邪馬台国畿内説 Part299
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前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510288331/l50
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
以上 カキコミは自由に語ってください なおできれば前スレを埋めてから書き込んでください。
※前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510373552/ 弥生時代の交易は海運が主力なので、海に面していない奈良県は邪馬台国として発展する余地がないよ。
吉備とか摂津の方が栄えており、纒向は遺跡も貧弱で、とても王都とは呼べない。 >>8
なんで泥棒になるんだよ そんな規則あるのか? >>10
ナリスマシして嘘ついて立てたんんだから泥棒だな もうそろそろ、次のスレッドを作成したほうが良いのではないのかな。。。 テンプレがない方がスレが活発だし、ザラコク氏がつけ込む隙もない。 出雲の伝承では、宗像家は出雲帝国の西王家、神門臣家から分家独立したタカアタス命が初代で
宇佐の地に都したと言います。
近畿の葛城に初めて?移住して分家独立なさったのは
世代でいうとカタアタス命らから三〜四世代後。
出雲帝国の東王家の富家/向家の八重波津身命(いわゆる事代主/大物主)の御子、天日方奇日方命らが母親の生玉依媛命の実家の摂津の三島(高槻市辺り)に母子共々に移り、
後に葛城に出雲人や三島からの人らを連れて移住して
登美家(富家)を号して盤拠したのが端緒のようです。
妹君には媛踏鞴五十鈴姫命 と五十鈴依媛命がいたと言います。
少し後に、その葛城の登美家を頼り出雲から西王家の神門臣家の多岐津彦(父は高彦/味耜高彦根命)らが葛城の南部に移住してきて
高賀茂家を号して分家独立。
葛城のこの出雲から移住して分家独立した登美家と高賀茂家をひとからげに葛城のカモ族と呼ばれるようになって、、、
(王族を神族と奉り、神をカモと発音していた所以)
遡って、宗像家初代のカタアタス命には三人の女御が座して、
長女の多岐理媛命は出雲の東王家、富家の天の冬衣命(第7代オオナモチ(帝王))に嫁ぎ
八重波津身命他を生みます。
また、次女の多岐津媛命/神屋楯媛命/高津媛命は出雲の本家、西王家の神門臣家の八千戈命(第8代オオナモチ)に嫁ぎ(いとこ同士の結婚)
高彦(味耜高彦根)ほかを生みます
八千戈と八重波津身の治世の御代に秦人がやってきて出雲帝国をかき回して乗っ取りを謀り、お二方はほぼ同時期に賊のてにより殺害されてします。
この渡来人等との共住を忌避して出雲人が領有した各地に移住した中の一つが上の近畿の葛城(大和)地方。
時代は紀元前3世紀終わり〜同2世紀頃、中国の秦末から前漢の半ば頃に比定出来るカモです? >>1さん
ありがとうございました、
では、ゆるりと前スレを埋めてからまいりましょう >>18
偽スレ爺さんは泥棒が悪いことだということも分からない 天照だの邇邇芸だの神武東征だの書いてある日本書紀なんて、あとからきた逃亡百済人の作りばなしさ。勿論、対馬海峡から、人の移入なんてそれまで殆どない。箸墓だよ、箸墓。 箸墓が邪馬台国も大和も説明できちゃうキーワードなんだ。
熊野は黒潮のぶつかるところで、縄文時代から揚子江流域からの漂着民が多いんだ。 それで、江南米をたまたま持ち込んだ越人、呉人が米作に適した場所を探したわけさ。
すると、どうだろう、今の奈良盆地に大きな沼地があった。彼らがここで、周辺の縄文人と自然と共生関係を作って、弥生人になったわけ。平和なもんだよ。
後に、瀬戸内、朝鮮半島経由で、先祖の地中国に行けることが分かったそいつらが水銀のことを始皇帝に教えたのさ。 魏志倭人伝がその証拠さ。南越、その後呉のテリトリーとなった地域の風俗が倭人のと一致していると記されているものね。そして丹のことも。
とにかく、それで、ペルシャを経由して、始皇帝の都にたどり着いていたイスラエルの失われた10部族、アンフィクチュオニーが、水銀と奈良の沼地、平原広沢のことを知ったわけ。
アンフィクチュオニーに析出されたのが霊的威力者ジョセフさ。
ジョセフが彼らを率いて奈良にやってきたのだものね。なんのことはない徐福のことだよ。
そのとき、水稲以外の穀物や桃、馬匹文化も伝わって来たのさ。でも、穀物に限って言えば、やっぱり、適所適材、奈良盆地には栄養価の高い水稲だけが残ったんだよ。
キビとかアワとかは、徐福が通った瀬戸内海では根付いたのにね。奈良にそれを売り込みにきた商人は、美しく輝く黄金色の奈良盆地みて青ざめただろうよ。 そして羨み妬んだ。このときの軋轢が倭国乱だろうね。
すったもんだはあったと思うよ。でも、徐福はそれを乗り越えた。そして、奈良の弥生人を指導して通勤王国、咸陽と驪山陵をトポロジー的に想起させる邪馬台国をつくったのだろうね。
そう、弥生人たちは通勤してたのさ。沼地を裸足で。気持ちのいいもんだよ。川船を両岸で引っ張ってくれる男たちだって勿論裸足さ。冬だって裸足だよ、弥生人は丈夫だったのさ。毎日、往復4、5時間かけても構いやしない。
だって、イスラエルから殆ど歩いてきた霊的威力者が付いているんだぜ。文句言う奴なんて一人もいないさ。そしてやっぱり、徐福が、ポピュリズムというものをよくわかっていたのが大きかったのだろうね。(続く) だからこそ、縄文人、越人、呉人、そして最後にやってきた徐福が率いたアンフィクチュオニーと彼らに一緒についてきた秦人がキマイラ的に連合できたのさ。
でも徐福と卑弥呼にどんな関連があるのか?って、決まっているじゃないか、箸墓だよ、箸墓。日本書紀に霊的威力者徐福のことが書いてあるだろ。勿論、大国主のことさ。わかるだろ。
箸墓に眠ってる卑弥呼の、霊的夫さ。逃亡百済人もここは本当のことを書かざるを得なかったのさ。
それから、投馬国だよ、投馬国。わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国と書かれた鞆の浦が、東とか南を説明しちゃうキーなのさ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。
彼らがこれを、帯方郡の役人に伝えたわけ。そのときの通訳がいい加減な奴だったのだろうね。だから東が南になったわけ。
単純なもんだよ。
魏志倭人伝がその証拠さ。
だって、九州北部から投馬国と書かれた鞆の浦の方角も東が南になってるじゃないか。通訳がいい加減な奴だったのさ。
投馬国だよ、投馬国。
だから狗奴国は東国だろうね。
なにしろいい加減な通訳は東を南に間違う癖があるものね。
そして、周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は邪馬台国と狗奴国を周旋しに来たのさ。
つまり、紛争を解決するため、交渉役になってくれたのさ。
ほんの少しだけど、運悪く、殺された兵士や奴隷もいたようだね。
でも、魏の役人のおかげで丸くおさまったのさ。
平和なもんだよ。
五千里は卑弥呼の城と卑弥弓呼の城の往復距離だろうね。
周旋だよ、周旋。
帯方郡の外交官は周旋役になってくれたのさ。(完) ニュー速などの制限されている板や
重複スレとかじゃない限り
スレ立ては自由だからなあ。 それでは仕切り直します
※前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510373552/
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
以上 カキコミは自由に語ってください なおできれば前スレを埋めてから書き込んでください。
邪馬台国関連なら他説歓迎 個人に対する誹謗中傷は止めましょう
健康管理は自己責任ですの健康にはお気をつけてくてください
>>1さんに感謝を込めて >>32
ここは、良スレです
他スレから嫌がらせが来てもスルーしてください ホツマツタエが根拠である場合はきちんとその旨を述べていただきたい 三角縁神獣鏡の同型鏡を分析すると鏡径に大小があり、小さくなるほど文様が不鮮明になる。
これは母鏡から鋳型を作りできた子鏡をまた同じように鋳型にとって順次コピーしていったとみられる。
踏み返しされた三角縁神獣鏡の母鏡とみられるもっとも大きな径となるものが出土した古墳をみると、北九州と吉備に片寄っていることがわかる。
これは三角縁神獣鏡の流通の起点が畿内ではないことを示しており、たとえ下賜と仮定しても
北九州から畿内にもたらされた蓋然性が高く畿内説にとって非常に不利な結果となっている。
母鏡の出土例
>藤崎方形周溝墓
>天神森古墳
>原口古墳
>名島古墳
>香椎ヶ丘古墳
>
>以上福岡
>
>湯迫車塚古墳 岡山
>赤塚古墳 大分
>造山1号噴 島根
>椿井大塚山古墳 奈良 前スレが埋まりました
嵐が激しいのでユルリとまいりましょう >>37
ホツマツタエはほとんど根拠としている人はいないだろう。
あれは読んでみたが読みやすすぎる。
江戸時代以降の文献だよ。
それより先代旧事本紀は役に立つね。 >>40
三角縁神獣鏡は600枚近く発掘されていますが
全て国産なのか すべて魏産なのか 一部魏産があるか 議論墳分です
わたしは紀年鏡は本物と考えますがいかがですか? 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
1世代の王がいたが、今はこの国の皆は女王国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。 三角縁は数が多いから
進化系統樹を作った人がいる。
原始的な意匠の発展系や
途中から入ってきた意匠などもある。
紀年鏡は後の意匠に近い。 「温羅 正体」
の話ではないけど
当時、天皇(天皇家)はいなかった
と言っている人がいたような この直後の其が何なの、難しいな。。。
何の南に狗奴国があるのかだ、、、
やはり、邪馬台国の南なのだろうか。 >>50さん
ありがとうございました
▲も一枚一枚年代比定できるといいですが、今の科学では無理のようです いくら偽スレを立てても畿内説の絶対優位は揺るがないのに
むなしい努力をしてる 紀年鏡
単に三角縁神獣鏡と一括して論じられません
同じ紀年銘入り鏡の兄弟研究、及び同笵鏡に使われている模様ひとつひとつの共通点を論じて、
まずはその素性を探り当てることから始めるべきだがむつかしいです。
最初から大上段に邪馬台国の鏡だという十把ひとからげなとっかりでは手順としてまったく意味がないと思う。
>>50 の言う通り 分類する必要があります キナイコシは、あの向こうの重複してしまった偽スレで、
ざらこく氏に遊んで貰えてよかったのではないのかな、、 >>55
それを立証するために
ここで論じていきませんか
歓迎します このスレ 聡明だな
本スレのスレ主もこういう手があったのに残念
1、まず、誰かが次スレを立てる
2、そして本スレのスレ主が感謝を述べ、テンプレを張り付ける
3、するとスムーズにスレ主の思い通りに成る
感心感心 ここは良スレと認知した 内行花文鏡の編年も考慮すべきですよ。
畿内に降臨した饒速日の10種の神宝の鏡(籠神社)が平原遺跡の三種の神器の八咫の鏡と同じ内行花文鏡であったので、古代倭国においては内行花文鏡の方が重要視されていたと考えられます。 他のスレにも書いたんだけど、
家は『松傾』と同じ家だよ
上の名前の読み方も「す」
だよと言っている
泥棒のようなものに入られたとか >>60
平原の大型内行花文鏡は魏使から貰ったものでなく、
祭事にかかせない独自の鏡という見方はできないでしょうか
(伊都国の祭事用の鏡) >>61
難しくてよくわかりません
邪馬台国との関連は? >>62
もちろん、中国にないから倭国独自の鏡ですよ。
伊都国の祭祀の鏡なわけですが、最終的にはそれが我が国の天皇位の象徴とまでされているわけです。
平原遺跡にそれがあったなら、そこが倭国の都では?
畿内と九州北部の交流が薄く、魏の使いが伊都国までしか来ていなかったのであれば、それが倭国の範囲を示しているのです。 >>66
スイマセン
わたしが分らないだけかも知れませんね
失礼しました 関わらないことにします 『日本昔話 姥清水』
某が、某という人物の家の養子になったという話、
信オンというゲーム内で話したことがあるんだけど
2006年頃だったかな 亜流がテンプレートを取り替えたってだめさ。
正統派畿内説のような、黒潮や、江南米や、ジョセフ=徐福=大国主、こいった強力な裏付けがないのだものね。
すぐに、論破されちゃうよ。
だいいち、ヤマトの平野が水田に適した沼地だったことが抜けているじゃないか。
駄目だよ、駄目だよ、全然だめだよ。
邪馬台国の民、7万戸をどうやって養うつもりだい?
だれが、どうやって、江南米と、それを栽培するテクニックを持ち込んだか、亜流も九州説も見逃してるじゃないか。 『』内を調べて読んでみて
『大江山の酒呑童子について この人物は実在』
名字(氏姓)が変わって・・・
という話をしている人がいるでしょ ちなみに家は、
昔、伊達郡というところに住んでいたと言っていたよ、
山の上のほう
『山王院 山王宮』この周辺? >>69
良い問題提起です
倭人伝の戸数はどのように調べたか問題ですね
投馬国 5万戸なんかも よくわかりませんね
ところで、あなたは投馬国はどこだとお思いですか? >>73
賛同 使者に倭国を大きく見せるためにサバを読んだ可能性大だと思う 投馬国は伝聞だけれども、奴国二万戸は実際に目にしているわけだよね。 弥生時代の人口
東海 55,300人
近畿 108,300人
中国 58,800人
四国 30,100人
九州 105,100人
コンピュータ考古学による復元-中公新書より 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国3万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 他のスレだったかな
当時、そのヒミコ(仮)というのもいなかった
と言っていたような 邪馬壹国70,000戸の内訳は下記の計算で算出されている
1,000戸(對馬国)+3,000家(一支国)+4,000戸(末盧国)+1,000戸(伊都国)20,000戸(奴国)+1,000家(不彌国)+20×2,000戸(斯馬国-烏奴国の20国分)
斯馬国〜-烏奴国の20国の戸数は記の計算で算出されている
(1,000戸+3,000家+4,000戸+1,000戸+1,000家)÷5国=2,000戸/国
奴国を除く対馬国、一支国、末盧国、伊都国、不弥国の5カ国の戸数から1国邑当たりの平均値2,000戸を求め、斯馬国-烏奴国の戸数もこれと同じ戸数として計算 調べてみると出雲の話なのかな
夫妻(神)がいて三貴子(神)・・・
を殺したという事でしょ 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 投馬国だって?
わかってるよね。鞆の浦さ。
投馬国が面している瀬戸内は東向きの潮が速いところがあって、大和川の河口まであっというまにいけるのさ。そこから川船に乗り換えれば、奈良の沼地までは目と鼻の先さ。
帰路は山陽道を陸路で引き返し投馬国までの往路と復路を作り上げたわけ。
すると、どうだろう、投馬国から奈良まで水行では10日、陸行では1月の魏志倭人伝に書かれている、あの有名な最終行程じゃないか。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>88
そんなにたくさんの国があったとはさぞや九州とは広大な地域なんですなぁ キナイコシは、あの向こうの重複してしまった偽スレで、
ざらこく氏に遊んで貰えてよかったのではないのかな、、 >>89
一つの国邑が人口2千戸ほどで、律令制における郡に相当します。 山の上のほうに住んでいて、
凄い土地を持っていた
ネットでw調べてみると、
確かに親戚が住んでいたり
当時住んでいたという戸籍も、
そこの周辺の生まれだし
本当に老婆談だよ >>79
肥後が突出していますね
九州説内でも邪馬台国の比定地は諸説あると思いますが
肥後はどのような位置づけになるのでしょうか 火の国に邪馬台国と狗奴国があったのではないのかな、、、
魏志倭人伝の邪馬台国から奴国までの国々は、帰り道の国々がしるされているのだろうからね。 >>93
菊池彦がいた狗奴国ですね。
この生産力が、邪馬台国卑弥呼と対抗できた背景でしょう。
異論もありますが。 延喜式は時代があとの話
しかし
大和国55万4、600人も捨てがたいと思いますが・・奈良ですよ 帯方郡から一万二千里が筑後平野になるのが悩ましいところですね。
くなとの前線に近すぎる。 ヤマト王権が九州を開拓して稲作地を増やしたとも考えられる >>96
弥生時代はもっと少なかったでしょう。
あと、それは人口ではなく稲の生産高です。 >>98
稲作が伝来したのは九州北部の玄界灘沿岸地域ですよ。 >>100
根拠なし。
大和時代という区分も意味不明ですよ。
延喜式より前を想定しているのなら、当然九州との差は大きくなりますね。 平安時代の延喜式の出挙稲数なら 常陸が多い1,846,000
田舎で米作ったり、牛馬飼育する時代だからな 奈良時代は、平城京があったので
大和国の人口が30万人と多くなるが
それ以外の時代は人口15万人程度。 駄目だよ、全然だめだよ、玄界灘沿岸地域なんかじゃ、縄文海進の影響が強すぎて、技術がなければ、稲なんて育たなかったろうね。
大和のような内陸の沼地のほうが、稲作先進地域にきまってるじゃないか。 鬼頭氏の弥生時代の人口計算は
弥生時代の遺跡が一万箇所程度の
時代のもの
今は弥生遺跡は4万箇所が名前をつけられて
記録されており、名前がついていない
弥生遺跡はそれ以上にある。
鬼頭氏の人口推計を踏襲するなら
4倍以上にしなければならない。
前提条件が大幅に違っているので
根本的な計算手法の修正が必要だと思うが。 >>105
でも最古の稲作遺跡は唐津菜畑遺跡
その次が板付遺跡なんだな。 >>97
俺もそう思う
ここは あまり書きこまないけど皆謙虚でいいわ >>108
謙虚だけじゃ無いですよ 言いたいことはズバリ言いますよ ジャクソンの『Thriller』という曲を聴いてみて、
なぜか日本の話みたいでしょ >>87
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國・・・
との整合性はどう説明する? >>107
駄目だよ。唐津や福岡のことじゃないか。
玄海灘沿岸とヤマトの比較なんだぜ。 >>105
もう縄文海進が終わるので、海外からの技術導入に有利な九州北部に中国南部から水稲栽培が持ち込まれたのでしょう。
もちろん、その主役は大陸から来た弥生人です。
弥生時代を通じて九州北部が先進地域であり、筑紫の主が全国に農業を広めながら王として君臨したのでしょう。
その中で中国との交流を維持していた福岡の勢力が倭国王として中国の史書に登場して、卑弥呼もそのような倭国王の一人なのです。 玄界灘は福岡や唐津のことなのかい?知らなかったよ。 >>112
対馬海峡を渡って伊都国に駐在した使いにとっては、長崎や佐賀は遠くてとても行く気がしなかったでしょう。 なぜか同じような話
『サンタクロース』
『トトロ』 >>117
Wikiでは、玄界灘は宗像から唐津まで、沖合は壱岐対馬までとなっているよ。
だから福岡や唐津はその沿岸に含まれます。 水稲栽培開始期はまだ日本の気候に合った早生種も誕生してないし
小規模だから収穫量は少ないだろ >>123
九州より寒い奈良盆地はますます不利ですね。 なんだかんだで、九州北部に上陸した稲作を西日本と東日本は受け入れて、全面的に稲作に依存した農耕社会が出現し、それを指導する指導者層が出現したのが弥生時代。
筑紫倭国の創成期を飾る最強の女王が卑弥呼。
平原遺跡に葬られた卑弥呼のもとで、八咫の鏡や鳥居などの神道の様式が完成された。
稲作を受け入れなかった、またはすぐに放棄したのが東北北部以北の蝦夷。 古奈良湖から吹き付ける盆地の風は寒かったのだろうな。
閑散とした纒向の川辺に倉庫が立ち、人々はかじかんだ手で荷を下ろしていたのだろうな。 対馬海流だけで気温が決まるわけじゃないから
玄界灘沿岸は北っから寒風が吹くから温暖ではないよ
台風もよく通るしね まあ、それでも事実として九州北部が稲作先進地域だったわけで。
現代の九州説は、様々な考古学的な状況に立脚しているわけですよ。
弥生王墓とか稲作とかね。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
−弥生時代の鉄鏃は福岡県から171個出土、奈良県からは2個。
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。 九州は半島から最新の稲作技術を教えてもらえる場所だったから、農業生産力はダントツであったろう >>128
それなら、稲作はやっぱり江南から直接伝わったんだろうね。
ちょっとだけ、熊野より早かっただけだろうね。
なにしろ、朝鮮半島へは、米作は日本から伝わったことが、明らかだもの。 熊野?
唐突すぎて意味不明。
林業のイメージしかない。 黒潮がぶつかって、江南人がきて、あとから徐福がきたところだよ。 モモタロウなのか、
何なのか知らないけど、仮名?
財(宝)などを
盗んだという話じゃなかった?
出雲系のところから盗んだのかな 私の経験ですが(古代はわかりません)
転勤で福岡3年 大阪3年半(担当は奈良県でした) いました
気候的には
福岡・・・冬は雪が降ることもありますが、 体感温度では寒暖差は感じませんでした
奈良・・・寒さもありますが 猛暑はスゴイでした 体感温度では寒暖差が多いです
くだらん投稿で失礼 wikiを読んだところ
>倭健命(日本武尊)は九州・出雲の豪族を暗殺し、
>天皇の命令で関東にも出兵する。しかし、帰還の途中で死亡、ハクチョウ(白鳥)となって大和に戻った。
『スコーピオン ミロ 技』画像? このような説明があるでしょ
>降伏か死か! 蠍座のミロ
『dead or alive』? >>137
もう少し解説いただけませんか
頭が悪いですが・・・・・興味は持ちましたので 家の玄関に『警察官立寄所』
このようなモノがあったんだけど、何なんだろう
よくわからないけど、昔から、あったような? あと家の先祖だという写真
何の服なのか、わからないけど、
白い制服のようなものを着ていたり >>128
対馬海流は何処から南へ流れ何処へ行くのか
風呂先にするから教えてくれ >>131
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 @阿波 >>151
有難う 俺も風呂入るよ
読んでて没頭しちゃった 探偵eyeというドラマ?
なぜかセイントセイヤのような台詞を言っていたり
「俺を助けてくれた・・・」
いつでも殺すことが出来る、本来なら死、死刑? そのドラマに出てきた
兄という人物
スコーピオンと同じような技を使用してない?
ゲームの動画を観てみて
youtubeなどにもあるから、
指先から赤い光線のようなもを発する技 youtubeでも、何でも良いから、観てみて
『黄金聖闘士 蠍座(スコーピオン)ミロ』 この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。 @阿波 >>152
ーーー西日本一帯で発生した大洪水・・・・灌漑水田稲作は壊滅−−−−
の下り、詳細に披露して頂けないでしょうか お時間があればヨロシクお願いします なぜか『みにくいアヒルの子』みたいな話なんだけど。 探偵eyeというドラマ
なぜか『姥清水』という話にも似ている 超時空設定なのかな?
白鳥とか氷河とか、
そういうのは知らないけど
実在の人物:兄 10月生まれ
弟(もれ)
妹 約2000年前の土佐市と仙台平野で巨大地震による津波堆積物が見つかっている
阿波も全部壊滅しました
降水量の大洪水説は2世紀前半じゃないか? その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 @阿波 当時?東日本大震災おめでとう^^^
と言っている人たちがいたけど、なぜだと思う
ちなみに現在2017年 >>167さん
お気持ちは分からないでもありませんが、
説への反論は良いですが、個人的な攻撃は止めにいたしませんか・・議論しましょう、自説を披露しましょう
あなたも過去良い投稿をしていただいたお一人だと心得ていますので、どうかよろしくお願いします。 >>154
>東への移民があったわけですね
だから、忌部一族が雑穀栽培技術を携えて、関東へ進出したと考えられますね。 @阿波 >>171
>お気持ちは分からないでもありませんが、
ちょっと失礼に感じますがw @阿波 粟は乾燥気候を好むから阿波だけだろう
畿内は治水だな 気づいている人がいるんだよ
人の家をネタにして、
商売(お金儲け)をしている人間がいるとか
本来なら死刑なんじゃないの?
人権侵害・・・・その他、含めた話
損害賠償など払えないでしょ
性的搾取が何やらと言っている人がいたり >>173
阿波さんへ
失礼しました、このスレの進行は難しいです
私も悩んでます
次スレはどなたかヨロシクお願いします 閉めて頂いても良いです
阿波さん強烈な一発です、そしてご指摘有難うございます
今日は失礼します KOされました 漫画やアニメ、
ゲームのキャラの事なのか、
その神などの事なのかは、わからないけど
実在してたのか!
と言っている人達がいたり >>174
確かに畿内は復旧が比較的早かったようですね。 @阿波 >>179
なかなか、高度なスレッドの采配ではないかな。。 >>180
阿波さん 有難うございます
少し 疲れていますので失礼します・・目が少し潤んでます、有難うございます
今日は失礼します スレ主さんよ泣きごと言うな
みっともないたら ありゃしない
俺 飯食って寝る がんばれ ガンバレ すれ主
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<吉田拓郎>
疲れ果てていることは
誰にもかくせはしないだろう
ところがおいらは何のために
こんなに疲れてしまったのか
今日という日が そんなにも大きな
いちにちとは思わないが
それでもやっぱり 考えてしまう
ああ このけだるさは何だ
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皆同じだよ ガンバレ 唐津に最古の水稲栽培の遺跡があっても、正統畿内説には少しも影響がないことを確認できたよ、よかったよ。なんなら論破を試してみなよ。試してみな。
できるわけありはしない。 すれ主 何時悩むことなかれ
皆 人の子
♪♪
昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういう訳だ
満月空に満月明日はいとしいあの娘に 逢える
目覚し時計は母親みたいで心がかよわずたよりの自分は睡眠不足でだから
ガンバレみんなガンバレ 月は流れて東へ西へ
♪♪
明日はいとしいあの娘に 逢えるのだ よか よか 今日は余興でもよか
邪馬台国は伊都じゃなく薩摩
まずは南九州説から薩摩の人
(伴奏無し)
義理あるひとに 背を向けて別れてきたと 君は泣く雨がふるふる 天文館通の青いランプ に 身をよせりゃああ 悲恋の旅の ドラが鳴る ... いままで泣いた かなしみはかならず俺が とりかえすやがて出船の 合図はあるが故郷で待てよと ささやけばああ 錦江湾に 陽が ... 畿内説は妄想なので、ある意味矛盾なく自己完結するんだよ。
現実と乖離しているけどね。 >>210
ほんまでっかそうでっか 九州はムリ
畿内説から返礼
エーンエさーては一座ーーの
アーノオーみーなアーさーまへ
エーエーエまかりでーましーた
みじゅくものーオー
おみかンーけどうりのー
じゃーくはーいでエ
おきにめすよによめねどもーオー
そのぎーごめーんーを
いただーきまーしーてエ
うかがいのーべまンァす
おそまーつはー
なにわのおんなにんきょうとー
しょうわのみよの
きょうまでもー
のこりましたるものがたりー
いっしょうーけーんめーいに
つとめンましょうエ
河内音頭の鉄砲節でも喰らって 九州説は死んでもらいます 良スレです 少し遠慮してましたが 何気なく匂わせました出雲説です
みな 気づかずにスルーされてしまいました
遊んでもいいですよね 自分で許可します
< 安来節 >
何はなくとも
出雲へござりゃ
心尽くしの
安来節
わしがお国で
自慢なものは
出雲大社に
安来節
和田見恋しや
伊勢宮様の
松が見えます
ほのぼのと
伯耆大山
だらりの帯よ
解いて投げたか
五里ケ浜
>>217
どうでもいいけど
出雲はせいぜい投馬国でねーの 御免
>>218
どうでもいいけど
出雲はせいぜい投馬国でねーの スイマセン出雲説です
皆さん博学で怖い人ばかりだと思い遠慮してました
出雲から、大量の銅剣・銅鐸が出土してます
358本の銅剣や銅矛の出土した神庭荒神谷遺跡にしても、39個の銅鐸の出土した加茂岩倉遺跡にしても、
出雲の国の西がわの地で、大国主の命が活動したと伝えられる場所と、ほぼ一致しています
神話のなかに、歴史的事実の核があるようにみえます
しかし、この事実から、多くの研究者は目をそらしつづけています
マイナーですいません zepとジャクソンの関係だよな〜
と言っている人もいたけど
本当は七福神の話なのかな?
「温羅の正体」
空を飛んでいた、飛ぶことが出来たと書いている人がいたり 九州説は出雲王朝を否定していないよ。
大国主に国譲りを迫って成立したのが瓊々杵の伊都国だからね。
ただ、邪馬台国ではないと思うよ。
むしろ出雲は邪馬台国に征服されて傘下に収まった側。 キウス氏がとうとう、あの狂った老人を論破した。。。 >>229
九州は筑紫忌部、出雲は出雲忌部でしょ。 勝手に独り歩きしないように。 今あるのは忌部一族のお陰。 @阿波 >>210の <伴奏無し>は笑いました
さて南九州説のスレが過去立ってましたが、捨てがたい説です
今一度 復活するのも良いかと思います よろしければここで論ずるのも良いと思います >>233
狗奴国が太平洋に出てしまうからあり得ないよ。 【倭と日本の歴史】
1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
海洋民(天津神)による海洋国家が出雲を征服
近畿に饒速日が基盤を築く
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結したか、肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候
3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
4世紀前半
筑紫倭国の女王神夏磯姫が景行とともに九州北部を制圧し、筑紫倭国の実権を掌握
4世紀後半
神功皇后と武内宿禰が、景行の孫の仲哀一家と羽白熊鷲、田油津姫らを倒して筑紫倭国の王へ それと小野という家(人物)?だよ、
もしかして『小野小町』なのかな
「我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 痩せたる(飢ゑたる)犬の腹を肥やせ(よ)」 そうですね、だいたいどこでも浮かれて踊ってます。 @阿波 >>245
天鈿女命の国だから仕方がない。 @阿波 >>70
つぶやきせんせーはみょーに釣り針たらすな(アンカー気に入らんかったか(すまん
その実在した人物はくがみみのみかさいう三国志にもでたひとや(
そーとーまじ >>151
孫権がこーそくはんせんで東シナ海日本海せいはしてこうそんくんとなかよくしてました(ぐるぐるしおがまわってた(てきとー >>228
ばーちゃんもゆーとった
やつらはちょーせんからとんできたと(アンカーゆるせ マジレスすると東シナ海にはちょんくおれんとりゃんぺんれんをいききできるだいかいりゅがある(いっしゅーしてきた
うそ 「猿田彦大神」と「天鈿女命」とは夫婦であることは日本神話に詳しい人はご存知でしょう。
徳島県鳴門市にある「大麻比古神社」の祭神は「猿田彦大神」とされています。
その大麻比古神社の背後の大麻山には「猿田彦」を祀る祠があったという。
実はこの大麻山の隣には峰続きで「天円山(あまがつぶやま)」があります。
そして、天円山山頂には「天鈿女命」を祀る「天ヶ津神社」が鎮座しています
阿波って面白いところだと思いませんか? @阿波 おじーちゃんらのぷらうざにのってるこーこくなんや(そっとおしえてたもれ わじんはたいへーよーもいっしゅーしていました(そーすは古田君 もーいっこのすれのののしりあいだれかちゅーさいしてあげなはれ >>270
そーでもない(いまからや(たばここーてくる >>273
こっちはまったりとした雑談風議論スレだな。
断然こっちの方が居心地はいいな
ザラコクと畿内厨が来ないのが特にいい お一人で荒してますね 投稿時間でわかります
suboさんの成りすましも気になりますが、どうぞ荒らしてください
嵐も歓迎です 人それぞれですから
出来れば、せっかく来たのですから 置き土産を期待します
邪馬台国に関するご自身の見解なりの土産を置いて頂ければ幸いです 『白髭 百済』
調べるとサルタと出てきたりしない? >>1
5ちゃん(2ちゃん)の書き込みのほとんど99%は5ちゃん管理人によるものです
管理人は400人くらいいて、文系の才能のない売れないライターがバイトで5ちゃんに書き込んでいます
だから詳しい書き込みができるんです
5ちゃんは管理人がIDを変えながら書き込んでる掲示板です
5ちゃんは管理人はハッキング、ストーカーをしてきます
5ちゃんは管理人はユーザーのパソコンをハッキングして個人情報を覗き見しています
5ちゃん掲示板を見てるだけでもどこを見てるかリアルタイムで分かるようになっています
(管理人が監視してるスレを見ただけでハッキングされる恐れがあります) どう思う
⇩
魏志倭人伝の記述をそのまま信じると邪馬台国の位置は日本列島を突きぬけて
海の上になってしまいますので、研究者の方は方角や日程について
「この部分は誤記であろう。○○と読み替えるべき」などと様々に各説解釈をしていますが 魏志倭人伝には邪馬台国までの行程をそのまま読むと。
帯方郡から狗邪韓国、対馬、壱岐を経て九州の末盧国に到着、末盧国は唐津市付近。
ここから「東南陸行五百里」で伊都国に到着。実はこれがキーポイント。
唐津市から東南の方角に陸行すると言うのは、有明海の方角に進んでいるとしか考えられないのでは。
伊都国が糸島だとする説は方向も違うし、陸行する意味が無いと思う 北部九州全域に弥生遺跡が
密集してるので今更だが
小城から唐津に向かう道にも
縄文遺跡や弥生遺跡が
多く発見されており、
古代から唐津ー小城の道は
使われていたものと思われる。 和名抄でイト郡、シマ郡があるから
古くからそう呼ばれていたことは間違いないが
博多湾ルートと唐津ー小城ルートを
ごっちゃにしてしまったのではないかと思う。
筑紫と肥という大国が2つあり
倭国の資料として存在したが
別国と思わず混同してしまったとか?
というか、伊都国の名前だけどうにかすれば
肥国ルート確定なんだな。 どうにもならんよ。
伊都が当時の最重要地域であることは考古学的な出土品から明らかで、日本書紀でも怡土県、律令制で怡土郡として年代的にも連続している。
伊都は動かせない。 実際のところ博多湾沿岸や
糸島も大有力国家であることは
間違いないわけで
唐津から内陸に入ったところに
別の大国があるとは思わなかったのでは? >>285
伊都国云々以前に、そもそも末盧国の比定が間違っているからですよ。 @阿波 あと、倭人伝のコースを佐賀ルートでたどると
肥前と肥後しか通過しないことも
肥国である可能性を高めると思う。
別国、下手すれば敵国を
通るわけがないからね。 これダメでしょうか
伊支馬はイコマと読めるから、問題なく「生駒」である。
よって他の3つの官も地名ではあろうと考え、
地名を探る手がかりとして古代の天皇の名前を利用
上記の官名を地名と考えた時(その土地を治める代官とでもいう意味?)に、
その地名を冠する名前をもつ天皇の存在が、手掛かりになるという論法
・伊支馬 → イコマと読むなら垂仁天皇が伊支米 (いくめ) 入日伊沙知命
・弥馬升 → ミマスと読むなら孝昭天皇が御真津 (みまつ) 日子訶恵支泥命
・弥馬獲支 → ミマキと読むなら崇神天皇が御真木 (みまき) 入日子印恵命 それはつまり中国から見た倭国や邪馬台国が博多や糸島だったと言うことだよ。
ちゃんと魏志倭人伝にはその南に狗奴国というライバルがいたことも書いてあるではないか。 >>289
それでも邪馬台国が肥前、狗奴国が肥後なんでしょ?
邪馬台国が筑紫と肥前、狗奴国が肥後というのと、都の位置だけの問題で領土は変わらない。
ザラコク氏が都は筑後と言うのと大差ないが、あっちは祇園山があるだけまだマシなくらいだ。 >>290
畿内の地名全体が九州北部からの移転だから、根拠にならないんだよ。 >>292
私はクナ国は古事記にある熊襲国で
日向国と大隅国を想定しています。 >>295
狗奴国の菊池彦が浮いてしまう。
また、投馬国は日向国の妻のはず。
それらはどこへ行ってしまうのか。
矛盾だらけだ。 >>293
ですよね。
倭ときたら倭奴国のことだと言うのが当時の中国の認識のはず。 >>296
投馬国は久留米の上妻郡、下妻郡を中心とした
筑後南部地域ですね。
このあたりも筑紫と肥の国境で
戦闘が激しかったらしく、
鉄器遺跡や戦死遺体が多く出るところでもあります。 後漢書では、倭奴国は倭国の南の端なので、それより南は魏志倭人伝では狗奴国ですよ。
国境が南下した可能性を考慮しても、都が伊都から移動した可能性については相当な根拠がないと(完全に否定するわけではないけれど)。 >>298
投馬国までは海上ルートだけでは行けなくなりませんか? >>298
あと、福岡平野で2万戸なのに、久留米に5万戸、久留米を除いた肥前で7万戸?
それとも邪馬台国に肥後も入れる? >>300
長崎天草への大回りですからね。
ただ、熊本北部に多かった鉄が
もうちょっとあとになると
熊本市周辺でも鉄器が増えます。
このあたりで長崎迂回ルートが
確立したのだと思います。 >>301
わたしは
佐賀南部二万戸
筑後五万戸
熊本平野七万戸
で考えています。 邪馬台国と狗奴国の戦いは、肥後全域の領地を巡っての、相続争いではなかったのかな。。。 邪馬台国は糸島の伊都を都とした筑前筑後肥前、人口は奴国2万戸を含めて全体で7万戸。
狗奴国が肥後、投馬国が日向。
この方が遺跡の分布とも一致するよ。
大隅なんて何もない。 >>304
そうだろうね。。
どちらも、肥後にあったのだと、僕も思うな、、、 >>303
ええと、女王の都は肥前と肥後のどっち? >>305
でも大隅は景行天皇が6年住み着いて
熊襲を退治した熊襲の本拠地ですからね。 >>306
ひょっとすると、狗奴国の王の都は、宮崎や鹿児島だったのかもしれないけれどもね、、、 >>304
糸島と熊本がそれぞれの都で十分に成り立つ。
伊都を動かすような話ではない。 >>307
女王の都は肥後の方でしょう。
熊襲国との最前線は球磨地方人吉盆地
もし戦争でなくなったなら
ここで亡くなった可能性もあります。 >>309
仮宮は日向国じゃなかったかな?
景行天皇はそんなに南まで行ってないよ。
あくまでも、景行天皇も九州北部、つまり倭国だけ征服して歩いている。
ちなみに協力したのは八咫の鏡を持つ筑紫の女王である神夏磯姫だ。
記紀も九州北部しか眼中にない。 >>312
一万二千里が届くかどうかは保留としても、そこまでの細かい里程が書かれていない理由は? >>313
仮宮は久留米高良大社です。
ここで筑紫が勝ち、
肥は戦闘をやめて従属します。
ただし熊襲国との戦争の終了後
肥後全域を軍隊引き連れて
じっくりと行幸しています。
まだ、信用しきれてはいないのでしょう。 >>315
実際に戦ったのは肥前や豊前の方が多かったよね。
肥後の阿蘇津彦とは面談だけだったはず。 >>317
難しい話をして、邪馬台国と奴国の間の国の数がたくさんあったことを、隠そうとしているのではないのかな。。。 魏志倭人伝には、邪馬台国から奴国までの帰り道の国のことがしるされているね。。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。 仮宮は思い違いしていた。すまない。
まあ、個人的には壹與の頃の倭国(邪馬台国)の都は筑後または肥前だと思っているので、そっちが中心という話に興味がなくはないが、いかんせん伊都をそちらに比定するのは無理がありすぎる。
あと菊池彦も動かせない。
狗奴国との争いが筑後平野をめぐる争いというのには賛成。
そして、それは相続争いでもある。
もっと踏み込むと、卑弥呼も肥国の出身で、倭国大乱は天孫族の没落と伊都からの逃走だ。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>320
一国づつ、泊まって、帰ったのだろうね、
ここから、船着き場までも何か国あったから、ちょうど陸路が一月になるね。。。 >>319
収拾がつかないのは、「伊都国」云々以前に、そもそも出発点の「末盧国」の比定が間違っているからですよ。 @阿波 >>320
熊本城にあった卑弥呼の都から奴国までが女王国だね、、
境界のつきるところと書いてあるものね。。。 >>326
その北側の国々を管理するために、一人の将軍を伊都国に置いてたとも書いてあるよ、、 ここは雑多の九州説を温かく見守ってくれるからいいね >>327
女王国以北に一大率を置いて、伊都国で常に治めるだから
一大率は女王国の北側に置かれ、伊都国では一大率を使って女王国の北側を治めていた
伊都国には一大率はいないよ。 「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼である。
それ以外が主語の場合には「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。
治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。
では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、自女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率を使い支配したのである。
女王国が伊都国より東にあったら、この文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
即ち自女王国以北は奴国から北であり、自女王国とは女王国の中で最大の国邑の奴国を指している。
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官
「奴国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い奴国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。 魏志倭人伝にはこうかいてあるね。。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。 >>333
>「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
>女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
これも、女王国(阿波)は北部九州や瀬戸内、畿内等より一番南に位置するんですよね。 @阿波 >>335
ほかの、距離や、戸や国数には、余や可など、自信がなさそうなのに、
ここでは、はっきり30国と言い切ってあるのではないかな。。 >>337
いわれてみれば、そうだね。。
帰り道に通ったから、カウントしたのだろうね。使者も通訳も通ったから、、、 >>337
女王国までの行程記事に書いていない国を足して30国。 狗邪から邪馬台まで28ヶ国だね。。。
脇道にある投馬と、争っていた狗奴をいれると、ちょうど30か国になるのではないのかな。。 >>337
30国とは
狗邪韓國
對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國の6国
旁國20か国(斯馬國、已百支國、 伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
侏儒國、裸國、裸國 >>337
30国とは
狗邪韓國
對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國の6国
旁國20か国(斯馬國、已百支國、 伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
侏儒國、裸國、黒齒國 >>342
使者は争いを治めに熊本に来たのだから、狗奴国にも行ったのかもしれないね。。。
そして、帰りは投馬にも寄ったのだろうね。 阿波や巻向は侏儒國、裸國、黒齒國で、使譯所通ではなかったのだろうな、、、 >>348
おかしいなぁ
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実があるんですが。
それでも、使譯所通ではなかったのだろうか? @阿波 >>345,>>347
投馬国や邪馬壹国は国邑じゃない
国邑の連合体
韓での馬韓、辰韓、弁韓と同じ様なもの。 >>350
>投馬国や邪馬壹国は国邑じゃない
国邑の連合体
なんで? @阿波さんが 良く来られるので
阿波について経由地を調べてみました
一つこれは論的に成り立つと思った行程を記します(ただし私は阿波説ではありません)
ブログの一文
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ふみ国が門司ならばそこから南方向に水行20日で投馬国。西都原(宮崎)
そして(ふみ国から)水行10日で伊予。そして陸行1月で四国横断で阿波。方向的に整合性があります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここで気づいたのは、使者は投馬国経由で邪馬台国に行ったかどうかが疑わしいという事です
倭人伝では投馬国についてあまり触れて無いからです
興味があれば覗いてみてください
http://blog.goo.ne.jp/ryuhide/e/56b1256a01717e33255300bd3afc385c >>349
難しい話だね。。。
あの奈良の古墳が、卑弥呼の墓ではないことでは、考えは一致しているのだろうか。。。 >>352
いつも提示しているものです。
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り)
↓【南】 豊後水道 水行20日
投馬国(五万戸)(宿毛辺り)
↓【南】水行10日(太平洋ルート)又は陸行1月(旧土佐街道) 途中、阿南の若杉山辰砂採掘現場視察
女王・卑弥呼のおわす《邪馬台国 阿波》到着(七万戸)
↓【東】海渡1000里 (阿波から東へ1000里渡海)
女王国(阿波)の東、海(紀伊水道)を渡る千余里、復(ま)た国(畿内)有り、皆倭種なり。 >>351
投馬国は5万戸、邪馬壹国は7万戸
馬韓は10万戸、弁韓、辰韓は4〜5万戸
第一に規模からみて国邑とは考えられない
南至投馬國 水行二十日
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
比較すると分かりやすいが、女王之所都は投馬國に対して邪馬壹國の方に女王の都が在るの意味です。 収拾がつけば邪馬台国の比定地は確定するでしょう
収拾がつかないから論争になるのでしょう >>354
>難しい話だね。。。
難しいですか・・・ でしょうね。
>あの奈良の古墳が、卑弥呼の墓ではないことでは、考えは一致しているのだろうか。。。
卑弥呼のような大王の陵墓は奈良盆地(湿地帯)のような平地には造りません。 大王の陵墓は山稜に葬られます。 根本的に間違っているから収拾がつかないのでは? @阿波 >>361
読み方が根本的に間違ってたんですね
初めから伊都国が倭の都だと書いてある。 >>362
やはり収拾がつかないはずですね。 @阿波 九州各県説、徳島説は、正しい読み方をすれば
わしが住んでいる県に着くという点では根本的に共通している 四国ではほぼ阿波一国で纏まっていますが、九州はいろいろですね。
大陸に近いから各県 血気に逸るのでしょうか。 @阿波 ヤマイチって日本語の音韻的にあり得るのかな?
朝鮮語なら問題ないけどさ
邪馬台国朝鮮起源説なのかな 四国スレ覗いたことがあるけど、阿波一国で纏まってるようでもなかったけどな
徳島人だけが必死になってるだけで >>364
伊都国説を主張してる俺は熊本生まれで熊本に住んでるんですけど。 >>367
ほぼ徳島県人だけでしょ。 必死になってる人もなってない人も @阿波 >>365
やまいちは考え難い
やめちになるはず
その場合、魏使はやめちと漢字で音写するはず
つまりやまいち説はど素人の思いつき
まともな奴は相手にもしない >>369
徳島県人が何でも阿波起源で必死になるから
同類と思われたくない四国民がいなくなったんじゃないのw 伊都国のあった筑前は江戸幕府創立の1600年でも総人口12万人
筑前筑後と合わせても22万人しかいない
人糞肥料が普及し開拓が進んだ近世に入ってすらこれだ。
古代の生産力は更に低かっただろう
果たして邪馬台国が存在しうるのかね? 熊本を狗奴国とする説はおかしくはないな
加藤清正時代の肥後は人口25万
筑前筑後合わせたよりも強大
熊本平野の農業生産力はかなり大きかった その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、
くこちひく、、、菊池とは関係ないようだね、、
だが、これが誤解されて熊本城説に説得力が生まれないのだね。。。。 >>377
これまで訳したものを、まとめて、貼り付けてみたらどうかな、、、 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
1世代の王がいたが、今はこの国の皆は女王国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。 その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に有狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、 >>371
>伊都国王が肥人という説なんだろ?
違います、伊都国王が何処からか来たかは知りませんが
倭奴国や帥升の末裔じゃないんですかね。 >>386
奴国までに通る国は21国だね。
邪馬台国を入れても22国。 >>388
どちらにしても、狗奴国以外は女王国の一部になっている国です。 >>387
倭人伝には残念ながら熊本のことは殆ど書かれていない
傍ら国の中の国邑に熊本が含まれているかもしれん
あと丹山が赤水とか在るから阿蘇だろうな。 7000+1000+100+1000+500+100=10600で奴国か、、、
奴国までの帰り道の途中が女王国の境界の尽きるところになってしまうな。
奴国と伊都国の間が境界になるためには1400里足りないな。 倭の30国とは
狗邪韓國
對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國の6国 ・・・自女王以北の6国
旁國20か国(斯馬國、已百支國、 伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國
更に遠い 侏儒國、裸國、黒齒國
の30国で良し。 >>392
7000+1000+100+1000+500+100=10600
に壱岐対馬の方可400里と方可300里をたして
12000里 男子無大小皆黥面文身、、、大小は身分のちがいなのだろうか、、、
子供のうちから入れ墨すると、成長したあと、醜くならないだろうか。 >>394
すごいな。。驚いた。ぴったりだ。。。。
島二つを迂回した距離か、、
10600+800+600 そこから、さきの行程は熊本城まで国名で書かれているよ、、、 >>356
>投馬国は5万戸、邪馬壹国は7万戸
>馬韓は10万戸、弁韓、辰韓は4〜5万戸
>第一に規模からみて国邑とは考えられない
>
>比較すると分かりやすいが、女王之所都は投馬國に対して邪馬壹國の方に女王の都が在るの意味です。
同意する。
場所は問題だが。 >>362
>>>361
>読み方が根本的に間違ってたんですね
>初めから伊都国が倭の都だと書いてある。
同意する。 >>393
その国名群を見る限り全てが九州の中にスッポリ納まる感じだな。
倭国=九州諸国連合みたいな、、、
畿内が入る余地は無い。 >>371
>>>368
>伊都国王が肥人という説なんだろ?
それはそっちではなくて俺じゃないかな。 男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。。。
重複スレッドに間違えて投稿してしまったな。 >>396
それ、古田説だよ。
でも、島なら港から港の距離を図るのではないかな。 >>387
そうか、伊都国王は肥人じゃないかと思ってた
と言ってた伊都説がいたが、君じゃなかったのか
肥国は倭人の国ではないということで >>403
倭国(邪馬台国、ヤマト)は九州北部連合。
構成するのは筑紫、肥国、豊国。 畿内説のスレタイだけ盗んで、
やってることは九州説スレでやってた半島南部倭国説(伊都説)と肥人説 >>406
伊都国と奴国の境界が女王国の境界であれば、往路と復路が半々に書かれていた理由に、なるのではないのかな。。 >>412
狗奴国も肥後を含んでいるね。
基本的には、肥後のお家騒動だったのではないのかな。。。 畿内説は2013年、もろくも破綻した。
論争は、段々、九州説同士の戦いになってしまうではないのかな。
有力な候補地が目白押しで、なかなか、結果がでないだろうけどもね。
畿内説の掲示板で、それをやるのは、一々、畿内説信者へ、論争の途中経過を教えてあげる手間を省くため。 >>418
信仰すること自体に喜びを見出した、畿内説が破綻していることを認めたくない、頑固な老人信者たちにも、畿内説以外の信仰対象がたくさんあることを、教えてあげられるっていうメリットもありそう。 >>419
なるほど、畿内説信者さんたちに、次の信仰の対象を選んでもらうわけね。
でも、選ばれた説の論者には、負け組や、疫病神に取りつかれたようで、かえって不気味、、、 嵐が吹いてきましたので
しばし、スレから離れましょう
ユルリとまいりましょう 女王国の境界から南へ南へ残り22ヶ国目が熊本くらいになるね。。。 >>428
このスレッドのタイトルには全く関係がないけれども、それで決まりじゃないのかな。 帯方郡から12000里が奴国なのも、女王の境界が尽きる所が奴国と書いてあるのもぴったりなのだものね。。 もともと、このスレッドのタイトルは、九州説を荒らしてた畿内説を隔離するために、九州説の人間が最初に使用したのでは? その後、テンプレートに九州説を挑発する文章を書き入れ続けていった。 馬韓伝に
「馬韓の北方は(中国の)郡諸国に近く、やや礼に通じているが、
遠いところは囚人や奴隷が集まっているに等しい」とある
馬韓の南部は全羅南道あたり
半島では歴史的に非差別地域で、全羅道方言はガラが悪いらしい
数万基の南方式支石墓や5世紀くらいまで甕棺墓が存続する >>428
で、熊本になにがあるの? 邪馬台国らしきものって あの日本の神話
夫妻(なぎ なみ)の子供=山の神となっているけど
『姥清水』? サルタヒコというスレ参照
>イザナギ(イザナミ)とは他人
という書き込み 『姥清水』
誰の話なのか知らないけど
歳を取って老け込んだヤマビコがいて、
そのヤマビコの養子になった話 >>435
2013年に畿内説に絶望した、若い学者たちがいつか発掘してくれるのではないのかな。。。 >>442
前のスレッドの終わりの方に、誰かが証拠を張り付けていたよ、 「あしな てな」
という夫婦がいて・・・
このアシナ、テナというのが、
なぎなみ夫妻? 邪馬台国畿内説 Part1 Part2は
>>1畿内説の人、他説の批判ばかりしてないでここで思う存分語りましょう
Part3から
>>1邪馬台国ド本命の畿内説のスレです 王者の貫録を見せつけてやりましょう
畿内説を説明してくれとの九州説からの要望で
Part20からテンプレ掲載
現在畿内説本スレPart298
テンプレ無しの偽スレPart298開始
九州説を批判されたくないから畿内説は畿内説スレでやってくれとの希望だったわけだろ
なんで畿内説スレに合流して九州説を開陳して批判を受けるのかな スサノオ
wikiの系図のようなものを見ると、
両親がいない? 畿内説さんは九州説さんの批判が嫌だから
九州説を隔離しようと九州説スレを立てたんですね。
九州説さんたちはスレがあれば何処でもいいから
九州説隔離スレでもそれ以外でも
盛大に雑談しておりましたが
それに嫉妬したのか畿内説スレができまして
しばらくしてテンプレさんが
長々とテンプレを書き、
まともな畿内説さんは消えていき
根拠厨やつぶやき厨で埋めるだけの
スレになっていったというわけです。 『広瀬座』というところの話じゃないの?
老婆が言うには歌舞伎、芝居が好きだったと言っていた もともと九州説スレは畿内説さんが
立てたものですので、そんなに重要
とは思っていませんからね。
7割あるいはそれ以上が九州説の現在では
邪馬台国関連スレは自動的に九州説の書き込みが
増えてしまうだけですよ。 調べてみると、素戔嗚?
『出自不詳』となっていない? >>448
元々邪馬台国ドン来いで議論してたのが
批判されたくない九州説の希望で九州説スレと畿内説スレに分けたんだろ
九州説は反論不能になるとコピペ荒らしするから
九州説は九州説スレでやったらいいし
畿内説に質問があるなら畿内説スレでしたらいいし
議論したいなら偽スレじゃなくて、討論用のスレ立てたらいいんじゃないか
畿内説の看板立てて畿内説が日本史板にスレ乱立させてる印象操作してるのかな 家は『松傾』と同じ家なのかな?
読み方も「す」のほうだよと言っている
歌舞伎や芝居が好きで、
よく観に行ったりしていたとか できないなら
邪馬台国畿内説 Part1 Part2
>>1畿内説の人、他説の批判ばかりしてないでここで思う存分語りましょう
スレ立てるなよw >>456
むしろ畿内説さんが九州説さんから
批判されたくなくて、九州説は
こっちでやれと九州説スレを立てたんですよね。
もっとも、畿内説批判は、
九州説の優位を示すものでもありますので
あまり変わらないわけですが。 >>458
妄想テンプレが嫌いなだけの畿内説スレ。 ここでレス書いてるの半島南部倭国説(伊都説)と肥人説だろ 考古板の巻向スレでやってたが物足りなくなって、日本史板の文献好きな人間に物知り顔で、確定してもいないことを押し付けてきたというのが本当のところでしょ。
文献好きな畿内説も寄り付かなくなった。 >>415
肥国のお家騒動だけど、邪馬台国側の都は伊都国だよ。 >>472
で、伊都国になにがあるの? 邪馬台国らしきものって >>450
畿内説スレつくってまともな畿内説が逃げるって
どんなつまらないスレなの? 伊都国みたいな辺鄙なとこに宮廷を置いて
ロジスティクスはどうしたのだろうか?
当時の丸木舟で米をどの程度運送できたのかな 畿内説スレで九州説のコピペ荒らしが始まってからいなくなったのって
お休み頂いてるジョーカーと九州Rに転向したローガンか ここは長ったらしい押し付け妄想テンプレを排除したスレ。 本スレのテンプレに反論できない九州説が立てたんだろ >お休み頂いてるジョーカー
休みなんか与えた覚えはないが? >>483
つまり九州説の男がナリスマシをして立てた偽スレさ >>476
弥生時代で最大級の国邑である福岡から日向峠を越えるだけだし、糸島水道が直前まであって、糸島半島と繋がったばかりなので、海運も使えたけど? 都市伝説なのかな
すさのお?
サルタヒコというスレを読むと、
皇室の先祖だと言っている人がいたり
それと、このような話
『天皇 姓 名字 無い』 >>475
まともなキナイセツなんていない。
まともだったらキナイセツなんて妄想を信じないから。 >>489
テンプレがないから九州説のザラコクも隔離されたけど。 本スレのテンプレはだいたい学者の見解をまとめた&引用したものだろ
九州説はワシが正しい説なんだろうけど >>490
そんなら弥生時代で最大級の国邑である福岡を王都にしろよ。 なんで田舎の糸島なん? >妄想テンプレには反論しようがない
テンプレ信者瞬殺される
>そんなら弥生時代で最大級の国邑である福岡を王都にしろよ。 なんで田舎の糸島なん?
糸島信者瞬殺される >>497
紀元前は奴国が王都だったよ。
混み合いすぎて嫌になったんだろ。
歌舞伎町に皇居なんか置かないだろ?
山一つ離れて静かで、そこそこ交通の便が良くて、でもアクセスルートが制限されて山に囲まれて防衛に適して、要所である博多湾を見下ろせて、民が東の日の出とともに仰ぎ見ることができる神仙思想や太陽信仰に合致した土地が伊都国の高祖山。 この家の話をしているような気がするんだけど
『山王宮 山王院』 糸島の高祖山は太陽のじゃまになってるんだよ
川の源泉でもないし、あれがなかったら早良平野に行くのも速い >>504
熊本城から奴国方面の帰り道に邪馬という邑があったな。。。
ちょうど、間の国々がどのあたりに位置するのかの指標になるのではないのかな。。 >>502
>混み合いすぎて嫌になったんだろ。
世間ではそれを妄想という。 >>506
邪馬台国と奴国の間の20ヶ国のうちの16ヶ国目だね、
奴国から八女市までの距離を5とすると、
奴国から邪馬台国への距離は21になるのだね、、、 キナイコシがきて九州勢の分断をはかっているのかな。
今は九州代表をきめているのではないか、
負けた者は潔く代表になった説を応援したいね。。 『菅野力夫』
『ボーボボ』・・・その他の画像
誰が作ったのかわからないけど、
謎の『チェーンソー ゲーム』? >そんなら弥生時代で最大級の国邑である福岡を王都にしろよ。 なんで田舎の糸島なん?
糸島信者瞬殺される >>505
高祖山があるから防衛に適しているんだよ。
奈良時代も戦国時代も高祖山には山城が作られた。 酔っぱらいの曲?
空耳なのか、何なのか、わからないけど、そのように聴こえない? >>519
糸島の地形的利点は、福岡平野側から攻められたら海から半島に逃げられる
逆に言うと半島から攻めてくるときは糸島に上陸されると攻め難い
だから8世紀に早良平野側ではなくて糸島側に怡土城を造った >>52o
その通りかも知れませんね
ところで あなたは何が決め手だと思いますか 失礼
>>520
その通りかも知れませんね
ところで あなたは何が決め手だと思いますか >>522
そのための一大卒。
伊都から北の対馬海峡は完璧に守られていて、むしろ攻めに出る側だった。
脅威は南から攻めてくる狗奴国だったからね。 このスレには複数の伊都説支持者がいるように思えるけどね。 魏志倭人伝にある描写をもとにするならば、現時点では唐古・鍵遺跡の方が環濠集落であり、
邪馬台国のイメージには近いように思う。
また桜井茶臼山古墳で8三角縁神獣鏡を含81面の銅鏡が出土しています。
この中で注目なのは、正始元年(240年)銘の銅鏡(破片)です。
この年代はヒミコの時代と合致し、蟹沢古墳から出土した「正始元年」の
銘がある三角縁神獣鏡に刻まれた字と形がほぼ一致しているといいます
勢力拡大の過程で東の地に持って行ったのでしょう
畿内大和の地に邪馬台国の王都があったのは間違いないのでは
また、その後の繁栄を示すものとして巨大古墳群が畿内に多くみられます。 畿内説の決め手は環濠集落と三角縁神獣鏡と巨大古墳群? 九州邪馬台国から持ち込んだだけだろ。
銅鏡文化そのものが九州北部の文化だからな。 >>518
王墓の存在と、楽浪土器の大量出土地点である事。
弥生後期〜弥生終末期に糸島以上の威信材のある墓が見当たらない事。
最近では二つ硯が出土し、文字の存在の可能性も高いこと。
→つまり、権力の集中が考えられるのだよ。
もし、国名に意味があるなら、
伊都国→錫杖を持つ人がいる国
奴国→説明の必要はなかろう
つまり、国として上位がどちらか明白ではある >>527
本スレに行っては負けて逃げてくるんだろう >>531
>→つまり、権力の集中が考えられるのだよ。
世間ではそれを妄想という >>533
妄想ではなく、考察だね
考古学でも、漢字の意味も"事実"なのだから それよりも
こーえーだよ、それとも、てくも?
dead or aliveが好きなのかな? >>527
その通りかもしれませんね
伊都国は邪馬台国を論ずる上で重要なカギを握っていると思います
ところで
>>527さん あなたは何説を支持しますか >>537
>伊都国は邪馬台国を論ずる上で重要なカギを握っていると思います
伊都国がどこかによりますね。 @阿波 >>531
そもそも畿内の墓は中国が王と認めた形跡がない。 >>539
あ、レス間違えたかも。
すまん。
誤爆した。 別人なのかもしれないけど
『コーエー 渡辺知宏 事件』 >>526
福岡平野側からも守れる地形の地に住んでるということは
北部九州の中でもお客さんなんだよ >>538
その通りなのです
伊都国を糸島や福岡市西区に充てる方が多いですが
どうもしっくりいかないのです、
東南陸行 五百里 到伊都國・・・・・・
末盧国までは海で行きますが、伊都国までは陸路なのです、何故海岸沿いを選ばなかったの??
王もいます九州の内陸部としたら吉野ケ里も伊都国の候補地?難しいですね >>543
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り) でしょう。 @阿波 カブキロックス『虹の都』
同じような感じがするんだけど 吉野ケ里=伊都国?
末盧国と特定した唐津市の西唐津駅から唐津線を経由して佐賀駅へ、そこから長崎本線経由で、
吉野ヶ里遺跡の近くにある神埼駅までの鉄道距離は約60キロメートルである。
歩行した道程は鉄道距離の2倍、120キロメーターあったと考える。10日かかったのであれば、
1日の歩行距離は12キロメートル、時速2キロメートルとなる
魏志倭人伝の末盧国の様子にある「草木茂盛して行くに前人見えず」のごとくであり、山側では対馬国の様子にある
「道路は禽鹿の径の如し」であったと思われる。これらの道を歩く速さが時速2キロメートルは妥当と考える。 >>547
>末盧国と特定した唐津市
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。
大陸からの玄関口 末羅國は福津市( 万津浦)宗像方面
だから世界文化遺産に選ばれたのも当然と言えば当然
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 対馬海流に流されないから糸島や呼子、唐津で半島系の遺物が出てるんだよ >もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
>宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。
3世紀までは唐津周辺こそが大陸との文化流入の玄関口だな。
出土遺跡遺物が圧倒的に唐津優位。
宗像は4世紀後半くらいから。
沖ノ島の出土遺物も主なのはそれくらいから増えてくる。
よって、邪馬台国時代の大陸からの玄関口は明らかに唐津。 >>550
>出土遺跡遺物が圧倒的に唐津優位。
根拠無し >>550
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし @阿波 元寇・朝鮮通信使は時代が違いすぎる
交易と元寇じゃ目的が違いすぎる >>556
>元寇・朝鮮通信使は時代が違いすぎる
対馬海流は時代に関係しない。
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。 @阿波 >>556
>交易と元寇じゃ目的が違いすぎる
対馬海流は交易に関係しない。
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。 @阿波 本当に、あのスレッドだよ
『ファンタジーゾーン』
のボスの曲が好きだと言っている人がいたり >>559
大軍の上陸地点と交易船とが同じなわけがないだろ 大軍?
張政が大軍を率いていたのなら分かるが
魏使の使節は大軍をひきいていたの? >>560
>時代が違えば寄港地が違うんだよ
対馬海流は時代に関係しない。
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。 @阿波 >>562
>大軍の上陸地点と交易船とが同じなわけがないだろ
対馬海流は交易に関係しない。
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。 @阿波 うむw
対馬海流は交易に関係しない。
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。
だから対馬海流とは無関係に考古学的に唐津市は末盧国と特定される。
ってことだなw >>558
阿波でも今日、石井町で新たな遺跡発掘の発表がありました。
結構、興味を引く遺跡のようですよ。 @阿波 >>564
発展する津は内陸との交易ルートとの関係や
津が川からの堆積によって深度が変化するとか時代によって替わるんだよ >>565
>対馬海流は交易に関係しない。
あまり関係ないから原の辻交易で、
近い糸島や呼子、唐津で半島系の遺物が出てる >>571
>あまり関係ないから原の辻交易で、
近い糸島や呼子、唐津で半島系の遺物が出てる
対馬海流は交易に関係しない。
対馬海流に流されて「末盧国と特定した唐津市」は有り得ない。
魏使はおろか、元寇・朝鮮通信使も一度たりとも唐津に上陸していない。推して知るべし
もし古代より、唐津やその周辺が大陸との文化流入の玄関口であれば、
宗像地方に替わって唐津周辺が世界文化遺産になっている。 @阿波 >>573
宗像の世界遺産登録は4世紀以前の遺構、遺物の評価じゃないから 意味不明のつぶやき厨と一緒にしないでもらいたい。 @阿波 >>571
この半島や大陸系遺物が重要なんだよね。
中国朱とか、直接に関係がある証拠だし。 >>575
>宗像の世界遺産登録は4世紀以前の遺構、遺物の評価じゃないから
ではなんで「原の辻交易で、近い糸島や呼子、唐津で半島系の遺物が出てる」呼子や 唐津が世界遺産登録にならないの? >>577
>この半島や大陸系遺物が重要なんだよね。
中国朱とか、直接に関係がある証拠だし。
ではなんで呼子や 唐津が世界遺産登録にならないの? @阿波 そりゃ
その時代の遺物が決定的に重要だからじゃろ。
現在につながると言う意味で。 沖ノ島はシルクロードに関係した遺物が出ているが
原の辻貿易はそこらへんでちょろちょろっとやってた程度だからな
日本がスポンサー国といっても選考委員がヨーロッパ人だから
西欧の技術とかキリスト教関係は理解されやすいだろ >>580
>そりゃ
その時代の遺物が決定的に重要だからじゃろ。
現在につながると言う意味で。
太古から19世紀まで宗像方面が「大陸との文化流入の玄関口」としてね。 @阿波 宗像大社と宗像遺跡群も最初は外すように勧告されてたんだよ
日本が金出してるから一括して登録されたけど >>583
>神社がないから
それも大きいね。 やはり由緒がないから。 阿波からの勧請もなかったようだね。 @阿波 唐津市加部島の田島神社(名神大社)の祭神は宗像三女神 もともと田島や宗像は筑紫の沿岸部を全て支配していたところへ、楔を打ち込むように天孫族が博多湾に流入したんだろ。
出雲や北陸でも似たような事例があったよね。 だけど、もういい加減見直すべきだと思いますよ。 呼子や唐津にこだわるの。
阿波の素人でも分かる極めて常識的な指摘なんだから。 >>592
>出雲や北陸でも似たような事例があったよね。
だからそれ、忌部だから >>594
>唐津は松浦で、中国に行く重要なルートだからねえ。
そうですね。大陸へ出るのはそちら方面からですね。 @阿波 宗像大社があるのは宗像市田島
壱岐島の石田町池田西触字坂本にも田島神社(祭神 宗像三女神)がある 田島も宗像も大山祇も綿津見も、記紀では誤魔化して触れていないけれど、邇邇芸の伊都国が成立する前の、博多湾を中心とする倭国の単一の王家だろうね。
色々と表現を変えることで、その存在をボカしているんだよ。 >>598
記紀では誤魔化してるのなら何を根拠にしてるのか? ちょっとドラゴンボールの曲でも聴いてみよう、
雰囲気が似ているような
初期のOP 倭国は倭人の国。
倭人は呉の末裔と自ら名乗っている。早くともBC4〜5世紀の渡来。
関門海峡両岸〜日本海の渡来人はBC1000年頃じゃないかな。 ニニギの天孫降臨はAD1世紀前半だろう。
畿内を中心とした方形周溝墓勢力(倭国)が大陸へのルートを確保するために、博多湾勢力に婿入りしたんだろう。 >>602
博多湾勢力に婿入りしたというのはどういう根拠から? 邇邇芸が1世紀に筑紫の倭国に婿入りしたんだよ。
畿内からではなく、高天原からだよ。
同時期に高天原から関西へは饒速日(邇邇芸と同じ天照の孫)が降臨しているので、高天原が少なくとも畿内でないことはわかる。 筑紫の倭国なんて勝手な造語作るなよ。
倭国は唯の倭国。
九州北部は伊都国、奴国。
倭国ではないわな。 記紀では、嘘は書かないけれど、大事な情報を抜かしている。
その一つが、筑紫倭国の王は誰だったかだ。
パズルを提示しよう。
宗像=田島は玄界灘沿岸を支配していた王家だ。
一方、邇邇芸の婿入り先は大山積で、大山積が志賀島の綿津見に祭られていることから、大山積=綿津見は博多湾沿岸の王家だ。
大山積の支配域は宗像の支配域にすっぽり入っている。
可能性は二つある。
⑴大山積=宗像
⑵宗像の支配域の真ん中に後から大山積みが入り込んだ >>1
5ちゃん(2ちゃん)の書き込みのほとんど99%は5ちゃん管理人によるものです
管理人は400人くらいいて、文系の才能のない売れないライターがバイトで5ちゃんに書き込んでいます
だから詳しい書き込みができるんです
5ちゃんは管理人がIDを変えながら書き込んでる掲示板です
5ちゃんは管理人はハッキング、ストーカーをしてきます
5ちゃんは管理人はユーザーのパソコンをハッキングして個人情報を覗き見しています
5ちゃん掲示板を見てるだけでもどこを見てるかリアルタイムで分かるようになっています
(管理人が監視してるスレを見ただけでハッキングされる恐れがあります) 筑紫倭国はしばしば海上と陸上に分けて統治されていた。
大山積は陸上の王だ。山祇とも書く。
綿津見は海上の王だ。海神とも書く。
これは天神地祇と同じで、天神つまり天津神が海の神、地祇つまり国津神が陸の神だ。
天神の代表であるアマテラスと、地祇の代表である大国主の祖であるスサノオは兄弟だ。
山祇であり海神でもある大山積は、邇邇芸が伊都に降臨するより前の、恐らくは奴国の王墓の主だ。
そしてその時代には大山積が倭国王だったのだろう。
邇邇芸が伊都にやってきて娶ったのが、大山積の娘の木花咲耶姫なので、邇邇芸が博多の倭国王家に婿入りしたようにも見える。 そうすると疑問なのは、邇邇芸が婿入りする直前に倒した大国主も倭国王だったんじゃない?という問題。
邇邇芸より前の倭国王統の候補が、大国主、大山積(大国主と同じ意味の名前だけど)、宗像(大山積と支配域が重なっている)と三つもある。
同一のものが含まれているのか、順に交代したのか? 今日は宗像で盛りあがってますね
興味を持ちました ありがとう
夜更かしせぬよう ユルリとまいりましょう
おやすみなさい 経緯はともかく、アマテラスの手により、倭国の海上部(対馬海峡)と陸上部(福岡)は一つに統一された。
それを象徴するように、邇邇芸や饒速日のフルネームには、天照国照の両方の名前が含まれている(ググってくれ)。
また、天照(アマテラス)が固有名詞ではなく、相続される称号であることもわかる。
邇邇芸はあえて宮をそれまでの大山積の宮がある奴国から離れた伊都国に建てた。
その墓が1世紀頃の三雲南小路遺跡(邇邇芸と木花咲耶姫の墓と言われる)であり、中国の史書では帥升が登場する頃だ(帥の字が含まれるので福岡の王だ)。
魏志倭人伝によるとそこから70〜80年の男王の時代があり、その間に倭奴国の名義で金印をもらっている。
伊都国の王家が邇邇芸の日向三代であることは、伊都国の高祖宮の祭神が彦火火出見であることからわかる。
彦火火出見は一般には邇邇芸の息子だが、その孫の神武天皇のフルネームにも彦火火出見が含まれており、彦火火出見が伊都国王の称号であったことがわかる。
2世紀に倭国大乱があり、彦火火出見の一族(天孫族)は伊都高祖宮(日向高千穂宮)を去って、先に畿内に降臨していたという饒速日の元へと向かう。
そして倭国王に共立されたのが、卑弥呼だ。
要するに、記紀神話は、途中から博多湾にやってきて去っていった天孫族の視点から描いた歴史なんだ。
ただ、神武や邇邇芸をもっと古い時代に位置付けてしまったので、漢への朝貢などの記録は書けなくなってしまった。 神武が伊都高祖宮を去っても、天孫族の一部は伊都にとどまっていたと思われる。
ニニギやニギハヤヒの名前の共通部分は、ニギだ。
これは伊都国の官の名前だ。
つまり卑弥呼の共立によりナンバーツーとなっても伊都に残った顔ぶれもいたわけだ。
伊都国は魏志倭人伝と記紀の重要な接点で、記紀の背景にある真実を構築するのに魏志倭人伝や後漢書が役に立つ。
なぜなら、同じ倭国についての歴史書だからだ。
考古学的な知見とともに、それらはする合わせることが可能なんだ。 簡単にまとめると、筑紫というか博多湾沿岸を支配したものが誰であれ倭国王であり、何度かその主役は交代しているということ。
ある時は大山積、ある時は大国主、ある時は邇邇芸や彦火火出見、ある時は卑弥呼。 天武や天智も韓半島から筑紫を支配して倭王になった代表
これは文献学的に半分立証されている 伊都國は半島と繋がりが強くて倭の女王とは別に王がいる従属国だから
官の爾支は百済の鞬吉支(被支配層語)か新羅の爾叱今の方だろう 『姥清水』
という話があるでしょ、それが正解だよ
婿(嫁)または養子に来たという話? 謎のサルタヒコというスレ
を読んでみて
いざなぎ(いざなみ)とは他人
と言っている人がいるから
スサノオのことなのかな ドラゴンボールの話なのかな?
お年寄り、老人に拾われ育てられたみたいな話 亀仙人
よく調べてみると河伯のことなのかな、
日本では河童? それにしても老婆だよ、
なぜ詳しいのか?なんだよ
腰に刀を差していた
と言っていた
キュウリの葉・・・・
の写っている家(人)の話
わかりやすくいうと
家の写真なんだけど 某(河伯 河童)と某(松傾)と某(不明)は・・・・同一人物?
馬に乗り、腰に刀を差していて 伊都国って倭国の「表玄関」という位置付けで別にそこが邪馬台国ってワケではないだろ? ここのスレのほうが居心地が良いのに他スレに書きこんだので
再度
投馬国以降は使者が伝聞の疑いがあるが いかがだろう
1、郡から不彌國までは里数表記があるが以降は表記が無く日数だけである
南至投馬國 水行二十日 南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
また、
2、自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 とあり
女王国より以北についての距離は分からないと記しているにも関わらず1では距離の表記が無い
そして
3、自郡至女王國 萬二千餘里との記述が出てくる
投馬国、邪馬台国 1万2千里 は伝聞であり距離は邪馬台国を比定するうえで無視しても良いかと思うが・・・・
少しわかりずらいかも知れませんのでマトメ
1.使者は投馬国、邪馬台国には行っていないく、伝聞である
2、自郡至女王國 萬二千餘里は伝聞である
3、魏からの贈り物は一大率を通じ王に届いた >>628
>1.使者は投馬国、邪馬台国には行っていないく、伝聞である
>2、自郡至女王國 萬二千餘里は伝聞である
>3、魏からの贈り物は一大率を通じ王に届いた
仮に使者が邪馬台国に行っていなかったとして、それがどう邪馬台国問題に影響するの? @阿波 >>628
倭人伝による魏との外交から無理が有る様に思えます 朝起きてみると良レスが沢山ありますね
>>628
普通に正解でしょう。
おめでとう。それ以外ないでしょう。
>>609
基本的には正しい理解なんでしょうね。
参考になります。
畿内説に縛られないな発想のほうが事実に近づける可能性が高そうです >>629
行程による邪馬台国の比定地に影響が出るかと思いますが・・・
水行、陸行だけでは何が何やら(一日進む速度等)
使者へは王都の所在地を教えなかった(防衛上)
すると、邪馬台国論争は行程でなく出土物等で議論すべきかと思いますが
駄目ですかね? >>632
そうですよ
そうすると伊都国に王権があった考古学事実にぶつかり、609さんの書き込みのように記記の中の事実が見えてきます
通勤中ですので、それではまた。
秋口から仕事が猛烈に忙しい。
例の携帯のお陰です >>632
>すると、邪馬台国論争は行程でなく出土物等で議論すべきかと思いますが
駄目ですかね?
行程のみでは無理ですね。 行程は一つのファクターにすぎません。 @阿波 >>635
賛同します
いろんな倭人伝のソースの組み合わせをしないと邪馬台国は見えてきませんね 阿波さんはじめ、皆さんのリードのおかげで
良い議論が続き勉強に成ります
感謝いたします こういう謝辞は不要だな
レスが止まるだけ
2ちゃんは議論があればいい キリッ >>638
そうですね
少し論じていきませんか
行程について、いかがお考えですか? 一万二千里が繰り返し史書に取り上げられ、それが福岡県であること。
伊都をはじめとして中国から冊封されたことを示す王墓が福岡県に集中すること。
国内の史料にも筑紫と記された記事が多く、地名できる地名や古社が福岡県に揃っていること。
上記より、女王の都である邪馬台国は福岡県内のどこかだと考えます。 >一万二千里が繰り返し史書に取り上げられ、それが福岡県であること。
どうして言い切れるの? @阿波 >伊都をはじめとして伊都をはじめとして中国から冊封されたことを示す王墓が福岡県に集中すること。 が福岡県に集中すること。
「中国から冊封されたことを示す王墓」とどうして言い切れるの? @阿波 >>647
昨日、誰かがピッタリなアイデアを出していたね。
奴国までの計算を。。
阿波説では奴国はどこなのかな、、 女王の境界の尽きるところは奴国である。。。
奴国までピッタリ一万二千里であった。
奴国から邪馬台国までの21分の5の辺りに八女市がある。。。
熊本城に邪馬台国があったのでないのかな。 >>649
> 阿波説では奴国はどこなのかな、、
>>355を参照してください。 @阿波 >>650
帯方郡から水行10日でマツラ国、そこから伊都を経て奴国へ、奴国から邪馬台国は21ヶ国目。
1ヶ国1日で23日、約1か月だね。。。 >>651
奴国から邪馬台国の道の間には、不弥国と投馬国は、ないのではないかな、、
魏志倭人伝に、邪馬台国から奴国までの帰り道がしるされているのに、みあたらないな。 >>654
阿波説の根拠は昨日までに訳した部分にはまだないのかもしれないよ。。 >>655
そうだね。。。
訳をつづけるか、
まず昨日までの訳文をはりつけよう。。 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 >>654
>奴国から邪馬台国の道の間には、不弥国と投馬国は、ないのではないかな、、
倭人伝にあるでしょ?
>魏志倭人伝に、邪馬台国から奴国までの帰り道がしるされているのに、みあたらないな。
「邪馬台国から奴国までの帰り道がしるされている」 ? ついていけません。 @阿波 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
1世代の王がいたが、今はこの国の皆は女王国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。 その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に有狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、 >>654
>奴国から邪馬台国の道の間には、不弥国と投馬国は、ないのではないかな、、
倭人伝にあるでしょ?
>魏志倭人伝に、邪馬台国から奴国までの帰り道がしるされているのに、みあたらないな。
「邪馬台国から奴国までの帰り道がしるされている」 ? ついていけません。 @阿波 >>668
君が阿波説の相手をしてくれるかな。。
僕は大夫の訳を考える。。 >>650
倭奴国は倭国の南の端とされている。
熊本までだと帯方郡から一万三千里以上になるだろう。 >>667
僕たちは邪馬台国から奴国までの帰り道を>>663と判断したのだ。
次という漢字が序列をしめしているからね。。。
この場合、大きさか、道順の序列以外に思いつかなかった。。。
だが大きさだとすると7万戸から2万戸の間に20か国として人口をわりふっていくと、
人口が莫大なものになってしまう。。。
だから、道順だと判断した。
阿波説が(次)という字を無視するなら、僕たちはもう袂をわかつしかないな。。 松浦までで、実距離は中国の里の1/5程度であることがわかっている。
これを前提として5倍誇張説を仮定する。一里あたり87mである。
5倍誇張説の場合の計算結果と推定場所
帯方郡の場所
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b2/Ancient_Korea_Taihougun.png
帯方郡黄海北道鳳山郡説より、帯方郡側の海州を起点とする。
帯方郡から狗邪韓国まで、乍南乍東7000余里 7000里/5=1400里*435m=609km 海州―釜山広域市 700km
狗邪韓国から松浦まで3000里 3000里/5=600里*435m=261km 釜山広域市−唐津 210km
松浦から伊都国南東500里 500里/5=100里*435m=43.5km 唐津―小城 38.3km
東南100里の奴国まで 100里/5=20里*435m=8.7km 小城―佐賀 10.1km
東100里の不弥国までの道 100里/5=20里*435m=8.7km 佐賀―大川 9.5km
南水行20日の投馬国まで 20日/5=4日*30里=120里*435m=52.2km 大川―玉名 47q
水行10日、陸行1月の邪馬台国
水行10日 10日/5=2日*30里=60里*435m=26.1km 玉名―緑川 26q
陸行1月 30日/5=6日*30里=180里*435m=78.3km 緑川―人吉 86q
侏儒國 南4000里 4000里/5=800里*435m=348km 熊本緑川流域―屋久島 315km
裸国、K歯国 水行一年 365日/5=73日*30里=2190里*435m=952.65km
熊本緑川流域-奄美大島 580km
熊本緑川流域-沖縄本島 824km >>670
まだ、魏志倭人伝を最後まで読んでないから、倭奴国は倭国の南の端とされているということが書かれているのかどうか、
わからないな。。。
訳し終えるまで、まってくれないか。。 伊都から邪馬台国まで途中の情報は他からのツギハギで
伊都の南に邪馬台国とダイレクトに書いてあるのが原文って聞いた。 「石井・井ノ元遺跡」
「古墳時代前期 土器群が出土」 「祭祀用など250個以上」
石井町教委は15日、石井町石井の井ノ元遺跡から古墳時代前期(4世紀前半〜半ば)の土器群が出土したと発表した。
県内で同時期の土器がまとまって出土するのは初めてで、町教委は「土器によって年代を決定する編年研究の基準資料となり得る」としている。
土器群は地下約1.8mで見つかり、南北10m、東西35mにわたって帯状に広がっていた。
完全な形を残す物だけで250個以上あり、うち7割を祭祀用と思われる小型丸底壺や高坏が占める。手ごね土器や石製小玉、鉄製鍬先なども発掘された。
町教委は、祭祀後に土器を捨てた場所と推定し、近くに祭祀が行われた遺構が存在するとみている。南側に渡内川があることから、水の神を祭る祭祀が行われていた可能性もある。
今回照査したのは約1500m2。西側に隣接する石井幼稚園の改築工事に伴い、5月から掘削に取り掛かった。
近世(18〜19世紀)から古墳時代前期にかけての4面の遺構が確認され、土器群のほか、江戸時代の藍商屋敷に設けられていた石組み井戸や屋敷外の水田、飛鳥〜奈良時代の素掘り墓35基なども出土した。
奈良時代の水田を形成する溝の方角が8世紀前半〜中頃の条里制と一致することから、石井町域でも阿波国府域と同時期、条里制に基づいて開発が進められていることも分かった。
町教委の菅原康夫文化財指導員は「今回見つかった土器群は、祭祀の内容や古墳時代の土器の様相を考える上で貴重な資料となる」と話している。
2017年11月16日 徳島新聞朝刊転記 @阿波 そう遠くない時期に倭国(阿波)での「祭祀場跡」が発掘されるでしょう。 @阿波 >>671
>僕たちは邪馬台国から奴国までの帰り道を>>663と判断したのだ。
帰り道? ついていけません @阿波 魏志倭人伝に相応しい大夫の意味は中国周代の役職名でかなり上位のものだな
ここでは周代の役職名としておこうか、、、 昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。 >>670
一万二千里は女王国の境界までの長さということで良いのではないか。
その北側は別の王の国があったが女王の属国だったのではないかな。 >>672
邪馬国か邪馬台国か、どちらのことをいっているのだろうか、、
邪馬国が八女で、邪馬台国が熊本城ですっきりするのではないか。
遺跡に惑わされると、2013年に破綻した巻向の二の舞になってしまうのではないかな。 中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。 会稽とはザラコク氏が狂った老人と、論争しているテーマだったな。。
どこにあるのだろう、、、 こねくり回して考えるからですよ
魏志倭人伝は倭国(阿波)の事象を大変分かりやすく記述してくれている。
@倭人在帶方東南大海之中依山島爲國邑
四国東部は帯方の東南に当たり、四周が海で、山や島に人が居住し、国を為している
A今倭水人好沈没捕魚蛤
徳島県南部海部地方などに古くから見られる漁法(海人の素潜り漁)
B文身亦以厭大魚水禽
入墨(文身)を表した土製仮面(顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある)が出土している
C種禾稻紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
吉野川中流域(旧麻植郡)は古来より麻や桑を栽培し、往古より践祚大嘗祭で麁布を調進している
D倭地温暖
徳島は黒潮が近くを流れ、温暖な地である
E其木有{木冉}杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香其竹篠幹桃支有薑橘椒襄荷不知以爲滋味有爾猴黒雉
特に、橘は徳島県南部が古くからの産地である
F女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
徳島の東の海(紀伊水道)を渡る千余里で倭種国(紀伊半島)が位置する
G問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里
徳島は離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる
H直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華ケイ五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛 丹各五十斤
鳴門の萩原墳墓群などに中国産の真朱が使われている
I女王国への行程記述 今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。 >>689
すると会稽というのはあまり海岸線がないようだね。。。
会稽の領主は東にいって、海で遊んだのだろうね。 その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 >>691
つまり、会稽の東側の、誰か別の領主が治めているところだね、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右し、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 また298の>>802の返事の転載。
>中国、台湾の国家機関により「会稽東冶」で確定済み<
国家機関は、その国家の正当性や存続を第1にする思想宗教組織であるから、
始めから「結論先にありき」の非学問的で非科学的であり、
確率が非常に低くなり、
そんな機関の説明は半分×書の参考程度にしかならない。 段々、色々なことに興味が出てきたな。。。
会稽の東側の、治められている土地の、、東には何があるのだろうか。。。 >>803
>東治が会稽郡より広い? ばかですか?<
誰か?、そんな事を言ったのですか?。
アホですか?。
東治の地域は、おそらく会稽郡治よりも南北に広いだろう、と言ったのですよ。 298の>>805
>>古今東西、だれもやってないような倭人伝の「南→東」などの<
>何百年も前から畿内説は全員やってますけど <
という事は、何百年も前から大和説者は全員、
史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、犯罪者であった、
という事になる。 298の808
>だ〜か〜らぁ 東治が会稽郡より広いわけないでしょ<
東治は、おそらく会稽郡治よりも広い。 298の>>809
>会稽郡は北緯30°から南に広いデス 九州説にもっと悪いデス <
陳寿は、始めから、「倭地の大体の位置説明」を書いているのであり、
九州でピッタリです。
大和説には非常に悪いです。 その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、 婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。 稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。 よくスレッドで話題になっている矛はここで登場するのだな、、、
加藤清正が使っていたあれが、矛なのだろうな。。 木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。 >>712
絹どころか矛さえろくすっぽでない畿内がエラそうに
チョンみたいな印象操作はやめろ
倭人伝から離れるな
あれほど言ったろうに
畿内厨は倭人伝そのものを読んでいない??
女王の居城は、兵を持って守衛している、
(兵は)矛・楯・木弓を持ってる
・兵用矛,楯,木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃
↑矛のでてこない畿内はありえない
畿内厨は倭人伝そのものを読んでいない?? 僕たちの訳があってるかどうか議論してくれてもいいんじゃないかな。。。 >>720
訳本で納得できるものが少ないからな。
勝手に字を書き換えて訳している。 古墳や他の書物に飛びつく前に、まず、魏志倭人伝をしっかり解読することが大事なのではないかな。。。 邪馬台国城から奴国までの帰り道の国国が示されていることも、気づかれなかったのが実情ではないのかな。 一文字一文字に敬意と注意を払って読み進めれば、あの奈良の古墳などに行きつくわけはないのだからな。。 >>724
「帰り道」ってどういう風に書いてあるの? @阿波 次、次に順送りになっているのは道順か大きさしかないのではないか、、 次という字は序列をはっきり表現するためのものだと、辞書にあったよ。。 女王国の境界である奴国へは、帯方郡と邪馬台国からの両方でしめしたのだろうね。。 僕たちは箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないことしか考古学のことは知らないし、書物も魏志倭人伝を読んでいるくらいだが、
誰よりも今真摯に取り組んでいる。。。。
次、という字が大昔に他の意味があったなら教えて欲しいな。。 >>724
「帰り道」ってどういう風に書いてあるの? @阿波 あらためて、最初から、訳文を張り付けてくれないかな。。 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
1世代の王がいたが、今はこの国の皆は女王国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に有狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。 >>731
邪馬台国から奴国への道順が示されているから、帰り道だと推定できるのではないのかな。 木製の弓は下が短く上は長く
↑これもすごい 南方系の、魚を射る弓矢だ その二回目に出てくる奴国って、最初の奴国と同じじゃないのでは? @阿波 >>739
なんで奴国への帰り道をことさら書く必要があったのか疑問。 @阿波 >>741
そんなことがあるのだろうか。。。
ややこしいね、それは。。。 >>742
邪馬台国がどこにあるか、わかるようにじゃないのかな。 >>739
>邪馬台国から奴国への道順が示されているから
「奴国への道順が示されている」とは限らないのでは? 単に、羅列したのかも。 @阿波 >>741
最初の奴国は北の端、二回目の奴国は南の端、同じ奴国
奴国は南北に長い国であった >>744
さすがにそれで、邪馬台国の場所が分かるとは思えないですね。
それと、なんで数ある国の中で「奴国」を選んだのかが理解できませんね。 @阿波 邪馬台国(佐賀、福岡の一部)の南は奴国と接していた >>746
>最初の奴国は北の端、二回目の奴国は南の端、同じ奴国
>奴国は南北に長い国であった
そうであれば、そう書くのでは? ちょっと無理がありませんか? やはり、別の国でしょう。 @阿波 倭人の土地は温暖なので、冬も夏も生の菜の物を食べ、皆、はだしで歩く。。 >>750
伊都国経由で北の端の奴国
西回りで南の端の奴国
同じ奴国である(阿波厨も納得であろう >>745
次という字を使って、単に、羅列したとするのは、間違っているのではないのかな。。
次という字を使って、単に、羅列したと断言できる例があるかないか、今、訳しているところだから待ってはくれないかな、、 >>752
>倭人の土地は温暖なので、冬も夏も生の菜の物を食べ、皆、はだしで歩く。。
四国南部太平洋側ですね。 @阿波 >>754
伊都国経由で2千里、西周りで3千里、合計周旋5千里がわかってないからである >>755
「そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。 」ので、
そのほかのかたわらの国を適当に羅列して書いたのでは? @阿波 >>748
さすがにそれで、邪馬台国の場所が分かるとは思えないですね。というのは、、
地名の呼び方が変わってしまった現代人の感覚で、昔の人は漢字で書かれていても倭人の呼び方と照らし合わせて、道を進むことができたのではないかな。。。
なんで数ある国の中で「奴国」を選んだのかといえば、、、奴国は女王国の境界だからじゃないかな。 >>758
「周旋5千里」
倭国(阿波)のまわり、四国とみています。 そろそろ、翻訳に専念した方がいいのではないか、、、 >>763
そうだね、、次のスレッドに全文を貼りつけたいからね。。 家には部屋があって、父母は兄弟たちと別の部屋で寝る。。。 朱色の丹を身体に塗るがこれは中国の紛を使うのと似ている。 飲食には竹で編んだ食器や木をくりぬいた食器を使って手で食べる。。 >>761
>奴国は女王国の境界だからじゃないかな。
その奴国は最初の奴国と別でしょ。 だから「奴国が女王国の境界」はないと考えます。 @阿波 朱色の丹とは阿蘇山と関係がありそうだな、、
熊本城には竹も木も生えている。。。。 翻訳はパーソナルコンピューターの前でやらない方が、いいのではないかな。。。
つい、インターネットに接続してしまい、妨害を受けてしまうからね、、、 >>755
「そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。 」ので、
そのほかのかたわらの国を適当に羅列して書いたのでは? @阿波 >>771
伊都国が属国なら属国に一大卒置くわけないだろ >>775
伊都国の一大卒は、倭国(阿波)から進出した筑紫忌部ですね。 @阿波 倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、 その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。 出雲も奴国も倭国じゃないんじゃないかな。
魏志倭人伝の時点の倭国は、親魏倭王卑弥呼を王とする国、卑弥呼を共立した30ヶ国すなわち女王国。
奴国で境界を引かれている。
倭国大乱で卑弥呼と対立していた国の中には旧倭国のメンバーがいる可能性はあるが。
卑弥呼が倭国大乱以前の倭国の正統かは、大いに疑問があるが。 >>759
次という字を使って、単に、羅列したとするのは、間違っているのではないのかな。。
次という字を使って、単に、羅列したと断言できる例があるかないか、今、訳しているところだから待ってはくれないかな、、 >>769
その奴国は最初の奴国と別でしょ。と考えるとややこしくなってしまうな。。。 日本列島統一まで程遠い状況だし、関東東北や九州が倭国に含まれなくても別段不思議ではない。
倭国は日本列島を代表する国だったというだけだろう。 >>774
次という字を使って、単に、羅列したとするのは、間違っているのではないのかな。。
次という字を使って、単に、羅列したと断言できる例があるかないか、今、訳しているところだから待ってはくれないかな、、 翻訳はパーソナルコンピューターの前でやらない方が、いいのではないかな。。。
つい、インターネットに接続してしまい、妨害を受けてしまうからね、、、 >>781
魏志倭人伝では倭国の中の国だけが解説されている。
途中で通過したはずの朝鮮半島の国は解説されていない(倭人がいたと思われる狗邪韓国を除く)。
当然、末盧や伊都は倭国だからこそ、書いてある。 >>782
>奴国で境界を引かれている。
奴国のどこに境界を引くって?
妄想?
願望? それより前方後円墳だよ。
円形周溝墓からの発展で間違いないが、3世紀後半まで全て唯の円形周溝墓だったんじゃないか?
前方部は3世紀後半以降に後付けした可能性がある。
台与の時代に河内彦の娘と婚姻を結び和睦。
その後、前方部を付け加えたのでは? >>784
>その奴国は最初の奴国と別でしょ。と考えるとややこしくなってしまうな。。。
逆に、同じと考えるからややこしくなるんですよ。 @阿波 北部九州は、弥生後期だと
方型周溝墓はそろそろ下火で、
方型や円形の墳丘墓が増えてくる。
前方後円墳は円形墳丘墓の流れかなあ? 金印と金象嵌
奈良県天理市には、全国的に著名な金象嵌銘文資料が二つある。
その一つは、1962年、市内北部の櫟本(いちのもと)に所在する東大寺山古墳で発見された鉄刀で、
後漢の「中平」(紀元後184〜190年)の年号を高度な技術を用いた金象嵌で刻んでいる。
福岡の志賀島で江戸時代に見つかった国宝の「漢委奴国王」金印は、年号を刻んでいないから、
東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、日本最古の紀年銘資料ということになる
東大寺山古墳の「中平」銘鉄刀は、2世紀末の倭と中国の政治的交渉を通してもたらされたと考えられる。
つまり、大陸との交流は邪馬台国以前に畿内にあり、魏の使いはこの経験値の伝聞と倭国の案内で畿内邪馬台国に来たものと推察される >>746
最初の奴國は西の端 (律令制下の怡土郡)
二回目の奴國は南の端 (那珂川の上流域)
奴國は南に向けて懐が深い
邪馬壹國女王の治所が女王國
邪馬壹國女王のバウンダリーが女王境界内で邪馬
邪馬壹國女王とは壹與の別名
伊支馬も邪馬壹國女王の別名
邪馬壹國女王之所都は
当時の名称で[伊支]と称された早良平野にあった >>793
あぁ〜、それ倭国(阿波)の豪族が4世紀後半頃に埋葬された時の副葬品ですよ。 @阿波 もちろん大陸との交流の証は圧倒的に九州に多いが
3世紀後半〜4世紀になると、三角縁神獣鏡など、
中国系の文物は一転して近畿地方に集中するようになり、
対外交渉の中心が北部九州から移動する。
それは畿内邪馬台国の存在が中国全土に知らしめられた結果と推察する >>793
副葬品は移動できるから根拠にならないんじゃなかったの? >>796
卑弥呼より後のものを持ってくるなよ。
畿内説は時代錯誤なんだよ。 >>797
あぁ〜、倭国(阿波)から奈良へ移動ね。 @阿波 東征について
>>794,
>>793
です
九州説では九州以東(畿内等)を狗奴國と比定する方も多いが
平和的に東征はなされない、後の蝦夷征伐しかり
しかし、畿内に戦の跡も無ければ3〜4世紀鉄の武器の発掘は少ない
その代わり大古墳群が出現する、これは其れ以前からの王国が平和のうちに推移したものと考えられる
邪馬台国は畿内にありと想うがいかにお考えですか?
ご意見を以上に絞りご回答いただければありがたい。
ここでよく、「ゆるり」と言う言葉が使われてますので
解答はゆるりとで結構です よろしくお願いします >>800
神武東征の舞台は阿波国内であり、 九州からの東征などではない。
神武軍が吉野川北岸の阿波市(西)から鳴門市(東)へ攻め下ったのが神武東征。
東征の参謀役となった速吸の門(はやすいのなと 鳴門海峡のこと)の大人・宇豆彦が「宇志比古神社(鳴門市大麻町大谷)」で祀られている。
その背後の山が宇豆彦の葬場である西山谷二号墳(円墳 出土品 圭頭形鉄鏃、やりがんな、鉄剣、鉄斧、斜線上方作銘獣帯鏡、鉄槍など)。
神武を佐けた霊剣・建布都神は、戦闘の地、阿波市の「建布都神社」で祀られている。 ↑ こういう状況証拠を示せるのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 >>801
さっそく ありがとうございます
では、阿波説では狗奴國をどこと比定いたしますか 倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
※狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力) @阿波 「旧吉野川流域北岸勢力」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力」
若杉山遺跡・福寺山遺跡 ↑ これ、集落遺跡だけです。 古墳等は含めていません。 @阿波 >>800
>その代わり大古墳群が出現する、これは其れ以前からの王国が平和のうちに推移したものと考えられる
>邪馬台国は畿内にありと想うがいかにお考えですか?
魏志倭人伝を読んだことはありますか?
卑弥呼の前に倭国大乱で戦いがあって、卑弥呼の後にも戦いがあったんです。
卑弥呼の時も、狗奴国と争っていました。
戦闘の跡がない畿内はお呼びではないのですよ。 ↑ これ、弥生時代の集落遺跡だけです。 古墳等は含めていません。 @阿波 >>805
全部史書に従って名前をつけてくれ。
鴨みたいに。 >全部史書に従って名前をつけてくれ。
なんの名前? >>807
わかりますが
卑弥呼の後のの戦いは倭国大乱に比べあまりにも小さな戦いだと思いますが
夕食タイムに入りますので、後ほどヨロシクお願い >>815
こっちの方が早いからこっちが本スレだよ >>807
倭国大乱は北部九州内での争い
畿内はそのころ九州の植民地で争いはない
古墳は移民が食いぶちをかせぐため技術を提供してできたもの。 山の辺地域では、纒向遺跡の形成に続いて、3世紀中頃から4世紀にかけて、オオヤマト古墳群が集中的に造営されてるよ
春日断層崖に添う段丘面に広がる南北4km、東西約1.5kmの範囲に、大王墓クラスの大形前方後円墳4基はじめ、
大小40数基の前方後円(方)墳がひしめくように密集している 畿内は王国 女王国の地は奈良 >>819
クナ国の比定地は難しいと思いますが
九州説では何処でしょうか?あなたの見解は?
畿内説支持しますが、狗奴国は鈴鹿山脈以東、三重、岐阜、愛知だと思います
現奈良市付近が邪馬台国の境目で南に向かい三重・・・・・ 御免 三重県境の奈良県東西部も狗奴国の邪馬台国と対峙する前線地帯 >>820
畿内は倭国(阿波)の墓地 女王国の地は阿波 @阿波 倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
※狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力) @阿波 >>810
現在の地名だけでなく、当時の各部族は名前を持っていたはず。
それがないと具体的なイメージもわかないからね。 >>822
マイナーだけど名張市も一考に値すると思う
安部田、下川原、蔵持など市内各地で集落跡が発見されてるし
土器や石器、銅鐸などが 出土してる >>820
畿内にも人がいたことはわかる。
しかしそれが魏志倭人伝にある邪馬台国だという根拠はない。
しかも、前方後円墳の分布の中心は奈良ではない。 >>828
しかし 3世紀後期から4世紀の前方後円墳は奈良および畿内に集中してるのでは? >>827です
宜しければ 名張市郷土資料館に起こしいただければと思います >>831
それだけでは倭国の王都の根拠にはならないんだってば。 >>829
倭国は200年前後に卑弥呼が共立されたが、その前も男王がいた歴史ある国なんだよ
ここが畿内説の考察で抜けている所 >>825
>現在の地名だけでなく、当時の各部族は名前を持っていたはず。
>それがないと具体的なイメージもわかないからね。
だから、倭国乱は倭国(阿波)国内の乱。 だから部族名は全部、忌部一族ですよ。 忌部一族どうしの争乱。 @阿波 >>826
>阿波大乱てw
違う。 倭国(阿波)国内の乱。
>村同士の喧嘩だろ
まぁ、阿波国内の村総出の戦闘みたいなもんでしょう。
トンデモ説は誇大妄想、好きだから・・・ @阿波 >>829
>しかし 3世紀後期から4世紀の前方後円墳は奈良および畿内に集中してるのでは?
阿波や伊勢・紀伊・播磨辺りの忌部豪族の墓場に最適だったんですよ。 @阿波 >>839
>阿波は人少ないんだから喧嘩するなよw
7万戸あったらしいから、少なくないでしょ。 @阿波 阿波国はだいたい大和国と
同じくらいの人口でしょうか?
肥後の1/3程度ですね。 肥後説だと佐賀県の小城あたりが
一大卒の居場所になりますが
事実上の肥前の王で、肥後から派遣された
代官だと思われます。
小城市街もほぼ全域が弥生遺跡であり
奈良時代には佐賀市大和町に
ひぜんこくふが >>841
7万戸あったらしいから、少なくないでしょ。 @阿波 肥後説だと佐賀県の小城あたりが
一大卒の居場所になりますが
事実上の肥前の王で、肥後から派遣された
代官だと思われます。
小城市街もほぼ全域が弥生遺跡であり
奈良時代には佐賀市大和町に
肥前国府が作られますが
それ以前は小城国府があったらしいことが
肥前国風土記に書かれています。 みよしくんてんしょんたかっ
しょーぎでもすっぺ
先手58飛車 >>843
同規模の大和国は
平城京で人口が流入した奈良時代で
30万人、それ以外時代は
13万人から18万人くらいですが
7万戸は何人くらいだとおもいますか? >>848
生産量と行程ですね。
ただし、筑紫の莫大な弥生遺跡を
無視することはできません。
久留米高良大社の伝承から
のちに筑紫に従属したという立場になります。 >>843
阿波だけで7まんこかー
もーちょいひろげなさい すもとのてっきこーじょーとはりまなだしゅへんよどがわすいけい右岸
くなはそのみなみのもののべ
けってーやな 高良の肥国王家から共立されて筑紫伊都の女王となったというのと、紙一重ですね。
そのまま都は伊都であり続けた方が自然でしょう。 >>849
>生産量と行程ですね。
それが肥後説の決め手? それだけ? 冗談だろ? >>682
もちょっと南の
新御堂遺跡 宮地遺跡群はどやろか >>861
江南の石包丁は忌部が近畿に持ち込んだくさい。 >>857
倭国(阿波)大乱とは
旧吉野川流域北岸勢力内での争乱・旧吉野川流域南岸勢力内での争乱・鮎喰川下流域勢力内での争乱および各地域間の争乱。
邪馬台国(卑弥呼側勢力)は粟国(旧吉野川流域北岸勢力と旧吉野川流域南岸勢力と鮎喰川下流域勢力)
※狗奴国(卑弥弓呼勢力)は長国(勝浦川流域勢力・那賀川流域勢力) @阿波 古事記に出てくる地名の半分以上は、九州、山陰です。畿内は、10%以下。
(1)邪馬台国の時代から畿内が文化の中心ならば、もっと畿内の伝説が多く合っても良いのでは?
(2)奈良時代でも、宇佐神宮の御神託云々の話があります。邪馬台国の時代から畿内が文化の中心であったのに、
どうして九州の神社を持ち出してくるのか。
畿内にはに皇位継承に影響力を持つ神社すらなかった >>865
>畿内にはに皇位継承に影響力を持つ神社すらなかった
畿内を言ってる場合じゃないでしょ。 @阿波 中華や半島から渡ってきた人達に
聞いたほうが良いんじゃないの?
皇位というくらいだから
日本起源ではないよ >>864
大乱にしてはその証跡が必用
倭国大乱しかり、しかし何もない
推察だが 大乱と言っても小競り合いの末の決着か、
王の首を採ったものが勝ちとか
大規模な戦いで無いと思う >>826
>阿波大乱てw
違う。 倭国(阿波)国内の乱。
>村同士の喧嘩だろ
まぁ、阿波国内の村総出の戦闘みたいなもんでしょう。
トンデモ説は誇大妄想、好きだから・・・ @阿波 >>865
畿内ヤマト王権の勢力拡大の記述だから
山陰や九州が多いのは当り前だと考える
太平洋戦争も戦勝国の地では戦は行われてないので記述は主にアジア
皇位継承の儀式は6世紀以降と考える >>870
>畿内ヤマト王権の勢力拡大の記述だから
「畿内ヤマト王権」なんてものは存在しないから。
古事記は倭国(阿波)国内での出来事を記したもの。 @阿波 >>868
九州北部の筑後平野には激しい戦闘の跡があるよ。
畿内が魏志倭人伝の記述に合わないからといって、否定するなよ。
まあ、畿内説はいつものことだけどね。 >>870
>畿内ヤマト王権の勢力拡大の記述だから
根拠なし。
結論を先取りしている。 >>872
これは失礼しました
詳しく、その証跡を書きこんでくれると有難いのですが・・・ >>868
魏志倭人伝における邪馬台国の家族形態の記述で一夫多妻制を採っている。
アレは何も一人の男が何人もの女を囲ってたって事では無いだろ?
戦闘により成人の比率が
女3〜5人:男1人
になっていたって証しじゃないのか? ここは良スレだな 読んでて不快感が湧かないし為にもなる
もうすぐ1,000で終わりそうだ 次スレも期待する >>870です
ごめん ヤマト王権は訂正
畿内にあった邪馬台国から繋がる国の勢力拡大とします >>877
「畿内にあった邪馬台国」という決め手はなにですか? @阿波 >>875
男が死んで数が減ったから一夫多妻制になったんだろ。 >>870
>皇位継承の儀式は6世紀以降と考える
九州北部では三種の神器は紀元前からある。
八咫の鏡も畿内説論者によると2世紀に作られたそうだ。 >>879
>男が死んで数が減ったから一夫多妻制になったんだろ。
そうかなぁ〜。 アフリカやアマゾンなどの土人の一夫多妻制もそれが理由? @阿波 >>880
>九州北部では三種の神器は紀元前からある。
その九州北部の「 三種の神器」ってなに? @阿波 >>874
吉野ケ里や安永田遺跡の戦死遺体や
みやま市から大牟田荒尾、玉名、山鹿の
鉄器武器の鍛冶工房集積地帯ですかね? 王墓に副葬される、剣と鏡と玉のセットが三種の神器。 >>882
玉、鏡、剣 ですね。
もともとそれらを埋葬する風習があって
たまたま揃っただけかもしれませんが。 でも、それ三種の神器のルーツが九州って事にしかならないよね 戦死遺体や武器工房集積地は
肥と筑紫の国境地帯になります。 そろそろ次のスレッドがひつようなのではないかな。。。。 そうだね、僕たちのあの訳文を書き進める場所としてはここは残りが少ないものね、 >>884
>王墓に副葬される、剣と鏡と玉のセットが三種の神器。
そんなものでよければ、阿波にもありますよ。 @阿波 邪馬台国畿内説 Part300
名前欄 (仮)
メールアドレス 省略
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510632067/l50
1、内乱の激しい中国や、2世紀末の倭国大乱の影響を避けるため、都を、大陸からより離れた奈良盆地の纒向にした。
大和は、瀬戸内海に近く、交通の要衝である。人口も多く、日本の中心に位置しており、都にふさわしい。
2、倭国の大乱は全国的な内乱である。その結果、3世紀には、中部日本と西日本とを統一する大和朝廷が成立した。女王国の出現は、このような広い領域を支配する国家の誕生であった。
3、卑弥呼が魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡である。その証拠に、卑弥呼の時代である「景初三年」の銘が入っているものが出土している。
三角縁神獣鏡は、畿内から数多く出土するが、九州や関東からも出土するので、古墳時代の前、すなわち鏡が輸入された卑弥呼の時代には、大和の勢力が九州や関東に及んでいた、と見るべきである。
4、朝鮮から邪馬台国にいたる行程記述は、、伊都国以降も一直線に繋がったもの(順次式)と見るべきである。
不弥国から東は、船で行った。航路としては、瀬戸内海ルートだけでなく、日本海ルートを通った可能性もある。 この場合、投馬国として、出雲や但馬を比定する。
5、「女王国の東に、千余里を渡海すると、また国がある。みな倭種である。」との記述は、
伊勢湾や琵琶湖を渡ったむこうにも、倭人がいたことを述べている。
以上 カキコミは自由に語ってください なおできれば前スレを埋めてから書き込んでください。 >>885
吉武高木遺跡では、推定で2000基以上の墓があるが、三種の神器が副葬されたのは一つだけ。
王墓に三種の神器を副葬する習慣が、後の天皇家の祭祀につながったと考えられる。 >>886
>でも、それ三種の神器のルーツが九州って事にしかならないよね
ルーツが九州って事も言えないのでは? @阿波 >>893
早く誰か作成してくれないかな、、、
そう思って、作成用の下書きを張り付けたのだね 倭人伝の翻訳を作ってくれた人も
貼り付けてくれたほうがいい。
これは邪馬台国論争の基礎だから こっちのスレのほうが穏やかでよいですね。
粘着質な人もよってこないし。
テンプレは、簡素でいいとおもいますよ。
だいたいの形を決めて色んな人が立てればいい。寧ろそれが標準というか。「本スレ」がちょっとアレなだけ。
岡上@通勤中 三種の神器は確か熊本城の南の方に天から降りてきたのではなかったかな。。 >>899
まだ、半分も訳してないのだから間に合わないだろうな、、 三種の神器は、
はじめはとにかく宝物を副葬してたのが
だんだん種類が固定化されて
天皇家に伝わったのかな?
天皇家では副葬はしないで
代々伝えるものになっちゃったけどね 王墓に副葬されていた三種の神器が伝世されるようになったのは、八咫の鏡の影響が大きいと思う。
漢の頃は王が変わるたびに朝貢して、冊封の証として鏡をもらっていたが、倭国大乱で途絶えて、量産が難しい八咫の鏡が作られた。
その八咫の鏡の大半を平原遺跡に副葬してしまったので、伝世の品として継承するしかなくなったのだろう。
その頃には普通の鏡は三角縁の例からもわかるように、国内で量産できるようになっていたし。 >>899
魏志倭人伝の翻訳全文は長すぎるのではないかな。 >>903
鏡は漢の皇帝が王侯に冊封の証として内行花文鏡などを下賜していたもの。
剣も同じ。
つまり、中国における威信財がそのまま倭国でも三種の神器の基本形となっていた。 【八咫鏡】
平原遺跡から出土した5枚の超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、史上最大の銅鏡である。
径1尺の円の円周が4咫であり、これらの鏡は直径2尺、円周が8咫であることから三種の神器の一つである八咫鏡と考えられる。
記紀神話によれば、八咫鏡は天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命が作った。
天孫降臨の際、天照大神から瓊瓊杵尊に授けられ、この鏡を天照大神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下されたという。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていた。
3世紀には平原遺跡に王権の象徴である八咫鏡があったことで、伊都が倭国の王都であったことがわかる。
伊勢内宮に3回ほど火災があり神鏡が焼失し、作り直された鏡は元の大きさではなくなっているという。
宮中賢所(内侍所)の神鏡も火災に遭い灰となり、安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが、今も賢所に置かれている。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、伊都平原に5枚で、最低でも9枚は存在していたことになる。 >>900
畿内説の人と議論しないからな
穏やかに決まってるさ
もうニセスレは立てるなよ >>900さんが立てればいいのかなと思って見たら岡上さんじゃありませんか。 >>908
本スレのあれが議論??
煽りあいのまちがいでしょう。
私は私は常にハンネ入りですよ
岡上@通勤中 >>911
全岡上病患者は病棟にお帰りください
岡上@通勤中 >>909
あらキリ番踏んでしまいましたか。
仕事もあるので、他の方お願いします
岡上@通勤中 日前宮(ひのくまみや)、どこかで見た名前だなと思っていたら、高天原にあるアマテラスの宮が日隈宮なんですね。
大国主があれと同じくらい高くそびえている宮を立てたらそこにおとなしく隠れようと言って、96メートルの高さの宮を建てさせたとか。
九州北部にも畿内にも、西日本全域に日隈または日前の名前が分布するようです。
隈はもちろん神のことでしょう。
熊本も元は隈本だし。 >>912
また馬鹿なこと書いて論破されて
腹いせに罵ってきたんでしょ アマテラスも何も無い、
そろそろ頭のビョーインに行け。
天体の動きを観ると良い、
動画などがあるでしょ、それだけの話。 どの国も同じだと思う
望遠鏡、天文台の
無かった時代の人々でもわかるはず
太陽は🌞 月は🌛 追随致しますので、仮で結構ですので
どなたか新スレを立てて いだだくと助かります
所用がありすいません >>928
他スレが正常化しない限り、
ここが閉まっても、また立つよ >>929
テンプレで100レス消費するのはどう考えても異常だしな。ブログでやって、リンク張ればいい。畿内厨の押し付けは勘弁。スレが荒れるだけ。 次スレたちました。
こちらを先に消化しましょう。
多分お昼休み中には埋まると思いますが。 テンプレと、それを批判するザラコク氏がいなくなると、わりと平和ですね。
やはり荒れる原因はあの異様なテンプレでしたね。 >>932
そりゃ機内に確定してると喚き散らすからな。
ある意味、荒れてレスを伸ばすのが目的の炎上商法と変わらない キナイセツに対する批判は、批判スレもありますね。
まあ、畿内説の人が見ないと意味がないかもしれませんが。 確定したら議論にならなくなるし、掲示板の意味もない。
テンプレだけて100レス近いとか、異常だよ。 >>938
ま、そうだよな。
例えば「関ヶ原の合戦の有無を議論するスレ」は必要ないな。それは確定だから。 考古学的には関ヶ原の合戦があったという根拠はないんじゃなかったっけ? ロッキードも証拠がさいばんにていしゅつされたはず。 次々スレのテンプレを緩募しますよ。
今のままでよければ、それも良し。 テンプレ−トはシンプルでいいのではないかな、、、
各々が主張を複製したものを貼り付ければ、公平なのだからね。。 >>954
そうだね、、
今のがちょうど良いと思うよ。。。 畿内説の掟
その1 畿内に邪馬台国ありきから始める事
その2 倭人伝については気にしなくてよい
その3 遺物の年代比定はばれない様に3世紀に持って行くこと
その4 都合の悪いときは無視し他説攻撃に転ずること
その5 間違っていようが言い張ることが最善の道
その6 先輩の言う事には、何も考えず服従すること
その7 発掘調査でヤバイものは見て見ぬふりをすること
その8 ただひたすらに畿内説を信じる事 信じればよし このスレは居心地いい
馬鹿ドアホなんか無いし、
知識の差があっても認めてくれる
次立てて欲しい >>957
もう立てました。
リンクがうまく貼れませんのでご容赦願います。 >>959
ありがとうございます
携帯ではうまく貼り付けられないので、
誰かリンクを貼り付けていだだくと助かります なるべくこのスレを埋めましょう
すでに心ない荒らしが、新スレに
来てますが、無視しよう おかしな埋め方をされてしまうくらいなら、魏志倭人伝の日本語訳を貼り付けた方が良いのではないのかな、、、 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
1世代の王がいたが、今はこの国の皆は女王国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に有狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 >>977
まぁ、阿波国内の村々が入り乱れての戦闘みたいなもんでしょう。 弥生の大洪水で灌漑水田稲作が壊滅したから。
そこで、阿波人(忌部一族)がアワ・キビなど雑穀栽培技術を確立して、全国へ拓殖展開していった訳なんですよ。 @阿波
「旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落」
東州津遺跡・大柿遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・勢合銅鐸出土地
「旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落」
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡
「鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落」
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
「勝浦川流域勢力 弥生時代集落」
桧銅鐸出土地
「那賀川流域勢力 弥生時代集落」
若杉山遺跡・福寺山遺跡 ご厚意で新スレを立てていただきました
ありがとうございました
本スレが正常な形で、また善良な方が書き込まれ、立て直されるまでしばし待ちたいと思います
新スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1510884650/l50 弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水 により、灌漑水田稲作は壊滅状態となった。
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。 >>982
植物種実圧痕観察(レプリカ法)は初耳です。調べてみます
ありがとう >>981スレ主 他
最近は本スレのテンプレ以降に
ザラコク、キウス、全一病、岡上等 の 批判を
1 ◆q8leUXpsw.が匿名で書きこまなくなったのは認めてやってくれないか >>985
奈良の狂老人をつけあがらせても益はないですよ >>982
阿波が他に抜きん出いていたわけではないんですね
阿波は何に秀でていたのでしょう 阿波さんにも詫びる・・1 ◆q8leUXpsw.では無いが、俺も本スレの改善に努力する
もどってきてくれないか、あんたの貴重なカキコミはいつも見ている >>990
狂老人には何も期待していません、あしからず いつも思うのですが、
教科書他 弥生時代と縄文時代の区分がはっきりしてません
曖昧なのは何故ですか
皆さんの意見を聞きたいのですが
スレも終わりに近づいていますので、次スレで今一度カキコミます >>993
縄文弥生の区分が明確ではないからでしょう。
水稲作の年代も遡っていますしね >>993
ご指摘通りです
時代区分は?????
私にも???です
皆さんのご意見を待ちましょう
あなたのご意見を貼りつけておきます
ユルリとお待ちください・…浅学でスイマセン
夕食なり、御風呂なり、家族のためなり、睡魔でも構いません
私が敬意を持っている阿波さんや岡上さんや、
ここの仲間たち(最近このスレに書きこんでいただいてる方も含め)
が答えてくれるかもしれませんが
少しご猶予ください私なりの駄弁も書き込むかもしれませんが・・・難しいです・・・ >>932
テンプレを貼るという行為は彼にとって一つの自慰行為なのでしょう。 >>993
教科書検定 泣かせの質問だな
俺にもわからん 受検問題でも、古代の時代区分はタブー的なものがあるんじゃねーの
受検で縄文、弥生、古代時の代区分を問う問題は見たこと無いな
弥生時代の特徴はぐらいは あったがな wikiには
>現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。
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