邪馬台国畿内説 Part264 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、
単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、
例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1つに、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2つに、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、
後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
(この項続く) ◆6−2(続き)
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
(この項続く) ◆7−2(続き)
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
(この項続く) ◆7−3(続き)
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。
土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。
史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2015)と一致する。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
(この項続く) (続き)
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。
これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
(この項続く) (続き)
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。
これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう!
(この項続く) (続き)
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)→1BV型式(3世紀中葉)→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑みるに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元とともに慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なることとなった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させるためには景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、いくつかの記事にその痕跡をとどめている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌ただしく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定するところの、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例がなく、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:もとより、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これを倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、甕棺分布域の縮小や漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する微高地上の遺跡とされている。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
(この項続く) (続き)
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。
上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿の出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆3、◆FAQ 3に修文。その他に句読点、段落整理 1乙
A、又渡一海千餘里至末盧國(官略)有四千餘戸
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆没取之
東南陸行五百里到伊都國(官略)有千餘戸丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
東南至奴國百里(官略)有二萬餘戸東行至不彌國百里(官略)有千餘家
B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
C、自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有(二十数国)
倭人伝における、A〜Cの文脈において、投馬国、邪馬台国と言う国名が唯一示される
Bの部分が前後の張政の旅行記であるA、Cの文と繋がらない事を理解する必要が有る。
Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び隣接所属村の不彌國であり
出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由が無い。
Cの女王国以北が膨大になり、距離、方角、戸数規模に無理がある。
邪馬台国、投馬国と言う国名は、倭人伝のこのB、一文のみに登場するが
明らかに前後の魏使の報告とは別のソースからのコピペであり(ソース出せw)
陳寿がペーストすべき場所を間違えているから、前後の文脈が接続しない。
B部分削除で解決だが、邪馬台国と言う国名は歴史上から存在が消滅する。
良いけど、おまえら乙www
このB文を和約すると、
(帯方郡の)南水行20日が投馬国の領土で5万戸。 つまり、馬韓(弁韓辰韓)
その南水行10日(の島領)と(九州の)陸行1月部分が邪馬台国で7万戸。
その部分が、邪馬台国(=女王の倭国)の領土である。 と書いてある。
南=南、一月行=一月行であり、倭人伝をちゃんと理解すれば当たり前のことだ。
後述される、 参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里が、
魏使の紹介した女王の倭国であり九州の北一月行(三分の一)の範囲の国々と一致する。
一月行の文例として、隋書における倭国認識は南北三月行東西五月行とされる例が存在するが
隋使裴世清の知った倭国(九州)の南北三月行(大和の東の山までの)東西五月行と一致する。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:回答にならないと思うが希な例として
1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。
さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
以上希な例であるが、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明がひとつしかないが、誤情報の竄入によって
方位を間違えることは絶対ないとは言い切れない。 ◆FAQ 3からの展開がまずい
>このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、
所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる>
といいつつ投馬国を比定している ◆FAQ 3
から「畿内説以外の説も無理である」を削除したことは評価します
最後との調整でしょうが。 FAQ31から
「初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場」
つまり、邪馬台国=大和朝廷と言及している
ならば纏向から明日香に至るまでの王都の変遷を述べなければならない まだまだありますが、論文としてみた場合45点ぐらいでしょう 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる土用の丑の日の日付けを間違っていることなどから、
日本国内在住ではなく、日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている >>64は異常なまでに頭が悪いので
いくら言われても
初期ヤマト政権と大和朝廷の区別がつかない
生来
ば
か
で
す
か ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」からの呼称だが、2ちゃんではハンネを使用していない
全レスバカとも
自分の操作ミスを投稿制限と思い込み2ちゃん運営陣を非難したり、
.netと.scの区別がつかず、.scに書き込んだ内容が.netに無いのは運営に消されたからだと主張するような、「超」のつく非常識人物
九州王朝説を唱えた古田武彦の熱狂的支持者で、古田支持者の分裂を招いた、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する狂信者
歴史学や考古学に対する知識は皆無で、「素人おじん」を自称しているが、
その「素人」が、古田説に否定的な専門家を平気でこき下ろすという、常人には理解不能な思考の持ち主
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつであるが、本人に自覚は全くない
リテラシーも皆無で、実際には自分の主張に否定的な内容のものであっても、自身に都合良く脳内変換していることがしばしばある
「全レスバカ」の異称とおり、とにかく自分の信奉する説に否定的な書き込みにはレスを返したがり、その結果、投稿数が異常に多い
レスをつけるということへの執着により、別テーマのスレにコピペしてまでレスを書き込むというもしばしば
しかし、つけるレスは、全文引用したあげく、「自分が支持しないからこの書き込みは間違いだ!」という意味の文言か罵詈雑言しかない無内容のもの
これでも本人は、「自分の主張には必ず理由を明示している」と主張しているのであるから、どだいまともな議論は望むべくもない
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる独善であり、典型的「六拾弐病」患者 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
糸クズとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると主張したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッキナー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 >>61
行程記事で比定してないから関係ないんじゃね?
これ書いたの岡上だろ FAQ31
投馬国の比定地吉備に関わる
<初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場>
☝
これは、難解です。スレ主しか理解できないのでは?
誰か解説いただければ幸いです むかし家庭教師やった経験から言うと
どこがわからないか説明できない生徒が一番救えない <初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に「吉備」が大きく関わっていたと見る立場>
☟
<初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に「投馬国」が大きく関わっていたと見る立場>
ならば、意味が通ずるが、すると吉備を比定地にする根拠が?????????? 263の>>318から263の>>482までの、一部の投稿に対するお返事は、
古田史学スレの>>451から>>462に転写しました。 捏造テンプレ読んでる奴もいるんだ www
南≠東だから読んでも無駄 >>79
無理 畿内から逆算で投馬国を比定したのバレバレ
水行十日、陸行一月の逆算 >>79
なに言ってんだかワケワカメ
<初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に「投馬国」が大きく関わっていたと見る立場>
って具体的にどう言う意味?
ヤマトとキビなら現実の地名だから、適切な組み合わせで意味kがわかるのに 263の>>484
>読んだ人の数だけあるような倭人伝の行程解釈なんて、邪馬台国位置論に使いようがないよ <
要は、その行程解釈の「確率の高さ」の問題。
「南→東」の史料事実を否定曲解した大和説の解釈の確率は、ほぼ0%。
九州説内での比定地の差異は、
陳寿の行程記載方法の分析無しに史料事実通りに解釈した「つもり」の解釈であるから、
いずれも可能性は発生する。
そして、古田解釈のように、
陳寿の、三国志内などでの「行程記載の順次式の原則」に立脚した説は、
史料事実の根拠が幾つも提示されていて、一つ提示される毎に確率が上昇するから、
確率は(他の説よりも)はるかに高く、最も高い説である事になる。 >>86
古田説が他の九州説より優れてるって自画自賛が
ただの身贔屓にしか聞こえないのは
証拠を何も出さないから 263の>>493
>畿内説の者はみんな同感だよ<
「南→東」などの嘘吐きダマシのスレ主や、それに「同感」して応援する大和説者は、
みんな、皇国史観国粋戦争狂の・・・・異常者だよ。 >>181 ◆q8leUXpsw
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
<A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上>
前スレまでの下記を修文
<A:沖縄本島付近の南海上となるため、畿内説以外の説も無理である>
☝
以前にも指摘を受けていたが、やっと修正
「少しは利口になったで賞」
おめでとう---ぱち、ぱち、ぱち、・・・・・・・・・・・・・・・・・(拍手) >>90
もっと九州説に真楽な内容に変わってるね
御愁傷様 263の>>503
>帯方から1万2千里は九州をはるかにとび出して 赤道辺りの島々になるんだが?<
周髀算経の一寸千里の「尺寸系と里歩系との換算」や、
魏志に書かれたほぼ全ての「里」記載では、
いずれも、「1里≒76〜77m」の周里を使っているから、
1万2千里は九州内におさまり、
「赤道辺りの島々」にはならない。 >>91
チャウチャウ
他説批判は勝者の貫禄とは言えないからだよーーーーーーーー
恥かしながら修正したのだよ、
修正しようがしまいが 九州説はそんなことでビクともしないよ
ああ恥ずかしスレ主 遅すぎた感は歪めない・・・ワハッハッ 263の>>510
>春成秀爾は間違った事に突き進むよな。<
大和説者らしき人物からの、「ついうっかり」の「ヒデ爺」?発言があったが、
スレ主=春成秀爾であるためには、もう少し証拠がほしいな。 >>996
皇室なんてネトウヨの差別主義の根源だろうよ
なんで差別なんてもんがこの世にあるんだ?
ワシは差別反対の為に頑張るつもりだ
当然天皇制廃止論だよ
そもそも天皇は日本最古の在日のばすなんだけどなぁ >>83
ごめん
吉備って倭人伝に載ってたの見逃した
再度、倭人伝読み直すよ 263の>>531
>「女王」が正しいんじゃないかな
陳寿がわざわざ「女王国」とか別の国みたいに表現しちゃって分かりにくくなってる <
晋代に三国志を書いた陳寿は、「女王」とは、
当然、卑弥呼と壹與の二人を意識している。
そして、一大率のいる伊都国は、女王国内での至近の軍事拠点の国であり、
おそらく郊迎の国でもあった。 >>97
でも
「畿内説以外の説も無理である」
よりも
「史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。」
の方が
キツい批判だよね 263ん0>>536
私は声を大にして言いたい!.
大和説論者よ、史料や文章は、
何故そのような記載が必要であったのか?を考えて、読め。 263の>>540
大和論者なんぞ、世間のためにならないカスだから、
皇国史観国粋戦争狂キョクウ同士で、同士討ちでもしてちまえ。 263の>>548
>大和説なんて居ないからな ここは畿内説のスレだ<
「大和説→畿内説」は詐欺だったからな。
ここは、「掲示板」という半公共的な自由投稿の場だ。 263の>>552
陰謀説は、大和説のなれの果て。 >>97さん
正解だと思います(表現の仕方はよくありません、小ばかにしてるようで情けないです)
<畿内説以外の説も無理である>
↑
これは、他説を意識してる証となります
勝者の貫禄としては、他説を意識することなく、畿内説を論じなければなりません。
よって削除したのです 263の>>555
>平原はちんけな遺跡だが、なぜ住居あとが無いの 生活感が無い<
クシフルの西の麓の「墓域」であったから。
すぐ周りに、奴國や伊都国の生活域がある。 263の>>557
>伊都はちんけな遺跡だが、なぜ住居あとが無いの 生活感が無い<
もう10年位前に、Yahooで天誅やyamatogawakonanらが、
伊都国の宮殿?の発掘を、報告していたよ。 263の>>559
>ヤマトかヤマタイという地名にある巨大集落、前方後円墳<
「ヤマタイ」なんてない。
>そこから出る魏との交流を示す出土品<
魏との直接交流を示す出土品は存在しない。
楽浪流民や楽浪鏡師らの齎したものならあるが、
それも筑紫にははるかに及ばない。
>九州にこんな所があったら九州説を支持してもいい <
どうぞ、お越しください。歓迎します。 263の>>566
>魏志倭人伝によれば伊都から邪馬台国に行くには 水行して投馬国を経由しなくてはいけない <
投馬國への記載は、途中移動の動詞の記載がなく、
だから、側副傍線行程の記載。 263の>>571
>その那珂八幡から三角縁出てるよ 無知な人が作り話考えても すぐ破綻する<
呉系楽浪鏡師らの三角縁は、
筑紫の志登や祇園山や藤崎や那珂八幡が、大和よりも古く、
筑紫が西日本で一番古いんだよ。
無知な人が作り話考えても すぐ破綻する。 263の>>572
皇国史観国粋戦争狂の大和説者の、
「道案内人不在」説や、
「出発+途中移動+到着」の記載の否定曲解説などの、インチキ説などでは、
小学生も騙されんわ 。 263の>>585
倭人伝にあるとおり進んで、大和に着くの全くは無理だな。
皇国史観国粋戦争狂の・・・・キョクウ並みの詐欺をしないとな。 263の>>587
皇国史観国粋殺戮戦争狂のキョクウの大和説は、
盲信とゴリ押しで出来ている。 263の>>588
>2000年前と今とでは地磁気がズレていたから
当時の南は現在の東南に相当する可能性がある <
周髀算経での「日の入り日の出での棒の影端を結んで東西から決める」方法では、
(地球の自転軸のズレではなく)「地磁気が」ている事など、
何の関係もない。 263の>>591
>築造年代はまさに卑弥呼の生前 つまり邪馬台国ではあり得ない<
これ×ね。
平原の21枚の方格規矩鏡の「尚方作」に拠って、
魏帝からの下賜鏡が元になったものである事が確定したから、
卑弥呼の没後である事が確定ね。 263の>>592
大和説は、皇国史観国粋殺戮戦争狂という、非科学で出来ている。 263の>>595
>>異国間や地域間での、文字やその音韻の使用(音写)の原則は、
(完全な音韻の一致ではなく)、「類似音韻文字の使用」である。
それが、古田説。<
>つまり非科学的な誤魔化し<
古田第1書などで、証明されている。 263の>>608
理由はわからないが、何故か大和説者には、
日本語のヘンな人がよく現れるね。
鸚鵡返しをするのにも、苦労させられる。 263の>>613
大和説者は、テンプレがアホで・・・・なのが怖くてしかたないようだ。
スレ主は、アホで有名な春成だ、という情報もあるしね。 263の>>617
邪馬壹國は筑紫で決まりですよ。
今古代史で議論の中心は、倭国乱以前の倭国や出雲、九州の様子、
倭国乱がどのようなものだったか、卑弥呼共立までの過程などですよ。
邪馬壹國の位置論争なんか、とっくに決着ついてます。 263の>>618
>邪馬台国が筑紫にあって北九州を支配してたのなら、福岡市に多くの無アクセントの人間が移り住んでその影響が現代に現れているはず
でも福岡市の言葉にそんな影響は見られないから、その説は疑わしいよってこと <
無アクセントは、
狂暴な支配者に長く支配されて、怖くて無表情な言葉でしか応答出来ないような、
臣下や一般民に発生するんだろうから、
公務員や大和のアクセントも見た方がいいよ。 263の>>619
>纒向は、宮の原型。 民の集落の中で、祭祀を行い民を纏める。宮の本来の意義。
纒向は、弥生時代の大規模集落である唐子鍵の10倍の大集落。
柵で囲まれた居館エリアと巨大墳墓以外は、掘立柱建物、高床建物だらけで
庶民の住居しかないと言っても過言じゃない状況ですよ。人口過密の大集落です。
そこに柵で囲まれ兵士に守られたエリアに祭祀者、卑弥呼がいたんですよ。<
南≠東だから、始めから×。
>古墳時代の九州の宮も同じ。被征服民を教化するために宮が営まれたんですよ。
姫とセットでしょ。姫=祭祀者、巫女みたいなもの。
弥生銀座の方がはるかに広くて大きい(数倍以上)。 =====おはようございます 6:00です キウスの時間です====
TOPIX
>>60◇FAQ 5 訂正 ・・・・スレ主ではなさそうです
スレ主が<畿内説以外の説も無理である>を削除しました
畿内説論者に「更なる真実を探求」は見受けられませんでした =====おはようございます 6:00です キウスの時間です====
論評
スレ主が<畿内説以外の説も無理である>を削除しました
これは、 「も」に原因があると思います。
ーーー畿内説以外の説「も」ーーとなると、畿内説「も」右に倣えで無理になるからです
いずれにせよ、削除したことには良い決断だと思います スレチゴメン
24時間TV マラソンで昨夜の伴走していたピンクの女性 すごく美人だった
気配りもあり運動能力も長けていた v録画しておけばよかった、くそーー
ところで、彼女は誰? 元々、九州にあったなどとはこれっぽっちも思ってない新井白石や本居宣長が、
大和朝廷や古代天皇の朝貢を認めたくないという理由で窮余の策として出したのが九州説。
アホに九州説を唱えてもらう事で論争がおこる。
そうしているうちは大和朝廷や古代天皇の朝貢という重い荷物を置かなくていい。
300年前の「ごきぶりホイホイ」に捕まって身動き取れないのが今の九州説者。
大笑いだw =====おはようございます 7:00となりました キウスの時間です====
TOPX
予想通りスレ主は海遊録の下りを変更しませんでした
意地でしょうか、論的には破たんしてます >>129
テンプレに書いてある
畿内説は初期ヤマト王政と >>129
それで、新井白石も本居宣長も結論はどうなったの? >>133
「結論はどうなったの?」という質問の意味が分からない。 >>102
>「史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。」
>の方が
>キツい批判だよね
これってブーメラン?
犯罪者は、自分がやったことを他人もやっていると思い込むらしいよ。 >>75
吉備を投馬国に比定してるのではなく
鞆の浦等の音韻類似の地名がこの地域に多いからこの辺りが投馬国だといいたいのだと思われ。
方向とか距離とか考えずに。
御友別の名前がでてるから
投馬をトモと呼ぶってことでしょう。
でもまあこれは明示的に読みを指摘してなくて示唆してるだけだから論としては何も言ってないのと同じ。
こんらんするのもわかる。論証の記述としては不適格でしょう 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 神獣鏡は道教の意匠だから魏が下賜するかな?
魏って道教と異端視してたでしょ? 鶴峰戊申は邪馬台国から「倭の五王」までを九州に比定。
中華への朝貢という負の部分だけ九州に押し付けてる。
つまり畿内論者www
新井、本居、鶴峰など、実は誰も九州にあったなどとは考えてなかった。
つまり出だしからして虚構であったw
哀れな九州説。wwwwwww 国学者にとって古代の大和朝廷や天皇が朝貢していたという事実は、
プライドとしてとても容認できるものではなかった。
だから大和朝廷や天皇の朝貢という負の部分だけ、
九州にあった王朝や九州にいた卑弥呼に押し付けようとしたのだ。
彼らは最初からそんなものがあるなんて思ってないwww
300年間だまされてきたのがアホの九州説者www 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 平原遺跡の発見により、邪馬台国論争には決着がつけられるべきであったが、畿内説がもたらす大きな利権と、これまで畿内説を唱えてきた学者の体面のため、結論は先送りされた。
すでにゲームの前提が変わっているのに、今でも畿内説側は古い九州説のイメージにしがみつき、シャドウボクシングを繰り広げている。 新井、本居、鶴峰など江戸時代の学者は九州
明治になり王政復古で皇国史観が強まり畿内説が生まれる
江戸時代の人は漢文に強かったから魏志倭人伝を読んでみんな九州説
明治期になると漢文が読めなくなり畿内説なんていい加減な説が出てくる。 纒向みたいな耕地と密接した中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い(伊都)
或いは経済の中心も他所でよく(博多)
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない(伊都)
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや伊都をや 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 明治以後は九州説の人も漢文に弱くていい加減な畿内説に正しく反論できなかった。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、畿内は別の領域であり、畿内は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 >>149
それは確かにあるかもしれない。
>東南陸行五百里、到伊都国、
>世有王、皆統属女王国。郡使往来常所駐。
魏の時代には伊都国に(女)王がいて、周りの国は皆が女王国(伊都国)に従っていた。
伊都国は郡使が往き来して常にとどまるところでもある。
漢委奴国王印は倭奴国に下賜されたが、考古学的には伊都国の歴代王墓の時代なので、伊都国と倭奴国は同じ国であり、表記が違うだけである。
伊都国が、王権の所在地であり、外交の舞台でもあった倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は、伊都国にいたと書いてあることになる。 >>143
>卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
いや高天原(御所市高天)だ。
大和朝廷発祥地であり明神大社が6社も集中する。
ここに神々が住まわれていた。
筑前は防人の土地。 >>142
おちゃらけて言ってるけど
これは重要な指摘だと思う。 >>143−150
これ九州説のFAQにしたらどうだろうか? いつ覗いても、テンプレートが論破されているね。。。。 >>145
>新井、本居、鶴峰など江戸時代の学者は九州
天皇の朝貢を認めたくなかったから。
>明治になり王政復古で皇国史観が強まり畿内説が生まれる
いや日清戦争に勝ったのが大きい。
あれで日本人を2千年近く覆っていた中華のクビキが取れた。
本居が唱えた「熊襲の女酋長説」は那珂通世を最後に終わる。
何故か分るかい?
那珂通世の生存中に日清戦争に勝ったからだ。
もうアホな説でごまかさなくても済むようになったのさ。 >>154
九州説のスレにはあちこちにすでに貼ってあると思う。 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 一般の人に九州説が多いのは新井白石や本居宣長は関係ないだろう
そもそも新井白石や本居宣長が邪馬台国論争に関わってたことさえ普通の人は知らない 日本の歴史の根幹が「帥升=スサノオの土下座から始まる」という辛い現実以外に、
何で古代天皇の年齢を大きく古く引き伸ばす必要があったのか。
帥升=スサノオなら5世代100年後のヒミコは簡単。
ヒメ踏鞴五十鈴だ。
神武東征のあの大袈裟な記述は実際には女王国であったことをごまかすためさ。
ヒミコの住んだ場所は葛城である。
高天原(御所市高天)だ。
大和朝廷発祥地であり明神大社が6社も集中する。
ここにヒミコや神々が住まわれていた。
アマテラスことシタテルヒメ(高姫)も住んでいた。 魏志倭人伝当時の九州状況
女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
白村江の敗戦後の防衛体制と同じです。
大陸勢力から都(ヤマト)を守る九州の防人の姿が見れます。
九州は邪馬台国の都とは全然関係ない地方であることがわかります。 まずは、伊都国の範囲、奴国の位置の同定が必要だな。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>164
中国人は国邑でとらえるので伊都国と奴国を別に記載したが、高祖山を挟んだ二つの地域はあわせて倭国の大きな都として機能していた。
その中心にあるのは高祖山に築かれた山城である怡土城とその王宮部分である高祖宮。
高祖山を越える日向峠は伊都国への唯一の陸路であり、ここに山城を築くことで王都の守りを固めていた。
いわゆる筑紫の日向の高千穂宮である。
高祖山の最高峰はクジフル山という。
高祖山の北側にはイザナギが禊を行なったと言われる筑紫の日向の小戸があり、博多住吉の発祥の地である。
古来よりここが倭国の王都であった。 263の>>620
>その福岡市の有アクセントの集団はいつ頃どこから来たの?<
常識的には、
有アクセント集団は、タカ派的興奮集団や支配者階級に有り勝ちであり、
無アクセント集団は、興奮しては咎められかねない被支配者階級や、官僚的臣下に有り勝ちであり、
そんな事は、どこのタカ派国にも起こり得る事だから、
大した意味はない。 >>169
八咫の鏡が王位の証であると言う根拠は?
ないでしょ? 淤能碁呂島は淡路島の南にある沼島。
この島の遠景が前方後円墳とそっくり。
https://goo.gl/rqo9Eb
特に箸墓などに見られる後方部が斜めに切れるところ。
前方後円墳は瀬戸内海洋集団の墓制。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 263の>>629
>これFAQの書き方が悪いよな 倭奴は イトと読まない、で大筋合意なんだけど
結論 w?-nag ゐナ?ゑナ?かな?<
音写での使用文字の原則は、音韻や意味での「類似文字の選択」。
絶対性がないもの。 >>172
>前方後円墳は瀬戸内海洋集団の墓制。
つまり邪馬台国とは関係ない。 >>170
>>>169
>八咫の鏡が王位の証であると言う根拠は?
>ないでしょ?
あなた、どこのくにのひと?
良し悪しは別として、三種の神器が皇位の象徴とされてきたことは事実。 倭奴国が金印をもらった時、考古学的には都は伊都にあった。
つまり、伊都国は倭奴国の言い換えであったことがわかる。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>175
>>前方後円墳は瀬戸内海洋集団の墓制。
>つまり邪馬台国とは関係ない。
そうだよ。
同じ畿内説でも>>1はそう思わないだろうが俺はそう思う。
纏向遺跡は物部だって。
むしろヒミコの勢力(葛城鴨族)とは対立していた側。
磯城(物部)と葛城の対立は6世紀末まで続く。
葛城を祖と公言する蘇我と物部の対立だ。 263の>>638
>日本語の方言地図の中では関西だけが明らかに異質 これは弥生文化の中心が古くから関西だった証拠
弥生文化は北九州から関西に伝わったのではなく 関西が全国を支配して日本中に伝播したと考えられる ,<
大和は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったのであり、
白村江の後で、倭國を併合吸収継承して西日本の盟主になった、
という史料事実は、変えられないんだから、
それに従った推論をしなければ、嘘つきダマシになってしまうんだよ。 >>167
>博多住吉の発祥の地である
豚骨ラーメン? 物部は古い畿内の氏族だが、蘇我は新しい。
卑弥呼より120年後に筑紫の王となった武内宿禰の末裔だからだ。 >>180
>263の>>638
>>日本語の方言地図の中では関西だけが明らかに異質 これは弥生文化の中心が古くから関西だった証拠
畿内中心部に後から流入した氏族があった証拠である。 >>157
ほんと?
初めて見たけどよくかけてるからびっくりした。 >>176
八咫の鏡が王位の証であると言うなら
九州には歴代の王墓なんてなかったんだな
w >>183
なんで?
そんなにおかしなことは書いてないよ? 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
3世紀の平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 http://xiaoxue.iis.sinica.edu.tw/ccr/#
投馬の上古音を調べると
どうもdらしいよ
ズマ?
ヅマ?どっちだろう
ズモ
ヅモでもいいのかも
d子音はt子音と交代するからトモと言えなくもないけど聞き取った人はdと判断したとみなすのが適当なのではなかろうか?
母音はu、ewなどだからウ音は明らかに入る様子。 半島からの渡来人が九州に上陸して邪馬台国になり日本が産まれた
お前ら渡来人の韓人に感謝しろよ
九州の邪馬台国が全国を統治した経緯はここに散々書いた通りだ >>191
韓人が入れ墨してるなんて初めて聞いた。 王位の証とは銅鐸。
最近は水源と銅鐸の関係が明らかになってきた。
水源を支配し溢れ出る水の第一利用者が首長でありカミ。
山ノ神ってわけだ。
したがって大和でも王=カミは山の中腹の水源地にいた。
高天原だ。
纏向ではない。 263の>>674
>ここは畿内説のスレで、畿内説は基本的に学者の研究成果に依拠しているので
独自説を単独で開陳すれば当然消去される <
怖い、怖い。
ここは、半公共の掲示板なのに、
皇国史観の「日本第1」狂の大和説学者や2chが、
気に食わない投稿を削除しようとしているらしい。 大和説のネトウヨがしつこいよな
素直に渡来人によって日本が産まれた事実を認めれば良いのに >>194
古代天皇の朝貢など断じて認めれない皇国史観者が、
九州説を創作して、おまえのようなアホを集結させ、そして論争させ、邪馬台国を潤色したの。
大和であれば天皇の朝貢を認めてしまう事になるからね。
まだ分からないおまえはハゲ? 卑弥呼死後に男王が立ち内乱となる
↓
壹與が王に立つ
卑弥呼死後立った男王とは、葛城王朝の中で唯一、磯城の人物と思われる安寧であろう。
『日本書紀』では「磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)
『古事記』では「師木津日子玉手見命」 (しきつひこたまてみのみこと)
神武の時代、神武の血統ではないのに日本書紀に「王」と記されてる異色の人物がいる。
鴨王こと事実上の最高実力者クシヒガタだ。
ヒミコことヒメ踏鞴の実兄で神武の義理兄にあたる。
安寧はこのクシヒガタの娘ヌナソコナカツ媛と結婚する。
王位を狙ったことが分かる。
そしてヒミコことヒメ踏鞴の死後、一瞬だけ王位についたのであろう。
が混乱。
そしてトヨツ媛という13歳の娘が王位に就く。 263の>>718
>このスレの方向が変った
やはり、南も東に変わっても良い www <
このスレの方向は変わっていない。
やはり、「南を東に変えて」はいけない。www。 263の>>730
>Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び隣接所属村の不彌國であり
出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由が無い。
Cの女王国以北が膨大になり、距離、方角、戸数規模に無理がある。<
無理はない。
陳寿の行程記載での移動里数の合計の「自郡至女王國萬二千餘里」は、
不彌國でほぼ使い果たしているから、
その南の邪馬壹國は、不彌國とほぼ接している事になる。 263の>>733
もう九州説で決着ついてるからな 。
今さら語るまでもないし。 263の>>734
>位置論争はヤマトで決着だが・・・<
位置論争は九州で決着だよ。 >>263の>>735
>重要なのは北部九州の統治の仕組み、古墳時代の半島進出にも関係してくると思うけどね。<
半島進出も白村江も、(大和ではなく)、筑紫倭國だよ。 263の739
歴史学的には、文献考古共に大和で決まりだから、
ことさら激しく主張する必要もないし・・・。 263の>>741
大和説を主張する学者は、春成も含めて、
全て「南→東」の嘘つきダマシの・・・・サギシ。 >>204
おかしくなったザラコクは
これを鸚鵡返しして失敗こいたんだな
739 1 名前:日本@名無史さん Mail:sage 投稿日:2017/08/27(日) 10:16:24.70
歴史学的には畿内で決まりだからことさら主張する必要もないし 263の>>742
大和からは、
筑紫の物真似の、「セレモニーを進化させた」だけの粗悪な出来のもので、
ロクなものが出土してないだろう 。 263の>>765
大和説のひと 。
最低限の史料事実は読んで、そのままで一旦解釈して欲しいなあ w 。 263の>>783
「南→東」などの史料事実を否定曲解する、
皇国史観の「日本が一番」の人種差別的戦争狂の大和説の、
レベルの低さがよくわかる 。 いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 263の>>788
>晋書に倭国は全体で7万戸って書いてあるし<
晋書は、唐代の648年だし、
大和の「日本国の名乗り」を承認した後だし、
隋使が、俀國を、竹斯國と秦王國とを区別した事も知っており、
だから、かつての邪馬壹國の領域とほぼ同じ位だろう、と推定したんだろうねえ。
>魏志は倭国を大国にみせるため政治的バイアスがかかってる <
魏使らは、実際に見聞計測した通りの記載であるし、
陳寿も、「倭国を大国に見せる」必要もないし、そんな記載もしていないから、
政治的バイアスもかかっていない。
>魏略、後漢書、晋書あたりの情報も重視すべきだね <
いずれも、後代史書での「解釈や内容説明的な書き換え情報」位にしかならない「半分×情報」であり、
魏志の「魏使や陳寿らの直接的見聞測定情報」の価値にははるかに落ちるもの。 >>212
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 263の>>806
・・・みたいな、
皇国史観の「大和日本1」学者らの「南→東」などの、
分かりやすいウソ付きダマシに引っかかる人が 、
今の大和説だ、
という悲しい実態。 皇国史観は戦前の産まれてファシズム教育の産物
アジアを植民地とした帝国主義の遺産だ
大和説は反動主義である 他人とぜんぜん会話せず
毎日まいにち朝から晩までブツブツ
呪いの言葉を書き込んでる75歳老人って
鬼気迫るよね
もう半年くらい居座って見当違いの全レスをし続けてるよな
狂気としか言いようがない >>217
それ、モロに古田では?
任那日本府は実在で九州皇統が南韓国も支配
とか、言ってるんだろ? ザラコクうざいよな
こいつのせいで誰も近寄らなくなった >>219
ほかの掲示板で出入り禁止になって流れてきたらしい 古代天皇の朝貢など断じて認めれない本居をはじめとする国学者たちが、
九州説を創作して、そこにアホを集結させ、そして論争させ、邪馬台国を潤色した。
大和で結着すれば天皇の朝貢を認めてしまう事になるからね。
しかし本居もあの世で驚いているだろう。
未来、20世紀、21世紀にこんなにもたくさんのアホ(九州説)が沸いたことを。 263の>>809
八世紀の焚書で倭国の古文書を隠滅したとか、
明治の国学者がやったとか、
皇国史観の「大和が何でも日本一」のは、いつもそう 。
貧困な三流陰謀。 263の>>812
もう九州説ぜんぶを否定してかないと、大和説浮上の目は無い、
って状況なわけね。 本居や鶴峰の「熊襲の女酋長説」は、
古代日本の中華への朝貢という負の部分を、
架空である熊襲の女酋長に被ってもらおうという意図で述べられたものだ。
南九州にヒミコを名乗る女酋長がいたなんてこれっぽっちも思ってはいない。
ところがこれをマジに捉えたトンデモないすっとこどっこいが20世紀に現れる。
古田武彦「九州王朝説(大笑い)」
古田武彦「九州王朝説(大笑い)」
もう一度
古田武彦「九州王朝説(大笑い)」
大衆演劇「古田武彦一座」
zarakokuも役者として登場、役柄は「通りすがりのハゲ」 >>225
本居は鴨厨のあまりのアホぶりにあの世で驚いているだろう。 江戸時代の学者は漢文は必須だったが
明治以後は読める者が少なくなり読解力のレベルも落ちた
それで畿内説とかのトンデモ説が生まれ
それを正しく批判できる能力のある人もいなかったが
やっと伊都国に卑弥呼がいて北部九州一帯が邪馬壹國であったとの
正しい読みが近年でた。 >>227
もう九州説ぜんぶを否定されてんだろ
オウム返し失敗例 >>231
いまどき「熊襲の女酋長説」とかいってるのは竹田のアンポンタンぐらいだろう >>232
崇神が4世紀前半であればトヨやヒミコは欠史8代時代にいる。
わしはヒミコとトヨを1分で見つけた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Emperor_family_tree1-10.png
本居は逆に、名前が似ている倭国王帥升とスサノオが同一人物ではないかと気づき、
その5世代100年後の人物からヒミコとトヨを見つけ出したのだろう。
これも1分はかかっていないはず。
まぁ君たち凡才には天才の所為は理解できないであろう。 >>233
新しい漢文の読み方を発明するだなんて
九州説って完全に死んだな 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>236
帥升とスサノオの読みが似てるから同一人物かなとか想像したことがある奴はいっぱい
いるだろう
でもそこから鴨厨みたいに次々にトンデモ発想するのはある意味天才である >>214
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 >>225
九州説は卑弥呼が日本の古代天皇だ、なんて言ってるか?
邪馬台国当事の九州が半島同様の
独立した外国であったという事実によって顕現するのは
日本が朝貢国であった事、じゃなくて
記紀の日本の九州起源説が崩壊する、っていう事だぞ? 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>245
>九州説は卑弥呼が日本の古代天皇だ、なんて言ってるか?
そんな事を九州説ではない俺に聞くな。
アマテラスをヒミコにするのなら(無理だが)、
天皇家の祖という事になるね。
>日本が朝貢国であった事、じゃなくて
記紀の日本の九州起源説が崩壊する、っていう事だぞ?
ちょっと何言ってるのか分からない。
記紀の日本の九州起源説って天孫降臨のニニギ?
でもアマテラスのいた高天原が九州だなんてどこにも書かれてないよね。
まぁ実際は九州にはなかったのだから書くわけはないのだが。 白村江で勝っていたら記紀の編纂もなかった。
帝紀・旧辞のままでよかった。
そしてスサノオが帥升であることも隠さなかっただろう。
「はい、昔は王が自ら渡海し朝貢に行きました。
でも今、我々日本は戦争で中華帝国に勝ちました。
凄いでしょ、日本は!」
となってたはず。
ところが白村江で負けた。
戦争で負けるわ、昔スサノオは土下座朝貢してるわ、もう自尊心がボロボロ。
だから時代を大きくずらし帥升、ヒミコ、トヨを隠した。
高天原の場所も葛城であったのにそれをわざと濁した。
そういう事だ。 263の>>817
>ヒミコの時代3世紀ごろには畿内に王墓にふさわしい巨大古墳が作られる <
大和は、筑紫倭国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であるから、
全てにおいて、倭国に学んでの後からの模倣の、「セレモニーの拡大豪華さ」が中心であり、
巨大古墳も卑弥呼の時代よりもずっと後の3世紀末以後から。 >>249
皇国史観派が薩長右翼
アジア友好ならウヨでも構わん
差別主義を指してネトウヨと言っているんだよ 263の>>822
ほら、大和説は、史料事実や実態をぜんぶ否定しないといけなくなってる。
堕ちるとこまで落ちてるってこと。 >>243
九州筑紫が倭国の起源であることは、記紀からも読み取れますよ。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 263の>>823
大和説は、皇国史観の「日本は何でも世界1」みたいな、
記紀のモロバレの作り話を信仰せざるをってこと。 唐書の事もいまだにドヤ顔で書き込んでるバカがキュウシュウセツ
こいつら唐書読んだことね-んだろうなぁ
トンデモのサイトだけ見て浮かれてコピペしてるんだろうな >>250
白村江で負けたのは畿内ヤマトと百済だ
勝ったのは唐、新羅、筑紫倭国、出雲である 263の>>828
>平原の古墳より倍くらいデカいんだが?<
同じ天孫族の阿毎氏からの、別種分家の旧小国の田舎のご大尽の大和は、
同じ模倣をするなら、本家の平原よりも大きくして格好を付けたい、
という「セレモニーは進化する」思考になったんだろう。 263の>>831
>定説・・・<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国である、
という事を無視否定して、
皇国史観の「大和天皇家は日本1だった」という分裂幻覚の妄想にクルった学者の「定説」とやらは、
全くの愚説であり、×説。 263の>>835
もう史料事実や実態をぜんぶ否定してかないと大和説の浮上の目は無い、 って状況なわけね 。
ほら、大和説は、「南」や「別種の旧小国」や考古などの史料事実をぜんぶ否定しないといけなくなってる。
堕ちるとこまで落ちてるってこと 。
☝
ゲスの極み 定説攻撃 「ゴネドクで賞」 九州説の最新の戦法は筋が通っていようがいまいが
とにかく何でも言いふらして相手を呆れさせ黙らせるやり方 この程度のパーがキュウシュウセツ
こいつらこれで何かの議論戦わせてると思ってるんだからもう笑いしか出ない 263の>>839
大和説者は、ゲスの極み、史料事実や史料実態攻撃、「ゴネドクで賞」。 263の>>843
>定説・・・<
定説学者は、
皇国史観での「日本国は世界1」という殺戮戦争狂的な宗教に拠って、
「南→東」などの嘘つきダマシや、
「大和は、倭国から別れた別種の旧小国」などの抹殺のような、
史料事実を否定抹殺する、犯罪者的な人種。 263の>>845
>それは通説で定説ではないな。<
史料事実を否定抹殺するような、犯罪者的な説は、
始めから「定説」なんて有り得ないな。 263の>>851
>細石神社が弥生時代からあったと言い出すの? <
そりゃ、1世紀の(木造?)建築など、2000年ももつ筈もなかろう。
>九州説はこれだから・・・<
皇国史観の「日本が世界1」の国粋戦争狂の大和説者は、
このように、言葉尻を切り取って曲解誹謗する・・・・だから。 263の>>861
>定説と言うのは証拠等で証明され定まった説のこと
ここに書かれてるのは誰かの推測でまだ証明されておらず
将来覆る可能があるが有名な説で通説と呼ばれる。<
自然や歴史においては、不可知部分が殆どであるから、
確認事実からの「100%絶対の定まった証明」という事が有り得ず、
全て「確率的な推論」にしかならず、
従って、この大和説者の「定説を連呼」も、絶対的な価値がなく、
ましてや、「南→東」のウソダマシや、「大和は倭国の別種の旧小国」という史料事実を否定した上での、
「定説を主張する学者」という人種も、全くの信頼性がない、というもの。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:回答にならないと思うが希な例として
1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。
さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
以上希な例であるが、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明がひとつしかないが、誤情報の竄入によって
方位を間違えることは絶対ないとは言い切れない。 263の>>865
>ばかだね 証明されたら史実というんだよ<
ばかだね 。
「100%の絶対証明」など有り得ず、
史実を否定曲解した説は、確率が殆どなく、嘘つきダマシのサギというんだよ。 263の>>873
>定説となって史実と認められる訳で <
史実を否定抹殺や曲解した説は、始めから確率が殆どない訳で、
だからそんな説は、「定説」にはなれない訳で。
>通説は史実とは認められていない <
史料事実を否定抹殺していない説なら、確率が有り得るから、存在価値がある訳で。
>史実とは認められていないものは根拠にならん。<
史実を否定抹殺した大和説は、根拠に全くならない。 >>250
倭国王帥升は
天足彦国押人
こと
孝安天皇らしいよ >>273
方位を間違っていないし遭難もしていない >>259
>白村江で負けたのは畿内ヤマトと百済だ
>勝ったのは唐、新羅、筑紫倭国、出雲である
あのなぁ。
じゃぁ白村江の後、何で蝦夷が防人として九州に配置されたんだよ。
筑紫倭国なんて言い方やめてくれ。
弥生時代から出雲王朝の防人だったのだから。 263の>>883
そんな史料事実を捏造するような事をして、何が面白いの? 。
だから大和説が、全国津々浦々からバカにされるよ。 今日も経歴詐称ジジイの尿で着色した偽造本を聖典として崇める飲尿カルトが暴れてるのか 263の>>888
古墳時代の大和に、九州倭国政権の学習模倣の「セレモニーの進化」タイプが出来てた、
ってのが、史料実態なんだがな。 キュウシュウセツの人は
姓は阿毎を信じてるようだが、現在の皇族方の姓がやっぱり阿毎だってこと確認したんだよね? 263の>>891
>南冥も定幹も秋成も みんな偽書だと? <
誰がそんな断定をした?。
>九州説そこまで追い詰められちゃうの?<
大和説は、そこまで追い詰められていた、ちゅうの? 。 唐書のバカ丸出しな「アホサイトに掲載されてる一部だけ見て」浮かれあがって俺解釈してる低能がキュウシュウセツだからな
そもそもテメーでコピペしてる部分に矛盾があるのに気が付いてない
まぁ本なんて読める知能が無いから仕方ないね 263の>>892
大和説は、
史料事実の否定や曲解の嘘つきダマシをしているから、
簡単に鸚鵡返しを返されてしまっちゃう。 263の>>897
>通説を根拠なしと断定する理由は何なんだ?<
史料事実を否定したり曲解したりしている事。 まだやってんの?
九州だ 畿内だと喧しいが、「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。 @阿波
「若杉山遺跡:弥生時代終末〜古墳時代初頭にかけての辰砂採掘遺跡
1950年代には遺跡の存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査で、その実態が明らかとなった。
全国的にみても辰砂を採掘する遺跡として唯一のもの。」
以後、邪馬台国問題は一気に解決してしまいました。 263の>>898
>そりゃあタダの墓ならな けど昔どころか今でもってしても国内最大級の墓なら事情が違ってくるだろ<
九州倭国系武将の河内の仁徳や応神などの方が大きいよ。
>平原も違うだろ 厳密に言うと魏から王権を認められた証拠が出てないからな <
「尚方作」の方格規矩鏡が21個も出土したから、魏から王権を認められたものが「元」になっている。
>自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、
其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない)
と書いてあるんだが? <
始めから「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑」と書かれ、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」という区別もされているんだが・・・。」 >>270
>>細石神社が弥生時代からあったと言い出すの? <
>
>そりゃ、1世紀の(木造?)建築など、2000年ももつ筈もなかろう。
そりゃあ、建物は建て替えているだろう。
現在の社殿も、建造年代は分かっていたはず。
だが、三種の神器を副葬する平原遺跡が畿内説の言う通りに2世紀なら、その時点で伊都国においては古代神道は成立していたわけで、神社があってなんの不思議があるのかな? >>278
>筑紫倭国なんて言い方やめてくれ。
>弥生時代から出雲王朝の防人だったのだから。
出雲は筑紫が倒してしまったよ。
記紀くらい読んだら? >>282
記紀では天の何某と書いてあるから、当時はそうだったんだろう。 263の900
>国内の歴史を通じて最大級の墓が応募でないとしたら何なのか
むしろそっちの方に興味が湧くわ <
倭国の別種の旧小国の田舎のご大尽の、
倭国の墓の学習模倣での「セレモニーの拡大進化」。
>なら短里の基本尺は何ていうか教えて ちなみに 魏で使われていた普通の里の基本尺は
正始弩尺な <
アホだな。
「尺寸系」の寸法は、周代からずっと殆ど変わっていなかったのさ。
問題は、始皇帝が強制的に変更命令したかったのは、
「尺寸系単位長と里歩系単位長」との換算の「1歩=6尺」であった事であり、
周髀算経の一寸千里も、「一寸」が尺寸系であり、「千里」が里歩系であるから、
尺寸系と里歩系の換算規定になっていたのであり、
一寸千里の法からは谷本確認で1里≒76〜77mであったから、
里歩系の1里=300歩に拠って計算すると、1歩≒25cm強≒1尺、という事になり、
だから、周髀算経の一寸千里の法では、「1歩≒1尺」であった事になり、
始皇帝の「1歩=6尺」を変更している事になる。。 >>290
>出雲は筑紫が倒してしまったよ
はぁ崇神の時代まで大物主は存在してるよね。
大神神社に祀られてるよね。
何も倒れてないが。
しかも筑紫って何も関係ないし。 263の>>901
>そんな原則があるって証拠は? 単なる古田のテキトーな思いつきでしょ?<
古田さんの三国志などでの行程や旅程や遠征の記載方法からの帰納であり、
「出発説明+途中移動説明+到着説明」という順次式の説明であり、
魏志倭人伝での行程記載でも、全く同じ説明方法になっている。 263の>>910
>出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という<
筑紫倭国から別れた別種の旧小国の、倭国の地方の市を監督する大倭職という、、
倭国の下部組織。 >>293
崇神と関係あったっけ?
大物主神は大国主とは別物だと思うよ。
住んでいたところが違うからね。
出雲の国譲りでは、出雲を倒して筑紫に新たな政権が立つ。
実質的には出雲から筑紫への政権移譲のストーリー。 263の>>913
大和説の言うことって、大抵、
史料事実の否定抹殺での反論か?、
相手の発言の言葉尻への曲解での誹謗中傷か?、だろ?。 妄想だけを垂れ流し根拠など一つもないいつものキュウシュウセツですね >>296
>出雲の国譲りでは、出雲を倒して筑紫に新たな政権が立つ。
実質的には出雲から筑紫への政権移譲のストーリー。
筑紫に新たな政権なんてどこに書いてるんだよ。
話を勝手に作るな。 >>287
お
阿波さんだ。
昨日、先代旧事本紀を読み直してね
阿波=倭説はかなり信憑性は高い可能性が出てきた。
東征途上に、いわゆる神武軍は椎根津彦と遭遇して先導してもらうわけだが、
この椎根津彦は海部氏系図に記載あるがその系図では以降の系がなくなるんだわ。
ところが後代、仁徳天皇が
吉備海部の黒姫を召したが皇后の磐姫を恐れて吉備に戻った話が古事記にある
わざわざ仁徳天皇が淡路の宮まできたという
この吉備海部が実は椎根津彦の後で
牛窓湾で塩生産をしていたという
ほれ塩つつ翁と整合する。
つまり倭国造を賜るわけだが実際は
いわゆる神武一行と遭遇した一帯の
「本領安堵」だった可能性があるように思うんだわ。
どやろか? ぼくちゃんのかんがえたラノベを何の迷いもなく真実だと喚き散らすのがキュウシュウセツ 天下普請や参勤交代をいわなきゃ
おんなじ
男は皆、奴隷にされた
天下普請によって築かれた城郭
江戸城(武蔵国・東京都)
名古屋城(尾張国・愛知県)
大坂城(摂津国・大阪府)
高田城(越後国・新潟県)
駿府城(駿河国・静岡県)
伊賀上野城(伊賀国・三重県)
加納城(美濃国・岐阜県)
福井城(越前国・福井県)
彦根城(近江国・滋賀県)
膳所城(近江国・滋賀県)
二条城(山城国・京都府)
丹波亀山城(丹波国・京都府)
篠山城(丹波国・兵庫県)
↑こんなにあるんだぜ 古墳時代はもっとひどかったはず
きれいごとの畿内厨のバカな歴史観 粉砕してやるよ >>287
土地勘がないからあれだけども
淡路も
アワヂ。つまり阿波への道ということで
地図を見ると讃岐の方と関わってそうに思うけど
大和川紀ノ川の海運を考えると
阿波の方が重要なのではなかろうかと
思えてきたよ。 畿内説って、記紀の都合のいいところだけつまみ食いなんだな。 >>305
邪馬台国と関係ないな。
初期ヤマト王権スレでも立ててそっちでやれば? キュウシュウセツの無学ぶりは見てて本当に失笑もんだな
こんなもんで人と議論してると思ってんだから哀れでしかない
むしろ自分の間抜けな発言を恥と思わないくらいだから程度が知れるってもんだな バカと無知って無敵だよな
普通なら恥ずかしくて生きていけないような事喚いてるのに本人は自信満々でいられるんだからな
キュウシュウセツの連中がこんなに図々しいのもバカで無知だからなんだと思うとよくわかるなぁ >>310
バカとか無知って言う前に
日本語の読み書きが出来てないだろ彼ら >>302
>東征途上に、いわゆる神武軍は椎根津彦と遭遇して先導してもらうわけだが、
>この椎根津彦は海部氏系図に記載あるがその系図では以降の系がなくなるんだわ。
神武東征も倭国(阿波)国内の出来事なんですよ。
阿波市→鳴門市への東征なんですね。 @阿波 >>305
>土地勘がないからあれだけども
>淡路も
>アワヂ。つまり阿波への道ということで
>地図を見ると讃岐の方と関わってそうに思うけど
当時は淡路も讃岐も倭国(阿波) @阿波 大和が日本のふるさと、そんな風に思っていた頃もありました。
だから天孫降臨の地が九州宮崎と聞いて、意味不明だし記紀は絵空事、そんな風に感じたこともありました。
しかし、稲作伝来の地も最初の王墓も博多湾沿岸であり、福岡にも筑紫の日向があることを知りました。
そして平原遺跡から八咫の鏡を含む三種の神器が出ていたことを知るに至り、そこが倭国の王都であると納得しました。
その立場で中国の史書や記紀を読み直すと、筑紫倭国についてきちんと書いてあることがわかりました。
畿内説にしがみついている人たちは、文献をちゃんと読んでいない人たちなのです。 多分、はじめから九州説の人間なんていない。
洗脳から覚めた人間からだんだん九州説になる。 >>320
今は、畿内説、九州説の洗脳から覚めた人間からだんだん阿波説になっている。 >>319
八咫の鏡とか、べつに王権と関係ないだろ >>323
古来より三種の神器は王権の象徴とされてきたよ。 誰も見た事もない物を証拠だと言い張るバカがキュウシュウセツ >>323
箱の中身を見たことはないが、見たことがある人の記録はあり、周りの人が皆それがそこにあるものとして行動している。
君は宮内庁に出かけて行って、箱の中身は空だと叫べばいい。
象徴って、周りがそう扱うことで合意していると言う意味だからね。 ========こんばんわ 5時です キウスの時間です==========
TOPIX
一つづつ、反論をのべる方が相変わらず頑張っています
・・・・できれば、タイムリーにしてもらいたい、前スレまで出されると議論の流れが止まるので
漢文が話題になりました、明治後どうのこうの
・・・・明治以降、文盲 率が低くなり庶民の間でも邪馬台国を論ずることができるようになったのは事実でしょう
あいかわらず、畿内説の進捗は見られませんでした
・・・・他説への反論や中傷に対応するのは構いませんが、本来の畿内説の探究の書き込みが無く残念
貼り付けも目立ちました
>>327
あんたも中身を見たことはないくせに
平原のものと同じだと言い張ってるわけだ つか八咫の鏡って言葉も用例が沢山ある
皇室の鏡だけを指してると思ってるアホがキュウシュウセツ
風土記では香取の神にささげるのに「二枚」八咫鏡を天皇が献じてる
他の所にも神が持ってる鏡として名前が出る
大きな立派な鏡を指すだけの意味合いの言葉
無理やり曲解してるアホの無知さがよく分かるな >>328
同意
> ・・・・できれば、タイムリーにしてもらいたい、前スレまで出されると議論の流れが止まるので この八咫鏡の用例を見るとこれは唯一の物ではなくて他でも見られるものであるわけだ
で、平原の鏡がその例だというのならこの形が他にもちょくちょく見られないとおかしい
ところが平原以外に例がない
つまり、平原がどこにも何の影響を与えていないという証拠の一つにしかならんわけだ >>319
平原が王都だった時期もあっただろう1世紀とか
けど卑弥呼の時代三世紀は畿内が王都だったらしい事は
考古学的に色々と証拠がある >>334
王都がたくさんあるわけないから、3世紀は平原だけ。
むしろつじつまが合う。 ・平原は周囲からの献上品も無ければ平原から何かを外に出してる事もなくそれまでにあった北部九州の中心性はこの頃に完全に崩壊する
・見つかる鏡はそれまでの鏡を鋳つぶした国産ばかりで外国との交渉のルートも失っている
・祭祀の規模も小さく他地域との関係性もなく個人レベルの祭礼の域を出ない
・この後になにも続かず紀元前から続いていた大量副葬も九州全体から消え去るキッカケになる
・この土地を取り囲むように他地域の土器、特に畿内、吉備の土器が広まりこの土地がその地域の強い影響下にあるのが分かってる
・この鏡が後の世にも伝わる八咫鏡の原型だというのに他の地域には後の時代にもみられない
なにが王都だw寝ぼけてんのか
九州の決定的な衰退の始まりを示す遺跡でしかない
こんなものにすがりつくしかないのがキュウシュウセツ >>330
>風土記では香取の神にささげるのに「二枚」八咫鏡を天皇が献じてる
どこの風土記?
別に八咫の鏡が一枚だけなんて主張していない。
むしろ、平原に5枚もあったのだから、他にもある可能性が高いと考えている。
香取の神に2枚も捧げたというのは大変興味深い。 平原のネタはもう割れてる
周りに何の影響も与えられず、それまでの遺産を食いつぶして国産鏡だらけになり後にも続かない個人墓
平原を持ち出してる時点でキュウシュウセツなんてもんが終わってるのがよく分かる >>336
そもそも平原が倭国の王墓だって根拠がない件について 伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
天皇家が祭っている八咫の鏡だけでも、実は2枚はあることになる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。
香取神社にもし現存していたら11枚になるかもしれないが、宮中で遥拝しているのは香取神社とのことなので、賢所の鏡とは香取神社から取り戻したものかもしれない。
そもそも何枚鋳造したのか、そこが記録にない。 263の>>928
>・・・これ、教科書に載ってるんですけど <
皇国史観の「大和天皇家が日本の盟主であった」という通説大和説の教科書執筆者が書き、
皇国史観の文部省が検定し、
文部省の言いなりの校長らが採用を決定した教科書そのものが、
「南→東」などの嘘つきダマシも教科書なんですから、
教科書に載っている、という事は、何の価値もないんですよ。 平原の後の九州は小型の国産鏡ばかりになる上に、各々に繋がりが無くなり個々の小集落単位に分裂した状態を呈している
中心を失い、まとまりもなくして小規模な村落単位にまでバラバラになった九州の姿を示している
そして多くの周辺地域からの土器や祭祀が流入してこの地域に主体性が失われるキッカケとなる
平原は九州の終わりの始まり
卑弥呼の100年から50年くらい前には九州は既にただの地方に成り下がっていた事を表している このスレは
九州説や阿波説を勉強するスレでは無い
畿内説のスレだ 伊都にあった八咫の鏡を、現在でも皇室で三種の神器として祭っているのから、伊都国が後世に与えた影響は甚大だろう。 263の>>946
>まだ鉄器が出ないとか言ってるのか? <
少な過ぎる、と言っている。
>ホケノ山遺跡から大量に見つかっている<
ホケノは3世紀末以後であるし、ホケノだけでも、筑紫や北部九州よりも、全く少な過ぎる、
>邪馬台国は女王国であり、奴国の隣不弥国から船で 投馬国を経由した先にある国だ <
投馬國への行程記載には、
「途中移動の動詞」が省かれているから、移動がなく、
だから主行程ではなく、
不彌國からの側副傍線行程の記載であり、説明だ。 こうやって教えてやってもアーアーキコエナイして
「平原の鏡は皇室の鏡だ!」
とかバカ丸出しの妄想を連呼するだけがキュウシュウセツw
まぁお前らなんてそんなもんだよw >>345
ヤマトという地名も北部九州から移った
森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です 筑紫日向伊都国の天孫族が保有していたはずの八咫の鏡を、神武は持っていなかった。
饒速日との対面では天の羽羽矢を見せて身分を明かした。
では倭国の王権の証とされた八咫の鏡は誰が持っていたのか?
3世紀に卑弥呼とともに平原遺跡に何枚かが副葬された。
壹與は肥前河上神社の祭神となった。
4世紀には筑紫の女王である神夏磯姫が八咫の鏡を所有していた。
その孫の田油津姫は筑後から筑豊を支配していた。
彼らは肥国から進出して筑紫を支配していたのだろう。 長々と根拠もない妄想を喚くのがキュウシュウセツ
もう平原の鏡は皇室の鏡だとか言う妄想だけで喚き散らしてる
そもそも神夏磯姫の土地は平原でも何でもない別文化圏の土地
しかもその頃には九州は更に強く畿内の影響下に入っていてもう独自性も何もなくなってる
地名なんてものは同音の物が沢山ある
ヤマトも「山のふもと」という意味から転じたという風に神皇正統記に書いてるように日本中どこにでもあり得る名前でしかない
こんな物を無理やりあてはめて叫んでるんだから度し難い
もう考古学も史実も何にも知らないコジツケだけで叫んでるのがよく分かる 八咫の鏡がそもそも複数存在したという前提に立つと、筑紫、近畿、関東そそれぞれが分王朝として何枚かの鏡を保有していたことになる。
その残滓が風土記や記紀に伊勢以外の八咫の鏡の話として残されているのだろう。
古代から畿内大和が唯一の王朝であったとする万世一系の皇国史観に基づく畿内説は、やはり眉唾のようだ。 キュウシュウセツっていまだにヤタノカガミダー!コウテイガー!チメイガー!とかバカな事を根拠だと言い張れるんだからもう見てて憐憫の情しかわかない
これで平気な顔で人のスレに来られるんだからバカって最強だなと思うわぁ
どうせ説明したって聞かないだろうしバカはなおらないって本当だな >>351
要するに九州王朝説特有のヘンな考え方なんだね 記紀において神夏磯姫の称号は筑紫の梟師とある。
帥は筑紫の支配者のことなので、これは筑紫の女王のことに他ならない。
卑弥呼からわずか数十年後のことと考えられるので、壹與の次の女王なのだろう。
筑紫と畿内は互いに影響し合うほど近い関係となっていただろうから、独自性がどうこうはなんの根拠にもならない。 バカはまだ分からないようだが九州は弥生時代後期にバラバラになりもう中心もまとまりも無くなってる
そして東西は弥生時代を通じても別文化
特に神夏磯姫のいた地域は出雲の影響が強く土器も平原などがある地域と別
そして邪馬台国の時代にはどちらも庄内式、その後には布留式に塗りつぶされて独自性などない
更には神夏磯姫の土地と思われる場所には前方後円墳が作られて畿内の強い影響下にあるのが分かってる
ここに独立的政権があったとか言う妄想が出てくる事態何も知らない事の証拠にしかならん
バカ乙 神夏磯姫の時代の天皇とされる景行天皇の和風諡号はオオタリシヒコ忍代別であり、別は分家の意味だとされる。
ここでも、実は筑紫の神夏磯姫の王朝が倭国の本家であり、オオタリシヒコが分家であったのではないかという説が成り立つのである。
しかも、タリシヒコは隋に日出処の国書を送った筑紫の倭王である多利思比孤と同じ名前でもある。 邪馬台国はヤマト国。卑弥呼がいたのは纒向。ヤマトの地は卑弥呼が都を置いたところ。
纒向建設から四世紀の纒向解散までは、ヤマトは政権の中枢(倭国の王がいたところ)だったんだろうね。
2世紀末以前、崇神以降がヤマトが政権の中枢であった根拠はない。
この点を見直さないといけない。そういう意味でヤマト中心主義の見直しが必要。 >>359
「とされる」って、主語はトンデモ爺さんだろ 景行天皇の時代ともなると完全に古墳時代
九州は古墳の規模や格から見て古墳時代を通じて中級以下
九州発の中心性も、九州をまとめるような勢力も存在しない
こんなところに倭を総べる本家などありようがない
九州に大型の古墳が現れるの応神、仁徳時代の皇室の后を出した時代から
要は皇室との関係性によってようやく地位が少し上がる程度の扱いなのが分かる
時代をずらせば誤魔化せると思ってるのが飲尿信者
九州王朝など時代を変えれば変える程成り立ちようがない
そんな事も知らないからバカな事が言えるんだろうな
バカ乙 263の>>950
>土器が見つかったのは外堀に当たる部分だろ それでもって年代を特定はできないだろう
新しい時代の物が紛れたかも知れないからだ
副葬品を見ればホケノは少なくても三世紀前半のものだと考えられる<
ダメだよ。
「布留が外堀」であったとしても、副葬品では庄内なんだから、
どっちにしても、285年頃以後だ。 言葉のごまかしだけでまだ何とかなると思ってるくらいだからな
もうそんなレベルじゃないのが分からないからキュウシュウセツなんて恥ずかしい事言えるんだろう
本当に見てて哀れ >>353
松本清張著『鴎外の婢』にみられる考古学的虚実構成
「《近畿地方に成立した古代王朝の前身が、その東遷以前に、北九州の部族連合体であっ
たことは、三世紀半に編纂された三国史東夷伝倭人の条の記事を見ても明らかである。倭人伝
は、すでに「邪馬台国」の名で呼ばれる北九州の部族連合体政権を魏の使者の報告通りに記載
しているので、この連合体政権は、それより早く、二世紀の後半には存在していたとみなけれ
ばならぬ。そして北九州で蓄積され発達した、この政権のエネルギーがわが国の中央部である
やまと東に移り、現地の部族連合体を吸収して大和古代国家の基礎となったであろうことは
すでに多くの学者の説くところである。すなわち畿内政権の故郷は北九州であると
無理なく考えられよう。記紀には人名にも地名にもトヨの字が多く出てくるが、魏志倭人伝の
「台与」がその音を写したものとすれば、後代に「豊」の漢字をあてはめた地名は北九州に
ずっと以前からあったものとみなければならない。ツクシが奈良朝期にできた九州の広い呼び名で、
豊の国がその中の狭い地域の呼び名であったことから、豊のほうが古い名であり、
大化後の行政区画である豊みやこ前豊後のうち、豊前がその原体である。
それも豊前平野を占める京都郡(旧仲津郡を含む)が中心であったことは、従来史家の
いずれも認めるところである。 >>353
つまり、この京都郡地域は、東遷して成立した大和政権の、母なる地であったことが推定されるのである。
豊の国のミヤコあがたは、伝説の景行天皇が熊襲征伐のとき行宮をこの地方のナガオ(長峡)の県に
置いたから起こったというが、ミヤコを皇都の意味にした京都の字を宛てたのは奈良朝で、
ミヤコというのはこの地方の独立した古い地名であった。
「一体に古い地名は意味のわからぬのが多いことを考えねばならぬ」と津田左右吉博士が言っているとおり、
ミヤコ=京都としたのは二、三世紀と八世紀とを突然に接合したようなものだ。
古い地名のミヤコは、あるいはヒミコとも関連があるかもしれず、空想を許されるなら、
ヒミコは魏の旅行者がミヤコを聞き誤っての訛伝かもしれないのである。
ミヤコの地名が皇都として畿内に東漸したのは、民族の移動に付随してあり得ることである。
いったい景行天皇の西征は架空の物語で、これは奈良朝に全国統一を誇示するために創作された。
景行帝が九州に入った最初の行宮がトヨの国の長峡であったことは、このかつ地が大和政権の
曾ての故郷だったのを現わしている。景行紀によってミヤコ(京都)の名がこの地方に
起こったのではなく、五世紀も隔てて忘れかけられている母国の名がようやくにして
「地方誌」に書きとめられたのである。明治三十三年に京都郡小波瀬村の挾間畏三という人が
『神代帝都考』という一書を著して京都郡仲津郡内を記紀の神代史の地名に当てた。 >>353
「《椿市は、書紀にある海柘榴市(ツバイチ)で、地名は、景行紀と豊後風土記とに出ている。
しかし、もとはこの地にあったものが豊の国に対する上代の曖昧な知識から豊前の説話が
豊後(大分県直入郡)に転置されたのである。
紀は海柘榴市に「海柘榴ノ樹ヲ採リテ椎トナシ兵トナス。因ツテ猛卒ヲ簡シ兵椎ヲ授ケ、以て山ヲ穿チ
つちぐもことごとくるぶし草ヲ排シ、石室ノ土蜘蛛ヲ襲ヒ、稲葉ノ川上ニ破リテ其ノ党ヲ悉ク殺ス。
血流レテ踝ニ至ル、故ニ時人ソノ海柘榴椎ノ処ヲ作シテ海柘榴市ト曰ヒ、亦血流ノ処ヲ血田ト曰フナリ」
と地名起いち源を述べ、豊後風土記もほとんど同じ記事を掲げている」
だが、これでは海柘榴の市の説明にはならない。市は物々交換の場所だからである。
倭人伝にも「国国ニ市アリ、有無ヲ交易ス、たいわ大倭ヲシテ之ヲ監セシム」との記事によっても証される。
すなわち各地には民衆が集まる一定の場所があったのである。それには、人々のもっとも分りやすい所が
択ばれたろう。いまだ固有の地名のなかった時代、高い樹や珍しい樹の下などは、目印として恰好な場所で
あったにちがいない。ツバキは当時としては珍しい樹の一つであったろうから、
その樹のあるところは誰でも知っており、その下の広いところが市場に択ばれたのである。 263の>>961
>ホケノの一つの遺跡で北九州全体の5分の1?
すげーじゃん
畿内には他にも箸墓をはじめメスリ山やら高松塚やらあるから
全部合わせたら2000本くらい矢じりがあるんじゃねーか<
北部九州は、弥生〜古墳期の統計だった筈だよ。 >>353
ずっと後代になって、暦日が制定され、日付が誰の知識にも入ってくると、
日時をきめて市場が開催されるようになった。
二日市、四日市、五日市、八日市、十日市、二十日市(豊前にも四日市がある)の地名がその
起りということは、ひろく知られている通りだが、「ツバキの市」はそれ以前の原始的形態で、
古代の交換経済の実施場所であったろう。「最初は種族と種族とが、それぞれの氏族長を通じ
て交換した。しかし畜群が特別財産に移りはじめるや、個別的交換が次第に多くなり、逆に唯
一の形態となった。
倭人伝に「大倭」がこの市を監したと伝えるのは、すでに権力階級の発生があったからであり、
この地方権力者による云い伝かんせんえが、のちに中央政府によって官撰の歴史に組みこまれたのであろう。
そういう例は多いのでよある。ツバキが古代に珍しかったのは八、九世紀になっても万葉集などに多く
詠まれているこやまとしきとで分る(4)。海柘榴市は大和磯城郡(今の三輪町付近)にもある。
これが豊前の地名の東漸であることは、ツバキ市に関連する古地名が長門、周防、阿波、因幡、伊勢の
径路に分布していることでも知られる。地名の移動が民族の移動に付随することは、アメリカにおける
イングランド移住民の故郷地名の例をまつまでもない。また、大和の海柘榴市がその地名の本来の由来を
そうしつ喪失していることは、日本紀略、枕草子に地名しか載せていないことでも分り、これも豊前の
うたがきがはるかに古い証である。大和の海柘榴市が上代の歌垣の場所になったというのは、古代市場
としての広場の機能が転化したとみられるが、わずかにその名残りも伝えられないではなかった。 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。 >>353
「《古事記の巻頭についている太安万侶の序文にあるように、古事記は稗田阿礼の誦す
とねりる先紀旧辞を安万侶が編集したことは周知の通りである。時ニ舎人アリ、姓ハ稗田、名ハ阿礼、
な年コレ二十八、人ト為リ聡明とあるが、当時の姓は地名からきているのが多いから稗田は阿礼
あまのかかぐやまの出身地名である。現在、奈良県の天香久山に近い稗田がそうだとされて、
その指標も建てられているが、これも豊前の稗田の地名が東に移されたもので、部族の移動を語る。
仲津郡になかとみじんぎおみは倭名抄中臣郷がある。中臣氏は、古代に神祇をつかさどった。
中臣は仲津臣で、仲津とナカツヒメ(仲媛)とは、関連があるかもしれない。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、
弥馬獲支(みまかくき)、奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
奴佳鞮
ぬかて
なかとみ
中臣郷
中臣鎌足
中臣郷 奴佳?(なかてい)
中臣郷 奴佳?(なかてい) 263の>>964
>【墳丘墓の分布】 弥生時代の墳丘墓、古墳のある遺跡数 一つの遺跡に複数の古墳あり
奈良は関西の中でも特に少ない
筑紫国
福岡県 1945件
肥国
佐賀県 415件
長崎県 224件
熊本県 166件
豊国
大分県 310件
熊襲国
宮崎県 145件
鹿児島県 109件
大和国
奈良県 198件
山城国
京都府 616件
摂津国他
兵庫県 638件 <
成程。 >>343
>そして多くの周辺地域からの土器や祭祀が流入してこの地域に主体性が失われるキッカケとなる
その土器や祭祀の流入は、阿波から進出し、周辺地域に展開したた、忌部一族がもたらしたものなんですよ。 @阿波 東遷?
またアホがアホ言い出した
九州から外にでる影響は「弥生時代通じて」殆ど見られない
特に畿内に至って須玖式の古い時代の土器の欠片が見つかって大騒ぎになるレベル
逆に九州は周辺地域から絶え間ない干渉を受け続け弥生時代後期になると畿内、山陰、瀬戸内海、四国と言った地域の土器に席巻される
そしてその後には纏向式の前方後円墳を採用するようになる
祭祀や文化的にも九州から流入する影響は見られない
影響は常に九州←その他地域
これが東征も東遷もないという考古学的根拠となっている >>377
紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。
本遺跡は、燧灘(ひうちなだ)に突出する岬上の先端にそびえる標高352メートルの紫雲出山山頂にあり、
絶好の視野と眺望とに恵まれている。
本遺跡は、弥生時代中期の初めごろから始まって、出土遺物の量から判断して、中期も終わりに近づくにつれて
集落の規模が拡大し、人口も増加したらしいが、中期をもって終わっている。政治・社会の変革は、
もはや不便な山頂に居住することを必要としなくなったのであろう
本遺跡から出土の石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと佐原は考えた
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑直線距離で8キロくらいだから、いい感じじゃね? 時代もぴったり合う
香川県善通寺市・旧練兵場遺跡に九州勢力が橋頭堡を築き、紫雲出山遺跡に籠もった原住系・銅鐸民との
血みどろの戦いが行われていた証拠だよ >>377
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 九州はそもそも最盛期でも北部一帯から四国の西北部に影響を与える程度にしかなってない
山陰や瀬戸内海に影響を全く及ぼせてない
これは弥生時代を通じて同じ
東遷とか東征とか物知らないパーの妄想なのが良く分かる
まだこんな事言ってるんだから呆れるわ >>381
神武もおれは、九州勢力のバガボンド(放浪者・はぐれ者)だと思ってる
『香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡』
http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/0d4526b0139cfe8d47b520326d6862b9
>本年度の調査で、長方形で2本柱という九州地方で一般的な構造とよく似た竪穴住居跡を新たに発掘した。
>九州地方の特徴を持つ壺も出土しており、九州地方から移り住んだ人が同遺跡に住居を建て、生活していたことを示しているという。
↑これこそ、「神武」のひとりだったかもしれない… 第一章 第三条 の2
国民は、社会連帯の理念に基づき、身体障害者がその障害を克服し、
社会経済活動に参加しようとする努力に対し、協力するように努めなければならない。 >>358
>更には神夏磯姫の土地と思われる場所には前方後円墳が作られて畿内の強い影響下にあるのが分かってる
「畿内」は「阿波」の誤りですね。 @阿波 >>378
夢をみてはダメ
旧練兵場遺跡は大きな遺跡
九州から来た人の家も何軒かある
というだけ 263の>>969
>るっせーな鏡だよ鏡 239年に作られたのが文献ではっきりと記されている三角縁が
副葬されていないだろ?<
三角縁は、魏帝の下賜鏡ではなく、渡来して来た呉系の楽浪鏡師の作であり、
239年作のものも大和出土ではない。
>画文帯や内行花文は副葬されているのにだ<
画文体も楽浪流民が齎したものであり、
内行花文は、破片状態(まさか鏡片?)状態であり、筑紫からの伝来である可能性がある。
>すなわちホケノ山の被葬者は239年より前に埋葬されたという事だ<
すなわちホケノ山の被葬者は、鏡片とすれは卑弥呼や壹與からの下賜鏡片であり、250年頃以後に埋葬されたという事だ。 銅鐸もバカが毎度持ち出すけどこれもバカのバカ特有の勘違い
銅鐸はかなり早い弥生時代中期終わりごろに山陰、瀬戸内海で無くなりここに首長祭祀を行う出雲勢力が誕生する
そして大和国でもその少しあとくらいの弥生時代後期に無くなり大型墳墓が現れる時代になる
銅鐸の消滅は各地域に現れた国の誕生に連動しており、九州は何の影響も及ぼしてないどころかこの勢力に逆に乗り込まれている状態になっている
銅鐸民族だの鏡の民族だの言うバカげた話には全くなってない >>382
香川県善通寺市・旧練兵場遺跡も当然、倭国(阿波)の影響下ですね。 @阿波 >>386
わかってないみたいだが
鏡打ち割り儀式と破鏡は全然別だからね
無知ゆえの妄想は恥ずいだけだよ >>386
知識が賞味期限切れのお爺さん
三角縁は呉系統じゃないので、ヨロシク そもそも銅鐸が無くなった後に現れた四隅突出型墳丘墓も特殊器台も、纏向型前方後円墳も九州に何の由来もない
そしてこれらが現れた時代には九州自身の規格である甕棺墓や銅矛が健在だった
九州の東征だとか言うのなら甕棺や銅矛が広まるべきなのに全く関係ない後にも先にも関係のない独自文化がそこに成立してる
東征とか東遷とか言う奴って脳ミソないんじゃねぇのか?
どんだけバカなんだよ 前方後円墳は関東にも数多くあり、都道府県別では千葉県がトップとなる。
ちなみに大きさでは大阪府がトップである。
奈良は前方後円墳の中心地ではない。
なぜ千葉県なのか、今までよくわからなかったが、香取に八咫の鏡が置かれていた時代があったとなると合点が行く。
古代のある時点において、倭国は筑紫、畿内、東国の鼎立王国となっていたのだろう。
現在でも、宮中で遥拝するのは伊勢ではなく香取・鹿島の方角なのである。
この二社は香取海の入り口を固める海上交通の要所であった。 >>391
中学生未満の学力しかない九州説じーさんにはレベル高すぎ 前方後円墳の知識もないバカが喚きだした
前方後円墳は各時代ごとに並べてみれば常に畿内が大きくその規格に従って各地域が連動してる形になっている
政権の都の移動などによって中心地は変わるがこの関係性は変わらない
特に五世紀ごろの応神、仁徳時代になると朝鮮半島進出と言う背景からも大阪方面に拠点が移る
これはむしろ歴史の描写が考古学的な発見と連動している証拠となっている
地方に沢山あるというなら地方の多くの豪族がこのシステムに従ってたと言うだけの事
数だ大きさだとか言うなら古墳の在り様を一から勉強し直せ
バカ乙 四隅は天津国から派遣された出雲国造家の墓制だと思うけど。
筑紫の天孫族の親戚だね。
最近になって両家は久しぶりに婚姻関係を結びなおしたね。 >>394
>これはむしろ歴史の描写が考古学的な発見と連動している証拠となっている
いいこと言った。
筑紫の日向にある平原遺跡における八咫の鏡の発見も、同じだよね。 263の>>971
>奈良に限定したわけではないが 京都大坂合わせていわゆる畿内には <
ダメだよ。
河内や摂津や山城は、銅鐸部族も残っており、倭国系武将クラスの支配地でもあり、
大和とは別部族の支配地域だ。
>100メートルオーバーの古墳がゆうに100はある 九州にはそんなないだろう <
いずれにしても、大和は、倭国の後発での「セレモニーは大きく豪華に見せる」類のものだ。 関西の勢力も豪族で、古墳の流行をリードする好き者が多かっただけでは? キュウシュウセツが反論のつもりなのか言い出す話がもう初歩の初歩の知識さえない低レベルさでもう呆れるしかない
ここはお前らバカのための学校じゃねぇぞ
いちたすいちから勉強し直してから来いよ低能 >>387
>銅鐸の消滅は各地域に現れた国の誕生に連動しており、九州は何の影響も及ぼしてないどころかこの勢力に逆に乗り込まれている状態になっている
「吉備楯築遺跡 弧帯文石(弧帯石)つながりとして」
阿波では30遺跡、43口の銅鐸が知られる有数の銅鐸出土地域で、
銅鐸埋納と相前後して、記号や絵画とは異なる思想を表現した「弧帯文土器(直線と曲線の組合せにより表されている)」
が矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡から出土した土器にみられる。 まあ、筑紫にも100メートルオーバーの前方後円墳を作る好き者がいたわけだが。
要するに、古墳の大きさは重要ではない。 100m?
お前その時代の古墳並べてみ?
100mなんて中規模程度でしかない
しかも古墳と言う規格に従ってその規模を採用してる
どんな立場かなんて考えるまでもない
アホの言いだす事は本当に間抜けだな 100m前後は地方首長のそれなりの地位程度だな
九州は100m規模の古墳が少なく大抵が50〜60m
まぁこれが九州の現実だな 263の>>971
>奈良に限定したわけではないが 京都大坂合わせていわゆる畿内には <
ダメだよ。
河内や摂津や山城は、銅鐸部族も残っており、倭国系武将クラスの支配地でもあり、
大和とは別部族の支配地域だ。
>100メートルオーバーの古墳がゆうに100はある 九州にはそんなないだろう <
いずれにしても、大和は、倭国の後発での「セレモニーは大きく豪華に見せる」類のものだ。 >>392
>なぜ千葉県なのか、今までよくわからなかったが、香取に八咫の鏡が置かれていた時代があったとなると合点が行く。
それも、阿波から黒潮の乗って関東に進出した、関東忌部の痕跡ですね。 @阿波 何メートルに閾値を置くべきなのか。
統計学的に説明せよ。 大体のそれなりに大きな古墳の被葬者は后等の大王の関係者や、もしくは降伏して服従を誓ったような人間
史書の記述と連動した地位だというのが分かる
むしろ古墳の在り様が中央のシステムに則る物であるという証拠になるな まあ、関東の古代王国としての香取宮のあり方は、まだ解明されていない。
畿内にしか目がいっていない畿内説を妄信している人間には、なぜ天皇が香取鹿島を遥拝しているのかは、永久にわからないだろうね。 弥生時代がダメなら古墳時代に
古墳時代がダメなら飛鳥時代に
こうやって時代をズラしてズラしてその場その場で適当な作り話をしてて出来上がったのが九州王朝説でしたと言う
まぁ何も知らないバカが騙されるには丁度いいホラ話かもね 263の>>973
>畿内の古墳はほとんど発掘されてないんだよ<
それなら、大和では、弥生〜古墳期に、幾つ発掘された、と言うんだい?。
>ホケノ1つでこれだからほか全部合わせれば 鉄製品なんぞ山ほど出てくるに決まってるわ<
ホケノからしか大量に出なかったんなら、他でも押して知るべしだな。 魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。 まぁキュウシュウセツはカルト教団の信者だからな
教えてやっても理解なんてするわけもない
こうやってバカ丸出しの妄想を喚くだけの壊れたスピーカー >>398
>関西の勢力も豪族で、古墳の流行をリードする好き者が多かっただけでは?
阿波から進出した、豪族ですね。 でも相当、力の有る豪族ですよ。 @阿波 考古学的に東征が卑弥呼以前には考えられない
それは畿内説のネックで、
だからこそ、北部九州と畿内は別国で
畿内は倭種の国だった事の証明にしかならん
考古学的に中国から見た1,2世紀の外交相手は間違いなく北部九州だからね
倭人伝には北部九州の記載があるから、同じ国と見ているのは明らか
京が他のどこかなら、
邪馬台国の比定条件は、3世紀前半から北部九州の物(北部九州の土器、鉄や中国朱、銅鏡、半島&大陸の物)等がある程度出土しないと話にならない 263の>>984
>サンカクに関しては畿内のほうからよっぽど見つかっているぞ <
三角縁は、魏帝からの下賜鏡ではなく、
呉系楽浪鏡師らの鏡であり、
大和の子弟が鏡師らに教わって、
鏡作神社で、副葬用の粗悪な三角縁を大量に造ったから。 >>412
>行橋市の北は京都郡、苅田。
中らずと雖も遠からず。 @阿波 >>415
>考古学的に東征が卑弥呼以前には考えられない
神武東征も倭国(阿波)の出来事。
当然、卑弥呼以後ですね。 @阿波 263の>>989
>ヒミコより前な 画文帯鏡、内行花文鏡と古い時代の鏡の副葬はあるのに
ヒミコの時代の鏡三角縁神獣鏡が副葬されていないから<
ダメだな。
ホケノも庄内副葬であるから、久宝寺での庄内と伽耶の陶質土器との共存に拠って、
285年頃以後だ。 >>58
>Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び隣接所属村の不彌國であり
出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由が無い。<
投馬國記載は、途中移動を示す動詞がないから、魏使らは通っておらず、
側副傍線行程記載である。
また、「女王之所都水行十日陸行一月」の「水行十日陸行一月 」は、
漢文での数量記載は対象の後に書かれるから、
その対象は「女王之所都」への日数記載である事になり、
女王之所都への日数を記載する必要があるのは、「從郡至倭」の行程全体である事になる。 >>391
一理ある。
これから得られる推測は、
東征とか東遷とかいう
言葉にふさわしくない、
実態はごく少人数の
人口移動しかなかったということ。
まあ初期天皇家の婚家をみればわかるわな。
奈良盆地の辺鄙な一角にちんまり「いることを許された」 >>412
不彌國の次にある国邑は斯馬國です
帯方郡から南へ船で20日で投馬國に着く
周防灘に面してても東にしか行けないな。 >>412
奴国を中心とする博多湾沿岸国が筑紫、遠賀川流域国が豊国、有明海沿岸国が肥国だよ。
ちゃんとそれぞれに名前がある。
豊国が九州全域に影響を持っていたところに、天孫族が婿入りした。
だから奴国の影響力は筑紫に限られている。
後に筑紫の天孫族が天皇家になるので奴国が中心のように見えるだけ。
奴国の影響力が限定的だから倭国王ではないとか馬鹿な妄言を吐く畿内厨もいるけれど、私は九州のことを何も知りませんと公言しているようなものだ。 >>60
>A:回答にならないと思うが希な例として
1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、
対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。・・・<
3世紀の魏使らの実際の見聞計測記録に関しては、
はるか後代の、別国の別人の記録など、何の関係もなく、計測能力が同じであるとも全く言えず、
3世紀の魏使らの実際の見聞計測記録の正否の判断根拠には、全くならない。 >>408
古墳に墓誌はなかろう?誰が被葬者と
特定できるもんなの? >>419
どうしてそんな
真っ赤なうそを
いつも言い張るの?
頭がおかしいの?
? >>412
伊都国から奴国へは百里、わずか8キロ。
伊都国が前原なら、奴国は博多、不弥国はせいぜい粕屋か香椎あたり。
王宮があるあたりは、人口を制限していたのだろう。 >>425
誰か特定しないと何か問題でもあるのか? >>421
東征はまだいい。
少数でも成り立つからだ。
畿内厨は何かと東遷という言葉を持ち出すが、そんなことはなかったのは明白で、4世紀以降も筑紫に八咫の鏡があったのだから、東遷などなかったのだ。 >>419
ザラコクのデマ狂い
1000回言えば人が信じるとでも思ってるんだろうか >豊国が九州全域に影響を持っていたところに
持っていない >>427
>伊都国から奴国へは百里、わずか8キロ。
>伊都国が前原なら、奴国は博多、不弥国はせいぜい粕屋か香椎あたり。
前原から博多まで直線でも18kmはあるんだが 九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。
元は同じ釜の飯を食った仲だが、後に相争うことになるのかどうなのか‥ >>421
>まあ初期天皇家の婚家をみればわかるわな。
>奈良盆地の辺鄙な一角にちんまり「いることを許された」
その通り。
実は同じことが筑紫でもあった。
ニニギが筑紫の日向に降臨して王になったと言っているが、古代では母系相続が主力だったので、実はニニギは大山積のもとへ婿入りしたのだろう。
だから天孫族の影響力が限定的で、婿入り先の綿津見神、海神、豊国王家の力も大きかったのだ。
すべては記紀にある通りなのに、皇統を中心に偏った誇張表現に乗せられたアホが、さらに畿内に関する部分だけ拾い食いして騒いでいるのが畿内厨。 >>428
えっ
>>408
>大体のそれなりに大きな古墳の被葬者は后等の大王の関係者や、もしくは降伏して服従を誓ったような人間
>史書の記述と連動した地位だというのが分かる
>むしろ古墳の在り様が中央のシステムに則る物であるという証拠になるな
人間と
史書記述と連動した地位だとわかる
っていうから。 >>428
畿内厨がデタラメをでっち上げてしまう。 九州北部支配の実態をどんどん解明しないといけない。 >>437
デタラメだと言う根拠は?
???????????? 婿入りを繰り返して点々と流浪する一族が、後に天下を取って天皇家へと成長していく過程が見えてくるな。
でも本来の王家はそれとは別に筑紫にも大和にもあったわけだ。 なんでバカにイロハから教えてやらないといけないんだ
ここは畿内説のスレでバカに授業してやるスレじゃねぇんだよ
「ぼくが知らないんだからそれはぼくの勝ちだ」とか喚いてる猿が鬱陶しい
お前のは意見じゃなくてぼくちゃんは何も知らないと言ってるだけだ
アホが 北部九州で水稲栽培が始まるのが、BC1000年頃。
呉の末裔を名乗る倭人が淡路島や畿内に渡来したのが、BC4〜5世紀。春秋時代末期。
その畿内中心に広がったのが、方形周溝墓。
天孫降臨は記紀にも書かれている通り、ニニギの婿入り。
伊都国への婿入りだろう。
つまり天孫降臨は伊都国成立以降の話。
博多平野で、婿入りを示唆する考古学的所見は、1世紀中頃の方形周溝墓の受け入れ。(三雲南小路遺跡)
畿内にあった倭人によるクニ(倭国)からの婚姻を伴った天下り(地方官の派遣)が天孫降臨だろう。
元々伊都は倭人ではない人々の国であったが、1世紀中頃畿内の倭国から伊都国の王として、倭人を迎え入れたんだろうね。 >>439
やはり大事なのは記紀という史料だよ。
古事記では九州は筑紫、豊国、肥国、熊襲と分けられている。
それぞれが地政学的、考古学的にきちんと同定できるので、その中で関係を解明しないと。 >>443
方形周溝墓の中でも、特筆すべき豪華な威信材を副葬されたのが伊都国の三雲南小路遺跡と平原遺跡だよ。
他の地域の方形周溝墓はその分家だろうね。
特に倭王であることを示す璧や八咫の鏡はこの二つにそれぞれあるだけ。 【豊国】
考古学は九州北岸のうち、宗像や遠賀川流域には甕棺墓がなく、さらに別の文化的勢力を想定する必要があることを示唆している。
博多湾沿岸の勢力を筑紫、遠賀川流域の勢力を豊国と呼ぶことができる。
この二つの国は、姻戚関係を通じて早くから倭国の権力の中枢として栄えた。
豊玉姫は大綿津見神(海神)の娘であり海を塞き止める力を持っていたが、大綿津見神の竜宮城のモデルが関門海峡にあった豊浦宮であるといわれていて、博多の天孫族から見た隣国である豊国の姿と考えられる。
博多湾岸の天神族が北方の朝鮮半島に向かう対馬海峡に航路を持っていたのに対して、豊国は関門海峡を中心に日本海側に航路を持っていて、
その支配域は邇藝速日命や天香山命など船に乗って日本海を攻略したアマテラスの直系ではない倭人の到達域とほぼ一致する。
ただしその起源は博多湾の志賀島であると言われており、筑紫の天孫族に追われて東に移動した様子が伺われる。
豊国は遠賀川流域文化の担い手であり、もともとは博多湾の志賀島まで勢力範囲だったが、次第に筑紫に取り込まれていく。
ここで制作された遠賀式土器は日本海沿岸を中心に広範囲に分布している。
後に仲哀が筑紫入りしたときは、筑紫日向の伊都高千穂宮(怡土の県主、現在の糸島市)と筑紫岡田宮(崗の県主、現在の北九州市)がそろって出迎え、仲哀は筑紫香椎宮に迎えられた。
仲哀自身も穴門豊浦宮(門司)の王であり、関門海峡を掘削して日本海側と瀬戸内海側の海運を可能とした豊国の外戚である。
現在では北九州市も筑紫すなわち福岡県に組み込まれ、豊前は大分県として東に圧迫されている。 九州はただの一度もまとまった事もない
いわゆる奴国や伊都国があった場所が中心として栄えた最盛期でさえも九州北部と四国西北部にしか影響がない
そしてそれ以外の東、中部、南部は完全に別文化圏
九州一つまとめた事がない程度の勢力
そして弥生時代後期にはその奴国や伊都国の中心性は崩壊し各集落がバラバラになって孤立する
このような状態の中で周辺地域の強い影響が広まるようになり、吉備、畿内の勢力の影響下に入っていく
これが邪馬台国の時代
九州の東西南北どこに設定しようが、どこに時代を移そうが弥生時代後期からその後に至るまで九州北部さえまとめた勢力は現れない
こんなところに邪馬台国などあるわけがない 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。
卑弥呼は肥国の山門の出身で、後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼はそれまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。 キュウシュウセツの妄想長文は一つも根拠がない
「ぼくがそう思う」以外何も書いてない
まともな知識が一つもないんだから書きようがないだろうがな
知ってたらこんなバカな事言えるわけがない >>447
>九州はただの一度もまとまった事もない
>いわゆる奴国や伊都国があった場所が中心として栄えた最盛期でさえも九州北部と四国西北部にしか影響がない
これこそ、記紀や魏志にある九州倭国の姿そのもの。
何しろ筑紫、豊国、肥国など複数の王家が入り乱れていたからね。
そんなのは百も承知であり、だからこそ九州北部が倭国の中心であることを証明している。
争いすら生じない片田舎の纒向など、魏志倭人伝にある倭国の姿からは程遠い。 >>429
あれ、でもいつかの時点で、三種の神器は畿内に来たんだよね?後の歴史を見ると。
畿内説ではでも畿内自生の勢力が王権を確立できる痕跡が全然ない、って言ってなかった?
ということは、畿内の既存勢力が一致して団結する必要のある危機が発生したということ?
気候変動による飢饉とか?でもそれだと団結したところで解決できんわな、、、確かに畿内に鉄器はない。ということは、畿内外に二勢力必要だな。
危機をもたらした勢力と それを解決できる勢力と。危機をもたらした勢力って、、、 >>447
>このような状態の中で周辺地域の強い影響が広まるようになり、吉備、畿内の勢力の影響下に入っていく
>その「吉備、畿内の勢力」とは、阿波から進出した、吉備忌部、畿内忌部ですね。 @阿波 >>438
一大率は自女王国以北にいた
つまり一大率のいた地域は對馬國、一大國、末廬國 嘘をついちゃだめ。
九州は倭国ではありません。もちろん倭人の国でもありません。 さすがにぱくってきたヤマトはつかうきにもならんだろうな
マキムクもめいじになってからのぱくりだから
マキムク騙るのよしてくれないもんかな >>451
三種の神器がいつ畿内に来たのか?
それこそ記紀が必死になって隠している問題の核心なんだよ。
少なくとも4世紀にはまだ筑紫の女王である神夏磯姫が持っていたからね。
神武は持っていかなかったみたいだし(ニギハヤヒへの身分証明に天の羽羽矢を用いている)。
まあ、畿内説、畿内中心の皇国史観にとっては致命的に困る内容だろうね。 >>447
九州出身の自分にはすごい説得力ある。
Exactly(その通りでございます) >>90
>A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上<
スレ主は、
里数は短里での計算をしたようだが、
日数は、陳寿の「出発+途中移動+到着」の順次式の記載原則が判らず、
投馬國への記載が途中移動の動詞の不存在に拠って、側副傍線行程になる事が判らず、
「水行十日陸行一月は、その前の「女王之所都」の文言の数量説明になるから、
「從郡至倭」の日数説明になる事も判らず、
倭人伝の記す行程を、記載通りに辿っていないアホである。 >>455
>九州は倭国ではありません。もちろん倭人の国でもありません。
いや、北部九州は倭国(阿波)の一員ですよ。
南部九州は狗奴国ですが。 @阿波 >>454
伊都国においてあり、伊都以北を支配したとある。
つまり伊都より南の筑後や肥前は卑弥呼の出身地だから武力がいらなかったんだよ。
その南に、同じ実家の肥後狗奴国があった。 >>459
>スレ主は、
>里数は短里での計算をしたようだが、
スレ主は短里を使うのか。
こりゃ気がつかなかった。
畿内厨が涙目だな。 >>454
嘘ばかり。
一大率は伊都国にいると魏志倭人伝に書いてある。
一大率は女王国より北を監察しているとも、書いてあります。 これが平原遺跡だ
・鏡の大半は古い鏡を鋳つぶして作った国産鏡で外国鏡を手に入れるルートを失っている
・周囲からの献上品も、ここから広まる物もなく孤立した墓で盟主の墓ではない
・これに続く墓は貧相な副葬品しかなくそれまでのこの地域の繁栄が終焉している
・九州全体からも大量副葬がなくなり、どの遺跡も国産の小型鏡の時代になり衰退が明確になる
・九州全域で甕棺、銅矛の広まりも終焉し、各地域でまとまりも中心性も喪失している
・祭祀の規模は小さく他地域からの参加も見られず個人の葬礼の規模を出ない
ちょうど西暦150年前後の邪馬台国前夜に九州が決定的な衰退と崩壊を始める証拠の遺跡として重要である 女王国まで一万二千里。
伊都国は、その手前で女王国にも含まれません。 邪馬台国はヤマト国と決着ついたので、
後は九州北部をどう支配下に置いたのか解明しないといけない。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ない。
卑弥呼の王宮の下女は1000人とあり、伊都には王族の他に王宮を運営する舎人と采女、その家族だけがいたことになる。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都は明確に分離されていたと考えられる。 >>464
その時期って結局、桓霊の間、ってことじゃん。
後漢末の動乱は、地球規模の寒冷化に
王朝末期が重なったからって聞いたことあるけど。 >>464
この平原遺跡の前後の九州の状態はまさに倭人伝にある九州の姿に合致する
・九州は各地域がバラバラに分裂し数百〜数千程度の小規模集落ばかりの地域になっている
・九州全域に広まる庄内土器の分布と、孤立する伊都国の状態から九州が畿内の影響下にあり伊都国が監視状態にあるという状態に一致する
考古学的に見ても九州が小規模勢力に分裂した状態で畿内に隷属する属領であるという状態が明確に示されている
倭人伝の記述が正確だと理解できる >>100
>ごめん 吉備って倭人伝に載ってたの見逃した 再度、倭人伝読み直すよ<
「其餘旁國遠絶、不可得詳」の国名の中に、吉備にも出来そうな国名を見つけたんだろうが、
それらと「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、
はっきりと書き分けられているんだから、
違うものだ、としている事になり、
「吉備って倭人伝に載ってた」なんて事にはならないよ。 >>466
>後は九州北部をどう支配下に置いたのか解明しないといけない。
阿波から進出した、筑紫忌部が九州北部を再興したんですね。 @阿波 >>457
うーん。景行征西でしょう。
となると自生できるはずのなかった
ヤマト王権が 自生した 。そのストーリーが説明されるか、
自生でないのなら外部からだから
どの勢力が王権を確立できたのか?
どっちの場合なのか説明してくれないと。 >>465
その通り
九州を超えて初めて「女王国」に入る
九州は「女王国に統属する」属領でしかない
考古学的にも土器や墓制から畿内の影響下に小規模な村落のままで呑み込まれているのが分かる
仮に九州北部に限定しても中心もまとまりも存在しない
逆に九州から遥か遠く離れた畿内の影響下にある属領という性格が浮かび上がる >>472
吉備は阿波から進出した、吉備忌部。 @阿波 結局バカのキュウシュウセツは平原の鏡が皇室の八咫鏡であると無根拠に喚くしかネタが無いと
まぁこの程度だろうよ >>474
逆に九州から遥か遠く離れた倭国(阿波)の影響下にある属領という性格が浮かび上がる >>474
えーでも
纒向には各地の土器が集まってるから
強力な王権があったはずだ、というなら
吉備の土器が筑紫に来てるなら
筑紫にも王権相当のものがあったて理屈にならんかな。 実際倭人伝の記述を見ると常駐の監視官である一大卒が伊都国で周辺国や「王も」監視している
そして各国にはヒナモリと言う駐屯兵が存在している
独立国としての姿は全く見出す事が出来ない
九州はバラバラでどこを見ても中心など見つける事が出来ず、九州に広まる影響ははるか畿内の物である
史書的にも考古学的にも九州と言う地域が女王国の属領であると理解する事が出来る
こんなところに邪馬台国を設定する事は不可能である >>479
でも残り二千里で畿内まで到達できんよ。 >>478
これだけ広域の土器の集積は纏向だけ
そしてその土器は各地域からの祭祀の土器が多い
つまり、纏向の祭祀に各地域から参加者が集まってきていることを示している
そして逆に九州には他地域からの祭祀の参加など見られない
見つかるのは生活土器
つまり王都の祭祀に集まる人ではなく畿内から交易や移住をしてきた人間と言う事になる
九州は元々の生活様式が塗り替えられるような畿内からの一方的な影響を受けているという事になる
その中心は畿内の纏向にあるのだからどっちが中心かなど言うまでもない 上の名前の読み方
▢▢力夫という人物のwiki参照、
同じようなことを言っている >>481
今でいうなら
税関まで来たらそこから先が日本
更に進んで首都東京までくるようなもの
つまり、属国である境界の税関の九州から先が女王国
そこから水行して陸行して首都邪馬台国までたどり着くと言う事 >>481
女王国の入り口(投馬国の境界)まで一万二千里。何処にも邪馬台国まで一万二千里とは書いてない。
そこから黒潮(一日150km進む)で10日。
潮岬辺りに上陸し、さらに一ケ月で邪馬台国。
黒潮に乗っている間は距離測定不可能。 そもそも1万2千里は「女王国」までの距離
そこから水行陸行して邪馬台国に辿り着く
今でだって「日本まで行く」と「東京まで行く」は違うだろう
それだけの話
こんなもんをこねくり回して説など成り立つわけがない 帽子、白い制服のようなものを着ていた人が映っていたでしょ、
その写真の親くらいの世代の人なのかな
一般人? >>482
うーん
これは、判断が難しいですよ。
祭祀中心を王権ありと見るか
交易市場中心を王権を見るか
経済史論としては、
交易市場に王権が発生するのは世界各地に例があるから、後者の方が優勢かもしれんけど、
祭礼も一つの経済活動だから、日本特有の事情で王権発生のプロセスを説明できるかもしれないね。 というより家の写真なんだけど、
どういう事だと思う? >>161
また、
「ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね」の、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説の・・・・が、出て来て
、同じ文面を張り付けて、ダマシの宣伝をしているね。 >>204
歴史学的には、文献考古共に九州説で決まりだから、、
ことさら激しく主張する必要もないし・・・。 >>207
歴史学的には,
九州説で決まりだから、
ことさら主張する必要もないし。 >>482
>つまり、纏向の祭祀に各地域から参加者が集まってきていることを示している
>つまり王都の祭祀に集まる人ではなく畿内から交易や移住をしてきた人間と言う事になる
>九州は元々の生活様式が塗り替えられるような畿内からの一方的な影響を受けているという事になる
つまり、纏向の祭祀に各地域の「忌部一族」から参加者が集まってきていることを示している
つまり王都の祭祀に集まる人ではなく倭国(阿波)から交易や移住をしてきた人間と言う事になる
>九州は元々の生活様式が塗り替えられるような倭国(阿波)からの一方的な影響を受けているという事になる むかーし住んでいた家には、
本や書なんかが沢山並んでいたと言っていたり
鷹(不明)の像、電電太鼓、笠の人形・・・
あの写真も、詳しすぎない? >>482
>つまり、纏向の祭祀に各地域から参加者が集まってきていることを示している
>つまり王都の祭祀に集まる人ではなく畿内から交易や移住をしてきた人間と言う事になる
>九州は元々の生活様式が塗り替えられるような畿内からの一方的な影響を受けているという事になる
つまり、纏向の祭祀に各地域の「忌部一族」から参加者が集まってきていることを示している
つまり王都の祭祀に集まる人ではなく倭国(阿波)から交易や移住をしてきた人間と言う事になる
九州は元々の生活様式が塗り替えられるような倭国(阿波)からの一方的な影響を受けているという事になる @阿波 >>479
一大卒を伊都国で監視しているんだよ
凄い誤読だなw >>220
>それ、モロに古田では? 任那日本府は実在で九州皇統が南韓国も支配 とか、言ってるんだろ?<
「九州皇統が南韓国も支配」なんて知らんね。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」で、
「詔除武使持節、都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王」
が、倭王武の史料事実だよ。 むかーし伊達郡というところの
山の上のほうに住んでいたと言っているけど
山王? >>501
「渡平海北九十五國」
これが南韓国を支配してるってことだろ。 北部九州の歴史を勉強しよう。
本日の復習です。
魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。 もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 >>234
もう大和説は、ぜんぶを否定されてんだろ?。 こういうのも、
おかしな話
何々様なんて言われていた、
寺院に通っていたとか >>504
ずばり、四国(阿波)を中心とした展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東
西服衆夷六十六國 =九州
渡平海北九十五國 =山陰・北陸 なんですよ。 @阿波 >>247
「卑弥呼が天皇」だって、
言ってる馬鹿はいるな、
大和説者に。 >>473
イワレヒコが、先に入植していたニギハヤヒと合流したんだよ。 >>504
ずばり、四国(阿波)を中心とした展開記述
東征毛人五十五國 =近畿以東(北関東含む)
西服衆夷六十六國 =西瀬戸内・九州
渡平海北九十五國 =東瀬戸内・山陰・北陸 なんですよ。 @阿波 >>511
>東征毛人五十五國 =近畿以東
>西服衆夷六十六國 =九州
四国からだと渡海がいるだろwww >>476
八咫の鏡を授かったニニギが向かったのは、記紀によると筑紫なんだけどね。
記紀をまともに読んだことないだろ。 >>249
>右翼が畿内説なわけ、なかろ <
大和説者は、皇国史観の、「日本が世界1」の、人種差別的殺戮戦争狂の、
キョクウの・・・・集団だよ。 >>479
>九州はバラバラでどこを見ても中心など見つける事が出来ず、九州に広まる影響ははるか畿内の物である
目が節穴。
多くの対立がありながらも、筑紫、肥国、豊国といった軸はちゃんとある。 畿内に九州の勢力が定着したことを示す弥生時代の遺跡はありません。
畿内に定着したのは、中国南部から渡来した倭人が中心です。 >>473
>自生でないのなら外部からだから
>どの勢力が王権を確立できたのか?
そりゃ、倭国(阿波)でしょ。 ただし、大和に王権が移ったのは、8世紀持統朝からですが。 @阿波 >>482
>そして逆に九州には他地域からの祭祀の参加など見られない
九州とひとくくりにしている時点で読む価値がない。
同じ筑紫でも、伊都と奴国ではかなり状況が違い、奴国博多は弥生時代最大の広域交易都市、国際都市として発展している。
何しろ人口が3万戸もあった(纒向は何万戸?)。
まして豊国、肥国などはまた状況が違う。 >>484
魏志倭人伝は国を領域で捉えず、国邑で捉えているよ。
そのような解釈は誤り。 >>257
唐書の史料事実も、いまだにドヤ顔で否定しているバカが、大和セツ者。
こいつら唐書読んだことね-んだろうなぁ 。
トンデモのサイトだけ見て浮かれてコピペしてるんだろうな 。 >>515
>四国からだと渡海がいるだろwww
当然、四国からだと渡海となります。 それがなにか? >>482
そもそも纒向は東濃を通じて細々とした交易の痕跡しかないよ。
作り話はやめようね。
筑紫奴国のように全国の物産が集まっていたわけではない。 >>489
祭礼といえば、伊都国平原遺跡が八咫の鏡多数を用いた大変豪華な祭礼だったわけですよ。
そして交易では奴国が最大の中心だった。
その二つを抱えた筑紫がどうやっても倭国の王権の地です。
そしてダメ押しするように金印と八咫の鏡、魏の使いの滞在の記録があるわけです。 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
九州南部、宮崎&鹿児島は、女王国メンバーの投馬国、神武の本貫。 >>265
皇国史観の「日本が世界1」主義の人種差別的殺戮戦争狂の大和説の最新の戦法は、
筋が通っていようがいまいが、
とにかく何でも言いふらして、相手を呆れさせ黙らせるやり方 。 >>504
でしょうね。
もちろん出発地は筑紫ですよ。 >>266
この程度のパーが大和セツ 。
こいつらこれで、何かの議論戦わせてると思ってるんだから、もう笑いしか出ない 。 >>527
>その二つを抱えた筑紫がどうやっても倭国の王権の地です。
九州や畿内がいくら唱えても無駄ですよ。
「丹山」一つだけで、とっくに決定してしまってるでしょ。 @阿波 >>528
宮崎県妻は投馬国だけど、女王国には含まないし、神武の本貫地は筑紫。 言い返すのが泡だけで、畿内はキャンキャン吠えるだけ。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→淡路島→阿波・吉備→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>482
しかし、巻向には北部九州の土器が僅かしかないのだよ
つまり、北部九州はそれに参加していない
巻向は倭国の中に入るのか?さえもあやしい状況
であれば当時の倭国は、交易都市の北部九州を中心とした勢力とする方が有力でしょうね
その勢力の中心はどこで、どの範囲なのか?
が問題 >>273
>(スレ主)以上希な例であるが、
使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明がひとつしかないが、
誤情報の竄入によって 方位を間違えることは絶対ないとは言い切れない。 <
3世紀の魏使らの直接的な見聞計測記録には、
はるか後代の別国の別人の記録などは、何の関係もなく、
正誤判定の根拠にもなる筈がない。
それが判らないらしいスレ主は、
ひょっとしたら、・・・・。 伊都国、奴国を含む九州北部が倭国の一部である以上、そこと直接の交易がない纒向は倭国の数に入らない。
新都は伊都、商都・旧都は奴国みたいな感じですかね。
ワシントンとNYのようなもの。 >>540
>巻向は倭国の中に入るのか?さえもあやしい状況
卑弥呼時代は、大和は倭国(阿波)の開拓途中
>であれば当時の倭国は、交易都市の北部九州を中心とした勢力とする方が有力でしょうね
>その勢力の中心はどこで、どの範囲なのか?
>が問題
卑弥呼時代は、北部九州は倭国(阿波)の一員。 @阿波 九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。 老婆の話によると
当時の職業は、わからないけど、
芝居とか、そういったものばかり観ていた 纒向と奴国の人口の比較はマダ?
早く倉庫に1000人の下女を、沼地に7万戸を詰め込むんだ。 九州北部は女王国に征服され支配下に置かれたが、邪馬台国であるヤマトの地も同じ。ヤマトの地も2世紀末に女王国メンバーに制圧された。
邪馬台国は別にありがたくもないよ。
歴史とはそういうもの。国家統一に至る過程で仕方がないこと。
倭国大乱前に栄華を極めたクナ国、伊都国。
クナ国(大阪湾一帯+大和)も3世紀後半には、女王国に併合される。 葱の華の写真w
葱の華の写っているほうにいるのが、
母親だと言っている
椅子に座っている人 纒向なんて、奴国に比べたらままごとみたいなもんだ。 >>547
つっ込もうにも、ちょっと意味がわからない。
マジで電波は勘弁して。 もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、前方後円墳如きで邪馬台国を名乗るんじゃねーよ、平和ボケが。
なんか川の中州の倉庫なんて持ち出すし。一家揃って歴史歪曲か。おめでてーな。
よーしパパ勝利宣言しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、三角縁神獣鏡やるからその席空けろと。
倭国ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
筑後川の向かいに座った奴といつ戦争が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。畿内爺は、すっこんでろ。 同じことを言っている、
それと、ここにも書いてある
グーグルで検索してみて
『松傾小蓋陰』 昭和天皇・・・何やら・・・?
そういうのは知らないと言っている
普通に家で、
おせち料理などを食べていたような
時期的にそうだった? 『葱華輦』
系統が違うんだろう?
と思っている人もいると思う
何々様と言われていたと言っているし よくわからないけど
ねつ造するな
と言っている人もいなかった? 葱の華・・・・写真があるでしょ
とあるスレッドに貼り付けたとき
宮さまじゃないの?
という書き込みがあった
この書き込みが正解だと思う 纒向の話をしよう。
見つかった建物は巨大祭祀場出そうだが、纒向の人口はどれくらいだったのかな?
建物は川の中州にあったらしいけど、どれだけの人口があったのかな?
川の両岸を含めてもいいよ。
それだけの人口を、奈良盆地の生産力でどのように支えたのかな?
外から食料を運び込んだとしても、纒向の交易の痕跡は地域も量も限定的だったようだけど、どこからどれくらいの食料を移入していたのかな?
その取引を支える原資はどこにあったのかな? 川俣町というところの話をしているし、
福沢町?というところもあったかな
とか 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) アメリカの白人至上主義者たちが遺伝子検査をしたら、かなりの割合で非白人の遺伝子が混じっていることがわかってだな、まあ、つまりそういうことだ。 =====こんばんわ 11時です キウスの時間です=====
TOPIX
前方後円墳についての議論がありました
・・・・・・あまり、邪馬台国論争と関係無いようです
九州・時折阿波についての言及が多くみられました
スレ主の距離測定について、単里ではないかとの言及がありました、スレ主の見解を待ちましょう
バカのキュウシュウセツ・・・ 最近気になる方です、節度を持ってほしい
>>562
その通り!
ネトウヨ大和説の連中は皇国史観を早く捨て去るべき
あれは差別主義を生む偏狭的民族主義に違い 橋が架かったので来てください
という招待状が来たこともあったんだよ
同じ家に三世代住んでいたり、
有力者が呼ばれたり
ネットなどで、調べると、同じことが書いてある 葬儀とか、
そういう類の話ではないよ
それと家の誰々が死んだとき、
創価が近づいてきたとは言っている 古墳時代については各論あると思いますが
古墳時代とは弥生と飛鳥時代に挟まれた闇の時代
弥生時代晩年でも良いし、初期ヤマト時代でも良いし
いずれにせよ、邪馬台国を語るには倭人伝に基く考察が寛容
・・・・参考として中国の史書、準参考として記紀神話
すると、九州説が優位となります。 老婆が創価だったから
なのかもしれないけど
家は創価ではないと言っている >>564
賛同
朝廷の出した貴賤の令、五色の賤は差別主義そのもの
皇国史観は、差別を助長します
>>567
一番最低なのは、こういう風に嘘までついて他の地域の歴史を奪う輩。
弥生時代後期以降、魏志倭人伝当時も含め、九州北部は支配される側の歴史。
邪馬台国はヤマト国、卑弥呼がいたのは纒向で決着ついてます。 バカのキュウシュウセツ
では表現として弱いんじゃないの? 北九州が関東や中部に比べて豊かだった事は認められるがヤマトには及ばない 老婆の先祖の写真ではなく、
家の先祖の写真
何々様なんて言われていたよ・・・
何なんだろう >>573
奈良時代になっても九州は関西よりゆたかだったんだよな
肥後一国で五畿に匹敵するほど。 畿内説の「倭人伝に基く距離測定法」はどうなっているんだ
九州説を批判するときは単里を用い、畿内説では明らかにしない
自郡至女王國、萬二千餘里」のみ採用し解釈するのにはついていけない。 古くから、邪馬台国が畿内にあったことは誰も疑わなかった。
江戸時代に、本居宣長が皇国主義の立場から、九州説なるものを発明した。
明治から戦前まで、東大は体制派で九州説ー京大は反体制的で畿内説、という構図があった。
戦後に民主化されると、この傾向は徐々に薄まったが、長らく尾を引いていた。
現在アカデミズムの場から九州説はほとんど姿を消し、高齢アマチュアの間に残っているのみである。 >>579
里(里)と打ったつもりで単郷になっちゃった
>>578を笑えないや 『渡り初め』
この話だよ、かなりの実力者?
だったという事なのかな >>578
ごもっとも
畿内説は 不弥国までは九州は理解済み・・・しかし単里を用いないと不可能
そして、突如 距離を無視して 邪馬台国は畿内とのたまう まか不思議 >>580
江戸時代以前に邪馬台国なんて日本人は知らなかったんだよ
江戸期に中国の文献を読んで発見
どう読んでも九州に邪馬台国が在ったとしか読めなかった
明治期になり漢文を正しく読める人がいなくなり
畿内説なんてトンデモ説が発明されたんだよ。 すんませんな
揚げ足とられました 短里ですちょっとしたミス
たんりと打って単利がでて利だけ里と直しただけ 雑すぎた 畿内説の「倭人伝に基く距離測定法」はどうなっているんだ
九州説を批判するときは短里を用い、畿内説では明らかにしない
自郡至女王國、萬二千餘里」のみ採用し解釈するのにはついていけない。 >>583 にも迷惑かけたので(コピペ?) 訂正
畿内説は 不弥国までは九州は理解済み・・・しかし短里を用いないと不可能
そして、突如 距離を無視して 邪馬台国は畿内とのたまう まか不思議 松傾のところにも、同じようなことが書いてあるでしょ?
老婆「そのときは年も取っていたし、遠いからといって断ったんだよ」
もしかして、何か所も行ったことがあるのかな >>588
別にいいよ、意味がわかれば良し
俺も安易にコピしたのが悪いんだから
しかし、畿内説の距離解釈はデタラメだな >>571
ブーメランですよ。
畿内説こそ、よその地域の歴史を盗んでいます。 >>591
明白ジャン、畿内説では不弥国は九州なんだろ 畿内説では、方位・距離は無視だよ
ご都合主義・・・・畿内に邪馬台国があればいいだけ 畿内説では、魏志倭人伝のほぼ全ての記述を無視しているからねえ。
スレ主の頭の中にだけある、夢の国の話をしているみたいだ。 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国3万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 伊都國は今の筑前ノ國の怡土郡のことなれば、松浦郡の値嘉島より上れば、實は東北に當れど、魏の使者は少しく其方向を誤りて東南とせり。
…
陸行一月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。
…
此の如く『魏志』倭人傳に見えたる里程の標準は區々にして一定せざる上に、普通の支那里に比してもまた大に短縮せり。
…
此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。 畿内説の立場
・南➡東および距離は
誤記・誤認とすると主張
「自郡至女王國、萬二千餘里」は正しく表記されていると主張 畿内はその場限りの嘘の積み重ね。
テンプレを占めるのは詐欺師の話法。 >>591
俺 関係ないけど 君なんでも噛みついてりゃ言いってもんじゃないの
答えは簡単 畿内説およびスレ主しかり、不弥国は九州である
・・・ならば、距離は短里か完全無視だろ >>602
>「自郡至女王國、萬二千餘里」は正しく表記されていると主張
それ、誰がどこで主張してる? >>601
>陸行一月はいと心得ず。月の字は日の誤なるべし。 >>604
つまり
>九州説を批判するときは短里を用い、畿内説では明らかにしない
>自郡至女王國、萬二千餘里」のみ採用し解釈するのにはついていけない。
って嘘をついたんだね? 畿内説はやたらまわりに噛み付いてばかりいる、頭の悪い犬のようだ。
自分で論を持てないのだろう。
すでに破綻しているんだよ。 それにしても詳しくない?
『伊達の桃太郎』
なぜか中華のような感じがしたり 畿内説でも伊都国は今の糸島市なんだろ?
ならそこまでは短里じゃないか。 >>607
此の如く『魏志』の里程に處によりて甚しき伸縮を示すが故に、不彌國より南方一千三百餘里とあるを根據として、邪馬臺國の所在を的確に推知することは、殆ど不可能の事に屬す。 >>609
ウソをついてることが暴かれたんで
必死で逃げ回ってるね 畿内説ではそもそも間違ってる事の明らかな
魏志倭人伝の距離方位で邪馬台国を特定せん 伊都国までの道のりを普通の里で解釈するなら、もっと南になるはずだろ?
なんで伊都国を糸島市にするんだ? 九州説は常に
自分の頭の中で空想した
架空のキナイセツを批判し
架空の何かと戦っている
滑稽である
>>616
もっと南どころか普通の里に直したら赤道近くになる
だから魏志倭人伝の距離はアテにしない
糸島は昔怡土郡と言われていて名前が似ている上に
周りにも末羅国(松浦)奴国(難(な)の県)と魏志倭人伝に出てくる
地名と一致する場所が近くにあるから >>601
常識的な意見だ
江戸時代の学者の見解かな?
これに比べて今じゃ単里にすれば九州だとか何とか
現代になるにつれ逆に知能が下がってるんじゃないの 都合が悪いことは無視する、それが畿内説のスタイル! >>624
ほんなら帯方より1万2千里、約4800kmが邪馬台国のあった場所っつって
邪馬台国グアム説でも説いてろや >>627
そのあと水行20とか陸行1月とか出てくるから
九州から船で瀬戸内海通って畿内に行ったんだろ多分 ======こんばんわ 一時半をすぎました キウスの時間です======
TOPIX
距離についての議論がされました
畿内説が突っ込まれている模様、畿内説は反質で応戦 他のスレにも書いた、
畿内ではなく、川崎区に住んでいるんだけどw >>612
文書表現だけは長けてるが・・・・・・・
畿内説は距離については匙を投げたと正直に言いなさい >>635
えっ九州は1万2千里を正しいと思ってるの
九州どころか日本を大幅に飛び出すのに >>639
末盧国までで一万里なのだから、そのレートなら九州を飛び出すことはない。 >>280
今日も、
偽書説派とつるんだ和田キヨエの尿で着色した偽造一状瓶を、
聖典として崇める皇国史観の大和説カルトが、
暴れてるのか?。 >>632
九州から船でどっかに向かうとすれば
あの頃一番デカかった畿内のヤマトだろうからな >>607
横からだが
ソウルより水行20日⇒出雲
出雲より水行10日(陸行なら一月)⇒大和
で、何の問題も無いじゃん >>282
>>282
>キュウシュウセツの人は 姓は阿毎を信じてるようだが、<
歴代中国史書群の証言だよ。
>現在の皇族方の姓がやっぱり阿毎だってこと確認したんだよね?<
美智子さんらとそんな話はしなかったから、知らんよ。 >>641
ちゃんと一里が算出できた?
そんな努力してないでしょ
安直なイメージで短絡しただけでしょ
今の九州説なんてその程度 >>639
何も知らないんだ 学を詰め
「彼を知り己を知れば百戦殆からず」 >>641
例えばだ、東京から大阪まで2000キロでーす(本当は400キロ)とか
書かれてるガイドブックがあったとしてそれに
大阪から京都まで500キロでーすとか書いてあったとしても
信用できるか?それで京都に辿り着けると思うか? >>638
質問先間違ってるよ
>>612への質問だろ >>648
積まなくてもわかるわい
どーせ短里とか言い出すんだろ >>284
東大出?で京大の先生をしているらしい天誅の、
「漢籍の書棚」の歴代中国史書群の証言を引用しただけなんだから、
漢籍の書棚に矛盾があって、文句があるんなら、
京大へ行って、天誅と、
皇国史観の国粋戦争狂のキョクウ同士で、勝手に果し合いでもやっとくれ。 謎の伊達郡川俣町という掲示板
・むかーしの▢族。
・むかし▢族が・・・。
と言っている人がいたけど、神族? >>643
>あの頃一番デカかった畿内のヤマトだろうからな
根拠なし
妄想です >>652
対馬海流に乗れる日本海ルートに決まってるでしょ
帰りは瀬戸内海ルートだろうけど まあ真面目な話船で20日も水行すれば
ニュージーランドあたりまで行く事になりそうだな 東京から大阪まで400キロ、新幹線で2時間です。
と書いてあるのに、大阪から2時間も新幹線に乗ったら本州を飛び出すと文句をつけているのが畿内説。 >>635
<畿内説は距離については匙を投げたと正直に言いなさい>
ごもっとも、畿内説はもっと真摯に倭人伝と向き合うべき
倭人伝なかりせば邪馬台国がないのだから
いっそ「畿内説」と言わず、「邪馬台国は無かった説」に変えたらどうか >>289
>>そりゃ、1世紀の(木造?)建築など、2000年ももつ筈もなかろう。<
>そりゃあ、建物は建て替えているだろう。 現在の社殿も、建造年代は分かっていたはず。<
そうでしょうね。
>だが、三種の神器を副葬する平原遺跡が畿内説の言う通りに2世紀なら、
その時点で伊都国においては古代神道は成立していたわけで、
神社があってなんの不思議があるのかな?<
鳥居のような発掘があったそうですから、神社建築の起源であったんでしょうね。 なぜ里程の後に日程をつなげて読もうと思ったのかな。 >>659
それが400キロの所を2000キロって書かれてるようなもんだっての
そうでなけりゃ邪馬台国の場所なんか機内だってとっくに判明してる 朝廷からみて倭人伝はウザイ存在なんだろうな
日本の史書なら葬り去っただろう
それが、できないから畿内説が飛び出してきた? >>290
>出雲は筑紫が倒してしまったよ。 記紀くらい読んだら?<
梁書では、出雲は「文身國」として書かれていますから、
出雲は梁代までは独立国として残存していたようですよ。
という事は、「国譲り」戦争は、出雲の消滅ではなくて、
「盟主の座の交代」であったんでしょうね。 >>668
当時は神功皇后の話にこじつけて誤魔化そうとしていたらしい。
年代の繰り上げは現代の畿内説も得意とするところだな。 だいたい日程部分は帯方からスタートしなおすとかありえんな
そうなると今まで出てこなかった投馬国が急に出てくる事になる 伊達郡という掲示板、
このようなことも書いてあるでしょ
・黒木瞳が何やら
某徳永英明氏の話だと思う、ドラマ? 魏が滅んでなければ、日本の歴史も変わっただろうな
wwwwwwww ザラコクってただの吉田信者かと思っていたが案外吉田本人だったりしてな >>659
また妄想で一人相撲してるね?
九州説って惨めだな 本当におかしな話
『市 公』
ググると光秀という名前が出てきたり、
同じ名前の親戚がいるんだけど、どういう事なんだろう
かなり詳しい人が、名前を付けたのかな >>668
>朝廷からみて倭人伝はウザイ存在なんだろうな
>日本の史書なら葬り去っただろう
これは同意、かつての倭国の支配者が、魏の臣下に成り下がったのだからな >>293
>はぁ崇神の時代まで大物主は存在してるよね。 大神神社に祀られてるよね。 何も倒れてないが。<
阿毎氏の神武らが磐余の一隅を占拠しても、
奈良盆地にはまだまだ出雲系の銅鐸祭祀部族が残っており、
欠史八代の頃は、婚姻などを通しての融和共存状態であり、
それが崇神の頃までは、出雲系の残存が続いて来たんでしょう。
>しかも筑紫って何も関係ないし。<
こりゃダメですね。
神武らの阿毎氏は、筑紫城の倭奴國から別れた別種であったんですから。 いっそ「畿内説」と言わず、「邪馬台国は無かった説」に変えたらどうか <笑> >>296
>崇神と関係あったっけ? 大物主神は大国主とは別物だと思うよ。
住んでいたところが違うからね。<
大物主神は大国主とは、大国主は紀元前3世紀頃以前ですから、年代も全く違います。
但し、出雲では、歴代の出雲盟主は、「大国主」という称号で呼ばれた可能性ならあるでしょうね。
>出雲の国譲りでは、出雲を倒して筑紫に新たな政権が立つ。
実質的には出雲から筑紫への政権移譲のストーリー。<
そのようでした。 >>298
妄想だけを垂れ流し、
根拠など一つもない。
それがいつものヤマトセツ者ですね。 「邪馬台国は無かった説」に賛成
桜井市は天皇発祥の地として、観光万々歳 >>513
その通りだ!
九州の状況を考えると、
まず天孫族のニギハヤヒが先着した。
どうしてニギハヤヒはわざわざ新天地を求める必要があったのか? >>520
阿波に
ニギハヤヒは来たかな?
五十猛
大歳
いずれもその辺り。 >>535
逆になんで筑紫は征服されたんだろう?
鉄鏃をみても軍事的優位性は格段だったはず。 >>302
>>出雲の国譲りでは、出雲を倒して筑紫に新たな政権が立つ。
実質的には出雲から筑紫への政権移譲のストーリー。<
>筑紫に新たな政権なんてどこに書いてるんだよ。 話を勝手に作るな。<
天照は、筑紫の小戸の浜で生まれ、対馬に「アマテル神社」を作って貰って、
壱岐と対馬と沖ノ島の海域で、出雲のNo.2の地位にあって、
その地位で、出雲に「国譲り」を強制し、
その後でニニギが能古島を経て、糸島からクシフルに天孫降臨をして、
在地の猿田彦らを従えて、
筑紫城の倭奴國となった。 畿内説
東大や京大などの高学歴者多し
教養に厚くインテリ階級に所属する
日本の伝統文化への造詣も深い
九州説
76歳独身の朝鮮人高卒
恨の思想で日本を怨む生ながらの怨霊
白丁であるが故に朝鮮の伝統文化への造詣すら全く無い
どちらがまともか明らかですな オレオレ詐欺?このような広告が出来たり
『詐欺師と一緒にされるのも嫌なので』 >>602
こういう誤記の主張をするなら
他の写本と比較するって方法論取らない限り
理屈にもなってないよ
自分の都合の悪いものは切り捨てだ。
せめて当時の国際政治状況から
当時の政治勢力と反目するから使者に嘘を教えたとか考えろよ。
ちゃんと記述上も
東南陸行到
東南至
南至
と行が入ってる入ってないって違いがあるじゃないか。
行が入ってないから使者は邪馬台国に行ってない
だから伝聞情報だから嘘かもしれない
この方がよっぽど真っ当だぞ。 以前から書いているけど、
本当の話
兄 弟 妹(5月15日生まれ) >>303
史料批判に拠っても否定し切れず、
存在を肯定せざるを得なくなった史料記載を、
一旦、そのままの記載であればどういう事になるのか?の、
推論を考えて置くのが、九州説。
皇国史観の「大和天皇家が列島盟主であった」という結論先にありきで、
それにとっては都合の悪い記載は、全て否定抹殺曲解の嘘吐きダマシをするのが、
大和説者。 オレオレ詐欺には朝鮮語でお前の母ちゃん泣いてるぞと言いましょう
即座に退散します >>309
ヤマトセツ者の無学ぶりは、見てて本当に失笑もんだな。
こんなもんで人と議論してると思ってんだから哀れでしかない 。
むしろ自分の間抜けな発言を恥と思わないくらいだから、
程度が知れるってもんだな。 >>699
ネトウヨは消えろ!
在日に何の恨みがあるねん
リアルの在日の前に出たらションベンチビって何も言えへんくせに匿名で誹謗するなやクソ野郎 >>694
直接畿内説に反論することを避けまくるチキン体質が哀れを誘う 畿内説悔しそうだな
方角距離を無視した捏造学説!、 >>310
アホと無知って、無敵だよな。
普通なら恥ずかしくて生きていけないような事を喚いてるのに、
本人は自信満々でいられるんだからな 。
ヤマトセツの連中がこんなに図々しいのも、
アホで無知だからなんだ、と思うとよくわかるなぁ。 大和説論者は差別主義で攻撃しだした
論破されて余裕がないのがよく分かるな >>706
無視せざるを得ないの
オッカムの剃刀って知ってるか なんで在日(不明)が政治家になれるんだ、
と言っている人がいなかった?
分かりやすく言うと公務員という意味 >>314
アホとか無知って言う前に、
日本語の読み書きが出来てないだろ、ヤマトセツ者らは。 >>318
>なるほど!それは適切だ!ありがとう。<
こりゃ、どちらも、
盟主筑紫倭国の存在を始めから抹殺した話をしているんだから、
「南→東」の嘘吐きダマシの詐欺をしており、
「反九州説者」同士のなれ合い劇だな?。 お前が刑務所に行き、
死刑になったという報道がないから
言っているんだよ
何度、言えばわかるんだ >>330
>つか八咫の鏡って言葉も用例が沢山ある 皇室の鏡だけを指してると思ってるアホがキュウシュウセツ<
いや、三種の神器とは、当初から「天孫族系である」事の印であろう、としており、
平原でも幾つもの八咫の鏡を作った?のだから、
始めから「皇室だけではなかった」と言っていた訳で。
>風土記では香取の神にささげるのに「二枚」八咫鏡を天皇が献じてる 他の所にも神が持ってる鏡として名前が出る
大きな立派な鏡を指すだけの意味合いの言葉 無理やり曲解してるアホの無知さがよく分かるな <
やはり大和説者は、アホだな、
「大きな立派な鏡を指すだけの意味合いの言葉」では、
八咫鏡を持っていなかった部族も存在する事の説明が付かないではないか。 お前、または、お前たち
が
逮捕され、死刑になったという報道 >>334
>この八咫鏡の用例を見るとこれは唯一の物ではなくて他でも見られるものであるわけだ
で、平原の鏡がその例だというのならこの形が他にもちょくちょく見られないとおかしい
ところが平原以外に例がない
つまり、平原がどこにも何の影響を与えていないという証拠の一つにしかならんわけだ <
八咫鏡は、天孫族の阿毎氏系で「お宝」とされていたらしい、という事になる。 かなり前の話になるけど、
お前に家に行き、そのまま射殺しても良いんだろ
と言っている人がいたでしょ
△スレ >>335
>平原が王都だった時期もあっただろう1世紀とか
けど卑弥呼の時代三世紀は畿内が王都だったらしい事は
考古学的に色々と証拠がある <
「王都」ではなく、
「地方の市を監督する大倭職の役人の旧小国」の証拠ならある。 話を作ったり、ねつ造はするな
と言っている人もいた なぜか数年前の信onというスレ
「やっちまったようだな」
と言っている人がいなかった? 何度も言われるのが嫌なら、
はやく刑務所に行けよ、
そのまま死刑 すでに気づいていると思うんだけど
騙り 成り済まし 超時空なのか何なのか知らないけど
ねつ造するな
お前の事なんて知らないんだが?
と言っている人がいたでしょ 七福神の神様は日本人でいてるのは恵比寿だけ
これ物部系 >>570
朝廷の出した貴賤の令、五色の賤は差別主義そのもの
皇国史観は、差別を助長します
☝
事実であるがあまり「触れられたくないで賞」
>>662
<畿内説は距離については匙を投げたと正直に言いなさい>
<いっそ「畿内説」と言わず、「邪馬台国は無かった説」に変えたらどうか>
☝
「物は取りようで賞」 次点
>>668
朝廷からみて倭人伝はウザイ存在なんだろうな
日本の史書なら葬り去っただろう
☝
「九州説にしておけば良いで賞」 >>689
>阿波に
>ニギハヤヒは来たかな?
来るも来ないも、饒速日命は阿波の人ですから。 @阿波
「先代旧事本紀 巻五 天孫本紀」では饒速日命(にぎはやひのみこと)を祖神と仰ぎ、六代目にあたる伊迦賀色許売(いかがしこめ)、
伊迦賀色許男(いかがしこお)姉弟は、倭の土着豪族として朝廷に仕えた蘇我氏、葛城氏、物部氏の祖にもあたります。
伊迦賀色許男(イカガシコオ)姉弟は、日本で唯一、忌部の郷、徳島県旧麻植郡の延喜式式内社「伊加々志神社」に祀られています。
「伊加加志」(イカガシ)を社名・御祭神とする神社は、全国でここ一箇所だけなのです。 それが、忌部の郷 麻植の地に鎮座します。
延喜式式内社 伊加々志神社
http://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/44664411.html 律令制度で、賤民を制度化した。民衆を良民と賤民(五色の賤)とに分け、
農民である良民には租・庸・調・納税・雑徭の義務を課した。
賤民にはこれらの義務がなく、また良民だからと言って権利があるわけでもなく、
不自由な良民よりも、自由な賤民を選択する者が続出した。
要するに税金納めない人 ======おはようございます 6:30です キウスの時間です========
北朝鮮がミサイルを発射 日本上空通過した模様
怒り爆発 >>737 畿内説のご都合主義に似たり 下記もよろしく
五色の賤
官奴婢や私奴婢は、逃亡は禁じられ、売買や質入の対象となるなど、非人道的な扱いを受けた。
奴婢は主人の所有物であり、奴婢の子供も主人の所有物で、自らの子供を売買することは禁止されていて、買った者も罰せられた。 だが、一定の年齢に達すれば上の階層に上がる事ができる制度などもあり、
官奴司に主人が届け出れば家人奴婢を解放して良民とすることもできた。
主人の家が断絶して相続者なき場合は、家人奴婢は良民となれた。
また僧尼令によれば出家も可能で、還俗後は本色に戻ることが定められた。
このため、穢れなどを理由に武士、百姓、町人などと隔絶した一種の身分外身分と言える
扱いを受けた江戸時代の被差別民の身分ほど固定されたものではなかった。
要するに五色の賤よりも前から存在していた奴隷を開放する初段階といえる 差別制度に変わりないことはわかった
人身売買を容認していたのはイカン
売られた子はどうなったのか?
どのように正当化しようと悪法は歪めない
これも皇国史観の隠された部分
皇位継承にめぐっての殺戮
江戸期は銭で官位を乱発 無力だが気品だけ保つ裏では銭
今天皇には関係無い事であるが
九州説でも 2王朝説を 支持する 人身売買は19世紀後半の九州でも「からゆきさん」と呼ばれた日本人女性が
主に東アジア・東南アジアに渡って、娼婦として働いた
女性たちは長崎県島原半島・熊本県天草諸島出身が多く、
海外渡航には斡旋業者(女衒)が介在していた。 口分田は、官有の陵戸・官戸・公奴婢には良民と同面積が、
私有の家人・私奴婢は良民の1/3が支給される。公奴婢以下は売買の対象。
公奴婢(くぬひ)・・・国が所有する奴隷。私奴婢(しぬひ)
・・・私有の奴隷。良民と賤民の婚姻は禁止。 官奴婢には古来からのものと犯罪によって落とされた二種類がある
要するに五色の賤によって何の罪もない民を官奴婢にしたのではない >>744
そうか、畿内説が
倭人伝も、中國の史書も無視してる理由が分かったよ
無視でなく、読んで無いんだ スレチごめん
>>738
昭和30年代の安保闘争は何だったのだろうかと考えさせられますね >>745
深読みしてください
その子や末代まで縛る法なのですよ
稀代の殺人鬼とも呼ばれる戦国武将Aの末裔はなんらその罪を背負っていませんよ。
また、朝廷に反抗した者も親族一同奴婢にされましたよ。
奴婢が足らなくなると、それを補うべく暴利謀略で親族一同を奴婢の身分に落とすこともありましたよ
史実を無視し、皇国史観で歴史を語るのは??????????? 907年には奴婢制度が廃止された(これには、9世紀末の寛平年間に既に廃止されていたとする見解も存在する)
九州の東アジア・東南アジアに渡って娼婦となったからゆきさんは日本に帰ることもなく死んでいった >>738
うるさいアラームで起こされて怒っているのか? >>337
>なにが王都だw寝ぼけてんのか <
都は、弥生銀座だよ。
平原付近にあったのは、細石神社などの王宮や、クシフルの西のほとりの「王家の谷」だ。
>九州の決定的な衰退の始まりを示す遺跡でしかない こんなものにすがりつくしかないのがキュウシュウセツ<
平原の後も、衰退せず、
弥生銀座の那珂八幡や、銚子塚の王が栄え、
楽浪の危機を知って、317年頃に久留米付近に遷宮し、
そこで東海姫氏國が栄えたのだ。 >>747
畿内厨のように妄想するとちょんぼをこいてしまう >>715
>>つか八咫の鏡って言葉も用例が沢山ある 皇室の鏡だけを指してると思ってるアホがキュウシュウセツ<
誰も主張していないことを捏造して攻撃するのが畿内説のスタイル >>752
>都は、弥生銀座だよ。
>平原付近にあったのは、細石神社などの王宮や、クシフルの西のほとりの「王家の谷」だ。
都の定義にもよるが、王宮があったところが都なら、たとえ人口が少なくても弥生銀座よりも伊都の方が都となる。 >>746
>>>744
>そうか、畿内説が
>倭人伝も、中國の史書も無視してる理由が分かったよ
>無視でなく、読んで無いんだ
なるほど。 >>339
>平原のネタはもう割れてる
周りに何の影響も与えられず、それまでの遺産を食いつぶして国産鏡だらけになり
後にも続かない個人墓<
平原の後も、
晋書の「晋への朝貢」記載や、梁書などの記載を紹介したように、
筑紫倭国は、ずっと白村江まで栄えていた。
>平原を持ち出してる時点でキュウシュウセツなんてもんが終わってるのがよく分かる<
大和説者は、
弥生銀座の繁栄や、晋書の「晋への朝貢」記載や、梁書などの記載や、
東海姫氏國や、 「世與中國通」があった事などの、
史料事実を知らんふりして隠蔽する、・・・・サギシ人種。
史料事実を >>340
>そもそも平原が倭国の王墓だって根拠がない件について <
そもそも、大和説者が、
平原は、21枚の「尚方作」の方格規矩鏡に拠って、倭国の王墓だった、って根拠があった、
ことを、隠蔽していた件について。 >>736
おはよう
天孫・天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊(あまにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)の孫の磐余彦尊(いわれひこのみこと)が、日向から出発され倭国(やまとのくに)に向かわれて、
東征されたとき、大倭国で漁夫(あま)を見つけられた。側近の人たちに尋ねて仰せになった。
「海のなかに浮かんでいる者は何者だろうか」
そこで、粟の忌部首(いみべのおびと)の祖の天日鷲命(あまのひわしのみこと)を遣わして、これを調べさせた。天日鷲命が戻ってきて報告した。
「これは、椎根津彦(しいねつひこ)という者です」
先代旧事本紀です。
阿波さん、どうします?!
大倭国で見つけたですって!!
あとイカガシがイカガシコオ奉斎神社とかあるんやな。 ちょんぼはいいからsuboはちゃんぽん屋の探索のほうに集中しなさい >>343
>平原の後の九州は小型の国産鏡ばかりになる上に、
各々に繋がりが無くなり個々の小集落単位に分裂した状態を呈している
中心を失い、まとまりもなくして小規模な村落単位にまでバラバラになった九州の姿を示している
そして多くの周辺地域からの土器や祭祀が流入してこの地域に主体性が失われるキッカケとなる
平原は九州の終わりの始まり
卑弥呼の100年から50年くらい前には九州は既にただの地方に成り下がっていた事を表している <
ありゃ?、まだ同じ事を投稿している・・・・大和説者がいた。
この件については、数回に渡って説明済みだから、
この・・・・は、放置しておきましょうね。 >>344
>このスレは 九州説や阿波説を勉強するスレでは無い 畿内説のスレだ <
掲示板は、原則として、
言論の自由的な「自由投稿の場」であり、
大和説者以外の投稿を拒否する、という事は否定される筈だ。 >>600
鉄器の出土状況も九州が畿内を圧倒してるし
武器も人口も九州が畿内の何倍もあるから
畿内中心に日本の統一が進んだとは到底考えられないんだよな
九州を中心に統一が進み、その後何らかの理由で畿内に遷都したとしか思えないな。 >>347
>こうやって教えてやってもアーアーキコエナイして 「平原の鏡は皇室の鏡だ!」 とかバカ丸出しの妄想を連呼するだけがキュウシュウセツw
まぁお前らなんてそんなもんだよw <
まぁ確かに、「八咫の鏡に最もふさわしいのが、平原の巨大鏡」だろうなあ。 >>759
粟の忌部首(いみべのおびと)の祖の天日鷲命(あまのひわしのみこと)が登場していることだけで、
倭国(阿波)の出来事で、阿波の人たちの行動を表しています。
ちなみに、イカガシコオ奉斎神社なるものはどこにあるのある? 社格は如何に? @阿波
阿波さん、どうします?!
大倭国で見つけたですって!!
あとイカガシがイカガシコオ奉斎神社とかあるんやな。 >>759
粟の忌部首(いみべのおびと)の祖の天日鷲命(あまのひわしのみこと)が登場していることだけで、
倭国(阿波)の出来事で、阿波の人たちの行動を表しています。
ちなみに、イカガシコオ奉斎神社なるものはどこにあるのある? 社格は如何に? @阿波 >>348
>文部省が皇国史観だって証拠は? <
こんな事をまともに言ったら、共謀罪や秘密保護法にでもひっかけられる可能性があるから、
こっそり言ってあげるね。
文部大臣を出している政権党が、皇国史観だから。 >>763
>九州を中心に統一が進み、その後何らかの理由で畿内に遷都したとしか思えないな。
「何らかの理由」が矛盾なく説明できないから、「トンデモ説」 と烙印を押される。 @阿波 >>768
「何らかの理由」の説明として
白村江の戦での敗北と壬申の乱があるけどね。 >>768
乙巳の変で筑紫倭国は畿内ヤマトの支配下になったけど、白村江の戦いと壬申の乱
で逆に近江のヤマトは敗北したんだ >ちなみに、イカガシコオ奉斎神社なるものはどこにあるのある? 社格は如何に? @阿波
あ、これは失礼
書き方が悪かった。
イカガシがイカガシコオを奉斎する神社とは!
そんな神社が世にあったんや
と。
お詫びに
小野妹子がどうやってヤマトに使者を案内したか
推測してる記事を見つけたのでぺたり
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/55301087.html >>353
>長々と根拠もない妄想を喚くのがキュウシュウセツ <
長々と、都合の悪い史料事実の否定の妄想を喚くのが、皇国史観の・・・・大和説者。
>もう平原の鏡は皇室の鏡だとか言う妄想だけで喚き散らしてる <
勿論、破砕副葬された平原の鏡は、皇室の鏡そのものではない。
>そもそも神夏磯姫の土地は平原でも何でもない別文化圏の土地<
八咫の鏡を所有していたんなら、一応天孫族系か?、その縁者だったんだろうね。
>しかもその頃には九州は更に強く畿内の影響下に入っていてもう独自性も何もなくなってる<
大和は、白村江まで、筑紫倭国の別種の旧小国であったんだよ。 日本書紀では事件の順序の入れ替えが頻繁に行われている
白村江の戦いの後に壬申の乱が起こり、その後に乙巳の変が起きたと考えられるね。 >>769
>「何らかの理由」の説明として
>白村江の戦での敗北と壬申の乱があるけどね。
遷都まえの阿波には、白鳳寺院や白鳳瓦瓦窯跡、役人が習字をした最古の木簡、蘇我氏の祖廟「曾我氏(そがうじ)神社」などが存在しますが、
九州説その他では、遷都前の王都たる根拠は如何に? @阿波
「阿波国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)」
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
>>600
バカだなあ。
「畿内」なんてもんに拘るから間違えるんだよ。
記紀を読んだことがないのか?
女王卑弥呼は共立された。
連合政権を作った主体は「畿内」だけじゃない。
丹波(今の丹後が中心で丹波+但馬の広域丹波のこと)、伊賀、伊勢、尾張、四国東部、吉備(今の美作も入る)、
今の裏日本なんて呼ばれてる落ちぶれた印象の丹後を見て古代がわかったふうな口を聞くんじゃないよ。
ど素人が。
古代の婚姻関係を見てみろ。伊勢神宮に誰がいるのか調べてみろ。
紀元200年頃の丹後に何が出てくるのか調べてみろ。工場も建たないろくな発掘もないにも関わらずな。
衰える一方の九州のその時代もな。
弥生の九州がいくら栄えてても関係ないんだよ。
弥生の九州が進んでることなんか、誰でも知ってるんだよ。 >>356
要するに、皇国史観にクルった大和説者に特有の、
都合の悪い史料事実を否定抹殺する、というヘンな考え方なんだね 。 >>760
ミサイルで円高になったから為替検索してドル円ポジったわ >>771
すみません、
邪馬台国四国説Part1を今見つけたので、続きはそちらで。 >>775
記紀には九州を征服した記載がないんだよな。 九州説というのは、
卑弥呼が九州にいたなんてこれっぽっちも思ってない畿内説の国学者が造り出した虚構。
彼らは古代天皇の朝貢という負の部分だけを九州に押しつけたw >>775
裏日本(ニホン)や山陰というのが畿内ヤマトニッポンの差別である >>358
>バカはまだ分からないようだが九州は弥生時代後期にバラバラになりもう中心もまとまりも無くなってる
そして東西は弥生時代を通じても別文化 <
アホにはまだ判らんようだが、九州倭国は弥生から白村江の後まで列島盟主であり、
大和は、倭国の別種の旧小国。
>特に神夏磯姫のいた地域は出雲の影響が強く土器も平原などがある地域と別<
当然、弥生銀座の拡大的地域。
>そして邪馬台国の時代にはどちらも庄内式、<
庄内は、三雲が発祥で、各地に伝わり、河内や播磨からも弥生銀座へ搬入上納。
>その後には布留式に塗りつぶされて独自性などない <
布留は、南加賀発祥説もあるが、常識的には、やはり弥生銀座での「庄内の改良」であり、
やはり、各地に伝わり、河内や播磨からも弥生銀座へ搬入上納。
>更には神夏磯姫の土地と思われる場所には前方後円墳が作られて畿内の強い影響下にあるのが分かってる
ここに独立的政権があったとか言う妄想が出てくる事態何も知らない事の証拠にしかならん<
前方後円墳も、列島では那珂八幡付近が発祥であり、そこから瀬戸内や近畿関東に伝搬模倣された。 >>781
卑弥呼が九州にいたのは事実だろ
なにが負の部分だ、いつまで寝ぼけたこと言うつもりなんだ まだ言ってるの?
『聖化 日神 日霊 津』調べてみた? >>361
>邪馬台国はヤマト国。卑弥呼がいたのは纒向。ヤマトの地は卑弥呼が都を置いたところ。<
「南≠東」だから、×。 韓半島から渡来した人達が九州を征服して邪馬台国をつくり日本になった
ヒロヒトも日本文化は半島から来たとおもうと言っているんだよ >>784
>卑弥呼が九州にいたのは事実だろ
アホなのか。 >>363
>景行天皇の時代ともなると完全に古墳時代 <
景行は、「別」が付くから、倭国の別種の意味で、倭國内では武将クラス。
>九州は古墳の規模や格から見て古墳時代を通じて中級以下 <
大和や瀬戸内は、弥生銀座の那珂八幡からの伝搬での模倣で、「セレモニーが拡大」した。
>九州発の中心性も、九州をまとめるような勢力も存在しない こんなところに倭を総べる本家などありようがない <
倭国は、白村江での大敗後まで、列島の代表盟主。
>九州に大型の古墳が現れるの応神、仁徳時代の皇室の后を出した時代から
要は皇室との関係性によってようやく地位が少し上がる程度の扱いなのが分かる<
応神、仁徳は、当然倭国内の武将クラス。
>時代をずらせば誤魔化せると思ってるのが飲尿信者 九州王朝など時代を変えれば変える程成り立ちようがない
そんな事も知らないからバカな事が言えるんだろうな バカ乙 <
あれっ?、この男も、
和田キヨエをたぶらかして尿の入った一升瓶を、和田家屋にこっそり置いて、世間を騙そうとした、
偽書説派の一味の大和説者であったのか?。 >>365
大和説者は、史料事実根拠が言えず、
言葉のごまかしだけでまだ何とかなると思ってるくらいだからな。
もうそんなレベルじゃないのが分からないから、
皇国史観の「日本は世界1」の国粋殺戮戦争狂の大和説なんて、
恥ずかしい事言えるんだろう 。
本当に見てて哀れ 。 >>788
事実を言ってアホはなかやろ(鴨厨の糞ころがし 景行天皇も南部九州でしか戦ってないな
北部九州は最初から自分の勢力圏だな。 >>792
景行天皇は北部九州にきている、平戸に来ているしな どこの国の人間なんだ?死刑・・・など
言われるのが嫌なら黙っていろ、
という書き込みがあったでしょ
奴隷なら奴隷らしくしろ
とか チェーンソーのゲーム
主人公「勘違いヤロー!」
敵の台詞「渡来人どもめ〜」
と言っているでしょ、言ってない? 『倭人』
お前は倭人だろ、
倭人は渡来人(渡来系)ではない
とか チェーンソーのゲームに登場する
スワン 白鳥
倭タケル?のことだと思う 神話、英雄譚というの?
そういうのも悪く言うとパクリ
有名な話 >>772
>>そもそも神夏磯姫の土地は平原でも何でもない別文化圏の土地<
>
>八咫の鏡を所有していたんなら、一応天孫族系か?、その縁者だったんだろうね。
そうとも限らない。
天孫族は男王を重んじるが、卑弥呼は姫氏と推察され、天孫族から八咫の鏡を継承した。
ならば、天孫族でなくても倭国王であれば八咫の鏡を所有できた、むしろ八咫の鏡を持つことが倭国王の条件であったと考えられる。
神功皇后に滅ぼされた田油津姫は神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後筑豊を拠点としていた。
ならば、神夏磯姫も田油津姫も姫氏の倭国女王だろう。
卑弥呼から神夏磯姫までは数十年しか間がないから、壹與の次くらいの姫氏倭国女王だったのだろう。 『百済 新羅 倭人』
このような画像を貼り付けている人もいなかった?
四回くらい見たような >>775
>「畿内」なんてもんに拘るから間違えるんだよ。
>今の裏日本なんて呼ばれてる落ちぶれた印象の丹後を見て古代がわかったふうな口を聞くんじゃないよ。
畿内がーと叫ぶ畿内厨への反論だから仕方がない。
以前より、日本海側が倭国の中心であることは主張している。
>弥生の九州がいくら栄えてても関係ないんだよ。
邪馬台国を語る上では弥生について語るのが適当。
それに示している資料は律令時代のものなので、稲作先進な地域であった九州と他の地域との差はもっと大きかったはず。 何もしていない普通の一般人の自宅に隠しカメラを取り付け
それをネットでリアルタイム配信
仲間という人間に対する盗聴盗撮生ネット配信の会
しかけたカメラの映像
乗っ取っているPCの画像をリアルタイムで生配信中
集団で仲間の私生活を覗いて楽しんでいる
そんなことが今この国では行われています
Youtubesサムネイルによる仄めかし
集団ストーカー
仄めかしの隠語は
猫 穴 水 仲間 土人
トンキン 畿内説のスレで、論時てるのは、
九州と阿波だけ、
畿内説は他説否定に走ってるだけに映る
持ち駒が少な過ぎる畿内説だな、
史書は変えようもないから、ここで書き込んでる暇がんはれあるなら
畿内を掘って掘って掘りまくれ!
鉄の工具貸してやるよ! >>792
>景行天皇も南部九州でしか戦ってないな
>北部九州は最初から自分の勢力圏だな。
景行天皇が戦ったのは大分とかだよ。
南部へは行っていない。
ただし北部の筑紫では戦っていない。
筑紫の女王であった神夏磯姫とは共闘していたから。
戦った相手の名をよく見ると、耳垂などの邪馬台国の官が含まれている。
景行天皇は、九州北部の邪馬台国の内戦に外から干渉したことになる。 >裏日本(ニホン)や山陰というのが畿内ヤマトニッポンの差別である
「裏日本」(明治28年)を最初に使った矢津昌永は、九州熊本出身 すまん、日本語になって無かった
意味は、通ずるから ヨロシク 聖化 日神 日霊 津?
が現れ、初めて・・・書いてあるはず、
他のサイト?なんかもそう 畿内説
掘って掘って掘りまくれ!
鉄の道具とともに
炭坑節も九州から貸してやる! >>808
その通り。
だから、景行天皇も大帯日子忍代別が本当の名前。
忍代別は、もともと筑紫からの分家の出自であることを示し、大帯日子は最終的に天下(九州は天下の意味)を握ったことを意味している。 >>812
すでに纒向は第200次まで発掘したが、有用な結果は得られなかった。
纒向が邪馬台国であることは証明できなかった。
今更、邪馬台国は纒向にありまあす!なんて叫んでも、証明されていないのだから無駄なことだ。 >>377
>逆に九州は周辺地域から絶え間ない干渉を受け続け弥生時代後期になると
畿内、山陰、瀬戸内海、四国と言った地域の土器に席巻される<
発祥は、三雲や弥生銀座。地方は、筑紫からの伝搬模倣をして、筑紫へ「市」を通しての搬入上納。、
>そしてその後には纏向式の前方後円墳を採用するようになる <
前方後円墳も、那珂八幡が先駆的であり、瀬戸内や大和に伝搬模倣されて、箸墓になった。
>祭祀や文化的にも九州から流入する影響は見られない <
庄内も布留も前方後円墳も、筑紫からの伝来模倣。 ほとんど引用で、
大陸での出来事だぞ
という話があったり >>807
>戦った相手の名をよく見ると、耳垂などの邪馬台国の官が含まれている。
>景行天皇は、九州北部の邪馬台国の内戦に外から干渉したことになる。
北部九州には早くから、阿波から進出した、筑紫忌部が地均ししていたから、
景行天皇は、九州を平定できたんですね。 @阿波 『天帝』
という字が見えるでしょ
当時の日本の話、出来事ではない 本当の日本の神話
酒の神など・・・百済 由来と書いてあるでしょ、
凄く古い、創造神クラス? 本当に「wwwwwww」(笑?)という話
『酒の神 百済』調べてみて >>379
大和説は、皇国史観の記紀に毒されて、
都合の悪い史料事実を否定曲解捏造したトンデモ説。 >>812
笑い事じゃないよ、
畿内説の学者や研究者は何をしているやら
ゴタク並べるだけに、なってしまった。 >>381
>九州はそもそも最盛期でも北部一帯から四国の西北部に影響を与える程度にしかなってない
山陰や瀬戸内海に影響を全く及ぼせてない <
国生み植民で、既に淡路?や吉備に植民しており、
神武らが大和を侵略し、倭王武までに「東征毛人五十五國」で常陸にまで達した。
>これは弥生時代を通じて同じ 東遷とか東征とか物知らないパーの妄想なのが良く分かる
まだこんな事言ってるんだから呆れるわ <
東遷というよりは「東征」。 記紀の神功皇后の記事は、三国史記などとの比較から120年繰り上げて卑弥呼の年代にぶつけてあると考えられる。
神功皇后の夫の仲哀は景行の孫なので、景行が神夏磯姫と筑紫では共闘していたのは、卑弥呼から70〜80年後と思われる。
その時点では、まだ八咫の鏡は筑紫にあったのである。 >>826
>記紀の神功皇后の記事は、三国史記などとの比較から120年繰り上げて卑弥呼の年代にぶつけてあると考えられる。
その通り
>神功皇后の夫の仲哀は景行の孫なので、景行が神夏磯姫と筑紫では共闘していたのは、卑弥呼から70〜80年後と思われる。
ならば景行天皇から70〜80年前のヒミコを探せばいい、ちゃんと記紀にいるから。
その少し後にトヨもいるから。
2人が住んだのは葛城。
九州は関係ない、しいて言えば九州はもう一つの天孫降臨・物部。 >>828
鴨(神)王朝以外で説明できないだろうが。
ヒミコを出してみろ。
ただし最高位の人物に限るぞ。
ミカヨリ媛とか訳の分からないおばはんは出すなよ。 ヒミコという発音に近い最高位のおばはんを出せない九州説www
チ~~~~~~~ン♪ ヒミコという発音に近い最高位のおばはんを出せない九州説www
困ったなw
別名オオヒルメのアマテラスにするか?
でも布留1の崇神から15世代前だぜ。
どだい時系列として無理。
だいたい高天原自体が九州にはない。
完全オワコンの九州説www ×15世代前だぜ
〇15代前だぜ
世代と代数は大きな違いなので訂正。
まぁどっちみちアマテラスでは無理なのだがwww 八女大国→邪馬台国(中国語)
当時の八女大国は今でいう合衆国である。
卑弥呼とはその大統領。
卑弥呼が君臨していた時代は、皇統における欠史8代の時代。
のちに国号を日本と改め、現在の奈良を大和(地名のやまと)とした大和朝廷(皇統)とは別のものである。 記紀談議は記紀あきた
お互いに目を覚ませ
皇国史観から抜け切れないの? やれやれ
九州説は完全に歴史学からドロップアウトしたな
>>833
>八女大国→邪馬台国(中国語)
ワロタwww
くだらないダジャレw
>卑弥呼とはその大統領
なんというお名前のおばはん? >>831
自分の頭に記紀感を待て!
ついでに相手にも伝えろ! 本当に、打つ手が無さそうだ!
畿内は広いから、何処でもいいから掘りまくれ! >>840
畿内説を責めても詮無いこと。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波 応神が5世紀前後は定点、おそらく元年が390年。
そして崇神は4世紀前半、これもほぼ定点。
アマテラス、スサノオは崇神の15代前なので計算上は2世紀。
文字がすでにあったし、原の辻遺跡で楽浪の文物と出雲土器が同時に出てる状況は、
出雲人が積極的に大陸文化を摂取しようとした証拠だし、
干支、歴も知ってた可能性が高い。
アマテラス、スサノオは実在の人物が神話にされたのでしょう。
スサノオの実像は迦毛大御神(かものおおみかみ)だと思われます。
古事記で大御神とつく人物は3人。
伊邪那岐大御神、天照大御神、迦毛大御神です。
迦毛大御神ことアジスキタカヒコネは高天原で剣を持って暴れてます。
スサノオですね。
そして住んでいたのは葛城の高天原です。
日本最古の高鴨神社で迦毛大御神とともに「対」で祀られてるのがシタテルヒメ(高姫)。
この女性がアマテラスの原像。
実際には迦毛大御神=スサノオの「妹」でアメノワカヒコという夫がいたことになります。
アマテラスが独身で弟があり別名オオヒルメという設定は卑弥呼を意識して作られたことが分かります。
大和朝廷の前身の最高神が自ら渡海して安帝に朝貢した事を潤色する為です。 >>842
畿内説を責めても詮無いこと。
天照大神伝説の地は徳島市国府町「天石門別八倉比賣神社(あまのいわとわけやくらひめじんじゃ)」です。
御祭神は大日孁女命(おおひるめむちのみこと)こと天照大神です。
また、大宜都比売命(おおげつひめのみこと)が祀られているのが徳島の神山町にある上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)です。
大宜都比売命の別名を天石門別八倉比売命(あまのいわとわけやくらひめのみこと)と言われています。
※「大宜都比売命」=「天石門別八倉比売命」=「大日孁女命」=「天照大神」 @阿波 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。
また、焼畑農業神、稲作・畑作農業神としての顔をもつ。『古事記』にあるオオゲツヒメの死は、死と再生という自然循環思想を表す。
穀物名を国名とするのも、農業神が国神となるのも日本で阿波国のみである。 @阿波 纒向を掘りまくり、
温泉出てきた方が桜井市の為になる。
卑弥呼饅頭改め、卑弥呼温泉饅頭
巫女の格好を温泉宿の女将にでもさせろ
サン助は、元ヤクザの再就職先として、受入れろ、刺青バッチリ
湯に鉄分が含まれれば尚良し
市長は、青森からイタコを連れて来る
他方創生の手本となる >>802
姫氏の子孫は
火国造に任命されとるけぇ >>817
そういう記述した
古書あったりするの? >>845
メイン料理が、三輪そうめんじゃ無理!
もっと考えろ! >>845
メイン料理が、三輪そうめんじゃ無理!
もっと考えろ! 「ぼくちゃんは認めない」
これが反論だと思ってるんだから笑わせてくれる >>849
干し鮑と、奈良産大仏シカ鍋と三輪山ヘビの刺身、
デザートは、もちろん桃、お土産は桃の種で作った首飾り、 何が温泉宿だ、
九州説、余裕こいてないで卑弥呼の墓を見つけて来い 107年に後漢・安帝に朝貢した帥升を名前の似ているスサノオだと仮定してみる。
間違っててもいいから一度仮定してみる。
魏志の卑弥呼の朝貢が238年。
スサノオから5世代100年後に歴史上ヒミコと言う名前にもっとも近い最高位の女性がいる。
しかも魏志の記述どおり寡婦。
そしてすぐ後にトヨという最高位の女性もいる。
邪馬台国論争なんてあっという間に決着してたのだ。
ところが大和朝廷および古代天皇が朝貢したことになる。
スサノオは安帝の前で土下座したであろう。
神武なんて朝貢してたヒミコの婿。
記紀はそれをごますために時代を大きく引き伸ばし編纂された。
今の日本人は天皇が朝貢してたと知っても何とも思わないが江戸時代は違う。
ショックが大きい。
だから本居たちは九州説という虚構を創ってわざとごまかしたのだ。
論争が続いてるうちは大和朝廷および古代天皇が朝貢したことが決定しない。
その「決定しない」という状況を永遠に創ろうとしたのだ。
これは天才の所為である。
これに気づいた私も天才なのだが。 平原なんて衰退の決定する遺跡を持ち出して浮かれてるバカがキュウシュウセツだからな
未だに邪馬台国の場所さえも指定できないのに何を喚いてるのやら 邪馬台国の記述をあるのは、魏志倭人伝。
倭人について書かれたもの。
倭人とは何かというところから考えないといけないよ。
中国江南から広がった下戸遺伝子。
中国南部の文化である銅鐸。
島生み神話は、中国南部に多い神話のモチーフ。
日本に於ける下戸遺伝子分布の中心は、大阪湾と伊勢湾。
淡路島から紀元前4世紀の銅鐸が出土。
国生み神話で最初に生まれる淡路島。
イザナギの宮があったとされる淡路島。
唐古鍵遺跡の弥生時代中期の木棺墓から出土した頭蓋骨は大陸系の特徴が強かった。
呉の末裔を名乗る倭人とは、中国南部から渡来した人々、下戸遺伝子をもたらした人々と考えるのが妥当。
中国南部から銅鐸文化をもたらした人々(倭人)が渡来したのは、紀元前4〜5世紀。春秋時代末期。
弥生時代中期には、ヤマトで拠点集落を作れるぐらいに勢力を拡大していた。
倭人の分布は畿内や伊勢尾張、美濃、吉備中心。
倭国とは倭人の国であるから、倭国の版図も、大阪湾を中心とした畿内や伊勢尾張が中心だろうね。
倭国大乱以前は、倭国はクニ=クナ(狗奴)と同一だろう。 畿内における倭国大乱。
卑弥呼と卑弥弓呼の争いは、大阪湾一帯の倭人勢力と伊勢湾を拠点とする倭人勢力の争いであった可能性があるな。
倭人は、海洋民族。本拠地は沿岸部だろう。
それに吉備を拠点とする倭人勢力が、卑弥呼側として参戦と。
長江河口から潮岬に渡来した倭人勢力。
下戸遺伝子をもたらした集団。
下戸遺伝子が色濃く分布する、大阪湾、伊勢湾、紀伊、吉備。 この江南キチガイも毎度同じコピペして荒してるな
飲尿カルト信者とか、全レスキチガイジジイとか、独り言キチガイとか頭どうかしてる奴が湧いてきて鬱陶しいな 1世紀から2世紀初頭(倭国大乱前)にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。立地的に畿内、伊勢尾張、北陸からアクセスしやすい場所だからね。
当時の倭国の仕組みが窺い知れるんじゃないかな。
男王を抱き、その元で首長達が集い祭祀を行い、政治を行う。 倭人は海洋民族。倭人の本拠地が大和や内陸にあるとは考えにくいんだよね。
記紀にもあるとおり大和盆地はナガスネヒコなど様々な勢力が雑居していたと考えられるしね。
伊勢遺跡では銅の工房は認めているが、当時の畿内の鉄器生産が盛んなところは淡路島。
淡路島で作られた貴重な鉄器を利用しやすい、海に面した高台、丘陵が倭国の本拠地である可能性が高い。
クナ国、個人的には2世紀末までは大和、河内、和泉にまたがる国であったが、大和の地を卑弥呼側の勢力に奪われ、魏志倭人伝当時は河内、和泉であったと考えている。
クナ国に男王卑弥弓呼、官に河内彦がいるとある。
河内彦の所領は河内であろう。
残りの泉北丘陵とそれに続く上町台地は誰が支配していたのだろうか?歴史が消された場所。
淡路島の向かいにある上町台地〜泉北丘陵にかけてがクナの王卑弥弓呼の本拠地だった可能性はないだろうか?
大物主を祀ることになるオオタタネコがいたのが泉北丘陵の陶村。その近傍に卑弥弓呼がいた可能性はないだろうか?
上町台地の先端にある大阪城の下or泉北丘陵の巨大前方後円墳の下に何かあるかもね。 ヤマタイの話ではないのかもしれないけど
家の話だから
とっとと刑務所に行けと言っているんだよ 八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?
後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。 卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦いに、吉備が卑弥呼側として参戦したんだよ。これが2世紀後半。記紀でいう神武東征の話。 神武は吉備軍に同伴しただけ。
結果卑弥呼側の勝利で終わり、大和の地は卑弥呼の支配下になる。この時に吉備の勢力が大和入りしたんだね。
吉備の兵は他の国々の兵と共に纒向に駐屯。
これが纒向で伊勢尾張、吉備、丹波近江、大分の土器が出土する理由。
在来系の土器も勿論多数出土している。
纒向の南の芝遺跡は纒向と入れ替わるように弥生時代後期に消退するし、芝遺跡からも人々が纒向の営みに動員されたんだろうね。 >>855
系図が真に実態のある内容を記載してるなら
その論は成り立つがそうじゃないぞ
だいたいスサノオの娘とオオクニヌシが結婚するところがおかしいから。 それなら、なぜ知っている人間がいるんだ?
川崎区に住んでいるよ。
川崎に住んでいるんでしょ。
このような書き込み 纒向は、卑弥呼がいた大集落。
邪馬台国はヤマト国、大和盆地一帯だな。
狗奴国から奪った地であり、対狗奴国の一時的な前線基地。
元々はそれだけの意味しかない。
『鬼道を行い衆を惑わす』民を教化し、王に忠誠を誓うようにするのが卑弥呼の役割。
纒向は、巨大な兵の駐屯地であり、民が住む大集落であり、教化システムでもある。
古墳時代にこの兵を使い全国平定を進めるんだな。(四道将軍)纒向が4世紀に突然消失し、武器が殆どでないのも説明がつく。もぬけの殻。
博多の一大率も、ミニ纒向みたいなものだろう。 魏志倭人伝に倭地には、100余国あると書いてある。
また卑弥呼を王として共立した国々は30ヶ国とも書いてある。
当時の日本列島は、統一までに程遠い状況なのが分かる。
言い換えると、女王国の周辺は敵対勢力、中立勢力だらけということ。統一国家へ向けての極々初期段階だということ。
全国平定に向け大きく動き出すのが古墳時代。
その先駆けが四道将軍。
四道将軍の主な派遣先、北陸、丹後半島、瀬戸内海。
それを考えると、卑弥呼の時代、日本海、瀬戸内海には敵対勢力と卑弥呼を共立した勢力が混在していた可能性が高いと思われる。
魏の使者を迎えるには、女王国ではない国々の影響を受けないルートを選ばないといけない。
果たして、日本海ルートや瀬戸内海ルートで魏の使者を安全にすなわち戦闘に巻き込まれるリスクなく迎えることが可能性だったのか? どのスレだったかな
・誰々って、川崎に住んでいるんでしょ、
むかーし福島県のほうに住んでいて、城に・・・
老婆と同じ事を言っていた テンプレは、意図的に纒向遺跡に関する重要な事実を無視している。
◎纒向は、2世紀末に突然現れ、4世紀に突然消失した大集落。また発掘に携わった考古学者は、外部勢力の侵入を考えざる得ないとも言っている。
卑弥呼の居館域と推定される大型建物のある柵で囲まれたエリアだけでも、1.5haある。運動場を含めた一つの中学校位の広さはある。1000人の下女が勤めるには、十分なスペースはあるわな。
纒向遺跡全体でも3キロ平米、後世の京に匹敵する巨大さ。
湧水土壌であることを考えれば、民の住居は竪穴式住居の採用は難しかったんだろう。
高床式建物や掘立柱建物が延々と連なって建っており、住居や食糧庫だったんだろうね。
巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。
農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。
◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。
さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。 この妄想長文鬱陶しいな
根拠も何もないぼくちゃんの妄想だけ長々と書いてんじゃねぇよ
チラシの裏にでも書いとけ 現在ある・・・〜宮、宮家?
そういうスレッドだったような、
なぜか老婆と同じような話 >>865
>だいたいスサノオの娘とオオクニヌシが結婚するところがおかしいから。
違う、大国主というのは役職名。
今の「天皇」と同じ。
だからスサノオも大国主でスサノオの父も大国主、そしてスサノオの子も大国主。
ヒロヒトの子は天皇(平成天皇)、ヒロヒトの父も天皇(大正天皇)と同じ事。 >>864
>卑弥呼を共立する国々(丹波、伊勢尾張など)と狗奴国(大和、河内、和泉)の戦い
いい加減な事書くな。妄想はブログでやれ、読まないから。 老婆のほうが詳しい
馬に乗っていて、どこかの城に通っていたんだよ、
たしか山のほう。シロヤマ。おしろやま。ヤマシロ?
そのような事を言っていた
あと、よくわからない、謎の刀を持っていたw 纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が確認されていない。 二本松のほう、
霞ヶ城(不明)が何やら〜
老婆談
城に通っていたと言っても、
どういう意味なのかは、わからない >>877
嘘ばかり。
ほとんどが住居跡。
高床建物、掘立柱建物がずらっと並んでいる。
庶民の住居跡しかないと言ってもいいぐらいだよ。 その謎の刀の話
泥棒のようなものに入られた、
畳や床下の土まで掘り起こされていて・・・ 纒向温泉出来ても行かない
チラシに嘘書きまくるから むかーしから住んでいたのか、
移住してきたのか?
伊達郡という辺りに住んでいたのは確実 九州説はもう諦めろや
いくらウソを交えてそれっぽい事並べ立てても学説は覆らんから wikiなどを読んで行くと、
なぜか河伯の話が出てきたり
きゅうり・・・かっぱ? 四道将軍の大彦親子。
関東に遠征しているからな。
群馬県に飛び地のように下戸遺伝子が高頻度で分布。
関東に遠征して、その辺りに倭人が定着したんだろう。
埼玉の稲荷山古墳から出土した鉄剣。祖先は大彦の銘がある。
大彦の子孫が関東に根付いた可能性はある。
四道将軍は元々王の資格を持つ人たちと個人的には考えているけどね。
つぶやき君の話と関係あるのかは知らない。 以前から聞いているはず、
お前の名前は?
もしかしてテイノー(低能)? >>870=スレ主
それ、名無しのスレ主が言い訳で使用してたやつ
論破されてるし
恥ずかしいからまた名無しかい
堂々とテンプレに入れれば
笑ってやるよ お前の名前は?
『北斗の拳 ジャギ』
画像をググってみて、同じような話だから >>879
>掘立柱建物がずらっと並んでいる。 <
証拠は? >>869 纒向は斎場と墓地とも解釈できる論法だね >掘立柱建物がずらっと並んでいる。
高床式倉庫ともいう とある格闘ゲームに登場するキャラクター
『斎祀(サイキ)』?
数年前の話
なぜか>>斎祀場、斎祀場(サイキバ)
という謎のレスがあったり 何やらクリムゾン?というキャラクター
🌞 🌛
地
という事を言いたいのかもしれない 上に貼り付けた写真があるでしょ
撮影した時期?
まだ何やらクリムゾンというバンド、
グループは活動していないと思う これも偶然、見た『世界妖怪図鑑』
に同じような画が掲載されていたり
地面に七支刀のようなものが置かれていて、
枝の先に🌞 🌛のようなものが咲いている
なぜかコンクリのようなものも置かれている >>868
倭人伝を読む限りでは
女王卑弥呼の国は完全に魏の冊封国で軍事的にも張政を招請して介入させている。
張政は帯方郡の小役人であり、これで理解できるのは女王国が相当な弱小国である事。
4世紀には、日本は半島に進出して400年には南朝と半島利権外交を始める。
魏の冊封を受けていた九州の弱小国、邪馬台国が継続している可能性はゼロである。
さらに弱小九州女王が瀬戸内海航路に通過可能な寄港地を開拓していた可能性は無い。
白村江戦後の唐軍の武官ですら、防人を見て九州上陸を躊躇し、畿内へも入れていない。
畿内説で畿内の王が帯方郡の田舎魏使を軍事介入に招請して招き入れていたら日本国は生まれない。
畿内説も九州説も戦前戦後の御用学者が古代の日本を邪馬台国並みに矮小化して
記紀神話の九州起源説と半島史に配慮して無意味な論争にしただけの事だ。 妖怪というより神様という解説があったり
なぜか半身男で半身女。
半身が王で、「半身が王女というような雰囲気の画。 半分男 半分女 神?
空を飛び回り、嵐を起こしたり、
そばに火吹きドラゴンというのがいて
・・・とも書いてあった 世界妖怪図鑑?
いつ頃、何年頃に出版されたんだろう、
まだ出版されていないと思うんだけど、詳しすぎない?
日付などがプリントされている写真があるでしょ 怒らせたりすると、そのドラゴンに殺さる
とも書いてある 調べてみると暴力団のような話
例えば『東京湾 コンクリ』
でも家は暴力団でもないし、付き合いもない、
・・・何か、おかしんだよな >>387
>銅鐸はかなり早い弥生時代中期終わりごろに山陰、瀬戸内海で無くなり<
それまでが、菱環鈕式や外縁付鈕式や扁平鈕式の時代だ。
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/dotaku/dotaku08.html
>ここに首長祭祀を行う出雲勢力が誕生する<
突線鈕2・3式の時代であり、四隅突出型墳墓が出現する時期と合致している。
出雲で権力部族の交代があったのだな
>そして大和国でもその少しあとくらいの弥生時代後期に無くなり大型墳墓が現れる時代になる <
それ以前に、銅鐸の消失が、播磨では早くから始まり、
続いて、摂津西部、淡路、河内、和泉、大和でも、銅鐸が消失した。
大和の銅鐸消失は、神武の侵入や欠史八代の頃であり、
大型墳墓は、はるかに後の頃。
>銅鐸の消滅は各地域に現れた国の誕生に連動しており、
九州は何の影響も及ぼしてないどころかこの勢力に逆に乗り込まれている状態になっている <
アホだね。
瀬戸内から大和の銅鐸の消失は、
倭国の、国生みや神武らや東海姫氏國の東征のために決まっているではないか。 都市伝説なのかな
川崎区の南部のほう、何々地区というところの話
家の近所 ・・・・のような親父(おやじ)が住んでいて、
あれはダメ、これはダメだと、指図したり 弧文板や前方後円墳の形状とか特殊器台とかなり吉備の影響が色濃いね
邪馬台国が畿内に成立した各勢力の集合体的な形なのが分かるな >>389
>わかってないみたいだが 鏡打ち割り儀式と破鏡は全然別だからね 無知ゆえの妄想は恥ずいだけだよ<
わかってないみたいだが、
「鏡打ち割り儀式と破鏡」だなんて、考古発掘の解釈であっただけであり、
私が問題にしていたのは、
「鏡打ち割りと破鏡」が、鏡片と関係があるんだろうか?、
という問題なんだよ。 『指図』
詳しいことは、わからないけど、
そういう話?設計図のようなものが出てきたり >>912
つまり何もわかっていない素人老人が
でまかせを言っているわけだな 全レスバカは的外れな事ばかり延々と書いてて見てて笑いしか出ない
物知らないバカが思い付きで喋ってるから仕方ない >>390
>知識が賞味期限切れのお爺さん 三角縁は呉系統じゃないので、ヨロシク<
もう、40年以上前から、洛陽には三角縁が殆ど出ないから りゅう黄河流域は否定されており、
揚子江下流の呉付近に盛行していた、
という事は常識的であったんだよ。
その後、何か大発見でもあったんかね?。 東征とか東遷とか寝言言ってるアホは一つも根拠示さないなw
「ぼくはそうおもわない」
が反論だと思ってるから笑える キュウシュウセツの「反論」
・そうに決まってる!と根拠も何もなく突然結論を言う
・ぼくちゃんはそう思ない!だから勝った!と無知なだけなのに突然意味不明な勝利宣言
・史書の曲解の俺ラノベ話だけで議論が出来ると思ってる
まともな話なんて聞いた事ないわw >>831
そもそも遡れば遡るほど、九州以外で八咫の鏡を作ることは難しくなる。
卑弥呼もアマテラスも九州にいた。
アマテラスの孫のニニギが伊都国の初代の王。 >>846
本来は王であったものを、国造とかの名で記録しただけ。 >>858
ゲコゲコうるせえよ。
井の中の蛙、大海を知らず。
畿内説はみんなそうだ。 というか三角縁を否定したら畿内が邪馬台国じゃなくなると思ってるのかやたらと言うのも今更だな
三角縁が中国鏡かどうかの是非なんて関係なく弥生時代後期から始まる畿内の全国的中心性と、九州が地方としてその強い影響下に入ってる状況には何の変化もない
卑弥呼の貰った鏡が別に三角縁である必要もない
それこそ別の鏡だって構わんわけで
で、九州からは見つかる鏡も平原は国産鏡だらけだし、九州全域を見ても魏から貰ったような大量の鏡もないし配布したような中心性もない
見つかる鏡種もバラバラで、基本的に小型国産鏡だらけ
そして九州自身も畿内から三角縁を貰って大切に古墳に収めてるような立場なのに
鏡持ちだしてなんか有利になるとでも思ってんのかね
バカだから仕方ないけど >>391
>そもそも銅鐸が無くなった後に現れた四隅突出型墳丘墓も特殊器台も、<
そりゃ、出雲系文化だ。
>纏向型前方後円墳も九州に何の由来もない<
そりゃ、那珂八幡の模倣拡大だ。
>そしてこれらが現れた時代には九州自身の規格である甕棺墓や<
甕棺部族は、東征していなかっただけだ。
>銅矛が健在だった <
筑紫からの伝搬模倣だ。
>九州の東征だとか言うのなら甕棺や銅矛が広まるべきなのに全く関係ない後にも先にも関係のない独自文化がそこに成立してる<
国生みや神武東征は、筑紫での甕棺や銅矛部族の中で生きて行けなくなって、別種になったものだ。
>東征とか東遷とか言う奴って脳ミソないんじゃねぇのか? どんだけバカなんだよ<
倭国の正規軍の東征は、「東征毛人五十五國」だよ。 >>925
畿内説としては
下賜された鏡はなんて思ってるわけ? 那珂八幡古墳なんて畿内から頂いた三角縁を収めてる箸墓に続く頃の出現期の古墳だからな
九州に邪馬台国とかもうバカじゃねぇのと >>394
>前方後円墳は各時代ごとに並べてみれば
常に畿内が大きくその規格に従って各地域が連動してる形になっている
政権の都の移動などによって中心地は変わるがこの関係性は変わらない <
列島では、那珂八幡が最も古く、東方は、那珂八幡からの伝搬模倣拡大だ。
>特に五世紀ごろの応神、仁徳時代になると朝鮮半島進出と言う背景からも大阪方面に拠点が移る
これはむしろ歴史の描写が考古学的な発見と連動している証拠となっている <
応神、仁徳は、筑紫倭国内の武将的地位であり、
筑紫勢力の東征と河内支の支配化を示しており、
旧小国の大和が、伝承でそれを取り込んだだけだ。 纒向は、邪馬台国と違う国の都でも成り立つのでは?????
テンプレを再度 読ませたいただきましたが、
テンプレの根拠的には
邪馬台国と結びつけ無くても成り立つ国ですね。 そして理由も言わずにぼくちゃんの結論だけを言うアホ >>403
>100m前後は地方首長のそれなりの地位程度だな <
要は、後から模倣するものは、「セレモニーの拡大」であっただけだ。
>九州は100m規模の古墳が少なく大抵が50〜60m まぁこれが九州の現実だな<
九州は、当然中国の家臣としての「薄葬令」の規定に縛られる。 九州は奈良時代まで別文化圏の南部以外は邪馬台国の時代には全面的に畿内の強い影響下にある
土器も墓制も独自性を失って畿内の様式に塗り替えられている
三角縁も古墳も全部九州も受け入れてる状況でなにいってんだろうなこいつ等
九州なんて九州自身でさえもまとまってないし中心も失ってる
邪馬台国の100年くらい前の段階から
これでどこが邪馬台国とかほざいてるんだろうな 失礼
畿内の圀は
テンプレを読む限り
邪馬台国と別の圀の王都との考えもあっても良いと思う。
無理に邪馬台国と結び付けようとしてるのでは?????? そしてまた理由も言わずにぼくちゃんの脳内の結論だけを言い続けるバカ >>408
>大体のそれなりに大きな古墳の被葬者は后等の大王の関係者や、もしくは降伏して服従を誓ったような人間
史書の記述と連動した地位だというのが分かる
むしろ古墳の在り様が中央のシステムに則る物であるという証拠になるな<
ならない。
「セレモニーは進化拡大する」だけだ。 >>934
九州は倭国の不安定な政情を反映して、古代においてはその盟主がしばしば交代している。
それこそ魏志倭人伝に見られる倭国の姿である。
瀬戸内海賊の娘を共立したなどどいう絵空事は、邪馬台国の姿からは程遠い。 >>410
九州王朝説は、史料事実からの、人類の常識的な帰納的推論、と言うべきだな。 畿内の中心性は「全国規模」
他の首都?他の?
倭人伝にも九州北部の集落の描写がいちいち描かれている
そしてそれが「女王国に属してる」と書いてる
つまり、邪馬台国は九州を影響下に入れてる勢力
そして考古学的に見ると畿内は九州をはじめとした各地域に土器、墓制を広げて影響下にいてるのが分かってる
それ以外の国?
他に九州を影響下に入れてる全く別の勢力がどこに設定できるんだ?
もう適当な事言えば誤魔化せる段階なんて過ぎてんだよ >>413
まぁ大和説は、皇国史観の「日本が世界1」の国粋戦争狂のカルト教団の信者だからな 。
教えてやっても理解なんてするわけもない 。
こうやってバカ丸出しの妄想を喚くだけの壊れたスピーカー 。 >>941
>そして考古学的に見ると畿内は九州をはじめとした各地域に土器、墓制を広げて影響下にいてるのが分かってる
九州に年貢を納めていただけ。
逆に博多には西日本全域から膨大な物産が集められ、大都市が成立していた。
その繁栄ぶりを魏志倭人伝は詳しく伝えている。
魏志倭人伝には、畿内までのルートも、畿内の様子も、まったく書かれていない。
ただ、東に海を渡ったところにも倭種がいるとだけ書かれている。 九州の盟主?はぁ?
九州は弥生時代の後期までそれこそ福岡を中心とした勢力が銅矛や甕棺を広めて中心性を維持し九州北部から四国西部に広まる勢力圏を形成してた
そして須玖岡本のような豪勢な大量副葬品をだす王墓と思われる中心が存在してた
ところがまさに弥生時代後期になるとこの銅矛も甕棺も一気に縮小して消滅する
中心地とされていた平原も国産鏡だらけの周囲と何の関係も持たない個人墓の域になりその後は継続せず消え去る
そして周辺の集落は土器や祭祀の独自性を強め個々バラバラになっていく
この時代に至って九州はまとまりも中心も失い国としての体を失った事が明瞭に読み取る事が出来る
このような状況の中で他地域の土器や祭祀が入り込み、畿内の強い影響下に入ったまま邪馬台国の時代を迎える
これが「九州の現実」
とてもじゃないが九州一つまとめる勢力さえそんざいしないで遠く畿内の干渉かに入った姿しか浮かび上がらない >>934
>九州は奈良時代まで別文化圏の南部以外は邪馬台国の時代には全面的に畿内の強い影響下にある
>土器も墓制も独自性を失って畿内の様式に塗り替えられている
「畿内」を「阿波」に置き換えてください。 そうすればスッキリしますよ。 @阿波 >>1
計画的に建築された大型建物群
弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
箸中山古墳と緊密な関係が推察される
日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳
代初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。
中国文化が急速に浸透する
☝
東日本に女性を王とした圀があったでも成り立つ >>933
オイオイ卑弥呼の墓は直径140メートルって
魏使が書いてんじゃねーの? ☝
東日本に女性を王とした邪馬台国と違う圀があったでも成り立つ 意味も分からず一部だけ切り取って訳の分からん曲解をしてぼくちゃんの妄想を言うバカ >>1
計画的に建築された大型建物群
弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
箸中山古墳と緊密な関係が推察される
日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳
代初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。
中国文化が急速に浸透する
☝
東日本に女性を王とした邪馬台国と違う圀があったでも成り立つ >>944
>そして周辺の集落は土器や祭祀の独自性を強め個々バラバラになっていく
>この時代に至って九州はまとまりも中心も失い国としての体を失った事が明瞭に読み取る事が出来る
>このような状況の中で他地域の土器や祭祀が入り込み、畿内の強い影響下に入ったまま邪馬台国の時代を迎える
妄想はチラシの裏にでもどうぞ。 何度も言うが九州は自らは何の影響も与える事も出来ずに一方的に文化も生活様式も塗り替えられてる属領
まぁ考古学も史書も知らない飲尿信者じゃ仕方ないけどな >>941
>そして考古学的に見ると畿内は九州をはじめとした各地域に土器、墓制を広げて影響下にいてるのが分かってる
「畿内」を「阿波」に置き換えてください。 そうすればスッキリしますよ。 @阿波 >>947
書いてないよ。
しかも径で測っているから、丸くないといけない。
前方後円墳はボツ! あーコピペして荒し始めたか
まぁ九州説なんてこの程度だろうよ
畿内スレ荒せば九州に邪馬台国が現れる思ってる異常者の集まりだからな
何故かコイツ次のスレでも「論破した!反論できない!勝った!」と科勝利宣言してこれ張り続けるなw
いつもの奴確定した >>443
何か?、ごじゃごじゃと分裂幻覚妄想を書いているようだが、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったんだよ。 というか畿内に邪馬台国設定しないなら
「日本のどこにも考古学、史書に合致する土地なんて存在しない」
事にしかならん
どこの場所やどこの時代に移そうがな
これからどんなデカい遺跡が見つかろうがな
最早そういうレベルだと理解できない原始人が暴れてるんだろうな そして旧唐書の程度の低い俺解釈で九州王朝説
流石は経歴詐称ジジイの小便着色本を聖典と崇めるカルト信者だなw >>952
銅鏡祭祀の後が九州にまったくないならそうだろうが、事実は全然違う罠 >>957
でかけりゃいいと?
魏志倭人伝にそんなこと書いてないよ。 >>960
テンプレは、邪馬台国と関係ない他の国のことをとうとうと書いてあるように読めますよ。 >>956
理由なしでボクちゃん結論を言い張る
それが九州説
いつもね >>957
>というか畿内に邪馬台国設定しないなら
>「日本のどこにも考古学、史書に合致する土地なんて存在しない」
「阿波」に存在しています。 @阿波 テンプレは邪馬台国を考える役に立たないから、チラシの裏にでも書いておいてもらえませんかね。 >>968
だよな
だから952は見当外れってこと。 >>950
さすがキウスと呼ばれた男と自画自賛
俺、キウスと名指しされたいな 邪馬台国の祭祀は全国の様々な地域の方式を取り入れて成立してる
吉備の特殊器台、墓形
出雲の土木、墓制の利用法
そして九州の鏡
影響下に収めた地域の祭祀を一つにまとめた中心地が畿内
まさに共立
九州はその中に取り込まれたという事
その証拠として九州は既に畿内に生活様式から祭祀まで塗りつぶされている
更に史書にある扱いからして九州は吉備や出雲と並ぶ事が出来ない属国の扱い
倭人伝にある属領としてその祭祀を奪われたという証拠でしかないな >>1
計画的に建築された大型建物群
弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
箸中山古墳と緊密な関係が推察される
日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳
代初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。
中国文化が急速に浸透する
☝
東日本に女性を王とした邪馬台国と違う圀があったでも成り立つ >>974
アホだな
祭祀中心が銅鏡なら、九州が畿内を飲み込んだということ。機器にもそう書いてある >>954
自分で前方後「円」墳って書いといて何を言っているんだ? 倭人伝にあるように九州には伊都国王がいるのに鏡の中心を女王に奪われている
つまり、属国として自らの祭祀さえも持って行かれたという惨めな姿を現してるだけだな
その証拠に九州は女王国に含まれない
纏向の祭祀にも参加できない扱い
哀れな地方
それが九州 記紀の話をしてそれが「正しい」と言うんだな
なるほどわかった
じゃあ卑弥呼は神功皇后だw
良かったな
畿内説だよお前 >>974
>影響下に収めた地域の祭祀を一つにまとめた中心地が畿内
順番に畿内が占領されただけ。
程のいい草刈場、植民地。 >>977
四角いおまけが付いているなんて、書いてないよ。 >>979
逆だ、愚か者。
考古学的に銅鏡祭祀を考えると、機器の記述に合致して来たということ。 >>974
>九州はその中に取り込まれたという事
その証拠として九州は既に畿内に生活様式から祭祀まで塗りつぶされている >
何時の時代のことですか? >>979
神功皇后は卑弥呼の120年後。
ちゃんとスレを読めよ。
アホが。 >>982
うん、八咫の鏡が出ていたことを知るまでは、ただの伝説だと思っていた。
しかも、全てが伊都に集約する。 一方的に畿内の影響下に入って前方後円墳も有難く受け入れてる九州のどこに邪馬台国があるのかな?
ん?
鏡も伊都国王を無視して卑弥呼に回って自分達の祭祀さえも奪われてる惨めな属国のどこにあるのかな?
んん?
弥生時代以降どの時代に変えても九州一つまとめる勢力が現れない九州のどこに九州を支配下に入れてる国があるのかな?
んんん?
教えてくれないか? 八咫鏡?
お前見た事あんの?
それが証拠って何が根拠なの?
ちなみに八咫の鏡って単語はありふれたもので風土記でも4回関係ないところで登場して地方の神に献じられてるぞ?
ん?
ただのデカい鏡を示す単語が何だって? 九州の土器も鍵だな
>>1
計画的に建築された大型建物群
弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
箸中山古墳と緊密な関係が推察される
日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳
代初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。
中国文化が急速に浸透する
☝
東日本に女性を王とした邪馬台国と違う圀があったでも成り立つ >>1
計画的に建築された大型建物群
弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
箸中山古墳と緊密な関係が推察される
日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳
代初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。
中国文化が急速に浸透する
☝
東日本に女性を王とした邪馬台国と違う圀があったでも成り立つ 本当に九州説はバカの集まりだな
まだ妄想で話が出来ると思ってるw オーーーーイ
そろそろタイミング見計らってるな畿内説
最後のカキコミ取りたいだろ 機内が邪馬台国だとする前提が3つある
一つは畿内に古墳時代の巨大集落や墳墓が確認されていること
もう一つはやまとという地名が邪馬台に通じること
さらに魏の年号入りの三角縁神獣鏡が多数出土していること
この前提は誰の目にも明らかで覆りようがないから
誰も知らないような古文書に一言邪馬台国は九州とか書かれてたくらいじゃ
邪馬台国畿内説は覆らない >>1
計画的に建築された大型建物群
弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
箸中山古墳と緊密な関係が推察される
日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳
代初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。
中国文化が急速に浸透する
☝
東日本に女性を王とした邪馬台国と違う圀があったでも成り立つ 九州は膨大な稲作生産量、半島貿易から得られる膨大な富があり、倭国は強力な海軍により日本海沿岸と瀬戸内海沿岸に勢力を拡大した。
九州北部は豊かだったため、複数の王家が併存し、覇権を争った。
それが魏志倭人伝にもある倭国大乱だ。
貧乏で争いすら起きない、農具も木製しかない奈良盆地は、沼だらけの辺境の地であり、川べりの倉庫の周りにわずかに市が立つ程度であった。 >>986
つくづくアホだな。
お前のいう畿内勢力が銅鏡祭祀を中心とする以上、後世に前方後円墳が九州にできたとしても、出自である九州を制圧したとは言わない。 箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が女王の所都である。 >>993
全て否定されました。
スレを読み返してください。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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