司馬遼太郎 Part12
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
現在「翔ぶが如く」が進行中です。
前スレ
司馬遼太郎 Part11
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1513665828/ 第19章 退去
〔一〕黒田清隆
――故郷に帰られますか。
と黒田は問いたかったが、水面の魚をすかし見ることに熱中している西郷に問うことは、なにやら憚られるものがあった。維新第一等の功労者が、官職をすてて栄華の都府をあとにして故郷の山林に隠れようとしているのである。
黒田が何を問い、どう諫めようとも、自分の吐く息が生ぐさすぎるような気がして、物を言う気力も失せてしまったのである。
西郷はこのあと、何度か網を打った。黒田はそれを葦のあいだから眺めていただけで、結局はすべての思いを一礼に籠めて立ち去らざるを得なかった。 西郷は「向島へ鉄砲を打ちにゆく」と言って出かけたのに、どうして投網を打っているんだろうな。 >>951
天皇に三条の見舞いをさせたり、岩倉を太政大臣代理にすることは大久保の発案とされていたから、黒田と従道が征韓論つぶしのために何をしたのかが、いまいちよくわからい。
だから、黒田と従道が向島に西郷を訪ねた本章は、どうもピンとこないんだよね。 黒田については、木戸孝允の帰国直後の章で、征韓論より樺太問題を優先すべきだと木戸に述べている叙述があったな。
樺太問題は、10月14日の廟議で、岩倉が力説していた。 従道の場合、実弟でありながら反征韓論であったことそのものが、重要なんじゃない? >>932
西郷は、風土病のためにキン玉が頭と同じ大きさにまで腫れあがっていたんだ。
歩くのにも難渋すると思うぞ。
なにもかも嫌になって退隠願望をもつのも、やむをえないかなと同情するよ。 ★向島
▽10月23日
小網町の寓居を出たのは午前8時。西郷はすぐに向島に向かったのではなく、その前に大久保利通を訪ねている〔>>932〕。
その後、向島に向かった。肩には猟銃をかついでいた。投網ではない〔>>953〕。
越後屋の寮に着いたのは、午後の陽がすこし傾いてからである。 ▽小牧新次郎
辞職した西郷は、従者小牧新次郎と下僕熊吉を伴って日本橋の自宅を出、庄内藩用達の米問屋越後屋の別荘にしばらく身を寄せ、10月末、横浜を出帆し、11月初めに鹿児島の屋敷に着いた。
>>670に、大うそを書いていた。西郷が逗留した越後屋は、三井の越後屋ではなかった。 三井は呉服屋として発足し、両替商を営んだ。米問屋ではない。 三井に世話になりながら、「三井の番頭さん」と井上馨を揶揄しないよな。 ▽法界坊
歌舞伎狂言「隅田川続俤(ごにちのおもかげ)」の主人公。
歌舞伎のなかでは喜劇味の強い世話物の芝居で、主役法界坊の悪と滑稽さが喜ばれ、人気を博す。極悪人だがどこか憎めない法界坊の演技が眼目である。
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/images/flier/no10_hokaibo.jpg
西郷の頭髪が法界坊のようだと書かれている。 ▽黒田清隆
前スレ〔781-784〕で述べた。
明治2年8月、二官六省制が施行されたときは、黒田は寺島宗則外務大輔の下で外務大丞となった。
しかし、同年9月に大村益次郎暗殺事件ののち、黒田は外務省から兵部省に移籍した。黒田が兵部大輔の前原一誠と衝突したのは、明治3年4月である〔>>162〕。
大久保利通は辞表を提出した前原を慰留する一方、明治3年5月、黒田を開拓使に移籍させた。 ▽グラント大統領〈1822−1885〉
南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。
軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。岩倉使節団が渡米したときの米国大統領である〔>>485〕。
本章では黒田が渡米した際、グラントに直談判してケプロンを日本に連れてきたとある。
http://static.tvtropes.org/pmwiki/pub/images/70724-004-4CB8AA9B.jpg ▽ホーレス・ケプロン〈1804−1885〉
南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった。明治4年、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。明治8年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、明治5年、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。
http://guzurabo.my.coocan.jp/m-dozo/hokudozo/kepron2868.jpg ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名で重要なものを次に記載する。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、明治10年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。 ▽クラーク〈1826-1886〉
マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。
https://www.photock.jp/photo/middle/photo0000-0322.jpg 8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。
晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。
諸君、「Boys, be ambitious like this old man」じゃよ。 Boys, be ambitious like this old man, who went bankrupt.
https://pbs.twimg.com/media/CgIU4RIVIAEaW1l.jpg クラーク博士〔破産者〕が就けない職業・資格一覧
卸売業者、貸金業者、教育委員会委員、行政書士、警備員、警備業者、建築士事務所開設者、建設業、公証人、公認会計士
質屋、司法書士、社会保険労務士、商工会議者会員、人事官、生命保険募集人、税理士、損害保険代理店、宅地建物取扱主任者
宅地建物取扱業、中小企業診断士、通関士、土地家屋調査士、廃棄物処理業者、不動産鑑定士、弁護士、弁理士、旅行業務取扱主任者、旅行業者 Boys, be ambitious!!
\\ Boys, be ambitious!!//
+ + \\ うんこ ワッショイ!!/+
+ ブリブリ
+ 人 人 人 +
(__) (__) (__)
+ (__) (__) (__) +
. + ( __ ) ( __ ) ( __ ) +
( ´∀`∩ (´∀`∩) ( ´∀`)
+ (( (つ ノ (つ 丿 (つ つ )) +
ヽ ( ノ ( ヽノ ) ) )
(_)し' し(_) (_)_) ____
/ \ /\ キリッ
. / (ー) (ー)\ <「聖書によらざれば人間教育の完成なるものは望めない」
/ ⌒(__人__)⌒ \
| |r┬-| |
\ `ー’´ /
ノ \
/´ ヽ
| l \
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、.
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ <破産したけどよう〜www
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / //
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー’´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l バンバン
ヽ -一””””~~``’ー?、 -一”””’ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) ▽玄武丸
クラーク一行は、開拓使長官黒田清隆と共に開拓使御用船「玄武丸」に乗船して品川沖を出帆、一路北海道へ向かった。
この船、じつは「ゴロタマル」と渾名される小汽船であった。
後述するが、酒乱の黒田清隆が起こした大砲発砲事件は、このときの航海である。
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/g-tsuusetsu_02/t2-0832.jpg ▽札幌農学校
北海道大学の前身。明治5年(1872)東京芝増上寺内に開設された開拓使仮学校が、明治8年に札幌に移転、同9年に札幌農学校と改称した。米国人教頭クラークが邪宗門を広めたため、内村鑑三・新渡戸稲造ら多くの隠れキリシタンを産みおとした。
※旧札幌農学校演武場(札幌時計台)
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/tokeidai.jpg クラークはわずか八ヵ月の滞日後に帰国しているから、新渡戸稲造、内村鑑三ら二期生とは入れ違いなんだよね。
新渡戸・内村の恩師は、二代目のホイーラー教頭。 クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員が邪宗門に入信していた。 邪宗門に入信した新渡戸稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。天津神の祟りであることは、いうまでもない。 『翔ぶが如く』から脱線しすぎだよ。
黒田清隆が有能な官僚であったことを論証するために、ケプロンとクラークが例に引かれているだけだろう。
そろそろ本筋にもどろうぜ。 ▽アルコール性痴呆症
・料亭「紅葉館」では、黒田に水ましの酒を飲ませていた。
・三条実美・伊藤博文・井上馨は、罵倒されたり、ピストルで脅されていた。
・刀剣屋のもってきた刀で古株を斬り、飛んできた刀身が黒田の肩を傷つけ血まみれになった。 ▽黒田清〈せい〉
黒田は28歳で明治維新を迎え、翌明治2年に中山清〈14歳〉と結婚した。
旧旗本の娘。
結婚9年目のある日、黒田がしたたかに飲んで帰宅すると、妻から文句を言われた。黒田はカッとなって妻を斬殺した。
※黒田清ではありません。名無し御殿女中。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150911/09/fumiakityan/ec/f9/j/t01660304_0166030413421613275.jpg 黒田参議夫人斬殺事件が、明治11年3月。その2年前の明治9年7月31日に、黒田長官は玄武丸大砲発砲事件〔>>973〕を起こしている。 ▽黒田長官大砲事件
明治9年7月30日、祝津〈しゅくづ〉沖合を航行中の黒田清隆が乗った開拓使船「玄武丸」が、実弾の射撃試験を行った。
ところが、その標的である赤岩の岩頭を外れ、祝津村民・斎藤清之介氏の漁舎(現在の祝津3丁目178番地)を直撃し、この家の娘 「多津与」の両足に重傷を負わせ、ついに、死亡させてしまったという事件。発砲したのは、もちろん酒乱の黒田長官です。
※画像は戦艦武蔵の主砲46サンチ砲発砲の瞬間
http://ironna.jp/file/w480/h360/3220c67685d272c9ad41170f71b4c877.jpg 黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。
警視庁はすぐ「団々珍聞」を処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。 伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。
川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。 紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。 黒田は、結果としては彼が師と仰いだ西郷と大久保をともに殺したということになる。 明治14年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このときその官営事業に非常な安値を付けた。
しかし、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。
大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。 醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年に第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年4月に第2代内閣総理大臣となった。
在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布であったが(明治22年)、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b8/cdccb674233176bb005de7c2483a65f1.jpg ▼開拓使官有物払下げ事件
北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。
明治十四年の政変〔>>938〕のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放した。 払下げ官営事業に安値を付けるわ、冗談半分で大砲をぶっ放すわ、挙句の果てに嫁は殺すわ、黒田サイテー。 平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であった。
ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。
以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。 第19章 退去 〔一〕黒田清隆 の全部は収まらなかったな。
次スレも、黒田清隆の話の続きだ。 全集の各巻が、スレッド二つでは消化しきれなくなったな。 Part150くらいまでいきそうですね☆.。.:*(嬉´Д`嬉).。.:*☆ このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 57日 17時間 31分 24秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。