邪馬台国畿内説 Part277 [無断転載禁止]©2ch.net
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
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◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−3
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。 ◆6−4
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器UB(布留0新相〜布留T古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪W期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪X期)に活発な対外活動を展開したのち衰退していく、という趨勢が消長を来しているものである。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はUA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生X期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。 ◆7−2
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−3
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住TA・TB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器TB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8−1(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。 ◆8−2
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9−1 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf ◆9−2 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は庄内0を庄内式直前として
弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じである。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
TA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内T〜U
TB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内U〜V ●纒向矢塚、矢藤治山
UA期ー 布留0古相 ー 河内庄内V ●箸墓、権現山51号
UB期ー 布留0新相〜布留1古相ー 河内庄内W〜X ●西殿塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚、黒塚
UC期ー 布留1中相〜布留1新相ー 河内庄内X〜布留T●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11 本文のサマリー
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纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆12
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報である。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法より、筆者は里程から如何程に南方であるか具体的に推計して倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことは、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。 ◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第X様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。 ◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。 ◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など、遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に短里があったであろうか? 否、間違った情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される。
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26-1
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか! ◆FAQ 26-2
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝) 遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪W期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。 ◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。
平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓X期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓X期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓U類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶T期は久住UB期に併行するが、申が同じT期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓X期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓T類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内U〜V(久住TB〜UA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓X期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1BU型式→ 1BV型式→ 1BW型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BV〜W型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1BU型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BV−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BW型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1BU型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉)
→1BV型式(3世紀中葉)
→1BW型式(3世紀後葉以降)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1BU型式新段階が楽浪木槨墓X期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓X期は下大隈式に後続する西新(T式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45−1
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか? ◆FAQ 45−2
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、三世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され(金原2011)ていること、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:三世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(XA)と既に消失したもの(XB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがT型、無いものがU型と呼称される。
この前半タイプT型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に語義を含意せずに用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、三世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、弁辰韓X期の文化圏である。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の時代」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間では…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の時代」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・烈曰:「 世有仁人,吾未之見。」(先賢行状王烈)
・発怒曰:「世有思婦病母者,豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
※これらは不特定者を指す例で、否定的文脈である。
「代々…」の用例:
世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
今汝先人世有冠冕(王昶)
※漢魏に仕えた王昶が子と甥に語る訓戒
臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし まだ言ってるの?
このような書き込み、見たことがない?
「私が間違っておりました」
他のスレだったかな
「左様である」ひだりさま? 調べると出てくるでしょ
『品官』ホンカンとか。
家(あの写真)は軍人でも警官でもなかったよ
と言っていた。 いま、どこそこに住んでいるんじゃないの?
と知っている人がいたり
たしか川崎区でしょ 「どこからか盗んできたものなんじゃないのか?」という書き込みもあったでしょ?
あまり見たことが服を着ていたからだと思う、子供の制服のようなモノ 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する狂人のみが発症する、心の病。
その症状は、自らに批判的な書き込みを、すべて畿内説スレの>>1◆q8leUXpsw.によるものだと思い込む、というもの。
原因は、逆立ちしても>>1◆q8leUXpsw.に遠く及ばないという圧倒的な差を自覚した上での被害妄想、
あるいは自らを客観視できなくなった六拾弐病患者による、>>1◆q8leUXpsw.は自分をマークしているに違いないと思い込む、
自己に対する超絶な過大評価である。 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるようになった
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度
>>1のトリに似せた英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうともする最低のクズである
自分に否定的なカキコはすべて畿内説スレの>>1によるものだと思い込む、「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しを多用すること、
2ちゃんでは一般的ではない「スレ主」の頻発、名前欄への書き込み多用、ageなどの特徴ですぐに判別できる
勝手に「本日のMVP」を決めるなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs ◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E
キウスの書き込みを褒めたり、「ワロタ」と応じたり、キウスに対して礼を言ったりする書き込みは、すべてキウス自身の自演である
「キウス扱いされた」などと他人を装う書き込みもするが、バレバレ
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求するが、自分はすぐに名無しに戻るダブスタ、トリスタ上等の卑怯者
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊
日本語の読み書きが満足にできないほか、日本史や日本の地理に関する基礎知識も持ち合わせていないこと、
マスメディアで散々取り上げられる土用の丑の日の日付けを間違っていることなどから、
日本国内在住ではなく、日本の義務教育を受けていないのではないかと推測されている ザラコク
邪馬台国関連スレに出没して異常行為をする者のひとり
九州王朝説と古田武彦を盲目的に支持し、偽書『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張する
高校生程度の知識もなく、自らも「素人おじん」と称するが、そのわりに人類の常識とやら大上段に構えて専門の研究者を偉そうにこき下ろす
あまり相手にされていないので、他人の会話に割り込んで片端から周回遅れのレスを付けまくる
全レスバカとも呼ばれる
その結果、投稿数が異常に多く、コピペ連投と同じくらいスレを荒らし、他人に迷惑をかけている
レスをつけるということ自体に異常に執着しており、他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという無内容のものも多い
平気で嘘をつき、「超」のつく非常識人物として有名
脳を使用しないオウム返しを多用する
ネットリテラシーが皆無で、マナー違反を繰り返す傍若無人ぶりが周囲から嫌悪される原因のひとつだが、本人には自覚がない
理解力も皆無で、自分の主張を否定する情報も正反対に脳内変換することが多い
以前はYahoo掲示板に常駐していたが、倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近2ちゃんに居付いてしまった
生きる独善75歳 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張するウソつき
コテ+トリと名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくるがバレバレ
糸クズ、八咫バカとも
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読んだり、
伊都国を女王国であると漢文を誤読したり、
八咫鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張したり、
お笑いエピソードには事欠かない
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッキナー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 畿内説
3世紀に馬がいた????
朝貢の織物の赤は紅花染色だって????
だめだこりゃ、 FAQ29
>正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、
当時の纒向遺跡でベニバナの栽培と染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。<
へーーーーー3世紀に紅花栽培も紅花染色もあったんだ
へーーーーー へーーーーーーーーーーーーーーーーー
考古学より植物学にスレ主は向いているな
へーーーーーーーーーー 平成元年に奈良県生駒郡の藤ノ木古墳(6世紀)の石棺内に
ベニバナの花粉と顔料らしきものが発見されました。 ゴッドハンドで紅花の花粉まき散らしたんじゃねーのか
花粉じゃ、年代測定難しいのじゃなねーのか 朝日新聞
卑弥呼も使った?古代の赤 ベニバナ花粉が大量出土2007年10月15日
桜井市教委の発表をそのまま記事にしただけ
また、金原正明・奈良教育大准教授(古環境学)は土壌分析しただけでその土壌が3世紀と比定していない ベニバナと邪馬台国を結びつけるのは難しいから
ーー絳青縑の赤色部分をベニバナで染色された「縑」ーーと決めつけたんじゃないの
別にベニバナ以外の植物でも赤色は出せるがな
纏向が3世紀であろうが4世紀であろうが邪馬台国と関係無い 物証に乏しい
行程も無視しなきゃいけねーし お前の言う天皇陛下というのは、
どういう意味なんだ? >>82
植物学者が飛びつきそうなネタだが、
その気配全くなしだなWwwww >>1
>初期ヤマト政権の初代王<
お前の言う天皇陛下というのは、
どういう意味なんだ? 『伊達の桃太郎』
「司徒 司馬 司空」と書いてあったり ヤマト王権の初代王は卑弥呼
モモソは天皇じゃ無いので✖
女性の天皇で一番古いのは推古天皇だが6世紀だから✖
初代天皇神武は男だから✖
神武以前で女性(性別不詳も可で)の神を探すしかないな
天照大御神 木花咲耶姫 豊玉姫命 玉依姫命 ????
WWWWWWWWWWWWWWWWWWWWwwwwwwwwwwwwwwwwwww 謎の311に放射能でしょ、
騙りでも住んでいたのかな
ちなみに家は川崎区に住んでいるんだけど、
むかーし伊達郡というところに住んでいたとは言っている >>82
卑弥呼も使った?古代の赤 ベニバナ花粉が大量出土
朝日新聞2007年10月月3日付け朝刊29ページ 3社会
邪馬台国の候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、大量のベニバナ花粉が3世紀中ごろの溝から出土していたことがわかった。
市教委が2日、発表した。ベニバナは染料や化粧の紅として使われたとされ、これまでは6世紀後半が国内最古で、今回は約300年さかのぼる。
邪馬台国を描いた中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に女王卑弥呼(ひみこ)が赤い絹を中国に贈ったという記述があり、その染料に使われたことを裏付ける発見の可能性もある。
91年の発掘調査で、国内最古級の纒向石塚古墳(3世紀初め〜中ごろ)の南約50メートルにあった溝跡(幅1.5メートル、深さ1メートル)から、木製農具や土器などとともに見つかった。当時の資料を再検討して確認した。
金原正明・奈良教育大准教授(古環境学)による土壌分析の結果では、試料の土に含まれる全花粉量の1%がベニバナだった。空気中に大量飛散しない虫媒花のベニバナの花粉としては異例の多さという。 老婆は詳しくない?
寺院に通っていた、
川崎に来てからも、大島のほうにある寺院に通っていた。
肉は食べなかった・・・。
とか あと四国、四国言っている人がいるけど、
家は四国の出身ではないよ、家はだよ
無理にでも繋がりを持とうとしているとか?
でも、りょーま、りゅーま?というのも、
いたとは言っている
なぜか詳しくない? あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。 弥生時代の青銅器の分布です。
https://goo.gl/m2KfqU
対馬・北部九州や瀬戸内に「武力」が展開されてます。
大乱を経験して戦時体制を取り続けた筑紫を中心とする倭国の領域がわかります。
魏の使いが滞在した外交の舞台である伊都を含む北部九州と、瀬戸内や関西は別の領域であり、奈良盆地は邪馬台国とは関係ない地方であることがわかります。 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 >>92
纒向遺跡や纒向石塚古墳が6世紀の築造だってことだなw 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 6世紀以降に伝わったベニバの花粉が見っかったんだから
纒向遺跡や纒向石塚古墳が6世紀以降の築造なのは明らかなこと
ベニバの花粉の伝来時期を変える方が間違い。 276の>>639
説明不能に陥って思考停止したか。
今夜も惨敗の大和説。 >>104
畿内説はひどい年代詐欺をやらかしていたんだな。 276の>>645
>広域の連合政権が纏向に都を築きましたが それが何か?<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国。 276の>>647
>考古学の常識なら、そう言ってる考古学者と論文の名前をあげてね <
考古学者の中で、大和説とか畿内説を唱える学者とやらは、
始めから「南→東」などの嘘つきダマシの、皇国史観にクルった・・・・人種であるから、
そんな人種は、考古学者にはならない、の。 天王
わかりやすく言うと仏教の話じゃないの?
テレビに出てきたりする人の事なのかな? ベニバナで纏向は6世紀になっちまうのか
(・_・D フムフム 276の>>674
大和説者って、「南→東」の嘘つきダマシのテンプレが言ってることしか言えないのな?。
進化できない老人。 276の>>680
そこまで落ちると大和説は終わりだよ。 畿内説がだしてきたネタをよく精査してみると
ブーメランとなって畿内説を否定するネタになるのは
よくあること。 ネトウヨが「クラウドワークス」を使って工作活動してたことが続々判明中 「ウヨ記事50円」「動画作成80円」「共産民進批判800円」★5
http://leia.2ch.net/test/read.cgi/poverty/1506104058/ 本当に畿内説は空っぽになったな。
もはや説として成り立っていない。 群馬県共催の地域貢献講座、シリーズ東国文化の第6回。
【骨子】馬は、5世紀になって朝鮮半島からもたらされた。
まず、ヤマト王権のお膝元畿内に入り、程なくして長野、群馬の地に入る。
群馬県立歴史博物館館長 右島和夫 276の>>805
大和説の脳停止ぶりが凄いな。
ほとんど嘘と悪口を、暇にまかせて一日中書き続けてる 。
倭国の別種の附庸国の旧小国の必死さが笑える 。 >>80
>奈良県生駒郡の藤ノ木古墳(6世紀)の石棺内に
ベニバナの花粉と顔料らしきものが発見されました。<
>>92
>ベニバナはこれまでは6世紀後半が国内最古で、今回は約300年さかのぼる。<
>> 122
>アカネで染色すると赤になる。 椿も近い色が出る<
(・_・D フムフム 纏向は6世紀だな (・_・D フムフム 九州説一強の状態は議論をする上でもあまり芳しくない アメリカ大陸はコロンブスによって15世紀に発見されたのだから東海岸にあるヴァイキングの遺跡も15世紀以降のものだ
と言い張るがごとき愚妹陋劣な人々なのだよ
九州説支持者は 276の>>807
小札革綴冑については、説明済み。
日本の小札革綴冑は、中国の小札革綴冑とはかなり違うから、中国製ではなく、
半島の小札革綴冑には似ているから、
列島側が、「渡平海北九十五國」で半島で手に入れたものからの模倣製作。
そして、列島側での出土分布は、
「西服衆夷六十六國」では、もう戦争が終わっているから、必要も出土も殆どなく、
「東征毛人五十五國」の将軍や兵士らの使用での出土が残った。 頭の良い人は気づいているよ、
象徴でも何でも良いけど、そういう存在を作ってしまった
実際は実在しないんだけど〜・・・作ってしまった 276の>>810
>小札革綴冑がトヨの朝貢時期に入手したのではないかと言ったのは福永伸哉さん<
福永は、「南→東」などの嘘つきダマシの・・・・?似非学者であるから、
何を言おうとも、信頼性が全くなく、価値がない。 ここまで読んで
畿内説は捏造で塗り固められた感あり 邪馬台国より後の時代の馬具があったからら邪馬台国が畿内だとから、詐欺だろ。 276の>>822
大和説は、もう、
「南→東」などの嘘つきダマシで、日本史を全部ぶっ壊さんと成り立ちようもない、
ってことでしょ。 畿内説
早く降参宣言しろよ
これ以上やると傷口が広がるだけ 276の>>836
反論できなくて悪口言うだけ。
大和説って終わってるね。 276の>>841
いや君のように、
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者であること自体が、生き恥なのだが。 276の>>844
>九州説は終わったと実証してるスレは ここですか?<
大和説は終わった、と実証してるスレは。
ここです。 キャノンサイエンスラボキッズから(キャノンの色の研究者らしき人の報告)
・
・
卑弥呼(ひみこ)は中国の. 魏(ぎ)の国王におくり物をしているのですが、
品物のひとつ に「絳青縑こうせいけん:赤い色. の糸と青い色の糸」があります。
この赤い糸は. あかね 色だったと考えられています。
あかね色は、. アカネという草の赤い根っこから作ります。 大和説の敗因はテンプレを信仰し一般人の感覚から逸脱してしまったこと 276の>>851
>さて卑弥呼を共立した人たちは当然ながら平民ではない。<
いや、30国の部族国家民だ。
>大きな力をもった豪族、あるいはその祖とも言えよう。 畿内ではそれを説明できる。
4世紀前半の崇神からおよそ5〜6世代前だ。中臣の天種子、忌部の天富、三上祝の彦伊賀都、物部の宇摩志麻治、
大伴の道臣、大久米も含まれよう。<
時間が経ち過ぎて、思想的な書き換えの多い「8世紀の記紀などの記載」は、それだけで半分×であり、
根拠にし難い。
>さぁ九州説で説明してもらおうか。 できないならもう消えろ、みっともない。<
さぁ、それなら、(不可知部分が殆どである)3世紀の全生存者の記録や情報を提示して、説明して貰おうか。
それができないなら、豪語する事を止めて、もう消えろ、みっともない。 276の>>853
不可知部分の存在を無視して、槍が降ろうと、
証拠は出さない、理由は言わない、史料からの帰納的推論をしないで、
何でも完全断定する。
それが大和説。 276の>>855
紅花でノックアウトされてたのを知って、大和説の・・・・ガキさん、発狂しちゃったのか ?。 276の>>860
>どうして九州説のおじいさんは前期古墳を4世紀末にできるの?<
4世紀末なんかにしていないよ。
1世紀近くズレてるよ。
285年の扶余の戦乱で、
扶余や東沃沮の「槨」部族や楽浪の幾つもの流民が、
伽耶や筑紫や吉備や讃岐や阿波や、
大和のホケノに渡来して来た、といってんだよ。 276の>>863
皇国史観教の「南→東」などの嘘つきダマシの詐欺師学者が作り、
皇国史観のキョクウの・・・・アホのガキが信じる 。
それが大和説 。 276の>>865
荒らしとウソ情報流ししかできない皇国史観の大和説のサギ学者や、
キョクウの・・・・アホは、
さっさと殺し合い戦争行ったほうが、
世のため人のため、かもね 。 276の>>902
まだ「南→東」などの嘘つきダマシの香りで、九州説が論破できると思ってる、
無脳のキョクウ・・・・ガキさんの醜態。
そういえば、何やら「川崎」がどうのこうのとか書いていた変な人間も、
結局は、朝鮮人差別宣伝の、キョクウの・・・・であったようだったね。 ヤマト政権の初代王が卑弥呼とは・・・・・
調子こいてやらかしたな 276の>>922
>三国の紀年鏡が出てる古墳を6世紀のものだとか でマカせのウソをつかないと
埒が明かないのが 九州説<
埒が明かなくて、
「南→東」などの嘘つきダマシや、「伝世論」を最初に言い出したのが、
大和説者なんだけど?。 >>1
> 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、
初期ヤマト政権の初代王墓と考えられる
・・・・・・・
箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、・・・・・< 276の>>923
>その変な呪文で、どうして畿内説が負けたりするの? 意味わかんないんだけど。<
魏志には、邪馬壹國や女王の都は、九州北岸の不彌國の南だ、と書かれているのに、
大和は、不彌國の東〜東北東の方向になるんだけど。 >>40
纒向遺跡の溝で見つかったベニバナの花粉や桃の種の放射性炭素年代測定は何でしないんだ? 276の>>938
大和説者は、「南→東」の理由を言わないし、逃げたまま。 このザラコクも、「南→東」の嘘つきダマシの・・・・アホの詐欺師。 畿内説って言うのは、倭王が大和朝廷だという思い込みの前提だけで
魏志倭人伝も後漢書も九州北部一月行の邪馬台国の紹介しかしていない。
史書は、ちゃんと読め。
うら付けとして隋書では、裴世清による東へ5月行の奈良までの日本国の記録が有る。
中国人による九州より東の畿内の記録は、隋書のこれが初出である。
邪馬台国と言う、中国人が見る事の出来た、参問倭地、九州倭人国の話であって
九州の30国程の首長国が連立した弱小国王の、邪馬台国についての話だ。
倭人伝には大和朝廷の王の話なんか出てこないよ。 >>158
>邪馬台国と言う、中国人が見る事の出来た、参問倭地、九州倭人国の話であって
邪馬台国と言う、中国人が見る事の出来た、参問倭地、其山有丹、阿波倭人国の話 @阿波 276の>>965
古田本は、
(記紀は半分根拠にして)、信頼性の非常に高い歴代中国史書群の史料事実からの、
確率の高い帰納的推論であり、
筑紫倭国なるものも、史料事実そのものであり、
元々、信頼性は99%以上である。 ま、ザラコク自身も邪馬台国が九州なんてこれっぽっちも思ってないんだけどな
目的は畿内説への嫌がらせ
皇国史観がどうとかの自分勝手な思い込みで
たまたまスレ見た何もわからない人間を一人でも騙せたらいいという考え >>159
中国人は九州上陸以降、瀬戸内海には入っていないって話してんだぞ?
四国は倭人国じゃなくて、東へ渡海千里の其南にある奇譚中の侏儒國である。
阿波は亜倭。 倭人の亜種の国だ。 阿保。
ちゃんと読めw 276の>>966
>古田一派は「出発と途中と到着」」の書き分けというウソダマシ説明法によって「糸島=伊都国」を唱えている。<
「出発と途中と到着」」の書き分け、は、
三国志における陳寿の「行程や旅程や行軍」などでの順次式の、
人類の常識的な原則であった。 276の>968
>古田信者のザラコクこそが「南→東」が嘘つきダマシだろ
北東にある国に行くのに東南陸行で正しいと言い張っている男だもの <
「東南」は出発の説明。
「陸行五百里」は、(倭人の案内に拠る)途中移動の説明。
「到伊都國」は、到着の説明。 >>162
村興しが目的で、本人も阿波説なんて信じてないと思うよ。 276の>>969
>那珂八幡って畿内系じゃん <
「大道」が何本もあり、
弥生銀座やハイテク工業地域状態になっており、
纏向の何倍以上もの広大な地域であり、
庄内も布留などの土器も、筑紫の胎土で造ったものでは足りず、
半島や西日本全域から搬入があり、
前方後円墳も那珂八幡などが列島で最も古いんだから、
筑紫が先行していて、大和などは伝搬模倣にしかならない。 276の>>971
>どっちにしろ九州説は詰みだけどな <
どっちにしろ、大和説は、
「南≠東」だけでも詰みだけどな。 276の>>983
大和説そのものがパチモン。
つか、ゲテモン 。 276の>>984
大和の豪族じゃなくて、
大和説そのものが、「南→東」の嘘つきダマシのパチモンね。 狗奴国が邪馬台国に勝って
さらにその後継勢力が東征したでいいんじゃないかなぁ? 276の>>985
>九州説では、2世紀末に卑弥呼を共立した人たち、
つまり豪族は誰なのか分からないという事で良いね?dt<
いや、魏志時点でも、30国に相当する共立豪族部族の国名が書かれてある。
>畿内説なら物部、中臣、忌部、大伴、久米、倭などたくさん説明できる。<
記紀は、倭國の存在や歴史を抹殺して盗用しており、
だから、筑紫倭國の豪族も、幾つも抹殺して、
沢山盗用している可能性が、十分ある。 ザラコク氏の情熱は一級品だ。
しかも前レスにまで返信するほど超几帳面な人物である。
そしてお孫さん想い。
素晴らしい人物であろう。
しかし誰にも欠点はある。
ザラコク氏は古田教徒(バカ)である。
つまりザラコク氏を一言で言うと、
情熱家にして几帳面、そしてお孫さん想いの心優しいバカである。 276の>>987
>2世紀末に卑弥呼を共立した人たちが後に全部絶えたなんて話があるわけがない。<
30国もあったんだよ。
>誰でも知ってる有名な豪族として残ってるであろう。 畿内説ではそれを説明できる。
九州説では説明できない。<
8世紀の「倭国の存在や歴史」を抹殺しようとした半分偽書の記紀などの記載など、根拠にならない。
客観性と信頼性の高い魏志の30国で十分。
>よりによって秦氏や蘇我氏ってwww もう降参しろ、アホ九州説www<
もう降参しろ、アホ大和説www。 >>172
いつもの罵声は良くないな
ベニバナぐらい論じてくれよ 276の>>990
>九州は入れてもらえなかった <
大和は、倭国の30国には、入れて貰えなかった。 A、又渡一海千餘里至末盧國(官略)有四千餘戸
濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆没取之
東南陸行五百里到伊都國(官略)有千餘戸
丗有王皆統屬女王國郡使往來常駐所
東南至奴國百里(官略)有二萬餘戸 東行至不彌國百里(官略)有千餘家
B、南至投馬國水行二十日(官略) 可五萬餘戸
南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月(官略) 可七萬餘戸
C、自女王國以北其戸數道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
次有斯馬國 次有(二十数国)
倭人伝における、A〜Cの文脈において、投馬国、邪馬台国と言う国名が唯一示される
Bの部分が前後の張政の旅行記であるA、Cの文と繋がらない事を理解する必要が有る。
Aは目的地、卑弥呼の女王国の首都と2万戸の奴国及び隣接所属村の不彌國であり
ここから出航して延々南に水行30日と陸行1月の南海上の邪馬台国に行く理由は無い。
Bの前には段落が有り、Cに書き連ねる詳らかでない国々についての前置きである。
投馬国は馬韓地域の事、邪馬台国は九州北部倭国の事。
投馬国は帯方郡から南水行20日の部分、
邪馬台国はさらに南水行十日の島々と九州北部一月行である。
中国においてこれは既知の国名、漢代から倭人国についての常識であったと考えるべき。
その上で読めば、B〜Cの関係は、まず把握している国体の全体を語った上で、
聴き及んだ九州北部の不詳の国々の当時名だけを示したと言う事が理解できる。 >>170
ヤマト王権が、九州北部の筑紫の日向から来たという起源を持つ以上、伊都国に都を置く倭国が再び狗奴国を統合した。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>178
乗っ取ったほうが統合したと考えたほうが合理的だろ >>179
末蘆国を起点に女王国まで伊都国経由で2000里、長崎の西周りで3000里
合計、周旋5000里 筑紫倭国600年の歴史(1世紀 倭王帥升〜7世紀 白村江敗戦まで)と
畿内倭国400年の歴史(3世紀 邪馬台国〜7世紀 壬申の乱まで)の
その両方の歴史を7世紀に「倭国の歴史」として足し算してひとつにしちゃったから
600年+400年=1000年の歴史になっちゃって
初代大王(神武と仮定)の即位がBCにまでずれてしまったわけだよね 神武東征は正統性の主張のために、ぶっこんだ神話でいいんじゃね?
実際は応神だったんだろ
狗奴国の後継が応神朝なんだろ >>184
白村江敗戦と邪馬台国は逆
畿内倭國とか初めて聞いた ※邪馬台国と言う、中国人が見る事の出来た、参問倭地、其山有丹、阿波倭人国の話 @阿波
>>162
>中国人は九州上陸以降、瀬戸内海には入っていないって話してんだぞ?
倭国(阿波)では、鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。
魏使が九州で留まっていようがいまいが、「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは確実である。
延々と無意味な論争は時間の無駄。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >.185
応神東征は神武東征じゃないだろ
応神東征が狗奴国の東征? >>95
大和説は、「南≠東」などに拠って末期症状。
大和説学者は、皇国史観の分裂幻覚妄想のキョクウの・・・・であり、バチモン。 白村江の敗戦→天智の近江王朝→天武東征
九州勢力を背景に畿内を取ったのが天武
だから九州系の神話を記紀に入れざるを得なかった >>187
記紀読めよ。
神武東征は筑紫の日向から出発するんだ。 天武政権とは筑紫倭國、唐、新羅の連合政権であった。 >>190
応神は九州北部、筑紫倭国の王だよ。
九州生まれの九州育ち。
それもほぼ福岡県。
宗廟だけ大分県だけど。 >>196
>忌部氏は祭祀と鉄鍛冶兼用か
「阿波の神様 大宜都比売」
大宜都比売、大気都比売神、大宜津比売神、大気津比売神)は、日本神話に登場する女神。
名前の「オオ」は「多」の意味、「ゲ」は「ケ」の食物の意味で、穀物・食物・蚕の女神である。
阿波忌部は、海部とともに日本各地に進出して、麻、穀を植え、
農業、養蚕、織物、製紙、建築、芸能などを伝えた祭祀族、海民族、産業技術集団。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 大宜都比売神(オオゲツヒメ)は、『古事記』に云う粟国(阿波国)の国神となる女神であり、
日本の養蚕・五穀の起源神、日本の偉大なる食物の女神、かつ日本最古の農業神である。 @阿波 >結局、奈良盆地には3世紀以前のものと断定できるものがほとんどない。
あるよ。
唐古鍵遺跡、大福遺跡、鴨都波遺跡、四分遺跡、平等坊・岩屋遺跡などなど多数。
しかし王墓がない。
これは前方後円墳を王墓と決め込んでいるからだ。
それならば3世紀以前にはない。
ただし、神のいた場所に墓域がある。
神とは神武を迎え入れた事代主神のいた場所、葛城だ。
下界を見下ろす高天原(御所市高天)にある高鴨神社の御神域(径百余歩)は明らかな人為塚。
高鴨神社社殿は孝昭天皇の頃に創建、 つまり人為塚はそれ以前のものだ。
孝昭天皇の頃とは3世紀中〜後半、トヨの時代だ。
これはもう偶然ではあるまい。
ヒミコこと事代主神の娘・ヒメ踏鞴五十鈴の墓はここだ。
http://goo.gl/nq8fJu 「天石門別八倉比売神社」の論社の1つである、阿波国一宮の [「上一ノ宮大粟神社」の御祀神は「オオゲツヒメ」という神様であるが、
オオゲツヒメ=御食津神=豊受大神
豊受大神というと伊勢神宮の外宮の神様だが、じつは外宮の神官「度会氏」は「忌部氏」の末裔。
元々は内宮、外宮とも、神官は忌部氏だったそうだ。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 北部九州は、九州南東部(日向)と吉備の勢力に征服されたんだよ。
神武東征は誇大な表現だが、足跡は事実に近いんだろう。
九州北部を支配下に置いた後、吉備に従いヤマト征伐。 >倭国の30国
それヒミコ共立とは関係ない。
今で言えば47都道府県と同じ。
総理の交代は永田町での話。
卑弥呼の共立も王都での話。 >>194
それが北部九州だなんて変な説を言ってるのは古田派だけでしょ
泡沫説だな 今の自民党にも派閥があるよね。
それと同じでヒミコの近辺にも後に豪族と呼ばれる一団、血族がいた。
九州説ではその豪族が全く説明できない。
加古川の75歳のハゲが言った、
>倭国の30国
は何の意味もない。
永田町での総理擁立の話なのに「今の日本には47都道府県がある」と同じ事を言ってるのだから。
やはり加古川の75歳はただハゲているだけのバカであった。 日本は出雲の昔から、地方から神様が寄り集まるんだろ >>211
そうだね。
ちょうど卑弥呼の時代に神様が寄り集まってるね。
神武・タギシミミ父子、ニギハヤヒとウマシマジ・天香久山父子、
忌部の天富、中臣の天種子、三上祝の彦伊賀都、大伴の道臣、大久米などなど。
なんでか分るかい?
女王の婿になろうとしたからだ。
実際は神武東征など猛々しいものではなくて、
一匹の雌を巡って争うオス猿と変わらなかったのだ。 >>126
アメリカ大陸はコロンブスによって15世紀に発見されたのだから、
東海岸にあるヴァイキングの遺跡も15世紀以降のものだ
と言い張るがごとき愚昧陋劣な人々なのだよ、
大和説支持者は。 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>200
さすがドルイド神官忌部氏(詳細はドルイド忌部氏で検索してね >>158
>うら付けとして隋書では、裴世清による東へ5月行の奈良までの日本国の記録が有る。
中国人による九州より東の畿内の記録は、隋書のこれが初出である。<
隋書に、九州より東の「日本国」や「畿内」の記録は、ないよ。 >>202
鴨厨は減災の悪魔の万二千里の質問に答えてやれよ 隋書の3月行、5月行は九州本島のことなんだ(ザラコクはからむでない >>170
>狗奴国が邪馬台国に勝って<
そんな記載は、どこにもないから、×。
>さらにその後継勢力が東征したでいいんじゃないかなぁ?<
後漢書の記載は、「拘奴國」であって、「狗奴國」ではなく、
後漢書自体が、前史書の記載を「高慢な自己解釈に拠る誇張的書き換え」を沢山やっている半分×書であるから、
根拠にはし難い。 >>217
神官は仕える者のはずなのに阿波は何回裏切れはいいんだ? >>178「
>ヤマト王権が、九州北部の筑紫の日向から来たという起源を持つ以上
、伊都国に都を置く倭国が再び狗奴国を統合した。<
「ヤマト王権」と、狗奴国を結び付ける史料はない。
後漢書は、「高慢な誇張癖で前史の書き換え」のある半分偽書であり、
「自女王國東度海千餘里至拘奴國、雖皆倭種、而不屬女王」の「千餘里」は短里で書かれているようであるし、
「拘奴國≠狗奴國」であるから。
「短里」で書かれており、 >>215
と言う証拠は?
なんにも無い
九州説は脳内から出て来た自分の思想を演説してるだけ >>224
>「ヤマト王権」と、狗奴国を結び付ける史料はない。
だからこそ、狗奴国はすぐに倭国本体に吸収されたということだよ。 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【東遷説の主張のまとめ】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された どうも気になるが、「東遷」という造語は、王が国ごと引き連れて移住するって
事だよな?
神武記にみる一行の勢力は、せいぜいが大隊クラスで、それも各地を流浪の旅w
客分として屯田でもしながら移動した風情でしかない。如何に長髄彦がエリアの
王として強力であっても、九州勢力を挙げての攻撃なら流石にひとたまりもない。
鉄器の優勢だけでも、圧勝するよ。
それが、実際は兄二人を失い遙か僻遠の熊野まで落ち延びたんだよ。
統一国家で例えばレコンキスタの後カルロスが首都を移すってのとは訳が違う、
弥生の王=大稲作地帯をそのまま残して攻め取りで敵地に遷都するなんて、あり得ない。
当然鉄やその他の資産設備や人口も残していくわけだろ?後は誰が支配するんだい?
実際は、王族の一部か、九州で芽が出ない一族が新天地「うまし国」を求めて出ていった
って程度の話だよ。 >>219
>減災の悪魔の万二千里の質問
何それ、知らんわ。 >>225
>須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
>>215
>>と言う証拠は?
>>なんにも無い
>>九州説は脳内から出て来た自分の思想を演説してるだけ
何の根拠を聞いてるんだ?
須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について
先ずは畿内説として説明すべきだろ? 狗奴国が応神朝なんだよ
正統性を主張するために記紀神話の作者達がプロトタイプの神武東征を作ったんだろ
そもそも狗奴国に邪馬台国が勝ったなら何も隠す必要ないもんな 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣秀吉の淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の辺縁であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 >>1に代わって答えよう。
>金印や
まさか国宝だから本物で正しいとは思ってないだろうね?
あれを国宝にしたのは昭和6年満州事変の年。
強い政治的思惑があったのだ。
>八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
崇神が手元に置いてて放逐した鏡ね。
あれは物部の祭器。
崇神はお母さんが物部のイカガノシコメ。
だから「曾根」遺跡群の平原から同じものが出た。
曾根の語源は不明だが池上曽根遺跡(二田物部)や中世の武家曾根氏など、
物部と強く関わっている名称だ。
平原は防人集団モノノフの墳墓であろう。 >まさか国宝だから本物で正しいとは思ってないだろうね?
本物だね 一つこのスレの功績をあげるとすれば九州説を洗練させたことだな 卑弥呼登場までの王墓は筑前にのみ存在する。
筑後は祇園山古墳がギリギリ3世紀後半から4世紀前半。
肥後は5世紀になってから。
肥前豊前などは筑前に近すぎるがために早期から衛星国となり、
支配者は筑前に在住していたのだろう。
考古学的には、各地に王が乱立して、次第に統合されたのではなく、
筑前に王が出現し、筑前から各地を併合して支配官を配していったことが明らかである。
九州説者がよく指摘する
「其國本亦以男子為王 住七八十年」
は非常に重要な情報である。
邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い。 >>236
金印は江戸時代から知られていたのだから、そんな屁理屈が通るわけない。 「大都市の江戸が現在の東京に出現して江戸時代が続いたのだから
江戸幕府は東京だった!」
「うん、そうだね」
「じゃあ、江戸を作ったのは誰だったんだろうね」
「江戸に決まっている」
「じゃなくて、江戸はその直前までど田舎だったでしょ?
それまでの関東最大だった小田原城も滅亡してるし
外部から誰かが来て江戸を作ったとかは?」
「ゴミクズ!」
「初代大名の徳川家康はどこ出身だったんだろう?」
「総花的に江戸に決まってるだろゴミクズ」
「岡崎に幼少時の竹千代伝承が集中してるんだけど」
「出た!得意のダニ的解釈www
岡崎城は徳川家臣の城であって徳川家とは無関係
むしろ服従する立場だった
江戸時代を勉強しなおしてこいゴミクズwww」 >>188
>倭の五王は河内が根城だろ<
倭の五王は、「東海姫氏國」とされており、
松野氏姫氏系図にも五王の名前が直接書かれているから、
筑紫の倭国王だよ。 >>204
>北部九州は、九州南東部(日向)と吉備の勢力に征服されたんだよ。<
ダメだよ。
倭奴國の後裔の倭国は、白村江の後まで、盟主であったんだよ。 >>238
罵倒じゃなく、適切な批判してくれる時は有難いんだよな
近頃は鋭い突っ込みも余りないな
批判されるとそこを見直したり深く調べたりするからな。 >>207
>>倭国の30国<
>それヒミコ共立とは関係ない。 今で言えば47都道府県と同じ。
総理の交代は永田町での話。 卑弥呼の共立も王都での話。<
卑弥呼共立に承知しなかったのは、狗奴國だけだよ。 >>209
>それが北部九州だなんて変な説を言ってるのは古田派だけでしょ 泡沫説だな<
唐書も、神武東征は、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れて大和州に移った、と書いている。 >>210
>>倭国の30国<は何の意味もない。<
魏志の記載では、共立諸豪族國。 >>230
>実際は、王族の一部か、九州で芽が出ない一族が新天地「うまし国」を求めて出ていった
>って程度の話だよ。
根本的に間違いです。九州から新天地「うまし国」を求めて出ていくような、大スケールの話ではありません。
単なる、倭国(阿波)国内での「阿波市周辺(西)→鳴門市周辺(東)」への征討物語なんですよ。 @阿波 >>239
男王の国(筑紫)が80年続いたが乱が起き、新しく邪馬台国の卑弥呼が女王になったって書いてるじゃん
首都が移動したってことでしょ >>242
「ワカタケル」の鉄剣が熊本と埼玉から出てる
畿内から東西制覇を成し遂げた大王
ワカタケル=雄略=倭王武
ちなみに倭の五王に先行して4世紀の鉄剣から「倭王旨」の名前が見付かる
倭王旨→倭の五王と続くと考えると4世紀から5世紀は畿内優位で九州は属国
邪馬台国(畿内)の属国として伊都国が記述されてる3世紀の状況が続いてることがわかる >>241
キナイセツくんの頭のおかしさがよくまとまってるわw >>243
盟主は逐次交代してるよ
畿内の内部でさえ盟主交代はある 伊都国の説明に「丗有王」「魏の治世には王(女王卑弥呼)いた」とあるから
卑弥呼が女王の時の都は伊都国なんだよ。 >>250
「ワカタケル」の鉄剣とかどこからも出てないよ 金印が偽物であっても後漢が倭奴国に印綬した記録は有る。
後漢書の倭奴国は、北部九州連合の極南界にあり
九州30か国の世襲王による首長国連邦の共立王の居住する邪馬台国の砦が有る。
これは、魏志の南に狗奴国と接する女王国南限の女王の居住する砦と一致する。
漢の倭奴国王=邪馬台国王であり、魏においての親魏倭王=女王卑弥呼は
この九州北部の世襲王による30国の首長国連邦の代表であり、共立王は世襲制ではない。
こんなものを、畿内の王として皇族の墓に卑弥呼を探す考古学は間抜け以前に不敬である。
漢以降魏においても、中国は対馬フロントである九州の使訳を通じる30国しか知らない。
中国の使者が瀬戸内海へ入り、東へ5月行の範囲内の畿内へ入るのは
600年以降であり、畿内からの遣隋使帰国に同行した裴世清による記録が最初である。
ただし裴清は皇帝の命で来日し、皇帝の威厳を保つ使命が有り
それは隋書の成立趣旨でもあり、虚偽の報告及び記載をしている事実を見逃してはならない。 筑紫王朝
金印倭奴国→帥升倭国→(倭国大乱により覇権を失う)→伊都王国(邪馬台国の属国)→7世紀まで筑紫君(筑紫の君主)として王統が続く
畿内王朝
邪馬台国→倭王旨→倭の五王(九州から関東まで征服)→飛鳥蘇我氏王朝→近江天智王朝→壬申の乱
筑紫王朝と畿内王朝は前方後円墳を共通墓制とする兄弟国
政略結婚を含めた交流をしながら、互いの王統の皇位継承権を共有していく
最終的には畿内王統の皇位継承権者であり、九州王統の庇護を受けた天武が王統を統一し日本国として一元化
これを記念して互いに分断していた年号をリセットし、「大宝建元」を行う >>249のレスを読むと、
もはや幸福の科学会員のように感じるのはわしだけであろうか。
彼らは「大川隆法の言う事は絶対正しいのだから」で始まるからね。 >>256
200年ほども違う別の時代の話を一緒に混ぜて空想しちゃうんだね
さすが九州説
歴史の感覚に欠けてるわ >>239
>邪馬台国の比定地は、卑弥呼登場に伴って突然王墓など栄える場所ではなく、
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地なのである。
それはその通り。
まったく賛成。
卑弥呼以前からの男王の存在を説明できない纏向遺跡は論外。
>その条件を満たす場所は、
三雲南小路→井原鑓溝の男王墓から、
平原女王墓へと連続する伊都のみである。
邪馬台国とは、伊都を首都とする北部九州〜対馬海峡国家であったことは
考古学的にも文献学的にも疑う余地が全く無い<
いや違う。
平原には狐塚古墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳など4世紀から5世紀の小さな古墳があるではないか。
君たちは何故かその話を意図的に避けてるね。
つまり平原墳墓を含め、2世紀から5世紀まで平原を支配した小さな領主の墓群としか説明できない。
だから地元に何の伝承も謂れもないわけだ。
その程度の小さな領主が倭国王などとは身の程知らずにも程がある。
卑弥呼以前からの男王の存在を説明できるのは葛城しかない。
大和朝廷に発祥地であり神武以前に出雲系王権があった。
高天原(御所市高天)にはその王族の代々墓らしき御神域(径百余歩)もある。 伊都国の説明に「丗有王」「魏の治世には王(女王卑弥呼)いた」とあるから
卑弥呼が女王の時の都は伊都国なんだよ
伊都国で邪馬壹國を治めてたんだよ
倭人伝には北部九州のことしか書かれてないんだよ。 >>263
「魏の治世には」ってウソやん
最初からコケとる 新唐書に、
「次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。」
日本国は、用明天皇(多利思比孤)が初めて中国(隋)と外交を始めた、とあるね。 >>264
嘘とか言われても何も反論は無いけどね。
世有
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の治世には増減があったでもOK
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についていて、これも魏の治世には冠をつける役職についていてでもOK
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の治世の王が、と訳すのが適当。 >>260
混ぜてるのは後漢書と魏志であって
後漢書に邪馬台国は後漢が印綬した倭奴国の王都とある。 >>264
その世、その当時の意味でokだから間違ってはないかな
倭人伝の内容の中心は卑弥呼〜トヨの時期でいいから大体あってるね >>267
魏の治世にって訳す例がひとつも無いではないか >>265
>>266
隋、唐は北方異民族の国だからそれまでの日中関係を知らない 記紀でいつも話題替えするね
畿内説は
記紀神話はいかようにもなるからね
テンプレ読めよ
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、
考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。 >>273
激しく同意
畿内説は
紅花について、一切反論なし
6世紀で決定でいいの? >>226
>>「ヤマト王権」と、狗奴国を結び付ける史料はない。<
>だからこそ、狗奴国はすぐに倭国本体に吸収されたということだよ<
その倭国が、九州の東海姫氏國であれば、OK。
狗奴國の姫氏の一部が判れて、「紀氏」や「木氏」などとなった可能性はあるが、
松野氏姫氏系図では、
熊襲姫氏王家の狗奴國本体は、卑弥呼の後裔の姫氏と再合同している。 >>274
こんなふうに考古学を無視し
文献を歪め
理由も言わずに九州九州と騒ぐトンデモばかり
終わってる >>270,>>272,>>275
自夫人以下 世有搗ケ
夫人以下の妃の扱いについては、魏の治世には増減があった。
今汝先人 世有冠冕
貴方たちの先祖は、魏の治世には冠をつける役職についていた。 >>229
>畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】 (>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【東遷説の主張のまとめ】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された<
「南≠東」であるから、どちらも×。 FAQ22
A桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
↓
これで行くと、長い間桃の種は捨てられていたことになる。
巻向遺跡=邪馬台国の王都ならば、最大値で西暦110年から620年
誤差が有りすぎるので、あまり信用度が高いとは言えないな >>277
逃げんなよ
理由は書いてある。
前スレあたりから、ここまで目を通す事 メッ! >>281
原理がわかってないね?
数学の意味がわからないんだろ? キウスは論理的な思考能力が欠如しているから
まともな議論ができない >>282
理由が言えないんなら
九州説は即敗退でしょ >>286
キナイセツくんがいつまでも納得しないだけでしょ 後漢書
自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國
國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)
楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里
倭人伝の「丗有王」が判んなくても
30国にそれぞれ世襲の王が居て、それを代表する大倭王が邪馬台国に居る
と言う国体は後漢書で判る。
卑弥呼が立つ前はこの継承権争いで国が乱れたのだから
この国体は数代続いていたであろうし、大倭王は世襲制ではない。
卑弥呼の死後も同様であり、
帯方郡の役人ごときに軍事顧問を依頼するような弱小国に
持続可能性があるとは考えられない。
この邪馬台国には東遷する力も無ければ、時系列的に東方平定の可能性も無い。
300年以降日本は韓に進出し、
高句麗との戦争に加担し百済新羅を建国させ
百済に道を創り400年には高句麗馬の移入を完了している。
400年、倭の五王は半島利権の交渉の為、南朝に出向いている。
記紀神話と半島に配慮した明治政府と戦前戦後の御用学者が
邪馬台国論争だのロマンだのと偽装しているだけだ。
史実は有史の中国史書だけでも明白。 花粉のAMS年代測定
試料の必要量(推奨量) (より少ない量でも測定可能です – 詳細はご連絡ください
(ご連絡先)
北米機関(本社)
Beta Analytic Inc.
4985 SW 74th Court
Miami, Florida 33155
USA
Tel: (+1) 305-667-5167
Fax: (+1) 305-663-0964
E-mail: lab@radiocarbon.com 花粉のAMS年代測定 (連絡先)
日本
Chikyu Kagaku Kenkyusho Corp.
1-608 Ueda-Honmachi
Tenpaku-ku
Nagoya 468-0007
日本
Tel: (+81) 52 802 0703
Fax: (+81) 52 805 6383
Email: sumi@radiocarbon.jp >>278
なんでそれが魏の治世なんだ?
理由は? >>267
漢代に王がいなかったら
伊都珍説即死だよ >>295
やっぱりウソか
理由が言えないんじゃダメだな 花粉のAMS年代測定 (連絡先)
日本
株式会社地球科学研究所
〒468-0007 愛知県名古屋市天白区植田本町1丁目608
電話番号
052-802-0703 列島内に自生せず、古墳時代後期に外来してきたと考えられていた紅花が、
3世紀に比定される土層からその花粉が大量にみつかった、
というところが学問的に重要な意味を持っていることになるんだか、
紅花は6世紀の移入だから纒向の花粉もそれ以降!
なんて主張で論破した気になってるカキコを見ると、九州脳には理解できなかったようだな >>298
脳がないの?
「魏の治世には王がいた」って言うんだから
漢代には王はいないんだろ? >>303
男王がいたと書いてあるじゃないか。
屁理屈こねるなよ。 >>308
倭国大乱の前、70〜80年は伊都国に男王がいたと書いてある。 >>307
何もって、何のこと?
いつも九州説じじいの言うことは
具体性ゼロだな >>306
そんなに理由聞かれるのが怖いの?
九州説には、なんにも理由が無いって
告白しちゃったね >>271
軍事的に半島と繋がらない南朝と半島利権交渉してた日本は
北朝による統一で600年以降の遣隋唐使外交に切り替えた。
アメノタリシヒコが用明天皇って、なんで漢風諡号なんだ?
漢風諡号の記紀読んでも推古帝は用明天皇にはならんだろ?
テキトウこいてるw ってか、ソース出てほしいね、天皇記とか?
記紀なんてもんが聖徳太子が即位してた事実を消してるとしても驚かんよ。
新唐書って成立遅すぎだし、日唐外交900年で終ってる。 >>309
じゃ、「魏の治世には」って言ってたの
ウソだよな >>312
九州説はそういうエーカゲン情報だけが頼りなのさ >>250
>「ワカタケル」の鉄剣が熊本と埼玉から出てる 畿内から東西制覇を成し遂げた大王 <
熊本は銀象眼だから部下だし、埼玉は陪葬に礫床の陪臣だし、
どちらも、「大王」ではない。
>ワカタケル=雄略=倭王武<
ワカタケルとも、読めないし、倭王武もワカタケルではない。
>ちなみに倭の五王に先行して4世紀の鉄剣から「倭王旨」の名前が見付かる
倭王旨→倭の五王と続くと考えると4世紀から5世紀は畿内優位で九州は属国<
倭王旨と書かれた七支刀は、
久留米付近の「こうやの宮」の桐の御紋の王に贈られたものだから、
倭王旨は、久留米の東海姫氏國の倭国王。
それも、高良大社の初代玉垂命(女性)の弟王のであったらしい。
>邪馬台国(畿内)の属国として伊都国が記述されてる3世紀の状況が続いてることがわかる<
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の(倭国の)附庸国の旧小国 。 本人以外だれもそう読まない超解釈と
出どころ不明のニセ史料
九州説の根拠は
そんなもんさ >>315
>ワカタケルとも、読めないし
読めないって理由は? ・倭王武≠雄略天皇≠獲加多支鹵大王≠倭王武
・倭王武=雄略天皇=獲加多支鹵大王
・倭王武≠(雄略天皇=獲加多支鹵大王)
・(倭王武=獲加多支鹵大王)≠雄略天皇
・(倭王武=雄略天皇)≠獲加多支鹵大王
どれ? >>295
ほらよ! ここ読め
PART276の
>>250,275,296,308,321,324,352,
現スレの
>>80,82,84,86,92,102,104
今回限りだぞ、これからは自分でさがせ それにしても「鯛や鮃の舞い踊り」だよ
すり替えが行われたのかな、
知らぬ間に北朝鮮の「喜び組」の話になっていない? >>241
これは適切な例え。素不倫衛人は見習うように。 >>317
読める理由が何一つ無いんだから読めないんだろう 畿内説のオーム返しが増えてきたなWwwww
オーム返しは論じゃないし、逃げてるだけだから
まず、嘘なら「それは、ウソだな、○✖◎✖だ」と○✖で論を述べる事 >>319
それが何の理由?
やっぱり九州説はウソまみれだな >>321
関係ねーよ
スレ主とそれに追随する奴が騒いでるだけ。
もう、論破済み 世有が魏の治世にって意味だとか、
ウソ八百だったしな。 >>258
>畿内王朝
邪馬台国→倭王旨→倭の五王(九州から関東まで征服)→飛鳥蘇我氏王朝→近江天智王朝→壬申の乱<
卑弥呼や倭王旨や倭の五王やタリシホコや白村江までは、筑紫倭国王朝であった。 >>303、>>313
「魏の治世には王がいた」だから
漢代のことは分からない
いたかもしれないし
いなかったかもしれない
「魏の治世には」で正しい。 オームじゃない、オウムだ。
畿内説は日本語も知らないのか。 >>319
その何処にも理由が書いてない件について どっちにしても、伊都国が王都であることには変わらないじゃないか。
なにを畿内説は駄々こねているんだ? 訂正
>>297
ほらよ! ここ読め
PART276の
>>250,275,296,308,321,324,352,
現スレの
>>80,82,84,86,92,102,104
今回限りだぞ、これからは自分でさがせ >>334
またウソついた。
誰がいつ証明したの? >>312
>アメノタリシヒコが用明天皇って、なんで漢風諡号なんだ?
>漢風諡号の記紀読んでも推古帝は用明天皇にはならんだろ?
用明天皇=アメノタリシヒコ=聖徳太子=蘇我馬子 >>335
つまり「魏の治世には王がいた」は嘘だな。 >>336
親切に過去ログからレスを探してもらっても、知らぬ存ぜぬを通すのか。
畿内説の印象がますます悪くなるだけだぞ。 >>326
時間的に
読んで無いな!惨めよのー!
反論も出来ず、惨めよのー! >>318
>・倭王武≠雄略天皇≠獲加多支鹵大王≠倭王武
これです。 >>327
前のスレで読めないで終わってるのに
読めるとする理由が知りたいな? >>340
だから、多利思比孤がいた筑紫倭国と、用命がいた奈良盆地は関係がないということだよ。 >>315
ワカタケルが部下に送った鉄剣だから問題ない >>342
結局最後まで理由が言えない九州は
死んだも同じ。 倭武尊ならヤマトタケル皇子、倭王武なら雄略天皇とか、適当すぎないか?
どちらか、もしくは両方とも嘘だろう。 >>347
理由もなく読めない読めないって騒いでたら
終わりでしょ、トンデモ読めない説が >>259
>レスを読むと、 もはや幸福の科学会員のように感じるのはわしだけであろうか。
彼らは「大川隆法の言う事は絶対正しいのだから」で始まるからね。<
レスを読むと、 大和説者は、もはや、
幸福の科学会員やオーム信者やISイスラムや北朝鮮のように感じる、
のはわたしだけであろうか。
彼らは、「安部政府や文部省や権力学者や右翼宗教マスコミらの言う事は絶対正しい」のだから、
で始まるからね。 >>350
なにも理由を示せてないのは畿内説だろ。
畿内説のスレなのに畿内説について誰も語らない不思議。 >大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国
中国史書は皇帝の威厳を保つための虚偽を記すし、
皇帝の命で来日した使者は皇帝の命を果たした、と嘘を言わないと死刑になる。
中国皇帝が倭王として冊封した倭奴国が大和に滅ぼされている事実は言えない。
裴世清の来日に、日本国は日出処の天子としての態度を崩していない。
筑紫城って、筑紫は大和朝廷側が筑紫の君の姓を与えた訳で
大和朝廷の律令制を背景に生まれた地名じゃないかな。 後付け乙w
姓は阿毎、名は多利思比孤 日本の天皇は 天の垂らしし彦 の末裔である。
これを報告したら、使者は外交的に無能である。 裴世清は嘘つき。
小野妹子も皇帝の返書を捨てたけどねw ひでぇ外交である。 >>352
読める証拠が一切提示されて無いんだから読めないで終わりだろ
読めると主張するなら読める証拠をきちんと出せば良いだけ >>331
倭王旨の鉄剣は奈良の石上神宮から出てる
九州は通り道にすぎない >>302
>列島内に自生せず、古墳時代後期に外来してきたと考えられていた紅花が、
>3世紀に比定される土層からその花粉が大量にみつかった、
>というところが学問的に重要な意味を持っていることになるんだか、
>>82
>朝日新聞
>卑弥呼も使った?古代の赤 ベニバナ花粉が大量出土2007年10月15日
>
>桜井市教委の発表をそのまま記事にしただけ
>また、金原正明・奈良教育大准教授(古環境学)は土壌分析しただけでその土壌が3世紀と比定していない
土壌が三世紀と比定してない、ということなので
3世紀の土層から見つかったというのは>>302さんの誤解でしょう。 >>260
大和説者は、
50〜100年ほども違う別の時代の話や、
筑紫と大和などという全く違う場所の話を、
一緒に混ぜて空想しちゃうんだね 。
さすが皇国史観狂の大和説。
歴史の感覚に欠けてるわ。 >>360
筑紫城は、中国側が筑紫高千穂宮を書き換えただけだよ
元ネタは日本書紀だ
意味がない >>362
読める証拠が一切提示されて無い
って証拠は? なぁ、畿内説では「世」はどう読むんだ?
その当時、つまりほぼ魏の世で意味はあってると思うが?
前後の文の時系列的には、当時の事の説明としか読めない
畿内説では「世有王」の文はいつの時代の事かね?
意味的に何か明確な反論があるのかい? >>262
相変わらず、半分×書の記紀を根拠にし、
客観性も信頼性も非常に高い歴代中国史書群の記録や史料事実を否定し、
理由もなく言い張るだけの、
大和説。 >>364
それは大ウソだな
>>82は金原が比定してないと言っただけ。
古環境学は土壌分析が仕事だから、やらなくて当然。
誰も土壌が三世紀と比定してない、と言ったら
真っ赤なウソね。 >>371
キナイセツくんには自分の頭で考える能力がないからダメだよ
この頭のおかしいキナイセツくんがいつから住み着いたのかわからないけど
本人の中にあるマニュアルみたいな物に従って、結論ありきで言い張ってるだけだもん
それを数年にわたって続けてるんだから頭がおかしいとしか思えない
持論に特に根拠もない 世有=代々 って解釈だってキナイセツくんのなかで特に根拠があるわけじゃなくて
「俺のなかでそう決めて、それをさんざん言い張ってきたから、今さら修正できない」
ただそれだけで言い張り続けてるんだけだもん
数年間もこのスレで発狂し続けてる >>379
「その当時」と読む例もいっぱいあるよ
なぜ「代々」のほうを選んだのかな? >>381
キナイセツくんのことじゃん
反論できないと「悪口言われた!」
子供か >>378
そういう妄想こそが、発狂してる証拠では? 発狂するしかなかったんだと思う、
残された道は、発狂か死か >>388
テンプレ?スレ主の妄想がどうかしたか? >>266
>>新唐書に、 「次用明,亦曰目多利思比孤,直隋開皇末,始與中國通。」
日本国は、用明天皇(目多利思比孤)が初めて中国(隋)と外交を始めた、とあるね。<
>朝貢は、黒歴史だから 当然だな <
これも全くのアホだね。
新唐書は、客観性や信頼性の高い中国側の朝貢記録であり、
大和日本国側の記紀の記録にはない、
んだよ。
だから、大和側にとっての「黒歴史」にはなっておらず、関係もない。 学会ではもう畿内説で決まり
なので九州説はせめて一般人を騙そうとしている >>373
言ってることはその通りだけど
それなら金原さん以外で
その3世紀の土層で、って言ってる土壌分析した学者さんは誰なの? 「加」をカと読んでよいことの確認を求めた人が
返答をキョヒられたから。 >>383
>反論できないと「悪口言われた!」
という証拠は? >>377
前後の文は当時の伊都国の事を説明してるのは明確だろ?
逆に他の読み方があるのか? >>382
魏の治世でも代々でも意味は通じるんだよな
つまり代々と訳した場合でも魏の治世内での代々の意味だよ。
>>384
明示?
見た覚えがないですけど?
>>386、>>387
反論出来なくなると罵倒w >>399
理由もなく明白だとか言い張ってもダメだろ >>399
すべての和訳者がお前と違うこといってるよ >>401
の治世でも代意味は通じる
という証拠は? 魏の治世に王がいたじゃ
魏以外の時は居なかった事になるじゃねーか >>401
おいおい
魏の治世で意味は通じる
という例が
ひとつでも有るのか?
無いぞ! 岡上は、自分が一番偉いと思っている
研究者が主張していない事柄も、自分が主張すれば確定事項になるし、
研究者が主張していても、自分が同意しなければ、間違いだとする
救いようのない頭のビョーキです 別に妄想と思われても良いけど
この曲も、そうだったの?そうなったの?みたいな曲だよ
『帰らぬ夢を叫んでいるようさ』 >>407
何回も出てるだろ
キチガイ野郎w
自夫人以下 世有搗ケ
夫人以下の妃の扱いについては、魏の治世には増減があった。
今汝先人 世有冠冕
貴方たちの先祖は、魏の治世には冠をつける役職についていた。 橋本さんが見つけた一片の土器で3世紀と判断してるんだっけ
少しあやうくないかね >>402
時系列の話だよ?
理由としては前後の文が当時の事であるだけ充分
王は一人でも複数人でも解釈okだが、あくまでも「当時内」だから、2〜3人ぐらいだろうね とうとう出土遺物による時期判定にすらいちゃもんをつける九州脳 >>412
それはむしろ代々と訳した方が意味が通じるんじゃ >>271
>隋、唐は北方異民族の国だからそれまでの日中関係を知らない<
いや、過去の史書や文書や、遣使の往来対応の記録が残っており、
だから「それまでの日中関係」は十分知っており、
だから、歴代中国史書群が揃って「世與中國通」として、
倭奴國から倭国の朝貢遣使が継続した事を記載し、
倭国→日本国に権力中心が移った時の日本国使節が、
「其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉」とまで、
不審を買ってしまった。 九州説は考古学を完全否定することにしたらしい
…そうすると弥生中期における九州の先進性も主張できなくなるけどな >>367
示されて無いからだろ
ちょっと小学校からやり直した方が良いんじゃない? >>412
それが「魏の治世には」って訳せる根拠が何もない件について。 FAQ22はいいこと言ってる
>これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、
後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう<
つまり、炭素年代法を「信用した場合」・・・・との前提としているところは共感がもてるね。 >>277
こんなふうに、大和説者は、
考古学を無視し、 文献を歪め、
理由も言わずに大和とか畿内とか騒ぐトンデモばかり。
終わってる。 >>365
>>366
日本神話の天孫降臨が筑紫高千穂宮の阿毎氏
倭奴国が筑紫城の阿毎氏で漢や魏の皇帝の冊封を受けていたが
大和はそのまた附庸国の小国だった国 ってこと?
>筑紫と大和などという全く違う場所の話を一緒に混ぜて空想しちゃう
のは、中国の記紀神話の読み方のことだろw
記紀神話の天皇が九州発祥ってデタラメは何故なんだ?
漢や魏の冊封国から始まりたいのか?
ああ、だから邪馬台国は大和じゃなきゃダメなの?
それ無理、神話書いた奴死刑だなwww
でも一応、高千穂は九州北部一月行の邪馬台国ではない。 セーフ? >>415
王が複数人なら、続く「南南の島」とはその伊都国王のことだから、代々の伊都国王が女王国の部下である。 >>417
昔石野さんがラジオで言ってたよ。
かなり前だから、あれから更に証拠が出てきたのかもしれんが。 >>280
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
半分偽書の記紀は持ち出すし、」
どうしようもないな 、」 >>429
変換間違い
>王が複数人なら、続く「皆」とはその伊都国王のことだから、代々の伊都国王が女王国の部下である。 >>401
魏の治世でも意味が通じる
という理由は? >>423
翻訳に根拠?
意味が合ってるだろw
じゃあ代々って訳せる根拠は何なんだい? >>433
「みな」と打ったら予測変換ぜ変なん出ちゃった かなり前の話になるんだけど
tvk(神奈川)で『フラカッパー』というアニメがやっていた >>284
>桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある
>原理がわかってないね? 数学の意味がわからないんだろ?<
桃核の一つが、110〜245年位であり、
もう一つの桃核が380〜550年位のものであった、
というだけであり、
土器付着炭化物の数値群は、高温化やプラズマ化を経ているから、
始めから2〜3割位古い年代になってしまっていて、根拠にはなり難い、というだけだよ。 >>438
意味が合ってないような気がするんだjけどなぁ
魏の治世に夫人以下の后の扱いに増減があったって
魏の時代は差別主義か?
代々とした方が意味が通るぞ >>440
タイプが早いと、通信速度問題でカクった時ハズレの選択肢が出ちゃうことあるね。 >>445
前後の文から訳してみろよ
魏の治世に夫人以下の后の扱いに増減があったの方が適切だよ。 >>445
それ、正解。
代々(の代ごと)って転じた例だね。
しかも魏国公の時代も入ってるから「魏の治世に」ではあり得ない。 >>286
何がどう問題なのか?の論点や、史料事実の理由が言えず、
言葉尻口先の誹謗だけでは、
「南→東」の嘘つきダマシの場合と同じように、
大和説は即敗退、
になりますよ。 主張はするが、その理由は言えない
そんな九州説って、誰が信用するの? >>450
漢でも隋でもなくピンポイントに魏の時代だけ?
それより夫人以下の后の扱いは代々増減があったの方が
それらしい 結論を連呼するだけ
理由は口が裂けても言わない
それが九州説 王者九州説のタフな再批判に尻尾を巻くしかなかったというのがこのスレの流れ >>460
漢の治世との比較ですから
魏の治世が最適です。 つうかさ卑弥呼が女王って魏使の勘違いじゃねえかな? >>436
その解釈も否定はしないが、そうとも限らない
皆は「各国」の意味でもok
王がいる伊都国=女王国とも読める
「女王国」の記述は初出だし、女王国の説明をしている、との解釈もあり
ここの解釈はかなり重要だが、どちらも間違いではないと思うよ >>290
>卑弥呼が立つ前はこの継承権争いで国が乱れたのだから
この国体は数代続いていたであろうし、大倭王は世襲制ではない。
卑弥呼の死後も同様であり、
帯方郡の役人ごときに軍事顧問を依頼するような弱小国に
持続可能性があるとは考えられない。<
関係がない。
(狗奴國以外の)30国位で姫氏系の卑弥呼が共立され、
阿毎氏系の壹與がまた共立されて、その後は、弥生銀座や伊都国で繁栄し、
更に317年頃から久留米で東海姫氏國が繁栄したのだから。
>この邪馬台国には東遷する力も無ければ、時系列的に東方平定の可能性も無い。<
倭国は、「世與中國通」であり、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」であったんだから、
東方平定もあったんだよ。 本人以外誰も主張してない解釈がたった一つの根拠って
それ、どんだけトンデモ説なの? >>471
解釈もありって、アンタ以外だれがいるの? >>300
>嘘で塗り固めるのが九州説<
「南→東」などの、口先での「史料事実の否定曲解」の嘘つきダマシで塗り固めるのが、
大和説。 >>477
史料事実を否定したら、なんか悪いの?
史料批判って、それをすることでしょ? >>302
>列島内に自生せず、古墳時代後期に外来してきたと考えられていた紅花が、
3世紀に比定される土層からその花粉が大量にみつかった、
というところが学問的に重要な意味を持っていることになるんだか、<
「3世紀」ではなく「3世紀末」になる事や、
その頃にホケノに、扶余や東沃沮の「槨」部族や、画文帯楽浪部族の渡来があった事になる、
という事が、
学問的に意味を持つ事になるんだが・・・。
「南→東」などの嘘つきダマシの主張で論破した気になってるカキコを見ると、
大和説者の・・・・脳には理解できなかったようだな。 >>467
魏書ですから魏書に書かれてる時代が魏の治世です。 >>484
じゃ、後漢書にいつまで書いてあるんだ? >>312
>軍事的に半島と繋がらない南朝と半島利権交渉してた日本は<
南朝に遣使を派遣していたのは、「大和日本国」ではなく、筑紫倭国であったんだよ。
>北朝による統一で600年以降の遣隋唐使外交に切り替えた。
アメノタリシヒコが用明天皇って、なんで漢風諡号なんだ?<
王年代紀には、
「次用明天皇。有子曰聖徳太子。年三歳、聞十人語、同時解之。七歳、悟佛法、于菩提寺、講聖鬘經、天雨曼陀羅華。
當此土隋開皇中、遣使泛海至中國、求法華經」
とし書かれていないから、
新唐書の
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」
は、中国側の記録であり、
釈日本紀引用の延喜講記に拠れば、大和の小野妹子が隋文帝に「日本国」号を名乗って叱られた?時だ。
>漢風諡号の記紀読んでも推古帝は用明天皇にはならんだろ?<
中国側の記録だ。
>テキトウこいてるw ってか、ソース出てほしいね、天皇記とか?
記紀なんてもんが聖徳太子が即位してた事実を消してるとしても驚かんよ。
新唐書って成立遅すぎだし、日唐外交900年で終ってる。<
新唐書は、隋文帝と小野妹子の記録を見ている。 >>475
そう読めないと否定する理由は?
魏略
東南五百里到伊都国戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚 其国王皆属女王也
行程は伊都国で終了している事に注意
ここの「皆」は各国の王の意味ですね
「女王」が伊都国の女王かどうかはわかりかねますが 3世紀辺りから巨大前方後円墳が畿内に作られてるから
その頃の畿内には大きな権力の集中があった >>489
孫呉の滅亡が280年だから呉藍が3世紀末なら時期的にあうだろ >>491
あんた、原書よんでないでしよ
読んでたら、そういう馬鹿は言わない >>314
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説者は、
そういうエーカゲン情報だけが頼りなのさ。 >>494
呉藍って何時の時代に使われた言葉だ?
時代錯誤も甚だしい。 >>316
「南→東」などの嘘つきダマシなどにように、
皇国史観狂の大和説者や本人以外だれもそう読まない超解釈と、
出どころ不明のニセ史料解釈。
大和説者の根拠は、そんなもんさ 。 >>497
呉から来たから呉藍なんだろ、魏からきたら魏藍になるじゃないか 畿内説支持者 専門書や学術論文よんでる
九州説支持者 トンデモ本とネットサーフィン テンプレに従い、ここに来る畿内説の人は
ベニバナの栽培、染色技術が3世紀あったで本当にいいの?
朝貢の絳青縑の赤は紅花染めでいいの? >>317
>>ワカタケルとも、読めないし<
>読めないって理由は?<
稲荷山は、文字の音韻が合わないし、
江田船山は、文字欠損や破損が多くて読めないし、
倭王武には、倭武天皇という呼称しか判っていないし。 >>500
注釈文だから注した先のことしか書いてなくてアタリマエ
そこで終わってるから行程もそこで終わりだと考えるのは
異常なまでに知能の低い人だけ >>506
だれに言ってるか不明で意味のわからない文 >>324
「南→東」などの嘘つきダマシやオームのように、
大和説って何だかいつも必死だよな。 金原は紅花入り土の年代比定をしていないよ、
聞いた話だけ、土の分析をしただけ。
また花粉ならば一部の溝だけで見つかるのは不自然
誰かがばらまいたんじゃないの?????
まず、紅花の花粉を炭素年代法で測定すべきだね。
すごい、誤差が出てまた3世紀と言うの見え見えだが、植物学者が認めるかどうかだな? >>512
これもザラコクの知能が異常に低い証拠だ。 >>485,>>486,>>484
魏の曹操の活躍した時代を含めて魏書では世有の示す魏の治世なんだよ
曹操は実際には皇帝になっていないが魏では太祖、謚号は武皇帝。 >>516
始皇帝の父も帝号を追増されてるけど?
始皇帝以前も秦の治世だというの? >>346
まだ「南→東」などの嘘つきダマシをし続ける大和説の、タチの悪さ。 >>520
じゃ、晋書はいつから書いてあるんだよ、この無学が! >>524
九州説の馬鹿が答えられない証明できるから 「意味がわからない」と言って相手が論破できるなら
・・・・・・馬鹿が最強!・・・・・・・・
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwxwww >>528
曹操は帝位には付かなかったが実質的には治めてたよな。 >>349
>ワカタケルが部下に送った鉄剣だから問題ない<
文字欠損でワカタケルなんて全く読めないんだし、
大和は、始めから九州倭国から別れた別種の附庸国の旧小国であるので、
江田船山と同じ倭国の部下なんだから、
「ワカタケルが部下に送った鉄剣」にならないんだし。
、 >>350
結局最後まで、「南→東」などの嘘つきダマシの理由が言えない大和説者は、
死んだも同じ。 九州から南に水行しても何もない
東に水行すれば畿内がある
だから魏志倭人伝の東とあるのは南 >>534
分かった魏の治世から曹操の時代は外そう >>252
理由もなく「南→東」って嘘つきダマシで騒いでたら、 終わりでしょ?。
トンデモ読めない大和説が。 >>355
大和説者は、「南→東」などの嘘つきダマシの理由を言わないからな。 魏の治世から曹操の時代は外しても特に問題ないな
それで反論は? 「世有王」訳すと
魏の治世には伊都国に倭王卑弥呼がいた
邪馬台国論争終わりw >>360
>>大和は筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の附庸国の旧小国 <
>中国史書は皇帝の威厳を保つための虚偽を記すし、<
関係がない。新唐書を書いた時には、唐は滅んでおり、皇帝もいない。
>皇帝の命で来日した使者は皇帝の命を果たした、と嘘を言わないと死刑になる。<
嘘を付いた事がバレれば、首が飛ぶ。
>中国皇帝が倭王として冊封した倭奴国が大和に滅ぼされている事実は言えない。<
倭奴国は、「大和に滅ぼされていない」のであり、逆に、大和が倭奴國から別れた別種の旧小国。
>裴世清の来日に、日本国は日出処の天子としての態度を崩していない。<
裴清は、大業4年に、(大和日本国ではなく)筑紫俀國に来たのであり、裴世清として大和日本国に来たのは、唐の武徳中の事で、そして「日本国」名を唐に認められた。
>筑紫城って、筑紫は大和朝廷側が筑紫の君の姓を与えた訳で 大和朝廷の律令制を背景に生まれた地名じゃないかな。 後付け乙w <
どっちみち、筑紫にあった城だったから、王年代紀も宋史も「筑紫日向宮」と書いた。
>姓は阿毎、名は多利思比孤<
違うね。名は多利思北孤。
>日本の天皇は 天の垂らしし彦 の末裔である。 これを報告したら、使者は外交的に無能である。 裴世清は嘘つき。
小野妹子も皇帝の返書を捨てたけどねw ひでぇ外交である。<
隋側の記録を、新唐書が見て書いた。 >>543
外したら世有は魏の治世だという説が死亡 >>550
何の問題もないけど?
どうして死亡??? >>363
>倭王旨の鉄剣は奈良の石上神宮から出てる 九州は通り道にすぎない<
「こうやの宮」の、「桐の御紋の王」を始めとする五つの人形の存在の説明が付かない。
おそらく、継体の反乱時に、
筑紫のお宝の破壊や略奪をした物部が、石上神宮に持ち去った。 >>551
伊都国が卑弥呼の都で結論が出て
既に終わってるんだが
君が気付かないだけだよ。 平原には狐塚古墳、銭瓶塚古墳、ワレ塚古墳など4世紀から5世紀の小さな古墳があるではないか。
君たち平原論者は何故かその話を意図的に避けてるね。
つまり平原墳墓を含めこれらの墳墓は、2世紀から5世紀まで平原を支配した小さな領主の墓群としか説明できないのだ。
だから地元に何の伝承も謂れも残ってないわけだ。
その程度の小さな領主が倭國王などとは身の程知らずにも程がある。
卑弥呼以前からの男王の存在を説明できるのは葛城しかない。
大和朝廷の発祥地であり神武以前に出雲系王権があった。
高天原(御所市高天)にはその王族の代々墓らしき御神域(径百余歩)もある。
卑弥呼以前から男王が存在した王家の地とはここだ。 >>366
>筑紫城は、中国側が筑紫高千穂宮を書き換えただけだよ 、元ネタは日本書紀だ 意味がない<
中国側は、後漢書以後では、倭奴國の存在はっきり記載していて、
その延長で新唐書が倭奴國と書いているんだから、
中国側は、
筑紫高千穂宮は、倭奴國の筑紫城だ、
とはっきり認識して書いた事になる。 >>370
賛成です。
「南→東」などの嘘つきダマシの論拠を言えず、
言い張るだけのキナイセツ。
中身はゼロwww 。 >>562
邪馬台国は伊都国と同じく一つの国でしょう
これら2国は別々の国である事は火を見るより明らか >>547
>どっちみち、筑紫にあった城だったから、王年代紀も宋史も「筑紫日向宮」と書いた。
ああ、筑紫城は筑紫日向宮のことなのか。
日向の高祖山のクジフル峯の宮城と言えば、高祖城、現在の高祖神社、古名を高千穂宮になるな。
すなわち伊都国の高祖宮こそ、三雲南小路遺跡に眠る邇邇芸以来の倭国の都というわけだ。 ●平原遺跡(ひらばるいせき)
弥生時代から古墳時代築造と考えられる5基の古墳で構成され、1号墳からは銅鏡39枚を始めとして数多くの遺物が出土している。
●ワレ塚古墳(われづかこふん)
古墳時代中期築造と考えられる前方後円墳。大きさは、全長約43メートル、後円部直径約29メートル、高さ約4.5メートル、
前方部の長さ約15メートル、高さ約0.6メートルで、後円部は3段に造られており、
周りに周溝が巡っていた痕跡がある。曽根丘陵の中央部に存在する。
●銭瓶塚古墳(ぜにがめづかこふん)
古墳時代中期築造と考えられる前方後円墳。大きさは、全長約50メートル、
後円部の直径約37メートル、高さ5メートル、前方部の長さ16メートルで、
後円部は3段に造られており、古墳の一部が道路造成の際に破壊されてしまっている。
周りには幅約6メートルの周溝があったと考えられ、
周溝部分の発掘で朝顔形埴輪、円筒埴輪、形象埴輪が出土している。
曽根丘陵の中央部に存在する。
●狐塚古墳(きつねづかこふん)
古墳時代中期築造と考えられる円墳。3段に造られており、大きさは、直径33メートル、高さ4メートルで、
幅6メートルから10メートルの周溝が確認されている。
内部には、4区画に仕切られ床面に敷石の施された長さ2.6メートル、
幅1.65メートルの横穴式石室があるが、かなり壊れている。
副葬品は、刀子5本、鉄斧1個、鉄鏃2本、などが出土した。
曽根丘陵の東端部に存在する
しょぼいwww
この程度で卑弥呼の都などとよく言えたもんだwww
厚かましさは対岸のチョンそっくりwww >>392
学会ではもう「南→東」などの嘘つきダマシの大和説で決まりらしいので、
九州説者は、せめて一般人が、
学界や大和説者に「騙されない」ように、
と思って、頑張っている。 >>563
投馬國と邪馬壹國は国邑ではなく国邑の連合体
韓での馬韓、弁韓、辰韓みたいなもの
邪馬壹國の中に伊都国があるのです。 【伊都国】
伊都国の官は爾支と記されているが、ニニギ、ニギハヤヒなどと同じ系統の名であり、神道における神職を意味する禰宜にも通じる。
平原遺跡には鳥居などの遺構があり、いわゆる神道の形式が整いつつあった。
高祖宮は伊都国から日の出の方にあり、卑弥呼らは太陽を背にして君臨していた。
高千穂宮から始まる神武東征の時、神武は天の子は太陽を背にするべきだと発言していて、伊都は神道の基本である太陽信仰の都である。
卑弥呼の鬼道とは、中国人から見た古代神道のことだったのである。
伊都国の平原遺跡は3世紀頃の女王墓であり、方格規矩四神鏡と内行花文鏡、玉を中心とする豪華な副葬品を持ち、後漢の頃には見られなかった巨大な国産の内行花文鏡、いわゆる八咫の鏡が5面含まれていたことから、倭国大乱後の倭国の王権が伊都国にあったことがわかる。
2世紀の倭国大乱以降では卑弥呼が最初の女王であるため、平原遺跡の被葬者の最有力候補が卑弥呼である。
魏志において伊都国は人口が1000戸と少ないが、魏志に卑弥呼の王宮の下女は1000人とることと一致する。
近隣の世俗の商業都市としての博多奴国と、政治・祭祀・外交のための聖なる王都である伊都が分離されていたと考えられる。
伊都国には高祖宮(高祖神社)があり、後世にはその東側の高祖山とクシフル山の山頂を囲む中国風山城(奈良時代は怡土城、戦国時代は高祖城と呼称される)があった。
高祖山を越える峠が日向峠であり、筑紫の日向のクシフル山にある高祖宮の古名が高千穂宮であったと考えられる。
アマテラスの孫のニニギはクシフル山に降臨してその西側に埋葬されたとあり、三雲南小路遺跡、井原鑓溝遺跡などが、魏志において倭国大乱の前の男王の時代70〜80年を担った日向王家の王墓であると考えられる。
三雲南小路遺跡の拝殿であり漢の金印を保管していた細石(さざれいし)神社は天孫邇邇芸と木花佐久夜毘売を祭神とし、
平原遺跡からはニニギが授かった三種の神器である八咫の鏡と思われる超大型内行花文鏡が出土しており、筑紫の伊都がその名の通り倭国王家である日向三代の都であった証拠である。 >>408
「南→東」などの嘘つきダマシの大和説学者や大和説者は、自分が一番偉いと思っている。
史料事実が主張していない事柄も、自分が主張すれば確定事項になるし、
史料事実が主張していても、自分が同意しなければ、間違いだとする。
救いようのない頭のビョーキです。 >>567
伊都国が女王国の都だとすると、
長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)
ですが
それとは別に邪馬台国にも
伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、
奴佳?(なかてい)と官があり
この方々は九州説によればどういう立場の人だったのか?
邪馬台国が連合国なら伊都国の官が代表するのでは?
なので邪馬台国は九州説の言うように奴国、伊都国などの連合国ではなく
卑弥呼を頂点に下に官使の支える
単一の国だったとした方が話が早いんじゃ >>413
>橋本さんが見つけた一片の土器で3世紀と判断してるんだっけ 少しあやうくないかね <
へー?、そうだったんでしたか。 【筑紫の日向】
そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。 >>570
>邪馬台国が連合国なら伊都国の官が代表するのでは?
伊都国の官は伊都国の内政だけを担当するから、それとは別に外交担当がいるだろう。
連合国を構成するのは、筑紫、肥国、豊国などの王家であろう。
倭国大乱とは、これらの王家の間での倭国王の座をめぐる争いに他ならない。
最終的に筑紫の伊都を手に入れた者が倭国を代表する倭国王となったのだろう。
伊都は政治外交宗教の都、奴国は工業交易の商都だろうね。これらは直接の共立メンバーではない。 >>421
>九州説は考古学を完全否定することにしたらしい<
違うね。
考古の出土事実や実態報告は、(F氏の事件もあるから)、ある程度は信頼するが、
その事実関係からの、(南→東などの嘘つきダマシの)大和説考古学者の「歴史像解釈や説明」は、
すぐには信用しない。
>…そうすると弥生中期における九州の先進性も主張できなくなるけどな<
出土事実は根拠にするが、大和説考古学者の「弥生中期」という判断や、「九州の先進性」という判断は、すぐには信用しない。 で九州説(知恵遅れ)の皆さんは崇神天皇をいつ頃の人物と考えてるの? >>570
国の役人と都の役人で
管轄する範囲が違い
行政組織が分かれてた 畿内説が崩壊したので
他説批判に走る畿内説のおぞましい事
畿内説のスレなのにね! >>573
そういう確証の出せない推測より
単に一国家邪馬台国の官使だったとした方が
より簡単な説明になります >>577
単に邪馬台国は連合国じゃなくて
一つの国に官使がいたというだけの記述では? >>580
まあ、女王と女王がいた伊都に置かれた一大卒による強力な支配であったらしいから、成立の過程は共立であっても、その後は中央集権的に運営されたかもしれない。 >>581
魏志倭人伝が郡みたいな単位にも国という言葉を使ってしまったからややこしいことになった。
外交的には一つの国だよね。 >>583
伊都国に女王がいたなんて一言も書いてねーぞ
伊都国は千戸だし
邪馬台国は七万戸だからな >>582
それは多分、畿内における制度であり、筑紫倭国の制度ではない。 >>424
>FAQ22はいいこと言ってる
>これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、
後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう<
つまり、炭素年代法を「信用した場合」・・・・との前提としているところは共感がもてるね。<
桃核を「庄内3の定点」などとした時点で、「考古事実に対するスレ主の解釈」になっており、
スレ主は「南→東」の嘘つきダマシである事が判っているから、
その根拠や理由が示されない限り、おいそれとは信用出来ない。 >>584
ややこしいのは九州説の説明だ
邪馬台国は北九州連合?
なら女王が監視させた北の国はどこに当たるの? >>585
邪馬台国は倭と同義語で、全体のこと。読みはどちらもヤマト。その範囲は筑紫の日向とほぼ同じ。
伊都国はその中の都のこと。 >>586
倭国ではデフォだったんじゃないかなぁ
これが女王が居たみたいな勘違いの原因じゃないの? 妄想九州説に付き合うだけ無駄。
卑弥呼が都を置いた処は邪馬台国と魏志倭人伝に明記している。伊都国ではない。
伊都国は女王国の属国。
女王国にすらなれない国。
倭国ですらない。 >>589
魏志倭人伝には
自女王國以北、其戸數道里可得略載
(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが)
とある
つまり里数と戸数を記された末羅、伊都、奴国などの国は
女王国より「北の国」
伊都国を含むこれら九州北部は
女王国より北部にある国となるので
邪馬台国候補地から真っ先に外れるのである >>581
王は卑弥呼一人ですから
国政と首都を管轄する役人は別になってただけでしょう
町奉行と老中みたいに。 >>588
いい質問だ。
伊都以北だから、狗邪韓国から伊都国までを、伊都国に駐在する一大卒が監視した。
対馬海峡が伊都国にとって最も重要な土地であったからとも考えられるが、もう一つの仮説として、卑弥呼が他の地域からやって来た可能性がある。
それは邪馬台国連合を構成するもう一つの王家である肥国王家、有明海沿岸勢力だよ。
それならば、支配される側に回った博多天孫族の出自である天津国(対馬海峡)を監視する意味がよくわかる。
そして、天孫族が倭国王の座を追われた出来事こそ倭国大乱であり、神武東征の原因だとも考えられる。 >>587
じいさん、まったくに用を理解できてないだろ >>590
魏志倭人伝に大連などの制度が出てこない以上、あったとは言えない。 >>595
まあ邪馬台国が北部九州じゃないのは誰にでもワカルよね
・・白痴以外はさ >>593
>自女王國以北、其戸數道里可得略載
>(女王国の以北は、其の戸数・道里を略載することが可能だが)
>とある
以北とは、女王国を含む。
>女王国より「北の国」
「より」ではなく、「から」だ。
女王国から北の国は里程がわかる(実際に通過してきたから)と書いてある。 >>595
しかしそれは畿内説でも同じ解釈が可能だが
九州説の論拠にはならないな >>598
官職が細分化して被ってても、さしておかしくないって意味だよ
現代日本国すら、そうなんだから >>599
まあ、纒向なんて邪馬台国に関係ないのは誰にでもわかる。
何しろ魏志倭人伝に出てこないから。 >>600
いや女王国自身は含まない
女王国より北と書いてるからな >>585
伊都国の説明に世有王とある
>>588
狗邪韓國〜末廬國
>>593
「女王国より北の国」ではなく「女王国内の北側の諸国」 >>605
おやつは1000円以内と言われたら、1000円はセーフ。 >>428
>日本神話の天孫降臨が筑紫高千穂宮の阿毎氏 <
新唐書などは、天孫降臨の話はしていない。
>倭奴国が筑紫城の阿毎氏で<
順番が違う。
筑紫城がある倭奴國の中の阿毎氏の中から、神武らが大和に移った、という話になる。
>漢や魏の皇帝の冊封を受けていたが
大和はそのまた附庸国の小国だった国 ってこと?<
そういう意味になる。 >>608
伊都国で荷改めのようなことも一大卒が行っていたらしいから、実質的に伊都も支配する、近衛部隊のようなものだったかもしれない。 「世有」 は、「世(世)有」と解釈するかどうかの解釈の問題ですからね。
この点、伊都国説の主張する読みの方も、一文字勝手に足さずに素直に読んでいることになるので好感はもてますよ。
■王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使
上の用例での「王」は、「(女)王」のことだと解釈しているのですから、
世有王 を 世有(女)王 と解釈していけないことも全くないと思いますしね。
■世有王皆統屬女王國 は、
a. 世(世)王皆統屬女王國 →代々王がおり、(代々の王は)皆女王に属していた
b. 世有(女)王皆統屬女王國 →女王がおり、(周辺の国は)皆女王に属していた
どちらの解釈も間違いとは現時点では言い切れないと思いますよ。
間違いなのは、「「世有」は『世(世)有』と読まなければいけない」というようなおかしな主張です。
それに a の解釈をする張本人が、
「倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁(FAQ47)」 と言っているのもおかしいですね。
a の文献的解釈と矛盾しています。 >>595
一大率は伊都国に駐在したなんて書いてないんだがな
一大率は自女王国以北にいたんだよ。 >>608
世有王では女王が居た証明にならない
伊都から見て奴国は東
女王国内ではなく
自女王國以北(女王国より北) >>611
書き忘れたが、だから女王国以北は、女王国である伊都国を含む。
以ってがその対象となる語を含むのは常識なんだが、基本的な言葉が通じないと疲れるな。 鳥付きハンネと名無しを使い分けて自演に勤しむ卑怯な嘘つき いつ覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 >>611
荷改を一大率が行ったとの記述はありませんよ。 >>610
>新唐書などは、天孫降臨の話はしていない。
新唐書は畿内政権の意向を受けて日本書紀を下敷きにしているから、信用できない。
天孫降臨は中国側の史書にはないが、日本側の古事記にも載っているし、中国の史書と特に矛盾するところはない。 >>617
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>621
1000円以内や1000円以下と、1000円未満の違いはわかりますか? >>588
すごく単純だと思うが
重要なのは、
伊都国に王がいる
邪馬台国=倭国の意味
細かい所は各自、説が別れているがな 魏志倭人伝を読んだ事が無い人が書き込んでる
「自女王國以北 特置一大率」の率の字も何回も間違えてるし。 自女王國以北(女王国より北には)
これ以上違和感ない訳が思いつかない
これをどう訳したら女王国を含んだ上で北はと
いうニュアンスが出せるんだろう >>624
言い切れるという貴方が論拠を示してみては?? 岡上は、自分のためならどんなにウソをついてもいい、ついたウソが本当に思える、という心の病気だな >>614
自女王國以北の場合は女王国より北の意味じゃなくて
女王国の北側の意味ですよ
女王国より北なら「女王國以北」。 >>627
伊都に女王がいるのに
そこに一大卒を置いて北部を監視させたって
何か違和感あるよな
諸国は女王より一大卒を怖れていた様子だし >>631
この世に女王というものがあり・・・って言ったら、中国も支配しちゃうでしょ 最近、全岡上病が蔓延してますね。
そういうのが嫌だからトリップつけてるんですが。。。
私は仕事も普通にしてますし、24時間スレに張り付いているわけないでしょう。
伊都国説支持者の書き込みが全部私の書き込みに見えるんでしょうね。
実際に支持者を増やしていることを認めたくない畿内厨特有の心理が働いているのですかね。
ま、どっちにしろ早めに病院行ってくださいね。 >>591
倭人伝読んだことないよね
こんなことどこにも書かれてないよ
>卑弥呼が都を置いた処は邪馬台国と魏志倭人伝に明記している。 >>634
北側って怪しい訳だな
>>635
その表現でも女王国自身は含まれないな トンデモ爺さんは漢文が読めないとか歴史を知らないとかいう以前に
人並みの思考能力がない >>643
「から」(自)と言ったら、そこを含むだろ。
500円以上1000円以下なら、500円も1000円もセーフだろうが。 >>612
岡上さん、全て同意です
文献解釈的には出尽くした感がありますよね >>641
いやどうしても違和感が拭えない
普通そういう監視機関って都から離れた所に置いた方が
効果を発揮するものなのに >>646
妄想が過ぎて、攻撃的になってますよ。
一人で病院に行きにくいなら、まずはご家族に相談なさってください。 >>648
青森から北は北海道です
この場合青森は北海道に含むか? 以北・・・持って含む北
自郡至女王國・・・郡の中心の郡治から女王國の中心の女王の都まで
自女王國以北・・・女王國の中心の女王の都の北側 >>649
代々のニュアンスが含まれる場合もあるけど
基本的には世有は魏の治世のことですね
代々と読む方が特殊。 >>637
厳密には、
一大率を置いたのは女王国以北
伊都国は治所
ここも解釈の問題だね 〜より北
〜から北を九州説は
一生懸命出発地点を含むものにしようと必死だけど
どう頑張っても無駄だと思うぞ 閑話休題
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>653
(畿内厨の)みんながお前をそう思ってる
↑訂正して差し上げます。
糸厨の人の方が、私が伊都国説者でないことも含めて、私のことをよく御存じですね。 一大率が都も所管内であったなら、ちっとも刺史に似ていないということ
これに尽きる >>660
伊都国に一大卒はあるんだろ
やっぱこれって後の大宰府みたいなもんじゃないの?
女王国が九州北部にあるなら
わざわざ出先機関で監視しなくていい
直接監視すりゃいいんだから >>659
九州王さん
そうですね。一文字足さないので、「魏の世」と読むほうが本筋と言えるかもしれませんね。
なかなか面白い読みで、非常に好感を持っています。
頑張ってください。 >>661
義務教育を受け直したらどうでしょうかねえ。 閑話休題
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>668
私は文献的には、日本海ルート支持の畿内説論者ですよ。基本的に。
考古学的に平原の価値を認めないテンプレが嫌いなだけで。 >>667
>直接監視すりゃいいんだから
だからその監視機能の名前が一大率。 >>660
伊都国で女王国以北の諸国を治めた
一大率は女王国以北に居たので
伊都国で女王国以北の諸国を治めたは一大率ではない
また一大率は刺史(監察官)のようなものだとあるので
監察官である一大率が諸国を治めるのは変
女王国以北に一大率を置き伊都国で治めたのは女王卑弥呼ですね。 閑話休題
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>668
多分私のことだと思うので口出ししますが、岡上さんとは意見に相違がありますし、ザラコクさんとも相違があります。 閑話休題
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>678
女王が以北でない諸国を治めてないというバカ説 w >>667
女王卑弥呼は伊都国にいて
自女王国以北の国々に一大率を置いて治めた >>677
まあこれだけじゃ伊都が女王国の都だった証拠にも
否定材料にもならんがな
実際一大卒があったというだけの話だし
それよりも九州北部が邪馬台国だとすると
戸数の合計八万戸になるから
邪馬台国の七万戸とは合わないから九州北部は
邪馬台国じゃあない >>652
私は岡上さんではないよ?
コテつけれないヘタレだけどね 閑話休題
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>685
訳の分からん計算だな。
伊都国や奴国を含めた合計が邪馬台国7万戸だよ。 >>685
明確に何度も伊都国に女王卑弥呼がいたと書かれてるだろw >>679
御身の長(たけ)九尺ニ寸半!そんな巨人がいたのか? >>689
1 重要なのは対馬海峡
2 政敵である天孫族の祖地 九州北部を邪馬台国とするのは色々悪手だぞー?
そこは魏志倭人伝に詳しく記述があるから
何か話を創設しようにも魏志倭人伝にもとづいて
すぐにツッコミを入れられる
北九州はある意味邪馬台国とするに
地球上で一番向かない場所 全岡上病を発症した哀れな畿内厨が一匹いますね。
一刻も早くご家族と相談なさってください。 >>697
魏志倭人伝で九州北部だけを詳しく書くのは、そこが女王国だったからだ。 >>691
対馬〜投馬国まで書かれている戸数を合計すると八万戸
邪馬台国は七万戸だから数が合わない
>>692
伊都は王だろ
女王の都があるのは邪馬台国
そう魏志倭人伝に書いてある 全岡上病の畿内厨の人、699, 670 の書き込み時間に注目してくださいね。
699岡上 ◆JN/67qb8kM 2017/09/23(土) 22:37:50.01
全岡上病を発症した哀れな畿内厨が一匹いますね。
一刻も早くご家族と相談なさってください。
700九州王2017/09/23(土) 22:37:51.22
>>683
日本語になってないな >>704
投馬国は宮崎県だから含めてはいけない。 >>662
それ、いわゆる「元禄の修陵」で、対象は淡路・阿波だけじゃないから
淡路・阿波への指令は淳仁と土御門がいたから
妄想は大概に >>702
伊都国、奴国は伊都国、奴国であって
邪馬台国じゃないんだ >>710
こうまでしてあげても自覚症状なしですか。
残念ですが、本当にもう手遅れかもですよ。
畿内厨には憐みすら感じますね。 議論以前に畿内厨の思い込みのはげしさに手を焼く論客が多いな
本人は悦に入ってなんの反省もしてなさそうだが >>707
含んじゃいけないのは何故だ
邪馬台国の道すがらにある国なのに
まあ含まないとすると投馬国は五万戸とあるから八万ー五万で三万戸
邪馬台国の七万戸とますます合わねーな
そして次にお前は戸数不明の20ヶ国を持ち出す >>713
魏志倭人伝にそう書かれているか?
そうじゃないなら違うという事だ とても珍しい説が特定のスレに異常発生したら・・・
理由は明らかでしょ >>715
同じ畿内説の人間がテンプレに賛同しないのが気に入らないですかね?
どうしても私を伊都国説にしたいようで。
なんか畿内厨は左巻きの人が多いので、内ゲバってやつでしょうか。 >>715
そう思うなら具体的に指摘すべき
それじゃ単なる陰口 >>722
醜いな
岡上が名無しや別名でで書き込んでるのは誰でも知ってるのにね >>709
>それ、いわゆる「元禄の修陵」で、対象は淡路・阿波だけじゃないから
なぜか淡路・阿波に調査させている事実。 推して知るべし。
>淡路・阿波への指令は淳仁と土御門がいたから
なぜ 淳仁天皇が阿波に居たのか。 推して知るべし。 @阿波 >>722
同じ畿内説のものが「畿内厨」とか言わんし。 >>723
キチガイは説得するより、遠巻きに見ている方がよいと思いますので
社会復帰できるかどうか本人の努力次第です >>709
>それ、いわゆる「元禄の修陵」で、対象は淡路・阿波だけじゃないから
なぜか淡路・阿波に調査させている事実。 推して知るべし。
>淡路・阿波への指令は淳仁と土御門がいたから
なぜ 淳仁天皇が阿波に居たのか。 推して知るべし。 @阿波 >>722
畿内厨と畿内説は違いますよ。
平原の価値をまっとうに評価できるのが畿内説(柳田先生、寺澤先生)。
それが出来ずに無視したり、非合理に否定に走るのが畿内厨です。 >>730
あのな・・
お前が東遷厨なのバレてるから 邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part7がいつの間にか1000越えてたので
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part8たてました >>732
いろんなスレ立てては捨てて、困った人だなあ >>709
>それ、いわゆる「元禄の修陵」で、対象は淡路・阿波だけじゃないから
なぜか淡路・阿波に調査させている事実。 推して知るべし。
>淡路・阿波への指令は淳仁と土御門がいたから
なぜ 淳仁天皇が阿波に居たのか。 推して知るべし。 @阿波 このスレには九州の人は4〜5人は参加してるみたいでね
少しづつ主張に違いがありますね
伊都国に説に賛同してくれてる人もいますが
邪馬壹國の範囲についての見解が少しちがいますね
主張内容が違うのに相手を見分けられないのかな。 邪馬台国が九州北部連合だとすると
南に水行20日〜の記述が妙な事になる
今までの里数行程を日数で表し直したというが
魏志の他の箇所にそのような書き方を
している所はあるだろうか?
また投馬国=狗邪韓国と解釈しなければいけなくなる
戸数が合わない
邪馬台国は七万戸と魏志倭人伝にある
対馬〜投馬国の記述されている戸数を合計すると
八万戸になり数が合わない
魏志倭人伝の記述に合わない
女王国より北の国はおおよその里数、戸数を示せるが…とある
これは里数、戸数を記された国対馬〜投馬国は
女王国より北の国という事である
里数、戸数を記された国は女王国より「北」
つまりそこは女王国、邪馬台国ではないのである 閑話休題
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、
覺
阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」と記録されているが、
こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>738
>また投馬国=狗邪韓国と解釈しなければいけなくなる
そんなことはない。 なんだかんだで畿内厨との討論が目的の人が多いからでは? >>738
>女王国より北の国はおおよその里数、戸数を示せるが…とある
>里数、戸数を記された国は女王国より「北」
女王国から北の国(女王国を含む)は里数、戸数がわかる。
伊都国、奴国もその通りになっている。 >>737
全く同感ですね。
畿内説の連中は頭が悪いですね。 >>741
里数の時は帯方より船で7千里でまず狗邪韓国に着くとある
日数表記の時は南に水行20日で投馬国
この二つは同じ国という事にしないと
日数は里数の書き直し説はおかしいという事だぞ? >>738
投馬國と邪馬壹國は別の国
南に水行20日で投馬國の中心地狗邪韓国
そこから南に水行20日陸行1日で邪馬壹國の都、伊都国
邪馬壹国は北部九州一帯にあった国邑の連合体であり、構成国は、対馬国、一支国、末盧国、伊都国、奴国、不弥国、斯馬国-烏奴国の計26か国
邪馬壹国70,000戸の内訳は、
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)+20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、
斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 >>719
誤った説を主張するスレがあったら反論されるでしょう。 >>717
邪馬台国は九州北部だから、宮崎県は入りません。
そもそも、含めたら計算が合わなくなるのは、陳寿だってわかっていたはず。 >>717
>そして次にお前は戸数不明の20ヶ国を持ち出す
お前が誰のことかわかりませんが、レス先が私の投稿だったので言わせてもらいます。
私は自分から20カ国の戸数を持ち出したことはありません。
残念でした。 >>744
女王国から北の国には対馬〜投馬国です
投馬国から南に水行10日陸行1月で女王国、邪馬台国です
対馬〜投馬国の北の国々の中に女王国がある事になるでしょうか?
どう考えてもなりませんね 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 邪馬壹國は築、肥、豊(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)
狗奴國は熊襲(宮崎、鹿児島) >>753
>女王国から北の国には対馬〜投馬国です
>投馬国から南に水行10日陸行1月で女王国、邪馬台国です
どこをどう読んだらそうなるのやら。 >>738
帯方郡から水行20日で投馬国、里に換算すると2万里相当 >>748
20の国々は戸数がわからんとはっきり書いてある
そして今までの戸数から平均を求めても無意味
>>751
投馬国を入れなければ
対馬〜不彌国で計三万戸だ
七万戸とはますます合わないな
簡単な足し算くらいやるだろ
>>752
それなら九州説のいう九州北部連合は
全戸数が三万戸となって
邪馬台国の七万戸とはまるっきり数が合わない
なので九州北部全域合わせて邪馬台国という説は破綻すろ >>753
帯方郡〜倭の世界
帶方郡 郡 治
↓
-↓--水行7,000里----↓---------------------水行20日---
萬 投
到 狗邪韓國 馬
二 水 國
- ----------------↓---------------------- --------
千 度海1,000里 行
對馬國 方可400里(800里)
餘 渡海1,000里 ↓ 10
一大國 方可300里(600里) 女
里 海渡1,000里 ↓ 日 邪
↓ 末盧國
↓ 陸行 500里 ↓ 陸行1日(1月) 王
↓ 到 伊都國(女王の都) 馬
↓ 100里 ↓ 100里
自女王國 奴 國→不彌國→斯馬國 國
↑ ↓ 壹
烏奴國 周 已百支國
↑ 旋 ↓
支惟國 可 伊邪國 國
↑ 五 ↓
巴利國 千 都支國
↑ 里 ↓
・・・・・・・・・・・・・・・・・
-------------------------------------------------------
狗 奴 國 >>735
>なぜか淡路・阿波に調査させている事実。 推して知るべし。
淳仁が淡路に流されたあと死んだという記録があるから
土御門が土佐に流されたあと阿波に移り、そこで死んで火葬された記録があるから
調査は大和や山城、河内、和泉、摂津でも行われている
>なぜ 淳仁天皇が阿波に居たのか。 推して知るべし。
藤原仲麻呂の乱で廃位されたあと、称徳天皇に流されたから >>756
南へ水行20日で、投馬国に至る。
長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。
推計5万戸余。
南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。
官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、
奴佳?(なかてい)があり、推計7万余戸。
投馬国→水行陸行→邪馬台国は
畿内説も九州説もほぼ一致していたと思ったが?
帯方→投馬国ならともかく
逆にどう読んだらこれ以外の解釈ができるのかな >>757
そんな換算出来ないよw
>>758
可七萬餘戸と70,000戸は推測であると明記されてる >>757
宮崎県でぴったり。
邪馬壹國は築、肥前、豊(福岡、佐賀、長崎、大分)
狗奴國は肥から分かれた肥後熊襲(熊本)
投馬國は妻(宮崎) >>760
20国は遠すぎて戸数がわからないそうだ
だから全部足して邪馬台国は七万とは計算できない
つまり邪馬台国は奴国や伊都国と同じく単一の国 >>763
20カ国は遠すぎて戸数がわからんとある
なので邪馬台国がこれらの連合国なら
戸数の合計は出せない >>765
だから既に判明してる国邑の平均値を使って推測したんだよ
だから可七萬餘戸み、明確に分かってれば有七萬餘戸。 >>766
そんなことはない。
収められる年貢の量からおおよそ全体の戸数などわかる。
それに、内訳がわからないのは魏使であって、邪馬台国の官吏がわからないとは限らない。 福岡(市)は九州内からの文化的影響を全く受けてない
現代でも同じ >>763
一日航海千里の規定で20日は2万里になる(いいな九州王 >>766
現代の地図と見比べると、魏使が面倒だったから佐賀や長崎には足を伸ばさなかっただけにも思える。 >>767
平均は無意味
A国が100人いて
B国が300人います
平均200人です
ではC国は何人いるでしょう?
この様に平均値では未知の数値を確定できない
そもそも戸数が遠すぎてわからないと書いてある
>>768
魏使がわからなかったから
わからないと書いてあるんんだろう >>771
つまり投馬国は宮崎県。
西都市妻の日向国一宮妻神社。 >>765,>>766
魏使は可七萬餘戸と70000は推測した値であることを書いてる
その推測の方法も検討が付くだろ。 >>766
20カ国のほとんどは長崎県、五島は遠いかも >>774
ああ、大分は微妙か。
邪馬壹國は筑紫、肥前、筑豊(福岡県、佐賀県、長崎県)
狗奴國は肥から分かれた肥後熊襲(熊本県)
投馬國は妻(宮崎県) しかしいつになく盛り上がってるな
プラスより盛り上がってる >>779
佐賀県と筑後も含むかと。
>>754参照のこと。 >>778
いやそうなると話がおかしいって
20カ国もの国々の戸数が不明なのに約七万戸なんて書けないが
それに30ヶ国合計して七万戸
これが投馬国1国と同じくらいという事になり規模が小さすぎ
邪馬台国が戸数七万戸の単一の都市だとした方が
どう考えても自然だろう? >>775
例が違うだろ
一部のサンプルで全体を予測する
選挙の出口調査で当確を予想するようなもんだよ
数学弱いね 宮崎、大淀川流域、生目古墳群。
円形周溝墓、前方後円墳、三世紀後半〜。
魏志倭人伝と近い時代に、宮崎にかなりの労働力(人口集積)があったことが分かる。
畿内、ヤマトの旗を同じくする勢力。
女王国メンバーの投馬国だね。 >>785
当時の日本に戸数七万戸の単一の都市なんてそんな巨大な都市はないよw 魏志倭人伝には、伊都国が千戸しか人がいないと書かれている。漢数字で千と万は間違えるはずはないので、実際千戸程度しかいなかったんだろうね。
もう一つ魏志倭人伝には、一大率が伊都国に置かれているとある。
3世紀半ばに大兵団が置かれていた場所の候補地は博多那珂地区しかない。
博多も区域としては伊都国に含まれるが、一大率が支配していたのだろう。
つまり伊都国は、平原周辺(王とその取り巻き)以外の大部分を一大率に召し取られたと考えると矛盾がない。
魏志倭人伝によると、
伊都国から奴国までは百里、奴国から不弥国まで百里とある。また不弥国からは南へ船で20日進むとある。
不弥国は周防灘に面した国と考えるのが妥当。
奴国は不弥国と伊都国の中間にある。地図を見ると遠賀川がその辺りにある。
遠賀川流域は、縄文時代〜弥生時代にかけての石器の一大製造拠点。その石器は九州全土に広がり、特に九州北部に強い影響力を持っていた。
また遠賀川流域の飯塚市から、行橋市には古くからルートがあり、関門海峡が通れなかった当時玄界灘と周防灘を結ぶ重要な迂回路であった。
奴国は2万戸の大国であり、遠賀川流域一帯の国であったと考えられる。
問題は不弥国である。
魏志倭人伝によると伊都国と同じように千戸しかないとある。壱岐ですら三千戸であることを考えるとかなり不自然。
行橋市の北は京都郡、苅田。
石塚山古墳など早期の前方後円墳がある。
巨大古墳のあるところは、労働力の集積地(非農業人口集積地)。つまり拠点地域。
不弥国も伊都国と同じように、大部分の領地を女王国に召し取られた可能性がある。
その地域支配の拠点が苅田辺りに作られていた可能性がある。
九州北部支配の拠点、博多那珂地区の一大率と苅田の駐屯兵団。少なくとも二ヶ所は魏志倭人伝の時代から存在。 >>784
佐賀、筑後も含みますね、大分は微妙かな >>785
弥生時代において奴国よりはるかに大きい国邑など想像できない。
投馬国は宮崎平野の総数なので、九州北部の総数である邪馬台国の数字と並べてある。 >>786
それは桁が決まっているから通用する方法だろう?
戸数はそれこそ千戸からもしかしたら5万戸、それ以上あるかも知れないわけだ
こういうのはランダム過ぎて計算できないと
数学に強い人が言っていたぞ
オレあお前になんかに騙されないからな 女王国とは、卑弥呼を共立した30ヶ国の総称。卑弥呼を王としているので、30ヶ国には王はいない。よって投馬国には、王の記述はない。
王がいる伊都国、狗奴国は女王国ではない。
狗奴国は邪馬台国と敵対する国、伊都国は服属する国属国である。
ちなみに邪馬台国も狗奴国も畿内の国ね。
奴国や不弥国、末盧国などにも王はいないが、同じ官が置かれている。これらの国々は、博多に置かれた一大率の管轄下にある国々である。
もちろんこれらの国々は女王国(卑弥呼を共立した30ヶ国)ではなく、女王国の管轄下にある属領である。
九州における女王国メンバーは、九州南部を中心とする五万戸を擁する投馬国で、九州一の大国である。投馬国は神武の本貫。 女王国まで12,000里、つまり不弥国と投馬国の境界まで12,000里である。
女王国の北、つまり投馬国より北は、一大率の管轄エリア。
一大率は、吉備と神武の本貫投馬国の兵団である。
一大率を統率したことが、天皇家が筑紫を支配下に置いた始まりである。
伊勢尾張、丹波など卑弥呼を擁する畿内の勢力、瀬戸内海を支配を進めていた吉備、九州北部に一大率を置き筑紫を支配下に治めた投馬国などが卑弥呼を共立し手を結んだんだね。 >>788
鳥栖ICから長崎道に入り武雄北方ICまで走るといい
7万戸の平野がある。 >>793
投馬国は宮崎平野の合計だから。
その中に多数の国邑があっただろうけど、行っていないから内訳はわからない。
でも合計だけはわかったんだよ。 陶塤面白いねぇ。
弥生時代前期〜、宗像以東、出雲や丹後半島など日本海側に分布。
博多湾一帯は宗像以東の日本海勢力とは、別の民族だったのかな? さあ邪馬台国九州北部連合国説
いよいよ破綻が近づいて参りました
それもそのはず九州北部は魏志倭人伝に色々記述があり
その中に邪馬台国そのものが無いので
邪馬台国は九州北部の連合国家の総称などという
どう考えても無理筋の話に持っていかなくては
成り立たないのです
九州北部は魏志倭人伝に詳しく記載されているため
様々な矛盾が噴出しております
それでもくじけない九州説
何が彼らをそうさせるんでしょうか 馬韓、10万戸
弁韓、辰韓4〜5万戸
投馬国、5万戸
計19〜20万戸
大韓民国、5100万人
邪馬壹國、7万戸
5100万人÷20×7=1785万人
九州、1300万人
江戸時代の人口比4:1
現在の人口比2:1だから半分にしても
7万戸は現在の900万人に当たり
粗北部九州5県分 >>788
なんで国の戸数なのに単一の都市になってんの?馬鹿なのかな? >>791
奴国で筑前地区の殆どを占める
宮崎に5万戸は無理筋 >>802
単一の都市だという意見への反論だよ。
よく読め。 >>801
三韓は韓国の一部だし、投馬国は九州だぞ
ガバガバじゃねーか >>792
佐賀県と長崎県にそんなに大きな国邑はないよ。 >>806
それこそ7万戸も入らない。
宮崎平野の方がずっと広い。 >>810
馬韓、10万戸
弁韓、辰韓4〜5万戸
投馬国、5万戸
海
邪馬壹國、7万戸
狗奴國?万戸 九州説よ邪馬台国九州北部連合説だけは諦めな
そこは魏志倭人伝に詳しく書いてあって
邪馬台国は別にあることがこれ以上ないくらいはっきりしている
なんで適当な想像で話をしたらソース付きで反論されるぞ
九州北部は邪馬台国とするのに
地球上でもっとも不抵当な場所だからな? >>810
馬韓、10万戸
弁韓、辰韓4〜5万戸
海
邪馬壹國、7万戸
投馬国、5万戸
狗奴國?万戸 >>812
投馬国は5万戸
朝鮮半島南岸ですから宮崎県の何倍も広いですよ。 福岡平野<佐賀平野<筑後平野?<熊本平野<宮崎平野? >>811
鳥栖ICから長崎道に入り佐々まで一度走るといい >>799
>それもそのはず九州北部は魏志倭人伝に色々記述があり
>その中に邪馬台国そのものが無いので
邪馬台国でもないところを詳しく書く意味はなくて、そこが邪馬台国、女王国だからこそ詳しく書いてある。 >>816
予測する方法は
既に判明してる情報から予測する以外に無い。 >>818
福岡平野、佐賀平野、筑後平野は邪馬台国
熊本平野は狗奴国
宮崎平野は投馬国 >>809
九州北部に限定すると
戸数は
末羅国四千戸
伊都国千戸
奴国二万戸
不彌国千戸
の計2万6千戸だな >>818
奴国だけで2万戸だから、宮崎に5万戸は可能だな。 >>820
その理屈は成り立たないね
邪馬台国に行く未知中の事が詳しく書いてあったって
何も畿内説の否定材料にならない 九州南東部の投馬国。
古墳時代前期から朝鮮半島との結びつきが強い。
半島から沢山の技術者が連れて来られた痕跡が残っている。
神功皇后の朝鮮半島進出。
実際あったんじゃないかな。
軍隊と共に行動する巫女の埴輪も各地で出ているし、女性が戦地に行くのは当時は普通だったんだろう。
秀吉の朝鮮半島進軍の際に多数の陶工が連れて来られたように、神功皇后の朝鮮半島進出の際にも多数の技術者を連れて来たのだろう。 >>823
それは違いますね
七万戸、五万戸を過少に見すぎ。 >>822
予測できなかったんだよ
戸数は不明と魏志倭人伝に書いてある >>833
個別の戸数は不明だが
邪馬壹國の戸数は可七萬餘戸と予測してる。 魏書東夷伝韓条に韓(馬韓、弁韓、辰韓)は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と隣接していると記されている。 この記述が気になるね。
朝鮮半島南部の沿岸部の島々は、元々倭の領域だったのかもね。卜骨も出てるし、倭人の活動範囲だろうね。
さらに洛東江付近にある2世紀の鉄鉱石採掘跡。
日本列島の土器しか出ない採掘跡が見つかっている。
弥生時代後期には、鉄を求めかなり活発に半島に進出し、日本列島に鉄をもたらしていたと考えられる。
中国本土からも鉄を求めて朝鮮半島に進出しており、当時の半島は鉄の採掘場だったんだろうな。
どのような勢力がこの役割を担い、日本列島のどの地域、勢力と結びつきが強かったか解明しないといけない。 >>828
道中のことばかりで、畿内のことなんてまるで書いてないことになる。
そんなわけあるか。
九州北部のことばかり書いてあるのは、そこが女王国だからこそ。 >>832
その当時は水田稲作が発達してたんだ
罰として徐福について語れ(いいな九州王 須玖岡本遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志倭人伝だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
まして、畿内説のように魏志倭人伝さえも無視するのは、悪質な歴史の歪曲と言わざるをえないこと。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 >>834
だからそれは邪馬台国が九州北部の連合国なら成り立たない
20カ国も戸数がわからないんだから
それに30ヶ国合計して七万戸なら
投馬国1国五万とほぼ同じで邪馬台国ショボ過ぎ
邪馬台国は単一の国家で
七万戸の戸数をもつ国とすれば
それらの矛盾が全て解決される 九州説の中にも互いに差異があることを確認したスレだった。
その違いがわからない畿内廚がついてこれなかったようだが。 >>836
書いてあるけど
南に水行20日とある時点で
九州は慣れて船出する事は確定
まあ多分魏の使者は伊都か奴国までしか行ってないと
予測してるけど >>840
投馬国だって内訳はわからないが、全体は推計できている。
同じことだ。
邪馬台国も、全体は推計できる。 >>843
末盧まで10日で、そこで上陸せずにさらに10日南下して宮崎に到着。 >>844
20カ国も遠すぎて戸数がわからないのにか?
オレならとてもじゃないが合計七万戸なんて書けないね
国全体の戸数は不明と書くわ 魏の人間色々ミスはあるけれど
それなりに詳しく記録残しておいてくれて良かった
九州説がはこびるのを防ぐ事ができる 天孫降臨は畿内の倭国から伊都国への婿入りだろう。時期は1世紀初頭。
1世紀中頃の三雲南小路遺跡の方形周溝墓。畿内の墓式。
後漢がAD57年、倭国の極南界の委奴国に金印を授けた記述。(この記述を見ても、倭国と委奴国は別ものと分かる)
畿内の倭国から委奴国に婿入りした王が貰ったのかもしれない。 >>848
そんな調査団はクビにしてやる。
内訳はなくても、総数は国力を知る上で重要だろう。 >>843
>まあ多分魏の使者は伊都か奴国までしか行ってないと
>予測してるけど
その通り。
だから女王国は伊都国・奴国。 魏の人間それなりに詳しく記録残しておいてくれて良かった
畿内説がはこびるのを防ぐ事ができる >>852
されたかもな
倭国の20カ国は遠すぎてわかんなーいと
はっきり書いちゃってるから
>>854
そっからさらに東に行った所が邪馬台国だろう
魏使はそこまで行かなかった 博多湾沿岸が影響を受けているのは畿内と出雲
今津湾周辺は出雲と博多からの持込 九州説よ
魏志倭人伝に準拠しなければ邪馬台国は成り立たないのに
その魏志倭人伝そのものと矛盾する悲しみ
九州説は九州北部を邪馬台国連合とする事で
あらゆる記述と矛盾する事の説明しなきゃなんないんだぞ >>859
そんなわけないだろ。
平原にしろ三雲南小路にしろ、ひたすら中国の影響だよ。
周辺の出雲とかがその余波を受けている。 畿内説よ
魏志倭人伝に準拠しなければ邪馬台国は成り立たないのに
その魏志倭人伝そのものと矛盾する悲しみ
畿内説は南を東とする事で
あらゆる記述と矛盾する事の説明しなきゃなんないんだぞ >>856
邪馬台国まで行っていないなら、皇帝の詔書も渡せないね。
そんな使いはクビだよ。 >>861
出雲の何が三雲、平原の余波を受けている? 出雲は筑紫矛の分布圏の末端部にあたる
これは武器ではなくて王権のシンボルで
無理をしていっちゃえば黄幢の如きものだ
出雲は中細形銅剣を主要な武器として使用していた
出雲は武器の鉄器化に遅れをとり
渡来系の天日鉾にぼこぼこにされて武装解除された >>449
>そうだ倭王武がいるから邪馬台国は畿内だ <
倭王武は、記紀にいないし、大和の王ではないよ。 >>455
>主張はするが、その理由は言えない そんな九州説って、誰が信用するの?<
「南≠東」と主張はするが、その理由は言えない。
そんな大和説って、誰が信用するの?。 >>459
「南≠東」の結論を連呼するだけ。
理由は口が裂けても言わない 。
それが大和説者。 >>464
>つうかさ卑弥呼が女王って魏使の勘違いじゃねえかな?<
つうかさ、「卑弥呼が女王って魏使の勘違いじゃねえかな?」なんて、
史料事実の否定を匂わす大和説者という人種は、
人間ではなくて、・・・・ケダモノじゃねえか?。 >>480
>史料事実を否定したら、なんか悪いの?<
史料批判に拠って、確率が高くて信頼性が高い、という史料事実を否定する事が悪い。
>史料批判って、それをすることでしょ?<
史料批判とは、史料の信頼性や確率の高さを推定する事。 >>483
>なんで「3世紀末」だというの?<
纏向は庄内であり、
伽耶の陶質土器や、扶余や東沃沮の「槨」や、楽浪の画文帯などに拠って、
「大和の庄内」は3世紀末だから。 >>873
つまり、まったくのデタラメで言ってるわけだね >>492
>3世紀辺りから巨大前方後円墳が畿内に作られてるから
その頃の畿内には大きな権力の集中があった<
3世紀末辺りから、大和に、
扶余や東沃沮の「槨」部族や、楽浪の画文帯部族や古韓尺技術者の流入があり、
筑紫の東征のお手伝いで大量の墓守り人を獲得出来、
筑紫から前方後円墳も伝えられて、
巨大前方後円墳がに作られたが、
大和が、倭国の別種の附庸国の旧小国であった事には変わりがなかった。 >>493
「南→東」の嘘吐きダマシの理由がないのが大和説 。
その程度のものだ w。 >>494
>孫呉の滅亡が280年だから呉藍が3世紀末なら時期的にあうだろ <
成程。 >>501
大和説支持者 「南→東」などの嘘吐きダマシの、皇国史観専門家の学術論文をよんでる
九州説支持者 史料批判で確率を推定して、それからの帰納的推論をしている >>517
「南→東」の嘘吐きダマシの大和説
堕ちいく先は、皇国史観キョクウのヘイトスピーチでの誹謗宣伝 。
哀。 >>537
>九州から南に水行しても何もない 東に水行すれば畿内がある
だから魏志倭人伝の東とあるのは南 <
大和説者は、やっぱり・・・・アホだね。 >>551
大和説者はこの様に、
「南→東」などのような、嘘つきダマシの捏造を平気でします。 畿内説 ・・・学術レベル
九州説(九州人)・・・お爺さんの夢
成済まし九州説(加古川爺)・・・恨(ハン) >>761
>調査は大和や山城、河内、和泉、摂津でも行われている
結果的に、大和や山城、河内、和泉、摂津の調査は、8世紀奈良遷都後の陵墓調査結果
阿波は7世紀以前の陵墓調査結果となっている。
>藤原仲麻呂の乱で廃位されたあと、称徳天皇に流されたから
それは事実ですね。 阿波から奈良遷都後の出来事ですから。 @阿波 >>884
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない >>888
くだらないまぜっかいししか言えない畿内厨…
1995年の討論会で、安本が石野に、近畿から矛のでてこないことを問いただしたことがある
むし・虫・無視…
(良識派たる)畿内説論者とはこの程度のもの >>890
武器以前に、出土してないってとこが問題 何度も言わせるなアホ
武器以前に、出土してないってとこが問題 何度も言わせるなアホ
「兵用 矛 楯 木弓」
矛のでてこない畿内はありえない
「邪馬台国畿内説」は、実証的根拠をもたない
出発点である「魏志倭人伝」の記述とあっていない >>860
卑弥呼の都を伊都国とすると矛盾無く説明できます。 卑弥呼が都を置いたのは邪馬台国。
卑弥呼には1000人の下女が仕え、鬼道を行い衆を惑わしている。
伊都国は1000戸しかない。笑けるね。 >>847
水行20日だろ
水行10日陸行10日じゃない。 >>863
可を付けてるから推測の人口ですと断ってる
皇帝に詳しく聞かれても計算方法説明できれば問題ないよな
書かない方が問題となる。 >>893
邪馬壹國の中に伊都国が在るんだから
卑弥呼が都を置いたのは邪馬壹國だよ
伊都国は1000戸で邪馬壹國全体で70000戸 >>896
倭国の範囲
邪馬台国の範囲
倭種の国の範囲
これちゃんと理解した方がいいよ >>884
お前は学会に夢見すぎ
マイナー学会なんて老人会と同じだぞ マイナー学会なんて他に居場所のないじじいが集まってグダグダやってるだけ >>898 倭種の国の範囲
女王国の東、海を渡る(関門海峡のこと)千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。(銅鐸族、蝦夷ほかのこと)
^^^^^^^^^^^^^^
女王国の東、海を渡る千余里、復(ま)た国有り、皆倭種なり。又侏儒(しゅじゅ)国有り、其の南に在り、人の長(たけ)三・四尺、
410 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/04/25(火) 15:29:08.37
侏儒國が高知県の西部の足摺岬方面。沖の島に「低身長部族が江戸時代まで存在していた」という記録がある。
すばらしい!!
又有侏儒國在其南
↑侏儒国は、高知県沖の、沖の島だよ
石切で有名な 強制労働でじっさいに小人が多かったらしい
江戸時代の地誌「沖の島記」にそれらしき描写がある 畿内厨は方位について逃げまくる
誤記、誤認、誤転写、と言い張るだけ・・根拠も証拠も何もない言い張るだけ
まず方位から論争に終止符を打つべきだが、それができない畿内厨 九州や近畿の学者は勉強会等で情報交換をしている
夢見るお爺さんの情報は必要ない
邪馬台国商売の安本との講演などはお爺さん向けサービス >>862の言う通りである
基本は倭人伝、邪馬台国は倭人伝が無ければ存在しない国
倭人伝にいかに近づけるかが邪馬台国論争の原点
畿内説は倭人伝を曲解・無視し、第2邪馬台国を創ろうとしているのか >>893
笑ける・・・・関西の方言だが今でも使うの? 基本は倭人伝、邪馬台国は倭人伝が無ければ存在しない国
倭人伝にいかに近づけるかが邪馬台国論争の原点
佐原眞のかつての高地性集落分析で、後期へいくほど、東へ行くほど、石鏃の重厚感が増す傾向があり、
それは殺傷能力の増大が瀬戸内東部から河内にかけて有事体制を強化したことを指し示している。
佐原氏のほかの考え方は別として、高地性集落に関する詳細分析だけはかなり信憑性が高い。
高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で
近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。
森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、
室町時代の“戦国期”にも相当する旨、記しているから、あるいは神武の軍隊は吉備辺りでかなりの軍備を
整えたのかもしれない。大和岩雄氏も、@「二世紀後半の倭国の争乱の時期の高地性集落は、
東部瀬戸内から畿内にかけての地域と紀伊水道の東岸で、吉備以西には認められない」、
A神武東征伝承において、「吉備で戦闘準備をし、長期間滞在したという伝承は、吉備勢力の存在を認めている。
この東征伝承では、難波から河内に入り、敗れて紀伊国に上陸しているが、第五期前半の高地性集落が、紀伊水道の東岸にまでみられることと、なぜか合う」、という理由をあげて、「吉備を東征の拠点としている伝承と、
倭国争乱時の高地性集落は、適合する」と記している(前掲「邪馬台国と初期ヤマト政権」)。
神武の大和侵入は、その結果として畿内から銅鐸を祭祀具とする文化とその奉持者を駆逐した。
なかでも、伊勢・伊賀辺りを本拠としていた伊勢津彦らの一族は、東に逃れて諏訪氏族の母体となり、
これと同行した伊豆・服部氏族の祖からは武蔵などの東国諸国造家や磐城などの陸奥諸国造家が多く分出したことから
みて、その衝撃の大きさも知られる。
森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで、
↑立派やね… それに比べて、「近畿厨」!! アホすぎる、長閑すぎる 基本は倭人伝、邪馬台国は倭人伝が無ければ存在しない国
倭人伝にいかに近づけるかが邪馬台国論争の原点
>參問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千餘里(魏志倭人伝)
一周が5千里(約400km)余りの島だってんだから、九州島内以外にはあり得んだろ
近畿説とか頭おかしい
しかもこれは邪馬台国のみの記述ではなく倭地(倭国)全体の話
つまり当時の中国の認識する倭国は九州島のみ 森浩一先生はチョンボをこいてしまわれたので信頼されてない >>909
「ピラミッドの目的は完成後の『用途』にあるのではなく、造るという『製作』そのものにあるのである」
『ピラミッドの謎』1975 メンデルスゾーン博士
あるいはかなりの地方に高地性集落があらわれる。
弥生中期。あらわれかたも1回ではないのです。
同じ集落をまた修復して使ったりしていますが、しかし古墳が
できるようになるとそういうものはほとんどなくなっていく。
なくなるばかりか、ここがまたおもしろいのですが、
かつての高地性集落のあったうえに、あるいはすぐ付近に、その地方でもっとも古い前方後円墳が
突如として築かれる場合がある。
いまのところこの謎はちょっと解けない。
森浩一「考古学の模索」1978 学生社
銅鐸民族の悲劇: 戦慄の古墳時代を読む 単行本 ? 2010/12/27
臼田 篤伸 (著)
巨大古墳の出現と時を合わせて銅鐸文化は消滅した。天孫族の九州から大和への侵出は“神武東征”に
象徴された“民族戦争”であり、敗者である銅鐸民族は奴隷として強制労働に駆り立てられ、巨大古墳作りの
労働力とされた
巨大古墳群は被征服民族・銅鐸民族の奴隷労働の結果であり、そこは同時に古代日本版「収容所群島」だった
古墳時代“消耗システム論”を立証した異色の書。 >>898
倭国とは漢、魏によって王が任じられた朝鮮半島南岸と北部九州地域の国
倭地とは九州島の北半分
邪馬壹國とは北部九州の卑弥呼が都を置いている国(壱岐対馬を含む)
倭種とは中国、四国、関西地域
女王國とは倭国と同じ範囲
ですね。 >>910
外周ではなくて国邑を結ぶ道を一周です。 『山王院 山王宮』
家の写真だと思うんだけど?
山の上のほうに住んでいて、凄い土地を持っていた 詳しいことはわからないけど、
何かの家だったのかな?誰かが住んでいたとか 誰々って川崎に住んでいるんじゃないの。
住んでいるでしょ。
と言ってる人がいたり
昔どこそこに住んでいて・・・なぜ知っているんだと思う 『羽山の森美術館』
むかーし、この近所に住んでいて・・・、
山のほうにある、城に通ったりしていたんだよ
とか
職は不明、馬に乗り、刀・・・ 900超えたか
そろそろ畿内厨が貼り付け、罵倒、勝利宣言の連続投稿が続くな、、、いつものこと たしか芸能関係、芝居、歌舞伎などが好きだった
とも言っていたw テンプレでいうと、、、
■世有王皆統屬女王國 は、
a. 世(世)王皆統屬女王國 →伊都国には代々王がおり、(代々の王は)皆女王に属していた
というの解釈を主張するのなら、FAQ47の
「魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう」
「倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁」
は、自己撞着してますね。
・「新生倭国の国家形成は、伊都国王と無縁」 (FAQ47)なのですか??
・それとも「世有」には「代々…」という意味と解釈するべきで、伊都国王は、代々女王国に統屬していた(FAQ56)なのですか?
ハッキリさせてもらえますか? 福永はイカンな
彼の講義から
・・・箸墓古墳が卑弥呼の墓と仮定すれば、卑弥呼と大和政権とのつながりも類推できます。
代の天皇の中で、実在した人物として最も古い存在は10代目の崇神(すじん)天皇とされていますが、
崇神天皇の墓は箸墓古墳の近くにあり、周辺には複数の巨大な前方後円墳がある・・・
☝
問題点 ・倭人伝による卑弥呼の墓は円墳でなく前方後円墳と比定していること
・崇神天皇陵・・行燈山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、
宮内庁が第10代崇神天皇の陵に治定しているが、根拠は示されていない 天皇なんてものはいないと言ってるんだよ、
そろそろ頭の病院に行ったほうが良いぞ 山王院 山王宮
この名前の人物がテンノウだと言っている人もいたよ、
どういう事だと思う? >>923 問題点 ・倭人伝による卑弥呼の墓は円墳でなく前方後円墳と比定していること
銅鐸文化の消滅をこじつけでしか説明できない時点で近畿説はダメ。
@箸墓古墳の円墳先行説は成り立たない@
桜井市教育委員会の1999年の第11次調査にかかわった橋本輝彦は、その報告書「桜井市立埋蔵文化財センター
発掘調査報告書、20集」に、
箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造を開始、完成していることは間違いなく長らく唱えられてきた
後円部先行説は否定されることとなろう」と書いている。
箸墓は卑弥呼の墓だという人たちがいる。
このような主張者たちは、「径百余歩」の墓と書く文献資料と、考古学上の箸墓古墳の墳型が、まったくちがうのに
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
敢えて文献資料の倭王卑弥呼の円墳に、前方後円墳の箸墓古墳を比定する理由を説明する必要がある 寺院に通っていた。
山のほうへ行き、先祖を祀ったりしていた? 369 返信:日本@名無史さん[] 投稿日:2017/09/11(月) 10:20:16.26
>>326
「奴」の音読み「ド」は漢音(唐代の長安付近の言語由来)だから有り得ない。
時代錯誤も甚だしいわ。
時代としては中古音の「ノ」または上古音の「ナ」と読むほうが実情に即している。
↑詭弁!!
この問題、古代のシナ人が我が国をどう呼んでいたかに尽きる
リーベン(北京官話の現代シナ語の日本)
イ、イ、委だよ ポイントは
2000年前から、共通している そこがすごい魏志倭人伝
地名の7割が一致している そこがすごい魏志倭人伝
繰り返す
「漢の委の奴の国王」
な わ
↑3段細切れ読み 根本的にまちがい!! イトまたはイドと読みます
金印は当然、政庁におかれた
皇帝の金印が地方の首長に下賜されるわけがない
印文のルールとは、二段国名が取られていたこと
三段国名の例があったら教えてもらいたい
ないだろ?? 畿内厨… 岡上は理由を言わないから
何を言ってるのかわからない >>929
三段読みが間違いだとイトまたはイドと読む・・・?
因果関係ねーじゃん >>922
>・「新生倭国の国家形成は、伊都国王と無縁」 (FAQ47)なのですか??
FAQ47に「新生倭国の国家形成は、伊都国王と無縁」と書いてない件について >>935
イトまたはイドと読む…
福永光司の非常に説得力ある一文も参考に
どうせ読まんのだろ、アホの畿内厨さん… 岡上っていつも説明ができないんだよな
論理的な思考ができないお脳なんだろう 山と言えば、鉄だな。
猫稲荷の地赤土。
関係あるのかな。 九州説の主張する話はどれも30年くらい前の時代遅れのもの 九州説で引用できる学者は
だいたい10年前くらいに死んでる人だな 赤土〜赤間?
福島県の民家園に保存されているでしょ?
蚕を飼い、機織りをしていた家など 以前から思っていたんだけど、
お前の言う荒らしというのは何のことなんだ
すべて逆だという話、知ってる? 以前から思っていたんだけど、
お前の言う荒らしというのは何のことなんだ
すべて逆だという話、知ってる? >>942
おまえ、いつも張り付いてるな
孤独な老人が多い畿内厨!!!
圧倒的な真実に古いも新しいもない
真実はつねに新しい… 説明しなくても知っている人は知っている
菅野力夫〜本当のアマテラスの家。一族。 なぜ九州説は俺様結論をいうだけで、だれも理由を説明しないんだろう?
それでは本人以外にだれも理解できない 3世紀 宮崎の王女卑弥呼が邪馬台国(大和)に弟とともに移住
(卑弥呼は嫁入り、弟は婿入り)
卑弥呼が邪馬台国で女王として即位
宮崎では地元出身の倭の女王卑弥呼のことを「伝説のアマテラスさま」として神格視
(畿内ではアマテラスは中堅の皇祖神として敬われてはいたが神格視まではされていなかった)
7世紀天武が大化の改新や白村江の戦いの混乱から逃れるため宮崎に避難
宮崎でアマテラス神話を受け継ぐ
天智の死後、九州勢力をバックに天武挙兵
壬申の乱を起こし畿内を支配する
アマテラス信仰を畿内に再輸入し、アマテラスが皇室の最高神となる >>957
本人も理解してないからだよ。
だから説明できない。
よくある答え
「決まってる。決まってるんだ」
「よく読め」
「もう書いた。自分で探せ」
「どうせお前に言っても解らない」 天孫、天神、天津、国津・・・なのか知らないけど、
検索して、写真などを見て、その外見の話をしているの? wiki
>或る程度金はもっていただろう
そんなに、お金持っていたら、おかしな話でしょ、
そもそも働いたり仕事しているという家でもないと思うし、
他人から搾取するような側の人間でもないと思う >>961
こういう理由のない決めつけが九州説のすべてだな 漁をしたり、畑を耕したり、米を作り、生活していれば良い
実際はそれくらいの話だと思う
猟をしたい人なら、それも良い >>914
周旋可五千餘里これも可が付いており推測値ですね
推測の計算方法は下記の通り
奴国-不弥国の100里に末盧国-不弥国間の平均距離を21(不弥国から奴国までの国邑間の数)倍し加えた。
100里 + (500里+100里+100里)÷3 × 21 = 5000里
奴国-不弥国 末盧国-不弥国の平均距離 周旋可五千餘里 嘘をついてまでテンプレを攻撃したいって岡上は異常じゃないの? >>968
傍国は陸続きだから陸上の距離だけを参考にしてるな。 >>967
北部九州じゃ会稽東冶の東にするの無理だから 計其道里 當在會稽東冶之東・・・計算上は会稽東冶の東に当たると書いてあるだけでしょ >>973
書いてあるのに無視するの?
九州説は倭人伝をコケにするbだね。 >>972
周旋可は奴国から奴国までの倭地を周旋を指してます
壱岐対馬は通ってきましたから既に距離を書いてる。 >>976
なんで奴国から奴国までの倭地を周旋ってことになるの? >>976
末盧国や伊都国だって通って来たろ?
既に距離も書いてる。 東周りで奴国、西回りで奴国、奴国が2回でてくるのは周旋だからだ >>984
疑問に答えられないでしょ
だからウソ解釈 数年前の信onというスレ
武田信玄の話をしている人がいたり、
それと水戸黄門?
「本当に旅、漫遊したのか?」
「どこにも行ってないんだろう」とか 『エウレカセブン ao』というアニメの曲
どこでも行ける〜・・・と言っていたり このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。
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