司馬遼太郎 Part12

1日本@名無史さん2018/01/19(金) 00:01:42.47
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
現在「翔ぶが如く」が進行中です。

前スレ
司馬遼太郎 Part11
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1513665828/

716日本@名無史さん2018/02/23(金) 11:05:41.17
幕末をゆるがした反幕運動者の思想は個々にみればまちまちで、反幕という目的では一致し、それが一大エネルギーになった。
が、維新成立と同時に、「こういう政権をつくるために働いたのではない」という不満が思想家ごとにおこった。大石の場合はかつての洋楽志向者から国粋家に変わっていた。

717日本@名無史さん2018/02/23(金) 11:15:25.26
明治六年政変以後、高知においても不平士族らによる政治活動が盛んとなるが、大石は郷士層を中心に勤王党の流れを汲む「古勤王党派」の中心人物として活動した。大石は萩の乱を起こした前原一誠と親交があったほか、立志社とも挙兵の協議を行っており、西南戦争など一連の士族反乱に呼応する動きがあるとして政府より警戒されていた。
大石が上京して久光と面談したのは、この時期であろう。

718日本@名無史さん2018/02/23(金) 11:18:09.57
明治11年、山口で脱隊騒動を起こし逃亡中の富永有隣を隠避したかどで逮捕され、2月に松山監獄に投獄された。しかし9月には証拠不十分により釈放され、帰郷後には家督を長男に譲って隠棲した。
ちなみに、富永有隣は明治33年まで生きながらえている。
http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/wp-content/uploads/sites/2/2013/10/db-photo-tominagayurin.jpg
http://img01.dosugoi.net/usr/i/e/k/iekou/IMGP2459.JPG

719日本@名無史さん2018/02/23(金) 11:21:53.82
司馬さんが島津久光と大石円の話に脱線していたら、荒らしまで来てしまった〔>>707-708〕。
ここから、やっと海老原穆の話に戻ります。

720日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:19:23.43
★陸軍裁判所

▽太尉
中国古代の軍事長官。秦はこれを三公の一つとし、漢もその制を踏襲したが常置の官ではなかった。前漢の武帝のとき大司馬と改めたが、後漢ではまた太尉と称した。隋・唐以後も三公の一つとして設置されたが、実権はなくなった。
海老原穆は、明治4年、西郷隆盛とともに上京し、陸軍大尉を拝命する。海老原は、これを中国古代の「太尉」と勘違いして喜んだ。あとで尉官の上に佐官と将官があることを知り、「人を虚仮にするにも程がある」といって、官を捨てて国に帰ってしまった。

721日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:26:25.98
▽調所笑左衛門
安永5年(1776年)- 嘉永元年(1849年)
城下士・川崎基明の子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用される。
天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。
※竜雷太(『西郷どん』:2018年・NHK大河ドラマ)
https://taigatv.net/wp-content/uploads/2018/01/d84bd15e2217426a6b659e82913cd67e.jpg

722日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:31:23.68
当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して笑左衛門は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易、大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。

723日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:34:13.62
やがて、斉興の後継を巡る争いがお家騒動に発展すると、笑左衛門は斉興・久光派に与する。これは、重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであるといわれている。
斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興および調所の失脚を図る。
嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺ともいわれる。死後、笑左衛門の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。

724日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:45:12.80
司馬さんは、調所広郷の遺産を海老原家が相続したと書かれているが、意味不明。
なお、調所広郷の三男・調所広丈は、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている。

725日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:46:32.90
海老原穆の父宗之進は薩藩財政をたてなおした家老調所笑左衛門の部下としてはたらいた。そのため海老原家は尋常の士族などは遠く及ばない豪富をたくわえていたといわれた〔>>684〕。

726日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:54:03.65
▽民権運動
民権運動は国会開設運動をふくめてこの明治六年秋の段階ではまだ思想として日本に入っているとはいえない。

727日本@名無史さん2018/02/23(金) 18:04:19.76
▽古沢滋
弘化4年 (1847) - 明治44年
土佐藩士・古沢南洋の二男として生まれる。上洛し尊王攘夷運動に加わるが、帰郷時に投獄された。
明治2年、石巻県に出仕。明治3年2月、大蔵省に転じ十等出仕となる。同年7月、イギリスへ留学のため派遣され政治経済学を学ぶ。明治6年12月に帰国する。
翌明治7年正月に板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書の起草に携わる。本章にいう「建白書」とは、受験日本史頻出の民撰議院設立建白書のことである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/Furusawa_Uro.jpg/220px-Furusawa_Uro.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/ca1/736978/20080624_255983.png

728日本@名無史さん2018/02/23(金) 18:58:15.30
▽中江兆民
弘化4年(1847年)- 明治34年
高知城下の山田町(現・高知市はりまや町三丁目)に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。
明治4年11月に横浜を出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリとリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。
明治7年6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/490/98/N000/000/000/129219411008116305507_p_nakae-cyoumin.jpg
https://image.middle-edge.jp/medium/6fd47484e1043253d428ffa1f4a43592.png

729日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:10:35.33
「江戸封建制を復活せよ」
という島津久光が、反政府主義者にとっての光芒であった。

730日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:15:04.61
▽新聞
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊された。明治元年に小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の『中外新聞』、『江湖新聞』が、明治3年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。
明治5年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、『郵便報知新聞』などがそれぞれ創刊された。明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取った。

731日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:19:09.34
▽大観堂
日本橋の本屋。各種新聞を取り揃えて、一時間の閲覧料を一銭で客に読ませていた。
ウソか本当かは知らない。

732日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:27:01.95
▽日新真事誌
イギリス人 J.R.ブラックが明治5年3月に東京で創刊した日本語の新聞。初めは左院の議事・議案、建白書を掲載する「左院御用」の新聞であったが、治外法権をもつ外人経営だったところから次第に政府批判の色を濃くした。
明治6年5月には井上馨・渋沢栄一の財政意見書を、また明治7年1月には板垣退助らの民撰議院設立建白書をいちはやく掲載し、その頃から民権派の新聞の代表格になった。
政府は、明治8年1月に新聞経営の放棄を条件にしてブラックを左院に雇い、6月に新聞紙条例を公布して外人による新聞経営を禁止したうえで、その直後にブラックを解雇した。ブラックが手をひいたのちの『日新真事誌』はたちまち勢力を失い、明治8年末に265号で廃刊した。

733日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:33:21.49
司馬さんは勘違いしておられるのか、小説のために敢えて史実を枉げられたのかは知らないが、政府が『日新真事誌』を目の敵にしはじめたのは、明治8年からである。
『日新真事誌』が「左院御用」であるために精彩を欠いたのではなく、「日新真事誌」はそもそも「左院御用」として出発し、その後、民権派の新聞に変貌した(明治7年)。
したがって、海老原穆にわざわざ「去年の『日新真事誌』のような新聞を出す」と言わせる必要はなかった。海老原は現在の『日新真事誌』のような新聞を出せば政府批判ができるのである。

734日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:36:20.70
良いところに目を付けるが、肝心なところで間違えてしまうのが司馬史観(・∀・)ニヤニヤ

735日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:41:17.74
「よか女はおらんどかい?」
と、海老原はいった。
美人で気の利いた女がおれば情報収集に案外な役に立つかもしれない、というのである。
「くノ一でごわすな」
桐野はわざと眠そうな顔になった。

736日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:42:32.26
ここで前章で登場した元旗本の娘・千絵が桐野の脳裏に浮かぶ。
史実とフィクションが上手く繋がりました。

737日本@名無史さん2018/02/23(金) 19:44:50.23
史実に縛られて小説が思うように書けなくなった司馬さんの悲鳴が聞こえてきそうな叙述になっているな。

738日本@名無史さん2018/02/23(金) 20:33:36.51
▽東学党
1860年に両班出身で没落した崔済愚が創始した宗教。儒教・仏教・道教を融合させ、西学(カトリック教)に対抗する意味で東学と名付けられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符をを飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。
大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し死刑にした。
http://last-sword-legend.up.seesaa.net/image/9BC18DCF8BF01.jpg

739日本@名無史さん2018/02/23(金) 20:34:37.33
1880年代には、外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学は再び活発となり、第二代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、日本と西洋諸国の排斥を激しく求めるようになった。
1894年、東学の地方幹部が農民の蜂起を指導し、甲午農民戦争(東学党の乱)を起こし、それが導火線となって日清戦争が起こった。
https://www.worldwide-transition.info/img/nissin1001.jpg

740日本@名無史さん2018/02/23(金) 20:55:32.43
島津久光の建白書より〔>>692
「貴賤ノ分ヲ明ラカニシ、四民ノ別ヲ厳明ニスベキナリ」
士農工商の間の無階級通婚を許すことは、淫乱である。
若い娘を新聞編集の社中に入れることは、淫乱である。

741翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23 2018/02/23(金) 21:49:00.43
第14章 秋の霜 

〔一〕反征韓派
大久保は十月八日から十日すぎまでの間に、反征韓論についての自分の考えを、あらためて踏みかためている。
西郷のいう理由も、大久保にはよくわかっていた。西郷の征韓論の巨視的展望には、朝鮮そのものに最終目標はなかった。それはロシアにあった。ロシアの南下策のすさまじさを見ていて、早晩、これが日本の独立を脅かすことを西郷は予見していた。
大久保もこの恐怖については西郷と同量にもっていた。しかし西郷がそれを純戦略的に観察し、ロシアの南下による被害を未然に防ぐためにいちはやく足場を韓国に設けようという西郷の戦略構想に対し、大久保はそれを不可能とした。

742日本@名無史さん2018/02/23(金) 21:56:53.12
★麹町区内幸町

▽伊藤博文
10月4日の夜、伊藤は雨滴を髪から頬にしたたらせて、麹町区内幸町にある三条実美の屋敷を訪ねた。
「あなたは、慶喜ですら怖れなかったお方ではありませんか。西郷ごときが何でありましょう」

743日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:06:42.60
▽10月5日
三条は岩倉に、征韓論を弾劾する手紙を書いた。その内容は、遣韓使節の目的が不明確というものであった。
1.朝鮮の頑陋を除き、旧交を再開せしめ、善隣の誼を結ばしめようとする目的
2.朝鮮を日本の属国にしてしまう目的
3.国内の政情不安を、外征によって他に逸らし、国内の人心統一の実を図ろうとする目的
以上のいずれであるかを、西郷参議より文書で提出させるべきである。

744日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:08:37.66
と、遣韓使節の件について勅許まで得た条公が申しております(゚Д゚)ゴルァ!!

745日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:14:09.12
★岩倉邸

▽10月5日
三条の手紙は、10月5日の午前中には岩倉邸に届いた。
この日、岩倉邸には、岩倉家の血縁で京都の門跡寺院の坊官をしていた男が訪ねていた。
猟官運動のためである。小欲が脂のように浮き出た貧相な顔をしていた。
http://blog-imgs-29.fc2.com/h/i/r/hironof/120018336393191b4.jpg

746日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:18:37.83
▽赤誠
偽りや飾りのない心。まごころ。
「赤」という文字には、色彩の赤のほかに、次のような意味があります。
「まじりけがなく熱っぽい」「はだかの」「なにもないむき出しの」
これらの意味から生まれた言葉には、「赤裸々」「赤心」「赤誠」などがあります。
「赤子(せきし)」もその一つで、生まれて間もない子のことです。

747日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:23:20.01
▽征韓論の政策案としての弱点
西郷の渡韓目的の内容は曖昧である。
1.戦争を期せざるのか …… 朝鮮の頑陋を除き、旧交を再開せしめ、善隣の誼を結ばしめようとする目的
2.戦争を期するのか …… 朝鮮を日本の属国にしてしまう目的
3.戦争を期せざるも已むを得ざるときは戦争を開くのか …… 国内の政情不安を、外征によって他に逸らし、国内の人心統一の実を図ろうとする目的

748日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:26:44.15
三条は、第一回の征韓論廟議を「あいまいな決定」と規定し、再度くわしく議論すべきであると、手紙の中で述べている。

749日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:27:10.48
と、遣韓使節の件について勅許まで得た条公が申しております(゚Д゚)ゴルァ!!

750日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:34:55.53
★大久保邸

▽参議
大久保は明治2年7月に参議に就任している。しかし、明治4年6月に大蔵省と民部省が再度統合されると、大久保は参議より格下の大蔵卿に就任した。

751日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:38:43.72
司馬さんは、大蔵省が明治4年に制度化されたと述べられているが、慶応4年1月に設置された金穀出納所は、何度か名称を変更された後、明治2年8月、二官六省制になったのを機に、大蔵省と改名されている。
同年9月に民部省と合併し、過去に例のない大型官庁となった。初代大蔵卿には松平慶永が就任した。

752日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:44:44.73
この合併は、徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する長州閥の官吏が強く推進した結果である。
一方、大久保利通・広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の四参議が地方官の支持を受けて再分離を求めた。その結果、明治3年7月に大久保が主導して両省の再分離が決定された。

753日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:49:37.80
再分離は、大蔵省の所管事項があまりにも広くなりすぎて、杜撰な地方行政が行われることを危惧した勢力(主として地方官)に乗った大久保が、長州閥による権力の独占を排除した結果である。
しかし、徴税については一括して大蔵省が担当することになったために、統合派と分離派の対立が続いた。

754日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:53:24.74
その後、明治3年閏10月に工部省が民部省から分離され、民部省の権限を縮小した後に、明治4年7月、改めて民部省は大蔵省に合併されて廃止された。このときの大蔵卿が大久保利通である〔>>750〕。

755日本@名無史さん2018/02/23(金) 22:53:38.47
だが、「巨大官庁・大蔵省」誕生に対する政府内の反発は収まらず、明治6年11月に徴税以外の国内行政部門は再度分離されて、新しく内務省が創設されることとなった。初代内務卿は、大久保利通である。

756日本@名無史さん2018/02/24(土) 18:55:22.78
>>746
中国では生まれて間もない子を交換して食用にしていたからな。
皮膚を剥いだ赤ん坊の赤い肉のイメージから、赤子と呼んだのだろうな。

757日本@名無史さん2018/02/24(土) 18:59:38.31
>>751-754
司馬さんは、木戸孝允と大久保利通の仲の悪さを、性格の違いに帰しているけど、大蔵省と民部省の統廃合をめぐる長州閥と薩摩閥の権力闘争が背景にあるよね。ここはスルーしている。大蔵大輔・井上馨がスルーされているのも、この関係からだろうね。

758日本@名無史さん2018/02/24(土) 19:01:39.37
▽大久保の決断
10月5日から7日にかけて、大久保は熟慮を重ねた上、参議になり廟堂で西郷と対決することを決意した。

759日本@名無史さん2018/02/24(土) 19:14:25.11
▽薩摩系近衛士官によるクーデターの危惧
「賊」の烙印を押されることを避ける方法を、大久保は二通り考えていた。
1.警視庁の兵力をもって宮門を死守し、薩摩系近衛士官の手に帝が奪われることを阻止する方法
2.三条・岩倉が変節しないように証文をとっておく方法

760日本@名無史さん2018/02/24(土) 20:04:39.03
★岩倉邸

▽10月8日朝
三条・岩倉・大久保の三人会議。大久保は三条・岩倉から、反征韓論の意見を変節しないという証文をとった。

761日本@名無史さん2018/02/24(土) 20:18:04.87
★新参議

▽副島種臣
前スレ〔684-686〕で述べた。
副島は、明治2年に参議、同4年に外務卿となった。大久保が大蔵卿になった際に参議からはずれたのと同じように、副島も外務卿に専務するため参議からはずれていた。
明治6年2月には、明治4年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。

762日本@名無史さん2018/02/24(土) 20:36:09.16
副島は西郷よりも早い時期から征韓論者であった。征韓論といっても、西郷と同じく遣韓論であった。
「翔ぶが如く」で繰り返し述べられているように、廟議において居留民保護を理由に派兵を主張したのは、板垣退助である。
西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
中国から帰国した副島種臣は、西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴くと主張した。
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁であることが定着した。

763日本@名無史さん2018/02/24(土) 21:13:32.20
「翔ぶが如く」によると、副島の参議再就任は、伊藤博文の発案で、大久保・西郷ともに賛成した。

764日本@名無史さん2018/02/24(土) 21:32:51.74
▽伊藤博文案
三条実美は、伊藤博文の参議就任を考えた。しかし、これは大久保に一蹴された。

765日本@名無史さん2018/02/24(土) 21:48:56.62
★大久保邸

▽反征韓論 ー 大衆感覚の欠如
征韓論は愚である。日本は生産性が低いうえに政府費用は莫大で、しかも外債が五百万円以上もあり、それを返済するめどもない。この状態のなかで戦争という途方もない濫費をすれば、ついに国家を破るにいたる。
さらに日本は安政不平等条約によって関税の自主権がなく、国内に治外法権があるという半独立国の状態にありながら、それを解決せずに朝鮮の蒙昧を責めるというのは滑稽以外の何ものでもない。

766日本@名無史さん2018/02/24(土) 21:49:29.32
▽殺されるべき人物
大衆は政治について大久保のような生真面目な明晰者を好まないという恐るべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。
さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった。

新着レスの表示
レスを投稿する