もし頼朝が征夷大将軍以外の将軍位に就いてたら?
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頼朝、尊氏、家康が生きてた頃には
「幕府」なんて言葉は使われてなかったからな 尊氏や家康は近衛大将じゃダメだったの?
例えば近衛大将だと一軍の統帥権しかないけど、征夷大将軍には巡撫とかの軍政権があるとか 諸国の守護と地頭の任免権が、天皇や朝廷でなく鎌倉殿にあるように、
頼朝は朝廷から半独立した形での「自治」を求めていたと考えられること
そのうえで奥州征伐時に、大庭景義が「戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先される」という趣旨を論じたように、
「将軍」になれば朝廷から半独立した形での「自治」ができるとみられた
こんな感じだろうかと思う 近衛大将は帝の近くで衛るわけだから在京前提になるので避ける。
朝廷に取り込まれないために、東国に拠点を置くとしたら、戦時職が良い。
鎮守府将軍の奥州藤原氏を超える大将軍で、義仲の征東大将軍を避け、嘉例あるとなると消去法で。 三位に登り、鎌倉殿の家政機関が公的な性格を帯びる。
守護地頭の任免権など、御家人の統率に必要な権限を勅許で獲得。
征夷大将軍となり、半独立の名目を獲得。
後世に言う「幕府」の成立は、相当絶妙な政治的手腕によるものと感じる。 >>6-7
外征軍の司令官(軍政権あり)で権威の高いのが征夷大将軍って事? 元々はそこまで権威高くないのでは。
だんだんと鎌倉殿の地位と不可分になっていき、権威が後からついた。 場合によったら征西大将軍だったかもね。
源氏の地盤が西だったら。 >>8
孫子「将、軍に在りては君命も受けざるところあり」
朝廷の官位でありながら、君命(勅命)の言いなりにならないことが
社会通念上許され、武士を束ねることにふさわしい官位
となると将軍なのだろう それだと「東」の東国だけじゃん
全国の武士の棟梁にならんと 義仲が征東大将軍だから避けたのでは。
東夷、南蛮、西戎、北狄だから、
元々は夷に全国の意味はないと思う。 ただ坂上田村麻呂も大納言、右近衛大将、征夷大将軍と兼ねているんだよな
頼朝と似ている ゴメン、足利将軍も近衛だか鎮守府だかに任命されたりしてたよね wiki見てきた。
坂上田村麻呂は蝦夷征伐で40歳のとき従四位下で陸奥守・鎮守将軍に征夷大将軍を兼ねる。
戦地の政治と兵権を担う方面指揮官。
その後も武勲を重ねて10年後に従三位右近衛大将。その後に大納言。
頼朝は、奥州藤原氏討滅後に上洛し、権大納言と右近衛大将に任官。しかし僅かの日数で辞官して鎌倉に戻り、その後に征夷大将軍。
頼朝は征夷大将軍を望んだが、後白河院が認めず、代わりに権大納言と右大将に任じられたらしい。
後白河院の崩御後にようやく征夷大将軍。
頼朝としては征夷大将軍を狙っていたわけだから、田村麻呂を研究していただろうし、これを嘉例として右大将と大納言の組合せを得たということかも。 近衛大将は摂家と清華の独占で回り持ちの慣例か。
義満の力で足利氏は少なくとも清華成りしたと考えて、その後の当主は順当にいけば右大将が得られたということでは。
義持、義教、義政など長期当主に座った将軍はみな右大将になっている。
義政以降は家督争いと乱により家格下落を招いたように見えるが。 源頼朝の実権を担保する実質的な官職は、日本国総追捕使、日本国総地頭職だと思う。
征夷大将軍は、装飾的な官位であり、それ自体に実質的な意味はない。
「将軍」っぽい名称であれば、何でもよかった。
右近衛大将・権大納言は、公卿としての地位を表す重要な官位だが、常時朝廷に出仕
するわけにはいかないので、すぐに辞職したということだろう。 >>16
ただ足利尊氏は中先代の乱の時に、征夷大将軍への任官を後醍醐天皇に求めた
しかし天皇は却下し、代わりに尊氏を征東将軍に任じたという話がある 坂上田村麻呂は征夷の準備段階で陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任
出征が決まってから改めて征夷大将軍にも任じられてるのが何気に前例がないんだよね
陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍、征夷大将軍のどれか一つが欠けて任命されてる例はあるんだけど、陸奥の官職を全て兼任させて一年の準備期間を置いてから、令外官の征夷大将軍に任じられてるのが当時の朝廷の本気度を現してる
大納言についてはどうだろうね
9月6日に嵯峨天皇が平城天皇の平城京遷都の勅にとりあえず従って坂上田村麻呂を平城京造京史に任命
その4日後には藤原薬子の官位を剥奪して対立姿勢を見せると同時に田村麻呂を大納言に任命してる
薬子の変がなかったら大納言に任命されてたかというと微妙な感じもするんだよね
坂上田村麻呂と源頼朝だと任命される順序が逆なんだよな >>25
侯景さんがもし帝位を維持出来てたら、
嘉例として伝わり律令に組み込まれてたかもしれない >>22
頼朝は生前、西日本を支配下に置いてなかったよね?
征夷大将軍は奥州藤原氏を滅ぼすための口実であって
日本全土の支配権など得ていない 1189年 奥州合戦により奥州藤原氏滅亡
1192年 征夷大将軍 よく間違えられるが、「頼朝の征夷大将軍への任官希望は奥州藤原氏征伐のため」という説。
昭和時代に良く語られていたが、新史料の発見で今では否定されている。
頼朝は自らを権威づけるために「将軍」の上の「大将軍」の呼称を望んだ。 で、朝廷は3つばかり案を出し、
そのうちの1つが征夷大将軍で、頼朝は気に入ってこれにしたと。
>>22氏が言うように 征夷大将軍は箔付けの勲章みたいなものなんだな。 実際 2年後に辞任して「前右大将家」になったし。
律令制下では征夷大将軍の相当官位は従四位下だしね。
頼朝の後の鎌倉殿に就いた頼家が親父さんのやり方を見倣ってから、 「鎌倉殿は征夷大将軍に補任される」ことが
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IYV そもそも左近衛大将と右近衛大将が居るわけで。
どちらかに任命されても、もう片方に有力者が任命されたら(例えば平家の当主とか)互角の権威が発生してしまう問題がある。 >>30 >>31
頼朝は奥州征討前に征夷大将軍を望み、朝廷に申請している
しかし認められなかっただけだよ
1192年になって急に征夷大将軍なのは反対していた後白河法皇が死んだから
このときの関白九条兼実は
東宮の外祖父で次期政権担当者である土御門通親の追い上げを食らっており
頼朝に恩を売るのに必死だった 奥州追討の宣旨も要請してたけど結局間に合わなくて後で容認した 頼朝の征夷大将軍の任官は、木曽義仲追討の手柄として一度朝廷内で議論されてるよね。
平将門の乱を平定した藤原秀郷の特進(六位→従四位下)を先例として、頼朝の官位を従五位下→正四位下に特進。
同時に藤原忠文が将門追討時に征夷大将軍に任じられたことを先例として、頼朝に征夷将軍を与えたほうが良いかと議題に上った。
でも簡単に任命はできないと諸卿群議あって、取り敢えず敍位だけという結論になった。
後白河法皇は本当に反対してたのだろうか? 階段から女性を突き落とした疑いで、「鎌倉の頼朝」を逮捕!
[2019/04/10 11:58]
神奈川県鎌倉市の線路をまたぐ橋の上で大学生の21歳の男が女性に突然、殴り掛かって階段から突き落としてけがをさせたとして逮捕されました。
私立大学4年の頼朝海斗容疑者は1月3日午前4時45分ごろ、鎌倉市の線路をまたぐ橋の上で
30歳の女性の顔面を複数回、殴って階段から突き落とした疑いが持たれています。
女性は顔面を打撲するなど、全治1カ月程度のけがをしました。
警察によりますと、2人に面識はなく、頼朝容疑者は当時、酒に酔っていて、
取り調べに対して「むしゃくしゃしたことがあり、殴ってしまった」と容疑を認めているということです。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000151883.html
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1554868246/ >>11
わかるけど、頼朝の将軍への思いはどもかく、
周囲の人々も後世の人々も頼朝を「前右大将」と呼んで敬っていた
二代頼家も頼朝死後3年間は将軍ではなく、左中将という官位で鎌倉殿を務めていた
だから近衛府の将官でも鎌倉殿を務められたと思われる >>36
>頼朝は奥州征討前に征夷大将軍を望み、朝廷に申請している
それ、昭和時代の俗説だよ。史料の裏付けないし。
現代の通説は>>31 源頼家が征夷大将軍に任官せず、左中将、左兵衛督のような官位のみに任官していたら
鎌倉殿=将軍という習慣はできず、いろんな官位に任官するようになっていたのだろうか? >42
講談社現代新書の「源氏と日本国王」というトンデモ本を読んでみ。目から鱗、抱腹絶倒必至。 清和源氏が征夷大将軍になれたのは、頼朝が蛮夷のいる(不破の関以東の)東国に拠点を持ったから。
不破の関を出てすぐの岐阜金華山が武家の聖地とされるのはそのため。
桓武平氏は京都を造った桓武天皇の末裔だから、直接、征夷大将軍にはならなかった。
武家政権を作るに当たり、頼朝は奥州藤原氏を成敗し、その黄金を朝廷に献上するためという名目で、征夷大将軍になり、鎌倉に幕府を開いた。
続く足利氏も元々は栃木県出身だが、すでに奥州まで支配下に収め、建武の親政の大混乱を防ぐため、京都に幕府を開いた。
コ川は奥州の伊達政宗や関東の佐竹氏を(必要があれば)討つという名目で、江戸に幕府を開いた。
このように表向きは「奥州の蛮夷を支配下に収める」という名目で朝廷から征夷大将軍に任命されるわけだから、東国に拠点を持つ清和源氏でなければ、不可能ということ。 >>45
家康は死ぬまで奥州王・伊達政宗、関東王・佐竹義宣を信用しなかった。
奥州街道沿いの日光に東照宮を築けと秀忠に遺言したのは、参勤交代で伊達政宗や佐竹義宣が参拝しなければ、それを口実に彼らを始末する大義名分を秀忠に与えるためだった!(逆踏み絵) >>31にあるように、源頼朝にとって、征夷大将軍は一種の勲章のような官位に過ぎない。
征夷大将軍の官位によって鎌倉幕府を開いたのではない。
その後、歴代の鎌倉殿が征夷大将軍に任官したことから、征夷大将軍は武家政権の主君の
官位として定着していった。
頼朝自身は右近衛大将に任官しており、こちらのほうがメインの官位として認識されていた
と考えられる。頼朝は「右大将家」と尊称されている。
「清和源氏だけが征夷大将軍になれる」というのは、江戸時代に林羅山が唱えた俗説であり、
特段の根拠があるわけではない。 >>45
>「奥州の蛮夷を支配下に収める」という名目で朝廷から征夷大将軍に任命
>されるわけだから、東国に拠点を持つ清和源氏でなければ・・・・・・
なぜ東国に拠点が必要なのか?
なぜ清和源氏限定なのか?
「征夷」任務なんだから、藤原忠文のように
西国の軍勢を率いて京から進軍してもよいだろ?
「征夷」任務地に近い平氏出身越後長尾氏が
任じられてもよいだろ?
そもそも名目も「蛮夷を支配下に収める」でなく
「征夷」=「蛮夷を征圧する」だろ? ♀_(`O`)♪
あなたも私もアベコロナ
あいつもコイツもアベコロナ〜 91 :バリアフリーな名無しさん:2011/01/04(火) 13:51:52 ID:sJixwUYi
苦情はこちら⇒東京××-5272-2526
若園忠義=北条たける
ホスラブKグループ代表
兼
日本飲食支援ネットワーク代表
兼
歌舞伎町たいよう整骨院代表
兼
ハッピーマーケット代表
兼
バーテックス代表
兼
夫婦で徳留税理事務所役員
兼
NPO法人人と人をつなぐ会理事
兼
NPO法人シニアジョブ社長
兼
まさかの某デリヘル某キャバクラ某ホストクラブ
数十店経営脱税しまくりオーナー若園=北条たける
ttp://ameblo.jp/taiyou-seikotsuin-girls
ttp://waka.typepad.jp/blog/ 家康「佐竹義宣は当代一の律儀者
律儀もいいが、あのように律儀すぎるのも考えものだ」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています