇ、なのに卑弥呼が誰か分からなかったのは、よほどの馬鹿揃いなわけだw<
へぇ?、
卑弥呼は、刀良であり、甕依姫とも呼ばれ、「卑」氏系の紹号であった、
と書いて置いた事にも知らん振りするとは、
よほどの・・・・サギシのアホであった訳だな。
>さすがは「古代史界のパラリンピック」、
「古代史界のわかば学級」との異名をとる古田史学だけの事はあるwww<
さすがは「世界の古代史界の児」、「皇国史観戦争自民党のわかば学級」との異名をとる、
大和説狂徒だけの事はあるwww。 >>949
>卑弥呼は御所のニコイチに住んでいたのか?<
卑弥呼は、筑紫の大野に住んでいたの。 キュウリの葉・・・、
葱の華の写っている写真
当時、老婆は生れていないよ
他のスレにも書いたけど、
老婆は創価だけど、家は創価ではないよ こんにちは こんにちは キウスの国から
こんにちは こんにちは キウスの人へ
2020年の こんにちは
こんにちは こんにちは キウスをしよう 新スレ立てました
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1498340829/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >卑弥呼は、刀良であり、甕依姫とも呼ばれ、「卑」氏系の紹号であった、
ダサwwwwwwwww >>978
>さすがは「世界の古代史界の児」、「皇国史観戦争自民党のわかば学級」との異名をとる、
大和説狂徒だけの事はあるwww。
75歳ジジイ、ハゲ頭から湯気を出して必死の反論するも意味不明www 『国譲り』の話みたいなんだけど
本当の話なのかな、画像を検索してみて このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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