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邪馬台国畿内説 Part326
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0001◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:32:13.24
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。
・出現期古墳段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1518630290/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:34:18.91
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:34:44.75
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:35:22.87
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦勝に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:35:47.07
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:36:04.55
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
0007◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:36:31.03
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:36:49.32
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
0009◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:37:06.93
◆6−3
 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0010◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:37:31.30
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0011◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:37:49.48
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0012◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:38:11.21
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0013◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:38:32.14
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第2号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-2.pdf


◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収

●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」

●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
0014◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:38:53.88
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1    ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3    ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相      ー 河内庄内III   ●箸墓、権現山51号
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、桜井茶臼山、黒塚、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0015◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:39:12.74
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。

 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀末)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
0016◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:39:30.74
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0017◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:39:55.23
◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々は倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向は洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。東冶の「東」の方位に誤差を認めて強引に現実的地理に近づける解釈を行うことも、角を矯める愚を犯すに等しい。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)

※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0018◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:40:17.20
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0019◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:40:42.59
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0020◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:41:14.13
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
 
 
 
0021◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:41:45.67
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が再出現するまで途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0022◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:42:04.05
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0023◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:42:22.96
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0024◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:42:40.24
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
 万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東に所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
0025◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:43:08.92
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189qであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63q)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
 
 
 
0026◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:43:28.05
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。


◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!


A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
0027◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:43:47.32
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
  これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。

 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0028◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:44:15.22
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
  この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
 箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。

・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で、前方部に盛土がないこと等
0029◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:44:35.38
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。


◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。
0030◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:45:03.03
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。

 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0031◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:45:22.23
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
0032◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:45:39.76
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
  弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。

 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0033◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:45:58.09
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0034◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:46:18.78
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 当時の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も参考として興味深い。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0035◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:46:37.75
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?

A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0036◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:47:00.57
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0037◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:47:23.45
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0038◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:47:41.94
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
0039◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:48:00.97
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0040◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:48:20.20
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集することが可能であったことからも、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開していたことは確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0041◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:48:40.69
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見があるが、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。
0042◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:49:09.34
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。


※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0043◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:49:28.92
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0044◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:49:48.58
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0045◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:50:03.90
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0046◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:50:20.10
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
0047◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:50:37.79
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0048◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:50:53.00
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
0049◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:51:09.86
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0050◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:51:27.11
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「婼羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0051◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:51:42.91
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0052◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:51:59.36
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0053◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:52:18.66
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0054◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:52:35.69
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0055◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:52:53.38
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである.
が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。

居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0056◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:53:21.76
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
 
 
 
0057◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 15:53:38.70
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
0058◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 16:05:04.54
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。


(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0059◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 16:05:28.07
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣がある。「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。
ここで交州〜交趾の約5,000里が現代の航路で900kmであるから(「靖尋循渚岸五千餘里」許靖伝 )往時航路の紆曲と心理的負担感及び苦難の誇張を加味した倍率として認識しつつ、この比率を上記に乗ずると、7,200里が得られる。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0060◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 16:05:58.86
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏蟬県が温泉郡城峴里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「猗氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道猗氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0061◆UiepmfCeDJqf 垢版2018/02/18(日) 16:08:24.73
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*前スレが終了してから書き込んでください。

なお、書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

 前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】◆FAQ 60の機種依存漢字を修正
0062日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 17:07:51.61
畿内説の圧勝だよな
0063日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 17:21:20.19
官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。

ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

やっぱり卑弥呼の邪馬台国や大和朝廷は出雲や尾張などの縄文系勢力による政権なんじゃないかな。

記紀でも神武東征で畿内が征伐され大和朝廷が始まるとあるしね。
しかもヤマト征伐は2世紀末と思うけどね。
0064日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 17:32:51.81
亀トと生贄の風習。
生贄と河伯は結びつきが強い。
殷に辿り着くんだよなぁ
0065日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 19:37:53.34
>>447
>国の位置をなんだと思っているのかな? 首都ってどこの国でも、国家元首の居所だろ?
「郡使往來常所駐」だから海の近くって、上陸したばかりのところに大陸からの使者を泊めるのかい?
そんな失礼な仕打ちをするのか? 普通は、きちんとした迎賓館的なところに迎えるだろ?
それが海岸にある必要はないだろうが?
「皆臨津搜露」も入国管理であって、そこに「国がある」訳じゃないだろ?
「成田空港の入国管理ゲートのところが国の場所だ」って言われたらおかしいだろうが?<

伊都国は千戸程度であり、皆臨津搜露出来るのは海岸沿い。

>「伊都国は海岸沿い」って書いてるのに、伊都国からの距離を測るときには「三雲や平原」って言ってるww
「三雲が伊都国の中心地」でいいじゃん! <

三雲は、海岸沿いではないから、皆臨津搜露の伊都国ではない。

>地図見てる? 平原や三雲から吉武高木は、ほぼ真東だよ?
人には、王墓の位置は国じゃないと言いながら、平原も吉武高木も王墓とされる遺跡だよな? どんなダブスタやねん?ww <

距離は外縁部や入り口までであるから、平原や三雲付近が入り口。
0066日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 19:53:41.38
>>453
>>側副傍線國の説明 <

>そんな概念は、一部の「九州説の頭の中にしかない」んですが?
中国人に聞いても、放射読みとか傍線経路とかは「ない」そうですよ<

そりゃ、梁書などの中国人と同じく、
陳寿の「出発+途中説明+到着」の記載法が読めなかったアホ中国人。

>>邪馬壹國女王之所都は不彌國の直ぐ「南」ですから、<

>これも、魏志倭人伝には「書いてない」ことですね <

書いてあるから計算出来た事。

>九州上陸までに1万里使ってるから、残りは2千里って言ってたのはどこへ行ったんですか?<

「九州上陸までに1万里」は、陳寿の記載ではなく、如淳注の記載。

>この経路だと、九州上陸後に6百里しか使っていないのでまだ千四百里残ってますね?
それがすぐ南って、誰がどう見てもおかしいでしょ?ww<

對海國と一大國で、千四百里位を使っていた。
0067日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 19:56:41.13
>>457
大和説学者は、ほぼ100パーセント、
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師なんだが。
0068日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 19:59:18.95
>>459
>奈良に都のある大和朝廷は、大阪と何の関係もない。
大阪は奈良にしばかれてばかりなのだ。<

古代には、大和に「朝廷」はなかった。
大和が「朝廷」になったのは、701年。
0069日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:03:48.34
>>460
>スプリング8使って科学的に分析した結果三角縁は
当時の日本製品とは違う中国製品と同一の成分比率だったよ<

呉系楽浪鏡師らが持ち込んだ材料銅や、
既に齎されていた中国鏡を材料にしたり、
中国銅で造られた銅鐸を鋳直したりしたから。
0070日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:09:22.77
>>470
>で、邪馬台国はヤマト国だよ<

「南≠東」だから、×。
0071日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:21:07.05
>>472
>投馬国はどちらかというと瀬戸内海の鞆の浦の可能性が高いと思うよ<

「南≠東」だから、×。
0072日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:23:24.02
>>474
>纒向にはわざわざ発掘しなくても3世紀の前方後円墳とかあるやんなあ<

纏向の前方後円墳は、3世紀末であり、卑弥呼の墓ではない。
0073日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:27:41.91
一週間ほどこのスレにいたけど、九州説の頭がおかしいのが一人、脳内妄想を
書き散らしてるだけでつまらないな

反論の論証をきちんと書いてあげても、その論証を読み取る能力すらない

まともな九州説の人はいないのかな?
いないのか。。。

まあ、そうだよな、プロの世界ではとっくに決着が付いて、
アマチュアでもきちんと勉強すれば、プロが畿内だと判断しただけの情報が
見られるんだから
0074日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:34:20.85
それが九州説の作戦よ
もう議論しても勝てないから単に嫌がらせをしてるだけ
書き込んでる本人すら九州説を信じてない
0076日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:41:29.72
>>478
>日本語読めますか?
奴国のある那珂川と牛頸川流域と、早良国の室見川流域が、水系が違うから「元は別の国」って言ってるんだよ<

奴国は、伊都国の東南百里だから、須玖岡本にはならない、といっているんだよ。
要するに、「大和説の脳内妄想に合わない。

>>三雲や平原付近だけでは2万戸が困難であり、<

>なんで伊都国と奴国を一緒にしてるの?<

一緒にしていない。伊都国は、前原付近の海岸や糸島水道付近。

>奴国は早良平野まで含む福岡平野一帯だから、2万戸に相応だろう?
まあ、2万戸自体は実数ではなく誇張が入っているだろうけれど<

奴国は、伊都国の東南百里であるから、福岡平野一帯は合わない。

>吉武高木遺跡の王墓の年代は弥生前期末から中期初頭(前三世紀末〜前二世紀初め)で、
漢委奴國王の朝貢とまったく時代が合わないんだけど?<

倭奴国の(遣使ではなく)成立が古かった、という事になるだけ。

>>(外縁部や入り口論)県庁所在地や市役所が目的地であれば、その門や入り口までだ。<

なんだか、この男は、陳寿や日本人の常識と違うな。
0077日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:45:07.24
>>479
>そっから先南に水行10日陸行1月に邪馬台国がある事になるん?
九州南部は狗奴国だから投馬国を宮崎とすると地理的に収まりそうにないよ<

狗奴国は、姫氏本家だから、「火の国」であり、だから「肥前や肥後」であり、
だから、宮崎や鹿児島とは違う。
0078日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:46:06.69
九州説は
古墳時代の開始を遅くした上で東遷したとする東遷説(安本美典氏系:邪馬台国の会)か
古墳時代になっても九州王朝が畿内とは独立に存続したとする
九州王朝説(古田武彦氏系:古田史学の会)以外は無理

しかし、古墳時代の始まりが3世紀半ば〜後半、定義によっては3世紀初頭であることが
考古学的に明確になっている現在では東遷説は厳しい

実際ここにいる九州説は、九州王朝説に固執しているが、九州王朝説は倭の五王も
遣隋使も九州王朝の遣使とせざるを得なくなり、もともと東遷説よりトンデモ度が高く
古田武彦氏も晩年は九州王朝説を放棄している

九州説のここで盛んに書き込みしている人(ザラコクとかいう人?)は、
九州王朝の倭の五王も挙げられず、隋書に記された大和朝廷の人物も九州王朝の人物だと
言い張るだけでなんの「根拠」も挙げられない

漢文の原典も読めないし、議論の前提となる常識的な知識もないし、
自分に向けられたコメント内容も十分に読み取れず、日本語能力も低い

議論するための基本的な能力すらないのに、なんでこんなところに出てくるんだろうね

現実世界で誰にも相手にされない人が、ここだと相手にされるから喜んじゃっているのかな?
0079日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:54:59.45
>>76
>奴国は、伊都国の東南百里だから、須玖岡本にはならない、といっているんだよ。
>要するに、「大和説の脳内妄想に合わない。

現実の方を魏志倭人伝に合わせてどうする?

魏志倭人伝に書いてあることは金科玉条のゴールドスタンダードじゃないって
ことが認められない、頭のかわいそうな人って自白してどうする

須玖岡本遺跡が那珂川流域だってのは理解してるか?
この那珂川の「那」が、奴国の「な」だぞ

岡本遺跡群が奴国だと、短里が成り立たないからというバカな理由で、比定地の中でも
鉄板中の鉄板を否定しようっていうんだから、ドンキホーテが過ぎるわww

要するに、「短里なんてのはない」んだよ
0080日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:55:30.56
悪いひとたちがやって来て
みんなを殺した

理由なんて簡単さ
そこに弱いひとたちがいたから

女達は犯され
老人と子供は燃やされた

悪いひとたちはその土地に
家を建てて子供を生んだ

そして街ができ
悪いひとたちの子孫は増え続けた


朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺

https://youtu.be/iBIA45CrE30
https://youtu.be/D0vgxFC04JQ
https://www.youtube.com/watch?v=sYsrzIjKJBc
https://www.youtube.com/watch?v=SiHp41uWo1I
https://www.youtube.com/watch?v=zYBCTRryFP8
0081日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 20:59:01.79
>>76
>一緒にしていない。伊都国は、前原付近の海岸や糸島水道付近。

だったら三雲南小路遺跡は、伊都国王墓じゃないんだね
さらに言えば、海岸や糸島水道付近に王墓はないから、
伊都国には王はいなかったということで、いいね!

魏志倭人伝の記述とは異なるけど>>67がきっと正しいからきっとそうだよな!
0082日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:02:52.55
>>76
>奴国は、伊都国の東南百里であるから、福岡平野一帯は合わない。

現実を魏志倭人伝に合わせてどうする?ww(二度目)
そして九州説の主張する早良付近でも東南にはならないし、そもそも奴国の地名がない
0083日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:05:22.15
>>76
>倭奴国の(遣使ではなく)成立が古かった、という事になるだけ。

遣使がなければ大陸王朝は、倭奴国の存在を知ることはないだろ?
いずれにしても早良の吉武遺跡群を奴国に当てるのは無理だよ
0084日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:06:45.65
>>76
>なんだか、この男は、陳寿や日本人の常識と違うな。

九州説ってこんなのばかりだよ
私から見れば>>76も同類だけどなww
0085日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:09:32.79
>>75
>今日立ったスレに一週間いたわけないだろ

邪馬台国畿内説 Part325だよ
本当に日本語が読み取れないんだなぁ(呆れ)
0086日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:12:00.67
もう九州説は終わってるから
0087日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:13:30.54
まともなことが言えるなら九州説なんて最初から相手しないだろw

頭おかしいから九州説なんだよ
0088日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:21:14.51
>>487
>王の権力の大きさの指標として、王墓の大きさはかなり重要だってことが認められずにダダと捏ねてるだけじゃん<

土を盛る位なら、人手さえあれば出来るが、副葬品や埋葬形態は故人の地位を如実に示す。

>舶載鏡2面は、当時の墳墓としては特に珍しくもない<

21個もの「尚方作」鏡は、当然明帝の下賜鏡が元になっている。

>結局「でかい鏡がある」と「仿製鏡であってもたくさんの鏡がある」のがすごいって言えばすごいかな <

21枚の「尚方作」鏡がある事もすごい。

>これが卑弥呼の墓だとすると、<

私は壹與の墓説。

>なぜ魏の皇帝から新しい鏡を100枚もらったのに、それより150年も前の鏡の仿製鏡を<

柳田らの「仿製鏡」説の根拠が、未だによく判らんのだよ。

>30枚以上も作って副葬しなきゃいけないのか、説明してごらんww<

壹與は、
卑弥呼が地方の豪族に下賜したり鏡片にようなペンダントにした後、
余った鏡があって、それを卑弥呼から相続したから、
鏡片のように破鏡して、副葬したのではないか?と思うよ。
0089日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:23:03.70
ザラコクの大和説は戦争狂の皇国史観などという発言から
特殊な政治思想の持ち主と思われる
やってる事はここ見た人を一人でも騙せればいいという政治的なプロパガンダ
0090日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:23:41.80
>>85
73日本@名無史さん2018/02/18(日) 20:27:41.91
一週間ほどこのスレにいたけど、・・・
   ↑
75日本@名無史さん2018/02/18(日) 20:38:49.33
今日立ったスレに一週間いたわけないだろ
   ↑
85日本@名無史さん2018/02/18(日) 21:09:32.79
邪馬台国畿内説 Part325だよ
本当に日本語が読み取れないんだなぁ(呆れ)


???
このスレは邪馬台国畿内説 Part326

???
0091日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:24:43.24
>>89
騙される奴いねーよ
純粋に頭おかしい
0092日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:25:23.46
まぁどうせ九州説の異常者のレスなんて全部消してるから見えないし
透明の中で幾らでも寝言言えばいい
誰も読んでもない事知らんで延々と粘着してると思うと笑える
0093日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:25:51.15
>>88
>柳田らの「仿製鏡」説の根拠が、未だによく判らんのだよ。

それは本を読まないから
0095日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:31:13.85
バカは調べない
だからバカなんだよ
邪馬台国の会とかのバカサイトをそのまま鵜呑みにしてバカを晒して回る
0097日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:39:24.50
察するに九州説自体が左翼思想家か何かが作り上げた出鱈目で
目的は天皇中心の皇国史観を復活させない事だろう
0098日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:42:01.56
>>495
>国底立神、国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神。 &阿波咋。
倭国大乱を引き起こした張本人。<

「倭国大乱」なんてなかったし、
「倭國乱」は、九州付近の話だから、×のようだな。
0099日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:49:17.11
>>97
いや、九州説は右翼が作った
0100日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:53:12.02
>>499
>>>そして、方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらないのだから、<

>>これが間違い <

>否定したいなら「根拠」を書けと何度言えば! 書けないんだろうけどさ <

当然、平原の方格規矩鏡の存在が根拠。

>>365に書いておいた「鏡の考古学」ttp://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmが
詳しいから読んでおいで
中国の墳墓から出た年代の確実な鏡との共伴関係を基盤にして、岡本編年より信頼できる論になってるから<

「南→東」などの嘘つき騙しのお前が紹介する本など、関心が全くない。
必要だ、と思えば、その論点や論拠を書きだせばよい。
0101日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:54:03.16
>>94
老人でしょ
0102日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:56:36.80
>>97
思想的には半島に近い九州に、半島と大陸の影響を強く受けた(=儒教的価値観で下位の)
邪馬台国があったって言いたいように見える
0103日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:57:11.61
>>500
>奴国=儺県(なのあがた、博多の旧名)<

距離と方向が合わないから×。

>不彌国=宇美町?<

距離が合わないから×。

>で次に水行するとあるから九州北部に邪馬台国の入り込む余地はないのでは<

「次に水行」していないから×。

>やっぱり邪馬台国=大和国なんじゃ<

「南≠東」に拠って×。
0104日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 21:58:12.20
>>100
>「南→東」などの嘘つき騙しのお前が紹介する本など、関心が全くない。
>必要だ、と思えば、その論点や論拠を書きだせばよい。

俺たちが書いても
「南→東」などの嘘つき騙しのお前が書くことなど、関心が全くない
とか言って、読まないんでしょ?
0105日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:00:36.62
>>103
要するに、ワシが信仰する九州説と違うからお前の言うことは間違いだ、と言っている
0106日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:03:39.89
思想的に言うなら思いきり右翼の本居宣長が言い出したのが九州説だよ
日本の大王が朝貢なんてしてるわけがねーって
0107日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:04:28.13
東遷説が無理なことが知れ渡ってから早くも二十年。
その前から古田説はキワモノ扱いだったし、
九州説支持者はもう、みんなお爺ちゃんだね。
0108日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:04:37.13
>>100
>必要だ、と思えば、その論点や論拠を書きだせばよい。

何度も書いてるだろうが?
「I〜IV式までの方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない」

もう>>100には何も期待してないよ

>お前が紹介する本など

本じゃなくて、ウェブ上の論文だよ
この時点でバカを曝しすぎ
>>100の目の前にあるデバイスですぐに読めるんだよ
鏡の考古学http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm

>>95の言葉を贈ろう
「バカは調べない
 だからバカなんだよ 」
0109日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:10:12.18
>>105
>ワシが信仰する九州説と違う

あーあ、「信仰」とか言っちゃってるよ
ダメだわこれは
ただ、教祖は誰なんだろうって興味だけあるww
0110日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:15:06.64
>>109
九州説は信仰にしか見えない。
根拠を聞かれても答えないから。
0111日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:15:18.79
>>107
>九州説支持者はもう、みんなお爺ちゃんだね。

ここではないところで九州説のヤツとやり合ったときに、
九州説の学者なんてもういないって言ったら、
こんなにいるって言ってWikipediaのページを出してきたww

でもWikiに載ってる九州説の学者さんも軒並み鬼籍に入っちゃってるからなぁ
0112日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:16:03.98
本物なら本居宣長なんて知らねーよ、バーカ
というだろう

当時の農民というか百姓のほうが
詳しいんじゃないの?
0113日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:25:09.42
>>111
本人も鬼籍寄りだから、それはそれで正しいな
0115日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:30:51.28
>>112
まあ、今どきの九州論者より詳しくない奴は、この世にあんまり居ないだろう
0116日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:41:47.03
よくわからないけど農家?百姓?
卑弥呼と同じような生活をしているでしょ

穀物、稲作?
0117日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:47:16.54
 
このように、九州説はいつも発狂している
 
0119日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:57:50.99
>>108
内行花文鏡を無視して、伝世した方格規矩鏡だけ取り上げてどうするんだよ。
説得力ないだろ。
0120日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 22:58:44.86
>>504
>ちょっとびっくりした
今どき、そんなことを言う人がいるとは思っても見なかった
この辺りを読んでみてから書き込んでくれるかな?
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
こういうのを「根拠」っていうんだよ!<

その紀要は、Yahooでkssn(5chではssn)が提示したから何度も読んだし、
佐々木の論理に対して、「三雲の庄内の説明がない」事や、
「大和への土器などの搬入があるから大和は列島中心の盟主だというんなら、同じ理屈で筑紫が列島の盟主になる」
という指摘をしていたら、
突然その論考が紀要から消えて無くなって、それをssnに言ったら、
しばらくしてまた紀要に掲載され、それを見ると、三雲の記述が大幅に増えており、
大和への土器搬入の話も書き直されていたようであった。
0122日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:04:52.65
>>505
>日数がどうだろうと
投馬国が宮崎とするなら邪馬台国は九州最南端となってしまって
狗奴国は邪馬台国の南と書いてる魏志倭人伝の記述に合わなくなる<

投馬國は、側副傍線行程国の説明であり、
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっており、
狗奴國は姫氏だから火の国(肥前と肥後)であるので、
邪馬壹國は、南九州にはならないのだから、×。
0123日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:10:15.27
>>119
>伝世した方格規矩鏡だ

平原1号墓の方格規矩鏡はすべて仿世鏡!
いい加減に覚えな!
あんな鋳上がりの悪いのをありがたがってるようじゃダメだよ
0124日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:13:31.90
>>120
>書き直されていたようであった

「ようであった」って書けば確認してなかったって言い訳できるとでも思ってるのか?
アカデミアの作法も知らない人間が、捏造するなよ!!

日本人の感性ならそういう真似はできないものだがな
0125日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:13:49.77
つくしの由来。

つくしの枕詞、しらぬひ。
どういう意味なんだろう。
0126日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:14:16.84
>>508
>>国民投票でも、掲示板でも、衰退したな。<

>国民投票ww そんなのいつあったんだ?ww
掲示板は>>387みたいに無駄な情熱のある人間wがいると、多数投稿で埋められるからな<

あちこちで何度も投票があって、どれも皆同じよう、
「大和説の負け」という結果であったんだな。

>そして、プロの研究者の人数は数えないという大笑い <

「南→東」などのような嘘つき騙しの「プロの研究者」なんて、
全く無価値で信頼性もないから、
幾らいたって無駄。
0128日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:15:48.34
>>108
鏡の考古学をざっと読んだが、肝心の八咫の鏡や三角縁についての考察が浅くて、中途半端な印象だな。
八咫の鏡と平原遺跡が2世紀のものだというキナイセツの主張の根拠が見つからない。
0129日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:19:01.34
>>123
方格規矩鏡をどこで作ったかの話はしていない。
卑弥呼より前の鏡であるからなんだというのか?
それより超大型内行花文鏡の年代を論じろよ。
0130日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:19:06.65
>>126
>あちこちで何度も投票があって

ならそのうちに一つでいいから、生データを貼ってみろよ
それが「根拠」を示すってことだぞ

>>126の脳内にいくら都合のいい結果があっても現実世界にはなんの影響もないし、
そもそもそれ、国民投票でも何でもないじゃんww

>「南→東」などのような嘘つき騙し

バカなの?
0131日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:23:53.69
>>509
>古墳内から出土した土器の付着物じゃあなかったっけ<

AMSは、プラズマ化して計測するが、
プラズマ化は、電子を分離させるが、
外周電子があって始めて原子核内結合での電気的安定保たれていたのに、
その外周電子を取り去ってしまえば、当然閣内の電気的安定性が破壊されて、
余分な電子弾き飛ばされることになり、
ベータ崩壊(電子の放出)が促進されてしまう。
0132日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:27:28.32
>>515
>そのへん掘って何も出てこないから纒向は何もないとか主張するなら
今すぐ九州のどこでも適当に掘って何か掘り当てて
そんでここが邪馬台国だって主張すればいいのに <

既に、弥生銀座が掘り当てられている。
0133日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:28:05.77
九州説のアホは平原を三世紀にすると邪馬台国になると思い込んでるのがまた笑えるよな

別に構わんけどな
周囲を完全に畿内の土器に取り囲まれた周りに一歩も影響が出ない?製鏡だらけの小規模な個人墓なのは何にも変わらんし
しかも九州全域が生活も宗教も全部畿内の物に塗り替わってる
倭人伝にある一大卒に監視される惨めな伊都国王の姿がそのまま浮き上がるだけ

九州説の能無しは一つだけ誤魔化せば何とかなると思ってる辺りバカ丸出しだな
もう九州説なんて一つも入る余地なんてねーんだよサル
0134日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:29:05.49
>>128
>鏡の考古学をざっと読んだが

どうして今まで読まなかったの?
バカだからなの?

この論文自体は、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」よりも前に書かれたものだから
それほど確定的なことは書いてないけれど、最後のところに平原遺跡のことはわざわざ
項を起こして書いてあるだろうが

方格規矩鏡の形式別の編年のところをちゃんと読みな
0135日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:33:24.82
>>132
>既に、弥生銀座が掘り当てられている。

弥生だから、×。
0136日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:36:59.34
>>516
>>日数は一万二千里にかかる日数<

>何度も書いているけれど、萬二千里は中華世界の地の果てまでの観念的な距離<

山東半島からも、帯方からも「萬二千余里」なのが矛盾。
0137日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:37:08.85
>>129
>方格規矩鏡をどこで作ったかの話はしていない。

平原1号墓出土の方格規矩鏡32枚が九州説の元ネタ「邪馬台国の会」の
「3世紀の漢鏡は九州優位」の「唯一の根拠」だから、
これが全部「仿世鏡」っていう話題からは逃げたいよなww

>卑弥呼より前の鏡であるからなんだというのか?

平原1号墓を卑弥呼の墓にするのは無理ってことだよ
この話題からも逃げたいよなww
九州説の卑弥呼の墓がなくなるからw

>それより超大型内行花文鏡の年代を論じろよ。

仿世鏡だから国内でいつでも作れるし、他の類例がないから比較編年もできないし、
平原1号墓の年代推定には使えないんだよ
分かったかい?

現実は形はしていないんだよ
0139日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:42:48.77
どこにも何の影響も及ぼさない周りを畿内勢力に取り込まれた偽物だらけの鏡があるだけのちーさい個人墓に過剰なくらいの妄想を託すアホの九州説

お望み通り三世紀の卑弥呼の時代のど真ん中に設定してやっても別になーんにも困らないんだがなw
なぁ?能無し九州説さんよ?

満足か?
0140日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:44:27.57
>>その外周電子を取り去ってしまえば、当然閣内の電気的安定性が破壊されて、
>余分な電子弾き飛ばされることになり、
>ベータ崩壊(電子の放出)が促進されてしまう。

これ、どんな顔して書き込みしてるんだろう?
原子核をなんだと思ってるんだろうか?
九州説の人って、科学を軽視してるよね?
無知というのも憚られるくらい
今日日、ちょっと賢い中学生ならこれがどれほどバカなこといってるか分かるぞ
ちったぁ書き込み前にググるとかしてみればいいのに
0141日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:45:33.47
『旧広瀬座』

稲田の保存されている家があるでしょ、
あれは家なのかな?

老婆の話を聞いていると、そのような気がするんだけど
0142日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:47:07.69
むかーし、
凄い土地を持っていたような事を言っていたり

あのキュウリの葉、葱の華などの写っている
写真の家
0143日本@名無史さん垢版2018/02/18(日) 23:47:24.76
>>136
>山東半島からも、帯方からも「萬二千余里」なのが矛盾。

つまり、現実世界に測定値じゃないってことだろ?
すなわちそれが「観念的な値」ってことだよ!

観念って言葉、意味は分かるか?
0144日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:08:46.72
『福島 民家園 旧菅野家』

広瀬座というところの話もしていたり、
0145日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:12:15.27
『歳神』(年神)
調べると出て来たりする画像、
その家と同じような感じがするんだけど
0146日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:17:36.17
伊達郡と言うところの、
山の上のほうに住んでいた

川俣町というところがあって・・・
0147日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:38:53.94
>>137
>仿世鏡だから国内でいつでも作れるし、他の類例がないから比較編年もできないし、
>平原1号墓の年代推定には使えないんだよ

都合が悪いから逃げているだけだろ。
どう見ても一番重要なのは超大型内行花文鏡なのだから、それが2世紀のうちに作ることができるかどうか考えろよ。
方格規矩鏡の編年ではなく、内行花文鏡の編年を論じろよ。
3世紀の倭国女王墓であれば、卑弥呼以外にないだろう。
0148日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:45:21.43
>>139
>どこにも何の影響も及ぼさない周りを畿内勢力に取り込まれた偽物だらけの鏡があるだけのちーさい個人墓に過剰なくらいの妄想を託すアホの九州説

三種の神器は今日まで天皇家の国家祭祀の中心だい。
平原で確立された初期神道が周りに影響を及ぼしていない?
どこに目をつけているんだ?
0149日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:52:45.98
>>147
>2世紀のうちに作ることができるかどうか考えろよ。

倭国の銅製品の作成能力を甘く見すぎ
2世紀の唐古鍵なら軽く作れるよ
高さ1メートルを超える銅鐸を作ってたんだから平面の鏡なら楽勝だよ

だから仿世鏡は編年に使えないって言ってるんだよ

そして平原1号墓が3世紀を主張するなら100年も昔の方格規矩鏡を
わざわざ作る理由をきちんと「根拠」を付けて論証してくれよ

「唐古鍵では2世紀に1メートルを越える銅鐸を作っている」っていうのは
>>147でも簡単に確認できるだろ?
このレベルの「根拠」を付けて論証してくれよ!


「平原1号墓の方格規矩鏡はすべて仿世鏡」って何度も書かれるのがそんなに嫌かい?
でも現実だから、その上で論証してね!
0150日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 00:55:01.65
>>148
>平原で確立された初期神道

これが嘘
嘘じゃないなら「根拠」を示して論証してね!
めぼしい古社もないのに何を言ってるんだかww
0151日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 01:43:27.17
>>149
>そして平原1号墓が3世紀を主張するなら100年も昔の方格規矩鏡を
これが間違い
0152日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 01:45:26.02
>>149
>倭国の銅製品の作成能力を甘く見すぎ
>2世紀の唐古鍵なら軽く作れるよ
>高さ1メートルを超える銅鐸を作ってたんだから平面の鏡なら楽勝だよ
これ、でたらめ
0153日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 03:48:23.05
>>151-152
なんで理由を全く言わないの?

どうして?
0156日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 05:49:38.81
>>517
>大和朝廷が古墳時代の日本の中心なのは間違いないし、<

大和は、筑紫倭国の別種の旧小国であったんだから、「朝廷」が×。

>古墳時代の始まりは卑弥呼の邪馬台国時代と重なる<

「南≠東」だから、×。
0157日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 05:55:10.74
>>519
>孝霊天皇<

天皇を称したには天智からだから、孝霊天皇は×。

>大和朝廷<

大和は、筑紫倭国の別種分家の旧小国であり、
倭国を併合吸収して朝廷になったのは白村江の後の701年だから、
×。
0158日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 05:55:45.11
これって思考停止してるよな
0159日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:06:28.60
>>530
>大和朝廷<

大和は朝廷になったのは701年だから、×。

>邪馬台国は大和国。生駒葛城山系の西側。

「邪馬台国」なんて存在しないし、
「南≠東」でもあるから、×。
0160日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:08:06.70
>>531
そうだろ?。。
大和説はそんなわけのわかんない主張をしているわけだ。
0161日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:09:16.41
>>532
>邪馬台国は大和国。 生駒葛城山系の東側。<

「南≠東」だから、×。
0164日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:18:11.14
>>156
>大和は、筑紫倭国の別種の旧小国であったんだから、「朝廷」が×。
>>157
>天皇を称したには天智からだから、孝霊天皇は×。
>>159
大和は朝廷になったのは701年だから、×。

こういう意味のない字義解釈を得々と書いているところを見ると
自閉スペクトラム症なんだろうな

大倭根子日子賦斗邇命って書いても>>157は勉強不足だからわからないだろ?
0165日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:21:44.85
白村江まで九州王朝があったとかいうくせに
倭の五王が九州王朝の王である「根拠」を示せないし
日本書紀と隋書の両方で確認できる遣隋使も「根拠」なしに否定するし

>>157は、バカなの?
0166日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:22:43.99
>>546
否定した、というんなら、その「鏡の考古学」を転写すれば?。
「南≠東」などの嘘吐き騙しの、信頼席が全くない・・・・のお前の紹介では、
・・・・の忙しくて、読む暇もないし、読む気もしない。
0167日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:25:32.07
>>166
あんたが相手にしてるのは いつも名無し>>1
0168日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:28:22.13
テンプレと
名無し>>1
ザラコクで9割以上占めるスレ
楽しそうだなWwwwwwwww
0169日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:32:32.79
>>548
>畿内の文化一色に塗りつぶされる九州を見てバカな妄想を喚き続けるアホの九州説に笑いが止まらない<

筑紫→大和への搬入上納が0で、
播磨や河内→大和の搬入が僅かで、
大和→筑紫への搬入が僅かで、
播磨や河内→筑紫の搬入上納が沢山であれば、
そりゃ、大和は極小の旧小国であり、
播磨や河内が筑紫の「大倭」職の中心であった事になる。
0170日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:41:55.09
>>555
>私は神武天皇の実在を認める立場だからもとをたどれば、九州倭国が本家筋だと思ってるよ
ただ、卑弥呼の時代より5世代(100年くらい?)前 <

神武即位元年は、二中歴に拠って紀元前91年頃。

>卑弥呼の頃には倭国は九州限定ではあり得ない
ただ卑弥呼が共立された理由に九州倭国の血筋ってのも案外重要だったかもしれない
でも、別種でも東渡海千里の倭種でもないよ
関門海峡が千里ってのはどうやっても通らないし、そこから畿内まで地続きなんだから<

東渡海千里は、里数的に山口付近にしかならないから、×。
0171日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:47:41.11
>>556
自分達の文化を、殆ど全部筑紫の文化に依存し、
生活も宗教も宝物もほぼ全て模倣して、
筑紫に搬入上納してる、 それが、大和。
こんなところが「邪馬台国」とか」の嘘吐き騙しをほざいてる低能がを大和説 。
0172日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:50:28.79
>>558
>邪馬台国は大和国。 尾張や出雲など縄文系勢力による政権。
大和朝廷。 渡来人殺し、神殺し、関東東北を征伐した張本人<

「邪馬台国」や「朝廷」は、存在しないから、×。
0173日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 06:56:17.06
>>561
>>九州北部の三種の神器<

>翡翠が九州では出ないことをどう思っているんだろうww
翡翠の産地は沼河比売の故郷だけだよ
出雲の大国主の奥さんの一人 出雲は大和と関係が深い <

翡翠が三種の神器であったのか?や、九州から出ないのか?は知らんが、
筑紫は、出雲や越への植民の「国生み」をしているし、
地方の市を監督する「大倭」職も持っているから、いくらでも手に入る。
0174日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:02:38.63
>>562
正に卑弥呼や壹與以前の400年位の文化とは殆ど関係もなく、
殆ど全て、筑紫の文化を模倣上納していた負け犬ド田舎、
それが大和。
こんな場所に邪馬壹國があると妄想を叫ぶアホが大和説。
0175日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:06:07.45
>>563
>邪馬台国は大和国。大和朝廷。縄文系勢力による政権。<

「邪馬台国」も「大和朝廷」もないから、×。

>関東東北を征伐したのは、尾張出雲阿波などの縄文系勢力です。
誤解しないでください。<

東征の主体は筑紫倭国だから、×。
0176日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:07:34.56
相変わらず、まったく理由を言わないなー
九州説って、それでいいの?
0177日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:09:27.79
>>565
>>九州北部が倭国の発祥の地であることを理解すれば、古代史は非常にわかりやすくなる。<

>それはいいんだよ 昔は先進地だったのは私も認めてる ただその繁栄が3世紀まで届かないんだよ
卑弥呼の頃には倭国王を張れるような国力は北部九州にはない<

筑紫倭国は、白村江の大敗まで西日本の盟主であったから。×。
0178日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:14:27.65
>>567
何も見つからない大和。
見つかった見つかったと喚き散らすものは皆、
筑紫からの伝来や模倣の古墳や三角縁、庄内式。
筑紫の文化のどっぷりの中にあるものを、誇らしげに叫び続ける間抜け。
それが大和説。
0179日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:20:00.37
>>569
>魏使に「大和の纒向に大都市を要する大勢力があり
100メートル級の大墳墓を作っている」という情報が届いたら、
九州のローカル王が「親魏倭王」の称号を得ることはない <

「大和の纒向に大都市を要する大勢力があり100メートル級の大墳墓を作っている」
という情報があったとしても、それは3世紀末以後だだから、
大和のローカル王が「親魏倭王」の称号を得ることはない 。
0180日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:25:25.08
>>571
>じゃあ、>>566は九州王朝説を信じてるんだね?
では、倭の五王が大和朝廷の大王ではなく、
九州王朝の人物であることを「根拠」を付けて論証してくれ!<

何度も論証しているよ。
大和は、
筑紫倭国から別れた別種の旧小国であったのであり、
白村江で大敗した後で、母国の倭国を併合吸収継承して、
701年に朝廷になった。
0181日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:29:17.55
 

 それでも頑として根拠を言わない九州説


 
0182日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:34:00.24
これまでもたくさん書かれているが、畿内説に都合が悪いから無視しているだけだろ。
0183日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:35:39.63
>>577
>いままだ統一出来ていない と言ってる人がいたり<

筑紫倭国の統一は、倭王武時点で関東南岸沿いから常陸まで。
タリシホコで「其國境東西五月行、南北三月行、各至於海」。
そして、大和は、筑紫倭国を併合吸収継承した701年の後になって、
ようやく北関東から福島県に入り、
多賀城付近に達したのは8世紀半ば。
北海道を支配したのは、江戸期末。
0184日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:37:51.29
>>578
>>投馬国はどちらかというと瀬戸内海の鞆の浦の可能性が高いと思うよ<

>鞆の浦を推す人も多いのは知っているけれど、鞆の浦あたりは平野がないから
五万戸を想定できるような面積もないし、めぼしい弥生遺跡もないから、
私は出雲の方が分があると思っているよ <

鞆の浦も出雲も、どちらも「南≠東」だけでも、×。
0185日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:47:15.69
>>581
>仁徳の次の履中が朝貢してないんだよ
すると大陸王朝側はずっと倭王は讃=仁徳だと思っている
そこへ履中没後に反正が朝貢し、先王の兄が薨じたので弟の反正がたったという情報が伝えられれば、
讃の次が珍で弟と記録される訳だ 原文は「讃死弟珍立」<

だから、それでも、宋書と記紀は合わない。

>そして斉=允恭、世子興=安康or木梨軽、武=雄略は完全一致している <

記紀の王名や年次が、宋書と全く合わない。

>宋書の倭王武の遣使記事と、日本書紀の雄略紀の遣呉使記事は対応が取れる<

「対応が全くない」と見て取れる。

>これで大和朝廷の大王ではないというなら、
一行書きで済ませられるような根拠じゃあダメだよw<

記紀と宋書とは、名前も年次も事績も違うから、別のもの。
0186日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:47:53.16
>>182

どこに?
どこにあるの?
0187日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:57:31.84
しばらく、ちょっと荒らすことになるがごめんな

>>166
>「南≠東」などの嘘吐き騙し

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0188日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 07:59:53.95
>>184
>「南≠東」だけでも、×。

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0189日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:02:30.35
東と書かれていて、実際には東南か。
ならば南と描かれていた場合は
実際には西南方向にずれるのかな?
0190日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:09:20.76
>>170
>東渡海千里は、里数的に山口付近にしかならないから、×。

海を渡る(当時としては外洋航路の)「渡海」と、
沿岸航行の「水行」に区別が付いていない

九州と本州の間は幅600メートルの関門海峡しかないんだから渡海千里は無理

地図も日本語も漢文解釈もできないからにすべて間違ってるんだよ
根拠1「地図、地形が分かっていない」
根拠2「日本語が分かっていない」
根拠3「漢文解釈ができない&そもそも読めない」
0191日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:11:41.63
>>189
>ならば南と描かれていた場合は
>実際には西南方向にずれるのかな?

要するに、そこまで正確じゃないってことだから、どうずれるかとか考えるだけ無駄だと思うよ
0192日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:13:39.71
考えるのが無駄なら
とりあえずは書かれたままに行けば良い。
0193日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:16:27.17
>>179
>それは3世紀末以後だだから、

教科書レベルの定説を否定するなら、学会の50年にわたる蓄積を
ひっくり返すだけの「根拠」がいるよ

>>179の能力では無理だろ?
根拠1「地図、地形が分かっていない」
根拠2「日本語が分かっていない」
根拠3「漢文解釈ができない&そもそも読めない」
根拠4「きちんとした学術論文を読んでいない」
0194日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:18:26.10
遠賀郡芦屋町の山鹿貝塚から出土した縄文後期の女性2人と乳児の人骨は
緑色硬玉(ヒスイ)の大珠を胸に装着し、サメ歯製の耳飾も着けていた
山陰からはサメの線画が描かれた石器、土器、木製品、銅剣が出土している
サメの歯や椎骨を加工した装飾品は日本海沿岸縄文遺跡、長野、愛知、岡山
などでも出土している
0195日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:19:13.27
九州説を煽るだけで、自分の主張をしない奴も同類、葛
0196日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:21:24.37
>>192
>考えるのが無駄なら
>とりあえずは書かれたままに行けば良い。

行けば良いってどこに行くんだよwww
はっきりと比定地が定まっていて、現代の正確な地図で
「史書の記述が間違っている」ことが「確認できる」んだよ

その状態で、なぜ「史書が正しいから現実がおかしい」って主張するんだろう

>>192がバカだからかな
根拠1「地図、地形が分かっていない」
根拠2「日本語が分かっていない」
根拠3「漢文解釈ができない&そもそも読めない」
根拠4「きちんとした学術論文を読んでいない」
根拠5「論理的思考ができない」
0197日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:23:55.52
>>195
>九州説を煽るだけで、自分の主張をしない奴も同類、葛

葛湯はおいしいよねww

それはさておき、主張はいちいち書いてあるだろ
根拠なしの「九州だったらいいな説」に通じるように何度も再掲はしているけどさ
0198日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:30:49.23
まあ、熊本だろうね。
倭人伝の行程では熊本南部になるし
後世の資料になるけど
奈良時代の肥後は最大生産量を誇る。

肥前肥後と筑前筑後の国境付近は
莫大な鉄鍛冶遺跡が点在し
戦士遺体がいくつか発見されているので
激しい戦争が長い間行われていたのは
間違いないが
4世紀あたりには筑紫が制したようだ。
だから広大な低湿地地帯の穀倉地帯は
(筑)後となった。
0199日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:32:02.91
>>195
>九州説を煽るだけで、自分の主張をしない奴も同類、葛

アンタが、ひとの話を聞いてないだけでないの?
0200日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:34:27.71
肥後は奈良時代で40〜50万石程度の
生産量があり、江戸時代の最終実石高は
80万石に達する。

7万戸×4人程度は十分賄えるんだよ。
そういう国が他にあるかねえ?
0201日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:36:34.73
>>198
筑前筑後と激しく戦争してて
どうしてその熊本が邪馬台国であり得るんだ?


???
0202日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:45:02.09
>>201
邪馬台国は肥前と肥後の話だからだよ。
肥前松浦から肥前小城の肥前が
肥後邪馬台国から派遣された
一大卒の地域で、統一作業中。

松浦から入ってきた朝貢交易品は
一大卒が確認して肥後本国に送る。

肥後の親魏倭王に対して
筑紫の漢倭奴国王の後継国は別の国。
0203日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 08:54:35.63
糸島や博多が倭国じゃないという話を
信じてくれる人

いないだろうね
0204日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:00:04.46
倭人伝の倭国百余国

和名抄郡名より
筑紫国郡数25
肥国郡数25

九州合計96郡
0206日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:15:07.39
>>149
>「平原1号墓の方格規矩鏡はすべて仿世鏡」って何度も書かれるのがそんなに嫌かい?
>でも現実だから、その上で論証してね!

別に平原遺跡の方格規矩鏡がどこで作られていようが、関係ないと思うけど?
0207日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:17:33.30
>>203
そうだね。
金印までもらっている九州北部ご倭国ではないと言い張る畿内説は頭がおかしいよ。
0208日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:34:45.11
>>207
九州説はまた捏造?
0209日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:50:00.60
>>198
>倭人伝の行程では熊本南部になるし

水行20+10日と陸行1月の行程がどこに入るのか教えてもらえるかな?
0210日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:52:24.91
>>203
>糸島や博多が倭国じゃないという話を
>信じてくれる人

>いないだろうね

そんなこと主張しているのは、ここに一人もいないだろ?
出雲も吉備も大和も倭国だけどな

でも、博多は奴国じゃないって言い張るやつがいるんだぜ?
不思議だよな?
0211日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:56:21.33
>>204
>九州合計96郡

それ、旧100余国の数
30国は、國造単位で数えないと

ちょっと時代が下るけど、30ヶ国と言ったときの国の大きさはこれくらいだと思う
よそ様のwebページの転載だけど
「弥生時代地方を支配していた国王(豪族)が、大和朝廷の支配下に組み込まれるとき、
国造となって地方を治めたと考える。筑前国と筑後国の国造は「筑紫」のみである。
因みに、肥前国は4、肥後国は4、豊前国は2、豊後国は3の国造がある。
筑紫の国造は非常に大きいことが分る。筑紫国造の前身は奴国であり」
ttp://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/2015-03-24-1
これで、14カ国だろ? それに対馬、壱岐、狗邪韓国を入れて17
残り13くらいを本州四国に配置すればばっちりだろう
吉備や出雲、丹波、大和・河内、近江、東海(狗奴国)は、かなり動員力のある、ある程度広域の領域国家的段階に成長しているようだし、この推定で大きく間違ってはいないと思うよ

「筑前国と筑後国の国造は「筑紫」のみである。(中略)
筑紫の国造は非常に大きいことが分る。筑紫国造の前身は奴国であり」ってところを
見ると、奴国(+伊都国、おまけで末慮国)を除いたら、邪馬台国みたいな大国の
入る余地は九州にはないって分りそうなものだがな
投馬国もあるのに
0212日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:57:47.51
国造とか、時代錯誤も甚だしい。
畿内説が持ち出すものは後世のものばかり。
0213日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 09:59:17.29
邪馬台国が広域国家であったという根拠がない。
縄文時代にも石器などの広域流通はしていたが、広域国家を想定しないのと同じ。
0214日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:10:59.77
>>206
>別に平原遺跡の方格規矩鏡がどこで作られていようが、関係ないと思うけど?

それがね「卑弥呼の頃の漢鏡の出土は九州が圧倒的に多いから、邪馬台国は九州」って
いう主張が、九州説の根本にあるんだよ
でも、それは平原の方格規矩鏡32枚を舶載鏡の漢鏡と数えて初めて成り立つ戯言だってこと

邪馬台国の会http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htm のページの
「県別・卑弥呼がもらった可能性の大きい「10種の魏晋鏡」の数」というグラフの、
福岡県が37枚」
表2の抜粋だが、
三雲遺跡寺口U-17 2号石棺墓 福岡県 連弧文鏡(蝙蝠)△1
汐井掛遺跡4号箱式石棺墓    福岡県 方格規矩渦文鏡 ●1
汐井掛遺跡6号箱式石棺墓    福岡県 連弧文鏡    △1
汐井掛遺跡28木棺墓      福岡県 飛禽鏡     △1
汐井掛遺跡203土壙墓     福岡県 連弧文鏡    △1
平原遺跡            福岡県 方格規矩四神鏡 ●32
                    連弧文鏡    ●2
                    キ竜文鏡    ●1
                    連弧文八葉鏡  ●5
と、庄内期の福岡県の鏡が45枚挙げてあって、このうち37枚を「10種の魏晋鏡」としている訳だ
『ひと頃までは』、この平原遺跡の40枚のうち、大型の連弧文八葉鏡5枚は仿製鏡とされ、
キ竜文鏡1枚は前漢鏡、連弧文鏡2枚のうち1枚は後漢鏡で1枚は仿製鏡とされていた
とすると、平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚と、その他の遺跡で1枚ずつの5枚を合わせて、
「福岡県は37枚」としていたと考えられる
たぶんこれで合っているだろう
0215日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:12:25.05
>>214の続き

ただ、問題は、同じ邪馬台国の会のウェブページで、この鏡のグラフだけを
示したページがある
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/206kagami.htm
このページでは、福岡県の37枚が、「およそ邪馬台国時代」の20枚と、
「およそ古墳時代」の17枚に分割されている
福岡県の枚数が多いのは単に平原1号墓の方格規矩四神鏡32枚を数えているから
多いだけで、20枚と17枚に分けるのであれば、必ずこの32枚のうちの何枚かが
「およそ邪馬台国時代」別の何枚かが「およそ古墳時代」に分割されていることになる
ひとつの墳墓からの遺物をどうして「邪馬台国時代」と「古墳時代」に分けられるのか、
説明は一切ない
つまり不適切なデータの扱いということになる

さらに、http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku250.htmの表2では
平原1号墓の鏡の枚数が「40枚」になっていて、このページ自体は2002年の
「季刊邪馬台国」のデータの転載だと考えられる
平原1号墓の鏡の枚数は、長らく「39枚」されていたが、2000年の「平原遺跡(前原市文化財報告書)」での
「40枚」への修正を反映したものだと考えられる
2000年の報告書の内容が、2002年の季刊邪馬台国に反映されているので
問題はないように見えるが、この2000年の報告書で平原1号墓の鏡は
「漢鏡5期の雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡と漢鏡3期の四螭二朱雀龍虎鏡のの2枚以外は
 『全て仿製鏡』」とされている
0216日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:12:58.10
>>215の続き

鏡の枚数が40枚になっているところを見ると、2000年の報告書を参照していると
見られるが、それならば平原1号墓の鏡は全て外れるので、卑弥呼の銅鏡百枚候補の
「10種の魏晋鏡」の福岡県の枚数は「5枚」でなければおかしい

先に『ひと頃は』とカギカッコを付けたのはそういう意味
新しい報告書を参照しながら、九州説に都合の悪い部分はデータを更新しないままに
してあるのは、誠実な態度ではないと思う

結局「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない」とセットで九州だったらいいな説の人が
いう「10種の魏晋鏡は福岡県が圧倒的」というのは、平原遺跡出土鏡だけに依拠した
ものであり、現在平原遺跡の鏡が古い伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている
以上、まったく根拠がないことになる

そして、桜井茶臼山古墳の方が「10種の魏晋鏡」でも圧倒的に多い

九州だったらいいな説は、筋の通らないことばかりだ
0217日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:17:18.66
>>213
>邪馬台国が広域国家であったという根拠がない。
>縄文時代にも石器などの広域流通はしていたが、広域国家を想定しないのと同じ。

卑弥呼を共立した豪族(=ローカル王)連合というのが正しいだろうね
共立範囲は、それなりに広域でなければおかしいだろ?

そして、豪族連合というのは、そのまま初期大和王権の姿だ
何も問題はないだろ?
0218日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:21:02.27
>>212
>国造とか、時代錯誤も甚だしい。
>畿内説が持ち出すものは後世のものばかり。

「筑紫国造の『前身』は奴国であり」って書いてあるだろ
相変わらず、日本語の読み取りがおかしいやつだな
郡単位でどうやって「奴国二万戸」を容れるんだ?
少しは考えるなり調べるなりしなよ

卑弥呼の共立主体は、後の国造程度のローカル首長だよ
特に大きいのが、出雲、吉備、丹波、大和など
0219日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:44:49.79
>>168
95%だな
0221日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:46:58.70
>>583
>>九州北部に倭国三十カ国があったのだから、<

>どこに? 松浦から博多までで国が3つしかないよ?<

「其餘旁國遠絶」と「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」の明確な書き分け。

>そうやって九州限定の倭国にしようとすぐするけど、丹の出ない範囲だけの九州は
魏志倭人伝の「其山有丹」だけで否定される<

松浦川上流に丹山はあったし、倭人伝には「丹木」の献上も記録されているし、
「市」を介して西日本の物品は、幾らでも集められる。。

>そして、出雲の弥生遺跡からは外来の搬入土器が多く出ており、倭国内の人の移動を伴う
交流の結節点であったことが、考古学的出土遺物からも見て取れる
出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている<

出雲は、梁代までは独立国的。
0222日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 10:50:40.57
>>584
>出雲と楽浪郡の行き来が土器という考古学的な物証で確認できるんだから、
当然「使譯所通三十國」に出雲も入るだろ <

「其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、・・・」らを含む30国と、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、はっきり書き分けられているんだから、
出雲は、30国には入らない。
0223日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 11:00:21.82
>>214
>いう主張が、九州説の根本にあるんだよ

根本ではないな。
そういう主張があるかもしれないが、メジャーではない。
0224日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 11:02:31.62
>>215
>ひとつの墳墓からの遺物をどうして「邪馬台国時代」と「古墳時代」に分けられるのか、
>説明は一切ない
>つまり不適切なデータの扱いということになる

制作年代が違うことはあるだろう。
不適切だとは思わないけどね。
0225日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 11:04:56.65
>>217
>共立範囲は、それなりに広域でなければおかしいだろ?
>そして、豪族連合というのは、そのまま初期大和王権の姿だ

どちらも根拠がないな。
倭国または邪馬台国がローカル集団である可能性があるし、その場合は九州北部ご優位である。
0226日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 11:43:18.45
>>225
ご優位は結構だが、理由は?
0227日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 11:46:26.44
大陸に近くて王墓があって、魏の使いが九州北部までは確実に来ているから。
畿内は魏志倭人伝に登場しないわ邪馬台国をうかがわせる遺跡がないわ、なんでそんなことを思いつくのか理解できない。
0228日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:11:55.64
>>227
魏志倭人伝に登場しないって・・・

・・・循環論法

 
0229日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:19:22.76
>>586
>平原の財宝を見て国力がないとか、頭おかしくない?<

>仿世鏡30枚ちょいが何を言ってるんだか<

平原には、大量の玉もあるし、21枚の「尚方作」鏡もある。

>出雲では鉄剣358本1カ所の遺跡(荒神谷遺跡)から出てるし、<

出雲は、梁代までの独立的。

>仿世鏡の枚数なら大和は何百枚も作って九州も含め倭国中に配ってるよ<

大和が配った、なんて証拠はないよ。

>同時代の本当の大国と較べたら平原1号墓は大したことないんだって!<

平原位の豪華な副葬品のある墓は、同時代には、どこにもないよ。
悔しくて認めたくないのは分かるけどさww。
0230日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:20:05.54
>>227
確実に通り越してるだろ北部九州
0231日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:24:13.66
>>229
同時代じゃないので問題外
0234日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:41:46.62
>>232
土器編年
0235日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:43:08.72
>>233
奴国からまだ2ヶ月も旅する先だろ
0236日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 12:57:24.56
>>221
>「其餘旁國遠絶」

その「遠絶」は「大陸から遠絶」だって教えてやっただろ?
漢文読めないんだからムリするなww
0237日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:01:49.95
>>221
>松浦川上流に丹山はあったし、倭人伝には「丹木」の献上も記録されているし、

この時点で、知識のなさを露呈
松浦川上流にあると「現代の知識」でいっても、
弥生時代に知られていなければ意味がない

「丹木」がなんだか分かっていないだろ?ww
分かっているなら「根拠」を挙げて説明してごらんww
鉱物の丹(辰砂、水銀朱)とはまったく関係ないよww

>「市」を介して西日本の物品は、幾らでも集められる。。

魏志倭人伝には「其山有丹」と書かれてるんだよ
山がなければ、無意味
山は「市」で手に入らないだろww
九州のみの倭国は破綻してるんだよ
0238日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:05:31.22
>>221
>出雲は、梁代までは独立国的。

それの「根拠」は?ww

そして、独立国的であることと、卑弥呼の共立メンバーであることは両立できる
というか、共立というのは、共通のみこしを担ぐだけで、それぞれのクニは
それぞれの首長が治めるのが当然=独立国的 だろ?

そして、出雲の四隅突出墓の墳丘への貼り石が、定形化した前方後円墳に
取り入れられてる

これだけ「根拠」がてんこ盛りなんだから、出雲が共立メンバーなのは明らかだし
楽浪郡との交流も明らか

九州のみの30カ国倭国は破綻しているww
0239日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:33:20.90
>>238
>そして、出雲の四隅突出墓の墳丘への貼り石が、定形化した前方後円墳に
>取り入れられてる

邪馬台国と関係ないじゃん。
とうせ本州はみんな倭種だよ。
0240日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:34:29.27
畿内説支持者は畿内説の中身が説明できない。
テンプレに洗脳されているだけ。
カルト信者を見ているようだ。
0241日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:36:16.35
>>587
>>畿内は筑紫倭国の分家ということでしょう。<

>分家したのが卑弥呼の時代の100年以上(?)前だから、卑弥呼の時代には九州より大きな大勢力だよ<

大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
筑紫倭国を併合吸収継承したのは白村江の後なんだから、×。
0242日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:41:30.27
>>240
できないと決め付ける理由は?
0243日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:43:28.81
>>593
>肝心の邪馬台国の直前から大発展する纏向を「それ以前は田舎」とか喚く九州説の間抜けぶり<

卑弥呼の頃なら、「大和はまだ倭国の別種の旧小国」であったのだから、×。

>毎度毎度「弥生時代を通じて」「邪馬台国のずっと前には」とかトンチキなこと叫んで
何か言った気になってるアホ面が毎度笑える<

倭国の東征のおこぼれで巨大古墳を作り出したのは、4世紀以後である、
という事が判らないらしいアホ面が、毎度笑える。
0244日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 13:50:30.55
>>594
結局大和説者は、
「母国の倭国の存在や歴史」を隠蔽盗用した皇国史観宗教の半分×書の記紀を絶対信奉して、
政府文部省やキョクウマスコミや学会教育界の使い走り役をやっているして、
・・・・アホ集団だ、という事しかないんだよな。
0245日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:08:02.91
>>605
>邪馬台国がどこにあっても何も変わらない <

「邪馬台国」なんて存在しない。

>歴史学者が趣味の範囲で研究すれば良い <

日本の歴史学者が、「南→東」の嘘騙しや、
「大和は倭国の別種の旧小国」の否定や、
「半分×書の記紀」を絶対崇拝をする皇国史観をを宣伝したから、
日本に、
稲田ら自民公明政府や右翼ウマスコミや靖国信者や、
神武以来の大和天皇家支配主義に狂って近隣諸国民への蔑視殺戮戦争を鼓舞扇動するような、
戦争狂の・・・・キョクウ人種が発生した。
0246日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:12:06.02
>>611の訂正
魏使らは、明らかに倭人が鉄鏃を使っているのを見た、から記録した。
0247日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:21:51.61
>>627
>親子関係に基づいて倭王を認定するので、
それでは反正天皇が嘘をついて天皇になったのか?<

そもそも、大和には(天智まで)天皇というもの自体がなかった。
0248日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:42:31.90
>>222
>「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」とは、はっきり書き分けられているんだから、
出雲は、30国には入らない。

というのは勝手だけど、何度も書くけどさ、関門海峡を渡海千里にあてるのはムリ
漢文を読めない人には理解しがたいかもしれないけど、九州から山陰の海岸沿いに
船で行くのは「水行」にしかならない

投馬国までの「南至投馬國水行二十日」にむしろぴったりってことだ
0249日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:44:12.18
>>223
>根本ではないな。
>そういう主張があるかもしれないが、メジャーではない。

じゃあ、魏との交流でたくさんの舶載鏡をもらってたから
九州北部が邪馬台国っていう主張は>>223はしないんだね!

今後二度と言うなよww
0250日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:51:52.66
>>224
>制作年代が違うことはあるだろう。
>不適切だとは思わないけどね。

同じ一つの墳墓から出た同じ鏡種を、違う年代に振り分けてあるのに
何の「根拠」も示してないんだぞ!

誰にも検証できないし、その点だけでも不適切だといえるだろうが!
>>224が「思わないけどね」と言ったところで無意味

そして、九州説(東遷説)の御大、安本美典氏が平原1号墓の方格規矩鏡のうち
十数枚を、「古墳時代の鏡」と勝手に判断している訳だが、これを認めるなら
(不適切だと思わないなら)>>224は、平原1号墓に「古墳時代の鏡」が
副葬されていたと認めるんだなww

つまり、平原1号墓は古墳時代に入ってからの墓だってことだ
卑弥呼の墓じゃないことを認めたねww

>>224のこれまでの主張からしたら、「不適切」じゃなきゃおかしいはずなんだが
「論理的思考」ができない人だと、理解できないかなww
0251日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:53:47.98
>>249
そんなことは書いたことがないな。
畿内説は相手が書いていないことを捏造するのが得意なんだな。
0252日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:54:53.67
>>250
>同じ一つの墳墓から出た同じ鏡種を、違う年代に振り分けてあるのに
>何の「根拠」も示してないんだぞ!

違う年代に作られた鏡が一つの墓に収められただけだろう。
鏡そのものの編年とは別の問題だ。
0253日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:56:00.76
>>250
>つまり、平原1号墓は古墳時代に入ってからの墓だってことだ

2世紀ではなく3世紀中頃以降ということで、より卑弥呼の墓らしくなって来たな。
0254日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 14:58:41.10
>>225
>どちらも根拠がないな。

弥生末期には、水系単位の政治集団が明らかに集落構造から見て取れる
つまり、水系単位のかなり広範囲がローカル首長の統括範囲になる
さらに、出雲や吉備、丹波、大和では、水系単位の集団がさらに広域で
連合している様子が卓越した首長墓の造営から読み取ることができる

>>225は考古学的論文をまったく調べていないから、的外れな考えになるんだよ

そうした連合が共立するわけだから、倭国は相当な広範囲を含む豪族連合になる

>倭国または邪馬台国がローカル集団である可能性があるし、その場合は九州北部ご優位である。

そして、邪馬台国は卑弥呼の都がある場所の「地名」なんだから、邪馬台国の範囲は
ヤマト国というローカル集団の地名だよ
0255日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:03:45.40
>>227
>大陸に近くて王墓があって、魏の使いが九州北部までは確実に来ているから。

大陸に近くても、邪馬台国の頃に王墓がないからしょうがないね
魏使は、確かに九州北部に来てるけど、通過点って魏志倭人伝に書いてあるだろ?

>畿内は魏志倭人伝に登場しないわ

ヤマト国(邪馬台国)に行ったって書いてあるじゃないか
ヤマトって、大和だよ
畿内ど真ん中ww

>邪馬台国をうかがわせる遺跡がないわ、

そう言うのは、九州だったらいいな説のやつだけだよww

>なんでそんなことを思いつくのか理解できない。

馬鹿だからなんじゃないかな?
根拠1「地図、地形が分かっていない」
根拠2「日本語が分かっていない」
根拠3「漢文解釈ができない&そもそも読めない」
根拠4「きちんとした学術論文を読んでいない」
根拠5「論理的思考ができない」
0256日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:07:37.31
>>229
>21枚の「尚方作」鏡もある。

それが「全部仿製鏡」なんだよ
舶載鏡は、破片すら大事にされてたけど、仿製鏡は倭国内でいくらでも作れるから
お宝じゃないわな

だから、平原1号墓の方格規矩鏡32枚が「全部仿製鏡」ってのは、
九州だったらいいな説にとって致命的なんだよ

どうしてこんな簡単なことも分からないんだろう
0257日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:08:06.71
>>253
>そうした連合が共立するわけだから、倭国は相当な広範囲を含む豪族連合になる
根拠なし
0258日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:08:42.00
>>229
>大和が配った、なんて証拠はないよ。

三角縁神獣鏡の分布の中心は明らかに畿内だよ?
0259日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:19:56.94
>>254
>そうした連合が共立するわけだから、倭国は相当な広範囲を含む豪族連合になる

それが本州、特に畿内を含むという根拠がない。
結局はヤマトという言葉との類似性だけ?
0261日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:23:38.60
>>256
>だから、平原1号墓の方格規矩鏡32枚が「全部仿製鏡」ってのは、
>九州だったらいいな説にとって致命的なんだよ
>どうしてこんな簡単なことも分からないんだろう

なんでそんなことを言い張るのかな?
方格規矩鏡は珍しいものではないし、それをもって平原遺跡の年代を語るのは無理だよ。
それより超大型内行花文鏡を論じるべきだね。
0262日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:52:28.17
>>638
史料にもない「邪馬台国」だから、大和だってwww 。
那の津や儺県という地名が残っている場所を奴国をだという地名ごっこを言い張るのか?ww。
2000年位前の地名が現在も絶対残っている、って事か?。ないだろ?。
魏使らや陳寿が、人口の巨大な大国を記載しておかない、なんていう、
他の誰も信じない認めない妄想概念に頼って、
須玖岡本遺跡は邪馬台国なんだ、と言い募る滑稽さ。
大和説者が事実上「南≠東」の説明が出来ない、という滑稽さ。

結局、倭の五王も九州王朝、白村江まで九州王朝が倭国王、という史料事実が信じられず、
キョクウの皇国史観の・・・・○○が、何人かで?大量書き込みをして、
自己満足で?自己満足しているだけなんだよな。
0263日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 15:58:49.05
>>262
>大和説者が事実上「南≠東」の説明が出来ない、という滑稽さ。


あんたが他人の話を聞いてないだけ
0264日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:01:09.21
>>261
論じてみなよ
九州には無理だろう?
0265日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:07:38.15
>>259
古墳が営まれた3世紀中頃から7世紀を古墳時代と呼び、これを古墳がもっとも大型化する中期を中心に、
 前期(3世紀中頃〜4世紀後半)、
 中期(4世紀後半〜5世紀末)、
 後期(6〜7世紀)
に区分している。

古墳時代前期の前半を出現期という。この時期の古墳の中で最大の規模をもつものは、奈良県の箸墓古墳である。

出現期の古墳の中でもっとも規模が大きいものは奈良県(大和)にみられ、この時期大和地方を中心とする近畿中央部の勢力によって政治連合が形成されていた。
この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。

 
0266日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:17:33.49
>>662
>日本書紀の紀年は安康天皇以降は元嘉暦で書かれていて、その範囲の紀年はおおむね信頼できる
それ以前の儀鳳暦の部分は春秋年として読み解くことでもとの紀年が復元できるとしている
春秋年の根拠は魏略逸文の其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀
春秋年のもう一つの傍証は応神の妊娠期間 仲哀死後2年で生まれているが、春秋年なら十月十日で
翌年に生まれただけで特に不審はなくなる<

要するに、古田さんの「二倍年暦説」の存在を隠して、「春秋説」と言い換え、
大和の安康以前を二倍年暦にし、安康以後を一倍年暦にした、という事だな。
それなら、確かに二中歴の「517−39−569×2=−660」の、
517−39=478(年)に通常の一倍年暦の開始説、に近い。

>この作業仮説に従って解読した修正紀年と大陸史書の倭の五王記事を
照らし合わせると、珍、斉の遣使は、反正、允恭の即位直後に遣使している
ことが分かるし、世子興の遣使も允恭の崩御の直後にあたる
ただ允恭後の皇位継承は前皇太子の木梨軽皇子と安康天皇の争いがあるので
どちらかは決めがたい <

ついでに「倭王武=雄略」説がどう説明出来るのか?を説明して欲しいし、
記紀が、倭国の存在や歴史を隠蔽盗用して、大和の歴史を、造作した、
という事を否定する反論もして欲しい。
0267日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:22:21.14
>>265
>この大和地方を中心とする政治連合をヤマト政権という。

邪馬台国と関係ないよなw
0268日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:23:14.72
いまさら紀年論かよ
0269日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:31:49.95
>>663
>倭王讃の遣使は、修正紀年の仁徳天皇の在位期間に収まる
仁徳の遣使の動機は、神功、応神の時代の半島への進出による
国内の疲弊(仁徳天皇は即位後3年間租税を免除している)を見て
半島、大陸との関係修復を目指したと考えられる<

関係がない。
宋書は、倭国からの宋代の遣使をのきちんと記載しただけ。
梁書などにあるように、宋代以前にも南朝への遣使が継続していた。

>倭王武の遣使は雄略即位16年後になるが、<

おや?、一応言い訳を書いているね。

>即位前後に市辺押磐皇子を はじめ多くのライバル皇族を殺したためその後の国内の掌握に時間が
かかったのだろう<

そんな言い訳が通るもんか。
要は、記紀は、宋書の記載にあわせられなかった、という事が実態。

>有名な倭王武の上表文にも、遣使が遅れた言い訳がくだくだしく書かれている
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧
奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷<

別に、倭国の国内事情に拠って、即位や遣使が遅れた、なんて書かれていない。
0270日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:41:21.06
>>663
>まとめると、 仁徳は半島・大陸との関係修復のために、266年の晋への遣使以来の
朝献を行った <

これは、晋書の惠帝への遣使などや、梁書に拠っても×。

>争いなく即位した大王は、即位直後に遣使している 即位前後に戦乱のあった雄略は遣使が即位16年後になったことを
言い訳している <

「言い訳」という解釈が、そもそも×。
雄略説であれば、宗主国への遣使の途絶えがあった事になる、というになる不整合があった、という事が実態。

>ここから考えると履中は即位前後に住吉仲皇子との皇位争いがあり
遣使が遅れたと考えられ、そして早世した(書紀で在位6年、春秋年
なので3年間)ので結局遣使できなかった<

これも×。宗主国への言い訳にならない。

>その後弟の反正が「先王が薨じ弟の反正が皇位を継いだ」という上表文で
遣使すれば、それまで大陸王朝には仁徳の死も履中の即位も伝わっていないので
讃死弟珍立遣使貢献と書かれることに不審はない 系図に合わないというだけでは否定できないよ<

同じ事。爵位をくれた宗主国に対する言い訳にはならないよ。
0271日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:54:38.25
相変わらず、何も理由を言わない九州論者
0272日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:55:40.37
感情の原因はそれを感じる者自身の先入観・価値観・自己ルール
「言葉 風紀 世相の乱れ」はそう感じる人の心の乱れの自己投影
解釈(含む誤解)の原因は情報発信者ではなく受信者
問題解決力の低い者ほど自己防衛の為に礼儀作法やマナーを要求
憤怒は一時の狂気、無知無能の自己証明。中途半端な知識主ほど激昂
「真実は一つ」は錯誤。執着する者ほど矛盾を体験(争い煩悩)
「己の知見こそ全で真」も傲慢者に多い錯覚。独善の典型
論理的思考力の低い者ほどデマ宗教フェイク迷信に感化傾倒陶酔洗脳
史上最も売れているトンデモ本は聖書。神は人間の創造物
全ては必然。偶然 奇跡 理不尽 不条理は思考停止 視野狭窄の産物
人生 存在に元々 意味 価値 理由 目的 義務 使命はない
宗教民族領土貧困は争いの原因ではなく「理由口実動機言訳切欠」
社会問題の根本原因は低水準教育。必要なのは適切十分な高度教育
体罰は指導力・問題解決力の乏しい教育素人の偽善甘え怠慢責任転嫁
死刑は民度の低い排他的集団リンチ殺人。「死ねば償える」は偽善
核武装論は人間不信と劣等感に苛まれた臆病な外交素人の精神安定剤
投票率低下は社会成熟の徴候。奇人変人の当選は議員数過多の証左

感情自己責任論 〜学校では教えない合理主義哲学〜 m9`・ω・)
0273日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:57:56.08
>>241
>大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であり、
>筑紫倭国を併合吸収継承したのは白村江の後なんだから、×。
>>243
>卑弥呼の頃なら、「大和はまだ倭国の別種の旧小国」であったのだから、×。

妄想と現実の区別がつくようになるといいね!

妄想ではないというなら、「根拠」を示して!

纏向遺跡の大きさが分からない人間が何を言ってもムダ
畿内第5様式土器の段階で、大和と西河内は一つの共同体になってる
この時点で小国ではない
その王都が纏向遺跡

そして、何度も何度も書くけど、
倭国を九州限定にしようにも、関門海峡が狭すぎるから渡海千里にあてるのはムリ
0274日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 16:58:58.70
>>256
鏡の優劣は種類であって、国産かどうか?じゃないよ
そもそも、当時の人も見分けがつかんだろう
現代でも成分を調べて、もしかしたら国産かも?という状態
まぁ、三角が格下に扱われているのは事実だから、種類で格差をつけている、という事だね
0275日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:00:59.23
>>243
>巨大古墳を作り出したのは、4世紀以後である、

「古墳時代は4世紀から」にして、邪馬台国の東遷を夢見るっていうのが
九州説がワンチャン成立するためのぎりぎりの論法だったんだけどねぇ

今どき巨大古墳(箸中山古墳)が4世紀だなんて、九州だったらいいな説以外
誰も言わないよww
0276日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:02:14.52
>>245
>「南→東」の嘘騙し

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0277日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:11:25.68
>>261
>方格規矩鏡は珍しいものではないし、それをもって平原遺跡の年代を語るのは無理だよ。
>それより超大型内行花文鏡を論じるべきだね。

逆なんだって! 本当に頭悪いな!
方格規矩鏡は珍しいものでないから、いろんなところで出ていて編年の根拠が得られる
それに対して、大型内向花文鏡は他所で出ないから、編年の推定ができない
しかも、仿製鏡なのははっきりしてるから、「いつでも倭国内で作れる」

仿製鏡をお宝扱いしているというなら、魏からの下賜鏡とは縁がない、
という意味にしかならないぞ

平原1号墓を卑弥呼の墓にあてる、というのと、大型内向花文鏡がお宝、というのは
論理的に両立しないのが分からないんだろうな
0278日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:15:15.75
>>275
その前方後円墳の派生と大和王権の関連が今は疑われているんだよなぁ
九州の那珂八幡もそうだが、初期の前方後円墳が沿岸部で各地で同時発生している

思想の流行からくるものの可能性が高いと思うがね
鏡副葬文化も同じ
交流関係は辿れるが、なかなか支配関係はわからんね

前方後円墳を大和王権と関連付けたいなら、畿内式独自の墓というのはどういった墓か?
から論じた方がいいかもね

ちなみに、那珂八幡は箸墓より古く、割竹形木棺直送だから平原の流れだろう
0279日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:15:55.80
>>270
イミフ


即位してすぐ朝貢してないわ
勝手に官位を名乗ってるわ
現に言い訳してるよね?

あ、そうか
宋書を読んでないんだ
0280日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:18:16.82
>>277
>しかも、仿製鏡なのははっきりしてるから、「いつでも倭国内で作れる」
おおうそ
0281日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:19:10.47
>>278
誰が疑ってるの?

根拠は?
0282日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:21:35.55
>>262
>那の津や儺県という地名が残っている場所を奴国をだという地名ごっこを言い張るのか?ww。
>2000年位前の地名が現在も絶対残っている、って事か?。ないだろ?。

残ってるんだよ、地名は
地名は言葉の化石って言われるくらい、人が順番に生まれ死んでいっても、
そこに人がいる限り、新しい人にずっと地名が引き継がれていくから、1000年も
2000年も、地名は残るんだよ

九州説の生き残りの御大、安本美典氏の論考のかなりの部分が、
地名がずっと残ることに基礎を置いてるのも知らないのか?

例えば、長岡京は784年に遷都された時以来の地名だが、1234年後の今でも
普通に使ってるだろ?

對馬國=対馬、一大國(一支国)=壱岐、末盧國=松浦、伊都國=「糸」島も
みんな残ってるじゃないか

なぜ、奴国=「那」の津、「儺」県、「那」珂川だけ、伝わらないと思うんだ?

ついでに言うと、九州だったらいいな説の人が言う、比恵・那珂遺跡群や岡本遺跡群、
三雲遺跡群のあたりに、ヤマトと読む地名はないからww
0283日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:27:51.41
>>280
九州説はいつも理由を言わないな
0284日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:28:03.50
>>277
いつでも作れるという根拠は?
大型鏡はかなり難しいのだよ
三角鏡は割れやすいから端を三角形で作成したんだよ?

「いつでも」というのはその前後に同レベルの国産鏡が分布してる事が条件となる

正直、平原の大鏡は200年以前ならオーパーツレベルだよ
同笵鏡でもなく、ふみかえし鏡でもない
全くのオリジナルだからな
0285日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:39:23.99
>>284
「いつでも」というのは鏡種で制作年代を特定できないことを強調しただけ

大型鏡が二世紀ならオーパーツとまで言うほどかなり難しい、という理由は?
0287日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:44:59.24
「ぼくちゃんの都合が悪いから古墳はただの意味もないオブジェだー」
「ぼくちゃんの都合が悪いから庄内式土器はただの意味のない土器だー」

でもどこにも影響を及ぼしてない国産鏡だらけの個人墓は日本を支配した証なんだー

余りの分かりやすすぎるアホさに笑い死ぬわ
0288日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:55:02.88
オリジナル?
オンリーワン?
そこで終わり?

おけ、それでも構わんよ?
じゃあやっぱりどこにも何にも影響を及ぼせてないただのド田舎の個人墓だと言うことだな

こいつ等の主張通り時代を卑弥呼の時代ど真ん中にしてやっても
物凄い技術のオンリーワンとしてやっても
別に何にも困らないな
0289日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 17:55:23.85
>>269
>梁書などにあるように、宋代以前にも南朝への遣使が継続していた。

梁書が宋代以前ってなんだ?
魏晋南北朝の南朝は、東晋⇒宋⇒斉⇒梁⇒陳の順だぞ
まあ、東晋にも高句麗・倭國及西南夷銅頭大師並獻方物と一言だけ記事はある
けれど、これは晋書の記録()安帝 義熙九年であって、梁書ではない

まあ、勉強不足の浅知恵ですな
南斉書、梁書の倭王武の記事は、遣使記事ではなく「進号」記事
どちらも「斉の武帝元年」「進新除使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓〔慕韓〕六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍」と、
「梁の武帝元年」「鎮東大將軍倭王武進號征東大將軍」
南朝の宋⇒斉⇒梁⇒陳と進む王朝交代に伴い「新王朝の創始者=武帝」が
前王朝の封国をそのまま承認するとともに、自らの徳を示すために進号している、と
いう記事であって、倭国からの遣使はないんだよ

南斉書と梁書の倭王武の記事をもって、雄略に死後だから雄略じゃないとかいう
九州だったらいいな説の言い分を見るたびに、周回遅れの知識しかないんだなと
哀れに思うよ
0290日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:01:18.38
>>260
>纒向にあったか?

黒塚古墳から大量に出てるよ
大和古墳群だから纏向じゃないとか言いたいのか?
あと椿井大塚山古墳も畿内だろ?

>>258に書いてあるのは「三角縁神獣鏡の分布の中心は明らかに畿内」
0291日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:07:13.50
本当の専門家はいないの?

魔法のペルシャと言うアニメ、
ググると河童やイルカの画像が出て来たり


扇風機を付けたまま、寝ちゃって、
お尻から空気が入って死んだ人もいるんだよ

相撲の話をしていたり(老婆談)

家は、本当は「すが▢」だよと言っていたり、
ほとんど合致している?かなり詳しいような
0292日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:08:16.83
>>291
九州説は論破されると
いつもコレ
0293日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:11:30.34
>>269
>別に、倭国の国内事情に拠って、即位や遣使が遅れた、なんて書かれていない。

漢文が読めないんだから、ムリするなよww
臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大擧
奄喪父兄使垂成之功不獲一簣 居在諒闇不動兵甲 是以偃息未捷
書き下しは
臣が亡考濟、實に寇讎の天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義聲に感激し、
方に大擧せんと欲せしも、「奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ず。
居しく諒闇にあり、兵甲を動かさず。
是を以って偃息して未だ捷たざりき。」
「  」部分が言い訳だってのは分かるか?ww
0294日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:11:42.08
アホの九州説って毎度の事なんだけどその場所だけで終わってるもんをなんか凄いものだと勘違いしてるよな

全国に影響を拡大する中心地としての機能を一切持たないそこだけで終わってる物なんて何の価値もない
ただの地方ローカルの酋長でしかない
逆に九州は一方的に畿内の影響に飲み込まれてる状態だからな

ただの田舎酋長と全国政権の違いを自分で主張してるだけ
頭悪いんだろうな
0295日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:18:14.07
ジョジョの奇妙な冒険

同じような話があったでしょ?
男の世界、男の世界と言っていたり

ハンカチの話とか

『ボーボボ』各話リスト、それともマクロス?
0296日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:18:36.31
>>270
>晋書の惠帝への遣使など

>>289にも書いたが、東晋の安帝義熙九年だぞ
恵帝ってどこから来た?ww

安帝義熙九年は西暦413年で、台与の遣使とされる266年から147年後
そして、高城修三の修正紀年では仁徳の在位中になる
0297日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:19:31.84
そもそも平原はそれまでの九州のスタイルとも違うからな

完全に浮いてる誰にも相手されてないローカル墓
0298日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:22:45.72
写真の右のほうに、
葱の華も写っているでしょ?

『ボーボボ 田ボ』の曲
0299日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:23:11.50
>>270
>宗主国への遣使の途絶えがあった事になる

倭国からの遣使って、飛び飛びだぞ?
ちゃんと把握してないだろww

57    後漢    「漢倭奴国王」の金印
 50年 空き
107    後漢    倭国王・帥升等
 132年 空き
239〜247 魏     卑弥呼の遣使 
266    晋     台与(?)の遣使
 147年 空き
413〜478 (東晋)宋 倭の五王 
 122年 空き
600    隋     俀王以天爲兄 以日爲弟
607    隋     日出處天子致書日沒處天子無恙
以下略
と飛び飛びで、ずっと遣使し続けていたわけではない

本当に知識も勉強も足りないな、九州だったらいいな説はww
0300日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:27:10.43
馬に乗っていて・・・腰に刀・・・
このような話とか

後の名乗ったりした、
名前(名字 姓)なのかな「す▢の」
0301日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:28:17.20
>>286
>そういや大型鏡は銅鐸と同じとかほざいてたアホがいたなあ

立体成型の銅鐸と基本平面の大型鏡と、どっちが作るのが難しいか、
考えれば分かるだろう
そして、2世紀の銅鐸は1.3メートル超のがあるのに、
「超大型」内向花文鏡と言いつつ、鏡面は40センチちょい

バカはお前だww
0302日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:33:32.25
老婆が言うには伊達郡の話をしていたり、
ジョジョというのは仙台のほうの話でしょ
0303日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:43:21.74
wiki『河童』

>お辞儀をすると河童もお辞儀を返す
>シダの葉で頭をなでると人間に化けることができるとされる。

松(モミ)の木、
オジギソウのような葉、シダ類も写っているし、
同じ家の写真(家の写真)
0305日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:50:37.27
河童=河伯

調べると天帝の話も出てくるでしょ、
寺院に通ったり
0306日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:52:26.85
妹:5月15日生まれ

確か川俣町のほうの話をしていたり
0307日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 18:59:34.67
天帝を調べてみて、
七夕の話が出て来たり


家の写真、オジギソウ・・・笹の葉も写ってなかった?

確か、蚕を飼って、機織りをしていた家があり
0309日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:02:38.99
数年前の△の陰謀というスレ

・だっつーの!そういう事なんだっつーの!
・生きてたのか!もう私ではない
・真似なんてしているから、こんな事になってしまった

このような事を言ってる人がいたり

だっ津ーの?
0310日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:05:47.65
太山府君?

確か山の上のほうに住んでいて、
蚕など飼い、機織り
0312日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:09:15.83
小手子の像というものが建てられているでしょ

むかーし、
あの周辺に住んでいたんだよ、
戸籍も、そうなっていたり
0314日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:13:03.73
・本人だぞw
・本物です

と言っている人がいたり、
おそらく、もれ(仮。弟。)の事だと思うんだけど
0315日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:14:51.88
ほらな?ファッション基地だから反応すると嬉しくて連投始める
0316日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:18:27.87
>>311
>ちょっと違うな
>お勉強が足りないようです

なら、正しいのを貼ってみな
できるものならなww
0317日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:19:27.25
それにしても『市』だよ、
あの写真一枚でwiki(河童〜)を表現していたり

何だったんだろう、もしかして本当に識者だったのかな
0318日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:22:40.03
『松傾』
このような名前の家で

聖化 日神 日霊・・・、
天帝、河伯?
0319日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:26:22.88
>土木工事を手伝った[5]とか

たしか手伝っていたと言っている、
浅野セメント?の話をしている
0320日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:38:50.15
以前から

「意味がわからない」と言っている人がいるけど

もれ(仮)にはわかる、
どういう事だと思う?

何らかの本人という事なのかな
0321日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:43:45.67
>>665
>倭の五王の宋書に記された一文字名が、漢風諡号に似ているからなんてそれどこの聞きかじりだい?<

50年位前の、大和説学者らの通説だったよ。

>系譜に合わないとかいう言いがかりには>>662,>>663で丁寧に説明してある<

反論済み。

>九州王朝の王だと主張するなら、最低限でもこれ以上に丁寧な論証をしてくれよ!
日本の文書に記された九州王朝の系譜記事と、宋書の倭の五王の記事の年次が
問題なく一致することを示してくれれば納得するよ!
私は日本の記録・日本書紀と、大陸の記録・宋書の対応関係から論じてるだろ?<

問題は、二中歴に書かれた「517−39ー569×2=−660」から、
「二倍年歴→一倍年歴」の変更が、478年頃になる、っと言う事だな。
ニ中歴筆者は、記紀の記載にも拘わらず、当然、
筑紫倭國盟主時代があって、二倍年歴時代や九州年号時代もあって、大和政権がその年次計算を使っていた、
という事を知っていた。
という事は、書紀が、古事記を参考にして、宋書に記載された倭国王に合わせて、
大和王の在位年を合わせた、という事なんだろう。

>>635も「畿内説は違う○ダー」ばかり言ってないで「九州説の論立て」を
説得力のある「根拠」を示して「論証」してくれればいいんだよ <

書紀が、古事記伝承に書かれた大和王伝承を、宋書に書かれた倭の五王の記載年次に合うような、年次調整をしたんだよ。
できるものなら、ね!ww
0322日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:44:53.16
>>321
おまえ、日本語おかしいぞ
0323日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:46:24.72
『赤べこ』

ここにも同じような事が書いてある。
赤い牛の群れが現れ、仕事(木材)を手伝った。


赤い牛の人形を持っていた写真。
0324日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:55:02.27
>>669
>2万戸だから、その領域は福岡平野全域を想定するべきだね。<

伊都国の「東南100里」(に入り口)がある、という事だから、
三雲平原地域は奴国から外せないし、
油山以東の福岡平野では、方向も距離も違い過ぎるし、
前原付近の伊都国で千戸であり、吉野ケ里だけでも千里であるから、
それらより一辺が4〜5倍の面積であれば、二万戸が十分に含み得る事になり、
糸島平野の東南部〜日向峠〜早良平野地域であれば十分。
0325日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:56:59.24
何々寺、某という僧などの話が出てきて、
読んでいくと・・・河童(キュウリ)?
0326日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 19:59:49.59
>>672
>でも、系図が合わないのはやはり深刻です。
九州王朝の系図がないのはその通りですが、<

いえ、何度も書いた事ですが、松野氏姫氏系図には、宋書の系図と同じ系図や、それ以外の倭国王の名前も書かれています。

>逆に倭の五王の系図がそのまま九州王朝の系図だと考えることもできるのですよ。<

賛成です。
0327日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:14:54.00
>>673
>神武の実年代は不明だよ。 卑弥呼とそれほど違わないかもしれない。
この板でも鴨は同年代だとしているし、私個人も半世紀も違わないだろうと思う。<

問題は、大和の記紀記載で、
「二倍年歴→一倍年歴」の変更が何時あったのか?が問題であるだけで、
古田さんは古田第2書時点では継体の末年頃説であったので、
それから逆算して神武即位元年は紀元前1世紀の終わり頃説であったのであり、
私は、ニ中歴に拠って、紀元前91年頃説であり、
前々スレで?書かれた「七支刀」の372年を根拠に計算されたお二人は、
紀元前80年と紀元前87年説であったのであり、
前スレの「春秋」説者も、書いて書いていませんが、紀元前1世紀説になる筈です。
0328日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:14:54.75
>>673
>神武の実年代は不明だよ。 卑弥呼とそれほど違わないかもしれない。
この板でも鴨は同年代だとしているし、私個人も半世紀も違わないだろうと思う。<

問題は、大和の記紀記載で、
「二倍年歴→一倍年歴」の変更が何時あったのか?が問題であるだけで、
古田さんは古田第2書時点では継体の末年頃説であったので、
それから逆算して神武即位元年は紀元前1世紀の終わり頃説であったのであり、
私は、ニ中歴に拠って、紀元前91年頃説であり、
前々スレで?書かれた「七支刀」の372年を根拠に計算されたお二人は、
紀元前80年と紀元前87年説であったのであり、
前スレの「春秋」説者も、書いて書いていませんが、紀元前1世紀説になる筈です。
0329日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:17:24.89
学問を拒絶している九州説レベルだと平野の面積で人口を決める
0330日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:18:50.55
>>675
>1,000年以上かけて、畿内中心史観の捏造に血道を上げてきたわけで、
国内にはそうそう裏付けがない。 残念ながら。
それだけに、未だに皇国史観まがいの畿内説が幅を利かせているのは残念でならない。<

今のところ、松野氏姫氏系図だけでしょうね。
年次は直接的には判りませんが、左注などに拠って、大体は判ります。
0331日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:22:11.15
>>324
>伊都国の「東南100里」(に入り口)がある、という事だから、

相変わらずびっくりするほど頭の悪いこと書いてるなww

A,B,C3つの国があったとして
下の図でA,B,Cの文字が国の中心で[  ]が国境だとすると
経路の距離表示が
[   A   ][   B   ][   C   ]
    ├─────┤   ├─────┤        324説
    ├─────────┼──────────┤    私というか普通の計り方
     A−B間     BーC間

「居住外縁部や入り口や門の間の距離」にしたら隙間ができて、経路距離が分からなくなるだろ
それともこうなのか
[   A   ][   B   ][   C   ]
       ├┤       ├┤        324説
       A−B間     BーC間

「居住外縁部や入り口や門の間の距離」を字義通りとるとこうなるんだが?

>三雲平原地域は奴国から外せないし、

こんな九州だったらいいな説の勝手な都合なんて知らんがな
伊都国に三雲遺跡群を含まず、伊都国は海岸ぺりだけで、三雲遺跡群は奴国に編入って、こんな馬鹿なことを言うやつは、邪馬台国の会にも,古田史学の会にもいないぞww

>それらより一辺が4〜5倍の面積であれば、二万戸が十分に含み得る事になり、

面積で戸数は計れないだろ?
遺跡がないところの面積をいくら皮算用してもムダ
本当に「根拠」らしい根拠がないんだな(呆れ)
0333日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:39:26.46
>>326
>松野氏姫氏系図

本気で言ってるの? マジで?
古田武彦氏が、一気に信用を失ったのが「東日流外三郡誌」を信用したからだって
九州説なら知ってるだろうに

その松野氏姫氏系図の出所は何処なんだい?
あんまり笑わせないでくれるかな?

「根拠」はあるのか? と言われて、探してくるといって
引っ込んだ部屋で書いたものを持ってきたレベルww
海部氏の勘注系図だって、偽書とされているのに、毛筆ですらなく
ボールペンか何かで書いたようなものをどうやったら信じられるんだ?wwwwww
0334日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:44:24.80
>>676
>>魏志は、萬二千余里の先の四千里に侏儒國を書き、
更に「又有裸國、黒齒國復在其東南、 船行一年可至」も書いている。<」

>その「侏儒國、裸國、黒齒國」はどこにあるんだい? どこを比定地に当てる?<

侏儒國は、足摺西方の沖の島付近。裸國黒齒國は、縄文土器があるエクアドル付近。

>魏志倭人伝の世界観では、
淮南子:墬形訓の大人國、時則訓の大人之國を倭國に当てているように見える
だからこそ「倭」國なのかもしれない <

何と比較しての「大人國」なのか?も不明だが、
東テイ人や侏儒國人や済州島人との比較では、半島や大陸系縄文人との比較であった可能性もある。

>墬形訓の自「東南」至東北方だから、倭國は倭人在帶方「東南」大海之中だし、
時則訓の世界の端だから「萬二千里」 <

そりゃ無理。当然、
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。<
だから、碣石山から東方之極の「木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司 」までの距離。

>こうして見ると、魏使の報告書になかった部分は、
淮南子を参照して書いているのは明らかだな<

こうしてみると、魏志の 「裸國、黒齒國」情報は、淮南子情報とは関係のない別情報であって、
「船行一年可至」の一年も倭人らの二倍年歴であって、実際は半年であった、
という事になるな。
0335日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:50:46.34
>>301
>そして、2世紀の銅鐸は1.3メートル超のがあるのに、

畿内のオリジナルの技術は失われ、九州の銅鏡文化が列島を覆い尽くした。
畿内説はこの単純な事実から目を背けている。
仮に三角縁が畿内で作られたとしても、それは九州北部からの派生であり、畿内が九州に征服されたことを意味する。
畿内に倭王がいたならば東遷しかありえないが、魏志倭人伝を読む限りでは、1〜2世紀の倭奴国から遷都したとは考えられないのである。
0336日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:51:41.82
>>677
>奴国は吉武高木遺跡近辺のみで、
通常奴国の中心とされる岡本遺跡群は弥生銀座だから奴国じゃなくて邪馬台国って
言い張る人がいるんだぜ <

これ反論済みね。
伊都国から東南百里だから三雲や平原付近が入り口になる事は否定出来ず、
須玖岡本では、方向も里数も全く違い、
奴国は、側副傍線國記載であるから、魏使らは通っておらず、
魏使らは海岸沿いに「東行百里至不彌國」の方へ向かった。
0337日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:51:54.87
>>326
>いえ、何度も書いた事ですが、松野氏姫氏系図には、宋書の系図と同じ系図や、それ以外の倭国王の名前も書かれています。

ああ、ぜひ引用して転載して欲しいですね。
0338日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:54:05.96
>>326
>松野氏姫氏系図

ググって見てきたけど「昭和」の写本だな
国が、新字になってるww
書き込みにもBC68とか書いてあるし

せめて、明治か大正の写本はないのか?
古事記には14世紀の写本が現存してるよ
日本書紀は断簡なら9世紀のものがある

九州説の親玉の一人、古田武彦氏の方法論だと、古いものの方が
史料価値が高いんだろ?

「記紀」と「松野氏姫氏系図」では、比較対象にすらならないぞ

ちょうど、
畿内説と九州説の信憑性の差と同じくらいかも

だとすると、九州説が「松野氏姫氏系図」を「根拠ww」にするのも
当然なのかな?ww
0339日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:55:57.04
>>680
>親玉の古田からして、松浦川の存在を知らないで 東唐津まで東南陸行とか言ってたからなあ
笑うしかないよ<

中国では、普通の中小河川の横断は、特に書き分けていないようであるから、
水行とはせず、陸行に含めているようである。
0340日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 20:57:49.30
>>334
>侏儒國は、足摺西方の沖の島付近。裸國黒齒國は、縄文土器があるエクアドル付近。

参ったwww
降参だわwww

まじめに返事を書いてた私がバカだった
相手しちゃいけないレベルだわ
0341日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:02:39.67
>>336
>伊都国から東南百里だから三雲や平原付近が入り口になる事は否定出来ず、
>須玖岡本では、方向も里数も全く違い、

だから、>>336
現実の地理を古文書に合わせて考えて、
現実の方がおかしいって言ってるんだぞ

本格的に頭おかしいだろ?
0342日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:03:30.37
>>684
>単に、神武天皇は崇神および卑弥呼の父祖伝承だと思うけどな
ただ前にも書いたけれど、神武が九州倭国の傍流で、その血筋であることが
卑弥呼の共立に効いていたかもしれないとは思う
>2世紀より前にも普通の弥生集落の遺跡は奈良盆地内に多数あるよ
ただ、記紀に大王と書いてあっても、卑弥呼の共立以前は大和盆地のローカル王に
過ぎないから、それほど顕著な遺跡はないってことだと思う
それでも、大和の唐古鍵遺跡は畿内を中心とする大型祭祀銅鐸地域の中心で
大型銅鐸を作っていた遺跡だし、西河内の亀井遺跡とともに、
畿内第X様式甕を共通に使っているクニ(これが邪馬台国7万戸の範囲)の
中心だったことは言えると思うよ<

仲間同士で盛り上がっても無駄。
卑弥呼や7万戸を出した瞬間に、
「南≠東」に拠って×。
0343日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:08:10.26
>>335
>仮に三角縁が畿内で作られたとしても、それは九州北部からの派生であり、

三角縁神獣鏡は大陸では一枚も出ないから
大陸と関係がなかった畿内のオリジナルの仿製鏡に過ぎない
っていうのが基本的な九州説の立ち位置なんだが?

それが九州の派生ってことは、九州は大陸と関係がなかったってことだなww

>>335は九州説のような振りをしているが、九州説の論理についても昏いんだな
0344日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:09:19.70
>>342
>「南≠東」に拠って×。

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0345日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:18:02.68
>>694
>ふむふむ。 ザラコク氏は詰めが甘いな。 その通りだと思う。<

「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者同士で、慰めあっても無駄だよ。
須玖岡本は、伊都国の東25km位であり、
伊都国の「東南百里(短里で7.65km位、長里で43.5km位)」の奴国とは、
方向も距離も合わないんだよ。
0346日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:23:58.70
>>345
>「南→東」などの嘘つき騙し

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0347日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:25:48.35
>>345
>方向も距離も合わないんだよ。

現実の地理を古文書に合わせて考えて、
現実の方がおかしいって言ってるんだぞ

本格的に頭おかしいだろ?
0348日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:28:23.74
魏使は複数人が複数回九州倭国へ直接訪問してるからだろ。
そしてその訪問から数十年で陳寿が魏志倭人伝を作製している。

魏使の報告書は読んでいただろうし、
ひょっとしたら北部九州倭国へ行った本人に会ったかもしれんし、
卑弥呼や台与が魏へ贈った生口だって生きていたかもしれん。

情報の精度が全く違うわけよ。
おわかり?
0349日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:29:25.86
>>695
>斉、興、武は系譜まで完全一致だし、<

書紀の年次記載とは、解釈法で近似的に合う所がある、というだけであり、
完全一致していないんだよ。

>宋書の倭王武の複数回の遣使記事と日本書紀・雄略紀の遣呉使派遣記事の対応も確認できる<

これも、上表文も書かれていないし、対応している、などと言える代物ではない。

>さらに言えば遣隋使はどうする?
倭の五王以上に、さらに大陸の史書と日本書紀の記述が一致するよ<

タリシホコの隋書と、推古の書紀の記載とは、始めから全く全く一致していないし、
それ以外にも、合わない事ばかりだよ。
何故そんなに合わないのか?というと、書紀が隋書の一部を盗用造作したからだっよ。
0350日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:29:50.37
鉄器ゼロの時点で試合終了。

終わった試合会場で駄々をこねる姿。
0351日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:34:36.74
>>350
>鉄器ゼロの時点で試合終了。

ゼロじゃないんだな、これがww

そして、九州説頼りの「鉄鏃は百倍」とかいうのも、実は九州でも
甕棺墓の時代が過ぎるとほぼ出ていない

全部、古いんだよ、九州説は
そして、最大級の製鉄遺跡は、畿内周りにあって、九州ではないww
0352日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:37:08.03
鉄と言えば、ヤマタノオロチ。
ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろうな。
王が殺されて、一族が畿内に逃げ延びて、 その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。

ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた倭人に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
0353日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:38:38.15
>>350
ゼロって証拠は?
0354日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:39:29.01
>>348
張政が来たのが247年以降

その後に卑弥呼が亡くなって
次の男王で、内乱があって、
台与が即位

早くても張政が魏に戻ったのは250年。
その時に日本からは男女生口三十人が魏へ贈られている。

陳寿(233-297)は卑弥呼が生きてる時代に生まれている。
三国志が西晋成立の280年以降に作られたと言われている。

250年に張政が30代なら60代で陳寿に会える。
張政のお供や、台与からの生口に
250年に20代の者がいたなら、50代で陳寿に会える。

三国志東夷伝倭人条の精度は他の史書とは一線を画すわけだ。
0355日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:43:47.08
鉄器ゼロw

テンプレを鉄器で検索したらマジうけるんですけどww

冬なのに冷や汗びっしょりwww
0356日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:48:10.62
>>703
>三角縁神獣鏡の配布共有という鏡文化に傾倒した前方後円墳祭祀は誰が
どう見ても、畿内が中心だよね?<

「三角縁神獣鏡の配布共有という鏡文化に傾倒した前方後円墳祭祀」なら、
そりゃ4世紀だよ。

>この三角縁神獣鏡の文化が、卑弥呼の銅鏡100枚を基礎に置いているのは、
景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があることから確認できるだろ?<

嘘を付くな。
明帝の詔書は景初二年12月だから、銅鏡100枚は、その時既に梱包されているよ。

>三角縁神獣鏡が、国産であるものがほとんどなのは認めるが、
国産なのにわざわざ「大陸王朝」の「卑弥呼の遣使の年」が記されているのは、<
卑弥呼の遣使の記念品であることを明確に示している<

ウソをつくな。「卑弥呼の遣使の年」が記載されていない。

>してみると、平原1号墓に大量埋納されている仿世鏡が、
製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない方格規矩鏡なのは、
西暦57年の光武帝への遣使の記念なのかもね <

この男も本当に・・・・だな。
どなたかに指摘された事だが、
仿世鏡そのものを光武帝が下賜した筈がないんだし、
仿世鏡であるなら、(中国鏡の年代ではなく)、仿世鏡での年代比定をすべき。
0357日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:51:52.77
>明帝の詔書は景初二年12月だから、銅鏡100枚は、その時既に梱包されているよ。

つまり青龍三年鏡のある方格規矩四神鏡ですな。
北方の洛陽、つまり魏の鏡です。南方の神獣鏡とは別系統。

四神と神獣を神繋がりでくっつけようとする「輩」がいて困ったものです。
0358日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 21:54:00.79
董卓によって廃墟と化した洛陽に魏が都を戻して間もない頃の方格規矩四神鏡は
平原遺跡で32面も出土した方格規矩四神鏡そのままの
造りが粗雑で文字配列が後漢期に比べて異なっているものです。
0360日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:06:07.28
>>343
>それが九州の派生ってことは、九州は大陸と関係がなかったってことだなww

時代の順序を考えろよ。
0361日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:09:32.53
>>351
>甕棺墓の時代が過ぎるとほぼ出ていない

卑弥呼の長期政権で不要になったか、実戦では使われなくなったんだな。
卑弥呼の即位の影響がいかに大きかったかを示している。
やはり卑弥呼がいたのは九州。
逆に、この頃から畿内にも鉄が出始め、九州から大量に人間が流入して畿内は征服される。
畿内の銅鐸文化は失われ、九州の銅鏡文化に塗りつぶされていく。
0362日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:10:10.59
>>705
>>日本書紀は隋書などにすり合わせしているからですよ。<

>では隋書で上遣文林郎「裴C」使於俀国と書いてあるのに、
日本書紀ではきちんと大唐使人「裴世C」と書いてあるのをどう説明する?<

この男は、未だに釈日本紀紹介の延喜講記の記載を隠している。
新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」と書かれたように、
大和は、開皇末遣使の中にいた小野妹子が、隋の文帝に日本国を名乗って、
本国の俀國の承認を得ていない事で叱られて挫折し、
大業4年の文林郎「裴C」は 、天子を名乗ったタリシホコの意図を確認するための派遣であり、
タリシホコの天子撤回の拒絶のために「此後遂絶」になってしまったのであり、
大和には来ておらず、書紀の記載は捏造であったのであり、

そして、古田さんが推定されたように、12年後に、
隋が滅んで唐に変わったから、唐は改めて「大唐使人裴世C」を大和に派遣して、
大和の「日本國」の独立や国名を承認したのであり、
書紀は、「大唐使人裴世C」の大和訪問を、大業四年の事だ、という捏造記載をした、
という事。
0363日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:12:23.01
畿内畿内と言うが、栄えていたのは海沿いばかり。
海運が主力の古代においては、内陸の纒向などは広大な面積に建物は4棟だけ。
あとは平らな沼地が広がるだけ。
0364日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:17:09.73
つくし筑紫の謂れが何かだな。

築石が訛ったとか、

荒ぶる神がいて、往来する人々の半分は生かしたが、半分は殺した。それでこの神のことを人命盡神(ひとのいのちつくしのかみ)というようになったという由来があるな。

筑紫の君磐井。石、岩と関係あるのかな。

筑紫の枕詞はしらぬひ
しらは、あからさまなという意味かな。
ぬひってなんだろうな。
0365日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:42:03.09
>>356
>そりゃ4世紀だよ。

でたww
九州説お得意の「4世紀」ww
それはもう通用しないんだって!
0366日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 22:44:05.90
斯蘆の神だろう
0367日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:01:49.18
>>705
>隋書の方に大和朝廷の冠位十二階の「小徳」阿輩臺、「大禮」哥多毗が書いてあるのはなぜ?
隋書の方が成立年が先だし、倭国の事情に合わせる必要がないだろ?<

当然、後から書かれた書紀が、隋書の記載を盗用改竄した事になる。

>>隋書に阿蘇山が書いてあったり <

>中国には火山がないから、珍しかったかららしいよ
阿蘇山も大和朝廷の版図の中だし何が問題?<

阿蘇山は俀國の版図だし、
書紀の記載では、唐使が中国船で難波まで来たような記載になっていて、阿蘇山へは行っていない事になるが、
隋書には隋使が阿蘇山を実見記録した記載になっているから。

>>遣隋使の時の大王が推古女帝ではなく、妃や後宮を持つ多利思比孤なる人物であることはどうするのですか?<

>普通は摂政の上宮法王だとされているね
朝政を実際に執っている責任者だし、
妃や後宮を持つ男子最高位の皇族だから何も問題ないだろ?<

嘘を付くな。摂政は天子ではない。

>多利思比孤は普通名詞扱いで、固有名詞ととる必要はないし、
大和朝廷でよく使われるタラシヒコの音訳で問題ないだろ?<

嘘を付くな。多利思比孤ではなく多利思北孤だ。
それに、隋書は「多利思北孤」という文言を2か所で書いており、
一か所での間違いであればともかく、
「比→北」の錯誤を2か所で錯誤する可能性も全くない。
0368日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:04:12.59
>>356
>明帝の詔書は景初二年12月

それが成り立つためには
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。
が正しいことが必要となるが、景初二年八月に帯方郡の公孫氏が亡んでいる
景初二年の六月は公孫氏討伐戦の真っ最中で、とても倭からの遣使が通れる状況ではない

原文の景初二年は三年の誤りと思われる

日本書紀も神功紀三十九年条で
卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、
求詣天子朝獻。太守ケ夏、遣吏將送詣京都也。」としている

また中華書局本北史 卷九十四 列伝第八十二 校勘記でも
(本文)・・・魏景初三年,公孫文懿誅後,卑彌呼始遣使朝貢.[七九] ・・・
(校勘記)[七九]魏景初三年公孫文懿誅後卑彌呼始遣使朝貢 百衲、北、汲、殿
四本「三」作「五」,南本及梁書作「三」.
按三國志卷三0倭傳云:「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等詣郡帶方郡,求詣天子朝獻.」
又據三國志卷三明帝紀,公孫淵被殺,在景初二年八月.若倭使是淵破後始來,
則三國志倭傳之「二年」當是「三年」之誤.今從南本及梁書.
と、「景初三年」が正しいとしている

知ったかぶりで恥をかく芸風、やめられないんだねww
0369日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:07:06.87
>>368の続き

と、「景初三年」が正しいとしている

そして、この詔勅を出した人物が誰かが大問題。
明帝は景初三年正月に死去。つまり、(景初二年)十二月というと明帝は死の床にあったわけで
詔勅が出せる状況にあったかどうか? この点、景初二年説にやや不利。
景初三年説なら、この詔勅を出したのは次の斉王芳という事になる。
一方、明帝の死後一年は喪中であり一切の行事が中止で(景初三年)十二月も喪中なので
詔勅は出るはずがないといわれることがある。このとおりであるとしても、
景初三年の十二月の終わりに、「(明帝が採用した殷暦(殷王朝の暦)を改め)
夏暦(夏王朝の暦)を採用し、景初四年二月となるべき月を改元して正始元年正月とし、
景初四年正月となるべき月を景初三年後十二月にする」という詔がでている。
(この詔勅により、景初四年が存在しないことが明らかとなる。)
卑弥呼への詔勅が出た『其年十二月』が後十二月をさすなら喪は完全にあけている。
したがって、『景初三年十二月』に詔勅が出るのは必ずしも無理ではない。
が、それ以前に、齊王芳は景初3年の7月には朝議に出席し、8月には大赦が行われている。
本当に一年の喪があったのかどうか、それ自体が疑問である。
このあたり、事実関係だけでもかなり複雑。
0370日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:09:56.31
>>706
>>三角縁ご記念品であるからこそ、<

>あ、三角縁神獣鏡が卑弥呼ご記念品であることを認められた?
すばらしいね!<

あ、また、相手の文言の言葉尻を切り取って、
更に「卑弥呼」という文言を挿入する曲解捏造をして、
世間の人々を騙そう、としているな?。
「南→東」などの否定曲解の嘘吐き騙しの・・・・詐欺師の病気は、まだ直らないねえ・
0371日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:11:44.15
あの日本昔話、旧広瀬座・・・ 山王宮 山王院?
ほとんど同じ家の話じゃないの?
0372日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:12:12.67
>>356
>ウソをつくな。「卑弥呼の遣使の年」が記載されていない。

>>368参照
ちゃんと文献が読める人は奈良時代でも、中華書局の人でも、「景初三年」が正しいと
判断してるんだよ
0373日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:13:52.44
『姥清水』

山彦の爺さん、年を取り、老け込んで、
道に迷い・・・

『松傾』?
0374日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:16:11.50
>>356
>仿世鏡での年代比定をすべき

景初や正始の紀年銘鏡の仿世鏡は、その年号の直後
3世紀半ば頃からあとに決まってるじゃないかww

そんなことも分からないのかい?
0375日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:17:21.69
伊達郡川俣町と言う掲示板

すさのお?というネームの人がいたり、
スサノオ?

確か山の上のほうに住んでいたと言っていた
0376日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:20:21.90
>>360
>時代の順序を考えろよ。

時代の順序も何も、大陸の鏡と縁のないものをつくるってことは、
大陸からの鏡がたくさんあるところじゃないっていうロジックなんだぞ?

なんにせよ、もっと勉強しない!
脳内妄想はただの妄想

ザラコクの書き込みはほぼ価値0ww
0377日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:20:58.34
>>707
>私も「日向三代は伊都国王」という邪馬台国の会主催の安本美典氏の説をこの部分は支持しているよ<
ただ、邪馬台国の頃ではなく、光武帝への遣使(西暦57年)の頃だと思う
三雲南小路遺跡甕棺墓  伊都国 前一世紀中ごろ
井原鑓溝遺跡甕棺墓   伊都国 一世紀第1四半期
と年代も合うし <

何を騙しをしてんだい?。
一世紀第1四半期なら、倭奴國(委奴國)の時代であって、
伊都国ではなかった、んだろ?。
0378日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:22:17.32
>>361
>卑弥呼の長期政権で不要になったか、実戦では使われなくなったんだな。

またバカを曝している
甕棺が廃れるのは卑弥呼の共立より100年単位で古いんだぞww
0379日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:23:09.60
その家の弟の話なのかな?
「弟だよ」と言っている人がいたり

寒いな〜・・・・・・みたいな事を言っていたり、
一年で、もっとも寒くなる、そういう日に生まれた

もれ(仮)と同じような気がするんだけど、
1月▢▢日、生まれでしょ
0380日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:28:54.81
>>709
大和説バカは、鏡の話のようなのに、「銅鐸の変遷」の話にすり替えて、
また、国民を騙そうとして、毎度こういうバカ話を喚いてるから笑える。
どっかの能無し右翼マスコミやキョクウの・・・・学会教育界の騙し方とそっくりだな。
0381日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:29:02.65
>>362
>新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」

新唐書って隋書から何年後だと思ってるんだ?
隋書の成立が 656年
新唐書の成立が 1060年
400年以上も後だぞ?

古墳時代のことを時代が違うと言って逃げまくるやつが
400年後の書物を引き合いに出すなんて、恥知らずもいいとこww
0382日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:31:45.94
>>362
>古田さんが推定されたように、12年後に、

推定 ×
憶測(しかも間違っている)○
0383日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:31:54.18
『大寒』

この辺りでしょ
0384日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:35:03.85
>>711
>銅鐸から鏡に変わるまでの間は優に100年くらいのタイムラグがある
その上、大和はかなり早い段階にいち早く銅鐸を辞めている
そして銅鐸は近畿・東海全体で次第に使われなくなっていく流れ
銅鐸が使われなくなって大分たってから鏡が現れるようになる
アホがよく喚くような唐突な変化などしていない
バカはなにも知らないから「銅鐸がいきなりなくなって鏡が出た!だから鏡が征服したんだ!」
とかいうバカ丸出しの妄想が出来上がると<

この男も、自分から「大和で銅鐸が突然消えた」東征話をして置きながら、
それを否定するような自己矛盾のヘイトスピーチをするつもりらしい。
0385日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:37:35.85
いつ頃からストーカー(不明??)されていたんだろう
0386日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:38:29.87
>>367
>隋書には隋使が阿蘇山を実見記録した記載になっているから。

原文は「有阿蘇山 其石無故火起接天者俗以爲異因行祷祭」
これをどう読んだら「隋使が実見」とか出てくるんだ?

漢文読めないくせに、どうしてそういう見た瞬間に嘘だとばれる嘘を吐くかね?
0387日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:41:19.43
>>376
>時代の順序も何も、大陸の鏡と縁のないものをつくるってことは、

縁がないわけではない。
漢が王侯を冊封するために用いた内行花文鏡を、漢の滅亡後に内製するようになった。
しかも漢よりも大きな鋳型で。
0388日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:42:11.84
>>377
>一世紀第1四半期なら、倭奴國(委奴國)の時代であって、
>伊都国ではなかった、んだろ?。

考古学的には奴国の時代ではなく、伊都国の時代だよ。
だから、倭奴国とは、伊都国のこと。
0389日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:43:31.04
兄がいて、
まらdーなと同じ、10月の▢日・・・生まれ

川崎に住んでいる?
0390日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:43:33.61
>>712
>「居住外縁部や入り口や門の間の距離」にしたら
隙間ができて、経路距離が分からなくなるだろ<

隙間が出来るとしたら、それは、
その国の入り口と出口の距離がの問題になるような大きな距離ではなかった場合。
大きな距離であったんなら、對海國や一大國のように、
国の大きさが記載されている。
0391日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:46:45.83
>>367
>「比→北」の錯誤を2か所で錯誤する可能性も全くない。

>>362
>新唐書にも「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」と書かれたよ
って書いてあるねぇ

自分で書いてるじゃないかww

魏志倭人伝の邪馬臺國⇒邪馬壹國と同じように伝書の途中で化けただけだよ
日本人の名前であり、日本語で「ヒコ」なんだから、タリ(ラ)シヒコが正解なんだよ

どうして「現実を史書に合わせよう」とするのかねぇ?
現実は現実なんだから、現実と史書に齟齬があったら、史書に誤りがあるんだよ

どうして、普通の論理が理解できないんだろう?

ああ、バカだからなのか
0392日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:47:32.18
【筑紫の日向】

そもそも筑紫とは、博多湾を望む高千穂の日向峠周辺のことを指す言葉であったらしい。
それが拡大して博多湾沿岸から有明海沿岸や遠賀川沿岸まで含めるようになった。
こうして成立した倭国は、筑紫と豊国、肥国の連合国家、いわゆる邪馬台国連合であった。

福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
クシフルとは、チクシのフル(村落、国邑)の意味だそうだ。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の筑紫日向なら朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前2〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(紀元前1世紀の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。

伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖宮がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の伊都が倭国の王都であり、天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の都である。
0393日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:48:45.20
>>370
>「南→東」などの否定曲解の嘘吐き騙し

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0394日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:48:57.36
>>714
また旧唐書否定w。
この。大和説基地外は何回も同じバカ話を続けるな。
キョクウの国粋皇国史観教団のキョクウの大和説者は、
基地外のカルト教義だから、死ぬまで続けるだろうな。

次はどうせ「南≠東」の否定だろ?。
0395日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:53:42.01
>鏡の話のようなのに、「銅鐸の変遷」の話にすり替えて、

相変わらず頭悪いなww

銅鐸の変遷じゃなくて、「倭国の銅器製造技術力」な話だ
2世紀には、事実上倭国で何でも作れるんだよ
だから仿世鏡ははお宝ではないって言ってるんだ

話を逸らそうと必死だな

平原1号墓の方格規矩鏡32面はすべて仿世鏡!
大型内向花文鏡も仿世鏡!
卑弥呼の鏡とは無縁な平原1号墓ww
0396日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:53:49.00
老婆の語る、話まで同じ

当時、住んでいた家(今は付き合いはないけど親戚)には、
伝説の刀?が飾ってあって、

盗まれたのか・・・
0397日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:55:44.28
>>384
>「大和で銅鐸が突然消えた」東征話をして置きながら、

また誰も言ってないことを脳内妄想で捏造してるよ
病院行ったら?
0398日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:56:29.50
>>715
>知ってるよ
九州説は間違いというか「古い情報からの論立て」だと思っているけど、
安本美典氏の「日向三代は伊都国」とか
宝賀寿男氏の「神武から崇神は5世代」は正しいと思っているよ <

別に「正しい」と断定出来る程のものではないよ。

お二人とも普通のの学者だけどね 。
大和説の誰かさんみたいに、
「柳田康雄は学者だから公式報告書も正しいに決まってる」
なんていうバカなことは言わないよww 。
0400日本@名無史さん垢版2018/02/19(月) 23:57:56.37
>>394
>「南≠東」

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0401日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:01:26.83
>>398
>普通のの学者

安本美典氏は、日本の心理学者・日本史研究家
心理学者だが、日本史に関しては研究者ではなく研究家

この区別、分からないんだろうな
0402日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:02:00.82
>>719
大和からは、何一つ出てこない。
出てくるもんは全部、筑紫の影響にどっぷり漬かったものばかり。

本来ならここで「大和説なんてあるわけねー」となるが、
右翼マスコミや学会教育界の基地外達は、妄想を喚き散らして、
大和説だとかほざき続けると、
もう病気だからしょうが無いね。
0403日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:05:10.34
>>724
何一つない大和の田舎もんが、またなんか喚いてるわ。
0404日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:05:22.18
だいたいさ、伊都国は海岸ぺりだけで、三雲遺跡が奴国だって言い張ってるけど、
そのバカ理論だと、伊都国と奴国の国境はどこにあるんだ?

普通に一体の平野で、どうして別々の国に分かれている必要があるんだ?

本当にバカすぎ
0405日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:08:00.85
>>726
尾張や東海は、筑紫倭国の東征に飲み込まれた方。
0406日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:11:02.51
>>728
出雲バカとか、九州基地外とか、四国アホとか、東海ボケとか、
こいつ等大和説者は、なーんにも知らないで妄想だけ喚いてるから、
間抜けなこと平気で叫ぶな。
0407日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:13:56.01
それにしても・・・偶然、
兄も「智▢」このような名前

とも。さと。?
0408日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:14:17.38
>>368
>景初二年の六月は公孫氏討伐戦の真っ最中で、とても倭からの遣使が通れる状況ではない
明帝が公孫氏討伐を命じたのは景初二年1月、司馬懿は陸路で向かい6月に遼東に到着した。
一方、事前に準備していた海軍船は海路、楽浪・帯方郡を直撃しており、2〜3月には同郡は
魏の占領するところとなっていたはず。
卑弥呼が帯方郡に使者を送ったのは6月なので、すでに帯方郡での戦闘は終了している。

>卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡
「明帝」と明紀されているではないか。
明帝は景初三年元旦に死去しているので、「明帝」か「三年」のどちらかが誤りなのは明らか。
皇帝名を間違えたのか、年号を写し間違えたのか、ぢちらの可能性が高いだろうか。

北史とか梁書とか後世の史書では信頼性がない。
0409日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:15:05.82
>>731
>>731はきちんとした受け答えができる人だから、
こういうことを言いたくはないけど、
何をどう勉強したらいいのか「根拠」とともにはっきり書いて欲しい 。
その方が話が早く進むし、話が進めば大和説が成り立たないことが、
その分早くはっきりするから。
0411日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:20:07.69
>>733
>>前方後円墳ではない平原は、前方後円墳である桜井茶臼山古墳よりも古くて当たり前。<

>古墳時代に入っても、方墳は作られるし、田舎の方では方形周溝墓も作られているよ
平原がそうだとは言わないが、単純に前方後円墳じゃないから古いとは言えない<

大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国であるから、同族であり、
部族の違う田舎同士ではない。
0412日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:22:40.68
根拠ゼロ
0413日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:28:34.72
>>734
>>(桜井茶臼山古墳)竪穴式石室で、宗像神社があるんだから、
やはり筑紫倭国の東征将軍の墓であった、ということでしかない。<

>「筑紫倭国の東征将軍」そんなものは、どんな歴史書にも出てこないんだが?<

宗像出身者だ、という事が判っていなければ、宗像神社を造らない。

>メスリ山古墳、桜井茶臼山古墳は、孝元天皇の皇子、
大彦命を始祖とする阿倍臣の族長の墓とされているよ
大彦その人の墓という人もいる <

大彦という東征将軍は、崇神の目上の人間として書かれており、
崇神の家来とするには違和感があり、筑紫の大将軍、という呼称であった、とする方が、
違和感がない。
大彦の後裔氏族には阿倍臣のほかに、膳臣(かしわでのおみ)、沙沙城山君、
「筑紫国造」などが日本書紀には書かれているね

影響力の向きが逆なんだよww
古墳の大きさ一つで分かりそうなものだがな
0414日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:31:22.77
神話というか、
そういうスレを読んでみても

家(家系)や物語など、
盗まれたものと思われる
という話ばかり
0415日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:32:25.63
>>736
>>ホケノや箸墓は、那珂八幡よりも後であり、<

>ここがおかしい 三角縁神獣鏡が出ている時点で、そんなに古くはならないよ<

三角縁自体も筑紫の方が古いから、論拠にならず、
久住編年で、那珂八幡の方が、箸墓よりも、はっきり古いから。
0416日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:32:34.86
>>387
>縁がないわけではない。
>漢が王侯を冊封するために用いた内行花文鏡を、漢の滅亡後に内製するようになった。
>しかも漢よりも大きな鋳型で。

ということは、その大きな鏡を持っている人は、
漢の滅亡後、魏から鏡がもらえなかったんだね
ますます、平原1号墓と卑弥呼の距離が遠くなるね
九州には卑弥呼の墓の候補すらないってことだ

平原1号墓が卑弥呼の墓っていうおかしな妄想を起点にして
伊都国が邪馬台国だとか
岡本遺跡群は奴国じゃないとか
三雲遺跡群が奴国だとか
根拠なしのでたらめトンデモ説をまき散らしてたけど
平原1号墓が卑弥呼の墓じゃないってはっきりしたから
少しは考え方も正常化するかな?

まあ無理だろうけど
0417日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:37:28.98
>>408
>北史とか梁書とか後世の史書では信頼性がない。

ちょ おまww
>>362で400年も後の新唐書を引き合いに出してたやつの言う台詞かww
自分が同じ日に主張したことと整合性が取れないってどんだけ?ww
0418日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:42:31.56
>>738
>より正確には
「九州の二世紀半ば以降で、卑弥呼の墓の候補にひょっとしたらなり得る
『唯一の王墓候補』」だな
これを卑弥呼に当てたとして、台与の墓はどれだい?
らしい墓はもう一つもないぞ?ww <

この男も、変な男だな。
彼は、ずっと祇園山を挙げておられたではないか。
それに、21枚の「尚方作」鏡があるから、「2世紀末」ではなく、
卑弥呼が亡くなった248年頃以後になる。
0420日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:45:51.52
>>413
>宗像神社を造らない。

その桜井市の宗像神社は、天武天皇の息子の高市皇子の母親が胸形徳善の女である尼子娘だった縁で勧請したって考えられてるねぇ

時代が全然違うんだけど?

九州王朝の征東将軍、歴史上には影も形も見えないねえ?
>>413の脳内妄想は具現化しないようだよww
0421日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:52:16.95
>>418
>21枚の「尚方作」鏡があるから、

前にも書いたけど、「尚方作」の銘文鏡は、前漢鏡からあるから、
銘文を真似て作った仿世鏡は、いつの時代か分からんって言ってるだろうが?

前漢鏡が倭国に入ったあとならいつでもOKなんだよ
そして方格規矩鏡が大陸で作られたのは1世紀頃まで
卑弥呼の頃に作る仿世鏡が200年も古い鏡種を選ぶ理由がない
0422日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:53:47.63
>>741
>久住猛雄さんの論文でも読んでおいで<

「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・大和説者の命令は、怖いから嫌だ。
必要だ、と思えば引用しな。

>(卑弥呼や壹與の墓候補)候補はいろいろありそう
その頃は前方後円墳の時代に入ってるかも?だから、<

ダメだ。前方後円墳の初元ともされる那珂八幡は、275年位だ。

>那珂八幡の第一主体とか、糸島の御道具山古墳だったりかな
それぞれ初期の前方後円墳だから未発掘なのが残念 何も平原の隣にある必要は無いのだし<

やはり、前方後円墳である可能性は、殆どない。
0423日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:57:29.20
>>418
>ずっと祇園山を挙げておられたではないか。

祇園山古墳は、ここまでで九州説が主張する邪馬台国の位置から外れていて
地山成形の古墳だから時代も合わない

場所も時代も合わないものを、他にめぼしい墳墓がないからといって
無理やり卑弥呼の墓の候補にしなきゃならない時点で、
九州説っていうのは行き当たりばったりで余裕のない説だって丸わかり

そもそも邪馬台国の比定地も絞れていなくてその場その場で適当なことを言うのが
九州説だよな
0424日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:58:42.43
九州説も畿内説も唯の願望。

歴史は綺麗事じゃないんだよ。

一方的に勝ち続けることはない。

負けた歴史を認めないのは、阿保のすること。

九州北部や畿内の渡来人は負けました。
女王国、大和朝廷は勝者の縄文人による政権。
それもまたうつせみ。
0425日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 00:59:26.24
>>422
>「南→東」などの嘘吐き騙し

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴?城,南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴?城は現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0426日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 01:04:10.89
>>421
>そして方格規矩鏡が大陸で作られたのは1世紀頃まで
これが大ウソ、根拠言える?
0427日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 01:08:59.35
>>426
焼溝漢墓編年
0430日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 01:31:08.77
>>429
されたら何?
問題は反論が有効かどうか
0431日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 01:33:05.45
>>428
作られたとは言ってないよな
0432日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 01:42:50.38
>>428
魏晋時代に作られた漢式鏡でしょ
様式は漢式鏡と同じだけど、魏晋時代に作られた鏡は作りが雑
そして平原の方格規矩鏡は簡略化がみられ魏晋鏡と類似のものと判断される。
0437日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 02:11:21.54
>>433
それはガセネタ
柳田は漢末の国産と判断した
0438日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 02:14:04.06
>>434
雑なものしか作れない倣古世代の鏡師が渡来して倭人を指導したからさ
0439日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 02:44:53.59
鏡は全部棺外だな
玉類も棺内から出たわけじゃないけど
攪乱した井手さんも記憶がなかったから
棺内にあったことにした
0440日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 06:26:54.41
>>438
同じ地域の三雲南小路遺跡などから
さらに隣りの福岡市奴国も合わせれば大量の
後漢期の方格規矩鏡があるのだから、
伊都で仿世鏡を作るのならば出来の良いものを見本にするだろう。
少なくとも文字の配列などは特にな。
0441日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 06:34:56.80
洛陽晋墓から方格規矩鏡が出土しているのだから、洛陽には晋の時代まで方格規矩鏡が存在していた。
洛陽からの学術出土ゼロで、日本での副葬位置も他の鏡より低位の仿世鏡とは本来比べる事すらおかしいわけだ。
0442日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 06:49:30.58
銅鏡で邪馬台国が分かるのか? あほかおまえら  いつまでやってんだ
0443日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 06:58:21.32
青龍3年の方格規矩鏡が出ているんだから
少なくともその時代以降に
作られていたってことだね。
0444日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 07:16:50.88
>>742
>>「1世紀の中頃より繰り下がらない」という事が、そもそもインチキ。<

>これを主張したいのなら、「根拠」をつけてどうぞ
九州説の人間は「インチキ」とかの言葉の勢いだけで「根拠」がない <

21枚もの「尚方作」の方格規矩鏡が一か所から出土した事の考察がない。

>「鏡の考古学」http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htmは読んだのか?
ここに書かれていることのどこがおかしいのか、「根拠」をつけて論証できるのなら
その時はじめて「インチキ」って言っていいよ <

洛陽漢墓や洛陽晋墓での21枚もの「尚方作」方格規矩鏡の出土の有無や考察がなされていない。
0445日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 07:35:50.52
>>743
>>明帝は、卑弥呼や倭人が鏡をお宝ものにしていた事を知っていたから、
>>造り置きの 「尚方作」鏡や、民間から集めた鏡を集めて、100枚に揃えた。<

>この妄想加減がすごいね!!! 卑弥呼の朝貢は、その前の倭国王・帥升等の朝貢(西暦107年)から130年もあと
その間倭国からの朝貢は一切ないのに、将来朝貢に来る卑弥呼が鏡が好きだと予想して
鏡を造り置きするなんて、少し考えればというか考える前から「論理が破綻」しているのが
分かるだろうに
魏の皇帝の下賜品は、魏の皇帝の権威を示すものだからピカピカの新品を
新しく作って持たせるに決まってるじゃないか <

新しく作るんなら、同じものを100枚揃える事になる筈であるのに、
バラバラであったりチグハグになっているようだから。
難升米らは6月に郡に到着していて、それから洛陽へ送って貰ったのだから、
最も早くて(4か月の)10月頃の以後に洛陽到着であり、
100枚全部を新たに鋳造する事は、困難。

>「?。」って、クエスチョンマークの後ろに句点を打つのも
日本人ならおかしいと思わなきゃいけないし<

変な男。
60歳でPCでの投稿を始めた時に、?が挿入された文を読んで、
文がそこで切れるのか?繋がっているのか?が非常に判り難い、という事が判ったから、
区別が判り易いように、「。」や「、」を付けて区別するようにしただけの事。
三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
ばたばたと新しい鏡を作った様子を反映していると考えると一番整合性が取れる
0446日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 07:46:10.37
>>744
>魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね<

「東南」は、(目的地方向を示すのではなく)、
出発時点での出発移動方向を示しているんだから、間違っていない。

>魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、
後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね どちらかは間違いだね<

後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
真偽判断が出来ないので、根拠にならない。

>隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね <

これも説明済み。竹島済州島方面から来て、対馬には立ち寄らずに、
その南海上を(対馬の東南方向の)壱岐に向かった事になるから、
(南ではなく)「東」でぴったりであり、間違っていない。
0447日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 07:51:21.27
>>443
>青龍3年の方格規矩鏡が出ているんだから

何度も紹介している「鏡の考古学」では、
その青龍3年鏡の考察が一番の読みどころだぞ

鏡の形式からして、青龍3年に大陸で作られた舶載鏡と
いうのはあり得ない、というのが結論

それに龍の字が異体字で、この字体が使われるのは
北魏の時代、つまり卑弥呼の時代よりもあと(この部分は
鏡の考古学にはないけれど)
まあ、何百年も後の倣古鏡ってことだね

これをもって、魏晋代に方格規矩鏡を作っていたと
主張するのは無理
0448日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:00:19.33
>>409
>何をどう勉強したらいいのか「根拠」とともにはっきり書いて欲しい 。

まず漢文の読み方
高校で習う程度でいいから、高校生向けの参考書を買ってきて勉強しなさい
根拠1 漢文がまったく読めてない

次、論理学
高校数学の範囲の形式論理でいいから、高校生向けの参考書を買ってきて、以下(ry
根拠2 前提を無視した立論しかしていない

次、日本史の基礎
高校の日本史程度でいいから、高校生向けの(ry
根拠3 日本史についての常識がなさ過ぎる

要は高校生にも劣る知識、常識、論理性しかないから
まずまともに話ができるレベルまで勉強して!!

自分で教えてくれ(書いてくれ)って言ったんだから、ちゃんとやれよ!!
0451日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:08:38.68
>>446
>出発時点での出発移動方向を示しているんだから、間違っていない。

その出発方向を含む経路を示せって前スレ389で言われてるのに
「ある」としか言ってないだろ
ごまかすな
通過点を現在の地名等で、5点程度示してみろよ

あり得ない経路を出してくるんだろうなと楽しみにしてる

さあ、レッツ恥さらしプリーズ!!

大陸史書の地理旅程記事を確認してもらえば分かるが、
起点と終点を結ぶ直線方向が書いてあるのが基本
大雑把な地図(実際に描いたか想定だけかは確認のしようもないが)を
用意して、その上での2点間の方角を記述しているようだ

例えば旧唐書の舊唐書列傳第一百四十七南蠻西南蠻では
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
東に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
2400里進むときに、出発方向だけ書いてそのあと方向転換してたら、
どこに何があるかを示すための情報としては価値0だろ?
0452日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:13:52.02
>>450
>大彦って、東征将軍そのものだろ。

ああ、そうだな
「大和の巻向に都を置いた」「御真木入日子印恵命」が派遣した将軍だな
その「御真木入日子印恵命」の伯父の皇族将軍で、九州とはなんの関係もない将軍

こんなところまで背乗りしようとするから、九州説はたちが悪い
0453日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:18:24.07
>>446
>後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
>真偽判断が出来ないので、根拠にならない。

じゃあ、其山有丹が後漢書で其山有丹土になってるからベンガラが正しいとか
後漢書で大倭王は邪馬台国にいる。 楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
と今後一切言うなよwwかを
0454日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:26:02.10
>>446
>これも説明済み。竹島済州島方面から来て、対馬には立ち寄らずに、
>その南海上を(対馬の東南方向の)壱岐に向かった事になるから、
>(南ではなく)「東」でぴったりであり、間違っていない。

これはただの妄想で、なんの論拠にもなっていないって教えただろうが
「經都斯麻國」迥在大海中とはっきり書いてあるんだから、
「対馬に立ち寄らず」とは読めない

漢文の読み方を勉強しろって! マジで!

それに「歴韓國」なのに、水行が海岸じゃないのがおかしいとか、
バカなこと言ってたのにダブスタもすごい!
0455日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:31:41.69
>>445
>三角縁神獣鏡に景初3年(239年)・景初4年・正始元年(240年)の紀年銘鏡があるのは
景初四年鏡が魏で作られることは100%ないよ
こいつはダメだな
0456日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:32:49.14
>>447
>鏡の形式からして、青龍3年に大陸で作られた舶載鏡と
>いうのはあり得ない、というのが結論
論破済
お勉強が足りません
0457日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:34:13.68
>>447
>これをもって、魏晋代に方格規矩鏡を作っていたと
>主張するのは無理
魏晋代の方格規矩鏡は普通に中国で出土しているのでね
0458日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:39:47.36
>>441
後漢末は帝王陵の盗掘が盛んだったんだよ
多くの宝物が売り払われた
時代のバラバラな鏡が納められている洛陽晋墓の喪主は
市場に出回った古鏡をかき集めたのだろう
0459日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:41:08.04
>>457
どこで?
0460日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:43:39.51
>>455
理由は?
0461日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:44:05.08
「方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡、これらはすべて後漢の鏡ですが、魏晋の時代に入ってもそのまま中国の北方
で流行していました。ただ、様式的にはいくつかの変化が現れます。たとえば方格規矩鏡の文様はより簡略化され、内行花
文鏡の鈕座は多く蝙蝠の形をとるようになり、また獣首鏡の文様も全く獣首らしくなくなりました。」

「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・鳳鏡
・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。 従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いまあげた
一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、
以上の五種類のものである可能性が強いのです。」
(徐苹芳『三角縁神獣鏡の謎』)
0463日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:52:29.74
>>462
それはテンプレで論破されてるな
0465日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:57:09.25
>>461
30年以上も前の研究水準
0466日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 08:58:35.33
>>464
しようがないと言う理由は?
0468日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:06:00.99
>>467
三角縁神獣鏡は、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡である可能性は高い
0469日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:14:14.74
何年位置論争しているんだ?
邪馬台国大和説前提で、掘り下げていったらいいんじゃないかな。
名無しの歴史を語って、面白いか?
0472日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:18:18.72
>>443
>青龍3年の方格規矩鏡が出ているんだから
>少なくともその時代以降に
>作られていたってことだね。

つまり平原遺跡の年代は卑弥呼の治世だよね。
0473日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:19:07.68
>>447
もちろん、そのとおりですね。
しかし、日本では青龍三年以降に
方格規矩鏡が作られていたことを示します。
つまり、方格規矩鏡が出た古墳を
一世紀に比定しなくて良くなるわけですね。
0474日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:20:41.68
>>447
>それに龍の字が異体字で、この字体が使われるのは
>北魏の時代、つまり卑弥呼の時代よりもあと(この部分は
>鏡の考古学にはないけれど)

つまり、平原遺跡は卑弥呼より後の年代だと言いたいのかな?
畿内説はよくもまあ、平原遺跡が卑弥呼より前だとか後だとか、コロコロと言うことを変えるよね。
平原遺跡が卑弥呼の治世に作られた鏡が副葬されていると認めるのがよほど嫌なんだよな。
0475日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:25:33.23
日本産の方格規矩鏡でも
青龍三年前後に作られていれば
卑弥呼の時代にかなり近いですね。
0476日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:31:11.26
>>474
妄想が激しいな
0477日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:32:54.34
>>472
>つまり平原遺跡の年代は卑弥呼の治世だよね。

青龍三年銘鏡に見られる、龍の字は右側の旁が「大」や「犬」という特殊な書体の異体字になっている。
そして、この書体は4・5世紀北朝の北魏、東魏、西魏にならないと出てこない

つまり、青龍三年銘鏡は卑弥呼の時代から100〜200年もあとになって作られたってこと
つまり、仿製鏡の方格規矩鏡の制作年代は、なかなか決めがたいってことだよ
0478日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:33:35.62
>>472
理由は?
0479日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:34:42.50
>>477
>青龍三年銘鏡に見られる、龍の字は右側の旁が「大」や「犬」という特殊な書体の異体字になっている。
>そして、この書体は4・5世紀北朝の北魏、東魏、西魏にならないと出てこない

これは根拠がない
0480日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:39:21.67
>>445
>新しく作るんなら、同じものを100枚揃える事になる筈であるのに、
>バラバラであったりチグハグになっているようだから。

100枚も作るからばらばらなんだよ
後漢代には、普通に使う鏡は小さな鉄鏡になっていた
面径の大きな銅鏡は、基本的に作ってないんだよ
そこへ、皇帝から倭国へ下賜するから100枚作れと言われて
複数の工房で一斉に作ったと考えるのが妥当

古い鏡を、骨董市で100枚買い揃えるより楽だろ?
王宮に古い鏡をストックしていたはずもないし

論理的に考えるってことができない人だからしょうがないんだろうなww
0481日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:42:09.17
>>445
>100枚全部を新たに鋳造する事は、困難。

自分でも困難って分かってるじゃないか
でも、皇帝の命令だから、作らなきゃいけないんでばたばたしたんだよ

テンプレに書いてある状況そのままじゃないか
0482日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:42:23.88
>744
>旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど 実際には成都から安南は「東南」
大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ どうしてだろうね?<

勿論、「四至」表現での位置説明文だから「大体」であり、おそらく「東南≒東」。
成都の西南2400里の場所から安南に行くには、東へ向かって2400里通水陸行すれば至れる、
と言っているだけ。

>探せばまだまだいくらでもあると思うよ 大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね
否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww<

勿論、旧唐書は、魏志倭人伝とは違って「使節らが実際に行程した記録」ではないし、
倭人伝の方向間違いを指摘するんなら、
三国志の記載で魏の役人らの実際の行程記録を根拠にすべし。
0486日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:48:59.28
>>482
>勿論、「四至」表現での位置説明文だから「大体」であり、おそらく「東南≒東」。

同じ文章中に「東北至成都」って書いてあるだろ?
自分でも引用している範囲内にあるぞ
八方位なのは明確だから『おそらく「東南≒東」』なんていう戯言は通らない

漢文読めないのに、あれは正しい、これは間違いって
自分の都合で恣意的な解釈をしているから、まともな論証ができないんだよ

大陸の史書は、普通に方角を間違う

これだけのことがなぜ分からないんだろうね

まあ、九州説を成り立たせるために
すがるところがそこしかないってことなんだけどな

どんだけ脆弱なんだよ? 九州説の基盤は?ww
0487日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:51:08.79
>>746
>全国に覇を唱えて、大和の大王中心の王権をほぼ確立したのは
雄略天皇大泊瀬幼武尊、大長谷若建命の頃からだろう
万葉集の最初の歌が雄略天皇の御製であることからも、雄略天皇の御代が
大和王権の重要な画期だったことがうかがえる <

大和が盟主になったのは白村江の後の701年だから、×。

>まあ、全国に定型化した前方後円墳が作られ始めた時=纏向遺跡が
崇神天皇の都=邪馬台国の都だった時から、前方後円墳を作る範囲の
「盟主」(支配者ではない)だったのは確かだけどな<

大和は、筑紫倭國から別れた別種の旧小国であり、
倭國の東征のお手伝いをしたに過ぎない。

>「根拠」一つ付けられずに、「論理的」な論証もできず、
「詐欺師」とか汚い言葉で論敵をののしることしかできないって、惨めだよなぁww <

史料事実を否定曲解する嘘つき騙しばかりで、
「根拠」一つ付けられずに、「論理的」な論証もできず、
「詐欺師」とか汚い言葉で論敵をののしることしかできない大和説者って、
惨めだよなぁww。
0488日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 09:55:30.75
>>484
つまり漢字をあまり知らない工人がまねて造ったということだね
それがたまたま4・5世紀に出てくる書体と整合しただけと
0489日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:06:17.44
>>746
>>問題の前方後円墳も、晋の武帝らから「天円地方」の埋葬を教えられなければ、
那珂八幡付近に突然発生する事もない。<

>前方後円墳が「天円地方」の思想(≠埋葬法)をもとにしているっていうのは、
よく言われることだけれど、誤解の産物なんだよね
正しい「天円地方」の陵墓は、昭和天皇の武蔵野御陵のような、下方上円墳になる
方形の基壇の上に円墳が乗るのが正しい
古代でも、天武・持統合葬墓の頃にはこの形になる
まあ、天武・持統合葬墓の上部は八角墳とも言われているけれど <

武帝らの教えは、南円北方であったし、
筑紫に伝わったのはモンゴル〜高句麗の前方後円墳モデルであった。
0491日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:21:39.97
>>749
>珍しい九州説だなww
前方後円墳の時代=古墳時代には、倭国の盟主が畿内にいる大和王朝なのは
誰の目にも明らかだから、<

大和は、白村江の後で母国の筑紫倭国を併合吸収継承して盟主になったんだから、×。

>「邪馬台国は弥生時代」って言い張るのが普通の 九州説なんだがww<

前方後円墳から古墳時代とするんなら、那珂八幡などからが古墳時代であり、
だから、卑弥呼は弥生だ。

>その那珂八幡古墳の第一主体部でお宝が見つかるといいね
畿内では纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の初期古墳だけで
那珂八幡古墳より大きいのがいくつあるんだろう
大王どころか畿内の序列10位くらい(適当)でも那珂八幡古墳よりは
でかい古墳を作ってるぞ<

幾ら考えても、
箸墓以前の大和の初期の前方後円墳群は、
大和は、筑紫の倭奴国から別れた別種分家の旧小国であったんだから、
筑紫の那珂八幡などの真似事にしかならない。
0492日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:23:38.67
平原1号墓が卑弥呼の墓っていうのは
「大作冢徑百餘歩」だけでムリって分かりそうなものだがな

それでもこれだけグダグダいうのは、九州説を成り立たせるために
すがるところがそこしかないってことなんだけどな

どんだけ脆弱なんだよ? 九州説の基盤は?ww
0494日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:37:31.20
>>473
>つまり、方格規矩鏡が出た古墳を
>一世紀に比定しなくて良くなるわけですね。

方格規矩鏡でも、周囲の鋸歯紋等の形式での分類、編年があって
その形式分類でも、青龍三年銘鏡は、ある意味異端なんだよ
規矩の「L」字が逆(裏文字)になってるとか

古噴出土鏡については、舶載鏡の伝製鏡ってこともある

方格規矩鏡といっても、仿製鏡で破鏡されてるっていう点で、
平原1号墓は他と状況が違うし、鏡による編年は難しい
舶載鏡を基準にすれば、前漢鏡(漢鏡3期)、後漢鏡(漢鏡5期)が1枚ずつで
卑弥呼の頃のものがまったくないことから、倭人伝で魏皇帝から
銅鏡100枚を下賜された卑弥呼の墓とするのは難しい

方形周溝墓であること、割竹型木棺であることなど、
墓そのものの形式からすると、あまり新しくはしにくい
0495日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:41:02.33
>>493
>徑とは歩道のこと、冢に通じる歩道が百餘歩の長さだった

前もその愚にもつかない言い訳してたけどさ、
その歩道の「基点」は何処だい?
だいたい墓の様子を記述するのに、「歩道の長さ」を記述する必要性が何処にある?
歩道が長いと、大いに作ったことになるとでも言うのか?

大陸の史書「二十四史」に、墓の歩道の長さを書いてある部分が他にあるなら
出してみてくれ
0496日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:43:53.58
>>491
>別種分家の旧小国であった

なら、なぜ前方後円墳の大きさの階層秩序がいつの時代でも
常に畿内がピークになるピラミッド構造なんだろうね?
0497日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:44:05.19
割竹型木棺
古墳時代前期、とくに出現期からみられ、さらに弥生墳丘墓からも検出されることがある。
本来は竪穴式石室もしくは竪穴式石槨に納めたものと考えられるが、古墳時代中期中葉以降、
粘土や礫で包んだり(粘土槨・礫槨)、木棺を直葬(直接、墓壙に埋葬)する場合もあった。
なお、竪穴式石室が割竹形木棺を内包する埋葬施設であったことを解明したのは小林行雄であり、
今日でも出現期古墳における「定型化」の一要素として割竹形木棺が掲げられることが多い。
0498日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:48:23.31
>>482
>勿論、旧唐書は、魏志倭人伝とは違って「使節らが実際に行程した記録」ではないし、

あー、歴史を知らないとこんなにもトンチンカンなことが書けるんだ
唐は、ベトナム北部まで領土かした大帝国

陽苴棟驍ゥら安南までの経路は「唐の国内地理」だぞww

使節が訪ねていく場所じゃなくて、唐の役人が直接治めているところ!
そんなんでも、間違うんだよ
0499日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:52:28.54
>>482
>成都の西南2400里の場所から安南に行くには、東へ向かって2400里通水陸行すれば至れる、
と言っているだけ。

一度、グーグルマップでも何でもいいから、地図で見てごらんよ
現代の比定地もちゃんと書いてあるだろ?
それで地図を見ると、>>482がどれだけバカなことを書いているか
よく分かると思う

ただなぁ、「侏儒國は、エクアドル」とかいうやつだから、
何を言っても通じないんだろうけれど
0500日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:53:54.05
>>495
勅建浄慈寺志
「?丙子十二月初七日世壽五十有二僧臘三十有七坦性慈衷穎才實行惟法是荷惟壽祖是宗自度度世動行
弗懈纓綏逢掖緇素之流無不人人景附禪定餘陝燵E翰墨書畫?入能品所著永明道跡?詠放生詞?山詩遷塔詩
若干卷傳于世法嗣用荼毘法塔于 方墳之左徑百? 依永明也惠?樸質有戒行乞銘諄切因所?爲銘
曰永明正傳粤惟宗鏡惟師明心慧日交映胸羅典册妙義激揚導愚照智發無量光法派燈傳委蛻雲封塔?澄漢?蒭景」
0502日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:59:19.26
>>475
>日本産の方格規矩鏡でも
>青龍三年前後に作られていれば
>卑弥呼の時代にかなり近いですね。

それより後で次の倭王はもう卑弥呼だからね。
それだけで卑弥呼の所有していた鏡であることが確定かもね。
どこで製作されたかに関わらず。
0503日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 10:59:31.72
>>758
>最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、
忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。<

「最終的に後十二月として閏月扱いとなる」としたんなら、
それは「景初三年の後十二月」になるのであって、
「景初四年の後十二月」ではなく、
従って、「景初四年」という年は存在しなかった。

>景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、
景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、<

分裂幻覚の妄想。

>従来より考古学者が推定する所の、
相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作された
という三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。<

当然、明帝生存中の景初二年十二月に詔書が出されたんだから、
その時点で銅鏡100枚は容易されていなければ詔書も出せる筈もなく、
景初三年以後の銘文鏡は、明帝下賜鏡としては、×。
0504日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:00:24.71
八女古墳群
5世紀から6世紀の古墳が多いが、
厳密には4世紀前半の方形周溝墓から7世紀前半の円墳までが見られる

畿内の影響が届くのが遅かった地域は、4世紀頃まで地域の首長墓が
方形周溝墓のまま4世紀半ばまで残る

平原1号墓という方形周溝墓を、無理やり卑弥呼の墓にあてなければ、
ただのローカル首長墓だと分かるだろうに
0505日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:04:37.35
>>503
>当然、明帝生存中の景初二年十二月に詔書が出されたんだから、
>その時点で銅鏡100枚は容易されていなければ詔書も出せる筈もなく、

それ、なんの根拠もない
0506日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:05:48.67
>>494
>平原1号墓は他と状況が違うし、鏡による編年は難しい

そうは言っても、それをれやらないと。
璫などは魏代の流行とされているね。
でも他との相対的な比較は難しい。
2世紀前半に超大型内行花文鏡は作れないよね?
なら超大型内行花文鏡が作られたのは倭国大乱より後であり、平原遺跡は卑弥呼の墓とするのが妥当だよ。
0507日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:07:50.94
>>493
>大いに冢を作った、大きな冢じゃないね


大いに作ったものは大きいだろ、常識的に


ここは笑うところだな
0508日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:08:45.62
>>495
後漢書、志第七 祭祀上、光武即位告天
「為周道列望之外,徑九?。卿望亞列望外,徑四十?。壇廣三丈,高二尺。」
0509日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:10:35.61
>>504
>畿内の影響が届くのが遅かった地域は、4世紀頃まで地域の首長墓が
>方形周溝墓のまま4世紀半ばまで残る
>平原1号墓という方形周溝墓を、無理やり卑弥呼の墓にあてなければ、
>ただのローカル首長墓だと分かるだろうに

九州北部のローカル国が倭国であり邪馬台国なんだよ。
そして4世紀末に神功皇后により攻め滅ぼされ、応神朝へと移行した。
ぴったりだろう。

伊都国は2世紀で衰退したとかボケたことを言う畿内説がいるが、事実に反した主張だということがわかったかな?
0510日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:12:19.98
>>507
>大いに作ったものは大きいだろ、常識的に


笑ったwww
常識を身につけてから書き込めw

goo辞書
「大いに」
[副]《形容動詞「大いなり」の連用形から》非常に。はなはだ。たくさん。「大いに感謝している」「今夜は大いに飲もう」
0511日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:12:52.80
>>503
>「最終的に後十二月として閏月扱いとなる」としたんなら、
>それは「景初三年の後十二月」になるのであって、
>「景初四年の後十二月」ではなく、
>従って、「景初四年」という年は存在しなかった。

相変わらず論理的思考ができないなぁ
先帝の命日は1月1日なんだよ
後12月を入れても、先帝の命日は1月1日になるし、
新帝即位も1月1日でなければならない

で、論理的に考えれば、一旦「景初四年1月1日」を迎えて、
先帝命日の一周忌を行って、そののちに「最終的に後十二月として閏月扱い」とし、
改めて、即位改元し正始元年になる、という順番でないとおかしい

景初4年1月1日と、正始元年1月1日の「両方が別の日として存在」する
必要があるんだよ

それから、昭和六四年正月は実際にあった訳だが、昭和六四年のお年玉付き
年賀状は昭和六三年の11月1日から売ってたし、その前から印刷している

景初4年がある予定で、その前から作り始めないと間に合わないって事もある
むしろ、倭国で魏の年号を調べて作ったのなら、景初4年がある方が
おかしいことになる

オリジナルの景初4年鏡の存在のみが、踏み返し等による景初4年銘の仿製鏡の
作成を可能にすることになる
0513日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:14:34.89
>>504
八女古墳群は、5〜6世紀の古墳で
いくつか素管頭太刀などが出てますね。
0514日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:15:52.89
>>509
>4世紀末に神功皇后により攻め滅ぼされ、応神朝へと移行した。

おいおい、九州王朝説による九州説を唱えてるんじゃないのか?
白村江の敗戦までは、九州王朝が存続していることになってるんじゃないのか?

記紀に従う場合は、その前の景行天皇のときに政治的に大和朝廷の傘下に
北部九州も入っているし、いろいろグダグダだなww
0515日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:20:08.93
>>509
>伊都国は2世紀で衰退したとかボケたことを言う畿内説がいるが、

衰退してるから、10メートルちょいのしょぼい方形周溝墓しか作れないんだろうが
それから、三雲遺跡近辺は奴国らしいから、伊都国王墓はないことになってるぞ
ここの九州説の頭の中ではww

三雲遺跡近辺が伊都国ではなく奴国なら、平原1号墓あたりも当然伊都国ではなく
奴国だよな

もう、何処までいっても、グダグダしかないな、九州説は

せめて、邪馬台国の比定地くらいは九州説の中で統一してくれないかな?
何処であっても、論破は簡単だけどさww
0516日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:21:15.45
>>511
>後12月を入れても、先帝の命日は1月1日になるし、
>新帝即位も1月1日でなければならない

笑い話はそこまでだw

明帝が死んだ命日は景初三年元旦のちょうど1年後が一周忌
後十二月をわざわざそのために設けたわけで、景初三年後十二月一日が命日
日付で決まるわけなかろw

皇帝死後の一年の喪明けには年号が改まるのは皇帝が死んだ日に確定するもの
つまり、景初三年正月の段階で景初四年はあり得ないことになったの
0517日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:22:39.12
>>508
>後漢書

>>446
>後漢書は「勝手で高慢な内容説明的な書き換え」をする半分×書であり、
>真偽判断が出来ないので、根拠にならない。

だそうだよ? ザラコクによれば?www
0518日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:26:48.22
景行天皇のモデルとなったのが
九州王朝の筑紫勢力の王だね。
邪馬台国は肥後で、筑後の中心となる
久留米高良山を筑紫と奪い合った。

景行天皇のモデルとなる筑紫勢力の王が
高良山を奪取し、筑後の覇権戦争は終わった。

この戦争はかなり古い時代からの戦いで
吉野ヶ里や安永田遺跡の戦死遺体や
多くの鉄器武器の遺物からも推測できる。

高良山を獲ったあとは暫定的に停戦となり
肥前、肥後は筑紫に従属した。

肥前肥後の危険がなくなり
むしろ兵や食料の供給が可能となり
豊前豊後から日向大隅の熊襲に
筑紫、肥の連合軍が侵攻する。
いわゆる熊襲退治である。
0519日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:27:00.15
>>760
>>九州倭国の官位なんだろうよ。<

>大変に調子がいいことですわねww
日本書紀に卑弥呼が書いてないから大和朝廷ではないと、
日本書紀を頼りにしている癖にww
都合の悪いことは認められない、典型的な九州説ですことww
「九州倭国の冠位」であることを、
「根拠」を示して正しい「論理」で論証してくださいね!
できなければ、ただの脳内妄想ww <

開皇末に小野妹子が隋の文帝に「日本國」を名乗った、という事は、
その時点で独立国を称していた、という事であるから、
大和にも、倭國とは違った冠位を持っていた可能性は確かにあるが、
問題の「俀王遣小徳阿輩臺、従數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎。
後十日、又遣大禮哥多毘、従二百余騎郊勞」は。
あくまで(日本国ではなく)俀國の話であり、
更に、書紀は、「阿輩臺」と「哥多毘」の名前と類似の名前の人物名を書いているが、、
その書紀の記載は、実際には大業四年には隋使は大和には来ておらず、
12年後の武徳中の「唐使の大和日本国訪問」の話を大業四年に造作した事になる、
という事は、
書紀の「阿輩臺」と「哥多毘」の名前と類似の名前の人物名も、造作の可能性が高い、
という事になる。
0520日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:30:47.33
聖徳太子の官位十二階は
中国のものを参考にしたはずだが
順番が違ってるそうだから、
中国の知識があまりないところで
作ったんだろうね。
0521日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:32:08.83
>>761
>>(魏志などでの里数記載)ほぼ全て中心間距離とすると長里でも短里でも矛盾が発生し、<

>つまり、里程はいい加減なんだよ
たったこれだけのことがなぜ認められないんだろうねww<

いや、居住外縁部間の距離や、門や入り口間の距離という計算であれば、
長里では更に合わなくなったが、短里でならほぼ全て合っていたから、
短里説で正しい、という事になった。
0522日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:32:28.43
なんか最近、神功皇后が卑弥呼+トヨを粉飾して創作したんじゃないかと思い始めてる
0523日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:35:31.54
伊都国。魏志倭人伝当時1000戸。
神功皇后、応神で畿内に移った可能性はあるな。
紀ノ川の伊都と関係あるのか。

それと後の筑紫の君磐井がどういう勢力かだな。
0524日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:39:52.04
大いに塚造るの大いにがどっちの意味でも機内を示さないか
そもそも卑弥呼が死んで沢山塚造るってのは意味がわからんけど
0525日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:40:10.91
>>762
>>方格規矩鏡は魏晋時代でもポピュラー<

>これを言いたいなら、
「根拠」をつけて正しい「論理」で論証しろと何度言えばww<

確か、洛陽晋墓からは方格規矩鏡が出ていた。
また、筑紫中心に出土する鏡片にも、「方格規矩鏡の鏡片」が幾つもあった筈。
0526日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:51:38.49
日本では卑弥呼の時代に
方格規矩鏡がポピュラーだったってことダネ。
0527日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:52:55.91
>>518
>景行天皇のモデルとなったのが
>九州王朝の筑紫勢力の王だね。

困った時は、困った相手を「九州王朝の〜」にするだけの簡単なお仕事
大変調子がいいことですわねww

倭の五王は、記紀が九州王家の王を大和朝廷の大王にした
隋書に出てくる大和王朝の冠位も、九州王朝の冠位
で、今度は、九州を制覇した景行天皇も、九州王朝の王か

えーとなんだっけ、松野氏姫氏系図とかいう偽書では、
景行天皇は、なんていう名前になってるんだ?ww
0528日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:55:45.15
>>525
>確か、洛陽晋墓からは方格規矩鏡が出ていた。

それが、「なんという墓」から出た「どれ」で、何処を調べれば確認できるか、
まで示して、初めて「根拠」を示したことになるんだぞ

少し努力したな がんばれ!

でも、平原1号墓は仿製鏡だから、大陸の本物の年代が分かっても
参考にしかならないがな
0529日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 11:58:29.90
>>763
>>中国の天円地方は祭壇のこと、方形と円形ね<

>分かってないな
>>747でも書いたように「天円地方」は「思想」であり、「概念」なんだよ
その形に、祭壇を整えたり、陵墓をその形の具現として作ったりする
近視眼的に、天円地方=祭壇みたいな「即物的な解釈」しかできないから
九州王朝説に基礎をおく九州説なんていうトンデモを信奉してられるんだろうけどさww<

思想は晋朝から教わったとしても、
それを実際に実行するには、
モンゴル〜高句麗にあった前方後円墳を模倣した、
という事だろう。
0530日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:01:09.83
>>521
>居住外縁部間の距離や、門や入り口間の距離という計算であれば、

それだったら、各里程を足しても総距離にならないだろ?
そんな記述法をするやつがいたら、旅程記事を書く気がないやつだな

>>390
>隙間が出来るとしたら、それは、
>その国の入り口と出口の距離がの問題になるような大きな距離ではなかった場合。

隙間が小さい時は書かないとか、バカな言い訳してたが、九州説では
短里絶対なんだろ? 短里70メートルだと、100里でも7キロだぞ?
7キロに満たない国ってなんだよww
0531日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:06:04.01
>>510
中国語の解釈に日本語の辞書を引く馬鹿発見
0532日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:09:36.67
>>529
>モンゴル〜高句麗にあった前方後円墳
それ、何処にあるの? 教えて?
0533日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:32:21.07
>>514
>北部九州も入っているし、いろいろグダグダだなww

九州北部の王朝は激しく入れ替わるんだよ。
知らないのか。
0534日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:34:15.67
>>515
>三雲遺跡近辺が伊都国ではなく奴国なら、平原1号墓あたりも当然伊都国ではなく
>奴国だよな

奴国は高祖山より東側だけだよ。
あと、筑紫倭国は福岡県全域を含むから、王墓が糸島市以外に移動することも不思議ではない。
だから祇園山古墳とかという話もありなんだよ。
0535日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:36:59.96
>>534
なんでもアリで笑える
0536日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:37:37.39
>>518
少し違うな。
景行天皇が征伐したのは、むしろ豊前、筑豊だよ。
筑紫全体は神夏磯姫(筑紫梟帥)が掌握して景行天皇と共闘していたからね。

筑前と筑後が戦ったのは、その後の田油津姫の時だよ。
ヤマトタケルの時もそうだね。
0537日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:38:56.75
>>522
>なんか最近、神功皇后が卑弥呼+トヨを粉飾して創作したんじゃないかと思い始めてる

年代をわざとズラして、誤解を誘導している。
日本書紀の編者わは魏志倭人伝を読んでいるからね(一部引用している)。
0538日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:39:26.31
>>526
>日本では卑弥呼の時代に
>方格規矩鏡がポピュラーだったってことダネ。

だからこそ、内行花文鏡の編年がより重要なんだよ。
0539日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:41:12.17
>>530
>7キロに満たない国ってなんだよww

国邑って知っている?
一つの集落を国と呼んだんだよ。
0541日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:44:24.74
>>524
沢山ってw
日本語も使えない奴は書き込まない方がいいんでない
恥さらしだよw
0542日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:45:10.78
>>526
いくら言われても根拠をいわないのが九州説
0543日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:46:37.06
>>528
>でも、平原1号墓は仿製鏡だから、大陸の本物の年代が分かっても
>参考にしかならないがな

相変わらず理解力がないようだw
0544日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:47:16.72
>>541の日本語が意味不明な件について
0545日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:49:32.91
>>543
相変わらず表現力がないようだw
0546日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:51:11.93
>>538
九州説はその編年が出来てないわけで

ダメですな
0547日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:53:27.07
平原一号の時代をズラして卑弥呼の墓候補にしなきゃ回らない時点で
九州説は終わってるでしょ
0548日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:59:08.70
>>528
>でも、平原1号墓は仿製鏡だから、大陸の本物の年代が分かっても
>参考にしかならないがな

あれだけ数があって6期や7期の鏡をまったく模倣しない点で、お察しではRがw
0549日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 12:59:57.37
>>540
奴国だけで2万戸だぞ。
畑や沼だらけの奈良盆地と比較するなよ。
0550日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 13:08:16.22
>>549
九州説の人ってとっても頭が悪いのね
何千戸もある集落がどこにある
0551日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 13:17:51.62
>>539
>国邑って知っている?
>一つの集落を国と呼んだんだよ。

舊百餘國、漢時有朝見者の百餘國は、環濠集落一つで一つの国扱いだと思う

だが、環濠集落は拠点集落であって、その周囲には耕地が広がっているし、
拠点集落の随伴集落もあれば、墓域も近くにあるのが普通
そういう、拠点となる環濠集落を核とする一つの集まりと考えても、
直径7キロすらないってことにはならないだろ?

さらに、魏志倭人伝の卑弥呼の時代には、個々の集落から水系単位の
共同体、さらにその上位の連合へと階層的な統合が進み、吉武遺跡群は
隣の水系の岡本遺跡群の奴国に編入or統合されている

そういう歴史観を持てないから、
伊都国は海岸付近、内陸の三雲遺跡群は奴国、とかいうトンデモを言い出すんだよ
そんなに隣接して、間に山などの自然境界もないのに、別の国になる訳がないだろう

本当に頭が悪いとしか言いようがない
0552日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 13:29:12.11
>>551
>だが、環濠集落は拠点集落であって、その周囲には耕地が広がっているし、
>拠点集落の随伴集落もあれば、墓域も近くにあるのが普通
>そういう、拠点となる環濠集落を核とする一つの集まりと考えても、
>直径7キロすらないってことにはならないだろ?

環濠集落は周りの畑など考慮しないよ。
あと、吉野ヶ里でわかるように、墓域は環濠集落の中にある。
0553日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 13:29:45.33
伊都国は前原付近だろ。
0554日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 13:42:42.19
>>552
墓域が環濠集落の中にある吉野ヶ里は全国的にもレアケース



九州説は無知が作った
0555日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:08:55.09
>>536
>掌握して景行天皇と共闘

~夏磯媛の
「則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、
 下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳」
「すなわち磯津山の賢木を取って、上の枝には八握劒を掛け、
 中段の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八尺瓊を掛け、
 また素幡を船の舳に立てて」
というのは、自らの王権のレガリアを差し出す服属儀礼だとされてるよ

他所の九州説のやつは、この景行紀の記事をもって、卑弥呼の頃には
九州に畿内の支配が及んでいない証拠だ
卑弥呼の頃から、畿内に倭王が居て九州まで支配していたら、ここで
服属する必要はないからって言ってたんだがな

ここで、北部九州が服属してたら、白村江まで九州王朝っていうのが
破綻するから「共闘」とか書いてるんだろうが、ごまかしもいいとこww
0556日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:12:18.56
>>534
>祇園山古墳とかという話もあり

なんでもアリな時点で「九州説としての『根拠』が実はない」ことを
自白しているのに気がつかないんだろうなww
0557日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:15:08.34
>>555
>というのは、自らの王権のレガリアを差し出す服属儀礼だとされてるよ

珍説だなあ。
三種の神器を掲げて権威を示したとも言えるよ。
三種の神器をそうそう渡さないだろ。
結果的には景行天皇が神夏磯姫の指示した相手を倒していて、将軍的な役回りを果たしている。
ただ、その後も仲哀まで景行の家系が倭国の王家の一つとして振舞っているのも事実。
倭国は複数の宮家が競り合っていたのだろう。
0558日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:15:45.09
>>556
数百年あるのだから、王墓もそれに応じてたくさんあるんだよ。
0559日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:17:40.36
>>533
>九州北部の王朝は激しく入れ替わるんだよ。
>知らないのか。

知らないよ? もちろん?
だって、九州王朝なんてないんだからww

それはさておき、また無知をさらしてるね
「王朝は激しく入れ替わる」なら、倭の五王は倭王とは呼ばれないんだよ
王朝が入れ替わったら、それは易姓革命を是とする徳治主義の文化では
前王朝が徳を失って、新しい王朝を建てたと、誇らしく主張することになるからね

卑弥呼が親魏倭王に除せられて、倭の五王が倭王を名乗っている時点で、
卑弥呼の後裔であると主張していて、大陸王朝もそれを認めていることを意味する

で、「北部九州の王朝は激しく入れ替わる」んだっけ?ww
それ、入れ替わった時点で、倭国じゃないからww

だから、歴史を勉強しなさいって言ってるんだよ
勉強したら、九州説は無理ってわかるだろうしww
0560日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:19:11.21
>>558
>数百年あるのだから、王墓もそれに応じてたくさんあるんだよ。

卑弥呼と台与の間は数百年もないだろ?
どれとどれが、大倭王たる卑弥呼と台与の墓なんだ?ww
0561日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:22:12.84
>>557
>景行の家系が倭国の王家の一つ

珍説wwだなぁwwww

大和の大王家が倭国の唯一の皇統だよ
0562日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:22:59.22
>>560
平原遺跡や祇園山古墳かな。
0563日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:24:54.07
>>559
>「王朝は激しく入れ替わる」なら、倭の五王は倭王とは呼ばれないんだよ
>王朝が入れ替わったら、それは易姓革命を是とする徳治主義の文化では
>前王朝が徳を失って、新しい王朝を建てたと、誇らしく主張することになるからね

ああ、よしよし。
国号が倭国のままだから、王統にしよう。
いずれも縁戚なんだろうしね。
複数の宮家が並び立っていたわけだ。
0564日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:25:19.18
七夕とか『皇帝祭祀』の話をしているんじゃないの?

蚕を飼って、機織りをしていたり
0565日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:25:38.77
>>561
>大和の大王家が倭国の唯一の皇統だよ

出たよ万世一系説。
畿内説の本音だもんな。
でも根拠ないよ。
0566日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:27:37.50
高い、山の上のほうに住んでいて・・・
という話とか
0567日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:30:16.94
>>565
畿内説の者が書いた証拠なし
0568日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:30:29.75
とある時代に入り、
荒らされたとか、廃れたとか言っている人たちがいたり


川俣町という掲示板

川勝が何やら〜。
昔は良かったんだけね〜。

とか
0569日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:33:15.18
宮城(みやぎ?きゅうじょう?)

飯野(香野という家)という地名、
川崎(川崎区)に住んでいると言ってる人がいたり

家の話じゃないの?
0570日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:34:05.59
「松野氏姫氏系図」でぐぐったらこんなの出てきたww

https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/96a8cbd6169180a157075d145f086b7f/1/615
「いや、後世に偽造されたものなら、
 自家が、「天皇家に敵対した熊襲」や、
 「大和天皇家一元列島支配宗教で書かれた記紀の思想を否定するような倭の五王」の名前を書く筈が無い。
 そんな事を書いた事がばれたら、一族全部罰せられる可能性も高い。
 つまり、真書であった可能性が非常に高い。

 つまり、ごまかしは、やっぱりウソつき騙しのサギシ。」

でもさ、この偽書、国っていう字使ってるよ?
國じゃなくてww
新字体を使っているってことは、昭和のしかも終戦後だよな

天皇の神格化も終わって、というかむしろ非難されるようになった
戦後民主主義の時代なんだから
「一族全部罰せられる」可能性は皆無だし、
それが「真書である可能性を高める理由」はこれっぱかしもないよな

ザラコクは何処でもザラコクなんだなぁww
0571日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:34:35.20
>>557
まあ、これは史書の解釈じゃなくて新作ラノベだな。
0572日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:36:29.00
>>563
>複数の宮家が並び立っていたわけだ。

いい感じで踊りだしたなww
九州王家の系譜は「松野氏姫氏系図」に書いてあるんだろ?
一系で書かれてるぞww
何処に、「複数の宮家」があるんだ?ww

腹が捩れてきたww
0573日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:39:39.84
九州説はその場しのぎの言い訳で説を作ってるから、至る所で自己矛盾するね
0574日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:41:39.26
>>563
>ああ、よしよし。
>国号が倭国のままだから、王統にしよう。

そういうのは、王朝が入れ替わるとは言わないんだww
畿内の大王家は、男子が婿入り的に
畿内各地の豪族のところへ「嫁ぐ」(というと字がおかしいけれど)
そして、その家である母系の力量によって、次代の大王が決まる

それによって、天皇の代替わりごとに、その本拠地・宮都の場所が変わるが
そういうのは王朝が入れ替わるとは言わない

要するに、九州説ってのは「根拠」なしのその場しのぎで、
脳内妄想を書き散らしているだけで、ただの「無知の産物」なんだよな

勉強しろっていくら言われても勉強しないのは、勉強したら九州説を
信仰できなくなるってのが分かってるから、あえて無知なままでいるんだろうな

今どきの九州説は哀れな存在
0575日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:44:14.37
『トヨトミミ』画像

謎の星座の図なんかが出て来たり、
昴・・・(彦星)

確実に機織り関係の話
0576日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:44:47.91
>>557
>珍説だなあ。

そういうのはいいからww
「~夏磯媛 服属儀礼」 で、ちょっとぐぐってみww
0577日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:45:19.82
>>570
そもそもこの「系図」、ペンで書かれてない?
0578日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:50:07.93
九州説のおじいさんは勉強はせず興味本位トンデモ珍説本しか読んだことがないから
たまさか学者の通説を聞くとそっちが珍説だと思い込んでしまったりするようだ
0579日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:53:31.60
>>562
>平原遺跡や祇園山古墳かな。

平原1号墓は、舶載鏡や墓の様式(方形周溝墓で割竹型木棺)を見ると新しくできない
一方で、ガラス製耳璫の金層ガラスは弥生時代の出土例が他には何処にもないので、
むしろ新しくした方が座りがよい
現在の標準的な考え方では、周溝を共有する2号墓の周溝(1号墓と共有して
いない部分)から出た土器片により、西新町土器の直前頃(2世紀末)という編年に
なっている

祇園山古墳は地山成型により、墳丘を作っているので、初期古墳ではない
また、古墳の階層秩序では、方墳が王墓に採用されることはまずない
一般的な編年でも、古墳時代前期(4世紀初頭頃)であって初期ではない

こんなのを、大倭王の王墓の候補にしないといけないの?
他にはないの?
ないのか、、、残念!
0580日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:57:16.28
テレビなどを観ていると、
おもしろくない?

ほとんどデタラメ、
犯罪者の集団
0581日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 14:59:44.86
平然と「見つかってないだけ」とか言った口で、纏向には鉄がないないと騒ぐダブスタ老人だから
0582日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:09:17.66
知っていると思うけど

ウマヤドなどの時代

あの当時、天皇はいない
0584日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:18:13.45
それで畿内説は?と聞けば纒向みたいなしょぼい遺跡しかないんだもの。
0585日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:19:08.02
>>579
>また、古墳の階層秩序では、方墳が王墓に採用されることはまずない

はあ?
弥生王墓はたいてい方形周溝墓なんだけど。
0586日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:23:07.24
>>585
>弥生王墓はたいてい方形周溝墓なんだけど。

今、問題にしている祇園山古墳は「古墳時代」
古墳時代の新秩序は、纏向遺跡の大和王権が主導した

古墳時代に入っている(祇園山が方墳という形式の古墳)である時点で、
王墓の可能性は事実上ないww

出だしの
>はあ?
が、バカさ加減を増幅している、よい書き込みだと思う

九州説として、お笑いの供給に邁進してくれww
0587日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:23:34.08
だっ津ーの?

現れ・・・、ここのときに、初めて・・・

そのような話
0588日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:37:55.98
>>586
>古墳時代の新秩序は、纏向遺跡の大和王権が主導した
循環論法?

祇園山古墳が4世紀初頭なら、3世紀中旬に生まれたと思われる壹與の墓として年代は一致する。
九州において筑紫倭国が継続していれば、畿内の時代区分は意味をなさないし。
平原遺跡を継承して祇園山古墳が作られたというのが良い解釈だろう。
もちろん、他にも候補はあるだろうけどね。
0589日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:40:52.43
川俣町という掲示板

川勝と言うのは秦氏の事だと思う
0590日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:46:36.29
>>579
>いない部分)から出た土器片により、西新町土器の直前頃(2世紀末)という編年に
これどこにもないの知ってる?
0591日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 15:59:13.65
『山王宮 山王院』

本系だと書いてあるでしょ、
という事は・・・・・・・・何らかの祭祀の継承者?
0592日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:01:21.08
肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。
0593日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:01:38.96
むかーし、高い、山の上のほうに住んでいた。
確か伊達郡だと言っていた。

近所に小手子の像というものが建てられていて。
0594日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:10:12.94
『松傾』

むかーし住んでいた事があるところ。
伊達郡 川俣町。

川崎に住んでいる?
0595日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:14:36.01
伊達郡の飯野というところには、
UFO関係の建物があったり

調べてみると

日本の神話と繋げている人たちがいたり
0596日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:25:31.39
>>588
>九州において筑紫倭国が継続していれば

>>533によれば「九州北部の王朝は激しく入れ替わるんだよ。 」だそうだから、
筑紫倭国は継続してないねww
仮定の話をしても、意味ないでしょww
0597日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:27:15.89
>>588
>>古墳時代の新秩序は、纏向遺跡の大和王権が主導した
>循環論法?

定型化した前方後円墳発祥の地が、纏向遺跡ではないとするなら、
現在の定説を真っ向から否定できるだけの「根拠」をしめしてね!!
0598日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:27:31.46
なぜ筑紫というのが出てくるんんだ?
妄想か何か?
0599日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:31:20.84
>>588
>平原遺跡を継承して祇園山古墳が作られたというのが良い解釈だろう。

継承したのなら、どうして全然縁も所縁もない、水系も異なるところに
移動しなきゃいけないの?

別の豪族の別の墓でしょ? 無関係だよ
方形周溝墓と方墳は連続しない
0600日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:32:10.01
以前から書いているけど、
家は筑紫とは無関係

お前たちの言う筑紫というのは、
チンピラ関係の話でしょ

力夫氏関係の人物
0601日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:35:27.08
黒田だか、
何やらとかチンピラ関係の話

筑紫、筑前?筑後?
0602日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:38:26.36
>>588
>もちろん、他にも候補はあるだろうけどね。

「他にも候補はあるだろう」ってことは、祇園山古墳はまともな候補じゃないし、
その「あるはずの候補」も挙げられないってことだな

その前に「方墳が王墓である可能性はほぼない」に対する反論はないのか?
全国的に見て、何処にでもあるクラスのしょぼい方墳を大倭王の墓にしようと
する時点で恥ずかしくないのか?
0603日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:39:41.88
何度も書いているけど

家は、力夫という名前の親戚はいないし。
住んでいたところは伊達郡(川俣町)、近所と言えば近所。
0604日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:40:48.91
>>767
できるだけこの言葉を使わないように我慢してるんだが、やっぱり使いたくなるな。
>>767って、史料事実を否定曲解する「・・・・」でしょ?。
0605日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:43:01.19
銀▢という名前の親戚などはいる、
どういう事だと思う?
0606日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:46:34.96
>>768
>(平原の土器)それは1号墳の中からではなく、一号墳と2号墳の両方の周濠の土砂が埋もれたところからの出土であり、
一号墳自体の年代を決定するようなものではないんだよ。<

>九州説さん・・・ また、その場しのぎのデマですかぁ・・ もう信用、完全に無くなりますよぉ<

あなたが別の方と議論されていた時に、お二人とも言っておられた事ですよ。
大和説さん・・・、 また、その場しのぎの口先騙しのデマですかぁ・・。
もう信用、完全に無くなりますよぉ。
0607日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:48:37.14
歌舞伎、芝居が好きだったんだよ・・・、
よく観に行っていて・・・・・・・家の話
0608日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:53:13.06
>>599
>継承したのなら、どうして全然縁も所縁もない、水系も異なるところに
>移動しなきゃいけないの?

そこで卑弥呼の出自が重要になるわけだよ。
そもそも卑弥呼は筑後川流域の出身ではないかと。
倭国大乱により、肥国女王から倭国全体の女王に共立され、王都である筑紫日向伊都国に入ったのではないか。
これで一大率が伊都国王統の天津神の本拠地である対馬海峡を支配していた理由もわかる。
この時、それまでの伊都国王統は官に格下げされ、魏志倭人伝には卑弥呼が女王と記載された。
ところが肥国を離れたために肥後で狗奴国が反抗した。
よって壹與は筑紫と肥国の両方に睨みを効かせることができる筑後肥前に本拠地を置いたのではないか。
0609日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:54:15.01
あの写真に写っている子供の事だと思う

同じようなところに、
ホクロがあると言っていた人がいたような

右、左のほうだったかな、あごの辺り?
0610日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:57:20.13
>>597
>現在の定説を真っ向から否定できるだけの「根拠」をしめしてね!!

紀元前から少なくとも4世紀までは九州北部においては方形周溝墓または方墳が定型化されていたということだよ。
伊都国に都があったのはその一時期に過ぎない。
0611日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 16:57:58.85
軍なのか警官なのか、わからなけど、
白い制服のようなものを着ている子供ではなく、
もう一人のほうの子供

どちらも家の親、数代前の親?

どういう事だと思う
0612日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:02:49.76
おそらく、肥国は有明海沿岸だった。
そこに筑紫が拡大して有明海へ到達して、この後から拡大した部分が筑後であり、肥国は肥前佐賀と肥後熊本に分断された。
ではこの変化がいつどのように起きたのか?
肥国王統の卑弥呼が筑紫の女王となったことが一因ではないだろうか。
0613日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:05:27.42
ここに貼り付けた画像は、
全体を隠してあるから、
わからないのかもしれない

葱の華が写っていて、
あと母親だと言う人物(椅子に座っている)

その母親に抱かれている子供、
確かホクロのようなものがあったような、なかったような

そのように見える?
0614日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:06:11.61
神武の実年代が卑弥呼と同じか少し早い時代だと、さらに興味深いことになる。
伊都国の王統が邇邇芸らの日向三代なら、卑弥呼の即位により追い出されるようにして神武らが東征したのかもしれない。

そもそも、神武らは豊かな筑紫をなぜ捨てたのか?
記紀はその理由を明確にしていない。
卑弥呼の即位が原因かもしれない。

旧約聖書には、出エジプトを記載してあるが、その時代のエジプト王朝の繁栄やピラミッドについては書いてない。
同じことが記紀にも言えるのではないか。
0615日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:06:16.73
>>590
井原鑓溝遺跡の出土鏡も散逸していて、江戸時代に取られた
拓本だけしかないんだよね、確か
0616日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:09:10.68
>>606
>大和説さん・・・、 また、その場しのぎの口先騙しのデマですかぁ・・。
>もう信用、完全に無くなりますよぉ。

九州説の人って、自分に言われたことをオウム返しにするのが多いよね?
反論すらオリジナリティがない

そのくせ、妄想・捏造部分は、他の追随を許さない独創性!!
まあ、「まともな人間なら考えない」ような内容ともいうけどさ
0617日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:14:34.56
>>608
>そこで卑弥呼の出自が重要になるわけだよ。
>そもそも卑弥呼は筑後川流域の出身ではないかと。

卑弥呼の出自に関しては、文献情報は一切ないね?
魏志倭人伝にも書いてないし、国内の文献にはそもそも明示的に
卑弥呼が書かれている文献はない

ってことは、これは「妄想」の域を出ないってことだ
「事実」や「根拠」を基礎において、書き込みしてくれるかな?

>出身では「ないかと」
と書かれても、そんなものは知らんとしか言えないww
0618日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:16:00.35
wiki『武士』

>武具を身に着けた侍 手彩色写真。元の写真は明治13年(1880年)頃の撮影

このような椅子に座っているから、かなり昔の写真だと思う。
キュウリの葉、葱の華・・・などが写っていたり。
0619日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:18:32.43
>>610
>紀元前から少なくとも4世紀までは九州北部においては方形周溝墓または方墳が定型化されていたということだよ。

されてない
方形周溝墓は、単に複数埋葬の家族墓の墓域を溝で区画しただけのものが起源だぞ
王墓は、ただ一人のために労力を注ぎ込んで作られる厚葬墓として抽出される
方形周溝墓段階の王墓っていう時点で眉唾モノ
広瀬和雄の前方後円墳国家とか読んで勉強してくれ
0620日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:20:08.12
>>612
>肥国王統の卑弥呼が筑紫の女王となったことが一因ではないだろうか。

根拠なしの妄想は、楽しいか?
それで説得されるやつは皆無だよ
0621日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:21:31.62
>>614
>卑弥呼の即位が原因かもしれない。

卑弥呼は共立された女王
地元が離反してたら、共立されるはずがないだろう?
もう少し論理的に考えて!
0622日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:26:52.35
・本人だぞ
・本物です

と言ってる人がいたりしたんだけど、
偽者のような人(写真など)がいるという意味なのかな
0623日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:37:36.83
>>617
>卑弥呼の出自に関しては、文献情報は一切ないね?
>「事実」や「根拠」を基礎において、書き込みしてくれるかな?

いちおう、推論の部分はそれとわかる表現を心がけている。
0624日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 17:40:38.06
>>621
>地元が離反してたら、共立されるはずがないだろう?
>もう少し論理的に考えて!

倭国全体でも肥国全体でもなく、肥後だけの反乱であればありうるだろう。
卑弥呼の出自が肥国の中でも筑後川流域(筑後ヤマト)であればなおのこと。
0625日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:01:05.89
>>541
えっ
どっか変だった?
0626日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:01:28.79
>>624
>筑後川流域(筑後ヤマト)であればなおのこと。

山門は筑後川流域全体じゃなくて、東の方の海の近くだぞ
そして
「北部九州における縄文海進以降の海岸線 と地盤変動傾向」下山正一
第四紀研究 (The Quaternary Research) 33 (5) p. 351-360
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_351/_pdf
の弥生時代の海岸線の推定図によると、柳川市役所は
弥生末期でもまだ海の中、大川市役所も海岸まで500メートルくらい
この論文では筑後川の運んだ砂による鳥趾状三角州を弥生末期には
陸化しているとしているけれど、その西側には大きな入り江が
入り込んでいて、佐賀駅から500メートルくらいのところまで海になってる

ここに、七万戸の邪馬台国を求めるのはムリじゃないか?
0627日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:02:51.51
>>623
>推論の部分はそれとわかる表現を心がけている。

それは大変よいことだと思うけれど、
>>608には「推論ではない部分」がほぼない
0628日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:30:09.13
>>626
>ここに、七万戸の邪馬台国を求めるのはムリじゃないか?

だから、邪馬台国つまり倭国は、九州北部全域のこと。
奴国2万戸を含む。
邪馬台国と併記されていた投馬国は含まない。
0629日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:36:38.72
>>628
>だから、邪馬台国つまり倭国は、九州北部全域のこと。

文書っていうのは、他人に何かを伝えるために書かれるものだから、
普通の人間の普通の感覚に反した書き方では意味がないんだよ

魏志倭人伝に邪馬台国という表記は1ヶ所のみ
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。
官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。

これを見て、「邪馬台国」を女王の都のおかれた所の「地名(倭国内部の)」と
とらない方がどうかしている

どうして、普通の読みと違う読みをしなきゃいけないのか、
九州説でまともに説明できているのを見たことがない

「邪馬台国=九州北部全域」というのは
北部九州には、伊都国と奴国という大国(相対的にだが)があって、
他に邪馬台国が入る余地がないことから編み出された屁理屈に過ぎない
0630日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:37:52.58
祇園山古墳を持ち上げているやつがいるが、筑紫野市の原口古墳は知っているか?

古墳から、甕棺が出てきた古墳だ
0631日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:41:12.98
>>626
入り組んでたんだろうと思うけど
佐賀駅から3kmほど北に
縄文時代の海岸遺跡である
東名遺跡があるね。
この辺が特に標高が低いところで
入江だったようですね。

佐賀駅や
0632日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:44:09.05
>>626
入り組んでたんだろうと思うけど
佐賀駅から3kmほど北に
縄文時代の海岸遺跡である
東名遺跡があるね。
この辺が特に標高が低いところで
入江だったようですね。

佐賀駅や佐賀城付近は1〜2m標高が高くて
海に突き出てる様な地形だったようです。

ただし高木瀬では弥生遺跡が並んでいるので
佐賀城以北は弥生時代には陸地化してたようです。
0633日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:47:45.91
>>630
勢い良く掘りすぎて古い墓もいっしょに掘ってしまっただけ
とっくに周知の話

今更ナニイッテンダ
0634日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:51:14.53
>>632
弥生末の頃は、縄文海進から海が引いていく過程だけれど、
筑後川河口付近は鳥趾状三角州の状態で、江戸時代の海岸線から
1〜2キロくらいは海が広かった
逆に言えば陸地が狭かったわけで、海が近い砂質土壌は塩害もあるし
現代から考えるほど筑後平野は人口がいなかった
弥生時代の土木力では、深さ1メートルを超える川は灌漑には
使えなかったから、筑後川流域の下流部は大きな遺跡がない
0635日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:53:40.13
>>634
>弥生時代の土木力では、深さ1メートルを超える川は灌漑には
使えなかった

ソースはありますか?
0636日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:56:05.41
畿内の土器と墓制に埋め尽くされて自我を失う九州なんかに邪馬台国とか頭どうかしてるな
0637日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:57:29.35
>>633
>勢い良く掘りすぎて古い墓もいっしょに掘ってしまっただけ

ここを話題にしたかったんだよ
原口古墳は、古い墓域、甕棺墓域の上に作られていた

祇園山古墳の周りに甕棺墓があるから、これが卑弥呼の殉葬100人にあたるとか
いうネット上の情報が結構あって、九州説が入れ込んでいるのが分かる

甕棺墓の時代と古墳時代がどれだけ離れてると思ってるんだ?ww

祇園山古墳の周りの甕棺墓も、原口古墳の下敷きにされた甕棺墓の
同類だろう

祇園山古墳の主の権力が小さくて、墳丘が原口古墳と比べても小さいから
盛り土で埋もれない甕棺墓が多かっただけだ
0638日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 18:57:33.27
>>629
倭国=邪馬台国+狗奴国

邪馬台国と争っている=併記されてる狗奴国もまた邪馬台国に含まない
0639日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:11:00.44
>>635
>ソースはありますか?

>>619で紹介した広瀬和雄先生の「前方後円墳国家」に書いてあったよ
「首長の出現と形成された首長層」でググってもらえば、
グーグルブックスで読めると思う
0640日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:14:06.00
>>634
>逆に言えば陸地が狭かったわけで、海が近い砂質土壌は塩害もあるし
>現代から考えるほど筑後平野は人口がいなかった

だから、邪馬台国連合の中で奴国が最大なんだよ。
奴国とは別に邪馬台国があると考えると矛盾だらけになる。
0641日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:19:50.50
>>639
紹介はサンクス

>>619については、
王墓が土盛の規模で決まるってのはおかしいでしょ。
中国の皇帝墓なども、戦争中であるほど土盛は小さくて、
副葬品を揃えている。
特に卑弥呼は狗奴国と戦争中だったのだから土盛は小さいのが妥当。
0642日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:22:32.64
>>634
普通は上流の標高の高いところから
水を引きますからね。

水面が田畑より1mも低ければ
何らかの動力がなければ
水を汲み上げられません。

広大な田畑に水を人力で1m汲み上げるには
莫大な労力が必要です。

その工夫の一つが朝倉の三連水車などになります。
0643日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:23:07.86
>>638
ああ、その通りですね。
訂正
0645日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:25:06.10
バカは毎度古墳を過小評価すれば誤魔化せると思ってるのが笑えるな

明確な中央と地方の規格を用いた秩序を構築してるのが古墳
九州はそれまでの王墓の方式を消されてその秩序の下位に組み込まれている

現実を受け止められないからトンチンカンなこと喚いて誤魔化すんだろう
0646日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:27:37.88
>>640
>だから、邪馬台国連合の中で奴国が最大なんだよ。
>奴国とは別に邪馬台国があると考えると矛盾だらけになる。

別に、九州に全部押し込めるような無茶をしなければ、何も問題ないだろ?
つまり、この時点で九州説は破綻してるんだよ

九州説を信仰している人がそれを認められないだけで

それから、三雲遺跡群が伊都国じゃなくて奴国だとか言ってる人と
最低限意見統一してもらえるかな?

九州説同士で討論していいからさ
0647日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:28:50.67
>>642
物理学的におかしくない?

「川の水面」が田畑より1mも低かったら、
弥生時代に水を汲み上げるのは難しかったでしょうが、
「川が深い」かどうかと、周囲の土地とどちらが高いかは、別の問題なのだから、
大河川であっても、水面と標高差が小さい部分であれば水を引けたでしょうし、
小河川であっても、周囲が丘だったら水は汲み上げられない。

だから、川の深さと灌漑の可否は無関係であって、
筑後川のような大河であっても、場所を選べばいくらでも灌漑できるはず。
遠賀川流域だって先駆けて稲作を開始した。
0648日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:28:52.22
広大すぎる筑紫平野の低湿地帯は
ある程度の灌漑技術がないと
開発しにくいところなのです。

久留米より下流は干満の影響を受けて
塩水も上がってきます。
適切な水門を設けて、上部の淡水だけを引き入れる
といった技術も必要になります。
0649日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:30:43.56
>>642
>広大な田畑に水を人力で1m汲み上げるには
>莫大な労力が必要です。

ちょっと誤解があるようだね?
1メートルは、川の深さだよ
灌漑用水を確保するには、堰を作って水をためる必要があるいけれど、
深さ1メートルを超える川には堰を作れないって言う話だ

汲み上げる方は、より上流から水路を引けば、重力だけで配水できる
0650日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:31:02.70
九州説が見つかる見つかる喚くものが全部古墳出土品なのが笑いどころだな
0651日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:32:56.61
>>648
水が引けないから灌漑できない、と言っていたのに
矛盾してる。
低湿地帯であれば水を引くこと自体は可能なわけであって、
逆に言えばある程度の灌漑技術があれば弥生時代でも開発できることになるし
事実開発されている。

もちろん海は今よりだいぶ奥であって、
広大な農地があった、ということを言いたいわけではない。
0652日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:33:02.61
>>647
そもそも平野っていうのは
海面に合わせて土砂が蓄積するので
川もその土砂が蓄積したり削ったりして
作られます。

だから水面と土地の高さの差があまりないのです。
0653日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:34:11.96
>>650
それは畿内説の鉄器だろ

九州では先日も蝙蝠鈕座内行花紋鏡が集落から見つかったではないか。
0654日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:34:33.25
>>649
残念ながら場所によっては
水を引ける上流が遠いところもあるのですよ。
0655日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:35:12.70
>>641
>王墓が土盛の規模で決まるってのはおかしいでしょ。

権力の誇示っていうのは、つまるところ人の数、動員人口の大きさになる
墳丘墓、というのは、その盛り土の量で権力を目に見える形にする装置なんだよ

>特に卑弥呼は狗奴国と戦争中だったのだから土盛は小さいのが妥当。

九州説の人は常に、魏志倭人伝のこの節を無視したがる
「大作冢徑百餘歩」
狗奴国と戦争中だろうが、大いに塚を作ったんだよ
徑百餘歩のでかいやつを

平原1号墓とかいうしょぼい墓を持ち出す時点で、
魏志倭人伝に即して邪馬台国の比定地を探ることから逸脱した妄想に
進むことに早く気づけるといいね
0656日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:37:08.84
>>654
胡散臭いな。
水を引くのに川の深さと全く同じ深さの堰を作る必要があるのかな?
むしろ
川の氾濫を抑える方が重要で、
灌漑するのは深さとは別問題だと思う。
0657日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:37:12.90
>>651
>低湿地帯であれば水を引くこと自体は可能なわけであって、

淡水の低湿地ならそれでいいよ
大和盆地とか出雲の西部とかは、淡水湖が干上がる過程の低湿地に葦原の中つ国が
広がっていった訳だ
でも、筑紫平野は有明海の海水に近い低湿地だから、海水を引いてもイネは育たないよ
0658日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:39:15.25
>>651
>もちろん海は今よりだいぶ奥であって、

傾斜のゆるい扇状地的な、中小河川が多数あるところから発達するんだよ
0659日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:39:29.35
>>651
できないと言っているわけではありませんよ。
技術レベルが高い、
あるいは、人力で水を上げるとすれば
潤す田畑の大きさに限界があるということです。

干満を利用する水門などを設置するのは
かなりレベルが高いでしょうか。
0660日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:42:25.20
>傾斜のゆるい扇状地的な、中小河川が多数あるところから発達する
福岡市なんてのはまさにそれだな。
那珂川を始め、中小河川しかないから、現代でも水が不足気味。
逆に治水はしやすかったから
弥生ダントツの巨大都市に発達したわけだな。
0661日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:42:45.21
>>656
>水を引くのに川の深さと全く同じ深さの堰を作る必要があるのかな?

別に沈水堰でもいいんだけれど、堰がないと川から横に水路を引いても
まっすぐに水が流れ下ってしまって、水路の方に水が行かないんだよ

そして、堰を作るのに深さ1メートル以下というのは、深さそのものより
流速が効いてくる
これより深い川は、弥生時代の土木力ではコントロールできないんだよ
0662日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:47:09.29
>>661
深さと流速は関係ないだろ。
流速を決めるのは傾斜だ。

流速は傾斜で決まるから、深い川でも遅々たる川は多い。
黄河とか湖みたいに動かない。
逆に細い川でも、傾斜が急なら流速は早い。
各河川の上流なんてのはどの川だって細い川だけど流れが急なわけだ。

どうも怪しいな。
0663日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:48:05.04
そもそも世界の文明は大河のもとに発生しているわけだし、
川の深さと灌漑は関係なさそうだな。
0664日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 19:56:50.51
紀ノ川沿いの歴史を解明しないとな。
ある意味、日本古代史の縮図みたいなもののような気がする。
0665日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:28:11.41
>>656
川を堰き止めることを想定しているんだろ。
逆流による塩害を防ぐために。
どこぞの河口堰のミニチュア版かな。
0666日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:29:46.82
>>663
関係ないわけない。
灌漑は安定した農耕と文明の発達に不可欠だよ。
0668日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:32:48.76
>>646
>それから、三雲遺跡群が伊都国じゃなくて奴国だとか言ってる人と
>最低限意見統一してもらえるかな?

無視でいいんでないかい?
九州説としてもあり得ないよ。
0669日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:35:06.62
>>646
>別に、九州に全部押し込めるような無茶をしなければ、何も問題ないだろ?

それを言うなら、畿内説はどこからどこまでで7万戸なのかまったく意味不明だよ。
広域で数えるわけでもなく、国邑で数えるわけでもなく、なんとなく畿内のあたり、という程度のこと。
論にもなってない。
0670日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:38:32.77
そんなわけで、この地図の中から、卑弥呼の出身地、卑弥呼の王宮、卑弥呼の墓、壹與の出身地、壹與の王宮、壹與の墓を探せばいいんだよ。
0671日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:43:01.70
奈良盆地でも稲作をしていたんだろ?
なら、それ自体が九州北部からの稲作文化に畿内が塗りつぶされているということ。
弥生時代を再定義すると、稲作を背景として筑紫に倭国が成立して、東日本を含めた各地に勢力を広げた時代だね。
0672日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:47:54.42
>>666
灌漑技術と農地の発展はもちろん関係している

川の深さと灌漑は無関係
0673日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:48:08.62
>>669
>それを言うなら、畿内説はどこからどこまでで7万戸なのかまったく意味不明だよ

これも何度かここではっきり書いてるんだがな

まあ、何度でも書くけどさ

庄内土器の時代に入る前に、大和盆地から河内平野とその周辺まで、畿内第X様式土器で統一される
この時、それぞれの地場の土器が使われなくなる
この「畿内第X様式土器の範囲」が、邪馬台国七万余戸の領域だと思う

共立される卑弥呼のコアな母体としては、近江のあたりまで共同体になってると思うけどな
のちの息長氏(息長帯比売命の実家)の領域の辺りまで
0674日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:49:33.56
>>655

どんなにわめこうと、その平原が威信材的に当時のトップなのは間違いないし、それ以上の副葬品の墓は見当たらない
そして女性と思われる墓で、鉄鏃の形からみても弥生終末期

事実から目をそむけたらいかんよ

平原は規模は大きくなくても、鳥居や大柱等の大規模の祭祀遺構があり、神道系が伺われる特殊な遺跡

"大いに冢を作る"に対応しているね
0675日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:49:58.17
>稲作を背景として筑紫に倭国が成立して、東日本を含めた各地に勢力を広げた時代だね。

稲作を背景として北部九州から東日本を含めた各地に農業集落を広げた時代だね。

そして筑紫に強力な倭国が成立して、再東征して各地の集落を併合していった。
0676日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:52:50.12
>>671
>なら、それ自体が九州北部からの稲作文化に畿内が塗りつぶされているということ。

相変わらず、歴史の流れ無視ですな
稲作文化は、一旦あっという間に東北まで届くんだよ
垂柳遺跡とかぐぐってみ
その頃には九州北部にも国はないし、九州発の稲作文化ってほどのものもないだろ

そして、弥生文化ってのは、稲作と鉄器の使用で特徴付けられる
弥生化したところに鉄がないって言い募るのは、本当にバカっぽいよ
0677日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:57:53.61
>>672
>灌漑技術と農地の発展はもちろん関係している

最初からそう言ってるじゃん
弥生時代の「土木技術」では深さ1メートルを越える河川は灌漑に利用できないって

流れの速さは傾斜で決まって流速は関係ないとか、半可通なことを書いてる人もいるけど
>>652が「そもそも平野っていうのは 海面に合わせて土砂が蓄積するので 」って
書いてくれてるように、傾斜が緩いところでは砂が溜まるから
0678日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 20:58:36.30
ただし鉄は北部九州に輸入され
各地に交易で広がっていく。

そのため鉄の出土量は北部九州の距離に比例して
減っていくのである。
0679日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:00:25.58
>>677の続き
河口部でも深さ1メートルを超える川は流速が十分にあるんだよ

そんなところに堰を作る技術は、弥生時代にはない
木と土砂と、人が運べる大きさの岩しか使えないんだから
0680日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:10:22.48
>>674
>鳥居や大柱等の大規模の祭祀遺構

それ、塚じゃないだろう
鳥居と大柱が平原1号墓の特徴で、そこに卑弥呼が葬られたのなら、
魏使の報告書にそれこそ特記事項として書かれなきゃいけないんじゃないか?

径百余歩よりも、鳥居と墓舎を大いに設け、的なことが書かれるべきだろ?

それから、平原1号墓が特別って言いたくて溜まらないみたいだけど、
棟持ち柱のある、のちの神社建築の祖型と思われる大規模建築は方々にあるよ
有名なのは池上曽根遺跡「いずみの高殿」
紀元前後の推定年代だから、卑弥呼の頃より200年くらい前
古墳時代直前の頃には、特に珍しくないんじゃないかな?
0681日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:11:13.24
>>671
稲作の伝播と邪馬台国の時の畿内の影響の拡大は全く違う物

稲作や遠賀川式土器は拡散した後には発信源の九州と全く関連せず独自の進化を遂げて別物になっている
九州の形がどうなろうと広がった先ではもう何の連動も見せない
これは技術が伝言ゲーム的に拡大していることを示していているだけな事が分かる

畿内の影響の拡大は、中央の畿内の変化に地方が連動して変化すると言う動きを見せている
これは畿内と言う中央に地方が追随しているという「影響を拡大させている主体となる中央」が存在していることを示している

この動きは土器だけでなく古墳なども同じく連動しており、全国的な秩序の構築が畿内によって広められたことが明確となる

この変化の違いを理解することで「九州は畿内の属領的存在であった」ことが分かる
0682日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:22:24.98
>>676
鉄器が出ない纒向はなんだっていう話だよ。
弥生期に成立した倭国としての体がなってない。
それなのにどうして倭国女王の都になるのか。
せめて畿内説が摂津や河内を都と主張するなら耳を傾けなくもないが、奈良盆地にこだわるなら、歴史を無視したただの歪んだ皇国史観の派生に過ぎない。
0683日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:23:23.34
陳寿もまさか3世紀に鉄器ゼロの地域があるなんて夢にも思わなかっただろうなw
0684日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:23:29.49
>>677
弥生時代に堰き止めまでして灌漑した遺跡ってあるの?
もちろんある程度の灌漑技術があるのは基本だけど。
0685日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:24:36.23
>>674
>どんなにわめこうと、その平原が威信材的に当時のトップなのは間違いないし、それ以上の副葬品の墓は見当たらない
>そして女性と思われる墓で、鉄鏃の形からみても弥生終末期
>事実から目をそむけたらいかんよ

その通りですね。
平原遺跡を直視しないで2世紀だとか4世紀だとか逃げているだけの畿内説には説得力がないですね。
0686日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:28:37.68
現実には大河川である遠賀川流域から
全国へ遠賀式土器を伴って稲作が伝播しているのだから
そういうこと
0687日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:28:52.27
伝播とか言ってるけど、非稲作集団(縄文集団としておく)と稲作集団だと
稲作集団のほうがあっという間に人口差で征服していくよ。
考えてみれば当たり前で、
稲作集団は一致団結して稲作して、保存食である「米」を蓄えていく。
「米」を備蓄するから、人口を安定して維持できるし、兵士も養える。

稲作集団が数十人入植してきて、
縄文集団が見向きもしない低湿地を原始灌漑して稲作開始したら(陸稲でもいいけど)
3世代くらい後には、
稲作集団が大量増殖して縄文集団は河川流域から締め出されていく。

縄文集団が「伝播」という形で生き残るとしたら、
大人数の縄文集落に、数人の北部九州人がやって来て、
稲作を指導してくれた場合くらいだろうね。

遠賀式土器などのない、縄文系の土器がメインの弥生集落があるとしたら
縄文集団に稲作が伝播した集落かもしれない。
0688日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:29:23.81
>>680
>魏使の報告書にそれこそ特記事項として書かれなきゃいけないんじゃないか?
>径百余歩よりも、鳥居と墓舎を大いに設け、的なことが書かれるべきだろ?

大いに塚を作って祭ったんだろ。
鳥居とかは名前を知らないはずだし、家屋が付属するのは中国でもあったらしいから、特に書くまでもない。

>棟持ち柱のある、のちの神社建築の祖型と思われる大規模建築は方々にあるよ

平原遺跡の特徴は、それが三種の神器を持つ王墓とセットで、しかも鏡が史上最大の内行花文鏡(太陽信仰の象徴、王権の象徴)、そして記紀神話の八咫の鏡とおそらく同じもの。
しかも年代はおそらく倭国大乱の後、すなわち卑弥呼の時代のもの。
0689日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:31:21.92
曹操の墓は地下墓だし
孔明も墓は簡素にと厳命していたし
魏の時代=邪馬台国の時代には、
三国志戦争中の魏では墓は簡素にして、
国力を落とさないことが当たり前。

魏使にとっては、平原程度であっても無駄な労働であって、
だから大いに塚をと記したわけだ。
0690日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:32:10.09
>>681
単に、後世の方が交通事情が良くなり影響が伝わりやすくなっただけだろ。
現実に各地に稲作を伝えた人物の伝承があり、多くは九州から来たことになっている。
伝言ゲームではなく、伝えた人物がいたんだよ。
0691日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:35:43.17
鳥居だったかどうかなんて誰にも確認できないのに、それを既定事実として、さらには論拠に利用するのは学問無視のガイキチ
0692日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:36:40.78
殯宮や鳥居を立てて、榊に宝鏡や宝刀を飾り、派手に平原遺跡を祭ったのだろう。
墓の大きさは問題じゃないんだよ。
そこに、倭王の証である三種の神器があったことが問題なんだ。
0693日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:36:55.86
>>688
大量の中国朱
五尺刀
魏代漢鏡である方格規矩鏡(青龍三年銘出土、洛陽「晋」墓出土
ジトウ(女王
八葉八咫の超大型内行花文鏡(四葉内行花文鏡からの国産発展期間が必要
1号+殉葬2号+大量の殉葬土壙墓=共通の周溝=長径百余歩

どこをどう見ても3世紀半ばの卑弥呼墓ですな
0694日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:38:02.55
そんなものはない

そろそろ頭の病院に行け
0696日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:42:19.08
>>687
そもそもは、人数的には弥生人は少なかったと思うが、必然的に彼らは指導者層になったんだよ。
稲作に必要な灌漑と暦は、王権の専従事項だからね。
それが記紀で神とかと呼びれる人達で、実質的には九州から各地に派遣された王族のことだろう。
スサノヲだとかイソタケルだとか天香山など、天神系のいわゆる天津神。
九州では、縄文人的な特徴の人物が裕福な墓に収められることもあったというから、それはいわゆる国津神だな。
0697日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:42:50.10
>>686
>現実には大河川である遠賀川流域から

遠賀川流域のどこに遺跡があるか調べてご覧よ
河口部にはないから

思い込みで論じてないで、ちゃんと調べてごらん
0698日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:44:01.45
お前の言う、筑紫というのは何なんだ?
チンピラ関係、雑魚(金魚のフン)の話?
0699日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:44:35.86
筑後川沿岸が肥国、遠賀川沿岸が豊国。
筑紫と、狗奴国熊襲を合わせると、古事記にある九州の四つの国が揃う。
やはり九州の古代史はこの四者の関係がポイントだよ。
0700日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:48:21.84
>>692
>殯宮や鳥居を立てて、榊に宝鏡や宝刀を飾り、派手に平原遺跡を祭ったのだろう。

それ、原田大六先生の見立てに引きずられてるよ

だいたいさ、その墓の上の柱穴が平行四辺形にゆがんでいるのはどう思う?
王墓なら、丁寧にきちんと長方形に整えるとは思わないかい?

どう強弁したって、弥生末期(だとして)の王墓としては平原1号墓は決定的にしょぼいんだって
0701日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:48:54.41
もしかして、騙り、成り済ましの話?
0702日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 21:52:17.32
>>689
>魏使にとっては、平原程度であっても無駄な労働であって、
>だから大いに塚をと記したわけだ。

どうしても、妄想に走るんだね
魏志倭人伝を読んでも「無駄な労働」だと揶揄する様子はないぞ

漢文、読めないんだろ?
0703日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:02:22.63
>>685
>平原が威信材的に当時のトップ

桜井茶臼山古墳から出た鏡は、判定できたものだけで81面
その内訳は
三角縁神獣鏡       26面
内行花文鏡(国産)    10面
内行花文鏡(舶載)     9面
画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
半肉彫神獣鏡        5面
環状乳神獣鏡        4面
だ龍鏡           4面
細線獣帯鏡         3面
方格規矩鏡         2面
単き鏡           1面
盤龍鏡           1面

単一の墳墓から出た鏡としては、鏡種、枚数とも大和の桜井茶臼山古墳が圧倒的にトップ

しかも盗掘済みで、その残りだけでこの物量
平原1号墓のどこがトップだって?

しかも桜井茶臼山古墳は、古墳の序列や格の点で畿内のトップじゃないんだぞ
0704日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:07:25.63
大量の中国朱
五尺刀
魏代漢鏡である方格規矩鏡(青龍三年銘出土、洛陽「晋」墓出土
ジトウ(女王
八葉八咫の超大型内行花文鏡(四葉内行花文鏡からの国産発展期間が必要
1号+殉葬2号+大量の殉葬土壙墓=共通の周溝=長径百余歩

どこをどう見ても3世紀半ばの卑弥呼墓ですな
0705日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:08:12.81
>三角縁神獣鏡       26面

脱落w
0706日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:09:33.48
>>690
九州は世襲権力者のシンボルたる祭祀や墓制までも畿内の方式に変えられている

この動きはただの文化移動ではなく明確な政治的背景がある事を示している
この前の時代に各地域に強い個性が生まれ排他性があった事が、この拡大の背後にある中心勢力の強力な影響力を表している
そしてこの流れは時代を追うごとに連動性を強くし、中央と地方と言う関係をより鮮明にしていく

遠賀川式の時代とは全く違う
0707日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:11:12.88
征服民を従えるための方式だが・・・
伊都は独自の王道のまま
0709日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:13:22.59
鉄器ゼロの民を鉄器独り占めの征服支配者が指導する。。。国家の理想像か。。。
0710日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:16:00.44
大量の中国朱
五尺刀
魏代漢鏡である方格規矩鏡(青龍三年銘出土、洛陽「晋」墓出土
ジトウ(女王
八葉八咫の超大型内行花文鏡(四葉内行花文鏡からの国産発展期間が必要
1号+殉葬2号+大量の殉葬土壙墓=共通の周溝=長径百余歩

どこをどう見ても3世紀半ばの卑弥呼墓ですな
0711日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:16:21.58
七夕などもそう、
わかりやすく言うと、モレが広めた後

「それは家の話だよ」と我田引水が続出したような話
0712日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:19:09.49
文献に残る鳥居の記述で一番古いのは、12世紀に四天王寺の鳥居を石の鳥居に建て替える話。

四天王寺は創建当時から木造の鳥居があったと云われている。
元々は天皇寺だったとも。

聖徳太子、四天王寺は謎が多い。

隋書倭国伝の記述が興味深い。

俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌

興味深いのは号。
大君の聞き間違いとされているが。

阿輩は普通に阿波、淡、烏のことじゃないかな。
0713日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:19:39.52
>>700
>だいたいさ、その墓の上の柱穴が平行四辺形にゆがんでいるのはどう思う?

建物の柱ではないんだよ。
鳥居を立てて、途中で向きを変えた?
0714日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:21:44.80
>>703
>平原1号墓のどこがトップだって?

鏡以外の装飾品がダントツ。
しかも女性向けのもの。

>しかも桜井茶臼山古墳は、古墳の序列や格の点で畿内のトップじゃないんだぞ

だからその格付けとやらは全く当てにならないということだよ。
0715日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:21:51.23
アテルイ、モレ

wikiによると、
なぜか王仁?オニ?蝦夷?という謎の説明があったり

中華、漢人なのに蝦夷?
0716日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:22:38.74
伊都国の状態は倭自伝との比較でとても興味深い

邪馬台国時代の伊都国は奴国の拠点たる比恵遺跡など主たる北部九州の遺跡が軒並み畿内の影響に塗りつぶされている中で、
畿内の影響を受け付けないほんの小さな空白点を形成している
これは

「たった千戸で一大卒に監視される名ばかりの王」

と言う伊都国の状態をそのままズバリ示している
倭人伝の記述が正確であることが考古学的な発見からも分かる
0717日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:23:55.64
>>709
高天原から降臨した天津神が農業を伝えたんだよ。
天香山しかり、三島溝杭しかり、素戔嗚しかり、饒速日しかり。
0718日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:27:03.73
それで?

日本にも土人が住んでいた・・・、
その土民というが天孫族?
0719日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:27:41.44
逆だなあ
王家の墓制をなんで僻地の蛮族どもが使わせてもらえるのかのう
0720日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:28:08.91
鉄器ゼロでガンバレ!w
0721日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:29:11.33
天子というのは?
古来から日本に住んでいた土民、土人?
0722日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:29:15.36
>>717
最後のに高天原から天孫族がやって来て各地の流域に平野を創造していった
0723日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:29:52.34
大量の中国朱
五尺刀
魏代漢鏡である方格規矩鏡(青龍三年銘出土、洛陽「晋」墓出土
ジトウ(女王
八葉八咫の超大型内行花文鏡(四葉内行花文鏡からの国産発展期間が必要
1号+殉葬2号+大量の殉葬土壙墓=共通の周溝=長径百余歩

どこをどう見ても3世紀半ばの卑弥呼墓ですな
0724日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:36:26.65
方格規矩鏡や内向花紋鏡を否定してたのは
畿内説さんですからな。

九州の墓制に近い墳墓が畿内にあったら
九州の人が移住したと判断するべきでしょう。
0725日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:37:34.92
>>716
>邪馬台国時代の伊都国は奴国の拠点たる比恵遺跡など主たる北部九州の遺跡が軒並み畿内の影響に塗りつぶされている中で、
>畿内の影響を受け付けないほんの小さな空白点を形成している

伊都だけは王都であるがゆえに古き伝統を堅持していて、博多は交易都市として世俗の商都として発展したんだよ。
伊都国の官の名は禰宜であり、邇邇芸に始まる筑紫日向の天孫族の長だよ。
その上に卑弥呼が君臨していた。
魏志倭人伝や後漢書などの史書は、伊都を倭の都とする点で一貫している。
0726日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:38:14.58
なぜ日本の土民が天子になれるんだ?
どう考えても、なれないでしょ

なぜなら中国(古代中華)の人ではないんだから
0727日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:40:18.74
>>721
名前からして渡来人
0728日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:41:43.65
倭人は呉の太白の末裔を自称したそうだ。
0729日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:42:01.30
渡来人にも色々とあるからね。

渡来した時代も様々。

鳥トーテムはいつの時代に、何処から渡来したんだろう。
0730日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:44:24.50
オニ退治

裏切った者たちがいたんだよ、
アテルイやモレなら、どこそこ、
あそこに住んでいますよと連絡して

アテルイ、モレを殺しに来たと言う話
0731日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:46:43.49
ザ・モモタロウという作品でいうと

シュテンドルフ、サカキバラ?とか、
他にもいたような

同じような話
0732日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:49:34.95
>>703
桜井茶臼山古墳

樋口隆康・京都大名誉教授(考古学)は「いくら盗掘で荒らされても、これほど粉々に壊されるはずがない。最初から破片を納めたのでは」と指摘。
「被葬者は生前、破損した鏡を集めてリサイクルし、新しい国産鏡を作り出す役割を担っていた」と推測、その象徴として破片を埋葬したと考える。

リサイクル業者?
0733日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:51:27.21
>>883
>弥生末期には各地でローカル王権が伸長し<

白村江まで、筑紫倭国が西日本の盟主であった。

>その王の権力による動員力で 巨大な墳墓を作るようになる<

高冢の始まりは祇園山。
前方後円墳の始まりは、筑紫。

>それが弥生末期の汎倭国的な権力の誇示の様式
そして、北部九州はその流れから取り残されてる<

大和は、筑紫倭国の東征のお手伝いで、大量の墓守り人を獲得出来て、
巨大古墳を造った。
0734日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:54:32.17
まあ冗談はさておいて、桜井茶臼山古墳は、畿内の前方後円墳の被葬者がそもそもは九州から渡来したことを示す良い証拠だね。
平原遺跡に習って鏡や刀を副葬して、棺の中に朱を塗り、しかも内行花文鏡は絹で包んであったという。
九州では絹は珍しくないが、畿内では珍しく、九州から持ち込んだものだろう。
墓制や祭祀が九州北部のもので塗りつぶされていく畿内の姿がよくわかる。
0735日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:55:42.42
例えばワニさんでも良い

王仁さんなら、どこそこに住んでいますよ



そこへ行き、殺害して・・・何やらを盗んだ
0736日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 22:57:05.09
>>884
平原はきちんと発掘できてるし、副葬品も立派だよ 。
纒向石塚古墳は埋葬主体部が失われていて、比較できないらしいけどね 。
たぶんこの辺の、箸中山古墳直前の大和の墳墓で
埋葬主体を発掘できたものが「ない」ことが、
いまだに八町説が生き残ってる理由だろ。

まあ、九州説はないものを「妄想・捏造」で補って何かを主張したりはしないけれど。
0739日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:02:27.66
>>864
>編年の頼りになる舶載鏡は2面のみで、卑弥呼の時代の
100年前(漢鏡5期「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」)と
200年前(漢鏡3期「四螭二朱雀龍虎鏡」)<

「鏡の考古学」は、洛陽晋墓の鏡の事を書いていないし、
平原の21枚の「尚方作」鏡の事からも逃げているから、×。
0740日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:07:39.74
>>886
>そして、祇園山古墳は、伊都国ではないし奴国の弥生銀座(岡本遺跡群)でもないよな<

奴国=弥生銀座は、伊都国からの「東南百里」に全く合わないから、×。
0741日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:08:34.69
王仁という人物

かなり上の存在なのに、
蝦夷のような扱い?

本当は王仁、アテルイやモレが反乱を起こした、
(帰順しなかった)のではなく

王仁やアテルイ、モレに対する
反乱なのかもしれない
0742日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:11:31.60
>>886
>ということで、祇園山古墳を卑弥呼の墓の候補にするのは構造(地山成形)からも、
これまでの九州説の主張との整合性からも無理筋だよww<

祇園山は、現在知られている列島の墳墓の中で、
「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たす唯一の墓。
0743日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:15:03.82
平原を2世紀と設定した場合、どこにも何の影響もないまま消滅した個人墓
平原を3世紀と設定した場合、畿内の影響に取り囲まれてどこにも何の影響も与えてない個人墓

時代をごまかそうが、出土品を過剰に喚こうがどの道同じ
アホの九州説はまだ小手先の誤魔化しが通じると思ってる程度の脳みそ
0744日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:16:07.97
>>887
>そうした各地の墳墓がもついくつかの要素を総合して、3世紀なかごろ、奈良盆地に大きな墳丘をもつ前方後円墳が出現した。<

大和の前方後円墳は、那珂八幡などの模倣で、庄内以後だから、3世紀末以後。

>その規模や副葬品から判断すると、弥生時代の首長とは比べものにならないほど強力な力を持つ支配者が存在したことがわかる。<

大和の前方後円墳の副葬品は、平原には全く劣る。
0745日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:16:18.02
王仁は別に蝦夷扱いされてないが。
0746日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:17:46.63
アテルイという人物

本当の、
日本の大王のような事が書いてあったり
0747日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:22:21.65
蝦夷の長、エビスの長?

本当に日本を作ったりした、
神様の家ということ?
0748日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:27:21.26
>>893
>「単に現代語の道案内で「道なりに行って」というのの海路版
 「海岸線(の概略)に沿って」だよ 」
「循海岸」は「海岸にならい」だから、朝鮮半島に形を見れば
半島の南西角まで南に行って(乍南)そこから東へ行く(乍東)で
何も問題ないだろうが!<

陳寿は、
沖合洋上航行と区別して、
「循海岸水行=海岸に従って水行」であった、と特記したから、
「沖合洋上航行」の否定であり、
「海岸に従って水行した、と説明している。
0749日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:35:11.26
>>708
>4世紀の国産鏡を馬鹿顔で晒すのはどうにかならんのか?w

平原1号墓の32面の方格規矩 (仿世鏡は=国産鏡)は、青龍3年銘の方格規矩鏡があるから、
方格規矩鏡は3世紀とみなすとかガバガバ理論を駆使してるやつがいたけど、その龍の字の
異体字が4、5世紀にならないと使われないから、平原1号墓の国産鏡は4世紀とは限らないよ

4、5世紀の国産鏡って言ってあげないと
0750日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:36:09.38
>>901
>博多遺跡や西新町遺跡が奴国の港湾遺跡<

奴國は伊都国から「東南百里」だから、西新町は×。
0751日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:37:16.80
>>708
>4世紀の国産鏡を馬鹿顔で晒すのはどうにかならんのか?w

三角縁神獣鏡の出る那珂八幡古墳を3世紀半ばの箸中山古墳より古いって言ってる九州説がいるんだぜ
0752日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:46:02.46
>>901
>西新町遺跡では九州様式の土器(西新式)と畿内様式の土器(庄内式)が両方出るから、
それが両者の土器編年の擦り合わせの基準になっている<

近畿は、筑紫の庄内を学習模倣した。

>そして、比恵・那珂遺跡では畿内様式の土器を作っている<

筑紫の胎土で造られたから、
始めからから「近畿や大和が、筑紫の庄内などを学習や模倣などをした。
0753日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:48:53.28
>>901
>それともう一つ、弥生時代に博多遺跡や比恵・那珂遺跡という港湾が
発達しているのだから魏使が末廬國に上陸するのはおかしいんだよね
奴国に来るなら博多遺跡まで船で来ればいい <

安全最短の原則に拠って、×。
0754日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:49:00.12
>>716
>畿内の影響を受け付けないほんの小さな空白点を形成している

「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
ttps://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10881/1/jinbunkagakukiyo_66_251.pdf
布留式甕になる前から、畿内第X様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順で
きっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で
作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが
確認できるそうだ

畿内からの搬入土器(広義)は、特に奴国、伊都国の領域で多く見つかり、奴国の比恵・
那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるし、伊都国の
三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料では三雲遺跡内でも突出して早期から畿内系
土器(庄内大和型甕)が出土しており、このあたりに「一大率」の居館があったのかもしれない

影響、がっつり受けてるね
0755日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:52:30.15
>>739
>「尚方作」

相変わらずおバカさんねぇ
大陸の鏡は前漢鏡から銘の大半が「尚方作」

「尚方作」はそれが書いてあるからといって仿世鏡の編年には
参考にはならないと何度教えればいいんだろう
0756日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:52:39.54
>>901
>おそらく末廬國に上陸して東南陸行五百里は伊都国への経路ではない<

「東南」は、出発時の方向。
「陸行五百里」は途中の移動の記載。
0757日本@名無史さん垢版2018/02/20(火) 23:58:02.35
>>902
土器の斉一は、筑紫倭国の東征地域。

>その意味で古墳時代が瀬戸内・畿内から始まるというのは正しいのかもしれない。<

古墳時代の始まりは、那珂八幡など。
0758日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:04:23.18
大量の中国朱
五尺刀
魏代漢鏡である方格規矩鏡(青龍三年銘出土、洛陽「晋」墓出土
ジトウ(女王
八葉八咫の超大型内行花文鏡(四葉内行花文鏡からの国産発展期間が必要
1号+殉葬2号+大量の殉葬土壙墓=共通の周溝=長径百余歩

どこをどう見ても3世紀半ばの卑弥呼墓ですな
0759日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:08:03.25
どのスレの話なのか、わからないけど、
いい加減に気づいたほうが良いんじゃないのか

ゴキブリは出て行けと言われているのが、
わからないのか?
0760日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:08:28.19
>>713
>建物の柱ではないんだよ。
>鳥居を立てて、途中で向きを変えた?

棟持ち柱の柱跡もあるんだから、建物じゃなくて鳥居は通らないだろ?
喪屋もきちんと長方形に作ってもらえない大倭王って、いると思うのか?
九州説の王って聞けば聞くほど「小者」だよな

系譜は戦後のペン書き系図だし
0762日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:11:54.84
>>1-61
キーンコーンカーンコーン

>>62-
北部九州邪馬台国説の証明
0763日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:15:11.29
箸墓の根拠はこの程度じゃなぁーーー
1この古墳の後円部の直径が『魏志倭人伝』にある卑弥呼の円墳の直径「百余歩」にほぼ一致すること
2後円部にある段構造が前方部で消失することから、当初は円墳であり前方部が後世に付け加えられた可能性があること
3大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること
0764日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:16:54.79
畿内の影響に取り囲まれて表に出ることもできない哀れな裸の王様
それが伊都国

平原が三世紀に移ったところで惨めさがさらに際立つだけ
アホの九州説は自分から裸踊りしてるんだから笑える
0765日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:17:35.04
おかしな話、チェーンソーのゲーム

渡来人どもめ〜?
チェーンソーでバラバラにされいる家の話でしょ
0766日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:19:29.66
>>764
ステタイが泣いている
0767日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:19:42.67
邪馬台国

オロチ?そのような話?
0768日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:22:22.93
墓のようなものが出てきて、
そこから生き返ってくる、生き返ってきたようなコンセプト

主人公に、バラバラにされたり
0769日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:24:56.85
箸墓伝承は、伝承の物語の中に箸が出てきます。

邪馬台国の論拠である魏志倭人伝には
邪馬台国倭人は手掴みで食事をしていたと書かれています。

そして馬具。
そして径百余歩。

わかりますね。簡単なことです。
0770日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:26:26.32
女王じゃないのに巨大古墳を指名しているということは
記紀編纂の時点で
巨大だからといって(女)王ではない、という概念があった、
ということだ。
0771日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:27:13.47
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。
ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

縄文人と古い海神が大和朝廷を作った。
その後、古い海神は縄文人に裏切られ乗っ取られた。
0772日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:27:57.76
ゲームとは言っても
歴史的にも、そういう事になっているんだから、どうにもならない

そういう話なんじゃないの
0773日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:32:16.77
それにしても、おかしな話

邪馬台国よりも、
あの日本の神話のほうが、むかーしの出来事でしょ

神代
0774日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:32:27.57
大量の中国朱
五尺刀
魏代漢鏡である方格規矩鏡(青龍三年銘出土、洛陽「晋」墓出土
ジトウ(女王
八葉八咫の超大型内行花文鏡(四葉内行花文鏡からの国産発展期間が必要
1号+殉葬2号+大量の殉葬土壙墓=共通の周溝=長径百余歩
鉄鏃、墓の周囲には鉄製刀子その他鉄器がズラリ
男王70-80年=三雲南小路+井原鑓溝→倭国乱=王墓なし
→そして平原

どこをどう見ても3世紀半ばの卑弥呼墓ですな
0775日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:34:32.80
>天孫降臨以来、179万2470余年

蝦夷、エビス?というのは?
0776日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:38:46.29
王仁 アテルイ モレなどは蝦夷?

王というのは名字なのかな

普通に王=kingという意味なのかな
0777日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:52:33.35
ウマヤドのwikiにも書いてある

この頃(時代)から、宮中でも箸を使用した。

それまでは手掴み?
0778日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 00:56:53.37
王仁さんというのも、
手掴みで食事をしていたのかな

確実に違うと思う、
箸を使用していた
0779日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 01:06:07.02
wikiを読んでみて

ウマヤド(聖徳太子)の時代になり、箸を使用

どういう事だと思う?土人?
0780日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 01:39:12.77
言ってる意味が、わからない?

だっ津ーの?ふなっしー、
などは中華・・・の末裔と書いてない?

本当のことなのかもしれないよ
0781日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 01:54:37.06
他のスレにも書いているんだけど、
家の話なんだよ

なぜ知っている人がいるんだろう、
例えば日本の漫画やアニメ、ゲームなど

本当に国宝か、
何かの家なのかな
0782日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 01:55:52.95
悪く言うと、タダのストーカー、人権侵害
0783日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 01:59:21.56
ボーボボという作品・・・
聖徳太子の話

あの作品もそうでしょ?

確か、あれもそう・・・
0784日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 05:47:53.39
>>907
>>魏志倭人伝の方も、倭国の本土(?)の周りの島にいる人も倭人だ、くらいの
意味に取れば十分だと思う 隠岐の島とか佐渡とか <

「東≠北」だから、×。
0785日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 05:51:48.02
>>910
>倭国百余国   九州+壱岐対馬で96郡
 女王国三十国  肥前肥後で25郡 あるいは筑前筑後で25郡。
郡数は平安時代の和名抄による<

成程。
0786日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 05:59:09.55
>>912
大和のバカは毎度笑えるな。
筑紫の土器は、それまでの生活の形を全部変える形で模倣流入している、
つまり、輸入とかそういう規模じゃなくて生活様式全部筑紫式に変えられてる。
筑紫の人間が、生活の場の主体になったことを意味して位。
そして墓も祭祀も筑全部筑紫の物に塗り替えられて、
出雲系銅鐸祭祀などの独自の文化を喪失してる。

なにが「貢物」だw。
笑わせんじゃねぇよww。東征だよ。
0787日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:04:33.55
>>916
そもそも大和は、墓にしろ宝物にしろ、
筑紫を頂点とした図式の下位の形に収まっている。
今までの出雲系銅鐸時代に存在もしてなかった方式に全部塗り替えられて、
その下位にいる場所に邪馬壹國女王之所都とかw。
どんなバカな妄想してたら、大和説とかほざけるんだろうなw。

おれだったらこんなアホな妄想は口に出すのも恥ずかして死にそうだwww
0788日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:10:22.79
>>917
まぁ大和説とか言うバカはバカだから仕方ないな。

何一つ考えないで、文部省や右翼マスコミや右翼学会教育界とか言う、
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の嘘吐きの詐欺師みたいなバカ話だけ、
鵜呑みにして騒いでるだけのアホだからなw。
0790日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:25:33.24
>>922
ホケノ箸墓なんて邪馬壹國の50〜100年も〜後の、
どこにも何の影響も及ぼせずにその代で終わった墓がなんだって?。
むしろ筑紫倭国の東征で、出雲系銅鐸祭祀の勢力がそこで崩壊して終わった終焉の証に過ぎない。

ついでに言うなら鏡の序列も、九州からの伝来でしかないでしか。
筑紫の序列そのまま。
それが大和が採用してると言うことは、
大和が九州の序列の中に組み込まれてると言うことにしかならない 。
そして大和が毎度ほざいてる宝物とやらは、
古墳から出て、しかも、筑紫原発の三角縁や庄内土器と共伴してる。
バカじゃねぇの?。
今まで存在さえもしてない墓制に塗り替えられて、
その規模も宝物下位なのが明白になってるだけ。

アホが 。
0791日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:31:02.84
>>763
>大規模な古墳の中では、全国でももっとも早い時期に築造されたものであること

事実上、これだけで決まりだよ
これより条件に合うものはないからね

大規模な、を100メートル級まで下ろした場合でも、纒向古墳群のどれかになる
14×12メートルが大倭王の墓ってっことはないわ
200年も前の単なる奴国王より小さな墓ってあり得ないだろww
0792日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:31:05.44
>>923
あと毎度大和のバカが言い出す鉄器も、4世紀頃から急激に大和が増える。
それまで殆ど出てこなかった場所に突然大量出土し始める。
そりゃ、大和が筑紫倭国の東征の完全支配下にはいった画期である証拠。

むしろ「それまで出なかった」という話は、
大和のこの時代の急激な発展を示す証になるだけ。
大和のアホは、理解も出来ずに毎度間抜けなこと喚いてるから笑える。
0793日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:31:48.10
>>790
結構重要な点を突いているね。
古代から現代まで続いているのは、「鏡・玉・剣」の三種の神器の形式。
これは考古学出土物からも明らか。
けれども、墓の形や棺の形はせいぜい数百年単位で変遷し続けている。
どちらが重要かは明らかであって、
前方後円墳に重きを置くのなら、じゃあそれが終焉した時には何が起きたの?
という説明が必要。
0794日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:34:30.82
戦争中の女王の墓は小さくて当たり前。
三国志時代の皇帝墓を見てみなさい。
0795日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:36:43.53
>>925
大和なんぞ、3世紀末以前には何も出てこない上に、
出た出た言う物が悉く筑紫の手垢まみれの物ばかり。

そして他の物も「出雲や毛人蝦夷」や「神武東征」や「筑紫倭国の東征」の痕跡に過ぎず、
バカ丸出しの話ばかり。
流石は低能大和説だなと笑いしか出ない。
0796日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:50:26.71
>>928
地図見てる?。

>伊都国が目的地だったら伊都国に船を着ければいいだろ?<

人類も魏使らも「安全最短」が原則。

>そしてそのあと、奴国に行ってるんだから、<

2万戸の大国の奴國へは、側副傍線國の説明だけであり、行っていない。

>伊都国に寄ったあとも船で那の津へ行けばいい そうすれば日向峠も越えなくていいだろ?<

魏使らは、持衰が乗っている倭船に乗っており、安全最短が原則であり、
末盧國からの「陸行五百里」の説明が出来ない。

>魏志倭人伝の旅程は、考古学的に分かっている弥生時代の様子と合わないんだよ<

合っている。

>淮南子をはじめ古い記録・文書を参考にして撰書として編纂されているのだから
当たり前と言えば当たり前なんだが、そうしたことを気にもしない九州説が多すぎる<

、魏使らは、当然淮南子も知っているが、それとは関係なく、
魏帝に正確な情報を報告する事が仕事。
当たり前と言えば当たり前の事なんだが、
そうしたことを気にもしない大和説者が多すぎる。
0797日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 06:56:12.49
>>932
>筑後ヤマトは地名だけで、めぼしい遺跡はない
そして奴国や伊都国には遺跡はあっても、ヤマトの地名はない <

筑前にも筑後にも「山門」はあるし、肥前には「大和」もあるし、
松野氏姫氏系図には「火の国山門」も書かれている。
0798日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:00:43.19
>>933
大和は、筑紫倭国の東征で、
400年以上も続いた出雲銅鐸文化や毛人蝦夷の伝統を失い、
生活も祭祀も宝物もぜーんぶ、筑紫の物になりました。

でも「大和が九州を征服したんだ」と。
流石は基地外を大和説の珍説だなwww。
大爆笑させてもらってるわwww。
0799日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:04:01.37
>>937
その「考古学的に分かっていること」とやらを「根拠」として書けるものなら書いてご覧。
もう少し、脳を使って勉強しなよ。
まあ、きちんと勉強したら、大和説なんか信じてないだろうな。
0801日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:08:30.70
>>942
>>5世紀に北部九州の副葬品は最盛期を迎えるのだが。<

>3世紀後半と4世紀に九州王家とやらは何をしてたんですか?
5世紀に最盛期ってことは、北部九州の豪族(国造ほか)は
成長するのにそれだけ時間がかかったんだね、としか<

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」に忙しかったの。
0802日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:12:39.67
早とちり説ー畿内説
纏向・・・調査がほとんど進んでいない
箸墓・・・ほとんど解明できてない 
0803日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:14:23.61
>>994
>生口や奴婢って知っているかい? 卑弥呼も生口を献上しているよ。<

まあ、生口や奴婢は、奴隷ではないねえ。
有能な働き手である事は認められていた。

>まあ、日本と倭が別の国だというのなら、話は別だけどね。<

まあ、大和は、筑紫倭国から別れた別種の旧小国だったけどね。
0804日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:16:26.04
>>742
>祇園山は、現在知られている列島の墳墓の中で、
>「大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たす唯一の墓。

これは違う。
平原遺跡も満たしている。
しかも平原遺跡の方が古く、卑弥呼の時代に近い。
0805日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:17:12.07
>>751
>三角縁神獣鏡の出る那珂八幡古墳を3世紀半ばの箸中山古墳より古いって言ってる九州説がいるんだぜ

箸中山の年代が間違っているということだよ。
0806日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:19:37.55
>>764
>畿内の影響に取り囲まれて表に出ることもできない哀れな裸の王様

どうせ魏志倭人伝に卑弥呼は引きこもりと書いてあるし、今の天皇だって皇居に引きこもっている。
まさに伊都は倭王の王都だな。
0807日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:21:33.83
>>945
>縄文時代から広域流通してるのに、九州だけの倭国を主張するのが
頭悪いなとずっと思ってる <

縄文時代から広域流通してるところに、
九州に燕の南の倭人や呉王夫差の後裔らが渡来して来て、
稲作や金属器などが伝えられたんだが、
それが判らないらしい大和説者は、頭悪いなとずっと思ってる。
0808日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:24:35.42
>>793
>前方後円墳に重きを置くのなら、じゃあそれが終焉した時には何が起きたの?
>という説明が必要。

まったくその通りですね。
白村江で筑紫倭国が滅亡して、百官が畿内入りして畿内に律令制が成立したのでしょう。
それまでの畿内の文化や葬祭は再度九州に塗りつぶされ、前方後円墳は打ち捨てられたのでしょう。
0809日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:26:02.39
>>946
最盛期?。
古墳も、筑紫からの伝来や東征いうシステムの下位にいて、
筑紫から手に入るだけの宝物を入れてるから何だって?。
しかも筑紫を中心とする勢力の半島進出の結果の副産物に過ぎない。

まさかそれで大和は独自王朝とかほざいてるのか?。
流石は能無し大和説者。
0810日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:26:16.30
>>807
>九州に燕の南の倭人や呉王夫差の後裔らが渡来して来て、
>稲作や金属器などが伝えられたんだが、

呉王夫差なの?
呉王太白はどうしたの?
0811日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:27:06.01
【筑紫を中心とする倭国の交易路】
もともと日本海ルートが倭国の交易の主力だった。4世紀の仲哀天皇のときに関門海峡が開削され、5世紀の雄略天皇のときに風待ち港と澪標が整備され、瀬戸内ルートが整備された。なお、太平洋ルートは事実上存在しなかった模様。纒向は日本海ルートの末梢の辺境。

筑紫博多→出雲→丹後・若狭→能登・越→諏訪→甲斐・秩父
↓         ↓
↓     近江三上祝→東濃→纏向

宇佐→瀬戸内海→阿波・吉備→淡路島→摂津住吉


【九州北部勢力による倭国の拡大】
紀元前に、越のヒスイ勾玉を含む三種の神器が出現
→日本海沿岸の土器が博多湾へ流入

1世紀に銅矛などが拡散
2世紀に高地性集落が瀬戸内海を東征
→瀬戸内四国の土器が博多湾へ流入

2世紀末に銅戈が大阪湾上陸
→畿内から庄内式土器が博多湾へ流入

3世紀に大型内行花文鏡が畿内へ侵入
→畿内から布留式土器が博多湾へ流入
0812日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:30:26.26
箸墓古墳が卑弥呼の墓のある可能性については奈良県立橿原考古学研究所などの限られた施設からのものであり、
考古学的に定説では無い。
現在ではようやく発掘許可がなされたため実質的調査はまだ始まったばかりである。
0813日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:31:35.85
纏向遺跡が邪馬台国の所都ある可能性については奈良県立橿原考古学研究所などの限られた施設からのものであり、
考古学的に定説では無い。
実質的調査はまだ始まったばかりである。
0814日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:35:43.26
>>813
スレ主のテンプレを修正させるべきだな。
妄想を削り、事実のみを載せろ。
あと、全体の量を削れ。
0815日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:36:22.96
>>952
>じゃあ、小さくてしょぼい平原1号墓は王墓じゃないねww<

しょぼくなかったから、大和説学者が大慌てで、平原を認めた。

>2世紀までしかも前半までしか王墓が「続かない」のに
どうして3世紀の大倭王の都があると主張できるんだろう?<

王墓なら、7世紀の宮地嶽頃まで続いていた。
0816日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:36:37.30
イザナギが降臨した淤能碁呂島は能古島、イザナギが禊をしたのは小戸、そこに建てられたのが住吉。
福岡こそイザナギの都。
倭国の建国の地。

そしてその倭国の女王となったのが卑弥呼。

考古学的にも、3世紀以前の倭国の王墓は博多湾沿岸にしかない。
そして博多湾沿岸は稲作伝来の地、弥生文化発祥の地。
全ては博多湾沿岸から始まった。
0817日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:37:04.85
あれだけいた畿内説コテハンがほんと消えたなあ。
高齢さんとかも最近見なくなったし。
あの人の世界観は好きだったけど、考古学的証拠が出そろった最近はやっぱり反論できずに言い張るだけになってちょっとかわいそうだったよね。
ジョーカーもあれはあれで頑張っていたけど意外と判断思考は科学的だったから
議論が煮詰まってくると九州説そのまんまの発言をし始めてそれは九州説じゃんと指摘されて本人絶句したり相当悩んでるっぽかったよね。
ここでまだ頑張ってるのはスレ主と根拠厨くらいで科学的議論を放棄してのテンプレ死守の印象操作作戦に徹底してもはや議論が成り立たない。
岡上は東遷説とはいえ畿内説なわけで真っ向から取り組んでなんとか畿内説に持っていこうとしているのだけど、
もう味方であるはずの岡上程度の東遷説議論ですら許容できないほど畿内説は追いつめられているのだな。
0818日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:38:38.26
息を吐くように嘘を吐く>>1晒しage
0820日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:42:49.22
>>953
お前いい加減バカなのを自覚しろ?な?。

当時の、使い易い便利な土器は、(現代の家電製品などと同じように)、
物まねしてでも安く大量に作って、商売したり、献上したりするものだったんだよ。
だから、近畿が筑紫の物まねをして造って、
筑紫に搬入上納した。
0821日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 07:50:45.25
>>958
何度も言わせんな?。

大和は、
生活から権力者の象徴まで、上から下まで全部筑紫式であり、模倣になってんだよ。
そしてその直前まで出雲銅鐸地域や他地域の物で、別の個性を維持してたのに、
3世紀末の時代に一気に筑紫の東征の支配が強くなって、
大和の独自性が消え去る一方で、
たまたま便利な道具を受け入れた?貢物だ?大和が九州を支配しただ? 。

アホか?アホなのか 。
0822日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 08:00:10.54
スレ主は
はグーの根も出なく テンプレでの妄想主張と
名無し罵声に徹している
                   哀れかな 哀れかな
0823日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 08:06:16.06
〇グーの音
0824日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 08:09:36.65
ザラコク死刑
0825日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 08:26:07.29
>>815
>王墓なら、7世紀の宮地嶽頃まで続いていた。

おじいちゃん、お薬は飲みましたか?
地方豪族のしょぼい墓は、王墓って言わないんですよww
0826日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 08:33:01.91
>>821

筑紫の個性は、時代遅れのしょぼい方形周溝墓を作り続けること?ww

>>820
>物まねしてでも安く大量に作って、商売したり、献上したりするものだったんだよ。
>だから、近畿が筑紫の物まねをして造って、
>筑紫に搬入上納した。

現実を認識しようね
754を再掲
「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」佐々木憲一(2010)
明治大学人文科学研究所紀要 第66冊 (2010年3月31日)251−312
https://m-repo.lib.m...agakukiyo_66_251.pdf
布留式甕になる前から、畿内第?様式、庄内式、布留傾向甕、布留式甕の順で
きっちり九州から出てるよ
畿内の胎土で作られた本当の意味の搬入土器、正確に畿内の製作技法で九州の胎土で
作られた土器、畿内の様式に倣っているがある意味適当な畿内系模倣土器、のそれぞれが
確認できるそうだ

畿内からの搬入土器(広義)は、特に奴国、伊都国の領域で多く見つかり、奴国の比恵・
那珂遺跡群では畿内様式土器の九州での生産拠点になっていた様子が伺えるし、伊都国の
三雲サキゾノ1−1区1号住居床面出土資料では三雲遺跡内でも突出して早期から畿内系
土器(庄内大和型甕)が出土しており、このあたりに「一大率」の居館があったのかもしれない
0827日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 08:47:14.80
機内からたくさん貢物が
九州に届けられていたんだね。
0828日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 09:10:30.45
出雲尾張阿波宮崎鹿児島遠賀川などの縄文人(+半分縄文人に乗っ取られた古い渡来人)が、
九州北部や畿内の渡来人を征伐して出来たのが、邪馬台国、大和朝廷。

一大卒は九州北部統治の為の拠点、兵の駐屯地。

当時の九州の支配者は、主に宮崎鹿児島遠賀川の縄文人。
0829日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 09:52:22.52
>>827
ど田舎畿内の貢ぎ物にさぞ卑弥呼は笑っただろう
0830日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:03:44.95
>>959
>倭国乱があって卑弥呼が長期政権
次の男王でまた乱れて台与だろ
平原の前後100年ほどめぼしい王墓が無いんだから<

筑紫にも糸島にも沢山ある。
0831日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:07:54.78
>>964
は?、 お前マジでそれ聞いてんだ?。
そんなことも知らんでお前、大和説とか喚いてんの?。
土器の分布も、古墳の分布も、鏡の分布も知らないんだお前。
流石は能無し大和説。
あるのはぼくちゃんの脳内の「南→東」の嘘つき騙しのおもしろ行程だけか。
0832日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:10:48.78
>>966
大和説は、国粋皇国史観の殺人狂の詐欺師の・・・・の無知が生んだ、
分裂幻覚の妄想。
0833日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:13:25.28
>>968
自分らが発明したものは、何一つ見つからない大和。

出てくるものは悉く筑紫の手垢べったり。
筑紫の影響に飲み込まれて独自の文化を喪失するド田舎の属国を見て、大和説とかw。

流石は基地外の集団だな
0834日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:17:19.37
スレ3つ消費するくらいの間ここで見てるけど
もうつまんないな

九州説は「水行10日+陸行1月は、帯方郡からの日数」と
「平原1号墓が卑弥呼の墓」しか言ってないし
付随して、北部九州=邪馬台国=倭国とかいうムリ筋も書いてるけど

魏志倭人伝の旅程記事に混乱があるのは確かだ
1.淮南子の世界の東の果てまで萬二千里という概念
2.漢委奴國王、倭国王帥升等の朝献の時の北部九州までの「里」程
3.卑弥呼の遣使の時の邪馬台国までの「日」程
これらが、陳寿の手元にあって、これを総合して旅程を書いたのだろう
また、2.の時の里程には別の目的地(倭面土国)行きが紛れている可能性が
高いし、魏志倭人伝の旅程と実際の邪馬台国までの経路は一致しない可能性が高い

旅程記事は、中国の研究者の読み方でも、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を
総距離と見るのも、漢文の文法からいって明らかな誤読

北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか

この時点で、伊都国にある平原1号墓が卑弥呼の墓というのは、ありえない

基本的に、九州説というのは勉強不足と妄想と自己洗脳の思い込みだけで
できてるんだな
読めば
0835日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:26:22.16
>>973
大和説者は、3世紀末にならんと出なかった鉄とかを、まだ喚いてるんだww。

まさに邪馬壹國女王之所都の時代に鉄器が全く出土しなかった大和は、
「筑紫倭国の東征があった」からこそ、その時代の画期が明確になる。
アホの大和説は、自分で九州倭国の東征での発展を主張してんだから、笑わせてくれる。
あ、古墳からはノーカンとか言うなら、お前らの喚いてる鏡とかも、殆ど古墳から出てるもんだからww。
お前らますます何もないなwww。

ついでに言うならその鉄が全くなかった大和様は、
最盛期でさえも九州倭國の東征将軍の墓からも出た鉄や鏡なんだがな。
こいつ等のバカ理論だと、東征軍の鉄器があれば強いんじゃねぇの?。
アホがw 。
0836日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:32:13.99
>>983
つか、一部どころか大和から外に出る影響なんて「ほぼ皆無」だからなwww。

しかもほぼ弥生〜古墳時代を通じて。

そして「一方的に筑紫の影響を全てに置いて受けて自我を喪失する」のが大和。

大和説ってどんだけ脳がないんだろうと笑えるよなw。
0837日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:35:30.83
>>985
筑紫倭国の別種の旧小国で、
筑紫の東征軍のお手伝いだけで、
筑紫の文化を模倣するだけで、
何もなかったから大和説。
0838日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:36:53.82
>>986
あるある絶対と喚き散らすが何一つ出てこない大和説。

出たという物は全部筑紫の手垢でべったり。
0839日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:50:52.86
>>988
>邪馬台国はヤマト国、葛城山系以東の奈良盆地一帯です。・・・<

「南≠東」に拠って、×。
0840日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 10:54:02.40
>>991
もう完全に、
 大和説(「南→東」などの嘘つき騙しの学者)vs 九州説(史料事実に正確な正直素人)
って構図だなあ。
0841日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:02:46.78
>>1000
九州説の圧勝だな。
0842日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:07:01.26
>>840
大和説が騙しって訳じゃない
記紀を読んで無批判に信じ込んでるだけ
間違ってるのは倭人伝の方で記紀が正しいって信じ込んでる。
0843日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:07:37.29
>>62
国民の投票と同じく、九州説の圧勝で、大和説の完敗だよな。
0844日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:10:29.69
>>63
>やっぱり卑弥呼の邪馬台国や大和朝廷は
出雲や尾張などの縄文系勢力による政権なんじゃないかな。<

これも、「南≠東」に拠って、始めから×ね。
0845日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:16:20.88
>>834
距離は感覚だから
方位は太陽、星間違いようが無い
0846日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:24:06.47
>>73
1年近くこのスレにいたけど、
大和説の頭がおかしいのばかりが、脳内妄想を 書き散らしてるだけでつまらないな。
史料事実による反論の論証をきちんと書いてあげても、その論証を読み取る能力すらない。

まともな大和説の人なんて、やっぱり始めからいなかったのかな?。
いないのか?。

まあ、そうだよな、国民ではとっくに決着が付いて、
アマチュアでもきちんと勉強すれば、大和説プロや右翼マスコミや文部省や学会教育界の、
大和だと判断した嘘つき騙しの情報が見られるんだから。
0847日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:32:04.17
>>74
それが大和説の、「国民をだます作戦」よ 。
もう議論しても勝てないから、単に嫌がらせをしてるだけ。
書き込んでる大和説者本人すら、おそらく大和説を信じてない。
0848日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:40:50.61
>70,71,103,156,159,161,163,166,184,
262,342,394,839
>「南≠東」

>100,104,126,345,370,422,788,831
>「南→東」

>784
>「東≠北」

本当に、バカなんだな
>>688にもこう言われてるし
「無視でいいんでないかい?  九州説としてもあり得ないよ。」
0849日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:41:02.79
>「南≠東」  他

末盧國から伊都國の行程が、実際には北東なのに東南陸行と、この時点で90度間違ってる
また隋書では、大和までの行程はきちんと東と書いてあるが、対馬から壱岐が、
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國 と、本来南でなければならないのが東となってる
おそらく、隋書の編纂時に魏志倭人伝も確認して、東に行くべきところが南と書いてあるのを見て、
魏志倭人伝の地理観が90度間違っていると判断して全体を90度回したために
正しかった対馬ー壱岐間が連動して回ってしまったのだろう
つまり、史書編纂時の撰者の地理観に従って、以前の記録は修正され得ることになる
そう考えると、魏志倭人伝の地理観では、倭国は「當在會稽、東冶之東」と考えられていたので
報告書の東がその地理観に合わせるために南に変更されるのも、当然にあり得る

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0850日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:46:06.75
>>835
>大和説者は、3世紀末にならんと出なかった鉄とか

古墳になって、土に触らない形で鉄が埋納されるようになって、
それでたくさん「出る」ようになっただけだよ

鉄自体はその前からたくさんある

逆に九州でも、甕棺墓からはたくさん出てるけれど、甕棺墓の時代が終わると
急に出なくなってるだろ?

鉄は錆びるし、錆びると土に混じっていっちゃうから見つからなくなるんだよ

鉄の豊富さは、石器の衰退⇒鉄器での代替、で見積もることができるが、
稲刈り用の石包丁が出なくなるのは、九州より畿内の方が早い

発掘バイアスを理解するには、理科系の知識が必要だが、九州説は
そっちの知識が本当に皆無で困る
0851日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:52:19.99
>>78
>古田武彦氏も晩年は九州王朝説を放棄している<

大和説者って人種は、こんな嘘つき騙しで、世間の人々を騙そう、とする口先詐欺の人種。
0852日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 11:59:58.79
魏志倭人伝の旅程記事は、放射読みも最後の邪馬台国までの日程を総距離と見るのも、
中国の研究者の読み方でも漢文の文法からみても明らかな誤読

北部九州=邪馬台国というのは、誤読の上に成り立っているだけで、普通に
漢文として読めば、伊都国、奴国と邪馬台国が別であるのは誰が読んでも明らか
0853日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 12:02:55.13
>>79
>>奴国は、伊都国の東南百里だから、須玖岡本にはならない、といっているんだよ。
要するに、「大和説の脳内妄想」に合わない。<

現実の方を魏志倭人伝に合わせてどうする?

>須玖岡本遺跡が那珂川流域だってのは理解してるか?
この那珂川の「那」が、奴国の「な」だぞ<

音韻の類似程度では、確定的な論拠にはならない。

>岡本遺跡群が奴国だと、短里が成り立たないからというバカな理由で、比定地の中でも
鉄板中の鉄板を否定しようっていうんだから、ドンキホーテが過ぎるわww<

方向も短里でも長里でも合わない。

要するに、この大和説者も「史料事実を否定抹殺する嘘つき騙しの詐欺師」なんだよ 。
0854日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 12:08:54.17
>>80
>悪いひとたちがやって来て みんなを殺した
理由なんて簡単さ そこに弱いひとたちがいたから
女達は犯され 老人と子供は燃やされた
悪いひとたちはその土地に 家を建てて子供を生んだ
そして街ができ 悪いひとたちの子孫は増え続けた
朝鮮進駐軍 関東大震災 日本人10万人大虐殺 ・・・<

要するに、この男も、
近隣諸国民への人種差別的殺戮を鼓舞扇動する・・・・の憲法違反人間だ、
という事だったんだな。
0855日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 12:23:22.84
邪馬台国九州説の致命傷は
出雲と畿内、吉備という超巨大勢力が
九州北部を入れ替わり立ち替わり
抑えてる時期にどうやって中国と交易したんやという話
0856日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 12:35:09.72
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里
0857日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 12:37:48.53
>>855
邪馬台国畿内説の致命傷は
九州北部という超巨大勢力が
他の地域を抑えてる時期にどうやって中国と交易したんやという話
0858日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 12:39:55.40
>>850
>鉄自体はその前からたくさんある

どこに?
おっと、淡路島だの近江だの、他の文化圏を無理矢理に畿内、特に奈良盆地に結びつけるなよ。

>急に出なくなってるだろ?

九州北部はずっと栄えているけど?

>稲刈り用の石包丁が出なくなるのは、九州より畿内の方が早い

畿内の文化は一旦衰退するんだね。
0860日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:14:38.48
>>849
時代考証が無いバカ
0861日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:20:20.81
>>857
九州北部という勢力が
他の地域を抑えて
いないことが
邪馬台国九州説の致命傷
0862日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:22:21.70
>>81
>一緒にしていない。伊都国は、前原付近の海岸や糸島水道付近。<

>だったら三雲南小路遺跡は、伊都国王墓じゃないんだね <

いや、「東南百里」も「大体の記載」であるから、絶対ではない。
大体、伊都国と奴國の境界付近。

>さらに言えば、海岸や糸島水道付近に王墓はないから、
伊都国には王はいなかったということで、いいね!<

糸島付近には60個以上の古墳があるから、おそらく、
その中には、伊都国の王墓もあった。
0863日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:23:07.57
(古田武彦氏の死亡記事では)

(1)標準的な古代史研究者からは「学問」としては認めれていないこと
に全く触れていない。

 知人が
「古田を古代史研究者と称するのはUFOビリーバーを天文学者というが如し」
と述べていたが、まさにその通りである。
0864日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:29:01.71
>>858
>>急に出なくなってるだろ?
>九州北部はずっと栄えているけど?

鉄鏃が出なくなっても九州が栄えていてもいいけれど、
鉄鏃が出ない時から畿内は栄えてるんだよ

>>稲刈り用の石包丁が出なくなるのは、九州より畿内の方が早い
>畿内の文化は一旦衰退するんだね。

いや? 全然?
石包丁が出なくなるのは、石よりも鉄の鎌の方が使いやすいからで
石包丁程度の必需品としての優先度の高くないものまで潤沢に鉄を使える
ようになったってこと

九州でも畿内に遅れて、石包丁が出なくなる(絶滅する)が、その時から
九州はずっと廃れてるってことでいいよ
その点(九州で石包丁が消えたら廃れてる)は>>858の意見に従おう
0865日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:32:57.62
>>82
>>奴国は、伊都国の東南百里であるから、福岡平野一帯は合わない。<

>現実を魏志倭人伝に合わせてどうする?ww(二度目)<

史料である魏志倭人伝を、推論の出発点の中心にすべきの。

>そして九州説の主張する早良付近でも東南にはならないし、<

当然、「東南百里」にあるのは、奴國の入り口。
その後ろ二万戸の奴國が広がっていると読むべき。

>そもそも奴国の地名がない<

音韻や文字は、類似が原則。
0866日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:34:48.10
>>853
>音韻の類似程度では、確定的な論拠にはならない。

遺跡の分布が北部九州で一番密で、九州説のやつも弥生銀座って言ってるだろ?
それが、魏志倭人伝の北部九州で最大の人口、二万戸と記された奴国と対応させるのが
一番整合性が取れる

古代のことは、どんなことでも「確定」的なことは言えないけれど、
大陸の史書、日本の文献、考古学的遺物、現代まで残る地名、とこれだけ揃えば、
「奴国=「那」の津、「儺」県、「那」珂川を含む福岡平野」という
現在定説となっている比定地は、古代史における比定の中でも鉄板中の鉄板だぞ
0867日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:35:49.81
>>853
>方向も短里でも長里でも合わない。

だから、魏志倭人伝の里程が「いい加減」で「現実に合わない」んだよ
0868日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:37:58.06
>>856
>女王国まで一万二千里

淮南子の地の果てまでの距離の概念そのままですね(ニッコリ)
0869日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:43:26.13
>>856
>水行10日、陸行1月

これ、後漢への朝貢時の記録で、淮南子の地の果てまでの距離の概念に合わせて
萬二千里って書いてたのを途中まで引用してたら、里数が足りなくなったから
日数にしてごまかしたまであるんじゃないかな

それで、とりあえず、地の果てまでの萬二千里(これは大陸人にとって
常識であり前提、世界観そのものだから動かせない)と、ヤマト国まで
行った魏使の報告書を両立できるから、こう書いたくらいのことだと思う

だから、邪馬台国まで萬二千里ではなく、
女王国or倭国(=東の地の果ての国)まで、という書き方になっていると
考えれば矛盾がない
0870日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:45:34.77
>>858
>淡路島だの近江だの

見る銅鐸(巨大銅鐸)の出る、畿内中心の文化圏の内側ですね(ニッコリ)
0871日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:47:33.77
>>860
>時代考証が無いバカ

大陸の史書を漢文としてそのまま読んでいるだけだよ?
時代考証の入る余地が何処にある?ww
「時代考証」って言葉が使いたかったのかな?ww
漢文が読めないだけじゃなく、日本語の単語の使いどころも分からないんだなww
0872日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:49:56.09
>>862
>いや、「東南百里」も「大体の記載」であるから、絶対ではない。
>大体、伊都国と奴國の境界付近。

そんなところに国境線はないww

本当に、バカなんだな
>>688にもこう言われてるし
「無視でいいんでないかい?  九州説としてもあり得ないよ。」
0873日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:51:14.22
万二千里のかなたの女王国から朝貢に来たというのは、大月氏国に対抗するためにも必要な前提
金印を与えるための方便だったんだよ
陳寿はそれをいじるわけにいかなかったので、いろいろごまかした。
0874日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:51:42.32
>>862
>糸島付近には60個以上の古墳があるから、おそらく、
>その中には、伊都国の王墓もあった。

そのうち、「海岸や糸島水道付近」にあるのはどれだい?
ないだろww
0875日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:54:08.18
>>865
>史料である魏志倭人伝を、推論の出発点の中心にすべきの。

推論ならいいんだが、妄想だろ?
それと、漢文で書いてあるものを、漢文の文法から逸脱した読み方をしてはいけない

そして「資料の限界」を無視して読むのもダメ
結局、このスレで展開されている「九州説の読み方」は誤読なんだよ
0876日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 13:57:50.41
>>865
>>そして九州説の主張する早良付近でも東南にはならないし、<

>当然、「東南百里」にあるのは、奴國の入り口。
>その後ろ二万戸の奴國が広がっていると読むべき。

その入り口は、日向峠なんだろ?
>>865の言い分を全部認めても、東南にはならないんだよww

魏志倭人伝に合わないから、この説は却下ww
0877日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 14:02:23.05
>>873
>大月氏国に対抗するためにも必要な前提

この視点がない人が多いよね

倭国の朝貢は、司馬氏の王朝「晋」代に書かれた三国志の中で、
公孫氏を滅ぼした司馬懿の功績として、特筆されなければならなかったんだよ

だから、東の地の果ての萬二千里という表記が使われる
0878日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 14:53:34.29
九州説に質問

そもそも邪馬台国はどこにあるの?
三角縁や葺石や庄内式の無い九州独自の経100歩の墓は?
丹山は?
質の高い絹は?
古墳出土や弥生時代全体とかではない破鏡の欠片でもない邪馬台国の時代出土の100枚の中国鏡は?
入れ墨は?
宮殿は?
骨占は?
広域のクニグニを傘下に収めた証拠は?
7万戸の大集落は?

絶対確実の九州説大先生達なら造作もなく完璧な答えをしてくれるんだろうなぁ
0879日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 15:22:28.20
>>878
>そもそも邪馬台国はどこにあるの?
伊都国、奴国を含む北部九州全体が邪馬台国でかつ倭国

>三角縁や葺石や庄内式の無い九州独自の経100歩の墓は?
平原1号墓 「径百歩は誇張表現」または「径は小道の意味で墓までの道の長さ」

>丹山は?
松浦川上流にある

>質の高い絹は?
九州は蚕、大和はヤママユ

>古墳出土や弥生時代全体とかではない破鏡の欠片でもない邪馬台国の時代出土の100枚の中国鏡は?
平原1号墓からは「尚方作」の方格規矩鏡が21枚ある

>入れ墨は?
古事記の神武記に九州出身の大久米の目尻の文身を、大和の伊須氣余理比賣が不審に思う記事がある
九州に文身があり、畿内に文身がなかった証拠

>宮殿は?
吉野ヶ里遺跡に高殿がある
九州には宮殿級の建物があった証拠

>骨占は?
知らない

>広域のクニグニを傘下に収めた証拠は?
畿内が九州の文化で塗りつぶされていることを見れば明らか

>7万戸の大集落は?
伊都国、奴国、を含めた北部九州全域が邪馬台国であり倭国なので問題ない
0880日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 15:35:37.65
さすが九州説はレベルが低い
0881日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 15:39:12.90
九州説のアホがいつも主張の根拠っぽく喚いてることを聞いてもまともに回答できない

まぁ仕方ないね
何にもないんだから
また邪馬台国の会のホームページとか見てきたらどうだ?w
0882日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 15:54:52.80
>>864
>鉄鏃が出ない時から畿内は栄えてるんだよ

根拠なし。
そもそも畿内という枠組みがなく、まして海岸から離れた奥地であり、遠隔地と関わりを持てない。
0883日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 16:19:49.14
>>882
畿内という枠組みがない、という根拠なし
0884日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 16:29:35.90
>>882
遠隔地と深い関わりがあった証拠がそろってるんですけど
0885日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 16:30:10.07
>>883
畿内説なんて、名前からして時代錯誤なんだよ。
律令制ができるのは卑弥呼の何百年も後だからな。
0888日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 16:56:04.08
九州説とかほざいてる奴の話を聞いてると結局九州の根拠とやらはなーんにもないんだよな
で、畿内にアホなケチつけてるだけのバカばかり
現実何もないド田舎で、畿内の支配下どっぷりの属国のどこに邪馬台国なんて幻見てんだかな

鏡だ絹だといつも喚き散らしてる事を>>878で聞いてやっても何にも答えられないと来たもんだ

妄想を叫ぶしか無いアホの集団だから仕方ないが
0889日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 17:05:34.70
>>885
ばかですか?

律令制がなくったって、いま畿内と呼ばれてる土地が無くなったりはしないんだがね
0892日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 17:58:04.96
>>885
それを言うなら九州説だって、律令制以前には無かっ、た名前だろ
0893日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:08:18.53
>>892
イミフ よく読んでからネ
0894日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:10:11.25
畿内説支持者が惨めになるスレ
畿内説支持者が惨めになるスレ
畿内説支持者が惨めになるスレ

畿内説支持者が惨めになるスレ
畿内説支持者が惨めになるスレ
畿内説支持者が惨めになるスレ

畿内説支持者が惨めになるスレ
畿内説支持者が惨めになるスレ
畿内説支持者が惨めになるスレ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
0895日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:12:06.19
畿内説支持者が九州説支持になるスレ

畿内説支持者が九州説支持になるスレ ですよ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f)
0896日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:19:27.62
>>894

嘘も百回言えば、っていうのは一部でよく言われることだけど、
同じことを何度も書いても、他に書くことないのかって思われるだけだよ

それともあと91回、同じことを繰り返すかね?

ザラコクの「南≠東」を見てたら、同じことを繰り返しても
ムダだって分かりそうなものだが
0897日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:24:29.12
>>883
>畿内という枠組みがない、という根拠なし

>>673でも書いてるけど「畿内第X様式土器の範囲」が、
狭義の畿内の範囲だよ

「根拠」はきちんとした学術論文で出てる
「畿内地域における古墳時代初頭土器群の成立と展開」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonkokogaku1994/12/20/12_20_47/_pdf
この辺読んでごらん
畿内第X様式から、庄内甕、布留甕への推移や、拠点集落から周辺への展開が
まとめられてるから

河内の庄内土器と、大和の庄内土器が平行して、ある意味示し合わせて
成立していく様子が分かる
ただ、それを作る工房が別にあるから、それぞれの個性が出てるってだけ
河内は中田遺跡の辺り、大和は纏向遺跡がそれぞれの中心になっている様子が
見えるよ
0898表彰状垢版2018/02/21(水) 18:26:22.33
 表 彰 状

ザラコク様
あなたは、畿内説の愚かさを解き
     畿内説の矛盾を数多く指摘し
     畿内説の根拠レスを論理的に証明しました
     また、人として行ってはいけない、畿内説の嘘を厳しく非難しました
よって、ここにその功績を讃え表彰します
     今後とも畿内説のカルト手段にまっとうな道を説くことを期待します

平成30年2月21日
                        ザラコク氏を支援する会
0899日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:30:05.50
>>893-895

一撃で論破されちゃった九州爺が必死です



w
0900日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:32:25.09
>>898
なんとザラコク頼みにまで落ちぶれた九州説の悲惨
0902日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:38:16.90
>>898
>ザラコク氏を支援する会

誉め殺し?ww

それはそれとして、ザラコクの大好きな「嘘つき騙し」ってフレーズ、どう思う?
これ、普通の日本語の使い方だと、「『嘘つき』を騙す人」って意味になるんだよな
嘘つきは騙されてもしょうがないんじゃないかな?ww

たぶん、「ゴミムシダマシ」とかの語感に惹かれて、
意味も分からずに使ってるんだと思うけどさ
0903日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:41:36.42
まー、荒らしやらかしたりナリスマシやってる
敗残兵に比べたら
ザラコクは敗軍の将の風格があるんでねー?

割腹したら褒めるわ
0904日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:44:33.35
いや、前スレへの無意味なアンカーつけて、
延々と意味のない書き込みを続けるのは、
本当に頭おかしいレベルだと思うけどな
0905日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:55:10.97
>>901
畿内説どうしでレス付けると閉鎖的だとか文句がつく
やらないと、全員1だとか阿呆が妄想する
0906日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:56:01.35
ひたすら土器と土盛りで勝負するしかないW
0907日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:57:42.13
>>83
>>倭奴国の(遣使ではなく)成立が古かった、という事になるだけ。<

>遣使がなければ大陸王朝は、倭奴国の存在を知ることはないだろ?
いずれにしても早良の吉武遺跡群を奴国に当てるのは無理だよ <

57年には倭奴國(委奴國)が、細石神社〜志賀島付近に存在していて、
その地域では、卑弥呼の頃には倭奴國の名前が消失していて、
千戸の伊都国と二万戸の奴國が出現していたんなら、
元の倭奴國から、小さい伊都国が分離して別れて、
倭奴國が奴國と伊都国に別れた可能性が非常に高いんだよ。
そうすると、倭奴國は、57年時点で、既に、
奴国と伊都国を合わせた領域の国であった可能性が高い、という事になり、
吉武高木時代から倭奴國であった、という可能性が高い。
0908日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 18:57:47.68
>>905
テンプレ以外は
ひたすら九州説を議論するだけのスレだから
畿内説は全員>>1と同じ状態だな。
0909日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:00:05.08
>>906
>ひたすら土器と土盛りで勝負するしかないW

いやしくも大倭王を擁する倭国の中心を主張するなら、
土器と土盛り(高塚墳丘墓)でも勝負できなきゃおかしいんだが?

負け犬の遠吠え乙ww
0910日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:01:57.27
>>87
もう大和説は終わってるから。
まともな神経の人間なら大和説なんて最初から相手しないだろw。

国粋皇国戦争史観にクルって、頭おかしいから大和説なんだよ 。
0911日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:02:31.23
>>907
また妄想タイムの始まりかい?(ヤレヤレ)

>その地域では、卑弥呼の頃には倭奴國の名前が消失していて、

いや、漢委奴國王と同じで、倭奴國は倭の奴国だろ?
消失してないじゃんww
0912日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:03:42.33
>>904
実際そうだから仕方ないし
だからYahooで出禁になった
0914日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:05:07.25
>>897
>河内は中田遺跡の辺り、大和は纏向遺跡がそれぞれの中心になっている様子が

ではなぜ河内ではなく大和の方をことさら取り上げるのか。
しょせん、皇国史観が頭にこびりついているだけなのではないか。
0915日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:06:22.58
>>910とか見ると、単なるオウム返しが、高尚な嫌味になってるつもりらしいんだよな
九州説がどうこうの前に、人間としておかしいから読んでいて
苦笑というか乾いた嗤いしか出てこない
0916日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:07:44.61
>>905
いや、畿内説同士でもっとテンプレの改善を迫るべきだね。
あれでは畿内説が根拠のない妄想にしか思えない。
0917日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:08:33.59
>>89
>ザラコクの大和説は戦争狂の皇国史観などという発言から
特殊な政治思想の持ち主と思われる
やってる事はここ見た人を一人でも騙せればいいという政治的なプロパガンダ<

私は、当然、
現在日本は、憲法のおかげで70年以上も平和であったのであるから、
憲法の戦争放棄や、国民主権や、個人の自由や基本的人権の尊重などの、
平和共存主義者。
0918日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:08:53.54
>>915
自分たちに向けられている批判をそのまま九州説に投げかけている畿内説がおかしいんだろうが。
0919日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:10:22.69
>>914
>ではなぜ河内ではなく大和の方をことさら取り上げるのか。
>しょせん、皇国史観が頭にこびりついているだけなのではないか。

仁徳天皇の宮都は難波高津宮、応神天皇も大隅宮があるね
通称、河内王朝って言われる時期だ
河内を持ち上げても、結局現在まで続く皇室の祖の地域にしかならないよ

単に>>914が勉強不足なだけだろww
0920日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:11:51.48
>>918
時系列が分からないところも、ねとうよ的視点からは、
どこぞの国の民にしか見えへんわww
0921日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:13:57.60
>>917
>憲法のおかげで70年以上も平和であった

「根拠」は?

憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義」が、現実には存在しないんだよ
0922日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:14:54.10
>>917
>私は、当然、
>現在日本は、憲法のおかげで70年以上も平和であったのであるから、
>憲法の戦争放棄や、国民主権や、個人の自由や基本的人権の尊重などの、
>平和共存主義者。

なんだ、ただのバカかww
0923日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:15:31.80
>>92
>まぁどうせ九州説の異常者のレスなんて全部消してるから見えないし
透明の中で幾らでも寝言言えばいい
誰も読んでもない事知らんで延々と粘着してると思うと笑える <

私は、当然、・・・・キョクウの大和説者が、
私の投稿を読んでいないし、無視している事も知っており、
私の投稿目的は、世間の人々が、「嘘つき騙しの大和説」に騙されて、
また国粋皇国史観戦争に賛成してしまわないように、国民に説明をし続ける事。
0924日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:15:47.31
>>917
>私は、当然、
>現在日本は、憲法のおかげで70年以上も平和であったのであるから、
>憲法の戦争放棄や、国民主権や、個人の自由や基本的人権の尊重などの、
>平和共存主義者。

本気で日本を貶めるのが目的の活動家じゃんww
0925日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:17:41.06
>>923
>嘘つき騙し

>>902にも書いておいたけど「嘘つき騙し」って、日本語としてはおかしいよ?
何人(なにじん)?
0926日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:21:36.91
>>97
>察するに九州説自体が左翼思想家か何かが作り上げた出鱈目で
目的は天皇中心の皇国史観を復活させない事だろう <

違うね。
九州説者は、平均して、史料事実が示す歴史像を追求しているだけであり、
大和説者は、始めから「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しを敢えてやっているから、
思想宗教的な「結論先にありき」にクルった・・・・集団。
0927日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:23:33.91
>>926
>「南→東」

魏志倭人伝で、九州に上陸してすぐ
末廬國から伊都国を、本当は「北東」なのに、「東南」陸行って間違ってるね
魏志倭人伝では狗奴国は「南」なのに、後漢書では「東」度海千餘里至拘奴國になってるね
どちらかは間違いだね
隋書では、対馬から壱岐が「東」に間違ってるね

旧唐書でも
「皋遂命巡官崔佐時至牟尋所都陽苴棟驕C南去太和城十餘里,
 東北至成都二千四百里,東至安南如至成都,通水陸行」
とあって、内容を確認すると
陽苴棟驍ヘ現在の大理白族自治州大理市で、そこから東北に2400里で成都、
「東」に水行陸行を通して成都に至る如し(同じくらいの距離)で安南(ハノイ)に至る 
となっているけれど
実際には成都から安南は「東南」

大陸の史書に、方角が間違っている例は、こんなにあるんだけどさ
どうしてだろうね?
探せばまだまだいくらでもあると思うよ
大陸の正史は、国外のことには無頓着だからね

否定したかったら「根拠」を挙げて、正しい「論理」で論証しておくれww
0928日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:32:24.14
>>926
>九州説者は、平均して、史料事実が示す歴史像を追求しているだけ

違うよ
九州説は、安本美典系の「邪馬台国の会」、基本は東遷説と
古田武彦系の「古田史学の会」、基本は九州王朝説のどちらかの「信者」だけだよ

宗教的な信念だけが根拠だから、ムダに攻撃的ww

東遷説と九州王朝説では、まだ東遷説の方が分があり、実際、古田と安本の討論では
古田が論破されている

実際、日本の史書の信頼性も高くなる遣隋使の時代まで九州王朝の遣使だとするのは、
無理がある

そして、分があった東遷説も、編年の科学的根拠が蓄積され精緻化するのに伴い、
卑弥呼の時代が既に古墳時代だと認められることで、既に崩壊している

九州説は勉強不足の頭のおかしい人がしがみついているだけのオワコンww
0929日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:33:57.48
>>105
要するに大和説者は、
ワシが信仰する記紀の皇国史観の大和説と違うから、お前の言うことは間違いだ、
と言っている。
0930日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:36:23.05
>>908
実際みんな1の意見とあんまり変わらない
畿内説のテンプレなんだから当然だ
0931日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:36:57.58
>>928
よく映る鏡を特別に貸してあげましょうか?
0932日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:37:22.97
ザラコクを論破せよ

まずは方位

これは永遠の畿内説の課題
0933日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:37:45.75
>>925
狂人
0934日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:37:46.40
>>926
>史料事実が示す歴史像を追求しているだけ

違うよ
自説に合うところだけつまみ食いして、
反するところは妄想・捏造・曲解するタチの悪いチェリーピッカーだよ

だから基本的に根拠がないし、訊かれても答えられないし答えないww
0935日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:38:26.77
>>107
大和説が無理なことが、国民に知れ渡ってから早くも45年。
大和説命令者はもう、みんなお爺ちゃんだね。
その前から皇国史観の記紀の大和説はキワモノ扱いだったし。
0936日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:39:18.39
>>932
ザラコクって昭和のころから論破されてるだろ
0937日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:41:26.23
>>932
>まずは方位

直近では>>927でこれ以上ないくらい論破されてるだろ
再反論も意味のないことしか書けてないし

大陸の史書で、方位の間違いは「普通にある」んだよ
そして、九州に上陸した時点で間違ってるんだから、
そのあとも間違ってておかしくないし
陳寿の側に間違う動機もある
0938日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:42:05.22
>>108
>何度も書いてるだろうが?
「I〜IV式までの方格規矩鏡の製作年代が1世紀の中頃より繰り下がらない」<

それでは、洛陽晋墓や平原の方格規矩鏡の存在の説明が出来ない、と言ってんだよ。
0939日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:44:51.18
>>110
大和説は信仰にしか見えない。
根拠を聞かれても答えずに、「南→東」などの史料事実の否定曲解をしているから。
0941日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:47:27.76
>>117
このように、大和説はいつも発狂している。
0942日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:47:57.96
>>938
>平原の方格規矩鏡の存在

それ全部仿製鏡ww
倭国内で作れるんだから、いくらあってもお宝じゃないだろ?
0944日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:49:19.65
>>118
「南→東」などは絶対だ、間違いない、と喚くが、
何一つ根拠を提示できない。
それが大和説。
0945日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:50:52.55
>>941,>>944
反論がオウム返しな時点で、
オリジナリティなしの低脳と告白してることにしかならないんだがww
0946日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 19:53:31.66
こうやって、ほぼひとスレ分昔のコメントにレスすることで、
再反論を避けてるんだろうな

とことん姑息
0947日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:01:23.26
>>133
>周囲を完全に畿内の土器に取り囲まれた周りに一歩も影響が出ない?製鏡だらけの
小規模な個人墓なのは何にも変わらんし<

倭人伝の記載に従えば、平原は、奴國の入り口付近である事になるから、
奴国の土器状況で考えなくっちゃダメんんだよ。

>しかも九州全域が生活も宗教も全部畿内の物に塗り替わってる<

筑紫の在地の胎土で造られた庄内や布留が沢山あるから、
播磨や河内(大和ではないよ)からの土器は、搬入上納になる。
0948出退勤垢版2018/02/21(水) 20:03:29.43
皆さん 知ってると思いますが
奥村さんの出退勤はデタラメでした(過去形です) 
0949日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:04:19.24
>>134
>方格規矩鏡の形式別の編年のところをちゃんと読みな<

鏡の考古学は、洛陽晋墓から出土鏡の事を書いていないから、×論考だよ。
0950日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:06:48.46
プロパガンダ合戦だな。

半島人のプロパガンダvs縄文人のプロパガンダ
0951日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:07:18.30
>>919
>通称、河内王朝って言われる時期だ
>河内を持ち上げても、結局現在まで続く皇室の祖の地域にしかならないよ

だからさ、それなら邪馬台国河内説を唱えないのはなんでなんだよ。
0952日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:08:36.14
>>928
>九州説は、安本美典系の「邪馬台国の会」、基本は東遷説と
>古田武彦系の「古田史学の会」、基本は九州王朝説のどちらかの「信者」だけだよ

違うな。
どちらも九州説の主流である伊都国説ではないからね。
的外れな批判は痛くもかゆくもないな。
0953日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:09:41.34
>>932
>ザラコクを論破せよ

畿内説には無理だろう。
九州説なら可能だけどね。
0954日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:09:46.78
>>947
>平原は、奴國の入り口付近である事になるから、

本当に、バカなんだな
>>688にもこう言われてるし
「無視でいいんでないかい?  九州説としてもあり得ないよ。」
0955日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:10:35.69
>>942

だから、内行花文鏡を議論しろよ。
0956日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:11:23.95
>>951
>洛陽晋墓から出土鏡

>>528を再掲
それが、「なんという墓」から出た「どれ」で、何処を調べれば確認できるか、
まで示して、初めて「根拠」を示したことになるんだぞ

少し努力したな がんばれ!
0957日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:11:56.00
>>948
内部告発はヨソでやれ
0958日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:13:48.89
>>954
奴国は高祖山の東側、福岡平野だよ。
糸島平野に2万戸入るわけない。
博多が九州北部で最大の人口圏だよ。
0959日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:14:11.68
>>951
>邪馬台国河内説を唱えないのはなんで

当時の遺跡の状況から見て、畿内纏向の方が優位なのが明らかだからだよ

顕著な遺跡が見られないところは、
卑弥呼の「王都」である邪馬台国の候補にすらならない

ここのところで、九州説は候補にもならないんだよ
0960日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:15:21.28
>>952
>九州説の主流である伊都国説

それ、単なる苦し紛れww
だって、「根拠」ないじゃんwww
0962日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:16:09.17
>>955
>内行花文鏡を議論

主張してるのはそっちなんだから、議論したかったら勝手にすれば?
0963日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:16:20.56
>>140
>>その外周電子を取り去ってしまえば、当然閣内の電気的安定性が破壊されて、
余分な電子弾き飛ばされることになり、
ベータ崩壊(電子の放出)が促進されてしまう。<

>これ、どんな顔して書き込みしてるんだろう? 原子核をなんだと思ってるんだろうか?
九州説の人って、科学を軽視してるよね? 無知というのも憚られるくらい
今日日、ちょっと賢い中学生ならこれがどれほどバカなこといってるか分かるぞ
ちったぁ書き込み前にググるとかしてみればいいのに <

この男も、
湯川さんの中間子論が、
原子核内の複数以上の陽子と中性子だけであったのなら、
+荷電の陽子間の強烈な反発力で原子核の結合が不可能になって崩壊する、
という事から推定された、
という事が理解できないアホ。」
0964日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:17:37.13
>>958
そのアンカー、>>947につけて
0965日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:19:14.34
>>143
>>山東半島からも、帯方からも「萬二千余里」なのが矛盾。<

>つまり、現実世界に測定値じゃないってことだろ?
すなわちそれが「観念的な値」ってことだよ! 観念って言葉、意味は分かるか?<

いや、魏の役人や魏使らは、淮南子の観念を信用していなかった、
という事を示す。
0966日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:22:41.00
>>963
>湯川さんの中間子論が、

どうして自分の低能さをこんなにひけらかしたがるんだろう
原子核内の陽子と中性子を結びつける「強い力」は、
核と電子の間の「電磁気力」より桁違いに大きいから、
いくら電子を引き剥がしてプラズマにしたところで、
原子核の崩壊確率は変わらない

核物理の基礎の基礎も分からないくせに何を言ってるんだか
0967日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:23:38.05
>>965
>淮南子の観念を信用していなかった

これが妄想
だから「根拠」がないんだろww
0968日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:26:55.69
>>162
わけわかんないのは大和説。

大和説にとっては都合が悪くて「×とされた」問題には、
理由も反論もせずに逃げて隠れてしまうから。
0969日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:29:04.05
>>968
またオウム返しだよ
低能のきわみ

>「×とされた」問題には
その×に根拠がないからww
0970日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:32:30.01
>>165
倭の五王が大和の王である「根拠」を示せないし、
日本書紀の遣使や中国使が、隋書などの記載とは全く違う、という事の説明も出来ないし、

この大和説男も、バカなの?。
0971日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:36:24.75
>>176
相変わらず、「南→東」などの嘘つき騙しに関して、まったく理由を言わないなー。
大和説って、それでいいの?。
0972日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:38:03.04
>>181
それでも頑として根拠を言わない大和説。
0973日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:41:19.91
>>970
>倭の五王が大和の王である「根拠」を示せないし、

示してあるだろ?
前スレ662,663を参照
>>970の能力が低すぎて示されている「根拠」が読み取れないだけww

そして、再質問で逃げてるだけの低脳
さっさと「九州王朝の王である」ことを「根拠」をもって論証しなよ
例の「松野氏姫氏系図」でも持ち出すのかなww
戦後に書かれたペン書きの偽系図ww

>日本書紀の遣使や中国使が、隋書などの記載とは全く違う

日本書紀の冠位や、裴世清という固有名詞まで一致してるじゃないか
何をもって「まったく違う」って言うんだかww
こういう都合の悪いことから逃げまくるチェリーピッカーが九州説
0974日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:41:52.25
>>187
これ、2〜3回反論説明済みの投稿だから、放置ね。
0976日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:45:45.60
>>974
>2〜3回反論説明済み

反論できてないぞww
再反論されてるのを、前スレだからって放置して逃げてるだけじゃないか!
姑息な九州説のやり口だよな!!
0977日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:47:15.46
>>190
>>東渡海千里は、里数的に山口付近にしかならないから、×。<

>海を渡る(当時としては外洋航路の)「渡海」と、
沿岸航行の「水行」に区別が付いていない<

(「水行」よりは)、
「渡海」と記録すべき実態があったから、
魏使らは「渡海」と記録した。
0978日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:53:12.46
>>977
>「渡海」と記録すべき実態があったから

また「根拠」のない脳内妄想だよww
こういう妄想しか九州説の基礎にないことが丸分かり
どうして自分の無能をこんなにさらしたがるんだろう?
ザラコクだからかな?
0979日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:54:57.39
>>205
大和説って進歩がないな。
0980日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:56:32.96
>>208
大和説者が、また捏造?。
0981日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 20:57:59.20
>>210
>出雲も吉備も大和も倭国だけどな <

「南≠東」に拠って、×。
0982日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:01:10.92
>>211
>残り13くらいを本州四国に配置すればばっちりだろう
吉備や出雲、丹波、大和・河内、近江、東海(狗奴国)は、かなり動員力のある、
ある程度広域の領域国家的段階に成長しているようだし、
この推定で大きく間違ってはいないと思うよ<

「南≠東」だから、×。
0983日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:03:22.99
ここのすれでは新参者だけど、ザラコクってひどいね
いつもこんななの?
0987日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:08:21.25
聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども

壬申の乱で天武に敗れたなにわは、奈良時代は寂れていたんだね。
この歌からはなにわが、芦原中津國、食国であるのが伺える。
河内湖や大阪湾は、恵みの湖、海だったんだろうな。
0988日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:08:43.66
>>937
畿内説が必死なのはよくわかる

時代錯誤の文献なんでもかんでも悪用する

必死さが畿内説の窮地

淡々と事実を語れば良いのだが

畿内説は事実無視で成立してるから  Ww
0989日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:09:41.25
畿内説=奈良県の地域振興説
0990日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:09:42.68
>>218
>結局「三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡ではない」とセットで九州だったらいいな説の人が
いう「10種の魏晋鏡は福岡県が圧倒的」というのは、平原遺跡出土鏡だけに依拠した
ものであり、現在平原遺跡の鏡が古い伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている
以上、まったく根拠がないことになる <

「現在平原遺跡の鏡が古い伝世鏡2枚を除き『全て仿製鏡』とされている」
と変更した根拠や論理を提示しないと、
何の説得力もない事になる。
0992日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:11:20.52
>>217
>卑弥呼を共立した豪族(=ローカル王)連合というのが正しいだろうね
共立範囲は、それなりに広域でなければおかしいだろ?
そして、豪族連合というのは、そのまま初期大和王権の姿だ 何も問題はないだろ?<

「南≠東」だから、×。
0993日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:12:56.06
>>218
>卑弥呼の共立主体は、後の国造程度のローカル首長だよ
特に大きいのが、出雲、吉備、丹波、大和など<

「南≠東」に拠って×。
0994日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:14:28.87
畿内説=奈良県の地域振興説
畿内説=奈良県の地域振興説
畿内説=奈良県の地域振興説

京都も大阪も兵庫も滋賀も畿内説に関係ねーーーー
奈良だけ嘘で独りぼっち
京都も大阪も兵庫も滋賀も畿内説に関係ねーーーー
奈良だけ嘘で独りぼっち

畿内説改め 奈良県観光協会説
0995日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:16:44.51
>985
>すべて過去に論破済

論破できてない
前スレだからって答えずにごまかしてるだけ
姑息で卑怯なのが九州説

前スレ829
「>「陸行五百里」は途中の道なり移動を示しており、経路はある。

「経路はある」と言い張るなら、その経路の経由点を順に示しなよ
「根拠」を示せと何度も言ってるじゃないか? 」

前スレ832
「「途中の移動説明」って何?ww
また世間に通用しない「謎概念」を出して来たなぁww
四至って何? 魏志倭人伝は普通に八方位で書いてあるぞww」
0996日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:17:08.63
すまん
岸和田は畿内説の範疇かい
0997日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:22:45.82
>>237
>>松浦川上流に丹山はあったし、倭人伝には「丹木」の献上も記録されているし、<

>この時点で、知識のなさを露呈 松浦川上流にあると「現代の知識」でいっても、
弥生時代に知られていなければ意味がない <

魏使らは、松浦川を渡っているから、知っている。

>「丹木」がなんだか分かっていないだろ?ww
分かっているなら「根拠」を挙げて説明してごらんww
鉱物の丹(辰砂、水銀朱)とはまったく関係ないよww<

「木」であるから、辰砂ではない事は判る。

>「市」を介して西日本の物品は、幾らでも集められる。<

>魏志倭人伝には「其山有丹」と書かれてるんだよ 山がなければ、無意味
山は「市」で手に入らないだろww
九州のみの倭国は破綻してるんだよ<

松浦川上流。
0998日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:22:46.38
埋め
0999日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:23:40.29
バカスレ
1000日本@名無史さん垢版2018/02/21(水) 21:24:06.14
奥村 ガンバレ
10011001垢版Over 1000Thread
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life time: 3日 5時間 51分 53秒
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