邪馬台国畿内説 Part248 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1499207045/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編を促した
弥生社会の終焉に向けて変質を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:方形のものの大きさを「径」で表現することはないので、「径百余歩」と形容された卑弥呼の冢は方型ではありえない
よって平原一号墓、祇園山古墳などが除外される
しかし「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)であるが、諸本とも治と冶の混用が多い
「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしい
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)が、これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果である可能性が認められる
倭人が上献した絳青縑(FAQ29参照)も重要である
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも遺跡が広がる可能性を指摘し、未確認部分を含めて天理市にまたがる考古学的想定による遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であるため、宮内庁を含めて地権者は膨大な数にのぼり、調査には種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ1に修文、◆FAQ48を追加 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないため、
日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」からの呼称だが、2ちゃんではハンネを使用していない
全レスバカとも
自分の操作ミスを投稿制限と思い込み2ちゃん運営陣を非難したり、
.netと.scの区別がつかず、.scに書き込んだ内容が.netに無いのは運営に消されたからだと主張するような、「超」のつく非常識人物
九州王朝説を唱えた古田武彦の熱狂的支持者で、古田支持者の分裂を招いた、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する狂信者
歴史学や考古学に対する知識は皆無で、「素人おじん」を自称しているが、
その「素人」が、古田説に否定的な専門家を平気でこき下ろすという、常人には理解不能な思考の持ち主
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつであるが、本人に自覚は全くない
リテラシーも皆無で、実際には自分の主張に否定的な内容のものであっても、自身に都合良く脳内変換していることがしばしばある
「全レスバカ」の異称とおり、とにかく自分の信奉する説に否定的な書き込みにはレスを返したがり、その結果、投稿数が異常に多い
レスをつけるということへの執着により、別テーマのスレにレスを書き込むというもしばしば
しかし、つけるレスは、全文引用したあげく「自分が支持しないからこの書き込みは間違いだ!」という意味の文言か罵詈雑言しかない無内容のもの
これでも本人は、「自分の主張には必ず理由を明示している」と主張しているのであるから、どだいまともな議論は望むべくもない
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる傲慢であり、典型的「六拾弐病」患者 >>53
>?原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想
自分で云うなボケ。
>>54
別人の振りをしてるがそのキウスというのもお前の事だろ、>>1w
赤の他人を装ってもバレバレw 「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ
☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント
☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった
銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む 単行本 ? 2004/11
臼田 篤伸 (著)
銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による
銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による
争乱の古代史を描く。 247の>>889
客観性や信頼性の高い同時代史書の魏志倭人伝を偽書だと言い、
「倭国の存在や歴史」を隠蔽抹殺する古事記は、真書だぁ!、 日本書紀は真書だぁ!
モノホンはツガルのみ!!!などと、
意味不明な事を叫ぶ大和説者は、アレですね。 247の>>898
喜八郎さんの従妹の和田キヨエは、
喜八郎家の傍に住まわせて貰って世話になっている事が逆に屈辱で、
喜八郎家が有名になっても、自分は結婚も出来ずにいる事を逆恨みして、
偽書説派や右翼マスコミにそそのかされて、
金を出して貰って、喜八郎さんが偽作した、という宣伝文書を印刷して配布して回る、という、
常識では考えられない異常な村八分行為に加担したのであり、
喜八郎家が自宅を手放して不動産屋のものになっていた家を、
金もなかった筈のキヨエが、おそらく偽書説派や右翼マスコミのお金で買い取って、
不動産屋の管理下で何もなかった筈の部屋に、何か液体が入った一升瓶を沢山おいておいて、
それをマスコミに通報し公開した形にして、
偽書説派や右翼マスコミのために働いた。
勿論、最も悪いのは、偽書説派や右翼マスコミなんでしょうが、
一升瓶事件は、偽書説派側の筆跡鑑定は和田家文書批判だけでは、
古田さんらの反論に対して勝てなかった、から、
彼らは更なる謀略をせざるを得なかったんだ、という事なんでしょうね。 247の>>901
小札革綴冑は中国製だ、という事が嘘ダマシであるんですよね。
冑は、当然戦争の実践道具であり、
中国側が夷蛮の倭国の教えたり贈与するようなものではなく、当然、
「自昔祖禰躬kwan甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
で、倭国が、
半島戦で「躬kwan甲冑」が使われてのを見て、それを真似て造り、
だから、列島でも「東征毛人五十五國」の実行部隊の長が、
その地位の誉として、副葬などに遺存したものなんでしょうね。 247の>>903
大和説者らや偽書説派は、議論にどうしても勝てず、
負けた事が世間の人々に知られそうで、
必死になっているようですね。
何やら、どこかの政府の隠蔽工作の策謀とそっくりですね。 247の>>910
>なんもテンプレに反論できてないわけだし<
テンプレが、「南≠東」への反論が全く出来ないままの・・・・アホであった事は、
もう世間の人々に衆知になっているし、
最近、テンプレらしき人物の投稿者が現れたから、
それに対して、一応論理的に反論しておいたが、
それに対する再反論もなかったままであったし・・・。
>>63
「南≠東」への反論って
ナニ言ってんだかサッパリわかんない
>>63
ザラコクの論理的な反論ってこの世に存在するのか?
見たことない >>61
国産だと言ってるわけ?
理由になってないんだけど >>63
どうせ
「南≠東」だから畿内説は✖
とか言っただけだろ
wwww 理論的に破綻してる九州説って朝鮮人の工作なのはよくわかった。 >>69
>理論的に破綻してる九州説って朝鮮人の工作なのはよくわかった。
どっちもどっち どっちも負けるな、もっと頑張れ @阿波 九州説てのは理論以前の破綻だと思うな
だって理由を言わないんだもの 247の>>913
>反日の願望<
「人種差別的殺戮戦争」願望の、
「大和天皇家が天地開闢以来列島を支配する事を約束されていた」
という皇国史観にクルったキョクウの・・・・大和説者らの願望。 247の>>917
>>祇園山の墳裾の62個の複数埋葬は、墳頂の箱式石棺とほぼ同時期埋葬であった、と確認されている。<
>されていない<
発掘報告者の「50年以上に渡っての追葬や陪葬であろう」という説明が、
実際の発掘事実の説明記載に拠って、有り得ないと、否定されている事が、
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
に論証されている。 247の>>917
>で?九州説の邪馬台国はどこなんだ? 径100歩の墓は? 魏に貰った100枚の鏡は?
宮殿は? 丹山は? 骨占は? 九州北部全域にさらに5万戸の投馬国までの広大な領域を支配下に入れてたって言う証拠は?
どこにあるんだ? 畿内なんて話にならないくらいの説得力に満ちた場所があるんだろ?
早く言えよ<
「人種差別的殺戮戦争」願望の、
「大和天皇家が天地開闢以来列島を支配する事を約束されていた」
という皇国史観にクルったキョクウの大和説者や偽書説派や反古田派のような・・・・は、
このように、幾ら説明を書いて上げても、知らん振りして説明がなかった事にして、
何時までも同じ要求の投稿を貼り付ける・・・・なんですよね。
世間の皆様、・・・・は怖いですから、関わらないようにしましょうね。 247の>>927
>狗奴国との紛争で既に斜陽化してる魏の役人に援助を依頼するような
弱体九州土人ごときにできる仕事ではない。 九州王国ワロス <
この投稿子も、「南→東」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の附庸国」である、
という事などを隠し、
「人種差別的殺戮戦争」願望の、
「大和天皇家が天地開闢以来列島を支配する事を約束されていた」
という皇国史観にクルったキョクウの・・・・大和説者であったようですね。
怖い怖い。 >>73
論証になってない
須恵器が三世紀からあったとかいう非常識なトンデモ珍説だもの
素人の書いたトンデモで公式調査報告書を否定するのは無理 247の>>928
>九州説のバカをオモチャにするのは面白いなぁw<
「人種差別的殺戮戦争」願望の、
「大和天皇家が天地開闢以来列島を支配する事を約束されていた」
という皇国史観にクルったキョクウの・・・・大和説者は、
何時人殺し事件を引き起こすかも知れず、
怖いなあ。 ザラコク
849 : 日本@名無史さん2017/07/07(金) 14:01:57.42
最近どころか10年位前から吉外だよ。
textream掲示板もこいつがいなくなってスカッとした。
だいたい畿内説者というだけで人殺し、狂人、ケダモノ、狐憑きなんて悪言三昧。
こいつがいなくなって寂しいなんて意見は皆無w ここは畿内説スレ。
ルールを守れ。
書き込むなら九州説スレに。 247の>>934
>纒向は、卑弥呼がいた大集落・・・<
この投稿子も、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシだな。 247の>>937
>>その共存よりも古い三雲の庄内が、西日本では一番古い事になる。<
>ならない 那珂遺跡の庄内式土器は最古段階ではないし 三雲の庄内は筑紫産
若干しか出ないような土器は搬入品<
久宝寺と那珂八幡で、伽耶の陶質土器と庄内との共存があり、
河内の方が、纏向よりも大きくて断絶気味であったんだから、、
纏向が「庄内発祥の地」である、という証拠が皆無であり
だから庄内は、三雲が最古になる。 官僚問答は止めて頂きたいですね。
正直に答えるべき。
◆FAQ 47
魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している。2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
×もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
◎纏向はもちろん、畿内にも該当する遺跡はありませんでした。すみませんでした。男王は倭國王帥升として、三雲南小路と思います。 >>83
九州で見つかった庄内式土器の中で一番古いってだけで
どうして日本最古になるんだ
頭がおかしいとしか思えない >>83
>久宝寺と那珂八幡で、伽耶の陶質土器と庄内との共存があり、
そもそもこれがデマというか真っ赤なウソなわけで × 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、
女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない
◎ 魏志側では「其国」の継続を主張しているので、男王を三雲南小路に比定した以上、
卑弥呼共立もその延長上に求めるが、魏志との合致的な読み筋であり、
共立が「新生倭国の国家形成はこれと無縁」との主張は、魏志との突合に失敗した、単なる強弁に過ぎない >>88
理由もなしに合理的とか自画自賛されても
失笑が湧くだけ >>89
簡単に言うと、畿内の大和王権は、伊都国が前身ということですよ。 >>88
魏志側では「其国」の継続を主張している
っていう理由は何なんだ? >>84
結局テンプレには反論はできないってことでよろしいの? 247の>>939
>皆がそう言ってるから陳寿もそういう意味で書いてるはずだと?? <
違うね。
陳寿の記載把握に関する最も直接的根拠になるのは、
80万字位もの陳寿の記載例がある「三国志での記載方法」なのであり、
他人が書いたものは参考程度にしかならず、
後代学者の「三国志での記載方法」に拠らない解釈など、何の価値もない、
という事だ。
そして、「三国志での記載方法」が最も大事である、
という事を言われたのは、古田さんが最初だ。 >>97
私の書き込みの何をどう読んだらそうなるんですかね。 >>88
魏志が「其国」の継続を主張しているので、男王を三雲南小路に比定した以上、
卑弥呼共立もその延長上に求めるが、魏志との合致的な読み筋だという主張は
根拠が示せていないので、単なる強弁に過ぎない >>98
はいはい
ここは信仰告白する場所じゃないよ >>99
普通に読んだらそうなるでしょ?
自分の独自説を言い張っただけじゃ反論にならない 247の>>944
>倭人伝の後の時代になると、畿内地区で北部九州を介さない外交ルートが開かれたのだろうね
神獣鏡の分布から、長江流域との関連性が高そうだがどうだろう? <
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であり、
倭國の地方の市を監督する大倭職の国であり、
俀國の附庸国であり、
白村江で戦ったのも倭國や倭衆や倭賊であったのであり、
大和は、白村江の後で、ようやく倭國を併合吸収継承して、
列島盟主として朝廷を名乗った、
という史料実態の大枠は、否定する事が出来ない。 >>103
そもそも史料実態って何だよ?
怪しげだな 邪馬台国論争史二百年・・・
>>88みたいな文献の読み方をした学者が一人でもいたかどうか考えてみれば
どのくらいトンデモかわかるというものだ 伊都国と後のヤマト王権をつなげるのは私の独自説じゃないですね。
寺澤「平原一号墓で重大な首長霊降霊の儀式(皇室秘儀)が誕生した。」
柳田「内向花文鏡は、共立の記念品として共有された」
畿内厨「平原一号墓は、その衰退を見越して、スクラップでマンホールを大量に作り、ヤケクソで大量埋葬した(笑)」 247の>>947
>「小型箱式石棺」レベルの「棺」であったのであり、
それを「竪穴式石室」と記録した発掘担当者は、「石室」の概念を間違えている、という事になる。<
>なるかいアホ。 小型も何も体の大きさに合わせるのだが。 小型ならそれは子供。
おまえはもう古代史から身を引け。<
なるかいアホ。
墳裾に殉葬するのに、
何もわからず価値もない子供を殉葬して貰ったって、
墳頂の主には、何の価値もなく嫌がるだけだ、
というのが、人類の常識だよ。
おまえは、・・・・だから、もう古代史から身を引け。 >>106
魏志が「其国」の継続を主張しているので、男王を三雲南小路に比定した以上、
卑弥呼共立もその延長上に求めるが、魏志との合致的な読み筋だという主張は
独自説だろ 魏志が「其国」の継続を主張しているのは、それこそ普通の読みと思いますけど。
其の国が女王を共立をした経緯を述べている一文ですよ。
下は wikiのコピペ
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70 - 80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。
そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。 247の>>947
>よくもまぁ祇園山程度を卑弥呼の墓などと言えたものだ。少しは調べてから言え。<
他に「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に当てはまる墓を見つけて来てから言え。
>「石室」は単に種類で分別されるだけで、石室の「概念」なんてないから。<
「室」と名付ける限りは、それは居住可能な空間を示すのであり、
座る事も、身動きも出来ないような「棺」では、
「室」とは言えないのだ、
という事が、人類の常識だ。 >>108
寺澤、柳田の両先生が泣いてますよ。
NHKで番組一つ作ったぐらいの主題なのに。 >>111
自分は普通だと言い張るだけが根拠ですかそうですかw >>111
そんなのが普通の読みだというなら
二世紀から国が続いていないから畿内には邪馬台国なんかない
って説が昔から無きゃおかしいでしょ?
でもそんな説はない
だから岡上読みがトンデモ 247の>>949
>「九州王朝」などと、知ったかを喚き散らした某人物のせいで、古代史研究は大混乱を招いた。
それに比べ、「筑紫倭国」という呼称は、まことに適切である。
不毛続きだった邪馬台国論争に、新しく、スピード感を伴った展開をもたらすであろう。<
40年以上前の古田さんの第2書の頃は、
「大和朝廷」論の「大和」との対比のためと、
倭國が倭奴國や邪馬壹國や俀國などの呼称変更があって一言では言えなかったから、
説明の単純化のために「九州王朝」という文言を使われたが、
晩年には「倭國王朝」の方がよい、とされ、
後継の古賀さんらも、「倭國王朝」を使っておられる。 >>118
晩年って最近じゃん
それまで長い間「九州王朝」などと、知ったかを喚き散らして古代史研究に大混乱を招いたことに変わりない >>112
そう考えるのはお前が他の石室を知らないから >>103
>大和は、白村江の後で、ようやく倭國を併合吸収継承して、
列島盟主として朝廷を名乗った、
「古田説」を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない「ザラコク」のジレンマ。 @阿波 >>118
茶道も剣道もウリナラ起源ニダ
という某国スタイルに酷似 247の>>950
これも、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓を見つけられないアホ投稿であるから、
放置ね。 >>116
少しは自分で調べればどうですか?
番組では、柳田先生の生き生きとした平原の紹介に対して、
寺澤先生の少し困惑した顔が印象的でしたね。
吉備については、番組では見事にスルーでしたからね。 >>92 :岡上 ◆JN/67qb8kM
>簡単に言うと、畿内の大和王権は、伊都国が前身ということですよ。
畿内の沼地が好きで、そこを目指して遥々やって来る、ムツゴロウのような説でございますね。 @阿波 >>125
アホ
それって柳田寺澤共通の説みたいに臭わせてた>>113が詐欺って自白だろ 「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
纏向は湿地帯で王都に不適。
対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
弥生の大洪水で稲作壊滅状態。 番組内で平原王墓に首長降霊の儀式の原初をみるのは、寺澤説のモロ反映なんですけど。
寺澤が「平原一号墓は、その衰退を見越して、スクラップでマンホールを大量に作り、ヤケクソで大量埋葬した(笑)」
みたな説ではなく、平原を特別視していることは明らかでしょ。
私は各々の主張を並列関係で並べただけ。それ詐欺呼ばわりは単なる誹謗中傷ですね。 寺澤、柳田のNHKの番組ってヒストリアのか
あれは伊都国マリファナ王みたいな内容だったな
番組スタッフに好きな奴いるんだろうな 勾玉は出雲の象徴、鏡は倭国の象徴、剣はヤマトの象徴(いいな畿内厨 >>132
何もかも自分に引き寄せて歪めちゃうのは中身がなくて我の強い素人の悪癖だよ
原初をみたって「伊都国が前身」と書いう話じゃないしな >>132
「寺澤、柳田の両先生が泣いてますよ。
NHKで番組一つ作ったぐらいの主題なのに。」
って詐欺では?
まるで二人が揃って伊都国と後のヤマト王権をつなげたみたいに誘導してる アッキーは日本を取り戻すというのは大麻を取り戻すということであり
大麻は国産じゃなきゃだめと言っているそうな
ヒストリアはアッキーに忖度したのか >>136
伊都国が前身というは、柳田先生の説ですね。
私はもろ手を挙げて賛成です。
寺澤先生の説は、それと適合的なところがあるというところでしょう。
だからこそ、あの形の番組なった。
ま、寺澤説は畿内厨の平原マンホール説とは似てもつかないのは確かです。 何度でも言おう。
2世紀前半から3世紀後半にかけての王族、
つまり卑弥呼やトヨを生んだ王族は、
ちゃんと記紀に記録されてるし、
神々となり、
今も民間信仰の中に息づいている。
信仰されてこなかったような古墳に卑弥呼は眠ってない。
箸墓、勝山、平原、祇園山などは無理。
この王族は天皇家との関りで言えば前王朝になる。
倒したのは10代崇神だ。
卑弥呼とはえべっさん「事代主」の娘さん。
お墓のあるのは高天原(御所市高天)
日本最古の神社が今もお守りしている。
今日も見ていただきましょう、これが卑弥呼およびその王族(神々)の墓です。
https://goo.gl/DA7WRZ 内向花文鏡は北部九州倭国の象徴であり三角縁神獣鏡はヤマト(孫呉)の
象徴である(いいな畿内厨 >>140
最後の雑木林のオチに座布団一枚進呈致します >>142
レッドクリフは良かったな
ヤマト魂の原点である、小僑は大和撫子の原点である 纏向と言う下界に卑弥呼は住まない。
王族が住んだのは高天原(金剛山)中腹の水源地。
御所市名柄では銅鐸と鏡が両方出た。
ここも水源地だ。
鏡・銅鐸発見地にある長柄神社は別名「姫の宮」。
出来過ぎだが本当の話だ。
https://goo.gl/hTeRof 247の>>983
>陸行1ヶ月でヤマトに至る。
これが魏志倭人伝当時の邪馬台国へ至るルートである。<
「南→北」という嘘つきダマシになるし、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓を提示できないんだから、
×ね。 岡上にヤタノカガミのヘブライ文字について聞かないから
岡上は遠慮なく自説を述べるといい >>134 : subo
勾玉は阿波が発祥、鏡も阿波で倣製、剣も阿波で鍛冶(いいな畿内厨・九州厨 >>153
>日ユ同祖論の発祥は阿波(いいな泡厨
興味なし。ご自由に @阿波 前期古墳は山の上にある。
それは大和でも同じこと。
山の上にあるのだ。
大和では高天原(金剛山)なのだ。
平地でいくら大きな古墳を造ろうが、
天然の山・高天原(金剛山)の威容にはかなわない。
箸墓古墳は卑弥呼の墓ではない。
あきらめろ。 >>157
飛騨の高天原の威容にはかなわない
あきらめろ。 >>71
>九州説てのは理論以前の破綻だと思うな だって理由を言わないんだもの<
大和説てのは、「南→東」の嘘つきダマシをしているんだから、
理論以前の「始めから破綻だ」と思うな。
だって理由を言わないんだもの。 >>160
ウソつきザラコク
畿内説が理由を言わなかったことなんて
あるかね? >>77
>論証になってない 須恵器が三世紀からあったとかいう非常識なトンデモ珍説だもの<
「須恵器」なんて言う筈がないね。
内倉さんらの報告では、
筑紫の遺跡から「弥生土器や土師器と共存していた」のは、
「陶器状のものだった」という事だったから、
瓦式土器や陶質土器もあったんだろうから。
>素人の書いたトンデモで公式調査報告書を否定するのは無理 <
「南→東」の嘘つきダマシの大和説の立場での報告なんて、
発掘事実の説明には、ある程度価値があるんだろうが、
その解釈や内容説明には、全く信用性がない。
それが人類の常識。 >>163
「筈がない」とか
見もしないで自分の思い込みだけを言い張るザラコクは
トンデモ75歳
>>163
素人の「報告」とやらで学者の書いた公式の報告書が否定できると思うのが妄想じいさんだね >>163
発掘関係者であるわけもない素人の自称「古代史研究家」が言った「発掘事実の説明」には、なんも価値ないだろうが、
ましてやその解釈や内容説明には、全く信用性がないよな 倭人伝では北部九州は外交要所であるのは明らかであり、考古学的にも合致する
その北部九州での弥生時代の繁栄を無視していない分、寺澤さんも柳田さんも畿内説の中ではまだいいよ
他の畿内説では倭人伝後の主張だけで、肝心の邪馬台国前夜の納得の行く説明が無い >>166
横レスだが、発掘においての事実(調査報告による出土事実)と、「だから〜と思われる」とする検証結果は別物と思うよ >>167
北部九州での弥生時代の繁栄を無視してる人なんて畿内説にひとりもいない
弥生末期に衰退したと言ってるだけ 何の話なのかわからないけど、まだ言っているの?
なぜ、そんなに自信があるんだよ
と思うかもしれないけど
実際にそうなんだから、そうなんだよ
同じような名前の家や人?何人もいると思うけど、
昔どこそこに住んでいた、どこそこへ行き、現在、どこそこに住んでいる
という一軒しか家は無いと思う
それと、かつて結婚した家(嫁)とか >>168
敗北者九州説は考古学を否定しようと必死 北部九州倭国は古墳時代前期に一時的に衰退したのである(いいな畿内厨 三輪そうめんを食べる習慣を広め、伝統文化の理解と地域活性化の促進を−。
こんな目的を持った「そうめん条例」が7日、産地の奈良県桜井市で施行された。 宮崎日日新聞、佐賀新聞が桜井市のそうめん条例を記事にするとは
実に興味深い 香野という家でしょ、
埼玉名字辞典によると将門の話が出てきたり
例えると
家は「□□力夫氏」と、
同じ家(読み方)なんだけど、力夫という名前の親戚はいない
何の話なんだろう 同じくらいの年代の人の名前、
もう少し上かもしれない
たしか、白のすけ?とか、
そういう名前 >>159
何の「謂れ」もない場所を出さないように。
高天原には古事記に登場するような神が祀られてるはず。
それがないのは高天原ではない。 >>179
高天原の発祥は飛騨である
古事記は出雲史観であり出雲は飛騨の分家なのであーる(いいな鴨厨
ちなみに出雲は飛騨の分家の証として勾玉を飛騨王朝から貰ったのである 数年前の、とあるスレを読んだとき
カ□□??と言っている人がいたり >>183
そうめんは佐賀から宮崎そして桜井へと伝わった
そうめんの東征である(たぶん 鴨厨は両面宿禰様知らんのか?
神武天皇に位を授けたのは飛騨王朝の両面宿禰様なのであーる(いいな鴨厨 >>186
>両面宿禰様知らんのか?
知らん。
教えないでくれよ、脳細胞の無駄使いになるから。
それより仁徳の時代に熊本の八代に上陸したカッパ集団の方が面白い。
404年、大和軍が帯方郡に攻めて行って連れて帰ってきた契丹人ではないのか。
契丹人の風俗が河童そっくりなのだが。
http://a0.att.hudong.com/46/50/01300542516110139814507657266_s.jpg 実際、そんな家はありませんよ
という説まであったり
いるんだから、
あるんだろうけど かなーり前の話になるけど、
結婚した家に香野という家があったり、
住んでいたところも伊達郡周辺(現在の福島県)
確か戸籍を貼り付けたはず
どうなっているんだろう >>188
なんだ八代のオレオレデライタ(呉人呉人的来多)の伝承知ってるのか
河童は呉の子供のことであり頭のてっぺんを剃り、手に水かきみたいなの
つけていたそうな(泳ぎが大変上手だった 素麺は日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされており
奈良時代に唐から伝来した唐菓子の1つ、索餅(和名で「麦縄」
とも書く事もある)に由来するとする説が広まっている 天武天皇は素麺食べただろう、しかし唐を毛嫌いする藤原氏はどうやろ 謎の伊達郡川俣町という掲示板にも
書いてあるでしょ
昔の皇族、むかーし皇族が何やら >>188
伽耶の領土だった名残りだと韓国人古代史研究家が言ってたな それにしても、あの掲示板だよ、何の話をしているんだろう
相馬 霊山・・・愛知県?
相馬に恨みでもあるのか
とか >>80
>ここは畿内説スレ。<
ここは、公共性のある掲示板。
人種差別的殺戮戦争を鼓舞扇動し、
「南→東」などの嘘つきダマシの皇国史観を宣伝する場ではない。
>ルールを守れ。<
日本国憲法を守れ。 >>85
>九州で見つかった庄内式土器の中で一番古いってだけで どうして日本最古になるんだ
頭がおかしいとしか思えない<
那珂八幡へ搬入された西日本からの庄内よりも、三雲の庄内の方が古い事になるから。 >>88
>× 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、
女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない
◎ 魏志側では「其国」の継続を主張しているので、男王を三雲南小路に比定した以上、
卑弥呼共立もその延長上に求めるが、魏志との合致的な読み筋であり、
共立が「新生倭国の国家形成はこれと無縁」との主張は、魏志との突合に失敗した、単なる強弁に過ぎない<
賛成です。
そもそも、纏向は、九州北岸の不彌國から「南」ではなく「東」であり、
だから始めから権利は殆ど0%であり、
「妨げない=可能性が極僅かはある」というような、
「99%以上の確率があるものを否定する屁理屈」は、
始めから学問的ではなく、・・・・。 >>93
>魏志側では「其国」の継続を主張している っていう理由は何なんだ?<
其国自体が「不彌國の南」に都があり、
「本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王」の場所も「不彌國の南」であって、
「東」を否定しているから。 >>77
>>>73
>論証になってない
>須恵器が三世紀からあったとかいう非常識なトンデモ珍説だもの
>素人の書いたトンデモで公式調査報告書を否定するのは無理
畿内説の言うことは、何が言いたいのかわからん。 >>169
>弥生末期に衰退したと言ってるだけ
根拠がない。 >>96
>九州王朝説に東遷説か ゴミばかりだな<
大和説に、東遷説に、阿波説に。淡路説に。生駒金剛山地説に。東海?説か。
「南→東」の嘘つきダマシの「確率の殆ど0%」のゴミ説ばかりだな。 >>201
那珂八幡へ搬入された西日本からの庄内よりも、三雲の庄内の方が古いと
どうして三雲の庄内が日本最古になるんだ?
頭がおかしいとしか思えない >>100
>魏志が「其国」の継続を主張しているので、男王を三雲南小路に比定した以上、
卑弥呼共立もその延長上に求めるが、魏志との合致的な読み筋だという主張は
根拠が示せていないので、単なる強弁に過ぎない<
陳寿自身が、
其国が「不彌國の南」に都があり、
「本亦以男子爲王、住七八十年、倭國亂、相攻伐歴年。乃共立一女子爲王」の場所も、
「不彌國の南」が99%以上の確率であって、
「南以外の方向である」事は、陳寿が記載していないんだから、ほぼ0%になるから。 >>101
>はいはい ここは信仰告白する場所じゃないよ<
はいはい 、
ここは、「99%以上の確率のあるものを否定して、殆ど0%のものを強弁主張する」ような、
嘘つきダマシの信仰を告白する場所じゃないよ 。 数年前の信onスレ参照
ツーチャンネルではないほうの掲示板
なぜ成り済ましが狙われるんだ?
と言っている人もいなかった >>104
>そもそも史料実態って何だよ? 怪しげだな<
実際に見聞した記録を含めての、
同時代的な客観性と信頼性の非常に高い歴代中国史書群の、
証言記録内容の実態の事だ。 他のスレの話になるけど
浜四津?と言っている人がいたり
川崎区の話? 赤松啓介が研究したザラコクのような人種が住む加古川流域地方の非常民の原郷には
公共のルールやマナーというものはなかったんだろう
ザラコクはどこかのスラムから流れて来て住みついたんだろうが 伊都や奴国が畿内の出先機関で卑弥呼を共立して纏向で新生倭国ってどんな歴史観だ
倭国の歴史を無視しすぎだろ
紀元前から史書に朝貢の記録があり1世紀には冊封されて
2世紀土下座外交の倭国王帥升が登場、この後倭国大乱を経て卑弥呼の共立となるわけだが
どの段階で畿内の勢力が九州を支配下に置いたのか?
倭国は九州で卑弥呼と邪馬台国だけ纏向とでもいうのかな?
2世紀なかば位には九州を制圧してなければ卑弥呼の王都を纏向に持っていくのは不自然だと思うが
当時の畿内の木鏃と石器じゃ無理だと思う 「ふざけた事してんじゃねーぞ!」と言っている人がいたでしょ
「東日本大震災おめでとう」とか 出土した金印は委奴国となってるから
支配層は倭人ではなくて委奴だったんだろう
委奴国王の名も伊都国王の名も倭国に関して書かれた史書には記載されていない
考古学的には畿内より出雲の影響のほうが先だろうな 『義』の無い人は
何やらと書いている人もいたような
家の父親の名前「勝□」という名前
偶然なのかな >>105
>邪馬台国論争史二百年・・・
>>88みたいな文献の読み方をした学者が一人でもいたかどうか考えてみれば
どのくらいトンデモかわかるというものだ<
皇国史観という思想宗教に犯されて「結論先にありき」であった日本国内の学者らの、
「倭國の存在や歴史を隠蔽しようとした記紀」信仰での解釈や説明などの方が、
どれだけトンデモであったのか?、という事が、わかるというものだ。
どのくらいトンデモかわかるというものだ >>119
>晩年って最近じゃん それまで長い間「九州王朝」などと、知ったかを喚き散らして古代史研究に大混乱を招いたことに変わりない<
「列島の盟主王朝が、白村江の後まで、九州にあった倭國であった」
という画期的な事をはっきり言われたのは、古田さんが最初だよ。 キュウリの葉、葱の華・・・その他
家の先祖の写真も、
あまり見たことがないと言っていたり
家に来てみればわかる、実物を持っているから、
それと、あの戸籍も
持ってきておいたのかな
家の、お爺さん・・・その上の、お爺さんは頭が良かったのかな 謎の埼玉の名字辞典
香野という人物、
浄土真宗が何やらと書いてある? かなーり前に亡くなっているけど、
家の父親(弟。次男。)には兄がいて
その、お兄さんの嫁も「家は、ス□□だよ」
と言っているみたいだし、何なんだろう >>215
>倭国の歴史を無視しすぎだろ
>紀元前から史書に朝貢の記録があり1世紀には冊封されて
>2世紀土下座外交の倭国王帥升が登場、この後倭国大乱を経て卑弥呼の共立となるわけだが
>どの段階で畿内の勢力が九州を支配下に置いたのか?
>当時の畿内の木鏃と石器じゃ無理だと思う
同意する。
畿内説は、倭国をわかっていない。 >>214
中傷しかできなくなった負け犬の畿内説w >>182
>>>179
>高天原の発祥は飛騨である
>
>古事記は出雲史観であり出雲は飛騨の分家なのであーる(いいな鴨厨
>ちなみに出雲は飛騨の分家の証として勾玉を飛騨王朝から貰ったのである
畿内説同士、仲良くしろよ。 宮崎康平の小説がヒットしたからだよな
反日思想家の古田が邪馬台国で商売始めたのは どのスレの話なのか、わからないけど、
このようなものがあったり
『勝義七十論』
それと香野というのも、
その建設業の家ではないと思う >>120
>そう考えるのはお前が他の石室を知らないから <
素人オジンは、石舞台や播磨の古墳の石室や、写真で見た九州の装飾古墳の石室しか知らんよ。
それらからすれば、
祇園山で発掘報告で「石室」とされたものは、成人身長程度の大きさしかない事になるから、
石棺や石槨というレベルのものだ。 考古学用語は素人反日爺がどう思うかとは関係ないからな >>229
孫呉畿内説である
鴨厨は飛騨王朝に興味を持ったことであろう 何かの宗教?の人だったのかな
老婆が言うには
肉は食べなかった、
ニンジンとかイモ類ばかり食べていた >>141
>卑弥呼とはえべっさん「事代主」の娘さん。 お墓のあるのは高天原(御所市高天)<
「南→東」などの嘘つきダマシへの弁解や、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」の墓を見つけてから、
おいで。 >>161
>ウソつきザラコク 畿内説が理由を言わなかったことなんて あるかね?<
それで、大和説者は「魏志から大和を特定した」と言うんなら、
何を根拠に特定出来るのか?を言った事があるのかい?。 >>164
>「筈がない」とか 見もしないで自分の思い込みだけを言い張るザラコクは
トンデモ75歳<
「筈がない」とは、実際の見聞での事実関係や実態を根拠にしての、「人類の常識からの帰納的推論」。 >>165
>素人の「報告」とやらで学者の書いた公式の報告書が否定できると思うのが妄想じいさんだね <
学問的には、
自然や歴史においての事実関係の、観察や実験や計測などの報告には一定の証拠能力があるが、
始めから「南→東」のような嘘つきダマシの学会に属する学者の報告書では、
「ついうっかりの事実記載」以外は、始めから確率が低過ぎて、
信頼性が全くないんだよ。 >>166
>発掘関係者であるわけもない素人の自称「古代史研究家」が言った「発掘事実の説明」には、なんも価値ないだろうが、
ましてやその解釈や内容説明には、全く信用性がないよな <
いくら「発掘関係者だ」と豪語しても、
「南→東」などの嘘つきダマシの学会に属していては、
いくら「発掘事実の説明だ」などと言っても、
ついうっかり的な「不利になる事実関係」説明以外には、
全く信頼性も価値もないし、
ましてやその解釈や内容説明には、全く信用性がないよな 。 桜井市 名産
奈良県各地の木材の集散地であるため、製材業が盛んである。
そのため“木の町”と有名で、木材製品の展示会や木材の工作室を子供たちや市民に対して開かれるなど、木材の振興も盛んである。
蜜柑の生産地としても有名で、山間部では蜜柑の生産農家が多い。また副業として手延べ素麺を製造している兼業農家も多く、
その手延べ素麺は日本三大手延べ素麺“三輪素麺”として全国に知られ愛好者も多い。 >>167
>倭人伝では北部九州は外交要所であるのは明らかであり、考古学的にも合致する
その北部九州での弥生時代の繁栄を無視していない分、寺澤さんも柳田さんも畿内説の中ではまだいいよ
他の畿内説では倭人伝後の主張だけで、肝心の邪馬台国前夜の納得の行く説明が無い<
いくら寺澤や柳田を褒めたって駄目だよ。
「南→東」の嘘つきダマシや、
「大和は筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であった、
という事に関する釈明が出来ていなければ、
人間としての信頼性が、全くないんだよ。 人の家の話じゃないのか?
と言っている人がいたり
何なんだろう >>169
>北部九州での弥生時代の繁栄を無視してる人なんて畿内説にひとりもいない
弥生末期に衰退したと言ってるだけ <
衰退していない。
筑紫倭國は、
「倭國と大和日本国が別の国である」事を知っている唐に、
「白村江でも唐の対戦相手であった」と記録されているし、
倭奴國からずっと「世與中國通」であった事を記録されているのだから、
ずっと列島盟主であったのであり、
衰退していない。 >>171
>敗北者九州説は考古学を否定しようと必死 <
敗北者大和説は、文献学も考古学も、否定しようと必死。 >>173
>北部九州倭国は古墳時代前期に一時的に衰退したのである(いいな畿内厨<
衰退していない。
筑紫倭國は、
「倭國と大和日本国が別の国である」事を知っている唐に、
「白村江でも唐の対戦相手であった」と記録されているし、
倭奴國からずっと「世與中國通」であった事を記録されているのだから、
ずっと列島盟主であったから。 数年前の△の陰謀スレ
「肉を食べ過ぎた」と言っている人がいたり。
でっど・えんど?「真の紛いもの」と言っている曲があったり。 >>179
>何の「謂れ」もない場所を出さないように。 高天原には古事記に登場するような神が祀られてるはず。
それがないのは高天原ではない。<
何の「謂れ」もない場所を出さないように。
高天原には伊弉諾や伊弉冉がいたし、天照らを生んだんだから、
伊弉諾や伊弉冉や天照らの存在し得る地域や、伝承や、祀られている神社などがある場所が、
最も可能性が高い。
それがないのは高天原ではない。
研究者の判断や結論をど素人が気に入らない、商売にならないというだけの話 >>250
「実際は神道ではなく、仏教の話だよ」と言っている人がいたよ。
日本風に、わかりやすく言うと、仏教
数年前のユダヤ陰謀スレ参照 島民の伝承なんか真に受けられんよw
いつから住んでるのかもわからんのに もしかして
本当の皇族?は肉(とくに牛肉)を食べてはいけないとか
そういう話だったのかな >>207
>那珂八幡へ搬入された西日本からの庄内よりも、三雲の庄内の方が古いと
どうして三雲の庄内が日本最古になるんだ? 頭がおかしいとしか思えない <
三雲以外の西日本全域からの庄内よりも、
三雲の庄内の方が古い事になるから。
こんな事も判らないような人間は、・・・・なんだろう、としか思えない。 考古知識もないのに西日本全域からの庄内なんか知らんだろ >>255
一体全体どうして
那珂八幡へ搬入された西日本からの庄内よりも、三雲の庄内の方が古いと
三雲以外の西日本全域からの庄内よりも、
三雲の庄内の方が古い事に
なんてなるんだ?
支離滅裂だ
頭がおかしいとしか思えない >>230
>宮崎康平の小説がヒットしたからだよな 反日思想家の古田が邪馬台国で商売始めたのは <
古田さんは、反日ではなく、
どちらかと言えば、親日的平和主義的であり、
天皇家には信頼感を持っておられたよ。 >>251
>研究者の判断や結論をど素人が気に入らない、商売にならないというだけの話<
「南→東」などの嘘つきダマシをする学会に所属する研究者は、
それだけで、既に信頼性が全くなく、黙過し難い。 キュウリの葉、葱の華・・・・
あれは家の先祖の写真なんだけど
老婆が言うには
肉は食べなかったよ
と言っていた
何かの家だったのかな 例えると、□□力夫
上の名前?同じ読みだよ
と言っていたり 古田や喜八郎のような人種はコンプレックスが強いんだよな
だからそこに住んだ人々の歴史を無視して、偽書まで作って権力の中枢と絡めようとする >>257
>一体全体どうして
那珂八幡へ搬入された西日本からの庄内よりも、三雲の庄内の方が古いと
三雲以外の西日本全域からの庄内よりも、三雲の庄内の方が古い
事に なんてなるんだ? 支離滅裂だ 頭がおかしいとしか思えない<
この投稿子の知能レベルが0である、としか思えない。 知識がないから理解できてないんだろ
他人のレスは全文引用するけど、論文はリンク貼るだけか このスレに出てくる古代史家 偏りが激しいね 一流じゃないんだろう。 >>263
>古田や喜八郎のような人種はコンプレックスが強いんだよな
だからそこに住んだ人々の歴史を無視して、偽書まで作って権力の中枢と絡めようとする <
大和説学者や安本らのような人種は、
実際には本当は、人種的コンプレックスが強く、精神的に弱い病人なんだよな。
だから、自分を高貴な天皇家の仲間であろうとし、
日本が世界に冠たるの高貴な国であろうとし、
そのために、近隣諸国民への「人種差別殺戮戦争狂」になったり、
「皇国史観に共鳴する投稿」をしたり、
だから、そこに住んだ人々の歴史を無視して、偽書まで作って権力の中枢と絡めようとする、
んだろうなあ。 「ふざけた事してんじゃねーぞ!」
説明しなくても大体わかるはず、
他の国へ行けと言っているんだよ 肉(牛肉??)を食べたいというのも同じ、
食べたいのなら他の国へ行け
実際、食べてはいけないんだから、
ここは日本でしょ? 「どうした聖人でも殺したのか?」
「親戚でも殺されたのか」
と言っている人がいたでしょ
紛いモノには、何を言っても、わからない? 妹:5月15日でしょ
兄と弟
偶然ではないと言っているんだよ 【庄内式土器】
1,「庄内式土器研究会」の全国的(釜山〜関東)調査によれば、庄内式土器の中心出土地は纒向ではなく、中河内(八尾市・大阪市・東大阪市・柏原市)であり、その規模は纒向を「都市」とすれば、中河内は「大都会」である。
2.中河内の遺跡群には各地(特に多いのは吉備・播磨・四国地方などの西からの搬入)からもたらされた土器がかなりの頻度で出土している。大和の遺跡が東海や近江・北陸といった東の地域からの土器搬入が目立つのとは対照的。
3.河内の庄内式土器は西日本各地への移動が確認されているが、大和の庄内式土器はほとんど移動していない。
4.今まで日本各地から出土する大和の庄内式土器とされていたものは、ほとんど播磨の庄内式土器であって、大和の庄内式土器が移動している例は数えるほどしかない。
5.播磨で作られた庄内甕と畿内の遺跡の庄内甕は瓜二つで、近年の胎土の研究の進展により区別できるようになった。
6.大和盆地で庄内甕が出土するのは東南部だけである。すると庄内式が大和から全国に広がっていったとする従来の考え方を改めなければならなくなった。
7.胎土の研究を進めていくと、庄内式土器の次の段階の布留式土器が大和で発生し、初期大和政権の発展とともに全国に広がったとする現在の定説も否定しなければならない。
8.なぜかというと、胎土観察の結果、布留甕の原型になるものは畿内のものではなく、北陸地方(加賀南部)で作られたものがほとんどであることがわかった。
9.しかも北陸の土器の移動は畿内だけでなく関東から九州に至る広い範囲で行われており、その結果として全国各地で布留式と類似する土器が出現する。
10.したがって、日本各地に散見する布留式土器は畿内の布留式が拡散したのではなく、初期大和政権の拡張と布留式土器の広がりとは無縁であることが胎土観察の結果、はっきりしてきた。 >>251
研究者の判断を丸々信じるのは危険
あの事件も…そうして起こってしまった
第3者の検証は必要
反論があればそれを鑑みるべき 天津罪 国津罪
というのがあるけど
老婆は詳しくない?なぜなんだろう 畿内説の信者は、畿内説ありきでものを考えるから真実が見えないばりか、真実を曲げてしまう。 読み方があるでしょ、実際違うし、老婆は正解だよ
謎のチェーンソーのゲーム
「渡来人どもめ〜」 >>265
理由が説明できないと相手を罵りだすという
議論に負けた人特有というか典型的な反応で
ワラタ >>278
検証する第3者は素人ではだめだな
あの事件も、もともと素人が掘ってきたものを真に受けてしまったからだろ >>276
【庄内式土器】とは、型式を指す。「庄内産土器」ではない。
【庄内式土器】の原型は阿波産土器の「東阿波型土器」
この事実を厳粛に受け止めなければいけない。 @阿波 当時の伊達郡?
そっちに住んでいた頃、泥棒のようなものに入られた
と言っていたり
刀なんかも無くなっていたとか >>284
素人の意見も無視してはいけないなぁ
素人が反論てきるという事は論破できるほどの確証がない、という事だろ? 『熊沢天皇』
というのがいたみたいなんだけどw
その熊沢天皇の話に似ているような 素人が趣味の会で意見を出し合って喜ぶのはいいよ
そこで冊子かなんか売って商売しても 熊沢天皇 wiki
>浄土宗西山派の布教僧となったが
浄土真宗?少し違うのかな >>289
編年なんて素人云々の前に学者によって違うし、どれが正しいかまだわからんが?
最近の土器編年の研究は久住さんが凄いと思うがね 例えば久住は西新町の重藤の編年は疑問が多く採用しないとしているな 出家バイン?
この人物の話みたいなんだけど、親戚なのかな
『出家 菅野』
川崎区の大島のほうにある、寺院に通っていたとか >>294
素人の誰の事を言ってるのは知らんが、編年においては学者個人個人で既に違い、正解は無いのだから、素人が事実関係を検証して、理にかなってれば問題なかろう
違うと主張するなら反論すればいいだけでは? >>298
理にかなってる素人編年は誰の事を言ってるのかな? 「本人だぞ」
「本物です」
このような謎の書き込みを見たことない? >>298
>>251や>>289
に聞いてくれ
誰の事かわからないし、内容がわからん
その内容が理にかなってなければ反論すればいいだけだろ? >>298
正解がない?
素人のフリーダムなの?
お笑いすぎ >>300
そのうち「理由は言えないが理にかなっている」とか言いだす奴が出てくる
に200レンテンキウス >>302
じゃあ質問しちゃおう
「三世紀から須恵駅がありました」って理にかなってると思う?
Yes/Noで回答よろ
主な企業[桜井市]
大和信用金庫
渋谷工業
名阪食品
三輪そうめん山本
旭製粉
中尾組
森井食品
中和コンストラクション
スターバンク
奈良県中和営繕 >>309
それは仕方ない
信じたら九州説と東遷説が即死だからな 九州の考古学者の編年を信じないなら出土遺物、遺構すべて
年代不明になるだけだけどな 出家バインして、
浄土真宗の家の人(娘、嫁)と結婚したのかな?
それとも、一時的に、そこの信者のようになったのかな なんで日本の僧?は結婚しているんだよ。
結婚して良いのか。
という謎のスレッドが建てられていた 本当の話だったのかな
>他の仏教宗派に対する浄土真宗の最大の違いは、
>僧侶に肉食妻帯が許される、
>戒律がない点である(明治まで、表立って妻帯の許される仏教宗派は真宗のみであった) 悪く言うわけではないけど、
かなーり前にも書いた
『コジキ 馬 飼った』
老婆が言っていた、よく言っていた
「コジキ 馬 かった、
コジキ 馬 かった、なんて言うんだよ」
何の話なんだろう 桜井市
日本最古の神社といわれる三輪の大神神社、初瀬の0長谷寺、
多武峰の談山神社、等弥神社などの由緒ある社寺も数多く見られる。
宗教的にも歴史が深く古代信仰の形体を知る上でも重要な地区である。 >>270
>「人種差別殺戮戦争狂」って日本人学者がか?<
勿論日本人学者の全てではない。
しかし、Yahooや2chに投稿していた高学歴の大和説者や偽書説派や反古田派の皇国史観学者らは、
殆ど全員が、近隣諸国民への人種差別的殺戮戦争狂であったな。 >>271
>「ふざけた事してんじゃねーぞ!」 説明しなくても大体わかるはず、
他の国へ行けと言っているんだよ<
この投稿子も、説明しなくても「人種差別的殺戮戦争」狂である事がすぐに判る。 >>272
>肉(牛肉??)を食べたいというのも同じ、 食べたいのなら他の国へ行け
実際、食べてはいけないんだから、 ここは日本でしょ?<
この投稿子も、やや支離滅裂気味だが、「人種差別的殺戮戦争」狂仲間である事は、すぐに判る。 倭人伝は古代九州旅行記。
記紀神話が否定されてしまう。
機内説にするしかなくね?
なんだそれwww >>273
>皇国史観なら九州説か他説だろ <
九州説なら、最低「卑弥呼は大和の天皇」の否定だから、全面的な皇国史観にはならない。 >>281
>読み方があるでしょ、実際違うし、老婆は正解だよ 謎のチェーンソーのゲーム
「渡来人どもめ〜」<
この意味不明な事をいう独舌投稿子も、実際には、
「近隣諸国民への人種差別的殺戮戦争」の仲間であったらしいな。 こいつ
デタラメに中傷レッテルを貼りまくってる
だけの奴だな 不正な随意契約訴え - 桜井市事業で住民監査請求
2011年12月20日 奈良新聞
桜井市のし尿処理施設の長寿命化事業をめぐって、住民グループ「甦(よみがえ)れ桜井協議会」(堤野芳次代表)が
19日、随意契約の不透明さなどを訴えて住民監査請求を行った。
市などによると、老朽化した同施設の改修工事を環境省の交付金事業で行うため、昨年7月、申請に必要な長寿命化計画などを
策定する業務を約800万円の随意契約でコンサルタント会社に委託。 ●●●プロ野球のドラフトは、持ち点制に△よる競り落とし方式とすべし●●△●
http://jbbs.livedoor.jp/study/3729/storage/1069408696.html#39
この掲示板(万有サロン)に優秀な書△△き込みをして、総額148万円の賞金をゲットしよう!(*^^)v
http://jbbs.livedoor△.jp/study/3729/ →リンクが不良なら、検索窓に入れる! >>318
古田武彦って演歌歌手だよね?
古代史の話をしようぜ。 ・博多湾沿岸に古代王権の遺跡がある
・記紀でも筑紫を古代倭国の地としている
・中国の史書でも対馬海峡から博多湾沿岸を倭国としている
・卑弥呼は倭国の女王である >>324
本当の話なんだけど?
頭の病院に行ったほうが良いんじゃないのか 別にオニ退治の話をしているわけではないけど
『伊達の桃太郎』
こういう話もそうだよ 上のほうにも書いたけど
出家したのは、かなり後の話でしょ、
平安時代の頃?なんていう時代? 筑紫が墳墓の威容で他地域を圧倒したことは歴史上一度もない。
何で筑紫が邪馬台国候補なのかがさっぱりわからない。 伊達郡川俣町という掲示板参照
奈良時代か平安時代・・・?
ここへ来て機織り?
このような話をしているでしょ ●北部九州が墳墓の威容で他地域を圧倒したことは歴史上一度もない。
何で北部九州が邪馬台国候補なのかがさっぱりわからない。 誰の話なのかは、しらないけど
本物(本系?)は、出家バインしているんだよ
道場の話もあったはず、北斗の拳みたいな話 >>335
墳墓の威容が何で邪馬台国と関係あるのかさっぱりわからない 伊達郡と言う掲示板
むかーしの皇族・・・???
このような話もしているでしょ >>335
邪馬台国が墳墓の大きさで周辺諸国を圧倒したなんて、魏志には書いてない。 >>337
>何で北部九州が邪馬台国候補なのかがさっぱりわからない。
魏志には九州北部のことしか書いてない。
特に、郡使が実際に見聞したと思われる、里程が書かれているのは福岡県内だけ。 家も「ス」のほうだと言っている
観ていなかったのかな
謎の、たまごっち!というアニメ、
偶然?妹と同じ名前の女の子が登場して、
砂漠(砂丘)のようなところへ行ったり
図書館で調べものをしていたり >>342
>魏志には九州北部のことしか書いてない。
丹山が無い時点で、アウトなんですよ。 @阿波 検索すると出てきたでしょ?偶然なのかな
『鳥取県鳥取市国府町菅野』 カ□□?という読み方
家の話、個人的な話をすると
・老婆が、カ□□と言っているだけだよ
・家は ス□□だよ
親戚のおばさんなんかも、そう言っていたよ なんで魏志倭人伝に出てこない畿内が邪馬台国だと思えるのか、さっぱりわからない。 >>347
詳しいことはわからないけど
謎の震災前後?何かしたんじゃないだろうな
と言っている人がいたり 箸墓がありなら那珂八幡もありなんだよな。
それなら福岡県でもいいことになる。 卑弥呼は邪馬台国の女王でもあったが、
共立後は、筑紫倭国の女王の地位に着いた。こちらのほうがはるかに重要な出来事である。
どう見てもそこいらのちんまりした女酋長ではない。
其の地理・歴史・神秘さからして、
倭国女王の都は、阿蘇高千穂の馬台(馬田井・馬名井)の神殿であったとみるべきであろう。 >>353
>那珂八幡もありなんだよな
纏向石塚より小さいのに? 「阿蘇高千穂の馬台(馬田井・馬名井)」は
馬が導入されて以降の地名だと、
土地勘のない俺でも分るがな。
まぁ阿蘇だしな。 >>355
纒向より古いってこと?
ますますオッケー 本当の高千穂は伊都国の東にある筑紫の日向の高祖山のことで、クシフル山もちゃんとある。
伊都国は邇邇芸の降臨以来の日向三代の都だよ。
高千穂宮は高祖宮のこと。
証拠は、伊都の平原遺跡から出土した日向王家の神宝である八咫の鏡。 高千穂は宮崎だろ。
何でも盗むんだな北九州は。
このゲスさはほんと半チョンだわ。 >>357
>「阿蘇高千穂の馬台(馬田井・馬名井)」は
馬台は、
云うまでもなく中国人の陳寿の記述だ。
「(馬田井・馬名井)」のほうは、オレの当て字で、現地名としては三田井、眞名井だ。 阿蘇には邪馬台国に比定できる遺跡なんてないだろう。
しかも勝手に字を当ててどうする。 まぁいくら言っても、卑弥呼は記紀にイの一番に登場してますからね。
300年論争は終了してるわけです。
卑弥呼が住んだのは大和盆地の葛城。
一族のお墓は高天原(御所市高天)。
今も日本最古の神社がお守りしてます。
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
これが卑弥呼やその一族(神々)のお墓ですよ。・
https://goo.gl/DA7WRZ >>364
お前のスレ、他の畿内説から偽スレ認定されていたぞ。 >>363
高千穂の候補は南九州に2つあるようだが、
盗人がまた北九州にしようとしている。
何でも盗む。
やはり半チョン。 九州全域で高千穂という地名は10以上あるらしいぞ。 >>366
そりゃそうだ。
天動説者は地動説を言った人間に反発しただろう。
それと同じ。
だから何なんだ? >>368
強い伝承がある場所でないとダメ。
神武は幼名サノヒコ。
諸県に神武の痕跡があったはず。
高原町だったかな、詳しく知らん。
やはりニニギから神武までは宮崎。
筑紫は出てくるな。
ゴキブリかおまえらは。
半チョンは氏になさい。 >>372
>やはりニニギから神武までは宮崎。
根拠ないね。 >>372
>筑紫は出てくるな。
>ゴキブリかおまえらは。
宮崎なんて新幹線もないくせに。
リニアも山梨に取られてかわいそうに。
シーガイアは潰れたんだっけ? >>373
いやおまえら半チョンこそ根拠がない。
諸県の君といえば仁徳の時代にまで妃を輩出している。
西都原最大のオサホ塚、メサホ塚は日向髪長媛かその父親の牛諸井であろう。
おまえら半チョンは頭が高い。 >>378
じゃあやはり邪馬台国とは関係ないな。
瀬戸の海賊は妄想だよ。 九州でも宮崎や熊本なら防衛上でも奥津城になり王都があった可能性もある。
一番その可能性のないのが福岡。
防人の地。
そんな危なっかしい場所に都は置きません、アホですか。
玄関で飯食ったり寝たりしないでしょ?
それと同じ。 >>358
なんでそういう変な結論が突然出てくるのか君の思考回路を理解に苦しむ
脳が変なのだろうか >>369
自分をガリレイに例える人間の約70%は誇大妄想で医者と面談が必要 >>386
俺が自分で例えてるのはコペルニクスだ。
纏向は瀬戸内の要素が強いのだから物部の郷であろうと言ったのも俺。 >>384
知能が低>>358を憐れめってことか
了解した いい事とトンデモを半々に言うところは、故古田氏にそっくりではないか。
物部はいいよ。
でもイスケヨリは卑弥呼ではない。 卑弥呼は記紀に登場しない、誰だろう、どこに住んでいたのだろう?が議論の発端だね?
これを天動説としよう。
ヒミコもトヨもいきなり登場してるわけだが。
https://goo.gl/7KChL4
3代ヌナソコナカツヒメの欄を見てみ。
鴨王の娘になっている。
つまり神武でなくて別に「王」がいたのだ。
この鴨王とはクシヒガタ。
神武の義理兄。
妹を擁立した実質上の男王だ。 >>389
>イスケヨリは卑弥呼ではない。
それは反論なのか、君の信念なのか、呪文なのか、何なのだ。 というか本居宣長は知ってたからね。
知ってた上であえて卑弥呼は神功皇后で朝貢してたのは熊襲の国なんて言った。
彼が帥升=スサノオに気づかないわけがない。
気付いたら、当然隠す。 >>390
>ヒミコもトヨもいきなり登場してるわけだが。
それは君の信念なのか、呪文なのか、何なのだ。 結局こういう>>393のようなクズが古代史ファンに多いから分らなかったんだ。
普通に反論してくればいいのにそうする知力もない。
「卑弥呼は独身だったはずだ?」はだめだよ、面倒臭い。
生涯独身でも寡婦でもどちらもありと考えれば良い。 熊襲の女酋説
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。
本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である[33]。
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、
神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、
勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
大和朝廷が朝貢してたとは認めたくなかった。
しかし卑弥呼は大和朝廷の人物であって欲しい。
このジレンマがこんな説を生んだのだ。
これは大和朝廷が朝貢してたのを知ってたという事、
また神功皇后ではないことも知ってた。
本当のことを知らしめてはいかんという親心だ。 本居たちが帥升=スサノオに気づいてたかどうか。
気付いてたら、日本の国史が中華皇帝への土下座から始まるという事になるので当然隠す。
隠した結果が偽僣説だ。
彼らは現代の公務員学者より数段上だ。 第二次世界大戦でヤマトニッポンは敗北し倭国ニホンの時代になった 帥升=スサノオなら卑弥呼はたった一人に絞られます。
そうすると、神武東征というのは、
実際には女王国であったことをごまかすための大袈裟な記述だったという事が分かります。
そして卑弥呼の住んだ地域もお墓の場所も特定できます。
やはり纏向のような低地ではなく高地(高天原)にありました。
https://goo.gl/nq8fJu >>401
帥升=スサノオならアマテラスは誰なんだ? >>402
創作。
実際の原像は高天原にいたシタテルヒメ(高姫)
アマテラスをスサノオの姉に設定することで、スサノオは弟になり、
誰でも魏志の男弟をイメージすることになる。
あえて卑弥呼とアマテラスを同一人物と錯覚してもらうように創ったのだ。
見事に引っかかったのが安本や井沢。 >>403
スサノオはアマテラスと喧嘩して出雲に行ったというのは嘘なのか? アマテラスの別名オオヒルメ
こういうのをわざわざ入れてるというのは、
「ぜひ卑弥呼とアマテラスを同一人物と間違えてください、よろしくお願いします」
と言ってるようなもの。 >>404
洛陽に行って朝貢失敗、恥ずかしくて帰れないから出雲に留まったのだろう。 >>407
ヤマトニッポンオタは熊襲の女酋説なのである
馬面の竹田なんやらとかな 宗像の沖ノ島は北部九州倭国または出雲の遺産である
ヤマト(孫呉)ニッポンの遺産ではない
マスゴミはニッポンの遺産とか、実にけしからん、裏でニッポン会議
が糸を引いてるのだろう >>403
>あえて卑弥呼とアマテラスを同一人物と錯覚してもらうように創ったのだ。
ならば、アマテラスの実像がいたわけだが、それは誰なんだ???
歴史史料上、そんな人物はいないだろう。
けっきょくの処、卑弥呼をアマテラスと言い換えただけさ。 >>411
卑弥呼、卑弥弓呼はアマテラスの末裔だろう 新羅は出雲が作った、国引き神話である
出雲と新羅は一心同体なのである >>413
大和朝廷の役人が、
卑弥呼をアマテラスと言い換えて創作物語を作ることはできる。
しかし中国人たる陳寿が、
紀元はるか昔?の神祖たるアマテラスになぞらえて、卑弥呼を設定する必要もないし、
また、手前勝手にその手本となるべき日本神話のアマテラスを創作することもできない。
まず、先に卑弥呼ありきなのだ。
お分かりかな・・・、 >>415
藤原氏は敵対勢力である北部九州倭国の歴史を抹殺したかったが魏志倭人伝
の存在を抹殺することは出来ないので卑弥呼は神功皇后であるかのごとく
記述した >>411
>アマテラスの実像がいたわけだが、それは誰なんだ???
だから高天原(葛城)にいたシタテルヒメ(高姫)だって。
『古事記』および『日本書紀』本文によれば、葦原中国平定のために高天原から遣わされたアメノワカヒコと結婚した。
天若日子が高天原からの返し矢に当たって死んだとき、
シタテルヒメの泣く声が天(『古事記』では高天原)まで届き、
その声を聞いたアメノワカヒコの父の天津国玉神は葦原中国に降りてアメノワカヒコの喪屋を建て殯を行った。
それにアヂスキタカヒコネが訪れたが、その姿がアメノワカヒコにそっくりであったため、
天津国玉神らはアメノワカヒコが生き返ったと喜んだ。
アヂスキタカヒコネは穢わしい死人と間違えるなと怒り、
喪屋を蹴り飛ばして去って行った。
シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ。
この歌は「夷振(ひなぶり)」と呼ばれる(
●シタテルヒメは、アヂスキタカヒコネの名を明かす歌を詠んだ
喪屋を蹴り飛ばしたアヂスキタカヒコネガスサノオではないか。
本当の名があるということはアヂスキタカヒコネというのは仮の名前だろう。 畿内説にかかると、誰でも卑弥呼やアマテラスにできそうだな。 >>2724
>肉(牛肉??)を食べたいというのも同じ、 食べたいのなら他の国へ行け
実際、食べてはいけないんだから、 ここは日本でしょ?<
なにこれ?。
この投稿子も、「人種差別的な殺戮戦争狂」人種なのかい?。 >>277
>以前から書いているはず 騙り、成り済ましなのか?<
「人種差別的な殺戮戦争狂の大和説者」は、騙り、成り済ましなのか?。 見たいものしか見えない
見たいと思ってるものだけが見える
お病気ですが >>278
>研究者の判断を丸々信じるのは危険<
賛成。
>あの事件も…そうして起こってしまった 第3者の検証は必要<
「人種差別的殺戮戦争の皇国史観」という「結論先にありき」の、
・・・・の検証は不必要。
>反論があればそれを鑑みるべき<
観察実験計測などの事実に基付く反論は構わんが、
観察実験計測などの事実に基付かない分裂幻覚妄想に拠る反論は、
放置すべき。 >>281
>謎のチェーンソーのゲーム 「渡来人どもめ〜」<
この投稿子も、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」人種である可能性が、
十分あるようだね?。 成り済ましは成り済まし、
そうなっているものは、どうにもならない
それが嫌なら、適当に決めれば良いんじゃないの
あなたがヒミコでアマテラス、
きみがスサノオ、おまえが神武? >>282
>理由が説明できないと相手を罵りだすという
議論に負けた人特有というか典型的な反応で ワラタ<
「南→東」の嘘つきダマシの、「人種差別的殺戮戦争の皇国史観」人種は、
理由が説明できないと相手を罵りだすという「議論に負けた人特有というか典型的な反応で、
ワロタ。 適当に決めたものなんて、
人権侵害だと言われるだけだよ
というか確実に、人権侵害、人権蹂躙
書いてあるでしょ >>424
都合の悪い最新の研究成果を抹殺したくて必死な九州説ジイさんたち
醜いナー >>427
ひたすら相手を罵るという・・・
これも議論に負けた人特有というか典型的な反応で 藁 >>284
>検証する第3者は素人ではだめだな
あの事件も、もともと素人が掘ってきたものを真に受けてしまったからだろ<
検証する第3者は、「南→東」の「人種差別的殺戮戦争の皇国史観の大和説者」ではだめだな。
あの事件も、もともと、十分に確認もせずに、
反古田狂人種が持って来た(章子さんの)筆跡を、
喜八郎さんの筆跡だ、としてしまって、偽鑑別者が真に受けてしまったからだろ?。 例えるなら、織田信長でも良い
私(偽物)が、ノブナガである、末裔であると
メディアを悪用し、広める
侵害じゃないの? 悪用して、何らかの利益を得たりしていた場合、確実でしょ? >>431
筆跡鑑定とかやったのは東遷説の安本だが?
畿内説には何も関係がない ヒミコでも、神でも同じ
思わせぶり?受信者や受け手が思い込んでいるだけ
私は一言も言っていないとか? >>288
>素人の意見も無視してはいけないなぁ<
賛成。
不可知部分が殆どである自然は歴史においては、
個々の人は誰もが「100%全ての事」を知る事が出来ないのであり、
それぞれの個人も、(他人の知らない)その人の独自情報を持っているものであり、
特に素人は、人類の常識、という貴重な知見を持っているもの。
>素人が反論てきるという事は論破できるほどの確証がない、という事だろ?<
絶対的な確証なんてもない。
全て、高低のある確率を持っている事になる。 >>431
筆跡鑑定っていうのは筆跡Aと筆跡Bを同じ人が書いたか別の人が書いたかって鑑定するんだよ
その片方がどこの誰の筆跡かは関係ないし
そんなこと確認する必要もない
むしろ知らない方が客観的な鑑定になる
そして出た結論は
古文書とやらにあったのがコクヨの原稿用紙にも書くことができる現代人の筆跡だって結論 >>436
宗像方面が大陸との窓口(末羅國)だったから、世界遺産に登録されたね。
対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。 @阿波 >>289
>素人がどうやって編年するんだよ <
各自が、自分の知り得た範囲内で、編年をすればよい >>437
絶対的な確証なんてもない
と断定する
絶対的な確証なんてもない >>440
知り得た範囲ゼロなザラコクはどうしたらいいの? 宗像の沖ノ島は出雲であり新羅なのである
つまり反ヤマト、反百済ということですね(出雲ニホンの遺産である >>444
>宗像の沖ノ島は出雲であり新羅なのである
興味なし。勝手にどうぞ。
対馬海流に流されて、末羅國(呼子・唐津)は有り得ない。 @阿波 >>291
>素人が趣味の会で意見を出し合って喜ぶのはいいよ そこで冊子かなんか売って商売しても<
「南→東」などの史料事実の否定抹殺の嘘つきダマシの学会が、
意見を出し合って、世間の人々を騙そう、とするのは、悪いよ。
そこで冊子かなんかを売って商売するのも。・・・。 他のスレの話になるけど、
書いている人がいたでしょ
凄い財、富を産むので、
自分のモノ(我田引水)にしたい輩(実際は何の関係も無い人々)がいる
利権のようなものが絡んでいるとか >>452
その通り、ヤマトニッポンはドルイドと手を組んだのである
戦争の犠牲者は崇高な宗教の儀式なのである、稲田のともちんが言っていた >>293
>編年なんて素人云々の前に学者によって違うし、どれが正しいかまだわからんが?<
自然や歴史には、不可知部分が殆どであるから、
素人も学者も全ての事を知る事が出来ずに、それぞれが、
「それぞれの知り得た範囲内での帰納的確率的な」推論をしている事になるからだよ。、
>最近の土器編年の研究は久住さんが凄いと思うがね <
久住の「考古史料実態分析の事実説明」だけなら信頼性もあるが、
それに対する「解釈や説明」に関しては、
久住も、「南→東」の嘘つきダマシの大和説の、
「結論先にありき」での解釈や説明になってしまう可能性が非常に高いから、
その部分は、信頼性が全くないんだよ。 >>294
>久住は研究者だからな、素人ではないから<
久住も、自然や歴史の不可知部分に対しては、素人と同じ。 現代のようにメディアが発展した世界では、
侵害ばかりだと思う
作品の元ネタ、金のもと
そのようにしたい人達で、
勝手にやれば良いんじゃないの
このスレだったかな、
オラ知らねえ〜と言っている人がいなかった?
なぜか東北のほうの方言? >>296
>素人で反論できてる人いない<
素人オジンの私は、一部肯定も、一部否定もしたよ。 ど素人反日爺が肯定しようが否定しようが
日本の学術研究には関係ない おらぁ知らねえ
よくわからないけど、このような発音? >>296
>例えば久住は西新町の重藤の編年は疑問が多く採用しないとしているな<
同じ「南→東」などの嘘つきダマシの仲間同士の「採否」なんて、
関心もないし、どうぞご自由にたってくれればよく、
価値も殆どないから、賛成もしないよ。 ワンピース 粉雪?
あの動画に登場する謎の人物がいたでしょ、
東北の人なのかな、あのような発音
懐にピストル(銃)のようなものを隠していた
キャラ >>303
>正解がない? 素人のフリーダムなの? お笑いすぎ<
「正解」なんて存在しないの。
全て、確率の高低を競うの。
そして、信頼性の高い史料を根拠にした推論は確率が高いし、
信頼性の高い「南」を、「東」の間違いだ、としたような論は、確率が非常に低いの。 >>304
>そのうち「理由は言えないが理にかなっている」とか言いだす奴が出てくる<
そのうち「南→東」の嘘つきダマシなどを、
「理由は言えないが理にかなっている」とか言いだす奴が出てくる。 かなり前の予言スレ
・わたーしーは、やってないー
・おらぁ、しらね〜
同じような曲が、あるとか無いとか言ってたり、
日本人の曲ではないとか 編年は別に競い合ってるわけではない
反日爺は何か根本的に勘違いしている 高天原を御所市高天の高鴨神社
葦原中国を中鴨こと葛木坐御歳神社
根の国を下鴨こと鴨都波神社
と考えたら面白いよ。
古事記の世界は葛城と言うほんと小さな地域での話だったのかも。
遠くに出雲(桜井)まであるしね。 考古学者の出す編年を基に考える。
これが鉄則。
ただし考古学者の言う解釈をそのまま金科玉条のごとく受け入れるのは危険。
彼らが気付いてないことも多々あるから。 >>306
>じゃあ質問しちゃおう 「三世紀から須恵駅がありました」って理にかなってると思う?<
0ではないかも知れないが、確率は殆どない。
>Yes/Noで回答よろ<
「南→東」の嘘つきダマシの、「人種差別的殺戮戦争」狂の皇国史観の大和説者の特徴は、
このように、
不可知部分に関しての「Yes/Noで回答」を要求し、
不可知部分に関しては「Yes」か「No」か?の断定扁桃は不可能である事で、
議論に勝ったかのように宣伝する・・・・であった訳で。 学説を金科玉条のごとく受け入れてはいけないから素人でもいいということにはならない
>>296のように他の研究者の追調査によってなされる >>311
>それは仕方ない 信じたら九州説と東遷説が即死だからな<
「南→東などの嘘つきダマシの「大和説の詐欺学者」らの編年を信じたら、
そりゃ、脳がおかしくなるからな。 それと『ふなっしー オズボーン』だよ、
このキャラの話みたいなんだけど >>312
>九州の考古学者の編年を信じないなら出土遺物、遺構すべて 年代不明になるだけだけどな<
考古学者の「発掘事実や実態」を報告してくれればよいのであり、
「編年」という「解釈」や発掘者の「説明」というものは、
「後代学者の記載」の半分×書である事と同じように、
半分×であり、
参考程度位以下にしかならないんだよ。 >>1
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレですが、倭人伝は九州に
もう確定なのでロマンはありません、更なる真実は勘弁してくださいwww
理由は言えないが理にかなっているから。
でも、九州説でも邪馬台国が持続可能な王権だった、ってのは違うぞ。
250年なら、徴税制度が有ったとして一大率ってのが、大和朝廷の国司?だった可能性もある。
魏使の紀行は明らかに畿内に入れないで返してるだろ?
記紀との矛盾が大きすぎるけど、だから九州は筑紫の君を冊封した
百済同等の外国だったと思うんだよ。
中国百済交易の下寵品の、七支刀、五経博士、仏教って、すぐ献上させてるだろw
銅鐸祭祀の無い、九州もこれ方式で傀儡国だったかも? と思うよ。
敗戦によって、記紀はこれを圧倒的に否定した。
半島に前方後円墳が有って神社が無いのは、
神社の祭祀形式が仏教伝来〜600年以降の氏族に始まるからじゃね?
ホント、記紀は500年以前の歴史に使えないよね。
比定しない方がマシ。 >>470
そうかもしれない。
ただ3世紀まで続いてた山陰の四隅突出墳墓の王族とどういう関係なのかが分らない。 考古の話オンリーの糞野郎は考古板にいけ。
何で日本史板にスレをたてるのか。 『遅れてやって来た倭種』
というのがあるでしょ、□□力夫氏なんかとは、系統が違うのかな?
力夫氏は縄文? 古代史で考古嫌いなら文献中心のスレ立てればいいんじゃないかな >>485
考古スレ行ったら話ができない状態だよwww
行ってみ。 ここ、話が出来てる訳で・・・
向こうは相手にしない、ってのが上策だけどね。
黙らそうと思ったらもうダメだね。
あそこには2ちゃんイラネって奴がいるんだよwww >>485
どんとこい❗スレでokと思うが
倭人伝検証には考古学での実証は欠かせないから、ここは総合の方がいい >>472
正解だ
鉄道が引かれたのは明治以降だからな >>487
倭人伝の検証で魏氏が九州出てるって可能性有るの?
証拠見つける考古学以前の文献的史実ってのも有る。
なら、畿内説は世界中掘り返して何見つけるの?
俺は物事は常識で考えた方が良いと思ってる。
古代の韓に任那や漢四郡の存在や、
前方後円墳の日本主導は無くせないよ。
なんで、話合わせる必要あんの? 証拠見つける以前に畿内はありえないと考える人は
このスレじゃないほうがいいんじゃないかな >>490
そりゃ確実に出てるだろう
二ヶ月も九州の中のどこをほっつき歩くんだ >>329
>古田武彦って演歌歌手だよね?<
「南→東」の嘘つきダマシの大和説者の殆どは、
どこかの政府と同じく、近隣諸国への人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観の・・・・だよね。 >>332
本当の話なんだけど?。
「南→東」の史料事実を否定する嘘吐きダマシの大和説者や、
「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観人種は、
頭の病院や刑務所に行ったほうが良いんじゃないのか?。 >>335
大和が、墳墓の威容で他地域に威張り散らしたことは、4世紀以前には歴史上一度もない。
何で大和が邪馬台国候補なのかがさっぱりわからない。 >>377
これにもお返しの貼り付け。
大和が、墳墓の威容で他地域に威張り散らしたことは、4世紀以前には歴史上一度もない。
何で大和が、邪馬台国候補なのかがさっぱりわからない。 >>501
お返しの貼り付け
とかする人は
心を病んでます
そんなの異常者のすることですから >>344
>丹山が無い時点で、アウトなんですよ。@阿波<
阿波は、
「南→東」の嘘つきダマシをした時点と、
「九州に丹山がない」というウソを付いた時点で、
アウトなんですよ。 >>498
>大和が、墳墓の威容で他地域に威張り散らしたことは、4世紀以前には歴史上一度もない。
はぁ?箸墓は?
那珂八幡は纏向石塚より小さいという情けない事実をかみしめろ。
そしておまえは梅雨明けまでに氏ね。
わかったな、これは命令だ。 >>500
帯方郡から一万里で末蘆国は一日航海千里の規定により10日
末蘆国からの二千里の一月は2倍暦により実質は半月
末蘆国まで水行10日さらに長崎まわりで宮崎の投馬国まで10日
合計20日なのである(いいな畿内厨 >>351
大和説者は、「南→東」の「結論先にありき」の循環論法で、
思考停止か?。 >>509
「南→東」がなんで「結論先にありき」の循環論法なの?
????? まあ九州説って皇国史観のためのはつめだし
バンザ〜 >>355
>>那珂八幡もありなんだよな<
>纏向石塚より小さいのに?<
石塚も庄内だから、せいぜい那珂八幡と同時期位にしかならず、
だから三雲の真似をした事になり、
それ以前に、大和は、
「筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であり、
「倭國の地方の市を監督する大倭職」という(倭國の)家来の身分でしかなく、
だから、倭国の東征のおこぼれ頂戴と、半島流民の力で、
那珂八幡よりも少し大きくしたんだよ。 >>514
いままで歴史学者や考古学者が嫌がるような歴史の真実を暴露してきたから
よーく内容を噛み締めるといい >>356
>そこ、畿内の影響下だから w <
大和は、
「筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であり、
「倭國の地方の市を監督する大倭職」という(倭國の)家来の身分でしかなく、
だから、倭国の東征のおこぼれ頂戴が出来、
だから、大和は、筑紫の影響下だから。w。 >>516
畿内から九州に行った移民団のトップが
オレもじーちゃんレベルの墓に眠りたい
って言ったっていーだろ >>518
「古田説」を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない「ザラコク」のジレンマ。 @阿波 >>518
何百年後のトンデモ史料つかってんねんフルタ凶徒は 北部九州にある前方後円墳はその時代に畿内ヤマトが支配していた
ことを意味する >>522
>北部九州にある前方後円墳はその時代に畿内ヤマトが支配していた
ことを意味する
それが違うんだなぁ。北部九州にある前方後円墳は、阿波から進出した筑紫忌部が造営したんですね。 @阿波
>>522
正確には
「畿内から連中が支配者だった」な 起源や発祥の話というか
その後の出来事、歴史を知らないのか
というスレが建っているけど
各地に?拡がっていったみたいだよ >>360
>高千穂は宮崎だろ。<
高千穂は、形容詞的な普通名詞であり、該当する山なら幾らでもあり、
宮崎に特定するのも、嘘つきダマシになる。
>何でも盗むんだな北九州は。このゲスさはほんと半チョンだわ。<
この投稿子も、
人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観の大和説者の仲間らしい。 >>524
北部九州は蘇我氏の代で復権を果たすが乙巳の変のだまし討ちで再び
ヤマトが実権をにぎるのである 大神神社 七夕祭
開催期間
2017年8月7日
開催場所
奈良県桜井市 大神神社 大神神社で学業の向上、技芸の上達と諸願成就などを祈願する「七夕祭」が行われます。
子どもたちが参加できるようにと、毎年夏休みの8月に一月遅れで行われています。
1日より拝殿前に笹竹が立てられ、用意された短冊に自由に願い事を書くことができます。
祭典後は、金魚すくいなどの催しもあります。 >>362
>阿蘇には邪馬台国に比定できる遺跡なんてないだろう。
しかも勝手に字を当ててどうする。<
阿蘇は、不彌國から南であるから、邪馬壹國の端っこであった可能性はあるし、
「其餘旁國遠絶、不可得詳」には「蘇」の文字が付くものも多かったし、
北側の産土村には、神武伝承の「井」氏の伝承を持っている。 >>365
>高千穂町は宮崎県西臼杵郡ですね<
ほら、「高千穂」では、形容句的普通名詞であるのであり、特定出来ない。 >>367
>高千穂の候補は南九州に2つあるようだが、<
一つは、中〜北部九州の阿蘇の周りだよ。
>盗人がまた北九州にしようとしている。 何でも盗む。 やはり半チョン。<
「南→東」の嘘つきの、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」の・・・・右翼が、
また現れた。 >>371
やべー、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」の「南→東」のウソ付きダマシの大和説者は、
危ない人だ。 >>372
>筑紫は出てくるな。 ゴキブリかおまえらは。 半チョンは氏になさい。<
ほら、ssnも、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」の・・・・であった。
怖い怖い。 >>508
九州の前方後円墳も100メートル超まで大型化するよ。 高千穂は九州に10箇所以上あるそうな。
ただし筑紫の日向にあり、クシフル山まであるのは博多湾沿岸の高祖山連峰だけ。 >>375
>いやおまえら半チョンこそ根拠がない。・・・おまえら半チョンは頭が高い。<
ほら、ssnも、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」の・・・・であった。
怖い怖い。 >>538
>九州の前方後円墳も100メートル超まで大型化するよ。
そりゃ、するでしょ。 畿内と同じで。 どちらも忌部の仕業なんだから。 @阿波 >>378
>南九州志布志の京ノ峯遺跡・・・円形周溝墓に突起というか陸橋のようなものが付いてる。
弥生時代に瀬戸内海洋集団が進出していたのか。 実に興味深いのだ。<
国生み神話でも、神武東征でも、
瀬戸内は、天孫族や伊都国の阿毎氏系の進出植民地域であったから、
同じ天孫族系同士の宮崎と瀬戸内とが、「天円双方」形的な祭壇方式を持っていたって、
共通する価値観があった事になるだけであり、、
何らおかしくない。 それにしても伊達の桃太郎だよ、
七夕の話みたいなんだけど
実際は何の話なんだろう 鹿児島県志布志市の京ノ峯遺跡の円形周溝墓には陸橋はない
完全に周溝内部と外部を隔離している >>541
つまり小さい方が起源なんでしょ?
那珂八幡みたいな。 一大率は、どこにいたのかな?
博多か?那珂地区か?
魏志倭人伝に一大率がいるのは、伊都国とある。博多は、奴国ではなく伊都国の領域だったかもしれないね。
魏志倭人伝当時、伊都国は1000戸+一大率で構成されてたのかもね。
1000戸は伊都国王と取り巻き。
一大率は、3世紀は播磨など瀬戸内海沿岸から連れてこられた吉備の軍と、徴用された元伊都国の民、九州南部の投馬国の軍を中心に構成されていたのかもね。纒向解散後の4世紀には畿内から兵を増強が一層強まったんだろうな。
後は伊都国王と取り巻きがなぜ滅ぼされなかったかだな。 伊都国王が滅ぼされなかったのは、天孫降臨の逸話が関係しているのかもね。
伊都国王(伊都国の支配層)と畿内や吉備の支配層は同族だったのが理由の一つかもしれないね。
北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る、下戸遺伝子をもたらした倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃が中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、元々は伊勢遺跡の伝承だったのかもしれない。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 1世紀から2世紀にかけて倭国の王は何処にいたのか?
ここからはあくまで個人的な推測。
倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。
倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。
長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 卑弥呼側の勢力と狗奴国の対立はどういう結末を迎えたのか?
孝元天皇は(台与の時代か)、河内青玉繋(河内彦)の娘である埴安媛と血縁を結び、武埴安彦命が生まれる。血縁を結ぶことで、狗奴国と和睦したと考えられる。
問題なのは、この和睦が河内彦中心に行われたと考えられること。
狗奴国王卑弥弓呼&その正統はどうなったのか?
謎だな。
和睦の前に狗奴国内でクーデターがあり、卑弥弓呼の系統は抹殺されたのか追放されたのか、逃亡したのかもしれない。 第61回おんぱら祭奉納花火大会
花火打上日
2017年7月31日(月)※雨天時:小雨決行
打上時刻
19:30〜20:10
打上数
約2000発
例年の人出
3万人
※トイレは2ヶ所 纒向と伊勢遺跡には、大きな違いがある。
纒向は柵で囲まれた居館エリア以外は、掘立柱建物や高床建物が立ち並び民の居住空間と考えられる。首長達が居住していたと考えられる館は見つかっていない。
発掘した考古学者の言葉を借りると、2世紀末に突然現れ4世紀に突然消失した【大集落】。
魏志倭人伝においても、卑弥呼は鬼道を行い衆を惑わすとあり、民に向けて祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う祭りに近い。
一方、伊勢遺跡は30もの首長達が寄り合い、その中心で祭祀を行っていたと考えられる。
今で言う政治に近い。
卑弥呼の役割を考えると、伊勢遺跡が卑弥呼の勢力下にあったとは考えにくくなる。
日と月。 元伊勢の分布は中々興味深い。
アマテラスとされる勢力。
伊勢平野から始まり、甲賀で拠点を構え琵琶湖方面へ進行、さらに伊賀で拠点を構え宇陀方面からヤマトに進行(2世紀末)。
甲賀や伊賀の元伊勢は、当時のアマテラスの勢力の足跡を訪ねた可能性も考えられる。
崇神の代以降は、丹後半島、吉備、紀伊、彦根→美濃に分布。
元々王と同床共殿であった天照大御神。
卑弥呼がいた纒向は、対狗奴国の前線基地。
王がいるのは本来勢力拡大の前線であった可能性が考えられる。
四道将軍。実は王の資格を持つ人々であった可能性もある。
つまりヤマトの地に残った崇神は、唯の留守居役であった可能性もある。
吉備津彦、丹波道主命、大彦の勢力が持ち回りで、王の地位についていた可能性もある。
王が留守にした畿内でその後何が起こったのか?
解明しないといけないね。 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。
博多の一大率も、ミニ纒向みたいなものだろう。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
元は大阪城の位置にあったとされる生国魂神社と関係あるのかな。
大阪城の下に何かあるのかな。 それ以降、筑紫の卑弥呼による集権化が行われる。
九州でも吉野ヶ里が解体される。
筑紫からなら日本海ルートも瀬戸内海ルートも制覇でき、大陸との対外交渉も一手に担うことができる。 伊勢遺跡は大規模な鍛冶場だろ、職人さんがいっぱいいたんだよ >>558
>今で言う祭りに近い。
「王と為りてより以来、見ゆること有る者少なし」
なんだから「衆を惑わす」の実態は違うと思うぞ もともと天孫族の支配域であった対馬海峡と博多湾沿岸を、有明海沿岸の肥国の女王である卑弥呼が監視するための機構が一大卒であった。
伊都から北を監視した、とはそのような意味なのである。
筑後、肥前は卑弥呼の出身地なので、監視の必要はなかった。
お膝元であるはずの実家の筑後狗奴国が卑弥呼と対立する王を立てたのは、まさに青天の霹靂であった。 倭人伝は、ただ単に八女が邪馬台国の臺であると言っている。
九州説の間違いはココじゃないだろwww アマテラスがいた高天原は、出雲にも筑紫にも船で往復が可能な土地、例えば宗像大社の沖ノ島であろう。
世界遺産承認おめ。 >>560
>纒向は、卑弥呼がいた大集落。
纏向のような平地にはいないよ。
王族は湧き水の出る山の中腹に住んでいた。
食料は下々の者が運ぶ。
卑弥呼やその王族は高天原にいた。 >>553
倭国王がいたのは北部九州だろう
金印の存在、大量の鏡や楽浪土器や水銀朱等の交易の証、各地からの土器の搬入、特別的な支配層の墓の存在等々、可能性は一番高いでしょうね >>573
その条件を満たす場所なら巻向東側にある鳥見山ですよ。
巻向遺跡は三輪ではなく鳥見山方面に向いてますからね。
しかも山頂には明らかに人工的な勾玉池もあります。
また途中の山腹には縄文時代からの遺跡もあり、
ヤマト入りした神武が皇祖を祭った場所という伝承もあります。
ここはこれから注目していいかもしれません。 >>578
人工的な勾玉池、縄文時代からの遺跡とな飛騨王朝の分家やな >>578
何故あそこに注目する人が少ないのか不思議な位ですけどね。
樹木が茂っていない時代なら奈良盆地もよく見えたはずの場所です。
またソースを出せる話ではないですが、
女性が沢山いたという言い伝えの場所が近い。 レス番組も間違えてますね。
申し訳ないですが上の書き込みは無かった事にしておいて下さい。 >>381
>九州でも宮崎や熊本なら防衛上でも奥津城になり王都があった可能性もある。
一番その可能性のないのが福岡。 防人の地。 そんな危なっかしい場所に都は置きません、アホですか。
玄関で飯食ったり寝たりしないでしょ? それと同じ。<
関係がない。
列島は、縄文弥生を通して「統一」されていたのではなく、
九州付近の倭人の地においても「100余りの国→30国位」に分かれていたのであり、
卑弥呼の共立を統一王朝だとしても、その入り口は、半島南岸にある事になる。
つまり、この投稿子も、おそらく「変な皇国史観」に脳が侵された・・・・であったんでしょう。 >>382
>なんでそういう変な結論が突然出てくるのか君の思考回路を理解に苦しむ
脳が変なのだろうか <
弥生土器末から纏向の土器が筑紫に搬入されており、
河内や播磨や、纏向の石塚での庄内も、初めて那珂八幡にに搬入されているんなら、
那珂八幡の庄内よりも古い三雲の庄内は、
河内や播磨や、纏向の石塚での庄内よりも古い、という事になるだろ?。
何故そんな当たり前の事が判らないのかな?。
そりゃ、この投稿子も、脳が変だから、なんだろうか?。 >>387
>自分をガリレイに例える人間の約70%は誇大妄想で医者と面談が必要<
この論争は、
「南→東」の嘘吐きダマシの大和説者同士の?、
人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観者同士の?論争であるから、
どちらも始めから、医者の面談が必要な人種であった訳で。 >>389
>いい事とトンデモを半々に言うところは、故古田氏にそっくりではないか。
物部はいいよ。 でもイスケヨリは卑弥呼ではない。<
こっそり、反古田宣伝を混ぜるダマシ宣伝をする所は、
「南→東」の嘘吐きや、「人種差別的殺戮戦争狂の皇国史観」の、
大和者同士である事が、バレバレではないか?。 >>394
>結局こういう>>393のようなクズが古代史ファンに多いから分らなかったんだ。
普通に反論してくればいいのにそうする知力もない。
「卑弥呼は独身だったはずだ?」はだめだよ、面倒臭い。
生涯独身でも寡婦でもどちらもありと考えれば良い。<
結局、大和説者同士の化かし合いの内輪もめなんて、始めから、
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・アホ同士の喧嘩に過ぎず、
読まされるのも、時間の無駄であった。 >>397
>・・・これは大和朝廷が朝貢してたのを知ってたという事、 また神功皇后ではないことも知ってた。
本当のことを知らしめてはいかんという親心だ。<
分裂幻覚の妄想ばかりだな。 >>407
>九州説って歪んでるね w <
結局、大和説者同士の内輪もめ喧嘩で頭に血が上ったssnは、
横槍を入れて来る九州説者への八つ当たり、
という図だね。
世間の皆様、頭に血が上った殺戮戦争皇国史観狂は、
秋葉原やオームや赤報隊と同じく、テロを実行しますから、
関わらないように気を付けましょうね。 >>429
都合の悪い最新の研究成果を抹殺したくて必死な大和説・・・・さんたち。
醜いナー。 >>430
ひたすら相手を罵るという・・・。
これも、「南≠東」などで議論に負けた人特有というか典型的な反応で。 藁。 >>434
>筆跡鑑定とかやったのは東遷説の安本だが? 畿内説には何も関係がない<
安本は、当初は「古田説を絶賛賛成」したが、
古田さんの「九州王朝説」を見て反古田に転じたんだから、
「反九州王朝説」狂の右翼であったのであり、
「人種差別的殺戮戦争の皇国史観」の大和説者と、同じ穴の狢。 ここは畿内説を論じる場であり九州説を語るのはスレ違い >>438
>筆跡鑑定っていうのは筆跡Aと筆跡Bを同じ人が書いたか別の人が書いたかって鑑定するんだよ
その片方がどこの誰の筆跡かは関係ないし そんなこと確認する必要もない<
安本から、筆者が6人以上にもなる文書から明治写本として提出された筆跡を、
一人の筆跡だと判断した事も、筆跡鑑定家の低能力振りが露呈しているし、
鑑定対象の「丑寅原稿」の筆跡が、明治写本の筆跡群と似た文字もあれば全く違う筆跡もあり、
「その全く違うものを捨ててまでするインチキ鑑定」であったし、
そりゃ、依頼者の安本に(金のために)迎合しただけのインチキ鑑定であったし、
結果として、和田家を村差別で壊滅させる事の偽証をした犯罪鑑定にしかならない。
>むしろ知らない方が客観的な鑑定になる<
知らなくて、鑑定など出来ないし、6人以上の筆跡の差異も見ず、
違う筆跡例を抹殺した鑑定は、「結論先にありき」のインチキ鑑定になる。
>そして出た結論は 古文書とやらにあったのがコクヨの原稿用紙にも書くことができる現代人の筆跡だって結論<
喜八郎さんの筆跡は、
藤本氏の原稿への書き足し画像を何度も画像を提示したし、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/furuta01.html
の「丑寅原稿の欄外」の筆跡や、
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/gikante1.html
の末尾の「喜八郎さんの郵便での宛名書きや自分の住所氏名の筆跡例がある。
どれも明治写本の筆跡とは、全く一致していない。 >>585
「弥生土器末」って、なんやそれ
知識ゼロがバレバレだ
「河内や播磨や、纏向の石塚での庄内も、初めて那珂八幡にに搬入」って、なんやそれ
知りもしないことデタラメ書いてるのバレバレだ
なに、この人⁉︎ 畿内説に一番大事な事
南を東と解釈する決定打
畿内説間(阿波説も入れて)でよく議論して、
説得力ある根拠を示す必要がある。
南に進んでるつもりが東へ行ってしまった説
転写ミス説
使者の記憶違い説・・・・・・・
よくわからん >>598
畿内説は南を東と解釈なんかしてないけど 方向間違い説なんて実例も含めて何度も説明されてるよ。
一部の変な人が延々難癖つけてるだけで。 >>599
「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。 >>441
>絶対的な確証なんてもない と断定する 絶対的な確証なんてもない<
ある。
各自が知り得た「自然や歴史に経験観察実験計測などの事実」は、
各自にとっては「絶対的な確証」である。
また、条件設定下での「それらの事実からの演繹的実態」も、各自にとっては「絶対的な確証」になる。 >>443
>無茶苦茶ww <
各自が知り得た「自然や歴史に経験観察実験計測などの事実」や、
条件設定下での「それらの事実からの演繹的実態」も、
各自にとっては「絶対的な確証」になる、
という事が、人類の常識。 >>456
>ザラコクが信頼しない学者のほうが信頼性はある <
「南≠東」や「大和は筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」というような、
史料事実を隠蔽否定のウソダマシ、をするような学者は、
始めから、信頼性がない。 >>459
>ど素人反日爺が肯定しようが否定しようが 日本の学術研究には関係ない<
「南≠東」や、
「大和は筑紫城の倭奴国から別れた別種の旧小国」というような、
「史料事実を隠蔽否定のウソダマシ」、をするような学会や学者らは、
始めから、信頼性がない >>467
>編年は別に競い合ってるわけではない ・・・何か根本的に勘違いしている<
編年は、考古発掘事実の「解釈や説明」であり、
考古発掘事実の段階は、何人もの人が関わったある程度の客観性があるが、
その編年は、ほぼ一人の学者の主観的な「解釈や説明」になるから、
それが各自で違えば、競い合った事になる。 >>469
>考古学者の出す編年を基に考える。 これが鉄則。<
文献と同じように、考古においては、考古学者らの発掘実態を基にして考える事が、鉄則。
>ただし考古学者の言う解釈をそのまま金科玉条のごとく受け入れるのは危険。
彼らが気付いてないことも多々あるから。<
文献であろうと考古であろうと、その学者の「解釈や内容説明」を、
そのまま金科玉条のごとく受け入れるのは危険。
彼らが気付いてないことも多々あるから。 >>473
>学説を金科玉条のごとく受け入れてはいけないから素人でもいいということにはならない
>>296のように他の研究者の追調査によってなされる<
学者とされた人種らだけが、万能の神であった筈がない。
いずれにしても、文献考古共に、史料批判された史料事実からの帰納的な(確率的な)推論をするしかない。 奈良や河内周辺の当時の地形を勉強すべきですね。
当時の奈良、信貴生駒山下は海辺みたいなもんですよ。
柏原辺りまでは比較的大型な船が入れた事はわかっています。
また@阿波なんて別人格を装うのもバレバレなんで止めた方がいい。 >>476
>学術研究と差別は何の関係もない <
そうあるべし。
しかし、Yahoosでも2chでも、大和説者や大和説学者らの投稿子は、
ほぼ全員が、「人種差別」的な発言を執念深く繰り返していた。 どうみても差別的な書き込みはザラコク。
だから書き込み禁止されたのにな。 >>478
>報告書は考古無知では解釈はできない<
発掘事実報告は、高卒レベル位の人類の常識があれば、十分可能。
「南→東」などの、
恣意的な史料事実の嘘つきダマシである事がはっきりしている学者の、
「結論先にありき」での報告など、
殆ど、信頼性も価値もない。 まだ言ってるの?
船氏とオズボーンでしょ、
どのような意味があるのか、何の話なのか
という事になってくる 613 : 孝霊厨
>奈良や河内周辺の当時の地形を勉強すべきですね。
当時の奈良、信貴生駒山下は海辺みたいなもんですよ。
だから、海辺みたいな沼地なんですね。
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。 @阿波 >>609
>各自で違えば、競い合った事になる。
各自で違うほど編年はないし、競い合ってもいない >>612
研究者とど素人では情報量が圧倒的に違う
無知なくせにわかった気で勘違いしてしまっている反日爺がザラコク >>614
ザラコクの場合聞き違い、勘違いがほとんどだから
下衆の勘繰りから差別的な発言だと勘違いしてしまったと想像できる >>617
現実にザラコクという考古無知には考古学用語が理解できていない 『天子神璽』
『聖化 日神 日霊 津』
日本の話(での出来事)ではないとか? >>479
>でも、九州説でも邪馬台国が持続可能な王権だった、ってのは違うぞ。
250年なら、徴税制度が有ったとして一大率ってのが、大和朝廷の国司?だった可能性もある。
魏使の紀行は明らかに畿内に入れないで返してるだろ?
記紀との矛盾が大きすぎるけど、だから九州は筑紫の君を冊封した
百済同等の外国だったと思うんだよ。<
大和日本国は、倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
白村江で唐と戦ったのは「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と書かれているんだから、
大和が倭國を併合吸収継承したのは白村江の後である事になり、
だから、それまでは、「大和朝廷の国司や冊封」なんて事は有り得ない事になるんだよ。 >>627
「古田説」を成り立たせるためには、沼地でド田舎の「その別れた別種の旧小国」を持ち上げなければならない「ザラコク」のジレンマ。 @阿波 >>488
>>否定は反論じゃないんだよ <
原則として、否定は、当然始めに否定根拠を書いて置いた。 >>491
>証拠見つける以前に畿内はありえないと考える人は
このスレじゃないほうがいいんじゃないかな <
「南→東」などの「史料事実に対する嘘吐きダマシ」で、
世間の人々を騙そうとしている事が、黙過し難いから、
このスレに投稿するの。 白村江の戦いは親新羅の筑紫君磐井がトンズラした後だから
筑紫が独力で新羅の冊封国唐と戦争することはない >>630
ザラコクの「恨」がこのスレに投稿させている >>493
>そりゃ確実に出てるだろう 二ヶ月も九州の中のどこをほっつき歩くんだ<
投馬國へは、
「途中移動を示す動詞が書かれていない」から、
不彌國からの側副傍線行程であった事を示し、
邪馬壹國は、
不彌國で「自郡至女王國萬二千餘里」がほぼ説明され尽くしているから、
邪馬壹國は、不彌國に南にほぼ接している事になる。 投馬國と邪馬臺國は同じ南至+○○国名だから
投馬國だけ側副傍線行程だと解釈するのは偽書の会だけ よくわからないけど、
河童というのは中国の呉の人々のことでしょ
九州地方限定の話?
あの熊本の話とか、どうなっているんだろう >>634
>投馬國と邪馬臺國は同じ南至+○○国名だから
投馬國だけ側副傍線行程だと解釈するのは偽書の会だけ
成程 『諸蕃 呉』
実際、来ていたと書いてない?
でも本当は蕃ではないと思う >>499
「南→東」の嘘つき中傷魔の大和説者って、アタマ変だよな。 >>502
「南→東」の嘘つきダマシの指摘に反論も出来ずに、
お返しの貼り付け とかする人は。
心を病んでます 。
そんなの異常者のすることですから。 >>634
>投馬國と邪馬臺國は同じ南至+○○国名だから
投馬國だけ側副傍線行程だと解釈するのは偽書の会だけ
成程 >>504
>>大和が、墳墓の威容で他地域に威張り散らしたことは、4世紀以前には歴史上一度もない。<
>はぁ?箸墓は?<
4世紀。
>那珂八幡は纏向石塚より小さいという情けない事実をかみしめろ。<
石塚は、同じ庄内だからせいぜい那珂八幡と同じ位の時期だが、
倭國の東征のお手伝いでの墓守り人の獲得と、半島の楽浪的部族の渡来に拠る古韓尺技術に拠って、
倭國の別種の旧小国の田舎のご大尽が、「何でも大きけりゃいいのだ」と頑張っただけ。
>そしておまえは梅雨明けまでに氏ね。 わかったな、これは命令だ。<
怖い怖い。
これは、共謀罪に引っかからないの?。 >>505
>小さいのを作って、だんだん大きくして行くものよ<
賛成です。
セレモニーも思想宗教も、だんだん進化して行って、
どこかで経済的などで無理になり、破綻するもの。 >>506
>九州に丹山がないのは事実なんだが <
松浦川上流に水銀鉱山があったらしいし、
「朱色の岩石」なら阿蘇付近のベンガラなど、一杯採れる。 >>619
本気で言っているなら無知としか言いようがないですよ。
奈良盆地中央部や河内湖は沼地ではないですから。
それに瀬戸内海から河内湖経由で奈良盆地への水運のアプローチは
木津川にもありますからね。椿井大塚古墳辺りがその証拠です。 ベンガラは丹ではない
北部九州で松浦川上流の水銀朱を使ってないなら後世の開発 >>508
>大きくならない九州の国はぜんぶ属国<
「筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の大和」や、
「東征毛人五十五國」や、
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」の国々は、
皆、倭國の附庸国であり、属国。 ザラコクが根拠なんて書いたこと無いよね
いつもイミフな決めつけだけ 竹斯國以東は竹斯國も含まれる
筑紫から東は秦王國〜十余国を経て海岸に到達した倭に属している 大業四年(608年) >>643
>石塚は、同じ庄内だからせいぜい那珂八幡と同じ位の時期だが、
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
>倭國の東征のお手伝いでの墓守り人の獲得と、半島の楽浪的部族の渡来に拠る古韓尺技術に拠って、
>倭國の別種の旧小国の田舎のご大尽が、「何でも大きけりゃいいのだ」と頑張っただけ。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ >>650
>ザラコクが根拠なんて書いたこと無いよね
>いつもイミフな決めつけだけ
理解力がないんじゃない? >>511
>「南→東」がなんで「結論先にありき」の循環論法なの? ?????<
スレ主らのように、
「南≠東」などの直接的証拠を一旦棚に上げておいて、
先に、その他の文献や考古の状況証拠を挙げて、それで大和説を主張し、
その結果で、今度は「だから南は東の間違いだ」とやっているんだから、
そりゃ、循環論法そのものだよ。 >>646 : 孝霊厨
>奈良盆地中央部や河内湖は沼地ではないですから。
それに瀬戸内海から河内湖経由で奈良盆地への水運のアプローチは
湖は沼地よりもっと始末が悪いですね。
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。 @阿波 >>654
>そりゃ、循環論法そのものだよ。
そのどこが循環論法?
循環論法って何だか知らないでデタラメ言ってるでしょ。 >>653
痴呆老人のうわごとは理解できない
できなくて普通だから問題なし >>653
ザラコクが言ってることに根拠があると思う人って
ザラコクと同じくらい狂ってることになるな >纏向は湿地帯で王都に不適
飛鳥井:桜井市の三輪山南側を整流する初瀬川西岸の地名。
飛鳥井は飛鳥井堰(いせき)の堰を略した名前で、小字「シキシマ」に接し、
欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)の伝承地である。
飛鳥の原義は「ア」(接頭語)と「スカ」(州処)で、須賀、曽我などと同義の地名語である。
飛鳥は初瀬川のシマ(州処地)を表す地名となり、敷嶋の地を指す。そこに井堰があったのであろう。
飛鳥といえば、石舞台古墳や甘樫丘などがある明日香村の飛鳥が有名だが、
飛鳥の名が付く地名は県内でも約十カ所ある。
たとえば、橿原市豊田町の蘇武(そぶ)川下流西岸には、「上飛鳥田」「下飛鳥田」の地名が、川沿いに残っている。
平城京内の佐保川と率(いざ)川の合流地点にも、「飛鳥田」の地名がある。
いずれもアスカが河岸の湿地に存在していることを示している。
淀川流域にも平安時代から飛鳥里、飛鳥田、飛鳥路といった地名がすでに見られる。
http://www.bell.jp/pancho/hyper-history/timei/sakurai.htm >>514
作り話なのは 筑紫説以外の全部だよな 。 >>515
>まあ九州説って皇国史観のためのはつめだし バンザ〜<
まあヤマト説って、皇国史観のための発明だし・・・。 >>519
>畿内から九州に行った移民団のトップが オレもじーちゃんレベルの墓に眠りたい
って言ったっていーだろ<
ヤマトが、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の、移民団であったの。 繰り返しますが崇神が4世紀初頭〜前半の時点で邪馬台国論争は終了です。
約60年前の台与が判明し、卑弥呼も判明、帥升も判明します。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
反論は対抗軸として別人物を出してください。
多分いないと思います。
さて本居たちはこれを知ってたのではないかと思います。
(続く) 「熊襲の女酋説」
「本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、
神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、
勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。」
帥升がスサノオと仮定すると卑弥呼は分かります。
彼らは気づいてます。
神武東征が女王国を隠蔽するため、わざと大げさに記述し、男王国に見せかけたことも分ります。
日清戦争に勝つ前はまだ中国への劣等感が払しょくされてません。
そんな時代に公に出来なかった。
そういう事でしょう。 本居たちは本物の卑弥呼をわざとはずして神功皇后とし、
熊襲の女酋長を想定、その人物が朝貢していたとしたわけだ。
卑弥呼が誰か知っていたからだ。
知らない方が日本人のためになると思い、
わざとヘンテコな説でごまかした。
今の学者より数段上。 >>521
>何百年後のトンデモ史料つかってんねんフルタ凶徒は<
大和が、
「筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」であり、
「倭國の地方の市を監督する大倭職」という(倭國の)家来の身分でしかない、
というのは、
何百年後であろうと、
客観性と信頼性が抜群に高い歴代中国史書群の証言実態であるから。 >>655
別に湖や沼地に集落を作る訳じゃありませんからねw
それに巻向から海魚の骨が沢山出る時点で君の意見は成立しません。
大阪湾から通常生活圏として
魚が運ばれている事は証明されてますからね。 667 : 孝霊厨
>別に湖や沼地に集落を作る訳じゃありませんからねw
だから、湖や沼地には集落ができないんですよ。
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。 @阿波 >>668
>海に面した場所なんて津波にやられて終了だよ
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ 瀬戸内海航路が使えないなら阿波も当然不便極まりない場所ですよ。
奈良盆地へのアプローチは日本海側、琵琶湖や保津川ルートでしょう。
投馬国(出雲)から保都(奈良盆地)へ向かうので
保津川という名かもしれませんよ。
また居住地は丘陵地が適地なのは
いうまでもありません。 671 : 孝霊厨
>瀬戸内海航路が使えないなら阿波も当然不便極まりない場所ですよ。
いいえ、瀬戸内海航路を使わずに、しっかり大陸と交流していますから。
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)→直方
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。 >>666
いかに客観性と信頼性が抜群に高い歴代中国史書群でも
客観性と信頼性が抜群に低い古田特殊読みをすると
価値がない >>672
>粟じゃ人増えんからな
「背に腹は代えられぬ」ってね。
「当時」の自然環境を軽視しすぎ。
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。
だから、雑穀栽培で命をつないだんですよ。
忌部一族が躍進した理由の一つですね。 @阿波 >>522
>北部九州にある前方後円墳はその時代に畿内ヤマトが支配していた ことを意味する<
意味しない。
根本的に 、ヤマトは、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
倭国の附庸国あり、
前方後円墳も那珂八幡や津古生掛などが最も古く、
箸墓は4世紀以降である。 >>677
なにひとつ根拠のない言い張り100%だな
wwwww 西日本全土が大洪水になることはまずないからな
粟は縄文時代から食ってるけど人増えなかったんだから >>526
>起源や発祥の話というか その後の出来事、歴史を知らないのか というスレが建っているけど
各地に?拡がっていったみたいだよ<
前方後円墳は、
始原的には、中国の「天円地方」思想であり、
モンゴル〜高句麗に淵源を持ち、
楽浪からの渡来流民の中に前方後円墳が筑紫で始まり、
「東征毛人五十五國」に拠って、各地に拡がった。 >>677
ヤマトが
>筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
トンデモだなあ
これ、700年くらい後世の憶測記事が元ネタでしょ
しかも2つの別々の史料を恣意的に合成してる
インチキの典型だね >>553
>淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。<
これは、×。
「南≠東」だから。 >>682
古田説も×だよね。
「南≠東」だから。 >>554
>畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。<
これも、「南≠東」だから、×。
また「倭国大乱」はない。あったのは「倭國亂」。 >>555
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、
吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。
これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。
神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる<
これも、「南≠東」であるし、史料根拠がないから、
分裂幻覚の妄想。 >>677
前方後円墳の発祥が筑紫なのか?
ヤマトが筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国?
コテつけたのは絡むなということである、絡みたいなら徐福、騎馬民族、
日ユ同祖論などに絡んでいいぞ >>688
古田説は、「南≠東」であるし、史料根拠がないから、
分裂幻覚の妄想。 >>556
これも、南≠東であるから、始めから×。 >>558
これも「南→東」の嘘吐きダマシの循環論法になるから、×。 前方後円墳の発祥が筑紫だとか
九州説はどんどん隘路にハマっていくな
末期症状だ >>559
これも、「南→東」の嘘吐きダマシの循環論法になっているから、×。 >>560
>纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。<
これも、「南→東」の嘘吐きダマシの循環論法であるから✖。 循環論って言葉をザラコクが
意味も知らないまま乱用し始めたぞ ザラコクは
罵倒語のボキャブラリーが
ひとつ増えた >>569
>九州爺の妄想が始まりました。<
また、ヤマト説爺の「南→東」などの嘘吐きダマシの街頭詐欺が始まりました。
振り込み詐欺にやられたら怖いですから、
近寄らないようにしましょうね。 >>572
引き続き「南→東」の嘘吐きダマシの大和説の
街頭でのオレオレ詐欺の妄想が炸裂中で、
振り込み詐欺警戒警報発令中です。 >>573
>>纒向は、卑弥呼がいた大集落。<
>纏向のような平地にはいないよ。 王族は湧き水の出る山の中腹に住んでいた。
食料は下々の者が運ぶ。 卑弥呼やその王族は高天原にいた。<
またまた、「南→東」の嘘吐きダマシの街頭サギシの大和説者同士の、
仲間割れ大喧の大喧嘩の炸裂中です。
飛び道具を持っていたら危ない、ですから、
近寄らないようにしましょうね。 >>673
癖の強い書き込み方で泡厨の正体バレバレだなw 南≠東教
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
チ〜ン♪ >>582
>卑弥呼がいたのは桧原神社ではないかな <
「南≠東」だから、×な。 南≠東教
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
南≠東 南≠東 南≠東 南≠東
チ〜ン♪ >>594
>ここは畿内説を論じる場であり九州説を語るのはスレ違い<
掲示板という公共性を謳った場で、スレを設定した限り、
当然、誰にでもどのスレにも、投稿の自由があり、
「南→東」のように、世間の人々に嘘吐きダマシをするようなスレは、
黙過し難い。 >>597
>「弥生土器末」って、なんやそれ 知識ゼロがバレバレだ <
纏向での「庄内以前の土器編年」の意味だ。
>「河内や播磨や、纏向の石塚での庄内も、初めて那珂八幡にに搬入」って、なんやそれ
知りもしないことデタラメ書いてるのバレバレだ<
例えば、
https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
の説明だ。
>なに、この人⁉︎<
素人オジンだ。 >>598
>畿内説に一番大事な事 南を東と解釈する決定打 畿内説間(阿波説も入れて)でよく議論して、
説得力ある根拠を示す必要がある。 南に進んでるつもりが東へ行ってしまった説 転写ミス説
使者の記憶違い説・・・・・・・ よくわからん<
九州説のご声援?、有難う御座います。 「南→東」南≠東
について、明確な納得でる説明が畿内説に不足してると思う。
だから、幾度も同じことを繰り返していると思う。 >>600
>畿内説は南を東と解釈なんかしてないけど<
スレ主らは、「南≠東」という直接的証拠の問題を棚上げしておいて、
他の状況証拠から大和を決めておいて、
「だから南は東の間違いだ」とする循環論法を使っているんでしょ?。 テンプレは長いが
肝心な南➡東についての説明はごく一部である。
それも、一例のみですべてを解決できるわけでもないし、時代錯誤。 繰り返しますが崇神が4世紀初頭〜前半の時点で邪馬台国論争は終了です。
約60年前の台与が判明し、卑弥呼も判明、帥升も判明します。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
反論は対抗軸として別人物を出してください。
多分いないと思います。
卑弥呼が住んだのは葛城の高天原です。 >>715
>卑弥呼が住んだのは葛城の高天原です。
どーでもいいんだけど、なんで↑になるんだよ? >>1は申維翰(18世紀?)の例を出してるが、これは間違っていたことが立証されている。
倭人伝の方位の間違いは畿内説ではどのように、立証できるのか?憶測だけで南を東にしていいのだろうか。 同じことを繰り返すのは、説明が不足してるのではなくてボケているから
ザラコクの場合は猜疑心の塊だから説明は無意味 >>719
>カモ族は葛城。
カモ族は「阿波の加茂」。 @阿波 中国製の小札革綴冑が3世紀後半から4世紀の畿内の古墳から出る。
十数点の出土のうち九州はわずか1点、残りはすべて畿内。
当時の日本にこんな精巧な冑は作れない。
おそらくトヨの朝貢時に入手したのだろう。
この時点で中国と通交してた主体は畿内であり邪馬台国論争は決着する。
この小札革綴冑は山城の椿井大塚山古墳から出る。
崇神に反乱を起こした武埴安彦命が挙兵した場所であり、
椿井大塚山被葬者が武埴安彦である可能性が高い。
もう一つ面白いところから出る
大阪柏原の玉手山3号墳だ。
この時代に河内の首長が中国製の小札革綴冑というお宝を手に入れていた。
被葬者の該当人物がいる。
孝元天皇の妃・埴安媛の父、河内青玉繋だ。
武埴安彦の祖父になる。
河内青玉繋→埴安媛 →武埴安彦(崇神時代)
祖父と孫、つまり同じ一族が小札革綴冑を手に入れてたのではないか。
ということは河内青玉繋はトヨの時代を生きていた。
トヨの朝貢団の一人ではないのか。
どちらにしても「欠史」などと言われてきた初期8代天皇は確実に実在した、
そして魏志の台与と大和朝廷がこの冑によって結びつくのだ。 >>717
なにが間違いだと立証されたんだ?
九州説がか?
wwwwwwwwwwwwwwwwww >>601
>方向間違い説なんて実例も含めて何度も説明されてるよ。<
「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」の「南」と、
「東南陸行五百里、到伊都國」の「東南」は、いずれも「出発時点での方向」指示であり、
間違っていないし、
「又有州胡在馬韓之西海中大島上」の「西海」は、距離が書いていないから、
おそらく(郡役人の記録ではなく)馬韓人からの伝聞情報であり、
「西海中」とは、非常に広範囲であり、東シナ海のどこにでも当てはまるような記載であり、
だから、州胡人の往来方向での「大体の方向」の認識情報であったんでしょう。
そして三国志では、それ以外の方向記載での問題点は全くなかった筈であり、
だから、魏の役人たちや陳寿は、方向を間違える事は、全くなかった。
>一部の変な人が延々難癖つけてるだけで。<
一部の変な大和説などの人が、延々として難癖つけてるだけで。 >>667
あったとしても大変細々とした流通にすぎないですね。
土器の流れからは奈良盆地と大阪側の流通はお互いに全体のわずかです。 >>718
>同じことを繰り返すのは、説明が不足してるのではなくてボケているから
>ザラコクの場合は猜疑心の塊だから説明は無意味
カモカモやらヒメタタラやらうるさいやつもそうだな。 >>620
>>各自で違えば、競い合った事になる。<
>各自で違うほど編年はないし、競い合ってもいない<
この投稿子であったのか?は知らんが、
話の発端は、久住編年と「重〜」氏の編年の違いであった筈。 >>622
>研究者とど素人では情報量が圧倒的に違う
無知なくせにわかった気で勘違いしてしまっている反日爺がザラコク <
幾ら情報量が多くても、「南→東」のように、情報そのものを改竄するような大和説研究者は、
ど素人以下。 卑弥呼は,、
邪馬台国の女王でもあったが、
共立後は、共立筑紫倭国の女王の地位に着き、魏王朝から{親魏倭王}としても遇された。
邪馬台国より、この筑紫倭国の存在のほうが、古代史的にははるかに重要である。 >>729
話の発端は、
>>293
>編年なんて素人云々の前に学者によって違うし〜
>>296、>>620は俺 >>634
>投馬國と邪馬臺國は同じ南至+○○国名だから
投馬國だけ側副傍線行程だと解釈するのは偽書の会だけ <
どちらに対しても「途中移動の動詞」が書かれていないから、
「記録するべき移動がなかった」という事を示すのであり、
邪馬壹國へは、
(投馬國への側副傍線行程とは違って)、
不彌國で「自郡至女王國萬二千餘里」をほぼ移動され尽くしているので、
目的地への移動距離の記載の必要がない位近接して、殆ど接している事を示している事になり、
古田さんは、それを、
「不彌國から出発した所に邪馬壹國の入り口があった」という状態だ、
とされた。 >>736
途中で道草して、里数稼いでつじつま合わせか
遅刻常習のやんちゃ小学生もどきだな、古田はwww >>736
つまり、南≠東であるから、古田説は×。 不彌國で「自郡至女王國萬二千餘里」をほぼ移動され尽くしているのではなくて
不彌國までの里数表記までは、漢代に既に通行があった委奴国と周辺
女王國は、東夷伝序文の「九服の制の荒域の外で足跡車軌の及ぶ所非ずして、
未だ其の國俗殊方なるを知る者有らざる也、長老說くに異面の人有り、日の出づる所に近し。
遂に諸國を周觀し、其の法俗を采り、小大區別すれば、各に名號有り、詳紀すること得るべし。」ところ 道草には反対なのだが、それを除いても帯方郡から一万二千里で福岡県内にほぼ収まるか、せいぜい佐賀県にはみ出る程度なんだよ。
南に肥後狗奴国もある。 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 子供じみた言い訳を重ねて無理筋を押し通そうとするしているのは畿内説だろう。
まともな証明ができていない。
考古学的証拠もない。 >>744
はいはい、お子ちゃまはお眠の時間ですよ。 一万二千里に収まるところからさらに水行二十日、水行十日陸行一月行ったところが
女王の都とする所 >>645
>九州は衆夷、大国は無し<
倭の五王の頃は、九州は既に全域が倭國の支配下であり、
「衆夷を服せしめる」として、
「新たな征服や平定ではない」事を書き分けている。 西は衆夷を服すること六十六国は祖先の功業の成果
衆は殷、周從事農業生產的奴隸,或管理奴隸的人 >>651
>竹斯國以東は竹斯國も含まれる
筑紫から東は秦王國〜十余国を経て海岸に到達した倭に属している 大業四年(608年)<
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」という文言は、
全く「言わずもがな」の不必要と思われる奇妙な文であり、
隋使や隋書の筆者が敢えてこのような変な文を挿入したのは、
当然そのような説明が必要であったからであり、
それは、釈日本紀に引用された延喜講記に、
「小野妹子が開皇末に隋文帝に日本国を名乗った」という事件があったから、
隋使は、「自竹斯國以東、皆」俀國領ではなく、別の国(大和日本国)の国であり、
しかし、俀に附庸している国なんですよ、という事を説明したかったから。
だから、隋使は、秦王國以東には行っておらず、
「又經十餘國、達於海岸」は、秦王國以遠の「九州内の地理的説明」になる。 >>749
>「衆夷を服せしめる」として、
>「新たな征服や平定ではない」事を書き分けている。
「征服」の「服」じゃん 服従の服だな、西の衆夷は征伐するほどのまとまりはなかった >>656
>>そりゃ、循環論法そのものだよ。<
>そのどこが循環論法? 循環論法って何だか知らないでデタラメ言ってるでしょ。<
大和説者は、文献記載の直接的証拠の「南」を否定して、
「東」の状況証拠ばかりを集めて、
「だから南は否定される」と循環したから。 >>659
アスカなら、
太宰府〜小郡付近にも「飛鳥」「明日香」などの地名があり、
大和は、そのアスカの名前も、引っ越しさせた可能性が高い。
「金刺宮」も松野氏姫氏系図に載っており、欽明は、筑紫倭國の王家に参入出来ていたから、
筑紫倭国の執政的身分になっていた可能性もある。 >>758
「南は否定されるから」が根拠に採用されてないので
循環は無い >>762
「スカ」という地形の地名は全国にある
松野氏は9世紀の新撰姓氏録の少し前に朝鮮から来た諸蕃だろうな >>681
>ヤマトが >筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国で、
トンデモだなあ これ、700年くらい後世の憶測記事が元ネタでしょ
しかも2つの別々の史料を恣意的に合成してる インチキの典型だね<
新唐書は、
客観性と信頼性の極めて高い歴代中国史書群などの記載と、
隋の開皇末に初めて日本国を名乗った大和からの王年代紀の主張とを、
情報源にしただけ。 アスカなんて元はアショーカからの可能性のが高いだろ >>693
>前方後円墳の発祥が筑紫だとか <
前方後円墳の発祥は、中国の天円地方思想とモンゴル〜高句麗だよ。
列島の前方後円墳は、モンゴル方面から伝来したもの。 九州脳は結局何でも九州発祥にしないと気が済まないんだよな。
本当に朝鮮人と同じメンタルなんだよ。 >>723
小札革綴冑は、中国製ではなく、
筑紫倭國が、半島の小札革綴冑を知って教わって、
「東征毛人五十五國」の戦争で各地の武将が使ったもの。 >>772
説に根拠がないから、いろいろ空想が生まれる >>724
>なにが間違いだと立証されたんだ? 九州説がか? wwwwwwwwwwwwwwwwww<
はるか後代の、「周髀算経を知らないだろう半島学者」の地理記載や方角記載には、間違いがあっても、
そンな事が、3世紀の魏使の「方角間違い論」の根拠にはならない、という事。 卑弥呼は、
邪馬台国の女王であったが、
共立後は、共立筑紫倭国の王(女王)の地位に就き、魏王朝からは{親魏倭王}として遇された。
(言うまでもないことだが、その後継の台与も同様に倭国王の地位に就いた。)
倭国の構成国の一つに過ぎなかった邪馬台国より、この共立筑紫倭国の存在のほうが、古代史的にははるかに重要である。 >>747
>一万二千里に収まるところからさらに水行二十日、水行十日陸行一月行ったところが
女王の都とする所 <
いや、「萬二千餘里」は「自郡至女王國」の里数。 卑弥呼は倭の29カ国の女王だからな
邪馬台国が女王国ではなくて女王の都があるところ 日本人のためにはるばる中国人がやってきて測量して記録を残してくれたのではなくて
司馬氏が禅譲されるにふさわしいということを書いているのが三国志
漢代に既に遣使してる北部九州は司馬氏にとってはどうでもいいところ >>754
>>「衆夷を服せしめる」として、「新たな征服や平定ではない」事を書き分けている。<
>「征服」の「服」じゃん<
「征服」は「征して服せしめる」だな。 考古学的には、北部九州は3世紀前半から畿内の文化を積極的に受容している
高尾山古墳からは畿内系の土器が一つも見つかっていない >>755
>(「自竹斯國以東、皆附庸於俀」)偽書の会にとって不必要で奇妙な文というだけの解釈 <
この投稿子も大和説者も、
何故「都斯麻國と一支國とが省かれているのか?」の説明も出来ない。 それよりも、司馬という作家は、どこにいるの?
奈良時代頃に、日本に来たの?
そういう作家がいなかった? >>757
>服従の服だな、西の衆夷は征伐するほどのまとまりはなかった <
西の九州の衆夷は、既に服従していた。
たまーに、このような事を言っている人がいなかった
「そんな人はいませんよ^^^^」 >>764
>「南は否定されるから」が根拠に採用されてないので 循環は無い<
「南を否定」した事を前提にした論を立てて、それで「また南を否定した」から、
循環した。 >>778
>日本人のためにはるばる中国人がやってきて測量して記録を残してくれたのではなくて
司馬氏が禅譲されるにふさわしいということを書いているのが三国志
漢代に既に遣使してる北部九州は司馬氏にとってはどうでもいいところ <
当然の事ながら、倭人伝には、
陳寿が、司馬氏に阿って、司馬氏のために書かれた事になる、
という箇所は、どこにもない。 自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國
既にという字は見当たらないね それでもぼくは畿内説諸君の善意を信じて呼びかけ続けるよ 南を東とした説は、許してやらないと先に話が進まない。 詳しいことは、わからないけど
『司馬遼太郎 創価』?
他のスレの話になるけど
「創価ではないのか?」
「創価なのか」
という書き込みをしている人がいたり 創価というのは何宗なの?
以前から書いているけど、
家は創価ではないよ、老婆は創価だったような? >>785
「南を否定」した事を前提にした論を立てた
って証拠は? >>787
>自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國
既にという字は見当<
「自昔〜」だから、「既に」であった事になる。 >>788
>司馬氏のために書かれたとは書かないなw <
勿論始めから、倭人伝には、
「司馬氏のため」になるように書かれている、
と思われるような個所は、全く存在しない。 >>795
なら東征も「既に」であった事になるな。
東西を征服した大和の王の子孫だ。 >>789
>それでもぼくは畿内説諸君の善意を信じて呼びかけ続けるよ<
それでも私も、
ヤマト説諸君の中にも、何人かの善意の人がおられる事を信じて、
呼びかけ続けますよ。
Yahooでは、議論に負けた大和説者は何も言わずに撤退されただけでしたが、
2chでは、僅かでしたが、何人かの大和説者の中に、
「南」の持つ「大和説などへの強力な反論性」を肯定述懐されたお方が、おられましたから。 >>798
もちろん妄想だが
なぜなら証拠が出せない >>790
>南を東とした説は、許してやらないと先に話が進まない。<
「南→東」とした嘘吐きダマシのスレ主や大和説者に、
世間の人々が騙され続ける、
という事が許し難いのです。 >>794
>「南を否定」した事を前提にした論を立てた って証拠は?<
九州北岸の不彌國から、大体「南」ではない方向に、
邪馬壹國や女王の都を設定する論を立てたら、
その瞬間に「南」を否定する嘘つきダマシをした事になるから。 >>801
>その瞬間に「南」を否定する嘘つきダマシをした事になるから。
それなら「南を否定」したのは結果であって
前提じゃないでしよ? >>800
なんで
「南と書いてあるのは史料の間違いだ」
という意見を言うことが嘘ダマシとやらで
意見を言うことが犯罪みたいに言われるの?
言論弾圧じゃないか >>797
>なら東征も「既に」であった事になるな。 東西を征服した大和の王の子孫だ<
ならない。
「東征毛人五十五國」と「渡平海北九十五國」とは、明らかな他動詞的な「征す」や「平らぐ」戦を書き、
「西服衆夷六十六國」には、明らかな自動詞的な「服す」と書かれた、という事は、
「西服衆夷六十六國」は、他の二つと比べて、先に服属していた、という事を示すのであるし、
大和は、「南≠東」であって、また「女王国の倭種」地域であり、
「筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国」でしかないのだから。 >>802
>言論弾圧やりたい私設特高じいさん 怖い怖い<
共謀法が施行されたから、嘘つきダマシで世間の人びとを煽らない方がいいよ。 >>805
「西服衆夷六十六國」って、明らかに他動詞として「服」を使ってますけど? >>808
ザラコク75は意見の異なる人達を逮捕して火あぶりにでもしたそうな口ぶりだね >>803
>>その瞬間に「南」を否定する嘘つきダマシをした事になるから。<
>それなら「南を否定」したのは結果であって 前提じゃないでしよ?<
前提として史料事実の「南」を否定しておかないと、
「九州北岸から南ではない」説は、始めから立論すら出来ないの。 「畿内に古墳群があるんんですぅ、纏向に大型建物見つかっかったのですぅ
だから南は東なのですぅ すぅ すぅ すぅ すぅ・・・」
「古いタイプのバカ そう古いタイプのバカ WWWW・・・」
「この ハゲ〜〜 ちがうだろ〜〜・・」 >>811
史料事実の「南」を否定してる人なんて
誰もいないけど? >>804
>なんで 「南と書いてあるのは史料の間違いだ」 という意見を言うことが嘘ダマシとやらで
意見を言うことが犯罪みたいに言われるの? 言論弾圧じゃないか<
99.9%以上、嘘を言って、世間の人々を騙そうとした事になるから。 >>811
前提として史料事実の「南」を判断中止しても、
「九州北岸から南ではない」説は立論出来るぞ >>814
99.9%以上、嘘とか
どこから出た数字だ?
ひとを騙そうとするウソかな? >>806
>征されて服したんだろ 同じだ <
「既に服していた」という事になるから、他動詞的な「征や平」とは同じではない。 >>809
>「西服衆夷六十六國」って、明らかに他動詞として「服」を使ってますけど? <
問題の動詞の本源的な意味を知ろうと思えば、
その文字に「す」や「する」を付けてみればよく分かるのであり、
「服」の本来的な意味は、「服す」という自動詞的意味文言になるのだから。 >>813
>史料事実の「南」を否定してる人なんて 誰もいないけど?<
大和説者らの殆どは、史料事実の「南」を否定してるの。 <改正組織犯罪処罰法 今日から 施行>
ウソつき集団の畿内説の連中は処罰すべきだな >>794
証拠??????
南を東にしないと成り立たない説だろ >>815
>前提として史料事実の「南」を判断中止しても、
「九州北岸から南ではない」説は立論出来るぞ <
分裂幻覚妄想の・・・・や小説のような場では、口先だけもで幾らでも、
「嘘の立論」は出来るものなの。
問題は、そのようなものには確率が殆どない、という事なの。 >>805
>「西服衆夷六十六國」は、他の二つと比べて、先に服属していた、という事を示すのであるし、
当然ですね。 九州は阿波への通過点ですから、他の二つと比べて、「先に服属していた」んですよ。
ずばり、四国(阿波)を中心とした展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東
西服衆夷六十六國 =九州
渡平海北九十五國 =山陰・北陸 なんですよ。 @阿波 >>820
九州説は思想統制がしたいらしい
さすが右翼皇国主義者の発明した説だ もしかして九州説のど素人さんは
「史料事実」
って言葉の意味を知らないのかな >>830
この ハゲ〜〜 ちがうだろ〜
史料事実では南だろ >>816
>99.9%以上、嘘とか どこから出た数字だ? ひとを騙そうとするウソかな?<
Yahooで、「ハイエナ」と名乗る大和説者が、
80万字位の三国志の写本版本群に、存在して確認された「差異発生文字」数は、
4000字余り(0,5%位)であった、という事であったので、
一回の写本版本で一つの文字の錯誤の発生確率は、
0.5%位を、写本版本種類数(これだけで5種類以上)と、
写本版本回数で割り算すればよい事になるから、
0,1%をはるかに下回る事になり、
従って、「南で正しい」確率は、99.9%以上だ、という事になる。 漢文法を知らないとか
学術用語を間違えて使ってるとか
そういうレベルでなく
九州説の人は日本語がマトモに喋れない 魏志倭人伝サマに向かって
「お前の記述は間違ってる」と言うわけ?倭人伝に
自分が正しいと倭人伝は間違ってると
この ハゲ〜〜 ちがうだろ〜 >>835
その計算がデタラメであることは
ずっと前に証明されてたが
今はさらに誤写の話じゃないから
ザラコクはもっとトンチンカン
というかウソそのものだな >>821
>してるって証拠は?<
「南」であるのに、「東」の大和方面を立論したから。 >>835
つまりざは嘘をついて世間をダマシしようとしてるのだな ザラコクは史料事実史料事実と千万回連呼してたが
史料事実とは何だか知らなかった
という
オソマツな結論でました
藁 >>822
>じゃ、主語は何?<
基本的な意味の自動詞的な「服す」であれば、主語は「衆夷」。
応用的な付属的な意味の他動詞的な「服せしめる」であれば、
主語は、倭王武の「祖禰」たち。 >>844
つまり「征」や「平」と同じだね
主語は倭王
畿内政権が東西を征服した >>838
>その計算がデタラメであることは ずっと前に証明されてたが 今はさらに誤写の話じゃないから
ザラコクはもっとトンチンカン というかウソそのものだな<
データを提示したのは、大和説者のハイエナだから、
文句があるんなら、ハイエナに言って、
大和説者同士で、同士討ちの仲間割れでもやりな。
しかし、ハイエナは、私よりも年下で、
安本派→大和説に転向してやけくそで酒を飲み過ぎてアル中になって、
もう2年位出て来ないから、もう亡くなられたのかも知れないなあ?。 >>845
>つまり「征」や「平」と同じだね 主語は倭王 畿内政権が東西を征服した <
ダメだよ。
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国で、せいぜい倭種であり、
俀國の附庸国であったんだから。
。 >>846
データは正しくても利用したザラコクの解釈が間違ってるのだよ
言い逃れしようとしても
もうウソはバレバレ >>848
そんな思想で文献を曲がった解釈しちゃダメでしょ >>845
>主語は倭王
畿内政権が東西を征服した
畿内に政権など存在しません。
倭国(阿波)政権が東・西・北を征服した 私的には九州説指示だけど、投馬国と邪馬台国を帯方郡起点で解釈すれば、方角の誤差を含めると畿内説も文献的に矛盾しない
ただ、その場合卑弥呼は九州にいた事になる 神道でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
※地勢でも、四国の阿波
行程でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅矛でも、四国の阿波
銅戈でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波
何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
※今、ここ。 >>796
>「司馬氏のため」になるように書かれている、
と思われるような個所は、全く存在しない。
反日偽書の会は客観的な思考ができない人種だからな
精神的コンプレックスの穴埋めのための妄想だから >>846
ザラコクは下衆の勘繰りで勘違いがほとんどだから
誰かが言っていたとかいうのはアテにならんね 古田史学スレで×になったようなので、こちらに転写保存、
古田史学スレの>>225
>メソッドにどういうことをどんな風に書くかという点にもルールがある
ルールに従った内容と書き方が必要で、
古田式はそのルールに従ってなかった<
不可知部分が殆どである自然や歴史においての科学や学問の分野には、
そんな「絶対的なルール」なんて、本質的に存在しない。
ルール設定と言う制限が、学問や科学の無限性を制約してしまう。
そして、不可知な自然や歴史においては、
全て「ベター」を目指す事が本質的なのであり、
古田さんのように、存在確認し史料批判をした上での、
それらからの帰納的確率的な推論をする事が、最も確率が高い。 反日偽書の会は他人の庭で犬鍋でもやりそうな人種だな >>856
>不可知部分が殆どである自然や歴史においての科学や学問の分野には、
そんな「絶対的なルール」なんて、本質的に存在しない。
ルール設定と言う制限が、学問や科学の無限性を制約してしまう。
なるほど、素晴らしいご意見です。
このスレに「南≠東」としつこく言ってるバカが一匹いますが、
その男にぜひ言ってやってください。 繰り返しますが崇神が4世紀初頭〜前半の時点で邪馬台国論争は終了です。
約60年前の台与が判明し、卑弥呼も判明、帥升も判明します。
■2世紀から4世紀まで
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
反論は対抗軸として別人物を出してください。
多分いないと思います。
卑弥呼の墓は高天原(御所市高天)にあります。
日本最古の神社がお守りしています。
https://goo.gl/DA7WRZ 古田式の解釈は20年前で終わったんだよ。
勿論他も含めて九州説自体が完全終了したけどな。 >>859
>日本最古の神社がお守りしています。
神社なんぞねーじゃねーか? >>862
サイコのシュラインなんだろうさ
トンデモが崇めるんだからな >>862
あるよ。
神社のご神体というか本殿が画像の山。 >>865
あほんだら! 卑弥呼様をなめとんか!! ちゃんとした文章が書けないこと
これトンデモ九州説おぢさんの共通項ね >>867
こっちの台詞じゃボケ。
卑弥呼が誰か、
墓はどこかも言えないなら黙っておれボンクラ。 >>869
この「卑弥呼が誰か」という
意味不明なことを言い出すのは
いつものアノ人 なんで記紀に必ず書いてあるはずって思い込んでんだろ >>871
記紀に出てくる人だって
「宇治の若様」とか「若殿」とかだけ
だったりするのにな >>871
なんで記紀には登場しないと思い込んでるの? 反論は対抗軸として別人物を出してください。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 >>874
記紀には登場しないとか
誰も言ってないじゃん
妄想ばっかの人ダナー >>876
じゃ登場するでもいいじゃん。
それに文句言ったのはそっち。 団塊の世代教えるのに採点がメンドいから丸バツ問題ばかり出してたダメ教師が多かったと聞くが
そういう三流教育の犠牲者なのかもな 反論は対抗軸として別人物を出してください
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ただし3世紀初頭に存在したヒミ、ヒメ、ヒムと言う名前の最高位に人物でないとだめだよ。
後の時代にトヨまたはイヨという最高位の人物もいる事。
これが条件だよ。
遠慮せずどんどん出せばいい。
何?一人も思いつかない?
そりゃそうだろう。
ヒメ踏鞴以外にはいないのだから
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ まず邪馬台国がヤマト王権につながることを立証しないとね >>877
登場するかしないか不明なのに
>反論は対抗軸として別人物を出してください。
>〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
とか言うのがチエオクのしるし >>880
繋がろうが繋がるまいが
実名が伝わってる保証など無し 神武の時代が女王国であった。
もはや天才の発想だ。
古代史界のコペルニクスだ。
天動説のアホどもを説得するのは大変だっただろうなコペルニクスさんも。
同じ天才としてその気持ちはよく分る。
(゚^∀^゚)゚。ギャーハッハッハッハッハッハハッハッハッハッハッハ!! >>879
消去法が成り立たない世界でその論法は通用しない >>882
古い。
文字は弥生時代からあった。
君は最新の考古学を知りたまえ。 ほら出た。
困った時の「何?」
天動説者の泣き言みっともないw >>889
何だか答えられないのは
おまえが論破された証拠 卑弥呼は記紀にイの一番に記載されてるわけで邪馬台国論争自体が終わります。
卑弥呼を生んだ2世紀前半から3世紀後半まで存在した王族の代々墓の場所も分ります。
箸墓古墳ではありません。
高天原(御所市高天)です。
彼ら神々の墓は今でも日本最古の高鴨神社がお守りしています。
神武が実在したか実在しなかったかという議論も長い間ありましたが、
「神武の時代が女王国である」という「地動説」に発想を切り替えていただければすぐに理解できます。
記紀でなぜ古代天皇が100歳を超えるほど時代を大きく引き延ばされてるのかについても、
実際の卑弥呼から5世代前がスサノオになり、
日本の国史を中華皇帝への土下座という耐えられないような史実から始めれなかったというプライドの問題であることが分かります。
■2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安 ?
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前) >>889
文字が弥生時代からあったら何なんだ?
答えられないのか? 以前から書いているけど、
□□力夫氏の系統
実際はスサノオ?ではないでしょ
盗まれた物語 神話 神格? さぁ卑弥呼候補をどんどん言ってくれ。
ただし条件があるよ(上記)
何を遠慮してるんだい?
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ 親戚なのかな
老婆が言うには、
むかーし住んでいた家には凄い刀が飾ってあった >>868
⭕おじさん
❌おぢさん
オヂサンならかろうじてセーフ ネットで検索すると出てくるような、
嘘の話、捏造されたような話?より
老婆の話を信じているんだけど あの写真の松の木(モミ?)も、
七支刀のような形をしていたり
家に飾ってあったという刀なんだけど、
どのような刀だったんだろう >>896
調子に乗るでない。 下がりなさい。 @阿波 >>897
可能ってことは必ずじゃないから、伝わってない可能性もあるんだよな
ならお前の主張は成り立たない
アホ 松の木の写真
右のほうに、
小さな笹の葉のようなものもあったでしょ?
むかーし伊達郡という所に住んでいたんだよ
と言っていた 『岩戸』調べると同じような絵が出てこない?
笹の葉のようなものを持っている人物がいたり、
岩の中にいる、いたのが
あの写真の人? キュウリの葉、葱の華・・・などの写ったものがあったでしょ、
同じ家の写真
わかりやすくいうと、
もれ(仮)の家なんだけど 竿ではないけど、ポール?
そのようなものも写っていたでしょ
どういう事なんだろう それとシダ類の葉にオジギソウ
でも竿も写っていたような
「ー」のように置かれていたもの
ポールのようなものは立っていた? >>904
対抗軸の人物を一人でも出してみろボンクラ。
出せないで偉そうにぬかすな負け犬が。 竿は土(地面)に刺してあったのかな?
あと謎の松の木・・・ 畿内説なんて所詮倭人伝の文章の上で踊らされているにすぎない
すべては九州説の亜種、すべては九州説に帰る >>919
一方的に勝った宣言、ぶざまww
やっぱり福岡は半チョンだwww >>920
お前って極度にアタマ悪いな
反論されて二の句が継げなくなったお前は
客観的にもう論破されてるんだよ 熊襲の女酋説[編集]
本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。
本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。
本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、
神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。
ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、
勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本居たちはとっくに気づいてたって。
帥升とスサノオの名前が似ている。
同一人物ではないかと考えたことは充分あり得る。
ならば卑弥呼が帥升から5世代100年後だ。
卑弥呼なんて簡単に分かる。
そして神武東征が実際には女王国であった事をごまかすための記述であることも分る。
記紀の異常な年代が、帥升ことスサノオの土下座隠しであることも分る。
分ったとて、あの時代には公表できない。
ショックが大きすぎる。
だから熊襲による偽僣説なんて出してごまかしたのだ。
知らない方が良い事実もあるからな。 猫神やおよろず?
家の写真に似ていない?
板のようなものが並んでいて、オジギソウ・・・ >>922
卑弥呼が誰かも言えない、墓がどこかも言えない、
そんなアホに、
卑弥呼が誰か、墓がどこかを言ってるわしが何で論破などされるのだ? むかーし住んでいたところ
伊達郡でしょ?
東福沢とか西福沢なんてところがあった
と言っていた これも書いたはず
親戚かもしれないけど、
家には力夫という名前の親戚はいない 家は川崎区に住んでいて、
大島のほうの寺院に通っていたみたいだよ
と言っていた
もしかして本物なのかな >>931
ザラコクが、そんなウソをつく動機は何だろう? >>901
叔父さんに、フリガナ付けるか?
おぢさんで変換したらいいと思うよ。
日本の文字の基本は漢字だよ。 >>929
これ?
>可能ってことは必ずじゃないから、伝わってない可能性もあるんだよな
>ならお前の主張は成り立たない
>アホ
伝わってる可能性もあるのだから俺の主張は成り立つ。
これのなにが反論なんだ? 記紀編纂の際、帝紀の王統譜はいじくれない。
しかし実年をそのまま書くわけにはいかない。
だから時代を引き延ばして100歳を超える天皇が登場するわけだ。
実年をそのまま書くわけにはいかない理由とは、
中華の属国であったことを国史に書けなかったからだ。
王統譜を創作し、
存在しなかった人物を書いて良いよいなら、
100歳超える天皇なんて存在しないのだ。
つまり記紀の王統譜は基本正しいという事だ。 >>925
卑弥呼は記紀にのっていない。
墓は平原遺跡だ。 >>935
>伝わってる可能性もあるのだから俺の主張は成り立つ。
伝わっていることを証明しないと。 >>935
お前ホントにウス馬鹿だね
伝わってない可能性が否定できないと排中律が成り立たないだろ
ということは、お前の消去法が成り立ってない
論理的に、アウトだ >>930
伝わってた理由は>>936に書いた。
古代天皇が100歳超えるのがその理由。
架空の人物の創作など許されなかったことが分かる。 >>941
実名が伝わってない可能性を否定できてないじゃん
ペケ
>>942
お前、畿内説な演技してるけど
東遷厨だろ >>943
最高位の女性でヒメとトヨがおり、
崇神の数世代前だから3世紀に存在したことが分かる。
そしてヒメは魏志の記述通り寡婦でもある。
これは魏志どおりの人物が記紀に伝わってた証拠である。 >>941
それは理由にならないな
王統譜の捏造からずっと後世に実年代アテハメがあった場合も同じ結果になる >>946
>ずっと後世に実年代アテハメがあった場合も同じ結果になる
実年代アテハメで100歳超えるのか?
当時の平均寿命は40歳程度だぞ。
>>947
客観的事実として、
崇神の数世代前にヒミとトヨという最高位の女性がいるのかいないのかどっち?
ごまかすな。 >>949
漢字も5世紀と言われてた時代がありました懐かしいw
原の辻遺跡では楽浪の遺物とともに出雲の土器が出る。
古代出雲人が積極的に大陸文化を摂取しようとしてた証拠。
だから硯も出たのだ。
干支も知ってて何もおかしくない。
君は古いのだw >>948
学がないなー
王統譜捏造が欽明朝くらいだとするだろ
辛酉革命思想なんて持ち込まれるの遥か先だから、その頃はもう各氏族の系図に組み込まれてて、王代の調整なんか出来なくなってる
で、100歳越えの帝王誕生というわけだ >>950
干支も知ってておかしくないから知ってるに決まってる?
脳の論理的思考エンジンが、死んでるよ 稲荷山古墳の辛亥年が471年かな
干支紀年法もせいぜいその頃 母親が言うには
「大島ニ丁目か四丁目のほうだったかな、
そっちのほうにある寺院に通っていたという話は聞いているよ」
よくわからないけど、確実じゃないの? >>952
>王代の調整なんか出来なくなってる
いやしているよ。
各豪族が崇神時代の人物から神武時代の人物までおおよそ5〜6世代。
ところが皇統だけ崇神から神武まで9世代。
できるだけ時代を古く引き延ばそうと全員父子継承にしたことが分かる。 三輪 氏 安曇氏 物部氏 三上氏 忌部氏 紀国造家 久米氏 大伴氏 中臣氏 皇室
櫛御 方 穂己都久 宇摩志麻治 彦伊賀都 天富 天道根 大久米 道臣 天種子 1神武
健飯 勝 摩幣区利 彦湯支 天夷沙比止 彌麻爾支 伊麻枳利 布理祢 味日 宇佐津臣2綏靖3安寧
健甕 尻 意伎布根 意冨祢 川枯彦 和謌富奴 比古麻 味耳 稚日 御食津臣4懿徳
豊御 食主 小栲梨 出石心大臣 . 坂戸毘古 佐久耳 知名曽 五十真手 大日 伊賀津臣5孝昭6孝安
健飯 賀田巣麻曽杵 大綜麻杵 . 国忍富 阿加佐古 .久志多麻 久米大人 角日 梨津臣 7孝霊8孝元9開化
大 田々根子大栲成吹 伊香色男. .大加賀美 玉久志古 大名草彦 押志岐毘古 豊日 神耳勝 10崇神
大御 食持 百足足尼 十市根 鳥鳴海 多良斯富 .宇遅比古 七拳脛 武日 大鹿島 11垂仁12景行
大友 主 勝海足尼 胆咋 八倉田 麻豆奴美足尼 等与美々 祢久良支 武以 臣狭山 13成務14仲哀
志多 留 大浜 .五十琴 室毘古 佐岐大人足尼 豊布流 伊与足尼 佐彦 雷大臣 15応神
石床 浜子 .伊呂弗 比賀多 多比古足尼 塩籠 加志古 山前 大小橋 16仁徳 >>956
つまり新しい王様は創作してないってことだろ?
王代の調整は出来なかった >>957
最高位の女性でヒメとトヨがおり、
崇神の数世代前だから3世紀に存在したことが分かる。
そしてヒメは魏志の記述通り寡婦でもある。
これは魏志どおりの人物が記紀に伝わってた証拠である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
これを正視できない半チョンwww >>960
証拠に?
ならないねー
実名の伝わってない王の存在を否定出来ないだろ >>959
>つまり新しい王様は創作してないってことだろ?
だからそう言ってるんじゃないか。
アマテラスは別だけどね。
>王代の調整は出来なかった
できるだけ古く引き伸ばすために王の「世代」は調整したということだ。 >>963
いないと言うなら
若帯彦の実名を言ってみな >>964
成務?
ワカタラシヒコでいいんじゃない?
何の話をしてるんだ? そもそも日本書紀の神武〜安康までは697年に伝わった儀風暦で書かれているからねえ
全部創作だよね >>962
そういう状況は王統譜の作成が六世紀で実年代割当が八世紀な場合でも起きる
つまり王統譜が三世紀に遡る根拠には到底ならない >>966
こまった挙句にガラガラポンかw
創作していいのなら100歳を超えません。
創作できないが、かといって実年も書けないというジレンマが100歳を超える天皇の記述になった。
創作していいなら100人くらい創作して中国の歴史を超えることも可能だったはず。 創作したのは年代のことだけどね
もともとの王統譜のようなものは○○大王の○○年としかなかった。
干支もまだ記録されていなかったので、A王統の大王とB王統の大王とどっちが古いか分からない
しょうがないので全部つなげて、適当に暦を振ったのさ。 >>965
キミさー
主明楽美御徳って誰だか知ってる? >>967
屁理屈は好きにすればいいが、
応神は実在で誉田御廟山、
母親の神功皇后も実在、これはカゴ坂皇子の作った神戸の五色塚古墳で分る。
崇神も実在、行燈山で間違いなかろう。
あとは卑弥呼の時代だ。
2世紀末、庄内0式。
崇神から数世代前だ。
大和にヒメという最高位の女性がいて寡婦でもあった。
君ごときでは反論できない客観的事実だ。 >>971
どうでもいい話でごまかすな。
平原が卑弥呼墓という馬鹿は消えなさい。 >>973
反論されてんじゃん
実名が伝わってるって根拠がない (2世紀から4世紀まで)
スサノオ(帥升)107年
・
・
・
・
ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武
ヒメ踏鞴 綏靖
ヒメ踏鞴 安寧
トヨ津 懿徳 孝昭
トヨ津 孝安
磯城の台頭 孝霊 孝元 開化
崇神(4世紀初〜前)
これのなにが不満なのかな? 中国側で実名として記録されてるものが本当に実名である保証など、なーんも無いつことね >>977
おまえって九州王朝説のクズだよね?www 結局全部ガラガラポンにしてトンズラ九州王朝説w
金石文のないものはすべて認めないというのと同じ。 >>984
>正真正銘の畿内論者
平地の下人の棲み処である箸墓ごときを卑弥呼の墓というおバカさんの事だね。 >>989
東遷って何?
おれは葛城説。
頭悪いなおまえ。 >>992
あいつがツルんツルんで皺がないのは脳だろ 正統派多数派畿内説としては
トンデモ泡沫少数派を相手にしてるヒマはない >正統派多数派畿内説としては
多数も少数も関係がない。
天動説は多数派だったから正しいのか。
2世紀前半からの王族の話が説明できない時点で纏向説は欠陥説。 >>996
弟と言うより
弟子の弟の意味で男弟ね。
クシヒガタ。
日本書紀の鴨王
この人物が実質上の王 >>997
もう悪口しかいえないキナイセツの衰えぶりにゾッとした このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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