邪馬台国畿内説 Part254 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう
前スレ
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501103273/
◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に面している
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる
その死亡時期は3世紀中葉である(FAQ30参照)
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる
したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場である(FAQ26参照)
その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントにほかならない
そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、
乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、
乃ち布留0期にあるとみることが出来よう ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山並びに渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である
箸中山、行灯山並びに渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない
この神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう
因みに、女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある
これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、
箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する
この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である
乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ
弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があり、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期に中国製威信財の入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争を回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりがあったことを示しており、此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう
後段で触れるところの寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた
纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の大勢という現実を踏まえたものであろう
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する
初期ヤマト政権の性格をアンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは有益である ◆5(倭国の形成と気候変動)
南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況や河内と吉備の交流の深さ等も鑑みれば、
東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を纒向の地に擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの連合であろう
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生し、その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている
それが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあったことは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる
換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起している(松木2014)
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型並びに楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着した(吉田2014)
分節化した統合性の象徴として小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開、
これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる
(この項続く) (続き)
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある
権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する
宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する
この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る
前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していることと、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料を突合すると、
対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
北部九州の土器編年で言えば、卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である
そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである
ことに、土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である
その最終段階では、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる
それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である
自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか
A:九州は倭国の一部なので問題ない
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである
水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である
これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くこと
魏使は九州を出ていないではないか
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか
A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である(◆FAQ40参照)
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できない
このように、行程記事には明らかに誤情報が含まれているので、所在地比定には採用しない
検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる
A:誰も纒向遺跡=邪馬台国だなどと主張はしていない
纒向遺跡は巫女王の居た王都であり国ではない
また、邪馬台国を大和国とする諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって領域としての令制大和国という定義ではない
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した
対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す
(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない
近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕がでる(久住2006)
畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系の土器が発見される(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した
つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である
考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」とみられる
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる
よって判断材料とならない
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、ほとんど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」ともいう(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである
よって否定材料にならない
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる
この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い
準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である
また倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は未だ提示されてない
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える
このことは白鳥庫吉以来縷々指摘されているが、有効な反論がない
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する
したがって測定は存在しない
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば
異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は
信頼できる基準ではないか
これに基づいた里程論で邪馬台国は
九州島内に求められる
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する
ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている
江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く
A:そのような整合性は認められない
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている
つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した
これは信用ならない
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)と土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる
一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある
基壇部は水平方向から見ると隆起していない
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない
箸中山古墳の築造過程は
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
と推定できる
葬送儀礼の最も重要な局面で方丘が存在していない可能性があるといえる
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している
方丘築造が後出であるという判断は
箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと
箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で
前方部盛土に遮られる形で消失していること
椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で
前方部に盛土がないこと
等による ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県であり(設楽1989)、九州ではない
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか
A:7世紀或いはそれ以前の出来事について日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報に依拠するのは、学問的でない
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表しているに過ぎない
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること
・唐会要より錯誤発生の過程が時系列的に認識できること
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること
等を勘案すると、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い
卑弥呼の墓があるのは九州だ
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう
弥生絹があるのは九州のみ
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定されている(布目1999)
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる
九州説にとって不利な条件と言える ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ
箸墓の築造と時間差があるだろう
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、並びに初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定されている(次山2009)
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い
これが部分的利用に留まる所以である
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ
伊都国は隆盛のさなかである
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている
しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿並びに禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である
九州でいいではないか
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している
行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である
弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばからとした(金2011)
これは陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する(高久2009)
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)並びに庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている。
国産に決まっている
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない
史料上で抹殺された年号は珍しくない
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している
これが魏晋鏡だろう
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい
2世紀の鏡である
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯もしくは圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)が共存する
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)などがある
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿る遺跡群として極めて重要視されている ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない
上古音nagが順当であろう
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある
建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ45を修文 箸墓が女性の墓であるという証拠はまだ答えて貰えないの?
三輪山伝説なら、三輪山周辺の墓地は女性にの墓の候補になるのだけど。
径だけで、卑弥呼の墓と決めつけるのは良くないと思う。 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 失礼
三輪山周辺・(纏向でも可)の古墳(墓地)は
箸墓に限らず三輪山伝説の女性の墓の候補となり得る。
また、モモソ=ヒミコと暗にほのめかしてる。・・・・・・・モモソ=ヒミコは畿内説内で統一されているか? テンプレでは方位の間違いについて、
朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか? 下戸遺伝子の分布の中心である大阪湾と伊勢湾。
伊勢湾には天照大御神が祀られ、伊勢神宮がある。
かたや大阪湾の古代の歴史は、記紀等日本の文献では、神話の中に痕跡を残すのみで、抹消されている。
倭国大乱、勝者の卑弥呼。
敗者のクナ、卑弥弓呼。 中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。 1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 >土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???
纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。
倭国大乱
卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。 それにしても老婆は詳しい
当時持っていた、
土地、お金なんかも無くなったと言っている
国譲りというの、
そのような出来事は、何度もあったと言っている人がいたでしょ
近代に起きた戦争などもそうだよとか 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 【倭国の交易路】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 【伊都国】
魏志において王がいて魏の郡使が駐在すると書かれた伊都国は、人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族がいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていた。
伊都国には平原遺跡という3世紀頃の女王墓があり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、特に史上最大の銅鏡であるいわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、強大な権力があったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
伊都国の卑弥呼の宮はどのようなものだったか。
糸島市には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクジフル山の山頂を囲む怡土城および高祖城があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
ニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓である。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、平原遺跡からは八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。
http://maps.gsi.go.jp/#13/33.541752/130.280342/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0l0u0f0
高祖山連峰の
第二峰 416ピーク 高祖山
第一峰 419ピーク くしふる岳
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。 >>63
読んで無いかもね。
教えて、箸墓が女性の墓と言う根拠 >>70
箸墓=卑弥呼の墓と比定してるから女性の墓です
三輪山伝説等の引用は後付けだから参考にならない 戯言
天皇陵の築年代と天皇在位の年代の相違は畿内説には関係ない
しかし、邪馬台国は初期ヤマト王権とのたまう。 >>61
賛同
纒向がヤマト王権の王都とするならば
飛鳥までの都の変遷を論じなければならない □□力夫?
この名前の家は本当はアイヌの系統なのかな?
今でいうアイヌ >>77
畿内説や九州説では説明はこじつけ以外は無理。 @阿波 >>81
知りたいのは結構だが、それが邪馬台国と何の関係があるんだ? 頭の良い人はすぐにわかる、
あの写真も出来すぎているでしょ?
鷹の像、福助・・・など >>83
初期ヤマト王権=邪馬台国と言う奴に聞いてるから
お前には、関係無いと思う むかーし伊達郡と言うところに住んでいたんだよ
と言っていた
神職、僧? 「初期ヤマト王権」って
なんで「初期大和王権」じゃないの? ほとんど同じような意味
鷹 トビ?・・・
電電太鼓(雷)・・・福助、菅笠
『猫稲荷』が『猫神やおよろず』?
誰が商売をしているんだろう、人の家の話だと思うんだけど 白い服の裏
「□□ 市之・・・」
と書いてあったでしょ、暴力団でもない、付き合いも無い スサノオ 大国主 すくなひこ
天下を経営していると書いてあるでしょ?
出来すぎ? 不具の子が・・・足がない?歩けない、
わんぴーす?でいうと人魚のような話
トトロの曲 >>83
証明できなければ、邪馬台国とヤマト王権は関係ないという可能性の方が高いからでしょ。
つまり畿内説は誤りだということになる。
だから畿内説側に説明責任がある。 『川崎区 大島 寺院』
親が言うには
「川崎に来てからも、
大島のほうにある寺院に通っていたと聞いているよ」 スレ主は断定してる
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
ヤマト政権の纒向から明日香までの王都の変遷はスレ主が論ずるべきだろう 纒向以降の王都は平城で
明日香は百済人の移住区なのだ 間違い
纒向以降の王都は藤原京で
明日香は百済人の移住区なのだ キュウリの葉、葱の華、イモ類の葉?
軍の人なのか、警察なのか、
わからない制服を着ていたり、
でも、そういう家ではないと言っている
「家の・・・子供の頃の写真だよ」 2004年、飛鳥京跡の発掘を進めていた奈良県立橿原考古学研究所は、
大型の高床式建物跡を発見し、飛鳥浄御原宮の「正殿」であったと判断した。
宮域は、南北800メートル、東西500メートルくらいの範囲に収まる。
しかし、通説では飛鳥京は7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮であり、
その以前の宮がどこにあったかは定かではない 浅野セメントの・・・
で仕事をしていたと言っているんだけど
実際は、凄い上のほうの人間だったのかな 結局、7世紀中頃より前に奈良盆地に都があった証拠がないな。
ザラコクの勝ちじゃないか。 伊達郡川俣町という掲示板
香野という家の話とか
なぜか、
大川?・・・競馬の話もしている >>105
推古から持統までじゃなかったかな?
いずれにせよ、明日香以前の王都はわからない。
纒向が初期ヤマト王制の地とするには相当無理がある ヤマト王権なんてなかったんだろ。
あったのは筑紫倭国と、奈良盆地の少数勢力。 同じような家だと思うんだけど、
むかーし住んでいたことがあると言っている
『伊達郡 菅野』 253の>>817
結局、大和説ってのは 、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つきダマシだけではなく、
あちこちの史料からの、いちばん「都合の悪い」部分を掻き集めて改竄して、、
ダンゴに丸めて主観で味付けしたものだな むかし住んでいた家には、
本や書なんかが沢山並んでいたんだよ
凄い刀も飾ってあった
いまとなっては、よくわからない話 >>95
何が証明できないと、邪馬台国とヤマト王権は関係ないという可能性の方が高くなるんだ?
何を言っているのかワケがわからない
????? >>253の>>820
>>「大和 は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国」<
>とは似ても似つかないな やっぱり詐欺だ <
旧唐書:倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。
世與中國。
其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。
其王姓阿毎氏。置一大率、検察諸國、皆畏附之・・・
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。
或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。或云日本舊小國、併倭國之地。
唐会要:倭國 古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。
世與中國通。其王姓阿毎氏。
新唐書:日本、古倭奴也。去京師萬四千里、直新羅東南、在海中・・・其王姓阿毎氏、
自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州。 253の>>825
大和説者は、
客観性と信頼性の高い歴代中国史書群や考古を否定曲解の、
インチキばかりしてるな 。 初期ヤマト王権って
なんで初期「大和」王権って言わないの? ヤマト=倭≠大和だから? 253の>>829
>つまり宮崎の高千穂だって話を歪曲して <
倭国の存在や歴史を隠蔽しようとした記紀の記載は、根拠にならない。
>北部九州と書いてある一つの史料であるかのように <
客観性と信頼性の高い歴代中国史書群の証言は、筑紫。
記紀の、ついうっかりの宮崎否定の「日向のクシフル」などの記載は、根拠になる。
>捏造したわけだ 九州説は悪質だなー<
記紀が捏造した訳だ。記紀や大和説者は、悪質であり、・・・・サギシだなー。 かなり前になるけど
あなたは一番下!
という謎のレスがあった、何なんだろう 253の>>833
>10世紀時点で筑紫日向が今の宮崎県だという説があると思う?<
8世紀の大和政権が、倭國の存在や歴史を隠蔽しようとして、
記紀に「宮崎の日向だ」というウソを書いたから、
10世紀時点で、「筑紫の日向だ」と言う説を書ける、
と本当に思う?。
>これだからトンデモ説は困る <
これだから、半分×書の記紀を信仰するトンデモ大和説者は困る。 >>117
大和朝廷と安直に同一視する人たちが出ないようにさ 253の>>842
>負けた九州説やっぱり最後は陰謀説 <
負けた大和説者は、やっぱり最後は、
半分×書の記紀信仰の宗教と、
客観性と信頼性の高い歴代中国史書群の陰謀説 の、国家主義思想。 253の>>843
>これはウソだな テンプレが説明してる<
そんな逃げの言い訳など、通用しないよ。
テンプレの説明を引用するか?、本人に説明して貰いな。 アホがむきになればなる程畿内説の盤石さが実証される現実w
九州説って見るからに稚拙なんだよな。 邪馬台国とは結局ヤマトの事でしょ。
こんな簡単な事が理解出来ないヤツらってww 253の>>845
>負けた九州説 <
賛成。
>近畿厨は、朝鮮人…<
関係がない。
倭人や天皇家らは、「燕の南」時代の始めから、
半島人と親族的であった。 >>129
なんで初期「大和」王権って言わないの? ヤマト=倭≠大和だから? >>129
詐欺に引っかかり、すっかり騙されて洗脳されましたね。 筑紫にあるのは奴国、畿内にあったのは邪馬台国。
もうそれ以外の見解はないからなww 魏の使いが伊都国までしか来ていない時点で察しろよ。 老婆も
学校に行ったのか、行っていないのか、
わからないんだけど
かなり詳しい、なぜなんだろう
むかーし住んでいたという家に、
本や書などが、あったからなのかな >>134
お前もいい加減あきらめたら?老後の時間無駄にするだけだぞw
邪馬台国はヤマト、これ以外の選択肢は既にない。 253の>>857
>つまり東大寺の坊さんが宋に持って行った本に書いてある「筑紫日向宮」は当然ながら宮崎県のつもりで書かれてる <
王年代紀の筆者が、筑紫を、福岡のつもりだったのか、宮崎のつもりだったのか?、は判らないが、
それを参考にした新唐書は、倭奴国だったと言っているんだから、
新唐書は、筑紫=福岡のつもりで書いている、
という事になる。 残り少ない時間を基地害になりすまして
2ちゃんでスレ荒らしするしかないなんて悲しすぎるよな。
余程の基地害以外もう九州説なんて朝鮮の工作員しかいないからね。 かなり前の話
親戚でも殺されたのか?
と言っている人がいたけど
かくみょう氏? 253の>>848
>古田説に依存するようになっちゃ 九州説も終わりだな <
「南≠東」の嘘吐きダマシに依存する考古学者や、
右翼人種差別殺戮戦争狂の口先ヘイトスピーチに依存するようになっちゃ、
「史料批判された史料事実からの帰納的確率的な推論」の古田説に勝てるわけがなく、
大和説も終わりだな。 >>141
残念でした
王年代記には神武が大和に移動したのが周代だと書いてあるんだよ
つまり新唐書の筆者は倭国が倭奴国と別物だと知っている >>146
はい、畿内説様より皇紀2600年いただきました! 253の>>852
>宋の時代とは、これまた随分と後世の文献ですね。 その時点までに誤解が広まっていたということですね。<
王年代紀の記載に対して、
新唐書は、それを完全には踏襲せず、
明らかに、旧唐書や唐会要の説明に準じて、
「倭國≠日本國」という形での記載をしています。 家の先祖だという写真、出来すぎていない?
きゅうりの葉、葱の華・・・など
親戚、遠い親戚?
とは言っても、持っていないと思う
本職のような家だったのかな 『本職』『本業』
ヤクザ、暴力団という意味ではないよ 攻められたら呟き基地害にキャラチェンジでスレ荒らし。
九州説は本当に哀れだねw 九州説板は伊都某により壊滅状態。
だから畿内説板にまで荒らしにくるのか。 >>153
大和政権とは何を指して言っているのか?
日本語がたどたどしくて他人に通じてないぞ 253の>>856
>そんなもん使って邪馬台国がなんだカンダと言うのが トンデモ九州説<
旧唐書や唐会要や新唐書の、
「倭國と大和日本国との書き分け」
という史料事実の否定をして、
グダグダと何だかんだ言うのが、トンデモ・・・・大和説信者の特徴。 >>153
大和政権の始まりは崇神天皇からである、しかしその後何回も政権は交代している 253の>>859
>「南→東」嘘つきダマシの典型は 古田の道標読法 <
「南→東」の嘘つきダマシの大和説の典型は、
陳寿の三国志での行程記載の原則の、
「出発+途中移動+到着+付加」の順次式説明が読めない、
大和説者の詐欺読法ね。 >>158
大和朝廷は神武から現在に至るまで実権はヤマトにあったというヤマト王朝至上主義
からでた言葉である 閑話休題
「壬申の乱」
大友皇子軍の「淡海の大津宮」は、「阿波吉野川下流域北岸の鳴門市大津町木津」
大海人皇子軍の「吉野宮」は、「吉野川上流域北岸の三好郡三野町加茂宮」
これが、天武天皇紀の戦闘記事である、本来の壬申の乱の舞台なのである。
【天武天皇紀に記される地名が阿波吉野川北岸の地名にはっきり残っている】
⚫︎粟津:鳴門市里浦町粟津
⚫︎大津宮:鳴門市撫養町木津、鳴門市大津町木津野
⚫︎菟田(うだ):板野郡土成町鵜田尾(うのたお)
⚫︎鈴鹿:板野郡土成町樫原を流れる鈴川(すずかわ)
⚫︎桑名:板野郡土成町と阿波市市場町の境 九王野(山)
⚫︎安八麿(あちはま):阿波市市場町粟島(あわしま)
⚫︎大野:阿波市市場町大野
⚫︎尾張:阿波市市場町尾開(おばり)
⚫︎倭京:阿波市市場町奈良坂(若宮皇太神宮)
⚫︎不破道:阿波市市場町大門から讃岐に通じる奈良街道
⚫︎乃楽山(ならやま):阿波市市場町奈良街道沿い城王山(旧名 奈良山)
⚫︎美濃:三好郡三野町
⚫︎伊勢:阿波市阿波町伊勢
⚫︎高安城(たかやすのき):美馬市脇町の大滝山
⚫︎吉野宮:三好郡三野町加茂野宮 日本史学は、自分たちの造語、概念定義にとらわれて現実が見えなくなっているわけね。
その典型がこのスレのテンプレ。
頭の中で妄想をこね回すだけ。 253の>>862
>残念ながら九州には王族の伝承がない。
筑紫から硯が見つかり文字があったのが確実であるにも関わらずない。<
8世紀の大和の記紀らが、倭国の存在や歴史の隠蔽を図ったから、伝承は少なくなったが、
金印や考古の発掘事実や、東海姫氏國伝承や松野氏姫氏系図や高良大社伝承などが、存続していた。
>2世紀前半から存在するヒミコを生んだ王権なら必ず伝承されてるはず。<
松野氏姫氏系図がある。
>畿内にはある。 今も神様として庶民の信仰をあつめてる。 先日も尼崎で大物主神社を見つけた。
時間の都合で参拝しなかったが、 ヒミコを生んだ王権の伝承は畿内には存在するのだ。<
「南≠東」だから、近畿は始めから×。 >>161
「壬申の乱」とは単なる皇位継承の問題ではない、筑紫倭国と畿内ヤマトの対立なのである >>162
あなたは負け犬で
テンプレに具体的な反論ができず
畿内説に手も足も出ないから
頭の中でそういう妄想をこねまわしてるだけでしょ 253の>>265
「南→東」などのうそつきダマシは、
大和説の 、
風物詩 。 >>166
声を出して何回も読まれるといいでしょう(165 >>163
>こういう地道な研究は阿波だけ @阿波
訂正
こういう地道な研究が出来るネタがあちこちに転がっているのは阿波だけ @阿波 >>165
天武即位後にさらに畿内への中央集権化が進むので、話はもっと複雑な気がするな。
畿内への政権移行は既定路線とした上で、その中での争いになっているような。 253の>>868
>だから九州にいる神様で説明してくれ。 吉竹高木、須玖岡本に何という神様がいたのだ。
平原は? 当然、誰でも知ってる神様なんだろうね。 だって王権なんだから。<
記紀に書かれた天孫族の神々らや、
金印の倭奴國王らや、
松野氏姫氏系図の卑弥呼や壹與や熊襲の王らや、
甕依姫や與止姫らの伝承。 253の>>875
>具体的に平原近辺の何神社に祀られてる何という神様なんだ? <
古田史学会で、大阪府立大の正木という先生が、最近、
平原近辺の遺跡や神社伝承の神様の比定をしておられた筈だよ。 >>167
あんたが、
纏向から明日香までの王都の変遷解説したら
スレ主では無理なようだ >>177
なんで一体そんなことする必要があるんだ? 253の>>879
>だからそれらの神様は時代が違うってw ヒミコのお父さん、お母さんは何と言う名前で祀られてるの?<
ssnも持っている筈の、松野氏姫氏系図には、一応卑弥呼の先代名が書かれている筈だよ。 >>177
でもお前が帝銀事件の真相を解説しないと畿内説を否定できないんじゃないのか? 253の>>881
>その条件を満たす場所は、 大和朝廷発祥地である高天原(御所市高天)である。
径百余歩の人為墓も存在する。 邪馬台国とは、この大和朝廷発祥地であり、これを疑う余地は全く無い。<
「南≠東」のそれだけ、でさえも、
ssnの分裂幻覚妄想は、嘘つきダマシだと判る。 253の>>884
>九州では、 誰 も 祀 ら れ て な いwww これは致命的欠陥wwwwww <
九州でも 天孫族などの神や、卑弥呼や壹與らが祀 ら れ て いるwww 。
そして、大和は「南→東」の嘘つきダマシが、致命的欠陥wwwwww 。 >>185
テンプレはスレ主の妄想を記したものと心得よ >>185
なんでそんなことする必要があるか答えられないんだな
じゃ必要じゃないってことだ
おしまい >>187
つまり、まるで歯が立たないから女々しく悪口を言うだけってことか。 >>190はスレ主? それともスレ主に付く金魚の糞? 253の>>893
> ニギハヤヒがイカガノシコオから6世代前。 神武も同じとして、2世紀末。 そこから3世代遡ってホオリは2世紀前半。
コノハナサクヤヒメもそれくらい で九州説でヒミコは誰? アマテラスは時代が違うよね。<
卑弥呼は、始めから天孫族ではな、姫氏。 纒向だけでなく、それ以降も明日香までは畿内に都があったという根拠はないのか。
人口過疎地であったという推計も出ていたしな。
まあそんなものだろう。
ヤマト王権なんて妄想だったな。 結局九州説は邪馬台国問題だけでなく古墳時代の日本史全体を否定しないといけなくなる
つまり九州説が将来通説になる望みは消えた 筑紫倭国を理解しなくては邪馬台国問題は解けないよ。 歴史の教科書には根拠のない嘘が並べ立ててあったのか。 >>194
あんたが、畿内の纏向から明日香までの王都の変遷を語るのに適任です。
解説宜しくお願いします またか、また、テンプレートの嘘が暴かれている。。。。。 >>198
でも、そんなことする必要はないんでしょ? >>195
それがどうしたんだ?
大和政権なんて書いてないだろ >>200
邪馬台国は、ヤマト政権と関係無いからだろ >>200
じゃあ纒向もヤマト王権も嘘だったということで。 >>202
邪馬台国が九州なら、畿内の田舎政権とは関係ないよなあ。
(中国から冊封されていないから王権とも呼ばないよ) >>208
じゃあ6世紀以降の日本列島には王権がないのか?
バカじゃないのか? 6世紀の畿内に王権があった考古学的証拠なんてないのでは? 古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
中期(4世紀後半〜5世紀末)、
後期(6〜7世紀)
に区分している。
古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。
これが通説 >>212
畿内説は不思議だな。
初期ヤマト政権の都は断定できるが、
もっと後の明日香までの都を断定できない。( ◠‿◠ ) >>218
遺跡が見つかってるか見つかってないかの違いでしょ >>216
>古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
箸墓の年代を不当に繰り上げたからそう見えるだけじゃない?
>出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
最大の古墳は大阪側にあるのはどうするの?
まあ、近畿中央部に含むつもりかもしれないけど、奈良盆地ではないよね。
誤魔化しがあるんじゃない? >>223
じゃあ、なんで大和朝廷と区別するの?
いつから大和朝廷と呼ぶの? >>216
畿内の年代を基準にして全国に当てはめてもいいのだろうか。
九州はずっと方形周溝墓が3世紀をまたいで作られているよね。 >>196
そうだね、筑紫を伊都と理解しないとな。
勿論そこは邪馬台国ではないけどねw なぜか畿内の歴史は7世紀以前は確実なものとして遡ることができない。
それ以前の文献もない。 >>226
大和朝廷は神武から万世一系の男系継承の大和の天皇が支配する朝廷
いくつも王朝はあった、何回も政権は交代している、万世一系は捏造である >>232
当然倭人伝の記述だろ。
少なくとも北部九州に14万戸を求めるバカは
考古学やってる奴にはいない。 >>225
古墳と集落がセットになるパターンは確立されてるので問題ない >>224
>最大の古墳は大阪側にあるのはどうするの?
中期古墳だから関係ない >>227
左遷は畿内ヤマトが筑紫倭国を侮辱した言葉である
九州から畿内に飛ばされることは右遷だな >>224
>奈良盆地ではないよね。
畿内説だもの、問題ない >>235
14万戸は畿内説が言い張っているだけだよ。
捏造された言いがかり。 >>228
畿内の年代を基準にして全国に当てはめてない >>245
倭人伝に倭国伝。
特に倭国伝に古の邪馬台国はヤマトと書いてある。 >>246
古の倭奴国のことであるとも書いてある。
ヤマトそのものが筑紫倭国のことであるという可能性を否定できない。 >>248
そんな希望的推測してはダメw
少なくともまず記述されている事は認めないとね。
古の邪馬台国とはヤマトである、そういう認識があったのは事実だろう。 >>251
わからない少数の人は無視しても構わない >>249
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 倭国伝の行程では少なくともヤマトは九州ではない。
当たり前だがヤマトは大和だから。 倭国すなわち九州のヤマトを畿内の日本国が併合したように読める。
おそらく白村江で倭国が敗戦した後のことを言っているのだろう。 「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。」
隋書の頃は漢族じゃないから「臺」の発音が魏晋時代と変わっちゃったんだよね
それで当時の「臺」と同じ発音の「堆」の字を隋の頃は当ててたわけだ
つまり発音が同じだよと言ってるだけ 伊都国にあったという一大率のことも書いてあるので、倭奴国が伊都国であったこともわかる。
倭(古事記によるとヤマトと読む)は九州の国であることがわかる。 記紀の記述は倭は奈良盆地が前提だけどな。
初代倭国主は葛城地方だし。 だから平原墳墓の近辺に何か謂れのある神社があるのか、
また祭神はだれか。教えてくれ。
考古学の話はもういい、限界があるし飽きた。 >>259
それは7世紀後半以降に日本国が倭国を併合した後の文献だからだよ。 九州説は結局希望的推測を元に何事も話を組み立てるから
奇妙な矛盾だらけの話にしかならないんだよ。
記紀でもヤマトとは大和地方を指す。
倭国伝では邪馬台国はヤマトと記述している。
九州は筑紫であり奴国の事だよ、邪馬台国なんてあるわけがないw 8世紀初頭に禁書の詔が出ているから、九州ヤマトつまり筑紫倭国についての文献は処分されて黒歴史になったんだよ。
でも海外の史書である旧唐書には記録が残ってしまった。
もちろん平原遺跡についての記録は特に厳重に処分しただろう。 平原の近くに三社神社ってあるね。
住吉大神の事かな。
ヒミコやヒミコを生んだ王権とは関係ないねw
残念だねw
どんな神社があり何神が祀られてるか、
古代史にとって一番大きな要素だ。
考古学なんてその遺跡の時代がわかればいいだけ。 少なくとも魏志倭人伝当時、九州北部は倭国に含まれない。
倭王卑弥呼を王とする国が女王国であり、倭国。
女王国の傍国(境界の外の国)に奴国があり、しかも伊都国には別の名無しの王がいる。
どう見ても九州北部が倭国である可能性はゼロ。
しかも九州北部の国々は一大率の管轄下で、女王国に服属とある。
後のヤマト政権と朝鮮半島との関係に類似だな。 >>266
200m位先の寳滿宮と向かいあっている。
その先は,三雲,細石神社,さらに先は高祖神社。
村社 三社神社
大字香力字城園にあり。
祭神は手力男命,豊國主命,國狭土命なり。
祭日十月二十六日。
永正年間創建す。
糸島郡誌
村社 三社神社
糸島郡雷山村大字香力字城園
祭 神 手力雄命,豊國主命,國狭槌命
由 緒 不詳,明治五年十一月三日村社に定めらる。
例祭日 十月十七日
境内神社 錦山神社(凊正大神)
綿積神社(少童海神)
厳島神社(宗像大神)
牛馬神社(保食神,大奈牟遲神,少彦名神)
卑弥呼とは関係なさそう。
祭神からするともっと古いかも。 .>>256
乙巳の変のあと畿内ヤマトが筑紫倭国を支配下においたのである >>270
>女王国の傍国(境界の外の国)に奴国があり、しかも伊都国には別の名無しの王がいる。
魏の使いが滞在した伊都国が倭国の外なのかい?
かつて倭国を代表していた倭奴国も倭国の外?
畿内説前提だからそのようなおかしなことになる。
卑弥呼は邪馬台国だけの女王ではなく、倭国の女王であることを忘れているんじゃないかな。 >>270
>しかも九州北部の国々は一大率の管轄下で、女王国に服属とある。
旧唐書
倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >旧唐書
>倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
倭国の王の姓は阿毎(あわ=阿波)氏 >>275
一大率が検察していたのは女王国以北の諸国
九州北部の国々の極一部(対馬〜松浦)。 >>241
考え方が変だから計算も間違ってますね
北部九州には邪馬壱国(女王国)7万戸だけでいい
14万戸は二重に足してますね。 九州説の奴は何で他の地域の歴史を奪おうとするんだ?
九州には九州の立派な歴史があるだろうに。
大阪何か悲惨だぞ。
初期ヤマト政権にやられ、巨大古墳でぐちゃぐちゃにされ、信長にやられ、家康にもやられ、アメリカにもやられる。黒歴史の連続。
邪馬台国なんかありがたいものじゃないぞ。
ヤマトの地は卑弥呼を共立した勢力に征服されただけだぞ。 >>282
大阪には日本最大の古墳があって、摂津住吉のような神社もあって、なんで奈良のクソ田舎の言いなりなんだ? そういえば奈良には大きな神社もないな。
春日神社みたいな、よそから勧請した神社の方が大きな顔をしている。 >>282
>九州説の奴は何で他の地域の歴史を奪おうとするんだ?
九州こそ、歴史を畿内に奪われたんだよ。
「盗まれた神話」でも読もう。 旧唐書は隋唐への遣使を出した600年当時の首都の法隆寺斑鳩宮において、
文官の裴世清が来日して日本の王アメノタリシヒコと謁見した事を記録している。
裴世清は日本が300年以降、傀儡保護国家の百済に献上させた
中国皇帝が下寵した七支刀など宝物仏教五経博士を入手し、
中国同様の都を創っていることを知らなかったので
人も都市も中国の都と変わりない事に驚いたと述べている。
277年以降中国との国交を消した邪馬台国はこの日本国に吸収されている。
王朝として継続していれば、司馬氏は魏の移譲政権であり遣使は絶えない。
中国に朝貢している、弱小邪馬台国には、半島進出が出来る理由は無い。
一大率を置かれた邪馬台国が、すでに百済同様に日本の傀儡国家だった可能性もある。 藤原氏が大和の春日大社に鹿島と香取の神をもってきてるから
日本国とは東国勢力=我姫だな >>288
いや、それらは日高見の国から勧請したんだよ。
日立の国(常陸国)のことだね。 >>287
>277年以降中国との国交を消した邪馬台国はこの日本国に吸収されている。
>王朝として継続していれば、司馬氏は魏の移譲政権であり遣使は絶えない。
卑弥呼は倭国の女王。
倭国はその後もずっと中国に朝貢を続けている。
途絶えるのは隋になってから(隋書に途絶えたとある)。 現王朝は実質10代崇神から始まります。
崇神はクーデターを起こしたようです。
その崇神に倒された前王朝が神族です。
さすがに「神を倒した」はドギツイので神を「鴨」に変えました。
彼らの地を熊野に変えました。
魏志では其国の男王は2世紀前半から存在してますね。
神族の中に彼らはいるし今でも信仰されてます。
大物主、事代主
其国の男王とは彼らです。
ヒミコとは事代主(えべっさん)の娘さんです。
高天原(御所市高天)に住む出雲系(おそらく)の神々は実在しました。 >>291
仲哀天皇もクーデターにあっている。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>283
住吉は博多の住吉神社が始原と言われてるな
古事記に書かれてることは博多周辺での出来事だな。 そう言えば摂津住吉は博多住吉からの勧請、厳島神社は宗像大社からの勧請だな。
伊勢神宮はおそらく伊都からの八咫の鏡を継承しているし。
うーん、畿内は攻め込まれて征服されてばかりなのか。 関東の支配を勧めていったのは、四道将軍の武渟川別、大彦。
群馬県は飛び地のように下戸遺伝子が高頻度で分布するエリア。倭国の関東支配の拠点だった可能性があるな。 >>293
福岡県久山町の伊野天照皇大神宮が伊勢神宮の起源だろうな。 ヤマトの地が征服されたいっても、別に九州に征服されたわけじゃないしね。ヤマトを征服した中心勢力は、伊勢尾張と吉備。どちらも倭人の勢力。
倭国大乱は、基本倭人同士の勢力争い、内乱みたいなもの。
九州は関係ない。
北部九州も吉備と九州南部の投馬国に征服されているけどね。 >>269
>幾内にはヒミコを祀る神社があるのかい
最高の質問だな。
あるよ。
直接祀ってるのは率川神社。
(祭神はヒメ踏鞴)
しかしながら面白いのは高天原(御所市高天)の神族の間では、
ヒミコより5世代前のシタテルヒメ(高姫)の方が重要視されている。
下を照らす高い所におられるのだから天も照らす、つまりアマテラスだ。
スサノオ(こっちが本名)の詳細はアジスキタカヒコネを調べればいい。
なかなかの暴れん坊だ。
スサノオはアマテラスの弟ではなく実際は兄だと分る。
そして根の国の生口160人を連れて洛陽に行き、朝貢失敗。
恥ずかしくて出雲に引きこもったのだろう。 >>297
福岡は征服される側。
勘違いしたらダメだよ。 後漢書では、倭とは朝鮮半島南岸から九州北岸の国で、九州北部が倭の起源だよ。
奴国が倭の極南界と書いてある。
考古学的にも、その時代の倭国王権の痕跡は博多湾沿岸にしかない。
南九州の投馬国も魏志倭人伝では奴国などより辺境扱い。
吉備など本州は「海の東にも倭人がいる」で済まされている。 >>301
【筑紫倭国の本州進出】
日本海ルートと瀬戸内ルートがあったが、4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備されるまでは日本海ルートだけが主力であった。なお、太平洋ルートは存在しなかった模様。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>299
何を言ってるのかな?
全く根拠がない。
スサノオは倭国の中枢から追い出された勢力だけど?
倭国の王のわけないだろ。 >>299
スサノオの国は出雲だろ。
記紀を斜め読みするなよ。 >>302
後漢書が書かれたのは5世紀。
倭については、出典も不明。 記紀によると、出雲と筑紫または高天原はそもそも兄弟国で、出雲が滅ぼされて筑紫の日向(伊都国)が全権を掌握するんだよ。 >>307
いやちょっと待て。
記紀は倭国の歴史書そのものだぞ。
スサノオが奈良盆地に出かけたことはない。
新羅や越など、日本海沿岸のみだよ。 >>309
アマテラスとスサノオが兄弟で、アマテラスの末裔が筑紫天孫族で、スサノオの末裔が出雲大国主だよ。
出雲国譲りで大国主は隠れた(死んだ)ため、天孫ニニギが筑紫の日向(博多住吉の由来と同じところ)に赴任して王権を継承した。
博多住吉は筑紫の日向の小戸(福岡市西区小戸)にはじめはあった。 >>290
中国外交は、266年以降、400年、倭の五王まで途絶える。
倭の五王の外交は洛陽ではなく、別航路で南朝の建康、南京である。
これは、日本が進出した朝鮮半島利権を南朝に認めさせる外交であり
半島進出に含みのある北朝との外交ではない。
この空白の4世紀に、日本がやった最も重要な歴史上の出来事は
任那〜百済から楽浪郡への道を開き、高句麗から牛馬を移入する事と鉄の国内生産である。
これによって、百済は発展し、350年までに国体を持つようになった。
また、国内においては400年程度までに高句麗牧童も使って
甲斐に軍需産業としての勅営御牧を成功させている。
日本に存在しなかった馬と軍事を担当した大伴氏系の前方後円墳や高句麗墳墓が出ている。
これに失敗していたら、古代日本は600年に成立できていない。
邪馬台国論争の視野の狭さには呆れかえる。 >>311
ニニギが何処から赴任するんだ?
おかしなことばかり言う奴だな。 >>313
400年から600年まで時代を飛ばすなよ。
それらの主体である倭国が筑紫である可能性についてはどう思うんだ? >>304
スサノオより、ソサノオが古い読み。
素(始祖)・サ(神)の男(立派な男/大丈夫)、、、始祖の王/太祖
サノの命=神武天皇/ホホデミ(家系の当主のホホデミ。
ホホデミ、、、徐福(=ニギハヤヒ/ホアカリ。天御中主/イザナギ/スサノオ/天照御魂大神(天照皇大神)他多数)と
カタアタス命(出雲王族(西王家、神門臣家の出身)/宗像王家を創建)の三女の市杵島媛命(サヨリ媛/イザナミ/玉依媛命/天照大神荒魂/)の御子) >>314
高天原からだろ。
対馬海峡のどこかだろう。
もともと対馬海峡周辺が倭国だからな。
出雲へも筑紫へも、記紀にあるように船で行き来できる。
初期の倭国が日本海の海運で発展したことを考えても、高天原は日本海のどこかだよ。 >>316
なんだかいろいろ習合されているような気がするが。
しかしいずれも筑紫の王族が含まれているから概ねハズレでもない。
神武天皇 筑紫の日向の高千穂宮出身
ホホデミ 伊都国高祖宮(高千穂宮)の祭神
市杵島媛命 宗像大社の姫
イザナミ 住吉神社の縁起となったイザナギの妃
玉依媛命 神武天皇の母、志賀島の綿津見の娘 >>314
ニギハヤヒ=ニニギ
ニギハヤヒは徐福が秦の始皇帝を舌先三寸でタブらかし騙し通して
巨万の財貨をせしめて三千人と言われた男女の海童(あらゆる職能集団や一族も紛れ込ます)と大船団で山東半島から東海(黄海〜東支那海)に船出して
北九州、有明海に入港して佐賀に上陸して
再度の渡来を果たして自ら号したのがニギハヤヒ
、、、初回渡来時は石見の五十猛海岸に上陸。
ホアカリと号して策謀を巡らし出雲帝国を文字通り引っ掻き回して簒奪を謀るも失敗して捕遂、追撃対象と僅かに得た?丹波国と妻子を置き去りにして逃げ帰った、、、
、、、イザナギの国産みの失敗(ヒルコ=大国主(殺害した八千矛命)。アワシマ=スクナヒコ(副王)の八重波津身(殺害した/事代主。大物主。一言主))。イザナギが黄泉の国の軍団から追撃、逃亡する件。高天ヶ原で乱暴狼藉の限りを尽くす件)。 >>293
何回も王朝は交代している、東京明治天皇こと大室寅之祐は皇統とまったく関係ないけどな >>319
それで、大逆無道のニギハヤヒの名前を出すのは(未だに大勢を占めている出雲系の氏族ら。(天皇家も母系は出雲の血統が色濃い))を憚って
皇祖ニギハヤヒ(スサノオ/天照皇大神/天御中主/高皇霊尊)をニニギに改変したと出雲の古老らに伝承されているらしい。 >>318
自己レスなんだが、こうして見てみると、神武天皇は父方の祖父が伊都国の王で、母方の祖父が志賀島の王なんだな。
しかもそのどちらもイザナギの末裔のはず。
なんで伊都国を出たのかな。
やはり2世紀の倭国大乱かな。 >>321
ニギハヤヒは畿内に落ち着いて物部になったじゃん。 >>315
400〜500は倭の五王時代、半島利権の交渉に行った。
国内では、辺境諸国平定の時代
九州北部は筑紫の君に治めさせたが外交、貿易を担当させてはいない。
この間に発展してるのは、明らかに九州より関西と北陸、関東。
九州の没落は、邪馬台国滅亡以降、対馬貿易の全権を持っていかれたから。 スレチwww
500年は大伴の金村による百済への任那4県割譲。
523年筑紫の君磐井の乱、磐井は新羅と内通して筑紫の独自外交を図って粛清された。
中国情勢の理解から半島利権の放棄方針がこの頃から有ったと思われる。
金村は500年五経博士を連れ帰り、中国史を理解した日本は中国外交を刷新した。
傀儡国百済を通じ、530年仏教公伝、それが600年の遣隋使に繋がる。
九州は、百済同様、辺境領地。日の沈む国の類だったが、
663白村江敗戦前後に日本固有の国土に修正し防人を置いた。 >>324
>この間に発展してるのは、明らかに九州より関西と北陸、関東。
比較して関西が傑出しているようには見えないな。
九州の古墳もその頃には大型化しているし。
>523年筑紫の君磐井の乱、磐井は新羅と内通して筑紫の独自外交を図って粛清された。
岩井は死んだが、息子が筑紫の君を継いでいる。
逆に、それまでは筑紫は畿内にかかわらず独自に外交をしていたし、それこそ筑紫なる倭国だろう。
筑紫倭国の繁栄は白村江まで負けるまで続いただろう。 ここは畿内説スレ
なるほど
畿内説以外は
みんな非学問的なトンデモ説だということが
よくわかるスレ >>310
>スサノオが奈良盆地に出かけたことはない。
奈良盆地の高天原(御所市高天)から洛陽に出発したのだ。
麓の生口さん160人を引き連れて。
朝貢失敗。
面目丸つぶれで出雲に引きこもりw
これが倭国大乱の原因だったりしてwww >>326
石井はもともとは畿内の大王の家来だろ
離反したので殺されただけ >>324
そもそも筑紫倭国は新新羅なのです
筑紫の君磐井の乱は突然継体軍が攻めてきたのです >>304
>スサノオは倭国の中枢から追い出された勢力だけど?
>倭国の王のわけないだろ
実在した倭国王帥升(すいしょう)に一番近い発音の王を出してみろ。
出せないのは君の論理が間違ってるから。
そして160人もの生口がいた俘囚郷が存在する歴史的根拠もついでに言え。
葛城ならすべて説明できる。 >>332
葛城王朝は邪馬台国や卑弥呼とは関係ない >>329
継体なんて、越から担ぎ出されたのに、何年も畿内に入れずウロウロしていた弱小王だろ。
歴史ある筑紫の君より上なわけないだろ。 >>332
>実在した倭国王帥升(すいしょう)に一番近い発音の王を出してみろ。
当時の発音なんてわからないだろ。
suiのように母音が並ぶことはない。
むしろ文字が意味を持つ。
帥は率と同義であり、同じ音も持つ。
つまり一大率や太宰の帥と同じで、筑紫の支配者なんだよ。
畿内は関係ない。 >>335
ならどうして磐井の墓は
継体の墓のキッチリ3/4サイズなんだ?
子分だったからだろ 黒歴史を世界遺産とか地元の人は、何考えているんだ? 岩戸山より小さな天皇陵なんていくらでもある。
アホか。 >>339
まず年代測定をきちんとやらんといかんな >>335
だから独立宣言しても勝ち目があると思ったんでしょ
でも失敗した 継体なんて、兵を筑紫であげておきながら攻めあぐね、物部麁鹿火に長門より西をやるなど無茶を言い、それでも糟谷の屯倉一つしか手に入れられなかった。
それでも畿内勢力が初めて筑紫倭国から割譲された土地だったので、喜んでそれを記録した。 畿内説も、纒向なんかじゃなく大阪のどこかを邪馬台国にすればもっと説得力があったんじゃないか?
纒向なんて貧乏くじだろ。 >>321
みに神武天皇はモデルが数人存在しているのを一人にまとめて記述した架空の大王。
一人目は徐福=ホアカリの孫の天村雲尊。
、、、ホアカリが起こした出雲大事件の結果、渡来人らとの共住を忌避した出雲王族らが畿内の葛城地方に移住。
そこに天香語山/五十猛(猛は徐福の父親の諱(徐猛)で息子に名付けた)や天村雲尊ら丹波国勢力が大量に移入して来て勢力を誇ったのをみた先住の出雲王族らは、事此処に至れば是非も無し。と丹波国勢力の当主、天村雲尊を大王と認め、
葛城、出雲の分家の登美家よりタタラ五十鈴媛命(事代主/八重波津身(出雲帝国の東王家、富/ムコウ家当主)と摂津三島の生玉依媛命の娘)を后と為して
大倭国(丹波葛城(倭)連合王国)が成立。
神武天皇以降の欠史八代が概ねこの天村雲尊の大王家。(高尾張王家)
かつ、系譜に現れる歴代の大倭媛命(竹野媛命)がいわゆるヒミコ。
第8代孝霊天皇の時に九州の親戚(ニギハヤヒ(ホアカリ)→ホホデミに始まる物部王家)が第一次の東征を興して
孝霊天皇と皇族近習らは大倭国(高尾張)を放棄して逃避。吉備国を興した。
(更に宗主の出雲帝国にいきなり攻め入って、親戚と油断して佐賀に出雲帝国は大混乱。(出雲の鉄を欲した故らしい)
(←これが桃太郎の鬼退治のお伽噺の元ネタらしい。山(ヤマト)から流れてきた大王(桃(モモはヤマトの比喩)太郎)鬼=出雲(八俣の大蛇も出雲帝国)))
大倭国(畿内倭国)の新たな主と成った物部王(畿内倭国に天下ったニギハヤヒ)もやがて葛城の王族らに取り込まれる形で同化。
それも僅か三代の頃(百年後?)に
再び別の九州物部王家が畿内倭国を攻略。 >>346
葛子の墓説がある善蔵塚古墳が継体の墓の1/2だよ
継続してる
賠償払って許されたって記紀の記述どおりだろう
改めて臣従を誓ったんだね 筑紫倭国最後の王は、白村江の戦いで捕虜になった幸山だろう。
ああ、筑紫の日向にいた神武の祖父の山幸にそっくりな名前だな。 >>実在した倭国王帥升(すいしょう)に一番近い発音の王を出してみろ。
>当時の発音なんてわからないだろ。
>suiのように母音が並ぶことはない。
>むしろ文字が意味を持つ。
>帥は率と同義であり、同じ音も持つ。
>つまり一大率や太宰の帥と同じで、筑紫の支配者なんだよ。
>畿内は関係ない。
名前を出せない人間の見事な屁理屈でしたwww >>349
その箇所は中国古典からのパクリだね
8世紀の文官がカンニングしただけだ
深い意味はない それも僅か三代の頃(百年後?)に
再び別の九州物部王家が畿内倭国を攻略。
いわゆる崇神天皇はその準備中に宮崎の都万国で敢えなく劫去。
遺志を継いだ三兄弟が出師して難波津に上陸侵攻。
押し返され、、、一人は矢傷が元で紀伊国で死去
熊野に上陸侵攻を開始するも(神話とは違って)
高倉下命の子孫ら勢力に攻め立てられて二人目の兄も死亡。
まさに進退窮まった物部侵攻軍は、(畿内倭国内の乱れ(権力闘争)に付け入る余地ありと見て)葛城の登美王家に救援、内応(裏切り)を要請。
登美家当主、武津乃身命の内応、誘引により熊野〜吉野の山々をほぼ無傷で進軍、イワレに着陣、駐屯。
大倭国の大王側(大彦=ナガスネヒコ)らが逐電逃避(その東国、北に逃避した旧勢力、一味らを蔑んで蝦夷(エミシ)と言った)して
新たな主と成った九州物部王のイクメが大王に即位(垂仁)。
、、、三人目、かつ実像の神武天皇。
登美家=金鵄。登美家(出雲王家分家)の当主、武津乃身命=頭ヤタガラス。
この事蹟が概ね神武天皇の東征譚に反映?。
この大乱(倭国大乱)の結果、負けた側がレジスタンスとなり体制側にゲリラ戦、テロを繰り返したのではないか?(河内には五彩の大蛇が出現、大和は三輪山の神が荒び祟りを為す云々)
三輪山の神は垂仁天皇とは全く赤膚の他人、というか先祖らが乱暴狼藉の末に謀略を持って殺害した出雲帝国の副王(スクナヒコ)で有った八重波津身命(事代主神)
三輪山の神=八重波津身命/事代主神の直系の葛城の登美家クシヒカタ命の直系子孫の大田田根子(レジスタンスの首領)に何とか取り入り懐柔(色々と折り合い、条件を付けたかと思います。)。
三輪山の神の初代神主(子孫、神裔でないと務まらない=祭神は祖先で祖霊祭祀)に据えて事態の収拾を図った。 >>353
五十猛の墓は博多湾沿岸にあるぞ。
畿内なんか関係ない。
ニギハヤヒからホホデミにつなげたり、家計も時系列もデタラメだ。
やり直せ。 >>355
サッちゃんってさ、畿内にいた大王の命令で出征して捕虜になったドジな田舎大名だろ >>357
あれだけ継体を持ち上げておきながら、都合の悪い部分は無視する、それが畿内説。 >>360
司令官として無能なのは確からしいが、中大兄皇子が援軍を渋ったりして足を引っ張っただろ。
戦後の出世を見ると、むしろ中大兄皇子は密かに唐と通じていたんじゃないかと思うよ。 >>358
物部って継体の命令で九州征伐に行ってんだろ
磐井鎮圧のために駐留して、九州に領地をもらった分家が残ってるだけだ >>358
畿内説は、この身内の恥をどうにかしろよ。 >>358
イズモ(厳神)に(蔑んで)出雲の文字を宛たのはこの時では?
雲、クモは対象を卑下した文字、表現。
、、、雲の様に何処と無くいっぱい現れ出でてテロを働く輩? >>359
キキ神話の下手な創作落語に毒されていませんか? >>361
日本書紀研究でむかしから後世の捏造箇所だとはっきり判明してて
それが定説になってる部分だぞ
史実解明のために無視して当然だ
文献学の常識を知らないトンデモ九州説が
知らずに後からトンデモ妄想説を作っちゃって自業自得の恥かいてるだけ >>364
そいつは東遷説だから身内でもなんでもない
ゴミはゴミ で九州にいたヒミコはだれ?
ザラコクの刀良っておばはんは九州説としてもさすがに恥ずかしいだろw
おれは畿内説だがモモソ媛のような小物がヒミコであるはずないという意見。
ヒミコはヒメ踏鞴。
神武の時代が女王国。
さぁ遠慮せず、ヒミコが誰なのか言ってくれ、福岡半チョンカッペ君たちwww >>366
五十猛の伝承は記紀だけではなく、日本海沿岸各地にあるから、畿内でないことは確かだよ。 >>370
畿内説の者が九州物部王なんて言うわけないだろ 253の>>898
>いたよ。 ちゃんと書いてあるし今でも祀られてるではないか。 大物主、事代主、鴨王。
彼等がヒミコまたはヒミコ以前の男王だ。<
8世紀以後の半分×書の記紀記載や、それに拠った神社伝承記録などは、
論拠にならないよ。 253の>>904
>そんなこと言ってる考古学者が 誰もいないのは 何故?<
日本の考古学者の殆どは、「南→東」の嘘つきダマシの大和説を肯定しているサギシであるから、
そんな考古学者の、発掘事実の紹介に関してはある程度は信頼しても、
その発掘事実に対する解釈や説明は、信頼性が殆どないんだよ。 253の>>907
>で九州にいたヒミコは誰?<
松野氏姫氏系図に書かれた刀良で、
おそらく風土記にも書かれた甕依姫。 253の>>907
九州説に対する反論は、
全滅ということで、
よろしいね?。 253の>>912
>何の謂れや伝承もない遺跡をヒミコの墓というのはむなしいだろ。 せめて近辺の神社から何か探してくれ。
平原に何という神社があってどんな謂れがあるのだ?
「ない」のなら俺の部屋から見える小山をヒミコの墓だと言ってるのと変わらない。
むなしくないか?<
列島の中の墓遺跡で、「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たすのは、祇園山だけだよ。 >>374
それのツマミ喰いでトンデモ説捏ね上げてるくせ
w >>378
祇園山はただの共同墓地
須恵器も出てて時代がちがう >>377
こんな捏造ばかりしてる奴がいたから九州説はダメに
なった >>381
卑弥呼の墓でありえないナンバーワン (笑笑 >>381
時代ちがう
大きさ違う
中国鏡ほとんど無い
殉葬ない
四角い
ダメダメ 祇園山とか平原遺跡か・・・ 九州説も貧弱遺跡しかないねぇ @阿波 倭国大乱の後の女王墓は平原遺跡になるんだよ。
しかも倭国王であることを示すこれ以上ない証拠として八咫の鏡がある。 九州説は無学ゆえの妄想50%
小銭稼ぎの詐欺50%だな 253の>>914
>>何の根拠もないけど。<
>記紀に登場するではないか。 なにを言ってるんだ。<
何を言ってるんだい?。
記紀は、「倭国の存在や歴史を抹殺して、列島の盟主は天地開闢以来大和の王家であった」、
という、嘘つきダマシの造作盗用の偽書であり、
そんなものが、歴史の論拠になるもんか。 253の>>921
>「都へ搬入集中上納」されるもの だとかいう根拠ゼロ<
大和説学者が、
大和に西日本の土器や物品の搬入があるから、大和が盟主であり都だ、
という主張をした時の論理と、
同じなんだよ。 253の>>925
>糸島市の弥生遺跡数は 奈良県の半分しかないからねえ <
何故「市と県とを比べる」んだい?。
何故、筑前の弥生銀座を省くんだい?。
・・・・サギシだから?。 >>396
上納なんて誰も言ってないじゃん
ヌスット猛々しいわ 纒向がヤマト政権の王都とするならば
飛鳥までの都の変遷を論じなければならない
>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである> 無知識素人75歳ザラコクが妄想するのは
無理もないから
無能と云っても詐欺師と言うな 253の>>933
>>君が言う大物主、事代主、鴨王は倭国の王なのか? 倭国の王なら倭人ということでいいのか?<
>当たり前じゃないかw 彼らは神=カミ=カムイ だから鴨族と呼ばれる。 彼らの土地の名前は熊野にされた。<
列島での「神」は、縄文以来の崇拝対象であり、
中国語での「王」や「倭王」ではないよ。 >>401
九州説に理ありというなら
下山事件真犯人の略歴を解説せねばならない
いいな!? 纒向がヤマト政権の王都とするならば
飛鳥までの都の変遷を論じなければならない
テンプレ>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである> >>393
時代ちがう
大きさ違う
中国鏡ほとんど無い
殉葬ない
前方後円墳
ダメダメ 253の>>934
>で、ヒミコはだれ?<
松野氏姫氏系図の「刀良」であり、
おそらく風土記の甕依姫。 纒向がヤマト政権の王都とするならば
飛鳥までの都の変遷を論じなければならない
テンプレ>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである> 253の>>935
>頭の悪そうな妄想九州説は九州スレでやってくれ <
「南→東」の嘘つきダマシの、分裂幻覚妄想の大和説スレは、
病院か留置場かでやってくれ。 アンチ畿内説の特徴
まともに日本語が話せない
なんで? 253の>>936
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の・・・・ガキらが、
本当に哀れになってきたわ 。
もう反論されすぎて、夢と現実の区別がついてないんだろ?。 >>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
その「土器拡散」は畿内からではなく、「阿波」から全国に拡散しています。
また、「初期ヤマト政権」とは、倭国(阿波)の王権のことを指します。
「畿内」は全く関係ありません。 @阿波 >>417
ザラコクは病院からネットしてていいの? >>418
畿内厨が日本語をまともに理解できないから 253の>>941
>なんで削除されるんだよ。
2世紀前半から3世紀後半まで続いた王権を削除なんてできるかよw
民間信仰として何らかの形として残るはずだ。
冗談も休み休み言え。w <
8世紀の大和や記紀が、3世紀の卑弥呼らの伝承を否定抹殺したんだよ。 今日もテンプレへの疑義に
答える畿内説は皆無
スレ主も逃げたようだ。
1、
三輪山周辺・(纏向でも可)の古墳(墓地)は
箸墓に限らず三輪山伝説の女性の墓は数多くが候補となり得る。
2、
>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???
纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。
3
テンプレでは方位の間違いについて、
朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか? >>427
捏造乙
だれも今日テンプレへの疑義なんて書いてない
最初の一行でウソがバレバレ
w >>397
あらら、これは恥ずかしいな
>>390
横だが、箸墓は文献と何が照合するんだい?
平原は中国朱、鏡文化、有棺無槨、何よりも他を圧倒する副葬品、おまけにそれは女性のかなりの権力者と思わせる物
考古学的証拠だから、これは確定事項
今時点ではどちらかといえば平原の方が可能性があるな >>427
根拠も証拠も無いがアテズッポウ(山勘)で
1、倭人伝と記紀の混合で箸墓を女性の墓=卑弥呼の墓
2、藤原京・・・不可能だが現藤原京のもっと奥深くに都の後がある。纒向→藤原→明日香→藤原
3、必要十分では無いが、誤記、転写ミスだと思う
@阿波はどう思う??????????????????????????????? >>429
読んで無いな、
>>100までですべて疑義が出てる 倭人伝によれば九州は真朱をもらっているからな。
有丹で存在は確認されているが
産とは書かれていないので
生産まではしていない。
生産していたら、真朱をもらう必要は
ないからね。 >>429 ・・・・あんたが捏造乙
ほ ら 、ほ ら
56日本@名無史さん2017/07/30(日) 23:46:41.61
テンプレでは方位の間違いについて、
朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか?
53日本@名無史さん2017/07/30(日) 23:31:52.17>>63
箸墓が女性の墓であるという証拠はまだ答えて貰えないの?
三輪山伝説なら、三輪山周辺の墓地は女性にの墓の候補になるのだけど。
径だけで、卑弥呼の墓と決めつけるのは良くないと思う。
61日本@名無史さん2017/07/30(日) 23:55:13.54>>77
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???
纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。 >>393
箸墓は丸くないからさ。
後から前方部を作ったなんて言うなよ。
それだと箸墓から定型化したという前提がなくなるからな。 >>434
>@阿波はどう思う???????????????????????????????
どうもこうも、ありません。
1、卑弥呼の墓=気延山の円墳(「天石門別八倉比賣神社」裏手)
2、大和が日本の中心となったのは阿波から遷都した8世紀の藤原京から
3、転写ミスなどしていない。 ちゃんと倭国(阿波)へ導いている >>433
あらら、これはねぇ
中国から貰った真珠は真朱の間違いとして、結構支持されてるのに
>>435
権力者が中国朱より、どうして九州産を使用しなくてはならないの?
貰った真珠が真朱だった場合、国産の朱は貴重で少量でだったと思われるし
多量に国産品があるなら必要ないからね ( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )( ◠‿◠ )
今日も多勢の
キウスが来たりて
畿内説の悪を裁く
👌👌👌👌👌👌💕👌👌👌💕💕💕💕👌👌 >>440
こいつ馬鹿?
どうしてそんな解りやすい捏造なんの? >>442
畿内説より、阿波説が良いな、
鞍替えすべきか、悩んでるよ
方位が解決できれば、阿波説だな >>443
>貰った真珠が真朱だった場合、国産の朱は貴重で少量でだったと思われるし
>多量に国産品があるなら必要ないからね
阿波では多量に阿波産朱が有るのに、中国朱を貰ってますが・・・ @阿波 >>446
方位は太平洋ルート
投馬国は日向、大隅
南に向かい黒潮で四国南端
陸行で阿波 >>447
丸くなくてもいいなら、平原遺跡でも問題ないな。 >>445でやんす
間違えた
>>427
こいつ馬鹿?
どうしてそんな解りやすい捏造なんの? >>449
あんたがふさわしい、疑義に答えるには
1、
三輪山周辺・(纏向でも可)の古墳(墓地)は
箸墓に限らず三輪山伝説の女性の墓は数多くが候補となり得る。
2、
>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???
纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。
3
テンプレでは方位の間違いについて、
朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか? 釣り情報
アンチの釣り師出没
釣られる方も釣られる方だが 以前から書いているけど、
家は阿波の出身ではないよ
その『市』というのは、
ヤクザの話? >>453
なに言ってんだか
オレの空想と合わないのはこココって言ってるだけだろ
わかって、、、ない? 北朝鮮がICBM発射したから福岡説が興奮してるみたいだな >>452
>>420は礼儀知らずの初心者だよ
まず初心者は読みこまないといけないね >>448
出土した品物は交易が贈品かわからないが、中国朱がある事は重要だね
阿波に何かしら強大な権力を示す墓があったり、北部九州にひけをとらないぐらい発展した集落があればいいのだがな ゴメン、たすけ舟としては恥ずかしい
反省、反省、反省、反省、反省、反省、
後はスレ主さんヨロシク どうでもいいカキコミはいいよ
答えろよ
1、
三輪山周辺・(纏向でも可)の古墳(墓地)は
箸墓に限らず三輪山伝説の女性の墓は数多くが候補となり得る。
2、
>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???
纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。
3
テンプレでは方位の間違いについて、
朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか? >>453
寺澤もお答えられない難しい疑問だが
畿内、纒向、箸墓以降は考古学の分野で無い >>461
>阿波に何かしら強大な権力を示す墓があったり、
王墓は山稜にあります。目立ちません。 有力豪族の墓としては、渋野丸山古墳があります。
渋野丸山古墳は5世紀前半に造られたとされており、墳丘の全長が約105メートルで、四国では2番目に大きい。
造出は大山古墳(仁徳天皇凌、堺市)などの大型前方後円墳にあるが、四国では渋野丸山古墳でしかみられない。 寺澤先生は
奈良県立橿原考古学研究所にも籍を置いていたから
纒向から明日香までの王都の変遷は研究してます。
そのうち明らかになると思います >>464
あきらかに、おなじひとが、はかなこと言ってる >>461
>北部九州にひけをとらないぐらい発展した集落があればいいのだがな
矢野遺跡をはじめとする、鮎喰川下流域集落を知らないのですか?
北部九州にひけをとらない集落のはずですが。 >>467
発掘されなければ論文レベルになる可能性は低い
たぶん平城京の下層だから発掘は困難 天王日月・・・鳴門の重要遺跡群
鳴門市・板野郡(旧板野郡)には,きわめて重要な遺跡群があります.
萩原墳丘墓・・・前方後円墳のルーツ,2号墓で中国鏡の破片・中国の朱,1号墓で画文帯神獣鏡の副葬
阿王塚古墳・・・2面の画文帯神獣鏡の副葬(宮内庁所蔵の優品)
天河別古墳群,西山谷古墳群・・・国内最古級の古墳を含む古墳群
黒谷川郡頭遺跡・・・朱の精製,弥生後期〜終末期の県内最大級の規模の住居遺跡
これらの遺跡群の真の重要性はまだ一般には知られていません.
しかし,ここに日本の「壱」の場所があったのです. @阿波 『サイバーパンク special』というコミック
なぜか伊達政宗?のようなキャラクターが出てきたり、
むかーし住んでいたことがあると言っていたり
あの写真などの撮られた当時、
そういうコミックやゲームは無かったと思う 畿内や北部九州に「矢野遺跡」「名東遺跡」「庄・蔵本遺跡」「萩原遺跡」「黒谷川郡頭遺跡」等々に匹敵する遺跡があるのだろうか?
「那賀川流域」「鮎喰川流域」「大河吉野川流域」に拡がる徳島平野はまさに、「倭国の首都」に相応しいと言える。 @阿波 行きは太平洋ルート、帰りは瀬戸内
初回の行きは太平洋ルート
其の後の使者は瀬戸内 253の>>942
というわけで大和説は、
「南→東」の嘘つきダマシや、
記紀の半分偽書や、
「大和は筑紫城の倭奴国の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」などへの、
弁解や反論が言えずに降参した。
敗残兵とはこんなにぶざまなものなのかw 。 「弥生時代後期」に古墳からではなく、「集落遺跡」から「中国鏡(異体字銘帯鏡片)」が出土しているのは、全国で阿波だけなんですね。
「古墳の副葬品」ではなく、日々人々が暮らしている「集落遺跡」から「中国鏡」が出土するということは、この遺跡周辺が古くから中国との交流があり、
また、古墳発祥の地でもあり、全国への出発地及び副葬品の供給地であったことが窺われます。
まさしく、倭国(阿波)の貫禄ですね。
庄・蔵本遺跡(日本有数の初期農耕集落遺跡)
http://tokudaimaibun.jp/s_rist.html そのコミック
謎の刀(剣)を持っていて、
雷のようなものを発していない? 『刀 雷』
このなかの、どれかだと思う、何か由来がありそう >>477
「当時」の自然環境を軽視しすぎ。 @阿波
・奈良盆地は海に面さず、発展する余地なし。
・纏向は湿地帯で王都に不適。
・対馬海流に流されて、末羅國=呼子・唐津は有り得ない。
・瀬戸内海航路は潮流対策施設不備につき、「通し航行」不可能。
・弥生の大洪水で稲作壊滅状態。 もっと詳しく書く
むかーし住んでいた事があるんだよ
というところ
現在、小手子の像というものが建てられている? 253の>>953
>分かったからヒミコはだれ?
言えないのは「降参しました」だからな。<
魏志倭人伝などに書かれた卑弥呼だよ。 >>485
徳島平野は今でも豊かな海に面していますよ @阿波 253の>>958
>なるほど テンプレ見たら論破されたことになっちゃうから 目をそらして逃げてるのかあ<
なるほど、テンプレ自身が、「南→東」などの嘘つきダマシのアホ詐欺師だから、
論破されたことになって、 目をそらして逃げてるのかあ?。 253の>>959
大和説者は、思考停止の非論理で、オウム返しされて、ミトモナイ 。 >>487
徳島平野の標高は大部分10m未満だから、弥生時代の遺跡は全部山麓にある >>485
城山に貝塚があるので、この辺まで海だったんでしょう
卑弥呼時代の倭国の中心地は矢野遺跡周辺
時代が下って神武東征以降は鳴門・板野周辺が倭国の中心と思われます @阿波 庄・蔵本遺跡の大洪水跡からすると、稲作は相当打撃を受けたでしょうね。
だから、倭国(阿波)の神様「大宜都比売」は穀物・食物・蚕の女神となったのでしょう。 @阿波 >>55
>また、モモソ=ヒミコと暗にほのめかしてる。・・・・・・・モモソ=ヒミコは畿内説内で統一されているか?<
「南≠東」だから、・モモソ≠ヒミコであり、
だから大和説者は、嘘つきダマシの・・・・サギシ集団。 閑話休題
大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 阿波の弥生時代は、稲作が未熟で鉱物掘りだから
基本的に縄文時代とさほど変らない >>58
>倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、畿内や伊勢尾張美濃が中心だろうね。<
「南≠東」だから、大和や伊勢尾張美濃も×だよ。 >>59
>(伊勢遺跡)立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。<
「南≠東」だから、「倭国の仕組み」も×だよ。 >>60
>クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、
大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。<
「南≠東」であるから、×。 >>61
>>(スレ主?)土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである<
⤴
>良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???<
南≠東であるから、始めから「良し」ではない。
>纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。<
こっそり「南→東」の嘘つきダマシの宣伝をすべからず。 >>62
>倭国大乱 <
「倭国大乱」なんて存在しない。魏志では、「倭國亂」。
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。<
「南≠東」だから、卑弥呼は近畿の女王ではない。
>これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。<
神武東征は、仁中歴に拠れば、紀元前1世紀。
>結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。<
卑弥呼が東征した記録はない。
>吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。 これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。<
纒向には筑紫の土器は出ないが、纏向→筑紫の搬入があるから、
筑紫が西日本付近の盟主であったことになる。 >>463
>三輪山周辺・(纏向でも可)の古墳(墓地)は
>箸墓に限らず三輪山伝説の女性の墓は数多くが候補となり得る。
どうして?
理由は?
???? >>504
>纏向→筑紫の搬入があるから
根拠無し >>72
>箸墓=卑弥呼の墓と比定してるから女性の墓です 箸墓=卑弥呼の墓と比定してるから女性の墓です<
「南≠東」だし「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に全く合わないから、
箸墓は始めから卑弥呼の墓ではない。 >>508
倭人の墓の特徴「有棺無槨 封土作冢」とも違いますから卑弥呼の墓じゃないですね。 >>463
>テンプレでは方位の間違いについて、
>朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか?
第三者的というか常識的に言えば
全称命題の否定は一つの反証でいい
もう何人もこれ指摘してたっけ
まだ理解できんの? >>152
伊都国が邪馬台国の王都説で畿内説は完全論破されて逃げ出したからだろw >>97
>スレ主は断定してる >土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
ヤマト政権の纒向から明日香までの王都の変遷はスレ主が論ずるべきだろう <
スレ主は
、「南→東」の嘘つきダマシのみならず、
土器拡散が、「筑紫への集中」であって、「大和への集中ではない」事や、
「2世紀末〜3世紀」という年代比定の嘘つきダマシや、
「大和は、白村江まで倭国の別種の旧小国であった」ことも無視しているから、
人間ではない思想宗教的な・・・・の、ケダモノ詐欺師であろう。 そもそも、何か繋がっている?
家の隣に住んでいた高野さんでしょ
うちだゆーや、のバンドでドラムをやっていて、
10代の頃から
ということを言っている >>518
証拠が出せないで相手への侮辱で誤魔化そうとするのは
間違いなく詐欺師に手口
>>513
ちょんびー伊都厨のヤタガラスちょんぼ話で
皆が引いた時のことを言ってるんじゃないかな 阿波に7万戸は無理。
阿波厨は、邪馬台国論争、古代史論争を撹乱したいだけ。
学問をする資格なし。
何処の回し者なのかな? 親魏倭王卑弥呼を論ずるなら、
倭人とは何か?
倭国とは何か?
をはっきりさせて、議論しないといけない。
当時の日本列島には、様々なルーツの集団がいたからな。 >>523
伊都厨ったら柳田論文の捏造事件じゃね? >>526
ヤタガラスちょんぼの次の一手が柳田論文の捏造事件 二本松少年隊?顕彰の碑
という写真があったり、実際は写真ではない 写真ではない、白黒(モノクロ)で、横長?
そのモノの、上と下に、白い四角・・・のようなもの >>530
伊都厨が柳田論文から遺跡の名前を隠して消して
そこに書いてあるのがあたかも平原遺跡の年代であるかのように
読者が誤解するように書き換えた詐欺
詐欺
詐欺
詐欺 本当に何なんだろう、
登呂遺跡?住居のような写真
藁のようなものがない状態のもの 住居の前というか、
周囲に木があるでしょ
そこに座っている 自演中毒キウス
古田教狂信徒ザラコク
八咫バカ糸クズ
トンスル物部厨
泡沫阿波キチ
不眠不休呟きアスペ >>510
確率的に無理
大数の法則・・・少し大げさだが
一例をあてはめるには無理があると反論してるのだが
やはり、畿内説は畿内に邪馬台国ありきが出発点だから、あとはゴリ押し説
ナイス疑義・・・・纏向から明日香までのヤマト政権の王都の変遷・・・・・畿内説でどう答えるか?
3世紀の王都を比定できて、6世紀明日香までの王都がわからんとはトホホ >>510
いつの世にも方向音痴はいるが、それを証明しても意味はない FAQ5のA
>>ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、
江戸は京都の東千三百里と正しく把握している むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している >>
当たり前すぎて説にもならん
申維翰が来たのは朝鮮通信使の晩年だから経験は多く積んでいる。
江戸期のの日本の交通網を無視しすぎ。 命題がおかしいんだよね
魏使が方向音痴だったことを証明しないとね >>510
非科学的だね
反証と立証は違うよ
仮説をもって方位を語るのは自由だがね なぜか数年前の信onというスレに、
このような書き込みがあったり
「 〜の先祖の住んでいた家wwwww」 張り付けスマン
1、
三輪山周辺・(纏向でも可)の古墳(墓地)は
箸墓に限らず三輪山伝説の女性の墓は数多くが候補となり得る。
2、
>>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
良しとした場合、なぞの4から5世紀もヤマト王権であったという根拠は?古墳???
纒向から明日香にいたる経緯を述べるべき。
3
テンプレでは方位の間違いについて、
朝鮮通信使の一例を出しているが、、一例だけで必要十分条件と考えているのか?
3については、申維翰の事例を、魏志に<<仮説>>として当てはめてるから根拠とならない事で決着
次、1 OR 2について語る? 『登呂遺跡 住居』
画像 グーグルで検索してみて
鍬入式という記事が出てこない? >>542だよな
十数回来てる朝鮮通信使が南の方位をただ一度間違えたのは仮説にならんな。
説得力の点では
「朝鮮通信使は、幾度となく来てるが方位を間違えたのは一度だけ
よって、魏志が方位を間違えた確率は相当低い」 こういうのも、何の話なんだろう
『マータ・ハジマータ』
『バレバレーノ・ジェーン』 >>548
じゃあ方向を間違えなかったのは何回?
w >>553
>じゃあ方向を間違えなかったのは何回?
全て。 全て間違いなく、壱岐→相島→福津(末羅國)へ上陸している。 @阿波 今日はどのように畿内説のウソを暴くのか楽しみ
畿内説少しはがんばれよ、スレタイが泣く >>553
十数回と書いてあるだろ。
畿内説は悪質だな。
それは畿内説の評判を落とすと思わないのかな? >>9
>土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、
すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである>
⤴
纒向から明日香にいたるヤマト政権の王都の変遷について述べてください。 ヤマト政権などというカタカナ造語を使った時点で、怪しかったんだよ。
そんなものはなかったんだろ。
ずっと7世紀まで筑紫倭国だったんだよ。 朝鮮通信使
室町時代 1428年から3回
戦国期 2回
江戸期 1812年を最後に12回
計 17回
で、九州説でヒミコは誰なんだい?
はっきりしようぜ。
ザラコクの言う「刀良」にして撃沈するのか?w
九州でも宮崎なら別だが、
福岡ごとき何の謂れもないカッペの土地にヒミコがいるわけなんてないのだが。 平原には何の神も祀られていない。
大笑いwww今から創ってはいけないよw
何の謂れもない場所にヒミコがいたでいいなら、
うちの近所をヒミコの郷にできる。 >>561=>>562
スレ違い
九州説のスレでやれ
ここは畿内説のスレ それに比べ葛城。
まず大和朝廷発祥地である。
古来から高天原と呼ばれた金剛山があり今も御所市高天という地名が残る。
孝昭天皇の頃に社殿ができた日本最古級の高鴨神社がある。(明神大社)
ご神体の神山を含めた御神域が径百余歩である。
シタテルヒメ(高姫)=アマテラスを祀る。
アジスキタカヒコネ(迦毛大御神)=スサノオを祀る。
つまり実質10代崇神から始まる現王朝以前に存在した神王朝である。
高天原(御所市高天)にいた神々であった。
神は「鴨」に変えられた。 畿内説が悪態を吐くだけの姿を晒しているのは、はっきり言って見苦しい。 帥升が連れた生口160人を説明できるのも葛城である。
高天原の麓、根の国、黄泉の国。
20世紀部落解放運動の聖地でもある。 そういうわけでヒミコは葛城にいた。
イワレヒコという男は葛城神王朝の軍事長官及び俘囚長であったのだろう。
シタテルヒメ(高姫)=アマテラスの5世代後にヒミコ(ヒメ踏鞴五十鈴媛)がいた。
驚くべきところなのである。
おまえら全員頭が高い。
控えろ。 >>114
>何が証明できないと、邪馬台国とヤマト王権は関係ないという可能性の方が高くなるんだ?
何を言っているのかワケがわからない ?????<
彼が言っているのは、大和には結局、「倭国の王都」の建設地が存在していない、ということ。
そして、「南≠東」であり、
「大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から分かれた別種の旧小国」であったのであり、
大和が「国家」として「日本国」を唱えたのは、ようやく、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
の小野妹子の隋の文帝に対してであり、
白村江の後で、ようやく筑紫の倭国を併合吸収継承した、という事。 >>560
サンキュウ
朝鮮通信使は対馬藩とのかかわりは深い。テンプレの海遊録は見たこと無いが
対馬の地図をずいぶん間違え表記したのには信じがたい
事実だとしたら、申維翰がバカだったのだろう >>124
>大和朝廷はいつからそう呼んでいいの?<
「独立的な国王」、という意味なら、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の頃になるが、
「朝廷」というような皇帝や天子の支配場所の意味なら、やはり白村江の後の大宝元年の、
大和日本国が筑紫倭国を併合吸収継承して、名実共に、列島の盟主になってからだろうなあ。 >>127
アホがむきになればなる程九州説の盤石さが実証される、という現実w 。
大和説って、見るからに稚拙なんだよな。 >>129
>邪馬台国とは結局ヤマトの事でしょ。こんな簡単な事が理解出来ないヤツらってww <
「邪馬台国」なんて存在もせず、結局、
「邪馬壹国→邪馬台国→大和」というインチキ摩り替えで、
世間の人々を騙すのための造語であり、
それが「ヤマト」という文言の造作の狙いだったんでしょ?。
こんな、「簡単にばれる悪事」である事が理解出来ないヤツらってww 。 >>135
>筑紫にあるのは奴国、畿内にあったのは邪馬台国。 もうそれ以外の見解はないからなww<
筑紫にあったのは、伊都國と奴國と不彌國と邪馬壹國と、邪馬壹國の中の女王の都。。
大和にあったのは、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から分かれた別種の国で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の、旧小国。
邪馬台国なんてなかった。
もうそれ以外の見解はないからなww。 >>568
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話 を次のように伝えている。 洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、
今は 街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる
123 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2016/10/23(日) 12:17:44.27
野洲の銅鐸博物館に行ったとき九州からの侵略、征服などは絶対になかったと
力説してたど、で二階の踊り場にいくと被差別部落の歴史ね、ふーん。 >>140
お前もいい加減あきらめたら?。老後の時間無駄にするだけだぞw 。
筑紫にあったのは、伊都國と奴國と不彌國と邪馬壹國と、邪馬壹國の中の女王の都。。
大和にあったのは、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から分かれた別種の国で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の、旧小国。
邪馬台国なんてなかった。
これ以外の選択肢は既にない。 >>572
多利思比孤が筑紫にいたとすれば、畿内に独立王朝ができたのは白村江より後しかないのでは? >>142
残り少ない時間を基地害になりすまして
2ちゃんでスレ荒らしするしかないなんて悲しすぎるよな。
余程の基地害以外、もう大和説なんて、
大和天皇家支配国家優越の国家国粋の殺戮戦争主義の、
やくざ暴力団のような・・・・キョクウの工作員しか、いないからね。 >>576
近江も7世紀の移配俘囚が多かったはず。
ルーツはそれだろう。
良く考えてからほざけ、ボケ。 >>146
>残念でした 王年代記には神武が大和に移動したのが周代だと書いてあるんだよ
つまり新唐書の筆者は倭国が倭奴国と別物だと知っている <
王年代紀の記載は、
「彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。即位元年甲寅、當周僖王時也。<
であるが、
新唐書は、
「即位元年甲寅、當周僖王時也」の部分を省いているんだから、
王年代紀の記載を絶対的に踏襲する事はせずに、
中国側の(倭奴國の)認識の方を採用している事になるんだよ。 >>151
攻められたら、呟き基地害にキャラチェンジで、スレ荒らし。
大和説は本当に哀れだねw。 >>152
「邪馬台国畿内説」板は、「南≠東」などにより壊滅状態。
だから大和説者は、
口先言葉尻での嘘つきダマシの「人種差別的ヘイトスピーチ」をしてまでして、
荒らしにくるのか。 >>153
>なんで大和政権の始まりについて回答がないんだ? <
もう何度も、
「日本、古倭奴也。
去京師萬四千里、直新羅東南、在海中、島而居、東西五月行、南北三月行。
國無城郭、聯木爲柵落、以草茨屋。左右小島五十餘、皆自名國、而臣附之。
置本率一人、検察諸部。
其俗多女少男、有文字、尚浮屠法。其官十有二等。
其王姓阿毎氏、 自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。
彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
の文を上げてあるよ。 >>580
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
☆銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ
☆巨大古墳は、先住民(銅鐸民)の反抗を封じるために作られた無益なモニュメント
☆結果ではなく過程(強制労働)に意味があった
銅鐸民族の謎―争乱の弥生時代を読む 単行本 ? 2004/11
臼田 篤伸 (著)
銅鐸は「埋められていた」のではなく、「埋まっていた」のだ。「祭り」と「埋納」の呪縛による
銅鐸論の迷走を撃つ書。民族紛争の視点を導入し、銅鐸民族の侵入とその後の天孫族の侵略による
争乱の古代史を描く。 >>158
>大和朝廷は?<
朝廷が、
「国王の支配場所」の意味なら、開皇末に小野妹子が隋の文帝に「日本国を名乗った頃。
「天子や皇帝の支配場所」の意味なら、白村江の後の、
大和が筑紫倭国を併合吸収継承して、列島の盟主になって、大宝を建元した頃。 >>587
>大和が筑紫倭国を併合吸収継承して、列島の盟主になって、大宝を建元した頃。
大和に、筑紫倭国を併合吸収する実力があった根拠 言えるか? しょせん妄想だろ? 卑弥呼の時代には列島には王朝がいっぱいあったんだよ、畿内王朝しか認めない
九州王朝しか認めないとかトンデモなんだよ 筑紫倭国と畿内ヤマトは西日本の二大勢力だったんだよ 筑紫倭国と畿内ヤマトは西日本の二大うそ勢力だったんだよ >>591
泡厨か、四国には阿波王朝があったんだよ なぜ、いつもテンプレートが論破されてしまうのだろう。。。。 >>171
>こういう地道な研究は阿波だけ @阿波 <
根本的な「南→東」の嘘つきダマシでの空想的立論など、始めから何の価値もない。
地名や神社などの伝承も、
大和が列島盟主になった8世紀以後の「大和への迎合」の産物である可能性が否定できず、
考古的にも、東瀬戸内が、楽浪や出雲系の部族と、筑紫倭国系の東征の両方の要素があるだけであり、
徳島に特有のY-Nの分析を待たなければ、何とも言えない。 >>172
>天武即位後にさらに畿内への中央集権化が進むので、話はもっと複雑な気がするな。
畿内への政権移行は既定路線とした上で、その中での争いになっているような。<
歴史での「定点的な事実」になるのは、やはり、
白村江での(大和の日本国の存在を知っている)唐の対戦相手が、
「倭國」や「倭衆」や「倭賊」と記録されていた、という事。
という事は、白村江までは、確実に「筑紫倭國が列島の代表であり、盟主であった」、という事。 >>442
畿内説より、阿波説が良いな、
鞍替えすべきか、悩んでるよ
方位が解決できれば、阿波説だな >>182
>万年筆で書かれた古文書ですか? <
ssnも持っている筈の松野氏姫氏系図が
、「万年筆で書かれた」ものであったのか?なんて、当然知らんよ。
亡くなられた尾池氏や平野さんらなら、当然「鉛筆や万年筆で写本された」、という可能性ならある。 >>598
卑弥呼と申します
記紀に載っているとか鴨がどうとか、私にはなんのことかさっぱりわかりません それにしても
ジングルベルだよ
youtubeで調べてみたところ
Mariah Careyの曲が出てきたり、
万華鏡写輪眼でしょ
うさぎを飼っていた話とか、
たしか二匹だと言っていた >>194
結局大和説は、
邪馬壹國問題だけでなく、白村江時代の以前の列島史全体を否定しないといけなくなる。
つまり大和説が、将来通説になる望みは、消えた。 それと『岩戸』の絵
他のスレにも書いたけど、サンタ、七福神、トトロ? >>602
そんな大和に筑紫倭国は併合吸収されたというし、わけわからん >>195
>>9に、初期ヤマト政権と断定してるよ<
トピ主は、「南→東」などの嘘つきダマシである事がばれているから、半分×人間であり、
始めから、根拠にならないよ。 方角間違い例なんて沢山あるのにアホですかw
今更だが邪馬台国はヤマトで確定済み。 このスレの書き込み見てると今の九州説が
朝鮮人の歴史工作なのがよくわかるな。 まだ胡散臭い経歴詐称親父の小便着色本を聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw
九州王朝説とかマジで信じてるんだからもう笑いしか出ないwww >>216
>古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
中期(4世紀後半〜5世紀末)、 後期(6〜7世紀) に区分している。<
私の子供の頃は、「古墳時代」ではなく「大和時代」と呼んでいた。
そして、古田さんの「(大和盟主時代の否定の)九州王朝 」説が出た頃から、「大和時代→古墳時代」という言い換えのダマシが始まった。
>古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。
出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは、奈良県(大和)にみられ、<
墓は、後からのものは、(セレモニーは進化発展し勝ちなものであるから)、前代のものを模倣して、更に大きく豪華にすれば、
いくらでも大きく出来るものであるだけであり、
そんなものが、広域支配の根拠にはならない。
>この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。<
倭国の支配下の、別種の旧小国の、地方の市を監督する大倭職の田舎のご大尽がいただけ。
>これが通説 <
「南→東」などの嘘つきダマシの学者らの「通説」なんて、何の価値もない。 >>610
そんな大和に筑紫倭国は併合吸収されたというし、わけわからん >>220
>根拠なら古墳だよ 古墳時代だもの<
旧小国の田舎のご大尽でも、
都の真似模倣をして、大きく多くしようと思えば、いくらでも大きく多く出来るものであり、
そんなものが、盟主国の根拠にならない。 >>602
何を言ってるのか意味がわからないと思ったら
ただ機械的に言い返してたのか。 >>442
畿内説より、阿波説が良いな、
鞍替えすべきか、悩んでるよ
方位が解決できれば、阿波説だな >>235
>当然倭人伝の記述だろ。
少なくとも北部九州に14万戸を求めるバカは 考古学やってる奴にはいない。<
倭人伝で投馬國まで含めるんなら、南九州までになるから、
「北部九州」だけではなく、(半島南岸なども含めた)九州全域であり、
馬韓の「大國萬餘家、小國數千家、總十萬餘戸」と比べても、それほど異常な数値ではなく、
「北部九州に14万戸を求める」バカは 考古学やってる奴でなくても、いない。 >>236
>古墳と集落がセットになるパターンは確立されてるので問題ない<
大和の古墳の周りの集落が、必ずしも王都や王宮建設にはなっておらず、
むしろ、倭國の東征の手助けのおこぼれで、
新規に征服した「銅鐸民や毛人蝦夷」を墓守り人にしたものが中心であるから、
「王都や王宮」の存在の根拠にならない。 >>617
九州に都があるのに畿内に墓を作るのか?
支離滅裂で話にならないな 方向間違い説については既に説明は出来ているはずですよ。
大体倭人伝において東治の東を間違えています。
方角を間違える訳がないなんていうのは既に詭弁、
現代からみた印象操作にすぎません。 >>240
>>(最大古墳の河内)奈良盆地ではないよね。<
>畿内説だもの、問題ない<
河内は、(播磨と同じく)、庄内布留の時代から既に、
(大和の纏向とは別個に)筑紫への搬入上納をしており、
半島からの渡来部族も 見られ、
ずっと、大和とは区別された地域国家であったんだよ。 オウム真理教?
悪人の集まりだったのかな、冤罪事件? 河内と奈良盆地は表裏一体の関係です。
地名の類似や部族の分類からみても同一圏とみるのが妥当です。
また巻向から海魚が多く確認できる以上は
通常生活圏に組み込まれていたとみるべきですよ。 >>620
方角を間違えてるとか、間違えてるに違いないというのは単なる願望であって
願望で歴史を語っちゃいけない
そもそも伊都国から1500里だから下関にもいかんな >>246
>倭人伝に倭国伝。 特に倭国伝に古の邪馬台国はヤマトと書いてある。<
これは酷い嘘つきダマシだねえ。
倭人伝や倭国伝は、歴代中国史書群での記載であり、
それには、「邪馬台国」とか「ヤマト」なんて、とこにも書かれていない。
歴代中国史書群では、(大和の)日本国が出てくるのは旧唐書や唐会要が最初であり、
「大和」が出てくるのは、新唐書が最初。 >>247
>隋書とか <
隋書にも、「邪馬台国」とか「ヤマト」という文言は書かれていない。
「自竹斯國以東、皆附庸於俀」であるから、
竹斯國以東は、皆、俀の附庸地である、
と書かれている。 >>621
搬入上納なんて嘘で歴史を偽造しちゃ駄目でしょ >>625
実際のところ末廬国から伊都国への方位が間違ってるわけだし >>627
そう言うウソはついちゃダメでしょ
ちゃんと「邪馬臺」と書かれてる >>629
末蘆国から東南500里で伊都国は何も問題ないだろ >>250
>そんな希望的推測してはダメw 少なくともまず記述されている事は認めないとね。
古の邪馬台国とはヤマトである、そういう認識があったのは事実だろう。<
もう、この投稿子は、全くの・・・・サギシだね。
歴代中国史書群での、「大和」の記載の最初は、新唐書。
(大和の)日本国の記載の最初は、旧唐書。 >>627
だから竹斯國は畿内にある倭の附庸地なんだよ
トンデモ説さん残念だったね >>632
どうやって末蘆国から東南500里で伊都国に着く?
どんなトンデモ説かな? >>625
東治の東はどう解釈しても九州の南方に位置しますよ。
それ以外は希望的推測にすぎません。
それに里にこだわるなら戸数にもこだわらないと。
だから倭人伝の記述では邪馬台国を九州から
南側に位置すると見ているのは否定できませんからね。
なので結論として倭人伝は邪馬台国の位置を
台湾や沖縄辺りと間違えていると言わざるを得ないと思いますよ。
つまり方角は勘違い、もしくはわざと間違えていると思います。 >>593
当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍であるが、当時の中国で槍という言葉は長柄の武器を指さない
よって、倭人伝いうところの矛は、今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性は高い
↑間違っている 書き換えを要求する
当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍であるが、当時の中国で槍という言葉は長柄の武器を指さない
よって、倭人伝いうところの矛は、今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性は高い
???????????????????????
可能性が高い ????????????????????
当時のシナ人が見間違うわけはない
勝手な憶測で、矛をそうでないものにしてる!!!!
290 自分:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2015/12/02(水) 13:17:27.64
陳寿の時代には今日言う槍に当たる武器の名称が存在していない
↑矛はシナにあったんじゃない? シナ人がみて、それは矛だったんだよ >>635
呼子あたりからだろ、東南というかほぼ東だな >>636
九州は東治の東だろ、違うなら北?南?西?東だよな また倭人伝において邪馬台国に関する情報なんて
実は極めて少ないんですよ。
卑弥呼が都とする、七万戸に水行陸行の記述だけです。
私は卑弥呼が都するを生まれた、もしくは女王が
誕生した場所と理解しますので
保津(ホト)の地名を持つ奈良盆地辺りが相応しいと思うだけですね。 >保津(ホト)の地名を持つ奈良盆地辺りが相応しいと思うだけですね。
阿保ですね >>640
七万戸に水行陸行の記述だけじゃないだろ
ホトの地名が相応しいと思うだけとか(孝霊厨の劣化にはホトホト困った >>576
なんも関係ないかもしれんが、糸島は姓か洞の人が結構いる
読みは「ホラ」 秦氏系の葛城王朝は物部氏系の崇神になったときに敗者として部落になったのだろう >>642
では倭人伝において「邪馬台国」に特定される記述は他に何がありますか?
卑弥呼の宮にかんする記述もありますが、
これは役員が常駐する伊都にあったかもしれないですよ?
墓にあっても邪馬台国にあったとも記述からはわからないですからね。
だけど邪馬台国=都を生まれたと解釈するなら
ホト、都を意味する場所や卑弥呼候補の一人、百襲が
生まれた伝承をもつ場所、また周辺部に弥生遺跡に
鏡作神社まである場所は一番候補に相応しいと思います。 >>639
トンデモは
理由を言わず
結論だけ言う
>>588
>>>587
>>大和が筑紫倭国を併合吸収継承して、列島の盟主になって、大宝を建元した頃。
>
>大和に、筑紫倭国を併合吸収する実力があった根拠 言えるか? しょせん妄想だろ?
だから、それは筑紫倭国が白村江で負けて筑紫の君が唐に抑留され、事実上滅んだからだよ。
中大兄皇子は唐の傀儡として畿内政権を立ち上げたんだよ。
唐の筑紫駐留部隊が撤退した年に天智天皇に即位しただろ。 >>638
なんで末廬国が呼子なんだ?
????????????? >>589
>卑弥呼の時代には列島には王朝がいっぱいあったんだよ、畿内王朝しか認めない
>九州王朝しか認めないとかトンデモなんだよ
古田氏の多元王朝説の世界へようこそ。 >>610
>私の子供の頃は、「古墳時代」ではなく「大和時代」と呼んでいた。
>そして、古田さんの「(大和盟主時代の否定の)九州王朝 」説が出た頃から、「大和時代→古墳時代」という言い換えのダマシが始まった。
大和に政治的権力がなかったのに大和時代と言っていたよりはマシかもしれんよ。 >>618
>>>617
>九州に都があるのに畿内に墓を作るのか?
>支離滅裂で話にならないな
心配しなくても、卑弥呼の墓は九州にあるから。 >>654
>東治の東は九州ではないよ、もっと南側。
少なくとも畿内ではないな。 >>656
海の中なら倭人伝での推定位置が間違えている証拠だな。 >>647
倭国の記述ならある程度あるだろ
鏡作神社は崇神(285〜318)の時代に呉の職人さんが鏡を作ったところだろ >>662
対馬海流に流されて、末廬国(呼子)は有り得ない @阿波 まだジジイの小便着色本信者が暴れてるのか
汚物も信者には神々しい聖典に見えてるんだからなぁ
そりゃ会話にならんわw >>665
呼子が末蘆国でないなら何国になるんだ?想像がつかん さて、
纒向以降、明日香までの都の変遷は分かったかな。 >>670
>呼子が末蘆国でないなら何国になるんだ?想像がつかん
福津 @阿波 九州説は説ですらないからな「キュウシュウセツ」と言うそういう妄想の話だとしておくのが一番妥当だな 太陽を見て方角を測ったんなら、夏至の頃は45度ズレルから
東南は東で正解なんだよね >>659
倭ではなく邪馬台国に関する記述ですよ。
邪馬台国にはっきり限定できる情報が実はかなり少ない。
鏡作神社の近くには保津・都遺跡という
鍵唐古とは別に弥生集落が確認されていますよ。
しかも孝霊の宮や百襲誕生伝承はこちらに近い集落に存在しますからね。 >>678
それじゃ南は東南で正解になっちゃうじゃねーかアホ 小便ゴッドの天啓を得た!と思ってカルト信仰を広めようとしてる狂信者に理由なんてあるわけないでしょ 阿波に関しての個人的な解釈では、百襲の母である
オオヤマトクニアレ姫が元々いた場所、という事で
情報が少ない事もあり卑弥呼像と重なる部分があまり感じられず
阿波=邪馬台国とするのは困難だと思いますね。 まあ倭人伝に書いてある方位にいくつか明らかな間違いがあるのは確実だね >>681
>孝霊の宮や百襲誕生伝承はこちらに近い集落に存在しますからね
孝霊も百襲もヒミコとは関係がない。 >>686
卑弥呼は「阿波の神様 大宜都比売」・「大日孁女命」
倭迹迹日百襲姫命は徳島市国府町(旧黒田村)の黒田廬戸宮跡で幼少期を過ごした、孝霊天皇の娘
全然違います ピントがずれていますよ @阿波 >>689
九州トンデモは結論をご託宣するだけ
決して理由は言わない 其の国がヤマトなら2世紀前半の男王はどこにいた?
唐古鍵遺跡にも大福遺跡に鴨都波遺跡にも王墓らしきものがない。
当たり前だ、神は平地になんて住まないからだ。
神(王)は高天原(御所市高天)にいたのだ。
実際、名柄遺跡は弥生X期。
高天原にある複数の水源の一つを神王権が抑えていた証拠だ。
其の国の男王も高天が原のある葛城にいた。
まったく想像力の欠片もない人間がモモソだ孝霊だと言ってるだけ。 弥生X期
つまりスサノオの時代なのだが。
いやタカミムスビか。
神々は高天原に実在したのだ。 閑話休題
「式内社 阿波國名方郡 天佐自能和氣神社」
御祭神
神皇産霊尊 高皇産霊尊
日子刺肩別尊 意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命
徳島県徳島市。吉野川の南岸、四国三郎橋の近くの堤防側にある。
現在の祭神は、四柱だが、もとは、日子刺肩別尊一柱。ついで、その母にあたる意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命も合せ祀り、さらに、二柱を後世に加えたと考えられている。
意冨夜麻登玖邇阿禮比賣命は、孝霊天皇の第三夫人であり、日子刺肩別尊は、その第二子。
高志之利波臣・豊前之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖とされている。
ちなみに、第一子は、大物主命の妻となった夜麻登々母々曾毘売命。第三子は、四道将軍の一人・大吉備津彦命。
すごい兄弟なのである。
神紋は、『式内社調査報告』には、菊紋とあり、境内の石碑にも菊紋が付いていたが、拝殿には鷹羽紋があった。 >>692
別に北部九州でいいでしょ
その王は倭国乱で没落して
入れ替わり畿内邪馬台国に女王が共立される >>251
>だからそのヤマトってどこのことかわからない。 <
大和説者は、カタカナで「ヤマト」と書いた時は、大体、
「大和」と「倭」と「倭国」と「大倭」の全部を包含した意味に使って、、
誤魔化しているらしい。 実は、学者も「大和」じゃないと感じたから「ヤマト」と逃げたんだよ 追い詰められた九州説は嘘ばかりついてるね
朝鮮通信使の件でも嘘まみれ
柳田の論文も捏造してインチキする
最低だよね >>255
倭国伝の行程では少なくとも女王国は大和ではない。
当たり前だが「南≠東」だから。 >>257
>「都於邪靡堆,則魏志所謂邪馬臺者也。」 隋書の頃は漢族じゃないから「臺」の発音が魏晋時代と変わっちゃったんだよね
それで当時の「臺」と同じ発音の「堆」の字を隋の頃は当ててたわけだ <
隋代の頃は、倭人(俀人)も漢字が十分に使えたのだから、
「邪靡堆」は、当然倭人側の漢字呼称。
>つまり発音が同じだよと言ってるだけ<
いや、おそらく後代史家の魏徴らの、
「魏志の邪馬壹=後漢書の邪馬臺」という、曲解した解釈の産物。 >>259
>記紀の記述は倭は奈良盆地が前提だけどな。 初代倭国主は葛城地方だし。<
記紀は、「倭国の存在や歴史」を抹殺しようとした半分×書であるから、
その記述は、全く信用出来ないし、史料批判無しには、根拠には使えないんだよ。 >>707
>「邪靡堆」は、当然倭人側の漢字呼称。
トンデモさん! 隋書になんて書いてありますか? >>260
>だから平原墳墓の近辺に何か謂れのある神社があるのか、
また祭神はだれか。教えてくれ。
考古学の話はもういい、限界があるし飽きた。<
大阪府立大の正木さんらが書いておられたから、行って教えて貰え。 >>262
>九州説は結局希望的推測を元に何事も話を組み立てるから
奇妙な矛盾だらけの話にしかならないんだよ。<
大和説者は、結局、史料事実を曲解ねつ造して希望的推測を元に、何事も話を組み立てるから 、
奇妙な矛盾だらけの話にしかならないんだよ。
>記紀でもヤマトとは大和地方を指す。<
記紀は、「倭国の存在や歴史を抹殺しようとした半分偽書」であるから、根拠にならない。
>倭国伝では邪馬台国はヤマトと記述している。<
「邪馬台国」なんてどこにも書かれていないし、「ヤマト」というカタカナ文言すらどこにもない。
九州は筑紫であり奴国の事だよ、邪馬台国なんてあるわけがないw >大阪府立大の正木さん
正木裕って非常勤講師じゃね
大阪府立大は工学系だし
本業は偽書の会の事務局長だろ >>263
>つまり日本とは元々邪馬台国の一部の事なんだろう。<
「邪馬台国」なんてどこにも書かれていない文言だし、
大和の日本国は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国。 >>593
仕方ないよ、、、、
2013年に、考古学的には、破綻してしまったのだからね。。。 >>266
>平原の近くに三社神社ってあるね。 住吉大神の事かな。
ヒミコやヒミコを生んだ王権とは関係ないねw 残念だねw <
平原の大量の玉は、魏志に書かれた壹與が最もぴったりであり、
100枚の鏡を貰った卑弥呼の、後継の「共立女王」の壹與なら、その内の何枚もも鏡を相続していた筈だから、
平原の大量の鏡も、壹與にぴったりなんだよ。
どんな神社があり何神が祀られてるか、
古代史にとって一番大きな要素だ。
考古学なんてその遺跡の時代がわかればいいだけ。 平原遺跡は井手さんがミカンを作っていたところで
糸島の誰も知らなかった
何も祀っていなかった >>270
>少なくとも魏志倭人伝当時、九州北部は倭国に含まれない。<
この投稿子も・・・・か?。
当然、九州北部は倭国に含まれる。
>倭王卑弥呼を王とする国が女王国であり、倭国。
女王国の傍国(境界の外の国)に奴国があり、しかも伊都国には別の名無しの王がいる。<
当然、共立国の中には、
王のいる(軍事的に半独立的な)伊都国もあれば、
王のいない従属的な国もある。
>どう見ても九州北部が倭国である可能性はゼロ。<
どう見ても大和が女王の都である可能性はゼロ。 >>274
>筑紫倭国なんて言葉作ったらダメだよ。 <
「都が筑紫にある倭国」という意味だよ。
そして、「南→東」や、「倭国→ヤマト」なんて、嘘つきダマシをしたら、ダメだよ、・・・・。 伊都国王の名が書かれていないのは倭人ではない異民族だからだろ >>725
「世有王」は卑弥呼や男王やトヨの総称としても読める
だから"男王"や"女王"ではなく、「王」の記述だとする方が納得なんだよね >>724
>「都が筑紫にある倭国」という意味だよ。
そんなもの捏造したらダメだよ ヤタガラスが刻まれているとか言ってたチョンボジジイが納得してもなw >>729
だったら、君が考えている正しいと思う読み方を披露し証明しなくては
当時の漢文を読めるのだろ?
文献学では山程候補があるが、この時代の文献解釈で確実な正解なんてあるのか? 伊都国伊都国言うくせに平原の鏡の形も知らなかったバカだから仕方ない
八咫烏が描いてありますだっけ?
どっかの金物屋のオヤジが宣伝用に作った物を本物だと思ってる程度の脳ミソだからな
言うことなす事全て間抜け
そりゃ小便親父を教祖様と仰ぐわ >>721
ほんと?ありがとう。
まぁ九州なんてこんなもの。
もともと大和説の新井や本居が「天皇の朝貢」と言う切実な問題から逃避するために創った仮説。 >>728
ヤタガラスは私ではないが?
たまに誰彼かまわず、検討違いのアダ名をつける奴がいるね
おまけにジジィでもないし 九州説の人は、サイキバもキウスも本人はもうここにいないと言う 同レベル以下の妄想を垂れ流す小便信者だからな
要はお前の脳ミソがその程度だと言われてんだよ
言わせんな >>731
確実に間違いな読み方はあるね
伊都国に卑弥呼がいるとか >>733
考古学を無視して、伝承だけ追っても答えは出ない
考古学は良くも悪くも出土した事は事実である
それは確定事項なんだよ
古ければ古いほど、伝承は真実性も危ういので、文献や出土事実が第一、伝承は参考程度 >>739
喜んでいただきましたが
しかし、まじです
九州に居たのは国王
畿内に居たのは酋長 バカにされてるのも分からないで反復とかもう哀れ過ぎてものも言えない >>737
世有王の「王」が当然伊都国の王と解釈する事もできるが、倭国の王しても解釈できる
倭国の王と読めないとする理由はなんだ?
卑弥呼がどこにいたか?なんて他に記載はないが?
高齢さんもいってるが、邪馬台国は女王の都の意味なだけだよ >>740
>考古学を無視して、伝承だけ追っても答えは出ない
誰が伝承だけ追って考古学を無視しろと言ったのだ?
年代が分る事、時系列を作れる事、
これは一番大事な事だから考古学は基本。
それは言うまでもない。
しかし平原のように何の謂れも祭神もいない場所に王権があって卑弥呼がいたなんてむなしいだろ。
一方、箸墓には一応、モモソ媛という謂れはある。
日本書紀だな、わざとらしい謂れだが。
ならばその謂れを重視して箸墓はモモソの墓、そして卑弥呼はモモソであるとできるか。
出来ないね。時代が違うしモモソは一皇女。寡婦でもないし女王というには小物過ぎる。
ならばヒミコと時代が合い、女王にふさわしい人は1人いる。
その人物を考える時にはもう考古学なんて必要ない。
その人を生んだ王権、神々。
それを考えるのに必要なのはむしろ神話なのだ。
そういう意味だ。 寺澤くんが、
「纏向遺跡はヤマト王権の最初の大王都」
と言ったが、
彼は、其の後のヤマト王権の王都の変遷を語らないのです 史学的には首長という用語がいいんじゃないかな。
筑紫の倭王は漢や魏から冊封されていたけれど、畿内はそうではないのだから。 欠史8代と言っても一色ではない。
二色に分類できる。
A:神武から6代孝安まで。
妃がいない。そして宮が葛城。
B:7代孝霊以降
妃が複数、実質の大王。宮は葛城を出る。
つまりAは葛城王朝。
Bは磯城の纏向王朝。
箸墓はBだ。
そしてヒミコはAにいた。
よって箸墓はヒミコとは関係がない。 そもそもヤマト王権などという、当時はなかった概念や用語を現代において捏造しているだけだよ。
畿内も律令制以降の枠組みだしね。
畿内説は嘘だらけだ。 >>282
>ヤマトの地は卑弥呼を共立した勢力に征服されただけだぞ。<
魏志にはそんな事は書かれていない。
卑弥呼を共立した勢力は、ほぼ九州付近の諸国であり、
大和は、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の倭種に属する程度でしかない。 九州説は結局古い考古学資料を基に、願望のみで
成立してしまった矛盾だらけの説なんですよ。
倭人伝をもう一度よく読んでみる事ですね。
邪馬台国に関する記述で特定出来る情報はごく僅かなんですよ。
戸数と行程日数、後は卑弥呼が都するとしただけですから。
邪馬台国ではなく倭人伝なのをもう一度考えてみてくださいね。 >>753
伊都国についてあれほど細かく書いてあるではありませんか。
伊都国の王の名だけそこに記されていないのは、他のところで卑弥呼と書いてあるからです。 伊都には伊都津彦という男王がいたと他の文献にもあり、
女王とは従属関係にあっただけでしょう。
また伊都津彦は関門の東側まできて王権を主張していた記述もあります。 >>756
つまり卑弥呼より後の時点で、伊都から王権が奪われたんでしょ?
ならば卑弥呼の時代には伊都に王権があったということで問題ないですね。 倭人伝における邪馬台国とは卑弥呼が都する場所です。
卑弥呼そのものが生まれたか、女王として選ばれた場所か
という意味ですよ。まぁ卑弥呼の候補者で誕生した場所の伝承があるのは
かなり限られてきます。百襲には田原本辺りで生まれて七歳で
淡路島方面に船で向かった(流された)という伝承が
存在していますからね。しかも瀬戸内海では
才女として数々の伝承も残しています。
少なくとも周辺部の国々から女王として
選出される条件もみたしていますね。 >>757
伊都に女王がいたとは倭人伝には描かれいないぞ?
代々男王がいたはずだが。 >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。 >>758孝霊厨
貴君は、ヤマト王権の初の王都は何処だと思いますか?
其の後の明日香までの王都も語ってください。 男王がいたのは、倭国大乱の前と、卑弥呼の後ですね。 >>753
> 邪馬台国に関する記述で特定出来る情報はごく僅かなんですよ。
>戸数と行程日数、後は卑弥呼が都するとしただけですから。
わざと丹山をスルーですか? @阿波 >>287
>旧唐書は隋唐への遣使を出した600年当時の首都の法隆寺斑鳩宮において、
文官の裴世清が来日して日本の王アメノタリシヒコと謁見した事を記録している。<
記録していないし、裴世清の大和訪問は、唐代の「武徳」中の事。
>裴世清は日本が300年以降、傀儡保護国家の百済に献上させた
中国皇帝が下寵した七支刀など宝物仏教五経博士を入手し<
七支刀は、筑紫の久留米の倭王旨に贈られた。
>中国同様の都を創っていることを知らなかったので
人も都市も中国の都と変わりない事に驚いたと述べている。<
文林郎裴清は、大和へは行っておらず、竹斯國と秦王國を見た時点で、
「其人同於華夏、以爲夷州、疑不能明也」という感想を書いている。
>277年以降中国との国交を消した邪馬台国はこの日本国に吸収されている。<
倭国が大和日本国に併合九州継承されたのは、白村江の後。
>王朝として継続していれば、司馬氏は魏の移譲政権であり遣使は絶えない。<
絶えていない。
>中国に朝貢している、弱小邪馬台国には、半島進出が出来る理由は無い。<
元々、半島南岸は倭地。
>一大率を置かれた邪馬台国が、すでに百済同様に日本の傀儡国家だった可能性もある。<
大和日本国の方が筑紫倭国の別種の旧小国の附庸國でしかなかった。 そもそも中国から見た倭の都はずっと博多湾沿岸だけ。 >>758
>しかも瀬戸内海では
才女として数々の伝承も残しています>
具体的にヨロシク 筑紫辺りに百襲のような候補者がいて、具体的な伝承があればいいですけどね。
百襲は記紀での箸墓伝承や大物主との神婚伝承が有名ですが、
嫁ぐ以前の瀬戸内海周辺国では女性神扱いですよ。
水神、水運に稲作、更に村上水軍の祖と扱われる場合もあります。 >>767
かぐや姫の舞台は、登場する実在の貴公子の官位から701年のことと特定できる。
大宝律令により筑紫倭国から畿内政権に権力が移譲された年である。
筑紫の竜の玉を取りに行く下りは、王権の移動の暗喩だが、中大兄皇子と思われる登場人物が玉を偽造して詐欺を働く。
政治批判の文学であるとも言われている。 >>763
邪馬台国に丹山がある記述はないですよ。
だが倭人伝で重要視されてるのは事実ですから、
倭の周辺部には存在するだろうと思いますね。
特に三輪山の背後の山々は丹山です。 >>770
>特に三輪山の背後の山々は丹山です。
九州説と同レベルですね @阿波 >>768
孝霊厨が考える卑弥呼像は卑弥呼というより神功皇后やな
神功皇后は卑弥呼ではない >>770
それで・・・・・・・・・・・・・・・・
>しかも瀬戸内海では
才女として数々の伝承も残しています>
具体的にヨロシク 元々丹山についての見解は九州内で完結しがちな
九州説に対しての矛盾を指摘したからですね。
冬温暖で普段から朱丹を用いている倭の海人の生活環境は
四国東南部や紀伊半島南部が一番該当するだろう、と思います。
でもそこが邪馬台国だろうとは思う訳ではありません。 >>770
丹山は倭人伝では軽くふれているだけであり、重要視するのは孝霊厨の勝手ではあるが 日本の優秀な考古学者は海外に向かった
そして、無能な同支社が畿内説をウソでぬり固めてる >>774
海沿いで平野が少ない国と近くに海がなく平野が多い国では当然生活環境は違う >>776
同意
磯田は日本史では優秀な学者だが
磯田さえ、考古学は片手間が事実
それを無い知恵絞る同やんの哀れこそ歴史 Tくんも早稲田を受かってたら、世界に目を向けただろう >>775
倭人伝において何回丹に関して記述に出てくるかを見れば判る事です。
鉄より遥かに多いのと、三世紀という時代背景でも
丹は最重要鉱物資源ですよ。 有名な考古学者NO1吉村作治さん
他
吉井秀夫
近藤義郎
小江慶雄
藤田亮策
田辺昭三 平原遺跡でたくさんの丹が使われていますが、箸墓や奈良盆地の古墳では丹は使われていますか? >>780
どうでもいいから、畿内に邪馬台国があってその後、明日香までどうなったの? 速く頼むよ孝霊雁
766日本@名無史さん2017/08/01(火) 18:56:34.10>>767
>>758
>しかも瀬戸内海では
才女として数々の伝承も残しています>
具体的にヨロシク
783日本@名無史さん2017/08/01(火) 19:57:53.85
>>780
どうでもいいから、畿内に邪馬台国があってその後、明日香までどうなったの? 都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校
われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立
現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや
わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば 同志社には校歌として扱われている歌が3曲あります。
その中で最も代表的な歌が「Doshisha College Song」で、
4番まで全て英語の歌です。
立教大学のセントポール 応援歌 は有名ですが
偏差値の違いでしょうか?
早稲田の滑り止めで同支社はありえない。
ましてや、Tは関東出身、よっぽど同支社が好きだったのでしょう それにしても、本当の話なのかな
スコーピオンのミロと同じような事をしていない?
人形に何か刺しているの? 畿内説・・・・朝鮮差別?
九州説・・・・学歴差別?
差別はイカン >>789
しかり、
ただ
このスレだけに限れば、九州、阿波説の方が学を積んでいるというか、頭の回転速いと思う。 >>790です
畿内説を否定してるわけではありません。
このスレに限り
このスレに限り
このスレに限り
畿内説が不利です
このスレに限り
このスレに限り
このスレに限り >>743
>倭国の王と読めないとする理由はなんだ?
女王国に統属してるんだから倭国の王ではない >>791
他スレも読むべし
畿内説ボロボロ
だから
邪馬台国アンケートでも支持されない畿内説 >>793
イミフ
卑弥呼=連合体の倭国王でいいと思う
その連合体の王であるヒミコの出身母体である邪馬台国がどこにあったかが議論 根拠なし
閃いたよ。これでどうだ!
邪馬台国は畿内、卑弥呼の墓は九州
ダメかなーーーーーーーーーーー 逆も可
邪馬台国は九州、卑弥呼の墓は畿内
ダメかなーーーーーーーーーーー
これいい線行ってると思う
纒向も尊重してるし・・・・・・・・ >>800
陳寿の同時代の女王はトヨちゃん
魏志に出てくる女王は当然トヨのこと >>799
お前こそイミフの極致だ
女王国に統属してる王は倭国王ではありえない 難しいのでパス
候補は
九州は国王
畿内は酋長
と、印象に残るのは
ヤマト王権の纏向以降の飛鳥までの王都の比定
と、
@阿波 ゴメン
候補にこれも
朝鮮通信使は根拠とならないとカキコミした人たち 孝霊雁悩むなよ
↓
784速く頼むよ孝霊雁2017/08/01(火) 19:59:57.98>>795
速く頼むよ孝霊雁
766日本@名無史さん2017/08/01(火) 18:56:34.10>>767
>>758
>しかも瀬戸内海では
才女として数々の伝承も残しています>
具体的にヨロシク
783日本@名無史さん2017/08/01(火) 19:57:53.85
>>780
どうでもいいから、畿内に邪馬台国があってその後、明日香までどうなったの? >>812
大切じゃないから森浩一が見捨てられてる >東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。 >>812
私は阪大です。いろんな方が畿内説唱えてます。
私は纏向の後の王都は藤原、そのご明日香、そして藤原です。
明日香が王都であったかは疑問は残ります。
藤原で統一してもいいと思います。現藤原京跡は2代目の立て直しかもしれません。
明日香に居住した百済人の反乱を治めたのが大化改新だと思います。
ヤマト王権の様変わりは仏教がカギとなると思います。 『皇室 キリスト教』
ネットなどで検索すると
デタラメな事を言っている人達がいるけど、何なの?
『出家 院』というのは正解だと思う
老婆も言っていたし、いまの?偽物なのかな 続けます
不思議なのですが、現皇族の葬儀は神式なのですが、
過去の皇族もすべて神式の葬儀だったとしたら、仏教は朝廷に利用されただけでしょうか。
現国民の葬儀の大半は仏式なのですが。
独り言ゆえ、無視ください 兄:10月30日生まれ
スコーピオンのミロ まらd−な?
妹:5月15日 考古学的に無理と判ってる九州説が
この上いくら新しい珍読を発明したところで
畿内説の圧倒的勝勢は覆しようがないのにね >>816
根拠は無いと思うが、推理としては成り立つ
>>818
神仙思想の孝霊雁が答えるから、しばし待て。 兄、ジャイアンツの投手と同じような名前
「智□」
大島のほうにある、寺院に通っていたと聞いてるよ
と言っていたり
先祖の写真の話 >>816
王都が移ったということは筑紫倭国と畿内ヤマトで何回か政権の交代があったということである
乙巳の変で筑紫倭国から実権が畿内ヤマトに移った、大化の改新である
百済は畿内ヤマトが作った(いいな阪大 >>818
なかなか鋭いですね。
天皇家の祭祀の多くは、明治になって創作したものなので、実は古くないのです。
千年にわたり日本は仏教国だったので、天皇家もその中で役割がありました。
でもそれはスレ違いです。 考古学的に無理なのは纒向じゃん。福岡には紀元前以来の王都としての考古学的な証拠がある。 関西の人ではなく、
川俣町というほうの出身なんだけど
出家したのかな? >>818
明治になって祭祀で忌部氏が復活した(ドルイドの復活である 泥棒のようなものに入られたと言っているから
この辺りは正解だと思う >>820
でも大した実績なくマスコミ密着で名前を売ってたナンチャッテ大家だろ? >>821
いろんな説を許容しながら、邪馬台国は畿内との説を導き出した。
スレ主も君も同種か。恨みは恨みを買うだけだ。冷静に書きこめ。
以上、他説の無学にはヘキヘキするが、もっと無学の畿内説の一部のカキコミにはヘキヘキする。
他説の批判も学びの一つとして捉えれば良い。2ちゃんもためになる程度で良い。
いやなら去れとまで言わないが、読むだけにすればいい。
勉強に成ったら、2ちゃん以外で論ずるが懸命。相手もわからん方に論じてどうするの。 >>833
無学なじいさんはせいぜい
ヘキヘキしてろよ
w >>833
帯方郡から東南
帯方郡から1万2千里
帯方郡から水行10日陸行1月
女王の所都である
なんで畿内になるんだ、無学以前の問題である 他スレから、貼り付けで失礼
===================================================
>
寺澤クンが、纏向遺跡は大和王権の最初の王都で大都市と力説してるが
彼は、纒向以降の王都の変遷の比定地には触れないが、明日香までどのように考えているのだろうか。
彼以外に¥の畿内説論者にも聞いてみたいものだ。
>
ドンコイでは、いろんな人が書き込みますが、以上の解明宜しくお願い致します。
===============================================
畿内説の本流のスレと信じてご回答ヨロシク >>838
せっかくナリスマシしてたのに
こんなに早く自白してどうする >>842
この馬鹿、まだ粘着してんの?
オフトピだよオフトピ こういうのも出来すぎている
『千明仁 コースター』
このコースターの形とか
『千の風になって』という曲、もしかして捏造? >>841
伊都国まで1万500里で残り1500里で南に回りこむからな
佐賀に纏向はないぞ >>842
話題そらし?
ログ流し作戦?
関係ない話やめろよ 謎の先祖の写真でしょ、
キュウリの葉、葱の華・・・など。
むかーし泥棒のようなものに入られ、
出来すぎているような 纒向近辺には大塚多いが
明日香近辺に少ないのは何故かな。
邪馬台国≠大和王権 >>847
亀は平氏であり鶴は源氏である
ちなみに平氏は赤であり源氏は白である >>852
畿内説の成りすましか、
邪馬台国の所都=纒向を正当化するのか、
畿内説とヤマト王権とは関係ないのは正解 >>841
遊んでるな
寺澤も回答できない難問だが
2ちゃん その曲の動画なんかも、
出来すぎていない?
飼っている犬?が吠えているシーン 呟き荒らしって誤魔化しにやってんじゃなくて
議論に負けるたびマジでおかしくなってんじゃね? >>842
あれだけ同じこと連呼しといて、またニューフェイスの演技する神経は普通じゃない >>869
九州説ばかりにそんなに狂人が多いと思いたくない >>872
交替はしてないっしょ
呟きアスペは毎日いろんなスレに脈絡なくカキコしてる
キウスは出てこない日もあるし邪馬台国関連スレ以外には基本的にカキコしてない つぶやきが徹夜するとキウスが昼まで来ないのは何故? >>291
また「南→東」の嘘吐きダマシのssnの投稿が出て来た。 キウスの書き込み時間は大体決まってる
・早朝
・夕方
・夜〜深夜
でも最近は毎日はこなくなってる 毎日はこないってのは言い過ぎかな
来てもあっさり消える日と狂ったように書き込む日とがある 1は大学生の歴史サークルかなんかだろう。数人で回してるな。
テンプレ書いてるのはリーダーで毎日はスレ見ていない。 >>298
>ヤマトの地が征服されたいっても、別に九州に征服されたわけじゃないしね。ヤマトを征服した中心勢力は、伊勢尾張と吉備。どちらも倭人の勢力。
倭国大乱は、基本倭人同士の勢力争い、内乱みたいなもの。 九州は関係ない。
北部九州も吉備と九州南部の投馬国に征服されているけどね。<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
「南≠東」だから、卑弥呼の女王国は九州だね。 >>301
大和は神武東征で征服された側。
勘違いしたらダメだよ。 >>310
>いやちょっと待て。 記紀は倭国の歴史書そのものだぞ。<
いやちょっと待て。
記紀は、倭国の存在や歴史を抹殺しようとした半分偽史書そのものだぞ。 >>887
都への上洛というのは歴史上なんども繰り返し起こってること
その一つが記紀に取り込まれてて何の不思議もない
邪馬台国と結び付ける根拠はない >>313
>中国外交は、266年以降、400年、倭の五王まで途絶える。<
白村江の後も、尚も倭國や太宰府の中国外交は、途絶えなかった。 >>889
いやちょっと待て。
古田説は、倭国の歴史を捏造しようとした全部偽史そのものだぞ。 >中国外交は、266年以降、400年、倭の五王まで途絶える。
あ、こいつ引き算まちがえてやんの >>891
そりゃそうだろう遣唐使検討して健闘したもの >>322
>自己レスなんだが、こうして見てみると、神武天皇は父方の祖父が伊都国の王で、母方の祖父が志賀島の王なんだな。
しかもそのどちらもイザナギの末裔のはず。 なんで伊都国を出たのかな。<
おそらく、委奴の地で、五瀬らは、姫氏系との勢力争いに劣勢になり、
先行きに見込みが無くなったから。 古田説は後代史書の怪しい記述に依存するようなリテラシー持ちだから偽書にハマりまくった >>324
>400〜500は倭の五王時代、半島利権の交渉に行った。<
白村江で、(既に大和日本国の自立独立を知っている)唐が、
対戦相手を(日本国ではなく)倭國や倭衆や倭賊と記録した、
という事は、
倭國が大和日本国に併合吸収継承されたのは、白村江の後。 ザラコクは古田説依存だけど記憶がボケてるぶん劣化古田だな >>811
百襲の伝承なら過去に何度も記述されてる。
讃岐や香川周辺部の神社で調べたら?
ガラケーなんでコピペは出来ないんで。
飛鳥以前の主な都なら個人的には藤原京から飛鳥、葛城、
大阪の柏原周辺部だろうと思うね。 >>327
ここは「大和説→畿内説」の嘘吐きダマシのスレ。
なるほど、
九州説以外は、 みんな非学問的なトンデモ説だということが
よくわかるスレ 。 >>899
既に大和日本国の自立独立を知っている唐
だとか妄想ゆんゆんでございます >>328
このssnの酷い投稿を批判する投稿をしたら、
2chに✖にされて、ずっと投稿出来なくなったから、
放置ね。 >>903
ザラコク鸚鵡がまた鳴いた
さすが脳味噌3グラム >>329
>石井はもともとは畿内の大王の家来だろ 離反したので殺されただけ<
記紀は、倭国の存在や歴史を抹殺しようとしている半分偽書であるから、
記紀の九州に関係する記述には、信頼性が全くないんだよ。 >>337
ならどうして磐井の墓は
継体の墓のキッチリ3/4サイズなんだ?
子分だったからだろ <
後から造る方は、先行した墓を模倣して、それよりも大きくすれば、
いくらでも、簡単に大きくできるものだから。 >>911
筑紫倭国→新羅→源氏
ヤマト→百済→平氏 >>345
>だから独立宣言しても勝ち目があると思ったんでしょ でも失敗した<
いや、物部は、磐井のいた高良大社の神職家にもいたから、
援軍の体をして、三井まで侵入出来て、突然反乱を起こたから、
勝てた。 >>914
1.43倍なんて変な割合で拡大しないよ
石井が7割で作ったんだよ
だから子分 >>917
いたって証拠は?
また妄想?
それとも偽書を持ち出す? >>353
これも竹島戦争狂のssnだから、放置ね。 >>917
援軍って、誰と誰の戦いに援軍で来たんだ?
支離滅裂だなー >>354
>葛子の墓説がある善蔵塚古墳が継体の墓の1/2だよ
継続してる
賠償払って許されたって記紀の記述どおりだろう
改めて臣従を誓ったんだね <
葛子の後に同じ阿毎氏のタリシホコが天子になっているので、
「臣従を誓って」いない。 >>922
侮辱すると反論しなくてもいいと考える変な老人
第三者の目には逃げたとしか映らない >>925
じゃ、なんで継体の墓の縮小コピーつくるの? >>360
>サッちゃんってさ、畿内にいた大王の命令で出征して捕虜になったドジな田舎大名だろ<
記紀は、倭國の存在や歴史を抹殺隠蔽しようとした半分偽書であるから、
記紀を根拠にした話は、何の論拠にもならないんだよ。 11 ◆q8leUXpsw. 2017/07/30(日) 23:00:14.98
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう 11 ◆q8leUXpsw. 2017/07/30(日) 23:00:14.98
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう >>911
旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。 >>939
まさか、それが唐代の史料だと思ってんじゃないだろうな
w 卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではありません。
邪馬台国に都を置いていたというだけです。
日本国総理大臣と東京都知事をごちゃ混ぜにするようなもの。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 >>942
よく貼られてるコピペだけど
どこの無学が書いたんだろ
お恥ずかしい内容だな 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく、倭国の女王であった。
つまり筑紫にいた。 >>946
弥生時代の始まりは徐福の渡来からでいいだろう 九州説なんかに今どき引っかかってる老人は
学者の書いたたともな歴史の本とか
読んだことないんだろな >>950
弥生時代は水田稲作の普及なんだ(徐福である >>951
そんなハンパ定義じゃ何時まで弥生時代なのか判らないだろ >>952
前方後円墳の始まりが古墳時代の始まりである、崇神天皇285〜318 私のヒミコさん 酋長の娘
色は黒いが 畿内じゃ美人 問題なのは
なぜ「誰々の末裔はいない」
という事にしたいのか?なんだよな
とあるスレに
「金の生る木」
「良い金の元を見つけたな」という書き込みがあったはず
漫画やゲームの話(元ネタ)とか、
わかりやすく言うと人権侵害になってしまうからだと思う
頭の良い人は気づいている 同じことを書いている人がいたでしょ
名や家系などを買った、
勝手に名乗っている・・・など 白いケースに鷹の像、電電太鼓、福助、菅の笠。
白い服の写真の裏に、
名前が書いてあったでしょ『市』
それとキュウリの葉、葱の華・・・。
松の木(モミの木)などの写っている写真とか >>380
>祇園山はただの共同墓地 須恵器も出てて時代がちがう<
反論説明済み。 >>382
こんな「南→東」などのような捏造ばかりしてる奴がいたから、
大和説はダメになった >>389
大和説は無脳の・・・・ゆえの妄想50%、
小銭稼ぎの詐欺50%だな。 >>394
トンデモ大和説は、理由を聞かれると大抵、答えられずに口先で誤魔化してにげる 。 >>395
畿内説が、いかに駄目な・・・・サギシか、よくわかるスレ 。 >>418
大和説の特徴
まともに「史料事実からの日本語」が話せない 。
なんで?。 >>434
>@阿波はどう思う???????????????????????????????<
「南→東」などの嘘吐きダマシのサギシの、
同じお穴の狢だ、と思う。 葱の華などの写っている写真
着ている服『矢羽根』
このような模様だったでしょ?
後ろのほう、畑のような気がするんだけど、偶然なのかな >>569
>おまえら全員頭が高い。 控えろ。<
「南→東」の嘘吐きダマシのサギシのおまえらは、全員頭が高い。
控えろ。 新スレ立てました
https://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1501617925/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>606
>方角間違い例なんて沢山あるのにアホですかw<
三国志での魏の役人らの方角間違い例なんて全くないのにアホですかw 。
江戸期の朝鮮通信使のような全くの他人の記録が、
魏使らの方向間違いの根拠になるなんて、全くのアホですか?。
>今更だが邪馬台国はヤマトで確定済み。<
今更だが、邪馬壹國は「ヤマトではない」、で確定済み。 >>607
このスレの書き込み見てると、
今の大和説者が
人種差別殺し合い戦争を鼓舞扇動するキョクウの殺人狂の、
歴史工作なのがよくわかるな。 >>608
まだ胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
和田キヨエと反古田の偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説をマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 >>615
反畿内説、愚痴こぼさずがんはれよ😭😭😭 。 >>629
>実際のところ末廬国から伊都国への方位が間違ってるわけだし<
実際のところ、末廬国から伊都国への「東南」の記載は、
陳寿の行程移動の記載の原則に拠って、末盧國での「出発方向」の記載であり、
方位が間違っていなかったわけだし・・・。 >>631
そう言うウソはついちゃダメでしょ。
ちゃんと「邪馬壹」と書かれてる。 >>634
だから竹斯國も筑紫にある俀の附庸地なんだよ 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説のトンデモ・・・・さん、残念だったね。 >>647
「南→東」などの嘘吐きダマシの孝霊も、
(ssnと同じく)「脳がおかしい・・・・」である、
という事が、衆知されて来たようだから、
どうやら、放置対象になったな。 >>669
まだ胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 >>676
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説は、説ですらないからな。
「キナイセツ」と言う、そういう妄想の話だとしておくのが一番妥当だな。 >>677
何事も理由がなくて、都合の悪い史料の否定抹殺しかないのが大和説。
あるのは、「大和天皇家一元列島盟主」説という戦争キョクウの欲望だけ。
注、現在の天皇家の事ではないよ。 オウム返しばっかりだね
こんな中身の無い大量投稿ばかりしてるから
ザラコクは出入り禁止になるんだよ >>678
>太陽を見て方角を測ったんなら、夏至の頃は45度ズレルから
東南は東で正解なんだよね <
魏使らは、最初から、
「日の入りと日の出での棒の影端の印同士を結んで東西を決めた」から、
45度ズレないの。
東西 >>682
大和説の言うことは、大半がデタラメだな 。 >>685
まだ、
胡散臭い「筆者間違いのアホ筆跡鑑定」や、
貧乏して喜八郎家を逆恨みした和田キヨエと、
反古田のキョクウの偽書説派やマスコミがでっち上げた小便着色瓶を、
聖典として拝んでるカルト教団が生き残ってるんだなw 。
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説とか、偽書説を、
未だにマジで信じてるんだから、
もう笑いしか出ないwww 。 >>688
まあ倭人伝に書いてある方位に、
明らかな間違いないのは、全く確実だね。 >>691
大和説の・・・・トンデモらは、「都合の悪い史料事実」を隠して、
口先誹謗の結論をご託宣するだけ。
決して理由は言わない 。 このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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