邪馬台国畿内説 Part308
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
もう確定なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513147935/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。それは畿内に中国文化が急速に浸透する時期でもある。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者は倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、ここ纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係には、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定すれば倭地は洛陽以北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里
楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里
南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12−1
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。 ◆FAQ 12−2
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。 ◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。 ◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠紹煕本)へと敗走している。行き先が東冶の候官(福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝に明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46−1
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。 ◆FAQ 46−2
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。 ◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】なし 前スレの続き
金印は偽物とこのスレでは誰も言っていないのに、狂ったように書き込むやつへ
======================================
他スレではあるので貼り付けとく
======================================
236日本@名無史さん2017/12/14(木) 05:37:22.68>>241
平原は伊都国の女王の墓
卑弥呼の墓は邪馬台国の女王の墓となる・・・箸墓が最有力
>>231 金印は年代比定できない、志賀島で見つかったのも偽物かも
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200703030225.html テンプレからスレ主の名前が消えたな
前前スレ
631 ◆UiepmfCeDJqf 2017/12/09(土) 17:11:27.82
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
奥山です。今回からトリップを変更しています。
注意*前スレが終了してから書き込んでください。 307の>>>>546
(番号が追いつくまでは、前スレである事がはっきりしているから、今後は「307の」を省略する)
>逃げたわけか 根拠がないんだなw w w <
はっきり・・・・だな、と判る投稿は、
原則として、まともに相手にしないで、
出来るだけ放置するの。 >>70
そういう無意味な投稿は
しなくていいんじゃないの? >>548
>>確率計算出来る史料実態は、確率計算をし、
確率計算が困難な場合は、信頼性や客観性の大小を吟味して、
過半数とか、明らかに確率が高いとか、非常に確率が高いとか、
極めて確率が高いとか、殆んど100%とか、ほぼ100%とかの、
信頼性の「大体の表現」で<
>つまり確率でも何でもないものが 確率の名を騙っているわけだな<
いや、信頼性の確率表現そのものだ。 >>552
>>大和説に対する質問にまったく答えられず、<
>そんな証拠あるか? またウソをついてるんだな <
「南→東」など。 >>554
>いいえ史料事実からの帰納的推論なんてしてない<
いいえ、古田さんらは、史料事実からの帰納的推論ばっかりしておられる。
>見た目繕うだけの虚偽看板だ と指摘している<
それに引き換え、
国粋皇国史観の「結論先にありき」の」・・・・ケダモノサギシの大和説は、
「史料批判もせずに、自分の結論に合わない史料事実の否定曲解ばかりしている・・・・」 >>556
>>筑紫という呼称文言の最古の使用例 ってなに?<
記紀の「筑紫」文言使用は、半分✖書であるから、信用出来ず、
おそらく新唐書などの、倭奴國の「筑紫城」記載。 >>75
>いいえ、古田さんらは、史料事実からの帰納的推論ばっかりしておられる。
古田さんって演歌歌手の?
「演歌チンチロリン」でテイチクレコードからデビューしたのだよね。
古代史と関係ない人を出すな。 >>557
>>(大和説の・・・・らは)史料事実からの帰納的推論が「絶対断定になっていない」と騒ぐだけだから、<
>また、ありもしない発言を捏造しているな <
また、ありもしない内容を捏造しているな?。 >>558
>「チ、ク、シ」という音韻の使用痕跡 って何のことだ?<
筑紫と竺紫と竹斯のように、漢字表現が3つあるから、音韻で書いたのだ。 >>560
>つまり九州説の根拠が全部否定されちゃったんだね<
つまり大和説者という人種は、始めから、
「南→東」の嘘吐きダマシの分裂幻覚妄想の・・・・ケダモノサギシである、
という事が判ってしまったから、
全く信用していない、って事だ。 >>563
>>「根拠って、何?」というような曖昧で意味不明な質問には、<
>あんたの特定の主張について その「根拠って、何?」と聞くことの どこが曖昧で意味不明なんだ?
根拠がないって自白じゃないか<
「根拠って、何?」という投稿の、
どこに「あんたの特定の主張」や「それのどんな事の根拠か?」
という事が書かれているんだい?
それをはっきり書かないで、「根拠って、何?」って書く投稿は、
詐欺師らに特有の「ひっかけ詐欺」の手口なんだよ。
。
「 >>75
>いいえ、古田さんらは、史料事実からの帰納的推論ばっかりしておられる。
「俺は清廉潔白だ」
と口先だけで言って
決して証拠は出さない人を
一体どこの誰が信用すると思うか >>564
>>>(出発+途中+到着の書き分け)三国志での記載だ、と言っている。<
>どの記載? 誤魔化し?<
古田第1書に紹介してあるから。読め。 >>79
>筑紫と竺紫と竹斯のように、漢字表現が3つあるから、音韻で書いたのだ。
それは「チ、ク、シ」という音韻の使用痕跡とは言えないな
「チック、シー」かも知れんだろ >>81
>それをはっきり書かないで、「根拠って、何?」って書く投稿は、
>詐欺師らに特有の「ひっかけ詐欺」の手口なんだよ。
ザラコクが自分で周回遅れでレス書いてて前後がワカラナくなっただけだ
痴呆で自分が忘れたのに、他人を詐欺呼ばわりする
ボケ老人の症状の典型だな >>566
>残念でした
香港あたりが洛陽から7千里くらい南だって認識なんだから、東冶でピッタリだな<
バカじゃねえか?。
香港も、北回帰線(23.5度)付近だから、北緯35度位の洛陽とは、11.5度位の差であり、
1度は111kmだから、11.5度位は洛陽から1250km位になり、
長里では3千里位にしかならないではないか。
それを、「7千里」だなんて、どこの記載を引っ張り出したんだ?。 >>568
>>魏使らは周髀算経や礼記の方向決定法を知っている事や、
三国志の魏の役人らの方向記載には間違いが見られない事や、
裴松之や宋明清の考証校勘学者は誰一人「南」の校勘をしていない、
などの史料批判に拠って。<
>それ、史料批判じゃないだろ <
史料の信頼性の確認作業だから、史料批判そのものだ。
> 倭人と漢人は違うと書いてない?
お前も言っていただろう
倭人は先住民(不明)だと >>569
>>例えば、狗邪韓國〜對海國が千余里、という記載自体が史料事実であり、
それの地図上での測定km数が、史料実態だ。<
>具体的に、どこからどこまで何kmなの?<
狗邪韓國の海岸(金海や釜山海岸)から対馬が見えるから、三角測量でもよいが、
実際には「千余里」という一寸千里にぴったりの記録であるから、
おそらく、狗邪韓国海岸でと、對海國の到着港と思われる「浅茅湾の北西端の北側」の到着港とでの、
一寸千里に拠る影長計測の差(約一寸差)だ。 >>570
>>三国志の魏の役人らの方向記載には間違いが見られない事や、<
>間違いが見られないって証拠は?<
三国志の中国内の方向記載では、全く間違いが見られない事や、
東夷伝での郡役人たちの方向記録にも、
90度も違うような方向間違いが全く見られない事だ。 >>571
>>>(南)史料事実だと、どうして 殆ど100%正しい ことになるの?<
>>これも何度も説明した事。
魏使らは周髀算経や礼記の方向決定法を知っている事や、
三国志の魏の役人らの方向記載には間違いが見られない事や、
裴松之や宋明清の考証校勘学者は誰一人「南」の校勘をしていない、
などの史料批判に拠って。<
>毎回論破された事 <
嘘を付くな、・・・・ケダモノ。
論破された事など、一回も記憶がないし、
大和説者の方が皆「逃げてしまった」という記憶しかない。 >>572
>>例えば、狗邪韓國〜對海國が千余里、という記載自体が史料事実であり、
それの地図上での測定km数が、史料実態だ。<
>つまり史料実態とは、随分と怪しげなモノなのだね <
「地図上での測定km数」の、どこが「随分と怪しげなモノ」なのかね?。
大和説者は、これまでもしょっちゅう、
「地図上での測定km数」の計測を要求して来た。
という事は、
この投稿大和説者も「随分と怪しげな・・・・ケダモノ詐欺師だな」という事だな。 >>573
>>裴松之や宋明清の考証校勘学者は誰一人「南」の校勘をしていない、<
>最初から間違っていたなら校勘をするわけないでしょ><
だから「考証学者」の書いておいた。
中国側学者は、誰も、
「南」が「東」の間違いだ、とは、全く言って来なかった。 >>91
>>>三国志の魏の役人らの方向記載には間違いが見られない事や、
>>間違いが見られないって証拠は?
>三国志の中国内の方向記載では、全く間違いが見られない事や、 ・・・方向間違いが全く見られない事だ。
話になりませんな。 >>574
>魏使らは周髀算経や礼記の方向決定法を知っている事や<
>知っているって証拠は?<
魏の方向計測官にとっては、必携の書であり、
読んでなければ、方向を記録し、皇帝に報告する事が出来ない。 >>575
>>ウソを付くな。 陳寿は、「会稽東治之東」と書いた。<
>東冶と東治は同じ場所です<
これもダメだ。
陳寿自身が、分郡以前の「東冶」と、分郡後の「東治」とをはっきり明確に書き分け、
(東冶と書き換えた後漢書を見ている筈の)「松之も含めて 、
中国の清代前半までの考証校勘学者は、誰も「東治」の考証も校勘もしていない。
という事は、清前半までの中国学者は、全て「東治」の記載を承認して来た、
という事であり、
自由に改変解釈が出来る後代史家や、近世以後の日本の学者の影響を受けた中国学者らの中に、
「東冶」の書き換えをした阿呆がいた、というだけだ。
そういえば、日本の「天誅」という学者の「漢籍の書棚」でも、
彼は「東冶」と書き換えていた・・・・ケダモノであった。 >>579
>「自分は泥棒してない」と口先で言ったら無罪になるのか??<
人がどうであれ、裁判を起されるか、信用するかしないかには関係がなく、
古田さんとしては、自分の学問的な方法論としての、
「史料批判をした史料事実からの帰納的確率的な推論」
をそのまま説明するしかない。 >>581
>中国では17世紀まで地球平面説だから
四角い右下の隅っこに倭がある程度の地理観 <
後代においても、実際に列島へ確認に来ずに、
魏志などを誤読曲解して勝手な地図を書く「知的退化」学者はいくらでもあり得、
役人らが実際に列島へ来て、報告した記録に、劣る事はいくらでもあり得る。 >>583
>結局は九州説、何も証拠が出せない<
結局は大和説者は、
自分らへの「南→東」などの史料事実の否定曲解への。都合の悪い批判に対しては、
逃げて隠して議論をせずに、
九州説者には、「膨大な資料や投稿の中から一個の記録文」の、
膨大が手間の時間のかかる挙証を要求して、
直ぐに探せないと知るや、「結局は何も証拠が出せない」と世間に宣伝して、
議論に勝った、かのように、世間の人々を騙す、
・・・・ケダモノ詐欺師であった、
という事でしょうね。 >>100
証拠の出せないことばかり言い張る
トンデモ説の言い訳が
じつに醜い >>578
>>>>殆ど100%正しい「南」を、<
>>>信仰? 宗教?<
>>「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」。<
>実態だと言い張るけど 理由は?<
ついさっき、誰かに説明済み。
「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」。 >>580
>理由がないんだな<
「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」
と理由を答えてあった。 >>103
そんな自分の意見に
「史料実態」なんて名前つけたら
不当表示サギではないか >>103
実態だと言い張る理由を聞かれて
実態だからと答える
ボケ老人 >>587
>古賀本人が(江戸時代に書かれた)成務四十八年は信用できないと書いてるのに
他の部分は一切史料批判せずに平均在位年数だけで計算するところが古田信者の特徴<
不可知部分が殆どである古代史史料は、常に不可知部分を持っており、
だから、史料批判に拠って、部分的に、確率の高い情報も、確率の低い情報も有り得るから、
云わば「〇部分と✖部分の混在」の「半分✖文書」状態が起こり得る。
つまり、古賀さんは、発見された雷山縁起の中の史料批判に拠って、信頼性が低い部分を採用せず、
信頼性がある、と考えられる記載を根拠採用して、
清賀上人の渡来を418年頃、と推定された、という事であり、
何ら論理的に間違ってはいない。 >>588
>>「出発説明+途中移動の説明+到着の説明」というのような、
順次式の書き分け説明をする事は、人類の常識であり、<
>それが人類の常識だと、あなたはどうやって知ったの?、<
60年以上の読書などの体験や、実生活上での経験から。 >>589
大和説者は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解への質問に、
まったくと言っていいほど答えないへのだけではなく、
不可知部分に近い事への質問をして、その返事を要求して、
口先議論に勝って世間の人々を騙そう、とする、
・・・・ケダモノサギシ。 >>591
>>>(大和説者は)人類の常識知らずの、・・・・か詐欺師か、だよ。<
>証拠を出さずに<
「南→東」などが証拠。
>常識だと言い張るのが まさに詐欺師のやる事じゃないのか?<
「南→東」は、まさに嘘吐きダマシの詐欺だよ。 >>596
>>一里が76mであれば、萬二千余里は912km余り。<
>ダメだね
韓は方四千里しか無いんだから 韓国内を七千里も南に行くのは詐欺<
ダメだね。
郡の出発は、循海岸水行であり、
それが終わってから「歴韓國乍南乍東」の陸行になり、
方四千里の韓國を対角線的に行けば、直線として1,414倍して、5600里位。
よって、循海岸水行距離は1400里位になる、というだけ。 「會稽東冶」に改めているのは晋書、後漢書
北史は「會稽東」、隋書は「會稽之東」、通典は「會稽閩川」
「会稽東治」をそのまま採用している史書はない >>597
>一里が76mであれば、三千里差し引いて九千余里は684km余り。<
何これ?。
何故三千里を引くんだろうかねえ。
「萬二千余里」のままでいい筈なのに。
>郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は6.2度差。<
萬二千里余里のままであれば、912km余りで、緯度差8.2度。
>帯方郡のあった沙里院は、ほぼ北緯38.5度付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯32.3度付近。<
沙里院起点としても、38.5−8.2=30.3(度)。
>ほら、揚子江河口にはぜんぜん届かない。<
ほら、揚子江河口の北緯30度とほぼぴったり。
この男は何をしたんでしょうかねえ?。
3千里を引く、という嘘ダマシの誤魔化しをしたんですよ。
全くの・・・・サギシですねえ。 明治8年、イギリスのノーマン・マックレオドは
古代日本史の縮図を著す
天皇家は古代イスラエル王家の子孫であると唱えた >>600
>會稽東治の場所は、長里で丁度よく、短里では長江も渡れないのですから、
魏使らと同じく、 「長里」だけを知っていて使った、という事になるんですよ。<
これは、どうやら、例の萬二千余里から「三千里」を引いた、
ダマシ詐欺の・・・・大和説男の投稿のようですね。
萬二千里が長里であれば、5200km位になり、
赤道をはるかに越えてしまう、アホ論になってしまうんですよね。 >>106
古賀は雷山千如寺法系霊簿の史料批判はしていない
割算で出したらちょうど都合がいい年代が出たというだけ
それが古田信者の基本姿勢
清賀上人が開基した油山観音は729〜748年
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/13 そろそろ、
アタマのビョーインに行ったほうが良いぞ 数年前の予言スレでも
「あんなの何やら」
という謎の書き込みがあったり、いまの福島県?のほうの事を言っていた >>112
方四千里しかない韓国内を七千里も南下したことにする古田系詐欺師が、カタギの人をサギ呼ばわりしているよ。 >>601
>いつも九州説が論破され散るね <
という事は、この男も、
こっそり「萬二千余里から三千里を引いた」例のアホ大和説者のダマシに、
騙されたアホ大和説者だった、という事になる。 バスケ漫画だったかな?
山王に「サトシ」という名前のキャラクターがいない? >>120
南下が四千里、東に三千里で狗邪韓国。
対馬海峡を渡るのに三千里。 >>601
>いつも九州説が論破され散るね <
という事は、この男も、
こっそり「萬二千余里から三千里を引いた」例のアホ大和説者のダマシに、
騙されたアホ大和説者だった、という事になる。 山王?
同姓同名なのかな、
兄と妹がいて・・・妹:5月15日生まれ >>604
>昨今九州説の衰退が著しい<
昨今、、大和説者同士の騙し騙され合いの醜態が多く、
「南→東」などの嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシの大和説の衰退が著しい。 >>129
こんな悪口ばっかり言ってれば衰退するわな >>608
>>>だいたい、「短里」なんてものが存在すると言い張る理由はなんなんだ<
>>周代から唐代の文献や、中国周辺の距離記載に、
「長里では全く合わず、短里でほぼ合う記載」が非常に多いから。<
>また空疎な回答だな 実例は? <
こんな・・・・ケダモノサギシの大和説に、一々全部書き出して上げる必要がない。
周髀算経と、三国志を挙げれば十分。
必要なら、古田谷本共著の「古代史の歪みを正す」を紹介しておけば十分。 以前、書いたことがあるんだけど
三國志厨?
厨=中毒のような意味 >>131
おかしな新興宗教が、なにを言われても
「根拠は聖書です」
と言い張るようなもんだな
w >>132
いや、厨は中学生の隠語
つまり「ガキなみ」って意味のネットスラングだよ 『賠償』
ググってみたんだけど、
こーえーの事が書いてあった 誰が作ったのか、わからないけど、
あのチェーンソーのゲームは何だったんだろう >>610
っていうか、
「南→東」などの指摘に全く反論出来なかった嘘つき騙しの大和説は、
死んでるだろ?。 >>617
>街道の整備された中国国内では車輪の回転数で距離が測れるから妥当な数字が記録に残ってて、難路の山岳、沼沢地域などで怪しくなり、辺境ではかなり怪しいってだけだ
単離など無いよ<
まだ、・・・・大和説が抵抗しているようだが、
今日の夕方の議論で、
郡から萬二千余里は、短里なら北緯30度位になって、
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東 」の揚子江河口付近の北緯30度と、
ほぼぴったりになり、
陳寿が「短里」を知っており、短里を使っていた、
という事まで決まり、
長里だけ説や大和説の敗北が決定下だよね。 お前の言う金印というのは何なんだ?
ワンピースと言う作品に出てくるキャラがいるでしょ、
首の付け根辺りに付いている印? 背中だった?
謎の印のようなものがあるから、
ググってみるとわかるよ >>624
「南→東」などの嘘つき騙しの証拠を聞かれると、
石のように黙っちゃって 返事しない事と、
陳寿の地の文の「計其道里、當在會稽東治之東」の揚子江河口付近の北緯30度と、
「自郡至女王國萬二千餘里」が短里で北緯30度位になって、ほぼぴったり合った事で、
陳寿も短里を知っていて使っていた、という事が判った事や、
殉葬奴婢百余人などにぴったりの祇園山や、
21枚の「尚方作」鏡が見つかった平原の存在などで、
大和説は負けたんだよ。
大和説は負けたんだよ >>626
オウム返しされたり、ニセスレたてられて嫌がらせされたり、
「南→東」などの嘘つき騙しをしたり、
陳寿が「短里」を知っていて、更に使っていた、という事まで判って、
負けた九州説のやることは、
みっともないよ。 >>643
>だって通説だもの <
何だ?、「通説」信仰か?。
そんなの学問や科学ではなく、宗教だから、
宗教スレにでも行って、通説を拝んでいな。 北緯30度は、屋久島の南の口之島の北端あたり
那珂八幡の緯度は、33度 34分
緯度 1度あたりの距離は約111km >>646
>中華書局だって東冶を採用してるのに
>大和説じゃなくても中国でも「治→冶」大和説じゃなくても中国でも「治→冶」<
明治以後に、日本の皇国史観学者らに洗脳された魯弼以後の中国や台湾学者は、
信頼性が殆どない。 『紀桃奴事』
ぎんたま・・・?不明?の話が出てくる どうなっているんだろう
むかーし伊達郡というところに住んでいた、
銀というのがいて、謎の刀・・・・ ジンム?『古事記』では「神倭」となっていて
これが『倭猿』? >>144
帯方の「東南」と書かれている史料を
否定・歪曲して
1万2千里まるまる南下したことに
捏造してしまう
古田説はとんでもない
トンデモ説ですね 『倭猿』
グーグルで調べてみるとサルタヒコも出てくる >>161
奴隷なら奴隷らしくしろ!
と言っている人もいた 自分の頭で考えずに
古田さん古田さん言ってる人も
一種の奴隷だろう 東日本大震災おめでとう^^^^^
と言っている人々もいた 神倭から誕生した一族、
これは奴隷(倭猿)ということになる 『遅れてやってきた倭種』
この一族も、そういうことになる 大阪市平野区喜連瓜破って呉人が定住した場所だから、魏とやりとりしてたなら関西ではないよな 呉人は呉人。
キュウリは・・・日本では河童、河伯? おまエラ(ヒレなど、水に関係するという意味)がやったのか、
と言っている人もいた
たしか陰謀スレ >>649
つまり大和説者はトンデモ人種ってことさ 。 >>652
大和説者が、
史料事実や史料批判を捨てて、思想宗教商売を始めた時代は、
政府や右翼マスコミや、排他的人種差別殺戮戦争狂の、国粋皇国史観キョクウが、
憲法違反の再軍備や歴史教育支配を復活させつつあった時期であり、
史料選択や出土品も怪しいものが持ち込まれたんだよな や。 >>148
北部九州は、倭国があるあたりより五千古田ン里くらいも北ってことですよ 金関 恕さんの言われるように、中平紀年銘の鉄刀は卑弥呼が貰ったと考える以外にありません。
いよいよ邪馬台国論争も最終局面に入ってきました。
東大寺山古墳のある和邇氏とは何者か、ここが焦点です。
日本書紀の言う天足彦国押人命(孝昭天皇の子)を祖とするのか、先代旧事本紀の言う阿田賀田須を祖とするのか。
前者は和邇下神社に祀られ、後者は和邇坐赤坂彦神社に祀られてます。
※どちらが祖でも説明できます。
スサノオ(帥升) アマテラス 107年
・ オシホミミ
・ ニニギ
・ ホオリ
事代主 フキアエズ
@奇日方(鴨王)※ヒメ踏鞴ー神武 200年頃
A建飯勝 綏靖 220年頃
B建甕尻 安寧 240年頃
C豊御気主 ※トヨ津ー懿徳 孝昭 260年頃
D大御気主 孝安 孝霊 280年頃
E阿田賀田須 孝元 開化 300年頃
崇神(ハツクニシラス) 318年没
天足彦国押人命は孝昭天皇の子、その孝昭天皇は天トヨ津の子。
ヒメ蹈鞴→天トヨ津→孝昭→天足彦国押人命→和邇氏末裔
これでも構わない、充分説明ができる。
太古から続く出雲族のラストエンペラー、最後の大物主、阿田賀田須が和邇の祖でもかまわない。
上記、ヒメ蹈鞴、天トヨ津と同族になります。
ついに【物的証拠】【文献史】で邪馬台国が解明されました。 >>181
ザラコクはいかにも60年アンポトーソー世代だな >>140
古田説は、いつもインチキ計算で帳尻合わせをするね >>653
>東治は福州以外にあり得ないんだよ<
陳寿は、「分郡後の会稽郡の東治」と「福州付近の東冶」とを、
きちんと書き分けているんだよ。 倭人伝が綺麗に解読されて卑弥呼の墓は平原だとわかったのにまだやってたのかw >>657
>「会稽郡の東の治所域」なんてものは存在しないし
会稽郡の最北端の東にも九州はないよ もっと北だから <
陳寿は、
「自郡至女王國萬二千餘里」は大体「計其道里、當在會稽東治之東」に当たる、
という理解であり、
南九州の投馬國までが共立國だからほぼ「、どちらも北緯30度付近であり、
どちらも短里であり、
「ほぼ合っている」んだよ。 >>670
>大和説学者らは、本当にそんなトンデモ説を唱えてたのか?<
はいーーー。 >>677
>国宝金印が偽物とか、誰が言ってるんだ?<
倭奴國が筑紫にあったら困るから、
「5chなどの掲示板のたむろする大和説信者や学者」ら。 >>190
邪馬壱国は弥生銀座を根拠にしながら
考古学的根拠がない投馬國を南九州に比定して會稽東治之東の帳尻合わせをしている
古田のド素人の考え >>685
>文献無視したって証拠は?<
「南→東」や「邪馬台国」や「台与」や「東治→東冶」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
倭國の地方の市を監督する大倭職の附庸国の旧小国」
であった事の無視など。 >>193
そんな人が実在するの?
ザラコクが脳内で妄想した架空の人じゃないの? 倭人伝が綺麗に解読されて卑弥呼の墓は平原だとわかったのにまだやってたのかw >>692
なにも証拠を出さずに、
既にある証拠を隠蔽したり、否定曲解する・・・・ケダモノサギシなのが、
大和説。 >>197
批判してるからね
無視したというのは、ウソ
九州説は平気でウソをつくなあ >>201
そんなことをした、って証拠は?
ブーメランが刺さって死ぬ九州 >>200
誰がそんなこと立証したの?
著者と論文の名前は? >>698
大和説は、
史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシの、
やくざ暴力団のようなケダモノの、
デマ専門の犯罪者的詐欺師か?。 >>702
>箸墓が4世紀だって根拠は?<
端的には、
陶質土器を携えた(有槨の285年以後の)伽耶人が渡来した加美が、
(布留はなく)庄内であったのに、
箸墓は布留であるから。 >>705
大和説、大和説、
証拠もないのに言い張るだけ。 >>715
大和説の史料証拠無視隠蔽の詐欺体質が、よく出てるやりとりである。 >>206
ザラコクさん
ガセネタいくら流しても
箸墓の年代は捏造できません >>143
径百歩の塚
というとは、当時にしては大きな墓だが、
中国の皇帝レベルのような「墳」ではなく、
それよりは小さな「塚」レベル。塚にしては
大きい。のちの巨大な前方後円墳よりは小さい。
多くの殉葬がされた古墳は日本には見つかってないが、
あれば候補か。 >>214補足
古事記は倭日子命の葬送時に
「初めて陵に人垣を立てたり」とある。
つまり畿内ではそれまで殉葬はやってなかった
ともとれるので、そうすると、卑弥呼は
九州ということになってしまう。 >>215
年代が不明なのに、そんなこと言えない
だいいち、九州にも殉葬の跡など無い >>214
>中国の皇帝レベルのような「墳」ではなく、
>それよりは小さな「塚」レベル。
「掘始皇帝冢私收其財物」『史記』高祖本紀巻八
冢,大也。《尔雅》 >>216 ふーん。
俺が言ったのは、他人の説をパクっただけだからね。
墳と塚の違いね。魏志倭人伝を書いた人は
ちゃんと書き分けているってね。 >>216と>>218は別人か?他人かもしれぬが、
ともあれ、>>216の言い方では腹が立つだけだが、
>>218のようなソースを出されると、
言い分は読まざるをえない。 >>218 対抗説
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
>しかし、『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が区別されていたことに注意しよう。
>『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」[25]という諸葛亮伝の発言や、通常、
>大君公侯の墓が「墳」であったという記事[26]があり、高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに
>十分な程度の高さしかない墓を「冢」というように区別していたことが窺える[27]。
>
>では、どの高さを超えたならば、墳になるのだろうか。『周礼』には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下
>庶民に至るまで各々差あり[28]」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことがわかる。
>一丈の長さは、時代によって2メートルから3メートルの間で変化するが、あまり大きな差ではない。
>12メートルを超えれば、間違いなく、墳である。箸墓古墳は、高さが30メートルもあるので、魏使が見たら、
>「大いに塚を作る」ではなくて、「大いに墳を作る」と書いたはずだ。 >>717
>畿内説の主張まで捏造してるし<
大和説自体が、史料の否定曲解捏造ばっかりだし・・・。 >>721
>南→東が、何で文献無視なの?<
文献無視どころか、
極めて信頼性が高い史料事実の、否定曲解捏造の嘘吐きダマシの「犯罪者的詐欺」だよ。 >>221はコピペだが読みづらいので編集してみた。
https://www.nagaitoshiya.com/ja/2010/queen-himiko-tomb-hirabaru/
卑弥呼の墓は、箸墓古墳のように巨大な墓であったと想像する人が多い。しかし
魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が区別されていた。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝の
発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある人工
の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「冢」と
いうように区別していたことが窺える。
では、どの高さを超えたならば、墳になるのだろうか。12メートルを超えれば、間違いなく
墳である。箸墓古墳は、高さが30メートルもあるので、魏使が見たら、「大いに塚を作る」
ではなくて、「大いに墳を作る」と書いたはずだ。
『三国志』魏書東夷伝倭人条に出てくる「大いに塚を作る」という表現は、「塚としては
大きいが、墳と言うほど大きくはない」という意味なのである。 >>724
>箸墓は布留0だから庄内だよ<
ダメだよ。
庄内がなくて、布留があったんだから、布留だよ。 >>729
史料事実からの論理的な解釈ができないのは、
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説に共通の特徴かい?。 >>224
「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
墓全体が墳、棺を容るところが冢
前方後円墳全体が墳、後円部が冢
箸墓古墳後円部径が約150メートル、145cm×100余歩 久しぶりに日本史板に来てみたけど今って九州説のスレが無いのか?
その代わり畿内説のスレが乱立してる? >>737
史料事実の否定隠蔽曲解、
立証義務転嫁、
大和説は詐欺。 700番台のスレにリンクを張るのは、誤爆しつづけているのか?。
未来への投稿か? >>227
>>前方後円墳全体が墳、後円部が冢
珍説登場だな。前方後円墳なら
長径百歩とでも書くだろうよ。 >>743
>なに言ってんだかわからないが 台湾あたりだな<
「自郡至女王國萬二千餘里」が、短里であれば北緯30度くらいだし、
長里であれば赤道位だから、
台湾は✖だな。 畿内説は実は東遷説だな。
【畿内説の主張のまとめ】
(奥山氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」
「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」
「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した」 >>231
九州説はもう自分とこのスレ立てるのも諦めて荒らし出したって事?
やっぱ纒向遺跡の影響? 「南→東」の書き間違い説については、南のままでいいんだよ。
北九州の沿岸を航行する舟は、長門の国にぶちあたって、東行できないから。
出雲に向かう北航路か、瀬戸内に向かう南航路か、どちらかを選ばなくては
ならない。 >>234
九州北部と畿内では、どうしても畿内の
方が人口が多い。超巨大古墳を作るだけの人口があるし。
伊都国は蝋燭の最後の輝きだな。基本的に
東遷説というか、権力は西から東に移ったでいいだろう。
コメの生産力とか違うし。 >>237
>九州北部と畿内では、どうしても畿内の
>方が人口が多い。超巨大古墳を作るだけの人口があるし。
根拠なし。 鉄鏃の分布なんか見ると絶望的だよね
奈良なんて東京や千葉の10分の1だもんね
発掘なんて東京に比べりゃはるかに恵まれた環境なのに
九州に比べれば2桁違う
農具は木製や石器なんて西日本の盟主だの王都だのってどんな妄想だよ
吉備や尾張の方が全然上
ちなみに湖沼、沼地の干拓ってのは水を抜くのに苦労をする
治水のために水路を掘ると結構な残土が出るんだな
奈良盆地に3世紀以降古墳が出来たっつのはまあそういう事だ
摂津河内も無理当時は河内湖が汽水から淡水に移行する頃で農地に出来るのはまだまだ後 【稲作の分布】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。 >>756
史料事実を出して上げても、見ないし、隠すし、
見えても否定曲解捏造するし、
自分の方からは証拠を出さないは大和説は、
崩壊だな。 >>240
あのねー、現実を見てよ
筑前筑後合わせても、畿内のほうがずっと大きいでしょ? >>240
>畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く
都は米を作るところではない
寺社や大仏を造るので忙しい >>767
大和説者が大分いなくなったが、
まだ残っている大和説は、人種差別的排他的戦争狂が約二名ほど。
それも脳がかなり壊れたようだ。
世間の皆様、彼らは狂暴で怖いですから、気を付けてください。 >>770
>通説なんですが<
ははーん?、(官やマスコミなどが支持する)通説信仰ですか?。
国民の過半数に否定され、
3割しか支持されていない通説なんて、価値があるんですか?。、 >>772
まあ壊れもするさ。
長年信仰してきた大和説が、よりによって、未だに国民の3割しか支持されず、
国民の過半数に否定されちゃ、
精神的にも大崩壊大するだろうからな。 >>778
別に困りません。
大和説が、自分から証拠を出せない宗教で、
出された史料を自分から否定隠蔽曲解している・・・・アホサギシだって、
自分で宣伝してくれてるんだから。
九州説の自壊を笑って見てるだけでいい >>792
大和説の・・・・ケダモノサギシさんが、壊れているな?。 >>797
大和説の嘘吐きダマシの・・・・ケダモノサギシらのガキらの脳が、崩壊。
怖い怖い、またどこかで大量殺人が出る。 >>799
大和説者さん、幻覚が見えてるの?。
やばいよ。 >>233
サギ計算はダメ連呼しても無駄
もうネタは割れてます >>255
ブラウザ壊れてんのか。
なんで>>802を指してるんだよさっきから。 >>815
大和説にはなにもない。
理由もない、証拠もない、論理もない。
そして、
自分らの6倍位も違う里数には黙って、有効数字1桁程度の近似値の九州説の里数を誹謗し、
「南→東」などのような、史料記載を否定曲解するような嘘つき騙しなどをする。 >>819
九州説は正当だな。
大和説は、口で操って騙す嘘つき詐欺だな。 >>825
大和説はひどいもんだな。
大和説の説明は、全くしていない。 >>827
証拠ださない、理由言わない 、
ひたすらひたすら言い張るだけか。
大和説ってか、これ痴呆化の進んだ・・・・ケダモノ詐欺師さんの特徴だろ?。 >>830
大和説が、国民からは3割しか支持されず、
国民の過半数がする、九州説を支持するわけだ、。 >>836
南は東の間違いにならない、って説明に、
大和説のおじいちゃんたち、ぜんぜん反論できないの?。
最初の第一歩からの拠り所じゃなかったの?。
あとがないよ。 >>839
大和説は、もう大崩壊しちゃったんだよ。
日の光を見ることはもう無い 。 >>842
実際、日本の大和説者らの学術レベルでは、
比定地の議論はもう、勝てないと諦めて、隠蔽して逃げれるレベルだけどな 。 >>244
邪馬台国の話だろ?
奈良の大仏の500年前だよ。
時代錯誤。 九州は、もう完全敗北してるので
こんなデマや悪口を撒き散らすこと
くらいしか出来ないんだろう
哀れなことである 畿内説は、8世紀の奈良の繁栄を五百年も昔に投影して幻を見ているだけだよ。
考古学的証拠が何もない。 >>264
>大和説が、国民からは3割しか支持されず、
>国民の過半数がする、九州説を支持するわけだ、。
九州説は各県地元説だから1県あたり平均は1割以下 九州説は、今も昔も一度も王権が存在しないのにも関わらず「あった」と幻を見ているだけだよ。
考古学的証拠も文献的証拠も何もない。 最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。 金関 恕さんの言われるように、中平紀年銘の鉄刀は卑弥呼が貰ったと考える以外にありません。
いよいよ邪馬台国論争も最終局面に入ってきました。
東大寺山古墳のある和邇氏とは何者か。ここが焦点です。
日本書紀の言う天足彦国押人命(孝昭天皇の子)を祖とするのか、
先代旧事本紀の言う阿田賀田須を祖とするのか。
前者は和邇下神社に祀られ、後者は和邇坐赤坂彦神社に祀られてます。
どちらが祖でも説明できます。
スサノオ(帥升) アマテラス 107年
・ オシホミミ
・ ニニギ
・ ホオリ
事代主 フキアエズ
@奇日方(鴨王)※ヒメ踏鞴ー神武 200年頃
A建飯勝 綏靖 220年頃
B建甕尻 安寧 240年頃
C豊御気主 ※トヨ津ー懿徳 孝昭 260年頃
D大御気主 孝安 孝霊 280年頃
E阿田賀田須 孝元 開化 300年頃
崇神(ハツクニシラス) 318年没
天足彦国押人命は孝昭天皇の子、その孝昭天皇は天トヨ津の子。
つまり中平銘鉄刀が、ヒメ蹈鞴→天トヨ津→孝昭→天足彦国押人命→和邇氏末裔
とヒミコとトヨを経過してることになる。これで構わない、充分説明ができる。
太古から続く出雲族のラストエンペラー、最後の大物主、阿田賀田須が和邇の祖でもかまわない。 上記、ヒメ踏鞴と同族です。
邪馬台国論争は終了です。 >>860
大和説の説明や、「南→東」や「6倍位の差」などの質問にまったく答えられず、
九州説の推論の説明に対しては、
「100%完全な絶対断定」を要求して、誹謗を繰り返す、
などのしか出来ない大和説が、全くみじめです。 >>863
大和説の・・・・ケダモノのアホガキの詐欺師らは、
完全に思考停止しちゃってるよ。 >>868
大和説者は、もう言ってることが支離滅裂だなー。 >>878
大和説学者や、大和説者や、安部自民政府や、右翼マスコミや、教育界や、
排他的人種差別の国粋皇国史観のキョクウらは、
脳崩壊してるなー。
怖い怖い。
騙されて、また戦争させられて殺される。 >>887
大和説学者も、大和説者も、安部自民政府も、右翼マスコミも、教育界も、
排他的人種差別の国粋皇国史観のキョクウらも、
プライドがズタズタなんだろうなあ。
怖い怖い。
・・・・らの脳がズタズタになったら、
国民がオーム信者らのように騙されて、
また戦争ら行かされて、殺されてしまう。 >>889
大和説の立証義務の放棄で、大和説の負け。 >>892
理性的に論理的に大和説の説明や議論できる人材が、
もういないのが 、
大和説の悲劇だな 。 >>895
まさに今の大和説は、
スレ主も、
大和説学者も、大和説者も、安部自民政府も、右翼マスコミも、教育界も、
排他的人種差別の国粋皇国史観のキョクウらも、
クズそのものだな。 >>898
大和説は「排他的人種差別殺戮戦争狂の国粋皇国史観教」説と読みます 。
畿内説と読み変えるのは間違いです変える。 神庭、丹波、難波
ツクヨミ、スサノオ、アマテラス
亀、浦島太郎、竜宮城
倭国を作りし人々かも。 >>902
>ジイさん、もう寝ろよ<
大和説学者も、大和説者も、安部自民政府も、右翼マスコミも、教育界も、
排他的人種差別の国粋皇国史観のキョクウらも、
さっさと病院や刑務所に入れてもらって、もう寝ろよ。 >>903
大和説の学者がいなくなった現状では、素人さんは、
東の田舎の大倭職の事よりも、
一旦、邪馬壹国の阿毎氏との姫氏の福岡説との、
姫氏本家の狗奴国に比定されてる熊本説との、
統合問題で論争して遊ばないとだめなんですよ。 【壹與と與止日女】
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。 【狗奴国】
狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。
邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。 >>278
>大和説の説明や、「南→東」や「6倍位の差」などの質問にまったく答えられず、
そんな質問、いつした? >>906
議論停止中のスレ主と、
残った二匹位の、思考停止の繰り言の、
国粋皇国史観キョクウの・・・・ケダモノサギシだけか?。
大和説の末路は惨めなものだったな。 >>291
與止日女命は神功皇后の妹。
勝手に女王にしたらいかん。
>>292
その副葬品の分布図は7世紀までのものが全て記載されており、
元データを見れば「3世紀まで」だと熊本に主な副葬品はゼロの地図となる。
よって、そのデータは逆に
邪馬台国と戦って王を名乗ることまでできた狗奴国とは熊本ではない
ということになる。
>>293
明らかに邪馬台国女王の後継である神橿日姫と景行によって、
九州は完全に統一されている。
邪馬台国内での内紛なのだから、息長帯姫も田油津姫も邪馬台国系であって、
邪馬台国王の系譜は息長帯姫側へと続いているわけだ。 >>912
>日本(倭)?の都というのは九州にあったの?
とれとも畿内にあったの?<
大和日本国は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国の、倭國の附庸国であった、
という史料実態を隠して、
「南≠東」である事も隠して、
「日本(倭)?の都というのは九州にあったの?とれとも畿内にあったの?」
と「畿内」という文言で問いかけるこの投稿子は、
やはり、通説大和説者に騙された人間なのであろうか?。
それとも畿内にあったの? >>297
>元データを見れば「3世紀まで」だと熊本に主な副葬品はゼロの地図となる。
↑
矛盾してないか?
↓
>九州は完全に統一されている。 >>298
>大和日本国は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国の、倭國の附庸国であった、
という史料実態が、無い >>297
>與止日女命は神功皇后の妹。
>勝手に女王にしたらいかん。
後世の習合だよ。 >>299
3世紀までだと熊本に副葬品ゼロなわけだろ
九州が完全に統一されたのは景行の時だから、
4世紀以降 >>297
>元データを見れば「3世紀まで」だと熊本に主な副葬品はゼロの地図となる。
>邪馬台国と戦って王を名乗ることまでできた狗奴国とは熊本ではない
ふむ。
貧乏な農業国の王だったかもしれない。
それても畿内よりはマシだろう。 4世紀以降の副葬品を示して狗奴国だと主張する九州説 >>917
>金印は本物だよ という当たり前のこと
それに対してキナイコシは >アタマのビョーインに行け
日本人?<
また、奇妙なところで、「日本人?」のいう文言が出て来た。
「日本人じゃないから、九州説になったんだろう」というような、
近隣諸国民への排他的なキョクウのヘイトスピーチと同じ思考であり、
人種差別的発言。
大和説者の殆どは、
このような「排他的人種差別」や「殺戮戦争」が大好きな、
(憲法違反の)・・・・ケダモノ人種。 >>304
熊本で
弥生時代に小国王墓と推定される
銅剣などの副葬品がある墳墓は25箇所。
そのうち装飾品がある女性王墓の
可能性があるのは5箇所。 >>306 では3世紀までの遺物となると、
畿内はますます副葬品が乏しくなってしまうぞ >>304
景行が倒した土蜘蛛の名が邪馬台国の官なので、各地で反乱が起きたのを再統一しただけかと。
ただし景行自身は九州の外の分家が舞い戻って倭国を再統一したのだろう。 >>297
>邪馬台国内での内紛なのだから、息長帯姫も田油津姫も邪馬台国系であって、
>邪馬台国王の系譜は息長帯姫側へと続いているわけだ。
一理ある。
ただ、翁長タラシ姫の出自に確証がない。 >>291
與止日女は異人種肥人(コマヒト)居留地域北部で祀られている豊種の女神で
祖国済州島ではヨンドンハルマン(婆さん)と親しみを込めて呼ばれている
済州島は馬韓伝では州胡と紹介され、短小で頭を剃りくり上げ、なめし皮を着て
下がなくほとんど裸のようであり、好んで牛や豚を飼う
西北九州の古人骨も短小であり、支石墓も済州島、全羅南道と共通している >>313
邪馬台国の官であるという証拠はない
狗奴国の官だったかもしれない
>卑狗
>狗古智 卑狗 >>301
>なぜ九州が出てくるんだ?
>新興宗教か何かなの?
卑弥呼が女王を務めた倭国は九州だからだよ。
3世紀の奈良には何もない。 >>301
(邪馬台国の南にあるという)狗奴国は
和歌山か?なんて主張は、畿内説でも
さすがにないぞ。おおむね熊本あたりという
意見が大部分。 ちなみに弥生期の奈良県の
副葬品がある小国王墓の数は3
女性の王墓の可能性ある
装飾品のある王墓はゼロ どうでもいいけど
4世紀以降の副葬品を持ち出して熊本を狗奴国にする詐欺はいい加減ヤメレ これも偶然
ミミ、ミミと言っているけど
信オンというゲームをやっているとき、
作成したキャラ
そのような名前のキャラ名だよ >>921
>・・・教えてほしかったら「邪馬台国葛城スレ」に来い。<
鉄刀なら、九州から10本位出土していた筈。
という事は、九州倭國で一旦受け取って、倭國の東征の一武将が東大寺山に埋葬された時に、
副葬されたんだろう、という事になる。
そして、この男も「竹島戦争」を鼓舞扇動した大和説者のssnだから、
始めから怖いキョクウの「南→東」の嘘吐きダマシの詐欺師であったのであり、
騙されて戦争の行かされないように、気を付けましょうね。 >>317
>與止日女は異人種肥人(コマヒト)居留地域北部で祀られている豊種の女神で
>祖国済州島ではヨンドンハルマン(婆さん)と親しみを込めて呼ばれている
別人じゃないか?
余田姫は荒ぶる神でナマズの神様、干珠満珠で潮の満ち引きをする巫女女王だよ。
全然似てない。 >>326
日御子
日巫女
音がピミカだから日向かもしれないし。 歌舞伎役者?
このようなキャラもそう、
当時の風雲録 >>325
有明海沿岸全体が肥国で、卑弥呼の治世に筑紫と合流したけど肥後だけ反旗を翻したなら、肥国の中心から離れた熊本に貧しい分家がいた(南北朝時代みたいな)状況かもしれない。
少しタイムラグがあってから肥後も繁栄したのかも。 >>320
いやいや、畿内説はとんでもないことに、東海や静岡や和歌山や河内や、あちこちを狗奴国に比定しているよ。
南を東や西に好き勝手に書き換えてね。 妹:5月15日生まれ
『たまごっち!』
という作品に妹と同名の女の子 >>923
>昨日は意味のない罵倒合戦が続いた
罵倒合戦では畿内説が優勢だな<
大体、学問的な論戦ではなく、罵倒合戦になったら、
そりゃ、(オームのように)思想宗教に狂ったヘイトスピーチ人種の方が必死になるから、
口数も、口調も、ヘイトスピーチ投稿数も、多くなる傾向があるからな。 >>334
南北朝時代を持ち出すなら、もともと3世紀までの副葬品が充実した福岡県の中で南北に分けるのが妥当 ねこミミ
ゲームのなかでは陰陽師だったかな
2006年頃に作成したキャラ、その作品は? >>939
>庄内式土器は、北九州ではかなり広い地域に分布しているのに対し、
近畿地方では、大阪府八尾市近辺と奈良県の天理市から櫻井市にかけての
限られた地域にしか分布しないのが特長である。
そのため、近畿の土器に吉備の土器が影響して出来たとする説や、
逆に、庄内式土器が九州から近畿地方にもたらされたとする考える方もある。<
成程。 東日本大震災おめでとう^^^^^^
このような言葉、
見たことがない? >>330
與止日女神社は別称河上神社
潮の満ち引きをするような場所ではない
異人種肥人(コマヒト)居留地域が倭国に組み込まれた後に
豊玉姫の話と習合させられたものと思われる 警察署などがあるから、
そこへ行けと言っているんだよ >>339
筑後川流域は、今は福岡県だが、本来は肥国の一部だろう。
筑紫天孫族から肥国姫氏王家への伊都国そして倭国の支配権の交代が倭国大乱、神武東征だろうと考えている。
九州北部の政治情勢は安定せず、狭い地域に強者がひしめき合っていたのだろう。
時に政略結婚、時に殺し合いなどして伊都国の椅子取りゲームのようだったのかもしれない。
記紀も魏志倭人伝も、殺し合いの記録ばかりだからね。 >>323
くがみみ
このようななまえのキャラもわすれるなかれ^^ 大倭=たには=たんば=たじま=たじまじんじゃ=宗像 >>326
肥の国の巫女だからヒミコか。
シンプルでわかりやすい >>343
河上神社の近くまで昔は海だった。
干珠満珠の話は有名らしい。
ttp://lunabura.exblog.jp/24416208/ >>336 ひでえ。勝手な解釈の場所にもほどがある。 >>351
但馬と田島は同じだろうが、大倭は関係ない。 >>355
そもそも南を東に言い換えて邪馬台国を畿内にするくらいだから、狗奴国だって書き換えてしまう。
畿内説は嘘つき詐欺師の集団。 『たまごっち!』に登場する
「ともみ」という名前の女の子の声優?
『猫神』ではメイ子? 三貴神(子)というのがいて、
穀物・・・、
ウマヤドのようなキャラに >>985
>1里約76mなんて珍説では邪馬台国が北になりすぎて陳寿の認識と合わないね <
いや、卑弥呼共立國の大国の投馬國は、
不彌國から南方の水行二十日の位置にあるから、大体南九州であり、
女王國は九州と付属の島々全体になり、
「自郡至女王國萬二千餘里」の女王國が南九州にまである事になるから、
会稽郡の東の治所地域の東方だ、という陳寿の推定と一致する事になる。 >>356
そーかのー^^
えーアイデアと思ったが(まーどーでもえー 卑弥呼共立國の大国の投馬國が南九州
狗奴国も南九州
あれ? 数年前のとあるスレ
「本人だぞ」「本物です」
と言っている人がいたり >>989
>>おそらく、欠史八代頃の「大倭」職としての「山(邪馬)の門(都)→ヤマト」の呼称が残って、
の7〜8世紀頃に「大倭→大和」の文字変更があったんでしょう。<
>山門(甲類)と「耶馬騰」〜(全部乙類)は同じ記紀の時代<
呉王夫差の遺民が渡来した「火の国山門」の山門や、
北部九州に散在する「山門」の地名は、
8世紀の大和における甲乙音のはっきりした区別があったのか?は、やはり疑問。
>甲類乙類の区別と倭人伝の邪馬壹、後漢書の邪馬臺とは別の話<
だから、伝聞記録の場合には、「類似音韻」での音写の可能性が有り得る事になる。
但し、3世紀の九州倭人は、漢字を使用出来ていたから、
漢字の自国名を持っていた可能性もある。 >>354
川上峡の河上神社の近くまで昔は海だったら、平野がないから
水田はほとんどなかっただろう >>102
>>>>>殆ど100%正しい「南」を、<
>>>信仰? 宗教?<
>>「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」。<
>実態だと言い張るけど 理由は?<
ついさっき、誰かに説明済み。
「南」は史料事実であり、「殆ど100%正しい」は「史料実態」。<
ロシアのおもちゃみたいになってるな(びーるふいた 『白面 八岐大蛇 サイ』
声優:サトシという名前じゃなかった? 『NARUTO サイ』
「弟だよ」と言っている人がいたり >>365
その通り
そんな場所に邪馬台国女王が来るはずもないし
出身地であったはずもない これも気づいていると思う
芸能人の話はしていません
と言っている人がいたり
数年前の予言スレ
本当に悪く言いたくないんだけど、
人の家に寄生? >>184
鰐さんの祖先ホアカリさんだったに一億ビットコイン(そろそろはじけるなビット >>370
うちゅーのはての幾何学やろ?(めーまわった >>991
>もう20年くらいも前の物だからね
現在では、もう少し古い時代だと考える人たちが主流みたいだね <
いくら古くしても、「列島の庄内の最古は三雲である」事は動かし難く、
播磨や河内や纏向の庄内は、筑紫からの伝搬で那珂八幡頃以後であった事になり、
河内の(伽耶人渡来の)加美久宝寺が、布留無しの庄内だけであるから、
纏向の庄内の絶対年代は、275年頃以後位にしかならないんだよ。 >>307
>大和説者の殆どは、
>このような「排他的人種差別」や「殺戮戦争」が大好きな、
>(憲法違反の)・・・・ケダモノ人種。
そのカキコ、東遷説の人のだから 百嶋神代系図では、豊(ゆた)姫は、玉姫や淀姫と同一で、鵜草葺不合命の娘であって、河上タケルの妹(表筒男・安曇礒良の妻)に当たります。
豊姫は、後に與止日女神社(川上神社)の河上大明神になりますので、豊姫を淀姫とする百嶋神代系図と合致します。
これに従えば、伏見神社本宮の御祭神の淀姫命は、豊姫と同一ということになります。
ttps://blogs.yahoo.co.jp/furutashigaku_tokai/56054830.html
より。
ややこしいなあ。
これが壹與なら卑弥呼はどうなるんだろう。
ちなみに伊都の高祖宮の祭神は鵜草葺不合の父の彦火火出見。
鵜草葺不合の息子が神武。
卑弥呼や壹與、熊襲梟師とも皆親族であったことになる。
邇邇芸、彦火火出見、鵜草葺不合を合わせて日向三代と呼ぶ。
倭国大乱の前の男王たち。 >>375
望月教授の証明が5年の歳月をかけて認められたとか
計算は割と簡単だけど証明はな 漫画やアニメ、ゲーム、創作関係?
元ネタになっている存在や人物がいるでしょ、
その後に映画化、アニメ化・・・・色々あると思う
実際にダメージを受ける、受けているのは、役を演じる人物ではなく・・・
元ネタ(モデル)とされる存在の子孫や末裔 >>224
読んだ読んだこーめーでんもさいきんよんだ >>360
>会稽郡の東の治所地域の東方だ、という陳寿の推定と一致する事になる。
「会稽郡の東の治所地域」って、どこ?
実在しない夢の国でも捏造してないか? >>382
とりくみましたがりかいふのーや(まいりました^^ わにくんが倭国王ゆーてたひといましたな(めしくってくる 探偵eyeという謎のドラマ
原作、脚本:秦氏??となっているでしょ
「口座に50兆円」と言っていたり、侵害、賠償などの話? >>993
>類似音韻習慣ってなに? ザラコク造語?<
人類は、
文字があれば、その文字やその類似音韻文字や類似意味文字で情報伝達が出来るが、
文字がなければ、聞こえて感じた音韻を、
それまで知って使っていた自分の音韻の中のどれかの類似音韻だろう、
と判断するしかないから。 >>376
>いくら古くしても、「列島の庄内の最古は三雲である」事は動かし難く、
素人老人ザラコクが、そんな妄想を演説したって
誰も信用しないから
>河内の(伽耶人渡来の)加美久宝寺が、布留無しの庄内だけであるから、
そんなニセ情報流したって
世間は騙されないから
九州説の信用が、どんどん落ちていくだけ >>994
地域も時代も全く違う別の甲乙文字の話を、無理やり同じ話だ、と強弁しないと、
大和説が危ういんもんね。 >>995
結局、大和説は、既に語られた事への、
知らん振りしての「根拠は?」や「証拠は?」などのゴリ押しと罵声だけで、
中身がまるでないな。
これでは邪馬壹國論争に負けたのも納得だ。 >>999
>>南九州。<
>考古学的根拠なし<
当然、薩摩の上野原遺跡。
このように、大和説者は、九州説者の挙証をなかった事にして、知らん振りして、
「考古学的根拠なし」と世間の人々を騙そうとする、
・・・・ケダモノサギシであった訳で。 邪馬台国はヤマト国。
卑弥呼が征伐し、その後に都を置いた国邑の名。
ヤマトは山外。
山の向こう側の地。
ただそれだけ。
何もありがたい地でもない。 >>1000
>今回も畿内説圧勝か><
今回も、九州説の完勝であり、
大和説の完敗か。 >>396
卑弥呼が征伐したとか
妄想もたいがいに
九州説はこれだから困る >>394
必死に誤魔化しても、根拠が出せないんだろ九州は
w >>395
上野原遺跡の弥生時代は、中期の掘建柱建築物2棟と竪穴式住居5基 でも、お年寄りなら、
このような事を言うだろう
何でも良いけど、
仲良くするのが一番だよ、
戦争が起きたりでもしてみろ、それどころの話ではない
戦争を体験した世代なのかな >>82
>>いいえ、古田さんらは、史料事実からの帰納的推論ばっかりしておられる。<
>「俺は清廉潔白だ」 と口先だけで言って 決して証拠は出さない人を
一体どこの誰が信用すると思うか <
古田本を買う金がなければ、
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1513281843/l50
で、古田第1書から読め。 南九州薩摩地域の弥生時代終末期〜古墳時代は山之口式土器を受け継いだ
土着色が強い厚手の成川式土器
http://www.jomon-no-mori.jp/no43.htm >>401の話は、ある程度あたっている。
大勢の人が死んだから、卑弥呼という女を王として
擁立したんだし。
卑弥呼が死んだあとはまた戦争で大勢死んだ。
そこでまたとりあえず仲良くということで
とよ が擁立された。
古代で千人の死者といったら膨大だよ。 昨今では調査が進み邪馬台国が二つあった事が分かっている。
一つは九州にあった。もう一つは畿内説者の心の中にある。 >>85
>>筑紫と竺紫と竹斯のように、漢字表現が3つあるから、音韻で書いたのだ。<
>それは「チ、ク、シ」という音韻の使用痕跡とは言えないな
「チック、シー」かも知れんだろ<
「チとクとシ」という音の連続があれば、「チクシ」の音韻であった可能性がある。 >>86
>>それをはっきり書かないで、「根拠って、何?」って書く投稿は、
(錯誤を誘発させる事になり) 詐欺師らに特有の「ひっかけ詐欺」の手口なんだよ。<
>ザラコクが自分で周回遅れでレス書いてて前後がワカラナくなっただけだ <
いや、もう探しておいて、投稿してあるよ。
>痴呆で自分が忘れたのに、他人を詐欺呼ばわりする ボケ老人の症状の典型だな <
漠然とした曖昧な言い方をして、相手が少し違う返事を書いたら、
それをしつこく執念深く繰り返し誹謗するのは、
思想宗教に狂った(大和説)人種に有り勝ちな「相手を陥れる手口」ですから、
気を付けましょうね。 >>409
またウソついてるね?
証拠ださないから >>409
鬼嫁がワシに昼飯くれないと文句いいつつ
3度目の昼飯食うボケ老人 >>95
>>三国志の中国内の方向記載では、全く間違いが見られない事や、
・・・方向間違いが全く見られない事だ。<
>話になりませんな。<
話にならしたいんなら、
自分から「三国志の中国内の方向記載」に間違いがあった例を出せば済む事だ。 >>101
直ぐには証拠の出せないことばかりの、証拠の要求をする、
トンデモの大和説者の要求振りが、
じつに醜い。 これは本当の話だよ
そういうことをネタなどにして、
お金儲けや商売をしているわけでもないし
他の家(人)の事はわからない
それと他人の家を利用したりして、
そういう事(商売)をしている人がいる、
というのは事実だと思われる >>104
>自分の意見に 「史料実態」なんて名前つけたら 不当表示サギではないか <
「南」は史料事実そのものであり、
「殆ど100%正しい」は、
その「南」の記載以外の、三国志内の(全ての)方向記載からの推論であるからの)、
「史料実態」だ。 >>415
>直ぐには証拠の出せないことばかりの、証拠の要求をする、
つまり、そんな主張をした男は詐欺師だ >>104
>そんな自分の意見に 「史料実態」なんて名前つけたら 不当表示サギではないか<
「南」は、史料記載そのものであるから「史料事実」であり、
「三国志内の中国内での方向記載はほぼ100%正しい」は、
事実そのものを調べてからそのもの後で判る事であるから、「史料実態」だ。 >>415
証拠のだせないこと、なんで主張したの? >>105
>実態だと言い張る理由を聞かれて 実態だからと答える ボケ老人<
史料事実そのものと、
史料事実を調べた後から判った事柄とは、違うものだ、
という論理が判らないこの男らは、
思想宗教にクルって、脳までおかしくなった・・・・。 >>422
「事実そのものを調べてからそのもの後で判る事である」
って証拠は? 弥生時代に旅行している人が太陽の位置を見て方角を記す
方角を間違えるなんてことがありえるの? >>428
>弥生時代に旅行している人が太陽の位置を見て方角を記す
という根拠は? 倭人伝が綺麗に解読されて卑弥呼の墓は平原だとわかったのにまだやってたのかw >>111
>「會稽東冶」に改めているのは晋書、後漢書
北史は「會稽東」、隋書は「會稽之東」、通典は「會稽閩川」
「会稽東治」をそのまま採用している史書はない ><
考証や校勘学者とは違って、
後代史家の「前代史書の内容説明記載」は、
その後代史家の自己解釈や、
後代の別情報などに拠る「書き変え」をされる、
などの事が幾らでも有り得、
元の前代史書記載を訂正出来るような論拠にはならない。
その最も悪い例が、現代史家の「思想宗教的な要求」に拠る書き変え。 >>432
そもそも会稽東治なんてモノが存在しない >>117
>古賀は雷山千如寺法系霊簿の史料批判はしていない <
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu1/firstbuk.html
には、雷山千如寺法系霊簿の考察も書いておられるよ。
>割算で出したらちょうど都合がいい年代が出たというだけ それが古田信者の基本姿勢<
中小路説との一致も確認しておられる。
>清賀上人が開基した油山観音は729〜748年 ><
古賀さんは、これも書いておられ、史料批判をしておられる。 >>432
中国では三国志より三史「史記・漢書・後漢書(後漢書の代わりに東観漢記または戦国策を入れることもある)」
のほうが評価は高い
裴松之が三国志に注を付したのは429年、倭人伝の誤記を指摘している
范曄の後漢書は432年 >>120
>方四千里しかない韓国内を七千里も南下したことにする古田系詐欺師が、
カタギの人をサギ呼ばわりしているよ。<
これもまた、酷い捏造だなあ。
古田論は、郡出発から韓に入る位までが「循海岸水行」であり、
その後で方四千里の韓を「歴韓國乍南乍東」した、という説。
どこから「韓国内を七千里も南下」なんて嘘吐きダマシが出て来るんだろうかねえ?。
やはり、この男らは、・・・・。 >>440
>>>428
>弥生時代に旅行している人が太陽の位置を見て方角を記す
だから、総計1万2千里南下した、というのは
サギ
サギ計算をする九州王朝説は
サギ説 >>125
>南下が四千里、東に三千里で狗邪韓国。
対馬海峡を渡るのに三千里。<
これも✖。
「南下が四千里、東に三千里で狗邪韓国」では、
「南→東」が一回だけだから「南乍東」になるんであり、
「乍南乍東」の「南と東の繰り返しの反復」にはならないから、×になる。 >総計1万2千里南下した
里程が総計1万2千里=奴国という九州説はいるが
1万2千里まるごと南下したとはなんのことだ? >>130
こんなに、史料事実の否定曲解の嘘吐きダマシや、悪口ばっかり言ってれば、
大和説は、衰退するわな。 >>436
江戸時代の雷山千如寺法系霊簿に書いてある人数で割算してるだけで
史料批判は何もしていない
油山伝説のほうは、「印象を受けます。」「想像できるのです。」古田信者が思うというだけ >>133
おかしな新興宗教が、なにを言われても、(魏志倭人伝ではなく)、
「根拠は(大和説学者の)通説定説です」
と言い張るようなもんだな。
w >>143
>卑弥呼の墓はどこにある すべてはそれからだ<
日本で唯一、殉葬者奴婢百余人を満たし、径百余歩の冢に適うのは、
だけだ。祇園山だけだ。 >>444
まるまる12000里南下したら北緯30°くらいで会稽と同じだ、という古田系詐欺説でしょ >>243
ちょうせいくんがひきあげたあと作ったクナ国のおうさんたちの墓や^^ >>443
>「南→東」が一回だけだから「南乍東」になるんであり、
どうして? >>274
もーきしゅつかもだが八咫鏡のうらにはユダヤの呪文が刻まれとった(最近知った(ほんまなんか? >>148
>北緯30度は、屋久島の南の口之島の北端あたり 那珂八幡の緯度は、33度 34分
緯度 1度あたりの距離は約111km <
勿論、「自郡至女王國萬二千餘里」も、
有効数字1桁概数の合計だから、更に大きな近似値であり、
「計其道里、當在會稽、東冶之東」も、
「会稽郡の東方の治所地域の更に東方」という広範囲の方向であり、
だから、陳寿の「大体の推定記載」であるんだから、
大体の一致でよく、
どんぴしゃりの一致など、必要がない。 >>456
>大体の一致でよく、どんぴしゃりの一致など、必要がない。
いやお前が書いてるから
>>112 >ほら、揚子江河口の北緯30度とほぼぴったり。
>>140 >揚子江河口付近の北緯30度と、 ほぼぴったりになり、 >>443
古田君の真骨頂やね?(魏略と元ネタ同じ箇所やな?
その部分は邪馬壹目指しとらんのちゃいます?
ところで大砲軍て日本海に接してなかったんやろか 北緯30度の東が、那珂八幡の緯度の、北緯33度 34分でもいいのなら
福州市北端の北緯26度30分あたりの東でもいいということになる >>153
大和説信者が信頼したのは、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの文部省や通説学者らであり、
右翼興信社や桐原詐欺師を雇った安本であり、
喜八郎さんの撥ね字の悪筆を知らずに、章子さんの清書原稿を鑑定した偽筆跡鑑定家であり、
和田キヨエをたぶらかして尿入り?の沢山の一升瓶を旧和田家の置いた右翼組織ら。 >>467
有効数字の意味がわかってないんだな
公開赤っ恥 素人レベルの古代史ブームは終ったので
極左過激派のザラコクは反基地運動に転向したほうがいい >>455
森なんやら大臣が見たといい三笠宮殿下が自分の権限で確かめるといって
その後だんまりだったそうな(みたんやろ、いえんわな 鉄器ゼロ
中国での学術出土ゼロ
ゼロというのは清々しい結論だったな 千葉在住肥後人の伊作も罵声だらけのレスだったが
播州のザラコクも伊作をさらに低レベル、下品にしてしつこくしたレスだな >>470
hyはー
でmぱはでんぱではなかった
やまたいこくもなかった(こっちはしってた >>159
>帯方の「東南」と書かれている史料を否定・歪曲して
1万2千里まるまる南下したことに 捏造してしまう 古田説はとんでもない
トンデモ説ですね <
いや、魏使らの行程記録では、
始め海岸沿いに南へ行って、韓を東南に行って、海峡を南の方へ行って、
上陸後東南に出発して不彌國から南に向かえば、
どう見ても、東南ではなく、南と東南の間の「東南東」方向であり、
陳寿も、東南と南とでは、その南北距離が余り変わらない、という事を、当然知っている筈。 倭国と百済が滅びて絹の道の奥にあるユダヤのヒトラがやってきてかがみにきざんだんやー(ユダヤが佳子さんの先祖てのはわえはいやじゃーーー >>163
自分の頭で考えずに、
通説とか定説とか橿考研の先生とか言ってる人もとか、
一種の、文部省や右翼マスコミやキョクウらの奴隷だろう 。 韓が方四千里なんだから狗邪韓國までの七千餘里で
南北縦方向には四千余里しか進んでないだろ >>166
>倭の五王というのも、 そうなる <
倭の五王は、出雲系銅鐸部族や毛人蝦夷の55国を東征し、
半島の95国を平らげた中国の使持節都督の東海姫氏王家。 ああ、なるほど
東夷伝が短里で統一されているのを認めると
方可四千里もまた確定してしまうから
発狂したように否定してくるわけだ >>477
南に4千里、東に三千里で対馬海峡の北岸、狗邪韓国。
対馬海峡の渡海に三千里。
ぴったりだな。 >>481
南に4千里、東に三千里でどこに着いた? >>480
まーおいつめるな(ほがらかにたのしみはれ(タンリの命名はセンス無いのー
とういでんりがおすすめや(イヨさんの時代とはむかんけー 小学生並みのひらがな爺さんのレスは面倒だから読まない >>1 くんも草ぼーぼーくんもいてないんかー(みょーにしらけるのー キナイセツは短文ツッコミしかできなくなって、末期症状だな。 『東夷伝里』
平成29年12月16日
一人の酔っ払いによって学術的呼称が誕生した
名は体を表す >>485 の追記
しゅーせん5000り(これ何キロやろ? ちんじゅくんはいろんなネット情報を組み合わせて頑張ったとーしろーかもなー
イチリなんめーとるかごちゃごちゃや(ここのおじーちゃんらとかわらん(ごめんちゃい^^ >>494
福岡→佐賀→長崎→佐賀→福岡関門海峡までをぐるっと一回り >>496
うみのいどーむしか?(つしまも倭国やろ? 質問しゅーせん5000りは太宰府のなんたらいう文献にあったかいなか?(ぐぐるのめんどー ちんじゅはまんこをせんこに訂正した(時代が変わって人口が減った情報しったんちゃうか? ここのスレ主さんは畿内説否定派皆にレスをくれる親切な人ですよw チンジュはとういでんりがイチリ何メートルかしらんまま何かを丸写しした
しゅーせん5000は違うソースやった(ぐぐって誰か否定するなりつっこみなはれ(歓迎(はよせー眠くなってきた >>497
東夷伝里しゅーせん5000りでちょーどだわ >>502
いいわけいらん
あんたのせんざいいしきがとういでんりでせいかくなのをわかっとるんや(ねむいわー >>501
ひゃはー(さんくす
しゅーせん5000りもとういでんりか
倭国せまっ ここは畿内城に一人立て籠もって口撃を続けるスレです。
スレ主さんはニュー速+にスレが立つ事を恐れてますw >>465
>大和説信者が信頼したのは、
・・・
>右翼興信社や桐原詐欺師を雇った安本であり、
安本をだれが信頼するって?
妄想もたいがいに 九州朝鮮人
いいかげんにしろよ
何か言いたいならこんなところに書かずに
表に出てこいよ たまにめにする安本くんてひょっとして古田君とけんかしたひとか?
邪馬台国ゆーてまう時点で文献にまじめにむきあっとらんの丸わかりやのー 考古学の森君東君石野君文献の古田君(これ以外でおじーちゃんらのおすすめなんや(教えてください(逆に試されていることをお忘れなきよー >>511
>これ以外でおじーちゃんらのおすすめなんや
あんただよw >>184
>金関 恕さんの言われるように、
中平紀年銘の鉄刀は卑弥呼が貰ったと考える以外にありません・・・<
勿論、「南→東」だから、×であり、
北部九州の10本位の鉄刀が本場になるから、
東大寺山は、筑紫倭国の東征武将が所持していた「伝世刀」の4世紀頃の副葬だろう、という事になる。 >>186
大和説学者は、いつも、
都合の悪い史料の否定隠蔽と、インチキ計算で、誤魔化そうとするね と。 >>192
「南≠東」も「6倍もの違い」も、ものともせずに、
どこまでも自分には甘い・・・・大和説。 >>195
>邪馬壱国は弥生銀座を根拠にしながら
考古学的根拠がない投馬國を南九州に比定して會稽東治之東の帳尻合わせをしている
古田のド素人の考え<
薩摩の上野原遺跡。 >>202
>>>文献無視したって証拠は?<
>「南→東」や「邪馬台国」や「台与」や「東治→東冶」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
倭國の地方の市を監督する大倭職の附庸国の旧小国」
であった事の無視など。<
> 批判してるからね <
史料根拠ではなく、口先でちょこっとだけだったな。
>無視したというのは、ウソ 九州説は平気でウソをつくなあ<
口先だけの批判など、批判にならない。
史料事実の否定曲解の大和説学者は、平気でうそを付く人種だなあ。 >>203
そんなことをしなかった、って証拠は?。
ブーメランが刺さって死ぬ大和説学者。 >>208
>布留0は庄内だっつーの<
庄内と布留の根本的な形状差は、「壁の厚み」。
布留0は、庄内にはなれないんだよ。」 卑弥呼と直結する唯一の遺物、東大寺山古墳(和邇氏)中平銘鉄刀の流れ
ヒメ踏鞴
┃
綏靖
┃
安寧 (248年ヒメ踏鞴没)
┃
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】
【真野氏祖】
【壬生氏祖】 「南→東」が正しいことは、ぼぼ確定しました。
はい、おしまい。 >>519
>庄内と布留の根本的な形状差は、「壁の厚み」。
>布留0は、庄内にはなれないんだよ。」
馬鹿が基礎からやり直せ 布留0式は幕末を「明治時代前夜」とでも呼ぶようなもの
だからゼロという
庄内式に入る >>517
>口先だけの批判など、批判にならない。
具体的な反論もしないで
なんで、そんな頭ごなしに決め付けられるの? 畿内で発掘されてる鏡が日本製であるんだし、三種の神器は九州だし、もうダメだね >布留0
元々「〜ゼロ」は吉備の考古学から出てきたんだっけ? >>529
それは九州の話か?畿内の話か?
そもそも魏代洛陽で作られた鏡なんて中国で出てるのかって話だが >>534
それはいわゆる卑弥呼の鏡百枚の話か?
そりゃ中国からもらったんだろうが
それが洛陽の工房で作られたものでなきゃならない根拠がない
(あるというなら九州説でも畿内説でもいいから教えてくれ)
右尚方銘の大弓の部品で地方に発注して造らせたものも実際にある
銅鏡なんて仮に呉蜀の地から入れても問題なし 洛陽?
中国全土で出土してないのだからそういうことだ。 >>516
上野原は縄文時代にピークが過ぎ去った遺跡 同じ種類でも
後漢が作った銅鏡なら後漢鏡
魏が作った銅鏡なら魏鏡
それだけのことだ 区別はつくから、九州の弥生墓からでた後漢鏡を魏鏡と偽ってもモロバレ 倭人伝には銅鏡百枚としか書かれておらん
洛陽にある銅鏡なら何でもいいのだから
後漢鏡を百枚渡してもいいわけだが 中国の墓はほとんど荒らされて、
辰韓人は楽浪人を阿残(楽浪に残った人)と呼んでるから
北部九州に流入する漢鏡は下賜品だけじゃないからな 下賜品の可能性はある。
可能性すらないのが大和説。 >>213
>ザラコクさん ガセネタいくら流しても 箸墓の年代は捏造できません<
「ガセネタ」というんなら、どこがどのようにガセネタどのようにであって、
大和説学者の「年代決定の説明」を出せばよい筈。
それもしないこの男も、やっぱり、
4世紀説に反論出来ずに、ヘイトスピーチ街宣で世間の人々を騙そうとする詐欺師。 >>215
>古事記は倭日子命の葬送時に 「初めて陵に人垣を立てたり」とある。
つまり畿内ではそれまで殉葬はやってなかった ともとれるので、
そうすると、卑弥呼は 九州ということになってしまう。<
成程。ご紹介有難うございます。 >>501
5せんりをしらふのときにしらべたで
ぎりゃくでなくてさんごくしやな
とういでんゆいつのれーがいここにあり(5000りなんめーとるや(すでに一杯はいった >>227
>「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」
墓全体が墳、棺を容るところが冢<
それだけではダメだ。
見た目の形状が、違う。
墳は、団子を置いたような「丸み」があるような形状の墓を言い、
冢は、錐体的で「尖り」状に見える形状の墓を言う。
>前方後円墳全体が墳、後円部が冢<
ダメだ。
全体を見ないとだめだし、後円部は「尖り状」に見えないから冢にならない。
>箸墓古墳後円部径が約150メートル、145cm×100余歩<
これもダメだ。
全体を見なければならないから、前方後円墳は、不定形であり、
不定形の大きさは、「長径」で表現するのが原則だ。 >>546
4世紀説て、
お前が考えた「ついうっかり」なんか説ていうかばかものがw まあ魏代晋代の年代を表す紀年鏡は本州から出てるわけだがwww 祇園の甕棺わきやったんやな真ん中ひみこさんのかのーせーあるやん?
いぬがみせんせー解説せー >>234
>畿内説は実は東遷説だな。 【畿内説の主張のまとめ】 (奥山氏>>1の発言をまとめたもの)
「伊都国の太陽祭祀を継いだ卑弥呼が、瀬戸内海勢力の実力を背景として、総花的に纏向で共立された」<
「南≠東」だから、×。
>「首長のいない広域政治集団が発生したが、圧力が高まって、急激な首長権が確立した」<
卑弥呼共立は、狗奴國を除く「狗邪韓國〜九州全域」。
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」に関しては、
関門海峡付近は不明だか、本州四国は原則として含まれていない。
>「弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した<
阿毎氏の倭奴國→「伊都國+奴國」に分裂した片方の伊都國は、
卑弥呼の頃も王や一大率がいて、倭国の軍事的支配の役目を果たしており、
その後も、壹與を輩出し、銚子塚の黄金鏡王や、
風土記や書紀に書かれた「天日矛」の後裔王がおり、
東海姫氏國から王位を奪った「磐井」も出身し、
阿毎氏のタリシホコが出、白村江での倭國の中心王家であった。 >>235
>九州説はもう自分とこのスレ立てるのも諦めて荒らし出したって事?<
いや、古田史学スレでも、大和説者をほぼ一掃し、
「邪馬台国畿内説」スレでも、かなりの「嘘吐きダマシの大和説」の者を「いなくさせた」が、
まだ2〜3人?、残っている状態。
>やっぱ纒向遺跡の影響?<
違うね。
大和は、始めから、
筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国。 >>558
>一掃し、まだ2〜3人
痴呆独居老人を常時お世話してあげる民生委員の数は多くはない まあ「継続は力なり」
24時間ネットに貼り付ける老人にけてるやつはいない?w
で仮に5ちゃんから畿内説を駆逐したとして
じゃあリアルはどうしたって?
九州王朝説が息を吹き返してるのかよアホがwww
お外の空気吸ってこいボケ老人wwwwwwww >>236
>「南→東」の書き間違い説については、南のままでいいんだよ。
北九州の沿岸を航行する舟は、長門の国にぶちあたって、東行できないから。
出雲に向かう北航路か、瀬戸内に向かう南航路か、どちらかを選ばなくては ならない<
関係なし。
「自郡至女王國萬二千餘里」は、不彌國でほぼ終わっているし、
「南至投馬國」の文には、
出発の「南」と到着の「至投馬國」との間に、「途中移動があった事を示す文言がない」から、
魏使らは、投馬國への移動は、しなかった事になり、
この場合の「至」は「四至表現」での方向を示すだけであり、
「水行二十日」は、「行くとすれば水行二十日ですよ」という所要日数説明であった、
という事になり、
その次の「南至邪馬壹國」も、途中移動の説明文言がないから、
不彌國から邪馬壹國へは、魏使らは殆ど移動していなかった事になり、
だから、邪馬壹國は不彌國とほぼくっついている、
という事になる。 >>561
民生委員の人が、出発時の方向というお爺さんのボケに付き合ってあげたんだよ >>561
不彌國から先は、それまでの
方角や里の単位とは違って、「日数表示」だろ。
だから途中移動があった事を示す文言は省略なんだよ。
日数と方角表示が1つだけ。最低限の情報だわな。
魏からもらった下賜品は、皇帝が汝(卑弥呼)の好む物を用意した
と、わざわざ女性向けの品物をどっさり揃えている。
これは卑弥呼に直接届ける品だよ。道の途中で北九州の男どもに
やる品じゃない。>>561の説は不十分。 >>237
>九州北部と畿内では、どうしても畿内の方が人口が多い。<
「大和→畿内」なんて誤魔化してもダメだよ。
河内も摂津も山城も播磨も、
倭國の阿毎氏以外部族や銅鐸祭祀部族や半島渡来部族などの、
混合地域であって、大和の支配下ではなかった。
そして、どなたかが提示されたように、米の生産量でも、
奈良県でも近畿でも、九州には全く劣っていた。
>超巨大古墳を作るだけの人口があるし。<
母国の倭国の東征のお手伝いで、
大和でも大量の銅鐸部族や毛人蝦夷の墓守り人を獲得出来たからだ。
>伊都国は蝋燭の最後の輝きだな。<
説明済みだ。
>基本的に 東遷説というか、権力は西から東に移ったでいいだろう。<
大和は、白村江までずっと、倭國から別れた別種の旧小国であっただけだ。
>コメの生産力とか違うし<
説明済み。 >>274 最後の一行を除いては
同意である。九州北部から出土する遺跡や鏡は、
まさに倭国王権の起源を示す。
始まりはそうであっても、卑弥呼の時代は
ちょうど畿内へ変遷するかしないかという境目なので、
どっちかはまだ不明といわざるをえない ぎおんやま
かめかんゆえに
4せいき
じつはまちがい
3せーきはん >>243
>現実に超巨大古墳があるんだが<
墓祭祀やセレモニーは、後から造る方は、
前代や前回と同じでは申し訳ないしいけない、という思考になるものであり、
前代よりも大きく豪華に(破綻が来るまで)進化していくもの。
そして、大和は、母国の倭國の東征のお手伝いで、
銅鐸民や毛人蝦夷を大量に獲得出来て墓守り人に出来、
半島渡来民の古韓尺などの技術を受け入れて、
獲得した銅鐸民や毛人蝦夷を威圧するために、
倭國の那珂八幡や津古生掛などを学んで、
巨大古墳を造った。 >>560
まーまずはもちつけ(ひさしぶりやのー(
ぎりゃくとせいいきとさんごくしよんだかー(草ぼーぼーせんせー^^
じんせーの先輩よりわかもののあいてしてこそなんぼやろ?(わえあんたよりぜったいわかいわ^^ >>565
>>>274 最後の一行を除いては
>同意である。九州北部から出土する遺跡や鏡は、
>まさに倭国王権の起源を示す。
>始まりはそうであっても、卑弥呼の時代は
>ちょうど畿内へ変遷するかしないかという境目なので、
>どっちかはまだ不明といわざるをえない
ありがとう。
卑弥呼の死後の3世紀後半から畿内の発展が始まるように思えるのだけれどね。 >>240
>>畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く<
>都は米を作るところではない 寺社や大仏を造るので忙しい<
何だ?、畿内全域が、寺社や大仏を造った、とでも言いたいのか?、・・・・。 >>247
大和説じたい、「南≠東」に拠って、始めから存在しないから。 >>251の訂正。
別に困りません。
大和説が、自分から証拠を出せない宗教で、
出された史料を自分から否定隠蔽曲解している・・・・アホサギシだって、
自分で宣伝してくれてるんだから。
大和説の自壊を笑って見てるだけでいい。 >>270
「南→東」などの嘘吐きダマシの大和説は、もう完全敗北してるので、
こんなデマや悪口を撒き散らすこと くらいしか出来ないんだろう。
哀れなことである。 ジャマイカ絡みはどーもちてきこーきしん凌駕するみょーなちからがつよいわ
abcなんたらは誤魔化しきかん世界やからきもちえーのー >>272
>>大和説が、国民からは3割しか支持されず、
国民の過半数が、九州説を支持するわけだ。<
>九州説は各県地元説だから1県あたり平均は1割以下<
九州と大和の比較だし、
大和説は「大和→畿内」とか「大和→近畿」などの拡大インチキをしているから、
九州説と大和説の比較でよい。 >>273
大和説は、
白村江の後まで一度もまで盟主王権が存在しなかったにも関わらず、
「あった」と幻を見ているだけだよ。
考古学的証拠も文献的証拠も何もない。 >>275
>金関 恕さんの言われるように、
中平紀年銘の鉄刀は卑弥呼が貰ったと考える以外にありません。<
「南→東」の嘘吐きダマシをした金関のアホでは、
九州に鉄刀が10個位出土している、という事の説明が付きません。
有り得る事は、東大寺山は、倭國の東征の一将軍が、大そので亡くなったので、
伝世されて持っていたその鉄刀が副葬された、という事になるだけ。
>邪馬台国論争は終了です。<
邪馬壹國論争は、筑紫説で終了です。 >>571
卑弥呼って、じつに88歳ぐらいまで生きた長寿らしいんだぜ。
というのは、
西暦173年 - 卑弥呼が新羅に使者を派遣した
と、朝鮮の史書に載っているからだ。
卑弥呼が死んだのは魏志倭人伝に247年ごろ
とあるので、何十年も女王に在位していたのか
怪しくはあるが、台与と同じく13歳で即位して
すぐに新羅に使者を派遣したとすると、
魏のやりとりをしたあと88歳で亡くなったことになる。
長寿すぎるが不可能ではない。あと一点、証拠らしいのがある。
中平紀年銘の鉄刀だ。今年の9月に国宝指定されたばかりらしい。
中平という年号はまさに卑弥呼の時代。
184年 - 189年の年号だから、まさに卑弥呼在位の期間にあたる。
しかも、魏志倭人伝には5尺の刀を卑弥呼に
贈ったという。これが該当するんじゃないか?と指摘されてる。
で、この刀が出土したのは近畿の前方後円墳から。
まあ、卑弥呼の死後200年も経ってから
子孫が墓に埋葬したようだから、元が九州にあったのか
畿内にあったのか判定できないが。 >>301
なぜ大和が出てくるんだ?。
新興宗教か何かなの?。 まーおじーちゃんらにはジャマイカどこにあったかはおちんちんちぎれてまうくらいの刺激ややろからやわらかくいうと
おらおらじじいどもしゅーせん5000り2000kmのるーとはよいわんかい(よったまいこふー >>306
>4世紀以降の副葬品を示して狗奴国だと主張する九州説<
呉王夫差の後裔の「姫氏」が渡来して来た「火の国山門」というのが、
「肥後」であったのか?「肥前」であったのか?或いは「両方」であったのか?、
は、まだ不明で未定なままなんだよ。 >>390
>>いくら古くしても、「列島の庄内の最古は三雲である」事は動かし難く、
>>河内の(伽耶人渡来の)加美久宝寺が、布留無しの庄内だけであるから、
どちらも大和説学者が言った事。
。それまで否定しちゃ、大和説者の信用が、どんどん落ちていくだけ。 >>577
ここは畿内説のスレだから、大和説だかなんだか知らないが、オフトピ >>396
>邪馬台国はヤマト国。 卑弥呼が征伐し、その後に都を置いた国邑の名。<
「南≠東」だから、×。
>ヤマトは山外。 山の向こう側の地。 ただそれだけ。 何もありがたい地でもない。<
「大和」は「大倭」職。
ただそれだけ。 何もありがたい地でもない。 >>398
卑弥呼が「ヤマト」を征伐したとか、 妄想もたいがいに。
大和説はこれだから困る。 >>585
>>河内の(伽耶人渡来の)加美久宝寺が、布留無しの庄内だけであるから、
どちらも大和説学者が言った事。
>。それまで否定しちゃ、大和説者の信用が、どんどん落ちていくだけ。
つまり、またザラコクの妄想だったんだね >>588
またザラコクが、訳のわからないことを言っている >>583
で、呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と中国系武器と中国系武具と
中国系住居と漢服と木沓は?
. >>577
>九州説と大和説の比較でよい。
現実に九州は各県地元説で
漢民族東征説の一元史観というのは九州説でも非常に少ない
肥後の伊作がそうだったから
コマヒトには多いかもしれない >>399
必死に誤魔化しても、根拠が出せないんだろ大和は
w >>591
大陸からいっぱい渡来してきたの知らんのか >>585
結局ザラコクのいうことは全く信用できないんだね
情報源そのものが存在してない
小耳に挟んだ程度の又聞きを脳内変換してるのだからな >>572
10世紀の延喜式出挙数をコピペ連呼してるのはキウスだと思うが
元々低率な田租に対して、723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法のころから
地方で進められたのが高率で強制的な税目の出挙の利稲だから
出挙数は地方が多い >>411
大和説の「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・達は、
根拠を聞くと、それには答えず、
「根拠は?」とか「証拠は?」とかの頓珍漢な文言を叫んで、
こっそり逃げて、ほとぼりが冷めるのを待つ。 新撰に載ってる呉王夫差の後裔などの中国系は白村江以降に帰化した百済人と高句麗人。
百済と高句麗は滅んだ楽浪郡・帯方郡の中国系を吸収している。
楽浪郡・帯方郡には滅んだ孫呉から亡命した王族や呉王夫差の後裔もいたのだろう。
やがて楽浪郡・帯方郡は滅んで、彼らは百済と高句麗に吸収された。
そして白村江で敗れて百済は滅び、高句麗も滅ぼされて、日本に亡命した百済人と
高句麗人の中にかつての楽浪郡・帯方郡の中国系の後裔たちもいたという訳だ。 >>419
「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
立証義務を放棄する大和説の・・・・。
w >>599
>「根拠は?」とか「証拠は?」とかの頓珍漢な文言を叫んで、
トンデモ九州説は
根拠や証拠を聞かれるのが大嫌い
聞かれると発狂することもしばしば >>601
そんなウソばっかり毎日ついていて、なにが楽しいの? >>435
>そもそも会稽東治なんてモノが存在しない<
魏志の、陳寿の「地の文」の「計其道里、當在會稽東治之東」の中に存在する。 >>602
「根拠は?」とか「証拠は?」
と連発するのがいるけど、
その質問をやり方を見てると、すげえつまんない。
しらける言い方だわ。楽しいのは本人だけ。
勝ってるつもりらしいが。 >>600
>そして白村江で敗れて百済は滅び、高句麗も滅ぼされて、日本に亡命した百済人と
>高句麗人の中にかつての楽浪郡・帯方郡の中国系の後裔たちもいたという訳だ。
倭人が呉の太伯の末裔であると記されたのは、白村江よりも400年も前の、卑弥呼と同時代の魏略なんだけど。 >>607
根拠を説明している文章にも書いてるじゃん。 >>583
>呉王夫差の後裔の「姫氏」が渡来して来た「火の国山門」というのが、
>「肥後」であったのか?「肥前」であったのか?或いは「両方」であったのか?、
>は、まだ不明で未定なままなんだよ。
肥前肥後が分割されたのは後世なので、姫氏の領分は有明海沿岸の肥国全てで良いのだろう。 >>606
自分が主張してることの根拠が答えられなかったら
根拠のない主張をしてるってことでしょ?
つまり議論は、答えられない奴の負けだよ >>609
「根拠を説明している文章」って、どれ? >>606
そりゃあ、負けたあんたは楽しくなかろう
w >>611
脊髄反射で根拠はと書き込んでいるだけだろう。
バカでもできる。 >>614
それでも、根拠が答えられなきゃ
議論はお前の負けだ
w >>608
魏使が勘違いしただけだろう。
倭人は全く違う人物の後裔を指していたが、太伯の事だと勘違いしてしまった。
よくある事です。 >>610
で、中国から姫氏が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と中国系武器と中国系武具と
中国系住居と漢服と木沓は?
. 支那の記録には卑弥呼以前の文書が混ざってる
倭国の史書は7世紀が最古
意味わかるかなー、わかんねーだろうなw 倭人が太伯の末裔というのが書かれるのって唐宋以降だろ
非漢民族王朝は蜀漢正統論で
朱子学は大義名分を重んじて曹操は批判されてるからな
臨機応変な対応だろう 春成秀爾が炭素年代で時代が分かりそれは正確であるという。
こんな馬鹿な学者いるか? 出した結果が気に入らないから学者が馬鹿だと言う人間は、カスに違いない >>437
>中国では三国志より三史「史記・漢書・後漢書(後漢書の代わりに東観漢記または戦国策を入れることもある)」
のほうが評価は高い <
日本の史家だけではなく、中国の史家にも、
前史の実際の見聞記録よりも、
後代の権力史家の「後代時点での解釈や高慢な誇張表現による書き換え」の方を、
優先採用する似非史家がいた、
というだけの事だ。
>裴松之が三国志に注を付したのは429年、倭人伝の誤記を指摘している<
宋明清代の考証校勘学者は、誰も「治→冶」の考証校勘を採用していない、という事は、
三国志の写本版本は「全て治であった」という事であり、
それは、陳寿原本にまで遡れる、という事だ。
>范曄の後漢書は432年<
だから、同時代学者であったのであり、
范曄は、「松之の「治の承認」を知っていても、あえて「冶」と書き直すような、
高慢な書き換え史家であった、という事だ。
現代日本の通説学者らと、全く同じく、非学問的な人間性。 出した結果が気に入らないから学者が馬鹿だと言う人間は、カスに違いない
☟
出した結論の過程にムリが有り、学者の資質を問うのは当たり前のことである
結論ありきのアプローチはいけませんね >>442
>>弥生時代に旅行している人が太陽の位置を見て方角を記す <
>だから、総計1万2千里南下した、というのは サギ <
「倭人在帶方東南大海之中」の東南は、当然「大体」であり、
「真東」や「真南」を否定し、その間位という記載。
そして、魏使らの記録に拠れば、
東南と書かれたのは、方四千里の韓の陸行と、末盧國での出発方向だけで、
東と書かれたのは、伊都国→不彌國の百里だけ。
また循海岸水行は、半島西海岸であるので「南」であり、
海峡は、「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」が「南」と書かれ、
「亦南北市糴」とほぼ全体が「南である」という認識が書かれているし、
邪馬壹國女王之所都も南だ、と書かれているんだから、
全体は、「真東南」というよりは、
南と東南の間の「南南東」方向と認識された可能性が高く、
真南と南南東方向との南北方向差は、1割強?位であるから、
「自郡至女王國萬二千餘里」の南北距離成分も、
「餘」を勘案して、ほぼ「萬二千里」だろう、としてよい。
>サギ計算をする九州王朝説は サギ説 <
計算もせずに、インチキ詐欺計算をする「南→東」の嘘つき騙しの大和説は、
サギ説。 「出した結論の過程にムリが有り」
↑
後付け
激藁 >>444
>里程が総計1万2千里=奴国という九州説はいるが
1万2千里まるごと南下したとはなんのことだ? <
「倭人在帶方東南大海之中」の東南は、当然「大体」であり、
「真東」や「真南」を否定し、その間位という記載。
そして、魏使らの記録に拠れば、
東南と書かれたのは、方四千里の韓の陸行と、末盧國での出発方向だけで、
東と書かれたのは、伊都国→不彌國の百里だけ。
また循海岸水行は、半島西海岸であるので「南」であり、
海峡は、「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」が「南」と書かれ、
「亦南北市糴」とほぼ全体が「南である」という認識が書かれているし、
邪馬壹國女王之所都も南だ、と書かれているんだから、
全体は、「真東南」というよりは、
南と東南の間の「南南東」方向と認識された可能性が高く、
真南と南南東方向との南北方向差は、1割強?位であるから、
「自郡至女王國萬二千餘里」の南北距離成分も、
「餘」を勘案して、ほぼ「萬二千里」だろう、としてよい。 >>637
>東南と書かれたのは、方四千里の韓の陸行と
そこで東に何里行った?
サギ古田
サギ古田 >>634
関西の大学の学生は畿内説に洗脳されている
他説を支持すると潰される >>446
>江戸時代の雷山千如寺法系霊簿に書いてある人数で割算してるだけで
史料批判は何もしていない <
後代8世紀の「倭国の存在や歴史を隠蔽したい」大和政権の記録など、など、半分×書であり、
倭国に関する記録には、信頼性が全くないが、
『筑前双書』に「雷山縁起」は、倭国現地での伝承記録であり、
信頼性がかなりある。
>油山伝説のほうは、「印象を受けます。」「想像できるのです。」古田信者が思うというだけ<
油山伝説の方も、8世紀の大和政権の「倭国の存在や歴史」の隠蔽造作があった可能性が高いから、
推定レベルになった、というだけ。 >>448
訂正。
>卑弥呼の墓はどこにある すべてはそれからだ<
日本で唯一、殉葬者奴婢百余人を満たし、径百余歩の冢に適うのは、
祇園山だけだ。 >>449
>まるまる12000里南下したら北緯30°くらいで会稽と同じだ、
という古田系詐欺説でしょ<
大和説者が変な計算を主張するから、きちんと計算して上げただけだ。
そうしたら、短里で北緯30度で位になって、揚子江河口付近の北緯30度位と一致して、
「東治」で正しい事になり、
また、魏西晋代の陳寿も、
短里を知っていて、短里で魏志を書いた、
という貴重な情報も判っただけだ。 >>453
>ちょうせいくんがひきあげたあと作ったクナ国のおうさんたちの墓や^^ <
「南≠東」だから、✖だ。
しかし、キミは、
大和説者らが、必死で、九州説や古田説や素人オジンへのヘイトスピーチの連続投稿をすると、
出て来る、
という付和雷同のアホ人種である事が、時々バレルね。 >>642
>日本で唯一、殉葬者奴婢百余人を満たし、径百余歩の冢に適うのは、
>祇園山だけだ。
もう一つ、平原遺跡があるよ。 全奥山病
全1病がさらに重くなった症状
死ぬまで治らない >>643
関川氏は、纏向の発掘調査にも携わって無い寺澤氏を諫めたのも干された一員
纏向=女王の都の畿内説に水をさしたから✖になった
学者による庄内式土器の初現年代
寺沢 薫氏 3世紀にさかのぼる。
関川尚功氏 4世紀になってから。 >>635 この文章は詳しいな。興味深いので検証してみた。
>>「倭人在帶方東南大海之中」の東南は、当然「大体」
訳は「倭人は帯方東南、大海の中に在り。」となる。
「倭の国は東南方面にある」とほぼ正しく「大体」分かっていることになる。
>>また循海岸水行は、半島西海岸であるので「南」
原文「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国」
訳「(帯方)郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て」
島が多いのでジグザグであるがおおむね南行である。
>>「亦南北市糴」とほぼ全体が「南である」
原文を調べたら、壱岐の記述にあった。
原文「耕田猶不足食 亦南北市糴」
訳「田が不足して食べ物が足りないので、これまた南北に行って買い入れている」
肝心の女王国は南にあるという認識だから、冒頭の「倭の国は東南方面にある」
という文章からいえば、東南とはいえ、どっちかといえば(帯方郡からみて)
【南方向に邪馬台国はある。という大意になる。】
俺は>>635の見解に同意である。 >>639
その画像みると、半島内で、なんでいきなり陸行しているんだ?。
そこはもろに海岸沿いに航行するところだろ。
原文「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里」
訳1「郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、たちまち南し、
たちまち東し、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。」
訳2「(帯方)郡から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を通り過ぎ、南へ
行ったかと思うと、いきなり東へ行ったりしを繰り返しながら、その
(=倭の)北岸の狗邪韓国に到着する。七千余里。」 >>632
後代史書も東冶、現代中国でも東冶に訂正してるから
東治が正しいと言張ってるのは本を売りたかった古田くらいかな
裴松之が見た書写版三国志は東冶だった可能性もあるな
宋代の版本段階での誤植かもしれない
いずれにしても裴松之には倭国の位置はわからないから
他に史料が無ければ掲載しないだろ >>641
古田信者程度じゃ、都合がいい文献は信頼性があって、
都合が悪い文献は信頼しないと言張るだけで、
史料批判をするようなレベルじゃないんだよ
福岡の行政はサギ師だと言張るし
素人が架空の歴史を妄想して遊ぶ趣味の会だよ >>658
>ぐぐったら、最新の説だな
古い説のパクリだよ >>454
>>「南→東」が一回だけだから「南乍東」になるんであり<
>どうして?<
それが判らないような大和説は、余程のアホ大和説者であり、
時間の無駄だから、放っておこうね。 >>663
このように
トンデモ九州説の言うことには理由がない
w >>457
>萬二千餘里=有効数字五桁><
この男はまた「史料事実の曲解改竄」をしている!。
「萬二千餘里」という記載は、「萬と二千」しか有効数字はないから二桁。
勝手に「12000」と0を3つも書いて、有効数字五桁、なんて、
大和説者に特有のインチキ。
他にも「方可四千里」は「四千」が有効数字であり、
「千余里」も「千」が有効数字であり、いずれも1桁。 >>459
>つまりデタラメ言い放題だと? w<
つまり、大和説者のように、「6倍位も違ってもよい」、
という デタラメ言い放題だと? w。 >>463
>北緯30度の東が、那珂八幡の緯度の、北緯33度 34分でもいいのなら
福州市北端の北緯26度30分あたりの東でもいいということになる <
根本的に、
会稽東治之東は、南九州に投馬國があるから、ほぼ九州の倭地に当たっており、
福州の東では、九州は全く存在しないから、×。 >>463
>北緯30度の東が、那珂八幡の緯度の、北緯33度 34分でもいいのなら
福州市北端の北緯26度30分あたりの東でもいいということになる <
根本的に、
会稽東治之東は、南九州に投馬國があるから、ほぼ九州の倭地に当たっており、
福州の東では、九州は全く存在しないから、×。 >>464
大和説学者という人種が、どんだけデタラメな・・・・詐欺師であるのかが、
よくわかる。 >>669
どんな理由でわかるの?
それともまた理由もなく、口からデマカセを言ってるだけかな? >>666
「違ってもよい」なんて発言が存在する?
それとも九州説さん、また捏造デッチ上げかな? >>469
>素人レベルの古代史ブームは終ったので
極左過激派のザラコクは反基地運動に転向したほうがいい<
右でも左でも、
「組織化」がいずれは権力奪取や権力維持思考になって、
国家間戦争に突き進んでしまう事になるから、
嫌い。 >>474
また訂正
>帯方の「東南」と書かれている史料を否定・歪曲して
1万2千里まるまる南下したことに 捏造してしまう 古田説はとんでもない
トンデモ説ですね <
いや、魏使らの行程記録では、
始め海岸沿いに南へ行って、韓を東南に行って、海峡を南の方へ行って、
上陸後東南に出発して不彌國から南に向かえば、
どう見ても、東南ではなく、南と東南の間の「東南東」方向であり、
陳寿も、南南東と南とでは、その南北距離が余り変わらない、という事を、当然知っている筈。 >>477
>韓が方四千里なんだから狗邪韓國までの七千餘里で
南北縦方向には四千余里しか進んでないだろ<
それは、相変わらず、
郡出発からの「循海岸水行」が、「歴韓國乍南乍東」になるまでの説明であった、
という事を忘れているか?、隠して誤魔化しているか?、
の・・・・嘘吐きダマシの大和説者のダマシ。 >>675
などと自分達のサギを誤魔化そうとするザラコク
w
w >>675
おい、詐欺ダマシ古田信者
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho121/ma1215.png
古田は階段上陸行で東に何里進んだと世迷いごと言ってる?
そのぶん1万2千里から引かないと詐欺だ
という事を隠して誤魔化しているな?
古田説の二重帳簿詐欺 言葉使いがきたないのはなんとかならないかね?。
サギとか書いてあったら、正否にかかわらず
そんな人の言うことは読まない。信じない。 >>481
>南に4千里、東に三千里で対馬海峡の北岸、狗邪韓国。 対馬海峡の渡海に三千里。
ぴったりだな。<
郡出発から「歴韓國乍南乍東」に入るまでに、「循海岸水行」がある事も隠しているし、
韓の西海岸→南海岸の水行くでは、「歴韓國」も出来ないし、
「乍南乍東」ではなく「南乍東」にしかならない事も隠しているし、
その言い方では、半島西岸南岸と海峡ととが同じ大型中国船を使ったようになるが、
それでは持衰の同乗の説明が出来ないから、
全部×。 >>485
>まーおいつめるな(ほがらかにたのしみはれ(タンリの命名はセンス無いのー
とういでんりがおすすめや(イヨさんの時代とはむかんけー <
ダメだ。
陳寿自身も、
「自郡至女王國萬二千餘里」と、地の文での「計其道里、當在會稽東治之東」との一致で、
「短里」を使った事になるから、
三国志も「短里」であった事が確定してしまっている。 >>679
九州説はサギの味方
サギを黙認知らん顔 >>680
>それでは持衰の同乗の説明が出来ないから、
持衰の同乗とか
また史料に全く書いてないことを捏造してるね? >>522
「南≠東」がであることは、ぼぼ確定しました。
はい、おしまい。 >>524
大和説は、史料事実の否定曲解と、ニセ知識とニセ情報でできているなあ。 >>679はサギ男だな
ザラコクがいくら他人を詐欺師よばわりしても黙認してて、そのザラコクが実際サギ論法やらかして指摘うけると全力で弁護を始める >>684 持衰(じさい)の原文みてみよう。
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰 若行者吉善 共顧其生口財物 若有疾病遭暴害 便欲殺之
謂其持衰不謹
その行き来し海を渡って中国に詣でる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、
シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人を
近づけさせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。もし無事に
行けたなら、皆でジサイに生口や財物を対価として与えるが、もし病気になっ
たり、危険な目にあったりすると、これを殺そうとする。そのジサイが慎まな
かったというのである。
卑弥呼が魏に派遣したときは、持衰を同乗させたかどうかは不明だが、
この文からみると、乗せたようでもある。 >>692
卑弥呼が魏に使節を乗せた船は
生口が少数だったこともあって、
帰路に魏の使節や下賜を大量に積んで
帰ったとは思いにくい。魏の舟で行ったか。
数隻の舟か。 >>675
>>韓が方四千里なんだから狗邪韓國までの七千餘里で
>南北縦方向には四千余里しか進んでないだろ<
南に四千里、東に三千里で対馬海峡北岸の狗邪韓国。 それにしても、卑弥呼が最初に魏に贈った生口の人数が、10人ほどで
これは少な過ぎる。貢ぎ物もしょぼい。
そのため、本来は朝鮮半島の公孫氏へ派遣したのが、現地からさらに
中国へ行った、という説さえあるほど。 >>694は低能みたいだな。
中国へ渡海するときは常に一人の持衰を
乗せる、と書いてある。卑弥呼が
魏のやりとりをしたときも乗せて当たり前。 >>698は思い込みが強いな
主語は何だかよく考えろ
そのうち自分が馬鹿だと気付くだろう
w
w
w >>700
渡海詣中國 恒使一人不梳頭
「中国へ渡海するときは 常に一人あたまに
くしをかけず」
魏志倭人伝にズバリ書いてあるだろ。馬鹿はお前そのものバーカ! >>701
魏志倭人伝にズバリ、なんと書いてあるんだい? >>703 自分で答えろよ。主語は何ですか?
どれが主語ですか?。 >>705
あらあら、>>701は頭が悪くて主語が何だかわからない
かわいそうなお爺さん・・・ 結局、>>684
は
「史料に全く書いてないことを捏造してる」
と言っておきながら、魏志倭人伝に明記してあるのを
指摘されて、
それを認めることができず、逃げたな。一件落着 >>524
>布留0式は幕末を「明治時代前夜」とでも呼ぶようなもの
だからゼロという 庄内式に入る <
口でいくら叫んでも無駄。
布留0が、酸化焼成であったのか?還元焼成であったのか?を示さなければならない。 >>710
それは嘘。>>710は、魏志倭人伝になんと明記してあるのか答えられない。
だから、指摘したというのは嘘だな。 >>527
>>「南→東」や「邪馬台国」や「台与」や「東治→東冶」や、
「大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の、
倭國の地方の市を監督する>口先だけの批判など、批判にならない。
>具体的な反論もしないで なんで、そんな頭ごなしに決め付けられるの?<
隋書や旧唐書や唐会要や新唐書の記載をしっているから。 九州説が畿内説に挑む唯一の手段が「うそをつくこと」になって来ました。
瞑目 >>713 また魏志倭人伝から引用コピペしなくちゃ
ならないの?。説明は二度三度くりかえした
方が伝わりやすいかなあ。
魏志倭人伝
原文
其行來渡海詣中國 恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰
訳1
その行来、渡海し中国に詣るに、恒に一人をして、頭を梳らず、蟣蝨を去らず、衣服は垢汚し、肉を食らわず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。これを名づけて持衰と為す。
訳2
その行き来し海を渡って中国にいたる際は、常に一人に、頭をくしけずらせず、シラミを取らせず、衣服をアカで汚したままにさせ、肉を食べさせず、婦人を近づけさせないで喪中の人のようにさせる。これをジサイという。
中国に渡海するときは必ずジサイを一人乗せる。魏の使節が倭へ往来したときも
ジサイを見たから「喪人の如く」と記載がある。 >>710は
「史料に全く書いてないことを捏造してる」
という指摘に耐えられず
逃走したようです >>719
>中国に渡海するときは必ずジサイを一人乗せる。
誰が、なにに乗せるの? >>719
あなたは、なんで聞かれたことに答えようとしないの? >>719
魏の使節が倭へ往来したときジサイを見たのだ
という理由は? >>720は、>>719に書いてやったぞ。
俺は資料を探して書いて説明してやってる。
おまえは文句言うだけ。
俺は時間がかかってあたりまえだろ。
しかも説明してやってるのに(今回2回目だぞ)
理解できない頭ときている。 >>721
>>誰が、なにに乗せるの?
倭人が、中国へ向かう舟に乗せる。
こんなことは当たり前すぎるから省略
して記載する。
何か疑問でもあるかね? >>725 君はまた文句かよ。代わりにお前自身の説を
披露すればいいのに。←どうせ読むに耐えない。 >>729
答えられないで逃亡かね?
じゃあ結論は>>720のとおりだ >>719
>その行き来し海を渡って中国にいたる際は
誰の行き来し海を渡って中国にいたる際? >>727
>>「その行来」「その」って、何の?
なるほど。引用した文には含まれずに、
前文に含まれるからな。
というか、
魏志倭人伝の引用だからお前がそれくらい自分で調べろよ。
「倭地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べている。みな裸足である。」
という土地と、朝鮮半島との往来を指しているね。
魏志倭人伝 原文
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
ここみろ >>734
答えられないの?
なんで、そんなに逃げ回るの? >>732の頭の悪さによって
>>732の書いた文章を読むと
だれもが気分が悪くなり、いら立ち、
優しく丁寧に説明しても文句で返されることにより、
憎しみを感じてしまうため、
読むに耐えない >>736
??
>>732の頭が悪いという証拠は?
だれもが気分が悪くなる、という証拠は? >>738
相手を侮辱しても、お前が回答できてない事実は変わらない (まとめ)
魏の使節が倭へ往来したときジサイを見たのだ
という理由は?
>その行き来し海を渡って中国にいたる際は
誰の行き来し海を渡って中国にいたる際?
誰が往来するんだ? 其風俗不淫 (其=倭人)
其地無牛馬虎豹羊鵲。 (其=倭)
其死、有棺無槨、封土作冢。 (其=倭人)
其行來渡海詣中國、恆使一人・・・ (其=倭人)
其山有丹 (其=倭)
其俗舉事行來、有所云爲・・・ (其=倭人)
其會同坐起、父子男女無別 (其=倭人)
其人壽考、或百年、或八九十年。 (其=倭)
其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。 (其=倭人) >>736は
下戸を酒の飲めない人と訳した
例のアノひとじゃないかな? ここは説明する方もアホだけど、突っ込む方もオツムが足りないね 結論
魏の船に持衰が同乗したとか
史料に全く書いてないことを捏造しちゃ
いけない >>748
論破されるたび他人のフリして介入するアノ人 和邇氏の東大寺山古墳から「中平」の紀年銘を持つ鉄刀が出た
最近では発掘にも参加した金関恕(ひろし)氏(大阪府立弥生博物館館長、天理大学名誉教授)が
考古学雑誌第99巻2号(2017年3月)で、
邪馬壹国の女王・卑弥呼がもらった「五尺刀」がこれにあたるのではないかなど見解を述べておられる。
和邇氏はヒミコの系統である
ヒメ踏鞴(248年没)
┃
トヨ津
┃
孝昭天皇
┃
天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造)
【安那氏祖】 【春日氏祖】 【猪甘氏祖】
【真野氏祖】
【壬生氏祖】 和邇氏の子孫の和仁氏は和水町の田中城で秀吉に滅ばされました。 ○○病ってやつかw
たまに自分の意見でも言えばいいのにね >>552
>まあ魏代晋代の年代を表す紀年鏡は本州から出てるわけだがwww<
まあ魏代晋代の年代を表す紀年鏡は、当時期紀年する事を好んだ呉系の、
楽浪鏡師の渡来に拠る製作と、
筑紫や大和以外の列島の各地から出てるわけだがwww。 九州説はいくらトンデモを言っても
畿内説に歯が立たないってことさ >>553
>墳や冢の定義をお前が決めるな<
中国や半島や列島で、「墳」と呼ばれた形状例や「冢」と記録された形状例からの、
常識的な判定だ。 >>560
>まあ「継続は力なり」 24時間ネットに貼り付ける老人にけてるやつはいない?w
で仮に5ちゃんから畿内説を駆逐したとして じゃあリアルはどうしたって?
九州王朝説が息を吹き返してるのかよアホがwww お外の空気吸ってこいボケ老人wwwwwwww<
いや、死ぬまでに、国民の中の一人でも、
大和説やマスコミや学会や文部省の嘘つき騙しに気が付いてくれて、
九州説や筑紫倭国説に転向してくれる人がいてくれればよい。 >>758
九州王朝説がいかにイカサマかって広告塔になってますが 古田短里では会稽の東に届かないことも証明されたし
矛盾だらけの九州説は、じき跡形もなく淘汰されるさ 九州説はもう支持者がアマチュアの老人だけだからね
明らかに先がない 韓国の最新の研究によると
紀元前57年に建国した新羅の都慶州には100万人住んでたらしいから
九州に大国があっても何もおかしくない >>766
1はあんたのニセスレは見てないと思うぞ >>563
>不彌國から先は、それまでの 方角や里の単位とは違って、「日数表示」だろ。<
関係がない。
不彌國で行程移動里数合計が「自郡至女王國萬二千餘里」を、
ほぼ消費してしまっているんだから、
その後で、水行二十日や水行十日陸行一月が必要になる筈がない。
>だから途中移動があった事を示す文言は省略なんだよ。<
ダメだ。陳寿は、途中移動の説明の有無をきちんと書き分けている。
>日数と方角表示が1つだけ。最低限の情報だわな。<
魏使らは不彌國から南へは至近距離で邪馬壹國に着いている。
>魏からもらった下賜品は、皇帝が汝(卑弥呼)の好む物を用意した と、
わざわざ女性向けの品物をどっさり揃えている。
これは卑弥呼に直接届ける品だよ。道の途中で北九州の男どもにやる品じゃない。<
当然、倭國から別れた別種の旧小国の田舎の大和の男どもにくれてやる品じゃない。 >>769
1がMacの専ブラユーザーなのは判明ずみだから
5chで他人が立てたスレは見えないはず >>770
>ダメだ。陳寿は、途中移動の説明の有無をきちんと書き分けている。
書き分けたって証拠ナシ >>565
>最後の一行を除いては 同意である。
九州北部から出土する遺跡や鏡は、 まさに倭国王権の起源を示す。
始まりはそうであっても、卑弥呼の時代は
ちょうど畿内へ変遷するかしないかという境目なので、
どっちかはまだ不明といわざるをえない <
ダメだ。
大和は、(白村江まで)倭國から別れた別種の旧小国であった。 >>773
>大和は、(白村江まで)倭國から別れた別種の旧小国であった。
これも根拠なし >>774
こんな中傷しか出来ないくらい
九州説は衰退しました >>580
>卑弥呼って、じつに88歳ぐらいまで生きた長寿らしいんだぜ。
というのは、
西暦173年 - 卑弥呼が新羅に使者を派遣した
と、朝鮮の史書に載っているからだ。<
遥か後代に書かれた三国史記は、後代の独自解釈が一杯入っていて半分×部分があり、
信用出来ない。
干支の一回分の60年後とすれば、238年になって、可能性がある。
また、魏使らは(正始元年=240年に)、
卑弥呼が「年已長大」であったと記録しており、
三国志での「長大」は、30歳〜35歳に使われており、
という事は、卑弥呼誕生は、205〜210年頃になり、「西暦173年」は全く合わないし、
卑弥呼がなくなったのも39〜44歳であった事になる。 >>591
>で、呉王夫差の後裔が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる中国系土器と中国系農具と中国系武器と中国系武具と
中国系住居と漢服と木沓は?<
これは、いつもの「・・・・的投稿子」の投稿ね。
もう何度も、
「大夫」や「鯨面文身」や「稲作」や「支石墓」や「甕棺」の事を書いたのに、
全く返事もしない。
おそらく・・・・大和説者のようであるから、放置ね。 >>780
相手を侮辱しても
回答しなくていいと言う
言い訳にならない >>778
これは言ってることが論理的におかしいね
皆もわかるだろう? >>597
>10世紀の延喜式出挙数をコピペ連呼してるのはキウスだと思うが
元々低率な田租に対して、723年の三世一身法、743年の墾田永年私財法のころから
地方で進められたのが高率で強制的な税目の出挙の利稲だから
出挙数は地方が多い <
書紀の記載では、
大和が九州のコメなどの施政に参画出来た記載があるのは、
(磐井を倒して糟谷を獲得した)継体の次の(那の津にも拠点を持った)宣化が初めて。
それまでは、実質的な施政には参画していなかった。
だから、大和が筑紫倭国の王家に参画出来たのは継体の後だ、と言って来た。
そして、糟谷や那の津が「秦王國」なんだろう、と言って来た。 >>764
慶州に18万戸の家があったことは「三国遺事」に書いてある
80万人以上の人口の大都市だったようだ
新羅はBC57年の建国だから3世紀には強大勢力だった
北部九州は新羅の支配下だった >>778
>三国志での「長大」は、30歳〜35歳に使われており、
違うよ
<生理的基準>
「長大」とは「成人年齢」のこと
男は16才、女は14才
<社会的基準>
論語・・・三十にして立つ→社会的成人、ただし男の場合
卑弥呼の場合は女であり、社会的基準ではなく生理的基準で言うべき >>778
ここにもろに研究内容が載ってた。
http://1st.geocities.jp/wanotoiti/research/01.html
「年已長大」は単に元服以後の成人を示す。
20歳でも30歳でも40歳も全て年已長大。
第一、魏志倭人伝に「倭人は長生き」の記述がある。
「其人壽考、或百年、或八九十年」
「その人は長寿で、百年、あるいは八・九十年」 >>786を一部修正するが
其人壽考、或百年、或八九十年
その人は長寿で、百年、あるいは八・九十年
の「その人」とは卑弥呼本人のことを指してる。 >>786
70も80もみな長大
90も100もみな長大 >>600
>新撰に載ってる呉王夫差の後裔などの中国系は白村江以降に帰化した百済人と高句麗人。
百済と高句麗は滅んだ楽浪郡・帯方郡の中国系を吸収している。
楽浪郡・帯方郡には滅んだ孫呉から亡命した王族や呉王夫差の後裔もいたのだろう。
やがて楽浪郡・帯方郡は滅んで、彼らは百済と高句麗に吸収された。
そして白村江で敗れて百済は滅び、高句麗も滅ぼされて、日本に亡命した百済人と
高句麗人の中にかつての楽浪郡・帯方郡の中国系の後裔たちもいたという訳だ<
それでは、漢代の遣使や卑弥呼の遣使が「大夫」を名乗った事や、
鯨面文身の話や、
磐井の前までの筑紫倭國が「東海姫氏國」と呼ばれた事や、
勿論松野氏姫氏系図に書かれた系図や火の国山門や委奴や大野の地名などの説明などが付かない。 >>602
トンデモ大和説は、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
根拠や証拠を聞かれるのが大嫌い。
聞かれると発狂することもしばしば。 >>603
「南→東」などの、
そんなウソばっかり毎日ついていて、大和説者は、なにが楽しいの?は。 >605
「計其道里、當在會稽、東冶之東」という「冶」を使ったのは、
史料事実の現実世界には、無いでしょ?。 >>789
>松野氏姫氏系図に書かれた系図や火の国山門や委奴や大野の地名などの説明などが付かない。
うむ、捨ててよし。 >>607
「根拠は?」や「証拠は?」などと聞くんなら、
一緒に、自分らの大和説側や根拠や証拠を、聞く前に書こうよw。 >>608
>>そして白村江で敗れて百済は滅び、高句麗も滅ぼされて、日本に亡命した百済人と
高句麗人の中にかつての楽浪郡・帯方郡の中国系の後裔たちもいたという訳だ。<
>倭人が呉の太伯の末裔であると記されたのは、
白村江よりも400年も前の、卑弥呼と同時代の魏略なんだけど。<
成程。
忘れていた。 卑弥呼の晩年は、ボケていた
らしい。というのは、
魏志倭人伝に下記の内容がある。
正始八年(247)、帯方郡太守に「王頎」が着任した。倭女王の卑弥呼は
狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を派遣して、
帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。(帯方郡太守に「王頎」は)
張政等を派遣し、張政は詔書をもたらし、黄幢*するに因りて
(原文 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米)
難升米に授け、檄文をつくり、これを告げて諭した。
*黄幢するに=黄色の人(高貴な人)が幢する。
幢の意味= 自分の心をむなしくして、ひたすら遠くのものを恋い求める。うっとりと気をとられる。
すなわち高齢のこともあって、ボケてた。
卑弥呼に託そうにもこれでは話にならないので、代わりに難升米に授けた。
このあと、卑弥呼は死ぬ。高齢による衰弱死だね。 >>797
テンプレに書いてあるから皆でいう必要なし >>803
>*黄幢するに=黄色の人(高貴な人)が幢する。
ボケてるな803 >>609
>(「根拠は?証拠は?、だけの投稿問題)根拠を説明している文章にも書いてるじゃん。<
その投稿文に書いて貰わないと、殆ど誰も、過去レスを探し回ったりしないから、
見ない。
だから、返事が欲しければ、何の話なのか?を、具体的に書いておけばよい。 >>805
そんなこと断定できない
元から白痴かもしれないだろ >>808
書いてない
>>609は頭のおかしい人だろう >>790 意訳するとだな、原文はこうだ。
気になることがあると骨を焼いて占いを行う。
そのときの集会では男女や親子のへだたりはなく、
人々は酒を飲む。人々は手を合わせて大人を拝む。
「その人」の年は百歳ともあるいは80歳とも90歳とも。
という文章だわ。 >>610
>>呉王夫差の後裔の「姫氏」が渡来して来た「火の国山門」というのが、
「肥後」であったのか?「肥前」であったのか?或いは「両方」であったのか?、
は、まだ不明で未定なままなんだよ。<
>肥前肥後が分割されたのは後世なので、
姫氏の領分は有明海沿岸の肥国全てで良いのだろう。<
成程。了解です。 >>809
なるほど書いてないな
>>609を書いた九州説の人は、頭が変だと思われる >>782
ところが古田君は見事にクリアーしてたんやなー(おどろきのウルトラcや >>611
「南→東」などのように、大和説者が、
自分が主張してる、「南→東」などの根拠が答えられなかったら、
根拠のない主張をしてるってことでしょ?。
つまり議論は、答えられない奴の負けだよ。 つーかおじーちゃんらみなさんわらえますわー(まいこ >>613
そりゃあ、「南→東」の証拠も根拠も言えなくて、負けたあんたも、楽しくなかろう。
w >>815 じゃあ其人とは誰を指す?
其俗 擧事行來 有所云為 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒
見大人所敬 但搏手以當跪拝 其人寿考 或百年或八九十年
其がいっぱいあるが。 しゅーせん2000kmのこたえ畿内説おじーちゃん誰も答えられんのか?
じゃあ対馬抜きのダックの謎解答だけやん(しゅーせん400km^^ >>616
それでも、「南→東」などの根拠が答えられなきゃ、
議論は、お前ら大和説の負けだ。
w >>824
質問したのか?
しなきゃ誰も答えないぞ >>825 まあ、はずれではないわな。
当たりとしておこう。一応答えてくれたんだし。 >>823
ぎゃくやろ
銭に走ったんはamsなぞまとめの人や(なまえよーおぼえん >>618
>魏使が勘違いしただけだろう。
倭人は全く違う人物の後裔を指していたが、太伯の事だと勘違いしてしまった。
よくある事です。<
根拠は?。証拠は?。 >>834
根拠を聞かれるのは当たり前
答えないですむと思うのは心の病 >>833はザラコクだから鸚鵡返しの発作かもしれん >>621
また例の「返事をしないで言いっぱなしの・・・・」が現れた。
「根拠は?証拠は?」と書いてもいいが、
・・・・は何をするかも知れず、怖いから放置ね。 とういでんりなら400km
そうでなければ20000km
対馬壱岐呼子糸島太宰府博多その他ぐるっと5000里どこや? 奥村さん
寺澤はどうして纏向学にのめり込んだの・・・自己主張?エゴ?銭? 家族の圧力?
天理説は無いが、天理市を調査する良いのです・・教委のセクトが邪魔をする
奈良県教委はダメだよ 畿内説一色 纏向はもっと深堀すれば吉野ケ里の匹敵するのだが
纏向=女王の所都とするから、一般市民に受けいられない
纏向の売りを邪魔してるのが纏向=女王の所都 ザラコクって自演もするの?
そういうことはしない人かと思ってた >>839
大賛成(付和雷同男や!(せんせーきっついのー^^ >>623
>倭人が太伯の末裔というのが書かれるのって唐宋以降だろ<
あれ?。魏略はどうしたの?。 >>1の決まり文句=根拠は?。証拠は?。
スレ主としては分からないでも無いが到底学問じゃない >>846
なんでソレ学問じゃないの?
根拠や証拠を追求するのは学問そのものだろう >>840
末蘆国を起点に伊都国、奴国の東廻りの女王国まで2千里
末蘆国を起点に西回りで女王国まで3千里
合計周旋5千里 >>629
>出した結果が気に入らないから学者が馬鹿だと言う人間は、カスに違いない<
「南→東」などのウソを付く学者(春成)を、偉いと言う人間は、カスに違いない。 全奥村病で
よか よか 全が2、3人で
奥村の立てたスレだから
よか よか
小便小僧=5ちゃん
で よか よか
たかが数人のスレだが
楽しむの
よか よか
おいの金印は見つかっても、ダメと言うのは誰もわっかりゃせん 倭人の地は女王から東に海を渡った1000里先にもあるんや!
ちんじゅは別資料の里の長さが5倍になってること知らずに同じ文脈に周旋五千里いれてもーた(間違いない!(おじーちゃんらよく考えろ(旨いモンクって頭脳フル回転させんと若いもんによーついてこんぞ >>853
あんた 質問する前に自説展開すべきだよ
方位を解説すべきだよ 方位について
スレ主は誤認としているが
誤情報が正しいと思う
スレ主は使者の誤認で突き通すのが筋だが 解明できない
いまさらスレ主に言っても無駄だが 正解は誤情報 >>859
>スレ主は誤認としているが
という証拠は? >>638
>>東南と書かれたのは、方四千里の韓の陸行と<
>そこで東に何里行った?<
大体四千里。
そして、対角線の東南の直線距離は大体5600里のだから、
循海岸水行の南は1400里。
海峡は南へ3000余里+アルファー(700里以上)であり、
陳寿は五百里の方向は不明で、後百里言って不彌國から南に邪馬壹國がある。
どう計算しても、東南と南の間。
サギ大和説。
サギ大和説学者。 >>859の間違い
FAQ3
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照) >>863
東に「大体四千里」行ってたら
まるまる12000里南へ行くことは出来ないな >>863
>どう計算しても、東南と南の間。
なのに東南と書かれてるのは矛盾だね
やっぱり南水行は東遂行の間違いってこと >>639
>そこで東に何里行った? サギ古田 サギ古田<
陳寿の認識をもう一度書いて上げよう。
韓は、南四千里と東四千里。
そして、対角線の東南の直線距離は大体5600里のだから、
循海岸水行の南は(7千里から5600里を引いて)1400里。
海峡は南へ3000余里+アルファー(700里以上)であり、
陳寿は五百里の方向は不明で、後百里東に行って、不彌國から南に邪馬壹國がある。
だから、南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
東は、4000+100=4100(里)。
二つが同じで東南なんだから、
どう計算しても、東南と南の間。 >>647
大和説学者らには、カスとサギシと・・・・しかいないのか?。 >>868
>そして、対角線の東南の直線距離は大体5600里のだから、
乍南乍東で韓地階段状陸行と言ってたのに
都合で直線距離に切り替える二枚舌
古田説の詐欺現場ハケーン >>869
実際には古田説がカスでサギシでしたとさ >>654
昨今の大和説学者は、「南→東」などの嘘吐きデマと中傷専門だな。 >>868
>南は、1400+4000+3000+700=9100(里)。
ハイ
会稽までたどり着きません
短里はありませんでした
決着 >>655
>>また循海岸水行は、半島西海岸であるので「南」<
>原文「從郡至倭 循海岸水行 歴韓国」
訳「(帯方)郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て」
島が多いのでジグザグであるがおおむね南行である。<
この部分はバツ。
「乍」だけでは「一回変わる」のであり、韓西南端で一回変わるのは「南乍東」だけになり、
「乍南乍東」であるから、南と東の「繰り返し反復」になるから、
半島西南端で一回だけの方向変更説は、✖。 597日本@名無史さん2017/12/14(木) 21:47:34.47
>>595
一里が76mであれば、三千里差し引いて九千余里は684km余り。
郡から倭へは南南東方向位であり、南と殆ど変わらないから、南北としたら、
緯度1度は111km位だから、割り算して、南北緯度差は6.2度差。
帯方郡のあった沙里院は、ほぼ北緯38.5度付近にあるから、
倭國は、ほぼ北緯32.3度付近。
ほら、揚子江河口にはぜんぜん届かない。 >>876
>「乍」だけでは「一回変わる」のであり
根拠なし >>1=
260日本@名無史さん2017/12/18(月) 21:29:13.06
親切な方々を釣り上げる極悪キウス 「乍A乍B」は、
「しばらくAして、たちまちB」
中国語の普遍的な使い方 >>657
>その画像みると、半島内で、なんでいきなり陸行しているんだ?。
そこはもろに海岸沿いに航行するところだろ。<
倭王武の上表文に
「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」という陸路コースを採った事が証言され、
郡から倭国本土まで(郡の大船で)全水行説も、
魏使らが持衰と倭船に同乗していた記載があるために否定され、
半島の西海岸と南海岸での循海岸水行(海岸沿いの波打ち際に近いところの水行)では、
東西南北の全方向が必要(乍南乍西乍北乍東)になり、韓国の歴訪も殆ど出来ず、
歴韓國乍南乍東は、陸行になる。 >>882
>魏使らが持衰と倭船に同乗していた記載があるために否定され、
そんな記事ないぞ
捏造するな >>876
朝鮮半島の西海岸ぐらいは中国の役人も
よくわかって把握していただろうから、
記述も正確に書かれているだろう。
南と東の繰り返し反復という行程だね >>882
> 「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」という陸路コースを採った事が証言され、
それ、なんで陸路コースを採った証言ってことにされるんだ? >>882
>>歴韓國乍南乍東は、陸行になる。
って、んなアホな。陸上を
しばらく南して、たちまち東
という歩き方せんだろ。道沿いなんだから。 >>887 お前の質問にはもう答えないことにした。
態度が悪過ぎる。 >>849
いぬがみせんせーのも【或いは絶え】の渡海部分はいとらんやん^^
やっぱ5000里ここだけは2000kmやよ
ちなみに東に1000里渡海にも倭人いてるんやからそこも倭地や(ここは魏略にもあるから多分とういでんり >>892
つーか、馬鹿すぎるので答えるのがアホらしくなってくる。
倭への道のりは、大まかにいって、遠いほど不正確で
近いほど正確な記述になる、という原則が生じている。
帯方に駐在している魏の役人にとって
半島の西側あたりは最も近いので
最も知っている範囲だろ。
それを、なぜだ?と根拠は?とか
そんな質問をすること自体が、馬鹿で理解も
できないアホが言う証拠。しねよお前 >>893
寺澤は論外
ピエロでいい コバンザメだ
あいつは何もできない畿内説に巣食うコバンザメ
本を読めばわかるが、読まなくていい銭がもったいない あれてますなー
実は周旋ルート答えられずにお互い喧嘩でにげてるんやろ?(おじーちゃんらわえはべつにどっちかをおいつめよーとは思っとらん(あそんどるだけやし^^ ノンキャリ公務員で立派な家を持ってる
出自も金持ちじゃない
これが生きる道ってか・・・勘違いの学者もどき あれてますなー
実は周旋ルート答えられずにお互い喧嘩でにげてるんやろ?(おじーちゃんらわえはべつにどっちかをおいつめよーとは思っとらん(あそんどるだけやし^^ おーーーーーい
奥山君 次スレ 準備しろよーーーーーーーーーーーーー
だれも読まない長いテンプレは許す >>906
その投稿、あんたの品性の卑しさが滲み出てるよ
お里が知れるな >>659
>後代史書も東冶、現代中国でも東冶に訂正してるから
東治が正しいと言張ってるのは本を売りたかった古田くらいかな<
現代中国は、悪名高い近代日本に習った後代史家の魯弼の考証校勘を採用しているから、
信頼性がないお。
>裴松之が見た書写版三国志は東冶だった可能性もあるな<
一つの写本だけが間違った、などという事は有り得ない。
宋明清代に、誰も「治」を校勘をせずに、「治」で残ったのであるから、
宋明清代に残存していた全ての写本が「治」であった、という事になる。
>宋代の版本段階での誤植かもしれない<
これもダメ。何種類もの版本の全てが同じ誤植をする、なんて事が有り得ない。
>いずれにしても裴松之には倭国の位置はわからないから
他に史料が無ければ掲載しないだろ <
これも✖。
倭の五王らが何回も朝貢しているから、倭國の位置が、南宋に既知になっていた。 >>911
読まないから>>859 みたいな恥をかくw >>914=>>1
態度が悪いのは学が無いからだ(笑) 寺澤てだれ?よーきくけど(ふるたくんの本にもでてたよーな?(安本くんもやけどよんだことないなー(あまぞんでちゅーもんする価値あるやなしや(うんそーやさんの手間煩わす価値ありますかのー? つーかどのてーどの売り場面積の書店に置いてありますかのー? ちんじゅがいろんな資料でつぎはぎして仕上げた倭人条に実は一カ所だけ里の表す長さが東夷伝里ちゃうのが混じってました(周旋5000里(解決 >>660
大和説信者程度じゃ、都合がいい文献は信頼性があって、
都合が悪い文献は信頼しないと言張って否定抹殺するだけで、
史料批判をするようなレベルじゃないんだよ 。
福岡県など行政は、政府文部省や通説大和説サギ師らの仲間だという事が判らないし、
思想宗教に狂ったアホが架空の歴史を妄想して遊ぶ趣味の会だよ 。 >>664
このように、
トンデモ大和説者は、「乍南乍東」が「南と東の繰り返しの反復になる」と
言うことが全く分からないアホ。 >>671
大和説学者に、「距離記載が6倍位違っている」なんて発言が存在しない?。」
それとも大和説さん、また捏造デッチ上げかな?いる。 >>676
などと自分達のサギを誤魔化そうとする・・・・ケダモノ詐欺師の大和説者。 >>677
>でも、あんた組織の人だろ <
当然、どこの組織にも入っていない自由人。 >>916
現代中国どころか古田は日本でも素人か反日くらいにしか相手にされてないから問題外
最初の版本段階の北宋代の咸平本が残っていないからあらゆる可能性が考えられる
裴松之にわからないのは裴松之が見た倭人伝に書かれた倭国の位置
後代史家が誰も東治を採用していない事実が一番大きい >>678
>おい、詐欺ダマシ古田信者
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho121/ma1215.png
古田は階段上陸行で東に何里進んだと世迷いごと言ってる?
そのぶん1万2千里から引かないと詐欺だ という事を隠して誤魔化しているな?
古田説の二重帳簿詐欺 <
それ、海州や巨済島などが入っているから、
古田さんの地図ではないよ。
ひょっとしたらmutouhaさんの地図かも。
また「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・ケダモノだ詐欺師のインチキ。 それで、頭のビョーインには行って来たの?
行ってきましたと言う、証拠などを貼り付けて、いつまで待たせるんだ >>479
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説者はなんとかならないかね?。
嘘とかを書いてあったら、正否にかかわらず、」
そんな人の言うことは読まない。信じない。 >>682
大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しの詐欺師。
政府やマスコミや学会は、大和説のサギを黙認知らん顔。 >>684
>持衰の同乗とか また史料に全く書いてないことを捏造してるね? <
魏使らは、倭船に同乗していなければ、
「其行來渡海詣中國、恆使一人、
不梳頭、不去虫幾蝨、衣服垢汚、不食肉、不近婦人、如喪人、名之爲持衰」
という記録が出来ない。 パトラのような衣装を着ていた人物の画像があったでしょ?
たしか、あのような名前の家が本物
よくわからないけど、冤罪事件 >>689
大和説学者らは、
大和説者がいくら他人を詐欺師よばわりしても黙認してて、
その大和説者が実際サギ論法やらかして指摘うけると、
全力で弁護を始める。 たしか、クチの、この辺りにホクロがある。
あの写真もそうだったような?
キュウリのような葉、葱の華・・・写っている写真、
兄(子供)がいて、もう一人は妹(子供)なのかな
この辺りにホクロ『 口. 』 >>691
>「余」で挟んでるから「0」も有効数字<
ダメだよ。
キミは、「萬二千余里」の有効数字が5桁だ、と嘘を付いたんだよ。 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
https://lavender.5ch...tory/1513316149/1-16
投稿は高いレベルのものも低いレベルのものも歓迎します。。。
荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>943
話にならない
「余」で挟めば有効数字は五桁 探偵eye??
出演していた人物、
同じようなところにホクロがなかった?
兄と思われる人物と一緒にいた人物だよ >>939
不近婦人もなにも、中国に渡海する船に婦人は乗ってないだろうし
船上じゃ皆衣服垢汚だろう
持衰は所謂陸であらゆる断ち物で航海の安全を祈願するような存在だろう 予言スレ
クロ、クロ(不明)はクローン?とか言っている人がいたり、
何の話なんだろう 同じような人がいても不思議ではないけどw
口の、この辺りにホクロ
『口.』
パトラのような名前、上の名前 次のスレッドを作成しました。。。
邪馬台国畿内説 Part437
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>755
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
いくらトンデモを言っても 史料事実には歯が立たないってことさ。 違う人物だったかな、コーエーのゲームでいうと
『コーエー 女テング』
いたような気がするんだけど、パトラ? 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>757
>(冢の形の例)どんな例があると?<
始皇帝の墓や、「居處作草屋土室、形如冢」の形。 兄という設定の人物
「アイツはニセモノだ」
「コイツはニセモノだ」?
このような事を言っていたり >>759
大和説が、いかにイカサマか、って広告塔になってますが。 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>760
大和説の長里では、会稽の東どころか赤道まで届いてしまうことも証明されたし、
福州説でも、その東方には九州が全く存在しない事も証明されたし、」
矛盾だらけの大和説は、じき跡形もなく淘汰されるさ。 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>762
大和説はもう支持者がアマチュアの・・・・ケダモノ詐欺師だけだからね。
明らかに先がない 。 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>776
こんな中傷しか出来ないくらい 大和説は衰退しました。 いい加減に気づいたほうが良いぞ、
お前のほうが荒らしなんだよ 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>777
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの大和説は、
もう終わってるよ。 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>779
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しのの大和説が、
またトンデモに走る。 次のスレッドを作成しました。。。
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荒らしも、枯れ木も山の賑わいではないのかな、、 >>781
>相手を侮辱しても 回答しなくていいと言う 言い訳にならない <
この「・・・・大和説男」には、これまで4〜5回は返事を書いたと思うが、
一回も返事を貰っていない。 次のスレッドを作成しました。。。
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