邪馬台国畿内説 Part307
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テンプレ−トは完全に論破されたので撤去しました、、、 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。
昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。
今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。
帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。
韓国の海岸沿いは7000里余り進んだ。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。
その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。
対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。
土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。
良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、
もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。
官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。
3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。
又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。
4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、
行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。
捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。
官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。
世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。
郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。
東南に100里で奴国に至る。
官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。
東に100里で不弥国に至る。
官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 南に航海すると、二十日で投馬国に至る。
官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。
南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官に有狗古智卑狗あり、、、
女王に服属していない、、、 帯方郡から、女王国までは、12000里。。。
男子は身分に関係なく、顔も体も削って飾っている。
昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。
中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。
今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。
後に段々、それが飾りのためだけになった。
諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。
その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 その風俗は淫らではない。。
男子は、皆、頭髪を木綿で結って露わにしている。。
その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、
婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。
稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。
その地には牛、馬、虎、豹、羊、カササギはいない。
武器は矛、盾、木製の弓を用いる。
木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。
有るものと無いものは儋耳朱崖と一致する。
倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、
死後から始まる喪は十日余りで明ける。。
その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。
葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。
中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。
名付けてこれを持衰という。
もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。 その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、) 生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。 ここまで魏志倭人伝を訳してみて、だんだん、邪馬台国の姿がうかんできたな。。。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは熊本城以外にありえない。 邪馬壹国というのは本当に邪馬台国の書き間違いなのだろうか、、、 >>16
そうだね、
もしかしたら大和説の狂信者が都合のいいように改ざんしたのかもしれないからね。。
壹がどうしたら台にみえるのか不思議だものね ヤマイという発音、ヤマタイという発音、、、
どちらが熊本城に相応しいだろうか。。。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは熊本城以外にありえない。 邪な馬の土台の しっかりした非常に高い建物の国、、、 まともでない馬の土台のしっかりした非常に高い建物の国 暴れ馬のいる土台のしっかりした非常に高い建物の国、、、
やはり、熊本城ではないかな。。。 ところで、だれかが僕たちの句読点連続を真似て、翻訳の作業に割り込んできたね。。。 台本を転用したり、句読点連続で話しかけたりする人物がいるね。。 >邪馬壹国というのは本当に邪馬台国の書き間違いなのだろうか、、、
邪馬壹は古代の韓語です
皇国史観の日本第一主義者が日本が韓人による制服国家であったことを隠そうとしたのでしょうね ニセスレだからね
いま本スレは304だから、随分と先の番号を捏造したなあ 番号の先付けをとって先回りして偽スレを立てて
本スレが来たら「重複スレだー」とクレームをつけようというセコい作戦か
卑しさでお里が知れる いつあの重複スレッドを覗いてもテンプレートが論破されているね、、、、 僕たちは、なぜか岡上氏だと勘違いされているね。。。
僕たちにとっては、あの博識な岡上氏と間違えられるの光栄なのだけれども、、、、
思い込みの激しい、キナイコシと皆に呼ばれている、奈良の狂った老人に、いわれのない誹謗をされている本当の岡上氏に、申し訳ないね。。。 岡上氏は、テンプレートを貼り付けているあの狂った奈良の老人には脅威のようだね。。。 >>39
仕方ないよ。。。
端から見ていると学識とIQの差がありすぎるのだもの、、、 >>37
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査でリアルに破綻した説だから。
畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、 >>41
あれでしょ、、、あれ、あそこに埋もれてたあれ、
先頭のお役所の方は気づかなかったようだけど、、、 どうして、奈良の狂った老人は桜井市に邪馬台国があったなどと、考えているのかな、、、 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上氏という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。 仕方ないよ。。。
岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
張り付けているテンプレートを論破され続けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、 だんだん本物ののこの邪馬台国畿内説スレが盛り上がってきたね。。。 1世紀
倭奴国(後の伊都国)漢と通じ金印を貰う
倭国=朝鮮半島南岸〜対馬〜壱岐〜九州北岸
後漢書「倭奴国は倭の極南界」
海洋民(天津神)による海洋国家が出雲を征服
近畿に饒速日が基盤を築く
2世紀前半
九州銅矛圏vs近畿銅鐸圏
筑紫倭国の王、帥升が後漢に朝貢
北宋通典「倭面土国(ヤマト国)王帥升」
2世紀後半
筑紫倭国の内乱で天孫族が伊都を離れる→倭国大乱
筑後(後の肥国)の卑弥呼即位により内乱が終結したか、肥後は従わず(狗奴国)
魏志倭人伝「邪馬台国(ヤマト国)女王卑弥呼」「伊都国、世有王」
3世紀前半
邪馬台国連合=筑紫、肥国、豊国
畿内では神武らが前方後円墳を作り始めた饒速日王権の元で葛城鴨王のもとに居候
3世紀後半
壹與の元で肥後も含めた九州北部が発展
神武らにより開拓された瀬戸内海ルートが定着
4世紀前半
筑紫倭国の女王神夏磯姫が景行とともに九州北部を制圧し、筑紫倭国の実権を掌握
4世紀後半
神功皇后と武内宿禰が、景行の孫の仲哀一家と羽白熊鷲、田油津姫らを倒して筑紫倭国の王へ
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>51
>纏向古墳群とは誰の墓なのか。
>私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
物部だろうが何だろうが、いずれにせよ倭国(阿波)から奈良に拓殖に入った忌部一族の墓ですよ。 @阿波 >>51
まーそれいったくやろな(じぶんのすれもどりなはれ 前スレもないしNo.先付けだし、悪質なスレタイ泥棒だな そろそろ、卑弥呼や台与を日本書紀に発見したという論者も、僕たちの脅威になってきたのではないかな。。。。 どうだろうか。。放置でいいと思うよ、、、
あの桜井の古墳が、邪馬台国とは、全く無関係だったことでは考えが一致しているのだものね。。。。
第一、卑弥呼や台与を日本書紀に発見したなんて信じる狂人がいるとは思えないしね、、、、 そうだね、、、
僕たちの最終目的は、ひとえに、あの桜井の古墳が、邪馬台国とは、全く無関係だったことを、くだらない調査や、宣伝のために納税している国民に、伝えることなのだからね。。。 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは熊本城以外にありえない。 ニセスレを立て、こつこつと一人で書く岡上
孤独の静かな狂気 だんだん本物のこの邪馬台国畿内説スレが盛り上がってきたね。。。 >>69
魏志倭人伝を読み進めれば、登場するのではないのかな。。。。 テンプレートを論破され続けている、小汚い老人が、岡上氏という謎の人物に、八つ当たりしているようだね。。。。 ニセスレを
岡上がひとりで必死に上げてるね
滑稽だね
w 仕方ないよ。。。
岡上氏なら、このスレッドに投稿する人の中では、相当の知識を持ち、とても頭の良い人だよ。。。
張り付けているテンプレートを論破され続けている小汚い老人が、彼に理不尽な中傷をするのは、八つ当たりだけではなく、恐らく、知識の多さと、頭の良さに嫉妬しているのもあるのだろうね。。。。 テンプレートを張り付けている小汚い老人は、なぜか、テンプレートの間違いを指摘する人間の多くを、その岡上氏だと勘違いしているふしがあるね。。。
論破され続け、発狂しているからかな。。。。
句読点連続はインターネットの世界ではよく使われることは教えてあげたし、岡上氏とは違って、僕たちは邪馬台国時代について、あまり知識がないから、間違われるわけはないのだがね、、、 キナイコシはこのスレッドに誰かが書き込んだあと、数分から10分、20分で反応して書き込むね。 ニセスレはキナイコシの一人芝居が目立つ
もう、あのスレには行きたくない
ここか、ドンコイかな 邪馬台国のスレに定期的に壬申の乱の話題が出る不思議。 >>81
御免
考古学の範疇じゃ無いという事
自論はあるが・・浅い知識ゆえすまん >>83
壬申の乱はと言えば吉野山が登場しますが、
さしたる遺物が無いから作り話か小競り合い程度だと考えます 九州佐賀の吉野であり、壬申の乱は九州王朝内での小競り合いだという説もある。 >>81 >>86
俺の好きなスレに明日貼りつけといてやるわ
たぶん,反応はあると思うわ
長ーーーいテンプレのスレは荒れまくってるから回避 >>88
まあ、信じてはいないけどね。
それではさすがに8世紀の律令制平城京に繋がらないもんな。
ただ、直前の7世紀までは太宰府が都だったと思うよ。 もういい
自称本スレが乱れてるから、こうなる
自称本スレのスレ主がすべてエセスレとカキコム気持ちは分かる
だが、自称本スレをまず立ち直せ
自称本スレで得る事何もない、ただ荒れ放題・・・・スレ主の技量を問う(マスターベーション?)
自称本スレをいい加減な気持ちで立てたなら、キチガイ爺と言われる
何も下記議論は本スレで進んでいない スレを〆るか立て直すかだ キチガイに言っても無だが
自称本スレと叫ぶなら議論皆無 九州にやられっぱなし
☟
1 名前:1 ◆q8leUXpsw. 2017/11/29(水) 21:08:48.10
邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。 >>91
ほんの70年前の敗戦時に教科書を墨で塗りつぶしてたわけですからね。
白村江の大敗で国家規模のショックを受けたとしても不思議ではないですね。
そう考えると聖徳太子というのは相当イケイケの時代だったのでしょうね。 >>91
>直前の7世紀までは太宰府が都だったと思うよ。
思うだけならだれでもできる。 太宰府が都だった痕跡は? @阿波 >>94
思うだけならだれでもできる。 太宰府が都でなかった証拠は? え?
まさかそれだけ?
@阿波って名前の荒らしが荒らしまくってる根拠が
まさかまさかまさか
たったのそれだけ? いみつーじんとおもたらこっちからの誤爆やったんか^^
三好君は最近元気やなー(わえもや! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています