邪馬台国畿内説 Part318
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516586955/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。 ◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし >>1
テンプレ糞長すぎて読む気は全く起きんがとりあえず乙^^(まー盛り上がったらまたきます 317の>>600
「南→東」などの嘘吐き騙しを反省が出来ない大和説は、
根拠を何を言って上げても理解出来ない、したくない、
というのが正解。
大和説者の脳は、明治や戦前のままで、
時間が止まったままのじいちゃん達だから。 テンプレに意義なし
有効な反論もないみたいだしこのスレ終了で
みんな書き込まないでね >>602の訂正
戦前日本の近隣諸国への人種差別的侵略殺戮戦争の国粋皇国史観が忘れられず、
また核戦争の分裂幻覚の妄想をしているのが、
今の非academicの大和説者。 >>610
大和から何も見つからないからって、
「南→東」の嘘つき騙しまでして、
大和説の印象操作をするなよ。 >>65
反論が有効でないなら
畿内説の勝ちだろう
>>613
おまエラ「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者達が、
善良な国民をを騙すような投稿を止めりゃいい。 六拾弐病
六拾弐病(ろくじゅうにびょう)とは、定年退職後の老年期に見られる、
周囲を見下した言動や、自惚れに満ちた妄想を連呼する様などをさす語。
自らを客観視することができず、盲目的に自身を絶対化する、というのがその典型的例。
現役時には社会に適合してゆくために相対化させざるを得なかった自己が、
定年によって自らをとりまく環境が急激に変化することで相対化のバランスを失い、
自分が特別な存在であって欲しいとする願望が顕在化することで発症する。
その思考の基礎となる知識は、遠い昔に聞きかじった程度の浅いものや、
定年で生じた余暇によって取得した程度の中途半端なものであるため、
罹患者の主張は往々にして突飛な妄想でしかなく、周囲に受け入れられることはない。
しかし、本人は自身の思考は特別に優れているものだと盲信しているため、
受け入れられない原因を周囲のせいであると主張し、攻撃性を高めつつ、負のスパイラルへと堕ちていく。
このため、「六拾弐病」は陰謀史観との相性が非常によい。
なお、「六拾弐病」の名は、定年後数年を経て症状が顕在化することから名付けられたものであり、
もちろん全ての罹患者が62歳で発症するものではない。
似た症状を呈するため、「六拾二病」は「老年性中二病」と称されることもあるが、
思春期に自身を特別な存在だと仮想する「中二病」が、
確立されていない自己とそれを取り巻く社会の拡大とに折り合いを付けられず、
自己を疑似的に絶対化することで周囲との相対化の波から逃避しようという、
いわば自己防衛的な理由によって発症し、
ほとんどの場合本人の成長とともに症状が改善されるのに対し、
「六拾弐病」は、罹患者が生来持つ傲慢さがその根底にあるため、
一度発症してしまうと、死ぬか、惚けて思考能力が失われるかしない限り、
症状が改善されることはないとされる点は対照的であるといえる。 全1病
全1病(ぜんいちびょう)とは、邪馬台国畿内説スレに出没する九州説論者のみが発症する、心の病。
畿内説側の書き込み全てが>>1◆UiepmfCeDJqによる物であると信じ込む、一種の脅迫観念である。
学問の世界ではすでに追い詰められている、という事実を認めたくない九州説論者が、
畿内説に多くの賛同者などいるわけがないのだ、と自分自身を騙そうとすることで発症する。
>>1◆UiepmfCeDJqが自演により多数派を装っているのだ、と言う発想は、
実は、自身が自演を頻繁に行っているという事実の裏返しにほかならない。
現時点では治療法は発見されておらず、一度発症すると死ぬまで治ることはない。 ザラコク
邪馬台国関連スレに出没する非常識異常行動者のひとり
呼称は、Yahoo掲示坂で使用していたハンネ「zarakoku」から
古田武彦と彼が提唱した九州王朝説を盲目的に信仰しており、その信心の深さは、
世間的には偽書として決着している『東日流外三郡誌』を未だに真書であると主張するほど
自らを「素人おじん」と称することもあり、一見、自身を客観視できているかのようであるが、
その書き込み内容は、自分の信奉する説以外はすべて間違いだと決めつけてかかる、六拾弐病患者特有のもの
素人が専門家をこき下ろすという行為に疑問を感じなくなっているほど思考が硬直化している
「全レスバカ」と呼ばれることがあるほど片っ端からレスを付けまくるが、
ほとんどが他人の会話への横レスかつ超遅レスであり、周囲と会話が成立することはまずない
レスを付けることが目的化している節があり、その内容は、
他人の発言を長々と全文引用したあげく、賛成!とか間違いだ!とか数文字書き足すという程度のもの、
自分の都合のいいように語句を入れ替えただけのオウム返しのものなど、無意味なものばかりである
投稿数だけは圧倒的で、コピペ連投並みにスレを荒らす結果となっているが、本人に自覚はない
社用のPCで勤務時間中に5ちゃん投稿に血道を上げる問題経営者である
自分に不都合な情報を自分に都合が良いように勝手に脳内変換していることが多いが、
ソースを提示されても、自身の記憶や理解の方が正しいと主張する、傲慢な思考の持ち主
常駐していたYahoo掲示板を倫理規定に触れて出禁になったらしく、最近5ちゃんに居付いてしまった
「生きる独善」との形容がぴったりな75歳 キウス
邪馬台国関連スレに出没する真性の基地外であり、病的なウソつき。
「希薄」を読むことができず、「箕臼(キウス)」と誤変換し続けたことから「キウス」と呼ばれるように。
自演爺、四棟粘着爺、指さし厨とも。
ウソの書き込みや自演、成り済ましを平然と行い、畿内説スレの>>1を騙り偽スレを立てること数度。
>>1のトリと同じ英数字を名前欄に書き込んで成り済まそうとしたこともある、最低のクズである。
「全1病」罹患者にして典型的「62病」発症者。
環境依存の絵文字や、「自論」、「私見」、「勉強してください」、「学がない」、「貴君」、など特徴的な言い回しの多用、
5ちゃんでは一般的ではない「スレ主」頻発、名前欄への書き込み多用などの特徴ですぐに判別できる。
「本日のMVP」として自身を認定するなど、能力もないのにやたらと仕切りたがる、
実生活では決して身近にいて欲しくないタイプ。
「畿内説への助け船」は全く助け船になっていないばかりか、意味不明な泥船であることが多い。
トリとハンネの区別がついていないことも特徴のひとつ。
これまでに使用が確認されているトリは以下の通り。
◆TJ9qoWuqvA ◆zDcsAEpKdA ◆TbjlUtTwCg ◆DTCBtArI/s ◆cmsiBNFbAs◆.jMGTy6iYI ◆PyuQX798ps
◆CXD1.68m1w ◆10cK4OrL3E ◆P5DBe7oqOQ ◆prq8Tl5byw ◆CSZ6G0yP9Q ◆QkRJTXcpFI
キウスの書き込みを褒めたり、礼を言ったり、「ワロタ」と応じたりする書き込みは、すべて自演である。
「キウス扱いされた」などと、自演がバレたときに他人を装う書き込みをすることもある。
自らキウスを名乗り>>1にトリを要求することもあるが、自分はすぐに名無しに戻る卑怯者。
他人を騙す行為も自分ならばすべて許されると信じている節のある、傲慢の塊である。
日本語の読み書きが満足にできないこと、日本史や日本の地理に関する基礎知識がないこと、
マスメディアで散々取り上げられる「土用の丑の日」を間違ったことなどから、
日本の義務教育を受けていないどころか日本国内に居住していないのではないかと推測されている。 >>615
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者がゼロになったら、
このスレもなくなるかもな
国民のために、良かった良かった。 岡上
邪馬台国関連スレに出没する狂人のひとり
考古学界では全く賛同者がいない説を「考古学的に確定している」と主張し、ありもしない大規模調査をでっち上げ、
学界の多数派である邪馬台国畿内説を破綻したと主張する、ゴッドハンドも真っ青の捏造常習犯である
自分は正しく、これまでの研究者がみんな間違っていた、などと平気で主張する、典型的「六拾弐病」患者
コテ+トリと、コテの九州王、伊都国女王、卑弥呼、名無しを使い分け、自説を関連スレで書き込みまくる
糸クズ、八咫バカ、連続句読点キチともよばれる
「咫」の説明である「周尺」を「円周の尺」と読み、
伊都国を女王国であると漢文の用例を無視して誤読し、
平原遺跡出土鏡の文様には八咫烏があると現物を知らないで主張し、
魏志倭人伝中の「下戸」を「酒が飲めない人」と訳すなど、
お笑いエピソードには事欠かない
偽スレや妄想スレを立て続ける異常性に気がついていないのは本人だけ
未確定な事項であっても、自分に都合がよければ勝手に確定事項であると脳内変換し、
それを根拠として立論してしまうチェリーピッカー
日本史の方法論をまるで理解していない、自分偉い教の教祖である 2013年の大規模調査なんてない
日本経済新聞(2013/2/20)
卑弥呼の墓?初の立ち入り調査 奈良・箸墓古墳
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1905C_Q3A220C1CR0000/
研究進展に期待
日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、
宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
宮内庁が研究者側からの要望に応じて立ち入りを認めるのは初めて。
同古墳は邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とする説もあり、陵墓の公開や研究の進展につながると期待されている。
立ち入り調査をしたのは研究者16人。
約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
参加した日本考古学協会の森岡秀人理事によると墳丘表面で、築造以前の様子を示す弥生最末期の土器などが見えたという。
森岡理事は「古墳の詳しい状況を実感できた。今回得た知見や印象によって研究が加速するのでは」と話し、
今後の陵墓公開に向け「国民の文化遺産として大切に守るべきもの。宮内庁とさらなる協力体制を目指したい」と強調した。
研究者らは午後、宮内庁が管理する西殿塚古墳(同県天理市)も調査する。 >>625
>弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、
蝋燭の最後の輝きをはなって音もなく衰退した<
衰退していない。
仲哀の頃にも王として存在していたし、
磐井や葛子やタリシホコも輩出した。 >>626
>神話の国で検索したら島根か宮崎が出るのが日本の常識<
PC会社やYahooのようなマスコミ自体が、始めから、
政府や文部省の「嘘つき騙しの大和説」のしもべなんだから、
検索自体が、何の信頼性もない。
>北部九州をイメージする日本人はまずいない <
検索会社も、
「倭国の存在や歴史を抹殺盗用造作」した記紀思想にクルっていたんだから、
筑紫倭国の存在を隠蔽したのは、当たり前。 >>77
そもそも伊都国は地名であって、国としての名前は倭国だから。 >>79
弥生時代の遺跡の量と質は、筑紫が圧倒的だよ。
それが証拠。 >>64 >>67 >>74 根拠なし言ったもん勝ちは古田九州説
694 日本@名無史さん 2018/01/25(木) 18:56:01.32
>九州説 「距離は5倍以上間違ってるけど方位は絶対に間違わないよ!」<
間違い。 魏志は、距離も方向もほぼ合っている。
>「陳寿は短里を知らなかったけど方位は完璧に知っていたよ!」<
間違い。陳寿も短里も方向も知っていた。
>後漢書(424頃) 「自女王國『東』度海千餘里至拘奴國」<
拘奴國は、魏志倭人伝にはないから、実在か?は不明情報。
>隋書東夷伝(628) 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」<
後代の魏徴らが、魏志の内容を「間違った理解をして書いた」から、×情報。
>混一疆理歴代国都之図(1402) <
後代に、実地に確認もせずに書いた失敗地図であるから、×。
>九州説 「魏志は聖典にして“自女王國東度海千餘里至拘奴國”や“邪馬壹國→邪馬臺國”や<
間違い。邪馬壹國と邪馬臺國は、同じ対象ではない。
>“當在會稽東治之東→大較在會稽東冶之東”など勝手に書き換えてはならない!
後漢書の范曄は“高慢さ”や“威張りたがり屋”で誇張や誇大化の傾向! このインチキを日本の文部省や大陸人が許しても我々は許せない!」
後漢書がインチキという証拠が九州説からいつまで待っても出てこない<
「在會稽東冶之東」がインチキの証拠。 奥村の発狂スレにつきあおうかな
狂い死にするのはかわいそうだから キウスの発狂につきあいたくはない
はやく狂い死にればいいのに >>81
倭人伝の邪馬台国は三世紀の話。
既に東方へシフトしとるわ。 >>1
漢時に百国あった倭国が大乱で分裂して、帯方郡にやって来た勢力は30国を従えてるに過ぎなかった。
高地性集落で分かる通り、倭国は瀬戸内海を挟んで南北に分裂して争ってたが、呉あるいは公孫氏の認識では北側が正規の奴国、南側が反乱軍の狗奴国って認識だったが、帯方郡にやってきたのは南側勢力。
草深き獣道を通って寂れた漁港で船を調達して呉や公孫氏という敵(北側勢力)の敵、魏の帯方郡にやって来ることに成功して形勢が逆転した。
陳寿は魏・呉・公孫氏が書き残した記録を編纂したに過ぎず、呉あるいは公孫氏の記録では北側勢力が正規の倭国、南側勢力は反乱軍という認識だったから、南側勢力には狗奴国の「狗」、卑弥呼の「卑」という蔑字が当てられてる。
卑弥呼ってのは、狗奴国の女王であり、後の大和王朝になったのは狗奴国の側。 >>68
そう
畿内説の勝ちは確定したから
確定したことを話し合っても仕方ないよね
このスレ終了で 日本書紀
火産霊を生んで、イザナミは神で亡くなるとある。
意味深だな。 >>88
大丈夫、傍国の比定に卑弥呼はモモソか宮は何処か
色々話す事はあるから。
まぁ興味がないなら君は別に来なくてもいいよ。 何故、バカたちは卑弥呼が奴国の女王だと思い込んでるんだろ?
狗奴国の女王なのに。 宮内庁に研究員はいっぱいいるけど
なぜ邪馬台国や卑弥呼に触れないのか知ってる? 何で九州説の老人は畿内説にまったく反論できないのかって?
明らかだろう
畿内説を知らないからだ 卑弥呼は血統が違うから
九州の女王で天皇家と縁もゆかりもないから >>95
理由も言わず、ただ結論を連呼する
それが老人たちの九州説
終わってるね 記紀に邪馬台国・卑弥呼の記述が無いからが正解じゃ
邪馬台国が弱体化し それに代わる権力者がヤマト王政を樹立 畿内説に聞きたいが
纒向は王都として使用されたのは何時から何時まで?
其の後の王都の変遷は?
邪馬台国だけに焦点を充てるのでは無く、畿内説はヤマト王政(明日香までぐらいかな)に至るまでの歴史を語って欲しいな >>99
できないと思うよ
記紀神話しか無いからね >>99
飛鳥宮以前に天皇家の都城は存在しない。
奈良時代の初めの記紀によれば、歴代大王の宮室が磯城 ・磐余(奈良県桜井市)のほか、
難波 ・河内地方(大阪府)などに複数営まれたため、各々の宮室を中心に萌芽的な都邑が
形成されていたことも考えられる。
しかし、その具体的な遺構は未発見である。
畿内に邪馬台国が有り、纒向が女王の王都としても、ヤマト王権とは異種の国である
>>93
>>98の上段で良いと思う
>記紀に邪馬台国・卑弥呼の記述が無いから< 万世一系に卑弥呼は含まれない
天王家から言わせれば卑弥呼は馬の骨じゃねーか >>103
言い過ぎ 口は禍の元
畿内説は邪馬台国=初期ヤマト王政とするには根拠不足
歴史の連続性がイマイチ立証できていない >>97
畿内説のスレで他説批判は良くない
主も望んでいない
畿内説への批判は受けて立つべきだが スレ主の名無し投稿は別にして
テンプレの良いところ
他説批判はほとんどしない点 他説批判?
結論連呼行為のアホは批判されて当然だよな >>105
おっしゃる通り
畿内説の看板を掲げているのに
他説の悪口を言うのは逃げとしか映らないですね
正正堂堂と畿内説への批判に答えるべきです
他説への批判は他説のスレでやれば良いです >>107
スレのレベルが下がるだけですよ
アホとか言わずに
無視をすれば良いだけでは >>107
あなたなら分るでしょうか 推理でも結構です
>>99
>纒向以降 飛鳥京までの王都の変遷<
語っていただくと有難いのですが・・・ >>660
>いくらお経唱えても、学説には影響しない <
いくら大和説や右翼マスコミや文部省が、
学説と称して「南→東」などの嘘吐き騙しのお経唱えても、
史料事実や史料実態の確率や価値には影響しない。 畿内説ってさ
宗教 冷静な判断ができなくなる
洗脳されるから近づかないほうが良いが怖いもの見たさに投稿 >>671
そんなウソばかりついて、「朝鮮人だろ」という中傷ばかりしていては、
国民の中の人種差別大好きの・・・・アホは騙せても、
普通の国民には、「大和説が負けた」という宣伝になるだけだよ。 >>689
>邪馬台国が奴国のすぐ南にあったというなら頑張ってその研究を進めろよ<
誤魔化すな。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。
誰も、嘘つき騙しの大和説に同意もしてくれないし、
まともな議論もしてくれないから、
九州説者を、「朝鮮人」誹謗して荒らしてるんだろ ?。
みめなもんだ。 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>690
>(高祖神社)もとは大門の辺りにあったとのことなので、今は天満宮があるあたりかもしれません。
私有地なのでなかなか掘れそうにないですね。<
成程。 >>692
>日本では何か見つかってから話題に上るんだけど
チョンビー伊都厨たちの民族は一度も見てないのに
ヤタガラスが描かれてると思い込んでしまう
隣なのに民族性に違いがあるんだよね <
また、排他的人種差別の・・・・大和説者が、正体を現した。 >>693
>伊都国王家は倭国大乱前の倭国の宮家みたいなもの。 九州vs畿内を煽っても無駄。
倭国大乱は、 縄文系勢力vs渡来人系勢力。
縄文系勢力の圧勝で、大和朝廷ができるのだ。<
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・だから、×ね。 >>698
>巻向はまだ全貌すら掴めてないので 現状で判断しても無駄ですよ。
鍵唐古ですらまだまだ、
それに田原本の 本丸は伝承的にはもっと西より、保津宮古遺跡の方です。
これらが連続して弥生後期は遺跡が存在して いた事になります。<
大和の土器編年の絶対年代推定が、筑紫の年代推定よりも50年位遅れていた、
と言ってんだよ。
纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 >>706
糸島の人たちが迷惑するから、 大和説者は、自分らが、
人種差別的極右の嘘つき騙しの・・・・であった、
という事だけは、明言して上げておきなさい。 昨今ネットやTVで畿内や大阪叩きが酷いのは、大和朝廷は畿内の勢力が作ったという誤解があるからですよ。
畿内の勢力が地方を征伐したと誤解されている。
こんなテンプレ見たら、そう思われても仕方がない。
畿内はむしろ大和朝廷を作った勢力による最初の討伐ターゲットです。
出雲や尾張、丹波、阿波、宮崎、鹿児島、遠賀川などの縄文系勢力が大和朝廷を作ったんです。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼ら。
叩かれるべきは、畿内、大阪ではなく彼らのはず。
いつの時代でもそう、戦国時代も然り。戦乱の火種はいつも尾張や薩摩。 >>708
>伊都を歩っても伊都国の全貌が明らかに なるだけの事ですよ。
邪馬台国の全貌が明らかになるわけではないですね。 根本的に違うのは、
鍵唐古から保津宮古辺りは百襲姫や吉備津彦、孝霊天皇の故地でもあると いう事です。<
孝霊が根本的にクルっているのは、
「南≠東」や「大和は倭國の別種の旧小国であって、天皇ではない」、
という事が、判っていない、という事です。 >>124
なんで九州説の連中は
まったく理由を言わないのかねぇ
これじゃ宗教だといわれても仕方ない >>710
>つか色んな議論を見てて思うんだが考古学者も素人も、畿内派も九州派も
みんな根本的に発想が凝り固まってるな ・・・歴史みんな忘れてんじゃないのかね<
つか、この男も、根本的に、
「南≠東」や「大和は倭國の別種の旧小国であった」というように、
史料事実や史料実態を否定曲解して、
大和と筑紫倭國を対等であるかのような言い方をする嘘つき騙しの人種だな。 >>716
>渤海使は、日本海を越えてきたんだぜ。
南行20日というのは、この情報のことを 追記したのではないかと。
(渤海使以前に 沿海州から倭への交易)<
魏使らや陳寿が、追記した、
という形跡もないし、理由もない。 >>719
>魏をメインに据えてる(正統とは言い切れない)三国志では魏以外の外交なんて書いてないからな
そこだけだと思い込むのもアリがちな罠だよな <
後漢代から漢や郡との関係があった、という記録や証拠が残っている。 >>726
>邪馬台国がヤマトならビンゴだけどな。
候補地に候補者、墓候補迄揃う場所は九州には皆無だわ。<
「南≠東」だけでも、×ね。 ザラコクと違って孝霊は自分で掘ったりしながら資料を
提供する側なんだろ?最近橿考研究や県自治体の明神山推しが増えてきとる。
既に相手にもされてない古田の追っかけしてる爺さんとは訳がちがう。 >>739
>空白の4世紀って、肝心の中国本土が乱世になっているだろ。
そんなときでも倭の使節は中国へは行ってはいるが、相手にされてない状態とというか
記録にろくに残ってない。<
晋書〜梁書などに残っている。
>倭では当時、すでに文字は一応読み書きできたのだから
自国で歴史書を記せば良かったのだが・・・できてない。<
白村江の後の「大和が倭国を併合吸収継承」した後、
大和は、倭國の存在や歴史を抹殺する必要があって記紀でも盗用造作があり、
倭國の歴史記録書を「禁書」にして抹殺したが、
わずかに、書紀の「一書」群や日本旧記などや、
九州年号や高良大社文書や松野氏姫氏系図などに痕跡が残った。 >>740
>倭人伝に書いてないことは起こってないと言う思考回路
上でも書いたが魏は本当に遣使の直後に事実上滅亡してるような政権だからな わずか10年程度
ここに何でもかんでも詰め込もうとする畿内派も九州派もどうかしてるとしか思えない <
人類は、不可知部分が殆どである自然や歴史に対して、
知り得て存在確認が出来た事実関係からの、帰納的な確率の高い推論をする事に拠って、
工夫して文明を築き上げ発展させて来た。
それを否定し、確率の高い九州説と確率の殆どない大和説を、同等のように扱うインチキをするんなら、
君は、人間を止めた方がよい。 >>743
>おおきな墓地を作った証拠あるから近くに大国の都はありました
くなの証拠やね?(おじーちゃんらこんばんわー<
「くな」と言っている点で、この男も嘘つき騙しだね。 >>744
>魏に関係しない当時の遺物は全て「魏に関係ないから新しい物だ!」とか言い張ったり、魏に関係ないのに「魏からもらったもんだ!」とか言い張ったり
よく言われるが畿内派も九州派もそもそも歴史を考えるような人間じゃねぇなと
魏志倭人伝っていうテンプレートに無理やり当てはめるお仕事してる
だからどうしようもない妄想を延々と垂れ流す異常者が後を絶たないんだろうなぁ<
九州説者は、ほぼ史料事実からの帰納的確率的な推論をしているが、
大和説者は、史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしている。
それを同等に扱って、両方を否定抹殺するこの男は、
おそらく、九州説を特に否定したい嘘つき騙しの・・・・詐欺師なんだろうなあ。 叩かれて然るべき出雲や尾張伊勢が持ち上げられて、叩かれる謂れのない畿内大阪が叩かれる。
世の中可笑しいですわ。
出雲尾張伊勢、自分らの犯した罪を畿内大阪に押し付け、他人の事績をぱくり、でかい顔をして偉そうにする。迷惑この上ない。 >>132
地元の自分のポジション、引いては雇用を維持したいだけだ。 陰謀なんてたいそうなものではない。
もっとけち臭い何かのために、歴史が歪められている。 日本は太古の昔から単一民族で畿内ヤマト王朝からの万世一系男系継承
というオカルト思想によって歴史はおおきく捏造され隠蔽されている 九州説支持者が頭の変な爺さんばかりと
証明されつつあるな >>146
ぼくちゃんは自分の頭を心配ちまちょうね 畿内説なんてでっち上げでしょう。
根拠がまるでない。 >>149
テンプレに書いてあることを根拠と認めない理由は?
??? >>753
>関係なくはないですよ、少なくとも百襲姫は 有力な卑弥呼か台与候補者の一人です。
倭人伝に描かれたプロフィールには最も近い人物ですから。<
大和の人間は、「南≠東」に拠って、卑弥呼にも壹與にも×。 どのスレだったか覚えていないんだけど、
このような事を言っている人がいた
本家のような家があったとか、
明治頃?名字が必要になり、
同じような家名を名乗った
本家のような家があり、
私の名前を名乗りなさいとか、
ということは、どこかに本家があるはず
もしかして、あの写真の家?
家なんだけど >>758
>筑紫から東やな(信濃<
竹斯國から東へ向かった秦王國の更に先は海岸であって、
ずっと俀の附庸地だ、と書かれている。 >>761
>それでは単なる難癖ですね、 少なくとも諸国の支持を得れる立場の皇女です。
瀬戸内海で崇められた海人の女は卑弥呼には相応しいですよ。
神婚なんで婿も持ちません。また墓の記が文献記録に描かれた点も共通項です。
そういう人物が他にいるなら挙げてみれば いいだけですね。<
大和は、倭國の別種の旧小国であり、始めから「皇女」はいない。 『猫神やおよろず』
これも同じような話じゃない
老婆が言うには、
あの写真の後ろのほうに写っているのは『イモ類』の葉 ザラコクじゃ全く高齢の相手にならんわ、あきらめろよw それにしても老婆だよ、
なぜか詳しい、というか話的にも合致している 他のスレッドの話になるんだけど
「あなたは一番下」というレスがあったりした
実際は一番上、最初という意味、
だっ津ーの一族? 天津 国津。
これはゲームの話の話になるんだけど
『アマツ マガツ ヒ』
「マガツ・・・」など
『聖化』 >>769
>>「又經十餘國、達於海岸」だから、海岸で行き止まりであり、隋使らは行っていない。
また「自竹斯國以東、皆附庸於俀」だから、
竹斯國以東は、「皆附庸」であり、俀の都はなく、タリシホコはいない。<
>オイオイ、その次の文章を見れば
「俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」で、
100人で出迎え、そこは倭王の都となってるんだから、
どう読んでも筑紫、秦王国から東へ10余国経て大和に至っている。<、
ならない。
「又經十餘國、達於海岸」は、
「海岸」という不特定文言であるから単なる地理的説明であり、
隋使らは行っておらず、
竹斯國以東は秦王國までしか行っていない。
そして、秦王國付近で來迎があって、
來迎者に伴われて後十日して、郊勞があって、そこは「既至彼都」していた、
と書かれており、
結局、北の海からやって来て、東方を否定しているんだから、
隋使らは、秦王國から、残る南方へ向かった事になる。 ゲームに登場するのは
『アマツマガツチ』だったw
この話『聖化 日神 日霊 津』 ザラコクの反論に
着いて行けないスレ主哀れだな
せいぜい罵声が限界
ザラコク大好き それよりも気になっていることがあるんだけど
同じ痛みを〜何やら
これは何の曲なんだろう、
そのような事を言っている人がいたような むかーしの話なのかもしれないけど
『天津罪・国津罪』
シンクロ現象のようなもので・・・、
某徳永英明氏の曲でいうと『NEWS』という曲とか 某徳氏の『NEWS』という曲
わかりやすくいうと『北斗の拳』
高いところから・・・落下(堕ちて) 部落解放同盟同様
畿内説も無用の長物になりつつある
短期的な歴史には残るだろうが >>771
>ていうか、隋書では俀國なんだから、君の理屈では魏志の倭國とは別って事になるんだっけ?
であれば倭國は何処へいった? それとも隋書は例外か?<
隋書では、
帝紀の煬帝紀では、
「(大業)四年/三月辛酉、以將作大匠宇文gai爲工部尚書。
壬戌、百濟、倭、赤土、迦羅舎國並遣使者貢方物」
のように(俀ではなく)「倭」を使い、
また、
「六年春正月/己丑、倭國遣使貢方物」のように、
「此後遂絶」した筈だから遣使が来ない筈なのに、「倭國」遣使があった事を書いているが、
しかし志第10(音楽下)では、
又雜有疎勒・扶南・康國・百濟・突厥・新羅・俀等伎。
列傳第46(東夷)でも
其人雜有新羅・高麗・俀等、亦有中國人。(百濟)
時俀國使來朝、見之曰「此夷邪久國人所用也。」(流求國)
のように、「俀國伝」と同じように、「俀」を使っている。
という事は、隋書は、「俀」と「倭」を使い分けている、という事であり、
俀とは此後遂絶した後を「倭國」と書いている事になるんだから、
「俀」をタリシホコの直接支配國に特定した使用をして、
「倭」を、「俀」と「俀の附庸地である大和日本国を含む」全体として捉えている、
という事になる。 ビルが伸びてゆく
普通に建造物の意味でしょ、
ピラミッドとか、陵、古墳とか
人が歩きだす・・・働いている人々 >>775
>まきむく3るいでてないからのー(ふる0は3世紀いう意見ですな<
「まきむく3るい」とかの相対編年では、絶対年代根拠にはならず、
だから、加美や久宝寺での、
「(布留ではなく)庄内と(285年以後の)伽耶の陶質土器との共存」が、
庄内や布留の絶対年代を決定する根拠になるんだよ。 >>782
>沼津に鉄あり巻向になし(まさかの巻向後発説浮上?<
おそらく、沼津も纏向も、筑紫倭國の将軍の東征地。 >>784
>奈良盆地の鉄の拠点は信貴山周辺ですよ。 この辺りは金山彦、金山姫神社の
所在地な事位は知ってますよね? 磯城とは河内から奈良盆地桜井をまでを
指すので、信貴山がその象徴になります。
大県遺跡周辺はそのまま大和朝廷の鉄工房に継続しています。<
奈良盆地平野部では、鉄鏃が殆ど存在せず、ホケノで突然鉄鏃の大量副葬があった、
という事を説明してみろ。 古代の船は風を読む帆船および漕ぐ
方位は太陽等や熟練された船頭の感だと思う
必死に向う先=記述通りで間違いない
倭人伝の方位を変えようとする畿内説に違和感を覚えるのは私だけだろうか
また、
畿内説に同調できないのは、邪馬台国を畿内初期ヤマト王権とするところ・・・これは如何ともしがたい 北斗の拳の曲
マトモな奴ほど 何やらと言っているでしょ?
うまやど? 他のスレ、
サイトなどでも言っている人がいた
うまやど=後世に作られたイメージだ
とか >>175
同和地区の歴史も知らんくせに何?
考古学を学べば現同和地区のルーツは日本列島の原住民=縄文人=弥生人=倭人
朝廷渡来人が征服したのが同和地区
インディアンみたいなもの >>168
> ならない。
「又經十餘國、達於海岸」は、
「海岸」という不特定文言であるから単なる地理的説明であり、
隋使らは行っておらず、
竹斯國以東は秦王國までしか行っていない。 <
弥生銀座を邪靡堆にするためとは言え、また強引にこじつけたな
大陸の人間がこの文章読んですら、途中の秦王國が邪靡堆だとは読めんだろう
>>176
すごいな
根拠は無いが、倭と俀を使い分けてるって事にするんだ 外来魚(渡来人朝廷)>在来魚(倭国の民)=在来魚の末裔が同和地区
よって、すべての日本国民は混血倭人 同和地区の血を引いているは間違いない 探偵eyeというドラマ、
あの作品は、かなり詳しい人物が制作した作品だと思う、
もれ(仮)と同じような考え
兄という人物
「いつでも殺すことが出来る」と言っていたり
「銃のようなもの発砲してきたり」
最後のシーン、
兄の、お墓に「▢」のような文字(名)が刻まれていたり ウダウダ
これも同じような話だと言っている人がいた >外来魚(渡来人朝廷)>在来魚(倭国の民)=在来魚の末裔が同和地区
よって、すべての日本国民は混血倭人 同和地区の血を引いているは間違いない<
⇧
渡来人=朝廷は桓武天皇までだと思う 以後はみな混血人(蝦夷地は除く)
東征とは倭人+渡来人の勢力が行ったと思うよ
九州しか無いよ邪馬台国は 続けるならば 同和地区が多いのは九州と関西
東征でしょう 探偵eyeというドラマ、
よく見てみて、最終話だけで良いから
タワーの上のほうにいて、
主人公の額に銃砲を発砲してきたりした人物、
そのお墓、▢(名前?)という文字が刻まれているから >>181 ここは賛同する
>畿内説に同調できないのは、邪馬台国を畿内初期ヤマト王権とするところ<
畿内に邪馬台国があったという説も否定できないが、邪馬台国=ヤマト王政と結びつけるからややこしくなる
畿内説の学者で邪馬台国とヤマト王政を詳しく述べる学者や
邪馬台国≠大和王政と唱える学者はいないのだろうか
居れば、列記願う >>193
ウーーーン いないかな
皇国史観と揶揄されるが甘んじて受けるが 『ウマヤド』ググってみて
そのような漫画が出てくるから、
いつでも殺すことが出来る、
というような感じのウマヤドの絵
俺が法だ・・・の元ネタだという説とか >>194
チト違う
畿内説は現天皇制のあるべき姿をも探求している説であり
天皇陛下万歳では無い
強いて言えば、天皇の歴史は民の犠牲の上に成り立っているという事かな
前方後円墳は奴隷が創ったんだよ・・ このような事を言っている人もいる
>王制形成の歴史は現存する王制のために闇に閉ざされている。
>橿原市には「神武陵」なるものまでつくられ、
>実在しなかったとみられるこの大王を祀る橿原神宮まである。
>科学の第一歩は神話伝説と史実の分離だと考えるが、
>ここでは混同されたままである。
>高松塚の近くにある飛鳥の国立公園の解説用漫画ビデオを見たら、
>ここでも、
>聖徳太子の伝説が史実のように編集されて上映されていた。 大きく分けて、
@縄文系、
ABC1000年頃渡来した殷系、ワタツミ、ヤマツミ、
B弥生時代末期環大阪湾の倭人系
C神庭のサルタヒコ系
D丹後半島のヤマタノオロチ系
E鳥トーテムの女系部族が倭人系なのか不明。
後は古墳時代以降の半島系だろう。
@とAが大和朝廷を作ったんだな。
Aは孝霊〜以降@に乗っ取られる。姫系を奪われる。
神功皇后応神仁徳で関東東北の縄文系を味方につけBDEが巻き返す。
以後主に@vsBEの争いが続く。
天武は縄文系だろう。
聖徳太子、天智、桓武は倭人系だな。 信オンというゲーム内の話になるんだけど
『鉄馬』=『バイク』の事だと言っている人がいた
『珍走団』 天皇のルーツは邪馬台国でも卑弥呼でも無い
モモソと卑弥呼とは無関係
畿内説は気がくるってる
男生口四人、女生口六人・・生口これ奴隷
徇葬者奴婢百餘人・・・これ奴婢で虫けら<奴婢>
天皇の先祖がそんなことしてたら象徴でなくなる
次
倭国王帥升も後漢の安帝へ生口160人を献じているが彼も天皇家の先祖じゃない 大きく分けて、
1、縄文系、
2、BC1000年頃渡来した殷系、ワタツミ、ヤマツミ、
3、弥生時代末期環大阪湾の倭人系
4、神庭のサルタヒコ系
5、丹後半島のヤマタノオロチ系
6、鳥トーテムの女系部族が倭人系なのか不明。
後は古墳時代以降の半島系だろう。
1と2が大和朝廷を作ったんだな。
2は孝霊〜以降1に乗っ取られる。姫系を奪われる。
神功皇后応神仁徳で関東東北の縄文系を味方につけ3、5、6が巻き返す。
以後主に1vs3、6の争いが続く。
天武は縄文系だろう。
聖徳太子、天智、桓武は倭人系だな。 右翼だか何やら・・・、
天皇陛下なんて言ってるのは、
朝鮮人のようなのばかりだよ
と、老婆は言っていた、合致していない? >>201
俺もそう思う 畿内説は天孫族をなんだと思ってるのかね
畿内説は憲法も変えるつもか
蛮族である邪馬台国は九州であり
畿内にあったのが
善良なる政治を行っていたヤマト王政 >>199
大阪湾の倭人は猿田彦やヤマツミなどの博多湾沿岸の倭人の末裔だよ。 >>807
>日本では高天ヶ原は葛城、高野だから。<
高天原から、途中の経由地の記載がなくて直接的に「天降り」したのは、
出雲と新羅と筑紫であり、
それが出来るのは、海峡地域だけ。 なんか変な方向
俺ものるが
天皇と邪馬台国と関係ねーー
宮内庁も知らんふりだろ
現天皇は外交的に役立ってるから過去を暴く必要もない
少し 予算を付けすぎだがな 物部氏も蘇我氏も縄文系だな。
火の神も石神も縄文系。オオナムチ亀も縄文系。 >>810
>沖ノ島なんかは人は住めない<
縄文や弥生の遺物も置いてあった筈。 >>201
帥升が伊都の天孫族なら、天皇家の祖先だよ。 キウスの妄想が酷い
ザラコクに成り済ましてまで自演してる 別にバイクに乗ったりしている人の事を
悪く言っているわけではない
何か、おかしな方向に言っている、
いつの間にか、そういうイメージになってしまったとか 『北斗の拳』に登場する敵の軍勢
そういう人たちでしょ >>206
ザラコクだったっけ
そろそろ記紀神話と縁を切った方が良いよ
うなずく書き込みもあるが、記紀の引用は反論(目には目を)程度が良い
たぶん神話にずっぽりと言うわけじゃ無いだろうが >>811
>>毛人蝦夷系と思われる猿田彦らがいたから。<
>エミシ系ではない。 伊都国への天孫降臨前の奴国政権の王だ。
大山積や田島の神などに同類である。<
「猿田彦」という呼称は、「毛人」を意図しているように感じられる。 >>217
印象で語るなよ。
伊都国誕生前夜の奴国の最後の王だぞ。
れっきとしたイザナギの末裔、弥生系の博多天神だ。 阿波は倭人の姫を乗っ取った縄文系。
サルタヒコは代々、出雲族の姫神幸神と倭人の王クナトの神の子。
ヤマタノオロチ系の王はホアカリ系に殺された。
ヤマタノオロチ族、級長津彦命 、級長戸辺命
男神の本当のアマテラスはヤマツミ系の母と倭人の王クナトの神の子。
伊都国王はこの系統。 >>220
嘘つけ。
神武の息子たちも耳だぞ。
弥生系の中心の天孫族も使う王族の名だ。 サルタヒコ=月夜見=大国主=卑弥弓呼
スクナヒコナはクナトの神倭人の王。
難波にいて、倭国大乱で殺された。 久しぶりにテンプレとFAQ読みましたが
勘違いなら失礼
テンプレ(FAQと区分します)を読む限りでは
畿内に3世紀に大国があったと主張してるとしか思えない
FAQで畿内説を論じているのは本末転倒では >>828
>沖ノ島は4世紀にヤマト王権の祭祀が始まる前は漁師の風待ちの島だよ <
縄文弥生からの遺物があり、天孫族系の祭祀島であり、
倭國の別種分家の大和の阿毎氏が祭祀に参加出来たのは、継体の反乱後だろう。 >>219
どのスレッドだったかな
長竿、長竿(不明)、
何やらロング(仮名)、ぽてろんぐ?
そのような事を言っている人がいたり
ほとんど、覆面作家、ゴーストライター、代理人のような意味なんだろうとか >>834
>ザラコクの異質な感じはやっぱりアッチの人だったのか。<
こういう、近隣諸国民への「嘘つき騙しの匂わせ」宣伝に、
国民の中の3割のアホが騙された、という事だな。
マジで大和説信者には、アホが多かったんだね。 >>224 予算や給料をもらうために
畿内説にしないと都合が悪いんだよ >>226
沖ノ島から西暦200年代の遺物がたくさんでるならいいけど、
出土するのは西暦300年代から後のものだからな。卑弥呼の時代は終わってる。 >>835
旧唐書や唐会要の否定や、新唐書の曲解は、
「南→東」などの嘘つき騙しと同じく、
大和説にとって都合が良いから、そう言い張ってるだけんだな。 >>201 百襲姫はまじないをする巫女的な王族。
箸が陰部に突き刺さって死んで、巨大な古墳を
作って葬られて、それが箸墓古墳。
卑弥呼に大いに似ているね。
当時は箸はなく手掴みだったから、陰部に箸が刺さっただのは
全部後世の創作かもしれないが。 >>838
>その調査の結果、ヤマト王権による祭祀ってのが通説になった <
そりゃダメだ。
考古学者らは、ほぼ全部「南→東」の嘘つき騙しの大和説者だ、という事だから、
そんな学者の「史料解釈」なんて、何の信頼性もない。 >>233 なんでリンクが間違っているの?
まだコメントは800番台に行ってないよ。
2ちゃんブラウザを使わずにエクスプローラー?で見れば?。 関係あるような、ないような、
たぶん関係ないのかもしれないけど
『ぽてろんぐ』
ググると、長い棒のようなものが出てくる、
棒術?長い竿
あの謎の写真の後ろのほう、
イモ類のような葉が写っていると言っていたり >>197
俺もそう思う
巨大な墓(前方後円墳)を何基も作る気が知れない
権力の象徴としたら圧政だよな
古墳時代の圧政を討伐したのが現天皇家の先祖じゃないかな
歪んだ歴史を畿内説は強要しすぎだと思うな
天皇は歴代偉大なる日本の指導者と思ってるから現天皇を敬う国民が多いと思う
横にずれるが秋篠宮の若いころの性癖(海外も含め)を聞き及んだがウソのかたまりで秋篠宮を陥れているのかね 箸墓伝説は地元の人が三輪の神、オオタタネコを馬鹿にした話。
蛇だろう、巳だろうと。 >>238
いいんでねーの
バレなきゃいいんでねーの
歴代天皇で歴史にあまり出て来ないが やりやりマンコの天皇幸せと思うよ >>238 巨大な墓を作るのは当時のブームだから。
流行だよ。現代はそういう趣味はもうないから
理解しにくいかもしれないが。
巨大で高いビルを作るようなものかな。現代でいえば
大きな会社を作るようなものだろう。 >>226
これ、ザラコクか?
阿毎がなんで畿内なんだよ。
博多の天孫族のことだろ。
大和は関係ない。 >>239 後付けの伝説だから、馬鹿にした話でも
いいよ。由来まったく不明の古墳はざらにあるから、
伝説があるだけマシ。 長竿・・・聖造と書いてあるでしょ
キン肉マンでいうと
パーフェクト超人のような意味、存在だったのかな
そのような気もする
フェニックス、人馬一体に見えるキャラとか NHK見てたら沖ノ島がヤマト政権に関わりありっていうのは三角縁が出たからみたいだなw 畿内説を主張する学者や研究者の方には
他説に関わらず
邪馬台国、卑弥呼、ヤマト王政への変遷をするどく探求してもらいたいものです
畿内説の最大のネックはここに集約されると思います >>227
鴨王は父方が出雲の弥生系、母方が筑紫の弥生系だ。 >>229
クナトは縄文の神のことだろ。
なんか、さっきから正解と真逆なことをわざわざ書き込む阿呆がいる。 >>880
大和説の奴は、すぐ嘘をつく。
「南≠東」なのはスルーかよw。 クナトの神は縄文の神ではない。
記紀でイザナギと書き換えられた神 >>245
客人として呼ばれた畿内政権がお土産(献上品)を持って来たんだよ。
むしろ九州が畿内とは別の文化と外交を持っていたことも紹介されたぞ。 >>241
流行としては天皇さんやりすぎだよな
民をなんと思ってるのかね 記紀は縄文系イワレ系の天武の時代に作られた。
朱鳥と血まみれの鳥を連想させる年号。
鳥を壊滅して天狗になっていたんだろう。 >>881
>>「在會稽東冶之東」がインチキの証拠<
>はい証明してね、古田九州説さん。
魏志の九州説に都合の悪い部分で反論してくるとはね。<
「在會稽東冶之東}には、14万戸の人口が入る陸地がないから、
范曄の後漢書がアホでへまったのであり、
だから、それを証拠にした大和説者が、嘘つき騙しのインチキ。 卑弥呼から埴輪ができるまでは残酷さはピカイチ。
何人殉葬させられたのか?
奈良に都のある大和朝廷は非情 >>253
オリンピックみたいなものじゃね?。
どんどん巨大化していく。 >>249
>>880とか変なコメントリンクを張っているのは
虚像と戦っているのか? >>882
朝鮮人差別の・・・・戦争狂極右の国粋皇国史観の大和説者は、
奈良盆地のホケノや箸墓を、4世紀始まりにしてはいないんだよな。
わかりやすいね、ホント。 >>253 古墳作りのときは、労働者に米をふるまう。
年貢や税として5公5民で徴収したとしても、
コメは結局は農民に食わせるんだよ。外国へ輸出でもしない限り。 >>259
リンクが全然治ってない。認知症を発症しているのだろう・・ 古墳時代の秋津遺跡。頑丈な立板で囲まれた建物跡。
征伐した勢力の姫を収容する施設。
加茂大神、死せる神々を甦らせる神。
死んだ者は甦らない。
倒した勢力の姫を奪い、適当な種をつけ乗っ取るのだよ。 その米は誰が作るんだよ。
再生産の効かない墓作りに労働力を割くのはただのバカ。 >>201
久々に考えさせてもらった
コメントはできないが頷くしかない 元々渡来人も縄文系の人々も仲良く暮らしてたんだな。
全ての始まりはカグツチが渡来人を殺し始めたこと。
ホアカリ系、火産霊、
国常立神、天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神。 男生口四人、女生口六人・・生口これ奴隷
徇葬者奴婢百餘人・・・これ奴婢で虫けら<奴婢>
こんな悪行できる邪馬台国や卑弥呼は九州でしかないよ >>895
>記紀の天孫降臨の出発点とかにそんな記述あったかな?<
高天原(天國)からの「天降り」地としては、
(途中の経由地無しで)筑紫と新羅と出雲しか書かれていないから、
高天原は、新羅と出雲と筑紫へ直接行ける、3地域の真ん中にあった、
という可能性が最も高い。 サルタヒコがいたのは堺だよ。
サルタヒコは界の神。
八衢、方違、難波和泉河内淡の分岐点だよ。
アショカ、浅香。
天孫降臨は上町台地からだよ。
上町台地〜泉北丘陵、中の国。
淡の国、淡路島や環大阪湾の洲
木の国、姫の国、琵琶湖南部〜大和〜紀伊
中の国は淡の国と姫の国の真ん中の国という意味。 >>898
思考停止はお前ら大和説側だが。
大和説なんて何の進展もないし、論戦する材料もない。
北部九州ならそこは筑紫。
根拠は倭人伝の戸数や行程記述に
全く合うので、全て終了。 もしだよ もし邪馬台国がヤマト王政の前身としたら
邪馬台国は九州に与えてやるよ
>>267
あんたで正解だよ
日本国で有ってはならない 倭人伝で言う邪馬台国うは極悪非道の九州だ
>>>>
男生口四人、女生口六人・・生口これ奴隷
徇葬者奴婢百餘人・・・これ奴婢で虫けら<奴婢>
こんな悪行できる邪馬台国や卑弥呼は九州でしかないよ >>900
>九州から東征軍隊とかw 痕跡が全くないのに証明する物が皆無だわ。<
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」。 卑弥呼が親魏倭王の称号を得て以降、倭国とは大和朝廷のことだよ。
日本は元々小国だった、倭国を飲み込んだ。
日本は泉北丘陵〜上町台地、昔の中の国のこと。
聖徳太子で竹取物語は終了のはずが、桓武まで伸びてしまったんだな。 >>272だが
巨大前報後円墳もヤマト王政(現 天皇家)と関係ない
飛鳥以降はこんな馬鹿げた政治をヤマト王政はしていない
邪馬台国も巨大古墳もヤマト王政と関係ない 大津皇子も殺された。可哀想だな。
辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。
太陽は烏。
金烏臨西舎 鼓声催短命
泉路無賓主 此夕離家向
金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。
我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。
母が鳥、仁徳天皇。 朝鮮部落民の筑紫説は日本の学者の研究を一切信頼しない、
論文も読まないから議論が成立しない >>264
非道に描かれた天皇なら大和にはいるけど? 聖徳太子と言えば、隋書倭国伝の記述が興味深い。
俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌
興味深いのは号。
大君の聞き間違いとされているが。
阿輩は普通に阿波、淡、嗚呼、烏のことじゃないかな。 >>908
>伊勢ならともかく、畿内大和がわざわざ宗像で大規模な祭祀をする理由がない。
そもそも宗像が崇められるのは、アマテラスの天孫降臨にまつわる神勅が根拠だし。<
成程。 これも、おかしな話
阿弖流為や蝦夷?と言われている人々、
実際は中華だと書いてない?
蝦夷のなかに、一部、中華(漢人)がいたとか
悪く言うと、
なぜか『倭猿』からの視点で『蝦夷』
負け惜しみのようなコンセプト? キチガイが飛び込んできたな
歴史をわかって無いな
権力は人を泣かすこともあるし歴史にはつきものだがなぁ
今天皇は今天皇であり過去を誇る必要もないし、懺悔する必用も無い
天皇とはそういう者 王▢
このような名前(氏 姓)の人物の話、
なぜだと思う 日本のメディアなども、
チョン(朝鮮人)に乗っ取られていると言っている人がいたり 天武系は朱鳥みたいな恐ろしい年号をつけた奢りの所為で、自滅したんだよ。
人を殺し過ぎた、武ばかりやっていた結末。 >>931
>研究論文読まないから祭祀の内容を知らないね
沖ノ島祭祀は祖先祭祀じゃないよ 対馬、壱岐、筑紫も関係ない <
「南→東」の嘘つき騙しの大和説学者である限り、
信頼性が全くないから、
出土史料事実などの報告は信頼出来ても、
それに関する解釈や説明は、信頼性が全くないんだよ。 畿内人は自国の歴史書を軽んじ過ぎている。
記紀を丸ごと信じろとは言わないが、なぜそのような伝承が成立したのかは考慮すべき。
筑紫が倭国に発祥の地だよ。 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき
奥山、オクヤマツミ、秋津。
鹿、鹿島の鹿、関東の先住民、中臣の守り神。
鹿が鳥の味方になり、秋津、鴨の勢力は負け秋が来た。悲しいなぁ。 >>940
>箸墓が4世紀と見るのはさすがに無理だな。 古墳上部から出土した遺物と讃岐の遺物との
整合性がとれない。
自説の都合だけで年代を妄想しても 結局矛盾だらけになる。<
その「讃岐の遺物」の絶対年代なんて、決められる筈がないなあ。
285年以後になる伽耶の陶質土器との共存関係なら、絶対年代の基準になる。
それが(布留ではなくて)庄内土器。 劉▢、王▢
調べて見ると
皇太后、皇太子・・・このような話が書いてない >>68
>反論が有効でないなら 畿内説の勝ちだろう<
「南≠東」などに有効な反論が出来なかったんだから、
大和説の負けで、九州説の勝ちだな。 原点
一夫多妻制では国民の道徳に反します。
そんなことをすれば国民統合の象徴としての地位が揺らぎ、
皇室制度の崩壊につながります。戦後終止符が打たれました
ヤリマンも否定できません、大名同様君主ですから
日本国の法律では
皇室は日本国籍を有していません
天皇は、国民ではありません。
ですから天皇には憲法上の国民の権利は保障されていません。
皇族も天皇の一族も憲法上の人権規定の保障が制限されています。
権利は無くても保証がある・・・・
若い人には理解できないでしょう・・小職はそんなもんだと思ってます(残念ながら法治国家といえど皇室は治外法権みたい)
日本の国籍も無く日本の法に擁護され予算もつく皇族
皇族も謳歌する面と不自由な点も多いでしょう
ご破算にすべき時代が来るといいのですが
さてスレタイに添い一言
邪馬台国(?)とヤマト王政(畿内)を結びつけることは制約もあり難しいのが現実です
畿内説の勇気ある方がモモソ=卑弥呼と推定しないで
堂々と箸墓は「卑弥呼の墓」で決定
「モモソの墓とも考えられる」と主張すればよいです >>79
「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを、
言い張るだけで何も証拠を出せないのが、
大 和 説。 朝鮮の皇族と、
中華の皇族と言う話?
神族と言うのは別だと言っている人がいたり >>292
箸墓の年代の決め手は祭祀用の特殊器大台だと思うが。当然これがある以上4世紀以降ではない。 >>82
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
根拠なし言ったもん勝ちが、大和説。 五色の賤に代表される良賤について学ぶと
東征のヒントになると思うがな >>263 土木作業は冬にやる。
コメ作りの農民はヒマな時期。 卑弥呼の墓なんか残ってないよ。
蘇我氏ですら、あの状態だよ。
卑弥呼は倭国大乱の象徴。殉葬100人。
そんな縁起悪いものは破壊されるか作り変えられている可能性が高い。 >>85
>日本側は「倭国」とは名乗ってないよ <
倭の五王らは、「倭國王」を自称したりしているよ。 >>299
流れでは無いかも知れませんが
>祭祀用の特殊器大台<
これって邪馬台国を比定する材料になるのでしょうか? 当時の日本の先住民は、
文字の読み書きも出来ないと書いてあるし
どういう事なんだろう >>306
少しは読み書きできたけれど、自分らで
正式な歴史書を編纂できるほどのレベルでは無かった。 >>302
馬鹿こくんでね・・・寒冷地でねーべよ
出稼ぎなんなら手当くでーー >>305
まだ不十分だな。女物の首飾りや鏡が数十枚出ても
卑弥呼や邪馬台国と比定できないくらいだから。 何やらの文を読み解くことが出来た
という話
中華同士だからだと思う
『高句麗 漢文』
高句麗というのも、当時は中華と同じ民族だった? 倭人伝における方向間違いなんて説明なら出来ますよ、以前から何度も書き込みしましたが。
朝鮮半島から東へ向かう事は当時の中国の概念だと蓬莱国、神仙の住む憧れの国の位置と
被る事になります。
だから倭人の国は半島から南側へ伸びる国に
しないとダメなだけですよ。
だから基本的に方向は間違えていません。
単に本州を九州南側に想定してるだけですね。 >>308
手当なら、農民から徴収した米をやるよ。
江戸時代だって侍は百姓から年貢を
搾り取ったが、そのコメはどうしたと思う?。
侍は自分や家族ではコメを食べていたが、食べきれる量ではない。
売ってカネにするんだよ。売ったコメは誰が食べるか?。商人や職人が食べるが
人口比でいえば農民が90%だ。江戸時代はコメを外国に輸出したわけではないし、
家畜に食わせたわけでもない。
土木工事などでコメを支給したりして、結局はまた農民らが米を食ったんだよ >>306
>>307
読み書きはできたと考えるのが普通だと思う
出なけりゃ金印の意味も分からないだろうし
国交も成立しない
ヤマト王権が過去を抹殺し記紀で正当化したとしか考えられない
(当時、漢字の読み書きを記した文献は庶民には無いから抹殺するには容易い) 『倭猿』
こういう話を広めているのも何者か?なんだよ
中華? >>311
根拠なし。
南と東を間違うわけがない。
大隅半島から黒潮で紀伊半島にワープだよ。 >>311
それは違うわ。
倭の国は東南の大海の中にある、と大体の位置としては
すでにわかっている。奴国が南の端の方にあることもわかっている。
奴の国のさらに南に多少国があることもわかっていたが、
倭国の大多数の国が南に長くあるとは思ってないよ。
証拠の一例としては、当時、屋久島はわかっている。 >>303
実はそういう可能性も考えて、畿内辺りで
破壊されたような古墳の可能性も考えて
墓の候補地も数点絞ってある。
まず箸墓伝承で腑に落ちない大坂山から石を
運ぶ話がある。
本当なら大坂山周辺にあるのではと思ったり
する。で、何ヵ所かは元々古墳じゃないの?
という場所は見つけている。 あの高句麗からの書(手紙)、
誰も読むことが出来なかった、
某のみ、読み解くことが出来た
という話
どういうことだと思う >>313
中国語と日本語の、文法の構造とかが逆だし、
当て字にしても、うまく日本語を書き記せなかったと思うよ。
読み書きはできたが、うまく説明するためには
口述する人がそばにいて詳しいことを言わなきゃ
通じなかったんじゃね?。戦国時代の文書(手紙)と同じだな。 鳥取県の上石見に伝わる伝承。 牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。
その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿の根という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。
古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。
古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。
石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。
久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミなのかもしれない。 >>317
石山本願寺の石山は元々古墳みたいだし。 それで、お前の言う皇族と言うのは?
どこの国の人間のことなの >>316
位置が正確に伝わっているのではないから、
漠然と九州南側辺り、としているだけだろう。
何にせよ神仙思想影響下では、半島から東側へ
進む国に邪馬台国があればおかしいのは
確かだろう。
まして女王国が存在してはいけない。
なので曖昧な位置にしたという意見だね。 聖徳太子=蘇我氏
という説があるけど・・・・それだとウマヤドは朝鮮人になるんだよ 牛鬼と関連付けられる蓑火。
蓑火は石工と大工(木工)は、襲わないとある。
牛鬼、石神、火神、木工は関係が深い仲間ということかな。 漢書しかり当然現日本国との国交はあったのだから
倭国には言葉も文字も通じないとは考えられないですね
ヤマト王権が過去を葬り去ったが正解でしょう
畿内に邪馬台国があったのでしょう。邪馬台国が歴史から消すべき存在だったのでしょう。 蘇我氏=朝鮮人となっていない?
調べてみて、いまなら、すぐにわかるから
ネットで検索 聖徳太子は蘇我氏ではない。
烏だよ。倭人の父系と鳥の母系(母→母→母→と遡る)
鶯姫の話と同じ、箪笥の4段目を開けると正体が分かる話。
竹取物語だよ。 >>324
残念ですが考古学では皇族の出自を問うのはタブー
皆 真偽は分かっていますが 今を生きてるから無理でしょう 日本の鳥をトーテムとした部族。
倭人と同一なのか別なのか。
池上曽根遺跡の年代が正確に分かればいいが。
秦には、鳥をトーテムとした母系の部族がいたらしい。 あのチェーンソーのゲーム
「渡来人どもめ〜」と言っていない?敵の台詞だよ
「海賊ごっこはおわり」とか
主人公は「カタコト」 そんな事より、
このスレにいる人々の名前は、なんて言うの? >>289
>解釈や説明は、信頼性が全くない<
だよなー(つうかプラズマ全方位に飛ばすなかれ 当時の倭人というのは、
どのような言語を使用していたの?
文字は漢文? >>323
古い神社の周辺はそういう例が多いからね。
葛城地方だと大坂山周辺は古墳の密集地帯なの
は判っているが、どうも古くに土地を均して
しまったような場所が何ヵ所かある。
でも溜め池の近くなんて紛らわしい。
だが平安初期までヤマダへ郷という名前だ
からね。これは池上曽根遺跡や伊勢遺跡の
ある野洲川の少し上流だけで確認出来る名前。 貧しても誠実でありたい
キウスのようにはなりたくない >>86
>倭人伝の邪馬台国は三世紀の話。 既に東方へシフトしとるわ。<
大和は、倭国の別種の旧小国であり、
大和が、盟主になったのは、ようやく、白村江の後の701年。 古田くんとは奴国二つあるの予想で一致しました(今年は円高株安(素人爺は手を出すなかれ >>328
通商というか貿易を、大阪湾と中国の間でやっていれば
わかりやすいのだが、
実態は九州の博多あたりから半島南岸を盛んに往復、といったところだし。
中国からの認識は、九州北部だけになってしまってそれが倭の代表だと思ってしまっても無理もない。
歴史書にもそのように書くことになる。 キウスは自分で立てたスレがあったろ
念願のスレ主になれたんだから、そこをほったらかしにするなよ それよりも王氏など、
なぜ蝦夷なのか・・・なんだよ
『王仁』という人物など?
そのように書かれていない? 奥村とか言ってるのはキウスみたいだな
いつまで経っても恥ずかしいやつだ なぜ『倭猿』視点から・・・
『蝦夷』という扱いになるのか 四天王寺も謎が深い。
創建当時から、木製の鳥居があったと言われている。
また元々は天皇寺と言ったとか。
聖徳太子が倭国、倭国王のシステムを改め、日本、天皇の仕組みを作った可能性があるな。
隋書を見れば、どう見ても王だしな。 >>348
同意
前も誰かが指摘したが畿内説の返答無い
ここ以外でヨロシク >>311
それないなー
ちんじゅが三国志を執筆したんは280以降やし(時代錯誤やめれ(失礼 方向は別の理由で間違えた可能性はあると思う
当時の中国の人が北極星直下の位置をどこだと認識してたかで不動たる【北】を設定したかで全方位が決定します(洛陽から東の日本における南は反時計方向にずれるのであった
おそるべきさすがちんじゅの緻密さよ(いっく 鳥居が神道の専売特許になったのは近代の神仏分離以降 >>359
陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))
卑弥呼が魏に使者を送ったころ景初2年(238年)は、
まだ子供だわ あの謎の大震災なども、
何かしたんだろう、と言っている人がいたり
『ヘブンズ・フラワー』
このようなドラマがあるでしょ、
文字の読み書きなどを教えてあげている先生、師匠のような存在がいて
先生を殺したか・・・殺そうとしたか? >>361
どこかのバカが>>1の旧トリ用入力ワードを間違えて覚えてる まーワイ族情報なら南でもまちがっとらんのー(ターゲットは山陽山陰播磨京都葛城
巻向残念^^ 去年のNHKの知恵の泉の邪馬台国編は酷かったな。
誰が指揮してたんだろう。
卑弥呼の宮殿の復刻も可笑しなことになりそうだな。
屋根に鳥を乗せる気がするわい。 >>364
そやね
さすがに卑弥呼さん情報吟味して神仙無関係なことに気づいたやろなー よくわからないけど、このような事を教えていたというコンセプト
「殺しては、いけないよ」
「人を殺してはいけない」
とか
文字を刻んだり・・・ >>360
2020東京オリンピックまで内緒
他説にぐうのねもでない証拠は内密にしましょうね
もう少し他説を楽しませてあげようね >>87
>漢時に百国あった倭国が大乱で分裂して、帯方郡にやって来た勢力は30国を従えてるに過ぎなかった。
高地性集落で分かる通り、<
高地性集落は、倭国の東征のために発生。
>倭国は瀬戸内海を挟んで南北に分裂して争ってたが、<
瀬戸内は、倭種であり、倭国ではない。
>呉あるいは公孫氏の認識では北側が正規の奴国、南側が反乱軍の狗奴国って認識だったが、帯方郡にやってきたのは南側勢力。<
北側中心の邪馬壹國女王之所都の共立諸国。
>草深き獣道を通って寂れた漁港で船を調達して呉や公孫氏という敵(北側勢力)の敵、魏の帯方郡にやって来ることに成功して形勢が逆転した。
陳寿は魏・呉・公孫氏が書き残した記録を編纂したに過ぎず、呉あるいは公孫氏の記録では北側勢力が正規の倭国、南側勢力は反乱軍という認識だったから、南側勢力には狗奴国の「狗」、卑弥呼の「卑」という蔑字が当てられてる<
倭人は、漢字の読み書きがある程度出来ており、固有名詞もある程度漢字で書けた。
>卑弥呼ってのは、狗奴国の女王であり<
卑弥呼は、狗奴國と敵対的であった、
>後の大和王朝になったのは狗奴国の側。<
後の大和天皇家は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であった。 >>88
そう。
大和説の勝ちは確定したから、
確定したことを話し合っても仕方ないよね。
このスレ終了で。 >>91
何故、「南→東」の嘘つき騙しのバカたちは、
卑弥呼が奴国の女王だと思い込んでるんだろ?。
邪馬壹國女王之所都にいる女王なのに。 >>359
神仙思想では 西王母という存在が漢代に、
それより遅れて後漢末になって東王父、
つまり東方に住む仙人像が描かれます。
それは神獣鏡の出現で具体化されてますね。
つまり三世紀の時点では東方は男王の住む
神仙の国という意識が高くなっている状態
なんですよ。
時代的にピッタリです。 陳寿が三国志の執筆を始めたのはだいぶ早い
おそらく260年代後半
三国志は280年代に呉の滅亡を待って完成とした 先生、師匠?
ジョジョに出てくる、
大統領のようなことを言っているみたい
そういうことを、してはいけない。
やってはいけない。
とか
大統領も言っていたの? >>323
元々は、生國魂神社の境内。
神武東征の際に生島神と足島神を鎮魂したとある。殺されたんだな。
八十島祭と関係が深いし、生國魂神社にはもう一つ重要な神が隠れている気がする。倭人の王。 まぁ神仙思想の高まりが、三世紀末邪馬台国の
方角、位置に影響しているという事です。
断言は出来ませんが可能性は高いと
思いますよ、記述を曖昧にしてる点も。 >>1はまともな日本語知識を持ってるから
それが邪魔してキウスの狂った日本語表現をするのは無理だろ >>379
ろうしもそうしも狂信した始皇帝もずいぶん前の人やん(戦乱重ねると思想宗教の流行激変しまっせ(こうきんも撲滅した時代やしちんじゅも科学的になっとるやろ(なぜに神仙なん? >>382
神仙思想なら、太陽信仰と原始神道の都の伊都国をおいて他にないだろ。 老荘思想
神仙思想
原初道教
教団道教
これらはみな違うものだ 王仁=オニと言われている
とか
読み方などを間違えたり、
オニなど、おかしく変換したり、(退治)殺そうとしたり、
そういうことを、してはいけないんだ
大統領が言っていたとか、
ジョジョに登場する大統領 まーミラーの話と神仙とずいぶん香りが似とるが倭人条に影響与えとる比率が多いとは思えんなー(惑わされるな末葉に 神仙 思想は別に始皇帝の時代のものだけじゃないですよ。ある意味根本的にあったものです。
現に神獣鏡に描かれる東王父の存在なんて
後漢末期からの登場で、具体化された例は
それまでは西王母のみでした。
神仙思想が道教のベースとして更に盛り
上がったも三世紀末位からでしょう。
それが抱朴子の生まれた背景でもあります。 ガンダムに出てくるサングラス、
赤いオニのようなモノに乗っていたり
本当は同じようなコンセプトだという説まである >>390
ちんじゅがどういうスタンスなのかが問題じゃね?(まったく神仙無関心だとおもいますが(ミラーさいしもしかり 気づいている人もいると思う、
ソウカに限った話ではない
聖なる教え。聖教。 >>386
肝心の仙薬がありません。まぁ玄関口ですね。
奈良盆地の南部は間違いなく水銀朱の山が
ありますからね。
余談ですがマツラやマツヤマ、マツハラ、
これらの本来の意味は恐らく真土の意味
でしょう。
だから松浦、松山、松江に松原なんかは
元々赤土、丹を取れる場所や運び出す港
からの由来だと思いますね。 >>393
にちれんか(つぶやきせんせーは渡来系もぶっきょー嫌いなひとやろ?(正直にいえ >>394
ひゃはー水銀ですかー
三好くんと同じ視点やなー
中央構造線はヤバイゆーてたひといました(紀伊半島の水銀は4世紀以降じゃね? >>392
時代背景的に知識層で神仙思想を知らないとは
さすがに考え難いでしょう。
それに本人が行程を記録してた訳でもないですからね。半島辺りから東側は基本的に未知で
扶桑国というのは、ある意味固定的なもの
だと思いますね、当時の認識では。 当時の日本人は読み書き
出来ないと書いてあるはず
そうなっている 亀井遺跡、分銅の制作、分銅ワンセット。
その分銅に水銀朱が付いていたとか。
弥生時代前期末らしいが、本当なら凄いね。 まあ三国時代は基本的にどの国も儒教が国教化してたし
知識人は神仙思想をバカにしてた
だから三国志でも怪異や鬼神などの話を陳寿は除外している 頭のおかしい人間だろう、
計算なども出来ないと書いてない? どんな小細工をしたところで、
無駄なこと
現実を見たほうが良い
頭の病院に行くとか、
精神病院というところ それで、いつ朝鮮半島や中国を潰すんだ?
待っているんだから、はやくしてよ >>396
伊勢水銀なんか精製跡は弥生中期で多く、
最古は吉野川上村が縄文末期ですね。
弥生末期の採掘跡だと阿波南になりますが。
ちなみに宇陀も古くは松山という名前でも
あります。 それと神武というのは、
ただの将軍だぞwという話
なぜか数年前のkpopスレでも言っていた 倭人は呉の末裔を自ら名乗っている。
つまり中国南部から春秋時代以降に渡来した集団。
中国南部に由来する可能性が高いもの。
銅鐸、下戸遺伝子、国生み島生み神話のモチーフなど。
これらは大阪湾に分布の中心を示す。
春秋時代と同時代の弥生時代前期末、環大阪湾の風習は一変する。
淡路島でBC4世紀の銅鐸が出土。
銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが一斉に認めるようになる。
方形周溝墓、木棺も畿内中心に広がっていく。
九州を素通りし、倭人が中国大陸から畿内に直接渡来したと考えられる。 先遣隊で・・・よく働きました
と
表彰されたような人のことだと
あのスレには、
中華がいたのかな、かなり詳しいような >>392
銅鏡は魏志倭人伝にも登場するわけだから。
ただ、それに封建以上の意味合いをもたせた倭人の祭祀は、陳寿から見ると邪宗であり、伊都国の神道は鬼道と記されてもしょうがない。
畿内なんて何にもない。
孝霊の妄想話だけ。 >>406
>これらは大阪湾に分布の中心を示す。
>方形周溝墓、木棺も畿内中心に広がっていく。
>九州を素通りし、倭人が中国大陸から畿内に直接渡来したと考えられる。
大阪が中心じゃないよ。
中国南部から九州を素通りして大阪にたどり着けるわけがない。
方形周溝墓と木棺の組み合わせの代表が平原遺跡じゃないか。
副葬品の水準で、これ以上の方形周溝墓と木棺の王墓はないぞ。 そういう事を忘れ・・・、
攻めて来たり・・・何やらをしたので、
いなかった(実在しない)・・・事にされたとか >>410
伊都国は畿内の勢力が作ったんだよ。
奴国から博多湾一帯を割譲して貰ったんだな。 卑弥呼は肥国姫氏王家の出身。
筑紫天孫族の傍系であったため、記紀には登場しない。
倭国大乱で倭の都である伊都国を追われた天孫族にとっては、卑弥呼は不倶戴天の敵。 八尾の亀井遺跡は懐かしいですね。
かなり昔に手伝った事あります。
分銅は発表までかなり時間がかかったのかな。
弥生中期には間違いなく八尾から柏原に
かけて、かなり有力な一族がいたのは
間違いないでしょう。 >>412
畿内には平原遺跡より豪華な方形周溝墓が見当たらない。 >>414
畿内に有力勢力がいたことは否定しない。
だが、邪馬台国とは関係ない。 謎のチェーンソーのゲーム
私の孫たちを、
どこへやったんだよ〜
と言っているキャラも出てこない?
敵のキャラ >>406
そもそも大阪を開拓した三島溝杙の父親は博多の王。
畿内勢力は九州北部からの分家。 かなり詳しいゲームだと思う、
なぜ詳しいのか?
なんだよ
漫画やアニメ、
ゲームなどを作っている人たちがいるでしょ、
表に出てこない書などを持っているとか? 私の孫たちを、どこへやったんだよ〜
天 孫
の意味だと思う
実在はしているんだけど・・・実在しない事になっている >>416
私は邪馬台国だと思いますね
エリアは信貴山を中心とした河内に生駒、矢田丘陵に都祁葛城。
やはり孝霊や百襲伝承の中心である、保津、都の地名は外せませね。 とあるスレを読んでいたとき
「公職追放wwwwww」
「ちゃんと仕事をしろ」
このような事を言っている人がいたり 倭人系イザナギ系なら、
伊都国にいるだろ。
王がいるとある。
各国使者の目もあり、実権は奪われながらも存続している。
神功皇后のエピソード、その血を貰いに行くんだろ。 魏・晋に入ると辞賦に代わって五言詩が韻文の主流となり,
これに山岳信仰と結んだ神仙思想(神仙説)の新展開や道家思想の流行,山水自然の賞玩といった時代風潮が重なって,
遊仙詩という新ジャンルが生まれ,六朝期を通じて盛んであった。
その鼻祖は魏の曹植の〈遊仙詩〉とされるが,以後嵆康,張華,郭璞,陸機らによって,
濁世に住むものの神仙世界への憧れを託した幻想的な作品が数多く作られた。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。
その祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津に鎮座する三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる。
娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子となる。
この家系には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原からやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになるが、婚姻相手が事代主という説とニギハヤヒという説があることになる。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 それにしても、なぜ詳しいんだと思う
漫画やアニメ、ゲーム・・・そういう業界の作品 >>423
>神功皇后のエピソード、その血を貰いに行くんだろ。
血をもらいにって、神功皇后が仲哀天皇を倒して筑紫の倭王であった武内宿禰の子である応神天皇を生んだことかな? Wiki 三輪山から
三輪山の祭祀遺跡としては、下方から辺津磐座(へついわくら)、半ほどの中津磐座(なかついわくら)、頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)、山ノ神(やまのかみ)岩陰祭祀遺跡、大神神社拝殿裏の禁足地遺跡、狭井神社西方の新境内地遺跡などがあるが、
磐座学会の江頭氏などによれば、山の祭祀遺跡に「辺津」などの海に関係する言葉はおかしく、諸説あるが意味として宗像祭祀遺跡のそれぞれから後世とられたと思われる。
辺津は海岸(浅い海)、中津や奥津は島の海岸(深い海)等の意味である。
頂上には高宮神社が祀られているが、延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社が載せられている。
この日向神社は、古代には三輪山の頂上に祀られ、太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている。
おいおい、宗像に日向かよ。
三輪山の神はえらく九州文化にどっぷり浸かっているじゃないか。 >>425
記紀は天武の時代。都合のいいように書いてあるんだよ。
物部は石神。
元々石器作り、武器作りに長けた集団。 数年前の△の陰謀スレ
なぜ存在を消されたん(非実在にされた)ですか?
と言っている人がいたり
人権とか、そういう関係? >>429
はいはい、キナイセツは都合が悪くなるとすぐ文献を否定してかかる。 存在を消された、
いないこと(非実在)にされた人がいるんだと思う
△の陰謀
あそこは人権などのスレなのかな >>428
宗像はスサノオに譲ったとあるだろう。
スサノオはホアカリ系、ミミ系。オオナムチと手を結ぶ。
日本海勢力や尾張の縄文系が大和朝廷の中心。 >>433
天火明命はその名の通り、バリバリの天津神だぞ。
弥生王権の中心に近い王族の名だ。
縄文の対極にいる。 >>433
付け加えるなら、スサノオに譲った
→実際はオオナムチや尾張のミミ系に征伐され、姫たちが乗っ取られたんだな。 神武?先住民を殺したりしたという話があるから、
消されたのかな 大阪に下った陶津耳も、奈良に下った神武の子のタギシ耳や神渟名川耳も、九州出身の弥生天神系だ。
日本海は博多を中心とする弥生文化の伝播の主要ルートだ。 >>434
尾張一宮。
ホアカリだろ。
元々は国常立神。無理矢理書き換えたんだよ。
記紀も同じ。イワレ系の天武を持ち上げる為。
イワレ系も本来は、縄文系。 『人権』〜『先住民』
神武など・・・
確か、先住民を殺したりした・・・という事になっている 宗像は天津神の最高権力者であるアマテラスによりその地位が約束された氏族。
筑紫倭国への天孫降臨の守護者。
どういうわけでそれが三輪山に分祀されていたのかは知らないが、奈良の勢力が九州から来たことは間違いないと思われる。 >>438
>無理矢理書き換えたんだよ。
そんな言い訳が通用するなら、なんでも言えるだろうが、根拠がない。
全国の伝承をことごとく無視した妄想に過ぎない。 詳しいことは、わからないけど、
昔から言われている説
神武などは大陸からきて、当時の日本に住んでいる先住民を殺害、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後・・・・・・・・・・・・・・・大陸などを攻め、負け?
存在を消された? wiki『アイヌ』
>アイヌ人は「平民」として戸籍制度の中に組み入れられるが、「土人」とも呼ばれ >>438
Wiki 天火明命より
『新撰姓氏録』では、天火明命の子孫を「天孫族」としている。
天孫族は大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、子の天香山命(あめのかぐやまのみこと)の時に定住し、真清田神社(愛知県一宮市)に天火明命を祀ったとしている。
れっきとした筑紫倭王の末裔。
葛城鴨王の分家のようだ。 『菅野力夫』
写真を観てみて
「土人」と書いてあるモノなどがあるから それにしても本当に良かったよ、
家は読み方を変えたので、関係ないことになっている
それと付き合いはないんだけど、
親戚の銀▢の家を調べてみると「カ行」になっているし こうなると、三輪山の神が事代主というのも怪しいな。
事代主なら出雲系のはずだが、三輪山の祭祀は九州系だということになる。 尾張(最後は飛騨に追いやられる)、島根など山陰、阿波、宮崎や遠賀川の縄文系勢力が渡来人系勢力を倒し、大和朝廷を作った。
纒向の外来系土器、縄文系遺伝子の現在の分布と矛盾しない。
天武の時代の記紀。縄文系があたかも渡来人系みたいに書かれている。事績を丸々パクリたかったんだろう。
ある意味飛騨の口碑は真実に近い。
尾張の勢力(後に飛騨に追いやられるが)が出雲を作り、大和朝廷を作ったと。 『騎馬民族 征服王朝』
なぜ否定説があるのか?
認めてしまうと、そういう事になってしまうから
先住民を殺害し・・・ 家の老婆が言うには
馬の乗っていたと言っている、
腰に刀などを差して・・・
力夫氏のような名字の家 尾張も阿波も葛城も三輪山も、筑紫の分家だという伝承がはっきり残っているのに、まるで本家のような顔をする。
そもそも紀元前まで遡る王家の痕跡は福岡にしかないだろう。 能 三輪
思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。
昔の人は真実を知っていたんだな。
知らないのは現代人だけ。
徳川の時代や、明治の神仏分離令、合祀令で、元々の伝承が分からなくされたんだな。 伊勢の神鏡は筑紫伊都から伝わった。
ついでに志摩半島の志摩の地名は伊都の北の志摩から伝わった。
伊勢志摩は伊都志摩(糸島)のコピー。
夫婦岩までそっくり。 大和朝廷を作ったのは先住民(縄文系&渡来人のワタツミ、ヤマツミ系)、
仲間割れし、孝霊以降、ワタツミ系ヤマツミ系は大和朝廷の縄文系に征伐される。
四道将軍等で関東東北を征伐したのは、大和朝廷の縄文系の人々。
神功皇后、応神、仁徳の時代に、虐げられていた渡来人系勢力と関東東北の縄文系勢力が手を結び、尾張や日本海側の縄文系勢力を倒すんだよ。
この時、大和朝廷のイワレ系や葛城系などの勢力が尾張や出雲を裏切り応神側に付くんだな。 あの人たちは、ヤクザか、何かなのですか?
と言っている人も、いたような気がする
何に対して言っているのか、
わからないけどw
本当の事を言うと、
ウマヤドなども、ヤクザなんだよ 畿内や九州に住んでいても、
征服された側の人々がいる、
岡山出身、住んでいると言っても・・・・・、
桃太郎に、やられた側の人々かもしれないし、桃太郎が実在していたとして
そういうところの出身の人や、
頭の良い人は気づいている >>1
テンプレ長すぎ
畿内説仲間への発信なら目新しいもの頼む 近代、またはネットが普及して・・・
全容が、わかってきたみたいな話
あの人たちはヤクザなんですか?
と言っている人がいた
言われている本人(対象?)は、ヤクザではないのかもしれないけど 神、仏教関係?
画像をググったりすると、
ヤクザらしき人々の画像が出て来たり 『天津・国津』・・・・『公職追放』
サタン、北斗の拳など >>93
>>モモソが実在したと言うのは宮内庁だけにしないかい <
>宮内庁に研究員はいっぱいいるけど なぜ邪馬台国や卑弥呼に触れないのか知ってる?<
ふーん、そうなの?。 >>94
何で九州説の老人は、「畿内説」をまったく相手にしないのかって?。
明らかだろ?。
「大和説→畿内説」や「邪馬壹國→邪馬台国」などの嘘つき騙しの経過や、
何故「南→東」などの嘘を付くのか?や、
「神武が近隣部族の首長たちを騙し討ちに皆殺しにした」事に憧れ、称賛したい、
暴力団やオームのような、・・・・ケダモノ集殺人鬼集団である事を知っているからだ。 >>97
理由も言わず、ただ、
排他的人種差別殺戮戦争の国粋皇国史観の鼓舞扇動の「結論を連呼」する、
それが・・・・暴力団たちの大和説者ら。 >>115
邪馬壹國女王之所都論争も、もう筑紫で決着なので、ロマンはありませんが、
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 >>119
大和説者は、ホント、
何でも詐欺をしても殺してでも、
自分が一番勝って世間を支配して、栄耀栄華にふけよう、とする、
・・・・暴力団やオームのような、
レベルが低い皇国史観のキョクウ集団だなあ。 >>127
なんで大和説の連中は、
「南→東」や「大和が倭国の別種の旧小国」などへの反論の理由を、
まったく言わないのかねぇ?。
これじゃ・・・・宗教だといわれても仕方ない。 不弥国から南に水行しても何もない
東に水行すれば大和があるから南→東
大和が倭国の別種という記述が出てくるのは旧唐書だけ
北史梁書隋書その他多数の文献には出てこない記述だから
多数決で負け >>132
古田さんらと違って孝霊は、
自分で掘ったりしながら?、「南→東」などのように、
嘘吐き騙しの資料を提供する側なんだろ?。
最近、橿考研究や県自治体の明神山推し?と同じような「結論先にありき」の、
詐欺師らと同じ仲間が増えてきとる。
既に相手にもされてない大和説の追っかけしてる分裂幻覚の妄想爺さんに過ぎない。 >>146
大和説支持者が頭の変な・・・・爺さんばかり、と、
証明されつつあるな。 >>151
>テンプレに書いてあることを根拠と認めない理由は? ??? <
「南→東」の嘘つき騙しを撤回しないから、
信頼性が全くない嘘つき騙しであった、
という事を認めたのと同じだから。 >>156
まったく「南→東」などの嘘吐き騙しのバレバレの、無力な大和説。
カワイソス。 >>465
>何で九州説の老人は、「畿内説」をまったく相手にしないのかって?。
さすがにコレを読んで、ザラコクの異常性に気がつかない者はいないな
笑) 自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有巳百支國・・・
自女王國以北という言葉があるので、「南→東」とする畿内説は無理。東とするなら
自女王國以西としなければならないからだ。
さて、其餘旁國遠絶 不可得詳(遠すぎて詳しくはわからない)と書いてあるわりには
冒頭ですぐ近在地にある斯馬國が載っている。斯馬=しま=糸島半島の旧名志摩
よって其餘旁國といっても近郊の土地が載っている可能性が高い。
次有斯馬國の次には「巳百支國」が有る。一支国ではイキだから、支はキと読む。
「巳百支國」は、ィハキ國=杷木町(はきまち)現在朝倉市
延喜式 巻廿八兵部省には駅の設置された地名に 杷伎 の名で登場し、
大宰府から豊後への駅の一つが設置されていた >>478
明らか
左下は鏡の配布先
右上は配布元
>>478
邪馬台国はこの範囲のどこかに間違いないよ。 日本書記では卑弥呼を認めたがらないが(注記で一応載ってる)、
神武東征は載っているんだよな。東征といっても
舟で数隻だから兵力はたったの50人未満。九州ではぐれた一味が
畿内の現地勢力にちょっと加担しただけ。なにしろ人数が少な過ぎる。 >>482 そやな。海岸に比べれば内陸は
ど田舎だから、卑弥呼を中心とした連合国の
主力はやはり海岸部だよ。沿岸諸国は一大卒を畏れていたが、
邪馬台国は野蛮な兵数だけは大勢いたらしい。 うん、対馬海峡の諸国を見張るためには、伊都国は良いロケーションだ。
伊都国が女王のいたところでないというなら、筑紫か佐賀にいたんだろう。
あと、香椎にも少し遺跡があるようだね。 女王はひきこもって人前にはあまり姿を見せない
という。
伊都国には居なかった証拠として、「以婢千人自侍」とある。
千戸しかない伊都国から、千人も引き抜いて
はべらすことができるわけないだろう そうかな?
畿内説だと、千人の下女はどこにいてどう通っていたのか答えられない。
伊都国なら、下女には帰る家がちゃんとあったことになる。 沖ノ島祭祀というのは自然崇拝に基づいた祭祀で岩上から始まります
北部九州は最古段階の細形銅剣銅矛は全て個人墓の副葬です
中細形段階になって出雲で膨大な量の埋納が始まります(荒神谷)
この後の中広形は北部九州では墓への副葬はなくなり、すべて埋納になります(対馬以外)
銅鐸は全て埋納です(加茂岩倉、大岩山)
青銅器が埋納された付近には大石や露岩群があります
磐座での明確な祭祀遺構は4世紀になってからです(沖ノ島、三輪山) 当時はまだ仏教がきてない。銅鐸を山野に埋めたのは当時の信仰らしいね。
山の神様へのおそなえか。征服されたときに隠したわけではないらしい >>490
いくら答えても聞こえないフリをして
いつまでも「答えられない」と言い張る
三国一のインチキ九州説
w つか、FAQに書いてあることでも
畿内説は答えられない
とか平気でウソつくのが
基地外九州爺だろ
病んでいるよ
頭も心も
憎むべきは九州説
何の政治思想か知らないが明白な事実を嘘デタラメで覆い隠そうとしている じゃあ、ここで答えるか、テンプレから引用してよ。
長くて探せないね。 畿内説がよく言う、古墳が畿内から広がったって話。
調べてみたら、古墳やっぱり九州からじゃない?
大分県の赤松古墳ってのが前方後円墳で3世紀後半。
調べて速攻ヒットしたし、この時点で畿内からってのが無理がある。 >>496
要するに、いつも長い長いと文句付けてる奴が
基地外だということだ
w >>496
「畿内説は答えられない。」ってセリフは
畿内説の言ってることを
隅々まで知らないと言えないもの
「長いから読まない」人間が言ったら既知骸。 >>496
探せないのはお前の能力の問題だから、こっちに教えてやる義務は無い
探せなきゃ、お前がイイカゲンな奴でウソツキと汚名を背負い続けるだけ >>503
そりゃお前、簡単に論破されたらツマラんと腐るだろ
小人はな 雑な主張ばかりしてるから、九州説は学問の世界に居場所が無くなったんだよ 畿内説は何が言いたいのかわからん。
雑というなら畿内説だろ。 WIKIで読むと、赤塚古墳は九州最古。
大和王権が各地の首長に与えたものとして銅鏡があげられてるけど
鉄の刀に鉄の斧がでてる。
石器に毛が生えた程度の畿内の勢力圏って考えにくいなー。 九州最古級の前方後円墳が、博多、福岡県京都郡、大分県宇佐市の、
九州北部沿岸、東部沿岸にあって三角縁神獣鏡が出土してるわけだね 畿内は共同墓地としてしか機能していないよね
発掘と墓しかないし >>516
そんんでもって方形周溝墓の文化は九州発な感じでしょ。
なんかね、普通に考えて、九州でそういう古墳の文化が育ちながら広がったと考えるのが自然では。
大型の墳墓があるから発祥って考え方がそもそもわからない。
やっぱりきっかけとなる墳墓は方形周溝墓でしょ。
平原遺跡は方形周溝墓でありながらも、埋葬品は同年代でもっとも豪華だし女性の墓だし。 一番豪華な方形周溝墓が伊都の平原だからなあ。
畿内の方形周溝墓は九州からの伝播と考えるべきだな。 朝鮮半島南部にもあり、前方後円墳もあるってのが面白い。
当時まだそこに倭人がいたってことなんだろうね。 >>521
木工技術が高まる前の、石での棺桶が九州に偏ってるようなんですよね。
これも古墳の走りである方形周溝墓が九州発祥って思う理由。 カメの棺桶も九州に偏る。
なんでも新たな発展の初期は迷走する。
九州北部はその迷走してる様子が遺物でわかるが、他は比較的一定というかまとまりがある。
それは流行りものがある程度形が定まって広がっていく様子に見える。 九州は、墳墓の変化が見える。
他はおちついてきた墳墓の文化を取り入れたように見える。
デカさ勝負はその中のおまけのような要素。
また畿内が力を持つなか、大陸からの使者に威厳を見せつけるためにあえてデカイの作った。
そんな感じに見える。 今の学会研究者の畿内説押しって、推すのは構わないけど
畿内説以外は評価しないって姿勢が問題。
箸墓を根拠にするのも巻向を根拠にするのもピンとこないけど確定のように言うし。 ここの掲示板参加者の年齢層が知りたい。笑
皆、生きてるうちに動かぬ証拠が出てほしいと思ってるだろうね。
俺も平均寿命まであと40年しかない。
それでも、まぁ20年も待てば今の学会古参が死に絶えてもう少し自由な研究が広がるのではと思ってる。
この分野は、そのあたりから本格的に進むのではと予測。
これまで頑張ってきた古参の老害は死ぬまで畿内だーって言い張れば気持ちよく死ねる。
その後は、そこまで押さえつけられた多様な考えにスポットが当たってほしいな。
私としては、九州の鉄勢力が大和朝廷へつながる。
鉄文化がそこそこ早かった、出雲も吉備も九州勢力の分家。
倭国大乱後、今度は大陸の脅威を警戒し、当時未開地石器エリアから
やっとこさ進歩し始めた畿内へ九州勢力が流れ込み大和朝廷へ。
この流れに一票入れとく。
皆さん、寿命の猶予はどれくらいある? 九州説vs畿内説など、一部の輩が事実から目をそらす為に、煽り続けているプロレス。
日本列島各地で渡来人系勢力vs縄文系勢力があっただけ。
渡来人の多い九州北部や畿内は同じように敗れた側。
倭国大乱の勝者は、大和朝廷を作った縄文系勢力。 >>185
>> ならない。 「又經十餘國、達於海岸」は、
「海岸」という不特定文言であるから単なる地理的説明であり、
隋使らは行っておらず、 竹斯國以東は秦王國までしか行っていない。 <
>弥生銀座を邪靡堆にするためとは言え、また強引にこじつけたな<
違うね。この男は、何も判っていない。
隋使が来た時の俀の都は、当然久留米の「元の邪馬臺」の地であったのであり、
その後、618年にタリシホコは太宰府に遷都して「倭京」と称したのであるから、
郭務ソウが来た時の都は太宰府の倭京であり、
その地の地名が「邪摩惟=ヤマイ」であり、3世紀には「邪馬壹」と呼ばれた地だ、
という事だよ。
>大陸の人間がこの文章読んですら、途中の秦王國が邪靡堆だとは読めんだろう<
秦王國は、那の津〜糟谷の地。
邪靡堆は、久留米で、元の邪馬臺國の地。 >>193
>畿内に邪馬台国があったという説も否定できない<
「南≠東」だから、×ね。 >>531
おもしろい。
九州勢力が大和朝廷となった説である私も、その時代まで日本の中心が九州とは考えなかった。
とりあえず、北九州から宇佐神宮までの範囲に「秦氏の子孫」という「秦」さんが多いのは事実。
邪馬台国の時代よりずっと古い、秦の時代や漢の時代の破鏡の首飾り文化が広がってるエリアも
福岡から宇佐神宮あたりまで。
関係あるかも。
でも宇佐神宮の成立ってもっともっと後の時代。
赤塚古墳は3世紀だから、そのころからそういう信仰の地となるなにかがあったのかも。 >>511
ほら、また根拠を言わない
だから、九州説は雑な主張だと言われる
w 熊本県からの鉄製武器の多いこと。これでは邪馬台国が苦戦するのも無理もない。
http://inoues.net/club6/tetu3.jpg >>536
集落内に散らばってるっのは、攻め滅ぼされた国じゃないの? 纏向遺跡や箸墓古墳って、古い時代のものだって嘘ついてる可能性はありませんか?
これが発表されたときからずっと気になる。
石器で農耕してたエリアに四角い柱の大型建築物の文化ってあべこべさが変です。 >>541
出土品との文明のバランスがとれていない。 >>543
いつもの、自分で調べない人か…。
質問返しし続けるやりかたって無敵だよね。
だけど面白くない。
どうせ誰も結論にたどり着けてない分野のお楽しみなんだから
答えられないだろー根拠なしーって追い詰めるやりかたはやめようぜ。
自分で調べてみなさい。 >>544
通説にクレームは付けるが、付ける理由はありません
って、(笑 九州北部は末羅国、伊都国、奴国、不弥国で終わりなんすよ
邪馬台国行くにはそっから船出しなきゃなんないんすから >>544の意見に同意である。
質問しつづける人がいるが、その人だめぽ >>547
伊都国、奴国、不弥国の3つは
女王国の北にある国だから、
邪馬台国行くには舟に乗る必要ないよ。
伊都国に「到」着した時点で、あとはみな「至」なので
複数の情報をかき集めた放射説になってる。
その起点は伊都国であるとは限らず、帯方郡を起点とした
交易商人の情報まで付け加えた雑多な情報。 >>548
どう考えても、答えられない奴がダメポだろ >>549
>伊都国に「到」着した時点で、あとはみな「至」なので
>複数の情報をかき集めた放射説になってる。
それ、根拠なし >>542
君の知識が足りないだけだろ。
伊勢遺跡に鍵唐古、池上曽根遺跡を最新の資料で少しは調べてみたら? >>549
>伊都国に「到」着した時点で、あとはみな「至」なので
>複数の情報をかき集めた放射説になってる。
>その起点は伊都国であるとは限らず、帯方郡を起点とした
じゃ、放射説だというのと
自己矛盾してるね >>556
ちんじゅ は、帯方郡から邪馬台国へ
半島を陸路してきた商人の日程情報が、
水行十日 陸行一ヶ月 とあったら、
その情報からいままで記述した伊都国までの
の日程から引き算して、伊都国から水行○日陸行○日
なんて日数合わせはしないんだよ。
原典の資料どうりに掲載する。改ざんはしない方針の人だよ 魏志倭人伝の元になった資料一例(魏略、広志)
口語訳
倭は、帯方東南の大海中に在り、山島に依って国を為している。
帯方から倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓国を経由して拘邪韓国に到る。七千余里。
始めて一海を渡る。千余里。対馬国に至る。その大官は卑狗で、副いわく卑奴。良田なく、
南北で交易して穀物を買い入れている。
南へ、また海を渡り、一支国に至る。官を置く。対馬と同じ。地は三百里四方。
また海を渡る。千余里。末盧国に至る。人は魚捕りが上手く、水に浮き沈みしてこれを取る。
ななめに東南五百里、伊都国に到着する。傍は斯馬国に連なっている。伊都国は万余りの戸
数がある。官を置く。いわく爾支で、副いわく洩渓觚・柄渠觚という。其の国王はみな女王
に属す。
又、南へ。邪馬嘉(邪馬台国または山鹿)に至る。帯方から女王国に至るには一万二千余里。
女王国から以北は、其の戸数・道里を略載することができる。
女王国の南にまた国が有る。狗奴国という。男子を以て王と為す。その官いわくキクチヒコ
といい、女王には属さない。 >>559
それはダメな史料ですね
根拠はガイシュツ >>274
>卑弥呼が親魏倭王の称号を得て以降、倭国とは大和朝廷のことだよ。
日本は元々小国だった、倭国を飲み込んだ。<
大和日本国は、
倭国の筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国で、倭國の附庸國であったのであり、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」であって、
その時に小野妹子が、隋の文帝に「日本国」を名乗ったが、
本国の倭國の承認を得ていない、として文帝から叱られ、
唐の武徳中になってようやく唐に「日本国」号を認められ、
しかし、白村江での唐の対戦相手は「倭國」や「倭衆」や「倭賊」としか記録されず、
大和日本国は、対戦相手とは認識されておらず、
白村江の後になって、大和日本国が、
白村江で唐に大敗した母国の倭國をとうとう併合吸収継承して、701年から、列島盟主になった。
、 上に出ていた亀井遺跡から確認された弥生前期から中期の
分銅なんて九州よりもむしろ早い。
この分銅で水銀朱を細かい分量を測ったと見られてるからな。
しかも当時の多鈕細文鏡も八尾近所の大県から出土している
のである。
つまり弥生中期の時点で河内辺りから漢と交易があったのは
確実な話。北部九州はその中間拠点にすぎない。 上に出ていた亀井遺跡から確認された弥生前期から中期の
分銅なんて九州よりもむしろ早い。
この分銅で水銀朱を細かい分量を測ったと見られてるからな。
しかも当時の多鈕細文鏡も八尾近所の大県から出土している
のである。
つまり弥生中期の時点で河内辺りから漢と交易があったのは
確実な話。北部九州はその中間拠点にすぎない。 辰韓は秦韓とも書かれた
秦氏からはいろんな姓に分かれてる >>296
>堂々と箸墓は「卑弥呼の墓」で決定<
「南≠東」だから、×ね。 >>565
情報が古すぎだな。
そもそも邪馬台国に鉄が豊富なんて記述はありませんw
それに淡路島と近江には2世紀以降鉄工房が発見されてるしな。 また秦氏の話?
始皇帝の末裔でしょ、事実だとしても、
河童のほうが、かなり上位の存在、中国では河伯 >>567
アスペかよ、方角間違いなんて沢山あるのは証明されとるわ。 キュウリの葉、葱の華などの写っている写真
「王(須) 津 」
このような家の写真、本物という事だと思う そもそも土佐の西側が旧名で波多国だろう。
九州説の視野の狭さは救いようがないな。 数年前、とあるスレを読んでいたところ
川崎に住んでいるんじゃないの?
と言っている人がいたり
家は川崎区、その写真も、家にあるし >>299
>箸墓の年代の決め手は祭祀用の特殊器大台だと思うが。
当然これがある以上4世紀以降ではない。<
「祭祀用の特殊器大台?」の絶対年代比定そのものが、
絶対ではなく、元々相対的であったのであり、
そして、吉備とホケノに突然「有槨」墓が出来た、という事は、
扶余での太康六年(285年)の戦乱で、
扶余や東沃祖の「有槨」部族流民の渡来に拠って出来た、
という可能性が十分あり、
だから、ホケノよりも新しい箸墓は、4世紀頃以後になる。
、 これも数年前のkpopスレ
「王仁さんが〜」「実在してたのか!」
このような書き込みをしている人がいたりw >>568
ないこともない。
入れ墨をしているだろ。それは鉄の化合物だ。
その鉄化合物は阿蘇山のあたりでとれる。その
阿蘇山の遺跡では、鉄製品が出ている。
魏志倭人伝に鉄の文字はなくても、無関係というほどでもない。 >>547
魏志倭人伝の元資料には、伊都国の南1500里に
(つまり吉野ヶ里遺跡のあたり。)に
女王国はある、と明示されているので、
邪馬台国行くにはそっから船出する必要なし。
ちんじゅが追記したのを、読み手が不弥国からさらに行程を伸ばして勘違いしているだけ。 >>579
かいてあるだろ。海に潜るのは入れ墨をしてるって。
体に丹を塗っているって。
それは鉄なんだよ。 >>541
理由が説明されているのに日本語が理解できないのかな? wiki『河伯』
一番、下のほうを読んでみて
>上古時代の神々
盤古 伏羲 女媧 顓頊 東王父 西王母 祝融 后土 嫦娥 瑤姫 羲和 常羲
☞【河伯】☜ 洛嬪 素女 >>547
そこから船に乗った里程が記録されていないから、伊都〜不弥国が女王国の中心地ですよ。 老婆の言っていた話、かなり合致している
蚕を飼い、機織りをしている家があって・・・、
そういう話 >>577
倭人伝には鉄鏃と書いてあるだろ、骨や石と
同じ扱いだからな。 >>585
どうして里程が記録されていないと伊都〜不弥国が女王国の中心地なんだ?
論理性が、ない。 >>582
同アンバランスなのか聞かれた途端に投げ出さなかったか? 『河伯』→『王(須) 津 』→『松傾』
同じ家なのかな、読み方も、家は「す・・」だよと言っていたり >>563
>この分銅で水銀朱を細かい分量を測ったと見られてるからな。
畿内には少ししか朱がなかったからな。
九州だと棺の中に無造作に塗りたくっていたから、分銅なんていらないだろ。
商都博多に対して商都大阪もあったんだよ、と言えばいいものを、無理やり畿内を邪馬台国に結びつけるからおかしくなる。 >>591
柱を四角くするためには、鉄のカンナが必要だから、纒向は4世紀。
崇神天皇の纒向日代宮。
邪馬台国は関係ない。
無理やり邪馬台国に結びつけるから、おかしくなる。 遠くに在って国名だけしか分からない国
斯馬国(しま国 糸島半島の志摩)発音そのまま
己百支国(ィワキ=杷木町(はきまち) 古代の駅がある地名)
伊邪国
都支国
彌奴国
好古都国
不呼国
姐奴国
對蘇国(とそ、とす=現在 鳥栖市(とす))発音そのまま
蘇奴国
呼邑国(おぎ 佐賀県小城市(おぎ))発音そのまま
華奴蘇奴国
鬼国
爲吾国
鬼奴国
邪馬国
躬臣国
巴利国
支惟国
烏奴国
奴国
20カ国のうち中央に佐賀県の地名そのままのところが2カ所あるので、
斯馬国から姐奴国までは(つまり計20行のうち上半分)は、
福岡と佐賀県にあると思われる。かなり限定的に絞ることができるね。 >>593
掘り出す技術や工具がなければ無意味。
鉄器がなければ掘れない。
畿内の丹山の技術は伊都から伝わったみたいですし。 【邪馬台国の周辺の国】
1番目の斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番目の己百支国は九十九島(長崎県佐世保市)
3番目の伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)
4番目の都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番目の彌奴国は嶺(佐賀県神埼郡三根村)の吉野ヶ里遺跡
6番目の好古都国は?
7番目の不呼国は?
8番目の姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番目の對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番目の蘇奴国は?
11番目の呼邑国は?
12番目の華奴蘇奴国は?
13番目の鬼国は?
14番目の爲吾国は?
15番目の鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番目の邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番目の躬臣國は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番目の巴利国は杷木(福岡県朝倉市)
19番目の支惟國は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番目の烏奴國は大野城趾(福岡県大野城市)
21番目の奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲
邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲である。
半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。 >>597
鉄器がなければ掘れない。、という理由は?
畿内の丹山の技術は伊都から伝わった、という根拠は?
??? ここが問題なんだよ
昔、住んでいた家には、
本や書なんかが沢山並んでいたんだよ、
誰かに売ったのか、あげたりしたのか、
近所の人が持って行っちゃったのかな?
と言っていた 柱を四角くするためには、鉄のカンナが必要だから
畿内では鉄器は材木を加工するところで使っていた
纒向では針葉樹のヒノキが使われている >>594
だから三世紀前半の畿内には鉄器があったわけだが キウスの難癖は
千代田区千代田一丁目一番に工場がないから首都じゃないと言い張る馬鹿と同じだな >>599
丹生都比売は 九州の伊都の国(現在の福岡県糸島郡や前原市)で誕生したという。
これらの伝えをつき合わせると 日本列島における水銀鉱業は九州の博多湾近郊で始まり 中央構造線にそって東進開発し 紀伊で最も盛んになったということになる。
この博多湾周辺と紀伊の丹生都比売神社周辺の地名を拾ってみると 九州には伊都の国と博多の那珂 それに安曇族の根拠地志賀島があるが
一方 丹生都比売神社は 和歌山県の伊都郡かつらぎ町にあり 同町に志賀があり また 伊都郡の隣に那賀郡があるように
伊都・那珂・志賀の地名が 丹生都比売の誕生地ともいわれる博多周辺と 丹生都比売神社総本社周辺とに共通して在る。
ttps://ameblo.jp/314416tg/entry-11931526120.html >>483
> 隋使が来た時の俀の都は、当然久留米の「元の邪馬臺」の地であったのであり、
その後、618年にタリシホコは太宰府に遷都して「倭京」と称したのであるから、
郭務ソウが来た時の都は太宰府の倭京であり、
その地の地名が「邪摩惟=ヤマイ」であり、3世紀には「邪馬壹」と呼ばれた地だ、
という事だよ。 <
根拠は? >>612
「〜から」というのは理由を説明する日本語なんですよ。 丹生都比売が九州の伊都の国(現在の福岡県糸島郡や前原市)で誕生したという一説って
どこに書いてあるの? これは他のカテゴリー、ジャンル?
の話になるんだけど
どうも、死刑にしてくれて、ありがとう^^
という謎のスレッドが建てられていたり
ここに書き込みをしていて、
その後、他のカテゴリー?の板を観に行ったときの話 >>311
>倭人伝における方向間違いなんて説明なら出来ますよ、以前から何度も書き込みしましたが。
朝鮮半島から東へ向かう事は当時の中国の概念だと蓬莱国、神仙の住む憧れの国の位置と
被る事になります。 だから倭人の国は半島から南側へ伸びる国にしないとダメなだけですよ。<
また、孝霊が変な事をしゃべっている。
3世紀の倭人伝の魏使らの方向記載に誤りがあるのか?という事が問題なのであり、
倭人伝に書かれてもおらず関係もない「蓬莱国」の方向など、
何の関係もあるもんかい。
>だから基本的に方向は間違えていません。 単に本州を九州南側に想定してるだけですね。<
倭人伝には、きちんと、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」として、本州の記載もあり、
「本州を九州南側に想定」など、してもいないよ。 弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で
しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 調べて見ると、
同じような名字の人がいるような
明治頃、死刑?になった人物 >>568
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
淡路や近江に小規模な工房ができても、結果はこのグラフ。
古墳時代に入るまで、畿内は鉄器後進エリア。
鉄が当たり前の人たちが、鉄が当たり前の九州に来て
わざわざ鉄がどうのこうのと書かなかっただけでしょう。
そもそもこの時代は大陸からの輸入がメインだったと言われます。
なおさら当たり前のことは取り上げなくて不思議ではありません。
出土品が答えです。
>>572
「秦」という一文字であり、秦氏にまつわる神社が複数。
宇佐神宮を中心とする八幡作りがそもそも秦氏の技術と言われる。
>>580
吉野ヶ里では東に海がない。
まぁ九州北部広い範囲で邪馬台国を中心とする連合国。
連合国の名が「邪馬台国」と考えた方がいいかも。
その首都が伊都国だったと。
漢委奴国王の「委奴国王」がそもそもイトオオコクの可能性もある。 >>319
>時代が違う<
お前が、
列島側は「倭国」という国名を使用していなかった、
というような変な事を言い出したから、
「倭の五王」らの「倭國王」の自称例を挙げて上げた。 孝霊厨がきてたのか
伊都国や邪馬台国には徐福集団の末裔がいっぱいいたから方角を間違えて教えることは
ありえんな 淡路は瀬戸内ルート、近江(淡海)は日本海ルートによる筑紫倭国の支配下ですね。
内陸の奈良盆地は興味がなかったんでしょう。 >>328
>畿内に邪馬台国があったのでしょう。
邪馬台国が歴史から消すべき存在だったのでしょう。<
「南≠東」だから、×。 聖人でも殺したのか?親戚でも殺されたのか?
と言っている人がいたり
何なんだろう >>624
徐福の末裔なら場所正確に教えちゃダメだろ。 >>341
>なら>>81の根拠を言えよ古田九州説<
古田説は、原則として、
史料批判された史料事実や史料実態と、人類の常識が、
根拠。 >>598 遠くの国でわからずとも、
近くの国から記述するものだよ。
3番目あたりから長崎の地名を出している時点でもう駄目だろ。後半ならともかく。 >>621
でも鉄鏃なんて記述がある以上は説得力がないからな。
淡路島で鉄を加工して九州で使ったのだろう。
北部九州は戦場だからな。
またそんな危険な場所は卑弥呼の所在地にはふさわしくない。 九州説は日本の歴史、文化の起源を欲しがる
漢人にもなりたがる
哀しいコンプレックスが非常によく表れている 調べて見ると、
絹が何やらと書いてあったり?
家の老婆が言うには、
泥棒のようなものに入られ・・・
当時、持っていた、土地、お金なんかも無くなった
ような事を言っていた >>357
>聖徳太子が倭国、倭国王のシステムを改め、日本、天皇の仕組みを作った可能性があるな。
隋書を見れば、どう見ても王だしな。<
可能性はない。
聖徳太子は、書紀の「造作」人物。 >>611
魏志倭人伝にもその資料となった文献にも
一ミリたりとも畿内の記述なし。
畿内は、邪馬台国も卑弥呼にも全く関係がない。 もちろん、箸墓古墳もまきむき遺跡も
邪馬台国とは全く無関係の遺跡。すべては願望と妄想と予算の事情で
畿内に結びつけて強弁していただけなんだよ。 まさか・・アニメの神様の仲間、同類なのかな?
キテレツ >>360
>方向は別の理由で間違えた可能性はあると思う
当時の中国の人が北極星直下の位置をどこだと認識してたかで不動たる【北】を設定したかで全方位が決定します
(洛陽から東の日本における南は反時計方向にずれるのであった
おそるべきさすがちんじゅの緻密さよ(いっく<
魏使らも陳寿も、周髀算経や礼記の、
「朝夕や午前午後での棒の影端の位置を結んで東西を決め、
それと直行する方向で南北を決める」
方法を勉強して知っているから、
どこにいたって、東西南北は殆ど間違えない。」 >>618 同意である。
倭人の国は、九州から南側へ長く々伸びる国
とは中国の高官でも思ってないよ。
奴国が倭国の南端あたりにあり、東には
通交がなくよくわからないがもっと多くの国々があることが
わかっている。その通交のない国がつまり畿内だわな。
でも、魏からの鏡が畿内まで届いているので(三角獣ではない)
倭国大乱の戦争さえなければ、畿内からの使いが
中国まで届くのは可能だろうね。ちょっと九州から出遅れただけだ。 >>641
後漢書だったか、対馬から東とか書いてあるのは
なんで間違えたんだろうね?。現地からの報告書が
間違っていたのか。でも現地人ならもっと確実に方位はわかっているだろうし・・ >>364
>陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))
卑弥呼が魏に使者を送ったころ景初2年(238年)は、 まだ子供だわ<
陳寿は、当然、
晋朝に残された「後漢代や三国時代の種々の記録」を見て、
三国志を書いた。 >>374
そう。
九州説の勝ちは確定したから、
確定したことを話し合っても仕方ないよね。
このスレ終了、という事で。 たしかキテレツ関係だよ、
少し、ググって調べてみたんだけど
〜達は、なんで牢屋に入ってるナリ〜(不明)
このような謎の画像が出て来たり >>644 三国志の時代を書いたわけだから、
漢の時代(日本と後漢の使節も含む。金印など)
も大幅にばっさり。日本としては漢でも晋でも
日本の成り立ちのころだから前後の王朝の時代も含めて
詳しく書いてもらった方がよかったのだが・・無念。 >>645 畿内説ですでに確定した
といって理不尽な理由で攻撃してくるからなあ >>634
>淡路島で鉄を加工して九州で使ったのだろう。
原材料が半島経由なのに、淡路島まで運んで九州に戻す意味はありません。
淡路島は、九州勢力が畿内を攻めるためにはちょうどいい場所です。 >>378
>神仙思想では 西王母という存在が漢代に、 それより遅れて後漢末になって東王父、
つまり東方に住む仙人像が描かれます。 それは神獣鏡の出現で具体化されてますね。
つまり三世紀の時点では東方は男王の住む 神仙の国という意識が高くなっている状態
なんですよ。 時代的にピッタリです。<
魏使らも陳寿も、倭人や倭国を、
「東王父」や「神仙」の国としては、記録記載していないよ。 >>645
どうせキナイセツについて誰も語らないのだから、どんとこいスレだけで良かったんだ。
それを仕切りたがり屋の>>1が大した意見もないのに我を張るからこんなことになった。 詳しいことは、わからないんだけど、
何々様なんて言われていたよと言っていたり
どういう話なんだろう 畿内が活躍するのは、卑弥呼や台与が死んだあとのことだ。遅れることせいぜい50年ほどだから
現代からみればほんのちょっとの時代の差でしかない。
九州で卑弥呼などのその名残りみたいなのが、日本書紀で八女津姫というエピソードにあるわ。
八女津姫という、巫女が九州の筑紫平野の近くの山奥でひきこもっているという。
(当時の九州は、巫女で女酋長みたいなのがちょっとした流行だった。卑弥呼の時代の
名残りともいえる。)
景行天皇が九州まで親征していたので、そのとき
「この地に女神あり、その名を八女津媛(やめつひめ)といい常に山中にいる。」という
話を聞いた。そのあと神社を創立した。
この景行天皇の子供が、かの有名な日本武尊。西へ東へと征服戦争しまくり。
あいにく中国本土でも異民族に征服されまくりで歴史書を編纂する余裕がなかったので、
大和朝廷の建国のあたりは記録されなかった。邪馬台国はもう滅亡してる。 台与のあとのことが、ちょっとだけ中国の歴史書に載っている。
卑弥呼が死んだあと男王を立てたが国々が乱れたので、13歳の台与をたてて
おさまった。その台与が死んだあと、また男王を立てたのだという。
記録はそこまで。九州ではまたまた乱世だの反乱だのやってばかりいるから
結局は近畿の大和朝廷の征服下におくしかないんだろう。 >>655 当然だよ。なぜなら八女のばばあが登場する前に
魏はすでに滅んでいるから。 >>406
>倭人は呉の末裔を自ら名乗っている。つまり中国南部から春秋時代以降に渡来した集団。
中国南部に由来する可能性が高いもの。 銅鐸、下戸遺伝子、国生み島生み神話のモチーフなど。
これらは大阪湾に分布の中心を示す。<
列島の銅鐸の中心は、出雲であった。
>春秋時代と同時代の弥生時代前期末、環大阪湾の風習は一変する。
淡路島でBC4世紀の銅鐸が出土。<
当初淡路は出雲系。
>銅鐸などの金属加工の技術、金属器を使った製板技術が必要な木棺、方形周溝墓、井戸の技術、灌漑技術を伴った水田、分銅の製作などが一斉に認めるようになる。
方形周溝墓、木棺も畿内中心に広がっていく。<
いや、出雲や九州倭国が先行していて、
九州倭国の東征で、瀬戸内近畿が、出雲系と九州系の混合地域になった。
>九州を素通りし、倭人が中国大陸から畿内に直接渡来したと考えられる。<
魏志倭人伝では、倭国は九州であり、瀬戸内以東は「倭種」。 >>657
八女のばばあの先祖の八女のばばあという作り話なんだろ >>412
>伊都国は畿内の勢力が作ったんだよ。 奴国から博多湾一帯を割譲して貰ったんだな。<
ダメだな。逆だ。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
その倭奴國が後に奴國と伊都国に分裂した可能性が高く、
その伊都国に一大率が置かれた。 >>421
>私は邪馬台国だと思いますね
エリアは信貴山を中心とした河内に生駒、矢田丘陵に都祁葛城。
やはり孝霊や百襲伝承の中心である、保津、都の地名は外せませね。<
「南≠東」だから×。 >>656
>記録はそこまで。九州ではまたまた乱世だの反乱だのやってばかりいるから
>結局は近畿の大和朝廷の征服下におくしかないんだろう。
九州北部が倭国の中心だから、取り合ったんだろう。
田舎の畿内では争いそのものが起きない。 >>661
あんたに説得力なんてないからアキラメロン 八女津姫よりも、八咫の鏡を持つ筑紫の梟師、神夏磯姫を忘れないでね。 >>424
>魏・晋に入ると辞賦に代わって五言詩が韻文の主流となり,
これに山岳信仰と結んだ神仙思想(神仙説)の新展開や道家思想の流行,山水自然の賞玩といった時代風潮が重なって,遊仙詩という新ジャンルが生まれ,六朝期を通じて盛んであった。
その鼻祖は魏の曹植の〈遊仙詩〉とされるが,以後嵆康,張華,郭璞,陸機らによって,
濁世に住むものの神仙世界への憧れを託した幻想的な作品が数多く作られた<
魏使らの記録や、陳寿の三国志には、何の関係もない話。 >>650
だから女王の国なら東ではなく南に進んだ国である、としたんだろう。
高齢の説ならな。 あの伊達郡川俣町というスレもそう
「wwww」
と言っている人がいたりするけど、どういう事なのかな
芝居などが好きで、よく観に行っていたという話とか
『旧広瀬座』 >>663 そやね。
南≠東の繰り返しじゃなくて、それはもうわかったから
別の論拠で補足すればいいのに。というか
南≠東だけではただの書き間違いの可能性があるから。
それに東と南は字が似ているうえに実測では南東が多いからな。 南を東に変えなくても、北部九州では、
畿内より有力な大規模遺跡がいくつもあるからね。
だから、特に有力な理由でもない限りは、
南を東にする必要がない。 >>614
ならば、その根拠とやらの
> 当然久留米の「元の邪馬臺」の地であった <
> その後、618年にタリシホコは太宰府に遷都して「倭京」と称した <
の根拠は? >>616
九州脳の頭の中。
実際は丹生都比売神社は元々吉野川上村からだと言われてるのに。
高齢ならその辺り詳しいだろう。 >>632
つまり>>82に反論できる具体的な根拠無し
古田九州説敗北 >>670
オッサン意味不明だぞw
されに畿内でも有力な大規模遺跡なんていくらでもある。
それに規模なら東には妻木晩田に朝日遺跡とかいくらでもあるぞ。 丹生川上神社上社旧境内地の宮ノ平遺跡から
水銀朱の精製に使った縄文時代中期の石皿が出土している
宮ノ平遺跡からは太陽祭祀のストーンサークルも見つかっているな >>471
>不弥国から南に水行しても何もない <
その「南」は、所在方向を示す「四至」表現であり、
一旦玄界灘に出て、東か西に大回りの水行に拠って二十日かかる、という意味。
>東に水行すれば大和があるから南→東 <
「南≠東」だから×。
>大和が倭国の別種という記述が出てくるのは旧唐書だけ<
旧唐書と唐会要であり、
別種の実態は、新唐書や宋史や記紀に書かれている。
>北史梁書隋書その他多数の文献には出てこない記述だから 多数決で負け <
大和が日本国を称して独立しようとしたのが、
新唐書の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」の時の、
釈日本紀に引用の延喜講記に書かれた「小野妹子が隋文帝に叱られ、認められなかった」話であるから、
梁書や隋書や北史には書かれない。 >>493
>(「南≠東」問題)いくら答えても聞こえないフリをして
いつまでも「答えられない」と言い張る 三国一のインチキ九州説 w <
「トンチンカンな返事」がある度に、いくら反論して否定して上げても、
知らん振りても聞こえないフリをして、
いつまでも「答えていない」と言い張る 三国一のインチキ大和説 。w >>494
>つか、FAQに書いてあることでも 畿内説は答えられない とか平気でウソつくのが
基地外九州爺だろ 病んでいるよ 頭も心も<
つか、FAQに書いてあることも、もう3回も逐一反論をして書いておいたのに、
知らん振りしておいて、
九州説は答えられない、 とか平気でウソつくのが、
基地外大和説のスレ主だろ。
病んでいるよ 頭も心も 。 >>495
憎むべきは大和説者。
何の政治思想宗教か知らないが、
明白な事実を嘘デタラメで覆い隠そうとしている。 >>497
大和説者の「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しの宣伝は、
社会的影響力があるからある有害なんだけどナー。 >>499
要するに、いつも長い長いテンプレをを書いてるスレ主が、
基地外だということだ。
w >>672
伊都・那珂・志賀の地名が 丹生都比売の誕生地ともいわれる博多周辺と 丹生都比売神社総本社周辺とに共通して在る。 鏡に鉄に丹に地名に、畿内にあるのはほとんど九州北部からの移入だな。 >>501
「畿内説は答えられない。」ってセリフは、
畿内説の、スレ主が言ってるがテンプレを、
隅々まで、反論し尽くしたから言えからた事。
「南→東」などの嘘吐き騙しを書き続けるスレ主は、既知骸。 機内は九州勢力に飲み込まれてる。
出雲も吉備も過去に九州から旅立った人たち。
文明は力なり。
畿内が独自に勃興したなどあり得ない。
畿内説が夢見事過ぎる。 >>504
そりゃお前。
スレ主のテンプレが、簡単に論破されたらショックを受けて腐るだろ?。
小人はな。 >>505
>おかしな? 何がおかしい?<
「南→東」などの史料事実の否定曲解がおかしい。 気づいている人は、気づいている
ツマブキ、ツマブキ
(サトシ)言っているけど、実際は家の話
上の名前が違う
宣伝してるんだろwと言っている人がいたり >>509
結局、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説には、信頼性がない。 モンハン?
王族、アマツ・・・このようなモノが出て来たり >>510
「南→東」などに嘘つき騙しの雑な主張ばかりしてるから、
大和説は学問の世界に居場所が無くなったんだよ。 >>514
>WIKIで読むと、赤塚古墳は九州最古。
大和王権が各地の首長に与えたものとして銅鏡があげられてるけど
鉄の刀に鉄の斧がでてる。
石器に毛が生えた程度の畿内の勢力圏って考えにくいなー。<
成程。
そういえば、三角縁神獣鏡でも、大和が3世紀前半〜中頃であり、
大和は、4世紀以後だもんな。 他のスレにも書いたんだけど、
西国、九州?の出身ではないし。 >>549
水行して投馬国経由しなきゃ邪馬台国につかないと書いてある時点で九州北部は消える
あと記録残した人が邪馬台国は九州北部から南と思い込んでいただけで
実際の邪馬台国は九州から南にはないよ >>580
その説の最大の弱点が伊都国の南に何もない所 どこのチンピラなんだ?
と言っている人もいたような
芸能界などの話なのか、
どこかの企業の事を言っているのか >>695
四国出身はありえないが、ほとんどは九州出身。 新しきネタ語るこそにぎあわむ
イヨの都もクナの都も(卑弥呼さんのは伊都でした >>696
読み方が間違っている。
日程と里程は別々。 これは他のスレにも書いた
『muramasa』?
このようなゲームなどがあったんだけど、
サービス終了でしょ にっぽんの物理学者ぞ謎あかす(eテレみてみろじじいども(いますぐじゃ ミケ・・・mike・・・マイクという意味?
『何者にもなれない お前たち』 じじいどもおどろいたか物理学銅剣に鉄どうけんにてつ おまえらはなにもしらずにれすしてるはずかしききかなはずかしきかな ほとんど太子流の一派だろう
『荒木流拳法』
『太子流 小野』
荒木流憲法? 『山王宮 山王院』
本当に山王だよ、
この家の親戚か何かなのかな
サトシというキャラクターがいない?
とあるバスケ漫画 >>684
地名は当然畿内から移したんだよ。
博多や福岡と同じようにな。 『村正』
どのようなエピソードがあるのか・・・なんだよ >>709
まー噛み砕いて端折れば巻向はクナの墓場だったということでした(解決 >>701
違わないね日程と里程は一緒
陳寿は不弥国から邪馬台国までの正確な情報を入手できなかった
倭人からの伝聞情報をそのまま載せるしかなかったのさ
>>703
ほんで何て遺跡を邪馬台国と主張したいの 数年前の他のスレ
皇族と言うのは、どれくらい、いるんだ?
と質問している人がいた
その後のレス
「数十人しかいない」
このとき、もれ(仮)は
「こいつは、頭の病院に行ったほうが良いだろう」と思った >>717
>違わないね日程と里程は一緒
根拠は? >>720
魏志倭人伝の下敷きとなった資料に魏略という物がある
そこには伊都国までの記述しかない使者はそこで留められたとあるから
陳寿はそこが邪馬台国ではない事を知っていたから
倭人から聞いた邪馬台国までの情報を載せた
結果日程と里程が混在する事になったわけ
九州説が言うように邪馬台国までの移動方法を2重に書いたわけではないよ >>682
金メッキするわけじゃないから水銀など生成せんぞジジイ
辰砂の精製だ 『ザ・モモタロウ』
この作品も、おかしい
『松平』という人物がいて『かませ犬』と書いてあったり >>722
魏略こそ、帯方郡から一万二千里の九州福岡が邪馬台国であると明記した文献だよ。
そこから先の移動など書いてない。
また、呉の太伯の末裔というのもこれが文献となっている。
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文
聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害
今倭人亦文身 以厭水害也 『SBR』読んでみたの?
このようなキャラが出てくるはず。
私が、右と言えば右、左と言えば左。
私が、法、掟という意味。
荒木流憲法 若草山の鶯塚古墳。
仁徳天皇の頃と言われている。
元々牛塚と呼ばれていたらしい。
牛鬼伝説と関係があるのかないのか。 >>725
張楚金の本文「文身點面 猶稱太伯之苗」に対する雍公叡の注の部分だから
万二千餘里で邪馬台国ということではない
本文「邪屆伊都 傍連斯馬」に対する注は
廣志曰「倭國東南陸行五百里 到伊都國 又南至邪馬嘉國」
平安初期のころの書写だが誤字脱字だらけで
史料レベルが低すぎる >>526
>また畿内が力を持つなか、大陸からの使者に威厳を見せつけるためにあえてデカイの作った。
そんな感じに見える。<
見えない。
筑紫でさえ、中国からの直接使者が来たのは、魏使らの他は、裴清や郭務ソウの記録しかなく、
後は、郡や半島国や沿海州方面からの使節。
中国からの直接的な大和への使者は、全くのように皆無。
流民としてなら、中国や半島や沿海州や南洋方面から列島へ、列島への渡来が、
旧石器や縄文からも、ずっと継続的にあった。 >>528
>方形周溝墓は東海発祥だよ <
「東海発祥」という事が起きる理由が、判らない。
方形墓なら中国の天円地方に淵源が考えられるし、
四隅突出はモンゴルに淵源があるらしいし、
部族の墓形態はかなり保守的なものであって、
部族リーダー的人物の墓形態の変更許可なくてはなかなか変えられるものではない。
やはり、
大陸に淵源がなくて、渡来流民の新たな工夫が端緒であったとすれば、
筑紫が淵源であった可能性が十分にあり、
東海は、その東征に拠る伝搬であった可能性が十分にある。 >>530
>九州説vs畿内説など、一部の輩が事実から目をそらす為に、煽り続けているプロレス。
日本列島各地で渡来人系勢力vs縄文系勢力があっただけ。<
それほどでもない。
列島は、旧石器からずっと、南洋や大陸からの渡来流民の混合地域であったのであり、
その内、最初に?西日本の盟主的地位になったのは縄文出雲であり、
東日本は、越がまとまった他は、概ね毛人蝦夷の混合地域。
そこへ、燕の南や会稽付近からの倭人の流民が海峡から九州へ渡来して来て、
出雲から盟主の座を奪って、更に、東征して支配地域を拡大して行って、
別種分家の大和などを生み、
大和は継体の反乱後筑紫の倭人王家に参画し、
白村江で大敗した倭国を併合吸収継承して、西日本の盟主になった。
渡来人の多い九州北部や畿内は同じように敗れた側。
倭国大乱の勝者は、大和朝廷を作った縄文系勢力。 >>535
ほら、また大和説者は、
自説の説明や具体的反論根拠を言わないで、口先だけでのヘイトスピーチ街宣。
だから、「南→東」の大和説は、
嘘吐き騙しの雑な主張だと言われる。
w >>547
>九州北部は末羅国、伊都国、奴国、不弥国で終わりなんすよ<
投馬國への説明は、側副傍線行程国説明であるから、魏使らは行っていない付加説明で、
本行程は、不彌國からの「南至邪馬壹國女王之所都」であり、
「水行十日陸行一月」は「女王之所都」に対する説明になるから、出発点の郡からの所要日数になり、
不彌國で萬二千余里がほぼ消費されているから、
不彌國のすぐ南に邪馬壹國の入り口がある、という事になる。
>邪馬台国行くにはそっから船出しなきゃなんないんすから<
船出する必要がなく、
「南≠東」であるから、東北東にある大和は始めから×。 >>551
>どう考えても、答えられない奴がダメポだろ <
どう考えても、
「不可知部分が殆どである自然や歴史」において、
自説の説明は一切しないで、
相手には、無限に「絶対断定答弁」を要求し続ける大和説人種は、
・・・・の一種だろ?。 >>553
>君の知識が足りないだけだろ。
伊勢遺跡に鍵唐古、池上曽根遺跡を最新の資料で少しは調べてみたら?<
文献的に「南≠東」なんだから、
伊勢遺跡に鍵唐古、池上曽根遺跡は、
始めから邪馬壹國女王之所都にはならず、
倭国の東征の結末を示す遺跡にしかならないよ。」 >>563
>上に出ていた亀井遺跡から確認された弥生前期から中期の
分銅なんて九州よりもむしろ早い。
この分銅で水銀朱を細かい分量を測ったと見られてるからな。
しかも当時の多鈕細文鏡も八尾近所の大県から出土している のである。
つまり弥生中期の時点で河内辺りから漢と交易があったのは
確実な話。北部九州はその中間拠点にすぎない。<
それは、
河内の話であり、大和ではないから、大和説の根拠にはならず、
燕の南や呉の遺民の渡来に拠って出来た九州倭国の「東征」で、
全て説明が付いてしまう事。 >>697
伊都国の南にずばり吉野ヶ里遺跡があるよ。 >>703 奴国(博多)2万戸に対して、
南は7万戸ぐらいありそうだよね。
その画像見ると。 >>568
>情報が古すぎだな。<
「古すぎ」であっても、出土事実は事実であり、
3世紀頃まででは大きな変化が起こる筈もない。
>そもそも邪馬台国に鉄が豊富なんて記述はありませんw<
鉄鏃があるし、「國出鐵、韓wai倭皆從取之」の記録もある。
>それに淡路島と近江には2世紀以降鉄工房が発見されてるしな。<
倭国の東征で説明が付いてしまう。 >>732
>その内、最初に?西日本の盟主的地位になったのは縄文出雲であり、
>東日本は、越がまとまった他は、概ね毛人蝦夷の混合地域。
出雲は稲作文化なので弥生です。
出雲大社には大注連縄を奉納し、秋には全国の首長を集めて収穫の祭を行いました。
東日本にも、氷川神社(大宮)、鷲宮神社など出雲の足跡があります。
弥生最初の盟主が出雲です。
次に筑紫です。 >>737
>河内の話であり、大和ではないから、大和説の根拠にはならず、
その通り。
河内は瀬戸内海ルートによる筑紫の勢力範囲です。
内陸の大和は取り残された後進地域でした。 >>570
>アスペかよ、方角間違いなんて沢山あるのは証明されとるわ。<
アスペかよ。
魏使らや陳寿が「方角間違いなんてしていない」
という事は、もう何度も証明されとるわ。 >>572
>そもそも土佐の西側が旧名で波多国だろう。
九州説の視野の狭さは救いようがないな。<
また、何の脈絡もない意味不明な大和説者の発言。
大和説者の分裂幻覚妄想の視野の狭さは、救いようがないな。 >>576
>(祭祀用の特殊器大台?)突然じゃない 弥生時代から九州に「<
それなら、箸墓も、九州倭国の東征の所産である、という事になるだけの事であり、
「箸墓が4世紀以降ではない」という事の論拠にはならない。 >>745
あああ
纒向もやはり九州からの入植者の土地 >>578
>有槨」の墓があるよ トンデモはダメポ <
九州の弥生の「有槨」なら、ホケノに及びもつかず小規模だから、
やはり、扶余や東沃祖の有槨部族流民の小規模渡来があった事になるだけだ。 >>579
>倭人伝に書いてなきゃ、無関係だな<
それなら、大和の丹山なども、
「南≠東」に拠って倭人伝に書かれていないから、
倭人伝の記載には無関係だな。 >>748
>それなら、大和の丹山なども、
誤魔化してもダメ
山に丹があると書かれていて
大和に山に丹があるんだから
関係あるのさ
>>593
>畿内は朱の名産地<
大和や畿内は、倭国の東征地で、
倭国の地方の市を監督する大倭職の監督地であるんだから、
市を介してどんどん九州倭国に搬入上納すればよいのであり、
大和や畿内の朱は、九州倭国のものである、という事と同じことになる。 >>594
>柱を四角くするためには、鉄のカンナが必要だから、纒向は4世紀。
崇神天皇の纒向日代宮。
邪馬台国は関係ない。 無理やり邪馬台国に結びつけるから、おかしくなる。<
成程。 >>596
>・・・20カ国のうち中央に佐賀県の地名そのままのところが2カ所あるので、
斯馬国から姐奴国までは(つまり計20行のうち上半分)は、
福岡と佐賀県にあると思われる。かなり限定的に絞ることができるね。 <
成程。 >>597
>掘り出す技術や工具がなければ無意味。
鉄器がなければ掘れない。
畿内の丹山の技術は伊都から伝わったみたいですし。<
成程。 >>740
その説明では三世紀には東征が完了していた、という事になりますよ。 更に推測できるのは
弥生中期の鏡の出土からは既に畿内までの
交易は証明出来ています。
つまり北部九州の奴国も元々畿内や東の
国々が集まって作っていたとも言えますよ。 >>755
それは飛躍だな。
神武の東征は倭国大乱の頃だろう。
それ以前からも波状的に筑紫からの東征はあったので、畿内に筑紫から運ばれた鏡があるのは不思議なことではない。
だが、貧弱な遺跡しかない2世紀末から3世紀初頭の奈良盆地に、自ら外の地域に進出する力はない。
纒向に流入していた土器は主に東海からであり、瀬戸内海や日本海のルートにはアクセスできていなかった。 >>753
紀伊半島の水銀朱の精製跡は縄文末期からですよ。また亀井遺跡の分銅でも辰砂から水銀朱を
精製して分配していた形跡が確認されました
からね。
場所的に八尾だとやはり紀伊半島の吉野辺りからの搬出です。
丹山とはやはり古くからこの辺りを指すと
みていいはずです。
丹山の技術は伊都発祥ではないですよ。
ずっと古くてむしろ東国からの物だと
私聞いていました。
大陸からの入口が伊都なので、当然人の交流は多いですが。 >>757
>ずっと古くてむしろ東国からの物だと
>私聞いていました。
誰から聞いた?
根拠は?
でも、地名が伊都や那珂で上書きされていたということは、紀伊半島の丹山は3世紀に九州北部の支配下にあったということ。 畿内という、3世紀には存在していなかった枠組みを持ち出して、筑紫の支配下であったはずの淡路、吉備、近江、紀伊、阿波などをさも奈良盆地の田舎の支配下にあったかのように語るのは、ミスリードだ。 >>758
紀ノ川沿いの伊都がいつからの地名か分からないぞ。
五世紀以降の可能性もあるしね。 >>760
その時代にはすでに九州でも伊都の表記を使っていなかったのですよ。 「大都市の江戸が現在の東京に出現して江戸時代が続いたのだから
江戸幕府は東京だった!」
「うん、そうだね」
「じゃあ、江戸を作ったのは誰だったんだろうね」
「江戸に決まっている」
「じゃなくて、江戸はその直前までど田舎だったでしょ?
それまでの関東最大だった小田原城も滅亡してるし
外部から誰かが来て江戸を作ったとかは?」
「ゴミクズ!」
「初代大名の徳川家康はどこ出身だったんだろう?」
「総花的に江戸に決まってるだろゴミクズ」
「岡崎に幼少時の竹千代伝承が集中してるんだけど」
「出た!得意のダニ的解釈www
岡崎城は徳川家臣の城であって徳川家とは無関係
むしろ服従する立場だった
江戸時代を勉強しなおしてこいゴミクズwww」 諏訪大社の御頭祭の鹿のお供え。
75匹の鹿がお供えされたらしい。
毎年必ず一匹高野の耳が裂けた鹿がいたらしい。
この高野って、紀ノ川沿いの高野かもしれない。 >>756
神武神話はやはり一部の豪族の祖先伝承を
組み合わせて古くした、という印象ですね。
つまり東征らしきものが紀元前にあったと
思います。
なので2世紀頃の倭国大乱は西日本内で国々が争ったものだと思います。
また箸墓は吉備や阿波の他、橿原瀬田遺跡に類似の物が確認されています。
別に九州勢力の影響は特に見られません。 伊都、志摩など、多くの地名が筑紫から紀伊半島に移動されている。 >>764
>神武神話はやはり一部の豪族の祖先伝承を
>組み合わせて古くした、という印象ですね。
天皇家が豪族扱い?
>なので2世紀頃の倭国大乱は西日本内で国々が争ったものだと思います。
根拠なし。
戦乱の遺跡は九州や山陰に多い。 >>764
>また箸墓は吉備や阿波の他、橿原瀬田遺跡に類似の物が確認されています。
>別に九州勢力の影響は特に見られません。
九州の配下ですね。 神功皇后の時、イトは出てくるだろう。
そして、兵を集め、紀伊水門から難波の忍熊王子を討つとある。
神功皇后にお伴したイトの兵が、紀ノ川沿いに拠点を構えた可能性はあるな。 >>758
ソースと言われても家の既に故人の祖母ですよ。戦後の水害までは伊都郡、花園村で鉱山を
所有していた家です。
確認できた祖先、親類は九州より亀岡や金沢、新潟に多かったですね。戦前は大連にも進出していました。
実際の発掘は昔大阪のマツモト組の人が現場に来ていたとよく聞かされましたね。
子供の頃怖かったがよく遊んでもらったと
母にも聞かされました。 >>769
そもそも神功皇后の母は葛城高額姫ですから、
当然生まれは現在の葛城当麻か二上辺りになります。 >>609
>丹生都比売は 九州の伊都の国(現在の福岡県糸島郡や前原市)で誕生したという。
これらの伝えをつき合わせると 日本列島における水銀鉱業は九州の博多湾近郊で始まり 中央構造線にそって東進開発し 紀伊で最も盛んになったということになる。
この博多湾周辺と紀伊の丹生都比売神社周辺の地名を拾ってみると 九州には伊都の国と博多の那珂 それに安曇族の根拠地志賀島があるが
一方 丹生都比売神社は 和歌山県の伊都郡かつらぎ町にあり 同町に志賀があり また 伊都郡の隣に那賀郡があるように
伊都・那珂・志賀の地名が 丹生都比売の誕生地ともいわれる博多周辺と 丹生都比売神社総本社周辺とに共通して在る。 <
成程。
しかし、気を付けましょうね。
大和説者は、人間ではない・・・・ケダモノですから、
また知らん振りして、同じ事をしゃべりだすんでしょうから。 >>771
家の親戚や山持ちの人は川上村とよく交流していたそうです。
ただ巫女の顔に朱を撒いた遺骨なら縄文期東北にも存在しますからね。 >>611
結局は、大和は、
筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国の後進国であった、
という結論しか出ないな。 >>773
つまりナカツクニが北部九州、
高野山が高天原という事にもなるよな。
丹生都姫神社が九州にないんだから。な 神功皇后は4世紀なので、持ち出すのはナンセンス。
畿内説は常に後世のものを持ち出して、年代も考慮せずに説明しようとする。 4世紀の神功皇后の記事に出てくるのは伊都ではなく怡土。
伊都の表記は3世紀。
紀伊半島は3世紀には九州北部の支配下にあったのかもしれない。 東国の援軍と合流し、難波の忍熊王子を討つ。
九州北部から戻ってきた神功皇后は、紀伊で兵を整えたと考える方が自然だな。
イトの兵がお供した可能性も自然と考えられる。 忍熊王子と同じように、紀ノ川、高野の鹿もこのタイミングで倒されたんじゃないかな。
耳を切られた鹿。 怡土の県は筑紫の話ですよ。
神功皇后が福岡の香椎宮に入る時の話ですから。 4世紀後半神功皇后のエピソードで、紀ノ川沿いにイトの地名が出来た可能性は示せる。
伊都の地名が紀ノ川沿いがオリジナルと主張するなら、それ以前に紀ノ川沿いに伊都の地名があった証拠を出さないといけない。 魏志倭人伝の行程記述を無視して伊都は紀伊半島がオリジナルだとか、畿内説は本当に腐っている。 著好字令で木→紀伊になってるから
伊都郡もそのときに作った地名とかじゃないの 郡名の初見は「日本書紀」の「紀伊国の伊刀郡芝草を貢れり」との記事であるが、
「伊都」の字があてられたものとしては 730 年の紀伊国大税帳が早い。
このほか、「伊東郡」「糸郡」「伊土郡」などの用例が見られる。 だな >>787
なぜそんな地名をつけたのかが問題だな。 伊勢国に式内社の服部伊刀麻神社があるから
関係あるのかもな >>611
筑紫が、邪馬壹國女王之所都での先進国で、
大和は、倭国の別種分家の旧小国だ、
いう結論しか出ないな。 >>612
> 隋使が来た時の俀の都は、当然久留米の「元の邪馬臺」の地であったのであり、
その後、618年にタリシホコは太宰府に遷都して「倭京」と称したのであるから、
郭務ソウが来た時の都は太宰府の倭京であり、
その地の地名が「邪摩惟=ヤマイ」であり、3世紀には「邪馬壹」と呼ばれた地だ、
という事だよ。<
>根拠は?<
魏志と、後漢書の李賢注と、旧唐書や唐会要や新唐書と、
九州年号と、聖徳太子伝暦と、書紀など。 >>613
「南→東」の嘘つき騙しの大和説者らの方が、トンデモ。 >>619
>弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。<
成程。
それじゃ、大和説者は、また、
都合の悪い事実は伏せて隠して、
都合の良い情報だけを書いて、
世間の人々を騙そう、としていたらしい、
という事だな。 >>631
>だから、時代が違う<
お前は、時代など特定せずに、
列島側からは「倭国」という呼称を使わなかった、
という事を断定して言ったから、クレームを付けた。 >>635
「倭国の別種分家の旧小国」の大和説は、
日本の歴史、文化の起源を欲しがる。
漢人にもなりたがる。
哀しいコンプレックスが非常によく表れている 。 >>643
>後漢書だったか、対馬から東とか書いてあるのは なんで間違えたんだろうね?。
隋書では、竹島を通って済州島の北方を通って、
対馬には上陸せずに沖合を廻って、
壱岐へ「東南〜東へ向かった」んだから、
「東」で十分よく、
間違って、いない。 >>654
>あいにく中国本土でも異民族に征服されまくりで歴史書を編纂する余裕がなかったので、
大和朝廷の建国のあたりは記録されなかった。邪馬台国はもう滅亡してる。<
邪馬壹(ヤマイ)國の名前は、郭務ソウの頃まで残っている。 >>656
>その台与が死んだあと、また男王を立てたのだという。
記録はそこまで。<
いや、唐会要まで、「世與中國通」があった事が主張されている。
>九州ではまたまた乱世だの反乱だのやってばかりいるから
結局は近畿の大和朝廷の征服下におくしかないんだろう。 <
倭王武の頃には、
「自昔・・・東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
になっていた、と上表している。 【邪馬台国はどんな国?】
「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。
「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。
「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
「魏志倭人伝」−「魏は卑弥呼に五尺刀二口を与えた」
−弥生時代の鉄刀、鉄剣は福岡県から92例出土、奈良県からは1例のみの出土。
三角縁神獣鏡は魏の鏡に非ず、卑弥呼の時代は「方格規矩四神鏡、内行花文鏡」
邪馬台国時代、古墳時代を通じて、福岡県から37面、奈良県からは、わずか2面。
その山に丹あり
弥生時代の奈良では、朱丹は二箇所で しか使用されていない。
福岡県では41箇所の遺跡で使用されている。 【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。
筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓ ↓
↓ 近江三上祝→東濃→纏向
↓
宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉
【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入
1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入
2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入
3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入 >>663
あんたら大和説者は、「南→東」などの嘘吐き騙しをやっていて、
人間としての信頼性が全くなく、
説得力なんてないから、もうアキラメロン。 筑紫からやって来た畿内のヤマトが紀伊半島を重視したのは間違いない。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口に対して、日前は西の出口にあるため、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
伊都から運んだ八咫の鏡は、紀伊半島の東西に置かれたのである。 >>668
>(神仙や宗教)関係ないではなく中国人の根底にある<
魏使らや陳寿らの普通の人間らには、何の関係も関心もない話。
孝霊らの「南→東」などに嘘つき騙しの、
人種差別の・・・・大和説者が策略的にでっち上げた話。 >>669
>南≠東だけではただの書き間違いの可能性があるから。
それに東と南は字が似ているうえに実測では南東が多いからな。、
字形も意味も全く違うし、
周髀算経や礼記の東西決定法を読んで知っている役人や学者らが間違える筈がないし、
中国も考証校勘学者らも誰一人、「南や東の校勘」もしていない。 >>670
>南を東に変えなくても、北部九州では、 畿内より有力な大規模遺跡がいくつもあるからね。
だから、特に有力な理由でもない限りは、 南を東にする必要がない<
「南と東」は99.9%以上間違えないのであり、
「有力な理由」程度では覆せない位の、ほぼ絶対的前提条件。
対抗出来るのは「新魏倭王」印位。 >>804
普通の人間ではなく知識人だから当然関係や関心あるわ。
「東へ進む?ダメだろ、そっちは神仙世界だとクレームきちまうなぁ
判らないよう誤魔化しとけ。」
遠方なんてそんなもんだ。 >>671
>ならば、その根拠とやらの
> 当然久留米の「元の邪馬臺」の地であった 。その後、618年にタリシホコは太宰府に遷都して「倭京」と称した <
の根拠は?<
久留米は、七支刀人形の「こうやの宮」の存在や、高良山の古系図や、高良大社の諸文献や、
磐井の伝承の存在や、物部軍が「三井」まで入って来て突然反乱が出来た事や、
九州年号文書の存在や、聖徳太子伝暦の記載や、
久留米の神社や、古宮遺跡の存在や、正倉院へのお宝の上納など。
太宰府は、九州年号記載や、神籠石や羅城建築や、太宰府の発掘実態や、
郭務ソウの到来地である事など。 >>673
反「古田九州説」の、
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者の敗北。 >>674
>オッサン意味不明だぞw されに畿内でも有力な大規模遺跡なんていくらでもある。
それに規模なら東には妻木晩田に朝日遺跡とかいくらでもあるぞ。
糸島〜弥生銀座〜大野にかけての、巨大な遺跡地域に勝てる訳がない。 >>675
>丹生川上神社上社旧境内地の宮ノ平遺跡から 水銀朱の精製に使った縄文時代中期の石皿が出土している
宮ノ平遺跡からは太陽祭祀のストーンサークルも見つかっているな<
縄文期なら、倭国の東征以前だから、
鯨面文身の出雲王朝系の毛人蝦夷が、文身に使ったんであろう。 畿内の遺跡が巨大?というだけでは、邪馬台国と関係した根拠にならないのだよ。魏が関知しないところでそんな国もあったんだなというだけ。
もちろん、魏からの産物が畿内から出ても、そこまで運ばれたんだなあというだけ。 >>696
>水行して投馬国経由しなきゃ邪馬台国につかないと書いてある時点で九州北部は消える<
投馬國の話は、「出発」記載の「南す」と、「至」の到着との間に、途中移動の説明文言が存在しないから、
魏使らは行っておらず、側副傍線行程記載になる。
>あと記録残した人が邪馬台国は九州北部から南と思い込んでいただけで
実際の邪馬台国は九州から南にはないよ<
だから、不彌國の次に「南至邪馬壹國女王之所都」が書かれていることになり、
魏使らは、不彌國から南へ(途中移動が殆ど無しに)邪馬壹國に着いた事になる。
だから、不彌國から東北東の大和に行った、という大和説者は、
「南→東」の嘘つき騙しの詐欺師であった、という事になる。 太陽信仰のストーンサークルは丹生川上神社上社旧境内地の宮ノ平遺跡と
紀伊半島西側海南市溝の口遺跡で見つかっている
縄文後期の辰砂原石や朱彩土器、朱が付着した石皿などが、松阪市天白遺跡でも
大量の川原の石が円をえがくように幾重にも置かれ、その数は30箇所にもなるという
ストーンサークルは各々の中心部を結んだラインが
夏至の日没と冬至の日の出とを結んだラインに一致する
伊勢神宮は冬至の日に朝日が宇治橋の鳥居の真正面から昇る
太陽信仰と、神奈川県ほどの巨大な岩石の上の険しい紀伊山地と巨石崇拝で構成する熊野信仰 >>816訂正
朱が付着した石皿などが、松阪市天白遺跡でも 誤
朱が付着した石皿などが見つかった松阪市天白遺跡でも 正 >>714
>地名は当然畿内から移したんだよ。 博多や福岡と同じようにな。<
地名は当然、倭国東征の本家の筑紫から、新天地の地方の別種分家の地に移したんだよ。
ニューヨークなどと同じようにな。 >>792 >>808
全く
隋書東夷伝(628) 「都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也」
を否定する根拠になっていないな >>716
>まー噛み砕いて端折れば巻向はクナの墓場だったということでした(解決 <
まあ、物理学者と言っても、二種類あるからな。
一つのタイプは、指導教官らが教えた事を100%絶対だ、として、
それからの数学的論理学的法学的な絶対断定した論を構築するしか能のない、
がり勉型の学者。
もう一つのタイプは、自然や歴史における「不可知部分」の存在を十分に認識して、
指導教官の教えが100%絶対なものだとするではなく、
あくまで、確認された事実や実験や計測や史料事実などを出発点にして、
その資料批判をして、それからの帰納的確率的な推論をする事を大事にする学者。
後者が、ノーベル賞を貰うタイプ。 一流大学の教授を除き
畿内説の研究で給与貰ってる奴で人格者が居ないような気がする >>717
>違わないね日程と里程は一緒<
そんな断定は出来ない。
隋書の段階ですら「夷人不知里數、但計以日」と書かれているんだから、
里程は、魏使らの記録であろうが、
日程は、史料批判無しには、
倭人での伝聞か?、魏使らの計測であったのか?、は決められない。
>陳寿は不弥国から邪馬台国までの正確な情報を入手できなかった<
おかしな男。
陳寿は、魏使らの記録を元にして魏志を書いただけであり、
それを元にして「計其道里、當在會稽東治之東」という推定文を書いている。
>倭人からの伝聞情報をそのまま載せるしかなかったのさ<
だから、この男は間違い。
里程は、魏使らの記録であろうが、
日程は、史料批判無しには、
倭人での伝聞か?、魏使らの計測であったのか?、は決められない。 >>717
>ほんで何て遺跡を邪馬台国と主張したいの <
「邪馬台国」なんて、史料事実に存在しない嘘つき騙しの詐欺文言・
「邪馬壹國」なら、不彌國のすぐ南であり、
7万戸であるから、不彌國のすぐ南から筑紫平野部及びその周辺丘陵地であり、
弥生銀座から筑紫平野部の全遺跡になる。 魏吏は日本へはやって来てない。
帯方郡での聞き取り調査。
それと、呉や公孫氏が書き残してた記録を基に、陳寿は倭国について編纂した。 >>718
「南→東」などの史料事実の嘘つき騙しのトンデモ大和説詐欺師では、
解決しない。 >>824
伊都に滞在したと書いてあるではないか。
畿内説はこのように嘘やでっち上げをする。 陳寿は呉や公孫氏の残してた記録から、
・奴国の南に狗奴国がある。
・倭国大乱前の倭国の都へは21ヵ国の順番に並んでる。
という2つの記述を見つけたのだろう。
その二つを見て、陳寿は倭国に上陸してから南に進んだ所に倭国の都があると勘違いしたのだろう。
奴国と狗奴国は瀬戸内海を挟んで南北に分裂してて東へ進んだ所に都があったのに、陳寿は南へ進むと勝手に付け加えてしまった。 >>826
そんなことは書いてない。
帯方軍へやって来た倭国からの使者が普段は伊都国に駐在してる人物だと書いてある。 >>722
>魏志倭人伝の下敷きとなった資料に魏略という物がある<
これは×ね。
魏志には、魏略には書かれていない情報が沢山あり、
それらは陳寿が(魏略を参照したのではなく)魏使らの記録を参照した事になるから、
陳寿は、魏略を参照した、という事にはならない。
>そこには伊都国までの記述しかない使者はそこで留められたとあるから
陳寿はそこが邪馬台国ではない事を知っていたから
倭人から聞いた邪馬台国までの情報を載せた<
これも×。
伊都国の後の奴國と不彌國には「里数」が書かれており、
「夷人不知里數、但計以日」に拠って、その里数は、
倭人からの伝聞情報ではなく、魏使らの記録そのものだ、という事になる。
>結果日程と里程が混在する事になったわけ<
結果、この男はまた、
世間の人々を騙そうとする嘘つき騙しであった、
という事になった。
>九州説が言うように邪馬台国までの移動方法を2重に書いたわけではないよ<
魏使らは、郡から女王之所都への所要日数と、
郡から邪馬壹國への折れ線的道のりの各里数の、
両方を書いた。 はいはいザラコクが嘘と矛盾に満ち
いかに都合の悪いことは見なかったフリをしているか暴いていくね
基礎的な知識ですぐにわかる
>>813
投馬国に行くには水行、と途中移動の説明文言がある
途中移動の説明文言があるから邪馬台国は不弥国の
すぐ南にはない事になる
>>822
倭人は里数を知らず日数で距離を表すと魏志倭人伝にある
ゆえに日数で表記された行程は倭人からの情報である
これ以外の解釈があるなら逆に聞きたい
>>823
それならばなぜ不弥国から南○○里で邪馬台国、
という表記でないのか
また日程で書かれた邪馬台国までの距離はどう解釈するべきか 九州は結局福岡と徒歩数日の佐賀にしか大きな遺跡が無いんだな
これで伊都国に駐留していた使者が九州説が主張するような曖昧な情報しか持ってないとか無いな >>733
忘れ物の追記。
>渡来人の多い九州北部や畿内は同じように敗れた側。<
筑紫の倭人は、
天孫族の阿毎氏と呉の遺民の姫氏との合同王朝が盟主を分け合って、
在地部族を支配して継続し、白村江の大敗の後、大和の阿毎氏に併合九州継承された。
筑紫倭国から別れた別種の旧小国の大和は、記紀に拠ればいろいろあったようだが、
結局は、白村江の後になって、倭国を併合九州継承して、列島盟主になった。
>倭国大乱の勝者は、大和朝廷を作った縄文系勢力。<
倭国大乱なんて存在しないし、大和朝廷も当時存在しないし、
倭国乱の勝者が「縄文勢力」という事の証拠もない。 >>829
まずはじめからおかしいね
「魏志には、魏略には書かれていない情報が沢山」あっても
魏志が魏略を下敷きにしなかった証拠にはならないね
そのあとは何かそれっぽい事書いてるだけで内容が支離滅裂だね >>741
>>その内、最初に?西日本の盟主的地位になったのは縄文出雲であり、 東日本は、越がまとまった他は、概ね毛人蝦夷の混合地域。<
>出雲は稲作文化なので弥生です。<
出雲建国の「国引き神話」では、金属器を使わず、
隠岐の黒曜石と、縄や木を使って舟で、国引きをしていますから、
弥生、というよりは、縄文です。
>出雲大社には大注連縄を奉納し、<
当然「国引き神話」で使ったものでもあったからでしょう。
>秋には全国の首長を集めて収穫の祭を行いました。<
10月の「神無月」が「収穫の祭りであったのか?」は知りません。
参勤交代のようなものか?と思っていました。
>東日本にも、氷川神社(大宮)、鷲宮神社など出雲の足跡があります。<
出雲は、ズーズー弁族ですから、関東以北にズーズー弁族がいてもおかしくありません。
>弥生最初の盟主が出雲です。 次に筑紫です。<
紀元前12世紀頃に箕氏が朝鮮に田蚕を教授していますから、
稲作が縄文期に列島に伝わっていた、という可能性があり、
稲作が弥生の証拠にはなりません。 >>831
>>836
突然魏の使者なんてものが出てくる解釈の方が不自然で不思議 >>749
>>>倭人伝に書いてなきゃ、無関係だな<
>>それなら、大和の丹山なども、 「南≠東」に拠って倭人伝に書かれていないから、
倭人伝の記載には無関係だな。<
>誤魔化してもダメ
山に丹があると書かれていて 大和に山に丹があるんだから 関係あるのさ<
誤魔化してもダメ。
魏志の話は、「南≠東」だから九州の話なのであり、始めから大和の話ではなく、
だから「大和に山に丹があった」事など、始めから魏志には何の関係もないのさ。 >>829
>魏志には、魏略には書かれていない情報が沢山あり、
>それらは陳寿が(魏略を参照したのではなく)魏使らの記録を参照した事になるから、
>陳寿は、魏略を参照した、という事にはならない。
ふむ。
魏志と魏略は一部で同じ資料を使っていたのだな。 >>837
伊都は郡使が常に留まるところとあるよ。
魏の設置した帯方郡が倭に使いを送り、彼らは伊都国に滞在したんだよ。 >>755
>その説明では三世紀には東征が完了していた、という事になりますよ。<
ならないよ。何度も倭王武の上表文の
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
を示してある。
>更に推測できるのは 弥生中期の鏡の出土からは既に畿内までの 交易は証明出来ています。<
倭国の東征に拠り、瀬戸内〜近畿に「地方の市を監督する大倭」職が置かれて、
その「市」に拠って、倭国内の交易が出来ていたから。
>つまり北部九州の奴国も元々畿内や東の 国々が集まって作っていたとも言えますよ。<
言えない。
倭国は、瀬戸内や近畿の東征の主人公。 郡使往來常所駐
郡へお使いでやって来た(人物は)常にそこに駐在してた
だから伊都国周辺の事情は知ってたが、都については殆んど知らなかった。
そこで陳寿は別資料から都への行き方を引用してきた。 やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ >>757
>紀伊半島の水銀朱の精製跡は縄文末期からですよ。<
構わない。縄文期末に西日本を支配したのは、文身國の出雲だったから。
>また亀井遺跡の分銅でも
辰砂から水銀朱を精製して分配していた形跡が確認されましたからね。
場所的に八尾だとやはり紀伊半島の吉野辺りからの搬出です。<
それは、いつ頃の話?。
しかし、どちらにしても倭国東征の後であれば、
「南≠東」だから、大和も河内も倭国の東征に拠る地方の市の地域である、
という事にしかならない。
>丹山とはやはり古くからこの辺りを指すと みていいはずです。
丹山の技術は伊都発祥ではないですよ。<
縄文末の出雲は、筑紫も支配下であった筈だから、
魏志に書かれた丹山は、筑紫の丹山であった、という事は否定出来ない。
>ずっと古くてむしろ東国からの物だと 私聞いていました。
大陸からの入口が伊都なので、当然人の交流は多いですが。<
九州に丹山が確かにあるんだから、
東国に何があろうと何の価値も関係も論拠にもならない。 >>845
>>郡使往來常所駐
>>郡へお使いでやって来た(人物は)常にそこに駐在してた
郡へお使いですか。ここは伊都国についての話題。
郡使 往來 常所駐
帯方郡の使節が、(倭国内で)往来するとき伊都国
に一時的に滞在するという意味だろ。
伊都国に常駐しているわけではない。 >>760
>紀ノ川沿いの伊都がいつからの地名か分からないぞ。 五世紀以降の可能性もあるしね。<
以前から言って来た事なのですが、
「紀伊」という呼称は、
東海姫氏國の「姫氏=キ氏=紀氏」と、天孫族の「阿毎氏」や伊都国の「伊氏」の、
両方の文字が組み合わされているから、
紀伊の国は、阿毎氏と姫氏の合同政権の東征軍の支配地であった、という可能性がある。 >>761
>その時代にはすでに九州でも伊都の表記を使っていなかったのですよ<
それの根拠は何ですか?。 >>847
八尾の亀井遺跡の分銅は弥生前、中期の物ですよ。今のところ国内最古です。
水銀朱の付着していた物もあり、水銀朱の
計測に使った物と見られてますよ。
つまり紀元前時点で中国人と交易していた事は
確定していますよ、近くで貨泉も出土してますから。 >>764
>神武神話はやはり一部の豪族の祖先伝承を組み合わせて古くした、という印象ですね。<
そう断定出来るほどの事でもない。
古事記伝承は、大和天皇家の初代だった、という認識で記載している。
>つまり東征らしきものが紀元前にあったと思います。
なので2世紀頃の倭国大乱は西日本内で国々が争ったものだと思います。<
「倭国大乱」は、范曄の誇張表現のウソ騙しであり、魏志の事実は「倭國乱」です。
また、魏使らが240年頃に見た卑弥呼は「年已長大」であり、
「長大」は30〜35歳を示しますから、卑弥呼の誕生は205〜210年であり、
仮に20歳で共立されたとすれば、共立は225〜230年頃であり、
だから、「倭國乱」は、3世紀の初め頃だろう、という事になります。
>また箸墓は吉備や阿波の他、橿原瀬田遺跡に類似の物が確認されています。
別に九州勢力の影響は特に見られません。<
久住編年では、箸墓は、
那珂八幡や津古生掛や原口の後での「形状の模倣」だという事ですから、
九州勢力の影響があった事になります。 まぁはっきり言ってしまうと九州説の可能性は現時点でもうないですよ。
倭人伝における邪馬台国は畿内、河内湖から矢田丘陵、馬見丘陵から奈良盆地南部に
かけてですね。
それ以外の可能性はもうかなり低い、女王国は
瀬戸内海の国々でしょう。 >>769
>神功皇后の時、イトは出てくるだろう。
そして、兵を集め、紀伊水門から難波の忍熊王子を討つとある。
神功皇后にお伴したイトの兵が、紀ノ川沿いに拠点を構えた可能性はあるな。<
成程。 >水銀朱の付着していた物もあり、水銀朱の
>計測に使った物と見られてますよ。
>つまり紀元前時点で中国人と交易していた事は確定していますよ
水銀朱を計測していたことが、なんで中国人と交易していたことになるのか
意味不明。
「つまり」の前後が理論的にまったくつながっていない。
>つまり紀元前時点で中国人と交易していた事は
>確定していますよ、近くで貨泉も出土してますから。
貨泉が同時出土しているならともかく(それでも交易の根拠にならんが)
貨泉が「近くで」出土したからなんで水銀朱を交易していたことになるのか。
交易していたのなら中国で亀井遺跡と同じ成分の水銀朱を見つけてきてほしいし、
日本側の遺跡に貨泉も一枚程度でなく多数出土しないと交易という説得力がない。 >>854
箸墓か、那珂八幡や津古生掛や原口の後での「形状の模倣」だとか
どこのトンデモ屋さんが言ってるの?
少なくとも、学者じゃないよね
横からですが
貨泉は非常に多くの類似品が作られており、
日本に入ってきたのは通貨としてではなく
銅スクラップ原料として輸入されたと
いう説があります。 九州など西のほうでは中国朱を使っていたわけだ。
何で畿内の水銀朱が、その広大な中国朱エリアを越えて、中国と交易するのだ?
中国→(中国朱)→九州
中国????????? ←(畿内朱)←畿内
中国から九州までの交易船は、行きは中国朱をのっけて、帰りは畿内朱をのっけてたのか?
基本的な思考力がなさ杉。
鉄器と同じでなーんも考えてないだろw 近江の古墳で貨泉とか絵画土器が出たのってどこだっけ? >>807
>普通の人間ではなく知識人だから当然関係や関心あるわ。
「東へ進む?ダメだろ、そっちは神仙世界だとクレームきちまうなぁ
判らないよう誤魔化しとけ。」 遠方なんてそんなもんだ。<
魏使らが、そんなウソ騙しの報告をした事が、
部下の密告や、倭國からの遣使らに拠って皇帝にバレれば、
そりゃ魏使らの首が飛ぶね。 >>857
貨泉は亀井遺跡に隣接した同時期遺跡ですよ。 加美遺跡には朱を使った二重木棺に大規模な方形周溝墓等、
この時期既に半島経由で交易があった事を
否定するものはありません。 孝霊は嘘ばかり。
河内まで邪馬台国だって。
他の地域の歴史を奪う、河内の歴史を奪う、存在を奪うのと同じ。 中国と畿内の間に広大な中国朱使用エリアが存在するのだから
半島経由で畿内朱を交易していたことは完全に否定される。 九州説なんて可愛いもの。
孝霊厨はかなり悪質。
伊都国に続き河内の歴史まで奪いたいみたいです。 弥生中期の時点で河内に朱を用いた二重木棺に
貨泉、計量する分銅。
更に奈良盆地奥には水銀朱精製跡も沢山確認出来てるわけですからね。
おまけに信貴山と葛城地区では多鈕細文鏡まで
確認済ですから。
この時点で畿内はある程度まとまった集団が
大陸方面と交易していたのは確実ですよ。
現実を否定するのはダメですね。
河内と奈良盆地は旧地名の
シキという地名で共通性もありますからね。 >>871
河内が邪馬台国である根拠にならない。
大概にしやなあかんで。
大阪や河内の歴史を奪うな。 >>848
>伊都国に常駐しているわけではない。
こう言い張るバカのためにわざわざ常に駐在すると明確に書いてあるのに、何を言っているんだ。 包茎臭酵母&絵画土器勢力はかなり広範囲を精力家に収めてた訳で >>852
記紀でしょ。
伊都の表記を使っていたのは3世紀だけ。
2世紀は倭奴、4世紀は怡土。
紀伊半島は3世紀の卑弥呼政権下で筑紫倭国の支配下に入ったのかもしれない。 >>853
中国と直接交流していた九州北部では、丹はキログラム単位で使っていたから、分銅などいらないのでは?
多くの墳墓で棺の中を丹で塗り固めていたから。
分銅を使ってケチケチするのは、畿内が少ししか丹を分けてもらえなかったから。 丹を珍重する文化が外国から入ってきたけどそんなもん近所に普通にあったから流行らなかったでござるの巻 >>865
>>>857
>貨泉は亀井遺跡に隣接した同時期遺跡ですよ。 加美遺跡には朱を使った二重木棺に大規模な方形周溝墓等、
>この時期既に半島経由で交易があった事を
>否定するものはありません。
木棺、方形周溝墓、朱。
平原遺跡の劣化コピー。
墓制を含めて完全に筑紫伊都の女王国の支配下に入った証拠。 狗奴国の官が河内彦というのが畿内説の根拠の一つだったはずなのに、邪馬台国の中になってしまった。
嘘に嘘を重ねて来た畿内説が自己矛盾で崩壊している。 >>878
とこでの話?
九州には大量の朱があったけど、王墓では大人気でバンバン使っていたよ。 九度山の丹生官省符神社
空海より前の祭神は、応神、天児屋根大神だったらしいな。
神功皇后、応神、東国の勢力に征伐されたんじゃないかな。
紀ノ川沿いの伊都、那珂の地名もこれが理由だろうな。 組合式箱形木棺と刳抜式割竹形木棺の区別がつかないバカがいるな >>882
>九度山の丹生官省符神社
>空海より前の祭神は、応神、天児屋根大神だったらしいな。
完全に九州の神様でした。
本当にあ(ry 丹生都比売もスサノオが暴れた時に、ホトにヒが刺さり死ぬとある。
倭国大乱で、丹生都比売の勢力は火の神に乗っ取られた可能性もある。
丹生明神は闇龗。
カグツチの血だしね。 >>824
>魏吏は日本へはやって来てない。 帯方郡での聞き取り調査。
それと、呉や公孫氏が書き残してた記録を基に、陳寿は倭国について編纂した。<
これもまた酷い「史料実態の否定曲解」の嘘つき騙しだねえ。
金印や詔書や大量の下賜品を、卑弥呼に直接渡さなかったとでも言うんだろうかねえ?。
魏使らは、明帝の詔書での約束を破った、とでも言いたいんだろうかねえ?。
大和説者らは、こんな無茶苦茶な事を教授や指導教官から教わっているらしい。 >>889
箸墓の伝承は、九州高天原のコピーだったの? >>827
>陳寿は呉や公孫氏の残してた記録から、
><・奴国の南に狗奴国がある。
・倭国大乱前の倭国の都へは21ヵ国の順番に並んでる。
という2つの記述を見つけたのだろう。
その二つを見て、陳寿は倭国に上陸してから南に進んだ所に倭国の都があると勘違いしたのだろう。<
何だい?、今度は「勘違い」説か?。
全くの分裂幻覚妄想の・・・・のように見える。
誰がこんな人間を作り出したんだろうかねえ?。
教授や指導教官でなければ、文部省かマスコミか右翼か?。
>奴国と狗奴国は瀬戸内海を挟んで南北に分裂してて東へ進んだ所に都があったのに、陳寿は南へ進むと勝手に付け加えてしまった。<
世間の人々が騙されないように、
この・・・・投稿を世間の人々に、もっと読んで貰いたいものだ。 >>888
春日といえば、福岡県春日市の春日神社だな。
祭神の天児屋根命は伊都への邇邇芸の天孫降臨に随伴した神だからね。
畿内も関東も、分社しただけだから。 >>890
>金印や詔書や大量の下賜品を、卑弥呼に直接渡さなかったとでも言うんだろうかねえ?。
バカだねぇ
黄幢や檄は同伴しなかったことの証拠だろうにw 春日神社のもう一つの祭神であるタケミカヅチは、神武が畿内を攻略した時に助けたから、筑紫勢力による畿内征服の象徴だな。 >>895
天児屋根の伝承を調べ直せ。
やり直し。 福岡の春日神社は大宰大弐として大宰府に赴任した藤原田麻呂が
春日大社より武甕槌命、経津主命、姫大神の三柱を神籬に迎え祀って春日大明神として社殿を創建 >>896
タケミカヅチって常陸国の出身だろ
鹿島神宮の祭神だぞ
なぜ九州になる? >>830
>投馬国に行くには水行、と途中移動の説明文言がある<
「南至投馬國」の、出発の「南」と、到着の「至投馬國」の間に、
途中移動説明文言が存在していないから、魏使らは移動しておらず、
「南至投馬國」は、投馬國の位置説明の「四至」説明文になっている、という話。
そして「水行二十日」は、所要日数の付加説明である事になる。
>途中移動の説明文言があるから邪馬台国は不弥国のすぐ南にはない事になる<
「水行二十日」や「水行十日陸行一月」は、
到着説明の後に書かれた所要日数の付加説明であり、
途中移動の説明文言がなかったから、
邪馬壹國は不弥国のすぐ南にはある事になる。 Wiki 天之尾羽張より
イザナギが所有する神剣(十束剣)で、妻イザナミが黄泉へ行く原因となったカグツチを斬り殺す時に用いられた[5][6]。
『古事記』における神名は、天之尾羽張神(あめのおはばりのかみ)という[4][5]。
別名 伊都之尾羽張(いつのおはばり)[2][4]。
「伊都」「稜威」(いつ/いづ)は、神の威力盛んな様子を意味する[2][43]。
古事記で「伊都之尾羽張神」が天之安河の水を堰き止めていた事から、山が張り出した尾根を意味するとも[21]。 >>897
天孫降臨は上町台地〜泉北丘陵の中の国から、博多湾に降臨する話だ。1世紀前半。
奴国に博多湾一帯を割譲させ、伊都国を建国する話。
大陸へのルート確保だな。
鳥の巣は和泉なんだよ。 >>899
高天原から出雲など東方の征服に功績があった神だからだよ。
関東出身ではなく、関東を攻めた方。
それが後世、と言っても奈良時代に畿内に逆輸入された。
出身は天津神なので対馬海峡かと。
出雲攻略が成功して、天孫降臨による伊都国が成立した。 >>900
出発の「南」と、到着の「至投馬國」の間に、
途中移動説明文言が存在していないから、魏使らは移動しておらず、とするなら
少なくても魏志の中に他にそういう使われ方が明確にされている箇所を示さなければ
ただ適当に思いついたデタラメを言っているのと変わらない >>902
筑紫への邇邇芸の降臨も、畿内への饒速日の降臨も、船なんだよ。
そして、その時代はまだ関門海峡は船で通過できなかった。
つまり、天児屋根もタケミカヅチも日本海側のどこかの出身。 ちなみに紀元前の関東は、出雲が攻略していた。
鷲宮神社とか、氷川神社を調べると良い。
それを駆逐したのが高天原出身の鹿島と香取の神になる。
出雲の国譲りの地方への波及。
そして筑紫日向の伊都が倭国の王都となった。 >>903
大国主大神は、神代の昔、常陸の国の少彦名神と共に国づくりした。
常陸は後進国では無かった。 >>902
>天孫降臨は上町台地〜泉北丘陵の中の国から、博多湾に降臨する話だ。1世紀前半。
時代はあっているが、方向が違う。
1世紀はまさに伊都国に三雲南小路遺跡などが出現した時代。
魏志倭人伝の倭国の男王の時代の始まりだ。 国作りは渡来勢力代表の出雲(伊都国)と古来勢力代表の常陸の国の協力によって行われた。 倭国大乱でクナ国が敗れた後、大阪城の地〜上六辺りまで、生玉社の境内だったんだな。
孝徳天皇が生玉社の樹を斬り給ふとして不敬があったとされているのも、難波宮を境内に造ったからだ。
天皇が不敬になるくらい難波の地は聖地だった。
天皇即位の儀式の八十島祭
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀。
その祭祀の中心が生島巫、足島巫、生國魂神社だった。 >>901
>「伊都」「稜威」(いつ/いづ)は、神の威力盛んな様子を意味する[2][43]。
出雲と伊都は語源が同じ?
実は出雲の国譲りは博多湾沿岸における政権交代? 弥生開始期〜弥生中期初頭の近畿一円で石棒類が出土する
ことに大阪湾沿岸域で比較的顕著で,
なかでも近畿最古期の環濠集落を成立させた地域周辺で際立っている
弥生前期の方形周溝墓の副葬品は石器、打製石鏃 >>911
追記
倭国大乱でクナ国、河内、和泉、難波、摂津etcは破れたんだよ。
河内だけ台与の時に和睦したけど。
他の地は、時期は違えど倭国大乱で卑弥呼を共立した勢力に征伐されたんだな。 卑弥呼は共立だから倭国大乱で勝ったほうということじゃないだろ >>910
関東平野から蝦夷を追い出しているけどね。
関東の古地名の多くが蝦夷の言葉に由来する。 丸木舟の発見例おおよそ200例のうち
関東地方が最も多く150例近く
次に多いのが滋賀県の琵琶湖周辺で25例ほどあり、
福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく >>914
伊都から見ると、王は高千穂にあり、日の出を背にして君臨する。
神武が東征の時に、天神の子なのだから太陽を背にして戦おうと言ったのがこれ。東側に神奈備である山城(伊都城)を備えた王都が伊都国。 >>916
博多の大山祇の子である三島溝杭、鴨王家の祖の業績だよ。
溝杭とは、杭を打って水路を整えることを意味する。
筑紫からの畿内開発の歴史そのもの。
詳しくは三島溝杭でググれ。 伊都から高麗人が東征するなら、
ずっと夕日を背にして日の出に向かうんだろ 大山祇は別名を綿津見の神。
博多湾の志賀島に祭られる、伊都国が成立する前の奴国にいた倭王。
時代としては前漢の頃に漢化から前漢鏡(内行花文鏡)を拝領していた倭王。 >>923
決戦の時はわざわざ紀伊半島を回り込んだだろ。 北部九州の甕棺墓は九州島から出ないし
宗像にも広がらない >>926
だって宗像は別氏族だし。
伊都国王墓は木棺だし。 伊都からスタートしたら紀伊半島だけ回り込んでもだめだろ 筑紫の支配者は次々に入れ替わるんだよ。
甕棺とか時代錯誤なことを言うなよ。
1〜3世紀の筑紫は木棺の時代だよ。 >>928
途中はもう味方の土地だよ。
何年もゆったりと滞在しているだろ。
筑紫はすでに瀬戸内海を平定済みだったんだよ。 途中はもう味方の土地だよって
途中は倭国に入ってないんだろw >>930
東征は何度もやっている。
記紀で言うのは倭国大乱の時の東征で、2世紀末。
だから3世紀に入って急速に畿内も九州の技術や文化が導入されるだろ。 宗像が別だから東征できないんだよ
沖ノ島祭祀はヤマト主導 >>911
生玉ねえ。
大和国葛城にいた古代氏族、葛城鴨王の祖は博多の王である大山祇の子であり、摂津を開拓した三島溝杙耳(陶津耳)である。
その息子は登美に移住して神武と戦った長髄彦であり、娘は活玉依姫である。
京都や大阪や奈良の鴨、賀茂などの地名は、この一族を祭ったもの。
で、いく度目かの筑紫からの東征の象徴である生玉がなんだって? >>935
宗像は天津神とは別氏族だけれど、邇邇芸の筑紫への降臨を助けたので崇敬されている。
それがアマテラスの神勅だよ。
別氏族だけれど、筑紫伊都に従属している。
記紀を読み直せ。 糸島はまず出雲に支配されたんだよ
庄内期から博多沿岸で畿内の影響が強くなる Wiki 神勅より
記紀に於いて、天照大神がアマテラスとスサノオの誓約で誕生した宗像三女神を、天孫降臨より以前に日本と大陸の間を結ぶ海の島々(海北道中、胸形之奥津宮、中津宮、邊津宮)に降臨させた女神らで、宗像大神ともいう。
日本書紀には「道主貴」と記述される。
『汝三神は、宜しく道中に降居して、天孫を助け奉り、天孫に祀かれよ』と神勅を授けられた。
天孫降臨のルートは、海北道中、胸形之奥津宮、中津宮、邊津宮の順だよ。 >>940
自分で引用しておいてなんなんだが、海北と言う割には、壱岐や対馬が出てこない。
高天原は対馬にあったのか? 九州説は万世一系皇国史観だから
記紀を絶対視して根拠にするからな >>942
畿内のどの前方後円墳の祭祀よりも、九州北部の沖ノ島の祭祀の方が豪華なんだけど。 >>918
生國魂神社は、神武東征の時に生島神と足島神を鎮魂したという謂れがある。
倭国大乱で難波の地は征伐されたんだな。 >>946
神武は三島神社の孫娘と結婚するけどね。 >>949
征伐した有力勢力の姫を娶るのは乗っ取りの常套手段。
三島溝咋。
あくまで咋。 イスケヨリ姫の母方の祖父が三島溝杙(賀茂建角身、陶津耳)、曽祖父は志賀島の大山祇。
イスケヨリ姫の父方の祖父が出雲の大国主。
イスケヨリ姫と神武の子孫が天皇家。 >>952
身もふたもないですね。
まあ、イスケヨリ姫の叔父が、神武が戦った登美王家の長髄彦だから、そうも言えなくもないですけど。 『古地名の謎(近畿アイヌ地名の研究)』
<畑中友次氏著/大阪市立大学新聞会/57(S32).8> :
長曽根(長髄彦)は現代語に直すと中州(大和)根(川)彦(男子、英雄)の意。
報告者:この説によると「ナガスネヒコは、大和を流れる川である富雄川流域地方の指導者」の意となるでしょう。
『日本書紀』には
「長髄は是邑の本の号(な)なり。因りて亦以て人の名とす」とある。
これについて池田(末規)氏はナガスネは中洲根であり、中洲は大和、ネは大和島根のネであろうと言っている。
『日本書紀』に神武の軍隊が
「胆駒山をこえて中洲(うちつくに)に入らむと欲す」
とあるが、この中洲をナカスとすればその中心になるのが中洲根ということになる。 纏向の地は東出雲王家の登美家(事代主系)の地盤であり
九代当主の太田田根子に因んで現代も太田の地名が残っています。 何れにせよ、倭国大乱は出雲など山陰尾張阿波宮崎遠賀川など縄文系勢力(卑弥呼を共立した勢力)と渡来人勢力の闘い。
2世紀半ば、南海トラフ地震で沿岸部が拠点だった渡来人勢力が大ダメージを受ける。
その弱った処に尾張や出雲、阿波などの勢力が攻勢を始めたのが引き金。
倭国大乱は縄文系勢力の圧勝で終わり、大和朝廷が出来る。
大和朝廷は更に四道将軍を派遣し、関東東北など各地を征伐して回る。 2世紀に南海トラフ地震なんてあったか?
あったとしても筑紫は被害を受けない。
紀伊半島や畿内は大ダメージを受けて、筑紫の支配に下っただろうね。 >>876
九州からも分銅は出てるぞ、しかも畿内より新しいから。
それに九州の棺は当時ほとんどベンガラだよw 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1517258621/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ >>960
方形木棺海外交流の広域支配者としては吉武高木が祖
これが全ての原型だろうな
宗像の田熊石畑なども追随しているし >>830
>倭人は里数を知らず日数で距離を表すと魏志倭人伝にある
ゆえに日数で表記された行程は倭人からの情報である
これ以外の解釈があるなら逆に聞きたい <
全くの・・・・だねえ。
「夷人不知里數、但計以日」は、隋書情報であるんだし、
この男は、
魏使らは、日数も里数も記録出来る、
という実態が全く判ららないアホであるらしい。 >>830
>それならばなぜ不弥国から南○○里で邪馬台国、
という表記でないのか<
だから、不彌國の南に(里数ほぼ0里で)や邪馬壹國があった、という事を示しているんであり、
古田さんは、不彌國の南に邪馬壹國の入り口があった、という説明をされた。
>また日程で書かれた邪馬台国までの距離はどう解釈するべきか <
「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」という構文であるんだから、
「数量説明」の「水行十日陸行一月」は、
その前に書かれた「女王之所都」という文言の説明であり、
邪馬壹國に対する日数説明ではなく、
だから、「從郡至倭」の目的地までの日数だ、という事になる。 >>834
>まずはじめからおかしいね 「魏志には、魏略には書かれていない情報が沢山」あっても
魏志が魏略を下敷きにしなかった証拠にはならないね
そのあとは何かそれっぽい事書いてるだけで内容が支離滅裂だね <
この男は、全くの・・・・アホなんだな。
倭人地の現地情報は、魏使らの記録が最も詳細で確かであるのであり、
魏志が、魏略には書かれていない情報を沢山書けている、という事は、
魏志は、魏略には関係なく魏略を殆ど見ずに、魏使らの記録を見て書いた、
という事にしかならないではないか。
という事は、 >>837
>突然魏の使者なんてものが出てくる解釈の方が不自然で不思議<
郡使らが卑弥呼に合った訳でもなく、
魏使らが卑弥呼に直接会っていて、倭人地の詳細を記録したんだから、
魏使らの実地での見聞記録が元になっている、
という事を否定しようとする大和説者の、頭の中が、
クルっているとしか言いようがなく、不思議。 >>842
>魏の使者じゃなくて、郡の使者だろw<
明帝の詔書の実行者であるんだから、魏使そのものであり、
実際にも、
「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
のように、「京都」と「帯方郡」を書き分けている。 >>853
>八尾の亀井遺跡の分銅は弥生前、中期の物ですよ。今のところ国内最古です。
水銀朱の付着していた物もあり、水銀朱の計測に使った物と見られてますよ。
つまり紀元前時点で中国人と交易していた事は
確定していますよ、近くで貨泉も出土してますから。<
付近の曽根遺跡の「貨銭」は、当然、
倭國東征で出来た「倭國の地方の市」での交易にも使われているんであり、
だから、亀井遺跡の分銅も、同じように倭國の地方の市で使われていたのだ、
という可能性が高い事になる。 >>968
>「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
無茶苦茶なところに読点つけてるな。
意味を理解できてるの?w >>855
>まぁはっきり言ってしまうと九州説の可能性は現時点でもうないですよ。<
まぁ、はっきり言ってしまうと、孝霊は、皇国史観に狂った権力学者の、
「南→東の嘘つき騙しの大和説」を妄信隷従した・・・・アホですよ。
>倭人伝における邪馬台国は畿内、河内湖から矢田丘陵、馬見丘陵から奈良盆地南部に
かけてですね。 それ以外の可能性はもうかなり低い、女王国は
瀬戸内海の国々でしょう。<
「南≠東」ですから、全部×です。 畿内説では、
・北部九州で陸行する理由
・伊都国に駐する理由
はどう考えてるの? >>858
>箸墓か、那珂八幡や津古生掛や原口の後での「形状の模倣」だとか
どこのトンデモ屋さんが言ってるの? 少なくとも、学者じゃないよね <
撥型的形状。 >>865
>貨泉は亀井遺跡に隣接した同時期遺
跡ですよ。 加美遺跡には朱を使った二重木棺に大規模な方形周溝墓等、
この時期既に半島経由で交易があった事を 否定するものはありません。<
筑紫倭國の東征と、その結果の「市」での交易で、説明が付いてしまいます。 >>868
>九州脳では貨泉や二重木棺も九州発祥なんだよw<
いや、筑紫倭国の東征と、それに拠って各地に造られた「市」の存在で、
説明が付いてしまう。 >>871
>弥生中期の時点で河内に朱を用いた二重木棺に 貨泉、計量する分銅。
更に奈良盆地奥には水銀朱精製跡も沢山確認出来てるわけですからね。
おまけに信貴山と葛城地区では多鈕細文鏡まで 確認済ですから。<
全部、筑紫倭國の東征と、倭國の地方の市の存在で説明が付いてしまう事ばかり。
>この時点で畿内はある程度まとまった集団が 大陸方面と交易していたのは確実ですよ。
現実を否定するのはダメですね。<
実際、欠史八代の頃は、大和盆地内ですら不統一状態であったんだから、
河内と大和は、別の「市」の国であったのであり、
河内や近江が、纏向政権下にあった、という妄想をする方がアホ。
>河内と奈良盆地は旧地名の シキという地名で共通性もありますからね。<
類似地名など、日本中に一杯あったんだから、
そんなものは根拠にはならないよ。 全て願望のみで反論の体になってませんよ。
年代も全く考慮されてませんし、何より
二重木棺に貨泉は九州発祥ですらありません。
さすがにもはや畿内説憎しで錯乱してるとしか。 >>974
北部九州のやや内陸部に伊都があるから
当然陸行は必要です。
また半島や大陸に行くには当然港は
必要ですよ、海や天候の良い状態まで
留まる場所は必要です。また
そこが先行して栄えるのは当然ですよ。 邪馬台国大和説でいいよ。
他の畿内を巻き込まないでね。 他の畿内を巻き込まないでねと言ってる奴は
他の畿内を巻き込むなよ >.981
孝霊厨は末蘆国から伊都国の5百里は何キロだと思ってるんだ?(正直に言え 正直に言って里数解釈はあまり意味はないと
思いますね。
九州説の人達と解釈は大差ないですから。
伊都は大宰府辺りにあり、諸国への港が海岸線にもあると解釈してます。
それに基本的に国境線は常に移動していると
認識しています。 >>904
>出発の「南」と、到着の「至投馬國」の間に、
途中移動説明文言が存在していないから、魏使らは移動しておらず、とするなら
少なくても魏志の中に他にそういう使われ方が明確にされている箇所を示さなければ
ただ適当に思いついたデタラメを言っているのと変わらない <
例えば、
「東南陸行五百里到伊都國」は、「東南す」が出発、「陸行五百里」が途中移動、
「到伊都國」が到着。
「東南至奴國」は、「東南」が方向指示、途中はなく(だから魏使らは通っておらず)、
「至奴國」が到着。
「東行至不彌國」は、「東す」が出発、「行く」が途中移動、
「至不彌國」が到着。 >>920
>丸木舟の発見例おおよそ200例のうち 関東地方が最も多く150例近く
次に多いのが滋賀県の琵琶湖周辺で25例ほどあり、
福井県から島根県にかけての日本海側がこれにつづく<
そりゃ面白いデータだね。
丸木舟は、やはり南洋系縄文なんだろうから、
関東は、伊豆七島との関連もあり、
東テイ人や、侏儒國と、同じく南洋系縄文であった可能性がある、
という事であり、
琵琶湖や福井は、越という国名や大漢國という国名もあって、
中国の呉の南の「越」の海人部族の渡来があった?という事にもなりそう。 >>932
>途中はもう味方の土地だよって 途中は倭国に入ってないんだろw<
九州倭人の東征の最初は、
「国生み神話」の日本海側と瀬戸内の両方向であり、
その後で、五瀬命や神武らの東征があり、
その更に後で、卑弥呼の姫氏の東征もあった、という事。 >>935
>宗像が別だから東征できないんだよ<
陶ケンの宗像は、元は縄文出雲の支配地であり、
「国ゆずり」に拠って、天孫族系に支配地になった。
>沖ノ島祭祀はヤマト主導 <
だから、沖ノ島祭祀は、筑紫の天孫族の主導であり、
大和は、継体の反乱で糟屋を手に入れたから、その後、参加しただけ。 >>938
>糸島はまず出雲に支配されたんだよ <
縄文の西日本の盟主であった出雲は、
No.2であった天孫族に「国ゆずり」をして、盟主の座は失ったが、
梁代までは「文身國」として、半独立的な国として存続していたらしい。
>庄内期から博多沿岸で畿内の影響が強くなる<
これは×ね。
大和は、倭國から別れた別種の旧小国であったのであり、
白村江で大敗した本家の倭國を併合吸収継承して、初めて西日本の盟主になれた。
従って、それまでは、大和が倭国の影響を受け続けた。 >>951
>筑紫は3世紀くらいから倭国の従属国だよ <
これは、×ね。
筑紫が倭国の中心であった。 筑紫が倭国の中心という言い方で隠しているが
筑紫に植民したと言ってるから、まず筑紫を征服したという願望なんだよな 筑紫を征服できる勢力って具体的にどこ?
筑紫=伊都+奴国+甕棺墓分布地域
(銅矛を始めとして、筑紫王の下に文化的に同一)
これを征服できる勢力を具体的に考古学的遺跡名で挙げて味噌。 >>972
>>「王遣使詣京都帶方郡諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
>無茶苦茶なところに読点つけてるな。 意味を理解できてるの?w
>誤読だね <
この男らも、漢籍の書棚の天誅と同じ間違いをしているらしいな。
「王遣使詣京都、帶方郡諸韓國及郡使倭國・・・」としたら、
「帶方郡」と「郡」が重複することになる、という矛盾が発生する、
という事が判らんアホであるらしい。 このスレッドは1000を超えました。
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