関ケ原合戦の時点では、まだ豊臣方の諸将が健在なので、秀頼に手を出すことはできない。
五大老クラスでも、家康に臣従しない大名は、毛利・宇喜多・小早川などがあり、島津・
長宗我部・織田・佐竹なども家康の勢力圏には入っていない。
石田・小西・恵瓊などは徳川と激しく対立している。
この時点では、大阪城と秀頼は西軍側が抑えており、朝廷も西軍の勢力下にある。
したがって、西軍は大坂城・秀頼・朝廷を拠点として、「負けない」体制を築けばよかった。
持久戦になれば、西軍のほうが優勢だったはずだ。