邪馬台国畿内説 Part306
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
◆q8leUXpsw. より改めました
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1512464789/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定すれば倭地は洛陽以北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蝉県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
奥山です。今回からトリップを変更しています。
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ3を修文 >>2
> この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、
4世紀以降だろう。
卑弥呼と関係ないと言っているようなものだ。 奈良県教育委員会所属職員服務規程
奈良県教育委員会事務局職員の職の設置に関する規則
職員の任用、分限、懲戒等の手続に関する規則
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桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について がんばれ がんばれ 奥山 = >>1
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みんなカーソルでなぞってみよう! 奈良県監査委員 江 南 政 治
同 斎 藤 信一郎
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同 田 中 惟 奈良県立橿原考古学研究所
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奈良県監査委員 江 南 政 治
同 斎 藤 信一郎
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桜井市職員服務規則
桜井市職員の懲戒処分に関する指針の制定について このスレ
>>1への内部告発????????????????????????? >>81
解析結果
前スレまでのスレ主
1 ◆q8leUXpsw.
1が1
sage記載
1 ◆q8leUXpsw.
1が1
age記載
みんなカーソルでなぞってみよう! 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円絶域」
時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景
当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において奈良県立橿原考古学研究所 >>77
>奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった?<
職員が落したんだろ百数万円
落したものは見つからん
ネコババ ここもーあそびづらいのー
かもせんせーのスレがおもしろそーやなー
scでもいいけ 同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。 やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村
やばいぞ やばいぞ 奥村 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>78
わえの高級頭脳に誰もついて来れんつうかわえの振りに触れんのは結局その出来レースつーのがほんまやからやな(薄々気づいとった 1 ◆q8leUXpsw
1◆q8leUXpsw
あれ? 32 1 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:27:05.16
1#okuyama
↑これか? 本スレが306を飛ばして307まで行っていたから、埋めるようにして306が立った。
305が重複していたが、ここは重複はない。 そういや絹製品が退化してるとかなんとか力説してたのは・・・
うーん・・・スレ主のような・・・誰だったかな・・・ >>96 奥山>>1
お く や ま 〜
他スレ
あ ら す な
お く や ま 〜 >>77
>奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった?<
職員が落したんだろ百数万円
落したものは見つからん
ネコババ ??????? 爆笑
小汚い爺が奥山??????????????????????? >>101
キナイコシとも言うじゃん
>>1は懲戒処分 間近の公務員じゃねーの 横から失礼
寺沢薫さんは、公務員??
桜井市から給与はもらってないか? ボランティア?天下りのノンキャリ? さすが これはいかんぜよ
前スレ
98
明日香の地名じゃね おくやませんせーってなんさいですか?
てんさいとかいわないでね 1001 ◆q8leUXpsw.
私は奥山某ではありません。
トポロジー的な意味で(笑) ??????????????????????????????????????
このスレは県立橿原考古学現役OR纏向学・・・・・・・・・・・・・・・・・
?????????????????????????????????????? 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) 1 ◆q8leUXpsw
1◆q8leUXpsw
1 ◆q8leUXpsw
はどこに行ったの? 1 ◆UiepmfCeDJqf
解読のヒントは
橿原考古学研究所 1 ◆q8leUXpsw
1◆q8leUXpsw
1 ◆q8leUXpsw
は305までで終わり?
305になにがあったの? 90 : 日本@名無史さん2017/03/12(日)
>88
狗邪韓國は何人の領土?
95 : 1 ◆q8leUXpsw. 2017/03/12(日)
>90
領土といいう観念に語弊があるかとは思いますが韓人の国でしょう
金官国の全身とするのが通説です >>117
釣られたらあかん
税金の無駄は5ちゃん
告訴されるぞ 311 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:24:31.08
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
321 ◆q8leUXpsw. 2017/12/05(火) 18:27:05.16
1#okuyama
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。 >>114
他スレ荒らしに行ったけど
木乃伊取りが木乃伊になる うーーーん
難し
元に後戻り
スレ主が自重すればよいのだが 仮にの話だけど
公金横領して
客観的データを捻じ曲げて
自国をディスってたらどうなるの? いま元気に荒らしている人は関係者関係団体を仮名に訂正したうえで事実関係をプレゼンしなさい(なにいーたいかわからんぞなもし^^(もちつけ あのー どなたか
中身に関わらずスレが進むと儲かるのですか? >>126
このスレはそのような事は無い
根拠
スレ主一人で数時間で500レスしたことあるから 奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった?
奈良県立橿原考古学研究所
消えた公金 どうなった?
奈良県立橿原考古学研究所 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) そろそろ不肖それがしが日本国もしくは倭国の古代関連の重大なる内容を伴った5ch荒らしを敢行して宜しいでしょうか? >>127
血のにじむような苦労をして305まで積み上げてきたのに・・・ううう・・・ 皆 ヒント有難う 俺もわかった
>>1=>>112 だろ >>129
おくやませんせーきたーーーー
これきた!!! せんせーがたなにがおきてるかせつめーせー(ひょっとしてここはニセすれ? >>136
ほんすれぽぃなかみがないのはほんすれだから
ながいてんぷれもほんすれのしょうこかな 去るな
ここはスレ主を更生させるスレ
人助けを諦めるのか >>144
成りすまし
ここは楽しくないどころか得るもの無し
>>1のスタンドプレーばかり
ザラコクVS>>1で良い・・三分の二以上こいつらがカキコ (・_・D フムフム
今時 現ナマ公金で百万以上持ってるんだ
おらが村では信じられん
(・_・D フムフム 頼むからネ
奥村はここで楽しませてやってくれ
頼むから 世のため人のため >>150
>成り済まし
そういう事をしている人間は、
はやく死んだほうが良いぞ、人権侵害なんだよ
それくらいの事も、わからないのか
別に
>>150に対して言っているわけではないよ 例えば、
オレオレ(私私)詐欺のような話
寄生されている側の人は、
どうなっているの?
オレオレ詐欺の場合、
騙りや、成り済ましには、
お金などが入る、振り込まれる
本物は、どうなっているの、
どのような状態なのかも、わからない?
既に死んでいる? オレオレ詐欺
電話なので相手の姿がわからない、
邪馬台国なども同じような話
私がヒミコですとは言っているが、
本物かどうかもわからない
そもそも、実際(現実)に会った、
見たことのある、という人物でもない
俺俺詐欺 私私詐欺 某ウルリッヒ・ロスの作品、
メタモルフォーシス?
このような詩が載っていた
と言っていたでしょ
>あなた生きているのだろうか、
>それとも死んでいるのだろうか
同じような話じゃない? これも同じような話
ガンダムに出てくるサングラスと、
とあるキャラクターのやり取り
>某が自ら名乗らず、
>またノイズの激しいモニター越しであったため、
>〜は、某と認識できなかった このスレ個人的な会話
議論というより喧嘩
5ちゃん的にはそれも可だが
飽きた 皆様へ誤解しないでください
研究員を先生とは呼びません
研究機関に入れば皆 研究員です
奥山も研究員ですがこのスレとまったく関係ありません
なぜなら彼はこのスレを立てるの時間帯のほとんどは私といっしょに仕事をしてましたので立てようがありません」
スレ主
あなたが奥山と名乗るのは勝手ですが、誤解を与えすぎです
畿内説論者ならわかっていただけると思います
あまりにも酷い場合はスレ主はじめ告訴します
奥山程度でよろしくお願いいたします >>164
諸韓国と倭の国名を見ればわかる
倭人の国ははっきり開音節の特徴が出てる なにを妙なこと言ってるんだ
奥山はこのスレ立ててる人だろ? 記紀の視点はどうしても縄文系を力で征服した渡来人に思えるんだけどなあ
主観だけど >>170
それは記紀が書かれた頃の時代精神でバイアスが乗ってる可能性が高い 記紀は渡来人色をむしろ抑えめにしていると思うよ。
高天原がどこなのか明記しないとかね。 >>172
それこそ記紀が書かれた時代の感覚であって、作為とかじゃないのでは? 高天原神話はそんなに起源の古いもんじゃないだろう
太陽神が女性なんてね 記紀はかなり渡来人色薄めているというか、
倭国大乱前の倭国や倭人の事績を米粒程度に矮小化している。 銅鐸文化圏の中心、淡路島をイザナギの宮としているのに、
銅鐸文化圏の歴史や事績を矮小化している。
そのくせ皆イザナギの子孫と記述。
忌み嫌い矮小化しているのに、その威光に肖ろうとするダブルスタンダード。 倭国とは対馬海峡の国であったという事実を隠しているんだよ。 後漢書
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同
「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住して、すべてで百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。
楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地は会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」
建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
つまり、倭国とは狗邪韓國から倭奴国まで。
畿内は倭国の中に含まれず、まして倭国女王卑弥呼がいたはずもない。
畿内にいたのは、墓が大きいだけの地方豪族だけである。 光武より400年も後に書かれた後漢書を細部までどれだけ信用できるかって話 >>179
イザナギは銅鐸文化圏ではなく、銅矛文化圏の王だよ。
天沼矛で最初の土地である淤能碁呂島(博多湾の能古島)を作ったとされている。 范曄後漢書は自分の解釈を書いてる部分が多々あるので、根拠として使うには脆弱だね >>183
ありとあらゆる史書を否定しないと成り立たない畿内説って何なんだろう。
周りがみんな狂っていると喚き散らす狂人のようだ。 >>184
文献的にも、考古学的にも根拠の無い妄想。
主張するなら、根拠を述べてね >>176
平安時代まではアマテラスは男と解釈されていた。 >>166
>>>164
>諸韓国と倭の国名を見ればわかる
>倭人の国ははっきり開音節の特徴が出てる
詳しく >>191
読んでない奴などいるものか
信ぴょう性のことを言っている >>188
>平安時代まではアマテラスは男と解釈されていた。
根拠は? ここで、天つ神一同の命によって、伊邪那岐命いざなぎのみこと、伊邪那美命いざなみのみことの二神に、
「この漂っている国土をつくり固めよ」
と言い、天の沼矛ぬぼこを授け、委任した。
そこで、二柱の神は、天の浮橋に立ち、その沼矛をさし下ろして、潮を
「こおろ、こおろ」
と音を立ててかきまぜ、引き上げる時に、その矛の先からしたたり落ちた潮が、積み重なって島となった。
これを淤能碁呂おのごろ島という。 >>193
博多湾に攻めて来て倭国の基礎を築いた人物がモデルだろ。
実際の名前は違ったかもしれないが、そういう人物がいないと王権は成立しなかっただろう。 銅矛文化圏の物語であることは間違いない。
記紀に銅鐸は出てこない。 >>195
実在の人物のゲロから人が生まれるわけない 倭国は対馬海峡の交易を支配した韓倭にまたがる交易国家
最先端文明をもった韓人が倭国に上陸して王権を築いた
これがアマテラスの天孫降臨
故に九州倭国は韓人が支配階級で倭人は被支配階級
倭国側の本拠が九州で韓半島側の本拠が伽倻
任那日本府説は歴史修正主義者が九州倭国の存在を隠蔽するために作った虚構
三国史記で活躍する倭人はこの九州倭国の人達であり、倭人と言われているが、文化的には韓人であっただろう
畿内説はネトウヨ国家主義者が日本帝国の韓半島植民地支配を歴史的経緯から正当化するために、ヤマトの領土が韓半島にあった主張する曲学阿世の政治学説
九州倭国は今の日本国家とは連続性のない国なので、韓半島植民地支配を正当化するための道具とはなり得ない
だから歴史修正主義者たちは畿内説を主張して九州倭国の存在を消し去ろうとしているのだ
畿内説は悪質な政治的プロパガンダと断言してよい
ネトウヨどもの思い通りにはさせんからな >>185
中国では三國志の誤りを後漢書が訂正しているという評価らしいね この閉鎖的島国の国家主義者が畿内説を主張する理由は、ヤマト王権の領土が韓半島にあったと主張する事で、歴史的文化的経緯から日本帝国は韓半島南部への潜在的所有権を保有していると正当化するためである
九州倭国が存在すれば、その邪説は成り立たなくなる
故に歴史修正主義者は畿内説を主張するのだ
許されざる学問的反動であろう いまどき任那日本府実在説は古田とか九州王朝説くらいだろ >>210
畿内説で、ヤマト王権の領土が韓半島にあったとか主張してる学者は誰だ?
>>210の脳内キナイセツだろ、それ 任那日本府は九州倭国の韓人王朝つまり天孫族の伽倻国政庁のこと
そういう意味では存在していたと言える
でもその当時に日本府などという名称があった訳がない
だから伽倻国政庁としては存在していたが植民地支配の総督府としては存在してなどいない >>210みたいなウソを
良心の呵責を毛ほども覚えることなく
呼吸でもするように自然につけるのが
九州説 半島史観の畿内厨が九州説をネトウヨ呼ばわりしてるのか、どうもならんな >>214
妄想もココまで行っちまうと、なあ・・・ 日本は九州倭国を併合した
それは旧唐書にも記されている
百済本国が滅亡した結果、新しい国をヤマトに建設したために、都を新しい我が国(つまりナラ)と命名したのだろう 卑弥呼の墓は平原でいいじゃないか
八咫の鏡だけで決定的証拠。 >>223
ネトウヨ滅亡?
九州説がとうとう死ぬのか >>221
法則
トンデモは後代史料に依存したがる 畿内説を理由もなく右翼扱いしたがるのは、最近の九州爺さんのトレンドなのかね
しらじらしい嘘をつく性癖は昔からだが 九州説が皇国史観から生まれたのは歴史的事実だし
畿内説の牙城京大が左翼よりだったのも事実
戦前の東大が体制翼賛の官学で九州説一色だったのも事実
歴史的事実を無視するのが九州説ってことよ >>221
百済が滅亡した結果九州倭國が畿内ヤマトを支配した(壬申の乱 >>230
んなもん歴史的事実と関係ないだろ
卑弥呼のお墓は平原だったことと無関係 >>232
卑弥呼の墓が平原だった
という理由は? >>235
俺は今北ばかりなのにいきなりなんだよw
理由ならこれまでさんざん出てるだろ
俺は納得している >>240
なんで倭国大乱後の女王の墓だと卑弥呼の墓なんだ? >>241
倭国大乱の後に即位した倭国女王が卑弥呼だからね。 >>243
つうか、平原で決まりだから、お前なんてどうでもいい >>244
それのどこが
「なんで倭国大乱後の女王の墓だと卑弥呼の墓」
だという理由なんだ? >>246
理由もなく、決まり決まりと言い張るのは
思考停止 >>250
理由は無いわけね
じゃ、平原が卑弥呼の墓だという説は
ゴミと決定なので廃案 このようにいつも
九州説は理由のない結論で出来ている トカラから別れたる黒潮の分流があり東シナ海を反時計回りしちょります
浙江省から船出した徐福がたどり着いた地は長崎の辺りをかすめとりますから平原広沢は佐賀平野ちゃいますか?(そー答えて欲しかったんやろ^^ 3000人はおおげさやなー
はなし10ぶんの1くらいちゃう?(こんせきないやろ? かいりゅうむしすんな
きないせつもかいりゅうでたすけられるかもだよ? たいほーとーなんからみなみにこぎだすと気合い入れんと流されて山陰や北陸やろ?(野生号
そっから歩けば本州の西半分全部ジャマイカの候補になるやん >>262
どっちこいてもわえの紹介したはんとけーの海流のれるやん^^ それにしても老婆だよ
:走れそりよ 風のように 雪の中を 軽く早く
ここだけ、
鼻歌を歌っていた事があったり、
季節関係なく歌っていた
聖教?
もれ「そういうの嫌いなんじゃないの?」
老婆「じんごーべーの歌だよ」
嫌いだとも言わなかったし、特に何も言わなかった 『菅野力夫』
調べると出てくる、写真と同じような? それと芸能の話は、
芸能スレでやれと言っている人もいた 家の老婆が言うには
・・・・刀が飾ってあったと言っているんだけど、
本物の刀 本当の話
家は力男氏と同じ家(直接の兄弟?などではないけど)、
読み方も、そうだと言っている
銀?というのがいたと言っていたり
九州説はまいど論争に負けては
こういうイヤガラセに走るんだよね
恥って、知らないのかな
何かの本物が
観に行っていたみたいな話なのかな?
歌舞伎や芝居が好きで、
よく観に行っていた
とか 山の上のほうに住んでいて。
家に凄い刀が飾ってあった。
馬に乗り・・・芝居などを観に行っていた。
調べてみると、映画のような話だけど、
その作品も、まだ無かった時代 >>269
家にレコード、カセットテープがあったという話?
真田節だったかな黒田節というのもあったよ
どっちだったかな 卑弥呼は実在した人物でしょうか
邪馬台国はあったと思いますが卑弥呼は使者に伝えた架空の人物では無いでしょうか >>281 帰れドアホ
箸墓も知らん奴はここに来るな
卑弥呼が居たから箸墓が有る
くだらんバカはアニメに行け 真田節?
歌詞に佐久間何やらと出てくるけど、
『広瀬座』
と言うところに佐久間と言う家があったり、
関係者なのかな >>282
おまえは箸墓のいったいなにを知っとんじゃ? あほんだら >>281
テンプレより
>ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の
考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
◆2〜8に詳0述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。< 広沢虎造てなんやろて調べたら浪花節、浪曲かい、渋い
AI囲碁世界戦観てるあいだに呟きタイムになってるじゃないか 広沢虎造
もれ(仮)が聴いているわけじゃないよ、
家にあったという話
もう捨てちゃったのかな、
どこかにあるのかな >>288
反論できなくなって降伏宣言か
ミジメだねえ
w >>291
妄想に反論しろだと? おまえ、無茶言うな! >>293
妄想なんだぞ! 妄想に反論しろだと? おまえ、無茶言うな! △スレ
アマツ(天津)が何やらと言っている人がいたけど
『アマツマガツチ』? >>295
妄想には妄想でしか反論できんじゃろが!! 妄想でもいいんか? アンポンタンめ >>296
プレ大和朝廷たるクナ=クニの説明としてはまあまあじゃ(40年ばかりねんだいくりあげちょるが せとうちはくなにほんかいがわやいよちゃん(かいけつ つうか犬神せんせーはわえの海流こみのへーげんなんたらの採点してけれ 白血球遊走能を高めて局所感染防御作用を示し、肉芽形成促進作用および抗炎症作用 により傷を早く治す作用があります。 通常、痔の症状(出血、痛み、腫れ、そう痒)、肛門 手術創、 301ばんをてーせーします
瀬戸内はくな
日本海対馬海峡はいよちゃん(半島南岸こみ
解決 >>298
>妄想には妄想でしか反論できんじゃろが!!
なんで?
理由は? ややや
へいげんてひらばるてよめるやいなや??(よいがまってきた 奥山はアホのサボリーマン
奥山はアホのサボリーマン
奥山はアホのサボリーマン
奥山はアホのサボリーマン
奥山はアホのサボリーマン
奥山はアホのサボリーマン 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) それにしても、
どうなっているんだろう、数年前の信オンというスレ
「お前ら何したんや」
「 〜 死にます!」
このような事を言っている人がいたり >>309
客観的根拠が全然ないからって言ってるだろが! だから妄想って言われるんだろが あほんだらめ 信オン
2chではない掲示板があるんだけど、
そこの書き込みだよ 631 ◆UiepmfCeDJqf 2017/12/09(土) 17:11:27.82
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
奥山です。今回からトリップを変更しています。 過去5年間の奈良県立橿原考古学研究所の代表研究費ランキングを掲載しています。
※ 統計データ を利用してランキングを生成しています。 詳しくは [ 統計データについて ] をご覧ください。
1位: 西藤清秀 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 嘱託職員 - 2017年度(H.29)
推定分野 人文科学 / 人類・考古学 人文科学 / 歴史学
キーワード 社会の複雑化 考古学的調査 シリア・パルミラ 放射性炭素年代測定 文化財移送
2位: 今尾文昭 奈良県立橿原考古学研究所 調査部調査課 調査課長 - 2013年度(H.25)
推定分野 人文科学 / 人類・考古学 生命科学 / 生物学
キーワード 出土品 藤ノ木古墳 博物館
3位: 水野敏典 奈良県立橿原考古学研究所 資料課 係長 - 2017年度(H.29)
推定分野 人文科学 / 人類・考古学 生命科学 / 生物学
キーワード 製作技法 地下式横穴墓 古墳時代中期 前期古墳 中国鏡
4位: 吉村和昭 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 係長 - 2016年度(H.28)
推定分野 人文科学 / 人類・考古学 生命科学 / 生物学
キーワード 地下式横穴墓 古墳時代中期 出土資料 威信財 倭系甲冑
5位: 鈴木裕明 奈良県立橿原考古学研究所 企画部企画課 主任研究員 - 2014年度(H.26)
推定分野 人文科学 / 人類・考古学 生命科学 / 生物学
キーワード 古墳時代中期〜後期 遺跡の発掘調査 三国時代 青銅器時代 埋蔵文化財
6位: 奥山誠義 奈良県立橿原考古学研究所 その他部局等 指導研究員 - 2017年度(H.29)
推定分野 人文科学 / 人類・考古学 生命科学 / 生物学
キーワード 地下式横穴墓 製作技法 古墳時代中期 中国鏡 前期古墳 しゃんとんよりふなでしたるは50そうのせかいさいこきゅーの帆船
いっそうに60にんのるじゅんこーぞーせんなり
じょふくのうんめーやさてはていかに? ひらばるやったんかーじょふくのじょーりくちてん!! 『モノノケ姫』もそうなんだけど、
神殺しの話と言うのは何なんだろう
『天津 浅野』
これも同じような話 >>327
まじ!
じゃーわえのりろんのうらづけやん!! 家の老婆が言うには
浅野セメントが何やら〜、
という話をしているんだけど
家の近所にも浅野町
というところがあったり さてはて日本湖沿岸を支配したる縄文系の交易集団あり!潮を自在に操りて行き来自由
日本語作った連中なり(
解決 >>315
また逃げたか負け犬九州説
www
ww
w つぶやきせんせーはわえの大事なレスながすのすきやなー >>329
そうとも言えない
日本人って今でも「なんとかシティ」とか外来語使っちゃうじゃん
モダンなつもりでさ 『もののけ姫』
超時空設定というのも有名な話みたいだし
例えば、
ストーリー(物語)的には邪馬台国、
しかし実際は現代の話
浅野セメント(?)が、
どうこうというより、
作者が考えただけなのかもしれないけど 埋め立てなどの話をしているのかな、
工場から出る、公害とか
むか〜し、
家の近所にマネキンが飾られていた事があった、
道路沿いの道
ガラスケースに入れられているマネキン、
なぜか裸で防毒マスク?のようなものを付けている ナウシカ?
女のマネキン、
裸で防毒マスクのようなものを付けている 何なんだろう、このマネキン、気持ち悪いな〜と
よく言っていた
子供のころの話 徐福は有明湾と平原(ひらばる)の二手に分かれて上陸したんだろう 『アマツマガツチ』
このような意味だと言うのは確実
アマツ天津 マガツ禍津 チ(不明)? >>348
二手に分かれて上陸したという言い伝えがある
平原、平原広沢、偶然じゃないだろ >>349
>平原、平原広沢、偶然じゃないだろ
ばかですか? じょふくぐぐったらwikiにジョセフなんたらてあるな(びっくりじゃ
(犬神せんせーの編集か イスラエルと古代ユダヤ人はほんとはむかんけーときいたことあるなー
韓国と百済しらぎみたいもんか? >>353
ムーでは徐福=ジョセフは常識になっている(たぶん
ちなみに飛鳥昭雄はモルモン教だよ ざっとぐぐったがでむぱはでむぱではなかった(ふかい
ききがシルクロード効果もろかぶりしてるだけかもじゃが つぎつぎでんぱとんでくるとよーたいおーせん
あすかなんたらもモルモンもしらん(さいとーゆきはかろーじて(ふっきむりかのー >>354
ゾロアスター教(拝火教)など(孝霊厨も納得済み 305の>>992
>○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
難波の崎からが、オノコロ島、淡路島見えるとある。<
淡路なら見えるかも知れないが、オノコロ島はない。
だから、この歌は、大阪の難波で歌ったのか?は不明。
>古代の人々は国生み神話は、大阪湾の倭人の話であるのを当たり前のように理解していた。<
仁徳自身も、筑紫倭国系である可能性もあり、能古島や粟島を見た歌であった可能性がある。 >>359
うようよ電波を流しているケント・ギルバートもモルモン教だよ モルモン教は不倫禁止だそうだけど、斉藤由貴はやらかしたな モルモン教ってアメリカの創価学会みたいなもんだろ。
ヤバいニオイがする。 305の>>993
>倭国は倭人の国。 倭人は呉の末裔を自ら名乗っている。<
いや、新撰姓氏録によれば、呉の末裔を名乗ったのは、松野氏(姫氏)だけ。
>つまり中国南部から春秋時代以降に渡来した集団。 中国南部に由来する可能性が高いもの。 銅鐸、下戸遺伝子、国生み島生み神話のモチーフなど。これらは大阪湾に分布の中心を示す。 <
鐸は中国由来であった可能性があるが、銅鐸は出雲が初元。 下戸遺伝子は、倭国の東征でも説明可能。 国生み神話は、対馬壱岐付近の天孫族の海洋部族が、日本海側と瀬戸内に植民した事を示し、淡島だけではない。
>春秋時代と同時代の弥生時代前期末、環大阪湾の風習は一変する。<
出雲系銅鐸祭祀部族や毛人蝦夷に対する(饒速日や神武らの)倭人の東征で説明が付く。
>淡路島でBC4世紀の銅鐸が出土。<
銅鐸は、出雲が中心。
>銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが一斉に認めるようになる<
銅鐸は、おそらく出雲と筑紫の共同開発。
>方形周溝墓、木棺も畿内中心に広がっていく。<
筑紫が始まりの筈。
>九州を素通りし、倭人が中国大陸から畿内に直接渡来したと考えられる。<
姫氏は火の国山門に渡来。
>倭国とは倭人の国、環大阪湾〜畿内に跨る国です。<
「南≠東」だから、×。 >>83
>後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。<
松野氏姫氏系図では、
共立壹與の後は、壹與の直接的子孫が、倭王に、なる形はなっていない。
しかし那珂八幡や銚子塚などの王墓がなど造られているから、退潮していない。
> このように、「古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円絶域」
時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景
当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
卑弥呼は、姫氏出身。
壹與は、おそらく天孫族の阿毎氏系。
倭国王は、姫氏系と阿毎氏系が系何度か交代した。
>ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において奈良県立橿原考古学研究所<
意味不明。 >>88
>同じ平原遺跡から 世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が 同時出土。
どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw
大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー
方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡<
成程。
私は、呉系楽浪鏡師らが製作に関与出来た鏡と、倭人技術者が関与した鏡の、
両方があったのではないか?と思っておりました。 あひゃーまったく絡む気せーへんかった八咫ミラーもユダヤかーー
ゾロアスター以下はもー今夜はしょりできん いろいろぐぐったがわえのいけん
へーじょーきょーのひとらもあたらしーもんずきでシルクロードのむこーにあこがれてたんちゃうかー(ゆだや >>367
>しかし那珂八幡や銚子塚などの王墓がなど造られているから、退潮していない。
王墓じゃないよ
ちっちゃいから クナふれしユダヤのしらせ絹の道記紀におりまぜミラーにきざむ(季語なし >>121
>Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!<
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。<
こりゃ×だ。
公式調査報告書は、発掘の事実説明と、
その発掘事実に関しての「報告者の解釈」の説明とを、しっかり峻別すべきだ。
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
でも、宝賀氏は、きっちり分けてくれているから、よく判る。
ましてや、公式報告者となれば、
殆ど皆「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者であるんだろうから、
半分×人種であり、そんな人間の「発掘物の解釈」なんて、始めから半分×解釈だ。
>また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。<
いや、殉死する人は、当然、
亡くなった主人の近くに埋葬して貰いたい、と希望するものだ。 >>367
>意味不明。
じゃなくて、ばかで理解できないだけでは? で、
弥生期に中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>362
ほんまのうよくはアングロサクソンのがきらいなんじゃがのー(はんとーもきんぺーもたいがいじゃが >>376
>いや、殉死する人は、当然、
>亡くなった主人の近くに埋葬して貰いたい、と希望するものだ。
そんなの無学な素人おじん75の勝手に決めることじゃないだろう >>377
ばかゆーほーがばかじゃとしょーがっこーの担任がゆーとった(しょうがっこーなみの罵りしたらあきませんよ?(プラズマがえしされまっせ >>381
なるほど
意味不明と言うやつが意味不明な奴なんだな で、
弥生期に中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. モルモン教とホルモンの関係か
モルモンはホルモンからきてるのかも、生贄の儀式と関係がある
生贄の儀式を行うのはアレだしな じゅっじゅっじゅーじゅじゅっじゅー
てつーえーかげんにせー(おやすみ〜 >>385
沿海州はこの時間にパトロールしてるのか
ジョセフ電波をキャッチしたな で、
弥生期に中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. 明日のテレビ放映なので再告知
『にっぽん!歴史鑑定『邪馬台国はどこにあった?』
BS-TBS
2017年12月11日(月) 22時00分〜22時54分 >>366
日本には弥生期に中国から渡来定着した痕跡遺構がない。
新撰に載っている中国系はほとんど総て白村江の戦い以降に入ってきた百済人、高句麗人の末裔。
百済、高句麗は滅んだ楽浪郡帯方郡の漢人を吸収している。
孫呉が滅んだとき、王族の一部が楽浪郡帯方郡に亡命し、その後、百済、高句麗に
吸収されていった中国系だと思われる。
その中に句呉の末裔もいたのだろう。 魏略逸文(3世紀)
■<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>■ 畿内説はありとあらゆる史書を否定しないと気が済まないらしい。
彼らは単に自分たちの妄想を押し通すために歴史を歪曲しているだけだ。
このままでは日本の歴史は闇に閉ざされてしまうだろう。 周の王族の姓は姫氏であった。
そのため、周から出た呉も姫姓であった。
『日本書紀』の平安時代の講義筆記ノートである『日本書紀私記』に
「日本の国が、姫氏国と呼ばれるのはなぜなのか」
という質問が載っている。
そのころ、日本が太伯伝説にもとづき、中国から姫氏国と呼ばれていたことがわかる。 >>366
>いや、新撰姓氏録によれば、呉の末裔を名乗ったのは、松野氏(姫氏)だけ。
この点はザラコク氏も誤りだ。
卑弥呼より前にすでに倭人は中国に対して太伯の末裔を名乗っている。
魏略は魏志の元ネタだが、呉の部分だけは魏にとって都合が悪いので省かれたのである。 日本文化の起源は韓半島だよ
なぜ日本の連中はそれが認められないのかね? 中国史では、姬姓は元々、禹の姒姓と同祖であり、黄帝、帝嚳の別姓とされる。
嚳の子孫の后稷はこの姬を姓として使ったという。
后稷の子孫とされる古公亶父が周の始祖であり、その曾孫の武王が殷を滅ぼして、周王朝を築いたためその国姓となった。
周王室から分家した姬姓の諸国として
呉(諸説あり)・燕(諸説あり)・晋(もとは唐、諸説あり)
・韓(晋の分家で分岐国、晋と同様に諸説あり)・魏(もとは畢、晋の分岐国)・管・魯・鄭・衛・霍・虢(東虢/西虢に分岐)
・曹・蔡・虞・滕・随[1]・韓(戦国の韓とは別国家)・劉[2]などが挙げられる。 太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)は、中国周王朝の古公亶父の子で兄弟。
后稷を始祖とすることから、姓は周宗家と同じ姫(き)。
紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。二人とも季歴の兄、文王の伯父に当たる。
太伯は長男で、呉(句呉)の祖とされる人物。泰伯とも。
虞仲(ぐちゅう)は次男。仲雍、呉仲とも。 江南から稲作が九州北部に輸入されたのが、呉の太伯の少し後の時代なのか。 呉は越に滅ぼされ、遺民は海路で九州にたどり着いたかもしれない。
越もまた滅ぼされ、九州の香椎や北陸の越などにその名を残している。
卑弥呼が魏と交流する前に交流していたはずの公孫氏も、姫氏の末裔と言われる。 畿内説が畿内王権の自然発生を唱えるのは、半島の人が自国文化の自然発生を唱えるのと似ているな。
オリジナルはやはり中原に求めなくてはなるまい。 漢服は右衽、胡服は左衽
埴輪は両方、高松塚古墳壁画は左衽 >>121
>Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ! 箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。
よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。<
「其八年、太守王kui到官。
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。卑彌呼以死・・・」は、
何と言っても(卑弥呼ではなく)難升米に 「張政等因齎詔書、黄幢、拜假、爲檄告喩之」している、
という事が非常に奇妙な記載であり、
卑弥呼は、おそらく病床にあって「詔書、黄幢、拜假、爲檄告喩之」を受ける事が出来ない、という事を意図する記載であり、
だから「卑彌呼以死・・・」の「以死」は、病気の卑弥呼が「直ぐに亡くなった」事を示すのであり、
だから、正始八年から一年位以前に卑弥呼が亡くなった、という事を示す。
>隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、
卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。<
違うね。司馬昭(文帝)が「相国・晋公・九錫」を賜ったのは、263年頃であり、既に(卑弥呼ではなく)壹與時代。
>「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、
卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。<
箸墓は、(庄内ではなく)布留であり、ホケノの後であるので、4世紀以後にしかならないのでから、×。 ホケノ山が三世紀半ばだから
箸墓は三世紀半ば過ぎでしょ >>409
>何と言っても(卑弥呼ではなく)難升米に 「張政等因齎詔書、黄幢、拜假、爲檄告喩之」している、
>という事が非常に奇妙な記載であり、
別に奇妙でもなんでもない
もともと
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。」
なんだから >>179
>銅鐸文化圏の中心、淡路島をイザナギの宮としているのに、<
銅鐸文化圏の中心は出雲だから、×。 >>403
で、江南から稲作が九州北部に輸入された事を証明する証拠遺跡と、
その証拠たる中国系農具とイネの中粒種は?
. >>412
イザナギの道具は天沼矛であり、銅鐸ではない。
記紀神話は銅鐸文化圏である九州北部が舞台。
特に国生みのはじめとなる淤能碁呂島は博多湾の能古島のことである。
博多湾沿岸が倭国発祥の地、伊都国は3世紀における卑弥呼の都。 >>404
で、滅ぼされた呉越が九州や北陸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>403
で、江南から稲作が九州北部に輸入された事を証明する証拠遺跡と、
その証拠の中国系農具とイネの中粒種は?
. >>404
>越もまた滅ぼされ、九州の香椎や北陸の越などにその名を残している。
また香椎宮だよ。
やはりキーとなる場所だよね。
魏志倭人伝の里程は不弥国で終わっている。
伊都国を前原、奴国を春日あたりに比定するなら、不弥国は香椎の付近になる。
香椎は東に神奈備を備え、太陽信仰や神仙思想に適した立地でもある。
発展していた福岡平野全域を女王国と呼び、宮は香椎にあったのではないか。 >>404
で、滅ぼされた呉越が九州や北陸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>403
で、江南から稲作が九州北部に輸入された事を証明する証拠遺跡と、
その証拠の中国系農具とイネの中粒種は?
. >>404
で、滅ぼされた呉越が九州や北陸に渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?
. >>415
>イザナギの道具は天沼矛であり、
それが銅矛だって根拠は? >>402
姫姓?
そんなの源平藤橘と一緒だよ
秀吉も平家だってさ >>226
ネトウヨ滅亡?。
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの大和説が、
とうとう死ぬのか?。 >>228
九州説を、理由もなく右翼扱いしたがるのは、
最近の「南→東などの嘘吐きダマシの大和説のら・・・・ガキらのトレンドなのかね ・・・・?。
しらじらしい嘘をつく性癖は昔からだが・・・。 >>427
で九州の何処に邪馬台国があったんだ?
卑弥呼がいた集落跡は? >>230
大和説が皇国史観から生まれたのは歴史的事実だし、
大和説の牙城京大が右翼よりだったのも事実。
戦前の東大が、国粋皇国史観体制にも拘わらず、九州説一色だったのも事実。
歴史的事実を無視するのが、大和説ってことよ。 >>429
こう言う真っ赤な嘘が平気でつけるのが
九州説
>>236
結局は大和説は、どれも、
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐きダマシの、
トンデモ詐欺説なわけね。 >>253
このようにいつも、 大和説は、
南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
理由のない結論で出来ている 。 南と東なんで日の出の方角で分かるだろ
畿内説のインキチ極まれり
ネトウヨ歴史修正主義者の誤魔化しっぷりは犯罪的だな >>433
>南と東なんで日の出の方角で分かるだろ
じゃあ、どうして実際に間違えてる人がいるの? >>432
邪馬台国が何処にあったんだ?
卑弥呼がいた集落の遺跡は?
真面目に邪馬台国論争をしている人をおちょくる前に、自分の意見を書け。
卑怯者! >>436
ザラコクは卑怯じゃなくて思考停止だよ
生体人工無脳だ
九州説っていまだに
「方角は間違わない、間違わないんダー」
って叫んでるの?
200年間進化しないんだね
>>275
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐き団ましの大和説は、
まいど論争に負けては こういうイヤガラセに走るんだよね。
恥って、知らないのかな?。 無能すぎるオウム返しでイヤガラセするザラコクは
恥って、知らないのかな? >>439
史料批判を否定すると議論に勝てると思ってる珍説家って、実はオウンゴールしてね? なんで九州爺さん達は理由もなく
畿内説を右翼呼ばわりしたがるんだろう 畿内説が天皇制の正当化や戦前回帰を目指す歴史修正主義と軌を一にしていることを知らんとは言わさんぞ 理論で畿内説に負けたから
悔し紛れに中傷してるだけでしょ 九州説は元々の根っこが歴史学じゃなくて政治思想だからな >>281
>卑弥呼は実在した人物でしょうか
邪馬台国はあったと思いますが卑弥呼は使者に伝えた架空の人物では無いでしょうか<
卑弥呼という史料事実が、大和説にとっては都合が悪そうだ、と判って来ると、
今度は、「卑弥呼」という史料事実の存在そのものをも「架空だ」として否定抹殺しよう、
とするのが、学会の通説大和説者のダマシの・・・・の手口。 >>282
帰れドアホ。
卑弥呼も知らん奴はここに来るな。
卑弥呼が居たから、祇園山や21枚の「尚方作」鏡、の平原が有る。
くだらんバカはアニメに行け。。 mike oldfield『let there be light』
カブキロックス、
ドラゴンクエストのような曲 >>287
>テンプレより
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の
考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、
◆2〜8に詳0述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。<
「南≠東」だし、箸墓は4世紀だから、女王之所都ではない。 >>300
>プレ大和朝廷たるクナ=クニの説明としてはまあまあじゃ
(40年ばかりねんだいくりあげちょるが<
「南≠東」だから、狗奴=プレ大和朝廷、は✖。 >>301
>せとうちはくなにほんかいがわやいよちゃん(かいけつ<
「南≠東」だから、完全に✖。 >>306
>(301ばんをてーせーします 瀬戸内はくな 日本海対馬海峡はいよちゃん(半島南岸こみ
解決 <
「南≠東」だから、✖。 何を言われても条件反射みたいに
「南≠東」だから✖
の連呼。
九州説って、そこまで追い詰められてんのね。 大和説は政治的プロパガンダ
悪質な曲学阿世の歴史修正主義 九州説はもう手も足も出なくて
出来ることは中傷が関の山ってことさ 学者が九州説から手を引いて
もう随分と久しいからね
進化が止まってる どのスレに貼り付けたのか
覚えていないけど
松の木(モミ)、
シダ類のような葉も写っていたはず
磐座関係? >>333
また「南≠東」などの嘘つき指摘から逃げたか、負け犬大和説
www
ww
w >>350
理由を聞かれても答えられないも大和説は、ダメな説 。 >>372
>>しかし那珂八幡や銚子塚などの王墓がなど造られているから、退潮していない。<
>王墓じゃないよ<
その時期、その地域で、一番早く大きく豪華に造ったものが王墓の資格があるの。
>ちっちゃいから<
後発組は、威張りたかったら、
前よりも大きく豪華に見えるように造ればよいので、簡単なだけ。 >>375
>クナふれしユダヤのしらせ絹の道記紀におりまぜミラーにきざむ(季語なし<
狗奴と記紀を結び付けたから、
「南≠東」に拠って、×。 >>377
>>>ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において奈良県立橿原考古学研究所<
>>意味不明。<
>じゃなくて、ばかで理解できないだけでは?<
それが判る男は、分裂幻覚妄想の・・・・か?、詐欺師か?、だな。 >>378
>で、 弥生期に中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具は?<
ありゃ?、何だ?この文面は・・・。
例の、国粋皇国史観の大和説の、「放置されてされていた・・・・男」の投稿ではないか。
返事を書いて、損をした。 >>379
>ほんまのうよくはアングロサクソンのがきらいなんじゃがのー(はんとーもきんぺーもたいがいじゃが<
だから、右翼は、
ネアンデルタールの遺伝子が、日本列島にも半島にもアングロサクソンにも、アフリカ以外の全ての大陸に、
2〜10%混在しているから、
人類皆兄弟である、
という事が判らず、
近親憎悪蔑視に狂った・・・・である、
と言ってんだよ。 >>380
>>いや、殉死する人は、当然、
亡くなった主人の近くに埋葬して貰いたい、と希望するものだ。<
>そんなの無学な素人おじん75の勝手に決めることじゃないだろう<
いや、それが人類の常識であり、
だから魏使らは、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩」を見て、
「jun葬者奴婢百餘人」だ、と判った。 今日のテレビ放映なので最終告知
『にっぽん!歴史鑑定『邪馬台国はどこにあった?』
BS-TBS
2017年12月11日(月) 22時00分〜22時54分 >>782
>現実にバカはバカだろ><
バカだけであれば、勉強すれば直るらしいが、
国粋皇国史観の近親憎悪の殺戮戦争ごっこの大和説に、
脳の神経が犯されてしまった分裂幻覚妄想の・・・・バカは、
一生殆ど直らないらしいよ。 >>384
なるほど。
「南→東」などのような意味不明な事を言うやつが、
意味不明な脳神経の病人人種なんだな。 >>384
なるほど。
「南→東」などのような意味不明な事を言うやつが、
意味不明な脳神経の病人人種なんだな。 >>385
>で、 弥生期に中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、<
また国粋皇国史観大和説の・・・・の貼り付けが再発したらしい。
新撰姓氏録や松野氏姫氏系図や、歴代中国史書群の「夏后少康之子」や、
「太白や呉王夫差の後裔」や、「徐福」や、
「所有無與tan耳、朱崖同」として、一杯類似の証拠が書かれている。
>その生活痕たる中国系土器と中国系農具は? <
これも、倭人の風俗として一杯書かれているが、
その他にも、甕棺や支石墓や鐸なども、そうらしい。 >>385
一度書いたが、何故かしら、5chに消されて、
改めて書き直したら、
「大夫」の事を書き忘れてしまった。 >>409
訂正。
卑弥呼は、正始八年から「一年位後以内」位に亡くなっていた、と思われる。 >>410
>ホケノ山が三世紀半ばだから 箸墓は三世紀半ば過ぎでしょ<
魏志の卑弥呼や壹與時代の記録は、「有棺無槨」であり、
陳寿が執筆時点までは「有棺無槨」であった事になり、
だから、倭国も倭国の別種分家の大和も、当然、執筆時点までは「有棺無槨」であった筈であり、
だから、ホケノの「有棺有槨」は、陳寿執筆以後になり、
また、吉備や大和の「突然の有槨」の発生は、
当然太康6年(285年)の扶余の戦乱での「有槨部族」の渡来と支配層への参画であった事になり、
それらの部族長の死後に墓が造られるのだから、
ホケノは、3世紀最末期以後だ、という事になる。 >>467
>その時期、その地域で、一番早く大きく豪華に造ったものが王墓の資格があるの。
いなかの村長じゃダメでしょ
王でない >>480
弥生時代から九州に槨のある墓があるね
はい、論破 >>477
まちがい
それは韓国南部からの渡来です。 >>467
九州が先発だとかいう
荒唐無稽なウソで他人を騙そうとしたって
民衆は騙されないから
無駄 >>472
>いや、それが人類の常識であり、
常識だって証拠は? 九州説の老人は結論を言い張るだけ
証拠を出せとか根拠を言えとか責められると
罵りながら逃げていく
だから、いつも確実に論争に負けてきた >>411
>>何と言っても(卑弥呼ではなく)難升米に 、
「張政等因齎詔書、黄幢、拜假、爲檄告喩之」している、
という事が非常に奇妙な記載であり、<
>別に奇妙でもなんでもない もともと 「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。」
なんだから<
「其四年」は「上獻・・・掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬」で・・・あるから、
洛陽での「壹拜率善中郎將印綬」であった可能性が高く、
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授」であるから、
郡においての假授であった可能性が高く、
それに対して、「其八年」は、
「太守王kui到官。・・・遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」であるから、
張政等が直接倭國にやって来て、「詔書、黄幢、拜假、爲檄告喩」した事になり、
当然、卑弥呼に直接「詔書、黄幢、拜假、爲檄告喩」すべきであったのに、しておらず、
難升米にしているんだから、卑弥呼の体調がかなり悪かった、という事になる。 >>489
おなじ人が、同じ黄幢を二年に一回も貰うわけないでしょ >>477
で、それのどこが弥生期に中国から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具なの?
. >>489
6年は郡に付託しただけで、本人に交付してない >>417
>で、江南から稲作が九州北部に輸入された事を証明する証拠遺跡と、<
稲作に関しては、Yahooの掲示板で、
mutouhaという知能指数200のの東大工学部出?の方の説明を聞いただけで、
詳しい事は知らないし、
紀元前1000年頃に箕氏が朝鮮に「田蚕」を教育しており、
その頃には満州方面にも稲作が広がっていたらしいから、
燕の南から出身したらしい倭人も、当然稲作を知っていた可能性もある。
>その証拠の中国系農具とイネの中粒種は?<
中粒種なんて言葉は、知らんよ。 >>423
>さすがは京大卒の土器キッド。 殺し方が鮮やかw<
ふーん?、
あの・・・・は、「京大での土器キッド」っていうのか。
京大も、賢い人もおれば、・・・・のような男もおって、千差万別じゃのう。 ニュー速+では相変わらず九州説ジジイが素人を騙そうとしてるな
関川の講演内容を何度もしつこく連呼してる >>425
>姫姓? そんなの源平藤橘と一緒だよ 秀吉も平家だってさ<
新撰姓氏録では「松野連」と書かれていて、姫氏とは書かれていないんだよ。
そして、「日本書紀私記」には、
「問:此國稱姫氏國,若有其説乎?
師説:梁時寶志和尚讖云:「東海姫氏國。」又本朝僧-善櫋推紀云:「東海姫氏國者,倭國之名也。」
という問答が記され、
この倭國とは当然九州倭國の事になり、
また「野馬臺詩」にも、
「東海姫氏國」という国名と、姫氏國が滅亡した事が書かれている。 >>428
>で九州の何処に邪馬台国があったんだ?<
邪馬台国なんて存在しないよ。
邪馬壹國なら、筑紫にある。
>卑弥呼がいた集落跡は?<
首都圏は、弥生銀座であり、
都は、(松野氏姫氏系図に書かれている)大野付近の、
おそらく安徳台。 畿内説なんて関西の学者ですら撤退気味なのに
というか纏向に全力を尽くし過ぎて外れだと確定した時からみんな脱力してる
早い人は他のの候補地を一生懸命探してるけど >>430
「南→東」などの史料事実の否定曲解のような、
こう言う真っ赤な嘘が平気でつけるのが、大和説者。 >>434
「南→東」などの嘘吐きダマシらのために、
大和説者らの「オウム返しされっぱなし」アワー。 >>499
また怪情報ですか
だから九州説って奴は・・・ >>435
>>南と東なんて日の出の方角で分かるだろ <
>じゃあ、どうして実際に間違えてる人がいるの?<
そりゃアホか、嘘吐きダマシの詐欺師などが、おるから。
周髀算経や礼記の「午前と午後の棒の(太陽の)影端で、東西を決める」方法を知っている魏使らは、
間違えない。 >>501
オウム返しなんかしたら恥だろ
無能の証明なのに >>436
邪馬壹國が何処にあったんだ?。
卑弥呼がいた集落の遺跡は?。
「南」が何故「東」になるんだ?。
殉葬奴婢百余人の祇園山や、21枚の「尚方作」鏡のある平原をどうするんだい?。
真面目に邪馬壹國論争をしている人をおちょくる前に、
自分の意見を書け。 卑怯者! >>438
大和説っていまだに、
「方角は間違う、間違うんダー」
って叫んでるの?。
200年間進化しないんだね。 >>441
[南→東」などへの、史料事実の否定への史料批判をすると、
議論に勝てると思ってる珍説家って、実はオウンゴールしてね?。 >>489
「仮授」と
「拝仮」の違いを理解してないな >>442
なんで大和説の・・・・ガキどもはども、
理由もなく、
九州説を右翼呼ばわりしたがるんだろう?。 >>445
大和説者は、理論で九州説に負けたから、
悔し紛れに中傷してるだけでしょ?。 >>446
大和説は、元々の根っこが歴史学じゃなくて、
国粋皇国史観の人種差別的排他的戦争主義の、キョクウの政治思想だからな。 >>448
大和説は、「南→東」などの嘘吐きダマシの、
国粋皇国史観戦争狂の俗説ってことね。 ザラコクはどれもオウム返しばかりて、自分がウソをついてる自覚がない >>516
畿内説の、どこが右翼なんだよ
誤魔化しはやめろ >>456
>>箸墓は4世紀だから、<
>根拠なし<
魏志の卑弥呼や壹與時代の記録は、「有棺無槨」であり、
陳寿が執筆時点までは「有棺無槨」であった事になり、
だから、倭国も倭国の別種分家の大和も、当然、執筆時点までは「有棺無槨」であった筈であり、
だから、ホケノの「有棺有槨」は、陳寿執筆以後になり、
また、吉備や大和の「突然の有槨」の発生は、
当然太康6年(285年)の扶余の戦乱での「有槨部族」の渡来と支配層への参画であった事になり、
それらの部族長の死後に墓が造られるのだから、
ホケノは、3世紀最末期以後だ、という事になり、
「庄内+布留」のホケノに対して、箸墓は「庄内無しの布留だけ」だから、
箸墓は4世紀以後になる。 九州説は邪馬台国論争で負けてるから
ウソの中傷をして憂さ晴らしをしてるのさ >>519
そほ素人トンデモ、何度コピペ貼るわけ? >>457
何を言っても、全てに「南≠東」だからと否定されて、✖ の連呼をされてしまう。
大和説って、そこまで追い詰められてんのね?。 >>459
>>大和説は政治的プロパガンダ
悪質な曲学阿世の歴史修正主義<
>そうだって証拠は? ???<
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシをしているから。 >>460
大和説は、もう手も足も出なくて、
出来ることは、口先言葉尻への中傷や、「証拠は」の連発や、
史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシが、
関の山ってことさ。 >>461
学会の通説学者らが、国民の過半数から支持のある九州説から手を引いて、
もう随分と久しいからね。
安部政府文部省や、NHK読売産経などの右翼マスコミや、国粋皇国史観戦争狂のキョクウらの指示に従って、
進化が止まってる。 >>462
>>卑弥呼という史料事実が、大和説にとっては都合が悪そうだ、と判って来ると、
今度は、「卑弥呼」という史料事実の存在そのものをも「架空だ」として否定抹殺しよう、
とするのが、学会の通説大和説者のダマシの・・・・の手口。<
>なんで畿内説の者が言ったと決めつける<
九州説者であったら、
「卑弥呼は実在した人物でしょうか
邪馬台国はあったと思いますが卑弥呼は使者に伝えた架空の人物では無いでしょうか」
などという「卑弥呼架空説どという「」なんて、
唱える必要がないから。 >>484
>>その時期、その地域で、一番早く大きく豪華に造ったものが王墓の資格があるの。<
>いなかの村長じゃダメでしょ 王でない <
大和は、倭國の別種の旧小国の、地方の市を監督する大倭職の、
田舎のご大尽の村長さんレベルであったから、
倭国の那珂八幡などを真似て巨大古墳を造った。 >>484
>弥生時代から九州に槨のある墓があるね はい、論破<
九州の弥生期の槨は、小規模であり、直ぐに消失してしまっており、
「有槨」の小部族の一時的渡来であったようで、
大和の天孫族の阿毎氏の墓には全く影響がなかったのに、
古墳期になって突然ホケノに明確な「有槨」が発生した。
はい、論破。 >>486
大和が何でも先発だ、とかいう荒唐無稽なウソで他人を騙そうとしたって、
国民の過半数は騙されていないからてい、
無駄。 >>487
>(殉死は敬愛する人の近くに埋めて欲しいと思う)いや、それが人類の常識であり、<
>常識だって証拠は?<
はるか離れた場所で死んで埋められても、
誰にも「敬愛する主人への殉死であった」、という事が判って貰えないから。
また、誰も、「敵対した憎っくき人の横に埋めて欲しい」とは思わないものだから。 >>488
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの大和説の、
国粋皇国史観の排他的人種差別戦争狂の・・・・アホガキらは、
結論を言い張るだけ。
証拠を出せとか根拠を言えとか責められると、
罵りながら逃げていく。
だから、いつも確実に論争に負けてきた >>490
>おなじ人が、同じ黄幢を二年に一回も貰うわけないでしょ<
正始6年は、難升米が卑弥呼の代わりに郡で假授された。
この時には卑弥呼が体調が悪かったのか?は不明。
しかし、正始8年では、「遣塞曹掾史張政等」がせっかく倭へ派遣されて来たのに、
卑弥呼には「拜假し爲檄告喩之」する事が出来ず、
難升米に「拜假し爲檄告喩之」したんだから、
卑弥呼は立ち上がって勤めを果たす事も出来ない状態であったのであり、
だから、「これを以って卑彌呼が死んだ」と書かれた。 >>502
畿内説は文献を無視しないと成り立たなくなるからなあ〜 >>518
ヤマト王権の起源を実際より古く見せるために歴史を歪曲している。 >>496
>ニュー速+では相変わらず九州説ジジイが素人を騙そうとしてるな
関川の講演内容を何度もしつこく連呼してる <
ふーん?、
「ニュー速+」というのがあって、そこでも九州説者が、
国民が大和説に、これ以上騙されないように、
頑張っているのか。 >>502
大和説者は、
半分偽書のヘンテコな記紀や後漢書や後代偽書が好きで、
実地の見聞記録などの客観性と信頼性の高い歴代中国史書群の、
記載を、否定曲解する事も好きなようだね。 >>530
また、都合の悪し話は「何でも怪情報」誹謗で、抹殺しようとするんですか?。
だから?大和説って奴は・・・・詐欺師である訳で。 >>505
オウム返しなんかされたら恥だろされ?。
「嘘吐きダマシや、欠陥論」という無能の証明なのに。 >>544
どんな大学者、賢者の言葉でもオウム返しできます
オウム返しした人の恥になります
オウム返しした人の無能の証明ですから >>537
畿内説は、どんな文献のどんな記述を無視した? >>508
>坊主の戯言<
「南→東」などのように、
東海姫氏國という「都合の悪い史料事実」を、
何でも口先で言葉尻の誹謗をして抹殺する宣伝の、
ヘイトスピーチをする大和説の戯れ言ね。 >>543
>なんか全体に人が減ってない?
独り何役もやってた岡上が、いま自分の偽スレをアゲるのに忙しいだけだろう >>536
>正始6年は、難升米が卑弥呼の代わりに郡で假授された。
それ、なんか証拠ある? >>514
>史料を否定したら何が悪いの?<
史料批判に拠って、客観性や信頼性が高い事が確認された史料を否定したら、
そりゃ嘘吐きダマシであり、学問や科学や人類のためにもならず、
悪い事なの。 >>518
>畿内説の、どこが右翼なんだよ 誤魔化しはやめろ<
大和説者は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解や、
「大和は、倭國から別れた別種の旧小国であった」事の隠蔽などを敢えてしてまでして、
大和天皇家が列島を一元支配していた、という排他的人種差別の国粋皇国史観を守ろう、としていたのだから、
そりゃ、右翼だよ。 >>520
大和説は、国民の3割しか支持されず、
国民の過半数の支持を受けている九州説に、
邪馬壹國論争でも負けてるから、
ウソの中傷をして憂さ晴らしをしてるのさ。 >>546
自然や歴史においては、どんな論にも常に莫大な量の不可知部分が存在していますから、
どんな大学者、賢者の言葉でもオウム返しできます。
オウム返しした人は、不可知部分の指摘ですから、恥になりません。
オウム返しされた人への無能の証明ですから。 >>547
>畿内説は、どんな文献のどんな記述を無視した?<
大和説者は、例えば、
魏志の「南」や、
旧唐書や唐会要の「大和日本國は、倭國から別れた別種の旧小国」などを無視した。 オウム返し、即時性エコラリアは発達障害、痴呆の症状だね >>550
>>正始6年は、難升米が卑弥呼の代わりに郡で假授された。<
>それ、なんか証拠ある?<
梯儁等や張政等の使節が倭に来た場合には、「拜假」と書いているが、
「其六年」では、使節が来ておらず、付郡「假授」と書かれているから。 >>552
>誰が確認したの?<
皇帝の命令に拠る魏使らの直接的見聞計測記録であった、いう事で、
客観性と信頼性が極めて高い、
という事が判る全ての人が。 >>559
簡単にオウム返しされるような投稿をする大和説者らは、
即時性エコラリアは発達障害、痴呆の症状だねらは。 >>389
なざに越のヤマタ(すなわち米原に沿海州北部のオロチがきたか(えーえんの0 >>390
わをもってたっとしとなせ(いちまんえんさつ >>392
みるきせん(だいたいはじかんむだになる(けーけんそく >>563
オウム返し、即時性エコラリアは、脳に障害がある人に見られる症状なので
相手が言っている意味を理解しなくても簡単にできる >>395
ししょおもろいなー
いまさんごくよみなおしちょる^^ 松木先生はずいぶん慎重な言い方をしてるな
まあテレビだから結論出さないようにしてるだけなんだろうけど ヤマタノオロチ。
鉄工房のあった丹後半島の扇谷遺跡、弥生時代中期初頭に営みが中段するんだな。
記紀の記述では、オオナムチとスサノオの拠点の間に大勢力がいた記述はない。
オオナムチ→出雲
とすると
元々オロチがいた処、オロチを倒しスサノオが居着いたのは、丹後半島な気がするんだな。
ワニさんのスサノオが、隠岐島の白兎を追い出し、何処へ向かったのか。
朝鮮半島に鉄を採りに行ったんじゃないかな。
空想だけどね。 時袁紹稱冀州牧,瓚深憂州人之從紹也,善雲來附,嘲雲曰:「聞貴州人皆原袁氏,君何獨回心,迷而能反乎?」雲答曰:「天下訩訩,未知孰是,民有倒縣之厄,鄙州論議,從仁政所在,不為忽袁公私明將軍也。」遂與瓚征討。
やーやーやーわれこそはちょーうんあzなはしりゅー
ひみこはんもどこかにいきてたんかのー(不明
巻36までよみなおしとるでー(とーいはそらんじとるよって割愛したが^^ >>413
そんれいっぽんで荒らしちょるおまんにすなおにかんしん 仕事中でTVが見れない。
面白い内容あったら、教えてください >>451
いしす絡みでおたからあったピラミッドでVじゃ(そのあとやっとらんぞなもしドラクエ(めーまわってきた(あんかーしつれい >>556
>成程。明瞭な説明、有り難う。<
理解して頂きましたようで、有難う御座います。 >>573
今のところ初心者向けムック本の内容と変わらず >>471
おっしゃるとーりじゃ(じんるいみなきょーだい(おやすみーー >>567
オウム返しされるようなバツ論理や、即時性エコラリアは、脳に障害がある人に見られる症状なのでや、
相手が言っている意味を理解していても、していなくても、
簡単に、オウム返しされる。 >>563
お前なあ・・・
どんな高等な論説だって、誰にでもオウム返しできるぞ
丸写しして主語書き換えるだけだもの 一般視聴者の7割は漠然と九州だと思ってるし、学会で議論が終わってることなど知らない
こんな番組で視聴者を敵に回すことはありえない
まだ謎のままという結論だろう >>580
オウム返しは鳥にもザラコク程度にもできる >>562
>>誰が確認したの?
>皇帝の命令に拠る魏使らの直接的見聞計測記録であった、いう事で、
>客観性と信頼性が極めて高い、
>という事が判る全ての人が。
つまり誰も確認してないってことじゃあ? 皆既日食は素人受けするように言わされてた感があったな
という説もありますと言ってたし 幾内じゃあり得ないんだから、良識があれば拒否るでしょ BS-TBS番組のまとめ
遺跡対決
畿内説 纒向遺跡 宮室○ 土器○ 鉄器× 全国の土器が出ているので3世紀の日本列島の中心をアピール
九州説 吉野ヶ里 宮室○ 土器× 鉄器○ 大陸との交易をアピール
墓対決
畿内説 箸墓古墳 百余歩の大きさが倭人伝と同じであることをアピール
九州説 平原王墓 副葬された装飾品から女性の墓であることと大量の鏡をアピール
その他
景初三年の三角縁神獣鏡出土により出雲説もある
銅鏡から太陽の光を反射させる祭祀につなげ、そこから卑弥呼=太陽神である天照説もある >>592
なんで幾内じゃあり得ないと拒否るんだ? 大衆迎合の番組というかNHKに比べてかなりレベル低かった 誰だったらいいの?
ちゃんとした学者で九州説のエースと言える人いるか? テレビ見てた人は九州有利と思っただろうな
土器 vs 鉄器の比較だと、一般人には土器なんて原始的なものというイメージしかないからアピールポイントにはしょぼすぎる
平原が女性の墓というのも古代には卑弥呼以外に女性の王なんていないはずという先入観からかなりポイント高い
鏡を副葬することも一般人は知らないから特別な墓だと思っただろう それほど一般視聴者はアホだろうか?
日本の教育水準はもっと高いと信じたい 現役の歴博教授と78才の高島て
ひふみんが出るのとかわらん BS TBSはほとんどショッピングチャンネルだから
一方に偏らないようにある程度台本があるんじゃないかな 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 >>607
皆既日食?
幾内じゃあり得ないって、どういう意味? >>611
東日流外三郡誌にそんな事が書いてあるのですか? >>582
お前なあ・・・、
「丸写しして主語書き換えるだけ」で、
お前ら大和説の欠陥や嘘吐きダマシを指摘出来てしまう事になるような、
嘘吐きダマシの欠陥投稿など、始めから投稿するなよ。 >>585
簡単にオウム返しされるような、嘘吐きダマシのインチキ投稿なら、
「南→東などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
大和説者程度のアホにでもできる。 >>586
>>>(魏志の客観性や信頼性の史料批判)誰が確認したの?<
>>皇帝の命令に拠る魏使らの直接的見聞計測記録であった、いう事で、
客観性と信頼性が極めて高い、 という事が判る全ての人が。<
>つまり誰も確認してないってことじゃあ?<
つまり、「南→東」などの史料事実の否定曲解をした嘘吐きダマシのアホの大和説者は、
誰も確認などしていない、って事じゃな。 >>617
また九州説は支離滅裂なことを言ってるなあ
九州説の欠陥や嘘吐きダマシを正しく指摘した文章を
「丸写しして主語書き換えるだけ」で、
畿内説の欠陥や嘘吐きダマシを指摘したかのような
ウソの文章が出来上がるよ
頭の悪い人なら出来る 247年3月24日に
糸島や博多で皆既日食があった可能性は、ほぼゼロ
纒向や飛鳥であった可能性は、ある 国立天文台報 第 14 巻,15−34(2012)
西暦 247 年前後の地球時計遅れ?T の値を見積もる.西暦 247 年 3 月 24 日(ユリウス暦)の日食に関
する記述が三國志と晋書にあることを見つけた.その記述によると,当該日食は洛陽において皆既でなく,
深食であった.このことから?T > 7750 秒を得た.前論文[1]で谷川・相馬は,西暦 247 年前後に?T
= 8000 秒は大きすぎて本当らしくないと述べたが,この結論は訂正すべきかもしれない.本論文の結果
からすると,西暦 247 年 3 月 24 日の日食は北九州でも深食である.とくに北九州市や北九州沿岸の島で
は皆既であった可能性がある.?T が単調に減少していない可能性がある.地球の南北極での氷の消長に
よる地球の慣性能率変動と?T 変動の関係について簡単な理論的考察を行う. (国立天文台報 第 14 巻,15−34(2012)
福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ, いずれの場合も食分0.99 ないし0.98 となる.
日食の間中, あたりは暗くならないことを指摘しておく. >>620
また大和説者は支離滅裂なことを言ってるなあ。
大和説者は、自分がやっている嘘吐きダマしを、
九州説者がやっているかのような投稿文を書いている事が沢山あるから、
そんな投稿には、主語を大和説者に変える鸚鵡返しをするだけで、
簡単に、大和説者への批判投稿文になってしまう。 >>628
大和説は、「南→東」などの史料証拠を否定曲解をするだけではなく、
目の前の掲示板に書かれていた事実までも知らん振りして、
「証拠なし」と叫ぶ・・・・アホ。 >>629
どこに、そんな事実がある?
あるなら、どれがそうか具体的に指摘してみろ
畿内では部分日食にすらならなかったということ?
畿内説は終了ですね。 >>621
247.3.24日の皆既日食のあったのは、対馬〜山口
「三國志および晋書の記録より,西暦247 年の時計遅れはΔT > 7750 秒と得られた。
飛鳥で皆既が見えるための条件はΔT > 9700 秒なので可能性ゼロ」 倭の奴国が倭国の最果てという記述、
そしてホンモノの奴国の金印が福岡から出たと言う事実。
この2つを持って、当時の倭国が九州に限定された範囲である事が確定した。
マキムクは当時としては最大の遺跡だろうが、
それは漢や魏が認識した倭国とは別の国と言う事でいいだろう。
また、魏志倭人伝や東夷書にとらわれない発掘をしていくことで、
マキムクの新たな考古学的史料が積み重ねられていく事の助けになるだろう。
また北部九州は魏志倭人伝や東夷書の倭国として、
密度の濃い発掘を行えば、より多くの史料が積み重ねられていくのではないだろうか。 >>633
ΔT > 7750 秒だと、どうして
ΔT > 9700 秒な可能性ゼロなんだ?
意味がわからない >>634
>この2つを持って、当時の倭国が九州に限定された範囲である事が確定した。
>マキムクは当時としては最大の遺跡だろうが、
当時って、西暦何年ごろ?
?????
????
???
??
? >>637
ΔT > 7750 秒だと、どうして
ΔT > 9700 秒な可能性ゼロなんだ?
この意味がわからない
論文と関係ない 地球自転のふらつき
日食の予報をする際に必ず考慮しなければならないことがあります。
それは地球の自転速度が一定でなく、ふらつきがあるということです。
このため、観測結果と照らし合わせてつじつまが合うよう、計算する際
に地球自転速度の補正を行っているのが実態です。この補正値が
デルタTで、ΔTと表記されます。 >>640
論文にあるだろ
「紀元158 年からの約100 年間にΔT の
値が500 秒以上増加するのは考えにくい。」 >>642
論文にあるだろ
「論文[1] と違って, 紀元247 年にはΔT > 7750 が得られた. 上の限界は求めること
ができなかった.」 >「三國志および晋書の記録より,西暦247 年の時計遅れはΔT > 7750 秒と得られた。
>飛鳥で皆既が見えるための条件はΔT > 9700 秒なので可能性ゼロ」
と言った>>633は数学ができない >>643
それを検討した結論が >>642 だよ なら、どうして
「紀元158 年からの約100 年間にΔT の 値が500 秒以上増加するのは考えにくい。」
の後に
「論文[1] と違って, 紀元247 年にはΔT > 7750 が得られた. 上の限界は求めること ができなかった.」
と書いてある? >>646
「4 西暦200 年頃のΔT の変化
論文[1]で,紀元158 年からの約100 年間にΔT の
値が500 秒以上増加するのは考えにくいとしたが,そ
れがどれくらい考えにくいことかを示していなかっ
た.」
これが結論 日食がどうのこうのってラノベ程度の話なのに論文まであったとは驚き >>651
日食なんかじゃ判りません
って論文なので
あって良い >>650
>これが結論
それが結論なら、どうして
もっと後に
「上の限界は求めること ができなかった.」
って書くの?
こっちが結論でしょ >>649
>それは科学者の良心だね
つまり
良心があれば
>飛鳥で皆既が見えるための条件はΔT > 9700 秒なので可能性ゼロ
なんて言うわけないと >>658
ΔT=7750
であれば、対馬も皆既日食にならない >>660
言ったのは数学のできない>>633な
コ レ
↓
>「三國志および晋書の記録より,西暦247 年の時計遅れはΔT > 7750 秒と得られた。
>飛鳥で皆既が見えるための条件はΔT > 9700 秒なので可能性ゼロ」
w >>661
「洛陽で0.99以上の部分食であることを要請すると, 7750秒<ΔT<8900秒が得られる。」.だろ
これ否定すると飛鳥の可能性はゼロ >>662
科学者が考えにくいということを考えるやつw >>668-669
必死で論文の結論をねじ曲げる九州説
w >>669
で?
なにが飛鳥な可能性がゼロなんだ? >>672
論理的説明ができない己の愚かさを
他人を理由なく罵ることで
誤魔化してませんか? >>674
ほら、罵ることしか出来ない
それは愚かさの現れです 常識的には、自分の主張が
説明出来ない>>674が異常
結論しか言えないという
九州説特有の病気だろう >>677
拾い読みした本やネット記事の結論だけ拝借してて、内容は理解してないから、自分の口で説明できないんだろ
思考が停止してる老人なのさ どうして九州老人は
自分の書いたものが論理的におかしいって
気づかないんだろう
↓
>「三國志および晋書の記録より,
> 西暦247 年の時計遅れはΔT > 7750 秒と得られた。
>飛鳥で皆既が見えるための
>条件はΔT > 9700 秒なので可能性ゼロ」
w >>634
>この2つを持って、当時の倭国が九州に限定された範囲である事が確定した。
>マキムクは当時としては最大の遺跡だろうが、
当時って、西暦何年ごろ?
?????
回答できないの? てか、畿内、アタマ悪すぎじゃねwww
理解できないのは、オマエの脳のせいであって、
オレたちのせいじゃないぞ、
恨むんなら、自分を恨めよwww >>686-688
まるで抵抗できず、悪口いうだけの九州説w
勝負はとっくに、ついてるな >>686
理解とか言う以前に
まったく説明していない件について >>630
>>大和説は、「南→東」などの史料証拠を否定曲解をするだけではなく、
目の前の掲示板に書かれていた事実までも知らん振りして、
「証拠なし」と叫ぶ・・・・アホ<
>どこに、そんな事実がある?<
5chにも。
>あるなら、どれがそうか具体的に指摘してみろ <
自分で探せ。 >>631
>だから証拠は?<
だから、5chでもいいから、大和説者側の投稿を読み直して、自分で探せ。 >>693-694
ほらな
九州説は、まったく証拠が出せない
末期症状だな
w ここまで言われて
それでもまだ
証拠を出す気がまったく無い
そんな九州説って
そういうことでしょ?
つまり、ウソをついてる自覚があると
そういうこと >>693
イチゲン客
「俺は億万長者だから、今夜の勘定はツケにしろ」
店主
「失礼ながら、お客様が億万長者だという証拠は?」
イチゲン客
「アホッ、アホッ、自分で調べろ」
このような話ね
さ >>700
ああ
証拠は昨日の番組でも言ってたなあ
「俺はヘソが痒い」って
立派な証拠だよな
さ まるで抵抗できず、悪口いうだけの畿内説w
勝負はとっくに、ついてるな ヒントは畿内に邪馬台国はありませんでした。
邪馬台国を知るための手がかりの一つに魏志倭人伝の行程があります。
それを鑑みると畿内はありえはい。
まして発掘品も畿内から出た物に文明的な物は皆無です。
木の棒、石、桃の種、、、ばかりが出てきます。。。
重要な指摘として後円墳が畿内に多いのは九州の王が死んだ際墓場を畿内に選んでいたという説です。畿内は九州の霊園として重宝されました。 対馬で皆既食があったと計算されている?
誤差を勘案すると、福岡でも皆既食が見れた可能性があるが、奈良で皆既食が見れた可能性はほぼない。
これでいいのか? >>706
そっか。だから畿内に墓が多かったのか。 >>706
石棺が阿蘇のピンク石である理由も説明できてしまうな。 宇土の馬門石(阿蘇ピンク石)は九州では石棺に使われてないから
継体朝に献上されたんだろ クナ国王卑弥弓呼
=天照国照饒速日命+大国主+スクナヒコナ−出雲臭
=大物主−出雲臭
=アマテラスの事績の大部分 >>625
どうやら、大和説者は?天照と卑弥呼時代の日食とを同じ時期だとしているらしいが、
天照は紀元前3世紀以前であるから、全く時代が違っており、
大和説はダメじゃん。 >>720
>どうやら、大和説者は?天照と卑弥呼時代の日食とを同じ時期だとしているらしいが、
九州説は妄想ばかりだな
誰も証拠を出さない
w >>663
>また九州説ボロ負けですわ <
まだ判らん。
九州説の安本らの論文が、大和説を否定したのではなかったのか?。 >>677
結論しか言えないというのは、
大和説に特有の病気だろう。 >>680
また「論理を説明せず」に逃げたか??大和説チキン 。 >>683
いつも大和説者が、論理の返事ができなくなって、発狂してる?ね?。 >>727
ほら
九州説が結論しか言えない
という例証が増えた 自分は絶対に正しく、周りはみんなバカ、ってのは62病の症状だろ
死ぬまで悪化の一途で、治ることはないんだろうさ >>736
しかも、正しいという理由は説明できない
w >>689
まるで自分らの論理の説明ができず、悪口いうだけのが大和説w 。
中国での日食記録なんて、大和には何の関係もないんだから、
勝負はとっくに、ついてるみたいだな?。 >>692
「南→東」などの嘘つき騙しの説明がないのと同じように、
大和説者は、論理や根拠の説明をせずに、逃げ回ってばかりだな? 。 状況
日食うんたら説を天文学者に完全否定された安物が
あわててクレーム付けて
対馬なら、いちおー可能性あり桝
博多や糸島は無理
ってトコまで譲歩ひきだした
以上 オモダル カシコネ 安曇(近江)
八方を巡って民を治める(九州-東北)
アワナギ 沫蕩 (イザナギの父、天照の祖父)
ネ(北陸)の白山トからチタル(山陰?)までを治める
クラキネ (アワナギの子、イザナギの弟、民のサシミメの夫、クラコ姫の父)
ネとサホコチタル(山陰?)のマスヒト益人(代官)
コクミ 胡久美 (サシミメの兄) サホコチタルのマスヒト
シラヒト 白人 (クラコ姫の夫) ネのマスヒト
豊受 (タカミムスビ5代、イザナミの父、天照の祖父)サホコ国(山陰?)を治める
日高見(東北)→宮津宮(丹後)
天照 (大山ト日高見ノ)ヤスクニ宮(富士)→宮津宮(丹後)→ヤスクニ宮(富士)
(宮津宮(丹後)→ヤスクニ宮(富士) 3/15→4/15)
カンサヒ (豊受の子)サホコチタル国のマスヒト
ヒルコ、思兼 野洲川 ネとサホコ国を兼ね治める
ヤソキネ (豊受の子、タカミムスビ6代、カンミムスビ神皇産霊)ネの国神
アメオシヒ(カンサヒの子)サホコチタル国のマスヒト
158-166 スサノオ、オロチ(モチコ(天穂日の母)、ハヤコ(三女神の母))、ハタレの乱(九州-東北)
158 天岩戸 7月13日 皆既日食 日没直前 琵琶湖 京都 大津 津
(日食・月食・星食情報データベース、NASA 等)(ΔT= 8042.58 等)
天照(男)、瀬織津姫(妻)、イサワ宮 伊勢(伊雑宮 志摩)
ヒルコ(天照の姉)、思兼(夫)、ヤス川宮(野洲川宮)近江
(ホツマツタエ) >>695
ほらな。
大和説者らは、自分らが全く相手にされずに放置されている事がら判らないらしいし、
自分からは、まったく証拠を提示出来ないし、自分らに5chでの投稿内容も全く覚えていないらしい。
末期症状だな 。
w >>698
>ここまで言われて それでもまだ 証拠を出す気がまったく無い そんな九州説って
そういうことでしょ? つまり、ウソをついてる自覚があると そういうこと <
ここまで言われても、それでもまだも、5chでの過去の大和説者の、
「鸚鵡返しされた投稿」を探す気がまったく無いらしい。
そして、こっちは、そんな頭のおかしい凶暴そうな・・・・大和説者って、
殺人鬼に紙一重だから、怖いから相手にする気がない。
そういうことでしょ?。
つまり、凶暴そうな怖い大和説者は放置されていると。
そういうこと。 >>750
オウム返しなせいで日本語もおかしくなるザラコク >>699
イチゲン大和説客
「俺は億万長者だから、南は東のツケにしろ」
店主
「失礼ながら、お客様の、南→東だという証拠は?」
イチゲン客
「アホッ、アホッ、自分で調べろ」
このような話ね w >>703
結局のところ、大和説は、誰も、
「南→東」の説明や証拠を出さない。 >>756
畿内説は説明しない
畿内説は説明しない
なぜならワシはテンプレ読まないから
w
w
w 九州説にとっては言われた事をちょっと変えて
オウム返しにするのが邪馬台国を証明する方法になる様で >>722
>>どうやら、大和説者は?、
天照と卑弥呼時代の日食とを同じ時期だとしているらしいが、<
>九州説は妄想ばかりだな 誰も証拠を出さない <
ΔTが、何のために出て来たのか?は未だにさっぱり判らんが、
例の論考の筆者に安本の名前があったんだから、
例の論考は、大和説を批判したんだろう、という事は判った。w >>723
>>天照は紀元前3世紀以前<
>根拠は?<
二中歴と記紀。 >>756
不彌国から南に水行しても何もない
東に行けば畿内に辿り着く
機内は邪馬台国の有力な候補地だから
魏志倭人伝の不彌国から南へ水行〜の部分は東へ水行〜とした方が
実際の状況と合致する >>724
「南→東」などの嘘つき騙しの分裂幻覚妄想は、大和説の得意技。 >>730
「南→東」などの嘘つき騙しなどのように、
簡単にオウム返しされるような投稿ばかりなのも、
大和説の特徴。 >>767
>二中歴と記紀
なるほど、お話にならんな >>732
ほら、 大和説が、
根拠や論理を説明出来ず、結論しか言えない 、
という例証が、また増えた。 >>777
おいおい、頭の悪くない九州説がいるわけ無いだろ >>733
>ザラコクがヤフーを出禁になった理由がよくわかるな<
ほら、また嘘つき騙しの大和説者は、
事実を隠して、ヘイトスピーチに走る。
zarakokuは、2chに来てからも、時々Yahooのてtextreamに投稿しておいたよ。 九州説は姑息にもどうでもいい雑談でスレ流す作戦をやってるのか >>736
自分は絶対に正しく、周りはみんなバカ、ってのは、
「南→東」などの嘘つき騙しの国粋皇国史観の、
排他的戦争狂の大和説病の症状だろ?。
死ぬまで悪化の一途で、治ることはないんだろうさ。 >>782
俺、出張多くてホテル暮らしするから、ついノーパソの横でカップラーメン食っちゃう。デブの元。 NISSINのカレーだな
>カップラーメン
たまにキーボードにこぼしちまう あれ?
試合が終わってみんなが談笑しているのに
なぜだか必死な人がいるね? 九州説がぐうの根も出ないほど言い負かされtから
雑談するしかなくなったの間違いだろ… >>795
どうした?顔真っ赤だぞ
夜食でものどにつまったのか? >>784
電子レンジじゃだめだよ
ちゃんとオーブンで焼かないと まぁ状況は楽よ
言い負かされた九州説がまたオウム返し
雑談してらアハハとたまに書くだけで
雑談してオウム返ししてる連中は
言い負かされた九州説と周りに知らしめる事ができるからな おでんといえば玉子だな
相手が畿内説といえどもこれだけは譲れない ちょっと言われて雑談やめるとかザコ過ぎやしないか九州説 食い物のツユや飲み物でPCプギャーするのは授業料払ってきたからな
オレは万一のリスクがあるものはPCサイドには置かん おっいいぞ言い負かされた九州説がまた雑談始めたぞ
そんでそんで? いや、すまん
オレ畿内説だ
九州説が逃げたんで、つい夜食話に乗ってしまた ヒントは畿内に邪馬台国はありませんでした。
邪馬台国を知るための手がかりの一つに魏志倭人伝の行程があります。
それを鑑みると畿内はありえはい。
まして発掘品も畿内から出た物に文明的な物は皆無です。
九州では日用品から武具まで金属製でしたが畿内は。。。
重要な指摘として後円墳が畿内に多いのは九州の王が死んだ際墓場を畿内に選んでいたという説です。畿内は九州の霊園として重宝されました。 >>800
オーブントースターでもいいけどね
俺んちはデロンギのコンベンションオーブンがあるから
ピザストーンも敷いてるし
本格的だとうまいのよ 最近の九州説は
根拠聞くだけで逃げてくから
はりあい無いな >>809
こんなふうに結論しか無いのが九州説
中身スッカスカ まあ畿内が雑談してても九州が雑談してても別にどっちでも
言い負かされた九州説が雑談してるアハハと言っとけば
結局九州説を攻撃してる事になるんだけどな 九州説は雑談している畿内説を見かけたら
必死で止めなくちゃイカンぞ 溶けたモツァレラkbdに垂らしたら
卜骨の話された九州説みたいに
死ぬだろう >>801
通常、関西ではオデンとは言わずに関東煮(ダ)き。
ついでに、おにぎり/おむすびは関西では俵握りで関東の三角形の握りは
古来、死人の三角頭巾を連想するとしてタブー(三角握りは死人が出た時の法事のみ)。
関東発のコンビニ等はそんな事はお構い無しに三角握りを販売、、、関西への呪詛に感じる >>816
前方後円墳の数は千葉県が最多。
香取、鹿島は内海に面した良港。
奈良よりよほど起源も古く、立地条件も良い。
邪馬台国纒向説より邪馬台国香取説の方が説得力がある。
長里なら奈良より数字も合うか? ・
スサノオ(帥升) アマテラス 107年
・ オシホミミ
・ ニニギ
・ ホオリ
事代主 フキアエズ
@奇日方(鴨王)◎ヒメ踏鞴ー神武 200年頃
A建飯勝 綏靖 220年頃
B建甕尻 安寧 240年頃
C豊御気主 ◎トヨ津ー懿徳 孝昭 260年頃
D大御気主 孝安 孝霊 280年頃
E阿田賀田須 孝元 開化 300年頃
崇神(ハツクニシラス) 318年没
@からEまでが大物主である。
最後の大物主E阿田賀田須を祖とする和邇氏の東大寺山古墳から
「中平」の紀年銘を持つ鉄刀が出た。
ヒミコが貰った刀としか考えられない。
最近では発掘にも参加した金関恕(ひろし)氏(大阪府立弥生博物館館長、天理大学名誉教授)が
考古学雑誌第99巻2号(2017年3月)で、
邪馬壹国の女王・卑弥呼がもらった「五尺刀」がこれにあたるのではないかなど見解を述べておられる。
阿田賀田須がヒミコと同族、つまり王族であった証拠である。
https://o-yan216.wixsite.com/mysite >>823
>奈良よりよほど起源も古く、立地条件も良い。
なにが? >>823
>前方後円墳の数は千葉県が最多。
千葉をはじめ、関東一円も忌部一族の拓殖地だからそうなる。 @阿波 >>823
>奈良よりよほど起源も古く、立地条件も良い。
奈良盆地は湿地帯なので、関東より開発が遅れた可能性がある。
奈良盆地の拓殖は伊勢忌部が中心だろう。 @阿波 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(>>1の発言をまとめたもの)
「瀬戸内海勢力が枢軸となって、総花的に纏向で田舎娘を共立した」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」
【畿内説(主にスレ主)が主張する東遷】
@弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した
A首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した
B結果的に伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された >>829
奥山さん、テンプレはこれくらい短くしようよ。 >>829
>畿内説は実は東遷説だな。
ここのアフォの>>1はそういうことになる。
アフォだから。
纏向=瀬戸内集団=物部だと何回言っても分からないアフォだからね。
アフォは氏ななきゃ直らない。 >>831
要するに、スレの亡んだ東遷論者は嘘をついて畿内説スレを乗っ取ろうと、日夜努力を重ねているわけだね >>831
東遷説みたいに内容が薄いと出来るかもな
しかし・・・
畿内説だと無理かな >>738
>しかも、正しいという理由は説明できない w<
しかも、大和説者は、自説が正しいという理由は説明できないだけではなく、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きだましまでする・・・・。 w >>837
説明してない、という証拠は?
曲解だ、という根拠は? >>740
大和説者は、
論理的帰結ではなく、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
高慢でタカ派の唯我独尊の排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の、
自惚れだからなぁ。 >>762
「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」などの史料事実を否定曲解の嘘吐きダマシの大和説は、
史料事実からの帰納的確率的推論をするんではなく、
書かれた事を一杯変更して、 「言い返しの口先だけのオウム返し」をするのが、
「邪馬台国を証明する方法」になるらしい様で。 このように、九州説には
何か主張するとき根拠や証拠を出す習慣がない
銀行に行ってカードも通帳も出さずに
金を出せと言う輩といっしょに >>764
大和説者って、
「南→東」などの嘘吐きダマシのサギがバレて、
子や孫らの家族や近隣の人々に「犯罪者」と軽蔑されて、
唯我独尊のタカ派の高慢な、人種差別的で排他的な国粋皇国史観な殺し合い戦争を鼓舞扇動して、
核の打ち合い戦争を引き起こして、子や孫らの家族や近隣の人々をも皆殺しになって、
一人だけ身体障害で生き残った挙句に死に絶える。
それって、ミジメすぎる老後だなぁ よくまあザラコクは
こんな悪口を思い付くもんだ
人間捨ててるな >>768
>ほら、事態が飲み込めてないw><
ほら、
天照が存在したとしても、卑弥呼の時代よりも500年位以上離れていて、関係が全くない事が判っているから、
この嘘吐きダマシの大和説?男も、事態が飲み込めてないw。 >>769
>不彌国から南に水行しても何もない <
不彌國で萬二千余里が殆ど終わっているから、「南に水行」する必要がない。
>東に行けば畿内に辿り着く 機内は邪馬台国の有力な候補地だから
魏志倭人伝の不彌国から南へ水行〜の部分は東へ水行〜とした方が 実際の状況と合致する<
魏使らが「南と東」とを間違える可能性はらが、ほぼ0%であるから、
この男も、嘘吐きダマシの大和説人種であり、✖ね。 >>845
なんで、そんなことが判っているの?
理由は? >>772
>中二歴? ʅ(◞‿◟)ʃ <
ありゃ?、間違えた?。
最近PCの文字打ち込みが変調になって、何度も消したり書き変えたりしているから、
失敗したのかな?。
「二中歴」。 >>781
おいおい、
「南→東」などの史料事実を否定曲解するバレバレの嘘吐きダマシをする大和説者に、
頭の悪くないやつがいるわけ無いだろ。 >>786
大和説は、姑息にも、
「南→東」などの嘘吐きダマシがバレて、
どうでもいい雑談でスレ流す作戦をやってるのか?。 >>789
「南→東」の嘘吐きダマシがバレた大和説は、
もう「簡単にオウム返しにされるような非論理の口先誹謗投稿」しかできない。 >>795
大和説が、
ぐうの根も出ないほど言い負かされたから 雑談するしかなくなった、
ってのが、間違いだったんだろ…?。 >>798
まぁ状況は楽よ。
オウム返しで言い負かされた大和説が、またオウム返し 。
雑談してらアハハとたまに書くだけで 、
雑談してオウム返ししてる連中は、 言い負かされた大和説だ、
と周りに知らしめる事ができるからな >>802
言い負かされた大和説者らが、
また雑談して誤魔化してらアハハ 。 >>805
ちょっと言われただけで、雑談やめるとか、
ザコ過ぎやしないか大和説者。 >>807
おっいいぞ、
言い負かされた大和説が、また雑談始めて、逃げだしたぞ。
そんでそんで?。 >>808
いや、すまん。
オレ九州説だ。
大和説者が逃げて来たんで、つい夜食話に乗ってしまった。 九州説は、反論って何だか知らないから
自分のトンデモ説を連呼するだけ
それもネタギレとなると
あとはお迎えを待つだけだな 飯ネタ
早番で昼飯食って帰ってきたら、すっかり忘れてたランチonミーティングが始まった
腹破裂しそ >>863
なるほど
島巡り論法を批判した暗喩だね? >>811
最近の大和説は、
根拠聞くだけで逃げてしまうから、
はりあい無いな、。 >>812
「南→東」などの、こんなふうに根拠や論理がなくて、
結論しか無いのが大和説。
中身スッカスカ。 >>813
そらぁ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の行程論より、
九州説は、本格的だな。 >>814
まあ畿内が雑談してても九州が雑談してても別にどっちでも、
「言い負かされた大和説が雑談してるアハハ」と言っとけば、
結局、大和説を攻撃されてる事になるんだけどな。 >>816
>邪馬台国が関東にあった可能性は無いの?<
不彌國の直ぐ南だから、ないね。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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邪馬台国畿内説 Part307
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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 >>817
大和説者は、
雑談している九州説を見かけたら、
もう勝ち目がないから、必死で逃げなくちゃイカンぞ 。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 >>819
溶けたモツァレラkbdに垂らしたら、
「南→東」の嘘つき騙しの話をされたを大和説みたいに、
死ぬだろう。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 邪馬台国畿内説を証明するためには、まず魏志倭人伝を翻訳するべきなのではないのかな。。。 倭人は帯方郡の東南の太平洋の中の山の島を国や村にして拠り所にしている。 昔、100余りの国から漢の時代に朝見に来る者があった。。 >>825
>最後の大物主E阿田賀田須を祖とする和邇氏の東大寺山古墳から 「中平」の紀年銘を持つ鉄刀が出た。
ヒミコが貰った刀としか考えられない。
最近では発掘にも参加した金関恕氏(大阪府立弥生博物館館長、天理大学名誉教授)が
考古学雑誌第99巻2号(2017年3月)で、
邪馬壹国の女王・卑弥呼がもらった「五尺刀」がこれにあたるのではないかなど見解を述べておられる。<
「南≠東」であるから、×。
金関もアホ詐欺師。 今、使いや通訳が行きかうことのできるのは30国だ。。 帯方郡から倭に行くために、海岸に回り、航海し、韓国を、南に急いで、東に急いで、経由すると、
倭人の島の一つの北の岸にある狗邪に至った。。。 始めに一つの海を1000里あまり行き、対海国に至る。。 その大官は卑狗といい、その副官は卑奴母離といい、二人のいるところは船の付いた島とは途切れた島だ。。。 対海国は一辺400里あまりの正方形の広さと同じである。。。 土地は山が険しく、深い林が多く、道路は獣道のようで、千戸あまりの家がある。。。 良い田がないので、食は海のもので自活したり、船で南や北の米や穀物を買い入れている、、、 もう一度、南へ海を1000里あまり渡り、瀚海という名の一つの大国に至る。。 官は対海国と同じく卑狗といい、副官は卑奴母離といい、一辺300里あまりの正方形の広さと同じで、竹や木が多く、草むらや林である。。。 >>827
>>前方後円墳の数は千葉県が最多。<
>千葉をはじめ、関東一円も忌部一族の拓殖地だからそうなる。@阿波<
筑紫倭国の「東征毛人55国」のため。 3000ばかりの家があり、対海国とは田地があるところが違うが、田を耕しても、まだ、食料が足りず、対海国と同じく南や北に米や穀物を買い入れている。。 又もう一度、海を1000里あまり渡れば末盧国に至る。 4000戸余りの戸数が、山と海に接して居住している、、、 行って見ると、草や木が勢いよく茂っているので前の人が見えない。 捕らえた魚と鮑を食べるのが好きなため、水が深かろうが浅かろうが、皆で潜って、これらを捕っている。 東南方向に陸路を500里行き伊都国に到着した。。。 官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚といい1000戸余りある。 世界には(中国の他にも)王がる。(この国の)皆は女王の国に従っている。。。 郡使が往き来して常にとどまるところでもある。。。。 官は兕馬觚、副官は卑奴母離といい、20000戸あまりある。。 官は多摸、副官は卑奴母離という。1000余りの家がある、、 官は彌彌、副官は彌彌那利といい、50000戸あまりあるようだ。。 南に10日航海し、陸路を1月行くと女王が都にしている所である邪馬壹国に至る。 官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。 女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができたが、そのほかのかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。 女王の国の次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は奴国である。 昔からその方、倭人の使者が中国に来るたびに皆が自らを周代の役職である大夫であると言った。 中国古代の王朝である、夏后の王、少康の子は会稽の領主に任じられると、髪を切り、体を削って飾り、サメやウミヘビに害されることを避けた。 今、倭の海岸の人達は潜って魚や蛤を捕ることを好み、少康の子と同様に、体を削って飾り、シャチ、水鳥が近づくことを防いでいる。 諸国の刺青はあちこちで異なり、ある国では左にし、他では右にし、また他では大きく、ほかでは小さく、尊卑によっても差がある。 その道のりを計算すると、まさに、会稽の東側の、治められている土地の、、東にあるはずだ。 その衣は横に幅があるものを互いに縛って、ほとんどは縫われていない、、 婦人は伸ばした髪を後ろで束ね、一枚の素材の中央に穴をあけただけのものを、頭を通して着ている。 稲、カラムシ、麻の種をまき、蚕を桑で飼い、それらを紡いで、目の細やかな布や絹、綿をつくる。。。 木製の弓は下が短く上は長く、竹の矢を使い、鉄の矢じりだったり骨の矢じりである。 倭の土地は温暖なので冬も夏も生の菜を食べ、皆は裸足でいる。 屋内には部屋があり父母や兄弟は異なる場所で寝起きする。 食べたり、飲んだりするには、編んで作った籩豆という豆の字に似た食器を用い、手で食べる。。。 倭人が死ぬと、直接死体を収納する棺には納めるが、その棺を置くべき槨は無く、土をかぶせて、盛り土にする、、、 その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人は集まって歌い舞い酒を飲んでいる。。。 葬ったのちに、家全員で水のあるところにいって、水を浴びて清めるのだが、それは塩や水で身を清める中国の練沐に似ている。 中国に挨拶にくるためのその地からの往復は海を渡るが、いつも、一人に頭を櫛で梳かさせず、虱をとらせず、衣服を垢で汚させ、肉を食べさせず、婦人に近づかせず喪に服しているようにさせる。 次のスレッドが作成されているから良いのではないのかな、、、 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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邪馬台国畿内説 Part307
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511996907/
なお、トリップは解読されたので、変更済みです。。。。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 もし海に行っている者が運よく無事ならば、彼らとともに奴隷や財産が与えられるが、もし疫病や暴風の害に逢えばこれを殺そうとする、、
持衰が慎まなかったからだというのだ。。。 ヒントは畿内に邪馬台国はありませんでした。
邪馬台国を知るための手がかりの一つに魏志倭人伝の行程があります。
それを鑑みると畿内はありえはい。
まして発掘品も畿内から出た物に文明的な物は皆無です。
九州では日用品から武具まで金属製でしたが畿内は皆無と言っていい。
重要な指摘として後円墳が畿内に多いのは九州の王が死んだ際墓場を畿内に選んでいたという説です。畿内は九州の霊園として重宝されました。 その木には枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香が有り、その竹は篠簳桃支である。
(原文訳しきれないね、、、) 生姜、蜜柑、山椒、茗荷があるけれども、それらのおいしさを知らない。。。 倭人の風俗では、行事があったり、旅行にいったり、発言したり、何かを行うことが有れば、まず、骨を焼いて割れ目をつけることで、良しあしを占う。。。 予め割れ目の様子を告げるが、令亀法での言葉で行われる、、、 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 倭人の社会では、同じ様に坐ったり起きたりしていて、父や子や男や女の別がない。 魏略には以下のようにある、、、、倭人の習俗では正しい年を知らず、四季を区切るのではなく、ただ春の耕す時期と秋の収穫を年の区切りにしている。。。。 身分の高い人を見て敬うときは、ひざまずくべきなのに、ただ柏手を打ってすます。。。 その身分の高い人を拝めば長寿を全うでき、それは或いは百年、或いは八、九十年である。 倭人の風俗では、身分の高い人はどの国も皆、四、五人の女性であり、酒を飲めない地域ではあるいは二、三人の女性である。。。 倭人は窃盗せず、訴訟が少ないが、倭国の法律を破ると、軽いレベルならば妻子を水に沈められ、重いレベルならば家族を滅ぼされる。 九州族には尊い者と卑しい者に格差や序列があり、互いに臣服しあって、満足している。。。 国々には市場があって、有るものや無いものを交易している。。 女王国の北に、特別に、イダルを置き、検察している。 倭国においてイダルは、、、中国に前漢から五代十国時代まで存在した刺史という名の、、官職のような存在だ。。。 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
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。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 倭国の王が使者を派遣し、京都や帯方郡や韓国各地に挨拶させたり、また、郡が倭国に使者を送った時には、全て、入り江の奥を利用した港にやってきて、不正や隠し事がないか露わにして探す。 文書や賜り物を配送し、女王に挨拶させる時に、数の違いや錯誤が発生することはあり得ない、、、 酒を飲めない者が、身分の高い人と互いに逢えば、後ずさりしてまわり巡って、草の中に入り、別れを告げる。 身分の高い者が物事を説明するときは、酒を飲めない者はあるときはしゃがみ、あるときは跪き両手を地面につけて体を支え、こうして恭順と敬意を示す。 説明に対する返事に、、、中国では強く感動したり驚いたりしたときに発する語である発音と同じ、、、アーと発音する。 このスレッドは1000を超えました。
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