邪馬台国畿内説 Part325

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1◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:44:50.49
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518294984/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。

2◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:47:49.33
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。

3◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:48:09.89
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。

4◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:48:35.08
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。

5◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:48:55.76
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。

6◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:49:13.00
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

7◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:49:31.62
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。

8◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:50:17.13
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

9◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:50:25.97
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。

10◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:50:42.09
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。

11◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:50:59.50
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。

12◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:51:20.75
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。

13◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:51:37.09
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」

14◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:51:58.05
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山

15◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:52:17.21
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

16◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:52:35.67
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。

17◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:52:57.23
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。

18◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:53:16.61
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。

19◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:53:36.49
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。

20◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:53:56.47
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。

21◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:54:39.38
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
  
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
   
 
 

22◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:54:57.11
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。

23◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:55:16.27
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。

24◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:55:36.50
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。

25◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:55:54.30
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。

26◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:56:12.83
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。

27◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:56:36.04
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
 

28◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:57:00.90
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等

29◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:57:21.02
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。

30◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:57:49.42
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。

31◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:58:37.61
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
 
 
 

32◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:58:54.04
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。

33◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:59:09.62
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀掾j、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

34◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:59:33.36
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。

35◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 02:59:51.97
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国

36◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:00:09.92
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。

37◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:00:38.25
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
 
 
 

38◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:00:56.28
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。

39◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:01:09.96
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。

40◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:01:28.91
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。

41◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:01:46.57
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。

42◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:02:13.87
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。


※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。

43◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:02:33.51
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬は慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。

44◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:02:54.54
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。

45◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:03:13.14
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

46◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:03:29.60
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。

47◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:03:46.16
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。

48◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:04:05.48
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。

49◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:04:26.72
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。

50◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:04:46.06
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。

51◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:05:02.77
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。

52◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:05:19.37
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。

53◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:05:36.15
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。

54◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:05:52.25
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有¢ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定

55◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:06:08.50
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。

居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。

56◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:06:39.01
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
 
 
 

57◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:06:55.76
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。

58◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:07:12.98
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。


(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絕二千里。
(精絕國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通扜彌四百六十里。
(罽賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏秅國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與罽賓、北與撲挑、西與犂靬・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與罽賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)

59◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:07:54.54
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
 
 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
 
 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。
 
 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
 
 
 

60◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:08:36.98
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

61◆UiepmfCeDJqf 2018/02/15(木) 03:08:56.39
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆なし

62日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:27:18.57
短里とか、ごく少数の現代日本人だけが抱く妄想でしょ

63日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:29:48.44
>>812
>陳寿は短里で書かれた報告書を手にしていたが、それが短里であることには気がつかなかったんだろう。 ただ、疑問を感じたので日程を併記したのかもね。
なんだか変だなぁと。 そうしたら後世でつなげてしまった。<

これ✖ね。
陳寿は、
「計其道里、當在會稽東治之東」というほぼぴったりの推定位置を書いている、
という事は、
魏使らの里の記録が、短里であって、しかもほぼ正しい、
という事を知っていて認めていた、
という事になる。

64日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:31:59.81
>>815
作り話専門の大和説 男ら。

65日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:36:24.65
>>820
>魏志倭人伝が短里だからだと循環論法<

魏志の記載例を根拠にして、それからの帰納的確率的な推論をしたのだから、
「結論先にありき」ではなく、
循環論法にもならない。

66日本@名無史さん2018/02/15(木) 07:44:08.49
>>820
>なんで、魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は
魏志倭人伝がそう書かれているからというのは
循環論法だから指摘してるだけなんだ<

魏志の記載例を根拠にして、それからの帰納的確率的な推論をしたのだから、
「結論先にありき」ではなく、
循環論法にもならない。

>違うと言うなら1短里=300短里とか書かれてる文献を<

何だいこりゃ。とうとう気がクルったか?。

>普通の里はそれがあって証明されてるんだし<

その文献が、文帝の度量衡統一の指示の事も知らないようだし、
魏志などに書かれた陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」が、
結局は魏使らの記録が正しかった事を証明していた、
という事も判らなかったアホ本であった。

67日本@名無史さん2018/02/15(木) 08:01:46.21
>>65
帰納してないから循環論法だな

68日本@名無史さん2018/02/15(木) 08:56:55.48
>>822
>短里があったと証明したいなら
1短里=300短歩で基準尺は3cmのこういう物が見つかってて…と
それでしか証明する方法はない<

変な男。
「基準尺3cm」なんて、誰も言っていないことを要求する・・・・アホ。
また、その「もの」とやらが、
史料批判の結果、全てを網羅して調べたものでない、という事が判ったから、
証明根拠にならない。

>何々という書の距離を計算したら1里が短里になったから
短里は存在したじゃ証明にはならんからな <

一個のデータでも、存在根拠に十分なるのであり、
それが複数以上沢山見つかれば、更にぐんぐん100%近くの確率になってしまう。

69日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:37:24.26
>>825
>魏志倭人伝に短里が使われていた証拠は 現代の地理に突き合わせて
魏志倭人伝の1里は75mの短里になったから短里で書かれている
全然違わないじゃないか <

一個のデータであっても、それの史料批判をする事に拠って、
十分「1里が75m」位である事の推論根拠になり得、
複数以上のデータがあれば、同然推論確率はぐんぐん上がるもの。

>短里があると証明したいなら 短里で距離が書かれているという以外のもので証明しないと
いつまで経っても堂々めぐり<

「短里で距離が書かれているという以外のもの」というものも、
根拠にするんなら、十分な史料批判が必要。

70日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:50:40.98
>>827
>大体今現在わざわざ長里、短里とか言って区別しなきゃ
ごっちゃになってわけがわからなくなる所から見ても
当時普通の里と短里が一緒に存在したわけがない事が見て取れる<

魏使らの記録と陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」という推定がほぼ一致した事からも、
魏志では、殆どが「短里」記載である事からも、
魏朝と西晋朝では「短里」が使われた、という事が見て取れるし、
魏志以外の三国志の、蜀や呉の記載や、漢代の記録の引用では、
「短里」と「長里」の混合記載であるから、魏朝の「短里」使用の意図は、
蜀地や呉地には余り伝わらなかった、という事が見てとれる。

71日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:52:12.59
>>830
>1魏里約400m <

史料事実根拠がない。

72日本@名無史さん2018/02/15(木) 09:54:38.52
>>831
>それに何の意味もない事も理解しような <

史料事実や史料批判された史料実態を口先で否定したって、
何の意味もない、という事を理解しような。

73日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:03:57.35
>>833
>魏志倭人伝が書かれた魏では 1里=300歩=1800尺 1尺が24cm
1里400mだった事ははっきりしてるけどな <

魏使らの記録や、陳寿の記載との一致からは、
「1里≒75m〜90m」で、「1歩≒1尺」である事がはっきりしているから、×。

74日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:27:16.99
>>838
>東夷だから、魏里である必要はないね<

魏使らや郡役人や陳寿や魏略や如惇注までもが、魏里=短里を使っているんだから、
東夷の記録も原則として魏里で書かれる事になる。

75日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:36:50.76
>>73,>>74

いいえ、現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です
九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里  一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里   一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます

「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません

76日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:39:07.79
最近の九州説のトレンド(笑)は、「伊都国が邪馬台国だ」なんだねww

魏志倭人伝の記述から邪馬台国の位置を求めようという努力は放棄したらしいww

77日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:42:56.86
>>839
>1魏里=400mとそれ以外の物証が見つかってないから
1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない <

1魏里≒76.5mの例が沢山見つかり、
400mの物証は殆ど見つかっていないんだから、
1里≒76.5mが、魏朝や西晋朝の使用里であったんだろって可能性を、
原理的に排除できない。

それを絶対的に排除しようとするこの男は、おそらく・・・・。

78日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:46:19.01
それよりも

コーエーというのは、どういう企業なの?

あのゲーム会社

79日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:46:25.77
>>841
>違う違う 1魏里=435mは証明できるけど 1東夷里=70〜90mは証明できない<

違う違う。
1魏里≒70〜90っも、1東夷里≒70〜90mも、
どちらも証明出来る。

80日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:49:46.84
数年前の信長の野望onlineという掲示板
「こんなブラック企業 〜なんだよ!」と言ってる人がいたり

『コーエー 落書き事件』

81日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:56:56.40
当時、風雲録の雑賀(所属)というところで
遊んでいたんだけど

「おまえら何を言ったんや」
「死にます!」

このような事を言ってる人がいたり、
2chではないところの掲示板の話

「あかべえが」(赤べえ。赤べこ。)何やら
と言ってる人がいたり

82日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:57:43.68
>>844
>ほんなら1東夷里の体系が書かれた書と基準尺プリーズ<

魏志東夷伝の里記載事実や史料実態が、十分な根拠。

>存在しないものを証拠にしてはいけない <

この男のように、
存在するものの証拠性を否定して、
世間の人々を騙そう、としてはいけない。

83日本@名無史さん2018/02/15(木) 10:59:26.43
>>845の訂正
キョクウの人種差別的国粋皇国史観戦争狂の大和説男らは、
こんなふうに、根拠を言えないし、言えば国民にウソがばれてしまうから、
全く根拠を言わない。

ただ、口先でヘイトスピーチ街宣を、言い張るだけ。

だから大和説が亡んだ。

84日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:01:13.41
『天台宗 山口組』

このようなスレッドも読んでみて

85日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:04:58.56
山王、祇園が何やらと言っていたり、
税金(無税?)。

山の上のほうの話とか

老婆談と同じじゃない?

コンクリ(セメント)が何やら〜というのも

86日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:08:52.14
浄土真宗?話もしていたり

87日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:14:24.49
松(もみ)の木、コンクリートのブロック、
オジギソウ・・・・、シダ類の葉・・・などの写っている写真。

あれは家の写真なんだけど、
赤べこを持っていた写真もあったはず。

キュウリの葉、葱の華・・・。

むかし、伊達郡と言うところの山の上のほうに

88日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:21:45.62
>>848
大和説が循環論法に陥るのは、 そもそも、
魏志の行程記載で、「南→東」や、「里の実態距離の史料実態の否定抹殺」や、
史料事実の否認をして、邪馬壹國女王之所都は大和にあったはずだ、
って前提に立つからだ。
なもんで全てが全て後付けの言い訳になる。

>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<

列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。

>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <

これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。

>大和国と邪馬台国って似てるな<

邪馬壹國は邪馬台国ではない。

>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <

だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。

89日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:22:37.57
そのスレッド、
カブキが何やらという話も、しているでしょ?

90日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:25:03.24
追い詰められた九州説が
夢中で荒らしをしたり
ウソを言い張ったりで

大変だな

 

91日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:25:12.46
これは、どのスレッドだったかな

誰々って、川崎(川崎区)に住んでいるんじゃないの?
という書き込み

92日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:27:56.61
>>849
>>1里=80mは計測ミスったんだろって可能性を原理的に排除できない <

>では、短里は無理に認める必要はないから、
1里=80mで計測をミスした前提で議論を進めようか <

そりゃ、いけないねえ。
史料事実の史料批判をした内容を、否定しては、
その時点で、嘘つき騙しになってしまって、×になってしまう。

93日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:29:39.81
>>88
>列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。
ではなぜ、その最初の那珂八幡古墳が、正確に箸中山古墳の三分の一の相似形なんでしょうね?

そして、その那珂八幡古墳の母集落である恵・那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるのはなぜなんでしょうね?
古墳時代の前から、畿内様式甕を作っていた遺跡が畿内から独立した存在というのは「すごく不思議」ですよね?

94日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:32:24.12
>>93
畿内系の入植地ってことでしょ

95日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:35:58.52
当時の事は、わからないけど、
香野という家(浄土真宗?)があって

むかーし結婚した家だと言っていたり、
蚕を飼い、機織りをしていた家・・・寺院に通っていた。

家は▢▢力夫氏のような名前の家

96日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:42:39.85
>>71
>>1魏里約400m <

>史料事実根拠がない。


史料事実の根拠なら山ほどあるよ
今までさんざん見てきたろ
テンプレにも書いてあるし

97日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:45:43.97
泥棒のようなモノに入られたという話とか、
他の宗派の人間の仕業なのかな

家に飾ってあった伝説の刀(不明)?
なんかも無くなっていたと言う話

98日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:49:27.70
そんなに必死で荒らしてると

九州説は畿内説に負けました
ぜんぜんはがたtいません

って、自分で宣伝してるようなもんだよ



オウンゴール

99日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:50:52.36
>>855
>計測ミスの証拠は山ほどあるからな<

計測ミスではなく、有効数1桁程度の概数近似値計測である。

>まず1里400mと全く合致しない<

魏志においては、「1里400m」に合致する記録は殆ど皆無である。

>魏志倭人伝の里数は百里、五百里とキリが良すぎ<

魏使らは、始めから有効数字1桁程度の近似値としての計測である。

>インド方面も2倍の距離で書かれている<

勿論、計測者の計測技量の差の問題である。

>洛陽近くはそんなにズレがない <

洛陽付近なら、記里車も使え、かなりの精度が期待出来るだけ。

>短里じゃなくて計測が正しくないと断言すらできる <

長里になるような計測ではなかった、と断言すら出来る。

100日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:52:07.96
文部科学省が何やらとも言ってない?

『何者にもなれない お前たち』?

101日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:56:04.13
『トヨトミミ』画像



小野、平の某、信長、ドリフターズ・・・?

102日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:56:07.89
 ザラコクの妄言と、呟き荒らしの共演か


 九州説も
 末期症状だね


 醜態

103日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:08:55.74
『みんな どこへ行った』
という曲を聴いてみたほうが良い

104日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:33:20.69
http://uni.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1321513299/

いちいち(説明)教えないと、わからないのかな。
読んでみて。

105日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:34:30.76
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。

106日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:35:35.84


有田遺跡は弥生時代前期末でしたが、弥生時代中期の遺跡で絹が出土した遺跡は、
中期初頭の吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡神埼町)、中期前半の栗山(福岡県甘木市)、
吉野ヶ里、比恵(福岡市博多区)、吉武高木(福岡市西区)の各遺跡、中期中葉では朝日北(佐賀県神埼郡神埼町)

中期後半では須玖岡本(福岡県春日市)、吉野ヶ里、門田(もんでん:福岡県春日市)、樋渡(福岡市西区)、
立岩(福岡県飯塚市)、三会村(長崎県島原市)、吉ヶ浦(福岡県太宰府市)、
弥生時代後期では吉野ヶ里、栗山、宮の前(福岡市西区)唐原(福岡市東区)の各遺跡から人骨に付着、
あるいは副葬品に付着した形で絹が見つかっています。
何れも福岡県を中心にした北部九州にある遺跡です。

弥生時代に続く古墳時代になると島根県、兵庫県、京都府、大阪府、奈良県、滋賀県、熊本県、静岡県、
福井県、栃木県、茨城県、鳥取県、岡山県など広い範囲で絹の遺物が出土します。

これらの結果から、日本における養蚕の起源は北九州と考えてよいでしょう

畿内は無理がありすぎ  強弁ばかり 

107日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:36:01.29
『何者にもなれない お前たち』wiki参照

>平成23年度(第15回)文化庁メディア芸術祭アニメーション部門では、
>審査委員会推薦作品/長編(劇場公開・テレビアニメ・OVA)に選ばれている

 文化庁〜文部科学省

108日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:04:14.64
>>106
それ・・・

九州が衰退して
畿内が栄えた
った話にしか見えないぞ

109日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:06:18.87
【アポロ11号の嘘】 高須医院長「行ってるわけがない」 高原剛一郎「アポロもキリストの復活も事実」
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1518660021/l50

110日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:09:27.21
邪馬台国論争に敗れた九州説には
荒らししか余生を生きる途がない


憐れなことだ

111日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:13:41.74
何度、説明すればわかるんだろう

『埼玉苗字辞典 浄誓寺 香野』

確か寺院に通っていたと言っているし?

112日本@名無史さん2018/02/15(木) 13:44:09.19
>>108
伊都にいた卑弥呼が亡くなり、全国に技術が拡散した。

113日本@名無史さん2018/02/15(木) 14:43:40.02
>>112
根拠のない妄想だな

114日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:08:42.80
>>112
九州で弥生中期が盛んで後期は衰えてんだから
>>108が正解に決まってんだろ

115日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:17:08.29
会稽東治之東だけでも畿内確定だろ

116日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:32:31.10
>>115
>会稽東治之東だけでも畿内確定だろ

どこをどうしたらそうなるんだ。
畿内説の強引さには呆れたな。

117日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:33:37.89
>>114
後期も栄えているけど?
畿内説は嘘つきの集まりだな。

118日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:33:59.57
弥生中期までは北部九州の絹の出土が多く、その後激減するわけだね
弥生中期までの鉄器は中国東北部の鋳造鉄斧の破片を
磨製石器の製法で再利用している
中期までの絹も半島経由の持込品だろうね

119日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:44:37.74
九州北部は遠賀川流域の歴史が鍵だな。
飯塚、直方、etc。
飯塚はなぜ塚なのか?
いいとは何なのか?猪と関係あるのか?

九州説は、筑豊の歴史を語れよ。

120日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:57:10.38
住吉三神どうなったんだろう。
倭国大乱で殺されたのかな。

121日本@名無史さん2018/02/15(木) 15:59:41.16
石筒之男、カグツチの血が岩に落ちて生まれる。
物部と関係あるのか?

122日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:05:11.79
>>117
>後期も栄えているけど?
>畿内説は嘘つきの集まりだな。
伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
      井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では  須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」

井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は

123日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:10:49.52
三雲南小路遺跡、1世紀半ばに方形周溝墓が出現した意味は何なんだろう。

124日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:25:13.79
伊都国、畿内の勢力が博多湾に拠点を作ったのかな。
天孫降臨神話と関係あるのか。

125日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:28:28.69
ほとんど「皆殺しのトミノ」にやられたんじゃないの

126日本@名無史さん2018/02/15(木) 16:29:39.25
本州では下戸遺伝子と短頭の分布はほぼ一致する。

九州南部鹿児島は、不思議なんだよね。
かなりの短頭地域なのに、下戸遺伝子は殆ど分布しない。縄文系の長頭でもないし。
隼人は本州とルーツの違う渡来人なのかもしれない。

127日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:12:43.81
>>116
短里みたいなモノは無く、南水行は東の間違いだとわかるから

九州説死亡でしょ?

128日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:16:19.35
>>122
一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議

129日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:19:07.98
また同じ話題のプロレスを始めるのか。

130日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:21:22.55
>>128
時代が違うからに決まってんじゃん

131日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:22:31.67
>>857
>倭で魏の里を使っていたという証拠は?<

隋書に拠れば、夷人は「里」を知らない筈だったが、
実際には、神功の筑紫での話と、不知火海の島の話に短里が使われていた、
というような話があった記憶がある。

132日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:24:47.76
久留米にも、牛鬼伝説があるんだな。

牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼とミミ、どういう関係なんだろう。

133日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:25:10.26
>>128
岡上しつこい

134日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:28:42.82
奈良の耳成山。

久留米の牛鬼伝説と似たような謂れがあるのかな。。。

135日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:29:02.31
>>860
同じ事の繰り返しになるから、面倒だから張り付けておこう。
>畿内説は前方後円墳がたくさんあるな<

列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。

>三角縁神獣鏡が一杯い出るな <

これも、筑紫が列島の初元で、大和は4世紀以後だ。

>大和国と邪馬台国って似てるな<

邪馬壹國は邪馬台国ではない。

>だから邪馬台国は畿内にあったのかもなと確かな物証から入る そこが最大の違い <

だから、「南→東」などの嘘つき騙しをして、邪馬壹國は大和にあったかもな?、
というインチキをする。
それが、九州説との最大の違い。

136日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:31:49.81
>>135
ンなニセ情報いくら流しても
畿内説勝勢は覆せないって

w

137日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:32:20.14
中大兄皇子の歌
「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」


ミミとは何なんだろう。


耳成山口神社。
天神社と呼ばれていたのに、祀られているのは高皇産霊と大山祇。

どういうことなんだろう。

138日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:35:16.01
>>862
>そうよ僻地だから正確に距離が測れなかったんだよ
なもんで魏志倭人伝に出てくる距離は
邪馬台国を指すものとしては扱えない <

魏使らは、有効数字1桁位の概数で記載しているから、
別に100%完璧なものでなくて、大体の距離として扱えばよい。

139日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:39:55.51
>>138
という根拠なし

140日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:47:15.00
>>870
>大体な 1里80mとしてもだな 帯方より1万2千里は北九州にならんのだぞ?<

なる。

>むしろ畿内を指すぐらいだ<

大和は「南≠東」に拠って、始めから×。

141日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:49:35.09
>>874
はいはい、
大和説の勝手な勝利宣言な。
言い負かされたら、いつもそれが始まる。

142日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:50:40.23
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。

女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系の勢力。
大阪や奈良など畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。


倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、

彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです。

143日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:51:38.48
>>130
どう違う?
弥生後期の九州北部の繁栄の象徴だよ。

144日本@名無史さん2018/02/15(木) 17:53:31.70
>>877
>倭人伝の行程が魏の里であることを主張するなら
倭人伝の中の里が魏の里である場所を 示すとかすればいいのに。<

おやおや?、もう何度も何度も書かれた方がおられたのに、
読んでいなかったの?。

145日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:23:15.30
こうなると、テンプレにも書いてもらわんとな

146日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:23:59.34
>>143
卑弥呼の時代と違う

147日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:27:12.95
>>141
どこかで畿内説が言い負かされた事実がありませーん

創作はダメよ

148日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:42:33.52
>>146
どう違う?

149日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:47:31.61
>>148
卑弥呼が死んだのは三世紀半ば
平原1号は二世紀末の墓

150日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:50:19.41
邪馬台国の官も大和朝廷の官と一致するし、邪馬台国はヤマト国の可能性が高い。

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。

ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

151日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:53:52.71
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。

古事記では、
事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。

石がかつては仲間だった牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。

152日本@名無史さん2018/02/15(木) 18:55:25.06
ハチャメチャ

153日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:00:10.89
>>149
>平原1号は二世紀末の墓

根拠は?

154日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:01:15.83
>>153
公式調査報告書

155日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:03:39.39
>>880
>1里80mとすると1万2千里は960km
帯方(ソウル)〜福岡540km <

「邪馬壹國女王之所都」までの行程は、直線ではなく、折れ線的道のり距離記載であり、
直線距離よりも2〜3割多くなる。
また、帯方は、ソウルよりも50km〜100km位北の筈。
また、行程記載では、不彌國で萬二千里がほぼ使い切っているので、
邪馬壹國女王之所都は不彌國のすぐ南にある事になる。

>帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180km ほらな <

帯方(ソウル)〜福岡が960kmであれば、福岡〜奈良は220kmになる事になるが、
山陽本線部分だけでも500km以上あるんだから
帯方(ソウル)〜福岡〜奈良1180kmは、全く合わない。

という事は、この男も、ウソをついている事になる。

156日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:06:22.81
>>128
>一番大事な女王墓である平原遺跡に触れない不思議
平原1号墓は、漢鏡40面出土の王墓とかいうフレコミwだけど、
実際には舶載鏡は、漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」の2面のみ
大量(32面)の方格規矩鏡も含め残りは仿製鏡

舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう
卑弥呼の墓にあてるのはムリだよ

また、弥生末期は各地でただ一人の首長のための大型墳丘墓が各地で作られる時代に入っている
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、有力国の王墓としては、どうしても見劣りする

ということで、九州説(伊都国が卑弥呼の都説)が大事に大事に思う平原1号墓は、それほど大した遺跡ではない

157日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:08:59.82
>>154
報告書にはその様な詳細年代は書かれてないはずだが?

158日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:10:25.09
萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を記しただけだから、それを典拠にするのもむなしいだけだぞ

淮南子: 時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。

まあ、九州説はこの数値+短里という捏造だけが頼りだから、認められないんだろうけどww

159日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:13:19.01
短里で記されているところがいくらでもあると、九州説の人はよく言いますが現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です

九州に上陸後の比定地でほぼ異論がないのは
末慮国(松浦)
伊都国(糸島)
奴国(福岡平野)
くらいですが、それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ
になります
これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里  一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里   一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます

「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません

160日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:16:05.74
>>883
もうウソをつくしかない大和説の悲惨。

161日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:18:29.21
>>160
こいつ、おかしい人?

162日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:20:12.83
>>157
弥生終末(西新式直前)とあるから、あとは通説の実年代を当てるだけ

163日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:21:48.78
>>156

三角とは違って平原の鏡は舶載鏡と国産の扱い方の重要度は変わらないよ?

糸島は鏡の種類に拘りはある地域で、
平原鏡は三雲井原の王墓から受け継いでいるね
重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう

君の話ではまず、国産鏡より舶載鏡を重要視した、とする事実がなければならない

ちなみに国産の大型内行花文鏡は、後の時代に畿内で別室まで設けかなり大事に副葬されてたりするね

164日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:26:10.19
>>886
>示すから文句つけるなよ 邪馬台国まで帯方郡から1万2千里
魏志倭人伝の里数書かれてる不弥国まで1万700里で 残り1300里<

方四百余里の對海國と、方三百里の一大國の、
国内見聞移動をした事が抜けているから、×。

>不弥国を博多近辺として奈良まで640km
1300里が1里400mとすると520km <

大和は「南≠東」に拠って、×。

>不弥国から1300里を1里400mで換算すると
畿内になるからそこからは1里400mが使われている<

魏使らは(精神的な異常者ではなく)普通の人間だから、途中まで1里80mで書いて、
不彌國から後を1里400mで書く、というような・・・・アホな事をしないから、×。

165日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:33:10.97
>>135
>「南→東」などの嘘つき騙しをして
九州説のブランドフレーズですね!
方角が間違うはずがないと、判で押したように九州説の人は言いますが、魏志倭人伝で九州に上陸してすぐの
末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違っています

また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてありますが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となっています

おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのでしょう

つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになります

そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得ることになります

なら、畿内説で何も問題はないですね

166日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:35:09.84
>>162
その西新式直前と特定する根拠は何だい?

1号墓の時期は周溝から出た土器から弥生時代後期後半、西新式直前の段階ではないか、という推論しか書いてないし、かなり撹拌が酷かったから、特定できるほどの土器の数は出てないよ。おまけに土器の実測図も公表されていない。

厳密には1号墓の時期は公表してませんよ




弥生終末期

167日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:36:37.06
>>163
>重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう

当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?
副葬品についても、例えば丹波の大風呂南一号墓では一つの墳墓からは最多の11本の鉄剣が出ています

大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
葬送儀礼用の鏡というだけではないですか?

168日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:38:15.08
官位、冠位?
各家の系図などがあるでしょ

嘘のモノ、捏造だという話は?

169日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:39:02.67
>>164
>不彌國から後を1里400mで書く、というような・・・・アホな事をしないから、×。

不彌國から先の部分に里程を書いた所は魏志倭人伝にはないですよ?
何を見てコメントしているのですか?

話が噛み合わない訳ですね(ヤレヤレ)

170日本@名無史さん2018/02/15(木) 19:45:37.88
>>888
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
本を売って金を設けて立身出世るために考え出した長里というのは、
始皇帝が制定強制した「1歩=6尺」という換算規定を金科玉条にして、
永遠の規定であるかのように信仰したものであり
魏の初代文帝が、即位の詔書で、始皇帝のために混乱を呈した度量衡の統一を指示し、
周制の1歩≒1尺に戻したもの。

>糸島は後漢代の各種楽浪土器が出るところなので
後漢の公里のほうが一部の層には伝わってた可能性はある<

遼東や高句麗や扶余や韓に関する里数は、短里で書かれており、
それは当然楽浪や帯方の郡役人が記録したものであることになり、
だから、魏の短里の方が、倭人上層部に伝わっていた可能性はある。

171日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:01:39.89
>>898]
>いや計算は合ってますけど 帯方から邪馬台国まで1万2千里<

それ、折れ線的道のり距離であり、短里。

>不弥国まで1万700里で<

不彌國で萬二千余里は、ほぼ使い切って、残っていないから、
邪馬壹國女王之所都まで残り約0里。

>1300里を1里400mで計算すると520km
北九州から奈良まで直線距離500kmちょい <

神戸〜文字の山陽本線だけでも530〜540km。

>なんで1300里の部分は1里400mが使われてるとすると
畿内をピタリと指すのでここは1里400mになってるのではないかと<

南≠東だから、×。
また途中で、短里から長里に変更する事も・・・・しかしないから、×。

172日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:04:02.03
>>149
弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
なぜ抜かしたの?

173日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:04:34.60
>>902
>つうわけで魏志倭人伝の距離ああだこうだ言うのはもうやめような
何の意味もない事がもうわかるだろ <

何で止めるの?。
せっかく大和説の・・・・性を、世間の人々に示す事が出来る、
と喜んでいたのに・・・。

174日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:05:20.27
何でこの人前スレへの反論を延々と書いてて、直前に自説を完全に否定しているコメントがあるのを無視してるんだろう?

175日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:05:26.89
>>156
>舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう

倭王としての正統性が見て取れますね。

176日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:06:03.47
>>162
つまり、根拠は説明できないわけだ。

177日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:09:10.61
>>167
>当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?

首長墓と比べても意味ないな。

>大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
>葬送儀礼用の鏡というだけではないですか?

破鏡という儀式だよ。
大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから、平原遺跡の被葬者が極めて重要な人物であったことがうかがえる。

178日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:09:52.49
>>174
畿内説が何度も同じことを蒸し返すからだよ。

179日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:10:08.99
>>908
本気で大和説信じてる人には悪いが、
大和説学者も、1万2千里を1里435mで換算すれば、赤道付近へ行ってしまう事になるって
わかってたんだろうに。
「南≠東」だし。
都合が悪いから黙ってたんだろうな。

180日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:13:46.01
>>914
いーえ。
邪馬台国なんて、史料に存在しません。

181日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:14:25.25
>>172
>弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
100年以上も前の三雲南小路遺跡でも30メートル四方の立派な方形墳丘墓
奴国の須玖岡本遺跡D地点の王墓も、同程度の規模と推測されている

同じ地域のかつての王墓と比べても、平原1号墓墳丘の貧弱さは明らかだろう?
弥生後期の「繁栄の程度」を議論するのに平原1号墓を出すとしても、その結果は
以前の「繁栄が失われた」ってことになるね

>なぜ抜かしたの?
入れても話が変わらないし、平原1号墓の編年推定の基盤が脆弱だから議論が発散しがちになるからだよ
実際>>166とかで、そっちに議論が流れてしまっているだろ?

182日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:16:57.23
>>917
>直線距離ではないよ。
朝鮮半島の西岸と南岸を航行するから、もう少し道のりは長いよ。
800キロくらいにはなるんじゃないな<

「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。

183日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:18:08.20
平原遺跡を貧弱と表現するのは無理筋だと思うよ。
畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。

184日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:20:04.56
>>167

平原の時期までこの辺りの地域は大型化にあまり拘りは見えません

弥生後期は各地に勢力が点在していたと思われる時代です
丹波地域と糸島地域の墓との比較に意味があるのでしょうか?
お互いそれなりの勢力があり、王もいたと思いますよ

墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます

水銀朱や鏡、素環頭大刀、玉類の副葬文化の北部九州とは同文化圏とは思えません
ただ、北部九州内では鏡の重要度はかなり高いです

平原で出土した"素環頭大刀"は中国でも使用されたいた刀であり、水銀朱は中国産で、ジトウや鏡についても分かる様にに当然ながら、中国との関連が伺えます
瑪瑙の管玉も半島産と思われるので、かなり大陸かぶれな女王です

平原が注目されるのは、卑弥呼とイメージが重なる部分が多い事が一番の理由でしょうね

185日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:20:13.58
>>177
>大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから

いや、国産の仿製鏡なんだから、作ろうと思えばいくらでも作れるだろう?
実際、大型内向花文鏡を6枚使ってるんだし(同じ大きさでないのは知ってるよ)
自分のところで作れるのは、そこまで大事じゃないだろう

奴国と唐子鍵に、九州と畿内の青銅器生産の中心があったことが、鋳型の出土から
分かっている
で、平原1号墓より前(編年が確実ではないけれど)に、畿内では高さ1メートルを超える
銅鐸を作っていたんだから、大型の青銅器の製作は国内で普通にできる

逆に言うと、平原1号墓は大型内向花文鏡以外、誇るべきものがないのかな?

186日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:24:16.18
>>937
>史料事実とは1里=400mのことだよ <

史料事実とは、文献の場合は、原則として「書かれた文そのもの」のことだよ。

187日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:28:33.92
>>943
>律暦志と正始弩尺の史料事実は1里400mだって<

何?。
律暦志に「1里400m」と書かれているって?。
現代人の文献なのか?。」

188日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:31:07.65
>>184
>水銀朱は中国産で
北部九州では弥生期に国産の朱は使われていません
魏志倭人伝に「其山有丹」と書かれていることと整合性が取れませんが、そのあたりは九州説ではどう処理しているのですか?

>墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます
>>181でも書きましたが、「同じ地域の伊都国と奴国」でも以前は大きな墳丘を持つ王墓を作っていました
そして、伊都国では古墳時代に入ると三雲遺跡の領域内=伊都国の王墓の伝統的な立地に端山古墳、築山古墳と、
伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が作られています
同じ地域で、前と後の時代には大きな墓を作っているのに、それと比べても平原1号墓は相当に見劣りします

そして、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳が、同じ地域に作られているのに対し、
平原1号墓は伊都国内とは言っても少し離れた西側の丘陵地帯に作られていて、しかも尾根よりも西側、伊都国中枢部が見えない位置に立地しています

その点も、伊都国の王墓とするのが躊躇われる理由になっています

189日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:43:40.50
>>183
>畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。
真正面から取り上げてるだろ?
たぶん私は(畿内説だけど)>>183より平原1号墓については詳しいよ
例えば平原遺跡に5号墓まであるのは、把握しているのかな?
していたら、1号墓をつけずに平原遺跡と言い続けたりはしないと思うけどww
西新式直前という根拠になった土器は、2号墓の周溝から出土したものだよ

190日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:46:33.68
>>189に追記
そして、平原1号墓だけが王墓扱いされているけれど、墳丘サイズは2号墓とほぼ同じで間の周溝を共有している状態
平原遺跡という視点で見ると、「1号墓だけが王墓」という突出した墳墓には見えない

191日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:51:39.04
>>62
「長里だけだ」とかは、
ごく少数の現代日本人の、人種差別殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の、
キョクウの・・・・大和説者だけが抱く妄想でしょ。

192日本@名無史さん2018/02/15(木) 20:51:39.67
>>62
「長里だけだ」とかは、
ごく少数の現代日本人の、人種差別殺し合い戦争狂の国粋皇国史観の、
キョクウの・・・・大和説者だけが抱く妄想でしょ。

193日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:05:07.27
>>190に追記
ここの九州説(伊都国が卑弥呼の都説)の人は、平原1号墓の周溝の土坑墓を殉葬だって言わないのかな?

194日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:11:23.61
>>75
>それぞれを代表的な王墓遺跡の位置を基準に直線距離で計ると
末慮(宇木汲田遺跡)−伊都(三雲南小路遺跡)間 26キロ
伊都(三雲南小路遺跡)ー奴国(須玖岡本遺跡)間 20キロ になります <

・・・・アホの詐欺師ですか?。
「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
特に奴國は、須玖岡本ではありません。

>これが、それぞれ魏志倭人伝では五百里と百里なので
末慮−伊都間 26キロ/五百里  一里=52メートル
伊都ー奴国間 20キロ/百里   一里=200メートル
となって、4倍程度違ってしまいます<

末盧國の上陸地は唐津港付近であり、
伊都国は、前原周辺であり、
奴國は、入口の三雲や平原付近から、日向峠を越えて、吉竹高木の早良平野付近。
それで、計算をやり直してみな。

>「短里」という魏晋里を一定の割合で縮めた「きちんとした尺度」があると考えるのは無理で、
里程はあてにならないとするしかありません <

各国の都や近縁外縁部ではなくて、
自分で勝手に「各国の王墓」までの距離に設定して距離計算をするのは、
インチキそのものです。

195日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:12:26.85
>>182
>「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。
魏志倭人伝より引用
「循海岸「水行」、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」

頭おかしいんじゃないの?

196日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:15:50.27
>>194
>「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
>特に奴國は、須玖岡本ではありません。

三雲南小路遺跡の王墓は、三雲遺跡群の中にあって、ここが伊都国の中枢ですよ?
須玖岡本遺跡も、岡本遺跡群の中にあって、青銅器製作工房跡もある奴国の中心地です

違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください

印象操作の域を出ていませんよ!
反論する気なら、やり直しです!!

197日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:16:59.47
>>76
>最近の九州説のトレンド(笑)は、「伊都国が邪馬台国だ」なんだねww <

違うね。
邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。

>魏志倭人伝の記述から邪馬台国の位置を求めようという努力は放棄したらしいww<

大和説の・・・・男らは、「南→東」などの嘘つき騙しと同じように、
また、九州説者の言っている事を、曲解捏造して、
その捏造でヘイトスピーチ街宣をするらしい。

198日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:18:36.66
>>194
>末盧國の上陸地は唐津港付近であり、
上陸地は、国の位置を示す代表的な地点にはならないでしょう
横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書くのですか?

>>196でも書きましたが、弥生時代の王墓は中心集落内またはその隣接地に作られます
王墓をその国の代表点に取るのが妥当だと思いますが?

199日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:24:48.18
>>194
>奴國は、入口の三雲や平原付近から、日向峠を越えて、吉竹高木の早良平野付近
吉武高木遺跡は、最初期の王墓と言われることもある遺跡だけれど、それは仮称「早良国」の王墓であって
奴国の王墓ではないよ
水系が違うからね
のちに奴国に合流(併合?征服?)されて、奴国の領域になるけれど、ある国まで行くときの旅程を
国境を越えたところまでとはしないだろう?

>>198にも書いたけれど
横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書いたりしないだろう?
東京なら日本橋までだし、普通は県庁所在地(市役所等中心地)までだ

200日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:25:10.89
>>190
副葬品を抜きに平原を語っている、典型的な詐欺師の手法

201日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:25:55.22
都合の悪い数値にならないように恣意的な地点を選んでいる>>194の方が、ごまかしなんだよ

202日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:26:55.93
>>193
そこまで馬鹿でないんじゃない?

203日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:27:35.53
>>90
追い詰められた大和説男らが、
夢中で荒らしやヘイトスピーチ街宣をしたり、
「南→東」などのウソを言い張ったりで、

大変だな。

204日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:29:21.82
>>200
もう一度書くけれど、>>200よりも私の方が平原1号墓について詳しいよ?

>副葬品を抜きに平原を語っている、典型的な詐欺師の手法
副葬品について書くことで、私を論破できるなら「根拠」を挙げて論証すればいいんだよ?ww
「詐欺師」なんていう汚い言葉で印象操作に逃げてないでさ

例えば、耳飾といわれている金層ガラスについて論じたりはしないのかい?

205日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:30:55.16
>>202
根拠も出さずに「典型的な詐欺師」とか言ってるあたり、十分に馬鹿に見えるんだけどなww

206日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:31:18.91
専門家に質問があるんだけど

『松傾』というのは、
どのような人物なの?

陰陽師?八卦の陣のような人物?

207日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:32:53.89
>>176
根拠の説明を読まなかったの?

208日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:33:39.11
>>197
>邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。
九州説の頼みの綱の、「総旅程萬二千里」からすると、不彌國から千三百里のはずなんだが、すぐ南でいいのかい?
それに、>>194理論だと、国境を越えたところまでで距離を測るらしいから、すぐ南なら距離は0になるよね?

209日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:34:11.66
>>205
なるほど、馬鹿だな

210日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:40:34.89
>>166
結局、公式の調査報告書を否定しないと九州説はニッチもサッチも行かないわけだな。

211日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:41:15.23
>>93
>>列島の最初は那珂八幡で、大和は3世紀末以後だ。<

>ではなぜ、その最初の那珂八幡古墳が、正確に箸中山古墳の三分の一の相似形なんでしょうね?<

箸墓が、那珂八幡を模倣したんだから。

>そして、その那珂八幡古墳の母集落である恵・那珂遺跡群では
畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるのはなぜなんでしょうね?<

田舎の播磨や河内や大和が、都の弥生銀座に憧れて、都の「市」へ、
土器を搬入上納したから。
丁度、
「纏向に東海などの西日本の物資が集まったから、纏向が西日本の盟主だった」
と主張したのと同じ論理。

>古墳時代の前から、畿内様式甕を作っていた遺跡が
畿内から独立した存在というのは「すごく不思議」ですよね?<

「畿内から独立」したのではなく、
播磨や河内や纏向が、都の弥生銀座に憧れて、搬入貢納をした事になる。

212日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:41:29.89
松傾について調べてみると

半島人ではないぞ、違う民族だぞw
という話ばかり

213日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:43:14.60
>>94
>畿内系の入植地ってことでしょ<

入植したのではなく、首都へ搬入上納したの。

214日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:44:39.66
>>210
柳田が自ら修正してるじゃない

215日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:50:05.83
>>96
>>>1魏里約400m <

>>史料事実根拠がない。<

>史料事実の根拠なら山ほどあるよ 今までさんざん見てきたろ<

私が来てからは、なかったよ。
それに、私は、Yahooにいた時に、
大和説者らが提示した「三国志に書かれた長里の証拠」は、ほぼ全て否定して上げて、
「長里か短里かが不明な例」が僅かあった、というだけだった。

>テンプレにも書いてあるし<

ここに掲載してみればよい。

216日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:52:50.38
>>98
そんなに必死で、ヘイトスピーチ街宣をしたり、荒らしてると、

大和説は九州説に負けました、 ぜんぜん歯が立ちません

って、自分で宣伝してるようなもんだよ。



オウンゴール 。

217日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:57:13.17
>>102
大和説男らの分裂幻覚の妄言と、呟き荒らしの共演か。

人種差別の殺し合い戦争狂の、国粋皇国史観の、キョクウの嘘つき騙しの大和説も、
末期症状だね。


 醜態。

218日本@名無史さん2018/02/15(木) 21:59:07.65
九州説の人は卑弥呼が天照大御神なの?

219日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:01:17.71
読んでみると、必ず

新羅は・・・だぞw

という書き込みがある

220日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:03:26.40
>>217
あんた以上の醜態など存在しない

221日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:05:39.87
>>214
いつ、どこで
なんて修正したと?

222日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:37:40.92
どうせまたガセネタだろ

223日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:41:30.97
>>108
>それ・・・ 九州が衰退して 畿内が栄えた った話にしか見えないぞ <

関係がない。
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったのであり、
大和が筑紫の倭国を併合吸収継承したのは、ようやく白村江の後になってから、
なんだから、
九州は衰退していなかったの。

224日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:44:02.95
>>193
>>190に追記
>ここの九州説(伊都国が卑弥呼の都説)の人は、平原1号墓の周溝の土坑墓を殉葬だって言わないのかな?

言ってますよ。
だからこそ、平原遺跡は卑弥呼の墓として完璧なんです。
副葬品の中で唯一の武器である素環太刀は魏から拝領した五尺刀でしょう。
そして王権の象徴としての八咫の鏡。
卑弥呼の好きな大量の装飾品としての玉。
合わせて三種の神器であり、間違いなく倭王の墓です。
そして殉葬。

225日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:45:05.47
>>210
公式が過小評価のために根拠のないおかしなことを書いているからですよ。

226日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:45:19.13
>>110
邪馬壹國女王之所都論争に敗れた、「南→東」などの嘘吐き騙しの、
国粋皇国史観戦争狂のキョクウの大和説者には 、
ヘイトスピーチ街宣や、荒らししか余生を生きる途がない。

憐れなことだ。

227日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:45:48.34
>>218
>九州説の人は卑弥呼が天照大御神なの?

違います。
後世の習合です。

228日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:46:00.92
>>224
勝手に妄想言ってもダメだろう

229日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:47:46.36
>>225
って、根拠なく言ってる八咫パー

230日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:49:19.08
>>228
物証があるから妄想とは言いませんよ。
妄想とはここのテンプレみたいなのを言います。

231日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:49:37.22
>>224
>そして王権の象徴としての八咫の鏡。

割っちゃったから伊都国滅亡?

232日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:50:38.93
>>230
それ、どんな証拠あるの?

233日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:51:12.54
>>114
>九州で弥生中期が盛んで後期は衰えてんだから
>>108が正解に決まってんだろ<

大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったのであり、
大和が筑紫の倭国を併合吸収継承したのは、ようやく白村江の後になってからなのであり、
銚子塚や倭王旨や倭の五王やタリシホコも出たんだから、
九州は衰退していなかったの。

234日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:51:38.68
>>230
反論できないで悪口ばかり言ってるゴミさん発見

235日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:52:04.18
>>211
>箸墓が、那珂八幡を模倣したんだから。
畿内古墳では三角縁神獣鏡の図像の変遷による編年ができあがっており、さらに最初期の定形型前方後円墳は三角縁神獣鏡が副葬されて「いません」
那珂八幡古墳から三角縁神獣鏡が出ている時点で、箸中山古墳より前っていうのは「ない」んですよ

こういう基本すら押さえずに書き散らすだけの人だとはっきりしましたね!

236日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:52:43.16
>>233
九州王朝説衰退したな

237日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:52:55.62
>>115
会稽東治之東だけでも、九州確定だろ。

238日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:53:59.01
>>231
一枚だけ残して割ったんじゃない?
伊都国は他のところに遷都したんでしょう。
例えば太宰府のあたりとか。

239日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:55:30.10
>>231
天皇家が継承してますよ。
倭国王権の象徴としてね。

240日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:56:51.21
伊都の地名が紀ノ川沿いにあるだろう。

神功皇后応神で伊都国の勢力は畿内に移ったんじゃないかな。
魏志倭人伝でも千戸しかない小さい勢力だし。

241日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:57:13.40
>>237
いや、短里がウソと発覚して九州説絶望

242日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:58:17.04
>>238-239
根拠なし
妄想

243日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:58:42.51
伊都国は元々畿内の勢力の分家。
倭人系。
応神が生まれて、スクナヒコナが喜ぶのは意味深だな

244日本@名無史さん2018/02/15(木) 22:59:30.65
>>239
伊都国が降参したとき献上したのかな

245日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:02:03.53
九州の国はヤマトに三種の神器を献上して降参するんだよ

246日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:15:34.26
>>211
>田舎の播磨や河内や大和が、都の弥生銀座に憧れて、都の「市」へ、
>土器を搬入上納したから。

ちゃんと>>93を読んでいますか?
九州の地で九州の土で「畿内様式の甕」を奴国の中心地で作っているんですよ?
位置に搬入したというのとは、まったく異なります
そして、その後九州様式甕がなくなって、畿内様式甕だけになります

>「纏向に東海などの西日本の物資が集まったから、纏向が西日本の盟主だった」
>と主張したのと同じ論理。
纒向では、外来土器に地元の土器が淘汰されるなんてことは起こっていませんよ?
王都纒向と、王都からの一大率を受け入れていた地域の差ですね!

247日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:18:34.76
>>211
>「畿内から独立」したのではなく、

>>211は畿内と北部九州の交流は認めるんですね?
それならば、魏使も畿内の人に会い、畿内の纒向遺跡の情報も得ていたことは認めますね?

248日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:21:43.82
>>188

山に丹が有るだけで、「出」ではないから文献通り
倭人伝では「有」と「出」を使いわけてるからね

だから、魏から真朱を貰っている訳で
辻褄があってるよ

249日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:25:09.82
>>248
ばかですか?

産物を書いているんだよ

250日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:25:43.38
>>224
>言ってますよ。
>だからこそ、平原遺跡は卑弥呼の墓として完璧なんです。

それを言ってしまうと、平原1号墓のことが分かっていないことが丸わかりですよ
土坑墓は、周溝が埋まってからその埋まった土を掘って土坑を作っています
1号墓本体の被葬者と周溝の土坑墓の被葬者の死亡時期には、周溝が埋まるほどの時間差があるんですよ
それは殉葬とは言わないでしょう
陪葬とは言えるかもしれませんが
日本語が分かる人ならこの違いは分かりますよね?

251日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:31:52.91
>>235
勘違いしてる人が多いけど、那珂八幡の三角鏡は第二主体から出土しているのだよ

古墳造営当初の埋葬主体と思われる第一主体は未調査
社殿があり発掘できない状態

252日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:32:17.62
>>248
>山に丹が有るだけで、「出」ではないから文献通り
>倭人伝では「有」と「出」を使いわけてるからね

よそでも同じようなことを書いている人がいましたが、九州の辰砂の鉱脈は飛鳥時代になってから畿内豪族によって「発見」されています
弥生時代の九州には丹(水銀朱・鉱石としては辰砂)が「ない」んですよ
産出しないものを「有」と書かれることはないでしょ?
存在すら未発見なのですし

253日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:33:17.58
>>247
>それならば、魏使も畿内の人に会い、畿内の纒向遺跡の情報も得ていたことは認めますね?

は?
魏の使いが何でわざわざ田舎者と会うんだ?
言葉だって通じないだろ。

254日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:34:27.10
>>245
根拠のない妄想。

255日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:35:45.75
>>240
筑紫伊都の勢力がどの時代に畿内に移動したのかは大問題ですね。

256日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:36:14.80
>>251
では第一主体と第二主体で埋葬時期にどれほどの時間差を想定するのですか?
畿内の島の山古墳は後円部と前方部にそれぞれ同大の方形壇がありますが、一体の埋葬施設という扱いですよ

257日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:39:40.60
>>253
>魏の使いが何でわざわざ田舎者と会うんだ?
「田舎者」というのは>>253の単なる主観ですね
伊都国が10メートルそこそこの墓しか作れない時代に100メートル級の巨大墳丘墓を作っている大勢力ですよ?

258日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:47:56.42
九州北部と畿内は親戚みたいなもの。
仲良く行こう。

敵は尾張出雲山陰にありだ。

259日本@名無史さん2018/02/15(木) 23:52:27.90
九州説の人は「親魏倭王」を甘く考えすぎ
使訳通じるところの30ヶ国から異議が出ないところでなければ、魏朝から「親魏倭王」の除正はない

華夷秩序というのは、中華の王朝に対して蛮夷が朝貢し、それに対してそのトップを王なり侯なりに除正し、配下に率善中郎將などの位階を与え、朝貢の品の何倍もの下賜品を与えることで、王朝の権威を示すというシステム
ここで、トップの王なり侯なりへの除正を間違うことが、王朝ひいては皇帝の権威に一番傷を付けることになる
だから、文句が出そうであれば除正の範囲を値切るし、答礼使を派遣して確認することになる
実際倭の五王の遣使の時には、上表文で求めた半島についての称号を外されているだろ?

畿内の人間が奴国や伊都国に来ていることを認めるなら、大都市纒向の情報は魏使の耳に入るし、それより小さな首長墓しか作れない伊都国王は「倭王」にはなれないよ

260日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:05:28.46
>>256

同じとする根拠も無いだろ?

那珂八幡の件は土器専門の久住さんの説だよ
最近はかなり認められてきているから調べてみ

261日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:06:19.98
>>194
>吉竹高木の早良平野付近。
吉武高木遺跡を奴国にするのはいいけどさ、不彌國はどこに置くんだい?
>>194の唱える「短里説」wwでは、1短里が70メートルくらいなんだろ?
奴国ー不彌國間が100里だから、吉武高木遺跡から7キロくらいだろ?

でも、吉武高木遺跡と須玖岡本遺跡間が12キロ以上あるぞ
須玖岡本遺跡も奴国の中だよな?

不彌國ってのは奴国の内側にあるのか?ww

どうやっても「短里≒70メートル」なんてのは、無理なんだよ

262日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:14:14.05
>>259

悪いが、巻向はホケノ以前は「鉄」もない、銅製品も銅鐸の欠片しかみつからない

本当に申し訳ないが「大都市」とは言えない

時代が新しくなっても北部九州の土器が僅かしか出ない事も致命的

263日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:17:53.79
>>260
同じじゃなくてもいいけどさ、編年上いつ頃を想定するんだ?
出ている三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳出土鏡の同笵鏡だから、本当の出現期ではないぞ

「大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差がある」とWikipediaその他に書かれているような古墳が箸中山の手本だったというのは無理があるだろう?

264日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:17:54.10
>>262
なんで致命的?

265日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:19:16.37
>>255
つか、移動なんてありうるのか??
って話

266日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:24:29.60
その八幡というのは何のことなんだ?

菅野神社の話?

267日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:28:28.24
菅野神社(不明)は五世紀の人物ではない、
もっと前の年代

同じような名称や
呼称でも系統が違うのかな

268日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:30:09.08
本当のモモタロウ?
が何やらと言っている人がいたり、埴輪とか

269日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:31:22.42
>>264
北部九州との交流が乏しかったという事
北部九州と畿内勢力と取引はあったが、相手は残念ながら「巻向」ではない
北部九州の庄内土器の多くは大和型ではないのだよ
北部九州を無視して倭人伝は語れないし

ホケノからは内行花文鏡の欠片が出土するので、出雲や吉備経由で間接的に影響はあったかもな

270日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:33:01.32
『聖化 日霊 日神 津』?

271日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:34:58.91
>>262
>巻向はホケノ以前は「鉄」もない
九州説の人はすぐ「鉄がー」って言うねぇ

2015年から淡路島の舟木遺跡の発掘調査が行われていて、弥生終末期の鉄工房遺跡としては最大級のものだと確認されていたりしている
2016年には滋賀県彦根市の稲部遺跡でも鉄器工房群が出ているし、畿内に鉄製品を供給するには十分な規模だと思う

例えば1世紀の稲作遺跡として知られる静岡県の登呂遺跡からは鉄製品は出土していないけれど、鉄の刃先を付けて使う鍬の木の部分が出土していて、登呂遺跡で鉄を使っていたことを疑う人はいない
1世紀の静岡でも普通に鉄を使っていたのに、3世紀の畿内に鉄がないってどうして思うんだかそっちの方が不思議
さらに、鉄の供給が潤沢になると稲の収穫用の石庖丁が消えるんだが、石庖丁が使われなくなるのは北部九州より畿内の方が早い

九州説の人が九州の方が鉄が多いって言うのの根拠は、「甕棺墓から出る鉄鏃」だけなんだよ
そして甕棺墓が廃れたあとになると、九州でも鉄鏃はほとんど出なくなる

纒向遺跡は交易用の運河と見られる纒向大溝から建設が始まっていることからも、「計画都市」と考えられているんだよ
ちなみに纒向編年の基礎は、この纒向大溝の堆積物中の土器資料から作られている
どう考えても立派な都市だろ?

272日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:35:11.53
畿内は破鏡のカケラだけですか。

273日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:36:34.20
>>270
纒向の周りには鉄があるのに、纒向には鉄がないのは、纒向が交通の弁の悪いど田舎だったということなんだよ。

274日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:37:58.61
あと、大溝って福岡の方が有名でより古かったような気がする。
纒向って筑紫の劣化コピーじゃん。

275日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:38:59.91
>>
wiki?
は知らんが、前方後円墳の考古学的考証は逐一変わってるよ
初期の前方後円墳の派生と大和王権との関連を考え直さないといけない、という流れもある

276日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:41:04.16
少し調べてみて、このような事が書いてあるでしょ

・神功皇后 日本書紀によると170〜269年

277日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:43:55.79
>>264
>北部九州の庄内土器の多くは大和型ではないのだよ

河内型だって言いたいんだろうけれど、庄内期に入る前の畿内第X様式の時点で河内と大和の土器形式は一体となっていて、大和盆地と河内湖西南の西河内は一体の勢力圏だよ
この「畿内第X様式の範囲」がおそらく、邪馬台国の「七万戸」の範囲
邪馬台国自体は大和盆地西南部のもっと狭い領域だろうけど

>北部九州を無視して倭人伝は語れないし

不彌國までは北部九州だから無視はしないけれど、そのあと水行20日で投馬国の時点で九州から出てるじゃない?

278日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:46:15.65
>>252
"産出しないものを「有」と書かれることはないでしょ?"

思い込みでしかない
文献的には「有」でしかないので、それ以上も以下も無い

279日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:47:48.26
河内は河内だよ。台与の時に和解。
それまでは河内はクナ国。

投馬国は宮崎鹿児島。九州から出てない。

河内を邪馬台国側に混ぜるなよ

280日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:52:06.55
>>277
君は嘘ばかりつくな。
しかもタチが悪いわ。

関係ない地域を邪馬台国側に巻き込むなよ。

邪馬台国はヤマト、山外国。
葛城山系の西側。
邪馬台国の西の境界は知らん。
宇陀や伊賀辺りまで含むんじゃないか?河内より可能性があるわ。

281日本@名無史さん2018/02/16(金) 00:58:21.84
葛城も御所も生駒も奈良も桜井も宇陀も伊賀も邪馬台国、ヤマト国。

河内は河内。

282日本@名無史さん2018/02/16(金) 01:01:56.72


もともと神仙界の話だからな
と言ってる人もいた

だっ津ーの?が正解

283日本@名無史さん2018/02/16(金) 01:35:17.10
呟きアスペは消えろ

284日本@名無史さん2018/02/16(金) 01:39:44.76
>>278
九州説の生命線だから
必死で屁理屈考えてるな


苦しいねー

w

285日本@名無史さん2018/02/16(金) 01:40:20.47
畿内第X様式は中河内と大和南部で始まって
100年くらいかけて拡大斉一化する
伊賀は北部が近江、東海、南部は畿内の影響を受ける

286日本@名無史さん2018/02/16(金) 06:44:38.14
>>118
>弥生中期までは北部九州の絹の出土が多く、その後激減するわけだね<

これも✖。
正始四年も「上獻生口、倭錦、絳青[糸兼]、緜衣、帛布、丹木、hu、短弓矢」だし、
壹與も「獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹」だ。
要するに、この男らも、年代捏造や、存在史料の黙殺の騙しをやっている、という事だ。

>弥生中期までの鉄器は中国東北部の鋳造鉄斧の破片を 磨製石器の製法で再利用している
中期までの絹も半島経由の持込品だろうね<

箕氏が朝鮮に田蚕を伝授した位であるから、
燕の南にいた、とされる倭人が、鉄器や絹を知らない筈がなく、
この男も、筑紫倭人の年代を弥生中期に固定して、
卑弥呼や壹與を「南→東」の捏造をして、
大和に持って行く、という嘘つき騙しをしようとしているんだな。

287日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:00:09.19
>>119
>九州北部は遠賀川流域の歴史が鍵だな。 飯塚、直方、etc。
飯塚はなぜ塚なのか? いいとは何なのか?猪と関係あるのか?
九州説は、筑豊の歴史を語れよ。<

福岡平野〜筑紫平野が、女王國の中心である事は変えようがない。
宗像の陶ケンのように、出雲系の飛び地のような地もあるが、
筑豊の大半は、「其餘旁國遠絶、不可得詳」地域であって、
元は在地の毛人蝦夷や猿田彦系のであり、
阿毎氏の天孫族の、糸島や南九州への進出や、
岡田宮や宇佐のように、東征の拠点になった地域があっただけ。

288日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:11:43.45
>>122
>伊都國では三雲南小路遺跡 中期後半〜中期末(前一世紀後半?)
      井原鑓溝遺跡 後期中ごろ(一世紀終わりごろ)
奴国では  須玖岡本遺跡 中期後葉〜末(一世紀初めごろ)
この辺までは、王墓があるから栄えていると言えるが、奴国も伊都国も、このあと
「王墓が続かない」<

須玖岡本も、奴國というよりは、邪馬壹國の弥生銀座の中心地域もであり、
という事は、相当長く継続した須玖岡本の年代観の詐称だな。

>井原井原鑓溝遺跡をもって、弥生時代「後期」というならそれでもいいが、卑弥呼の3世紀中ごろから見て1世紀半ほども昔だ
卑弥呼の頃には、王墓らしい王墓が作れない、繁栄の盛りを過ぎた地域なんだよ、北部九州は <

弥生銀座の繁栄は、久留米から八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。

289日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:16:57.50
>>123
>三雲南小路遺跡、1世紀半ばに方形周溝墓が出現した意味は何なんだろう<

やはり、姫氏と天孫族の阿毎氏系とが合同した倭奴國王系の墓制であったんだろう。

290日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:22:45.42
>>127
>短里みたいなモノは無く、南水行は東の間違いだとわかるから 九州説死亡でしょ?<

長里みたいな史料事実もなく、「南≠東」であるから、
大和説は嘘つき騙しであった事が確実であり、
大和説は死亡でしょ?。

291日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:27:07.86
>>130
大和説者が、祇園山や平原や弥生銀座などに触れないのは、
「大和説にとっては致命的であり、都合が悪いから」
である事にきまっているじゃん。

292日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:30:16.48
>>288
>弥生銀座の繁栄は、久留米から八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。

久留米の前は伊都でいいの?

293日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:32:06.30
>>287
「宗像の陶ケン」ってなんだい?

294日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:33:39.05
>>136
>ンなニセ情報いくら流しても 畿内説勝勢は覆せないって w <

ンな「史料事実を否定曲解」する偽大和説情報をいくら流しても、
九州説の勝勢は覆せないって w

295日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:41:04.87
>>142
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。
邪馬台は単なる地名です。
ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。<

これも、「南≠東」などの嘘吐き騙しをした事に拠って✖であり、
この男も、嘘つき騙しの・・・・大和説人種です。

296日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:44:02.70
>>272
>畿内は破鏡のカケラだけですか。
平原1号墓も破鏡してあるね

大和で同じような破鏡供献が見られる墳墓として桜井茶臼山古墳があるけれど、桜井茶臼山古墳から出た鏡は、判定できたものだけで81面
その内訳は
三角縁神獣鏡       26面
内行花文鏡(国産)    10面
内行花文鏡(舶載)     9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡        5面
環状乳神獣鏡        4面
だ龍鏡           4面
細線獣帯鏡         3面
方格規矩鏡         2面
単き鏡           1面
盤龍鏡           1面

ひと頃は、一つの墓から出た鏡としては、平原1号墓が最多でだから重要って言ってた九州説の人がいるけど、鏡種・枚数ともに桜井茶臼山古墳の方が圧倒的に多いね

九州説の人は、古い情報だけで同じことを言い続けているだけなんだよ

鉄もそう

297日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:46:28.70
>>147
>どこかで畿内説が言い負かされた事実がありませーん 創作はダメよ<

大和説の嘘つき騙しがバレて、大和説が言い負かされた事実ばかりがあって、
大和説が勝った事実は全くありません。
創作はダメよ。

298日本@名無史さん2018/02/16(金) 07:56:43.50
>>273
>纒向の周りには鉄があるのに、纒向には鉄がないのは、纒向が交通の弁の悪いど田舎だったということなんだよ。

「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
とか読んでご覧
纒向は「それ以前に何もなかったところ」に「新たに作った王都」なんだよ
古いものが出ないのを田舎と言ってるだけだろ
何もなかったところに新たに作り始める契機として時期的に一番蓋然性が高いのが「卑弥呼の共立」
0から都市を造れるだけの実力が畿内大和に当時あったことも分かる

299日本@名無史さん2018/02/16(金) 08:14:07.84
>>278
>文献的には「有」でしかないので、それ以上も以下も無い

文献的に「有」と書かれるためには、存在が知られてなければならないことくらいは分かるよね?
九州の弥生時代には、というか古墳時代を過ぎて飛鳥時代まで、九州島に丹は「ない」

倭国は九州限定で使譯所通三十國もすべて九州説だと、明確に「其山有丹」と矛盾するんだよ

よく鉄が出ないから邪馬台国は畿内じゃないと言う九州説の人がいるけど、鉄鏃を使うというのは倭国のことであって邪馬台国のことではない

「日本にはニホンカモシカがいる」が真であっても、というか明らかに真だけれど、東京都千代田区にニホンカモシカがいないからといって、千代田区が日本じゃないってことにはならないだろ?

それに対して「日本にはニホンカモシカがいる」が真ならば、対偶の「ニホンカモシカがいない(国)は日本ではない」が真になる
「丹が出ない範囲・九州を一つの国」だと主張するならそれは「倭国ではない」んだよ
倭国は九州限定ではあり得ず、弥生時代に丹が出ていたところまでを含む広域でなければならないことが分かる訳だ

300日本@名無史さん2018/02/16(金) 08:17:30.98
>>298
文献的には、ナガスネヒコなどヤマトの勢力は征伐されているからね。
考古学的にも、それに矛盾する結果は出ていない。

単純な卑弥呼の共立じゃないんじゃないかな

301日本@名無史さん2018/02/16(金) 08:25:24.98
>>296

平原の破砕鏡といって、副葬前にわざと砕いた後副葬されてる
だから完鏡近くまで復元される鏡も多い

桜井茶臼山古墳や他の多く墓の鏡もそうだが、「破鏡」とは、鏡の欠片で、丁寧に断面が磨いてある物も多い
欠片でも貴重だった事が伺える

桜井茶臼山古墳はそれらをばら蒔いてるね
81面とはそういう事
完鏡近くまで復元できるものはなかったはず
しかし、これだけの副葬品は凄いよ
この中に大型鏡も含まれている為北部九州の文化の影響は強い墓だね

302日本@名無史さん2018/02/16(金) 08:39:09.85
>>301
平原が時代的に先だしな。
それを比べて、茶臼山の方がすごい
とかいうのが頭悪い。

茶臼山は、平原の伝統を継承してるだけ。

303日本@名無史さん2018/02/16(金) 09:01:08.27
>>149
>卑弥呼が死んだのは三世紀半ば  平原1号は二世紀末の墓 <

平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、
明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、
だから、卑弥呼の死以後。

304日本@名無史さん2018/02/16(金) 09:08:57.40
>>150
>邪馬台国の官も大和朝廷の官と一致するし、邪馬台国はヤマト国の可能性が高い。・・・<

邪馬台国なんてないし、
大和は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であったから「朝廷」なんてないし、
「邪馬壹國女王之所都」は「南≠東」に拠って「ヤマト国」ではないから、
この大和説男も、×人種。

305日本@名無史さん2018/02/16(金) 09:12:44.79
>>151
>孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
>次に神功皇后。<

大和は天皇を称したのは、天智からだから、
それ以前には、「天皇」も「皇后」もいなかった。

306日本@名無史さん2018/02/16(金) 10:01:34.11
>>154
>公式調査報告書 <

「公式」なんて、何の価値もない。
要は、
「私的」であっても「公的」であっても、
きちんと事実関係を正確に調査報告し、
それに関する正確な評価や解釈をしてあるのか?が大事なのであり、

「南→東」などのような、史料事実を否定曲解をしたり、
大和説のみがありき、というような「結論先にありき」の学者の「調査報告」には、
何の信頼性も価値もない。

307日本@名無史さん2018/02/16(金) 10:23:10.87
>>156
>平原1号墓は、漢鏡40面出土の王墓とかいうフレコミwだけど、<

その「漢鏡」という判断をしたのは誰なんだ?。原田なのか?、柳田なのか?。
またその根拠は何だったんだ?。

>実際には舶載鏡は、漢鏡5期の「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と漢鏡3期の「四螭二朱雀龍虎鏡」の2面のみ<

これも、誰が何を根拠に断定したんだい?。

>大量(32面)の方格規矩鏡も含め残りは仿製鏡 <

仿製鏡が、何故方格規矩鏡に、「尚方作」鏡とそうでない鏡を区別して造ったんだい?。

>舶載鏡1,2面程度を埋納した墳墓はたくさんあるし、
舶載鏡はその鏡種からして後漢代の朝貢時にもたらされたものだろう<

後漢代の朝貢で「鏡を貰った」などという記録など、ないんだろ?。
あるのは、魏の明帝だけ。

>卑弥呼の墓にあてるのはムリだよ<

明帝は、おそらく、「卑弥呼が鏡を重宝にしている」ことを知って、
100枚もの鏡を与えた。

308日本@名無史さん2018/02/16(金) 10:50:18.44
破鏡や?製鏡は配布の鏡の不足を補う為に始まった文化
その鏡が配布もされずにひとところにある時点で配布対象がいない周りに影響を及ぼせてない存在であるのが分かる
あとにも続かず、同時代にも周りに何も影響がない平原の現実を如実に表している

そして茶臼山等の畿内を頂点とする鏡の配布は「九州にそれまで一切ない」「三角縁」「古墳」の物であり、九州との連続性が無いのが明白
畿内は弥生末期から既に独自の小型?製鏡を作成配布しており、邪馬台国以前から九州とは完全に別のシステムを構築しているのが知られている

平原は何かの中心や起源ではなく2世紀に九州の勢力が崩壊し、それまで400年続いた王墓も伝統もそこで絶えたと言う終わりの証拠と言うのが分かる

309日本@名無史さん2018/02/16(金) 10:57:40.51
鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる
前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる

九州はむしろ鏡の配布の中心を畿内に奪われただけと言う力関係を表す証拠なのが見えてくる

310日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:00:19.96
>>156
>また、弥生末期は各地でただ一人の首長のための大型墳丘墓が各地で作られる時代に入っている<

何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか?の理由に、
大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。

>吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、<

それまでの墓とは全く違うんだから、
新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。

>出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある<

新規渡来部族は、墓を大きくして誇示する必要があったんだろうな。

>平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートルというのは王墓だとしても、
有力国の王墓としては、どうしても見劣りする
ということで、九州説(伊都国が卑弥呼の都説)が大事に大事に思う平原1号墓は、
それほど大した遺跡ではない<

卑弥呼や壹與は、共立された女王であるし、新規渡来系部族でもないし、
周辺部族に「誇示する」必要もなかったんだろうな。

311日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:20:58.19
むしろ文化の伝播と言うのなら九州は弥生時代を通じて全く採用していなかった大型墳墓や三角縁などの文化の激流に押し流され独自性を失っている姿が明白となる
文化の主体は九州にはなく、常に畿内にあるのが分かる

312日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:33:41.08
>>158
>萬二千里は、淮南子以来の大陸世界での概念的な「地の果てまでの距離」を記しただけだから、
それを典拠にするのもむなしいだけだぞ
淮南子: 時則訓
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。
まあ、九州説はこの数値+短里という捏造だけが頼りだから、認められないんだろうけどww<

これは、既に説明済みの投稿だな。
既に、出発点がいろいろである事は指摘してあるし、
この碣石山は山東半島だから、帯方や楽浪からの距離ではないし、
何よりも、魏の役人や郡の役人や魏使らが、
「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、
そりゃ、その首が危ない。

313日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:35:12.93
 
 
文化財は「私的」に調査しちゃいかんからな

314日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:40:28.36
>>159
>短里で記されているところがいくらでもあると、九州説の人はよく言いますが
現実と合わない数値が記されていることが分かる「だけ」です・・・<

これも、返答済みの投稿だな。
自分で勝手に、「墓地を国の場所だ」と決めつけたり、
「奴國」のように、比定地自体を大幅に造り変えたり、
陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している、
という事も考えないで、距離計算をして、間違っている、と言っているんだから、
この男の頭の方がおかしい訳で。

315日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:47:16.88
>>162
>(平原)弥生終末(西新式直前)とあるから、あとは通説の実年代を当てるだけ<

そもそも、
平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、
また、(通説の)西新式土器の時期範囲も、何ら絶対性も信頼性も、何の保証もない。

316日本@名無史さん2018/02/16(金) 11:48:51.04
九州説のアホが妄想する全ての中心の文化の頂点の大九州帝国など存在しないw

何の証拠もなく出てくるもんは畿内の影響だらけ

まぁバカの脳内には何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ

笑わせてくれる

317日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:04:49.25
>>316はトンスル民族

318日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:20:34.45
>>308
畿内から大型内行花文鏡が出てきてるね。
さぞ大切だったんだろうね。良かったね。

被征服民の畿内の銅鐸土民は、哀れだね。

319日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:21:11.70
纒向と吉野ケ里を比較すれば
都市機能に吉野ケ里が進んでいたのは一目瞭然
畿内説の一部が纒向は王都と騒いでいるだけなんだよ
畿内説の学者の多くは候補地としてるだけ・・・本心は王都としてみすぼらしいと思ってる

320日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:33:29.77
理由を書かないトンデモ九州説




321日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:34:07.98
纏向周辺は田畑が多いから、発掘調査には向いているのに一向に進まない

市・地元住民が協力して田畑の調査に協力すれば良いのにね

322日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:48:49.68
>>312
<萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭

要は中国の国境から辺境まで「満二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「満二千里」は変わらないw

323日本@名無史さん2018/02/16(金) 12:50:41.73
>>321
わかってないな

324日本@名無史さん2018/02/16(金) 13:50:37.98
>>165
>方角が間違うはずがないと、判で押したように九州説の人は言いますが、
魏志倭人伝で九州に上陸してすぐの 末盧國から伊都國の行程が、
実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違っています <

キミの解釈が×。
魏使らは陳寿は、当然人類の常識として、行程記載では、
原則として、「出発+途中+到着」をきちんと書き分けている。
だから、「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。

>また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてありますが、<

また×。
大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
「大和までの行程」も全く書かれていない。

>対馬から壱岐が、 都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、
本来南でなければならないのが東となっています <

これも×。
竹島から来て済州島の近くを通り、
都斯麻國は迥在大海中はと記しただけであるから、上陸しておらず、
都斯麻國を眺めて、一支國へ行った事になり、
都斯麻國の南方海上から一支國は「東〜東南東」であるから、「東」でぴったりであり。
間違っていない。

325日本@名無史さん2018/02/16(金) 13:53:22.43
>>165
>おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのでしょう<

おそらく、・・・・アホのキミの分裂幻覚の妄想。

>つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになります<

現地へ行かなかった後代のアホ史家ならそんなアホな事は有り得るが、
現地を見た使者は、当然、実見に従って記録するもの。

>そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので<

これも×。
嘘を付くな。「當在會稽東治之東」だ。

>報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得ることになります<

思想宗教に狂った後代の・・・・アホなら有り得る事だ。

>なら、畿内説で何も問題はないですね<

「南≠東」に拠って、×。

326日本@名無史さん2018/02/16(金) 13:59:41.47
>>324
そんな「常識」が、あったって証拠は?

???

327日本@名無史さん2018/02/16(金) 14:09:51.51
>>167
>重要度はやはり最大の内行花文鏡が一番だろう<

>当時の各地の首長墓と比べて、非常に貧弱なことにはコメントはないのですか?<

どこの何時の?首長墓と比べたんかね?。
また、どういう理由で「貧弱」だった、とで判断したのかね?。

>副葬品についても、例えば丹波の大風呂南一号墓では一つの墳墓からは最多の11本の鉄剣が出ています<

単なる「共立された卑弥呼や壹與」に、
女王としてのお宝の副葬品を比べるのならまだしも、
「11本の鉄剣 」のような、大量の武具が、何故副葬される必要があるんかね?。

>大事なはずの大型内行花文鏡も破砕供献されてますよね?
葬送儀礼用の鏡というだけではないですか?<

内行花文鏡は、「鏡片」としての下賜にも沢山使われており、
播磨の大中遺跡からも発見されており、
だから、共立女王への葬送のペンダントとして、破砕副葬された可能性がある。

328日本@名無史さん2018/02/16(金) 14:16:24.03
>>169
>>(魏使らは)不彌國から後を1里400mで書く、
というような・・・・アホな事をしないから、×。<

>不彌國から先の部分に里程を書いた所は魏志倭人伝にはないですよ?
何を見てコメントしているのですか? 話が噛み合わない訳ですね(ヤレヤレ)<

何を誤魔化しているんだい?。

不彌國付近から大和までの「距離や里数」を計算して、証拠のような形で提示したのは、
お前の方から、
であったんだよ。

329日本@名無史さん2018/02/16(金) 14:25:22.66
>>174
>何でこの人前スレへの反論を延々と書いてて、
直前に自説を完全に否定しているコメントがあるのを無視してるんだろう?<

順番に読んで、返事を書いたり、反論をしておかなければ、 
この投稿子のような・・・・嘘つき詐欺師の大和説者に、
話をすり替えての騙しでのヘイトスピーチをされる事になるから。

330日本@名無史さん2018/02/16(金) 14:41:49.32
>>181
>>弥生後期の繁栄を議論するなら、平原遺跡は適切だと思うけど?
なぜ抜かしたの?<

>100年以上も前の三雲南小路遺跡でも30メートル四方の立派な方形墳丘墓
奴国の須玖岡本遺跡D地点の王墓も、同程度の規模と推測されている<

ウソを付くな。
須玖岡本遺跡は、奴國ではない。
弥生銀座付近そのものであり、邪馬壹國ものだな。

>同じ地域のかつての王墓と比べても、平原1号墓墳丘の貧弱さは明らかだろう?<

当然、サイズは、王墓の絶対条件ではない。
内容や副葬品の価値の方が重要。

>弥生後期の「繁栄の程度」を議論するのに平原1号墓を出すとしても、その結果は
以前の「繁栄が失われた」ってことになるね<

平原の内容や副葬品が余りにも「繁栄を示していた」から、
大和説考古学者や歴史学者学が、路線の変更を余儀なくされた。

331日本@名無史さん2018/02/16(金) 14:51:50.26
>>330
妄想乙

332日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:00:20.09
>>185
>>大事な鏡を大量に不可逆的な方法で備えたのだから<

>いや、国産の仿製鏡なんだから、作ろうと思えばいくらでも作れるだろう?
実際、大型内向花文鏡を6枚使ってるんだし(同じ大きさでないのは知ってるよ)
自分のところで作れるのは、そこまで大事じゃないだろう <

それなら、平原時代の、平原以外のどの墓で、
大量の「豪華な鏡や玉などを副葬」した墓があったのか?を示せばよい。
また、鏡を造った、とすれば、「海東」へ渡来の呉系楽浪鏡師らだよ。

>奴国と唐子鍵に、九州と畿内の青銅器生産の中心があったことが、鋳型の出土から
分かっている<

奴国ではなく、弥生銀座だな。
また、唐子鍵は、(鏡ではなく)銅鐸生産ではなく)だな。

>で、平原1号墓より前(編年が確実ではないけれど)に、畿内では高さ1メートルを超える
銅鐸を作っていたんだから、大型の青銅器の製作は国内で普通にできる <

唐子鍵で、鏡を造っていた、とでもいうんかい?。

>逆に言うと、平原1号墓は大型内向花文鏡以外、誇るべきものがないのかな?<

玉や5尺刀や耳トウなど、一杯ある。

333日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:29:35.92
>水銀朱は中国産で<

>北部九州では弥生期に国産の朱は使われていません<

朱は、当然墓以外には、「以朱丹塗其身體、如中國用粉也」ですから、鯨面文身の材料であり、
明帝から「鉛丹」も貰い、「丹木」も魏に贈っている。

>魏志倭人伝に「其山有丹」と書かれていることと整合性が取れませんが、そのあたりは九州説ではどう処理しているのですか?<

松浦川上流に「丹山」があった。

>>墓の様相は各地で文化が違うので、比較に意味が無いと思われます<

>「同じ地域の伊都国と奴国」でも以前は大きな墳丘を持つ王墓を作っていました <

この男は、弥生銀座の須玖岡本を奴國というの騙しをしていたな。

334日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:30:28.91
>>188
>そして、伊都国では古墳時代に入ると三雲遺跡の領域内=伊都国の王墓の伝統的な立地に端山古墳、築山古墳と、
伊都国王の後裔と考えられる豪族の首長墓が作られています<

端山古墳、築山古墳は、那珂八幡よりもずっと後。

>同じ地域で、前と後の時代には大きな墓を作っているのに、それと比べても平原1号墓は相当に見劣りします<

平原よりも2〜3世代位 後。

>そして、三雲南小路遺跡、端山古墳、築山古墳が、同じ地域に作られているのに対し、
平原1号墓は伊都国内とは言っても少し離れた西側の丘陵地帯に作られていて、
しかも尾根よりも西側、伊都国中枢部が見えない位置に立地しています<

「少し離れた西側」と言ってもたった1q位。

>その点も、伊都国の王墓とするのが躊躇われる理由になっています<

その点、古田説は、伊都国と奴國の「王家の谷」説。

335日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:43:21.76
>>189
>>畿内説が平原遺跡と真正面に取り組まないで逃げている限り、世間は畿内説側が嘘をついていると思うだろう。<

>真正面から取り上げてるだろ?<

嘘を付くな。墓の形状や副葬品などの論点からは、殆ど逃げている。

>たぶん私は(畿内説だけど)<

それじゃお前は、「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しだから、
始めから、「結論先にありき」の信頼性も客観性も全くないありき」の、
・・・・詐欺師仲間だった、という事だ。

>>183より平原1号墓については詳しいよ 例えば平原遺跡に5号墓まであるのは、把握しているのかな?<

そんな事は解説書にいくらでも書いてあったよ。

>していたら、1号墓をつけずに平原遺跡と言い続けたりはしないと思うけどww<

当然「平原遺跡」と言えば、普通は「平原1号墳」の事だ。

>西新式直前という根拠になった土器は、2号墓の周溝から出土したものだよ<

だから、ますます後代の祭祀での使用土器であった可能性が非常に高い事になり、
2世紀末、なんて報告は、全く信頼性がなかった事になる、ってことだ。

336日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:46:29.38
>>190
>そして、平原1号墓だけが王墓扱いされているけれど、墳丘サイズは2号墓とほぼ同じで間の周溝を共有している状態
平原遺跡という視点で見ると、「1号墓だけが王墓」という突出した墳墓には見えない <

墓の形状や副葬品の豪華さで、幾らでも「突出した墳墓」に見える。

337日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:48:11.95
>>308

三角を必死に持ち上げてるけど、出土数や三角の扱われ方を見ると、他の種類の鏡より格下

これは北部九州でも同じ

悪いが三角は大量生産品の花輪的鏡でしかないなぁ

338日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:51:08.18
>>193
>ここの九州説(伊都国が<弥呼の都説)の人は、
平原1号墓の周溝の土坑墓を殉葬だって言わないのかな? <

私は、祇園山があるから、言わないが、
ここの平原説の方は、殉葬墓が沢山ある、と言っておられるよ。

339日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:51:19.78
>>336
じゃあ糸島じゃ王権は続かないんだね?

340日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:52:10.40
>>338
口先だけで言っても意味がない

341日本@名無史さん2018/02/16(金) 15:56:45.99
>>339
私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど、その後の時代に連合関係がさらに広がり畿内に中心を移したと考えているよ

いつかはまだ考証中…

342日本@名無史さん2018/02/16(金) 16:06:57.16
>>341
>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど

それで、なんで王墓が一つしかないの?

343日本@名無史さん2018/02/16(金) 16:07:32.53
>>195
>>「歴韓國乍南乍東」は、韓國陸行です。<

>魏志倭人伝より引用 「循海岸「水行」、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國」
頭おかしいんじゃないの? <

循海岸水行なら、
海岸沿いの波打ち際近くの水行になり、
巨大なリアス式の半島では、歴韓国には極めて膨大な時間と危険を伴い、
「乍南乍東」では全く航行出来ず、
韓の方四千里だけでも8千里になって七千余里には全くならず、
沖合洋上航行であれば、
半島南岸は倭地であるから、歴韓国も出来ず、
郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、

持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、
倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、

郡から倭までの「全水行」説は全く否定されている。

344日本@名無史さん2018/02/16(金) 16:20:59.83
>>343
全部でたらめ

345日本@名無史さん2018/02/16(金) 16:24:01.49
>>196
>>「王墓」の位置は、それぞれの国の位置とは関係がないし、
特に奴國は、須玖岡本ではありません。<

>三雲南小路遺跡の王墓は、三雲遺跡群の中にあって、ここが伊都国の中枢ですよ?<

そんな内陸では、
「郡使往來常所駐」や、
「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
も出来ません。
伊都国は、前原付近の海岸沿いや糸島水道付近です。
そして、奴國は伊都国の東南百里ですから、
丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
日向峠を越えて、吉武高木付近の早良平野地域です。

>須玖岡本遺跡も、岡本遺跡群の中にあって、青銅器製作工房跡もある奴国の中心地です<

伊都国から奴國は移動の動詞がないから、側副傍線國の説明であって本行程ではなく、
だから伊都国の次は、
「東百里」に外縁部がある不彌國(藤崎西新町から東の海岸付近)になり、
邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、
須玖岡本や那珂八幡付近の弥生銀座その物だ、という事になります。

違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください

印象操作の域を出ていませんよ!
反論する気なら、やり直しです!!

346日本@名無史さん2018/02/16(金) 16:35:18.70
むちゃくちゃだな九州説

347日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:00:28.35
あのね・・・

倭人伝に書いてある距離が
各国の中心地と中心地の距離だ
って定説を認めないで変な説を立てると
部分里程の合計が12000余里では
あり得なくなっちゃって
九州説メチャクチャになるよ

348日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:07:18.44
>>347
>倭人伝に書いてある距離が各国の中心地と中心地の距離だって定説

そんな定説あったの?
聞いたことないんだが???

349日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:10:04.67
>>347
肥後説では賛成です。

350日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:14:50.67
>>309
>鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる

九州も内行花文鏡を配布していたりしているから、鏡の形式が変わっただけ。

>前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる

そもそも本当に畿内で作られたかわならない。
裏付けとなる遺跡は?
畿内だとしても纒向が中心ではないだろう。

351日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:16:32.39
そもそも九州の鏡の序列は中国のシステムをそのまま採用してる物に過ぎない
九州の発明でも発祥でも何でもない

それが畿内に移動してると言うことは、すなわち九州が中国との交渉権を失ったことを意味してる
そして畿内は九州のシステムと全く違う独自の方式を作り出して「九州もその下位の序列に組み込んでいる」

これを見て九州が上だ、起源だなどと何をもって喚いてるのか皆目見当がつかない
九州説などこの程度の妄想しかない

352日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:16:54.88
>>311
超大型内行花文鏡は九州独自の文化だと思うけどね。
平原遺跡の玉、耳璫なども、弥生時代の畿内では追いつけないよ。

353日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:19:26.76
>>339
古代の王宮は筑紫話国内を転々と移動した。
それだけのこと。

354日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:19:55.15
>>342
何が一つ?
イミフ

355日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:31:01.26
>>198
>>末盧國の上陸地は唐津港付近であり、<

>上陸地は、国の位置を示す代表的な地点にはならないでしょう<

「国の位置を示す代表的な地点」ではなく、
到着(至った)と認識できる地点までです。
だから、居住外縁部や入り口や門だろう、と言って来たのです。
出発点も同じです。

>横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書くのですか?<

日本と韓国の距離は、普通は、対馬北端から釜山の距離です。
横浜から東京に行くときは、横浜の出発点から、東京の中の目的地の外縁部までであり、東京のどこでもよければ、多摩川を渡ったところまでです。

>>196でも書きましたが、弥生時代の王墓は中心集落内またはその隣接地に作られます 王墓をその国の代表点に取るのが妥当だと思いますが?<

思いません。
常識的には、その国の支配域や都の入り口です。

356日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:37:27.38
>>300
>ナガスネヒコなどヤマトの勢力は征伐されているからね。
畿内説の通常の解釈では、崇神天皇またはその前代の頃が纏向遺跡の建設時期であり、
邪馬台国の時代だと考える
記紀の系譜を参照するにしても、ナガスネヒコの討伐とウマシマジ(物部氏)の帰順は
邪馬台国時代のはるか昔だよ
個人的には、神武から崇神までは記紀系譜の直系十代ではなく、
古系譜研究家の宝賀寿男氏のいう、兄弟継承を含み神武から崇神まで5世代が妥当だと思っている

>考古学的にも、それに矛盾する結果は出ていない。
ナガスネヒコの実在を示す考古学的証拠は私は知らないんだが、何を「根拠」にそういうのだろうか?

357日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:38:02.12
>>301
>桜井茶臼山古墳はそれらをばら蒔いてるね
>81面とはそういう事
>完鏡近くまで復元できるものはなかったはず
ただ、発掘時の状況として、既に盗掘済みでめぼしいものはないだろうと思われたのちに
土をさらって古いにかけて鏡片を拾い集めて分類したという、研究者の執念の成果だから
完鏡近くまで復元できるものがないのは、仕方がないとしてくれ

358日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:41:19.63
>>302
>平原が時代的に先だしな。
耳飾(耳璫)とされる金層ガラスを重視すれば、他の遺跡での出土例は古墳時代までくだり、
弥生時代としては初出であり、平原1号墓の年代を古くするのを躊躇わせる要因になっている
MnO 含有量の多い青紺色ソーダ石灰ガラスのものは古墳時代でも後期のものが多く
例えば藤ノ木古墳から出ている
「平原遺跡出土ガラスの保存科学研究」(肥塚隆保 奈良文化財研究所 年報 2000)
ttps://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/2668/1/AN00181387_2000_%E2%85%A0_32_33.pdf
そうなると、平原1号墓が絶対に桜井茶臼山古墳より古いとも言い切れないぞ
まあ、弥生時代終末期でよさそうだとは思うが

>それを比べて、茶臼山の方がすごい とかいうのが頭悪い。
といっても、実際それだけ多くの鏡種・枚数を揃えているのは事実なんだから
素直にすごいと認められる>>301を見習いなよ

破鏡の習慣は、その前にも後にもそれほど盛行した習慣ではなく、
どちらが先にしてもそれほど離れた時期ではないのだし、大体同じ時期に
より多くの鏡を使っている桜井茶臼山古墳の方が、より大きな勢力を
背景としているのは明らかだろう?

平原1号墓は九州説虎の子の3世紀前後の唯一の王墓候補なのに対し、
桜井茶臼山古墳は大王墓候補から外れているから発掘できたということも
考えてごらん

359日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:42:03.34
>>320 なにも出ないという事だろう 

360日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:45:34.15
>>199
>>奴國は、入口の三雲や平原付近から、日向峠を越えて、吉竹高木の早良平野付近<

>吉武高木遺跡は、最初期の王墓と言われることもある遺跡だけれど、
それは仮称「早良国」の王墓であって 奴国の王墓ではないよ<

「早良国」とは、現在の通説者が名付けた呼称であり、本来は存在しない国名。

>水系が違うからね <

早良平野と吉竹高木(吉武高木ともいうらしい)」は、同じ室見川水系。

>のちに奴国に合流(併合?征服?)されて、奴国の領域になるけれど、<

須玖岡本説は、魏志倭人伝の説明に合わないから、×。

>ある国まで行くときの旅程を 国境を越えたところまでとはしないだろう?<

三雲や平原付近では2万戸が困難であり、
吉武高木が、倭奴國の頃からの首都であった可能性があるからの推定であり、
国境ではなく、峠を越える事になるだけ。

>>198にも書いたけれど
横浜から東京に行くときに、多摩川を渡ったところまでの距離を書いたりしないだろう?
東京なら日本橋までだし、普通は県庁所在地(市役所等中心地)までだ<

県庁所在地や市役所が目的地であれば、その門や入り口までだ。

361日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:46:38.92
>>321
纒向は掘っても無理
校舎立てるとき見つかって無いし
もしくは桜井市の学校は全部木造かなWw

362日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:08.87
>>205
>根拠も出さずに「典型的な詐欺師」とか言ってるあたり、
十分に馬鹿に見えるんだけどなww<

この男は、口先での誤魔化しをぐずぐず言っているだけで、
結局は、平原の副葬品に関する具体的な反論を書いていないんだから、
十分「典型的な詐欺師」や「馬鹿」にみえるんだけどなあ。

363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公庄学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した

365日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:11:18.77
>>303
>平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、
珍しく根拠を書いているけれど、「尚方作」は19面だよ

>明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、
>だから、卑弥呼の死以後。
これは大間違い
前漢鏡にも「尚方作」銘鏡は多くあり、というかそもそもほとんどの漢鏡の銘文は
「尚方作」で始まっていて一部「王氏作」があるくらい

そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
それを卑弥呼の銅鏡100枚にあてるのは、無理がある
魏皇帝が、大陸内で100年以上伝世したものを国中から集めて、そんな骨董品を
皇帝の威を示す下賜品にしたってことになるんだぞ?

自分の主張がいかにおかしいか、理解できたかな?

参考 「鏡の考古学」ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm

366日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:11:46.69
>>304
>「南≠東」
ワンパターンだなぁ
それだけでは、否定できないことは>>324で説明済み

367日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:14:02.06
>>305
>大和は天皇を称したのは、天智からだから、
>それ以前には、「天皇」も「皇后」もいなかった。

だから何? ただの表記法にけちをつけて何かを否定してつもりになっているだけだろ?
そもそも漢風諡号は奈良時代の淡海三船(天智天皇の四世孫)が付けたものでそれ以前はないぞ
御間城入彦五十瓊殖って書いても>>305は何のことだか分からないだろ?

368日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:16:28.26
>>208
>>邪馬壹國女王之所都は、不彌國のすぐ南だ。<

>九州説の頼みの綱の、「総旅程萬二千里」からすると、不彌國から千三百里のはずなんだが、すぐ南でいいのかい?<

「方四百余里」の對海國の国内見聞移動記録があり、
「方三百里」の一大國の国内見聞移動記録があり、
それだけで、合計「700里〜1400里」の移動を加算しなければならない事になり、
奴國への説明には途中の移動があった事を示す説明がないから、側副傍線行程國の説明であることになり、
魏使らは行っておらず、
だから、最高で1400−100=1300里位の移動距離が増えた事になり、
不彌國で、萬二千余里がほぼ消化されていたことになる。

>それに、>>194理論だと、国境を越えたところまでで距離を測るらしいから、<

そんな事は言わないねえ。
居住外縁部や入り口や「門」までの距離だ、と言っているんだよ。

>すぐ南なら距離は0になるよね?<

元々「余」が付いた概数での計算だから、「ほぼ0」だ。

369日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:16:31.29
纒向も鴨公も同じ邪馬台国、ヤマト国の一員。
かき集めて七万戸にすればいいんだよ。

仲良くしろ。

それとも卑弥呼の拠点の争いか?縁起悪いものになりたいんだな。

370日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:20:29.36
>>210
結局、「南→東」などの嘘つき騙しの、
定説的な詐欺師学者らの「公式の調査報告書」を絶対信仰しないと、
大和説はニッチもサッチも行かないわけだな。

371日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:22:55.05
>>306
>「結論先にありき」の学者の「調査報告」には、 何の信頼性も価値もない。

柳田先生が畿内説だというだけで、内容の検討も一切せずに
「何の信頼性も価値もない」という「結論先にありき」でしか語れないのが>>306だよね?

自己紹介乙、としかww

372日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:23:51.43
>>307
>その「漢鏡」という判断をしたのは誰なんだ?。原田なのか?、柳田なのか?。
原田大六先生だよ

>またその根拠は何だったんだ?。
だから2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」を読みなさいって

>後漢代の朝貢で「鏡を貰った」などという記録など、ないんだろ?。
いつでも>>307は「ないこと」を根拠にしてしか論じないよね
古代史ってのは時間の壁の向こう側だから得られる情報が少ないし、
「見つからない」だけのもの(本当はあった)も多いことを、自分の都合しだいで
九州説に都合のいいときはあるといい、悪いときはないと、恣意的に言ってるだけなんだよな

373日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:24:02.19
>>218
>九州説の人は卑弥呼が天照大御神なの?<

古田さんや古田説の方々や私は、最低、「違う」ね。

374日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:29:13.41
飽きた
>>1 VS ザラコク のスレ立てろ

375日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:29:37.34
>>220
「南→東」などのような大和説者や、朝鮮人差別や、
国粋皇国史観殺し合い戦争の鼓舞扇動を広言するようなあんたら以上の、
醜態など存在しない 。

376日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:31:32.28
キナイコシの語源は何?どういう奴?


             見物人

377日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:32:56.78
>>365
>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
これが間違い

378日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:36:41.70
>>372
原田を出すなら「平原弥生古墳 上巻下巻(1991)」だろ

379日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:36:48.42
>>310
>何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか?の理由に、
>大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。

また謎の妄想を始めたな
弥生人と縄文人の間の骨格の違いは、食事の違いであって、体格が変わるほどの
外来民族の流入はないぞ
そして、半島南部の狗邪韓國まで倭人の領域なんだから、どこをどう通って
流民が来るんだい?

>それまでの墓とは全く違うんだから、
>新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。
本当に妄想がきついな
高地性集落も廃絶されてからだぞ、ローカル王の大規模弥生墳丘墓が作られるのは
渡来部族の征服も侵入も想定できない

「根拠」のない妄想はいくら書いてもムダ

380日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:37:10.95
>>312
>「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、
>そりゃ、その首が危ない。

東西とも再遠方の大月氏と倭国が、ともに親魏大月氏王、親魏倭王とされていること、
漢土の境界である敦煌、帯方郡がともに都から五千里とされていること、
そしてそれぞれ敦煌、帯方郡から萬二千里程度とされていることから、
この距離は中華世界の大きさ(最果てまでの距離)を表す理念的な数値と考えた方がよい
そしてこの観念のネタ元が淮南子: 時則訓

短里などはなく、実測値でもない理念的な数値なので
「自郡至女王國萬二千餘里」だから九州というのは、ほぼ意味がない

381日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:37:19.68
>>368
対馬や壱岐の説明文には方とあるだけで
行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないよ

382日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:37:32.19
>>314
これは既に「論破済み」だな

>陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している
「根拠」を示してね
国境を接しているところを距離0として、それぞれの内国移動距離を書かなかったら
総距離が分からなくなるから、他国の地理を報告する訪問記録としては意味がないのが分からないんだろうな

383日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:38:54.20
>>369
魏志倭人伝の個数をかき集めれば8万戸
邪馬台国は7万戸

384日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:47:35.73
>>315
>平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
>という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、

いや、西新式土器の前の形式の土器と見られるものが出ているから、
「西新式」の直前くらいと想定されているだけだぞ?
自分が何を書いているのか理解できているんだろうか?

385日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:47:40.18
>>235
>>箸墓が、那珂八幡を模倣したんだから。<

>畿内古墳では三角縁神獣鏡の図像の変遷による編年ができあがっており、<

単なる相対編年であり、
そもそも、大和の三角縁神獣鏡は4世紀以後であり、
筑紫や「大和以外の地」の三角縁神獣鏡よりも新しいんでしょ?。

>さらに最初期の定形型前方後円墳は三角縁神獣鏡が副葬されて「いません」。

3世紀最末期以降になるホケノですら、三角縁神獣鏡は副葬されていません。

>那珂八幡古墳から三角縁神獣鏡が出ている時点で、
箸中山古墳より前っていうのは「ない」んですよ <

筑紫の土器編年は、同じものの大和の土器編年よりも、50年位は古い、という事は常識でした。
だから、布留の始まり同士の、ホケノや箸墓よりも那珂八幡の方が50年位古い、
という事になる。

こういう基本すら押さえずに書き散らすだけの人だとはっきりしましたね!。

386日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:48:57.33
>>319
>都市機能に吉野ケ里が進んでいたのは一目瞭然
「一目瞭然」でごまかさないで「根拠」を書いてね!

そもそも、吉野ヶ里遺跡は「墓域まで環濠で囲っている」から、環濠が長くて
「最大の環濠」集落と言われているのであって、墓域を除いた集落部分だけなら
唐子鍵遺跡の方が大きい

吉野ヶ里遺跡を比べるなら、愛知の朝日遺跡の方が比較対象として意味がある
あそこの環濠も逆茂木があるなど、防御を意識した環濠が見られるから

387日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:49:28.73
>>236
結局「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
国民投票でも、掲示板でも、衰退したな。

388日本@名無史さん2018/02/16(金) 18:56:15.17
>>240
>伊都の地名が紀ノ川沿いにあるだろう。 神功皇后応神で伊都国の勢力は畿内に移ったんじゃないかな。
魏志倭人伝でも千戸しかない小さい勢力だし。<

そもそも「紀伊」という地域名が、
姫氏=紀氏の「紀」と、
天孫族の「阿毎=アマの伊」の伊都国の「伊」だし、
日本中に「伊」の文字が付く地域名が一杯あるし・・・。

389日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:00:18.38
>>324
>だから、「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。
地図一つ見ずに、勝手な脳内妄想を書いているだけなのが丸分かり
末盧國から東南に向けて出発して短里で五百里で伊都国にいたる経路はないぞ

大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、
起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本
大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を
用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ

例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、
どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ?

そして、成都から安南までは東至安南と書いてあるが実際には東南
大陸史書の地理・旅程の記述で、方角が間違っているところは結構ある

「南≠東」を絶対だと思って思考停止している人には分からないかな?
私はきちんと「根拠」となる「原文とその解釈」を、きちんと書いてるだろ?
反論したかったら、ちゃんと「論拠」を挙げて反論してごらん?
>>324に対する要求水準としては高すぎるかな?ww

390日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:02:13.95
>>66
魏志の記載例を根拠にして
魏志の記載例が短里だったと機能的推論したというのは
循環論法

391日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:04:32.58
>>387
国民の投票が根拠の九州説

392日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:11:34.82
つまり、虚構ね

393日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:16:23.13
>>324
>大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
>「大和までの行程」も全く書かれていない。

いやいや、
「達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀 
 俀王遣『小徳』阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎
 後十日又遣『大禮』哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」と書いてあるじゃないか
瀬戸内海を渡ってきて、海岸に着いたところで出迎えるのが『小徳』阿輩臺で
さらに都まで案内するのが『大禮』哥多毗
小徳も大礼も、大和朝廷の冠位十二階だろ?
大和の都まで着いてるじゃないか

394日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:20:55.22
都合が悪くなると逃げるザラコク

395日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:24:07.94
張り付けたろ

363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した

396日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:24:51.90
張り付けたろ

363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した

397日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:25:10.18
ザラコクの目的はこうだ
筋が通ってなかろうが何だろうが何でも反論っぽい事言って
それを見た人の千人に一人でも九州説を信じればそれでいいという

398日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:25:10.89
張り付けたろ

363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した

399日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:25:28.48
張り付けたろ

363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した

400日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:25:54.32
>>324
>竹島から来て済州島の近くを通り、
南望聃羅國だから南に望むだけで、済州島の近くまで南下はしてないぞ

>都斯麻國は迥在大海中はと記しただけであるから、上陸しておらず、
>都斯麻國を眺めて、
こっちは「經」都斯麻國だから、対馬を経由してる
遠くから見てるだけじゃない

>一支國へ行った事になり、
>都斯麻國の南方海上から一支國は「東〜東南東」であるから、「東」でぴったりであり。
間違っていない。

漢文の旅程では、
起点があって (例えば伊都国)
方角     (東南)
目的地    (至奴國)
がひとまとまりとして書かれる
東至一支國の起点は、その直前にいるところ・経由地だから都斯麻國にしかならない

>>324はこれを書いてて、恥ずかしくならなかった?
>>324は漢文を読めないしまともな解釈もできませんって自分で書いてるんだぞ?

401日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:26:23.86
張り付けたろ

363日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:52:11.31>>364
纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

364日本@名無史さん2018/02/16(金) 17:59:34.42
>>363
良いところを突いてるね
俺は橿原市の鴨公小学校出身だが
同校は藤原京跡の中心に木造で立っていたが
鉄筋にするとき場所を移転した

402日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:28:04.33
>>325
>おそらく、・・・・アホのキミの分裂幻覚の妄想。
そう思うのは>>325の自由だけど、「根拠」を示してね!

>現地へ行かなかった後代のアホ史家ならそんなアホな事は有り得るが、
>現地を見た使者は、当然、実見に従って記録するもの。
三国志の撰者の陳寿は現地に行ってないから、ありえるよね?ww
実見に従った記録を、観念に合わせるために修正することはありうるよね?
>>325もそれを認めてるww

403日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:31:05.15
ザラコクは反論が来ない様に
人の居ない時間に前スレのレスに罵詈雑言を浴びせる

404日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:39:19.79
>>342

そうだな〜、卑弥呼の後で男王、その後にイヨだから、平原遺跡のある曽根から離れるだろうね

イヨの時代だと前方後円墳になってるかも?だから糸島地区で最古相は御道具山古墳だね

系統は那珂八幡系列で、同時期か少し新しいぐらいと思われるけど、未発掘なのが残念

糸島は前期の前方後円墳の多い所だけど、殆ど未発掘だから何が出るか楽しみではあるが、発掘に動く気配無いんだよなぁ

405日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:40:01.19
>>327
>どこの何時の?首長墓と比べたんかね?。
弥生末期〜終末期、古墳時代の直前の時代
卑弥呼の共立の直前くらいの頃
どこのってのは、たくさん書いてあるだろ?
>>156
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

>また、どういう理由で「貧弱」だった、とで判断したのかね?。
いや、どう見ても大きさが、比較するのもおこがましいほど小さいだろ
弥生時代の普通の家族墓と同じくらいの大きさしかない

>「11本の鉄剣 」のような、大量の武具が、何故副葬される必要があるんかね?。
女王として、ではなく、王としての副葬品、威信材に言及してるんだよ
鉄剣の本数は、王の権力を示す重要な指標になる

406日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:40:38.58
>>328
>何を誤魔化しているんだい?。
>不彌國付近から大和までの「距離や里数」を計算して、証拠のような形で提示したのは、
>お前の方から、 であったんだよ。

どこにあるのかな?
コメント番号を引用して示してくれないかな?
いつも「根拠なし」で書き散らすだけの>>328でも、それくらいならできるだろ?

407日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:42:46.43
>>401
桜井市役所も纏向学研究センターも木造だよ Ww

408日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:46:34.95
>>330
>ウソを付くな。
>須玖岡本遺跡は、奴國ではない。
>弥生銀座付近そのものであり、邪馬壹國ものだな。

弥生銀座の一つなのは認めるけれど、奴国の繁栄を示す遺跡群だよ
須玖岡本遺跡が奴国の王墓なのは定説になってる
定説に異を唱えるなら、それだけきちんとした「根拠」を挙げて「論証」してね!

>>330の脳内妄想をたとえ100回書いても、それが事実にはならないから

>当然、サイズは、王墓の絶対条件ではない。
絶対条件ではないけれど、それだけの労力を動員できる強い王であることが示される訳だ
だから、平原1号墓は王墓だとしても弱小国の王墓としかいえない
隣の2号墓と、本質的な違いはないようにも見える
まあ、2〜5号墓には青銅器一つ出ていないから、まったく同じとはいわないけれど

>平原の内容や副葬品が余りにも「繁栄を示していた」から、
>大和説考古学者や歴史学者学が、路線の変更を余儀なくされた。
はいはい、妄想乙
誰も路線変更してないだろ?
路線変更したと主張するなら「根拠」を示してね!

409日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:46:59.44
>>404
ない物は発掘できないわな

410日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:51:35.94
>>407
嘘つけ
みんな鉄筋 
建設する過程で纏向は何も出ないと桜井市も知ってたから立てたんだよ
纒向は奈良の豪族どもの墓地確定
邪馬台国と関係ない
大和王権のみ関係するかも

411日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:54:48.22
畿内説のスレじゃねーの
他説語るスレでもねーし

412日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:55:11.88
>>337
>三角を必死に持ち上げてるけど、出土数や三角の扱われ方を見ると、他の種類の鏡より格下
>これは北部九州でも同じ
>悪いが三角は大量生産品の花輪的鏡でしかないなぁ

なぜ、大量生産して大量配布したのか、と、なぜ、卑弥呼の遣使のときの年号鏡があるのか、を
つなげて考えられるだけの論理構成力があれば、三角縁神獣鏡が「大量に出る」ことの重要さが
分かると思うよ

>>337には難しいかな?

413日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:56:55.06
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども

壬申の乱で天武に敗れたなにわは、奈良時代はさびれていたんだね。
この歌からは、芦原中津國、食国であるのが伺える。

414日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:57:42.39
>>411
テンプレで充分

415日本@名無史さん2018/02/16(金) 19:59:36.05
>>414
ならば スレ立てた意味ねーよ

416日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:01:12.61
>>399

一方、糸島は東風小学校設立の時、潤地頭給遺跡発見

九州では出ないと思われてた弥生終末〜古墳前期の玉造工房の発見、古墳初頭の井戸跡から準構造船、木棺墓+位至三公銘蝙蝠座鈕内行花文鏡が出土

準構造船ばかりが注目され、この鏡に関してはあまり話題にならないが結構重要

417日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:01:27.72
大中臣氏の歌

たづのすむ沢べの蘆の下根とけ汀もえいづる春は来にけり(後拾遺9)

【通釈】鶴の棲む沢辺の蘆の地下の根に張っていた氷が解け、汀(みぎわ)がいっせいに芽吹く春はやって来たのだ。

平安時代、汀(上町台地〜泉北丘陵)に春がやってきた。桓武天皇で天智系に戻ったからかな。

418日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:04:34.26
>>409
ないって何が?

419日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:09:09.21
桜井市より橿原市の方が都にふさわしい
橿原考古学研究所の分家が桜井市纏向学研究センター
公務員のやることはケシカラン

420日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:11:45.03
キウスが暴れてるな

421日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:16:39.05
>>412

まず、三角は中国鏡とする根拠から必要
巷は国産説に傾きつつある状況

魏の現地では紀年鏡は殆ど見られないのも重要

三角については特別な年号を後から入れたんだろうね
紀年鏡はすべて4世紀以降の墓から出土してるし

鏡副葬文化は元々北部九州だから、そういう内容も文化と一緒に伝播したんじゃない?

422日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:17:33.67
>>416
やっぱり九州説が有利だな

423日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:18:53.50
纒向小建設時の調査では大溝が検出されているのだが…

424日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:19:57.35
>>391
日本国民は勤勉だし、正直だから
似非学者は見破るよ

425日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:21:11.74
>>368
弥生末期の平原と、古墳時代の茶臼山。
時代も違うのに比べてどうこうというのが、頭悪いと言っている。

お前の頭が悪いからわからないのか?

426日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:23:49.92
>>369
橿原がヤマト王権発祥の地なのだ
邪馬台国は九州でもどこでもいい
考えて見ろ
天皇家の先祖が鬼道とか生口とか生贄なんてしねーよ

427日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:23:52.38
>>358
弥生末期の平原と、古墳時代の茶臼山。
時代も違うのに比べてどうこうというのが、頭悪いと言っている。

お前の頭が悪いからわからないのか?

428日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:24:21.25
>>343
やっぱり、>>343は頭がおかしいと理解するよりないな
>循海岸水行なら、
>海岸沿いの波打ち際近くの水行になり、
>巨大なリアス式の半島では、歴韓国には極めて膨大な時間と危険を伴い、

海岸=波打ち際だと思ってるのかww
「循海岸」は半島の南西角で曲がるという意味
単に現代語の道案内で「道なりに行って」というのの海路版
「海岸線(の概略)に沿って」だよ

>「乍南乍東」では全く航行出来ず、

これをジグザグに進むことだと思ってるみたいだけど、そんな意味はないから
単に「南に行く部分と東に行く部分がある」ってだけ

>韓の方四千里だけでも8千里になって七千余里には全くならず、

半島の南西角で曲がってから東に3千里行くってのが、通常の解釈だぞ?

>沖合洋上航行であれば、
>半島南岸は倭地であるから、歴韓国も出来ず、

韓国の西岸を通っているんだから、そこで韓国を経(歴)てるだろ?

>郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、

これも意味不明だよな?
普通は、狗邪韓国を釜山付近に想定しているよ
半島の南西角を曲がって東に航行して着く場所だから、逆戻りなんてしてないだろ?

429日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:25:14.71
>>343 続き

>持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、

持衰が乗るのは其行來「渡海」の時
海岸沿いの「水行」と対岸に渡る「渡海」は区別されてるから、
「循海岸水行」では持衰は乗ってないかもね
それに、持衰が和船にしか乗らないとはどこにも書いてないから、
>>343は意味のないことを書いてることになる

>倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
>百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、

原文は
「自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳
 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫」のことだな
昔より、は「祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐き…」にかかるだけで、後半の
「臣、下愚と雖も忝くも先緒を胤ぎ、統べる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遥て、船舫を裝治す」
にはかからないぞ
そして「道百濟を遥て」の「道」は陸路とは限らない
単に経路くらいの意味で、海路の「路」と同じ意味

>郡から倭までの「全水行」説は全く否定されている。

ほぼ、妄想だよねww

>>344さん、まったく同意です!!
何でこんなのの相手をしなくちゃいけないんだろう?

430日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:26:40.07
>>421
学界では全中国製に傾きつつあるけどな

431日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:29:28.08
>>430
同意
各説 三角は邪馬台国の物証にならない

432日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:29:42.00
九州vs大和
から
桜井纒向vs橿原か。

433日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:32:05.36
>>410 正解かも
>纒向は奈良の豪族どもの墓地確定
邪馬台国と関係ない
大和王権のみ関係するかも <

434反論求む2018/02/16(金) 20:33:42.57
これ証拠だな

>纏向周辺の学校
纒向小
織田小
橋本小
東小
箸中
大三輪中



みんな鉄筋コンクリート
掘っても何も出なかった証拠

435日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:34:57.06
>>431
何いってるんだ?
中国製なら九州説即死じゃんか
日本製でも畿内説は痛くも痒くもない

436日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:37:58.71
桜井茶臼山古墳はじめ纏向近辺は墓地
桜井市は墓地

437日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:38:22.46
平原の方格規矩鏡は中国製説が急浮上してる
ただし、それは三角と非常に近しいところで作られている可能性が指摘されたから
三角を日本製とするなら、平原の方格規矩も日本製とみるべきという状況

438日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:40:17.54
>>434=キウス

439日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:41:44.35
>>363
賛同します
根拠にはなりますね

440日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:41:50.24
>>434
纒向大溝を知らない情弱

441日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:42:29.17
平原は二号墓が卑弥呼の弟の墓じゃないかな。

442日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:42:36.64
キウスは自演中毒

443日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:43:11.76
岡上は嘘つき

444日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:44:09.92
>>423
>纒向小建設時の調査では大溝が検出されているのだが…

溝だけかよ。
纒向終わったな。

445日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:44:42.20
ザラコクは自演も成り済ましもしないという点だけは評価できる

446日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:44:46.34
>>410
纏向学研究センターは纏向遺跡の中心地だな
掘って、何も出なかったか 変な物出てきたから建設したんだろ

447日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:45:00.38
>>345
>そんな内陸では、
>「郡使往來常所駐」や、
>「王遣使詣京都帶方郡、諸韓國及郡使倭國、皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯」
も出来ません。

国の位置をなんだと思っているのかな? 首都ってどこの国でも、国家元首の居所だろ?

「郡使往來常所駐」だから海の近くって、上陸したばかりのところに大陸からの使者を泊めるのかい?
そんな失礼な仕打ちをするのか? 普通は、きちんとした迎賓館的なところに迎えるだろ?
それが海岸にある必要はないだろうが?
「皆臨津搜露」も入国管理であって、そこに「国がある」訳じゃないだろ?
「成田空港の入国管理ゲートのところが国の場所だ」って言われたらおかしいだろうが?

>伊都国は、前原付近の海岸沿いや糸島水道付近です。
>そして、奴國は伊都国の東南百里ですから、
>丁度三雲や平原付近から東南地域であり、

すぐ上で、私が書いた「三雲遺跡群が伊都国の中枢」を否定しているのに
「伊都国は海岸沿い」って書いてるのに、伊都国からの距離を測るときには「三雲や平原」って言ってるww
「三雲が伊都国の中心地」でいいじゃん!

>丁度三雲や平原付近から東南地域であり、
>日向峠を越えて、吉武高木付近の早良平野地域です。

地図見てる? 平原や三雲から吉武高木は、ほぼ真東だよ?
人には、王墓の位置は国じゃないと言いながら、平原も吉武高木も王墓とされる遺跡だよな?
どんなダブスタやねん?ww

448日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:45:35.42
>>444
纒向大溝を知らない情弱

449日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:46:23.53
>>435
三角縁が日本製なら、畿内説なんて何の根拠もない。

450日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:47:03.46
纒向遺跡の中枢は山よりに想定されているのだが…

451日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:48:20.94
>>449
考古学の知識を持ち合わせていないことを自慢しなくてもいいんやで

452日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:48:34.70
>>448
溝にしがみつくなんて可哀想。
福岡にもあるよ。

453日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:49:37.93
>>345
>側副傍線國の説明
そんな概念は、一部の「九州説の頭の中にしかない」んですが?
中国人に聞いても、放射読みとか傍線経路とかは「ない」そうですよ

>邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、
これも、魏志倭人伝には「書いてない」ことですね
九州上陸までに1万里使ってるから、残りは2千里って言ってたのはどこへ行ったんですか?
この経路だと、九州上陸後に6百里しか使っていないのでまだ千四百里残ってますね?
それがすぐ南って、誰がどう見てもおかしいでしょ?ww

454日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:50:52.91
>>452
纒向大溝を知らない情弱

455日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:52:51.02
>>418
平原に前期の前方後円墳とやら

456日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:52:58.58
太陽は東から西へ。
大阪が夜の食国で月が治める時、
博多の空に太陽あり。

どちらも倭人の王。

457日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:54:08.24
>>424
学者はほぼ100パーセント畿内説なんだが

458日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:56:05.18
纏向小学校
昭和50年6月30日
 新校舎施工。

何も出なかった

459日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:56:22.77
奈良に都のある大和朝廷は、大阪と何の関係もない。
大阪は奈良にしばかれてばかりなのだ。

460日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:57:49.88
>>449
スプリング8使って科学的に分析した結果三角縁は
当時の日本製品とは違う中国製品と同一の成分比率だったよ

461日本@名無史さん2018/02/16(金) 20:58:45.55
>>458
纒向が注目されるようななった調査がそれなんだぜ

462日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:00:34.19
三輪小学校
平成18年
新校舎(東館)・運動場落成

何も出なかった

463日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:01:08.88
関係ないならしばくこともできないんじゃないの?

464日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:02:09.28
キウスはまともじゃないんだからまともに返してもムダなだけ

465日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:03:04.68
難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴渡る見ゆ

鶴、丹頂、丹、

466日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:03:55.87
纏向学研究センター
   建設地

何もでなかった

467日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:05:36.24
>>423
本当 なら 何故建設しちゃったの?
他になにも出なかったの?広い土地で?

468日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:06:23.80
そらあそこら掘っくり返して親魏倭王の金印とか出たら苦労せんわ

469日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:06:24.56
【応神天皇(倭王讃)の難波大隈宮】
「あわじ嶋 いや二並び 小豆島 いや二並び 寄ろしき嶋嶋・・・」
この歌は、応神天皇の難波大隈宮がどこに営まれたか、その地理的条件を浮かびあがらせる。
通説の難波大隈宮から見えるのは、淡路島だけで、小豆島は105km離れ、淡路島北端の岩屋と神戸市須磨浦の鉢伏山山塊に遮られ、全く望むことは出来ない。
また、丘陵や山地が存在しないため、天皇が高臺から兄媛の船を見送ったという説話も生まれようがない。
さらに、天皇が徴発した三原の海人は、淡路島南端の三原郡の海人といえるが、大阪湾とは正反対の最遠地である。

これらの説話は、古代「難波」の地であった讃岐の出来事を伝えたもので、応神天皇の難波大隈宮は、
さぬき市津田町、雨滝山東斜面の御座殿・神野あたりに推定される。

470日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:07:33.72
>>345
>違うというなら、どこ七日具体的な地名を「根拠」とともに挙げて、反論してみてください

また真似っこだなぁww 本当にオリジナリティがないww

伊都国は糸島付近、中心地は三雲遺跡群
奴国は福岡平野、中心地はもともとは岡本遺跡群、
  弥生後期になると比恵・那珂遺跡群の方へ中心が移るようだ
  吉竹高木遺跡のある早良国は、奴国の衛星国が属国で奴国の中
今も、那の津という地名が残っている儺県が奴国の中なんだから、
岡本遺跡群を奴国の外に出すのはムリ

不彌国はある意味どうでもいい

投馬国は出雲
『投馬』の上古音は、dug-magでカタカナ表記なら「ヅマ」だ
「出雲イヅモ」のイが弱声化すれば、dug-magとかなり近い発音になる
投馬と出雲だと字面では似てないように思うだろうが、外国人が聞き慣れない発音を聞き取って当て字で表記したと考えれば、かなり妥当な推定だろう
出雲は、西谷墳墓群を作るほどの王権が発達した大国だという考古学的事実もある
弥生時代の遺跡からは各地の土器が出て、人の交流の結節点だったことが考古学的物証で示される
日本の記録、記紀でも重要な国として特記してある(古事記の神代の三分の一は出雲記事)

で、邪馬台国はヤマト国だよ

>>345のむちゃくちゃよりは、よほど筋が通っているし、地名とも整合性があるだろ?

>>346
完全に同意!!

471日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:07:34.08
>>467
取るに足らないものしか出なかったから建設したんだろう
普通は建てないけどな

472日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:11:30.72
>>470
投馬国はどちらかというと瀬戸内海の鞆の浦の可能性が高いと思うよ

473日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:11:34.47
>>423
纒向小学校のHP見たけど
そんなの出てないな ガセネタかチンケな遺物

474日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:14:27.11
纒向にはわざわざ発掘しなくても3世紀の前方後円墳とかあるやんなあ

475日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:15:23.27
>>470
投馬国は宮崎県妻の都万。

476日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:17:09.34
>>474
3世紀という根拠は?

477日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:17:19.23
おお笑い

學校の建設で纏向沈没

478日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:18:35.44
>>360
>>水系が違うからね <
>早良平野と吉竹高木(吉武高木ともいうらしい)」は、同じ室見川水系。

日本語読めますか?
奴国のある那珂川と牛頸川流域と、早良国の室見川流域が、水系が違うから「元は別の国」って言ってるんだよ

>須玖岡本説は、魏志倭人伝の説明に合わないから、×。

「魏志倭人伝に合わない」んじゃなくて、「九州説の脳内妄想に合わない」の間違い

>三雲や平原付近では2万戸が困難であり、

なんで伊都国と奴国を一緒にしてるの?
奴国は早良平野まで含む福岡平野一帯だから、2万戸に相応だろう?
まあ、2万戸自体は実数ではなく誇張が入っているだろうけれど

>吉武高木が、倭奴國の頃からの首都であった可能性があるからの推定であり、
>国境ではなく、峠を越える事になるだけ。

その可能性の「根拠」は?
吉武高木遺跡の王墓の年代は弥生前期末から中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)で、
漢委奴國王の朝貢とまったく時代が合わないんだけど?

>県庁所在地や市役所が目的地であれば、その門や入り口までだ。

なんだか、日本の常識と違うな、この人は

479日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:19:55.15
>>475
そっから先南に水行10日陸行1月に邪馬台国がある事になるん?
九州南部は狗奴国だから投馬国を宮崎とすると地理的に収まりそうにないよ

480日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:20:40.29
>>476
炭素14C年代測定法

481日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:20:51.03
>>469
日本書紀に、応神天皇が、難波津から故郷へ船出する愛しい人の舟を見送りながら
「淡路嶋 いや二並び小豆嶋 いや二並び 寄ろしき嶋嶋 誰れか去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」
(淡路島は小豆島と二つ並んでいる。私が立寄りたいような島島は、皆二つ並んでいるのに、私は独りにされてしまった。誰が遠くへ行き去らしてしまったのだ。吉備の兄媛を、折角親しんでいたものを)

別に難波から小豆島が見えるとか、そういう歌じゃないよ。

482日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:21:47.99
>>477
周りの人間は何言ってんのこの人って感覚だけど

483日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:23:06.93
>>478
奴国は室見川の方だと思っていたよ。

484日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:23:54.29
大津皇子可哀想だな。
辞世の句

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

ももづたふ、敦賀や鈴。

イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。

太陽は烏。


金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向 

金烏の家は西にあるのかな。和泉路に賓主はなし。

我こそが応神天皇の子孫だと言いたかったんだろう。
息長氏(敦賀、鈴)、神功皇后、応神天皇。

485日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:24:19.49
鈴の宮

486日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:24:42.76
>>478
>なんだか、日本の常識と違うな、この人は

中国では城郭都市の城門までだったと思うよ。
わざわざ町の中央からの距離を測るとは思えない。

487日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:24:43.94
>>362
王の権力の大きさの指標として、王墓の大きさはかなり重要だってことが認められずにダダと捏ねてるだけじゃん

舶載鏡2面は、当時の墳墓としては特に珍しくもない
結局「でかい鏡がある」と「仿製鏡であってもたくさんの鏡がある」のがすごいって言えばすごいかな

これが卑弥呼の墓だとすると、なぜ魏の皇帝から新しい鏡を100枚もらったのに、それより150年も前の鏡の仿製鏡を30枚以上も作って副葬しなきゃいけないのか、説明してごらんww

488日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:25:16.96
>>479
日数は一万二千里にかかる日数。

489日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:25:28.39
奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき

奥山、オクヤマツミ、秋津。
鹿、鹿島の鹿、関東の先住民、中臣の守り神。

鹿が鳥の味方になり、オクヤマツミの勢力は負け秋が来た。悲しいなぁ。

490日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:25:52.35
>>482
何もないから建てたんだろ?

491日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:26:29.24
>>481
>「淡路嶋 いや二並び小豆嶋 いや二並び 寄ろしき嶋嶋 誰れか去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの」
>(淡路島は小豆島と二つ並んでいる。・・・・・・)

難波から小豆島が見える、そういう歌。

492日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:26:38.37
>>480
なるほど
それで何で計ったの
ベニバナ花粉?
桃核?

493日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:29:05.06
畿内説で所都の候補地は纏向以外あるの
葛城?

494日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:29:49.28
熨斗鮑、
伊勢神宮でアワビを刻んで熨斗を作る伝統がある。
阿波忌部。
アワビを刻む度に、罪を噛み締める役割を担っていたのかな。

495日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:32:16.51
サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波サク

国底立神、国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神。
&阿波咋。

倭国大乱を引き起こした張本人。

496日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:33:37.97
>>493
もっと田舎で何もない。

497日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:33:49.16
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると「天村雲命伊勢大神主上祖也。
神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」

阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖を祀っているのである。

498日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:34:31.66
ググることすらできない池沼がでかい口をたたく

http://www.makimukugaku.jp/info/iseki.html

499日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:35:37.10
>>377
>>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
>これが間違い

否定したいなら「根拠」を書けと何度言えば!
書けないんだろうけどさ

>>365に書いておいた「鏡の考古学」ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmが
詳しいから読んでおいで
中国の墳墓から出た年代の確実な鏡との共伴関係を基盤にして、岡本編年より信頼できる論になってるから

500日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:37:57.73
魏志倭人伝に出てくる地名を現在と比較してみよう

対馬国=対馬
一支国=壱岐島
末羅国=松浦
伊都国=糸島
奴国=儺県(なのあがた、博多の旧名)
不彌国=宇美町?
で次に水行するとあるから九州北部に邪馬台国の入り込む余地はないのでは
やっぱり邪馬台国=大和国なんじゃ

501日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:37:58.62
杵築大社の天井図。
八雲なのに一つ足りず七つしかない。

もう一つの雲は何処に消えたのか?

502日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:40:17.20
>>498
それ天下り先で造っただけだから
橿原考古学研究所で充分だったのに
税金の無駄遣い

503日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:40:42.09
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸。
https://goo.gl/HVTW1n

504日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:40:49.28
>>387
>筑紫の土器編年は、同じものの大和の土器編年よりも、50年位は古い、という事は常識でした。
>だから、布留の始まり同士の、ホケノや箸墓よりも那珂八幡の方が50年位古い、 という事になる。

ちょっとびっくりした
今どき、そんなことを言う人がいるとは思っても見なかった
この辺りを読んでみてから書き込んでくれるかな?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf

こういうのを「根拠」っていうんだよ!

505日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:41:10.84
>>488
日数がどうだろうと
投馬国が宮崎とするなら邪馬台国は九州最南端となってしまって
狗奴国は邪馬台国の南と書いてる魏志倭人伝の記述に合わなくなる

506日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:42:48.73
加茂岩倉の勢力は、オオナムチに敗れて散り散りになったのかもしれない。

カグツチが生まれた所為で、イザナミが亡くなる

507日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:43:18.82
>>490
そこら掘ってもそんな何でも出てくるわけないよな
何変な事言ってるんだろう
九州説がまた変な言いがかりつけてるだけだな
ってみんな思ってるよ

508日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:44:07.63
>>387
>国民投票でも、掲示板でも、衰退したな。

国民投票ww そんなのいつあったんだ?ww
掲示板は>>387みたいに無駄な情熱のある人間wがいると、多数投稿で埋められるからな

そして、プロの研究者の人数は数えないという大笑い
九州説を唱えるプロの研究者は、考古学者でも文献史学の人でも絶えて久しいからねぇ
ネット弁慶って言葉くらいは知ってるよな?

509日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:44:11.78
>>492
古墳内から出土した土器の付着物じゃあなかったっけ

510日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:44:12.72
飛騨の口碑
中部の勢力が出雲を作り大和朝廷を作ったとある。
真実をある程度含んでいる可能性があるな。

511日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:47:04.15
出雲の王は、出雲の縄文系勢力と日本海側に進出したカグツチ、火神に倒されたんじゃないかな。

512日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:47:43.72
>>502
県立と市立の違いのわからないアホ
リンク先の記事も読めない池沼

513日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:49:42.07
各地で起こった渡来人征伐。
出雲の王サルタヒコ族、丹後半島の王ヤマタノオロチ族。

514日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:50:06.91
>>462
纒向遺跡の範囲じゃない
ガイキチの主張はイミフ

515日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:53:12.87
そのへん掘って何も出てこないから纒向は何もないとか主張するなら
今すぐ九州のどこでも適当に掘って何か掘り当てて
そんでここが邪馬台国だって主張すればいいのに

516日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:53:37.85
>>488
>日数は一万二千里にかかる日数。
何度も書いているけれど、萬二千里は中華世界の地の果てまでの観念的な距離
日数は報告書にあった数字なんだろう
まあ、10日単位くらいに丸めてると思うし、途中の宿泊地での逗留日数も入っていると思うけど

517日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:54:53.06
大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる
その状態で、九州に邪馬台国を持ってくるには
1.古墳時代の開始を4世紀と言い張って、邪馬台国が畿内に移動したと主張する(東遷説)
2.あくまで九州政権と畿内政権は別だと主張する(九州王朝説)
の二つしかない

ということで、九州説の人は以下の問いに答えてくれるとうれしい
・東遷説を採るのか採らないのか?
・東遷説を採るとするなら、邪馬台国の東遷なのか、神武の東遷なのか?
・神武と邪馬台国は関係すると考えるのか(≒邪馬台国はどこで神武はどこにいたのか)?
・九州王朝の存在を主張するのか?
・主張するなら倭の五王が大和朝廷の大王でないことをどのように論証するのか?

518日本@名無史さん2018/02/16(金) 21:59:42.78
>>500
>で次に水行するとあるから九州北部に邪馬台国の入り込む余地はないのでは

次、というのが誤読。
日程部分は魏志倭人伝でだけ追加されたおまけ情報。

519日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:00:11.65
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。
大和朝廷は、卑弥呼を共立した仲間の海神まで倒すんだな。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また火に関するものもある。

牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。

見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。

古い海神と言えば、BC1000年頃に渡来し稲作を広めた勢力、ヤマツミとワダツミ系かな。

520日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:00:21.72
>>505
わけわかんねー

521日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:00:51.92
>>507
王都ならそこらじゅうどこを掘っても何か出てくるよ。
福岡みたいに。

522日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:01:44.21
魚沼での鳥追い祭。
鳥追いの歌

鳥追いだ、鳥追いだ
この鳥どこから追ってきた
信濃の国から追ってきた
何を持って追ってきた
芝抜いて追ってきた
四番鳥(しーばんどーり)も五番鳥(ごーばんどーり)も たちゃーありゃーほいほい
いっち憎い鳥は
どうとさんぎとこすずめ (どうは朱鷺、さんぎは鷺、こすずめは雀の意味です)
こすずめのちくしょうが
稲三束盗んで
甘酒、から酒作って
どうとさんぎを呼んできて
どうに六ペー飲ませて
さんぎに三杯飲ませて
酔った酔ったこんときだ
きじん鳥にぼっざえて  (きじんは雉、ぼっざえてはおんぶしての意味です。)
佐渡島へほいほい

酒に酔わせて退治するみたいな歌だな。
渡来人征伐の話かな。

523日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:01:57.86
>>517
同じ質問を繰り返すな。

524日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:02:25.56
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif

525日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:04:47.99
纒向遺跡、前代未聞の非道な遺跡。民を虐待した証。
卑弥呼が亡くなった時に殉葬100人。

その後も殉葬は続く。
日本書紀に生き埋めにされ泣き叫ぶ様がリアルに描かれている。

大罪だな。

526日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:07:37.37
纒向小・・・大溝
織田小・・・纒向遺跡の範囲外
橋本小・・・存在せず
東小・・・存在せず
箸中・・・存在せず
大三輪中・・・纒向遺跡の範囲外

既知害のやることは理解できん

527日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:09:44.58
>>518
そもそも里程は邪馬台国まで到達しておらんぞ

オマケというか
魏志倭人伝の元ネタ魏略は伊都国までの記述しかない
使者は伊都国で留まったとあるから
外国の使者はそこまでしか通して貰えなかったんだろう
魏志倭人伝の著者陳寿はそこが邪馬台国ではない事を知っていたから
里を知らず距離を日数で表す倭人からの情報を聞いて付け足した
そんで誤った情報を伝えられたか、
それとも倭人が国防のため意図的にウソを言ったのか
結果南に水行20日、陸行一月…の記述が魏志倭人伝に加わる事になったという事

528日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:11:01.45
>>521
じゃあどこ掘って何が出てきたの
親魏倭王の金印でも見つかったか

529日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:11:31.24
>>526
>織田小・・・纒向遺跡の範囲外
>橋本小・・・存在せず
>東小・・・存在せず
>箸中・・・存在せず
>大三輪中・・・纒向遺跡の範囲外
これは酷すぎるw

530日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:11:35.46
邪馬台国畿内説というタイトル&テンプレ

大和朝廷の罪を他の地域にまで擦りつけようとする、汚らしい小賢しい意図が見え隠れする。

邪馬台国は大和国。生駒葛城山系の西側。
他の畿内は被害者。巻き込むな。

531日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:12:26.43
>>520
そうだろ?
九州説はそんなわけのわかんない主張をしているわけだ

532日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:12:36.79
>>530
邪馬台国は大和国。
生駒葛城山系の東側。

533日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:16:58.46
纒向には別に掘らなくても前方後円墳がそびえ建ってるんだが

534日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:19:07.70
>>529
所詮、キウスのやることだから

535日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:21:01.48
ザラコク壊走

536日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:26:06.53
ジジイ達は寝る時間

537日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:26:18.11
>>523
>同じ質問を繰り返すな。
このスレにこの質問は一つしかないけど?
何言ってるんだかww

お仲間の>>401他に言ってやれよ 繰り返すな!って

538日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:42:47.01
テスト

539日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:49:19.45
>>533
その多くが卑弥呼時代に届かないだろう
卑弥呼に共立される前にも王がいたこと忘れてる?

倭人伝には「首都が移った」との記載は無いしね

540日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:53:31.14
>>241
いや、「南→東」などの嘘吐き騙しや、「長里だけ」がウソと発覚して、
大和説絶望。

541日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:54:00.52
>>533
卑弥呼時代は萩原墳丘墓

542日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:54:23.73
邪馬台国は卑弥呼が都を置いた処としか書かれていない。

女王国が倭国と認められたのは、何回も朝貢し親魏倭王の称号を得てから。

男王の都が邪馬台国である根拠は何もない。

543日本@名無史さん2018/02/16(金) 22:57:01.41
>>243
大和は、
元々筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
伊都国系の分家の倭人系。

544日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:01:28.11
>>245
大和の国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったから、
伊都国などから三種の神器を分けて貰ったんだよ。

545日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:14:49.34
>>487
>これより150年も前の鏡の仿製鏡を30枚以上も作って副葬しなきゃいけないのか、
これが間違い

546日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:20:23.11
>>545
>これが間違い

>これが間違い

否定したいなら「根拠」を書けと何度言えば!
書けないんだろうけどさ

>>365に書いておいた「鏡の考古学」http://home.p07.itsc...t/strmdrf/kagami.htm
詳しいから読んでおいで
中国の墳墓から出た年代の確実な鏡との共伴関係を基盤にして、岡本編年より信頼できる論になってるから

コピペで済むから楽だわww

547日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:20:28.49
>>246
>>田舎の播磨や河内や大和が、都の弥生銀座に憧れて、
都の「市」へ、土器を搬入上納したから<

>九州の地で九州の土で「畿内様式の甕」を奴国の中心地で作っているんですよ?<

奴國ではないよ。
都の弥生銀座では、三雲で始まった庄内を造っているところに、
播磨や河内がそれを模倣して造ったものを搬入上納して来て、売りさばいたのだよ。

>そして、その後九州様式甕がなくなって、畿内様式甕だけになります<

明大の佐々木氏の論考では、九州の庄内と播磨や河内からの庄内が共存していた、
という説明であったよ。

>>「纏向に東海などの西日本の物資が集まったから、纏向が西日本の盟主だった」
と主張したのと同じ論理で、筑紫の西日本全域と半島からの物資が集まったから、
筑紫が西日本から半島南部全体の盟主であった。<

>纒向では、外来土器に地元の土器が淘汰されるなんてことは起こっていませんよ?<

纏向には、筑紫の土器は搬入されていないし、
纏向の土器は、播磨や河内に比べて弥生銀座には殆ど搬入されていないんだよ。
王都纒向と、王都からの一大率を受け入れていた地域の差ですね!

548日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:21:19.09
畿内の文化一色に塗りつぶされる九州を見てバカな妄想を喚き続けるアホの九州説に笑いが止まらない

549日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:24:00.63
>>548
貢いでいただけだよ。

550日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:24:56.66
>>542
ずっと倭国なんだが

551日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:25:18.21
>>547の忘れ物
>王都纒向と、王都からの一大率を受け入れていた地域の差ですね! <

王都弥生銀座と、田舎の別種の旧小国の纏向との、地域性の差ですね。

552日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:25:58.40
>>527
>魏志倭人伝の元ネタ魏略は伊都国までの記述しかない

つまり伊都国が邪馬台国の中心地

553日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:26:01.77
応神さんとか伊都国の地が入っているかもしれないけどね。

応神仁徳で畿内はまたやられるんだから、馬鹿にできない。

554日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:27:56.63
九州北部の三種の神器が現在まで継承されているというのに、畿内の土器がどうとか、ちゃんちゃらおかしいわ。

555日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:28:49.33
>>543
>大和の国は、筑紫城の倭奴國から別れた別種の旧小国であったから、

私は神武天皇の実在を認める立場だからもとをたどれば、九州倭国が本家筋だと思ってるよ
ただ、卑弥呼の時代より5世代(100年くらい?)前
卑弥呼の頃には倭国は九州限定ではあり得ない
ただ卑弥呼が共立された理由に九州倭国の血筋ってのも案外重要だったかもしれない

でも、別種でも東渡海千里の倭種でもないよ
関門海峡が千里ってのはどうやっても通らないし、そこから畿内まで地続きなんだから

556日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:29:48.50
自分達の文化を全部畿内の文化に上書きされて消滅させられてる雑魚
生活も宗教も宝物も全て無くしてる
それが九州
こんなところが邪馬台国とかほざいてる低能が九州説

557日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:31:05.24
>>247
>>「畿内から独立」したのではなく、<

>>211は畿内と北部九州の交流は認めるんですね?
それならば、魏使も畿内の人に会い、畿内の纒向遺跡の情報も得ていたことは認めますね?<

どういう文脈の話だったか?は知らんし、
魏使が弥生銀座で畿内の人にあったのかで?なんて事も知らんが、
纏向の人間が少しだけ弥生銀座にも来ていた、という事は認めているよ。

558日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:33:38.33
邪馬台国は大和国。
尾張や出雲など縄文系勢力による政権。
大和朝廷。
渡来人殺し、神殺し、関東東北を征伐した張本人。

559日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:36:02.37
>>546
岡本ってだれだよw

560日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:36:12.98
九州北部が倭国の発祥の地であることを理解すれば、古代史は非常にわかりやすくなる。

561日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:39:23.18
>>554
>九州北部の三種の神器
翡翠が九州では出ないことをどう思っているんだろうww
翡翠の産地は沼河比売の故郷だけだよ
出雲の大国主の奥さんの一人
出雲は大和と関係が深い

というか、日本神話的には九州王家の傍流神武と、出雲の言代主(大物主)の子孫・媛蹈鞴五十鈴媛命が大和で結婚して皇統が始まることになっている
で、神武から5世代あとが纒向に都を置いた崇神の頃が邪馬台国の時代

562日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:39:53.16
正に邪馬台国の直前に400年の文化をすべて失い全く関連もない畿内の文化に全て上書きされる負け犬ド田舎
それが九州
こんな場所に邪馬台国があると妄想を叫ぶアホが九州説

563日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:41:57.24
邪馬台国は大和国。大和朝廷。縄文系勢力による政権。
関東東北を征伐したのは、尾張出雲阿波などの縄文系勢力です。
誤解しないでください。

564日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:42:37.75
>>559
ごめん(>_<)
×岡本→○岡村だ
岡本遺跡って何度も書いてて自分に釣られた

565日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:45:55.70
>>560
>九州北部が倭国の発祥の地であることを理解すれば、古代史は非常にわかりやすくなる。
それはいいんだよ
昔は先進地だったのは私も認めてる
ただその繁栄が3世紀まで届かないんだよ
卑弥呼の頃には倭国王を張れるような国力は北部九州にはない

566日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:49:54.97
>>252
>九州の辰砂の鉱脈は飛鳥時代になってから畿内豪族によって「発見」されています<

こりゃまた、信用出来ない話をしているね。
飛鳥時代と言えば、大半はまだ筑紫倭国が盟主であった時期。
そんな時期に大和の?豪族がわざわざ九州まで行って、丹山を探しておれるもんかね?。
こりゃ、その豪族が自分が発見したかのように報告でもしたんだろうなあ。

>弥生時代の九州には丹(水銀朱・鉱石としては辰砂)が「ない」んですよ
産出しないものを「有」と書かれることはないでしょ? <

魏志には、きちんと「其山有丹」と書かれていし、「丹木」も魏に献上している。
この「其」は、当然魏使らが訪れた九州倭国の事。

>存在すら未発見なのですし <

魏志にはきちんと「ある」と書いている。

567日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:52:59.73
何も見つからない九州
見つかった見つかったと喚き散らすものは皆古墳や三角縁、庄内式と同伴
畿内の文化どっぷりの中にあるものを誇らしげに叫び続ける間抜け
それが九州説

568日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:54:28.68
>>255
>筑紫伊都の勢力がどの時代に畿内に移動したのかは大問題ですね。<

移動なら、新唐書に神武の頃であった、と書かれているが、
旧唐書や唐会要によれば、大和日本国は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国だった、
と書いているよ。

569日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:55:19.77
>>557
>どういう文脈の話だったか?は知らんし、
>魏使が弥生銀座で畿内の人にあったのかで?なんて事も知らんが、
>纏向の人間が少しだけ弥生銀座にも来ていた、という事は認めているよ

魏使に「大和の纒向に大都市を要する大勢力があり100メートル級の大墳墓を作っている」という情報が届いたら、九州のローカル王が「親魏倭王」の称号を得ることはない

>>259を再掲
九州説の人は「親魏倭王」を甘く考えすぎ
使訳通じるところの30ヶ国から異議が出ないところでなければ、魏朝から「親魏倭王」の除正はない

華夷秩序というのは、中華の王朝に対して蛮夷が朝貢し、それに対してそのトップを王なり侯なりに除正し、配下に率善中郎將などの位階を与え、朝貢の品の何倍もの下賜品を与えることで、王朝の権威を示すというシステム
ここで、トップの王なり侯なりへの除正を間違うことが、王朝ひいては皇帝の権威に一番傷を付けることになる
だから、文句が出そうであれば除正の範囲を値切るし、答礼使を派遣して確認することになる
実際倭の五王の遣使の時には、上表文で求めた半島についての称号を外されているだろ?

畿内の人間が奴国や伊都国に来ていることを認めるなら、大都市纒向の情報は魏使の耳に入るし、それより小さな首長墓しか作れない伊都国王は「倭王」にはなれないよ

570日本@名無史さん2018/02/16(金) 23:59:29.22
>>257
>「田舎者」というのは>>253の単なる主観ですね
伊都国が10メートルそこそこの墓しか作れない時代に
100メートル級の巨大墳丘墓を作っている大勢力ですよ?<

大和日本国は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
「大勢力」なんてものではない。

571日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:00:55.08
>>566
じゃあ、>>566は九州王朝説を信じてるんだね?
では、倭の五王が大和朝廷の大王ではなく、九州王朝の人物であることを「根拠」を付けて論証してくれ!

572日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:09:49.64
>>561
>翡翠が九州では出ないことをどう思っているんだろうww

九州が全国を統一して富や財宝を集めたんだろ。

>というか、日本神話的には九州王家の傍流神武と、出雲の言代主(大物主)の子孫・媛蹈鞴五十鈴媛命が大和で結婚して皇統が始まることになっている

畿内は筑紫倭国の分家ということでしょう。

573日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:11:15.47
>>565
>卑弥呼の頃には倭国王を張れるような国力は北部九州にはない

平原の財宝を見て国力がないとか、頭おかしくない?

574日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:15:13.99
>>569
>使訳通じるところの30ヶ国から異議が出ないところでなければ、魏朝から「親魏倭王」の除正はない

九州北部に倭国三十カ国があったのだから、出雲を倒して盟主となった筑紫に文句をつける勢力はいない。
大国主の遺言だし。

575日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:15:53.97
>>571
家系図が違うじゃん。

576日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:17:14.06
>>572
統一していないよ

蝦夷というのは?

577日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:20:01.43
いままだ統一出来ていない
と言ってる人がいたり

578日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:24:25.21
>>472
>投馬国はどちらかというと瀬戸内海の鞆の浦の可能性が高いと思うよ
鞆の浦を推す人も多いのは知っているけれど、鞆の浦あたりは平野がないから
五万戸を想定できるような面積もないし、めぼしい弥生遺跡もないから、
私は出雲の方が分があると思っているよ

579日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:28:28.12
メディア(テレビ。新聞。・・・その他)

洗脳ツールを利用(悪用)しているだけだと言っていたり

日本というのは、
このようになっているんですよと
嘘を教えたり、伝えたり、洗脳(拡散)

580日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:34:03.33
近代まで続いていたという話なんじゃないの?
戦争(大戦)というのがあって

・・・
蝦夷(出雲、不明?)の勝利だという話ばかり

581日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:40:49.97
>>571
>家系図が違うじゃん。

仁徳の次の履中が朝貢してないんだよ
すると大陸王朝側はずっと倭王は讃=仁徳だと思っている
そこへ履中没後に反正が朝貢し、先王の兄が薨じたので弟の反正がたったという情報が伝えられれば、
讃の次が珍で弟と記録される訳だ 原文は「讃死弟珍立」
そして斉=允恭、世子興=安康or木梨軽、武=雄略は完全一致している
宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣呉使記事は対応が取れる

これで大和朝廷の大王ではないというなら、一行書きで済ませられるような根拠じゃあダメだよww

582日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:45:04.69
大和vsギリシャ、ローマ、ロシア

大和vs世界

漫画やアニメなども、
実際は、りんち?のような状態だと言ってる人もいた

次々と襲い来る敵勢力

583日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:50:35.03
>>574
>九州北部に倭国三十カ国があったのだから、
どこに?
松浦から博多までで国が3つしかないよ?
そうやって九州限定の倭国にしようとすぐするけど、丹の出ない範囲だけの九州は
魏志倭人伝の「其山有丹」だけで否定される

そして、出雲の弥生遺跡からは外来の搬入土器が多く出ており、倭国内の人の移動を伴う
交流の結節点であったことが、考古学的出土遺物からも見て取れる
出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている
論文ではないが、ソースとして山持遺跡の紹介パンフのpdfのURL貼っておくよ
ttp://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/tayori/kankoubutu/hakkutupanhu.data/1-P1-11.pdf
半島に置かれた楽浪郡、帯方郡の漢人、魏人が出雲まで来ていないと考えるのは難しいし、来ていれば当然に出雲王の羽振りのよさも分かる訳だ
出雲と楽浪郡の行き来が土器という考古学的な物証で確認できるんだから、当然「使譯所通三十國」に出雲も入るだろ

584日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:54:33.37
北?

なぜかミサイル報道ばかりでしょ、
勢力的には大和?それとも出雲、蝦夷の系統?

585日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:55:47.01
どのスレだったかな

ですら〜

と言ってる人がいたり

586日本@名無史さん2018/02/17(土) 00:56:43.50
>>573
>平原の財宝を見て国力がないとか、頭おかしくない?
仿世鏡30枚ちょいが何を言ってるんだか
出雲では鉄剣358本1カ所の遺跡(荒神谷遺跡)から出てるし、仿世鏡の枚数なら大和は何百枚も作って九州も含め倭国中に配ってるよ
同時代の本当の大国と較べたら平原1号墓は大したことないんだって!

悔しくて認めたくないのは分かるけどさww

587日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:00:58.49
>>572
>畿内は筑紫倭国の分家ということでしょう。
分家したのが卑弥呼の時代の100年以上(?)前だから、卑弥呼の時代には九州より大きな大勢力だよ

結局、九州説ってのは編年の想定がおかしいんだよな
卑弥呼より100年も200年も前のことで、九州はすごいって言ってるだけ
実際は「すごかった」という過去形なのに

588日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:06:33.21
かなり前から気になっていたんだけど、
というか思い出した?
セイントセイヤというのは何なんだろう


鳳翼天翔という曲

589日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:10:25.68
サルタヒコと言うスレ

・誰々、何々がピンチになると、助けに来る。
・兄。
・電気石。

このような、よくわからない事を言ってる人がいたり

590日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:12:58.25
>>569

だから、巻向は大都市じゃないって
ホケノより前は鉄もないし、銅製品も銅鐸の欠片のみ
花粉だけじゃなく、大陸製品は何かあるのかい?
3世紀前半の出土物があまりにも貧弱だ

591日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:13:54.63
電気石というのはポケモンの話でしょ、
ポケモンの主人公には兄弟がいたの?いるの?

592日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:16:51.06
それともポケモンの原作者?の話なのかな

兄弟とかいるの?

593日本@名無史さん2018/02/17(土) 01:37:17.06
肝心の邪馬台国の直前から大発展する纏向を「それ以前は田舎」とか喚く九州説の間抜けぶり

毎度毎度「弥生時代を通じて」「邪馬台国のずっと前には」とかトンチキなこと叫んで何か言った気になってるアホ面が毎度笑える

594日本@名無史さん2018/02/17(土) 02:10:49.46
>>517
結局九州説は、東遷説の安本美典氏主催の邪馬台国の会か、
あるいは、九州王朝説を唱えた古田武彦氏の説を信奉する古田史学の会の情報を
鵜呑みにしてるんだよな

でもどちらも古い情報で組み立てた説をいまだにそのままにしてる

例えば九州王朝説を成り立たせるには、結局白村江で捕虜になった筑紫君薩夜麻が倭国王だというしかなくなって、倭の五王も九州王朝だと言い張る
そうなると、常識的な人辛みレバー、どう見てもおかしいって分かる訳だ
まあ、ご本人は宗教的な確信があって自己洗脳状態だから何を言われても聞きゃしないけど、
周りの人に九州説の言ってることがおかしいことは伝わるからいいだろ

595日本@名無史さん2018/02/17(土) 03:02:17.57
人辛みレバーというパワーワード

596日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:10:18.82
>>512
県立と市立の違いのわからないアホ
リンク先の記事も読めない池沼

これを、行政コストの無駄として批判されてる二重行政と言うのだよ

597日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:17:03.55
つまり
県立橿原考古学研究所で充分、纒向の研究は続行可能だったのに
桜井市立纏向学研究センターを設立させてしまった事が税金の無駄遣い

598日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:21:51.81
桜井市立埋蔵文化財センター

599日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:27:07.64
桜井市立埋蔵文化財センター
そんなのもあるなだね

600日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:39:24.88
多重行政

601日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:45:00.92
>>259
>畿内の人間が奴国や伊都国に来ていることを認めるなら、<

何度も言うが、奴國へ来たのか?は、不明。
来たのはのは邪馬壹國の弥生銀座。

>大都市纒向の情報は魏使の耳に入るし、<

これも不明。大和は、旧小国。

>それより小さな首長墓しか作れない伊都国王は「倭王」にはなれないよ<

伊都国王は、倭王ではなく、倭国の軍事的支配の中心の一大率の国。

602日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:47:58.43
畿内説に偏らざるを得ない
研究者の利権
畿内説は銭で動く

603日本@名無史さん2018/02/17(土) 05:49:29.65
>>594
邪馬台国で検索すると、邪馬台国の会が出てきて
安本美典の名前が出てくる
それで俺もつい最近の安本の講演動画を見たばかり
でも日本史スレを見る限り、安本の説はマイナーなのかよ

604日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:02:48.15
>>261
>>(奴國は三雲や平原から)吉竹高木の早良平野付近。<

>吉武高木遺跡を奴国にするのはいいけどさ、不彌國はどこに置くんだい?<

奴國説明は伊都国からの側副傍線國説明であり、魏使らは行っておらず、
だから、伊都国の次はその東百里の不彌國になり、
糸島水道の東端付近から姪浜を通って、小戸大神宮付近が不彌國の入り口になり、
藤崎西新町〜博多湾岸に広がる国になる。

>「短里説」wwでは、1短里が70メートルくらいなんだろ?
奴国ー不彌國間が100里だから、吉武高木遺跡から7キロくらいだろ?
でも、吉武高木遺跡と須玖岡本遺跡間が12キロ以上あるぞ <

奴國は、魏使らは通っていない。

>須玖岡本遺跡も奴国の中だよな?<

奴國と邪馬壹國との境界は、おそらく「油山」山地付近だ。

>不彌國ってのは奴国の内側にあるのか?ww<

博多湾岸だ。

>どうやっても「短里≒70メートル」なんてのは、無理なんだよ<

史料実態は短里であり、長里は全く×。

605日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:04:51.81
>>602
邪馬台国がどこにあっても何も変わらない
歴史学者が趣味の範囲で研究すれば良い

606日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:15:26.59
>>603
個人の見解だから とやかく言わないが

○✖説で決まりと思って読むのと、よくわからないから読むとの違いもあるし
まず、多くの書物を読むことは重要だね

607日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:17:41.11
>>263
>(那珂八幡の第1主体と第2主体)同じじゃなくてもいいけどさ、
編年上いつ頃を想定するんだ?<

発掘された第2主体には、布留と三角縁があって、
それが大和の箸墓よりも50年位古い、
という事であった、と思うよ。

>出ている三角縁神獣鏡は椿井大塚山古墳出土鏡の同笵鏡だから、本当の出現期ではないぞ<

椿井大塚山古墳は、大和ではないし、内行花文鏡が中心に置かれているから、
おそらく、内行花文鏡を(女王から)下賜された筑紫倭国の東征将軍の墓。

>「大和の発生期・出現期の前方後円墳と比べ規模は格段の差がある」とWikipediaその他に書かれているような古墳が
箸中山の手本だったというのは無理があるだろう?<

後から模倣して造る方は、前よりも「より拡大してより豪華に」造るもの。

608日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:21:53.23
>>602
当たらずといえども遠からず

609日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:23:43.83
>>264
>なんで致命的? <

大和説者自身が「回りから物品が搬入された纏向が中心だ」と言っていたのに、
筑紫→纏向の搬入が0で、纏向→筑紫の搬入が多い、という事なら、
纏向は西日本の中心ではなく、筑紫が西日本の中心である事になってしまうから。

610日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:28:20.59
>>269
>北部九州との交流が乏しかったという事
北部九州と畿内勢力と取引はあったが、相手は残念ながら「巻向」ではない
北部九州の庄内土器の多くは大和型ではないのだよ 北部九州を無視して倭人伝は語れないし
ホケノからは内行花文鏡の欠片が出土するので、
出雲や吉備経由で間接的に影響はあったかもな<

成程。
ホケノも、筑紫の女王から「鏡片」を貰っていた可能性があったのか。

611日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:49:00.42
>>271
>2015年から淡路島の舟木遺跡の発掘調査が行われていて、弥生終末期の鉄工房遺跡としては最大級のものだと確認されていたりしている
2016年には滋賀県彦根市の稲部遺跡でも鉄器工房群が出ているし、畿内に鉄製品を供給するには十分な規模だと思う<

大和に出なくっちゃ、大和が首都ではない。
有り得る事は、どちらも筑紫倭国の東征途上の地。

>例えば1世紀の稲作遺跡として知られる静岡県の登呂遺跡からは鉄製品は出土していないけれど、
鉄の刃先を付けて使う鍬の木の部分が出土していて、登呂遺跡で鉄を使っていたことを疑う人はいない
1世紀の静岡でも普通に鉄を使っていたのに、3世紀の畿内に鉄がないってどうして思うんだかそっちの方が不思議<

登呂なら、諏訪が近いから、出雲や越や毛人蝦夷の影響下の可能性が高いな。

>さらに、鉄の供給が潤沢になると稲の収穫用の石庖丁が消えるんだが、
石庖丁が使われなくなるのは北部九州より畿内の方が早い <

「畿内」と言って誤魔化しているから、またこれは大和の事ではないな。

>九州説の人が九州の方が鉄が多いって言うのの根拠は、「甕棺墓から出る鉄鏃」だけなんだよ
そして甕棺墓が廃れたあとになると、九州でも鉄鏃はほとんど出なくなる<

魏使らは、明らかに鉄鏃を使っている。

>纒向遺跡は交易用の運河と見られる纒向大溝から建設が始まっていることからも、「計画都市」と考えられているんだよ
ちなみに纒向編年の基礎は、この纒向大溝の堆積物中の土器資料から作られている
どう考えても立派な都市だろ?<

倭国の別種の旧小国。

612日本@名無史さん2018/02/17(土) 06:54:29.95
>>274
>あと、大溝って福岡の方が有名でより古かったような気がする。
纒向って筑紫の劣化コピーじゃん。 <

成程。

613日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:02:33.50
>>277
>>北部九州の庄内土器の多くは大和型ではないのだよ <

>河内型だって言いたいんだろうけれど、庄内期に入る前の畿内第X様式の時点で河内と大和の土器形式は一体となっていて、
大和盆地と河内湖西南の西河内は一体の勢力圏だよ <

米田らは、播磨と河内は、大和とは別勢力だ、と言っているんだろ?。

>この「畿内第X様式の範囲」がおそらく、邪馬台国の「七万戸」の範囲
邪馬台国自体は大和盆地西南部のもっと狭い領域だろうけど<

「南≠東」に拠って、始めから×。

>>北部九州を無視して倭人伝は語れないし<

>不彌國までは北部九州だから無視はしないけれど、
そのあと水行20日で投馬国の時点で九州から出てるじゃない?<

投馬國説明は、途中移動がなかったから、側副傍線國の説明であり、南九州。

614日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:05:34.23
>>279
>河内は河内だよ。台与の時に和解。 それまでは河内はクナ国。
>河内を邪馬台国側に混ぜるなよ <

「南≠東」に拠って、×。

615日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:08:29.04
>>280
君は嘘ばかりつくな。 しかもタチが悪いわ。
関係ない地域を邪馬壹國側に巻き込むなよ。

>邪馬台国はヤマト、山外国。 葛城山系の西側。 邪馬台国の西の境界は知らん。
宇陀や伊賀辺りまで含むんじゃないか?河内より可能性があるわ。<

「南≠東」に拠って、×。

616日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:09:55.61
>>281
>葛城も御所も生駒も奈良も桜井も宇陀も伊賀も邪馬台国、ヤマト国。
河内は河内。<

「南≠東」に拠って、×。

617日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:11:57.51
>>284
大和説の生命線だから、必死で嘘つき騙しの屁理屈考えてるな。
苦しいねー w 。

618日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:14:44.37
>>285
>畿内第X様式は中河内と大和南部で始まって
100年くらいかけて拡大斉一化する
伊賀は北部が近江、東海、南部は畿内の影響を受ける<

河内と大和は、別だよ。

619日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:18:43.61
邪馬台国畿内説 Part1
1 :日本@名無史さん:2013/08/31(土) NY:AN:NY.AN
畿内説の人、他説の批判ばかりしてないでここで思う存分語りましょう

620日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:24:40.18
>>292
>>弥生銀座の繁栄は、
久留米〜八女方面に遷宮した317年頃までは、首都として継続していた。<

>久留米の前は伊都でいいの?<

卑弥呼の都はおそらく安徳台で墓は祇園山。
壹與の都は與止姫神社付近で墓はおそらく平原。
その後那珂八幡の王や、糸島の銚子塚や、平原付近の端山が墓になったが、
317年頃に久留米付近に遷宮した。

621日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:25:35.32
畿内説は、方角無視、距離無視、陸行水行無視、諸国無視、
最後に巻向と箸墓が出てきて、これが邪馬台国卑弥呼だーと叫ぶのみ。

パズルも何にもない。

622日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:30:59.06
>>285
>畿内第X様式は中河内と大和南部で始まって
100年くらいかけて拡大斉一化する


庄内式、布留式土器は畿内第X期東阿波型土器(薄型軽量土器)の技法伝播を示唆する。

鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、東阿波型土器と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。

623日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:34:59.20
>>296
>・・・ひと頃は、一つの墓から出た鏡としては、
平原1号墓が最多でだから重要って言ってた九州説の人がいるけど、
鏡種・枚数ともに桜井茶臼山古墳の方が圧倒的に多いね
九州説の人は、古い情報だけで同じことを言い続けているだけなんだよ
鉄もそう<

桜井茶臼山古墳は、大和ではないし、
頭に置かれたのは内行花文鏡であったし、
三角縁は中心ではなく場末のではなく副葬用であり、
鉄武器も多いし、ホケノの「有槨」から進化した竪穴式石室だから、
4世紀以後の、筑紫の東征将軍の墓。

624日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:40:55.24
>>298
>>纒向の周りには鉄があるのに、纒向には鉄がないのは、
纒向が交通の弁の悪いど田舎だったということなんだよ。<

>「大和弥生社会の展開とその特質(再論)」寺澤薫(2016)・・・とか読んでご覧<

「南→東」などの嘘吐き騙しの話は、時間がもったいないから、読むのも嫌だ。

>纒向は「それ以前に何もなかったところ」に「新たに作った王都」なんだよ
古いものが出ないのを田舎と言ってるだけだろ
何もなかったところに新たに作り始める契機として時期的に一番蓋然性が高いのが「卑弥呼の共立」
0から都市を造れるだけの実力が畿内大和に当時あったことも分かる<

「南≠東」の嘘つき騙しになるから、×。

625日本@名無史さん2018/02/17(土) 07:54:39.99
>>299
>>文献的には「有」でしかないので、それ以上も以下も無い<

>文献的に「有」と書かれるためには、存在が知られてなければならないことくらいは分かるよね?<

不可知部分が殆どである自然や歴史においては、全てが見つけられる筈もなく、
「存在」の記録がある事でも十分。

>九州の弥生時代には、というか古墳時代を過ぎて飛鳥時代まで、九州島に丹は「ない」<

魏使らは「あった」と幾つも証言している。

>倭国は九州限定で使譯所通三十國もすべて九州説だと、
明確に「其山有丹」と矛盾するんだよ<

松浦川上流に水銀鉱山がが¥あるから、十分。
それに「魏志」には、水銀朱だけである、となんて全く書かれておらず、
「丹木」を魏に贈与しているから、
「其山有丹」は水銀鉱山だけだ、という断定にはなんらの必然性もない。

>よく鉄が出ないから邪馬台国は畿内じゃないと言う九州説の人がいるけど、
鉄鏃を使うというのは倭国のことであって邪馬台国のことではない <

魏使らは、邪馬壹國女王之所都という中心地まで行っているんだから、
そこでの見聞を書いた、という事は否定出来ない。

626日本@名無史さん2018/02/17(土) 08:13:34.66
>>571
家系図が違う。

627日本@名無史さん2018/02/17(土) 08:17:27.39
>>581
>仁徳の次の履中が朝貢してないんだよ
>すると大陸王朝側はずっと倭王は讃=仁徳だと思っている

親子関係に基づいて倭王を認定するので、それでは反正天皇が嘘をついて天皇になったのか?

628日本@名無史さん2018/02/17(土) 08:18:04.86
【平原遺跡】

福岡県糸島市にある平原遺跡は大量の中国朱が外に流れ出したことで発見された。
1号墓は東西径13m、南北径9.5mの方形周溝墓。
割竹形木棺は長さ3m。棺底に厚さ4cmの青粘土。その上に朱を敷く。槨なし。
出土物は瑪瑙管玉12個、ガラス管玉30個以上、ガラス小玉約500個、ガラス連玉約886個。
ガラス勾玉とガラス丸玉約500個、方格規矩四神鏡32枚、内行花文鏡2枚、超大型内行花文八葉鏡5枚、虺龍紋鏡(きりゅうもんきょう)1枚(舶載鏡は前漢鏡1後漢鏡1だけ=籠神社の伝世鏡と同じ組み合わせ)。
耳璫(じとう)片3個。
長さ5尺(80.6cm)の素環頭大刀1本(卑弥呼が魏からもらった5尺刀か)。
隣接する2号墓と周溝を共有し、周溝の一部からは10名の土壙墓が見つかり、全体では約100名の殉葬があったと推定されている。
周囲に18本の柱穴があり、うち2本は日向峠に向かう鳥居と推定されている。

超大型内行花文鏡が後漢との交流が途絶えた後に独自進化したものであることから、平原遺跡が作られたのは倭国大乱後と考えられ、卑弥呼の治世である。
超大型内行花文鏡は直径が漢代の二尺(直径46.5cm)であり、円周はちょうど八咫(あた)であることから、王権の象徴である八咫の鏡(やたのかがみ)と考えられる。
伊都が文字通り倭国の都であったであったことがわかる。
女性用の耳璫があったので、被葬者は女王である。
つまり、平原遺跡は卑弥呼の墓であると考えられる。

・柳田康雄「九州弥生文化の研究2002」
(糸島地域p178)
「二世紀前半ともいわれている平原遺跡は、その年代に科学的な根拠は全くない。
瑪瑙や琥珀の玉類は別にしても、四二面のうち最も多い方格規矩鏡の中に、方格内の銘や小乳もなく、八像も簡略化され、玄武が釣針状の蛇だけになったものがある。
このように簡略化された方格規矩鏡は三世紀代に下がるものと思われ、鏡からでも三世紀前半まで下げて考えなければならない。
周溝から鉢形の土器が出土しているが公表されていない。」

・柳田康雄「弥生時代王権論」2013
(p317)
「拙稿のように32面の方格規矩四神鏡を含めて38面の製造技術が164年(『延喜七年』銘獣首鏡)以後、235年(「青龍三年」)銘方格規矩四神鏡)以前に見られる鋳造・研磨技術である」

629日本@名無史さん2018/02/17(土) 08:21:06.72
>>620
>卑弥呼の都はおそらく安徳台で墓は祇園山。
>壹與の都は與止姫神社付近で墓はおそらく平原。

卑弥呼の都はおそらく香椎宮で墓は平原。
壹與の都は與止姫神社付近で墓はおそらく祇園山。

630日本@名無史さん2018/02/17(土) 08:51:16.91
既知害じいさん達は朝が早い

631日本@名無史さん2018/02/17(土) 09:00:08.52
>>622
吉備から近畿への内面ヘラケズリ技法の伝播は弥生中期後半から始まる
指頭圧痕は縄文土器時代から

632日本@名無史さん2018/02/17(土) 09:31:23.75
>>300
>文献的には、ナガスネヒコなどヤマトの勢力は征伐されているからね。
考古学的にも、それに矛盾する結果は出ていない。
単純な卑弥呼の共立じゃないんじゃないかな<

「南→東」などのうそつき騙しになるから、×。

633日本@名無史さん2018/02/17(土) 09:34:41.93
>>301
>桜井茶臼山古墳や他の多く墓の鏡もそうだが、「破鏡」とは、鏡の欠片で、丁寧に断面が磨いてある物も多い
欠片でも貴重だった事が伺える <

成程。全く「鏡片」を造ったかのようだね。

634日本@名無史さん2018/02/17(土) 09:51:12.02
>>308
>破鏡や?製鏡は配布の鏡の不足を補う為に始まった文化<

いや、倭の女王たちが、部下に下賜する「鏡片」のために、破鏡した。

>その鏡が配布もされずにひとところにある時点で配布対象がいない周りに影響を及ぼせてない存在であるのが分かる
あとにも続かず、同時代にも周りに何も影響がない平原の現実を如実に表している<

誰かが、ホケノにも破鏡片があった、という事を紹介していたぞ。
という事は、ホケノも筑紫の女王の直接的な部下であった可能性が出て来た。

>そして茶臼山等の畿内を頂点とする鏡の配布は「九州にそれまで一切ない」
「三角縁」「古墳」の物であり、九州との連続性が無いのが明白<

茶臼山では、4世紀であり、ホケノ箸墓の後であり、やはり、筑紫倭國の東征時代。

>畿内は弥生末期から既に独自の小型?製鏡を作成配布しており、
邪馬台国以前から九州とは完全に別のシステムを構築しているのが知られている<

大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国。

>平原は何かの中心や起源ではなく2世紀に九州の勢力が崩壊し、
それまで400年続いた王墓も伝統もそこで絶えたと言う終わりの証拠と言うのが分かる<

弥生銀座は、317年の久留米付近への遷都するまで、筑紫倭國の首都地域。

635日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:00:24.79
>>517
・東遷説は採らない、東征説ですね。
・邪馬台国の東遷なんて何処から出てくるの?神武の東征ですよ。
・邪馬台国も神武も北部九州で、直接繋がるかどうかは不明ですけど邪馬台国の神武は末裔でしょうね。
・九州王朝は701年にヤマト朝廷に取って代わられるまで九州中心に存在していた。
・逆に倭倭の五王が大和朝廷の大王だなんて妄想、根拠も何となく名前が似ているからだけでしょ、雄略天皇等が漢風の名称を名乗ったなんて記録も無い。

636日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:04:27.83
>>309
>鏡の配布と言う形式は同じだが、三角縁の配布など九州に一切なかった新たな方式を意図的に採用している事からも九州と畿内の鏡の配布に連続性は見いだせないのが分かる<

三角縁は、筑紫の志登や祇園山などが、4世紀の大和よりも50年以上先行しており、
大和は、呉系楽浪鏡師らに鏡作神社で子弟を教育して貰って粗悪な鏡を大量に造っただけ。

>前述したように畿内は既に弥生時代末期から独自の鏡を作成し、配布していることからも両者に直接的な繋がりはないのが分かる<

それらがあった、とすれば、当然筑紫倭國の東征や「市」を介しての伝来になるだけ。

>九州はむしろ鏡の配布の中心を畿内に奪われただけと言う力関係を表す証拠なのが見えてくる<

筑紫倭國の別種の旧小国の大和が、母国の筑紫倭國を併合吸収継承したのは、白村江の後。

637日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:07:00.94
こういう話も関係しているから、
少しでも良いから、ググって調べてみて

『陸奥爆沈 吉川』

638日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:08:11.58
弥生銀座だから邪馬台国だってwww
那の津、儺県として、奴国の地名が残っている場所を奴国じゃないと言い張るのか?ww
逆に吉武高木遺跡付近に奴国を思わせる地名があるか? ないだろ?
傍線経路なんていう、他の誰も信じない認めない妄想概念に頼って
須玖岡本遺跡は奴国じゃない、邪馬台国なんだと言い募る滑稽さ

畿内説の否定が事実上「南≠東」しかない滑稽さ

結局、倭の五王も九州王朝、白村江まで九州王朝が倭国王、とかいう
トンデモ説を信じている勤勉な○○が一人で大量書き込みをして、自己満足してるだけなんだよな

639日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:09:45.78
>>311
>むしろ文化の伝播と言うのなら九州は弥生時代を通じて全く採用していなかった大型墳墓や三角縁などの文化の激流に押し流され独自性を失っている姿が明白となる
文化の主体は九州にはなく、常に畿内にあるのが分かる <

大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国であり、
筑紫倭國の東征のお手伝いや、「市」を介した金儲けや、
新規渡来部族の助けで、
ホケノや箸墓以後に、墓祭祀を巨大化し豪華にしようと頑張っただけ。

640日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:14:04.31
>>313
文化財は、「私的」にせよ「公的」せよ、
思想や宗教的な「結論先にありき」での調査解釈をしちゃ、いかんからな。

641日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:25:54.19
戦艦でも何でも良いけど、
撃沈すれば戦争(殺し合い)は終わると言う話なんじゃないの?
自国の戦艦などを沈めて行けば良い

平和の使者?

642日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:27:01.85
あんたの書き込み、全部「結論先にありき」だよ。

643日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:37:28.61
『陸奥爆沈 菅野』

このような事を言ってる人もいる

644日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:41:00.65
ガンダム??のような話

645日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:47:32.25
>>316
大和説のアホが妄想する「全ての中心の文化の頂点の大大和帝国」など存在しないw。
何の証拠もなく、出てくるもんは筑紫の影響だらけ。
まぁ大和説者のバカの脳内には、何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ。

笑わせてくれる。

646日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:49:35.81
>>320
理由を書けないトンデモ大和説 。




647日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:50:00.84
出雲だよな。
出雲の話だよな〜。

と言ってる人ばかりなんだけど、
どういう事なの?

菅野神社というのは出雲の系統?

648日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:56:30.76
『菅野天財』

なぜか数年前のポケモンのスレ

「俺は益田、益田!」
「国宝だぞ!」

このような謎の書き込みをしている人がいたり

649日本@名無史さん2018/02/17(土) 10:59:52.14
財。宝。

船?菅野?

650日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:02:09.36
益田四郎〜天草四郎?

ウマヤド関係の話、本当のウマヤド

651日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:07:20.08
銀▢という親戚がいて、
歌舞伎や芝居が〜・・・でしょ

652日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:12:42.23
>>322
><萬二千里の変遷>
淮南子:碣石山→東方之極
後漢書:楽浪郡→倭
魏志: 帯方郡→倭
要は中国の国境から辺境まで「満二千里」と観念距離を置いているわけ
中国の範囲が拡大していっても「満二千里」は変わらないw<

魏志は、萬二千余里の先の四千里に侏儒國を書き、
更に「又有裸國、黒齒國復在其東南、 船行一年可至」も書いている。
梁書も、倭國から先の文身国や大漢國や扶桑國や女國を書いている。
旧唐書は、「去京師一萬四千里」と書いていて、萬二千里と違う。
要するに、この男の話は、一般性がなく、否定された。

653日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:14:03.02
『旧広瀬座』
の話をしていたり、というか家の話だと言っている

むかーし住んでいた事があって

654日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:22:52.33
『何者にもなれない お前たち』

655日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:22:53.82
>>326
>(行程の出発+途中+到着の順の記載)そんな「常識」が、あったって証拠は?
???<

・・・・以外の普通の人が、行程の説明をする時の、説明を書いた例。

656日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:27:15.06
>>332の訂正。
また、唐子鍵は、(鏡ではなく)銅鐸生産だな 。

657日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:34:04.69
寄生されたのかな?
金の元?

他のスレでも、
そのような事を言ってる人がいたり

658日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:36:54.51
『山王院 山王宮』

659日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:42:09.94
銀▢と言っても、
坂田と言う名字ではない

広瀬座と言うところに保存されている家、
鬼灯などの飾られている家?

660日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:44:16.30
『河童バビィ』

何々を改造したり、
任命(決定)したりしていたと書いてあったり

661日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:48:07.00
そういう職の人がいたのかな、
老婆の話によると

むかーし住んでいた家には、
本や書なんかが沢山あって

誰かに、あげちゃったのかな〜・・・

662日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:48:21.74
>>627
>親子関係に基づいて倭王を認定するので、それでは反正天皇が嘘をついて天皇になったのか?

親子関係じゃなくて正統な血縁者だよ
反正天皇は仁徳天皇の子で、先帝履中天皇の弟
台与も卑弥呼と親子関係じゃなくて宗女だろ

高城修三さんの紀年解読というのが面白いよ
http://takiren.sub.jp/kodaisi02htm.htm
ネットで読めるのは抜粋版だけどね
日本書紀の紀年は安康天皇以降は元嘉暦で書かれていて、
その範囲の紀年はおおむね信頼できる
それ以前の儀鳳暦の部分は春秋年として読み解くことで
もとの紀年が復元できるとしている
春秋年の根拠は魏略逸文の其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
春秋年のもう一つの傍証は応神の妊娠期間
仲哀死後2年で生まれているが、春秋年なら十月十日で
翌年に生まれただけで特に不審はなくなる

この作業仮説に従って解読した修正紀年と大陸史書の倭の五王記事を
照らし合わせると、珍、斉の遣使は、反正、允恭の即位直後に遣使している
ことが分かるし、世子興の遣使も允恭の崩御の直後にあたる
ただ允恭後の皇位継承は前皇太子の木梨軽皇子と安康天皇の争いがあるので
どちらかは決めがたい

663日本@名無史さん2018/02/17(土) 11:49:04.27
>>662の続き
倭王讃の遣使は、修正紀年の仁徳天皇の在位期間に収まる
仁徳の遣使の動機は、神功、応神の時代の半島への進出による
国内の疲弊(仁徳天皇は即位後3年間租税を免除している)を見て
半島、大陸との関係修復を目指したと考えられる

倭王武の遣使は雄略即位16年後になるが、即位前後に市辺押磐皇子を
はじめ多くのライバル皇族を殺したためその後の国内の掌握に時間が
かかったのだろう
有名な倭王武の上表文にも、遣使が遅れた言い訳がくだくだしく
書かれている
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧
奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷

まとめると、
仁徳は半島・大陸との関係修復のために、266年の晋への遣使以来の
朝献を行った
争いなく即位した大王は、即位直後に遣使している
即位前後に戦乱のあった雄略は遣使が即位16年後になったことを
言い訳している

ここから考えると履中は即位前後に住吉仲皇子との皇位争いがあり
遣使が遅れたと考えられ、そして早世した(書紀で在位6年、春秋年
なので3年間)ので結局遣使できなかった

その後弟の反正が「先王が薨じ弟の反正が皇位を継いだ」という上表文で
遣使すれば、それまで大陸王朝には仁徳の死も履中の即位も伝わっていないので
讃死弟珍立遣使貢献と書かれることに不審はない

系図に合わないというだけでは否定できないよ

九州王朝の系図なんてないだろ?www

664日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:08:15.70
調べてみると、そのような人がいたり

>菅野氏は、労働法学の世界的権威であり

「ちゃんと仕事をしろよ」
「日本は負けたんだよ」

という書き込みをしている人がいたり、親戚か何かなのかな

665日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:09:57.22
>>635
>>635も「古田史学の会」系の九州王朝仮説とかいうトンデモを信じちゃってるんですねww
ていうか「>>635も」じゃなくて、主に一人だけみたいだけど

>・邪馬台国も神武も北部九州で、直接繋がるかどうかは不明ですけど邪馬台国の神武は末裔でしょうね。

日本語があやしいけど、翻訳すると「神武は邪馬台国に末裔」といいたいんだよね?
「邪馬台国の末裔」というのがめちゃくちゃ曖昧だけど、
卑弥呼の末裔なら時代が合わない←神武の方が100年単位で古い
神武の頃に邪馬台国が既にあった←そんな証拠、文献はない
ということで、妄想の域を超えないね

倭の五王の宋書に記された一文字名が、漢風諡号に似ているからなんてそれどこの聞きかじりだい?
系譜に合わないとかいう言いがかりには>>662,>>663で丁寧に説明してある

九州王朝の王だと主張するなら、最低限でもこれ以上に丁寧な論証をしてくれよ!
日本の文書に記された九州王朝の系譜記事と、宋書の倭の五王の記事の年次が
問題なく一致することを示してくれれば納得するよ!

私は日本の記録・日本書紀と、大陸の記録・宋書の対応関係から論じてるだろ?

>>635も「畿内説は違う○ダー」ばかり言ってないで「九州説の論立て」を
説得力のある「根拠」を示して「論証」してくれればいいんだよ
できるものなら、ね!ww

666日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:10:34.17
>>339
>じゃあ糸島じゃ王権は続かないんだね?<

また変な男。
糸島の伊都国や奴国との境界地域では、王権が続いている、と言っている。

667日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:19:33.02
本当に、あの謎の震災後だよ、
詳しく話をするようになったのは


・沢山あった本や書なんかも、
 どうしちゃったのかな

・誰か、近所の人に、あげたのかな〜、
 うっちゃったのかな

それと、部屋に飾ってあったという謎の刀の話w

668日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:24:41.79
>>635
>>517
>・東遷説は採らない、東征説ですね。
>・邪馬台国の東遷なんて何処から出てくるの?神武の東征ですよ。
>・邪馬台国も神武も北部九州で、直接繋がるかどうかは不明ですけど邪馬台国の神武は末裔でしょうね。
>・九州王朝は701年にヤマト朝廷に取って代わられるまで九州中心に存在していた。
>・逆に倭倭の五王が大和朝廷の大王だなんて妄想、根拠も何となく名前が似ているからだけでしょ、雄略天皇等が漢風の名称を名乗ったなんて記録も無い。

全て同意する。

669日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:26:05.04
>>638
>那の津、儺県として、奴国の地名が残っている場所を奴国じゃないと言い張るのか?ww
>逆に吉武高木遺跡付近に奴国を思わせる地名があるか? ないだろ?

2万戸だから、その領域は福岡平野全域を想定するべきだね。

670日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:27:25.76
任命について調べてみると

・一般職の任命に関する規定:昭和二十年代〜

このように書いてあるでしょ、
老婆の話は、もっと前の?

671日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:27:40.78
>>645
>大和説のアホが妄想する「全ての中心の文化の頂点の大大和帝国」など存在しないw。
>何の証拠もなく、出てくるもんは筑紫の影響だらけ。
>まぁ大和説者のバカの脳内には、何か栄光の大帝国が見えてるんだろうよ。

全くその通りです。
畿内説の出す証拠が筑紫の影響か、少し後世のものを年代詐称しているかしかない。

672日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:36:13.76
>>663
>系図に合わないというだけでは否定できないよ

朝貢のタイミングについての考察は興味深いですね。
でも、系図が合わないのはやはり深刻です。
九州王朝の系図がないのはその通りですが、逆に倭の五王の系図がそのまま九州王朝の系図だと考えることもできるのですよ。

673日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:41:34.40
>>665
>卑弥呼の末裔なら時代が合わない←神武の方が100年単位で古い
>神武の頃に邪馬台国が既にあった←そんな証拠、文献はない

神武の実年代は不明だよ。
卑弥呼とそれほど違わないかもしれない。
この板でも鴨は同年代だとしているし、私個人も半世紀も違わないだろうと思う。
それは、3世紀後半からの畿内の成長になんらかの影響を及ぼしていたと考えるからだ。
100年単位で古いというが、2世紀より前の大和に対応する考古学的証拠がない。

674日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:43:27.71
大和は木俣の国。
飛鳥坐神社。昔の祭神は興味深い。

675日本@名無史さん2018/02/17(土) 12:43:59.57
>>665
>日本の文書に記された九州王朝の系譜記事と、宋書の倭の五王の記事の年次が
>問題なく一致することを示してくれれば納得するよ!

1,000年以上かけて、畿内中心史観の捏造に血道を上げてきたわけで、国内にはそうそう裏付けがない。
残念ながら。
それだけに、未だに皇国史観まがいの畿内説が幅を利かせているのは残念でならない。

676日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:05:51.56
>>652
>魏志は、萬二千余里の先の四千里に侏儒國を書き
>更に「又有裸國、黒齒國復在其東南、 船行一年可至」も書いている。

その「侏儒國、裸國、黒齒國」はどこにあるんだい?
どこを比定地に当てる?

黒齒國は山海經にも出てくる伝説上の国だし、裸國も淮南子に出てくる世界の端の国

淮南子:墬形訓
自西南至東南方,結胸民、羽民、歡頭國民、「裸國民」、三苗民、交股民、不死民、穿胸民、反舌民、豕喙民、鑿齒民、三頭民、修臂民;
自東南至東北方,有大人國、君子國、「K齒民」、玄股民、毛民、勞民;

そして、前にも挙げた淮南子:時則訓を再掲すると
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。

魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない
墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」
そして東の端を南へ下っていくと「K齒民」がいて、
墬形訓の自西南至東南方の段落にある「裸國民」はさらに遠くの扱いになる

こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな

677日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:14:46.52
>>669
>2万戸だから、その領域は福岡平野全域を想定するべきだね。
私もそう思うんだが、
奴国は吉武高木遺跡近辺のみで、
通常奴国の中心とされる岡本遺跡群は弥生銀座だから奴国じゃなくて邪馬台国って
言い張る人がいるんだぜ

しかも吉武高木の辺が奴国だと言いながら、
傍線経路で通ってないっていう謎の主張をするし

伊都国が糸島で、邪馬台国が岡本遺跡群だとしたら、普通に移動すれば
当然に間の吉武高木付近(早良平野=彼の人の主張の奴国)を通ることに
なるから「傍線経路で通ってない」っていうのは矛盾するのにww

北部九州の地図を見てないんだと思う

678日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:27:45.94
ダイアモンドだね〜という曲

こういうのも天財若子のテーマでしょ、
そういう事になる

679日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:28:07.28
>>341
>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど、その後の時代に連合関係がさらに広がり畿内に中心を移したと考えているよ
いつかはまだ考証中… <

大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国を併合継承九州出来たのは、白村江の後。

680日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:28:27.66
親玉の古田からして、松浦川の存在を知らないで
東唐津まで東南陸行とか言ってたからなあ


笑うしかないよ

681日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:29:16.52
これも以前、書いた

ちびまる子ちゃん?宝物みつけたよ

という曲とか

682日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:31:42.58
モモタロウと言う作品に登場する、
うらしまん王子?どこかの国王で・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現在?

683日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:32:53.03
>>342
>>私は卑弥呼やイヨの時代は九州説だけど <

>それで、なんで王墓が一つしかないの?><

九州には大和よりも、はるかに沢山の墓があったのに、
何故「一つしかない」と嘘を付くの?。

684日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:33:39.46
>>673
>神武の実年代は不明だよ。
それは同意
でも私はアマチュアの立場で、神武も欠史八代も実在に立場を取るし、
欠史八代の即位順も認める立場でいる
ただ直系父子継承というのは、大王名だけの伝承しかなかったのを、
根拠なく直系に繋いだものだと思っている
そして、他の豪族の古系図との比較から神武−崇神間を5世代とする宝賀寿男氏の
論考を妥当なものだと考えているので、1世代20年で100年くらいと考えているよ

>卑弥呼とそれほど違わないかもしれない。
>この板でも鴨は同年代だとしているし、私個人も半世紀も違わないだろうと思う。
卑弥呼は崇神と同時期またはその前代くらいと考えている
鴨については詳しくないので論評できないな

>それは、3世紀後半からの畿内の成長になんらかの影響を及ぼしていたと考えるからだ。
単に、神武天皇は崇神および卑弥呼の父祖伝承だと思うけどな
ただ前にも書いたけれど、神武が九州倭国の傍流で、その血筋であることが
卑弥呼の共立に効いていたかもしれないとは思う

>100年単位で古いというが、2世紀より前の大和に対応する考古学的証拠がない。
2世紀より前にも普通の弥生集落の遺跡は奈良盆地内に多数あるよ
ただ、記紀に大王と書いてあっても、卑弥呼の共立以前は大和盆地のローカル王に
過ぎないから、それほど顕著な遺跡はないってことだと思う

それでも、大和の唐古鍵遺跡は畿内を中心とする大型祭祀銅鐸地域の中心で
大型銅鐸を作っていた遺跡だし、西河内の亀井遺跡とともに、
畿内第X様式甕を共通に使っているクニ(これが邪馬台国7万戸の範囲)の
中心だったことは言えると思うよ

685日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:35:19.38
調べてみるとわかる、
なぜか小野という名前が出て来たり

山王。
天財若子。

広瀬座、ここにも出てくる

686日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:39:15.33
>>336
むちゃくちゃだな、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説。

687日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:39:36.96
小野神社(益田)〜天草四郎・・・?

688日本@名無史さん2018/02/17(土) 13:44:48.53
>>347
あのね・・・、

魏志に書いてある距離が
各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」
っっていう人類に常識を認めないで、変な説を立てると、
部分里程の合計が12000余里では あり得なくなっちゃって、
大和説が、メチャクチャになるよ。

689日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:06:22.79
>>652
旧唐書は首都からだろw

690日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:07:54.53
オノ・ヨーコ?

691日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:10:50.58
>>676
なるほど

692日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:11:01.81
ドラクエのテーマ

『Love Song 探して』

>交差点 横切ったよ

どういう仕組みになっているのか?なんだよ

693日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:21:20.12
日本昔話 姥清水の話のような気がするんだけど

694日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:21:33.32
>>677
ふむふむ。
ザラコク氏は詰めが甘いな。
その通りだと思う。

695日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:22:15.93
>>672
>でも、系図が合わないのはやはり深刻です。
といっても、合わないのは讃のあとが弟と書かれている部分だけだし
そこは、>>662>>663の説明で十分だと思う
そもそも大陸王朝は倭国の系譜にさしたる興味はないんだし

斉、興、武は系譜まで完全一致だし、
宋書の倭王武の複数回の遣使記事と日本書紀・雄略紀の遣呉使派遣記事の対応も確認できる

倭王武を雄略ではない他の人物とするなら、よほどの「根拠」を示さない限り
話にもならないよ

>九州王朝の系図がないのはその通りですが、逆に倭の五王の系図がそのまま九州王朝の系図だと考えることもできるのですよ。

それならそれで、九州王朝のに系譜であるというのを「根拠」挙げて論証しない限り
控えめに言って憶測、厳しく言えば妄想でしかないよ

さらに言えば遣隋使はどうする?
倭の五王以上に、さらに大陸の史書と日本書紀の記述が一致するよ
九州王朝仮説だと遣隋使も九州王家だとするみたいだけど、
トンデモ以外になにものでもない

696日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:24:18.51
「ふっかつのじゅもん」

 鳳凰 フェニックス

697日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:26:48.09
>>684
>鴨については詳しくないので論評できないな

鴨厨は葛城スレの主で、畿内説なんだが、一代20年で、卑弥呼と神武が同じ年代になるとのこと。

>ただ前にも書いたけれど、神武が九州倭国の傍流で、その血筋であることが
>卑弥呼の共立に効いていたかもしれないとは思う

多分、畿内は遠すぎて卑弥呼共立に影響はしなかっただろうね。
ちなみに私が卑弥呼と神武が同じ年代だと考えるのは、倭国大乱前の筑紫倭国の男王らが日向三代だと思うからだけどね。
神武の方が少しだけ年代が古いかもしれない。

698日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:27:09.77
>>676
山海経海外東経なんかにも大人国、君子国とかいろいろ出てくる

699日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:29:19.28
>>684
>それでも、大和の唐古鍵遺跡は畿内を中心とする大型祭祀銅鐸地域の中心で
>大型銅鐸を作っていた遺跡だし、西河内の亀井遺跡とともに、

銅鐸文明の中心なら構わないが、魏からわざわざ鏡をもらうほどの鏡文化に傾倒した邪馬台国の中心にはならないよ。

700日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:29:43.41
>>686
>>336は、青銅器一つ副葬されていない隣の2号墓と同じサイズしかない、小さくて
王墓というのも憚られる平原1号墓を副葬品がすごいから王墓だって言って
がんばっている九州説の人なのに

まあ、>>686がここで一番頑迷なトンデモ九州説だって分かったから、あとは生暖かく相手するよww

701日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:32:19.18
>>695
>さらに言えば遣隋使はどうする?

日本書紀は隋書などにすり合わせしているからですよ。
しかし、隋書に阿蘇山が書いてあったり、遣隋使の時の大王が推古女帝ではなく、妃や後宮を持つ多利思比孤なる人物であることはどうするのですか?

702日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:34:15.49
>>700

自分のことを言われているのかと思いアンカー先を見てみたらどちらも自分ではなかった。
このスレは九州説で賑わっているようだ。

703日本@名無史さん2018/02/17(土) 14:49:39.81
>>699
>銅鐸文明の中心なら構わないが、魏からわざわざ鏡をもらうほどの鏡文化に傾倒した邪馬台国の中心にはならないよ。

三角縁神獣鏡の配布共有という鏡文化に傾倒した前方後円墳祭祀は誰が
どう見ても、畿内が中心だよね?
この三角縁神獣鏡の文化が、卑弥呼の銅鏡100枚を基礎に置いているのは、景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があることから確認できるだろ?
三角縁神獣鏡が、国産であるものがほとんどなのは認めるが、国産なのにわざわざ「大陸王朝」の「卑弥呼の遣使の年」が記されているのは、卑弥呼の遣使の記念品であることを明確に示している

してみると、平原1号墓に大量埋納されている仿世鏡が、製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない方格規矩鏡なのは、西暦57年の光武帝への遣使の記念なのかもね

704日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:03:32.26
>>703
銅鐸文化なのか銅鏡文化なのかはっきりしなよ。
畿内は唐子などの銅鐸文化が九州から来た銅鏡文化に塗りつぶされているよ。

三角縁ご記念品であるからこそ、卑弥呼より後の時代のものである可能性が否定できない。
あと、平原を語るなら、超大型内行花文鏡について述べないと。
あれはいわゆる後漢鏡より新しいことは間違いなく、倭国大乱より後、少なくとも2世紀末以降だろう。
それは卑弥呼の治世において作られたということなんだよ。

705日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:12:26.57
>>日本書紀は隋書などにすり合わせしているからですよ。
では隋書で上遣文林郎「裴C」使於俀国と書いてあるのに、日本書紀ではきちんと大唐使人「裴世C」と書いてあるのをどう説明する?

隋書の方に大和朝廷の冠位十二階の「小徳」阿輩臺、「大禮」哥多毗が書いてあるのはなぜ?
隋書の方が成立年が先だし、倭国の事情に合わせる必要がないだろ?

>隋書に阿蘇山が書いてあったり
中国には火山がないから、珍しかったかららしいよ
阿蘇山も大和朝廷の版図の中だし何が問題?

>遣隋使の時の大王が推古女帝ではなく、妃や後宮を持つ多利思比孤なる人物であることはどうするのですか?
普通は摂政の上宮法王だとされているね
朝政を実際に執っている責任者だし、妃や後宮を持つ男子最高位の皇族だから何も問題ないだろ?
多利思比孤は普通名詞扱いで、固有名詞ととる必要はないし、大和朝廷でよく使われるタラシヒコの音訳で問題ないだろ?

九州王朝の「多利思比孤という人物の記録」があるなら出してくればいいのに、
それができないなら「控えめに言って憶測、厳しく言えば妄想」

九州説は大体このレベルなのを自覚して欲しい

706日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:17:50.59
>>704
>三角縁ご記念品であるからこそ、
あ、三角縁神獣鏡が卑弥呼ご記念品であることを認められた?
すばらしいね!
つまり卑弥呼死後の後継王朝が、卑弥呼ご記念品を大量製作して
配布した大和朝廷だと確定したね!
大和朝廷=邪馬台国で、プロの研究者のコンセンサスと一致したね!

奴国は傍線経路ってのも言えなくなったしww

707日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:25:55.92
>>697
>ちなみに私が卑弥呼と神武が同じ年代だと考えるのは、倭国大乱前の筑紫倭国の男王らが日向三代だと思うからだけどね。

私も「日向三代は伊都国王」という邪馬台国の会主催の安本美典氏の説をこの部分は支持しているよ
ただ、邪馬台国の頃ではなく、光武帝への遣使(西暦57年)の頃だと思う
三雲南小路遺跡甕棺墓  伊都国 前一世紀中ごろ
井原鑓溝遺跡甕棺墓   伊都国 一世紀第1四半期
と年代も合うし
このあと神武の東征(征伐はしていないと思うけど)なら、卑弥呼より100年以上前だろう

708日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:30:19.76
>>351
そもそも大和内の鏡の序列は、中国のシステムを採用した筑紫の序列を、
そのまま踏襲しているに過ぎない。
大和の発明でも発祥でも何でもない 。
それはすなわち大和が中国との交渉権を持っていなかったことを意味してる。
そして九州は、九州のシステムと全く違う独自の方式を作り出ししていない大和を、
その下位の序列に組み込んでいる。

これを見て、大和が上だ起源だ、などとを、何をもって喚いてるのか皆目見当がつかない。
大和説など、この程度の妄想でしかない。

709日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:35:19.87
バカは銅鐸の変遷も知らないで毎度こういうバカ話を喚いてるから笑える

どっかの能無し歯医者がそういうバカ本書いてたな

心理学者だの歯医者だのアホ九州説は毎度人材が豊富だなw

710日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:38:22.44
>>356
>個人的には、神武から崇神までは記紀系譜の直系十代ではなく、
古系譜研究家の宝賀寿男氏のいう、
兄弟継承を含み神武>崇神まで5世代が妥当だと思っている <

宝賀氏は、祇園山=卑弥呼の墓、説だから、筑紫説なんだよ、ssnくん。

711日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:40:40.63
銅鐸から鏡に変わるまでの間は優に100年くらいのタイムラグがある
その上、大和はかなり早い段階にいち早く銅鐸を辞めている
そして銅鐸は近畿・東海全体で次第に使われなくなっていく流れ
銅鐸が使われなくなって大分たってから鏡が現れるようになる
アホがよく喚くような唐突な変化などしていない

バカはなにも知らないから「銅鐸がいきなりなくなって鏡が出た!だから鏡が征服したんだ!」とかいうバカ丸出しの妄想が出来上がると

712日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:49:28.36
>>688
>各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」 っっていう人類に常識

図が描けると分かりやすいんだけど
A,B,C3つの国があったとして
下の図でA,B,Cの文字が国の中心で[  ]が国境だとすると
経路の距離表示が

[   A   ][   B   ][   C   ]
    ├─────┤   ├─────┤        688説
    ├─────────┼──────────┤    私というか普通の計り方
     A−B間     BーC間

「居住外縁部や入り口や門の間の距離」にしたら隙間ができて、経路距離が分からなくなるだろ

それともこうなのか
[   A   ][   B   ][   C   ]
       ├─┤      ├─┤        688説
       A−B間     BーC間

「居住外縁部や入り口や門の間の距離」を字義通りとるとこうなるんだが?

713日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:50:34.75
隋書には倭国は遂絶って書いてあるからね。
旧唐書では倭国と日本国の併記
新唐書からは日本国のみとなる。

大和朝廷設立とともに倭国九州王朝は
終わったと見て良いだろう。

隋書の編纂は唐の時代だから
日本国の朝貢は入っている。
それでも日本国を倭の後継としなかったんだから
倭国九州王朝と日本国は、別物と判断したんだろうよ。

714日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:54:26.83
また旧唐書w

この基地外は何回も同じバカ話を続けるな
古田教団の基地外のカルト教義だから死ぬまで続けるだろうな

次はどうせ筑紫城だろ

715日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:55:47.93
>>710
>宝賀氏は、祇園山=卑弥呼の墓、説だから、筑紫説なんだよ、ssnくん。

知ってるよ
九州説は間違いというか「古い情報からの論立て」だと思っているけど、
安本美典氏の「日向三代は伊都国」とか
宝賀寿男氏の「神武から崇神は5世代」は正しいと思っているよ
お二人ともアマチュアだけどね

九州説の誰かさんみたいに、
「柳田康雄は畿内説だから公式報告書も嘘に決まってる」なんていうバカなことは言わないよww

716日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:56:17.33
筑紫城は新唐書やな

717日本@名無史さん2018/02/17(土) 15:58:09.85
>>703
鏡についてはもっとお勉強した方が…

718日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:05:36.33
>>358
>そうなると、平原1号墓が絶対に桜井茶臼山古墳より古いとも言い切れないぞ
まあ、弥生時代終末期でよさそうだとは思うが<

前方後円墳ではない平原は、前方後円墳である桜井茶臼山古墳であるよりも古くて当たり前。

>>それを比べて、茶臼山の方がすごい とかいうのが頭悪い。<

>といっても、実際それだけ多くの鏡種・枚数を揃えているのは事実なんだから
素直にすごいと認められる<

竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。

>破鏡の習慣は、その前にも後にもそれほど盛行した習慣ではなく、<

鏡片の分布は、殆ど筑紫であるんだから、筑紫で発生した筑紫の習慣。

>どちらが先にしてもそれほど離れた時期ではないのだし、大体同じ時期に
より多くの鏡を使っている桜井茶臼山古墳の方が、より大きな勢力を
背景としているのは明らかだろう?<

平原は、前方後円墳の那珂八幡よりも前であり、
ホケノや箸墓は、那珂八幡よりも後であり、
桜井茶臼山は、ホケノ箸墓よりも後だから、「大体同じ時期」にはならない。

>平原1号墓は九州説虎の子の3世紀前後の唯一の王墓候補なのに対し、<

唯一の王墓候補、なんて墓でもないよ。

719日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:10:29.58
何一つ出てこない
出てくるもんは全部畿内の影響にどっぷり漬かったものばかり

本来ならここで「九州説なんてあるわけねー」となるが、邪馬台国の会の基地外達は妄想を喚き散らして九州説だとかほざき続けると
もう病気だからしょうが無いね

720日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:13:49.09
畿内にはチクシ型羽口とかいう
筑紫から形だけ真似た欠陥品がなかったかな?

721日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:17:50.83
纏向をまだ大都市と言い張るキチガイ説

722日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:24:41.68
畿内説の2,3流の研究者には困ったもんだ
纏向も箸墓もまだ、ほんの少ししか調査していないのに
やれ邪馬台国だ、卑弥呼の墓だと大騒ぎする
1流の研究者は調査の全容がほぼ確定しない限り断定はしないものだけどね

723日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:27:39.78
>>365
>>平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、<

>「尚方作」は19面だよ <

私が見たサイトは、21面。

>>明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、 だから、卑弥呼の死以後。<

>これは大間違い 前漢鏡にも「尚方作」銘鏡は多くあり、というかそもそもほとんどの漢鏡の銘文は
「尚方作」で始まっていて一部「王氏作」があるくらい <

前漢鏡では根拠にならないし、
問題は、一人の民間個人では、伝世としても、「尚方作」を21枚も持てる筈がないし、副葬される筈もなく、
だから、明帝の下賜の100枚の銅鏡の中心的な鏡であった、という事になる。

>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、
それを卑弥呼の銅鏡100枚にあてるのは、無理がある<

「1世紀の中頃より繰り下がらない」という事が、そもそもインチキ。

>魏皇帝が、大陸内で100年以上伝世したものを国中から集めて、そんな骨董品を
皇帝の威を示す下賜品にしたってことになるんだぞ?<

ならない。
明帝は、卑弥呼や倭人が鏡をお宝ものにしていた事を知っていたから、
造り置きの 「尚方作」鏡や、民間から集めた鏡を集めて、100枚に揃えた。

>自分の主張がいかにおかしいか、理解できたかな? 参考 「鏡の考古学」・・・<

自分の主張が、いかに人類の常識外れの、分裂幻覚の妄想である事が、理解出来たかな?。

724日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:30:25.27
何一つない九州の田舎もんがなんか喚いてるわ

725日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:37:58.81
大和征伐の中心は九州じゃなく尾張や山陰。

726日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:39:31.68
尾張や山陰は畿内の文化に飲み込まれる方

727日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:43:27.16
>>726 そりゃ田舎だから。近くの先進地に
染まるだろ。

728日本@名無史さん2018/02/17(土) 16:47:52.21
出雲バカとか九州基地外とか四国アホとか東海ボケとかこいつ等なーんにも知らないで妄想だけ喚いてるから間抜けなこと平気で叫ぶな

729日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:02:41.93
>>366
>>「南≠東」<

>ワンパターンだなぁ
それだけでは、否定できないことは>>324で説明済み<

人類は、物心が付いた時から、「お天道様は東から出て西に沈む」ことを知っていて、
東西は間違えない。
それが人類の常識。
そしてこの大和説男らは、人類ではない・・・・ケダモノ詐欺師。

730日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:08:08.47
>>367
>>大和は天皇を称したのは、天智からだから、 それ以前には、「天皇」も「皇后」もいなかった。<

>だから何?<

大和説者や記紀は、天智以前から、大和王が、列島の天皇であった、かのような嘘つき騙しをしている、
という事。

>ただの表記法にけちをつけて何かを否定してつもりになっているだけだろ?<

当然お前も、思想宗教にクルった嘘つき騙しの詐欺師仲間。

731日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:10:22.60
>>717
>鏡についてはもっとお勉強した方が…
>>717はきちんとした受け答えができる人だからこういうことを言いたくはないけど、
何をどう勉強したらいいのか「根拠」とともにはっきり書いて欲しい

その方が話が早く進むし、話が進めば九州説が成り立たないことが
その分早くはっきりするから

732日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:11:21.45
>>769
>纒向も鴨公も同じ邪馬台国、ヤマト国の一員。 かき集めて七万戸にすればいいんだよ。
仲良くしろ。
それとも卑弥呼の拠点の争いか?縁起悪いものになりたいんだな。<

三人とも、「南≠東」に拠って、×であり、嘘つき騙し仲間。

733日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:12:00.95
>>718
>前方後円墳ではない平原は、前方後円墳である桜井茶臼山古墳であるよりも古くて当たり前。
古墳時代に入っても、方墳は作られるし、田舎の方では方形周溝墓も作られているよ
平原がそうだとは言わないが、単純に前方後円墳じゃないから古いとは言えない

734日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:23:08.67
>>718
>竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
>やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。

「筑紫倭国の東征将軍」そんなものは、どんな歴史書にも出てこないんだが?
メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳は、孝元天皇の皇子、大彦命を始祖とする
阿倍臣の族長の墓とされているよ
大彦その人の墓という人もいる
大彦の後裔氏族には阿倍臣のほかに、膳臣(かしわでのおみ)、沙沙城山君、
「筑紫国造」などが日本書紀には書かれているね

影響力の向きが逆なんだよww
古墳の大きさ一つで分かりそうなものだがな

735日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:23:45.40
>>371
>>(南→東などの嘘つき騙しの大和説の)「結論先にありき」の学者の「調査報告」には、
何の信頼性も価値もない。<

>柳田先生が畿内説だというだけで、内容の検討も一切せずに
「何の信頼性も価値もない」という「結論先にありき」でしか語れないのが>>306だよね?<

当たり前だ。
嘘つき騙しの異常者である事が判れば、
「ついうっかり」の自分に不利になる情報以外は、何の価値も信頼性もない。

>自己紹介乙、としかww<

お前も 自己紹介乙、だな。

736日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:24:08.49
>>718
>ホケノや箸墓は、那珂八幡よりも後であり、
ここがおかしい
三角縁神獣鏡が出ている時点で、そんなに古くはならないよ

737日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:26:49.59
>>703
>してみると、平原1号墓に大量埋納されている仿世鏡が、製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない方格規矩鏡なのは、西暦5
これが間違い

738日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:27:26.52
>>718
>唯一の王墓候補、なんて墓でもないよ。
日本語がおかしいのは置くとして、
より正確には
「九州の二世紀半ば以降で、卑弥呼の墓の候補にひょっとしたらなり得る
『唯一の王墓候補』」だな

これを卑弥呼に当てたとして、台与の墓はどれだい?
らしい墓はもう一つもないぞ?ww

739日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:36:29.86
女系勢力の有り様が重要だな。

実際、そういう部族がいるみたいだしな。

一つの男系とそれを支える女系部族。

740日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:37:55.18
>>372
>>その「漢鏡」という判断をしたのは誰なんだ?。原田なのか?、柳田なのか?。<

>原田大六先生だよ<

それで漢鏡根拠は何だったんだい?。また21枚もある「尚方作」鏡を、何故不審に思わなかったんだい?。

>>またその根拠は何だったんだ?。<

>だから2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」を読みなさいって<

「南→東」などの嘘つき騙しの前原市という公的機関の「文化財報告書」なんて、
何の価値もないし、誤魔化されている可能性があるから、嫌だ。

>>後漢代の朝貢で「鏡を貰った」などという記録など、ないんだろ?。<

>いつでも>>307は「ないこと」を根拠にしてしか論じないよね
古代史ってのは時間の壁の向こう側だから得られる情報が少ないし、
「見つからない」だけのもの(本当はあった)も多いことを、自分の都合しだいで
九州説に都合のいいときはあるといい、悪いときはないと、恣意的に言ってるだけなんだよな <

不可知部分が殆どである自然や歴史に関しては、観察実験計測された事は非常に確率が高く、
観察実験計測されずに推定された事は、確率はが非常に低くなる、
というだけの事だ。

741日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:41:38.63
>>736
久住猛雄さんの論文でも読んでおいで

>>738
候補はいろいろありそう
その頃は前方後円墳の時代に入ってるかも?だから、
那珂八幡の第一主体とか、糸島の御道具山古墳だったりかな
それぞれ初期の前方後円墳だから未発掘なのが残念

何も平原の隣にある必要は無いのだし

742日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:44:48.01
>>723
>前漢鏡では根拠にならないし、
ちょっと待て
>>303
「平原1号は、21枚の「尚方作」鏡があるから、
明帝→卑弥呼の100枚の銅鏡を元にしたものである事が確実であり、
だから、卑弥呼の死以後。」
と、「尚方作」の3文字だけで卑弥呼の鏡が元って言ってたのは九州説のやつだぞ
というか>>723本人だろ?

>明帝の下賜の100枚の銅鏡の中心的な鏡であった
何度も書くが、方格規矩鏡は大陸で作られていたのは1世紀頃まで
明帝が方格規矩鏡を下賜しようと思ったら、大陸内で100年以上伝世していた鏡を
かき集めて下賜したことになる
こんな簡単な「論理」も分からないからいやになる

>「1世紀の中頃より繰り下がらない」という事が、そもそもインチキ。
これを主張したいのなら、「根拠」をつけてどうぞ
九州説の人間は「インチキ」とかの言葉の勢いだけで「根拠」がない
「鏡の考古学」http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmは読んだのか?
ここに書かれていることのどこがおかしいのか、「根拠」をつけて論証できるのなら
その時はじめて「インチキ」って言っていいよ

743日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:45:21.81
>>723
>明帝は、卑弥呼や倭人が鏡をお宝ものにしていた事を知っていたから、
>造り置きの 「尚方作」鏡や、民間から集めた鏡を集めて、100枚に揃えた。
この妄想加減がすごいね!!!
卑弥呼の朝貢は、その前の倭国王・帥升等の朝貢(西暦107年)から130年もあと
その間倭国からの朝貢は一切ないのに、将来朝貢に来る卑弥呼が鏡が好きだと予想して
鏡を造り置きするなんて、少し考えればというか考える前から「論理が破綻」しているのが
分かるだろうに
魏の皇帝の下賜品は、魏の皇帝の権威を示すものだからピカピカの新品を
新しく作って持たせるに決まってるじゃないか
三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
ばたばたと新しい鏡を作った様子を反映していると考えると一番整合性が取れる

>自分の主張が、いかに人類の常識外れの、分裂幻覚の妄想である事が、理解出来たかな?。
>>712にも書いたけどさ、>>723の考えって「人としておかしい」レベルだよ?
「?。」って、クエスチョンマークの後ろに句点を打つのも
日本人ならおかしいと思わなきゃいけないし

744日本@名無史さん2018/02/17(土) 17:53:53.95
>>729
>人類は、物心が付いた時から、「お天道様は東から出て西に沈む」ことを知っていて、
>東西は間違えない。
>それが人類の常識。
>そしてこの大和説男らは、人類ではない・・・・ケダモノ詐欺師。

魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww

745日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:00:39.10
>>379
>>(部族にとっては埋葬形態は非常に保守的であるから)何故、新しい大型墳丘墓が必要になったのか? の理由に、
大陸からの強力な渡来流民の存在の考察は不可避だな。<

>また謎の妄想を始めたな 弥生人と縄文人の間の骨格の違いは、食事の違いであって、体格が変わるほどの 外来民族の流入はないぞ<

縄文そのものが、南方系と大陸系との混合であり、混血だよ。

>そして、半島南部の狗邪韓國まで倭人の領域なんだから、どこをどう通って 流民が来るんだい?<

出雲の国引き神話では、ウラジオストック方面を直達的に国引きしているし、
沿海州方面からは、毛人蝦夷の渡来があったし、
楽浪や扶余や東沃祖の流民は、伽耶にもきているんだから、当然海峡を通った。

>>それまでの墓とは全く違うんだから、 新規の「有槨」部族の渡来、という事が不可欠だろうな。<

>本当に妄想がきついな <

問題の前方後円墳も、晋の武帝らから「天円地方」の埋葬を教えられなければ、那珂八幡付近に突然発生する事もない。

>高地性集落も廃絶されてからだぞ、ローカル王の大規模弥生墳丘墓が作られるのは<

高地性集落は、倭國の東征から逃げようとした在地の部族の集落。

>渡来部族の征服も侵入も想定できない <

渡来部族は流民が殆どであるから、征服は、想定出来ない。 在地部族との共存が精一杯。

746日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:01:04.62
>>730
>大和説者や記紀は、天智以前から、大和王が、列島の天皇であった、かのような嘘つき騙しをしている、
という事。

いいや? そんなことは言ってないが?
全国に覇を唱えて、大和の大王中心の王権をほぼ確立したのは雄略天皇
大泊瀬幼武尊、大長谷若建命の頃からだろう
万葉集の最初の歌が雄略天皇の御製であることからも、雄略天皇の御代が
大和王権の重要な画期だったことがうかがえる

まあ、全国に定型化した前方後円墳が作られ始めた時=纏向遺跡が
崇神天皇の都=邪馬台国の都だった時から、前方後円墳を作る範囲の
「盟主」(支配者ではない)だったのは確かだけどな

>当然お前も、思想宗教にクルった嘘つき騙しの詐欺師仲間。
「根拠」一つ付けられずに、「論理的」な論証もできず、
「詐欺師」とか汚い言葉で論敵をののしることしかできないって、惨めだよなぁww

747日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:07:50.17
>>745
>問題の前方後円墳も、晋の武帝らから「天円地方」の埋葬を教えられなければ、那珂八幡付近に突然発生する事もない。

前方後円墳が「天円地方」の思想(≠埋葬法)をもとにしているっていうのは、
よく言われることだけれど、誤解の産物なんだよね

正しい「天円地方」の陵墓は、昭和天皇の武蔵野御陵のような、下方上円墳になる
方形の基壇の上に円墳が乗るのが正しい
古代でも、天武・持統合葬墓の頃にはこの形になる
まあ、天武・持統合葬墓の上部は八角墳とも言われているけれど

748日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:13:43.92
>>380
>>「観念的な距離での嘘つき騙しの報告」を魏帝に書いた、とバレれば、 そりゃ、その首が危ない。<

>東西とも再遠方の大月氏と倭国が、ともに親魏大月氏王、親魏倭王とされていること、
漢土の境界である敦煌、帯方郡がともに都から五千里とされていること、
そしてそれぞれ敦煌、帯方郡から萬二千里程度とされていることから、
この距離は中華世界の大きさ(最果てまでの距離)を表す理念的な数値と考えた方がよい
そしてこの観念のネタ元が淮南子: 時則訓<

魏志倭人伝は、女王國から四千里の侏儒國まで書き、更に裸國黒齒國まで書いているんだから、
淮南子の思想に従っていない。
つまり、魏使らにとっては、淮南子など400年位も前の淮南子など、何の関係もなく、
だだ皇帝への報告として、里数を計測記録しただけだ、という事だ。

>短里などはなく、実測値でもない理念的な数値なので
「自郡至女王國萬二千餘里」だから九州というのは、ほぼ意味がない <

お前が魏使らであったんなら、ウソを書いた、という事で、
確実に首が飛ぶ、という事だな。

749日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:14:32.73
>>741
>その頃は前方後円墳の時代に入ってるかも?だから、

珍しい九州説だなww
前方後円墳の時代=古墳時代には、倭国の盟主が畿内にいる大和王朝なのは
誰の目にも明らかだから、「邪馬台国は弥生時代」って言い張るのが普通の
九州説なんだがww

その那珂八幡古墳の第一主体部でお宝が見つかるといいね
畿内では纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の初期古墳だけで
那珂八幡古墳より大きいのがいくつあるんだろう
大王どころか畿内の序列10位くらい(適当)でも那珂八幡古墳よりは
でかい古墳を作ってるぞ

750日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:17:29.83
>>381
>対馬や壱岐の説明文には方とあるだけで
行とか至とかの移動途中の説明の動詞がないよ <

「途中の移動があった事を示す説明文」があった、と言う事が必要なのであり、
動詞でなくても、示してあれば、それで判るんだし、十分なんだよ。

751日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:19:46.60
オクムラ押されすぎガンバレ

752日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:27:34.37
>>742
>何度も書くが、方格規矩鏡は大陸で作られていたのは1世紀頃まで
これが間違い
方格規矩鏡は魏晋時代でもポピュラー

753日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:29:11.08
>>743
>三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
>ばたばたと新しい鏡を作った様子を反映していると考えると一番整合性が取れる
www
景初4年w
ド素人だったか

754日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:31:45.74
>>747
>正しい「天円地方」の陵墓は、昭和天皇の武蔵野御陵のような、下方上円墳になる
>方形の基壇の上に円墳が乗るのが正しい
ドアホ発見w
中国の天円地方は祭壇のこと、方形と円形ね

755日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:32:59.22
>>748
当時の中国知識人らにとって、辺境までの距離が萬二千里というのは常識だったんだよ

756日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:38:28.52
>>750
>「途中の移動があった事を示す説明文」があった、と言う事が必要なのであり、
>動詞でなくても、示してあれば、それで判るんだし、十分なんだよ。

>>688によると「各国の「居住外縁部や入り口や門の間の距離だ」 っっていう人類に常識 」
らしいから、島の二辺を旅程距離に入れるなんてありえないそうだよww
九州説同士で否定しあってくれ
というか、>>750>>688なんだろうけど、その場その場で言うことが
くるっくる変わって本当に調子がいいことですわよねww

757日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:38:47.96
>>705
>隋書の方に大和朝廷の冠位十二階の「小徳」阿輩臺、「大禮」哥多毗が書いてあるのはなぜ?
>隋書の方が成立年が先だし、倭国の事情に合わせる必要がないだろ?

九州倭国の官位なんだろうよ。

758日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:40:19.95
>>753
九州説には、ここのテンプレは難しかったかな?
>>46
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。

759日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:42:21.04
>>382
>>陳寿が原則として「地域間距離は、その居住外縁部間の距離」で表記している<

>「根拠」を示してね<

何度も書いて来た事だ。
倭人伝の海峡の渡海では、国内見聞移動を書き分けているから、
それぞれの「千余里」は、それぞれの出発港から到着港の距離になっている、という事や、

「高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai貊、東與沃沮、北與夫餘接。都於丸都之下、方可二千里」は、
丸都を中心として方可二千里の正方形を描けば、
そりゃ遼東(の首都付近)に達してしまう、という矛盾が発生してしまう事になり、
だから、「遼東之東千里」は、遼東の首都付近から、高句麗の居住外縁部間の距離が千里である、という事になる事と、
これと同じ事が、高句麗と扶余の大きさと距離説明でも発生しており、

また、Yahooでの議論でも、「三国志の中の問題になった地域間距離記載」が、
ほぼ全て中心間距離とすると長里でも短里でも矛盾が発生し、
居住外縁部間距離とすると、短里で矛盾しなかった、という結果からも、確かめられた。

>国境を接しているところを距離0として、それぞれの内国移動距離を書かなかったら
総距離が分からなくなるから、他国の地理を報告する訪問記録としては意味がないのが分からないんだろうな <

国の大きさが示されず、国内移動の説明がなければ、それは、
国内移動がほぼ0里であったんだ、と言っている事になる。

760日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:42:46.45
>>757
>九州倭国の官位なんだろうよ。
大変に調子がいいことですわねww
日本書紀に卑弥呼が書いてないから大和朝廷ではないと、日本書紀を頼りにしている癖にww
都合の悪いことは認められない、典型的な九州説ですことww

「九州倭国の冠位」であることを、「根拠」を示して正しい「論理」で論証してくださいね!
できなければ、ただの脳内妄想ww

761日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:45:02.75
>>759
>ほぼ全て中心間距離とすると長里でも短里でも矛盾が発生し、
つまり、里程はいい加減なんだよ
たったこれだけのことがなぜ認められないんだろうねww

いまさら>>382に答えなくていいから
>>712に答えなよ

762日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:46:18.50
>>752
>方格規矩鏡は魏晋時代でもポピュラー
これを言いたいなら、
「根拠」をつけて正しい「論理」で論証しろと何度言えばww

763日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:52:15.66
>>754
>中国の天円地方は祭壇のこと、方形と円形ね

分かってないな
>>747でも書いたように「天円地方」は「思想」であり、「概念」なんだよ
その形に、祭壇を整えたり、陵墓をその形の具現として作ったりする

近視眼的に、天円地方=祭壇みたいな「即物的な解釈」しかできないから
九州王朝説に基礎をおく九州説なんていうトンデモを信奉してられるんだろうけどさww

764日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:55:37.50
>>384
>>平原が「西新式土器」を副葬しなければならない、
という決まりがある訳でも、必要がある訳でもなく、<

>いや、西新式土器の前の形式の土器と見られるものが出ているから、<

それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。

>「西新式」の直前くらいと想定されているだけだぞ?
自分が何を書いているのか理解できているんだろうか?<

なかったものからの「想定」など、1号墳の年代の直接的な根拠になるもんか。

765日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:57:39.71
>>722
賛同します
余りにも、結論を急ぎです。
研究者の功績に焦る気持ちも分からないでもありませんが
結論や功績は後世の研究者に委ねても良いでしょう。

766日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:59:24.71
ネットなどを見ていると、
成り済まし?ばかりいるような気がするんだけど

なぜだと思う

767日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:59:40.02
>>748
できるだけこの言葉を使わないように我慢してるんだが、やっぱり使いたくなるな
>>748って、「バカ」でしょ?

>魏志倭人伝は、女王國から四千里の侏儒國まで書き、更に裸國黒齒國まで書いているんだから、
>淮南子の思想に従っていない。
引用してあるところだけ見て、原典を当たらないから見当違いのことを書くんだよ
>>676を参照して

>つまり、魏使らにとっては、淮南子など400年位も前の淮南子など、何の関係もなく、
>だだ皇帝への報告として、里数を計測記録しただけだ、という事だ。
今でも、淮南子が読めるのはどうしてだと思う?
ずっと伝書されてきたからだよ
>>755の言うとおり

そして、魏使らの報告部分と、裸國とかK齒國とかが出てくるところは、
魏志倭人伝の中でもはっきりと区別されている
魏志倭人伝の原文、きちんと読んだことないんじゃないのか?

768日本@名無史さん2018/02/17(土) 18:59:43.01
>>764
>それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。


九州説さん・・・

また、その場しのぎのデマですかぁ・・
もう信用、完全に無くなりますよぉ


 

769日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:00:09.62
>>762
常識だろw
お勉強が足りません

770日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:01:08.36
>>768
報告書も読んだこと無いのかw

771日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:01:56.87
例えば「海底少年」

うらしまマリン『松傾』の事でしょ

772日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:04:43.08
>>764
>それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
>一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。
半分正解で、半分は半可通だな
・出たのは2号墓の周溝から
・1号墓と2号墓が間の周溝を共有しているから、2号墓側から出たもので1号墓も推定している
が正しい

でもさ、平原1号墓を卑弥呼の時代に近づける編年推定値にする「根拠」が、
>>764が否定するこの土器だぞ

この土器を認めない場合の推定値は「二世紀前半」にしかならない
卑弥呼の時代から100年以上前になるけどいいのか?

773日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:07:08.70
これは本当の話

家は 兄 弟 妹

あの謎の写真の家なんだけど、
悪く言うと寄生されていた?

松(もみ)の木の立てられている写真も家の

774日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:10:24.09
ウラシマン(松傾)

中華・・・の末裔だと言っている人がいたり

775日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:14:22.27
>>768
畿内説のスレなんですけど・・・
気持ちは分かるが・・・・

776日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:16:14.56
>>768
スレ主の意図を汲まないなら、ここに来ない方が良い
>>1

邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 <

777日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:18:53.41
畿内は今や他説批判に走るばかり
2013以降 何も無いから
2013も コジツケ似非研究者の戯言だったな

778質問良いですか2018/02/17(土) 19:22:46.68
奈良県の一般職員の採用試験と
奈良県の教員の採用試験の
どちらが狭き門なのですか?

また、教委の研究員としての採用はありますか・

779日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:27:52.92
『魔法のペルシャ』
画像をググると、わかる

河童がいたり、イルカが出て来たり

キュウリの葉の・・・写真

780日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:28:44.54
青木 香津江 総括研究員
青柳 泰介 調査第二係長
岩越 陽平 技師
宇野 隆志 主任研究員
卜部 行弘 資料係長
大西 貴夫 指導研究員
岡田 憲一 指導研究員
岡田 雅彦 主任研究員
岡林 孝作 調査課長

781日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:31:17.44
ジョジョに登場した mike o

もれ(仮)の妹:5月15日生まれ

782日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:34:18.85
>>389
>>(出発+途中+到着の順番記載)だから、 「東南」は出発時の方向記録であり、目的地の方向ではない。<

>地図一つ見ずに、勝手な脳内妄想を書いているだけなのが丸分かり 末盧國から東南に向けて出発して短里で五百里で伊都国にいたる経路はないぞ<

唐津港付近や唐津市街から、東南方向出発路は、存在するし、
「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。

>大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、 起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本<

三国志では「出発説明+途中説明+到着説明+付加説明」の書き方が原則。

>大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ <

倭地までの地図なんて、存在していなかった。

>例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る  2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ? <

それは、投馬國の説明と同じく途中の移動説明がないから、「四至」方向での位置説明文であり、論拠にならない。

>そして、成都から安南までは東至安南と書いてあるが実際には東南 大陸史書の地理・旅程の記述で、方角が間違っているところは結構ある<

「四至」説明は当然大体の近似であり、東南であれば「東」と近似することはいくらでもあり得る。

783日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:35:40.74
あのMV

記紀神話(聖書)の冒頭

それから、海底に潜ったり、鳳凰(フェニックス)が出てきたりしない?
どらごんぼーるのようなシーンとか

784日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:37:48.25
寺沢薫(同志社)は教委採用 
石野博信(関学) 同

785日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:38:30.61
>>707
>ただ、邪馬台国の頃ではなく、光武帝への遣使(西暦57年)の頃だと思う
>三雲南小路遺跡甕棺墓  伊都国 前一世紀中ごろ
>井原鑓溝遺跡甕棺墓   伊都国 一世紀第1四半期
>と年代も合うし
>このあと神武の東征(征伐はしていないと思うけど)なら、卑弥呼より100年以上前だろう

なるほど。

786日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:38:31.47
>>783
に対する返事は、案の定、行数オーバーで5chから×にされ、書き直させられたので、
残りを再掲。

>「南≠東」を絶対だと思って思考停止している人には分からないかな?
私はきちんと「根拠」となる「原文とその解釈」を、きちんと書いてるだろ?
反論したかったら、ちゃんと「論拠」を挙げて反論してごらん?
>>324に対する要求水準としては高すぎるかな?ww<

行数オーバーで、また5chから×にされて書き直すのは面倒だから、
このような・・・・ヘイトスピーチは、放置ね。

787日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:40:44.48
>>711
>そして銅鐸は近畿・東海全体で次第に使われなくなっていく流れ
>銅鐸が使われなくなって大分たってから鏡が現れるようになる
>アホがよく喚くような唐突な変化などしていない

はて?
3世紀に急激に変化するから畿内が邪馬台国だとぬかしていたのは、畿内説の方なのに。

788日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:43:09.65
>>722
和田萃先生が一流で
後は二束三文の研究者(少し勉強すれば誰でも可)

789日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:43:57.95
>>718
>竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
>やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。

宗像w
畿内説の頼みの綱の茶臼山は、九州北部の内行花文鏡と九州北部の宗像神社を祭る九州北部から来た東征将軍の墓w

790日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:44:03.68
平原1号墓は
1号周溝から出てる土器片がTA期
6号土壙墓から出てるのがTB期
重複する周溝覆土から出てるのがUA期
5号墓からの混入とされたのが後期前半
1号周溝から出てる穿孔鉄鏃群などから
200年ころの築造とされている

791日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:44:59.95
>>724
建物が4棟しかない纒向王都w

792日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:46:10.55
>>390
>魏志の記載例を根拠にして
魏志の記載例が短里だったと機能的推論したというのは
循環論法<

史料事実を史料批判して、それからの帰納的確率的な推論をすることは、
正当な学問的行為であり、
帰納的確率的な推論内容は、史料事実と100%完全一致でもないんだから、
循環論法になっていない。

793日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:46:52.50
ザラコクさんよ
大和の地は3世紀以前はどんな土地と思う

794日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:48:21.37
>>391
国民の投票でも、国民に否定された、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者。

795日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:49:43.68
>>392
つまり、大和説学者らの説は、虚構ね。

796日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:50:20.55
>>791
しかり
それも掘立柱建物

797日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:52:49.41
>>733
>古墳時代に入っても、方墳は作られるし、田舎の方では方形周溝墓も作られているよ
>平原がそうだとは言わないが、単純に前方後円墳じゃないから古いとは言えない

畿内説の主張は、平原遺跡の方形周溝墓が作られなくなるから、伊都の政権は消滅した、ではなかったのかな?
まあ、嘘だって知っていたけどね。

798日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:54:38.35
>>734
>大彦その人の墓という人もいる

東征将軍その人だな。
関東にまで攻め込んでいる。

799日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:59:20.50
>>749
>畿内では纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の初期古墳だけで
>那珂八幡古墳より大きいのがいくつあるんだろう

那珂八幡が大きいなんて誰が言ったか?
初期の前方後円墳なんだから、大きくなくて当たり前。
いきなり100メートル級の古墳が先にできたという畿内説の方が頭悪い。

800日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:59:23.81
ザラコク うぜーー
主とテメーで占領
畿内説の議論は皆無じゃん

801日本@名無史さん2018/02/17(土) 19:59:35.47
>>393
>大和は「附庸」地に属するとしか書かれていないのであり、
「大和までの行程」も全く書かれていない。<

>いやいや、
「達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀<

「自竹斯國以東皆附庸於俀」は、「皆」と言っているんだから、
竹斯國以東には、都はない、と断定している事になる。

>俀王遣『小徳』阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣『大禮』哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都」と書いてあるじゃないか<

それ、竹斯國以東を否定した上での記載。

>瀬戸内海を渡ってきて、<

書かれていない。

>海岸に着いたところで出迎えるのが『小徳』阿輩臺で<

海岸の特定地名も書かれていない。

>さらに都まで案内するのが『大禮』哥多毗 小徳も大礼も、大和朝廷の冠位十二階だろ?
大和の都まで着いてるじゃないか<

小徳も大礼も俀國の冠位であり、
記紀の記載は半分×の偽書であるから、根拠にもならない。

802日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:01:24.47
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

803日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:01:40.07
>>394
都合が悪くなると、逃げて、口先で誤魔化す大和説者。

804日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:01:52.85
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

805日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:02:10.18
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

806日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:02:56.26
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

807日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:02:58.12
海底少年マリン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

『何者にもなれない お前たち』?
この作品の設定でも、そうなっているし

兄弟(妹も実在している)

ただ作中に出てくる妹とは血の繋がりはない、どういう事なんだろう

808日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:03:33.75
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

809日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:03:49.12
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

810日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:11:59.66
>>402
>そう思うのは>>325の自由だけど、「根拠」を示してね!<

そう書くのは自由だが、最低どんな話だったのか?を、はっきり書きだしてね。
いちいち・・・・投稿を探して読まされては面倒臭いから。

>>現地へ行かなかった後代のアホ史家ならそんなアホな事は有り得るが、
現地を見た使者は、当然、実見に従って記録するもの。<

>三国志の撰者の陳寿は現地に行ってないから、ありえるよね?ww<

陳寿は、魏使らの記録の引用部分と、自分の判断の記載とを、分かるように書き分けてくれているから、
問題がないね。

>実見に従った記録を、観念に合わせるために修正することはありうるよね?
>>325もそれを認めてるww <

認めないよ。

811日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:12:53.61
>>1さん=すれ主さん

水行は大和川を含むか否か?

812日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:14:01.27
キナイコシ 万歳 マンセー

813日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:16:41.76
『何者にもなれない お前たち』=『スーパー・オクトパス・ホールド』

814日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:18:00.16

815日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:22:17.50
今日も、優れた素人の人たちに、畿内説のキナイコシが鮮やかに論破されているね、、、

816日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:24:37.12
畿内説は銭 銭 銭 銭 銭 銭

畿内説は銭 銭 銭 銭 銭 銭



畿内説は銭 銭 銭 銭 銭 銭
畿内説は銭 銭 銭 銭 銭 銭 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)

817日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:24:59.54
>>772
その土器ってどこにあるの?

818日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:32:36.40
「おれが日本のプリンスだ!」

これは正解じゃない?
それとも、もっと上の人なのかな

819日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:35:46.20
>>405
>>(平原を)どこの何時の?首長墓と比べたんかね?<

>弥生末期〜終末期、古墳時代の直前の時代 卑弥呼の共立の直前くらいの頃
どこのってのは、たくさん書いてあるだろ? >>156
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部がつく
畿内の纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある<

出雲は、国が違うし、吉備や大和は、年代が全く違うし、
比較対象は、丹波だけか。

>>また、どういう理由で「貧弱」だった、とで判断したのかね?。<

>いや、どう見ても大きさが、比較するのもおこがましいほど小さいだろ
弥生時代の普通の家族墓と同じくらいの大きさしかない <

共立女王の話だから、大きさは論拠にならない。
「貧弱」とは、形態と副葬などの埋葬実態が問題。

>>「11本の鉄剣 」のような、大量の武具が、何故副葬される必要があるんかね?。<

>女王として、ではなく、王としての副葬品、威信材に言及してるんだよ <

副葬品の豪華さから共立女王としての鉄剣11本を問題にしてるんだよ。
鉄剣の本数は、王の権力を示す重要な指標になる

820日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:38:56.97
>>407
>>何を誤魔化しているんだい?。
不彌國付近から大和までの「距離や里数」を計算して、証拠のような形で提示したのは、
お前の方から、 であったんだよ。<

>どこにあるのかな?
コメント番号を引用して示してくれないかな?
いつも「根拠なし」で書き散らすだけの>>328でも、それくらいならできるだろ?<

忙しいのと、・・・・の命令を聞くのは怖いから、嫌だよ。

821日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:42:53.20
・・・の家の直系なんじゃないのか?
としか思えないだろう

『松傾』と同じ名前の家で、
松(もみ)の木の立てられている写真、キュウリの葉・・・

822日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:48:19.33
>>408
>>ウソを付くな。 須玖岡本遺跡は、奴國ではない。
弥生銀座付近そのものであり、邪馬壹國ものだな。<

>弥生銀座の一つなのは認めるけれど、奴国の繁栄を示す遺跡群だよ<

奴国は、前原付近の伊都国の東南100里(短里で7.65km位)
とはっきり書かれており、須玖岡本は「東20km」であるから、
方向も、短里でも長里でも×。

>須玖岡本遺跡が奴国の王墓なのは定説になってる
定説に異を唱えるなら、それだけきちんとした「根拠」を挙げて「論証」してね! <

そりゃ、その定説学者が、(南→東と同じように)、
皆嘘つき騙しの・・・・詐欺師だ、という事になるだけだな。

823日本@名無史さん2018/02/17(土) 20:58:48.91
>>408
>>当然、サイズは、王墓の絶対条件ではない。<

>絶対条件ではないけれど、それだけの労力を動員できる強い王であることが示される訳だ<

共立女王であれば、当然軍事力は最小限だな。

>だから、平原1号墓は王墓だとしても弱小国の王墓としかいえない
隣の2号墓と、本質的な違いはないようにも見える
まあ、2〜5号墓には青銅器一つ出ていないから、まったく同じとはいわないけれど <

棺の状態や副葬品の質と量は、共立女王としてぴったりだな。

>>平原の内容や副葬品が余りにも「繁栄を示していた」から、
大和説考古学者や歴史学者学が、路線の変更を余儀なくされた。<

>はいはい、妄想乙 誰も路線変更してないだろ?
路線変更したと主張するなら「根拠」を示してね!<

原田は、始めは共立女王の可能性を全く言っていなかった筈だが、
その後、共立女王の可能性も認めざるを得なくなっていた筈。

824日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:04:26.18
>>412
>>三角を必死に持ち上げてるけど、出土数や三角の扱われ方を見ると、他の種類の鏡より格下
これは北部九州でも同じ 悪いが三角は大量生産品の花輪的鏡でしかないなぁ<

>なぜ、大量生産して大量配布したのか、と、<

配布ではなく、粗悪な副葬鏡として。

>なぜ、卑弥呼の遣使のときの年号鏡があるのか、<」

ない。

>を つなげて考えられるだけの論理構成力があれば、三角縁神獣鏡が「大量に出る」ことの重要さが
分かると思うよ <

「南→東」などの嘘つき騙しでなければ、分からんと思うよ。

825日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:09:38.37
>>413
>聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首
押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども
壬申の乱で天武に敗れたなにわは、奈良時代はさびれていたんだね。
この歌からは、芦原中津國、食国であるのが伺える。<

ふーん?。
聖武と笠朝臣は、(書紀が書いた通りに?)「長柄の宮」だ、と思っていたのか。

826日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:12:31.12
>>418
>一方、糸島は東風小学校設立の時、潤地頭給遺跡発見
九州では出ないと思われてた弥生終末〜古墳前期の玉造工房の発見、古墳初頭の井戸跡から準構造船、木棺墓+位至三公銘蝙蝠座鈕内行花文鏡が出土
準構造船ばかりが注目され、この鏡に関してはあまり話題にならないが結構重要<

成程。

827日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:16:58.89
>>421
>まず、三角は中国鏡とする根拠から必要 巷は国産説に傾きつつある状況
魏の現地では紀年鏡は殆ど見られないのも重要
三角については特別な年号を後から入れたんだろうね
紀年鏡はすべて4世紀以降の墓から出土してるし
鏡副葬文化は元々北部九州だから、そういう内容も文化と一緒に伝播したんじゃない?<

成程。

828日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:19:26.91
言うことないなら黙ってれば?

829日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:27:23.58
>>782
>「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。

「経路はある」と言い張るなら、その経路の経由点を順に示しなよ
「根拠」を示せと何度も言ってるじゃないか?
>>782がいくらある、と言ったところで「説得力ゼロ」だよ

まあ見たところ、ただの自己満足みたいだから、人に何かを伝えようとは
考えもしていないのかもしれないけれど、それならそれで「自分には
最低限の論理性も社会性もありません」とふれて回っているようで、不憫ではあるww

830日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:30:17.33
>>782
>倭地までの地図なんて、存在していなかった。

自分で引用してる部分に「想定だけかは確認のしようもない」って書いてあるだろww

831日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:33:26.31
今日もキウスが暴れてたのか

832日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:34:33.20
>>782
>途中の移動説明がないから、「四至」方向での位置説明文であり、論拠にならない。

「途中の移動説明」って何?ww
また世間に通用しない「謎概念」を出して来たなぁww
四至って何? 魏志倭人伝は普通に八方位で書いてあるぞww

833日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:37:49.10
>>786
>ヘイトスピーチは、放置ね。
ここでこの言葉が出るってことは、パヨクの方ですか?wwww

834日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:46:14.25
>>787
>>アホがよく喚くような唐突な変化などしていない
>3世紀に急激に変化するから畿内が邪馬台国だとぬかしていたのは、畿内説の方なのに

前半は
銅鐸祭祀から鏡祭祀に突然切り替わったというような
「アホがよく喚くような唐突な変化などしていない 」

後半は
3世紀に入ると同時くらいに奈良盆地でそれまでの集落が廃絶され、
何もなかった場所に纒向の建設が始まるなど「急激な変化が始まる」んだよ

>>787は勉強不足な上、人の書いた文章の意味を読み取る能力が低すぎるから
無駄で無用な混ぜ返しばかりしていて、スレを浪費するばかりなんだよな

835日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:47:09.51
>>428
>>循海岸水行なら、 海岸沿いの波打ち際近くの水行になり、
巨大なリアス式の半島では、歴韓国には極めて膨大な時間と危険を伴い、<

>海岸=波打ち際だと思ってるのかww<

普通の沖合洋上航行なら、陳寿は「循海岸水行」という文言を特記する必要がない。
特記したのは、魏使らは、沖合洋上航行の遭難の危険よりは安全最短の原則で、
波打ち際水行を選択したから。

>「循海岸」は半島の南西角で曲がるという意味<

そんな意味はないねえ。

>単に現代語の道案内で「道なりに行って」というのの海路版 「海岸線(の概略)に沿って」だよ<

陳寿が「特記」したのは、沖合洋上航行の否定。

836日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:52:03.63
>>791
>建物が4棟しかない纒向王都w

本当にかわいそうな子

発掘面積が全体の6%程度で
「まともに発掘された」建物が「まだ」4棟しかないのに、
当時の最大級の建物で、他には見られない高度な計画性が確認できる、
王都にふさわしい建物が出てしまう纒向遺跡

が正しい

837日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:54:32.73
>>794
>国民の投票でも、国民に否定された、
前にも訊いたけど、そんなのいつやった?
まさかとは思うが、ネット投票のことか?

838日本@名無史さん2018/02/17(土) 21:59:13.66
>>796
>それも掘立柱建物
掘立柱建物は飛鳥浄御原宮の頃でも使ってるぞ? しかも天皇の宮居に?
掘立柱だと何がいけないんだ?ww

839日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:02:03.53
例えば

崇め、奉っていた『マケマケ様』

ただのハリボテだった、ような事を言っていたり、

840日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:05:21.36
仏像、地蔵、トーテム、電信柱など

祀ったり、崇めているとか、
そういう話なのかな

841日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:06:51.47
>>797
>平原遺跡の方形周溝墓が作られなくなるから、伊都の政権は消滅した

相変わらず、他人の主張が読み取れないんだなぁ(ため息)
三雲南小路、井原鑓溝、のあと王墓が続かないから、伊都に政権は消滅したって言ってるんだよ
時代がもっと前

平原1号墓は王墓と認められるかあやしい
しかも王墓と認めたところで、卑弥呼とは時代が合わないし、
これを卑弥呼の墓と認めたところで、今度は台与の墓が候補すらないことになる

何重にも詰んでるだろ?ww

842日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:09:33.46
>>798
>東征将軍その人だな。
九州王朝ではなく、大和朝廷の皇族将軍な

こんなところでも背乗りしようとするのかww

843日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:09:49.83
数人のスレはおもろない

844日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:19:57.80
>>801
>「自竹斯國以東皆附庸於俀」は、「皆」と言っているんだから、
>竹斯國以東には、都はない、と断定している事になる。
漢文読めないでしょ?
最初の「自」は「〜より」って読んで、起点を示すんだよ
つまり竹斯國も、皆附庸於俀に入っているんだよ
>>801の「都はない、と断定」とかいう主張が正しいとするなら、
竹斯國にも都がないことになるよ?

九州王朝は都のない王朝だったんだ! すごいね!wwww

>小徳も大礼も俀國の冠位であり、
また背乗りかい? 恥ずかしくないの?

>記紀の記載は半分×の偽書であるから、根拠にもならない。
困ったときには「根拠にもならない」ww
以前は隋書とすりあわせて書いてたとか言ってたのに
じゃあ、記紀に「正しい九州倭国の冠位」なんて書いてあるはずがないねww

845日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:20:40.05
神社建築は伊勢神宮のように掘立柱(神宮は明治以降銅版、出雲大社は鎌倉時代以降礎石)
礎石は仏教建築から瓦葺きの重量に耐えるため
掘立柱のほうが簡易な耐震構造

846日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:30:01.03
>>799
>いきなり100メートル級の古墳が先にできたという畿内説の方が頭悪い。
庄内0式期(2世紀後半〜3世紀始め)の纒向石塚古墳で96メートルあるぞ
でもこれも、墳丘長72メートルの吉備楯築墳丘墓より遅いからいきなりじゃないし、
今那珂八幡古墳との比較で問題にしている箸中山古墳は286メートルだぞ
較べるのもおこがましいとは思わないかね?

これでよく那珂八幡古墳が大倭王の王墓の候補とか言えるよなww

847日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:34:49.05
>>428
>>「乍南乍東」では全く航行出来ず、<

>これをジグザグに進むことだと思ってるみたいだけど、そんな意味はないから
単に「南に行く部分と東に行く部分がある」ってだけ<

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/nagara.html
の「中国正史(『史記』〜『舊唐書』)に見える「乍A乍B」」を見れば、
「乍南乍東」は、
「南したと思えばさっと東し、東したかと思えばまたさっと南する」の、
「南と東の繰り返しの反復」を表す表現だ、として使われている事が判る。

848日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:38:33.89
>>810
>いちいち・・・・投稿を探して読まされては面倒臭いから。
探して読むも何も、自分で書いたことだろうが?
自分が何を書いたのかも、分かってないのか?

あー、分かってないんだろうな
いつも行き当たりばったりで、相互に整合せの取れない逃げ口上ばかり書いてるから

>>820
>忙しいのと、・・・・の命令を聞くのは怖いから、嫌だよ。

忙しかったら、こんなに間違いだらけの無駄投稿をこんなにいっぱいしてないだろうにwwww

で、自分の書いたことの矛盾を指摘されて、逃げることしかできずに
ごまかすことを選択したんだな

849日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:42:13.99
>>811
私は2ちゃんの邪馬台国スレには新参者で、>>1ではないんだが
水行は基本的に海の沿岸航行だと思ってるよ
大和川は水運に使っていたと思うけれど、大陸の史書で言う「水行」には入らないだろう

850日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:43:41.22
>>841
>しかも王墓と認めたところで、卑弥呼とは時代が合わないし、
これに何も根拠がない

851日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:49:20.70
>>800
>ザラコク うぜーー

「南≠東」とか「嘘つき騙し」とか書いてる人が、ザラコクなの?

852日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:50:17.15
>>428
>>韓の方四千里だけでも8千里になって七千余里には全くならず、<

>半島の南西角で曲がってから東に3千里行くってのが、通常の解釈だぞ?<

倭地は、郡の東南であり、だから、「方可四千里」の韓の東南端の東南方向であるから、
3千里では、「東南端」には届かない。

>>沖合洋上航行であれば、 半島南岸は倭地であるから、歴韓国も出来ず、<

>韓国の西岸を通っているんだから、そこで韓国を経(歴)てるだろ?<

それでは、馬韓しか歴していなくなって「歴韓國」にはならず、
しかもリアス式を出たり入ったりを繰り返す面倒なことになって、安全最短にも抵触する。

>>郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、<

>これも意味不明だよな? <

巨済島の沖を行けば、狗邪韓國へは北方向に戻る事になり、
それよりもまっすぐ対馬へ行った方が早い、という矛盾が有る。
普通は、狗邪韓国を釜山付近に想定しているよ
半島の南西角を曲がって東に航行して着く場所だから、逆戻りなんてしてないだろ?

853日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:52:44.15
>>831
>今日もキウスが暴れてたのか
「南≠東」とか「嘘つき騙し」とか書いてる人が、キウスなの?

854日本@名無史さん2018/02/17(土) 22:53:32.43
>>852
また訂正。
>>郡から沖合洋上航行では、狗邪韓国へ逆戻りする矛盾あり、<

>これも意味不明だよな?
普通は、狗邪韓国を釜山付近に想定しているよ
半島の南西角を曲がって東に航行して着く場所だから、逆戻りなんてしてないだろ? <

巨済島の沖を行けば、狗邪韓國へは北方向に戻る事になり、
それよりもまっすぐ対馬へ行った方が早い、という矛盾が有る。

855日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:05:27.33
>>847
釣れたーww

>「乍南乍東」は、
>「南したと思えばさっと東し、東したかと思えばまたさっと南する」の、
>「南と東の繰り返しの反復」を表す表現だ、として使われている事が判る。


史記卷一百二十七 日者列傳第六十七
『先王之道、乍存乍亡』=『先王之道も、乍ち存し乍ち亡ず』であり、“何回と無く繰り返す”というニュアンスは含まない。

856日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:09:09.11
>>429
>>持衰の乗った倭船になるから、郡や魏の大型船であった事も否定され、<

>持衰が乗るのは其行來「渡海」の時 海岸沿いの「水行」と対岸に渡る「渡海」は区別されてるから、
「循海岸水行」では持衰は乗ってないかもね<

それなら、大和説者の「郡から大和まで大型中国船で全水行」説は×になる。

>それに、持衰が和船にしか乗らないとはどこにも書いてないから、
>>343は意味のないことを書いてることになる<

倭人が自分らの仲間の薄気味が悪くて汚い持衰を、自分らの倭の船以外に乗せる筈がない。

>>倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるから、
百済の地を陸行するのがルートであった事が記載されるなど、<

>原文は
「自昔祖禰躬甲冑跋渉山川不遑寧處 東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿 累葉朝宗不愆于歳
 臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟裝治船舫」のことだな
昔より、は「祖禰(そでい)躬ら甲冑を擐き…」にかかるだけで、後半の
「臣、下愚と雖も忝くも先緒を胤ぎ、統べる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遥て、船舫を裝治す」
にはかからないぞ <

「而句驪無道」の無道振りを訴える文であるから、「自昔〜而句驪無道」の間の「〜」は、一つの纏まり。

857日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:15:00.95
>>854
>それよりもまっすぐ対馬へ行った方が早い、という矛盾が有る。

沿岸航行は困ったときには陸に逃げられるから安全なんだよ
それが「水行」
それに対して日本海の荒波を越えるのは、持衰が必要なほど危険
それが「渡海」で区別されている

だから半島の対馬の対岸まで行って、渡海の距離を最短にすることが大事なんだよ
だから、釜山の辺りが重要になるし、今でも重要な港湾都市になっている

そういうことすら考えられずに、ただ机上の空論で言ってるから
「まっすぐ対馬に行った方が」とかいう寝言が出るんだよ

858日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:21:34.01
潮流を考えると巨済島から渡海したんじゃね

859日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:42:38.86
>>856
>「而句驪無道」の無道振りを訴える文であるから、

漢文読めてないんだから無理するなよ

昔よりの文は、主語が祖禰で、祖先ががんばって国をまとめた、という部分で、
臣雖下愚は「臣は下愚と雖も」で、臣(雄略のこと)が主語
雄略が下愚なのは、「昔より」じゃおかしいだろうが

漢文が読めず、原典の解釈もできないんだから無理するなww
恥をかくだけだぞ!
それとも恥はかかされるものなのかな?
でも、恥さらしなことを自ら書いてるのは>>856なんだからなww

860日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:48:50.41
サラコクが漢文読めないのは周知の事実

861日本@名無史さん2018/02/17(土) 23:50:09.08
>>858
>潮流を考えると巨済島から渡海したんじゃね

釜山を出てから巨済島経由で渡るってことはあったかもね
ただ、潮待ち、天気待ちをすることを考えると巨済島には平野がないし、
逗留・補給も考えると釜山まで行くのは必然だろ

862日本@名無史さん2018/02/18(日) 00:06:43.42
巨済島は元寇・応永の外寇では朝鮮半島から日本列島へ向かう軍勢の集結地だった

863日本@名無史さん2018/02/18(日) 00:40:42.81
>>862
鎌倉時代?
邪馬台国のスレで?

864日本@名無史さん2018/02/18(日) 00:43:08.34
>>843
>数人のスレはおもろない
じゃあ、843も積極的に書き込んでよ!

865日本@名無史さん2018/02/18(日) 00:47:15.97
>>863
地形が変わったとでも?

866日本@名無史さん2018/02/18(日) 01:45:11.29
>>865
>地形が変わったとでも?
船の構造、航海術が変わるだろ?
持衰という神頼みの時代と、大人数の軍勢で海を渡れる時代を一緒にしてどうする?
そんな常識のない感覚で歴史を語っても、恥をかくだけだぞww

867日本@名無史さん2018/02/18(日) 05:30:45.31
>>866
どこまで引用で
どこからコメントか
解りにくいので、改行いれてね

868日本@名無史さん2018/02/18(日) 06:26:36.54
>>866
弥生時代の倭船も元寇船も大差ないが
具体的にどう船の構造、航海術が変わったのか分かってるのか?
半可通のやつが多いな

869日本@名無史さん2018/02/18(日) 06:35:00.33
>>430
>(三角縁)学界では全中国製に傾きつつあるけどな<

それが本当だ、とすれば、
学会もキョクウの嘘つき騙しの・・・・ばかりに支配されてしまっている、
という事だな。

870日本@名無史さん2018/02/18(日) 06:40:02.30
元寇の出航地は鎮海湾の合浦(馬山)だろ
巨済島で船団を整えたんじゃね

871日本@名無史さん2018/02/18(日) 06:41:02.83
>>435
何いってるんだ?。
三角縁神獣鏡が日本製なら、明帝の鏡ではなくなって、大和説即死じゃんか。
九州説は、呉系楽浪鏡師の日本での製作鏡説だから、痛くも痒くもない 。

872日本@名無史さん2018/02/18(日) 07:00:51.76
>>871
なんで即死するの?

理由ないけど?

873日本@名無史さん2018/02/18(日) 08:47:02.29
古墳時代のすずり出土 福岡市の比恵遺跡群
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/394877/
「邪馬台国時代に奴国で文字使用」 

874日本@名無史さん2018/02/18(日) 09:06:02.29
ザラコクもすっかり逃げ回るようになったな

875日本@名無史さん2018/02/18(日) 10:59:15.32
畿内説の無理筋は説得力がない。

>>841
>平原1号墓は王墓と認められるかあやしい

王墓の定義は?
平原を王墓としないで何をもって王墓とするのか?

>しかも王墓と認めたところで、卑弥呼とは時代が合わないし、

合わないという根拠がない。
むしろ、鏡の形式からは卑弥呼の時代。

>これを卑弥呼の墓と認めたところで、今度は台与の墓が候補すらないことになる

祇園山でもいいし、まだ見つかっていないのかも。
平原だって昭和後期になって見つかったくらいだし。

876日本@名無史さん2018/02/18(日) 11:01:48.85
>>846
>これでよく那珂八幡古墳が大倭王の王墓の候補とか言えるよなww

言ってないことを捏造しないように。
平原より遅いから、前方後円墳は卑弥呼の時代に合わないと言っている。

877日本@名無史さん2018/02/18(日) 11:03:25.57
>>847
>「南したと思えばさっと東し、東したかと思えばまたさっと南する」の、
>「南と東の繰り返しの反復」を表す表現だ、として使われている事が判る。

まあ、リアス海岸だから、細かくたどればそうだし、海岸を見ながら大まかに移動することもできる。
どちらでもルートが大きく変わるわけではない。

878日本@名無史さん2018/02/18(日) 11:07:59.89
>>858
狗邪韓国が倭の一部で、朝鮮半島の南岸を構成していたように読める記事があるから、一旦は半島に上陸するんだろう。
そうすると釜山が最有力候補だよ。

879日本@名無史さん2018/02/18(日) 11:18:53.88
>>878
狗邪韓国は寄ってないから記事がないんだよ

880日本@名無史さん2018/02/18(日) 12:04:16.11
経由地として記載されていたし、渡海直前だから、しっかりと支度をしただろう。
ただ、狗邪韓国そのものは狭い港町で、特筆することもなかったのだろう。

881日本@名無史さん2018/02/18(日) 12:20:07.62
>>868
>弥生時代の倭船も元寇船も大差ないが

弥生時代にはせいぜい準構造船
垂仁紀で物言わぬ王子ホムチワケを喜ばせるための船が、二股の木から作った舳先が
二つある船で、丸木舟だと分かる
古墳時代に入っても基本は丸木舟なんだよ
鎌倉時代の大軍勢を送れる構造船と一緒にしてどうする
応神紀に出てくる枯野も天皇が作らせた船だが、記述から見てこの時点でも丸木舟

882日本@名無史さん2018/02/18(日) 12:58:29.11
>>880
倭じゃない単なる経由地だからか書いtてないんだよ

883日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:00:27.69
>>875
>畿内説の無理筋は説得力がない。

だからどこの論証が足りなくて説得力がないのか、「根拠」を挙げて示せと何度言えばww

>王墓の定義は?

背景に王と認められるだけの権力構造が推定できるかどうか、だね
弥生末期には各地でローカル王権が伸長し、その王の権力による動員力で
巨大な墳墓を作るようになる
それが弥生末期の汎倭国的な権力の誇示の様式
そして、北部九州はその流れから取り残されてる

それをごまかす理由付けが「倭国は九州のみ、使譯所通三十國も全部九州」とかいうガバガバ理論
那珂八幡古墳が−とか言ってる人がいるが、那珂八幡古墳レベルの初期古墳を作れるところは
四国とか信濃とか千葉とかたくさんあって、北部九州のローカル王権の強さはその程度
とても大倭王のいる土地とは考えられない

884日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:01:21.30
>>875
>平原を王墓としないで何をもって王墓とするのか?

何度も書いてるだろ?
ローカル王権の王墓としても
吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル
出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル
丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部
大和の纒向石塚古墳で全長96メートル
これらはきちんと発掘できてるのは副葬品も立派だよ
纒向石塚古墳は埋葬主体部が失われていて、比較できないけどね
たぶんこの辺の、箸中山古墳直前の大和の墳墓で
埋葬主体を発掘できたものが「ない」ことが、
いまだに九州説が生き残ってる理由だろ

まあ、畿内説はないものを「妄想・捏造」で補って何かを主張したりはしないけれど

平原1号墓の墳丘サイズ14×12メートル

>鏡の形式からは卑弥呼の時代

編年の頼りになる舶載鏡は2面のみで、卑弥呼の時代の
100年前(漢鏡5期「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」)と
200年前(漢鏡3期「四螭二朱雀龍虎鏡」)
残りは仿世鏡で、編年の推定には弱い
最低限でも平原1号墓で大量に出る仿世鏡の方格規矩鏡が
卑弥呼の時代の流行りだと示す必要があるが、むしろ卑弥呼よりも古い時代だろう
そこから埋葬までのタイムラグを仮定して、卑弥呼の頃にちょうどいいという
筋立てだったのが、仿世鏡ならタイムラグは0だからな

平原1号墓は、「弱小なローカル王権の王墓」くらいの位置づけが相応だと思う
2号墓から5号墓はその家族墓だろうし、特別な家系のようにも見えない

885日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:08:54.99
弥生時代の地方政権はカッコ付きの「クニ」の「オウ」

古墳時代のヤマトからが、国の王と書く人も多い

886日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:23:31.38
>>875
>祇園山でもいいし、まだ見つかっていないのかも。

祇園山「古墳」って書こうね
古墳時代に入れば北部九州にも大きな墳墓が作られるようになる
伊都国中枢部にも端山古墳、築山古墳が作られてるだろ
むしろ平原1号墓よりもこちらがもともとの伊都国王家の血筋の墓だと私は思う

そして、祇園山古墳は、伊都国ではないし奴国の弥生銀座(岡本遺跡群)でもないよな
これまでの奴国は傍線経路だの、弥生銀座が邪馬台国だののトンデモ理論と
どう整合性を取るんだ?

要は九州説ってのはただの行き当たりばったりで、
論説としては論評に値しないものだってことだ

祇園山古墳についてさらにいうと、墳丘が地山成形だからそこまで古いとは思われない
弥生時代の墳墓はもともと集落遺跡と同じ立地に作られていて、
吉野ヶ里遺跡では集落と墓地が一つの環濠で囲われている

大和の纒向古墳群も、他の遺跡と同じ微高地の面上に作られている

墳丘造成の労力を節約するために、地山を成形して墳丘に利用するのはその次の段階

ということで、祇園山古墳を卑弥呼の墓の候補にするのは構造(地山成形)からも、
これまでの九州説の主張との整合性からも無理筋だよww

887日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:24:42.81
弥生時代の終わりころから、日本列島各地に有力な首長の墓として、様々な形の墳丘をもった墳墓がつくられるようになった。
そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。
その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。

888日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:30:17.45
動員力から権力構造を推定すると、畿内のそれは地方の強権的な豪族や諸侯を思わせる。
近い地域から濃く人を集めている畿内と、その畿内を含めてより広域から人を集めている九州

889日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:32:04.29
>>885
代々の筑紫の王は、中国から内行花文鏡や璧を拝領し、正式に倭王に冊封されていた。
内行花文鏡は中国において王侯に配布していた鏡だからだ。
畿内や吉備の方がオウだ。

890日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:43:51.13
板を重ねて水漏れが内容にするのは
難しいからね。

底まで重ね板があるのが構造船
底は丸木舟だが常時水に浸かる重ね板が
あるのが
準構造船。

丸木舟部分しか水に浸からないのが
丸木舟。

891日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:44:43.46
>>889
>代々の筑紫の王は、中国から内行花文鏡や璧を拝領し、正式に倭王に冊封されていた。

と言う証拠は?


???

892日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:44:59.39
>>886
>むしろ平原1号墓よりもこちらがもともとの伊都国王家の血筋の墓だと私は思う

賛成。
私は卑弥呼は伊都国にいたが、その前の伊都国王家とは別の家系だと思っている。
だから問題ない。

>そして、祇園山古墳は、伊都国ではないし奴国の弥生銀座(岡本遺跡群)でもないよな

筑紫倭国の中だから、倭国の拡大により説明できる。

>これまでの奴国は傍線経路だの、弥生銀座が邪馬台国だののトンデモ理論と
>どう整合性を取るんだ?

その意見にはもともと賛成していないから、問題ない。

>祇園山古墳についてさらにいうと、墳丘が地山成形だからそこまで古いとは思われない

同意だ。
だからザラコク氏の祇園山古墳が卑弥呼説には反対している。
せいぜい壹與だろうと。
やはり平原遺跡の方が古く、卑弥呼にちょうど良い年代だ。
ただ、平原遺跡と祇園山古墳は様式は近いので、それほど年代の差はないだろう。
畿内説が、平原遺跡は2世紀で祇園山古墳が4世紀というのは無理がある。
単にこれらの墓を邪馬台国と結びつけたくないから、口が裂けても3世紀とは言えないのだろうが、強引すぎる。
平原遺跡が3世紀中頃、祇園山古墳が3世紀末とかでも良いと思う。

893日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:45:17.77
>>835
>>「循海岸」は半島の南西角で曲がるという意味<
>そんな意味はないねえ。

>>428できちんと説明してあるのを引用しないことで
ごまかしの印象操作をするのはみっともないからやめたらぁ?

「単に現代語の道案内で「道なりに行って」というのの海路版
 「海岸線(の概略)に沿って」だよ 」

「循海岸」は「海岸にならい」だから、朝鮮半島に形を見れば
半島の南西角まで南に行って(乍南)そこから東へ行く(乍東)で
何も問題ないだろうが!

漢文が読めない人間が訳の分からないケチを付けても、以後は無視するぞ!

894日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:45:30.93
>>891
無知

895日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:47:34.02
>>887
>その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。

年代錯誤。
もしくは、政権があっても魏とは関係ない倭種。

896日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:49:58.61
>>692
>私は卑弥呼は伊都国にいたが、その前の伊都国王家とは別の家系だと思っている。
>だから問題ない。

問題大ありだろうが!
なぜ卑弥呼が伊都国王家の家系でもないのに、伊都国の領域に墓を作る必要があるんだ?
径百歩にどう見ても足りない12×14メートルのしょぼい墳墓を
無理やり卑弥呼の墓に当てるのは虚しくならないか?

897日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:50:31.05
>>894
根拠が言えないで罵るのは
論破された証拠
 

898日本@名無史さん2018/02/18(日) 13:51:30.42
>>895
と言う根拠は?


笑)

899日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:03:01.37
>>896
>なぜ卑弥呼が伊都国王家の家系でもないのに、伊都国の領域に墓を作る必要があるんだ?

そこで倭国大乱だよ。
伊都国王家が天孫族なら、倭国大乱で倭王の座を失い、東へ向かう人員もあったろう。
卑弥呼が仮に筑後ヤマトあたりの出身でも、倭王に共立されたので伊都に入ったと考えられる。
後漢書では倭の南界は倭奴国だったが、邪馬台国の30か国は筑後や肥前も含まれていると考えており、肥国が合流して倭国の支配権をめぐる争いが起きたのが倭国大乱だと考えられる。

900日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:03:51.19
>>898
魏志倭人伝には、海を渡って東にも倭種がいるとあるから。

901日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:24:56.62
>>888
>その畿内を含めてより広域から人を集めている九州

その広域から人を集めてるのにしょぼい墓しか作れないのはどうして?
人が集まるところは
1. 王都などの国の中心
2. 港町などの交通の要衝

北部九州は典型的な2の場所だよ
博多遺跡や西新町遺跡が奴国の港湾遺跡
博多遺跡が比恵・那珂遺跡(奴国)の港で、
西新町遺跡が吉武遺跡群(奴国の一部、旧早良国)の港

西新町遺跡では九州様式の土器(西新式)と畿内様式の土器(庄内式)が両方出るから、
それが両者の土器編年の擦り合わせの基準になっている
そして、比恵・那珂遺跡では畿内様式の土器を作っている

これで、どちらが上位者か分かりそうなものだがな

それから、那珂川流域の弥生銀座を奴国じゃないとか言うおかしな人がいるけど
那珂川の「那」の字は奴国の「な」だから

それともう一つ、弥生時代に博多遺跡や比恵・那珂遺跡という港湾が
発達しているのだから魏使が末廬國に上陸するのはおかしいんだよね
奴国に来るなら博多遺跡まで船で来ればいい

魏志倭人伝の旅程記録(に限らないが)は、卑弥呼の遣使の頃だけの
記録ではないと考える方が妥当
だから魏志倭人伝を金科玉条のように崇めるのはあまり意味がないと思う

おそらく末廬國に上陸して東南陸行五百里は伊都国への経路ではない

902日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:47:22.53
土器の斉一は、瀬戸内・畿内地域をルーツに持つ労働者層が、地域を超えて大規模に取引の対象となったことを意味する。
この新しい労働力の大規模供給と取引システム(奴隷制)の下、列島は古墳時代へと移行する。

その意味で古墳時代が瀬戸内・畿内から始まるというのは正しいのかもしれない。
また畿内の古墳が大型化するのも、労働力供給の「本場」であるなら当然かもしれない。

中央からすれば、地方の諸侯は納めるものさえ納めてくれれば(物資・奴隷)、彼らが住民をどう酷使しようと関知しない。
むしろ墳墓の築造を競わせておけば、地方の諸侯も満たされ、何より地方からの反乱の抑止になる。

九州に供給された奴隷は一部兵士となったが、多くは在地の生産に従事した。
九州はその分多くの人民を兵士に徴発することが可能となり、このことが半島南部進出への大きな足掛かりとなった。

903日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:49:57.91
>>901
>1. 王都などの国の中心

伊都国

>2. 港町などの交通の要衝

奴国

904日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:50:33.78
>>902
>この新しい労働力の大規模供給と取引システム(奴隷制)の下

>>902は何人?
日本人なら古来倭国日本を通じて、奴隷制の発達した時代がないのは常識以前なんだが?

妄想・捏造はやめろと何度言えば?

905日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:54:42.08
>>901
>おそらく末廬國に上陸して東南陸行五百里は伊都国への経路ではない

途中までふむふむと思っていたのに、ここで台無しだ。
那の津ではなく末盧国につく理由は、やはり目的地が伊都国だったからだろう。
日向峠をわざわざ越えたくはないからね。
あと、卑弥呼の王宮が高祖宮なら、日向峠からでは裏から見ることになる。
防衛上も問題だよ。

906日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:55:45.60
え?奴婢とか生口とか思いッきし奴隷じゃないの?

907日本@名無史さん2018/02/18(日) 14:59:52.09
>>900
>魏志倭人伝には、海を渡って東にも倭種がいるとあるから。

九州が倭国なら、本州との間は幅600メートルの関門海峡しかないから
本州は「渡海千里の倭種の地」ではあり得ないね

それに九州説の大好きな魏略逸文では、魏志倭人伝の冒頭に当たるところでいきなり
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 「度海千里復有國 皆倭種」
とあるから、魏志倭人伝より魏略を重視するなら、対馬や壱岐も倭種の国ってだけだな

魏志倭人伝の方も、倭国の本土(?)の周りの島にいる人も倭人だ、くらいの
意味に取れば十分だと思う
隠岐の島とか佐渡とか

908日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:04:58.01
倭国本土=九州っしょw

909日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:07:14.33
他のスレにも書いているけど、家の話だと言っているんだよ、
冤罪(事件)を吹っかけて、財産などを盗むと言う手法

古代〜の末裔という家などもあるでしょ、
そういうモノも盗もうとするやり方

910日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:08:50.86
倭国百余国
九州+壱岐対馬で96郡

女王国三十国
肥前肥後で25郡
あるいは筑前筑後で25郡。

郡数は平安時代の和名抄による。

911日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:09:02.68
陸奥 爆沈・・・?

印鑑が何やらと言う話をしていたり

912日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:10:36.18
九州のバカは毎度笑えるな

土器はそれまでの生活の形を全部変える形で流入されてる
つまり、輸入とかそういう規模じゃなくて生活様式全部畿内式に変えられてる
畿内の人間が場の主体になったことを意味して位r
そして墓も祭祀も全部畿内の物に塗り替えられて独自の文化を喪失してる

なにが「貢物」だw
笑わせんじゃねぇよww

913日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:11:28.18
死んだのか(絶家、断絶)?

このような話(洗脳)を広めたり

914日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:13:27.81
弥生時代の北部九州には各地の土器が運ばれているが
畿内には、北部九州の土器はひとかけらしか
見つかっていない。

物流は畿内から九州への
一方向でしかなかった。

915日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:13:56.13
よかったな
土器生産を一任させていただいて

916日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:14:09.64
そもそも墓にしろ宝物にしろ畿内を頂点とした図式の下位の形に収まっている

今まで存在もしてなかった方式に全部塗り替えられてその下位にいる場所に邪馬台国とかw
どんなバカな妄想してたら九州説とかほざけるんだろうなw

おれだったらこんなアホな妄想は口に出すのも恥ずかして死にそうだwww

917日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:15:29.36
まぁ九州説とか言うバカはバカだから仕方ないな

何一つ知らないで邪馬台国の会とか言うバカサイトみたいなバカ話だけ鵜呑みにして騒いでるだけのアホだからなw

918日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:15:43.44
『陸奥撃沈 菅野』ググってみた?


『印鑑』が何やらと言っているでしょ

919日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:15:58.04
宝物は平原を頂点としているだろ

920日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:16:49.13
現地人の反抗を封じるために強制労働
当然木器しか渡さない

921日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:19:25.45
>>905
>>末廬國に上陸して東南陸行五百里は伊都国への経路ではない

これ、吉野ヶ里へ行く経路だと考えている人が結構いるんだよ
後漢書に見られる107年永初元年の帥升等の朝貢について、北宋版の「通典」では
「倭面土國王師升等」と書いてあること
先代旧事本紀に筑志米多国造(ちくしめたこくぞう)という記述があり、
佐賀県三養基郡米多郷という古い地名もあり、それが吉野ヶ里遺跡から数キロの
距離にあることから、この倭面土國は、倭の面土(米多)国ではないかと考え、
帥升を吉野ヶ里の王ではないかと考える説がある
卑弥呼より100年前という年代も、吉野ヶ里遺跡の盛期と重なる

末廬國は宇木汲田遺跡が有名だけど、この遺跡も吉野ヶ里が廃れる頃には
軌を一にして廃れているというか、3世紀の新しい時代のものは出ていない
想像をたくましくすれば、吉野ヶ里が元気でその玄関口の地位を
末廬國が担っていた時期は両国が繁栄していたけれど、吉野ヶ里が勢いをなくし
末廬國から東南陸行ではなく、伊都国への海路がメインルートになり、
入国管理的な役割が伊都国になって行くことで、末廬國の繁栄も失われたと考えると
話としてはつじつまが合う

その古い記録がそのまま魏志倭人伝の旅程に紛れ込んでいたら、正しく道順を追うのは
無理ってことになる

そんなに荒唐無稽なトンデモでもないんだよ

922日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:20:57.22
平原なんて邪馬台国の100年も前のどこにも何の影響も及ぼせずにその代で終わった墓がなんだって?
むしろ邪馬台国の前に九州の勢力がそこで崩壊して終わった終焉の証に過ぎない

ついでに言うなら鏡の序列は九州の発明でも何でもない
中国の序列そのまま
それが畿内に移ってると言うことは畿内が九州から中国との交渉を奪ってると言うことにしかならない

そして九州が毎度ほざいてる宝物とやらは古墳から出てしかも三角縁や庄内土器と共伴してる
バカじゃねぇの?
今まで存在さえもしてない墓制に塗り替えられてその規模も宝物下位なのが明白になってるだけ

アホが

923日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:23:17.62
あと毎度九州のバカが言い出す鉄器も邪馬台国の前後辺りから急激に畿内が増える

それまで殆ど出てこなかった場所に突然大量出土し始める
邪馬台国が畿内に発生した時代の画期である証拠

むしろ「それまで出なかった」という話は、畿内のこの時代の急激な発展を示す証になるだけ
九州のアホは理解もせずに毎度間抜けなこと喚いてるから笑える

924日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:23:54.81
>>907
>倭在帯方東南大海中 依山島爲國 「度海千里復有國 皆倭種」
魏略逸文にこんな文はないが

925日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:25:48.29
九州なんぞ何も出てこない上に出た出た言う物が悉く畿内の手垢まみれの物ばかり

そして他の物は「邪馬台国のずっと前」「弥生時代を通じて」とか言うバカ丸出しの話ばかり
流石は低能九州説だなと笑いしか出ない

926日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:27:08.17
想像力が貧困だな。
3世紀初頭に漢が滅んだから末蘆国にお偉いさんを配置する必要性が無くなったんだろ。
公孫氏も邪魔するから外交はともかく交易が激減したわけだから。

927日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:28:05.10
×鉄器も邪馬台国の前後辺りから急激に畿内が増える
〇鉄器も邪馬台国の100年後辺りから急激に畿内が増える

征服されたんだねw

928日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:29:15.48
>>905
>那の津ではなく末盧国につく理由は、やはり目的地が伊都国だったからだろう。
>日向峠をわざわざ越えたくはないからね。

地図見てる?
伊都国が目的地だったら伊都国に船を着ければいいだろ?
そしてそのあと、奴国に行ってるんだから、伊都国に寄ったあとも船で那の津へ行けばいい
そうすれば日向峠も越えなくていいだろ?

魏志倭人伝の旅程は、考古学的に分かっている弥生時代の様子と合わないんだよ
淮南子をはじめ古い記録・文書を参考にして撰書として編纂されているのだから
当たり前と言えば当たり前なんだが、そうしたことを気にもしない九州説が多すぎる

929日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:31:19.76
それにしても家の老婆だよ

なぜ詳しいのか?

りゅーま、りょーま
というのもいたよと言っていたり

930日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:34:03.83
>>924
>>倭在帯方東南大海中 依山島爲國 「度海千里復有國 皆倭種」
>魏略逸文にこんな文はないが

魏略逸文が翰苑にしかないと思ってるんじゃないのか?

前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種

調べてごらん

ていうかググればすぐ確認できるだろうに、
わざわざ自分の勉強不足を曝して恥をかかなくてもいいのにww

931日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:38:31.34
国交を結んでいたことが確実な漢代に
末蘆国にあれだけの有力者を配置していたのだから
何らかの必要性があったことが考古学的にわかっているわけだ。

その答えが魏志倭人伝。
外国からの使者は末蘆国で上陸させて伊都まで歩かせた。

答えは書いてあるが、
理由までは書いていない。

九州説者は楽しく議論できる。
国防上の理由とか、検疫とかね。

932日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:40:57.21
>>899
>卑弥呼が仮に筑後ヤマトあたりの出身でも、

筑後ヤマトは地名だけで、めぼしい遺跡はない
そして奴国や伊都国には遺跡はあっても、ヤマトの地名はない

それで、邪馬台国(ヤマト国)が九州って主張するのって虚しくないか?

933日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:42:27.06
400年も続いた伝統を失い
生活も祭祀も宝物もぜーんぶ畿内の物になりました

でも「九州が征服したんだ」

流石は基地外九州説の珍説だなwww

大爆笑させてもらってるわwww

934日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:42:52.19
玄奘三蔵の話をしている人がいたり

キュウリのような葉の写っている写真、
河童?

家の写真なんだけどw

935日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:43:54.51
>>933
いやだから
5世紀に北部九州の副葬品は最盛期を迎えるのだが。

936日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:44:35.39
銅鏡祭祀の伝統はずっと続いているのだが夢でも見ているのかこの畿内説はw

937日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:47:47.41
>>931
>末蘆国にあれだけの有力者を配置していたのだから

あれだけの有力者って誰のことだ?
一大率は伊都国で、末慮国には何も書いてないぞ
また「脳内妄想」か? お得意の?

脊髄反射で書き込むのは止めなよ

いつも「根拠」を書けって言われただろ?
根拠を調べてから書き込むようにすれば、恥をかくことも減ると思うぞ

>何らかの必要性があったことが考古学的にわかっているわけだ。

その「考古学的に分かっていること」とやらを「根拠」として書けるものなら書いてご覧
もう少し勉強しなよ
まあ、きちんと勉強したら、九州説なんか信じてないだろうな

938日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:48:01.06
橋が出来たので(完成)来てください
と言う招待状が届いたこともあったんだけど

言っていたり

本当に偉い人だったのかな、
なぜかセメント関係の仕事をしていたと言っている

939日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:51:35.25
>>930
クズだな

940日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:51:46.09
葱の華、ネギ坊主

一本の葱?

941日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:51:57.67
縄文時代の石器が広域で流通しても、誰も広域国家があったとは言わないのに、土器については広域国家があったと言い張る。

942日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:52:04.07
>>935
>5世紀に北部九州の副葬品は最盛期を迎えるのだが。

3世紀後半と4世紀に九州王家とやらは何をしてたんですか?
5世紀に最盛期ってことは、北部九州の豪族(国造ほか)は
成長するのにそれだけ時間がかかったんだね、としか

943日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:55:18.98
>>942
諦めろ。

2世紀まで国内最大の王墓が続き、
3世紀平原への女王卑弥呼の長期政権&権力象徴で符合する。

3世紀後半と4世紀に東方へ領土拡大したんだよ。

自腹で開墾したから一時的に貧しくなったが、
4世紀後半になってようやく収穫が上がって利益回収して
あとは北へと勢力拡大してるだろ。

944日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:55:49.64
>>904
>日本人なら古来倭国日本を通じて、奴隷制の発達した時代がないのは常識以前なんだが?

生口や奴婢って知っているかい?
卑弥呼も生口を献上しているよ。
まあ、日本と倭が別の国だというのなら、話は別だけどね。

945日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:56:32.66
>>941
>縄文時代の石器が広域で流通しても、

縄文時代は領域国家ってのはないからね
生活は集落単位

それが稲作が始まって、水系単位の共同体が必要となるのが弥生時代
それがローカル首長を生み、国へと発達していく

縄文時代から広域流通してるのに、九州だけの倭国を主張するのが
頭悪いなとずっと思ってる

946日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:56:36.26
>>935
最盛期?
古墳というシステムの下位にいて半島に近いから手に入るだけの宝物を入れてるから何だって?
しかも畿内を中心とする勢力の半島進出の結果の副産物に過ぎない

まさかそれで独自王朝とかほざいてるのか?
流石は能無し九州説

947日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:57:56.51
征服先の生口が反乱しないよう木器だけ渡して働かせる。

征服先から連れてきた生口の余った連中が反乱しないよう(ry

948日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:58:59.57
>>912
便利なものは取り入れるだろ?
今の日本は中国製品が満ち溢れているが、中国の支配下ではない。
畿内の土器があったからと言って、畿内の支配下ではない。

949日本@名無史さん2018/02/18(日) 15:59:44.50
まあカリカリすんなよw

邪馬台国=北部九州
卑弥呼の墓域=平原1号+2号で周濠の長径百余歩

考古学と文献が見事に一致しててスッキリじゃんw

950日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:00:31.01
本当は寺院に通っていたんだよ、
と言っていた

老婆の親戚が創価で・・・、
老婆も創価に入った?

951日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:00:46.14
>>916
>そもそも墓にしろ宝物にしろ畿内を頂点とした図式の下位の形に収まっている

九州北部の銅鏡文化に畿内も塗りつぶされているよね?
現実を見ろよ。

952日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:01:11.46
>>943
>2世紀まで国内最大の王墓が続き、

あれほど王墓は大きさじゃないと言っていたのにww

じゃあ、小さくてしょぼい平原1号墓は王墓じゃないねww

2世紀までしかも前半までしか王墓が「続かない」のに
どうして3世紀の大倭王の都があると主張できるんだろう?

953日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:02:08.53
>>948
お前いい加減バカなのを自覚しろ?な?

当時の土器は「自分で作って使う物」なんだよ
そしてその直前まで「他地域の土器は搬入用」の物が主体なんだよ
生活の土器全部変わってんだよアホがw
その場に乗り込まれて生活様式が外国人の物に塗り替えられてんだよ

その上、祭祀や墓制と言う世襲権力者の象徴が「全部畿内の物」にななってんだよ
生活どころか、権力者の基盤までそれまでになかったものに変わってんだよ
しかもその序列が明らかに畿内の下と言う形で

まぁどうせアホは「九州が征服したんだもん!」とか言い張るだけだろうけどよw

954日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:03:01.83
>>949
>卑弥呼の墓域=平原1号+2号で周濠の長径百余歩

数値で「根拠」を示してごらんww
笑ってあげるから

955日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:04:03.11
家は・・・創価ではないと言っていたり

956日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:04:33.29
そういえば、「旅程距離の測り方は国境を越えるところまで」ってのは言わなくなったなwww

957日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:05:19.38
>>952
最大ってのは内容のことね
キミ惨めだね

958日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:06:06.48
何度も言わせんな?

生活から権力者の象徴まで上から下まで全部畿内式になってんだよ
そしてその直前まで他地域の物とは別の個性を維持してたのに邪馬台国の時代に一気に
しかも時代を追うごとに強くなって九州の独自性が消え去る一方

たまたま便利な道具を受け入れた?貢物だ?九州が支配しただ?

アホか?アホなのか

959日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:06:52.45
倭国乱があって卑弥呼が長期政権
次の男王でまた乱れて台与だろ
平原の前後100年ほどめぼしい王墓が無いんだから
まんま邪馬台国じゃんか

960日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:07:46.68
>>958
その畿内式って具体的にはなに?
お前が勝手に拡大解釈してるだけじゃないのか?

961日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:08:56.74
そりゃあ無鉄器倉庫が征服されて
主な産物が年貢と生口なんて事実はなかなか受け入れがたいだろうな

962日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:10:14.09
あの謎の写真があるでしょ、
老婆も生まれていない頃のものだしな

乗っ取られたのかな?

963◆UiepmfCeDJqf 2018/02/18(日) 16:12:00.57
新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518935533/

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

964日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:16:08.52
>>960
は?
お前マジでそれ聞いてんだ?
そんなことも知らんでお前九州説とか喚いてんの?

土器の分布も、古墳の分布も、鏡の分布も知らないんだお前

流石は能無し九州説
あるのはぼくちゃんの脳内のおもしろ行程だけか

965日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:16:58.21
>>923
>あと毎度九州のバカが言い出す鉄器も邪馬台国の前後辺りから急激に畿内が増える
>それまで殆ど出てこなかった場所に突然大量出土し始める
>邪馬台国が畿内に発生した時代の画期である証拠

どう見ても、鉄器を持った九州に征服されただけ。

966日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:17:22.79
九州説は無知が生んだ幻想

967日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:17:42.10
畿内なんぞ何も出てこない上に出た出た言う物が悉く九州の手垢まみれの物ばかり

968日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:17:42.65
何一つ見つからない九州

出てくるものは悉く畿内の手垢べったり
畿内の影響に飲み込まれて独自の文化を喪失するド田舎の属国を見て九州説とかw

流石は基地外の集団だな

969日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:18:34.47
>>926
中国との外交は停止しても、公孫氏と外交や交易はしていただろうね。

970日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:19:01.48
無鉄器だから邪馬台国では無い

971日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:21:38.89
>>970
という根拠は?

972日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:21:52.03
魏略逸文

倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
(前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注)

従帯方至倭循海岸水行歴韓國至拘邪韓國 七十里
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴
南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
又度海千余里 至末廬國 人善捕魚 能浮没水取之
東南五百里 到伊都國 戸万余 置官曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚 其國王皆属女王也
女王之南又有狗奴國 以男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也
自帯方至女國万二千余里
其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後
昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也
(翰苑 卷三十)

倭國大事輒灼骨以卜 先如中州令亀 視坼占吉凶也
(北戸録 卷二 鶏卵卜)

其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
(三國志 魏書 東夷伝 倭人 裴松之注)

倭南有侏儒國 其人長三四尺 去女王國四千余里
(法苑珠林 魏略輯本 所引)

973日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:22:32.17
鉄とかまだ喚いてるんだww

まさに邪馬台国の時代に鉄器が大量に出土する畿内は「それまでなかった」からこそこの時代の画期が明確になる
アホの九州説は自分で畿内の発展を主張してんだから笑わせてくれる
あ、古墳からはノーカンとか言うなら、お前らの喚いてる鏡とかも全部古墳から出てるもんだからww
お前らますます何もないなwww

ついでに言うならその鉄だらけの九州様は最盛期でさえも九州北部からも出られない雑魚なんだがな
こいつ等のバカ理論だと鉄器があれば強いんじゃねぇの?
アホがw

974日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:23:42.17
>>945
>縄文時代は領域国家ってのはないからね

はあ?
循環論法だろ?

>縄文時代から広域流通してるのに、九州だけの倭国を主張するのが

つまり流通と国家は別なんだよ。
それなのに畿内説は一部の土器の流通だけを元に畿内が広域支配したと主張している。

975日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:24:37.06
>>946
>古墳というシステムの下位にいて半島に近いから手に入るだけの宝物を入れてるから何だって?

畿内以上に宝物を手に入れてウハウハなのに、畿内が叶うわけもない。

976日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:26:05.61
3世紀まで鉄器ゼロで
4世紀から突然鉄器が増えて、代わりに土器が九州へ運ばれるんだろ。

戦わなきゃ、現実と!w

977日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:26:20.98
>>953
>その上、祭祀や墓制と言う世襲権力者の象徴が「全部畿内の物」にななってんだよ

国家祭祀の象徴である三種の神器がまるごと九州北部からやってきて、銅鐸文化を塗り替えてしまうんですが。

978日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:27:42.35
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入

979日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:29:54.93
>>973
>まさに邪馬台国の時代に鉄器が大量に出土する畿内は「それまでなかった」からこそこの時代の画期が明確になる

それ以前からも鉄器が豊富だった九州から人が流入したからだろ。
それまでなかったところが九州の道具ど祭祀で塗りつぶされたんだろw

980日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:31:00.13
考古学でも文献でも畿内銅鐸がきれいさっぱり無くなってんのに畿内説は夢でも見てるのか?w

981日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:31:18.77
>>974
一部の土器の流通だけを元に畿内が広域支配したと主張して
なんていないけど?


なにを妄想してるのかな
それとも、日本語が読めないのかな

982日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:32:44.61
>>980
無くなったら何なんだ?

983日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:33:31.02
>>981
つか、一部どころか九州から外に出る影響なんて「ほぼ皆無」だからなwww

しかもほぼ弥生時代を通じて

そして「一方的に畿内の影響を全てに置いて受けて自我を喪失する」のが九州

九州説ってどんだけ脳がないんだろうと笑えるよなw

984日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:34:41.96
珍しく昼間に新スレが立ったな

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518935533/l50

985日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:35:08.95
>>983
ないから九州説

986日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:43:54.91
あるある絶対と喚き散らすが何一つ出てこない九州説

出たという物は全部畿内の手垢でべったり

987日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:48:25.90
>出たという物は全部畿内の手垢でべったり

畿内説の夢w

988日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:50:46.75
邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。邪馬台は単なる地名です。ヤマトの地が卑弥呼を共立した勢力に征伐され、都が置かれました。
纒向の外来系土器、円形周溝墓などがその証です。殉葬などそれ以前になかった風習が持ち込まれたことも、新しい別の勢力がヤマトの地を支配した傍証になります。

女王国、大和朝廷を作ったのは、出雲など山陰の勢力、尾張、阿波、宮崎や遠賀川の石神など縄文系勢力。
畿内の勢力はこれらの勢力に征伐されました。


倭国大乱の元凶。
火神、カグツチ、ホアカリ、火産霊、国常立神(天香久山の山頂に祀られている神、尾張一宮の本来の主祭神、天岩戸の向こう側、鬼門に封じられた神)、オオナムチ、飛騨の顔が二つ胴が一つの怪物、牛鬼、
阿波咋、
宮崎の石神、イワレ、岩割、
遠賀川の石神、石筒之男、

彼らが畿内や九州北部を征伐して、出来たのが女王国、それに連なる大和朝廷。
四道将軍で関東東北を征伐したのも彼らです

989日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:50:59.43
『ザ・モモタロウ』という作品

・池田屋の〜と言っていたり(りゅーま?)
・海底少年マリン(うらしま)
・鬼のようなキャラ(すさのお、牛頭天皇、天王?(キュウリの葉?)
・ごーじゃす石材(不明)

990日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:55:08.93
ゴージャス石材は物部か。
石神。
遠賀川上流など石器作り勢力が元かな。

石器武器作りの達人。

991日本@名無史さん2018/02/18(日) 16:58:27.63
もう完全に
 畿内説’(学者)vs 九州説(素人)
って構図だなあ
 

992日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:00:49.64
亀トや生贄が、殷の風習でもあるのが気になるな。

993日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:02:21.41
数年前の、とあるスレ、
おまえらジャンプ(漫画)が好きなのか?
と言ってる人がいたり

ほとんど同じコンセプトだとか、
角▢川の陰謀?誰だったんだろう

994日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:02:27.83
>>956
これ、アホすぎるからね

この珍説だと
部分里程の総計が12千余里にならない

995日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:03:34.88
>>991

鉄でも硯でも畿内説は追いつめられてる状態。
畿内説は今は厳しいんじゃないかなぁ
学者さんは一度言った事はなかなか覆えせないし
巻向があんなに何もないと思わなかったんじゃない?

996日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:04:35.49
>>951
>九州北部の銅鏡文化に畿内も塗りつぶされているよね?

キリスト教になったからローマ帝国はユダヤ王国に征服されたんだ
と言い出しそうな連中がいる

997日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:05:23.13
>>995
ひとりで追い詰めたつもりでいるのが哀れ

998日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:05:27.34
秋▢田書店?・・・?
関係者の書き込みなのかな

このような事を言ってる人がいたんだけど

・おまえらジャンプ(週刊少年じゃんぷ)が好きなのか

999日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:06:03.40
>>995
そんなもので、どうやって畿内説を追い詰めるの?

1000日本@名無史さん2018/02/18(日) 17:06:27.81
畿内説圧勝だよ

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