邪馬台国畿内説 Part324

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1◆UiepmfCeDJqf 2018/02/11(日) 05:36:24.60
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518118887/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

952日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:45:32.99
>>2018
なにが、したいんだよ、この大和説郎はw

「ポケモソ 自転車」

953日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:49:23.88
>>950
あちこちでやらかしてんだよ

954日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:50:27.48
>>675
>そんなもの現代の九州王朝説の創作なので、
後世の人があとから作ったものを昔の人が確認することなど物理的に不可能<

九州王朝説者は、皆原則として、史料事実からの帰納的確率的推論をされていたから、
現在に残っていた3世紀の史料は、原則として、律暦志も知る事が出来た筈。

955日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:53:26.55
>>685
大和説男さん、「南→東」などの捏造はダメよ。

956日本@名無史さん2018/02/14(水) 23:54:22.74
本当に

あの謎のチェーンソーのゲームだよ

力夫氏が主人公のゲームじゃないの?

957日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:02:38.20
>>715
>「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本。 或云日本舊小國、併倭國之地」 って書いてある
どっちも日本国の使者が言ったことだと読める曖昧な記述だ<

「或曰、倭國自悪其名不雅、改爲日本」は、
晋の惠帝への遣使の言上だから、筑紫倭国の使者の言上の話だ。
「 或云日本舊小國、併倭國之地」は、
郭務ソウが報告した事になるから、日本国の使者が言った事ではない。

958日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:07:53.07
>>718]
>「或」列挙で、どっちも疑ってるのに 片方だけ勝手に中国側の認識って決めちゃダメでしょ<

「或〜」という記載は、
「〜」という事があって、存在していた、
という主張であり、
両方とも存在していたのであり、
片方だけ、という事ではない。

959日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:12:16.61
>>729
>彼らが、何か測ったなんて記録は無いな <

群役人や魏使らは、測定していない事を書けば、
違っていたら処罰される可能性があり、
書かれている、という事は、計測した、という事の証拠。

960日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:19:21.43
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。

ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

961日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:19:36.22
>>730
>ダメだね 「短里」とやらじゃ、会稽の東までも届かないよ、<

陳寿の「会稽東治之東」自体が、魏使らの記録からの「大体」の推定であり、
会稽郡の東側の「治」地域という広域であり、
更に「之東」の「大体東方」という推定であるから、
会稽郡地域の大体「東〜東北東」にある九州は、
陳寿の推定範囲の中に入っていた、
という事になる。

962日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:22:17.70
>>731
>当時使われていた1里400mに当てはめると 邪馬台国がニュージーランドになるから
いかにも万里を七三で振りました的な七千余里や渡海三回の数字はフィクションで、南水行は東の誤認
陳寿は倭国が台湾くらい南の国だだと思ってたことが裏付け証拠 実にシンプルな解決でしょ?<

「 当時使われていた1里400m」というのが、
始めから、魏朝の史料事実に合わないから、✖。

963日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:28:38.78
>>738
>短里で書かれたらしい記録があるから短里はあったとする事は
循環論法になります<

ならない。
記録を史料批判して分析して帰納的確率的推論で、
短里的な「1里の距離」が得られたのであるから、
「先に短里と決めた」のではないので、
循環論法にならない。

964日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:30:42.40
>>739
>>菱環鈕式の中心地であった事が確実であり<

>分布が出雲、淡路、播磨、伊勢、越前、尾張(鋳型)なのに
どうして出雲中心が確実なの? <

出土数が圧倒的に多いから。

965日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:32:21.74
>>742
結論だけ連呼って、大和説の男はみんな馬鹿なんですか?。

966日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:34:10.70
>>743
倭国の中心は、筑紫なんだから諦めろ。
大和は日本古代史上ずーと僻地だ。

967日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:37:25.82
>>747
理由も論理もなく、ただ言い張るだけが大和説かただ。
左前になるわけだよ 。
w

968日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:43:57.86
>>749
>古田の存在は考古学に影響なし 歴史学にも、無いけど <

さる大学の考古の教授も、古田さんの分析や論理を絶賛されて、
弟子たちに古田さんの方法論を学ぶように勧められたり、
原田氏も古田さんと意気投合されたり、
現役歴史学者が、古田派に参加して現在も活躍されたり、
そんな例は、幾らでもあるよ。

969日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:45:01.72
最初の王都として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、奴国と考えられている須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
後に高祖山をはさんだ西側の糸島平野に移動して伊都国とされる三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、太陽光を象った鏡であることがわかる。内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国が漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことがわかる。
昭和40年(1965年)に平原遺跡から出土した最大の内行花文鏡は国産と考えられている。その円周が漢代の8咫(直径1尺の円の円周が4咫)に相当することから、記紀などにおいてアマテラスがニニギに与えたとされる八咫の鏡であると考えられている。
かつては八咫は単に大きいことを意味するだけだという説もあったが、この鏡の出土により実際に円周がちょうど八咫である鏡が実在したことが確認された。
これらの王朝は高祖山の東側の福岡平野の奴国に成立し、後に西側の糸島平野の伊都国に移動しているが、出土品や墓制が同じであることから基本的には一連の王権であると考えられる。
三種の神器は現在の天皇家においても象徴とされており、倭国王権の起源は稲作伝来の地でもあるこれら博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
これが卑弥呼が女王となった倭国の姿である。

970日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:45:22.70
倭国の都は筑紫の伊都だよ。
魏志には帯方郡から12000里で女王国とされ、10000里で九州北岸に到着している(対馬海峡の幅が3000里とされている)。
福岡県を出ることはまずない。
狭い糸島水道と日向峠以外には進入路がない一方、クシフル山からは糸島平野も博多湾も一望できた。
伊都の東側にクシフル山があり、その日向峠に山城を築き、高千穂宮と呼ばれた。
邇邇芸が、ここは日の出も夕日も照って、朝鮮半島にもまっすぐ道が続く良いところだと評した。
防衛にも外交にも非常に有利だった。
奈良時代には怡土城、戦国時代には高祖城と呼ばれた。
伊都国の東にそびえる王宮は太陽信仰や神仙思想といった初期の神道の舞台でもあり、魏志には日本独自の神道が鬼道の呼称で記された。
魏志には、伊都には代々王がいて、女王が治めていると書かれている。
伊都より北には一大卒を置き検察し、南は狗奴国(熊本)、東には海を渡ってやはり倭人の住む倭地(本州)があるとされている。
伊都は王権の象徴である金印や八咫の鏡が継承されてきた倭国の都である。
倭国女王である卑弥呼は死後に伊都の平原遺跡に埋葬され、八咫の鏡を含む三種の神器が副葬され、鳥居が建てられた。

971日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:45:58.64
福岡県の高祖山の最高峰は高地山。
いわゆる高千穂と同じであろう。
古くは別名をクシフル山とも言ったとのこと。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
九州では、国邑の名前としてフル、ハラ、バルなどを用いる。
筑紫とは、そもそも伊都のある高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったようである。
それが勢力を拡大し、博多湾沿岸のみならず、有明海沿岸や遠賀川沿岸まで筑後や筑豊として筑紫に組み入れていくのである。
倭国は筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であったが、次第に筑紫の一強となっていく。
後には九州全体を筑紫嶋と呼ぶ向きもあるが、これははるか後世において、筑紫から離れた畿内から見た、大変大雑把な呼称である。

972日本@名無史さん2018/02/15(木) 00:46:47.80
邪馬台と書いてヤマトと読む。
倭と書いてヤマトと読む。
つまり邪馬台国とは倭国と同義で、訓読みにさらに漢字を当てただけ。
魏志にある女王国もまた同義である。
卑弥呼の称号は邪馬台国の女王ではなく、倭国女王(親魏倭王)である。

倭国は稲作伝来の地である玄界灘沿岸に成立し、対馬海峡の交易により発展した海洋国家であり、海人の国を意味する「天津国」とも呼ばれた。
生活の基盤が次第に漁撈から稲作と交易にシフトすると博多がその中心として発展したが、卑弥呼の時代には王都は博多からやや離れた伊都国に置かれた。

倭国の都は紀元前から一貫して筑紫、現在の福岡県にあった。
漢の時代に金印を授かり冊封され、女王卑弥呼の時に魏から冊封された。
倭国においては筑紫の他に、豊国、肥国などの有力な国があり、魏志によると東の海を渡ったところにも倭種つまり出雲や近江、越など日本海沿岸に国が続いていた。
畿内は京都も大阪も奈良も、沼地であった。

973◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:11:24.55
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518630290/

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

974日本@名無史さん2018/02/15(木) 05:38:48.05
まだ訓読みとか言ってんのな
アタマ÷

975日本@名無史さん2018/02/15(木) 05:47:56.02
>>752
大和説男は、自分の話の欠陥や矛盾を指摘されても、
思い込みばかりで、
ひとの話を聞かない、・・・・人種なんだね。

976日本@名無史さん2018/02/15(木) 05:51:28.10
>>755
大和説の分裂幻覚妄想の無脳の・・・・ガキらは、耳の痛い話は全く通らない。

977日本@名無史さん2018/02/15(木) 05:54:40.05
>>762
ほら、また立証せずに、口先で誤魔化して逃げ回る。

だから大和説男はゴミなんだよな。

978日本@名無史さん2018/02/15(木) 05:56:42.26
>>763
追い詰められると、こんな、口先ばかりのヘイトスピーチのウソをつく。
だからの大和説男は、キョクウの・・・・クズと言われるんだよ。

979日本@名無史さん2018/02/15(木) 05:58:50.86
 
 リンク先を見ると
 嘘ついてるってバレちゃう九州説のお爺ちゃんって

 ほんと、頭わるいね




980日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:01:32.44
>>770
>一律に間違ってるかも知れないから
そうでないというなら短里は1里75m、短歩は5m…と
体系がはっきり書いてある何かがないと証明できない <

一律に書かれていた、という事は、体系があった、という事であり、
間違いではなかった、という事。

981日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:08:48.02
>>774
>それなら1里75m、1歩25cm…と体系の書かれた何かを出せば証明になる<

何度も書いておいた。

>魏で使われてた1里400mの長里つーか普通の里にはそれがあるし<

ない。
何度も書いておいた「比率がほぼ一致する例証する」群で、否定 群された。

>それと大幅に食い違ってるから計測ミスじゃないのって言われるの <

6倍位も違う読みの方が、読み方ミス。

982日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:10:34.24
>>775
律暦志は、三国志などの記載の説明が付けられないから、
✖書。

983日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:17:15.40
>>776
長里説とは、
現代の感覚でいえば、実際には100mの所を、全部600mだ、
と主張してるようなもん。

984日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:23:54.15
>>779
長里である、と証明できない物はないのと一緒。
長里で書かれてるはずだから、短里で書かれたものは皆間違いだ、 とするのは、
「結論先にありき」であり、循環論法。

985日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:27:21.32
>>782
>魏里が短里だった証拠は?<

魏の役人や魏使らや陳寿らの記載が、殆ど全て(長里ではなく)短里であった、
という史料実態。

986日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:33:29.46
>>786
>ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う<

律暦志では、
魏志などに書かれた里の記載例が全て6倍位の過大な間違いになってしまう、
という事実があるから、
律暦志の方を否定させて貰うの。

987日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:34:43.18
>>786
>ああ律暦志に1里=300歩=1800尺
見つかってる尺の基準のモノサシ正始弩尺が24cmの事実こそ
無視できないからそうさせて貰う<

律暦志では、
魏志などに書かれた里の記載例が全て6倍位の過大な間違いになってしまう、
という事実があるから、
律暦志の方を否定させて貰うの。

988日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:39:34.09
>>788
ほぼ全て1律75m〜90mで書かれているものを、
全て430m位に書かれていないからそれらは間違いだ、
というのは循環論法。
こればかりは誰にもどうしようもない 。

989日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:44:53.63
>>792
>じゃあどういう事かみんなに説明してくれ <

ほぼ全て1律75m〜90mで書かれているものを、
全て430m位に書かれている筈だ、という結論先にありきで、
「書かれていないからそれらは間違いだ」、 というのは、
循環論法。

990日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:50:28.14
>>796
>三角縁神獣鏡には景初3年(239年)と銘が入ってるぞ<

それは、明帝の下賜鏡ではなく、
また大和が造った鏡でもなく、
流浪して「海東」に渡来して来た呉系の楽浪鏡師が、
(魏の年号を入れて)造ったものだ、
と言っているんだよ。

991日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:57:39.30
>>989
 ほかの人が言った
 循環論法って言葉だけ覚えて

 意味も知らずに使うって


 バカじゃね?



 

992日本@名無史さん2018/02/15(木) 06:59:08.98
>>800
>始皇帝はそれを統一するよう定めた 度量衡の統一な
その後歴代の皇帝の仕事の一つとなった<

そして、
始皇帝の勝手な「1歩=6尺」の命令で、
また漢代でも度量衡の混乱が起こってしまったから、
魏の初代文帝が即位の詔書で、再度「度量衡の統一」を指示し、
重臣たちの「周制への復古」の上表で、
周髀算経の度量衡の「1歩≒1尺」への復古をする事になった。

993日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:03:53.30
>>800
>魏志倭人伝、三国史記で短里が使われていた証拠 →魏志倭人伝、三国史記が短里で書かれてるから
循環論法<

魏志倭人伝や三国史記での短里の例は間違い →魏志倭人伝や三国史記がや長里で書かれていた、
は、循環論法。

994日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:08:21.82
>>993
それ、べつに循環論法じゃないよ

995日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:13:48.64
>>804
>アフリカでサルからヒトへ感染したHTLV-1はエイズウイルス(HIV)に似たウイルスで
南アメリカ、カリブ海沿岸地域、アフリカ、メラネシア、 日本の九州、沖縄、北海道などに感染者が存在し
中国や日本の本州はほとんどいない
呉地の東鯷人も関係ない <

また変な曲解を言っている!。
東鯷人が呉地だ、なんて言った事もない。
縄文期以来の、本州九州南岸部〜琉球にいた部族だろう、という説だよ。

996日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:16:53.06
>>806
>簡易なものでも三角測量するなら距離が50m〜100mもバラバラにならん <

遠距離ほど、交点は非常に鋭角になり、当然測定誤差は大きくなる。

997日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:21:06.74
>>810
>三角測量なんてしないで、魏の使いが輿に揺られながら目測したり、所要時間から推定したんだろう。<

周髀算経が、簡易三角測量などで、太陽の大きさや距離などを計測する方法を書いているから、
魏使らは、当然簡易三角測量が出来た。

998日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:21:37.82
>>996
あんた、理系知識ゼロで、てきとうな思いつき言ってるだろ

999日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:23:25.87
古田信者の妄想老人、朝から飛ばしてるね

1000日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:23:44.50
>>811
長里であったから、短里で書かれたものは全て間違いだ、
という事なら 、
どこまで行っても循環から逃げられないのだ。

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