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邪馬台国はどこにあったか初心者に説明するスレ4
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001◇cTVFTrvr8M代理
垢版 |
2018/03/02(金) 09:50:12.99
当方、魏志倭人伝の現代語訳だけは読んだレベル也。
日本書紀は読んでない也。
お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)
投稿が分割するほど長いなら名前欄を使ってくれ。
できれば初心者がググらないでいいようにしてくれ。 (できればでいいです(前スレはググりながら読んでいました))
初心者が口を挟むとベテランの方同士が喧嘩になるようなので読むだけにします

前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1515726821/
0002日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:08:54.59
パート3は楽しかったよね

では萬二千里から
これは大陸の地の果てまでの観念的な値
淮南子:時則訓にも書いてあること
「東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。」

魏にとって、より遠くから朝貢に来るほど、皇帝の徳が高いことになるから、西の大月氏国も東の倭國も、だいたい萬二千里の彼方とされていて、どちらも親魏大月氏王、親魏倭王の金印をそれぞれもらっている

また魏志倭人伝(三國志)が書かれた晋の時代は、司馬氏の王朝だから、その始祖の司馬懿の功績、遼東の公孫氏を滅ぼしたこと、およびその結果倭國が朝貢してきたことを精一杯顕彰するためにも、倭國は世界の果て、萬二千里の彼方で「なければならなかった」んだよ

そして魏志倭人伝でも「自郡至女王國萬二千餘里」と書いてあって、邪馬台国までとは書いてないことにも注意が必要

女王國=倭國までの観念的な値だからで、これを根拠として邪馬台国の位置を探ろうとするのはほぼ無意味だ
0003日本@名無史さん
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2018/03/03(土) 23:19:24.40
弥生時代と古墳時代の違いは、ほぼ古墳を作るか作らないか「だけ」だということ

どちらも地域首長がそれぞれのクニを支配していて、稲作農業中心の水系単位の共同体がクニの大きさであることも共通

鉄はどの地域でも入手に困っていたようには見えない

古墳時代の倭國と、弥生末期の倭國の、クニ同士の交流の中心を別の場所に求める理由がない

そして古墳時代の全期間を通じて、それぞれの時代で最大の古墳が作られる地域=倭國社会の中心が畿内以外にないことから、弥生末期に倭國の女王卑彌呼がいた場所は、畿内大和だと考えるのが一番整合性が取れる

実際、プロの研究者で、畿内説以外の人はいない

論理的に考えれば、当然に畿内が邪馬台国の所在地と考えられる
0004日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 00:31:22.82
まず、弥生後期から古墳時代の始まりにかけての年代感を確認してください。
古墳時代の開始は「箸中山古墳の築造」からと、ほぼピンポイントで指定できます。
この古墳が最初の200メートル超の超巨大古墳であり、この古墳により「前方後円墳」という規格が
定まったという意味で、この古墳を作るイベントが古代史における一つの画期であったことは
間違いありません。
そして、箸中山古墳とほぼ同時に最初期の前方後円墳が日本のかなり広い範囲に同時に
作られたことから、その時点で日本のかなり広い範囲に「前方後円墳を作る共同体」が
成立していたと考えることができます。そして北部九州もその範囲内であり、作られた古墳の
大きさは畿内に比べるとかなり小さいものであることを確認してください。
前方後円墳に代表される「古墳」は、いきなり生まれたものではなく、先行する弥生時代後期には
各地に「王墓級」とも言うべき副葬品を伴った墳丘を伴う弥生墳墓が作られます。そして、
そのうち特に大きなものは、岡山の楯築墳丘墓や、丹後の大風呂南一号墳墓、出雲の西谷墳墓、
福岡の須玖岡本遺跡など、古墳時代にも一定の勢力=古墳築造能力を有する地域にあり、
こうした遺跡を見ていけば、ある程度当時のクニが見えてきます。箸中山古墳に先行する
勝山古墳などの巻向墳墓群も、弥生墳墓の範疇だと思います。
こうした巨大な弥生墳丘墓ができる前の弥生時代は、家族墓として複数の遺体が埋葬される墓制が
とられており、多くの副葬品を伴う「王墓級」の出現は、社会のあり方が変わってきたとこを
示してもいます。
「王墓」とともにクニを見出せる遺跡に環濠集落があり、九州の吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡、
大阪平野の池上・曽根遺跡、奈良盆地の唐古・鍵遺跡は、当時のクニがどんなものかを
知る手がかりになります。壱岐の原の辻遺跡は、東夷伝倭人条の一支国そのものです。
ただ、ここに挙げた遺跡が邪馬台国の時代に合う訳ではありません。
0005日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 00:33:50.76
箸中山古墳の築造年代は、精確には分かっていませんが、年輪年代法によりそれなりに
信頼できる推定ができるようになって来ました。古墳の年代は、円筒埴輪の形式や
出土する土師器や須恵器による編年が作られており、そこに年輪年代法で求められた池上曽根遺跡の
柱の年代などを合わせることで推定されています。それによれば、箸中山古墳の築造年代は
3世紀後半と考えられ、魏志東夷伝倭人条の卑弥呼の没年247年のすぐ後の時期となります。
ただ、日本の年輪年代法がたった一人の研究者によるものであり、追試ができないため、
過度の信頼はできないとする人もいます。一方、この年輪年代法とC14年代法との間に
大きな矛盾はなく、大まかな年代推定としては十分だともいえます(本来年輪年代法は、
1年単位の正確な絶対年代が出るものですが)。

私の結論としては、魏志東夷伝倭人条が書かれた時代は弥生後期から古墳時代に
差し掛かる頃であり、日本の広い範囲(最初期から前方後円墳を作った範囲)で
倭国としてのまとまりがあり、その中心的な存在は纏向遺跡の勢力であった、というものです。

箸中山遺跡が卑弥呼の墓であってもなくても、その当時の国の中心が、この纏向の勢力で
あったことは間違いないでしょう。そして、この纏向の地は、崇神、垂仁、景行という実在と
される最初の三代の天皇の磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮の地であり、当時の倭国
の中心勢力が大和朝廷(という呼び名は後付けですが)そのものと考えることに
問題はないと思います。
0007日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 03:42:59.00
革命的社会変化が起きたことは予想される。しかし首長相互の緩やかな同盟のみで
これを説明するのは難しい。
列島の首長たちは、いかにして大量の動員力を得るに至ったのか。
ヒントは一見平和的に静かにかつ速やかに拡散していく畿内系の土器にある。

【長く激しい戦争】
時に瀬戸内海の数百年にも及ぶ長い戦乱が終わりを迎えた弥生終末。まさにその場所で
古墳時代の始まりを告げる大型墳丘墓が現れる。
墳丘墓を造ったのが戦争の勝者なのは確かだろう。
すなわち、大型墳丘墓の出現は、戦争の勝者が思いがけなく大きな動員力(戦争捕虜)を
獲得したことを意味する。弥生時代には誰も持ち得なかった大きな力である。

【勝ったのはだれか】
大型墳丘墓を造ったのが戦争の勝者だとして、彼らは一体何者だろうか。
在地の勢力か、侵略者か。

【静かな拡散】
弥生中期から後期まで続いた瀬戸内海を舞台にした長く激しい争い。
それとは対照的な弥生終末期の畿内系土器の急速な、しかし静かな拡散。
この2つの間に西日本に何が起きたのだろうか。

平和的に畿内系の土器が拡散したのは、そのとき既に西日本が何かしらの統制の下に
あった為ではないか。
早ければ弥生中期にはもう、九州と瀬戸内との間で一部機能していた可能性もある。
畿内が吉備の影響を受けるはるか以前である。

それにしても何故畿内系土器が急速に拡散したのか? それは、畿内を市(いち)と
その後背地として人が取引される仕組みが出来た為だろう。
弥生中期から始まる瀬戸内海の侵略戦争が契機となり、弥生終末期には畿内を主な供給地
として「人の取引」つまり奴隷制、奴隷貿易が確立したのだ。
これが効果的な労働力供給手段となり、畿内系土器と大型墳墓が九州にも拡散した。
しかし、人的資源の急激に枯渇により奴隷貿易はそう長くは続かなかったと思われる。
0008日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 10:43:36.91
>>6
突然現れたのは、卑彌呼という女王が共立されたからでしょう
それまでになかった社会秩序が作られ、そのために新しい王都を建設したのだと思います

消えた方は、古代の宮都は大王の代替わり事に移動するのが普通だったから、というのが根本にあるのだと思います

大王は各地の有力者の娘のところで子供を作り、その子供はその母親の元で育てられます
兄弟であっても母親が違えば、別々の場所で育ち別の家系扱いです
そして各地で育つ皇子のうち、もっとも有力な母系の皇子が次の大王位を嗣ぎ、母系の本願地に宮都が置かれます

逆に崇神、垂仁、景行の三代が纒向に宮都を置いたのが不思議なくらいですが、纒向が葬送儀礼のための祭祀都市だったのと、大きな労力をかけた王国の首都だったから代を重ねて使われたというところではないでしょうか

と、ここまで書いてきて思ったのは、纒向の本質は祭祀であって、宮都としての機能は磯城瑞籬宮、纏向珠城宮、纏向日代宮の方にあったようにも思います

纒向は纒向古墳群の地であるというのが本質で、100メートル級が4つ、その後286メートルの箸中山古墳が作られます
その後、大王の古墳を含め、墓域が大和・柳本古墳群へと移動していき、そこもいっぱいになったところで、纒向はその役目を終えて消えた、というのが一番分かりやすい理由のように思います

この辺はどうしても推測混じりになりますが、このような経緯だと理解すればよいのではないでしょうか
0009日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 10:53:08.55
>>7
>しかし首長相互の緩やかな同盟のみでこれを説明するのは難しい

標準的には、卑弥呼の共立は穏やかな同盟で、それぞれの地域首長はそれぞれの地域の主権はそのまま維持していたと考えられます
そしてその同盟の本質は、祭祀の統一であり、全国で一斉に前方後円墳を作り始めます

しかし、その同盟が共立に参加した首長同士の個人的な関係に依拠していたために、代替わりごとに同盟を確認する必要のある不安定なものだったようです
そのため、結局その後に大和朝廷による統一戦(四道将軍、景行、ヤマトタケル、仲哀・神功)が必要だった、と考えればよいのではないでしょうか
0010日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 04:48:14.35
>>4
>古墳時代の開始は「箸中山古墳の築造」からと、ほぼピンポイントで指定できます。



>福岡の須玖岡本遺跡など、古墳時代にも一定の勢力=古墳築造能力を有する地域にあり、

年代がめちゃくちゃ。
須玖岡本は明らかに弥生時代だろ。
0011日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 04:51:10.78
>>5
>柱の年代などを合わせることで推定されています。それによれば、箸中山古墳の築造年代は
>3世紀後半と考えられ、魏志東夷伝倭人条の卑弥呼の没年247年のすぐ後の時期となります。

魏志倭人伝には、邪馬台国から海を渡って東に行ったところにも倭種がいると書いてある。
畿内の古墳の年代をどれだけ捻じ曲げて卑弥呼の年代に近づけても、魏志倭人伝が九州のことばかり取り上げている以上、畿内は倭種ぬすぎない。
0013日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 12:13:08.79
>>11
>魏志倭人伝には、邪馬台国から海を渡って東に行ったところにも倭種がいると書いてある。
>畿内の古墳の年代をどれだけ捻じ曲げて卑弥呼の年代に近づけても、魏志倭人伝が九州のことばかり取り上げている以上、畿内は倭種ぬすぎない。

魏略では、冒頭にその部分があったようですよ?
倭在帯方東南大海中 依山島爲國 度海千里復有國 皆倭種
(前漢書 卷二十八下 地理志 燕地 顔師古注)

これで読むなら、
倭は帯方の東南大海中にあり、山島に依りて国を為す
海を渡ること千里 また国あり 皆倭種
というだけで、要するに倭は山がちな島国で、千里ぐらい離れたところに
ある島もみんな倭人の国だっていうくらいの意味になります

魏志倭人伝でも、基本的には同じ意味だと思いますよ

畿内の古墳の年代を捻じ曲げるとか書いてないで、
九州説なら平原1号墓の「仿製鏡」の年代を論じてください
0014日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 12:19:34.99
>>10
>年代がめちゃくちゃ。
>須玖岡本は明らかに弥生時代だろ。

当然分かってますよ
須玖岡本遺跡の頃が甕棺墓V期で弥生中期後葉〜末(一世紀初めごろ)です

須玖岡本遺跡はひと頃の奴国の本拠地で、卑弥呼の頃には奴国の中心は
比恵・那珂遺跡群のあたりに移動しますが、同じ流域です

そして、那珂遺跡群を母集落とすると考えられる那珂八幡古墳が古墳時代初頭
(あるいは箸中山古墳以前の纏向型前方後円墳)に作られているので、
「須玖岡本遺跡が『後に古墳造営能力のあるクニ』の所在を示す遺跡」と
いうのは、間違っていないと思います

わざわざ九州の王墓も挙げて、気を使ってるんですよ
0015日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 12:33:11.82
>>11
>魏志倭人伝が九州のことばかり取り上げている

魏志倭人伝は、陳寿が撰述するときに、それまでの文書をいろいろ集めて
書かれている訳で、光武帝から漢委奴國王の金印をもらったときや、
倭国王帥升等の朝貢のときの記録も当然参考にしているでしょう

これらの西暦57年、107年の朝貢は、北部九州の王によるものだということには
畿内説も反対しません
そのときの記録がある分、九州の記事が多くなるのもある意味当然でしょう

ただ、そういう時代の異なる記録をごちゃ混ぜにしているため、全体として
整合性が取れなくなっています
末慮國からの東南五百里は、松浦川に沿って筑紫平野に抜ける道と考えれば
ちょうどよいのですが、伊都国へ向かう旅程としてはおかしいことになります

倭国王帥升を、『通典』では倭面土国王と書いており、面土を「メタ」と読んで
「米多」に当てる説があります
筑志米多国造が先代旧事本紀にあり、佐賀県三養基郡米多郷は吉野ヶ里遺跡から
近い場所に当たります
伊都国から東南五百里の陸行が、吉野ヶ里辺りへ抜ける倭国王帥升の頃の
ルートだとすれば、話が合います

それが、伊都国へのルートだとされているあたりに、魏志倭人伝の
史料としての限界があります

こうした史料の限界を考慮せずに、魏志倭人伝のとおりに読むのが正しいと
いう立場では、意味のある議論ができません
0016日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 12:45:59.45
>>15の訂正 ごめんなさい

× 伊都国から東南五百里の陸行が
○ 末慮国からの東南五百里の陸行が
0017日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 12:59:02.44
>>7
>それにしても何故畿内系土器が急速に拡散したのか?

小難しく考える必要はまったく不要。
東阿波型土器の工法が倭国(阿波)を発した忌部一族によって、各地に拡散されただけ。 極、単純な事象。  @阿波
0018日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 13:02:42.81
>>17
考えなすぎ
0019日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 13:13:34.31
>>9
>標準的には、卑弥呼の共立は穏やかな同盟で、それぞれの地域首長はそれぞれの地域の主権はそのまま維持していたと考えられます

大袈裟。 単に倭国(阿波)国内での出来事。


>そしてその同盟の本質は、祭祀の統一であり、全国で一斉に前方後円墳を作り始めます

全国で一斉に前方後円墳を作り始めたのは、倭国(阿波)から展開していた忌部一族が本国(阿波)の工法を応用して、お墓を造っただけ。  @阿波
0020日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 00:47:17.19
もう一つ考えるべきことは、陳寿の頭の中では倭國は南の国と思われていたことです

それが端的に示されているのが「計其道里當在會稽東冶之東」の部分で、
台湾よりちょい北くらいの東で、九州よりずっと南方になります

また、「所有無與儋耳朱崖同」とあり、儋耳朱崖と風俗が同じと述べられていますが
儋耳朱崖は海南島付近とされていて、これも南方です

あと傍証としては、「倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣」
倭地は温暖で夏も冬も生菜を食べ、皆裸足である とか
「今倭水人好沈沒捕魚蛤」倭人は好んで海に潜り魚蛤を捕る というのも
暖かい南の地を思わせます

こうしたことから、旅程が南だと「思われた」というのは想定可能なことです
0021日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 01:14:59.56
また倭人伝に倭地温暖とあるが、黒潮の影響で日本列島は同緯度の中国沿岸よりも温暖である。
例えば同緯度帯の上海よりも南九州は暖かく、昼間の活動時間は上海のずっと南の
福建省福州市の気温にも近い。福建省福州市は当時の會稽東冶である。
宮崎県にある青島の植生などはまさに海南島のそれでもある。

編纂時における距離単位の混乱に加えて、倭地の温暖な気候や植生の報告もあって
陳寿が、実際の九州の位置よりかなり南に計算してしまっている可能性は高い。
0022日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 07:02:46.83
>>21
さらに倭人は魏略で「自謂太伯之後」と伝えられ、
その点でも南方系(呉と行き来がある地域)と思われていたようです

畿内説が投馬国、邪馬台国への「南至」を「東至」が正しいと考えるのは、
実際に倭国を訪れた魏使の報告書で方角が間違っていたと考えるのではなく
報告書等をもとに魏志倭人伝がまとめられるときに、倭国は南国という
観念に合わせるために南とされたと考えています
0023日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 07:44:43.89
>>15
>これらの西暦57年、107年の朝貢は、北部九州の王によるものだということには
>畿内説も反対しません

そこから倭国大乱、卑弥呼政権と年代的に連続しているのに、なぜ卑弥呼から畿内に話が飛ぶのか。

>伊都国から東南五百里の陸行が、吉野ヶ里辺りへ抜ける倭国王帥升の頃の

五百里では抜けられないよ。
0024日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 07:47:49.04
>>21
>陳寿が、実際の九州の位置よりかなり南に計算してしまっている可能性は高い。

使いの記録を陳寿が長里で解釈したらその可能性はある。
しかし、東の間違いだというのは根拠がない。
実は使いの記録は短里でした、邪馬台国は九州北部です、で済む話だよ。
0025日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 11:25:06.08
>>23
>そこから倭国大乱、卑弥呼政権と年代的に連続しているのに

倭国大乱ではなく、倭国乱、ですね
このあたりは、文献資料も少ないので、畿内説として詳しい解説をすることでも
ないのですが、畿内から北部九州にかけて見られる高地性集落や防御性逆茂木の
ある環濠集落を、倭国乱を反映したものと考えるのが標準的な解釈です

そして、倭国乱の後、かつての勢威を失った九州を含めて、出雲や吉備、
大和with河内(畿内第V様式土器の範囲)の勢力が、談合で卑弥呼を共立したと
考えます

高地性集落は、それなりの期間存続していますし、倭国乱の期間が数年と
いうこともないでしょう

北部九州は甕棺墓が廃れる頃には、王墓らしい王墓は見られなくなりますし、
北部九州の王の朝貢(帥升等107年)から、卑弥呼の遣使・239年までは、
130年以上間があいています

言うほど年代は連続していないと思いますよ
130年はだらだらと物事が移り変わっていくのに十分な時間です

>五百里では抜けられないよ。

短里で考えるからですよ
魏晋里435メートルで考えれば、おつりが出まくります
0026日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 11:40:31.48
>>24
>しかし、東の間違いだというのは根拠がない。

陳寿が「『最初から』倭国が南方」と考えていた根拠は>>20〜22に書いてあります
特に「計其道里當在會稽東冶之東」の「當、まさに」は、「元からの想定」に「まさに」一致している、ことを示しています

この状態で、東向きの長距離移動を示す記録を読めば、南の間違いだと判断する蓋然性は十分にあります

記録を撰者の判断で書き換えることの例は、隋書で確認できます

隋書では
「『古云』去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里」の二文字があり
この「古(いにしえに)いう」は、「今は違うことが分かっているけれど」という意味を含んでいます

隋書では、裴世清が大和まで訪ねた記録がありますが、その中で
大和までの道のりが基本東向きであることを確認して、それまでの
魏志倭人伝以来の方角を全部90度回して記述した形跡が見られます
「經都斯麻國迥在大海中 又『東』至一支國又至竹斯國」
対馬を経て、壱岐、筑紫への方角が「東」になっています

これは、魏志倭人伝等の古記録を直す意図の下で、あえて書き直して結果として間違ってしまった例としてよいでしょう

「南⇒東」は、陳寿も魏使の記録に対して、同じことをした
=「記録より自分の判断を優先して書き直した」と考えるわけです

>実は使いの記録は短里でした、邪馬台国は九州北部です、で済む話だよ。

「短里という単位」があったということは、どうやっても論証できません
奴国までの比定地に争いがないのに、そこから「水行20+10日陸行1月」を
北部九州に収める方法がありません

短里も、北部九州も、仮説とするに足る「根拠」がないんですよ
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 11:50:34.58
>>25
>畿内から北部九州にかけて見られる高地性集落や防御性逆茂木の
>ある環濠集落を、倭国乱を反映したものと考えるのが標準的な解釈です

違います。  倭国乱は倭国(阿波)国内の争乱ですね。
誇大妄想。 卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。   @阿波
0028日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 11:54:38.36
>>25
>出雲や吉備、 大和with河内(畿内第V様式土器の範囲)の勢力が、談合で卑弥呼を共立したと
考えます

卑弥呼を共立したのは、倭国(阿波)のうち、邪馬台国内でのお話。

※北の邪馬台国(卑弥呼側勢力)
【旧吉野川流域北岸勢力 弥生時代集落】
東州津遺跡・大柿遺跡・土取遺跡・昼間遺跡(正力地区)・昼間遺跡(天神前地区)・昼間遺跡(西貝川地区)・足代東原遺跡・吉水遺跡・拝原東遺跡
・西長峰遺跡・北原〜大法寺遺跡・黒谷川宮ノ前遺跡・黒谷川郡頭遺跡・桧はちまき山遺跡・光勝院寺内遺跡・カネガ谷遺跡・桧銅鐸出土地

【旧吉野川流域南岸勢力 弥生時代集落】
ウエノ遺跡・マチ遺跡・須賀遺跡・相知遺跡・井出上遺跡・稲持遺跡・貞光前田遺跡

【鮎喰川下流域勢力 弥生時代集落】
樋口遺跡・延命遺跡・矢野遺跡・名東遺跡・鮎喰遺跡・庄遺跡・庄蔵本遺跡
0029日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 12:00:41.37
>>27
>大軍を率いて西日本一帯を戦い歩く

この想定が現実離れしてるんですよ
人の移動は縄文時代から広域・長距離で可能だったんですから、弥生時代にも可能です

そんなに大人数で攻めなくても、戦争はできます
隣国同士ならなおのこと、ロジスティクスも問題にならないでしょう

隣国同士の騒乱の連鎖のようなことを想定すればよいのでは?
0030日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 12:12:21.56
>>29
>この想定が現実離れしてるんですよ

だから、倭国(阿波)国内での争乱と言ってるんですよ。 

中国の三国(魏・蜀・呉)ならいざ知らず、卑弥呼の時代に大軍を率いて西日本一帯を戦い歩くことなど不可能。 あまりにも兵站を無視しすぎ。  @阿波
0031日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 12:46:24.74
>>30
>大軍を率いて西日本一帯を戦い歩く

大群は弥生時代の乱に必要ないでしょう?
西日本一帯を転戦した軍勢など誰も想定していません

だからといって、それが阿波国内のこととする理由がありません
阿波の外にも、倭国乱が原因とされる高地性集落はたくさんあります
0032日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 12:53:48.34
>>26
>「短里という単位」があったということは、どうやっても論証できません

魏志倭人伝が短里で書かれていることは明白。
0033日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:04:52.91
論証もしないで?
0034日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:08:06.06
>>33
地図と見比べてみなよ。
論より証拠だ。
自分の手で計算してみなさい。
小学校レベルの計算でできるでしょ。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:18:48.46
中国史書に記載の倭国乱は2世紀後半(140〜180年代)。
高地性集落は2世紀後半ばかりでないことが明確になった今、両者を無理に対応づける
意義はもはや無くなったと言える。

そもそも、高地性集落は一方的に攻め込まれている状況のものであり、倭国乱の状況に
必ずしも合うとは言えない。高地性集落を例えるなら、17世紀の西インド諸島の
マルーンの集落だろう。
マルーンとは山中で武装し、自給自足の生活を送った逃亡奴隷の集団である。
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:33:43.03
>>34
>論より証拠だ。

その証拠が出せないのが、>>34
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:34:21.45
>>34
>地図と見比べてみなよ。

地図で計ってみたよ
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

四倍も違ってて「短里という単位」があったと主張するのは無理だろ?

それに、里は度量衡の一部なんだから、短里がもしあるとしても、
歩、尺、寸との対応が付けられなければならない

1里=300歩
1歩=5尺
1尺=10寸
なのだから、短里を九州説の主張のように1里=70メートル程度を考えると、
1歩=23センチ
1尺=4.7センチ
1寸=4.7ミリ という現実離れした数値が出る

よく九州説の人は、周髀算経の「一寸千里の法」が短里の証拠というが、
その際の1寸は、4.7ミリだというのだろうか?

「短里という単位」があったという主張は、
1.実際に計っても
2.度量衡の整合性を考えても
「無理」という結論にしかならない

結局、魏志倭人伝の里程は、「不正確であてにならない」とするしかない
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:36:10.11
>>35
合ってないよ

高地性集落には明らかに本村との連携があるから
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:38:13.61
>>38
イミフ
0040日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:42:27.21
プライドの高い中国が、朝貢してくる国の距離を短里で書くかねー?
日本の広がりとの整合性も睨めば、短里はありえない。
0041日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:45:02.32
>>35
>中国史書に記載の倭国乱は2世紀後半(140〜180年代)。

大陸と倭国の間の交流が、
倭国王帥升等の朝貢(107年)から、卑弥呼の遣使(239年)までの間
途絶えていることを考えてください
卑弥呼の遣使があって、大陸側は初めて倭国乱があったこと、
卑弥呼が倭王になった経緯を知らされる訳です

そして、倭人は暦を知らないと魏略にも書かれていますから、倭国乱の
時代はそれほど正確だとは思えません
後漢末の大陸の動乱期に、周辺諸国も乱世だったという想定で書かれている
という側面も無視できません

魏志倭人伝の引き写しの情報がほとんどの後漢書で「桓霊の間」、
さらに時代の下った梁書で「光和中」と書かれていることの信憑性は
けして高くないことを理解してください

「桓霊の間」「光和中」の直後に卑弥呼が共立され、その時点で
「年すでに長大(年已長大)」だったとすると、248年とされる
卑弥呼の死の時点で高齢になりすぎるように思います

いずれにしても、倭国乱の時期をあまり限定して考える必要は
ないでしょう
0042日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 13:50:23.81
>>39
>>38>>35の、
「高地性集落がマルーン(山中で武装し、自給自足の生活を
 送った逃亡奴隷の集団)にあたる」というのを、
『合ってない』といってるんだよ

高地性集落は、丘を降りたところに本村(母集落)があって連携があるから、
「山中の自給自足」の集落にはあたらないと言っている
0043日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 14:05:00.76
>>40
>プライドの高い中国が、朝貢してくる国の距離を短里で書くかねー?

だからこそ、短里ご都合いいんだろ。

>日本の広がりとの整合性も睨めば、短里はありえない。

それこそ都合の良い解釈をしているだけ。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 14:06:01.57
>>41
>そして、倭人は暦を知らないと魏略にも書かれていますから、倭国乱の
>時代はそれほど正確だとは思えません

都合の悪いことはことごとく信頼性がないと喚く畿内脳
0045日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 14:34:21.58
>>37
その比定地に従うとしても
最大で4倍程度で、残りの地点はそれより誤差は小さいという事だろう。
400mを超えるものどころか、近いものさえ無く、ことごとく小さい事から東夷伝の「単位」が
400mよりかなり小さく、規則性があることは分かる。

「里=約100m」
https://youtu.be/CgVcx-xUVYo?t=1m3s

短里否定派は、東夷の測量精度をどう考えているのだろうか
適当とするなら、短里説を否定も出来ないのではないかな

>>42
マルーンの集落と違う点は、敵の侵攻(略奪)が定期的にあったこと。
それは、銅鐸の埋納状況によって推察される。
銅鐸は、急襲の際には高地性集落へ上がる途中の場所、もしくは予め見つけられにくい
場所に隠しておいたのだろう。
敵が留まればそこで自給し、去れば山を下りるのだ。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 15:02:57.31
>>45
>残りの地点はそれより誤差は小さいという事だろう。

なんで?

証拠は?
0047日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 15:09:17.33
>>45
>規則性があることは分かる。

傍観者だったがこれには笑った
規則性がない例を示されているのに規則性があると強弁wwwww
0048日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 15:11:39.32
>>45
>短里否定派は、東夷の測量精度をどう考えているのだろうか
>適当とするなら、短里説を否定も出来ないのではないかな

この日本語が通じない
0049日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 16:47:37.22
>>46-48
たまたま誤差が大きく出た、たった2つのデータに引きずられて、
残りの100のデータすべてを無効とするのは乱暴すぎる。

http://www.spring8.or.jp/ja/news_publications/press_release/2004/040515_fig/fig1_gif.gif
たとえ大きな丸からはみ出すデータがあっても、おおよその傾向はつかめる。

東夷伝の数値が不正確だというのは誰もが認めるところ。
それは丸め処理の仕方から見ても、おおよその数値であることは分かる。
だからと言って、全くのデタラメというのとは違う。

デタラメなら400mを超えるものがあってもよいが、実際は400mよりかなり小さく100m前後
にまとまるという傾向がある。
2点の正確な計測地が不明の状態で、当時のしかも東夷での測量精度であること、
丸め処理されているおおよその数値であることも考慮すれば、
最大でも2倍程度であるなら十分誤差の範囲で、そこに規則性を認めようというのが通説。

「里=約100m」
https://youtu.be/CgVcx-xUVYo?t=1m3s
0050日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 16:59:52.22
>>49
>たまたま誤差が大きく出た、たった2つのデータに引きずられて、
>残りの100のデータすべてを無効とするのは乱暴すぎる。

九州説の人はいつでもこう強弁するんですが、データとして有効なのが
「この二つしかない」んですよ

ほぼ誰もが認める、魏志倭人伝に出てくる地名の比定地は
對海【馬】國 対馬
一大國    壱岐
末廬國    松浦(唐津)
伊都國    怡土(糸島)
奴國     儺縣(福岡)
まで

そして、海を渡るところは多くの人の言うとおり、
一日で漕ぎ渡れる距離を「一律で千里」としているので
距離の推定に使えません

結局、里程の想定、測定に使えるのは
末廬國    松浦(唐津)
伊都國    怡土(糸島)
奴國     儺縣(福岡)
この3国間の、「二つの距離だけ」でしかもその数値が、4倍ずれている

これで何か言えると思う方がおかしいんですよ
0051日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:05:24.42
>>45
>東夷の測量精度をどう考えているのだろうか

測量器具などを持ち込んできたとは考えられないので、よくて歩測、
あとは適当に「どれくらい歩いたからこれくらいだろう」程度の推定でしょう

なので、短里を仮定した場合「1歩=23センチ 」なってしまうのは
人間の身体感覚に基づく数値の改変を意味するので「ありえない」んですよ

1歩=23センチがありえないのは理解できますか?
0052日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:11:36.34
俺の足のサイズは26センチ
0053日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:22:04.99
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:24:18.36
九州説は「短里があるある」と言いながら
まったく計算も実証もしていないことが
明るみに出てしまった


自爆ですな
0055日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:33:21.43
その昔、古田武彦氏が、短里の例として
三国志17 魏書17 張樂于張徐傳第十七
灊中有天柱山 高峻二十餘里 道險狹、「步徑裁通蘭等壁其上」
を出してきて、「山の高さが二十餘里というが、魏晋里だったらエベレストより高い。
短里がある証拠」って言ってたのを思い出すな

安本美典氏に軽く論破されてたけどさww
0056日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:41:00.02
>>49
>最大でも2倍程度であるなら十分誤差の範囲で、そこに規則性を認めようというのが通説。

最大でも2倍、どころか「4倍違う」んだから規則性は認めようがないね

どうして自説が通らなくなるようなことばかり書くんだろう?
自爆が趣味なのかな? それとも生きがい?
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:49:08.18
国々の纏まりは貴重品や威信材の動きが重要だろうね。
"京"には必然的にそれが集まる。
支配的様相が強ければ強い程ね。

弥生時代には既に海路での交流が活発だったのは明らかだから尚更。

しかし…3世紀前半の倭人伝の頃に西日本という広範囲が連合で、一国集中した様相は皆無。
0058日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 17:56:10.88
>>57
>しかし…3世紀前半の倭人伝の頃に西日本という広範囲が連合で、一国集中した様相は皆無。

その通りです。  @阿波
0059日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 18:00:02.51
>>53
>東に海をわたったところにも倭人がいると記載され

正しくは
東に「千里」海をわたったところにも倭人がいると記載され

だから、幅300メートルの関門海峡が間にあるだけの本州は違うね
そして、本州から瀬戸内海の島伝いを考えれば、四国も渡海「千里」にはあたらない

伊豆諸島とか、隠岐や佐渡のような距離感の島が、
「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」にあたるんだと思う
0060日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 18:10:01.01
>>57
>しかし…3世紀前半の倭人伝の頃に西日本という広範囲が連合で、一国集中した様相は皆無。

ここまでが事実で、この先は推定にしかならないけれど、
一国集中していないがために、諸国が争い倭国乱になり
それを収めるために、一人の代表を共立した と考えれば、とりあえずは筋が通ります
そして、その代表は「旧王国(九州の漢委奴國王)の血筋が移動してきた家系」の後代で
「当時の人口的に見て最大の勢力」にいた
けれど、その最大の勢力の王ではないことを示すために、「新しい王都」を新たに作った
とすれば、畿内説のストーリーになります

「旧王国(九州の漢委奴國王)の血筋が移動してきた家系」というのが、
「神武の東征説話」として語られる必要があり、神武の時代は崇神天皇の5世代前

「当時の人口的に見て最大の勢力」というのが、
奈良盆地+河内〜環大阪湾地域の「畿内第V様式の国」

「新しい王都」というのが
「纏向遺跡」でその場所、ヤマト国が邪馬台国と音訳された

こんな感じですかね
これは「私の畿内説」であって、畿内説の主流という訳ではありません
0061日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 18:11:18.51
>>59
間違い訂正 ごめんなさい

× 幅300メートルの関門海峡
○ 幅600メートルの関門海峡
0062日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 18:21:46.71
>>50
東夷伝全てが短里の傾向。もちろん渡海1000里も。
これは、九州・畿内説問わず通説。

「里=約100m」
https://youtu.be/CgVcx-xUVYo?t=1m3s

>>56
基準は「1里=100m」だから1/2倍と2倍。

>>51
公里上で成り立つ規則を詳細が定かでない東夷の里に持ち込んでも意味はない。


丸め処理に関していえば、例えを利用させてもらえば、

廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里(0.5倍)
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里(2倍)

末廬国(唐津)―伊都国(糸島)   25km/451里= 55m/1里(0.6倍)
伊都国(糸島)―奴国(福岡市)   20km/149里=134m/1里(1.3倍)

陸上に関しては100で端数処理されているのは明白なので、
それぞれ451里と149里の可能性があることも考慮しなければならない。
短里が100mだと仮定すると、それぞれ0.6倍と1.3倍。

少なくとも奴国に関しては妥当な数値と言える。
伊都国も奴国もどちらの比定地も間違っていると思うので実際はあまり意味はないが、
丸め処理も考慮しなければならないことへの理解として。
0063日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 18:23:25.85
>>59
>伊豆諸島とか、隠岐や佐渡のような距離感の島が、
「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」にあたるんだと思う

違います。
女王國=倭国(阿波)
東渡海千餘里=紀伊水道
復有國=紀伊半島       @阿波
0064日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 18:31:37.27
>>62
>基準は「1里=100m」だから1/2倍と2倍。

この基準が根拠なし
短里を無理やりにでっち上げるためだけの数値あわせ

そして、「1/2倍と2倍」」だから二倍以内というのは詭弁にもならない
英国の小選挙区では人口が基準人口の「三分の二」と「三分の四」が、
上限と下限になっており、ここからはみ出すと区割りの修正をすることになる
この基準で見ると、下限と上限が「人口2倍」になることが分かるだろ?
つまり基準から「±33%」というのが、「2倍程度の幅」だ

>末廬国(唐津)―伊都国(糸島)   25km/451里= 55m/1里(0.6倍)
>伊都国(糸島)―奴国(福岡市)   20km/149里=134m/1里(1.3倍)

こういう恣意的な処理は、統計を扱うときに「最もしてはいけないこと」だ

>丸め処理も考慮しなければならないことへの理解として。

丸め処理といいつつ、自分に都合のいいほうに寄せているだけ
こんな無理な数値を使う必要はない
0065日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 19:55:35.16
>>60
>そして、その代表は「旧王国(九州の漢委奴國王)の血筋が移動してきた家系」の後代で

やはり畿内説は東遷説なんだよな。

>「当時の人口的に見て最大の勢力」というのが、
>奈良盆地+河内〜環大阪湾地域の「畿内第V様式の国」

そこが人口的に最大だったとは思えない。
なぜならそれだけの生産力がなかったから。
0066日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 19:57:09.31
>>64
>英国の小選挙区では人口が基準人口の「三分の二」と「三分の四」が、
>上限と下限になっており、ここからはみ出すと区割りの修正をすることになる

ここは日本で、2倍までは許容範囲らしいよ。
0067日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 20:03:04.07
>>65
>やはり畿内説は東遷説なんだよな。

それは言葉の使い方がおかしい
東遷説は、「邪馬台国が九州にあり」「その後」畿内に移動して大和朝廷になるというもの

>>60で書いてあるのは、邪馬台国の時代の前に神武の東征(移住程度かも)があり、
邪馬台国の時代は既に大和朝廷の場所に卑弥呼がいた、というものだよ
0068日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 20:07:12.39
>>65
>なぜならそれだけの生産力がなかったから。

これの「根拠」は?
弥生時代の土木技術では、深さ1メートル程度の中小河川までしか
潅漑に利用できなかったと考えられており、大河川流域はかえって
開発が遅れたと考えられる

奈良盆地はまさに利用しやすい中小河川が放射状に、盆地全域に
存在していて、豊葦原中津国にふさわしい様相を示している
河内湖周辺も同様

鬼頭宏(2000)「人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫)」
「弥生時代から奈良・平安初期にかけて畿内、畿内周辺、山陽、山陰、四国の5地域が
 揃ってシェアを拡大し、そのうち畿内周辺は全国1になっている。
 この5地域は平安前期には、やはり揃って地位を低下させている。
 ある時期、これら地域がひとつのまとまりとして他地域を凌駕する人口扶養力を
 養えたことが日本の古代国家の成立の背景となったと捉えることができる。」
そうした
0069日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 20:09:27.84
>>66
>ここは日本で、2倍までは許容範囲らしいよ。

ちゃんと読んで! イギリスでも許容範囲は2倍までで同じだよ!
「三分の二」の2倍が「三分の四」だって、暗算でも分かるでしょ!

個別基準じゃなく、基準人口の上下33%とはっきり線引きされているところが
違うだけ
0070日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 20:16:32.29
>>65
理由になってないのだが
0071日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 20:20:36.81
【稲作の分布】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88

旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000

◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920

畿内の開墾が進んだ時代でさえ、九州の方がはるかに稲の収量が多く、より多くの人口を維持できたと考えられる。
弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており、この差はさらに大きかったと考えられる。
九州ならば、福岡奴国2万戸を含む7万戸を福岡県だけでまかなえるし、熊本狗奴国が邪馬台国に対抗できた理由も説明できる。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 20:30:22.76
>>71
>旧国 『延喜式』

それ、平安時代
ちょっと時代が遅すぎ

>畿内の開墾が進んだ時代でさえ

大河川流域が開墾できるようになったから、筑紫平野とかの稲作が
広がったんだよ
>>68でも書いたように、弥生時代の土木技術では大河川は
コントロールできない

>弥生時代においては、奈良、京都、大阪などに沼地が広がっており

この沼地が、稲作適地なんだってば
0073日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/07(水) 22:15:55.40
筑後川は大きすぎるかもしれないが、那珂川やその支流は手頃だよ。
実際、奴国は人口が大きな大国だしね。
0074日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 00:08:16.48
>>73
>実際、奴国は人口が大きな大国だしね。

それは構わないし、伊都国の瑞梅寺川も手頃な大きさの川だと思う

ただ、伊都国と奴国は邪馬台国ではない訳で、この二つを除くと、
もう北部九州には倭王がいそうな地域がないんだよ
0075日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 01:26:59.02
伊都国と奴国が邪馬台国ではないというのが誤読なんだよ。
そもそも卑弥呼は倭王だしね。
狗邪韓国から南は卑弥呼の土地。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 01:51:12.56
>>62
>末廬国(唐津)―伊都国(糸島)   25km/451里= 55m/1里(0.6倍)
>伊都国(糸島)―奴国(福岡市)   20km/149里=134m/1里(1.3倍)

糞ワロタ
要するに捏造をやってるわけだwwwww
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 02:06:23.17
>>76
倭人伝の里程に幅があり正確でないのは明白なのだから、短里を否定するつもりなら
当然考慮しなければならないこと。
誤差が出たデータに引きずられて、残りのデータすべてを無効とする方がどうかしてる。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 02:35:21.75
>>77
帰納的に証明したいなら短里とやらが当てはまる事例を出してみればいいだけだ
0079日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 03:23:01.84
>>78
通説だから別にいまさら証明しようとも思わない。
里程にある程度幅があり正確でないのを頭に入れて東夷伝と地図を見比べればいいだけの話。

否定が否定になってないから指摘したまで。
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 03:42:16.49
>>81
松木が高校生向けにざっくりした話をしてるだけだが
それを通説と言い切ってしまうんだから頭が逝かれてる
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 03:49:12.75
>>83
もちろんだ
教科書さえ否定するやつらと議論しても噛み合うわけがない
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 04:06:04.26
>>81
制作会社の作ったテキトーなテロップじゃないか
講師は言っていない
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 04:48:11.39
>>85
どっちか分からんね
いきなりあんなテロップが出てくるのは確かに不自然な感じがする
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 05:06:11.63
講師が言ってもいないどころか、言ってることと矛盾してるからなあ。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 05:21:06.36
>>86みたいに、自分の空想だけで断定ばかりするから
九州説はトンデモと呼ばれる
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 06:07:00.84
講師は畿内説寄りで説明してるからね
「いっぽう九州説の主張では・・・」みたいな箇所がカットされて
そのために作ったテロップが間違って入裏込んだったような感じ
映像制作上のミスだろう
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 08:21:46.93
なんでも否定しないと気が済まない畿内説。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 10:42:02.45
>>75
>伊都国と奴国が邪馬台国ではないというのが誤読なんだよ。

これも妄想だしね
じゃあ、なぜ別の国名で書かれているのかの説明を聞いた例がないんだが

基本的に女王国=邪馬台国ではなく、女王国=倭国なんだよ
だから、倭女王と書かれるし新魏倭王な訳だ
邪馬台国王と書かれているところは一つもないだろ?

ただ一部に、女王国が邪馬台国1国を指すと明確(でもないけど)に言えるところがあって
「自女王國以北其戸数道里可得略載」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の自女王國以北で起点を示している2つ

ここの女王国は、女王の都=邪馬台国と考えてよい
0095日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 10:43:58.68
>>77
>倭人伝の里程に幅があり正確でないのは明白なのだから、

ここまでは正しい

>短里を否定するつもりなら 当然考慮しなければならないこと。

否定するまでもなく、短里を想定する必要がない
それだけなんだってば!

天柱山が短里の例だって主張しなくていいのかい?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 11:25:39.20
九州トンデモ説の人は論理的思考が出来ない
って好例だよね
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 11:43:19.14
>>94
なんで?
0098日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 11:43:19.90
>>79
>通説だから別にいまさら証明しようとも思わない。

???
通説にまでなっているのなら、標準的な根拠の解説は簡単にできるだろ?
本当に、通説になっているのなら、ね

「いまさら証明しようとも思わない」というのは、
「どうやっても証明できない」という意味なのかな?
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 11:51:30.26
>>97
>なんで?

再掲
基本的に女王国=邪馬台国ではなく、女王国=倭国なんだよ
だから、「倭女王」と書かれるし親魏「倭王」な訳だ
「邪馬台国王と書かれているところは一つもない」だろ?
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 11:54:47.69
[ただ一部に、女王国が邪馬台国1国を指すと明確(でもないけど)に言えるところがあって
「自女王國以北其戸数道里可得略載」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の自女王國以北で起点を示している2つ

ここの女王国は、女王の都=邪馬台国と考えてよい]

この部分
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 11:56:41.18
>>98

> 通説にまでなっているのなら、標準的な根拠の解説は簡単にできるだろ?

そのすぐ下の行に簡単に書いてあるだろ
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:00:48.88
特置一大率檢察諸國の主語は?
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:02:13.00
>>101
その下って、どこ?
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:02:49.35
>>101
>そのすぐ下の行に簡単に書いてあるだろ

>>79のこれのことか
>里程にある程度幅があり正確でないのを頭に入れて東夷伝と地図を見比べればいいだけの話。

それは>>34にも「地図と見比べてみなよ。 論より証拠だ。 」
と書いてあるけれど、すぐに>>37で否定されてるじゃないかww

ほとぼりが冷めたと思ったのかい?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:03:07.90
>>101
既に否定済み

再掲
地図で計ってみたよ
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

四倍も違ってて「短里という単位」があったと主張するのは無理だろ?

それに、里は度量衡の一部なんだから、短里がもしあるとしても、
歩、尺、寸との対応が付けられなければならない

1里=300歩
1歩=5尺
1尺=10寸
なのだから、短里を九州説の主張のように1里=70メートル程度を考えると、
1歩=23センチ
1尺=4.7センチ
1寸=4.7ミリ という現実離れした数値が出る

よく九州説の人は、周髀算経の「一寸千里の法」が短里の証拠というが、
その際の1寸は、4.7ミリだというのだろうか?

「短里という単位」があったという主張は、
1.実際に計っても
2.度量衡の整合性を考えても
「無理」という結論にしかならない

結局、魏志倭人伝の里程は、「不正確であてにならない」とするしかない
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:03:53.01
>>102
誰に質問してる?
0107日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:05:46.13
九州説の投稿は言葉が日本語として不完全で、意味がよくわからない
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:07:01.44
>>100
魏志倭人伝中の、「女王」表記は13ヶ所 うち5ヶ所が「女王国」

順に見ていくと
1伊都国の王が「皆統屬女王國」
2「南至邪馬壹國 女王之所都」
3「自女王國以北其戸数道里可得略載」
4「次有奴國此女王境界所盡」
5「其南有狗奴國(中略)不屬女王」
6「自郡至女王國萬二千餘里」
7「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
8「傳送文書賜遣之物詣女王」
9「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」
10「有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里」
11「倭女王遣大夫難升米等」
12「其年十二月詔書報倭女王曰」
13「倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和」

これを見ると、女王と書いて、女王国を意味するところがあるし、女王国と書いて邪馬台国を意味する場合と女王に属する範囲(女王国連合)を意味するところがあるね

2と8、11,12,13の女王は、「卑弥呼という人物」を指す
1と4と5と、おそらく9と10は「女王国連合」(4、5、10は女王で女王国の意味)
3と7は「邪馬台国(女王の都する所)」
6ははっきりしないけど、たぶん9と10と同じ扱いで「女王国連合」でいいと思うが、「邪馬台国(女王の都する所)」でも特に問題はない
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:07:14.53
>>105
1.「里程にある程度幅があり正確でないのを頭に入れて」ないし、
2.公里上で成り立つ規則を詳細が定かでない東夷の里に持ち込んでも意味はない。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:07:33.81
>>94
[ただ一部に、女王国が邪馬台国1国を指すと明確(でもないけど)に言えるところがあって
「自女王國以北其戸数道里可得略載」
「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
の自女王國以北で起点を示している2つ

ここの女王国は、女王の都=邪馬台国と考えてよい]

なんで?

「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 の主語は?
0111日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:09:33.31
>>109
つまり、短里なんて想定する根拠が無いんだよね

 
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:09:51.06
>>1にあるけど

お互い議論しなくていいから
自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:11:48.09
>>110
倭女王か倭国、だよね

それが何?
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:13:40.59
>>112
つまり「お前の説の根拠を説明しろ」とツッコむのは正しい
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:13:59.36
>>109
>1.「里程にある程度幅があり正確でないのを頭に入れて」ないし、

「4倍の違い」は「ある程度の幅」ではすまない
ほぼ「でたらめ」とするべき値にしかならない
なので、「短里」という「決まった長さの単位」を
想定する「意味がそもそもない」

>2.公里上で成り立つ規則を詳細が定かでない東夷の里に持ち込んでも意味はない。

秦の始皇帝が度量衡を統一してから、大陸の単位系は一つに定まっている
三国志が大陸の史書として書かれている以上、読者である大陸王朝の住人の
単位系で書かれていないとする「理由がない」

しれっと「東夷の里」などと当たり前のように書いているが、
そもそも「そんなものはない」

九州説論者は、どうしても短里を捨てられないようだが、
どう屁理屈を捏ねても「短里があるとする理由は『作れない』」
0116日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:14:23.91
>>113
それ以外はないの?
中国とか

それから、もう一つの質問は答えられない?
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:16:13.38
>>112
>お互い議論しなくていいから

議論しているつもりはないよ
質問されたことに対して丁寧に解説しているだけ

ちょっと「コリアンジェノサイダー・nayuki 」の気分
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:16:32.77
>>94
>ただ一部に、女王国が邪馬台国1国を指すと明確(でもないけど)に言えるところがあって
>「自女王國以北其戸数道里可得略載」
>「自女王國以北特置一大率檢察諸國」
>の自女王國以北で起点を示している2つ
>ここの女王国は、女王の都=邪馬台国と考えてよい

で、その一大率は伊都に置かれていたとも書いてあるよね。
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭王だ。
その通り。
で、その支配機構が一大率で、伊都国に置かれていた。
そうしたら、伊都国が倭国の都であり、女王国の中心だろ。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:20:42.00
畿内説の誤りは、卑弥呼を倭王ではなく邪馬台国の女王として、伊都などとは別に邪馬台国という領域があると想定してしまっていること。

陳寿は念を入れて言い換えるのが好きなタイプなんだよ。
里程とは別に日程を併記したり、倭国を邪馬台国とか女王国とか言い換えている。
でも結果的に石橋を叩いて壊し、解釈に混乱を招いている。
後漢書やその他の史書と比べれば、倭国の都が伊都国または倭奴国であることは明らかだよ。
中国から見て畿内は視野に入っていない。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:20:43.74
>>118
なんで地方に派遣する行政官を伊都国に置くと、伊都国が都になっちゃうんだ?

論理が支離滅裂では?
0121日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:22:06.38
>>110
>なんで

>>94でも書いてあるとおり
「自」女王國以北で起点を示している、ので特定の狭い範囲を指すとみるのが妥当

6「自郡至女王國萬二千餘里」 の郡よりと同じ構文なので、郡が魏王朝の
「一地方の地名=帯方郡」を示すのと同じように
「国内の一地方=邪馬台国」が起点と見ればよい
0122日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:22:19.43
>>105
糸島のどこを取ったらそんなに差が出るのだろう。
せいぜい倍も差がつかないはずだが。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:23:41.59
>>111
>>109
>つまり、短里なんて想定する根拠が無いんだよね

根拠のない結論を持ち出すのが畿内節の特徴です。
0124日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:23:47.71
>>116
なんで中国が
倭に
「一大率」なんて
中国の官制にない職を
置く可能性があるんだ?
0125日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:24:47.78
>>123
>根拠のない結論を持ち出すのが畿内節の特徴です。

と言う結論の根拠は?



???
0126日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:25:11.78
>>115
>なので、「短里」という「決まった長さの単位」を
>想定する「意味がそもそもない」

里という単位で書かれだ文章についてその里を考えなくていいとは何事か。

>しれっと「東夷の里」などと当たり前のように書いているが、
>そもそも「そんなものはない」

根拠なし。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:25:57.82
120
>地方に派遣する行政官
なんのこと?
倭国を中国にしちゃってるのかな?
0129日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:28:48.36
>>120
地方にとは、刺史や都督が中国皇帝から見て地方の行政官という意味だろ。
それは倭国の中心になる。
倭の五王が都督を自称していたのを忘れたかい?
一大率は中国から見た地方官のようだが、その地方(ここでは倭国のこと)においては倭王に次ぐ司令官なんだよ。
つまり一大率は卑弥呼の直属の近衛のようなもの。
だから、卑弥呼への貢物の検査なども担当した。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:29:41.39
>>127
冊封体制って知っているかい?
0131日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:29:51.31
>>127
なんで、そう思うの?

どうして九州説は理由をまったく言わないの?
0132日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:31:03.77
>>118
卑弥呼と一大率は同じ場所にいたの?
0133日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:31:08.87
>>129
時代の違U話を突然持ち出すトンデモ説
0134日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:32:51.27
>>129
地方官が
どうして
九州説の脳内では
近衛に変態しちゃうんだろうね

謎だ
0135日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:33:59.02
>>121
起点は絶対狭い範囲とといいきるの?
「日本より北は寒い」みたいな文章は間違っているの?

なぜ作者は
「自女王以北其戸数道里可得略載」
「自女王以北特置一大率檢察諸國」
とか
「自女王都以北其戸数道里可得略載」
「自女王都以北特置一大率檢察諸國」
にしなかったの?
0136日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:34:31.89
>>115

> 「4倍の違い」は「ある程度の幅」ではすまない
> ほぼ「でたらめ」とするべき値にしかならない

やはり里程の丸め処理(端数処理)を全く理解していない。


> 三国志が大陸の史書として書かれている以上、読者である大陸王朝の住人の
> 単位系で書かれていないとする「理由がない」

転記ミスの可能性は否定できない。

東夷伝では一様に見られる現象のため、原因は「編者が原史料から転記した際の変換ミス」
だと考えられる。
むしろ、このように解釈すること(短里を公里と誤った)で、東冶の東の意味も理解できてくる。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:34:56.13
脳内の論理機構が死んでるのが九州説支持者だな
0138日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:35:01.45
>>124
>>116
>なんで中国が
>倭に
>「一大率」なんて
>中国の官制にない職を
>置く可能性があるんだ?

大率、徳率など、倭と百済にはそのような官位があった。
なぜ中央(中国)にない官位が地方にだけあるのかはわからないけどね。
ちなみに率は意味も発音も帥と同じで、後世の太宰の帥につながるのだろう。
白村江の敗戦後、百済と倭を占領した唐は、百済に熊津都督府、倭に筑紫都督府を置いている。
都督や率は中央から見た地方官だが、各地方においてはその地方の行政官だよ。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:36:20.97
>>132
>>118
>卑弥呼と一大率は同じ場所にいたの?

女王国から北は一大率が管轄していたというのだから、一大率は女王国にあった。
そして伊都に置かれていたとも書かれているね。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:36:25.91
>>130
知ってるけど、それが何?
中国が卑弥呼を検察したらあなたにとって不都合なの?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:37:42.52
>>133
>>129
>時代の違U話を突然持ち出すトンデモ説

もう一度魏志倭人伝を読めよ。
一大率について刺史や都督に似ると書いてあるのは魏志倭人伝なんだ。
違う時代の話を無理やり持ってきているわけではない。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:38:03.25
>>131
なんで九州説だと思うの?
ここは邪馬台国がどこにあったか知りたい初心者のスレじゃないの?
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:38:28.48
>>135
>「日本より北は寒い」みたいな文章は間違っているの?

この場合「日本」は範囲を指すので、範囲外の状況を描写する表現として正しい
距離を表記するときは起点に範囲を指してたら間違い
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:38:54.23
>>142
ばかだから
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:39:15.25
>>140
イミフ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:39:35.42
>>141
刺史や都督に似てたら地方官だよね
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:40:37.89
>>136
短里なるものを想定する理由がない
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:40:59.41
>>144
>>142
>ばかだから

畿内説はバカだから、質問されるとすぐキレて、相手をアンチ畿内説すなわち九州説だと思い込むから、という意味かな?
0149日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:41:41.21
>>140
だから九州説はトンデモと言われる


W
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:41:44.49
>>143
日本以北は寒い
だったらどう?
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:42:22.37
>>146
>>141
>刺史や都督に似てたら地方官だよね

あくまでも中国を中心とした地方のこと。
中華思想がベースなんだろう。
倭国の中の地方という意味ではない。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:42:57.10
>>148
いや、君がばかだから高確率で九州説なんだよ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:43:07.09
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

この文章の前後の文章は全て女王国か女王卑弥呼に付いての説明文であり、主語が書かれていなくとも主語は女王国か女王卑弥呼だと読み手には分かるようになっている。
それ以外の主語の場合は「諸國畏憚之」のように主語が明記されている。
「一大率常治伊都國」と主語が明記されていないので「常治伊都國」の主語も女王卑弥呼である。
なので「女王卑弥呼が伊都国で常に治めている」との意味になる。
では何を治めているのか?
女王卑弥呼が治めているのは自女王國以北の諸国である。
「常治伊都國」は「(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い自女王國以北の諸国を)常に治めていた」の意味であり 主語の女王卑弥呼と()内が省略されている。

治の類似の用法は漢書西域伝に見られる。
「大宛国 王治貴山城 去長安 万二千五百五十里…」
大宛国について、王は貴山城に治す、と王の所在を明らかにしている。

では「自女王國以北」とはどこか。
以北はその出発地を含む。出発地は「自女王國」とある。
つまり、女王国とその北にある国々を、そこに置いた一大率で支配したのである。
要するに女王国と伊都国は念を押して言い換えただけであり、一大率は伊都国にあり、伊都国が女王国、女王の都するところ、邪馬台国であるということである。

「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐している監察官

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。

女王国が伊都より東にあったら、文章の意味が通らない。
畿内説では、一大率が支配していたのは奈良(女王国)およびその北である京都や丹波になってしまう。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけだからである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国であることを示している。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:44:27.86
>>148
ああ、そんな感じね
少し余裕がないね
どっちの説が正しいのかはわからないけど、畿内説の人の印象は悪いね
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:44:39.24
>>151
中国人が刺史に喩えたなら、当然に倭国の地方官でしょ
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:45:06.60
>>154
自演乙
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:45:57.19
>>153
ばかだなぁと思ったら、やっぱり岡上でしたか
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:48:16.72
>>156
間違っているよ
証拠もないのに間違っていることをいう人の説も、やっぱり間違ってるのかな
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:48:29.60
>>153
わけわからん

倭国と、伊都国と、邪馬台国は、どういう包含関係だって主張してるの?
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:50:18.79
>>155
>>151
>中国人が刺史に喩えたなら、当然に倭国の地方官でしょ

中国にどっての地方が倭というだけ。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:50:35.71
>>157
違うよ。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:51:48.62
>>159
倭国は全体だけど、女王国はその中心部で、伊都国または倭奴国など博多湾沿岸を示しているようだね。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:53:53.53
倭国は対馬海峡を挟んだ南北に長い国で、その南の端である博多湾沿岸が都というのが、当時の認識なんだよ。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:54:03.39
理由を言わないのが九州説


W
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:54:53.89
【倭国】

紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。

記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。

博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。

2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:55:23.20
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:55:38.33
>>165
という理由は?
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 12:57:06.52
論破されたyata厨の貼り付け荒らしが始まった
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:07:27.05
>>118
>で、その支配機構が一大率で、伊都国に置かれていた。

この部分だけならそれで正しい

魏志倭人伝に記載されている倭国内の国名は以下のとおり
(狗邪韓國) 對海【馬】國 一大國 末廬國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國 
邪馬壹【臺】國
斯馬國 已百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國
對蘇國 蘇奴國 呼邑國 華奴蘇奴國 有鬼國 爲吾國 鬼奴國 邪馬國 
躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 奴國

で、魏志倭人伝の認識としては、狗邪韓國から、烏奴國 奴國まで、
順に北から南へ並んでいるという認識になっている
どこまで正確かは知らないけれど

>そうしたら、伊都国が倭国の都であり、女王国の中心だろ。

これが大間違いの誤読 どうやったらそんな読み方ができるのかが不思議

一大率がみるのは女王国以北の国(自女王國以北、特置一大率、檢察諸國)
つまり、
(狗邪韓國) 對海【馬】國 一大國 末廬國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國
の範囲だよ

で、「邪馬台国」および「斯馬國〜烏奴國 奴國」は一大率は関係ない
これは「女王之所都の官」が檢察するんだよ

これ以外の読み方をする理由はないだろ?

伊都国奴国周辺から、邪馬台国まで水行20+10日陸行1月かかるほど遠地だから
伊都国に一大率を置いてるんだよ
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:11:20.40
>>171
>で、魏志倭人伝の認識としては、狗邪韓國から、烏奴國 奴國まで、
>順に北から南へ並んでいるという認識になっている

いや、ここは周旋だよ。
だから奴国に戻ってくる。

>一大率がみるのは女王国以北の国(自女王國以北、特置一大率、檢察諸國)
>つまり、
>(狗邪韓國) 對海【馬】國 一大國 末廬國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國

その通り。

>で、「邪馬台国」および「斯馬國〜烏奴國 奴國」は一大率は関係ない
>これは「女王之所都の官」が檢察するんだよ

それは根拠がない。
一大率ではないのだが、誰が管轄するかは書かれていない。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:14:10.13
>>126
>里という単位で書かれだ文章についてその里を考えなくていいとは何事か。

魏晋里に合わないなぁ、というように「魏晋里について」考えればいいって
言ってるんだよ

>根拠なし。

根拠がないのは「東夷の里」の方
九州説は困るといつも単語一つくらいを「根拠なし」に書いて
反論した気になって逃げるだけ

こうやって荒れていくんだよな
いい加減にして欲しい
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:14:59.30
>>171
日程は別の情報なんだよ。
繋げてはいけない。
他の史書と比べるとわかる。

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

つまり、九州北部が邪馬台国。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:16:22.01
>>174
>魏晋里に合わないなぁ、というように「魏晋里について」考えればいいって
>言ってるんだよ

魏の里ではないことが明らかだろう。
魏の里では対馬海峡が三千里になるわけない。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:16:58.74
>>174
>根拠がないのは「東夷の里」の方

魏志倭人伝を読めよ。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:17:25.68
>>136
>転記ミスの可能性は「否定できない」

そりゃあ、古代の遠い昔のことだか100%否定できないのは当然
だけど、それを言い出してもしょうがないだろ?
推論として十分な根拠がないし意味がない

それを「全否定はできない」式の、悪魔の証明論に持ち込んでも
無意味だよ

だって、短里があるという「根拠のある論証が皆無」なんだもの
短里は初期の九州説論者の「脳内妄想」だよ

それ以外の根拠はない
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:18:51.96
>>139
>一大率は女王国にあった。
>そして伊都に置かれていたとも書かれているね。

論理の飛躍で、根拠がない

普通の読み方は>>171を参照して
0180日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:20:03.50
>>141
>一大率について刺史や都督に「似る」

「似る」ってことは、刺史や都督じゃないんだよ
0181日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:21:59.15
>>180
そりゃ、正式な都督は、あれほど倭の五王が希望してもなかなか承認されなかったもんなあ。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:24:09.68
>>179
普通って何だろうね。
レミングじゃないんだから、自分の頭で考えようよ。

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は(一大率を)畏れ憚っている。
(女王卑弥呼が)伊都国で(一大率を使い女王国から北の諸国を)常に治めていた。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で治めているのと同じようだ」の意味となる。
0183日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:24:45.36
>>180の捕足
「似る」ってことは、刺史や都督じゃないんだよ
「刺史や都督じゃない」ってことは、大陸の官ではないということ

「漢や魏(帯方郡)が派遣したのではない」のは、こんなに簡単に分かる
大陸王朝が派遣したのなら、大陸王朝の官職をが書かれていることになるが、
そうはなっていない

論理的に考えれば、すぐに分かるだろ?
「冊封体制だから」とか訳の分からない屁理屈を捏ねる必要はないんだよ
0184日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:27:47.83
>>142
>どこにあったか知りたい初心者のスレじゃないの?

そこからかい!!

どこにあったか知りたい初心者に「説明する」スレだよ
スレタイにも書いてあるじゃないか

当然「根拠」を示して、「論理的に説明」しないといけない

短里には「根拠」がないから説明していることにならない
だから「短里」でごねるのは、スレチなんだよ
0185日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:28:37.70
>>183
何が違うんだ?
あくまでも中国から派遣した都督ではないのに都督のようにその地方(倭)を治めていたから似ると書いたんだろ?
0186日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:31:03.81
>>178
ひょっとして、今頃転記ミスの可能性もあることに気が付いたのか

そう解釈することで、倭国を異様に南に伸びて描写していることに説明もついてくる。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:35:49.16
>>185
>あくまでも「中国から派遣した都督ではない」

そう言ってるだろ?
一部の駄々捏ね九州説が、一大率は郡の派遣官だとか言ってるみたいだけど
0189日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:46:14.38
>>176
>魏の里では対馬海峡が三千里になるわけない。

だから不正確なんだな、というところまでしか言えないし、
それ以上を判断する「根拠」がない

示されている二点間距離が、2ヶ所測定(推定)に使えて、それが
「4倍違う」のであれば、「根拠のある資料は存在しなかった」のだろうと
考えるだけだ

500g、100gと書かれている二つの錘が、
実際に計ったら250gと200gだったとして、
ああ、表記の重さはあてにならないんだなと思うだろ?
でもそこまでだ

その上に、このグラムは正しくないから東夷グラムを考えるって
おかしいと思わないか?

あまつさえ、軽グラムというのを考案して、1軽グラム=0.7gとか
言い出したら、頭おかしいと思うだろ?

換算率が4倍も違うのに、それを一つの値で代表させるなんて、
根拠もないし、意味もない
0190日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:46:30.03
>>182
九州説の人って、どうしてそんな狂った読み方かできるの?

やっぱり、無学なうえ頭が変だから?
0191日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:50:42.14
>>186
>今頃転記ミスの可能性もあることに気が付いたのか

そんな可能性は、最初から最後まで「想定していない」よ

古代のことを完璧に証明することはできない、としか言ってない
捏造、乙

そして、全否定はできないから「可能性はある」と言い張るのは
「意味がない」と繰り返し言っている

九州説のいうことはいつも、全否定はできないから「可能性はある」と言うだけで
だからといって、それが正しいという「根拠のある論証」が
絶望的に欠けている
0192日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:55:14.06
幽霊がいないと証明できないのだから、すべて幽霊の仕業として説明できる
と言い張るが如し九州説
0193日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:57:27.91
>>173
>いや、ここは周旋だよ。
>だから奴国に戻ってくる。

この周旋は、いろいろ立ち寄る、くらいの意味で
「ぐるっと回って戻ってくる」という意味はないらしい
三国志中で、周旋が「出発点に戻る移動」に使われているところはないそうだ

後漢書の「倭奴國奉貢朝賀(中略)倭國之極南界也」は
魏志倭人伝の「次有奴國、此女王境界所盡」の誤読と解釈するのが通釈

そしてこの部分の「次有奴國」は、博多湾岸の奴国ではなく
他の彌奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 鬼奴國 烏奴國と並ぶ
「○奴國」の脱字だろうと見る方が妥当
0194日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 13:59:14.52
>>192
「古田武彦氏を歴史学者というは、UFOビリーバーを天文学者と呼ぶがごとし」と
表現した人がいるそうな
0195日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 14:04:33.73
>>175
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。

これが間違い
その国は「女王国」としか書いてない
「卑弥呼を共立した倭国」の範囲だよ
倭国内の行程には、萬二千里は使えない

>>2にきちんとまとめて書いてあるから、読んでおいで
0196日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 14:07:45.85
>>191

> 九州説のいうことはいつも、全否定はできないから「可能性はある」と言うだけで
> だからといって、それが正しいという「根拠のある論証」が
> 絶望的に欠けている

東夷の里が一様に短いことや、倭国が南に伸びて描写されている理由を説明したところで
「古代のことを完璧に証明することはできない」からね
0197日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 14:08:05.23
>>194
当然だが、何か?
0198日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 14:25:35.25
>>1
魏志倭人伝という本に、邪馬台国は熊本城にあったことがしめされているよ
0199日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 15:00:07.69
>>194
UFOビリーバーが発見した星もあるからなあ
0200日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 15:32:25.09
>>196
>東夷の里が一様に短いこと

その説明も、>>2に書いてある
東の果ての萬二千里に合わせるために、途中の数字が盛ってあるんだよ
で、1里あたりでみれば、短く「見える」がそもそも実測値ではない

海の上は、1日で漕ぎ渡れる距離を一律千里としているようだし
循海岸水行部分も、陸行と同じ基準ではないだろう

ここからは推測になるが、倭国王帥升等の朝貢時に、倭国まで萬二千里の旅程を
「作ってしまって」あって、魏略、魏志でもそれを踏襲している
それに、倭国王帥升の時には行かなかった邪馬台国までの
旅程(水行20+10日陸行1月)を付けてしまったので、訳が分からなくなってる
って感じが正しいように思う

末慮国からの東南陸行五百里は、どう考えても伊都国への旅程とは思いがたい
倭国王帥升等を、通典では倭「面土」國王と書いているが、これをメタと読み
筑紫平野の米多郷への経路と考えると納得が行く

1.倭国=女王国まで萬二千里が前提
2.メタ國王の都まで行く旅程が、後漢代に里程つきで作られる
3.それに、邪馬台国まで行った魏使の日程(日数のみ)の報告書の旅程

これらがごちゃ混ぜにつなぎあわされている、くらいが、現実に近いのだと思う

古代のことだから、証明はできないけどな
0201日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 15:44:48.11
>>200
古代のことだから、証明はできないけど
転記ミスの方が「ごちゃ混ぜにつなぎあわされている」よりは多少ましかな
0202日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 16:08:14.53
>>201
>転記ミスの方が

さっきから、転記ミス転記ミスって連呼しているけれど、
>>201は魏志倭人伝の
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」と想定していて
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」と考えているのがを
はっきり書いてくれ

話はそれからだ

たぶん書かずに逃げると思うけどさ
九州説はいつもそう
0203日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 16:26:17.96
>>136に書いてある

> たぶん書かずに逃げると思うけどさ
> 九州説はいつもそう

稚拙なあおりだ。情けない。
0204日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 16:43:54.42
>>203
>稚拙なあおりだ。情けない。

こう書きながら

>>136に書いてある

に中身がない

求められているのは
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」と想定していて
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」と考えているのか
の三点

>>136に書いてあるのは
「転記ミスの可能性は否定できない。
東夷伝では一様に見られる現象のため、原因は「編者が原史料から転記した際の変換ミス」
だと考えられる。 」

と言うだけで、
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」
には何の回答にもなっていない

「転記ミス、変換ミスがあった」とただ言う「だけ」で、「どこがどう間違っていたと考えるのか」には無回答

結局、ごまかして逃げるんだな 九州説はいつもそう

所詮、九州説は中身のない妄想だからしょうがない
0205日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:30:38.30
>>187
>一部の駄々捏ね九州説が、一大率は郡の派遣官だとか言ってるみたいだけど

見たことないな。
あくまでも似ているだけ。
でも、後の倭王が都督を自称するくらいだから、大率が地方官というのは誤りで、倭においては中央最高官僚だよ。
各地域の官より上位の立場で、卑弥呼の直下。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:31:35.82
>>203のほうが稚拙な煽り100%なんでは?
0207日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:32:15.79
>>193
>「○奴國」の脱字だろうと見る方が妥当

気に入らないものはなんでも誤記にしてしまう畿内説脳。
現実歪曲場は便利でいいな。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:33:13.81
>>198
熊本は狗奴国だよ。
女王国の南だから。
0209日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:34:16.26
>>202
>たぶん書かずに逃げると思うけどさ
>九州説はいつもそう

誤記だと主張しているのは畿内説だろ?
0210日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:41:05.05
>>207
>気に入らないものはなんでも誤記にしてしまう畿内説脳。
>現実歪曲場は便利でいいな。

そういうのはいいから、誤記ではないというなら、
「次有奴國、此女王境界所盡」の奴国が、北部九州の奴国と同一であることを
「根拠」をつけて論証して、
その上で「ここが女王の(支配する領域の)境界の尽きるところである(此女王境界所盡)」と
矛盾しない国の配置のモデルを挙げて見せてくれよ

しかも、後漢書によるとここが極南界らしいから、かなり難しいと思うけどがんばって

こうしたことを考えると、最後の奴国と伊都国の隣の奴国は別の国と考える方が、
無理のない解釈ができるし、別の国だと考えるなら鬼奴國等に倣って、
前に一字欠字があるのだろうと考えるのが、一番筋が通る
0211日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:44:43.77
>>209
>誤記だと主張しているのは畿内説だろ?

ごまかしに入っているね?
「転記ミス、変換ミスがあった」と言っているのは>>136

それに対して
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」と想定していて
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」と考えているのか
の三点を答えてくれと訊ねているのだが、いまだに回答がない

たぶん逃げるつもりだろうなとは思ってるよ
九州説のやり方はどこでも同じだからさ
そうではないと言うなら、「>>209のような余計なこと」を書いてないで
とっとと答えてくれ
0212日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:46:31.93
>>211
別人だ。
知らん。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:48:22.91
>>210
後漢の頃は筑紫だけが倭国だったが、魏の頃には肥国が倭国に含まれるようになったんだよ。
だから、佐賀平野、筑後平野までは倭国になった。
その過程で倭国大乱があった。
0214日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:48:42.24
【邪馬台国の周辺の国】
1番 斯馬国は志摩(嶋)郡(福岡県糸島市)
2番 己百支国は伊万里(佐賀県)
3番 伊邪国は平戸島(長崎県平戸市)または伊那国(長崎県諫早市)
4番 都支国は早岐(長崎県佐世保市早岐)
5番 彌奴国は嶺(佐賀県みやき町三根)
6番 好古都国は?
7番 不呼国は?
8番 姐奴國は曽根(佐賀県神埼市神埼町本堀曽根ヶ里)
9番 對蘇国は鳥栖(佐賀県鳥栖市柚比町)の安永田遺跡
10番 蘇奴国は?
11番 呼邑国は佐賀県小城市
12番 華奴蘇奴国は佐賀県神埼市の吉野ケ里遺跡
13番 鬼国は?
14番 爲吾国は伊古(長崎県雲仙市瑞穂町伊古遺跡)
15番 鬼奴国は小郡(福岡県小郡市)
16番 邪馬国は八女(福岡県八女市)の室岡・亀ノ甲遺跡
17番 躬臣国は玖珠(大分県玖珠郡玖珠町)
18番 巴利国は杷木(福岡県朝倉市)または針磨(福岡県筑紫野市針摺)
19番 支惟国は基肄城趾(佐賀県三養基郡基山町)
20番 烏奴国は大野城趾(福岡県大野城市)
21番 奴国は那の縣(福岡県福岡市)の再掲

邪馬台国(倭国)の範囲はおおむね筑紫と肥国から肥後狗奴国を除いた範囲であり、半時計回りに周旋5000里である(対馬海峡が3000里)。
魏志倭人伝には、東に海をわたったところにも倭人がいると記載され、本州と四国のことと考えられる。
狗邪韓国 朝鮮半島南岸
対海国 長崎県対馬市、一大国 長崎県壱岐市
末廬国(諸説あり)
伊都国 糸島市前原(旧怡土郡)、奴国 福岡市博多(那の津)→邪馬台国(女王の都)
不彌国 福岡市東区(香椎宮)
投馬国 宮崎県西都原市(都万神社)
https://i.imgur.com/pJ1R6Kh.jpg
0215日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:50:18.54
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫(天津国) が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫(天津国)が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
おそらくその過程には、本来は肥国の中心の一つであったであろう筑後山門の出身の卑弥呼が筑紫も含めた倭国女王になったことが関係しているだろう。

卑弥呼は倭国王を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治した。
特に敵対的だった伊都より北の天津国は一大卒を任命して監視した。
卑弥呼は死後に倭国の都である伊都の平原遺跡に葬られた。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
ただし肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は必ずしも良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0216日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:51:20.71
【壹與と與止日女】

肥前国一宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上)があり、かつては河上神社と呼ばれていた。
その祭神は與止日女命(ヨドヒメ)といい、世田姫(ヨタヒメ)、淀姫(ヨドヒメ)、豊姫(ユタヒメ)とも呼ばれる。
與止日女神社を流れる佐嘉川は江戸時代の治水工事までは佐賀平野において筑後川に流入していた。
魏志に記された末盧国に比定される松浦にも淀姫神社(長崎県松浦市志佐町)があり、そこから松浦川を上った上流にも河上大明神こと淀姫神社という神社がある(佐賀県伊万里市大川)。
與止日女神社の末社は福岡県から熊本県、長崎県、対馬まで分布している。
後に淀姫神社は畿内にも勧請され、豊臣時代の淀川や淀姫の名前の由来でもある。
かつて豊前国一宮は今の宇佐八幡宮(大分県宇佐市)ではなく香春三山の香春宮(香春神社、福岡県田川郡)であったとされており、三の岳の祭神が豊比当スといい、同一人物の可能性がある。
この領域は邪馬壹国連合の一部であり、その主である與止日女命は卑弥呼の権威を受け継いだ壹與そのものだろう。
熊襲の由来が卑弥呼の敵であった肥後の狗奴国であれば、卑弥呼のいた筑後でも伊都国のあった筑前でも狗奴国のあった肥後でもなく、肥前から壹與が共立されることでバランスを取り、狗奴国が和解して倭国が統一されたと考えることができる。

この與止日女神社の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上する。
ここで重要なのは熊襲がこの時代に筑紫を拠点に九州北部を治めていて、倭国の王家そのものと考えられる点である。
また、その本拠地は壹與と見られる人物の本拠地でもある。狗奴国として分裂していた肥国王統から女王壹與を迎えることで、倭国は安定を手に入れたのである。
0217日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:52:37.43
【狗奴国】

狗奴国王の名前は卑弥弓呼といい、卑弥呼と瓜二つである。
卑弥呼とはもとより不和であるとある。
倭国大乱は倭国の王位をめぐる争いのことである。

九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。

このことから、狗奴国と邪馬台国は近縁関係であると推察される。
卑弥呼亡き後の争いは、狗奴国が筑紫に攻め上ったものであると考えられるが、壹與の共立によりこれが収まったということは、狗奴国も納得のいく人事であったということだ。
狗奴国熊襲は邪馬台国の南、熊本の勢力であるが、実質的には肥国の王家であり、肥前河上のヨド姫であれば熊襲の姫でもあるので狗奴国の納得のいく人事であった。
また、卑弥呼が筑後山門の出身であるならば、筑後も本来は肥国の一部に筑紫が膨張して張り出した部分であるので、卑弥呼とヨド姫も同属である。
壹與を邇邇芸の妃であり志賀島の海神の娘である豊玉姫に比定しないわけは、豊玉姫では狗奴国との争いを収める立場になれないからである。
後世には肥前のヨド姫は豊玉姫に習合されてしまうが、本来は別人である。

邇邇芸と神功皇后は天津神である筑紫王家、卑弥呼と卑弥弓呼と壹與は肥国王家、綿津見神と豊玉姫は豊国王家に属している。
いずれも連合国家である倭国を構成する中心的な王国である。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:53:04.66
【邪馬台国の終焉】

八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮のそれぞれの王(五十迹手、熊鰐)が出迎えているが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。

倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。

仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じ景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にする。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは、王朝の始祖神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:55:04.34
魏志倭人伝の時代と、記紀の時代は被っている。
だから、どこかですり合わせが可能なはずなんだよ。
ただし卑弥呼自身の伝記はアマテラスや神功皇后などにより上書きされ、巧妙に隠されている。
それを解き明かす必要がある。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:56:12.03
>>205
>見たことないな。

では、これをどう解釈するのかな?九州説と思われる人の書き込みだけど?
>>102「特置一大率檢察諸國の主語は?」
>>110「自女王國以北特置一大率檢察諸國」 の主語は?
>>116「それ以外はないの?  中国とか」
>>129「地方にとは、刺史や都督が中国皇帝から見て地方の行政官という意味だろ。 」
>>130「冊封体制って知っているかい?」

これを見る限り、一大率を中国からの派遣官とみて、
それがいる伊都国が倭国の都 としたいように見えるけれど?
0221日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 17:59:36.35
>>213
>後漢の頃は筑紫だけが倭国だったが、

いやいや、魏志倭人伝に「次有奴國、此女王境界所盡」
「ここが女王の(支配する領域の)境界の尽きるところである(此女王境界所盡)」
って書かれてるじゃないか

この奴国が、福岡平野の奴国だったら、ここで女王の境界が尽きてしまったら、
他の国はどこに入れるのかと訊いてるんだが?

これもまた答えずに逃げるのかな?

九州説はいつもそう
0222日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:02:27.75
>>212
>別人だ。
>知らん。

なら、誤読したうえで、余計なことは書くなよ
まあ、普通に読めば>>212>>203の逆成りすましだと思うがな
0223日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:04:39.13
返答に困ると大量コピペでごまかし

これも九州説のいつものやり口だよな
こうやってスレが荒れていく

こっちは論点を明確にしているんだから、話を進めようや

これには結局答えずに逃げるのか?
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」と想定していて
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」と考えているのか
0224日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:13:26.26
>>223
>返答に困ると大量コピペでごまかし

ツギハギだと真意が伝わらないから、まとまった文章を提示しただけ。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:15:40.12
>>220
身に覚えのあるものもあるが、大率とは後の都督のようなもの、ということだよ。
実際に派遣されたとか書いてあるわけではないね。
あくまでも似ているだけだし、倭の五王が都督を名乗っても、倭の五王が中華から派遣されていたわけではない。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:15:44.77
>>224
>まとまった文章を提示しただけ。

内容がまとまってないから、ムダに長いんだよ
こんなの誰も読まないぞ

要点をまとめて簡潔に書けよ

そして、読んで欲しかったらブログにでも書いてURLで誘導するとか
工夫して
0227日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:20:33.27
>>225
>大率とは後の都督のようなもの

それの「根拠」は?

『刺史』は中国の地方官。
漢代に設けられ、全国を州に分けて州の下の郡・県を監察する役職。
次第に変質し、州が監査区域から行政区域に代わると、行政の長となった。
後漢から三国の時代は州牧と呼ばれた。劉備玄徳が予州牧であったことは有名。
魏晋代は兵権を掌握し軍閥化するものもあった。
「魏志倭人伝 私注」より http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/wajin.html
0228日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:27:50.68
>>227
おいおい、大率は刺史に似て、後の都督と同じというのは魏志倭人伝そのままだろ。
女王国より北は大率が掌管したということだよ。
壱岐や対馬の官より上位だったということだね。
まるで倭の行政官のようであると。
卑弥呼が引きこもりだったからじゃないか?
0229日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:33:37.88
結局答えずに逃げるのか?
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」と想定していて
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」と考えているのか

あれだけ活発に書きこんでいたのにどうしたんだろうね?
逃げたかな?
0231日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:38:17.98
>>228
>大率は刺史に似て、「後の都督と同じ」

の後半の「 」の部分は魏志倭人伝にない
自女王國以北、特置一大率、檢察諸國。諸國畏憚之。常治伊都國。
於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國、及郡使倭國、
皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王、不得差錯。

ないだろ? 確認してもらえたかな?

ということで「後の都督と同じ」の「根拠」は?

勝手に都督にするなよ
「都」の字が欲しかったのは分かるけどさ
0232日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:39:21.30
>>204
東夷では、「大陸の単位系」とは異なる「東夷独自の里」が使われていて、
1次資料(報告書の原資料)の単位系は「東夷の里」で記述されていた。(仮定)

そして、1次資料から2次資料へ編纂の過程で、1次資料中の「東夷の里」を「東夷の里」と
気付かないまま「大陸の単位系」として数値をそのまま2次資料に転記してしまった。

つまりは、本来、2次資料の「読者である大陸王朝の住人」のために「大陸の単位系」にあわせて
1/5程度に縮めて変換する処理が必要だったが、編纂過程でその作業を見落としてしまった。

陳寿が参照したのが1次資料か、つまり陳寿自身が転記ミスをしたのか
若しくは陳寿が参照したのは既に2次資料だったのかは分からない。

そして陳寿が「東夷の里」を「大陸の単位系」だと誤った認識の下、計算したのが
「計其道里當在會稽東冶之東」という文章。

だから、君の質問に即して答えるなら
1 東夷の里程箇所を
2 「読者である大陸王朝の住人」のために変換処理を経ずにそのまま転記してしまった。
3 変換処理をしなかったことがミスなのだから、元のテキスト(1次資料)は君が倭人伝で見ている数値そのまま。


単位変換のミスはよくあることで、近年ではNASAの「マーズ・クリメイト・オービター」の
ヤードとメートルの単位混同ミスがニュースにもなった。


>結局、ごまかして逃げるんだな 九州説はいつもそう
>所詮、九州説は中身のない妄想だからしょうがない
こういう稚拙なあおりは馬鹿に見えるからやめた方がいい。
遅くなってすまんね
0233日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:41:05.41
>>230
逃げるにしても>>203の「>>136に書いてある 」がひどいよなぁ

どうしてこういう、うそ・ごまかしがナチュラルにできるんだろう?
0234日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:44:52.66
>>232
>つまりは、本来、2次資料の「読者である大陸王朝の住人」のために「大陸の単位系」にあわせて
>1/5程度に縮めて変換する処理が必要だったが、編纂過程でその作業を見落としてしまった。
>陳寿が参照したのが1次資料か、つまり陳寿自身が転記ミスをしたのか

概ね同意するが、それは転記ミスとは言わないだろう。
丸写ししただけ。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:45:38.75
>>232
>>所詮、九州説は中身のない妄想だからしょうがない
>こういう稚拙なあおりは馬鹿に見えるからやめた方がいい。

同意する。
畿内説の品性を疑われるだけだよ。
0236日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:46:12.46
>>232
>だから、君の質問に即して答えるなら

ぜんぜん質問に即して答えてなくね?

質問は
1「どの部分が」
2「どのように間違っている」と想定していて
3「ミス前の元のテキストはどう書いてあった」と考えているのか
だから
0237日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:47:31.70
陳寿も一万二千里は変だと思ったんだろうな。
だから念のため日数を併記したんだ。
里程と日程をつなげて読むのが誤読なのは、他の史書との比較から明らかだよ。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:48:11.90
>>232
>1次資料(報告書の原資料)の単位系は「東夷の里」で記述されていた。(仮定)

この仮定が「そもそも成り立たない」ことが、既に>>37で示されている
この時点で、この(仮定)自体が無意味

その後の論証も当然意味を持たない
「転記・変換ミス」仮説は妥当性がない QED

この(仮定)が成り立つためには、最低でも「10ヶ所程度」の
「値の揃ったデータ」が必要

しかし現実には「4倍の違い」がある「データ二つだけ」
そもそも>>232の(仮定)を置くだけの前提条件がない

短里をグダグダいうだけムダだよ
0239日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:50:02.38
>>235
自演するのはキウスでいいんだっけ?
0240日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:50:23.35
>>235
九州説は、こんな中身のない稚拙なあおりばかりだな
0241日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:52:12.30
>>237
どの他の史書と、どう比較した?
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:54:06.19
>>237
>陳寿も一万二千里は変だと思ったんだろうな。

いいや、萬二千里を倭国(女王国)までの距離として最初に採用したのが陳寿だよ
史記にも漢書にも、倭国への距離はない
陳寿がわざわざ、萬二千里という数値を持ってきて記載している
変だと思うどころか、萬二千里であると判断したのが陳寿

そしてその値は、淮南子「時則訓」から

淮南子は、当時の大陸の知識階級には常識だから、これを疑う必要などないんだよ
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:57:10.28
>>237
>里程と日程をつなげて読むのが誤読なのは、他の史書との比較から明らかだよ。

九州説の大嫌いな某テンプレから引用
漢書西域伝 (他の史書だよな?)
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、南至戎盧國四日行
里程と日程とつなげて書いてあるだろ?
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:59:27.21
>>238
> この仮定が「そもそも成り立たない」ことが、既に>>37で示されている

>>37は「里程はある程度の幅があり正確でない」ことが全く考慮されていない
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:04:39.94
>>244
「里程はある程度の幅があり正確でない」ことを考慮しちゃうと・・

短里って算出できなくね?
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:09:54.24
>>244
>>37は「里程はある程度の幅があり正確でない」ことが全く考慮されていない

逆!
「ある程度どころじゃない幅があって、正確どころの話ではまったくない」ことが
示されているんだよ

考慮の余地すらない、ことが>>37には示されているの!

いい加減自分でも見苦しいと思わないかい?

>>234は九州説の人らしいが、それでも
「それは転記ミスとは言わないだろう。 丸写ししただけ。」と書かれているし
>>236からも
「ぜんぜん質問に即して答えてなくね?」ってツッコミが入ってるよ

「転記ミス、変換ミスがあった」は、まちがいだよね?
だって丸写しで変換してないって>>232が自分で認めてるし
丸写しだから転記「ミス」はないし、変換してないんだから「変換ミス」もない

「転記ミス、変換ミスがあった」んじゃなくて、そう思う>>244がいるだよな

なら、魏志倭人伝のテキストどおりに読んで、
「短里は想定できない」でファイナルアンサーにしかならないだろ
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:19:21.36
>>242
>変だと思うどころか、萬二千里であると判断したのが陳寿

採用したのはそうだが、原資料に書いてあったものの引用だろ。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:21:14.74
>>246
>考慮の余地すらない、ことが>>37には示されているの!

正確ではないが、考慮の余地がないはいいすぎ。
内訳までわざわざ書いてあるのだから。

都合が悪いから無視したいと叫んでいるようにしか見えない。
畿内説の印象が悪くなるだけ。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:22:18.02
原資料の丸写しは誤記とは言わないだろう。
不適切なだけで。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:22:35.67
>>247
>原資料に書いてあったものの引用だろ。

原資料は何を想定しているんだい?
どちらにしても、淮南子は当時の史書(原資料でも同じ)を書ける知識階級の
人間には常識
というか、史書を書く際に参照すべき文書のひとつ
淮南子に書かれている世界観が史書の下敷きだからね
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:27:24.79
>>245
おおまかな傾向はつかめる。
デタラメなら400mを超えるものがあってもよいが、実際は400mよりかなり小さく100m前後
にまとまるという傾向が見えてくる。


>>246
「里程はある程度の幅があり正確でない」のは丸め処理のことを言っている。
>>136でも言ったけど、君が丸め処理を考慮する必要性を理解してないだけ。

>丸写しだから転記「ミス」はないし、変換してないんだから「変換ミス」もない
変換すべきところを変換してないんだから、転記ミスでもあり変換ミスだろう。
言葉の選び方はどうでもいいんで、君が好きな言葉を使ってくれ。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:28:04.51
>>248
>都合が悪いから無視したいと叫んでいるようにしか見えない。
>畿内説の印象が悪くなるだけ。

これも逆!
「短里がない」となると、九州説には都合が悪いから、というか
根拠を根本から失うから、という理由で、これだけ丁寧に説明されても
「誤差の余地を考慮という名分のデータ捏造」をしてまでも
「短里はあるんだ」という主張にしがみついているだけ

既に十分>>248の努力で、九州説の信用性が落ちまくってるよ

せめて、自分の間違いは素直に認めて謝れるようになるといいね!

再掲
「転記ミス、変換ミスがあった」は、まちがいだよね?
だって丸写しで変換してないって>>232が自分で認めてるし
丸写しだから転記「ミス」はないし、変換してないんだから「変換ミス」もない
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:28:32.91
>>248
でも、そこから短里が算出できないんだから
短里は考慮の余地がないんでは?
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:30:12.47
>>251
>デタラメなら400mを超えるものがあってもよい

ここまでのコメント読んでから書き込みしてくれるかな?

>>200で既に説明してあるが、再掲
その説明も、>>2に書いてある
東の果ての萬二千里に合わせるために、途中の数字が盛ってあるんだよ
で、1里あたりでみれば、短く「見える」がそもそも実測値ではない

>>2も参照しておいてくれ
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:33:54.32
>>251
>君が丸め処理を考慮する必要性を理解してないだけ。

この「丸め処理」が、体のいい「データ捏造」なんだよ
「必要性」どころか、数値評価の際には「決してやってはいけないこと」だ!

>変換すべきところを変換してないんだから

この「変換すべき」とする>>232の(仮定)がそもそも成り立たないことは
既に何度も示してある

再掲
「せめて、自分の間違いは素直に認めて謝れるようになるといいね! 」
これができない人は、議論ができないよ
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:35:24.52
>>254
岡田英弘あたりの説だろうか
そういいう考え方もできることは否定しない。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:43:04.34
「短里」は「想定できない」ことを、早く確認できるといいね
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:50:21.06
>>250
>原資料は何を想定しているんだい?
>淮南子に書かれている世界観が史書の下敷きだからね

出張記録みたいなものだろう。
世界観だけでは内訳が書かれるはずがない。
少なくとも短里なら福岡まで一万里以上が概ね正確に記載されているわけだし。
それを全く無意味だなどとは、おかしなことだよ。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:51:23.33
>>252
>これも逆!
>「短里がない」となると、九州説には都合が悪いから、というか

いや、それは違うよ。
実際、福岡までは辿れるじゃないか。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:55:14.58
>>258
>概ね正確に記載されているわけ

これが、「短里がある」と言い張るための無駄な言及

>>200の一部を再掲
海の上は、1日で漕ぎ渡れる距離を一律千里としているようだし
循海岸水行部分も、陸行と同じ基準ではないだろう
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:55:21.00
>>252
>再掲
>「転記ミス、変換ミスがあった」は、まちがいだよね?
>だって丸写しで変換してないって>>232が自分で認めてるし

複数人の書き込みをごっちゃにしている。
短里から長里に変換しなかっただけで、転記ミスではない。
南が東の誤りだという畿内説の主張みたいなのを転記ミスと言う。
変換ミスは、どうだろう。
カナ漢字変換以外で使ったことはないな。
短里と長里の違いを考慮しない不適切な引用だと思う。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:56:54.33
>>255
>この「丸め処理」が、体のいい「データ捏造」なんだよ
>「必要性」どころか、数値評価の際には「決してやってはいけないこと」だ!

原文にも余の文字があり、丸めた概算であることは明らかだよ。
陳寿自身が丸め処理をしている。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:57:44.06
>>255
>「せめて、自分の間違いは素直に認めて謝れるようになるといいね! 」
>これができない人は、議論ができないよ

違う人の発言を取り違えていきり立っているのはあなた。
あなたの間違い。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:59:55.49
>>260
>海の上は、1日で漕ぎ渡れる距離を一律千里としているようだし

陳寿自身が概算であることは示している。
だからそこから逆算した里がバラつくのは当然だよ。
でも、だからその数字自体が信用できないということにはならない。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:00:56.30
>>258
>出張記録みたいなものだろう。

これは、後漢への朝貢のときの記録があるっぽい
この頃の朝貢国が北部九州の国であることは畿内説も否定しない

そして、古い記録は行き先が違うものが混ざっていると考えた方が、
発掘された遺跡等の解釈と整合性が取れる

3世紀頃の奴国周辺・福岡平野の遺跡では、
野中遺跡の港湾としての西新町遺跡や、比恵・那珂遺跡の港湾の博多遺跡が確認できる
福岡平野への港湾・航路が開かれているのなら、末慮国による理由はない

また、末慮国まで船で来たとして、そこから伊都国へ向かうのに、陸行するのは
考えがたい
そのまま船をまわした方が、楽に、そしておそらく安全に移動できる

魏志倭人伝の旅程どおりの「出張」は厳しすぎるよ
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:07:41.68
>>259
>実際、福岡までは辿れるじゃないか。

奴国までの比定地は、主に「地名が残っているから」という理由で
魏志倭人伝の旅程に合うから、ではないんだ

対馬はまあいい
壱岐は、真南よりだいぶ東にそれる
末慮は、それまでの距離と比べて半分くらいだが、一律で千里とされている
末慮から伊都は、そもそも方角から違うし、本来は別の場所への
旅程がまぎれているとする方が理解しやすい
先にも書いたように、末慮ー伊都間は水行の方が自然

伊都ー奴国間も方角が合わない
東南陸行と書いてあるが、真東よりも北方向になる

どこをとっても、魏志倭人伝の旅程ではたどりつかないよ
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:09:44.35
>>264
>バラつくのは当然だよ。
>でも、だからその数字自体が信用できないということにはならない。

何度同じことを書けばいいんだろう
「4倍異なる」のは、「ばらつく」とは言わない
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:11:32.65
>>263
>違う人の発言を取り違えていきり立っているのはあなた。
>あなたの間違い。

では、>>263の書き込みはどれなのか、ピックアップして示してくれ
でなければ「根拠」のない、逆成りすましの言い逃れと
取られてもしょうがないだろう?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:12:13.35
>>262
問題なのは丸めじゃなくて
丸の名を借りた「丸め処理」と言う
循環論法なのだから
意味のない反論
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:12:25.65
レスの応酬合戦でワケワカメ
初心者の俺は蚊帳の外w
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:15:45.87
>>270
内容は無いから気にすんな
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:43:51.83
九州説は鉄だの漢鏡だの言うけれど、遺物は全部古いし、三世紀には見るべき遺跡がない

考古学的には九州説の目はもう、とうの昔に無くなっていて、魏志倭人伝だけを読めば、九州に持ってこれる、という一点にすがっている状態

そして、その魏志倭人伝の読み方にも制限があって、
「女王国までの萬二千里」を「邪馬台国までの萬二千里」と限定した上で
帯方郡から末慮国までで1万里使っているから残りは二千里とすることと
その残り二千里が「短里」であることが必須

残り二千里でも、魏晋里の435メートルを使うと870キロになって、九州島では収まらないからね
だから、「短里はあるんだ」というのに躍起になって、「丸め処理」という名を借りたデータ捏造をしてまで主張する

そして、そもそも萬二千里が実測値でもなんでもないことも、認められない

地の果てまでが萬二千里というのは、>>2で淮南子の数字を出しているが、
その前の山海経の世界観では「夏王朝が治めた九州」が方三千里で、
その外側の蛮夷の住む四海を含めた世界全体が、東西二万八千里、南北二万六千里としている
漢土の外は、東西それぞれ万二千五百里(28,000-3,000/2)となるので、
これが萬二千余里の基礎になっているように見える
これを整理したのが、淮南子の時則訓
五位,
東方之極,自碣石山過朝鮮,貫大人之國,東至日出之次,木之地,青土樹木之野,太r、句芒之所司者,萬二千里。(中略)
南方之極,自北戶孫之外,貫顓頊之國,南至委火炎風之野,赤帝、祝融之所司者,萬二千里。(中略)
中央之極,自昆侖東絕兩恒山,日月之所道,江漢之所出,眾民之野,五穀之所宜,龍門、河、濟相貫,以息壤堙洪水之州,東至碣石,
黃帝、後土之所司者,萬二千里。(中略)
西方之極,自昆侖絕流沙、沈羽,西至三危之國,石城金室,飲氣之民,不死之野,少r、蓐收之所司者,萬二千里。(中略)
北方之極,自九澤窮夏晦之極,北至令正之穀,有凍寒積冰、雪雹霜霰、漂潤群水之野,顓頊、玄冥之所司者,萬二千里。

五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている

まあ、こんなところだよ
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:55:54.53
>>273
畿内説に都合が悪いから、魏志倭人伝の記事を無視したいとごねているだけだろう。
実に後ろ向きな主張だ。
そんなに魏志倭人伝が嫌いなら、邪馬台国も卑弥呼も誤記にすればいい。
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:58:13.50
キナイコシも、本当は畿内説が破綻してしまったことは、わかっているのではないかな。。。
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:23:26.08
岡上まで出るようになったら、またここも荒れるのかなぁ

荒らすのは止めてほしいな

>>275
>魏志倭人伝の記事を無視したいとごねているだけだろう。

無視なんかしてないだろ? 
遺跡の分布等と照らし合わせて、地名などはそのままに受け取っているぞ?

半島から渡ってくる途中の島は
對馬國が対馬だし、一大國が壱岐だ
ただ、一大国は他の史書との対応で、一大国=一支国と判断できるから壱岐

末盧國は松浦だし、伊都國は糸(島)・古地名で怡土
奴国は、「那」の津、「儺」県、「那」珂川の福岡平野

これらは、旅程とは合わない(特に方角と里数)けれど、名前が残っているから
それを対照して比定地としている

で、投馬国は上古音で、dug-mag、だから、出雲国を当てられるし
邪馬台国は、ヤマト国でいい

とってもシンプルだろ?
「短里」みたいなデータ捏造は必要ないし
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:25:09.79
>>275
>邪馬台国も卑弥呼も誤記にすればいい。

邪馬壹國は他の史書との比較から誤記と判断できるから
邪馬臺國だよ

これは誤記と認める
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:26:18.54
鉄と絹は21世紀までずっと出てる
驚くなよ?
各家庭にあるんじゃないかな?

漢鏡はせいぜい3、4世紀くらいまで?
そりゃそうだ
漢が2世紀に滅亡したんだからw




で、畿内に鉄や絹が普及するのは4世紀かな?
漢鏡は無し?
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:32:13.87
>>278
>「短里」みたいなデータ捏造は必要ないし

計算したら短里のようなものがあったと結論せざるを得なかった。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:34:45.62
>>282
何を、どう計算したの?
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:35:31.30
>>281
北部九州倭国邪馬台国に
鉄と絹は「紀元前から21世紀まで」ずっと出てる
驚くなよ? 各家庭にあるんじゃないかな?

漢鏡はせいぜい3、4世紀くらいまで?
そりゃそうだ
漢が2世紀に滅亡したんだからw




で、畿内に鉄や絹が普及するのは4世紀かな?
首都と主張する倉庫街に鉄器ゼロw
漢鏡は無し?
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:37:32.43
>>283
三国志東夷伝韓伝によると、
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま。
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:44:23.04
キナイコシ連呼乙w
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:46:46.65
>>274
>五行説との対応で、東西南北+中央之極が、それぞれ萬二千里とされている
まあ、こんなところだよ

ソースの世界観が宗教上の発想なのを承知で議論を茶化して、初心の人を騙すのか?

三国志の記述は、漢以降に、この時実際に辺境に使を派遣して調査した記録だよ。
東夷伝の序文だけでも嫁w

そのうえで、使による実際の里程を記録して
記載上の定義として成り立つものであることが同定されている。
三国志に記載された、これが三国志時代の正史による里程の定義だよ。

詐欺師のにおいが臭過ぎだぞ。
魔除けの土器でも売ってんのかwww
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:54:32.73
>>289
3世紀畿内に鉄器が無いから
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:55:32.19
さて
>計算したら短里のようなものがあったと結論せざるを得なかった。

というのがウソだと判明したわけだが

 
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:56:28.84
>>291
ウソだと言う根拠は?
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:58:38.54
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:01:44.68
>>293
岡上、証拠は?
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:02:24.56
>>294
つまりあんたの方こそ根拠が無いんだねぇ
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:03:31.39
>>295
日本語上手だね?日本人?
0298日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:06:27.32
>>280>>284
>ずっと出てる

これが捏造
3世紀の北部九州では、というか甕棺墓が廃れたあとの九州では
出てないんだよ

はっきり、北部九州社会の衰退を示している
それをごまかす言い方が「ずっと出てる」
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:07:34.48
>>289
詐欺師の論法がバレバレだって言ってんのに学術の話続けろ、ってか?
宗教書じゃなくて、三国志読んで勉強してからにしろよ。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:07:35.92
>>285
>つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

これは>>200で説明済み
再掲
東の果ての萬二千里に合わせるために、途中の数字が盛ってあるんだよ
で、1里あたりでみれば、短く「見える」がそもそも実測値ではない

海の上は、1日で漕ぎ渡れる距離を一律千里としているようだし
循海岸水行部分も、陸行と同じ基準ではないだろう
0302日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:09:09.16
三国志東夷伝韓伝によると、
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0303日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:09:23.01
まあ「出てない」と言うのは強調の筆法で
激減が本当だけどな
0304日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:09:42.29
>>292
>ウソだと言う根拠は?

>>37に書いてある
再掲
末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里

四倍も違ってて「短里という単位」があったと主張するのは無理だろ?

それに、里は度量衡の一部なんだから、短里がもしあるとしても、
歩、尺、寸との対応が付けられなければならない

1里=300歩
1歩=5尺
1尺=10寸
なのだから、短里を九州説の主張のように1里=70メートル程度を考えると、
1歩=23センチ
1尺=4.7センチ
1寸=4.7ミリ という現実離れした数値が出る

よく九州説の人は、周髀算経の「一寸千里の法」が短里の証拠というが、
その際の1寸は、4.7ミリだというのだろうか?

「短里という単位」があったという主張は、
1.実際に計っても
2.度量衡の整合性を考えても
「無理」という結論にしかならない

結局、魏志倭人伝の里程は、「不正確であてにならない」とするしかない
0305日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:10:40.57
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:11:35.00
>>302
「朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里」
だと言う理由は?

誤情報でも虚報でもないと断定する理由は?
0307日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:11:58.15
>>304
あ、それ詐欺師の論法ね。

3世紀だからね。
GPSもない。なんもない時代に、

目測で測ったにしては、驚くほど正確なのが、
三国志東夷伝の、短里=東夷伝里。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:12:07.88
>>300
>勉強してからにしろよ。

って書いてあるところを見ると、キウスでいいのかな?
0309日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:12:19.64
三国志東夷伝韓伝によると、
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0310日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:12:27.58
>>305
なんで必須条件になるの?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:14:25.13
九州説は根拠提示ゼロで言い張るだけか
0312日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:14:38.65
>>300
>宗教書じゃなくて

今の世から見れば、淮南子は宗教書といえるかもしれないが、
3世紀の大陸社会においては、これが「世界観の常識」なんだよ

もちろん、東夷伝の序文も読んでるよ

萬二千里を実測する術はないんだ
「倭人在帶方東南大海之中」というのは理解しているかな?
0313日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:14:58.67
>>310
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0315日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:16:09.31
>>312
実測せんでも陳寿の脳内世界で萬二千里=奴国だから
邪馬台国=北部九州邪馬台国

おわかり?詐欺師君w
0317日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:18:43.02
>>305
>平原女王=卑弥呼だよ。

それは無理だろう
魏志倭人伝で、鏡百枚を下賜されたと明記された卑弥呼の墓に
漢鏡3期と漢鏡5期のそれぞれ1枚ずつの、古い古い伝世の舶載鏡と
38枚の仿製鏡しかないってことは、ありえないだろう

しかも仿製鏡も、朝貢当時の漢鏡6期、7期に当たるものが1枚もない

そんな平原1号墓くらいしか卑弥呼の墓に想定できそうな墓すらない時点で、
九州説は終わってるんだよ
0318日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:19:42.09
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0319日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:20:25.02
>>307
つまり、合ってるっていうのが非現実的で
詐欺師の主張なんだな
0320日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:20:58.83
>>317
あらら
そちらから卑弥呼墓=平原遺跡を持ち出したの?

悔しそうw
0321日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:21:29.57
三国志東夷伝韓伝によると、
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:21:39.34
>>307
>それ詐欺師の論法ね。

詐欺師って言えば畏まると思うなよww

ここでは大声が勝つ訳じゃなくて、きちんと「根拠」を挙げて
論証することが必要

詐欺師というのではなく、
「どこ」が「どう不適切」なのかを、「根拠」を挙げて指摘しない限り
何の意味もないよ

まあ、九州説の人の一番苦手なことだけどね
「根拠」をあげて、「論証」ってのがさ
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:22:56.82
>>304
>末廬国(唐津)ー伊都国(糸島)    25km/500里=50m/1里
>伊都国(糸島)ー奴国(福岡市)   20km/100里=200m/1里
なんで場所の確定してない地名で距離を否定する?
だから詐欺師の論理って言われんだろ。

半島南岸から対馬 千里
対馬から壱岐 千里
壱岐から九州上陸地 千里
これは平均化が可能。

なら、上陸地は糸島半島周辺だぞ。
糸島半島なら500里の伊都国は福岡平野西麓だよ。
唐津じゃ、方角が違う。
誤読しかできないのか、初心者騙したいのか、どっちかだろ。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:24:11.03
>>322
屁理屈で生き残れると思うなよww

鉄器ゼロで生き残れると思うなよww
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:25:29.79
>>315
>実測せんでも陳寿の脳内世界で萬二千里=奴国だから

惜しいな
奴国までじゃなくて、女王国までだ

魏志倭人伝、ちゃんと読んでるか?
「自郡至「女王國」萬二千餘里」
こういうのが「根拠」だよ?

そして、>>315自身が「実測せんでも」と書いているが、
その「実測していない萬二千里」はどこから来るんだい?

「根拠」とともに示してくれ

こちら側は、萬二千里が明記されている文献を明示しているぞ

さあ、どうぞ!
0327日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:25:47.29
半島南岸から対馬北端 千里
対馬北端から壱岐北端 千里
壱岐北端から九州上陸地 千里

なら、上陸地は唐津周辺だぞ。
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:26:06.05
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0329日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:26:41.21
>>325
鉄器ゼロ

悔しそうw
0330日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:27:23.44
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0331日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:27:26.89
>>323
>なら、上陸地は糸島半島周辺だぞ。

いや、上陸地は福津周辺。 福津周辺が大陸からの玄関口。  @阿波
0332日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:27:52.83
真実が明らかになるほど
有利になる九州説
0333日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:28:45.63
>>323
>なんで場所の確定してない地名で距離を否定する?


通説を使ってるだけだろ。

通説を否定したいなら根拠を出せば?
0334日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:29:01.47
>>323
>なんで場所の確定してない地名で距離を否定する?

末慮国は宇木汲田遺跡
伊都国は三雲南小路遺跡
奴国は須玖岡本遺跡 で代表点としているよ
王墓のある遺跡が、それそれの国を代表するってことでいいだろ?

ちゃんと「根拠」はあるんだよ
なんなら、自分でも計ってごらん
0335日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:31:38.38
末慮国の上陸地点が呼子なら
呼子から出発する時に伊都三雲南小路遺跡は南東だな。

伊都が高祖山を中心とする東西を含むとして、
東が三雲南小路遺跡
西が吉武高木遺跡だとする。

伊都から奴国に行くには海路で奴国に上陸してから
奴国須玖岡本遺跡へ向かうので、
出発する時には南東だな。
0336日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:32:03.72
>>323
>半島南岸から対馬 千里
>対馬から壱岐 千里
>壱岐から九州上陸地 千里
>これは平均化が可能。

平均しちゃだめだよ
前にも書いたけど、海は1日で漕ぎ渡れる距離が「一律で千里」なんだから、
そもそも陸上の里数とは定義が違う

そして、壱岐ー末慮間は。明らかに距離が短い
それを平均するのはデータ捏造に近い
0337日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:32:33.19
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0338日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:33:18.91
末慮国の上陸地点を呼子なんかにする理由は?

呼子から出発する時に伊都三雲南小路遺跡は南東だという理由は?
0339日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:33:28.42
>>328
3世紀畿内に鉄器が無いから
0340日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:33:52.62
>>293
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0341日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:34:52.45
>>338
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:35:08.83
>>335
>呼子から出発する時に伊都三雲南小路遺跡は南東だな。

もうごまかすことしか考えていないだろう?

伊都国へは「東南『陸行』五百里」と明記されている
呼子から東南方向は「海」ww

屁理屈、乙
0343日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:35:31.45
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0344日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:36:23.32
>>334
>末慮国は宇木汲田遺跡

唐津は大陸の玄関口でないから「世界文化遺産」になっていない。
末慮国は宗像福津周辺。  @阿波
0345日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:36:26.52
>>342
呼子から東南方向に伊都三雲南小路だろ。
海沿いにのんびり陸行五百里で到着。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:36:34.53
>>341
>平原女王=卑弥呼だよ。

だから、「魏皇帝下賜の鏡が1枚も出ない」平原1号墓を貶めるのは止めてあげて!
0347日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:36:55.20
>>337
事実と言い張るだけで証拠出さず

それが九州説クオリティ
0348日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:37:47.32
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0349日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:37:58.50
>>345
>呼子から東南方向

だからこれが「海」なんだってその方角は
海沿いじゃなくて「海の中」
どうやって陸行するんだよww
0350日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:38:25.98
>>345
こういう嘘を平気でつけるのが九州説だなあ
0351日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:39:08.53
>>349
伊都の方角を示しているんだから東南でいい。
なんか憐れだなあんた。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:39:16.66
鉄器ゼロ

悔しそうw
0353日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:39:20.71
>>348
>基本的に東夷伝里(短里)で記載

100回繰り返しても、根拠のないものは無意味なんだってば
0354日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:39:37.70
あ、それ詐欺師の論法ね。

3世紀だからね。
GPSもない。なんもない時代に、

目測で測ったにしては、驚くほど正確なのが、
三国志東夷伝の、短里=東夷伝里。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:39:57.15
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0356日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:40:16.20
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:40:36.99
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0358日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:41:02.09
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:41:52.52
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0360日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:43:58.71
>>317
平原遺跡は八咫の鏡を副葬された屈指の豪華な墳墓だよ。
そしてその築造年代はおそらく卑弥呼の治世で、被葬者は女性。
王権の象徴である三種の神器は倭の女王の墓であることを明示している。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:47:45.40
そんな平原1号墓くらいしか卑弥呼の墓に想定できそうな墓すらない時点で、
九州説は終わってるんだよ
0362日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:48:56.68
>>361
それって反論?
0363日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:49:02.47
>>351
>伊都の方角を示しているんだから東南でいい。
>なんか憐れだなあんた。

魏志倭人伝を「全て正しい」とするためだけに、整合性を全て振り捨てているのが
九州説

上陸地点が末慮=松浦だとしても、伊都国へ向かうのは常識的に考えれば
海上交通が第一選択と言われているのに、

東南という方角を合わせるためだけに
末慮という地名を無視し
弥生時代に繁栄した遺跡もない呼子を上陸地にし、そこを末慮國と強弁する

そしてそこまでしても、呼子の先端から伊都国方向は、
せいぜい東で東南にはならないww

何でそこまで、頭のおかしなことを言い張るのか不思議

そもそも、末慮國が松浦付近という定説の比定地を否定するなら、
もっと緻密な根拠と論証を用意しないと!

九州説はたいてい、その場の思いつきレベルを超えないから
論証に耐えられない
0364日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:49:23.91
>>361
泣くなよw
0365日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:50:59.34
>>362
いや、憐憫
0366日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:55:53.42
>>358
>これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。

それよりも何よりも、破砕供献されてるだろ?
魏皇帝の詔勅で「還到録受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。」と記された鏡を
破砕しちゃあいけないだろう?

専門家の仿製鏡判定を、気に入らないからといって否定しても始まらない

それに、平原1号墓の墳丘サイズは14×12メートルで、200年も前の王墓
三雲南小路遺跡の30メートル四方よりもずっと小さい

そんなのしか王墓候補がない時点で、九州説は終わってるだろ?
0367日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 22:58:30.87
>>362

本当に、九州説は平原1号墓が卑弥呼の墓でいいの?

そこ、伊都国だよ? 邪馬台国じゃないよ?
0368日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:00:35.90
鏡をどう使おうと倭人の勝手だろ。
0369日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:03:26.37
ていうか、平原遺跡で最大の鏡である八咫の鏡は明らかに国産だろ。
むしろ卑弥呼の治世における伊都を中心とする倭国の興隆の証拠だろ。
技術水準の向上の成果を貶めて何が狙いなんだ?
0371日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:05:11.47
邪馬台国と奴国を含めて邪馬台国または女王国。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:09:08.37
後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:09:39.09
>>371
え〜い、面倒だ。 末羅国も伊都国も奴国も全部邪馬台国だ  持ってけ、ちくしょ〜
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:10:36.99
狗奴国も呉れてやら〜 こんちくしょ〜
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:10:39.77
考古学的には後漢の頃の王墓があるのは糸島平野なので、実は後漢書の倭奴国とは魏志倭人伝の伊都国。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:11:38.87
>>374
あながち間違いではない。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:12:22.45
>>375
狗奴国は卑弥呼が実効支配していないからさすがに含まないと思う。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:12:26.07
>376
ウソは聞き飽きた
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:13:46.28
>>378
遠慮すんな
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:43:55.03
>>190は韓人
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:47:53.74
韓人
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 23:59:01.21
三種の神器を貶める畿内説って韓人?
奴国からが女王国と主張するのは、朝鮮半島の南岸の狗邪韓国が倭地だと困るから?
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 00:01:33.51
同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。

どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw

大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー

方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 00:17:32.33
平原1号墓の鏡がどんなに立派でもいいけどさ、魏皇帝から下賜された鏡が1枚も出ないのは卑弥呼の墓として致命的でしょうが!

そして弥生末期の墳墓として墳丘サイズ14×12メートルというのは、とても王墓とは思えない
同時代でも、吉備の楯築墳丘墓は二つの方形突出部を入れて墳丘長72メートル、出雲の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、丹波の赤坂今井墳丘墓は東西36m、南北39m、高さ3.5mの墳丘部に加え四方に5〜9mの平坦部、てなサイズがある

大和はさらに大きくて纒向石塚古墳で全長96メートル、東田大塚古墳で墳丘長120メートルある

地域ごとに墓の個性が違うといっても、同じ伊都国の三雲南小路遺跡の200年前の王墓でも30メートル四方の墳丘がある

同時代の別の地域の墓と比べても、同じ地域の時代の違う墓と比べても、平原1号墓はしょぼいんだよ

こんな平原1号墓が卑弥呼の墓の第1候補って時点で九州説は終わってるんだよ
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 00:22:46.36
>>368
>平原遺跡で最大の鏡である八咫の鏡は

それで直径40センチくらいだっけ?
それより古い銅鐸が高さ130センチくらいのものまで作られている
弥生時代の青銅器製作技術は現代人が思うよりずっと高いんだよ
そのレベルを考えれば、仿世鏡はいくらでも作れるし、実際平原1号墓では破鏡するために
作ったように見える

それをでかい鏡があるからすごいって言ってもしょうがないだろうに
0391日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 00:28:10.58
>>370
>伊都国は邪馬台国なんだって

南が東の間違いであると認めない九州説が、投馬国までの水行20日と邪馬台国までの水行10日陸行1月をうまく説明できずにひねり出したのが、伊都国が邪馬台国という珍説

でも、それではなぜ伊都国と邪馬台国が「別の名前で記されているのか」を十分に説明する九州説を見たことがない

説明できる人はいるのかい?
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 00:31:05.99
銅鐸の方がでかくて立体なんだから、130センチの銅鐸が作れる工房なら
40センチの円盤の鏡は苦もなく作れるだろ?

銅鐸が邪馬台国の前の時代だってのは分かってるよ
ただ、40センチの鏡はそこまでありがたがるものじゃないってこと
実際これも破鏡されてるし
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 00:57:15.26
>>392
>銅鐸の方がでかくて立体なんだから、130センチの銅鐸が作れる工房なら
>40センチの円盤の鏡は苦もなく作れるだろ?

これがデタラメ
0394日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 06:37:08.01
理由がまったく言えない九州説の貧困
0395日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 06:44:13.91
>>388
墓の第一候補なんて言われてないがな。
魏皇帝から下賜された鏡が1枚も出ないのは卑弥呼の墓として致命的
というのは同意。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 06:53:13.91
>>371
伊都国に必ず滞在する使節が、女王国7万戸は
伊都国や奴国の戸数も含めた数だと書くわけない。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:04:31.43
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:05:37.53
キナイコシはケチをつけるだけで
じゃあキナイコシのどこに鉄器邪馬台国があったかというと
全く示せない
0399日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:08:49.74
>>397
平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠を知らないの?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:10:17.21
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:11:09.07
>>399
アホの九州説に教えてやれよw
0403日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:27:13.54
>キナイコシはケチをつけるだけで
>じゃあキナイコシのどこに鉄器邪馬台国があったかというと
>全く示せない

奴国でも硯が見つかったし、もはやw
0405日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:32:32.23
文書邪馬台国
0406日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:34:13.24
鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説  @阿波
0407日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:35:36.87
のたうちまわるキナイコシ()笑

島根(田和山遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器が無いから使い方を知らない、ただのペンダントだ!」

伊都(三雲井原遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器と一緒だから、楽浪人だけが使っていた!」

福岡県筑前町(中原遺跡)で硯
→キナイコシ「墨が付着していない、ただの飾りで使っていない!」

福岡県筑前町(薬師ノ上遺跡)で硯完全体、墨付着
→キナイコシ「絵だ!絵を描いていたんだ!」

壱岐(カラカミ遺跡)で文字を書いた土器
そもそも銅鏡に文字、国産なら尚更
→キナイコシ「・・・」

奴国弥生銀座(比恵遺跡)で硯

これ以上キナイコシに付きあう必要あるのか?w
0408日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 07:36:11.86
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0409日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 08:09:19.50
>>392
>実際これも破鏡されてるし

破鏡はそういう文化なのだが、何か問題が?
0410日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 08:10:29.35
国産で八咫の鏡を作れるようになったら、魏からの鏡なんてさして重要でもないだろ。
畿内説は何を騒いでいるんだ?
0411日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 08:29:35.73
鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説  @阿波
0412日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 09:58:58.74
>>410
>魏からの鏡なんてさして重要でもないだろ。

こう言わないと成り立たない九州説はオワコン

実際は、もらった鏡だけでは足りなくて、記念のコピー鏡を
大量に作って配ることまでしてるんだけどね

そしてその鏡を持っていることが、倭国のメンバーであることの証

まあ、大量に作りすぎて、価値の下落が起こるところまでいってるけどさ
0413日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 10:01:31.75
>>395
>墓の第一候補なんて言われてないがな。

じゃあ、他の候補もあるの?

九州説の人全員に訊きたいんだけど

1.邪馬台国(卑弥呼の宮殿)の位置はどこ? 遺跡レベルで指定して欲しい
2.卑弥呼の墓の候補はどれ?        具体的な墳墓で答えて欲しい

答えられるかな?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 10:16:23.73
331の>>206
>「写本版本における「一つの文字の錯誤」が起きる確率が、1万分の1位1以下しかない」
とか、もの知らずなことを言ってたバカがいるけれど、版が千年保管されてると思うんだろうか?
写本なら当然転記ミスがあるし、版本でも版を作るときには普通に間違うんだから
「間違うはすがない」と言い募るやつがバカだよ<

写本は、一字一字の転写であり、
版刻は、元の本を板に張り付けて、
その「文字線の周りを彫り込んで」文字を浮かし状態にして版を造るんだから、
どちらも、原理的には、「ほぼ間違う筈がない」んだよ。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 10:18:15.26
>>414
おかしな原理を発明するなって
0416日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 10:34:15.30
九州説って、邪馬台国も卑弥呼もやたら「小物」にしたがるよな

九州説          VS   畿内説
倭国は九州島オンリー        倭国は畿内から九州まで(東海が入るかは微妙)
水行20+10日陸行1月は無視     投馬国が出雲で邪馬台国が大和
伊都国は「邪馬台国の中」だけど   伊都国は「邪馬台国から遠い」から
一大率を置く            一大率を置く
平原1号墓は12×14メートル     箸中山古墳は278メートル
40面の鏡を副葬           81面の鏡を副葬(箸中山古墳は未発掘なので桜井茶臼山古墳のデータ)
 四螭二朱雀龍虎鏡          三角縁神獣鏡       26面
 雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡     内行花文鏡(国産)    10面
 方格規矩鏡 32枚         内行花文鏡(舶載)     9面
 内向花文鏡 6枚          画文帯・斜縁・四乳神獣鏡 16面
                   半肉彫神獣鏡        5面
                   環状乳神獣鏡        4面
                   だ龍鏡           4面
                   細線獣帯鏡         3面
                   方格規矩鏡         2面
                   単き鏡           1面
                   盤龍鏡           1面
                   桜井茶臼山も王墓級とは言われるが大王墓とはされていない
7万戸は伊都国奴国などの合計     七万戸は「畿内大V様式土器の範囲」

結局、三世紀には列島内の他の地域の方が栄えているのが歴然としているから
倭国を九州島限定にして、30ヶ国を無理やり九州島内に押し込め、
他との交流はなかったことにしないと成り立たないのが九州説

つまり、九州説はオワコン

 
0417日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 10:44:10.78
>>416
どっちもどっち。

鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説  @阿波
0418日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 12:21:34.10
オワコン、と言いたいだけじゃないの?
0419日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 12:47:44.11
>>417 <オマエモナ〜 w

皇帝の 詔書報倭女王曰

又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩
五尺刀二口 銅鏡百枚 『真珠』『チ丹』各五十斤・・・
國家哀汝故鄭重賜汝好物也

であるが、これは、
大夫難升米等に聞いて、皇帝が女王国に無いもの珍しいものを送った。

其山有『丹』 また卑弥呼が送ったのは 貢『白珠』五千孔

『丹』=『チ丹』、『真珠』=『白珠』 と言いたいのであろうが、
これで、 一字一字に意味がある、表意文字において、
同時期の同作者による文言による固有名詞を、同じものとしてはいけないと考える。

特に倭人は
以朱丹塗其身體如中國用粉也 であるが
『チ丹』は肌に塗らない。

一書全体で定義できている方角について、
一部だけで南=東が論外なのは当たり前として
まずは、記述の一字一句を、著者を信じて読む必要がある。
0420日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:15:26.37
>>419
>まずは、記述の一字一句を、著者を信じて読む必要がある。

で、一字一句間違っていない、99.5%以上正確とか言ってるお仲間の
99.5%の異常性格の人を何とかしてください

ここでも>>414で書き込みしている人です

本当に、九州説の中で何とかしてください
九州説の責任で論破してくれると助かります
0421日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:16:24.66
>>419
そういうのはいいから、シンプルに>>413に答えてみてくれるかな?

再掲
九州説の人全員に訊きたいんだけど

1.邪馬台国(卑弥呼の宮殿)の位置はどこ? 遺跡レベルで指定して欲しい
2.卑弥呼の墓の候補はどれ?        具体的な墳墓で答えて欲しい
0422日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:17:45.01
>>419
>皇帝が「女王国に無いもの珍しいもの」を送った。

はい、捏造!
そんなことはどこにも書かれていないよ!

脳内妄想ですね!
0423日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:20:02.54
>>420
>本当に、九州説の中で何とかしてください
>九州説の責任で論破してくれると助かります

すまないねえw
いろいろ言っているけど、聞かないのさ。
0424日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:21:29.12
>>421
>1.邪馬台国(卑弥呼の宮殿)の位置はどこ? 遺跡レベルで指定して欲しい

高祖宮(伊都国)、香椎宮(不弥国)のどちらか。

>2.卑弥呼の墓の候補はどれ?        具体的な墳墓で答えて欲しい

平原遺跡。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:21:33.72
>>419
>一部だけで南=東が論外なのは当たり前として

このスレでもきちんと「根拠」から説き起こして説明してあるだろ?
そういう思い込みじゃなくて、「根拠」と「データ」、
それに加えて信頼できる「ソ−ス」をつけて、九州説を論じてくれればいいんだよ

ただ、そういわれて九州説が出してくる「ソース」が「邪馬台国の会」のウェブとか、
笑えることになるんだけどさ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:23:19.45
普通に魏志倭人伝を読んだら九州北部だろ。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 13:23:34.49
>>419
>『真珠』=『白珠』 と言いたいのであろうが、

そんなことは言わないよ? 誰に聞いたの?ww

普通は『真珠』を「ましゅ」と読んで、これを水銀朱=丹=辰砂と見る
0428日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:12:40.65
>>424
>高祖宮(伊都国)、香椎宮(不弥国)のどちらか。

ずいぶん離れたところを2ヶ所挙げてくれたけど、特定できないってことは
特に「根拠はない」ってことでいいかな?

香椎宮は、仲哀・神功の九州征伐〜三韓征伐の拠点とされたことが
その始まりと神社の御由緒にも明記されているんだが、大和朝廷側の
歴史に乗るのかい? 九州説が?

高祖宮の方は、怡土県主の本貫地とされているようだけれど、社殿の位置は
かつては大下にあったってウィキペディアには書いてあるけれど、今の
鎮座地か、以前の鎮座地かどっちだと考えているんだい?

怡土県主って時点で、國造になれなかった小豪族なんだが、ここに倭王がいた
と主張するのかい?

そして、最初の質問は「遺跡レベルで指定して欲しい 」だったんだが、
香椎宮と高祖宮の近くに、弥生時代の「宮殿遺構を思わせる遺跡」はあるのかい?

正直、単に北部九州で宮と付く古社を選んだだけのように思うんだが?

そうではないというのなら「根拠をつけて」説明してくれ

九州説で答えてくれる人は、1人だけかい?
九州説としての考え方の基礎となる部分だと思うし、他の人も答えて欲しい

1.邪馬台国(卑弥呼の宮殿)の位置はどこ? 遺跡レベルで指定して欲しい
2.卑弥呼の墓の候補はどれ?        具体的な墳墓で答えて欲しい

それとも、ここにいる九州説は一人だけなのかい?
0429日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:17:14.63
>>426
>普通に魏志倭人伝を読んだら九州北部だろ。

南至投馬國「水行二十日」
南至邪馬壹國女王之所都「水行十日陸行一月」

ここをまるっと無視する、or 変態解釈をする 
という前提が「普通」ならば、ね
0430日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:21:57.25
>普通は『真珠』を「ましゅ」と読んで、これを水銀朱=丹=辰砂と見る

珍説! 誤説

真珠(ましゅ)は、湯桶(ゆとう)読みで和漢混交読み。シナ人は知らない読み方。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:26:58.71
>>428
>ずいぶん離れたところを2ヶ所挙げてくれたけど、特定できないってことは

魏志倭人伝は、伊都国、奴国、不弥国を合わせて女王国と読んでいるように読めます。
特に奴国の人口が多いため、これらの地域はある程度一体として繁栄していたのでしょう。

>かつては大下にあったってウィキペディアには書いてあるけれど、今の
>鎮座地か、以前の鎮座地かどっちだと考えているんだい?

もちろん古い方ですが、それさえもその前にも移転した可能性がないわけではないので、はっきりしません。
山腹だと地形の変化などによりすでに削られている可能性もあります。
0432日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:29:47.74
>>421
まず最初に邪馬台国が何か、を倭人伝自体から読めてないものが
邪馬台国はどこか? 卑弥呼の墓はどこか?
と、言う議論に加わっていることが不思議。
初心者騙しの頓珍漢なこじつけ根拠に興味はない。

倭人伝を読んでいて、卑弥呼が倭国の王だという前提が異常。
統一王朝に成りかけの倭王の墓なら畿内にあるだろうね。
倭人伝にはそっちの事は一言も書いてない。

九州北部から、一歩も出ない。
卑弥呼の砦は山門瀬高、墓は平原でも良いし、伊都の周辺。
なぜならば、張政が来た時には邪馬台の城は落城し、壹與は伊都で弔いしてたから。
鏡を割って投げ入れて、王宮から逃げてきた女給100人を埋めた墓が、有るんでしょ。

九州が古墳時代なのか? というと卑弥呼の後継で30国の諸王が争った
というところに見るように、倭人伝の内容から軍事的統一国とはは違うと思うけど?
銅鏡貰った有力王墓みたいなもんは、案外糸島側に集まってるみたいだな。

考古学出土品から推測できることと、文献の行間を読むのは似たようなもんだよ。
邪馬台国という名称が梯儁が命名した卑弥呼の砦の名だと判るなら、話は繋がる。
0433日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:35:08.71
真珠(zhēn zhū)はパールだろ

「且蘭、復直南,乃有積石,積石南乃有大海,出珊瑚, 真珠」魏略西戎傳
0434日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:35:14.18
はい、困ったときの九州説詭弁大会が始まりました

みんなで、傾聴しましょう

ではどうぞ パチパチパチ
0435日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:37:16.33
>>428
>怡土県主って時点で、國造になれなかった小豪族なんだが、ここに倭王がいた

逆に、日本書紀が仲哀の段でわざわざ岡田宮と高祖宮の主が榊を示して登場したことで、ただの地方領主ではないことをうかがわせますね。
前者は豊国王家(遠賀川流域)の、後者は筑紫王家(博多湾沿岸)の末裔でしょう。
彼らが仲哀らの政権を承認したのです。
県主の称号は後世の修飾です。
そして神功皇后が入ったのが香椎宮です。
神功皇后は卑弥呼に符合するように書かれており、卑弥呼の宮が香椎宮であった可能性をも示唆するものです。
そして神功皇后が攻めたのが筑後(本来は有明海沿岸の肥国)にいた熊襲、つまり肥国王家です。
九州北部にあった倭国の連立王国とその内乱そのものです。

魏志倭人伝で言えば、伊都国を最終目的地としていた郡使がなぜ不弥国へは足を伸ばしたのか。
そこに宮があったからではないのか。
0436日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:43:15.80
>>432
>倭人伝を読んでいて、卑弥呼が倭国の王だという前提が異常。
>統一王朝に成りかけの倭王の墓なら畿内にあるだろうね。

後漢書を読むと、そもそも倭国とは対馬海峡から博多湾沿岸の国であることがわかります。
畿内なんて関係ない。
卑弥呼の前の帥升も一般的には博多湾沿岸の倭王と解釈されています。
漢委奴国王印も博多湾沿岸で見つかっています。
そして卑弥呼の印璽は親魏倭王です。
つまり博多湾沿岸の女王なんです。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:45:29.91
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
ちなみに帯方郡から投馬国(宮崎都万)まで水行20日

後漢書における里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 15:52:25.25
後漢書では倭は韓の東南大海中に百餘國在り
漢と使驛通じていたのは三十許國
女王國の東の拘奴國は倭人であるけれども女王には属していない

つまり倭は半島の南東部を境界に東に拡がっている国々
0439日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 16:59:52.51
>>430
>真珠(ましゅ)は、湯桶(ゆとう)読みで和漢混交読み。シナ人は知らない読み方。

この読みを「ましゅ」と書いたのは、私のサービスだよ
要するに真珠と書いて、「本当の朱」という意味

「ましゅ」と日本語で書けば伝わると思ったんだけど、
日本語での意思疎通が上手じゃない人のことを考慮していなかった
ごめんね!
0440日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:06:35.54
>>431
>魏志倭人伝は、伊都国、奴国、不弥国を合わせて女王国と読んでいるように読めます。

というか、女王国=女王の国で、女王卑弥呼が倭王なんだから、女王国≒倭国でしょ?
どうして北部九州限定にするの?
「ように読めます」ということは、「そう>>431が考えた」程度のことで根拠はないとか?

>特に奴国の人口が多いため、これらの地域はある程度一体として繁栄していたのでしょう。

奴国の人口の人口が書いてあって、女王国ではなく邪馬台国の人口が七万戸と書いてあるんだから、
邪馬台国が奴国を含むというのは賛成できない

>もちろん古い方ですが、

その古い方は、具体的にはどこなの? 弥生時代の遺跡はあるの?

>山腹だと地形の変化などによりすでに削られている可能性もあります。

王宮を、そんな不安定な土地に置くかな?
また「以婢千人自侍」の王宮なんだから、そうそう山の中ってのは無理だろう
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:07:37.62
>>432
>初心者騙し

ザラコクは出てこなくていいよ
0442日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:17:29.89
>>435
>魏志倭人伝で言えば、伊都国を最終目的地としていた郡使がなぜ不弥国へは足を伸ばしたのか。
そこに宮があったからではないのか。

これと、魏志倭人伝の「邪馬壹國、女王之所都」とは、どう整合性を取るの?
不彌国なの? 邪馬台国なの?

伊都国、奴国、不彌国に、邪馬台国を重ねる読み方は、おかしいでしょ?
0443日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:20:21.00
>>436
>卑弥呼の前の帥升も一般的には博多湾沿岸の倭王と解釈されています。
         ↑       ↑
         ×       △
卑弥呼の前の帥升「は」少なからぬ人が「吉野ヶ里あたり」の倭王と解釈されています。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:21:53.51
>>436
>漢委奴国王印も博多湾沿岸で見つかっています。

これは正しい

>そして卑弥呼の印璽は親魏倭王です。

これも正しいが、倭王であって倭「奴」国王ではない

>つまり博多湾沿岸の女王なんです。

なので、ここは論理の飛躍
論証になっていない
0445日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:29:55.11
>>438
>女王國の東の拘奴國

魏志倭人伝では「其南有狗奴國」となっていて「南」だね
後漢書の「東」と方角が違う

これを素直にとれば、後漢書の方が新しいから、
畿内説の主張する「南は東の誤り」が正しくて、後漢書の時点で
修正されたと考えられる
または、伝書の途中で魏志倭人伝で誤記が生じた、かも知れない

後漢書の記述は正確には
「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」だよね
魏志倭人伝の「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種」と対応している

九州説だと、この記述をもって畿内は倭種で倭国じゃないというけれど
狗奴国は九州で倭国内なんだろ?

この辺は、どうやってごまかしてるんだ? 九州説では?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:31:49.98
>>438
>つまり倭は半島の南東部を境界に東に拡がっている国々

これって、畿内説のいう「北部九州から畿内(〜南関東?)が倭国」と同じなんだけど
>>438 は畿内説なの?
0447日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:32:18.16
>>438
>1.邪馬台国(卑弥呼の宮殿)の位置はどこ? 遺跡レベルで指定して欲しい
>2.卑弥呼の墓の候補はどれ?        具体的な墳墓で答えて欲しい

1.遺跡不明 久留米南部(祇園山古墳が見えるる所)
2.祇園山古墳
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:33:17.42
>>440
>また「以婢千人自侍」の王宮なんだから、そうそう山の中ってのは無理だろう

なるほど。
ただ、高祖宮は後に怡土城や高祖城などの山城の一部にもなります。
その役割が弥生時代にもあったとすれば、山麓から山頂までかけた領域が宮であった可能性があります。
纒向が4棟しかないのに領域で広大な設備と呼ぶのと同じ理屈ですが、1000人が一つの建物にいたとは考えにくく、複数の建物に分散していたことでしょう。
オリジナルの高祖宮の遺構はまだ見つかっていないと思いますが、後世までここが糸島平野の要として機能していたことは確かなようです。
筑紫の日向にあるこの宮は、記紀における高千穂宮かもしれません。
0449日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:34:03.41
>>443
>卑弥呼の前の帥升「は」少なからぬ人が「吉野ヶ里あたり」の倭王と解釈されています。

初耳です。
ソースは?
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:35:35.18
>>446

うん
0451日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:35:51.31
>>444
>これも正しいが、倭王であって倭「奴」国王ではない

後漢の頃に倭奴国が記録されていますが、考古学的には伊都国に王墓が作られた時期であることから、後漢書の倭奴国とは、魏志倭人伝の伊都国であったと考えます。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:38:06.33
>>445
>後漢書の記述は正確には
>「自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種 而不屬女王」だよね
>魏志倭人伝の「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種」と対応している
>九州説だと、この記述をもって畿内は倭種で倭国じゃないというけれど
>狗奴国は九州で倭国内なんだろ?

後漢書の方が新しいため、後世の事情に引きずられたか誤記があったのでしょう。
狗奴国は菊池彦などの対応から、熊本と考えています。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:39:09.98
>>447
高良宮または玉垂宮がぴったり。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:41:20.34
>>451
なんて遺跡?
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:43:41.28
>>450
OKです
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:44:46.46
遺跡不明てw
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:47:39.28
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0458日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:48:04.32
>>454
三雲南小路遺跡や伊原鑓溝遺跡
0459日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:49:38.01
>>502
>4世紀後半と見られる一貴山銚子塚古墳だが、棺内に置かれたのは鍍金方格規矩四神鏡と長宜子孫内行花文鏡。
>棺外に三角縁神獣鏡。

つまり方格規矩四神鏡と内行花文鏡は4世紀後半まで重宝されていたわけだな。
銅鏡を中国での年代で古く論じることはできないわけだ。
0460日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:49:39.21
>>458
時代あうの?
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:54:13.96
>>460
合うのっつーか古墳時代まで続く集落遺跡だからいいんじゃねの
0462日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 17:57:15.69
高祖宮(伊都国)は卑弥呼の王宮、壹與も前半は使用
香椎宮(不弥国)は壹與の後期の王宮
0463日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:02:41.88
>魏志倭人伝は、伊都国、奴国、不弥国を合わせて女王国と読んでいるように読めます。

行程論(文章地図)から見ると、
女王國は、奴國・不彌國・投馬國・邪馬台国の4ヶ国。

伊都國は、郡から11900餘里にあるから女王國に含まれない。
女王國は、郡から12000餘里以遠にある。

投馬國は、郡から水行20日(2万里)の行程距離。有明海沿岸
邪馬台国は、郡から水行10日(11400餘里)陸行1月(1千里)の行程距離。筑紫平野
郡から水行10日は、郡から末蘆國。
陸行1月は、末蘆國から邪馬台国。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:03:14.23
>>449
>初耳です。
>ソースは?

要するに、末慮國からの東南陸行五百里が、どうやっても伊都国行きに合わないんだよ
(一部には魏志倭人伝は一言一句間違いなく正しいと思って読め、
 とか言う人もいるけど>>419とか)
で、末慮国から東南陸行ということで、松浦川沿いに遡ると佐賀を通って筑後平野に出る
そして、そこには吉野ヶ里遺跡があって、近くに米多(メタ)郷という地名が残っている
先代旧事本紀には、筑紫米多國造が記されているし、吉野ヶ里そのものではなくても、
この地に国造レベルの勢力があったことが確認できる

で、倭国王帥升は通典では倭面土國王と書かれていて、面土をメタと読めば
話がつながる

まあ、ここの受け売りだけどね
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/zatu/zatu03.html#rikuko

このページの他にも、末慮国からの東南陸行は
「伊都国向けではない」または「今の伊都国比定地は間違っている」
という立場で、吉野ヶ里行きを主張するアマチュアは結構いるよ
0465日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:06:25.48
>>463
>伊都國は、郡から11900餘里にあるから女王國に含まれない。

こういうのが本当に意味不明
魏志倭人伝の旅程を全部足すと10700里で残り1300里って
九州説の誰かが言ってたと思うんだけどな(このスレで、じゃないよ)
0466日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:07:33.53
>>452
>後漢書の方が新しいため、後世の事情に引きずられたか誤記があったのでしょう。

つまり>>452は、基本的に後漢書の方が一方的に間違っている、という立場だね?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:07:43.22
>>465
意味不明っつーか、伊都を首都とする北部九州邪馬台国だと困るから、
屁理屈こねてるだけだから、相手にしても時間の無駄だよ。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:11:38.35
>>462
>高祖宮(伊都国)は卑弥呼の王宮、壹與も前半は使用
>香椎宮(不弥国)は壹與の後期の王宮

高祖宮も香椎宮も、3世紀まで遡るという「根拠」が皆無
周辺に宮殿遺構を思わせるような、顕著な弥生遺跡があるという話もない

宮という字がついた有名なところを適当に挙げてるだけじゃないのか?
0469日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:12:32.40
>>464
>要するに、末慮國からの東南陸行五百里が、どうやっても伊都国行きに合わないんだよ


そもそも、末慮國が間違ってるから合わないんだよ!

末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)

↓【東南】陸行500里  福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)

伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)

↓【東南】100里

奴国(二万戸)(田川辺り)

↓【東】100里

不弥国(千戸)(築上町辺り)  @阿波
0470日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:13:31.72
>>468
根拠<三国志東夷伝倭人条=魏志倭人伝に、伊都や奴国、不弥国が記されている。
根拠<周囲の当時最先端の集落遺跡群
根拠<周囲の王墓群
0471日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:14:03.58
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0472日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:16:27.02
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0473日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:18:04.62
>>453
>高良宮または玉垂宮

どちらも遺跡じゃないだろ?
創建も仁徳天皇の頃になってる

結局、卑弥呼の宮殿の候補になるような遺跡は「九州説にはない」ってことでいいか?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:20:04.07
よい
0475日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:20:47.92
>>473
高祖神社の中に埋まってんじゃないの?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:21:50.00
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0477日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:22:15.64
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0478日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:24:13.39
>>470
>根拠<三国志東夷伝倭人条=魏志倭人伝に、伊都や奴国、不弥国が記されている。

そんな広域(国レベル)じゃなくて、遺跡で卑弥呼の宮殿の推定地を訊いてるんだが?

>根拠<周囲の当時最先端の集落遺跡群

最先端だったのは、二世紀前半くらいまで
3世紀には衰退が明らか
列島内の他の地域と比べても、地域王権の伸張が見られない

>根拠<周囲の王墓群

3世紀の王墓が不彌国にはないだろう
周囲でごまかしてるだけ

那珂八幡古墳は、その母集落が比恵・那珂遺跡だと推定できるくらいに近い

高祖宮にも香椎宮にも、玉垂宮にも高良宮にも、近くに王墓はないだろ!
0479日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:26:37.41
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0480日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:27:27.11
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:27:51.45
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0482日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:28:14.52
平原遺跡は八咫の鏡を副葬された屈指の豪華な墳墓だよ。
そしてその築造年代はおそらく卑弥呼の治世で、被葬者は女性。
王権の象徴である三種の神器は倭の女王の墓であることを明示している。
0483日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:28:17.28
>>477
どっちもどっち。

鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説  @阿波
0484日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:28:44.68
同じ平原遺跡から
世界最大まで「進化した」大型内行花文鏡と、
後漢鏡よりも「退化した」方格規矩鏡が
同時出土。

どっちも国産にすると、技術が上がったのか下がったのか意味不明だろw

大型内行花文鏡は北部九州伊都で発達して、
それが日本国内で東方にも拡散した。←畿内説ガチギレやばー

方格規矩鏡は董卓が焼き払った洛陽に魏が都を戻して
生産再開されて間もない頃のまさに魏鏡。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:29:03.34
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0486日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:29:20.20
のたうちまわるキナイコシ()笑

島根(田和山遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器が無いから使い方を知らない、ただのペンダントだ!」

伊都(三雲井原遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器と一緒だから、楽浪人だけが使っていた!」

福岡県筑前町(中原遺跡)で硯
→キナイコシ「墨が付着していない、ただの飾りで使っていない!」

福岡県筑前町(薬師ノ上遺跡)で硯完全体、墨付着
→キナイコシ「絵だ!絵を描いていたんだ!」

壱岐(カラカミ遺跡)で文字を書いた土器
そもそも銅鏡に文字、国産なら尚更
→キナイコシ「・・・」

奴国弥生銀座(比恵遺跡)で硯

これ以上キナイコシに付きあう必要あるのか?w
0487日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:34:15.88
>>475
>高祖神社の中に埋まってんじゃないの?

高祖神社の社殿は、源平の争乱の頃に移設したって書かれているから、
今の社地を掘っても何もないと思うよ
0488日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:35:35.62
>>468
宮が立っているから掘れないんだよ。
おそらく後世の建物の方が大きいし。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:37:07.06
>>478
>最先端だったのは、二世紀前半くらいまで
>3世紀には衰退が明らか

平原遺跡が3世紀なら、圧倒的に糸島平野が最先端。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:37:45.01
>>476
>青龍三年銘の方格規矩四神鏡

この鏡については「鏡の考古学」っていうところでかなり詳しく解説してあるよ
読んでみたら?
http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kagami.htm

>>476の言うとおりなら、平原1号墓の編年がだいぶ新しくなるけれど
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:38:15.55
>>478
>3世紀の王墓が不彌国にはないだろう
>周囲でごまかしてるだけ
>那珂八幡古墳は、その母集落が比恵・那珂遺跡だと推定できるくらいに近い

王墓が歴代の王家の谷である糸島平野でいい。
高良宮だと祇園山になるかもしれないが。
0492日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:38:17.45
最先端の超大型内行花文鏡が東征してる。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:39:31.29
>>477
>3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、

そう、当たり前なんだよ
どうして、畿内に鉄がないと思い込んでいるのかが不思議
0494日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:40:33.94
高祖城の山城の領域は200ヘクタールだっけ?
探すのは難しいな。
纒向のエリアよりはるかに広い。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:40:41.46
鏡は東征しない
ただ流通するのみ
0496日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:43:27.89
>>479
>三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。

何度書いても、「東夷伝里(短里)」そんなものはないことは、論証済み

このスレ内でさえ、すでに3回書かれている
それを無視して、バカな間違いを書き続けるから、先へ進めないんだよ

その「東夷伝里」とやらがあることを、きちんと論証してごらん

まさか、これ「韓在帶方之南東西以海爲限南與倭接方可四千里」が
根拠だとか言わないよね?
0497日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:43:37.90
>>490
妄想だから関係ないけどな
0498日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:44:36.40
東征王に、オレは、なる!!!
0499日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:46:26.55
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0500日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:46:51.41
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0501日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:47:10.66
>>491
>王墓が歴代の王家の谷である糸島平野でいい。

面白いことを言うね
三雲南小路遺跡も、伊原鑓溝遺跡も、三雲遺跡群の「集落遺跡の中」なんだが?
決して谷間じゃないよww

そして九州説イチ推しの、平原1号墓は三雲遺跡群に「背を向けた」丘陵上にある
決して谷間じゃないよ?
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:47:54.23
>>499
どっちもどっち。

鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説  @阿波
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:50:46.73
>>493
あれ?
誰も「畿内が」なんて書いてないのに
どうして、畿内に鉄がないと思い込んでいると思い込んでいるのかが不思議
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:51:19.38
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0505日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:51:22.54
>>494
>高祖城の山城の領域

面白いことを言うね
今話題にしているのは、卑弥呼の宮殿の候補地だよ?
途中で「以婢千人自侍」の話も出てるよね?

山城の地にあったら、侍女千人の人たちは、王宮に通うのが大変だww

平場の、それなりに大きな集落遺跡(群)の地でなければ、
候補地とするのは難しい

そういう候補地となる遺跡はあるのかと訊いているんだが、
後世の山際の神社しか候補地が出てこない

やっぱり九州説は、無理だろ?
0506日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:51:41.97
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0507日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:53:23.93
>>505
川と川の間にある倉庫に通おうにも周囲に住居が無いから遠距離通勤w
0508日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:53:30.38
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0509日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:54:20.53
戦時中だからね。
防御に適した伊都の
さらに防衛に適した高祖宮が最適でしょうな。

卑弥呼の宮は。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:54:31.10
>>506
どっちもどっち。

鉄器がない畿内説
丹がない九州説
鉄器も丹もある阿波説  @阿波
0511日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:54:42.33
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0512日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:55:05.77
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0513日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:55:07.96
>>501
そこが面白いところなんだよ!
卑弥呼は実はその前の男王達とは少し距離がある家系なんだよ。
王統の交代があったからこそ大乱だったし、本当に卑弥呼が倭女王なのか確認するために郡使が来たんだよ。
そして、後漢の頃の倭奴国と同じ位置に都があるので、卑弥呼を倭女王と認めたわけだ。

卑弥呼が畿内にいて、それまでの九州の倭王との関係が不明なら、そんな遠くの国を同じ倭の名前で呼ばないよ。
金印による叙勲は、正統性の保証だからね。

卑弥呼は、少し混乱はあったが、共立されたのだと素直に申告し、倭国を実際に掌握していたので、倭王に承認されたんだ。
0514日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:55:17.11
>>494
>高祖城の山城の領域は200ヘクタールだっけ?
>纒向のエリアよりはるかに広い。

面白いことを言うね
纏向遺跡の面積は300万m2
ヘクタールに直せるかな?

13世紀の山城と、3世紀の遺跡の面積を比べて、何が言いたいんだろう?
0515日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:56:04.51
あと、谷と呼んだのは、糸島平野が山に囲まれているから。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:56:58.83
>>505
高祖城でググるといいよ。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 18:58:28.55
>>497
>妄想だから関係ないけどな

読んでないでしょ?
青龍三年鏡の「龍」の字は、かなり特異な異体字なんだよ
使われた地域も時代もかなり限定される

この、異体字を時代に合わないオーパーツ扱いしないと
青龍三年鏡は青龍年間には作れないことになる

で、平原1号墓の方格規矩鏡は、この青龍三年鏡と
同じ時期の製作でいいんだよね?

かなり新しくなるよ?
0518日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:02:03.75
>>517
べつに特殊でない
後漢代からある
0519日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:02:30.52
いや、ググるなら怡土城の方がいいかもね。

ttps://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12134797645.html
0520日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:02:58.26
>>516
>高祖城でググるといいよ。

ぐぐったよ
「建長元年(1249年)、原田氏の原田種継、原田種頼父子の築城」
13世紀だな

その前身(というか跡地)の怡土城でも
「奈良時代の天平勝宝8年(756年)から神護景雲2年(768年)にかけて築城された中国式山城」
で8世紀

卑弥呼の3世紀とは時代が全然合わないね
0521日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:03:20.48
つまり八咫の鏡は卑弥呼の鏡。
0522日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:04:08.64
>>520
それは城の築城についてでしょ
0523日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:04:33.09
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:05:21.16
平原遺跡は八咫の鏡を副葬された屈指の豪華な墳墓だよ。
そしてその築造年代はおそらく卑弥呼の治世で、被葬者は女性。
王権の象徴である三種の神器は倭の女王の墓であることを明示している。
0525日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:05:53.44
>>518
>後漢代からある

どうしてそういう嘘をしれっと言うかなぁ?
それが九州説クオリティなのか?
この異体字の問題は多くの人が調べ尽くしてるよ

あるというなら、「根拠」というか「ソース」を出して

九州説の「  」が、一言だけで否定しているときはほぼ嘘だよな
0526日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:08:50.92
>>522
>それは城の築城についてでしょ

いや、城について調べろと言われれば、築城がその最初で、その前は「ない」だろ?
8世紀に城が作られたから、その前から遺跡があるって言われても困るんだが?
0527日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:08:54.62
三雲井原遺跡の集落群から怡土城まで1km
高祖城で2km

じゅうぶん通勤圏内ですな。

で、川と川に挟まれた倉庫に通う千人の住居はどこに?
0528日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:09:12.54
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:10:04.64
>>520
そもそもいつからあるのか不明なんだよ。
奈良時代に整備したけれど、ここが筑紫の日向の高千穂宮なら、もっと前からあったはず。
山城だから高千穂宮。
どうだい?

しかも高千穂宮は日向三代の宮として知られ、その一人が高祖宮の祭神の彦火火出見だよ。
初代のニニギの妻である咲耶姫は、近くの三雲南小路遺跡の神社である細石神社の祭神。
さらに三雲南小路遺跡は王と王妃の墓とされており、これがニニギと咲耶姫の墓なら、卑弥呼の前の男王70〜80年というのが日向三代そのまま。
倭国大乱で天孫族が伊都を去って大和に東征し、畿内も3世紀から急速に発展する。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:11:46.23
>>526
なぜか奈良時代以前の歴史が遡れないのは、九州ではよくあること。
703年頃の禁書令が影響しているのだろう。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:12:04.46
高祖神社は神功皇后が、今の場所に
立て直したという伝承があるね。

元は今の大門のちょっと上付近にあったらしい。
地図で見ると天満宮とか天神社が
古い高祖神社の跡地かな?
0532日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:13:10.28
伊都国の人口は千戸だから、女官達は夕方になると宿直の者を残して帰宅したんだろうね。
0533日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:15:09.22
伊都城はこの当たりの扇状地を
ぐるっと取り囲む構造で
大門という地名も伊都城の大門が
あったことからつけられている。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:15:50.78
>>524
>平原遺跡は八咫の鏡を副葬された屈指の豪華な墳墓だよ。

でも、墳丘サイズが絶望的に小さい
魏志倭人伝に「大作冢徑百餘歩」と明確に書かれているのをどうして無視する?

同じ伊都国で、同じように漢鏡を大量副葬している三雲南小路遺跡の
甕棺墓でも、30×30メートルくらいの墳丘を持っている

これが卑弥呼の時代から300年位前

そこから300年経って、人口が減ったのかな? 伊都国では?
普通、王墓の墳丘の大きさは、動員できる人口の多さ=権力の大きさを
示すものだから、一般人の墳墓よりも大きくなるし、他地域の地域首長
(ローカル王)の墳墓は弥生末期には顕著な巨大化を見せている

平原1号墓が、卑弥呼の時代=弥生末期だと主張し、しかも倭王の墓であると
主張するならば、墳丘が小さいことへの合理的な説明が必要

その説明ができないなら、弥生末期ではないか、あるいは倭王の墓ではないかの
どちらかだ
0536日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:16:45.28
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:17:54.56
平和に漢と外交していた三雲南小路王よりも
戦争中の平原卑弥呼女王のほうが墳丘が小さい。

当たり前のことです。
0538日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:19:01.33
ニニギは高千穂宮で国見をして、東も西も開けて、韓国にまっすぐ道が通るよい国だと言ったとか。
高祖山は東に奴国、西に伊都国が栄え、博多湾から韓国に航路が伸びていた。

しかもニニギが持っていた神宝が八咫の鏡とされている。
平原遺跡にあった鏡だ。

伊都国から奴国に抜ける高祖山を越える峠が日向峠だ。
高祖山に築かれた山城こそ、筑紫の日向の高千穂宮、またの名を高祖宮。
0539日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:19:16.09
>>529
>もっと前からあったはず。

「あったはず」と言われても、8世紀の怡土城の発掘調査でも、
それより古いものが出た気配はないし、確認できないものについて
推定で言われても、コメントしようがないな

出てから、議論した方がいい

まあ、既に8世紀の遺構を発掘してみて3世紀に遡るものは出なかった、
とする方が健全だとは思うが
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:21:50.12
>>525
ちゃんと原典を見た?

『碑別字』を見れば出て来るよ
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:22:01.01
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:22:12.85
ちなみにイザナギが禊をしたのが高祖山の北側、福岡市西区の小戸。
記紀では筑紫の日向の橘の小戸と書かれている。
もともとは住吉神社がここにあった。
住吉の神は禊の時に生まれた神。
高祖山周辺は遥か以前から倭国の王都であった。
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:31:56.61
奴国側では紀元前から三種の神器と同じ内容の副葬品の王墓が作られていた。
高祖山周辺が、長らく倭国の王都だったんだよ。
だから、卑弥呼が平原女王であっても何の不思議もない。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:45:11.18
>>542
>ちなみにイザナギが禊をしたのが高祖山の北側、福岡市西区の小戸。
>記紀では筑紫の日向の橘の小戸と書かれている。

こういうのはおもしろいと思う
思うけれども、このあたりにイザナギを祀った神社はあまりないだろ?
一つもないかどうかは確かめていないから分からないけれど

イザナギを祭神として祀っているのは、やはり淡路島とか多賀神社とかの
イメージなんだが

ぐぐると福岡の愛宕神社はわりに大きいな
でも高祖山とは関係なさそうだし、基本愛宕神社は、カグツチを祀る神社だそうだから、
高祖山周辺にイザナギの神話が残っているってこともなさそうだね
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:49:42.24
>>532
>伊都国の人口は千戸だから

これについては、魏略の「戸万余」の方が妥当な気がする
奴国と二十倍の差はないだろうと思う
0546日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:54:39.07
>>540
>『碑別字』を見れば出て来るよ

『碑別字』のどこを見ればいいのか教えてくれ
ざっと見たところ出ている龍の異体字の中に、青龍三年銘鏡の龍はないと思う

龍 龍+0 竜 𦱉 𢅛 𠊋 㰍 𥫈 龒 䰱 龙

この中にはない
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:56:07.72
いろいろコピペしてくれてるけどさ、
>>535のこれに対するコメントはないの?

平原1号墓が、卑弥呼の時代=弥生末期だと主張し、しかも倭王の墓であると
主張するならば、「墳丘が小さいことへの合理的な説明」が必要

「墳丘が小さいことへの合理的な説明」
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:58:02.44
平和に漢と外交していた三雲南小路王よりも
戦争中の平原卑弥呼女王のほうが墳丘が小さい。

当たり前のことです。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:00:24.30
>>547
卑弥呼自身も卑弥呼の前後もずっと戦争争乱中なのだから、
人員を兵役にとられて墳丘を小さくするのは当たり前。
中国でも三国志時代は墓は簡素にしていた。

当たり前のことを認めると、超巨大古墳が逆に憤死してしまうから、
ゴネ続ける醜い姿。
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:04:14.15
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:05:00.72
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0552日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:05:14.52
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:06:06.52
>>544
>思うけれども、このあたりにイザナギを祀った神社はあまりないだろ?

小戸大神宮は新しいんだっけ?
本来は住吉神社、住吉宮だろうね。
伝承は、全国で上げられている神道の祝詞がそのまんまだよ。
筑紫の日向を名指ししている。
淡路島なんて出てこない。

祓詞

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御禊祓へ給ひし時に生り坐せる祓戸の大神等 諸諸の禍事 罪 穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事を 聞こし食せと恐み恐みも白す
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:07:08.92
>>547
戦乱期だし、弥生時代中期からずっと倭国王墓はそれくらいの大きさだよ。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:09:04.78
>>548
>戦争中の平原卑弥呼女王のほうが墳丘が小さい。

いや、魏志倭人伝にばっちり「大作冢徑百餘歩」って書いてあるじゃないか

倭国内でも、吉備や出雲や丹波、大和で同じ時期にでかい墓を作っているよ?
>>548は何と戦っているの?
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:10:30.35
>>553

「阿波岐原」・・・阿波って書いてあるでしょ。 阿波以外あるの?  @阿波 
0557日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:12:39.41
征服先で反乱が起きないようにでかいの作らせたんだろ。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:14:09.90
>>553
住吉神社をどういう存在と捉えていますか?
他の神社は部族の守り神のような色合いが濃いですが、
住吉だけ無色ですよね。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:14:22.57
>>549
>人員を兵役にとられて墳丘を小さくするのは当たり前。
>中国でも三国志時代は墓は簡素にしていた。

いや、魏志倭人伝にばっちり「大作冢徑百餘歩」って書いてあるじゃないか
倭国内でも、吉備や出雲や丹波、大和で同じ時期にでかい墓を作っているよ?

>当たり前のことを認めると、超巨大古墳が逆に憤死してしまうから、

九州以外では、弥生末期には各地のローカル王の墳墓が巨大化しており、
その流れから、大きな墓を作る古墳時代にそのまま入っていく

そして、定型化した前方後円墳直前のいわゆる纏向型前方後円墳の時代には
九州でも、例えば奴国の那珂遺跡群の首長は那珂八幡古墳という、それなりに
大きな墓(墳丘長75メートル)を作っている

>ゴネ続ける醜い姿。

いや、ごねてるのは九州説だろ?

平原1号墓は、弥生末期の墳墓巨大化の流れに乗れていないんだよ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:15:19.35
>>555
里が五分の一なら、歩も五分の一かもね。
歩幅ではなく足の大きさだったのかも。
すると、平原遺跡の大きさはピッタリ。
0561日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:16:29.43
>>558
筑紫倭国の全体を支配していたから無色に見えるのでは?
筑前国一宮だよね。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:17:02.69
>>557
>征服先で反乱が起きないようにでかいの作らせたんだろ。

王墓の大きさは、王権の権力の大きさそのものの象徴

征服地で「征服王の墓」よりも大きな墓を作らせた王朝がもしあるなら
洋の東西を問わず、一つでもいいから挙げて見せてくれ
0563日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:18:22.05
>>559
>平原1号墓は、弥生末期の墳墓巨大化の流れに乗れていないんだよ

田舎の流行りに乗らずに、弥生王墓としての伝統を堅持していただけだよね。
大きくなければいけないというのは、畿内説特有の強迫観念に過ぎない。
0564日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:20:00.69
>>560
>里が五分の一なら、歩も五分の一かもね。
>歩幅ではなく足の大きさだったのかも。

これは無理だよ
歩という長さの単位は「複歩」なんだ
こういう身体感覚と密着した単位は、何倍も伸び縮みしたりはできない

そして、里が「1里=300歩」と決まっている以上、
短里は無理としか言えない
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:20:40.44
>>562
>征服地で「征服王の墓」よりも大きな墓を作らせた王朝がもしあるなら

卑弥呼は本州を征服してないよ?
熊本を相手に手こずるくらいだから。
でも、対馬海峡を抑えてしまえば貿易は独占できるし、稲作も確保すれば、富を背景に倭王となれる。
0566日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:20:42.49
>>560 するどいな。単位を短くしたなら
小さな単位まで短くする必要があるもんな。
0567日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:21:26.39
>>563
>田舎の流行りに乗らずに、弥生王墓としての伝統を堅持していただけだよね。

王墓の大きさは、王権の権力の大きさそのものの象徴

王よりも田舎者により大きな墓を作るのを許した王朝がもしあるなら
洋の東西を問わず、一つでもいいから挙げて見せてくれ
0568日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:22:05.34
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:22:33.87
>>564
>そして、里が「1里=300歩」と決まっている以上、

東夷の世界が短里であるから、歩は26センチくらいだよ。
足の大きさだね。
身体に基づく基準としては合格。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:22:47.17
卑弥呼が本州を征服しているなら、当然鉄器がもたらされてるだろ。
そういうことだ。

鉄器も何にもないから、せめて大きい墓を作ったんだろ。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:23:13.41
俺のはビッグだぜ!
(畿内)
0572日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:23:23.19
>>566
>するどいな。単位を短くしたなら
>小さな単位まで短くする必要があるもんな。

するどくないって
1里=300歩
1歩=5尺
1尺=10寸
なのだから、短里を九州説の主張のように1里=70メートル程度を考えると、
1歩=23センチ
1尺=4.7センチ
1寸=4.7ミリ という現実離れした数値が出る
0573日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:24:50.42
>>569
>足の大きさだね。
>身体に基づく基準としては合格。

歩は「複歩」だって書いてあるだろうが
都合の悪いところは無視かいww
さすが九州説クオリティww
0574日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:25:26.31
魏志倭人伝の原資料を書いた人の単位系と、陳寿の想定していた魏の単位系が違ったんだよ。
でも、実際の地理と比較すれば、単位系が違っていたことに気がつくことができる。
0575日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:25:34.89
>>564
海峡が70kmぐらいあるのに千里と
書いてあるのだから、1里は70mほどになる。
身体感覚と密着した単位は、何倍も伸び縮みしたりはできない
というなら、70mを300歩で歩くのか?
一歩は90センチぐらいあるぞ。古代人が小さくても
70センチとすれば100歩で間に合う。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:25:35.35
>>570

王よりも田舎者により大きな墓を作るのを許した王朝がもしあるなら
洋の東西を問わず、一つでもいいから挙げて見せてくれ
0577日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:26:09.06
>>561
ワダツミは安曇、ヤマツミも大山祇、
大国主や宗像などもそうですし、
それぞれ背景となる部族が存在しますし、記紀にもその部族が登場しますよね。
けれども、住吉だけは部族がない。
ので、倭国の官製組織、つまりは一大率かと思うわけですが、
たしかに筑紫倭国の全体を支配していたなら一大率そのものですね。
0578日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:27:04.31
>>576


だから鉄器邪馬台国とは無関係に
鉄器の無い毛人が大きなのを作ったのだろう?
0579日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:27:06.53
>>573
>歩は「複歩」だって書いてあるだろうが

それが通用しないのが東夷の世界なんだよ。
あと、尺は歩と関係なく決められたんだろうね。
尺は足ではなく手で決めるから。
0580日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:27:24.38
>>575
>一歩は90センチぐらいあるぞ。古代人が小さくても

1歩は複歩なんだってば
だから、140センチくらいになる

どうしても、都合の悪いところを目に入らないようにするんだよな
0581日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:27:39.78
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0582日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:28:08.53
三国志の文量はたっぷりと膨大な漢字が使われているのだから、
魏志倭人伝以外の三国志の内容から距離の単位を確認すれば済む事だわな。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:28:16.69
平和に漢と外交していた三雲南小路王よりも
戦争中の平原卑弥呼女王のほうが墳丘が小さい。

当たり前のことです。
0584日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:28:31.42
>>576
だから、畿内とは交流そのものがない。
まあ、畿内の大型古墳の年代そのものがもう少し遅いだろうけど。
0585日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:28:52.43
>>579
>それが通用しないのが東夷の世界なんだよ。

魏使が倭国に来た記録だから、旅程は絶対に正しいって言うのが九州説の言い分だよな?

魏使が歩数の数え方を倭国にあわせる理由がないだろ?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:29:39.89
三国志東夷伝韓伝によると、
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0587日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:29:50.29
>>580
身体感覚と密着した単位は、何倍も伸び縮みしたりはできない
といいながら、1歩は 複歩 だと
都合良く勝手な解釈すんな
0588日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:30:17.15
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0589日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:30:55.08
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0590日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:31:27.84
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:32:18.68
このスレ面白そうだな
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:32:54.44
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:33:30.44
>>577
ワダツミもヤマツミもイザナギの子、宗方は子のさらに手下の格なので。
イザナギの国生みの初めは、天沼矛で淤能碁呂島を作るところからはじまりますが、博多湾の能古島だと言われています。
博多湾はまさに銅矛文化の中心地でもあります。
畿内は銅矛文化圏ではないので、イザナギの生んだ国にはなれません。
国生み神話は博多湾を中心とする倭国創建神話です。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:34:17.04
>>582
>魏志倭人伝以外の三国志の内容から距離の単位を確認すれば済む事だわな。

東夷伝は全て短里。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:36:29.62
>>587
>1歩は 複歩 だと
>都合良く勝手な解釈すんな

都合よくも何も、1歩が複歩だっていうのは「公式」だぞ?
だから魏晋里は434メートルで、1歩は144センチなんだよ?
144センチが複歩じゃなかったら大変だろ?

それに、歩、という漢字そのものが、「足跡二つ分」を表しているんだから
最初から歩は「複歩」

自説に都合が悪いからと、ダダをこねてもダメだよ
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:37:52.87
>>559
那珂八幡ができる頃に落ち着いたんじゃね?
卑弥呼の後も混乱するし、南には常に敵がいる状態だし。
人員が動員できなかった、でFAじゃないかな。
魏に助けを求めてるぐらいだからね。

でかい墓を作る地域はある意味安定してたのだろうね。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:39:34.50
紀元前から鉄器のある北部九州では
邪馬台国と狗奴国がキリキリ戦争していたのに

鉄器もない平和な毛人はのんびりと木器で土盛り
伊都うらやましす
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:40:03.92
日本の里は奈良時代で533m
戦国時代以降で約4km

さて、一歩、一尺は何センチでしょうか?
0599日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:40:14.12
>>594
こんなふうに
根拠を言わずに
結論だけ言い張るのを
トンデモ説という
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:41:09.58
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:41:45.89
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:42:24.36
>>595
>都合よくも何も、1歩が複歩だっていうのは「公式」だぞ?

東夷以外ではそうなんだろうね。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:43:19.70
基本的に弥生時代の北部九州は
20m四方から大きくても40m四方が
ほとんどだからね。

巨大古墳には興味がなかった。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:43:31.80
結局、平原1号墓が小さい理由は
「戦争中だから」しかないんだな?

でも、墓を作って新しい男王が立って、それから国中不服更相誅殺になるんだから、
「大作冢徑百餘歩」の時には、戦争はしてないよ?
戦争で人がいなかったとか言ってる人もいたけど
「徇葬者奴婢百餘人」もいるんだから、盛り土を作るくらいはできるだろ?
平原1号墓クラスの盛り土なら10人もいれば、1週間かからないだろう?
それでは「大作冢徑百餘歩」とは書いてもらえないよ?

平原1号墓の墳丘サイズは、倭王の墓にふさわしいとはとても言えないし
「大作冢徑百餘歩」にも当てはまらない

もっと他の墓を探したらいいんじゃないかな? 九州説は?
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:44:53.48
>>605
作りたくても土地がありませぬ。。

工房や住居が密集しておりますからの。。

誇り高き倭国の民に土木工事などさせられませぬ。。。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:45:46.46
>>598
>日本の里は奈良時代で533m
>戦国時代以降で約4km

>さて、一歩、一尺は何センチでしょうか?

奈良時代の里は、唐里

戦国時代以降の里は、尺とは切り離されている

ちょっと調べればすぐ分かると思うよ
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:46:37.67
>>595 わきから助言させていただく。
日本で「歩」といえば一歩踏み出したときの幅をいう。
ヤードもそうだ。約90センチ。そういう表現の文化が
一般的だと思うが、
ただ、中国では文化が違い、左右の歩幅の合計を「歩」という。
複歩なんて表現は他国からみた言い方だな。中国からいえば
日本の「歩」の表現は、「半歩」という。
だから、中国で 径百余歩 といえば、
歩は左右の足の合計だから(日本でいえば2歩)
それは 歩=140センチぐらいになる。
径百余歩は、直径140mとなり、日本で最大の円墳は
直径100mぐらいだから、
径百余歩の墓は、日本には存在しない。前方後円墳なら
形状が違うので史書には必ずその特徴が書かれるので、
径百余歩という簡易な書かれ方はしない。
つまり、径百余歩の「歩」は単位か長さがなにか違っているんだよ
0610日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:46:52.72
基本的に度量衡に定義されている丈尺寸分と
歩、里は別の単位だからね。

魏から唐の時代でさえ、一歩5尺のときもあれば
一歩6尺のときもある。
0611日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:48:01.02
>>606
曹操の地下墓に比べたら充分「大作冢」

狗奴国が滅びたとも何とも書かれていないし
台与も

國中遂定→政等以檄告喩壹與

にあるように、
台与が女王になって、邪馬台国の国内は安定したけれども、
その後にさらに檄告喩されていることから、
狗奴国との戦争は続いていたわけだ。

よって、卑弥呼の墓はなるべく小さく、でFA

あんたの負けwww
0612日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:48:24.42
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:48:42.67
>>607
>作りたくても土地がありませぬ。。
>工房や住居が密集しておりますからの。。

謝れ!
伊都国中枢の、三雲遺跡群の中に作られた端山古墳、築山古墳に謝れ!

王(古墳時代には豪族)のためには、庶民の生活は特に問題にされないんだよ

そして、三雲南小路遺跡も、三雲遺跡群の中に普通に大きな墳丘を作っている
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:50:56.11
>>608
そのとおり、尺と歩、里は別の単位系なので
切り離されているのが当然なんだよ。

一歩5尺や6尺はその時代の慣習に過ぎず
度量衡の丈尺寸分のように定義
されてはいないんだよ。
0615日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:51:57.14
>>613
あれってそんなに大きいかね?
0616日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:52:19.07
>>594 里の長さのことじゃなくて
歩の長さを確認すれば?
という話だよ。1歩=何センチ?。
径百歩は何メートル?
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:54:11.12
>>613
何を言いたいのかよくわからん。

決まった墓域の中で自分の墓を大きく見せたいのならまだ理解できるが。
町の中にどでかい墓を作るわけないだろ。
単純に迷惑じゃん。
今だろうが昔だろうが。

じゃあ平安京のど真ん中に王墓を作ったか?
王が自分で恥ずかしいだろ。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:54:28.16
>>610
>魏から唐の時代でさえ、一歩5尺のときもあれば
>一歩6尺のときもある。

「時もある」じゃなくて、
秦漢から魏晋南北朝の頃の「1歩6尺、1里=300歩(=1800尺)」だったのを
唐代に「1歩を5尺、1里=360歩(=1800尺)」に改めたんだよ
この「1里=360歩(=1800尺)」が清の時代まで続く
0619日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 20:59:53.23
>>617
>じゃあ平安京のど真ん中に王墓を作ったか?

平安時代には、古墳時代は終わってるだろ?
古墳時代の最初、前方後円墳が生まれた纏向古墳群では、
弥生時代の「生活の場にそのまま墓域を設ける」伝統のままに、遺跡と同じ
平面に巨大な墓を作っている
それが、箸中山古墳の次の時代になると、生活する平面から離れた、
山の尾根を切って地山整形して墳丘を作るようになる

端山古墳は弥生時代の墓域の構え方と基本的に一致してるよ

弥生時代の墓域の構え方の例としては、吉野ヶ里遺跡が分かりやすいだろう
吉野ヶ里では集落と墓域の全体を、環濠で囲っているから
0620日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:01:26.47
>>619
ほらみろ
墓域があるじゃないか。
集落のど真ん中にいきなり墓なんぞ作らん。
北部九州倭国は紀元前から発展してたから土地がなかったんだよ。
0621日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:01:32.07
>>618
>>秦漢から魏晋南北朝の頃の「1歩6尺、1里=300歩(=1800尺)」だった

魏志倭人伝にあてはめて確認してみよう。

1歩6尺というがこれは1歩=約1.4mだということだから、
1里=300歩ということで、1歩=約1.4mを300倍してみると・・・
(計算機を使用中)
420mということになった。1里=420m。
1里は70mではなかったのか?。
すぐに説は破綻してしまう有り様。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:01:46.30
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0623日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:02:31.50
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0624日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:03:00.96
>>619
平安京や平城京がつくられたとき、
敷地にあった古墳は処分されたそうです。
0625日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:03:04.67
>>619の補足
>山の尾根を切って地山整形して墳丘を作るようになる

長文の繰り返しコピペが多くて、はるか彼方になってしまったけれど
>>447の祇園山古墳
>2.卑弥呼の墓の候補はどれ?        具体的な墳墓で答えて欲しい
2.祇園山古墳
これは、地山整形の二段築成の方墳だから、がっつり古墳時代に入っている
卑弥呼の墓の候補としては無理だよ
0626日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:03:09.19
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0627日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:03:26.85
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0628日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:04:25.60
>>621
>420mということになった。1里=420m。
>1里は70mではなかったのか?。
>すぐに説は破綻してしまう有り様。

これ、単に「1里は70m」が間違ってるってだけだよね?
0629日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:05:09.81
>>624
そういえば、藤原京の跡地に見つかった円形周溝墓も、
藤原京建造時に処分されていましたね。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:05:48.45
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:05:51.55
>>620
>墓域があるじゃないか。
>集落のど真ん中にいきなり墓なんぞ作らん。

だから、倭王だったらいくらでも大きな墓が作れるよね?

何で平原1号墓みたいな、しょぼい墓を卑弥呼の王墓だって言い張るの?

他にもっとまともな候補はないの?
0632日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:07:46.98
>>630
>倭国=九州国家

九州説は、倭国も、倭王の墓もしょぼいよな

九州説          VS   畿内説
倭国は九州島オンリー        倭国は畿内から九州まで(東海が入るかは微妙)
水行20+10日陸行1月は無視     投馬国が出雲で邪馬台国が大和
伊都国は「邪馬台国の中」だけど   伊都国は「邪馬台国から遠い」から
一大率を置く            一大率を置く
平原1号墓は12×14メートル     箸中山古墳は278メートル
0633日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:07:55.63
>>631
卑弥呼は倭王の座を争って狗奴国王と戦争しているからね。
平原1号墓くらいがちょうどいい。

他の候補は無いね。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:08:07.98
邪馬台国は大和国。大和朝廷の始まり
0635日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:08:21.13
>>629 ヤフー知恵袋からコピペ
和銅二年(709)は平城遷都の前年で、都の建設工事がたけなわの頃でしたが
『続日本記』によると、この年の十月、造平城京司に対して、次のような勅が出
されています。「もし墳隴(墳丘)のあばき掘られるものがあれば、埋めおさめて、
露(あら)わして棄ててはいけない。よく祭って幽魂をなぐさめよ」この記事に
よって大規模な都市造りであった平城宮の建設に伴って古墳が破壊されたらしい
事は古くから気づかれていました。『平城天皇陵』と呼ばれている古墳も、この
奈良の都を建設する時に、後円の部分は宮域の外になるので残されましたが、前
方の部分は宮域内だったので、完全に破壊されてしまいました。平城天皇陵は前
方部を失い後円部だけの外観となり、長い間、円墳と誤認されていたそうです。
古墳の破壊は平城京建設が最初ではありません。白雉元年(650)に難波宮建
設に関し「冬十月、宮の地に入るため丘墓(はか)を壊ぶられ、および遷された
人に物を賜うこと各差有り」と言う記録が日本書紀にあって、それを裏付けるよ
うに難波宮跡の発掘調査中に古墳の副葬品の一部と見られる三輪玉・金環・小玉
が出土していますし、また持統天皇七年(693)に「造京司の衣縫王たちに詔
を出して、掘り出した屍を収めさせた」と言う文が同じ日本書紀にあります。こ
れは藤原京工事中にも古墳の破壊があった事を示唆していますが、藤原京跡でも
古墳に使われていたと思われる埴輪が多数発掘されています。このように奈良時
代やそれ以前にも古墳の破壊が既に行われていたのです。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:09:03.04
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0637日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:09:50.44
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0638日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:10:37.90
>>615
>あれってそんなに大きいかね?

端山古墳で全長78.5メートル
古墳時代前期だから卑弥呼の時代とそんなに離れていない

しかも平原1号墓と同じ、伊都国

14×12メートルで倭王の墓なら
墳丘長78.5メートルの端山古墳は、大大大倭王くらいじゃないと釣り合いが取れない
0639日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:12:08.98
>>638
キナイコシはもっと内面を磨くことに専念したほうがいいな
0640日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:12:34.11
>>628
魏志倭人伝の「始度一海 千餘里 至對海國」
という記述も間違っていることになる。
有名な記述だから、現代人の我らが何か解釈を間違っていることになる。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:13:07.34
>>635
妙な話ですな。

王墓を破壊するとか、
遺体が出てきて弔うとか、
自らの先祖を敬うならありえない?話です。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:14:29.52
>>606
>平原1号墓の墳丘サイズは、倭王の墓にふさわしいとはとても言えないし

平原遺跡の大きさは、まさに代表的な弥生王墓だよ。
倭王卑弥呼の墓にふさわしい。
畿内の古墳は田舎のお大尽。
0643日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:15:16.30
>>608
>奈良時代の里は、唐里

500年も後を持ち出してどうする。
0644日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:16:04.09
>>608
>戦国時代以降の里は、尺とは切り離されている

ふむふむ
ならば里と歩が小さくても、尺はそのままだ。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:16:13.44
>>641
現代でもよくあるよ。
古墳からよく鏡が出土したとか、刀が出たとか
遺跡発掘のニュースが出るだろ。
あれは、道路工事や建物の建設工事があるから
その前に遺跡確認をやっているだけであって、
そのあとは遺跡を破壊するのが定番だよ。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:16:25.46
やだなあ、田舎って。

鉄器が無くって髭も剃れない「毛人」が木器で土を盛ってるんでしょ?
0647日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:16:54.45
紀元前から鉄器のある北部九州では
邪馬台国と狗奴国がキリキリ戦争していたのに

鉄器もない平和な毛人はのんびりと木器で土盛り
伊都うらやましす
0648日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:17:00.78
>>640
>魏志倭人伝の「始度一海 千餘里 至對海國」
>という記述も間違っていることになる。
>有名な記述だから、現代人の我らが何か解釈を間違っていることになる。

海上の里程を、陸上の里と同じと思うところが間違っている、と解釈されてるよ
海の上は、どこの記述も基本的に「千里単位」になっている

そこから、1日で漕ぎ渡れる距離を「一律に千里」としたのだろう、
というのが多数説

もともと大陸王朝は、基本的に海には出ないので、海に関することは
記述がいい加減ということもある
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:19:28.05
>>648
ていうか、3世紀に、ほとんど初めて日本に来たにしては
かなり正確なわけだよね。
それにケチをつけるキナイコシ、ってほんとみじめな負け犬だよ。
悔しかったらキナイコシルートを説明してみろってんだよね。
できないくせに。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:20:16.21
>>621
里歩と尺寸は切り離されているんだよ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:21:04.65
>>624
>>619
>平安京や平城京がつくられたとき、
>敷地にあった古墳は処分されたそうです。

初耳
そして衝撃的
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:23:32.98
>>648
>>1日で漕ぎ渡れる距離を「一律に千里」としたのだろう

ウム。三国志で有名な「一日で千里を駆ける馬」というのがある。
江戸時代の1里=4キロ とすると、時速160キロで走る馬ということになり不可能。

すごく長い距離 と言う意味で、「千」という言葉を使う慣例があったのかも
しれないが、「一日千里」というのは中国が好きそうな言葉だ。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:28:45.79
殷商周の里・東夷の里・魏の里 (短里) by周髀算徑
1里=76.5m
1歩=25.5cm

「丈尺寸」は「里歩」とは別の単位体系
商の1尺=15〜16cm
周の1尺=23cm
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:34:13.98
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:35:15.17
トランプ大統領が、鉄は国家なりで高関税を課すだとよ。
国家防衛のため。

ビスマルクも言ってたな<鉄は国家なり

で、キナイコシは?w
0659日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:37:51.03
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:39:41.03
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0662日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:45:16.66
>>656
平原遺跡の大きさくらい。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:45:19.59
>>661
ほほう。
鏡の編年も諸説あり。
つまり定まっていないわけだ。
0664日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:45:36.81
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:45:53.03
>>660
>>鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
>>倭の女王卑弥呼がいるはずもない

チン説だな。マン説か?
0666日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:49:08.12
あーん♡
鉄器が無いからムダ毛を処理できない♡
0667日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:49:09.89
>>656
>卑弥呼の墓の100歩の大きさって 結局、どのくらい?

径25.5m 祇園山古墳位の大きさ (一辺23mの方墳)
0669日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:51:18.31
>>660
>岡村編年が使い物にならないから意味の無い論考だね

その岡村編年を批判している論考なんだが?
ちゃんと読んだのかい?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:54:24.27
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:55:21.07
>>654
>殷商周の里・東夷の里・魏の里 (短里) by周髀算徑
>1里=76.5m
>1歩=25.5cm

>「丈尺寸」は「里歩」とは別の単位体系
>商の1尺=15〜16cm
>周の1尺=23cm

それを、秦の始皇帝が統一して
1里=300歩
1歩=5尺
1尺=10寸
にまとめたんだが?

魏は、秦より後ろだよ?
統一前のことを持ち出してどうする?
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:56:00.96
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:56:11.58
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:56:29.20
>>667
>径25.5m 祇園山古墳位の大きさ (一辺23mの方墳)

その大きさでもいいけどさ
その時点で、平原1号墓はアウトだよな
0675日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:57:26.63
トランプ大統領が、鉄は国家なりで高関税を課すだとよ。
国家防衛のため。

ビスマルクも言ってたな<鉄は国家なり

で、キナイコシは?w
0676日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:57:39.60
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0677日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 21:58:11.27
>>662
>平原遺跡の大きさくらい。
>>667
>径25.5m 祇園山古墳位の大きさ (一辺23mの方墳)

どうして九州説って、自分の言い分から「逆算」するんだろう?
だからいつも「根拠」がないww

「短里」からしてそうだから、もう何を言っても直らないのかもしれないね
0678日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:00:22.48
>>667
>径25.5m 祇園山古墳位の大きさ (一辺23mの方墳)

祇園山古墳は「古墳時代」の「方墳」だよ?
しかも、古墳時代の最初期ではないから、卑弥呼の時代に合わない

そして、古墳時代の秩序からして、王や首長の盟主墳は
前方後円墳(前方後方墳でも可)だから、「方墳」の時点で王墓はない
0679日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:02:09.44
のたうちまわるキナイコシ()笑

島根(田和山遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器が無いから使い方を知らない、ただのペンダントだ!」

伊都(三雲井原遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器と一緒だから、楽浪人だけが使っていた!」

福岡県筑前町(中原遺跡)で硯
→キナイコシ「墨が付着していない、ただの飾りで使っていない!」

福岡県筑前町(薬師ノ上遺跡)で硯完全体、墨付着
→キナイコシ「絵だ!絵を描いていたんだ!」

壱岐(カラカミ遺跡)で文字を書いた土器
そもそも銅鏡に文字、国産なら尚更
→キナイコシ「・・・」

奴国弥生銀座(比恵遺跡)で硯

これ以上キナイコシに付きあう必要あるのか?w
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:02:25.70
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:02:44.32
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0682日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:03:06.58
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0683日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:05:23.07
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
倭人は半島南部から直接鉄を採掘しに来ていた。

ということは、
倭人女王の卑弥呼様は3世紀鉄器分布地域の女王。

じゃあ、3世紀鉄器分布地域の女王墓から卑弥呼様の墓を決めようゼ!!!

第一候補 平原遺跡の1号+2号など墓域群
第二候補 祇園山古墳の墓域群

これくらい?
0685日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:10:35.73
>>671
>魏は、秦より後ろだよ?
>統一前のことを持ち出してどうする?

古い慣習が東夷に残っていたんだよ。
0686日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:10:40.31
>>678 祇園山古墳は古墳時代の初期の古墳
ということはこの古墳の解説文の基本的な定番だが、
「古墳時代の最初期ではないから」って、
どこ見て言ってんだか
0687日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:11:52.65
>>685
>古い慣習が東夷に残っていたんだよ。

「根拠」は?
0688日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:12:37.56
>>684
平原遺跡より後だから、せいぜい壹與
0689日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:13:09.24
>>687
魏志倭人伝
0690日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:17:14.91
>>686
>祇園山古墳は古墳時代の初期の古墳

字面で反応しないように
箸中山古墳より、渋谷向山古墳、行灯山古墳の方が新しいが
どれも古墳時代前期とされる

祇園山古墳も前期古墳だよ

でも、平場に作られた箸中山古墳と比べ、尾根を切って地山整形で
墳丘を作っている渋谷向山古墳、行灯山古墳は、一つ次の段階になる

祇園山古墳も地山整形で、集落から離れたところに作られているところから
判断すると、最初期ではない
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:20:57.14
祇園山古墳は、周りから甕棺墓や土坑墓が出ているから、
これを卑弥呼の殉葬100人に「見立てて」卑弥呼の墓に推す人が居るけれど、
地山整形の際に、これらの埋葬主体の上部を削ったりしてるから、明らかに
同時代ではない
つまり、殉葬ではない訳だ

殉葬墓でなければ、方墳で盟主墳でもないのだから、
祇園山古墳にこだわる必要はないんだが、九州説の人は新しい情報に触れても
自分の意見を変えないからなぁ

まあ、好きにしてくれ
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:27:30.84
その当時の邪馬台国がダントツで1番の勢力だったかがそもそも怪しい
弱いからわざわざ魏に認めてもらったんじゃないのー
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:37:26.86
弱かったら金印なんぞ贈らんだろw
日本国内だけの話じゃなくて
東夷世界全体の話
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:38:28.44
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:40:43.36
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:45:36.56
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:48:29.85
>>693
邪馬台国の存在が危ういものだったからこそ金とか貢ぎ物とかで.....何とか貰ったんじゃないかー
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:49:34.07
対馬海峡を抑えている限り、他の勢力はそもそも魏に連絡が取れない。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:50:02.05
>>698
存在が危うい国に東夷世界唯一の金印を贈る必要性が無い
0701日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:50:18.52
トランプ大統領が、鉄は国家なりで高関税を課すだとよ。
国家防衛のため。

ビスマルクも言ってたな<鉄は国家なり

で、キナイコシは?w
0702日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:50:40.81
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:51:10.99
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 22:53:59.32
関東や東日本にも邪馬台国ほどではないにしろ、対抗できるかなり有力な勢力があったんじゃないのー
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:03:39.44
>>692
畿内説とかの翻訳じゃなくて倭人伝の外交史を
韓伝の帯方郡の時事背景と一緒にそのまま読めば、わかるはずだけど
卑弥呼の使者が、30国の王をまとめた倭国の女王が卑弥呼だと奏上したので
郡の太守が倭国の大王が朝貢に来たと思っただけ。

帯方郡使が来て、初めて女王国の実態を見てるんだけど、
郡が間違えたわけで ホントの事を大きな声では言えない。
結果的には皇帝を騙してたことになると思うね。

梯儁も政帳も卑弥呼が倭国を代表する大王だとは報告していない。
九州のほんの一部、周5千里の小国30国の王だと言っている。

最後に政帳を送って洛陽に渡った
巳百支国王/伊聲耆 掖邪拘 等二十人
は、取り調べで死刑になってるかもなw
そういうこと。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:05:20.10
>>696
>批判も岡村レベルなんだよ

相変わらず一行だけで、「何か言ったつもり」になるだけの情報量0
さすがの九州説クオリティww

岡村編年のどこがダメで、鏡の考古学のどこが「岡村レベル」なのか、
具体的に「根拠」を示すことができないなら、無意味だし説得力皆無だよ
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:05:22.96
あったけど、魏にアクセスできるのは九州北部だけ。
他の地域は滅亡して名前も残っていない。
九州北部は後の天皇家に繋がるから、伝承も継承された。
0708日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:10:10.44
>>705
>周5千里の

原文は周旋五千里だよな?
周旋には「一回りして戻ってくる」という意味はなくて、
「色々なところを巡り歩く」くらいの意味だよ
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:14:40.09
>>668
>漢文読めない奴はコメントする資格なし

「大作冢徑百餘歩」
これの標準的な解釈は
「大いに冢を作る。径百余歩」なんだが、
>>668はこれをどう解釈してくれるのかな?ww
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:21:02.48
滋賀県守山市にある伊勢遺跡って結構立派だけど邪馬台国と関係あるのー、ないのー?
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:40:21.84
>>689
>魏志倭人伝

九州説は、「魏使が実際に倭国に赴いて実際に計ってきたから
方位も距離も間違いない」って立場じゃなかったっけ?

東夷に300年も前の周里が残ってたとしても、魏晋里で生まれ育ってきた魏使が
どうして東夷の野蛮人の里程に合わせて距離を測らなきゃ行けないんだ?

魏使は計ってなくて、周里を使う倭人の言い分を鵜呑みにしてたというなら、
「魏使の測定だから正確なはず」というのは放棄するってことだよな?

どっちを選ぶのかな?
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:41:07.67
>>710
筑紫邪馬台国か下した出雲の、さらに地方会みたいなもの。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:41:32.93
>>708
それで良いけど、糸島から福岡平野と久留米平野廻って
周辺国によって来るとそんなもんなんです。
南北2千里の往復で5千里。

余談だけど、梯儁は
多分数十人から50人くらいまでの魏の正規軍だとは思うけど
狗奴国にも入ってるから240年当時は不和でも戦争中じゃないみたいだね。

政帳の時は倭人船に便乗で来てるから、
伊都まででいい女王国に対する査察、であって軍事顧問なんかじゃないよ。
わざとミスリードする理由があるとは思うけど
昭和以降の学者には 黄幢と 檄 告喩 
の意味がちゃんと説明できてないと思うね。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:42:04.66
>>712
>魏使は計ってなくて、周里を使う倭人の言い分を鵜呑みにしてたというなら、

鵜呑みではなく怪しんだから、日程を併記したんだよ。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:43:38.56
>>711
>他の岡村批判を仕入れないとダメだよ

岡村編年の妥当性と「鏡の考古学」の信憑性は独立に評価できるだろ?
岡村編年は私もそのまま信じたりはしてないけど、
岡村批判をしないとダメってのは筋違い
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:44:37.16
そもそも3世紀に畿内などという概念はない。
近江は日本海沿岸、摂津は瀬戸内海沿岸、纒向は伊勢湾沿岸の勢力圏であり、別々だった。
これは、街道が整備されていなかったため、交通手段が主に船(海上交通)であったから。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:51:36.54
>>710
>滋賀県守山市にある伊勢遺跡って結構立派だけど邪馬台国と関係あるのー、ないのー?

編年次第ではあるけれど、現在の標準的な編年では、伊勢遺跡が廃れるのと
纒向遺跡の建設開始がほぼ同時に見える

つまり、卑弥呼の共立によって、伊勢遺跡の地域センターとしての役割が終わり
新しい卑弥呼の王都としての纒向の建設が始まったように見える

伊勢遺跡の遺構が、一番卑弥呼の宮室・樓觀・城柵に近く見えるよね

纒向遺跡はまだまだ発掘が進んでいないけれど、伊勢遺跡の後継として建設されたのなら
同様の建物が作られたと思ってよいと思う
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:52:21.80
>>713
そんなに低Levelどすか
超ガッカリどす
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:56:17.55
>>717
>そもそも3世紀に畿内などという概念はない。

それでいいと思うよ
畿内説と言われているが、邪馬台国七万戸の範囲は畿内全域ではなく
畿内第V様式土器の出る範囲だ
「奈良盆地+西河内〜環大阪湾」の範囲
ただ 、近江にも第V様式の影響が見られるし、当然伊勢遺跡の勢力も卑弥呼の共立に
参加していたと思う
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:58:59.27
>>715
>鵜呑みではなく怪しんだから、日程を併記したんだよ。

じゃあ、「実際には魏使は計ってない」でファイナルアンサーでいいかな?
計ってたら鵜呑みも何もないだろ
魏使が自分で計った数値を使えばいいんだから
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:00:26.83
>>718
おお〜っ、そうなんどすね
毎年県の職員さん1人が収穫後に発掘作業してるだけだから全く進まないのどすが.....民家も建っちゃってるし〜

紫香楽の大仏みたいなもんどすね
諦めて奈良へ〜って感じどすな
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:01:08.52
>>714
>狗奴国にも入ってるから240年当時は不和でも戦争中じゃないみたいだね。

はい、「戦争中だから平原1号墓が小さい説」は否定されました
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:16:46.02
>>723
平原1号墓小さくていいけど時系列違うだろ?
倭人伝ちゃんと読んでください。

梯儁が金印紫綬で女王宮の邪馬台まで来たのが240年で
帳政が檄告喩のため伊都国来て卑弥呼が死んで、国交終了が247〜8年だよ。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:16:58.07
>>716
違うね
岡村編年がなぜ批判されてるかの情報がないから、結論がピントはずれなんだよ
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:30:17.93
>>725
>岡村編年がなぜ批判されてるかの情報がないから、結論がピントはずれなんだよ

その岡村編年批判がなければ認めないっていう、九州説絶対史観をやってるから、
九州説はどんどん信頼を失っていくんだよ

ならその岡村批判は>>725がやればいいじゃないか

それと「鏡の考古学」の中の、青龍三年銘鏡の年代推定とは無関係で独立
0727日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:35:00.36
>>724
>梯儁が金印紫綬で女王宮の邪馬台まで来たのが240年で
>帳政が檄告喩のため伊都国来て卑弥呼が死んで、国交終了が247〜8年だよ。

魏志倭人伝では倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼「素不和」
卑弥呼と卑弥弓呼は「もとより和せず」と書かれているんだが、240年には戦ってなくて
その7年の間に王の墓もまともなのが作れないほどの戦争になったんだ
0728日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:48:28.61
>>726
>それと「鏡の考古学」の中の、青龍三年銘鏡の年代推定とは無関係で独立
分かってないねw
そこが岡村編年批判のポイントなのに
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:49:04.00
>>693
>弱かったら金印なんぞ贈らんだろw
>日本国内だけの話じゃなくて
>東夷世界全体の話

本当はこの一事で、九州説は終了なんだけどねぇ

出雲の山持遺跡からは北部九州系の土器とともに、半島の勒島系土器や楽浪土器も出ている
論文ではないが、ソースとして山持遺跡の紹介パンフのpdfのURL貼っておくよ
ttp://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/tayori/kankoubutu/hakkutupanhu.data/1-P1-11.pdf
半島に置かれた楽浪郡、帯方郡の漢人、魏人が出雲まで来ていないと考えるのは難しいし、
来ていれば当然に出雲の繁栄が分かる

出雲では西谷墳墓群で「継続的に巨大な墳丘墓を作っている」し、
最大の西谷9号墓は四隅突出墓でその突出部まで入れるとおよそ60×50メートル、
14×12メートルでその前も後も王墓が続かない平原1号墓とは比べるべくもない

九州に倭王を持ってくるためには、倭国を九州限定にして、他の地域の情報が
大陸に伝わらないことにしないといけないが、本州でも日本海側はずっと
大陸と交流がある

この状況で北部九州が金印をもらうのは無理だよ
0730日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:53:34.72
>>728
>分かってないねw
>そこが岡村編年批判のポイントなのに

ならばそれを分かるようにするのが議論の基本

でも九州説は絶対にそれ(根拠を挙げた論証)をしないんだよな
なぜなら中身のない思い込みでしかないから
それが九州説クオリティ

そうじゃないというなら、きちんと岡村編年への批判も含めて
「根拠」を挙げて解説してくれ

どうせできないだろうから、期待はしてないがね
0731日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 00:54:50.96
じゃあ、「実際には魏使は里程を計ってない」でファイナルアンサーでいいかな?
0733日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 06:49:58.64
>>720
>畿内第V様式土器の出る範囲だ
「奈良盆地+西河内〜環大阪湾」の範囲
ただ 、近江にも第V様式の影響が見られるし

畿内第V様式土器の出る範囲=倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖地。  @阿波
0734日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:10:24.80
邪馬台国の時代の人口は?
飢饉とかで最悪ヒト食べてたって本当なの?
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:12:55.40
>>732
いつも、そうやって逃げてばかり

だから九州説はダメなの
0736日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:19:21.05
>>718
>纒向遺跡はまだまだ発掘が進んでいないけれど、伊勢遺跡の後継として建設されたのなら
>同様の建物が作られたと思ってよいと思う

発掘されてから言えよ。
日本海と瀬戸内海と伊勢湾を結ぶ交通の要所である滋賀の果たしていた役割を纒向は担えない。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:20:51.60
>>721
周旋のところは伝聞で、伊都までの経路は目測だろうね。
どちらも正確に測量したわけではない。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:22:51.25
>>727
>その7年の間に王の墓もまともなのが作れないほどの戦争になったんだ

何をもってまともと言うんだ?
伊都国や奴国の王墓としては普通の大きさだぞ?
0740日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:24:00.95
山陰、瀬戸内、東海の土器が搬入されてるからな
0741日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:26:51.34
>>729
>九州に倭王を持ってくるためには、倭国を九州限定にして、他の地域の情報が
>大陸に伝わらないことにしないといけないが、本州でも日本海側はずっと
>大陸と交流がある

倭国は九州北部だけ。
実際、魏志倭人伝では魏の使いは筑紫までしか来ていない。
出雲を含めた本州四国は、海の東にも倭地があるとしか書かれていない。
出雲は筑紫と交流が深かったから楽浪土器も流通した。
逆に、楽浪土器が出ない纒向は魏どころか筑紫や出雲とさえ交流できない辺境の地だよ。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:27:36.63
>>740
>山陰、瀬戸内、東海の土器が搬入されてるからな

山陰、瀬戸内、東海の土器(畿内第V様式土器)の出る範囲=倭国(阿波)を発った忌部一族の拓殖地。  @阿波
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:27:56.00
>>734
倭国は温暖で冬でも野菜を食べると言うくらいだから、そんなことはない。
九州は稲作先進地域だし。
0744日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:29:45.51
>倭国は九州北部だけ。

日本人とは一線を引きたい個人的な願望だな
0745日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:30:31.10
>>744
日本の歴史を歪めるなよ。
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:32:43.81
吉野ヶ里もまだ水田跡は見つかってないよな
他所の遺跡のを復元だけしてるけど
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:34:39.15
>>743
弥生時代前期末から中期初頭(2400年〜2300年ほど前)にかけて、西日本一帯で発生した大洪水を無視してはだめですよ。
灌漑水田稲作は壊滅です。 
この洪水被害は大規模かつ広域的なもので、京都盆地や奈良盆地、岡山平野、博多平野、濃尾平野など広く西日本一帯で確認されている。
その大洪水により、阿波においては弥生時代中期初頭には各集落が小規模化し、一部で大柿遺跡の棚田がみられるが、縄文的な生業と地域社会へ回帰するような様相をみせるらしい。
弥生時代前期中葉に大規模化した灌漑水田稲作経営は、災害の影響もあって一段落したものと考えられている。
土器の植物種実圧痕観察(レプリカ法)により、弥生時代終了までイネに替わり、アワ・キビ・ヒエなどが主流であったようだ。  @阿波
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:37:57.85
>>746 砦として高台に集落を設けると、低地にある田とは
距離が遠くなってしまう。吉野ヶ里は堀で囲まれていたが、
その堀の底には水が貯まった痕跡が無かったはず。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:41:41.71
吉野ヶ里は低地だよな
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 08:50:59.70
どこでもそうだよ
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 09:03:54.04
現在周囲に田が広がってって調査保存する前は吉野ヶ里も田だろ
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 09:33:56.90
今のところ水田跡は見つかってないからね
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 09:36:18.71
>>754の写真を見ると、吉野ヶ里に
7万戸の邪馬台国があったというのは
無理だわ。現在の建物数からみても
大勢住めないだろ。
数ある集落のうちの大きな箇所のひとつだろう。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 09:38:46.41
昔は海に突き出た半島状の台地でしょ?
むしろ貿易港とセットの町だったなら水田は遠くても仕方ない
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 09:42:37.65
弥生時代終末期にもなって九州が稲作先進地域という根拠がない
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 09:55:46.28
吉野ヶ里みたいな集落には田は有力者の家庭菜園みたいな程度とか、そんなには作らないよ。
周辺の山麓の細流や、暴れない小河川の扇状地の湧水などで
水利可能な緩い傾斜のある所じゃないと全部の田に水は回らない。

居住区の水は、商工業その他の利用が多くて問題も起きる。
環濠集落は城下町というか商工業とか地域の首都機能を持った領域でしょ。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:01:35.60
どっちにせよ吉野ヶ里にあったのは、そんなに大きな国じゃない。
弥生時代の終わりころには他の国に従属する立場になってるしね。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:05:00.63
吉野ヶ里のは朝鮮半島に見られる環壕だな
長江流域に見られる環濠は北部九州では平塚川添遺跡、畿内は環濠
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:07:19.41
でその環濠集落は弥生後期から西日本全体で解体される
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:18:22.93
>>758
吉野川のような大河流域がないと多くの集落形成は無理だね。  @阿波
0768日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:24:37.65
>>759
河川に潮の入る汽水域の標高に田を作る土木能力には2000年かかるよ?
ん? 今でも、やられてるし・・・ 有明海閉めなきゃw

卑弥呼の王宮を新井白石同様、この地域最南の山門の山すそと考えるけど
そこから、邪馬台国系遺跡の有る、佐賀〜武雄、嬉野に向かうと
おそらく、柳川、大川辺りは海進や汽水で、漁民しか住めない。

農業集落は治水できない大河川周辺もダメで、
山すそにできるってのは基本中の基本。
地形判断にはグーグルアースが最高だよ。 
良港になる浜には漁船も見えるしw
0769日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:27:00.08
中期の環濠集落のような複合型集落の木製品では近隣の樹種が使用されている
環濠集落が解体される後期の集落では、より遠方の針葉樹が使用されるようになる
纒向遺跡では特有の芳香、耐朽性が高く、水湿にも強く、虫などに対する耐性が強い
針葉樹の檜材が多用されている
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 10:30:32.55
山門の山すそって何遺跡?
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 11:01:22.13
>>770
247年に落城して、筑紫軍は伊都に引き上げてる城だけどな。
遺跡というか、魏使の帳政が記録してるよ。

誰かの墓から、多少は中国鏡とか出てるでしょ。
三池炭鉱の辺りが、主戦場かな?

ここって、『倭人伝』の 邪馬台国スレ だよね?
250年の倭王はどこにいたか? スレだったりしてなw
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 11:13:03.01
247年に落城した遺構って何遺跡?
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:22:32.96
>>732
>自分で勉強しろよ

つまり、ぐだぐだ言うだけで>>732には説明する能力はないとww
本当に典型的な九州説クオリティだな
キウスさんですかな?
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:24:10.84
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:24:42.45
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:25:10.68
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:26:00.07
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:26:58.31
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:27:15.25
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:32:54.85
>>739
>伊都国や奴国の王墓としては普通の大きさだぞ?

伊都国や奴国でも100〜200年前の須玖岡本遺跡D地点、三雲南小路遺蹟の王墓は
30メートル四方の墳丘サイズがあったし、誰かが弥生時代の王墓は20〜40メートルくらいって
書いてただろ?
その感覚からしても、14×12メートルはいかにも小さい
王墓だとどうしても主張したいなら、よほど特殊な理由を考えないと行けない

ましてや弥生末期の、各地で地方首長権力が伸張し、巨大王墓を作るように
なっていた時代に、14×12メートルの「倭王の墓」って、普通なら笑われておしまいだよ
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:35:17.66
>>782
いいんじゃない?
鉄器ゼロの毛人とは価値観が違ったんでしょ。
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:36:00.11
70-80年の男王

卑弥呼の前に倭国乱〜卑弥呼も戦争中〜卑弥呼の後の男王台与時代も乱

つまり卑弥呼を含めたの前後100年には「大きな王墓を作る人員余裕」は無く
魏からの贈物を中心とした女王墓が卑弥呼墓

三雲南小路+井原鑓溝→平原1号ですね。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:37:05.06
>>779
>これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ

誰がそんなこと言ったの?
0786日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:37:38.05
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:37:54.31
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0788日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:38:10.51
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:38:22.58
>>741
>出雲を含めた本州四国は、海の東にも倭地があるとしか書かれていない。

それ「女王國東渡海千餘里復有國皆倭種」のことだよな?
九州説はいつもわざわざ渡海「千里」を落とすけれど、
幅600メートルの関門海峡を「千里」とはさすがの九州説でも言わないよな?

本州を「渡海千里の倭種」にするのは無理だよ

地図を見ましょうね
0790日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:39:00.20
倭国は九州北部だけ。
実際、魏志倭人伝では魏の使いは筑紫までしか来ていない。
出雲を含めた本州四国は、海の東にも倭地があるとしか書かれていない。
出雲は筑紫と交流が深かったから楽浪土器も流通した。
逆に、楽浪土器が出ない纒向は魏どころか筑紫や出雲とさえ交流できない辺境の地だよ。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:40:56.77
>>789
意味不明。
北部九州説のことを言ってるのなら、
彼らは豊国を邪馬台国に含んでいないらしいから、
宗像より手前から、本州までの渡海距離が千里。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:41:29.46
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0793日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:42:47.49
>>746>>748>>751ら辺

弥生時代には水深1メートル以下の中小河川の周囲を田にして、
川の間の微高地に集落を作るのが基本だよ
0794日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:42:58.13
>>790
硯も松江から出土しているので、
漢魏と筑紫、そして筑紫と出雲周辺、は関係が密だったのでしょうね。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:43:38.50
のたうちまわるキナイコシ()笑

島根(田和山遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器が無いから使い方を知らない、ただのペンダントだ!」

伊都(三雲井原遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器と一緒だから、楽浪人だけが使っていた!」

福岡県筑前町(中原遺跡)で硯
→キナイコシ「墨が付着していない、ただの飾りで使っていない!」

福岡県筑前町(薬師ノ上遺跡)で硯完全体、墨付着
→キナイコシ「絵だ!絵を描いていたんだ!」

壱岐(カラカミ遺跡)で文字を書いた土器
そもそも銅鏡に文字、国産なら尚更
→キナイコシ「・・・」

奴国弥生銀座(比恵遺跡)で硯

これ以上キナイコシに付きあう必要あるのか?w
0796日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:48:23.94
>>788
倭人が朝鮮半島で鉄を直接採掘し「た」いたんなら
倭の卑弥呼がどうして鉄器分布地域の女王なんだ?
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:53:18.27
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0799日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:53:35.08
平原遺跡出土の方格規矩四神鏡は17面が製作工程途中で薄緑色に着色しているんだが
中国で同様の着色方格規矩四神鏡は出土しているんだろうか?
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:53:48.99
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0801日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 12:57:18.22
>>791
>宗像より手前から、本州までの渡海距離が千里

ごめんなぁ
魏志倭人伝でも「渡海」と「水行」は区別されてるんだ
渡海は大海中を目的地まで渡ること、
水行は海岸沿いまたは島伝い

宗像から山陰に渡るのは「水行」であって、渡海じゃないんだ
というかこれが、投馬国(出雲)に向かう「水行二十日」のルートだから

いずれにしても本州を「渡海千里」の先にするのは無理
そして本州まで行けばそこから四国は島伝いの水行で行けるし、
四国も「渡海千里」ではない

いわゆる本土は一体の倭国だよ
渡海千里にあたるのは、隠岐の島とか、佐渡とか、伊豆諸島とかの距離感だ
0803日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:01:33.64
>>801
>渡海は大海中を目的地まで渡ること、
>水行は海岸沿いまたは島伝い

嘘だな。
対馬海峡は島伝いだが渡海。

九州島と本州島の間は、海岸沿いの部分もあるが、
関門海峡という海を渡るから渡海という表現になっているだけだ。

ごめんなぁ。
さいならw
0804日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:01:43.55
>>794
>漢魏と筑紫、そして筑紫と出雲周辺、は関係が密だったのでしょうね。

そして、出雲と大和は、土器の相互移動から関係が密だったことが確認できるよね
つまり弥生末期から古墳時代が始まる頃=卑弥呼の時代には
畿内説の主張する倭国=日本の西部全体は、密な連絡のある一体の地域になってるんだよ
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:03:03.75
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:03:25.79
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:03:41.16
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:04:57.66
北部九州倭国から東へ渡海千里で本州に倭種。
これもせいぜい日本海沿岸の話ですね。
鉄器や中国朱、硯などが分布する地域です。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:05:31.38
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:06:14.31
>>791
うむ。
遺跡の分布からは、豊国は別の地域。
肥国よりもだいぶ開発が遅れるね。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:06:41.44
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:06:43.57
倭奴国は倭国の極南界である。
日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した

奴国は二万余戸もあり、邪馬台国の七万余戸、投馬国の五万余戸に次ぐ破格の大国である。
金印が発見された志賀島〜博多〜九州北部の広範囲を勢力圏としていた。
この奴国が女王国の境界、或いは倭の南界となっているという「正確な方位の記述」はあまりに重要な意味を持つ。
同じ北九州に邪馬台国や投馬国や20もの女王属国家が存在し得ないのだ。
つまり、奴国より南側は日向王朝なのである。
狗奴国は、渡来人のムラであった宇佐(大分県、国東半島)を中心とした地域である。
宇佐神宮は滅ぼした新羅人を祀っている。
女王以北ではない国々はアルプス山脈などで隔絶されていた。
南九州、四国、中国地方なら遠絶などという表現を使うはずが無い。

つぎに「奴国」がある。ここが女王の境界が尽きるところである。
その南には「狗奴国」がある。 男子を王としており、官には「狗古智卑狗」がある。この国は女王に従属していない。

<狗奴国が東日本であるなら、「この国は」と表現しない。東日本の国々が女王に属している方が記述に値する事ではないか。>

その道順と距離を計算してみると、ちょうど会稽の東冶の東にある。
(会稽の東冶は、現在の福建省の福州辺りの北緯26度近辺で、その東は沖縄県の那覇市辺りとなる)

倭の土地は温暖である。冬でも夏でも生野菜を食べる。皆はだしである。
(その位置から、台湾とダブらせたか?)

その寿命はある人は百年、ある人は八、九十年の長寿であると考えられる。
(南国は長寿であると考えられていた?)

<伊都国には一大率という機関があって、後の大宰府のような機関であったことが記述されている。
このことは、明らかに邪馬台国が伊都国よりかなり離れた場所に存在した国であったことを示している。
中国や韓国との通商や交易などは、伊都国を中心になされた。
少なくとも北九州に邪馬台国があったのでは、わざわざこのような機関を置く理由がない。
伊都国から投馬国まで水行二十日、さらに邪馬台国まで水行十日と陸行一日くらいの距離があることの証拠がここにも存在する。>
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:07:24.49
また、その南に、人の身長が三、四尺という侏儒国がある。女王から四千余里離れている。
またその東南に裸国、黒歯国があり、船で一年かかって至ることができる。

<東北の北部と、北海道であろう。
混一図など、古代のこの手の地図には決まって東北の北部や北海道が描かれていない事は注目に値する。
中国からあまりに離れているから、或いは女王国外だから故意に描いていないのか、一年かかるという記述も、その策略の一環である。
記録者は正しい方位を書いたのかもしれない。
ただ、編纂者が地図を隣に置いて、方位を書き換えたと考えられるのである。
日本列島を故意に南(下)へ向けて描いているのである。
当て字の卑劣さと言い、蔑んでいるのである。
即ち、侏儒国とは中国から遠く離れているので倭人よりもさらに身長が低い。
裸国とは、服が要らないほど南国に位置するという事であり、黒歯国とは完全に東南アジアの伝説を引用しているのである。>

倭の地を訪問すると、離れた海中の洲島の上を、あるいは隔絶し、あるいは陸続きに、ひとまわりすると、五千里あまりになる。
(混一図における倭国のサイズは、こんなものであろう)

http://image02.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/3f4e2c6d394d53b5.jpg
http://image01.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/0e6e47676ff2da4f.jpg
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:07:46.37
>>794
>>790
>硯も松江から出土しているので、
>漢魏と筑紫、そして筑紫と出雲周辺、は関係が密だったのでしょうね。

同意。
倭国の盟主が出雲から筑紫にうつったという記紀の伝承とも一致する。
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:08:41.21
>>811
九州の中でも、甕棺墓は川沿いに筑紫から肥国へと密に分布するのに対して、
豊国だけ最後まで入ってこない。
北部九州の中でも明らかに支配者というか文化が違いますからね。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:09:12.27
>>797
日本語の不自由なアンチ九州説。
すぐ上のレスとか>>796
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:09:22.09
>倭国の盟主が出雲から筑紫にうつったという記紀の伝承

誰のことだ?w
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:10:05.79
>>801
>というかこれが、投馬国(出雲)に向かう「水行二十日」のルートだから

投馬国は宮崎県都万だよ。
0820日本@名無史さん
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2018/03/10(土) 13:11:12.61
以前九州説が言ってた話と違うな。
もともとは肥国があって、そこに筑紫が入って来て、
もともとの肥国勢力が肥国と豊国におしやられたと聞いたが。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:11:38.90
>>802
それでは日向王朝が熊襲になってしまうw
0822日本@名無史さん
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2018/03/10(土) 13:12:26.81
>>805
>>798
>なんで朝鮮半島の横幅が四千里だと短里なんだ?

小学生でも計算できるだろ。
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:12:50.64
-400 弥生中期

-221 秦始皇帝 統一 遠賀川系土器の普及

-202 劉邦 漢王朝を建てる 北部九州で戦いが頻発 クニへの統合開始 遠賀川流域の物部一族の一部、畿内へ移る

-50 楽浪海中倭人有り 分かれて百余国をなす 唐古・鍵遺跡 『漢書地理志』 池上曽根遺跡

0 筑紫国が楽浪経由で漢と交渉を持つ

5 『漢書王芥伝』 東夷王、大海を渡りて国珍を奉る 高地性集落築かれる 畿内と出雲で青銅器の大量埋納

57 後漢 「漢委奴国王」の金印を授かる 北九州内で紛争 やがて筑紫国としてまとまる
 出雲地域にはいくつかの勢力があり、中には筑紫国と関係を持っていた

107 筑紫国の使者として倭面土国の首長が落陽に至る
  筑紫政権は、西日本の諸勢力に対して優位な立場であった 後漢王朝と楽浪郡を後ろ盾にしていた

108 倭国王帥升等生口160人を献ず 帥升は吉備の王 吉備が力を持ってきた
  畿内にいた物部氏や蝦夷を中心として大和国が建国された 神武東征開始
  奴国の勢いが強く、他の九州の国が圧迫され、王族の一部が東へ向う
  東征を開始した神武の後裔が吉備国に入り王となる F孝霊天皇 四国、出雲を統合する

147〜188 『魏志倭人伝』 倭国乱れ相攻伐する

189 後漢霊帝逝去、後漢滅亡 筑紫国へ対抗するため、吉備国、大和国、丹波国、尾張国の連合が出来てきた
  後漢の混乱に合わせ筑紫国の勢いも衰える 他の国が半島との交易と、筑紫国との戦いを起こす

210 吉備国、大和国、丹波国と、筑紫国が女王擁立でまとまる 銅鐸祭祀は禁止 三河・遠江は銅鐸祭祀を続ける
  卑弥呼は吉備国王(F孝霊)の娘の倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみこと、
  男弟とはG孝元天皇、H開化天皇、I崇神天皇達である
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:12:51.15
>>817
その人が、いつ何処で>>795 みたいなことを言ったの?
0825日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:13:27.57
  卑弥呼は三輪山山麓の纏向まきむくの宮殿で銅鏡を使って祭祀を行った
  外務相に難升米なしめ(奴国の宿禰すくね)を起用 邪馬台国の長官は伊支馬、その下に弥馬升・弥馬獲支・奴佳テと云う
  伊支馬(J垂仁天皇)は伊久米伊理毘古伊佐知命くめいりびこいさちのみことである
  弥馬獲支(I崇神天皇)は御真木入日子印恵命みまきいりひこいにえのみことである 皇族が力を付けてきた

  都市牛利つしごりは、都市とは商業大臣(大倭)、牛利は丹波県主あがたぬしの由碁理ゆごり
  この邪馬台国を都とする倭国を実質支配しているのは、天皇一族と物部一族の呪力・武力である
  物部の鬱色雄命うつしこおのみことと伊迦賀色許男命いかがしこをのみことが執政し、彼らの妹はH開化、I崇神の母親となっている
  鬱色雄命の古墳は外山とび桜井茶臼山古墳、伊迦賀色許雄命はメスリ山古墳(奈良県桜井市)
  役人で、副官の名が卑奴母離ひなもりとなっているのが、対馬、一支、奴国、不弥国 後の二国は九州の国であることは明白
  もし邪馬台国が九州内にあれば、近隣の国の副官を卑奴母離という
  大和に都が置かれていた時代、九州の防人を夷守ひなもりと言った

238 難升米と都市牛利を帯方郡から魏の都に派遣した
  この時、卑弥呼は親魏倭王に册封される

248 卑弥呼死去 箸墓古墳には吉備の特殊器台 吉備の浦間茶臼山古墳は箸墓のちょうど半分の規格
  男王(I崇神天皇)立つも国乱れる 神話では、三輪山の大物主神の祟りで民が尽きそうになった
  再び、女王として台与とよを共立した 豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことである
  巻向型前方後円墳が出現する
  首長霊を祀り、継承儀礼を行う施設として前方後円墳を考案した

265 台与死去 西殿塚古墳 魏滅亡、晋王朝起こる I崇神天皇即位 四道将軍派遣
0826日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:13:30.36
>>818
出雲の国譲りを知らないのか
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:14:44.88
>>791
>宗像より手前から、本州までの渡海距離が千里。

じゃあ、宗像より先の九州はなんて国なの?
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:15:25.71
>>821
神武東征後、王朝の無い集団だった事はあり得ない
そもそも天皇家がいた時代に熊襲とか薩摩隼人という大和人と別という概念は無かった
大和という地名はあっても、大和とその他という概念は無かったのだから、同じ倭人である
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:15:39.20
>>826
ああ、それね。
いつも不思議なんだけど、
出雲の王が国譲りをして、なんで日向(九州説だと伊都なんでしょ?)に都をおくの?
出雲の王が国譲りしてくれたんなら、出雲に都するはず。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:16:14.73
>>827
出雲
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:16:45.66
>>820
筑紫が筑前から筑後に進出して、肥国が肥前と肥後に分断されたんだよ。
その一方で、筑後にいた卑弥呼が共立され、筑前伊都において倭国女王となった。
肥国出身でありながら、魏との交流など、筑紫化していったんだろうね。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:17:05.95
>>827
倭地
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:18:32.52
長里=魏里 vs 短里=東夷伝里

どちらが正しいかと言うと、
三国志東夷伝の記載は全て、短里=東夷伝里

ここで決着!(パチパチパチ


負け〜て悔しいキナイコシが
3世紀情報の東夷伝里=短里が
GPSの発達した現代地図と比べて精密さに欠けると難癖をつけているだけw
0834日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:20:50.55
>>831
前半はそうだが。
後半はちがう。
卑弥呼は筑紫と関係の深い日本海沿岸出身。
筑紫王家から丹後に派遣された一大率長官の家の出だ。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:22:24.12
東に渡海千里で「倭人」じゃなくて「倭種」でしゅよw

いろいろ改竄しないと無鉄器地域にはたどり着かない、
いや、改竄時まくっても無鉄器地域にはたどり着きようが無いから
大変そうだねw
0836日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:23:53.50
>>829
筑紫の日向が倭国の都だから。
出雲の国譲りで筑紫の日向に降臨したのが邇邇芸だけれど、その墓が三雲南小路(金印保管、咲耶姫の細石神社)で神宝の八咫の鏡が平原の鏡なら、日向三代の高千穂宮が山城である高祖山だよ。
すると、その前の倭王は須玖岡本など、筑紫の日向の奴国側に王都を持っていたことになる。
実は出雲というのは魏志倭人伝でいうところの奴国ではないか。
少なくとも、邇邇芸が降臨した豊葦原中国は福岡平野らしい。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:23:55.76
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:24:00.13
>>803
本当にごめんなぁ
>>803の言うことはただの詭弁だ

島伝いっていうのは、対馬の上島から下島へ渡るような距離感で、
大陸国家の人間にとって対馬海峡は大海を渡ることになるんだよ

言い換えれば「水行」はいつでも陸に寄れる、比較的安全な海の移動
「渡海」は困ったらそこでおしまいの、持衰だのみをしないといけない危険な航海なんだよ

九州説は「本州を切り離さないと成りたつ余地がない」から大変だよな
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:27:46.14
>>838
本当にごめんなぁ

響灘を渡海したんだよ。
右手に豊国や山口の海岸を望みながら、直線で突っ切る。

そりゃ海岸沿いに水行したほうが安全だけど時間かかるっしょ。
石橋を叩きすぎ。

北部九州邪馬台国から、東に渡海千里で、日本海沿岸の倭種。
紀元前から文字や鉄器など
筑紫と縁の深い倭種地域です。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:28:05.30
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:28:52.47
初心者に説明するスレで
初心者が聞いたら呆れ返るようなことばかり言ってる九州説って、なに?
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:30:02.06
トランプ大統領が、鉄は国家なりで高関税を課すだとよ。
国家防衛のため。

ビスマルクも言ってたな<鉄は国家なり

で、キナイコシは?w
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:30:13.61
>>841
呆れ返ることってどんなこと?
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:30:48.60
神武天皇の移動のターゲットは大和・宇陀の水銀。
2世紀後半、後漢王朝が黄巾こうきんの乱などで衰退し、
後漢から威信財の供給を受けていた倭国王師升等の後裔の権威も失墜。
更に鉄材の配分にも乱れが生じてきたのを期に群雄割拠の時代となった。
戦争にかかわる遺跡・遺物は北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲に分布し、
環濠集落、矢尻、殺傷人骨、武器などとして出ている。
そこで各国は卑弥呼として呪術能力の際立った巫女を共立し、新生倭国連合の発足となった。
卑弥呼は吉備の巫女みこ王であった。大和国は吉備と連合するべく、吉備の王女を倭女王として推戴した。
この頃、丹後や出雲も大和・吉備サイドに立った。筑紫国も合流し、西日本はまとまってきた。
黥面げいめんの土器は東海と吉備・安芸に集中的に分布。 (『魏志倭人伝の考古学』佐原真から)

古代の日本で山と言えば三輪山、その麓の高臺たかだいをヤマトと読んだ。
大和神社の鎮座地であり、物部と同族の穂積氏の居住地であった。大王家の孝霊天皇と物部氏の連合であった。

東征の経路には海人あま族の協力があった。
これが倭国造やまとのくにのみやつこの祖とされる椎根津彦しいねつひこの道案内の話になっている。

初期の天皇の妃が事代主神ことしろぬしのかみの娘などになっている。
孝霊天皇の妃は4人記録されている。また瀬戸内海北部の神社に多く祭られている。
『魏志倭人伝』に、「国々に市場が開かれ、それぞれの地方の物産の交易が行われていて、
大倭が命ぜられてその監督の任に当たっている」とある。「大倭」の冠がついている天皇がいる。

九州の弥生後期遺跡の鏡の持ち方と大和纏向まきむく北方の天神山古墳の持ち方は一緒。
纏向遺跡は継続性を持たず、異質な政治的再編を受けている。
纏向遺跡からは東海・関東・西瀬戸内等の土器が出土しているが、北九州の土器はでていない。
これは支配・祭祀・武装の階級が主に東征し、土器を作る女性達の移動は少なく、
それらは民衆の動員として吉備などから、古墳の造営には畿内・東海・北陸などの民衆が動員されたのである。
纏向遺跡から掘っ建て柱の建物跡が出土している。宮殿と見なされている。
箸墓の真北。卑弥呼の宮殿とか崇神天皇の宮との説が出ている。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:31:30.78
>>801
渡海千里で倭種の国 の記述は魏使による行程記録部分ではなく
陳寿の資料にある、魏王朝独自の東夷の地図上のデータ。
渡れば陸行可能なのか、渡海後も水行できるのかも認知されていない。 

倭人伝での記述上、本州と四国の別が無いので、瀬戸内海というより、
日本海側から見ただけの概念で、相当アバウト

九州島を女王国としているが、魏使は瀬戸内海を見ていない。
関門海峡を見ていないから、渡海千里という表記に訂正ができ無い。

600年に裴世清が斑鳩迄、来日した時、倭国の領土の東西は5月行
で その東北はでかい山 向こうは毛人国w という記載に変わった。
五月行は一万里で奈良付近である。

ちなみに、女王国南4千里の種子島から東南船行一年は2万4千里。
小笠原なのだが、この地理を知り得る理由は、倭人伝最後の謎と言ってもいい。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:31:31.03
>>836
ああ、なるほど。
ガチ伊都説の人でしたか。

その場合、スサノオが八岐大蛇を倒した出雲も奴国ということ?
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:34:23.79
九州説は困るとすぐに大量コピペでコメ番号を進めて話をそらすんだよなぁ

そして「短里はあるんだ」しか言わない

その根拠もとことん希薄で、韓が四千里四方ぐらいしか言わないし
ちなみに希薄は「キハク」って読むんだよ 「キウス」じゃない

そして
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:34:33.74
楽浪土器がほぼ伊都までしか来ていないし、(それより先は極端に量が少ない
魏使も伊都までしか来ていない。(奴国の描写が無い

つまり女王国より東に渡海千里ってのは倭人からの伝聞に過ぎないわけで、
魏使が実際に通った道筋説明をそのまま当てはめるのは間違っているよ。
0849日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:34:54.64
じゃあ、「実際には魏使は里程を計ってない」でファイナルアンサーでいいな?
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:34:54.99
長里=魏里 vs 短里=東夷伝里

どちらが正しいかと言うと、
三国志東夷伝の記載は全て、短里=東夷伝里

ここで決着!(パチパチパチ


負け〜て悔しいキナイコシが
3世紀情報の東夷伝里=短里が
GPSの発達した現代地図と比べて精密さに欠けると難癖をつけているだけw
0851日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:35:24.45
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0852日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:37:17.20
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0853日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:37:58.92
http://image02.seesaawiki.jp/s/o/syk-ysn-memo/d6d28f78904a9627.jpg

「日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した」

天孫族の天照王朝(日向=日本)は倭奴国を南界とした倭国に属していなかったが、のちに大倭王(大和王)となった
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:38:09.76
>>843
>呆れ返ることってどんなこと?

大量の繰り返しコピペとか

自信があったら一度書いたら、あとは枝葉を丁寧に解説して深堀りしていけばいいのに
中身のない妄想レベルの思い込みだけだから、そういうのは一切できないだろう

九州説同士でも矛盾だらけだし
0856日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:40:40.84
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
0857日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:40:47.44
>>843
例えば>>850みたいな連呼
0858日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:41:01.62
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:41:17.46
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0860日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:42:33.10
>>850
>三国志東夷伝の記載は全て、短里=東夷伝里

ではなぜ、魏晋里の世界で生まれ育った魏使が、蕃夷の使う東夷伝里なんかを使うんだ?
九州説では実際に魏使が計ってるから、方位も距離も正確なはずっていう筋立てだったよな?

だったら短里のはずがないんだよ

では、短里を主張する以上は、
「実際には魏使は里程を計ってない」でファイナルアンサーでいいな?
0861日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:42:52.43
>>843=854=855=857

スレのルールには従いましょう。

>1◇cTVFTrvr8M代理2018/03/02(金) 09:50:12.99
>当方、魏志倭人伝の現代語訳だけは読んだレベル也。
>日本書紀は読んでない也。
>お互い議論しなくていいから
>自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)

>お互い議論しなくていいから
>自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)

>お互い議論しなくていいから
>自分の説の説明だけやってくれ。(重要だと思います)
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:44:32.54
>>860
>魏晋里の世界で生まれ育った魏使

魏(220-265)晋(265-420)

何言ってんだこのキナイコシは?
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:45:12.60
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:48:04.35
長里=魏里 vs 短里=東夷伝里

どちらが正しいかと言うと、
三国志東夷伝の記載は全て、短里=東夷伝里

ここで決着!(パチパチパチ


負け〜て悔しいキナイコシが
3世紀情報の東夷伝里=短里が
GPSの発達した現代地図と比べて精密さに欠けると難癖をつけているだけw
0865日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:48:33.81
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0866日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:51:35.07
九州説のやってることは、いかに畿内説の書き込み機会を減らすか、に全振りしてるからな

その時点で、お察しってやつだ

まあ、とうの昔にプロフェッショナルの世界では畿内説で決着済みで、
きちんと議論したら相手にならないから、そうするしかないってことだけどな
0868日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:58:33.08
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0869日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 13:58:47.93
のたうちまわるキナイコシ()笑

島根(田和山遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器が無いから使い方を知らない、ただのペンダントだ!」

伊都(三雲井原遺跡)で硯
→キナイコシ「楽浪土器と一緒だから、楽浪人だけが使っていた!」

福岡県筑前町(中原遺跡)で硯
→キナイコシ「墨が付着していない、ただの飾りで使っていない!」

福岡県筑前町(薬師ノ上遺跡)で硯完全体、墨付着
→キナイコシ「絵だ!絵を描いていたんだ!」

壱岐(カラカミ遺跡)で文字を書いた土器
そもそも銅鏡に文字、国産なら尚更
→キナイコシ「・・・」

奴国弥生銀座(比恵遺跡)で硯

これ以上キナイコシに付きあう必要あるのか?w
0870日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:00:29.55
サイキバはすぐ興奮するからな
0871日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:00:32.95
>>862
>魏(220-265)晋(265-420)

秦の始皇帝による度量衡の統一(紀元前3世紀)以降、
漢土では九州説のいう「長里」をすでに500年くらい使ってるんだよ
その世界で生まれ育った魏使が、「短里を使っているはずがない」だろ
その魏使の使っていた度量衡を「魏晋里」と表現したことに対して
魏と晋の年代を貼って、何か言ったつもりになるのが不思議でしょうがない

再掲(一部修正)
なぜ、「大陸王朝の里の世界(もちろん短里などない)」で生まれ育った魏使が、
蕃夷の使う東夷伝里なんかを使うんだ?
九州説では実際に魏使が計ってるから、方位も距離も正確なはずっていう筋立てだったよな?

だったら短里のはずがないんだよ

では、短里を主張する以上は、
「実際には魏使は里程を計ってない」でファイナルアンサーでいいな?
0872日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:02:55.35
東夷世界では東夷伝里=短里で測っていた、でファイナルアンサー
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:03:11.83
>>869
どうやらどうやらこれは>>869の一人芝居
というか、脳内会話だな?
できの悪いフィクションだw
0874日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:04:34.02
>>861
次のスレ立てでは、無意味な大量コピペ禁止って書いておいてくれ

きっと九州説は無視するだろうけれど、それで九州説がどんなものかがはっきりするだろう
0875日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:04:55.10
里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。
楽浪土器が大量に来日してるんだから。

魏使の日記に書かれていたのは日程。

つまり、
里程と日程は同じ行程をそれぞれで説明したもの。

はい、キナイコシ発狂www
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:05:40.03
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0877日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:06:45.47
>>872
>東夷世界では東夷伝里=短里で測っていた

それを計っていたのは「魏使=漢土の人間」『ではない』ってことだな?
魏使は『短里を使わない』
0878日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:08:05.97
>>877
現実には、魏使は『短里を使っていた』

根拠:三国志東夷伝
0879日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:08:21.20
里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。
楽浪土器が大量に来日してるんだから。

魏使の日記に書かれていたのは日程。

つまり、
里程と日程は同じ行程をそれぞれで説明したもの。

はい、キナイコシ発狂www
0880日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:08:36.93
長里=魏里 vs 短里=東夷伝里

どちらが正しいかと言うと、
三国志東夷伝の記載は全て、短里=東夷伝里

ここで決着!(パチパチパチ


負け〜て悔しいキナイコシが
3世紀情報の東夷伝里=短里が
GPSの発達した現代地図と比べて精密さに欠けると難癖をつけているだけw
0882日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:09:09.11
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0883日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:09:19.85
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0884日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:09:51.21
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0885日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:10:42.68
里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。
金印授与の時にも漢使が来たわけだし
楽浪土器が大量に来日してるんだから。

魏使の日記に書かれていたのは日程。

つまり、
里程と日程は同じ行程をそれぞれで説明したもの。

はい、キナイコシ発狂www
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:12:13.77
九州のお爺さんに歩測させたので魏使の数倍の歩数になってしまったのかもしれない
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:12:15.55
>はい、キナイコシ発狂www

ブッw
0888日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:13:35.19
>>885
根拠のない想像を聞いて発狂する人などいませんよ。
理由がなにも書いてない文章だから、ハッキョした人が書いたのかなーって思うくらい。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:16:37.34
>>875
>里程は漢代の楽浪郡史の記録だろ。

漢代の楽浪郡使も「秦漢里」を使っているから、「短里じゃない」よな

そもそも東夷伝里なんてないんだよ

一生懸命繰り返している「方可四千里」は、むしろ
「循海岸水行歴韓國(中略)七千餘里」からの逆算だろう

そしてその七千里は、倭国(女王国)を萬二千里の彼方の
東の世界の果てにするための潤色

東方の極みにする理由は、公孫氏を滅ぼした晋朝の祖、
司馬懿の功績を顕彰するため

それだけのことなのに、「短里」にこだわるしかない九州説は大変だねぇ
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:19:19.97
またきっちり書かれたから、
九州説怒りの大量コピペをするな、きっと
0891日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:21:23.34
って言うかさー、九州説さん

ここは「説明するスレ」であって
理由も言わずに言い張るスレじゃないから
そこんとこヨロシク
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:35:38.81
三国志東夷伝は基本的に東夷伝里(短里)で記載されている。
後の中国史書も追随。

短命だった魏本国の長里記載は皆無。


この事実に敗北したキナイコシは何の根拠も示せずに騒ぐだけw
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:35:53.26
>>839
ごめんごめん
九州説の大量コピペに埋もれて見過ごしてたよ

>響灘を渡海したんだよ。
>右手に豊国や山口の海岸を望みながら、直線で突っ切る。

本当にごめんなぁww

右手に「豊国や山口の海岸を望ん」でいる時点で、
それ「水行」(海岸沿いの移動)だから

半島の「循海岸水行」も、朝鮮半島のリアス式海岸を出たり入ったりしながら
進むわけじゃないだろう
そんなのしてたら魏晋里の七千里でも足りないよ

少し数学的な表現をすれば、海岸の包絡線に沿って進むのが「水行」

響灘を突っ切っても渡海にはならないよ

本当にごめんな! >>839のもの知らずを暴いてしまって
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:36:10.70
「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
韓人の領土は四千里四方。
東西は海で、南は倭と接する。

つまり朝鮮半島の横幅が四千里だから、短里。

その他も全て三国志東夷伝は短里=東夷伝里記載。

さらに、漢書など他の中国史書も東夷伝里記載のまま
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:36:25.98
倭人は朝鮮半島で鉄を直接採掘したいたんだから
倭の卑弥呼は当然鉄器分布地域の女王だろ。

平原女王=卑弥呼だよ。

鉄器が出る地域が必須条件だな。

ほほほ。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:36:46.82
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:37:56.65
>>892
>短命だった魏本国の長里記載は皆無。

もしかして、魏晋里って、短里から長里に「魏朝が変更したもの」って思ってないか?
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:41:08.45
>>894
>「三国志東夷伝韓伝」によると、 ←さあ、みんなでググろうぜ!w
>韓人の領土は四千里四方。

ググるまでもなく知ってるよ?

そもそも「東夷伝里=短里」なんてないんだよ

一生懸命繰り返している「方可四千里」は、むしろ
「循海岸水行歴韓國(中略)七千餘里」からの逆算だろう

そしてその七千里は、倭国(女王国)を萬二千里の彼方の
東の世界の果てにするための潤色

東方の極みにする理由は、公孫氏を滅ぼした晋朝の祖、
司馬懿の功績を顕彰するため

それだけのことなのに、「短里」にこだわるしかない九州説は大変だねぇ
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:41:11.48
>>896
>邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。

キナイコシは議論したいわけじゃなくて、
これがあるから、東夷伝里などというものは
間違っても認めるわけにはいかないんだよねw

魏使は卑弥呼の次の男王、さらに次の台与の時代に帰国しているから、
卑弥呼の墓の完成形を見ている。
たとえ長里だったとしても巨大前方後円墳はアウト。

長里か短里かなんてのは邪馬台国論争の核心部分では無いのだけれど、
短里を認めた瞬間に、北部九州だけの話であることが確定してしまう。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:44:17.45
3世紀の東夷世界には鉄器があるのが当たり前で、
鉄器が無くて毛の処理もできない「毛人」の地域に
倭の女王卑弥呼がいるはずもないから

おわかり?詐欺師君w
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:47:15.26
>>899
理由もなくアウトだアウトだと
叫んでも無意味でしょう
ここは説明するスレだから
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:49:24.42
>>900
鉄器が、ないないと
証拠もなくただ
叫んでも無駄でしょう
ここは説明するスレだから
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:53:29.07
>>899
>たとえ長里だったとしても巨大前方後円墳はアウト。

いや、何も困らないけど?

>>896の引用部分にも「『長径』百余歩」って書いてあるように、「径」という文字は
差し渡しくらいの意味だから円墳の必要はないし、前方後円墳でも墳丘長が
径と書かれるだけだろう

纒向古墳群の箸中山古墳以外のものが墳丘長で100メートルくらいだから、魏晋里で
径百歩でちょっと誇張ありくらいで頃合いだろ

逆に九州説が「根拠」一つない「短里」に頼り切っていて、
短里がなかったら何も言えなくなる
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:53:42.62
>>899-900
文字数は多いのに理由がなにも書いてないって
どんだけ空疎な文なんだかw
0905日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:59:47.86
>>904
希薄なんでしょ、脳が
0906日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 14:59:53.32
小さい墓2ヶで径百余歩?
殉葬土壙墓はないよ
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:10:42.84
232日本@名無史さん2018/02/20(火) 11:17:36.60
>>1さんがどういう意図でスレを立ち上げられたかはよくわかりません。
纏向を邪馬台国の首都とするのか、纏向が邪馬台国そのものに一致させるのかもわかりません。
しかし、魏と交流していた240年頃の卑弥呼が、纏向以外の地にいたことは断言できますね。
考古学的には240年代までの纏向には、鉄文化も、文字文化も、鏡も、鉄剣もありませんからね。
邪馬台国の都の訳がありませんよ。

233日本@名無史さん2018/02/20(火) 11:30:41.62
もっとも、「それじゃあ、おまえは邪馬台国をどこだと思っているんだ?」と問われても、
わからないと答えるしかありませんが。
距離や方角などについては、魏志倭人伝に記載されている行程をどのように解釈すべきか、文献学上の裏付けが必要なのでしょうが、その方面は全く無学なのでね。
しかし、考古学的には、繰り返しますが、邪馬台国の条件は、西暦240年に文字文化と鉄文化があって、それ以前から卑弥呼の好物の絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹があったことです。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:11:14.96
241日本@名無史さん2018/02/20(火) 13:45:22.72
>>234
倭人全体で考えれば、繊維質上に文字は残ってないようですが、弥生後期までに、硯や、文字が刻まれた土器が出ています。
上位層では、「太伯」「大夫」という漢語を文字で代々伝えたと思いますよ。渡来した時のままの言語体系を数百年続け、該当する漢語の発音を、口伝だけで伝え、再び、漢人に対し特定させるほどの正確さで発音したことも、否定はしきれませんが、可能性は低いでしょうね。
ただ、私が主張したかったのは、倭人全体に文字文化があったことではなく、邪馬台国の首都で、卑弥呼か、卑弥呼の側近が漢語を解し、詔を読み、上表文を書くほどの文化レベルに達していたということだけです。
遠距離の首都同士の国交ですからね。会話ではなく、読み書きのやり取りが必要ですからね。
そして、正誤を卑弥呼は確かめなければなりませんから、文字を解せる者は複数人いなければいけませんね。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:12:12.44
284日本@名無史さん2018/02/23(金) 11:19:03.88
難升米が謁見したのが明帝であると、文献史学的にこれ以上はない形で時間軸が明示されたのですから、考古学もこれを基に邪馬台国を探すべきでしょう。
つまるところ、西暦230年代であり、それ以降の考古遺物は卑弥呼の塚比定に限って、引き合いにだすべきでしょうね。
邪馬台国の条件としては、鉄と文字、卑弥呼の好物それから、人口でしょうか。その他の魏志倭人伝に紹介される産物や風習は、倭人のものであって、邪馬台国限定のものではありませんからね。
従って、文献史学と考古学の突合せは、鉄と文字、卑弥呼の好物(金や銅鏡)、七万戸と、西暦240年以前の考古遺物です。
纏向遺跡でいえば、庄内式以前ということになり、あっけなく、候補から消え去ります。
0910日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:14:47.32
290日本@名無史さん2018/02/23(金) 14:49:41.19
纏向遺跡の庄内式期終末期に、かろうじて、ホケノが築造されたのかもしれませんが、すでに、布留0から始まる後続の布留式期が始まっています。

291日本@名無史さん2018/02/23(金) 14:51:43.83
そして、この時期には、巻向駅近くの、掘立建物群は廃絶されています。つまるところ、卑弥呼の宮として引き合いに出された掘立建物群は、実はホケノ前の無鉄器時代だったのであり、同時に存在した可能性が考古学的にほぼ無いのですね。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:15:35.13
そして、短里がなかったら何も言えない九州説が
短里が実在するという根拠をまったく説明できないという情けなさ
0912日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:17:28.25
>>903
前方後円墳のようなタテヨコが違う墳墓を
径百歩とだけ表現するわけないだろ。円墳や方墳ならともかく。

中国には、大河沿いに堤防とか
もしくは長大な運河など、巨大な土木工事をやっている。

「1000メートルの運河を作りました」by小樽市民
と中国人に説明して、運河の幅だと思われたとか実話だぞ。

ともあれ、径百歩という表現から箸墓古墳を想定するのは無理があるわな。
0913日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:17:44.06
297日本@名無史さん2018/02/23(金) 17:51:10.58
大物主への年貢を入れる倉庫なんだから
大物主が滅ぼされたら当然廃絶されたのだろう。
0914日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:17:45.66
>>910
岡上さん
考古学的にほぼ無いとか
言ってる考古学者がゼロなのは
なぜ?
0915日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:19:13.27
>>912
運河も幅は径と言うんだが
どこが無理?
0916日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:20:19.89
>>912
理由もなく「筈がない」が、九州説のすべて
0917日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:23:00.46
422日本@名無史さん2018/03/05(月) 12:11:41.99
庄内期といいますか、掘立建物廃絶期までの纏向は、墳形でも、土器の機能的な製作技巧でも、瀬戸内地方から一方的に影響を受けているわけです。東海や近江からの顕著な影響は双方向的にみても感じられません。
考古学的に、北部九州に通ずる瀬戸内航路の存在も確認できません。
纏向石塚程度の墳丘は積み上げることはできた人口がある、でも、文字も鉄もない片田舎の僻地です。
つまり、纏向は邪馬台国ではあり得ません。
0918日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:25:04.21
450日本@名無史さん2018/03/05(月) 18:01:01.96
330の>>166
極度の無知無学での「南→東」などの嘘つき騙し
    ↓
大和皇国史観狂学者の本でトンデモ情報注入
    ↓
老人性痴呆で脳撹乱
    ↓
大和説者ら
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:26:12.45
コピペでなく、自分の言葉で説明できる九州説はいないんだね
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:28:12.36
ザラコクさん、ここは別スレだから遠慮しな
お仲間の岡上の立てた偽スレが放置されてるからそっちでやって
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:29:46.71
>>846
八岐大蛇はあくまでも寓話?
ただ、出会った老夫婦は大山祇の子とされている。
伊都の邇邇芸に大山祇の別の子が嫁入りしている。
大山祇は志賀島の綿津見神と同一視もされる。
どうやっても博多湾沿岸の影がちらつく。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:30:03.78
536日本@名無史さん2018/03/07(水) 12:29:26.71
そして、近江から、東海や纏向への鉄の供給が始まったのです。
もしかすると、侵略かもしれませんね。
纏向でいえば、掘立建物が廃絶され、鉄が初めて流入してきた時期です。西暦250年前後だと思いますね。
纏向が邪馬台国だった訳はありませんよ。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:30:25.62
>>917
>考古学的に、北部九州に通ずる瀬戸内航路の存在も確認できません。

岡上さん、考古学者が確認してますよ
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:31:45.41
>>853
>「日本は、古くは小国であったが、その後倭国の地を併合した」

日本は倭国から日の出る方にあった。
つまり九州にあったのが卑弥呼がいた倭国で、あとから政権を取ったのが畿内のヤマト王権。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:33:14.96
>>860
>「実際には魏使は里程を計ってない」でファイナルアンサーでいいな?

通過した部分については目測なりなんなりで測っただろ。
輿や船に揺られながらおおよそにだけれど。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:34:13.46
567日本@名無史さん2018/03/08(木) 16:03:56.63
どちらにしても、考古学的には、纏向も近江も邪馬台国では有り得ません。
230年代以前の文字の痕跡がありませんからね。

568日本@名無史さん2018/03/08(木) 16:04:27.10
もう一つは、卑弥呼の好物で説明できますね。
曹叡が卑弥呼の好物と認識したものが絹、金、刀、銅鏡、真珠、鉛丹ですね。
だから、邪馬台国には230年代以前からこれらの好物があったのです。
考古学的には、230年代以前の纏向で発見されたものは、なさそうですね。絹は布留式期の可能性が高いですからね。

569日本@名無史さん2018/03/08(木) 16:04:55.49
桃のアルコール発酵のアイデアは、面白いですね。
傍の掘立建物で、消費したなら、発掘された地層は、庄内式期なのでしょうかね。残念ながら、卑弥呼の好物ではありませんがね。
倭人の好んだ酒も、中国人が一般的に酒と認識していた米酒でしょうからね。
甑があれば、発酵しやすい状態に米を蒸せますよ。逆に、甑がなければ、1次発酵に手間取ったでしょうね。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:35:39.24
575日本@名無史さん2018/03/08(木) 17:37:11.22
>>566
徐々に九州北部の影響が畿内に浸透していっただけじゃん。
畿内が音頭を取ったわけではなく、畿内はただの後進地域。
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:36:26.44
591日本@名無史さん2018/03/09(金) 18:23:38.95
331の>>254
>ただ、手間をかけた逆茂木を持つ環濠集落や高地性集落が近畿以西の
広い範囲に見られることから、かなり広域の緊張状態がそれなりに長い期間
続いたことは想定してよいと思います
でなければ、高地性集落を作る理由がないですから <

倭國乱は、高地性集落期間ほど長期には続きません。
おそらく、倭国の持続的な東征があった事が原因です。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:55:34.90
81日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:04:51.65
纏向が卑弥呼と無関係なのは、3世紀前半の鉄製品がないというだけでも、致命的な証拠になります。
そして、もう1点指摘することができるのですが、同様に3世紀前半の硯がないということも大きいでしょうね。
魏志倭人伝では、卑弥呼は皇帝に上表文を送っていますからね。
硯は、鉄のように錆びたりしませんからね。
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:55:52.74
84日本@名無史さん2018/02/13(火) 14:58:55.72
箸墓古墳は主体部を発掘してないので
結論は出せないが、
周壕などの遺物は4世紀以降のみである。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:57:52.93
85日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:00:27.33
【邪馬台国はどんな国?】

「魏志倭人伝」−「倭人は兵器に矛を用いる」
―銅矛であれ鉄矛であれ、
矛が多量に出土しているのは北九州、奈良県は出土無し。

「魏志倭人伝」−魏への持参物、魏から女王への贈り物に多数の「絹織物」
−邪馬台国のあった弥生時代後期までの「絹」は、すべて九州からの出土。

「魏志倭人伝」−「倭人は鉄の鏃を用いる」
鉄は圧倒的に九州にある。
http://www.infokkkna.com/ironroad/2011htm/iron7/1103iron09.jpg
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:58:28.88
>>931
西暦300年以後だろうね。卑弥呼の時代に
いきなり巨大な前方後円墳が登場するのは考えづらい。
もっと後世じゃろ。
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:58:57.91
86日本@名無史さん2018/02/13(火) 15:15:50.93
纏向というより、畿内全体でみた場合でも、文字文化は博多湾岸を経由しなければいけませんが、3世紀後半になっても、土器の動きは、畿内から九州への一方通行です。
文字を伝えるのは物ではなく人ですが、畿内への人的資源の移動が証拠立てられないというのが、実情ですね。
西暦230年代、畿内に文字を理解できた文化があったことを証明出来ないことは、畿内説にとって、大きな痛手です。
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:59:05.34
>>925
>輿や船に揺られながらおおよそにだけれど。

魏使が計ったのなら、蕃夷の使う短里(があるとして)で計る必要がないのは理解できますか?
大陸中原では秦の始皇帝以来、九州説のいう長里で生活が成りたっているのですよ?

その里の長さを知っている魏使が、どうして東夷世界で使われている(と九州説がいう)短里で
計ったりするなどという合理性の欠片もない主張をするのですか?
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 15:59:44.36
9392です。2018/02/14(水) 11:43:56.94
不正確な書き方が、気になりますので、修文します。

弥生時代末期に、卑弥呼を共立した倭国が朝鮮半島に進出していた最大の理由は、鉄でしょうね。
魏志倭人伝は東夷伝の一部ですが、東夷伝に倭人が弁韓に鉄を採りに来ているという記述があります。また、実際に、弥生時代を通して玄界灘近辺には鉄が溢れています。
曹魏と(ひょっとしたら公孫とも)の交流も、弁韓での、鉄の採掘を認めて貰うためであるとするのが、合理的です。
渡海や他民族との軋轢という危険を冒して、鉄を獲得していたわけですから、女王の都の建設や警備に鉄器が使われていないとする理由はありませんね。合理的な理由があるならお示し願いたいです。
ところが、西暦230年代、卑弥呼が曹魏と交流を始めた頃、纏向には鉄が全くありません。仮に、ホケノが230年代(そんなことをいう学者さんは現在は皆無ですがね。)だとしても、それは鉄器が有力者の副葬品になるほどの希少品だったことの証拠になるだけです。
そして、大陸とやりとりするための文書作成の道具、硯もありませんしね。
纏向は、邪馬台国ではありませんよ。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:01:49.65
スレッドに、謎の人物の投稿の複製が貼り付けられて、高度な話題で、キナイコシを追い詰めているな。。。
そういえば、熊本城の地下の、卑弥呼の遺跡には鉄も硯もあったのではないのかな。。。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:03:43.40
>>933
>西暦300年以後だろうね。卑弥呼の時代に
>いきなり巨大な前方後円墳が登場するのは考えづらい。
>もっと後世じゃろ

「考えづらい」のは>>933の個人の感想
その前から吉備や出雲や丹波で巨大なローカル王の墳丘墓を作る時代に入っていて、
その流れが大和の纒向で統合されて3世紀半ばに前方後円墳ができる

この流れの取り残されて、地域王権の伸張が見られず、
小さな墓しか作れない地域が北部九州
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:04:37.37
115日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:43:14.12
しかし、西暦240年前後、纏向は無文字であり、無鉄です。
少なくとも、考古学的証拠は皆無です。
この文明発生前の地域が、鉄の産地を跨いで中国大陸と文字による交流が可能だったとするのは、不合理ですね。

116日本@名無史さん2018/02/15(木) 11:44:25.73
3世紀全般や4世紀に視野に広げれば、卑弥呼の死後ということですが、舶来鏡や鉄器等の大陸の文物は入ってきているのだから、介在するものがいたようですが、直接的な相互交流の証拠には不十分です。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:06:18.68
123日本@名無史さん2018/02/15(木) 12:30:16.01
>>115
魏に何回も朝貢したり使節を受け入れてるのに
無文字なんてことは有り得ないよな。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:07:23.96
>>938
>>大和の纒向で統合されて3世紀半ばに前方後円墳ができる

卑弥呼が死んだ西暦250年ごろに大和で前方後円墳ができるのか?
西暦350年ごろじゃね? 4世紀半ば
青龍の鏡が出た古墳は前方後円墳かどうか知らぬが
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:12:12.58
>>942 もう一枚ある。
大田南5号古墳 方墳
4世紀の後半に築造されたとものとみられている。
0945日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:17:19.79
青龍三年銘鏡は青龍三年に作られたと考える必要はないよ

龍の異体字がかなり得意なもので、限られた地域、時代でしか使われていない

青龍年間よりかなり後になる
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:19:46.67
でも青龍年間に大陸と交流があったことの記念として作られたってことはそ想定できる

逆に青龍年間に何の縁もゆかりもなかったところが、青龍銘鏡を作る理由はない

九州には青龍銘鏡は出ていないねぇ
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:21:17.82
>>945
訂正

×得意 → ○特異
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 16:31:06.17
九州説が大量コピペを始めるまでは、普通に話ができてたのにな
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:10:34.80
>>948
奴らは負けるといつもそんなもんさ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:11:22.12
一部の異常な九州説は同じタイトルのスレを乱立させて日本史板全体を荒らしている
0952日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:22:11.60
異常な九州説しか見たことないけど
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:28:38.81
>>951
畿内説スレに荒らしが入ってるから、こっちに避難に来てる畿内論者が増えたみたい
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:33:51.31
>>953
コピペ荒らしのせいだろ
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:35:44.06
>>950
>一部の異常な九州説

一部っていうか、全部で4人くらいしかいなくない?
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:36:34.00
そして異常じゃない人がいない。
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:39:13.73
まあ、正常な判断力のある人なら、今、素人でも手に入る情報だけで
十分に邪馬台国畿内説で説明できると判断できるからな
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:41:56.90
>>957
それに尽きる
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:42:59.26
次スレ誰が立てる?
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 17:53:13.23
>>959
いつもの人が立てるんじゃないの〜
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:10:02.04
まあ、正常な判断力のある人なら、今、素人でも手に入る情報だけで
十分に邪馬台国畿内説では説明できないと判断できるからな。

十分に説明できるのは女王國(邪馬台国)筑紫平野説だけである。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:30:27.86
>>961
ザラコク鸚鵡返し?
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:46:20.23
>>936
畿内説では相手にならないでしょうから、相手しましょうか?  @阿波
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:53:10.09
弥生時代の淡路市の朱丹が出る遺跡は二ヶ所でした。
兵庫県全体で6ヶ所です。
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:55:30.15
>>964
それ全部、若杉山産でしょうね。  @阿波
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 18:58:19.92
>>963
イラン
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:03:05.89
>>961
>女王國(邪馬台国)筑紫平野説

どうやって筑紫平野にたどり着くの?

ひょっとして、もしかしたら、ありえないとは思うけれど
まともな人なら一顧だにしない「川の水行」で行くのかな?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:05:02.51
>>967
佐賀経由だと自然なルートですよ。
0969日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:06:53.88
河口まで行くのに方角の間違いが判明しちゃうけどな
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:14:52.37
>>968
>佐賀経由だと自然なルート

伊都国や、奴国には行かないんだ
魏志倭人伝に「(伊都国に)郡使往來常所駐」と書かれているのに
それに、水行(二十日)にならないでしょ?
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:16:59.47
>>970
伊都国相当する地点は小城
奴国が佐賀
不弥国が大川あたりでしょうか。
そこからちょうど水行になりますね。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:20:53.07
頭ガチガチでハンコで捺したように同じことしか言わないパターンと
その場しのぎに言を左右するパターンと
交互に出るから九州説は面白い
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:24:25.97
>>971
>伊都国相当する地点は小城

そう>>971が思ったところで、糸島の伊都国説の方が、多くの証拠に
裏付けられているから、小城が伊都国と言っても通らないよ

小城には伊都国王墓に相当する遺跡はないだろう?
伊都と読める地名も残っていないし
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:28:14.40
>>971
糸島・博多通らない時点で没でしょ
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:36:44.32
>>971
>伊都国相当する地点は小城
>不弥国が大川あたりでしょうか。

伊都国相当する地点は惣座遺跡

不彌國に相当する地点は吉野ヶ里遺跡

大川は投馬國の北部、投馬國の中心地はみやま市瀬高。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:41:02.85
>>974
糸島・博多を通っても没でしょ  @阿波
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:56:10.60
>>975
奴国は?

でもさ、末慮国、伊都国、奴国の現行の比定地を動かすのは、まず賛同を得られないよ
ほぼ、その時点でトンデモ扱いになる
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:02:19.64
>>974

糸島・博多通る時点で没。

伊都國は末蘆國(唐津)東南500里にある。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:08:59.63
奴國は伊都國(惣座肥前国庁跡)の東南100里で佐賀城になる。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:21:36.10
>>978
>糸島・博多通る時点で没。
>伊都國は末蘆國(唐津)東南500里にある。

九州説の人は、よく魏志倭人伝原理主義でこういう物言いをするけれど、
現実と魏志倭人伝が一致しないときに、現実の方が間違っているという判断をするのが
とことんおかしいことに早く気づけるといいね

地名というのは、そこにいる人が順次死んでいっても、新しく生まれた人と
生きている時間を重ねながら世代交代していくから、そこに人が生活している限り
そうそう消えたり変更されたりしない
だから、地名は言葉の化石といわれたりするし、九州説の安本美典氏も、
九州と畿内の地名の一致を、東遷説の構想の骨格に据えていたりする

伊都国が記紀でも怡土県と記された糸島であることは、疑う必要がない

魏志倭人伝の旅程が、糸島=伊都国と齟齬があるなら、魏志倭人伝の
旅程が間違っていると考える方が合理的
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:28:51.04
>>980
>現実と魏志倭人伝が一致しないときに、

一致するんだけどw


>伊都国が記紀でも怡土県と記された糸島であることは、疑う必要がない

疑いだらけなんだけどw  @阿波
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:38:02.23
天皇は神淺茅原(カムアサジハラ=桜井市茅原?桜井市笠の浅茅原?とも)に行って、八十萬神に占いで問いました。
このときに神明憑倭迹々日百襲姫命(カミヤマトトトヒモモソヒメ=孝霊天皇の娘)が憑(カカリ=神が憑くこと)して言いました。
「天皇よ。
どうして国が治まらないことを憂うのか?
もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問いました。
「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」
神は答えました。
「私は倭国(ヤマトノクニ)の域内(サカイノウチ)にいる神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」

天皇の大叔母の倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)は聡明で物知りで、未来の事も分かる人です。
その歌の怪(シルシ)を知って、天皇に言いました。
「これは武埴安彦(タケハニヤスヒコ)が謀反(ミカドカタブケ)を起こす表(シルシ)でしょう…

モモソヒメが眠るとされる箸墓古墳は、年代の古い古墳であるだけでなく、
古墳そのものの形状や出てくる土器―埴輪の形がその後の古墳から出土する埴輪の元ネタとなった節があることから、
ヤマト朝廷の成立に関わったか、非常に強い権力者の墓と思われる。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:40:08.19
>>980

怡土は倭奴國(ヰト国)に由来する地名
0984日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 20:59:56.27
糸島が楽浪土器出土が中心だから、伊都国とするのは考古学的事実が大きいだろうね。
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:00:18.06
>>983
今の話題はそこじゃなくて、伊都国の現状の比定地が間違っているとするのは
トンデモだってことだよ

>>983もそこは異論ないだろ?
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:06:35.97
>>985
伊都国(直方)に一大率が置かれた理由を教えて進ぜよう。

大陸からの往路 玄関口(福津市周辺 万津浦)
大陸への復路  出航地(平戸周辺)

伊都国(直方)は大陸往復路の分岐点である。 
だからそこに一大率が置かれたんですよ。  

こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0987日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:08:04.25
>>983
>怡土は倭奴國(ヰト国)に由来

『伊都』の上古音は、i(e)[v]r-(g)ia[v]g らしい

ただ、これを実際にどう読むのかはきかないでくれ
俺も分からん

『奴』の上古音はnag これは「ナ」でいいと思う
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:36:02.92
>>987
那珂だな
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:37:06.01
>>945 その説のサイト見たよ。
龍の右側が犬または大になっていた。
字が変すぎるので、日本国内で作られた
鏡の可能性すらあるね。
国宝指定だから学者の厳重な審査をクリアした鏡だから
模造品レベルではないと思うけどね。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:40:39.19
>>957
正常な判断力のある人なら、魏志倭人伝や魏略を
読めば九州北部にあるとしか判断できないぞ。
畿内は、海を渡った黒歯国とかと同レベルの扱いか
南と書いてあるのを東と解釈したうえでしか、ありえない。そんな程度の
ことでしか存在しない。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:41:07.82
>>989
中国にあるよ
0992日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:47:01.29
>>991
邪馬台国が魏に使節を出した年や
それに近い年というのは、
一種の名誉的なブランドになるから
後世になってからわざとその年を入れて
鋳造した可能性があるわな。
げんに、年号が入った鏡というのは
ほとんどが景初3年前後のものばかり。
魏との外交が大成功を収めた(=多大な下賜品をもらい、金印さえも頂く)
という特記的な事だったからな。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:50:14.08
>>992
それなら四年鏡は無い
0995日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:53:33.73
>>990
言い張るだけだから九州説はダメなのだ
なぜ立証しようとしないのか?
0996日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:54:06.90
>>994
碑別字
0997日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:57:20.12
漢字の"伊"が入ってれば朝鮮半島からのなだれ込み
勝者か敗者かはわからんが.......
伊都も伊勢も伊勢遺跡も、その他も全部が朝鮮からのなだれ込みだわ
"伊"ばっか繋ぐと面白いかもねー
0998日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 22:01:36.82
帯方郡
韓四千里
四方可四
千方可千
里四千里
三千里狗邪韓 ※7000(水行20日)

 (渡海千里) ※8000

   対馬
   馬(方可四百余里) ※8800余

  (渡海千里) ※9800余

    壱岐
    岐(方可三百里)  ※10400余

   (渡海千里) ※11400余

  末盧(五百)伊都(百)博多駅前陥没地点 ※12000余(水行30日陸行1日)
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 22:02:14.41
倭国=九州国家

邪馬台国vs南の狗奴国が倭国王の座を争った

邪馬台国には首都の伊都を含めて、奴国など数十の国々が集まって、
卑弥呼を女王に共立。

狗奴国は狗奴国で、王がいる。

邪馬台国女王卑弥呼の宮は伊都の高祖宮。

邪馬台国女王卑弥呼の墓は平原1号。

邪馬台国女王卑弥呼の墓域は、平原1号+平原2号+殉葬土壙墓+祭祀用鳥居をぐるっと取り囲む周濠全域で、長径百余歩。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 22:02:29.63
・後漢期の方格規矩四神鏡と文字や意匠の配置が違う
・後漢期の方格規矩四神鏡より大型

これが平原の方格規矩四神鏡が国産という根拠の主なものだろ。
それがそのまんま青龍三年銘の方格規矩四神鏡(3枚とも直径17.4cm)
と共通する。

@青龍三年銘の方格規矩四神鏡が国産鏡と言うのならば、
それを作った国内工房は、
お手本となる漢代の方格規矩四神鏡が大量に出土した伊都にあって、
「同じ傾向」の国産方格規矩四神鏡を32面保有している、平原女王のものになる。

後漢期の方格規矩四神鏡はポピュラーだが、
「この傾向」の方格規矩四神鏡は少数派=限定生産なのだから、
青龍三年=235年前後の短期間だけ大量生産していたことになり
平原女王は卑弥呼時代とピッタリ重なる。

A青龍三年銘の方格規矩四神鏡が舶載鏡と言うのならば、
魏で235年以降に作られた方格規矩四神鏡であることが確定的なわけであり
そうなると「この傾向」こそが、魏鏡と後漢鏡を見分ける特徴ということになり、
「この傾向」の方格規矩四神鏡を32面も保有する平原女王こそが
卑弥呼ということになり、

平原の方格規矩四神鏡は魏における235-239年の銅鏡の特質を伝える
貴重な考古学的資料、
ということになる。
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