邪馬台国畿内説 Part266 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させるものがある。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)、といった中国文化が急速に浸透する時期が、列島が魏晋と通交した時期と重なることも含め、
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1つに、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2つに、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
(この項続く) ◆6−2(続き)
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
(この項続く) ◆7−2(続き)
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう
(この項続く) ◆7−3(続き)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
(この項続く) ◆8−2(続き)
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の値を示し(南2008)、桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南,今津ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する ◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
使訳通じる30国のうち両者の構成比が不明であるが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
(この項続く) (続き)
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。
しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。
弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
(この項続く) (続き)
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 265の>>316
>ところが邪馬台国とは最近交渉が始まった
だから中国人は里数で説明できない 「倭人が案内した」と言う事だ<
倭人は「里数」を知らなくても、
魏の役人たちは、「里数」を計測出来たし、
出来たから、記録出来た。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
(この項続く) (続き)
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 畿内説やられっぱなし
新証拠を突き出すしかない
しかし無い
これが畿内説の今の現状
だから、口だけ先走る ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認されている(金原2011)こと、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。
上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。 倭人伝に紹介されてる邪馬台国は
魏帝から派遣された帯方郡の小役人張政が
狗奴国と紛争している女王国に軍事介入する目的で渡航した話だろ。
帯方郡から南水行20日狗邪韓国、水行10日末露国で、
その南狗奴国国境の陸行1月が邪馬台国。
完全に魏の冊封国で、周辺国の報告内容も、日本の王権とは程遠い小国なんだが・・・
前方後円墳以前の3世紀辺りまで日本の国域に含まれていたかどうかも知らん九州に
漢や魏と金印冊封外交してたという理由で、日本の王権が有ったと言う、九州説も頓珍漢だが、
畿内説ってのは、なんで大和の王墓で、魏の属国の邪馬台国や女王卑弥呼を探してるんだ?
頓珍漢も甚だしいけど、自虐史観にもほどがあるだろ?
もう確定なのでロマンはありません。 ◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者を特置して伊都国に治所を定めたのは、博多湾岸が女王の都からは直接統治が容易でない遠隔地であることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ここのトビ主、論破されても論破されても懲りない奴www ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 狗奴国は「クノ国」の事である。
「久野」「久能」を冠する地名が今もたくさん残っている神奈川から静岡にかけて
広がっていた大国の事である。
3世紀の東日本で最も規模の大きな古墳が集まっている「沼津」あたりが
都だったと考えられる。
その中で一番規模の大きな前方後方墳である「高尾山古墳」が卑弥弓呼の陵墓だと
思われるが、最近調査されている。 265の>>364
大和説者の能無しぶりが本当に笑えるwww 。
こんだけバカでよく生きていられるなwww 。 以上テンプレ >>59,53,64は荒らしです
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ 3,29,38,43,44,45,47,48に修文、◆FAQ52,53を追加
。 魏志倭人伝は、邪馬台国の都、女王国が伊都であるとすると何も矛盾なく読めるが、畿内説では全ての記事が未順に満ち溢れている。
その挙句に、魏志倭人伝は間違いだらけだから参考にしないなどと言い出す始末。
魏志倭人伝を無視したら、邪馬台国も卑弥呼もないではないか。
畿内説は歴史の歪曲に他ならない。 訂正
謝:以上テンプレ >>59,53,64は荒らしです
正:以上テンプレ >>59,63,64は荒らしです カバン持ちは
いつまでたってもかばん持ち
ここで遊んでいきなよ 浅学畿内 訂正
謝:以上テンプレ >>59,63,64は荒らしです
正:以上テンプレ >>59,61,64は荒らしです >>71
それは無理でしょう。
行程の記事に誤情報が混入していることを否定するのは不可能です。 >>61
俺は認めないぞーと叫ぶと論破したことになると思ってる脳不足 >>74
どーでもいいけど、気紛れに出てくんな、逃げ野郎 水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りとするだけで、魏志倭人伝を全て矛盾なく解読する説を提案します。
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の治世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の治世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」ことを指すと結論される。 里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 「周旋可五千餘里」奴國から奴まで國までの倭地一周の推定距離である
周旋とは次の経路
奴國→不彌國→斯馬國→已百支國→伊邪國→都支國→彌奴國→好古都國→不呼國→姐奴國→對蘇國→蘇奴國→ 呼邑國→華奴蘇奴國→
鬼國→爲吾國→鬼奴國→ 邪馬國→躬臣國→巴利國→支惟國→烏奴國→奴国
参問とは問を集めることで、倭人から聞いた情報に基づくもの
実際には周旋してないので五千餘里は魏使が倭人の話を基に計算した推定の距離
五千餘里の計算方法は
末廬國→伊都國→奴国→不彌國までの各距離 500里、100里、100里で平均距離700/3里を出し
遠回りの不彌國〜奴國の国の間数である21倍し(4900里)
最後に奴国〜不彌國100里を足したもの。 >>78
私は逃げませんが?
いつも必ず帰って来ます。 帯方郡〜倭の世界
帶方郡 郡 治
↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日 邪
↓ 末盧國
↓ 陸行 500里 ↓ 陸行1日(1月) 王
↓ 到 伊都國(女王の都) 馬
↓ 100里 ↓ 100里
自女王國 奴 國→不彌國→斯馬國 國
↑ ↓ 壹
烏奴國 周 已百支國
↑ 旋 ↓
支惟國 可 伊邪國 國
↑ 五 ↓
巴利國 千 都支國
↑ 里 ↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
狗 奴 國 >>82
>いつも必ず帰って来ます。
それじゃあ、だめなんだよ、 スレ主なら >>82
盟主系譜の不連続てか、王朝が交代したということだな >>84
1さんも博識なんだから、トリップつけて議論して欲しいですねー。それとも名無しでの煽りあいが好きなのですかねぇ。
テンプレ内での疑似討論でそのうち1000スレ埋まるんじゃないですか(笑) >>82
FAQ5
確率論ではどのくらい根拠あると思う? 265の>>500
>敗者は明らかに九州説なんだが <
敗者は明らかに、「南≠東」の嘘つきダマシの反論が出来ない大和説なんだが 。 >>80
>「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
動詞「治」の目的語は「伊都国」
初歩の初歩ができてない >>87
十分でしょう
ド・モルガンの法則ですから 265の>>551
>学者はほぼ十割畿内説なんだが <
大和説を唱える「ほぼ十割」の学者は、皆、
「南→東」などの嘘つきダマシの犯罪者なんだが・・・。 265の>>553
「南→東」などのように、
史料事実を改竄するばかりで、
ちゃんと論を語れる脳がないのが大和説だな 。 肝心の自説の論証部分で魏志にとの突合がないのに、Q&Aで他説の魏志の読みに反論とか、お姑息過ぎでしょ。まずは畿内説が突合して見せないと。確定なんだったら。 265の>>559
>狗邪韓國は韓国だろ 韓国と書いてある <
例えば、「唐津」は「唐の津」と書かれても、「唐」にあるのではない。
当然「唐へ向かう津」の意味。
他にも、神戸に「メリケン波止場」なんて地名もある。
だから、狗邪韓國は、
「狗邪部族の、韓に向き合って韓へ向かう国」
という意味だったんだろう、と思われる。 >>100
じゃあ戸数も官名も書いてないのは何故? >>100
>だから、狗邪韓國は、
>「狗邪部族の、韓に向き合って韓へ向かう国」
とすると狗邪韓國は日本列島に、あるのか?
??? 265の>>573
>九州の終わりの始まりの遺跡としてとても重要ですね 平原は<
九州倭国は、平原で終わりにはならないよ。
倭国は、結局は、白村江でも唐の対戦相手であったんだし、
それまででも、
平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡は、
魏帝→卑弥呼の鏡が元になった事にしかならず、だから250年頃以後であり、
だからその後も那珂八幡や銚子塚も続いていたし、
晋書や梁書にも倭国の遣使が続いてた事が書かれているし、
楽浪滅亡の危機が近くなったから、
317年頃に久留米付近遷宮して東海姫氏國が繁栄したんだよ。 >>101
アホの子ですか?
魏志の読み下しはおろか、引用もないでしょ?
それでもテンプレの論証部分で魏志との突合がされているというのなら、
あなたがそれをコピペでもすればいいじゃないですか? >>92
間違いの可能性もあるじゃ話しにならん、ばかもん >>66
>その挙句に、魏志倭人伝は間違いだらけだから参考にしないなどと言い出す始末。
いつ、誰が言った? 265の>>577
大和説者で、「南→東」などの嘘つきダマシのトンデモならざるは、無し 。
w ========こんばんは! ハーフタイムです キウスの時間です=======
TOPIX
サッカー日本代表 前半1:0 で リード 得点 浅野
スレ主、書き込みましたがすぐに消えました。
>>106
ほら、証拠が出せない
岡上はウソつきだなー 【FAQ41】
>三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
>弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
>平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
>平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
はい、もうずっと指摘していますが、大塚古墳と下池山で丁重に埋葬された内行花文鏡は無視ですか?
同じく「大型」で「国産」の「内行花文鏡」ですよ。
これでヒアタス(笑)が大きいのですか??
古墳時代前期に内行花文鏡が特別な存在であったことは畿内説の考古学者でも認めてる人多いでしょ?? >>106
魏志の読み下しや引用が無いと
どうして突合してないことになるんだ? 265の>>584
考古学的にも史書的にも、
大和は、筑紫倭国から別れたン別種の惨めな旧小国の属国、
と言う姿しか見えませんな、
大和様は。 >>116
常識的にそう思いますが、そうでないというなら、
テンプレ内の魏志との突合部分をあなたが指摘してください。
返答するのもアホらしくなりますね >>119
なんだ
証拠だせないなら言い出した岡上の負け
これ常識だから つくづく畿内厨はどうしようもないですね。
こちらは「ない」と主張しているんだから、それが間違いというなら、
あなたが「ある」ことを指し示せばいい。 >>119
理由も言えない、常識も出せない、でも俺ただしい
って、アホですか貴方
w 1さんが消えて畿内厨が出てきましたね。
テンプレに魏志との突合があるか、ないか、
くそ長い駄文ですが、読めばわかる簡単な話です。 >>123
>こちらは「ない」と主張しているんだから、
なら、「ない」って証拠出すのが当然だろ?
自分の主張なんだから。 >>125
相手が24時間張り付いてると思う全一病 はいはい、つくづく恥ずかしい人ですね。
テンプレを私が張りなおして、ないって示せばいいんですかね??
レスの無駄でしょ?? それでもいいならやりますよ。 >>125
悪口いうだけで何も証拠ださないクレージーか なんか流石にムカついてきたので、
テンプレのレビューしますかね。どこで魏志との突合があるか。
(まぁ、前一回やったんですけどね。) >>128
あんた、あほだろ
なんか主張したいなら証拠を出すのは当然の義務だ
それが大変だといなら、さいしよから主張したことが間違いなんだよ 何度も書きますが、「突合」があるというなら、それを示せばよい。
突合の定義は関係ないですね。あなたがおもうテンプレ内の「突合」の部分を示してください。
「ある」というなら簡単なことです。 >>135
「突合」がないというなら、それを示せばよい。
できなきゃ、アンタのクレームは
ただの中傷 じゃあ◆1から
◆1
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事とこれら考古的諸事実を突合すると、
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおりここ纒向が女王の所都である
はい、ここには「突合」はないですね。2−8を見てみますか?? >>135
定義もしないで、どうしてソレがあるか、ないか説明できるんだ?
おかしいだろ ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
>前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。
>したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。 云々
はい、◆2にもありませんね。箸墓がどうとか、書いてるだけ。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
>その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
>このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、
>紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
はい、3も箸墓が記紀(笑)とか伝承(笑)によって女性墓と主張しているだけ。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
>纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、
>初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である
纏向がどうとうか、書いてるだけ。魏志の引用も相変わらずなし。 >>148
魏志の引用が無いと、なんか問題なのか? >>142
略したら無いことの証拠にならないだろ
理解力ないな めんどくさいし、アホらしいので、5-7は題名だけ。
◆5(倭国の形成と気候変動)
◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
中身にも魏志の引用も読み下しもなし。で、
◆8 結語 >>152
魏志の引用や読み下しがないと何なの?
????? >>147, 149
なんですか、大規模工事の女性墓を探すぐらいが、畿内説では突合というのですか???
笑わせないでください。
で、伊都国説への反論では、、、、
◆FAQ 53
諸国を畏憚せしむるような勢力者を特置して伊都国に治所を定めたのは、博多湾岸が女王の都からは直接統治が容易でない遠隔地であることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、(略) >>137
あれば示せるが、ないものは示せないだろ。
アホ? >>150
畿内説は魏志倭人伝を無視してばかりだな。
仮想歴史の披露はラノベ板へどうぞ。 スレ主はまた逃げたか。
貼り逃げばかりの無能。
論破されるのがそんなに怖いか。 >>158
ほら、突合の定期をイヤがる理由がコレだ
勝手に意味拡張 >>159
つまり、そんなモンを自分の主張の根拠にする奴は
相当アホやな。 テンプレは魏志倭人伝と関係なく、スレ主の妄想が書き散らしてあるだけ。 はぁ〜♪
鉄もねえ、絹もねえ、銅矛鉄矛なんにもねぇ
鉄器とは何者だ? たまに出るのは桃の種
銅鐸はあるけれど、書かれた歴史書見たこたねぇ
楼閣ねぇ、田んぼもねぇ、万戸どころか住居がねぇ
オラこんな村いやだぁ〜、オラこんな村いやだぁ〜
九州へ出るだ〜
九州へ出たなら入墨ば入れて、邪馬台国の人になるだぁ〜
はっ♪ >>162
他人が掲示板にずっと貼り付いてると思い込む
それキウスの証拠 ・日本海沿岸には銅矛がさほど分布しない
・紀元前には丹後扇谷に大規模鉄工房建設
・四隅突出が一斉に建築されるのは、倭国大乱の前中期=狗奴国がまだ元気
以上から、
北部九州倭国が日本海を新潟まで制圧したのは、
オオクニヌシ=銅矛より前、
スサノオが九頭竜川の非倭人勢力=ヤマタノオロチを倒した
紀元前であろう。
四隅突出は、邪馬台国が戦時体制として、
もともとの倭種属国だった日本海沿岸の邪馬台国側地域の
支配体制を強化したのだろう。
水軍にとって要衝である丹後若狭だけは邪馬台国直轄
アマテラス=北部九州倭国の倭国王
スサノオ=東方(=日本海沿岸)担当の王族将軍
ツクヨミ=北方担当の王族将軍
半島領土を失ったので、月読神社は壱岐にしか残っていない
スサノオは日本中で祀られている
オオクニヌシとは一人の英雄で、
既に日本海沿岸に分布していた倭人倭種領主と次々に縁組して、
銅矛を旗印に瀬戸内四国へ倭種属国を拡大した。
出雲に新首都を作り強大になったため、老年に粛清されたのだろう。
(荒神谷や加茂岩倉) 新井、本居、鶴峰など江戸時代の学者は九州
明治になり王政復古で皇国史観が強まり畿内説が生まれる
江戸時代の人は漢文に強かったから魏志倭人伝を読んでみんな九州説
明治期になると漢文が読めなくなり畿内説なんていい加減な説が出てくる。 邪馬台国の位置論争は卑弥呼がいたのは纒向で決着ついている。
それより当時の状況の解明が重要。
倭国大乱に至った原因、どの勢力同士が争ったのか?
ヒントはある。鉄の流通と男王で纏まっていた倭国大乱前の状況を明らかにすること。 >>166-167
またキウス岡上が、負けた・・・ 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、畿内は別の領域であり、畿内は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 ========こんばんは! 試合終了です キウスの時間です=======
TOPIX
サッカー日本代表 ワールドカップ出場決定 >>159
その切り替え返しも考えましたが、範囲も限定されているので、
レビューしてないことを示してみました。
大規模工事の女性墓を探すことぐらいが畿内厨のなかでは「突合」らしいですよ。
文献無視が身に沁みついてるんでしょうね。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 テンプレは素人を騙すための詐欺、洗脳、カルトだから、読まない方がいい。 ◎1世紀から2世紀初頭にかけては、北部九州、瀬戸内海、畿内、北陸の交流は活発であった。それは当時の畿内の集落跡からの出土物からも裏付けられる。
◎同時期に栄えた伊勢遺跡。中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
◎倭国大乱前は、政治的な中枢が出来つつあり、各地の交流が活発であった時代。 女王国以北というのは、女王国も含むんだよ。
伊都が女王国なら、伊都から壱岐や対馬、松浦などを支配したことになる。
わかりやすい。
畿内説だと、京都や滋賀を見張るのに伊都に一大率の事務所を置いたんだとさ。
アホだろ。 一大率は伊都から女王国以北を統括していた。
それは伊都国が女王国の中枢であることを意味する。
畿内説では、畿内の女王国以北を支配するのに、伊都に一大率を設置したことになり、矛盾する。 旧唐書
倭国はいにしえの倭奴国のことである。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
日本国は倭国の別種である。
その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。
あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。
またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。
新唐書
王姓は阿毎氏、自ら言うには、初めの主は天御中主と号し、彦瀲に至り、およそ三十二世、皆が「尊」を号として、筑紫城に居住する。 纒向みたいな耕地と密接した中核はせいぜい在地領主館
中世の武士の館に似ている
一方、都というのは耕地を持たない
地方から運上させた税を消費するのが都であり機能は政治や経済に特化したもので良い(伊都)
或いは経済の中心も他所でよく(博多)
王の住まいと儀式などを行う施設だけでも都は成り立つのかも知れない(伊都)
生産は地方
それを消費するのが都
平安京でも耕地は禁止されたのだ
経済も五条の市に限定されたのだ
王と官人と労役に集められた徴用民
初期の平安京はそれだけが住む街だったのだ
いわんや伊都をや 古代東アジアでは、漢など中国の皇帝が各地の王の正統性を保障した。
倭国も古来より朝貢を重ね、倭王として冊封を受け、その証として金印、銅鏡(内行花文鏡)、璧などを受け取った。
特に金印は国書において国璽として用いられたと考えられる。
いずれも九州北部から出土し、畿内からは後世の遺跡から出土する例を除き出土しない。
・須玖岡本遺跡(奴国)
青銅矛5本
青銅剣2本
青銅戈1本
中国鏡約30面
ガラス璧
ガラス玉
・三雲南小路遺跡(伊都国)
青銅矛2本
青銅剣1本
青銅戈1本
中国鏡35面
ガラス璧8枚
ガラス玉
青銅製棺金具
・平原遺跡(伊都国)
銅鏡40面(うち5面が超大型内行花文八葉鏡)
素環頭大刀1本
ガラス玉
瑪瑙玉
耳璫
倭奴国の王が金印をもらったのは伊都国が反映していた時代であり、後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国と同じである。
古くから発展し大きな人口を抱えていた奴国すなわち福岡博多に対し、伊都国は倭国大乱の前の後漢の頃に作られた政治と外交のための人工の政治都市であり、人口は少なかった。
平原遺跡の豪華な出土品からわかるように、伊都国は3世紀初頭に最盛期を迎える。
その地を治めた偉大な女王は王権の死後に王権の象徴である周8咫の大型内行花文鏡とともに葬られた。
副葬されなかった鏡は三種の神器として後の天皇家に伝えられた。
糸島平野の東にある高祖山には日向峠やくしふる山などの地名があり、伊都国の王家が八咫の鏡を伝えた日向三代の王家であったと考えられる。
それに続く倭国王であった卑弥呼ももちろん伊都国にいた。 邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。
倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。
倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。 トンデモ説の共通特徴
証拠だせない理由いえない
オレ様結論わめくだけ >>1
悔しいだっろうが
がんばれよ、論じろよ
弱い犬ほどよく吠える・・・・テンプレも吠えるだけで中身無し >>187
>旧唐書
>倭国はいにしえの倭奴国のことである。
倭国はいにしえの倭奴国(伊奴国=阿波)のことである。
>四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(阿波・粟・海人)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。 @阿波 ビックリするくらいスレ番号が消えてるw
独り言頑張れ >>198=>>1
吠えてるだけじゃあなぁ・・・・・・・・
纒向に住居跡が無いのは、墓地だから 葬儀場だからだよ >>200
纒向に住居跡が無いって
誰が主張してんの? 纒向は地方市場。
発掘された建物なんて、ただの高床式倉庫じゃん。
あ、最近は〜式という表現を使わないから、高床建物?
リアス式海岸も、リアス海岸と呼ぶらしいよ! 誰が好き好んでことですね川の中州に住むもんか。
畿内説って、ただのこじつけじゃん。 里数の行程と日数の行程は同じ行程を距離と時間で説明したもの
郡の中心地から女王国の中心地まで何里であり、日数だと何日掛かると説明している
続けて読むから意味不明の文章になる
報告者は軍人であり、正確に報告している
水行二十日は郡から狗邪韓國までに掛かる日数に当たり
水行十日は狗邪韓國から末盧國に当たる
すると陸行一月は末盧國から奴國までに当たることとなる
しかし末盧國から奴國までは陸行一月は掛からない
陸行一日あれば十分なので、陸行一月は陸行一日の誤記。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。 倭人伝において、張政の旅行記は九州を出ていない。
九州北部が女王卑弥呼を共立した二十数国の連邦国家だった事は間違いない。
だがしかし、
倭人伝の『邪馬台国』という名の国は
不彌國を出港して、南へ水行20日の投馬国に至り
『南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月』
としてしか、説明されていない。
『邪馬台国』には女王の都が有るが
卑弥呼を女王とする、倭国=九州北部連邦ではない。
つまり、『邪馬台国』の女王は卑弥呼では有り得ない。
>>1 の御都合主義解釈は 南=東の畿内説と大差ない愚説。
倭人伝は『倭国』を説明しているが、『邪馬台国』を
『女王之所都 水行十日(+20日行)陸行一月』
世界一周できんじゃねwww としてしか知らない。
九州を説明している倭人伝で邪馬台国の論争は無理筋である。 纒向王都を守る兵の武器は何なのでしょう
使者が来た時の守衛の武器は何ですか、・・・・魏の圀が怒るよ 宮崎県(日向国)と、大和、伊勢、紀伊地方に共通、又は相似の地名
宮崎県(日向国)
二上山、天香具山、三輪、吉野、五十鈴川、日向、伊勢ヶ浜、清水岳、大森岳、高原、高岡、木崎、熊野、大野、鵜戸、市木、笠祇岳、串間
大和、伊勢、紀伊
二上山、天香久山、三輪、吉野、伊勢、日向、五十鈴川、清水、大森山、三木崎、熊野、市木、高岡、鵜殿、高原、大野、笠置山、串本 >>848
>那珂八幡古墳の付近のぜんぜん別の遺跡から陶質土器が出ようが太平洋戦争時の鉄兜が出ようが、
那珂八幡古墳の築造年代には関係がないんだが。<
判っていないな?。
那珂八幡古墳は、前方後円墳で、布留なんだよ。
その前の卑弥呼の祇園山も、壹與も、前方後円墳ではないんだよ。
では、何故、那珂八幡が前方後円墳に出来たんだい?。
前方後円墳の淵源は、中国の北方のモンゴル〜高句麗であるんだから、
だから、それを筑紫に「価値あるものとして伝えた」出来事があったんだよ。
そして、それが、扶余での太康6年(285年)の流民の発生や南下であった可能性があり、
伽耶への陶質土器の騎馬民族であり
、しかし、伽耶は前方後円墳ではなかったようだから、
西新町に来ていた半島人や楽浪人が前方後円墳を伝えた可能性もあるんだよ。
だから、那珂八幡古墳は、285年頃かそれ以降位になる。 また>>1が吠えてやがる
ヤケ酒は身体によくないぞ 俺のゴールデンスーパーデラックス説がーとか言われてもねー >>89
>動詞「治」の目的語は「伊都国」
君が漢文全く読めないのが分かるね
動詞「治」の目的語は前後の文からしか判断できないが
主語が倭王卑弥呼であるので当然に「一大率」となる
従来は主語を「一大率」と取り違えていたので目的語も「伊都国」と間違えていたんだよ
伊都国が女王卑弥呼の都だと理解出来ていなかったから起きたミスだったんだよ。 >>82 1 ◆q8leUXpsw.
私は逃げませんが?
いつも必ず帰って来ます。
☝
いつも名無しで帰って来てるで賞 >>208
>不彌國を出港して、南へ水行20日の投馬国に至り
不彌國を出港なんかしてないよ
不彌國の次に来るのは傍らの諸国
南へ水行20日は帯方郡から
自分の誤った考えを基に無理筋とかwww 淡路島の鉄器製造跡(舟木、五斗長垣内遺跡)。
淡路島で利用された鉄は、
出雲→播磨東部、摂津西部→淡路島のルートで運ばれたことが分かっている。
製鉄跡は見つかっていないので、インゴットの形態で淡路島に運ばれたのだろう。
淡路島の鉄器製造は、2世紀末、卑弥呼の共立、纒向建設開始と時期を同じくして行われなくなる。
広島の小丸遺跡。2世紀末〜3世紀の製鉄跡が見つかっている。たたら製鉄の始まりの可能性がある。
重要なのは、吉備ではインゴットからの鉄器製造ではなく、砂鉄からの製鉄が始まったこと。
ひょっとしたら、吉備はインゴットの入手ができない状況にあった可能性がある。
吉備の影響力が強い纒向。鉄貧乏で有名。
少し時代は下るが、鉄器製造が行われていた彦根の稲部遺跡。在来系の土器が主で在来系の勢力の集落跡と考えられる。
稲部遺跡から川を挟んで3キロ南の斗西遺跡。
吉備など纒向と似た土器構成。前線だった可能性がある。
吉備の影響力が強くなったエリアは、鉄のインゴットの入手が困難になった可能性が考えられる。
弥生時代後期、鉄鉱石の採掘、製鉄が盛んに行われていたのは、朝鮮半島である。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島にインゴットの形で鉄をもたらしていたと考えられる。
それは日本海側(若狭や出雲など)から、淡路島や琵琶湖北部もたらされていたのかもしれない。 >>217
悔しいがキウスの書き込みで笑ってしまった >>164
本気で意味不明とおもってるなら
>>166が指摘してる通りやぞ。ちゃんと論証のなんたるかをちゃんと勉強しろ 卑弥呼共立、ヤマト征圧、纒向建設の主力である伊勢尾張、吉備。
倭国大乱前の纏まっていた旧倭国の体制に謀反を企てたのかもしれない。
鉄の分配に不満があったのか今のところ理由は不明だが、
結果として、3世紀吉備の影響力が強いエリアは鉄貧乏に陥っている。
朝鮮半島の鉄を求め、吉備は2世紀末〜3世紀にかけて九州北部征圧に動いた可能性がある。
畿内の中心(河内、ヤマト)を支配下に置いた4世紀。本格的に朝鮮半島への進出が始まる。 >>216
これに同意する人ちょっと紹介してくれる?
言語学的にちゃんと説明してくれい。
ものすごい珍説だぞ。 >>219
あれ
こういう話だと
纒向より伊勢遺跡の方が重要性高くね? >>228
それでも出雲の支店、ミニチュア。
その出雲の上にあったのが筑紫。
古代きっての巨大都市、奴国があったからね。
それに比べると、纒向の貧弱さが際立つだろ? >>218
帯方郡から南に水行20日で投馬国?
帯方郡から南に行けば狗邪韓国の筈だが >>212
ザラコクの歴史知識ゼロぶりが
よくわかる 纒向なんて、何もない田舎じゃん。
スレ主が口先三寸で言いくるめているだけ。
詐欺師の口上。 >>227
伊都国が卑弥呼の都であるが前提の訳だからな
伊都国が卑弥呼の都でなと思い込んでる人は主語を取り違えて
結果、女王国の北側が何処なのかも分からない意味不明の訳になってるな
言語学的には問題ない。 ひょっとして
前方後円墳の規格と伝播ってのも
畿内説の妄想なんじゃない。纒向型とか言ってるけど。
弥生人が東京は本郷の弥生町から始まったから
弥生人って言われるけど実際は
弥生人の到来は北九州なわけでね。 >>235
伊都国は戸数1千戸と魏志倭人伝に記されているぞ
卑弥呼のいる女王国である邪馬台国は7万戸あるんじゃないの?
そうすると伊都は邪馬台国じゃないんじゃないか >>235
言語学者に相談してみろって
あと論理学者に自分の倒錯した論理を証明してもらえ。 >>239
邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國に都して邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國) >>237
狗邪韓国は弁韓の中の国じゃないの
当時の韓国は馬韓、弁韓、辰韓と3つあったが
投馬国はこの中のどれかと言いたいのか? >>240
言語学的に問題があれば指摘せよw
論理は昔は仕事でプログラム組んでたから間違いない
論理に誤りがるとコンピュータは動かないんだよな
理詰めでないと。 >>241
そうなると今度は逆に7万戸は少なすぎる計算になるぞ
邪馬台国以外で、魏志倭人伝に戸数の載っている都市だけでも
足せば8万戸になるからな >>242
馬韓、弁韓、辰韓の南に別に投馬国があり
狗邪韓国は弁韓ではなく投馬国の中の国邑 祝!サッカー日本代表W杯本選出場決定!!!
いやー、嬉しいなあ
あれ?スレ主悔しそうだね?
スレ主の本国は大丈夫?w テンプレは魏志倭人伝と関係なく、スレ主の妄想が書き散らしてあるだけ。 ここでいきなり五島列島=投馬国説を開陳!!
投馬=(イ)ツ(シ)マ=五十津島
地図をみてみー帯方郡からきっちり南に五島列島があるでー。 >>247
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国以外の戸数足してみろ
それとも足し算すらできないか >>244
アホやな
文法的に合ってても正しくないこととか普通にあるわ。
それが論理エラーいうんじゃい。イフ文の条件考えなおさんかい。 帯方郡の南、つまり現在の韓国だけでも、
馬韓10余万戸+辰韓弁辰4〜5万戸+α(投馬国5万戸)なんだよね。
北部九州邪馬台国7万戸だと少ないくらい。 >>251
投馬國は邪馬壹國には入らないからな。
>>252
文法的にも正しいし伊都國に女王卑弥呼がいたとすると主語は女王卑弥呼なんだよ 日本代表がアジアで真っ先にロシア行きを決めて
スレ主意気消沈www >>246
いやさ朝鮮半島の一番南端が弁韓なんだが
狗邪韓国はその中にあった12カ国の一つ弁辰狗邪国の可能性が高い
馬韓、弁韓、辰韓の南に別に投馬国があったとすると
海にポツンと飛び出した島か何かになるが >>253
韓に馬韓10余万戸と辰韓弁辰4〜5万戸
その南の朝鮮半島南岸に投馬國5万戸
北部九州に邪馬壹國7万戸 >>254
ほかの邪馬台国支配国と同じように
長官が居るって書いてあるぞ >>256
狗邪韓国と弁辰狗邪国が同じだとするのは単に名前が似通っているから
全く別の国邑だったんだよ。 W杯出場を決めた日本代表と違う国の人が
必死の捏造www >馬韓、弁韓、辰韓の南に別に投馬国があったとすると
>海にポツンと飛び出した島か何かになるが
馬韓、弁韓、辰韓の南に別に投馬国があったとすると
魏志の記載のそのまんま半島南部が投馬国になるのだが >>263
韓人の領土は東西は海と接して、南は倭と接する
韓人領土が半島南部の全てなら、東西南は海という記載になる。 W杯出場を決めた日本代表と違う国の人が
必死の捏造www >>262
長「官」だから任命されてその地を治めている人間って事だ
邪馬台国から任命された役人が納めてるって事だよ W杯出場を決めた日本代表と違う国の人
都合が悪くなると
>>262
「?」
www >>260
なら魏史韓伝に登場する何て国に比定する?
弁辰狗邪国以外にないと思うが 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>267
伊都国にいた女王卑弥呼が任命したんです。 >>269
狗邪韓国は韓ではなく倭に属しているから、韓伝に書いてあるわけないだろ。 >>269
倭の国邑だから魏書韓伝のは無いですよ
倭人伝の方に記述があるんです。 >>269
必死やのうw
魏志韓伝に出るのは韓人支配の国
魏志倭人伝に出るのは倭人支配の国
狗邪韓国は倭人伝に出てくる国なのだから
魏史韓伝に登場する国に比定できるはずないだろボケwww >>268
都合が悪いんじゃなくて
何を質問してるか分からなかったからだよ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>277
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
>倭奴国は倭国の極南界である。
>つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
明快だ。 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www 畿内説とか立てた昔の人相当頭悪かったと思うし
それを論破出来なかったのもなんだかな。 >>265
>>264
そうなると国の中に国が存在する事になる
これは村の中に村が存在するようなもの
魏志倭人伝の中に他にそういう表記がされている箇所はないはずだが とっくに論破されていたけど、ここのスレ主みたいに詐欺まがいの宣伝を繰り返した阿呆がいたんだろう。 >>282
倭国の中に伊都国や奴国があるだろ?
同じこと。 >>282
頭悪いな。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 >>282
韓伝を読むと馬韓、弁韓、辰韓の中に国邑がある
投馬國や邪馬壹國は馬韓、弁韓、辰韓と同じ様なものだったんだろうな。 >>282
卑弥呼は伊都国王であり邪馬台国女王であり親魏倭王なわけだよ 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>287
邪馬台国と倭国は同じ。
どちらもヤマトと読める。
もちろん九州北部のヤマトだけど。
陳寿は言い換えが好きだった。 >>227
漢書 西域伝 (大宛国が放射式記述の起点)
大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…
東 至 都護治所 四千三十一里
北 至 康居卑闐城 千五百一十里
西南 至 大月氏 六百九十里
北与 康居
南与 大月氏接 >>291
常治伊都国
王の居場所を示す用語なのかな? >>271
なら投馬国は邪馬台国の一部なのでは?
>>272
では、韓国南部が歴史のある視点で
投馬国と呼ばれていた証拠を出して貰いましょう
>>273
>>274
残念ながら狗邪韓国の場所はわかっているのです
韓国最南端にあり、そこは三世紀に弁韓と呼ばれていた地域に当たります
sづなわち投馬国=弁韓という事でないかぎり、
投馬国の中に狗邪韓国があるとするのは矛盾が生じるのです
ちなみに狗邪韓国=弁辰狗邪国は通説です >>293
>ちなみに狗邪韓国=弁辰狗邪国は通説です
ワラタ
文献無視も甚だしい
畿内説が通説です、と同じ口調だな。
それは根拠ではないな。
スレ主、遅くまで匿名でご苦労さん 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>293
>>277
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
>倭奴国は倭国の極南界である。
>つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 魏志韓伝に出るのは韓人支配の国
魏志倭人伝に出るのは倭人支配の国
狗邪韓国は倭人伝に出てくる国なのだから
魏史韓伝に登場する国に比定できるはずないだろボケwww >>284
>>285
>>287
>>288
魏志倭人伝をよーく読め
「倭国」ではなく一貫して「倭」の表記
要するにこの当時の国とは今で言う県ぐらいのイメージ
つまり投馬国の中に狗邪韓国があるのは
県の中に県があるようなもんで非常におかしな事だ 倭国が邪馬台国と狗奴国に分かれて争っていたから倭と表記したんだろ
バカじゃねーの?w 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>299
国とは、漢や魏の時代なんだから、国邑のこと。
今で言う郡や市の大きさだよ。
30カ国でも九州西北部。
畿内には届きません。 >>294
まあ別にどうでもいい事なんだけど
>>295
必死認定www
>>297
狗邪韓國は当時の地図からも
弁韓国の中の国である事がはっきりしている 追いつめられたスレ主が日本人じゃないことを隠そうともしなくなったな >>303
>狗邪韓國は当時の地図からも
お?
珍説を繰り出したぞ!
スレ主、必死すぎw
見せてみろw >>303
>狗邪韓國は当時の地図からも
>弁韓国の中の国である事がはっきりしている
すごい新発見があったの? >>300
お前の方こそバカだろ
>>302
別に届く必要はないが?
畿内に邪馬台国っつう居間で言うと大和県みたいなとこがあったんだろ >>309
あのー
日本人の知識内ではわからないんですけど
>狗邪韓國は当時の地図からも
>弁韓国の中の国である事がはっきりしている
教えてもらえますか? >>304
>>306
>>308
いや普通に三韓でググってみ
九州説はまさかこんな事すら知らないとは思わなかったぜ? >>309
嘘をつき通すために嘘を重ねる。
見ていて哀れだよ。 >>227
(正史三国志 今鷹真:筑摩書房)
「女王国より北の地域には、特別に一大率の官が置かれて、国々を監視し、国々はそれを畏れている。
一大率はいつも伊都国にその役所を置き、国々の間でちょうど中国の刺史のような権威を持っている。」
(現代語訳魏志倭人伝 松尾光:新人物文庫)
「女王国より北側の地には、特に一大率を設置して、諸国を点検・観察している。諸国は、一大率を怖れ
憚っている。いつも伊都国に駐在していて、中国においての刺史のように見える。」 韓国には我々の知らないソースがあるのかも。
さあ、提示してくれ。 >>311
えっ三韓でググれば当時の地図が出てくるよ
それに狗邪韓国でもググってみ
当時の弁韓の地域にあるから >>312
普通に三韓でググったけど、「当時の地図」は見つかりませんなあ
工作員の書いた地図ならいっぱいあるけどwww >>314
邪馬台国の首都である伊都なんだから当たり前の記録だよね >>313
必死だなぁ…
>>315
三韓、狗邪韓国でググろうか
というかこのくらい知っておいてくれないと面倒臭いんだが >>316
スレ主が主張する当時の地図を見たい!
どこにあるの? >>322
なんで日本人じゃないのにここで必死なの? >>317
>>321
あっ、当時の地図って三世紀の地図が出てきたって意味じゃないぞ?
何かカン違いしてはしゃいじゃってるけど大丈夫?www 九州説
三世紀の韓国の地図が出てきたとカン違いして大はしゃぎ
ああみっともない 俺こんな小っ恥かしい勘違いする九州説じゃなくて本当に良かったなぁ >>325
>>326
なーんだ、根拠ないんだねw
じゃあ、三国志東夷伝に詳しく記されている通り、
狗邪韓国は倭人領で、
倭人支配国の投馬国の中の一国邑でFAだね。
だって、ネットに地図があるもんwww 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www なーんだとか言って平静よそおってやがんぜアイツwww 偉そうに言っているが
東夷伝韓条=韓人の支配領域の記録
東夷伝倭人条=倭人の支配領域の記録
という
大原則があるから >>303
>狗邪韓國は当時の地図からも
やはりデマだったか。
痛々しいな。 >>331
結局のところ、根拠になる当時の地図はないんだよね?
だったら、根拠に出来るのは魏志東夷伝のみ
魏志韓伝に出るのは韓人支配の国
魏志倭人伝に出るのは倭人支配の国
狗邪韓国は倭人伝に出てくる国なのだから
魏史韓伝に登場する国に比定できるはずないだろボケwww >>333
勘違いして一人踊り狂っていた九州説www
痛いのはどっちかなwww >>336
>狗邪韓國は当時の地図からも
嘘がばれて開き直りのスレ主 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>335
では韓国南部は当時投馬国だったというオリジナル学説を
九州説は主張しなさるわけですか? 結構な数の考古学関係者が見てるらしいよw
>狗邪韓國は当時の地図からも
嘘がばれて開き直りのスレ主 >>337
当時の地図が発見されたなんて一言も言ってねーし
恥かしいカン違い野郎の九州説www >>342
つまりそちらの根拠は無いわけだね
だったら魏志での勝負になるわけで、
魏志だと「九州説の言う通り」 >>341
どう明らかなのかサッパリわからんぞ
投馬国に関する記述はわずかだし
それにさっきも言ったが国の中に国があるのはおかしい 任那がいつ発生したかという問題があって
それが投馬国だというだけの簡単な解答 >>343
は?
何を言ってるのか意味がちっともわからんのだが?
頭は大丈夫か スレ主はもう日本人じゃないことを隠す余裕すら亡くなったのだな 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>345
それについては魏志倭人伝にも
魏史韓伝にも載ってないから証明しようがない
恐らく三冠征伐の頃だろうけど >>349
なるほど
国外からの貴重な意見としてありがたく受け止めておきます とにかくだ
今の感覚でいう「国」は当時の表記で原則後ろに国をつけなかった
漢国とか魏国とか表記がないだろ
馬韓弁韓もそうだし倭も後ろに国がつかない
国という表記がつく所は今で言う県に当たる
なんで投馬国の中に狗邪韓国があったっていう説は
県の中に県があるような物でとてもおかしな事なんだ >>314
どっちの例も
女王が伊都国に一大卒を設置して諸国を監察してるって内容じゃないか?
伊都国が女王の都という内容じゃないぞ。
あと刺史の如しの刺史は地方の監察官だぞ
ここが司隸校尉の如くって表現なら
間違いなく伊都国が女王のいるところって言っていいけどな。 >>350
おう
おフランスからわざわざアドバイスしてやったんだ
在り難く受け取れよ >どっちの例も
>女王が伊都国に一大卒を設置して諸国を監察してるって内容じゃないか?
まさに女王卑弥呼が伊都国において一大率を統治
×刺史の如しの刺史は地方の監察官だぞ
〇刺史の如しの刺史は女王直属で派遣されて地方を巡回する監察官だぞ
まさに伊都の女王卑弥呼が派遣する監察官 投馬国が韓国南部は当てはまらない
狗邪韓国=投馬国とするなら話は別だがこれも苦しいな 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www >>351
イェス!その通り!
いいか魏志倭人伝という文書は世の中に存在しないぞ
魏志東夷伝倭人条
だぞ
中国の国家は一文字で国が後ろにはつかない。
斉燕韓、、、全部そう
中国人が表現する国は 都市国家 = 邑だぞ
ただまあ
韓伝の狗邪国は
韓の中の狗邪国だから狗邪韓国と同一視してもいいんじゃない。
あれそうすると
倭奴国は 国家 奴 の 倭人村 くらいの意味になるな。 >韓伝の狗邪国は
>韓の中の狗邪国だから狗邪韓国と同一視してもいいんじゃない
はい、レッドカード >>355
こら勝手に改ざんすんな。
刺史の行政上の所属が焦点じゃねーんだよ
刺史が伊都国にいようといまいと
女王の都が伊都国だなんてかけらも主張できる要素じゃねーって言ってんだよ。
なお
陳寿が生きてた時代の刺史は
直属の刺史で、地方の長である「太守がいる都市に」
いたからな。 >>363
どう誤魔化そうが
刺史とは皇帝直属で、デスクは首都にあって、
あくまでも首都から地方へ監察官として派遣される中央官僚
倭人伝で刺史を引用している文脈は、刺史の職務について引用しているのであって、
腐敗堕落した刺史の滞在地を引用しているのではない。 >>361
狗邪国=狗邪韓国だと九州説に何か都合が悪いんけ? 日本人にとっては、記紀に神武東征が記されているのだから、
神代が北部九州で違和感がない
というか、もともとそうだった
なのに必死に抵抗する奴ってなんなの?w >>365
都合の問題じゃないな。
陳寿が正確に残してくれた記録と矛盾するから許せないだけ。
文献記録の冒涜だ。 >>365
畿内説は自分に都合がよければ採用するし、都合が悪ければ誤りだとして無視する。 >>366
記紀も歴史書として読めば、九州北部にあった倭国の歴史を伝えているだけのこと。
魏志とも考古学的遺物とも何ら矛盾しない。 集落ですらない鉄器ゼロの湿原だろw
北部九州倭国邪馬台国に献上する稲荷を貯蔵する倉庫が
現地人の一揆対策で川の間に建てられていただけというw >>370
お前なあ…刺史は地方に赴任する官なんだよ
デスクは州にあるんだ
捏造はダメだ >>367
魏使がそう記したわけで
別に鎮守が記録したわけじゃないんじゃないの >>371
魏志倭人伝や考古史料で
畿内説に都合の悪い所なんて何もないんだが >>374
よく勉強してから出直してこい
地方の巡視に出かける時に護衛がつくかつかないかとか
格式の違いがあるだろが
地方に居座ってるならそんな格式など生まれるはずもない >>376
現実を見ろよ。
このスレや前スレを読み返せ。
スレ立てるだけで、後は進み具合だけ見て中を読んでいないだろ。 集落ですらない鉄器ゼロの湿原だろw
北部九州倭国邪馬台国に献上する稲荷を貯蔵する倉庫が
現地人の一揆対策で川の間に建てられていただけというw >>367
まあそんなら位置的に弁韓12国の中のどれかって事なんだが
狗邪韓国をどこに比定すんの? >>80
「常治伊都国」の伊都国が目的語であることすら理解できない無教養
それが九州説 >>364
いやそのことはどうでもいいんだけど。
ちゃんと書いてあることを読めよ。 伊都国にあった一大率が北部の国々を監視したんだろ。
必要に応じて各地に視察に行ったんだな。
刺史のように。 >>382
は?
狗邪韓国は倭人伝記載だから
韓伝記載の弁韓とは無関係って繰り返し指摘されてるだろ
逃げ回って逃げ回って
お前ミジメ杉www >>382
弁韓の中にはないんだよ。
しつこいな。 >>383
正座して
>>385を100回読み上げろ なんで日本人じゃないスレ主がしつこく食い下がってるの?w
マジで勘弁してくれw >>377
だったら魏使が記録を間違えたかも知れないし
狗邪国=狗邪韓国としたって文書記録の冒涜には当たらないんじゃねーの
>>379
九州説にとっては魏志倭人伝は都合の悪い書物だからな
だから内容を曲解しねじ曲げる
>>380
オレぁスレ主じゃないっつうの >>390
>だったら魏使が記録を間違えたかも知れないし
>狗邪国=狗邪韓国としたって文書記録の冒涜には当たらないんじゃねーの
あらあら
文献改竄を認めちゃったねw
北部九州説は魏志倭人伝の解読に成功した
それは何度も示されており、もはや言葉だけでは誤魔化せない >>386
>>387
えっじゃあ狗邪韓国は
馬韓弁韓辰韓のどこにも属さない国って事?
当時の韓国南部は弁韓だったのに? >>390
二言目には「間違っていた」
畿内説の言い逃れは聞き飽きた。 >>392
>当時の韓国南部は弁韓だったのに?
嘘だな。
韓の南は倭と接していた。 >>392
>>277
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
>倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
>倭奴国は倭国の極南界である。
>つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。 >>391
>>394
意味不明だぞ
書いた文章を一回読み直せ >>397
>>398
投馬国はどこに行っちゃったの? >>396
倭の投馬国の所属だよ
だから三国志東夷伝倭人条に記載されている >>399
畿内説が距離も方角も一大率もすべて魏志を無視している。
>>390
>だったら魏使が記録を間違えたかも知れないし (正史三国志 今鷹真:筑摩書房)
「女王国より北の地域には、特別に一大率の官が置かれて、国々を監視し、国々はそれを畏れている。
一大率はいつも伊都国にその役所を置き、国々の間でちょうど中国の刺史のような権威を持っている。」
(現代語訳魏志倭人伝 松尾光:新人物文庫)
「女王国より北側の地には、特に一大率を設置して、諸国を点検・観察している。諸国は、一大率を怖れ
憚っている。いつも伊都国に駐在していて、中国においての刺史のように見える。」
伊都国は倭国の都から見れば、遠い地方
監察官を派遣して管理している 三国志東夷伝韓条=韓人の支配領域=帯方郡より南の現在の韓国
三国志東夷伝倭人条=倭人の支配領域=邪馬台国+投馬国+その他倭人伝に記載された全ての国々
邪馬台国=福岡県を中心とする北部九州
投馬国=狗邪韓國を代表とする朝鮮半島南部 >>401
国の中に国があるのは今で言うと県の中に県があるようで
おかしいってさっきも言ったよね?
>>402
ひどい言いがかりだ >>405
でも行程は南を東の間違いだろうとか、そもそも行程が信用できないとか、いろいろ言いますよね? >>404
>三国志東夷伝韓条=韓人の支配領域=帯方郡より南の現在の韓国
だだし南岸を除く。 >>405
倭国>邪馬台国>伊都国
投馬国>狗邪韓国
必死の抵抗だなw そもそも三国志東夷伝倭人条には倭国内の国だけじゃなくて
明らかに国外である帯方郡が登場する件 >>409
帯方郡は起点として記載されているだけだろ
魏代でも現代でも誰が倭人領土と間違えるんだよw >>405
まったくその通りだ。
>>投馬国=狗邪韓國を代表とする朝鮮半島南部
これは成り立たない。
国 は 現代みたいな領域国家じゃないからね。 >>406
いや行程をそのまま辿れば海の上だからな
なら間違ってると判断して当然
それは九州説にとっても同じだろ
もしかしてアンタ邪馬台国グアム説派?
>>408
倭「国」表記は無いんだよなぁ
倭表記だからそれは成り立たない 狗邪韓国=弁辰狗邪国
伊都国は邪馬台国ではない
畿内説とか九州説とか関係なく、定説も定説だろうに >>414
涙ぐましいねえw
里程+日程+総里程
と何度も何度もあちこちあちこちで記されてるのに
それに反論することすら怖くて怖くて
それに触れずにやり過ごしたいんだねw
もう考古学関係者はみんな認識しちゃってるよんwww >>410
あれあれー?
三国志東夷伝倭人条は倭の国しか登場しないって言ってなかったっけ? >>416
どっから突っ込んでいいかわからないからですね
全く困ったものです >>417
文章をみて、説明しようとしている国と、起点となる国くらいは誰でも見分けがつく
あえて逃げ回りたいのたうち回るミジメ説以外はなwww 狗邪韓国が弁辰狗邪国とは別にあった国だというなら
一体どこにあった国だというんだ
九州説の発狂爺さんよ >>422
狗邪韓国=弁辰狗邪国から畿内に到達するのか?www
ワープwww >>425
何度も言ってるじゃん
半島南部の投馬国だよ >>426
また九州雲林院さんが発狂してるね
誰がそんなこと言ったの? >>427
具体的に韓国のどこ?
誤魔化してないで、ちゃんと地名で言ってみなよ >>428
なんで日本の歴史にちょっかいかけるの? もう九州説は世間から見て完全にトンデモ説でございます。 三国志東夷伝韓条=韓人の支配領域=帯方郡より南の現在の韓国
三国志東夷伝倭人条=倭人の支配領域=邪馬台国+投馬国+その他倭人伝に記載された全ての国々
邪馬台国=福岡県を中心とする北部九州
投馬国=狗邪韓國を代表とする朝鮮半島南部 >>435
狗邪韓国になんで戸数や官名が書いてないの? 九州説って任那日本府の実在とか信じちゃう人たちなわけ? 畿内説って任那日本府の実在とか否定したい人たちなわけ? ちょっ・・・
日本人じゃない人がなんでこんなに必死なの?www 狗邪韓国の幹部と宴会しないですぐに渡海しちゃったから情報が得られなかったんだよ 否定しないところが怖ろしいな
一言
俺は日本人だぞ
サッカー日本代表 万歳!!
と書きこめばすむ話なのに 日本が好きって言ったら叩ける時代が今も続いているという通説w 「日本でも」ってすげえ発言だなオイw
これが畿内説かいwww >日本でも定説でしょう。
>日本でも定説でしょう。
>日本でも定説でしょう。
どうやら日本の人じゃないみたいですよ 畿内説
日本代表がゴールを決めて
液晶画面にグーパン自滅乙www 日本は日本、韓国は韓国。
どっちの国にも韓国に日本領があったなんて思ってる歴史学者は一人もいないよ。 日本が好きって言ったら叩ける時代が今も続いているという通説w 半島に日本の領地があったって言い張るのは「日本が好き」ってレベルでないんでは? 畿内説は九州説に相当興味があるようだ
畿内説のスレなのにwww
畿内説論者が畿内説語らず九州説を探求してどうすんの 265の>>844
>残念ながらここは畿内説スレなんでw 畿内説以外の書き込み=全て荒らしです。<
残念ながら、ここは原則自由投稿の掲示板。
嘘つきダマシの大和説に賛成投稿だけして欲しければ、
自分のホームページを立てればよい事。 弁辰、辰韓合わせたより大きな倭国領が半島にあるとか?
九州説信者は頭が狂ってるよ
265の>>915
>墳墓の発展は九州では大型化等の傾向は見られず副葬品の増加などが主体となっている
逆に山陰や瀬戸内海、畿内では墳墓の大型化、特殊形状の発展と言う形で変化している
九州で豪華な副葬品による葬礼が行われていた時期に、他地域では全く違う大型墳墓祭礼が同時進行している <
大和などは、平原や那珂八幡よりも後。
>つまり両者の変化に関連性は見られず、各々独自の発展を遂げていることが分かる
墳墓を見る事で両地域の権威のあり方に繋がりが無い事がより明確になる
この事からも東征も東遷もないという考古学的な証左となっている<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、倭国の附庸國であり、旧小国。 >>469
テンプレには反論無しという事でいいな! 265の>>920
すっかりしょぼくれて、涙目になった、
倭国の別種の附庸國の旧小国集団(大和説ら)www 。 狗邪韓国は倭人の地で間違い無いけれど、投馬国は宮崎県の妻ではないかなあ? >>460
え
半島に前方後円墳あるじゃん
しかもかなり新しい。 >>473
考古学的な遺物があるのと
名称と宮崎平野人口五万戸にふさわしい そうか。
向こうの人たちにとっては、倭が半島南岸から九州北部までの国であるより、畿内を中心として九州を含まない国である方が都合がいいんだ。
なるほど。
やはり畿内説は歴史的事実を歪曲した詐欺だな。 >>477
畿内説は朝鮮人が支持してるから事実です。 >>477
九州説ってのが歴史の学説じゃなくて
皇国主義の政治思想であることがよくわかる >>478
文献はすべて半島南岸は倭としている。
しつこいな。 >>412
狗邪韓國は倭の北の岸とあるから倭だろ
「到其北岸狗邪韓國」 >>482
戸数少なく
官も投馬國の官が兼任か?
よく分からんね >>488
「自女王國以北、其戸數道里可得略載」
って書いてあるのに? >>491
「到其北岸狗邪韓國」の後にしか大海は出てこないから
大海ではない。 265の>>932
>北部九州の勢力は山陰、瀬戸内海の勢力にその拡大を阻止されてそのまま動けず、
150年頃にはその勢力も崩壊して小集落の雑多なまとまりのない地域になり逆に周辺地域の一方的な影響を受ける状態に陥る
そしてそのような状態のまま邪馬台国の時代を迎えることになる
これが九州の歴史 <
九州倭国は、
「「封國偏遠、作藩于外。
自昔祖禰躬kwan甲冑、跋渉山川、不遑寧處。
東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、
王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳
の歴史。 投馬國の戸數はあるな
狗邪韓國の扱いが雑だな
倭の朝鮮半島南岸の地は重視してなかったみたいだな。 狗邪韓国は土地が狭く、人口も少なく、官もいなかったからじゃないか?
でも明らかに倭人が住んでいたんだろう。
卑弥呼の時代の倭とは対馬海峡国家、都は伊都、その支配機構は一大率。
畿内を含めた本州は海東の倭種。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>497
漢文曲解はいかんな
日本語でも同じ文書いたら校正されるわ。 >>497
まだ出てきてないのに其とか言ったら
読んでる人は何のことか分からんだろw >>503
倭の北岸なら倭だろ
対岸じゃないからな。 張政など魏使は九州北部の伊都国に留まっていたんだから
朝鮮半島南岸側の倭地に付いては情報量が少なかったんだろうな。 韓の南岸ではなく、倭の北岸としているところがポイントです。
狗邪韓国は倭の土地でした。
そして倭とは対馬海峡なのです。
奴国はその極南界です。
卑弥呼の時代にはその西側の伊都国に都を置いていました。 なぜだろうね、、、
テンプレートは勿論、畿内説が破綻したのは。。。 朝鮮半島南岸側の倭地は魏とも陸繋がりなので
国防上の理由で詳細な情報はなるべく抑えたんだろうな。 >>63
>狗奴国は「クノ国」の事である。
「久野」「久能」を冠する地名が今もたくさん残っている神奈川から静岡にかけて
広がっていた大国の事である。
3世紀の東日本で最も規模の大きな古墳が集まっている「沼津」あたりが
都だったと考えられる。
その中で一番規模の大きな前方後方墳である「高尾山古墳」が卑弥弓呼の陵墓だと
思われるが、最近調査されている。<
「南≠東だから、×である。 >>505
九州説は倭人伝読んだことない奴らばかりだな 九州説は倭人伝を勝手に解釈してるだけだからな。
昔のノストラダムス予言書騒動と全く同じで知識のない
素人が本売りたい為にでっち上げただけなんだよ。
邪馬台国の怪みたいなのがそうだから。 陸地の南端が北岸なら海か川の北岸だ
陸地の北端が北岸なら陸地の北岸だ >>517
陸地の南端が北岸ならその先に本国の陸地がるってことだ
陸地の北端が北岸ならその陸地が本国だ >>74
>それは無理でしょう。 行程の記事に誤情報が混入していることを否定するのは不可能です。<
それは犯罪者的詐欺でしょう。
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
知り得て確認がとれた見聞観察実験計測記録は、自然や歴史における確率の最も高い最重要情報であり、
それが起きた理由や原因を推論し、生存への応用に使う事に拠って、
人類は、生物間の競走に打ち勝って、文明を開き発展させて来たんですよ。
そして、
「行程の記事に誤情報が混入している」確率はほぼ0%。
「行程の記事に誤情報が混入していない」確率は、99,5%以上。 _,.. ---- .._
,. '" `丶、
/ ` 、
,..-‐/ ...: ,ィ ,.i .∧ , ヽ.
. ,:' .l .::;',. :::;/..://:: /,':/ ', l、 .i ヽ
. ,' ..::| .::;',' :;:','フ'7フ''7/ ',.ト',_|, , ',.',
,' .::::::!'''l/!:;'/ /'゙ / '! ゙;:|:、.|、| 'l
. ,'. .:::::::{ l'.l/ 、_ _,. 'l/',|.';|
l :::::::::::';、ヾ  ̄ `‐-‐'/! ';. '
. ! :::::::::::/ `‐、 ゝ |'゙ | リンちゃんの死を無駄にしないためにも
| ::::::::/ \ 、_, _.,.,_ ノ::: !
|::::/. _rl`': 、_ ///;ト,゙;:::::./ メガネ障害者がパラリンピック出場できますように
.. `´ /\\ `i;┬:////゙l゙l ヾ/
,.:く::::::::`:、\ 〉l゙:l / !.|
. /:.:.:.:\:.:.:.:.`:、ソ/:.:| | |
/.:.:.:.:.:.:.:.:.:\:.:.:.:У:.:;l /./
. /:.:.:.:.:.:.:.r'´`‐,`、:/.,.:‐{ | !`:、
,'.:.:.:.:.:.:.:.:.';_,゚.,ノ.:./,:':.:.:.:', | |`、:|
!:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.゙、:.::/:.:.:.:.:.:.ヽ, / ,!:.:`、
※千葉県松戸市で渋谷恭正(46)に殺された小学生三年生の女の子、レェ・ティ・ニャット・リンちゃんの
遺体には膣と肛門に異物を入れられた痕跡があった(フライデーより)
http://i.imgur.com/VnBNPyU.jpg
http://i.imgur.com/yx3naiU.jpg
http://i.imgur.com/L7rLhHf.jpg
★ロリコン性犯罪者はメガネ障害者ばかり
★メガネはメガネ障害者です >>90
>常識的には100%だな <
スレ主は、
始めから、「南→東」の嘘つきダマシを「結論先にありき」にした説明をしているから、
信頼性は、殆ど0%だな。 >>527
バカなことを言い張ってるだけじゃんw
>>528
証拠もなにも常識でしょ
1+1=2
これが成り立たないと数学な成り立たないのと同じw >>92
>十分でしょう ド・モルガンの法則ですから <
数学や論理学などは、一種の「等価変換」をしている演繹法であり、
不可知部分が殆どである自然や歴史における「帰納法的な確率の高い推論」においては、
「新たな事実の提示」には、なっていないんだよ。 畿内説は
倭人伝のほとんどを、誤情報にする
邪馬台国は無かった説に変える必要がある! >>532
捨てられたゴミ情報集めて捏ねあげたのが九州説ね モルガンは大笑い、畿内説は
この程度の学力か、集合と確率の違いわからないの 九州説はノストラダムス騒動と同じか、なる程と思うよなw 2世紀末の庄内0期のヤマトには大きな変革があった。
環濠集落が終わり土師器や高塚古墳の時代が始まる。
土師器はあっという間に全国に波及。
それはヤマトという震源地にヒミコがいた証拠である。
それから約120年後の布留1期に崇神陵墓最有力の行燈山古墳ができる。
庄内0期から布留1期までこれと言った文化的断絶はない。
という事は崇神から普通に120年遡ればヒミコだ。
120年とは約6世代。
さぁヒミコとは誰だ、たった一人しかいないぞ。
もう決定だ、あきらめろ。
ヒメ蹈鞴が住んだのは葛城、奈良県御所市。
纏向ではない。
これが高天原(御所市高天)にあるヒミコの墓だ。
https://goo.gl/DA7WRZ >>535
じゃあ、モルガンで方位、解説ねがおうか!
前提
1朝鮮通信使は十数回来て1回方位を誤認した
2魏の使者は方位を誤認した >>535
じゃあ、モルガンで方位、解説ねがおうか!
前提
1朝鮮通信使は十数回来て1回方位を誤認した
2魏の使者は方位を誤認した >>535
前提を正確にしよう
2.倭人伝では南と記述
さて、使者が誤認したと解答がでりかなモルガンで >>538
九州説は数学以前に日本語が読めない無学爺 從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
弁韓の鉄は倭人も混ざって採ってたんだから
ベースになる寄港地、補給基地、蓄積倉庫は必要だろ。
倭人以外、船使わないなら、泥棒対策、防衛的には
半島の南端じゃなくて巨済島にするだろね。 もっと小さくても良いけど便利そう。
対馬が韓や漢だった事が無いんだから、これは弱小邪馬台国にも余裕で可能。 俺もしりたい
モルガンの法則から方位の誤認を証明する数式 >>103
>(狗邪韓國)じゃあ戸数も官名も書いてないのは何故?<
戸数は、おそらく倭人伝側での千戸未満であり、
弁辰側での「小國六七百家」以下でもあったから。
狗邪韓國の官名は、
松浦水軍家の都市氏の末盧國が、
都市牛利が魏の直接的臣下を示す「官名」を与えられたから官名を省かれた可能性がある事から、
同じく、直接的臣下の官名を与えられた「難」氏の難升米も、
河南省や韓に本貫があるので漢語も韓語も判るので使節役の大夫に任ぜられた可能性が高く、
末盧國と同じく、狗邪韓國も難升米の支配地であったんだとう、と推定している。 俺もしりたい
モルガンの法則から方位の誤認を証明する数式 畿内説は非科学的なことを言い張るだけだな。
最後はどこかの学者が言っているとかいないとか、そんな話ばかり。
自分の頭で考えず、史料も読まず、洗脳されたレミングのようだ。 俺もしりたい
モルガンの法則から方位の誤認を証明する数式 >>547
掲示板なのだから、ちゃんと引用するなりしろよ。
そうでないなら、妄想は自分ちのチラシの裏にでも書いてろよ。 FAQ5は論理的じゃ無いから仕方ない
モルガンは大笑い・・・大丈夫か畿内説 >>456
日本の歴史学者はほとんどが倭の半島領地を認めてると思うぞ >>171
>邪馬台国の位置論争は卑弥呼がいたのは纒向で決着ついている。・・・<
邪馬壹國の位置論争は、「南≠東」などの史料事実で、
卑弥呼がいたのは、纒向ではなく、筑紫であった事に、決着がついている。 韓では魏に対する反乱が起きて倭人伝の中にも出てくる帯方郡の太守弓遵が亡くなってるんだよな
卑弥呼が素早く魏に入朝して朝鮮半島南岸の投馬國は安堵されたけど魏に対しては警戒もしてたんだろうな。 >>565
論理的だというところを自分で証明すればいいだろ。 >>567
FAQに根拠がない。
あると言うのなら、あると言う側が証明しなくてはいけない。
当然の論理だよ。 >>565
こいつバカを装った嫌がらせをしているだけ。
畿内説は反論材料がないから、ただうじうじするだけ。 >>568
あると言ってないから、俺には証明する必要がないな
当然の論理だよ。
お前は「FAQに根拠がない」と言ってるんだから
ないと言うのなら、ないと言う側が証明しなくてはいけない。
当然の論理だよ。 >>573
悪口しか言えないのは
畿内説にまったく歯が立たないから 今日も、テンプレートを掲げる狂った老人が、無惨に論破されているね。。。。 『エウレカセブン』
『エウレカセブンao』
ほとんど同じ曲でしょ、
どちらかというとaoのほうが正しかったとか? 沖縄 琉球?
そういうところも出てきたり
『琉球人形』? どうなっているんだと思う、
もれ(仮)の兄の名前、下の名前
智則という名前:まらd−な
と同じ10月▢▢生まれ
作者などの名前:片岡▢▢・・・など
うまやど、聖徳太子(仮)wiki 「この写真の家は、何々様なんていわれて、奉られていた家の人だよ」と言っていたり。
キュウリのような葉、葱の華・・・などの写っている写真の家 家の先祖の写真なんだけど、どうなっているんだろう、
誰も知らないのかな けっきょく九州説は全部論破されて
いつもどおり悔し紛れに荒らすだけか
惨めなもんだな テンプレ教に入信する盲人が一人もいないって笑えるね むかーし伊達郡というところに住んでいたんだよ
と言っているけど
かなーり前から川崎区w >>223
>卑弥呼共立、ヤマト征圧、纒向建設の主力である伊勢尾張、吉備。<
「南≠東」であるから、×。
>倭国大乱前の纏まっていた旧倭国の体制に謀反を企てたのかもしれない。
鉄の分配に不満があったのか今のところ理由は不明だが、
結果として、3世紀吉備の影響力が強いエリアは鉄貧乏に陥っている。
朝鮮半島の鉄を求め、吉備は2世紀末〜3世紀にかけて九州北部征圧に動いた可能性がある。
畿内の中心(河内、ヤマト)を支配下に置いた4世紀。本格的に朝鮮半島への進出が始まる。<
史料事実は、筑紫倭国が、」
「自昔祖禰躬kwan甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
をしたのであるから、
これも×。 中津市相原の三口(みくち)遺跡で、弥生時代後期(約1900年前)の
土製の棺「甕棺(かめかん)」がほぼ完全な形で見つかった。 投馬國が朝鮮半島南岸に在ったとは驚きだが
公孫氏滅亡後に一早く倭が魏に入朝できたの半島に投馬國を持っており
ここから情報を入手することが出来た為であろう。 伊達郡というところの山の上のほうに住んでいて・・・
川崎に来てからも寺院に通っていた
とか
家の爺(祖父)さんや父親が通っていたわけではない、もっと前の話 『山王院 山王宮』
名前をググったりすると、同じ名前の人?が出てくるけどw
時代が違うと思う 山王院・・・?と同名の人の写真(画像)が出てくるでしょ、
その人物より、家の老婆の年上だと思う 老婆の言う銀?
▢▢力夫氏と同じくらいの生まれ、
確実に家の親戚だから・・・知っているんだよ 投馬國が後の任那であり、倭王武の上表文「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」が示す通り投馬國(任那)は加羅・秦韓・慕韓(弁韓、辰韓、馬韓)と別の国だったのである。 力夫氏のwikiを見た限りでは、
明治の20年代の生まれでしょ
銀??というのもそうだよ、
次男・・・三男だよ
家に凄い刀が飾ってあった、謎の刀 なぜか漫画、アニメのような話?
同じような作品があったはず ちなみに静岡にも親戚がいるんだけど、
どうなっているんだと思う
川崎から静岡に行った家 その作品のwikiにも
同じような事が書いてあったり
酒場、バーに現れた・・・力夫氏?銀? ストーカーがいるのか、
それとも本当のカリスマなのか。
その親戚の誰々は川俣町という辺りに住んでいたんだよ
と言っていた。 家は 兄 弟 妹(5月15日生まれ) としか言えない
遠い親戚の家族構成の事は知らない 老婆の言っていた銀?
その家の家族構成も知らない
川崎から静岡や広島に行った親戚のことは知っている、
どういう話なんだろう それと謎の白い帽子と制服のようなものを着ている写真、
家の先祖の写真としか言えない >>601
脳の腐った九州説じいさんが毎日来るからな
>>366
>日本人にとっては、記紀に神武東征が記されているのだから、
神代が北部九州で違和感がない というか、もともとそうだった
なのに必死に抵抗する奴ってなんなの?w <
神武が東征し侵略した大和は、
筑紫城の倭奴國の(一介の)阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
筑紫倭国の単なる附庸國であり、
筑紫倭国が、
「自昔祖禰躬kwan甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
した国々の一つでしかないのに、
大和説者は、畿内説とか邪馬台国とかの曲解拡大解釈をして、
あたかも、「大和が筑紫倭国をも支配する西日本の盟主であった」かのような、
嘘つきダマシの詐欺をしているから。 >>368
中国の歴史書まで捏造するか?、大和説 。 かなり前になるけど
「着ている服が違うと言ってるだろ」
このような書き込みをしている人もいた >>613
オウム返ししか出来ないウソつき異常者がおる 郡から船で南にしか行ってないのに
一体どこに着くんだ?
九州説って痴呆だよな >郡から船で南にしか行ってないのに
九州に着くじゃんかw
アホかw >>376
魏志倭人伝や考古史料で 、
九州説に都合の悪い所なんて何もないんだが。
魏志倭人伝や考古史料で は、
大和説には、都合の悪い所ばっかりなんだが 。 帽子も何か違う・・・?
軍 警官・・・学生でもない >>618
じゃ、投馬国には着かないんだな
さすが九州説
バカまるだし >鉄の分配に不満があったのか今のところ理由は不明だが、
>結果として、3世紀吉備の影響力が強いエリアは鉄貧乏に陥っている。
>朝鮮半島の鉄を求め、吉備は2世紀末〜3世紀にかけて九州北部征圧に動いた可能性がある。
>畿内の中心(河内、ヤマト)を支配下に置いた4世紀。本格的に朝鮮半島への進出が始まる。
3世紀吉備の影響力が強いエリアは
北部九州邪馬台国にたてついて鉄貧乏になったんだろがw
鉄貧乏になった時点で敗北確定。
結果として、北部九州邪馬台国によって東征されて、内行花文鏡を持った支配者がやって来て、
年貢や生口を北部九州邪馬台国へ献上したんだよw
畿内を支配下に入れた4世紀、畿内からの年貢や生口をエネルギーにして、
本格的に朝鮮半島への進出が始まる。 ======こんばんは 6時です キウスの時間です========
TOPIX FAQ5のAについてモルガンの法則で解明できるか問題になりました
無理なようです
一行抵抗が目立ちました
力夫氏とかアニメとか老婆とかいつもの、荒らしが吹きました >>619
それはクズ厨は魏志倭人伝読まないし考古史料も見たことないからな >>390
大和説にとっては、魏志倭人伝は都合の悪い書物だからな。
だから、内容を曲解しねじ曲げる。 >>621
>郡から船で南にしか行ってないのに
>一体どこに着くんだ?
半島南部の投馬国にも着くし
北部九州の邪馬台国にも着く。
君の言うとおり南にしか行ってないのだから、畿内には着かないな。 >>625
証拠は出せない
悪口しか言えない
つまり九州説は負け >>393
もう発狂しないと大和説になれないんだよ 。 >>627
南に行くだけ、東に行かずに
どうして着く? >>627
郡から船で南にしか行ってないなら東シナ海の海中だな
九州には着けない なぜ見たことがないのか?
家の先祖の写真だからなんだよ
広く一般的に普及しているような制服ではないので、
見たことがない
遠い親戚に聞いてみても、
見たことない、知らないというはず 半島南部の「投馬国の西端」にも着くし
(投馬国内での東方移動は同じ国内での移動だから略)
北部九州の邪馬台国にも着く。 >>627
その投馬国てどこ?
現代の地名で言ってみな 半島南部の「投馬国の西端」にも着くし
(投馬国内での東方移動は同じ国内での移動だから略)
北部九州の邪馬台国にも着く。
国内移動も含めるのなら、
対馬や壱岐はそれぞれ方可で1辺×2を計算に入れなきゃね。 >>633
郡から南にしか行かないで、どうして九州に着くの? もはや纒向は放置して本命の投馬国領土問題に必死デスw >>412
>狗邪韓国だって経由地として記載されてるだけだ <
いや、「從郡至倭」の行程説明での、
最初の「倭地への到着國」として、
「到其北岸狗邪韓國」と、はっきり「到」と書かれている。 >>635
さすが九州俺様説
同じ国内での移動は書かなくていいって俺様ルールが突然登場
w 写真に写っている親は寺院に通っていて、
軍人や警官ではなかった
と言っている
学校の制服でもない >>640
倭人伝よんでないの?
「至」までの日数と方角だけなのだから、
郡から南へ水行二十日で、半島南部の投馬国へ「至る」
(投馬国での国内移動は略)
投馬国から南へ水行十日で北部九州の邪馬台国へ「至る」 >>619
ヤマトと呼ばれていた国内最大の集落
魏の年号入り銅鏡
径百歩の大きな古墳
魏志倭人伝にあって九州にないもの >>414
>いや行程をそのまま辿れば海の上だからな なら間違ってると判断して当然
それは九州説にとっても同じだろ もしかしてアンタ邪馬台国グアム説派?<
いや、
到着地までが「自郡至女王國萬二千餘里」である事がはっきり書かれていて、
途中の行程移動里数を合計すると、不彌國で「萬二千餘里」に殆ど達してしまっているから、
(投馬國へは途中移動の動詞がない側副傍線行程記載であるので)、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國がある事になり、
ほぼ、筑紫にある事になる。 >>414
>倭「国」表記は無いんだよなぁ
倭表記だからそれは成り立たない <
いや、「倭國」表記は、2か所もあるよ。 >>642
俺様ルールを言い張るだけ
レベル低いな 何者かによる自作自演なのかな、
葱の華でしょ?
『伊達の桃太郎』の門人のような名前でしょ 鉄器ゼロの銅鐸集落と
中国出土ゼロの国産鏡か
やっぱ邪馬台国じゃないんじゃんw 九州説
次々とインチキ読みを発明し続ける
結果は無残
具体的な地名も言えない 結婚した家は、
蚕を飼い、機織りなんかをしていた家の人だよ
と言っていた 韓国南部に五万戸もある大国があって、それが倭だとさ
学者が九州説を一生に付すのも当たり前だ >>415
>狗邪韓国=弁辰狗邪国 伊都国は邪馬台国ではない
畿内説とか九州説とか関係なく、定説も定説だろうに <
いや、狗邪韓国と弁辰狗邪国は、
違う地域の、違う国名の国として、はっきり「書き分けられている」。
勿論、同じ「狗邪」部族であった可能性は高いが。 >次々と発明し続ける
これは間違っている。
北部九州説の行程読みは最終結論だ。
今後の更新はもうない。 >>651
ほんとに三国志よんでるの?
現在の韓国に相当する面積に、
馬韓10万戸と辰韓弁辰4,5万戸が既に入ってるんだから、
バランスの取れる戸数だよ。 >>655
そうだね。
北部九州説に決着がついて、議論は終了したよ。 >>630
南至は方角を示しているだけでルートを示しているのではない
投馬国は帯方郡の丁度南にあたる 三韓合わせて14〜15万戸なのに
5万戸もある倭人の国が韓国南部にあったのだと
そして具体的な地名は口が裂けても言えないときた
どんだけトンデモ説なのよ最後の九州説 気づいている人は気づいている
実際は、ほとんど家の話、
ただ現在、一般人だというだけ >>659
その発言にしても基本知識が乏しすぎ。
三国志をよく読んでくることを勧めます。 まだやってんの?
倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは確実である。
延々と無意味は論争は時間の無駄。 @阿波 「南至投馬國」 水行二十日
であって、
至投馬國 「南水行」二十日
ではない。
南というのは、帯方郡と、投馬国と、邪馬台国の大まかな位置関係を示しているわけで、
日数は方角とは別の、旅の所要実日数。 帽子も、
おかしな形をしていて、
錦糸?そのような色の線が入っていて 倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは確実である。
延々と無意味は論争は時間の無駄。 @阿波 >>657
北部九州についてからひと月も陸行するのに
まだ北部九州なのか?
お笑い九州説 まだやってんの?
倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは確実である。
延々と無意味は論争は時間の無駄。 @阿波 >>651
倭王武の上表文「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」が示す通り投馬國(任那)は加羅・秦韓・慕韓(弁韓、辰韓、馬韓)と別の国だったのであり
投馬國が後の任那である。
学者が九州説を一笑に付すことができず
九州説を一生に付すのも当たり前だな。 >>416
>涙ぐましいねえw 里程+日程+総里程 と何度も何度もあちこちあちこちで記されてるのに <
ダメだよ。
「從郡至倭〜女王之所都」の行程移動の部分里数の合計と、
「自郡至女王國萬二千餘里」の総里数とが、
ほぼぴったり一致しており、
「日数」記載は、行程「里数」とは、別情報。
>それに反論することすら怖くて怖くて それに触れずにやり過ごしたいんだねw
もう考古学関係者はみんな認識しちゃってるよんwww <
その考古学関係者は、おそらく、
「南→東」などの嘘つきダマシの、
皇国史観の国粋戦争狂という「結論先にありき」の、
・・・・サギシのアホの大和説者であったんでしょう。 >>664
>日数は方角とは別の、旅の所要実日数。
旅の所要実日数なら、どうして投馬国国内での移動日数が無視されてんの? >>667
・木簡に墨書だから日と月は転写間違いしうる
・三国志はもちろん各種文献に一定量の転写間違いがある
・二十日→十日ときたのだから一日のほうが単位が揃う
・弥生時代の日本に一月も旅をできる街道が無い
・街道の無い日本を一月陸行するのなら、そのまま船で水行するはず
などなど、
これまで何度も何度も繰り返されてきた議論であった。 >>667
1月は1日の誤字だかな
倭人伝での誤字は大と支、真珠と真朱など些細なものだな 伊都国の二行程先の不弥国まで行っても、12000里に届かないからな。女王国にすら届かない。 >>669
現代の地名で言ってみな
言えないの?
投馬国はどこ? >>422
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、完全に発狂。 結局のところ
倭人伝に書いてあることが間違いと認めないと成り立ちようもない九州説
自滅 >>659
北部九州に7万戸ですから
三韓合わせて14〜15万戸は少な過ぎる
19〜20万戸で丁度いい。 もしかして・・・『冠位十二階』なのか?
このようになるでしょ >>677
>「月→日」などの嘘つきダマシの九州説者は、完全に発狂。 >>678
日と月は見間違えても東と南は間違えないよな。 >>679
それで?
現代の地名で言ってみな
言えないの?
投馬国はどこ? >>431
もう大和説者は、世間から見て完全にトンデモでございます。 >>682
また捏造する九州説
見間違えと主張した人なし >>685
東大教授の白鳥庫吉が見間違えと主張してたけど。 狗邪韓国は投馬国とか九州説の脳みそが腐り始めているな
狗邪韓国は金官国、加羅、伽耶とも呼ばれる国の事なんだが、
卑弥呼の頃の狗邪韓国王は居登王であり
投馬国の長官として記されている彌彌とは全く別の人物である
ゆえに投馬国と狗邪韓国は別の国である ちなみに弁辰狗邪国は伽耶に比定されることで
ほぼ収まっている状況なので、
狗邪韓国=弁辰狗邪国が成り立つのである ・木簡に墨書だから日と月は転写間違いしうる
・三国志はもちろん各種文献に一定量の転写間違いがある
・二十日→十日ときたのだから一日のほうが単位が揃う
・弥生時代の日本に一月も旅をできる街道が無い
・街道の無い日本を一月陸行するのなら、そのまま船で水行するはず
などなど、
これまで何度も何度も繰り返されてきた議論であった。 >>683
朝鮮半島南岸
地名で言えば全羅南道、慶尚南道辺り。 >>691
>弁辰狗邪国は伽耶に比定されることで
通説詐欺のあんたが言うことなので、全く信用ならない。
それに、弁辰狗邪国=伽耶だけでなく、
狗邪韓国=伽耶も比定されなければ、
狗邪韓国=弁辰狗邪国は成立しない。
狗邪韓国は倭人条に
弁辰狗邪国は韓条に
それぞれ記載されているので、別物であることは確実。 九州説頓死でしょ
三韓合わせて14〜15万戸なのに
5万戸もある倭人の国が韓国南部にあったのだと
そして具体的な地名は口が裂けても言えないときた
どんだけトンデモ説なのよ最後の九州説 白い帽子、上部のほうは普通の円形。
錦糸?金色の線のようなものが入っている。 >>694
>>696
オレの説じゃなくて学者の言ってる事だから
文句言われても知らんよ
とにかく狗邪韓国=伽耶=弁辰狗邪国は通説なんだって
オレが言ってるんじゃないよ >>704
あたりまえさ
弥生文化とぜんぜん違う地域なんだから 魏志倭人伝の水行行程は帯方郡からスタートするという九州説の主張は
これで崩れ去った
つまり邪馬台国は畿内 詳しいことは、わからないけど、騙り?
そういうことはしても良いの?
人の家の話なのに、まるで自分の家のように語ったり 私見
畿内説のの権威とされる方から「純粋に考古学の立場から検証していく
あるいは「文献史学に影響されない」といったご発言が多く出る。
我が国の古代史を検証しようすると、我が国に残されている遺跡や文献からだけでは、その姿は見えない。
大陸に残されている歴史や史書などと突き合わせることなしに、我が国の古代における姿は解明できない。
我が国の記紀史観では消されています。我が国で人類が誕生しているといった鎖国的歴史認識となっています。
ですから、あえて指摘するなら、大陸に残されている歴史や史書との関連を抜きにした考古学では、
我が国に残されている各種遺跡の正確な分析に至ることは困難である。
畿内説は、我が国の歴史書や我が国独自の遺跡に頼りすぎである。
それを、邪馬台国に結びつける事はなんの実証にもならない。 ここを読んでみて
『伊達郡川俣町 掲示板』
川崎に住んでいると言っている人がいるでしょ?
家は川崎区に住んでいるんだけど >>709
「私見」と断るだけで
なんにも証拠ださずに済むほど
世間は甘くない
w >>709が大ウソなのはテンプレ見るだけで分かるね 昔の事はよくわからないけど、
家は四国の出身ではない?・・・と思う、四国だったのかな
ただ「リューマだったかリョーマ。カクなんていうのもいたかな」
とは言っていた、同じような名前の人物がいるでしょ、▢▢覚兵衛? 老婆の出身は二本松、
家は伊達郡・・・w川俣町というところがあって >>713
なに一つ正しい事言わない九州説が
違うと言い張ってるから 畿内説の閉鎖的なルール
《文献に無い歴史に確証を持つ》
《調査の技術や、報告者の認識によって報告資料の質に差が出ることは無視》
《過程はわからないで通す・・・根拠は後でついてくる》
《 学問的意義と無関係にデータが「選ばれる」ことに疑義を抱かない》 本当に老婆の話だよ
「ダムだったかな、水源、発電所のようなものがあったんだよ」 >>709
賛同
<畿内説は、我が国の歴史書や我が国独自の遺跡に頼りすぎである。
それを、邪馬台国に結びつける事はなんの実証にもならない。> >>659
>三韓合わせて14〜15万戸なのに
>5万戸もある倭人の国が韓国南部にあったのだと
否定する根拠としては希薄。
狗邪韓国を大きく取ればいいだけ。
ただ、それよりも宮崎県妻の方がもっと広そうだなとは思う。
もちろん狗邪韓国は倭の土地でした。
難点は、その当時は関門海峡が通れなかったと言われている点。 >>697
>三韓合わせて14〜15万戸なのに
>5万戸もある倭人の国が韓国南部にあったのだと
何か問題でも? >>728
邪馬台国で7万だから下手すりゃそっちが邪馬台国なんじゃねーの >>727
何を指摘されているのかさえ理解できてないって
頭悪すぎない? >>728
俺サマ流倭人伝解釈以外何も目に入ってないという
トンデモ九州説の典型
>>709の妄想に当てはまるのは、むしろ九州説のこの手合い 以前から書いているはず
人の家の名を騙っても良いのか?
と聞いているんだよ >>735
>>736
ならその先の邪馬台国はどこ比定になんの? 誰でもいいですが、質問
魏志倭人伝の使者が邪馬台国に滞在した期間は何日と思いますか?
質問の意図 戸数は聞いた話か立証か・・・・投馬国しかり
丹山は聞いた話か立証か・・・・
卑弥呼の墓の径は聞いた話か立証か・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
各種疑問はある、倭人伝以外の中國の史書に頼らざるを得ない
倭人伝で国々の名が出るが
九州にあった国の共通項はどこか?
分岐点は不彌国は九州にありでいいのか? 何でも良い
何々で優勝しました、一位になりました。
優勝した人物の名前を騙り・・・。 >>707
>これで崩れ去った
この「これ」って何ですか? >>741
不彌国が九州で無ければ,畿内説も成り立たない
各説共通項は不彌国までは九州である
あとが問題・・・これが邪馬台国論争 >>741
不彌国は筑前の一部だな
不彌国の次にくる国邑は斯馬國
「南至投馬國」は帯方郡から南の方角に投馬國が在るって意味だ。 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か >>748,749,751,753
荒らし変質者は放置ね 不彌国は九州北部の宇美町?と言われているらしいけど
よくわからん 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か >>748,749,751,753,758,760
荒らし変質者は放置ね >>746
帯方郡から南の方角は狗邪韓国と書かれているが お前が逮捕されたという報道、速報
そのときまで続ける気なのか 誰が何をどう答えても
返答がない返答がないと騒ぎ続ける
いつもの狂人だな そろそろ
詰められそうだな畿内説
投馬国以前の畿内説の比定地が九州なら・・・・
止めとこ
畿内説に任せよう
よか質問
↓
<畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か> >>761
博学なようだから 不弥国は何処だと思いますか 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か >>761
>>>748,749,751,753,758,760,768,771
>荒らし変質者は放置ね 📺などがあるでしょ、
報道している側の人間も逮捕されると知っているだろう 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か >>748,749,751,753,758,760,768,771,775
荒らし変質者は放置ね 不弥国連呼はいいよ、九州だよ
それでなにが言いたいの?????????????????????????? >>773
帯方郡から7000余里水行して狗邪韓国に着くと書いてるが 何かに不彌国は九州北部の宇美町らしいと書かれてたけど
そうなんじゃないの >>780
聞いても無駄だ
どうせ日本人に解らない変な日本語で呟くだけさ 気づいていると思うけど、
勝手なことはするなと言ってるんだよ 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か >>783
津屋崎説、岡湊説いろいろある
決め手は無い >>748,749,751,753,758,760,768,771,775,786
狂った荒らし変質者は放置ね >>787
どっちみちトンデモなんだから気にするな! =====こんばんは! 9時をまわりました キウスの時間です=======
TOPIX
畿内説のスレで相変わらず、畿内説が他説を相手にしてます
九州説勝利とか畿内説勝利とか、今だ勝敗はつきません・・未来も・・ロマンでいいのでは
土器について話題になりました・・・これは難解です・・それぞれ見解も違います
不弥国の比定地についてしつこく質問する方が出現・・・・・九州ですが次の展開は見えてます
不弥国は九州と畿内説が認める
↓
すると、不弥国までの方位と距離は正しいと畿内説が認めたことになる
突如、不弥国以降の行程は畿内ありきになるというコジツケになり
連続性が無い、ご都合主義となるを指摘する
ミエ、ミエだから・・畿内説は答えないがヨロシ 九州説は
伊都国に倭女王がいたとか、投馬国が韓国にあったとか
もう末期症状としか 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 正統→偽の系図などを作成、騙り→騙り→騙りが指揮をしている
↓
正統→正統→正統→ >>796
つか、なんで不弥国までの方位と距離は正しいと畿内説が認めたことになるんだ?
痴愚で変質者の考えることはワカラン >>748,749,751,753,758,760,768,771,775,786,798
明らかに偏執狂だね >>734
倭人の案内だから、韓人の領土は通過できない。 >>741
【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>796
地名が大体合ってるから別に不弥国までは九州北部で別に異論はないよ
それがどうかしたの ・・・・→正統→兄 弟 妹
わかりやすく説明すると、
このような話 >>796
畿内説では魏志倭人伝の地名を何一つ説明できない。
短里を受け入れない限り、伊都国にすらたどり着けない。 >>782
帯方郡から7000余里水行して狗邪韓国に着く
帯方郡か20hiら7000余里水行して狗邪韓国に着くと 騙りが良いのというのなら
詐欺、人権侵害・・・何をしても良いという事になる >>809
結論しか言わないバカ
脳が3グラム以上ない >>782
帯方郡から7000余里水行して狗邪韓国に着く
帯方郡か20日で帯方郡に着く
水行7000余里=20日
7000余里行くのに20日掛かる >>813
本当のことを言われて反論出来ないバカw
脳が1ミリグラムもない >>810
短里使わなくても不弥国まで辿れるよ
地名を頼りに >>822
日本語喋れない人の言うことは普通理解できない >>821
でも移動した距離から計算すると、一里が75mになるんでしょ。 ロールプレイ?演じてるという意味
『ボーボボ 田ボ』 >>827
帯方郡から狗邪韓國までが7000里ですからね。 『伊達の桃太郎』
でも、これは本物だと思うんだけど 何々様と言われていたと言っている、
門人と書いてある人の話 帯方郡から狗邪韓國までが7000里
1里75mで525km・・・ほぼ合ってる
1里400mで2800km・・・??? >>814
それならおかしいな
そのあと10日水行するとあるが
水行20日が7000里なら10日は半分の4500里
韓国南岸から倭国の間の海は3000里になるはずなのに
これじゃ計算が合わないな >>826
国の間の距離の記述をを現在で換算してみると
およそ40mから150mになる >>834
対馬と壱岐の方400里と300里を3000里に加えて4400里 >>837
400+300+3000=4400にはならないと思うが 家は『ス』のほうだと言っていたよ、
上の名前の読み方 帯方(たいほう)郡から倭(わ)へ行くのには
A、朝鮮半島の海岸づたいに、海上を行く。南に行ったり東に行ったりしながら
進むと、狗邪韓(くやかん)国に着く。ここまでの距離は7,000余里である。
B、始めて海を渡ると、1,000余里で対馬(つしま)国に着く。
C、更に南に海を渡ると、1,000余里で一支(いき)国に着く。
D、更に海を渡ると、1,000余里で末盧(まつろ)国に着く。
E、陸上を東南に500里行くと、伊都(いと)国に着く。
F、東南に奴(な)国がある。距離は100里である。
G、東に行くと不弥(ふみ)国に着く。距離は100里である。
ここまで
狗邪韓へは行ったり来たりしてるので
7,000余里を3,000里とすると
群から不彌国まで6,700里となる
群⇒女王国までの距離は12,000余里
畿内でも距離は成立する >>839
1000+400+400+1000+300+300+1000=4400
7000里÷20日=350里/日
4400里÷10日=440里/日 寺院に通っていたと言っていたり、
橋が架かったので来てください、
という招待状が届いたこともあった
とか >>848
だから打ちミスだって
20日7000里の半分は10日3500里だから
韓国南岸〜末慮国4400里だとますますおかしい >>850
少しは畿内説に花を持たせたい故、多く見積もりました
畿内説を窮鼠猫を噛む状態まで追い込んではいけません チェーンソーのゲーム
主人公「勘違いヤロー」
敵の台詞「渡来人どもめ〜」
このようなことを言っている >>855
それはご丁寧にありがとうございます
失せやがれ >>855
やっぱり日本語話せない爺さんか
畿内説のフリするなよ 上のほうを読んでみたほうが良い
『冠位十二階』とか >>852
海峡を渡る時が半島の沿岸を航行する時より流されないように若干急いだんだよ。 そんな情け容赦かけてどうするの。
ゴキブリみたいなものですよ。 夜間航行は不可能
海峡は1日で渡らないといけない
インチキ計算すでに破綻 MVP 見つからず苦慮
最新にしたら
見つかった・・・・・少し物足りないが
>>855
>少しは畿内説に花を持たせたい<
⇧
気配りは、学問では無用で賞 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 『伊達の桃太郎』
このようなことも書いてあるでしょ
『司徒 司馬 司空』 畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と
比 定 し て る の か 350里/日
440里/日
1里75mなら
26.25km/日
33km/日
極めて常識的な数字 まあ九州説がいくら頑張っても
投馬国を韓国南岸に比定するのは無理があり過ぎ
韓国南岸は狗邪韓国=金官国=加羅(伽耶)=であり弁辰狗邪国
文献だと投馬国と支配しているとされる人間が違う 奴国から邪馬台国までの直線距離
道のりと直線距離との比率を知るために参考になるのは次の数字である。
(東海道本線東京駅〜京都駅):(同直線距離) =(513.6km):(370km)=(約1.39):(1.00)
(旧東海道江戸日本橋〜京都三条大橋):(同直線距離)=(495km):(370km)=(約1.34):(1.00)
*日本橋〜京都三条大橋までは約126里6町である。
仮にひとつの物差しとして旧東海道の1.34を使ってみると、奴国から邪馬台国までの直線距離は次のようになる。
1里が80mの場合 (1,400里×80m)÷1.34=112km÷1.34=約85km 冠位十二階?
某氏:私的に〜を与えたり
某氏:勝手に名乗ったり?
のようなことも書いてあるでしょ 厳しい状況
<畿 内 説 で は
不 彌 国 を 何 処 と比 定 し て る の か> >>873
從郡至倭 循海岸水行 歷韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
の7000里をどう説明するの? むかーしの事なので、わからないけどw
wiki『七色十三階冠』
>唐では三師(太師・太傅・太保)
>三公(太尉・司徒・司空)と王の爵が正一品で、
>通常の官は正二品の尚書令からはじまる。
>そして三師・三公は特別立派な人が出現したときにだけ任命する官で、
>死後の贈官を除けば任命されず、通常は空いていた。
>これにならい、大織は唐の最上位にあてる心づもりで設けたのではないかという。 短里を使えば邪馬台国は九州になる
だから短里はあったんだ
こういうのを循環論法という 上には上がいますね!
畿内説に
投馬国の比定地を質問したことが有りますが
同じ南を東にするため吉備としたのだと思いました
不弥国まで頭が周りませんでした、、、、、 >>882
それじゃ分からん
七千餘里をなんと間違えた? >>885
>同じ南を東にするため吉備としたのだと思いました
岡上よ、思った理由は? >>886
間違いというのは、何かを何かと間違えたとは限らない >>869
狗邪韓国=金官国=加羅(伽耶)=弁辰狗邪国
これが違ってるんだな
同じだって根拠が無い。 >>433
まったく大和説者って、「南→東」などの嘘吐きダマシの、
国粋殺戮戦争皇国国家主義者だよねー。 たしか震災後だと思う
「どうした聖人でも殺したのか?」
「親戚でも殺されたのか」
このようなレスがあったり 不弥国まで、畿内説は九州と認めてるのに
畿内説は突如、
倭人伝でいけば、邪馬台国は、はるか南の海に沈むと言い出したのでしょうか >>888
文献は自分の都合よく改竄していいと思ってませんか? >>893
不弥国まで、畿内説は九州と認めてる時点で倭人伝どおり読んでないからに決まってるでしょ >>891
同じとも違うとも根拠が無いんだから
これを理由に>>869みたいなことは言えんってことだな。 >>897
通説だから言えるさ
あんたは泡沫マイナー説だという指摘だ >>898
好きなように改竄してよんでる
という証拠は? >>446
2chやYahooの掲示板にたむろする大和説者の殆どは、
朝鮮人差別を広言する人種差別的殺戮戦争狂の、右翼国粋主義者のようだったよ。 >>889
三国遺事とか三国史記に書いてるんだよなぁ 不弥国一国で 哀れ畿内説が撃沈
畿内説の正統論者、ここに来ないと九州説で決まってしまう >>897
三国遺事とか三国史記とか色々見ればそう書いてるよ >>903
また根拠もない妄想をしてる
おばかさんですね? >>899
その通説が正しいって根拠がないんだよな
通説の信ぴょう性が極めて低い。 知っている人は知っているんだよ
一日警察署・・・など、
そういう話でもない
あの制服の話 >>907
信ぴょう性が極めて低い
という理由は? >>912
じゃあ別の国だという説も信ぴょう性が極めて低いのだな? >>448
朝鮮人差別を言ったら、アホな大和説者らが「格好いい」と興奮して、
ますます人種差別的殺戮戦争国家が出来上がって行く時代が、
今も続いているというw。 気づいていると思うけど、
話を創作したりしている人がいるんだよ。
これが実際の話
寺院に通っていたみたいだよ、
と言っている =====こんばんは! まもなく11時です キウスの時間です=======7
TOPIX
不弥国について議論がなされました・・・距離の課題でしょう
・・・・・・距離、方位については不可解です・・九州説に分がありますが
畿内説では行程は?のようですので議論は続きます
・・・・・畿内説は邪馬台国を探求してるので倭人伝は参考かも
理由はわからないけど
肉は食べなかったよ
と言っていた >>914
よく分かっていないからまだ投馬国の入る余地もあるってことです。 >>458
大和説者=時代錯誤の朝鮮人差別殺戮広言の右翼国粋国家主義者ってことで。
飲み屋にたむろするやくざ暴力団や、ヘイトスピーチキョクウらと同じ穴の狢な訳で。 >>924
ヘイトスピーチ専門家はお前ザラコクなのだが 通説というのは、根拠がないと白状しているようなもの。 >>900
自分の意に沿わない部分を誤りと決めつけて
好きなように改竄してよんでる
これを好きなように改竄してよんでると言うんだよw >>909
まず狗邪韓国と金官国は同じね
三国遺事とか三国史記にそう書いてるからね
次に金官国は加羅、駕洛、伽?とも呼ばれてたのね
三国遺事とか三国史記にそう書いてあるからね
それで伽?=弁辰狗邪国はもう通説なのね
ゆえに弁辰狗邪国=狗邪韓国
違うと言うならソース付きで書いてね >>928
自分の意に沿わない部分を誤りと決めつけてるという証拠は?
好きなように改竄してよんでるという証拠は? =====こんばんは! まもなく11時です キウスの時間です=======
論評 九州説が有利に見えますが、このスレに限ってです
畿内説もいけませんスレ主はじめ初心者を送り込んでは???
否、畿内説の先兵隊・・・死んでも上層部は関係ない、足軽の駒が他説にやられても痛くもない
九州説は素人でもカキコム前に概略の知識は得てる模様・・・撃沈されたら、また、学ぶ姿勢は良し >>930
半島に辰韓と弁辰を併せたようり大きな倭人の国がないことは考古学的に明らかなので >>934
どこが悪魔の証明?
悪魔の証明って何さか知らないでテキトーに言ってるでしょ この畿内説は雑魚ばかりだなw
ボコボコにやられても平然としている精神力の強さだけはたいしたもんだw >>514
大和説者は、倭人伝を曲解捏造する奴らばかりだな 。 >>942
論破されると罵ってごまかす
九州説さんの悪い癖だ >>515
もう、歴史学界は、
「南→東」などの嘘吐きダマシのサギシの、皇国史観殺戮戦争狂の大和説者の席しかないよ 。 >>937
馬韓、弁韓、辰韓の堺も確定してないのに
そんなこと分かってないよwww >>951
分かってる
馬韓と、弁韓&辰韓の境が確定してるので >>519
大和説者は、倭人伝を勝手に解釈してるだけだからな。
昔のノストラダムス予言書騒動と全く同じで、
知識のない皇国史観文部省支配の権力学者が本売りたい為にでっち上げただけなんだよ。
「邪馬台国」という存在もしない文言みたいな人種がそうだから。 >>953
ほら、罵るだけで反論ができない
つまりお前は論破された 倭人伝に右往左往れなくても良い
ヤマト王権の発症に地は大和に異論はない、前身がどこであろうが
それを邪馬台国と結び付けるは勝手だがね >>531
少し訂正。
数学や論理学などは、自然や歴史は殆どが不可知領域であるので、
適用範囲などの「条件設定」をした上で、その範囲内での、
一種の「等価変換」をしている演繹法であり、
不可知部分が殆どである自然や歴史における「帰納法的な確率の高い推論」においては、
「新たな事実の提示」には、なっていないんだよ。 >>964
なら狗邪韓国、金官国、加羅、伽耶は何と記述されている?
該当部分を出してもらわなきゃなぁ >>533
都合の悪い史料事実はゴミにして隠して捨てて、
都合の良い文言ゴミ情報ばかりを集めて捏ねあげたのが、
大和説ね。 >>536
大和説は、ノストラダムス騒動と同じか?。
なる程、やっぱり・・・・だったか、
と思うよなw。 >>971
まず狗邪韓国と金官国は同じね
三国遺事とか三国史記にそう書いてるからね
次に金官国は加羅、駕洛、伽?とも呼ばれてたのね
三国遺事とか三国史記にそう書いてあるからね
それで伽?=弁辰狗邪国はもう通説なのね
ゆえに弁辰狗邪国=狗邪韓国
ホレ 弁辰狗邪国=狗邪韓国は史料に書かれた事実
九州説は否定できる記述を提示できずに逃亡しました >>970
7000里が間違いだと主張してるのはそっちだろ
根拠はお前が出すべきだろ
キチガイが! >>974
通説は根拠にならんよw
根拠のないのが通説
根拠があれば定説。 >>537
>2世紀末の庄内0期のヤマトには大きな変革があった。<
庄内0期なんて、存在しないし、サギシに特有のでっち上げ造作文言。
勿論、庄内は、三雲で250年頃の少し前。
>環濠集落が終わり土師器や高塚古墳の時代が始まる。<
庄内は三雲が最も古く、高怩フ始まりは祇園山。
>土師器はあっという間に全国に波及。<
布留も、おそらく高温焼成技術のある弥生銀座で工夫され、全国に波及して、
その後、全国から筑紫に逆に搬入上納された。
それはヤマトという震源地にヒミコがいた証拠である。 畿内説は自分で言いだしたことに根拠を出さずに逃げて
相手に根拠を求めて根拠を出さないとか
キチガイの集団か? >>541
大和説者は、数学以前に、漢文の史料事実を否定曲解する無学爺。 >>972
ほら、また罵ってごまかす
お前が論破された証拠だ >>976
間違いだと主張することの、どこが改竄? >>981
へりくだって土下座すれば根拠を見せてやらん事もないぞ?
そう魏の皇帝を前にした卑弥呼の使いの様にな >>575
悪口しか言えないのは、九州説には、まったく歯が立たないから。 >>585
けっきょく大和説は全部論破されて、
いつもどおり悔し紛れに荒らすだけか。
惨めなもんだな。 >>611
脳の腐った大和説じいさんが毎日来るからな。 九州説=明らかな事実が理解出来ない=バカ
これは通説です >>617
知能があったら大和説なんか信仰してないさ。 >>628
証拠は出せない。
悪口しか言えない 。
つまり大和説は負け。 >>643
>ヤマトと呼ばれていた国内最大の集落 <
弥生銀座の方が何倍も広い。
>魏の年号入り銅鏡<
三角縁は、魏鏡ではない。
平原の21枚の「尚方作」の方格規矩鏡。
>径百歩の大きな古墳 <
「径」は長径だから、箸墓は×、
祇園山ならピッタリ。
>魏志倭人伝にあって九州にないもの<
筑紫にあって、大和にはないものばっかり。 >>649
大和説
次々とインチキ読みを発明し続ける 。
結果は無残 。
具体的な地名も言えない 。 このスレッドは1000を超えました。
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