もし頼朝が征夷大将軍以外の将軍位に就いてたら?

1日本@名無史さん2017/10/09(月) 22:49:40.79
尊氏とか家康もそっち目指してたの?

2日本@名無史さん2017/10/12(木) 12:33:36.05
幕府は元々近衛大将(羽林大将軍)の事。
頼朝が幕府である近衛大将から征夷大将軍に任官したのが武家の前例になっただけ。

3日本@名無史さん2017/10/12(木) 15:27:53.96
頼朝、尊氏、家康が生きてた頃には
「幕府」なんて言葉は使われてなかったからな

4日本@名無史さん2017/10/14(土) 22:27:42.33
尊氏や家康は近衛大将じゃダメだったの?
例えば近衛大将だと一軍の統帥権しかないけど、征夷大将軍には巡撫とかの軍政権があるとか

5日本@名無史さん2017/10/14(土) 22:37:48.51
諸国の守護と地頭の任免権が、天皇や朝廷でなく鎌倉殿にあるように、
頼朝は朝廷から半独立した形での「自治」を求めていたと考えられること


そのうえで奥州征伐時に、大庭景義が「戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される」という趣旨を論じたように、
「将軍」になれば朝廷から半独立した形での「自治」ができるとみられた


こんな感じだろうかと思う

6日本@名無史さん2017/10/16(月) 14:12:28.72
近衛大将は帝の近くで衛るわけだから在京前提になるので避ける。
朝廷に取り込まれないために、東国に拠点を置くとしたら、戦時職が良い。
鎮守府将軍の奥州藤原氏を超える大将軍で、義仲の征東大将軍を避け、嘉例あるとなると消去法で。

7日本@名無史さん2017/10/16(月) 14:17:36.65
三位に登り、鎌倉殿の家政機関が公的な性格を帯びる。
守護地頭の任免権など、御家人の統率に必要な権限を勅許で獲得。
征夷大将軍となり、半独立の名目を獲得。

後世に言う「幕府」の成立は、相当絶妙な政治的手腕によるものと感じる。

8日本@名無史さん2017/10/16(月) 21:47:01.51
>>6-7
外征軍の司令官(軍政権あり)で権威の高いのが征夷大将軍って事?

9日本@名無史さん2017/10/17(火) 22:57:39.59
元々はそこまで権威高くないのでは。
だんだんと鎌倉殿の地位と不可分になっていき、権威が後からついた。

10日本@名無史さん2017/10/24(火) 23:06:01.29
場合によったら征西大将軍だったかもね。
源氏の地盤が西だったら。

11日本@名無史さん2017/10/25(水) 02:31:48.25
>>8

孫子「将、軍に在りては君命も受けざるところあり」

朝廷の官位でありながら、君命(勅命)の言いなりにならないことが
社会通念上許され、武士を束ねることにふさわしい官位

となると将軍なのだろう

12日本@名無史さん2017/10/25(水) 03:09:16.25
衛宮士郎

13日本@名無史さん2017/10/25(水) 04:00:45.07
国村林兵衛門

14日本@名無史さん2017/10/25(水) 08:22:55.14
征東将軍じゃダメなの?

15日本@名無史さん2017/10/25(水) 08:57:18.98
それだと「東」の東国だけじゃん
全国の武士の棟梁にならんと

16日本@名無史さん2017/10/25(水) 15:41:31.68
義仲が征東大将軍だから避けたのでは。

東夷、南蛮、西戎、北狄だから、
元々は夷に全国の意味はないと思う。

17日本@名無史さん2017/10/25(水) 17:17:21.31
ただ坂上田村麻呂も大納言、右近衛大将、征夷大将軍と兼ねているんだよな
頼朝と似ている

18日本@名無史さん2017/10/25(水) 19:08:50.14
足利将軍も

19日本@名無史さん2017/10/25(水) 19:36:07.07
ゴメン、足利将軍も近衛だか鎮守府だかに任命されたりしてたよね

20日本@名無史さん2017/10/27(金) 09:15:57.66
wiki見てきた。
坂上田村麻呂は蝦夷征伐で40歳のとき従四位下で陸奥守・鎮守将軍に征夷大将軍を兼ねる。
戦地の政治と兵権を担う方面指揮官。
その後も武勲を重ねて10年後に従三位右近衛大将。その後に大納言。

頼朝は、奥州藤原氏討滅後に上洛し、権大納言と右近衛大将に任官。しかし僅かの日数で辞官して鎌倉に戻り、その後に征夷大将軍。
頼朝は征夷大将軍を望んだが、後白河院が認めず、代わりに権大納言と右大将に任じられたらしい。
後白河院の崩御後にようやく征夷大将軍。

頼朝としては征夷大将軍を狙っていたわけだから、田村麻呂を研究していただろうし、これを嘉例として右大将と大納言の組合せを得たということかも。

21日本@名無史さん2017/10/27(金) 10:55:55.08
近衛大将は摂家と清華の独占で回り持ちの慣例か。
義満の力で足利氏は少なくとも清華成りしたと考えて、その後の当主は順当にいけば右大将が得られたということでは。
義持、義教、義政など長期当主に座った将軍はみな右大将になっている。
義政以降は家督争いと乱により家格下落を招いたように見えるが。

22日本@名無史さん2017/10/28(土) 10:49:50.08
源頼朝の実権を担保する実質的な官職は、日本国総追捕使、日本国総地頭職だと思う。
征夷大将軍は、装飾的な官位であり、それ自体に実質的な意味はない。
「将軍」っぽい名称であれば、何でもよかった。
右近衛大将・権大納言は、公卿としての地位を表す重要な官位だが、常時朝廷に出仕
するわけにはいかないので、すぐに辞職したということだろう。

23日本@名無史さん2017/10/28(土) 14:20:05.34
>>16
ただ足利尊氏は中先代の乱の時に、征夷大将軍への任官を後醍醐天皇に求めた
しかし天皇は却下し、代わりに尊氏を征東将軍に任じたという話がある

24日本@名無史さん2017/10/28(土) 15:29:12.49
後醍醐帝と尊氏の関係だし。

25日本@名無史さん2017/10/30(月) 13:42:44.31
征夷大将軍を超える将軍は宇宙大将軍しかありえない

26日本@名無史さん2017/10/30(月) 15:06:28.64
>>25
北の将軍様は?

27日本@名無史さん2017/11/06(月) 00:22:20.53
坂上田村麻呂は征夷の準備段階で陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任
出征が決まってから改めて征夷大将軍にも任じられてるのが何気に前例がないんだよね
陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍、征夷大将軍のどれか一つが欠けて任命されてる例はあるんだけど、陸奥の官職を全て兼任させて一年の準備期間を置いてから、令外官の征夷大将軍に任じられてるのが当時の朝廷の本気度を現してる

大納言についてはどうだろうね
9月6日に嵯峨天皇が平城天皇の平城京遷都の勅にとりあえず従って坂上田村麻呂を平城京造京史に任命
その4日後には藤原薬子の官位を剥奪して対立姿勢を見せると同時に田村麻呂を大納言に任命してる
薬子の変がなかったら大納言に任命されてたかというと微妙な感じもするんだよね

坂上田村麻呂と源頼朝だと任命される順序が逆なんだよな

28日本@名無史さん2017/11/17(金) 21:40:09.51
>>25
侯景さんがもし帝位を維持出来てたら、
嘉例として伝わり律令に組み込まれてたかもしれない

29日本@名無史さん2017/12/24(日) 19:18:38.09
>>22
頼朝は生前、西日本を支配下に置いてなかったよね?
征夷大将軍は奥州藤原氏を滅ぼすための口実であって
日本全土の支配権など得ていない

30日本@名無史さん2017/12/26(火) 10:04:11.63
1189年 奥州合戦により奥州藤原氏滅亡
1192年 征夷大将軍

31日本@名無史さん2018/01/08(月) 00:25:54.47
よく間違えられるが、「頼朝の征夷大将軍への任官希望は奥州藤原氏征伐のため」という説。
昭和時代に良く語られていたが、新史料の発見で今では否定されている。
頼朝は自らを権威づけるために「将軍」の上の「大将軍」の呼称を望んだ。 で、朝廷は3つばかり案を出し、
そのうちの1つが征夷大将軍で、頼朝は気に入ってこれにしたと。
>>22氏が言うように 征夷大将軍は箔付けの勲章みたいなものなんだな。 実際 2年後に辞任して「前右大将家」になったし。
律令制下では征夷大将軍の相当官位は従四位下だしね。
頼朝の後の鎌倉殿に就いた頼家が親父さんのやり方を見倣ってから、 「鎌倉殿は征夷大将軍に補任される」ことが
慣習化した。

32日本@名無史さん2018/01/30(火) 14:50:33.45
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33日本@名無史さん2018/07/12(木) 17:54:14.84
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34日本@名無史さん2018/07/19(木) 03:59:11.34
そもそも左近衛大将と右近衛大将が居るわけで。
どちらかに任命されても、もう片方に有力者が任命されたら(例えば平家の当主とか)互角の権威が発生してしまう問題がある。

35日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:23:44.84
>>22
足利義栄とはエライ違いだな。

36日本@名無史さん2018/07/19(木) 11:56:20.25
>>30 >>31
頼朝は奥州征討前に征夷大将軍を望み、朝廷に申請している
しかし認められなかっただけだよ
1192年になって急に征夷大将軍なのは反対していた後白河法皇が死んだから
このときの関白九条兼実は
東宮の外祖父で次期政権担当者である土御門通親の追い上げを食らっており
頼朝に恩を売るのに必死だった

37日本@名無史さん2018/07/31(火) 15:59:20.06
奥州追討の宣旨も要請してたけど結局間に合わなくて後で容認した

38日本@名無史さん2018/08/20(月) 20:37:31.35
頼朝の征夷大将軍の任官は、木曽義仲追討の手柄として一度朝廷内で議論されてるよね。
平将門の乱を平定した藤原秀郷の特進(六位→従四位下)を先例として、頼朝の官位を従五位下→正四位下に特進。
同時に藤原忠文が将門追討時に征夷大将軍に任じられたことを先例として、頼朝に征夷将軍を与えたほうが良いかと議題に上った。
でも簡単に任命はできないと諸卿群議あって、取り敢えず敍位だけという結論になった。
後白河法皇は本当に反対してたのだろうか?

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